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【シリーズ最低】過労死予防を口実に解雇制限の緩和を主張する水鏡推理Ⅵ [労働事件]

結構好きで読んでいたのです。
松岡圭祐の水鏡(みかがみ)推理シリーズ
東京出張とかの新幹線の往復で
ちょうど読み終わるような(途中昼寝して)
分量ですし、
ややむちゃくちゃな展開でも、
なんとなく応援したくなる主人公と
頭の体操的なパズルがはめ込まれていて、
癖になるような感覚でした。

シリーズ6作は、
過労死やブラック企業問題に取り組んだといううたい文句の宣伝が
5作を読んですぐ新聞に載ったので、
ちょうど東京出張もあったし、
買っておいたのでした。

途中まで読ませる文章はなかなか見事で、
過労死を取り上げた小説ということで
どこかに勝手に書評を挙げようかと思っていました。

ところが、今回は
オチの部分でがっかりしました。
あまりにもそれは無いだろうというオチ
トリックの解明ではなくオチ。

結局主として主人公だけが騙されていて、
主人公のためだけに仕掛けられたトリックを
主人公だけが引っかかって、

およそ、財務省主計局の官僚が
そのような行為をするわけがないという
しかも、医師や警察官の話を信じて
自分は何も考えずに自分の将来をふいにするような行為をした
というのですから、お笑いも良いところでしょう。

そして、およそありえない偶然でその場所に訪れ、
時間的にもその他の物理的条件も無視して、
その場で確保するという
あの夢中になって読んでいた何時間を
返してほしいと切なる願いを抱かせられます。

シリーズ最低のつまらなさです。
おそらく、別のテーマの作品で用意されたトリックを
無理やり、水鏡シリーズに突っ込んでしまった
のではないかと思うくらい不自然さと
これまでのシリーズとの違和感を感じます。

それだけなら、わざわざこのブログを書かないわけで、

過労死を扱ったと言いながら
過去の回想の事件以外
過労死案件が出てこないこともよいでしょう。
どうせ書けないでしょうから。

また、過労死の把握についても、
インターネット記事だけで構成しているのもよいでしょう。
あまり目くじらを立てると誰も過労死を取り上げなくなるでしょう。

過労死バイオマーカーなんてものが
今回の発明というシリーズのキモなのですが、
そんなもの作ったら、
マーカーの基準値に達しない者が過労死ではないという
排除として使われるということも
作中でも批判されていますから目をつぶります。
私は、

一番許せないのは、
ストーリーの進行の上でも、
登場人物の動機の上でも
何の関係のないとってつけた
過労死防止の方法が
開陳されていることです。

そのキモとして強調しているのが、
過労死を防止するために
解雇制限を緩和して解雇を認められやすくしようというものです。

要するに、
解雇が認められないために
あたらしい人を雇えないのだと、
景気が悪くなったら人件費がかさむからと、
だから、現状のスタッフで残業をさせて
その結果が過労死だというのです。

馬鹿も休み休み言えと。

現在正社員と非正規社員の格差が激しく、
正社員のテーマは解雇されないことです。
簡単に解雇が認められるようになれば、
解雇されないように、
パワハラ上司におもねるようになるし、
自分が解雇リストに入らないように
自主的に、残業代返上で
働くようになるでしょう。

そもそも、解雇制限が厳しくなった昭和と
派遣労働者や有期雇用労働者が多くなった平成と
どちらが過労死が多いか考えてみれば、
解雇制限と過労死は全く関係がないことが
一目瞭然だと思います。

また、国を挙げて、
3月を自殺予防月間と定めています。
派遣切りや有期雇用労働者の雇止めが3月に行われるので、
自殺と関連しているということをみんな認識しているからです。

雇用不安は自殺を招くのです。

過労死しなくても自死すれば同じことです。

今回の冒頭
劣悪な労働環境による過労死が根絶されることを強く願う
ととってつけたように記載されています。

そのくせ、過労死事案だとされたのが
狂言と統合失調症の厳格だというのがオチなのです。
狂言は、過去に過労死で同僚を亡くした人たちが
過労死予防のために荒唐無稽な犯罪に手を染めるというのですから、
過労死を亡くそうというすべての人たち、
厚生労働省をはじめとする省庁、
もろもろの人たちに対する冒涜だと感じました。

これは、特定の意図を持った人たちによって
急きょ作られたプロパガンダだというのであれば、
オチのつまらなさ、とってつけたような過労死
ありえない設定と解決
すべてがつながります。

結局推理小説自体の冒涜なのでしょう。
とても残念です。

ただ、明るい要素もあります。
どこかの特定の人間たちが、
過労死予防を口実に、
労働者をさらに追い込む制度を作ろうとしているということです。
その手口を前もって教えてくれたということかもしれません。

また、この提灯記事を書いて宣伝している人たちを
警戒すればよいということもよくわかりました。
作者の良心によって
オチの荒唐無稽さとその後の蛇足的な文書の中で
まともな人はがっかりしているところで
このプロパガンダをはめ込んで、
あまり影響力を持たないように周到に工夫されている
ということでしょうか。

次も買うとは思いますが
しっかりした構成の作品になることを願っています。

母性幻想の根源は、ヒト女性行動傾向との混乱にある。人間の価値はどこに。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


先日、テレビでトランスジェンダーの映画を紹介していました。
女性の監督が、男性にやがて母性が芽生え始めるという作品の説明をしているのを聞いて、
「ああ、そういうことか。」と思いついた次第です。
「それは間違っているだろう」と。

母性というものが神格化され、
自分は母性が足りないのではないかという女性が
深刻に悩んでいるということが
家庭紛争の遠因になっていることが多くあります。

男性から見れば、
子どもに優しい妻を見ることは、
まあ、プラスに作用することもあるのですが、
それほど愛情を持たなくたって、
やることをやっているわけですから
マイナスに見るということはほとんどないのです。
隙あれば、俺が愛情を注ぐという父親も多いくらいです。

ところが女性は、
子どもに愛情を感じられないと言って悩んでは、
そのイライラを子どもにぶつけて虐待になったり、
夫に対する防衛的攻撃感情をあらわにしたりと
家族を巻き込んで自滅していくことがあります。

なるほど、聖母マリア像のように
慈愛に満ちた優しい姿が母性だとすると
そうではない自分に悩むことが出てくるのかもしれません。

対人関係学的に言えば
そもそも、母性のとらえ方が間違っているということです。

母性という以上は、
出産と授乳行為に伴う心情的変化ないしは
行動傾向の特質ということになるはずです。

女性である以上母性があるはずだということは
きわめて非科学的なファンタジーです。

そもそも、出産と授乳はホルモンの急激な変化を起こします。
妊娠から出産までは、女性の体内では
女性ホルモンが多く分泌されます。
ところが、出産以降は、
女性ホルモンが極端に減少して、
ほとんど分泌されなくなります。
女性ホルモンが無くなることによって、
母乳を生成するためのホルモンであるプロラクチンが分泌されるようになります。
女性ホルモンが無くならないと
プロラクチンが分泌しないという関係にあるようです。

イタリアの研究では、
プロラクチンは、敵対感情を高める
という調査結果が出たそうです。

要するに、子連れの母熊や母オオカミが
他者が子どもに近づくだけで敵意を示して
襲ってくるということに関係しているのではないでしょうか。

敵から無防備な子どもにおっとりした母親だけであれば、
動物は子孫を残せなかったことでしょう。
子どもを産んだばかりの母親が攻撃的になることは、
動物が生きるために必要な仕組みだと思います。

