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MVPは家裁調査官 あなたの面会交流の時のために 試行面会が実施されました。 [家事]


事案、1年プラスα前に妻が子どもを連れて突然別居。行き先不明。
   別居2か月後妻が離婚調停申立。3か月後夫側代理人受任。4カ月後、面会交流調停申立。子どもは、小学校低学年女児。

この事案で、先日「試行面会」というものを行いました。試行面会とは、子どもと別居親が面会することが子どもにとって何らかの問題がある可能性があるとき、裁判所の一室で、調査官が立ち会うなどして子どもの安全を確保しながら、試験的に面会をしてみるというものです。

夫と代理人は、先に家庭裁判所に入り、控室に通されます。時間までに控室にいることで、妻と子どもが後から家庭裁判所に入り、試行面会室に入るまで、夫と顔をあわせることが無いようにします。夫のDVは実際にはないケースが多いのですが、妻側がDVがあると思っているケースも多く、このような安心を提供することで、子どもが別居親に会えるということにつながるので、まあ良しとします。無線を携帯した職員が何か所に立っていましたが、こちらの問題ではないと信じましょう。当事者からすると、誰しも、挑発されているようにしか感じられませんが、そのようなインテリジェンスはないのかもしれません。

そうして準備が調ったら、呼び出し係の職員の方が、控室に迎えに来てくれて、面会室に向かいます。面会室はプレイルームと呼ばれるものです。実際に私がプレイルームに入ったことはありません。弁護士は隣の部屋で待機しています。隣の部屋にはモニターがあって、モニターでプレイルームの様子がわかります。調停員、妻、妻の代理人も、別室に待機しモニターでプレイルームの状況を見ているようです。

プレイルームは、カラフルな着色をした発泡スチロールみたいなマットが組み合わせらた2畳くらいでしょうかスペースと、テーブル、ソファのスペース、それから入り口の脇の箱庭制作のスペースがあるこじんまりとしたところです。箱庭のキャラクター、アイテムが並べられている棚が奥に見えます。かなり、アイテムは充実しているようです。それにボードゲーム機があると言った感じです。

われわれが到着した段階では、プレイルームには子どもと調査官がいます。調査官は、試行面会の前に子どもから聴取しています。今回も子どもも調査官を気にしていないようでした。もっとも、調査官の聴取が子どもにとって苦痛であった場合はそうはいかないかもしれません。
 弁護士は、先に別室に入ってモニターを見ます。父親が入室するところから見ることができます。

 ここが一番緊張するところです。何せ、1年以上あっていないのです。親の方が感極まってしまい、収拾がつかなくなることも人情としては理解できることです。でもそうしてしまうと、子どもの方が負担になったり、びっくりしてしまったりするということがあります。面会交流が重苦しい時間になって次につながらない心配もあるのです。そのため、事前の打ち合わせで、「昨日も会ったように、当たり前のような顔をして始めてください。」と無理を承知で言わなければなりません。また、子どもと話す内容も、妻が住所を秘匿している場合、住所を割り出されるのではないかと妻がおびえているので、それにつながる学校の名前とかを聞き出すことはしないことにしています。子どもから会えない理由を聞かれることも多いのですが、うっかり母親が会わせてくれないと言ってしまうと、母親が二度と会わせようとしなくなるので、注意しなければなりません。
 ここで、別居親は子どもを連れ去られたという被害意識がありますから、無意識、無自覚に、子どもに自分の窮状を理解してもらおうとしてしまうのです。自分が辛いとか、寂しいということを言ってしまうということがあります。私もそう言うと思います。一緒に住みたいとかですね。または、お母さんが会っていいよと言ってくれれば会えるよとかもそうですね。あるいは、子どもが寂しがっていないかと思い、お父さんは絶対見捨てないよとかですね。それは人情としてはわかります。しかし、考えなければいけないのは、子どもの立場です。そういうことを言われた場合の危険性として、自分が悪いからお父さんが苦しんでいるのだろうかとか、今自分はとんでもない危険な状況にいるのではないだろうかとか、どうしていいかわからなくて混乱してしまうとかですね。要するに親の思いは、子どもにとって重すぎて、支えきれないということなのです。また、子どもになついてもらいたいとか、楽しそうにしてもらいたいとか、色々リクエストはあるでしょうが、子どもには子どもの事情もありますから、こちらの思い通りはいきません。一緒に暮らしていても、子どもが言うことなんて聞きません。親ですから、子どもにサービスをする立場なので、子どもに何かを求めることはしないと特に意識する必要があるようです。子どもが、自分はいつもどおりでいいんだということを感じてもらえるように、別居親の心の踏ん張りどころということになります。
 
 先日の事例はうまくいったようです。モニターの位置が悪くはっきりはわからなかったようですが、お父さんは笑顔で入室したようです。それが、すべてでした。子どもは安心して、お父さんに抱きついて行きました。今思い出しても泣けてきます。一人でモニターで見ているので、人目をはばかることなく泣きました。1年以上も会えなかったわけです。会いたかっただろうな、不安だっただろうなといういろいろなことが、私の心にワッと飛び込んできたような感じでした。

 それからどうすればよいのか。別居親が真剣に子どもにとって有益な面会をしようと思った場合に出てくる当然の疑問があります。「その後どうすればよいのか。」ということです。あれもだめこれもだめということになるとどうしたらよいかわからなくなるということは当然です。これは、それぞれお子さんに合わせてということになるわけですが、いくつかサンプルを挙げましょう。

 娘と父親の場合、これは娘に合わせればよいです。要するに、娘にリードしてもらうということです。面会交流場所に遊具なんかがある場合、娘は、親と一緒に遊びたくなります。ごちゃごちゃ言わないで付き合ってあげればよいです。飽きて来たら、別のことをやろうと言いますから、ニコニコと従えばよいです。自分の思い通りに親が動いてくれることも貴重な時間になります。内気な男の子というとになると、最初はぎこちないですが、これこれをしようかとか言って、提案してあげることも必要かもしれません。次何をすると尋ねても良いかもしれません。子どもにげたを預けてしまうと楽です。何か話をするときも、自分のことを話すとよいでしょう。「昨日こういう面白いことがあって、お父さん笑っちゃったよ。」とかいう話が最適です。大事なことは、子どもが話し始めたら、興味を持って聞くということです。多少道徳的に逸脱したことを言ったとしても、条件反射的に注意するのではなく、どうしてそういうことを言ったのか興味を持ってください。そうして良いことをしたり、言ったりしたら褒めるということを忘れないでください。一緒に住んでいる親はなかなかそういうことはできません。短時間しか会えないなら、短時間の中で子どもに貴重な体験をしてもらうことができます。自分の感情を否定されないということですね。

子どもの年齢が高くなって打ち解けないという状況がしばしば見られます。気にしないことです。親の方が楽しそうにしていること、自分が親にぶっきらぼうでも親は自分を許してくれるという体験が有効です。ここも心の踏ん張りどころでしょう。

案外あっさりしているのは、帰り際です。子どもは、自分の立場をよく知っているようです。夢のような時間にも終わりが来るということをよくわきまえています。どんなに楽しんでいても、帰り支度をし始めます。極端な場合、親の顔を見ようとしなくなります。かえって悲しい現実を突きつけられたような気がする瞬間です。子どもは頑張っているのです。大人が頑張らなくてどうします。大事なことは、「またね。」ということのようです。「会えるの?」と尋ねられたら、「大丈夫だよ。」と言いましょう。子どもにとって、親の大丈夫という言葉は、何にも代えられない安らぎ、心の支えになるからです。「お母さんが良いって言ったら」等とごちゃごちゃしたことは言わない。抽象的な言葉は、こういう時のためにあるのだと思います。大丈夫でなければ、大丈夫なようにするだけのことです。

もし機会があれば、同居親に感謝を伝えるべきです。おそらく、子どもを連れ去られて、自分を否定した憎い相手かもしれません。そういう目に合わせられて感謝をするということは納得のできないことでしょう。
でも、相手親も、本当は、あわせたくないのです。嫌がらせをしていると非難する人が多いのですが、圧倒的多数の事例では、同居親にそこまで余裕はないです。子どもを別居親に会わせることで、何か良くないことが起きるかもしれないという漠然とした不安や苦痛を持っている場合が殆どです。もちろん連れ去りの不安もあるようですが、それは、場所的に安全な場所で行われていてもあって、本質は言葉にできない不安と言ってよいようです。それを無理して合わせているのだから、ねぎらいをすることは、相手も安心する。相手が安心すれば、面会も拡大するという関係になります。
 だから、感謝の気持ちを持たなくても、感謝の言葉を伝えることがとても大切だということなのです。女性にマメな男性は、本能的にできることのようです。

