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引きこもりの科学 引きこもりこそ人間らしい行動である。対策のパラドクス。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



引きこもりという現象が起きています。
不登校から始まって
徐々に社会の中での家庭内引きこもりの
年齢が高まっています。

考えてみれば
引きこもるということは
人間の生理からすると
むしろ当たり前なのではないかと
正しい行動選択なのではないかと
そういう風に考えるようになってきました。

引きこもりについて考えてみます。

ロビン・ダンバーという進化生物学者は、
人間が個体識別できる人間の人数を
50人から200人くらいだろうという
研究結果を発表しています。

かなり幅のある数字ですが、個性の違いに起因しているようです。
厳密に言えば大脳皮質の量の個体差ということのようです。

農業革命前は、
狩猟採集をして生活していて、
一説によると30人から50人くらいの群れで
一説によると200人くらいの群れで
共同生活をしていたようです。

一つの群れで一生を終えるならば
50人くらいの人間の個体識別ができれば
(誰がどういう人かを認識できること)
それで足りたということになります。

逆に言うと
そのような人数の個体識別ができるように
人間の大脳皮質が進化したのだということになります。

だいたい200万年前までには
このような脳が形成されたようです。
チンパンジーと別れて600万年ですから
数百万年かけて形成されたということになります。

農業革命が1万年くらい前と言われていますから、
人類史のほとんどが、
50人くらいの固定した人たちとだけ
一生を過ごしたことになります。

急に国家だグローバル経済だと言われても
都合良く脳の容量は急には変わりません。

200万年前当時の生活をきちんと想像することが
現代の社会病理の解決にとって
不可欠なことだと考えています。

50人の群れの人間関係は小さいかもしれませんが、
相当濃いものだったと思います。
血縁の有無にかかわらず群れを形成したようですが、
なんせ一生変わらないメンバーですから、
そのメンバーですべてを行わなければなりません。

メンバーの中には役に立つ者も
役に立たない者もいたでしょう。
でも、批判しても、笑っても、責めても
変化には限界があります。
あまり強く言って、いじけて群れをはなれれば、
その群れを離れた者も野獣の餌食になるでしょうが、
群れ自体が小さくなって行きますので、
群れを出ることは、群れに残る者にとっても
不安、危機感を感じさせるものだったと思います。

そういうこともあり、
また、個体識別ができるということの結果として、
それぞれの構成員は互いに
個体の変化が期待できないことを把握していたはずです。
弱さ、不十分さを
群れは受け入れていたのだと思います。

構成員は、
あたかも、群れという一つの体の
手だったり、足だったりというパーツのようなものだったのでしょう。
右手が不自由なら左手でカバーしたでしょう。
右足が不自由だからと言って
右足を切り捨てることをしないことと一緒だったのだと思います。

前に、武器も逃走手段もない時代に
人間はどうやって生き残ったかということで
袋叩き反撃仮説を述べさせていただきました。
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-19

誰かが肉食獣に襲われた場合、
群れの他の構成員が、一斉に反撃を行い
怒りをもって袋叩きを行ったということで
危険を回避した、回避できたという仮説です。

一人では大型肉食獣には太刀打ちできません。
多ければ多いほど撃退できる可能性が高まったでしょう。

肉食獣の方も、うっかり人間を襲うと
袋叩きに合うので危険だ、不吉だと学習し、
なかなか人間を襲うことをしなくなって行ったと思います。
特に複数の人間がいる時は襲わなくなって行ったと思います。

人間の方も
狩りなどで群れを離れたグループ行動をするときは
少人数なので、言い知れぬ緊張感を持ったし、
屈強な群れのメンバーが狩りをして群れを離れている時は、
留守番部隊も緊張をしていたと思います。
肉食動物に対抗するためには、
緊張を持続することが必要でした。

しかし、縄張りに戻り
群れの全メンバーが揃うと
人数的に、肉食獣に襲われても十分反撃できますし、
そもそも大勢の人間がいるということで
肉食動物の方も警戒したでしょうから
特に襲われることは滅多にないという
状態になっていたのだと思います。

人間は群れに戻ったとき、
緊張が解かれたと思います。

これを生理学的に観察しますと
群れから離れている時は、
肉食獣に襲われやすくなりますので、
臨戦態勢を敷きます。
いつでも攻撃に、あるいは逃亡に移らなければなりませんので、
交感神経が活性化しています。

危険であることを認識し、
扁桃体が交感神経を活性化します。
副腎髄質や副腎皮質からホルモンが出され、
心臓が活動的になり、内臓にある筋肉を
走ったり叩いたりするために筋肉に流そうとします。
心拍数が増加し、血圧が高くなるわけです。
体温も上がります。
かあーっとなり、ドキドキするわけです。
その他にも血液が粘化したり
血糖値が上がったりして、
闘ったり、逃げたりすることをしやすくする
からだの状態を作るような
様々な反応が起きる状態です。

これを心の状態で見ると
不安、危機感、緊張という心の状態です。

これに対して縄張りに戻った場合、
緊張が解かれますので、
心臓の活動は静かになり、体温は低下し、
血液もサラサラに戻ります。
落ち着くわけです。
交感神経が鎮まるだけでなく
副交感神経が活性化しやすい状況となります。

この時の心の状態は、落ち着き、平穏
安らぎ、癒しというものでしょう。

緊張よりも平穏の方が楽なわけですから、
人の中にいたいという気持ちがあり、
群れから離れたくないという気持ちになるのは
極めて自然なことだと思います。

人間は、緊張を伴う捕食するために生きるのではなく、
生きるために緊張を伴う狩りをする
という当たり前のことだと思います。

昼に交感神経が優位になり、
夜に副交感神経が優位になるという
概日リズムが形成されるのも
昼に狩りに行き、夕方群れに戻る
というライフスタイルに適合しています。

この概日リズムは、細胞レベルで起きているようです。
現代の人間にも受け継がれています。

(ちなみに、一日中交感神経が活性化して
副交感神経が活性化しない状態が続くと
血圧の上昇や血液の粘化が続くことですから、
血管が硬化したり、血管内にカスがたまりやすくなります。
これが続くと心筋梗塞やくも膜下出血を起こしやすくなり、
過労死の原因になります。)

このような生理的変化は無意識に起こります。
ああ、自分は安全なんだなと考えて副交感神経が活性化するのではなく、
なんとなく、群れから離れると緊張し、
群れに戻るとほっとするということだと思います。

この結果、人間の恐怖は、
動物が感じる恐怖である身体生命に直面する危険を認識しただけでなく
かけがえのない群れから外されるという場合にも
危険を同じように感じるようになり、
交感神経が活性化されるように
なったのだろうと思います。

これが対人関係的危険です。
対人関係的危険を感じても、
現代では、例えば、警察官に呼び止められたり、
上司から叱責されたり、何かミスしても
走って逃げたり、開き直って闘うということはありませんので、
交感神経が活性化してもあまりよいことはないのですが、
200万年前は対人関係的危険、即ち
群れから追放されそうな場合は、
肉食獣や自然の脅威にさらされるわけですから
合理的な反応だったのかもしれません。

群れに戻るということは、群れのある場所に戻るということで、
200万年前は定住をしていたわけではないのですが、
比較的長期に滞在する縄張りはあったようです。
縄張りに戻ることは、
かなりの安心感を抱いたことでしょう。

縄張りはそういう意味で神聖なものだったと思います。
だから、この縄張りが侵されるようなことになれば、
全員が命がけで、徹底的に侵入者を排除したでしょう。
縄張り意識は人間だけでなく
群れを作る動物でよく見られます。

縄張りは、物理的な生きる空間というだけでなく
精神的にも必須な空間で、
これがなければ、緊張感が解かれませんので
早死にしてしまうということになります。
過労死が起きてしまいます。

ここで考えてみてください。
もし、私たちが200万年前にタイムトラベルできたとして、
群れの中に入って安心できるでしょうか。
いつ肉食獣に襲われるかわからない状況で、
ピストルなどの武器もなく
煉瓦の壁に囲まれた居住環境もないのに、
安心できるでしょうか。
とても無理だと思います。

でも当時の人間は、
確かに概日リズムを刻んでいて
副交感神経が活性化していたはずです。
つまりそんな環境でも、群れに帰ると安心したと思います。
そうでなければみんな過労死して
私たちが生まれてこなかったからです。

群れに戻ることで安心した
その原因をまとめると
一つは、群れの中にいることで肉食獣が襲ってきにくい
二つは、いざ襲われても群れが守ってくれるだろうという期待
三つは、群れのメンバーは、
個体が自分ではどうすることもできない欠点、不十分点、弱点によって、
 個体を攻撃しないということがあるのだと思います。
 
そうでなければ、何かしら弱点を抱えた人間は、
群れから外されないように常に緊張していなければなりません。
200万年前ですから、成人になる前に
色々な病気やけがをしたでしょう。
五体満足で一生を終わるということは
よほど恵まれた少数派だったと思うのです。
みんな弱点があった、欠点があった。
しかし、群れの構成員は、お互いを一つの体の
パーツのようにかばいあったはずだと思うのです。

これらがセットになって、人間は
概日リズムを維持、形成し、生き永らえたのだと思います。

現在は、飢餓に苦しむ地域は根絶されていませんし、
戦争も続いています。
しかし、その他の地域では
肉食獣に襲われることはほとんどありません。
飢えに苦しむことも回避することができます。
病気やケガも治療を受けることができます。

でも、
私たちは、人の中にいて安心できるでしょうか。
緊張を解くことがどのくらいできるでしょうか。

できていないと思います。
学校も、職場も、家庭でさえも
常に緊張にさらされている人が
多すぎるように思うのです。

その原因を考えてみましょう。

現在は、関わりになる人間は200人では到底足りません。
朝に出勤のために家を出て職場に着くまでに
何百人以上の人間を至近距離で目撃します。
しかも、200年前では考えられないほど
密集しています。
とても個体識別できません。

この人たちは、仲間なのでしょうか。

先ず、個体識別できない時点で
200万年前なら仲間ではありません。
敵かもしれないという緊張感を抱かせたことでしょう。

何か失敗すると庇ってくれる親切な人もいるにはいます。
しかし、みんながみんなそういう人ばかりではなく、
些細なことで攻撃をしてくる人たちも多くいます。
歩くのが遅いだけで叱責する人もいるでしょうし、
ちょっとよろけただけでにらむ人もいます。

安心することはできず、緊張は必要ですが、
通常は、命の危険を感じるほどではありません。

さて、無事に学校や職場にたどり着いたら
群れですし、ある程度個体識別できるクラスや部署で
いつもの場所に座るのですから安心できるでしょうか。

職場では当然のこととされているようですし、
学校でさえも
個体の個性である弱点、欠点を受け入れたり、
失敗を受け入れてくれる人は滅多にいません。

失敗が許されない群れです。
自分の近くにいる人たちが
仲間のか敵なのかわかりかねます。

もし、弱点、欠点を受け入れ、
助けを求めたら助けてくれる人を
同じ群れの仲間だとしたならば、
もしかすると、仲間がいない環境かもしれません。

縄張りは家庭だけかもしれません。

では家に帰ると安心できるでしょうか。
家族は、家族を攻撃しないのでしょうか。
学力が低い、出世が遅い、給料が少ない、
掃除ができない、人間付き合いが下手だ
弱点、欠点をついてくることだらけのような気がします。
もちろん、現代社会では、特に日本では、
少しでも努力をしないと
将来的な不利益があるとされていますから、
努力をさせることも家庭の義務でしょう。
それ自体が悪いことではありません。
ただ、200万年前の群れとは
決定的に違うのです。

群れの中にいる現代の個体は、
確かに学力が低い、給料が少ないという
自分の弱点がわかりますから、
それを指摘されなくても
群れから外されそうになる不安、危機感を感じます。
緊張が高まるのです。
具体的に肉食獣が見えなくても危険意識を感じる
交感神経が活性化する
いわゆる対人関係的危険を感じ続けるのです。

安らいだり、くつろいだり、癒されたりすることが
圧倒的に少ない。
むしろ肉食獣に囲まれ、飢えの危険が現実的な
200万年前よりも緊張が解けないのです。

これもまた真実だと思います。

児童生徒の引きこもりの原因となっている
人間関係を考察しましょう。

人間は、脳は200万年前とそれほど変わらないし、
数百万年かけて形成した心の仕組みが
農業革命から1万年では簡単に変わらないので、
群れに対する期待はほとんど同じと考えてよいでしょう。

およそ群れであれば、自分の
欠点、弱点、不十分点を受け入れてほしいと思うでしょうし、
自分が攻撃されていれば群れに助けてほしいと思うでしょう。

学校でいじめにあったらどうでしょうか。
いじめが起きる時、
ターゲットの欠点、弱点、不十分点が
批判され、笑われ、責められます。
弱点を攻撃してくるわけです。
まさに200万年前の人間の狩りの手法です。
むしろ、孤立させて、弱体化して攻撃するのです。

ターゲットにとって攻撃してくる相手は
自分の群れの仲間とは認識できないでしょう。
攻撃している者達も、ターゲットを仲間として扱っていません。
群れに侵入してきた野獣のように、
怒りをもって消耗するまで攻撃し続けるのです。

いじめがこういう単純に少数の加害者と一人の被害者
だけで構成されるのであれば、
いじめが終われば回復する可能性があります。
しかし、通常いじめは傍観者も重要な役割を果たしています。

傍観者がいるということは、
自分が攻撃されているのに、群れの仲間が助けてくれない
ということです。

自分が攻撃されていても助けてくれない傍観者も、
ターゲットにとっては群れの仲間ではありません。
加害者、傍観者を含めて、
群れ全体が自分を群れから排除しようとしていると感じるのです。
これは恐ろしいことです。
対人関係的危機感を最大に感じるでしょう。

ちなみにいじめられている時は、
弱い支援は、支援だと感じない特徴があるようです。
事実を認識していても支援の手を差し伸べられていることに
なかなか気が付くことは無いようです。
自分が陥っている窮地の程度に応じて
求めるものが大きくなっていると考えれば納得できます。

決定的なことは大人です。

子ども同士でいさかいがあったとしても、
それを何とかしてくれるのが大人だと
無意識に信じているところがあります。

その大人が、
助けてくれない、被害を放置している
ということになると、
わずかな望みが絶たれてしまいます。
絶望です。

ますます、ターゲットが
いじめてもよいのだ、仲間ではないのだ
という評価になってしまい、
怒りのボルテージが上がってしまうのです。

いじめがなくても大人が、
子ども同士のコミュニティーの中で
欠点、弱点、不十分点を
批判し、笑い、責める、
その子にとって不可能なことを要求するようになると、
子どもはどうしてよいかわからなくなります。

絶望が起きます。

一つの学校でいじめられたり、無茶な指導をされても
転校するなり学校をやめれば済む話だろうと
そういう正論を吐く人もいらっしゃいます。

それはそうなのですが、
群れは群れなのです。
数百万年かけて形成されてきた
人間の心、無意識の反応は、
理性的に抑えることは難しいのです。

群れから外される
という対人関係的危機は
無意識に感じてしまう反応のようです。

対人関係的危険を感じると
逆に何とかして群れの中で尊重されたいと感じてしまいます。
しかし、その方法がない
危機感だけが、慢性的に持続していくことになります。
家族にも心配をかけたくない
こんな情けない自分を教えることで
家族を悲しませたくない
という気持ちも起きてしまうようです。

何も言わないで学校に行かなくなるわけです。
当たり前のこと、自然なことだと思います。

対人関係的危険が慢性的に持続して
解決方法がないと認識することが絶望ですし
絶望を味わうことは予後が悪く
自死の危険が高まります。
学校に行かないことは、
とても有効な命を守る手段となります。