もっとも、プロラクチンは母乳を生成しますが、
母乳が無事に赤ちゃんの口に入るためには
オキシトシンというホルモンの分泌が必要なようで、
このオキシトシンは、幸せホルモンと呼ばれるように、
穏やかに、他者を信じる気持ちを作る作用があるようです。

母親が険しい表情をしていつもうなっているばかりではなく、
穏やかな表情で赤ん坊を見守るのは
何もフィクションではなく、オキシトシンの作用のようです。

このように、プロラクチンとオキシトシンという
敵対感情ホルモンと
絆ホルモンと
同時に分泌されなければ、母乳が出ませんので
母親の感情というものは相矛盾するものである
ということ言えるようです。

オキシトシンの分泌がなされていても
プロラクチンの影響が大きければ、
何か悪いことが起きるのではないかという不安に苦しめられ、
常に攻撃的感情を抱いているということも
それこそ母性の特徴としてあり得るわけです。

このことだけからしても
聖母マリア像になるか、攻撃的な母熊になるかは
ホルモンの分泌状態に左右されるということですから
母性とは、極めて偶然的な事情であり、
生理的変化であって、
あるいは一過性の状態であって
その人の人格や性格、ましては人間としての価値とは
全く無関係だということになるのです。
悩むことはメリットはなく、デメリットしかありません。

ところで、ここでいう母性とか母親の愛情というのは、
本来、母子の一体感というべきだと思います。
自分以外の者に対する愛情があふれているのではなく、
母親にとっては、自分と子どもの区別がつかないということです。
自分と子どもとの区別は、子どもの反抗期によって
母子双方が徐々に身につけていくものだと思っています。
これも、生きるための仕組みだと思います。

だから、自分を犠牲にして子どもに尽くすというのは
ある意味間違いです。
自分の本体を犠牲にして、自分の分身の利益を図る
という意識の側面があるということでよいのだと思います。

こういう意味での自己犠牲の母性は、
母親が自分自身、本体を大切にする習慣があるかないかで
現れ方が変わるわけです。
もともと自分が大切にされていないという感情が残っていると
自分の分身である子どもも大切にできないという可能性があるわけです。

対人関係学は、ここを重視します。
もし、子どもを大事に思えない、愛せないというならば、
先ず、自分を大事にしてみることから始めてみては
いかがでしょうか。

それから、子どもを守らなければならないという責任感が強すぎて、
何か悪いことが起きるかもしれないという不安感に苦しめられると
子どもを守ることができないという悲観的な考えに支配されて、
子どもを虐待してしまう、極端な話殺してしまうということがあるわけです。
これは、人間だけの行動様式ではなく、
自然界でも確認されていることです。

さて、長くなりましたがいよいよ本題です。
(ごめんなさい)

これまで母性だと信じられていた美しい感情
たとえば、弱者の保護、無条件の慈しみ、公正、
という人間のつながりを重視する感情は
どこから来るものなのでしょうか。

それは裏を返せば、
弱肉強食の拒否、自己利益の優先の否定的評価
と言えるでしょう。

これは、ヒトの群れを作る性質から形成された
遺伝子的な特徴なのだと思います。

そして、それが色濃く表れているのは
男性よりも女性においてということになると思います。

サルから分かれて800万年、原人から分かれて20万年
人は群れを作って生きてきました。

男性が狩りをして、女性が住みかを守って
ということがよく言われます。
(どこまで、整然とそれが行われていたかについたに
やや疑問がないわけではないですが、)
それには合理性があります。

当時の群れは、
それほど大きな人数ではなかったと思われます。
だから、群れの頭数を確保するということが
生き残りのためには至上命題だったと思われます。
また、出産も他の動物に比べて不利な条件でしたので、
生まれてきてもなかなか育ちませんでした。

群れの頭数を維持するためには、
ともかくも、出産までこぎつけることが
必要だったはずです。
流産の危険を避けることは、
群れの悲願だったはずです。

そうだとすると、
およそ女性には、駆けまわったり闘ったりする
狩りの仕事を避けさせるようになっていくことは
自然な流れだと思います。

女性が狩りをしない群れが
なぜか、出産率が高いという法則を
何年もかけて見つけて行ったということです。

狩りをしないことが平気だったり
狩りをしないことを好む女性が
徐々に遺伝子上優位に立っていったとは考えられないでしょうか。

一つは、このような理由から
生き物を殺すことを厭わない遺伝子が
特に女性の中で相対的に減少していった
ということは考えられないでしょうか。

もう一つは、
男性は、狩りをする性だとすると、
生きるための行動である、
狩りを遂行する、仕事を完成させる
ということを志向するようになっていった
ということではないでしょうか。

女性は、住みかを守ることで群れを守ってきたわけですから、
群れを壊す者、群れを壊す行動を排除しようとしていたと思うのです。
弱い赤ん坊などをぞんざいに扱う行為をやめさせたり、
自分だけ食料を食べようとする行為を禁止したりして、
群れの弱い者を守ることによって
群れ全体の弱体化を阻止する
役割を果たしてきたのではないでしょうか。

(もっとも、群れとして行動するのですから、
800万年にしろ、20万年にしろ、
それぞれの群れの事情もあったわけで、
整然と男性と女性の役割がわけられていたわけではなく、
ボワンとした傾向として残ったのではないか
というくらいに考えています。)

要するに、
主として男性は、群れの共存のための狩り等の遂行に価値を置く傾向にあるけれど
主として女性は、群れの共存そのものに価値を置く傾向に
長い年月をかけてなっていったのだと思うのです。

これは、現代社会においても残存していると思うのです。

結局母性というのは、ホルモンの作用を中心とした生理的作用によって出現する一過性の状態であり、
ヒトの女性になんとなくよく見られる
弱者の保護、無条件の慈しみ、公正は、
遺伝子的な傾向ではあるけれど
理性的な要素が強いものであると思います。
自然に感じるというよりは、
これがこのまま続いたらどうなるだろうかという
将来的要素、派生的要素を考える
脳の力が必要だということになります。

こちらの力が多くあるかどうかということこそ
人間としての価値なのだと思います。

現代社会は、やや男性的傾向が強すぎると思いますので、
女性的傾向が優位に立つことで人類は幸せになれると思っています。


子ども会えない親の仙台会合第2回目を開催しました。チーム灯り(仮称) [家事]

先日、第2回目の会合がありました。
配偶者が子どもを連れて家を出て行ってしまったため、
子どもと会えない親の集まりです。

その前の月に、私が
「子どもに会えない理由と夫婦問題の支援の在り方」 と題するお話をさせてもらって、
その流れで第1回の会合をもち、
その時に、第2回目の日にちを決めていました。

第1回目に参加された方の中には
東京や神奈川からいらっしゃった方もいましたが、
今回は、宮城県限定でした。
新たに2名の方が参加されました。

居酒屋の小上がりを予約して、
仕事が終わった順番に駆け付ける形です。

その都度、乾杯を行い、和やかに会は進みます。


今回新たに2名の方が参加したので、
自己紹介を兼ねて、
ご自分の子どもに会えなくなった状況を
お話されました。

子どもに会えない事情はそれぞれ違いますし、
不十分ながらあえている人、全く会えない人、
子どものうち一人とは会えるけれど
他の子どもとは会えないとか
本当にバラバラです。

