So-net無料ブログ作成

対人関係学(自死予防の基礎理論)は、人間をブラックボックスとして扱うのか、研究対象としての人間の射程範囲 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

ずうずうしく、対人関係学を名乗って、
様々な分野の研究者の方とお話をさせていただいます。

ある分野の方は、対人関係学は脳科学の分野だと評してくださる方もいらっしゃいます。
ある方は、哲学だとおっしゃる方もいらっしゃいます。

私としては、大きく言えば法律学の基礎理論であり、
人権問題、自死対策、社会病理の予防等という
実務的なツールであると考えています。

先日工学系の先生とお話をさせていただきました。
昨日のヒューマンエラーのお話は
こちらの先生のお話がヒントになっています。

やはり研究者の方々は頭の良い方というか、
著しく回転が速い。
私が説明して、このくらいは理解していただいたかなと
想定している以上に理解していらっしゃって、
質問というか、確認のレスポンスをいただいても
想定以上の先まで理解されているので、
最初、説明しているこちらがぽかんとするくらいでした。

とても興味深い質問は、
「それでは、その考えは、人間をブラックボックスのように把握し、
 すべてが反応として把握するのか。」
と大要このようなご質問でした。

対人関係学における
犯罪、多重債務、離婚、虐待、自死等は
危険に対する反応が、慢性的に持続していることから生じる
不具合だと把握します。

普通の人間も、そのような環境にさらされると
エラーを犯してしまうということです。

最も個性も主張するのですが、
自分が、群れの中で尊重されているという実感を持つ環境が
個性によってだいぶ違うとか、

危機に対して、怒りを持つか、恐れを持つか
戦うか逃げるかも個性によって違うと
個性の存在を主張はします。

しかし、あまり突き詰めて研究していないところですが、
この個性というのも、
その人の対人関係の状態
例えば子どもがいるとか、末っ子だとか
リーダー的な役割についているか
等ということで強く影響されていたり、

育った環境によって
かなり強く作られることがあるとか

そんなことをぼんやり考えています。

そうすると、
自分という実態はないのだろうか
人を愛するということはそれほど意義のあることではないのかもしれない
などと怖くなることはあるわけです。

アントニオダマシオのデカルトの誤りを読んだ時に、
かなりぞっとしたことを覚えています。

ただ、これに対する一つの回答としては、
対人関係学は、哲学ではなく、実務的学問だということです。
簡単に言えば、対人関係学は
人間の本質や、すべての感情を対象にしているわけではない
ということです。

自死予防や、人権問題として
必要な範囲で人間を把握しようとしているに過ぎない
ということです。

家族や友達が、喧嘩をしても
すぐに仲直りができれば良いのです。

その群れにいることで安心できる
対人関係を構築すればよいわけです。

人間の真理を探究するのですが、
このような実際の活動に活かすための学問です。

逆に言えば、
研究対象から外れることがたくさんあるわけです。
まだ、そこまでたどり着いていないわけですし。

(例えば、悲しみという感情については
 説明できていません。
 悲しいことの原因の出来事は、
 交感神経を活性化させる出来事ですし
 共鳴力共感力で、当事者ではなくても交感神経を活性化させますが、
 十分悲しむことができる状態は
 おそらく副交感神経が活性化されているはずだ
 ということになると思うのですが、
 これは今後の課題ということで。)

対人関係学で、人間そのものを分かった気になってはいけません。

他人に対する配慮だったり、
他人の言動に対する感じ方だったり、
人が窮地に陥るとは何だろうとか
そういう教養を言葉にするような作業なのかもしれません。

そして、理屈はともかく、
結構昔の人は、
ああそうだな、大事だなと
実線をしていたり、

いろいろな人間関係の仕組みを作って
合理的に対処していたことのような気がしています。

ことわざでは、それが
誰が効いてもわかるし、実践できる形で
残されているわけです。

そして、その根底というものは
少なくとも江戸時代あたりまでの日本人には
当たり前に共有していたものではないかと
感じているのです。

そういう人間の知恵を
脳科学、生理学、脳神経学等現代科学の力で掘り起こし、
言葉での説明を確立し、
何気なく作っていた制度を復活させたり
新たな制度を構築する
そういうことなのかもしれないと感じています。

唐突に終わるのですが、
人の心はブラックボックスなのかと質問されたとき、
応えることに躊躇してしまった自分は
修行が足りないと思いました。

仮に、人々の行動や、感情が
脳科学的な反応の積み重ねだとしても、
個性でさえ、合理的な説明ができるものだとしても、
それでも、
人間をいとおしく感じるし、
誰かを特別に好きになるものだし、
どのような人も全ての人が
人間として尊重されるべきだと
愛されるべきだとそういうことが
対人関係学の根底というか存在意義なのだと
そう言えばよかったなと
そういう後悔に基づいて
本記事が作成された次第でありました。

対人関係学は、
そういう意味で
自分たちは宗教だと言い張っていることは
将来の税金対策というわけではないのです。


ヒューマンエラーの原因としてのストレス(交感神経の慢性亢進) エラーの出方と理由 [事務所生活]


