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なぜSMAPの「謝罪会見」が不快なのか いじめを助長するテレビ番組 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日生放送でSMAPの「謝罪会見」が放送されました。
私はこれをリアルタイムでは観ていないのですが、
ニュース番組などで報道としてテレビ放送されたのを観ました。
「嫌なものを見せられたな」とても不快な気持ちになりました。

インターネット上も
同じような気持ちになった方がいらっしゃったようで
かなり辛辣な批判記事も多数アップされていました。

私は、SMAPのファンではないのですが、
中居君の上に迎合しない歯に衣着せぬ発言や
人間性あふれた言動に
最近関心を寄せていたところでした。

香取慎吾さんについては東日本大震災の直後の番組で
仙台に来てくださり
他の出演者が、「がんばろう」を連呼していたとき
一人だけ
「もう十分頑張っている東北。」と
叫んでくれたことに感謝の気持ちを抱いています。
素晴らしい感受性を持っていると思いました。

そういう意味で二人に肩入れはあるかもしれません。

さて
この番組を見ての不快な気持ちはどういうメカニズムなのでしょう。

先ず、メンバーの沈痛な表情にあります。
人間は、他の動物と異なり
母子でなくとも、
他の人間の感情を感じ取り
同じような感情を起こしてしまいます。
共鳴とか共感という仕組みです。

これは、サルなどが母子以外の利他行為をしない
というのとは異なり
近くにいる人間を同じ群れの仲間と認識することによって
群れの中で、様々なルールや知恵を学習する仕組みになっています。
有利な仕組みとなります。

群れのほかの者が喜んでいたら、近づく
そうすることによって食料を手に入れたり
快適な環境を獲得する。

他の者が苦しんでいれば
同じ間違いをしないということで
学ぶことができます。

また、苦しんでいる相手を助けることによって
相手が立ち直り
群れの頭数を減らさないようにすることができます。

そうやって、群れを大きくすることによって
自分を守り、利益を大きくしていった
人間の20万年から700万年の歴史があるわけです。

クマの爪もオオカミの牙も、
馬の脚力も、鳥の羽もない人間は、
そうすることによってのみ身を守り
子孫をつないでいったわけです。

そうだとすると
先ず、他人の悲痛な感情を見ると
自分も苦しくなるわけです。

しかもそれが、
例えば身内を亡くした人の悲しみを見るように
了解可能な悲しみであれば
一緒に悲しむことができます。

ところが、
SMAPの「謝罪会見」の表情は
悲しみとだけは表現できない苦しさが感じられました。

不特定多数の前で
自分の意思に反してやらされていたという
自分で自分の身を守ることができない状態の
屈辱感や怒りや様々な負の感情を感じてしまった
可能性があります。

対人関係上の危険としてはこのように表現することも可能ですが、
これが心ではどのように受け止めているかというと
例えば、人を攻撃する鳥が集まる場所で
手足を縛られて鳥の巣に進まざるを得ない
そんな自分で自分の身を守れない状況として
反応してしまうのです。

血圧が上がったり、脈拍が上がったり、体温が上がったりということですね。

ただ縛られて鳥からの攻撃から避けられないというのではないのです。
自らテレビで発言をさせられるということですから
さらに自分で行為を強制されている、これは
鳥の群れの元に自ら歩かされている
歩くことを拒むことができないという
とてつもなく残酷な話として
無意識には受け止めているわけです。

人間は、仲間を守りたいという遺伝的な要求があります。
誰かに親切にしたり、そういう場面を見ると
良い気持ちになります。
これはそういう心の仕組みによって
群れを守り、群れによって自分を守るという
メカニズムがあるわけです。
そういう気持ちになれる遺伝子を持った人間だけが
他の動物との生存競争に勝って
現在まで子孫をのこしているというわけです。

遺伝的要求とはこういうことです。

だからこそ
SMAPの「謝罪会見」を見て、苦しんでいる人間を目の当たりにして
何とかしてあげたいという気持ちが起きるのですが
なんともできない。
これは、人間の心のシステムとしては
無意識のうちに、あきらめだったり、無力感だったり
「さあ、生きていこう」という気持ちに逆行する気持ちが
生まれてしまうことになります。

いずれにしても、
生きようとする気持ちと逆行する気持ち
自分の中の人間性を否定する体験をすることになります。

アメリカの心理学者ジョイナーは、
自殺願望があっても、死ぬことが怖いので自殺には踏み切らないといい、
死ぬことが怖くなくなるのは
死に匹敵するような
戦争体験だったり、自傷行為だった理をする中で
死に対する親和性が育ってしまうといっています。

極端な話はそういうことですが、
私は、死に匹敵するような強烈な体験がなくても
人間性を否定する経験を積み重ねることによって
生きようとする心が傷つけられていくと考えています。

対人関係の中で尊重されないという
屈辱的な体験や顔がつぶれるような体験が
人間の生きようとする気持ちをすり減らすのです。
仲間を大事にしようとする気持ちがなくなり
いじめにもつながりますが、
それは最終的には、自分という人間についても
守ったり大事にする意味を見失うのですから
自死につながるわけです。

SMAPの「謝罪会見」で気になったことがもう一つあります。
4人のメンバーが謝罪を口にしたのに
一人だけ謝罪を口にしない人がいました。
この番組を仕切っていました。
謝罪をさせられたのは4人で
その人だけは違うという印象を与えました。
これは、見る人の印象としては
殺人鳥の群れに、4人を連れていく
死刑執行人のような印象を与えたとすると
それはこういうことです。

とてつもなく残酷なことは
仲間に仲間を殺させるということです。
そして、おそらく不快の極みは、
それを平然とやってのけている
その真ん中に立っていた男の立ち居振る舞いでしょう。
仲間なのに、仲間を窮地に陥れる
そういうイメージを与えたことになります。

こういう人間は、群れを作る人間としては
最も危険な存在ということになります。
自分の利益のために仲間に不利益を与えるのでは
群れが成り立たなくなるからです。

真実がどこにあるのかは
テレビからはわかりません。
しかし、このテレビ番組という結果からは
そういう役割を視聴者が見て取ってしまうわけです。

共鳴力共感力によって
そういう裏切り者に対して
危険を感じます。

そこから先は人の個性によってかわります。
怒りを持つ人
嫌悪感をもって逃げようとする人
危険は現実化しないということを認識して
特に関心を持たない人と様々です。

ただ、ネットで流されている情報にはいろいろなものがありました。
こんな情報を読んだ人も多いと思います。
本当はテレビ番組の関係で
経営者から激怒されて
会社を解雇されるところだった
そうなると失業状態になる。
このため育ての親のマネージャーが
移籍先のプロダクションを手配した
移籍先は5人全員がそろわないと移籍させない
一人が移籍を拒んだので
移籍できなかった
これを一方的に経営者が造反だと情報を流して
いじめにかかっている。
育ての親は造反の元凶だとして非難されている。

