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許される側だけでなく、許す側も再生されるというこ HIbakusyaに学んだこと。Thank you, Mr.President ! [事務所生活]

以前、自分が許されたいくつかの体験などから
許すという行為は、
許された側が、
再び生きる活動を始めることにつながることで
それは、神の創造に類する行為であると述べたことがあります。

今回、許された側だけではなく、
許した側も再生されるというお話に接しました。

オバマ大統領の広島訪問をきっかけに
被爆者の方々のお話が報道されました。
5月27日のNHKおはよう日本の中で、
被爆者の梶本淑子さんが、

海外の若者に被爆体験を語った時に、
アメリカの若者が頭を下げたことで、
その時原爆投下の責任を問えるはずもない若者の心に
傷を負わせてしまったと申し訳ない気持ちになったそうです。

そして許さなければ
自分の中で戦争が終わらず前に進まないことに気づいたと
おっしゃっていました。

ご自分が許すことで
ご自分の人間としての生を取り戻した
ということであれば、
ご自分を再生された
ということになるのだと気づき
衝撃を受けました。

被ばく団体の代表の方もおっしゃっていましたが、
原爆投下は、アメリカの誤りではなく、
人類の誤りだと

なるほどそうであれば、
核無き世界は
人類の共同作業になるでしょう。

原爆投下の責任はなくても
核無き世界を作る責任は
人類全体にあることになります。

許す
ということは、
創造の条件になるのかもしれません。

みなさんが生きているときに
アメリカの大統領に広島に来ていただいたことで、
やはり、
新しい一歩になったのだと思います。

人類の一人として
感動を込めて、感謝を申し上げます。

普遍的体制維持派という最大多数の選挙民群が存在する。対人関係的政治学 [家事]

今度の参議院選では、
1人区に、与党も野党も
それぞれ候補者を一本化し、
事実上の一騎打ちが行われるようです。

それぞれ、理念を戦わせて選挙活動が行われることでしょうが、
政権党は気が付いているようなのですが、
現野党はどうも気が付いていないのが、
有権者の投票行動と、棄権行動について、
どこに、モチベーションがあるかという点です。

平和の理念とか、人権とか、民主主義とか
そういうものの具体化で投票先を決める人も
ある程度はいることでしょう。

しかし、そういうことで棄権をする
という人はいても少数派でしょう。

要するに、正しいことをいくら言っても
その人に投票する有権者は少数であり、
政権の行方には、あまり影響しないということです。
これは、これまでの選挙において、
十分証明されているはずです。

203高地のように
これからも、正しいことを言い続けて
負け続ける理由は、
一定の傾向を持った有権者群について
十分理解していないということです。

その有権者群を
普遍的体制維持派と名付けました。

要するに、どんな状況でも
今、政権を担っている人たちを
信任しようとする人たちが
対人関係の中で多数派になる
という仮説です。

今頑張っている人が
「私たち」の代表であり、
その人たちに失礼なことを言うことは
直感的に許されないということです。
人間として許せないのです。

大事なことは、
多くの人のモチベーションは
正しさではなく
優しさだったり、居心地の良さだったりするということです。

この意識の強い人たちは、
現政権を指示するべく投票に行くでしょうし、
それほど強くない人たちは、
消極的信任の気持ちで投票を棄権するわけです。

もし、私の仮説の通り、
多くの有権者群において
このような現状維持、現体制維持
という観点しか行動原理になっていないなら、

あるいは、優しさや居心地の良さだけが行動原理なら、

どんなに正しいことを声をからして訴えても
心に響くわけがないのです。

現政権の批判をすればするほど
その内容を吟味することなく、
批判者に対して生理的嫌悪を抱くということになります。

但し、もともと、その批判者を支持している群は
支持が強まります。
その人たちにとっては、批判という日常こそ
自分の代わりに言ってもらっているという側面もあり
心地よいからです。
批判者相互に優しくしあうわけです。
政治的には結束を固めるということらしいです。

批判をするときこそ
批判をする対象に対して
最大限の敬意を示さなければならない
最大限の配慮を示さなければならない

それをすることによって初めて
消極的信任を行う人たちを
振り向かせることができる可能性が出てきます。

批判の中身が
わずかに違っていても、
多数は、「ほらみたことか。嘘八百ばかりだ」
と胸をなでおろすわけです。
胸をなでおろしたいからです。

批判の表現が、批判により実現しようとすることとそぐわない場合
死ねとか、顔や声やどうでもよいことを揶揄するような場合は、
あからさまに、自分たちとは別の人たちだ
という意識になってきます。

ところが批判グループは、
同じような傾向の人たちとしか意見を交わしませんから、
どんどん、怒りや憎しみばかりが高まっていっているわけです。

そういうことをいっても、たしなめる人もいません。

自ら少数派の穴の中に積極的に入っていっているわけです。

多数は本能的にわかってしまいます。
みんなのためときれいごとを言っているが、
所詮、自分の現状に不満を持ち
自分はこんなものじゃないということをしめすために
体制に八つ当たりしているのだろうということです。

少なくとも、「私」のことを考えてくれてはいない。
この人たちに乗っても、私に利益はない。
ということですね。

何で、非政治的な対人関係学がこんなことを言い、
カテゴリーが家事なのかということですが、

夫婦の中で、あるいは親子の仲で、
相手に変わってほしい、相手に自分の行動を手伝ってほしい
というような場合、

どうしても、相手を攻撃してしまう人がいるわけですわ。
うそでも、相手を立てることができない人ですね。
それでも言っていることは間違っていないようなのです。
でも、その正しさは、居心地が悪そうだし、
少なくとも、優しさとは全く違う。

