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うつ病者が語りだす条件 ポリフォニーが成立するコミュニティ 過労死防止啓発シンポジウム宮城外伝 survivor9 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成28年11月26日 
仙台で過労死防止啓発シンポジウムがありました。

昨日概要についてご報告いたしましたが、
もう一つ側面から実践例としてご報告するべきことがあると思います。

当日のパネルディスカッションで、
心理学者2名と、働く人のサークルを主宰している人
過労死遺族と私が登壇しましたが、

別室で、声だけの参加ということで
過重労働でうつ病になった3人の女性も出演しました。

自分の考えが会社の頭になっていった経緯や
仕事をやめて転職するという発想がなく
我慢してハラスメントに耐え続けるか死ぬか
という選択肢しかなかったということ、
過重労働のさなかに
通勤電車に飛びこみそうになったけれど
ぼんやりしていたら電車が到着していた。
次の瞬間から1年くらい、
そのことを自体を忘れていた

(自死行為が
 はっきりした記憶に残る行動ではないこと
 突発的な行動であること
 自死に至らないけれど紙一重の人たちが多く存在すること)
 
など、生々しいお話をしていただきました。

ご本人の体験談ですから、
かなりの迫力がありました。

別室待機で声だけの出演とは言え、
大勢の観客のまで自分の声で参加する
ということは奇跡的なことだと思います。

初めから、うつ病の人の参加を予定しての企画ではありません。

あくまでも当初は調査にご協力いただくということで
お願いした企画でした。

ここからが本題なのですが、
このようなうつ病者のシンポジウム参加が実現した経緯についてです。

啓発シンポジウムは厚生労働省の主催です。
各都道府県で行われ、
遺族会や弁護団、労働組合が企画を担当します。
宮城県では、過労死、過労自死遺族の会東北希望の会が担当しました。

希望の会は、遺族どうしの助け合いと、過労死防止の社会活動という
二つの活動を目的として運営されています。

毎月1回、例会を開催しています。
遺族、弁護士、社会保険労務士、カウンセラーが集まります。
結成当初から、うつ病で休職中の労働者の方々も
参加はしていましたが、少数でした。

ところが、この1年くらい、
うつ病で休職したり、退職したりした人たちが
例会に参加するようになっていました。

遺族も、家族がどうして亡くなったのか
という手がかりもありますし、
家族にしてあげられなかったことをしたいという
自然な感情があり、
暖かく仲間として迎え入れていました。

その中で、うつ病の方々は、
自分がどうしてうつ病になったのか、
どんなつらい目に遭ったのか、
その時どういうことを考えていたのか、
自分から語りだしたのです。

私も、過労死事件を担当している性質上、
途中で仕事辞められなかった方の事例ばかり見ていたので、
どうして仕事をやめられたのかということに
大変興味があり、お話を夢中で聞いていました。

話し過ぎると苦しくなるので、
遺族が「もういいよ。」と話を止めるシーンもありました。

それが今回の企画の出発点でした。

こういう研究をやっているということを
私の依頼者のうつ病休職中の方にお話ししたところ、
これまで誘っても例会に参加しなかった方々が
興味をもって参加し始めたのです。

そして、自分からうつの体験を語り始めました。
かなり長い時間はなしていた人もいました。

話した後の様子を聞いても、
「話せてよかった」と言ってくださって
ほっとしました。
胸のつかえをおろしたような
そんな体験なのだそうです。

実際、
マスクして夜中のスーパーやコンビニエンスストアしか
外出できなかった人たちが
初対面の人たちに対して、
自分の苦しさを語っていますし、
自分の考え方の誤りまで語りだしているのです。

心理士の先生方に事情聴取をしていただいたのは
2名なのですが、
こうやって、多くのうつ病の方々の意見を反映して
私のsurvivorシリーズは作られていきました。


プレシンポジウムということで
心理士と学者の合同研究会にも
うつ病の方は出席されて発言をしてくださいました。

それでも、こちらは慎重に、
リアルタイムでの参加は負担が大きいと思い、
音声を録音してそれを流すことにしていました。

1週間くらい前の希望の会の例会で、
なんとなく、話したそうだなと感じたので、
思い切って、別室で声の出演できそうですか
と尋ねたところ、快諾をいただいたということで
声のリアルタイムの参加ということになりました。


おそらく、うつ病以前でも、人前に参加するなどということは
思いもよらないかたがただったはずです。
東北希望の会の例会に参加することによって
さらに強い社会性を獲得したということになるのではないでしょうか。

このヒントが、
もう一人の報告者三道先生の事例で、
主治医や産業医、会社に対する不信感を抱いていたうつ病者が
心理士との信頼関係を築きながら
うつ病を克服していき、
休職前よりも職場での社会性を取り戻したケースにあると思います。

オープンダイアローグの考え方をてこに考えると
主治医や産業医、会社は
うつ病者に対して、
いろいろ評価をして、指図をしていました。
うつ病者は、自分で自分のことを決められないという
息苦しさを感じていたようです。

三道先生は、うつ病者の目線に立ち
いろいろと話し合いながら
提案をしていった
というアプローチの違いがあったように思われます。

三道先生との対話の中で
うつ病者本人が主役であると感じていたことでしょう。

東北希望の会には
誰が、イニシアチブをとるとか、指導をするとかということはありませんが、
自然とそういう雰囲気ができていたと思います。

後ろ向きの気持ちも、死にたい気持ちも、
被害者意識も、恨みも
全て、誰も否定しません。
仕方がないよ等と言う評価もしません。

そういう事実があったのだということを
暖かく受容していたように思われます。

自分の意見を否定されない。
自分が話しているときは自分が主人公になれる
こういう関係ができていたように思われます。

うつ病者にこそ、オープンダイアローグは有効なのではないでしょうか。
そんな感想を持ったシンポジウムでした。

過労死防止啓発シンポジウム宮城ご報告 解決例の蓄積と他人の目の導入 survivor8  [労災事件]

11月26日、エルパークスタジオホールで
宮城の過労死防止啓発シンポジウムが行われ、
本日の地元紙にも写真入りで報道されました。
多数お運びいただきありがとうございました。
(報道より参加人数は多かったようです)

かなり内容の濃いシンポジウムになったともいます。

第1に、過重労働でうつ病発症した3人の方が
別室で声の参加をされました。
自らの体験談をリアルタイムに語ってもらいました。
お三方とも打ち上げに参加され、
とても良い表情でした。

第2にというか、これがメインなのですが、
過労死の悲惨さを訴えるだけでなく、
どう解決していくかということを
心理学者の先生2名に研究していただいて
その成果を発表できたということです。

これまで、過労死の悲惨さとか
抽象的な会社の論理とか、
人間として扱われていない
というようなことは言われてきたのですが、

解決する例があり
それはどうやって解決したのか
ということの研究はあまりなかったのではないでしょうか。

成功例から具体的に過労死を止める
という発想は、独特のものでした。

今回は、お二人の先生に
主として二人のサバイバーを研究していただきました。

バックアップ研究として、
かなりの人数のうつ病治療を受けている人たちからも
希望の会の例会で話していただきました。

共通する話に落ち着いて行った方向として、
自分の都合、自分のモチベーション、感情
そういうことが自分の職場での行動につながず、

会社として必要な行動
会社として必要な発想
が、自分を動かしていたというのです。

上司だったらどう思うだろうか
会社からすればこうしてもらいたいはずだ
ということだけで動くわけです。

これがパワハラ被害者から
パワハラ加害者へ転じる原因にもなっていたようでした。

会社からすればという考えですから、
「疲れた」とか
「これは自分でやることは無理だ」
ということは、
「そんなことを考える自分は劣っている」
「自分に能力がないことは悪だ」
という発想になっていくようです。

これを一人のサバイバーは、
自分軸ではなく、他人軸で物事を考えていた
と言っていました。

目の前に仕事があると
それをこなすことがまずメインテーマとなりますから
自分の状態を自分で気にかけることもできなくなり
過労死スパイラルに陥っていく
ということらしいです。

今回、二人のサバイバーが
過労死スパイラルから脱却できたのは
偶然の要素があります。

お一人は、長期連休中に
何もしないで一人でいて
自分はやっぱりおかしいと
うすうす気が付いていたことに
結論を出せたようです。
退職という結論が天から降ってきたと言っていました。