このようなお子さん、大人もそうですが、
一つの対人関係、学校、職場でいじめにあうと、
人間自体が怖くなります。
個体識別できる親や家族は良いとしても、
個体識別できない人はみんな敵になります。

群れの外の人間を、
200万年前の人間が見た時の
緊張をしてしまうわけです。

これが、人間として当たり前の姿だと思います。

われわれ人間は、見ず知らずの人間と
歩道ですれ違っても、満員電車で押し合っても
いちいち危険を感じません。

これは学習の成果です。

親子の本能的な安心感、
あるいは親の献身的な子育ての中で
安心感が育まれ、
親が安心して接する人間に対して
親をまねて緊張しなくて良いということを学習していきます。

また、見ず知らずの人間と接触しても
悪いことが起きないという経験の積み重ねから
人間に対する脅威が馴化するのです。

(人見知りをして知らない大人に泣き出す子供は
正しい反応、自然な反応といえるでしょう。)

ところが、群れ全体から攻撃されるという経験をすると
また、仲が良いと思っていた友達から攻撃されると、
あるいは、守ってくれると思っていた教師から攻撃されると
人間は、本当は安心できない動物だと気が付くわけです。
普通に生活していて犯罪に巻き込まれる人も同様です。
戦争のように、人間から致命的な攻撃を受けた場合も同様でしょう。

それは危険であることを学習するというよりも、
200万年前の群れの外の人間を見た時の反応が
よみがえってしまうということに近いと思います。
馴化が解かれるということです。

誤解ではなくて、正解なのです。
だから、なかなか元に戻らないのです。

家に引きこもるだけでなく、
自室に引きこもるということも
理由のあることなのです。

引きこもりを一度に解消することは難しいです。
少しずつ個体識別ができて、
自分の弱点、欠点、不十分点
(一番は引きこもっているということ)
を批判しない、笑わない、責めない人を作ることが
解決策ということになるでしょう。

「学校に出て来いよ」
と弱点を突くようなことをいわれるよりも、
家の中で一緒に遊んだり勉強したり
引きこもりを承認してくれる仲間があることが
逆に馴化を促し、
学校復帰のきっかけになった事例を
いくつか体験しています。
この人は大丈夫、この人も大丈夫という
焦らない馴化の道筋です。

引きこもりを解消するためにも、
引きこもりを許容する、承認するという
対策のパラドクスがやはりあるようです。

献身的な子ども、献身的な教師の経験を
制度化していくような工夫が求められているようです。

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ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説 [進化心理学、生理学、対人関係学]


先日お話しした長すぎるブログ記事
怒りや憎しみは、今虐待されている子、これから虐待される子を救えないということ。虐待防止のパラドクスについて 厳罰化、児相の権限強化、親権の停止が解決と逆行していること
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-10

の中で、
詳細を割愛したことを掘り下げていこうと思います。

今回のテーマは、文明のない時代に(例えば200万年前に)、
どのようにして人間は身を守ったのかということです。

肉食獣から襲われれば、対抗しようがありません。
逃げるにも足が遅く、木登りもそれほど得意ではない。
開き直って闘おうにも
牙も爪も大したものではありません。
だから、これまで生き残ってきたということが
実に不思議です。

ハイエナくらいの小動物ならば追っ払うこともできたかもしれませんが、
ライオンや熊となるとお手上げです。

それでも私たちは生き残っています。
どうやって身を守ったのでしょうか。

これまでの見解では、
ここのところをあまり取り上げられていないように感じます。
もっとも、私の知る範囲では取り上げられていないということなので
本当はきちんと考えられているかもしれません。
しかし、これまでの文献などでの描かれ方は、
襲われてしまったら仕方がない、
仲間はなすすべなく抵抗できず、自分たちだけ逃げた
というように描かれていました。
(私の知る範囲ですが)

でも、それはおかしいと思います。
仲間が襲われて指をくわえてみているならば、
人類は絶滅していることが自然なのではないでしょうか。

人間は例えば200万年くらい前は
既に群れを作って生活していたようです。
狩猟採集時代と言われています。
群れの人数は30人とも言われ、
その群れが数個連携していたとも言われています。

もし、なすすべなく放置して
肉食獣が食べ放題だとすれば、
30人の群れはあっという間に死滅するでしょう。

仮に1か月に1人食べられたとしても、
人間の群れは、徐々に減っていくはずです。

臨月の妊婦とか
新生児とか標的になれば
直ぐに死滅することは容易に想像がつくと思います。
そんなにすぐに次の子どもを出産することはできません。
懐胎から10ヶ月必要ですし、
生まれてきてもすぐに死ぬことが多かったはずです。

1ヶ月に1人食べられてしまうと
毎月一人が生まれなければマイナスになります。
それは、30人の群れでは無理な話です。

私たちが死滅せずに生き残っている以上
私は、人間はなすすべなく食べられたのではなく、
肉食獣に抵抗して生き残ったと考えるしかありません。

その方法は、集団の力です。
それと「勇気」という心のシステムです。

結構、肉食獣と闘うことができたと思うのです。
今まさに対象物を捕食しようとしている動物は、
実は防御はがら空きです。
捕食に全神経を使うからです。

だから、襲われていない群れの他の構成員が
よってたかって肉食獣を攻撃すれば、
けっこう太刀打ちできるのではないでしょうか。
無防備な捕食中の肉食獣からすると
あちらからこちらから棒や石で殴られることは
たまったものではないと思うのです。

攻撃参加する人間の個性
敏捷さ、腕力の強さ、闘い抜く意思等によって異なるのですが、
おそらく成人男性の場合、数人いれば
そう簡単に食べられてしまうことはなかったと思います。

女性が多く、子どももいる集団の場合は、
筋肉の量が女性は少ないとすれば
10人弱くらいの攻撃参加が必要だったと思います。
それ以上いても、人間が密集してしまいますから
攻撃参加というよりも、子どもや老人、病者をかばい
攻撃が変わらないように備えたでしょう。

肉食獣にしてみれば
やはり反撃されるのは怖いわけです。
反撃を覚悟していますから、
自分の身を守るために
勝てないと思った瞬間、逃げ出すはずです。
実験するわけにはいきませんが、
結構有効に反撃することができたでしょう。

但し、これが成功するためには条件があります。
複数人の攻撃参加と
最後まで手を緩めないで攻撃を続ける
ということが絶対条件だったと思います。

この考えを支持する文献は見当たらないのですが、
私は、これが正しいと思います。
最後でお話ししますが、
こういう行動を人間がしていたとすると
とてもいろいろな出来事が説明できるからです。

さて、このように攻撃してくる肉食獣を
みんなで取り囲んで叩くという私の説を、
袋叩き反撃仮説と名付けることとします。

袋叩き反撃仮説に対する批判として想定できるものは、
「肉食獣は誰しも怖いのだから、
生物の自分を守るという本能として
自分にも危害が加わる可能性のある行動は
しないのが自然ではないか。
だから、反撃することはありえない。」(批判A)
というものが考えられます。

現代では、誰かが理不尽な被害を受けていても
多くの人は見てみぬふりをするものです。
批判Aは、普通に考えれば指示されやすいと思います。

批判Aに対する反論を試みます。
反論としては、この批判は、
現代社会という環境に生息する人間の感情を前提とし過ぎる
というものです。

大切なことは、200万年前の環境を前提として考えることです。

この点について説明します。
人間の心や行動も、人間の置かれた環境によって形成される
という考え方を私は支持します。
それは、環境に適応して生き抜くためのシステムだと思うのです。

人間とゴリラ、チンパンジーは、
太古は同じ動物が先祖だったそうです。
800万年くらい前になってようやく
人間の先祖とゴリラの先祖はわかれて
別々の進化の道をたどるようになりました。

その後も人間とチンパンジーの祖先は共通でした。
今から700万年ないし600万年前になって
人間の先祖とチンパンジーの先祖が枝分かれしました。

その頃、人間の先祖は木の上で、
豊富に実っていた樹の実を食べて生活していたようです。

ところが今から400万年前頃から
地球が冷えていき、樹の実が少なくなり
食べ物に困るようになっていったようです。
そのため、人間の祖先は徐々に、樹の上から
地上に降り立ち、動物を狩って生きるようになったと言われています。

200万年頃には、この狩猟採取の時代になっていっただろうということです。

長い時間かけて、からだの構造も変わり始め
二足歩行の骨格が確立していきました。
からだの物理的構造だけでなく、
行動様式も変わっていったと思います。
この行動様式こそ、人間が生き残る理由だったのだと思います。
なぜならば、からだの構造だけでは
やはり、肉食獣からの攻撃に反撃できないからです。
からだの構造以外の理由が必要だからです。

その数百万年かけて確立した行動様式の一つが
袋叩き反撃という行動様式でした。

この行動様式が成立するメカニズムが問題です。
先ず、肉食獣を怖がらず反撃するということ、
そして反撃の手を緩めないということでした。

これはどういう仕組みでしょうか。

言葉もない時代ですから
反撃する約束をしていたとか
そういう道徳が成立していたとか
そういうことはあまり考えられませんし、
そんな弱い仕組みでは
袋叩き反撃が起こるかどうかは偶然に左右されたことでしょう。

もっと強い仕組み、
本能的な仕組みがあったはずです。

先ず、当時の群れについて、
現代との違いを意識することが大切です。

当時の群れは、生まれてから死ぬまで
基本的にはずうっと同じ群れでした。
この群れで生きていかなければなりません。
また、いつも一緒にいました。
現代社会のように、朝に家族がバラバラになり、
それぞれの構成員がそれぞれの別の群れに入っていき、
夜にまた戻るというものではなく、
基本的には同じ群れで行動していたということです。
確かに昼間は、狩猟チームと留守番採取チームと別れたでしょうが、
群れ以外の人間と接触していたわけではありません。

人数が少ないので、
それぞれの構成員の個性も把握していたことでしょう。
まさに運命共同体だったはずです。
血縁の有無にかかわらず
家族以上に家族だった
そんな人間関係だったと思います。

誰かの痛み、苦しみは、自分のことのように
群れの仲間も反応したでしょう。
現代のように、自分と自分以外の人間を
区別して生活していたわけではなく
群れという一つの有機体のそれぞれのパーツ
というような感覚だったと思います。

第1の袋叩き反撃を支えた人間の特徴は、
親子を超えた共鳴力、共感力を持っていたこと
ということになります。

共鳴力、共感力が群れの仲間のピンチに対して
共同して反撃を行おうという動機になるということは
理解しやすいと思うのですが、
それでも、肉食獣は怖い。
至近距離で牙や爪を見た場合は
通常は恐怖で震え上がるでしょう。
この点を克服する仕組みが必要です。

先ほど攻撃する行動を選択するためには、
無意識の勝てるという気持ちが必要だと説明しました。
肉食獣に勝てると思えるでしょうか。
どうやって、勇気を出したのでしょうか。

この点が袋叩き反撃仮説の問題点でありましたが、
逆にこの点が大きなヒントになり、
仮説の理論的中核になっているところです。

「勝てる」と思うのです。
どちらかといえば「勝たなければならない」
というニュアンスもあるのですが、
少なくとも負けるとは思わない心理状態になっているようです。

このような反撃に出る時は
自分一人で反撃しているという意識はないのです。
自分たちが自分たちの仲間の弱い者を守る
という意識になっているようです。

群れによって、群れを守るという意識があるようです。
単体の人間が大型肉食獣と戦うのではなく、
群れという、いわば巨大な動物が
大型肉食獣と戦うという意識のようです。

群れの仲間の苦しみ、痛みに対する共鳴共感から、
瞬時に群れとしての行動という意識は
勝てるという意識に直結するのでしょう
瞬時に行動に移る、即ち反撃参加をしているということになります。
この時の意識は、怒りです。
怒りで訳が分からなくなっている状態です。
後で考えると、ずいぶん危ないことをしたのだなあ
と肝を冷やしてしまうようです。

仲間を攻撃され、その場に別の仲間がいる
そして怒りに支配される。
それが袋叩き反撃仮説の根幹になるわけです。

200万年前当時は、さしたる武器はありません。
旧石器時代は、石の武器はなく、
肉などを切り分けるための道具として石器が使われていたようです。
その辺に落ちている石を握ってたたくくらいの知恵はあったでしょうが、
木の棒が一番の武器だったかもしれません。
それでも、数で勝る人間の群れは
かなり強かったと思います。

こうやって、死に物狂いの袋叩き反撃をしているうちに
肉食獣もだんだん学習してきます。
人間には、うかつに手を出せないぞと思うようになるでしょう。
特に、人間が群れでいる時は
自分の命が危険になるということを覚えていきます。
複数の人間の匂いは不吉なものになったことでしょう。

だんだんと人間が複数いる状態では
襲われにくくなっていったと思います。

それでも、昨今の進化心理学の立場からは
反論Bがありそうです。

利己的遺伝子という問題です。
リチャード・ドーキンスという進化生物学者が提唱した理論です。

但し、実は私は、
その理論を誤解をしている人が多いのではないかと疑っています。
つまり、ドーキンス先生はそんなこと言っていないのではないか
ということを
自分の理解の浅さを棚に上げて考えるのです。

つまり、
本来利己的遺伝子理論は
「結果として」、進化は、遺伝子が自己の遺伝子を継承するように行われている。
そのために、遺伝子が個体を利用している「ように見える」。
ということでした。

だから、本来的理論を貫けば、
個体が利他的な行動をしているように見えても
結果として自己の遺伝子が継承されるのに有利な行動であれば
それも利己的な活動といえる
ということだったはずです。

しかし、一部の有力な学説では、
自己犠牲というのは利己的な遺伝子の理論に反する
と強硬に主張される研究者もおられるようです。
この学説からすると、仲間の誰かが襲われたら
遺伝子は、自分が乗っている個体を逃がすように仕向けるはずだ
ということになると主張するのでしょう。

ところが、例えばハチやアリが
巣を守るために自分の命と引き換えに敵を攻撃するのですが、
この行動の進化論的な理由が必要となります。
遺伝子を継承させる行動だと説明しなければならない
と考えられているようです。
そこで、この点の説明として、
ハチやアリの遺伝子が群れの仲間とかなりの部分(75%)で共通だから
自分を犠牲にしても自分の遺伝子を残すことに準ずる行動だ
という血縁理論を持ち出してきます。

人間は、さらに、子どもであっても遺伝子は50%です。
子どもを守る、子どもでもない群れを守るということは
なかなか説明がつきません。

そこで、群れの構成は元来血縁関係者で作られていて、
比較的近い血縁、DNAを本能的にかぎ分けて
血縁を守る行動が自己を犠牲にする行動
であるかのような説明をされるようです。

しかし、
第1に、生殖して子孫を産むわけですから
完全な遺伝子の継承ということはクローンで増える場合を除き
ありえないことです。

雌雄生殖という戦略をとっている以上
遺伝子の完全性ということは方針としては捨てられています。

第2に、遺伝子が個体を動かすのは
あくまでも原理的なもの、あるいはシステムであり、
あるいは生理現象です。
個々の具体的な行動を遺伝子が指示するわけではない
と言ってよいと思います。
この発想は、遺伝子自体が個体を動かして
目的をもって行動するものだということが
前提とされているように感じられます。

しかし、DNA等が個体を動かしているわけではなく、
結果として遺伝子を継承するように進化が進んでいる
ということに過ぎないと思うのです。
結果論ということです。

第3に、人間は、嗅覚が退化しています。
このこと自体が、血縁をそれほど重視していないことを
示しているように思われます。
他の動物の場合、嗅覚で血縁をかぎ分けて
仲間であると判断することができるそうです。

人間という種は、
そういう細かいことは気にしないで
近くにいる人間同士が仲間になり、
安心感を共有して群れを維持していたのだと思います。
なぜならば、そうしなければ
人間は子孫を遺せなかったからです。

