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連休明けの今日、学校に行かなかったあなたと親御さんに  [自死(自殺)・不明死、葛藤]

今日GW明けです。
おそらく、中学生を中心とする多くの子どもたちが
学校に行きたくないと感じていることでしょう。

実際に学校に行かなかった方もたくさんいると思います。

親としては大変心配になります。
学校に行きたくない理由は人によってたくさんあるのですが、
とにかく行けと強制したくなるのも仕方がありません。
それでも、行きたくない気持ちが強い
かなり強い、病的とも思える拒否反応を示すこともあります。

親として一番心配なことは、
とりあえず家から出て、学校に行かないことです。
家の中で、家族に、「学校に行かない」
と宣言して行かないのであれば、
少し安心してもよいのだと思います。

多少なりとも、親を信頼している
という見方もできるからです。
大切なことは、
無理やり行かせないことです。

もちろん行くように説得するべきですし、
そのためには事情を聴くことが必須です。
行く気持ちにさせる努力は必要だと思います。

ダメなのは
頭ごなしに行かなくてはならない
あるいは強制的に学校に連れていくことかもしれません。
行きたくないという気持ちだけは、存在するのです。
無いことにはできない部分です。

気持ちを動かすことができなければ
むしろ「今日は」あきらめる
という選択肢を持つべきだと思います。

今日、突然学校に行かないと言い出すお子さんも
このまま学校に行かないのはまずいと思っています。
本当は、
「今日だけは」行きたくないというお子さんが多いようです。

端的に、
このままいけなくなってしまうのではないか
それなら無理しても行った方が良いと思う。
と意見を述べ、
「明日からは行く」
ということであれば、
「今日は」休むことを支持してもよいかもしれません。

私が思うのですが、
私が中学生だった40年前と現代では
中学校という人間関係は
ずいぶん様変わりしているように感じるのです。

子ども同士の厳しさみたいなものがあり、
許されないという雰囲気が強いようです。

あまり詳細には繰り返しませんが、
良い学校に入って、良い仕事について
解雇の心配と無年金の心配のない環境に入らなければならない
という切迫感を強く感じます。

良い学校に入るためには、
全教科で水準以上の成績を収めなければならない
学校生活で失敗することも許されない
という息苦しさを感じます。

そのため、子どもたち同士でも、
相手の些細な過ちや
求められる水準を満たさない事による中傷が
容赦なく行われます。

例えば部活動に出ないと
ラインなどで、どうして出てこないのだという
一斉攻撃が始まります。

顧問が、それを行うこともあります。

部活動は、
ブラック企業の非人間的な集団生活を送ることに備えるための
精神修業の場ではなく、
充実や、喜びや、楽しさのためにある
という考えは、はじめから無いようです。

このような子どもたちの過酷な攻撃に追い打ちをかけるのが
連帯責任を理由にする叱責です。

一人がいろいろな理由で共同行動できないことが
他の子どもたちが叱られる理由になるという
江戸時代でもめったになかったことを
平気で行ている学校もあります。

また、できないことはできないのに、
陰口をして、子ども同士が嘲笑するということも
今の学校ではあるようです。

「許されない環境」が学校にはあるようです。

ゴールデンウイーク中
家族の中で安心して生活していたお子さんが、
連休明けに学校に行きたくないということは
こういう環境を考慮に入れれば
むしろ当然のことかもしれません。

私たち大人は、
そういう嫌なことを何度も経験していますから、
お子さんの悩みの理由がそれほど深刻なものとは
感じられないということも仕方がありません。

しかし、経験したことの無い苦しみの強烈さというものは
なかなか思い出すことができないものです。
また、その行きたくない理由がなかなか改善できないならば
お子さんは、
将来的にこの苦しみから逃れられない
という長期的な絶望感を感じているかもしれません。

学校に行きたくないということは
文字通りよほどのことだと考えましょう。

特に、小学校などでいじめをされた経験がある場合、
また、あの時と同じ気持ちになるかもしれない
というとてつもないストレスを抱えている可能性もあります。

行きたくないという理由を親が理解できなくても
行くことが極度の苦痛であることはありうることです。

さて、親としては子どもが学校を休んだ以上
学校に行かないことに罪悪感を感じてもらいたいと思うかもしれません。
または、本当に頭がおかしくなってしまったのかしらと
大変ご心配されるかもしれません。

しかし、今、特に今日限定で頭に入れておいていただきたいことは、
子どもは、親から特別扱いされることをとても嫌がることです。
特にはれ物に触るような扱いが苦手です。
普通にいつも通り接してほしいということが本音です。

大事なことは、
「明日から行くんだよね」ということを
ダメ押ししないことです。
(これが一番心配ですが)
行くことを前提にいそいそと準備をする
という姿勢が良いみたいです。

もう、「今日は」仕方がないという割り切り
これが、問題を最小限度にとどめるコツのようです。

さて、今まで今日休んだあなたがこれを読んで
どう思ったでしょうか。
全然わかっていないという評価かも知れません。
しかし、
そういうこと親に言ってほしいという部分が少しでもあるなら、
もう少しだけ読み進めていただきたいのです。

それは、あなたが今日休むことを私は賛成する。
その理由についてです。
大きく言えば、
あなたが自分自身を大切にするために
今日休むことが必要だと思うからです。

親御さんにもそれを理解してもらいたいと思って書きました。
その上で、
もっと、もっと、より自分を大切にすることを提案したいのです。

それは変えなくてもよい所は変えないままでも
考え方を少しだけ変えるということです。

変えなくてもよいところは、
あなたが今日学校に行きたくない事情を
嫌だと思うことです。
それは無理に変えることはできません。

ちょっとだけ変えることをご提案することは、
その嫌な事情の中で、
「自分を責めない」ことです。

できないことはできなくてもよいのです。

誰かから、先生だったり、同級生だったりから
嫌な評価をされたところで出来ないものは仕方がありません。
そんなことができなくたって
日常生活に支障はないでしょう。

要するに、人間はそれぞれ、
向いていないことがある
という事実を覚えるということです。

それにもかかわらず。
さっきも言ったように、
今の学校教育の中には全部をできなければいけないという
人間工学的に非科学的な軍隊思想みたいなものがあって、
一人一人を苦しめています。