もう御一方は、
業務中の交通事故に遭ってしまい、
入院と療養で、会社を長期休職しました。
そこでようやく退職ということを意識できたそうです。

事故前は、退職して転職するということは発想になく、
会社を辞めることは死ぬことだと
極端な視野狭窄に陥っていたようです。

偶然でも何でも、解決事例です。
会社から距離をとるということは、
そう簡単ではありませんが、
これまでのsuvivor研究を
このブログに掲載していますので、

特に一度距離をとるべき人、
距離をとらなければならない状態の人は
参考にしてみてください。


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http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-10-27


今回シンポジウムでもう一つ解決例に学ぶ
過労死防止の方法が提起されました。
これが一番大事だと思います。

自分のことを自分で評価するということは
なかなか難しいことだということです。
過労死スパイラルの中にいた場合は、
ますます難しくなります。

自分で気づくことが難しいのなら
他人に気づいてもらうということです。

自分軸を取り戻すために
他人の目を導入するということです。

家族や職場の仲間でもよいのですが、
過労死スパイラルに陥る前に、
緩やかな、つながりですね
一か月に1回とか2か月に1回とか
そういう、会おうと思えばいつでも会える仲間で
経済的なつながりがなく
別に会わなくても非難もされない
そういう人間関係が理想のようです。

趣味の集まりでもよいのでしょう。
同窓会や、一歩踏み込んだ異業種交流会
なんてのも使えるかもしれません。

もちろん、対人関係学の勉強会でもよいですね。

そこで、必要な人間関係は
相手の未熟さ、欠点、弱点を
責めない、笑わない、批判しない
という態度で、安心した居場所である
ということです。

誰かが一方的に、誰かにああしろ、こうしろ
と指図をしない関係であるとよいですね。
それぞれが思いのままにふるまって
誰も嫌な気持ちがしない
そんな関係でしょうか。

なまじ利害関係があると
相手に多くを期待しすぎてしまいます。
批判をしたり、感情的になってしまいます。

それがない集まり。
それが理想のようです。


いなばの白うさぎの対人関係的解釈 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

大国主命大神の話の中に出てくる
因幡の白兎の話は有名ですが、
最近の子どもたちは知らないかもしれません。

島の白うさぎが、陸地にわたりたくても手段がない
一計を案じてわにざめをだまし、
白うさぎの一族とわにざめの一族の
どちらが多いか数えてあげるから
島から陸地まで並んでみてくれと
働きかけました。

わにざめは、それを信じて
おとなしく並んだので
数を数えるふりをして
わにざめの背中を渡り、
さあ、上陸だという時になって
それは嘘だ。自分は上陸したかっただけだと
ぽろっと話してしまったために
わにざめは怒って
よってたかってかみつき
皮をむかれてしまった。

かなり重症で苦しんでいた時に
大国主命の兄たちが通りかかって、
海の水に入って乾かすとよくなると騙しました。
それを信じて乾かしていたところ
塩が傷口に入ってきて
ますます苦しむことになった。

そこを通りかかったのが
末弟の大国主命で、
淡水で洗い、ガマの穂綿にくるまることを教え
白うさぎの傷口が癒えたというお話です。

白うさぎは大変感謝をして、
大国主命がお姫様と結婚することを助けたり
いろいろと恩を返すことになるという話です。


しかし、この話、
もともとうさぎが悪いんです。
わにざめをだましたのですから。

おそらく、当時、多くの数を数えるということも
ある程度の知識が必要であり、
素養のない人は、
数のペテンにあっていたことと思います。

なにせ、算用数字が使えないどころか、
文字すらもあったのか疑わしい時代のことです。
数字をごまかして
他人をだまそうとすれば
簡単に騙せた時代だったかもしれません。

なんらかの制裁を受けること自体は仕方のないこと
かもしれません。

皮をむかれたら生きてはいけませんので、
そこまでが実際あったことではなく、
おそらく、四面楚歌の状態になったのだと思います。

そこを通りかかった大国主命の兄たちも
神様ですから、
今でいえば為政者だったのでしょう。

為政者としては勧善懲悪を徹底していた時代ですから、
当事者の私的制裁を受けた後の白うさぎに対して
さらに追い打ちをかけて罰したということになるでしょう。

これは、正義です。正義の制裁ということになります。
言葉を変えてみれば常識ということですし、
多数派の考えということも言いうるかもしれません。

人をだました者をリアルに描くことは
かなり強烈なことだったので、
白うさぎということにして、
印象を緩和したのだと思いますし、
加害者性を緩めた表現になっているのでしょう。

問題はここからなのです。
大国主の話は、インドが由来のおとぎ話だとされているのですが、
全く知識はないのですが、
白うさぎを助けるということが
もしかしたら日本的な話なのではないかと思うのですが、

大国主は、そんな狡猾で弱い者いじめの白うさぎに対して
適切な対処方法を告げて
白うさぎを蘇生させました。

悪事を処罰するという正義だったり、常識に
反する行動をとったのです。
許すということですね。

どんな者であっても、
困っている状態、瀕死の状態(対人関係的に)であれば
救いたくなり、救ってあげる
というところに価値を置いている
という話なのではないかと
そう思うのです。

この種の物語の傾向として
助けられた者は恩を返すのですが、
それは本質ではないように思えるのです。

善悪にかかわらず人を助ける。
それが人を再生させる
ということのメッセージが、
生きることだけで厳しい時代の中で
育まれていたのだと思います。

オープンダイアローグの統合失調観 対人関係学の窮地 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

オープンダイアローグというのは
フィンランドのラップランド地方で発祥し、
実践されている、
統合失調症の急性期の治療で、

患者が病院に行くのではなく、
家族のいる患者の家に、
医師や心理士、ケースワーカーなどが来訪し、
チームで、患者自身や家族、
患者の親しい人たちと
オープンに治療方針などを話し合う治療法です。

これは、公的負担で行われます。
通常の統合失調症治療のような投薬をしない場合もあり、
オープンダイアローグが最初に施術されることによって
後に薬物治療や入院をしても
回復が良好だという統計結果もあるようです。

かなりの割合で回復し、
社会復帰を果たしているという治療方法です。

しかし、これが治療方法だというのであれば、
困ってしまうのが、
統合失調症の治療は薬物療法しかない
と主張している医師と、
吾らが対人関係学です。

われわれが困ってしまうというのは、
対人関係学は治療をしない
ということをうたっているからです。

対人関係学の自死支援の主張の中に、
当事者が生きる力を取り戻して支援が終了するのではなく、
安全なコミュニティに帰属して完結
という主張をしています。
(たとえば、「自殺問題と法的支援」日本評論社 2013年)

安全なコミュニティに帰属すること自体は
治療ではなく、むしろ治療効果をあげたり、
治療機会を確保すると
健気に主張しています。
(たとえば、2015年自殺予防学会)

それはそうと、このように対人関係学と
極めて近似な主張をする(我田引水的に言えば)
オープンダイアローグは、
統合失調症をどのように見ているのでしょうか。

もっとも統合失調症の確定診断のためには
幻覚妄想が、1カ月続くことを要しますので、
それ以前に寛解させるオープンダイアローグは、
厳密な意味での統合失調症ではないことを
お断りしておきます。



先ず、統合失調症における幻覚には
「それに先立つ極限的なトラウマ体験が
 そこに含まれている側面がある。」
と考えられています。
「オープンダイアローグ」日本評論社
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7076.html


これは、すべての統合失調症に共通ということではないでしょう。
少なくとも幻覚型の統合失調症についてと聞いておいてよいと思います。
これは、対人関係学の主張と共通しています。

オープンダイアローグと対人関係学、不安に対する手当の手法 
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-25" target="_blank">http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-25

もっとも、統合失調症が心因性の疾患だと主張しているのではなく、
根本原因は別にあるとしても、
症状を発症させる引き金となる出来事がある
という主張です。



その上で、
「オープンダイアローグは、患者の精神的発話
 私的で内的な声、幻覚的徴候の内に
 とどまったままになっている経験を
 共通の話し言葉へと育てることで
 治療を行おうとする」
とのことです。

幻聴、幻覚について、なかったことにされるのではなく、
患者にとって、
自分の不安とみんなが向き合ってくれる
という体験をすることができるということになります。

実際、
「チームがなすべきことは、すべての参加者が
 患者にどのようなことが起こったかについて
 もっと話すよう促すような(励ますような)
 対応をすることである。」
としています。

統合失調の奇妙な体験が、
自分の不安の表現だったり、
自分の不安を解消するための活動だったり
ということであれば、
それを一概に否定されるよりも、
その原体験だったり、
現在の不安感を
承認してもらった方が
安心することは間違いないでしょう。

