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攻撃行為についての心理学的説明がわからない件 対人関係学的には [自死(自殺)・不明死、葛藤]

ちょっと勉強していたら
攻撃性についての心理学ではどのように考えるか
という話が出てきて
学説を整理すると以下の3説に分けられるそうです。

内因衝動説 
攻撃行動を起こす心理学的エネルギーが体内にあるという説

情動発散説
攻撃行動を不快な感情の表出、発散とみなす説。
不快な内的緊張を減少させることに攻撃の意義がある。

社会的機能説
攻撃行動は、ある目的を達成する手段として自覚的に選択している。
例えば脅かして交渉を有利に進める。

おそらく、きちんと学説を学べば、
もっと理にかなった説明がなされているのでしょう。
だから、まとめに対して批判することは学術的とは言えない
ということは重々承知しているつもりなのですが、

ものの本に、しかも心理学を学んだという縛りのない本に
このように紹介されたら、読み手はどう受け止めるのか
という話なのかもしれません。

その点を全く知らない者としての感想を
あえて述べさせていただこうと思うのです。

先ず内因衝動説です。

これは、怒りの感情が、理性とは別のところから、
無意識、無自覚に湧き上がるということを言っているならば
歴史的なものとして大変価値のあるということは理解できます。

しかし、これが21世紀になっても唱えられているということは
おそらく当のフロイトもびっくりでしょう。

率直に言って
心理学的エネルギーというのは何でしょう、
フロイト関連はリビドーとか力動とか
阿吽の呼吸で身につけなければならない言葉が多すぎて
どうも煙に巻かれているように感じることが多いです。

科学的には証明できないでしょうけれど、
蓄えられるってどこにどうやって蓄えられるのでしょう?
いつ蓄えられたエネルギーが爆発するのか
そのメカニズムこそ説明する必要があるのではないでしょうか?

この学説の結論が、攻撃は人間の本能でありどうしようもないことだ、
エネルギーを蓄えやすい人間は隔離するしかないということであれば、
裁判などで持ちだされると大変なことになりますね。
要するに実務的に役に立つのか疑問です。

次は情動発散説

これは、一つの説にまとめられていますが、
バリエーションがあるのではないかと思うのです。
そもそも、攻撃行動をすれば、内的葛藤が発散される
と言っているならば大きな疑問があります。

実際の事件を見ていると、
攻撃行動が自分の怒りに火をつけて拡大していく
ということが多く見られるからです。

攻撃によって緊張はむしろ高まるのではないでしょうか。
そもそも不快とは何かということを説明するべきです。
実際はしているかもしれませんが。
不快がはっきりしないと、緊張を鎮めるべきタイミングはわかりません。
それともおよそすべての不快が怒りにつながるようになっている
というわけではないでしょうけれど。

また、情動という言葉まで到達しているのに、
どうしてもう一歩進まないのだろうという疑問があります。
(かなり偉そうなものいいですが)

どうして不快によって緊張が高まるかそこを説明しているのであれば、
もしかしたら対処の方法も見つけられるかもしれません。
しかしそこを説明していないのならば、内因説とさしたる違いはないでしょう。

社会的機能説

怒り丸出しで、恐喝などできません。
恐喝は知能犯に分類されます。
怒っているフリをするということでなければ交渉などまとまりません。
怒りは理性的な選択行動ではないと感じます。
そもそも出発点からして、何一つ理解できません。
内因説より後退しているようにすら感じられます。
整理した人の問題かもしれませんが。

それで、私は、どのように考えているかというと

危険対応説

対人関係学的というのすら気恥ずかしいことですが、
脳科学的には、
怒りは基本的には危険に対する反応だとされて疑われていないでしょう。

例えば、
ゴキブリの歩く音を聞いたり、目で見たりして、危険を感じ、
脳が反応し、交感神経を活性化させ、ゴキブリを叩き潰そうとする。
という感じでしょうか。
怒りの体内のエネルギーがあふれたのでも、
緊張を鎮めようとしているのでも、
怒ることによって確実にしとめようという自覚行動が起きたのでもないでしょう。

あくまでも、無自覚の感情の想起だと考えます。

人間に限らず、動物が危険に対処するための
遺伝的メカニズムということになります。

危険に対する反応は、
逃げる、戦う、凍り付くという3種類です。
Flight,Fight, Freezeという3つのFと言われています。
逃走、闘争、凍結という3つのとうと言っているのは私です。

先ず凍り付くですが
全く対処方法がない場合、たとえば既に高所から転落し始めたとき等は、
失神する、即ち精神活動をはじめとする活動を制止する、
生きるための活動を放棄する、つまり凍り付くという場合になるでしょう。

逃げるですが、
逃げれば危険が免れるし、逃げられるということになれば逃げるでしょう。
これが動物の危険対応の基本だと思います。

戦う(攻撃行動)ですが、
逃げることもできるが、戦って勝つことができると感じれば、
攻撃行動に出るわけです。
この時の精神的反応が怒りです。

この選択は、むしろ反応として行われているようで、
自覚できる範囲は限られているのではないでしょうか。

無意識とは言え、この三者の選択は、個性に依存する余地も多いようです。
また、戦えると感じてしまうことも個性なのだろうと思います。

戦おうとする場合は、勝てると思う場合と
誰かのために戦わなければならないという場合です。
母熊が小熊を守るために捨て身の戦いを挑む場合がありますね。
群れを作る動物は、群れを守るという本能もあるようです。
群れを守れるという意識があれば、
自分を捨ててでも怒りを持って行動するということがあるようです。

また、攻撃行動は、現代社会においては、
危険の原因に対して必ず向かうとは限りません。
大きな力や社会の仕組みに対して自分の対人関係上の危険を感じている場合は、
自分より弱い者に対して怒りを覚えて、攻撃行動に出ることがあります。

いじめやパワハラ等も、弱い者を攻撃しているのに、
加害者の意識では、自分を防衛する意識、心の中の言い訳が
見られることが多くあります。

危険反応説に立脚するメリットは、

攻撃行動が出やすい場面は、
心理的に追い込まれている場面だということを考えることができます。
ベースとして、社会状況や生活状況から、
行為者の圧迫されている危険の認識を分析し、解決の方法を考えることができます。