確かに彼らは子会社に所属していたので
そういう噂に信ぴょう性があるわけです。
そうすると
4人は、なんの悪くもない育ての親を
裏切ることをテレビでやらされているということになり、
こういう情報を知っている人は
ますます負の感情が高まってしまうことになります。

そして、スポーツ新聞などが
経営者や裏切り者をほめたたえるような記事を
一面トップで出す。
それら社会構造に対しても
無力感を感じ希望を無くし
知らずしらずのうちに生きる力がなくなっていくわけです。

「謝罪会見」は意味がないだけでなく
明白に人の心を侵害する有害な番組でした。
これを何度も再放送をするテレビ局も同罪でしょう。










きめつけDVによる冤罪をなくすために [家事]

ある子どもの健全な成長のために
どうしても必要になったので
さくせいしました。

第1 きめつけDVによる冤罪の悲劇

 1 DVの法律と通達とその趣旨

「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」(以下「DV法」という。)は、文字通り被害者保護のための法律である。この法律に基づいて、内閣府、国家公安員会、法務省、厚生労働省は、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等のための施策に関する基本的な指針」を策定し、警察庁生活安全局、警察庁長官官房長、警察庁刑事局長名で、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律等の運用上の留意事項についての通達を出すなど、法律が具体化されている。
   配偶者暴力は、人の人に対する支配が危険の本質であり、暴力が過酷になるとともに、被害者の精神的荒廃を伴う場合がある。日常的に暴力を受け続けること、支配され続けることが、人間にとって、極めて過酷なことであり、生きてきた喜びを感じない残酷な仕打ちであり、根絶が必要なことである。

 2 DV冤罪の増加

   しかし、近時、DV法やその通達等によって、実際には配偶者暴力がないにもかかわらず、あるという事実認定が裁判所や警察からなされるという被害を訴える当事者、主として夫側が多くなってきている。
彼らによると、このような誤った認定によって、以下のような不利益を被っているとのことである。
DV法に基づいた保護命令が出され、家族の近くに行くことが数か月にわたり禁止される。身に覚えのない理由で離婚判決が出るなど、離婚を余儀なくされている。多額の慰謝料請求が認められた。等々あるが、一番は、わが子に会えなくなってしまったということが精神的にも深刻な問題とのことである。

 3 DV冤罪と自死リスク

実際、近時、著名人も、DV冤罪で自死を遂げている。当事者のネットワークで、著名人の死亡の際に、その人も当事者であったという情報が流れたり、ネットワークの中心的な人物が自死したという報道がなされる。記憶に新しい事件では、父親が子どもの小学校で子どもを一目見てから焼身自殺をしている最中に、子どもが止めに入ってしまい、巻き込まれて死亡するという痛ましい事故が報道された。
自死のリスクの観点から、冤罪DVが自死の高いリスクを伴うことは容易に説明できる。人間は、自分の属する対人関係の中で尊重されたいという根源的要求がある。男性の場合はそれが役割感という形で現れる。働いて収入を得て家族に貢献する、家族に貢献することによって家族の中で自分が役割果たす、役割を果たすことで家族の中で尊重されていると感じるというものである。これが、自分の妻、裁判所、警察署、自治体等から、DV夫というレッテルを張られることによって、家庭人として失格であると評価されたと受け止めるようだ。卑劣な犯罪者であると烙印を押されたような絶望感を抱いたと話す当事者もいる。この役割感の喪失は自死のリスクである。彼らは、裁判所や警察を信じて、自分の冤罪を晴らすべく全力を尽くす。そうして、彼らの死に物狂いの活動は一定の成果を上げる。しかし、裁判所も警察も事実認定を変えようとしない。彼らの絶望は深まってゆく。わずかな望みが絶たれる瞬間である。彼らは通常正義を過信しているところがあるように思われる。この過程で、妻が子どもに父親への非難の手紙などを書かせることによって、父親の絶望感が深まっていくことは容易に想像がつくことであろう。
そうして、危機意識をもって行った活動がすべて無に帰した後、子どもと会えない孤独な日々という現実が厳然として繰り返される。それは、自分という人間性を否定され続ける毎日ということになる。また再び父親として子どもたちに信頼されて、子どもたちとともに日常を送るということが不可能であるという認識が深まっていく。人は、対人関係の中で尊重されて暮らしたいという根源的要求があるが、それが二度と復元されることがないとの認識に達した時、もっとも自死のリスクが高まる。この時、周囲に理解があればまだその人間関係の中で尊重されるという体験をすることができる。しかし、些細な犯罪で逮捕勾留されたために長年勤めた職を失ったり、保護命令が出されたという気後れから周囲からも孤立することがある。さらには、保護命令などで子どもと会えないことから自暴自棄になったり、対人関係に懐疑的になったりして、孤立を深める人たちも少なくない。
DV冤罪は、極めて高い自死リスクを伴っている。

 4 DV冤罪の真の被害者は子どもである。

   親が子どもに会えないということは、子どもが親に会えないということである。日本の民法は、子どもの健全な成長のためには、両親からの愛情が注がれることが有効だという立場をとっており、766条は離婚後であっても、同居していない親と子どもが面会をして交流することを促している。
   様々な離婚後の子どもの調査でも、子どもは別居親と面会したいという希望を持ち、実際に面会をしている子どもはしていない子どもに比べて精神的に安定しているとか(ウォーラースタイン他「Surviving The Breakup,Basic Books(1980)」)、両親が離婚している子どもたちは、離婚していない子どもたちと比べて、自己肯定感が低い(アメイト)などの統計結果が報告されている。
   また、近時は、離婚そのものよりも、離婚後の親の葛藤の高さが子どもに影響を与えているという考えも有力になっている。要するに、被害者たる同居親は絶対的善であり、加害者である別居親は絶対的悪であるということが日常的に子どもは叩き込まれている。子どもにとって両親とも自分の親であり、自分のルーツである。子どもとしては、絶対的善の親の子どもである自分と、絶対的悪の親の子どもである自分と二律背反の立場に立たされて、アイデンティティが確立しないとのことである。
   私は、DVが実際あった件においても、双方の親の意見を聞きながら、別居親と子どもの面会交流を時間をかけて実現していく活動をしている。両親の葛藤を鎮めることが子どもの健全な成長に資するということを目の当たりにしている。
   しかしながら、冤罪DVの場合、両親とも似葛藤が鎮まることはなく、子どもたちへの影響は計り知れない。