あたかもできないことが悪だというような感じです。
これは間違っています。

先生や嫌な同級生が否定評価をしても
あなたは、自分自身を否定してはいけません。
向いていないだけなのです。

覚えていていただきたいことは、
向いていない事なのに他人からやいのやいのと否定されると
いつしか、人間としてすべて否定されているような
そんな感覚に陥ってしまいます。
これは人間誰しもそうです。
あなただけではありません。

しかし、真実はそのことが向いていないだけです。
他の人が簡単にできることが
できないということはよくあります。
言われると私も嫌な気持ちになります。

でもできないことなんていくつもあります。
逆にあなたでなければできないことも
必ずあるんです。

例えば、誰か友達に
「私も嫌な気持ちになったんだよ
 あなただけではないよ」
ということを言えるのもあなただけです。

欠点や弱点が多い人の方が
他人の役に立つことが多いのです。
私はそういう人たちをたくさん見てきています。

あなたの人生には向いていることが必ずあります。
しかし、それはあなたが、自分自身を認めてあげないと
見えてこないことかもしれません。

嫌な環境かもしれませんが、
他人に左右されず、
自分の向いていることを見つけていくことが
人生の喜びです。

私は、50歳を過ぎて
ようやくそれがわかってきました。
まだまだチャンスは十分あります。

今日一日思い切り贅沢をしましょう。
向いていないことは、今日一日きりすてて
ちょっと苦手だけど、このことほどではないことで
比較的できるかもしれないと思えることに
取り組んでみましょう。


家族の中で気まずくなったら、
このブログを紹介して読んでもらってください。





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対人関係学のピンチ 対人関係学は進化心理学の劣化版だったのか 平成30年上3半期の読書研究 [閑話休題]

今年になっての勉強から、進化心理学までたどり着いてしまった
ということなのです。

お正月休みに読んだ本が
ダニエル・カーネマンの「ファストアンドスロー」
ものすごく面白くて、
それまで読んだ行動経済学(マイケル・ルイス、リチャードセイラー)
よりも、しっくりくるというか
今年1年の収穫だと思っていたのです。

この人は、ノーベル経済学賞を取っていますが、
れっきとした心理学者で、
後で(昨日)気づいたのですが、
認知心理学者に分類されるようです。

そうしたら、すぐに、
ダニエル・リーバーマンの「人体」に夢中になってしまい、
もう、心理学をやっている場合ではないという気になってしまいました。
この人は、進化生物学の学者さんで、
ネイチャー投稿数の断トツ一位の人らしいです。

完全に対人関係学のエビデンスになっている!
と飛びついたわけです。
もうこの歳になると、
ノートを取りながら出ないと頭に入らないので
読むのに時間がかかります。

こういう本を読んでいるのは、
半分以上仕事のためです。
過労死事件は、まさに仕事ですし、
自死対策は、
私の公的活動の大部分を占めますので、
やはり、ある意味大切な仕事なのでしょう。

それから、4月に過労死弁護団の拡大幹事会で、
慢性持続性ストレス
というよだれが出るほど、待ってましたという検討課題が提案され、
初心に立ち返り、というか初めて読んだのですが、
ストレスの創始者、
キャノン「からだの知恵」
セリエ「現代社会とストレス」
を読みました。

特にキャノンが面白くて、
今まで私がおっかなびっくり
交感神経ってこうであるはずだ
と語っていたことがすべて書いてあって
感激しました。

キャノンが先行するのですが、
セリエとキャノンは交流があり、
セリエは、キャノンの人格をわざわざ論じているほどです。

そういう人間関係も面白いのですが、
キャノンは交感神経の活性化という視点で、
ストレスという言葉を使いません。

セリエは、ストレスという言葉を
現在言われているストレス反応に当てはめ
ストレッサーという言葉を作った人で
それぞれが学問を発展させてきたことがわかります。

何かのきっかけか忘れたのですが、
やはり、意識の二重構造について人に説明する必要が出てきて、
改めてファストアンドスローを読んだのですが、
ありゃりゃ、読み落としていたのか、意味を理解しなかったのか
ものすごい知識が詰め込まれていることに
改めて驚きました。

私のというか対人関係に大きな影響を与えた
バウマイスターの研究が多く引用されており、
これは何としても読みたいなと思うのですが、
彼の論文は日本語になっていません。
英語で読もうとしてもなかなか入手ができず、
何とか入手しても、
文節が長すぎてなんだかわからなくなることが多くて
うんざりするわけです。
彼の論文の邦訳がされないのに、
批判論文だけは日本語で紹介されるという
奇妙な現象があることをお知らせしておきます。

この批判論文は、題名を見ても
政治的観点からの批判であることがわかります。

過労死や自死を防止しようという熱意よりも
防止する活動を妨害しようとする熱意の方が高い
ということがうかがわれます。
こういう所は見習うべきかもしれません。

さて、意識の二重構造ですから
カーネマンが引用していた
キース・スタノビッチを読むことが自然な流れなわけです。

苦労して遠くの図書館から借りてきた本
「心は遺伝子の論理で決まるのか」<品切>の
現代版「現代世界における意思決定と合理性」が後から取り寄せられ、
大事なことがほとんど書いている上に
翻訳者が原語を翻訳する過程を脚注に事細かく書いていて
はじめからこれだけ読めばよかったのかもと思うこともありました。

キーススタノビッチは、バリバリの認知心理学者だと思うのですが、
当然受け入れながら批判する対象が
進化心理学というわけです。

ダニエル・リーバーマンが引用した
ドブジャンスキーの
「生物学におけるいかなるものも
進化の視点からでなければ何も意味をなさない」
という言葉をストレートに影響を受けていますから、
心理学だってそうだ!と意気込んでいたわけです。
これは対人関係学しかないと思っていたのに、
ああ、やっぱりあったのねということで
進化心理学にたどり着いた次第です。

進化心理学については、ウィキベディアが要領よくまとめています。
最初はわかったようなわからないような感じだったのですが、
ちょっとかじると要領よいことに気が付きます。

