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自殺予防のキーワードは生きようとする意欲の喪失 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、熊本の自死予防シンポジウでお話をさせていただき、パネルディスカッションにも参加し、とても刺激を受けました。もやもやしていたことがはっきりしてきたこともあります。このシンポジウムを契機に考えたことについて述べます。

1 自死者の心理状態

  上記パネルディスカッションの中で、「本当は生きたいと思っているのに、なぜ自死を選ぶのか」という問いかけがあった。
  この点は自死の心理の理解のために極めて微妙な話である。些細な言葉の表現の問題にこだわるのかと受け止められることを承知で、あえて口を挟んだ。
 「自死者は自死を選択しているわけではない。サバイバー研究などを踏まえて、以下の事例を紹介する。電車通勤をしていて、ある日電車が来たとき、『このまま飛び込めば楽になる』とふらふらと向かったところ、予想に反して早く電車が到着したので、事なきを得た事例がある。この人は、そういうことがあったことを2年間忘れていた。選ぶという心理状態にはない。自死を実行するかどうか、偶然的要素もある。」と説明した。
  司会の方から衝動性の考慮も大切だと言われた。
  時間の進行もあるので、さらなる口を挟むことはしなかったが、このやり取りで私の考えは進んだ。
  自死者が衝動的に自死をしたくなるわけではない。確かに、周囲の人から見れば、それまで自死をするという気配が無いところで、突然自死が決行されれば衝動的に見えるかもしれない。体内からアルコールや向精神薬が検出されれば、衝動性が高まったと評価されるかもしれない。しかし、それは正確ではない。
  自死者の多くは、家族等周囲に心配をかけないようにする傾向がある人が多い。自死の意欲やうつを隠そうとする。このため、周囲は自死をするまでその危険性に気が付かないことがほとんどだ。しかし、本人からすると、突然自死を思い立つということはむしろ少ないようだ。
  サバイバーたちから話を聞いてみると、朝起きたときから、自死の手段を考えるという人が多いように感じる。死ぬことは確定していて、あとはその手段というわけだ。それをわずかに残った精神力で、極力押し返しているという状態のようだ。アルコールや向精神薬は、わずかに残った抑止力を奪い、むしろ自死に向けた行動力を付与してしまうのだろう。
  だから、衝動的に自死をしたくなったり、衝動的に自死の行為に出たりするのではなく、慢性的に自死の誘惑にかられ続けている状況であるという表現が実態にあっている。そうすると、その中で生き続けているということは、慢性的に自死をしないことの努力をしていると考えるべきなのだろう。
サバイバー研究を踏まえてもう一言付け加えれば、自死を選ぶという選択肢があるのではなく、「死ななくてはならない」という強度の思い込みの感情が継続しているという方が正しいようだ。希死念慮や視野狭窄が病的に現れる場合は、そのようなすさまじい心理状況であるとサバイバーたちは語る。
  慢性的に、自死を考え、自死をすることが確定事項となっているという状態はどのような状態か。私は、これこそが、「生きようとする意欲が失われている状態」であるという概念を定立することが有益であると考える。
  生きようとする意欲を失いながらも、それとは矛盾するところの生きようとする生物活動がある。その綱引きをしているのだと思う。このような一人の人の中にある矛盾をありのままに把握できるか否かが、自死に対する理解が可能となるかどうかの分かれ目になると思う。

2 生きようとする意欲とそれが失われた状態について

  生きようとする意欲とは、意識するものではない。生物として存在する以上どんな生き物にも存在する。生きることを志向する活動である。あるいはそれが生きているということなのだろう。自律神経が動き、生命活動が生理的に行われる。外部から栄養を摂取し、危険から身を守り、生殖活動をして子孫を増やす。生の営みである。生きようという理由から精神活動を意識的に行うのではない。おそらく、生きようとする意欲とは、生きていることと同じことを意味し、一つのことについての別の角度からの表現なのだろうと思う。生きている以上は生きようとする意欲が、無意識に存在する。血液が循環し、新陳代謝が行われる。これは意識するものではない。死を意識しても、たとえばその日死刑になることがわかっていても、食事をとり、水を飲み、日常のルーティン活動を行うがごときである。