解決の方法も、怒りの矛先のミスマッチについて
指導することが可能だということになります。
いじめられる対象の弱さを検証し、是正したり保護することができます。

また、クレーマーやモンスターペアレントという現象は、
自分が攻撃されているという危機意識を反映して
怒りが強くなっていると分析することができますし、
自分の利益だけでなく
社会一般、特に弱者の利益を代表して抗議しているという意識が、
「勝てる」という判断を無意識にさせているということがわかります。

対処方法として、本人の危機意識、
対人関係学的に言えば、「自分が尊重されていない」という意識
を感じるポイントがどこにあり、こちらの対応の問題点はどこにあるのか、
それを探索した上で、こびるのではなく、
対等の関係を築くことで解決を目指す
という対処方法を選択することができます。

さて、少年事件や刑事事件のたちなおり、
モンスターペアレントやクレーマーという社会的病理
攻撃的行動全開の当事者たちの人間関係の調整、
などなどの実務的要請に
心理学は、具体的にどのように対処しているのでしょうか。

あの3つの学説がどのように現実に働きかけるのか
機会があったら誰かに教えてもらいましょう。

メモ 漠然とした不安こそ危険、不安解消行動を笑うな [自死(自殺)・不明死、葛藤]

弁護士なんていう者は
あれ、なんか変だなと相談を受けて思うことがあるわけですが、
明らかに、言葉自体だけを聞くと
整合性が亡く、飛躍しているにもかかわらず、
そこに、不安や怒りや焦りという
感情の原因のポイントがある場合があります。

治療する資格も能力もないので、
はじめっからそういうことは考えないし、しないのですが、
もしかして、ということで
整合性や飛躍を埋める補助線を引いてあげると
最初の勢いとは正反対に落ち着いて、
そうだったんですね、肩の荷が下りました
ということになることがあります。

抽象的で何言っているかわからないでしょうが、
守秘義務の観点から、この程度に収めざるを得ません。

ひょっとすると、お医者さんに行ったら
統合失調症とか妄想性障害とか
診断名が付いて投薬がはじめらるかもしれません。

しかし、人間なんて、そんな精密なものではなく
はみ出してはみ出して、
全体的に遠くから見れば人間の形に収まっている
ということでよいのではないかと考えることがあります。

その補助線を引く際によく気が付くことは、
言葉で言い表せていることとは別に
漠然とした不安を抱いていることが多いことです。
本当は、自分でもどうして不安なのかわからない不安なのです。

考えてみれば、予測がつかないから不安なのでしょう。

攻撃の程度や被害の程度を予測できれば、
それの対処方法を考えるでしょう。

小さな犬が吠えていても
鎖でつながれていれば、被害はないし
噛まれたところでたかが知れているし、
勝負に出れば勝てるでしょう。

大きなライオンならば
近づかないで逃げるしかありませんね。
ライオンが入ってこないところに逃げるということになりますし、
野生のライオンが腹を空かせているところに近づかない
ということも対処方法でしょう。

しかし、ひとたび大震災に見舞われると
また来るのではないかという不安が起きます。
これだけ大きいのが来たからもう来ないだろうと
思える人は幸いです。
来ないだろうとは思いつつ、来るかもしれない
と考える人が多いのではないでしょうか。

東日本大震災の後
いろいろな不安解消行動が見られました。
トイレットペーパーだったり、ペットボトルの水だったり、
乾電池、乾パンやパンの缶詰等
その中の何かを大量に備蓄している人たちが大勢います。

そんなに買ったって使いようがないよと
笑う人もいるのですが、
それがその人の不安解消行動である場合は
やりたい様にやらせるべきだと感じています。
それで気が済むならと何も言わないようにしています。

もっとも、日常生活に支障が出るようであれば
多少の改善は求めますが。

問題は、不安の対象が震災でもないだろうし、
何なのかわからないという場合です。
なかなか具体的な不安解消行動が見つかりません。

この不安を想像することができます。
自分が
目隠しをされ、両手両足を縛られ、
場所を移動されたのちに放置された場合です。
耳栓でもされれば、さらに不安になるでしょう。

自分には対処の方法がないと感じるだけで
(危険を感じる方法も、対応する方法もない)
(五感というセンサーを機能させられないということ)
とてつもない不安になってゆくでしょう。

命の危険まで感じられるかもしれません。
客観的には具体的危険がないにもかかわらずです。
これが健全な動物です。

漠然とした不安を感じている人は
何か危険が襲ってくるかもしれない
しかし、それに対する対処方法がない
ということを無意識に感じているのかもしれません。

もちろん、体のメカニズムの変調、
ホルモンバランスの変化や、脳の傷害、薬の副作用
等の原因で不安が起きる場合もあるのかもしれません。

しかし、少なくない割合で
過去の体験を思い出してしまっている
ということがあるようです。

きっかけがある人物だとしても
その人物から危害が加えられていない
という場合等が典型でしょう。

厄介なことに
その体験は、子どものころの体験であるために
具体的な出来事は覚えていないのです。
しかし、大変怖い思いをした、
どうしようも自分の力では、
怖い思いを解消できなかった
という場合があるようです。

ただ、その時の加害者の服装の一部だったり
身体的特徴だったり、
場所の匂いだったり、
金属の冷たさだったり、
機械の音だったり
天候だったり、
何かを記憶してしまっていて、
その何かと怖い思いが結びつけられてしまっているのです。

体が覚えている
というのだそうです。

それで、特定の人にあうと
同じ帽子をかぶっていたり、
同じ服を着ていたり
同じ眉毛の形かもしれません
過去の恐怖体験をしている時の気持ちに戻ってしまうわけです。

おそらく記憶というシステムは、
一つに、良いことを覚えていて繰り返そうということもあるでしょうが、
一番重要なことは、
危険なことを記憶しておいて、
危険を感じたら、対処行動を起こす
という目的があるのだと思います。