 今回は、時間も限られた試行面会でしたが、これまではなかなかそれすらできませんでした。最後まで、様々な方法で抵抗されました。しかし、調査官が、きっちり子どもの意向調査をされ、その調査結果を踏まえて、外野の声に耳を傾けず、毅然としかし情をもってお母さんを説得し、励ましていただいたおかげで実現しました。詳細は書けませんが、審判官(裁判官)にもご尽力いただきました。調査の過程で子どもとの信頼関係を構築し、子どもがスムーズに面会に入れたとも思います。まだお若いのですが、立派な調査官だと思いました。

 たった一人のお子さんのことで、たくさんの大人たちが自分の持っている力をフル稼働して、協力し合い、励まし合い、お子さんが、両親から愛情を注がれていると実感できる場を作る、なんて素敵なことでしょう。正常な家庭裁判所は感動があふれています。

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過労死遺族の会東北希望の会だより、11月18日の仙台シンポの打ち合わせと裁判と [労災事件]

東北希望の会のお話を久しぶりにしましょう。
毎月例会があるのですが、
参加させていただいていることが
私の財産になっているということを
是非お話ししたいのです。

東北希望の会の説明は後ろの方に書いておきます。

東北希望の会の活動の基本は、毎月の例会です。
なんでもここで話し合って自分たちで決めてゆきます。

先日は、狭い部屋に25人もはいり、
ぎゅうぎゅう詰めの中、熱い議論を交わしました。

東北希望の会という名前は、本物で、
北は青森から南は北関東まで会員がいます。
この会議にも、岩手県の海岸の町から車で4時間かけていらっしゃったり、
福島県からも、北関東からもわざわざ新幹線に乗って
いらっしゃるのです。
これだけで感激です。

さらに、旦那さんが自死して数か月の方や
自分が過重労働の後遺症で精神的に苦しんでいる方
いろんな方がいらっしゃいます。
みなさん、活発に発言されているんです。

今回は特別ゲストもいらっしゃいました。
厚生労働省のシンポジウムの打ち合わせということで、
宮城労働局の方が、土曜日にもかかわらず、お休みの所、
例会においでいただいて、和やかにお話に参加していただきました。
かなり偉い人なのですが、物腰の低い方でした。
当事者の方々の労災制度に対する憤懣を
どのようにお聞きされているか
冷や汗もののシーンもありました。

それから、テレビ局の記者さんもいらっしゃいました。
こういう例会に参加し、現場の雰囲気を味わってもらい、
インタビューでは出てこない本音を聞いていただくことは
とてもありがたいことです。

シンポジウムの内容などについては、
また別の機会にするべき分量になってきましたので、
今回は割愛します。

家族が過重労働で精神疾患になり、
夫婦共倒れになりそうな中から、
奥さんが回復して、
希望の会の例会にも参加できるようになった
そのお話を今回のシンポジウムでやるのですが、

毎回例会に、他県からでも来ようと思う
その理由は何かということが話し合われたのですが、
その時ご本人は、二つ理由を述べられました。
「詳しいことを言わなくても自分のつらさ、悲しさを分かってくれる」
「自分の発言を否定する人もいないし、
 誰かの発言を否定する人もいない。
 それが心地よいのかもしれない。」
ということをおっしゃっていただきました。

前者は、よく理解できます。
後者は、驚きでした。
誰も、ファシリテーターの訓練もオープンダイアローグの理解も
アサーションの技術もない人たちです。
それが、熟練の技術を屈指でもしているような
そういう話法を身につけているということになります。

今日は簡単に結論だけ言いますが、
おそらく、人間同士の思いやりの気持ち、
お互いをいたわる気持ち、
相手の苦しさや立場を理解しようとする気持ちが、
自然とそういう場を作っているのだと思います。

感激でした。
いろいろな方々の参加と合わせて、
普通に歩いていても、
目だけ半泣きの状態で帰りました。

10日くらい後に、
会員さんの一人の裁判の第一回がありました。
なんと、岩手から福島から北関東から
大勢の会員さんが応援に駆けつけていただきました。

ポッセの若者も応援に来ていただきました。

人と人との結びつきに
いつも感動させていただいています。
東北希望の会に参加させていただくことも
私の貴重な財産になっています。
私は幸せ者です。

<東北希望の会についての説明>

東北希望の会は、平成25年4月に生まれました。
家族を過労死や過労自死で失くした遺族が中心です。
初めから、ご自分が過重労働によって
うつ病や精神障害の闘病中の方も多く参加しています。

そこに私のような弁護士、社会保険労務士、臨床心理士が
脇を固めて活動をしています。

二つの大きな活動があって、
一つは、過労死を無くすという社会活動です。
平成26年の過労死防止法制定に向けた活動や
今度仙台で11月18日、郡山で12月2日に開催される
厚生労働省主催の過労死防止シンポジウムの企画をしたり、
11月14日に山鹿の同じシンポジウムに参加したりと
そういう活動です。
名前を出せる人は名前を出してお話ししますけれど、
それはちょっとという人は、無理をしないということにしています。

だって家族が無理をして亡くなったのですから。

もう一つの活動は、当事者同士の助け合いです。
夫を亡くしたお母さんが、
自らも闘病しながら子どもを育てるのに夢中で、
クリスマスをスルーしてしまったという話から、
みんなで助け合えば、荷を分かち合えば
愉しく過ごせるということで、

毎年冬はクリスマス会、
夏は、塩釜の島に船で出かけて
海水浴やスイカわりを楽しみます。
一つのご家庭ではなかなか大変なのですが、
みんなでやれば、色々なことができます。

毎年サンタクロースを呼んでプレゼントを渡してもらっています。
小学校以下の子どもたちはただただ楽しんでいただければよいですし、
中学校以上のお子さん方は、調理のお手伝いをしていただいたりしています。
ボランティアの高校生が大活躍したりしています。



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第10回親の会は10月27日6時30分 保護命令に対してはきっちり対処しましょう [家事]

最近、なかなか、こちらには手が回らず申し訳ありません。

第9回わが子に会えない親の会は、無事終了し、
またも、関東から参加された方もいらっしゃいました。

参加されない方からのメッセージも充実してきました。
第8回に引き続いて女性も参加されています。

私の方の最近の様子ですが、
夏場までは、油断していたのですが、
また、わが子に会えないという新規相談が増えてきました。
どうやら9月10月というのが、
別居決行が多い時期のようです。

相談者の範囲も、
東日本エリアとでもいうような
広範囲になってきましたし、

相談の内容も、
相手方の心情を把握したうえで、
ばらばらになった家族をどうするか
という形の相談も増えて、
たようになってきた感があります。

最近もまた保護命令が出されて、
異議申し立てをしないという方がいらっしゃいます。

色々理由があるようですが、
命にかかわる暴力が無い場合は、
保護命令を出させないことが鉄則です。

余計なことは考えないでください。

保護命令は、
配偶者の身体生命に重大な危険がある場合に限って
出ることになっています。

しかし、実際の事例を出された側から見るとですが、
配偶者の身体生命に重大な危険があった事例は
私は見たことがありません。
多少のいざこざはあるのですが、
とても身体生命というほどの大げさなものはありません。

それでも保護命令が出てしまうと、
貴方は、妻や夫の、
身体生命にとって危険な存在だということに
なってしまうのです。

もちろん、調停やら警察やら
他人がそういう目であなたを見るようになるでしょうが、
一番問題なのは奥さんがそういう目で見るということです。
申し立てた張本人なのにおかしなことを言うと思われると思います。
それがそうでもないのです。

保護命令申立は、
奥さんの「支援者」から強く勧められて行います。
申立書は用意されていて、
アンケートに答えるように書くことができます。
簡単に申し立てはなされてしまいます。

痣のできやすい体質の方っているわけで、
仕事や家事で痣がついても、
病院に行けば「打撲」と診断されます。
全治三日と書いてくれるお医者さんは良心的です。
ほとんど大したことが無いと言っているわけです。
それでも裁判所は傷害であると認定します。

2週間の安静などと書かれてしまうと
もう重大事件です。
あとは、包丁で魚をさばいていても
命の危険がある刃物を振り回した
ということになる危険があります。

ペットの犬の毛を刈るハサミを持ったまま大声を出しただけで
命の危険があると認定された事例も実話です。

その人は自宅の周囲を徘徊することも
禁じる命令が出されました。
散歩さえも裁判所から
刑罰の威嚇で禁じられたのです。

精神的に不安定になったことは
当然のことです。

さて、保護命令を出した奥さんも、
実際どうだったか知っていますから、
保護命令は出ないだろうなと思っているわけです。
言われたからやっているという話も聞くところです。

それが、裁判所が、身体生命の重大な危険がある
と宣言して保護命令が出されれば、
「ああ、やっぱり危ないところだったんだ」
「支援の人たちの言うとおりだったんだ」
と思ってしまうことも、
理解できるところだと思います。

