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きみちゃんのパパの自死が労働災害だと認められました [労災事件]

三歳のきみちゃんへ

今日、お役所でね
きみちゃんのパパがなくなったことが
労働災害だと、仕事のせいだと
認められたんだよ。

おじさん
それを聞いた時喜んだよ。
泣くかもしれないと思ったほど喜んだよ。
だって、労働災害だと認められるために
おじさんも一生懸命頑張ったんだから、
最初聞いた時うれしかったよ。

でも、だんだん頭の中が真っ白になって
何を言っているのか、
何を言えばいいのかわからなくなっちゃったんだ。

だからすぐに電話を切ってしまったんだ。

それからしばらくして、
今度は、とても悲しくなってきてしまったんだ。
悲しくて悲しくて仕方がなくなってしまったよ。

きみちゃんは、
パパが死んだことはわかったのかな
申立の準備をしていたとき

「パパ早く帰ってくればよいのにねぇ」

といったきみちゃんの顔と声が
頭の中から離れられなくなっちゃったんだ。

きみちゃんは、いつまでパパのことを覚えているかな

これからさき、
ずうっとパパがいないなんて寂しすぎるよね。

取り返しのつかないことがおきたんだって
改めてわかった気がしたよ。

でもね
一つだけ覚えていてほしいんだ
パパが、きみちゃんのことが大好きで
一番大事に思っていたことは、
おじさんは命をかけて断言できるよ。

パパは、
まず
責任感が強く、
できませんっていえなかったんだ。
どんなにつかれていても
強すぎる意思の力で、
頑張ってしまったんだ。
そうして、無理をすれば
おじさんなんてとてもできないことを
やってのけるくらいすごい人だったんだよ。

パパのことは
きみちゃんのママとおじさんが一番良くわかっている。

きみちゃんがこれから先
わからなくなったら
おじさん何度でもお話ししに行くからね

良い子になんてなるんじゃないよ。
わがままいっぱいに、子どもらしくしていてね。
ママを困らせたら、
いつまででもおじさんが聞いてあげるんだから。

いつでもおじさんは
きみちゃんがこまったらとんでいくからね。


追伸

人は、死んでも消えてなくなるわけではないようだよ
パパはいつでも、きみちゃんのすぐそばにいるよし
きみちゃんのことをいつも見守っている
それをちゃんと教えるようにって
パパから言われたような気がするんだ。


心の変化に気が付いた時には遅すぎる [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめや自死、過労死等、
あたかも、事前に一定のサインが出ていて
それに気づいて手当をすれば
防ぐことができるような宣伝がなされることがある。

だから、心の変化を見逃さないことが大事
という結論に落ち着いている。

今、これまでかかわった事案を振り返ってみて
事前に事故傾性なり、心の変化が起きていたことについて
気が付くべきだった事案があっただろうか。

確かに、後で思えば、ああそれかという出来事があるが、
あまりにも些細なことで
それが自殺のサインだったといわれてもどうしようもないこと
例えば、これまで毎月買っていた自動車の月刊誌を
買っていなかったとか
あるいは、もはやそのサインの次の瞬間自死行動を起こしていた
というものであった。

仮にサインだと判断したとしてどうしたらよいのだろう。
うつに気が付いて精神科に行って薬をもらって
数日後や当日に自死を決行した事案は無数にある。

心の変化に気が付いた時は、
もはや大変危険な状況になっており、
病院に行っても自殺行動を促すだけだったり、
わずかのすきを見て自殺行動に出る事態になっている
ということが現実であると思われる。

また、本人は心の変化に気が付かない。
先日、あまりにもひどいパワハラを受けていた人から相談を受け
気丈に話ししていて、
あるとき安心して涙を流し始めた。

もしかして死のうとなんて考えていたんじゃないの
と端的に尋ねたところ、
教科書に載っていないような表現の
希死念慮を持っていたことに
気が付いたという事例があった。

すさまじい念慮であった。

心の変化に気が付かない理由はたくさんある。
うつ病の人はうつを隠すことが通常だということ
家族の前では、無理に笑顔を作ってごまかすということが
むしろ通常らしい。
うつを隠すということがその1.

また、急激なショッキングなことがあって
激しく心がダメージを受けたということであれば
それはわかりやすく変化を見て取れるだろう。

しかし、パワーハラスメントのように慢性的な攻撃を受けていると
少しずつ、精神がやんでくるのだから、
毎日顔を合わせている家族は
なかなか気が付くことがない。
心の変化が緩やかに起きているということがその2

長時間労働の労働者は
家族が寝てから帰宅し、
家族が起き出す前に出勤する。

顔を見る暇がなく、見たところで
ああ、疲れているんだなと思う
これがその3

心の変化をまっていたのでは、
すべてが手遅れになる。

ではどうしたらよいか。

その人の人間関係の状況について把握し、
その人の言葉がどうあれ、
「それは危険な状況だ
 死ぬことを考えてもおかしくない
 休ませなければならない状況だ」
という客観的な状況で判断するべきだと思う。

週に2回以上嫌みを30分以上言われる職場、
仲間はずれにされて、笑われているような学校、
みんなの前で顔をつぶされることのある職場や学校、
子ども扱いされているような職場、

嫌がらせや叱責は、聞いている方も嫌になる
その時は、必ず本人はもっと絶望感を持つに違いない
という感覚こそ大切だと思う。

子どものころ、友達同士でからかって楽しんでいた
ということがあった。
祖母の前でも、ついその延長でからかったことがある。
祖母は、静かにそういうことは言ってはだめだよと諭してくれた。

しかし、その時は、せっかく楽しく遊んでいるのに
水を差すことを言って嫌だなあと思ってしまった。
でも、本当に大切なことは
あの時の祖母のような諭しなのだと思う。

本人が平気でも、場が受け入れていても
後で相手が傷つく可能性があることは
言ってはだめなのだと思う。

人さま、人間様を傷つけたり
顔をつぶしたりするような言動は、
どんな理由があろうとも
本人の技術を向上させる理由でも、
生産性を向上させる理由でも
部活動の規律を守るという理由でも
だめだとするべきだ。

正義を理由に人を傷つけることは
どこか間違っていると思うべきだと思う。



自死対策の基本に傾聴を置くことの疑問  [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いまだに、自死対策において傾聴が重視さこれている。

例えば、以下の技法をコーチングされる

方法
(1)視線
•凝視しないで自然に視線を相手に向ける。

(2)姿勢
リラックスしてやや前傾になり、相談者への関心を示す。そっくりかえらない。
•腕組みをしない。

(3)言語による応答
•相談対応者がしゃべりすぎてはいけない。
•できるだけ相談者の話題を変えたり、さえぎったりしない。

あいづち
 相談者の話の自然な流れを妨げないで、注意深くその話を聴き、
 相談者に寄り添っていく態度を示します。

繰り返し、要約化
相談者の話の内容を、キーポイントを押さえて、正確かつ簡潔に伝え返すことです。

いちいちこのようなことを気を付けなければならないとしたら
その時点でアウトだと思う。

話を遮らないとか、人間としての基本姿勢だろう。

このような注意ポイントが指摘されるのは、
傾聴という行為の性質をよく表している。

要するに対応者は、相談者を一段下に見ているわけだ。
傾聴してあげるという恩着せがましい心構えがある
それをテクニックで隠すということならば、
技法のポイントは的を射ているだろう。