言葉で記憶していないことでも
五感の感覚を記憶して、
危険の警鐘を鳴らすのだと思います。

しかし、そうなると
その記憶を消すということはなかなかできません。
記憶の根拠となる体験を思い出せばよいのでしょうが
もうそんな言葉に出せる記憶という形では残っていないのでしょう。

では、不安を抱えたまま暮らすのかというと
一つの方法として、
解消行動があるようです。
おまじないでもよいでしょうし、
何か香水をしみこませたハンカチを持つでもよいでしょう。

人それぞれですが、
解消行動を試してみるということが価値がありそうです。

それから、そういう不安を話せる人を作るということです。
この人はそういう不安があるということを承認する人で
なかなか解消できないということもよくわかっている人
解消行動を笑わない人ということになります。

何か理由があるのだけれど
現実的危険が伴われない不安があって
不安を感じることが仕方のないことだということを受け入れてくれる人
ということになります。

そして、できれば、その人でも誰でも一緒に
不安を感じるきっかけを少しずつ見つめていく。
自分を安全な場所においておいて、
少しずつ不安の種を受け入れていく
そうして、実は危険はないのだという
頭ではわかっていることを
実際に経験していき、馴れていくことだと思います。
自分は安全なんだという記憶を定着させていく
ということになるのだと思います。

そのなかでは、
誰かとの共同作業が望ましいはずで、
受け入れてもらえる体験だけでも
不安を解消できるのではないかと
そんなことを感じることが良くあります。


北ニケンクヮヤソショウガアレバ 裁判についての誤解 真実を知りたい、白黒をつける  [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

宮沢賢治の雨ニモ負ケズの中に

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

という一節があります。
弁護士になってからは、ずうっと引っかかっていた節です。

権利が侵害されている人にとって
裁判という手続きで権利侵害が回復される
人間性を回復する手段だと意気込んでいたからかもしれません。

といっても、今そのような考え方を
全面的に改めたわけではありません。
そのような効果も全くないとは言えないのはもちろんです。

ただ、それは、必ずしも結果が保証されているものではなく、
むしろ、ギャンブル的要素が強い不確かなものだという
そういう考えも色濃くなっているのであります。

裁判を行う当事者と接する仕事なのですが、
なんのために裁判をしているかという文脈で、
真実を知りたいとか
裁判で白黒つけるんだ
とかおっしゃる方がいて
その気持ちはよくわかるのですが、
裁判は、そこまで精緻なものではありません。

お医者さんなどに診断書を記載してもらう場合も、
自然科学的に一点の曇りがない場合でなければ
協力できないとおっしゃる方もいて
苦労して説明することも多くあります。


真実を発見するシステムとしても
裁判という制度は決して万能ではありません。

100%の真実を見出すシステムでもありません。

では裁判がどういう制度かということですが、
人間関係で紛争が起きた場合、
いつまでも紛争が続くと
当事者だけでなく、周囲も険悪になっていったり、
力の強い者だけが幅を利かす弱肉強食の正解になってしまいます。

このため、主として秩序回復のため
国家権力の強制を背景として、
強引に結論を決めてしまうという制度なのです。

これだけでも、法律や裁判を使わないで済むなら
使わない方が良いということを基本に据えるべきだと思います。

ではどうやって、真実かどうかわからないのに
結論を出せるのでしょう。

それが証明責任です。

大体は、請求する方が
請求がもっともだという裏付け(証拠)を提出する責任を負います。
これがある程度もっともだという時は、請求する方が勝ち、
裏付けを出せなければ請求する方が負け
という、単純化するとそういうルールを決めて
争う制度です。

厳密に言えば、真実かどうかで結論が決められるのではなく
真実だと証明できるかどうか
という話になります。

もっとも、裁判官も常日頃から研鑽を重ねていてい
法律だけでなく、裁判の下になる知識も勉強しているのですが
人間の知識や思考には限界があります。

例えば、交通事故でむち打ち症になったという事例を
考えてみましょう。

まず、今現在むち打ち症で痛みが残っているかどうか
そこからして、証明ができません。
むち打ち症の損害賠償を請求する方は
証明ができないだけで、負けてしまう可能性があるわけです。

また、交通事故の原因が
どちらがどれだけ責任を持つかという過失割合という問題があり、
80%悪いとか55%だとか言いますが、
そんなことメジャーがあるわけではありませんから
真実なんて、本当は決め用がありません。
過失割合の表があるのですが、
突き詰めれば、
過去の裁判例で、平均するとこうだっから
というあやふやな理由しかないのです。

では、かっちり過失割が場合分けできれば
ある程度真実は、白黒は決められるのでしょうか?
これも無理です。
どちらが先に交差点に入ったか、
どちらがどのくらいスピードを出していたか、
どちらかが止まってからぶつかったか、止まる前か
なかなか実際はわかるものではありません。

目撃者がいたとしても
さあこれから交通事故が起きるからきちんと目撃しましょう
なんてことはありえません。
もし何らかの予感がして一生懸命見ていたとしても、
あれ、あれ、あれ、もう一回見せて
ということがむしろ普通ではないでしょうか。

いずれにしてもあてになりません。

一番あてにならないのが当事者です。
相手が悪いという気持ちは強いのですが、
多くの当事者の相手が悪いという理由は、

いつもと同じように自分は運転していた
いつもは事故は起きない、
すると自分は悪くない
だから悪いのは相手だ
という論理?が最も多いのです。

そして、少なくない割合で
いつも道路交通法違反の運転をしていることがわかります。

それでも、裁判で判決が出されるわけです。
裁判なんてこういうものかもしれません。

勝ち負けにはギャンブル的要素があるということは
少しお分かりになったと思います。

だから、
白黒が付いたのではなく、
白黒をつけたことにするということが実態にあっていて、
真実がわかったと実感することはあまりありません。

救うべき人を救っているのか
そらおそろしくなるわけです。

相手方に証拠を出せといっても
出しませんし、
はなはだしくは
もうその文書は燃やして捨てた
ということになると、
どうしようもないことも多いです。

数日前に、対立司法から人間関係調整手続きにという記事を書きました。
一つにはこういう理由もあります。

もしかしたら、今日の記事を読まれた方の中で
絶望的気持ちを抱かれた方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、思うのです。
本当に白黒をつけることは必要なのだろうかということです。
交通事故なんて、多くの割合は当事者が悪いのではなく
危険な自動車走行を許しているという問題があり、
そこから不可避的に生じているのだから、
損害保険システムを改良して、被害者救済をした方が合理的なのではないか
という発想があってもよいように思うのです。