1 大規模な工作物の爆発等の事故が起きると、その原因として、機械やシステムの問題ではなく、それを運用する人間のミスが指摘されることがある。チェルノブイリやスリーマイルの原発事故や、航空事故等においてヒューマンエラーという単語はよく耳にすることと思う。

  しかし、ヒューマンエラーは、確かにシステム不具合の原因であるが、ヒューマンエラーは不可避的に起きるものではなく、何らかの人的な対応の不備などの理由によって起きる結果だという考え方がある。
  人間工学において、ヒューマンエラーの原因を解明し、システムやシステム作動上の運用における対応を研究する分野があるという。昨今注目を浴びているとのことである。

2 ヒューマンエラーが結果だということは、わが対人関係学の主張と同じである。対人関係学は、人間関係をシステムとみるのであれば、ヒューマンエラーを招いた人間関係の不具合を研究し、予防に活かす学問だからだ。

  対人関係学におけるヒューマンエラーは、自死を頂点とし、離婚、職場の在り方、犯罪等社会病理である。これに、多重債務や、いじめ、DV、過労死等が含まれる。

  このうち、自殺者数、失業者数、犯罪認知件数、離婚数、破産申立件数が連動することは統計学的に裏付けられている。これらをヒューマンエラーだとするとその共通項こそ、ヒューマンエラーの原因である可能性が強い。少なくとも対人関係におけるヒューマンエラーにおいては関連付けられる可能性がある。

3 私は、これらの社会病理に共通するものとして、交感神経の持続的亢進、即ちストレスを考えている。

  ストレスは、キャノンやセリエといったストレスを発見した研究者によれば、身体、生命の危険に対する生理的反応だということになる。体温、血圧の上昇、脈拍の増加、血流の内臓から筋肉への移行等である。逃げるため、あるいは戦うための合理的な反応である。

  しかし、対人関係学は、交感神経の亢進の効果として、さらに、アントニオダマシオの言う前頭前野腹内側部の機能低下ないし停止があると考えている。

  即ち効果的に逃げたり戦ったりするために、複雑な思考を停止し、全力で逃げる、全力で戦うという思考パターンに入る反応である。

  まず、思考のテーマが、危険が維持されているか、脱却し安全な状態に達したかということだけになる。そうなると、択一的思考に自然に陥る。状態に関する、程度とか、割合とか、そういう中間的評価ができにくくなる。メリットデメリットを上げて検討するということはしにくくなる。視野狭窄も同じ仕組みであると思う。

  付随して、将来的なことについて思いめぐらすということができず、今の状態を知覚することが、知情意の中心テーマだということになる。その続きを考えることをしなくなる。

  極度に危険を感じやすくなるために、自己防衛的発想が強くなる。タイミングや条件によって、攻撃的傾向、逃避的傾向が現れる。共鳴力、共感力は排除される。自分を守ることだけがテーマになるので、不要なものとなる。

  早く安全という結論がほしくなる。焦りが生じ、段取りを立てることが苦手になる。多少の難点があっても、結論を求めてしまう。

4 交感神経が亢進している結果、具体的には、以下のような真実発見や、冷静な職務遂行を妨げる事情が出てくる。

  事実をありのままに近くすることが困難になる。結論の先取りや自分に都合の良い部分だけの近くに安心してしまうことになる。不利な部分を見なかったことにする。

  自分の責任について過剰に神経をとがらせるが、自分の責任以外の部分については十分な検討をしない傾向になる。

  事実を把握したとしても、自己保身的な発想から、自分に都合よく解釈したり、不利な部分、判断を複雑にする部分を過小評価したりする危険が生まれる。

  いくつかある作業に、無意識に優先順位を付けてしまう。具体的なもの、結果が現れるもの、自己評価につながるものが優先されてしまう。抽象的なもの、結果に直ちに結びつかないものは見過ごされてしまったり、後回しにされてしまったりすることによってずさんな対応をされてしまう。

  記憶力、記銘力が低下するということがある。

  目的を忘れて手段の遂行を機械的に行う。

5 交感神経が亢進する理由を検討する。

  セリエやキャノンが発見したように、身体生命の危険がある場合、交感神経が亢進する。しかし、通常、機械のシステム作動や対人関係に身体生命の危険は必ずしも伴わない。

  しかし、身体生命の危険が伴わないにもかかわらず、身体生命の危険が存在するかのように誤作動を起こすことがある。

  1は、時間がないという意識である。時間に終われるということは、無意識に、逃げ出すなどの対応をしなければ死の危険があるという反応を起こしている。即ち、脈拍の増加や体温、血圧の上昇である。当然、前頭前野腹内側部の機能低下ないし停止が起きる。これらは、通常の人間であれば実感したことがあるであろう。

