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子連れ別居をされたときに覚えておくこと 「単純接触効果」 [家事]



多くは9月頃と年末年始、多くは妻が子どもを連れて
家からいなくなるというケースが
ここ10年、多く続いている。

多くは第二子を出産後から、妻が精神的に不安定になり、
些細なことでというよりも理由がわからずヒステリー状態となる。
かなり不穏な動きをすることもあるのですが、
翌日は忘れたようにケロッとしている。

そんなことが続くと
ある日仕事から帰ったらいなくなっている
というようなことが多いでしょうか。

よく見ると、妻には共通点があり、
ただでさえ、不安や疎外感を感じるようで、
さらに、
甲状腺機能の異常や婦人科の病気があったり、
お子さんに先天性の障害があったり、
職場や地域での人間関係に問題があったり、
住宅ローンで家を購入した
という事情がよく見られます。

さて、夫は、
最初は何が何だかわかりません。
だんだん、自分が強烈に否定されたような気がしてきます。
人によっては、ひたすら落ち込んでゆきます。
人によっては、怒りのはけ口がわからず、
子どものものを処分する人もいましたし、
家に外鍵をつけてはいられないようにしたりする人もいます。
夫もわけがわからない状態になってゆきます。

そのうち、警察から電話が来て、
身に覚えのない妻への暴力を言われ、
妻やその実家に連絡を取るな、出向くな
ということを言われるようになります。

このことについては、警察の職務内容なのか
疑問があることも少なくありません
国会などできちんと法令を確認する作業をすることを求めています。

さて、夫は警察からも暴力夫だ
警察の言うことを聞かないと逮捕するというように感じます。
これはとても怖いことです。
実際に妻の実家に話し合いに行って
多数の警察官に取り囲まれて
暴力をふるってもいないのに
今後暴力をふるいませんなどの誓約書をかかされそうになった人もいます。

警察から犯罪者扱いされること自体が辛いことです。

私はこういう時に、
管轄する警察署の(派出所や交番ではありません)生活安全課に
きちんと出向いて事情を説明することを勧めています。

仕事とは言え、警察官を煩わせて、
暴力夫と対峙するのかという多少の緊張感も抱かせ、
書類作成もさせているのですし、
それは妻という自分の家族のしたことなので、
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
ということや、ご挨拶に行くことは当然のことだからです。
そうして、「実際はこうなんです」という事情を説明し、
何らかの暴力事件がないことを説明し、
警察官を安心させることが市民の義務だと思うからです。

警察も証拠がない話で、一方の人の話だけで動くということはないので、
こちらの話も聞いてくれます。
頭に入れておいてくださいということで、
妻の逮捕を要請するわけではないので
聞いてくれます。

これが大事です。
妻の要請で警察官出動が免れなくても、
事情が頭に入っていますから
夫の予想を超えた対応をされるということが
圧倒的に少なくなるという実利があります。

これは、電話で済ませるのではなく、
きちんと警察署に顔を出すことが
一番大切なことです。

心理学には、「単純接触効果」というものがあります。
反復は、認知効果を容易にし、
なじみがあるという心地よい感覚を与える
とされています。

だいたい妻はきちんと警察に行って救援を要請しています。
妻は、本当にパニックになっています。
警察官は、妻の顔を見て、声を聴いて
「ああ、これはただならないことが起きている」
と感じ、妻の恐怖に共鳴するわけです。

実際は、妻の頭の中だけでただならぬことが起きていることも少なくありませんが。

警察官が弱者を守ろうとして、
権限ぎりの電話をかけてくるということがあり得るわけです。
この時点で、アドバンテージは妻にあります。

あなたが警察に顔を出すことで、
今度はあなたの顔を見て、声を聴くことになります。
それまでは、貴方に会わないことで、
どんなに悪辣で冷酷な男なのだろう
ということを無意識に膨らましてしまいます。
「DV」とか「虐待」という言葉が
人間の頭の中で勝手にイメージを連想させてしまっているのです。

このイメージの連鎖を断ち切るということが一つ。
それから、貴方と接触することによって
妻の夫から、貴方の顔をイメージし、声をイメージし、
生身の人間であることを認識するようになります。

何分か話したり、何回か話すうちに
馴れが出てきて、
あなたが危険な人ではないということを感じてくるわけです。
だんだん、真実はどこにあるか
考えていただけるようになってきます。

実際にこれは、各事件で見られる事象です。

この他、学校だったり役場だったり
あなたを敵視している公的機関には
顔を出して中立になってもらうことが極めて有効です。

コツは、対立したり抗議をしたりするためではなく、
自分の家人が迷惑をかけていることのお詫びと
ご挨拶、事情説明
それから、直ちに何かをしてもらうのではなく、
挨拶と事情を頭に入れてもらう
ということが鉄則です。

さて、この単純反復効果は
実は夫の妻に対する働きかけの際に
常に頭に入れておかなければならないことです。

多くのケースで、
暴力や精神的虐待というほどのことが無い多くのケースで
妻は夫を怖がっています。

一つには、妻が錯乱状態になっている時に
妻は記憶をあまり持っていません。
本当は妻が包丁をもって威嚇して
それを取り上げられたときでも
妻はあなたが包丁を持っているところしか覚えていません。

本当は妻が夫に突進してきて殴るなりつかむなりしていたのを
夫が振りほどいたとしても
最後に夫から手で殴られた、裏拳で殴られた
という記憶しかありません。

嫌な記憶しか残っていない仕組みがここにあります。

もっと正確に言えば
嫌な記憶を消せないのではなく、
夫と一緒にいても安心だという記憶を持つことができないのです。

夫は、何からの形で妻と接触し、
繰り返し繰り返し、自分と一緒にいても安心だ
ということを刷り込んでいくしかありません。
逆上して対応してはいけません。

誰だって、子どもを連れて出ていかれたら
メールや電話で、猛然と抗議するものです。
しかし、それは妻の不安を裏書きするようなもので
実際そのようになっています。

繰り返し繰り返し、
間接的にということになるでしょうが、
妻の気持ち要望を肯定していくことが
最初に考えるべきことだということになります。

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自分の生きる価値があるかという質問のどこがどうして間違っているか。生きていくのに生きる価値なんて不要であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]


「私は生きる価値があるでしょうか。」
そのような問いかけをする人がいました。

生きていくのに生きる価値なんて必要はありません。
人間ばかりではなく、動物や植物までも
価値があるから生きるわけではありません。

考えればわかることなのですが、
そんなことを考えてしまうのは理由があります。
そのことを少し考えましょう。

先ず、生きる価値ということのおかしさについてお話しします。
「生きる価値」とはどういう意味で使われるのでしょう。
価値が無ければ生きていけないというなら
生きるための条件を満たさなければならないとか、
生きるための資格を持たなければならないということでしょうか。

生きるための条件や資格ということが、
この世の中に存在しないということは
誰しも知っていることです。

ミミズだって、オケラだって、アメンボだって
誰かから条件や資格をもらっているわけではありません。

もちろん、ミミズ並みに生きればよいということではないでしょう。
「人間として生きる」価値ということなのでしょう。

人間が生物として生存する資格が必要だということがないのは、
他の動物と一緒です。
(こういう当たり前のことを確認していくことが「論理」です。)

だからおそらく、そこでいう生きる価値ということは
生物的な命の問題ではなく、
「人間社会の中で人間として扱われる資格」、
そのような意味あいなのだろうと思います。
そういう意味あいであれば
その資格が有るどうかを考えるのは、
ある意味人間らしい悩みだと思います。

対人関係学は、人間の不安を大きく二つに分けます。
まず動物としての不安、つまり
身体、生命、健康に何らかの危機があるのではないか
と感じることです。
危機を感じている時の心の状態を不安と言います。

もう一つの不安は、人間特有の不安です。
自分の群れから、追放されてしまうのではないか
という危機感を感じることです。
究極には仲間から外されることですが、
自分が仲間から尊重されていないと感じると
仲間から外される予兆ではないかと
危機を感じるのです。

これらの不安は意識できないというか
意識する前に感じてしまうところに特徴があります。

人間は、むしろこの不安があるからこそ、言葉もない時代から
群れを作れたのだと思います。
つまり、そういうことに不安を抱き、
不安を抱くと不安を解消したいと思い、
解消しようとするために、
そのために仲間として認めてもらうように行動した。

結果として群れを作り、
群れを作ることによって、食料を確保し、猛獣などの危険から
自分たちを守ってきたわけです。


だから、自分の生きる資格ということが不安であるということは、
群れを作る人間の特有の感覚だろうと思います。
そして今そう言う不安を感じている理由は、
その人が仲間から外されそうな予兆を感じているからだ
ということになります。

仲間とは、
社会の仲間だったり、職場の仲間だったり、
家族だったり、学校だったり、友人関係だったりです。
そういう仲間から自分が尊重されていない
という意識を持つ場合に危機を感じることになります。

そして、
本当は、その中の一つの群れの中での不具合なのに
すべての群れの中で尊重されていないと感じてしまう
人間とはそういうもののようです。

どういう時に仲間として尊重されていないと感じるか。
何か失敗をした場合、罪を犯したとかルールを破ったという場合、
自分が仲間として認められなくなるだろうと思うのは
なんとなくわかると思います。
自分の行動によって不安を感じる場合ですね。

