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過重労働=強すぎる責任感を脱却して、過労死を防ぐための人間らしく生きる価値観への価値観の転換を [労災事件]

1 過重労働に胸を張る人々
2 過労死の弊害
3 責任感を持つことは美徳だという考え方
4 ブッダの中道の教えとイエスのアガペーに学ぶ
5 新しい価値観 人間らしく生きるということを考える


1 過重労働に胸を張る人々

開業されているお医者さんからうかがったのですが、
最近の学校の先生方の長時間労働は目に余るというのです。
60歳前の管理職の先生は
いつも深夜零時まで仕事をしているけれど
充実していて楽しいとか
別の先生も、先月時間外労働100時間になっちゃって
とか、それは高血圧は治りませんねと私も相槌を打ちました。

「ずいぶん忙しいですね」と
言外に働き過ぎが良くないよというニュアンスで言っても
教師の場合は、真顔で
「ええ、忙しいです。」というのだそうです。
他の職業の人たちは、ごまかしたり、苦笑したりと
そういう態度をとるのに、
教師は二の句を継げられない反応をするそうです。

医師の言う「忙しいですね。」という意味に
否定的なニュアンスがあることを分からないというより、
どこか誇らし気な雰囲気がある
あるいは教師だから当たり前です
という雰囲気があるそうです。

もう一つエピソードがあります。
平成29年3月の仙台市の中学校の卒業式のことです。
仙台で、一番ではないけれど古い創立だろうという名前なのですが、
卒業式の校長の祝辞で、
銀座にすし店を構えて世界中から食べにくるという
寿司職員の話が出されました。
子どものころからろくに教育も受けないで、
みんなが寝ている暗いときから起き出して準備をして、
みんなが寝た後まで仕事をして
仕事を覚えて、上り詰めて
それで銀座ですし職人をやっている。
それを見習えというのでしょうかそういう話でした。

既に電通の過労死事件が広く報道され、
国を挙げて働き方改革を唱えている時に、
あえて挑戦するように過重労働に自ら飛び込めという話でした。

ちなみに、そのすし職人の方は80歳を超えているということですから、
特別に血管や肺が丈夫な人だったということです。
同じ時代の若者たちは
どんどん過労死で死んでいきました。
今の脳・心臓疾患ではなく
結核などの伝染病や
風邪をこじらせた肺炎、衰弱死などで若い命を落としてきました。
当時の栄養状態では、
脳・心臓疾患が発症する前に
栄養不良が原因で死んでいったのです。

このため、昭和22年に制定された労働基準法は
1日8時間の労働規制が定められて今に至っているのです。
労働基準法の作成に携わったお役人は
後に労働法の教授となり教科書を書いています。
1日8時間労働制や当時の48時間労働制は
早死にしないために法律に入れたとはっきり書いています。

過労死という言葉はなくても、
当時から働き過ぎで命を落とすということは
法律に盛り込まれるほど知れ渡ったことでした。

中学校の、校長ともいう立場の人が
これから社会に巣立つ教え子に贈る言葉が
過労死にいざなう言葉を祝辞で話すというのだから
学校現場の労働に関しての考え方が
うかがい知れるというものです。

2 過労死の弊害

教師には危機感を持っていただきたい。
長時間労働を中心とする過重労働は
本人を早死にさせるだけではありません。

死に至らなくても
脳梗塞を発症して長期入院を理由に自宅に帰され
奥さんが24時間管理をしていた事例

うつ病を発症させて
奥さんが買い物行くとすぐに電話がかかってきて
いつ帰る?どこにいる?とはじまる事例

またうつ病のために奥さんと話さなくなったため、
奥さんの方で自分が嫌われたと思い込んで
離婚に至ってしまった事例、

本人がイライラして家庭不和がおこり、
子どもたちが大人の分まで家族を支えようとして
力尽きてしまった事例、

そもそも、親と一緒にいる時間が極端に少ない事例
実際には、死ななくても家族は苦しんでいるのです。

3歳で父親を亡くした事例では、
日曜日も仕事に行っていたので、
娘の父親の思い出は
2回、近所の公園に行ったことだけでした。

家族だけではありません。

自分が無邪気に長時間労働をするため
同僚が早く帰宅することがはばかられたり、
そういうこともありますが、
前任者はここまでやってくれたと言われて
後任者の長時間労働の道筋をつけたりということもあります。

学校の先生の場合は、さらなる問題があります。
教え子がいるということです。

もし、過重労働、長時間労働が
テレビの中だけのことだったら
実際に自分が、長時間労働を強いられれば、
これは異常だとか、これはひどすぎると思うことができるでしょう。
しかし、良く知っている人が
夜中学校の近くを通ると仕事をしていたり、
休日労働をしていたりすると
その異常さや、ひどいと感覚はだいぶ薄れてしまいます。
過重労働職場からの離脱が遅れてしまうということが
あると思います。それは生死を分けるでしょう。

仙台市の中学校の校長の卒業式は極端な例だと信じますが、
(おそらく教育委員会は処分したのでしょう。)
そんな馬鹿な常識外れのことを言わなくても
自分の働き方で教え子を過労死に導いてしまう
そういうことも考えてもらわなければ困ります。

3 責任感を持つことは美徳だという考え方

過重労働をする人、もっと端的に言えば
過労死でなくなる方たちは、概ね、
責任感が強く能力の高い人たちです。
学校の先生方はまさにそういう方々なのでしょう。
仕事の内容がそれを要求するのだと思います。

大切な子どものために、
やらなければならないことはやり抜くと
責任感を持ってやるからこそ
過重労働となることが当たり前だ
という意識なのでしょう。

また、PTAや社会が要請するから仕方ない
という言い訳もよく聞きますが、
これも期待に応えようという
責任感なのでしょう。

これまで私は、そのような責任感を
否定的に評価することができませんでした。
しかし一方で、自分を大切にしない、家族への責任を果たせない、
同僚や教え子に害悪をまき散らし
他人の命を縮めている原因になっているとすれば
どうにか考えを改める必要があると思います。

このように社会的に正しいと思われた価値が
後に否定された例としては戦争協力があります。
ほかならぬ学校の先生が、
仙台市の中学校の卒業式の祝辞の様に、
生徒たちを鼓舞激励して、
戦地へ送り込んでいきました。

戦争反対などをいうならば
教育の名のもとに非国民扱いをしたわけです。
万歳三唱で戦争に送り込んだわけです。

当時は、戦争に対する表面的な評価は
日本の経済を打開し、
アジアの諸国民を解放する聖戦だというものでした。

戦争に行って国のお役に立つということこそ
責任感の最たるものだったのでしょう。

戦争協力は単純否定されましたが、
滅私奉公とでもいうような責任感は
肯定的に温存されたのかもしれません。

また、今やるべきことを目の前にして
あるいは、サービスを低下させて
家族の元に帰るということも
一抹の抵抗感があることも事実です。

責任感もほどほどにということもあるでしょうが、
ではどこで責任感=過重労働に歯止めをかければよいのでしょうか。
ここは悩んでよいところだと思います。

4 ブッダの中道の教えとイエスのアガペーに学ぶ

これからいうことは、宗教の奥義ではありません。
あくまでも高等学校の倫理社会の教科書レベルのはなし
ということをお断りしておきます。

さて、ブッダが登場するころ、
インドでは、堕落に対しての抵抗が強く
厳格な戒律の元、厳しい修業が行われていました。
ジャイナ教では、万物の命を大切にするということを徹底し、
空気中の小さな生き物を誤って食べてしまわないように
白い布で口を覆うなどの徹底ぶりでした。

修行も厳しく
生死の境に追い込むような厳しい修業が尊ばれていたそうです。

ブッダもこのような修行の道に入りかけたようですが、
まさに悟りを開いて、
厳しすぎる修行から離脱したそうです。
その時に、牛飼いの少女から牛乳をもらったということが
象徴的に語られています。

中道という言葉があるのですが、
どうやら、厳しいのもほどほどにという意味ではなさそうです。
私たちはそのようにとってもよいのでしょうけれど。

道という言葉は、実践を意味するのだそうです。
中という言葉は、一つに偏らないということが中核で、
左右の間ということよりも、
むしろ、右と左とか、善と悪とか
そのような二者択一的な思考から自由になる
そういう意味のようです。

もっとも私たちは、少し単純化して、
修行を厳しくするか否かということから考えをはなれて、
本当に大事なことは何なのかということを考え、
そのためにどのような修行をするかということだと
一応押さえておきましょう。

このような状況をこのような切り口で見ると
思い起こされるのがイエスのアガペーです。

やはり当時、堕落に対抗して、
戒律という神との約束を守り
神の国を作り救済されることを目指した、
厳格でまじめな集団であるパリサイ派の人たちが
活躍していた時代です。

神との約束を守るということですから
誰もそれを否定することはできなかったわけです。

しかし、戒律を守るということは
わかりやすいだけに難しい側面が出てきます。
例えば、安息日には仕事をしないという戒律があります。
病気で苦しんでいる人がいても
安息日は治療をすることができないということになります。

戒律を守るということに縛られてしまい、
是正してよいものかなんとも難しい思いをされたことでしょう。

そんな時に登場したのがイエスです。
もっと大事なことがあるということで、
神は、善なる者にも、悪なる者にも、
変わることなく、太陽の光の恵みを与えてくださる
という神の無償の愛、絶対愛を説いたわけです。

汝の敵を愛せとか黄金律の隣人愛等
戒律ではなく愛を説き、
神との新しい約束を説いたわけでありました。

こうやって見ていると
真面目過ぎる人たちは必ず、
世の中がおかしくなるときには出てきて、
その中から至高の実践家が登場し、
新しい価値観を示していたということがわかります。

大変興味深いことです。

5 新しい価値観 人間らしく生きるということを考える

それでは、責任感に代わる価値観を説く
スーパースターに橋渡しをするために
無理を承知で考える試みをしましょう。

責任感が正しいか否か、その程度は
という問題はいったん脇に置いておきましょう。

今考えなければならないことは
まじめな人たちが過労死しないための価値観です。

過労死を招く過重労働について考えましょう。
過重労働は、人を死なせる環境です。
この環境は、生きようとすることと逆行します。
少なくとも生物的にはそのように言えるでしょう。

過重労働をするということは
自分の命を守ろうとしないことになりますから、
少なくとも生物として間違っていると言えるのではないでしょうか。

そうして、先に述べたように
家族の中で自分の役割を果たす時間が無い
ということも言えそうです。
特に子どもに与える影響は深刻です。
過労死したり、致命的な状態になり寝たきりになれば
家族を苦しめるということも過重労働の結果です。

また、同僚に自分と同じ過重労働を無言で強制することですし、
後輩に過重労働の道筋をつけるということでもあります。
それは、他人の命の危険というリスクを拡大することです。

そうだとすると、この価値観を強調することが
問題の出発のような気がしてきます。

要するに過労死を起こすような過重労働は、
自分の命や健康を蝕むという環境であるとともに
自分が大切にするべき人達の人間関係を蝕む環境
出もあると言えると思うのです。

自分が大切にするべき人たちに
大切にするという役割を果たせないと言い換えてもよいでしょう。

これは、ただ命を守るという以上に
人間は、自分とつながりのある人たちに
役割を果たしていく責任があり、
つながりのある人たちと一緒に幸せになる
なろうとすることこそ、
人間として生きるということなのではないか
ということになるのだと思います。

