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怒りの前に、理屈の前に、ただその死を悼むことから始めたい。シリア空爆の犠牲となった子どもたちのために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

連日、シリアに対する空爆で、
罪もないシリアの子どもたちが
死の恐怖に追いかけられて、傷つき、殺され
家族、親せき、友だちから引き離されている。

http://editor.fem.jp/blog/?p=1339

父がいて母がいて生まれてきた命が
何の罪もなく、奪われている。
このことに馴れてしまったり
見てみぬふりができるようになることは怖い。

自殺の対人関係理論では、
死に馴れることは
自殺の潜在能力を高める。

対人関係学は、
死に至らなくても
不合理な迫害を間接体験することも
人間性がすり減り
自殺の潜在能力も高めるが、
人間性が奪われていくことになると説く。

どんな宗教だって、
罪もない子どもたちの命が奪われることを
悲しむことを禁じないだろう。

そうであれば、
すべての宗教、すべての人種、すべての人類が
一緒にその死を悼み、悲しむことは許されるはずだ。

同じ時間、同じ場所、
何らかの方法でみんなで一緒に、
子どもたちの死を悲しむことはできないだろうか。

怒る前に、理屈を唱える前に
ただただ、事実を知って悲しむことができないだろうか。

ここから出発することこそ正当なはずだ。

その死を悼まずにいられない
引き裂かれた子ども、子どもを案ずる親たちの不安
そのことをないがしろにしたままでは、

平和のための活動も
自死対策も、
過労死、過労自死対策も
いじめ対策も
親子の面会活動も
私のすべてが虚しくなってしまう。

できれば一堂に会して
それぞれの宗教家や対人関係学の立場から
哀悼を捧げたい。

まずは、そのむごさを実感しよう
まずは、子どもたちの恐怖、家族の絶望を直視し、
その死を悲しもうと思う。

怒りや理屈の前に
まず、十分悲しみを共有することから
始まるのではないかと強く思う。

空爆を正当化する人たちだって、
子どもたちの死をむごいものだと
感じてはいけないということは誰にも言えないだろう。

久しぶりの焦燥感を感じている。




自死の原因分析における統計的手法と弁護士的(対人関係学的)方法 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

弁護士の中にも、自死の原因は
精神科の医師が担当するものであって
弁護士が探求するものとは思わない人たちがいるようです。

あたかも医師にかかれば、自死の原因はたちどころに解明され
リスクアセスメントなどもおのずから明らかになる
と考えているのでしょう。
しかし、現実はそうなっていません。

医師がだめだといっているのではなく、
むしろ不可欠な存在であることには異論がありません。
しかし、医学にも限界があるため
多角的な分析が必要だと思うのです。

例えばその人がどうして自死をしたか
自死対策の文脈においては、
その原因分析調査として、公衆衛生的な観点から
心理学的剖検がなされます。

遺族からの聴取ということになりますが、
面談ないし電話による聴取ということになるようです。

予め用意された項目に従って聴取していきます。

そうして、データを集計して
条件の有無の違いごとにグループを分けて
その条件が統計学的に
自死の実行にどの程度寄与しているかを判断します。

統計学的には正しいデータとなるわけです。

問題はこの正しいデータに基づいて
自死予防を効果的に構築できるかにあるでしょう。

危惧される点の1点目は、
用意された質問項目が
作成者の知識、意識に拘束されていることです。

また、それぞれの自死者ごとに
一つの項目の持つ意味が変わることがあるのではないか、
例えばアルコール量について
アルコール耐性の違いによって、
アルコール量の持つ意味が異なるのではないか
という疑念があります。

危惧される点の2点目は、
情報源が遺族に限定されることです。
大量データの収集のためにはやむを得ないところです。
しかしアルコール依存などは、「隠す病気」であり、
通常は、家族の見ていないところでアルコールを摂取しています。

さらには、家族との接点がなくなった場合、
通常家人が寝てから帰宅するような場合、
単身赴任の場合、
そもそも家人がおらず独居の場合
このような場合には十分なデータはありません。

また、各因子が、
人によっては保護因子になる場合もあります。
アルコールも、飲み方によっては危険因子になるが
アルコールを通じて対人関係を形成している場合は
保護因子にもなります。
味覚を追及する趣味も多いです。

アルコールを何らかの形で生きる支えにしている人から
アルコールを取り上げた場合は逆効果になるでしょう。

逆に、仲の良い家族が
負担感を強める自死の危険を増悪させる要因になることも
よく知られています。

家族が仲が良いことが増悪因子としてしまうなら
自死対策は不毛となるでしょう。

では、弁護士の自死原因の分析とは何でしょう。
弁護士は職業として自死原因を分析します。

例えば過重労働による過労自死です。

労災申請をする場合でも
企業に対して民事賠償を請求する場合でも
弁護士が、自死の原因は過重労働であると
労基署や裁判所に納得してもらうよう説明する必要があります。

調査方法は、ケースバイケースということがありますが、
遺族、同僚、本人のノート、成果物、取引先など
本人を知る多くの人や物から聴取するようにしています。
友人とよく連絡を取っていた人のケースでは
友人たちからの聴取が大変効果的であった
ということもありました。

エピソードにしても
厚生労働省の基準はあるのですが、
それだけでは、なかなか基準に当てはまるかどうかわかりません。

まず、その通常の労働が
精神的緊張を高めるポイントがあるかどうかを調べる必要があります。
ところが、肝心の同僚は
自分が精神的緊張が高まっているのか
あまり自覚していないことも多くあるのです。

聞き方を工夫すると
「ああ、そういえば確かに」
とようやく自覚することも少なくありません。

過労死の原因になる血管疲労や
精神疾患は、通常自覚しません。

数十件の過労自死、その他の自死を担当したり相談を受けたりしましたが、
自殺のサイン等というものを明確に自覚している遺族は
居なかったように記憶しています。

そうして収集した様々な情報を
一人の人間が体験しているということをつきあわせていくと
ぼんやりと生前の人物が浮かび上がってきます。

その人の苦しみを少しずつ理解できてきて
あるときに、絶望感を追体験するようになることがあります。

なぜか、故人と、その人の死亡後にもかかわらず
会話をしながら準備を進めているような錯覚に陥り、
合理的説明のつかない出来事が起き、
自分が弁護士として何を調べるべきかということが見えて
突如事件が開けてくることがあります。