逆に仲間の自分に対する行動によって
そのように感じる場合があるでしょう。
無視されたり、理由なく攻撃されたり、
笑われる等、仲間の中で一段低い存在として扱われたり、
自分の弱点や、不十分な点をズバリ指摘されたり、
仲間の行動との関係で不安を感じる場合ですね。

さらに、不遇な環境にいるために
社会から、自分がさげすまれているのではないかと
感じてしまう場合もそうでしょう。

それから、理由がなく不安を感じる場合もあります。
うつ病や内臓疾患によるうつ状態などで
脳の働きにエラーが起きている場合です。

日常的に起こる些細なことすべてが悪い予兆だと感じ易くなります。

ただ、現代社会に特有な事情もあります。
「生きる価値」ということを意識する理由として、
実際の人間のグループ内において
一人の人間として尊重されるための
ハードルが高すぎるという事情があることは事実だと思います。

「良い子でなければ叱られる」から始まって、
「成績優秀で、先生から注意されない子どもでなければならない」とか
「猛勉強して、あの学校以上のランクの学校に合格しなければ」
誰かから許されないような気持ちになったり負けた気持ちになったりする。
「ノルマを達成しなければならず、
そのためには深夜まで、休日まで働かなければならない」とか

「働かなければならない」とか
「結婚しなければ」、「子どもをもうけなければ」等々のハードルを
乗り越えなければならないと思いこまされていて
そうでなければ一人の人間として尊重されないのではないか
という不安を抱く人は多いでしょう。

しかしそれらは、貴方の事情ではありません。
誰か、あなた以外の第三者の事情に過ぎないのに
それがその通りだと思いこまされているのです。

一つの具体例として、
JRが国鉄から民営化されるとき
「余剰人員」という言葉が言われたことがあります。
しかし、もともと不要な人を採用したわけではなく、
会社の組織編成が代わり、
人員整理の方針となったときに
構想から外れた人を余剰人員と言ったのでした。

その人が余剰かどうかは
人間として余剰な人間であるのではなく、
経営方針が変わった会社にとって
人件費を払いたくないという会社の都合だったのです。

このように、生きる価値とか資格というと
誰か特定の人の利益だったり、価値観だったりに照らして
即ち、自分以外の人の物差しを使って
価値が無いとか、余剰とかいうことを思い込まされていることがある
ということなのです。
これは注意が必要です。
これは無駄な悩みです。


自分は誰かのために生きているわけではありません。
動物もすべてそうです。
自分や自分たちが生きようとする
ということがあるだけです。

「自分のために生きる」というのもちょっと違うと思います。
「生きている以上、ただ生き続けようとする」
ということが生き物の基本ですし、生きるということだと思います。

だからまず、今生きている以上
生きようとすることが無条件に肯定されなければなりません。
ご自分も他人もそうです。

「自分には生きる資格がないのではなかろうか」
という気持ちになったら、
脳が誤作動を起こしていると直ちに思い出してください。

そしてそういうことをいう人が自分以外にもいたら
教えてあげてください。

人の気持ちを少し軽くしたり、温かくしたりできる
あなたしかできないことがある。
あなたが笑って見せることで救われる人がいる。
あなたが感謝を伝えることでうれしい人がいる。
あなたがおはようというだけで心が温かくなる人がいる。
人生すてたものではないと思い直せる人がいる。

売店の人だったり、料理店の人だったり
病院の人だったり、学校の人だったり
あなたが、「自分はあなたの仲間です」
というメッセージを伝えることが
あなたの不安をかき消す特効薬になるでしょう。


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ハロー効果 対人関係学が行動経済学・プロスペクト理論と出会う [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


先日、某保健所主催の医療機関対象の講演会でお話してきました。

「人間は、エラーを犯すものである。
気が緩んでいたからとか、真剣さが足りなかったから
とかいう反省をしていたのではエラーは防げない。

ある状況の中で、人間は誰しもある傾向のエラーを犯しやすい
そういう自覚をもって、
その犯しやすいエラーを予め想定して事に当たることが
エラーを予防する有効な方法である。」

なんてことを言ってきたのでした。

そうしたら、その後の駅での時間調整で
行動経済学の本に出合いました。
全くの偶然です。
ノーベル経済学賞を何人か出しているというのです。

さすがに私はとは言いませんが、
対人関係学はノーベル賞をとれるだろうと思っていますから、
どれどれと手に取って拝見してみたのです。

そうしたら、私が今しがた話していた内容が
もっと明確に理論化されているではありませんか。
つまり、それまでの経済学は、
コンピューターの様に合理的な行動をする人間を想定して
理論が構築されているのですが、
行動経済学は、生身の人間の行動傾向を反映した
系統的エラーを組み込んだ
経済学を樹立しようとしているようなのです。

その日一冊「かくて行動経済学は生まれり」
マイケル・ルイス
次の日もう一冊「行動経済学の逆襲」
リチャード・セイラー(ノーベル経済学賞の経済学者)
そして、「ファストアンドスロー」 上・下
ダニエルカーネマン(ノーベル経済学賞受賞の心理学者)
と立て続けに買って読んでしまいました。

面白いです。入門として結果オーライだと思います。
このブログで特に断りがなくページ数を記入する場合は
ファストアンドスローハヤカワ文庫版です。

この本を読むと、対人関係学の先生筋の論者の文献が
多数引用されていて、それだけで驚くとともに納得します。
ロイ・バウマイスター、アントニオ・ダマシオ等々
親近感を持って読める理由がわかるような気がします。

第28章「悪い出来事」は、周辺部分を含めて
対人関係学の記述としても通用するではないですか。

では、もうすでに行動経済学があるから
対人関係学は用済みなのでしょうか。
ノーベル賞は取れないのでしょうか。

実は、行動経済学の本を読みながら、
その近似性に驚くとともに、
その違いもはっきりしてきました。

1 分野、視点の違い
  
行動経済学やプロスペクト理論は、
経済学に限らず、政策学や訴訟技術など
多くの分野で応用されています。

対人関係学は、主として自死予防に始まり、
犯罪予防、夫婦問題や子育て等の家庭内の人間関係の調整
職場のパワハラ予防や労務管理、クレーマー問題、
学校のいじめ予防や生徒のメンタルヘルス等という人間関係の調整等
対人関係的紛争の調整や予防が対象ということになります。
社会病理というエラーの予防に力点があるわけです。

また、刑事弁護や紛争学、弁護業務や相談業務
等でも考察をしているので、
それは行動経済学をもっと導入するべきだという視点も出てきました。

2 統計手法の有無

行動経済学は、統計的な実証、実験をもとにしている科学ですが、
対人関係学の最大のウィークポイントはここにあります。
理論科学と言えば聞こえが良いのですが、
受け手の方々が、「ああそうだな」と実感していただく
ということに頼っています。
そういう意味では、科学的手法が確立していないということを
自覚するべきでしょう。

3 人間観の違い

行動経済学はどちらかと言えば人間の行動という
表出されたものに力点を置きますが
対人関係学は、どちらかと言えば原理論理に
力点を置きます。
進化論的観点から見た考察なのですが、

人間の脳は、現代社会に合理的に対応するまでは
今だに進化を遂げていないということが前提です。
2,300万年は遅れているということです。
その頃の時代に最もよく合理的に対応するレベルであるからこそ、
現代社会では不具合や不合理をきたしている
それがヒューマンエラーの源だという考えです。

「ファストアンドスロー」に出てくる「システム1」が
特にそれだということなのです。
是非お読みください。

4 環境に対する見方

行動経済学は、ヒューマンエラーは環境よりも
人間であることから起きるものであるという傾向があり、
環境因を重視する立場を批判するようです。
対人関係学は、環境因を重視します。

環境因がヒューマンエラーを強めるという見方もしています。

以上の違いがあるので、まだノーベル賞受賞は間に合うと思っています。


それでは、具体的に「ハロー効果」について
対人関係学の解釈をお話して終わりにします。

ハロー効果とは、
ある人のすべてを自分の目で確かめてもいないことまで含めて
好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向
を言います(上巻149頁)。

確かにこれはよくあることで、
つい、あの人が言っているのだから確かだろうとか
あの人の選んだコースは私はとらないとか
芸能人や政治家を応援するパターンなのでしょう。

同じことを言っても
ある人は口汚くののしられ、
ある人は歓迎されるということがあります。
私はどちらかというとハロー効果の恩恵を受けているようです。
肝心なところでは逆に損をしているようですが。

さて、どうしてハロー効果が起きるのか
ということが対人関係学の独壇場なわけです。
それは、以下のように説明します。

「人間は、動物の一種ですから、
 危険に対する反応、危険回避がシステム上重大なものと
 位置づけられています。

 危険を感じた場合に、その危険を解消することが
 最大のテーマとなり、体のシステムが動き出します。
 これは、意識の変化より先に動き出すのです。

 人間の最大の脅威は人間ですから、
 見ず知らずの人を見た場合には、
 脅威、危険を感じます。

 人間も、この『危険を解消する』ということがテーマとなり、
 『危険を解消したい』ということが他のシステムを押しのけて
 最優先課題になるわけです。

 だから、見ず知らずの人間を見た場合には、
 『敵なのか味方なのか』ということが最優先課題になります。

 意識的な思考をする前にシステム1が瞬時に
 これまでの自分の記憶を総動員して、
 声、容姿、服装、匂い等の要素を照合し、
 敵か味方かを勝手に分けてしまうわけです。