被害があった場合、
どちらかが悪いので被害が生じた
という論理こそ、もしかしたら嘘くさいのではないでしょうか。

過去の評価を強引に定めるより、
よりよい将来に向けた改善作業こそ必要なのではないでしょうか。

過去の出来事に、心がとらわれて
自分の人生を足踏みしたり後退したりしていることこそ
もったいないような気がします。

人間関係調整手続きは、このような考え方に立脚しています。

そう考えると
宮沢賢治の雨ニモマケズの方が
深い洞察力のある本質をついた考えなのかもしれないと
ようやくそういう考えに至ったというお話でありました。

熊本地震の被害に会われた自治体、企業の上司の方々へ東日本大震災の公務員や民間労働者が、災害以降死亡した事案報告 [労災事件]

地震の被害にあわれた方々に心からお見舞い申し上げます。

今、このようなブログを読まれる方もいらっしゃらないと思いますが、
できれば、頭に入れておいていただきたいということを報告します。

東日本大震災で、津波や地震で亡くなられたかのほかに
震災後の過重ストレスで亡くなった方がたくさんいらっしゃいます。
津波や地震が防げないことだとしても
震災後のストレスは防ぐことができます。

先ず、これは津波被害の特徴ですが
大量になくなられた方がいらっしゃいましたが、
身元が判明しない状態だったため、
身元の特定の作業をされていた公務員が、
数か月にわたり休みなしで出勤して働いていました。
ある日突発的に疾走し、失踪先で自死されていました。

町役場の方で連日会議をしたり、被災者のお世話をしていたかたが
疾患を抱えていたにもかかわらず、自宅に帰らず
1週間不眠不休の活動をしたのち
胃から大量出血してお亡くなりになりました。

安静を要する病気であるにもかかわらず、
横になって眠ることもままならず
椅子に座ったまま仮眠をとる程度だったことから
お亡くなりになりました。

透析を受けている方、
慢性肝炎や肝硬変でインターフェロンの投与をしている方、
二型糖尿病でインシュリン注射をしている方、
高血圧症の方、
その他安静を要する方については、
公務命令を解除して帰宅をさせる必要があります。

宮城県では、公務命令が解除されない限り
公務員は、不休不眠で働いてしまう傾向がありました。

帰宅を命じてください。

健康な職員の場合でも
交代での帰宅はなるべく早い時期から始めてください。
疲労が蓄積していくと、
どのようなところに、(精神であったり血管であったり)
弊害が現れるか、その人にもよるのでわかりませんが、
確実に弊害が出てきます。


民間企業の方にお願いしたいのは、
震災で売り上げが低下したのはしょうがないと
腹をくくっていただきたいということです。

ライフラインが復活して通常営業ができるようになると
震災で落ち込んだ売り上げを
取り戻そうと無理を命じることがあり、
具体的な方法を示さないで、
売り上げ数字だけを押し付けると
精神的に、うつ病や適応障害などの
具体的な弊害が生じてしまい
いまだに回復していない労働者が多数います。

また、これは早すぎるかもしれませんが、
復興需要があり、仕事がそれまでの倍くらいになっても
仕事量に応じた人員増加がなされず、
労働が過重になるケースが多くありました。


当然ケアレスミスが莫大に増えてゆきます。
段取りができないという状態のこともあります。
上司もピリピリしていて、
通常以上につらく当たることも出てきます。

多くの若者が精神疾患に罹患したり
自死したりと
そういう悲劇がありました。

莫大な損害賠償を支払った例もあります。

部下がケアレスミスをするようになったり
段取りがうまくゆかなくなったら
気が付いて、増員などの対応を取ってください。

大きな災害があったのに
なかったときのように行動しなければならないことは
息ができないような辛さがあります。

知らず知らずのうちに、
なかったことにするかのような振る舞いをしたくなるときがあります。
大きな震災があったのだからしょうがないということを
何度も自覚しなおすことが必要だったように思います。

自分の運命を裁判官に委ねるのですか。対立司法から関係調整手続きへ。 [事務所生活]

以前離婚など家庭の事件について、
調停や裁判で決めるよりも、
じっくり話し合って考えて決める
そういう場を作りたいというお話をしました。

家事調整センター企画書
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

そのようなことを考えながら仕事をしているうちに、
離婚事件や面会交流事件だけでなく、

労働事件だったり、

学校のいじめ問題だったり

介護の問題だったり、

はたまた、お寺さんの檀家の問題だったり、

いろいろな場面で
調整型の仕事をするようになってきました。


離婚を例にとれば、

通常の離婚は離婚したい方と離婚したくない方に分かれて、
離婚したい方が調停を申し立てます。

離婚したい方は、最終的に裁判によって離婚することも考えていますから
どうしても不利なことは隠して、
相手を攻撃する傾向にあるように思われます。

離婚したくない方は、
相手のそのような言い分に対して不公平だと怒るわけですが、
離婚しないで解決したいとすると
訴訟等で不利になることになっても
攻撃の手を緩めるしかありません。

ただ、そのようなことをしているうちに
離婚したくない方も
新たな怒りや恨みがこみあげてきて
相手を攻撃し始めて
脱抑制的に攻撃表現が展開されていく
という修羅場、鉄火場が出来上がるように思われます。