人間が子孫を遺すシステムは
敢えて血縁へのこだわりを捨て
近くにいるものに仲間意識、親近感を抱く
認知心理学でいう単純接触効果を
自然は選択させたのだと思います。

群れを構成する仲間は、
常に一緒にいることから
弱点も、得意分野も、個性も
すべて把握しており、
群れを強くするという意識から、
それらの弱点や欠点も
責めないで、カバーしてきたのでしょう。
自然と、相手の感情を理解し、共有するようになった
ということはそれほど不思議ではないと思います。

逆に言えば、それができた人間の子孫だけが生き残り
それができなかった人間の子孫は木に帰るか
死に絶えたということが適者生存の仕組みだと思います。

つまり、利己的な遺伝子は
利他的行動をするようにすることを
遺伝子継承の絶対手段として選択したということになると思います。
それは、群れという「絶対的な自分たち」を守ることによって
各個体を守ったということになります。


袋叩き反撃仮説の批判Cということも考えておく必要があります。
互恵的利他主義という理論があります。

恩を売ることによって、
将来的な見返りが期待できる
という説です。
恩を売ることによって、仲間の中の評判をあげて、
自分が困ったときに助けてくれるだろうという効果を狙ったもの
ということがそれらの概要です。

この互恵的利他主義の理論は
袋叩き反撃仮説とは、
相いれない部分があります。

袋叩き反撃仮説と互恵的利他主義理論の違いは、
利他行動に出る場合の精神状態です。
袋叩き反撃仮説では、衝動的に相手を助ける行動に出てしまう。
むしろそれは、自分を抑えることができなくなる心のシステムだと説明します。
互恵的利他主義の理論は、冷静に、打算的に行動していることになります。

これは利他行動が起きる状況や利他行動の内容によって異なると思いますが、
大型肉食獣から襲われた場合に群れ全体で反撃する場合には、
われらが袋叩き反撃仮説が妥当するでしょう。
将来的な見返りを期待しての行動であれば、
自分の命を失うかもしれないような行動には出ないと思われるからです。

では、逆に、冷静な状況であればどうでしょう。
例えば、肉を群れのメンバーで分け合った後に
一人だけ肉を食べないうちにカラスに肉をとられてしまったような場合、
この場合は、既に逃げたカラスに
怒りをもって攻撃するわけにはいきませんので、
ある程度冷静でいられるでしょう。

もし、この場合、互恵的利他主義が妥当するのならば、
互恵的利他主義論者からは、袋叩き反撃自体という行動なんて
人間はやっていない、それはお前の妄想だ
といえば一件落着になります。
袋叩き反撃などしなくても
人間は肉食獣に食べられても
何とか生き延びたということになり、
袋叩き反撃仮説は葬り去れることになりかねません。

袋叩き反撃仮説は、
このカラスにエサを盗られた場合の説明として
食料を失った群れの仲間のくやしさや喪失感に
共鳴、共感しだろうということからやはり出発します。
そのくやしさ、喪失感をよそに
自分だけ食料を食べることが
申し訳ない気持ちになってしまいます。

可愛そうだから、おなかがすくことのひもじさを知っているから
自分の食料が減ることを我慢して
食料を分け与えただろうと説明します。

単純な話、そういう感情を持っただろうということです。

群れは運命共同体ですから、
誰かが苦しんでいる場合
群れとして放っておけないのだという感情が
群れを弱体化させないシステムなのだという説明になります。
そして、群れを弱体化させない事こそが
自分という個体を守る最大の方法ということが
当時の当事者の意識をはなれた客観的な評価となるでしょう。

この時、群れ全体を守るという意識は不要です。
個体同士の共鳴、共感による支援が
結果として群れ全体を維持していたということです。

これに対して互恵的利他主義理論を検討します。
一番の問題は、人間の思考能力のとの関係だと思うのです。
将来的な見返りを期待してということも、
かなり後期、農業革命の前夜ころにはあったと思います。
つまり最近ですね。
しかし、200万年前にそれが可能だったのか
疑問があるのです。

その疑問の中核は、将来的な因果関係の把握をする
能力が人間に当時あったのかということです。

今その場では見えない将来的な利益
というものを観念できなければなりません。
それに対して空腹は現在のもので、
感覚としてはわかりやすいものです。
現在のわかりやすい自分の感覚を抑え込んで
将来的な見返りを期待できたでしょうか。

時間の把握がなされなければできないことです。
時間という観念はあったのでしょうか。

私は、時間についての理解は、
農業ないし植物栽培を行うようになって
発展して行ったのではないかと考えています。

また、かかわる人間が多くなり、
群れの人数も増え、他の群れとの交流も開始され
それまでのように感情に任せていたのでは、
ひずみが大きくなっていくにつれて
因果関係の把握の能力も向上して行ったのではないかと思います。

また、ある程度文字のような記録も
発明されなければ
特に将来についての因果関係ということの把握は
難しいのではないかと想像しています。

また、食べ物の切実さがあるでしょう。

現代社会では、食べ物が無くなっても
買い足せばよいですから、経済的な不利益にすぎません。
しかし、200万年前は
今度いつ肉が手に入るのかがわかりません。
肉は貴重なものだったと思います。

それでも分け合う場合には、
将来的な見返りの期待では弱いのではないでしょうか。
共鳴共感に基づく、助けたいという気持ち、
一言で言って愛情に基づくものだ
という方がやはり説明しやすいのではないかと思います。

もっと切実さがない例も検討しましょう。

肉を切り分ける時に、切り分ける意欲のあるものが
石器を無くしてしまった場合、
自分の石器を貸すということは、
将来的な打算ではなく、
今、そいつに石器を持たせて肉を切り分けさせることが
自分にとっても、群れにとっても利益になります。
特に将来的な打算を持ち出す必要もないでしょう。

このように将来的な利益を打算的に考えるということは
当時の人間にとって、複雑すぎるのではないかと思うのです。
先ず、「将来」という観念を持つことができたのか
次に、将来の利益ということを想定することができたのか、
このような高度な因果関係を理解し、
目の前の自分の欲望を制御するということは、
もう少し時代をさかのぼり、
農業革命前後になってようやく可能になると
私は考えます。

さあ、袋叩き反撃仮説の最後のハードルです。
批判Dは、フリーライダー論です。

そもそも、袋叩き反撃仮説は、
群れを守ることが至上命題ではなく、
共鳴共感によって、仲間を援助したいという
衝動というか、感情というか、あるいは欲望というか
そういう即時的な行動を主張しているので、
本来関係がないのですが、
検討をしましょう。

フリーライダー論は、内部からの崩壊論とも呼ばれ、
もし、群れを守ることが、至上命題だとしたら、
大方の群れの構成員は、
群れを守っただろうけれど、
突然変異の個体が現れて、
自分は群れのために尽くさず、
恩恵をむさぼるだけの行動をするだろう。

この突然変異は、何も負担せず
利益だけを獲得するのだから、
群れの中でかなり優位に立つだろう。
そうすると、相対的に群れを守ろうとする個体が
突然変異の個体に駆逐されていき、
生殖を通じて群れの中で突然変異の子孫が優勢を占めてゆき、
群れを守ろうとする者がいなくなり、
群れが消滅するのではないか
という理論のようです。

袋叩き反撃仮説においても、
突然変異の個体が現れて、
利益だけをむさぼって、
それが子孫を増やしていったら
同じように群れが壊滅するという危険があるように思います。


実際にそういう仕組みで壊滅した群れもあったと思います。
しかし、現在まで人間は生き延びた。
そこには、何らかの仕組みがあるはずです。

突然変異は現れるものです。
袋叩き反撃仮説の場合ですと
すべての出発点が、群れの他の個体に対する
共鳴、共感です。
突然変異は、他者に共鳴、共感することができないということですから、
ダマシオのいう、前頭前野腹内側部が
欠損ないし機能低下していれば出てきます。

また、現在においてパーソナリティ障害や
自閉症スペクトラムの一部等
そのような事象については多数報告されています。

おそらく、人類史が始まってからも
他者に共鳴、共感できない個体は多数出現しているし、
共鳴、共感の程度も統一されているわけではなかったでしょう。

では、どうやって、人間は
群れの他の構成員に共鳴、共感できない性質をもつ個体に
滅亡されずに済んだのでしょう。


その答えの一つが、
人間は対人関係的危機を感じる動物だということです。
人間は、今でも群れの中にいたいという本能的要求を持っています。
また、それは、極限的な孤立した場面では
どのような目にあっても誰かと一緒にいたい
という形で現れますが、
通常は、群れの中に安定して存在したい
という形であらわれます。
一人の構成員として尊重されていたいということです。
そして、自分が群れの中で不安定な立場にあることを自覚すると
危機感を感じます。
この危機感は、身体生命の危機感と同様に
交感神経を活性化させ、ストレスホルモンを放出させます。
心拍数が増加し、血圧が高まる等ほぼ同一の反応をします。

この対人関係的危機感を感じることの
直接間接的な効果として
突然変異の個体が優位にならない仕組みができているということが
袋叩き仮説からの説明ということになります。

そのお話の前に、前提問題を解決しておきましょう。

共鳴、共感ができないという現象が起きる原因が
脳の器質的な問題がある場合以外に
育った環境というものがあります。

共鳴、共感は、人間の子どもが、
愛情を注がれて、尊重されて育った場合に
強くなっていくようです。

他の動物に愛情を注いでも
なかなか共感、共鳴力は育ちにくいのですが、
育ちやすくなっているのは脳の構造にあり、
これは遺伝的に決定されていることです。

しかし、せっかく人間の脳の構造があっても、
虐待を受けて育った子どもたちは
愛着障害を起こし、
他の人間が、安心できる存在ではなく
自分に危険を与える存在であるということを学習してしまい、
攻撃を受けないような行動を起こす傾向になります。
危害を受けないように他者とのかかわりを極力避けるか
危害を受けないように媚びていくか
両極端な行動傾向となるわけです。

これに対して、狩猟採集時代は
子どもは、群れの維持のための宝です。
また、それほどたくさん生まれませんし、
生まれてからすぐに死なない子どもも多くありませんでした。
人間は、弱く小さい仲間を無条件にいとおしいと思い
大切に大切に扱ったことでしょう。
動物から襲われそうになったなら
それこそ死ぬ気で戦ったはずです。
そういう個体群だけが生き残ったわけです。

生まれながらにして
群れという自分を大切にしてくれる存在は
個体として心地よさを感じたことでしょう。
他の群れの構成員を大切にするということを
身をもって教えられて大人になっていったわけです。

だから、そういう育った環境からすると
多少共鳴力、共感力を感じる脳機能が
生まれつき低下しているくらいならば
大人になっていく過程で
突然変異の要素は小さくなっていったことだと思います。

それでも、強固な突然変異というものが
存在したかもしれません。
そのような場合、それが多数にならない仕組みは
どういうものだったのでしょう。

一つには、共鳴力、共感力を示さない行動をする者は
群れの中で違和感をもたれます。
それでも特に群れの他の者、特に弱者に不利益を与えなければ、
変わり者というポジションを与えられるでしょう。

ただ、共鳴力、共感力が弱い者も、
仲間の中での自分の地位というものを判断する能力はあるようです。
仲間の中で、自分だけ他の構成員と違う扱いをされると、
疎外感、危機感を感じます。

当時、仲間から、自分が尊重されていないということを感じることは
大きな恐怖感情を抱かせたでしょう。
現代であれば、この危機感は攻撃的行動を呼び起こすものでしたが、
当時は、群れが個体を排斥するということは、
よほどのことだったと思います。
排斥は群れにとっても大事な頭数を減らすことです。
排斥される者の心情に、共鳴、共感したからかもしれません。
だから、よほどのことがない限り
群れから追放されるということはなかったと思います。

しかし、仲間の特に弱者に対して不利益を与えることは
仲間の中の敵、怒りの対象者を作ったと思います。
この時の排斥行動は強烈なものだったと思います。

仲間からの反応によって
自分がなすべきこと、なすべきではないことは
学習されていったと考えます。

最初は、突然変異個体も仲間ですから、
他の構成員も穏当に扱っていたでしょう。
突然変異の個体も直ちに怒りの行動に移らず、
自分自身の行動を修正していったのではないでしょうか。
他の構成員と違うことをするのは
それだけで怖いことだったはずです。

そうでなくても、他の構成員から
自分ならば、他の個体に愛情を持った行動をするのに、
なぜ、あの突然変異個体は自分と同じ行動をしないのか
という違和感を持たれていきます。

何か大きなことがあったとき、
「あいつは逃げる」というレッテルを張られることは
群れの中での評価を下げていったでしょう。
「理解できないやつ」
という不気味な存在になったと思います。

そのような事例がもし、同時期に起こったのであれば、
成人の突然変異体がどのように冷遇を受けるか
幼年の突然変異体が学習するので、
行動を多数に修正することになったでしょう。

このようにして、
突然変異体である、他の構成員への
共鳴力、共感力が欠損している者は
群れの中で優位になることがなく、
群れという環境に適合しない個体ということで
多数にならなかった。
場合によっては、強烈に排除された。
というのが袋叩き反撃仮説からの
結論になります。

これは、規範の起源を考える時に
有効なツールになると思いますが、
この対人関係的危機感や共鳴共感に基づく行動は、
あくまでも、絶対的多数派は、
自然な感情であったので、
それ自体は規範ではありません。

規範は、自分の意思を外在的に制約するもの
と考えるべきだと考えています。

この仲間のために怒りを募らせるという現場を
時々テレビで見られるということを説明します。
野球中継などで
投手が打者の頭部近くに投球した場合等で、
打者が投手に怒りを表現したことをきっかけとして
両チーム全員がグラウンドに飛び出して乱闘騒ぎになります。

大部分は、監督の命令など
外在的に自分の意思を操作する仕組みによって
意識して飛び出していることが多いでしょう。
これは互恵的な利他行為というよりも、
契約ないし規範に基づく行為です。

しかし、よくよく見ていると、
余り当事者性のない人同士が
当事者よりもエキサイトしてつかみかかったりしているシーンを
目にすることがあります。
これは、相互に袋叩き反撃の名残だと思います。

集団で攻撃しているうちに怒りが生まれてしまい、
相手を叩きのめすことを自然に志向してしまうわけです。
中には元々の私怨もあるかもしれませんが、
攻撃行動をしているうちに本気になっているのではないでしょうか。
そこには、仲間のためにとか、仲間を守るという
奇妙な言い訳があったはずです。


このうち、袋叩き仮説が
説明しやすい社会病理として
ネット炎上、いじめ、クレーマーがあります。

ネット炎上は、
誰かのうっかりした発言をとらえて
利害関係のない発言者を執拗に攻撃をする現象です。

あるいは
犯罪者や社会的に否定評価された人を
飽きずに執拗にネット攻撃を繰り返す現象だとしてもよいでしょう。

まず、攻撃してもよい人間をターゲットにします。
誰から見ても明らかに悪いと評価されるだろう人間が
ターゲットになります。

大事なことは、自分のターゲットに対する攻撃が
他者からも支持されるだろうと予測できる相手ということになります。
そして、他者の攻撃参加も期待できる場合です。
既に攻撃されていれば、安心して攻撃を開始することになります。

例えば虐待をして子どもを死なせてしまった親とか
無差別殺人をした者とか
とにかく、自信をもって否定評価できる人物であることが必要です。

ターゲットが定まれば容赦ない攻撃が展開されます。
名前を暴かれ、写真が公表され、親族までさらされます。

彼らは、袋叩き反撃をしているのです。

この場合の想定されている役割は、
虐待による児童死亡の場合は、
亡くなった児童が、自分たちの群れの仲間になります。
両親は、子どもを襲う肉食獣です。

弱い者を攻撃した両親は人間扱いする必要がないという
太古の本能によって攻撃が展開されるのです。

200万年前当時の人間の狩猟のスタイルは
動物を集団で追っていき、
動物が逃げるのを追いかける
さらに逃げる動物を追いかけて、
動物を脱水状態にしたところを
袋叩きにして息の根を止めるというものでした。
体毛の少なく、汗腺が豊富な人間は
熱中症になりにくい体質があります。