共通点は、
ある日突然子どもと引き離されたということ、
配偶者暴力があったわけではないこと、
何らかの形で行政や警察が関与しているということ、

今回の参加者は、男性だけでしたが、
みんな妻が、何らかのはっきりした理由で
不安を病的に感じていることも共通でした。

精神疾患に罹患している方、
身体的な病気の合併症、
悲惨な出来事があって強度のストレスを感じている人
職場の人間関係で悩んでいた人

大体は夫が妻の相談に乗っていた人たちです。
夫は、かなり詳細に、出来事やその対応、
専門的な疾患名や検査結果、服薬している薬を覚えています。
一緒に苦しんで、一緒に戦っていたのです。
でも妻は、そのことの記憶を失っているようです。

ある日突然子どもを連れて、夫のもとから去ってゆきます。

裁判所などでは、子どもが会いたくないからといって
面会すら拒否しますが、
いざ面会になると、
子どもたちは喜んで別居親と面会をします。

顔を見たとたん、「パパだ」と言って走ってくるお子さん、
最初は、「私はパパとは会いたくないんだ。」
と言いながら、いつしか夢中になって遊んでいるお子さん。

だけど、どんなに小さいお子さんでも、
面会終了の時間になると、
手のひらを返したように別居親に冷たくなり、
同居親の手に縋りつくように離れていくそうです。

実際の面会交流に立ち会った時にも
そういう姿を見たのですが、
けっこう共通のようで、
同居親に子どもながら気を使っているようです。

そんなことがわかるのも
ある程度の人数の話を聞けるからでしょう。

誰がどのように苦しいということは
あまり語られません。
淡々と事実が述べられることが多かったです。
事実を述べさえすれば、
みんな自分の経験に照らして苦しかったろうねと
そういう反応をするので、
詳細に語る必要がないようです。

震災の後で、
震災の様子を語らなくてはならないときがあって、
言わなければわからない人にいうことが辛いという経験をしましたが、
同じ経験をして、苦しんでいる方々は、
そのような言葉がいらないのでしょう。

そういうことがあれば当然苦しいし寂しい
それを理解し、理解されているということが実感できる
それが当事者の会の良いところだと思います。

もう一つ、
この会のメンバーは、あまり怒りを出しません。
大体は、子どもを愛しているし、
実は、連れ去った妻にも優しい気持ちを持っているようです。
仙台の会の特徴のようです。

比較的年齢層が高いということもあるかもしれません。

ご自分が退職して、外に出ないで家事ばかりやっていて
ノイローゼになりかけて、
専業主婦の奥さんの精神的な圧迫が初めて分かった
等と言うことをお話しされたりしているのです。

怒りをあらわにしない分、逆に
悲しみが胸に迫ってくるようです。

だけど、皆さん、すぐに打ち解けます。
初めて会ったか、二回目なのに、
小学校の同窓会みたいな
優しい空気が流れます。

当事者の会の良いところは、
特別な努力をしなくても
群れの仲間として
無条件に歓迎されるところにあるかもしれません。

誰かが、偉そうに行動を指図しないということも
居心地が良いのでしょう。
怒らなくてはならない、怖がらなくてはならない
逃げなくては、闘わなくては
そういうことは一切ありません。

来たければ来ればよいし、
来たくなければ来なくてもよいしと
しかしその居心地の良さが
「居場所」なのだと思います。

今回、来ると言ってこれなかった方の中で、
心配の方がいらっしゃいます。
妻が子どもを連れて別居し、
保護命令と離婚調停を起こされて、
うっかりメールをしてしまったら、
何度も警察に呼び出されてノイローゼになってしまいました。

症状が深刻なのですが、
なかなか治療を受けないようです。

また、誘っても、なかなか来ない人たちもいます。
無理には誘わないのですが、
本当は来た方が精神的に良いはずなのですが、
自ら孤立に向かっている印象すらあります。

逆に、ある程度ですが、
問題が解決方向に向かっていて
安定して子どもと交流を図れるようになり、
卒業をしていく人もいます。

それはそれでよいことだと思います。

次回の会合は、
3月24日金曜日6時からです。








外国人労働者問題における国際労働基準と国内ワークルールの確立の視点を語り継ぐ 上野千鶴子さんの「この国のかたち」に寄せて [労働事件]

中日新聞の
「この国のかたち 3人の論者に聞く」
というインタビュー記事の
上野千鶴子さんの発言が話題になっております。

この発言を契機として、
様々な方がご発言されていて、
大変勉強になりました。

上野千鶴子発言の前提を覆す。そもそも日本は移民にとって魅力的な国なのか?
は、古谷有希子さんという方の文章ですが、
移民や入植についての考え方を知ることができました。

移民問題は、「選択の問題」か?--上野さんの回答を読んで 岡野八代

は、シティズンシップ(国籍・市民権・市民であること・市民としての資格・市民らしいふるまい、などの意味)
という考え方を知ることができた貴重な体験でした。
国籍とは何か、国籍と人権ということを
考えさせられました。
人権について、自然科学的なアプローチをする
対人関係学からは、大変興味深い学問分野だと感じました。

このような貴重な、質の高い議論が寄せられるというところに、
上野千鶴子さんの影響力があるのだなと
実は、改めてかんしんしました。

質の問題では自信がないのですが、
昭和の時代に労働法を学んだものとしては、
外国人労働者の問題で議論する際の視点を提示しなければならない
という思いで書いています。

それがもう40年近く前のことなので、
松岡三郎先生だったか沼田稲次郎先生だったか
おそらくお二人ともおっしゃっていたのではないかと
いう記憶もおぼろげながらにあるのですが、
頑張ってみます。

第1に、国際労働基準の確立という問題です。
外国人の労働力の流入については、
国家間の経済格差を背景としていることが多くあります。
あると断定するのは、私の関わる事件において
ということになります。

自国においてきた家族を養うために
日本に来て就労しているという方と
仕事がら接することが多くあります。

国家間の経済格差は、ある程度やむを得ない
という議論もあり得るでしょうが、
この格差を生むことに
あるいは、格差に伴う苦痛を感じることに
日本が関係する場合があります。

日本法人が、外国に現地法人を立ち上げて、
現地の国民を
低賃金、過重労働で働かせて
人権を無視した扱いをしたような場合です。
これが直接的関与ですが、
日本ないし、グローバル企業に都合の良い役割を
その国に押し付けて、産業構造を硬直させている場合も
日本に責任がある場合になるでしょう。

このような問題
特に、経済的先進国にいいようにされてしまうことを避けることも含めて、
国際的な労働基準法を作ることが必要だ
ということを大学時代に教わりました。

外国人労働力が大量に流入することは、
当時から予想されていたことだったのです。

当時は、おおきな電機工場が、
アジアに工場を作ると言って
日本人労働者を大量解雇したという事件が問題になっていました。
私の愛国心は大いに刺激されました。

税金が高い、労働力が高い
だから外国に移転するということが
そう簡単に是認されることなのでしょうか。
愛国心的立場に偏っているかもしれませんが、
日本企業の愛国心には、それ以来疑問を持ち続けています。

もう一つの視点は、国内の労働条件の問題です。
これは、私が実務的に感じていることです。

要するに、外国人労働者がほとんどの職場には
日本人がいないか、ごく少数です。
なぜ外国人労働者がいるのかという問題は、
なぜ日本人労働者がいないのかという問題です。

例えば、居酒屋チェーンは、
外国人労働者がほとんどです。
かなりの低賃金で深夜労働をさせられています。

コンビニエンスストアでも、
外国人名の名札を付けている方が増えています。

おそらく、
日本の物価を前提とした賃金額の感覚と
外国の物価を前提とした賃金額の感覚の
ギャップで持っているということ等が
背景となって成り立っているのではないでしょうか。