さらに、あなたが、
保護命令に異議申し立てをしなければ、
やっぱり自分の夫は、
私に対して生命身体の危険があったことを
自分で認めたのだ
ということになりかねません。

こうなってしまうと、
哀れな奥さんは、あなたから逃げ続けなければなりません。
見つかったら、危険なことが起きる
というおおざっぱかつ抽象的な予期不安を抱き、
ただただ、自分の命にとって危険な存在だ
という認識で、毎日脅えて暮らすことになります。

逃げているという意識があるうちは
10年たっても恐怖は消えません。

町中に出るとあなたと会うのではないかと思いでません。

もう大丈夫と思って人ごみの中に出かけて、
貴方とよく似た背格好の人を見ただけで、
動悸が始まり、パニックになった人もいます。

保護命令は抵抗しなければ出されます。
抵抗しなければ、あなただけでなく、
相手も不幸になることの多い制度だと思います。

ところで、第10回親の会は、
27日6時半、
場所は、仙台駅前ですが
土井法律事務所03-212-3773
までお問い合わせください。

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How to love our enemies 汝の敵の愛し方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



前回の記事では、
敵とは、
自分の仲間の中における自分の立場を危うくする存在
と定義しました。

愛そうとするだけで、
交感神経のある程度の低下を期待できるので、
それだけでも役に立つ思考技術だとも言いました。

しかし、敵を愛するということは簡単なことではありません。

もう一つ、愛する意味について考える必要がありそうです。

日常的に愛するという言葉は、
「気が付いていたらいつの間にか好きになっていた」
というような自発的な感情として語られると思います。

しかし、敵は、
自分の人間関係を危うくする存在ですから、
けがをさせられたり、命を脅かされることと同じで、
生き物として、
好ましい感情が自然にわいてくるということはありえません。
生き物の特徴である
生きようとする意欲を持つことは、
生きるための障害を取り除こうとすることこそ自然な感情です。

その障害を好ましいと思うことは、
むしろ不道徳なことだと思います。

おそらく、キリストの説く愛、アガペーは、
そのような自然な自発的感情ではなく、
能動的な行為であると思います。
愛とは、努力を伴う思考作業だと思います。

最低限の条件として、
相手の存在を否定しないことになるのではないでしょうか。

愛とは、相手が人間として存在することを
承認することが出発点だと思います。

ここで、大人の思考、合理的思考として
行わなければならないことがあります。

敵だと思う相手は、
自分と独立して存在するのだということです。

相手から嫌な思いをさせられると、
ついつい、自分と相手の関係性だけで
相手が存在するように考えてしまいます。
相手が自分に嫌な思いをさせる理由を
自分の存在や自分と相手の関係性に求めてしまうのです。

敵である相手が自分から独立して存在するという考えは、
相手の自分に対する敵対行為は、
先ず、相手自身の状態の反映かもしれない
と考えることができます。

何か、別に理由があるのではないか
と考えることを提案します。

特に、相手の自分に対する妨害行動が
怒りや憎しみを伴っている場合は、
相手が何らかの不安を抱いている場合です。

先ず、自分の存在を脅かす出来事を感じた場合、
人間に限らず多くの動物は、
不安を感じます。

その次に、不安の解消可能性の主観的判断に応じて、
怒り、
憎悪、
恐怖、
絶望

不安解消方法を実行できる場合、
怒りを感じ、不安の原因を攻撃することによって
不安を解消しようとします。

直ちに不安の原因を除去できなくても
いずれ攻撃によって不安を解消できるかもしれない
と思うと憎悪を感じます。

自分の力では不安を解消できない、
不安から逃げなければならない場合は
恐怖を感じます。

逃げることもできない場合は
絶望を感じるほかありません。

怒りの特徴の一つが、
根本的な不安に怒りが向かわないということがあります。
怒りの根本的原因は、
国家だったり、社会だったり、会社だったり制度だったり、
とても太刀打ちできないことが多いからです。

大雑把に言って、
怒りの80%以上は八つ当たりではないかと感じています。

例えば、あなたが道を歩いていて肩がぶつかり、
相手からにらまれたとしても、
彼の根本的不安は、
貴方がよけなかったことではなく、
上司が自分を公平に見てくれないことだったり、
自分の妻が言いがかりみたいなことで喧嘩を売ってきたことだったり、
再就職先が見つからないことだったりします。

自分が、他人から大事にされていない
だから、あなたと肩がぶつかったことも、
貴方という不特定多数人の一人が
やはり自分を尊重していないと
自分は馬鹿にされる存在だと
勝手にいじけていることの反映である可能性があるわけです。

怒りは、このように、
それ自体では、何かが解決しないどころか
ますます自分を窮地に追い詰めることもあります。

でも、
怒っているとき、誰かを攻撃しているとき、
一時的に不安が解消ないし緩和されるので、
追い込まれている人ほど怒りやすくなるものです。

さて、
他人の怒りと出会ったならば
最初に行うことは、
その人は、あなたにとって大切にするべき人間関係にある人か否か
という判断をすることです。

道で肩がぶつかったような人であれば、
何ら大切にするべき人ではないので、
貴方はこの人との関係が悪くなる心配をする必要がありません。
早急にこの人との関係を切り、その場から離脱することを目指しましょう。

やるべきことは形式的なことです。
謝罪をするなど、
敵意のないこと、ぶつかる意図がなかったことを示しましょう。
これを誠実に行うことがエチケットというやつです。

それでも相手がグダグダいうようだったら、
誰かに助けを求め、
相手に勝てると思わせない工夫をすることです。
つまり、誰かに助けを求めるということです。

次に、敵だと思う相手が
継続的な人間関係を作らなければならない人である場合です。

この場合でも、特に家族以外であれば、
最終的には、人間関係から離脱をする選択肢もある
ということを意識することは大切です。

しかし、第1次的には、
相手の不安の根源を見極めることでしょう。
相手と自分の関係の文脈で事態を理解しようとしないで、
先ずは、相手には何らかの不安があり、
その不安を解消しようとしているという
上から目線で全体を見る
という思考作業が有効だと思います。

それから先は、先の事例と共通します。
即ち孤立しないこと。
仲間に相談することです。
どうしても自分は、相手の悪意を感じると
自分を守ろうとしますから、
自分と相手の関係に原因を求めようとします。
だから、危険意識を感じない第三者の
視点を利用するということです。

だから、その相談相手は、
相手との対立をあおるような人は失格です。

そうして、相手に敵意のないことを示します。
挨拶というものはそういうものです。
返事を返さなくても
堂々と挨拶を続けること、
そうしながら自分の仲間を増やすことです。

仲間は、その現場になくてもかまいません。
一番有効な仲間は家庭にいます。
家族を大切にするということは、
とても大切なことなのです。

ただ、それでも解決しない場合は、
専門家の視点を導入する必要があります。

この時、現段階では、職業はあまりあてになりません。
職場や学校等トラブルの専門家でなくてはなりません。

問題は、家族の中に敵がいると感じる場合です。

しかし、基本的な作業は同じです。
先ず、相手が何について不安を感じているのか、
それは解消するべきなのか、
その人間関係を断ち切ることを決断するべきなのか、
一緒に考えることです。

そうして、自分は敵意がないということを示すことです。

家族以外の第三者が、
相手に働きかけて
自分に対する怒りの感情を作り出している場合があります。

その作り出された怒りを抱いた相手に
こちらも怒りを向けては
解決しなくなります。

怒りを作り出した相手が誰なのか
どうしたら怒りが錯覚であるのかを
相手が理解するのか
考えるべきでしょう。

それが解決の第一歩です。


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汝の敵を愛せよ イエスキリストの言葉と対人関係学から考える合理性 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

キリスト教の教義に立ち入った話をするわけではありません。

対人関係学的に考えた場合、
この言葉はとても素晴らしい言葉です。
ヒューマニズムそのものですし、
これは、人間が生きていくために
常に意識する必要があるということが
対人関係学の帰結です。

ただ、それは、その方がよりよく生きられる
というよりも、
損をしない生き方、
失敗を大きくしない方法という
生きるための知恵という意味合いがあります。

先ず、
群れを作る動物である人間には、
仲間の中で尊重されて存在したいという
遺伝子に組み込まれた根源的要求があります、

尊重されて存在するとは、
自分が、いつまでも群れの中に安住できる状態でありたい
ということです。
追放の危険を感じないで存在する
と言い換えてもよいでしょう。

「敵」というのは、
結局、自分以外の人間であり、
怒りを向ける相手
という存在だと思います。

これは、せんじつめれば、
自分の群れの中での安住を
相手に妨害されているという
危機感を感じて、
この危機感を解消しようとする
心理状態の一つが怒りだということです。