 5 きめつけDVは、具体的な子どもの利益を考慮しない

   きめつけDVは、本来最も考慮される子どもの利益を考慮しない。私が担当しただけで二つの事例がある。
   一つは、子どもの健康保険が利用できず無保険状態になった子どものケースである。
   このケースでは、小学校の子どもが母親とともに、母親の実家に連れ去られたケースであったが、母親の両親が父親の悪口ばかり言うことにいたたまれなくなって、父親の元に戻ってきた。母親は、連れ去りとともに住民票を移動し、支援措置を取って住民票閲覧の禁止措置を講じた。これに伴い国民健康保険証を書き換えて、それが有効な健康保険証となっていた。子どもが父親の元に持ってきたが、アレルギー関係の持病があり、何かあったらすぐに医者に見せて処置をしてもらう必要があったが、子どもだけ戻って保険証はない。このため、父親が保険証のことを区役所に相談に行った。
   そうしたところ、区役所では、支援措置が出ていることがわかったとたん、父親に対して、「あなたと話すことはない。」と興奮して拒絶の対応を示されたという。健康保険証には母親の住所が記載してあるので、住所を探そうとして来所した場合のマニュアルに従った対応なのだと思われる。しかし、母親が実家にいることは子どもが戻ってきているので知悉の事柄であるし、実家の住所は熟知している。今更住所を隠す必要性は皆無である。しかし、DV法に基づいたマニュアル対応がなされた。その結果、子どもは無保険状態になり、悪くすれば重大な結果が生じる恐れも生じた。このケースは弁護士である私が、本庁と連絡を取り、結果的には役所にお世話になり善処された。DV法のマニュアルの結果、被害を受けるのはやはり子どもなのである。
   二つ目のケースは、事件報道がなされたケースである。受傷日から3日間で全治するという傷がたまたまついた事案で、警察は勤続30年の公務員を逮捕し、あろうことか全国報道がなされた。本人の実名が報道された上、住所地も字名まで特定され、最も悲惨なことは子どもの年齢まで報道されてしまった。
   この結果、子どもは通学していた学校や塾などの自分のコミュニティーにおいて、自分が父親から虐待されていたということ、父親が警察に逮捕されたことを広く知られてしまった。記事の印象からは性的虐待まで噂されるような危険もあるものであった。これらの人々の中に入ったら、子どもは好奇な目で見られることになるであろう。子どもは、帰るべきコミュニティーを失う結果となった。
   少なくともこのケースにおいても重大な被害者は子ども本人である。

第2 DV法や通達に問題があるわけではない。

  DV法等の理念、制度目的は、被害者の保護、救済、被害の予防である。極めて重大な人権問題であり、必要な事柄であることに異論はない。
  接近禁止の保護命令も、法律や事実認定の専門家である裁判官が裁判手続きによって行う形となっている。また、すべての暴力を対象とするのではなく、「生命身体に重大な危害を受けるおそれが大きいとき」と限定的な場面にのみ命令が出されることになっている。
  警察による支援措置も、通達によって、現実に暴力を受けている場合に限って行われる。国家権力が家庭の中に介入することを最小限度とするためである。
  このように場面を限定し、専門的な機関の関与を要件としているにもかかわらず、なぜきめつけDVが行われるのか、その要因を検討していこう。

第3 きめつけDVの生まれる要因の検討

 1 定義が曖昧であること
   そもそもDVという漠然とした言葉は、他国の専門家は用いない。その本質が曖昧になることによって、対策が散漫に広範囲になる危険があるからである。
例えばアメリカのLundy Bancroftらは、「Battered虐待(配偶者の間での暴力は、配偶者加害と訳されることが多い)」という言葉を用いる。その際の定義は、「DVにさらされる子どもたち―加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」(金剛出版)によると、「DV加害者とは、パートナーとの間に威圧的な支配のパターンを形づくり、時おり身体的暴力による威嚇、性的暴行、あるいは身体的暴力につながる確実性が高い脅迫のうちのひとつ以上の行為を行う者のことである。」と明白にされている。また、「威嚇的ではない、威圧のパターンを伴わない暴力は、ここでは考慮しない。」とも述べている。
ところが、日本においては、DVの定義が曖昧なため、一時的な感情の高まりの暴力までも含まれることになる。さらには、精神的暴力も含まれるので、結局相手がDVだといえばDVということになってしまうのである。そうしてひとたびDVとして扱われることになると、その夫は、「日常的に暴力を繰り返し、妻を支配しようと残虐な行動を行う、血も涙もない人格異常者」として扱われることになるのである。この結果、先ほど挙げた無保険になった子どものケースの区役所の窓口対応がなされることになる。
また、そのような人格に異常がある人間は、治癒することがないという神話に結びついてしまう。あるDV保護記録を閲覧する機会があったが、そこには、警察官が妻の一方的な言い分をうのみにして、「私の経験からするとDVは治らないんですよ。」と夫からの隔離、逃亡を促している。これは公文書に残されている。
DVの定義が曖昧なことがすべての出発点であると感じている。公的機関でさえもLundy Bancroftらの研究成果を報告する資料の中で、定義を明示したものは見たことがない。すべての暴力、精神的暴力に適用されるものとして彼らの研究が報告されている危険がある。

2 反対当事者からの話を聞かない

DV法の運用において、妻が警察などに相談していると   いうこと自体が夫の逆上につながるという考えから、夫には内密に援助が行われる。わずかに警察においては被害防止交渉に警察施設を提供するという措置があるが、改善が期待できる場合に限定されている。警察はおよそDV夫は治らないという立場であるならば、改善が期待できる場合はおよそ存在しないこととなる。これまで子の援助がなされたケースで私が知りえているのは、夫の身体的暴力がない場合のみであり、本来警察の援助を開始できない場合であった。
しかし、それこそ私の個人的経験であるが、Lundy Bancroftらの定義する配偶者加害を行う者は小心者で、妻にのみ強く出れる者たちばかりである。本人の直接話をしたり、どういう場合に相手が圧迫感を持つかを説明することによって、改善がなされることもある。少なくとも、こちらからの働きかけで配偶者加害が強まったというケースはない。
それでも、最悪の事態を考える必要があり、とりあえず、隔離をしなければならない場合もある。そうした場合も、その後に働きかけをすることはできる。あたかも殺人鬼のように警戒することが多いが、会ってみるとそれぞれ長所と短所を持ち合わせている普通の人間である。彼らから話を聞くことによって、夫婦関係の問題の所在が立体的に把握することが初めて可能になるということが通常である。逆に妻が精神的疾患やコンプレックスを抱いており、妄想的発想をしやすいという場合も少なくない。こういう場合、けなげな夫は、喜んで妻につき添い、相談を持ち掛けてくる。
実際に、支援措置を受けている妻が精神的状態が不安定で、暴力を受けていると思いこんでいる場合も少なくない。私のケースでは支援措置によって住所を秘匿した上で、成人男性と同居していたケースもある。
過去の私の考察を二つあげておく。
「『正しい』夫の家事、育児が、思い込みDVを感じるまでに妻を追い込む理由についての考察と、その予防方法と事後的対処方法の検討」
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/omoikomi.html