そうすると、
その人が死に追いやられたということが
取り返しのつかないことであることを強烈に感じ取ってしまい
軽いパニックになってしまうことが少なからずあります。

このような調査方法には問題点ももちろんあるでしょう。

調査時間が膨大にかかるということが一つでしょう。
すべての関係者から事情を聴取することも難しいです。
また、その職業にある程度理解がなければ
聴取のポイント持もずれてしまいますから
習熟度も要求されるでしょう。

また、特定個人のケースの分析ですから
特定個人の原因は解明されたとしても
それに汎用性がなければ
現在生きている他人の自死予防にどれだけ役に立つか
疑念は残るでしょう。

そもそも、特定個人の自殺の分析を
どれだけ言語で表現できるかというところも
本当のところは、困難なポイントがありそうです。

また、それぞれのポイントについても
調査主体の意識に制約されることは
もしかしたら統計的手法と程度の違いなのかもしれません。

故人は物を語れませんから
調査者の主観が独りよがりであることも考えなければなりません。

これに対する対処というか、
心構えのレベルですが2点あると思います。

1点目は、人間が問題行動を起こすのは
何か理由があるという視点です。
何もなければ問題行動は起こさないということです。

問題を起こすポイントを
誰かを非難する視点ではなく、
人間の行動を動かす原因の探求
という視点で見ていくということです。

そうすると、
調査対象の方の行動について理解ができるようになると
(こういう場合はこうなるかもしれないね。)
普遍的なポイントも見えてくると感じてきます。

第2に留意するべきは、
対策として、なるべく侵襲のないものを立てる
という発想になります。
苦痛を伴う対策の提案ではなく
「それなら賛成できる」
という提案をしていくということになります。

いじめを無くすというであれば、
いじめを無くせという結論を現場に押し付けるのではなく
いじめを産むような人間関係を
具体的にどう改善していく
それが人間本来の喜び、本当の安らぎや充実を伴うことを
提案していくという発想になっていくことを心掛けていきます。

例えば、こういうことが
対人関係学なのです。

怒りの器は予め用意されている フェイスブックのフランス国旗 [事務所生活]

所用で忙しくしていて
日曜日の夕方、ようやく久しぶりにフェイスブックを除いたら
プロフィール写真をトリコロールをかぶせた形に変えた
多くの友人たちがいた。

みんながみんな協調性が高く温厚で
自分はこうはなれないという意味で尊敬しており、
大好きな人たちだった

だから、不快になったわけでも、違和感を抱いたわけでもなく
ただ、ただ考え込んでしまった。

この人たちは、
西アジア人たちが
フランスを含めた空爆で
子どもを含む戦闘員が虐殺されたとき
必ずしも抗議の意思表示をしなかったはずだ。
どうしてヨーロッパ人が虐殺されたときにだけ
抗議なり、共鳴の意思表示をするのだろうと。

言葉が通じないことはおんなじだ。
宗教が違うこともおんなじだし
私は特にどうでもよい。生粋の日本人らしい。

確かにフランスは、私自身心のふるさとで
小学校時代にポプラ社のルパンシリーズを読破し、
ランボー、ボードレールの詩集を読み、
ああ無情や、赤と黒を夢中に読み漁った
サルトルやボーボワールの活字を追った。
イラクやシリアは
地球儀で指を指すのも困難かもしれない。

しかし、
問題は、現在の報道ではないだろうか。
連日ニュースのトップはパリの惨状だ
テロが起きたのを知っていたかのような
リアルな画像が長時間流される。
新聞の第一面も山上の写真がカラーで載っている。

これに対して中東の惨状は
高遠菜穂子さん、志葉怜さん、国境なき医師団の
わずかな静止画像でしかわからない。

これでは感情移入の格差が生じることは
当たり前だろう。

また、フェイスブックでは
フランスの国旗をかぶせることは
ボタン一つできる。
簡単に意思表示できるのに
しないことは罪悪感を覚える人もいるのだろう。

シリア国旗を載せるボタンはない。
シリア国旗すらどのようなものか調べないとわからないし
シリア国旗を載せることがどれだけ正しいかわからない。

要するに、
正義感、協調性のある素直な人ほど
フランスに共感を示すシステムになっているとは言えないだろうか。

予め怒りを抱きやすく、
フランスに共鳴しやすく
怒りをIS等に向けやすく用意されているのだ。

有志国の新たな殺りくに
違和感や抵抗を抱かないように
準備されている。
当たらな罪もない子どもたちが虐殺されたり
両親や友達の殺害されるところ目の当たりにすることになることに
気にも止めないシステムが親切にも用意されている。

しかし、今回は前回とは少し異なるようだ。
日本において、
フェイスブックやブログで
トリコロールの増殖に対する違和感が
かなり多く示されている。

それが、多くの人たちに共感を持って受け止められている。
14年前とは大きく違う。

私も、自分の怒りの感情を警戒するようになっている。

これは、集団的自衛権の閣議決定と
安全保障法制の議論によって
鍛えられたからだと実感している。

そして、
テロリストが、ジャーナリストを中心に虐殺しているのは
ジャーナリストが身近にいたからだけではなく
西側の報道が西側の非道な行いを報道することを
防止するためではないかと
勘繰るようになっている。

彼らの役割は
西側で辛酸をなめている人たちの
怒りの器を用意するとともに、
真実を報道して、戦争をやめようという世論に抵抗する
勘繰りをするようになってしまった。

怒りの器を用意したのは
いずれの人たちに対してのものも
共通の勢力なのではないかと
ふと漠然と感じてしまっている


弁護士会と自死対策 日弁連の全国会議に出席してのつぶやき  [自死(自殺)・不明死、葛藤]

日弁連には、自死対策について大きな悔いがあるのです。今から10年くらい前、国立精神神経医療センターから、自死対策について、弁護士会からメンバーを出さないのかといわれたとき、「自死対策に弁護士?」というスタンスで、遠慮をしたというのです。原因が二つあると思います。一つは、通常の弁護士が、自死に対する理解がなかったということがあります。自死は精神科治療の対象だろうと素朴に考えていたらしいのです。もう一つの原因は、自死事件にかかわる弁護士が日弁連活動に興味を持たなかったということです。