  2は、睡眠障害である。睡眠障害によって、血圧、体温、脈拍が直ちに変化するかは疑問だが、前頭前野腹内側部の機能低下ないし停止がおきることも、実感できると思う。
  
  3は、複数の作業を同時並行で行うことである。これは人間の脳の弱点のように思われる。それぞれを行うことは容易であるのに、物理的には可能な同時並行作業でも、それぞれが気になってしまい、前頭前野腹内側部の機能低下ないし停止がおきることは実感されていることだろう。
  
  4は、裁量性の欠如である。自己の判断で行動することを禁じられると、慣れていくにしたがって、ストレスが加わる。拘束される内容としては、空間の異動、身体の動作、思考、長時間拘束等である。有意にコルチゾールが上昇するという研究結果がある。対人関係上の対応もこれに含まれると思われる。これは、動物一般に、自分の身を自分で守りたいという本能、根源的要求があり、拘束されることによって自分の身を守れなくなるのではないかという無意識の焦燥感、不安が生じるものと考えている。
  
  5がまさに、対人関係的危険である。アントニオダマシオが「デカルトの誤り」の中で主張している「二次の情動」である。対人関係学的には、排除の危険と考えている。人間は排除の危険を感じると、交感神経の亢進がおきる。ドキドキしたり、カーッとなったり、不安になったりして、複雑なことや自分の行為の結果を推論することが苦手になっていく。
  
 対人関係的なヒューマンエラーは、この対人関係的危険を感じての交感神経の亢進が中心になり、人間工学的なヒューマンエラーは1から4が中心になるのかもしれない。しかし、対人関係学的な危険の意識はヒューマンエラーに持とう善関係してくる。
 
 失敗が許されないという意識が、成功を待ち望む意識を凌駕してしまうと、交感神経の亢進が優位になってしまう。パワーハラスメントや、ストレッチなどの非人間的な労務管理、個人責任主義なども同様である。過度のノルマや、失敗に対する解雇などの重大な責任が用意されている場合、あるいは一般的に解雇の可能性がある中での作業は、交感神経の亢進が起きていると思われる。
 
  ヒューマンエラーという視点から対人関係学を俯瞰してみたが、対人関係学は、汎用性のある学問であることが感じられた。


宗門争いはどちらが負けても釈迦の恥 夫婦喧嘩はどちらが勝ってもこの苦痛 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

宗門争いはどちらが負けても釈迦の恥

まあ、落語で聞くことわざなのですが
落語でしか聞かないというか、
少々罰当たりなニュアンスもあるのですね。

仏教の別々の宗派が
互いにこちらが正しいと言い争いして
どちらが負けても仏教の宗派の負けですから
お釈迦様に恥をかかせることになるので
争うなんてやめなさいよという話らしいのです。

本来、他人と争わない、煩悩にまかせない
という宗教であるはずなのに、
争いをしてしまうと
最も大切なことを忘れてしまい
本末転倒の結果になる
というようなことを言うのだと思います。

<対人関係学的発展>
こういう本末転倒の行為を
家庭や友人や同僚、学校などの
いろいろな群れの中で行い、
疑心暗鬼になったり、
大切な誰かを傷つけるということは
よくあるわけです。
身に覚えもあるわけです。

その人と仲良くなりたくて思いかなって仲良くなったのに
その人からみすてられるのではないかしらと
攻撃してしまっているわけです。
無意識にしてしまっているからこそ
自分でも始末に負えないわけです。

典型が夫婦げんかですね。

幸せになるために結婚するわけです。
不幸になるかもしれないけれど
そこそこ頑張ってはみます
なんてことを披露宴で言う人はいないのであってねえ。

ところが、変な意地の張り合いで
卵やきにしょうゆかけるか塩かけるかとか
はりあっちゃったりして。

大抵の夫婦喧嘩の争いはどっちでもいいことなんです。
子どもにどっちがなつくか
なんてこともばかばかしい。本当は。

大抵は、夫婦二人の時は、
滅多なことで喧嘩の種もありませんし、
我慢できますからいいんです。

でも子どもが生まれると
チーム内の争いが出てきてしまう。
父チーム、母チームを作りそうになって、
そこにジジババも参戦してきて
ますますわけがわからなくなる。

「お前それは尊重されていないよ。
 馬鹿にされているよ。」
なんて、外野から言われると
「そうかしらん?少し怒ろうかしら」
なんて心持になってしまうわけです。

その外野は無責任ですから
「あなたに言われたとおり離婚したよ」
なんていうと
「私はそんなことを言っていない
 あくまでも決めたのはあなただ。じゃあ失礼」
なんて、付き合いが遠のいたりしちゃって。

とにかく、一番いい迷惑は子どもですね。

小学校辺りまでは、父親と母親の区別がつきませんから。
もちろん女が母親で、男が父親ってことはわかりますよ。
別々の人格だってことをあまり理解していません。

なんとなく、両親っていう一つの人格じゃないかしら
とわけのわかる子どもに聞けばいうと思うんですよ。
そんなことわかれば、別人格ってわかりますから
無意識にですよ。