「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について 」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

現状のDV法の運用は、支援者が安全な立場にいることが優先されるため、相手方からの事情聴取もせず、相手方に働きかけることもしない手続きになっている。このために支援の申出人たる妻に対してできることは、精神的支援と、夫から子どもを連れてさることという支援方法に限定されるということである。つまり運用のこのような方針は、必然的に家庭を分断する構造となっているといわなければならない。

 3 統計的成果を必要以上に重視している懸念

  国家機関は、その性質上、行政活動の成果を検証しなければならない。現在、内閣府男女参画室は、配偶者暴力の対策を主として力を入れており、関係省庁を集めて成果の検証の会議が開かれている。各地、各機関からの報告があげられるが、統計的資料により報告がなされているようである。そうだとすると、今後の活動の修正、即ち、力を入れるべき部署と力を入れる内容は、この統計に基づいて判断されることとなる。他の地域に統計的数字が劣っていたり、目標に到達していなかったりすると、修正が要請されることになるということは当然の運びであろう。
  しかし、その目標数値がどれほど科学的な根拠に基づいているか怪しいところである。なにしろ、DVは、家庭内のことであり、それぞれ個性を持った国民が営んでいることだから、例えば保護命令の件数や支援措置の件数が、統計的にあるべき数字が出てくるはずはないからである。逆に統計的に数字が足りないと、実績を上げるために、何らかの働きかけが行われる危険を懸念している。
  家庭内のことに公的機関がかかわり、国民の行動を著しく制約する場合もあるのであるから、事案にふさわしい解決方法を目指すべきであり、根拠のない統計的な要請からの解決方法の選択となってはならない。先の子どもが特定される形での報道が、DV関連の犯罪検挙数が足りないことに対しての、実績作りのために行われ、報道をさせたということでないことを祈るばかりである。

4 保護命令運用の問題点

  保護命令は、地方裁判所の保全部で行われている。この部に配属される裁判官は、キャリアの浅い和解裁判官であることが多く、独身裁判官である場合が少なくない。夫婦間の実情を踏まえた判断がなされるのかについては不安もある。
  通常は、民事保全といって、現状維持を措置をとるための手続きを扱う。最終的な権利移動は本裁判を行う建前になっている。このため、証明方法も本裁判ほど厳格でなく、申立人側から提出される書類だけで判断が行われる手続きに従事している。
  このような手続きの中で保護命令がイレギュラーで組み込まれるのである。果たして、保全手続き以上の証拠吟味ができるのであろうか。本来その能力はあるとしても、保全手続きになれている中で、保護命令の証拠吟味が保全手続きの手法に流されてしまう懸念はないだろうか。保護命令はひとたび降りてしまうと、対象者に深刻な精神的打撃が加えられるという、現状変更の効果が生じてしまう。また、これが離婚訴訟や行政手続きにも影響が生じてしまう。さらには、保護命令の処分を争うことが事実上困難な即時抗告という手段が残されているに過ぎない。
  そして、申立人の陳述重視の姿勢の結果、つじつまが合わない陳述をしても、「記憶の誤差は通常存在する。」等、矛盾があるにもかかわらず、それが致命的にならないようにする手法で虚偽内容の陳述が信用のあるものとして肯定されてしまう。その時別の場所にいた者が、母親が子どもから聞いたという陳述書で、子どもに了解なく面会していたことになってしまっているのである。
  裁判においても、DVの定義が曖昧なため、些細な言動が暴力となり、支配をもくろんでいる非情な凶悪夫ということになっているようである。初めから夫の証言には裁判官の中でバイアスがかかり、真摯に聴取していないと感じることが多い。
  通常妻の暴力に関する証言も、抽象的な表現であることが多い。なぜ暴力が始まったのか、どうして暴力がやんだのかについて、具体的な説明はなされていないことが多い。唐突に暴力が始まり、気が付いたら終わっていたということになる。しかし、支配を目的とする配偶者加害の場合だとしても、加害者が被害者から攻撃を受けたと感じるポイントがある。口論から始まって暴力に至るなど段階を踏んでいることが通常である。このような実態について、独身の裁判官はわからないようだ。一審で暴力が認定された離婚訴訟判決が、高裁で暴力を否定されるということは私も経験している。
  法の目的である被害者保護を重んずるあまり、慎重な、本来的な裁判の認定手続きが軽視されていると感じられる。

4 DV法の深刻な問題は、子どもの健全な成長の視点がないことである。

  法に定めはなく、通達でも、父親の母親に対する虐待を目撃した子どものメンタルヘルスを検討するようにというたったそれだけしか子どもに関しては考慮されていない。平気で子どもが特定できる報道を要請することの原因がここにあるように思われる。
  先に述べたウォーラースタインらやアメイトなどが報告した片方の親から引き離された子どもの深刻な精神的影響をどのようにして回避するかという視点がないということである。母親の保護ばかりが定められている。しかし、母親と子どもの受け止め方は、子どもが父親の元に戻った例をみるように異なることが多い。また、子どもが母親の葛藤にさらされ続けていることも子どもの健全な成長にとって深刻な影響を与える。
  物を言えない子どもこそ、国家が庇護するべき存在として中心に据えなければならないと考える。このことがないことの不具合が、制度の運用によって、厳然と子どもたちに降りかかっているのである。

5 DV保護の将来

  一つには定義を明確にするべきである。支配を目的とした暴力に関しては、断固とした方法をとり、保護を優先させるべきであるかもしれない。
  しかしそれに至らないいさかいに関しては、対立構造の中に当事者をはめ込まず、安定した家族関係の方法を提案してくような紛争解決が、当事者にとっても子どもにとっても望ましいと考える。核家族の現状が、若い夫婦に与えている影響は計り知れない。方法を知らないばかりに、お互いを大事にしようとする気持ちがあるにもかかわらず、相手を傷つけていることがとても多いということを弁護士実務で痛感している。
「実家婚から独立婚へ、結婚観念の移行期間に必要な制度を作ろう」
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/dokuritukon.html
  対立から協調へ方法論を転換させるべきであると考える。その場合、警察や裁判という国家権力による他方(子どもの親)を攻撃する形式ではなく、調和を支援するような機関を創設するべきであると考える。
  家事調整センター企画書
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