進化心理学者は仮説構築のためのメタ理論として一般的に次のような前提を置く。
1 体の器官はそれぞれ異なる機能を持っている。心臓はポンプであり、胃は食物を消化する。脳は体の内外から情報を得て、行動を引き起こし、生理を管理する。したがって脳は情報処理装置のように働く。脳も他の器官と同様、自然選択によって形作られた。進化心理学者は心の計算理論を強く支持する。
2 ヒトの心と行動を理解するためにはそれを生成する情報処理装置を理解しなければならない
3 我々の脳のプログラムは主に狩猟採集時代の経験と選択圧によって形成された。
4 そのプログラムが引き起こす行動が現在でも適応的だという保証はない。
5 恐らくもっとも重大な点は、脳は様々な問題に対処するために多くの異なるプログラムを持つ。異なる問題は通常、異なる進化的解法を必要とする。このプログラムの一つ一つが臓器と見なすことができる。
6 心のプログラムは我々の経験を再構成し、判断を生成し、特定の動機や概念を生み出す。また情熱を与え、他者の振る舞いや意図の理解に繋がる文化普遍的な特徴を与える。そして他の考えを合理的である、興味深い、忘れがたいと感じさせる。プログラムはこうして人間が文化を創る基盤の役割を果たす。

対人関係学のたどり着いた主張と酷似しています。
1から4までは全く異論がありません。
3なんかは、どうしてこうなるのというくらいです。
本当は、対人関係学の独自の発見だと思っていたのにと悔しいのが本音です。
5,6もほとんど異論がありません。

じゃあ、対人関係学は進化心理学であり、
今さら畑違いの素人が参戦することはないのか
ということになり、夢も希望も無くなるのか
ということになりそうなのですが、
どうやらそうでもなさそうなのです。

一つは、クロスオーバーしない部分が重要ではないかということです。
進化心理学はドーキンスの影響を強く受け過ぎているのではないか
それに対して、対人関係学は、
キャノン(後付けっぽいのですが)、リーバーマンの名前は
進化心理学ではあまり出てこない

バウマイスター、アントニオダマシオは認知心理学では引用されますが
進化心理学ではそれほどでもなさそうです。

自死に関しての知見は、あまりないようです。
過労死については特にない。

この根本的な違いがやはりありそうで、
文字通り、対人関係という環境を重視するのが
対人関係学ということになりそうです。

それから、東洋的なアドバンテージがありそうです。
スタノヴィッチもそうなのですが、
ドーキンスの影響を受けているようなのですが、
まだまだ乗り物としての割り切りがない。
遺伝子への反逆なんてことを言っている。
正直このあたりが理解が遠いところです。

禅の思想なのかどうなのか責任あることは言えませんが、
ただ、あるがままの姿を受け入れる
ということが東洋的な高次の境地ともいえるものだとすると、
こういう境地になれるかどうかはともかく
こういう考えもあるということを知っている
あるいは感覚的に理解できることが
人間に対する科学にとっての
大きなアドバンテージになるだろうと
感じた次第なのでした。






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家庭不和が起きやすい現代社会の中で男性が心がけるべきこと 子どもたちのために [家事]

暴力も暴言もないのに、
妻が子どもを連れて出ていくという事件が平成に入ってから増えはじめ、
特に平成20年過ぎから飛躍的に増えています。

親の争いに巻き込まれる子どもたちの
健全な成長にも深刻な影を落とす場合があります。

妻側の体調の変化、考え方の変化
例えば、出産に伴うホルモンバランスの変化
甲状腺機能や婦人科疾患、肝臓の治療、

夫側でいえば、過労によるイライラや無気力
といった、二人に責任を問えないような事情で
夫婦問題が生じることが多くなってきているようにも思われます。

俺は悪くない
あなたが悪いのよ
ということを事後的に言いあっても
もはや解決ができない事態に陥れば
自分たちや子どもたちが
生まれてきた喜びや充実感を
感じられなくなるような事態に陥ってしまいます。

男性側が特に気をつけるべきこと、
意識するべきことを暫定的にまとめます。

1 妻は、不安を感じ易いと思おう!

こんなことくらいで
ということに傷つく可能性があるということを意識しましょう。
体調の変化等で、本人も家族も気が付かないことの方が多いのですが、
実際に不安になりやすくなっていることがあります。

だいたいそう思っていれば間違いはないです。
不安になりやすい人が快適なご家庭であれば
不安でない人だって快適なはずですから。

そんなことないよ。
いつもやり返されていて
妻の方が怖いくらいだ。

ということを言いがちですが、
妻の怒りの根源は
不安を解消しようとしているのかもしれません。

あなたが中学生くらいの時
親から勉強しなさいと言われたとき
「今しようと思っていたのに」
と切れたことはないでしょうか。
大体そんな感じで、
言われるのが嫌だから
怒りを含んだ対応をするということを
頭の中に入れておいてください。

2 言葉遣いの荒いのはダメ

これは、結構共通のことです。
男同士だと、ふざけて
お前なあとか、手命で勝手にしろ
等と言いますが、
女性に対してこのような言葉はNGです。

その時の雰囲気や流れを記憶しないで、
言葉だけが記憶に残り、
恐怖感情を抱くようです。

本人に対してそういう乱暴な言葉をぶつけるだけでなく、
例えば運転中トロトロ走って危ない運転手に
毒づくことも、恐怖の感情を起こさせるようです。
不安を感じている心が敏感な時には
ましましで恐怖になるようです。

