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特攻隊員は、どうして任務を拒否したり、反乱を起こさなかったのか。日本の民族的特質からの検討 [事務所生活]



特攻隊員が、概ね、自分の意思で死地に赴いたと
主張する人たちがいます。

その根拠として、
もし、特攻隊の任務がその意思に反していたのならば、
拒否したり、反乱したりしていただろう、
そういう話はそれほどないので、
意思に反していなかった
という論法をたてています。

これは誤りです。

明治維新以来の富国強兵政策や
天皇を頂点とした国家主義という
国民の価値観の構築政策
それに反する主義、思想、宗教の徹底的な排斥
等という系統的な長期にわたる思考改造政策
価値観の創設という事業については
私でなくても誰かがお話しているでしょう。

軍隊の上官の言葉は、天皇陛下の言葉と同じくらい
異を唱えるべきものではないという意識が植え付けられた
という軍隊のイデオロギーについても
私以上に語るべき人がいるでしょう。

ましてや、特攻攻撃は、
陸軍の上層部で決定されたことであり、
天皇陛下が決めたことだと思っているのだから、
それに反対するということが
兵士たちにとって、あり得ないことであることも
私なんぞが言う話ではないでしょう。

では、私が何を言うかというと
日本人の秩序維持志向という観点です。

江戸時代において、
即ち明治維新という文明に毒されていない時代において、
日本人は、秩序を重んじ、
自己中心的な行動を戒めていた
ということが報告されています。

ヒュースケンの「日本日記」
モースの「日本その日その日」
その他、幕末から維新直後にかけて
来日した外国人たちが、
こぞって日本人の秩序を重んじる傾向が
一般庶民においても浸透している
ということを報告しています。

自国民ならば、こんな時、
収集がつかないくらいに混乱した状況になるだろう
と述べています。

私は日本人として、
このような国、国民に誇りを持っています。
私の愛国心の源があるわけです。

さて、このような国民性は、
明治維新以降の西洋文明によって
厳しく批判されるようになります。
ヒステリックに、
個人の尊重と秩序の尊重が対立させられ、
個人の尊重に重きを置かれるようになっています。

しかし、どんな「文明」をもってしても、
日本人の仲間を思いやり、
自分が一歩退くという美風は
なかなか消えるものではなかったと思います。
大分弱まっているとはいえ、
現代にも続いているところです。

西洋文明の影響を色濃く受けた人たちは、
秩序を重んじるという性質は、
長いものに撒かれろとか
権力に迎合する弱さだというかもしれません。

もしかするとそのような側面もあるのかもしれません。

しかし、仲間としてまとまることによって得られる利益があるから
仲間としてまとまる気風が生まれて、根付いたのだ
という考えもあり得ると思います。

また、本来、日本では、
上に立つべき人が上に立ち、
誤りが起こりにくい仕組みを作っていたとは考えられないでしょうか。

もちろん完璧な歴史というものはありませんから
いろいろとはみ出しながら
その根本が目指されたのだと思います。

この点、江戸時代の後半に
上に立つべき人ではない人が上に立ち
幕府を弱体化したという解釈がなされることがあります。
しかし、明治維新は江戸幕府の体制を否定する宿命がありますから、
歴史の評価は慎重に行う必要があります。

例えば日米和親条約や、修好通商条約などは
屈辱的な条約ですが、
幕府の外交の稚拙さからくるものだと
そういう批判があるように思いますが、

実際に、当時の列強の圧力から
国体を維持した外交努力と技術は
特筆されるべき出来事だという評価も
一方であることを知っていただきたいと思います。

秩序を維持する志向というのは
例えば教科書を作って、
それに全国民を習わせるというものではなく、
日本人の心の中に継承されているものです。

その仕組みというものが必ずありますから
分析していくのも面白い歴史の勉強かもしれません。

秩序という言葉は、
一般的な(平時の)生活だけでなく、
特別な出来事(有事の)行動の原理とか
幅広く使われています。

特に有事の際には、
出来事を検証している時間的余裕がないので、
自分の役割を瞬時に判断して
秩序を守る行動をすることになります。

日本人的な秩序維持のしくみは、
自分の意見を後景におしやって、
上に立つべき人を探したり、
自分を劣後させて他人に席を譲る形で
穏当な状態を保つという所にあります。

リーダー的な役割を担うべき人がいたら従い、
いなかった場合は、
強い者が譲っていくということです。
徹底した平等原理を、自分と相手に求めていきます。

東日本大震災の時に
世界が驚嘆した秩序維持は、
このようにして行われたと体験してみて思います。
日本人の心が現代にも受け継がれていたことになります。

もっとも、それを受け継いだ日本人は、
血縁的日本人だけではなく、
日本に住んでいた者ということになるでしょう。
それが震災の真実です。

意思に反して、
わずかの食料を買うために
長時間行列を作って待っていたとしても
反乱をする人や暴動を起こす人はいませんでした。

この日本人の心情を悪用したのが
明治維新と大日本帝国です。
その根源は「文明」にあると私はにらんでいます。

特攻隊が編成された当時
上に立つべき人の究極的な存在が天皇陛下でした。
自分の命が奪われるとしても、
逃げる場所がないこともありますが、
秩序を重んじる国民性は、
特攻隊員になることは自分の意思に反するという
そんな理由で
反乱を起こしたり、暴動をしたりということは
ありえないことだったのです。

この気持ちの継承は
東日本大震災だけではなく
われわれの身近にあることです。

例えば警察官が、
平成25年12月の通達に反して、
夫の妻に対する身体的暴力が無い場合にも
夫の行動の自由を奪い、
家庭に入ってきて、
夫を任意出頭という形で事実上拘束し、
やってもいない暴力を
将来的にしないという誓約書を書かせたりしています。
妻から暴力の訴えが無くてもしているところです。

これに対して、よほど豪胆な人でなければ、
警察の要請する任意出頭を拒否できないし、
誓約書の作成を拒否することもできない人が普通でしょう。

これは警察官が怖いということだけが理由ではないはずです。
警察官という仕事の内容を理解して、
警察官の指示には従うべきだという
秩序維持の感覚が、
やってもいないことを前提とした
権力の行使に反発をしながらも
理不尽を感じながらも
意思に反する誓約書を書かされながら、
自分の利益を後景に押しやり
抵抗しないのではないでしょうか。

抵抗しないというよりも
抵抗できない心理に初めからなっているわけです。

他国の国民ならいざ知らず、
日本人が反乱や抵抗を起こしにくい民族だということを
知らない人、理解できない人が
日本に多く住むようになってきたことに驚いている次第です。

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東日本大震災の自分の命を犠牲にして他人を守った人たちを尊重することと、二度目は許さない決意の具体化と 特攻隊が議論される8月に [自死(自殺)・不明死、葛藤]

1 人のために犠牲になることは尊いことである。否定されるべきではない。

  8月になると、特攻隊の評価をめぐった論争がおこります。しかし、整理がなされていないため、お互いに、都合の悪いところに目をつぶったまま議論がなされている印象を受けてしまいます。このブログでも、この2年、この問題を取り上げています。対人関係学的視点で、今年も問題を整理して確認したいと思います。
  先ず、他人のために犠牲になることは、否定されるべきことではないという一般論があると思います。
  これは群れを作る動物である人間が他の動物と区別されるポイントになります。他の動物でも、例えば子育て中の母親が子供の命を救うために決死の戦いに挑むということはありますが、それ以外ではあまり一般的ではないでしょう。人間は、血縁関係が無くても他者のために自分を犠牲にすることがあります。
  本来は、群れを形成する仕組みなのですが、群れの中に存在したいという根源的要求を人間は持っているわけです。群れの中に存在したいのですから、群れから排除されるあらゆる兆候が、人間にとっては結構大きなストレスになります。ストレスを感じると自分の行動を修正したり、環境に働きかけて、仲間の一員となるべく行動をするわけです。仲間として尊重されるための行動の大きな柱が、「仲間の役に立つことをする。」ということです。仲間を助けるということも、仲間の役に立つことをしたと感じる大きな行動でしょう。また、「仲間という群れ自体を守る」ということを志向することもあり、「仲間の役に立つこと」、「群れを守るということ」を、無条件に行動してしまう傾向があるようです。

  これは人間らしいことです。だから、むしろ、自分の個人的な利益のために、仲間を犠牲にすることの方が、人間の自然な感情に反する行為です。このような行為をする場合には、特異な体験だったり、生い立ちだったり、何らかの不自然な理由があると考えるべきだと思います。

2 自分の命を差し出すことは、必ずしも強制がある場合だけではない。

  本来、他人を守るために行動することは、このように人間の本能に根差した行為であり、理屈を抜きにして行われることです。このため、誰からか強制されなくても、自分の命を犠牲にして他者を守るということは少ない事例ではありません。
  平成23年3月11日、東日本大震災の津波で多くの人が亡くなりました。その中には、仙台市若林区役所の職員の方(2名)、南三陸町の職員の方をはじめとする自治体職員の方、警察官の方、消防署職員や消防団員の方等津波から住民を避難させるために、命の危険のあることを顧みず、避難誘導を行い、津波に飲み込まれて命を失った方々がいらっしゃいます。
  この方々は、本当に尊いお仕事をなされた方々であり、称賛されるべき方々です。ここで私が申し上げる「称賛」については、すぐ後で検討します。
  彼らは、直前まで死の恐怖があったことは間違いないでしょう。メールなどの記録が残っています。しかし、もう一方で、他人の命を助けているという使命感によって、精神が高揚していた様子もうかがうことができます。残された数少ない記録をたどると、その場所にいる住民を安全な場所に非難させるために、あえて危険な箇所に踏み込んでいったり、危険な状況が差し迫っていてアナウンスをしていた人が非難しても、さらに交代してアナウンスを続けた方もいらっしゃいます。ほとんど報道もされていません。嘆かわしいことだと思います。特攻隊員を賛美する人のわずかの割合でも、このように同時代を生きて、他人を守るためにあえて自分の命を犠牲にした人を知ろうとする人が出てくることを祈るばかりです。