 一度味方だと思うと、それはもう仲間ですから
 仲間の弱点や欠点などは補おうという傾向が意識に現れてきます。

 一度敵だと思うと危険人物ですから
 相手のすべてが自分を攻撃する表れだという意識になるわけです。

 まあ現代では、通常は見ず知らずの人と会う時は
 理性を働かせて、ニュートラルな状態に持っていって
 その人本位ということで観察しようとするのですが
 (システム2)
 人間の本能(またはシステム1)は
瞬時の区別をしたがるもののようです。

 もっとも、瞬時に敵を見抜かないと
 200万年前ですと自分や仲間がやられてしまいます。
 このころはとても合理的だったのです。

 ただ2,300万年に限らず
 現代でもその必要性が無いとは言えないのかもしれません。

 味方、仲間だと考えると危険が解消しますから
 目的が達成されます。

 敵だと考えると
 不安を解消するために攻撃したり、
 逃げ出したりすることによって不安を解消しようとするわけです。



 まあ、そう考えているんだけどなあということでしょうか。



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AERA 2017年1月29日号の面会交流に関する記事が具体的にどのように間違っているか [家事]

離婚する夫婦の7割に未成熟子がおり、婚姻期間5年未満の離婚率が高いことから、大多数の離婚家庭に小さな子どもがいるのが日本の特徴です。共働き夫婦でも、子どもが小さい場合は特に母親への依存度が高く、母親が主たる監護者として子どもの養育を担っているケースが大半です。母親が親権者となる割合が圧倒的に高いのは、これが理由です。

家庭裁判所では、監護継続の原則があって、
生まれてからの時間、一緒にいる時間がどちらの親が多いかが
親権者を決める大きな要素になります。
出産後の母体の保護という観点と、男女間の賃金格差という社会的事情から、
父と母とどちらが仕事を休んで子育てをするかといえば、
圧倒的に母親が仕事をしないで、あるいは仕事の時間を短縮して、
子育てをすることが多いため、母親が親権者になるケースが多いのです。

但し、子の監護について、母親に事情があって子育てに
夫以上に関与できない場合もあります。
しかし、こういう場合でも監護継続の原則を理解していないためか、
母親側に親権が認められる場合があります。
裁判所は自ら立てた基準を理解していないのではないか、
子育ては女性がするものというジェンダーバイアスがかかっているのではないか
と思われる事案もあります。

 父親が面会交流を求める場合、最も重要なのは子どもの健全な成育です。

父親が面会交流を求めるか否かにかかわらず、
現在の科学においては、子どもが別居親と一緒の時間を過ごすことが、
離婚の与える子どもへのマイナス効果を軽減することなどから、
子どもの健全な成長にとって必要だとされています。

面会交流も含め、主たる養育責任を担っている母親が必要だと考える、適切な養育環境が最大限考慮されるべきです。

日本の法律が、先進国の中で異例なことに、単独親権制度をとっているのは、
歴史的な事情を克服していないだけの話です。
お隣の韓国も離婚後であっても子どもが両親が育てるべきだという法制度になっています。
だから、離婚後であっても、両親が子どもの成長に責任を持つべきだ
というのが世界の流れということになります。

しかし、裁判所の実質的な運用は「原則面会交流」で、母親が子どもの健全な成育に適さないと考える面会交流も父親の要求によって認められているのが現状です。

これは、実態とはかけ離れた主張です。
1)実質的に原則面会交流が認められるべきだというのは、
先ほど述べたように子の利益のためです。
2)母親が子どもと同居している場合に、
父親との面会交流を拒否する場合が多くあります。
面会を拒否する同居親から、どのような子どもの利益を考えて面会を拒否するのか
ということを聞いたことがありません。
代理人として相手方に問いただしても答えが返ってきたためしがありません。
会わせたくないというのが、拒否の最大の理由です。
論者の見解は、一見、母親側の拒否を援助しているかのように見えますが、
面会拒否はこのような人間の当たり前の感情を理由としているわけではない、
そういうわがままな拒否は否定されるべきだという冷酷な主張です。
会わせたくないという事実は受け止めた上で、
どうやって、そのハードルを下げるかということが
実務では関係者一同が知恵を出し合っているということが実情です。
いかにして、同居親の安心感を獲得していくかということは、
みんなで考えるべきことです。
3)逆に父親が子どもと同居して、母親の面会を拒否する場合も多いです。
この論者は、母親がわが子に会えないことを全く考慮していません。
論者の論を進めると、母親は父親の拒否を受け入れるべきだ
ということになりかねません。
理不尽に子どもに会えない、あるいは極めて制限的にしか会えない
母親や子どもたちの表情が浮かんできて、憤りを禁じ得ません。

そもそも、離婚の9割は協議離婚で、DVや虐待などの深刻な問題がない夫婦は、離婚後の子どもの養育についても話し合って決めている。裁判所の判断が求められる高葛藤の夫婦は、仮にDVや虐待がなくとも困難な問題を抱えていることが多い。「松戸裁判」の東京高裁判決では「父母の葛藤を軽減していくことも重要だ」と述べている。夫婦の葛藤が高いままでは、裁判所が面会交流を命じても、子どもの成育にとって望ましくない結果になる可能性が高い。単純に夫婦と子どもの問題とは別、とは言えないのです。

このあたりが論者が最新の科学的知見について
不勉強なことが顕著に露見している点です。

たしかに、昭和の年代までは、このような議論がありました。
しかし、20世紀のうちに、
1)離婚の場合は、長年月を経ても元結婚相手に葛藤を抱き続け、
その葛藤も弱くならないことが多い。
2)子どもが別居親との面会を望んでおり、
面会交流をしていた子どもの方がそうでない子どもよりも、
離婚が子どもに与えるマイナス効果が少ないということが立証されています。

高葛藤の場合に子どもを別居親に合わせるべきではないという主張は、
なんら実証されたものではないということで、
(医者の頭の中だけで考えついたアイデアでした)
21世紀は日本以外ではあまり顧みられていません。

ほとんどの事例で離婚後も葛藤が続いているのだから、
子どもは別居親に会えないということになってしまいます。
別居親と面会させることによって、子どものマイナス効果が軽減するのですが、
別居親と会わせないで同居親が子育てに責任を持つということでは、
別居親に合わせないでマイナス効果を軽減させるという難題を同居親に責任を課すことであり、
これは極めて過酷な要求だと思います。

但し、その場合の被害者は子どもなのです。

 フレンドリーペアレントルールを絶対視するのも疑問です。相手に寛容であるほうが親権者とされるなら、「子どもにとって危険な父親」であっても、明確な証拠がない限り、母親は裁判でそれを主張しにくくなる。なぜなら裁判官に「根拠のない主張をして、父親との交流を制限するアンフレンドリーな親だ」と判断される恐れがあるからです。  母親はそれを避けようと、父親の危険性は主張せずに「寛容性」を示し、親権だけは取ろうと考える。すると、「絶対に子どもに会わせてはいけない父親」にも面会交流できる機会を与えてしまうことになる。最悪の場合、面会交流中に子どもを殺すという悲惨な事件につながってしまうこともあるのです。

父親が本当に合わせてはならない人間であれば、
子どものために堂々と主張するべきです。
具体的な根拠を示して主張をすれば、面会交流は実施されません。
面会交流をさせない基準も裁判所において確立しています。
そうでない場合でもやはり、裁判所は自ら定めた基準以外の基準を作り出して
面会を不当に制限することがいまだに残っています。

殺人事件に限らず刑事事件については、
人間の環境の中での感情の流れが大きくかかわっています。
不合理なことを人間が行うことには、必ず合理的な経緯があるのです。
これは法律家であれば知らなければならないことです。

悲惨な事件が起きると、あの人は悪い人だったのだという
結果バイアスがかかります。
事件前の性格や行動などの事情を検討しないで、
殺人があったからもともと危険だったという後付けの考え方では
何も予防することはできません。
バイアスや後付けの理論ということがありがちだということを自覚して
自らはそのような事実に反するとらえ方をしないとうところが、
一般の方と法律家の決定的な違いだと思います。本来は。

 面会交流がかえって子の福祉を害することがないよう、裁判所には慎重な判断が求められます。

昭和の年代に知識がとどまっている、周辺科学に関心がない、
バイアスに注意を払わない、実態を分からないのに主張だけはする。
そういう人の主張によって、子どもたちの健全な成長が阻害されないように、
裁判所には慎重な判断が求められると思います。


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共通テーマ:育児

虐待親に逆上する人たちは虐待死予防に役に立たない以上に有害であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日生後6か月の子どもを両親が衰弱死させたという報道があった。2人はおよそ2週間日中から夜間にかけて娘を自宅に放置。アルバイトやパチンコをしていたとみられて・・・とのことであった。

私は、この書き方が不自然であると思った。
アルバイトって言ったって、
それしか仕事が無かったのかもしれない。
パチンコと言っても、
パチンコをするためにに外に行ったのではなく
仕事先で2時間待機(無給だろう)を余儀なくされて
パチンコでもするしか思い浮かばなかったのかもしれない。

この報道では、パチンコで遊ぶために
子どもを放置したように受け手に印象を与えるので、
ミスリードではないかと指摘した。
実はよく読むとそれを匂わす
記者の配慮もある。