3 相手へのダメ出しは最低限に

どうでもいいことが結構多い
ということを意識しましょう。

ダメ出しはマイナスポイントです。
どうでもよいことでダメ出しをしてしまうと、
マイナスポイントが累積して
肝心な時に相手に通じなくなります。

結構、気丈な奥さんも
食事や子育て、その他もろもろ
そんなに自信を持っていやっているわけではありません。

どうしても何か言いたいときは
先ず、肯定するところを探し出して、
感謝なりしてから、
ついでの様に付け加える等の作業が必要のようです。

一番意見が対立するのは子どものことです。
とかく、どちらも夢をみがちです。
完璧な子育てという無理な目標をたてがちです。

意見が鋭く対立しますが、
子どものためと言う言い訳が心に用意されていますから、
なかなか譲歩することがない場面です。

しかし、完璧も絶対的な正しさもありません。
生身の子どもですから。
自分が正しいと思うことも
実際は相手の方が正しかった
ということはよくあります。

奥さんが10と言ってあなたが0と言いあうとき、
着地点の目標は5にしましょう。
これも絶対目標にしないで、
7くらいまで行けば良しとしましょう。

それが子どもにとって一番良いことのようです。

7が良いというわけでなく、
親同士の対立がおさまるということも含めてです。

4 顔をつぶすことをしてはいけない

子どもの前とか、親の前とか
そういう所での対応がポイントです。
とにかく、人前で奥さんを否定しない。

うっかりする時はうっかりしますから。
意識しておくことが必要です。

特に子どもの前で批判することはこらえましょう。
これは子どもの取り合いになり、
子どもにとてつもない不安を与えてしまいます。

逆に人前でたてることによって
ポイントを獲得するチャンスです。

5 なにごともほどほどに

まあ、色々書きましたが
完璧を目指してはなりません。

一回間違えたら、この次は間違えないようにしようとか
間違えちゃったから、ケーキとか買ってこようとか
間違いをフォローするという気持ちの方が大事かもしれません。

そのためには、相手の間違いを許すということ、
この次頑張ろうということ、今度は頑張ろうということ
こういう家庭が結局はうまくいくみたいです。

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終末弁護という仕事 死を目前としているのに途方もなく立派に家族のための身辺整理の依頼者の方々 [家事]


若くして、突然ガンを告げられ、余命宣告まで受ける
それまでの生活が断たれてしまうことになります。
子育てだったり、趣味だったり、
当たり前に続いていくことを前提に人は生きている
そんなことに気が付かされます。

自分ならとても冷静ではいられないでしょう。

それでも、自分の家族のために、
あるいは自分が残した仕事のために、
なんとか形を作りたい
遺された家族がより快適に生きるために
今できることをしたい
そう思われる方がいらっしゃいます。

大変頭が下がる考えです。

そうして、生前にできること、
生前のうちにしなければならないこと
死んだ後に処理するためのこと
等を誰かに託したいというお気持ちになるようです。

この場合、客観的に弁護士は便利な職業です。
大抵のことは本人に成り代わって行うことができます。
最終的には、遺言の作成まで行うことができます。

本人は病院から外出できませんので、
色々と工夫をして、
本人の代理人として活動するということです。

いざと言うときにはじめて弁護士を探すということは
なかなか難しいこともあると思いますが、
それまでいくつかの仕事を一緒にやって、
気心が知れていれば、
自分が伝えたいことを一生懸命に伝えなければならない
という何ともじれったい打ち合わせが少なく済みます。

こちらの気持ちを分かってもらえれば
ある程度は任せてしまっても
心配はいりません。
とにかく全部やってもらえるからです。

ただ、弁護士の方は、
とても緊張をする上に、最短の作業を心がけなければなりません。
命が少なくなっていることを自覚している方々は、
それでもお金をかけて他人に依頼する方々は
見え透いた慰めではなく、
実務をしてもらいたい
それもなるべく早く済ませてもらいたい
という想いがあります。

そこを積極的に理解していこうとしなければなりません。

死ぬ間際、思いを残して死にたくない
というその思いを大切にしなくてはなりません。

亡くなることを前提として活動をしなくてはなりません。
全財産の調査を行うことも必要があればしなくてはなりません。

かなり精神的にはきつい仕事です。

日に日に弱っていく徴候が確認できます。
打ち合わせも、長時間行うことはとてもできません。
ひたすら心を隠して、鉄仮面をつけて、
打ち合わせをするわけです。
せめて、病状に動揺しないように
それだけはそうしてあげようという気持ちです。

強度の信頼関係が必要です。
信頼感を与えなければならないということと
信頼されていなければやっていられないということ、

ただ、それも病状の進行によってどうなるか。
なるべく、感情的乱れに伴う
攻撃的言動もあると予想して
しっかり対応(受け流し)しようと心構えを作っています。

今まで培ったノウハウを総動員し、
各専門業種の方々も総動員して、
思いを遂げるために頑張っています。



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弁護士は、なぜ強姦事件を弁護するのか、弁護できるのか、何を弁護するのか [刑事事件]

特定の事件のことをコメントしているわけではありません。
また、性犯罪加害者の刑を軽くしようと思って書いているわけでもありません。

特定の事件を弁護士がコメントしないことには理由があります。
先ず、情報を持っていないということです。
情報を持っていないのに、
あの判決は不当だとか
あの弁護方針はおかしいとか
そういうことは言えないのです。

法的関与の方針決定をする場合、
事件や被害者、被告人の更生の方法
そのための弁護方針、
細かいことを言えば、当該裁判の裁判官の傾向
もろもろを考慮して決めますので、
実際に事件に関与しないとわかりません。

報道された情報があるのですが、
警察発表は一方的になりがちで、
悔しい思いを弁護士は何度も経験しています。

児童虐待で逮捕された男性は、
性的虐待の可能性もあると広く報道されてしまい
繰り返し全国ニュースで勤務先まで写されてしまいました。

後に民事系の裁判で、
性的虐待は母親の妄想の産物だという判決が出て、
刑事事件も偶発的なかすり傷であり虐待ではないとして
起訴さえされませんでした。

警察からも報道機関からも一言も謝罪もなく、
家庭のことで冤罪なのに、男性は職場から処分されました。

そういうことで、弁護士として事件を見る場合
報道が正確だとは初めから思っていません。

但し、もちろん家庭の中のオヤジとしては、
「こいつ許せねえ」等と息巻いているのですが、
弁護士としては「私は事情が分かりませんので」
というわけなのです。

さて、タイトルの、なぜ強姦事件を弁護するか

その前に、ネットで性犯罪の弁護士と検索すると
なぜか私の名前が出てくるらしいのですが、
性犯罪の被害の重大被害を語っているうちに
いつしか弁護側になっているのかもしれません。

一言、性犯罪は予後が悪いです。
例えば、幸い未遂であったとしても
雨の日に被害に遭われた方は、
雨が降るだけで、恐怖を感じ、
被害の時の感情がよみがえってしまう
それほど辛いことで、
その後の人生が台無しになるくらい
被害が甚大なのです。