もちろん、
身体生命の危険が生じた場合も
怒りが生じる場合がありますが
今回は身体生命の危険ではなく
対人関係の危険による
怒りについての考察です。

怒りを持つことは、
怒りを持った人に、
様々な不利益を与えてしまいます。

第1に、怒りを持つと
その相手と自分との人間関係が
極めて不安定なものになってしまいます。

その相手から追放される可能性もあるでしょうし、
そもそも、仲間という関係が失われてしまうことは、
群れを作る動物である人間としては、
遺伝子的レベルで、
無意識に不安を感じてしまうことになります。

第2に、相手に怒りを向けると
不思議なことに、
怒られた相手に対して
気持ちの深いところで、
同情というか、情けなさの共鳴というか
自覚することが難しい嫌な気持ちがわいてきます。

誰かに攻撃的な気持ちになると、
自分の心も傷つけることが
どうしても避けられないようになります。

それでも、そういうきれいごとな気持ちにはならないよ
というひともいるでしょう。
そういう人は、誰かを攻撃することに
もしかして馴れてしまったのかもしれません。

しかし、そういう人が本当にいたとしたら、
その人は、
人間という存在が傷つけられていても
心を痛めないという状態になってしまっているので、
およそ人間は大事にしなければならない
という気持ちを持つことができなくなっていることになります。

そうなると、
自分のことも、大切にすることが
難しくなっていきます。
大切にしているつもりでも、
たとえば、財産を確保しているだけだったり、
身体の完全性を確保しているだけだったりすることがあります。

心が摩耗していけば、
後ろめたさの一切ない安心感というものを得ることが
さらに難しくなり、
益々形式的な幸せを求めるようになりますが、
言葉では幸せだと言い聞かせても
満足ができる状態にはなりません。
益々形式的幸せを求めて、
自分と他人を不幸にしてゆきます。

これが第3の不利益です。

第4の不利益は、もっと実務的な話です。

怒りは、
交感神経を活性化させてしまいますから、
様々な要素を検討するという能力が低下し、
二者択一的思考となってしまいます。

また、将来的な見通しを立てるとか、
他人の感情の状態といった
複雑な思考ができにくくなってしまいます。

相手に対する怒りが増大していき、
相手を、いろいろな意味でたたきのめさなければならない
という意識を持ちやすくなります。

周囲の人間に対しても、
自分の敵か味方かという択一的な評価になりがちです。
いろいろな出来事も、
相手と自分の関係の中で起きているような錯覚が生じます。

様々な事実を見誤るということが生じるわけです。
関係のないところでミスをしたりすることも出てくるでしょう。

象徴的なことは、
敵と味方を見誤まることです。

信用してはならない人を信用して
大きな損をすることが出てきます。
本当は、自分が間違った人を味方につけていても、
うまくいかないことは、当初の敵のせいだ
という怒りの思考に支配されていますから、
気が付きません。

本当に自分に不利益を与えている人が
自分が味方だと思いこまされている人かもしれません。

本当に戦うべき相手は別にいるかもしれません。
しかし、怒りに支配されている状態では、
脳の機能が低下していますから、
気が付くことはできません。

では、怒らなければ良いのでしょうか。
冷静に自分の利益を検討すればよいのでしょうか。

それはそうなのですが
どうすれば、自分の存在を脅かすのではないか
と思っている相手に対して、怒りを抱かずに
冷静に対処できるのでしょう。
これはなかなか難しい技術です。

少なくとも、
その困難な矛盾を解決する方法が、
汝の敵を愛せよ
という方法論なのです。

怒らない
ということはなかなか難しいです。
しかし、怒りを覚えたときに、
相手を愛する努力をする
そうすると、
怒りはだいぶ緩和されます。

攻撃して叩き潰す
という動物の本能を緩和させることができます。
自分が何をしなければならないか
ということが、見えてきやすくなると思いませんか。

怒りに任せて頓珍漢なことをするよりも
よっぽど自分の本当の利益を追求しやすくなります。

対人関係学は、
ゼロの先のプラスを目指すことを主張します。
いじめゼロを目指すのではなく、相手の弱点をかばいあうことをする
とか、
パワハラゼロを目指すのではなく
助け合う職場関係を作る
といったように、
悪いことをしない
ということでは、なかなか解決が付かない問題は、
その反対の行動をとることで、
解決に近づいていくという主張です。

だから、
汝の敵に怒りを向けるな
ということではなく、
汝の敵を愛せよ
という言葉が
とても素晴らしいと
いつも感動をもって自分に言い聞かせている次第です。


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依頼者とコミュニケーションが取れない理由 カウンセリングの人間観と弁護士業務 [事務所生活]

私は、いつもは、
他の弁護士と共同しないで
一人で事件を担当します。

しかし、まれに
一人の被疑者と時間差で面会したり、
事務的な作業で同じ依頼者と
複数の弁護士で打ち合わせをすることがあります。

自分以外の弁護士が、
依頼者とどのように接しているかを知る貴重な機会です。

中には、被告人を軽蔑するような態度をとったり、
相談に来た人を説教したりして、
上から目線の弁護士がいることに
驚いたりします。

依頼者とコミュニケーションが取れないとか
依頼者が理解できないと
悩みを持つ人は大変良心的だということになります。
もしかすると
多くの弁護士は、そもそも
コミュニケーションを取ろうとか
理解しようとか
そんなことが必要だとも考えていないかもしれないからです。

人間ですから、
もちろん、理解しずらい相性の悪い人
という人がいてもおかしくありません。

また、弁護士のスタイルというのは
千差万別であるところが力でもあると思うので、
一概に良い悪いという二者択一的判断にはなじまないとも思います。

ただ、悩む弁護士の方に、
一つの解決方法のヒントをお話ししたいと思います。

私が何か特別なヒューマニズムの持ち主とか
人一倍謙虚な性格だ
というわけではありません。

いくつか理由のあるうちの一つは、
知識です。
人間とは何かという人間観についての「知識」なのです。

私がこれを学んだのは
平木典子先生の朝日選書「カウンセリングの話 増補」です。

司法試験に合格して、
法律以外の勉強に飢えていた時、
真っ先に購入して読んだ本です。

現在、3回目の読み直しをしているところです。

その都度ほとんど覚えておらず、新鮮な気持ちで読めるのですが、
ぼんやり覚えていたのが、
カウンセリングの前提としての人間観の記述でした。

P19 マクレーガーのXY理論
マクレーガーは人間信頼論にたちます。

人間信頼論とは
人間は本性的に働くことが好きであり、
遊びや休息と労働は同じものである。
人間はそもそも、成長したり創造したり働いたりする意欲が備わっている存在で、
その意欲が自然に発揮できるような状況に人間を置くことが大切だと考える。
という風に考えるそうです。

マクレガーの師匠がマズローという人で、

P21 マズローの人間観
人間は生まれながらにして
より成長しよう
自分の持てるものを最高に発揮しようと
動機付けを持つ存在である
という人間観を持ち、

欲求の五段階説というものを唱えています。

⑤ 自己実現の要求 可能性の実現、使命の達成
④ 承認の要求   人から尊敬されたい、自尊心を持ちたい。   
③ 所属と愛の欲求 集団に所属したい。友情を分かち合いたい。
② 安全の欲求   保護されたい。雨風をしのぎたい
① 生理的欲求   性欲。飢え、渇きを満たしたい。


①が満たされて②の要求が出てきて、
①と②が満たされて③の要求が出てくる
というのです。

但し、対人関係学では、この関係は
そのような段階を踏むものではなく、
また、大きく、身体生命の要求と対人関係的要求は
次元を異にするもので併存するものだと考えるので、

身体生命の安全とは        
動物としての欲求        
生理的な欲求、食欲、
性欲、睡眠欲、その他、     
身体生命の危険を回避する欲求  

対人関係的な安全                
人間としての要求                
集団に尊重されて帰属したい
尊敬される、自己実現などは手段的な要求
自尊心、友情は結果的な要求

ということになり、
自分の身体の安全を顧みずに
対人関係的要求に基づく行為に出ることがある
と説明するのです。

違いはあるのですが、
マズローの五段階欲求の
概念がある意味前提となったり論だということに
気が付きました。

それはさておき、
弁護士業務にとっての一番大事な人間観は
ロジャースのものです。

P36
ロジャーズ 来談者中心療法
従来行われてきたカウンセリングは、
指示的なカウンセリングではないか。
つまり、カウンセラーが中心で、
「ああせよ」「こうせよ」と指示する傾向の強いカウンセリングではないかと批判し、
自分のカウンセリングは非指示的―後に来談者中心に改められる━で、
クライエントの成長の力を信じ、
その力と決断力を中心に進めるカウンセリングであると主張したのである。

クライエントというのは、
実は問題の所在を知っているものだということに気づいた。
あれこれアドバイスはしていたが、
カウンセラーが考えているよりもはるかに深い問題を、
クライエントは知っていたのだ。