「傾聴」とは、
誰かを支援しようとする人からすると
敗北を意味する言葉である。

「相談者の話が何を言っているのかよくわからなくて
 傾聴するしかなかった。」とか
「何も解決する方法を考えつくことができず
 傾聴で終わってしまった。」
等、敗残兵のような心境で語られたり
結果票に書きこむ言葉である。

だから
はじめから傾聴しようとすることの
目的がわからない。
もっとも、傾聴で終わろうとしているのではなく、
何か問題があればどこかにつなごうと
そういう目的なのであればそれでよいかもしれない。
その場合、傾聴をしに行くとは言わないだろう。

もしかすると、傾聴をするという行動を提起すると
ただ、テクニックを用いて聞けばよいと
勘違いをする人も出てくると思うので、
ネーミングに注意するべきだと思う。

もっとも傾聴がそれだけで有効な場合もある

東日本大震災の直後
被災地は重苦しい空気によどんでいた。
今は大丈夫だけれど、あと数日この状態が続いたらどうなるだろう
という不安が蔓延していた。

ようやく、露天販売などが復活して
街に人が出始めたころ、
見ず知らずの人たち同士が
親しげに言葉を交わした。

お互いの親族の安否を尋ねあい
励ましあって、笑顔でわかれた。

その時、被災地そのものが、
緩いコミュニティーを形成していたと思う。

コミュニティーの仲間として
会話をすることで癒されていた。
生きる力がよみがえってきて
明るい気持ちになっていった。

この時、避難所から離れられないなど
周囲に見知った人がいない場合(環境的孤立)
あるいは、悲惨な体験を話したいけれど
周囲に聞かせることを遠慮していた人(心理的孤立)
誰でもいいから話すことを求めていた人に取って
傾聴が有効だった時期がある。

そうでなければ、
自分のコミュニティーの外の人間が
スポット的に訪れて、
何か悩みはないかと尋ねて回っても、
少なくない人は、話をしようとも思わないものだ。

これとは別に、
通りすがりの人が、
目があって時候の挨拶をして
心が温かくなるということもある。
あくまでも、対等という立場での
人間同士の心の切り結びである。

思わず、警戒心が緩む。

ところが、テクニックが必要な人たちが、
特に解決スキルもなく、
話を聞きますよと言ったところで
警戒心が緩むことはあまりないだろう。

弁護士に相談する時に
何もかも打ちあける人は、
まずは、解決のために必要だから
話をしていると心得るべきだと思う。

もし、解決のスキルがなくて、
でもその人の力になりたいと思うなら、
コミュニティーを形成すればよいのだと思う。

家族でも、地域でも職場でもないコミュニティー
友人、知人の類であろう。

会おうと思えばいつでも会える。
会える日にそこに行けば必ず会える。
いざという時には駆けつけてくれる。
勝手に誰かと交代しているということがない。
そういう存在になればよいと思う。

そうでなければ、
どんなにテクニックを弄しても
上から目線の施しの気持ちは、
傷ついて警戒心の強い人たちには
簡単に見透かされると思う。

人はパンのみにて生きるにあらず 「私」という感覚は他人とのつながりの中で成立 心的外傷と回復ノート [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

‘TRAUMA AND RECOVERY’ by Judith Lewis Herman

ハーマンは、本書を つながりを取り戻す本
だと述べています。

要するに心的外傷が起きると
自己を喪失したり破壊したりしてしまう。
これが症状の本質のようです。

この「自己」というのが、
自分以外の人々との関係において形成されて
維持されているもの
だというのです。(75頁等)

外傷、つまり
強烈な恐怖や孤立無援感、自己統制力の喪失
完全な自己消滅の脅威等を体験すると
この、
他の人たちのつながり(家族愛、友情、恋愛、そして地域社会
への感情的紐帯)を引き裂かれるわけです。

他者とのつながりが切れた人間は
過剰に危険に敏感になり、
恐怖体験が突然襲ってきたり悪夢を見たり
意識が変容していくというのです(49頁)。

これが繰り返し論じられています。

PTSDという病態から、
自己、私という感覚はどういうものかということが
解き明かされているように感じました。

人間は、基本的に、あるいは根源的に
(要するに生まれながらというか遺伝的といいますか)
他者とつながって生きていく動物だということになるようです。

人間とは、
食事を摂り、排せつして、睡眠をとり
食料を探して
単体として生命維持活動をしていれば生きていける
というわけではなさそうです。

人はパンのみにて生きるにあらず
とは新約聖書の言葉ですが
そこでは、パンだけではなく、
神の言葉の一つ一つによって生きるということが書かれていますが
ここでいう神が
調和的な人間社会の相互互助的な関係等の
人間を人間として成り立たしめる法則
という意味と同じだとすると
この言葉は、対人関係学の要諦そのものだと
勝手に感じ入りました。

人間が本来持っている
助け合いの精神とか、分け合う精神等
人間を形作るものが
富の蓄積や支配によって傷つけられているために

それを是正し、本来的な人間に立ちかえるようにしようとすると
神という存在が必要であり、
それはおそらく人類普遍的なものではないかと
考えています。

楽園を追放された人間は
追放されたがゆえに神を必要としているのだと思います。

この自己を形成する最初のつながりが
赤ん坊の際にケアする両親だということになります。
人間は生まれた直後から
尊重されて育っていくわけです。
誰かに助けられて生きているというわけです。

この自己は、外傷の瞬間においては、
被害者の視点というものは全く一片の価値もなくなってしまう
外傷的事件は、
自分は自分以外の人たちとの関係の中で自分自身でありうる
という信念はを破壊するというのです(78頁)。

もう少し分析した記述としては
「自己」という心理的構造体は、
自己身体像と内面化された他者像とともに、本人に
<自分は整合性があり目的を持った存在である>
という感覚を与えてくれる様々の価値と理想からなるものであるが、
これが侵略され、体系的に破壊される。

即ち<コントロールされ犯されうる身体>
<他者を見はなし他者から見放されるる人間>
というイメージが付きまとうそうです。

これは、他者の命じるままに生きるロボットであり、
あるいは移動のできない植物だと指摘しています
(143頁)

他者とのつながりが断たれた人を見ることはあまりないかもしれませんが、
他者とのつながりが断たれた状態の人の行為に
弁護士は良く立ち会います。

例えば、犯罪です。
その人は、これをすることによる罪悪感を感じない状態になって
実行をすることが多いようです。
誰かを傷つけることも感じませんし、
発覚した場合の自分の不利益もまともに検討しませんし、
自分が傷ついていく、自分の価値を貶める
ということも考えません。

