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【緊急】9月29日付朝日新聞赤石千衣子氏の親子断絶防止法案に対しての懸念に意見する。 [家事]

平成28年9月29日付朝日新聞に
赤石千衣子氏の(あすを探る 家族・生活)「親子断絶」防ぐ法案に懸念 
という主張が掲載された。
私にはそのような依頼はないので、負け犬の遠吠えみたいなものだが、
朝日新聞ということで、影響力もあることもあり、
雀の涙程度の力でも、出さなければならないと思い、
また、ちょっと仕事の関係もあり、
緊急意見を出してみようと思った。

まず、「離婚後も親子関係の維持が現実には困難な場合が多い」
ということはその通りかもしれない。
しかしその理由が、
「母親が父親から暴力を振るわれたり、
子が虐待を受けたりする家庭は少なくない。」
ということは一面化しすぎだろうと思う。

面会交流が進まない理由は、
離婚後も元夫と元妻の間で葛藤が強い状態が維持されていることである。

DVや虐待がある場合はもちろん、
ない場合もあると思いこむのは、感情が強く残っているからだ。
実は離婚以上に、この葛藤の持続が
離婚後の子どもにとって悪影響があるということが
近年主流の学説である。

とても疑問なのは、
「家裁の調停で、DVや虐待があっても面会が行われる例は多い」
と述べているが、
先ず、事実関係に誤りがあるだろう。
これは面会阻害事由になっている。

おそらく、DVや虐待の存在を主張しているにもかかわらず、
裁判所において認められないというケースだと思われる。

また、男女参画室等が虐待の子どもに対する影響の教科書にも
虐待があっても、面会交流をする方が
子どもにとって好転するケースが多いと記されている。
問題は面会の仕方なのである。
この点、裁判所は、虐待が疑われる場合は
機械的に面会をさせないという態度であるという実感こそ持っている。

赤石氏は
「法案は、児童虐待などに「特別の配慮」を求めているが、
具体的な配慮の内容は保障されていない。
というが、これは当たり前だろう。

特別の配慮の内容は具体化することが望ましいが、
ケースや性格によって全く異なる。
敢えて言えば、面会交流支援の専門家を配置する等、
制度的な問題であろう。
法案に個別ケースに対応するような内容を規定するということはない。

赤石氏が
「子と同居する親に、定期的な面会交流を維持するよう求めているが、
親子関係は、一方の親の努力だけでは維持できない。
別れた親にも「高額の贈り物をしない」など面会時の
約束を守らせる規定も必要だろう。」
と述べている。

一方の親の努力だけでは維持できないということは
正に大賛成である。
良い悪いにかかわらず、双方が高葛藤になった原因は
双方にある。
どちらが良いか悪いか等と言う無意味な詮索をやめて
双方が安心できる面会交流のために努力するべきである。
そのためには、客観的に、かつ支援的に父親と母親の
関係性を見ることができる第三者がきちんと支援する
という制度が必要である。

私は家事調整センターという制度を提案している。
家事調整センター企画書
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

赤石氏の主張で、
子を連れて別居することを「連れ去り」と考え、防止を啓発する
というのも現実的ではない。
子の世話を主にする親が連れて家を出るのも
「連れ去り」と称して防止すれば、
世話が必要な子を置いて別居せざるを得なくなる。

とある。ネーミングの問題で、
双方の葛藤を高めない工夫は必要だろう。
しかし、どうも気になるのは、
初めに別居ありき、後にも別居しか選択肢がない
ということは通常の夫婦ではありえない。
紙数の関係かもしれないが、
どうもそのような論調のような気がして心配だ。

問題が大きくなる前に適切な支援をする
制度こそが必要だと思われる。
今は、家族を壊す方向にだけ国家が助力している。
修復する方向にこそ、国家は助力するべきだ。

また、大いに反対したいのが、
「法案は、別居する親との交流も子の権利とする
『子どもの権利条約』を根拠としているという。
しかし、条約が保障する、子どもが
『自由に自己の意見を表明する権利』には触れていない。
子が『会いたくない』と思ってもその意見は聞かず、
別居する親が面会を望めば従わせられるようにも読める。」
とある箇所である。

子どもの年齢にもよるが、基本的に、
子どもに親を選ばせたり、子どもに親を否定評価させるような
そんな犯罪的な制度を作るべきではない。
この点だけは根本的に考え直すべきだ。

子どもを利用して離婚を有利にすることによって、
子どもが精神的に立ち行かなくなる事態をたくさん見ている。
子どもが同居親の感情を自分の感情として混乱し、
自我の確立が困難になるからだ。

例えば
「両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10

自分の親の一方を悪と決めつけ絶対否定すれば
後に傷つくのは子どもである。

養育費について言及しろという主張もあるが、
強制執行の方法については既に法定化されている。
むしろ、支払うモチベーションを高めることが
親子断絶防止法案の趣旨にかなうだろう。

 親同士の対立が激しい場合、面会のための話し合いが成立しないこともある。「家庭問題情報センター」(東京豊島区)など、相談を受けたり、面会時に付き添ってくれたりする支援機関があるが、全国に数カ所しかない。費用も1回の利用で数万円かかることもある。まずは、支援の拡充整備が必要だ。

この点は、大賛成だ。
先ほどの家事調整センターは、本来税金で安定的に運営されるべきだ。
いろいろな善意が活動を始めている。
あとは、東京オリンピックに比べれば、雀の涙の予算
けちるかどうかだけの話だ。

最後の二赤石氏は、
 そして、この法案は「家族のあり方」を問うものでもある。
 家族や子どもをめぐる法律は、2000年代から、家族の多様性や個人を尊重し、家族内で暴力や虐待があった場合、個人を保護する方向で整備されてきた。配偶者暴力防止法や児童虐待防止法がそうだ。「父母と継続的な関係を持つことが子の最善の利益に資する」として、一方の親にだけ努力義務を課し、子の意見も聞かない法律ができれば、20年以上前に時計の針を戻すことになる。
と述べる。

赤石氏の主張は
結局どういう家族の在り方を理想とするのか不明である。
家族の解体、些細なことでも離婚を勧め、
相手をののしり続けることを子どもに強いる
という、今の主流の在り方が
家族の在り方として肯定されてよいとは思えない。
子どもの健全な成長を阻害するとしか思えない。

また、
どうして20年以上前に戻るのか。不明である。
総じて、離婚の子どもに与える影響とその回避のために、
心ある研究者たちが実証的研究や統計的調査を行ってきているが、
これらの科学の成果が、赤石氏の主張にはまるで踏まえられていない。
赤石氏の主張こそが、20年前の議論そのものである。

「子の最善の利益とは何か。家族とはどういうものか。
 幅広く、慎重な議論が行われるべきだろう。」
大賛成だ。ぜひ一方通行の意見表明ではなく、
幅広い意見交流を実現させていただきたい。

「いじめ」の定義を教育機関が議論をしていることこそに違和感をもとう!定義に当てはまらなければ指導しないのかと当てはまればどうするかという問題。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

本日の地元紙の1面と3面で、
中学のいじめ対策の問題が報道されていました。

いまだに個別問題が対症療法的に議論されている状態だったので、
がっかりしてしまいました。


特に気になったのは、「いじめ」の定義を巡って
いまだに議論をしていることです。
はっきり言って、定義はどうでもよいのではないかと思います。

困っていたり、苦しんでいる児童生徒がいれば
人間関係の形成の指導をするのが当たり前のことですよね。
どうも、「いじめの定義に該当しなければ
教員や学校は放置する
どんなに困ったり苦しんでいても。」
という、かたくなな態度をとっているのではないかと心配です。

定義は、このように諸刃の剣です。
定義に該当すれば、予定された行動をする
という発動のきっかけにもなりますが、
定義に該当しなければ、
一切行動しないという危険も出てくるわけです。

確かに学校の行動に副作用がある場合
厳格に考えられなければなりません。
例えば極端な例では退学処分の場合、
定義に当てはまらないのに退学処分をしたら、
それは生徒にとって重大な影響となります。
慎重に行うという要請がでてくる。
定義に当てはまるかはまらないかを厳格に考えるべき場合ですね。

