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相模原事件において、彼が人を殺せた理由と相手が障害を持った方という理由について事後的プロファイルをするべきだ [刑事事件]

犯人の弁護を目的とはしていません。
もちろん刑事責任能力について言及するつもりもありません。

ただ、異常な犯罪であることは間違いないところです。
ただ、ただ、精神異常者の犯罪ということで
一件落着にしてよいのか、そういう問題なのか
ということを考えてみたいのです。

圧倒的多数の精神病患者は、
犯罪を実行しません。
こことだけから見ても、
彼の特殊性を研究するべきです。
彼の特殊性とは、彼の成育環境と
近時の出来事
その中で、彼が、
人間が大事にされなければならないという気持ちが
薄れていく事情がなかったか研究することです。

あくまでも、将来にむけて
類似犯罪を防止することが目的です。

最近テレビドラマでもプロファイリングが取り上げられています。
犯人が不明である段階で
犯罪の手口や被害者、場所、時刻その他の事情から
人間の行動傾向に照らして
犯人像を絞り込んでゆき、
捜査対象を狭めていく操作技術のことです。

対人関係学においては、事後的に、
犯人のこれまでの状況を調査し、
彼が犯罪になじんでいった要因を検討します。
人間には生まれながらの犯罪者はおらず、
環境的要因から人間は大切にされなければならないという意識が磨滅していき、
他人に対しての配慮もしなくなって、
犯罪を実行「できる」と考えます。
犯罪になじむ要因を「犯罪環境」と言っています。

犯罪環境とはどのようなことかというと
人間が迫害を受けても平気になる環境です。

人は、もともとは、他人が攻撃されていても
可愛そうだと思ったり、むごいことだと傷ついたりします。

ところがこれが続くと
毎回心を痛めることに抵抗が生じてしまいます。
精神的苦しさを継続することは当人にとって有害なので、
ストッパーがかかるわけです。

どうやってストッパーをかけるかというと
無意識ですが、
人間が大切にされなければならない
という感覚をすり減らしていくことによって、
ひどい目を見ても、
心を痛め亡くなっていくという仕組みです。
つまり、馴れるということです。

しかし、それが続いていくと
自分自身をも大切にしなくなり、
犯罪を実行したり、薬物などに手を出して
自分の体が傷つくこともそれほど気にしなくなってしまいます。

では、どうやってなれるかですが、
一つは、もちろん、自分が大事にされない体験を重ねていくことです。
自分が不合理に傷つけられることは、
頭の中で合理化していくことは難しいです。

侵害から回避する方法がないという絶望をかんじることは
人間に限らず、生きていくための支障になるようです。
そのため、人間はそれほど大切にされなくてもいいとか
自分が悪いとか
そういうギリギリの自己防衛反応が心理的に起きるようです。

もう一つは、他人が迫害される場面を見続けることです。
どうしても共鳴、共感してしまい、
精神的苦しさを回避しようという防衛反応を
起こしてしまう。
これを回避するためには、感情を失わせる
という手段にでてしまうようです。

大事にされるとか、尊重されるということの意味は
仲間扱いされるということです。

欠点や、弱点、失敗等について
責められらない、馬鹿にされない、許される
あるいは、補ってもらえる
ということととらえてください。

彼が、どのような犯罪環境にいたのか
刑事裁判終了後も調査するべきです。
被告人に、強制労働なのか、予防調査の対象となるか
選択できる制度を作るべきだと思っています。


次に、彼が、なぜ重度重複障害を持たれた方を対象としたか
という問題があります。

怒りがなぜ、彼女らに向かったかということです。

但し、彼の手紙などを字面に逐一反応することに意味はないと思います。

怒りは、その原因(自分を不安にさせた原因)には向かいません。
勝てると思う相手に、通常怒りは向かいます。
要するに、怒りの多くは八つ当たりということになると思います。

自分の何らかの不安を自分より弱い、無抵抗なものに対して向ける
ということは、いじめやパワハラの構造と同一です。

この場合何らかの口実を作りますが、
怒りの対象が定まった後になってしまえば、
自分の攻撃を正当化するだけですから
そこに意味はないわけです。

自分より弱い者を見つけて
自分が弱い者を支配することで、
自分の不安をしばし解消する
これが現代型怒りといえる現象です。


だからこの事件で気になるのは、
障碍者差別の言動ではなく

むしろ、ゆがんだ共感を示しているような点です。
障害者の苦しみ云々という発想が出てくるところです。
もしかすると、自分のおかれた疎外された状況と
障害を持った方々とを重ね合わせた節はないか
彼が働いていたとき、
入所者はどのように扱われていたのか
というところに注目したいのです。

もっとも施設が、入所者を不適切に扱った
ということを想定しているのではありません。
彼が、どこかに、敏感に反応性ていたのではないか
自分と重なり合うところを見つけてしまったのではないか
ということを調査するべきだと思うのです。

彼自身が人間性を失っていく過程を
細部にわたり調査しきって、
検討を行い、
間違っても類似事件が起きないように
しかるべき措置を取るべきだと思います。

(仮説)探すことをあきらめたときに物が見つかる理由 ひらめき、インスピレーションの構造 [労災事件]

仮説といっても、もはや脳科学の常識になっているかもしれず、
私がそれを知らなかっただけかもしれないということをお断りして、
始めるわけです。

よくプライベートでものを無くすのですが、
この間も、リビングにおいているパソコンというかタブレット
見失ってしまいました。

広くないリビングを何度も探すわけです。
隣の部屋も、キッチンまでも探すわけです。
ありません。

この時、別の用事ができて、
別の部屋に行き、行きながら、
書類の下からタブレットを無事発見しました。

書類の照合をするときに
辞書代わりに使っていて、
書類をしまいに行って
一緒にそこにおいていたのでした。

探し物をしているとき
探し場所を意識的に選択して、そこを探します。

この意識、自覚によって、
タブレットはリビングにあるという先入観を前提としていたため、
かえって見つからなかったということになりました。

探し物をするときの一つのコツは、
なさそうなところを探すことです。
あるべきところにないから探すのですから、
ありそうな所にはない確率が高い
ということにもなります。

もう一つのコツが、
探すことをやめることです。
ただやめるということは人間しにくいので
別のことをするということも良いでしょう。

では、どうしてやめるとひらめくのかということです。

この説明をするためには、
レム睡眠の話を先にした方がわかりやすいかもしれません。

人間は、眠っていても頭が停止しているわけではなく、
特に、眠りが浅くなっているとき、
眼球が激しく動き、
脳波を測定すると、脳が活発に動いていることを示しています。

この時、記憶のファイリングをしていると言われており、
例えば、その前日に体験したことを
過去の記憶と照合して、
一つは、安心を獲得しようとしているようです。

睡眠によって情動が低下するということも
有力に主張されているところです。

また、この効果は、知識だけでなく
技能にも及ぶと言われています。

例えば、
前日まで上手に乗れなかった自転車に
一晩寝たら上手に乗れるようになっていたり、

縄跳びなんかもそうですね。

シューティングゲーム
前日失敗ばかりしていたところを
一晩寝たらなんとかクリアできるようになっていたとか。

何らかの体験をしたことがあると思います。

これも前日の数限りない失敗体験を
睡眠中に記憶のファイリングをすることで、
無意識に最適化するための方法を
体の記憶としてよみがえらせているのではないでしょうか。

このように、人間の知的活動というのは、
意識的な精神活動、自覚的な思考だけではなく、
無意識、無自覚に行われているということは
既に、ある程度明らかになっています。

