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小糠(こぬか)三合持ったら婿(むこ)に行くな 伝統的な対処方法 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

男は婿養子になるものではない
ということわざとして知られています。
気苦労が多いからということが一般的な理由です。

これがなぜなのか。
女だって嫁に行くわけです。
なぜ男だけが婿に行かない方が良いといわれるのでしょうか。

出典として近松門左衛門の「卯月の紅葉」が紹介されています。
婿養子になった男が舅等から嫌がらせを受け
妻と心中するという筋書きです。

婿養子がいびられるという設定はリアルなのかもしれませんが、
妻と心中するというところはファンタジーです。
なぜならば、
婿養子の心理的圧迫は、
妻が、妻の両親と結束するため
自分だけが仲間はずれにされているという
疎外感に本質があるからです。

思えば、事件を扱う中で、
人の気持ちの問題、精神の問題が大切だなと
思うようになった事件類型が
養子の類型でした。

最初の事例は、
婿に入った夫が働かない、怠け病だというものでした。
そのお婿さんはうつ病に罹患していました。

私の継続的相談者で自死された事案も
婿養子の方で、
家族のために一生懸命やっていたのですが、
評価されない。
だんだん何をやってもうまくゆかなくなり、
完全な孤立無援の状態となり
自死をしたようです。

最近も、ギャンブル依存症の事案があったのですが、
突き詰めていくと
家庭に帰りたくないほど疎外感を受けていて
パチンコ店が閉店するまで帰らなかった
ということでした。

では、それだけ婿いびりがあるのでしょうか?
どうもそうではなさそうです。
いずれの事案も、
意識的な攻撃はなかったように思われます。

それでも、疎外感は強烈なものがありました。
攻撃されたり、否定されているわけではないけれど
自分が尊重されているとは思われない
というところが本質のようです。

例えばどういうことかということを聞き出しても
案外些細なことから、自分だけよそ者だと
感じているようなことが多かったです。

どうも、男性は、女性に比べて
妻の両親になじむということが難しいようです。

先日DV(男性から女性への)の勉強会に行って
男性は、女性に対して
家にくぎや画びょうを打つだけで激昂する
というようなことを聞きました。

しかし、それは男の属性ではなく
所有者の属性のようです。

男性が女性にそのようなことを言うのは
DV夫とされる人だけのようですが、
案外、多くの婿養子の方々は
妻や舅、姑から
同じようなことを言われているようです。

もちろん悪意があっていっているのではないのですが、
その都度婿養子の方は、
私たちの家の「私たち」の中に
自分だけが含まれないことをつきつけられているようです。

男性の属性だと非難されていることは
実は経済的支配者の属性であり、
男性の方が経済的に優位なので
目立たないだけなのかもしれません。


小糠(こぬか)とは
米を精米する時に出るくずです。
精米する理由は、おいしく食べるためと
柔らかくするためでしょう。

コメの一部ですから
食べることはできます。
ただ、精米後のコメの方が
炭水化物、糖質が多いのでおいしいです。

ぬかにはいろいろな成分が多く、
現代人などは食べた方が良い栄養素が多いのですが、
雑味が多すぎておいしいという感覚を持ちにくい
ということがあります。

また、炭水化物が少ないですから
エネルギーを取り入れにくいです。

1合1食だとすれば、
とにかく動物としてその日を生きていけるくらいの糧があるなら
婿養子になんて行くな
という強烈な意味です。

それだけ、婿養子に行って悲惨な目に遭ってきた男性がいたのでしょう。

もともと日本の婚姻制度は
妻問い婚があって、婿入り婚となり
嫁入り婚となったといわれているようです。
思考錯誤の上、嫁入り婚に落ち着いたのでしょう。

現代は、独立婚が主流のようです。

婿にならなくても
妻または妻の実家の方が経済的に優位だったり、
社会的地位があったり
近くに妻の両親が住んでいるという場合も
同様の問題が影を落とすことがあります。

こういう場合、
ご自分たちには悪意がなくても、
いつしか、妻が、自分の夫ではなく
実家の方に帰属意識が傾いてしまう
ということが問題の発端です。

いろいろな原因、事情がありますので、
一概に解決方法を述べることができません。

伝統的な婿養子の場合、
婿を迎える側が、
婿の心象風景に対処しているという風習もあります。

名字や子孫を残すという風習がありますので、
切実に養子を求めるケースがあります。
最近は減ったでしょうか。
こういうご家庭では、
お婿さんを尊重する工夫がされています。

実は対処方法はいたって簡単なのですが、
夕飯の時、婿さんに、おかずを一品多く出す
ということです。
大体は刺身を出すことが多いようです。

結構宮城県では、この風習が普及しています。
伝統的に引き継がれているようです。

女性の方は、
そんなことで満足するのかと驚かれるかもしれませんが、
案外満足するものです。
私なら、おかずを大盛にしてもらっても嬉しいでしょう。

単純な男性は案外多いものです。

しかし、逆に
一番体が大きい人が夫だとすると
それでもおかずの量が一緒というだけで、
疎外感を感じてしまうのかもしれません。
一人だけ肉が少ないとなおさらかもしれませんね。

ただ、どのような理由でおかずを一品多くするか
ということを理解しないで
おかずはちゃんと多くしていました
というようなことをおっしゃる方もいらっしゃるのですが、
そういう場合、
知らず知らずのうちに、
男性が、自分はないがしろにされていると
疎外感を受けている場合があったりして、
なかなか難しいところもあります。

いずれにしても、伝統的に婿養子は
疎外感を感じやすいという事実認識が社会にあり、
それに対処する方法が伝えられているということなのです。

先人の知恵は
婿養子の具体的なその人がどのような気持ちかということではなく
婿養子という対人関係の状態から
先手を打って気を使うということを確立していたことになります。
そういうものだという問答無用の慣習の実行です。

そうやって、群れの弱い部分を守る工夫をしていたのでしょう。

類型的なものの見方の方が
ヒューマニズムを実践する場合があるようです。


人権侵害と自死、自殺の二つの関係 死の恐怖は軽減されてはいけないものということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