自分とかかわりを持って生きることで
生まれてきてよかったと思ってもらうことができれば
なんて素晴らしいことでしょう。

6 価値観の転換をすることこそ過労死予防の一つの条件

法律には、もうすでに、過労死を防ぐための工夫が
色々と施されています。
これ自体が、禁止されても自分たちの権利を訴え続けた、
先人たちの努力と犠牲の結果です。

先人たちは、自分たちの主張こそが正当だという確信を持ち
国家などからの禁止、制限に対抗してきたと言われています。

実際の労働者の権利を拡充していったパイオニアは、
イギリスなどの西洋の人たちでした。

その不屈の精神は、
日本でもある程度は存在していましたが、
自力で法律を変えるという力になったというまでには
行かなかったと思います。

それはどうしてか。
おそらく、
自分たちこそ正当だ
という意識を
どのように作っていったか
その点を考える必要があったように思います。

西洋の人たちは、
自分たちこそ正当だという意識を持つ背景として、
自分たちを大切にしよう
自分の家族を大切にしよう
自分の仲間を大切にしようと
そういう考えに習熟していたのだと思います。

時代的背景や社会構造の違いなどがあると思います。
ただ、日本ではそのように、
自分や自分のつながりのある人を大切にする
という価値観が十分に確立しては
いなかったのではないでしょうか。

責任感が、教育や社会風習で、
会社のために自分の時間を費やすということに
すり替えられていたという
側面はないでしょうか。

私は、様々な法律の工夫だけではなく、
肝心な過労死防止の保障がここにあると思います。

自分の素朴すぎる責任感を疑うべきです。
長時間労働だけでなく、
パワーハラスメントやセクシャルハラスメント
不可能なことをやれと言われる環境等
自分の職場の出来事を家族に語れない環境
そのような職場は、
人間らしく生きるという価値観に照らして
不道徳な職場だと評価されるべきです。

与えられた仕事をやり抜くという
責任感に対する価値観よりも、
人間らしく生きるという価値観を優先するべきだと思います。
その行動の結果、
リスクがあるのか、デメリットがあるのか、
ということを十分に考えて、
人らしく生きるという観点に逆行するのであれば、
人間らしく生きるという方向に転換するべきです。

それこそが、過労死をしないで働く権利、
人間らしく生きる権利を保障する価値観だと思います。

過労死を防止するためには、
価値観の転換こそが必要だと思います。

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【批判】文科省の中学校政策が、いじめや自死対策に逆行していると思う理由 規範意識の考え方が浅はかだということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

インターネットを見ていたら、
文部科学省の通知に出くわしました。


児童生徒の規範意識の醸成に向けた生徒指導の充実について(通知)http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/04121502/052.htm

これは大変な問題だと思いましたら、
平成18年の通達文書のようです。
しかし、現在も文科省のホームページに掲載されていることからすると
まだ有効な通知なのでしょうし、
10年以上もこのような方針が
教育現場で通用しているということなので、
事態は深刻だと思い、
やはり私なりの意見を言わせていただきたいと思いました。

1 文科省通知の意味
2 様々な問題点
3 通知の最大の問題点は規範意識の理解不足
4 競馬の調教の方が合理的であること
5 人間の場合の群れを作る仕組み
6 少年事件から規範意識を考える
7 学校で規範意識を醸成する本当の当たり前の方法

1 文科省通知の意味

文部科学省の通知は、主として中学生の
暴力行為、いじめ、不登校などの問題を
解決しなければならないというところから出発しているようです。

その解決方法として中心になるのが、
規範意識の醸成というわけです。
文科省のいう意味は、
ゼロ・トレランス方式というアメリカの方式で
これは、アメリカの生徒の銃乱射事件や麻薬常習
という状況を是正するため
禁止事項と違反行為を予め事細かに定めて
違反行為があれば必ず処罰するという
必罰主義とでもいうような対応方法です。

禁止事項をすれば罰を与えられるという
心理的威嚇によって、
禁止事項行為を拘束する
という政策になります。

毅然とした対応
等と言われますが、
毅然とした対応をすることは当然として、
毅然として何をするのかが
問題だと思います。

毅然として子どもを処罰する
というのが文科省の通知の態度ということです。

2 様々な問題点

上記の通知は、
私は大問題だと思います。

読めばすぐに問題点が浮かんできます。
いくつか上げてみましょう。

①  暴力行為やいじめの発生を防ぐという視点がない

あれ?威嚇で防止しようとしているのではないの?
と思われるかもしれません。しかし、
 
暴力行為やいじめは起きるものだという
前提に立っていると思います。
原因を無くそうとする視点がないのです。

威嚇で問題行動を抑制することは
実はあまり効果を期待できないのです。
要は、見つからなければ良い
ということになりかねません。

人間としてやってはいけないではなく、
禁止されているからやらない
ということを教えているようなものです。

②  子どもたちが成長するという視点がない

子どもの問題行動は、
子どもの人格が未熟であることが理由であることが多いです。
問題行動が起きても、適切に働きかけて
子どもを成長させることによって解決する
これが教育ですが、
だから教育という発想はないようです。
文部科学省という役所は
教育を放棄しているといわれてもしかたがないと思います。

③  原因を探究しようという発想がない

① と同じことかもしれませんが、
子どもたちの問題行動には理由があり、
この理由を除去しようという発想がありません。

例えば昭和の年代では、
ここまで過酷な問題行動は多くなかったと思うのですが、
現代的な問題があるのではないか
という発想は感じられません。
現代社会の特有の理由があると思うべきです。

子どもたちは暴力を起こすものだ、
いじめを起こすものだという前提をおいている
そういうように思えてなりません

一言で言えば
教育という発想がありません。
子どもたちは勝手に大人になれ、
国は、それに働きかけはしない、
但し行動の拘束はする。
そんな印象を受けてしまいます。

おそらく文部科学省や学校現場は、
校内暴力などの荒れる学校や学級崩壊に
無抵抗な状態だったのだと思います。

これがかなりのトラウマになっているのでしょう。

それは理解できるとしても
また
子どもたちを取り巻く環境の変化があって
子どもたち自身の変化が起きていたとしても、
私には、情けないという気持ちが起きてしまいます。

子どもたちと向き合う能力に問題があるのではないか
ということです。
もしかすると
教員採用、教育委員会採用から始まり、
管理職の登用などの
教育行政に、人事管理上等の問題があるのではないか
教育という目的以外の考慮が幅を利かせているのではないか
という危惧を払しょくできません。

3 通知の最大の問題点は規範意識の理解不足

文科省は、規範意識の醸成の方法として
必罰主義を採用すると言っているわけです。

つまり、何か罰を受けるとか
不利益を受けるということで、
罰を受けないように、不利益を受けないように
ルールを覚えようという発想です。

これは、法律の素人の発想です。

法律や道徳を守ろうという意識を
規範意識(きはんいしき)といいますが、

罰せられないようにしようということは
規範意識とは少し違うように思います。

ルールを守ろうという意識の方が
少し規範意識に近づくと思います。

もう少し正確に言えば
ルールの存在を承認し、
存在するルールを守ろうという意識です。

さらにわかりやすく言えば、
ルールを守ることは手段であって、
本当は、
仲間との関係を大切にして
群れを維持しようという考えを持つということなのです。

そして、それこそが、
人間が自分を大切にするという意味だと思います。

どうやって、そのような
高い意識を持つようにするか
そのことについて
お話ししていきたいと思います。

4 競馬の調教の方が合理的であること

競馬という競技を例えにしてみましょう。
馬は、生まれたばかりでは人間のいうことをききません。
ゲートから出ませんし、
ゴールに向けて走る必要も
馬にはありませんから走らないでしょう。
すべて人間の事情です。

それが、どうやって、レースが成立するか
ということを考えてみましょう。

一部の人は、まだ誤解をしていて
鞭で叩くから仕方なく馬はゴールに向かって
全力疾走をさせられているという
動物虐待の結果がレースだと思っている人もいるようです。

しかし、ただ早そうな馬を連れてきて
鞭で叩いたとしても
レースにはなりません。
馬は暴れ出すでしょう。
騎手を振り落とすこともあるでしょう。

実は、馬は、
群れを作って走りたいという本能と
群れの先頭に立ちたいという本能があります。

この本能があることによって、
肉食獣から襲われても
群れ単位で行動することができるし、
群れ単位で逃げていくことができ、
結果として群れの頭数を維持してきたわけです。

この本能を利用してレースをしているのです。
レース中に騎手が落馬をしても、
最後までゴールを目指して走り続ける馬が
少なくない理由もここにあります。

本能を利用して、
あるいは行動習性を利用して
人間の望む行為に誘導して行くというのが調教です。

子どもに規範意識を持たせるという場合には、
人間という群れを作る動物の本能を活かして、
ルールを守るという喜びや
積極性を持たせるべきなのです。

そうでなくて、
恐怖や痛みの威嚇で行為を誘導するとすれば、
調教以下の働きかけということになってしまいます。
必罰主義とは、このように調教以下の
低俗な行為ということになります。

子どもを、人間を馬鹿にした行為ということです。

それでは、人間の本能、習性とは
どのようなものなのでしょうか。

5 人間の場合の群れを作る仕組み

人間の祖先がチンパンジーの祖先と別れて
800万年が経過しているといわれています。
その間、ずうっと人間は群れを作って生活していました。
言葉や文字を使うようになったのは、
ごくごく最近です。

しかし、群れを作っているということは、
群れの秩序を守って生活していたということです。
これをしてはいけないとか
こういう時にこうするべきだとか
ルールがあったはずです。

言葉もないのにどうやって、
ルールを認識し、それを守ったのでしょう。

群れを作る動物は、
結果として群れるだけでなく、
群れを維持する本能があり、
群れを弱くしない行動をする習性があったと思うのです。

例えば、私たちは小さくて弱いものを見ると
可愛いと思います。
可愛いものを大切にして守りたくなる
これが本能的行動習性の一つだと思います。

弱いものを危険にさらして命を落とさせてしまうと
弱いものから順に群れの頭数が減っていき、
結局群れ全体が滅亡してしまうので、
弱い個体を守ろうとすることは
群れを維持するためにとても有効な習性となります。

平等だったり、公平だったりという正義も
群れを維持するための本能的感情だったと思います。

さらに言えば、
自分と群れの他の構成員との区別は
あまりなかったのではないかと考えています。
群れを守るということが第一命題で、
他の構成員を押しのけて自分の利益を得る
ということは、
あまり考えなかったのではないかと思います。

100年も前の日本の農村部では
その名残があったはずです。

いつしか、それが記憶から失われて
きれいごとになってしまいました。
一つは文明開化の負の側面だと考えていますし
一つは敗戦の混乱期に原因の一端があると感じています。

とにかく、
オオカミのように牙もなく
クマのように爪もなく
馬のような脚力も
リスのような敏捷性もない人間が
800万年も子孫を残してきたのは、
ギリギリの餓えの連続の中で
必死に群れの頭数を維持しようという本能が
あったからだと思います。

現代的に表現すると
仲間を大切にしようとする本能があった
と言えるのだと思います。
それが自分を大切にする意味だった時代が
800万年近く続いたということなのだと思います。

群れの秩序を守る、群のルールを守るということは
本当は人間の遺伝子に組み込まれた本能なのです。

6 少年事件から規範意識を考える

この問題がとてもわかりやすいのは少年事件です。
仲間がひどい目にあったときに
武器をもって相手を襲撃してけがを負わす
そういう事件が少年の間ではよく起きています。