無意識、無自覚に行われますので、
この時間の思考力のコントロールをすることは
難しいということにはなります。

効率よく、
前日の失敗を克服しようとする方法ありません。

敢えて一つだけ挙げれば、
それは、よく眠ることだけでしょう。

問題は、寝てもいないのに、
探すことをやめたら物が見つかるという現象です。

私は、脳科学的な知識は貧弱なので
もうすでに解明されたことかもしれませんが、
少し慎重に仮説を立ててみたという方をしておきます。

要するに、
昼間、自覚的行動をしている時間帯においても
無意識、無自覚な脳の活動が行われている
ということなのだろうということなのです。

少なくとも、レム睡眠時ほどではないかもしれないけれど、
記憶の照合は行われていると思います。

意識や自覚は、
その照合の範囲を狭めているという疑いがあると思っています。
そのため、無意識の照合、記憶のファイリングを制限してしまっている
意識を外すことによって、
無意識の照合、記憶のファイリングを解放し、
必要な記憶を取り戻すのです。

ただ、この記憶というのは、
言葉にならない記憶(非宣言的記憶)で、
むしろ体が覚えているような記憶として蓄積されている
のではないでしょうか。

そのため、体の感覚として、
例えば
書類とタブレットをわしづかみにして
運んだ感覚を思い出し、
「あっ!」というひらめきになるわけです。

これを徐々に言葉に置き換えていく
という作業が必要になるでしょう。
ここは、それほど簡単ではなく、
なかなかひらめきが現実の作用に結実しないことも
よくあることだと思います。

井上陽水氏の往年の名曲に
「夢の中へ」という歌があります。
探し物をする女性に対して
探すのをやめて一緒に踊ろうよ
そうしたら出てくるかもしれないよ。
夢の中に行ってみたいと思いませんか
と語りかける歌です。

全く合理的な内容であるし、
タイトルが夢の中へということは
鳥肌が立つ思いです。

無意識、無自覚の知的活動というものを
人類は、本当は利用して生活をしていたはずです。

それを妨げているのが、
長時間過密労働だったり、
インターネットスマートフォンだったりしている可能性があります。

自分を守るということが
なかなかできにくい理由として
無意識の活動が自由にできないほど
あるいは無意識の活動を言葉に翻訳できないほど
やるべきことが多すぎる時代
ということも
過労死予防の中で考える必要があるように感じています。


今沖縄県高江で起きていること 森住卓氏の写真に寄せて 機動隊の若者のメンタルと [弁護士会]

うかつでした。
ずうっと、インターネットでボーっと写真は見ていたのですが
辺野古の問題だろうと勘違いしていました。

「やんばるに生きる」で知られる沖縄県高江で
いまヘリパットの基地建設が強行されています。
ヘリパットは、オスプレイの離着訓練をするそうで、
騒音、低周波、墜落の不安など
人が生活できる環境ではなくなる可能性があります。
(柔らかく表現すれば)

このことに気づかされたのは、
フェイスブックに投稿された森住卓氏の写真でした。
プロの著名なカメラマンで、
http://www.morizumi-pj.com/
誰しも一度はその写真を見ていると思います。

この方の写真が、圧倒的でした。
160人の集落に終結した1000人の機動隊
外部からの侵入を阻止するかのような
道路を遮断する検問
人が人として扱われず、
排除の対象物とされている様子
その悔しさや切なさ、しかし希望を失わない目の光

異様な状況もさることながら、
森住氏の透徹した視点に感銘を受けます。
すさまじい状況の中で息づく
人間の心がしっかりと映し出されていました。

ぜひフェイスブックで検索してご覧いただければと思います。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ce828b3e154d379bc84e0334472a6e63
(検索の仕方が良くわからないので、貼り付けがあったブログ)

上記ブログでは張り付けされていなかったのですが、
私は、機動隊の若者たちの表情に目が釘付けになっていました。

そこには、日本人の警察官が、日本人の無抵抗な住民たちを
力づくで排除しなければならない役職を遂行する
人間の目がありました。

いじめの講演や人権教室でよくお話をするのですが、
人間が尊重されていない出来事、
人間性が傷つけられている出来事を
目撃してしまうと
人間は、無意識、無自覚に
いやな気持になります。

これは人間が群れの一員として生きながらえるための
遺伝子上のシステムです。

自分も苦しくなるのです。
加害者も苦しくなるのです。

そして、それが繰り返されると
そのたびに苦しむことは、生きていくために有害であるため
これも、無意識、無自覚に反応として、
苦しまないようにする装置が働きます。

だんだん、人間を尊重する、大事にする
という意識を弱めていくわけです。

こうやって、共鳴、共感が起きてしまうことを防ぎます。
一言で言うと
自分の人間性をすり減らしていくわけです。

これは、他人を尊重しないということだけではすまないことに
注目するべきです。

およそ人間、自分を含めた人間一般を
大事にしなくなるという効果が出てしまいます。

するとどうなるでしょう。
自分を大切にしないと
好奇心で覚せい剤や危険ドラッグに手を出してみようとするわけです。
自分を大切にしている人は、自分を廃人にする危険に手を出しません。

犯罪行為をするようになります。
人間を大事にする人は
他人が苦しむことに抵抗があります。
人間を大切に考えている人は
自分を貶める犯罪行為をすることに抵抗があります。
その抵抗がなくなってしまうのです。

家族も大切にできなくなります。
なにか、外の規範を優先させたり
効率や利益を優先させたりして
相手の気持ちを尊重するということをしなくなります。
相手の顔をつぶすということに抵抗がなくなります。

最終的に孤立します。
それでも、普通は死ぬことが怖いから
自死には至りませんが、
人間は大切にされなければならない
という感覚が薄れる効果として、
命の重さを感じなくなるので、
死ぬことへの抵抗がだいぶ下がってしまいます。
自死に近づいていくわけです。

森住氏の写真は、
今まさに、人間性が傷つけられていっている
現在進行形の心の動きを
機動隊の警察官の目に見事に映し出しています。

排除されても、その力、輝きを失っていない
高江の住民の瞳とは好対照となっています。

あえて、機動隊の警察官に対する視点から
お話をさせていただきました。

日本人の警察官が、日本人の老人や子供を含む住民たちを
無抵抗の状態から排除する
大勢を取り囲んで排除するということが
厳然とした事実として行われています。

そのすべての人たちが傷ついているのです。
しかし、沖縄のマスコミ以外
ほとんど報道がなされていません。

スマホのアプリがそれほど報道価値があることなのでしょうか。
読者の興味、売り上げしか興味がないなら
戦後のカストリ雑誌と大差はないでしょう。

これは、実は沖縄だけでなく、
東北宮城県の問題でもあります。

福島原発の放射能にまみれた
放射性廃棄物の最終処分場の建設地として
宮城県の山間部が候補地となっています。
住民たちは反対行動に立ちあがっていて
昨年度においては、国は調査を断念しました。

しかし、高江が前例となれば
今度は宮城県の山間部にも
東京神奈川県の機動隊員が退去するかもしれません。

まさに他人ごとではないのです。

反対、賛成、いろいろあるかもしれません。
いろいろな要素を考慮しなければならないかもしれません。

しかし、その方法も含めて
公にさらして、
わかりやすく説明し、議論して決めていくべきです。

国の強権が、隠密裏に人権を侵害していくことを
前例としてはいけないと強く訴えます。

中学生人権教室40分バージョン 人間って何だろう [事務所生活]

中学校人権教室 40分バージョン

みなさんこんにちは。私は人権擁護委員をしております。職業は弁護士です。20年以上弁護士をしておりますが、今日は人権の話ではあるのですが、法律は出てきません。むしろ、20年以上弁護士をやっていて、人間同士の紛争にかかわらせていただいていて、法律以上に大事なことがあるなと感じていますので、そのことをお話させていただきたいと思います。

怒らないで考えていただきたいのですが、
地球上の動物で、攻撃力が強いといったらどんな動物でしょうか。ライオンや熊の爪や牙は攻撃力ありますよね。鷹なんかも食物連鎖の最上位にいるとしたら攻撃力が強いと考えられるかもしれません。
では、防御能力の高い動物といったら、どんな動物でしょうか。馬とか走るのが早い動物も逃走能力が高いですし、象やカバのように分厚い皮膚体重なんてのも防御力が高いですね。敏捷性というのも防御能力が高いと言えそうですね。