前に報道された私の依頼者の事件でも
マスコミは、
警察発表を裏もとらずに垂れ流していた。

真実追求や人権侵害のおそれを気にせず
怒りを誘導することが目的だ
としか思われない報道姿勢だと
常々感じていた。

このような虐待の背景としては
必ず現代の貧困があると確信している。

さて、そのようなことをフェイスブックに書き込んだら、
この親が鬼か蛇か、人間ではない
という怒りのコメントをわざわざくれた人がいた。
私がその両親に怒りを示さないことが悪いかのように
フェイスブック仲間の前で
そのことで公然と非難されたと感じた。

さらに「この両親は正しくない」と
コメントを書き込む人まで出た。
私は、この両親が正しいという気は毛頭ない。

しかし、私が怒らないことによって、
あるいはこの両親を責めないことによって
この両親があたかも正しいかのように
私が言っていると感じたようだ。

私達は、自分の怒る感情を疑うべきだ。

読者に怒りを起こさせる報道は
それによって読者、視聴者をつなぎとめるための
儲けの理論である。
人為的に怒らせることによって、
自分の本当の問題の所在から目をそらせ、
国民を簡単に戦争や、弱い者いじめに誘導する
有史以来の常とう手段である。

どうしてこの人たちが
私を面前で罵倒するように
怒りをあらわにしなければ気がおさまらないのか
それは、結局何の役にも立たない
一番弱い人の役に立たないということを
少し考えてみた。

<怒りは怒る人の自己防衛に過ぎないこと>

なぜ人は他人の子どもでもひどい目にあって死ぬと
怒るのか。
先ず、死んだ子供に共感してしまうということはわかりやすい。
ここまでは誰しも一緒なのだ。
無抵抗の赤ん坊が
おなかをすかして泣いていても
だんだん力が弱くなって衰弱していく様子を
思い起こして嫌な気持ちにならない人はいないだろう。
具体的にイメージがつかない人はいるかもしれない。

ではどうして怒るのか。

一つには、無抵抗の弱い赤ん坊に共鳴すると
その危機感、絶望感を
そのまま抱き続けることは人間は苦手だ
何とか危機感、絶望感、絶望的な不安感を解消しようと
無意識の反応を示してしまう。

その反応とは逃げるか戦うかなのだが
逃げるべき切迫する危険はわが身にはない。
加えて、犯罪者として悪と決めつけられた相手に対しては
わが身の危険を感じることはない
怒るという感情を持つことによって
危機感、絶望感、絶望的な不安感を
解消しようとしているのである。

また、行動経済学の見地からすると
不正それ自体を許さないという意識は
経済的効率性を度外視して行動に出ることがあるらしい。

しかし、要するに怒りは
自分の感情を収めきれない場合の
自分を守るための反応だということを頭に入れておいた方が良いと思う。

だから、怒る人にとって真実はどうでも良いことで
報道の、相手に怒る部分だけをクローズアップして
もしかしたら違うのではないかという理性は
見る影もなくなってしまう。

怒る人のもう一つのメリットも看過できない
虐待親は人間ではないという怒りは、
「私とは違う」という意識付けなのである。
自分とは連続性の無い者のすることであり、
きわめて特殊な、自分とは住む世界の違う者だ
ということで安心することができる。

しかし、刑事事件や虐待事例を多く扱っている私からすれば、
そのような思い込みを持つことができない。
虐待親は私たちと連続する人間の中の一人である。
ただ、それぞれの条件、環境が
彼らを追い込んでいるだろうと
確信に似た推測をしている。

その一つが貧困である。
貧困についてはまた改めて説明する。

この、「自分と異なる類型の人間」
というアイデアこそ有害である。
誰にとってか。それは、
この次に虐待死する子どもを救うことができない
という意味において有害である。

同じ人間がどうして子どもが衰弱死するまで放っておくか
どのような条件や環境があると
子どもを安全に育てることができないのか
それを考えることをしないからだ。

「自分と異なる類型の人間」のアイデアにしがみつく人たちは
特殊な人間だからその特殊な人間を排除する
という理屈になる。

実際に大阪で二人の子どもを餓死させた母親は
裁判員裁判で懲役30年の刑が確定した。

裁判員も餓死した子どもたちの写真を見ていると思う。
防衛本能が強く働くし、
自分は安全という環境があるので、
怒りの感情を量刑に反映したのだろう。
極めて自然な人間の行動である。
しかし、それでは子どもの虐待死は防げない。

私も、どちらかというと
怒りを前面に出すタイプの人間だった。
虐待という無抵抗であり、
親に庇護を求める子どもたちに対して
強度の共鳴をしてしまっていたと思う。

しかし、そんな無邪気な対応ができなくなったのは
虐待者からの相談だった。
法務局の人権擁護委員として電話相談をしていた。
自分が2歳の子を虐待しているといわれている母親から
相談の電話が来た。

この時、感情のままに母親を説教するということであれば、
母親は直ぐに電話を切っただろう。
止めたいのにやめられない虐待が続き、
子どもの命は風前の灯火になったかもしれない。

電話相談をするくらいの母親は、
自分の行動が虐待に当たり、
子どもに心身の影響を与えることは
既に知っている。
知識を吹き込む説教は意味がない。

子どもに対する愛情が無い親はいない。
子どもが憎いわけではない。
しかし、あたかも一般市民が虐待死の報道に触れて
怒りを抑えられないように
母親も怒りを子どもに向けてしまうのだ。

分かっていながら止められない
でも止めたい
どうするか。

子どもの命がかかっていると思うと
文字通り真剣勝負である。
私は、一緒に考えるという手法をとっていた。

指導するとか、援助するというのも違う。
相手の意見をすべて否定せずに、
ではどうしようかという
対等のメンバーとして知恵を出し合った。
結構オープンダイアローグ的な会話ができたように思える。
少なくとも、母親も電話を切らなかった。

話をしていて、そのお母さんが孤立している
ということがよくわかった。
そして、そのお母さんに抵抗なく溶け込んでいける場所を紹介した。
人権擁護委員の電話相談は、当番制なので
その後どうなったかについてはわからない。

でも
その方法ならやれる
ということを言ってもらった。

私は何を話したのか。
何のことはない。
自分の体験に基づいて、自分たちはどうしたか
ということをお話ししたのだ。

自分たちが苦しんだり不安になった経験を
このお母さんもしているとわかれば
あとは話は簡単だ。
自分たちが何を利用し、どのように危機を乗り切ったかを
話していくことがお母さんもすんなり理解してくれた理由だったのだろう。

そのお母さんの子育ての未熟さと
私の子育ての時の未熟さは
連続している。

ただ自分にあったものが
そのお母さんには決定的に欠落していた。

一番は困った時に助けてくれるつながりだ。

子どもから離れる時間を作ってくれる
パートナーであり、自分たちの両親である。

大阪の二人の子どもたちを餓死させた母親は
そのようなつながりが無かった。
自分たちの弱さをカバーしてくれる人はいなかった。

おそらく子供の泣き声が聞こえてきても
どうしたのか尋ねる人もいなかったのだろう。
その人を責めるわけではもちろんないが、
それが現代の日本社会の貧困なのだと思う。

虐待する母親は
私や私たちと連続している。
どこが違うのか、
その違うところを補う方法があれば、
虐待をしなくて済む。

排除の論理は、
子どもたちを救えない。
事後的に虐待死した子どもたちを
可愛そうに思うだけである。

誰からも子どもの愛し方を学ばなければ
子どもを愛することは難しい。
分断されている現代の日本社会の中では
驚くべきことが起きる。
それは、必ずしもその人だけの責任ではない。

怒りをあおる報道で
事情も知らないで怒るということは
歳のせいもあるだろうけれど
最近はなくなった。


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裁判員裁判が厳罰化することには理由があるということ [弁護士会]


裁判員裁判が厳罰化するということは
弁護士の中では共通認識となっています。
それ以前の裁判官による裁判に比べて
一般の人たちが入る裁判員裁判は、
刑が重くなるだけでなく、
被告人の主張が排斥されることが多いというわけです。

学者の中には、
裁判官が裁判員を誘導しているのではないか
というご指摘もあるのですが、
直ぐ近くでやり取りをしている立場としては
裁判員の方々の率直かつ
共通の考えによって、
このような傾向となっているように思われます。

刑事裁判の厳罰化は、
裁判員裁判という制度にその理由があると考えるべきです。

裁判員裁判と裁判官による裁判の違いは
初めて刑事裁判にかかわった人たちが裁判をする
ということから来ています。

大きく言うと二つのことにあると思われます。

一つは、法的知識、法的理解、訓練があまりないこと
一つは、事件、特に損害を目の当たりにした経験があまりないこと
ということになります。

裁判員裁判を行う事件は重罪事件と決められています。
典型的な事件は殺人事件です。
殺人事件では、通常、
殺人の事実を示すために、死体の写真が証拠提出されます。
死因と思われる怪我の状態が写っているわけです。
色身を落としたり、写真を少なくしたり、
あまりショックを受けないような配慮はされますが、
死体は死体です。