でも自分で止められないのです。
自分を支持してくれる人に対して
相手の悪口を言い続けるわけです。

家庭の中が良くなるわけがありません。

これを政治に応用すると
今回の記事になります。

しかし、よく考えると
野党の方も、実は与党も
確かに、理念を語らなくなってきました。
とにかく統一することに集中しているようです。

これは、統一という
維持されるべき現状を、
危うい現状を提示するということで、
居心地の良さを自分たちで作ろうというならば
それはそれで当たるかもしれません。

正しいことを言うだけで
批判の方法を吟味しないならば、
むしろ批判しない方が
投票を獲得するということに
実は気が付いたための行動なのかもしれません。





またしても出てきた「心のケア」 専門家が具体的に何をどう改善するのか 疑問 [震災等]

「心のケア」が、熊本の震災で
また唱えられるようになっています。

確かに、自宅に住めず、
大きな余震も続いているという
当たり前の日常生活が送れない状況では
緊張状態の持続が強いられ
心身の不調を訴えることは
あまりにも明らかなことです。

それは否定しません。

ではどのような対策を取ればよいかということについては
前に述べていますので、
割愛します。

「『心のケア』という言葉にうさんくささ、疑問を感じたのは、結果の押し付けというつじつま合わせを感じたからかもしれない。心は客観的状況を反映した結果。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-01-19

問題は、心に問題が生じているということは良いとして、
ではその問題を解消しましょう
ということになるのは良いとして、

誰が具体的にどのように行うのか
その行った結果は良かったのか
というところにあります。

私は、コミュニティーの機能を高め
自分たちと呼べる人たちが
積極的に助け合い気遣いあう環境を作ることが
心のケアであり、

根本的には、
生活環境の改善への手厚い援助によって
解決するべき問題だと考えています。

ところが、
「心のケア」という言葉が使われるときは、
このような根本的な対策と切り離され、

「心に問題が生じた人たちを
 スクールカウンセラーなどの
 コミュニティーの外部の
 『専門家』が解決するものだ
 ということが前提となっているようです。」

問題は、この専門家の先生方が
具体的に何をするのかということなんです。

「そんなこと素人が知らなくても良いじゃないか」
と言われるかもしれませんが、気になります。

素晴らしいお仕事をする方もいらっしゃるのだとは思うのですが、
子どもたちからの相談を受けていると
何もしてくれないという不満とか
結局同じことになるとかいう不満が
多く聞こえてきてしまうのです。

どうも、解決ノウハウや知識、技術よりも
熱意やお人柄の方が重要であるような
そんな印象を受けてしまいます。

私は、
行政やマスコミ
震災によって、心に問題が生じている
何とかしなければならない
心といえば、心の専門家に委託だという、
安易な発想しかないのではないか
と猜疑心を持ってしまっています。

委託という丸投げをする方が
具体的に、子どもたち、住民たちの
問題点がどのような原因で、
どういう反応をしてしまっているか
という分析をきちんと行い、

この分析に基づいて
具体的に、何を改善するかを割り出して
そのために必要な技術や専門性がある人たちに
具体的に行動を依頼しているのか、

そうではなく、
「心」という言葉に反応して
「心」の分野を売り物にしている人たちに
お金を払って、
心の問題の改善という結果だけを要求しているのではないか
と邪推しているわけです。

結果を要求するなら良いけれど
「なにかやっている」という実績だけを求めている
というわけではないことを祈るばかりです。

専門家の方も重々わかりながら、
何とか役に立ちたいという圧倒的多数の方々の中には
職域拡大のチャンスとして
結果の出ない仕事を引き受けているかたが
紛れ込んでいるのではないかと
そんな悲観的な考えもちらちら頭をかすめます。

ちなみに、私が邪推している心のケアの専門家
の方々のアプローチは
子どものケアであれば
子どもに直接働きかけるのでしょう。

私のアプローチは
むしろ、親たちやコミュニティーの大人たち
学校の先生という大人たちに
助け合う、緩やかなコミュニティー形成の方法を
提案して、ともに実践してみる
ということになります。


人の振り見て我が振り直せ 自己洗脳の脱却方法 損して得取れ 和の心の再構築 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

一年くらい前も同じことわざで記事を書きました。

「共鳴力、共感力は、人の振り見て我が振り直せシステム。後天的に学習できる。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-04-01

その時は、人間という弱い動物が生き残るシステムとして
共鳴力、共感力が必要だったということで
お話ししました。

今回は、自分の思い込みを是正する方法として論じます。

例えば離婚調停等をやっていて
「どちらが悪い」という不毛な論争から脱却できたとしても
楽しく家族として生活するためには
現状を改善しなければなりません。

相手に対する不満のポイントばかりが目につくのですが、
実は、そこに不満を抱いていること自体が
解決を不能としている場合があります。

誰しも
自分がこうしたいという感情を基軸に
物を考えたり、感じたりするのですが、
その自分の感情は、果たしてそれでよいのか
ということを考えなければ
解決しないことがあります。