ところで、人間は、どうなんでしょう。今でこそ文明の力があり、地球上の主人公のようにふるまっていますが、文明がない時代、牙やや爪、腕力はないわけです。逃げ足ったってライオンや虎にかないませんね。熊だって走るの早いですから。絶滅していてもおかしくないですね。繁殖力だって、10月10日もかかるのに、数年は走ることもままならないというのですから有利ではないわけです。どうやって生き延びてきたのでしょう。
このグラフを見ていただきたいのですが、人類の祖先がチンパンジーの祖先と別れたのが700万年以上前、ホモ属が成立して200万年、ここにはありませんがホモサピエンスが成立してからも20万年ということです。チンパンジーも700万年前からはそれなりに進化していますが、人間もおそらく進化しているのでしょう。あるいは、身体的には退化しているのでしょうから何とも言えませんが、攻撃力や防御力はそれほど変わりはないのだと思います。
それにもかかわらず、生き延びてきたということは理由があると思うんですね。

一つの理由として、群れを作るということがあると思います。ある程度の体格がありますね。中型といえるんじゃないでしょうか。また、ある程度は攻撃力がありますよね。もっとも1対1では到底猛獣にはかなわないですけれど。そうすると、これが20体、30体あれば、なかなかライオンといえどもクマといえども手出ししにくいということはあったと思います。襲う方だって、楽に戦える相手からまず襲うでしょうからね。これも自然界の鉄則ですね。この絵のように固まると不気味ですよね。その割に、あまりうまそうでもありません。

群れを作るといいますが、どうやって、群れを作ったのでしょう。20万年前なんて、文字どころか言葉もない時代ですからね。どこかのグループがたまたま群れを作ったって世界に広まる前に、滅亡してもおかしくないはずです。それは、遺伝子的な仕組みがあったと考えられないでしょうか。

群れを作る仕組みが遺伝子にあったわけです。
何か、自分勝手な行動をとっていると、群れの他の構成員からひんしゅくを買う。攻撃されたこともあったかもしれません。だんだんと何万年を経てですね、群れの他の構成員の空気を読んで、自分の行動を修正して、同じ構成員から攻撃を受けない仕組みが備わっていったのだと思います。ありゃ、こりゃまずいぞと。そうして周囲にあわせたり、発言を撤回したり、詫びを入れたり、ルールを守ったりということですね。但し、何をすれば悪いかということは、本能的というよりも、生まれてから学習して身につくことも大きいと言われています。ただ、周囲に調和しようという気持ちは、もともと遺伝子上に引き継がれていっていると思います。

不安を感じて群れにとどまろうと行動を修正するわけですが、どんな時に不安を感じるのでしょうか。自分が失敗して仲間に迷惑をかけたということもあるでしょう。それだけでなく、仲間の自分に対する言動からも不安を感じると思います。自分だけ分け前がもらえない、情報が隠される。自分の努力を評価されない。話しかけてもくれないし、何か言おうとすると黙ってろといわれる。乱暴にされたり、嫌がることをあえてされるということでも不安やもやもやした嫌な気持ちになりますよね。突き詰めて考えれば、群れの構成員として尊重されていない事情を感じた場合とまとめられるかもしれません。

さて、不安とは何でしょう。実は、脳科学的には、不安とストレスは結構類似品です。
不安になると、血圧が上昇し脈拍が増加し、体温も上昇します。内臓に流れている血流が筋肉に多く流れるようになります。また、落ち着かなくなります。これは、逃げたり戦ったりするために体を動かしやすくする仕組みです。動物、まあ哺乳類におおむね共通の生理的変化ということになります。動物の場合は、身体生命の危険を感じたときに限定されていますが、人間は身体生命の危険を感じた場合だけでなく、対人関係上尊重されていない、追放されてしまうのではないかという場合にも不安を感じるという仕組みがあるということになります。精神科の学者は、これは古代の古い反応の残存だと指摘される方もいらっしゃいますが、私は、人間が群れを作るための仕組みなんだと思います。もっとも、テストで失敗しても、忘れ物をしても不安が起きますが、走って逃げたり相手と戦う必要はありませんので、自分の行動を修正するきっかけ以上にメリットはあまりないようです。

群れを作る仕組みの2つ目には、弱い者を守ろうとするという本能があるということです。
もし、強い者が、自分だけ食料を確保したり、快適な環境を独占してしまったらどうなるでしょう。700万年それをやっているうちに、弱い者からどんどん死滅していって、グループが少数になってしまいます。どんなに洞窟に隠れても掘り出して猛獣の餌食になったでしょう。頭数を守らなければなりません。そうすると、自分を守るためには、群れの弱い者を守って群れ全体を弱めないことが必要だったと思います。人間は、誰でも、むしろ弱い者ほど大事にしなければならないということはきれいごとではなく、人類が生き残るためのギリギリの必要条件だったということになり、それが今にも受け継がれていると思います。

 その一つが、可愛いという感情です。みなさんの年代だと同かわかりませんが、私くらいの年代になると赤ん坊のコマーシャルを見ているだけでうれしくなってしまうんです。あの犬がライオンの被り物をしているコマーシャルは不覚にも涙さえも出てきてしまいます。可愛いというのは、弱い者を守ろうとする人間の高度な感情だと思います。

ところで、みなさんの年代という言い方をしましたが、中学生はどういう年代でしょうか。
小学校までは、自分は家族の一員ということで安心できたわけです。まあ、概ねね。ところが、中学生くらい、いわゆる思春期ということになると、そういう家族の一員ということから、社会の一員という意識が芽生えてきます。巣立ちの準備というか、結婚相手を見つける準備みたいなものです。動物行動学的に言えば繁殖をするための心理的変化ということになります。
家庭という絶対的帰属主体から、勝手に心が離れていくので、大変不安が多くなります。自分の将来をリアルに考えるようになります。ともすれば、自分を守りたいという意識が強すぎて、自分より弱い者を見つけて安心したいという高等な人間にあるまじき感情を持つことが多くなる時期であります。
中二病とかいろいろ勝手に言われる時期でありますが、確かにイライラしたり、空想に入ったりするのですが、こういう不安が怒りというか攻撃的感情を育ててしまいます。ここでみなさんに思い出していただきたいのですが、自分に向けられた怒りは八つ当たりではないかと考えたことはありませんか。80%くらいは、怒る相手に対する怒りではなく、自分のイライラを解消したいから怒っているとそういう感じです。反撃が怖いから弱い者に怒りが向かうわけです。弱い者とは、多数対少数で弱い者を作る場合もあります。立場が弱い者に、反撃しにくい内容で攻撃する場合もあります。まあこれがいじめですね。およそ、人間らしからぬ野蛮な行為であることは今までの説明でよく理解できると思います。群れを大事にして生き延びてきた人間のすることではありません。

攻撃を受ける者は、八つ当たりで攻撃を受けているわけですから、危機意識、不安だけはどんどん大きくなります。自分は安全ではないということが毎日の生活だということになります。しかし、自分では修正しようがありません。そうなると絶望ということになります。生きるための意欲を失っていき、朝起きるとか食事をとるとか、喜びや悲しみを感じるとか生きるための活動をどんどん停止していきます。一度いじめの案件を半年くらいかかわったことがあり、最終的には、虐めていた子から自発的な謝罪もあったので、やったーと喜んでいたのですが、何年後かにいじめとも言えないような出来事があったとき、いじめられていた子はまたあの時のようにいじめが始まるのではないかという気持ちになったということがありました。逃げようのない攻撃を受けて、毎日が針の筵だということは人間にとってとても大きな打撃を受けるということがつくづくわかりました。