平成24年、日弁連は、これまでの反省を踏まえて、遅まきながら、人権宣言を採択して、弁護士会も自死対策に取り組むと宣言しました。確かに、その後、自殺対策という言葉を冠した法律相談が行われるようになり、各都道府県の弁護士会も、他業種との連携や、自死遺族の支援活動を行うようになってきました。
昨日、日弁連の全国会議があり、ほぼすべての弁護士会の自死対策の担当者が集まり、活動内容を報告しました。確かにいろいろな活動が行われていました。

時間がなくて、報告だけに終わりました。話し合いができない消化不良とともに、どうしても疑問が払しょくされないというもどかしさが強く残りました。

弁護士として、自分の頭で考えて行動しているのだろうかということなのです。

自分の頭で考えてということは、
自死がどのようなメカニズムで起きるのか
自死を起こさないためにはどのような対策が必要なのか
様々ある対策の中で弁護士ができることは何か
弁護士の優位性を発揮できることは何か
やらなければならないことは何か
などなどです。

自分たちが今やっていることが、あるべき自死対策の中でどこに位置付けられているのか。
そのようなことを本当に考えているのか

単に行政が補助金を出すからやっているのか
医師の援助を受けられるからやっているのか
誰か外部の者が評価するからやっているのか
という疑問なのかもしれません。

そして、もしかすると、そういうことは弁護士が考えることではなくて、医師や行政が考えることだと10年前の屈辱のような考えをしているのではないか。という疑問です。

こういうと、弁護士がどうして自死対策に取り組むことがふさわしいのかということの説明が必要になると思われます。

仙台弁護士会の平成23年に刊行した自殺対策マニュアルでは、自死と失業率が連動しているというよく言われていることのほかに、自死と、犯罪認知件数、破産申立件数、離婚件数等が連動しているということをグラフを示して主張しました。
http://heartland.geocities.jp/doi709/jisatu.html#jisatutobengosi

これは後に東北大学大学院臨床心理研究室によって統計学的にも裏付けていただきました。
自死、失業、犯罪、多重債務、離婚、さらには虐待などもそうですが、平成10年に急激な増加が見られ、平成14年頃をピークとして、高止まりが続くというものです。それらの事象には共通項があるはずなのです。

私なりの考えはこちらです。
「交感神経持続による反応群 」という概念と対人関係的アプローチ
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/koukanjizokuhannougunn.pdf

これらの事象は、すべて弁護士の業務対象です。自死を果たした人からは話を聞くことができませんが、解雇無効の争い、刑事弁護、破産的手続き、離婚調停、裁判の当事者とは、弁護士は話をすることができます。その原因について、話をして、分析をすることができるのです。

特に刑事被疑者、被告人の人権を守るという、究極のマイノリティーに対して偏見を持たず、即ち、犯罪者というレッテルを貼らず、犯罪を行ったことは何か理由があると考えてその原因を除去することを考えられる弁護士は、差別や偏見の多い自死問題に取り組むふさわしい立場だと思うのです。何が差別で、何が偏見なのかを容易に判断することができるはずなのです。万引き一つとっても、家族に弁償させ、被害が少ないから刑を少なくしろなんている弁護をしているわけではなく、再犯の危険があるのだから、本人とその原因を多角的に分析し、二度と万引きを行わない工夫をいくつもの方法で試みる弁護士であるから、予防ということも、政策も思いを巡らすことができるはずなのです。

多重債務も、サラ金と交渉をしたり、裁判手続きをすればよいというわけではなく、どうして多重債務に陥ったのか、それに対してどのような対策を取ればよいかを一緒に考える、当たり前の活動をする弁護士ならば、やはり自死予防にも同じ発想に立てるはずなのです。多重債務の生活再建の研究は,依存症研究にまで及びました。

会場で若いけれど自分の頭で考えて活動しているなとはっきりわかる方もいらっしゃり、大いに勇気づけられました。話ができる人という感じで、旧友に再会したような嬉しさがありました。他の業種の方々と、人間と人間のお付き合いができているという共通項がありました。

あえて、今後に考えていただきたいことを言わせていただくと、もっと勉強していただきたいということです。精神医学、脳科学、心理学、もちろん自死対策の研究を含めてです。どこを切っても、ライフリンクの清水さんが基調講演をしているのではお話になりません。もっとも、ここでは清水さんではだめだといっているのではありません。一人の人のお話ばかり何回もうかがっても前進がないということです。
例えば清水さんは、自死は複合的原因によっておき、平均すると4つの原因があるとおっしゃったそうです。これは、だから経済面、心理面、病理面、法律面等いろいろなスキルが連携して関与するべきだという文脈においては正しいのだと思います。しかし、これを弁護士として踏襲することは慎重になるべきです。自死事件に関与する弁護士としての実感は、それがなければ自死に至らなかったという条件関係のある自死の原因は通常は一つです。職場の人間関係だったり、いじめだったりです。ただ、確かに、その原因を防止したり、原因が発生した後に関与する立場の人や、人間関係は複数になるでしょう。しかしそれらは、自死の原因といってはいけないのです。
わかりやすい例を挙げると、いじめ自死があったとき、全国的に推奨されている模範解答は、「いじめの事実はあったが、それが自死の原因であったのかについては不明である。」というものです。「自死の原因は複数あることになっている。いじめはあったが、他の原因が有力かもしれない。」ということを言っているのです。その大前提となっている「自死の原因は平均4つある」ということを最大限利用しているわけです。もちろん、こんなこと裁判では通用しません。また日本自殺予防学会も、複合的な要因について検証はなされていないと声明を出しているということも知識として押さえておくべきです。

「自殺総合対策の更なる推進を求める決議」に関する意見
http://jasp.gr.jp/pdf/20150706/suishiniken.pdf

清水さんの観点の自死の要因と、弁護士の立場の自死の要因は自ずと違うのです。

様々立場の人たちが意見を出し合うから効果的な自死対策が作られることができると思います。それなのに、弁護士が、他の業種の意見を無批判に受け入れてものを考えないのであれば、到底役割を発揮できないと思います。