クライエントは本来問題を知っているのだ。
しかも問題をどう解決し、
どのように生きていこうかということを真剣に考え、
自分の中ではぐくんでいるのは、実はクライエント本人何度だ。

P40
カウンセラーは、
クライエントが本来持っている力を発揮できない障害や負担を
取り除く援助をする。

カウンセラーとクライエントは人間として同等のところにいる。

カウンセリングの援助は、
どちらかというとともに歩むという考え方が基本になる。
知識や技術を一方的に押し付けるのではなく、
むしろ相手の力の方を頼りにしながら、
一緒に歩んでいく存在なのである。

1年くらい前に、
人を支援する方法ということをこのブログに書いて、
さも自分が発見したように述べていましたが、
ロジャースの編み出した療法として
確立していた物でありました。

但し、私は、この論述を忘れていたのであり、
オープンダイアローグの手法の根幹がここにあると
そういう分析から考えついたと思っていたのですが、
やはり、記憶の基本的なとこに
覚えていたからこそ分析できたのでしょう。

少し結論めいたことを言って終わりましょう。

①これらの人間の根底にあることは、
人間はよりよく生きられればよりよくいきたいと
そういう方向性を持った動物であるということ。

②犯罪や破産や離婚等の社会的病理は、
よりよく生きられない何らかの障壁があったということであること。
即ち必ず理由があるということ。

③弁護士や、その他の支援をする人たちの任務は
その障壁を取り除く手伝いをすること
そのための専門的な知識と技術を用いるのだということ

④その障壁は、通常語られない
弁護士の予備知識には入っていない
従って、クライアント本人が
それに気が付いて、克服する方法を見出し、
克服する作業を行わなければならないこと、

⑤つまり弁護士は、
クライアントにあれこれ指図をして
あるいはクライアントから離れて仕事をするのではなく、
クライアントと
人間的な意味である生きる意欲を回復するために
共同作業をする仲間のプロなのだ
ということです。

間違っても、
「犯罪をするような人」の属性があるわけではなく、
犯罪に至る本人以外の環境などの理由がある
ということだと思います。

属性で犯罪するのであれば
有効な弁護はできないと確信しています。

弁護士は偉そうにしていたので、
仲間になることはできません。
それでは、クライアントの潜在能力が発揮できません。

例えばその人を弁護するという仕事であれば、
その人から学ばなければ、
出発点に立つこともできないわけです。

さて、
そもそも根幹である
「人間は生まれながらにして
 より成長しよう
 自分の持てるものを最高に発揮しようと
 動機付けを持つ存在である」
ということが正しいのかどうか
きれいごとではないか
という疑問が残っている方もいらっしゃるでしょう。

これは、対人関係学的に言えば
疑いを持つほどの話でもない
ということになります。

つまり、
①動物である以上、個体は「生きようとする」
②人間である以上、個体は、「群れから尊重されながら生きようとする」
つまり、「群れから排除されないように生きようとする」
ということですね。
そして、
③群れにとどまるためには、
群れに必要とされるために
自分がより成長して群れからより尊重されなければならない
より自分の持てる力を発揮しようとする。
これは当たり前だということになります。

即ち、人間が成長や高度の能力を身につけようとする存在だということは
きれい事というよりは
どちらかという強迫観念に近いもの
であるとする方が近いと思います。

これがゆきすぎて無理をする環境となると
過労死が起こるわけです。

カウンセリングの人間観から
対人関係学の人間観を説明しました。




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第8回 わが子に会えない親の会開催報告 結局今の男女参画の離婚誘導政策は、女性の中でも一番弱い女性に鋭いブーメランとして襲い掛かっていること [家事]

第8回 わが子に会えない親の会開催報告

先日、第8回の例会を行いました。
基本的に6時半くらいから始まりますが、
みなさんが揃うのは、7時をだいぶ過ぎてからでしょうか。

居酒屋で行いますが、
お酒を飲めない方も複数いらっしゃるので、
お食事をしていただくということになります。
(親子丼がうまい)

いつものように欠席された方の近況報告を
幹事さんや私の方から行います。
第1回に参加しただけで
その後参加されない方も
マメに近況報告をくださります。

遠方に住んでいらっしゃるので
なかなか参加できないことは
みんな分かっています。

それよりも、
1回だけしか参加していないのに
自分の居場所だという意識を
持っていただいているなあということが感じられ、
この会を頑張って続けていくこと自体に
意味があるのかもしれないなあと思っています。
嬉しいです。

今回一番遠方の方は北関東の方でした。
お泊りかなあと思ったら、
終電でお帰りになりました。
わざわざこの会に出るためだけに
新幹線代金を使っていらっしゃっていると聞いて
これまた感激でした。

今回のビッグニュースは、
8回目にして初めて女性が参加されたことです。

わが子に会えないのは父親だけではありません。
母親も会えない方も多くいらっしゃいます。
私も3件担当しています。

やはり奇妙な共通項があります。
しかし、男性のケース(母親が会わせないケース)
よりも大分単純です。

父親が、母親に極度にやきもちを焼いていて、
些細なことをもって
浮気をしているのではないか
自分を見限ろうとしているのではないか
と疑い深くなっていて、
妻を攻撃してしまう、
妻は、わけがわからないで責められているうちに
精神的に圧迫されていくというものです。

最終的には、一人で子どもをおいて家を出されるのですが、
実際に大岡裁きみたいなケースもあるのですが、
やっぱり本当の母親は子供がかわいそうになり
手を離してしまうのですが、
21世紀の司法の元ではそれが今生の別れとなるわけです。

そうしているうちに家庭裁判所の案件となり、
継続性の原則が使われたり、
監護親の葛藤が高いことを理由に
裁判所が面会交流の提案自体を躊躇したり、
面会の約束が破られていくわけです。

今、無責任に、女性の権利を声高に叫んで、
「子どもを連れ去ったほうが勝ち」
という極端な現状追認を求めている人たちがいますが、
そのブーメランは、
婚家から追い出された
最も女性の権利を踏みにじられた、
最も弱い女性に突き刺さっているわけです。

会員さんの良いところは、
自分たちだって親に会えないで苦しんでいるのに、
自分のことそっちのけで、
新しい会員さんのことを
一緒に怒ったり、悲しんだりするところなのでしょう。

こういう時には、
自然と、
相手の話を最後まで聞くこと、
節目節目で共感を示すこと、
自分の提案はその後にしていること。
ということができるのです。
私も含めて。

なんかこういうところにも、
解決のヒントを見出したところであります。
当事者でなくても居心地の良い会ですから、
当事者の方が居場所だと思うのも
もっともなことかもしれません。

次回は、9月19日6時半からです。
参加希望の方は、土井までご連絡ください。

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特攻隊員は、どうして任務を拒否したり、反乱を起こさなかったのか。日本の民族的特質からの検討 [事務所生活]



特攻隊員が、概ね、自分の意思で死地に赴いたと
主張する人たちがいます。

その根拠として、
もし、特攻隊の任務がその意思に反していたのならば、
拒否したり、反乱したりしていただろう、
そういう話はそれほどないので、
意思に反していなかった
という論法をたてています。

これは誤りです。

明治維新以来の富国強兵政策や
天皇を頂点とした国家主義という
国民の価値観の構築政策
それに反する主義、思想、宗教の徹底的な排斥
等という系統的な長期にわたる思考改造政策
価値観の創設という事業については
私でなくても誰かがお話しているでしょう。

軍隊の上官の言葉は、天皇陛下の言葉と同じくらい
異を唱えるべきものではないという意識が植え付けられた
という軍隊のイデオロギーについても
私以上に語るべき人がいるでしょう。

ましてや、特攻攻撃は、
陸軍の上層部で決定されたことであり、
天皇陛下が決めたことだと思っているのだから、
それに反対するということが
兵士たちにとって、あり得ないことであることも
私なんぞが言う話ではないでしょう。

では、私が何を言うかというと
日本人の秩序維持志向という観点です。

江戸時代において、
即ち明治維新という文明に毒されていない時代において、
日本人は、秩序を重んじ、
自己中心的な行動を戒めていた
ということが報告されています。

ヒュースケンの「日本日記」
モースの「日本その日その日」
その他、幕末から維新直後にかけて
来日した外国人たちが、
こぞって日本人の秩序を重んじる傾向が
一般庶民においても浸透している
ということを報告しています。

自国民ならば、こんな時、
収集がつかないくらいに混乱した状況になるだろう
と述べています。

私は日本人として、
このような国、国民に誇りを持っています。
私の愛国心の源があるわけです。

さて、このような国民性は、
明治維新以降の西洋文明によって
厳しく批判されるようになります。
ヒステリックに、
個人の尊重と秩序の尊重が対立させられ、
個人の尊重に重きを置かれるようになっています。

しかし、どんな「文明」をもってしても、
日本人の仲間を思いやり、
自分が一歩退くという美風は
なかなか消えるものではなかったと思います。
大分弱まっているとはいえ、
現代にも続いているところです。