ところで、いじめで侵害を受ける人は被害者だけではありません。人間が、自分ならなおさらですが、他人が人間として大事にされていない場面を見ると嫌な気持ちになりますね。残酷だと拒否反応を示すわけです。ところが、人間が大事にされていないことを見続け居ると、だんだん感覚がマヒしていきます。ちょうど、臭いなと思っても、だんだん慣れていって臭いという感覚がマヒしていくことと同じです。そうすると、無意識のうちに、人間は大事にされなければならないという感覚がマヒしていきます。人類を生き延びることをさせてきた観念が薄くなってしまいます。そうすると、自分を含めて人間は大事にされなければならないということが思えなくなり、自分を大事にできなくなっていってしまうのです。

自分を大事にできなくなるとどうなるでしょう。
自分を大事にするなら、わざわざ肺をおかしくして、呼吸を苦しくするタバコを吸うなんて馬鹿なことをしようと思わないわけです。酒もそうですよね。あれは、自分大事にできなくなっている現象です。まあ、お酒ばかりは飲み方にもよるんでしょうけど。また、自分を大事にしないことが進んでしまうと、事情が重なると、覚せい剤や危険ドラッグに手を出してしまたり、万引きという窃盗が詐欺、強盗になったり、無謀な買い物をしたり、ギャンブルに手を出したり、離婚原因になるようなことを行ったりということは仕事がらみてきました。みんな、ある日あるときぐれるということではなく、自分を大切にできない環境にだんだん慣れていってしまって犯罪になってしまうのです。この究極の自分を大切しない行為が自殺ということになります。

だから、いじめを止めることは、被害者を助けるだけではないんです。いじめを見ている人はもちろん、いじめをしている人にとっても、いじめを止めることは助けであり、救いなんです。これを大人が言っても、なかなかいじめは収まらないこともありますが、友達同士でもうやめようぜということが特効薬になることは観てきています。
大人はどうしても、いじめをするような子、いじめを傍観する子ということで決めつけをしてしまいがちです。でも友だち同士なら、決めつけではなく、友達だから心配していっているんだということになりますし、友達を失わないために自分の行動を修正することもできます。いじめをしていると、自分がいじめられたことや、そういう扱いを受けてきたことを思い出して、嫌な気持ちになりながらいじめをしているわけですから、やめるきっかけがあれば一抜けたと言いたい人は多いということは良くお分かりだと思います。おせっかいくらいがちょうどいいと思うんです。なんて、一番大事な自分を守るためにもなるんですから。おせっかいをしましょうよと言いたいです。
私は、子どもだけが勉強するのではなく、人間は死ぬまで勉強だと思います。それは、人間として成長し続けることだと思います。自分を大切にすることは、人間が生きる仕組みとして、仲間を尊重することということになります。弱いところ、間違いを責めない、笑わない、仲間から外さない。助け合って補いことだと思います。この尊重しあう人間関係の中にいることが人権が尊重されている状態だと思っています。

最後に、もしお話し合いをするのであれば、友達との関係で、寂しさ、苦しさ、怒りを感じたときは、人類的観点に立つとどういう時か話し合ってみるとよいと思います。自分は楽しくても、相手が嫌に思うということが出てくると思います。
また、自分が仲間として尊重されていないと感じる場合を話し合ってみましょう。人間が大切に扱われていないと感じるときはどんな時かということも良いと思います。また、誰かを守りたい、助けたいと思う場合についても話し合うと発見があるかもしれません。

いじめをやめようとか命を大切にしようとは私は申しません。それはマイナスではなく0にしようということのように思うからです。そんな低いレベルのことではなく、仲間を尊重しようとすること、助け合い、補い合ってみようという人間らしい目標、0の先のプラスに目標を設定すれば、いじめなんてとっくになくなっていると思います。そういう学校生活を作っていけば、ああこの学校の生徒でよかったなと、この学校に通えて幸せだなと大きなプラスが実現できるのではないでしょうか。


やり過ぎ、やり抜きすぎ症候群 過重労働からの離脱 survivor研究 [労災事件]

過重労働からの離脱 survivor研究の中で
うつ病になりやすい人は、
限度を超えて、仕事をやり過ぎてしまう傾向がある
というお話をしたかと思います。

新たな surbvivor からの体験談を聞きながら
少し補充しようと思います。

やり過ぎるということはどういうことかというと
とにかく、自分の仕事は完璧に仕上げなければならない
という気持ちになりやすいようです。
その時は夢中ですから、
自分が完璧ではないとだめだと考えていることは
意識はしていないと思います。

例えば、報告書を出す場合でも
書式があれば、それを完全に埋めようとする。
例えば食品添加物の調査報告をするときも、
原材料を製造する工場に問い合わせをするのですが、
調べれば調べるほど外注が出てきて、
きりがないそうです。

実際のケースは取引先から無茶なオファーが来た
ということもあるのですが、
調べ切ることは不可能だと思っても
調べなければならないという強迫観念のようなものが出て、
調べ尽くそうとする。
調べられないので、苦悩するというパターンのようです。
(ほかの人は、ちょっと調べて
 できませんでしたと報告して一件落着)

書式がない報告書だと、
とにかく枚数が多い。
また、エクセルにしてもワードにしても
構成も整えて、視覚にも訴えようとする。
フォントを変えたりですね。

部数が多くなると、
製本テープで製本したりする。

プレゼンテーションも妙に凝っていて、
アニメーションなんかを入れたりする。
統計もきちんとグラフ化する。

(そうじゃない人は、
 手書きのラフスケッチや走り書きを
 平然とコピーして配ります。)

自分の仕事を部下などに分担させる場合
自分と同じクオリティを
経験不足の部下にも当然のように求める。
足りな分は足りないとはっきり言い、
修正を求める。

上司なんかは、
はじめは役に立つし
上への報告にも使えるので喜ぶのですが、
だんだん雲行きが怪しくなっていきます。

徐々に、やり過ぎ労働者ののクオリティを
上司にも求めているように、
それができないと馬鹿にしているように
上司はそう感じてきます。

腹の大きい上司であれば、
そんなこともないのですが、
不安を感じやすい上司、
自分が会社に貢献していないのではないかと思う上司、
自分ととってかわられるのではないかと思う上司
等は煙たく感じてくるわけです。

こういう上司が自分を守る方法が
パワハラです。
些細なことを突っついて完璧ではないことを知らせるだけで
相手が深く傷つくことを本能的にかぎ分けます。

また、腹の太い上司でも
報告書などの成果物を見ていると
実質的なところでも頑張りすぎているのに
形式的な整えでも頑張りすぎることを感じると
その苦しさというか、努力というか
そういうところに共鳴してしまい、
(「おお!良いね」という意味の共鳴ではない。)
作成の際の努力というか交感神経の亢進というか
そういうことを追体験して息苦しくなってしまうのです。

これが拒否反応です。

追体験の苦しさから逃れるために
なんとなく、やり過ぎ労働者を敬遠するようになり、
お茶を濁すような対応をするということになります。

きちんとやっているのに、
やり過ぎだという注意もはばかられるわけです。
上司もどうしていいかわからなくなります。

なんとなく、上司が冷たいなと
やり過ぎ、やり抜きすぎ症候群の労働者は感じるわけです。
でも、手を抜くことが悪だと感じていますから
どうしてよいかわからなくなります。

気の利いた上司や先輩がいれば、
例えば、社内の打ち合わせ資料はここまでやらず、
うちっぱなしでよいとか
外部の人へのプレゼンの場合はこうだとか
具体的に場合を分けて指導する人がいればよいのですが、
そうでない場合は、

あるときはやり過ぎだと言い
あるときは手を抜くなと言い
というように、
やりやり労働者からすれば
場当たり的な叱責が飛んでいる
としか感じられない状況が作られてしまうようです。

上司が覚悟を決めて
さじ加減を言葉にして説明するしかないように思われます。
そして、これはおおよその基準だから
厳密に考えなくてよいことも説明する必要がありそうです。