すべての外国人労働者が多い職場で
このような問題があるとは限らないでしょうが、
日本の労働市場の在り方自体の問題も
外国人労働者の流入に大きな影響を与えていることは
間違いないようです。

よその職場だから、
安いと便利だから
ということで、
自分の関わらない職場でも
自国の職場には、厳しい視線を与え続けなければならない
という理由があると思います。

先に引用した論者の方々は、
外国人労働力の流入を受け入れるかどうかは、
国民が決めることではないということを発言され、
衝撃を受けました。

ただ、私の提起する二つの問題からの視点としては、
外国人労働力の流入や活用は、
日本の企業が、
日本人の失業や生活維持に興味を払わずに
できるだけ安いコストで企業運営をしたい
という動機から実行されている
という側面があるということです。

外国人労働力の流入は、
庶民の問題ではなく、
日本企業の問題なのだということです。

日本人は、やがて自分や自分の身内のことになるのだから、
国内の労働現場の実態に関心を寄せるべきだ
ということになると思います。

その延長線上に
国際労働基準の確立という問題が
根本的な問題としてあるということを
誰かが伝えなければならない
という語り部的意識で書いています。

さて、上野さんは、
みんなで一緒に貧しくなろうということを
提起されているようです。

私の視点からすれば、
みんなで一緒に貧しくなるということは、
このような効率優先に偏った企業活動の問題を放置することですから、
貧しさに歯止めがきかなくなるし、
外国人労働力の流入が加速度をつけて増加するだけの話です。


一貫して自分たち以外の人たちを受け入れないという視点は、
及び原因や理由がある事を直視しないで、
他者をそういうものだというように決めつける論法は、
結局、
「グローバリズムのお手伝いさん」であるということになるわけです。
ナンシーフレーザーの主張は
こんなところでも実証されてしまっている
ということを悲しみをもって指摘させていただきます。

【追悼せいたかさん】万引き犯人が罪を認めるまで(すいません、わかる人だけの部分けっこうあり) [刑事事件]

マサルは、警察官だ。
警察官と言っても、犯人を逮捕したり、道案内をしたりするわけではない。
犯人が逮捕されてから警察署で生活するときに対応する
いわゆる留置係という仕事をしている。

警察は、犯人を逮捕するのが仕事だと思っている人もいるが、
逮捕した後にいろいろ調べて、
刑事裁判を遂行する準備をする法律家なのだ。
犯人がいなければ裁判が成り立たないということから、
逃亡されないように身柄を拘束するのも
やはり警察の仕事だということになる。

犯人と言っても、凶悪犯ばかりいるわけではなく、
警察署の中では、
おとなしく規則に従って、静かに生活している人が多い。

素直に罪を認める人もいれば、
どうやったって犯人であることは間違いがないのに
自分はやっていないという人もいる。

でも、マサルにはそれはあまり関係がない。
裁判で有罪になるまでは、無罪の人と扱う
それだけのことだ。

今日は風変わりな犯人・・
おっと、無罪推定なので、
罪をしたと疑われている人
ヒギシャという言い方をする。
風変わりなヒギシャのお話をする。
まだ若い男性である。

名前をいうわけにはいかないので、
ジムニーと呼んでおこう。
全くの日本人の顔をしているのだか、
まあ良いでしょう。

ジムニーの罪名は窃盗罪だ。
万引きをしたとされている。
スーパーでCDプレーヤーを万引きした。

やや画質が悪いにしても防犯カメラにも映っているし、
なによりも、ジムニーの乗っていた自動車に
レジを通していないCDプレーヤがあった。

おそらく、罪を認めて謝って
弁償するなりすれば、
逮捕ということにはならなかったのではないかとも
マサルは思っていた。

最初、弁護士会から来た弁護士は、
狭い面会室で、
透明なプラスティック板越しに
大声でどなられていたようだ。
無料でアドバイスに着た弁護には、
とても気の毒だった。

すぐに、もう一人の弁護士が来た。
そういえば、この弁護士が面会室に来た時に、
変わったことが起きた。

もっとも起きたというように、はっきりしたことがあったわけではないが、
警察署の二階の面会室に案内した時に、
留置場のドアを開けたときに、
足元につむじ風が起きたような気がした。

偶々、書類を落としそうになったので
下を向いた瞬間のことだったが、
風が吹いていった方向を見ても
何も見えなかった。

二人目の弁護士には、
ジムニーは大きな声を出していなかったようだ。
弁護士との面会は秘密でおこなわれるので、
聞き耳を立てるわけにはいかないので、
詳しいことはわからないが、
面会が終わった後のジムニーの顔はみものだった。

とても困ったような表情で、
何か言いたいことがあるようだが、
誰も聞いてくれる人もいないとあきらめたというような
そんな中途半端な顔で、
話しかける言葉もなかった。
人間があんな表情をしたのは初めてみた。

弁護士さんの方は、
着たときと同じようにニコニコしていて、
私にもお世話になりましたと
礼儀正しく声をかけて帰っていった。

その日の夕方になりかけた時間、
マサルは、設備の点検のため巡回をしていた。
ジムニーは、たまたま一人で部屋を使っていた。
相部屋のヒギシャがいることが普通は多い。

マサルがちょうどジムニーの部屋の裏側で作業をしていたとき、
ジムニーの声が聞こえてきた。
マサルがいるところは、
留置係の警察官がヒギシャの様子を点検する表側ではなく、
裏側であった。
マサルからジムニーが見えないが
ジムニーからもマサルが見えない位置関係にある。

ジムニーは何かの気配を感じて驚いたようだった。
表側には同僚もいるはずだから、
本当に誰かが侵入したら連絡があるだろうと思い、
マサルは作業を続けた。

ジムニーは誰かと話しているようだった。
「そんなことないよ。ヒコのせいじゃないよ。」
ヒコといったのか、ヒトといったのか、
良くわからないが、ヒコといったように聞こえた。

「自分で、やらないようにしなければいけないんだ。」
「そんなに欲しかったわけではないんだけど。」
あれあれ、ジムニーは、罪をようやく認めたようだ。
でも、刑事の前で言わなければ意味がない。
それを告げ口するのは、自分の仕事ではない。

「いや、約束を守らなかったのは
 あのスーパーの警備員なんだよ。
 警察には言わないって言ったのに
 なかなか帰してくれなくて、
 そうしたら警察が来たじゃないか。
 話が違うって思ってね。
 じゃあ、自分もやってないって言ってしまったんだ。」

「だけど今日の弁護士は、
 やっていないならきちんと話をしろっていうんだ。
 やっていないのに、やったというのが
 警察官にも迷惑だからなって。
 プロなんだから、もっと疑ってくれなくちゃあな。」

「わかっているよ。もちろんわかっているよ。
 俺が悪いんだから。
 俺のことをこの世のすべての人間が疑っても
 自分だけは信じるといわれてもさあ。
 そのことで
 責任をとるのは俺自身しかいないって言われちゃったらねえ。」

その日の夜、書類を下に運ぼうと
留置場のドアを開けたときにも、
つむじ風が吹いた。


次に弁護士が来た後にも
ジムニーは、「独り言」を言っていた。

「刑事裁判の反省は、一般用語の反省とは違う。
 3つのことを考えることだ。
 一つは、自分がしたことでだれにどういう迷惑をかけたか。
 誰かが、困るんだって話だな。
 店の人が困るのかな。
 でも、万引きされたら、その分売り上げが上がらないよな。
 売場の主任あたりが給料減らされるのかな。
 住宅ローンや、子どもの学校のお金が足りなくなったら
 なるほどかわいそうだね。それをやったのは俺かぁ。
 やっぱり悪いな俺。」