  私は、この人たちを称賛しても称賛しきれないと思っています。この人たちの活動で命が救われた人たちも多くいらっしゃいます。
  死に対する恐怖が存在するからと言って、そのことだけで、自分の命を犠牲にすることが、常に強制によって行われるわけではないということが肝心です。もしそこまで否定してしまったら、人間が利己的な動物だと誤った認識を持つだけでなく、利己的な行動以外は嘘くさいきれいごとだということになってしまいます。そういう心配がある為に、この点を確認する必要があると思いました。

3 人のために犠牲になる状況は、ギリギリの状況である。そのような状況を作らないことこそが肝要である。

  人間が他者を守るために、命を投げ出すことのある動物であると言っても、そのような事態は極限的な事態であり、簡単に死んで解決しようとするものではありません。当然のことです。
  一つには、他に方法がないことが条件になると思います。北海道の吹雪の中で、道が見えなくなり、二人とも共倒れになるという時に、お父さんが自分の着ている服を脱いで娘さんを温めて娘さんを助けて自分が亡くなったという事例も、まさにそのような極限的な状況だったでしょう。
  津波が迫っているのに、停電で情報が入らず、いつもの津波と同じだと思ってとどまっている人たちがいるということも、差し迫った危険で回避の方法が無い状態です。
  そして、いずれの自己犠牲も、他者の命が助かる可能性があったこと、実際に助かった人たちがいたことが、遺された我々にとっても救いになるでしょう。
  
  しかし、私はまだ考えがまとまらないことがあります。
  東日本大震災で住民の避難誘導のために命を落とした人たちの中で、もし自分の命を守るために、公務を放棄して逃げることは肯定されるべきことなのかということです。また、もし自分の子どもが公務員で、逃げられる状況があったときに公務に反して逃げることを望むか、命をなげうって公務を遂行することを是とするかという問題です。
  本人が選択するべき問題だということが必須の前提となります。ここで、いささかでも強制のニュアンスがあってはなりません。要するに、命を投げ出す公務を、断ろうと思えば断ることができる余地が残されていなければならないということが前提です。人間は、一方で群れを作る動物として群れを守り、群れに貢献したいという根源的要求があります。しかし、同時に動物として、命を長らえたいという本能的な要求があります。自己犠牲が強制されてしまうと、それは本能に根差した行動ではなく、高揚感は起きず、動物としての死の恐怖だけがむき出しになることですから、それはただただ惨(むご)いことだからです。
  
  私は、どうしても、もし自分の子どもやつながりのある人たちが、命の危険のある公務を命じたら、どんな理由をつけてもいいから、自分だけ逃げてきてほしいと感じざるを得ません。それが正しいとか誤っているとかいうことは、おそらく誰にも言えないことではないかとぼんやり考えています。

  他人のために自分の命を犠牲にするということは、極限的な話なのだと思います。南三陸町の職員の方々は、これから津波に巻き込まれて命を失うということを認識していました。メールなどで、家族に自分が死ぬことを謝罪しています。とても切ない話です。

  肝心なことは、極限的なことが、予想をはるかに超えて起きてしまったことです。その時は想定の範囲の外にありました。しかし、一度起きたことは、想定しなければなりません。
  生きていた当事者と、生きている関係者の苦しみが現実に存在したということです。残された我々は、このような極限的な状態が起きることを可能な限り排除することが求められていると思います。少なくとも、同じような極限状態が二度起きることを回避することが人間の正常な営みなのだと思います。

4 人のために亡くなった人を肯定するとはどういうことか。

  自分の命を犠牲にして他人の命を救ったという偉業は、肯定されるべきです。人間らしい行動であると肯定されるべきです。そうして、極限状態の中で、冷静に対応されたことには、いくら尊敬をしても足りないと思います。

  その人は、普通の人間ですし、その人の家族、友人も普通の人間です。普通の人間として、感情を持ち、愛情を持ち、人生があったわけです。人間として生きていたわけです。その人たちを肯定するということは、およそ被災公務員とか、そういう抽象的な人間として肯定されるべきではないのです。それぞれの人の名前と、顔と、家族を認識し、そのすべてを肯定することなのだと思います。そうは言っても、私は、名前がわかっている人は、せいぜい数十名に過ぎません。お写真を見せてもらった方々は20名を上回る人数でしょうか。遺族の方々も100名程度しかお会いしていません。
  まだまだ偉そうに肯定するべきだと言える資格はありません。

  それはともかく、避難誘導が公務であるという公務員制度を称賛することがどこかおかしいことはよくわかると思います。

5 新たな犠牲を産まない方策を整えること。命を落とさない避難誘導はどこまで整備されたのか

  さて、東日本大震災で住民を避難させるために自分の命を犠牲にした人たちの称賛と追悼は、まだ始まっていないように思えてなりません。地方公務災害補償基金も、なかなか自己犠牲を認めようとはしませんでした。
  今一番心配なことは、彼女ら、彼らの犠牲がどこまで活かされているのかということです。自分の命を犠牲にして、避難誘導を呼びかけなければもっと多くの人たちが亡くなっていたのですが、現在は同規模の津波が来た時、公務員の命を犠牲にしなくても避難誘導が可能になっているのでしょうか。安全な場所からの避難誘導がなされる仕組みが確立されているのでしょうか。私こそ不勉強で申し訳なく思っています。かさ上げ工事がどの程度有効なのか、よくわかりません。それでも、避難誘導は必要になるはずです。その対策がどの程度講じられているの、ぜひとも知りたいところです。宮城県だけでなく、他県でも同様です。
  そのような二の轍を踏まない対策が講じられることによって、失わなくて済む命が助かるというのであれば、東日本大震災の住民を守るために事故の命を犠牲にした人たちの行為の尊さをより高めることになるものであると考えています。

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自死者に自死の原因を求めるコメントが発生する原因の分析 3つの理由 今の若者が弱くなったのではなく・・・ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の報道があると、
自死の原因を個人に求める意見が目につきます。

その人が弱いから自死したんだということが
未だに私の周りでも言われています。

その代表的な言い回しは、
「今の若者は、昔に比べて弱くなった。」
というものです。

遺族は、当然、こういう意見を目にすると
深く傷つきます。

思いきって、顔を出したり、名前を出したりするのではなかったと
声をあげたことを苦やみます。
そうして、また沈黙が続くわけです。

個体の弱さが自死の原因だという烙印を押してしまうと
周囲は、身内を非難されることを嫌い
自死を隠すようになります。
これは、将来の自死予防にとっては
障壁になります。

しかし、ただ反発しているだけでは解決しないので、
私みたいな立場の者は、
どうしてそういう風なコメントを
わざわざ、遺族が目にするだろう場にするのか
ということを分析することが必要でしょう。

コメントをする人は、決して変な人ではなく、
むしろ良心的で、正義感のある人でもあります。

今回は、3つの理由を考えます。
第1に、情報不足
第2に、自己防衛本能に基づく反応
第3に、自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
    についての理解不足
です。

第1 情報不足

例えば、先日、23歳の消防士の自死について
パワハラが原因だとして損害賠償を提起し、
マスコミ各社に大きく取り上げていただきました。

それでも、
「これくらいのことで、自死するのか」
という感想が見られました。

マスコミで報道されたのは、
遂行困難な業務を押し付けられたとか
机を蹴りながら深夜まで怒鳴られた
という印象的なことに限定されます。

実際の現場では、
消防職員は、24時間勤務の2交代制で
夜間も、1時間の勤務が当番であるほか、
仮眠室から移動できないという制約があり、
勤務(当務)チームから逃げられない
という密室の出来事だ
という事情がある事。

同僚が見てみぬふりをしているため、
絶対的な孤立感がある事、
1日おきに深夜、ほぼ必ず説教がある事、
それも大声で、同僚に聞こえよがしに、
人格が否定される言葉が羅列していること、
前に怒鳴りながら指導された言いつけを守ると、
逆に怒鳴りつけられること、

チームのトップ3人からパワハラなどを受けていたこと、

とにかく、24時間狭い場所で一緒にいるわけですから、
気の毒に思った人がいても
「ちょっとひどかったな」
と後で慰めることもできないわけです。

その場にいた別の人の話では、
消防署の建物の中は、常日頃
まるでお通夜の会場のようだった
ということでした。

そのパワハラの理由も
数か月前に
「しっかりした」消防士になると言ったことを
もう一度言ってみろと言われ
「ちゃんとした」消防士になると言ったことをとらえて
「いい加減なことを言うな」
と机を蹴りながら深夜に怒鳴られているのです。