明日、他県の弁護士会に呼ばれて
「弁護士、弁護士会と自死対策」についてお話ししてきます。
例によって、お話の内容の検討を
このブログでリアルタイムしているわけです。

もっとも、パワポは完成していますので、
大部分はそのまま話すことができるのですが、
ある部分を付け足したので、
そこの説明を検討します。

いくつかあるパートの中の
「なぜ、弁護士会、弁護士が自死対策をするのか」
というテーマの中で、

一つは、
自死の増減と、破産件数、離婚件数、犯罪認知件数が
失業率とともに連動するということから、
自死と弁護士業務は何らかの関連をしている
この関連の正体は、慢性交感神経持続による
その先を考えられなくなる症候群
という話をして、

もう一つ、人権と自死が関連している
というお話を付け加えようとしています。

何らかの人権侵害があると
人権を侵害された人は、精神的に追い込まれて
自死に至るということは、
なんとなくわかりやすいと思います。

これとは別のルートで
人権侵害が、自死に関連するというお話がキモです。

人権について話し出すと長くなるのですが
ここでは、
人権侵害をうけているということは、
その人が人間として尊重されていない状態
という側面をクローズアップします。

人間として尊重されていない状態を直接体験したり
目撃する等間接的に体験すると
人間を尊重しないことに慣れていく危険があります。
人が迫害されていても、いつしか平気になるわけです。

その結果、「人間は、大事にされるものだ」
という感覚がなくなってゆきます。
人間だからなんだというのだという気持ちですね。
これが命が軽くなるメカニズムです。

 逆に言うと、
 無意識の中で、
 人間は、尊重され、大事にされるものだ
 という感覚を、多くの人間は抱いている
 ということになります。

 このため、
 死ぬことが怖いのではないでしょうか。

話を元に戻すと
いろいろな辛いことや、追い込まれることがあっても
あるいは絶望をしても
自死を実行しない理由に
死ぬことが怖いということがあります。

生物である以上、これを持っているわけです。

これがなくなると、自死を決行しやすくなることは
わかりやすいと思います。

アメリカの心理学者ジョイナーは、
身についた自殺の潜在能力が高まった状態と言います。
自死リスクの大きな評価ポイントであると指摘しています。

通常これが高まるのは、
強烈な殺人の目撃、戦争体験とかですね。
自傷行為の反復継続、徐々に自分の命が大事ではなくなるのでしょうね。
をあげるのですが、
これらととともに
外科医を上げています。
患者の生き死にの目撃だけではなく、
理屈上の有機体として人間を見てしまうという
宿命みたいなものがあるのかもしれません。

自死にまで至らなくても
人間を大事にしないことに慣れてゆくことは、
人間性を削り取られていくことです。

自傷行為をしやすくなったり、
誰かが苦しんでいるのを見ても平気ですから、
自分が他人を苦しめることもに抵抗は少なくなります。


それが続いたり、身の回りで多発すると
結局は、わずかの刺激でもって
自死を決行しやすくなるのです。

人権の問題は、法律家である弁護士のホームグラウンドです。
人間侵害を解消することが自死につながりにくくなるのですから、
弁護士が自死対策をする理由と、責務があるのではないでしょうか。

そんなお話を付け加えようと思っています。

ちょっと長いな。

では、何がパワハラなのか?上司である私は、具体的にどう気を付ければよいのか。 [労災事件]

<ちょっと長い問題提起>

 パワハラに気を付けましょうといわれるようになりました。
 自分が元の上司にやられた通りしたことが、
 パワハラとして、処分されたり、損害賠償を請求されることもあるでしょう。

 楽しく、穏やかに仕事はしたいとは思っているよ。
 しかし、
 部下や同僚のミスを指摘して、改善しなければならない
 職場の雰囲気が緩まないように、秩序を形成しなければならない
 発奮を促さなければならないときもあるでしょう。

 多少きつい対応があっても仕方ないときもあるよ
 職場全体のノルマもあるし、他者との競争もある
 パワハラって、よくわからないけれど
 必要悪なんじゃないだろうか
 と思いたくなる方も大勢いらっしゃるようです。

 また何がパワハラなのかは、実際に明快でない
 そりゃあ、暴力はだめだよ、やっていないよ
 でも、どこからがひどい暴言なんだ。
 ひどくなければ暴言も許されるのか?
 プライベートの過度に立ち入るのはだめって
 どこからが過度なんだ

 と、あまり明瞭でないことが原因かもしれません。
 また、実際には、
 受け手の個性によっても、結論が変わります。
 その人の現在置かれている状態、恋人と別れたとか
 もともとの性格、傷つきやすいとか
 育った環境等も影響するでしょうね。

 しかし、結果が出たら、上司であるあなたは
 責任を追及されるかもしれません。

 そうは言っても、はれ物に触るようなことばかりも
 仕事の上ではできないしと
 かなり苦慮されていることと思います。


<一つの解決方法は発想の転換>

 上の悩みの一番の問題点は、
 「どこまでならセーフで、どこからがパワハラか」
 という発想に立っていることです。 

 パワハラは、本当は必要悪ではない
 むしろ、効率を阻害するものだという発想に立てないでしょうか。
 そうして、本当に従業員のパワーをフル稼働させる過程の中で
 パワハラは、消えていくものだという発想です。

 パワーハラスメントは
 結果だけを求めて、結果に至る道筋や、そもそも可能性を度外視
 する場合に生じやすいです。
 不合理な労務管理の温床になっており、
 仕事をしていても楽しくありません。

 過度の緊張を強いる結果、
 ミスが多くなることもあります。
 また、自発的な行動がなくなります。
 思考停止が起きています。
 職員の帰属意識は極端に低下しています。
 不祥事があっても、見てみぬふりをして
 後から手痛い損失が発生する場合もあります。

