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共同親権の幻想と、決めつけDVの共通性  [家事]

先日、子どもを連れて別居した母親の代理人として、
父親のもとを訪れて、子どもとの面会を実現させ、
定期的な面会を約束しあったという事例を
フェイスブックに投稿したところ、

連れ去りは是認できない、
どうして母親は我慢できないのだ、
等の書き込みがあり、挙句の果てに
連れ去りできないような法律を作るべきだ
等ということまで言われました。

私としては、
子どもと別居親の面会を
同居親の代理人として実現した
ということを報告したのですが、
このような書き込みがあるとは改めて驚きました。

不愉快だとばかり大人ぶるのもどうかと思うので、
私怨をブログで晴らすこととします。( `ー´)ノ

このような書き込みをした人たちは、
自分も子どもを連れ去られたと主張している人たちが中心ですが、

それでもなお、法律の制定を言っているのですから
どうなっているのか不思議です。
それは最後に述べるとして、

書き込んでいる人たちは事情は何も知らないのです。
子どもを連れて別居した
というフレーズに反射的に反応し、
他人の記事に堂々と「決めつけコメント」をしているのです。

子どもを連れて出て行った母親は、
よくよくのことが多いです。
誰が悪いということは置いといて、
何らかの事情があるのです。

それにもかかわらず、
連れ去り=悪 
という決めつけ方をしているということは
どこかで見たフレーズです。

ほかならぬ、連れ去りを支援というか、強制する
決めつけDVをする支援者と一緒です。

妻の心理的圧迫 = 夫のDV → 連れ去り

一緒です。

そうして、離婚後も共同親権にして、
別居親が子どもに会えるようにするということも一緒です。

子どもの連れ去り、⇒ 法律改正 面会の強制?

妻のDV相談、⇒ DV法、保護命令 隔離の強制

先ず、ご自分たちの発想が決めつけDVの手のひらの上にある
ということを自覚するべきです。

共同親権の危険性は
第1に、共同親権は離婚自由制とセットであること
つまり、妻でも夫でも
他に好きな人ができたり、なんとなく嫌になれば
手続きを踏んで自由に離婚ができるため、
子供の成長がないがしろになる危険があることから、
子どもの養育を共同(交代)で行うというユニットです。

ただでさえ、日本の離婚が、
離婚したくない権利を脅かしている中で
共同親権が導入されてしまうと、
ますます子どもたちは離婚の不利益にさらされるでしょう。

第2に、共同親権を定めても、DV法のもとでは、
子どもが同居親の養育を受けることが推進されるということが
期待できるのか疑問を抱かなければならないということです。

今でも、離婚しなければ共同親権ですよ。
離婚しない間、この共同親権制度が
子どもが別居親に会う権利をサポートしてくれているでしょうか。

離婚後の共同親権が法定されたら、
この点も解消されるのでしょうか。
冷静になって考えなければなりません。

第3というか、第2の続きというか
家庭の中に権力が入るとろくなことにならないということです。
結局どちらが悪いか決めつけて
悪くない方を被害者として、強制力を働かせるのですが、
大体は、子どもにとっては不利益なずさんな処理ということになります。

書き込みをしていた人たちは、
行政や、裁判所、警察などによって
子どもから引き離されていながら、
まだ、法律や権力、正義が
自分を助けてくれると思っているようです。


今回改めて気が付いたのですが、
連れ去られたと主張する人たちは、
「連れ去った相手が間違いを犯し、
 自分たちは何も悪くない」
という発想のようなのです。

このような発想は、
自分は悪くない、相手が悪いのだ、
相手を支援する行政や弁護士が悪いのだ
ということで安心できる発想のようです。

実は連れ去ったほうも同様に考えていることが多いようです。

どちらが正しいかを競い、
正しくない方が、行動を改めるべきだ
と聞こえてきてなりません。

子どもからすれば、それは重要なことでしょうか。
どうでも良いことです。

両親の愛情を受けることが重要なことです。
父親と母親は、小学生くらいまではユニットとして把握していますから、
お父さんは悪くなくてお母さんが悪いといわれても
子どもにとっては迷惑なだけです。

良いとか悪いとか
善とか悪とか
正義とか不正義とか
子どもにとってどうでも良い話です。

夫婦の間に何らかの不具合があれば
チーム状態の不具合なのですから、
共同して修正するしかないのです。
それを、正しいことに従えというのでは、
収拾するわけがありません。

例えば、子どもを連れて別居中の母親に
面会交流ができていても
遠方から子どもの祖父母が遊びに来る
わが子に祖父母と交流をさせるべきだ
ということで、面会交流の日程をずらすよう主張したケースでは、

母親の都合がどうしてもつかないにもかかわらず、
論破して(というより責め続けて)従わせたような場合、
母親はますます疎外されていきます。
いま、関係修復のために周囲が努力しているにもかかわらず、
肝心の本人が、関係悪化となるようなことを
正義や道理に固執して強行し、
相手方を苦しめているわけです。

相手を尊重して安心してもらおうという
作戦実行中のことなのです。
このようなことが、同居時繰り返されていたのであれば
どれだけ相手を苦しめていたか心配になってしまいます。