学校の規則や法律を守らないで、
仲間との関係を優先してしまう。

こういうことがどうして起きるかというと、
少年にとって、学校や国、社会は、
自分を守るものではなく、
自分を追い込むも存在、
自分を馬鹿にする存在であり、
仲間は、自分を守ったり、
自分を一人の人間として扱ってくれる存在なのです。
居心地の良い仲間とは限らないのですが、
自分の居場所が確保されている人間関係です。

だから、自分を守るため、
仲間との関係性、仲間の中のルールを守ろうとするのです。
校則や法律を守ろうとしないのです。

そうすると子どもたちに規範意識を持ってもらうとか
人間関係を大切にするということを要求する時
どうすればよいか
自然とわかると思います。

7 学校で規範意識を醸成する本当の当たり前の方法

例えば幼稚園で乱暴な子どもがいて
お友達を叩いてしまう
そういう場合に、罰を与えれば
乱暴は治るのでしょうか。

おそらく多くの幼稚園では、
普通に
お友達を大切にすること
親切にすることで
良好な人間関係が形成できることを
教えているでしょう。

園児たちは
どこかしら気恥ずかしい気持ちを持ちながら
先生の言われたとおりに友達に接して
友達から自分を迎え入れられたことを喜びながら
幼稚園生活を送ることになります。

先ず、良好な人間関係の作り方を教える必要があるでしょう。

子どもは未熟な存在です。
より安定した人間関係が形成できるように
指導していく必要があります。

他者と一緒にいることがたまらなく不安な子どもたちがいます。
この場合、当該子どもだけでなく、
周囲の子どもたちも指導をしていくことが有効です。
また、過剰な人間関係に期待をしている場合
修正をしていくことも有効でしょう。

励まして、自信を持たせることが必要な場合も多いでしょう。

他人の弱さを承認する、
他人の欠点を責めない
他人の不十分なところを補う
そんな人間関係を作ることを教えることが必要です。

これが人権教育の根幹です。
また、職場で過労死しない基礎的な人間関係を
形成する力となり、
将来的に自分を守る手段、訓練にもなります。

子どもたちはいろいろなものから追い込まれています。
親だったり、塾だったり、学校だったり
友達だったり、社会だったり、
こうでなくてはならない、
こうでなければ負け組になるということで
自分らしく生きることを否定されています。

貴方は悪いわけではなく、
行動を修正していけば
もっと快適な生活が送れる
そういうことを教えていくのが教育ではないでしょうか。

必罰主義は
未熟が悪だということになります。
ありのままでいることが悪だということになります。
励ますのではなく、徹底的に否定することになりかねません。

弱い者が悪だ
悪にならないように必死に努力して
ひと時も気を抜かないでいなければならない
そう言われ続けているのが現代の子どもたちのような
そんな気がして仕方がありません。

現在のいじめや自死は
こうした世の中の必罰主義が作り出している
と私は思います。

その上学校でまで
子どもたちの失敗を悪と決めつけ
失敗したものは生まれつき失敗すると言って処罰をする
さらにストレスをかけていくという
悪徳労務管理で子どもたちの余裕を搾り取るものです。

学校の状況を改善する方法と
全くもって逆行していると思います。

もっともっと批判を大きくするべきだと思いました。

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過労死防止対策推進シンポジウム宮城 過重労働が家族に与える影響 [労災事件]

平成29年11月18日土曜日
仙台メディアテーク1階オープンスクエアにおいて
厚生労働省主催の過労死防止シンポジウムを開催します。

シンポジウムと言っても
誰かが長々講演するのではありません。
(それが悪いというわけでもありませんが)

昨年過重労働等でうつ病に苦しんでいる人たちと
心理士、弁護士が共同研究を行い、
どうすれば、死ぬ前に過重労働から抜け出るか
ということを発表したのですが、
企業の労務担当の方を中心に
大きな反響をいただきました。

今回も宮城は一味違います。

実際に起きた事件
会社のトラブルを会社が放置してしまい、
逆に労働者を攻撃した形になり、
労働者がうつ病になり、
10年が経った今も働けない状態で
労災認定された事件をモデルに構成しています。

事件を、朗読劇のようにして発表し、
臨床心理士の方を中心に、
各ポイントポイントを指摘し、
どこが精神的に圧迫されたところか、
どうして精神的にきついのか、
逐一解説していきます。

パワハラとか過重労働とか、
不可能を強いられるという意識を持つのですが、
それを命令する方は、
相手を圧迫していることに
気が付かないことも多いのです。

具体的事例を参考に
ここだと指摘します。
資料配布予定(無料)

さらにメインは、
過重労働と家族の問題です。

過重労働とか過労死防止とかいう場合、
「働いている労働者の命を守る」
ということで、悪く言えば終わっているような気がするんです。

死ななければ良いということになってしまうのは論外ですが、
過重労働がある場合は、
リアルに見て、家族も苦しんでいます。

もちろん、夫や妻がうつ病になってしまって、
うつの看護や介護が大変だということもあるのですが、

病気にならなくても
苦しんでいる家族を見るのが辛いということもありますし、

病気にならなくても
イライラして家族に当たり散らすということもありますし、

病気にならなくても
家族と会話をすることが難しい状況になることもあります。

過重労働が原因で夫婦のチーム感覚がなくなってしまい、
離婚事件になるケースも最近増えていると実感しています。
このあたりが労災弁護士業務と、離婚復縁弁護士業務を
どちらも頑張っているならではの話ですね。

幸せになるために働いているのに、
家族を不幸せにするということもだめだと思うのです。
みんなが幸せになるようにすることこそ
働き方改革だと思うのです。

このモデルケースでは
旦那さんは一時重いうつ病にかかります。
奥さんもどうやらうつ的傾向にあったようです。

どこが、奥さんが精神的に圧迫されたポイントか
という問題もさることながら、
奥さんがどういう風にうつを乗り越えていったか
ということを
詳細に報告することとなります。

言い切ります。
世界中でこのような研究テーマでの
過労死防止シンポジウムはない
はず。

そして、宮城会場恒例のミニコンサート
また今年もあります。
今年もビッグネームです。

あの翼の折れたエンジェルの作詞作曲で有名な
高橋研さんが友情出演してくださるという
涙ものです。
無料なんです。

私は、高橋研さんと言えば、
加藤いずみさんの
好きになって良かったが
カラオケの持ち歌なので、
とても尊敬しています。
とても楽しみです。

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あがり症の方、気持ちがゆっくりできない方へ マインドフルネス的な呼吸法、20分で方法も理論も分かり、一生忘れないで使える方法 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 具体的な技術
 ⅰ)筋肉の緊張の緩和
   私たちの体の筋肉は、結構無駄に緊張しています。できるだけ、無駄な緊張をとることから始めましょう。と言っても、さあ、緊張を緩和させなさいと言われても、できません。逆に緊張させるところから始める方が簡単です。顔の筋肉を緊張させることから始めましょう。
  ① 顔の筋肉を眉間に寄せる感覚で
    顔全体を動かしてみましょう。
    眉間にしわを寄せ、
    唇をすぼめて心もち上にあげ、
    頬の筋肉も寄せる感じで、
    できるだけ力を入れましょう。
  ② 二秒力を入れ続けましょう。
  ③ 力を抜きます。
    筋肉が戻るような感覚を感じることでしょう。
    これが脱力の感覚です。
  ④ まだ、脱力しきれていない筋肉を感じたら
    脱力をしてゆきましょう。
    先ほど脱力した時の感覚を続けるような感じです。
    額とか、目の周りとかさらに緩めることができませんか。
    口やあごの筋肉も緩めることができそうです。
  ⑤ 徐々にのどの筋肉、型の筋肉、背中の筋肉等
    どんどん緩めていきましょう。
  申し遅れましたが、
くれぐれも転んでけがなどしないように、
安全な場所で行ってください。
⑥ いろいろな音が聞こえてきたリ、
  かゆかったり、軽い痛みを感じるかもしれません。
  痛いとかかゆいとか我慢できない場合は対処してください。
  また初めから始めればよいです。
  あとは、ただ、ただ、感じてください。
  匂いもするかもしれませんが、やはり十分感じてください。
  感じる以上の反応をしない
  ということが大切なことです。
  感じる以上頭では考えないということが大切なことです。
 
 ⅱ)呼吸法
   この時の姿勢は、座禅が最も合理的のようです。
   但し、座禅を組むと痛い場合はやめてください。
   あぐらでもよいですが、片方の足をもう片方の足の
   太ももの上に乗せても効果的です。
   とっさの場合は、どんな姿勢でも良いです。

  ① 静かに息を吸い、ゆっくり吐きましょう。
  ② そうして再び息を吸います。
    鼻から息を吸うことを意識しましょう。
    鼻の粘膜で、空気が鼻から入っていることが確認できますか。
    鼻が詰まっているときは口から息を吸いますが、
    口の中の粘膜で、空気が入って動いていることを確認しましょう。
腹や胸が膨らんでいることを感じてください。
  ③ ゆっくり息を吐きだしましょう。
    腹や胸がしぼんでいくことを感じましょう。
    鼻や口から息が出て行くことを感じましょう。
   空気の移動を感じるわけですが、
   同時に自分の体を感じることができています。
   やはり、ただ感じてください。
頭では何も考えないようにしましょう。

実際に覚えるのは以上です。
できるだけ他人のいない部屋等で行うことが良いのですが、
呼吸法などは、人ごみの中でもできるリラックス法です。
誰にも気づかれないようにすることができます。

2 理論
 ⅰ)なぜ緊張するのか
   眠っているときはともかく、起きているときは、
   人間は緊張しているようです。
   緊張とは、危険に気が付いて、
   危険が現実化した時に備えて
   いつでもよけたり、逃げたりできるように
   準備するということです。
   人間に限らず動物全般は、
   眠りから覚めると多少は緊張が始まるようです。

   危険への対応とは
   筋肉を動かすことです。
   筋肉を緊張させていれば、
   素早く、力強く、筋肉を使って
   よけたり、逃げたりしやすくなります。

   人間がチンパンジーの祖先から分かれて800万年と言われますが、
   その間ずうっとそうやって危険に備えてきたわけです。
   そうする仕組みが体に合った者だけが
現代に遺伝子を残してきたのでしょう。

   しかし、現代社会では、
   日常的に緊張する必要がありません。
   虎やオオカミが襲ってくることも少なく、
   安全に守られているからです。

   また、自動車事故や戦争などは、
   身構えていても防ぐことができませんから、
   やはりあまり筋肉を緊張させる必要がありませんが、
   遺伝子に組み込まれた準備的緊張が
   どうしても起きてしまうのでしょう。

   もう一つ重大な事情があります。
   
   それは、人間が群れを作る動物であることから来る
   群れの中での立場が悪くなる場合にも
   危険を感じてしまい、
   筋肉が緊張してしまう性質があるということです。

   例えば、試験に失敗するかもしれないとか、
   人前に出て発表しなければならないとか、
   あるいは、
   上司から叱られるとか、
   自分の悪口を陰で言われていることに気が付いた時とか、
   
   そういう場合に、カーとなったり、ドキドキしたりしますが、
   同時に手を握り締めていたり、
   顔がこわばっていたりとか、
   緊張していることがあると思います。

   人間の体は、そんなに都合良くできていません。
   身体的危険の感じ方とは別に
   群れの(対人関係的)危険の感じる方法を
   自然は用意していませんでした。
   感じた結果は同じ反応になってしまうのです。

   仕事上の不安や、家族の人間関係の不安、
   学校での友達や先生との関係も
   いつの間にか筋肉が緊張しているのは、
   このような理由があるからでした。

   この緊張は、身体的な危険の場合は逃げるために合理的な反応でした。
   しかし、対人関係上の危険については、
   有効性はありません。
   かえって、緊張によって失敗を招く場合があるなど、
   無駄なことが多い反応ということになります。