 プレッシャーを与える形での労務管理から
 従業員のモチベーションを高める
 生き生きとした職場を作る
 という発想に切り替えるべきです。

 恐怖を与える上司から
 慕われるボスの統率へ
 切り替えることが有効だと思います。

<具体的な注意点>
1 その人の行動を認める。
  総合的には、不十分な発言、行動であったとしても
  その足りないところを指摘する場合は
  必ず、評価できる点を評価するということです。
  これは、頭を使う必要があります。
  結論押し付け方の上司にはできないことです。
  他人を伸ばすということはそういうことかもしれません。
  その人の裁量を承認する、
  試行錯誤を承認するということです。

2 時期、結果が具体的に求められているときこそ
  十分なミーティングを行う。
  一人一人のモチベーションを高めるためです。
  目標を達成の必要性、どのようなよいことがあるか
  これらを取り巻く環境から説明するとなおよいでしょう。
  「わかっているはずだ」が一番危険です。
  そして、できれば、具体的な対応策を示す。
  
  各職員の個性に合わせ
  各職員がどうしてうまくゆくか行かないかを把握し、
  できるだけ具体的な方策を打ち合わせる。

  そんなの自分で考えろ、上司に甘えるなという発言は
  部下に甘えている上司がするものです。

  常日頃から、部下の良い面、改善するべき面を
  具体的に考えていないとできません。
  自分だったらということも良いのですが
  その場合、自分と相手とどこが違うのか
  ということを考慮に入れないと、ただ緊張感を増すだけです。

  結果だけ求め、結果が出なければ叱責する
  というのは大変楽な仕事だということがわかりますね。
  そんな仕事をしていて上司として成り立つなら
  声の大きなものか、人工知能で十分だということになります。

  現在の競争社会では
  そんな甘いものではないと思うのですがいかがでしょう。

3 最大のチャンスは部下の失敗の時
  部下の失敗の時に、精神論を語るのは、
  部下が精神的にたるんでいる、一生懸命やっていない
  という否定の強い要素があります。

  本人が一生懸命やったのに結果が出ないということがたくさんあるのに
  一生懸命やったことまで否定されれば
  やる気がなくなってしまいます。

  評価は、しばらく置いておきます。
  その失敗が、どのような悪い効果があるか
  具体的に認識を一致させることが必要です。

  それから、冷静に原因を分析することです。
  様々な要因があります。
  その職員が、体調が悪かったかもしれませんし、
  プライベートなことでの負担から緊張感を持てなかったかもしれません。

  それは、本人の申告を待つしかありません。
  
  ただ、人間ですから、心身のコンディションに波があります。
  波を持つなというよりも、波があっても結果を出す工夫こそが必要です。
  また、職員の人的問題よりも
  環境面の問題があることももちろん多いです。

  大事なことは、結果を出さなかったこと、ミスしたことを
  悪いという評価の元、頭ごなしに責めても
  大きな改善は見込まれないことです。

  きちんと原因を分析することが
  今後にとってのてこになるわけです。

  もし、本人のたるみがあった場合、
  このような分析によって、認識が一致することが
  改善への大きな一歩ということになります。

  また、他人の前ではこの反省会はしない。
  大きな声を出さない
  長時間行わない。
  上司こそ、必要以外のことを言わないことが肝要です。

  その人の性別、育った環境、親の職業、職歴
  改善につながらないことをいうことは、
  企業にとっても弊害になるだけです。

  いたずらに叱責することは
  失敗から学ぶ態度を放棄するモチベーションの低下
  思考停止の原因です。

<ここまでで出てくるやるべきないことのカタログ>

 それがパワハラに該当するかどうかというよりも、
 パワハラと同じように、職場の弊害になる指導

  過度に緊張感を与えること
  結果だけを求めて、個性、環境を考慮しないこと
  一切のミスを許さないこと
  顔をつぶすことをすること
    その人にも家族がいる、会社だけの存在ではない
  考えさせずに、機械のような行動を求めること

  言っても改善しようがないことをいうこと
    性別、出身校、親の職業、過去の失敗
  具体的な方策を示さずに結論を出ないことに否定的評価をすること
    上司が考えるべきことを労働者に考えてもらう
    「何とかしてくれよ、俺はどうすればよいかわからないけど
     ダメな俺に代わって、良い方法を探し出してくれ」
    と言っているのと同じ。しかも威張っていっている。
  具体的な指導以外の叱責をすること

<特別付録:気に入らない部下、同僚>

  なぜだかわからないけれど気に入らない部下、同僚はいます。    
  それは、過去の記憶に支配されているのです。
  イライラしているということは、
  攻撃を受けている認識を無自覚に持っているのです。
  もちろん攻撃されてはいないのですが、
  そのような対応を体がとっているのです。

  過去の記憶は自覚していませんので消せません。
  新しい記憶を形成すればよいのです。
  徹底的な話し合いをして、
  自分が攻撃を受けていない、安心できるという記憶を
  形成していくことで解消されます。

  飲みに行くのが良いのですが
  一対一は逆効果かもしれません。
  仕事のことでもなんでも
  相手が興味を持っていることを話させ、
  聞き役に回ることが良いと思います。

<根本的な解決>

  パワーハラスメントは、
  その職場、企業体の体質であることが多いです。
  パワハラ上司も、自分の上司からパワハラを受けていたり、
  無駄に厳しく接する伝統は、
  自分がこうされたからということで受け継がれてしまいます。

  私は、役所や企業のトップクラスの人たちを集めた講演で
  必ずいうことがあります。

  ナンバーワンは、ナンバーツーを大事にすること
  具体的に大事にする方法は、またこの次として
  その一部は、今日の内容です。

  ナンバーワンの人に対しては、そのように言います。
  では、ナンバーツーの人にはどういうか、
  「自分を尊重するように働きかけてください。」
  と申し上げます。

  そこから、時間はかかりますが、
  確実にパワハラの温床は消えてゆきますし、
  目立つようになりますので、改善も進みます。

  対人関係学的労務管理
  http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/roumukanri.html

疑似パワハラ現在進行中 例えばこういなす  [労災事件]