また、母親の苦しみが
身体的な要因にあるという
顕著な原因が父親側にないような場合もあります。
これは確かにあります。

しかし、母親が長期間にわたって苦しんでいるのに
それに答えることができなかったという事実が
あるケースが圧倒的に多いのです。

なるほど、父親は悪くない、
しかし、母親も悪いわけではない。
端的に、チーム状態の不具合なのですから、
共同して修正していく努力こそが必要なのです。

だから、どっちが悪いか
ということをまず気にしていたのでは、
何にも解決しないし、
子どもにとっては、どうでも良い話ということなのです。

法律で解決しようとすることは
大変恐ろしいことです。

自分は悪くないのだから
相手に、国に、解決してもらおう
という発想なのです。

もはやチームではありません。

確かに、何が起きているのかわからない
ということもあるでしょう。
年配者が、適切なアドバイスをせずに
一方に加担してしまうということが現代社会でもあります。

それなら、法律を作る前にするべきことは、
家事の相談機関の創設ではないでしょうか。
仲人やおばあちゃんの知恵袋が
現実には存在しないのであれば、
それこそを作るべきです。

法律を作る前にやるべきことが
いろいろたくさんあるはずです。





何もしないのが怖い、何かしないと不安になる、気が付くと何かしている症候群の考察 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、過労自死や
うつ病になりかかるときの
回復するための一つの有効な方法として、
「何もしない時間」を紹介しました。

おそらく飲酒をしてもだめだと思います。

そうすることによって、
客観的な自分の変調を自覚できるようになる
ということがあるようなのです。
自分の置かれている状況が、
理不尽であり、努力してもしょうがない
離脱することこそ正解だという
考えにたどり着くことができる条件のようなものかもしれません。

ところが、まとまった期間会社を休むどころか、
何もしない時間があることで不安になり、
何かしなければいけないということで、
やることをわざわざ探して何かをしている
ということが、私だけでなく、
世の中一般的にもあるのではないかと
にらみはじめたわけです。

休日に家でぼーっとしていると、
部屋の片づけをしなければならないのではないかとか
誰かに叱られるのではないかと落ち着かなくなったり、

じっとバスの窓から風景を見ていられなくなり、
スマホをいじりだしてみたりとか、
歩いていても、風景を楽しむことがなく
スマホに手が行ってしまったりとかですね。

昼休みだって、
誰かと一緒にいなければいけない状況だったり、
一人でいると不安になったり
ということがあるようです。

旅をしても、行き当たりばったりというのが許せなくて、
綿密にスケジュールを立てて、
予定消化に全力を挙げてみたりとか。


これでは、自分と向き合うことができません。
落ち着くということができないわけです。

実際は、何もしていないときの方が脳が活発に活動しており、
何かしていると、複雑な思考をする脳の部分が
停止ないし低下していたりする可能性もあるのです。

このような「あそび」がないと集中ができなくなり、
そのことの先を推測するというクリエイティブな作業をするための思考が
回りにくくなるという可能性です。

どこからくるのか。

一つにインターネットパソコンという環境があるため
何かをすることが容易であり、
何かをすることをあきらめることができにくいということがあるようです。

メールなどで、四六時中いろんな人から
結局用事を言い渡されると、
メールを見ないと不安になるということもあるかもしれません。

用事がたまっていってしまったりしますね。
こちらの都合を聞かないで、
都合の良いときになんて言っても
いつも心に引っかかっているわけです。

このメールって、
一体、誰がどのようなコンセンサスで使っているか
不明であるうえ、
なんか、メールに返信を義務付ける風潮があるのですが、
たまに来る手紙に返信を書かなければ失礼かもしれませんが、
むやみやたらとくるメールにいちいち返信しなければならない
というと、本当にパンクしてしまいます。

携帯電話というのも
おそらく、何もしないことを許さないと思います。
ラインとかメッセージもそうなのでしょうが、
家族団らんの、何もしない時間を奪っていいということはないはずです。
その時間に大きな価値があると思うので
極端に言えば、ノイローゼにする要因になるものです。

世の中の風潮で、SNS等の「ちょっといい話」で、
要領よくふるまうこと、効率よくふるまうことが称賛されます。
全然感心しない話でも
やらせなのでしょう、絶賛のコメントが寄せられますが、
これも、ある種の洗脳だと気を付けるべきだと思います。

昼休みはぼーっとする。
通勤、通学は、歩くこと、その時その時のかけがえのない風景
一生に一度の日の天気や気温などをぼーっと感じること。
勤務時間以外のメールなどは開かない。
携帯電話には出ない。どこかにしまっておく。
休日は、のんびり過ごす。
食事の時は、他に何かをしない。近くに仕事道具を置かない。

徹底安息を戒律で定めた宗教を作る必要があるように思われます。

対人関係修復士という仕事 対立から関係修復へ4 刑事弁護 [刑事事件]

刑事事件は、被告人が、国から裁かれるので、
一見対人関係修復士の仕事はないようにも思われます。

しかし、対人関係学の出発点は、
刑事弁護かもしれないと思っています。

刑事事件の圧倒的多数は、偶然起きているわけではありません。
加害者の多くが、突然加害行為を始めるわけでもありません。

これは、情状弁護論という体系があるのですが、
その中で、「犯罪環境」という言葉を使って説明しています。

即ち、人間は、通常は、社会と協調して生活していくようにできています。
しかし、自分が尊重されないという認識が蓄積していくと、
協調することに価値をおかなくなっていきます。
犯罪を実行してしまう敷居がどんどん低くなっていって、
抵抗がなくなってしまい、遂には実行してしまうわけです。

