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青森市のいじめ防止審議会の報道発表がどうして不可解なのか、疑問を2点提示する。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成28年8月に、青森の中学校で
中学2年生の女性が自死をした事件で、

「5月末で任期を終える市いじめ防止対策審議会は28日、同市内で臨時会を開いた。終了後の会見で、審議会会長の櫛引素夫・青森大学教授は、報告書原案で「1年夏から2年の初夏にかけて4件のいじめを認定している」と明らかにしたが、いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかったと説明した。」
との報道がありました。

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170529025524.asp

2点ほど意見があります。

第1は、いじめ防止対策審議会は、何を目的に調査をしてきたのかという点です。

この委員会の正確な設置要綱はわからないのですが、
おそらく、将来、いじめを無くし、
自死者を出さないための調査をして、
調査結果を報告するのが目的だったはずです。

そうだとすれば、この最終結論は極めて不可解です。

「いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかった」
ということはどうして述べる必要があったのでしょうか。
私は、権限外の発言ではないかとすら感じています。

ニュースでは、いじめが自死の引き金だったと
断定することができなかったなどということも言っていたようです。
これも権限外の発言だと思います。

この審議会は、
当該事例の調査を行い
自死の危険性のある行為を提示し
何を繰り返してはいけないのか
ということを提案する組織のはずなのです。

このところを理解されていないのではないか
という疑問が出てきてます。

これが例えば、裁判の損害賠償請求の場合ですと、
いじめなどの行為と自死という結果が
一般人から見て行為と結果という関係にあることが
相当であると認められることが必要となります。

これは、その因果関係が認められてしまうと
加害者が損害賠償を支払わなければならなくなるからです。
ある程度、厳密に検討する必要が出てきます。

これに対していじめ防止の場合は、
「本来は」
もっと緩やかに自死といじめの関係を判断してよいはずです。
もっとも、あれもこれもだめだとして、
生徒たちの自由を過度に制限するようなことにならないことは必要だと思いますが、
この点はそれほど重視しなくてよいはずです。

ところが、この様な理念的な判断ができない事情が
確かにあるようです。

一つは、このようないじめ防止の審議会の
目的に関心のない人が審議委員になることです。

また、一つは、
将来の損害賠償の裁判に
審議会の調査結果が使われるのではないか
という心配をすることがあげられます。

これは、当事者にもそういう心配があり、
調査に応じたら、
自分が損害賠償を請求されるのではないだろうか、
他人の裁判に巻き込まれて煩わしいことになるのではないだろうか
等という心配があるようです。
特に加害者とされた子どもたちやその親は
調査に協力しない傾向があるようです。

私は、いじめ防止審議会の調査結果報告は、
できるだけ関係者に公表するべきであり、
そうでないといじめ防止の有効打にならないと思っています。
そうすると、個人名などは非公表として、
危険のある行為類型だけを指摘する方法が
求められるのだと思います。

良い、悪いということすら不要で、
「これからこういうことは危険だからやらないように」
というトーンにしかならないことだと
考えています。

先ずは、亡くなった子どものためにも、
損害賠償よりも、
同じ悲しみを繰り返さない
ということで徹底しなければならないと思っています。

そのためには、危険類型の解明の
積み重ねがどうしても必要だと思うからです。

学校には、
関与の範囲で
必要に応じて謝罪などがなされることが
加害者とされる子どもたちの健全な成長のためにも
必要であることを理解して指導していただきたいと思います。

実際、中学生の遺族で、
最初から、加害者を裁判所に突き出したいとか
損害賠償を請求するとか
希望している人をあまり見たことがありません。

その後の調査が曖昧だったり、
事実が隠されたり
不必要な報告がなされたりすることで、
ことさら自死した子どもに責任を帰属させるから
遺族が怒るということを目の当たりにしているところです。

発想が実態と逆なのです。

だから、自分の任務でもないのに、
いじめ以外にも原因があるかもしれないとか
いじめが自死の引き金になったと断定できないとか
余計なことにこだわるわけです。

思春期うつなどという奇想天外な理由を
どのような根拠で言っているかわかりませんが、
そういうことを言い出すわけです。

詳細はわかりませんが、
りまさんの晴れやかな写真が、
「そんな思春期うつなどではない」
と雄弁に物語っているような気さえします。

青森県では過去において
女子高生の自死が
摂食障害を原因としたものである可能性があると
奇想天外な説明をしたこともありました。

もし、審議委員の任務がいじめや自死予防ではない
というなら謝罪しますが、
いじめや自死予防のための審議会ならば、
この期に及んで、他に原因が無いとは言えないから原因が特定できないとか
引き金になっていると断定できないとか言っている段階で、
委員として適格性を考えなければならなかったのではないか
と思わせるエピソードでした。

この報道に接して
もう一つ意見があります。

いじめを4件認定したと言っています。

この審議会が認定できたということは
民事訴訟にも耐えうる証明があったということなのでしょうが、
そうだとすると、当人の精神的な苦痛を
もっと考えることができたはずです。