現在、パワハラチックな人と
一緒に仕事をしなくてはならない状況にあります。

一瞬かなり悩みましたが、
ふと我に返ったので、
事態を分析して
本当のパワハラに活かせるか検討してみます。

私は自由業ということもあり、
上司などというものはありません。
そのための自由業なのですが。

だから、その人とは毎日顔をあわせるわけではなく、
人間的に決裂しても、自分の仕事がなくなるわけではありません。
経済的に全く無関係であるということが
会社の中のパワーハラスメントと大きな違いです。

それでも、依頼者がお世話になっている人で、
過去にも別の事件でお世話になっていますし、
その人は一定の権威があるし、
その人を紹介してくれた人との人間関係もあります。

失礼なことを言われても、
むやみに抗議することもはばかられるわけで、
そうやって、おとなしくすると
かなり図に乗って攻撃してくるわけです。

パワハラではないけれど
構造的に似たところがあり
参考になるかもしれないと分析をしているところです。

<どこがパワハラなのでしょうか>

1 相手(この場合私)を逃げられない状況において叩く
  例えば、こちらがミスをしたとします。
  その人は、漠然とまたミスをしたぞと指摘し、
  ちゃんとやったのかと抽象的に尋ねてきます。

  こちらはミスをしたということを知らないわけです。
  知っていたら、修正しますから、
  その人はこちらがミスをしていることを知っているのです。

  こちらは覚えがありませんから
  点検をしましたと答えるわけです。

  例えば、メールで、
  人の名前を間違ったというミスを一度して
  ミスといわれるとその字の間違いかと思い
  字の点検はしましたというつもりで
  点検しましたといったような感じです。

  ところが、例えば
  メール本文は間違っていないけれど
  添付する文書のバージョンを間違えてしまっていたというミスをしたとします。

  ミスをするのは悪いのですが、
  うっかりすることもあるでしょう。
  また、そのバージョン違いは、
  ミスといえるかどうかも怪しい程度の些細なことだとします。

  それでも、その人は
  あれで点検したというのか、
  こうだったんだぞと得々としていうわけです。
  わざとびっくりして見せたりします。

  いやそれなら、もっと早くミスに気が付いたら
  修正を求めればよいでしょうに。
  今まで黙っていて、勿体つけて言うことか
  ということを口に出すわけにはいきません。

  これを、冗談めかして言える人は
  なかなかパワハラにはあいません。
 
  過去のミスのことを持ち出すことも
  パワハラの王道です。
  過去にミスをした事実は消せませんから
  いいわけが効かない。逃げられません。

  過去のミスと今回のミスを連動させて
  過去のミスの非難までされるのです。

  誰かと比較することも
  逃げられない状況です。
  他の人はこういうミスはなかった。
  しかしあなたはある。

  他の人のことなど知りませんから
  反論することもできません。

<ミスと人格を結びつける>
  こんなこともミスするのか、
  他の人はこんなミスをしない
  ADHDとか、発達障害とか、
  ミスをしただけなのに、そんなことまで言いだす始末です。

<自分の落ち度をこちらのせいにする>
  最終的に打ち合わせ不足だとして、
  その原因がどこにあるのかです。
  こちらの話を聞きもせず、
  こちらの資料にろくに目を通しもせず、
  
  きちんと問題提起していないとか
  資料を渡さなかったとか
  そもそも、打ち合わせをしようとしても
  別の用事を勝手に入れて時間がなくなったりしたわけです。
  自分に誠意がないために
  こうなっているのですが、
  こちらのせいにされてしまうわけです。

  すでに決まっていたことも
  いつの間にか決まっていないことになっています。

  それを指摘しても
  漠然としていたとか、そういうことで
  とにかく全面的にこちらのせいにするわけです。

  都合を聞かないで日程を決めてしまい
  その日程は無理だというと出は来なくてよいといい、
  別の用事がありますから行かないわけですが、
  行かないと、丸投げされたとか言って怒りだす始末です。

  だから、迅速に行動すればよかったのに
  ぐずぐずしているので、忘れちゃっているわけです。

  そういう可能性は一切考えずに、こちらを攻撃するわけです。

<ミスの程度と関係なくしつこく、強く攻撃する>
  ミスといっても、個人情報を開示してしまったとか、
  利敵行為をしたとか
  何らかの結果が生じるものではなく。
  わずかの不便が生じるものなのに、
  しつこく、強く攻撃し、
  なかなかやめようとしない。
  こんな共通点もあります。

== どう対応するか ==

私は、ほとんど無抵抗でした。
最初は、気を使って聞いていました。
だんだん、自分が大変な問題を抱えているように
劣等感を感じてくるところでした。

はたと、

ああ、これはパワハラだ
と気が付くことができました。

これは、これまで、多くのパワハラ事例を調べていて
ひとつひとつが、これまでの事例に合致していると
気が付いたからです。

始めてパワハラを受ける人は、おそらく気が付かなかったかもしれません。
パワハラと気が付いてからは馬鹿らしくなり、
逆にわざと無抵抗に徹するようになりました。

はい、すいません、申し訳ありませんでした。
大体この3語を順列組み合わせを変えて繰り返すわけですね。

その内、謝ると
誤ってもらいたいわけではないと
無茶なことを言ってきます。

こちらが誤ることで逃げを打つことを
許さない気持ちをぶつけてくるわけです。
パワハラと気が付いていますから、
そういう罠にははまりません。
何を言われても3語の順列組み合わせです。

ミスは謝罪しなければなりません。

しかし大したミスではありません。

抵抗しない。

ただ、さらに人格を踏みにじる発言に及ぶ場合は
え?とか、おや?とか
疑問符を短く入れましょう。

また、仕事の本旨にかかわることは
毅然と対応しましょう。

相手は、こちら側の抵抗が怖いから
抵抗の芽を摘むために
攻撃を中断できないのです。

明らかに自分が言いすぎだということで
また、仕事の本旨にかかわることでの
その人のミスは、自覚しますから
ひるみます。

後は、3語のローテーションです。

とにかく
今受けていることは、道理に基づいた指導ではなく
理不尽なパワハラであり、
まともに相手にする必要がないということに気が付きましょう。

上から見てやれということです。
そのためにも

パワハラの事例を多く知ろう
知っていれば、それがパワハラだと気が付きます。
知らなければ自分が悪いとなります。

パワハラの被害報告や裁判集会などは
積極的に参加しましょう。

また、意外とあるとよい心構えは
いざとなったら縁を切る
という覚悟です。
職場では、こういう覚悟を持たないと
やっていけない時代になっています。
心の中で良いですから
言葉にして繰り返しましょう。