これらは、他者とのかかわり、社会とのかかわりを
感じていたり、考えたりしない限り感じないことなのでしょう。

浪費の場合も同じかもしれません。
返すことを考えないで買ってしまったり借りてしまったりする
ということも同じでしょう。

過重労働も同じかもしれません。
会社とのかかわりだけがテーマになってしまい、
自分を取り巻く大事な家族や友人、
その中で成立する自己が見失われているように感じます。

ギャンブル依存やアルコール依存も
同じ側面があるかもしれません。

この極端な状態が自死なのでしょう。
完全に他者とのつながりが絶ちきれています。
他者とのつながりは耐えられない苦痛としか
感じることができない状態なのでしょう。


だから、回復の過程では
自分自身と和解し、
他者と結合していくという過程をたどります。
境界線を保ちつつ、自分以外の者の
ものの見方と境界線を尊重する(324頁)
という回復過程をたどるようです。

もっとも、境界線があることが
自分を感じる不可欠な要素なのでしょう。

私は、つながりの回復とは
PTSDの治療だけでなく、
各種依存症の治療の論理でもあり、
また、予防の論理ではないかと考えています。

犯罪にしても、依存症にしても、自死にしても
要は、少しずつつながりが薄れていくということなのだと思います。
孤立無援感だったり、絶望だったりが
少しずつ進んでいくことに本質があるのだと思います。

そうであれば、
何か事が起きる前から
少しずつ、つながりを感じる力を強めていくことが
様々な問題行動にでないカギではないかと思います。

そして、
予防を一歩進めて考えることこそ必要だと思います。

何も悪いことが起きない状態を目標にすることは
いわば0(ぜろ)を目指す活動です。
0という目標に到達しても
おそらく喜びも充実感もないでしょう。

むしろ、神の意思を実現するような人間界をつくる
ということこそ目標とされるべきだと思います。

相互互恵的な、相互扶助的な
他人を尊重し、自分が尊重される
そのような人間の関係を作る。

その一つ一つの出来事が
おそらく喜びであるし、充実感を感じることでしょう。

なにやら宗教的になってきました。
それでよいのだと思います。
宗教の本質はわかりませんが、
そこに流れている部分は
全く同じだと思います。


絶望感を回避する無意識の人間のシステムに見る、絶望の絶対的な危険性 心的外傷と回復ノート4 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

根源的な絶望感というものを味わうということは
それほどないようです。

小さな絶望感はありますが、
望みが絶たれても、命はなくなりませんし、
健康状態を害するということはないでしょう。

わかりやすい例としては、
高所から落下してしまった人が、
絶望感を感じて
気絶するという事例があります。

気絶は、意識を失うことで、
もはやこれまでと
生きるための活動をやめた状態ということになるでしょう。

よく似た状況で起きるのが外傷的反応です。
ハーマンは、外傷的反応が起きるのは行動が無益な時である。
抵抗も闘争も可能でないときには、人間の防衛システムは圧倒され
解体に向かうと指摘しています(48頁)。

どのような場合に外傷反応が起きるかというと、
カプラン、サドックの「精神医学教科書」を引用し
強烈な恐怖
孤立無援感
自己統制力の喪失
完全な自己消滅の脅威
を上げています。

目安として、恐怖に圧倒される
出口のないワナのような状況に陥れられる
消耗の極致までさらされる
としています。

そこで起きる症状として、過覚醒、侵入と並んで
狭窄(constriction)にカテゴライズされるようです。

恐怖や怒りといった個別的感覚が失われ
事件は記録されても、意味が切り離されてしまう
意識の解離的変化が生じるようです。
これは、現実世界に働きかけて危険から脱却できない場合
自分の意識を変えてしまうということのようです。(62頁~)


恐怖に耐えられない
なすべき方法がないという認識は
これを感じることを拒否するようです。

危険すら感じない場合は、
恐怖や絶望を感じなくて済むわけです。

これは、高所からの落下のような身体的な絶望の場合は当てはまりにくく
長期反復するような、物理的、心理的監禁のような場合には
当てはまりやすいように感じます。

最終段階として、生きる意志を失うということが起きるようです。
「絶対的受け身の態度」と呼ばれて
食物を探そうとも暖を取ろうともせず、
殴られるの避けようともいないとしています。

緩やかな気絶として把握できるようにも思われます。

最終的に絶望を感じることを拒否する
人間のシステムということになるでしょう。
絶望を感じることを緩やかに受け入れるともいえるかもしれません。

心理的狭窄は、最も劇症となる症状であり、
適応に不可欠になる場合もありうるとのことです(132頁)。

絶望を回避しつつ、絶望に足を踏み入れた状態ということでしょうか。

耐え難い現実を改変する方法として
解離
意思による思考の抑制
極端な過小評価
完全な否認
を上げています(132頁)。

この絶望の回避システムとしては、
その他に

自傷行為
小児期の否認
そして罪悪感の指摘が興味深いものでした。

自傷行為は、21世紀では正当に認識し始められていますが
既に、この本の中でも指摘されています。

自傷行為に先立って乖離が起きると指摘しています。
自傷行為のはじまりには疼痛は全くない
最後に穏やかでほっと救われた感じが
力強く怒ってくるまで自己破壊が続けられる。
身体の痛みの方が心の痛みよりずっとましなので
この置き換えとなるのである
とし、170頁

自傷行為は死ぬためではなくて、
耐えられない心の痛みを和らげることを目指すものである
自己保存行為の一つの形態としています。

自分を身体的に傷つけることで、
絶望感や狭窄に陥らないように
ギリギリとどまっているということなのだと思います。

幼児虐待については157頁以下の記載を引用します。

被虐待児は虐待は実はなかったと思いこむ方が好きなのである。
この絶望を満たすために、被虐待児は虐待されているという秘密を
自分自身からも隠ぺいしようとする。

自分が悪いからだと考えることによって
良い子になることによって
庇護とケアを受けることができる
と思わざるを得ない
そういう人間の心理システムだということのようです。

広島小学生が母と祖母に殴り殺された事件がありました。
殺される直前、被害児童
二分の一成人式ということで
学校で、親に対する感謝の手紙を書いています。
最後は、お母さん大好きと大きな字が書かれていました。
そのことを思い出す記述でした。

ここにも記載されていますが
罪責感、自己否定感も実は防衛行動だということに
慄然とします。

自分の行動の方に何か失敗はないか、間違いはないかと
それを探し回る(160頁)とのことです。
あくまでの虐待者の気分感情で虐待されるのですが、
自分に原因を求めるわけです。
自分に原因を求めることによって
虐待のきっかけをなくしたいという
絶望的な防衛行動ということになるのでしょう。