それらを否定されることほど
傷ついたり、尊重されていないという感覚を持つ
大きな原因になるはずです。



もっとも、幻覚をすっかり肯定するわけではありません。
まず幻覚を見ていること自体を承認するわけです。
そして、それを語っていくうちに、
具体的な言葉を見つけていくうちに
その正体を語りだすし、
患者自体がその深い部分を語りたがっている
ということがあるようです。

根源の不安や、原体験を
承認されて、いたわられれば、
奇妙な幻覚を語る必要が
患者から消えてしまうということなのでしょうか。



「オープンダイアローグでは
 患者にとって重要な社会的関係を持つ人たちが
 ミーティングに参加する。
 それゆえ、そこで生じる新たな理解は、
 初めから社会的に共有された減少となる。」

「患者の人生に非常に重要な人たちの間で
 新たな理解を持つ社会的コミュニティができあがる」

ということです。

これは強いことだと思います。
ダイアローグという手法は、
医師も、心理士も、患者も家族も
みな対等な関係ですし、
誰の主張も否定されません。
(このあたりの技術が興味あるところです。)

この一つの効果として、
自分の意見が否定されず、
意見者が尊重されるということになります。

そして、誰も、他人の指図を受けない
という図式も成立するわけです。

どんな優れた施術者も、
患者を前にすると、
あれこれ指図をして、
患者を自己の判断に基づいて
行為をさせたり、考えさせたりするわけです。

患者は他人の意見に従わなければなりません。
それが支援であっても治療であっても
そのような側面があります。

これを徹底的に取り除いたのがオープンダイアローグの
手法なのでしょう。

あくまでも、コミュニティーの共同作業なのです。
しかも患者は、その中で特に尊重される重要な主役なのです。
それは居心地が良いでしょう。

ただ、そのようなモノローグ的な施術の中でも
箱庭療法などの芸術療法では、
それが成功した場合に、
共同作業の関係、対等なコミュニティが成立する場合があります。

そのような説明はないのですが、
オープンダイアローグが成功するのであれば、
共通項となるのはコミュニティーないし共同作業
だという可能性もあるのではないでしょうか。

しかし、このような療法が成功したとしても
致命的な結果があります。
それは、施術が終われば
医師や心理士との関係が終わるということです。

また元の孤立した、ストレスを与えるコミュニティーの中に
統合失調症患者として戻らなければならないことです。

これが、オープンダイアローグでは、
初めから解決してしまっている
ということです。



このオープンダイアローグの思想から見た
統合失調症患者に優しいコミュニティーというものが見えてきます。
人を尊重するということ、弱点を責めないという
やさしさの手法が見えてきます。

これは、統合失調症の患者さんにとって優しいならば、
健常者にとっても優しいはずですし、
あるべきコミュニティだということになりますが、
これまでも語っているし、長くなりますので
ここでは割愛します。

対人関係学の主張とオープンダイアローグの実践が
見事に重なり合うし、
これまでの学問と異なり、
むしろオープンダイアローグの方が
具体的かつ技術的ですので、
大いに学んでいかなければなりません。



いろいろな技術的なことを述べてきましたが、
もしかして一番大切なことは、
オープンダイアローグの技法の以前に、
まだ、統合失調症の確定判断が可能となる以前に
国費で、専門家集団が
一人の患者さんに対して手を差し伸べる
というシステムが功を奏しているのではないかと
考えています。

我が国ならばどうでしょうか。
身内が幻聴、幻覚を述べたとしたら
先ず、なかったことにされるのではないでしょうか。

次に、無理やり、
精神科病棟に行って鍵をかけるという発想しか
出てこないということはないでしょうか。

誰も支援をしないで、
連れて来たら治療しましょうという
社会体制ではないでしょうか。

統合失調症に対する差別は
病態よりも、その治療過程にも根源があるようにも
感じられてきます。

遺伝など原因不明で
治らない病気だというイメージも出てきてしまいます。

これが逆に、治る病気であるし、
治療過程の中でも、否定的な評価をされない
という態度をとられるのであれば、
家族も、本人も、幻覚幻聴を隠す必要がなくなります。

オープンダイアローグは、
治療者と患者とのオープンな関係だけではなく、
患者とその家族と社会とが
オープンな関係にあることで
成立しているところに、
早期介入が可能となる条件があり、
治療効果が上がる重大な要素があるような
そんな感想を持ちました。

日本ではまだまだ遠い存在だろうと思いますので、
対人関係学が治療だといわれる日は
なかなか来ないことと寂しく安心している次第です。

トラブルを自ら作ってしまう人々 疑似パーソナリティ障害と対人関係学的理解  [自死(自殺)・不明死、葛藤]

以前に和解が成立したケースです。

トラブルの発端を作った人は相手方でした。
トラブル以前はお互いを強く信頼していたようです。
最初のトラブルは、相手方が起こしたものでした。

この時点で、適切な対処をすれば、
Aさんは、被害者としての側面が強く、
世間からも同情され、共感されたはずでした。

ところが、Aさんの報復が強烈であり、
さすがに世間も引いた状態となり、
お互いの関係者も巻き込んで
裁判所を舞台として
訴えたり、訴えられたりという泥沼に入っていきました。

裁判所が舞台となり、
それまで支援していた人も引き始め
弁護士を探していたのですが、
報復が強烈だったことと
精神疾患で通院していること
経済的事情等から
地域で代理人を引き受けてくれる弁護士が見つからず、
はるばるわが事務所まで訪ねてきてくださいました。

だいぶ話し込み、
相手方とは別々の道を歩いて
今後一切干渉しないという結論に達したので、
代理人を引き受けることにしました。

この結論に至った道筋は
とても尊敬できることですし、
その結論に至る思考過程も
目を見張るほど健全でした。

相手方及び関係者の代理人と連絡を取り、
和解の話を進めました。

あっさり解決するかと思った直前、
小さな事情の変化が次々と起こってしまいました。

Aさんは、その一つ一つに過敏に反応してしまうのです。
例えば、自分とあまり関係のないところで
相手方に新たなトラブルが起こったという事情を聴けば、
相手方が自分に対して報復活動を起こすのではないかと
心配するのです。

心配するだけでなく、予期しているだけの相手方の報復活動に
怒りをもって対抗する活動をしようとしてしまうのです。

ちょっと例えがわかりにくくて恐縮なのですが、
その事案では、理屈を考えれば、
Aさんの心配が100パーセントないとは言い切れない
しかし、常識的に考えれば
心配する必要はないことだし、
圧倒的多数の人はそこで心配しないでしょう。

仮に心配したからと言って、
カウンター行動を考えたりはしないのです。

情緒不安定型パーソナリティ障害(境界性パーソナリティ障害)は、
認知や感情抑制に障害があり、
衝動性と自己抑制の欠如という問題が生じ
社会生活を送ることに支障がある障害類型だそうです。

これが真正の障害となれば
全方位的に行動全般がそのような特徴を備えるのでしょう。

なぜ、そのような障害が起きるかということは
あまりよくわかられていないようですが

共鳴力共感力の欠如とか
計画性の欠如や先行きの見通しの暗さをみると
アントニオダマシオの指摘する
前頭前野腹内側部の機能不全も考えられそうです。

ただ、ダマシオは、彼の言う「二次の情動」は
後天的に獲得するものだと指摘しています。
文化的、慣習的な影響を受けて育まれるというのです。

そうだとすると、
よく指摘されているように
虐待などを受けていたり、親の愛情を受けられないで育ったことにより
特定の能力が十分育っていないということも
あり得る話のように思えてきます。

即ち、
一般の人たちは、
自分の行動を叱られたり、褒められたりする中で
人間相互の構築方法を学習していき、
どういう行動をすれば自分が相手に受け入れられたり
どういう行動をすれば排除されたりする
ということを学習することができる。

自分の窮状に救いの手を差し伸べてくれることが
どんなにうれしいことがわかり、
自分の好きな人に同じように手を差し伸べることによって
互いに尊重される関係を築くということが
身に染みるように獲得していくわけです。

そうして、意図せずに、
自然な感情として他人を助けたり、
励ましたりするということができるようになるわけです。

ところが、何かの事情で、
身の回りに十分手を差し伸べてもらえずに育ってきた人は
そのような学習、体験をすることができません。
自分がしてほしいということも、
生物として生きていくために必要なことは理解できますが、
人間の仲間としての感情を理解することができません。