仕事として自死事件に携わっている弁護士は、労災、損害賠償に限らず、保険の支払い請求、相続などのじけんで、わからないなりにも、なぜ自死が起きたのか、どうすれば起きなかったのかということについて職業としてかかわっているのです。そういう人たちは、残念ながら、弁護士会の中で自死対策の担当とはならないようです。また、担当になりにくい原因も様々あるようです。これらの弁護士の中には、当然、睡眠と精神、記憶と情動、交感神経の後進と脳機能の停止、低下など当たり前のように裁判所に主張をして、文献も証拠提出しています。そういう、一定の研究をして、専門家のアドバイスを受けている弁護士が、どうやら弁護士会や日弁連の自死対策の政策決定に携わっていないという問題があります。これらの弁護士は、それを分かりやすくかみ砕いて依頼者にも説明しているはずなのです。自死遺族支援弁護団は、自死者の心理についても研究しています。

元来、事件に関係のない分野の研究をしないのが弁護士かもしれません。もちろん私も自死事件を何件も手掛けたからこそ、必要に迫られて研究したということは否定できません。

それにしても、二年に一度の全国会議ですので、次回は再来年ということになります。
自分として、何ができるのか、何が効果的なのかということを考えなければならないのだと思います。希望は、自分の頭で考え、弁護士以外の方々と人間づきあいできている若手の存在ではあります。

幼稚園のお弁当(昼食時間)の好きな子と食べる自由席、特にペア制はいじめを助長する?メリットを知りたい。誰が導入したのか? [自死(自殺)・不明死、葛藤]

われわれ昭和の幼稚園児は、
大勢の教室ということもあり、
昼食の時間ともなれば
6人とか8人のテーブルをくっつけて
自分の席が決められて
みんなで給食をいただいたものでした。

ところが、平成に入って
どうも、昼食は、好きな人と食べてよい
ということになり、
自由席ということが増えているようです。

はなはだしいと
机を二つだけくっつけて
ご飯を食べるようです。

朝から、
誰と食べるかということで
交渉が始まり、
断ったり、断られたり
ということらしいのです。

5歳の子がなのです。

男の子は、割とボーっとしている子が多く
誰でもいいやみたいにあまり気にしないことが多いようですが
女の子は
もうそれが、5歳の頭を朝から悩ませているようです。

これが、全国的に見られていて
心配するお母さんの声がネット上でも散見されます。
慨して男のお母さんは考え過ぎでしょと回答しているようですが、
それは、幼稚園児の性差を
甘く考えすぎているように思われます。

この点、サンプルが少ないので自信がないです。
幼稚園の先生に修正していただければ助かります。

メリットがわからないのです。

幼稚園児は、体格や気の強さで
序列が自然とできてしまうようです。

強い子は、パートナーを決めて
安心して午前中の遊びを楽しむのですが、
気の弱い子は、
なかなかお願いすることができず
あぶれてしまうことも多いようです。
これは、女の子にとっては
特につらいみたいです。

中には、成長をしていって
積極性が出てくる子供さんもいらっしゃるようですが、
一定の(1割以上)のお子さんは
はじめからあきらめてしまっている場合もあるようです。

なぜ、二人だけでご飯を食べなければならないのでしょう。

平成のいじめは、
クラスの中にグループが形成されて
20人の女子であれば
4つくらいのグループがあり
そのグループ間のメンバーの移動はありません。

一つのグループから外れると
独りぼっちということになり、
ボッチといわれて、
軽蔑の対象となっているようで
大変これを怖がります。

このグループの中で
脱退とか、他のグループに接近したなどということが
いじめのきっかけになることが多いのです。
グループ内からまず攻撃を受けます。

他のグループは助けませんが
他のグループも攻撃に参加してくれば
いじめが成立してしまいます。

自分がグループに所属することに
命をかけているような感があって、
脱退者が出れば
未所属の子が
そのグループに入れてもらえるのではないかと
脱退者を完全にグループから排除しようとさえします。

自分が独りぼっちにならないために
容赦なく、
級友を孤立させるわけです。

幼稚園の自由ペア制は、
このいじめの事態に
強くつながっているように思えてならないのです。

いじめを無くすためには
こういう子どもたちの対人関係を把握しなければなりません。

そうして、いじめだけを無くすのは無理で
対人関係の改善をしなければなりません。
クラスの中でグループに完全にわかれるような
そんな対人関係は解消するべきです。

少なくとも、
あぶれている子がいたら
「こっちにおいでよ」
と言える関係をつくる訓練をしなければなりません。

本来人間は
仲間と感じた者、群れのメンバーの
一番弱いものを守るという本能があります。
そうやって、生存競争を勝ち抜いてきたのです。
それができないということは
理由があると考えるべきです。

幼稚園の自由席ペア制は
排除のために非情になる訓練の側面が
あるのではないかという疑問がどうしても払しょくできないのです。
デメリットはあると思います。

大事なことは
昭和の年代にこういうことはなかった。
しかし、全国的にもまれではないようだ。
誰かが意図的に普及したと考えることが出発だと思います。

親であれば
自分の子どもが
あぶれるのが嫌で必死になって朝から交渉をしている
ということを考えたくないでしょう。

幼稚園の先生は
わりと平気なようなのです。
何か、理由があるのだと思います。

どのような目的で、誰が導入したのか
お分かりの方がいたら
ぜひご教示いただきたいのです。

メリットがないならば
やめるべきだと思います。

不安を希望に変える 「祝う」というコミュニティーのシステム 「おめでとう」という魔法の言葉 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

今までやらなかったことをやったり、
今まで行かなかったことに行くことは
何か期待のような心持もあるでしょうが
やっぱり、不安がありますよね。
これを当たり前だというところから出発します。

ましてや
これまで家族で暮らしていたのに
学校に入学したためとか
一人暮らしになったり、寮生活になるように
生活の基盤が変わることによって
不安を感じることが当たり前なのだと思います。

結婚もまた同じでよいのだと思います。
愛する人と一緒になるのですが
いざ、一緒に四六時中生活するとなると
素の自分を見られるわけですから
不安も起きるでしょう。

経済的にも実家の安定度に比べれば
不安定な若い二人です。

家族が増えることも
不安を感じることが当たり前だと思います。

これまで二人で暮らしていたのに
三人目が生まれる、
それも弱弱しくて、
すぐに壊れてしまいそうな存在です。

立派に育てられるだろうか
何か失敗して取り返しのつかないことに
ならないだろうかと

不安なことが当たり前だと思いませんか。

弁護士や人権擁護委員の元には
このような不安を相談されたり
不安を理解されない、自覚しないことによると思われる
対人関係や社会とのトラブルを
目にすることがあります。