虐待を受けている子どもたちが否定したいのは、
虐待者が気分感情で虐待をしていること
自分が気分感情で虐待される様な
人間として価値がない存在ではない
ということなのだろうと思います。

79頁の記述において、
罪悪感について述べられています。

罪悪感とは、
災厄から何らかの有益な教訓を引き出し
力とコントロールとの感覚をいくらかでも取り戻そうとする
試みであると解することができるかもしれない。
もう少しうまくやれたのに残念だと空想してみることは、
自分は全く手の打ちようがなかったという、
完全な孤立感に直面するよりもまだましかもしれないのである。

手の打ちようのない、即ち絶望を感じたくない
という心理システムだと思います。

これが、他人の絶望を共鳴することを拒否すると
傍観者でき罪悪感
ないし生存者罪悪感という形になります。

私が悪かったんだと感じることが
あの人が絶望的状況にあったのだと感じるより
まし
ということになるのだと思います。

これは特に身近な人との関係で起きるようです。
東日本大震災では至る所で見られています。

これらのように
絶望を感じないということは
生きていくうえで非常に重要なことであって、
レベルの合わせて、回避システムがある
それが無意識に発動されるということなのだと思います。

ひとたび絶望の淵に立ってしまうと
生きようとする行動をしなくなっていくようですが、
これはもはや心理的な活動にとどまらず
生理的な意味でも生きようとしなくなっていく
ということなのだと思います。

そして案外人間は
現代においては特に、
簡単に絶望の淵まで到達するようになっているようです。

個体の弱体化というより
対人関係の在り方のような気がします。

簡単に孤立無援になる要因とは何か
テーマは広がっていきますが、
これはいずれまたの機会に。





DV被害者の「支援者」が被害者の状態を悪くすること 心的外傷と回復ノート3 [家事]

‘TRAUMA AND RECOVERY’ by Judith Lewis Herman

もしあなたが、夫の妻への暴力に健全な嫌悪感を持ち
被害者の救済という理想に燃えて
相談員という立場になったとします。

さあ、あなたの相談員になった目的ともいえる相談者が来ました。
相談者は、例えば
昨晩夜通し椅子で体中殴られた
それを見ていた子どももおびえていた
という相談をしたとします。
なるほど、相談者の差し出したひじの上には
確かに痣のようなものがあります。

ただ、被害者のお話は、どこか不自然な点がありますが、
DV被害者は、つじつまの合わないことをいうこともあるし
それは被害者特有の心理でもある、

①むしろ、被害者の話の真実性を疑うことは
被害者に寄り添っていない、
すべて本当の出来事だとしてお話を聞かなければならない。
と思うかもしれません。

被害者は、私が悪いのでしょうかと
力のない目をして訴えかけます。
②あなたは、被害者に対して
あなたが悪いわけではない、あなたには責任がありませんよ
と優しく言うかもしれません。

③ なおも自分を責める被害者に対して
あなたは、
自分が悪いなんて言ってはだめ、
死のうなんて考えてはだめだよ
死ぬほど大変なことなんてないんだから
と励ますかもしれません。

④そして、
DV加害者というのは、私の経験からは
絶対に治ったりしません。
あなたが必要なことは、
加害者から離れることしかありません。
その家から出ていって安全な場所に非難することです。
マニュアル通り告げるかもしれません。

⑤さらに、保護命令の申立書の用紙を渡し、
離婚手続きを教え、
離婚手続きで有利に離婚するために
保護命令を申し立てた方が良いよとアドバイスをして

⑥私は働いていないので大丈夫でしょうか
という被害者の質問に
何とかなりますよ
命がなくなるよりもよっぽどいいですよ
とあっという間に離婚手続きのレールに乗せるかもしれません。

さて、①から⑥までの流れの中で、
支援員であるあなたが
被害女性をさらに窮地に追いやったり
精神症状を悪くしたり、
自立を阻害する危険のあるものはどれでしょう?


答えは全てです。

①について、確かにハーマンは
被害者が、矛盾することを話すことがあるということや
第三者は被害をなかったことにしたいという思いが出てくることを
指摘しています。

ただ、支援者が、
被害者が窮状にあるという事実の理解を超えて、
すべてを事実だとしたうえで
ことを運んでいくことは大変危険なことです。

曖昧な事実関係で保護命令を申し立てても
却下されてしまいます。

また、一時的な感情でことを進めてしまうと
夫との和解が不可能になることも考えなければなりません。

怒りの原因が、怒りの矛先と同一であるということは
あまりありません。
夫に対しては勝てるという意識であれば
別に原因があっても、夫に怒りをぶつけていることがあります。

確認するべきは、
経済状況、夫名義での借金を本人がしているかどうか
子どもがいる場合の年齢
自己の夫以外の虐待された経験
実母との関係
前に相談をして紹介をされたのであれば
その相談機関及び、相談内容と回答内容
自分が孤独を感じるときのポイント
暴行が行われる時のきっかけないし流れ
などです。

きちんと聞いてあげることが必要です。
矛盾がある場合には、解きほぐすことは必要です。

②については、じゃあ、被害者の責任をあげつらえというのか
という見当違いの批判が起きるかもしれませんが、
そういう単純な意味ではないということです。

正確に言えば、
たんに責任がないよといってやれば
それで免罪されるものではなく
かえって、極限状況における倫理的な意図のもつれを
被害者と一緒になってほぐすことはお断りするという含みがある
とハーマンは指摘しています(104頁)

詳しくは改めて述べますが、
罪責感も防衛反応であり、
それによって、ギリギリのところで救われるということがあります。

支援者は神ではなく、すべての審判者ではありません。
哀れな被害者に救いを差し伸べるのではないく
同じ目線で、一緒に考えるという視線が必要だと思います。

ハーマンは、公平、共感、罪責感を伴った知識を
分かち合おうとする姿勢が必要だとしています。

③死にたい気持ちを頭ごなしに否定することが
信頼関係を形成できないということは
良く言われていることです。
これは、とくに心的外傷と回復には載っていません。
②とあわせて、支援者の方に心の余裕がないときに、
自分の許容量を超えた悲惨な話の場合、
そういうことで、話を断ち切ろうとしていることがあるようです。

④これは、実際のケースで、実際になされたアドバイスです。
こう言い放った支援者は、
加害者たる夫から事情を聞いていません。
精神的に不安定な被害者から話を聞いただけで
すべてのDV加害が、同じように暴力と蜜月を繰り返し、
同じように再発していく
という前提に立っています。
また、この支援者が実際のDVのケースをどこまで見たことがあるか
疑わしい事情もありました。
マニュアル通りの説明だと思います。
とんでもない話です。
しかも、記録上は被害者は暴力の頻度を言っているわけではありません。


⑤とにかく支援者は
精神的に被害者を助けるだけで、
加害者と対峙しないということが特徴です。
そして、離婚による子どもたちへの影響も
全く考慮しません。
あらゆる暴力、極めて偶発てきな暴力や
軽微な暴力が起きた事件でも、
離婚が選択され、実行にうつされます。