だから喧嘩されちゃうと困っちゃうんです。
どうしたらよいのか、混乱するのです。

同じように子どもにとって迷惑な質問は、
「お父さんとお母さんどっちが好き?」
ってやつですね。

区別がつかないんですから、
どっちっていわれたってなあと思い、
じっと質問者の顔色をうかがい
両方って答えたり
お母さんっていったりするわけです。

罪な質問ですよありゃあ。

それはそうと、
親だって、身体生命の危険があれば
自分の身を犠牲にしても子どもを守るということは
よく聞くことです。
震災の時も
自分は食べないで子どもに与えていたと思います。
よく考えるとほんの数日ですがね。

ところが、
対人関係上の危険になると
なかなかそうはいかない。

離婚だって、
子どもそっちのけでやってしまう。
しゃくにさわって、感情に任せて
相手の悪口を子どもに言ってしまったりだったり、
通常はそんなことは自分の首を絞めるだけですが、
子どもにとっては
不安だし、苦しいし、
調子に乗って相手に言っちゃったりして怒られたりと
良いことはありません。

もう一言。
最近、奇妙な理屈が離婚調停なんかでも出てきます。

親同士が喧嘩している姿を見せるのは子ども対してよくない
だから離婚するんだとか

お母さんが幸せにならなければ子供も幸せにならない
だから離婚するんだとか

馬鹿言ってライとおもいますよ。
本当に子どものことを考えての行動ではなく、
子どもにかこつけて離婚しようとしていることが
あからさまだということに
当の本人が気が付いていないんです。

こんな言い方で離婚を説得する人とは
仲良くしちゃだめですよ。

ああ、もう一つこれが最後

子どものために人生我慢するのはおかしい
って、
子どものために人生我慢することはおかしくないでしょう。
みんな普通にやっていることでしょう。

それを我慢だと思うか、充実だと思うかは別としてですがね。


情けは人の為ならず [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

情けは人の為ならず

<俗説> 
 情けをかけることは、そのことによって、
 良いことが、さらに良いことを産んで、
 いつかは恩恵が自分に帰ってくる

 あるいは、情けをかけた人が恩を感じることによって
 後で、自分にも利益がもたらされる。

<対人関係学的解釈>
 人は誰でも、
「社会、家族、職場、学校などの
 対人関係の中で尊重されて生きていきたい。」
という根源的要求を持っています。

尊重の反対の意味は、排除です。
排除を予感させる事象が
馬鹿にされる、差別される、不合理な扱いを受ける
健康や身体を大事にされない
無視される。評価されない。
大事なところで自分が失敗した。
等々です。

このように、尊重されたいという根源的要求があるばっかりに
それが満たされないと不安を感じ、
それがたかまったり、持続すると
心身に不具合が生じてしまいます。

逆に、尊重されているということを
どういう場合に感じることができるのでしょうか。

これは個性によりだいぶ違うようです。
攻撃されない、邪魔にされないというだけで
それで十分という謙虚な人もいます。

逆に、一番でなければ不安になる人もいます。

人との比較ではなくて
役割を果たしているということで
自分で納得している人たちもいます。

これは男性に多くて、
稼いで、十分な収入があることが役割とか
力仕事をすることが役割とか
子どもを叱ることが役割とか、
自動車を運転することが
自分の役割だと無意識に考えていて、

リストラや定年で仕事がなくなったり
けがをしたりして力がなくなったり
子どもに反抗されたり
運転免許を返上したりして
役割感を喪失してしまうと
老け込んだり、落ち込んだり、
うつになったり、
はなはだしいと自死したりすることもあるわけです。

無意識になのですが、
何か、自分ができることを黙々とこなすことによって
群れからなくてはならない存在だと思われているだろうと
そう思って(自分のハードルを高くしてしまっているわけですが)
安心感を覚えているのかもしれません。

誰かの役に立つ
誰かのために行動するということが
人を強くする一つの理由になるわけです。

そうだとすると、
誰かを助けたり
弱い人を援助したりすることは、
この安心感につながり、
交感神経を鎮め、不安を抑え、
つまり、いやされるわけです。

めぐりめぐって、自分にかえってくるというのは
ことわざにしてはあまりにファンタジーではないでしょうか。

そういう、間接的な効果ではなく、
情けをかけること、それ自体で
自分がいやされる
人間として安心することができるという
人間の根源的な性質を

情けは人の為ならず

ということわざで、伝えている
対人関係的解釈ではそうなるわけです。

疑心暗鬼(対人関係学) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

疑心暗鬼
疑心暗鬼を生ず。

疑いの心があると、なんでもないことでも怖いと思ったり、疑わしく感じることのたとえ。疑いの深さからあらぬ妄想にとらわれるたとえ。疑いの心をもっていると、いもしない暗闇くらやみの亡霊が目に浮かんでくる意から。(goo 辞書)

<対人関係学的解釈>

人は誰でも、
「社会、家族、職場、学校などの
 対人関係の中で尊重されて生きていきたい。」
という根源的要求を持っています。

尊重の反対の意味は、排除です。
排除を予感させる事象が
馬鹿にされる、差別される、不合理な扱いを受ける
健康や身体を大事にされない
無視される。評価されない。
大事なところで自分が失敗した。
等々ですね。