   いずれにしても
   群れを作る動物である人間は、
   緊張の種は尽きません。
   知らず知らずのうちに緊張が当たり前になってしまっているようです。
 
ⅱ)存在しない危険・過大視してしまう危険
  先回りして危険を感じようとする

   緊張が続くと悪いことが起きます。
   身体生命の危険ですとわかりやすいですし、
   悪いことが起きるとも言えないのです。
   翌犬に追いかけられた場合のことを例に挙げられます。
   
   先ず、頭の中の発想として
安全な場所に行くことが最優先になります。
   当然と言えば当然ですね。

   そうして、先々のことや複雑なことは考えられなくなります。
   安全な場所に行く以外のことは考えない方が
   ひたすら逃げることに専念できますからね。

   また二者択一的思考になります。
   自分は安全なところにたどり着いたか、まだ危険か
   という判断だけが頭の中で優先されます。

   さらには、まだ危ないのではないかと
   そういう風に慎重になる傾向が生まれます。
   言い方によっては、安全策を第一にすると言えますが、
   悪く言えば、まだ危ないのではないかという
   悲観的な考えが支配的になります。

   怖いと思うと
   実際にはそれほど危険なことでもないのに、
   どんどん危険だと思い、怖くなります。

   ゴキブリの這うような音がしただけで
   実際はいないゴキブリに脅えたりします。
   また、ゴキブリがそれほど害がないのですが、
   ゴキブリが病原菌の塊で、
   身の破滅だというような恐怖を感じる人もいるでしょう。

   しかし、ゴキブリを捕獲したり殺したりすると
   恐怖感がだいぶ軽減されるようです。

   危険を感じると、
   実際には存在しない危険を感じてしまうようになったり、
   実際にはそれほど大きくないのに
   大きな危険があるように感じてしまうようになったりするようです。

   これも安全優先の思考パターンから来るものだと思います。
   生き残るためのメカニズムなのでしょう。

   これは、身体生命の危険だけでなく、
   対人関係上の危険でも同じなようです。
   対人関係上の危険では、
   悪いことが起きてしまいます。

   危険を感じて、それが継続すると、
   どんどん危険を感じ易い状態になっていく
   ということがありそうです。

   そうして、ありもしない危険を思いついて
   益々緊張を強めていきます。
   先回り危険予測みたいなものに最終的には陥り、
   何をやってもうまくいくはずがないと
   強く思いこんでしまいます。

   危険スパイラルみたいなものです。
  
   もうこうなると、こじつけのような不安がどんどん生まれます。
   自分でも気が付かないうちにネガティブな感情になっていきます。
   始末に負えないのは、
   具体的な危険が想定できないということです。

   具体的な危険、つまり、危険の内容を言葉でいえる危険ではない。
   漠然とした危険ということになると思います。
   特に、身体生命の危険ではなく
   対人関係的危険の特徴です。

   人間の中にいると何となく不安になる。
   不安を解消するために、
   人間のいるところに行かない
   逆に攻撃されないように、強がって
   攻撃したらし返すぞというオーラを出す、
   何かに夢中になりすぎてしまう、
   お酒など、薬物に逃げ込んでしまう。
   人を信じられなくなってしまう。

   いろいろな不具合が
   知らないうちに起きてしまう。
 
   危険・不安スパイラルを
どこかで一度切ってしまう必要が出てきます。

 ⅲ)無駄な危険を感じなくする方法 体を感じる方法

   無駄な危険を感じると
   例えば作業においては、
   ケアレスミスが増えていきますし、
   二者択一的な思考が、第三の方法という発想を妨害します。
   抽象的な、美しさとか、友情とか、愛情とか
   そういうことを感じることができなくなっていきます。
   先ほどの不安解消行動が
   社会病理につながることもあります。

   現代のストレス社会(緊張過剰社会)こそ、
   リラックスの方法が求められていると思います。

   危険を感じなくする方法、
   しかも本当の危険に対処できる方法が必要です。

   向精神薬による危険を感じにくくする方法は、
   他の色々な感情もなくしていくので
   副作用のない方法がほしいという要求は
   現代的な要求(ニーズ)なのでしょう。

   その方法が筋肉の緩和と呼吸法なのです。

   これは、人間が、
   身体的な危険と
   対人関係的危険という
   二種類の危険を感じるけれど
   感じ方が一緒だということを
   逆に利用するということです。

   体に危険はないということを自覚することによって、
   体の危険に対処するための
   筋肉の緊張をとくということです。
   これは同時に血圧を下げ、脈拍を減少させるなどの
   効果も期待できます。

   ではどうやって、
   体に危険が無いということを感じるのでしょう。

   実は、これも体が危険を感じる仕組みを
   逆手に取る方法なのです。
   
   危険の感じ方は以下のとおりです。
   ①人間が危険を感じるのは理屈ではない。
   ②危険は無意識に感じている。
   ③視覚、聴覚、味覚、嗅覚、皮膚感覚のセンサーが
   何かをとらえると脳が勝手に危険だと判断する。
   その結果、色々な緊張が脳の指令によって起きるわけです、

   そうだとすると、
   五感で、安全だと感じた場合は、
   脳が勝手に危険信号を停止させるということを期待しています。

   一番先回り危険予測をしないセンサーが
   皮膚感覚だということになります。
   のんびり皮膚感覚を感じていれば、
   脳は危険が迫っていないと勝手に判断するわけです。

   あとは視覚、聴覚、嗅覚等で何かを感じていても
   ただ、その通りを受け止めて
   先回り危険予測をしなければ、
   どんどん落ち着いて行く
   というこういう理屈です。

   だから、本来、呼吸法さえしっかりできれば、
   安心感を獲得できることが期待できます。
   少なくとも焦りはだいぶ軽減されることになります。

   但し、既に、危険スパイラルの中に
   現代人は、多かれ少なかれ巻き込まれていますから、
   呼吸法を始める前に
   強制リセットをする必要も出てきます。
   このために、筋肉の緊張をとる方法を
   先に行うことを今回の説明では行いました。

   理屈は同じですが、
   筋肉の大きな動きの方が
   皮膚感覚を感じ易くしやすいと思いました。

   これは、本来は、
   歌唱方法です。
   のどの緊張をとることによって
   声を出しやすくするための方法です。

   同じようなことが、
   自律神経訓練法等で紹介されることもありますが、
   結局交感神経を鎮めて
   副交感神経を高め、
   体のメンテナンスを体がしやすくするということだと思います。

   緊張を解くということは難しいので、
   あえて緊張を強めてみて、
   自然に緊張が緩和しますから、
   その動きをさらに進めるという方法で
   筋肉の緊張を緩めていくという方法論です。

3 さらなる背景、人間観
   
  人間は、意識をもって、道具や言葉を使い、
  他の動物ができないいろいろなことを成し遂げ
  現在の繁栄を築きました。

  ところが、この意識が独り歩きをするようになり、
  人間本来の力を封じ込めてしまう
  という悪さをするようになったようです。

  本来自然治癒力を助けるための薬などの方策が、
  逆に自然治癒力を妨害するような
  あるいは新たな問題を引き起こすような事態を招いています。

  意識や不安感もこの自然治癒力の一つではあるのですが、
  過剰に不安や危険意識をもってしまうということは
  人間にはよくあることです。
  身体生命においても、
  捻挫などをして痛みを感じることによって
  安静にすることによって
自然治癒力で回復させるという仕組みがありますが、
  よくあることとして、
  この痛みを感じさせる反応が強くなりすぎて
  逆に症状の回復を阻害することがあります。
  これを是正するために湿布などが使われるわけです。

  危険意識、不安が過剰に起こるということは
  精密機械ではない生き物として人間の宿命です。
  このような原理を把握して、
  過剰な反応を抑えるということが、
  筋肉緊張であり呼吸法です。

  もう一つ、人間の自我意識が強すぎると
  うまくゆかなくなることもあります。
  先回り危険予測が起きやすくなるようです。

  もともと、人間というのは単体の生命ではありません。
  いろいろな細菌がいなければ生きていけないばかりではなく、
  細胞一つ一つが独立の生命体と考えることもできます。
  それらが遺伝子のデザインによって、
  ある程度適正に働くことによって、
  本来自然にうまくゆくようです。
  
  意識は、このような生命のユニットの
  大雑把なかじ取りをすればよいのです。
  寒いので暖かくしようとか、
  おなかがすいたので何か食料を探そうとか、
  緻密なことは細胞や細菌に任せる。

  自分というものが、
  それほど絶対的なものではないけれど、
  多くの命の運命を握っている大雑把な司令塔
  というような感覚になることによって、
  本当に必要なもの、必要なことと
  本当はどうでも良いことを見極める
  という姿勢があるということを
  頭の片隅におかれると
  結構楽になるかもしれません。

4 無駄話
  最近マインドフルネスがブームのようです。
  私は、マインドフルネスという概念は、
  認知行動療法の一つの弁証法的行動療法からくる
  理論だと思っていましたが、
  必ずしもそれに限られないようです。

  私の呼吸法は、マインドフルネスに
  大変よく似ていて驚いているのですが、
  実際の教科書は、
  バベット・ロスチャイルドという人の
「PTSDとトラウマの心理療法
  心身統合アプローチの理論と実践」
 (創元社)です。
  自分の体を感じることをアンカーとする
  拠りどころとするというようなものでしょうか
  という理論を応用したものです。

  この人も私もそうなのですが、
  アントニオ・ダマシオという脳科学者の
  ソマティックマーカー理論
  がもとになっています。

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自殺サイトの何が問題か、その危険性とそもそもの根本的な問題。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自殺サイトには様々な危険性があります。
どうして危険なのかその理由についてお話ししたいと思います。

先ず、色々な困難な問題や病気があるからと言って、
直ちに自死につながるということではありません。
なぜならば、死ぬことは誰しも怖いからです。

自死に至る前段階として、
様々な事情から生きる意欲を失い始める時期があるようです。
それに至る一つのパターンをごく大雑把に言うと
自分が人間として認められていないと感じることによって
生きる意欲を失うというパターンがあります。
パワハラやいじめによる自死や
貧困や人間関係の不良による自死がこのパターンのようです。

人間として認められないとは、
仲間として扱われていないということのようです。

それでもいつか自分も仲間として認められたいと思うのですが、
それが不可能だと実感していくと
徐々に生きる意欲を失っていくという現象が起きるようです。

但し、本人の気持ちはそのように整理されてはいません。
漠然とした不安や出口のない息苦しさで、
心休まる暇もなく、大変苦しい時間が連続しています。

具体的な理由もなく、精神疾患等によって
漠然とした苦しさが蔓延していたり、
具体的な理由から精神疾患に陥る、あるいは重症になっていく
という悪循環も起きていきます。

この時期、その人たちが求めているのは、
救いです。
再び仲間として尊重されるという喜びです。
生きようとしているのです。

しかし、その手段が無いと感じるわけです。

そうすると、
この苦しみを感じ続けていくことの
その苦しみが強くなっていきます。

その時、間違った逃げ道を与えると
のどが乾ききった旅人が水を飲むように
その道に突き進んでいくということが起きてしまいます。

自死者の直前の状態はこういう状態です。
この苦しみから逃れたいということですね。
救済を渇望しているとも言えるでしょう。

その時に「自殺」というアイデアを注入するとどうなるでしょう。
「死んでしまえばこの苦しみはなくなる」
という考えが浮かんできてしまうのです。
そうすると、少し暖かい、ほっとした気持ちになるようです。
明るい兆しと受け止めてしまいます。