また二足歩行という省エネの移動方法も
相手を消耗させる狩りのスタイルに有効でした。

現在は、走って追いつめません。
インターネットの書き込みで追いつめていきます。
この時、発信した情報が
ターゲットに届くか届かないかはどうでもよいことのようです。
攻撃している、そして、その攻撃が
仮想の仲間であるインターネット上で
賛同されたり、評価されたりすることがあれば、
本能を満たすからです。

怒りという感情の特徴もこの炎上にプラスになります。
怒りは、危険の対象に必ずしも向かわない
という特質があります。
いわゆる八つ当たりということです。

人間は危険を感じたら
何とかして危険を解消したい、解消行動をとりたい
と思うようです。
ところが危険を与える相手が大きすぎると
怒って危険を解消できない。

例えば、勤務している会社であったり
例えば国家とか社会であったりした場合ですね。

こういう場合に、そこから逃げることもできませんので、
危機感のアイドリング状態が起きてしまいます。
それでも危機感を解消したいわけで、
解消したいという要求、衝動が高まっていきます。

そこに「勝てる」と思えるターゲットが出現すれば、
それまでの危機感を足して、
相手を攻撃するわけです。

誰からも指摘をされなければ、
こじつけでもよいから攻撃したくなります。
攻撃を開始し、袋叩きの状態になれば、
相手を叩きのめすまで攻撃は収まりません。
まさに袋叩き仮説です。

インターネットの攻撃は
リアル社会での危機感を解消する
格好な八つ当たりの対象だということになります。

この時、攻撃者が感じている意識は、
仲間を守るための行動だという感覚です。

でも、実際は、虐待された幼児とは
リアル社会では何のつながりもありません。
仲間でも何でもありません。

おそらくこのような仮想の仲間が成立するのは、
インターネットができる前からのことだと思います。
農業革命以降
見ず知らずの人間とも何らかの形でつながるという環境が
本来の群れと、群れ以外の人間との区別が
曖昧になって行ったことに起因していると思います。

ちなみに、一般的な攻撃対象に飽き足らず、
安定的に常時攻撃できる相手がほしくなります。
例えば政治的な書き込みの中には、
何でここまでというような怒りに満ちた書き込みがあります。
袋叩き反撃をしているのです。
常に行動を共にする仲間がいれば
反撃を受けることもそれほど心配ではありません。
まさに肉食獣にともに反撃する仲間が存在するということです。
だんだんと仲間を形成し、
同じようなターゲットに対して同じような攻撃を
繰り返すようになって行くということも理由のあることです。

このような事例は、いじめにも当てはまります。

いじめのターゲットは、
要するにいじめてもよい人間だとされてしまった人間です。

ターゲットを攻撃しても
誰からも非難されない、かえって支持されると、
あるいは誰かの攻撃が承認された場面を目撃していると
ターゲットはいじめてもよい対象だという評価が定まってしまいます。
この時、ターゲットに共感寄せる人間以外にとって
ターゲットは人間ではなく肉食獣になってしまいます。

最初はからかいでしょうが、
からかいも攻撃です。
攻撃している感情が怒りですから
からかいが継続すれば、純然たる攻撃に変わり、
それが怒りという感情になります。
怒りが完成してしまえば、
相手が消耗するまで攻撃を継続するわけです。

いじめ予防の効果的な方法は
からかいを禁止することですし、
いじめてもよい人間はいないということで
徹底的にかばうということをすることです。
からかいの中でも、からかわれる方とからかう方に
双方向性が無い場合は、
その時点でいじめだと考えるべきです。
また、ターゲットが孤立していて
からかい側が多数である場合もそれは紛れもなくいじめです。
袋叩きの構造になっている場合は
怒りがエスカレートする極めて危険な状態です。

いじめの加害者たちも
何かしら、ターゲットを非難します。
それは、言いがかりやこじつけと言うべきものです。
それでも
自分たちを守るために攻撃をしているのだという
言い訳をしながら、正当化をしながら
いじめを行っています。
怒りが完成してしまうと
もうそういうこともどうでもよくなり、
怒りをもって攻撃を繰り返します。
ターゲットが消耗するまで続きます。

クレーマーも
相手に勝てると思えないだろう相手にも挑んでいきます。
この時、クレーマーの心理としては
自分が受けた不合理な対応は
自分ならまだ我慢できるけれど、
自分より弱いお年寄りや子どもだったら大変なことになる
だからみんなのために戦う
という奇妙な論理を持っています。

客観的には単独行動なのですが、
自分は一人ではなく、社会的正義だという意識があります。
クレーマーも、主観的には袋叩き反撃をしています。
自分を守る理屈がいつしか攻撃となり、
怒りを完成させていきます。
クレーマーは、陰で攻撃するのではなく、
多数がいる場面での攻撃を好みますが、
これは袋叩き反撃をしている意識だから当然です。


ところで性善説、性悪説と口に出す人や
人間の本性はいじめを防げないというようなことが言われます。
私はかなり大雑把な議論だと感じています。

私から言わせれば、
人間は、元々の単一の少数の群れで育ったころの
その心、感覚を、正義と呼んでいるだけなのだろうと思っています。
数百万年かけてそのような心を育ててきたのです。
農業革命前夜はせいぜい2万年前です。
数百万年かけて形成したものが
2万年程度でそう簡単に変わりはしないのです。

心が
人間のかかわりの人数の巨大化と
複数の群れに所属しているという
新しい環境に適応していない
こういうミスマッチによって病理的現象が起きるのだと思います。

理性によって仲間意識をもつことができれば
解消する問題ではあると思うのです。
見ず知らずの人との仲間意識は
それこそ困難なことだと思います。
しかし、もはや世界は運命共同体になりつつあります。
環境問題や世界大戦になった場合の地球の破滅が典型です。
経済の仕組みも同様に世界中に影響しあっているのでしょう。

理性的に、協調、共存共栄のシステムを構築する必要があると思います。

そこまで世界的な大きな話ではなく、
家族や職場、学校その他の人間関係において
不合理を理性によって調整する、
そして、一緒にいることが癒しになる人間関係を形成する。
そのノウハウを蓄積する
これが対人関係学です。
袋叩き反撃仮説も、
進化生物学からではなく、むしろ逆方向である
現代の社会的病理の原因を考える中で
考え出された仮説であります。

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【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために [弁護士会]

5歳の結愛さんが亡くなった事件は、新幹線殺人事件や米朝会談で、早くも下火になっているようです。まるで、この事件の報道は役割を終えたような印象さえあります。
しかし、この事件は、事件そのものよりも、その後のマスコミや私たちの反応の方にこそ、大きな問題があることを浮き彫りにしました。

<死亡後の時系列が報道されない。>

第1報直後、1社だけは報道したという記憶があるのですが、事件後の時系列の問題です。
結愛さんが亡くなったのが3月2日です。義父が結愛さんに2月にした暴行に対して傷害罪で逮捕されたのは翌日3月3日です。義父は既に傷害罪では起訴されていました。3か月以上を経て、6月6日に実母が保護責任者遺棄致死罪で逮捕され、義父も再逮捕されたと報道がありました。奇妙なことは、報道では、実母が何月何日に逮捕されたのかについて報じないことが多いということです。いつ、どこで、誰が、どのようにどうしたという基本の事実報道がないがしろにされています。これが第一の不思議です。

しかし、私たちは、5歳の子どもの死という結果が衝撃的だったことから、逮捕日時が報道されないことについてはあまり気にしません。私も、事件報道直後は、そんなことは興味も関心も持てませんでした。

事件報道は、警察とマスコミと事実上の協定があり、警察発表をほぼそのまま報道しなければならないようになっているそうです。独自に裏をとっても、警察発表に疑問を持たせる報道はできないことになっているようです。
今回の事件は、既に結愛さんが死亡直後に、父親が逮捕されているのですから、マスコミはその事実を知っていたはずです。しかし、どの社も独自の取材をして事実を報道することはありませんでした。
そうすると、義父の逮捕から3ヶ月何をしていたのかについて疑問に感じなければなりません。
なぜ母親は逮捕されなかったのか。言葉でいえば慎重に捜査を進めていたということなのですけれど、再逮捕まで3ヶ月も父親が勾留されたということについては疑問がないわけではありません。

<あまりにもタイミング良く公開された手紙画像の意味>

その後、続報というにドンピシャなタイミングで、例の手紙が画像で公表されます。これは、結愛さんの苦境をアッピールすることにうってつけであり、それだけ両親に対する憎悪があおられました。
しばらくは私も手紙を正視できなかったのですが、文章を読んでみると、子育てをした経験がある人ならだれでも疑問を感じることも読み取っていくわけです。この手紙について、もし結愛さんが文案を考えて、文字にしたとするならば、5歳という年齢に照らして考えると、相当学力の進んだお子さんということになるでしょう。字も大変しっかりしていますが、何よりも文章校正がしっかりしすぎています。本人が考えて書いたものではない可能性があります。おそらく実際は、親から言われたまま書いたのでしょう。それにしても立派な字を書かれています。
しかし我々は、報道の見出しだけを見て、結愛さんが何とか許してほしいと思ってその思いを文字にしたと思い込んでしまいます。こんな手紙を書かせた両親に対する増悪が嫌が負うにも大きくなりました。

警察はこの手紙を公表をしていますが、いつ、どういう機会に書かされたのかについては説明がなされていません。冷静に考えれば、少なくとも衰弱している状態での筆跡ではないと考えることが自然だと思います。ところが、「暴行」、「ネグレクト」、「衰弱」というキーワードが先行していますから、我々の頭の中では、結愛さんが衰弱しながら、それでも容赦のない虐待がなされ、最後の力を振り絞って必死に許しを請う5歳時の姿がイメージされてしまいます。おそらくこういう事実があったなんてことは誰も言っていないのでしょう。しかし、この手紙の画像を発表したほうは、我々がそう思うことを想定し、狙って行ったと考えるべきです。加害者に対する憎悪をあおっています。

また、本来であれば、このような画像を公表することについては、弁護士や法律関係者は批判をするべきです。画像だけ公開して、文書作成の経緯について公表しないことは、誤った事実認識を誘導することにもなります。しかし、この点をついたのは、私が見る限り、ルポライターの杉山春さんだけでした。

母親の逮捕と義父の再逮捕が、事件発覚から3ヶ月後ですから、警察の方は相当な準備ができたはずです。もっと早く母親を逮捕することもできたのではないでしょうか。証拠の散逸などを考えれば、もっと早く逮捕するべきだったかもしれません。

<衰弱死の原因と胸腺萎縮の関係で考えるべき二つのストーリー>

また、マスコミが報道しやすいように、その次のタイミングで、結愛さんの胸腺の萎縮ということを発表します。繰り返すことになりますが、警察は3カ月前から捜査をしているのです。順次証拠が発見されたわけではなく、証拠は大量に警察にあったのです。マスコミが一度に報道してしまうと、情報量が多すぎるので、報道しにくく、波状に情報を提出することによって、受け手の情報処理も容易になります。つまり、いっぺんに情報を出すより、逐次出していった方が、実母と義父に対する国民の増悪が強くなるという効果があるのです。

ここで、疑問がわいてもおかしくないと思うことがあります。結愛さんの死因です。最後は敗血症になることは、むしろ死亡の場合は少なくないので、敗血症という病名によっては、何があったかを判断する決め手にはなりません。

問題は、胸腺萎縮と衰弱の関係です。

マスコミ報道からは、食事を与えられないで衰弱した結果、衰弱死したようなイメージが与えられます。しかし、別の可能性もあるのです。虐待は前提としてあることは良いとしても、胸腺が異常に萎縮したことによって、免疫機能が低下し、何らかの感染症が発症し(敗血症は感染を基盤として発症する急性循環不全)、食事がとれなくなって衰弱死したのではないかということも考えられるのです。どちらにせよ虐待が原因だということならば、それほどの違いがないことになるのですが、イメージが違ってきます。胸腺萎縮が先行して状態が悪化したのならば、夫婦は結愛さんの状態が悪化しているけれど、どうしてよいかわからないし、自分たちが虐待したことが発覚してしまうだから、病院に行くなどの手当てをしないまま衰弱死に至ったということになります。この場合の衰弱は急激に進行するかもしれません。しかし、胸腺萎縮が原因で免疫不全になったのではないならば、つまり、死ぬまで虐待を繰り返し、どんどん衰弱しているにもかかわらず虐待をさらに続け、結果として死亡させた。その時胸腺が異常に委縮していたということになったという可能性もあります。これは極悪な対応と言われても仕方ありません。違いは、「体重が平均より12kg低かった理由が、食事を与えないという虐待行為が原因なのか、胸腺萎縮による栄養摂取の機能不全が原因なのか」にあります。ずいぶん様相が変わるようにも思えるのです。いずれにしても、加害者の供述と医学的知見とのセットで真実が判断されなければなりません。

 しかし、マスコミ報道からは、虐待の繰り返しにより食事を与えず、結果として死亡時の解剖で胸腺が委縮していたという方のストーリーを私たちのイメージに植え付ける結果となっています。

 なぜ、警察は3カ月も使って準備を行い、マスコミを通じて、憎悪をあおる工夫をしたのかということが疑問になります。一般の方々はそんな疑問を抱かなくてもよいのですが、弁護士ならば当然疑問視しなければならないはずです。ところがこの指摘をしているのは、私が知る範囲では、虐待のルポライター杉山春さんだけでした。
 ここで、警察に悪意や違法な意図があったということを言っているわけではないのです。ここは注意していただかないと話がややこしくなるばかりです。純粋な正義感に基づく憤りということも十分考えられるところです。それぞれが役割を果たさなければならないということが主題なのです。

ただ、この報道は、裁判に大きな影響を与えてしまうわけですから、そのような疑問をマスコミは当然持つはずなのですが、私からは何もマスコミの悩みが見えてきません。そして、法律家や福祉関係者(自称も含む)からも、そのような疑問が上がってこないように感じるのです。このこと自体は、人権の危機ということになります。

<児相非難の行き着く先は。マスコミの程度の問題>

マスコミは、国民の怒りをあおり、その怒りの矛先を実母と義父に向けることと同時に、児童相談所にも向けます。介入するか介入しないか、どのように介入するかということについては、色々な要素を考慮しなければなりません。介入することによってのデメリットもあるからです。そこには悩みがあるのです。しかし、マスコミは、香川と東京の児童相談所の介入によって救えたはずだという論調を強調します。
今冷静に考えるとすぐにわかると思うのですが、このようにあおられた怒りの矛先が児童相談所に向かうことは、児童相談所が当然配慮しなければならないデリケートな問題を配慮せずに、ひたすら強行に出る、警察と連携しながらでも強硬に行うという結論にしか至りません。問題の所在を全く無視した二者択一的思考が横行しているということは大きな恐怖です。
現在でも、理不尽な国や自治体の介入で、家族が壊されて、修復不能な状態になって泣いている人、自死をする人、健全な成長が阻害されている人たちがたくさんいます。これはこのような二者択一的な政策による犠牲者たちです。二者択一的思考によって、犠牲者を増やし、それは、今度は自分や自分の子どもが犠牲者になるかもしれないのです。
マスコミが、そのような自覚を持たないで報道しているとすれば、それは、大変危険な存在になっているといわざるを得ません。