ここで疑心とは、
自分が排除されるのではないかという危機意識に
つながる意識を抱いているということになります。
裏切りの予感が典型的でしょうか。
守るべき人が自分を守ってくれない
という気持ちも入るでしょうね。

このような疑心をいだくとどうなるか。
実は、身体生命の危険を感じたときのように
交感神経が活性化します。
走って逃げたり、戦うための体のシステムです。

体を動かしやすいように体温が上昇します。
筋肉を動かしやすいように
脈拍が増加し、血液が高まり、
内臓に流れている血を筋肉の方に移動させます。

これを別名ストレスといいます。

さらに、対人関係学的関連付けですが、
脳の中の前頭葉前野腹内側部の機能が停止ないし低下します。
この結果、
複雑な思考ができなくなってしまいます。

これはこういう点は危険だけれど
こういう風にすることによって危険を回避し、
利益だけを得ることができる
というような人間特有の志向です。

これができなくなるので、
目についたものに反射的に飛びついたりするわけです。

とにかく嫌になったんで、後先考えずに酒を飲んでしまったり、
当たることしか考えられなくなってギャンブルに手を出したり、
支払いを考えずに買い物をしたり、
そういうその続きを考えられなくなる
というようなことですね。

物事を二者択一で判断するしかなくなります。
要するに敵か味方か。

そうすると、完全に信頼できない人は敵になってしまいます。

また、過剰に自分を守る意識が高まっているわけですから、
逃げられない、もしかして勝てる
とおもったら、
闇雲に攻撃を仕掛けてくるという行動パターンに
出る可能性が高くなります。
(ノーマルにはおびえて逃げようとします)

何らかの外部の反応があれば、
自分を攻撃する者があると認識し、
攻撃を仕掛けようとするわけです。

疑心暗鬼
対人関係学では、全く理にかなった話ということになるわけです。



法科大学院の講師としての最後の授業を終えて。研究職を夢想して [事務所生活]

先日、7年前からやっていた
法科大学院の講師の最終講義をしてきました。
本当は試験監督と採点講評があるのですが、
授業は最後でした。

今年度で学校そのものがなくなるので
私も失職する運びとなったわけです。

司法試験の受験を控えての
労働法(前期;労働契約法、労働基準法、後期;労働組合法)
の講義です。
実務家として、受験の先輩として
教科書と判例百選を中心とした授業でした。

終わり良ければ総て良しというような感じで
最後の生徒さんはとても良く勉強し、
授業中も質問が多く出て
講師としては、やりがいがある時間でした。


それだけに、ちょっと寂しく感じています。

時々、弁護士という実務を離れて
研究、教育職に就いて
朝から晩まで、研究をしたいという
夢想を抱くことがあります。

研究講座の話がこないかなと
ぼんやり考えることもあるわけです。

労働法は受験指導くらいで
研究という領域ではないと思いますが、
例えばこういう講座はどうでしょうか。

<紛争学の実務>
紛争学といえば、心の師匠レビン小林先生が有名ですが、
私は、むしろ実務的な研究となりそうです。

簡単に言えば、調停やADR、和解の理論です。
テーマを上げてみます。
  家族、職場、地域、学校などの人間関係のどのような不具合が紛争となるのか。
  紛争を解決するとは何か。
  何が紛争の解決を妨げているのか。
  調停委員、代理人の果たす役割とは何か。
  紛争学の歴史と射程範囲
  紛争解決の実務
    家族、職場、地域、学校などの
   調停、ADR、訴訟上の和解の実例

刑事弁護(情状弁護論)
  対人関係学の出発点の一つが
  実は刑事弁護にあります。
 なかなか、出版社を探すことができず日の目を見ないでいますが、
 情状弁護論という形で体系立てています。
  犯罪とは何か
  なぜ、規範に直面しても犯罪を実行してしまうのか
  人間の本質と犯罪
  犯罪環境
  更生とは何か
  犯罪に向かう対人関係の状態
  情状弁護とは何か
  犯罪ごとの各論
    万引き
    性犯罪
    放火、業務妨害
    暴行傷害
    飲酒の上での犯罪のメカニズム
    覚せい剤など薬物犯罪
    人格形成責任、なぜ形成がとわれるのか。
  刑事事件における「反省」とは

実務的に、今一番考えていること
あるいはライフワークにしているテーマは夫婦ないし家族です。

家族学(夫婦学)
  夫婦の危機とは何か
  夫婦の危機の原因
  夫婦の危機の対処方法
  夫婦の危機と家庭裁判所という制度
  夫婦の危機と第三者の支援の功罪
  夫婦の帰属意識と安心感
  現実の離婚事例と円満調停事例

もちろん過労死のメカニズムと防止方法は
研究課題ですね。

それから対人関係学そのものの研究ができれば良いですね。
  身体生命の危険を感じたときの動物の反応
  対人関係の危険を感じたときの人間の反応との比較
  対人関係の危険を感じる出来事の類型と疎外
  裁量と自己防衛の余地
  対人関係の危険の特徴
  対人関係の危険を感じたときの反応のバリエーション
  慢性的な危険の認識の脳の機能に与える影響
  人間が尊重されていると感じる仕組み