追いつめられた人は二者択一的志向になりますから
このまま苦しみ続けるのか、死ぬか
というテーマが設定されてしまいます。

要するに死ぬという結論しか出てこない
テーマ設定です。
あとは、意識ではなく
生き物としての感覚が
死を猶予しているだけになってしまいます。

自殺サイトの第1の危険性は、
救済を渇望している人に
自死が救済になるという気持ちを
作ってしまうところにあります。

第2の危険性は、
死ぬことの抵抗がなくなることです。
人が、それほど難しいことなく
物理的に死に至る方法を身近にすることは、
人間が大切にされるものではないという感覚を作っていきます。

人間は、自分も含めて
人というものが大切な存在で、
尊重されるべきだという
ある意味神秘性を感じて生きているようです。

悲しんだり苦しんだりしたらかわいそうだから
何とか助けてあげたいという気持ちが
自分も生きていくという気持ちと重なるわけです。

ところが、人間が虐げられたり、
命を失う目にあうことについて
当たり前のように体験したり、目撃したりしていくうちに

人間という生物は
ただ、化学反応で成り立っているものだという
感覚が強くなってしまいます。

命があってもなくても
それほど意味があることではないという感覚になっていくと、
死ぬことが怖いという感覚が
薄れていってしまうようです。

また、自分だけでなく
外の人も平気で死んでいくという考えは、
自分が死ぬことに抵抗もなくなっていきます。

自殺サイトなど、自死がありふれたものになっていくことは
死への抵抗が失われていくという意味で
大変危険なことです。

第3に、手段を示すことの危険性があります。
このまま苦しみ続けるか自死するか
というテーマ設定から、
このまま苦しみ続けるか、あの方法で自死するか
という具体性を獲得してしまうと、
結局その方法から逃れることができなくなっていきます。

その方法が、自分を苦しみから救い出す方法として、
明るい、どこか暖かいような幻想をもって行くようです。

だんだんとその方法をとらないことが
苦しくなっていくようです。
実行することについて、抵抗できなくなっていくようです。

自殺サイトの危険性を整理すると、
追いつめられた人に対して
引き金を引かせる危険が第1だろうと思います。

第2が、人間を大切にすることができなくなる
という危険でしょう。

だから、自殺サイトがあることが
自殺の増加につながるということは間違いありません。

しかし、ここで考えていただきたいことは、
自殺サイト云々の話は対症療法の側面があるということです。

根本的に、追いつめられていなければ、
自殺サイトを見ても嫌悪感しか生まれないでしょう。

そこまで人を追いつめることをやめることが
根本治療として考えられなければならないことです。

仲間として尊重されていないと
感じる仕打ちをやめなければなりません。

何が、仲間として尊重されていない事情なのかを
明らかにしないと、
なかなか自分の行為で他人が傷ついているとは
考えることは難しいことは確かです。

それがこのブログの大きな目的ですが、

一つの方法として
自死を思い立ったり
自死を遂げられなかった人から
多く学ぶことをすることが急務だと思います。

あまりに統計的な調査が多すぎて、
おそらく電話などで調査しているのでしょうけれど
人間が見えてこない研究が多いように思われるところであります。

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座間9遺体事件の情報から、子どもたちの心を守るための対人関係学からの提案とお願い [自死(自殺)・不明死、葛藤]


今こそ、家族をはじめとする仲間に意識的に優しくしよう

1 子どもたちと私たち一般の方に向けて
2 報道機関に向けて
3 警察、検察、弁護士等刑事手続きご担当者に向けて

連日陰惨な情報が垂れ流しになっています。
座間の9遺体事件の衝撃のために、
アメリカで起きたテロや
少し前の高速道路上の事件やタイヤで親子がなくなった事件の
衝撃が薄れてしまうほどです。
この変化は情報の受け手に過ぎない私たちの
心にとっても極めて危険なことが起きていることを示しています。

どうして、自分と関係の無い人の出来事にも
嫌な気持ちになるのでしょう。
対人関係学的には理由のあることだと考えています。

少し説明すると
先ず、人間は、動物として、
危険が迫ってくることを五感で感じたら、
危ないと思って、避けたり、逃げたりします。
それだけでなく、
人間は、群れを作る動物として、
仲間が被害を受けたら、
危ないと思って、被害を受けないように工夫をします。

この時に人間の心の動きは、
被害を受けている仲間の苦しさや悲しさ、痛みを感じ、
(共鳴する、自分のこととして受け止めるわけです。)
危険が起きているという危機感を抱いて、
同じ被害にあわないようにしようと行動をするという仕組みです。

危機感は、危険回避のためのシステムです。
共鳴、共感は無意識に起きてしまう現象ですから
止めることができません。
人間の危険を回避する遺伝子に組み込まれた仕組みということになります。

だから、陰惨な事件を見ると、
無意識に、被害者や場合によっては加害者にも共感し、
とてつもなく嫌な気持ちになるわけです。

ところが、
そのむごさの程度が強すぎると、
共鳴、共感を心が持てあますことになります。
特に危険を回避する方法がない時には心があふれてしまいます。

先ず、拒否反応を示します。
知りたくない、見たくないという感じです。

次に、自分は同じ危険に会うことはないということを
何とか自分自身に思いこませて合理化したくなります。
その時の反応は、加害者が特殊な人間であるから、
加害者と同類の人間に自分は出会わないだろうと
思いたくなるものです。
加害者に対して感情的に反発をします。

さらには、被害者にも落ち度があるのではないか
ということを探し出します。
被害者が特殊な人間だから被害に遭った
自分は特殊な人間ではないから大丈夫ということです。
被害者に対して攻撃をする心理の一つの原因だと思います。

これらは、自分が同じ危険に会わないはずだと思い込みたいという
安心感を求めての無意識の反応であり、
生きるための仕組みです。

しかし、このような拒否反応や合理化で対処しきれないと
理由もなく、不安や恐怖が襲ってくることになります。
ここまでは、それでも、生きるための工夫ですから
まだ健全な要素が残ります。

そうでない場合としては、
心を慣らしてしまうという危険が
一番心配されるべきことだと思います。
つまり、
人間はそれほど大切にされるべき存在ではない
だから、
どんな酷いことがあっても、
それほど悪いことでも危険なことでもない
という感覚を獲得してしまうことです。

他人も、自分さえも、
無意識に存在価値を肯定できなくなっていきます。

他者を大事にしない、自分を大事にしないということから
犯罪が起きる環境、自死が起きる環境、
その他の社会病理が起きる環境が
熟成していってしまうと考えています。

直ちに模倣犯が起きるわけではありませんが、
このように人間を大事にしないということは
対人関係上の不具合である社会病理が起きやすくなる要因だと
考えています。

このような退廃や人格の荒廃から子どもたちや
自分たちを守るためにどうしたらよいか。
このことについて、提案します。

1 子どもたちと私たち一般の方に向けて

先ず、できる限り、事件報道を見ない、見せないこと
どうしても最近の報道は、事実の衝撃的な部分を
クローズアップして表現しようとする傾向があります。
とても危険な状態だと思います。
一つ一つが、受け手の心を傷つけているのに
注目を集めるために、ことさら刺激的な表現をしています。
いっそのこと、ニュースを見ないようにするということも
これ以上の攻撃を受けないために
緊急避難として必要かもしれません。

大人は嫌な気持ちがしますが、
子どもは感性が確立していなくて、
こういうことを含めて常識を形成してしまいますので、
特に注意が必要です。

次に、ニュースを見ないことにも限界がありますし、
起きた事実を否定してももはや意味がないでしょう。

事件報道による心の被害を0にするという発想から、
事件報道があっても、傷つかない心を作る
という発想に切り替えることも有効です。

この時、単純に被害を0にするとなると、
感じなくすることしか結局出てこず、
結局人格の荒廃が起きてしまうことは、
先ほど述べた通りです。
「メンタルを鍛える」ということを安直に考えないでください。

あくまでも0の先のプラスを目指さなければなりません。

これは簡単な理屈です。例えば、
何か熱いものに触って指をやけどした場合、
指も熱くなっています。
ここで0を目指すということは
36度のぬるま湯を指にあてることです。
36度が元々の体温だからです。

0の先のプラスを目指すということは、
0度近い冷水をやけどした指にあてることです。
むしろ冷やすことで、
やけどの治療をするということになります。

では、実際にはどうしたらよいか。

人間性を回復させる行為を意識的にするということです。
群れの中にいる安心感を獲得してもらうということです。
例えば、
誰かから、失敗を許される、不足をカバーしてもらう、
多少のことがあっても、仲間として尊重されている
という実感を持ってもらうことです。
人間は群れを作る動物ですから、
仲間の中で尊重されている自分が大事にされていると感じると
勝手に、安心感を獲得することができます。

具体的には、
だから、子どもたちのやらなければいけないこと
勉強だったり、片付けだったり、
少しだけ、報道が続いている間だけでも
厳しさを緩めてあげることを提案します。

また、良いところを言葉にして褒めるとか
ありがとう等という言葉を意識的に使い、
仲間の中で役に立っている存在である自分
という意識を持ってもらいましょう。

これは子どもに限らず
大人の間でも有効です。

また、仲間をケアするための行動は、
自分にとっても仲間の中で役割を果たしているという意識を持てますので、
自分にとっても人間性の荒廃に対抗する活動だということになります。

座間の報道で動揺をしているか、していないかにかかわらず、
有効な活動であると思います。
動揺が見えてからでは遅いと思います。

2 報道機関に向けて

あまり必要のない報道は行うべきではないでしょう。
衝撃度を競い合うことでの評価は今回ばかりはやめていただきたい。
人体損傷の内容や具体的な手段などは
いちいち報道することではないと思います。

今、国民の潜在的ニーズは
人間が信じられるということ、人間同士の協力がありがたいということ
そういう人間性を回復したいということにありますので、
そのようなニュースや番組を意識的に制作していただきたいと思います。

3 警察、検察、弁護士等刑事手続きご担当者に向けて

私は、犯罪は、行為者の持って生まれた条件から起きるのではなく、
行為者が置かれた環境が大きな要因であると感じています。
今回の事件が起きる背景というものが必ずあると思います。
どうか、その部分を掘り下げていただきたいと思います。

単に加害者に対する制裁ということばかりを考えていると
この犯罪に至る仕組みの分析が弱くなります。

刑事手続きの担当者とはいえ人間です。
おそらく、その背景を捜査していくうちに
今回の犯罪に準じた陰惨な事実に出くわすと思われます。
かなりの心理的負担となるでしょう。

しかし、その背景事情こそ、現実に起きていることだし、
今回の犯人以外の人も
その背景事情を体験しているかもしれません。
今回の犯罪予備軍がいるかもしれないことになります。

その背景事情をなくすことこそが
犯罪抑止の特効薬であると思います。
そのような観点から
事件を掘り下げていただきたく
お願い申し上げる次第です。

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菊間千乃氏の、弁護により罪を軽くすることが再犯につながる、が妄言である事。じゃあ弁護って何ってはなし。 [刑事事件]

菊間千乃弁護士が、女性自身の記事で、
「弁護により罪を軽くすることが、再犯につながっているのかもしれない
とも感じていました。」と発言しています。

https://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/crime/30969

「万引きの再犯率は約50%と、非常に高いのです。国選弁護などで窃盗犯の担当となれば、本人に反省を促すいっぽうで、なんとか罪が軽くなるように活動をします。しかし、弁護により罪を軽くすることが、再犯につながっているのかもしれないとも感じていました。万防機構は『万引きそのものをなくす』ことを目指していますので、犯罪そのものを減らしたい、という私の弁護士としての信念と同じだと思いました」(菊間さん・以下同)