 公的面会交流事業の開始を求める
http://heartland.geocities.jp/doi709/menkaikouryuu.html
平成28年1月14日


勾留理由開示手続きについて 犯罪があったからと言って当然身柄拘束できるわけではない [刑事事件]

何か犯罪があると逮捕されることが当然だと
そう思われている方も多いと思います。

しかし、犯罪はどうやらあったと思えても
必ずしも逮捕されるわけではないことが本当です。

逮捕は、警察に身柄を拘束され
外部との連絡もできなくなってしまいます。

逮捕は原則として48時間までしかできません。
それ以上身柄拘束するためには
検察庁から裁判所に対して
もっと身柄を拘束したいと請求をして認められなければなりません。
これを「勾留手続き」と言います。

そうすると原則として10日間
逮捕から合わせて12日間身柄が拘束されます。
家族とも会えませんし、
何よりもまるっきり仕事もできないわけです。

容疑者としてはとてつもなく不利益になります。
職場で信用のない人は
それだけで仕事を失う危険もあるわけです。

勾留が延長されれば22日間も身柄拘束されます。
そのまま起訴され裁判が始まると
保釈されない限り身柄拘束が続くわけです。

だから、やみくもに身柄拘束になる
勾留ができるわけではないのです。

勾留ができるための要件があります。
第1に逮捕手続きが正当であること
第2に法律が定めた勾留の理由があること。
第3に勾留の必要性があることです。

このうち勾留の理由とは
住所不定であること
罪証隠滅の恐れがあること
逃亡の恐れがあること
です。

但し、
ただ、犯罪をしたらしいということをもって
これらの理由があるとはいえないことは当然だと思います。

(ちょっとしたパズルですが)
勾留される場合は全て犯罪をしたらしい人です。
犯罪をしたらしいということで勾留できるなら
すべてのケースで勾留できることになってしまいます。

そうなると、わざわざ法律が
犯罪をしたらしい以上に理由を必要としたことが
無意味になってしまうことから
それ以上の理由が必要だということになります。

さらに勾留の必要性ですが、
法律は、例えば罰金の身の軽微な事件の場合は
勾留を認めないようになっています。
また、傷害罪のように
懲役刑と罰金刑があるような場合
どういう場合はおよそ懲役刑はないだろうと
そういう場合も
勾留の必要性がないということ
均衡の原則から
勾留の必要性がない
ということになり、勾留請求があっても
裁判所は勾留を認めないはずなんです。

さあ、こういう勾留の要件がない場合
無いのではないかと思われる場合、
勾留理由開示という手続きを行います。

勾留の是非を議論するわけではないのですが、
裁判所がどのような理由から勾留を認めたのか
そのことを説明してもらう機会です。

傍聴は可能です。

昔は、勾留理由の3つのうちのどれということで終わっていたのですが
最近は、聞きたいポイントを絞って事前に連絡していれば
できる限りではありますが
回答していただける扱いになりつつあります。

さて、ここ何回か連続してお話ししている事件について
明日勾留理由開示があるのですが、

被疑者は、勤続30年の公務員です。
被害者は
前日にけがをしたということで翌日病院を受診し
明日には治るという診断書を取得しました。
それで逮捕、勾留になりました。

罪証隠滅の恐れがあるというのです。
既に診断書も写真もありますので
証拠隠滅の恐れはありません。
被害者やその関係者に面会する危険も
ところが、被害者の居所は警察などの機関が
全力を挙げて隠しているので、実際はありません。

また、先ほど述べたように
犯罪をしたらしい以上の
罪証隠滅の恐れがある事情を説明していただかなければ
勾留理由開示の手続きがある意味がありません。

ここをまず質問します。

また、初犯で全治3日の傷が付いたくらいで
傷害罪と言えるかも問題ですが
懲役刑になることはありえません。
従って、勾留の必要性も
何か特殊な事情がなければ成り立ちません。

ここが二番面の質問になります。

最も肝心なことは
結局、何か余罪があるかどうかを探索するための
勾留ではないかということです。
そうだとすると
真正面からの別件逮捕ということになるので
それを裁判所が認めるかがポイントとなります。

もう一つ、
たかだか食事中の悪意のないハプニングの事件で
10日間も(逮捕から12日)も職場にも行けないという
常識をはるかに外れた措置を国家権力が行うということは
その必要性があったのかということです。

通いの取り調べで十分間に合う
普通警察はそのように配慮して捜査をしているんです。
10日とは長すぎます。
何らかの被疑者に対する差別があったのではないか
先入観があったのではないか
ということを尋ねようと思っております。

負ける事件を引き受けることが、弁護士としての誇り。究極のマイノリティーを守ることが社会を守ること [事務所生活]

不合理な事件というものはあるものです。

国家機関もご多分に漏れず、
周囲から支持されない者、厳しく接しても非難されない場合
むちゃくちゃ厳しくなるようです。

過去においては、過激派や暴力団
ちょっと前ならオウム真理教でしょうか。

確かに、住居侵入といえば住居侵入でしょうが、
一般的な尾行に気が付いた信者が身を隠すために
近くにあったマンションの敷地に入った
それで住居侵入罪で逮捕です。

オウム真理教信者とはいえ、その人の危険性はわかりませんが、
確か実刑になったと思います。
住居侵入だけでです。

前科もなく住居侵入罪が適用されれば
しかもそれが報道されて国民が注目しているのであれば
弁護士はこぞって批判するべきだったんです。
今ならそう思います。

10年以上前、暴力団の組長が
理由にならない理由で逮捕勾留され
20日以上も警察に留置されました。
結局起訴もされないで釈放されました。
私は弁護士ました。
まだ、弁護料の未払いがあります。
この時は組事務所の関係で
身柄を拘束する必要性があったようです。

いずれにしても法律が目的外使用されているのです。
法律が緩められればそれが新しい法律のスタンダードになります。
結局はユーザーである一般国民が
緩い基準で捕まってしまうわけです。

気が付いたときには、法律は、そのように実務上
改ざんされているわけです。

はじめから法律を変えたり
運用を変えたりするわけではなく、
誰からも支持されない類型の人たちに対して
適用して、実績を作っているわけです。

「あれ?法律と違うよ。」といっても
ずうっとこうやって運用しているよと
言われてしまうわけです。

だから弁護士はそうならないように
刑事手続きを厳格に守ることによって
自分の依頼者を守るだけでなく、
法律を、社会全体を、明日の一般国民を守っている
という気持ちなのです。