  生きようとする意欲について、動物と植物には大きな違いがある。それは、動物の場合は、危険を回避する行動をとるということである。感覚機能を使って危険を感じ、身体の運動機能を使って逃げたり、闘ったりして、危険を回避する。
  このような機能のない植物の場合は生きようとする意欲が失われるということを観察することはないが、動物の場合は、危険を回避する行為を行わないという形で生きようとする意欲が失われることを観察することができる。しかし、人間以外の動物では、生きようとする意欲が失われることを観察することは稀であろう。
  では、人間の生きようとする意欲が失われるということは、どういうことか。この例として良く言われることは、絶望的な危険の状態に直面して気絶することである。高所から転落した時等、自分では危険回避の方法がないと悟った場合、その瞬間に気絶をしていたと生還者が語るという。危機回避の方法の存否の認識については、危険の客観的程度に比例するというよりも、それぞれの個性によってだいぶ違うようだ。気絶する場合も、自らが意識して意識を失うのではなく、無意識に気絶してしまうだろうことは、想像できることだ。結果として、客観的に生きようとする意欲が失われている状態である。
  このような極端な身体生命の危険があって、それに対応して気絶をするということはわかりやすい。しかし、危険が即時に現実化しない場合、例えばがんの宣告をされたからと言って、死ぬまで気絶しているということは無いだろう。もしかすると、奇跡的な回復や新薬の開発など、あるいは誤診だったということも含めて、望みを失っていないのかもしれない。しかし、最初の宣告の後、八方手を尽くしても、早晩死に至るという結論が動かないとき、というより、動かないという認識に至ったとき、ヒトは絶望する。しかし、気絶のような「生きようとする意欲を失う状態」には通常ならないだろう。但し、希望を失ったことによる心身の変化が生じてくる。このことについて考察を進める。
  次にお話することは、危険に直面して危機回避の行動をとれないことが、高所から転落するように即時に結果が出る場合ではなく、慢性的に継続する状態の場合、どのような精神状況になるかということである。

3 慢性的な危険と生きようとする意欲の喪失

  即時ではないが死は避けられない状況の場合、徐々に生きようとする意欲が失われていくということがある。最もわかりやすいのはうつ状態になることである。現在ではうつ状態は、操作的診断方法によって診断される。これは、いくつかの症状の継続があるかないかという方法で判断される。しかし、伝統的には、うつ病の定義は、全精神活動の停止に特徴があるという。うつ状態も、精神病理的に言えば、精神活動の停止ないし低下ということになるはずだ。
  ここでいう精神活動とは何か。それは生きるための活動であると私は考える。人間として生きるために、朝目覚めて、外に出て社会的な活動をして収入を得て、食事をとり、家族を作り、休息をとる。これがうつ状態になれば全般的にできなくなる。朝起きないし、対人関係を形成することが困難になり、性欲、食欲、睡眠欲が減退する。
  精神活動の最も重大な低下状態は、そのすべてを行えない状態である。重症うつ病である。ただ、上記の精神活動の中で、対人関係の活動以外、生物として生きる活動はできる場合もある。また、好ましい友人とは交際できるが、職場に行くことはできない、学校に行くことはできない等、精神活動の低下の程度、分野があると思われる。
  それらをすべてうつ病と呼ぶかどうかは、本稿は医学的な考察ではないので、ここでは考えない。ただ、大づかみで考えた場合、危険回避の方法が無くなった場合、絶望を感じ、全般的ないし部分的に精神活動が停止ないし低下するのであり、それは生きようとする意欲が徐々に停止ないし低下していく状態だと把握できるのではないかということが肝要であると提起したい。

4 対人関係的危険と生きようとする意欲の喪失

  末期がんが自死の原因の大半ではない。多くは、対人関係、職場、学校、地域、家族、あるいは社会との関係が自死の原因として指摘されている。自死予防として、ソーシャルネットワークやコミュニケーションによる予防が妥当する場面である。対人関係的問題と生きようとする意欲を失わせる危機回避の不可能感の関係について、どのように説明するかが問題である。
  私は、この拙文の中で、「危険」については、身体生命の危険を例に挙げてきた。しかし、本項は、少なくとも人間は、身体生命の危険と同様に、対人関係においても危険を感じるということを述べていきたい。その前に、身体生命の危険の回避のしくみについて脳科学的観点から確認する。
 