人間は、生きている人間を見ることはあっても
なかなか死体を見るということはありません。
しかも、外傷のある死体の写真を見ることは
滅多にないことです。

言い知れない嫌な気持ちになります。

これは、対人関係学の立場からすると
無意識に死体に対して共鳴共感してしまうと考えます。

人間は、群れの構成員から学ぶという習性があります。
群れの誰かが喜んでいれば、それを理解し、
自分も利益にあずかるということですし、

群れの誰かが苦しんでいたり、悲しんでいたりすれば
それを理解してしまいます。
一つには、その人を助けようとする本能が発動することと
一つには、同じ苦しみを追わないようにする動機付けになる
ということです。

死体に共鳴、共感するということは、
既にどうしようもなくなった状態ということですから、
死の間際の壮絶な苦しみだったり
もはや助からないという絶望感に共鳴してしまうことになります。

自分ではそれを意識しているわけではなく、
ただ、体調的な嫌悪感から嘔吐やめまいを起こしたりすることがあります。

これは、人間の自然な反応だと言えるでしょう。

そうすると、このようなむごい事態について
何らかの決着をつけることを志向します。
これが許されることは断じて容認できません。
不安感、絶望感に近づけば近づくほど、
それを解決したいという無意識の心の動きが出てきます。

一つには、理解を拒否するパニック状態に陥る
一つには、無かったことにしたいという気持ち
一つには、誰かのせいにしたい
ということがごくごく自然な人間の反応です。

人が簡単に命を奪われるということを
なんとか否定したいというように
心が動いてしまうわけです。
その存在は、人間をたまらなく不安にします。
共鳴力、共感力を通じて
被害者の過去の死亡と自分の将来の危険が
結びついてしまうということです。

誰かのせいにしたいという心の動きに注目です。

これらの心の動きは、不安や危機意識に還元できること
不安や危機意識を解消したいという志向があること、
解消行動として闘争と逃亡があり、
危険を作るものに対して勝てるという意識があれば
闘争によって解消しようとする傾向があり、
闘争によって解消しようとしている心の状態が怒り
ということになります。

裁判員は、中には不安を持て余して
裁判を続けることが不可能な人も出てきます。
これは当然なことだと思います。

しかし多くは、自分が安全な立場にいるということを
相当程度理解しています。
不安解消行動は怒りになる傾向にあります。
また、加害者が一段低いところで
おとなしく座っていますから、
責任は目の前の人間だと思うことは
当然のことです。

勢い、被告人に怒りを覚え
被告人を厳しく処罰することで
不安を解消しようという傾向に
意識しなければなりやすいのです。

その結果、
その人を処罰する方向での考えが強くなり、
もともと正当防衛や緊急避難など
被告人に有利な制度が頭に入りにくくなる
ということになります。

むごい結果を起こした被告人を
「自分たち」とは別の存在なのだと意識することによって
被告人の苦しみやジレンマに対する共鳴、共感を
水から遮断した結果ということもあるでしょう。

被告人に有利な情状について
冷静に考えることはとても至難の業でしょう。

さて、これが裁判官であればどうでしょう。

裁判官は、一人で裁判をするまでは
原則10年のキャリアが必要になります。
それまでに死体の写真もある程度見るようになります。

はじめは誰でも裁判員と同じ反応となります。
しかし、徐々に、自分とは関係の無い出来事であることを
理解していきます。
悲惨な状況に馴れていくわけです。

嫌悪感や、絶望感、怒り
という心の原因となる不安感、危機意識は
感じにくくなるということが通常です。

そうすると、その結果である
嫌悪感、絶望感、怒りという感情的部分が後退し、
理性的な判断ができやすくなるという
環境が整備された形になるわけです。

昔は罪を犯した場合、
集団的に罰するということがあったようです。
一人の人に集団で石をぶつける姿が
聖書などに喪描かれています。

これは、一つは、神との誓いを破るという
とてつもない滞在を目の当たりにした
不安、危機意識があり
無抵抗の人間に対して
「勝てる」という意識から怒りの意識を持ちやすくなり、
順法精神がある自分とは、全く違う存在という
自分を安心させるメカニズムが発動するので、
意思が当たる人の苦しみや痛みに
共鳴共感するシステムを遮断して、
酷いことをやめるきっかけを失うからです。

しかし、後々自分の行動を思い返して、
人は後悔をするか、
他人を攻撃することに痛みを感じなくなるか
いずれにしても悪い結果となるので、
近代の裁判は
理性的にふるまえる立場の者が
訓練して理性的にふるまって行う
ということに改められたわけです。

日本の裁判員裁判制度は
そのような近代裁判の本質とは何かを
問うているのだと思います。

私は即刻制度を廃止するべきだと考えます。

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震災避難計画は、人間の不合理な行動を織り込んで策定するべき。避難時の記憶が曖昧であることは当然ということ。 [震災等]

東日本大震災から6年10ヶ月が経った。
正直まだ6年10か月だ。
ニュースで祈りをささげているひとをみると
自然に涙が出てくる。

できるだけ今後起こりうる大震災において
被害者を少なくするための提言をしていかなければならない。
気持ちを新たにした。

いま、地元紙は、一面で
小学校の避難誘導の検証をしている。
個人情報等の制約がある中、
できる限り客観的に検証しようという
その姿勢は伝わる。

しかし、
実際に取材をすればわかるであろう
学校が待機をした理由、
その後の選択した避難経路について、
具体的な話が報告されていないのではないか
という感想は多くの宮城県民は持つだろう。

ただ、住民と相談してということであれば、
その住民がどのような発言をして、
なぜその発言をしたか、
教員はどの程度その発言を信じたのか
行動動機にどの程度貢献したのか
それを検証しなければ
真実は見えないはずだ。

だから、勢い
人物が特定される学校教員の発言が
その信用性を超えて重大視され、
検証チームの意図がどこにあるかにかかわらず、
学校の責任追及となるように
印象付けられてしまう危険があるように思われる。

だから、その教員の発言が
他の住民などの発言と矛盾する
等ということが大見出となっているのだ。

しかし、人間は合理的に行動しない。
これが最近の科学のトレンドだ。
特に、避難時には不合理な行動をする。
後で考えれば不合理という意味だが。

そのメカニズムは再三このブログで述べている。

まさに命の危険があり逃げているという状況である。
交感神経が活性化され、
心臓は早く大きく打ち始める
血圧が上がり、脈拍が増加し、体温が上昇する。
内臓の動きが弱まり、
血液は筋肉へと流れていく。

もちろん脳の活動も変化する。
複雑な思考は停止する。
将来的なことを予測したり、
人の心をおしはかったり、
細かなことに気を使わなくなる。

すべては、逃げるための
人間の生きるための仕組みである。

血液が筋肉に流れるのは、
筋肉を動かして足を使って逃げるためである。

では、複雑な思考が停止するのはどうしてか
これも逃げきるための生きる仕組みである。

人間がチンパンジーの祖先から分かれて800万年
動物として成立してから
さらに気が遠くなる年月が流れている。
その中で適者生存の原則の元、
種として生きる仕組みが整ってきたわけだ。

おそらくそれらの期間
余計なことを考えずに
安全な場所にたどり着くことが
逃げきる確率が一番高かったのだろう。

二者択一的考え方とは
安全な場所にたどり着いたのか
まだ危険が継続しているのか
ということである。

さらに、
悲観的な考え方になり、
まだ安全ではないかも知れない
という思考こそが
逃げ切る確率を高めた

楽観的に何とかなるかもしれない
なんて思っていたら
簡単に食い殺されていただろう。

われわれはその子孫であり、
そのような遺伝子を受け継いでいる。
命の危険があると思ってしまえば、
あとは自動的に体が変化してしまうのである。

もう一つ、記憶が曖昧になるということも
交感神経が高まり過ぎた状況では起きる。

一つは、もともと視野が狭くなっているから
十分な情報を落ち着いて統合する機能は低下している。
記憶の前に、正しく認識していないのだ。

さらに、認識したとしても
それを意味づける機能は弱まっている。
また、過去の出来事と照合して対策を立てる
というようなことも低下している。

そうすると、断片的な知覚を感じているだけなので、
記憶として定着することはそもそも期待できないのである。

また、恐怖や悲観的な思考傾向のために
知覚自体がゆがめられている上、
記憶もゆがめられる。

これが、人間として当たり前の状態なのである。

状況を確実に把握し、
適確な行動を判断して行動に移る
ということができない脳の構造になっているのである。

私たちは東日本大震災を経験して、
海辺でもない地域でも
大地震の恐怖で、
不合理な行動をしたり
合理的な行動しなかったりしたことを記憶している。
自分はどの程度合理的な判断ができたのか、
自分はともかく家族の、子どもや年寄りの心配をしていた人ならば、
冷静な行動ができなかったことは
よくわかっているはずだ。

遺族でもない第三者が、
特定の個人などの責任を追及するということは
このような不合理な行動をとる人間の生理に反する
極めて過酷な行動を要求することになる。

まるで裁判所の事実認定だ。

不合理な行動をするのは当たり前だ。
だから、それを織り込んで、
なるべく考える要素を排除した
避難計画を策定することこそ
東日本大震災の教訓のはずだ。

特定の誰かが、
文字通り超人的な行動をしなかったことを責めてばかりいたのでは
教訓がまるで生かされないことになってしまう。
そのことが心配でならない。

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ラスコー洞窟の謎を解く。対人関係学の挑戦。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