そういう戦略なのか面会交流も拒否します。

その時は良いかもしれませんが、
子どもが思春期を迎えるころ、
自分が父親に対して与えた不利益
父親に対する憎悪が
自分に帰ってくることが多々あり、
拒食、過食、引きこもり、リストカットの原因になったりします。

子どもに対して一方の親の悪口を絶対に行ってはなりません。

可愛そうなお母さんを支えてあげてね
なんてことを言う支援員は、重罪だと思います。

⑥言われた通り保護命令を申し立て
言われた通り離婚をしても
生活が良くなるわけではありません。

むしろ大変な生活が待っていることがあります。
それからが地獄です。
言われたとおり離婚をして、うまくいかないので
支援者に文句を言ったら
「離婚を決めたのはあなたです。」と
突き放されたという相談が結構あります。

これらの問題点を総括すると以下のようになるようです。
第1に、勉強不足。
およそ他人の人生に関与する資格の無い人が
支援をしているケースがあるように感じられる事例があります。

第2に、すべての暴力で、トラウマが発症したり
PTSDが発症しているという
そういう決めつけをしているように思えてなりません。

ケースは個別に異なります。
それをマニュアル的に処理しようとしているようで
恐ろしくてなりません。
あらゆる事例で、最悪のことが起きていることになり
その後の「処理」に進んでいるようです。

いくつかの症状を確認しただけで
あなたには確実に外傷体験があると述べる人がいるということは
ハーマン自体が指摘しています(282頁)。

マニュアルをもって、被害者を待ち受けているような図式なのでしょう。

これは、DV被害の本質を全く理解しておらず、
そのことが原因の一つとして
DVとは何かということが極めてあいまいとなっていること
という問題点から来ています。


第3に、支援の意味がわかっていない。
支援は、被害者に生きる力を取り戻させるということ
ハーマンの言葉で言えばempowerment
が必要だということです。

あれやこれややることを決めて
言われたとおりにやりなさいということは
被害者を無力化していくだけです(228頁)。

本当にPTSD様の症状のある患者であれば
一般に症状は重くなるとハーマンは指摘しています(229頁)。

支援者の都合に合わせて事実を作り替え、
支援者の実績づくり、統計的な数字の加算が目的とされ、
被害者は、症状が重くなり、
子どもは健全な成長ができない
そういう事例があるような気がします。

もっとハーマンを学んでいただきたいと
改めて心的外傷と回復を読んで痛感しました。




自死に共鳴してしまう時 弁護士業務における逆転移 心的外傷と回復ノート2 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

‘TRAUMA AND RECOVERY’ by Judith Lewis Herman

弁護士が、業務において無防備なこととして、
逆転移の現象があります。

逆転移とは、ハーマンの著書によれば、(217頁)
治療者が、程度こそ違え、患者と同一の恐怖、怒り、絶望
を体験することとなっています。

治療者の精神健康に多少とも危険が及ぶとして
このような激しい反応に対処できるサポートシステムの活動を必要とする。
と指摘しています。

ハーマンは、治療者の個人的外傷を再活性化する
と述べていますが、
私は、患者の感情に共鳴してしまう人間特有の現象
ということもありうると考えています。

さて、弁護士業務をしていると
特に過労自死の事件では、
このよう逆転移の状態となることがあります。
どちらかというと、
逆転移の現象が生じた方が事件がうまくゆく
ということも経験しています。

これまでは私は霊感のようなものがあるのではないか
死者と会話ができるのではないかと思っていましたが、
この本を読みなおして、逆転移といわれれば
なるほどそういうことかと思いました。

それは突如起こります。
職員を帰した夜間に、
これまで調査したことを取りまとめる書面を書いていると
断片的な情報が一挙に集約されていきます。

ある研究者の事件では、
いろいろな人から情報を集めました。
同僚や部下、上司や遺族
遺品や文書
それぞれ、断片的にひどい話だなと把握していたのです。

ところが、それを一つの文書にまとめていく中で、
それぞれのエピソードが、同時に
一人の人に降りかかっていたということを
実感として感じてしまうのです。

この事件で、それに気が付いた時
過呼吸となり、目が吊り上がり
大変なことが起きた、取り返しがつかないことが起きたと
立ち上がり、事務所の中をうろうろしだしました。

そしてまなじりを決して、
続きを書き始めました。

ある学校の先生の事件では
同僚や上司の先生から話を聞いたり、
教え子やPTAから話を聞いたり、
遺品を見たり、現場を見たりして
辛かっただろうなとそれぞれ感じていたのですが、
それらを一つの書面にまとめていたとき、
もう涙があふれて仕方がありませんでした。

ここまでは逆転移ではないでしょう。

そうして、自責の念が起きていました。
何で、私は、彼の自死の現場に居合わせなかったのだろう
どうして彼を助けてあげられなかったのだろう
到底ありえないことに罪責感を感じてしまったのです。

罪悪感が、一番ポピュラーな逆転移だそうです。

私の理屈で言えば、
絶望感に共鳴してしまったということになるのでしょう。
そうして、絶望を回避するシステムとしての
罪悪感が発動されたのだと思います。

罪悪感も自己防衛反応なのだそうですが
これは説明が必要なので、別の機会にします。

ハーマンは一方で、リフトンという学者の話を援用して
治療者は逆転移を患者理解の導きの意図として活用する(228頁)
ことを指摘しています。

確かに逆転移が起きるほど認識が深まると
それを裁判所なり、労災認定なりにアッピールできるでしょう。
だから、逆転移が起きるとよい結果が出やすいということかもしれません。

この点、逆転移が起きるだけでは、弁護士としても
まだまだ不十分です。

私が苦しくなって読めないという書籍はそれほどないのですが、
わが過労死弁護団の幹事長の川人博先生の
「過労自殺」岩波新書
は、事例を読み進めると苦しくなり、
本を読んだだけで逆転移が起きてしまう名著です。

何年かたっているのですが
健康上の理由で何度も中断しています。

感じる力から、このように伝える力と結実して
プロフェッショナルといえるのだと思います。
正直私はまだまだです。

さて、弁護士は、なかなかこのような精神的侵襲が
仕事上起きることに理解がなく、
無防備な状態となっています。

きちんとしたサポート体制があるわけではありません。

理屈を語られてもしょうがないのです。

あくまでも、こちら側の心情を理解されないと
むしろイライラだけが募ります。
わかったふりするなと思っちゃいますよね。

でも
私にはサポートシステムがあります。

過労死、過労自死の問題であれば
遺族の会の東北希望の会の例会で
こんなことがあったというお話ができます。
別に個人情報を語る必要はありません。
ご自身方の体験から、理解共鳴していただけるのです。