<身体生命の危機回避の仕組み>
  先ず、前述のように、動物としては、身体生命の安全を守るという形で生きようとする意欲を観察することができる。即ち、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)によって危険を感知すると、身体の運動能力を使って危険を回避する行動にでるというのが動物の仕組みがある。危険を感知すれば、逃げるか、闘うかという行動を選択する。
この時、自分で自分の身を守ろうとしていると把握することが大切である。危険が迫らなくても、危険を感じ取る感覚機能(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)が奪われれば、それだけで不安を感じる。また、危険回避の方法である闘争や逃走の手段を奪われる、身体拘束等をされればそれだけで不安になる。危険が生じても、自分で自分の身を守れないということが、それ自体が強い不安を抱かせる。金縛りという現象がまさにそれである。
この危機回避の仕組みは、視覚的に観察できる部分が上述であるが、視覚的には観察できない体内の反応としても起きている。即ち、逃げる等の危機回避行動を効果的に行うために体内に変化が生じている。体温が上昇し、脈拍や血圧が増加し、通常は内臓に流れている血液が筋肉に流れるようになる。こうして体が動かしやすくなり、筋肉の能力が一時的に高まるのである。これらの反応を、セリエやキャノンはストレスと名付けた。

 <対人関係的危険>
  人間は、身体的危険の外に、もう一つの危険を感じる動物である。これは、群れを作る動物であることに由来する。群れから外されそうになることを示す事情を認識して危機感を感じ、自分の行動を修正しようとする仕組みである。例えば、言いたいことを我慢したり、一人だけ抜け駆けしないようにしたりするのがそれである。
  仲間に迷惑をかけたり、仲間の中で顔向けできないことをしてしまったりすると、不安になってしまう。この時も、対人関係的な危険を感じているのである。
  顔が赤くなったり、胸がドキドキしたり、顔が熱くなったりする。
これは身体生命の不安と同じ反応である。即ち、体温が上昇したり、脈拍や血圧が増加したり、血流も筋肉に向かっている。要するにストレスが生じているのである。
対人関係上の危険においては、これらは意味がない反応である上、むしろ有害になることが多い。誰かから叱責されたからといって、走って逃げなければならないということもないだろうし、失敗するたびに誰かと戦うということもあり得ない。むしろ、緊張が高まり、新たなミスを発生させる原因にもなる。
アントニオ・ダマシオは、「デカルトの誤り」の中で、私のいう身体生命の危険に対する反応を「一次の情動」と名付け、私の言う対人関係上の危険に対する反応を「二次の情動」と名付けた。もちろん正確に言えば、高名なアントニオ・ダマシオのデカルトの誤りを読んで、私が二次の情動を対人関係上の危険と単純化したということが正しい。ここでダマシオは、節約のために手直しして使いまわす特技を持つ自然は、一次の情動と虹の情動を表に出すために、それぞれ独立した機構を用意することはしなかった。自然は単に、一次の情動を伝えるためにすでに用意されている同じチャンネルを使って、二次の情動が表出されるようにしている。」と説明している。
対人関係上の危険を感じた場合でも、身体生命の危険を感じているときと同じように、ストレスが発生する。これが持続するにより、血管の脆弱化や動脈硬化などが生じる。これは、クモ膜下出血や脳内出血、心筋梗塞や大動脈解離といういわゆる過労死の原因となる。危険にさらされることによる弊害は、身体生命の危険であろうと対人関係の危険であろうと同様だということになる。

5 対人関係的危険の特質

対人関係的危険は身体生命の危険と重大な点において異なる。
身体生命の危険を五感で感じるような場合は、危険が現実化するか去るかは即時に判明することが多い。このため、ストレスが慢性化ないし持続化するということは少ない。これに対して、対人関係的な危険については危険が即時に現実化しない。むしろ、危険が現実化しないまま、その危険だけが慢性的に持続することが多いように思われる。いわゆるパワーハラスメントやいじめのケースである。ここで一つ注意しておきたいのは、パワーハラスメントやいじめは、個々の印象的な出来事、大声での叱責や暴力行為、人格否定行為という出来事に本質があるのではなく、そのような対人関係の状態が継続することが心身に悪影響を与えるということである。
そうすると、簡単には、ヒトは対人関係上の危険が現実化することに回避の手段がないという絶望に陥るということではない。いじめなどを例にすると、何か攻撃行動を受けたとしても、それは改善されるだろうという願いを込めた見通しを立てる。これも無意識である。ところが、いじめが頑固に継続してゆき、自分が群れの中に受け入れられないという認識が継続したり、様々な行動修正の試みが功を奏さなかったりした時、不可能感は強固になってゆく。
また、攻撃をしている者が強烈な権力を持っている場合、たとえば子どもにとっての教師であるとか、絶対的な上司であるとかという場合も絶望感が強固になっていく。多数対一人という構図ができた場合も同様であろう。また、自分の行動を修正できない場合、国籍とか治療不可能な疾患、障害等を理由とする場合も、対人関係的危険を回避する希望が失われやすくなる。
これらは、要するに危機回避の方法を奪われているという認識を与える事情であり、身体生命の危機回避における手足を縛られた状態と類似することになる。
肝心なことは、即時に絶望を感じるのではなく、日々の対人関係の時間によって、少しずつ絶望に近づいていくということである。そうだとすると、生きようとする意欲も、気絶するように即時に反応するのではなく、少しずつ低下していくということが理屈に合っているということになる。