誰からも支持されない者を冷遇する、過酷な取り扱いをする
これはいじめの構造と一緒です。
子どもたちからいじめがなくならないのは
人間の本質ではなく、
上からの指図に、抗議しない大人たちの影響です。

いま、このような社会的いじめの対象は、
虐待男です。
妻を暴力で虐待した
子どもを虐待した
ということで非難されることです。

先日、箸でつつこうとして耳の裏にあたって
かすり傷を負わせたということで
公務員の男性が逮捕され
実名報道されました。

これです。

弱いものを叩く。

この報道は多くの人たちが
どうしてこれを報道するのかなと
どうしてこんな事件で逮捕するのかなという疑問を持っていただきました。
心に違和感があったそうです。

報道機関も違和感はあったようです。
私が実際のやり取りをしたところ
何にも反論ができなくなりました。
それでも実名報道したわけです。

要するに、警察の逮捕報道は
警察の言いなりに報道しなければならない扱いになっているとのことでした。
世論操作です。
報道の独立なんて、はじめっから重視していません。

その結果、被害者児童の特定につながってしまったのです。
当たり前です。実名で報道した上、詳細な住所まで掲載したのです。
被害児童は、これまでの友達との関係を絶たざるを得なくなったのです。
報道は、子どもの人権をどのように配慮したというのでしょうか。

配偶者暴力は、実際に暴力がなされ
深刻な被害が起きている場合もあり、
私も担当したことがありますが、
自治体やボランティアや大勢の人たちで
被害者を支援しながら進めます。

被害者の処罰感情に任せて
加害者とされるものを制裁する
という方向や発想は
これまでありませんでした。

ところが、昨今のDV対策は様相がかなり違います。
妻が(夫の場合はない)暴力があったといえば
精神的暴力であろうと微細な暴力であろうと
妻を隠し、夫に保護命令などを出して
場合によっては刑事事件とし
離婚させてワンセットということが多くなりました。

要するに、人間関係を解決しようとか
被害を救済しようという実質的な目的ではないのです。
被害に対して、刑事処分なり、保護命令なり
離婚なりの実績を作るという
お役所的な統計が優先的に目的とされているのです。

保護命令事件や離婚事件でも

どんなに父親がそれは事実と違うと言い
友人や上司、家族が事実と違うと証言しても
母親の陳述を優先させてしまう実態があるようです。
無いことの陳述ですから詳細なことは決して言えません。
アリバイがあっても認められないことも報告されています。

私は今回の事件を引き受けました。
状況としてはかなり不利です。
しかし、勝ち負けじゃないのです。
ここで何もしないで追認してしまうことになると
若い裁判官たちが
そういうものだという
人の一生にかかわることが
ルーチンになってしまうという危惧があるからです。

もちろん勝とうとしてやっていますが、
それ以上に大切なことがあるということです。

虐待というと、被害者がなくなるようなひどい事例が念頭におかれます。
しかし、実態からすると虐待の事実すらないことが圧倒的です。
それでもどこからか情報を入手し虐待を語り
子どもに対する暴力を語り、
親に会いたい子どもをしかりつけ、
親の悪口を言わせて
子どもを無間地獄に引きずり込んでいる親も
枚挙にいとまがありません。

子どもたちは自己肯定感を持つことができなくなり、
引きこもり、拒食過食、
リストカット、精神病院の入退院、ということを多く見てきています。

家族の中に勝ち負けを持ち込む
国家的な正義を持ち込んだ結果
傷ついているのは、最も責任のない子どもたちなのです。

勝ち負けではなく、
何とかその問題の所在をアッピールしたい
現代の最大のマイノリティーである
虐待のレッテルを張られた人たちに寄り添うことが
社会を、一般国民を守ることだと
考えて頑張っています。

今回は、理不尽な思いをしている父親を念頭においてしまったので
冷静さを欠いております。
乱分をお詫び申し上げます。


公的機関の情報垂れ流しのマスコミは、現政権に始まったことではない。報道実例。虐待通報を妨げる要因としてのマスコミ [刑事事件]

日テレニュースで以下のような報道がなされた
(伏字は、筆者)

長女の耳に箸を刺し…山形県職員の男を逮捕


2016年1月6日 16時19分
日テレNEWS24


長女の耳に箸を刺し…××県職員の男を逮捕
写真拡大
 自宅で長女(×)の耳に箸を刺してケガをさせたとして、××県職員の男が逮捕された。しつけのためにやったと供述しているという。

 傷害の疑いで逮捕されたのは、宮城仙台市××区に住む××県職員の××容疑者(××)。警察によると、××容疑者は先月6日午後6時半頃、自宅マンションの1室で長女(×)の右の耳を箸で刺し、耳の後ろ側に軽傷を負わせた疑いが持たれている。

 ××容疑者は妻と長女との3人暮らしで、先月21日に妻が娘と警察に相談に来たことで事件が発覚した。

 事件当時、××容疑者は調理中だったとみられ、警察の調べに対し、「しつけのためにやった」と容疑を認めているという。

 警察は日常的な虐待などがなかったか調べを進めている

以上引用終わり

まず、客観的事実としては、
容疑者(男性)が、夕飯を作っていた際に
娘を叱ろうとして、
箸で娘の耳の裏側に軽い傷をつけてしまった
ということに尽きる。

当然軽い傷である以上
箸が耳に刺さっているわけではない。

実際は刺そうとしたわけでもなく
箸が当たって耳の後ろに当たったということが真実であろう。
あたかも刺そうとして刺したような印象を受ける記事である。

結果として傷つけたのに
あたかも刺そうとして刺したことを認めているかのように
受けては感じてしまう表現となっている。

プロの報道機関であるので、
誤解を受けるような表現を使わないようにすることもできたはずだが
警察発表をダダ漏れにしているだけなので
矛盾を感じてもそのまま報道する
矛盾を感じないようにしようとしているらしい。

報道機関は、
逮捕情報を必ず報道するという
上司の決定があるらしい。
現場で矛盾を感じても
報道しないわけにはゆかないのだという。

それにしてもこれだけの家庭内の日常的な出来事において
逮捕の必要性があるのだろうか。
少なくとも、報道に接する限り
勾留の理由も必要性もないことは明らかである。

実際にこの件で議論した記者からは実質的な反論はない。

それにもかかわらず、実名報道がなされ
報道機関によっては詳細な住所まで掲載していた。

問題は、子どもである。
年齢も掲載されているのである。
もちろん小学校に通っているのであり、
住所と年齢と名字から
学校も、友達も、地域も
その子どもが特定されてしまうのである。