ところで、やり過ぎ、やり抜きすぎ症候群の労働者は
どうしてやり過ぎるのでしょう。

これまでのsurvivor は、
途中で手を抜くと、自分がだめになってしまう
という意識だからだと言っていました。

要するに完璧を目指す性格ということですね。


ところが新しいsurvivorは、
どうやら、自分に対しての会社内の評価が低いのではないか
だから徹底してやり抜く癖が付いたように振り返っていました。

どうやら、完璧にやり抜くことで
会社から評価を得ようとしているということのようです。

対人関係学は、
人間は、どこかに所属したいという理論を前提に、
自分が受け入れられているという安心感を感じたい
もう一段階突っ込むと
群れから外されたくないという
安心の保証がほしいという根源的要求がある
と説明します。

だから、逆に自分が尊重されていないと思うと
危機感を感じ、
それが続くと交感神経慢性亢進反応が起きる
という説明をしています。

群れの中で、役割を果たして評価されることが
自分の群れの中の立場を強化するので、
群れから外されない=安心できる
ということにつながるわけです。

やり抜き労働者は、
もしかしたら、自分が受け入れられることに自信をもつために、
完璧にしようとしている人も、パターンもあるのではないか
という疑いが生じてきました。

不安を解消したり、安心を得ようと
(但し、無意識、無自覚です)
頑張りすぎてしまうということがあるのではないか


頑張るメカニズムなのではないか
と疑いの目を持ち始めています。
頑張る労働者みんながみんなというわけではありませんが。

やり過ぎ労働者は
やりぬかないと自分がだめになる
という意識を持つ人が多いようです。

もしかすると、それは自分という存在を
他者との存在の中、対人関係の中で把握しており、
機敏に危機を感じてしまっているのではないか、
その不安を解消し、安心の喜びを得る手段として
頑張りすぎるということをしているのではないかと
ふと、新たなsurvivorから聞いた話を振り返って
感じました。

要するに、やり抜かないと
自分が他者から外されるのではないか
という不安が突き詰めてみた場合の真実ということです。

こういう人は、別に珍しくありません。
もしかすると、責任感ということも
そういうことなのかもしれません。

(ただ、責任感のもう一つの発生機序としては、
 仲間のために自分を犠牲にしようというモチベーションの観点からも
 考察する必要があると思っています。)





警察官が自殺する理由2「体を張る」職業の警察官、自衛官、消防職員の方の相談が初回無料である理由 [労災事件]

昨日の続きというか補充です。
ぜひ昨日の記事も併せてご覧ください。

昨日は、激情に任せて書き殴ったので、
穴も多いのですが、
もっとも肝心なところを書き忘れて
補充することとなりました。

また、昨日書いたことは、
警察官だけではなく、消防職員、自衛官という
体を張って国民を守る職業に共通のものです。

つまり、
1 長時間労働と交代制勤務が睡眠時間を圧迫し、
  心の回復も不十分になること

2 生死にかかわる職務を遂行しているため、
  緊張感が著しく高まることが多いこと

3 このため、
  本来、仲間に対して受容的にならなければならないのに、
  その点が意識されていないために、
  同僚の不十分な点やミスに対して
  過酷な対応をしがちであること。

  また、上司の不合理な対応に強い危機感を抱くこと

4 まっすぐな気性と責任感が強い方が多いこと

5 自死の手段が身近にあり、
  具体的に自死のシミュレーションがかのうであること

 以上が昨日のお話でした。

 これに加えて、人間が大事にされていない、
 大切に扱われていないという現場を目撃してしまう
 そういう仕事だということが自死の危険を高める
 ということを付け加えなくてはなりませんでした。

 元となった考え方は、アメリカの心理学者
 トマス・ジョイナーが
 「WHY PEOPLE DIE BY SUICIDE」
 という本の中で提唱しています。

 要するに、自死の願望が強くなっても、
 生き物として死ぬことが怖い。
 このため、実際は自死が実行されないで済むのです。
 逆に、
 自死リスクが高くなるときは、
 死の恐怖が低くなるときだとしています。

 死の恐怖が低くなるのは、
 自傷行為や、戦闘行為を経験していくうちに
 少しずつ死を受け入れていくことだといいます。
 自死の能力が高まっていくという説明をしています。

 そこから先は対人関係学ですが、
 
 災害現場の無残な死体をみること、
 あるいは、無残な死に肩を目撃することは、
 人間という生物が、個性や人格を有し
 尊厳をもって生きていく生物だということの
 自信を揺るがすことです。 
 
 結局は、人間といっても有機的組織体に過ぎず、
 化学反応と電気信号で動いているだけだ
 とでもいうような無機的な感覚を抱いてしまう

 つまり人間は、
 お互いを尊重するものだ、
 自分は尊重されるものだというような
 暗黙の了解の中で生きているわけです。

 誰かが突然襲ってくるかもしれないということが
 日常であれば、とても子孫は残せません。

 これが崩れると、
 つまり、人間は尊重されるものだという感覚が
 否定されるような出来事を体験すると、
 およそ人間の価値というものが否定され始めてしまうわけです。
 無意識に、その人の心の中で。

 そうすると、
 自分が、人間だとしても
 そんなに価値のあるものではないという意識が育っていってしまい、
 死ぬことの恐怖が薄れていってしまいます。

 これが自死の能力が高まるという現象です。

 災害救助の場面では、悲惨なご遺体も多く、
 人間の価値に対する動揺が生まれます。

 警察官は、それだけでなく、
 殺人や傷害致死の被害者のご遺体を検分しなくてはなりません。
 人が他人という人間によって
 人として扱われなかった結果を目撃しなければなりません。

 生き死にだけではなく、
 詐欺事件なども、
 人が他人によって人間扱いされなかった場面です。

 被害者の絶望感を除いてしまうこともたびたびあるでしょう。

 被害を見るということが、
 自死の危険を高めるということなのです。

 ここは、弁護士も同様の場面に遭遇しますが、
 弁護士は、被害者または遺族の救済ということでかかわることが多いので、
 まだ救いがあると思います。

 人間扱いされなかったことの埋め合わせを請求するわけです。

 体を張った仕事ということは
 肉体を使うだけでなく、
 心をすり減らす仕事だといえると思います。

 住民の安全のために、わが身の命を危険にさらす仕事なのです。

 私の事務所では、
 警察官、自衛官、消防職員とそのご家族の相談は
 初回無料としていますが、
 それはこういう理由なのです。
 

 

 

田園調布署の事例に学ぶ警察官が自死する理由。警視庁は全国の範たらなければならない。 [労災事件]

田園調布署で、相次いで2名の警察官が銃で自死された。

2名とも、特定の上司の氏名を明らかにしていた。
警視庁は、調査をしたが特定できなかった
パワハラはなかったと結論付けたという。

また、上司は、日ごろの言動に問題があったため
処分がなされ、自主退職をしたという報道もある。

まず、第1に気になるのは、
パワハラというあいまいな概念にあたる行為があったか否か
を問題にする意味はない。
パワハラでなくとも、上司の言動で部下が死に追いやられたのか否か
という点が問題である。すり替えである。

そうでなくとも、
警察官は自死になじむ要因が多い。

まずは長時間労働である。
おそらく、そんじょそこらのブラック企業よりも
時間外労働は多い。
刑事課なんて言ったら、過労死ラインを超えない刑事がいるだろうか。

その上に、交代制勤務があり、生活が不規則になる。

これだけで、精神疾患になるリスクは著しく高くなる。
人間は昼間の活動でいろいろな体験をする。
神経が高ぶっているわけだ。
睡眠によって、神経を鎮め、血管を修復する。

時間外労働が長くなりすぎると、
睡眠時間が確保できなくなり、
精神も、血管も修復できなく、疲労が積み重なってしまう。
これが過労死のメカニズムだ。

第2に、生死にかかわる緊張を余儀なくされる仕事だということ
犯人確保だけでなく、いろいろな場面で危険と隣り合わせの職業である。
警察官だからといって、特別な肉体をしているわけではない。
生身の人間が、いろいろなトラブルに飛び込んでいく
ということをできるだけリアルに想像してほしい。
過労死につながる疲労がいやがうえにも蓄積されていくことは
お分かりになると思う。