逆説的に、こういう態度の人は
長持ちしているようです。
また、やめるべきと気を見逃さない
という利点があるようです。

金があって死ぬよりは
貧乏しても生き抜いてやる

金があっても
苦しい毎日を過ごすなら
貧乏しても楽しんでやる
ということが
現代の気概ではないでしょうか。

この楽しみの学問こそが
対人関係学なのですが、それはさておき。



== パワハラの原因 ==

パワハラは、やはり、
攻撃を受けることが弱い上司が
自分が攻撃を受けないために
先制攻撃をするというところに本質がありそうです。

その人は、いろいろ私に負い目があるようです。
今回そう考えると、いろいろとつじつまが合ってきます。

過去の事例で、
せっかくうまくいきそうなところでだめにして、
数年を無駄にした張本人がその人だったようです。

また、ある研究グループに対してまとはずれの批判をして
そのグループに私が入っていることを
後で知ったようです。

特にかく、
他人の専門分野に対しても
あやふやな知識で口を出して
深刻な結果を与えているようです。

万能感を持ちたいということなのでしょうか。
相手を信頼するということがあまりありません。

こういう人は議論をすることもできません。
反論を聞くことが怖いし、
聞いても曲解して、
白を黒と決め付けて黒だという批判をする人なのでしょう。

自分の意見を主性できない人は
共同作業をすることができません。

要するに相手のミスを許せない理由は
相手のミスであるにもかかわらず、
自分を重く扱わないという不満なのです。
変な意味付けをするわけです。

相手に緊張感を要求する人
ということになります。


== パワハラの派生効果 ==

パワハラを受けていることが
多くの仕事の中の一つだけであれば
その一つの仕事をなかなか手を付けることができず
結局やっつけ仕事になったりして、
仕事が雑になってしまいます。

その人のことを思い出して
その仕事をすること自体が不愉快になり、
気が進まなくなります。

これが会社の上司だったらどうなるでしょうか。
すべての仕事がストップしてしまいます。

また、緊張感をしいるわけですから、
無駄な神経を使い
ケアレスミスが増えてゆきます。

さらに、自分の理解している範囲でしか評価しませんから
部下は、自分の頭でものを考えようとしなくなります。
モチベーションを持つことはできないでしょう。

複数の人がいるというメリットは発揮されません。
単なる手足、単なる機械の代わりです。

生産性が低下してゆき、
縮小再生産に入るならよい方で、

知らないうちに経営破たんしている場合も
少なくないと思われます。





産経新聞の中学の卒業式の対面式に関する記事は、日の丸を国民から遠ざけるという負の側面がある。 [事務所生活]

平成28年3月20日付で産経新聞が
ある記事を配信しました。

大阪の中学校の卒業式で、
卒業生が、在校生と向かい合う形で式が行われた結果、
卒業生が日の丸に背を向け続けることとなり
不敬ではないかと抗議があったというのです。

蔭山某のコメントも載せてあり、
違和感があるといわせているのです。

このような記事を書くから、
国民が日の丸を敬遠するようになるということが
わからないのでしょうか。
また、国民を冒涜しかねない
不愉快であり、危険な記事であると思うので、
そのことについて説明します。

私は、君が代の心を伝え、
日の丸を生活に根付かせる立場ですから、
君が代、日の丸に反対の方は
もしかすると、読む意味がないかもしれません。

産経記事の一番の問題点は、
日本国民が日の丸に背を向けることは
何らかの問題があるというところにあります。

全く問題はありません。

日の丸を低い位置におくことは抵抗がありますが、
頭上高く掲げていれば、背負おうが、対面しようが
全く問題ありません。

確かに、人間に対して、あえて背を向けていれば失礼に当たりますが、
旗に背を向けて、旗に対して失礼だということは
滑稽な話なのです。旗は布切れですから。

但し、ある国の国旗に対して、
他国民が、対面するべき時に背を向けたり、侮辱することは、
旗ではなく、その国家、国民に対する
侮辱になったり、失礼にあたることはあります。

外国の旗を燃やすこと等は
その国に対する威嚇になりますよね。

それから、
ある民族が、他民族を支配して一つの国を作る場合、
支配されている方は、
支配している民族に抗議をする場合があります。
その時、国旗に対して侮辱をするのですが、
それは、国旗に対する抗議意思ではなく
支配民族に対する抗議の意思表示ということになります。

ウイリアムテルは
支配民族の提督の帽子に敬意を表しなかったために
子どもの頭の上のリンゴに矢を放つこととなりました。

日本国民が、仮に日の丸を侮辱したとしても
それは日本国民に対する抗議の意味ではなく、
政府など国家機関に対する抗議の意味です。
不愉快な気持ちにはなりますが
不敬という言葉は当たりません。

日本においての日の丸は、
戦時下の教育において特別の意味がありました。

敗戦が濃厚となった際、
一億総火の玉というスローガンを掲げて
非戦闘員も軍事力に組み込まれていました。
学校も軍隊予備群であったり、
実質的に軍隊の規律下におかれているようなこともありました。

この時、日の丸に敬意を払うことで
統制を図る道具にされていたことがありました。
日の丸にとっても不幸な時代です。

また、日の丸などが、天皇陛下から学校に
下賜されるなどということがあり、
いつしか
日の丸が天皇陛下の代わりに擬人化されていた節があります。
ウイリアムテルの帽子ですね。