この会の良いところは、
それを社会に返していこう
争うのではなく、共存のための活動というところで
心の中のわだかまりが解消されます。

子どもたちの問題であれば
親の会の方々とお話しすることができます。

私は、むしろ依頼者に助けられているのかもしれません。

それからこのブログということになりましょうか。

芸は身を助ける 理不尽過重労働からの生還者がなぜ仕事をやめることができたか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

このブログで述べている故事、ことわざは、
あくまで、対人関係学的解釈ですから
くれぐれも受験の時に引用しないでくださいね。


ということで芸は身を助ける。

普通は、
収入がないときに芸事で家計の足しになった
なんていう意味で使われるのかもしれません。

しかし、もっと深遠な意味があるのではないかということ
過労死過労自死遺族の会東北希望の会の例会で感じました。

例会には、遺族だけでなく、友人たちや
今労災で苦しんでいる人たち、
働き方を研究している人たちもやってきて、
名古屋かにやさしい時間を過ごしているのですが、

その日は、20年近く勤めていた職場を
スパッと退職したという方もいらっしゃいました。

この方の職場は、結構固い仕事なのですが、
数年前に上司が変わってから
理不尽なことが増え、
人数も減少して、ずうっと忙しくなってしまった上に
同僚が理不尽に事実上解雇されたりしたという中で、

簡単に言うとうつ状態になって、
引きこもりの始まりみたいになったそうです。

ここで、すごい!とおもったのが
その人は、
自分がおかしい
このままでは自分が壊れていくと自覚したそうです。

なぜすごいかというと
私がかかわる労災事件では
自分の体調の変調に気が付かず、
あるいは気が付いたとしてもそのまま理不尽な環境から脱出できず
うつ病になったり、自死されたりする
という事案ばかり見てきたからです。

良く気が付きましたね。
率直な感想がこれでした。

しかも、退職も
苦しみから逃れようとして
他に選択肢がなくなりというのではなく、
やめても何とかなるだろうという
前向きな気持ちで退職した
というところも驚きでした。

私は、質問を続けました。

どうやら、自分の状態に気が付いた一因として
その人がしていた習い事が関係しているようです。

これは、何でもよいのだと思います。
剣道みたいなものでも、書道、茶道、華道
音楽も同じかもしれません。

一つの道にひたすらに打ち込んでいると、
それをすることで、自分の心の状態がわかるようです。

書道であれば、自分の字が乱れていると感じるのでしょうか。

一般的には、
こころは、対人関係の状態に対する反応ですから、
その対人関係の中にいるうちには
無意識に反応しているだけですから
自分の心の状態がわからないわけです。

運動をして汗をかけば
皮膚感覚でそれがわかるのですが、
心を感じる心というものはないようです。

ところが、自分の心の状態を
客観的に見ることができる
書道の書、茶道のお茶、華道の花の状態は
なるほど貴重なものだと思います。

スポーツ選手も
練習をしていて体調に気が付くことでしょう
武道も、自分の体調気にが付くだけでなく、
心の状態に気が付くということがあるかもしれません。

芸は身を助けるというのは
一つのことに打ち込んでいることによって、
その芸の状態を客観視できるようになり、
それで、体調や精神的不調に気が付き
自分の行動を修正する、
それによって、命や人格を守ることができる
という
深遠な話ということが
むしろ、実際上多い出来事ではないかと
考えされられた出来事でした。




DVにおける支配と服従のメカニズム 心的外傷と回復ノート1 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

‘TRAUMA AND RECOVERY’ by Judith Lewis Herman より

「心的外傷と回復」は、ジュディス ルイス ハーマンという女性の精神科医の名著です。複雑性PTSDを提唱した本として知られています。私は、これを前に一度読んでいるのですが、また読み直しています。「こころ」に対する理論の巨大な山脈のような印象を受けています。断片的な記憶しかなかったのですが、読み返してみると、対人関係学の原型みたいな論述がたくさんあり、ずいぶん影響を受けていたことがわかります。いつ読んだのかの記憶が曖昧なのですが、第10刷を持っていて2008年発行なので、その後であることだけは確かです。震災の前だと思うのですが、直後に読んだかもしれません。

逐一初めからノートを公開しても意味がない(学術的にも、興味的にも)ので、テーマごとにお話させていただきます。


今回は、主として、第1部心的外傷障害の第4章監禁状態(P111―P146)についてです。


第1 監禁の方法(被害者側の心理について)

1 ハーマンは、長期反復性外傷は監禁状態があって初めて生じる。犠牲者が加害者の監視下にあって逃走できない被監禁者である場合に限って生じると述べています。  この監禁の方法は、家庭内においては、暴力だけでなく、経済的、社会的、心理的なものであり、監禁している壁は目に見えないと説明しています。  その隷属化させる方法とは、恐怖と孤立無援感を与えるという二つの方法だとしています。 恐怖を増大させる方法は、暴力を規則性がなくて予見できない形で爆発させる、細かな規則を気まぐれに強制するという2点を上げています。これが成功すると、被害者に取って加害者は万能であり、抵抗することは無駄なことだと感じるようになるといい、わずかな攻撃のゆるみが、被害者の徒って慰めの泉となり、心理的抵抗が空洞化すると述べています。 孤立無援感については、加害者は、被害者から自分以外の一切の情報源、物質的援助、感情的支持から遮断して孤立させようとし、被害者の内的イメージ(自我)を破壊すると述べています。 被害者は、監禁によって、外傷性きずな形成といわれる自分の生命を脅かしている加害者にしがみつかせる強制的な心理が働くとのことです。 実務的に、良く見られる現象が指摘されており、なるほどDVには共通項が多いということに驚かされます。


2 ではここからは余計な話です。

  ハーマンは、監禁状態が、主として加害者の行為によって成立するという説明になっています。程度の問題ではあるのですが、私は、被害者側の心理がもっと考察されるべきであると考えます。被害者の生存本能のようなものが利用されるために、被害の程度が深く、大きくなるということです。

 端的に、被害者はどうして抵抗しないのかということなのです。

 ハーマンが指摘している事項は基本的なことなので、これはしっかり押さえる必要があります。その上での話です。これが、はじめから暴力的で、命令ばかりしているパートナーですと、そもそもパートナーにならないわけです。ここで、人間にはつながりの要求があり、これが根源的な要求であるという理解が必要になります。

「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological Bulletin vol.117 no.1-3 January-may 1995)

 いくつかの重要な理論があるのですが、最も手っ取り早い話は、人間は、誰かとつながっていたい、どこかの群れに所属していたいという根源的要求があり、それが満たされないと心身の不具合が生じるというものです。外傷性きずなにみられるように、他に人がいなければ加害者とつながりたいという思考が生じてしまうとされています。

 だから一度パートナーとなり、共同生活を始めてしまうと、相手と決別せずに、つながりを維持しようという行動を無意識に行ってしまうのです。そして、相手方から発せられる、つながりを絶とうという予兆行為、否定的な言動(言葉、舌打ちその他)、暴力や言葉での攻撃、差別、不利益取り扱いに対して、それを解消しようという努力を始めてしまうわけです。