壁画で有名なラスコー洞窟はフランスにある。
洞窟と言っても、かなり長細い。
200mを超える長さで、
枝分かれをしている。
この洞窟の壁に動物や人間の絵が描かれている。

約2万年前にかかれたその壁画は
ゆたかな色彩が施されており、
動物たちの形はリアルであり、生き生きとしている。

ラスコー.jpg


このラスコー洞窟の壁画にはいくつかの謎があるという。
一つは、洞窟の中に武器と思われる道具が
かなりの量、残されていたこと。

二つは、この洞窟の一番奥深い所、
井戸の空間と呼ばれるところの絵が何を意味しているのか
ということ
井戸の写真.jpg

三つ目は、そもそもなぜこの洞窟に
これだけの絵が描かれたのか
ということだそうだ。

前提として、
この洞窟は、居住用ではないことである。
どうやら人類は洞窟に居住していたというわけではなく、
外で、竪穴式住居に居住していたらしい。

このため、他の洞窟でも武器や道具が
洞窟内におかれていたということはなかったらしい。
このために、第1の疑問が起きる。

ヒントとしては、この時期、文字は存在しない。
言葉があったどうか、どのような言葉あったか
私はわからないが、
文字がないということから、
それほど複雑な言葉自体がなかったのではないかと考える。

ただ、文字の出発ともいうべき
数字というか、数を表す絵文字らしきものが
あったようだ。

そこまで言えば、私が何を言いたいか
おおよそ見当をつけた人もいることと思われる。

そう!

ラスコー洞窟の絵は、
言葉の代わりに描かれたと私は考える。

今でも土木建築の設計図は、
言葉ではなく絵で表現される。
言葉をどんなに厳密に使っても
実際に絵で描かれた図面を見る方が
簡便かつ正確である。

先ず、おびただしい動物の絵の意味は
絵画とか芸術というわけではなく
きわめて実用的なものだったと考える。

おそらく、
集団的な狩りをする場合に
狩りの方法について打ち合わせをするために
描かれたものだと考える。

バッファローやマンモスの
どこを狙ってどのような攻撃をすれば
しとめることができるのか
それを壁に描いて、
情報を共有することが目的だったと思われる。

そのため、できるだけリアルに
動物の構造を描く必要があった。
色の違いなども
どうしても必要な情報内容だったと思われる。

このために、できるだけリアルに彩色するために
顔料を開発していったのだと思う。

これが第三の謎の答えだと思う。

では、言葉のない時代に
どのようにして、狩りの打ち合わせをしたのか。
それが第一の答えになる。

つまり、実際に武器を手にして
壁画の絵に向かって攻撃をしたのだと思う。
バッファローの腹に矢を突き立てたりしたのだろう。
これならば、言葉が通じなくても
狩りの初心者が何をすればよいか
一目瞭然であるし、
攻撃の際に大いに役に立ったはずだ。

だから、洞窟に武器が持ち込まれて使われていたから
同区に武器が残されても不思議ではないということになる。

そうして、最後に乗った第二の謎
井戸の空間の絵の意味である。

井戸の写真.jpg

この絵は、右にバッファローがいる。
バッファローは左側に頭を向け、
右側に尻を向けて立っている。
右上の尻から斜め左下にやりが付き抜かれており、
腹からは腸がはみ出している。

バファローの左側には
頭が鳥で、その下が人間の体のものが
倒れている。

私は、これは警告だと思う。

人間であれば、はらわたが出た段階で
もはや戦闘不能である。
ところがバファローは、
はらわたが出た直後は戦闘能力が残されている。
うかつに近づくとこちらの命が失われる。

はらわたが出た段階でバファローはやがて死ぬ
焦って近づかないで、
弱り切ってから近づかなければならない。
私にはそのようなメッセージが聞こえてくるような気がする。

鳥の頭は死者を表している。

少なくともこの絵を見た者はバファローにやりを命中させて
はらわたが出たとしても
近寄ろうとはしなくなるだろう。

言葉は、記憶を補うものである。
自分が体験しない出来事でも
言葉で注意を喚起することができる。
言葉を通じて他者の心情に
共鳴、共感することができる。

この言葉のない時代に、
絵を通じて、
危険を教え、えさの獲得方法を教える
そんなことが洞窟で繰り広げられていたのではないか。

絵の達人たちが
命がけで描いていたものだと
私はそう考える。
やがて、文字ができる
その始まりでもあると思い描いている。


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日本的配偶者加害(DV・モラルハラスメント)の事例研究 なぜ愛する人を圧迫するのか [家事]

日本的配偶者加害(DV・モラルハラスメント)の事例研究 なぜ愛する人を圧迫するのか

<配偶者間トラブルの4類型>

世界的には「配偶者加害」という言い方をする現象を、日本では「DV」や「モラルハラスメント」と呼ぶ。日本においては、あまりにも漠然に言葉が使われている。しかし、一つの言葉で表現される行為ではあるが、その行為及びその程度、行為の効果、原因等において、いくつかの類型があるように思われる。先ずこの整理してみる。

第1類型 世界共通の概念としての「配偶者加害」と言われる類型がある。これは、日本と異なり限定された概念である。継続的な意思を制圧する暴力や言葉等によって、配偶者を支配しようとしている状態。この類型の行為があるというためには、それらの暴力や言葉等が、相手方を支配しようとする意思の元に行われていることが必要だとされる。マリー=フランス・イルゴイエンヌ(モラルハラスメントという言葉を作ったフランスの女性の精神科医)によれば、この類型での行為者は自己愛性パーソナリティ障害の疑いがある場合が多いとのことである。
この類型の行為は、第三者に気づかれることは少ない。なぜならば、行為を受ける側は、自分が支配を受けていることに気が付いていない場合が多いということが一つの理由である。自分が悪いからこのような事態にあっているのだと考えてしまう。支配を目的とした暴力や言葉があることは、援助を求める契機となるのではなく、自分の恥という意識を植え付けられている。このために第三者に対して援助希求を行わない。私が、担当した事案も、全く別の相談から、支配の実情を見つけ出し、女性問題の支援者と私と精神科医によって、ようやく支配から脱出させることができた。被支配者と接していても、「あれ?何かがおかしい。」と思わなければ見過ごすことが多い。深刻な被害、人格荒廃が起きているがゆえに、第三者から気づかれにくいという深刻なジレンマがある。

第2類型 本件で取り上げる日本的配偶者加害。通常は身体に対する直接の暴力はない。これまでの事例を見ると、行為者が、うつ病や不安障害を発症している場合が多い。しかし、その症状が、焦燥型優位のために、うつ病等であると気が付かれない。行為者が相手方に対して、支配しようとする意図はないけれども、行為を受ける側からすれば、結果的に支配されているような不自由で苦しい感覚になる。

第3類型 行為を受ける側の事情と行為者側の事情が加味して、結果として行為を受ける側が支配されているような不自由で苦しい感覚になる。行為者の事情としては、客観的規範、正義を優先して相手方の感情に考慮を払わないということが多い。やや細かすぎる性格、あるいは完璧を要求する性格等の問題がある。受け手側の事情としては、身体的な問題や発達上の問題があり、通常要求される程度の家事が苦手であったり、金銭管理ができなかったりという弱点を有していて、その弱点を指摘されることに恐怖に近い拒否反応を起こす。一般的には、道徳よりも自分の感情を優先する傾向はある。この類型では、支配を目的とする暴力、言動は見られない。この場合、日本以外では行政などの公的な第三者が介入することはない。しかし、日本ではDVとかモラルハラスメントであるとして、男性行為者は、第1の典型的な配偶者加害が起きたときと同じ扱いを受ける。行為を受ける側が被害者、行為者を加害者であると割り切り、被害者を加害者から分離して、加害者に対して一切協力しないという行政対応となる。日本において一番多い類型と思われる。これまでこのブログで多く取り上げてきた類型。

第4類型 虚偽、詐称型。被害救済とは別の意図、例えば不貞の成就、あるいは実母の支配に積極的に入る目的等により、夫からDVやモラルハラスメントがあったと訴えて、配偶者から逃亡する類型。純粋な第4類型ということよりもなんらかの第3類型の要素がある場合が少なくない。

今回は第2類型を扱う。

事案:あるシステムエンジニアの夫の事例である。

<現状>

夫と妻はおおよそ40歳。20代で結婚し、現在中学生と高校生の子どもがいる。家庭内別居の状況だったが、現在は、子どもたちは妻の実家で預かり、妻は一人で別居している。夫と妻の連絡はメールなどで取れる。妻はパート労働者である。
別居の原因は、夫の暴言、きっかけのわからない激昂である。必要以上に金銭的心配をして、子どもや妻に金を稼いで来いという。食事の時だけキッチンに来る。それ以外は自室にこもっている。食事の時は必ず飲酒する。飲んで酔っては、金銭的請求をしたり、自分に価値が無いということ等愚痴を言う。突然激高して、家族をなじりだし、「お前たちが俺を怒らせている」といって、収拾がつかなくなる。妻は、夫の夕食は作るが、夫がキッチンに来ると、子ども部屋に避難して顔をあわせないようにする。何か話すといつ激昂するかわからないので、話をしない。家庭内別居が続いていたが、子どもたちに対しての言動が不穏当になりだしたので、別居をすることにした。いつ切れるかわからない夫の顔色をうかがいながらの生活に疲れ切ったということもある。家族全員に何らかの精神的な問題が生じ、それぞれが精神的に不安定になっている。