このような、マイナス環境を犯罪環境と言っています。
被告人が再度犯罪を実行しないためには、
被告人に、自分自身の犯罪環境を自覚してもらい、
そこから離脱してもらうことが必要です。

逆にそうすることによって、再犯の可能性が低くなります。

被害者に弁償をするということも、その一環です。
疎遠にしていた親と連絡を取り、支援をもらうということも活動の内容となります。
そのためには、相互理解が必要ですが、
そのお手伝いをするということも多くあります、。

だから、対人関係学的刑事弁護、情状弁護論は、
少しでも刑を軽くするという目標は立てません。
あくまでも、その加害者の再犯の防止が目標です。

そのためには、反省のお手伝いということも
大きなウエイトを占めています。

犯罪をするような環境を改善することが目標です。
対立的な刑事弁護ではなく、
検察官や裁判官にも協力してもらい、
加害者のこれからの人生を
生まれてきて良かったと思えるようにすること
これが目標です。

これが十分行うことができれば
結果はついてくるものです。

対人関係修復士という仕事 対立から関係修復へ3 学校 [事務所生活]

教師と校長、教育委員会>

気が付くと学校の先生の職場の改善ということはかなり多く手掛けています。
多くは、その先生の自力改善を支援していくというアプローチですが、
精神科のお医者様との連携を多くともなっています。

本人が、学校長や教育委員会と敵対するのではなく、
関係を修復するという視点を持てるようにすると、
解決に向かって動き出します。

本当は、尊重されて仕事を続けたいということが第一目標なのに、
どうやって裁判をするかということに
いつの間にかすり替わっている人たちが多いのです。

実は、先生の対人関係改善のために、
校長先生とお話させていただくということもあるのです。
そういう話し合いに応じてくださる校長先生は、大変尊敬できる方で、
もうこうなると歯車が良い方向に回っていきます。

<モンスターペアレント>

ただ、教育委員会は、頭が固いようです。
モンスターペアレントに苦しんでいる校長先生から修復の依頼があったときも、
教育委員会がOKを出せば仕事を始めるというところまで来ていたのに、
ストップがかかってしまいました。

クレーマーやモンスターペアレントの対応は、
対人関係学の基本です。
ヒントは、クレームをなくそうとするのではなく、
むしろ、積極的に、意見を述べてもらう方法を考えることが解決の糸口なのですし、
解決するとクレームがなくなるだけでなく、
学校の強力な協力者ができ上がるのですが、
平成の教育現場は、オーソドックスな解決法、王道が失われてしまったようです。


<いじめ>

いじめの問題は、対人関係学の独断場のようです。
簡単ではありません。
いじめがゼロになることを目標にしたり、
死ななければよいということがあからさまな対応は
絶対にプラスに作用せずに、有害になるだけです。

これまでの私の活動は、
いじめられたお子さんとご家庭を立て直し、支えるという仕事、
学校とPTA相互の協力を提案し、
大人がしっかりと解決に向かうという仕事、

加害者、傍観者も、人間性がすり減っていき、
自死のリスクが高まるという視点、

子ども通しが尊重しあったり、助け合ったりするという行為の援助など、

弁護士という職業はなるべく出さないで、
対人関係修復士を全面に出して活動をします。

いじめの被害者からのご依頼や、学校からのご依頼で調査や支援を行うほか、
学校主催やPTA主催の講演会、
学校の先生向けの後援会活動などを多く行っています。

いじめを無くすという、マイナスから0に向かう行動ではなく
0の先のプラスをめざすということ
この学校の生徒でよかったと
子どもたちに思ってもらう学校つくりこそ目指すべきです。

また、その方が対策も具体的で、実行しやすいと
現場の先生方からお話を受けております。

対人関係修復士という仕事 対立から関係修復へ2 家庭、離婚、面会交流、親子 [家事]


離婚問題も、対人関係修復のアプローチが有効な場合が多いと思います。

夫婦

夫婦間トラブルの原因を、双方を理解する家庭のなかで追及していきます。
相手を責めることは簡単ですし、善悪を判断することも不可能ではないでしょう。
しかし、それらの思考ツールは、
対人関係を修正するためにはなんの力にもならず、
通常はこじらせるだけです。

離婚をしたくないということに関しては、
実績はぽつぽつ出たばかりであまりエラそうなことは言えないのですが、
トラブルの原因まではほぼ解明できるようになったと思います。
問題は、当事者が自制をどこまでできるか、
自分の不安感をどこまでコントロールできるかにあるようです。
これは、心理士の助けを借りることが有効かもしれません。

もう一つ問題は、これは家事共通かもしれませんが、
相手方に対する働きかけをする機会が少ないということがあります。
相手方を交えて、オープンダイアローグ形式で話し合いができれば、
もっとうまくゆくと思います。

うまくゆくというのは、必ずしも復縁が実現するということだけでなく、
新たな人間関係を形成していく、
それに双方がある程度満足できるという形も含みます。

また、離婚をする場合でも、
子どものために面会交流をするわけですから、
最低限の信頼関係を形成する必要があります。
離婚後の子どもの健全な成長のためには、
双方が、葛藤を鎮めるということが必要になります。