元々、相手にこうしてほしい、ああしてほしいと
願って望んでも
相手も心がありますから
結論だけ押し付けられても
反発することがむしろ多いのではないでしょうか。

相手を変えるためには
こちらかがわかって見せることが
唯一の方法だ

と考えています。

どちらが正しいなんて子どもみたいなことから卒業しても
相手に負けたくないという気持ちがあったのでは
対人関係は解決しないのです。

主義主張があることは別として、
例えば、
食事を作る場合、
自分だけが調理をするのは損をしている気持ちになる
という奥さんがいたとします。

ところがこのご夫婦の場合、
奥さんは、調理はそれほど嫌いではない、
また、おかずの出し入れで、
旦那さんが機嫌が良くなったり悪くなったり
きわめて単純で、(男は大概そうですが)
相手のコントロールが可能というのであれば、
調理をすればよいわけです。

食事を作るのは相手のためではなく、
家族の在り方をコントロールする方法だし、
家族のために作るというフォアザチームの発想を持てば
自分も家族というチームの一員なのですから
損をしているという感覚は強くならないはずです。

知らず知らずのうちに、
チームの状態を一員として判断するのではなく
自分と夫との
対抗関係として人間関係を見てしまっているのです。

「損をしている」という感覚をもつという抵抗感があるということは
「損」とは、自分が尊重されていないことを表すような
そういう評価をしてしまっています。

「損」は間違っているのでしょうか。
家族のために
自分の労力を使うということは損でしょうか。

損得は、近代というか、資本主義的というか
そういう価値観だと思うのですが、
こういう評価基準は家庭の中に入るべきなのでしょうか。

逆に夫は、
自分だけが家族のために働いて
会社で嫌な目にあって苦労している
これを損と言いはしないでしょうが、
だから家族は自分を尊重しろ
というのであれば、
やはり損得の感覚が滑り込んでいるような気がします。

妻に負けたくない、夫に負けたくない、
損をしたくない
という気持ちが、
家族というチームの構成員の中で生まれることは
チームを解消する方向に働くでしょう。

ある意味負けりゃあ良いんです。
それで家族が楽しくなるのなら
一時的に負けても、それでより結びつきが強くなったり
家族が家族でいることに居心地が良くなるなら
なんぼでも負けましょう。

なぜかそれができない。
変な価値観に支配されているわけです。
こういう夫婦は、一方的に負けたくないというより、
相互に意地を張っていることが多いようです。
先日述べたように相互作用だからです。

どちらが、妙な価値観からいち早く脱却するか
という問題なのですが、
既に自分に確立されてしまった価値観を
改めて疑うということはとても難しいことです。

弁護士みたいな第三者が口添えしても
感覚を修正することは大変難しいようです。

このたび、その方法を見つけました。
それは、
むしろ相手の悪いところ、嫌いなところを
徹底的に分析するところです。

相手は、自分に負けたくないと思っている
自分に何か言われると、指図をされているように不愉快になる。
意地を張って言わなくても良いことを言っている。
子どものことを顧みない。
まるで子どもだ。
等々など。

さあ、ここからが問題なのですが、
じゃあ自分はそういうところはないのか
ということです。

多くの場合、形が多少違っても
同じような発想になっています。
意地を張っています。

自分のこととしてはわからないけれど
相手を見て、自分と照らし合わせることで、
相手の嫌なことはそっくり自分もおんなじだと
気が付くことができるでしょう。

ロールプレイングとは、これです。
司法試験などのグループ学習も
これを期待して行っています。
「他人を評価する時は、自分の実力は1.5倍増しになる」
ということです。

対抗意識がありますから
すぐにそれ(自分も相手と同じにはりあっていること)
を認めることはできません。
「自分の行動は、相手が悪いからこうなった」
という発想になるでしょう。

でも現状を変えようとした場合
過去においてどちらが悪いということは
あまり意味のないことです。

どちらがよい関係を作ろうとしたかで
考えればよいのではないでしょうか。

ここで、相手にあわせるという形で
自分を変えて見せる
「私はあなたを尊重しているよ」
という強烈なメッセージになるはずです。

近代的、文明的、西洋的価値観を捨てて
損して得取れではないですが、
和の価値観を再生するべきだと思います。

あなたのご家庭だけでなく、
職場や地域もそうですが、
必要以上の功利的な価値観は、
結局悪くなるだけのような気が
最近特にしているのです。

恋愛時代が楽しくて、結婚後しばらくすると相手への不満を自覚するようになりがちな理由 [家事]

みもふたもないタイトルです。
人それぞれ要因があって、
それぞれ複合的に絡み合っているのでしょうが、
これは、むしろ、必然的なところがある
というところをお話しようと思います。

もちろん、結婚後しばらくしても
楽しくてしょうがないという人も
いらっしゃるのでしょうが・・・

これについては、
なぜ、恋愛中が楽しいか
というところから始めなければなりません。

交際初期は手探りなわけです。
パートナーとして、
自分が受け入れられるかということは、
交際を始めたばかりは
おっかなびっくり
ということになるでしょう。

このため、
恋愛初期のように
相手に自分が受け入れられていく
ということは、
自分を認めてもらっている過程ですから、
もう、毎日が自己実現、自己肯定
尊重されるという幸せな日々だということになります。

実際は、あまり言うこともないので
健康を気遣うなんてこともありますがね、
風邪ひかないでねなんて、
ふきっさらしで引き留めているよりは
さっさと帰した方が風邪ひかないんですけど本当は。