それから、啓発としての人権の概念と啓発の手法
啓発とは何をすることなのか
等というちょっとマニアックな研究講座も
本当は面白いのですが、
オファーはなかなか考えにくいですね。

なんてことを仕事に疲れると
ぼんやり夢見ているわけです。



夫婦別姓のデメリットと家族同一姓のメリット [家事]

最高裁判決で、夫婦別姓の制度を合憲とする
判決が出ました。

私はなかなか難しい問題だと思うのです。
そもそも、このような社会の仕組みには
それぞれメリットデメリットがあるはずです。

メリットとデメリットを比較して
冷静な判断が必要であると思っています。
ところが、このような議論になると
ともすれば、
賛成派はメリットしか述べず
反対派はデメリットしか述べません。
戦争反対ならともかく、
このような議論の在り方自体が
この国の民主主義の程度を示しているのではないかと
心配になります。

一つよくわからないところを白状しておきます。

夫婦別姓を主張する場合、
子どもの姓がどうなるかということが良くわかりません。
父の姓を名乗るか、母の姓を名乗るのか
ということです。

両方の姓を名乗っていたのでは
3代目にでもなればとんでもないことになるので
おそらくどちらかの姓を名乗るのでしょう。

外国の事例では父親の姓を名乗るところが多いようですが、
別姓ということになれば
母親の姓を名乗ることが
現行制度との関係では自然のような気もします。

それとも、やっぱり夫婦で話し合って
どちらかの姓を選択するということになるのでしょうか。

この点は私は理解していないので、
先に白状しておきます。

ただ、離婚予防の活動をしている者としては
このように、家族の中で別々の姓を持つものがいることは
現在の社会の中では、
デメリットが大きいと思います。

ただでさえ、現在の社会では
家族がバラバラになっています。
目的意識的に別の活動をしているというのではなく、
学校や職場等で
家族が分断しているように思うのです。
その際たる者が過労死です。

しかし、家族を取り巻く社会の
人間を大事にしない風潮の中で、
一番の特効薬になるのが家族のチーム力です。

要するに、家族が必要な世の中であるにもかかわらず
家族がチーム力を保てないという状況だと思っているのです。

家族のチーム力を阻害する要因は
大きなデメリットになると思います。

それでは、姓の問題は家族のチーム力に
どのようなデメリットを与えるのでしょうか。

離婚しない夫婦というかもっと積極的に
仲の良い夫婦の条件として
アメリカの心理学者ワラスティン(ウォーラースタイン)が
実家からの独立
を第1に上げています。

彼女は、60組の離婚した夫婦と子どもたち161人を
25年間にわたって追跡調査をしました。

その方のお話は重みがあると思います。

実際に離婚事件に携わっていると
実家のこだわりが、離婚に大なり小なり影響を与えることが
多いように感じています。

実家のルールを夫婦のルールに使用としたり
親と配偶者を比較してしまったり、
何か困難なことがあると
配偶者に隠して実家で処理したりして

そうすると
自分の帰属する群れが、
夫婦を中心とした家族から
実家の家族にシフトしてしまい
別居や離婚が起きるということが
少なくないように感じます。

夫婦別姓とは、
結局、結婚しても実家に所属している志向を
助長するデメリットがあると思うのです。

ただ、2点考えなければならないことがあるでしょう。

1は、そうは言っても、現在の同姓制度は
どちらかの実家の姓を名乗るのだから
火種はあるのではないかということでしょう。

ただ、二つの実家の混在という事態よりは、
実家との結びつきが薄れる
新しい夫婦の姓という意識に結びつきやすい
というのが、実感だと思います。

2つめは、現代の風潮が
前時代的な考え方の残存によって
女性が姓を変えていることが多数であり、
その意味で女性に不利益を押し付けているのではないか
ということでしょう。

姓を継続したほうが、社会活動に有利だということ
女性の賃金格差の問題があるということだと思います。

ただ、理念的にはわかるのですが、
具体的な不利益は、本当に別姓制度から
必然的に起きていることなのでしょうか
この点に第一の疑問があります。

次に、姓の変更が不利だとする経済実態
女性の賃金格差を
普遍的なものとしてよいのでしょうか、
そこに敗北的な要素はないのでしょうか。

なるほど経済慣行を改めることは容易ではありません。
時間のかかることだと思います。

しかし、例えば家族の成り立ちや
安心感を感じるポイントというような
人間の営みに関する心理の変化は
もっと長い時間がかかるものだと思っています。

経済や理念に基づいて、仕組みを変えることは
時として、人間の心理に混乱を与えることがあります。
私は、今、家族がバラバラになっている
その一つの大きな要因が、
戦前の封建制度から男女平等社会に対する
移行期の中で不可避的に起きているものも多いと感じています。