西洋文明の影響を色濃く受けた人たちは、
秩序を重んじるという性質は、
長いものに撒かれろとか
権力に迎合する弱さだというかもしれません。

もしかするとそのような側面もあるのかもしれません。

しかし、仲間としてまとまることによって得られる利益があるから
仲間としてまとまる気風が生まれて、根付いたのだ
という考えもあり得ると思います。

また、本来、日本では、
上に立つべき人が上に立ち、
誤りが起こりにくい仕組みを作っていたとは考えられないでしょうか。

もちろん完璧な歴史というものはありませんから
いろいろとはみ出しながら
その根本が目指されたのだと思います。

この点、江戸時代の後半に
上に立つべき人ではない人が上に立ち
幕府を弱体化したという解釈がなされることがあります。
しかし、明治維新は江戸幕府の体制を否定する宿命がありますから、
歴史の評価は慎重に行う必要があります。

例えば日米和親条約や、修好通商条約などは
屈辱的な条約ですが、
幕府の外交の稚拙さからくるものだと
そういう批判があるように思いますが、

実際に、当時の列強の圧力から
国体を維持した外交努力と技術は
特筆されるべき出来事だという評価も
一方であることを知っていただきたいと思います。

秩序を維持する志向というのは
例えば教科書を作って、
それに全国民を習わせるというものではなく、
日本人の心の中に継承されているものです。

その仕組みというものが必ずありますから
分析していくのも面白い歴史の勉強かもしれません。

秩序という言葉は、
一般的な(平時の)生活だけでなく、
特別な出来事(有事の)行動の原理とか
幅広く使われています。

特に有事の際には、
出来事を検証している時間的余裕がないので、
自分の役割を瞬時に判断して
秩序を守る行動をすることになります。

日本人的な秩序維持のしくみは、
自分の意見を後景におしやって、
上に立つべき人を探したり、
自分を劣後させて他人に席を譲る形で
穏当な状態を保つという所にあります。

リーダー的な役割を担うべき人がいたら従い、
いなかった場合は、
強い者が譲っていくということです。
徹底した平等原理を、自分と相手に求めていきます。

東日本大震災の時に
世界が驚嘆した秩序維持は、
このようにして行われたと体験してみて思います。
日本人の心が現代にも受け継がれていたことになります。

もっとも、それを受け継いだ日本人は、
血縁的日本人だけではなく、
日本に住んでいた者ということになるでしょう。
それが震災の真実です。

意思に反して、
わずかの食料を買うために
長時間行列を作って待っていたとしても
反乱をする人や暴動を起こす人はいませんでした。

この日本人の心情を悪用したのが
明治維新と大日本帝国です。
その根源は「文明」にあると私はにらんでいます。

特攻隊が編成された当時
上に立つべき人の究極的な存在が天皇陛下でした。
自分の命が奪われるとしても、
逃げる場所がないこともありますが、
秩序を重んじる国民性は、
特攻隊員になることは自分の意思に反するという
そんな理由で
反乱を起こしたり、暴動をしたりということは
ありえないことだったのです。

この気持ちの継承は
東日本大震災だけではなく
われわれの身近にあることです。

例えば警察官が、
平成25年12月の通達に反して、
夫の妻に対する身体的暴力が無い場合にも
夫の行動の自由を奪い、
家庭に入ってきて、
夫を任意出頭という形で事実上拘束し、
やってもいない暴力を
将来的にしないという誓約書を書かせたりしています。
妻から暴力の訴えが無くてもしているところです。

これに対して、よほど豪胆な人でなければ、
警察の要請する任意出頭を拒否できないし、
誓約書の作成を拒否することもできない人が普通でしょう。

これは警察官が怖いということだけが理由ではないはずです。
警察官という仕事の内容を理解して、
警察官の指示には従うべきだという
秩序維持の感覚が、
やってもいないことを前提とした
権力の行使に反発をしながらも
理不尽を感じながらも
意思に反する誓約書を書かされながら、
自分の利益を後景に押しやり
抵抗しないのではないでしょうか。

抵抗しないというよりも
抵抗できない心理に初めからなっているわけです。

他国の国民ならいざ知らず、
日本人が反乱や抵抗を起こしにくい民族だということを
知らない人、理解できない人が
日本に多く住むようになってきたことに驚いている次第です。

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東日本大震災の自分の命を犠牲にして他人を守った人たちを尊重することと、二度目は許さない決意の具体化と 特攻隊が議論される8月に [自死(自殺)・不明死、葛藤]

1 人のために犠牲になることは尊いことである。否定されるべきではない。

  8月になると、特攻隊の評価をめぐった論争がおこります。しかし、整理がなされていないため、お互いに、都合の悪いところに目をつぶったまま議論がなされている印象を受けてしまいます。このブログでも、この2年、この問題を取り上げています。対人関係学的視点で、今年も問題を整理して確認したいと思います。
  先ず、他人のために犠牲になることは、否定されるべきことではないという一般論があると思います。
  これは群れを作る動物である人間が他の動物と区別されるポイントになります。他の動物でも、例えば子育て中の母親が子供の命を救うために決死の戦いに挑むということはありますが、それ以外ではあまり一般的ではないでしょう。人間は、血縁関係が無くても他者のために自分を犠牲にすることがあります。
  本来は、群れを形成する仕組みなのですが、群れの中に存在したいという根源的要求を人間は持っているわけです。群れの中に存在したいのですから、群れから排除されるあらゆる兆候が、人間にとっては結構大きなストレスになります。ストレスを感じると自分の行動を修正したり、環境に働きかけて、仲間の一員となるべく行動をするわけです。仲間として尊重されるための行動の大きな柱が、「仲間の役に立つことをする。」ということです。仲間を助けるということも、仲間の役に立つことをしたと感じる大きな行動でしょう。また、「仲間という群れ自体を守る」ということを志向することもあり、「仲間の役に立つこと」、「群れを守るということ」を、無条件に行動してしまう傾向があるようです。

  これは人間らしいことです。だから、むしろ、自分の個人的な利益のために、仲間を犠牲にすることの方が、人間の自然な感情に反する行為です。このような行為をする場合には、特異な体験だったり、生い立ちだったり、何らかの不自然な理由があると考えるべきだと思います。

2 自分の命を差し出すことは、必ずしも強制がある場合だけではない。

  本来、他人を守るために行動することは、このように人間の本能に根差した行為であり、理屈を抜きにして行われることです。このため、誰からか強制されなくても、自分の命を犠牲にして他者を守るということは少ない事例ではありません。
  平成23年3月11日、東日本大震災の津波で多くの人が亡くなりました。その中には、仙台市若林区役所の職員の方(2名)、南三陸町の職員の方をはじめとする自治体職員の方、警察官の方、消防署職員や消防団員の方等津波から住民を避難させるために、命の危険のあることを顧みず、避難誘導を行い、津波に飲み込まれて命を失った方々がいらっしゃいます。
  この方々は、本当に尊いお仕事をなされた方々であり、称賛されるべき方々です。ここで私が申し上げる「称賛」については、すぐ後で検討します。
  彼らは、直前まで死の恐怖があったことは間違いないでしょう。メールなどの記録が残っています。しかし、もう一方で、他人の命を助けているという使命感によって、精神が高揚していた様子もうかがうことができます。残された数少ない記録をたどると、その場所にいる住民を安全な場所に非難させるために、あえて危険な箇所に踏み込んでいったり、危険な状況が差し迫っていてアナウンスをしていた人が非難しても、さらに交代してアナウンスを続けた方もいらっしゃいます。ほとんど報道もされていません。嘆かわしいことだと思います。特攻隊員を賛美する人のわずかの割合でも、このように同時代を生きて、他人を守るためにあえて自分の命を犠牲にした人を知ろうとする人が出てくることを祈るばかりです。

  私は、この人たちを称賛しても称賛しきれないと思っています。この人たちの活動で命が救われた人たちも多くいらっしゃいます。
  死に対する恐怖が存在するからと言って、そのことだけで、自分の命を犠牲にすることが、常に強制によって行われるわけではないということが肝心です。もしそこまで否定してしまったら、人間が利己的な動物だと誤った認識を持つだけでなく、利己的な行動以外は嘘くさいきれいごとだということになってしまいます。そういう心配がある為に、この点を確認する必要があると思いました。