自分が仲間として受け入れられるということを
理解できないのです。
自信もないことになります。

虐待、気まぐれな攻撃を受け続けていると
自分の行動と相手の感情の関係を学習することができません。
逆に、
相手が自分に攻撃することは
避けようのない宿命だと学習してしまうことになります。
常に自分が攻撃されるのではないかという
危機感を持ちながら生きていくことになるかもしれません。

もうひとつ、全く叱られなかった人も
自分の行動によって、他人が不愉快となり、
結局は自分が排除されることになる
ということを学習することができません。

自分が疎ましがられている
ということさえ気が付かないで
自分の意思を押し通そうとするでしょうし
何でも言うことを聞く両親が自分の外部の者の特徴だという
間違った概念は、
自分の主張を否定する他者がいるという現実を
受け容れられなくなるでしょう。

社会に出ると、自分はなんて不幸なのだと思うことになるでしょう。

それでも人間は、群れの中で協調して生存したいという
本能的な要求を持っていて、
これが満たされないと心身の不具合が発症するといわれています。

彼らは、なかなか協調できないために、
職場や学校、あるいは家族の中でも
安心することができません。

いつ、自分が追放されるかわからないからです。
どうすれば、安心してそこにいることができるか
その方法がわからない。
しかも、自分が何か行動をすると
嫌がれるという体験はしているわけです。

常に、「自分は、相手から受け入れられないだろう」
「相手はやがて、自分を攻撃してくるだろう」
という不安に襲われ続けていることになります。

このような、対人関係的不安が常態である自体が
情緒不安定型パーソナリティ障害の方々の特徴だと思います。

このため、何か変わったことがあると
あるいは些細な言動が
自分を攻撃してくる予兆だととらえてしまうようです。

不安に過敏になっているために
何気ないことに不安を掻き立てられるようです。

ちょうど、怪我をしてなければなんともない刺激なのに
けがをした後の傷口に触れて
飛び上がって痛がるようなものなのだと思います。


(統合失調の方も同じように不安を抱いていますが、
 対人関係上の不安というように、
 ある程度特定できないところに特徴があるような印象を受けます。)

感情の制御が効かないということがよくいわれています。
そうなのかもしれません。
ただ、一般的には大したことではない危機が
当人にとってはパニックを起こしてしまうような
重大な危機ととらえているような印象を受けます。

中心は、物事のとらえ方の問題ではないかという印象を受けます。

しかし、
これらの問題は、多かれ少なかれ誰でも持っていて
私自身もそのような自覚があるようなときがあります。

考えてみれば、よっぽど楽天的な人以外
人間関係に自信があるという人はいないのではないでしょうか。
大事に思える人間関係ほど、その中に安住できるのか
不安があってもおかしくないと思います。

不安を解消するために
自分の安心できる論理だったり習慣だったりに
逃げ込む行動をとると思います。

例えば、正義、ルール、効率性等です。
これらは、我々が、自分が仲間から受け入れられるために
有効であったということを学習してきた結果です。

正しいことをすることによって仲間から尊敬されたり
ルールを守ることによって、受け容れられる、
あるいは要領のよいことをやって褒められる
勉強スポーツで優秀な成績をとることによって尊敬される
ということなのでしょう。

この思考、行動の問題点は
家族であったり、学校であったり、職場であったり
それぞれによって、重要視される価値観が異なるのに、
例えば働いて稼げば受け入れられるはずだとか、
家族の誤りを正すことが自分が受け入れられる方法だとか
無意識に思い込んでしまっているということです。

本当は相手の気持ちに共鳴共感して、
相手の弱点を補い、責めずということなのに、
自分のアンカー(逃げ場)に固執するあまり、
対人関係の不具合が生じていることに気が付かないし
修正することができないという現象になるのだと思います。

最終的に、安心を得る、即ち群れの中で尊重されたいために、
相手を支配することを志向するようになってしまっていきます。

この対人関係的仕組みを把握すると
人間に対するものの見方が変わり
解決策が見えてくることになります。

さて、Aさんです。

Aさんは、特に相手方に関係すること以外は
対人関係的な問題がないようです。
過激な報復活動も
誰かからそうするべきだという手段を提示されたり
そのことをするべきだという後押しがあったようです。
狭い人間関係の中で完結してしまい
広い視野に立つことが阻害されていました。

おそらくAさんは、全方位的に障害があったわけではないと
思います。
私と話すときは、感情的になっているとき以外は
健全な思考をされていました。
むしろ魅力的な人です。

ただ、かつて築いた相手方との信頼関係は
極端に言えば、その後の人生を共に歩むというほど強固であり、
そのプロジェクトにすべてをかけていたという
物心とも絶対的な利益がありました。
そのプロジェクトのために生まれてきた
というような意気込みだったわけです。


それがあっさり裏切られてしまいました。


これまで学習してきた人間と人間との関係も
当然と思われたアンカーも全てが否定され、
すべてに自信が失われ、ゼロに戻ってしまったようです。

自分の人生において積み重ねてきた学習成果によっても
自分は排除されるという強烈な新たな学習をしてしまったわけです。
こういう事情があれば
疑似的な情緒不安定型パーソナリティ障害の
様相を呈しても不思議ではないということになります。

程度の差はあれ、
およそ、弁護士が扱う
対人関係紛争のなかでは、
疑似的パーソナリティ障害の状態に
クライアントや相手方なっていても
全くおかしくないという事情になると思われます。


面会交流にあたって、「子どもの意見を尊重する」ことに反対します。(あいたいと言えない子ども達のために大人がするべきこと) [家事]

1 親子断絶防止法の議論の中で、「子ども意見を優先して決めるべきだ」という意見が出されることがあり、条文に明記しようという意見もあるようです。
  私は、中学生以下の子どもの意見は取り上げてはならないという理由から、このような条文を盛り込むことには反対です。
  そのような意見は、子どもに責任を押し付けるものであり、強い憤りを覚えます。子どもに負担をかけるべきではないと考えます。

2 子どもの意見を尊重するというと、ハーグ条約にも定められていますし、一見、子どもの人権を尊重するかのように見えるかもしれません。
  しかし、面会交流について子どもに意見を聞くという場合は、子どもの自由な意思が表明されているとは言い難いのです。
  そもそも、離婚だったり、別居だったりについて、子どもの意見は反映されたのでしょうか。親が、子どもの意見を無視して勝手に決めたのではないでしょうか。子どもが自由に意見を言えるのであれば、また家族みんなで暮らしたいと言える機会があるのでしょうか。「家族はバラバラだ。もう一方の親とは一緒に暮らすことができない。さあ、もう一方の親と会うかあわないか。意見を述べろ」といわれていること自体が、子どもがかわいそうだと私は思います。
  子どもに対する虐待がある事案でも、子どもに意見を言わせるべきではないと考えています。親が、子どもの健全な成長を害するとして、大人として責任をもって実施の有無を決めるべきだと思います。
  面会交流事件の実務経験からすると、子どもが真意を語らない場合、語っていない場合は、よくあることです。
  調停などでも、子どもが「別居親に会いたくない」という手紙が提出されることがあります。確かに子どもの字で記載されているのですが、文面を見ると明らかに大人の事情が書かれていたり、言葉遣いが不自然に大人びていたり、不自然に幼児っぽくなっていたりします。また、その言葉は、子どもにはわからないはずだということも平気で記載されていたりします。親が書かせていることが多いわけです。
  子どもに対して虐待があったと主張された事案で、こちらも緊張して面会交流を実施したところ、子どもが父親を呼びつけにして呼びかけ、「どうして今までいなかったんだ。どこでどうしてた。」と、父親の顔を見たとたん笑顔で走ってきたケースもありました。
  これに対して、子どもが自発的に面会の拒否をしたとしても、真意で拒否しているわけではないことも多くあります。子どもが同居親に逆らえないのです。一つは、父親など別居親が自分の周囲から見えなくなったため、もう一人の母親もいなくなってしまうのではないかという不安があるようです。そのため、母親のいうことを過剰に聞いてしまうというようになります。
   また、同居親が、悲しんでいたり、怒りを持っていれば、近くにいる自分の親ですから、その感情に共感してしまいます。自分が味方になるという気持ちがわいてくることは当たり前のことなのです。近くにいる親の感情に振り回され、自分が別居親との面会を拒否することによって別居親の感情を害するということまでなかなか気が回らないことが実情です。
   ましてや、自分が別居親を懐かしがったり、心配したりして同居親からヒステリーを起こされたり、同居親が泣き出したりすれば、もう別居親のことを気にかけることはするまいと思うようになってしまいます。別居親の悪口を言ったり、別居親なんていらないという発言で同居親が喜べば、同居親を励まそうとして、そういうことを率先していってしまったりするものなのです。
   別居親と会いたくないという言葉を真に受けないことも、大人の責任です。むしろ、別居親と会いたくないという言葉を発する子どもこそ、別居親との面会が必要な子どもだというべきなのです。