よく、被害者にも落ち度があるなんていう人がいますが、
こういう人のこういう話が
被害者を孤立させ、罪悪感を植え付け、
益々被害を甚大にするのです。

確かに、被害にあわないように
夜遅く一人で歩かないようにしましょう
と言われ、これは真実だと思います。

しかし、これは、
夜遅く歩くと、「悪い奴が来て」被害にあってしまうから
歩かないようにしようという
予防のための論理です。

実際悪い奴に遭遇してしまったといっても
悪い奴は悪い奴であって、
被害者が悪くなるという論理はないのです。
訳知り顔で人を否定するなと強く言っておきます。

さて、そのような重大な犯罪ですが、
弁護士はなぜ弁護するのか。

一言でいってしまえば
それが弁護士の仕事だからです。

こういうと金のためにやるのかと思われがちですが、
ちょっと意味合いが違います。

法制度上、そのような役割のために
弁護士による弁護という制度が設けられている
ということが近いと思います。

このような法制度がない時に
コミュニティーから排除しなければコミュニティーが成り立たない場合、
どうやって排除をしたのかよくわかりませんが、
寄ってたかって、排除したのだと思います。
孤立させられて、石をぶつけられて
追い出されたか、殺されたか。
凄惨な排除だったのではないかと思います。

しかし、国家が成立し、文明が起こると
そのような野放図なリンチは行われなくなっていきます。
いろいろな建前を作りながら、
排除者の側の心理的負担を軽減していくのです。
納得の契機みたいなものもあるのでしょう。

犯罪者であっても、
人権を認め、防御権を認め、
できるだけ理性的な装いをつくるわけです。

社会秩序のために人を罰するわけですから
罰し方によって社会が殺伐になって行ったら
元も子もないからです。

犯罪者の言い分もよく聞いて、
決して無罪の人を罰せず、
仲間として尊重しよう
こういうのが文明の発達とされています。

だから犯罪者を孤立させない。
一人ぐらいは専門家を味方にしよう。
そうやって言い分をきちんと言わせよう。
国民も犯罪者も納得して罰することが
秩序維持にも有効だ
ということになります。

その役割を担うのが弁護士ということです。
ちなみに刑事裁判の弁護は弁護士しかできません。

研修所では、無罪弁護を中心に研修しますが、
私は、これは懐疑的です。
無罪弁護はもっとも大事な刑事弁護ですが、
弁護士の基本は、
犯罪者に寄り添う、悪い人の味方になること
だと思うからです。

犯罪者は、究極のマイノリティーです。
あからさまに悪い事件は、
社会の非難も大きく、
勢い、裁判所でも過酷な刑罰が科される傾向にあります。
完全に孤立しているわけです。

弁護士は、その普通のというか自然の
人間の感情の前に立ちふさがり、
人類の近代、文明を守ろうとする仕事
ということになります。

それは弁護士しかできません。

なぜ弁護できるのか。

じゃあ、無理して弁護をしているのか
と言われると、そうでもないというのが本音です。

確かに、被疑者、被告人の方と会うまでは、
どんな犯罪が行われ、どんな被害を受けた人がいる
という基本情報しかありませんので、
初対面の前は、どんな悪い人を弁護するのかと
緊張をしています。
しかし、実際に顔をあわせると
拍子抜けするほど普通の人ということが殆どです。

そうやって、プラスチックの板越しに話をしていると
益々、どこにでもいる人だなあという感覚が強くなります。
私は20年以上もこんな感じです。

だんだんと、生まれながらの犯罪者という人はいない
犯罪を行うことには、必ず何か理由がある
という感覚になっていきました。

その理由を理解するためには
それこそ専門的な能力が必要ですし、
それでも的外れのこともありますし、
なかなか心のブロックが固い人もいます。

だけど、そこがわからなければ
自分がどうして犯罪をしたのかということがわからず、
どうやったら今後犯罪をしないですむのか
ということがなかなか見えてこない
そのために必死になって
共同作業をするわけです。

そのためにも、被害者の苦しみを
理解しなければ文字通り始まらないのです。

被害者の被害の大きさを実感し、
是非とも二度とこういうことはやらないようにしたいと思い、
親権に自分の人生を考えてもらう
これが弁護なのです。

警察の人とこういう話をした時、
「弁護士は被害者の反省を助ける仕事」
という言葉をいただきました。
何気なく言った言葉を拾ってもらい
ハッと新鮮な緊張が走った記憶があります。

だから、あまり、刑を軽くするという目的での弁護はしません。
もちろん被告人の方の最大の関心事が刑の重さなのですが、
そのこと以上に、自分の今後の生き方を見つめることが大事で、
それがうまくいったときは、
良い結果もついてくるのです。

さて、タイトルの強姦事件です。
強姦事件もそうですが、性犯罪事件一般に共通の事情があるようです。
全部が全部というわけではありませんが、
弁護した実感としてということになります。

それは、
その人の日常生活において、
自分で自分のことを決めることができない
誰かに自分の行動をコントロールされている
という息苦しい、支配されている感覚を持っている
そういう場合が多いようです。

自分であれこれしたいことがあるのに
誰かが、それをさせられないで別のことをさせる
それが日常的に繰り返されている
自分で決めることができない

しかし、その息苦しさに気が付いていないこともあります。

いわゆるエリートと呼ばれる人の性犯罪はこの傾向が強く
マルチの仕事を同時にこなさなければならない
複数の関係者から同時に叱責される
自分の自由が無い
そういう場合に性犯罪に走るようです。

性犯罪の被疑者被告人は、言葉では言いませんが、
自分が支配されているように
誰かを征服したい
という潜在的要求があるようです。

それで自分よりも弱い者
一人でいる女性を襲うという図式があるように思われます。

被害に遭われた方は、
犯人が自分をつけ狙っていて
その結果被害に遭ったと思われる方が多いのですが、

ストーカー型の犯行でない場合は、
犯人が、自分より弱そうだと思うなら
誰でもよい場合が多いです。

被害者の方にこう説明すると
安心していただくことが多いので
一言付け加えておきます。

事件を憎んで犯人も憎んでいたら
犯罪の原因が見えません。
その人が悪いということで終わります。

しかし、もし、共通の原因があるのであれば、
その原因を除去して
新たな被害を作らない
そういうことが必要なのではないでしょうか。




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わが子に会えない親の会 例会報告 ついに沖縄から駆け付けてきた参加者が! [家事]