しっかりした証拠があるだけでも
まだまだひどいことがあるのです。

報道では、情報が不足しているのは
限られた時間、紙面のため
仕方がないことです。

また、こちらも目立ったパワハラなどの事情は拾えますが、
チクチクした嫌みや
わざとらしい無視や険しい視線を投げるなどということは
拾いきれません。

本当の孤立感は、
むしろ、パワハラとパワハラの行間から出てくることなのだと思いますが、
そこは推測するしかありません。

一度出勤すると
翌朝まで耐え続けなければいけないという覚悟を
毎回の出勤のたびに奮い立たせなければ
ならないわけです。

事実亡くなられた方は、
毎回出勤のたびに、
コンビニのトイレなどで食べたものを戻しながら
出勤していたようです。

彼は、中学校の時に応援団長をしていたほか
中学、高校に相撲部に在籍し、
全国大会で、立派な成績を収めていたスポーツマンです。

もともとメンタルが弱かったら、
そのような成績は治められません。

さらに、最後に勇気を振り絞って、
署長に直談判に行ったのに
署長は改善を一言も言わず、
病院に行けと言うだけでした。
頼みの綱も切れたという事情もありました。

それにしても、
なかなか自死を公務災害と認めない機関が
自死を公務災害と認めたのだから
よほどの事情があったと
推測してほしいなあとは思うところです。


第2 自己防衛に基づく本能反応

「そんな隠れた情報があるということは知らなかった」
ということはもっともなことです。

しかし、そうであるならば、どうして、
遺族が見るかもしれないSNSで
「今どきの若者は」と発信してしまうのでしょう。

少なくとも、否定的な言動をしなくてもよいと思うのです。

酔っぱらって自制がきかない場合はともかくです。
(自分でもよくありますから。)

しかし、人間である以上、
死亡した個人に原因を求めたくなるということは
実は自然な感情であることを
理解しなくてはならないことだと思います。

自死がなぜ嫌われるかというと、
一番は、
今まで元気で(外見上)生きていた人が、
突然命が無くなるという現象だからだと思います。

要するに、
「自分も今元気だけれど
 次の瞬間自死するかもしれない」
という危険を、本能的に感じてしまう
からです。

「そんなこと感じたことが無い」
ということは、正直な感想でしょう。

ところが、実際は、潜在意識の中で
他人の死を、自分の死に置き換えています。
無意識の共鳴反応が、人間の場合には起きてしまいます。
これは群れを作る動物の本能的反応です。

例えば、
誰かが怪我をして、大変なことになると、
その場に近寄らなくなるわけです。
誰かの痛みに共感して、新たな痛みを避けるということが
群れを作るアドバンテージです。

誰かが食べたら
おなかを壊したという食べ物は
食べないということが
本能的な対応です。

その時人間は余計な反応をしているわけです。

けがをした、痛そうだ、あそこに行くと
同じように痛い思いをする、
だから行かない。
とか

あれを食べた人がげーげーはいている
とても苦しそうだ
あれを食べる
同じように苦しい思いをする
だから食べない。
という具合です。

丁寧に埋葬された死体を見ても
それ程嫌な気持ちにはなりませんが、
無惨な遺体を見ると
とても嫌な気持ちになるのも
無意識に自分に置き換えて、
危険を感じている状態だと説明することが
できると思います。

特にほかの動物よりも人間は、
身内(母親)以外の者から情報を獲得するという特徴があります。
即ち、他人の感情に、共鳴、共感するという特質を持った動物です。

ここがチンパンジーなどの猿との決定的違いです。

そうすると、他人の死であっても
どこか共鳴してしまう可能性があることは
承認いただけると思います。

そして
なるべくしなくてよい不幸な出来事への共鳴は
本能的に避けようとします。

共鳴を避ける努力を
無意識で行っています。

例えば、
他人が病気で亡くなったのであれば、
今、自分はその病気でないということで
安心できるわけです。

登山で誰かが亡くなったら、
自分は山に登らないようにしよう
ということで安心できるわけです。

しかし、自死は、
そのメカニズムが理解できないということを大きな原因として、
安心する方法がわかりません。

そこで、無意識に、
自死者と自分が違うんだという
その違いを探します。

そうすると、
「自死者は弱い人間だから死んで逃げたのだ、
 自分は弱い人間ではないから、
 自死することはない」
ということで、安心したくなるわけです。

これは、生き物として、
自然に、無意識に行われる反応で
悪意はありません。

もう一つ、
自死者の絶望を追体験したくない
ということも、防衛本能からの反応です。

だから、もっといろいろなことがあったのではないか
等、
具体的な事情を想像したり、
調べたりすることを本能的に避けます。

これはほかのシーンでも見られます。
悩んでいる人を励まそうとして、
「貴方は悪くない」
と言う人たちがいまだにいます。

その人の絶望の闇を見ないで、
否定してしまえますから、
大変楽なことです。

弁護士もまじめにやろうとすると
本能に逆らって、死者の絶望の闇を覗く
ということですから、
文字通り、因果な仕事だと思います。

自死対策に取り組むならば、
このような本能に逆らった理性を
根性いれて働かせなければなりません。

自死が起きたことを知らせること自体
本当はやっていいのかどうか、
疑問が無いわけではないのはこういう理由です。

しかし、人が自死をするのは
必ず理由のあることです。
その理由を探すことで、有効な自死予防が初めて講じられます。

そのためには、
一つ一つの自死をないがしろにしないで調査、分析し、
きちんと将来に向けた解決策を確立するべきだと思い、
活動をしている次第です。


第3 自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
   についての理解不足

これは、自死問題が、第2の理由でタブー視され、
特殊な個人的な問題だという理解が一般的であったために
なかなか検討が進まず、
一言でいって他人事でした。

先ず、その人の特殊な事情、うつ病や統合失調症という
病気が原因だろうという対策が立てられました。

医療の領域の問題だとされていました。

これまでともすれば、
自死対策=うつ病対策
とされてきたことは理由がありました。

一つの大きな転機は、
21世紀になっておきました。
自身の父親が自死をした体験を持つ心理学者ジョイナーが
ある発見をしました。

人は死にたいと自死願望をもっても、
死ぬことが怖いために死なないのだということです。

実に当たり前のことが注目されていませんでした。
「自死した人は特殊な人だ」
という防衛本能的反応が、
真実から目をそらした象徴的な結果です。


ジョイナーの自死理論は、
自死に至る過程の中で、死ぬことが怖くなくなっていく事情がある
と説明します。

死ぬことが怖くなくなるのは、
少しずつ、死を受け入れる環境があるからだというのです。

自分で自分を傷つけるリストカットなどの自傷行為もそうですが、
戦争体験等の体験が
徐々に死を身近なものとして感じてしまい、
死ぬことに対する抵抗力が無くなっていく
と説明しています。

これをさらに勝手に説明をしているのが
われらが「対人関係学」です。

自分が大事にされない体験が
およそ人間というものに対する価値観が低下していき、
人間の命の価値を低いものに感じてきてしまう。

命の価値を認めなくなれば、
死に対する恐怖も弱くなっていくという関係にあります。

つまり、自分が大切にされない体験
というものは、
人間にとって極めて有害で、
対人関係的危機感を抱かせる事情です。

その事情の中でも、自分が生きようとする意欲を持つためには、
大切にされなくてもそれほどダメージを持たないという
馴化(じゅんか。なれ)を無意識に生じさせます。

痛みを痛いと感じなくなるわけです。
それは、強くなるのではなく、鈍感になるということです。
また、人間が大切にされるものではないという馴化は、
繰り返されるうちに、
人間に対する価値観の低下を意味することになっていくわけです。

そうすると、こんな命を維持して苦しみ続けることに
理由を感じにくくなってしまいます。

死に対する抵抗力が無くなるわけです。

また、ジョイナーは、死に対する抵抗力の低下の事情を
身体生命に関する死の受け入れということで
とらえているようですが、

対人関係学は、
群れから尊重されないということも
人間の価値を低下していく事情になると考えています。

人間は、
身体生命の危険のほかに
対人関係的危険を感じる生き物である
そして、対人関係的危険に対する反応は、
身体生命の危険に対する反応をかりて、
同じ反応をしているということを主張しています。

この辺はアントニオダマシオの
「デカルトの誤り」で示された二次の情動とは、
対人関係的危険に対する反応であると
割り切って理解しているということになります。

そうすると、
このような対人関係学的見解に立った場合、
自死者の自死の原因を求めることとどのように
違いが生じてくるのでしょうか。

対人関係学的理解を前提とすると、
自死の原因を自死者という個人に求めて
自死者の治療やカウンセリングによって解決する
ということを主として行うわけではないということになります。

対人関係的な危険を感じさせるような
群れ、
学校や職場、家族や地域等様々な群れの
あり方を変えていくということが
有力な自死予防の解決策だということになります。

今日の結論を述べる前に、
もう一つお話します。

それは、人間の脳はそれほど短期間に変化しない
ということです。
自分が若者の時に耐えられたストレスが、
今の若者が耐えられなくなるということが
非科学的なのです。