6 複数の対人関係を意識しない理由

  例えば会社であるとか、例えば学校であったとしても、あるいは夫婦でも、その自分を攻撃してくる人との関係がすべてではないことは、第三者は容易に判断できる。夫婦であれば離婚をする、職場であれば転職をする、学校であれば転校をするという方法があるはずである。どうして、一つの不良な対人関係が原因で生きようとする意欲が失われるのかという疑問が生じるだろう。
  しかし、対人関係的な危険を感じることは、遺伝子的なレベルで受け継がれているホモサピエンスの特徴である。対人関係的危険を感じ、修正して群れから追放されないようにするというのは、群れを作るための本能なのだ。そうだとすると、およそ群れであれば、本人にとって重要ではなくとも、無意識に対人関係的危険を感じ、無意識に行動を修正して群れに帰属し続けようとし、無意識にそれが不可能だと感じれば絶望を感じてしまうものなのである。人類は長期にわたって、一つの群れで一生を終わらせてきた。複数の群れに所属するということはせいぜい数千年の歴史があるだけであり、日本人の大半は、二百年前は単一の群れで一生を終えていたのである。
  その群れから離脱すればよいというのは理性の活動であろう。しかし、遺伝子レベルの反応は、よそ群れから外されそうになると、危険の予感(不安)を感じ、行動を修正しようとし、何とか群れに帰属しようとしてしまう。極端な話、通りすがりのようなグループからの攻撃ですら危険の意識が芽生えてしまうものだ。

7 生きようとする意欲失われている状態の「心理」

  これまでの考察からすると、生きようとする意欲が失われた状態は、心の状態の問題だけではないということが導かれると思う。生きようとする意欲が失われた状態は、脳内のホルモンの分泌に影響を与えている。ロジックな思考によって生きようとしなくなるのではなく、もっと根底の生きようとする意欲を活発化させる脳内の機能の問題であると思われる。
  この状態になってしまうと、脳内の機能の活性化をしていくことが求められる。但し、それは、投薬によって可能のとなるのか、投薬以外の方法によって可能になるのか、本稿では結論を留保しておく。個別の状態に適応した改善の働きかけが必要であるということになるとは思う。
  少なくとも気の持ちようという精神論でもなく、不十分になったホルモンを補充すれば足りるという問題ではないだろう。分泌量が減っていた

8 自殺予防として行うこと

  第1、0次予防として、生きようとする意欲を失わしめるような対人関係的な危険を発生させる人間集団の在り方を改善する必要がある。慢性的、持続的な絶望は予後が悪い。ひとたび失ってしまった、生きようとする意欲を取り戻すことは容易ではない。
  人間がどのような場合に対人関係の危険を感じるか、危険回避を絶望視するか、生きようとする意欲を失うか、人間についての考察が不可欠となる。
  第2に、生きようとする意欲が停止ないし低下した人を見つけるポイントは、そのことを示す指標に気が付くことである。これは従前事故傾性といわれているものである。しかし、うつ者はうつを隠すということからも、なかなかこのことに気が付くことは困難である。コミュニティが、仲間の誰かが生き生きとしていないときに、安心感、見捨てない気持ちを伝えていくことが必要となるであろう。
  第3に、生きようとする意欲を取り戻す活動こそが自死予防の活動だということになる。一つの方法として、特定の対人関係上の危険が原因である場合、その対人関係の修正を試み、それが困難である場合は、別の対人関係の在り方を強化し、帰属志向を満足させ、安心感や安全感を感じてもらうというコミュニティ機能の強化を提案する。
  最後は、駆け足になったが、生きようとする意欲という概念ないし視点を導入することが、自死予防対策には有益だと考える次第である。

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