恋愛適齢期になれば
家族だってもう、それほど気遣ってくれませんから
自分を気遣ってくれるということは
新鮮な喜びになるわけです。

ただ、一緒にいるだけで新鮮ですよね。

これは、すぐになじんでしまうよりも
おっかなびっくり、手探りという
謙虚な気持ちがあるほど
喜びも大きいわけです。

ところが、結婚して、
家庭生活を営むようになると、
役割分担をある程度していくことになります。

最初は、他人が自分のためにご飯を作ってくれる
なんてことだけで感動だったのですが、
次第に「当たり前」感が出てくるわけです。

この当たり前感は、別の言葉で言うと「馴れ」です。
いろいろ配慮されることが嬉しいのは、
それが、自分は受け入れられるのだろうかという気持ちがベースにあって
おや受け入れられた
という発見にあるから、

いつもご飯を作ってもらっていれば
いつも新たな発見をすると言うことはないですから
そのことで、ああ自分は尊重されているんだなと
感じにくくなるわけです。

そうやって、お互いが、
馴れ親しんでいくなら良いのですが
そうとばかりは限らないわけです。

心いろいろな要因があるのですが
そのうちに絞って話をします。

要するに恋愛時代は
双方が、お互いを、無意識のうちに
二人―のチームに取り込もうという
取り込み作業をしています。

この取り込み作業ですが、
それをしている方は、だんだん馴れによって
あるいは同居などすると
取り込み作業をしなくなります。

だからと言って
取り込み作業の反対である
放出作業(別れ話とか)
をしたいと思っているわけではないです。

それはわかっていながら
取り込まれていた方は、
取り込み作業がなくなったという
変化を発見しますから、

取り込み作業をしたいとは思わなくなったんだな
という感覚を持つわけです。

そうして、色々な事情が重なると
取り込み作業をしないこと
イコール
放出作業の準備
と感じるようになるわけです。

疑心暗鬼です。
疑心暗鬼の初期は、ごく小さい違和感です。
ところが、相互作用ですから、
例えば妻が疑心暗鬼になると
それがなんとなく態度に出てきます。

夫の方は、なんか攻撃的だなと思うと
自己防衛に出てしまいます。
相互作用ですから
妻もそれを見て防衛活動を始めてしまいます。

ここでいう防衛活動とは
先制攻撃です。
自分は悪くない、
相手の勘違いだったり
相手の過大要求で自分が苦しんでいる
と考えて
相手が悪いということを強調する行動です。

これは、無意識に、心の反応として
行われるので始末が悪いのです。

そうして、相互不信は
雪だるま式に育ってしまう
ということがあります。

だんだん、なにをやっても
相手から否定されるのではないか
放出活動の理由にされるのではないか
と感じてきてしまいます。

はじめのきっかけは
はっきりと認識していませんが、
いつしか、相手への不満だけが
はっきりと言葉に出せるくらい
自覚するようになるわけです。

こうなると、
巻き戻しをすることは
大変骨が折れる仕事となります。

ごく初期の、
放出感の芽生えの段階で
修復することはとても簡単です。

とにかく、感謝を言葉に出す
挨拶と割り切って言葉に出す。

仕事をして収入を入れてくれれば感謝
食事を作ってくれれば感謝
ありがとうという言葉を
とにかく発していく。

ごめんなさいという言葉をとにかく
口に出していく。
ということから始めるということが
放出のつもりはないよという
メッセージになることが多くあります。

そして、曜日を決めて、
相手の自分にしてくれることを
じっくり考えてみて
感謝の気持ちを持つ習慣を
作れれば良いのでしょうが、
なかなかいうは簡単ですが
というところかもしれません。

他人の自死に対して憤る理由 忌み嫌うということ 絶望回避のシステム(閲覧注意) [自死(自殺)・不明死、葛藤]

昨日は、取り乱してしまって
文体もめちゃくちゃだし、
そもそも、書き始めから逸脱していました。

何を書きたかったかというと

どうして、他人の自死に対して
怒りを表してしまうのか
という、そのメカニズムについてでした。

(今回は、もしかすると
 極めて不快な感情を抱くかもしれませんので、
 注意して読み進めてください。)


他人が自死しようと、
特に自分に害がないならば、
ああ、お気の毒に、ご冥福を祈っていれば良いはずです。

しかし、特にネット上で
無責任だとか、
浅はかだとか
死ぬ気で生きろとか
生きたくても生きられない人がいるんだとか
死んだ人にムチ打つ論調が必ず出ます。

遺族を苦しめる結果となるのですが、
書いている本人たちに
それほどの悪意は感じられません。
しかし、怒っているのです。

怒っているだけならばよいのですが、
それをネットやテレビなどで
意見発表をせずにはいられないようです。

死んだ人には、もちろん届かないメッセージです。

ではどうして、そのように
意見表明をせずにはいられないのでしょう。

唐突にゴリラの話を迂回させるのですが、
ゴリラは、胸を叩いて
緊張(興奮)を鎮めるといいます。

実は、自死を非難する意見表明も
これと似ているのではないかと見ています。

怖いのです。
自死者の絶望に共鳴してしまうのが怖い。
このため、共鳴という危険から
逃れたいという無意識の要求が生じます。
(もちろん本人は、この自覚はないでしょう)