3 子どもが会いたくないという意見表明をしたことによって、面会交流が実施されないことは、子どもの心理に深刻な悪影響を生じさせます。
  子どもは、別居親を独りぼっちにしたことに罪悪感を感じていることが多いです。それも自分の責任だと思うこともあります。ましてやただ会うことすら、自分の意見で実施されないということになれば、罪悪感や自責の念が高じてきてしまいます。これを軽減するために、子どもは自分自身の行為に言い訳をするわけです。それが、別居親はいかに悪い人間であり拒否は正当なんだと、自分に会えないのは別居親の自業自得だという言い訳です。自分が面会を拒否することによって被害者である同居親を守る義務があるという言い訳です。
  そうすると、自分は被害者であり、絶対的な善である同居親の子どもだという意識が強くなります。しかしそれからしばらくして思春期頃になると、自分は加害者である絶対的悪である別居親の子どもでもあることに気が付きます。絶対的善の子と絶対的悪の子という意識は極めて有害です。通常は、両親の影響を乗り越えて、自分とは何かということを思春期後期に差し掛かるときに確立していきます。しかし、矛盾する親の子という意識は、自分というイメージがつくりにくくなり、自我の形成を困難にします。自分の異性関係にも暗い影を落とします。自己肯定感も低くなることは簡単に想像できるところです。

4 子どもが虐待されていた場合も、面会交流をした方が子どもの成長に有利に働くといわれています。もっとも、無条件に合わせることはマイナスになる危険があります。会わせ方の問題です。先ず、虐待親に対して、自分のどのような行為が子どもの心にどのような影響を与えるかを学習させます。その上で、禁止事項の打ち合わせを周到に行います。その内容を子どもに告げて、子どもの安心できる対応、距離だったり、同行者だったり、いろいろな条件を整えて子どもが安心してあえる環境を作ります。そうして、虐待親に謝罪をしてもらいます。子どもが過去の虐待を忘れることはありませんが、将来に向けて歩き出すことができるようになります。もちろん、同居親が、子どもが別居親と会うことを非難するだけでなく、態度で不愉快な様子を見せないことも子どもが安心して面会をするための有効な要素となります。
 そもそも子どもは、自分がここで別居親と会わないことで、自分の健全な成長においてどのようなメリットがあり、どのようなデメリットがあるのか等ということを考える能力なんてあるわけがないのです。大人が責任をもって段取りをして会わせるということになります。即ち、どのように会わせるかという議論こそするべきです。それにもかかわらず、面会交流にあたって子どもの意見を尊重するということは、子どもに「自己責任」を負わせることにほかなりません。

5 「子どもが会いたくないと言っている。」という言葉は、面会交流調停において、必ずと言ってよいほど言われます。別居親と会わせない口実です。そういう主張がなされていても実際に面会すれば、子どもたちは、普段と同じように交流をしています。子ども意見は別居親の口実になっているということは、悪く言えば、別居親が自己の合わせたくないという感情を満足させるために、子どもという人格を利用していることになります。子どもはそれを知らされませんので、訂正する機会もありません。
  子どもの意見を尊重するということが、いかに子どもに取って有害であるかお話してきました。面会交流だけは親が責任をもって実施するべきです。もっとも、現代の孤立した家族は無防備です。なかなか会わせる方法がなく、途方に暮れる親の姿も目に浮かびます。会わせろ、会わせないというよりも、どのようにして同居親の不安をなくして、安心して面会交流が実施されるかということこそ議論するべきです。
  少なくとも、面会交流を定める法律で、条文をもって子どもの意見を聞くということ定めることがいかに愚かで残酷なことかお分かりいただけたと思います。それは面会交流を妨害するだけの効果しかありませんありません。誰が子どもの意見の真実性を判断するのでしょう。会わせない言い訳に使われるだけのことです。
  面会交流の法案について意見を述べることには反対はしません。しかし、法案の議論をするのであれば、これまでの科学や実務を正確に反映してなされなければなりません。それらを無視して、感覚だけで法律が作られてしまうのではないかというとてつもない不安を覚えてなりません。
  

親子断絶防止法が提出された背景と問題点、補強していく方向性  [家事]

親子断絶防止法が話題になっています。
これは、離婚後に、子どもが
一緒に住んでいない方の親との交流を続けることで
子どもの健全な成長を確保していこうとする法律です。

ただ、法律といっても、
親に対して義務を定めたものではなく、
どちらかというと国や自治体の責務を明らかにした
基本法という意味あいの強い法律となっています。

http://nacwc.net/14-2016-10-10-06-05-20/8-2016-10-05-06-13-46.html

この法案が提出される背景として、
先ず、離婚時には、どちらか一方が親権者と定められ、
通常は親権者と子どもが同居するのですが、
子どもと別居する方の親が子どもと会えなくなってしまう
ということが社会問題化してきていることがあります。

司法統計を見ても、
面会交流調停を申し立てた件数が
平成12度では全国で2406件
平成27年には12264件に伸びている
というように、子どもに会えない親が激増しています。

いろいろな事情があるのですが、
高度成長期前の離婚は、
妻が夫の婚家から追放される形で行われることが多く、
子どもは「家」のものだという思想から
追い出した母親には会わせない
というむごい傾向がありました。
(今もなくなってはいません)

そのため、離婚が子どもとも
永劫の別れになるという意識が潜在的に定着していったようです。

高度成長期以降は
母親が子供を引き取ることが多く
面会交流の要求がぼつぼつ出てきたようです。

もともと江戸幕府末期や明治初期の外国人の
日本滞在記などでは
日本男性の子煩悩ぶりが多く記載されています。
(例えばモース「日本、その日その日」講談社学術文庫)
子どもを愛する気持ちは、最近のものではないようです。

子どもに会えないことによる親の心理は深刻です。

親として、人間として
人格を全否定されたような感覚を受けるようで、
それは、自分が存在することを許されないという
強烈なメッセージを受けたような感覚だそうです。

自死をする事例もかなり高いです。
これまでフェイスブックで連絡を取っていた人たちが
ある日突然書き込みがなくなるんです。
とても怖いことです。

今回の親子断絶防止法案の提出の
一つの問題の所在として、
わが子に会えない父親、母親の
魂の祈りがある。
法案提出に向けたエネルギーがあると言わざるを得ません。

しかし、最近は、法案推進側の人たちも学習を重ね、
主張の内容が変わってきています。

これには棚瀬一代先生、
青木聡先生等の
先生方のご尽力があります。

一言で言えば
「自分を子どもにあわせよ」
という主張から
「子どもを親にあわせろ」
という主張への転換です。

子どもにとって、
別居親からの愛情を感じることが
離婚後の子どもに陥りやすい
自己肯定感の低さ、自我機能の良好な発達
特にゆがんだ男女関係に陥りにくい
というような弊害を防止することに
役に立つということが
世界中の研究で明らかとなってきました。

優しい子どもさんほど
離婚に伴うマイナスの影響が出てしまうようです。

このような研究が明らかになり、裏付けられてきたのは
20世紀の末ころからで、
それほど日がたってはいません。

それまでは、子どもの利益、健全な成長
等と言う概念は離婚においてはあまりありませんでした。

最初にゴールドシュミット、アンナフロイト
等と言う学者が
面会交流については反対しないけれど
高葛藤の母親に面会交流を強いることは
葛藤を高めて、
結局子どもの利益に反するという主張がなされました。

これに対して、
離婚後の子どものマイナスの影響はあり、
それを放置するとマイナスの影響は成人後も続く
という研究がなされ、
葛藤を抱えながらも面会交流をすることによって
先ほどの負の影響が起きにくいという研究がされ、
統計学的にも実証されるようになっていきました。

最近では、離婚そのものの負の影響ではなく、
離婚後も、親どうしが憎しみ合うことが
子どもにとって悪い影響を与える
というように言われるようになっています。

これが、21世紀の20年弱の歩みなのです。

ようやく、このような研究、子どもの成長の視点が
国家政策に反映されるというのが親子断絶防止法だと
位置づけてよろしいと思っています。

それでは、問題点はどこにあるのかということですが、
同居している子どものお母さん方の一番の不安は、
離婚した元夫に会わなければならないのか
というところにあります。