当事者が認識している以上に、
何らかの修復の必要性の高い分野です。
双方対人関係修復士が入って解決できれば、世の中はだいぶ良くなるでしょう。

この場合、仲人の役割に近くなるように思っています。

面会交流は、これまでもこのブログでもお話ししてきましたので、
省略しますが、
実績が上がってきている分野です。
とにかく、葛藤を下げること、敵対する気持ちをやめること、
相手に花を持たせることが出発点ですよ。


<親子>
親子間の対立ということがあり、相談もあります。
かなり実績が積まれているのですが、
経営的には、どうかなというところがあります。

なにせ、相談だけで解決してしまうことが多いからです。
子どもに対する不満、理解できないことがらがあるのですが、
その意味を説明する中で、いろいろな要求事項が消えていってしまうからです。
ここでも大切なことは、家族の問題に善悪はないということです。
親の対応のまずさといっても、
だから悪いというわけではないということを
きちんと伝えられるかどうかがポイントになりそうです。

一番難しいのは、引きこもりの問題です。
本当は、家にお邪魔して活動することが求められているようなのですが、
なかなかそれができないというところが原因だと自覚はしています。

いずれにしても、家族の問題で有害なのは、正義と第三者です。
日ごろの不満を打ち明けて、
相談を受けた人が「よりそう」ことに夢中になってしまい、
他の家族を攻撃してしまい、家族を空中分解させることが多いです。

この第三者を排除して、
純粋に家族通しがダイレクトに向き合うお手伝いをすることが、
仕事の中心かもしれません。


対人関係修復士という仕事 対立から関係修復へ1 職場、労使、経営内部、労働者相互 [労働事件]

<株主と取締役の修復>

職場の対人関係で、実際に対人関係修復的な仕事を意識した例は
株主と取締役との人間関係を調整した仕事があります。

慢性的な赤字経営の元、企業形態を変えざるを得ない状態となり、
それは確かに労働者や事業運営上不利益もあるのですが、
倒産回避、解雇回避として、ギリギリの選択でした。

税理士さんと弁護士である私がタッグを組んで、
会社の実際の経営状態を情報提供し、
考えられる選択肢のメリットデメリットを提示し、
最善の方法だということを納得していただきました。
疑心暗鬼を解いていったということですね。

会社の赤字運営にあたって、
株主側は、取締役の責任を疑っていたのですが、
そもそもの赤字の始まりを分析し、
むしろ、取締役ではなく、当初のオーナーの行為と、
銀行取引の仕組みを説明することで、
株主側の疑心暗鬼も解いていきました。

大事なことは、なるべく取締役の顔を立て、
取締役のミスを修復していき、
双方の要求を矛盾させずに調整したというところでしょうか。
滑りだし、上々というところでした。


<労使間トラブル>
労使間トラブルは、古典的には、労使対立、労働運動という形でした。
近年は、労働組合の組織率も低下したということもあり、
弁護士に依頼して法廷闘争などが多くなったと思います。

この場合でも労働運動を背景として、
対立型の紛争解決が主流のようです。

いろいろな仕事を経験する中で、
あからさまな使用者の利益のためには労働者を犠牲にして
という使用者でなければ、
むしろ、このぶんやこそ対人関係修復型の解決方法が合理的です。

現在、私は、国の政策の地方版の仕事をしていますが、まさにこれです。

労働基準法を知らないのは、むしろ経営者の方です。
弁護士に講義をすることもあるのですが、
事務員を雇用しているはずの弁護士も、
労働基準法や労働契約法のないように注意を払わない人が大勢いるようです。

特に労働基準法は、罰則付きの強行法規が多いですから、
法律に反することはできないことを使用者に説明する必要があります。
これで、労使間トラブルのうちの多くが解決されるということが実態です。

次は、得意の労務コンサルタントの分野です。
パワハラやセクハラなどは、考え方を伝授すれば、
きちんとなくなります。

これらの問題を無くすためには、
それらをしないということではなく、
企業のために働くというモチベーションを上げる工夫をするということです。
全く無防備なまま仕事をさせていることになり、
これでは、いくら投資をしても利益は伸びません。
脆い企業になってしまいます。

労働者のミスにどう対応するかということも、
対人関係労務管理の重要なテーマです。
それは、労働者育成のチャンスの時なのです。

労働者相互というか、上司と部下の関係、
気に食わない相手は、どうして気に食わないのか、そりがあわないのか。
どうすれば、良好な人間関係を築けるのかという問題は、
PTSD治療の理論と、
その一つの理論に影響を与えた脳科学のソマティックマーカー理論を応用したものです。

労働関係の対人関係修復の活動場面は、
実際に、対立当事者を交えてのオープンダイアローグ的な解決方法もありますが、
講演活動も多く承っています。
意外なことに、民間よりも、公務所関係の講演活動が多いのです。

対立当事者がある場合、
どちらかの依頼を受けて仕事をするのですが(通常は会社経営者)、
相手方の利益を真剣に考えるということが、解決の決め手です。


医療のように、対人関係の修復を行う、実務的研究分野を開拓したい。 [事務所生活]

先日、スーパードクターというテレビ番組を観ました。
それを観てぼんやりと考えたのですが、
身体、生命の危険に対して、
人は、お金を出して、対処をするわけですが、
そのために、医学という学問を発達させてきました。