忘れないうちに次回は、5月5日 
次々回は、6月1日です。

最近報告を怠っていてすいません。
今回、日付が急きょ決まったこともあり
事前報告も怠りご迷惑をおかけいたしました。

ちょっといろいろ都合があって(これ自体は良いこと)
例会がとびとびになっていたのですが、
4月6日に例会がありました。
10人参加でした。いつもよりも広い部屋。

関東在住の方、沖縄在住の方もいらっしゃいました。
沖縄から仙台に、このためだけにいらっしゃるということは
参加者一同驚きました。
あと、青森とYouTube?で参加した方と。

みんな色々あるのです。
詳しくは言えませんが、
いろいろの問題、苦しみ、怒りを抱えながらも
このひと時は、とても和やかに笑顔で参加です。

ネガティブな発言もしたいと思いますが、
少なくとも一次会は、ひたすら優しい時間です。
相手の悪口もほとんど聞かれません。

弁護士や裁判所や法制度への批判も
ユーモアを交えてのものなので、
かえって盛り上がるというか。

言わなくても分かりあっている
ということが大きな要因なのかもしれません。

それにしても、関東や沖縄!から駆け付ける
ということですから、
何かしらニーズにあっているのでしょうね。

幹事さん大奮闘です。

お子さんのもう一人の親御さんも参加してもらいたいなと思います。

こんな優しい人たちが、
どうして子どもに会えないのでしょう?
私は端的に理不尽だと思いますよ。
何かが間違っていると思います。

ところで、
次回ないし、次々回参加の方ご希望の方で、
初めてだという方は、
私の事務所022-212-3773で、
事務員ではなく私までご連絡をお願いいたします。
時間は6時くらいからダラダラ始めていますが、
場所は予約することとなりますので、
お問い合わせください。

二回目以降は、幹事さんから連絡が行きます。



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市長救命の女性を土俵から降ろすアナウンスの「釈明」の何が足りないのか。あと一歩踏み込んだ反省を [労災事件]

極めて象徴的でわかりやすい事例になってしまったので、
取り上げさせていただく。

平成30年4月4日、大相撲舞鶴場所で、
土俵の上で挨拶をしていた市長が倒れた。
くも膜下出血だったらしい。
緊急に手当てをしようと女性の医療関係者が土俵に上がったところ、
女性は土俵から降りるよう場内アナウンスがされたとのことである。

当然大問題である。
ただ、相撲協会も釈明で、
“女人禁制”の伝統には「人命より大事なものはこの世に存在しない。女性が土俵に上がってはいけないという話とは違う次元の話」
と述べている。

「伝統」とか、「神聖」とかが
倒れた市長の命より優先されるアナウンスだった
ということを言葉にしたところは評価しなくてはならないだろう。

しかし、まだまだ足りない。
それは、なぜ、そのようなアナウンスをしてしまったか
その理由について
「(観客席の声に)あわてて反応してしまった」としているところである。

以上は、下記報道から。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180405-00000161-spnannex-spo


この時、アナウンスをした者は、
二つの反応をすることが考えられる。

人命が最優先であるから、女性が土俵に上がることを容認する。
土俵は神聖であるから、女性が土俵に上がることをやめさせる。

前者の反応をしたのがなぜかということを考えなければならない。
これが、前向きな反省である。
アナウンスをしたものの責任で終わらせない反省である。

パワーハラスメントや、セクシャルハラスメント等は
だいたいが、些細なことに対する「反応」である。
ハラスメントをする、しないという
2種類の反応が選択肢としてある。

どちらを選ぶかにどのような違いがあるのだろうか。

それは一言でいえば、協会の言うように、
人命、人格に最大の価値をおくか
それ以外のものに価値をおくか
という違いである。

会社全体が、長時間労働や労働強化という
利益追求優先(利益優先ではない残念ながら)で
命や人格に価値をおかない風潮が多いところに
ハラスメントは横行している。
つまり退廃である。
当然、長続きしない経営方法である。

人命、人格、つまり人間を大事にしようとするならば、
過労死の危険云々の前に
家族と一緒の時間を過ごせない働き方自体を
させることができるわけがないと私は思う。

「会社は厳しいのだ」
という呪文を繰り返して労働者の人格を攻撃し、
その影響を家庭に持ち込んで
家族不和の原因を作ることになるかもしれないと
人間を大事にすることに価値をおくならば
気が付くはずだ。

そもそも感情のある人間を
困惑させることだって、
心理的抵抗を覚えるはずである。

過労死やハラスメントの情緒的原因は、
この人間を大切にしない風潮である。
人間を使い捨てのきく資材と考えている風潮である。

相撲協会の場合は、
「神聖」な「伝統」である。
これが人間を大切にする価値観よりも
重く置かれているということが
最大の問題なのだ。

だから、
横綱の話を聞かないということで暴行をするのだし、
先輩力士の気に障ったら、暴行をするのだし、
立行司がセクハラをすることになる。

今回のアナウンスと一連の不祥事は
同じ根を持っている。
ここまで気が付いてほしい。

むしろ今回のことは、
相撲協会の再出発のための
問題点をクリアーにした。
責任問題よりも、この問題点を解決する
その糸口になったとみるべきだと思う。

大相撲は、巨漢が猛スピードでぶつかり合う。
立ち合いの運動エネルギーはすさまじく、
死と隣り合わせと言っても過言ではない。

ついつい、人命や、健康を
おろそかに考えてしまう危険が常にある。
だからこそ先人たちは、
相手に対する礼や、威厳というものを
大切にして、人間性を失わないように
工夫をしてきたのだと思う。

ただ、会社での例を挙げたけれど、
何か、明確な目的があると
このように人間を大切にしようとする価値観が
後退するということに気づかせてくれた
と前向きにとらえたい。