暴力があるケースもないケースも
病的なまでに高葛藤となり、
元夫と同じ空気を吸いたくないとか
街で元夫と同じコートを着た男性を見ただけで
息が止まり、脈拍が異常に上がる
というまで生理的に嫌悪するということがあります。

ただ会いたくないのではなく、
生理的に受け付けなくなっているという状態だと思います。

その相手と、日時場所を決めて
受け渡しをしなくてはならない
ということであると、
どうしたってやる気が起きないというか
むしろ新たな不安に苦しむことになる
ということはよく理解できるところです。

実際、お母さん方と接していると
本当は会わせたくないけれど、
子どもをお父さんと併せることは仕方がない
という方が殆どです。

でも、できないのです。

それなのに、会わせる義務があるようなことを言われると
もう何も受け付けなくなるということはあるでしょう。

法案自体にはこのような義務を定めてはいないので
実際の問題はないのですが、
要綱とか概要には誤解を招く表現もあるかもしれません。

実際の面会交流を実現させるにあたっては、
お母さん(同居親の多くは母)が安心して
父親に子ども会わせる方法を構築してから
面会交流を実現させます。

禁止事項を決めて、
禁止が実現するための方法も決めて、
安全確実に子どもが戻される方法も決めて
誰かの協力を得て面会交流が実現します。

DVの訴えがあった事例などは
私も面会交流に立ち会うこともあります。

それだけ苦労する価値のある感動を受けることができるのも
面会交流です。

このような安心できる制度のサンプルを提示する
ということがこの法律実現の一番の近道ではないかと
考えています。

これはしかるべき専門家たちが
集団でサポートする必要があります。
まともにやれば費用は高額になります。

どうしても自治体の援助が必要だということになります。


もう一つの問題の所在は、
じつは、家族が崩れていくことに
国の関与があるのではないかという主張です。

このブログによくコメントをいただく方も
そのような主張をしています。

どこまで影響があるかということで
司法統計と内閣府の統計を調べた結果が下のグラフです。
面会審判申立件数はそのままの数字です。
同じグラフでわかるようにと、
面会交流調停の申立件数は10分の1として
配偶者暴力センターの相談件数を100分の1として
グラフ化しました。
そうしたら、面会交流調停と配偶者暴力相談センターの相談件数が
ぴったりとあうではないですか。


面会交流調停新受件数.jpg

このグラフを作ってから、
少し、心は揺らいでいます。
平成22年頃からは、配偶者暴力相談センターだけでなく
民間のNPOなんかも相談に乗るようになったのではないか
という気もしています。

そして、これらが、親子関係の崩壊の
一因となっているのではないかと
そんな考えが否定できなくなっています。

親子関係崩壊ということも、
親子関係断絶防止法のワードの一つです。

この法案に積極的に反対している方は、
この法案ができてしまうことは
「家族や子どもをめぐる法律は、2000年代から、家族の多様性や個人を尊重し、家族内で暴力や虐待があった場合、個人を保護する方向で整備されてきた。配偶者暴力防止法や児童虐待防止法がそうだ。「父母と継続的な関係を持つことが子の最善の利益に資する」として、一方の親にだけ努力義務を課し、子の意見も聞かない法律ができれば、20年以上前に時計の針を戻すことになる。」

と述べています。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12582308.html

これについては、反論もさせていただいています。
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-09-29-1

ここが、彼女らの主張や考えの根幹なようです。
「家族の多様性や個人の尊重」とは、
家族は、父親、母親、子どもという固定観念を捨てて、
父親のいない家庭を当たり前にしようということのような
そこまで過剰な主張をしていると考えることが
どうやら実態からみて合理的なようです。

これまでの20年は、例えば上のグラフのような
面会交流が激増するような事態を作るということだったようです。


暴力の有無にかかわらず
警察や行政は、母親の子どもを連れた別居を支援しているからです。

子供にとってどちらが幸せかという科学的な
調査研究の積み重ねは無視されています。
私が、彼女らの議論こそ20年前の議論に、
そうですゴールドシュミットやアンナフロイトの議論に
全く立ち返っていると言ったことはわかりやすいことだと思います。
20年たって、科学的には根拠がないとして葬られた学説が
現在親子断絶防止法の反対意見として
なぞられるように再言されています。

「多様な家族」を作る目標こそが
親子関係断絶防止法反対キャンペーンのモチベーション
のような感覚も受けています。
しかし、それは国民のコンセンサスでもなければ
国家等公的機関がやるべきことではありません。

親子断絶防止法は、
根本的には、
離婚後の家庭に対する働きかけだけではなく、
現実の家族に対する向かい風をどのように克服していくか
どのように男女が協力して
温かい家庭を作っていくかという
そして、国や自治体が押しつけがましくではなく、
支持的支援を求められたら応えられるような体制を作る
ということまで視野に入れることが肝要なのだと思います。

離婚というのは、結果です。
結果が出る前に早期に解決して
早期に家族の不安や軋轢を取り除く工夫こそが
国や自治体の政策として必要だと私は思います。



オープンダイアローグ、未来語りのダイアローグを我田引水的にさらに勉強する [自死(自殺)・不明死、葛藤]

あれから1年以上たったのかと思うと
月日の流れるのは早いと感じます。
昨年の今頃、オープンダイアローグの本を読んで、
さっそくブログに使わせていただきました。

オープンダイアローグと対人関係学、不安に対する手当の手法
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-25

フィンランドの西ラップランド地方で
公的に実践されている統合失調症の急性期の治療法で、
投薬や入院を極力行わない対話形式のもの

医師、心理士、看護師、ソーシャルワーカー等が
電話で呼ばれて自宅訪問をして
家族と本人とあけっぴろげで対話をする
それだけで、投薬治療をするよりも
統合失調症の治療に効果が上がる
80%以上の人が、就職したり復学したりしているそうです。

本人、家族は
費用負担なし、つまり無料でこのサービスを受けられるようです。

ということが前回のお話でした。
その次の日も続きを書いたのですが、
だいぶ未消化の部分がありました。

今回、フィンランドの研修者のお二人の著作
の翻訳本を読んで、だいぶ謎が解けたことと
「オープンダイアローグ」日本評論社
https://www.nippyo.co.jp/shop/book/7076.html

これはまさに対人関係学だと思ったので、
メモ的に、私が理解した範囲の内容を
記したいと思いました。

二つの対話方法とも、
その根幹にあるのは、
共同作業の最も効率の良い方法を
その注意点を掘り下げるのではなく、
技術的に実現するシステムを作り上げている
ということです。

対人関係学は、性懲りもなく
その意味を探究するわけです。

そうすると、理想的なコミュニティを実現する
という手法であり、
理想的なコミュニティ機能の優位さが
実現されるシステムであると思いました。

先ず、
「会話の中に、価値を込めない」
という技法であるということです。

私の言う「会話」とは、
言葉(文字通りの意味、声の大きさ、速さ、抑揚等)
だけではなく、
しぐさ、表情、周囲の状況等も含まれます。

そして、「価値を込めない」ということは、
主として否定評価を持たない、
受け手が否定されていると感じない
ということが大切だということになります。

人が、誰かと会話をするとき、
言葉だけでなく、表情やしぐさ等
いろいろな情報を発信して(しまい)、
受け手は送り手の意識的に発信する情報以上に
いろいろな情報を受け取ったり、感じたりしています。

その言葉に、感情が込められるとき、
あるいは感情が込められていると受け手が感じた時、
少なくとも受け止め方として、
自分の行動を制約しようとしていると感じたり、
自分を仲間として承認しないと感じることが起き、
対人関係上のトラブルが起こりやすくなります。
疑心暗鬼というやつです。

これは、対人関係的には二つの危険
自分で自分の身を守れないだろうという不安
自分が群れから排除されるだろうという不安
に対応して考えることができます。

二つのダイアローグの主張は
この二つの不安を徹底的に排除する手法として
きわめて洗練されていると思います。

何か集団的な意思決定をする場合や
あるいは共同行動をしていると感じている相手に対する
要求度が高くなると、
知らず知らずのうちに、自分の思い通りに
集団を動かしたい
相手を動かしたい
という気持ちが入ってしまい、
それが価値を込めた会話の正体ではないかと考えています。

例えば家族であると、
相手に対する要求度が高くなります。
ポケットに手を入れて歩いている人を見ても
他人の場合はいちいち注意する人もいないでしょう。
でも私の夫にはポケットから手を出してもらいたい
という具合に、要求が出てくることは
ある意味当然のことかもしれません。