「二つ目は何だっけ?
 そうそう、原因かあ。
 悪いことだってことはさすがにわかるけれど
 じゃあ、何で止められなかったのか。
 だから、君がこれなかったこととは関係がないって。
 何かに追い詰められていると起きるって、
 俺、何に追い詰められていたのかな。
 でも、もう大丈夫、
 ヒコがいるってことがわかったから
 もう一人じゃないよね。
 いいんだ。いつもいなくても一人じゃないってことがわかったから」

「三つめ、三つ目と
 これからどうやって生活するかか。
 絵にかけるように具体的にと、
 俺、目標を持って生きるということを考えてみたんだ。
 貯金しようかなと思う。
 新車の原付買うんだ。
 三年くらいで買ってやろうと思う。
 そして、あの山に通うんだ。
 あの小屋のあたりだけは、
 絶対に手放さないって。
 いつか友達を作って、
 天気の良い日に、パーティー開きたいな。
 そのためには、こんなところにいてはだめだよな。」

「俺、本当は、最初に警察官が来た時、
 みんなの顔を思い出したんだ。
 もう二度と俺の前に姿を見せてくれないんじゃないかって
 俺、終わっちまったのかなあって、
 そう思ったら自分が悪いのに、
 警察呼ばれたことに怒ったりしてさあ。
 ごめんな。こんなところに来させてしまって。
 みんなからヒコが怒られるかもしれないよな。
 ありがとうな。。
 俺絶対普通になって、
 みんなの役に立って見せる。俺でもできるよな。
 そうすれば、ヒコも鼻が高いよな。
 もう帰ったほうが良いよ。
 俺は大丈夫。いるってわかっただけでもう大丈夫だよ。
 今度、あの小屋で元気で会うためにもう帰ってくれた方が安心だよ。」

マサルは、書類を下に運ぶように言われて
留置場のドアを開けた。
その日はドアを開けたまま、十分時間を取って、
天井の点検を念入りに行うことにした。

なんとなく、つむじ風がゆっくり通っていった気がした。
耳の近くでカジカガエルが鳴いたような錯覚を受けた。
笑顔の気配がした。

国の自殺対策が、ようやく対人関係学の方向を向き始めた件 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

近似の国の自死対策には大きな変化が見られるという。
一言で言って、
うつ病が悪化して自死に至るというモデル
(疾病モデル)には限界があり、
この疾病モデルから、
総合的・包括的な対策として自死対策を再構築する方向へ
転換するのだという。

10年間かけて自死対策の理念と方法の大きなパラダイムシフトが起きた
とのことである。

ようやく、国が対人関係学に近づいてきた
ということである。
最近、どや顔の記事が多いので恐縮だが、
これはまさに、この通りである。

平成24年の自殺対策大綱見直しの時の
パブリックコメントを末尾に掲載する。
但し、これは、字数制限があるほか、
募集期間が数日しかなく、
慌てて記載したために、
文書としてあまり洗練されていないことを
お断りしておく。
まあ、いつものブログ記事とおんなじなので
実力通りかもしれない。

但し、まだ、対人関係学に近づいただけで、
具体的な方向は見えてこない。

「自殺問題の解決には、医学の領域を超えた
 公衆衛生学の考えや手法を活用する必要がある
 と認識されるようになった。」
と述べるだけである。

そもそも医学の領域を超えた公衆衛生
という言葉はおかしい。

結局、うつ病ということで精神科医に丸投げするのをやめて
科学的な原因の分析を始めましょうと言っているにすぎないと
感じてしまう。

例えば、仙台市などでは、
既に数年前から、
行政と民間と中間機関の
ソーシャルネットワークの構築を
自死予防対策に位置づけて
進めている。

まだ手探り状態の段階だが、
自死未遂者の多層的な支援等
いくつかの先進的な実績が上がっている。

自治体における自死対策、
あるいは国の自死対策も同様なのだが、
結局は、健全な行政行為、
特に福祉行政の充実が特効薬だ。

国についても、福祉だが、
失業率の低下が自死対策に有効であることは
ずうっと前から定説になっている。

そうだとすると特に自治体における自死対策は
不要なのだろうか、
そうではないだろうことは言うまでもない。

一つにソーシャルワークという
個別的な対応が有効になると思う。

縦割り行政の横糸を這わせる仕事になるだろう。

もう一つは、自死予防の観点の導入
自死予防の観点からの行政内容の修正ということになると思われる。

現在の行政は、
本来、行政であることのうまみを放棄して
無駄に競争原理や、効率を取り入れて
行政の質を落としている。

それぞれ、費用の問題などがあり、
その結果として現状があるわけだ。
この無意味な方向への力の傾注を是正し、
行政のアドバンテージを発揮させるような
政策の修正が求められる。

修正の契機として、自死予防の観点からの見直し
ということが有効になるだろう。

自死予防の観点とは、
人が尊重されるということに価値を置くことである。
その人の弱点、欠点、不十分点を
批判されず、笑われず、価値否定されないことである。

お金がない人、
病院や学校へ向かう手段のない人、
住居に問題がある人
体調などに問題がある人
働けない人
友達がいない人
こういう人たちが
生きていてよかったと思える行政こそが
自死対策の基本である。

予算の観点、効率の観点、その他もろもろの従来の行政の観点の外に
自死予防の観点をもうけていただくことになるだろう。

その中で、
家族や、学校、職場の関係についての
相談を受けたり、
解決方法を提言したりと
対人関係を改善していくということが
さらなる発展形であると思われる。

端的に言えば、
夫婦関係の不具合、特に妻からの相談を
それは精神的虐待だから離婚をするように
という切り捨て行政から、

夫側に働きかけて、改善の方法を
選択肢として提示して、
将来にしこりを残さない方法や、

子育てにご苦労されている人たちの
積極的な支援をクリエイティブに進めていくこと。

使用者団体と労働者団体等と
積極的に職場の改善方法について
公開でディスカッションをするということも
あり得ることではないかと考えている。

極端なことを言えば
自死予防対策とは
自死者をなくすことが目標ではないと考えている。

尊重される人間関係を進めていくことだと思っている。

この意見が受け入れられるまで、
さらに10年くらいかかるのかもしれないが、
10年で追いついてきたならば
それは歓迎するべきことなのだろう。

後退することもあるかもしれないのだからね。



 この項目において、職場、学校、地域という、人の集まりの単位に着目して、体制整備を進めるという点に、積極的に賛同します。
 私の意見の結論は、この体制整備の内容について、第1に、集まりの単位毎の、人と人とのあり方についての現状を分析した上で、あるべき姿を議論するべきだということと、第2に、この人の集まりの中に家族を含めていただきたいということです。
 私は、弁護士として、自殺事件、自殺対策に積極的に関与しています。その経験からの感想ですが、現在の人の集まりは、職場のパワーハラスメント、学校のいじめ、家庭でのドメスティックバイオレンスや虐待等、人が人を追い込む関係になっていしまっており、これが、自殺の高止まりの本質的問題ではないかと感じています。
 また、一度蓄積され始めたストレスや、うつ病は、実際は、その影響が解消されることが容易ではないことも感じています。
 自殺予防のもうひとつの視点として、ストレスを作らない、うつ病を作らないという視点をもっと強調することが有効ではないかと考えています。
これは、一言で言えば、人を追い込む人間関係から、人と人とが助け合う人間関係への転換を追求するということです。
 私は、仙台市で東日本大震災を経験しました。悲惨な出来事もありました。しかし、一方、ライフラインが途絶した中で、見ず知らずの人と人とが、言葉を交わし、励ましあい、自分ができることを積極的に行って相手を助けるということを何度も経験しました。この時は、人が近くにいるということで、無条件に、安らぎや癒し、活力を感じることができました。本来人と人の集まりには、このようなコミュニティの力というものあるはずだと思うのです。
 その最も大切な人の集まりが家族ではないでしょうか。家族を中心としたいくつもの人間の集まりが、人と人とが助け合う関係になれば、気づきやストレスへの対応、治療へのつなぎももっと効果を発揮すると思います。
 また、自殺対策が、人間らしい社会を追求するということになれば、もっと楽しく、もっと多くの人が参加できる夢のある活動になるのではないかと考えています。