相談を受けるとき
不安は承認するべきなのだと思います。

結婚するのに不安なんておかしいよ
子どもが生まれたのに浮かない顔をしているのはおかしいよ
せっかく希望の大学に入ったのに気が沈むなんておかしいよ
といいますが
おかしくはないのでしょう。
不安で当たり前なのだと思います。


でも、
結婚も、出産も、入学も
多くの人たちは、
ニコニコとそれを行います。
あまり多くのことを考えないのでしょうか。

不安の部分を考えなくて済むシステムがあるのでしょうか。

このシステムこそ
長年人類が培ってきた
比較的普遍的な
「祝い」というシステムだと思うのです。
結婚式を挙げて、お酒を飲んだりして
みんながおめでとうと言ってくれる
喜んでいる。

お祝いされているからよいことだろう
ということで気持ちが上がっていくシステムだと思うのです。

それゆえに、結婚式では当事者、両家に対して
おめでとうというのが基本で、楽しむために出席するわけです。
間違っても不安をあおるスピーチをするべきではない
ということになります。

出産祝いとして
お子さんが生まれたらお祝いを送る。
みんなに祝ってもらっているということも
大事なことだと思います。

かわいいかわいいということは大事なのです。
黙っていると、可愛くないと思っているのだろうか
と勘繰りたくなるわけです。

入学祝もそうですね。

5月病とは
ちょうどおめでとうの魔法がとれて
独りぼっちになったことを自覚する時期のことなのでしょう。


これと反対に家族が一人いなくなるということによる
心理的変化を緩和させるシステムもあるわけです。
例えば、葬式ですね。

例えば4人家族なら
4人そろって一つのチームなわけです。
一人なくなって、3人になれば
それは4人のチームと全く別のチームになります。
家族を失った悲しみに隠れがちですが
しっかり不安を感じているわけです。

この不安に対して、
人々が集ってきて
お悔やみを言うことにより
自分たちが支えられているという実感を持つことができます。

出席者はお悔やみを言うとともに
いつでも声がけしてくださいね
ということで、この不安を和らげることができるわけです。
遺族は、純粋に悲しみに沈むことができるわけです。

結婚式では
新婚夫婦は家族ができる不安
実家では、家族がなくなる不安
それぞれありますから、

おそらく新婚夫婦ゆかりの人と
実家ゆかりの人の
双方を招待する方が
目的に合致しているのでしょうね。

不安は、結局は、慣れるしかないと思います。
慣れるとは、危険はないという記憶を獲得していくことです。
動かないことにはなれないということにもなるでしょう。

慣れていくためには
不安があることを否定してはだめです。

「そうだよね。心配だよね。」
というところから始めるべきです。

経験者が経験を語ることは
人間の、共鳴、共感システムに働きかけるので
有効度が高いようです。

あの人も同じ立場だったけれど
なんともないように生活している。
不安を感じる必要がないのかと。

自分の理解者、自分を尊重してくれる人が
身近に増えていくことで不安が解消される場合もあるでしょう。

祝いというシステム、おめでとうという魔法の言葉は
その人が身近だと感じる人たちからいわれることによって
効果がより大きく発揮されるわけです。

コミュニティーが
人間の心理にプラス作用する
一つの例だと思います。







義家文科副大臣へ いじめを無くすためには大人が模範を示しましょうよ。いじめが起こらないなんてありえないというあきらめでいじめが減るわけないですよ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成27年11月6日河北新報27面(テレビ欄の裏)

文科副大臣異例の指導 市教育長と会談、批判
という記事がありました。
まず、その写真を見て強烈な違和感を覚えました。

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201511/20151106_13006.html

市教育長が直立不動でいるのに対して
文科副大臣は、斜(はす)に構え
肩を怒らせて対峙しているのです
報道のパフォーマンスでしょうが
嫌なものを見たという思いです。

仙台市の中一の自死の事件で
確かに市教委にも改善するべきポイントはあったでしょうが
この態度はないでしょう。
教育長にも立場もあるし、家族もいるわけです。

いじめとは、こういうことです。
いじめられる生徒にも
家族がいたり、友達がいたりするわけです。
それなのに、みんなの前で、
人格を否定されるような行為をされて
立場がなくなるというところが
強烈なショックの源なのです。

相手の立場を考えることをできるようにすることが
いじめを無くす第一歩です。

しかも、天下の公器である新聞に
このような屈辱的な写真を載せられるということは
いじめが、みんなの前で行われることによく似ています。

どんな失敗があったからといって
不特定多数人にさらす必要があったのでしょうか。
いじめを無くす観点からはメリットはありません。
果てしなく言いたいけれどデメリットです。
ある意味いじめのお手本です。

文科副大臣のパフォーマンスとしては
意味があるかもしれませんが。

教育委員会は大津の事件以来悪者とされています。
教育委員会を攻撃するネットは苛烈さを極めました。
せめてもよいんだという意識は
怒りを広げ、抑制がきかなくなります。
まさにいじめの構造です。いじめそのものです。

そもそも、文部科学省が
自分たちの責任を顧みないで
何を憤っているのだ
という考え方もありうるのではないでしょうか。

学校の先生の負担を軽減することが
いじめ撲滅の特効薬だと思います。
そういうことは手を付けていないでしょう。

専門的表現を使えば
どの面下げて?
ということになります。

今回は、いじめが起きた後の対応について
パフォーマンスをしに来ているということなのでしょうが
いじめを無くすことが大前提のはずです。

これだけ全国各地でいじめが起きているのだから
全国的な問題であり
文部科学省が国の総力を挙げて
対策を立てなければならないと思います。

そのことを何も反省を示さないで
事後的なことで
わざわざ指導をしにくるということは
鼎(かなえ)の軽重を問われることになるのではないでしょうか。

いじめは、
今の学校での人間関係をそのままにして
ただいじめだけ無くすということはありえないと思います。

いろいろなことをみんなで協力し合って
助け合って成し遂げる、
緩やかな連帯感を育むことで無くなっていくと思います。

対立や叱責ということは
その反対側のことだと思います。

叱責などしないで
具体的方法を一緒に検討する
そうやって、
子どもたちに模範を示すことが
いじめを無くしていく確実な方法です。

文部科学省は、全くそれを理解していないことになります。
パワハラのやり方を
子どもたちに示しているのですから。

ところで、
事後的対応のみできていると述べましたが、
義家副大臣はいじめはなくならないと
自説を展開しているのです。

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201511/20151106_13007.html

河北新報の取材なのでしょうか。
「子どもというのは、いじめを必ず起こすものだ。
 いじめが起こらないなんてあり得ない。
 起こした時にどう対応するかが教育だ。」
と述べているのです。