そうして、判決では、
通常納得行かない事実関係を裁判官が認定して
離婚したくない方は、
この世の中に正義はないのかという気持ちになるわけです。

その後、面会交流や養育費の支払いがうまくゆくはずがありません。

これに対して人間関係調整型解決手続きは、
時間をかけてじっくり考えてもらいます。
離婚という結論は少し脇に置いておいていただいて、

どこからボタンの掛け違いが始まったのか
その点をさかのぼって考え始めます。
これは、丁寧に時間を負っていくと
案外双方が思い当たる明確なエピソードがあることが多いです。

または、勝手に劣等感を感じているポイントがあり、
無自覚な防衛行動、防衛意識が必要以上に高まっている
という場合に気が付くことが多くあります。

簡単に子どもでもわかる表現をすれば、
いつまでも仲良くしたいのだけれど
自分に自信のない部分があり、
そのことで嫌われるのではないだろうか、
きっとそのことで自分のことを嫌に思っている
という、本当にかわいらしい心配が
毒々しい非難の言葉に置き換わってしまっている
ということが多くあります。

ボタンの掛け違いのところがわかったとしても
すぐに修復できる場合だけではなく、
ことはそう簡単ではありません。

しかし、最終的に離婚ということになったとしても、
必要以上に相手を攻撃したり、
必要以上に相手を憎むことが
最小限度に抑えられるということはありうることです。

実際には、一度離婚した後に再婚したという事例もあるくらいです。

また、このように、お互いを理解したうえで
お互いを尊重したうえでの方が
離婚自体も進みます。

離婚したくない方は、
離婚をつきつけられると
自分の全人格を否定されたと感じるものです。

離婚をしないことに意地になっているという場面もあります。
否定された部分が限定的であり、
自分の大事にしている部分は否定されていないということから
離婚に踏み切る心の余裕ができることもあるようです。

それから、
離婚調停や弁護士相談というと
本当に離婚目前という
夫婦の関係がどうしようもなくなってから
行動を起こすということになるわけですが、

調整型解決手続きの場合は、
対立が深刻になる前に
アドバイスを受けることができます。

この場合は、夫婦そろってアドバイスを受けることができます。
何よりも、やり直したい、あるいは
もっと楽しく生活したいということが
お互いの気持ちだということを確認することができるわけです。

調整型解決手続きは、このように利点が多いのですが、
判決のような強制力はありません。
ですから、両当事者が、
理性的に、傷を最小限度にしたいという気持ちを持たなければ
始めることができません。

人間関係の調整も、今後の協力もいらないから
相手を叩きのめしたいと考える場合は
向いていないことになります。
負けてもいいから戦うということですね。

そうでなくて、人生上の大きな出来事の
悪い影響を最小限度にして
子どもの健全な成長を考えたいという場合は
調整型解決手続きにするべきなのです。

家事調整センターを実現させる力は
私にはありません。
しかし、調整センターなど作らなくても
弁護士の立場から調整手続きで事件を解決することは
可能な場合が多いということに気が付きました。

そのうち、人間関係調整手続きの事務所ホームページを立ち上げる予定です。

その際、家事事件だけでなく、
様々な人間関係のすれ違いを
疑心暗鬼を解きながら調整していく方法と実績について
ご紹介できることでしょう。

できれば、司法のユーザーである国民も弁護士も
自分たちの運命を裁判所だけが解決方法だという
固定観念を捨てて、
あるべき解決方法の議論を始めるべきだと思います。

その観点から司法を変えてゆくという発想を持ってもらいたいのです。
司法改革は、
国民が、本当に望む紛争解決を考えていく中で、
司法メリットデメリットを検討して初めて
方向が見えるものだと考えています。






面会交流事実上原則拒否の理論の系譜 [家事]

面会交流に対する家裁の理解は、
2,3年前と比べても長足の進歩があります。

こういう切り出しが、「弁護士のくせに偉そうに」
と評価されかねないのはもっともなことで、
ここ2,3年で面会交流の理解が出始めたのは、
むしろ弁護士かもしれないかいらです。

そして、まだまだ遅れている一番の職種も
やはり弁護士かもしれません。

少なくとも弁護士の間では、2,3年前の時点で
あまり問題意識を持っている人は少なかったと思います。

最初は、家庭裁判所の調査官の中で、
面会交流の研究が進み、
それが徐々に、裁判官、調査官、調停委員、弁護士と
理解が進んでいったということが実態のような気がします。

アメリカや日本の数々の実証的研究から
離婚後の子どもの健全な成長のためには
 子どもと別居親との交流が有益だ」
ということがわかってきました。

しかしながら、当事者の方々も指摘していますし
私自身が、いまだに、体験している
「面会交流拒否が原則だ」というような対応がとられることがあります。
その考え方が、
どこから来るのかということが、今回の問題意識です。


少しでも理屈めいた
拒否の理由としては
「同居している母親の葛藤の高い場合に面会交流を行うと
 同居している母親と母親に育てられている子どもとの関係が悪くなり
 子どもにとって悪い影響が生じてしまう」(子どもへの悪影響論)
というものです。

だから、原則的に反対なのではなく、
葛藤の高い場合は反対だというのですが、

離婚をした当事者が葛藤が高くない場合はむしろ例外的で
ほとんどの離婚の例(特に調停や裁判を経た例)では
葛藤が長年続くという調査結果もあり、
私が知りえる実態もそうであり、
結局は、原則面会交流反対ということに事実上なると思います。

また、そういう人たちの主張は
「面会交流原則実施」に反対という
結局何を言いたいのかよくわからない主張となっています。

離婚後にも元夫婦の二人に葛藤が高く、
特に子どもと同居している女性は、
元夫に強い葛藤を持っていて、
元夫と似た服を着た人をみただけでも
拒否反応を示すことが多くあります。

「子どものためには父親と会わせた方が良いのだろうけれど」
と考える人がむしろ多数派だというのが実感ですが、
具体的に合わせる日時、場所などの段取りを
元夫と打ち合わせをすることを考えるだけで
パニックになってしまうわけです。