こういう場合、
妻がポケットから手を出せと命令するよりも、
自分たちの状態の修正の提案をする
という手法を出すことが有効だということになりそうです。

価値を込めない提案をすることによって、
二人は、自分たちの状態の修正をどのように行うか
を検討することができます。

修正をする必要があるか
どの方向で修正するか
当面どの程度修正をするか
誰がどのような役割を果たすか

夫を否定評価せずに、
妻は、自分が一緒に歩いている人が
ポケットに両手を入れて猫背でいると
なんかうらぶれた感じがして、恥ずかしい
もっと、堂々と歩いてほしい
という理由を淡々と述べることによって、
夫は、別に癖みたいなもので、
どうしてもポケットに手を入れなければいけないわけではない
つい入れてしまうかもしれないから
気が付いたら言ってほしい。
と修正に応じやすくなるということがあるでしょう。

また、これが、1対1ではなく、
複数の集団で行われることには意味があります。
どうしても、会議などでは、
誰かが、意見を強く言って自分の意見を通そう
とすることが見られます。
必要以上にメンバーの誰かを否定しにかかる
ということが不思議とみられます。

また、どちらの意見が優位かという
対立構造の中で議論が進行することも実際的でしょう。

二つのダイアローグの根底には
ポリフォニーという言語哲学が流れています。

それぞれの発言者の意見を尊重し、
批判しないということらしいです。

ここで興味深いものは、
賛同も求めないということです。

二つの意見が対立している時
一方の意見に賛同することは
他方の意見を否定することになる
という場合が良くありますが、
これを防ぐことができるでしょう。

また、聞き手が解釈するのではなく、
正確な理解を確認するようにするということらしいです。
正確な理解を確認する中で意味が動くことは
通常の言葉による思考ですから、
肯定されるのですが、
勝手な解釈は発言を否定する要素があると思われます。
ここはちょっと難しいかもしれません。

このダイアローグが、
当事者を交えて、むしろ当事者を主役として
進行します。

当事者は、自分の意見を尊重され、
勝手に意味を変更されず、
大事な要素として取り上げてもらえます。

これは対人関係学的に言えば、
排除の予感を感じさせる要素の徹底排除です。

自分だけ情報の提供をされない、
自分だけ発言を許されない、
自分の落ち度、失敗、不十分な点を理由に
仲間として否定されない。
等々です。
そして、自分が自分の在り方を決める会議に出席することによって
自分のことを自分で決めることができるという
自己決定の要求も満たすわけです。

そしてそれは、当事者だけに向けられても
支援者相互で満たされないならば、
当事者も、いずれは自分も否定されるという
予期不安を感じることになります。
支援者相互のルールにもしなければなりません。

これは、おそらく、緩やかなつながりという
理想的なコミュニティーの在り方なのだと思います。
当事者は、コミュニティーの一員として
排除の恐れなく、いやもっと
積極的に仲間として承認されているという
感覚を持ちます。

その中で安心を獲得していくことでしょう。
これが、他人だけでなく、家族や親せき学校の先生など
その人の親しい人が参加するということで
不安を断ち切ることが可能となります。

きわめてよくできたシステムだと思います。

ところで、そのように複数の人たちの意見が尊重されてしまうと、
収拾がつかなくなるのではないか、
責任者が意見の取捨選択を行い
方向を示さなければならないのではないかと
危惧が出てくるでしょう。

しかし、果たしてそうなのか
そのような二者択一的思考はドグマではないかと
感じさせられます。
それがポリフォニーの概念なのです。
ポリフォニーを十分説明する技量は私にはありませんが、
置き換えれば
弁証法的認識とてもいうのでしょうか。

ありのままを受け入れるということから始めるということです。

矛盾する意見は本当に矛盾するのか、即ち
両意見が両立するか否かを同時点において検討する必要があるか
同地点において検討する必要があるか
ということについては、
考慮の余地があることが多いように思われます。

例えば、子どもにスマホを持たせるかということが
家族の話題になっているとします。

子どもは友達がみんな持っているので
持たないと気まずいということを訴えるでしょう。
母親は有料サイトに接続して料金が高額になることや
危険なサイトに接続してしまい事件に巻き込まれること
から反対するとします。
父親も、勉強する時間がなくなることを心配して反対します。
ここで反対と賛成の意見の押し付け合いをするより、
それぞれの問題の所在を出し合うということで
家族の在り方をどのように家族で決めるかという
視点での話し合いに転換できるならば、
ラインで、学校や部活の情報伝達もあり、
有る程度の友達付き合いも必要だ
子どもだって成績が落ちるのは心配だ
というそれぞれの問題の所在が、
否定されないで、まな板に載せられるとします。

例えば、それでは、契約は父親がするとして、
常には母親がスマホを監理する。
1日、2回程度、それぞれ30分以内に
母親が貸し出す形で子どもが使用する
友達には、チャット的に使うことは
父親が頑固のために許さないと説明させる。
また、外出の時や休日の時は
形態を許可する。
等の譲歩案が出るかもしれません。

ポリフォニーの手法は、
コミュニティーの本来あるべき手法だと思います。

おそらくその対極的に位置するのが
日本の凋落している企業や学校等の
対人関係なのだと思います。




あなたの妻にとっての結婚生活は、不機嫌な横綱と隣り合わせに座った気持ちかもしれない [家事]

1から100まで妻から嫌われないために

秀逸な(自分で言うか)たとえ話を思いついてしまいました。


あなたが小料理屋で偶然大相撲の横綱と遭遇したとします。
実は、あなたと横綱は、同じ町内に住んでいて、
こちらはそれをもちろん知っていました。
なんと横綱も、ちょくちょく、あなたが
奥さんやお子さんと近所を歩いているところを見ていたそうです。

横綱は気さくなお人柄で、話が盛り上がり、
これから帰るところならば、自分の車で送ると言ってくれました。

最初は、もちろんあなたは遠慮します。
横綱は、ここから電車ターミナル駅まで行って、
電車を乗り換えて帰るくらいなら、
車でまっすぐ南下する方が早い
ということまで言ってくれるではないですか。
あなたはあまり遠慮しすぎるのも悪いかなと思い、
近所づきあいも大切だという言い訳も心の中でつぶやきながら、
横綱の車に同乗させていただくこととしました。

車は高級外車で、専用の運転手もついています。
室内も広く快適です。
もっとも、さすがに横綱なので、
後部座席のかなりの面積を占めます。
窮屈というほどではありませんが、
隣に横綱の大きなお腹が見えることはそれだけで迫力を感じます。
助手席には付き人も乗り込んで、車は出発しました。

最初は、和やかに話が弾んでいます。
あなたも、横綱と話ができることで少し舞い上がっていました。

ただ、だいぶ夜遅いということで、横綱もあくびをするようになってきました。
その都度横綱は、「失礼」と言ってくれるので、
「気にしないで休んでください。」とあなたは言いました。


ちょうどその時、横綱のスマートフォンが鳴りました。
なにやら外国語でお話されています。
助手席に座っていた付き人も同じ国の人のようで、
外国語で話が始まりました。
横綱の声も大きくなり、身振り手振りも大きくなりました。
何の話をしているのかまったくわかりません。
ただ、大きな車とはいえ、手の振りが大きくなると、
その太い腕が当たるかもしれません。
ぶつかったら脳震盪くらいは起こしそうです。

横綱が怒っているのかどうかはわかりませんが、
あなたはなんだか自分の言動が横綱にとって
不愉快だったのではないかという気持ちまでしてきました。
あくびの時は、こちらに気を使っていたのに、
今はこちらが横に座っていないかのような態度です。

とても居心地が悪いのですが、
ここで降りても住宅街なのでタクシーも来ませんし、
家まで歩くには遠すぎる距離です。
なによりも、横綱がますます逆上するのではないかという心配もあります。
横綱の車に同乗させてもらうなんてしなければ良かったなと、
戦々恐々としている時間が過ぎるばかりです。

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先ず、女性と男性の体格差を表現すると、
一般男性と横綱くらいの違いがある、
というか、女性はそう感じていることがあるようです。

そして、横綱の車が、結婚イメージしています。
最初は口説かれて、自分を幸せにすると
鼻息荒く意気込んでくれていたのに、
次第に自分に対する関心が薄れてきたような感じがしているでしょう。
もっとも、夫は、おそらく横綱と同じように、
それどころではない事情が起きてしまって
(例えば会社が忙しいとか)、
決して妻に対して攻撃的な気持ちはないのかもしれません。