第3に、第2とかかわるけれど
生死にかかわる仕事であることから
上下関係は絶対の信頼関係を必要とする。
有機的に一体として行動する必要があるからだ。
相手を信頼しないと、全体がつぶれてしまう。
もちろんそういう訓練も受けている。

こういう場合、
本来は、チームの構成員の一人一人の状態を把握して、
臨機応変に補い合って対応することが求められるが、
チームの構成員の不具合を
責め尽くして、解決しようとする脳力不足の上司が出てくる。
自分を守るために部下を徹底的に攻撃するのである。

また、部下は、上司を信頼するように教育されるから、
上司の八つ当たりも、自分に責任があるように思いこみやすい。
部下の意見で全体が動かないので、
不合理なことがあっても修正することができない。
自分で自分の身を守れないという意識が潜在的に高まっていく。

他の職業以上に上司は、
潔癖であり、公平であり、合理的でなくてはならない、
そうでなければ、部下のストレスは極めて深刻なものとなる。

解決不能の事態にすぐに陥ってしまう。
すぐに一人だけ孤立してしまうのだ。

上司の保身的対応は
部下の孤立無援感を招く。
絶望感に陥れる。

今回の調査についても
自己保身の上司と
自己保身の部下が、
事実を矮小化している可能性がある。

そうでないとすれば、
特別精神的に弱い署員が、
田園調布署という職場に二人いて
偶々数か月の間に自死したことになってしまう。

もし、手心が加えられたとすれば、
死してなお、犠牲となった警察官の方々は
警察組織の中で孤立させられているということになる。

第4に、警察官の方が自死しやすい理由としては
まっすぐな気性で、責任感が強いということだ。
地域住民のためにわが身をなげうって奉仕しようということだから
そういう方が多いのは当然かもしれない。

上司の不正や、不道徳な対応を許せないという気持ちは強いだろう。
間違ったことを命じられたり、評価されたりしたときの
正義感を傷つけられる程度も大きくなる。

その分、絶望も深くなるし
同僚たちが、見てみぬふりをすることも
絶望感をさらに強くする。

わたしは、そのような警察官の方が他を無条件に尊敬している。
他ならぬ、警察幹部が、
部下に対して尊敬の念が足りないのではないかと
憤りを禁じ得ない。
言動に問題のある上司など言語道断である。

最後に警察官の自死が多い理由をもう一つ上げる。
それは、殺傷手段がいつも身近にあるということだ。
絶望感、孤立無援感があると、自死の願望が高まるが、
民間人の場合、すぐに実行するということはなかなかない。

自死の願望のリスクがさらに高まるときとは、
自死の実行手段を思いついた時である。

ぼんやりと
「このまま苦しみ続けるか死ぬか」
という段階から、
「このまま苦しみ続けるか、この銃で自死するか」
という段階に容易に達してしまうことになる。

それだけ、死と隣り合っている職業ということになる。

もっとも、すべての警察署にこのような不道徳な上司がいるわけではない。
また、ひとたび自死事案などが出ると、
警察能力をフル稼働させて真相を突き止める警察本部もある。
警察官を大事にしている警察がほとんどだと信じたい。

本来、警視庁は、都道府県警の模範でなければならない。
徹底した調査と分析をして、
見本を示すべき立場にある。

同じ警察署で、同じ上司を書き残して
数か月の間に二人も自死しているのである。

自死の原因が特定できない等と言っていてよいのか。

これで本当に、社会の不正を正すことができるのか。

国民が信頼を寄せられるのか。

常日頃、警察官の方々に
輪が身の安全を守っていただいている。

そのような警察官の安全は
国民が守らなければならないと痛切に感じている。

中学生人権教室お話20分バージョン 中学生人権作文ドラマを観て [事務所生活]

冒頭以下の動画を観てもらいました。15分。

中学生人権作文平成22年度入賞作品
私たちの声 3人の物語 いじめを無くすために
https://www.youtube.com/watch?v=BQW5zjbnkNA


その次に10人弱のグループに分かれて感想を言いあっていただきました。
中学生(学年混ぜて)
父兄(自分の子どもとは別のグループで)
人権擁護委員(年配の方)
町職員他

その後子ども110番を主宰している方から20分お話があり、
私のお話。(終わるころはまるまる2時間)

以下、お話の内容です。
私は、このビデオを見て、いじめをしていた安藤拓海が、主人公大樹の注意を聞いて、あっさりといじめをやめたことが気になっていました。法務省のホームページで元になる作文も読めるのですが、やはり、一度の注意でいじめをやめたようです。これは、本当にあった話を元にしていますので、本当のことなのでしょう。本当はこれがリアルな話なんだと思います。

どうして、拓海は、いじめをやめたのでしょう。私からお話したいことはそのことです。

大樹のお父さんが亡くなったということも一つの理由なのかもしれません。しかし、もっと、大きな理由があったように思います。

一つの理由として、拓海は、本当はいじめをやめたかったのではないかということを考えました。それは、やめたいと言葉になるような気持ちではないでしょう。自分でも気が付いていなかったと思います。いじめていることが苦しかったのだと思います。おそらく、拓海は、いじめていた飯島君に言っていたようなことを誰かから言われていたのだと思います。いじめをする人から話を聞くと、みんな、まるで自分を守るために虐めているようにお話しします。正当防衛みたいに、相手が悪いっていうんです。でも、自分を守るために他人を虐めているのかもしれませんが、自分がいじめによってますます人間性がすり減っていく、自分を攻撃してしまっているということがいじめの本質だと思います。自分が言われた言葉を飯島君にぶつけていたのだと思います。自分が飯島君を虐めているとき、苦しんでいる飯島君、逃げ場のない飯島君を見ながら、その飯島君の苦しさと、自分のおかれている状態を無意識に重ね合わせてしまっていたと思います。苦しさから逃れるためにいじめていたのですが、逆に苦しさが募っていたのではないでしょうか。

いじめている方も、もちろんいじめられている方はもっとひどく、
「人間を大事にしよう、人間は大切に扱われるものだ」
という気持ち、感覚がすり減ってゆきます。
本当は、自分でも他人でも、誰かが傷ついても嫌な気持ちになります。むごい、怖い、苦しいという気持ちです。人間だけは、二歳くらいから、誰かが困っていると助けたり、誰かが楽しんでいると一緒に楽しみたいという気持ちになり、そうします。それが、弱い人間が群れを作る仕組みです。

ちょうど、体のどこかにけがをすると、痛いという感覚になりますね。あれ、どうして痛いと思うかというと、そこが皮膚が破れてバイ菌が入るから洗ったり、薬を付けたりする必要があると知らせるためです。骨が折れていたいのは、安静にしていないと骨がくっつかないためです。
心もおんなじです。
自分の身を守るため、むごいとか、怖いとか心配になったりする生きるための仕組みなんです。
ところが、他人が苦しむ姿を見続けるとどうなるでしょう。だんだん慣れてきてしまうのです。人間はいつまでも苦しむことに耐えられないのです。最初、あれ臭いなと思っても、だんだん慣れてしまってにおいを感じなくなるのと一緒です。

いじめが続くと、人が苦しんでいるのに慣れていってしまう。他人が苦しんで、自分だけが平気なんて言うことは残念ながらありません。無意識に、「人間を大事にしよう、大切にしよう」という気持ちが、馴れることですり減ってしまいます。
誰かが傷ついても、あまり気にしなくなってしまうということは、実は、自分が傷ついていることに気が付かなくなることなんです。これが人間の心の仕組みです。