元夫側は、意地悪をして会わせないようにしているのだろうと考えがちですが、
実態はこのようなものが多いと思います。

確かにそばで見ているとかわいそうになってきます。
これが、おそらく、面会交流事実上拒否のモチベーション
ではないかと考えています。

可愛そうだから、悩みの根源である面会交流を拒否する
という単純な発想だと思います。

ただ、母親がかわいそうだというだけでは
調停を乗り切ることはできないと職業本能的に考えるため、
なにがしかの理論が必要で、
先ほどの子どもへの悪影響論を主張するわけです。

そして、その理論に自信を抱いており、
それに反対する人に対して素朴な感情的反論を展開しています。

これは、かつては、
子どもへの悪影響論が、唯一の学者の理論だった
という事情が影響していると思われます。

この理論を唱えた人たちはゴールドシュミットを中心として
アンナフロイト外の心理学者らでした。

理論的根拠として「モノトロピー」という理論があります。
人間は、生まれてきてから、
先ず一人の人との間に愛着を形成し(通常は母親)、
愛着を形成した経験があって、他者との関係を築くことができる
従って、母親との愛着形成に対する支障は
できる限り排除することが子どもの健全な成長のためだ
というのです。

これを提唱したのがボウルビーです。
戦後、孤児院の実態調査を行い
アタッチメントの理論を発表し、
WHOへも強い影響を与えました。

ボウルビーは、心理学に動物行動学を導入した
とされています。

但し、ボウルビー自身が
モノトロピーという理論はあやまりだと
後に認めるに至っています。

実際にも、愛着形成が完成する以前から
赤ん坊だって、父親と関係性を築きます。

さらに人間の赤ん坊は、
父親や母親の以外の人間から情報を取得し、
共鳴や共感を抱く動物の中では珍しい存在なのです。

モノトロピーという理論は、
サルの子育てを参考しているのではないでしょうか。
サルの子は、群れの他の大人と関係性を作ることはなく、
母親との関係だけが唯一の関係です。
逆に言うと、原則として
母親だけが子どもに利益を与える活動をします。

人間は、この時点から根本的にサルとは異なります。
2歳くらいの赤ん坊でさえ、他人と共鳴、共感し、
利他行為を行うという特質があります。

もっとも、このことが判明してきたのは21世紀になってからですから
ボウルビーを責めることはできないかもしれません。

ゴールドシュミット学説が日本に入ってきたのは
高度成長期後あたりから、
それまで、子どもを「家」に残して追い出された母親が
子どもを連れて家を出るようになり始めたころという時期で、

消費者運動や女性の地位向上の運動とか
弱者救済というおおざっぱなスローガンが正義だった
(利益対立するのはAとBとい二者間で起きるもので、
 どちらかに味方をすればそれでよかった時代。
 父親と母親のほかに子どもという第3者が登場する
 もう一つだけ複雑な考えかがら醸成されていない。
 また、子どもの利益ということを本当は考えていない)
そういう時代に合致した理論だったのではないでしょうか。

この学説が20世紀ころまで支配的でした。
ようやく20世紀末から21世紀にかけて
離婚後の子どもの実証的研究がなされ
発表され、
しばらくして日本語に翻訳されたのだと思います。

だから、
ゴールドシュミットの学説は、
現在定年に近い調査官、調停員、弁護士にとっては
唯一の学説であり、
まじめな人ほど、そういうものだという意識で受け入れていたのだと思います。

要するに、学説の変遷に対応できないでいる事情があるように思われます。
こういう人たち、特に新しい学説に対応できない弁護士は
新しい学説に対して批判を展開しようとしています。

しかし、残念ながら、
批判を見ると、
新しい学説を理解していないというよりも
理解しようとすることができないということが感じ取れます。

良く出てくるのがウォーラースタインに対する批判ですが、
批判するべき論文を読んでおらず、
別の論文を批判して批判しているつもりになっている。
アメリカの共同親権制度を理解せず、面会交流と混乱している
肝心なことはウォーラースタイン学説には
偉大な部分もあれば、弱点もあります。

その弱点は、その後の調査で克服されているのですが、
その調査に対しての検討はありません。

要するに、有効な批判になっていないのです。

この辺の詳しい批判は

(両性の委員会の平成25年の面会交流シンポの基調報告書は批判に耐えうるものか大きな疑問があ る。
 http://heartland.geocities.jp/doi709/menkai.html )

従って、特に理由もなく、即ち
家庭内暴力も虐待もなく、連れ去りの具体的な危険もない場合でも
面会交流に応じない場合は。

その理由を突き詰めていく必要があります。
そうして、同居親の精神的葛藤よりも
子どもの健全な成長のために面会交流が必要なのだという主張をすることが
第一になります。

そのためには、当事者も弁護士も
どうして、子どもが面会交流をする必要があるかについて
良く勉強をする必要があるわけです。

「こどものための法律と実務」日本加除出版株式会社
は、最高裁判所事務総局家庭局長が刊行に寄せてを書いているうえ
裁判官が中心になって作成している書籍ですから、

裁判所全体の考え方がこれだとみて差し支えないし、
裁判官も読んでいるという前提でよいです。

この本の記述に反することは
裁判所全体の考え方に反するということで、
この本にはこう書いてあるが、
私の理解は間違っているのか
ということで突きつけるべき本だということになります。

文献紹介も豊富なので
飽き足らない人はさらに学習するのも良いでしょう。


できるだけ、面会交流にともなう同居親の葛藤がどこにあるのか、
同居時にさかのぼって情報を収集し、整理し、
相手方の不安、連れ去り、人格否定、安心できないポイントを分析し、
面会することに関する不安をできる限り除去、軽減する提案を
こちらから行う必要があるということになると思われます。


調停当事者が陥りやすい誤りと対処法 面会交流調停別居親を例として [家事]

調停当事者となると心理的負担はかなり重いです。
ましてや、子どもと自分の将来がかかるとなるとなおさらです。
少し、何をどうするべきか、
第三者の代理人の視点からお話しすることが
当事者の方にとって有益であろうと思われます。
最後に、弁護士がどのような役割を果たすべきか
触れようと思います。