危険から逃れる方法は
文字通り、逃げることと
戦って危険をつぶすことです。

自死や自死者を非難することは
逃げたり、闘って、
自分が自死者の絶望を除くことを
回避する有効な方法なのです。

どのように否定するかですが、

「自死した人は、特別弱い人である
 (意思が弱い、無責任、etc.)」
という裏には
 「自分は、特別弱いわけではない。
  だから自死しない。大丈夫」
という言葉が隠されているわけです。
自分に向かって安心させているわけです。

だから、自死の原因も
死ぬほどのことではないと
「否認」の姿勢を貫きます。

借金なんかで死ぬなどおかしい」
「中学生が死ぬなんて浅はかな考えなしだ。」
「死ぬ気になれば何でもできる。」
これは、最も合理的に
自死者の絶望を見ないための方法です。

もしかすると、
われわれ自称自死予防活動家たちも
何か予防する方法があったはずだ
と思いたいがために
自死予防の活動をしているのかもしれません。

これほどまでに、
絶望を感じることは
人事であっても
生命体に取って極めて有害です。

本当に絶望を感じるとき
生命体は生きるための活動を停止してしまいます。

例えば、高所から落下してしまった時や
猛獣の群れに囲まれてしまったときなど、
気絶したり、仮死状態になるといわれています。

 これに対して、処刑される時は
 相手が人間であるために、
 助けてもらえるのではないかという
 一縷の望みをつい持ってしまうことが多いようです。

処刑に至らなくても
やがて追放に至るだろうとか
またもとの群れの構成員として尊重されるようになる
ことは絶対ないという確信を持った場合は、

気絶という瞬時の生きるための活動停止ではなく
徐々に生きるための活動が鈍くなり、
タイミングが悪ければ自死に至るわけです。

これは当事者だけでなく、
当事者の絶望を覗き込んだだけで
生きるための活動が鈍ることが多くあります。

人間特有の生き残るための仕組みであった
共感共鳴というシステムです。
絶望に引きずり込まれるような感覚なのでしょうか。

だから、絶望に引きずり込まれそうになるところから
逃げ出そうとするわけです。
あるいは、近づこうとしないわけです。

これが「忌む」、「忌み嫌う」という現象です。

本来死ぬこと自体が絶望的現実なのですが、
天寿を全うするとか
手厚く葬られるとか
死者の名誉や生前の功績を称賛される
ということで、
慰みを持つことができます。

これが、無残な殺され方をしたとか
死体が放置されれば
やはり忌み嫌われるわけです。

忌み嫌うというのは、このように
人間が生きるためのシステムであり、
あながち否定されなければならないものではないでしょう。

しかし、どんな死にざまをした人であっても
身内は、いとおしいものであり、
その絶望を共有しても
あるいはそれは供養として
生きる糧にかえることもありうることです。

死者であったとしても
人前で、ネット上で
それをいたずらに非難することは
何の役にも立たないばかりか
WHOは、スティグマを与えてしまうことによって
自死予防を妨げると警告しています。

日本人は伝統的に
忌み嫌うべき場面でも
地域、血縁共同体の中では
忌み嫌う感情を極力抑え、
遺族を尊重します。

そして
自宅に到着した時に
塩をかけるという象徴的行為を儀式として行うことによって
気持ちの切り替えをして
日常生活に復帰するという知恵をもっています。
(これは宗教的儀式ではありません。
 特に仏教は、死を穢れとみていません。
 また、遺族が塩を用意するというのも
 考えてみればおかしな話です。
 葬儀が、第三者である葬儀社が行っている
 ということの象徴でしょう。)

誰も傷つけない、
また、自分についてのメンタルケア的な行為を行うシステムですから、
極めて高度な文明なのだと思います。

日本を学び、先祖から学ぶことは
とても大切なことであり、
現代の問題を可決するヒントが
たくさんわかりやすく用意されていると思います。





中学生の自死(自殺)が短慮、浅はかに行われているという無知に強く抗議する [自死(自殺)・不明死、葛藤]

中学生の自死を防げなかったことに
自死予防の一端を担う者として悔しくてならない。

ただ、今回の事件に対するリアクションで
疑問を感じたことは、

例えばカウンセラーを自称する人が
怒りをあらわにして、
「死ぬな、生きろ」と
上から目線でメッセージを表明したり、

親を含む他者への迷惑をあげて
だから死ぬなとメッセージを出していることだ。

自死をする中学生は
大人以上に、些細なことで自死を選択し、
大人以上に、何も考えないで自死をすることが
前提とされているようである。

おそらく善意でメッセージを表明しているのだろうが、
これは死者にムチ打つことであり、
遺族を苦しめるだけではないのか。

また、そのようなお気楽な前提での
中学生の自死の把握では、
予防にも役立たない。

結論押し付け型の
パワハラ型言動であると感じた。

もちろん、彼らも
自死をさせたくないという本意であることは理解できるが、
そのような結論をお願いしても
結論は左右されない。

中学生の環境は
大人よりも過酷である。

自我が目覚め、
自分の可能性を考え始めようとする時期に
既に左右には厚くて高い壁があり
自分の個性がどのようなものであろうと
その中を進まなければならないようになっている。
と感じているだろう。