しかし、あなたは横綱が自分に対する攻撃的意思を示さなくても、
横綱の無意識の腕の動きが自分に当たって、
脳震盪くらい起こすのではないかと危険を感じているでしょう。
危険であると脳が勝手に判断しているわけです。

逃げようとするのですが、逃げられない。
そういう風にあなたは追い込まれているかもしれません。

外国語を使っているので何を考えているのかよくわからないということも、
男の行動パターン、思考パターンと女性の思考パターンの違いを表しています。
メンツや秩序にこだわる男性の感情的になるツボと、
自分の気持ちを尊重してもらいたいという女性のツボは
少しずれがあるようです。

だから、奥さんは、
あなたがわけのわからない時に怒り出すと感じているかもしれません。
そうすると、どうすれば至近距離にいる人が機嫌悪くなるのか、
どうすれば幸せそうにしてくれるのか
まったくわからないということになります。

すると、もう自分の行動で相手を
コントロールできないということになりますから、
相手の顔色をうかがって生きていかなければならなくなるわけです。
大変窮屈な話ですね。
車の中で、いつ横綱の腕が自分の方に動くかを
心配して過ごしているようなものです。
会社に行っているときはいざ知らず、
あなたが近くにいる限り、奥さんはこういう精神状態なのかもしれません。

もう、破れかぶれで大声出して逃げ出そう。
窮鼠猫を噛むみたいなパニックにも似た精神状態になったとしても、
それは奥さんにだけに原因があるのではなく、
そういう精神状態に追い込まれているのかもしれません。


どうすればよかったのでしょうか。
横綱は、最初はあくびをしながら、「失礼」と一言ですが、
言葉を発していました。
この一言によって、あなたは、
横綱があくびをしても不快な気持ちになりませんでした。
飲み過ぎたのだろうなとか、
夜も遅いから眠くなったのかなという配慮までできています。

この一言の挨拶が、あなたに安心感を与え、
恐怖を感じさせない要因でした。
この一言によって、あなたと横綱は、
帰宅という共同プロジェクトのチームでした。
もし横綱が、スマホに出た後のどこかの時点で、
あなたに、「ちょっとごめんなさい。」とか、
手を合わせて謝るしぐさがあれば、
あなたは自分に対して怒っているわけではないと理解できたでしょう。
わけがわからないながら、応援したいという気持ちになったかもしれません。
同じチームのメンバーだからです。

どうやら、女性は、男性に対して、
無条件に脳が危険を感じる場合があるようです。
その中で、必死になって頑張っているということもあるようです。
男なら、到底そんな我慢や精神的な踏ん張りはできません。
女性の方が精神的にタフにできているようです。
それでも、「あなたに怒ってはいない。」、
自分のせいではないにしろ「快適にしないで申し訳ない。」と
いう態度があれば、ずいぶん違ったものとなったのでしょう。

あなたの妻が、精神的に並外れてタフであるとか、
他人のことを気にしないタイプの人でなければ、
耐えず、攻撃的な気持ちがないという
メッセージを発することは必要ではないでしょうか。
それは、そんなに難しいことではなく、
挨拶をすることがから始められそうです。

こちらからにこやかに話しかけるということも有効でしょう。
笑顔を向けるだけも有効でしょう。
何か言って来たら、「ああそれは良いね。」と
口癖のように言うこともそれほど労力が必要なことではないはずです。

こちらの気持ちはわかっているはずだということほど、
無責任な話はありません。
それは、不機嫌な横綱と車の中にいることをイメージすれば、
理解できることだと思います。

体が無条件で感じる危険の蓄積が
あなたと一緒にいることに生理的嫌悪を起こさせ、
同じ空気を吸いたくないとか
町で似たような人を見ただけで凍り付いてしまう
そういう現象を引き起こすのではないでしょうか。

この危険を感じさせないためには、
あなたの奥さんがあなたと同じチームの一員なんだ
という意識を持ってもらうことが有効なのだと思います。
そして、それは、そんなに難しいことではないと思います。

しくじり先生 高橋ジョージ氏の講義に何を学ぶべきか  [家事]

昨日、しくじり先生というテレビ番組を観た。
ロードの歌手高橋ジョージ氏が
結婚に関するしくじりを話すということで
仕事がらの興味があった。

子どもをダシに使っているような報道がされている点で
相手方に対する反感もあり、
さりとてテレビ番組でどんなことを語るのか
という思いもあったかもしれない。

案に反してジョージ氏は、
元妻に対する非難めいたことは一切語らず、
自分のどこがしくじりだったのか
ということを一貫して話していた。

離婚訴訟にまで発展したのであるから、
言いたいことは山ほどあったと思う。
しかし、相手に対しては何も語らなかった。

いろいろな考えもあったのだと思うが、
結果として、娘に対して精神的侵襲をしない
という最も素晴らしい効果がある。

どんな親でも、子どもにとって
親の悪口を言われることが一番不愉快だ。

子どもを連れて別居しても、
子どもが元の家に帰るケースがある。
中には6歳で相手親の元に帰ったケースや
小学生が、県を跨いで別居している親の元に行ったケースもある。

共通項は、別居親の悪口を言われることと
兄弟間で差別されているケースで、
孤独感が高まったという事情だ。

中には親に振りまわされて、
率先して反対側の親の悪口を言う子どももいる
離婚後に引き取られた親が感情的になっているので、
相手親の悪口を率先していう場合だ。
自分の親に対する悪口を言うことは、
後に、思春期に、
強烈な自己嫌悪と
自我の不統一という形で
子ども自身に跳ね返ってくる。
改善不能の深刻な事態がたくさんある。

ジョージ氏が、離婚の原因をすべて自分にある
と引き受けたことによって、
お子さんは、一緒に住んでいるお母さんに対して
不信感などを持たなくて済むことになる。

何も知らないでとやかく言うマスコミや
私のようなものに対する強烈な牽制にもなる。

子どもにとって安心できる環境を作ることこそ
親が一番やらなければならないことだと思う。


ジョージ氏は、自分の誤りをわかりやすく教訓化していた。
女性がウィンドーショッピングをしている時、
男性は買えばよいじゃんというが、
それは女性に対して「理解と共感」を示していない
というのである。

相手は相手の世界の中で楽しんでいる。
それを「買ったら」という現実を突きつけることは
その楽しみをぶち壊すことになる
というような趣旨のお話だったと思う。

これは奥の深い話である。
男女の発想の違いを言い当てている。
彼が、人から学んでいることをよく示している。

もっとも、そう簡単に「買えばいいじゃん」とは
私なら、恐ろしくて言えない。


さらに、耳が痛い話として
男性は離婚後、しばらくは自炊をするが
すぐにデリバリーテイクアウトになってしまう
ということを指摘していた。

事情があって別居した夫婦がいたが、
60過ぎての単身生活で
夫は体重が極端に増加して
心筋梗塞を発症してあわや命を落とすところだった。
寿命が縮まるメカニズムまで語られていた。

番組は、民法だが、
ジョージ氏が別居直後に出演したNHKのドラマ
資料映像として放送していた。

ジョージ氏の役どころは、
子どもを連れて離婚された一発屋の歌手の役だった。
まだマスコミなどに別居を知られていなかったときに
偶然オファーがあったようだ。

子どもと会えない中年歌手の孤独と、
それでも、また会えるかもしれない日のために
再びヒット曲を出すということを心の支えにして
頑張っている中で、
成長した娘が職場に訪ねてくる
男泣きに泣きまくるというシーン
その一つ一つが、演技ではない迫力があった。

しくじり先生でも出演者は自然に涙が流れていたが、
ジョージ氏自身が、やはり自分のリアルと重ね合わせて、
言葉を詰まらせていた。

「なんでもないようなことが幸せだったと思う。」
という歌詞の意味を初めて知ったということを言っていた。
その後にロードをうたったのだが、
こちらも初めて聞くような気持ちになり、
胸が詰まる思いだった。

私は、人間として生きるとは何か
ということのジョージ氏のメッセージだったと思う。
人間として生きるとは、
ありふれた日常であっても、
愛する人、家族と、同じ時を過ごすということ
ということを訴えられたと思った。


自分の意見を押し付けるのではなく、
家族一人一人の気持ちを理解し、共感し、
安心して暮らしてもらう。
その中の一人として同じ時間を共有するということに
喜びと感謝を持つべきだ

その強烈なメッセージと受け止めさせていただいた。




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