いじめの場合はどうでしょう。
いじめだけに対して先生が関与するということは、
つまりいじめに該当しなければ関与しないということは、
果たして正当なこととされてしまっているのでしょうか。

「からかい」に対しては、学校が動くと副作用があるから
放置しなければならないという方針でもあるのでしょうか。
そうではないと信じたいです。

いじめの定義に該当したらどういうリアクションをするか
ということが定義の意味ということになります。
いじめが厳罰化となり、
警察の介入や停学や退学の処分の要件ならば、
やはり、厳格に考える要請が出てきてしまいます。
これは問題です。

こんなことをやっていたら、
いじめを放置しなければならないという
へんてこりんの要請が働いてしまいます。

私は、傷害や大きな傷害の恐れのある暴行等の刑法犯でなければ
まずは、学校の指導、すなわち教育の対象とすれば足りるし
その方がいじめ撲滅の効果があると思っています。

そして、いじめか否かにかかわらず、
一人の人間が、困惑したり、苦しんだり
仲間として尊重されていないという事実があったら、
指導をするべきだと思うのです。
だから、いじめに該当するかということは
あまり気にするべきではないと思っています。

からかいだとしても、
先生から見て、これが継続すれば比較的弱い生徒なら苦しくなるとか
孤立していて多数からからかわれているとか
からかいとからかわれる方が固定されているというような場合は
直ちに指導をするべきでしょう。

楽しくない生徒や生き生きとしていない生徒がいれば
直ちに、声がけをするべきなのです。

どうしてこれができないのか、
あるいは、こういう議論にならないのか
という点に問題の根深さがあると思います。

一つは、再三繰り返してきましたが、
学校の先生が忙しすぎるからです。
やることが多すぎて、
やらなければならないことをこなすことに精いっぱいで、
それ以外のことになかなか手を付けられない
ということがあるように思います。

だから、なるべく理由をつけて行動を絞りたいという気持ちになり、
「いじめでなければ、積極的に関与しなくてよい」
という暗黙のルールを絞り出しているのではないか思っています。

そして、早く結論を出したいために
形だけ謝罪の会を開いて「解決」の判を押したい
そういう気持ちが出てくることも理由があることだと思います。

そういう原因を放置しておいて
「解決は解決ではない」という禅問答を繰り返しつぶやいても
効果は期待できないことになります。

子どもたちに限らず人間は群れの秩序を形成するように
本能的に志向しています。
教室の場合は担任があるべき方向への秩序形成者の役割を果たします。

これは学校教育の根幹ではないのでしょうか。
私塾や家庭教師との最大の違いだと思います。
ここを軽視しているようでなりません。

忙しすぎたら、こんなことできるわけないですよね。

それから、もう一つ、スクールカウンセラーに
心のケアを期待する風潮は、議論が必要だと思います。
心の問題が、学級指導と切り離されてしまえば、
担任は、少しでも心の問題だと思えば
自分ではなくスクールカウンセラーの領域だと
丸投げしようとしてしまわないでしょうか。
担任が懸命にもそう考えずに努力しても
管理職がそのような指導をしたのでは水の泡です。

そもそも、そのような学級というコミュニティから切り離された
「こころ」というものが何なのか
疑ってかかる必要があります。
それができないこと、現場で疑問視の声が上がらないことにも
問題の深刻さがあるように感じています。

なんとなく心の問題だから心の専門家に任せる
というような安易な発想ではないのかという疑問です。

最後に、いじめは悪だという決めつけを
第三者ギャラリーがするならいざ知らず、
教育機関が沿う決めつけるのは情けないことだと思います。
自分たちの仕事を理解していないのではないでしょうか。

そういう意味での悪はすべて懲戒の対象なのか。
叱責や排除ということでは、単なる結論の押し付けであり、調教です。
子どもたちに対する尊敬の念があってのことではないでしょう。

すべての子どもたちの行動には理由があります。
未熟さから出てしまう行動のすべてを悪だとして切り捨てたら
教育の余地は残らなくなってしまうと思います。

いじめる側にも言い分があり、
苦悩があり、孤独がある。
誰かが理解できなければ、
その孤立は固定化してしまいます。

まさに教育者の花形的な仕事だと思うのです。

このブログで再三述べてきたことですが、
いじめというマイナスポイントを0にするということでは
いじめは解決しないと思います。

楽しい学校生活こそ当たり前
という0の先のプラスを目指して初めて
いじめ対策の有効な手段が見つかると思います。





うつ病患者は、家族に何を求めているか。逆に家族は本人に何を期待しているのか。survivor7 [家事]

うつ病で苦しんでいるのは本人だけではなく、
家族もやはり苦しんでいます。

毎回同じ話で恐縮ですが、
本人のうつ病が軽快したかどうかは
家族の表情にはっきりと表れています。

患者さん本人に対する支援はそれなりにあるのですが、
家族に対する支援をもう少し強めることが
家族のうつ病予防のためにも必要だと感じています。

一つは、後ろ向きな言葉を聞くこと自体がつらいです。
一つは、このまま働かない状態だと
自分が死んだ後でどうなるか心配だとか。
一つは、世間の目等も気になるところです。

せめて家族同士の交流の場があればと思います。

東北希望の会は、もともとは遺族の会です。
でも、設立の時から
過重労働でうつ病になってリハビリ中の方に
創設に尽力いただいています。

最近は、同じように闘病されている方が
どんどん参加するようになってきました。
うつ病経験者の方も、
自分の経験が生かせるならばということで、
どんどん参加していただいています。

また、家族が、特に夫がうつ病だという方も
複数人参加されています。

みなさん、自分の経験を何とか活かしたいと
一生懸命お話していただいています。

だから、ものすごく勉強になります。
私が勉強しただけではもったいないので
ぜひお伝えしたいと考えました。

本人にとっての家族とは
一言では言えない複雑な場所のようです。
最終的には最後のよりどころで、
最後のよりどころと位置付けられた人が
うつ病の克服に向かうという事例が多いです。

しかし、先ずは、負担になるようです。

一つは、家族に心配をかけたくないという気持ち
このために、家族の前では、わざとふざけて見せたりして
病気や通院を隠そうとするようです。
一般的に、普通に隠そうとされています。

笑顔を作ることも、大きな労力が必要ですから、
家族と接した後は大きな疲れが遅い、
寝込むこともあるようです。

また、うつ病等で休職しているときは収入が無いので、
「自分は家族のために役に立たない
 必要ない存在だ」
という負担感が強くなるようです。

いじめ事例などでは、
「こんなに馬鹿にされている人間が家族なんて
 申し訳ない」
という気持ちになることもあります。

また、そういう気持ちですから、
家族から
特別な配慮をされたり、はれ物に触るようにされると
ますます苦しくなるようです。

うつ病患者にとって、家族は、
「どんなことがあっても、これまで通り接してもらいたい」
という気持ちなのだそうです。

何か弱点を指摘されることがつらい
ということなのだと思います。
批判されなくても、責められなくても、笑われなくても
指摘されるだけで、辛いようです。

「病気はある、病気によるいろいろな不便さはある
 だけど、家族だから受け入れる。」
というような事実と感情を結びつけない対応が
楽なようです。

だから、善意でアドバイスされたり、
生活態度を注意されるのではないかと
そういう予想が、隠すということにつながるようです。

これは、言うは簡単ですが、
家族は心配ですから、
平気を装うということは、
よっぽど良く考えて、下っ腹に力を込めて
対応しなければなりません。

どうしても心配ですから、
何かアドバイスしようとしてしまいがちです。
それが自然ですから、そうしないことは
かなり大変なことです。

では、家族はどのような対応をすればよいのか、
どうやら、
根拠があろうとなかろうと
「そのうち何とかなるんじゃない。」という姿勢が
必要なのだそうです。

投げやりのように聞こえるかもしれませんが、
「本人の回復力を信じる」
ということができないと、そのような姿勢はできないようです。
これも歯を食いしばって、自分を誘導するしか
ないように思われます。