夫婦別姓のメリットとして
経済効率だったり、
目指すべき理念だったり、
女性の地位の向上だったり
ということが強調されているのですが、

過労死を防止しない論理と
奇妙な共通性を感じてしまいます。

大きな問題は子どもの心理だと思います。
本来子どもは
両親の協同作業の中で、
夫婦というチームががっちりスクラムを組んで養育し、
子どもは自分を含めた家族というチームの一員として
自分が所属する群れ、自分が帰るべき場所を持った安心感を持ち
健全に成長するわけです。

影響は微妙かもしれませんが、
子どもから見て
自分と名字の同じ親と
自分と名字の違う親がいるということは、
自分の所属するべき群ということに
何らかの影響が出てくると思うのです。

夫婦別姓賛成派の方々が
子どもの問題をどのように考えているのか
最初に白状したとおり不勉強なのでこれ以上は申しませんが、
この問題がまずあって、
それから、大人の志向を論ずるべきだと
順番的には思っています。

いずれにしても
自覚的な、先進的な夫婦ではない
ごくありふれた一般的な日本国民の家族における
家族の結びつきを含めて議論するべきだと思います。

夫婦強制同一姓がベストの制度なのかわかりませんが
夫婦別姓には、
以上の観点からは賛成できません。





現在の葛藤を、過去に要因を求めることについての疑問 怒りによる解決は不安の一時しのぎにすぎないため苦しさは悪化していくという対人関係学の立場 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

カウンセリングの勉強をする機会があり
参考になりました。

弁護士の視点で、
葛藤の高い方のカウンセリングを
斜めから目撃する場面が多くあり、
それらの点を含めて
疑問というか問題の所在をお話しする次第です。

なんとなく不安だなと、イライラとしているとか
生きづらさを感じることは普通にあることだと思います。
ここから進んで、
悲惨な出来事があり、
(対人関係学では、自分の致命的な状態を
 自分で守る手段を奪われた場合に多いと把握している)

危険はもうすでに過ぎ去っていて
現在は存在しないのに
あの時危険に会っているような
心理状態、体の反応起きてしまうとか

危険はもうすでに過ぎ去っていて
現在は存在しないのに
その危険の存在自体を認めることが
耐え難い苦痛にあり、
自分自身の現在を無意識に否定してしまう

というPTSDや解離の状態になることは確かにあります。

こういう場合は、もはや治療が必要ですから、
治療機関に行って治療を受ける必要があるわけです。

対人関係学は治療を行いません。
あくまでも、群れの力による=所属感の充足による
副交感神経の活性化によって
交感神経を鎮める
というだけの話ですから、
このような状態や
きっかけが対人関係等のストレッサーだとしても
もともとあった内因的な理由による病的状態が出現している場合も
速やかに治療を働きかける
ということになります。

問題は、PTSDや解離等という
病的状態とまではゆかない
もやもやとした不安や葛藤という状態
ということになるでしょう。

もっと楽に行きたいという要求は
人間として当然持つでしょう。

こういう場合、
例えば、「それは過去の体験に原因がある」
という分析で、
過去の体験、特に親のしつけの問題等に
原因を求める手法があるようです。

全てカウンセリングがこのような機械的な分析をしたり、
先入観で人を見ているのではないでしょうが、
これには、実際のカウンセリング事例を見る限り
首をかしげる場面がいくつかありました。


第1に、クライアントは大事なことを話さない
ということです。
弁護士は当事者の話を第一基盤とすることは当然なのですが、
対立当事者の主張を聞く機会もあるし、
第三者の証言を聞く機会もあります。

弁護士が当事者に埋没してしまうと真理は見えません。
しかし、事案の解決という視点で見た場合、
大体、対立当事者の話していることは
どちらも嘘をついているのではなく、
ものの見方、立場、先入観、勘違いで
適切に補助線を引けば
真実が立体的に浮かび上がってくることが多いようです。

そうすると、
クライアントは、自分のこだわりが強い場合は特に
話さなければならない真実を
正確に話していないことに気が付かされます。

意図的というとそうではなく、
事実を正確に受け止めていなかったり、
無意識に記憶から取り除いたり、
意識的に話すことをためらったりしています。

被害者意識が強すぎる人、相手に対して攻撃的な人ほど
そのような傾向にあるようです。

だから、本当は、男女関係に問題があるのに
そのことについては決して語らず、
例によって、幼少期の母親との確執が
根掘り葉掘り尋ねられるわけです。
そのことは、クライアントに取って
自分に責任のないことですから
記憶の限り答えるわけです。

クライアントが真実を語らない場合、
クライアントの不安の根源の解決にはならないということ
が第1の問題点の所在でしょう。

第2の問題点は、
不安、葛藤に理由がある場合だけではないはずだということです
対人関係上の不安は
群れからの排除の危険を感じることです。
排除といっても直接的な通告ではなく
排除につながる可能性ということで、
不公平、不平等取り扱いや
言動の否定的評価
努力の低評価
悪口を言うとか、情報を隠されるとか
様々な事象によっておきます。