<虐待の原因を考えないということ>

マスコミの論調で際立っていることは、虐待が起きる要因を考えていないことです。これが致命的なエラーだと感じます。
その上で憎悪をあおっていくのです。そうすると、処罰だ、権力の介入だということに行きつくことは理の必然でしょう。どのようにして虐待を減らすことができるかということを考えているつもりになっていると思いますが、実際には、起きている虐待をどう処罰するか、どう死なないようにするかということしか考えることができない枠組みがすでに作られていることに気が付きません。私たちの正義感が、怒りで誘導され、複雑な考え、一歩引いた考え、根本的な問題を考える力が奪われていることに気が付かないのです。
言うまでもありませんが、虐待死は氷山の一角です。死ななくても、安心できる家庭を経験しないで大人になってしまうことが許されていいわけではないのです。しかし、原因を考えないで怒りに任せて単純な思考をしてしまうと、強い者、国家権力や警察に解決をゆだねたくなるというエラーが起きます。最終的には大いに頼りにするべきなのですが、先ずは、虐待を起こさない、軽いうちに解消する方法こそ考えるべきです。これは前回の記事でくどくど述べましたので、繰り返しません。
今回は、エラーに焦点を絞りましょう。

それでも、意見に全面的に賛成するかどうかはともかく、原因論について考える意見が少しずつ表明されています。自民党の三原議員は、色々と父親とのつながりの薄い子どもたちの母親を孤立させないことの大切さを訴えていますし、国民党の玉木議員は児相依存の傾向はあるものの、児相を責める前に児相の職員を拡充しようと訴えています。最悪の事態からは、少しずつ上を向き始める動きも見えてきました。先ずは歓迎しましょう。そして議論が起きることを期待します。

最悪の事態について、TBSのサンデーモーニングで引用されていた主張について、若干触れましょう。
紹介された方は、自称児童福祉の実践者だそうですが、エラーの塊のような主張をしています。
先ず、例の手紙が、子どもが虐待から逃れるために自分で考えて書いているという印象操作を利用して、先ず読み手の増悪をあおっています。何も冷静な考察もありません。
次に時系列をあげますが、死亡後の時系列はありません。目的が死亡を回避するための振り返りだからだろうと思います。
しかし、虐待の原因について、全く考察がありません。あくまでも死なないために児相はどうするべきだったかという観点からの考察になっています。
そうして、児童相談所の権限拡大、警察との情報共有、それだけにとどまらず、裁判所による親権停止の拡大まで言いだしています。それらの問題の所在であるデメリットについては一切言及がありません。まさに二者択一的思考の典型です。虐待についての原因考察がありませんので、虐待が起きてから死なないためにどうするかという発想となるしかないのです。徹底しているというべきでしょう。

われわれ、自死予防、いじめ予防、パワハラ予防にかかわる者は、対策を講じる場合、死ななければ良いという発想に陥りがちだということを自覚しています。しかし、死ななければ良いというマイナスからゼロを目指す方法によっては、有効な具体的対策が立てられないことも知っています。嫌なことを防ぐのではなく、良いことを増やす、ゼロの先のプラスを目指すということで、初めて効果ある対策が立てられるという基本姿勢を持っています。

彼が、どう言おうと、それは彼の意見なので、とやかく言うのではありません。問題は、このようなエラーだらけの意見を取り上げ、結局は警察や権力の意図を体現する意見を肯定的に紹介するマスコミの程度の問題、あるいは、それがマスコミ自身の意図だとすると、その危険性について訴えたいわけです。マスコミだけでなく、人権活動家を自称する人たちまでもが、無批判にこのような権力の意見を体現するような意見を拡散しています。責任を感じて猛省していただきたいということが本当の気持ちなのかもしれません。そして、せめて杉山春さんのルポルタージュでも読んで、少しは虐待の原因を考えていただきたいと思います。あなた方がまじめに考えなければ、誰が虐待を防ぐ提案をするのか厳しく考えていただきたいと思います。

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怒りや憎しみは、今虐待されている子、これから虐待される子を救えないということ。虐待防止のパラドクスについて 厳罰化、児相の権限強化、親権の停止が解決と逆行していること [家事]

 東京目黒で起きた結愛さんが亡くなった事件で、多くの方々が憤りを表明されています。見ず知らずのお子さんが亡くなったことに対して怒りをもつことができるということは、人間独特の能力です。単なる法律違反という捉え方ではなく、亡くなられたお子さんの孤独や絶望、さまざまな感情に共鳴、共感してのことになりますから、とても人間らしい感覚だと思います。
 しかし、怒りという感情は、エラーを伴いやすいものです。私が危惧しているエラーとは、せっかくの人間らしい感情が、今起きている児童虐待やこれから起きる児童虐待から罪のない子どもたちを救うことが出来ないばかりか、増やしてしまうことです。
 このエラーがなぜ起きるのか。具体的にエラーは何か。どうしてそれがエラーなのか、それではどうすればよいというのかについてご説明をすることがこの拙文の目的です。
 
 まず、「怒り」とはどういう構造なのかということについて、私の考えているところをご説明します。

 最初に危険が近づいていることを脳が認識し、危機意識を抱きます。脳は、この危機意識を解消したい、危険から逃れたいという志向をします。このとき危険を解消する方法の違いによって二種類の感情に分かれます。ひとつは、危険に対して働きかけることで危険を解消できるという意識がある場合は、危険に対して攻撃を起こし、相手の危険がなくなるまで攻撃を続けるという行動を起こさせます。この時に抱いている感情が怒りです。ふたつ目は、危険と戦っても勝てないだろうという意識がある場合は、危険から逃げようとします。このときの感情は恐怖です。危険を感じた場合、怒りたい、怯えたいということは、このように本能的な要請であり、命を維持していくためのメカニズムです。
 結愛さんが亡くなったことに対する怒りは、人間が、仲間の苦しさ、怖さを追体験し、共鳴したことによって生じたものです。事後的ではあるのですが、仲間を守りたいという意識で、これは強烈な怒りを生む傾向があります。これは、人間が農業を行なうはるか前の狩猟採集時代に、肉食獣から襲われた仲間を群れ中の集団で攻撃することによって自分たちを守りあったときの名残だと考えています。そのような仲間を守ろうとした者だけが、自分たちを守り、子孫を遺してきました。私たちの心は、このように環境に適合するように形成されたといわれています。そのため、現代においても、仲間のために仲間の敵を寄ってたかって叩こうとする習性があるわけです。
 怒りをもつことで、環境に適合することが出来たという、その意味について説明します。怒りは危険に働きかけて、危険を解消するときの感情だといいました。この場合の危険を肉食獣だとします。肉食獣も腹を減らしているから危険を承知で人間に襲い掛かっているわけですから、なんとか食いついた人間を捕食したいと思っています。これに対して、力の弱い人間は、怖いという逃げる意識を持たないで、相手を殺す勢いで、あるいは殺そうとして、攻撃をしなければなりません。肉食獣を亡き者にするという目標を持って、余計なことは考えず、撲殺することを目指して、ただひたすらに叩き続けることが必要です。なるべく安心せずに、確実に危険が無くなるまで、つまり確実に絶命させるまで、叩き続ける方が、命が助かることになるということは理解しやすいでしょう。これに対して「勝てるのだろうか」、「自分だけは逃げたほうが良いのではないだろうか」、「もうかわいそうだから叩くのをやめようか」などということを途中で考えて、叩く力を緩めたら、たちまち手負いの肉食獣は、そのひるんだ者いるところを通って逃げ出すか、その者を新しい標的にするかもしれません。このように怒りと、余計なことを考えないことと、確実にしとめるまで怒り続けるということは、命を守るためのセットの行動様式です。
 200万年前の狩猟採集時代は、危険といえば肉食獣や自然地形等ですから、このような単純な怒りの構造があれば危険回避のツールとしては十分だったのでしょう。
 しかし、複雑多様になった現代では、このような単純な怒りの様式によっては危険が解消出来ない場合も多くなりました。むしろ、怒ることでデメリットが生まれることが多いことは、われわれもよく経験しているところです。仲間を守るための強烈な怒りは、仲間を助けることにも作用するのですが、現代の複雑な社会においては、いじめやクレーマーなどの社会病理の要因にもつながる側面を持っています。


怒りがデメリットを生むことの要因についてまとめてみました。

・ 複雑な思考をすることが出来なくなる。
  余計なことを考えないことが怒りの効用でした。相手を叩くことだけに集中する方が良く、色々なことを考えてしまうことは危険だからでした。どうやら怒りが生じると、自動的に脳の複雑な思考を担当する部分が機能低下を起こすようです。これが人間や動物が生きる仕組みでした。
  複雑な思考をすることができなくなるため、派生的な因果関係を考えることが苦手になります。叩けば痛いとか、かまれれば痛いとか、直接の因果関係だけが判断可能ということになります。
・ 二者択一的な思考になる。
   これも、複雑な思考が出来なくなることからその結果としてこういうことがおきるのだと思います。つまり、敵か味方か、危険か危険から脱したかというものです。命をかけて戦っていますから、瞬時に判断することが求められていますので、このような単純化は狩猟採集時代には合理的なものでした。
・ 迅速かつ安易な解決を志向する。
   これも、戦いの途中の脳の構造ですから、理解しやすいと思います。複雑なことを考えられず、瞬時の判断が求められると共に、早く危険から解放されたいと思うことは当然でしょう。二者択一的思考とあいまって、強い者に頼るという傾向も現れていきます。
興味深いことに、本来は客観的に危険を脱するための仕組みだったのです。しかし、自然が作った方法は、危険意識を解消したいと志向するというツールを使って危険から脱する行動を起こすという仕組みを作りました。だから、いつしか、危機意識を脱したいという思いが過剰反応を起こしてしまい、独り歩きを始めることによって危険から脱するための行為と矛盾する行動を起こすということも現れたりします。この典型的な行動が自死です。
・ 後戻りすることが出来なくなる。
   後戻りのきっかけを作るための複雑な思考は出来ませんので、当然といえば当然ですが、後戻りしない行動傾向がより確実に危険を解消するために有益なことは理解しやすいと思います。途中で戦うことをやめることは死を意味するからです。自分の行為を客観的に見ることができなくなることもこの特徴からきているのかもしれません。
・ 共鳴、共感が出来なくなる。
   これは、他人と共鳴共感する脳の部分が、複雑な思考をする脳の部分と同じ部分だということから当然だと思います。アントニオ・ダマシオが発見した前頭前野腹内側部という脳の部分です。

厳罰化というエラー

 目黒事件では、無抵抗な子どもを長期にわたって苦しめ、助けがない状態に追い込んだということから、継父に対しても、放置した母親に対しても、怒りを抱くということは人間の感情としては自然なことでしょう。
 中には、虐待死に対する刑罰を厳罰化しようという主張が見られます。つい頷いてしまう主張です。しかし、これはエラーといわなりません。つまり、厳罰化は新しい犠牲者を救うことと何の関係もないからです。
 そのことについて説明します。
・ <虐待は自覚なく行なわれる。>客観的には死の危険がある行為が行なわれているのですが、加害者にはその自覚がありません。むしろ何かしら言い訳をしながら加害行為が行なわれています。虐待死の罰を重くしても、自分がいましていることに対しての罰だと認識しないことがほとんどだということです。
・ <人は法律があるから犯罪をしないわけではない。>もっともそういう人もいるかもしれませんが、実際は、自分が誰かを苦しめることに抵抗感があるのでやりません。やりたくても我慢しているよりも、多くの人はやりたいとも思わないものです。本当は殺したいのだけど、法律があるから踏みとどまっている人、なくなれば直ぐに実行するという人がどれだけいるでしょうか。実際の加害者、刑事被疑者や被告人と話すと、法律で禁止されていることは知っています。道徳的に間違っていることも複雑な行政法規でない限りはよく分かっています。
いずれにしても、罰則が重くなってもそれによって、虐待がなくなることはあまり期待することが出来ないということが実態なのです。

厳罰化の問題で看過できない問題があります。それは厳罰化の主張は実は論理的には死ななければ良いということを言っていることと同じになってしまうということです。おそらくそんなことを承認している人はいらっしゃらないでしょう。根本的には虐待をしないこと、これを目指さなければなりません。虐待死の厳罰化は死なない場合は厳罰化にならないでしょう。
それでは、死ななくても虐待自体に厳罰を課すことで解決に向かうのでしょうか。これにも疑問があります。虐待はつい起こる現象ですが、原因があります。虐待の原因をつぶすことによって、虐待しようとさせないことが根本解決です。これに対して刑罰を重くすることは、虐待をしようとする原因を放置して、虐待放置して、案の定虐待した場合に厳罰に処すということになってしまいます。
又、厳罰化することが出来ればそれで達成感が生まれてしまい、根本解決に向かわないことも心配しなければなりません。
さらに言えば、厳罰化するという思想は、「その人たちが特殊な人たちで、自分とは別の種類の人間なのだ」という意識を持ってしまいます。虐待をする人はとめることが出来ない、だから厳罰化して隔離することが必要だという優生保護法における不妊手術と同じ発想になっている危険は無いでしょうか。虐待という言葉には当てはまらないと思っていても、私たち親が子どもの事情を無視してしまうことは皆無なのでしょうか。もしかしたら、量的な違いや、偶然生まれた環境の違いに過ぎない相対的なものかもしれないという視点は必要だと思います。
厳罰化はエラー、すなわち虐待解消に役に立たないと思っています。

 親権停止、児童相談所の権限強化、里親や施設の拡充というエラー
 
 児童福祉の実践に関わらない人が良く主張する内容です。児童福祉の専門家によれば、これらは現実を知らない人の主張だと切り捨てられています。
 親権停止といってもそう簡単ではなく、現実の親権停止の申し立てはとても少ない件数です。いろいろな問題があるからです。本当に親権停止をする事案なのかということは大変難しい問題です。親権停止となれば、子どもと親が引き離され、子どもは児童養護施設に入れられます。間違って親権停止になることで、子どもは実の親から引き離されて、大人に対する不信感が堅固なものになってしまいます。親とはなれた時間が家族の関係を薄めてしまい、健全な成長をむしろ害することになります。実際に親権停止を申し立てられる親御さんは、訴訟能力が低く、弁護士を依頼する経済力もないことが多いようです。誤判を犯さないためには、申し立てる方が責任を持たなければならず負担が大きいのです。又、親権喪失ではなく、一定期間の停止としたのは親子の再統合を図ることが狙いですが、実際に再統合の働きかけがあることを私が関与した事例では見られませんでした。
 児童相談所の権限が強化されることについてもデメリットがあります。子どもが転んだなどで怪我をしただけで虐待が疑われ、長期間にわたって子どもと引き離されたという訴えもあります。一方的な判断を公平に検証するシステムがないことが問題だと思います。また、強い態度に出ることだけが独り歩きして児相に押し付けられているという現実があるでしょう。こういう事例もありました。うつ病という調子の波がある病気で、重い状態のときに掃除が出来ないのですが、その場合に虐待だと認定されて、子どもを取り上げられそうになっているという相談もありました。
 又、現実には、施設入所が国によって抑制されてしまい、里親への誘導がなされているようです。しかし、里親のなり手が十分でない上に、里親だからすべてが上手くいくという保証がないことも当然のことです。特に子育て経験がない里親が多いことは心配なことです。
 これらの現実を見ないで、親権の停止、児童相談所の権限強化、里親制度の拡充を主張することは、あまりにも無責任です。怒りは、強い者になびく行動を招くという理論どおりですし、安易な解決を目指すという理論どおりの主張です。一番の問題は、ある意味厳罰化の主張以上に、根本問題である虐待の撲滅を考えていないことです。あくまでも虐待が起きた後の対症療法に過ぎません。とにかく死ななければ良いという発想で、まじめな議論とは思えません。
 ところが、報道を見ると、虐待の撲滅、百歩譲って減少という観点からの論調は見受けられません。比較的良心的だと思っていた番組も、専門家でもない人の意見をなぜかわざわざ持ってきて、エラーだらけの意見を紹介している始末です。子どもの利益ということが、これまであまりこの国では考えられていないということがはっきりしてしまった悲しい出来事でした。それにしても、真面目に虐待に取り組んでいる人がいることすら知らないということはとても嘆かわしいことです。