それ本当に統合失調症という診断でよいのですか? [自死(自殺)・不明死、葛藤]

労災事件や損害賠償事件、
あるいは破産事件や離婚事件でも
統合失調症だと診断された方と
お話しする機会があります。

人権擁護委員としても、
人権相談を受けることが少なくありません。

ゆっくりお話を聞かないと
何も解決しないで時間切れということが多いのですが、
ゆっくりと時間をかけてお話しすると、
今抱えている問題の解決方法の展望が
見えてくることもあります。

わりと、統合失調症の方とお話しすることが
苦にならないタイプなので、
話し込んでしまうことも多くあります。
こういうことができるのは、
人権相談を受けている場合でしょうか。

だんだん、「そりゃあ、そう思いたくもなるよね。」
というきっかけみたいなものが見えてくることがあります。

ただ、
統合失調症だと診断されている方の中で、
どうしても、統合失調症だという診断に疑問を持つ場合があります。
医学的には全くの素人なので、
本来恐れ多いことなのですが、
事例がたまってきたので、
ちょっと言わせていただこうと思います。

本業の先生方におかれては、
素人のつぶやきだと大目に見ていただければ幸いです。

第1類型
それまで、統合失調症の症状がなかったのに
50代以降で発症したとされる例
70歳代で発病したと診断された例もあるのですが、
10代20代で何ともなく、
老齢に差し掛かってから発病するということがあるのでしょうか。

素人的にはICD-10の診断基準をどうして満たすのか
理解に苦しむ例でもありました。

第2類型
うつ病性妄想、パニック障害、不安障害と思われる事例。
特に、日常的理解から分断された幻覚幻聴があるわけではなく、
不安を表現しているだけではないかと
感じるのです。
そう思って処方されているお薬を教えてもらったら、
やはり抗不安薬と睡眠薬しか処方されていませんでした。
それならどうして統合失調症という診断をしたのだろうかと
この点は素人らしい疑問を抱くわけです。

(この事例はかなり症状が悪化し、
 入院を視野に転院したところ、
 うつ病であると診断されて、
 日常生活を問題なく送っていらっしゃいます。)

第3類型
ストレス性疾患ないしPTSD
労災や事件性の不安というのがあって、
例えば、常に自分の右側に何かいるような気がする
という主訴の患者さんがいらっしゃいました。

この方は、統合失調症ということで
セロトニンドパミン拮抗薬を処方されて、
身体障碍者の認定もされました。
うつろな目をして、筋肉がこわばり、
口が閉まらずよだれが流れる、
じっとしていることができずに
定期的に椅子から立ち上がりうろうろする。

全て薬の副作用でした。

話を聞いていたら、
ある日、仕事でデスクワークをしていたところ
隣で働いていた同僚から
顔を殴られたということがあったそうです。
ええ、そうです、
この同僚は右隣に座っていました。

けっこう激しく殴られたのですが、
この同僚の方が精神的に破たんしていたようでした。
さらに、この被害者の不幸なことは、
突然の暴行の被害者でありながら、
会社が十分な対応をしないで、
契約期間が満了したということで
派遣切りにあってしまったというところにあります。

記憶というものが、どうして必要なのかというと、
危険なものが何かを覚えて、
危険を感じたら、それを回避するという行動をとること
(逆に利益があることを覚えて、繰り返す)
に主として存在意義があると思います。

例えば、その方の事例で、
同僚が奇声を上げて、走り回った挙句、
目を血走らせて、怒りの表情をあらわにして
襲い掛かってきたら、
まだ、逃げようがあるわけです。

その時逃げられなくても、
そういうことが又次にあれば、
危険だから逃げればよいという
記憶を定着させて安心することができます。

ところが前触れなく、
突如右側からこぶしが自分の顔面に襲ってきたらどうでしょう。
防ぎようも、身構えようもないわけです。

それでも、脳は、安心したいですから、
何らかの対処方法を無意識に考えだします。
しかし、有効な対処方法はない。
そのため、こぶしが襲ってきた
右側を防御しなければならない
という記憶が生まれてしまうわけです。

(この事例は転院され、
 無事に薬を変えてもらい、
 症状が劇的に消失しました)

これは、無意識の防衛反応です。

こういう場合は統合失調症というよりも
PTSDという状態なので、
カウンセリングを行い、
偶然的な不幸であることの理解と
通常は心配する必要性がないことの理解、
いざとなったら、助けてくれる仲間の存在の自覚
という新たな記憶を刷り込んでいくことが有効なのだと思います。

なぜセロトニンドパミン拮抗薬なのか
全く理解に苦しみます。素人ですから私。

疑問は、
幻覚幻聴と、「漠然とした不安」の区別が
曖昧に扱われているのではないか
ということです。

私の素人理解では、
日常的理解から分断された
具体的な幻覚と幻聴が存在し、
それに支配されている場合が統合失調だと思っていました。

先ず、なんとなく右側が怖いとか
後ろから誰かが来るようだ
というような抽象的な不安が
幻覚幻聴と言っても良いものなのだろうか
ということが疑問です。

もっと、まとまっていて、たとえば、
警察が始終電波を飛ばして自分の行動を命令するとか
日本創世記の神が自分に降りてきて
世界を支配する方法を授けたとか
某宗教団体が24時間自分を見張っているとか
割と、自分を支配する相手や
支配をする方法を具体的に語る方が
統合失調というイメージなのですが
どうなんでしょう?

要するに、「幻覚幻聴とは何か」ということですね。

次に、どうもお医者さんは
われわれ庶民の日常、あいまいさや不合理をくるんだ日常
ではなくて、
合理的で、整序だった日常的理解をお持ちのようで、
え?それも分断しているの?
という判断をなさることがあるように感じます。

治療の必要性がある場合もあるのでしょうが、
例えば、右側に何かある、
後ろから危険なことが起きる
という場合、
われわれだと、
何かそういう体験をしたのではないかと思ってしまいます。

先ほどの職場で殴られたという事例だけでなく、
左隣に住んでいた人が精神的に問題があり、
窓から顔を出して外を見ていただけで
こっぴどく怒鳴られて、部屋に押し掛けてきたという
体験をお持ちのお子さんは
左側が怖いという症状がありました。

そういうことを聞いてばかりいるからかもしれませんが、
何か理由があると、
つい素人は思ってしまうのです。

医学部で専門的に勉強され、
国家試験も合格され、
研修もなさった先生方に
たてつくようなことを申し上げて大変恐縮なのですが、

統合失調症の幻覚幻聴の定義
他の精神疾患との鑑別など、
ガイドラインがあるとよいのではないかと
考えている次第であります。










あると思うけど。




自首をお考えの方に 犯罪を行ったことに気が付いた時にすること [刑事事件]