脳の構造や仕組みは、
大雑把に言うと800万年それほど変化がなく、
20万年前からは、ほとんど変化していないでしょう。

それが、わずか数十年で
同じストレスに耐えられていた脳が、
退化して耐えられないようになる
ということはありえないと思います。

この論理と、
自死が起きやすくなる条件としての
自分が人間として尊重されていないという体験の積み重ねが必要だ
という条件を組み合わせれば、

「今の若者が弱くなった」ということは誤りであり、
実は、
「今の若者は、人間として尊重されないという体験を
 昔と比べて積み重ねられている」
ということなのです。

弱い人間が増えたのではなく、
人間が生きるにしては過酷過ぎる環境が増えた
と説明する方が科学的だし、
予防にとっては有効だと考えます。


当たり前に生きていれば、正直に生きていれば
死ぬまでなんとかなったという我々の子どものころとは違い、
ちょっと失敗すると、
一生幸せになれないという
失敗が許されないという
厳しい環境を感じさせられている
と、私は思います。






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妻が、ある日突然、子どもを連れて家から出て行ってしまわないための究極の方法 [家事]

第1章 なぜ妻は子どもを連れて突然出て行くのか

 1 根源は漠然とした不安
   はじめは、何となく不安だということから始まります。
   原因が良くわからないけれど不安だということから、
   だんだんと
   「自分だけ独りぼっちになる」ことが怖いとか
   「自分だけが損をしている」
   そんな感覚的なことのようです。

   「この不安の原因が夫だ」とか
   「夫がいなければ不安が無くなるだろう」
   ということで、「夫から離れよう」
   という気持ちになるようです。

 2 出て行くことの構造
   「不安素因」に、
   「外部的要因」が重なることで不安が大きくなり、
   「アドバイス」という要素が
   不安の原因を夫と特定して、
   子どもを連れて出て行くという結果につながることになります。

 3 不安素因
   これは主として、妻側の体調のようなものです。
   出産に伴うホルモンバランスの変化
   甲状腺機能亢進症、低下症のような病気、
   性格に近いようなもの
   年齢的なものとしか言いようのないこと、

   これら、誰が悪いというわけではなく
   結果として不安を感じて苦しんでいる
   ということが基本のようです。

 4 外部要因
   不安を高める要素として
   夫の収入や雇用の不安定さ
   子どもの障害等の事情
   その他、福島原発の放射能に対する恐怖
   などということも不安を高める要素のようです。

 5 アドバイス
   行政、警察が、奥さんが不安に苦しんでいるのを見ていると
   とりあえずDVを疑い、
   偶然的な接触を暴力でDVという場合があったり、
   何もなければ日頃のちょっとした言動が
   精神的DVだということで、
   不安の対象が夫だということになることがあると思います。

   実母等が、夫に原因を求めて
   自分の元にかくまうということも
   あるようです。
 
 6 その結果、妻は、夫と同じチームだという意識がなくなり、
   夫は敵対的な存在だと意識するようになり、
   客観的事情をはなれて、夫を怖がる傾向になるようです。

第2 夫が身につけるべき心構えと対策
 1 出産について
   出産後多かれ少なかれ人格が変わる女性は結構いらっしゃいます。
   攻撃的言動が増えてくるのですが、
   攻撃や怒りは、危険と感じる対象を
   叩き潰すことによって回避するメカニズムです。
   根源は、不安を感じ易くなっているのです。

   これは、本人の努力だけではどうしようもないことです。
   怒りを表現するほど不安があるのだから、
   むしろ夫は、最大限のねぎらいをかけるべきです。
   決して、理由なく攻撃的になっていることに
   怒り返してはいけないわけです。

   子どもじみた夫の言い分は共通しています。
   「だって俺は悪いことをしていない。」

   そんなこと言ったって、
   妻も何も悪いことはしていません。
   理由ない攻撃が悪いことだとしても
   その原因はホルモンバランスの変化にあるのかもしれません。
   妻の人格に原因があるわけではないのです。

   出産をなかったことにするわけにはいかないのです。
   そのような人間が変わるような苦労をしていただいた結果
   愛するわが子がこのように出現してきたわけですから、
   感謝こそすれ、怒って良いはずがありません。

   出産後、妻は夫に八つ当たりをする
   これは生きとし生けるものの共通であり、
   その最たるものがカマキリなのでしょう。

   八つ当たりをされても心を動かされない
   一夫一妻制とはそういうものだと思うべきです。

 2 妻をほめることで、ようやくプラスマイナスゼロになる。
   不安を抱くことに理由はありません。
   とにかく、普通に接していても
   悪く悪くとられてしまいます。
   冗談でからかっても、
   「夫はそれが原因で離婚を考えている」
   と受け止めてしまう危険があります。

   「けなすなんてしていない」
   と考えて身に覚えのない人は、
   褒めていないことに、ちやほやしていないことに
   思い当たるべきです。

   不安を抱く妻は、
   褒められているか、攻撃されているか
   どちらかしか感じない、中間なんてない
   と考えるとわかりやすいです。
   あなたが、褒めもけなしもしていないのならば
   それはけなしていると受け止められていると
   考えた方が無難でしょう。
   中間はないのです。

 3 良いとこ探しが人生さ

   「うちの妻には褒めるところが無い」
   なんていう罰当たりなことをいう人は、
   おそらく子供の育て方にも失敗するでしょう。
   思春期を乗り切ることは無理だと思います。

   その気になれば、何で褒められるのです。
   ご飯を作ってくれれば褒める。
   味がおいしくなくても、作ってくれたことに褒める。
   一つでもおいしい料理があれば
   徹底して褒める。

   褒めて誘導していくということです。
   褒められればうれしいので、
   また同じようなことをするわけです。

   これは誰でも一緒です。

   自分のアドバイスで実現したとしても
   手柄は妻に持たせましょう。

   最近の子どもじみた大人たちは
   手柄を譲ったり、
   わざと負けてあげたり
   という日本古来の美徳が身についていないようです。

 4 こうあるべきなんて勝手な話は捨てる

   例えば、料理はきちんと栄養がありやすくてうまいもの
   を作らなければならない
   なんて身勝手な発想はやめましょう。
   病気にならなければ良いんです。

   掃除はチリ一つ落ちていないようにしなければならない
   なんてことも思わない方良いでしょう。
   自分で掃除できるならばですが。

   できないことを怒らない
   これが基本ですね。
   
   できるところをほめていく、
   押しつけがましくなく自分でやる。
  
   夫はパートナーであって
   親でも先生でもないのです。
   ここを勘違いしている人が多いように思われます。

 5 それは自分の本能との闘い

   人間の生きていく本能として、
   危険を取り除いて命を長らえるというものがあります。

   何らかの不具合が余計は、敏感になり脳が警告を出します。
   良いところは、
それで良しで終わるので脳は警告を出しません。

そのために、悪いところばかりが目について
   相手の努力などはスルーするのが、
   本能的な行動ということになります。

   それでは、相手の不安のスイッチを押しまくってしまいます。

   悪いところに目をつぶり、
   良いところを積極的に見つけて褒めましょう。

   それは、意識しないとできないという理由があることだったのです。

 6 失敗や弱点に目をつぶってこそ仲間=帰属意識

   失敗は必ず起こります。
   弱点は人間に必ずあるものです。

   そういうウイークポイントを責めない、笑わない、批判しない
   もう一つ説教しない
   ウイークポイントは本人も自覚があります。
   だから、そのことをいじられることは、
   かさぶたをはがしていじられているようなものです。

   逆にウイークポイントをカバーされれば、
   この仲間のために貢献しようという気持ちが
   起きてくるものです。

   そうすると、不安になればなるほど
   あなたの元にとどまろうとするものです。

 7 自分と同じ事をしていても自分以上に努力しているかもしれない。

   例えば、妊娠を経験すると
   人によっては、床に落ちているごみを拾うことも
   出産後もおっくうになることがあるようです。
   だから、ゴミを拾うことだって、
   あなたには簡単なことだけど
   子どもの母親はあなた以上に努力をしないと
   できないことなのかもしれません。

   機嫌よく話していても
   本当は不安に苦しんでいるけれど
   家族のために笑顔を作っているのかもしれません。

   そこを褒めましょう。
   「笑顔がいいね。癒されるね。
    家に帰ってきたという気持ちになる。」
   そりゃあ、無理にでも笑顔でいようと思うようになるかもしれません。
   
   一緒にいることが楽しいということは
   そういうことなわけです。

 8 意見を言うことは可
   では、すべて妻の言うとおりに生きるのか
   と大上段に嘆く人がいると思いますが、
   意見を言うことはとても良いことです。
   但し、そういう時こそ、笑顔を作って、
   敵意のないことを示しながら話す必要があるようです。
   そしてサラっという。ということになりそうです。
   情報を伝達するより、余計な感情は伝達しないということですね。

以上、なんか皮肉めいたことを言っている
と読まれた人もいるでしょうが、
   全部本気で言っています。

但し、全部が全部できなくても、頭に入れておけば
悪いことは起きにくいでしょう。
例えば、相手が努力して機嫌よくしているのに
それに対するカウンターのような「からかい」はしなくなるはずです。

   男性だけ不平等ではないかという意見もあると思うのですが、
   そもそも命がけで子どもを産むのは女性だけです。
   これに勝る不平等はないのではないでしょうか。

    あなたが子どもを愛しているなら、
    子どもを命がけで生んでくれた妻に感謝をするべきですし、
    感謝をするということはこういうことのようだということが
    数々の事例からわかり始めたということになります。