虐待の原因を学ぼう

 ではどうしたらよいか。実に簡単なことを、厳罰化論者も児童福祉の現実を知らない人の児相の権限拡充論者も見落としています。怒りは、一つ一つ論理を積み重ねていくことが苦手です。何かを予防する場合は、その原因を突き止め、原因を除去することです。病気の場合でも、のどから感染するならうがいをするでしょうし、食べすぎが病気を招いている人ならば食べないようにするということです。虐待を予防するならば、虐待の原因を突き止め、その原因を取り除けばよいということになります。厳罰化論も、児相の権限拡充論も、特徴としては、原因の分析をせずに対策を論じるという非論理的な誤りを犯していることになります。
 では、どのように虐待の原因を分析するのかということになります。遠回りでも、一つ一つの事案を分析し、共通項を探すことが鉄則です。これをしないことは、特殊な人間だけが虐待をするという非科学的な決めつけですから、正しい解決にはたどり着きません。具体的事例の分析には、虐待の加害者の協力が不可欠です。虐待は密室で行われているのですから、加害者しか知りえないことが多いのです。また、加害者自身が自覚していない、無意識の行動も多くあります。こうなると、加害者を憎悪するだけでは何も解決しないということがお分かりになるでしょう。むしろ、加害者に対して支持的に、自分が何をしたのか、どうしてそれを止められなかったのか、そしてその背景として加害者が歩んできた人生、環境はどのようなものだったのかという聞き取りと分析をしなければなりません。これは、一緒に考えるというアプローチなのです。加害者に対して処罰感情だけしかなければ、つまり憎しみのアプローチだけならば、およそ将来に向けた虐待はなくならないのです。
 杉山春さんというルポライターがいます。大きな虐待事件について、何件も加害者から詳細な聞き取りを行い、丁寧な分析をされ、ルポルタージュを作成されています。新書になっていますから、入手しやすくなっています。弁護士以上に弁護士の思考ができる人です。私も随分文献を読ませていただき勉強させていただきました。
 虐待の原因は、共通する部分が多くあります。一言でいえば、無知と孤立です。子どもの愛しかたを知らず、接し方を知らず、何が必要で何が不要なのかを知らない、限度も常識もわからない。つながるべき人、つながるべき機関につながらないで、自ら孤立していく、自分たちを食い物にする人たちにつながってしまうという共通性もありました。どうしてそうなってしまうかというと、自分が愛された経験がなかったり、逆にいじめを受けたり虐待を受けたりしたということが看過できない事情としてはあるようです。そして、それが非常識なこと、それをすることは子どもがかわいそうだという意見があることについて、孤立しているために誰からも指摘されないまま、客観的には虐待が継続してしまうということが共通項のようです。
 人間はもともと両親だけで子育てをするようにはできていません。例えばチンパンジーは、母親だけが子ザルに食料を分け与えます。人間は、懐胎期間が長いことやお産が重いこと、新生児が長期間全く自立していないことから、母親だけが子育てをすることは不可能です。だから群れで子育てをしていたのです。小さく弱いものをかわいいと思う感情を持っているのが人間です。この感情は群れで子育てをした名残でしょう。文明ができると、かえってこのコアな群れは小さくなり、戦後しばらくすると、子育ては夫婦のみで行わなくてはならなくなり、事情によっては母親だけが子育てをする場合も増えています。しかし、その様式は、人類史を見ても、これまであまりなかった子育ての方法で、現代においてもかなり無理がある形態です。
 ここで、厳罰化や児相の権限を強めるため、疑いを持って近隣同士が子どもを持つ親に対する監視を強める社会になったらどうなるでしょう。ますます虐待を隠し、陰湿化し、後戻りできないまま虐待死していく子どもが増えることを心配しなくてはなりません。完全なエラーが生まれると思います。
 もう一つ、厳罰化などの考えに差別の思想があることを指摘しました。しかし、孤立した夫婦の子育てという観点からすれば、少なからずどの家庭でも虐待は起きています。子どもに強すぎる反応をすることはあるでしょうし、八つ当たりをしなかったという人はどれだけいるのでしょうか。多かれ少なかれ、子どもの心を傷つけることを親は行っています。周囲がそれを指摘してあげて、修正させてあげることがどうしても必要なのだと思います。
 これも怒りのもう一つの特徴と関係があります。怒りは、実は危険の対象にだけ向かうとは限らないということです。例えば会社でミスをしたり、上司から叱責されたり、仕事がうまくいかない、そういう場合は身体生命の危険はありませんが、会社での立場が悪くなるという意味で危険を感じます。しかし、会社に対してというか、上司に対して反抗的な態度で怒りをぶつけることができません。危険意識を抱いたまま解消する方法がない状態が生まれてしまいます。心は、危険意識を解消したいといういらだちという表現になります。この危険意識を50とします。子どもというものは、親に対して安心していますし、人間関係がうまくコントロールできませんから、親に失礼なことをすることがあります。親は2とか3とかせいぜいそのくらいの危険意識を持つ程度でしょう。しかし、子どもは弱いですから、子どもには勝てるという意識があります。何とか危機意識を解消したいという無意識の思考は、せいぜい危険度3くらいの、普通なら決して行動に出ない危機意識に怒りを向けてしまいます。この怒りは53の怒りを解消しようとする傾向にあり、必要以上に過酷になってしまいます。八つ当たりということが典型的な虐待です。虐待は、私たちの日常と断絶しているものではなく、連続しているものだと考えたほうが良いと思われます。
虐待が苛酷になる場合は、驚くほどの無知が加わります。2日程度食事を与えなくても、お菓子か何かあれば死なないだろうとか、お菓子のほかに水分が必要だとか、そういうことを本当に知らないと子どもはあっさり死んでしまうのです。また、自分は過去同じことをされたけれど我慢できたという意識が生まれてしまいます。仕事をしなければいずれ死ぬのだから、仕事の時は我慢してほしい。そういう場合に過酷な結果が生まれるようです。まさかと思うような思考過程が現実にあるのです。厳罰化がいかに予防の観点からは無意味なのか理解されたことと思います。
こういった原因を解消するためには、孤立を防ぐことと、わからないなら教えてあげること、安心して相談できる環境をつくること、知らないことで責められない、笑われない、批判されないということが肝心です。隠す親たちは、自分で理解できないまま、自分の無知を理由に笑われたり、批判されたり、責められたりしてきました。いじめもその一つです。
私は、弁護士をやりながら人権擁護委員もやっています。虐待している親からの電話相談も受けることがあります。いろいろな事情があって孤立しているということが特徴的です。相談をするくらいだから、虐待を辞めたいと思っているのです。虐待の事実に目くじらを立てて批判したのでは電話は切られてしまいます。励ましながら、責めない、笑わない、批判しないということは鉄則です。そのうえで一緒に考えます。自分の子育ての反省を赤裸々に語り、その時助けてもらった人、機関を紹介します。これなら利用できるというつながりを見つけた時は、相談者も私も心底安心し、安心が共有されたことを喜び合うような相談会になります。
虐待行為の修正に有効な機関は、子育て支援です。子育ての不安を支持的に聞き、具体的な解消方法を相談できるととても良いです。ところが、公立保育園の減少で、子育て支援をする場所の確保も苦労しているようです。地区に一つ、だれでも気軽に訪れることができて、ベテランの担当員、例えば保育士を退職した方が、ゆっくりお話を聞ける環境があると良いです。紅茶とクッキーをいただきながら話をするという環境がたくさんあるといいなと思います。子どもも遊べる環境があるとなおよいでしょう。
そのほかにも、気軽な立ち寄り所があって、地域的なコミュニケーションが作れるような、居場所が作られればと思います。これらは、親の相談場所であるとともに、子どもの逃げ場所にもなるわけです。
奇妙な話ですが、児童虐待を防ぐためには、児童虐待をしている親を憎んで排除するのではなく、親の虐待する心を承認し、許すことなのです。虐待防止のパラドクスということでしょうか。
このような親と子どもがコミュニティーの一員として受け入れられることが必要なのですが、現実の社会は、特に虐待予備軍というような家庭はどこのコミュニティーにも属さずに孤立しています。始めからコミュニティーを作るというより、町内会や子育て支援など行政がコミュニティーの種を作っていくことが求められると思います。被災地では被災した地元のお年寄りと地元の小学校の子どもたちの交流が行われています。これは、子どもたちを守ることにもつながりますし、孤立したお年寄りを元気づける等大きな効果が生まれています。
長期的には、子どもが安心できる人間関係を幾重にも構築していくことだと思います。安心できる人間関係は人の心を癒します。助け合う人間関係を積極的に構築していくことが根本的な問題でしょう。

子どもが一緒に住まない親と、頻繁に会えることが当たり前の世の中にしよう

 江戸時代は、実の親のほかに名付け親,拾い親、抱き上げ親等、何人もの親がいました。関係が密な人間関係が形成されている時代でさえ、子どもたちはたくさんの逃げ道がありました。余計なお世話をしあう制度的保証があったといえると思います。「俺の子どものことに口を出さないでくれ。」、「馬鹿言ってんじゃないよ、俺が名付け親だろう。俺の子どもをぞんざいに扱うな。」というやり取りがあったと思うと楽しくなります。子どもは皆で育てるものという意識が感じられます。これが多くの人たちの共通認識でした。
 現代の子育ては孤立しています。簡単にコミュニティーは構築しにくいでしょう。大体、話を聞くにしても場所がありません。なかなか自宅を晒すことは抵抗が多くてできないということが多いのではないでしょうか。
 その中でも注目するべきは、深刻な児童虐待が、実の親ではなく、母親の新しい夫、内縁の夫、交際相手が関与して行われることがみられるということです。この場合は、実の父親がどこかにいるということになります。この実の父親は、強力な子どもの味方になるでしょう。
 ところが、現在の日本では、離婚をしてしまうと、子どもはどちらかの親だけと生活し、一緒に暮らしていない親と面会すらできないことが多いです。離婚前の別居の段階でも同様です。これには歴史的背景があります。戦前の家制度の下では、子どもは家のものだという意識がありました。そのため、家を出ていくほうは子どもを置いて出ていかなければなりませんでした。子どもに里心、母親を恋する心が強くなり、家を出て行かれては困るので、離婚が親と子の未来永劫の別れにされてしまっていました。戦後しばらく、高度成長期ころまではこのような感覚が多かったようです。その後、女性の収入が向上したり、女性の人権が確立していくとともに、母親が子どもを引き取って離婚をするケースが増えて、大勢になっていきました。しかし、離婚は子どもとの未来永劫の別れという意識、あきらめも一方にあり、子どもをあきらめるという風潮が残ったように思います。子どもが両親から愛情を受けて育つほうが健全に成長する、離婚のマイナス影響が緩和されるということは、世界中の調査によって確立していることですが、日本においてはあまり重視されませんでした。封建制度の下では子どもは家の付属物で、高度成長期以降は母親の付属物のように扱われていたと厳しく見るべきです。
 なぜこのように厳しく見る必要があるかというと、日本を除く先進国は、離婚後も子どもを父母双方が養育する、父母双方に親権(親責任)があるという共同親権の制度をとっています。子どもの利益を親から切り離して考えるべきだということがお隣の韓国も含めて先進国の共通の考え方なのです。ところが、日本では、ようやく離婚後、離婚前の別居時の面会交流という考え方が進み始めたという段階にとどまっているからです。だから、子どもの独自の権利を承認するということが日本においては急務の課題です。このひとりの人間として尊重しない最悪の結果が虐待なのです。
 とりあえず、現制度では、面会交流の拡充です。面会交流が頻繁に行われると、虐待をすればすぐにわかってしまいます。だから、虐待に対する抑止効果になるでしょう。しょっちゅう別れた相手と子どもが面会するということが煩わしいという気持ちもあるかもしれません。でも仕方がありません。子どもは双方の親から愛される権利がある独立した人格だからです。子どもを連れての離婚はそういうものだということを社会的に常識にする必要があります。また、実際に虐待があって様子がおかしかったら、実の親なら毅然とした対応をするでしょう。会えないから帰るということはせずに、納得できるまで面会を要求するでしょう。子どもにとって力強い味方になります。すべての親が虐待をするわけではありません。しかし、子どもが実の親に会うことのデメリットは、同居親のわずらわしさしかありません。逆にメリットとしては、逃げ道があるという安心感があるだけでなく、離婚に伴って子どもが自分の価値を低く考えてしまう負の影響を緩和することができるということが科学的に証明されています。何事もなくても面会することで、子どもにとっては利益なのです。子どもを一人の人格を持つ主体だと考えるのであれば、このような子どもの利益を積極的に推進するべきであり、妨害することは虐待だと考える風潮が作られることが必要です。
 なぜ、このように大切な面会が十分行われないのでしょう。最近は裁判所も強く面会を勧めるようになりつつあります。実際、裁判所から言われれば、同居親も子どもが喜ぶ面会交流なら応じなければいけないだろうという認識を持つものです。
 面会交流が進まないのは、同居親の、子どもを離婚した相手に会わせたくないという感情を子どもの利益以上に尊重してしまう風潮が、法曹界や社会に根強いということなのです。モノを言えない子ども、同居親に遠慮をする子どもの声なき声を取り上げようとせず、同居親の感情をいさめないどころか先取りして代弁する人たちもいます。これでは、同居親は会わせようとする気持ちを起こすことができません。
 そうはいっても、会わせたくないという感情まで否定することは現実的ではありません。自分も相手に会いたくないということは実際に強くあります。だから必要なことは、同居親の精神的負担をできるだけ軽減した面会方法を工夫することです。例えば、面会交流の施設を自治体が提供するということは、精神的負担をだいぶ軽減します。その中で、双方の不安を解消する提案をするスタッフがいればなおよいと思います。現在でもこのような団体があるにはあるのですが、費用も高額になっています。自治体こそが、安価な施設を作って同居親の背中を押すべきだと私は思います。現在の少子化の時代、子どもたちが健全に育つためのそれほど多くもない費用の支出に躊躇することはばかげています。
 
 虐待の問題は、このように社会全体で解決する問題です。人の心の問題です。これを罰則を強化して解決しようとか、逆に親権の停止や児童相談所の権限の拡充で解決しようとすることは、まったく虐待の実態を見ない安直な考え方だと思います。孤立して、十分な知識のない家庭を援助するのではなく、刑罰や親権停止の威嚇によって、結果として虐待だけをなくすという政策が根本問題を解決しないどころか、何ら子どもたちの幸せに結びつかないことはご理解いただけると思います。



私は無宗教ですが、新約聖書のヨハネによる福音書第8章では、イエスのもとに罪を犯した女性が連れてこられます。モーゼの律法によって、みんなで石を投げて殺さなければならないといって、イエスの考えを聞きに来たのでした。イエスは即答せず、もどかしい時間が流れました。ようやく語ったことは、自分を省みて罪がないと思う人間だけが石を投げればよいと言ったそうです。年齢の高い者から、一人また一人と帰って行ったそうです。そして、イエスと罪を犯した女性だけが残りました。イエスは、自分はだれも裁かないと言い、女性に対してこれからは過ちをしないように述べたというのです。
私の人生に影響を与えた一節です。

もし神がいて、現代社会に天使を遣わされ、犠牲が生まれたとしたら、憎しみを募らせたり、人の裁きを重くしたりするという気持ちは、たとえそれが正義感から出たものだとしても間違いなのでしょう。自分たちを省みて、迫害されている愛を解き放ち、慈しみといたわりを強く大きくしていかなければ、犠牲が意味のないものになってしまうと私は思います。


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【提案】児相を責める前に私たちこそが考えを改めよう!目黒5歳女児事件のような虐待死を繰り返さないための共同養育という人間らしい方法 [家事]