1 調停の理想は、調停委員をこちらの味方にして
  相手方を説得してもらうこと。

  調停がうまく進行しているときは
  大体は、こちらが待たされて、待合室にいる時間が長く
  調停委員と相手方が長く話している場合です。

  もちろん調停委員は公平を旨としていますので、
  こちらに、いわゆるえこひいきをすることはありません。
  だから
  「子どもに会いたい」「子どもに会わせたくない」
  というレベルで、当事者が話していると
  調停が宙に浮いてしまい、
  現状を変化させるという発想すら出てこないことがあるようです。

  調停委員が反対できない主張しなければなりません。

  親子面会交流の実施で言えば、
  「子どもを別居親である自分に会わる必要がある。」
  という言い回しが有効です。
  これに反対する調停委員は、ほとんどいません。

  これは、3年くらい前の家庭裁判所と現在とが
  全く違うといってよいところだと思います。
  (ただ過去の遺物のような方々も確かにいます。
   これについては、近々分析します)

  民法改正と最高裁の面会交流推進の動きが
  浸透してきたことは肌で感じるところです。 

  別居親と子どもと面会するということには変わらないのですが、
  賛同を得やすい言い回しを選んでいくという発想が大事です。
  その前提として、
  調停委員に味方になってもらうという発想を持つことです。

2 言い回しを別として、調停委員が敵対的になる理由


  第1にあるのは、子どもと同居している妻側が
  別居親である夫の暴力ないし精神的暴力を主張している場合です。

  第2にそれと関連して、調停委員は正義感があり
  弱者救済を意識しますので、
  弱い女性が、強い男性から苦しめられているという感覚を持つと
  弱者である女性を保護しようという意識が出てしまう
  ということがあります。

  しかし、これは、本当は、簡単にくつがえすことができます。
  暴力や精神的暴力をふるっていないあなたなら
  あなたの普段の様子、立ち居振る舞い、言動を見せればよいのです。

  いかに外面が良いという予防線を張られたといって、
  現実的に目の当たりにして接している相手を信用することは
  人間としての本能です。

  それにもかかわらず、
  イライラしてすぐに切れたり、
  調停委員の話をさえぎってはなし始めたり、
  人の揚げ足をとっていつまでもしつこくあげつらったり
  事案に柔軟に考えることができず
  正しい意見には従うべきだと教条的な態度をとる
  とにかく要求ばかりして、自分の思い通り行動させようとする。

  そういう常識的ではない態度をとると
  ああ、なるほど、結婚生活は奥さん大変でしたね
  奥さんの言うとおりだったのかもしれませんね
  ということになってしまうわけです。

  ただ、注意するべきなのは、
  別居前は、そのような人でなくても
  子どもを連れて、突然別居されれば
  誰だってこうなってしまうものだということです。

  今まで家族だと思って安心していたのに
  突如、自分を否定し、攻撃してくる
  こういう事態に直面すると誰だって、
  自分以外の人間が、自分を攻撃してくるのではないか
  という一種のトラウマのような状態になっているからです。

  これで無気力になり、相手の言いなりになる人と
  攻撃されている以上、戦わなければならないという人と
  根は同じです。

  要は、こういう自分を自覚して、
  上手に制御するということです。
  本当は違うんですということは
  調停委員に対するいいわけにはなりません。

  調停委員や裁判所を無駄に攻撃する人や
  自分の代理人まで攻撃してしまう。
  相手の心情を気遣う余裕がなくなっては
  調停はうまくゆきません。
  (私くらい図々しくなると
   そういう言い方すると不愉快になるしあなたの味方をしたいとは
   思わなくなりますよとはっきり言いますが
   普通はそこまで言わず、辞任することになるでしょう。)

  心理学的に言えば
  あなたは、人間性を傷つけられて、社会から孤立させられている
  調停は、その孤立の鎖を打ち破るところから始めなければならない
  ということです。

  同時に人間性、社会性の回復を意識していく必要があるのです。

3 ずいぶん良くなったといっても
  かなりひどい方もいて
  月に2回は面会したいと当事者が言ったら
  「どうしてそんなに会いたいの?」と
  高圧的に詰問してきた方もいました。

  代理人である私がぶちぎれましたが、
  ただ激高しているのではなく、
  怒り方があるのです。

  やはり、基準をきちんと学習し、
  基準に照らして、本当に不合理か
  基準に照らして、どの程度不合理か
  ということを述べていることが大事です。

  言い方としては
  あなたのその態度は、言い方は、
  全国の裁判所の方針と全く違う
  調停委員である以上裁判所の考えにのっとって進行しなければだめだ
  ということになります。

  その前提として、基準をきちんと押さえておくこと
  自分の意見をもつことは良いとして
  裁判所の公式見解がどうなっているのか
  あるいは最高裁が推奨する見解がどうなっているのか
  裁判官や調査官が、否定できない意見がどこにあるのか
  きちんと押さえておく必要があります。
  これが大前提です。

  
  次に、調停で行われた出来事を記録することです。
  録音をとる必要は一般的にはありません。
  メモ(議事録)を取れば事足ります。
  大事なことは、何か理不尽なことがあれば、

  調停期日になるべく接着して、
  準備書面、進行に関する意見書などの表題を付けて、
  日付を明らかにして署名押印し、
  裁判所に提出することです。

  先ず、自分から見て、期日に何がおこなわれたのか、
  客観的に、公平に記載します。
  それと分けて、それに対して意見を述べます。

  感情を爆発させるのではなく
  感情を冷静に伝えることが大事です。

  調停委員を味方につけるためには
  些細なミスをあげつらうのではなく、
  最高裁や裁判所全体の考え方に照らして
  このような扱いは反していないか
  自分はこういう思いをした
  ということを書面で提出するのです。

  これは記録につづられますから
  ある意味証拠になります。
  期日終了後、早く提出されればされるほど
  信用性も高いものになります。
  些細な誤字脱字にこだわるよりも
  大事なところが伝わるならいち早く提出するべきです。

  ただ、繰り返しますけれど
  調停委員も、職業として行っているわけではないので
  ある意味、他人の紛争にかかわるということは大変なことです。
  一方当事者の心情を理解することがなかなか難しいことが多くあります。