もっとも、彼女の話の主眼は、
NPO法人全国万引犯罪防止機構の宣伝にあり、
万引き事案の撲滅のためには、
司法の力だけでは足りないということなのだろうと思います。

それはそうですけれど、
それなら余計なことを言わずにそう言えば良いわけです。

彼女の話は、
自分の経験に基づいて、実感として語るのではなく、
機構の用意した資料で語っているようです。

要するに、弁護士でなくても言えることです。
目くじら立てずに放っておけばよいのかもしれませんが、
彼女は発信力が強いために、
一般の方が刑事弁護について誤解をされると困る
という意識はありました。

要するに、弁護士は、適正な刑を手練手管で軽くして
お金を儲ける仕事だという誤解です。

しかし、一般の方がする誤解だけでなく、
結構まじめな若手弁護士も、同じような議論をしている人たちがいて、
慌てているところです。

研修所の刑事弁護の講義は、
無罪弁護が重視されるということもあり、
通常の無罪を争わない、
情状弁護の技術が軽視されているような危惧がありました。

それでも、弁護士や検察官、裁判官、同僚と意見をぶつけ合って、
色々と自分なりに情状弁護の在り方について実務に入るまでも悩み、
実務に入ってからも理想の刑事弁護を追い求めているのが
弁護士だと思っていたのですが、どうも様子が違うようです。

妙な割り切りがあり、
「弁護士の仕事なんて」というあきらめのようなものを感じたので、
慌てて、書いています。
先に弁護士業務を始めている者の責任もあるでしょうから。

菊間氏の話の中での一番の問題は、「刑を軽くする」ということです。
一般の人が読めば、先ほど言ったように、
適正な刑より軽くするという印象を受けるでしょう。
そこにはダーティーな匂いがします。

しかし、不正な手段を使って
適正な刑よりも軽くするとしたら大問題です。
刑事弁護とは言えないでしょう。

また、そのような手段を使って刑が軽くなるということはありません。
そんな甘いものではありません。
そんなことは若手弁護士も重々承知していると思います。

通常の刑事事件では、
弁護士が弁護しなければ裁判が成立しないようになっているので、
実際の比較は難しいのですが、
弁護したほうが弁護しないよりも、
刑が軽くなると思いますし、
そうならないと弁護する意味が無いということも真実だと思います。

それはこういうことなのです。
現行の刑事裁判は、
検察が犯人を裁判にかけ、
有罪無罪と、有罪の場合の刑の大きさを
裁判官が判断します。

検察官は、一般予防の観点から
つまり、悪いことをすれば、刑を受けることになる
ということを示して
同種の行為が悪いこと、やってはいけないこと
ということをアッピールして、犯罪の防止に努める
ということが仕事ということになります。

社会防衛の観点から、
罪に厳しく対応することが使命です。

弁護士はというと(無罪を争わない場合)、
第1に、犯人の利益を擁護します。
社会的に孤独な立場にある犯人の唯一の味方
ということもあり得る仕事です。

罪を犯したことのやむを得ない点だったり、
犯人だけの責任ではない点だったりを主張し、
検察官が言うほど重い罪ではないということを
事実をもって主張します。

検察官が類型的な主張するのに対して、
弁護人は個別的な事情を主張していくという
大雑把な傾向の違いはあるかもしれません。

いずれにしても、適正な刑の大きさから刑を軽くするのではなく、
弁護人として考える適正な刑を主張するわけです。
その結果、検察官の求刑よりも軽くなるということは、
検察官もある程度は織り込み済みということにもなります。

だから、私は刑事弁護をしているときも、
不適正な主張をしたことが無いことはもちろんですが、
言葉はともかく、刑を軽くしてくださいという
お願いトーンで弁護したことはありません。

弁護士が、手練手管で刑を軽くするというのではなく、
適正な刑にするよう努力するということは
お分かりいただいたと思います。

第2に、弁護で刑を軽くしたから再犯が起きる
ということも、とんでもないことです。
何弁護してきたのだというか、
本当に刑事弁護したことあるのという気持ちになります。

何が問題って、ここが問題です。
弁護士が、「本人に反省を促すいっぽうで、なんとか罪が軽くなるように活動をします。」というところです。
「反省を促すこと」と「罪が軽くなるようにする活動」が
見事に分かれています。
ちょっと言葉のアヤのような気もするので酷ですが、
わかりやすい部分なのであえて揚げ足をとることにします。

私の結論を先に言うと、
「本人の反省を深めることこそ」、
結果として量刑が低くなることで、
弁護人としての関わる場合の最も大切なところだ
ということになります。

適正な刑にするための弁護活動で、
例えば、実際に盗んだ金額以上に過大に評価されていることを訂正するとか
示談をするとか、
動機とか、手段とか、盗んだ商品の行方とか
そういうことを主張しますが、
それは、弁護人が主張しなくても
ある程度明らかになっていることが多いです。

やったことは、変えようがありません。

すると、実際に結果として量刑が軽くなることにつながる活動とは、
被告人に反省をしてもらうことなのです。

ここでいう反省は特殊です。
「悪いことをした」、「気持ちが弱かった」、「流されやすかった」
「もう二度としない」、「命を懸けて更生をする」
というのが、反省になっていないダメな表現です。

では、どういうことが反省なのかという前に、
どのような場合が量刑が重く、
どのような場合が量刑が軽くなるのかを考えましょう。

基本は罪の大きさ、やったことですね
これで量刑の枠が決まります。

それなのに反省をすれば量刑が軽くなるというのであれば、
反省することと量刑の軽重はどう結びつくのでしょう。
ここがポイントです。

一言でいえば、
再犯可能性ということになります。
考えてみれば当たり前の話ですが、

ああこの人裁判所出たらまた盗むだろうな
という場合は、
刑務所に入れた方が世のため人のためだし、
できる限り長く入れようということになるでしょう。

それとは反対に
なるほど、色々な事情から、
今度はやらない可能性も高いな
と言えば、一回様子を見て執行猶予にするかとか
刑を軽めにして、今の気持ちを忘れないようにしてもらおう
とかで刑が軽くなる
大雑把に言えばこういう話です。

だから、
本当に、「二度とやらない可能性がある」
と裁判官に思わせなければ
量刑の観点からは、
その反省に意味がないことになります。

少しでも短い刑にしたい
そう思うのは人情ですし、
刑務所に長くいることに、本人にメリットはないでしょう。
そこまで刑務所サイドに余裕はありません。

しかし、刑務所にいる年月を短くしたい
できれば執行猶予をとりたい
と思うならば、
「反省」をする必要があるのです。

ここは、実務ではなかなか難しいところです。

しかし、多くの人が
刑期を短くしたいというエネルギーを
更生の意欲に変えて
自分なりに見事に反省をします。

そのためには刑事弁護でいう所の反省とは何か
どのように反省に導くか
というテーマを
弁護士は持ち続けて弁護し、
後輩に具体的に提案する
という作業を意識的にする必要があると思います。

このブログは記事が多すぎになっていますが、
あちこち反省について述べています。

長文が超長文になりましたから、
その話はいずれということで。

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ある国立大学教授の大森貴弘氏批判への疑問 必要なことは、親子断絶の危険性についての理解あるいは、子を思う親の気持ちへの理解ではないかと思う理由 [家事]

ある国立大の法学部教授が、朝日デジタル「私の視点」に大森貴弘氏を名指しして批判した記事が掲載されました。彼女は以下のように大森氏を批判しています。

http://digital.asahi.com/articles/DA3S13186771.html

「兵庫県伊丹市で面会交流時に起きた痛ましい子殺し事件について「原因は親子断絶による父親の精神状態の悪化にある。面会交流が継続されていれば事件は起きなかったはずで、親子断絶の問題を告発 した事件と言える」とする見解が、何でもありのネット空間ではなく、新聞に掲載されたことに、深い悲しみを覚える。

これは、大森氏の文章に対して、ネット空間のような何でもありの主張であり、新聞に掲載されることは言語道断だという、極めて辛辣な批判です。彼女のこの主張は、仲間同士の閉ざされた人間関係の中での発言ではなく、これまた新聞という不特定多数人に向けた主張のはずです。そうだとすると、なぜ、何でもありのむちゃくちゃな主張であるのか、その理由を説明しなければ、失礼であり、品位を欠くものだと、私は思います。

 その後の彼女の論は、日本の法律は家庭に入りにくい設計になっているが、設計された明治時代は家という大人数で子どもを育てていた。両親に問題があっても、他のまともな大人が子どもを守っていたという趣旨のお話をされ、現在は、その安全弁が失われ、児童虐待に対する予算も体制も日本は貧弱だと展開されています。面会交流も大事だが、加害者の加害を見抜く制度設計が必要だとして、これがない親子断絶防止法を批判します。
そして「私は伊丹市の悲劇の詳細を知らないが、仮に父親が3カ月間、子に会えなくて精神的に病んだとしても、悲劇の責任は、面会交流を試行錯誤した母親にあるのでは決してない。子を守れなかった責任は、親を放置して育児を支援しなかった、私たち日本社会の無責任な無策にある。」と結んでいるのです。

 第1に、大森氏の論考が、伊丹の事件で、子どもが死んだのが母親の責任だなどとは言っていないのですが、彼女の話の流れは、さも大森氏がそのような主張をしているように読み手に誤解を与えることになります。 私の弁護士としての体験からですが、子どもを連れて別居した母親が、子どもに取って父親の愛情を受けることに、あくまでも反対だという人は少ないという実感があります。母親に対して適切な働きかけをして、周到に準備をして母親の不安を軽減した上での面会交流は例外的なケースを除いて実行されます。むしろ、母親に対して子どもを父親に会わせるなという無責任な「支援者」がいるために、面会を拒否するケースが大半です。この「支援者」として、行政や警察、弁護士や医者、学校等様々な権威のある職種の人たちが子どもが自分の親に会うことを妨害しているということが実情です。大体は、すでに論拠がないと否定されつくされているレノア・ウォーカー(DVサイクルとか)のお説をさらに劣化させて(DVは治らない等)繰り返し母親に吹き込んでいるのです。新しいケースの事情聴取をしても、デジャブ―のようにこういう風に言われたと聞かされるたびにうんざりしてしまいます。母親がそれを信じる原因として、夫の家族に対する日常の行動に問題がある場合もありますが、それよりも、母親の体調の問題からの精神的な不安定が要因となることが多いようです。体調の問題とは、漠然とした不安感、疎外感、孤立感です。実際の離婚事件で母親が医師によって診断された疾患名としては、甲状腺機能異常、産後うつ、月経前緊張症、全般性不安障害、うつ病、パニック障害などがあります。このような不安状態の中で、行政や弁護士、警察や医師、学校関係者といった権威があり、不安の解消のために依存をしたい人たちから、会わせてはいけないとアドバイスされると、会わせること自体が不安になるということも理解できることです。

 母親たちは、逃げることで、不安のほかに恐怖まで植え付けれられているのが実情です。現在の逃げるという政策は、即ち子どもを連れて逃げるということですから、当然に父親から子どもを引き離す政策だということを意味しています。この政策を転換するべきだということが、本来提言されるべきことだと思います。それが親子断絶防止法かといわれれば、極めて不十分であることは私も異論がありません。親子断絶防止法は、当初の案から大幅に後退してしまっており、メリットが少なくデメリットが増えてしまったと感じています。一番の問題は結論を提示しているだけで、その結論にどのように誘導するかという肝心の政策がない点です。