これは、大変効果があるようです。

うつ病になると、それだけで、特に原因もなく、
罪悪感や、役に立たない感が出てきます。

ただ、本人から子細に話を聞くと
初めから無理なことを考えている方が
大変多くいらっしゃいます。

たとえば、
うつ病であるにもかかわらず
明日から、これまでと同等の会社に勤務しなければならないとか
学校に行って平均より上位の成績をとらなければいけないとか
自分でハードルを高く設定しているなと
強く感じます。

私の知っているうつ病と診断された方々は、
みんなまじめで責任感が強すぎるようです。

多くの家族が、家族のうつ病を受け入れた時、
一番の願いは、
今より良くなることです。

結果を出すというより、
結果に向かう過程を実感したい
ということがギリギリの本当のところのようです。

「本人の責任感」と「家族の想い」には
ギャップがあるようです。

むしろ、本人の責任感が本人を苦しめて、
病気の直りを遅くしているということが実情で、
もっと楽にしてよいのだ、いやそうしなければならないのだ
と考えた方が、結果にも早くコミットするようです。

急がば回れ。

私が、多くのうつ病の依頼者、相談者と接していると
少し良くなれば、もう少しよくなる
という人もいれば
そのうち劇的によくなる人もいます。

最初から完璧によくなろうとする人、即ち
段階を踏むということを観念できない人は
なかなかよくならないという面があります。

そういうことが、
病気を受け入れるということなのでしょう。

家族に世話になることを
すっかり本人が受け入れた時、
申し訳ないという気持ちから感謝の気持ちに代わるとき、
回復し始めると経験を聞きました。

本人は、最終的には、家族に受け入れてほしいという気持ちがあり、
最後の砦として確保しておきたいという気持ちが強く、
それで家族に心配や負担をかけたくないとか
家族に嫌われたくないという気持ちが出てきてしまうかもしれない
とお話しされていました。

なかなか難しい話になったかもしれません。
うまく伝えられないのは私の力量なのでしょう。

ただ、このように、家族のもどかしさ、心配
感情を殺す努力などもあるので、
本人の家族に対する申し訳なさを軽減するためにも
いろいろなやり方
家族支援を行うことが必要だと
改めて考えました。
どうやら、これは、自死予防だったり
うつ病の軽減の切り札になりそうです。


過労死、過重労働でうつ病等にかからないために、他人軸から自分軸への切り替えが必要な人、必要な状態のサンプル付survivor6 [労災事件]

平成28年11月26日土曜日1時30分頃から
(時間は詳細が決まれば改めてご報告します。)
三越定禅寺通館6階で、
厚生労働省主催の過労死防止啓発シンポジウムが開催されます。

宮城県のシンポジウムの様子が見えてきましたので、
先出しでお知らせします。
宮城県の企画では、
大学の心理学の研究者が
過重労働によって精神的に問題が生じて
会社を退職した人2名、休職後復帰した人1名から
長時間、事情聴取を重ねて分析を行った結果をご報告し、
パネルディスカッションの形で、
理解を深めていくという形式となる予定です。

実際に大学の研究者グループや弁護士グループと
事例検討は重ねており、
だいぶ迫力のある報告となりそうです。

そして、声の出演となると思いますが、
実際にうつ病に苦しみながら克服して
現在仕事や趣味に、生き生きと活動されている方の
ご報告も予定しております。

みやぎの啓発シンポは、
事実に基づいて、労働者の実際の事例を検討できる
そうして、どうしたら、過労死の手前で引き返すことができるか
ということを実践的に話し合われるということになります。

これから、小出しに宣伝をしていくこととなるのですが、
第1弾です。

実際に、うつ病になっても、自分がうつ病になっていると
気が付くことはなかなか大変です。
仕事がつらいと感じても、
会社からすれば、この仕事をいついつまでに
仕上げてしまわなければならない
という発想になっている人が多いので、
仕事を少し休もうという発想になりません。

辛ければ、もっと頑張らなくてはならない
という発想のようです。
過労死の悪循環に入っていってしまっています。

休もうとか、やめようとか、自分には無理
という考えをもつことができないようです。

その原因として、
物事を「自分軸」で考えられず、
会社という「他人軸」で考えてしまっていたと
労働者の方はおっしゃっていました。

自分軸で考えるというのは、
自分の状態や、自分の望み、自分の気持ちを第一に考えることで、
そうすると、
「この仕事を終わるまでやっちゃうと
家族との時間がなくなるから嫌だ」とか
「やるのはいいけれど、残業代でないならやりたくない」
と思えるのです。

そうして、会社の仕事は山積みだけど
自分の状態はいっぱいいっぱいだから休もう
という発想に初めてなれるわけです。

これが自然にできる人は、なかなか過労死にはなりません。
過労死になる人は、このような発想ができない人です。

他人軸というのは、逆に
「今日は、子どもの誕生日だから早く帰ってと言われていたけれど、
 この仕事、誰もやらないで帰っちゃったから
 自分がやりぬかなきゃならない」
とか、無理とか困難とかいうのは甘えであり、
「(会社にとって)やらなければならないことは、
 泣き言をいっている暇があるならさっさとやるべきだ。」
「やらなければ自分がだめな人間に堕落する」
と思うようです。
「寝てないし、大変つらいけれど、
 仕事がある以上やるのは当たり前」
という発想になるわけです。

少し難しい言葉を使わせていただければ
自分のモチベーションが、自分の情動となるのではなく、
会社だったり、上司だったりの情動で決められる
ということになります。

自分からすすんで、会社に支配されている状態です。

会社に一方的な責任がある場合が多いですが、
性格に起因する場合もありそうです。

こうなると、自分の体調は行動の理由になりません。
「疲れているから仕事を休む」という流れにはならず、
「疲れているから仕事が余計大変だ」くらいで終わります。
無理を重ねていって、過労死に近づくわけです。

仕事を続けているうちは、他人軸から自分軸に
切り替えることは難しいです。

今回調査した労働者の方たちは、
一人は、病気休職をして、自分軸を取り戻した方
一人は、会社の長期休みで、自分軸を取り戻した方、
一人は、会社からメンタルチェックの結果
休職を命じられたという方です。

お二人は偶然、自分軸を取り戻すきっかけがあった
ということになります。
そうでなければ、もしかすると、
今頃精神的不調が重い状態になっていたかもしれません。

大きな会社では、このような制度があるのですが、
制度や担当者との信頼関係が無ければ
休職をしても回復しないことがありそうなのですが、
このことは後程お話しするとしましょう。

問題は、そういう制度のない会社の場合に、
どうやって、意識的に、自分の状態が
自分軸にあるのか、他人軸となってしまっているのか
ということに気が付くか
その方法にあります。

このあたりが、シンポジウムで議論できればよいのですが、
なかなか難しいところかもしれません。

ただ、以下に述べる方、以下に述べる状態の方は
自分の軸足について、休みを取るなりして検討するべきです。

<性格編>
がんばり過ぎ・やり抜き症候群の人

・ 仕事を途中にしていると、なんだか気持ちが悪い。最後までやっておこうと考えてやり抜く人。
・ 同僚とは言え、他人に見せる文書ならば、きれいに飾って色分けしながら作成したい。
・ 職場内の文書に、表紙を付けたり製本する人。
・ やるべきことは時間がかかってもやりきらなければならないと思う人。
・ 同僚や上司が、すぐにあきらめたり、熱心に仕事をしないことに不満を感じている人。
・ どうして同僚が、きちんと仕事を仕上げないのに、上司は注意しないのだろうと考えている人。
・ 同僚が途中で仕事を放り投げるなら、自分が変わってでもやり抜いてしまう人。
・ 手を抜くと、「自分がだめになってしまいそうだ」と感じる人
・ 「不可能」とか「できない」、「困難」という言葉はいいわけだと思っている人。
・ 社内プレゼンで、パワポで動画やアニメーションを入れる人
・ 上司などから遠慮がちに、「メリハリが大事だよ」と言われている人