報道機関は、子どもの人権も全く意に介していない。

父親も、県の職員であり、長年勤めあげていたにもかかわらず、
子どもに腹を立てて
調理中に持っていた箸をうっかり子どもにあてただけだとしたら
それだけで実名報道されて
職を失する危険のある報道をする必要があったのだろうか。

全く報道は、人権の配慮をしていないといわざるを得ない。

この点についても
記者は反論できなかった。
前述の報道しないわけにはいかない
ということがここで出てきた。

要するに報道機関は、
自分たちが伝えるべき情報を判断して
選択して伝えているだけではなく、
逮捕報道は、
原則警察発表を垂れ流す
という事実上の協定を結んでいて、
上司が現場に指示を出している
ということらしい。

これは今までもずいぶん悔しい思いをしてきていて
合点がいった。

暴力団をずいぶん前に辞めて
普通に仕事をして家族とともに生活しているのに
元暴力団とか、暴力団という肩書が
報道されたりしたこともあった。

今になって
現政権トップがマスコミと会談していることを
嘲笑したり、罵倒したりしている弁護士もいる
その人たちは、
このような犯罪報道にどのようにかかわってきたのだろうか。

このような人権侵害報道の一つ一つの積み重ねが
巨大マスコミの実情を形成していった
それは刑事弁護にかかわる弁護士にも
責任があったような気がしてきた。

もう一つ気がかりなのは
耳の裏にちょっと傷つけたくらいで
実名報道をして
場合によって失職するというのであれば、

怖くて、児童虐待の通報をだれもしなくなる
ということだ。

もしかしたら、間違っていたら、
それでも実名報道されて
子どももさらし者になるし
父親、母親は仕事を失う。

そう思いながら
あなたは通報できますか。


悲しみを自主規制する人々 ペットロス等 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

対人関係学の今年というか当面のテーマの一つに
「悲しむこと」の研究があります。
悲しみと悲嘆の違い等を考えてゆくわけです。

純粋に悲しむことができるのは
自分が安全であることの認識が必要であるようです。

例え、大事な人が死んだとしても
それが戦争などで爆撃を受けて
なおも爆撃が続いているときに
純粋に悲しんでもいられないでしょう。

個体として生きていくために
悲しむことに没頭することが
できないシステムになっているのだと思います。

人が死んだら、法事で人が集まってくることは、
悲しみを受容するだけでなく、
周囲が支えるという形を作ることで
たとえ一時的であったとしても
人々が支えることで遺族を安心させ、
純粋に悲しむことができるようにするという
コミュニティーの力なのだと考えています。

日本でも、村八分の場合でも
葬儀の時は例外として
悲しみを許容するように
とても大事な儀式とされてきています。

どんな非業なことをしたとしても
悲しみを抱くことを支えようと
それが人間の当たり前の姿であるし、
そういうことが必要だという
長年の経験の蓄積なのだと思います。

ところが、
危険が存在しないにもかかわらず
純粋に悲しむことを
自分で制限してしまう場合があるようです。

その結果、精神的な負荷が高じてしまうことがあります。

ペットロスということがあります。
買っていた犬や猫などのペットが
突然交通事故で死んでしまう。
自分でも異常なほどに悲しいと困惑している
というケースです。

本人は、
「人間ではなく犬のことなのだから
 こんなに悲しんではいけない
 こんなに悲しむことは自分がおかしいのではないか。」
と自分でも気が付かないうちに感じてしまうようです。

ただ、ペットも一緒に暮らしているわけですし、
生き物ですから当然に相互作用があるわけです。
まず、悲しいことがおかしいということはないのだと思います。

次に、ペットも、飼い主の状況によっては
単なるペットではなくなるということもあります。

例えば、夫をなくして、子どもたちを一人で育てるために
一日中外で働いて、家のこともやってという
大奮闘をしているお母さん方はたくさんいらっしゃいます。

いつも気を張って、弱みを他人に見せられない。
自分の弱さを他人から尊重されない状況にあるということは
常に安心できない状況にあるわけです。
そういう時、ペットと会話をするさい
ペットには自分の弱みを見せられる
ペットには言葉に出して相談することができる
という場合、
ペットがなくなった夫の代わり
という状況になります。

また、子どもと何らかの理由で別離をして
孤独な老人にとっては
ペットはまさに子ども代わりなのだと思います。

その場合、ペットはペットという立場を超えて
その人の夫であったり、子どもであったり
そういう役割を飼い主との関係でになっているのです。

そのペットが死んだら
それは、夫の死であったり、子どもの死であったりする
そういうものだと思います。
もしかしたら、がみがみいう夫よりも
もっと自分を尊重してくれる大事な存在かもしれません。

私は、十分悲しんでよいのだと思います。
おそらくこれは
人類の長い営みの中でも
同じようにあったことだと思います。

これを否定することは
即ち悲しみを規制してしまうことは、
自分の感情を否定することですし、
自分が尊重されていたという記憶を否定することに
なってしまいかねません。

精神的にバランスを崩すことは当たり前です。
悲しいことがバランスを崩すことではなく、
悲しみを規制してしまうことが
バランスを崩すことなのです。

悲しむことは時間がかかります。
現代のスピード社会の風潮
インスタント社会の風潮からすれば、
ゆっくり悲しむことは
受け入れられない素地があるのかもしれません。

周囲も困惑するのかもしれません。

しかし、人間である以上
しっかりと悲しむ必要があるように思われます。
自分の弱い部分を尊重してくれた人、ペット、あるいは物
こういったものの記憶を尊重することが
自分を尊重することなのです。

悲しみを表現できなくなっていたら
ご自分たちのやり方で形を作って
喪に服すということも有効であると思います。

ペットロスを基軸に考えましたが、
例えば、加害者として非難されている身内の死であるとか
自死について理解されていない環境やご自身ということでの
身内の自死であるとか
十分に悲しみに沈めない環境は
悲嘆につながる
それは必要以上の苦しみに
つながっているように思われます。

また、実はきわめて現代的な
問題なのではないかと考えているところです。






男子厨房に入らず 男は食い物のことでとやかく言わない [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

男子厨房に入らずという言葉は、
孟子なんかを引用して
厨房は、生を殺すところであるから穢れている
そういう穢れたところに立派な男は入らない
なんていう
男尊女卑の典型的なものとされているようです。