3 人のために犠牲になる状況は、ギリギリの状況である。そのような状況を作らないことこそが肝要である。

  人間が他者を守るために、命を投げ出すことのある動物であると言っても、そのような事態は極限的な事態であり、簡単に死んで解決しようとするものではありません。当然のことです。
  一つには、他に方法がないことが条件になると思います。北海道の吹雪の中で、道が見えなくなり、二人とも共倒れになるという時に、お父さんが自分の着ている服を脱いで娘さんを温めて娘さんを助けて自分が亡くなったという事例も、まさにそのような極限的な状況だったでしょう。
  津波が迫っているのに、停電で情報が入らず、いつもの津波と同じだと思ってとどまっている人たちがいるということも、差し迫った危険で回避の方法が無い状態です。
  そして、いずれの自己犠牲も、他者の命が助かる可能性があったこと、実際に助かった人たちがいたことが、遺された我々にとっても救いになるでしょう。
  
  しかし、私はまだ考えがまとまらないことがあります。
  東日本大震災で住民の避難誘導のために命を落とした人たちの中で、もし自分の命を守るために、公務を放棄して逃げることは肯定されるべきことなのかということです。また、もし自分の子どもが公務員で、逃げられる状況があったときに公務に反して逃げることを望むか、命をなげうって公務を遂行することを是とするかという問題です。
  本人が選択するべき問題だということが必須の前提となります。ここで、いささかでも強制のニュアンスがあってはなりません。要するに、命を投げ出す公務を、断ろうと思えば断ることができる余地が残されていなければならないということが前提です。人間は、一方で群れを作る動物として群れを守り、群れに貢献したいという根源的要求があります。しかし、同時に動物として、命を長らえたいという本能的な要求があります。自己犠牲が強制されてしまうと、それは本能に根差した行動ではなく、高揚感は起きず、動物としての死の恐怖だけがむき出しになることですから、それはただただ惨(むご)いことだからです。
  
  私は、どうしても、もし自分の子どもやつながりのある人たちが、命の危険のある公務を命じたら、どんな理由をつけてもいいから、自分だけ逃げてきてほしいと感じざるを得ません。それが正しいとか誤っているとかいうことは、おそらく誰にも言えないことではないかとぼんやり考えています。

  他人のために自分の命を犠牲にするということは、極限的な話なのだと思います。南三陸町の職員の方々は、これから津波に巻き込まれて命を失うということを認識していました。メールなどで、家族に自分が死ぬことを謝罪しています。とても切ない話です。

  肝心なことは、極限的なことが、予想をはるかに超えて起きてしまったことです。その時は想定の範囲の外にありました。しかし、一度起きたことは、想定しなければなりません。
  生きていた当事者と、生きている関係者の苦しみが現実に存在したということです。残された我々は、このような極限的な状態が起きることを可能な限り排除することが求められていると思います。少なくとも、同じような極限状態が二度起きることを回避することが人間の正常な営みなのだと思います。

4 人のために亡くなった人を肯定するとはどういうことか。

  自分の命を犠牲にして他人の命を救ったという偉業は、肯定されるべきです。人間らしい行動であると肯定されるべきです。そうして、極限状態の中で、冷静に対応されたことには、いくら尊敬をしても足りないと思います。

  その人は、普通の人間ですし、その人の家族、友人も普通の人間です。普通の人間として、感情を持ち、愛情を持ち、人生があったわけです。人間として生きていたわけです。その人たちを肯定するということは、およそ被災公務員とか、そういう抽象的な人間として肯定されるべきではないのです。それぞれの人の名前と、顔と、家族を認識し、そのすべてを肯定することなのだと思います。そうは言っても、私は、名前がわかっている人は、せいぜい数十名に過ぎません。お写真を見せてもらった方々は20名を上回る人数でしょうか。遺族の方々も100名程度しかお会いしていません。
  まだまだ偉そうに肯定するべきだと言える資格はありません。

  それはともかく、避難誘導が公務であるという公務員制度を称賛することがどこかおかしいことはよくわかると思います。

5 新たな犠牲を産まない方策を整えること。命を落とさない避難誘導はどこまで整備されたのか

  さて、東日本大震災で住民を避難させるために自分の命を犠牲にした人たちの称賛と追悼は、まだ始まっていないように思えてなりません。地方公務災害補償基金も、なかなか自己犠牲を認めようとはしませんでした。
  今一番心配なことは、彼女ら、彼らの犠牲がどこまで活かされているのかということです。自分の命を犠牲にして、避難誘導を呼びかけなければもっと多くの人たちが亡くなっていたのですが、現在は同規模の津波が来た時、公務員の命を犠牲にしなくても避難誘導が可能になっているのでしょうか。安全な場所からの避難誘導がなされる仕組みが確立されているのでしょうか。私こそ不勉強で申し訳なく思っています。かさ上げ工事がどの程度有効なのか、よくわかりません。それでも、避難誘導は必要になるはずです。その対策がどの程度講じられているの、ぜひとも知りたいところです。宮城県だけでなく、他県でも同様です。
  そのような二の轍を踏まない対策が講じられることによって、失わなくて済む命が助かるというのであれば、東日本大震災の住民を守るために事故の命を犠牲にした人たちの行為の尊さをより高めることになるものであると考えています。

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自死者に自死の原因を求めるコメントが発生する原因の分析 3つの理由 今の若者が弱くなったのではなく・・・ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の報道があると、
自死の原因を個人に求める意見が目につきます。

その人が弱いから自死したんだということが
未だに私の周りでも言われています。

その代表的な言い回しは、
「今の若者は、昔に比べて弱くなった。」
というものです。

遺族は、当然、こういう意見を目にすると
深く傷つきます。

思いきって、顔を出したり、名前を出したりするのではなかったと
声をあげたことを苦やみます。
そうして、また沈黙が続くわけです。

個体の弱さが自死の原因だという烙印を押してしまうと
周囲は、身内を非難されることを嫌い
自死を隠すようになります。
これは、将来の自死予防にとっては
障壁になります。

しかし、ただ反発しているだけでは解決しないので、
私みたいな立場の者は、
どうしてそういう風なコメントを
わざわざ、遺族が目にするだろう場にするのか
ということを分析することが必要でしょう。

コメントをする人は、決して変な人ではなく、
むしろ良心的で、正義感のある人でもあります。

今回は、3つの理由を考えます。
第1に、情報不足
第2に、自己防衛本能に基づく反応
第3に、自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
    についての理解不足
です。

第1 情報不足

例えば、先日、23歳の消防士の自死について
パワハラが原因だとして損害賠償を提起し、
マスコミ各社に大きく取り上げていただきました。

それでも、
「これくらいのことで、自死するのか」
という感想が見られました。

マスコミで報道されたのは、
遂行困難な業務を押し付けられたとか
机を蹴りながら深夜まで怒鳴られた
という印象的なことに限定されます。

実際の現場では、
消防職員は、24時間勤務の2交代制で
夜間も、1時間の勤務が当番であるほか、
仮眠室から移動できないという制約があり、
勤務(当務)チームから逃げられない
という密室の出来事だ
という事情がある事。

同僚が見てみぬふりをしているため、
絶対的な孤立感がある事、
1日おきに深夜、ほぼ必ず説教がある事、
それも大声で、同僚に聞こえよがしに、
人格が否定される言葉が羅列していること、
前に怒鳴りながら指導された言いつけを守ると、
逆に怒鳴りつけられること、

チームのトップ3人からパワハラなどを受けていたこと、

とにかく、24時間狭い場所で一緒にいるわけですから、
気の毒に思った人がいても
「ちょっとひどかったな」
と後で慰めることもできないわけです。

その場にいた別の人の話では、
消防署の建物の中は、常日頃
まるでお通夜の会場のようだった
ということでした。

そのパワハラの理由も
数か月前に
「しっかりした」消防士になると言ったことを
もう一度言ってみろと言われ
「ちゃんとした」消防士になると言ったことをとらえて
「いい加減なことを言うな」
と机を蹴りながら深夜に怒鳴られているのです。

しっかりした証拠があるだけでも
まだまだひどいことがあるのです。

報道では、情報が不足しているのは
限られた時間、紙面のため
仕方がないことです。

また、こちらも目立ったパワハラなどの事情は拾えますが、
チクチクした嫌みや
わざとらしい無視や険しい視線を投げるなどということは
拾いきれません。

本当の孤立感は、
むしろ、パワハラとパワハラの行間から出てくることなのだと思いますが、
そこは推測するしかありません。

一度出勤すると
翌朝まで耐え続けなければいけないという覚悟を
毎回の出勤のたびに奮い立たせなければ
ならないわけです。

事実亡くなられた方は、
毎回出勤のたびに、
コンビニのトイレなどで食べたものを戻しながら
出勤していたようです。

彼は、中学校の時に応援団長をしていたほか
中学、高校に相撲部に在籍し、
全国大会で、立派な成績を収めていたスポーツマンです。

もともとメンタルが弱かったら、
そのような成績は治められません。

さらに、最後に勇気を振り絞って、
署長に直談判に行ったのに
署長は改善を一言も言わず、
病院に行けと言うだけでした。
頼みの綱も切れたという事情もありました。

それにしても、
なかなか自死を公務災害と認めない機関が
自死を公務災害と認めたのだから
よほどの事情があったと
推測してほしいなあとは思うところです。


第2 自己防衛に基づく本能反応

「そんな隠れた情報があるということは知らなかった」
ということはもっともなことです。

しかし、そうであるならば、どうして、
遺族が見るかもしれないSNSで
「今どきの若者は」と発信してしまうのでしょう。

少なくとも、否定的な言動をしなくてもよいと思うのです。

酔っぱらって自制がきかない場合はともかくです。
(自分でもよくありますから。)