いや違うでしょう。

もちろん、どんなにいじめを無くそうと努力しても
という前提が入っていると善解しても間違っています。

子どもに限らず人間は助け合うもので
特に群れの中の弱い者を守ろうとする本能があります。
これができなくなっていることには
必ず理由があることです。

自分を守るので精いっぱいの子どもが
自分を守ろうとして誰かを攻撃しているのがいじめです。

文部科学省は、いじめを根絶しようとするべきです。
いじめを無くす、即ち
仲間どうし助け合って、協力し合って、
自分の役割を果たすことに喜びを感じる
それが教育だと私は思うのです。

教育とは人格の向上を図ることです。
いじめの起きた後の行為が教育だというのでは
いかがなものかと思いますよ。

副大臣の公的な発言ですから
文部科学省の正式見解と
受け止めなければならなくなりますよ。

いじめの問題は
本気で取り組まなければならない
日本の課題です。

怒りは物事を解決しない
ということをよく教えていただいたと思います。




「良いことだけ日記」のすすめ 大切な人との関係に不安を感じた時に [家事]

良いことだけを書く日記です。

人は、特に理由もなく不安になるようです。
あえてその不安を言葉にすると
独りぼっちになってしまうのではないか
というような感じのようです。

特に大好きな人
大事に思っている関係
そういう大切な人から
見放されるのではないかという不安を
理由なく持ってしまうことがあります。

夫婦、恋人、親子、友人

こちらが不安にしていると
相手は重く感じてうっとうしくなったり、
よそよそしく感じて
不安が移ったり
イライラしてしまって余計なことを言ったりして
相手を怒らせてしまったということは
経験ないでしょうか。

最悪の場合、
イライラを分かってもらえず、
いつも自分が否定されているような気になって
相手を憎んだり
生理的に受けつけなくなったりすることもあるようです。

無駄な不安だと思っても、
抑えられないんですよね。

そういう人におすすめなのが
良いことだけ日記です。

大事な人と自分のかかわりの
良いことだけを書いていく日記です。

日記を読み返すと
自信と、小さな喜びを感じることができます。

基本的に、
相手が自分のためにしてくれたことを
全部書いていくのです。
特に、してもらってうれしかったことを
残さず書きましょう。

誰かに見せてはいけませんよ。
「そんなことで喜んでいるなんておかしい。」
という悪魔のささやきが待っているかもしれないからです。

人生、自分が良ければよいのだし、
夫婦は、夫婦が良ければよいのです。
ここをとやかく言う外野が今の世の中多すぎです。

ある人は、
朝起きて、相手からおはようと言ってもらったことが嬉しかったそうです。

ある人は、
おいしそうにご飯を食べてくれたのが嬉しかったそうです。

ある人は、
何も言わないのに肩をもんでくれたことが嬉しかったそうです。

ある人は、
失敗しても、ドンマイといって怒らないでくれたことが嬉しかったそうです。

ある人は、
同じ話を何回もしても笑顔で聴いてくれたことが嬉しかったそうです。

ある人は、
ありがとうと言ってくれたことが嬉しかったそうです。

ある人は、
ドライブに誘ってくれたことが嬉しかったそうです。

ある人は、
何も言わないけれどじっと一緒にいてくれたことが嬉しかったそうです。

ある人は、
どちらが悪いかわからないことなのに
自分からごめんなさいといってくれたことが
嬉しいし、尊敬できたそうです。

相手が自分のためにしてくれたことは
自分の存在を認めて、大事に思ってくれているからです。
小さなことでも、積み重なることは、偉大なことになります。
不安を感じてばかりでは、相手に申し訳ないと
思うようになっていくことでしょう。

そして
いつか、相手に、こういう時うれしかったと
教えてあげられるとよいですね。

相手は、案外、こんなに小さなことでうれしくなってくれると
気が付かないかもしれません。
相手は、自分が大事にされていることで自信を持つし
あなたと一緒にいることが
もっと安らげるようになることでしょう。

そうすれば、あなたの良いことだけ日記は
どんどん書くことが増えてゆくのです。

小さなことに感謝をすることで、
良いことがどんどん増えていくことでしょう。

亡くなられた川島なお美さんは、
笑顔は楽しいからでるものではなく、
笑顔になることで、
良いことが増えていくとおっしゃっていたそうです。

この言葉は素晴らしいと思いました。

ただ、おびえているのではなく
自分の周囲を良い方向に作っていく
大人の人間としての素敵な考え方だと思います。

嫌なことを忘れる必要はありません。
でも、よいことは気が付く必要があり、
忘れないことが必要です。

人間関係は誰かに作ってもらうものではなく
そうやって、自分で大事に育てていくものかもしれません。

自分を反省できない人が苦しみ悩むということ、自分と相手を責めないでチーム状態を改善するということの方法 [家事]

頑張っているいとおし人たちと、そして自分のために

バスケットの話から始まるのですが、
ゴール下というのは修羅場だそうで、
確実にゴールを決めたい攻撃側と
自由にシュートを打たせまいとする防御側が
肉弾相うつ状態で
一流選手は、当たり負けしないことが条件になるそうですが、

超一流選手になると
体を柔らかく変化させ
(あたかも一旦関節を外して)
するりと相手をかわして
自由になってシュートを決めるとのことです。

自分を変化させることによって
厳しい環境を潜り抜ける
これが超一流だそうです。

私の周囲でも
いろいろな能力を持っている方々がいらっしゃって、
「とてもかなわない」と
素直に感服しているのですが、

そういう人に限って
対人関係では、うまくゆかず
(そのために事務所にいらっしゃるわけですが)

自分が尊重されていないという
疎外感を強く感じると同時に
「相手が悪いために、自分が苦しめられている被害者だ」
という発想になって
さらに苦しんでいるようなのです。