  少なくとも一度目は、非難をするのではなく、
  自分の心情という情報を提供するという気持ちが良いと思います。

  敵対するための書面ではありません。

4 目的を常に忘れない
  特に男性は、調停という手続きを把握し始めると
  とにかく負けないという本能が出てきてしまいます。
  いつしか、子どもを自分に会わせるという目的が二の次になり、
  とにかく裁判で勝ちたいという手段と目的が転倒する場面も
  第三者から見ると出てきます。

  会わせたくないという同居親を変えるという大きな目的があることを
  わすれてはなりません。
  弁護士の仕事を20年以上やって学んだことは
  他人を変えることは大変難しいということです。

  方法があるとすれば、
  自分が変わって見せるということが
  有効な手段かなと思います。

  相手は、同居時、今あなたが感じている理不尽を感じていた可能性があります。
  イライラしてすぐに切れたり、
  話をさえぎってはなし始めたり、
  人の揚げ足をとっていつまでもしつこくあげつらったり
  事案に柔軟に考えることができず
  正しい意見には従うべきだと教条的な態度をとる
  とにかく要求ばかりして、自分の思い通り行動させようとする。
  
  これは客観的にそのような事情がないにもかかわらず
  相手の主観的には、そう受け止める可能性が大いにあるようなのです。
  (思い込みDVで検索してみてください)

  要するに、自分が人間として尊重されていない
  一緒にいて安心できず、いつもびくびくしていなければならない
  ということです。
  
  こちらが変化をして見せることによって
  相手をことさら尊重して見せることによって
  相手が変化するということは
  面会交流の実務に携わって多く経験してきています。

  相手のミスや、不安、常識の範囲のわがままを
  尊重することによって、信頼を勝ち取って
  子どもが別居親と会える時間が拡大していった例が
  少しずつ増え始めています。

  どちらが正しい、どちらが合理的という評価ではなく、
  そのような人間である相手をどのような方法で
  現実に変えていくかという発想が調停では
  あるいは、日常の夫婦の間では必要なのかもしれません。

5 弁護士の役割
  以上のまとめになります。
  弁護士は、
  先ず、調停委員をこちらの味方につけるべく、主張を組み立てる。
  次に、当事者の精神状態を安定させ、相手の挑発に乗らせない。
     そのためには、理不尽な状況下で感情的になりやすいことが
     その人の属性ではなく、環境に対する反応だということを理解する。
     調停委員や自分に対して礼を失した態度を注意してなおしてもらう。
     さらに社会性の回復を提示できればなおよし。
  次に、最高裁や裁判所全体の考え方に精通し、
     調停委員の知識不足や誤解を修正してあげる。
     逸脱した言動は、証拠化し、審判官などと協議し是正してもらう
  次に 子どもの健全な成長という目的を見失わない。
     当事者を満足させる以上に子どもの利益を上において
     依頼者、相手方、裁判所に提起できるようにしていること
     選択肢の一つとして、依頼者の変化を提起する
     相手方の心情について可能性を共有する。
     相手と敵対するより、信頼関係の構築のための方法に価値を置く。
     

  
 

尾木ママ久しぶりにカストリマスコミにカウンター なぜ逃げられないか フリーズと絶望 [事務所生活]

先日無事保護された誘拐事件の件で、
尾木直樹氏が、マスコミにゲスの勘繰りはやめるように
苦言を呈したとのことで、
尾木ママが男を上げた(いいんだよね。)ようです。

ネットでは、ぶーぶー文句が言われているようですが、
論点がかみ合っていないようです。

マスコミの問題は、
被害者が逃げることができたはずだ
という前提を勝手に立てていることです。

物理的に体を動かせたから
逃げられたはずだという
素人考えです。

対人関係学的に言えば
生きる意欲を失っているのであれば
逃げようともしないで
ただ、あきらめている
という状態がありうることは初歩の初歩のお話です。

人間は危険に直面すると
危険から逃げることを基本としますが、
危険に挑んで戦うということも選択します。
勝てるという意識が生まれたときは戦うという選択肢をとるようです。

しかし、
逃げることも不可能だ
戦っても勝てないという認識を持ってしまうと
即ち絶望ですね。
生きる意欲を失ってゆきます。

極限的には
高い崖などから転落した場合、
絶望を感じた場合は
気絶してしまいます。

これが緩やかに抵抗力を奪われていくと
あきらめが徐々に蔓延してゆきます。

絶望を感じる理由は
いくらでも想定できます。

内鍵がかかってあかなかった。
逃げようとしたところ、ひどい目に遭った。
逃げたら殺すといわれた。
親に危害を加えるといわれた。

こうして、逃げようとする気持ちさえ奪われていく
というこは簡単に想像することができます。

そして、すべての行動を規制されてしまうと
徐々に、加害者がどのようなことを求めているか
という加害者の意思を探るようになってしまい、
自分の感覚で行動することができなくなってしまいます。
支配と服従です。

服従し、社会とのつながりを絶たれていけば
絶望しか残らないことは
ジュディスハーマンを引用するまでもないことでしょう。

被害者は、あくまでも被害者です。
子どもということもあり、
大人の責任として、
少しでも、人生を取り戻して楽しく生きていってほしいと
少なくとも、それがマスコミの立場でなければなりません。

今の、エログロナンセンスで視聴率を上げるしか能のない
カストリ雑誌のようなマスコミでは
被害者であろうと、15歳であろうと容赦はないようです。

わからないなら黙っていることが一番です。
あるいは、拘禁反応や絶望などということは
心理学の初歩の初歩ですから
心理学者に語らせればよい話です。

それは、逃げられたはずだと
勝手な前提を置いて議論を進めるということは
カストリマスコミの本領発揮、
目的はエログロナンセンスの話題を提供して
視聴率を獲得する
という目的にそって行動しているとしか
考えようがないからです。

公共の電波を使って
被害者を傷つけるだけの下衆の勘繰りはやめて
まさにその通りです。

尾木先輩
見直しました。
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