しかし、
対人関係の危険に対しては、
それをどう修復したり、予防したりするか
ということについての
学問を発達させてこなかったのではないかと
感じました。

医学や治療は、
それがなければ、死んでしまったり、
痛みや苦しみが続くので、
優先されて当然だという
ご意見は予想されるところです。

それはそうかもしれません。

しかし、対人関係の問題は、
痛みや苦しみが続かないというものでしょうか。

例えば離婚についての影響は、
30年たっても葛藤が鎮まらなかったり
子どもたちに対して負の影響が与えられるということは、
ウォーラースタインの30年の追跡調査でも
ほぼ例外がありませんでしたし、
私自身20年前の離婚で生活に影響が出ている人を
目の当たりにした経験があります。

学校のいじめの問題で
30年たっても、社会生活を送れない人たちもいます。

職場の過重労働でも
職場を離脱して何年にもなるのに、
いまだに上司からのメールが来るのではないかと
おびえている人たちがいます。

そして、多くの人たちが
自死の危険に直面しています。

苦しみや辛さ、命の危険もあることは
むしろ身体生命の危険以上の場合もあるでしょう。

「それはそうかもしれないけれど、
 精神医学や心理学があるのではないか」
というご指摘も予想されます。

しかし、これらの学問は、
本人の精神や、思考に働きかけて
物事を解決しようとするアプローチです。
中には、優れた方もいらっしゃるでしょうが、
医学として、会社の仕組みだったり、
上司と部下の人間関係だったり、
そういうことを理解しようとしているのか、
私には、不勉強でわかりません。

いきおい、本人が苦しむのは本人に原因がある
(人格の未熟さだ)とか
本人の人格障害だ、統合失調症だと
診断名を付ける事例をよく見ています。

逆に、相手方を呼びつけて、
本人の話を元に説教して、
相手方を傷つけて、本人との仲が悪くなり、
ますます混迷を深めている事例も見ています。

中には、心理学の中で家族療法のアプローチから、
家族ということの在り方を改善していく方法があり
注目しているところです。
この研究グループの
心理士さんは、職場の問題も改善された実績があり、
目が離せないところがあります。

専門的に、意識的に
対人関係の在り方を研究する
ということは、なかなか無いようです。

弁護士や法律も、
予防法務という観点が浸透しておらず、
事後的に相手を攻撃するという手法が
近年ますます増加しているような危惧もあります。

法律や裁判所は、無いにこしたことがない
使わないに越したことがない
という意識は薄れてきているようです。

身体の治療と同じように、
「対人関係の不具合を改善する」
対人関係調整、ないし修復
という観点から、
新しい実務的な研究分野を
開拓していくことが
求められていると私は思います。

病気にならなければよいというものではないように、
死ななければ良いというものでもないように、

前向きに、生きてきてよかったと思えるための
実務的研究を行いたいと考えている次第です。


仙台のケヤキが芽吹くころ (ある家庭内暴力の解決事例) [家事]

<元依頼者からの電話>

仙台の春の始まりは、吹く風もまだまだ肌寒い。
定禅寺通りのケヤキ並木の若芽も、出ようかどうしようか悩みながらという感じである。


そんな日の朝、
弁護士大仏(おさらぎ)の事務所の電話が鳴った。元依頼者の内田花子からの電話だった。
昔、内田の依頼を受けたことの縁から、大仏は、内田のボランティアに時々顔を出していた。そんなことで、内田も気やすく電話をかけてきたようだ。

「どうしました。」
大仏の口癖みたいな電話の応対で始まった。

内田花子の話は大体以下の通りである。
「先生も知っていると思いますけど、私の友達のピカっているじゃないですか。」
(知らない)
「ピカが、女子高生が父親に虐待されて国分町(仙台の夜の歓楽街)で働いているので、養子にしたいって、できますか?」
「不穏当な話ということはわかりましたが、何がどうなっているんですか。」
「そうですよね。わからないですよね。すいません。つまり、ピカが、今女子高生を保護しているんです。その女子高生は、父親から虐待されていて、家にいられなくなってプチ家出をして、国分町でアルバイトしていたようなんです。心配なのでピカの家に泊めたそうです。ピカの旦那さんも気に行っちゃって、養子にしたいと考えているんだそうです。親の承諾なく養子ってできますか。」
(いや、まだよくわからないが、まあいいや。父親と関係が悪化した高校生の女の子を養子にしたいと考えているんだな。)

内田花子は、いろいろなボランティアをしたり、趣味のサークルで活動しており、交友関係が広い。確かに、ピカという名前は聞いたことがあるような気がするが、あったことも話したこともない。本名も聞いていない。

彼女の話は続いた。
「それというのも、もともとは、安積先生っていらっしゃるじゃないですか。社会保険労務士の。」
(確かに安積先生は、女性の社労士だ。元々は私の仕事仲間だ。いつの間に、内田花子とつながりができたのだろう。)

「安積先生のお子さんの同級生で、お父さんに虐待されて居酒屋でバイト始めたお子さんがいて、安積先生が心配になって、コーラスサークルに連れてきたんです。そこにピカも入っていて、話があったみたいで、ピカの家に連れて行ったってことなんです。」

この人たちのネットワークはすごい。それほど仲が良さそうでもないし、きっちり自分のプライベートを確保していながら、いろいろなことを共同で行っている。一言で言えば、楽しんでいる。いったい何人とかかわっているかはわからない。いざとなれば強力な力を発揮しているようである。しかし、親子を引き離して、養子縁組をするというのは、少し先走りし過ぎではないか。