    仲間とは、チームとはこういうことなのでしょう。


第7回わが子に会えない親の会の報告 [家事]



7月も例会はありました。報告が遅れていました。
結構熱く語っていたため、つい飲み過ぎて、
あまり覚えていなかったというのが
正直な理由です。

覚えている範囲でのご報告ですが、
7人の参加でした。

毎回参加する人(私もそうですが)、
久しぶりの人、
初めて参加する人がいるのは
いつものとおりです。

幹事さんや私から、
欠席の人のメッセージ伝達などがありました。


例会に参加していなくても、
自分の集まりだという想いを持っていただいていると感じて
私もうれしくなります。

メンバー同士で携帯電話番号を交換している人もいて、
会場に電話をよこして、
一部電話で参加というのもありました。


今回は、うれしいお知らせと残念なお知らせがありました。

嬉しいお知らせというのは、
今回初めて参加される方が、
なんと南関東から
わざわざこの集まりのために、
泊りがけで仙台にいらっしゃったことです。

子どもと別れて間もないということで
情報を集めにいらっしゃったようです。

ネットでの情報収集はしているようなのですが、
ネットでの情報は、どうしても断片的にならざるを得ず、
読み方に注意する必要があります

情報というものには、
メリットデメリットがあることがつきものなのですが、
読み手の能力に合わせて書いているわけではないので、
受け手が上手により分けて、
自分に活かす必要があります。

そういう意味では、こういう会に参加することは、
実体験に基づいたアドバイスを聞くことができますので、
情報の取捨選択もアドバイスを受けることができますし、
別の観点からの情報も入手できる可能性もあります。
とても有益だと思います。

どなたも初めてお会いした時は、
かなり落ち込んでいて、
口数も少なかった人ばかりなのですが、

二回、三回と参加されているうちに
堂々と自分の体験を語って
何とか仲間の役に立てばということで、
情報と勇気を分けあっています。

しかも、自分の体験を踏まえてなのでしょう、
決して押し付けることをしないということは
いつも感心しているところであります。

残念な話題の方ですが、
今回初めて女性の方が参加するはずだったのですが、
というか、
会場までいらっしゃったのですが、
店が気か利かなかったことと、
私と主催者が打ち合わせ不足があって、
席に通されなかったというハプニングがあり、
出席かなわなかったことです。

あとで、気転を利かしていただき、
店に電話をしてもらい、
連絡がとれて事情がわかりました。
まずは安心しました。

次回は、
8月25日金曜日
6時30分から
初参加の方は、
土井法律事務所(022-212-3773)
までお問い合わせください。

くよくよしたりいかったりする前に、自分の行動の修正を考えると楽になるかも [自死(自殺)・不明死、葛藤]

他人の言動を気にする人の多くが、
「ただ気にしているだけ」
という場合が意外に多いのです。

くよくよ悩む人に限って、
ただただ悩んでいるようで、
苦しみのスパイラルに陥りがちの様です。

他人の言動によって、
落ち込んだり、
逆に怒ったりするということは、
その人との関係に
危機感を感じているということ
というのが対人関係学の主張です。

危機感とは、その人との関係が
壊れてしまうのではないか、
その人たちから自分が仲間はずれにされるのではないか
ということで、
この危機感を感じて行動を抑止したり修正することで、
人間は群れを作ることができわけです。
だから言葉のない時代からの
人間の生きる仕組みだったわけです。

だから、本来は、
くよくよ考えている時間はもったいない
ということになります。

その危機が、
自分の行動によって生じたのではないかと考え、
もし自分の行動をこう修正していたら、
自分も相手も快適だったかもしれない
という
今後の相手との付き合い方の修正の
絶好のチャンスなのです。

ここは、少し難しい思考が必要かもしれません。
大体は無防備な発言をしているのですが、
どの発言が相手の機嫌を損ねたのか、
見つける作業は、
相手の気もちを考えて検討しなければならないからです。

また、自分が修正する必要はない
と無意識に頑張ってしまうこともあるでしょう。

ただ、改める必要がある考えとしては、
赤ちゃんでなければ、
対人関係は、自分が構築することだという
意識を持つということです。

「自分が自由に何をやっても許される。
 相手が会わせてくれなければ困る。」
ということを無意識に志向している場合、
自分の行動を修正する
という発想がなかなか出てきません。
これは赤ちゃんだけが許される依存なのだと思います。

赤ちゃん的依存志向の場合は、
相手が自分に批判的だと感じると、
もうどうして良いかわからなくなり、
単に落ち込むか、
無かったことにしたり、
相手が悪いということにしたりするから、
解決が難しくなってしまいます。


本当はこうすればよかった
ということを思いついた後の話です。

こうすればということを
「本当に自分ができるのか」
ということも考える余裕があるとよいでしょう。

たとえば
夜中まで寝ないで頑張るとか
外のすべてを犠牲にして取り組むとか
できないことをしようとしてはいないか
ということです。

自分にとっての相手の大切さですが、
できないことをしようとすると
とても苦しくなってしまいます。

早晩行き詰まるでしょう。

次善の策を考える必要があるようです。

また、ベストは、
自分は、こういうことを修正したいけれど
自分の能力から言うとここまでが限界だ
どうしましょう。
と相談できることです。

大体は、
そこまでわかってくれたら
それだけでうれしいというか満足することが多いので、
無理しなくても済む
ということになるはずです。

しかし、相手が
自分ができないことを要求してくる場合は、

むしろ相手との人間関係の在り方を考えるべきです。

本当に、自分の行動を修正してまでも
人間関係を続けるべきなのか
という疑問を持つことがとても大切です。

どうしても人間は群れを作るという性質上
対人関係の不具合を必要以上に気にしてしまいます。
これは無意識に行われるので、
意識して選別する必要があるわけです。

100万年前くらいは、
人間は生まれてから死ぬまで
たった一つの群れで生活していたのですが、
現代は、
家庭、学校、職場、地域、研究会等
様々な群れに帰属していますし、
同じ群れに属さない人たちと
街ですれ違うばかりか、
同じ建物で居住しています。

それにもかかわらず、
一つの群れで一生を終えたときの
遺伝子的な感情が残ってしまっています。

ここは、意識的に、
検討をする必要があるわけです。

例えば、
街で、見ず知らずの人にぶつかって
怒られたような場合、
さすがに自分が悪い場合は、
謝る必要はあるでしょうが、
それ以上落ち込んだり、怒ったりする必要はないでしょう。

例えばスマホを見ないで歩く
という自分の行動を修正すればよいでしょう。

家庭で、パートナーから小言を言われた場合、
それはかけがえのない群れですから、
自分の行動の修正を考えるとよいでしょう。
ここでコツは、自分が悪かったから改める
という後ろ向きな考えに陥らずに、
パートナーとのより快適な関係のために
相手の言い分(多少依存的傾向も)を
受け入れる工夫をしてみる
ということも考えてよいと思います。

大体は、何が相手の気に障ったのかを
言い当てることによって、
それだけで、相手は落ち着くでしょう。
相手は、あなたの何らかの行動で、
「自分が尊重されていない」
と思っているだけかもしれないからです。

これが職場ですと、
上司の厳しい評価によって落ち込むことがあるかもしれません。

会社は確かに、生きていくために重要な群れです。
できるなら、転職のリスクは負いたくないですし、
群れに帰属したいという本能が現れてくる要素として、
毎日顔をあわせて、群れの意識が高まっているからです。

しかし、現代の会社が、どこまで群れの名前に値するか
大変疑問がある例が多くなりました。
本当に自分を仲間として認めているのか、
単なる、自分で考える便利な機会の一つと考えているのか
見極める必要があるわけです。

できないことをしなければならない
という態度なのか、
自分に責任が無いのに叱責されているのか、
ということが重要な判断材料になると思います。

会社の要求することを
無条件でやろうとしないで、
立ち止まって考える必要があると思います。

会社の代わりも、会社にとって自分の代わりも
あり得るということを忘れないでください。


知恵の実と失楽園、文明と不平等の起源 なぜ科学が人類を滅ぼそうとするのか。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

アダムとイブは、
禁じられていた知恵の樹の実を食べたことで、
楽園を追放されました。

禁じていたのはエホバだとされています。

この記事は、この聖書のエピソード
解説するわけではありません。

対人関係学的に見た場合、
この聖書の記載が、
人類史の大きな転換点を象徴的に表現したものだという
真理を感じたので、
そのわけをちょっとお話してみようと思います。


おそらくアダムとイブという
個を確立する以前の人間は、
群れの中の一員という意識、無意識が大勢を占めていて、
一人一人の利益が衝突するということは
あまりなかったものと思われます。

人間の先祖がチンパンジーの先祖から分かれて
800万年と言われています。
そのほとんどの時期、
人間は群れを作って生存していて、
群れの構成員は全て平等だったと思います。

牙や爪といった武器を持たず、
逃げるための脚力や、敏捷性等を持たない人間は、
一人で生きていたのでは、
外敵から簡単に捕食されてしまっていたでしょう。

しかし、比較的大型の体格をした人間が、
集団を形成することは、
猛獣から見ても不気味ですから、
襲われにくかったと思います。

要するに群れの頭数が
人間の祖先を守ってきたわけです。

だから、群れ全体の頭数を確保することが
人間にとって必要でした。
食料は平等に分けられたと思いますし、むしろ、
むしろ弱い者にこそ手厚く施されたことでしょう。

なぜならば、
弱い者が病気になり、死んでしまったら
頭数が減ってしまうからです。
強い個体も、
自分が強いことで群れから大事にされることで満足し、
おそらく、自分の働きに応じて食料をよこせ
という発想はなかったことでしょう。