私の事務所には、わけあって
2か月に1度くらいは、
自首に関する電話相談が来ます。

罪名として多いのは、
窃盗(万引き)と業務上横領です。

私の事務所に連絡をするくらいですから、
自首を考えていらっしゃいます。

犯罪を実行してしまったことは問題ですが、
犯人だと気が付かれる前に
被害者に事実を告げて謝罪したり
警察に自分の罪を告白するということは
大変勇気が必要なことです。
私は無条件に尊敬の気持ちをもって
対応しています。

皆さん、一番気にすることは
自分の罪に対する刑罰が
どのくらいになるかということです。

悪いことをしたわけなので、
そんなことを気にしないで
自首をするべきだということは
みなさん100も承知です。

でも、すべての刑法犯の方々が
その点を気にされることは、
情において当然のことだと考えますし、
弁護士は、端的に見通しを述べるべきだと思っています。

失職や刑事裁判はやむを得ないと考えていらっしゃるのですが、
皆さん一様に、
家族や関係者に対する迷惑の程度という観点からも
刑罰の見通しをお聞きになりたい様です。

もちろん被害者がいるわけですから、
そもそも犯罪をしないことが
家族に迷惑をかけない一番の方法だったのですが、
そんなことも100も承知です。
100も承知でも
やはり聞かないわけにはゆかないということも
よくわかります。

特に、自分のお子さんに対して
刑務所に行った親の子どもだといわれることを
気にされている方が多いようです。

情に流されて安易な見通しを言うわけにはゆきません。
私の回答でがっかりされる方もいらっしゃいます。

しかし、私は思うのです。

やったことをなかったことにするわけにはゆかない。
人間なので失敗は仕方がないのではないか。
それでも、親として子どものためにしてあげられることがある。

一つは、反省をして、被害者に誠意を見せることです。
心をどうこうというより、やはりお金で償うことが基本です。
一度に支払えないならば
支払い終わるまで支払い続けるという
自分の責任の果たし方を示すということだと思います。

失敗をしても、
その責任を償う姿を示すことが
いろいろな意味で子どもが学ぶことが多いと思います。

一つには社会との関係です。
一度刑務所に行くかもしれない罪を犯しても、
二度と過ちを繰り返さないということです。

あるいは、社会の偏見や
悪の誘惑が再び訪れるかもしれません。
しかし、
一度過ちを犯しても、
コツコツと立ち直ることができる
ということを示すことは
子どもにとって大きいことです。

今、子どもたちは、
「失敗が許されない」
という緊張感に、毎日さらされているようです。
ささいな失敗を苦にして
精神的に立ち直れなくなってしまっています。

人間は失敗する。
しかし、失敗から立派に立ち直って見せる。
それを示すことは
子どもにとって救われることになるでしょう。

それができるのは、
失敗をしたあなたなのです。
あなたしかできないことがあるのです。


万引きにしても横領にしても、その他の犯罪にしても
被害者の方々は、実際の被害や
加害者の意図以上に深く傷ついています。

自分が人間として尊重されていないという
強烈な疎外感を受けて落胆しています。

もし自首をすれば、
自分が考えているよりも
世の中すてたものではないなと
救われる人もいらっしゃいます。

これから先も同じような被害に遭うのではないか
という精神的外傷を追っている方の
不安を解消することだってあります。

これも、罪を犯した人が謝ることが
一番効果があることです。

被害者に謝罪に行って
自首をすると告げたときに、
弁償をしてくれればかまわないと
言ってくれることもないわけではありません。

それはこういうことなのかもしれません。

罪を犯した人は、
失敗したことを自覚し、
やらなければ良かったと思っている人が多いようです。
そして苦しんでいいらっしゃいます。

せっかくそういう気持ちになったのならば、
是非自首をするべきです。
被害者も加害者も家族の方々も
それで、だいぶ救われるのです。
自首をしないことはもったいないです。

でもどうやったら良いか
パニックになってしまってわからないことも
多くあります。
是非、弁護士に相談いただければと考えていますし、
弁護士は、
自分の職業がなんであるかを自覚し、
八方が一番良い状態になるよう、
暖かく援助することをお願いしたいと思っております。


なぜ、人間関係は壊れるのか。(対人関係学) [家事]

あれほど好き合って結婚した夫婦が離婚したり、
気がある友達が犬猿の仲になったり、
人間関係は必ずしも長く続くものではないようです。

その一方で、
それほど仲良さそうではないのに
死ぬまで添い遂げるご夫婦がいらっしゃったり、
腐れ縁なんて言いながらも、
いつまでも仲良くやっている人たちもいます。

距離感が大切だなんてことを聞くこともあります。

これらは対人関係学的に言えば
(動物行動学的に言えば)
どうゆうことなのでしょうか。

これは、人間は動物でありながら
人間という群れを作る種であるということがカギになります。

動物の基本原則は、
自分のことは自分で守る、守りたい
というところにあります。

人間以外にも母子関係という
個体同士の結びつきがありますが、
これは、例外的で、
一つには、母からすれば乳児は、
自分の体内にあったものであり、
あまり自分との区別がつきにくいということと
母乳を与えることによるホルモンの作用による
と言われています。

だから、時期が来れば、
通常は子別れをするようになっています。
徐々に、異物になっていき、
自分の行動を制約するもの
ないし、自分に危害を与えるもの
という認識を持つようになります。

子別れは通常母親が促しているようです。

このように、同種であっても親子で会っても
他の個体は、一個体にとって
自然と、
「自分で自分の身を守る」ことの障害として
脳が認識するようになっています。

なわばりを犯す存在ということで
危険を感じる対象となります。

これが動物の基本です。

ところが、動物の中には
群れを作る動物がいて、
本来、異物ないし障害物である別個体と
共存をしている種もあります。

その極端な例が人間です。

特に人間だけは、
母子関係以外においても、
利他行為を行うようになっているし、
他の個体の感情を理解し、
経験を学ぶようになっているようです。

これは、人間という
攻撃力も、防御力も、逃走力も
きわめて中途半端な生き物の特質として有利ですし
また、お産が極めて重く、母体が傷つくために
母子関係が成立しない例が多い動物としては
種を保存するために必要な特性だった
と言えると思います。

人間は遺伝子上に、
群れに帰属したいという根源的な要求が
組み込まれていると言われています。

ところが、
この「群れに帰属したい」という遺伝子的仕組みは、
「自分で自分の身を守りたい」という遺伝子を
駆逐しているわけではないようなのです。

要するに、二つの遺伝子の仕組みは、
一つの個体の中で共存してしまっている
ということになります。

あたかも月と地球の関係のようです。
一方で、引力によって月と地球は引き合っているのですが、
他方遠心力も働いて
月は地球から遠ざかろうとしていて、
絶妙の距離を保ちながら
着かず離れずしている状態です。

人間通しの関係も
誰かと一緒にいながらも、
自分の行動の自由が確保できていれば
月と地球のように
着かず離れずの状態にあるのではないでしょうか。

親子も反抗期が来るまでは
お互いが自分の行動の自由を脅かす対象とは
認識されないことが多いです。

人間の場合(特に日本人の場合)、
父親さえも、子どもと自分の一体感を感じているようです。
自分のこととして子どもの要求に応じるわけです。
「目の中に入れてもいたくない」
という表現は極めて象徴的です。

中には母親さえも
子どもに手がかかり、
なく子どもに敵対心を持つ人がいますが、
これは、ホルモンの分泌の問題であって、
人間性という神秘的な話ではありません。
欠陥ではなく、コンディションというか
タイミングの問題なのでしょう。