しかし、人間である以上、
死亡した個人に原因を求めたくなるということは
実は自然な感情であることを
理解しなくてはならないことだと思います。

自死がなぜ嫌われるかというと、
一番は、
今まで元気で(外見上)生きていた人が、
突然命が無くなるという現象だからだと思います。

要するに、
「自分も今元気だけれど
 次の瞬間自死するかもしれない」
という危険を、本能的に感じてしまう
からです。

「そんなこと感じたことが無い」
ということは、正直な感想でしょう。

ところが、実際は、潜在意識の中で
他人の死を、自分の死に置き換えています。
無意識の共鳴反応が、人間の場合には起きてしまいます。
これは群れを作る動物の本能的反応です。

例えば、
誰かが怪我をして、大変なことになると、
その場に近寄らなくなるわけです。
誰かの痛みに共感して、新たな痛みを避けるということが
群れを作るアドバンテージです。

誰かが食べたら
おなかを壊したという食べ物は
食べないということが
本能的な対応です。

その時人間は余計な反応をしているわけです。

けがをした、痛そうだ、あそこに行くと
同じように痛い思いをする、
だから行かない。
とか

あれを食べた人がげーげーはいている
とても苦しそうだ
あれを食べると
同じように苦しい思いをする
だから食べない。
という具合です。

丁寧に埋葬された死体を見ても
それ程嫌な気持ちにはなりませんが、
無惨な遺体を見ると
とても嫌な気持ちになるのも
無意識に自分に置き換えて、
危険を感じている状態だと説明することが
できると思います。

特にほかの動物よりも人間は、
身内(母親)以外の者から情報を獲得するという特徴があります。
即ち、他人の感情に、共鳴、共感するという特質を持った動物です。

ここがチンパンジーなどの猿との決定的違いです。

そうすると、他人の死であっても
どこか共鳴してしまう可能性があることは
承認いただけると思います。

そして
なるべくしなくてよい不幸な出来事への共鳴は
本能的に避けようとします。

共鳴を避ける努力を
無意識で行っています。

例えば、
他人が病気で亡くなったのであれば、
今、自分はその病気でないということで
安心できるわけです。

登山で誰かが亡くなったら、
自分は山に登らないようにしよう
ということで安心できるわけです。

しかし、自死は、
そのメカニズムが理解できないということを大きな原因として、
安心する方法がわかりません。

そこで、無意識に、
自死者と自分が違うんだという
その違いを探します。

そうすると、
「自死者は弱い人間だから死んで逃げたのだ、
 自分は弱い人間ではないから、
 自死することはない」
ということで、安心したくなるわけです。

これは、生き物として、
自然に、無意識に行われる反応で
悪意はありません。

もう一つ、
自死者の絶望を追体験したくない
ということも、防衛本能からの反応です。

だから、もっといろいろなことがあったのではないか
等、
具体的な事情を想像したり、
調べたりすることを本能的に避けます。

これはほかのシーンでも見られます。
悩んでいる人を励まそうとして、
「貴方は悪くない」
と言う人たちがいまだにいます。

その人の絶望の闇を見ないで、
否定してしまえますから、
大変楽なことです。

弁護士もまじめにやろうとすると
本能に逆らって、死者の絶望の闇を覗く
ということですから、
文字通り、因果な仕事だと思います。

自死対策に取り組むならば、
このような本能に逆らった理性を
根性いれて働かせなければなりません。

自死が起きたことを知らせること自体
本当はやっていいのかどうか、
疑問が無いわけではないのはこういう理由です。

しかし、人が自死をするのは
必ず理由のあることです。
その理由を探すことで、有効な自死予防が初めて講じられます。

そのためには、
一つ一つの自死をないがしろにしないで調査、分析し、
きちんと将来に向けた解決策を確立するべきだと思い、
活動をしている次第です。


第3 自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
   についての理解不足

これは、自死問題が、第2の理由でタブー視され、
特殊な個人的な問題だという理解が一般的であったために
なかなか検討が進まず、
一言でいって他人事でした。

先ず、その人の特殊な事情、うつ病や統合失調症という
病気が原因だろうという対策が立てられました。

医療の領域の問題だとされていました。

これまでともすれば、
自死対策=うつ病対策
とされてきたことは理由がありました。

一つの大きな転機は、
21世紀になっておきました。
自身の父親が自死をした体験を持つ心理学者ジョイナーが
ある発見をしました。

人は死にたいと自死願望をもっても、
死ぬことが怖いために死なないのだということです。

実に当たり前のことが注目されていませんでした。
「自死した人は特殊な人だ」
という防衛本能的反応が、
真実から目をそらした象徴的な結果です。


ジョイナーの自死理論は、
自死に至る過程の中で、死ぬことが怖くなくなっていく事情がある
と説明します。

死ぬことが怖くなくなるのは、
少しずつ、死を受け入れる環境があるからだというのです。

自分で自分を傷つけるリストカットなどの自傷行為もそうですが、
戦争体験等の体験が
徐々に死を身近なものとして感じてしまい、
死ぬことに対する抵抗力が無くなっていく
と説明しています。

これをさらに勝手に説明をしているのが
われらが「対人関係学」です。

自分が大事にされない体験が
およそ人間というものに対する価値観が低下していき、
人間の命の価値を低いものに感じてきてしまう。

命の価値を認めなくなれば、
死に対する恐怖も弱くなっていくという関係にあります。

つまり、自分が大切にされない体験
というものは、
人間にとって極めて有害で、
対人関係的危機感を抱かせる事情です。

その事情の中でも、自分が生きようとする意欲を持つためには、
大切にされなくてもそれほどダメージを持たないという
馴化(じゅんか。なれ)を無意識に生じさせます。

痛みを痛いと感じなくなるわけです。
それは、強くなるのではなく、鈍感になるということです。
また、人間が大切にされるものではないという馴化は、
繰り返されるうちに、
人間に対する価値観の低下を意味することになっていくわけです。

そうすると、こんな命を維持して苦しみ続けることに
理由を感じにくくなってしまいます。

死に対する抵抗力が無くなるわけです。

また、ジョイナーは、死に対する抵抗力の低下の事情を
身体生命に関する死の受け入れということで
とらえているようですが、

対人関係学は、
群れから尊重されないということも
人間の価値を低下していく事情になると考えています。

人間は、
身体生命の危険のほかに
対人関係的危険を感じる生き物である
そして、対人関係的危険に対する反応は、
身体生命の危険に対する反応をかりて、
同じ反応をしているということを主張しています。

この辺はアントニオダマシオの
「デカルトの誤り」で示された二次の情動とは、
対人関係的危険に対する反応であると
割り切って理解しているということになります。

そうすると、
このような対人関係学的見解に立った場合、
自死者の自死の原因を求めることとどのように
違いが生じてくるのでしょうか。

対人関係学的理解を前提とすると、
自死の原因を自死者という個人に求めて
自死者の治療やカウンセリングによって解決する
ということを主として行うわけではないということになります。

対人関係的な危険を感じさせるような
群れ、
学校や職場、家族や地域等様々な群れの
あり方を変えていくということが
有力な自死予防の解決策だということになります。

今日の結論を述べる前に、
もう一つお話します。

それは、人間の脳はそれほど短期間に変化しない
ということです。
自分が若者の時に耐えられたストレスが、
今の若者が耐えられなくなるということが
非科学的なのです。

脳の構造や仕組みは、
大雑把に言うと800万年それほど変化がなく、
20万年前からは、ほとんど変化していないでしょう。

それが、わずか数十年で
同じストレスに耐えられていた脳が、
退化して耐えられないようになる
ということはありえないと思います。

この論理と、
自死が起きやすくなる条件としての
自分が人間として尊重されていないという体験の積み重ねが必要だ
という条件を組み合わせれば、

「今の若者が弱くなった」ということは誤りであり、
実は、
「今の若者は、人間として尊重されないという体験を
 昔と比べて積み重ねられている」
ということなのです。

弱い人間が増えたのではなく、
人間が生きるにしては過酷過ぎる環境が増えた
と説明する方が科学的だし、
予防にとっては有効だと考えます。


当たり前に生きていれば、正直に生きていれば
死ぬまでなんとかなったという我々の子どものころとは違い、
ちょっと失敗すると、
一生幸せになれないという
失敗が許されないという
厳しい環境を感じさせられている
と、私は思います。






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