<経緯>

結婚して数年で第1子を出産したが、そのころから、妻によれば夫の言動が「おかしくなった」という。些細なことに激昂することが時々みられるようになった。夫はシステムエンジニアで、当時(おかしくなり始めたころ)は始発で出勤し、終電で帰宅する状態。家にいる時間は、午前1時過ぎから午前6時前ということになる。最近さらにおかしくなってきた。数年前から家にお金を入れない。もっとも、家賃と光熱費は夫の給料口座から引き落とされる。子どもの学費や食費は、すべて妻の収入で賄っていた。そのころ、夫はリストラにあい、転職を余儀なくされたという事情もあった。

<分析>

夫は、結婚してすぐに、うつ病や不安障害等の精神疾患を発症している可能性がある。発症の原因は、睡眠障害(睡眠不足)が考えられる。時間外労働時間は月あたり、120時間を超えている可能性があり、1日5時間の睡眠が確保できない状態だったと思われる。また、システムエンジニアの仕事も、細部に神経を使う仕事であり、職場によっては、パワーハラスメント的な言動が盛んに行われている職場もある。この夫の具体的な症状としては、自分が仲間から評価されない、役に立たないと思われている、とるに足らない人間だと存在を否定されているのではないかという危機感が鋭敏になっているということである。これが基本的な症状である。当初、家庭では、まだ家族のことを思う余裕がわずかながら残されており、なんとか自分を保つ努力をしていたと思われる。しかし、その症状に対して医療機関を受診する等の手当てをしないで放置した上にリストラされたこと、リストラに至る過程の中での状況によってうつ病等が悪化したものと思われる。

<疑問>

 問題は、「なぜうつ病や不安障害を発症すると、家族に対して攻撃的になるのか。」ということであろう。うつ病というと、我々のイメージとしては、活動をしないで部屋などに引きこもる状態であると思われる。子の夫のやっていることはうつ病とは正反対の行動ではないかという疑問が生じるだろう。

<不安の中身の対人関係的危機の意識>

病気ということで済ませてしまわずに、夫の心理をもっとのぞいてみよう。簡単に言うと、夫は、特に理由なく、病的に、理由もなく悲観的になり、物事を悪い方に解釈してしまうという心理状態になっていた。もっとも、解釈という意識的な作業をしているのではなく、条件反射のようなものである。むしろ、意識的に努力していたことは、考え過ぎではないかと自問自答し、不安を抑え、怒りを高めないようにしていたということだと思う。
この病的な不安を抱いてしまうと、普通の人がなんとも感じない、聞き流すような他人の言動が、自分を否定していることを意味しているのではないかと受け止めてしまうのである。例えば、妻が、「今日、夕飯いらないんだよね。」と尋ねるとする。実際に夕飯が不要であるのは、職場の会合がある翌日であるとする。通常の人だと、この妻の間違いに気が付いて、「今日じゃないよ。明日だよ。今日は夕飯家で食べるよ。」という会話で話題が終了するはずである。ところが、病的に物事を悪い方に解釈する人は、「妻は、本当は明日が会合だとわかっていながら、今日も俺の夕飯を作らないつもりなのだ。そうして、自分が夕飯前に帰宅したら、こちらをなじるんだ。本当は俺の食事を作ることが面倒くさいのだ。」と瞬時に感じてしまう。第三者が見ると、あえて悪く解釈する努力をしているように感じてしまう。ふざけているのかと思うが、本人は真剣である。こういう考えだから、自分の食事という、生きていくための基本的なことが妻という家族によってないがしろにされたと思い、自分だけ家族の一員として扱われていないと感じていくようになる。これが対人関係的危機意識である。
対人関係的危機意識について、少しだけ説明しよう。これと対になるのが、生物的危機意識である。危険を感じた場合は、素早く逃げたり戦ったりして危険を回避することによって、危険の現実化を阻止する本能的な意識である。これは、街を歩いていても、自動車が近づいてきたら道路を横断することをやめる等、日常的に危機意識のおかげで、我々は生き延びている。人間は、この生物的危機意識の他に、群れを作る動物として、対人関係的危機意識を持つ。人間は、人間の群れの中に所属したいという遺伝子的な要求を持っている。これが満たされないと心身に不具合を生じる。つまり、どこにも所属していない場合や、所属はしているが、その群れから仲間として尊重されないという意識等を持つと、どうしようもない不安感、危機感を抱くのである。究極的には、自分は群れから外されるのではないかと感じさせる事情がある場合ということになる。この不安感を抱いた後の反応は、個性や環境に応じて変化して、一様ではない。いずれにしても、逃げたり戦ったりして危険の現実化を阻止しようとする行動をとることは同じである。

<不安・対人関係的危機意識と怒りの行動の関係>

われわれが想起しやすい、対人関係的危機意識の発現形態は、引きこもりであろう。活動性が低下し、他者と関係することができなくなる。いわゆる回避型、逃避型という類型である。しかし、危機意識への対処については、戦闘型、排除型という類型もある。大体は、危険の対象と対峙して「勝てる」と意識できる環境の場合に出現しやすい。要するに、怒りを持つということである。自分をないがしろにする妻に対して、言葉による攻撃を行うという行動である。この場合の行動は、よく考えて行動を選択するというものではなく、条件反射のように瞬時に行動に出てしまうことが特徴である。図式すると

{危機意識}+{勝てるという瞬間的判断}=怒り

 ここでなぜ、危険排除に怒りの感情が伴うかについて説明する。危険排除のために攻撃的行動に出る場合、攻撃を完遂させて危険の現実化を阻止するためには、相手に対しての容赦ない攻撃を行うことが必要である。例えば、ゴキブリを殺す場合、反撃されるのではないかとか、死なないのではないか、こんなものにも命があるのだから等という邪念が入っていれば、なかなかゴキブリを倒すことはできない。こんなやつ叩きのめせば終わりだという認識の元、怒りに任せて叩き潰せば、案外簡単に殺すことができる。怒りとは、攻撃に集中し、全力で危険が現実化することを阻止するためのシステムなのである。
 怒っている時は、思考が停止したり、思考力が低下したりする。危険の現実化阻止というシステムを合理的に作動させている。思考力が低下するため、特に人間関係に関する怒りの場合は、怒ってはいるが、何を怒っているかよく考えてみれば自分でもよくわからなくなることが多い。例えば、先ほどの会合の日を一日間違えた事例での夫の激昂は、「俺のこと、馬鹿にしやがって、何だっていうんだ。」という発言をすることが一般的であろう。一日間違えていることに気が付けば、「なんて大人げないことをしてしまったのだろう。」ということになる。しかし、自分が慢性的に家族の中でさげすまれている、正当に評価されていないという意識がある場合は、大人げない行動を謝ることはできない。謝罪するということは精神的に余裕がある人ができることであり、謝罪してもそれ以上立場が悪くならないという確信が無ければなかなかできないことである。

<夫の不安感、危機意識が病的になる事情>

 おそらく、第1子が生まれたばかりの、夫が長時間労働をしていたころは、対人関係的危機意識も、病的なほど固定していたわけではないだろう。突発的に、危機意識を感じてそれが抑えられなくなり、条件反射的に怒りのモードになったとしても、自分の考えなしの激昂を恥じるだけの余裕があったと思われる。もっともこの時の怒りの感情というか危機意識は、おそらく職場での自分の立場の不安定さに対するものであった可能性がある。職場の上司や会社に対しては勝てるという意識はないが、危機意識だけは発生している。ある程度過敏になっている状態である。同じような構造での危機意識を家庭の中で感じてしまい、本来会社に向けられるべき怒りが、家庭の中で爆発してしまったということもあるだろう。怒りの大部分は八つ当たりであると感じている。
 しかし、本人でさえそのような構造はわからないから、受け手である妻はそのような事情は全く分からない。時々、わけのわからないタイミングで激昂し、収拾がつかなくなり気まずくなる出来事を発生させる夫だという記憶が定着していった。会社の中では、状態は改善されず、恒常的に危機意識を感じている状態となっていくことはよくあることである。危機感が敏感になっていったものと思われる。生物的にも、例えば、熱いものを食べると食道がただれるなり損傷を受ける。これが継続していけば、食道炎になったり潰瘍ができ、さらには食道がんとなるというようなものである。後ろ向きの悲観的受け止め方が固定化していくということがある。さらには、リストラによって仕事を奪われる。仕事を奪われてしまえば案外、あとは再就職に全力を挙げるものだ。しかし、リストラされるかもしれないという不安と、自分がリストラされることが正当ではないという不公平感が、対人関係的危機意識をいやがおうにも高めてしまう。そうすると、益々危機意識に過敏になっていく。感じ方の歪みは固定化されて、病的状態となった。