<大仏のアドバイス


「いやちょっと、花子さん。子どもを父親から引き離すというのは、あまりにもドラスティックではないですか?」
「でも、子どもだし、女子だし、暴力は許せませんよ。」
「たしかに、暴力はだめですが、何か理由があるかもしれませんよ。あっ、いやいや理由があってもだめですが、先ず理由を考えることが解決の糸口になるかもしれません。お母さんはどうしているのですか。」

「あっ、実は、両親は離婚してるんです。女の子は、最初お母さんのところに引き取られていたんですが、いろいろあって居づらくなったし、もともと仙台なので友達もいるしということで、お父さんのもとに戻ったって話です。」

「じゃあ、もともと虐待があったわけではないかもしれませんね。娘さんは自分からお父さんのところに行こうとしたのですからね。お父さんは、きちんと働いているのですか。」

「結構いいところでサラリーマンしているようですよ。」
「そうするとね。お父さんから引き離してしまうようなことになることは、あまりお勧めできないですね。やっぱり。もしピカさんとの折り合いが悪くなってしまうと、本当に行き場がなくなってしまうのですよ。未成年者がアパート借りるっていうのは、それはもう大変なのです。」
「娘に暴力をふるう父親ってどうなんですかね。」
「うーん。そういう場合、お父さんはだいぶ傷ついてる可能性がありますね。離婚で子どもを連れ去られると、自分が人間として全否定された感覚になるようですよ。」
「暴力はだめですよね。」
「暴力はだめです。ただ、暴力の中には、自己防衛的な暴力っていうのが、結構多いんです。いろいろなことに過敏になっているんです。暴力に賛成することはないのですが、何から自分を守っているのか、それを話させてあげたいですね。むしろ励ましてあげた方が、暴力がなくなることもあるんです。自分を分かってくれない人の話は受け入れられませんからね。大丈夫だよ、お嬢さんは、あなたの元から離れようとしているわけではありませんよってね。親子の気持ちの交通整理ができるといいんだけどな。」
「わかりました。」
(おお、珍しく物分かりが良いな。)
「つまり、養子縁組はだめだってことなのですね。」
(いや、そこ?でもまあ、結論はあっているか。よくわからないのは、花子さんの思考回路ということだけか。)
「とにかく心配しているので、預かっていることだけはキチンと連絡しなければだめですよ。乗り込んでくるって言うなら、私が話をしてもよいし、いつでも連絡ください。」
その日の電話は終わった。


<事件のその後>

あるボランティアの日。会議が始まるまでには少し時間があった。大仏は、内田花子に、問いかけてみた。
「あの時の高校生はどうなりました?」
「あれ?報告していませんでしたっけ?」
(聞いてない。)
「実は、彼女のほうが悪かったみたいなんです。今、彼女、父親と一緒に暮らしています。」
「ええっと、養子の話はどうなりました。」
「まあ、養子っていう形ではないけれど、今でも行き来はしているようですよ。」
「ほう。」
「先生とお話しした後、お父さんに連絡を入れようとしたのですね。ピカの家にお父さんが乗り込んでくると困るので、ピカは娘さんの面倒をみてもらったんです。お父さん対応チームということで、安積先生にお父さんに連絡を入れてもらったんです。そうしたら、お父さんから、感謝されて、お会いしてお例が言いたいって言うんです。もしものこともあるから、ファミレスで話すことにして、クミちゃんとキイちゃんと一緒に行ってもらったそうです。」
(それは正しいな。二人は、ボランティアに顔出してくれている仲良しさんだ。おしとやかなクミちゃんと愛くるしいキイちゃんならば、男と名のつく生き物は、すべからく怒りを手放してしまうだろう。まさかねらったわけではないだろうけれども。あれ、それにしてもどういうつながりなのだろう?まあ、いいか。)

「お父さんは、とても常識的な人でした。まず、お礼を言ってくださったんで、安心できました。それでね、確かに、一度手を上げたそうなんです。そのことを本当に後悔しているみたいでした。でも、話を聞いたら、娘の方が悪いんですよ。これは、手を上げても仕方ないかなと。」
(あれほど暴力はだめと言ったはずだが)
「彼女の言葉ばかりうのみにしてしまって、かえって安積先生の方が恐縮してしまったそうです。それで、子どもチームに連絡を入れたんです。子どもチームの方が、彼女から話を確認したところ、お父さんの言う通りだってことになったんです。ピカちゃんもお父さんも、しばらくピカのところに泊まってもいいよって言ったんですけど、お父さんのところに戻るって言いだして、ファミレスで合流して二人で帰ったそうです。」


<大仏の観想>

これは、贅沢な解決方法だったと思う。大勢の大人たちが、一人のために行動を起こしたということがすごい。
なるほど、ある程度社会生活を営める大人ならば、何人かでかかわれば、暴力も振るわないだろう。そうか、子どもをケアするチームと、父親と対決するチームと分けるだけの人数がいたことが、早期解決の決め手だったようだ。
お父さんの話を聞いてみようというということになってくれたのはよかった。これが公的機関なら、配偶者暴力の場合だけど、一度暴力夫ということになったら、「あなたの話は聞かない。あなたと話すことはない。」ということで、話がややこしくなっただろう。実は、こういう事例は最近多くなっている。お父さんも、話ができて救われただろうな。かえって、皆にかかわってもらえるなら、よかったと思う。高校生くらいの女の子は、父親には手に余るのだから、ピカさんたちの協力が得られて、それがピカさんも嬉しいなら、甘えればいいだろうな。
高校生も、自分のことを守るために、話を大げさに言ったということならば、それは自然なことだと思う。それを包み込んだ、ピカさんたちのやさしさもすごい。いい話だな。なによりも、お父さんのところに帰るっていうことを、自分から言いだしたのは、お父さんが怒っていないということが伝わったからだろう。そうすると、お父さんチームのメンバーもグッドジョブだな。