何の抵抗することもできず、
何の責められる理由もなく、
5歳の女児が、絶望を抱きながら亡くなりました。
同居していた母親から助けられることの無い
絶対的孤立を感じていたことと思います。

こういう悲惨な出来事があった場合、
人間が犯しやすいエラーは
誰かを責めることです。

誰かを責めることでは
悲劇の繰り返しを絶つことはできません。

児童相談所を責めることは慎重にするべきです。
この種の事案で児童相談所を責めた結果、
本来引き離さなくてもよい親子が
引き離されるということが起きています。

目黒事件という起きてしまったことから目を離さず、
二度とこういう悲劇を起こさないようにしなければなりません。

私たちが変わることで悲劇が一つでも減るならば、
どんどん変わっていこうではありませんか。

今回は不幸にして5歳女性は亡くなりました。
しかし、これは氷山の一角と考えるべきです。
つまり、
亡くならないまでも
心身を虐待され、
安心して帰るべき家を持たない子どもたちがいるのです。

人間が助け合うものだとか、信じられるものだということを
知らないまま大人になっていく子どもたちがいるということなのです。
人間として生まれてきたはずなのに
人間として生まれてきた喜びに接することができない子どもたちがいるのです。

このような最も基本的な人権が今後も守られないなら
そんな社会は死滅していくだけでしょう。


児童虐待一般の問題を考えても仕方がありません。
きちんと目をそらさずに実態をみなくてはいけません。

過酷な児童虐待は、
母親の新しい夫や交際相手の男が行い
実の母親が放置したり、共同加害をしておきます。

統計的にも父親の子殺しは極めて少数です。

危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11

母親が多いのは新生児を殺すことがあるからです。
母親の交際相手や新しい夫が虐待死、過酷になることが多いのです。

前夫の子殺しは猿の行動です。
今号の雑誌「正論」では、
埼玉大学名誉教授 長谷川三千子と動物行動学研究家 竹内久美子が
「セクハラ
 そんなのチンパンジーでは常識です
 他人の尻馬に乗る「#ME TOO」運動」
と題して対談をしています。

この表題からしても、チンパンジーもセクハラをするのだから
人間がしても仕方がない、批判するな
と受け止めかねない内容になっています。

しかしさらなる問題はその後です。
チンパンジーの雄は雌と繁殖行為をするために
相手のメスの前夫との子どもを殺すということを述べていました。
チンパンジーのセクハラが常識だから非難をやめろというのならば、
チンパンジーも子どもを殺すからなんだというのでしょう。
そらおそろしいことが、埼玉大学名誉教授らによって
語られているわけです。

なぜ人間は服を着ているか少し考えるべきです。
また、人間の雄の犬歯が大きくない理由についても考えるべきでしょう。

正論という名前の雑誌ですから
今回の事件を受けて
何らかの説明記事を次号で出すことだと思います。

それはともかく、
前夫との子どもを殺すのは猿並みです。
しかし、そういう猿並みの男が現代日本に一定数いるのだということになるでしょう。

我が子に対する過酷な虐待を放置している母親の事情があるのかもしれませんが、
その事情について大変興味があります。
詳細な説明を引き出して国民に還元し、
悲劇の防止に役立てるべきだと思います。

いずれにしても、今回の事件が特異な二人によって起こされたというよりは、
今後も起きる要素があるのだということを
しっかり考えなければなりません。

現在この種の事件を繰り返さないために考えるべきこと
私たちが修正するべきことが一つあります。

それは、離婚をしたら、
一方の親だけが子どもと関わり
他方の親はお金だけを払うものだ
という単独養育の風潮があるということです。
もしかしたら、私もどこかでそういう風に考えているのかもしれません。

「だって、理由があって離婚するのだから
 相手とは二度と会いたくないのが当たり前じゃない。」
そういう風に、子どもを別居親に会わせることは
同居親にかわいそうなのではないかと思う傾向があるかもしれません。

確かに嫌でしょう。会わせたくないでしょう。
その気持ちまで否定しようとは思いません。

しかし、そのような素朴な感情が支持される風潮は、
母親が子どもを父親に会わせないことの疑問を
私たちから奪ってしまいます。

今回5歳の女性が死亡しました。
女性には父親がいたはずです。
父親という逃げ道があったはずなのです。
しかし、この様な会わせたくないことを支持する風潮は
子どもからせっかくあるはずの逃げ道を奪ってしまうのです。

もっとも、別居親と死別していた、遠方にいる等の事情もあるかもしれません。
しかし、その時は、父親の両親など新たな逃げ道が
子どものために用意されるべきだと思います。

子どもが別居親と面会することのメリットは数え切れません。

これまでアメイト等によって統計的に裏付けられてきたメリットとして
自尊心の低下の防止があげられていますが、
もっと現実的な効果があります。

今回の目黒事件のような虐待を防ぐことです。
平均体重より12kgも軽い身体状態をみたら、
子どもを奪い取ることができます。
自分の子どもですから、
会いに来たのに子どもに会わせられないまま帰る
やる気のない公務員に任せるよりも確実です。

また、そのような状態になる前の抑止力になります。
即ち、1カ月に一度でも子どもと別居親が会うということになれば、
虐待を疑わせるようなことはできなくなります。

別居親との面会がなかったことが
東京を密室にしてしまいました。

確かに同居親には抵抗があるでしょう。
しかし、やっぱり子どもを産んだ以上は仕方がないのです。

子どもを会わせないわけにはいかない

こういう風潮に私たちを変えていかなければなりません。
みんなが同居親の精神的苦痛を配慮して、
子どもとの面会を助けるような社会にしなければなりません。
同居親を励ますことが必要です。

行政は、離婚した相手と自分は会いたくないけれど
子どもには会わせてよいという同居親が
子どもに会わせやすくするような環境を整えることが急務です。

安価な使用が可能とならなければなりません。
それは行政こそがやるべきなのです。

(私のこのような主張が河北新報に掲載された後
 記者さんが宮城県と仙台市に見解をただしたそうですが、
 どちらも全く考えていないという回答だったそうです。)

現在は、同居親の自分ファーストの感情を支持し
別居親と子どもを引き離すことばかりが行われています。

子どもへの影響を考えることができず
感情的になっている方を支持するということは
感情のまま子殺しをする
直接的な因果関係しか認めない猿並みの思考だと
自分たちを厳しく戒める必要があると思います。

私たちは人間なのです。
親に会いたい子どもの援助をしなければなりません。
会いたいといえない子どもにこそ必要なことです。
それができるのは人間だけです。

ここでもう一つ児相を責める前に指摘しなければならないことがあります。

それは国会議員です。

一部の議員連盟は、
この種の事件の頻発を防止し、親子の絆を断絶させないということから
法案を作成しています。
私は修正されて換骨奪胎になった法案を全面的に指示することはできません。
しかし、何年も前から準備している法案を
一度も国会で議論しないということは、
きわめて怠慢で無責任な態度だと思います。

法案が通ればデメリットも多いのですが、
子どもを別居親に会わせるべきだという傾向を作ることができる
というメリットがあり、
その法律を執行する過程で
具体的な対策も立てられるかもしれません。

通らないにしても
国会で議論をすることは重要です。

今この問題は、日本会議の機関紙くらいでしか
系統的に取り上げられていません。
これが現実なのです。

幾重にも子どもの逃げ道を張り巡らせて、
目黒事件のような悲劇を断絶することが必要です。
そのための第1歩が
離婚後の共同養育ということになります。

あと何回罪のない子どもの
絶対的孤立、絶望の末の死の報道に
私たちは立ち会わなければならないのでしょうか。
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品質偽装等の企業犯罪が起きる理由 コンプライアンスという言葉が意味をなさない理由 [刑事事件]

長年にわたり品質検査を改ざんしたり、
検査そのものに瑕疵があり続けていることが
次々と発覚しています。

コンプライアンスという言葉があるくらいですから
今般問題になっている企業も
それなりのコンプライアンスの整備を
お金をかけてやっていたことと思います。

おそらく、法律や道徳という規範(きはん
平たく言えばルール)を守る仕組みを作っていたことだと思います。

長年刑事弁護をしている者としては
なるほどそれではダメだろうなと思っているので、
どうしてダメなのか、どうすればよいのか
ということをお話しします。

刑事弁護で、例えば万引き犯の弁護をすると
万引きが窃盗罪に当たるかどうかはともかく、
それが法に触れることだということを知らない人はいません。

もちろん、法律は守らなければならないことで
自分のしたことは悪いことだということはわかるのです。

多くの刑事裁判で万引き犯は、裁判所で、
悪いことは重々分かっている
今後気を引き締めて二度とやらないことを誓う
という言っていることでしょう。
これでは万引きを繰り返すだけです。

色々なノウハウがあるのですが、
今回は企業犯罪との関係に絞ります。

要するに、「法律があるから、道徳があるから
人は犯罪をしない」
ということではないということが重要です。

こういう考えは、
人間の自然体は犯罪を厭わない弱肉強食だ
だから法律があって悪辣な人間を縛るのだ
という考えです。
中国でいえば、荀子の思想になじむものです。

しかし、どうですか、
あなたは、法律で裁かれなかったら
弱い者から金銭を巻き上げて平気でいられますか。

あなたが殺人を犯さないのは
法律があるからですか。

小学生を拉致してぼこぼこに殴らないのは
道徳に反するからですか。

実際は、それをしたいと思わないからしない
という方が実態に近いように思います。

しかし、種々の事情
広い意味で自分を守るため等の理由から
犯罪を起こします。
その時、法律や道徳があることは
あまり実行を妨げないようです。

先ほども言いましたが、犯罪を実行した人は
自分のしたことが法律や道徳に反することを
知っています。

では、どうして、多くの人たちは
自分を守ると言っても犯罪を実行しないのでしょう。
思いとどまる理由は何なのでしょうか。

私は、それは、被害者に対する共鳴、共感があるからだと思います。
命を落とすことの恐怖、
お金を巻き上げられ事の経済的損害や屈辱、恐怖
叩かれることの痛さ、怖さ、孤立感
そういう負の感情を共感、共鳴によって感じ取り
ギリギリのところで自分の行為を思いとどまる
こう言うことが多いのではないでしょうか。

それを裏から証明することができます。

弁護士が弁護する被疑者被告人の方々は、
自分がした行為によって誰にどのような迷惑、被害を与えたか
直ぐに口に出すことができません。
その人の苦しんでいる顔を想像することが
色々な事情によってできないようです。

大型店舗の万引き犯の場合に苦労するのも
そういう具体的な人間の感情を伴った被害を
想像してもらうことなのです。

結局犯罪はなぜ起きるのかというと、
実行時に、被害者の心情に共鳴、共感できないからだ
ということになろうかと思います。

だから刑事弁護では、
まず初めに、具体的な人間が被害を受けて
悲しんでいたり、苦しんでいたり、という当たり前の感情を
想像して、言葉に出してもらうことから始めています。

形式的な法違反ではなく
実質的な法益侵害を理解してもらうという言い方もできるかもしれません。

今回の企業の一連の不祥事は、
世界的信用性を無くすということが指摘されています。
世界的なビジネス常識として、
コンプライアンス違反は
企業の経営状態の悪化を意味しているからです。
余裕のある企業はコンプライアンス違反をしない
という建前があるのは当然です。

さあ、ここから企業はどのような反省をするのでしょうか。
気が緩んでいた、法律や企業道徳の理解が不足していた
今後は気を引き締めて緊張感をもって頑張る
というまるっきり無意味な反省をして
日本という国を巻き込んで沈没していくのでしょうか。
刑事裁判なら限りなく0点に近い反省です。

もう、言わずもがなだと思うのですが、
やるべきことは、
自分が行った不正によって、誰がどのように迷惑、損害を被ったか
どのような被害があり、そのことによって
誰がどのような感情を抱いたか
途方もない被害者になりますが
それを一つ一つ考えていくことです。

それが反省の出発です。
どんなに法律を勉強して
ストッパーを構築しても、
自分の経済活動が人とつながっているという当たり前のことが
企業人すべての共通認識になっていなければ
再発は必至でしょう。

今度はばれないようにやる
という技術だけが向上するでしょう。

大事なことは、自分たちの企業活動が
人の幸せにつながっているという
社会の中の役割感、仕事をするほこりを育てる
ということなのですが、
理解されるか、とても自信がありません。

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自己保身のために文書を改ざんした財務省職員と住民のために自らの命をなげうった被災地公務員は同じ公務員なのか [労災事件]

森友問題で、財務省の高級幹部が
首相の発言に合わせて文書を改ざんしたと報じられました。
これは、国民の行政に対する監視機能を阻止するものです。
国の統治にかかわる問題であり、極めて深刻な問題です。

なぜ、彼らはこのようなことを行ったのでしょうか。
どうしてやめようと体を張る公務員が皆無だったのでしょうか。

国民の利益を考えていないことは明らかです。

では、首相の利益を考えたのでしょうか。
そこには少し疑問があります。
仮にそうだとして、どうして首相の利益を図ろうとしたのでしょうか。

忖度という言葉があります。
なぜ忖度をするのかということにつながります。

私は、結局は自分の利益なのだろうと考えます。

人間は誰かから評価されると安心します。
評価されつづけていると、
評価されないことで不安を感じてしまい、
他人からの評価に執着してしまいます。
いわゆる褒め育ての弊害です。

そうすると、自分を評価する上司等から
自分を評価されたいという気持ちになるものです。

今回も、自分が上のために辣腕をふるい、
汚れた仕事もこなすということで
評価されたかったのだと思います。
つまり自分のためです。

そうでなければ、隠ぺいした文書、
隠され続けている文書に
自分たちの逸脱行為が記載されているという可能性もあります。
そうだとすると自分たちを守るために
国民の利益を犠牲にしたということになるでしょう。

籠池氏に詐欺罪が成立するためには、
相手(国の担当者)をだましたという行為がなければなりません。
はじめから国と打ち合わせをして値引きしたのでは
詐欺罪が成立しません。
そんなことも文書には示されていたのかもしれません。

いずれにしても自分たちの利益です。
国民の利益ではありません。

こう言うニュースに触れるとすぐに思い浮かぶのが
仙台市若林区の職員や南三陸町の職員が、
住民の避難誘導のために、
自らの命をなげうって津波の犠牲になったことです。

私は、特殊公務災害申請の代理人として、これらの出来事に深くかかわりました。

公務員は、天災などの災害時に
住民の避難誘導を行うという公務があります。

若林区の職員は、
これから津波が来るとラジオで非難が呼びかけられていたにもかかわらず、
上司の命令で海辺の住民に避難を呼びかけに
安全な区役所から広報車で向かい避難誘導を行いました。

この活動で命を救われた住民の話によると、
彼らは、いやいや津波に向かっていったのではなく、
本当に一人でも多くの住民を助けようと
意欲的に避難を呼びかけていたようです。

南三陸町の職員も
防災対策庁舎にとどまれば命が危ないかもしれない
ということは重々承知しており、
家族に最期のメールを送信していました。

逃げることをせずに、住民のために自ら命を捧げたのです。

私は、本当にその公務を遂行しなければならないのか
ということにもろてをあげて賛成することはできません。
私の依頼者である遺族の悲しみを見るにつけ
後で非難をされても適当なところで逃げかえってもよいのではないか
と本音では考えています。
自分の家族だったらと思うとそう思わずにはいられません。

でも彼女ら彼らは、住民の命を守るという選択をしたのでした。
私は、もっともっと称賛されるべきだと
常々思っています。

ただ、もっと言わなければならないのは、
津波で亡くなった方はそれだけでないということです。

せっかく年休をとっていたのに、
規則で職場に駆け付けなければならなかった学校の先生が
途中で津波に巻き込まれて亡くなったということもありました。
ただ、教え子を安心させたいという想いから
危険を承知で駆け付けられました。