学校の部活動でも
考えてもらいたいことではある。



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「楽しむ工夫を行う」という考え方 むしろ「それどころではない]人のために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

私も人間ができていないというか、
いろいろなことで行き詰まり、
いろいろな人間関係で不愉快になったり
苦しんだりするわけです。

「心とは、対人関係の状態を反映した反応だ」
とか言って、それを承認ばかりしてしまう
自分の苦しみを放置してしまうという
過ちを犯しそうになることもあります。

過ちですね。

同級生でフェイスブックを始めた人がいて、
その人の記事で「自分をご機嫌にさせる」
というアイデアが突然目に飛び込んできました。

うつうつとしていた事情があったときだったので、
最初は、「おや?」と感じ、共感を覚えただけでしたが、
どうもずうっと引っかかっていて
やがて衝撃になっていきました。

ちょっと理屈っぽく説明しますね。

人間を含めて動物のテーマは、
「危険をいかに回避するか」ということにあると思います。
交感神経のシステムも、群れを作ることもみんな
そのために備わった特質だということができるでしょう。

要するに人間も他の動物と同じで、危険には敏感で
放っておいても危険、ネガティブなことは気づく
意識していなくても気づき、
ネガティブな気持ちになるようにできているわけです。

何か、偶然誰かが親切にしてくれたりという
そういうことが無い限り、
概ね不安を感じ易くなっている状態で、
不安を感じないときに無感情になるのが関の山なわけです。

私は、自分自身が、
まだ自分の理論を習得していないということがわかりました。

過労死も、いじめも、自死も
それを無くせばよいってものじゃない。
0を目指すのではなく、0の先のプラスを目指す
ということを震災以来他人には言ってきました。

自分自身の生き方にそれを当てはめていなかったのです。

これまでは、苦しさ、辛さなどの
ネガティブな感情を無くしたいと考えていましたが、
それはしょせん0を目指すという発想です。

その先のプラスを目指さなければ
0にだってならないということでした。
大事なことはプラスの感情を作るということだったのです。

同級生のようにご機嫌まではいかなくてもよいかな
と思うのですが、
「なんとなく楽しいな」
と感じる状態を増やすことはできるかな
と思えてきました。

こころは、対人関係の状態に対する反応ですから、
待っていても、楽しくはなりません。
人間は動物として危険に対して敏感ですから
放っておくと不安の種ばかりが生まれてしまう。

だから、
楽しもうとして工夫をすることが必要だったのです。

「人間は環境に働きかけて環境を変える動物だ」
ということでした。

楽しみは、もう何でもよいと思います。
今は仙台は桜が満開です。
好きな人は楽しめばよい。

歩くのが好きな人、自転車が好きな人
本を読むのが好きな人
仕事だってよいのかもしれません。

ただ、本当に苦しい時は、
そんなこともする気にはなりません。

愛する人を失った場合
家族と離別した場合、
そんなことをする気持ちにはなりません。

家族のように、その人にとって基盤となる群れは、
その構成員が一人でも欠けてしまえば
別の群れになってしまいます。
「その人と一緒にいる群れ」は無くなってしまうのですから、
自分自身を失うことになるわけです。
何もする気が無くなって当たり前です。

苦しいとき、悲しい時は
苦しむしかないでしょうし、
悲しむことが大切なのでしょう。

でも、
悲しみは抱えたままでも
何とかしたいと思うようになったら、
苦しさから抜け出したいと思ったら、
楽しむ工夫をしなければなりません。

愛する人を失ったという
究極の対人関係上の危機感から
ほんの少し抜け出すためには、
悲しみを無くそうとすることは間違いなのでしょう。

むしろ悲しみを抱えたまま、
愉しいと思うことをする工夫をするということなのでしょう。

もしあなたに小さな子供がいるならば、
クリスマスや誕生祝や
動物園や遊園地に行くというアイデアを持つ必要がありそうです。

子どもの笑顔を見て、
今回の記事の様に、
「子どもを楽しませることを忘れていた」
と言ってくださった方からの手紙をいただいたこともありました。
自分のこととして理解していなかったということになります。

その人は、愛する人を失って、
子どもと自分に障害があって
一人で子どもを育ててという
壮絶な生き方をしている人でした。

愛する人を失ったという
究極の対人関係上の危機感から
ほんの少し抜け出すためには、
対人関係の中で癒されることが特効薬だ
ということも理の必然でしょう

誰かのために行動をする
自分より弱い者のために行動をする。
これが正解だということになりそうです。

中原中也は
「春日狂想」という詩の中で
愛する者が死んだ時には
(私たち普通の人間は、
私から言わせてもらえば当たり前の人間は、)
「奉仕の気持ちになること」だと言っています。
これは、詩人独特の洞察力における真実を語っていると思います。

愉しくはしゃいだ気持ちになるということは、
特に私のような中年男性には難しいことですが、
「なんとなくいい感じ」を感じることはできますし
それで十分楽しい気持ちになれます。

それは意識しないとできません。
工夫しなければできないことかもしれません。
でもできるのです。

こつは、全面的に楽しくなることではなく、
「楽しい気持ちになる時間もあってもよい」ということです。
むしろ悲しみを捨てようとしないことが
大切なのかもしれません。

怒りは怒りのままでよい。
ただ、誰かに優しくなる時間もあってもよい。
誰かに感謝する時間があってもよい。
そういうことなのかもしれません。



special thank Ukkey
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慢性・持続性ストレスへの旅 2 セリエのストレス定義の「非特異的反応」とは何か [自死(自殺)・不明死、葛藤]

昨日のキャノンの文章は、文章も簡潔で
意図も論理も明確で大変読みやすかったです。
「からだの知恵」講談社教養文庫

一点セリエの文章は、おそらく書きながら
いろいろなことが問題点と来て浮かんできて
あれやこれや手当てしながら書いているような感じで、
読みやすいとは言えません。
「現代社会とストレス」叢書・ウニベルシタス