自分と群れを対立的に考えるのではなく、
群れの他の構成員と自分も
それほど区別がつかなかったと思います。

「自分が」ではなく、
「私たちの群れが」という意識だったでしょう。

だから、自分の死にあたっても、
群れの存続が図られるのであれば、
それほど怖さは無かったと思われます。
個体が群れに埋没していたともいえるかもしれません。

このような平等は、きれいごとではなく、
個体が生存するための必須条件です。
つまり平等を守ることができる群れだけが
群れの頭数を確保して
遺伝子を継承することができた
ということになると思います。

われわれはその末裔ということになるでしょう。

この遺伝子上の仕組みのために、自分の利益のために
他の構成員に不利益を与えるということは、
自然と嫌悪の情が湧いたのだと思います。
理屈ではなく、遺伝子レベルでの志向、感情
ということになるわけです。

さらに、抜け駆けをする個体を駆除しなければ、
群れを守れないというのであれば、
抜け駆けする個体を集団の力によって駆除したでしょう。

それは、おそらく何百万年かけて
遺伝子に定着していったものと思われます。

ここ数万年の最近になって、
食料が備蓄できるようになってきて、
また生産力も人工的に高められることによって、
客観的には、
必ずしも平等を貫かなくても、
弱い個体が死滅して群れの頭数が減り自分も死ぬ
ということにはならなくなりました。

しかし、客観的な事実の変化に反して
かなり長い間強制平等は徹底されていたと思います。

強制平等が生まれたのも、
理性の力というよりは、
強制平等を志向する遺伝子だけが生き残ったということですから、
客観的に強制平等の必要性が無くても
遺伝子が伝える感情がそう簡単になくなることはないからです。

そうだとすると、知恵の樹の実を食べることを禁じたのは、
遺伝子の声であり、
そういう遺伝子に作り上げた地球の神秘であり、
そういう意味で神であったということは
とても良く理解することができたのです。

では、結局知恵の樹の実の「知恵」とは
何だったのでしょう。

肯定的な面を見ると、
客観的な合理性のないルールを疑い、
必要のない縛りから個体を解放する
という面があるでしょう。

しかし、否定的な面を見ると、
自分の知識の範囲だけで行動することになったとともに、
自分の利益と他者の利益を対立させるようになり、
簡単に言えば利己主義の始まりだということになるでしょう。

他人と自分の区別をするようになり、
他人をさておいても自分の利益を守る。
弱い者を踏みつぶしても自分の利益を図る
ということが始まったわけです。

群れ全体の利益と自分の利益が
同じものにならなくなったために、
自分の個体の死というものが、
とてつもなく恐ろしいものになっていったわけです。

楽園から追放されて以来
「人間は死ぬようになった」ということは
こういう意味で、真理だと思います。

他者と自分の区別を感じるようになり、
他者との間で優越的地位を保とうとすれば、
羞恥の感情も現れるでしょう。

聖書の記載は全く正しいと感じるわけです。

人間が知恵を獲得したことが
原罪だというキリスト教の教えも
すんなり受け止めることができます。


知恵や理性は、私もこれまで
正しいもののように思っていました。
あるいは好ましいものだと思っていました。

しかし、まさにこの抜け駆けという意味での
「知恵」の中には
遺伝子から来る感情である、
「仲間に不利益を与えてしまって申し訳ない」
というものや、
自分の行為によって不利益を受けて、
悲しんだり、途方に暮れたりする仲間の
負の感情に対して共感を覚えたり、共鳴してしまったりという
遺伝子から来る感情を抑圧することができてしまいます。
そうして、自分の利益を図ることができるから図る
という意識的あるいは無意識の働きが
可能になるという仕組みが生まれます。

弱肉強食を是認することは、
知恵や理性の力ということになるでしょう。

知恵や理性の集団的な表れである「文明」も
もしかしたら、利己的な思考の表れではないかと
ハラリの「サピエンス全史」を読むと
そう思わざるを得なくなります。

これを端的に表したのが、
ヒュースケンの「日本日記」です。
ヒュースケンは、幕末ハリスの通訳として
来日した人物で、
日記をつけていたものが公刊されています。

西洋文明が入ってくる前の
美しい日本人の情景がふんだんに記載されています。
日本の滞在時間が長くなるほど、
西洋文明とは異なる日本人の行動様式にひかれていったようです。

ヒュースケンは、次のように書き記しています。
「今や私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩は本当に進歩なのか?この文明は本当にお前のための文明なのか?この国の人々の質素な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならないのである。」(青木枝朗訳岩波文庫221頁)

結局、このヒュースケンの見通しが正しかったかもしれません。

この点において、ハラリもサピエンス全史下巻で、言及しています。

要約すると、
境界を接しない国に対する侵略は、技術や国力で実現したのではなく、
西洋的な文明によって実現していった
だから、いち早く文明を取り入れた日本が、
西洋列強から支配されず、
他国を侵略していくに至った
というのです。

もちろんここでいう「文明」は
「知恵」や「理性」の総体としての「文明」です。

日本が西洋列強から支配されなかった原因が
西洋文明の導入にあるというハラリの考えは
私は不十分ではないかと思います。

日本の文化と秩序は、
日本人が意識的に形成していったものです。
そこには武士や僧侶たちの意識的な活動がありました。

但し、他のアジアの国々やイスラム圏の国々と異なり、
日本が、他国に攻め込んで支配しようとするようになったんは、
明治維新という、日本の西洋化の結果だと言われれば
得心できるところが多くあります。

「文明」は、他者との競争をもたらしましたが、
競争を勝ち抜くために
物事を単純に割り切るようになりました。

正と悪、
あるいは正と誤
自分側と敵側、
やるかやられるか、
好ましいもの嫌いなもの
加害者と被害者
支配する者と服従する者
勝つ者と負ける者
理性と感性あるいは、理性と本能

単純化して対立させることによって
「同じ人間なのだ」という当たり前の理解を
自分で封殺することができるようになったわけです。
だから、他人を陥れて
自分の利益を図ることができるのです。

これは、明治維新以来
日本においても徐々に定着するようになりました。

江戸時代までの日本は、
善悪で割り切るのは子どもの発想でした。
いや子どもですら、
例えば、仁義礼智忠信孝悌という
様々な価値観があるということを
読本などで知っていました。

かたき討ちは、
人を殺すことでよくないが、
親の敵を討つという側面では共感できる
という複雑な思考を
当たり前のようにしていたことになります。

文明が徹底されれば
ただの殺人者ということで終わってしまいます。

きわめて極端な結論の
どちらかに入ってしまうことにしかなりません。

サピエンス全史のハラリは、
一神教と多神教の影響を示唆しています。

割り切ってしまうことでは、
因幡の白兎は、
わにざめをだました悪ということになり、
皮をはがれても仕方がない
という存在なのでしょう。

しかし、大国主命は、
そんな白うさぎを助けます。
助けることが肯定的に描かれているのが
日本の心だと思います。
簡単に言えば、
「いくら何でもやり過ぎだ。
 もういいじゃないか。」
という発想です。

こういう発想は文明開化とともに
実際上否定されていくことになります。

明治維新以後に書かれた歴史書は
ことさら江戸時代の負の側面を強調していますが、
明治維新はまさに日本のイデオロギー対決の場面ですから、
少し懐疑的に見る必要があるでしょう。

江戸時代までの貧富の差は、
貧しき者の立場をつぶすということはなく、
生活は保障されていたわけです。
上に立つ武士が自らを正して
質素倹約に価値を置いて、
経済的実力以上の振る舞いを禁じていた
という側面があったことを見逃すべきではないでしょう。

もちろん、日本文化の否定的側面もあるのですが、
肯定的側面があまり正当に評価されていないのではないか
という問題意識があるわけです。

さて、そうはいっても、
文明という欲望の正当化という体系様式は、
科学の発展に寄与してきたことも間違いのない事実でしょう。
文明の正の側面ということになると思います。

しかし、その文明ということの出発点が
個人の利益を追求するということであったことの
必然的帰結として、あるいは内包する矛盾として
科学の発展の帰結が、
核兵器や地球温暖化という
人類の滅亡ということになりかねない状態にあります。

また、消えない800万年の遺伝子が、
平等に扱われない苦しい感情の源とになったり、
平等に扱わない自責感情の源となり、
社会的ストレスとなっています。

もともと、遺伝子の声から耳をふさぐことで出発した
知恵や科学や理性や文明です。
理由の理解できない掟から
人間(強者)を解放したという側面がありました。

しかし、
今は、遺伝子の声にこそ耳を傾け
人間本来の幸せを感じる感情を実現させるために、
あるいは、人間の滅亡を回避するために、
弱肉強食の常識を疑うことに使われるべきです。

知恵をそのような方向で
全力で稼働させなければならない時期に来ていると
私は考えます。



これが典型的なパワハラだ。「一度で覚えろ」、「こんなこともできないのか」がとても危険で即刻辞めるべきだという理由 [労災事件]