<状態編>
うつ病のかかり始め
テレビ映画を見ていて、「今までだったらこんなシーンで泣いて(笑って)いたなあ。」と思って、泣いて(笑って)いない自分に驚く時
・ 今まで興味をもっていた趣味のことに興味がなくなり、例えば毎月買っていた雑誌を買うのが億劫になっている時
・ 13日連続勤務をしている時
・ 笑顔を作るとき、「笑わなければならない」と思って作る時
・ 笑顔を作った後、ふざけて見せた後で、どっと疲れが押し寄せてきた時。特に寝込んでしまう時。
・ 今までおいしいと感じていた食べ物、飲み物の味がわからなくたった時。
・ 酒の種類、銘柄にこだわらなくなった時。
・ 「自分が悪いんだ」、「自分には能力がない」、「失格だ」と思うと、少しホッとする
・ 楽しそうにしている人みるとイラつく時
・ ゆっくり物事を考えられない時、集中できない時。細かいことを見逃すことが多い時
・ 掃除や片付け、料理が、疲れるし、どうやればよいかわからなくなる時
可愛いと思えることがなくなったと感じた時
・ 世の中が消えてなくなればよいと考えている時。
・ 自分は大切にされる価値がないと感じた時
・ 大切にしていた物、習慣が、どうでもよくなった時

当日同じものをシンポジウムで配布する予定にしています。
求められれば説明をしたいと思います。

【銀週読書感想文】ダーウィン「種の起原」に対する一般的誤解とクロポトキン「相互扶助論」の「誤解」 [事務所生活]


1「種の起原」に対する一般的な誤解
  実際に種の起原を読んでみると、進化論に対する誤解が蔓延していること、いつしか自分がそれに毒されていたことが理解できる。
  最大の誤解は、「自然淘汰」と「適者生存」の意味ないしニュアンスである。我々はダーウィンが唱えた主張として当たり前のように使っている。しかし、これらの言葉は、語感的に、「環境に適さない個体は、死滅していく。」ということに重きを置いたニュアンスで理解している方が多いのではないだろうか。これは、ダーウィンの主張の主眼ではない。
  そもそもダーウィンの主張の主眼は、現状に見られる(我々が見ている)動植物の「種」の形状がどのようにして形成されたのかということであり、それは、現在の「種の形状が」初めからその形状であったものではなく、徐々に変化して形成されたという動的な観点からの主張なのである。滅びることが主なのではなく、現在の形成された形状の原因がどういうところにあるのかということが主とした問題提起なのである。
  また、実は同じことなのだが、「進化論」という言葉も誤解を産みやすい。進化という言葉は、evolution とか、progress という言葉があてられるが、これらの言葉には「価値的に高次のものへ発展する」というニュアンスがある。日本語における進化も同様かもしれない。これが誤解を招く。こういう言葉も観念もダーウィンは使っていないようだ。ダーウィンは、進化ということで訳されている言葉としては、descent with modification という言葉を使っており、意訳すると、「好ましい方向への変化」ということであり、変化に価値的なニュアンスは入っていない。
  結局、実に単純明快で、動物も植物も、環境に合わせて形状を変化させているということが主張の主眼なのである。150年前の万物の創造した主の概念を前提としたキリスト教社会においてこれは画期的であった。
  これらの誤解を解いておくことが、クロポトキンの主張に対する誤解のみならず、新自由主義がいかに人間の自然な感情に反しているかについて理解をするカギとなる。
2 クロポトキンの誤解
  クロポトキンは、無政府主義者として10年ほど活動しているが、かなりの博学者である。「相互扶助論」という本を著している。これは、自然の本質が相互扶助にあり、人間の本質も自然の一部であり、戦いにあるのではなく、相互扶助にあるということを主張している。その結果、道徳は、人間の本性を抑えるものではなく、人間の本性に基づくものであるという主張となる。
生物の多くが相互扶助をしながら種を繁栄させているという点については、全く賛成である。しかし、そのことを主張するにあたって「ダーウィンの主張」と対峙させている点は、誤解に基づくものというべきである。
「種の起原」の中で、生存競争の概念は明確に述べられている。そして、生存競争が、具体的な個体同士の戦いを意味しているわけではないことを示す箇所については、クロポトキンも著書の中で引用している。ところが、クロポトキンは、ダーウィンが自らその定義づけをしたにもかかわらず、個体同士の戦いとしてのみ使っているかのごとき解説をしている。これはフェアではない。種の起原の中では、その時代の同種間の協力、相互扶助や、異種生物間の相互扶助についても多くのページを割いて論述している。このことからも異種間、あるいは同種の個体間の「戦い」が生存競争という言葉の意味ではないことは明らかである。どちらかというと、環境の中で主を絶やさない努力、活動といったニュアンスでstruggle という言葉を使っているようだ。
但し、クロポトキンは、それらのことを知っていて敢えてそのような挑発的な表現を使った節がある。ダーウィニズム社会学、自然淘汰、適者生存を強調した闘いこそが人間の本性だという主張(例えばホッブス)に対して、効果的に批判をするという戦略の元での表現ではないかと思われる。ダーウィンの影響力に便乗して、自説である無政府主義の前提的な概念を広めようとしたのだろうと思われる。おそらく、当時、ダーウィンというより彼の解説書が流布していて、そこでは自然淘汰や適者生存という闘争的概念が強調されていたのだと思われる。そうして、戦いや競争が人間の本性に根差す自然なものとして、それを尊重する風潮があったのだと思われる。これに対抗するために、自然やその一部である人間の本性は戦いではなく、相互扶助だという主張を展開したかったのだと理解できる。クロポトキンは、著作の中で、ダーウィンと偽ダーウィン学派を区別して論じているところがある。前述の意図のためあまり区別に神経を使わなかったからか、もしかして彼が、あるいは訳者(大杉栄)が大雑把なために、あえて区別をしないで論じている可能性もある。
このこととは別に、クロポトキンの著作においては、論理学的に看過できない誤解が一つある。ダーウィンの生存競争は、種の変化についての説明としてなされている。環境に応じた有利な変化への志向がいわゆる進化の原動力だと主張している。いわば動態的な説明がなされているのである。そして、この変化は数万年から数百万年単位のスパンで把握しなければならないものであることが多い。これに対してクロポトキンは、現在、同種間であるいは種を超えた相互扶助が行われているということを主張している。それを根拠に、闘争が自然に根差しているわけではなく、自然も人間も相互扶助が本質だと主張するのである。しかし、そもそも別次元の問題であるから、クロポトキンの論理ではダーウィンの批判にはなりえない。現状において相互扶助が多く見られたことと、種の形質の変化の原動力とは関係のないことである。
動態的に相互扶助を考えると、相互扶助は生存競争の結果であり、あるいは相互扶助がなされたために種が維持されたということになる。相互扶助自体がダーウィンのいう戦いということになる。また、相互扶助の形も進化している可能性も高いと考える。また、ダーウィンの理論的な論述の部分を、例示と誤解しているような箇所もある。
この点は、著者たちの時代的、地域的制約を考えると、ヘーゲル論理学を踏まえたダーウィンとそうではないクロポトキンという整理が可能であるように思われる。
3 相互扶助論の評価
  では、クロポトキンの「相互扶助論」は価値のないものかというとそうではない。自然界の本性が相互扶助で形成されているということのエビデンスとして挙げられた事例は読んでいて感動する。
  人類の相互扶助についても、歴史認識を一変させるものであり、当時の社会風潮のカウンターとして大きな意味を持つ。そればかりではなく、現代の新自由主義や自己責任論に対するカウンター、孤立社会のアンチテーゼとして、むしろ現代に対して大きな意味を有していると思われる。
  道徳は、人間の本性に根差したものであるということは、対人関係学の主張と見事なまでに符合する。読むべき書物であると思う。
  とにかく、「種の起原」に対して、「相互扶助論」はたいそう読みやすい。飛ばして読まなければ読み進められない熟語も、大正時代の訳にしてはとても少ない。
4 対人関係学の意味ないし価値
  対人関係学は、クロポトキンの主張の結論を、ダーウィンの手法によって導いた理論ということになる(左上のリンク参照)。
  対人関係学の進化論は、個体としての進化ということをあまり意識していない。総体としての進化ということになる。種の中にはもともとバリエーションが無数にある。ダーウィンの言う個体差よりもはなはだしい差異があることが前提としてある。もっとも、これは、数万年から数百万年というスパンの中での話であり、必ずしも同時代に存在するわけではない。その中で、環境に適した個体差を持つ一群が、存続(遺伝子の継承)に優位となり、その特徴をもった個体が多数を占めて、その種の特徴となる。総体として、種の形状が変化するということになる。
  要するに、種の形状は、新たに作られるものではなく、もともと存在したものが傾向となるという形である。ここが問題なのだが、「もともと存在した」という意味については、難しい。ウィルスや突然変異も含まれることになるが、今後の検討ということになりそうだ。
  クロポトキンの相互扶助で気が付いたことは、相互扶助という概念は、種の初めから存在していた可能性があるということである。これまであまり意識したことがなかった。
  もう一つ対人関係学的な強調ポイントがある。それは、通常進化というと、器官等の形状について取り上げられるが、相互扶助という言わばソフト面が進化ないし遺伝されるという面である。もっとも、この点はダーウィンも検討している。本能と習性をとりあげている。おそらく、後天的に獲得するものが習性で、先天的に遺伝によって継承されるものが本能だとして論じていると思われる。このようないわばソフト面も遺伝するようになるということを前提としている。
  遺伝子の少なくない部分は白紙であるとされ、これから書きこまれる部分である可能性があるといわれているようだ。そうだとするとダーウィンの説の方が正しい可能性があることになる。
  ただ、これらの点についてはこれ以上論じる能力はない。わからないこともまた楽しということにしておきたい。