花子さん、電話では話が通じていたかどうかわからない受け答えだったけど、ちゃんと聞いていたんだな。ちゃんと要点を抑えていたんだ。もう少し、それを分かりやすく受け答えしてくれれば、私ももう少し疲れないだろうな。


定禅寺通りのケヤキ並木は、芽が出たと思ったとたん、次々と芽吹き始める。10日も過ぎると、葉が生い茂って、春から初夏の装いが整う。大仏の心にも、緑の風が吹き渡ったような心持となった。


自死者は、家族を愛しているから、悩み、苦しみを隠す 過労自死予防研究 servivor [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日事情聴取をした方ではなく、
付き合いの長い私の依頼者で、
やはりうつ病で休職中の方がいて、

過労死遺族の会である東北希望の会に
他県から参加していただきました。

過労死職場から離脱した人たちの研究は、
東北希望の会の企画で進めています。
事情聴取の結果の報告をする例会の日に
この方も参加された
しかも初めて参加された
ということです。

遺族としては、
なぜ、自分の夫、自分の子ども
自分たちに何も言わずに、自死したのか
それがわからない
もしかしたら、自分の存在は
夫や子どもにとって、
どうでもいいような存在だったのか
という不安が頭の片隅にあるようです。

でも、それを亡くなった本人に聞くことはできません。

うつ病と戦っている人たちの話を聞くことは
大変貴重な時間ということになります。

うつ病と戦っている方々も、
自分の話を聞いてくれて、
つまり、頭ごなしに否定したり説教せずに、

自分を温かく理解しているとわかると
むしろ、自分の体験を話したいそうです。
自分の経験が人の役に立っているとわかると
苦しい体験をはなしても
それほど苦しくならないそうです。

本当は話したいようです。

うつ病で休職した方の多くは、
死ぬことを考えることも
自分を安心させるシステムだと
話してくれます。

死ねば、苦しみから解放されると考えると
解決の方法を見出したような
ほっと一息つけるような
アマだるいような感覚を持つとよくおっしゃいます。

ああ、こうすれば死ねると考えると
そうしないように自分を止めることが
なかなか心理的労力が必要になる
ということもおっしゃいます。

ふと、自死を実行する誘惑にかられるので
それを思いとどまり、自分が生きていることが
不思議な感覚になり、
自死を実行してしまった人と
どこが違っていたかよくわからない
とおっしゃる方もいます。

その時も、何人か
うつ病で休職されている方も参加していました。

私が事情聴取の報告をしていたら、
初参加の休職中の方が、
いちいち全部自分にも当てはまると
お話ししてくださいました。

きわめてよく似ているところがあります。

「家族には、うつを隠す」
ということも共通のようです。

無理に笑顔を作ったり、
おどけてみせる
ということもあるようです。

でも、
そうすることは、心理的体力を
根こそぎ使うような、大変疲れる作業だそうです。

遺族の方から
「どうして、苦しいことを話してくれなかったのでしょう。」
という質問が出ました。

その初参加の方は、ほとんど即答で言いきりました。
「それは家族を愛していたからです。」

ご自分の体験を交えてお話してくださいました。

「愛する家族にだけは、心配をかけたくない」
という気持ちが強すぎるようです。

愛すれば愛するほど、
隠さなければならないという気持ちになるようです。

ほとんど感情が残っていないような
重いうつの症状が出ているにもかかわらず、
「家族に心配をかけたくない」
という感情だけは、最後まで残っているようです。

(もちろん、死んだらもっと苦しめるのですが、
 そのような派生的効果を考えるほどは
 思考力や視野は残されていません
 今を考えるので精いっぱいになっています。)

遺書を拝見しても、
家族のことを考えていることが
はっきりわかりますし、
家族の抱えている今を
具体的に把握していることがわかります。

そうして、心配をかけたくないという感情を元に、
およそ、その時一番つらい
笑う表情を作ったり
わざとふざけて見せたりするわけです。

おそらく、
自分の残された精神的エネルギーを
すべて絞り出して、
家族のために、全力を出しているのでしょう。
出しきっているのだと思います。

ある自死されたお父さんは、その直前
感情も思考もなくなったのに
週一度の休みである、日曜日の午前中に
子どもたちを映画遊園地
必ず連れて行っていました。

昼ご飯を家族で食べて、
午後からは仕事に出ていました。


自死することは何とか防止しなければならないのですが、
そのためにも自死者の実態を知らなければなりません。

自死者が、家族を愛しているからこそ、
自分の苦しみや、自殺しようとする気持ちを
全力で隠すわけです。

これが自死のリアルです。

自死遺族連絡会の田中幸子さんや
上智大学の岡知史先生は
遺族の悲嘆は、
遺族の自死者に対する愛だと
お話しされています。

もっともなお話です。

今回の東北希望の会の例会で
もう一つの愛があったということを知りました。
自死者の、家族に対する愛です。

家族は、自死者から、
大事に思われていなかったのではなく、
最後の精神力を振り絞って
一番大切に思われていたということなのです。
おそらく、常人には発揮できない精神力です。