はじめから自分らしく生きる自由など
感じられない。

では自由に生きなくても良いから
寿命まで幸せで生きられるかというと

定年退職まで雇用が約束され、
社会保険が完備して退職後もそれなりに暮らせるという
何とかなるだろうという
漠然とした楽観的な考えをもつことも許されない。

中学校時代、
万引きや暴力や多少の逸脱があっても、
一発試験で挽回できるというものではなく、
推薦入試という形で
3年間、何の問題も起こさないで
全力を出し続けることを強制される。

365日監視されているようなものだ。

失敗が許されない生活を送らされているのだ。

失敗しなければ良いわけではない。
誰かのミスを自分のせいにされても
推薦入試は終わりである。

少なくない中学生は、
その失敗は、将来のフリーターや
派遣切り、リストラの予備軍だと
感じているようだ。

実際、そのような指導が
中学や高校では、なされている。
「老後に年金のない生活でよいのか」
と、極めて悪質な恫喝で
生徒たちは管理されている。

そのような緊張の連続は、
どこかに息抜きを求める。
この場合の息抜きは、
自分よりも弱い者を見つけて
それを攻撃し、
あいつより自分はまだましだ
という確認をすることだ。

このため、いじめの対象は
何らかの弱い者であることが多く
いじめられている子の言動などが
原因になるわけではない。

即ち
差別が過酷になる。

性同一性障害に対する差別
発達障害に対する差別
弱さを伴う差別がいじめの対象となる。

差別の仕方も過酷だ。
ヘイトスピーチは見ず知らずの者が行うが、
中学生の差別は、
毎日同じ学校に拘束されるものから行われる。
自分のわずかな理解者の面前でも行われ、
被差別者に対して理解を示すことも
できなくなっていく。

文字通り日常の中において
心休まる場所がなく、
いつ攻撃が来るか
毎日が苦痛の連続である。

そして、
誰も助けない。
報道によると教師すらも見てみぬふりをしている。
親に話すこともできない。
親を心配かけたくないという話はとても多く聞く。
絶望しかない。

大人は、クラス替えまでというが、
クラスが変わっても攻撃しに来るやつもいる。
廊下などでも会うだろう。
会いたくないということが
毎日のテーマになる。
これは相当辛い。

そして、自分の障害が
治療などでなおらないとするならば、
一生同じ苦しみを味わい続ける
という感覚を蓄積していくわけである。

13,14歳の一生は70年くらい続くだろう。
70年間苦しみ続けるのだと
みんなと同じ立場にはなれないんだと
そういう絶望感を
あなた、浅はかだといえますか?

そういう絶望感を持つ子供たちに対して
死ぬな、生きろと
上から目線で言えますか?

言われた方は、
なるほどそうですねと
考えを改めると本当に考えていますか?

まずは大人が
差別をされて虐められている子どもたちの
絶望感に向き合う必要があります。

虐めている子どもやその親の反撃が怖いならば、
その子供たちのいないところでかまいませんから
思いっきり虐められていることをかばい、
特別大事にしているというメッセージを伝えるべきではないでしょうか。

本来は、大人がチームを組んで、
虐めている子どもたちに
絶望を与えていることを指導し、
みんなで協力して助け合う喜びを指導しなければならないのですが、

そこまで力量がないならば
(時間、条件を含めて)
徹底的にかばわないとだめだと思います。

自分のところに逃げてきていいんだというメッセージを
確実に伝えなければ
絶望しかありません。

形式的な謝罪の会で一兆上がりでは
立場が悪くなるだけです。
それは単にアンケート調査のつじつま合わせであり、
逆効果に過ぎません。

カウンセラーを含めた社会が
いじめから逃げても良いんだという
風潮を作らなければならないこの時に、
死ぬな生きろでは、
なんていうか、
そういう人の心を理解しない人が
まだ、カウンセラーを続けるのでしょうかね。

家事事件に見る、不貞、不倫、浮気について [家事]

なんだかんだといって
意外と私は家事事件が多く
離婚事件をライフワークにしている弁護士なのですが、

結婚していながら別の人と交渉を持つ
いわゆる不貞事件もかなりのケースを担当してきました。
いろいろな立場の方の代理人となっているのですが、
ぼんやり見えてきたように思うことがあります。

一つの家族を基軸に考えた場合
考えられる登場人物は4人ということになります。



夫の浮気相手
妻の浮気相手

単純に男女比較することはできませんが、
私が担当した事件においては、というお話です。

一番精神的に深刻な影響を受けていたのは
夫(妻が浮気をしたケース)です。

疎外感や絶望感、抑うつ感がひどく
自死に至ったケースもありました。
劇症のうつ症状という感じです。

妻(夫が浮気をしたケース)も
精神的打撃は大きいのですが、
形がやや違うように思われます。

一言で言えば、混乱、昏迷
という感じです。
パニックになったり、
不安による焦りを強く感じます。

たとえて言えば
妻の方は、自分の人格を否定されたという感じですが
夫の方は、自分の存在自体を否定された
という感じでしょうか。

どちらも心配なことは間違いありません。

どちらかというと女性の方が
夫や浮気相手に対する怒りをもつことによって
気持ちに区切りをつける、夫を見限る
ということができたケースが多いように思います。

これに対して
男性の方が絶望的になり、区切りを付けられない
という感じがします。

浮気の相手ということでの違いは、
男性の浮気は、文字通り浮気なことが多く
あまり何も考えない、
その場の感情や欲望での行動という感じです。

女性の方は、
たとえて言えば
相手と同じチームを組みたいという
一過性ではない行動として
妻のある男性と交際をすることが多いようです。

同じ浮気でも
男女の思惑は違っていることが多いようです。

夫のある女性の浮気の多くは
夫との、精神的なチームという感覚が失われてしまい、
夫以外の男性とチームを組んでいるような感覚になっている
そういう浮気が多いように思われます。