「お近くにお寄りの際は、お声がけください」がストーカー規制法で警告? [家事]

そのお父さんは、10年前に離婚しました。
中学生の娘さんがいらっしゃいました。
奥さんは、体が弱く、精神的に不安定だったこともあり、
家事をすることがつらくなり、
夫に申し訳ないなと思っていたようです。

でも、だんだんと
「自分は役に立たない人間だ」と考えるようになり、
そのうち、夫から怒られるだろうと
おびえ恥ました。
精神的に不安定だったということも影響を与えていたことでしょう。

でも、お父さんは、
お母さんがつらいということがわかっていたので、
文句を言わず、仕事帰りに惣菜などを買って来たり、
休日は掃除をしたりして、
家事を分担していました。

お母さんは、それがいつしか、
何もできない自分に対する当てつけだと感じるように
なってしまいました。

それは、自分が悪くとりすぎているということも
お母さんは自覚していたようです。
でも、体と心がつらくなりすぎて、
娘さんを連れて実家に帰ってしまいました。

最初は、心配して尋ねてくるお父さんに
普通に話しも交わしていました。

ところが、お母さんの両親は、
娘がのこうなったのはお父さんのせいだと考えるようになり、
あちこちと、相談をしにゆきました。

いつしか、お父さんは、
精神的虐待をしていたということになっていました。
お父さんが尋ねてきても
居留守を使うようになりました。
虐待を受けても受け入れてしまうということは
虐待をされた人の心理だから、
あわせてはいけないといわれたからです。

そんなことを知らないお父さんは、
お母さんが心配で、足しげく通うようになりました。
様子だけでも見せてくれと何度も頼みました。

そんな時、弁護士から、「離婚調停を申し立てた
面会も連絡も遠慮してくれ」という手紙が届きました。
お父さんは、何が起きたのかわかりませんでした。
娘さんも電話に出なくなりました。

調停に言ってみたら、
「奥さんの離婚の意思は固いです」
と言われました。
説明してほしい、お母さんと合わせてほしい
子どもの様子を知らせてほしい
と頼みましたが、
離婚に応じるかどうかを決めなさいといわれました。

どうすることもできない。
お父さんは抵抗することをあきらめました。
10年間、毎月20万円を支払うことも
そういうものかということで、
抵抗できませんでした。

10年間、お父さんはお金を払い続けました。
それだけでなく、なにかにつけて理由を探しながら、
それ以外にも送金していました。

滅多に手紙も来ません。
来ても、事務的な手紙がほとんどでした。
それでも、お父さんは手紙を大事に大事にしまい、
何度も注意深く読み返していました。

離婚調停では、面会交流は決められていましたが、
何年かに一度よそ行きの顔をした写真が送られてくるだけでした。
こちらから連絡をすることは
許されないと思っていました。

お父さんは、お金を送ることは嫌ではありませんでした。
送金の時だけは、
自分はお母さんと娘と家族なんだと思える時だったのです。

そうやって10年が過ぎていきました。
離婚の時取り決めたお金は払いきりました。
まだ払うつもりでいたのですが、
相手が嫌がるかもしれないという気持ちもありました。
20万円という金額は大きく、
お父さんも歳を取りました。
無理をして働けなくなりました。
なかなか、お金を送るくらいの余裕がなくなっていました。

それでも、理由をつけて、
時々お金を送っていました。

そんなある日
偶然、お母さんと娘さんの住まいの住所がわかりました。
お父さんは、精神的にもつかれていたのでしょう、
そんなことがないとわかりつつ、
娘さんが教えてきてくれたのだと思いこんでしまったのです。

手紙を出そうと思いました。
最初、お金を払う約束は終わってしまったけれど
何かあったら相談してくださいと書きました。

返事はありませんでした。
でもお父さんは、なんとなく、
前よりも近く感じてしまい、
安心しているだろうなと考えてしまっていました。

それから少しして、
勤め先の住所が変わったので
案内を送り、最後に、
「お近くにお寄りの際は、お声がけください。」
と付け加えました。

すぐに、警察から警察署に来るように連絡がありました。

この手紙がストーカー規制法に引っかかるということで、
二度と手紙を出さないように警告をされたのです。
街で偶然会ってもだめだといわれました。

「相談してください。」
「お声がけください。」
が、義務なきことをさせるということになり、
日常生活を不安に陥れる
ということだというのです。

それでもお父さんは、
すまないことをした、謝りたい
でも、手紙も電話もできない。
どうしてよいかわからなくなりました。

せめて子どもに会いたい。
そう思いながらもどうすることもできません。

かなわない夢だとわかりながら
いつか、三人で昔のように会って話したいと
考えていたことに、今更ながら気が付きました。

誰に話しても、あきらめろといわれるばかりです。
なんとなく、生きていてはいけないのかなと
ぼんやり考えてしまうこともあるようです。


みなさん。
お父さんの手紙は、そんなにいけないことなのでしょうか。
もし、良いことでないといったって、
本当に警察によって刑罰の威嚇によって禁止されるべきことなのでしょうか。

お父さんは、一つもそんなことを思っていませんが、
私は、あまりにも報われない人生だと思います。

家族の慈しみ、心配、いたわり、励まし
国家権力によって禁止されているのです。

日本という国は、
アメリカをお手本にして、
日本の家族を崩壊させてしまっていると思います。

それを守ったり、援助するはずの国が、
家族を崩壊させているのです。

ちなみにお父さんは、一度も暴力をふるったことも
声を荒げたこともありません。
神様みたいな人です。
そういう人が、虐げられています。






離婚調停の在り方は国民的議論が必要だと思う。人生を「事務処理」されてしまわないために。 [家事]

そのお父さんは、
二日に一度は午前0時まで残業するハードワークで、
それでも、家族のため、子どものため頑張っていました。
(誰が自分のために残業しますか)

ある日、職場から帰ったところ、
家の中が、すかすかでした。
誰もいないし、テレビやたんすなどの家具もなくなっていました。

これはどうしたことかと思い、疲れ切ってはいましたが、
妻の実家に1時間くらいかけて運転していってみました。
そうしたところ、警察官が大勢押し寄せてきて
警察署に任意同行を求められました。
「もう二度と暴力はふるいません」
という念書を書けというのです。