 これは、あながち不合理な反応ではなく、パートナーに愛情がある場合、相互にこのような反応をしながら、お互いに心地よい関係を形成していくために役に立つわけです。
 
 だから、加害者の予見できない暴力や、細かすぎる規則の気まぐれに対しても、その原因を無意識に探し、相手にそのような行動をしないでもらうための方法を考えてしまうことになります。これが続いていけば、相手の言いなりどころではなく、相手ならどう思うだろう、相手はどうしてほしいだろうという先回りをして考えるようになります。そうして、自分がこうしたいという自分の情動で行動することがなくなり、相手の情動での行動を行うようになります。これが服従であり、支配の完成形態です。

 自我が崩壊することはごく自然な現象でしょう。

 被害者は、無意識に、自分から服従されていく要素を持っているということになります。


第2 監禁の目的(加害者側の心理について)
 
 ハーマンは、加害者について次のように述べています。
 
 犯人の最初の目標は被害者の奴隷化であると思われる。尊敬、感謝、愛情の表明すら要求し続ける。暴力なんか使わない方法を君が握っている等と言い、被害者に罪責感、原因が被害者にあるという意識を持たせる。また被害女性の言葉として、愛情とは全く別物であることに気づいたことを紹介している。
 
 女性の救済という視点は重要であり、人格荒廃を見過ごすわけにはゆかないので、このような指摘は把握していなければならないでしょう。
 
 しかし、加害男性の真意は、すべてとは言いませんが、私が関与した事例のすべてでは、加害男性は、女性に対して執着しており、安定した関係を継続したいという意識を持ち、それが絶たれれば深刻な精神的打撃を受けるというものです。

 では、どうして、大好きな女性に対してひどいことをするのでしょうか。相手を服従させようとするのでしょうか。そして、どうしてその手口が古今東西にかかわらずに共通しているのでしょうか。その答えもつながりの要求から説明できることです。


 加害男性も、女性と、安定した関係を継続したいという気持ちを持っています。自分との関係を断つということがないということを確信できれば安心できるということは本音だと思います。

 問題は、加害男性は、常に、被害女性が自分から離れるかもしれないという不安を抱いているということです。いろいろな要因があると思われますが、多くは、自分が、親などから支配、即ち自己の情動で行動することを許されず、親の言いなりに行動をしなければならなかった。あるいは、親以外の友人などから、理不尽な、気まぐれな暴力を受けてきて、自分の身を守る方法がわからなかったという、自己の情動で行動することが安全につながらなかったという体験をしているようです。

 つまり、対等な、互助的な関係を経験していないのです。但し、一時的な人間関係では支障が目立ちにくく、継続的な人間関係を構築する場合に支障が出てくることが多いようです。常に、自分が攻撃されたり、仲間はずれにされることにおびえています。だから、相手の些細な言動に対しても、自分との関係を切るのではないかという意味付けをしてしまうわけです。真っ暗闇の中で、ちいさな物音にもおびえ上がるような状態ということになります。

 この不安は、意味がなんとなく分かる不安もあります。要するに男性との接触、妻の実家です。別の男性と懇意になれば自分が捨てられますし、実家という安定的な関係に実績のある相手と結びついて自分を排除しようとしているのではないかということは、邪推ですが、わかるような気もします。DVにおいては、相手の人間関係を遮断するということもよく行われますが、これは、こういう意味です。すべて、居場所を明らかにせよとする様々な試みも、自分から離れさせないようにするための方法ということで理解できると思います。
 
 また、細かい規則、不規則な突発的な暴力ということは、その時、別離不安が高まっていることによります。これは被害者側の行動に意味があることよりも、加害者側が偶然的な出来事で不安が高まることが多いと思います。これは、まさにPTSDの発作が起きるようなもので、意識できない出来事から不意に不安が高まるのです。天候だったり、その時の食べ物の匂いだったり、そんなものだと思います。何らかの事情が、過去の別離や、自分の受けた虐待の時の感情をよみがえらせてしまうということになります。

 なんにせよ、これが高じてくれば来るほど、相手方が自己の情動で行動することが落ち着かなくなります。自分がすべてを把握していなければ落ち着かなくなるからです。被害者はどんなに加害者を忖度しても、加害者の意識に上らない規則性のない感情の変化が原因ですから解決しないことになります。ますます加害者の情動を自己のモチベーションにする試み、努力を繰り返します。

 寛解期、ハネムーン期があるのは当然です。不安が鎮まれば、相手方に対する執着があるのですから、自分の虐待行為が不安になるわけです。相手に優しくしようとするのは演技ではないというのは、この文脈であれば言えるのではないでしょうか。
要するに目的が支配なのではなく、支配は関係継続をするための唯一の手段と考えていることが問題なのです。



第3被害者と加害者の関係
 
 以上の余計なところだけをまとめます。
 DVの被害者は、人間の根源的要求であるつながりの要求のために、加害者とのつながりを維持する努力をしてしまう。しかし、あらゆる努力は実を結ばず、無力感にさいなまれてゆく。

 被害者は、努力を進めてしまい、自己の情動での行動を放棄し、加害者の情動を唯一のモチベーションとするために、自我が崩壊していく。

 これは、暴力などのエピソードが問題なのではなく、自分を殺す習慣が、持続的、継続的であることが問題なのである。エピソードがない状態でも、被害者の精神的荒廃は、自己を失ってく過程の中で、広がり、深刻になっていく。暴力などのエピソードとエピソードの行間の中に被害が拡大か、深刻化している。


 このような状態が継続すると、解放されたのちも、自己の情動での行動がうまくできなくなり、もはや別離に成功したはずの相手方の情動を探してしまう深刻な後遺症を残してしまう。

死の恐怖に悩まない方法があるとすれば [自死(自殺)・不明死、葛藤]

もちろん、目前に危険が迫っている場合に、死の恐怖を感じるというか、助かりたいと思って行動するのは、人間に限らず、動物一般に見られる行動ないし反応だと思います。

ところが、少なくとも人間は、目前に危険がなくても、将来的な死を観念し、不安になったり恐怖になったりすることがあります。この感じ方や程度は、人によってそれぞれでしょう。ただ、そのような死の観念ゆえに、宗教が生まれているわけです。また、素朴な段階での死生観としては、たとえばアジア的な死生観があり、自分が死んでも、自分の影響を「家」に認めて、「家」が代々続くことによって、「自分」も永遠の命を授けられるという慰め方があります。特定の宗教を観念しにくいといわれる日本人には、結構多い考え方のような気がしています。

何かを検討する場合の問題提起の在り方として、「どうして死ぬのに生まれてきてしまったのだろう。」、「生きる意味、目的とは何だろう。」という形をとることがあります。しかし、これは、解答の出ない問題提起だと思います。科学の最も大切なことは、適確な問題提起です。解答の出ない問題提起に悩むことは意味があることではありません。