そうやって、このまま人間性がすり減り続けるとどういうことが起きるのでしょう。

一つには、見つからなければ良いやという気持ちになることから、犯罪が起きます。本当は、自分を大事にできているならば、そんな悪いことを自分にさせません。また、自分を大切にできないと、自分の体が悪くなるということをあまり気にしなくなり、危険ドラッグや覚せい剤を好奇心で使おうなんて馬鹿なことをするようになります。辛い状況を生き抜くために、痛みに鈍感になっていきます。
いじめを止めることは、被害者を助けることだけでなく、それを見ている自分やいじめている本人さえも、人間性の摩耗から助けることなんです。自分を大事にすることなのです。

拓海は、まだ、そこまで人間性がすり減っていなかったので、苦しさが残っていたのだと思います。何とかやめるきっかけがほしかったのかもしれません。だから、大樹の言葉に反応したのだと思います。

さて、でも、人間の気持ちとして、自分が間違っていることを分かっていても、なかなか人の注意を素直に聞くことはできません。どうして、拓海は、大樹の言葉に素直になれたのでしょうか。これもずうっと考えていました。


そこで、もう一度、このビデオを見て、衝撃を受けました。大樹は、いじめは悪いことだからやめろというようなことから言って拓海をせめているのではないのですね。
「関係ないだろう。」といった拓海の言葉を受けて、「関係なくないだろう、友達だろう。」と言いました。

このビデオの見せ場ですね。

言われた拓海は、どうせ自分なんて誰も相手にしてくれていないという気持ちだったことを打ち明けます。こういうことを言ったということは、拓海は、嬉しかったのだと思います。自分が、昔一緒にサッカーをやっていた時のように、大樹に受け入れられていたことが嬉しかったのだと思います。間違いをしても、自分を友達だと受け止めてくれる。いじめをしている自分を、そういう「虐めるやつだ」というような見方をするのではなくて、本当は違うだろうと言ってくれたことが嬉しかったのだと思います。

いじめなんていう極端な悪いことでなくても、なんかうまくできないことってありますよね。走るのが遅かったり、絵をかくのが下手だったり、そういうところを、笑ったり、責めたりしないで、いいよいいよ、俺がフォローするよと言ってくれると嬉しいものです。この人のために、自分も貢献したいという気持ちになりますね。こういうことが人間同士の付き合いなのかもしれません。拓海は、友達の前で、素直に謝ることができたのが嬉しかったと思います。とても気持ちが楽になったと思います。


 いじめなんてなくなればよい。とみんな思っていると思います。だけど、場をしらけさせてしまうんじゃないかとか、今度は自分がいじめられるのではないかと思い、なかなか言い出せませんよね。偉そうに思われるのもいやかもしれません。

でも、今回のビデオを見て思ったのですが、「もうやめろよ。」ということが、友達として、仲間として言うならば、それは、おせっかいかもしれませんが、親切なのだろうな、虐めている友達を「人間性をすり減らすこと」からかばうことなのだろうなと思いました。それが、虐めている人の弱点をフォローしてあげることにもなるんだなと思いました。

 いじめの対策の一つの考えとして、いじめがないかを監視して、発見したら加害者を攻撃して排除するという極端な考え方もありますが、これはいじめ対策が暗いものになってしまいます。弱点があったり、苦手なことがある友達をフォローして、皆で助け合う学校にする。今の苦しい、独りぼっちの状況から、自分は苦しいと言えて励ましあうことができる当たり前の人間関係を作る。私は、こういう当たり前の人間関係にあることが人権が守られている状態だと思うのです。そんな難しいことではないと思います。
 人権が守られていれば、それでもいろいろ苦しいことがあるけれど、人の中にいることで安心することができます。この人のために頑張ろうという人がいれば、生きていることが充実していきます。

だから、いじめをなくしましょうというより、この中学校の生徒たちは、みんな弱点があってもそれを助け合って、尊重して暮らしていく。そうすることによって、この中学校の生徒でよかったなと、生れてきて良かったなと思える学校づくりを目指せば、その途中経過で、とっくにいじめなんて、なくなっていることと思います。嫌なことをやめるという目標ではなく、楽しいことを膨らますという目標です。今日、こうやって、最後まで私の顔を見て私の話を聞いてくださった皆さんならきっとできることでしょう。

精神的成熟とはなにか。家族の在り方に照らして考えてみる。 [家事]

医学雑誌の特集等を見ていると、
会社に調和できずに、出社できなくなるような事例では、
その労働者の精神的未成熟が問題とされているようです。

しかし、私は、労災事件を担当していて、
労働者から話を聞くと、
なんぼなんでもその上司はだめでしょう。
という感想を持ってしまいます。

精神的未成熟なのは、労働者ではなく、上司の方
あるいは会社の方ではないかとつい思ってしまいます。

もちろんケースバイケースということはあると思います。
労働者側が極端に精神的に大人になり切れなくて
社会の最低限度のルールも守れないというような場合です。

でも、そういう未成熟な精神状態なら、採用面接でわかるはずです。
わかっていれば本来採用しなかったのではないかという疑問も生じます。
そのための採用面接ではないかと。

さて、
そこで言う精神的な成熟とか、未熟ということですが、
これはどういうことでしょう。

例えば、15歳くらいになると自我が芽生えると言います。
自我が芽生えなければ精神的に成熟していないということになるのでしょうか。

自我とは、要するに自分と他人とを区別するということです。

自我が芽生えない最たるものは赤ん坊ですね。

赤ん坊は自分と他人の区別がつきませんから、
排泄の不快さや、空腹のひもじい思い、
暑い寒い等々
相手に、自分の要求を押し付けてきます。

もっとも、親も、通常は、面倒を見ること自体はうれしいので、
要求が押し付けられたという風に感じることはありません。

客観的に見れば、
赤ん坊は不快を取り除くなどの結論を要求するだけです。
自分の感情だけを優先するということになります。

自分と他人の区別ということの、
精神的な観点からの意味あいはそういうことでしょう。

精神的に成熟していくとどうなるでしょう。

自分と親は別の人間だということになり、

例えば
自分としては、このゲーム機を買ってもらいたいが、
親の経済的な事情もあるので、
要求を控えた方が良いのではないかとか。

勉強に差し障ると思って買ってもらえないのではないかと思えば、
試験勉強を頑張ってみたりするわけです。

結論をただ押し付けるのではなく、
相手の意思に働きかけて、結論を誘導することが
結論にたどり着くためには必要であるということを理解します。


精神的に未熟であれば、
買って、買ってと泣くだけなわけです。

ところで、精神的に成熟する必要性とはどこにあるのでしょうか。

おそらく、主として親の庇護から離れた社会活動をするために、
働くとか、学ぶとかですね。
他者と調和して存在するためなのではないかと思われます。

自分の要求だけで、
他人の迷惑を考えることができなければ、
社会の中で孤立していく可能性が高くなります。

また、精神的成熟がなければ
結婚もできないでしょう。

問題はここなんです。

家庭の中で、
相手に要求するのは良いのです。
現状に甘んじないで、よりよい人生を歩もうと
努力している二人は尊敬できます。

問題は、おそらく要求の仕方と要求事項なのだと思います。

結果だけを求めるという要求の仕方は問題があるのでしょう。

もっと小遣いよこせとか
もっと給料入れろとか、
もっと家にいろとか、

要求自体が間違っていないとしても、
相手の感情を全く無視して結果だけ要求するというのは、
もしかすると、赤ん坊と同じ程度の
精神的成熟度なのかもしれません。

言われた方の気持ちを考えて、
相手を思いやったうえで、
相手を不快にさせたり、困惑させたり、怒らせないで
結論に誘導する
というのが精神的に成熟した大人のやり方なのでしょう。