いろいろな要因がありましたが、
物理的に遠くにいる
一緒にいる時間が少ない
同じことを一緒にすると言う時間が少ない
という比較的物理的な要因も多くあるように
感じています。

あとは、
逆に、浮気相手の男と、
一緒にいる時間が多い
共同作業をする時間が多い
同じ目的でチーム感覚が先についてしまう
ということも
ありました。

変な話ですが
これが女性の浮気のノーマルなタイプのようです。

これと違い
一過性の浮気をする場合や
複数の男性と浮気をするという場合、
風俗店で働くような場合もあるのですが、

このような浮気をする女性には
精神的にかなりの問題があるケースが多く、

詳細はわからないのですが、
結局、入院に至るという事案もありました。

この顛末を知ったとき、
かなりのショックを受けたことを記憶しています。

ストレートな説明では、
自分と他人との区別がつかないという症状だ
といわれているようですが、
少しわかりにくい。

この場合の「自分」という場合、通常は、
物理的な生命体だけではなく、
家族、夫との関係の中で、「自分」という者が存在する
それを無意識に感じているということになるのだと思います。

ところが、例外的な浮気をする女性には、
そのような所属感がもてなくなっており、
ただ浮遊しているだけのような感覚になるのでしょうか。

感情的なことを基本に行動しており、
自分を大切にするという感覚が薄れていくようです。

はたから見ていると
確かに、
これでもかというほど
アブノーマルな行動に向かっていくようです。

夫や、場合によっては子どもという
自分の家族を大切にできない、
大切にしようとする感覚がなくなると
自分を大切にしようとする感覚がなくなっているようです。

まず、精神的異常があって浮気する場合ではなく、
何かの事情で妻子のいる男性と浮気をする女性は

自分を大切にしようという感覚をもっていたり
他人が苦しんでいることを見ることがつらかったり
罪悪感を感じたりするので
大変つらい、苦しいという心の痛みを持つようです。

ところが、浮気が継続していく中で
それが当たり前になっていくという過程が生じますが、
その中で、
相手の家族に申し訳ないという気持ちが薄れ、
自分の要求が強くなっていくのですが、

それは同時に
自分を大切にしようという無意識の行動が
薄れていく過程でもあります。

これ長期に続いてしまうと
だんだんと、「自分」という感覚を持てなくなってしまい、
ついには精神に異常をきたす
ということが
あるようです。

普通に会話などはできるし、
「かすか」以上の違和感はないのですが、
あるべき人間に対する配慮がなかったり、
理解できない思考に躊躇を感じなかったり
そういうことは多く体験してきました。

この記事は、ここまでお読みいただいた方には無用のこと
だと思いますが、
男性の浮気を正当化するものではありません。

また、一定程度
何も考えないで浮気をする男性というのも見ています。
これは明らかに男性の方が多いです。

基本は、ノーマルな女性の帰属意識を尊重するべきだし、
それが人間性が高いということだと思います。
精神的成熟度が上だと考えています。

少なくともこの場合
男性並みになることは
女性にとっては、あるいは人間にとって
堕落というべきであろうと考えています。










ベッキー氏が叩かれるメカニズム [家事]

タレントベッキーさんが
男性歌手と不貞行為があったとして
ネットで批判を集めているようです。

本来であれば、全くの他人ごとであるのに、
なぜこれだけ批判されるか、
怒りの対象になるのか
という点についてお話ししたいと思います。

大きな理由は二つあります
一つは人間のもつ共鳴力共感力
もう一つは、慢性的に追い込まれている人の群れの存在です。

さて、
確かに男性歌手の妻子にとっては
自分の家族が、他人に奪われる形になるので
大きな利害関係があります。

一方、ネット批判をしている人たちは
利害関係は全くありません。

それでも、主婦を中心として、
夫や父親を他人に奪われるシチュエーションを想像し、
被害者となる妻子の苦しみや葛藤を
追体験してしまう現象が起きるのです。
これが、共鳴です。

人間が群れを作り生活しているのは
20万年とも700万年とも言われますが、
群れの他の構成員の共鳴や共感によって、
群れであることの利点を得ていたわけです。

誰かが笑っていたら仲間になって
傷ついたら同じことをしない。
どんどん複雑な活動をしていくうちに、
複雑な感情、細かい感情に
共鳴、共感していく能力も
強くなっていったと思われます。

特に、共鳴しやすい人たちは
同じ立場の人である主婦でしょう。

男性歌手の不貞相手であるベッキーさんに対して
自分の敵に対してと同じような感情を持ちます。
これは、男性歌手の家庭ではなく
「自分の家庭に対する攻撃者」
というような感情が発動してしまっているのです。

自分に対する危険が存在するかのような反応です。
これは、人間の自然な反応だと思うのです。

では、次に危険を感じたことが、怒りの感情を持つメカニズムですが、
危険に対しては、逃げるか戦うことで
危険から身を守るわけです。

通常は逃げることを動物全体として選択するでしょう。
しかし例えば
相手と戦って勝てるという無意識の認識か
誰かのために戦わなければならないという使命感のある場合は
怒りが発動しやすくなるようです。