周囲からさらに孤立して精神的に圧迫されている人は仕方がないとして
周囲から、「そうだ相手が悪いんだ」と
余計な「支援」を受けて、
自分を反省する機会を失って
相手をうらむ感情を強くして、
苦しみが深くなる人もいます。

まあ、人間一般にしても、私にしても
対人関係で不具合があり、
面白くない感情は簡単に出てきても、
「自分の行動を改善する」
という発想にはなかなかなりにくいと思います。

特に「自分が間違っていない、それなのに面白くないことになっている」
というように
自分に自信を持ちすぎていたり
相手を軽く見て、みくびっていたりすると
そのような傾向が強くなります。

しかしそれによって
自分を苦しめる結果になっているのです。

通常の対人関係の不具合は
相互の疑心暗鬼から始まることが多くあります。
夫婦の関係ではなおさら多いと思います。

なんとなく芽生えた、最初は「あれっ?」と思う程度が
私を馬鹿にしているのではないだろうか、
私のもとを去りたいのではないだろうか、
私を攻撃しているのではないだろうか、
等と枝葉がついていっていることが多いようです。

いつしか疑惑や不信、嫌悪になってしまいます。

そうすると相手も
自分に不信や、嫌悪を抱いているなと感じますので、
やはり私の疑問は間違っていないということになり、

相手が何も考えずにした行為や
善意、親切でした行為さえ
自分に対する攻撃だと感じるようになってしまいます。
疑心暗鬼スパイラルという感じですね。

だから、その人がびくびくしていたとしても
「自分が何か気に障ったことをしたのかしら」
という発想でびくびくしているのではなく
「相手は、突然キレる。」
という意味で、どうやらびくびくしているようです。

「自分に相手の感情を損ねる原因がある」
という発想に立てないようです。
だから、疑心暗鬼スパイラルは途切れないのは当たり前です。
こういう傾向を放置すると、大事な、身近な人ほど
相互不信が高まってゆくことになります。

まず、
原因が自分にあるということと自分が悪いということは
全く別物だ
ということを理解する必要がありそうです。

「だって、自分は間違っていないじゃないか」
「相手の言っていることは不道徳だ」
という反論は、必ずあるでしょう。

相手が、犯罪を持ちかけたような場合は
融通を聞かせる必要がないことはもちろんですよ。

でも、それが大事な人間関係、夫婦、家族関係の場合は、
相手の感情こそ、自分の行動原理の基礎とするべきなのでしょう。
ただ、これは、なかなかできることではないし、
100%それをすることは無理でしょう。しかし、

正義や道徳なんて、他人同士の関係についてのマニュアルなのです。

「自分が悪いから行動を改めよう。」
と考えると、暗くて気持ちがノリません。

「ここを、こう工夫すると、
 相手は安心するかもしれない、喜ぶかもしれない。]
と考えると、楽しくならないでしょうか。

家庭ごみをコンビニ捨てるか捨てないかで争った方がいます。
もちろんそれは不道徳です。コンビニに迷惑がかかります。
それを受け入れる必要はないでしょうね。

でも、一方は、家庭内にゴミがあることがたまらなく不愉快のため、
家からなくしたいという気持ちでいっぱいだったようです。
他方は、そんな不道徳なことはできない。
そこで言い争いになるわけです。

ここで、
他方が、相手が間違っているということで
強く相手を非難するだけであると
声の大きい方、感情を抑制しない方が勝ってしまいます。

「ごみを家に起きたくないよね」と
相手の気持ちに共感を示すことによって、
それだけで相手も少し落ちくことができます。

匂いが嫌だというなら
袋を二重にして
マンションのベランダに
ゴミ出しの日までおいてみようか
という提案をしてみるのもよいでしょう。

上のケースでは
コンビニに捨てるか捨てないか
という二者択一的なところで
二人が対立してしまっていました。

論点を、一方の問題の所在
心に共感することによって、
一方の気持ちを優先するという話から、
夫婦というチームの問題として話し合うことができるわけです。

相手と自分の対立から
チームの不具合を調整するという場合、
相手を非難していたのでは始まりません。
一旦、自分の反射的感情を抑える必要があるようです。

自分がわずかに変わるという方法で
相手の受け入れられるところを受け入れるという
対人関係学でいうところの部分的承認の技法を使うことで
構成員どうしの対立から
チーム状態の改善へ話が進むわけです。

そうすることによって
決して、コンビニに捨ててくると言ったことで
軽蔑されたり、人間失格の烙印を
押したり、押された気になったりする必要はないのです。
それをしないことに対する非難は、
実は、不道徳行為をしないことに対する非難ではなく、
自己防衛のための感情であり、
罵詈雑言は何も意味のないことが多いようです。

なんとなく、相手が自分と一緒にいるのが嫌なのかもしれない
ということも、概ね疑心暗鬼です。
そういう風にいじけた感情で一緒にいられたら
そりゃあ、いやでしょう。
ところが離婚事件を見ているとそういうことが多いのです。

まず、自分が相手におどけて見せましょう。
相手がおどけたら、少し大げさに喜びましょう。
何か話しかけてみましょう。
テレビの話題でよいのです。
話題がなければ、街に出てボランティアでもしてみましょう。

男は、意味のない、結論の出ない会話が苦手ですが、
無理して話して、
あと適当な時で、こちらの話題を振ってみましょう。
何か、共通の成果を上げることを求めていない
ということを理解しましょう。
だから、相手の言うことをいちいち完全に理解しようと
思わないほうが良いということを学びましょう。

夫婦ならば週末の計画です。
週末はなるべく家族のために空けましょう。
買い物でも、カフェ巡りでも、墓参りでも
何か会話の種になればよいのです。
これは十分実務的な会話です。

あと、あまり多くを求め過ぎないということも大事です。
疑心暗鬼を解くためには、多くの働きかけを受けることが必要ですが、
こちらも、
一緒にいるということで、自分のいれたコーヒーを全部飲んでくれたことで
「今日のところはこれでよい」(by 水島広子先生)
と思っていいのです。