 第2に、彼女の論の疑問点として、親子断絶によって精神状態の悪化が起きたことを否定しているように読めることです。
 現実に、父親や母親がわが子と会えなくなることで、様々な精神症状が現れます。これまで精神科医がうつ病などの抑うつ状態、転換性障害、不眠症などと診断した人たちを私はまじかで実際に見ています。突如電話をしたくなり、相手の事情もかまわずに自分の不安を語りだす人、ほとんど日常的に涙目になっている人、誰彼構わずに攻撃的になる人、多かれ少なかれ、異常行動が見られます。

 日本人は、少なくとも江戸時代までは、子煩悩で有名でした。山上憶良の歌から始まり、モースの「日本その日その日」等、子どもがいかに大切にされていたかを物語る資料は尽きません。自分の一部だと思っている子どもと引き離されることで、精神的な不具合が生じることは当然なことでしょう。
 現在の母子を逃がし、父から断絶するという政策が人の精神を病ませる実例は枚挙にいとまがありません。

 家庭内暴力があり、命の危険がある場合はやむを得ないでしょう。しかし、現実に家族が分断されるケースは、私が知る限りそのような危険のないケースがほとんどです。むしろ、心身を蝕むケースの本当のDV事案では、なかなか法制度によって救済されない問題点があると感じています。支援制度を悪用して不貞相手の男性と同居していたケースも少なくありません。DVがないにもかかわらず、DVがあるように思いこんでしまっているケースも多くあります。この点の原因としては、この国立大学の教授の見解が支持されるべきであり、夫婦、家族が孤立していることに問題があると私も思います。但し、孤立しているため、加害者が被害者に加害をするという単純な話ではなく、お互いが、自分を客観的に見ることができず、疑心暗鬼をだれも止めてくれないということ、ちょっとの工夫をアドバイスされれば、みんなが幸せになるのにということなのです。この違いは決定的だと思います。

 逃がす政策が人を狂わせ、凶暴化させ、あるいは破れかぶれにさせ、あるいは思考力を奪い、さらなる悲劇を生んでいるということは真実だと思います。そのような側面が確かにあり、少なくないケースで見られるにもかかわらず、なかったことにされることはどうしても納得できません。まさに数の暴力です。こういう時に人権侵害が起きる者です。私は、人権侵害が行われていると思います。女性の権利を守る名目で、子どもと会えない親の人格が国家によって否定され、子どもが両親から愛情を注がれる権利が理由なく奪われ、子どもの親を絶対的な悪だと子どもに対して繰り返し吹き込む、そのような野蛮なことが横行していると声を大にして言いたいのです。最大の犠牲者は、自己のアイデンティティをないがしろにされる子どもたちです。

 第3に、彼女の主張で、もし、親子の引き離しによって父親の精神破綻が生じて暴力に出たということ自体を否定していたとしたら、それは元々、その父親は子どもを殺すような粗暴な人間だったということを主張しているのでしょうか。そのように読むと論述自体が一貫しているように読めるのです。彼女は、大森氏のどこがどのように何でもありなのか説明をしていないので、不明ではあります。しかし、もしそうだとしたら、人間観に問題があるように感じてなりません。

私は、長年刑事弁護を担当していますが、生まれながらに犯罪を実行する人などいないと感じています。みんな理由があって逸脱行動にでるということです。弁護人の仕事は、罪を犯した人とその理由を考え、理由を除去し再犯を予防することだと整理できると思います。伊丹の事件の理由の一つとして、子どもと過ごすことのできない絶望感や、そのことによって発症した精神疾患だということは大いにあり得ることで、その可能性があることを否定する事情は報道されている限りありません。大森氏の論述がなんでもありというような荒唐無稽の話でないことだけは確かです。

 気になるのは、彼女の論拠の背景として、妻が子どもを連れて別居するというそれだけのことから、別居の理由が夫にDVがあったからだという決めつけがないかということです。実際にそのような別居事案において暴力と呼べる事態ないことが多くあります。精神的虐待といっても、日常よくあるいさかいをもって虐待と呼んでいるケースがほとんどだと実感しています。いずれにしても、そのようないわゆるDV冤罪の事案は少なくありません。このようなDV冤罪を作り出し、父親の精神を破綻させ、子どもから父親と会う権利を奪い、子どもから父親を肯定する権利を奪う最大の原因が、このような類型的な決めつけ、ものの見方です。一言で言って差別です。

松戸家裁の事例では、父親のDVは裁判所でついに認定されませんでした。当事者がDVを裁判家庭において主張することはともかく、当事者でもないひとり親支援NPOの代表や、何も事情を知らないくせに父親をDV夫だと決めつけて、SNS等で流布したことで、刑事告訴をし、警察に受理されたとのことです。【訂正】当初、大学教授についてもNPO代表と同様の理由で刑事告訴をされたと記載していました。刑事告訴を受けたのは両名であることは間違いのない事実ですが、告訴事実について上記大学教授が父親をDV事案と決めつけてSNSで流布したということをもって刑事告訴されたかについては、現時点では未確認です。謹んでお詫びするとともに、その部分を削除いたします。伊丹の父親も自死してしまいましたので、告訴をする人がいないだけなのかもしれません。

 法律家は、事情を知らない事案では、当事者を非難するコメントをしないということが最低限の矜持だと理解しています。何らかの決めつけがあったならば、法律家としてのコメントとは言えません。このルールは実務家だけで研究者は例外なのでしょうか。

 現在の親子断絶防止法を批判することは自由でしょう。しかし、その批判の仕方のために、多くの人たちが傷つくことを謙虚に考えるべきだと思います。決めつけ、差別による批判は、その批判する人たちに何か裏があるようにさえ思えてくるものです。むしろ、多くの人たちに実際に起きている現実をぜひ知って、みんなが幸せになる方法を考えていただきたいと考えてやみません。みんながということが無理ならば、せめて子どもが自分の親を否定することを押し付けられた場合の、子どもの将来に起きることを考えていただきたいと思います。

以下引用。

「離婚後の子育て 共同親権で親子の関係守れ」と題した大森貴弘氏の「私の視点」(9月21日付)を読んでショックを受けた。兵庫県伊丹市で面会交流時に起きた痛ましい子殺し事件について「原因は親子断絶による父親の精神状態の悪化にある。面会交流が継続されていれば事件は起きなかったはずで、親子断絶の問題を告発 した事件と言える」とする見解が、何でもありのネット空間ではなく、新聞に掲載されたことに、深い悲しみを覚える。
 先進国の家族法と日本家族法との違いは、離婚後の共同親権の有無だけではない。両親間のトラブルに対する制度設計がまったく異なっている。明治政府は30年をかけて西欧法に倣った近代法を立法した。しかし明治民法の家族法部分については、「家」の自治にすべてを委ねる、独自の極端な法を立法した。離婚を必ず裁判離婚とするような西欧法は、手間のかかる不要な国家介入だと判断したのである。当時は、まだ自営業を担う「家」が中心の社会で、人々は地域共同体や大家族に包摂されて生活しており、親に問題があっても子どもたちはまともな大人と触れあうことで健康に成長できた。この社会的安全弁は、失われた。
 戦後の民法改正は「家」の自治を当事者の自治に変えただけだ。西欧の裁判所であれば、家庭内暴力(DV)被害者が助けを求めれば、加害者に別居命令を出し、養育費を取り立て、従わなければ刑事罰を加える。しかし、日本のDV被害者に残されているのは、逃げる自由だけである。DVは深刻な児童虐待であり、脳の成長を損傷する度合いは、肉体的虐待や育児放棄よりもむしろ大きいといわれる。そして児童虐待対応にかけられている公費も、日本は西欧諸国よりはるかに少ない。
 もちろん離婚後も親子の交流があるほうが望ましく、子の奪い合いにはときに強制力のある介入も必要である。しかし、それは物理的・精神的暴力から子を守りながら行わなければならない。パーソナリティーの偏りや精神的暴力の有無などを見抜く力のある精神科医や臨床心理士などのプロが調査・介入して、加害者に働きかけてリスクを軽減して初めて可能になる。親子断絶防止法案は、これらの支援の保障なく、当事者への義務づけを定めるもので、弊害が大きい。
 私は伊丹市の悲劇の詳細を知らないが、仮に父親が3カ月間、子に会えなくて精神的に病んだとしても、悲劇の責任は、面会交流を試行錯誤した母親にあるのでは決してない。子を守れなかった責任は、親を放置して育児を支援しなかった、私たち日本社会の無責任な無策にある。


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MVPは家裁調査官 あなたの面会交流の時のために 試行面会が実施されました。 [家事]


事案、1年プラスα前に妻が子どもを連れて突然別居。行き先不明。
   別居2か月後妻が離婚調停申立。3か月後夫側代理人受任。4カ月後、面会交流調停申立。子どもは、小学校低学年女児。

この事案で、先日「試行面会」というものを行いました。試行面会とは、子どもと別居親が面会することが子どもにとって何らかの問題がある可能性があるとき、裁判所の一室で、調査官が立ち会うなどして子どもの安全を確保しながら、試験的に面会をしてみるというものです。

夫と代理人は、先に家庭裁判所に入り、控室に通されます。時間までに控室にいることで、妻と子どもが後から家庭裁判所に入り、試行面会室に入るまで、夫と顔をあわせることが無いようにします。夫のDVは実際にはないケースが多いのですが、妻側がDVがあると思っているケースも多く、このような安心を提供することで、子どもが別居親に会えるということにつながるので、まあ良しとします。無線を携帯した職員が何か所に立っていましたが、こちらの問題ではないと信じましょう。当事者からすると、誰しも、挑発されているようにしか感じられませんが、そのようなインテリジェンスはないのかもしれません。

そうして準備が調ったら、呼び出し係の職員の方が、控室に迎えに来てくれて、面会室に向かいます。面会室はプレイルームと呼ばれるものです。実際に私がプレイルームに入ったことはありません。弁護士は隣の部屋で待機しています。隣の部屋にはモニターがあって、モニターでプレイルームの様子がわかります。調停員、妻、妻の代理人も、別室に待機しモニターでプレイルームの状況を見ているようです。

プレイルームは、カラフルな着色をした発泡スチロールみたいなマットが組み合わせらた2畳くらいでしょうかスペースと、テーブル、ソファのスペース、それから入り口の脇の箱庭制作のスペースがあるこじんまりとしたところです。箱庭のキャラクター、アイテムが並べられている棚が奥に見えます。かなり、アイテムは充実しているようです。それにボードゲーム機があると言った感じです。

われわれが到着した段階では、プレイルームには子どもと調査官がいます。調査官は、試行面会の前に子どもから聴取しています。今回も子どもも調査官を気にしていないようでした。もっとも、調査官の聴取が子どもにとって苦痛であった場合はそうはいかないかもしれません。
 弁護士は、先に別室に入ってモニターを見ます。父親が入室するところから見ることができます。