その論理が正しいなら
マラソンの時に沿道で日の丸の小旗を振ることは
大変恐れ多いこととなります。

今は、どこの学校でも、国旗は
経費で、旗屋や通信販売で購入するのですから
特に、頭を下げることに意味はありません。

産経新聞や、計算高い子どもを養成することで有名な人物は
このような、
日の丸に敬意を表しなければならないという感覚があるというのですから、
国民は支配されるべきだという意識だったり、
戦争体制に入る準備をしようとする気持ちがあるのだったり、
日の丸が天皇陛下の身代わりだ
というような意図があるか
なんらかの誤解があるか、
それらについて、知識がないということになるでしょう。

産経新聞の大変問題なところは、
日の丸を背にしてなぜだめなのかということを
全く説明していないことにあります。

日の丸を背負うということは
日本を代表するということですから、
卒業生が日本を代表するような
傑出した人物になれという願いを込めた形であり
とても素晴らしいと思います。
身が引き締まる思いをするでしょう。

はれの門出にふさわしい演出だと思います。

これがなぜだめなのでしょう。

それよりも違和感とか言って
理由を明確にしないことが問題です。

これは、空気を読めということで、
芸人の楽屋話を一般人に強制するような愚かなことです。
暗い、押し付けられた雰囲気を演出しています。
理由をあえて述べないのですから議論になりません。
従うか従わないかだけの話になってしまいます。

閑話休題
日の丸は、皇室と関係がありません。
日章旗が国旗となったのは1954年7月9日
国家機関としての幕府の意思決定で定められました。

だから、明治維新前に咸臨丸がアメリカに入港した時、
アメリカ国民は、星条旗と日章旗で
日本人を歓迎しました。
当時の絵も残っています。

また、日章旗が国旗となった一番の理由は、
当時の貿易船の関係です。

国旗は、船に掲げ、その船が海賊船ではない
という証明手段でした。
当時日本は鎖国をしていましたから、
外国で目にする日本船は薩摩藩の船で、
薩摩藩の旗(丸に十字)が掲げられていました。

だから、外国になじみのある丸の旗を
基本にすることが合理的でした。
ただ、他国の国旗がカラーなので、
歴史的な背景を踏まえて
日章旗としたようです。

だから天皇陛下とは関係ありません。
そのような意味づけをした者がいるとすれば明治政府でしょう。

さらに閑話休題。
沖縄返還の前あたりまで、
街の角々に、祝日ともなれば日の丸が掲揚されていました。

子ども心に、
祝日のお祝いムードが高められ、
華やいだ気持ちになりました。

いつしか、それも消えてゆきました。
自国の国旗を敬遠するようになったわけです。

その一番の原因は、
今回の産経新聞の記事のような
誤った情報の提供だと思います。

日の丸が、
何か堅苦しく、
扱いを間違えると非難されるような
誰しもが敬遠したくなるような
そんな存在に変えていったのだと思います。

日の丸に意味のない権威を持たせることに断固反対し、
生活に身近な国旗を取り戻したく
願っているところであります。


愛国心とは何か 自然派愛国者宣言 愛国心の勧め [事務所生活]

国を愛するということと何かを誇りたいという気持ちと

私は愛国者である。
いろいろと理由がないわけではないと思うが、
一番の理由は、自分が生まれて育った国だからである。
国を愛する理由は、それで十分だと思う。

だから
国を愛するということを
毛嫌いする人とは話しが合わないのかもしれない。

ただ、
愛国者を自称する人たちの中には、
それ以上の理由や条件が必要だと考える人が
多いように感じられる。

例えば、他の民族よりも優秀な民族でなければならないとか、
戦争で負けてはならないとか
どこどこの国に、経済力で勝たないといけないとか
過去に誤りを犯さなかったこととか

何かのセールスポイントが必要だと考えているようだ。

しかし、愛するということに
そのような功利的な理由が必要だろうか
どんなに欠点や弱い部分があっても
尊重して慈しむのが愛ではないだろうか。

自分の子どもや配偶者が
完璧な人はいないだろうけれど
愛しているわけだ。

ひいきのスポーツチームだって
必ず優勝するわけではないけれど
応援し続ける。

国家が
誤りを犯さないこと
一番ではないこと
等はむしろ当たり前の話だと思う。

それでも自分の国だから
愛するのであって、
弱点があれば、
それを改善しようとするのではないだろうか。
それが自然な愛の形だと思う。

他の国より優れているから愛する
というのは、もはや愛ではないだろう。
自国の誤りや弱点を見つめなければ
国の前進もありえない。

愛する国家である以上
間違いを犯さず、他国より優秀であるはずだ
という考えは、
あまりにも幼稚である。

ただ、
先祖が築いた
我が国の良いところが
失われつつあるのであれば
それを守り育てることは
愛国者であれば当然しなければならないところだろう。

日本民族の良いところはどこだろう。
たくさんあるだろうが、私が重要だと考えるところがある。
何が重要かは人それぞれ違いがあってよいと思う。

一つには、子どもを大切にするということを
上げてよいと思う。
江戸時代に訪れた外国人は
おしなべて、子どもを大切にする日本人に驚嘆している。
しろがねもくがねもたまもなにせんや
ということである。

これは弱い者を弱さゆえに迫害しない
という価値観にあるのではないだろうか。

また、誤りを許容するということも
最高のインテリジェンスのように思われる。
日本の神話は、誤りを許容する
ヒューマニズムに貫かれている。

日本の神は過ちを犯すのである。
そもそも日本の国土自体
過ちを改善した結果生まれたと記されている

日本の良さは、
弱者を受け入れ
誤りを許容する
そんなおおらかさや

他人に無条件で親切にすることや
親身になって心配すること
なのではないだろうか。

人間だけが行う利他行為を
積極的に行い、
それで損をしたように見えても
賞賛する民族性が日本の誇りなのではないかと思う。

自分だけが得しようとすることは
何も人間だけができることではない。
餓えた動物だってできることだ。

それをむしろいやしい
と評価するのが日本の古来の民族性だと思う。

人間であることにおごり高ぶらず
自然に敬意を表し
自然から多くを学ぶことも
私が日本人であることを誇りに思うところである。

そう思うと、日本人が自らの良さを否定し始めたのは、
梅原猛先生がご指摘された
廃仏毀釈や近代社格制度という
恐れ多い業を国家が行い始めたころからだということを
改めて学ぼうと思う次第である。