パワハラによって労働者が自死した事件を担当すると、
かなりの頻度で登場するのが、

「どうして一度でわからない」
「一度聴いたら覚えろ」
「何度説明すればよいのだ」
「何度言ったらわかるのか」
「どうしてこんなこともできないのか」
「こんなことができなくて今まで何やってきたんだ」

という、労働者の能力を直接否定する言動です。

挙句の果てには、
「一度言ったからもう言わない」
「あとは自分で調べろ」
「自分で理解する努力をしろ」
ということで、指導を放棄するという
行動に出ることも多く見られます。

(公共の安全にかかわる仕事で
 こういうことが横行しています。
 自分が言われたことをどうやってやればよいか
 わからない人に私たちの安全が
 ゆだねられているということが結構あることになります。)

こういうことは一度で終わらず、
何度も何度も繰り返されます。

そうすると言われた方はどうなるでしょうか。


人間は群れを作る動物です。
800万年前ですから「言葉」が生まれるはるか以前から
群れを作ってきました。
その仕組みは、
群れから追放されそうになると
「不安」を感じて、
自分の行動を修正することで
群れにとどまってきたというものだと思います。

この「不安」を生理学的に言ったのが
ストレスです。

そもそも群れから追放されるようなこと、例えば
理由もなく誰かを攻撃するとか
弱い者から食料などを奪い取るとか
そういうことを、はじめからしない
ということもこの仕組みです。

自分では気が付かなくても
群れの反応を見たり、推測したりして
やろうと思った行動をやめてみたり、
方法を少し変えてみたり
私たちもやっていることです。

現代社会ではもしかすると
群れにとどまる切迫した必要はないのかもしれませんが、

800万年の人類の歴史の上に自分たちは生きているわけですから、
こういう群れが命の維持の絶対条件だった時の
修正が無くなってしまうことはなく、
遺伝子にしっかり組み込まれているとみるべきでしょう。

無意識に、
不安感や自己嫌悪感が
キチンと形成されているわけです。

とにかく群れから追放されそうになると
群れにしがみつこうとしてしまいます。
人間というのはそういう動物です。

群れから追放されることの不安が高まるきっかけが、
自分が群れにとって不用な人物だという烙印を押されることです。
群れにとってふさわしくない人物だとか
どうでも良い人物だとか人より劣っているとか
自分がそういうふうに思われていると感じると
どんどん不安になり、ストレスが形成されていきます。

先ほどの言葉

「どうして一度でわからない」
「一度聴いたら覚えろ」
「何度説明すればよいのだ」
「何度言ったらわかるのか」
「どうしてこんなこともできないのか」
「こんなことができなくて今まで何やってきたんだ」

これらは、
自分が、職業をする職場の人間として
能力的資格がないということを突き付けています。

解雇するぞとか退職を示唆されているわけではないのですが、
遺伝子的レベルの無意識の反応の中に
群れから追放されるという不安を
つい持ってしまうきっかけになってしまいます。

要するにこれらの言葉の中には、
「これは、私たち職場の人間は、
 通常一回聞けばわかるものだ。
 これを一回聞いても覚えられないのは、
 私たち職場の人間の持っている資質よりも
 一段劣っている資質の人間だということだ。」
という言外の言葉が隠されていて、
その要点を、
むしろ無意識のレベルで把握してしまうということだと思います。

しかし、この評価が正しいということは極めて少ないです。
一回聞いて覚えられるような誰でもできる仕事が
プロとして行われている仕事だということはあまりありません。
素人にできない仕事だからプロの仕事なのです。
一回聞いて覚えられるということはあまりないということが現実です。

次に、すぐに把握できる環境にあるのか
ということが問題です。
過重労働が続いていないか
あれこれといろいろなことを同時期に行うことが要請されていないか
不必要な緊張を押し付けられていないか
という問題があります。

こういう悪条件があると、
新しいことを覚えることは難しくなります。

そしてさらに、
教え方は適切だったか
という問題があります。

立派な上司であれば、
自分に自信のある上司であれば、
自分の教え方を修正しようとして、
部下のわからないポイントを尋ねるでしょう。

そして、どこがわからないのか、
どのポイントに誤解なり、知識不足があるかを見極めて、
適切なアドバイスをするでしょう。

本当を言えば、それができないからこそ、
二度目を教えることができないのです。
一度目は、わけがわからないうちにまとまった指示を出すので、
聞いている方が疑問を持たないのです。

それで実際やってみて、
具体的にわからないことが出てくる。
その分からないことを聞かれると、
そこにピンポイントに応えて、説明しなければなりません。
おそらく、パワハラ上司は、
自分でも人に教えるほどはわかっていないのだと思います。

「自分はそれでも食らいついていった」と言うことも多いのですが、
食らいつく甲斐のあった自分のかつての上司と、
自分自身の比較をしてから言うべきです。

教えないで済ませることができる職場なら
どうでも良い職場ということになります。
上司が役割を果たさなくても不問に付されるということですから
上司にとってとても甘い職場ということになります。
あまり未来のある職場ではないでしょう。

大体は、一度聞いてわかるような話ではありません。
自分で調べると言ったって、
何をどう調べたらよいのか
経験などが無いためにわからないということが多い
ということが裁判等では明らかにされることが良くあります。

それでも、言われている方は
そんな事情は全く分かりません。
次第に、本当に自分には能力が無いのではないか
と考え始めてしまいます。

一つには、繰り返し上司から言われているうちに
そう思いこまされるということもあるでしょう。

ただ、見逃してはいけないことは、
人間は理不尽な扱いを、理由もなくされている
という絶望を感じることをなるべく回避しようとするようです。

だから、「自分が悪い」と思うと
かえって救われるのだそうです。

「どういう風にやったら良いかわからない
 上司に尋ねても教えてくれない
 このままだと、自分は指示されたことが
 達成できない」
労働者は途方に暮れているわけです。

できなければ叱責されるでしょう。
極めて理不尽なことになっているわけですが、
それが理由なくされていると
そこまでひどい扱いをされているとは
人間思いたくないようです。

「何か理由があるはずだ
 その理由を見つけて修正したい」
無意識に人間は救いを求めるようです。

「自分には能力が無い」
だからつらく当たられるのだ
という考えに逃げ込んでいくわけです。
事実、「自分が悪い」
そう思うことで、少し心が明るくなるようです。

どんどん自分に対する自分自身の評価が低下していきます。
自分が生きている価値が無いというような
考えに近づいていきます。

これに睡眠不足や
過重労働が加われば
精神的に破たんしていきます。
生きる意欲が失われていくわけです。

これは極めて悪質なパワハラなのです。
人の命を蝕む行為だと言わなければなりません。
このようなことを、
周囲も容認してはいけません。


このように追い込まれた労働者は
会社を辞めようという選択肢を持たないことも多いようです。

退職ではなく、
会社という群れから追放されそうな自分は、
死ぬことを考えるようになります。

このまま苦しみ続けるか
死ぬか

という発想になるようです。

先ほどの自責の念と似ていますが、
「死んだら」
苦しみが無くなるということを考えると
甘い誘惑に引き込まれていくようです。
次第に死ぬことが
希望のような感覚になっていってしまうようです。

まさに精神破綻です。

職場を挙げて、
このような理不尽を防止することが
会社のためにも労働者のためにも
必要なことだと思います。

万引きについての講演会をします。 ~再度の執行猶予、再度の起訴猶予はどうやって実現したか~ [刑事事件]


平成29年7月20日6時から仙台アエル29階研修室で、
「万引きをしてしまった人にどのように働きかけるか」
ということをお話しします。

万引きは、軽い犯罪のように思われがちですが、
刑法上は窃盗に該当します。
10年以下の懲役(刑務所における強制労働)か
50万円以下の罰金と定められています。

最初は逮捕もされないかもしれませんが、
万引きを繰り返しているうちにやがて逮捕勾留され、
刑務所に収監され、強制労働となります。

警察沙汰になるたびに
「もう二度としません」と誓うのですが、
二度目、三度目になると
当然のことですが信用してもらえなくなり、
資本主義経済秩序を乱す危険人物
ということになり、許されなくなるわけです。

誰だって、冷静な状態ならば万引きはしません。
逮捕された後にはみんな冷静になって後悔します。
問題は、万引きをする前に、冷静に
「やっぱりやめた」という気持ちを持つことができないことです。


大人が万引きをする場合は、必ず原因があります。
だって、小学生前の子どもだって、
教えなくたって、スーパーの商品を
勝手にとって食べることはしないでしょう。

スーパーの床に寝っ転がって
顔を真っ赤にして「買って買って」と
泣き叫んだところで、勝手に持ち帰ったりしません。

子どもの時にしなかった万引きを
大人になってすることには
必ず理由があるのです。

これを明らかにして
理由を無くさないと、
「気が付いたらまた万引きをしていた」
ということになってしまいます。

万引きは理性が働いている状態で行われるのではなく、
無意識に、「お金を払わないで持ち出さなければならない」
という強烈な思い込みの中で行われるようです。

最近増えているある類型の万引きはそのような傾向が強く
我に返ったときに、
どうして自分がそんなことをしてしまったのか
という強い後悔の念と自分を責める感情が襲ってくるようです。