<家族から見てみる>

 ところで、怒りを受ける方は、もともと八つ当たりをされているようなものであるから、何を怒っているかわからないことが多い。先ほどの夕飯を作るか作らないかの問題で言えば、言われた方は何が何だかわからない。せめて、「俺の食事を作りたくないとは何事だ」とでも言ってくれれば、「ああ、夕飯作らなくてよいかと聞いたことが気に障ったのか。」と気が付くヒントくらいにはなる。しかし、「何なんだいったい。」と言うことが精いっぱいの状態であるから、よくわからない。さらには、夫が怒るということは、妻側にも対人関係的危機意識を発生させる。攻撃的な妻であれば、口論が成立して、だんだんと誤解が解消したり、一つ飛び越えて、双方が双方を加害する意思のないことを確認できる場合もある。しかし、夫の怒りが強すぎる場合や、攻撃的になれない妻の場合は、自分が何か悪いことをしたのではないかと罪悪感を抱くようになることもある。
 また、この様なことが度々重なると、だんだんと疲れてくる。この人と一緒に時間を共有することは難しいという意識が芽生えてくる。事例の妻も、夫がキッチンに来ると別室に逃げ込むということをするようになった。
 最初は、自分が悪いのではないかと自分の行動を修正しようとするが、どうしても夫が切れるタイミングはわからない。対人関係的危機意識は夫の心の中だけで自動的に生まれることもある。群れを壊さないようにしようという本能から妻は何とか我慢しようとしてしまう。夫の顔色をうかがいながらの生活を我慢することになる。しかし、これが5年も10年も続くと限界になることは簡単に想像できると思う。

<再び夫、思春期の脳とアルコール依存と貧困妄想>

 妻側の行動によって、夫からすると、危険の現実化が始まったと益々感じるだろう。妻は自分と顔をあわせることすら嫌がるようになったと感じるのである。最初は、「こんなことはすぐに終わるだろう。機嫌が悪い時期なのだろう。」等と考えて、また料理を作ってくれているというギリギリの納得があるので、積極的に自分の行動を修正しようということができない。妻が相手をしてくれないのならば子どもたちに対して話をしようとするが、子どもたちも既にわけのわからないことで怒りだす父親に辟易するし、父親は酒に酔って自分たちを攻撃するという意識が強く、逃げるか攻撃するか、無防備に攻撃にさらされるという深刻な事態となることがある。
この時の夫の脳状態は、思春期の子どもの脳のようなものである。思春期の子どもは、親のわずかな表情の変化から、自分が否定されているのではないかと思い、怒りをぶつける。これと同じである。被害感覚が鋭敏になりすぎている。
それがさらに家族を自分から遠ざけている。それがさらに夫を自滅へと向かわせる。
食事の時以外は部屋に引きこもり、食事の時は飲酒をするということは、アルコール依存症が疑われる。素面では怖くて家族と会うことができない。だからアルコールの力を借りるのだ。但し、こういう人は対面でなければ、例えばメールなどでは、怖さを感じないので好き勝手辛辣なことを書く。これがまた、家族を怖がらせる。
 さて、夫が家にお金を入れなくなったり、子どもたちに金を稼いで来いというようになるのもうつ病などの影響もあるのではないかと考える。これは貧困妄想と呼ばれるうつ病の症状が影響している可能性がある。元々、うつ病には、自分はこのままではお金を使い果たしてしまうのではないかという妄想を抱く場合が少なくない。実際にお金は使えばなくなっていくのだが、収入が途切れるのではないかとか、実際には預貯金があっても、それを忘れている場合もある。本気でこのままでは我が家は財政破たんとなると考えている節がある。その不安を言葉に出して表現すると、学費などでお金を使う子どもたち自身に対して自分で働いて収入を得てこいと言う気持ちになっていると解釈する余地がある。しかし、これが子どもや妻からすれば、夫こそが自分たちを攻撃していると、無理難題を言うと受け止める。当然のことである。ますます夫は孤立する。
夫は、必ずしも妻や子どもたちを支配しようとしているわけではない。自分がないがしろにされていると感じることで、対人関係的危機意識をもち、怒りに転嫁しているだけである。だから、妻子に直接暴力をふるって、言うことを聞かせようとすることはしない。自分を分かってほしい、自分が辛い気持ちに共感を示してほしいという結論を求めるが、それが伝わらないので、イライラして物に当たるという行動が起こる。妻子は、これは、次は自分たちに向けられるという予告のような感覚を持つ。音や振動、壊れたものの形状から生物的危機意識を強く抱くことは当然である。
 夫は、本当は、家族から見捨てられたくないという無意識、無自覚の感情から出発している。人間的な感情からすればそういうことになる。しかし、逆に、自分の行動で家族から遠ざかっていくことになる。
 きちんと自分の置かれた環境と、それが感情や行動にどのように結びついているかについて、きちんと認識をすることが出発である。そして、家族が大切であることを自覚させ、そのための行動を確立する必要があったのだ。こういうと、専門のカウンセラーが必要だと聞こえるかもしれない。しかし、これは人間の精神的営みとして、古今東西あまり変わらない。日本においても、親や親方ご隠居や大叔父さんが説教していたことである。そのような人物や人間関係自体が破壊されたとすれば、やはり何らかの専門家の介入が必要となるかもしれない。しかし、夫を加害者として把握して、悔悟を促していく手法で解決しようとすることは、高価が上がらないどころかデメリットも出てくるだろうと思う。

<妻子の夫に対する感情まとめ>

 妻子は、最終的には恐怖感情が支配的になる。いつ切れるかわからない。常に顔色をうかがいながら生活する。自分の行動が、全て夫によって否定される。そのような不自由感、被支配感が蔓延する。さらには夫の後ろ向きの発言、自虐的な発言のオンパレードであるから、苦しさは倍増していく。夫に支配の意図が無くても、妻子は、支配されていると同じような拘束感を抱いている。そうして、妻や子どもたちが、夫を理解できないまま行政などの第三者機関に相談をして、判で押したような「精神的虐待が行われているから逃げなければならない。DVは治らない。」ということを言われて、逃げていくことになる。ひとたび逃げると、夫から見つかることを恐れ続けていくことになる。

<最後に>

冒頭、DV、モラルハラスメントを類型的に分けてみた。しかし、特に支援者を志向する方に留意していただきたいのは、どの類型も紛争の始まりについての考え方は一緒だということである。基本的に、夫は、自己愛性パーソナリティ障害かうつ病か等の原因はともかくとして、事情があって対人関係的危機意識を抱きやすくなっており、敏感になりすぎている。この危機意識が条件反射的に怒りに転嫁する。妻側は、その事情が分からず、当初は全てを真に受けて、あるいは受け流すことができず、次第に不自由感を感じていく。相乗効果で夫の危機意識が昂じていく。
今必要なことは、双方に事態を理解させることであろう。仮に離婚等の別離が不可避だとしても、きちんと理解して別れることによって、逃げることによる恐怖や、独りぼっちになった孤立感、絶望感から解放されることになる可能性が出てくる。
加害者、被害者という二者択一的な対立関係でものを把握しようとすることは、このような合理的解決を阻害することになる危険性が伴うものであることを肝に銘じるべきである。当事者は支援者から離れても人生は続くということをきちんと想定しなければならないと考える。

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【緊急告知】わが子に会えない親の会 忘年会とクリスマス&12回例会 来られない方こそ読んでほしい。あなたの居場所はここにある! [家事]

12月25日7時、仙台駅前の店
(参加を希望される方限り、土井法律事務所土井までお問い合わせください)
当日は、ずっと事務所におります。

11月は、私、事情があって欠席したのですが、
きちんと例会は続いております。
居酒屋ともすっかり顔なじみで、
時々、サービスもしてもらえるようになりました。

飲めない人は親子丼を食べてもらいながら
ということも、おんなじです。
いつも同じようなことを書くしかないということもあり、
あまり紹介をしなくなっておりました。
同じように新人さんがいらっしゃり、
暖かな会が続いています。

これをブログに書く方はともかく、
結局1年間、誰も喧嘩別れすることなく、
ニコニコと同じ時間を過ごす会が続くということは
それは、それでとても素晴らしいことだと思います。

とにかく暗いまま終わらないというところが
この会の一番すごいところだと思います。

11月に行かなくて、日程でご迷惑をかけたのですが、
よりによってクリスマスの日に行われるということは
正直、ちょっとどうなのよって感じはしたのですが、
これはとても大切なことのように感じてきました。
それで、今日こうやって緊急告知をしているのですが、

やっぱりクリスマスはきついということはあるようです。
どうしても、テレビも街もクリスマスというムードを盛り上げようとしてしまいます。
あなた本当に聖書読んだことあるの
と思う人もメリークリスマスです。

お子さん方とクリスマスのお祝いをしたことを
ほとんど強制的に思い出させられてしまいます。
そりゃ、誰が考えたって寂しいよ
嫌なことも考えてしまうよ。

そんな中、わが子に会えない親の会が
東北の仙台で開催されている。
クリスマスに背を向けて、向けなくてもよいけれど
みんなで新しい、楽しい思い出をつくっている
ということを考えてほしいと思います。

あなたは参加できないかも知れないけれど
あなたは十分参加する資格が有るし、
みんな来れば歓迎してくれるということです。
あなたの居場所がここにあるし、
あなたが居場所だと思ってくれることで
たくさんの人が喜ぶんですよ。

仙台会は来年も続いていくことでしょう。
関東からも毎回誰かが参加しています。

あなたには仲間がいて、
あなたが存在するだけで
私たちは無条件にうれしい。
そういうことなのです。

25日は、昼間は私は事務所にいます。
参加希望の方は
022-212-3773
です。
法律相談が2件入っているので、
事務員から終わるころの時間を聞いて
かけ直していただくことはあるかもしれません。




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