封建制度は、とかく批判の対象となり、
その制度を克服して平等、民主主義なんかが出てきたと
言われています。

ただ、基準をどこにおくかによって
様々な評価が可能であるはずです。
国家などの統治システムに基準を置くか
人々の暮らし、精神的安定に基準を置くか

それそれメリットデメリットもあるし
もともと合理性があって、封建制度が生まれたわけです。

また、封建制度の中で、人々の営みが
システムの改良を行っていたはずなのです。

例えば男尊女卑について
家庭の中ではどうでしょう。
確かに男が外で働き、女が家を守る
ということが典型的な青写真です。
性による固定された役割分担があったと思います。

しかし、私たちの両親や祖父母を見て
男は女を蔑視していたでしょうか。
どうもそうは思われないのです。

台所で料理をすることを
蔑視していたでしょうか。
違うと思います。

しかし、多くのご家庭の中で
男子は通常は厨房に入らなかった。
これは理由があることだと思うのです。

どうしても男は外で働きますから
料理をするとなると、
夕飯が遅くなってしまいます。

電機などが整備されていませんから
あまり暗くなってからの夕食ということは
合理的でなかったはずです。
どうしても、夫婦のうちの一人は
昼下がりから
いろいろな夕飯の準備をすることが合理的だったはずです。

それでも、長時間労働なんてあまりない時代ですから
男も厨房に入ろうと思えば入れたはずです。
しかし入らなかった。

一つの考えとして
役割分担をした以上は、
男性は、女性に調理を含む家事全般をゆだねていた
と考えられないでしょうか。

任された方も、
任されたのに、
やれ、もっとしょっぱくしろとか、魚が足りないとかいわれていたのでは、
大変面倒で、煩わしいわけです。

労務管理においても
要求度が高く、裁量の余地の少ない労働は
過重になりやすく、過労死を産みやすいとされています。

作る人の判断で、自由に作っていただくことが
ストレスを軽減するためには必要なことなのです。

(また、女性よりも上手に料理をしてしまうと
 プライドも傷つけてしまいます。)

さらに、食べたときに、あれこれ評価するようでは
困惑して、傷ついてしまいますから
出されたものはつべこべ言わないで食べる
こうして要求度も下げて
ストレスをさらに軽減することになります。

私は、それがすべてとは言いませんが
男子厨房に入らずと、男は食い物のことでとやかく言わない
というセットは、
当時厨房で料理し、家事全般を取り行っていた
女性に対しての
男性のあるべき姿を教えていた
という側面があると思っています。

もちろん封建制度に戻せということはありえないことです。
封建制度の方が良かったということも意味のないことです。

しかし、形式的にすべてを否定してしまうと
現代に通じる大切なことが見失われてしまいます。

過去における人間の家庭における配慮
これは封建制度の中にもしっかりとあったわけです。

そしてその中には、
制度の転換ととともに失われてしまったものも
あるように思われます。

そしてそれが、
現代社会における社会病理を解決する
一つの有力な方法になるように思われます。

過去のものとして否定し去るのではなく、
大いに学ぶものもあるように思います。



自死(自殺)リスクとしての落差(対人関係の中で尊重されているとは思えない状態への) [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死リスクのアセスメントとして、色々なものがありますが、
一般には、静的状況を重視しているように思われます。

性別とか、年齢とか、経済状況とか

状況の動的な変化が自死リスクを高めるのではないか
ということが今回のテーマです。

対人関係学的には、
人間は、対人関係の中で尊重されて生きたい
という根源的要求を持っていると前提を立てます。

そして、これを満たされないと実感した場合、
心身に不具合が生じてゆきます。
尊重されないとは、突き詰めると排除につながる兆候
ということになります。

どういう場合尊重されて、どういう場合排斥されていると感じるか
については、若干の個性があるようです。
また、排斥されていると感じた場合の反応も
怒りを持つ人、悲しみを持つ人等様々で、

自死の危険を高めるのは
自分が想定する尊重された状態に到達することに
絶望を感じたときであると考えています。

ブログなので、ここまで前提として扱ってしまいます。

さて、
その絶望なのですが、
いろいろなところで絶望を感じる場面があると思います。

慢性的に苦しい状態にある
慢性的に孤立している場合、
ついに疲れ果てて絶望を感じる場合もあるかもしれません。

特に外因的な理由がないにもかかわらず
病的に絶望を感じる場合もあるかもしれません。

もう一つ、
元々は、現在よりもよい尊重された状態にあったにもかかわらず、
排斥を感じるような状態まで転落した場合、
絶望を感じやすいということがあるのではないかということです。

もともと、有名人だったり、
大学教授や公務員としての地位があって、
自分の周囲から尊敬され、
それこそ尊重されて生活していた人が

例えば犯罪をしてしまい、逮捕された
しかも、痴漢など破廉恥な罪で逮捕されたりした場合、
尊重ー排斥というはかりが大きく振れてしまうことになります。

子どものころから努力して勉強して
良い大学を出て、
教授や上司の無理難題もこなして
ようやく出世して
その地位を追われると

どうしても、元の位置に復帰することは
絶望的でしょう。

裁判所を過度に信じている人は
冤罪事件で有罪となって、
身に覚えのない犯罪をしたことになったら
地位があろうとなかろうと
絶望を感じやすくなるのではないでしょうか。

これを安心感の獲得の側面から考えてみましょう。

PTSDの治療の論理として
悲惨な体験を忘れることができないという障害ではなく
自分がもはや安全になったということを
認識、記憶できない障害として把握されるようになりました。

もともと、長期間同じ環境にいる人にとっては
その環境にいることは
社会から排斥されているわけではないという
馴れみたいなものを感じることが
ある程度期待されるわけですが、

もともと高い地位や安定した経済力の環境しか
経験してこなかったヒトに取って
突然、自分が経験したことのない環境に入ってしまうと
安心感を獲得することができなくなると思います。

恐怖や排斥を感じやすくなるということになると思います。

他人から持ち上げられることしかなれていない人は
対等に扱われることさえも苦痛に感じるかもしれません。

1998年 平成10年
日本の自死者数は突如3万人を上回りました。
様々制度変化等が取りざたされました。

この時、それまではバブル経済など
それなりに、社会的地位を築いた人たちが、
仕事を失うなどの状況に陥りました。

平成10年、離婚数、破産申立件数等も
失業率も
急激に上昇しました。

この傾向は平成14年から15年まで続き
それ以降は、高レベルでありながらも
少しずつ低下しました。

それまでの環境からの落差
ということで説明すると
とてもわかりやすいのではないでしょうか。

要するに平成15年以降、
環境に順応してきたということかもしれません。

現在、自死者数が3万人を切るようになりました。
様々な自死対策が功を奏したという見方もあるでしょう。

しかし、
単に、悪化した環境に馴化した
ということもあるのかもしれないと
そんなことも考えてみたりしています。




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