これができない理由もある程度考えることができます。
過労死の認定でもよくあることなのですが、
一つ一つのエピソードを個別的に評価して、
一つ一つは、良くある話であり、重い話ではない
重い話が4つあっても、全体として重くならない
という論法です。
これは、はじめから因果関係を否定するための論法なのです。

それぞれ一つ一つが重くなくても
それを生身の一人の人間が受けていたら
大変重いことになるのです。

単純に言えば、
100mを20秒で走りなさい。
50mを2分で泳ぎなさい
それほど難しいことではないのですね。
しかし、
50mを泳いで、そのままプールの入り口から
100mを走りなさい。
全体で3分でやりなさい
ということです。

できる人もいるでしょうが、
大変なことだということは誰でもわかることでしょう。

いじめの場合はもっとわかりやすいかもしれません。
ヒントは、4つのいじめエピソードは
分断していないということです。

いじめの内容は報告されていませんが、
(いったい何のための報告だったのかここにも疑問があります。予防に必要の範囲で公開しなければ意味がないのではないかと思います。)

例えば、4月にクラスで取り囲まれて悪口を言われた
5月にラインで、理由のない謝罪をみんなから求められた、
7月に一人だけクラスの行事に呼ばれなかった、
9月に、靴を隠された
ということが仮にあったとしましょう。

そうだとすると、苦痛を感じるのは、
それぞれ悪口を言われたときだけとか、
ラインに書き込まれたときだけとか
呼ばれなかったことだけとか
そういうわけではないのです。

心は分断して出来事を感じることはありません。

積み重なっていくということもあるでしょうし、
孤立感を絶望感に高めるということもあるでしょう。
大事なことは、その間一貫して
自分が仲間として認められていないという
気持ちを感じ続けるということなのです。

「また、ああいうことがあったらどうしよう。」
ということを、おそらく毎日感じ続けていたでしょう。

4つのいじめがあったとしたならば
いじめが解消された心温まるエピソードでもなければ、
その期間ずうっといたたまれない気持ちで毎日を過ごしていた
ということなのです。

そうなってくると、
個別の出来事がいじめに該当しないと思っても
本人を苦しめることが出てきてしまいます。
本人が追い込まれて悪く受け止めるようにもなります。

調査の審議会があるのであれば、
せめて、
本人が何を嫌がっていたと思われるのか
何をやめてほしいと思っていたのか、
その可能性を調査して報告するべきではないでしょうか。

いじめかどうかもどうでも良いことになるはずです。
未だにいじめと認定できるのかどうかが
マスコミの関心ごとのようで、
審議会の目を曇らす一因になっているようです。

どうやったら自死を無くすかということですが、
死ななければ良いってものではないのです。

いじめを一度受けると
何でもない些細なことでも
「あの時と同じことが起きるのではないだろうか」
という怯えが出てきてしまい、
その後の人間関係にも、重大な影響が出てしまいます。

いじめを無くすためには、
死の引き金だけを無くすのではなく、
外に自死の原因が無い場合のいじめを無くすだけでなく、
人を困らせる、いたたまれなくする行為を
全部なくすことを考えなければならないと思います。

そのためには、審議会の認定を緩やかにするとともに
そういうものだから、
審議会の調査結果が裁判の証拠にはならない
性質上、証拠として使えるものではない
ということも徹底するべきです。

何よりも、今後
同じようないじめをさせないために
何が、どのように危険な行為なのか
みんなに教えてあげるという
指導に活かす調査結果にならなければならないはずです。

それは当該学校だけでなく、
社会一般に認知されて、
他人の心に配慮するという風潮を作る必要もあるはずです。

せっかくのいじめ調査という貴重な機会が
無駄にされることだけはどうしても納得できません。


どこかで、オープンな議論がなされることを
求めてやみません。

わが子に会えない親の会 第5回報告 [家事]


今年の1月から毎月1回ずつやっているので、
5月ですから第5回を数えました。

今回は私を含めて9名の参加です。
初めて参加される方もいらっしゃいましたし、
久しぶりの参加の方もいらっしゃいました。
どちらもみんなが大歓迎されました。
こういうユルいところがこの会の持ち味ですね。

10年近く前に離婚された方、数年前だという方、
今離婚調停中だという方
事情は様々なのですが、
子どもに会えていない親という共通項があります。
今のところ、男性ばっかりです。

世間の面会交流の事情を報告しあったり、
2週に一度の面会交流を頑張っていたら、
裁判官も、
「最近は、そういう傾向にありますよ。」
と相手を説得してくれたという情報だとか、