母性欠落なんて言って気にする暇があったら、
子どもが泣くのは仕方がないなと割り切って、
できるだけ多くの人と子育てを分担し、
早く子離れをする方法を実践することです。
子どもの成長を促す方法、それは単純な話、
子どもを触る時間を増やすことです。
叩いてはだめですよ。
抱っこしなくてもさすってあげてください。
体温を伝え、自分の声を聴かせ、
においを感じさせてください。
五感で母親を感じると
勝手に安心していくと思います。

さて、さて
もう一つだけ、余計な話、
だから、反抗期というのは
普通の動物の子別れとは少し違います。

子どもが自分の障害物だと感じるようには
人間の場合はなかなかなりにくいものです。
家族という群れの構成員とみるからです。
子どもの反抗期は、もっと建設的に
新たな家族を作るという繁殖の準備として
表現されていきます。

ところで、夫婦や恋人は
どうして壊れるのでしょう。

最初は、繁殖相手という感情を
無意識に抱きますから、
生活以外の要求によって
引き合うわけです。

少々の障害については、
見えなくなっているわけです。

しかし、四六時中繁殖しているわけにはいかないので、
生活面において、相手の行動、志向が
自分の行動や感情の妨げになってくることに気が付きます。

人間的に未熟な場合は
子どもが親に要求するように、
自分の感情や要求を満足させろという
主張をするしか能がないということになります。
こういう場合は、
お互いが自分の行動の阻害物ということになり、
「自分で自分の身を守る」ことが
いざとなったらできなくなるのではないか
という妨害物だと思うようになるでしょう。

生きるための邪魔者
という感覚を脳が勝手に蓄積していきます。

極めて身近にいる
自分の生存活動の妨害者ですから
危険なことこの上なく感じるわけです。

かくして最愛の相手は
不倶戴天の敵になるわけです。

これを避けるためには、
適切な距離を置くことなのでしょう。
物理的な距離というよりも
心理的な距離ということなるのではないでしょうか。

最低限のプライバシーを確保するということもあるでしょう。

極端な話、相手に殺されるならしょうがないという覚悟も有効ですし、
逆にいざとなったら一人になるという覚悟も
長く続くコツなのかもしれません。

そうして、
自分の意見が通らない、あるいは
自分の思い通りにいかないということが

そんなに致命的な事柄なのか
見極めることが必要です。

案外意地を張っているだけで
どうでも良いことが多いようです。

相手の行動の自由を感じさせることも有効です。
相手の行動を肯定する、「いいね」という習慣
これが相手が、
「この人と近くにいても自分の行動の妨げにはならない。」
と感じさせるコツということになります。

そうして相手と自分とを対立させておくことをやめて、
群れというチーム、「私たちが」という感覚をつかむことが
人間関係を壊さないコツのようです。

一緒にいようとすることは本能ですが、
そのための行動は理性が必要です。
また、単なる愛情ではなく、
知識に裏付けられた行動が必要であるようです。

そのための知識を、
核家族に普及させる必要があると思われます。






対人関係学における「勇気」とは アドラー心理学との対比は無理だとしても 嫌われる勇気(対人関係学) [自死(自殺)・不明死、葛藤]

対人関係学は、動物行動学の手法を用いた
自死予防、対人関係紛争解決の基礎理論です。

さて、昨今学術団体を名乗る団体から
勇気についての解釈等が創始者とは異なるということで
テレビ番組を中止ないし大幅な改善を
求めたとのことです。

まあ、その心理学についてはまるっきりわからないので、
論評は避けますが、
(ブログの中止や大幅な変更を求められても困りますし)
けっこう似ているところがあるので、
ちょうどよい機会ととらえ
ちゃっかり説明(対人関係学の方限定)を加えたいと思います。

「勇気」という言葉に該当しそうなことは
対人関係学では2点あります。

1点は、群れを作る動物として、
群れの弱い者を守るという遺伝子的な要求がある
ということです。
ここはアドラー心理学と少し似ているかもしれません。

しかし動物行動学的な手法の対人関係学は、
面倒なことは言いません。

要は、群れの頭数が減ることが
群れ全体、即ち、自分という個体の滅亡につながるため
すべての能力を総動員して
群れの仲間を守るために
勝てそうもない敵に対しても勝負を挑む
という遺伝子に組み込まれた行動様式がある
ということです。

通常の状態ですと、
危険が存在しても
「相手に勝てる」という気持ちがないと
怒りという情動が起きにくいわけです。
怒りよりも、恐れとか不安という情動が起きて
逃亡という行動に結びつくわけです。

ところが、仲間が攻撃を受けていると
勝てるかどうかはともかく
怒りの感情が先行して起きてしまい、
闘いという行動に結びつきやすくなります。

「仲間のために戦う者は強い。」
ということは正しいということが対人関係学の帰結です。
但し、強いといっても、対自分比です。

子育て中のくまやオオカミが
気が荒くなり、攻撃的になるということは
その一つですが、
これはプロラクチンの分泌による生理的作用で、
母乳を与えている母親限定の話なのです。

人間はさらに群れを作る必要性が高かったために、
群れの仲間を守るという意識が強く、
怒りを誘発しやすくなります。
この時、恐怖を忘れる等の効果もあります。

頭数を減らしたくないという本能だということになります。

実は、「かわいい」という感情も
群れの一番小さく弱い者を守るという本能からきているわけです。

ところで、勇気という表現が当てはまりそうな第2の点は、
人間が危険に接近する動物だということから来ます。

通常の動物は、勝てない、危険だと思ったら
ひたすら逃げます。
これが動物の基本ですし、植物との違いということになります。

ところが、人間は逃げてばかりいたら
簡単に飢えて死ぬような中途半端な動物であったため、
危険に接近し、危険を利用して利益を受ける必要があったわけです。

わかりやすいことは
火を使うということです。
火に触るとやけどするわけで、
動物はどんどん逃げていきます。

ところが人間は、
やけどをしないように火を使う方法を覚えたわけです。

人間には、動物として逃げたいという本能の外に
逃げたいところを我慢して近づいて利用する理性が
存在しているということになります。

逃げたいけれど利益を得るために
危険に接近する
これが、もう一つの勇気といえる
人間の特徴だと思います。


面白いことは、これが人間関係ともなると
複雑に絡み合ってはいるのですが、
同じことになる場合があります。

対人関係学では、
人間は動物として、自分の身体生命の危険を感じて
逃げる等の行動を起こすだけではなく、

群れを作る動物として、
自分が所属する群れから追放される危険を感じて
行動を修正するという特性があります。

どちらの危険も感じればストレスを感じます。
具体的に言うと
体温が上昇し、血圧も上昇し、脈拍が増加しという
交感神経が活性化されます。

さて、群れの方向性が間違っている
あるいは、群れのリーダーの提唱する行動提起は
群れを滅ぼす可能性があるという場合に
相当のジレンマを抱えます。

即ち、
そのことによって群れ全体に不利益が起きることを避けたい
という要求と
避けるために、自分がリーダーなどに反対意見を言わなければならない
それをすると、群れから極端な話追放される、ないし嫌われる
という危険を感じます。

この時、群れから追放される危険を感じながらも
全体の利益のために言うべきことを言う
ということであれば、
心理学的にはわかりませんが、
対人関係学的には、
それを勇気と言って差し支えないということになります。

テレビ番組の題を
「嫌われる勇気(対人関係学)」
としていただいても、
一向にかまいません。
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