これが自死のリアルなのです。

愛する人を思いながら
自死以外の選択肢を失ってしまう自死者、
いつまでも、自分を責めながら悲しみ続ける遺族、

だからこそ、
だからこそ、
自死を何としても予防しなければならないのだと
私はそう思いました。









なぜ仲の良かった夫婦が子どもが生まれると喧嘩が多くなるのか [家事]

あくまでも、普通の夫婦の話です。

子どもがいない二人きりの時は、
相手一人だけを気づかえばよいですし、
相手一人から評価されればよいですから、
すべて、相手が喜ぶことをして
相手の機嫌が良くなれば
自分も居心地が良いチームでいることができます。

まあ、多少のことは気になりません。

ところが、子どもができると
三者関係ということになってしまいます。

自分が評価されてうれしい相手が
妻や夫ではなく、
子どもに移ってしまうことがあります。
これは無意識の話です。

「自分が」子どもに好かれたい、喜ばれたい。
になってしまい、
「自分たちが」子どもに好かれたい、喜ばれたい。
とならないことが問題です。

これが、3人の中ではまるっきり違います。

例えば夫の方が、家事、育児が得意で、
妻より上手にできるという気持ちが強いと、
微妙に、優越的感情がにじみ出てしまうようです。
妻は、ラッキーと思う人ばかりではなくて、
逆に対抗心をもってしまい、
相乗効果ではりあってしまう
ということがあるようです。

妻が、「楽できてラッキーという性格」でなければ、
妻を立てて、自分は補助みたいな態度でいることが
丸く収まるようです。
どうしても、いろいろやりたいなら
わからないように掃除をしたりしてればよいのです。
優越的力を示そうとしていたら
要注意です。
妻から、「いわれなければやってくれない」
とか、小言を言われるくらいでちょうどよいようです。

「楽できてラッキー」の人にはどんどんやりましょう。

大事なことは相手に合わせて、相手が喜ぶこと
これが真実だということです。
どこかの広報のように
どこの家庭もこうあるべきだ
というようなコンセンサスなどありません。
真に受けて、家庭がぎすぎすしだすということはよくあることです。

あるいは、
妻が、あまり子供に愛情をもっていないのではないか
という不信感を持つと、
半ば、「こらしめてやろう」という気持ちになり、
嫌味が多くなり、知らず知らずのうちに排除が始まります。
相手も不信感、疎外感を感じてしまいます。

自分の産んだ子は、自分の体の一部だった存在です。
自分の体を大事にするように
子どもを大事にし、執着しています。
これは男は実感しにくい、
それこそ絆のようなものが確かにあります。

概ね大丈夫です。

ただ、自分を大事にできなくなっている場合、
子どもも大事にしないという現象はあるようです。

また、
愛情ということは、
人のとらえ方それぞれですし、
どういう愛情の在り方が子どもに一番良いのかは
よくわかりません。
とにかく一緒にいるということが一番です。

自分にも覚えがあるのですが、
最近のお父さんは、母親に対する要求水準が高すぎる
ということがあります。

人間の子どもは、脳の構造からして
母親がだけが育てるのではなく、
群れが育てるようにできています。
群れに育てられるようにできています。
無茶な母性神話は、非科学的で有害です。

一緒にいるならばそれが一番です。

いろいろな人に相談して
一番緩いところが正解かもしれません。

ただ、子どもが生まれると
どんなに仲の良かった夫婦も
子どもを一番に考えるあまり、
パートナーと敵対することは、
むしろ自然なことのようです。

人間は群れを作る動物で、
群れを大きく強くしようとする傾向をもっています。
これは無意識の世界です。
群れを強くするということは、
群れの頭数を減らさないで増やすということだと考えてください。
そうだとすると、
トップを太らすよりも、
一番弱い者を大事に守るということが有効となります。

本能的に、一番弱い者をかばうという行動をとってしまうわけです。
そうしたくなってしまうわけです。

ところが、
受験戦争だったり、就職活動だったり、
出世争いというよりリストラ回避の生き残りという
争う人間関係の中で、
弱い者をかばうということが否定的な評価を受けることになります。
なかなかやれなくなるのです。

そういう優しい人々が
誰からも文句を言われない
子どもを大切にする
弱い者を守る
という本能を全開にしてしまうと、
勢いパートナーを攻撃してしまう
という馬鹿な事態になっているようにみえます。

自分の思い通りの子育てをしたところで
子どもが完璧に育つわけではありません。
その犠牲がパートナーとの不仲ならば、
子どもは、ぎすぎすした環境で育つのですから
完全に逆効果の実績だけが積み重ねられていきます。

このための離婚ということも
最近増えています。

本能に任せて、やりたいからやるというような
愛情のかけ方は、むしろ有害な結果になります。

子どもを大事に思えるなら、
まず、子どもを育てるほうの家族のチーム力を強めること、
子育てのパートナー尊重すること、
些細な間違いがあるなら、
チームの別のメンバーがかばうこと
ということが一番するべきことです。

そして、家族以外の
ご近所さんだったり、学校の先生だったり、
親同士だったり
緩やかなチームを同じように強くすること
ということになるようです。

子どもが育っていくまでは時間があります。
焦らずのんびり行きましょう。
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