要求事項にも精神的成熟度が関係することがありそうです。
もっと家にいる時間を長くしろ
一見もっともですが、
およそ一人の外出を許さない状況だとやりすぎですね。

自分が外で過ごしても文句を言うな
ということに関しても、
家族をほったらかして、自分の生命維持に必要な
食事や睡眠以外は不在にする
ということも極端ですよね。

自分が何かをしないことが
家族をどのような思いにするか
考えようとしないということは
精神的に未成熟ということなのだと思います。


良く見られるのは、
自分は正しいはずだという想いが強いと
相手がそれによってどのように考えるか
という視点が欠落してしまうということです。

例えば、妻(どっちでもよいけど)が、段取りが悪くて
荷物を取りに行くのが遅くなり、
子どもの食事が少々遅くなったとします。

いろいろな夫がいますよね。
段取りが悪いことを怒鳴る人
ねちねち文句をいう人
上から目線で教育的さとしをする人
罰を与えようとする人。

この時、効率だったり、合理性だったりに
重きを置いてしまい、
妻の感情を考えることをしなくなるとすると、

妻という家族の仲間の感情よりも
合理性、効率ということを優先することになってしまう、
ということに気が付かないことが多くあるようです。

さらに、子どもの前でそれらをやってしまうと
妻の面目もつぶれてしまいます。

妻と夫と逆のパターンももちろんあります。

ついつい、うっかり洗面所を水浸しにしてしまい、
急ぎの用事のため洗面所から一時的に離れたところを
たまたま妻は洗面所に通りかかるようにできていて
水浸しで出て行ったことを怒るわけです。

どうしたの?と聞くことは、実際は大変難しく、
自分に後始末しろと言っているのかしらと
つい思ってしまい、
相手の気持ちを考えずに感情を爆発させたりすることがあります。
何回も言っているじゃないの。

「汚した人が後始末するべきだ。」
という絶対的真理を旗印に
相手を責めるわけです。

それはそれで正しい。

問題は、その絶対的真理と
夫の居心地の悪さの
どちらを優先するかという問題だとおもうのです。

結局、自分が損をしたくないという気持ちが
家庭の中でも起きてしまうと
家庭がぎすぎすしたものになってしまいます。

意外にも
多くの人たちが、
正しさや合理性を我慢して、
相手を責めない、
やれやれとか思いながら、
我慢している人たちが多くいます。

もしかすると、
この人たちの精神的成熟度は高いのかもしれません。

少なくとも、
自分が常に馬鹿にされているのではないかとおびえながら
相手の些細な言動に文句をつけて
相手を日々、心理的に圧迫し、
そしてそれに気が付かない人たちより、
精神的成熟度は高いのかもしれません。

もう一つ、
精神的に未熟な人は、
自分の感情が最優先です。
ということは、
二人の間に不具合があっても、
自分が悪いのではないかという発想に立つことはありません。
自分の行動を修正して、相手との仲を
良好なものにしようという発想がありません。

今の不具合を自分以外の、相手に原因を求めます。
あるいは、相手を応援したり、肯定したりする人たちに
原因を求めます。

決して解決する方法の無い泥沼で苦しんでしまうわけです。

そして、全く関係のない人に
わずかな関連をよすがに
極端な話、男だから、女だからというくらいの関連で
攻撃したり、不満をぶつけたりするわけです。

こう考えていくと、
精神的成熟を求めていくことは、
自分が無駄に傷つかず、
みんなが幸せになるための
人間が身につけるべきものなのかもしれません。

少なくとも、合理性や効率を追及するよりも
大切なことだと思います。

企業研修(経営者・幹部向け)で人権の講義をしています。覚えるのではなく、結局人権とは何かを理解すること [事務所生活]

私は、労災についての研修会の講師は、
企業連合体や国の外郭団体で行っているのですが、
気が付くと、
労務コンサルタントをされる方に対して、
服務規定やパワーハラスメント等の研修の講師をしたりしていました。

人権をテーマにした研修だと、
省庁、地方自治体の課長級以上の研修や
省庁の新人研修、
学校で、先生方や父兄向け研修、
中学校、高等学校の人権教室などで
お話をしています。

毎年、かなりの数に上ります。

これらの方々、特にお子さんに対して
人権というわかりにくい話を
無味乾燥にならずにお話しなければならないので、

「結局、人権って何なのよ」
ということを、わかりやすく説明してこなければなりません。

年齢や立場において、説明の方法は変わります。

高校生ですと、ポップ歌手の歌を題材に
人権のお話をしていきますし、
中学生ですと、いじめの問題をテーマにして、
「当たり前の人間づきあい」
という視点から人権を説明していきます。

法律上の概念や、歴史的背景すらも語らないで
人権を理解していただかなければなりません。
それも、一回勝負です。
2時間の持ち時間の場合もありますし、
40分や20分という持ち時間の場合も
とにかく一回勝負です。

何かを覚えていただくのではなく、
腹に落としていただく、
できれば、心を動かしていただく
ということを目標として行っています。

今、企業経営にとって、
人権問題は避けては通れない問題となっています。
人権問題が順調な経営の落とし穴になる可能性があるわけです。

逆に、人権問題をうまく吸収することによって、
莫大な経済効果が生まれる可能性があります。

一つは、従業員のモチベーションであり、
一つは、社会的信用の増加です。

人権問題は、実は、
利潤追求の足かせになるのではなく、
絶大な効果が期待できる経営戦略なのです。

せっかくの好機に、
パワハラがあったり、
外国人差別があったり、
障碍者問題が起きたりすると
モチベーションも下がり、社会的信用も失います。

現代においては、経営戦略に不可欠の要素だと
客観的には認識するべきです。

ところが、人権問題は、
手を変え品を変えて、次々と新しい課題が浮かび上がります。
何が人権侵害か、何がパワハラを
「覚えよう」とすると、どうしても無理が生まれます。
従業員の数以上に、人権の形が存在するからです。

肝心なことは「腹に落とす」ということです。

また、人権という言葉には、人権感覚という
阿吽の呼吸というか、一子相伝的な要素が付きまといます。
これこれ、こういう事例から考えてね
というような
途中までは面白おかしく聞いていても
結局何が人権であるかについては
実務的には難解な話がほとんどでした。

対人関係学は、
動物行動学と脳科学の観点から
「人権」を言葉で説明しています。
人権感覚を身につける努力も不要です。

だから、
「人権を守るか、企業活動を否定するか」
という視野狭窄的な選択肢を提起しなくて済むのです。
経営判断で、どの程度人権を充足するかを
チョイスすることが可能となります。

簡単に言えば、
第1に、身体生命の危険とともに対人関係の危険に
さらさないこと

第2に、自分の身を自分で守るという感覚をもたせること

具体的内容は、お話の中でお願いします。

ただ、一番の問題は、教科書が出版されていないことです。

このブログだったり、
対人関係学のページだったり
情動の研究だったり、
法律事務所のホームページに載っていますが、
すべてを閲覧するには時間がかかるということが
難点であることは自覚しています。

一般的に人権というテーマもありますが、
以下のテーマを中心に、あるいは題材にお話しすることが多いです。

パワーハラスメント
障害者差別解消法の「合理的配慮」
外国人雇用、現地労働者問題
部下の失敗の活かし方(PMG)
部下とのコミュニケーションとハラスメントの境界
メンタルヘルス対策
服務規定と企業外非行
長時間労働と人間の生きる仕組み
モチベーション
「忙しい」とは具体的にどのような事象のことか
忙しさが招くヒューマンエラー


などなどバリエーションがあります。

労働法規一般ももちろんお話しします。

事前に企業の問題事例を教えていただき
具体的にどのように考えていくか
ということも歓迎です。
とにかく、実務的に使えることが命です。

但し、マニュアルを覚えてもらうというのではありません。
アンケートを見ると
1割くらいの方が、マニュアルを期待していたことがわかりますが、
そういう研修会ではありません。
また、人間関係がマニュアルで割り切れると思っているなら
その考えこそ改めなければなりません。

これまでの私の活動歴
弁護士としてだけでなく、
人権擁護委員や調停委員
あるいは、市井の生活者という経験を踏まえて、
私だけが培ったノウハウです。


お問い合わせは、お手数をおかけしますが、
このブログの左上のリンクのリンク先にある
左側のリンクから、私の法律事務所のリンクに
連絡先があります。


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