また、津波には巻き込まれなくても
重大な疾患を抱えながら
住民のために不眠不休の活動をされ
大量の吐血をして亡くなられた公務員もいます。
彼は定年退職間際で、
年休を消化して出勤しなくても済んだのに、
1週間不眠不休で食うや食わずで働きました。

さらに亡くならなくても
被災地の公務員は2ヶ月くらいは休みなく働き続けました。
海辺の避難所を回っていた職員も
自宅を津波で流されていました。
「あなたこそ大丈夫?」という被災者の言葉に号泣してしまったそうです。

県庁の職員は、新聞紙さえひかずにゆかでごろ寝をしていました。

この公務員の災難はその後も続いています。
不眠不休の長時間労働をしてうつ病になったり
長期間家庭をあけたりして
夫婦仲が悪くなって離婚に至るケースが
離婚事件を多く扱っている弁護士と話すと
みんなそういう事例を持っていました。

命を無くした職員とその家族だけでなく
その後しばらくたってから
震災後の活動が原因だとそれぞれがわからないまま
かけがえのない家族を失っているのです。

これが被災地の公務員です。

国家公務員は、同じ公務員でも全く違うようです。
少なくとも財務省職員は違うようです。

自分の利益のために国民の利益を犠牲にする職員が
真実を語らないまま私たち国民の利益のためにしなければならない
仕事を続けるということに
恐怖を感じます。

現政権の問題と切り離して
それ自体の問題もあると考えなければならない問題だと
私は思っています。
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怒りの共感は広がりにくい。日本的政治言論の不可解な未熟さ。 [弁護士会]

八方美人の私が言うのも何なんですが、
というか、八方美人だからこそわかるということもあります。

私は、現内閣の法案には賛成したものや
立法過程に協力した法律もあるのですが、
法律家の立場から、
集団的自衛権の法制化には反対しました。
(周辺事態法で十分だというもの)

今回高度プロフェッショナル制度を含む
労働基準法改正にも反対しています。

高度プロフェッショナル制度の問題では、
国民の多数に対して、
自分たちにかかわるということについて
うまく伝わっていないという分析がなされて
ああ、そうなのかもしれないなという想いです。

ただ、昨今の政治の流れを見ていると、
例えば、公文書の問題の政治的責任について
結論ははっきりしているはずなのに
なかなか世論が動かないということが
客観的にはあると思います。

その要因の一つについて
無責任にもご指摘させていただきたいと思います。

結論として、
例えば現政権批判派の言動は、
怒りが強すぎて、
中間派の人たちに共感されないという以上に
中間派の人たちを現政権よりの行動に
駆り立てているということを感じました。

現政権側の言論についても同じです。

少し説明します。
フェイスブックで、よくわからないうちに
グループに入れられて、
豪雨のような記事のお知らせが来て辟易するのですが、
興味もあるし、有益な情報がある場合もあるにはあるので、
閲覧をすることがあります。

(入れられたグループに寄ると 私は、保守であり、
 リベラルであり、革新であるようです??)

特に現政権批判の批判は
「ひく」ものが多いです。
特定の人物写真をデジタル処理して
相手を辱めるものは一般の人は
特に面白くありません。

政治的主張をなぞらえるならまだ表現なのかもしれませんが、
単に人格を貶めるようなものは、いかがなものかと思います。

それからスレッドの主張はまだ良いとしても
コメントがひどすぎる。
死ねとか、言葉にすることもはばかられるような発言となっており
穏当な評価としても、中学生でももう少し気の利いたことを
発言するものも多いだろうと思われます。

そうして、グループ内でそれらの発言を咎める人がごく少数であり、
表現の仕方を批判すると逆に批判されたりします。

私から見ると
ああ、同じような感覚の人たちが
同じような感覚だということを確認しあっている
内部固めのための言論なのだなあと
感じるわけです。

大事なことは、
反対者(職業的な言論人ではなく素朴な現政権支持者)
を説得するどころか
中間層に対しても「うかつには近寄れない」
という雰囲気を充満させているところです。

「おかしいと思うべきだ」
「怒りを持つべきだ」
「反対しないものはおかしい。」
という主張であり、
これでは相手方を説得するという発想がそもそも存在しない
甘えの言論ではないかと思います。

反体制派が
多数になりえない根本的原因があるように思われます。
むしろ多数へのストッパーとしての機能を果たしていないか
純粋に検討するべきではないかと思います。

これに対して、現政権よりというか
もう少し極端な言論があり、
こちらも、なぜそんなにというくらい
怒りを持った主張をしているようです。

例えば、
パチンコの規制を言わないくせに
カジノ法案に反対することは一貫性が無い
というようなものもあります。

これなどは、特定の人に対する批判なのですが、
祖国をどうするかというまじめな議論ではありません。

日本においてこれ以上認可博打を増やすか減らすか
ということが論点なのですから、
誰がどういう背景でものを言っているか
ということについてはどうでもよいことだと思います。

結局、パチンコがあるのだからカジノがあってもよいじゃないか
という無責任な主張になるわけです。

但し、決定的な違いは、
これらの極端な議論は、
自陣に痛手にならないということです。
むしろ、議論自体が、不穏当なやりとりで
相手方の人間性を否定するものだという意識を振りまいて、
一般国民を議論から遠ざける効果があるからです。


議論が嫌なら当代の権力者が指示されるだけの話です。

機動戦から陣地戦に変わったといわれて
そろそろ100年が経過しようとしています。
しかし、日本の言論界は
相も変わらずに機動戦をしているようです。

なぜ、中間層を味方にできないか
まじめに考える必要があると思います。
半数近くの世論を獲得するのが頭打ち
という要因を真剣に検討する必要があると思います。

正しいことを言っているから指示されなければならない
ということは、夫婦喧嘩でよく聞く論理です。
俺が正しく、妻が間違っているのに
どうして妻は俺を恐れるようになったのだ
とかいつまんで言えばそういう事例が
他人事ではなくあふれています。

どうすれば自分が支持されるのか、
経済的利益ということもあるでしょう。
しかし、本当の決め手は
どちらが自分の仲間なのかということが
モチベーションになっていると思うのです。

ほとんど政治に関心がなければ
面白いテレビ番組の影響をただ受けるでしょう。
それすらなくても、
首相の顔と名前はわかるわけです。

野党の党首の顔はわかっても
名前まで正確には言えないという人も多いのです。

そうするとどちらが身近かと考えると
当然、現在の第1党の方が身近に感じることが自然なのです。

そして中間層は、どちらも敵だとは思いません。
どちらが仲間なのかということで投票をするわけです。

現政権に反対する勢力は初めからハンディキャップを持っているし
現政権は初めからアドバンテージを持っているのです。

この時、何も前提もなく怒りを表現し、
怒らない方がおかしい
という主張する者は、
明らかに自分の味方ではありません。
殺伐としている方には近づきたくありません。

人類は、人類の形をしたものに
つい、共鳴、共感をすることがあります。
悲しんでいる人や困っている人を助けてあげたいという気持ちになったり、
楽しんでいる人と一緒に楽しみたいという行動傾向は
2歳蔵になるとみられるようになります。

しかし、怒っている人
誰かを攻撃している人に対しては
それだけで一緒に怒ろうとすることはあまりありません。

よほど仲間意識の強い人の場合にだけ
怒りの理由を共鳴できる場合にだけ
怒りを共有すると考えるべきです。

逆に怒りを表明されてしまうと
関わり合いになりたくないという人が増えるようです。

怒りを表出したり宣伝するよりも
怒りを抑えて
怒りの理由、原因だけを
静かに表明、拡散するという手法が
指示を拡大するコツだと思います。

怒りは、二者択一的な行動(否定か肯定か)という思考になじみやすくなります。
複雑な思考を排斥するようになります。
一つ一つ積み重ねていく思考はできにくくなります。

党派的な行動をする人たちが、
意見が分かれても不思議がないところで、
類型的に、紛争当事者の一方を悪だと決めつけ
党派的に攻撃していることを目の当たりにすることがあります。

こういう人たちは、事情をよく吟味もせずに
怒りをもって悪と決めつけられた人を攻撃することができるようです。

あまり仲間にはなりたくありません。

冷静な第三者からみると
怒りのあるところには正しさはないという
印象が持たれやすくなります。

どんどんどんどん
内部固めだけをするようになり
内部も小さくなっていくことは自然の成り行きです。

怒りを表明したいだけなのか
国のために何かをしようとしているのか
吟味検討していただく時期になっているのではないでしょうか。

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TVプログラム企画案 「夫婦の時間」 [家事]

1 テーマ

なかなか会話のない日本の家庭の中で
知らず知らずにお互いに対する不満が募ってしまうことがあります。
本当は言葉にして、お互いに修正をすればよいのですが、
自分自身が何に不満を抱いているかわからないということもあるようです。

また、夫婦ぐるみでの付き合いという形式が少なくなり、
先輩のアドバイスが受けにくいという事情があります。

そして、お互いを気遣いあいながら
それを素直に受け止められなくて
破綻してしまう夫婦が多くあります。
最初のボタンの掛け違いにさえ気が付くことができたら
そんなことにはならなかったのにと思うケースが多くあります。

子どもたちへの影響も気になるところです。

そんな問題意識から
些細なきっかけをクリアーに表に出し、
それぞれどういう気持ちなのか
テレビではこう言っていたけれど
実際のパートナーはどう思うか、

それは違うよ
これは大げさだね
というように
話し合われるきっかけになれば
よいのでしょうか。

2 番組形式

日常生活をドラマ仕立てで再現します。
その時感じていた妻の気持ち、
その時感じていた夫の気持ち
一つのことを他覚的に映像化します。

認知心理学か精神医療(行動療法)の観点や
弁護士の観点から、
解説が加わります。

どうしてそういってしまうのか、
どうしてそういう感情になるのか
分かりやすく解決します。

これを放置していた場合に起こることについても
解説が加えます。

但し、どちらが正しいか
どちらが間違っているかという議論はしません。
白黒は付けないということがみそです。

その後かあるいは解説の前か、あるいは前後か
ゲストに好きかってに発言してもらいます。
色々な見方があってよいので、
自分はこう思うということを言ってもよいですが、
他人の発言を否定することはなるべく避けます。

ファシリテーターがきちんと仕切ることが必要です。

こうやって、相手を否定しないで会話をする方法を
学習していくことにもなります。

第三者のアドバイスの危うさも
きちんと解説してもらうとよいと思います。

このセットを二本くらいで30分くらいかなと思っています。

3 メイン司会は、

  「どれが正解ということはないかも知れません。
   しかし、声に出すことで安心できる関係が作られていくのかもしれません」
等という決め台詞をいう。

4 具体的テーマのサンプル

  「私の夫は話を聞かない」

  仕事のことで困ったことがあることを一生懸命夫に話す妻
  かなり感情移入して聴いている夫、
  妻は言葉にすることがなかなか難しく一生懸命
  夫は自分の経験を思い出し、
  言葉にすることに苦労をしている妻の言葉を引き取って
  こういうことだろう、こういう時は
  とアドバイスを始めだす。

  妻はうなづきながらも
  なお自分で話をしようとするが
  夫は自分のアドバイスを否定されたような気持ちになり
  だんだん面倒くさくなってくる
  
  妻は話を続けようとするが
  夫は、今言ったとおりだよと言いだす。
  妻が切れる。
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日大アメフト事件を監督コーチの処分で終わりにするなら事件は繰り返される [労働事件]



日大アメフト事件は、監督、コーチらが除名を含む処分をされました。
もし、監督やコーチ、特に監督の人格上の問題で本事件が起きたならば、
それで終わりにしても再発はしないでしょう。

しかし、もし、今回の事件を起こした監督自身が
このような行為に出るように追い込まれていたとしたら
今回の監督ではなくても起こり得た事件だったと考えなければなりません。

現在の経済学は、人間は誤りを起こすものだという前提から出発します。
誤りを犯すものだから仕方がないというのではなく
どういうメカニズムで誤りが生まれるかいうことを研究し、
先回りして誤りを防止するという努力が積み重なれています。

対人関係においても誤りの仕組みを研究し、
誤りを防止することをするべきでしょう。

今回の事件の背景的問題として、
日大アメフト部が低迷していたという事情があり、
それは大学の評価が下がるという意識があったようです。
このため、アメフト部の成績を上げることが至上命題とされ、
そのために前監督が招へいされたという事情があるようです。

勝ちたいという自然なモチベーションではなく、
勝たなければならないという外圧がかけられていたということになります。

これは企業においてもありうることです。
売り上げが低迷しているために
外部からコンサルタントを招聘したり
ヘッドハンティングをしたりということがあるようです。

おそらく良い条件で抜擢されたのでしょう。
また、組織が困っている時に頼りにされることは
やりがいのあることです。

そうなると、信頼を裏切ることはできません。
一番いやな言葉は
「期待外れ」
です。

無理をしてでも成績をあげなければなりません。
無理をしてでも売り上げをあげるパワハラ上司と同じです。

この時、独自の方法論をもって
部下のモチベーションを高め、
モチベーションを合理的な方向への努力につなげることができれば
成績は上がっていくでしょう。

しかし、各大学、ライバル企業もしのぎを削っていますので、
そんな魔法の人間管理は対人関係学的労務管理を学ばない限り
到底できません。

そういうノウハウがない人たちはどうするのでしょう。
ここに奇妙な共通点があります。
成績の良い個人に依存するのです。

能力のあるものを叩いて
能力を絞り出そうとしてしまうようです。
指導能力のない人たちは底上げということを考えられません。

能力のある個人に徹底的につらく当たり、
無駄に活性化させ、
さらには、アンフェアな行動に出ることまでを期待します。
鬼に金棒作戦とでもいうようなものです。

今回は全日本大学選抜の選手にこれをやりました。
パワハラ過労死の犠牲者も、能力の高い人ばかりです。

能力のある人はフェアに活動していますので、
そこに軋轢が生じるものです。
この軋轢は、やる気と能力のある個人の
やる気を奪っていきます。
この延長線上に自死があります。

それでも、監督や上司は厳しく当たるしかありません。
合理的に伸ばす指導のノウハウがないからです。

軋轢は標的になった個人だけでなく
周囲にも広がっていきます。
人間の習性でこのような不合理に対しては
集団的怒りが形成されます。
この集団的怒りを抑え込むためには、
さらに強い力で先行攻撃をして、
個別に分断して抑え込むという方法がとられます。

そうすると、怖いものですから、
個人から発案することが無くなります。
言われたことをやるしかなくなるということです。
無力感に陥っていきます。

いつしか業績を上げることをまじめに追及することよりも
上司から気に入られるようにすることが
現実の目標になっていきます。

イエスマンばかりになり、
顧客や取引相手よりも
上司の期限が優先されていきます。
その延長線上に
法律や道徳よりも上司の命令を優先する
そういう仕組みができてしまいます。

日本企業低迷の大きな要因だと思います。

日大事件においてもコーチや監督の
行動のメカニズムを検討する必要があり、
これをしなければ、また同じことが繰り返されます。

これは日大に限ったことではありません。
他の大学、他のスポーツ環境や
経済環境に等しく当てはまることなのです。


一番の出発点は、
スポーツの目的のはき違えです。

その教義をすることが楽しく、
純粋に強くなる、あるいは楽しむということでなく、
母校の名誉や受験者数の増大、就職、金銭という
不純な目的が
人間を大切にする、人間に対する敬意をもつ
という当たり前の感覚を奪っていくということを
私たちは繰り返しニュース動画で見せられました。

部活動での活躍が
就職や進学に優位になる
こういうことを遅くとも中学生から叩き込まれてきたことが、
人間性や弱さを否定され続けてきたことが
今回の事件の背景として見過ごすことはできません。

これが日本経済の発展を妨げていると思います。

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