何か相手の良いことをメモして
それを感謝していけば、
だんだん自分を安心させていくことができます。
安心のポイントを自覚していくことができます。

そして、少し、こちらが安心して
笑顔が出るようになれば、
相手も、「自分が尊重されている」
ということを感じ、自信を持ち始めるきっかけになります。

相手に合わせて自分の行動を変えること
自分から疑心暗鬼のスパイラルを絶つこと、
相手の小さなことに感謝をすること

「そこまで卑屈になるのかよ」
と言う人は出てくるのでしょう。

これを卑屈ととらえるのか、
楽しい人間関係形成のクリエイティブな行為ととらえるのか
人それぞれだと思うのですが、
大事な人、別れたくない人なら
やって後悔はしないはずです。

相手に勝手に求めて
しかも言葉にするなど明示に求めないで
心の中だけで期待して、
相手がそれをやらないから怒る、泣く
ということは、乳幼児だけの特権です。

そんな勝手な期待をしたって
相手は人間であり、うまくゆきません。
母親ではないので、あなたのことばかり気にかけているわけにもいきません。
別人ですから、意思のある人間ですから
思い通りにはゆきません。
いつまでたっても、苦しく、傷つくしか
結果は用意されていないのです。

コンクリートの隙間から
茎を曲げならが育つ野草があります。
これが
自分はまっすぐ上に伸びるのが正当だという主張で
どこまでもまっすぐにしか行けないとしたら
すぐに死んでしまっていたでしょう。

自分が生きるために形を変えるということは
とてもしたたかな生き方です。
強い生き方です。

老子は、堅強者死之徒、柔弱者生之徒
堅強なる者は死の仲間
柔弱なる者は生の仲間
と言っています(老子第76章)

これは、対人関係の振る舞い
自分の生き方においても妥当するものだと思います。

柔弱は、臨機応変ともいえますし、
自分というものを固定的に考えずに
発展するものだという考え方になじむでしょう。
仲間、隣人を尊重するという考え方に立てば
戦争もなくなると老子は語っているようです。














企画構想 うつ、不安障害、パニック障害、PTSD等から社会復帰のための事業 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

<はじめに>
そもそもが、私の事務所にいらっしゃる相談者の方や依頼者の方が、
最近、とても優れた能力をお持ちの方が、多いのです。

構想力、企画力に優れていたり、
会計や帳簿に卓越していらっしゃったり、
専門的な知識を調査する能力が豊富だったり、
中には交渉力のすごい人もいらっしゃいます。

ところが、
職場や学校の対人関係に問題があり、
休職や休学をしている方たちなのです。
こういう才能を、こんなにも埋もれさせていたら
なんぼなんでも日本が沈没していくだろうなと
それはもったいないなということから
この人たちが、せめて
きちんとした再就職をするまででも
脳力を生かせるところがないだろうかということから
こんなことをぼんやり感じ始めたのでした。

<施設>
うつ病などで休職した人に対して
復職プログラムの一環として
慣らし出勤というものがあります。

この慣らし出勤の前段階というような感じです。

家庭と病院だけを往復しているところから
その二つとは違う場所に通うことで
毎日の出勤の訓練、準備をすることがあります。

図書館などを利用することも多くあるのですが、
その代りの施設です。
図書館のように一人で時間を過ごすのではなく、
誰かと何らかの関わりを持つ場所
を提供しようというわけです。

<スタッフ>
全員というわけではないのでしょうが、
多くの割合を
うつ病などの経験者の方に
スタッフとして参加していただくというのが特徴です。

経験者は、うつ病などで苦しんでいる利用者さんが
どのようにかかわってほしいかわかります。
また、利用者さんも自分の苦しみを体験した人ですから
自分の苦しみを分かってもらえるという安心感があります。

対等の相手ということで接することができます。
また、自分と同じ苦しみを持っていた人が
ここまで回復しているということを見ることができますので
希望を持つことができます。

スタッフの方も、本格的就労に入る前に
ある程度の収入を得ることができるとよいですね。
また、自分が他人の役に立っているということを
肌で感じることができます。

さらには、スタッフの経験を活かして
プログラムを組んだり、接し方を気を付けることができると思うんです。

利用者として想定している人は
他人とかかわることが怖い人、対人関係に不安のある人ということで、
うつ病、不安障害、適応障害、パニック障害、PTSDの患者さんや
統合失調症や双極性障害、解離障害の軽微な方
引きこもりの方などが対象となると思います。
治療を受けている方は、主治医の許可が必要でしょうね。
夫婦問題や家庭問題で悩んでいる人も良いかもしれません。」

そして大事なことは、本人だけでなく
家族もどうぞということでしょうか。
元うつ病の人の多くに
元うつ病の家族がいて、
家族同士で話を聞きたいということも
とても強いニーズがあるからです。

<どんなことをするか>
とにかく、そこにいていいんだということでしょうね。
なんか、不安になったら、行くところがあるという
自分の居場所になるとよいと思います。

治療はしませんが、
監修者のような顧問の立場でお医者さんにいていただくとありがたいですね。

基本的には、
話ができるところだと思います。

この場で、いろいろな悩みを相談して
専門家につないだり、自前の専門家が解決する。

専門家としては、心理士、カウンセラー、
弁護士や社会保険労務士、司法書士
なんかがいるとよいですね。

卓球など、簡単なスポーツができれば
子どもも来やすいかもしれません。

学習会も、ただ聞いていれば良いので
やりたいところです。
不安とは何なのかとか、自分に何が起きているのか
不安を鎮めるための、
自律神経訓練、呼吸法、ヨガ何かがあってもよいですね。

医師の処方により減薬している人の
応援というのも需要がありそうです。

子どもや高齢者の方々のための企画をする
ということもよさそうですね。
地域との交流も楽しそうですし、必要かもしれません。

ただ、基本的には、
何もしなくてもよいのだと思います。

自分の安心できる人と
安心できる距離を保って、
調子の良いときには話をして、
少しずつ社会性を取り戻せばよいのだと思います。

完璧をめざさない
効率を目指さない
絶対怒らないし、怒らせない。
失敗を財産にするような運用が必要であると思います。

自分が尊重されている
自分が尊重している
そういう体験ができる施設を考えています。

利用者の方が、
やがてスタッフとなり
新たなスタッフを要請しながら、
社会復帰する
時々非常勤でスタッフをしてもらいながら
時々は集まって近況を語りあう
そんな、コミュニティーを作りたいのです。

需要はかなり高いと思います。

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