ベッキーさんと直接言い合いになるわけではなく、
ネットに書きこんでそれで終わりですから、
自分が攻撃をされる心配はありません。

ある意味、「勝てる」わけです。

その上、賛同者がいるという潜在意識は、
自分は一人ではないので、
いざとなったら多数で責めることができる
という意識になりますから
さらに
「勝てる」と感じやすくなります。

味方が多数いるという感覚は
自分が正義だという感覚を起こします。
こうなると、
自分の批判の方法などを顧みないで、
とにかく相手が倒れるまで
怒りが沸き起こってきて
容赦ない批判が展開されていくわけです。

すると第二の要因がでてきます。
特に不貞について、
男性歌手の家族に共鳴、共感しなくても
何らかの不道徳とか、悪とかいうことをとらえ、
しかも自分が反撃されないという意識で
怒りをぶつけようとする人たちが出てきます。

この人たちは、ベッキーさんが
自分に対して危害を加えるという意識はありません。
危険に対して怒って除去しようということではありません。

しかし、怒りは、危険に対する除去のメカニズム
であることは変わりないと思うのです。

要するに、ベッキーさん以外の
自分に対して危害を加えるもの
大きな社会、雇用関係、あるいは自分がいじめられている
納得いかない評価をされている
等々の危険を
ベッキーさんに怒りをぶつけることによって
緩和していると考えられるのではないでしょうか。

いわゆるとばっちりの構造です。

怒りは通常、危害を加える相手ではなく、
自分よりも弱い者に対して向けられます。
いじめやパワハラが典型ですが
性犯罪やセクシャルハラスメントも
同様の構造が多くあります。

怒りをもって攻撃していることによって
自分が置かれた危険な立場ということを
しばし、忘れるようです。

責められ続けている人は
責めることによって優位に立つ
そういう感覚がほしいようです。

これは、身体生命の危険ではあまり効果はありません。
今まさに殴られているときに、
弱い者を探して攻撃するということはないですよね。

ただ、対人関係上の危険
自分が群れから尊重されていない
群れからはみ出しそうだ
という危険を感じているときは
大変多く見られます。



中学生の自殺の背景にある「将来の悲観」のサンプルは、中学生の身近にあふれているということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

前に投稿した記事がグラフの関係か
途中で切れていましたので
タイトルをいじって再録です。

社会政策学というかつてあった学問では、
失業の推移と自死の推移は連動するという定説がありました。

日本において、これはかなりの連動が見られましたが、
平成20年前後、失業率が低下しても
自死数は低下しませんでした。

一つの指標として
この失業率が低下した時期
派遣労働者数が増加しました



その他の非正規雇用と勘案すると
自死との関係において
非正規雇用や派遣労働は
失業と同じように考えざるを得ないようです。

社会経済学者は、
自分の望む生涯賃金
実際の見通しが到達しない場合自死が増える
ということを言っているようです。

(もっとも、これを紹介している社会学者の対策は
 ワンストップ相談所ということで落ち着いてしまっているので、
 経済分析は全く無用の長物になっているのですが・・・)


社会経済学的には、
生涯賃金を上げることで自死を減少させるべきだということ
唯一の提言になるわけです。

問題は、その場合の自死のメカニズムです。

自分の将来をどのように予測するのでしょうか。

一つの答えとしては、サンプルを見ているということです。

自分たちの親を見ています。
また、自分たちとかかわりのある
いとこ等の親戚だったり、近所の大人たちをみています。

そうすると、このくらいのポジションだと
この人のような人生を送る
ということが大体予想がついてしまうわけです。

私のような高度成長期に、
子どもから成人に移行した者たちは、
まあ、少々失敗しても何とかなるし、
金がないならないなりに楽しめばいいや

どこか楽観的に人生を送っているところがあります。
なんとかなるんじゃないの?
という感覚です。

ところが、最近の若者が、
親や親せき、近所の人たちをみて
何ともならないで苦しんでいる状態を見たり、
夜となく昼となく働いている人を見たり、
ホームレスの人たちをみたり
フリーターや引きこもりの大人たちをみたり
そうしているうちに

子どもというニュートラルの状態から
自分の将来という視点でみるように変化すると、
自分のポジションに照らして考えて
楽観的になれないというか
希望を持てないということが
強く存在しているように思われます。

自分の将来としてみるように変化するきっかけは
親の危機意識の反映や
中学受験や教師の焦り等様々あるでしょう。
一つの過程の危機意識は
いじめなどを通じて媒介されていきます。

今の子どもたちは、あるいは大人たちも
試行錯誤や失敗の積み重ねが許されない状況にある
といえるのではないでしょうか。

一つの間違いが
あるいは一つの不幸が
遠い将来までの絶望を感じさせているのだと思います。

高等学校の推薦制は
一回の試験だけで評価しないというきれいごとがありますが、
結局は、試験日一日だけでなく
3年間、気が抜けない中学校生活を強制しているわけです。

誰が得するのでしょうか?

こういうところから考えていかなければならないこと
なのだと思います。

決して、気の迷いや
薬で行動を縛ることで

解決してはいけないことだと思っています。

ただ、あまりにも大きなことを第一に考えると
救える命も救えなくなるということで、
厳しい世の中の中でどのように生き延びるか
ということが
対人関係学というわけなんです。

自殺と完全失業及び派遣労働者.jpg
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