やってはいけないことをやりたくなる理由と謝罪記者会見を垂れ流すカストリメディア [刑事事件]

野球賭博をした読売球団の元選手の謝罪会見が
大きく報道されていました。
こういうことを垂れ流すマスコミや
いさめる評論家がいないことが、
日本という国を堕落させることになる
ということのお話です。

賭博は、法律で禁止されています。
いろいろな社会的害悪の温床ですから
禁止は妥当でしょう。

こういうこと、
禁止されているけれど
誰かの具体的な迷惑を想定できない場合
ついやりたくなってしまうということがあります。

典型なのは、就学前の幼児が
汚いことやエッチなことをわざと叫んで、
大人のひんしゅくを買うことですね。

赤ん坊と児童の境目の時期で、
赤ん坊の時は、おなかがすいたら泣いて
眠くなったら寝て
暴れたいときはじたばた暴れることが許されます。

ところが、幼稚園などで集団生活をしていると
自分がやりたいことばかりをしていると叱られ、
幼稚園から追放されそうなくらいの叱られ方をします。
自分が叱られなくても、誰かが叱られるのを見て
こういうことをやってはいけないんだと
ルールを覚えていくわけです。

自分の思い通りにすることができないという不自由感と
何がルールかを覚えなければならないという圧迫感が
子どもの心を窮屈にしています。

特に男の子は、女の子に比べて
ルールが苦痛になります。
この時期のルールは、
お友達を叩いてはだめだよということが中心で
あまり女の子は、強くたたくようなことが少なく、
男の子はふざけていても、怒られるということが
あるかもしれません。

このため、自分の行動を
自分のやりたい様にできないため、
いざ、自分の身を守らなければならないとき
自分を守る行動を自由にとれるかという不安が生まれます。
もっとも、これは、無意識に、言葉に洗われない感情です。
なんとなく不自由で苦しいくらいに、
しかも無自覚でいるわけです。

動物はすべからく、自分の身を自分で守ろうという
本能があります。
そうして、いざ自分の身を守らなければならない場合に備えて
自分の行動の自由を確保しておきたいものです。

だから、真っ暗の中にいると、それだけで不安になりますし、
手足を拘束されてしまうと不安になります。

うんちとか言って喜んでいる男の子は
敢えて禁止されていることをやって見せて
拘束感、不自由感から解放される感覚を楽しんでいるわけです。

だから、いろいろ事情があるにしても
賭博に手を出したり、
麻薬に手を出したりしている大人は
うんちとか言って喜んでいる子どものレベルだということになります。

多くの性犯罪、特に盗撮のような類型の犯罪や
偽の通報をしてしまう犯罪類型は
背景に、何らかの拘束感、不自由感が極度にある場合が多いです。
自分の行動を自分で決めることができず、
不利益に対処することができないことが日常的にある人が
犯すことが多いのです。

この場合の不自由感は、
身体生命の危険に対する対処ができない
という不自由感だけでなく、
自分が付きあいたい人と付き合う、付き合いたくない人と付き合わない
という対人関係的な不自由感も入ります。
こんなことをしてしまうと
大切な人から愛想をつかれてしまう
社会からつまはじきにされてしまう
しかしやらされるということも入ります。

うんちとか言って喜んでいる子どもレベルになってしまう
そういう原因となる事情があることが多いようです。

自分を拘束している環境を改善しようという
合理的建設的な思考や
自分を拘束している相手に対する怒り
という感情が持てない共通点があります。

自分より弱く、自分より無防備なものを攻撃して
留飲を下げたい、安心をしたいという無意識の思考が
見え隠れするものです。

性犯罪の多くは、このような体験ができれば
被害者は誰でもよいということも特徴です。
狙われているということもありますが、
あたりかまわず狙っているということが実情で、
被害者の落ち度ということは観念しにくいことが実際の犯罪です。

だから、性犯罪者が特殊な変体野郎かというとそうではなく、
その人がどうしてそういうことをしてしまったかということに関して
性的な傾向を考察してもあまり意味があることではありません。
むしろ、
「どうして、そのようなことが
 できてしまったのだろう」
という考察が有効である場合が多くあるようです。

そこには、本人が虐げられている日常の事情に
気づかされることが多くあると思います。

その事情は、本人が虐げられている
誰かの理不尽な命令に従わなければならない事情です。

自分が人間として尊重されていない
行動の自由が圧倒的に制限されている場合、
一人一人の人間を大事にするという当たり前の感覚が
どんどん擦り切れていきます。

自分を大事にしない、他人を大事にしない
およそ人間という存在に
価値を見出さなくなってゆくわけです。

これを荒む(すさむ)というのだと思います。

以上が、人が極度に拘束されてしまう場合におかす
犯罪類型の仕組みでした。

犯罪に走らないまでも
人の心はすさんでいきます。

それは、他人の不自由や拘束
人間として尊重されていない状況を目撃して、
その人の苦しさに共鳴、共感してしまう場合です。

人間は、弱い動物として群れを作ります。
他の人間が苦しんでいる場面を見ていると
共鳴力、共感力で、助けようともしますが、
同じ間違いをしないようにしようという学習もします。

逆に、利益が出ているときは真似をしたりします。
こうやって、知恵をもって
自然の中で生き延びてきたわけです。

だから、つい、
無意識に、共鳴し、共感してしまうことがあります。

賭博という犯罪をしたということは
明白な誤りの行為です。
本人も誤りを認めているにもかかわらず、
逃げ隠れをすることができず、
放送という電波で、ありとあらゆるところに
それがさらされてしまうわけです。

また、それまでプロ野球選手という
極めて限られた選ばれた立場から
犯罪者という立場に転落することを観てしまうことになります。
絶望を目の当たりにするわけです。

こういう状況を目撃してしまうと
人間が大事にされていない、尊重されていないということを
体験してしまうわけです。

こういう状況が繰り返されると
人間が尊重されていないということに
どんどん慣れていくわけです。

荒んでゆくわけです。

このようなマスコミは害悪です。

むかし、刑罰が公開で行われていました。
権力者による見せしめです。
わざわざ形状まで見に行く人もいたでしょうが、
身に行くことをはしたないと感じた人もいたでしょう。
身に行かない自由もあったのです。