 ここが一番緊張するところです。何せ、1年以上あっていないのです。親の方が感極まってしまい、収拾がつかなくなることも人情としては理解できることです。でもそうしてしまうと、子どもの方が負担になったり、びっくりしてしまったりするということがあります。面会交流が重苦しい時間になって次につながらない心配もあるのです。そのため、事前の打ち合わせで、「昨日も会ったように、当たり前のような顔をして始めてください。」と無理を承知で言わなければなりません。また、子どもと話す内容も、妻が住所を秘匿している場合、住所を割り出されるのではないかと妻がおびえているので、それにつながる学校の名前とかを聞き出すことはしないことにしています。子どもから会えない理由を聞かれることも多いのですが、うっかり母親が会わせてくれないと言ってしまうと、母親が二度と会わせようとしなくなるので、注意しなければなりません。
 ここで、別居親は子どもを連れ去られたという被害意識がありますから、無意識、無自覚に、子どもに自分の窮状を理解してもらおうとしてしまうのです。自分が辛いとか、寂しいということを言ってしまうということがあります。私もそう言うと思います。一緒に住みたいとかですね。または、お母さんが会っていいよと言ってくれれば会えるよとかもそうですね。あるいは、子どもが寂しがっていないかと思い、お父さんは絶対見捨てないよとかですね。それは人情としてはわかります。しかし、考えなければいけないのは、子どもの立場です。そういうことを言われた場合の危険性として、自分が悪いからお父さんが苦しんでいるのだろうかとか、今自分はとんでもない危険な状況にいるのではないだろうかとか、どうしていいかわからなくて混乱してしまうとかですね。要するに親の思いは、子どもにとって重すぎて、支えきれないということなのです。また、子どもになついてもらいたいとか、楽しそうにしてもらいたいとか、色々リクエストはあるでしょうが、子どもには子どもの事情もありますから、こちらの思い通りはいきません。一緒に暮らしていても、子どもが言うことなんて聞きません。親ですから、子どもにサービスをする立場なので、子どもに何かを求めることはしないと特に意識する必要があるようです。子どもが、自分はいつもどおりでいいんだということを感じてもらえるように、別居親の心の踏ん張りどころということになります。
 
 先日の事例はうまくいったようです。モニターの位置が悪くはっきりはわからなかったようですが、お父さんは笑顔で入室したようです。それが、すべてでした。子どもは安心して、お父さんに抱きついて行きました。今思い出しても泣けてきます。一人でモニターで見ているので、人目をはばかることなく泣きました。1年以上も会えなかったわけです。会いたかっただろうな、不安だっただろうなといういろいろなことが、私の心にワッと飛び込んできたような感じでした。

 それからどうすればよいのか。別居親が真剣に子どもにとって有益な面会をしようと思った場合に出てくる当然の疑問があります。「その後どうすればよいのか。」ということです。あれもだめこれもだめということになるとどうしたらよいかわからなくなるということは当然です。これは、それぞれお子さんに合わせてということになるわけですが、いくつかサンプルを挙げましょう。

 娘と父親の場合、これは娘に合わせればよいです。要するに、娘にリードしてもらうということです。面会交流場所に遊具なんかがある場合、娘は、親と一緒に遊びたくなります。ごちゃごちゃ言わないで付き合ってあげればよいです。飽きて来たら、別のことをやろうと言いますから、ニコニコと従えばよいです。自分の思い通りに親が動いてくれることも貴重な時間になります。内気な男の子というとになると、最初はぎこちないですが、これこれをしようかとか言って、提案してあげることも必要かもしれません。次何をすると尋ねても良いかもしれません。子どもにげたを預けてしまうと楽です。何か話をするときも、自分のことを話すとよいでしょう。「昨日こういう面白いことがあって、お父さん笑っちゃったよ。」とかいう話が最適です。大事なことは、子どもが話し始めたら、興味を持って聞くということです。多少道徳的に逸脱したことを言ったとしても、条件反射的に注意するのではなく、どうしてそういうことを言ったのか興味を持ってください。そうして良いことをしたり、言ったりしたら褒めるということを忘れないでください。一緒に住んでいる親はなかなかそういうことはできません。短時間しか会えないなら、短時間の中で子どもに貴重な体験をしてもらうことができます。自分の感情を否定されないということですね。

子どもの年齢が高くなって打ち解けないという状況がしばしば見られます。気にしないことです。親の方が楽しそうにしていること、自分が親にぶっきらぼうでも親は自分を許してくれるという体験が有効です。ここも心の踏ん張りどころでしょう。

案外あっさりしているのは、帰り際です。子どもは、自分の立場をよく知っているようです。夢のような時間にも終わりが来るということをよくわきまえています。どんなに楽しんでいても、帰り支度をし始めます。極端な場合、親の顔を見ようとしなくなります。かえって悲しい現実を突きつけられたような気がする瞬間です。子どもは頑張っているのです。大人が頑張らなくてどうします。大事なことは、「またね。」ということのようです。「会えるの?」と尋ねられたら、「大丈夫だよ。」と言いましょう。子どもにとって、親の大丈夫という言葉は、何にも代えられない安らぎ、心の支えになるからです。「お母さんが良いって言ったら」等とごちゃごちゃしたことは言わない。抽象的な言葉は、こういう時のためにあるのだと思います。大丈夫でなければ、大丈夫なようにするだけのことです。

もし機会があれば、同居親に感謝を伝えるべきです。おそらく、子どもを連れ去られて、自分を否定した憎い相手かもしれません。そういう目に合わせられて感謝をするということは納得のできないことでしょう。
でも、相手親も、本当は、あわせたくないのです。嫌がらせをしていると非難する人が多いのですが、圧倒的多数の事例では、同居親にそこまで余裕はないです。子どもを別居親に会わせることで、何か良くないことが起きるかもしれないという漠然とした不安や苦痛を持っている場合が殆どです。もちろん連れ去りの不安もあるようですが、それは、場所的に安全な場所で行われていてもあって、本質は言葉にできない不安と言ってよいようです。それを無理して合わせているのだから、ねぎらいをすることは、相手も安心する。相手が安心すれば、面会も拡大するという関係になります。
 だから、感謝の気持ちを持たなくても、感謝の言葉を伝えることがとても大切だということなのです。女性にマメな男性は、本能的にできることのようです。

 今回は、時間も限られた試行面会でしたが、これまではなかなかそれすらできませんでした。最後まで、様々な方法で抵抗されました。しかし、調査官が、きっちり子どもの意向調査をされ、その調査結果を踏まえて、外野の声に耳を傾けず、毅然としかし情をもってお母さんを説得し、励ましていただいたおかげで実現しました。詳細は書けませんが、審判官(裁判官)にもご尽力いただきました。調査の過程で子どもとの信頼関係を構築し、子どもがスムーズに面会に入れたとも思います。まだお若いのですが、立派な調査官だと思いました。

 たった一人のお子さんのことで、たくさんの大人たちが自分の持っている力をフル稼働して、協力し合い、励まし合い、お子さんが、両親から愛情を注がれていると実感できる場を作る、なんて素敵なことでしょう。正常な家庭裁判所は感動があふれています。

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過労死遺族の会東北希望の会だより、11月18日の仙台シンポの打ち合わせと裁判と [労災事件]

東北希望の会のお話を久しぶりにしましょう。
毎月例会があるのですが、
参加させていただいていることが
私の財産になっているということを
是非お話ししたいのです。

東北希望の会の説明は後ろの方に書いておきます。

東北希望の会の活動の基本は、毎月の例会です。
なんでもここで話し合って自分たちで決めてゆきます。

先日は、狭い部屋に25人もはいり、
ぎゅうぎゅう詰めの中、熱い議論を交わしました。

東北希望の会という名前は、本物で、
北は青森から南は北関東まで会員がいます。
この会議にも、岩手県の海岸の町から車で4時間かけていらっしゃったり、
福島県からも、北関東からもわざわざ新幹線に乗って
いらっしゃるのです。
これだけで感激です。

さらに、旦那さんが自死して数か月の方や
自分が過重労働の後遺症で精神的に苦しんでいる方
いろんな方がいらっしゃいます。
みなさん、活発に発言されているんです。

今回は特別ゲストもいらっしゃいました。
厚生労働省のシンポジウムの打ち合わせということで、
宮城労働局の方が、土曜日にもかかわらず、お休みの所、
例会においでいただいて、和やかにお話に参加していただきました。
かなり偉い人なのですが、物腰の低い方でした。
当事者の方々の労災制度に対する憤懣を
どのようにお聞きされているか
冷や汗もののシーンもありました。

それから、テレビ局の記者さんもいらっしゃいました。
こういう例会に参加し、現場の雰囲気を味わってもらい、
インタビューでは出てこない本音を聞いていただくことは
とてもありがたいことです。

シンポジウムの内容などについては、
また別の機会にするべき分量になってきましたので、
今回は割愛します。

家族が過重労働で精神疾患になり、
夫婦共倒れになりそうな中から、
奥さんが回復して、
希望の会の例会にも参加できるようになった
そのお話を今回のシンポジウムでやるのですが、

毎回例会に、他県からでも来ようと思う
その理由は何かということが話し合われたのですが、
その時ご本人は、二つ理由を述べられました。
「詳しいことを言わなくても自分のつらさ、悲しさを分かってくれる」
「自分の発言を否定する人もいないし、
 誰かの発言を否定する人もいない。
 それが心地よいのかもしれない。」
ということをおっしゃっていただきました。

前者は、よく理解できます。
後者は、驚きでした。
誰も、ファシリテーターの訓練もオープンダイアローグの理解も
アサーションの技術もない人たちです。
それが、熟練の技術を屈指でもしているような
そういう話法を身につけているということになります。

今日は簡単に結論だけ言いますが、
おそらく、人間同士の思いやりの気持ち、
お互いをいたわる気持ち、
相手の苦しさや立場を理解しようとする気持ちが、
自然とそういう場を作っているのだと思います。

感激でした。
いろいろな方々の参加と合わせて、
普通に歩いていても、
目だけ半泣きの状態で帰りました。

10日くらい後に、
会員さんの一人の裁判の第一回がありました。
なんと、岩手から福島から北関東から
大勢の会員さんが応援に駆けつけていただきました。

ポッセの若者も応援に来ていただきました。

人と人との結びつきに
いつも感動させていただいています。
東北希望の会に参加させていただくことも
私の貴重な財産になっています。
私は幸せ者です。

<東北希望の会についての説明>

東北希望の会は、平成25年4月に生まれました。
家族を過労死や過労自死で失くした遺族が中心です。
初めから、ご自分が過重労働によって
うつ病や精神障害の闘病中の方も多く参加しています。

そこに私のような弁護士、社会保険労務士、臨床心理士が
脇を固めて活動をしています。

二つの大きな活動があって、
一つは、過労死を無くすという社会活動です。
平成26年の過労死防止法制定に向けた活動や
今度仙台で11月18日、郡山で12月2日に開催される
厚生労働省主催の過労死防止シンポジウムの企画をしたり、
11月14日に山鹿の同じシンポジウムに参加したりと
そういう活動です。
名前を出せる人は名前を出してお話ししますけれど、
それはちょっとという人は、無理をしないということにしています。

だって家族が無理をして亡くなったのですから。

もう一つの活動は、当事者同士の助け合いです。
夫を亡くしたお母さんが、
自らも闘病しながら子どもを育てるのに夢中で、
クリスマスをスルーしてしまったという話から、
みんなで助け合えば、荷を分かち合えば
愉しく過ごせるということで、

毎年冬はクリスマス会、
夏は、塩釜の島に船で出かけて
海水浴やスイカわりを楽しみます。
一つのご家庭ではなかなか大変なのですが、
みんなでやれば、色々なことができます。

毎年サンタクロースを呼んでプレゼントを渡してもらっています。
小学校以下の子どもたちはただただ楽しんでいただければよいですし、
中学校以上のお子さん方は、調理のお手伝いをしていただいたりしています。
ボランティアの高校生が大活躍したりしています。



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