その時は本人も万引きを二度としたくもないと思うものです。
「今度はもっとうまくやろう」と思っている人は
なかなかお目にかかったことはありません。

ところが、無意識のレベルの原因に対応していないから
何らかの事情で冷静さを失うことによって
人格が変わるように万引きをしてしまうわけです。
(この「何らかの事情」は大人特有のものです。)


無意識のレベルでの対応とはなにか、
何に気が付いて、どうすればよいのかを
当日お話しする予定です。

また、なぜ本人がやめるように考えを深められないか
その理由もあります。

先ず、万引きが犯罪であるという
当たり前のことが原因です。
やってはだめなことは冷静になればわかりますから
「悪いことをしました、もう二度としません」
と言えるから、考えが進まないのです。

また、周囲も
「だらしないやつ、万引きをするような奴」
ということで済ませてしまうわけですから
本人の孤立が深まっていってしまいます。

私は、万引きは偶然的要素のある犯罪ではなく、
本人や家族の不具合が万引きという形で現れたもの
というように考えています。

本当に改善するべきポイントは別にあることが多いのです。

自分や家族が万引きをしたという場合は、
関わる専門家、弁護士カウンセラー、あるいは医師
厳選しましょう。
よく話を聞いて、
将来の万引きを予防することに
真剣に取り組んでいる人にかかわってもらうことが必要です。

逮捕された場合は時間が足りません。
貴重な時間を無駄にすることはお勧めできません。
貴方の家族が万引きをしたのには理由があります。
そしてそれは除去できる理由であることが多くあります。

将来の万引きを予防する対策をしっかり立てることが
再度の執行猶予や再度の起訴猶予に向かう手がかりなのです。

私は、刑事裁判になった万引きだけでなく、
刑事裁判になりそうな万引き事例の相談、弁護、
警察には知られていないけど万引きをしてしまった
という相談も多数受けています。

万引きをした人や被害を受けたお店の人と関わる中で
けっこう人間の温かみを感じたりしています。
肝心なことは被害店舗に自分で謝りに行くということ
そうして、それには若干のコツもあります。

そういうことを1時間半くらいかけて
ゆっくりお話ししたいと考えております。

大人とは何か。国会議員のパワハラに学ぶ [労働事件]


大人の反対は子どもで、究極には赤ん坊でしょう。
とりわけ人間の赤ん坊は、自分では何もできません。
おなかがすいても、おっぱいまで自力でたどり着けません。
移動がまず無理です。

暑くても、排せつでも、眠ることすら
自分で始末ができません。

大人に気づいてもらうために
泣くわけです。
大人も、ツバメが巣のひなが口を開けて待っているところへ
餌をやるように世話をします。

人間の赤ん坊の対人関係は
他の構成員に完全に依存をして
身体生命の安全と
対人関係的な安全を確保するという関係です。

「成長」とは、
自分の行動可能範囲が拡大していくことです。
それと同時に、
自分の行動を自分で決定して行動したい
という要求も生まれてきます。
これが本来あるべき動物の個体の特性ですから、
当然のことです。

ちなみに、この決定権が阻害されたときの反発が
「反抗」です。

大人になるということや「成長」が
身体の変化についてだけ語られることが多いのですが、
対人関係学的に言えば、
一つは、今述べた自己決定による行動の拡大が「成長」です。

もう一つの「成長」は、
対人関係における自己の在り方の変化です。
これが重要な指標ということになります。
つまり、
赤ちゃんの時は、すべて
例えば家族という対人関係では
親等が対人関係的な危険を除去してくれていました。
自分は、家族という対人関係に対して
何らかの行動で貢献をしていません。

完全に従属的な対人関係です。

少しずつお手伝いをしながら、
家族の一員として行動をするようになります。
同じ行動をしても、
例えば勉強をしていても、
自分のためだけに勉強をするのではなく、
将来の家族のためだったり、
家族の一員として頑張る
等の意識付けがなされることもあります。

家族に何かしてもらばかりではなく、
家族のために何かをするようになるということです。
これが対人関係学的な成長です。

こういう体験を通じて、将来、
親の家庭から独立して
自分の家庭を持つための準備になるわけです。

動物の場合、
本能的ないし生理的に
子別れの時期が来て子別れができるのですが、
人間の場合、
意識的に行わないと
親離れ、子離れができません。
こういうケースも多くなってきました。

一つのキーワードは、
家族の構成員として子どもを行動させることが、
逆に子離れ、親離れを自然にスムーズにするということです。

親がすべてをしてあげることは、
あるいは、親にすべてをしてもらおうという意識は、
子どもが大人に成長することを阻害することになります。

年齢が大人に達してなお、親に依存している生活を続けてしまうと、
なかなか対人関係学的な意味での大人になりません。
それでも、時が過ぎると、親に依存することができない年齢になってしまいます。
こうなると、ようやく対人関係学的に大人になったときにできることは
せいぜい親の介護だけだったということもあり得る話なのです。
その人の一生が老老介護で終わってしまうということです。
もしかしたら、それは親の責任かもしれません。

以上から見えてくる「大人」とは、
「他人に依存することなく、
 対人関係を、主体的に形成していく人間の成長の段階」
を言うのだと思います。

主体的に形成するといっても、
人間は群れを作る動物ですから、
他の構成員と共同作業をする
という特質があります。

共同作業と依存のどこが違うかということは、
共同作業は、相互に相手を尊重しながら、
それぞれが自己決定した行動を共有します。

依存は、決定過程に一方の意思しか反映しません。
他方が自分で何かを決めることは許されません。
一方が結論を求めて他方が従うという構造となります。

赤ちゃんがおなかがすいたからおっぱいをあげる
というのは、
赤ちゃんの決定、つまり、「自分のおなかを満たせ」という結論の求めに
親が対応しているということになります。

行動を決定する者、結論を求める者こそが、
実は依存者なのです。

最近実録音声が公開された国会議員のパワハラは、
パワハラ加害者の幼稚性を
実にわかりやすく示しています。

この場合、結論を求めている方が
国家議員でした。
国会議員が秘書に依存していたと評価されるべきです。

過去の誤りをなかったことにしろという
典型的な無理難題の結論を
秘書に押し付けていたわけです。

実現不可能な結論を求めて、
攻撃を繰り返すところに
パワハラの特徴があります。

厳密な意味では不可能ではないにしても、
実際それを遂行するのは著しく労力がかかる
ということも似たようなことですね。

被害者は、途方にくれますが、
対人関係的な危険を強く感じ続けるという状態で、
生理学的に言えば、
生命身体の危険を感じ続けるということと
同様の反応を人体は示しています。

人間にとって、
心身共に極めて有害な出来事なのです。

赤ん坊が親に泣きつくのは、
赤ん坊だから許されるし、
泣いている声も可愛いと思います。
(だからなぜ泣いているのかわからないと
 不安になったり怒りを覚えたりします。)

大人が、特に権力を持っているものが
赤ん坊の様に結論だけを求めて
喚き散らすことは
むしろ犯罪として取り締まりたいくらい危険なことなのです。

それでは、同意対応をすることが
大人の対応なのでしょうか。
理想的な上司の対応を検討します。

部下が、ミスをした場合。
不問に付すこともできないとしたら、
先ず、このミスから、どの程度の実害が生じるのか
冷静に分析をします。
そうして、その実害を克服する方法、
むしろ、ミスを活かす方法を検討するでしょう。

そして将来に向けて
どうしてそのようなミスが生じたかの原因を分析する必要があります。
気が緩んでいたとか、そういうことでは安定した仕事はできません。
具体的にミスの生じた構造を分析し、
将来ミスを繰り返さないために、
具体的な対策につなげなければなりません。

仕事とはそういうものです。
繰り返されるところに業務の特徴がありますから
繰り返さないこと
改善することを見つけて将来さらにプラスを目指すチャンスなのです。

日本の風土はもしかしたら
ビジネスチャンスになるミスの活用」
という発想が無くなってしまったのかもしれません。
「損して得取れ」という日本古来の発想です。

叱責や懲戒が、
当人だけでなく、職場という対人関係全体の将来において
プラスになるのでなければ意味がありません。
デメリットしかないのです。

部下の有能さ、上出来の結果だけを求めるというのは、
無能な上司の言い訳にしかすぎません。

「部下に緊張感を持たせる仕事」
「重石、ないしプレッシャーを与える仕事」
ということで割り切る会社もあるようです。
早晩、会社は先細りになるでしょう。

緊張やプレッシャーは良い仕事をするための要素になります。
しかし、それが高度になったり持続することで
自己決定力が落ちていき、ケアレスミスも増え、
結局デメリットしかないからです。

人間の緊張の持続には限界がある
という当たり前のことに目をつぶり、
緊張によって成し遂げる結論だけを求めている
幼稚な労務管理ということになります。

幼稚な労務管理は、
自発的な活動や、自主的な考察、
独創的な発想を奪います。
要するにモチベーションが低下するわけです。

ボランティアの支援者たちだって、
人を支援する場合には人間とは何かを考えるというのです。

他人と交流して利益を上げようという企業が、
人間とは何かを考えずに、
結論だけを求めて泣き叫ぶ赤ん坊の状態では
業績が上がらないことは理の必然だと思います。

まして、
国の在り方を決める国会議員が赤ん坊状態で泣きわめいて
権力を振りかざしているとしたら、
その国の将来はどうなることでしょう。

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