対人関係学は、現在生きているということを無条件に肯定し、生きようとする反応、思考、志向、行動を無条件に肯定することから始めます。そして、むしろ、「どう生きるか。」、「どのように生きると、楽しく、安心して、快適に暮らせるのか。」あるいは、「どうすれば苦しい現実を生き抜けるのか。」という問題提起をしています。

死の不安、恐怖にさいなまれながら生きていくことは、その意味で本来的なテーマではないのですが、対人関係学の議論を裏側から進めるような形になるのではないかという観点から考えてみたいと思います。


考えを進めるためには、自らの命を顧みないで、確実に自分の命がなくなる行動をとった方々の事例が参考になると思います。しかし、ここで上げる事例は、慢性的に交感神経持続の状態となった人が、推論的思考が不能となり、狭窄的な選択肢から自死を目的として、実際に死を遂げる手段に出た場合ではありません。自死それ自体を目的としないで、即ち別に目的があって、自分が死ぬ可能性の高い行動を行った人たちを上げさせていただくことになります。

一つの事例は、平成25年3月3日に北海道であった事件です。猛吹雪の中、父娘が立ち往生してしまい、避難する場所を見つけることができず、父親は自分の衣類を小学校3年生の娘に着せて、娘を抱きかかえるようにして凍死されたという事件がありました。

一つの事例は、東日本大震災の中、多くの公務員の方々が、災害時の避難誘導という公務員の指名を果たし、津波が来ることがわかっていながら、住民の避難誘導を行い、亡くなられました。

一つの事例は、末期がんの患者さんが、痛みや恐怖を訴えていたのですが、東日本大震災の後、知人の行方を探す活動をしてから、痛みや苦痛を訴えなくなったという事例がありました。死に向かう行動はしていらっしゃいませんが、参考になると思います。
これらの事例の共通は、誰かのための活動をしている、誰かの役に立っているという感覚だと思います。

もちろん、死の恐怖、不安が完全に払しょくされていたのかどうかはわかりません。しかし、この方々に共通することは、最後まで恐怖で足がすくんだり、行動ができなくなったりということがなかったことです。命尽きるまで行動を続けたというところにあります。


人間は、意図的に都合の悪いことだけを忘れるということができません。職場の人間関係で精神的圧迫を受ける人が休職する場合、「職場のことを忘れなさい。」という方がいらっしゃいますが、なかなか器用なことはできません。忘れようと意識してしまうと、ますますよみがえってきます。こういう場合は、そのことを忘れようとするのではなく、別のことを考えて、結果として意識しないという方法が有効であるようです。
死の恐怖、不安は、死が逃れられないものであれば、やはり解消することはできません。他のことを考えるということが有効でしょう。宗教だったり、芸術や趣味だったり、仕事だったり、打ち込む対象がある人は良いでしょう。しかし、何を行っても、それに充実感を感じにくい人もいらっしゃいます。どうしても、その場しのぎのごまかしと感じてしまうようです。一抹の寂しさ、達成感のなさを感じるようです。


こういう方には、上にあげた例は大変参考になると思います。一言で言えば、誰かのために活動することが有効だということになります。社会全体だったり、家族だったり、自分の身の回りの人たちだったり、その人たちのために、何か自分ができることをしようとすることが、達成感や充実感を感じるようです。


もともとは、人間も動物ですから、自分の命を長らえたいという個体の利益を最優先で考えていたかもしれません。しかし、牙も爪も、厚い毛皮も、逃げる足もない人間は、群れを作らなければ子孫を残せませんでした。何百万年の長い人間のいの波が、いつしか、「仲間を守ることが自分を守ることと同じように考える本能を備えさせていた」と表現できると思います。極限的な状態の中では、自分を犠牲にしてまで仲間を助けたいという発想は、実はきれいごとではなく、このような群れを作る人間の本能に合致していると考えるのです。


人間は、誰かと群れを作っていたいという根源的要求があり、その要求が満たされないと心身の不具合が生じるといわれています(The Need To Belong BY Beumaister)。対人関係学の立場からは、その理由が人間の弱い特性から生まれているという主張をしています。そうして、ただ、どこかの群れに所属をしているだけでなく、安定した所属を求めると考えます。そうして、安定した所属を実感するために、自分が群れの役に立っているという実感が有効であると主張しています。

死の可能性があったとしても、仲間の命を助けるという観念は、究極の役割感の充足です。このため自分に対する尊重を実感できるということになります。自分という個体を守るためのシステムが、自分の命をなげうった行動をとることを可能としているということになっているわけです。


ところで戦争中の特攻隊や自爆テロは、この人間の本能を悪用した方法ということになるでしょう。なぜ、悪用というのでしょうか。どこに違いがあるのでしょうか。

それは、上にあげた例がわかるように、仲間の危機を助けるという実感がある場合に、死の恐怖を克服した行動ができるのですが、特攻隊や自爆テロはこれに反するからです。

娘を凍死から守った父親は、まさに自分の娘が死亡する危険があり、必死の抵抗をしたことがわかります。公務員の方々は、自分の地域の住民の命を守ろうとしていたわけです。常に顔見知りの人たちです。末期病棟の患者さんは、友人たちの安否を確認する作業ですから、心配している友人たちを安心させることで、自分の役割を実感していました。

特攻隊や自爆テロは、自分が誰を守るのかという点において、極めて漠然としています。中には、国を守ろう、主張を守ろうという意識があった人もいるでしょう。しかし、実際の特攻隊員の多くは、自分の家族や友人たちを守るということを必死に自分に言い聞かせていたのだと思います。ところが現実は、家族や友人が、死の危険に現実に直面していたかというそうではありません。また、自分が特攻を行うことによって、どのように家族や友人をまもることができるか、実感をもって説明することは困難でしょう。むしろ、そのような攻撃をしなければならない戦況を考え、「自分はこれから無駄死に」をするという意識を持たれた方が大勢いらっしゃったことでしょう。死の恐怖を克服することは無理な話です。


誰かとのつながりをもつこと、関係性を築くことは、実は、PTSDの治療法にもなっています。20世紀に、フェミニストの精神科医ジュディス ルイス ハーマンという女性の精神科医が、「心的外傷と回復」という著作をあらわして、PTSDの仕組みと治療方法を解明しました。まだ、脳科学が発達する前の段階での著作ですが、極めて先駆的かつ、実務的な内容となっています。現在はこのしっかりとした土台の上に、記憶学や睡眠学、ソマティックマーカー理論等が加味されて、治療法が確立しています。その関連については、後の機会に譲りますが、極めて重要な指摘がなされていました。それは、PTSDとは、関係が断ち切られることによって起きるということ、治療とは、つながりを回復することであり、患者が回復するためには社会的な視点に立ち、活動をすることが有効だとしているのです。対人関係学の起点にもなっている優れた著作であると思います。

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