このお父さんは暴力はふるっていません。
私が警察に確認しても、暴力の訴えはありませんでしたし、
後の離婚調停の離婚の原因にも
「暴力」はありませんでした。

何がどうなったのかわからないまま
呆然と日々を過ごしていると、
相手方代理人から離婚調停の代理人になったから
妻とは連絡を取るなという通知が来ました。

そして、調停の期日になりました。
調停申立書には、
離婚したい理由が詳しくは書いてありません。
まずは、話を聞こうじゃないかということで
調停に臨みました。

先ず、申立人妻が30分調停委員に話をしたようです。
ようやく部屋に入って座ったか座らないかした時、
調停委員から、
「奥さんは、早期に離婚をしたいそうです。
 あなたは離婚についてどのように考えていますか。」
と尋ねられました。

夫は、経緯を説明してから
そういう事情なので、わけがわからない
今離婚といわれても当惑する
と素直に答えました。

調停委員は
「それでは離婚については反対するということですね。」
と念押しされそうになりました。

「反対も何も、事情を聞かせられないで
 結論だけ求められても困る。
 離婚理由をまず聞いて検討する。」
と頑張りました。

夫側は、このまま離婚については反対だというと
「それでは、調停を終了して裁判にしましょう。」
といわれるのではないかと思い、恐ろしくなりました。

日本の制度では、離婚の裁判をするためには、
先に調停をしなければならないことになっています(調停前置主義)
人生の一大事ですから、慎重に話し合いをして
それでも当事者の意見が会わないときに
裁判官に決定してもらうという目的があるからです。

これだけで調停が終わりになるなんて、
調停前置主義の目的はとても達せられません。

その他もいろいろと話し合いを希望しても
話し合いを取り次いでさえもらっているのか
心配になってきます。

ようやく、相手方の離婚理由が示されたのは
さらに30分が経過してからでした。
「後で読んでいてください」
というメモみたいな紙2枚と
子どもに書かせた手紙のようなものでした。

さも、これが事実だろうというような態度に
夫側は感じられました。
子どもに父親の悪口を言わせていることに
調停委員は何も抵抗が無いようでした。
これは、明らかな片親疎外です。
離婚のために、子どもを利用しようとするもので、
子どもの健全な発達を妨げます。

自分が悪口を書いた相手は
血を分けた自分の父親だからです。
しかも、かなり嘘が混じっていました。

このような一方的な理由で
離婚に応じるか否かといわれても
戸惑うだけ、あるいは憤るだけです。

私は、
離婚という結論が動かなくても、
お互いに腹を割って、
どうして離婚になったのか、
もつれた糸の所在をはっきりさせることが
お互いの将来にとって良いと思います。
離婚調停を円満に解決するコツは、
相手の言い分、その時の気持ちは理解しても
「それでも一緒にやっていけない」
ということを理解してもらうことです。

お互いのことを思いやることが
実は離婚の近道、王道なのです。

離婚を言いだす方も
妄想というほどではなくとも
自分に自信が無くなって、
相手から離婚を言いだされそうになる苦しさから逃れるために、
自分から離婚を言いだすということが、案外多いです。

もつれた糸をほぐさないまでも見つけることは
自信を失いすぎることから守ってくれます。
相手に対する憎しみを軽減することで、
子どもの別居親との面会交流にも役に立士ます。

それが、離婚、イエスオアノー?
金額はどうする?
だけ決めてハイ一兆上がりという態度をとられると
「自分が、人間として尊重されていない」
という気持ちになってしまいます。

人によっては、絶望したり、委縮して
もう何も話せないで言いなり状態になり、
人によっては逆上して、暴れる人も
それはいるでしょう。

「お前は、人間として、夫として、父親として
 失格だから早く離婚しろ」
と言われていることと等しいのです。

この点を裁判所は理解していません。
夫が暴れるのは、
別々に部屋に入って話し合うから
相手に向かう怒りが裁判所に向かうのだろう
と思っているようです。
だから、同室で話し合う
なんてことを言いだしています。

この事件は、妻も暴力があるとは主張していない事件ですから
まだよかったのですが、
暴力が無くても、暴力があると主張されると
一方的に暴力夫ということになり、
特別警備が敷かれることもあります。

ますます、夫は追い詰められていきます。

ずいぶん学習している調停委員は、
夫の言い分を、言い訳、ごまかしと受け止めて、
冷たい目をしたり、ぶっきらぼうに扱ったりする
そういう感覚を夫が受けることが少なくありません。


ここまでいうと、
それは加害者側の主張だろうと
被害者女性は早く離婚したいのだから
話し合いは無駄だと
そう考える人もいるかもしれません。

ところが、
私は、被害者側も代理人になるのですが、
離婚と金額だけが決まり
あっという間に調停が成立した事案で、
むしろ被害者側も
自分が尊重されていないという感覚を
強くもって、
調停に失望したという経験があります。

被害者側も、実は、
きちんと結婚について話し合いたかった
自分の気持ちを理解してほしかったということが
あるようです。

確かにケースバイケースかもしれませんが。

調停や裁判は、国民に対する国家のサービスです。
ユーザーである国民が、
自分が利用するかもしれないサービスの形を
デザインするべきです。

こういう、自分の人生、子どもの人生が
事務処理されているような感覚の制度でよいのか
議論が必要だと思うのです。

もしかしたら、
離婚調停や裁判に、期待を持ちすぎているのかもしれません。
現実には、そんな話し合いは
訓練されていない調停委員が取り仕切るのは無理だ
と言われてしまうかもしれません。

じゃあ、じゃあ
裁判所に代わるシステムを国民が作るべきです。

家事調整センター企画書
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html



務台政務官報道から考える今のマスコミの危険性 怒っている場合じゃないよと [事務所生活]

務台政務官が、被災地で長靴を履かず
道の上に雨水の流れができているところを
おぶってもらって渡ったことが報道されています。

被災地視察で長靴を用意しないことを
よってたかって批判している論調です。

そりゃあそうなんですが、
政府の視察団ならば、
本来役人が長靴をはじめとして一式を用意するので
政務官が長靴のチェックまでするとなると
これは、部下を圧迫する行為ということになります。

おそらく用意した長靴が足にあわなかったのだと思いますが、
そういったところで、足にあう靴を用意しなかったのが悪い
ということになりますので、辛いところでしょう。

興味深いのは、
務台さんが、スタッフに責任転嫁しないこと
スタッフの長靴を取り上げて、履かなかったこと
です。
ひょっとすると、政治家としては抜けているけれど
案外いい人なのかもしれません。

むしろ、普通の靴ではあることもままならない
という体験を、復興に活かしていただければ
私はそれでよいと思っています。

ところが、被災地以外の人たちは
思いやりを全開にしてくださり
こういうことを許してくれません。
東日本大震災の時も見られましたが、
思いやり爆弾みたいに感じていました。

問題は、マスコミの取り上げ方にあります。
二つの方向から切り込めればと思います。

先ず第1は、いつの話をいまさらということです。
これは、9月1日の出来事です。
2週間もたとうとする今日、
テレビなどで、何度も同じ映像が流されていました。

ネットでは、翌日くらいには
写真などが流されていて
なんだかんだと話題になっていました。

マスコミは、当初から情報をつかんでいたのに
報道をすることを控えていたことがわかります。
その後、ネットでの反響が大きくなったので
慌てて、オクラばせながら
何度も垂れ流ししているという実情だと思います。

これは、社会的な問題に対して
ネットで粘り強く話題にすれば、
やがて、マスコミを通じて全国に明らかにされる
という側面の可能性を示唆しますが、
実際は違うでしょう。

われわれが気を付けなければいけないのは、
マスコミが、事実を報道するのではなく、
何が受けるのかを見極めてから報道している
ということだと思います。

そして、話題になったというのは
本当に自然発生的なのでしょうか。
中には、良心的に憤って話題にしていた方もいらっしゃいます。

しかし、それなりに資本があり、
それなりに有名人が執筆して
それなりにキャッチも作っているサイトが
繰り返し話題にしていた
ということがなかったか
検証するべきです。