テレビでは、不意に映像や音声が流れてきます。
きわめて扇情的な効果音も入ったりします。

結局何かというと
エログロナンセンスによって
聴衆を引き付けようとしているだけではないでしょうか。

戦後カストリ雑誌という
エログロナンセンスを売り物にした低級出版物がありました。
戦争という最も人間を尊重しない出来事が
長期間続いた後の娯楽ということでは
その存在に必然性があったのかもしれません。

しかし、その当時は
カストリ雑誌は低級、低俗だというコンセンサスがありました
また、もちろん読まない自由もありました。
カストリ雑誌を読んでいた多くの大人たちは
子どもたちに見せないという良識があった人も多かったでしょう。
そのような低俗なものを読んでいることを知られたくないという良識もあったでしょう。
だからカストリ雑誌も文化だったのかもしれません。

現代のマスコミはどうでしょう。
ニュース番組を含めて、
煽情的な、エログロナンセンスを
観ない自由も奪って、垂れ流します。

カストリマスコミということ思いついたのですが、
今のマスコミはそれ以下かもしれません。

エログロナンセンスな小説や絵は
実在の人物ではありません。

あの時にブラウン管に移った人間は、
感情も、過去の栄光も、家族も、友人も
みんなもっている当たり前の人間でした。

それを見せられたわれわれは
人間らしい心を削られた被害者だと思います。

離婚が子どもに与える影響と面会交流の意義【講演のお知らせ】 [家事]

平成28年3月15日18時から
仙台市アエル28階エルソーラ研修室で
みやぎの萩ネットワーク主催で
「離婚が子どもに与える影響と面会交流の意義」
と題してお話をさせていただきます。
予約不要、入場無料 自由参加です。

お話の構成は、下に載せておきます。

具体的なお話をどうするかということで
例によって、ここで公開検討をするわけです。

先ず、子どもの心の研究がようやく1970年代から始まる
ということで、その研究内容について報告します。

主としてアメリカの研究になります。

このあたりの種本は
家裁月報61-11
家庭裁判所調査官による「子の福祉」に関する調査
ー司法心理学の視点からー
小澤正嗣調査官の論文です。

ウォーラースタインについては、
このブログの
ウォーラースタイン忘備録
1-9でシリーズで解説しています。
おそらく検索すれば出てくると思います。

そこから離婚に伴う
子どもたちの心とその仕組みを紹介します。

子どもが感じる自責の念が
実は自分を守るための仕組みだということを
ハーマンの心的外傷と回復を引用しながら説明する予定です。

ハーマンについてもこのブログで最近特集しています。

痛ましい自責の念について
レポート交えて紹介します。

そうして、片親疎外です。
棚瀬一代先生の著作を紹介しながら
最新のアメリカでの議論を交えながら
かるく触れます。

そうして、片親疎外の中で
子どもたちが、どのように頑張りすぎているか
これらについては、学校現場や
離婚後の事例をふんだんに交えながら
どうして頑張るのか
頑張るって結局どういうことなのか
頑張る子どもは周囲の子どもからどのように見られているか
等についてお話を進めます。

一つの目玉は
15歳のころに、矛盾が集中して噴出すること
その理由についての説明です。

このブログで紹介した
弁護士研修の成果を応用して説明します。
ウォーラースタインはスリーパーエフェクトと説明しており
日本におけるスリーパーエフェクトの解説は
徐々に効果が表れてくることと説明していますが
そうではなく、突然影響が噴出する
ということを説明する予定です。

そうして、
いまDVを理由に子どもを連れて家を出る母親が多く出現しています。
周囲は、夫婦仲を再生するよりも
離婚を勧めています。
確かに、暴力による人格支配は
精神的荒廃を招く危険なことであり
離婚が有効な救済方法となることはあります。

現在、あまりにも安易に離婚が進められています。
善意で勧められていることも多くあります。

しかし、その陰で
実に多くの夫たちの自死が起きています。
また、子どもたちに負の影響が生じています。
このことについてご一緒に考えていただきたいのです。

誰かの支援をするために
別の誰かを傷つけることになる場合、
慎重に事を進めることが必要であると思います。

特に責任のない子どもたちが傷つくことは
避けるべきだし、
できるだけ小さなものにする必要があります。

配慮のない乱暴な解決は
子どもたちが自死に近づく危険があります。
子どもたちの、例えば母親が被害者で善の人で
それを子どもの前で強調し、
父親が加害者で悪の人だということを強調してしまうと
子どもたちは、自分は善と悪の子どもだということになってしまい
アイデンティティーの確立に支障が出ます。

さらに、悪の父親を切り捨てた体験は、
人間を大事にしないという極めて深刻な体験となってしまいます。

自死の遠因になってしまう可能性があります。

このことをご一緒に考えることができれば
幸いです。

最後に、
では、どうすればよいのか。
根本的に進められなければならないことは何か
ご一緒に考えていただくことを予定しています。

これらの運動は、明るく楽しくが大切です。
どうやって、明るい運動にするか
最後の最後で提起したいと思います。

構成
1 子どもの心は放置され続けてきた
    ようやく行われた調査の意外な結果
2 虐待されても子どもが親を嫌いになれない理由
    ヒトの子どもの生き抜くための仕組み
3 自分が良い子じゃなかったから離婚した
    絶望の回避
4 片親疎外の現実
    頑張りすぎるこども
    15歳になってから現れる影響とその理由
5 子どもを連れ去られた夫と自死
    DVの烙印を押された悲惨な現実
6 面会交流は子どもの権利
    子どもを自分に会わせるという構成
7 面会交流を阻むもの
    親同士の対立をあおる構造
8 DV被害の本質と思いこみDV
    被支配感の危険性と支配意欲の原因
9 面会交流を進めるために
    離婚後の家族再生と子どもの健全な成長

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