しかし、不安を感じるのは
健康問題があったり、
家族との分離の思春期の心理があったり、
原因不明の病気の症状の場合があったりします。
当事者を取り巻く現代社会において、
不安には事欠かないといえましょう。

何か理由があるという視点は科学的なのですが、
それが過去にあるという先入観は危険だと思います。

第3は、理由を自分の外部に求めることへの疑問です。
確かに幼少期は、親という絶対的な存在がありますから、
自分には責任がないことかもしれません。

しかし、少し大きくなると
対人関係上の問題は、
通常相互作用の産物ですから、
相手だけが一方的に悪い自分は悪くない
ということにはならないと理解しています。

暴力はいけない、無条件で許されない
ということは一面の心理ですが
日常生活において人間を死に追いやるのは、
むしろ暴力という身体的な危険の現実化ではなく、
その人の立場を失わせて、回復が不可能だという絶望感を与える
対人関係的な侵襲であることが多いです。
暴力が、その防衛手段になることも多くあります。
継続的な言葉や態度が、
些細な暴力よりも、危険がある場合も少なくないということです。

きちんとした知識と技術を身につけた方なら良いのでしょうが、
どうも、支援者の中には、クライアントの意見だけを聞いて
クライアントの被害だけを聞いて
クライアントと相手を対立的に把握しているような支援が
多すぎるように感じています。

第4として、カウンセリングの結果、罪のない人が攻撃され、苦しむ
ということを見かけることがあります。

例えば、確かに親に何らかの問題があり、
子どもとしては葛藤を覚えて
それを内に閉じ込めるケースはあるでしょう。

あるというよりも、それがむしろ一般的なのではないでしょうか。
完璧な親なんていないからです。
ましてや、日常の仕事や家事をこなしながら育児をするわけです。

性的な虐待とかネグレクト等といった
重大な問題はともかく
通常の不合理な対応はどこでもあると思われます。

そのことと現在の生きづらさが関係があるということは
他の要因も検討しなければならないので、
証明することはできないのではないでしょうか。

現在の生きづらさがある、幼少期の親の不合理な対応があった
だから結びつくというのでは
科学的でも、論理的でもありません。

それによって、肩の荷が下りたとなれば
それは、不安についての説明ができたことや
親に対する怒りを持つことによって
一時的に不安を感じにくくなっているだけの話だと思います。

問題は、その怒りの矛先とされた
高齢の親たちです。
「あの時こういう態度だったから私が苦しんだってよ」
と子どもたちから責められて
どうすることもできない高齢の方々を目撃しています。

心理的支援者は、
クライアントの苦しみを軽減することにばかり集中して、
その結果、新たな苦しみが生まれることを
あまり意に介さないように感じています。

生活するために、家事をやりながら働いていたお母さん方が
数十年前に自分を放置したと責められることは
人道的見地から反感を覚えます。

しかも、その根拠が理解できません。
とばっちりを受けているようにしか思えない事例もあります。

第5に、解決には至らないだろうなということです。
本当の不安の原因にたどり着かない場合、
不安は再燃していきます。
怒りの対象があるときまでは
不安をごまかすことができます。
怒りの対象が亡くなったら
ごまかすものもなく、
また自責の念が加わり、ますます生きづらさは募ります。
高齢者いじめをしていた姿を第三者にも目撃されていますから、
それはさらに加速していくわけです。

再燃した不安、生きづらさは
従来のものより悪化していることは理由のあることです。


自分が他人の心に関与する場合、
その関与の仕方、分析、働きかけ
全て原理を理解していなければならないと思います。

ただ、行動だけをマニュアル的に覚えて
経験を積んで働きかけているとしたら
とんでもないことになるでしょう。

天才的な学者がこういった、ああいった
だから天才的な学者の理論は正しい
というのでは、
宗教の中でも程度の低い方に分類されるでしょう。

親との葛藤に焦点を絞ってお話ししましたが、
このカウンセリング手法は夫婦問題でも見られます。

妻が葛藤が高く、不安が強い
何か理由がある、
外部の理由は夫だ
夫のあれが悪いこれが悪い
夫に対して働きかけることは不可能だ
もちろん夫から事情聴く必要もない。
面倒だから夫と別れなさい。

こんな感じですかね。


不安というものはどうしても起きてしまう。
不安の原因は専門家によって分析してもらうとして、
さしあたってできることは、
自分の所属する群れの状態を改善し、
安住感を感じること。

自分の群れの所属意識を高めて
群れのための行動を志向するようになれば
不安は後退していきます。

基本となる家族の基盤を強化していくことです。
このためには、家族全体の
ちょっとした意識改革が必要になります。

それによって、根本的な解決ではないとしても
かなりの改善効果を獲得することができます。

その前提として
クライアント自身が、
自分を変えることを始めることが必要だということにはなります。

理由を外部に求めていても
外部は都合よく変わるわけがありません。
自分が変わることの相互作用で
確実に相手は変わっていきます。
変化はしかしすぐにはおきません。
変わるまでの根気を支援者は支えることになるのでしょう。







メッセージを送る