つまり、
大手広告代理店
インターネットのサイトを作り、
人々に話題にさせて、
堂々とマスコミの情報を操作する
という危険性があるということを示しています。

「世論」に迎合するマスコミの
その「世論」が大手広告代理店によって作られたものならば、
大手代理店によって「世論」操作が可能になる
ということを示しています。

2週間近くたった事柄を
トップにおくマスコミは、
独自調査能力が減少いるのかもしれません。

二つ目の切込みは、
勧善懲悪の単純化ということです。

実際どういう事情で負ぶわれたのか、
負ぶった側がどのように働きかけたのか、
その後の調査はどのように進められたのか、
そういうことが全部切り捨てられて、
体格の良い政務官が自分を負ぶわせた
もっと苦しんでいる被災者を冒涜する
というコントラストの手法で
わかりやすく怒りの対象にしているということです。

そしてどの程度の反道徳性かという
程度の問題を捨象して、
「悪」一色に塗りつぶしていることです。

このような報道には警戒しなければなりません。
人を黒く塗りつぶして、黒だという批判は
誰にでもわかりやすく、
怒りを持った時点で、思考は停止します。

インターネット情報の陥る危険性です。
そんなに悪くない人も、
とことん悪くしてしまうことが可能になります。

これを、この二者択一的観点からの情報を
テレビや新聞も追随しているということが
大きな問題なのです。

自分と意見が同じだと
安心して情報を受け取っているうちに、
ひっくり返されて
誤った情報に誘導されるということが
第二次世界大戦の教訓だったはずです。

素朴すぎる正義感に訴えて
怒りに火をつけることはそれほど難しいことではありません。
「さあ国民の皆様怒りましょう!」
という報道に乗っていると
冷静に考えることができなくなります。

今時こんな勧善懲悪では
プロレスだってお客さんは来ないでしょう。

務台政務官報道は、
単純に怒っている場合ではなさそうなので、
あえて取り上げてみました。

【仮説】致命的ストレス回避のための「人権」という概念ないしシステム [自死(自殺)・不明死、葛藤]

「人権」というのはきれいごとではなく、
現代社会において人間という動物種が生きるための
必要最低限度のシステムであり、
人権が侵害されないと言って
直ちに幸福になるわけではない
ではどうすればよいのか
というお話です。


人権の定義というのは、
固有の権利とか
普遍的な権利とか
その性質をいうものが多く、
なるほど、そうするとこれも人権か
というような、概念が明確になるような
そういう定義はないように思われます。

なので、誤解されたり、
人権として認められるべきものが
明文で認められなかったりしています。

例えば、
他人から、殺されない権利
傷害を負わされない権利
という権利は、
憲法では、規定されていません。

どうして規定されていないかというと
当たり前だからです。
古今東西、殺すなかれ、傷つけるなかれ
という規律はあります。

殺されない権利、傷害を負わされない権利も
人権なのです。

それでは、例えば表現の自由、
例えば職業選択の理由、
例えば、選挙権。
どうして人権なのかということです。

実は、殺されない権利、傷害を負わされない権利
という、明文化されない権利を抜きに考えてきたことが
わかりにくくなっている要因だと思っています。

では、殺されない権利、傷害を負わされない権利とは何か。
これは、人間が生きていくために必要なことです。
力の強い者が弱い者を傷つけ殺したり、
多数が、少数を傷つけ殺したりすることが
誰からも咎められないならば、
殺される人、傷つけられる人は
そうされると考えるだけで生きていけません。
気が狂うということも自然にあるでしょう。

二つの致命的ストレスの回避ということになります。
一つは、物理的に、身体生命の危険から守るということ
一つは、身体生命の危険の予期による致命的な心理的ストレスを回避する
ということです。

さあ、そうすると、
他の表現の自由や、職業選択の自由、選挙権
等も案外簡単に説明できるということになります。

これらの自由が保障されることによって、
致命的な心理的ストレスを回避する
そのためのシステムが人権だと仮定してみましょう。

しかし、これらの自由が侵害されても、
殺されません、身体が傷つくということもありません。
何の危険を感じるというのでしょう。

ここでストレスについてのおさらいです。
ストレスは、100年以上前に
キャノンやセリエによって発見されています。

身体生命の危険を感じたときに
交感神経が活性化され、
体温上昇、血圧上昇、脈拍増加
等の体の反応が起きるということです。
発汗や、瞳孔の拡大等もあげられるでしょう。
意識的な活動ではなく、
無意識に、不随意的に
体の生理的変化が起きるのです。

これは、危険を感じたときに
逃げたり、危険と戦って
危険を回避するシステムです。
そのために、筋肉を動きやすくする
体温を上昇させ、血圧、脈拍を増加させて
筋肉に血液が流れるようになるわけです。

現象面で言えば、これがストレスです。

ところが、表現の自由、職業選択の自由、選挙権は
逃げたり戦ったりする必要はありません。

ここで対人関係学の出番です。
人間が危険を感じるのは大きく2つある。
一つは、身体生命の危険ですが、
もう一つが群れから追放される危険です。

残念なことに、
この危険に対する反応がそれぞれ独特のものであればよかったのですが、
群れから追放される危険の場合も
身体生命の危険に対する反応と同じ
交感神経の活性化という形で表れてしまいます。

なんか失敗して、仲間に迷惑をかけてしまう
ということを感じた場合、ドキドキしたりしませんか、
仲間から侮辱された場合に
屈辱で、カーッと熱くなったりしないでしょうか。
人前に出て話をしなければならないとき
手に汗をかいたりしないでしょうか。

交感神経が活性化してしまったご経験は
誰にでもあるでしょう。
テストでわからなくても
逃げたり戦うということありえないのです。
無駄な反応のようにも思われます。

大体においては、
こういう反応は、家族の中で起きるべきかもしれません。
一番大事で、心のよりどころになるのは家族ですから、
家族から追放されるということは
大きなストレスになるわけです。

子どものころ、親から本気で怒られて、
このうちの子どもではないということを言われたりしたら
絶望的な気持ちになりますよね。
(まああまりそこまで怒られた人はいないかもしれませんが。)

でも憲法は、国家が国民に対して守るべき宣言ですから
私的な群れの中のことについてはあまり言及しないのが通常です。

国家との関係で
群れから追放される危険を感じる場面というのがあるのでしょうか。
そもそも群れからつ方される危険を感じる時はどういう時でしょうか。

それは、自分が群れから尊重されていない
群れの仲間として認められていない
という時だと思います。

これは、直ちに尊重されないということだけではなく、
論理的に、これが認められなければ、
そのうち認められなくなる可能性が高い
という予期不安も含まれているわけです。

表現の自由で言えば、
お前は何も言うな、お前は黙ってろ
ということからの自由ということになります。

大きく言えば、
そういう意見を表明することによって
自分たちの社会を形成しているのですから、
そういう社会形成に参加することを
否定されるということです。

お前の意見は社会形成の参考にならん
黙ってろということになります。

こういうことがまかり通ると
一部の者(権力者)が、
黙らせられた人たちを迫害していくということが起こり、
身体生命の危険も危うくなります。

一部の少数派が、危険な作業(戦争とか)ばかりやらせられて、
一部の者は、そのギャンブルで金儲けしていくとかですね。
1000年も2000年もそういうことを
人類が繰り返してきたので、
いい加減、歯止めをかけるというのが
表現の自由ということになります。

そもそも、差別とか不平等は
群れからの追放の危険を感じさせる最たるものです。
人権として認められてきたことには理由があります。

職業選択の自由ですが、
封建時代は、そんなものなかったわけです。
農奴は農奴、王様は王様だったからです。
これは、資本主義が起こり、
職業選択の自由が認められないと
労働者を雇用できませんし、
資本家も、営業をやめろと言われてしまうと
安定した活動ができません。