おそらく翻訳の問題もあるのでしょう。
当初の翻訳が昭和39年ということで
改定はしたものの難しい日本語が最初の内は続きます。

キャノンが文系のための理系の文章ならば
セリエは、理系のための文系の文章という感もあります。

でも、そのおかげでいろいろ面白いことも分かってきました。

ネットなどで、セリエの説いたストレスの定義が
「外部環境からの刺激によって起こる歪みに対する非特異的反応」
とされているようでして、
この「非特異的反応」ということがよくわかりませんでした。

特異的ということは、ネットの辞書では
「あるものだけにみられる質的な特殊さ」
と書いています。

特定の、あるいは定まったと考えると
訳が分からなくなります。

この点、セリエは、
もともとは医者を志しており、
言わる病人の良く見られる状態
熱とかだるさとか、しんどさとか
そういう一般的な症状に着目していたようです。

しかし、指導医は、一般的症状は取り上げず
病気特有の症状のみを探していた、
これにセリエは疑問を持ち、
一般的な症状とはどういうものだろう
ということに興味を持ち研究を続けたそうです。

そんなこと研究しても意味無いだろうという
という当時のまっとうなアドバイスも多くあったそうです。

この一般的に見られる症状が
どうやら「非特異的反応」のようです。

これはキャノンを引用する方がわかりやすいかもしれません。

キャノンとセリエは、同じ副腎でも
キャノンは副腎髄質、セリエは副腎皮質に着目しているようです。

何らかの危険因子を認識して交感神経が興奮すると
副腎髄質からアドレナリンが放出される。
アドレナリンはホルモンであるから、
血液に乗って、全身に行き渡ってしまう。

だから、必要が無くても
心拍数が増加し、血圧が増加し、体温が上昇し
血糖値が症状し、血液が筋肉に向かい、
血液が凝固しやすくなる
ということになるわけです。

フルコース反応が起きてしまう。

私の昨日ご紹介した拙文も
この延長線上に位置づけられるものです。

要するに体の反応はとても合理的にできているのですが、
ピンポイントで反応が起きるのではなく、
どしゃっとぶちまけるように起きてしまうので、
どうしても、過不足が出てきてしまう。

意味はあるのだけれど無駄な反応もあり、
あるいは過剰な反応とでもいいましょうか。
その副作用で、
新たな問題が生じてしまう。

これが過労死であり、
ストレス起因性、ストレス誘因性の精神疾患だ
と考えています。

対人関係的なストレスについては
セリエも本の後半で考察しているようなので、
とても楽しみです。


余計な話ですが、
セリエは、ストレスの定義について
いろいろな場所で、色々な定義をあげています。
ネットの定義がセリエの定義として良いのかについては
現段階(本の3分の1くらいの段階)では留保が必要なようです。

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慢性・持続性ストレスへの旅 1 キャノン 「生きる知恵」 対人関係のhomeostasis [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、過労死弁護団の年に2回の会議に出席してきました。
その会議に向けての研究報告書が出されていて、
それによると、
現在の労災認定基準では、エピソード的な出来ごとが重視されるが
もっと有害なストレスがあり、それは慢性・持続性ストレスであるとし、
この解明が重要だというのです。

私は、最近はいじめの問題でこの論理を主張していたのですが、
さすがは過労死弁護団だと改めて敬意を表したくなりました。

私は平成27年6月に
「交感神経持続による反応群」という概念と対人関係的アプローチの提案
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/koukanjizokuhannougunn.pdf

という拙文を作成していますが、

改めて、勉強し直そうと思い、
先ずはキャノンから読み始めることにしました。
本当は、弁護団の報告書ではセリエの論文が紹介されていて、
それを入手しようとしたところ、
キャノンの本も、紹介されていたので、
ついでに買ったところ、先に来たので読み始めたということでした。

大変な驚きでした。
これまで、色々な文献やネットで引用していた物だけを見て
キャノンを認識していたのです。
だいたい20世紀前半の科学者ということなので、
正直ここまでとは思っていませんでした。

要するに、今から100年前に活躍した人なのですが、
既に体系ができていて、
それまでの研究を
homeostasis(訳者のルビでは、ホメオステーシス)
という観点からまとめた本が、
「からだの知恵 この不思議なはたらき 」(講談社学術文庫)
という本でした。

特に驚いたことは、
私のあちこちでお話しする三分の1くらいは
この本に書いていあることだったことです。

有害なものを認識すると
逃げるか戦うかという体の準備が起こり、
交感神経が活性化し、副腎髄質からホルモンが分泌され、
血圧が上昇し、脈拍が増加し、体温が上昇し、
瞳孔が広がり、血液が内臓から筋肉に向かう
さらには出血に備えて血液が凝固しやすくなる。
これは全部キャノンがこの本の中でも述べています。
さらにその仕組みについて解説しています。

さらに、さらに、
キャノンは、実際に攻撃行動や、逃亡行動に出る前に
このような反応が起きてしまうことを述べていて、
準備段階として反応が始まっている
ということも明確に述べています。

これで、おっかなびっくりいう必要はなく
「100年前にすでにキャノンも言っているとおり」
と科学的に述べることができるようになりました。

そうして、キャノンは、
こういう反応は、
体の状態を一定に保つための仕組みだ
=homeostasisということでくくっています。

今回の私のテーマもhomeostasisとストレスの関係だったので、
どんぴしゃりのことを約100年前にテーマとして本を書いている人がいたのでした。

気を取り直すと、
私のテーマは、身体生命の有害を覚知した場合ではなく、
対人関係的な有害を覚知した場合のストレス反応なのですが、
この点については、これからの課題のようです。
まだまだやりつくされているわけではないと。

結局、対人関係的な危機感、不安感も
homeostasisの観点から論じることが
有効なのではないかという
観点を獲得したことが大きな収穫です。

とにかく、キャノン先生とお呼びしたくなるような
上質の刺激をいただきました。

最後にマメ知識を一つ
鳥肌というか、さむイボというかありますよね。
あれは、人間に太い毛があったことの名残なのだそうです。
寒さ(身体に有害な事情)を感じると
交感神経が活性化され、
太い体毛や羽毛を逆立てて
皮膚近くに空気の膜を作り
体温の低下を防止していたそうです。

人間の体毛が薄くなったため、
毛を逆立てても空気の膜はできませんが、
その名残としてこのような反応だけ残ったそうです。

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