これは経済の側面から説明することが本来正当でしょう。

ただ、封建制度が終わった現代社会において
自己実現のチャンス、
例えば、勉強をしたいとか、運転手になりたいとか
弁護士になりたいとか、専業主婦になりたいとか
そいうことを自分で決めることができる
ということに着目すると、

そういうことを自分で決められない
「お前は、走る遺伝子があるからスポーツ選手になれ」とか
「あなたは、おおざっぱな遺伝子があるから弁護士はだめ」
とか言われて、挑戦もさせられないとなると
自分が尊重されていない
という気持ちになりますね。

国が自分を押し殺すような気持ちになり、
国に対して、ストレスが高まっていくことになります。

職業選択の自由は、
人類の普遍的な権利ではないでしょう。
あくまでも、現代社会の中で認められる権利だと思います。

ところで選挙権ですが、
対人関係学的に言えば
それが認められなければ、
国家から国民として尊重されないという気持ちが高まり
ストレスが高じるものであるから
表現の自由と同じ側面を持つ
人権ということになります。

ところが選挙権は人権とは認めない学説も少なくありません。
人権というものを、人類普遍の原理とする場合は、
選挙権は、国家という概念を前提とする権利だから
国家成立以前は存在しない権利だ
だから人権ではないというのです。

くっだらない。

これは、人権の概念が曖昧で
とにかく、侵害を許さないためのシステムということで、
侵害を許さないのはどういう場合かということで
普遍的に大事にされてきたものは
やはり許してはいけないのではないか
という理論が前提となっていると思います。

それでは職業選択の自由も人権ではなく、
侵害を許さないと言えないということになってしまいます。
選挙権もしかりです。

しかし、人類普遍ということは良いとしても、
実際の人間は、それぞれの社会の中で
現実に生きているわけです。
普遍的な権利でなくとも
侵害を許さないことが必要なこともあるでしょう。

そもそも権利は、国家があって認められる概念です。

対人関係学は、
この点を説明しています。

人類普遍の真理とは、
人間が生きることを肯定するということ
生きるための妨害をしないということです。

人間がより幸せに生きるために国家があり、
その国家が、人間を不幸にするのは背理であり許されない
その通則が人権規定なのだということです。

そうして、人間を不幸にする
致命的なストレスを与えないということが
国家に求められていて
人間が国家から尊重されていないと感じ
致命的ストレスが発生するというものが
人権カタログということです。

どういうことが尊重されないと感じるかについては
時代によって異なることもあれば、
平等などのように普遍的なものもあるわけです。
但し、平等の中身も、
時代によって異なるでしょう。

また、時代の流れによって権利の内容も代わっていくのですが、
新しい権利が生まれる時は、
尊重されていないと感じる人たちが
尊重されていないという声を上げることが必須ということになります。

そして、人々が幸せになるためには
人権侵害が無いというだけでは
致命的な心理的ストレスが無いだけの話です。
それだけでは足りません。

積極的に尊重しあう仲間の在り方が必要になるということになるでしょう。

補足しますと、
人権は国家と個人の関係において、
個人が致命的ストレスを受けないための技術ですが、
これが個人間の致命的ストレスを受けないための技術が
道徳だろうと考えております。



いじめ、問題指導があった中学生自殺の同じ学校、同じ部活動のラインと学校管理者の対応の現在 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

中学生が自死したような重大案件については、
市長の判断で第三者委員会に
再調査を行わせることができることになっています。
委員会は、学者、弁護士、心理関係の専門家で構成されます。

現在、調査が行われている事案があります。
先行する事案ほど有名ではありませんが、
時折新聞報道がなされます。

この事案は、調査委員会に対して
遺族は、処罰も、損害賠償も求めない
と述べているようです。

何らかの不利益を与えることで、
真実が隠されないようにするためだそうです。
お金や処罰よりも、
同じような苦しみを味わうことがないようにすること
そのための調査としてほしいとのことだそうです。

委員会も
役職だからという態度ではなく、
事案の痛ましい状況に対して
何とかしたいという意欲をもってのぞんでいることが、
遺族に対する態度から感じ取れる
真摯で、謙虚な姿勢を貫き
活発に調査活動を行っていらっしゃるようです。

関係各位に頭が下がります。

あとは、学校や教育委員会のフォローがあれば、
良い方に学校が変わるはずです。



まず、調査自体は、委員会が行いますので、
介入することはできません。
学校や教育委員会のフォローとは、
(ここからが皮肉です)

いじめが原因の自死かどうかはともかく、
どのようなことが人を精神的に追い込むことかを
具体的に教えて、
危険なことを排除することをすること、

間違っても、一人の子ども
多数の者からライン等を使って
些細なことで集中攻撃をしてはいけない
しているような情報が入れば
きちんと指導に入るということが必要だということは
誰でもわかることだと思います。

ラインを禁止にしても良いのではないかと思います。
ラインを認めるなら、学校も観れるようにするべきです。

緊急連絡や持ち物の変更、待ち合わせ場所など
ラインがあると便利だという意見がありますが、
そんなものなくても部活動は成り立っていたのです。

些細な問題行動を中学生が起こしたからと言って
厳罰に処してしまうと、
「この子はいじめてもいい子」だという認識になって
集中して攻撃に入るということを
決して繰り返してはいけません。

特に、亡くなった生徒さんと同じ部活動で
そのようなことがあってはいけない
それだけはないように必死にならなければならないはずです。

ただ、中学生ですから未熟なところがあります。
どうしても、自分の息苦しさの解放を求めて
生徒同士の攻撃行動があることもあるでしょう。

そういう場合は、事件のあった学校ですから
校長マターで対処するべきです。
間違っても、
いじめを受けている生徒の父兄からの訴えを
聞く耳もたないと排除することは
あってはならないことだと思います。

校長が父兄と面談さえしない、拒否するということは
まさかないだろうと思ってみたいです。

被害者が救いを求めても手を差し伸べないならば
被害者が救いを求めなければ
絶対対処しようとしないのではないか
とすら感じてしまいます。

第三者委員会によるいじめ検証は
国の方針です。
学校がいじめを防ぐ力量がないために
真実を隠すということが横行したために
国が必要を感じて設置したものです。

まさか、生徒が一人死んでいるのに、
「余計な制度を作りやがって
 現場は、ますます大変なんだよ」
と言っていることはないと思います。

検証結果が出る前から
子どもたちが、殺伐とした気分、感情を持たないように
積極的に、助け合い、補い合う人間関係の形成を
指導していっていることと思います。

<最も心配していることは>
自死をした中学生の近辺において、
自死の事情をよく知っている子どもたちが、
検証委員会の求めに応じて
真実を語ったことに対する報復である
ということになると、
極めて暗黒の学校ということになります。

学校の先生の発言や
いじめた側の行動について
正確に語ったことが面白くなくて、
例えば部活動の顧問が、
冷たく当たれば、
前に中学生が自死したときと全く同じように
「いじめてもいい子」という烙印を押され、
集中砲火を浴びせているのではないだろうか
ということがものすごく心配です。

まあ、確かに人間ですし、
管理者は教育者ではなくマネージャーなのかもしれません。
そうだとすると、出番は教育委員会です。
自死した学校に人員を配置して、
学校任せにせずに、
子どもたちの様子を把握する必要があるでしょう。
父兄の不安定な気持ちを直接受け止める工夫も必要でしょう。
校長を指導することも必要だと思います。

まさか、これらのことを一切せずに、
求める報告書の量だけ増やして
ますます忙しくさせているということはないでしょう。

ただでさえ、やることが増えている現場の学校ですから、
教師の人員を増やすなど、
教師が子どもたちと向き合う時間を増やしているのでしょう。

自死があったことが無かったかのように
他の学校と同じ条件で教育業務をさせてはいないでしょう。

中学生は学校の対応を直接見ています。
信じられる大人がいるんだ。
真実を語ったことで不利益を与えられるということはないんだ。
何でも相談できるんだ
という経験をさせて、中学校卒業させてあげたいと
人の親として思わずにはいられません。

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