どこどこの家で、
子どもが勝手に戻ってきちゃった
という情報が入れられたりと
勉強にもなりますし、
希望にもつながります。

とにかく、他の団体さんからすると
何もしていないのではないかと言われそうなところが、
われわれのウリということになると思います。

それというのも、
ただでさえ、わけがわからないうちに苦しい立場に
突き落とされているのだから、
仲間内だけは、仲良くやろうということで
集まっているからです。

この立場の人たちは
孤立しています。
会社などの日常生活は送っているのですが、
一番語りたい気持ちを
語れる場所がないのです。

語っても理解されないことが多いようです。

最近では、
子どもと別居している親は
その親に主たる原因があるという
心無い非科学的な知ったかぶりの論調があり、
さらに傷つけられているところです。

この場所は、
一番語りたいことを語ることが歓迎されており、
全員がその気持ちを理解してくれるという場所です。
話すことによって、
気持ちや行動を整理する人も少なくありません。

また、語りたくなければ語らなくてもよい。
酒を飲みたくなければご飯を食べればよい。
何かをしなくてはならないということがない
そういう会でなければならないという意味では、
メンバーに価値観を押し付けてはだめだ
という決まりごとはあるのかもしれません。

音楽鑑賞が趣味という人もいれば、
人の歌は聞きたくない自分が歌う
という人もいるでしょう。

一緒に歌って方が楽しいよ
と言ってみるのは子どものうちです。
大人になってしまうと、
自分のやり方がある程度できちゃっているのだから、
それを尊重することがエレガントではないでしょうか。

生きているのに子どもと会えない
そういう方々の居場所なのです。
いづらい気持ちが出てきてしまうことが
一番の問題なのだと思います。

第5回は、関東からも2名ご参加いただきました。

次回は6月23日金曜日6時半です。
仙台駅前の某所で行われます。
お問い合わせは土井法律事務所まで
022-212-3773

自閉症の優位性から見た現代の日本社会、企業が停滞している原因 「自閉症の世界」ブルーバックス感想文5 [事務所生活]

自閉症ばかりをとりあげていると、
どうやら本当にキリがなくなりそうなので、
中間まとめをして、離れることとします。

<自閉症の優位性1 理解できないことは行動原理にならない。>

例えば、いわゆる普通の人は、
「空気を読む」ということをして、
大勢の意見に従って行動をすることができます。
自分はよく理解できていないのに、
みんながこうだからと言って「右ならえ」ができるのです。

自閉症の人も「空気を読む」ことはできるようなのですが、
それに従うことができないということが多いようです。
分からなくても「とりあえず協調」することができない
協調を拒否する閾値が低いともいえるでしょうし、
協調の閾値が高いともいえるでしょう。

こういう人がふさわしい職業としては、
法律家、特に裁判官ということになるようです。
事件の本質を見て、納得のゆく判断をする
決して事件とは関係のない
上司の考えとか、出世とか
内閣の意向とかを関係なく判断をするのは、
空気を読まない人がふさわしいと思います。

物理、化学、数学などの研究も
見返りを求めるとどうしても、真理から遠ざかるので、
自閉症の傾向のある人がうってつけということになります。

実は、江戸時代までに日本でも和算という学問があり、
例えば三角形や四角形の中に納まる複数の円の直径の算出を
漢数字で計算して、
問題が解けたということで、
絵馬に書いて神社に奉納していたそうです。
世間の評価や物質的な見返りのためにしていたのではなく、
真理の探求だけが目的だったということになります。
まさに神にわかってもらえばそれで十分
という神との対話に喜びを得ていたのかもしれません。

和算は、中には棚田(たなだ)の設計が三角関数の理解を前提としていたといわれるように、
実務に応用していた節もあるようです。

電化製品や自動車など、
人が思いつかない発明をするのも、
見返りを求める体制で行っているのであれば、
単なる偶然を待っていることと同じだと思います。

今の日本が、江戸時代と比べても
そういった独創性に乏しく、経済が苦戦しているのも、
無駄に上司に協調することを求め過ぎた結果ではないか
というのは言い過ぎなのでしょうか。

そして、昔は、いわゆる普通の人が理解できない人も
「変わり者」という社会の中にポジションがあった
という側面もあるように思うのですが、どうでしょう。

考えてみれば、江戸時代の職人
徒弟制度というのは、
まさに自閉症者が、
一人の人格主体として尊重されるためには
極めて有効な制度だったのかもしれません。

いずれにしても現代日本は、
それまでの歴史の中で重用されていた自閉症傾向のある人を
社会や企業が受け入れなくなった、
重要視しなくなったのではないか
それが衰退の原因であり、
これを是正しなければ、復活はあり得ないのではないか
とにらんでいるところです。

そういう意味ではこのブログも自閉症的だと
胸を張って言いたいところです。


<自閉症の優位性2 見過ごさない>

これは自閉症の人がみんなそうだというのは少し酷でして
処理能力が突出して長けた人ということになります。

自閉症の人は、感じたままに音、映像を認識します。
これまでも言ってきましたので、
ざっくりと言いますと。

いわゆる普通の人たちは、
音にしても意識しないで、要、不要を区別し、
不要な音を意識の外に追いやってしまうのです。
自閉症の人は、
すべてが聞こえてしまうので、
肝心の話し相手の声が相対的に聞こえにくくなる
ということらしいのです。

映像も、スーパーなんかも色の洪水になってしまって、
すべてを意識せざるを得なくなっているようです。

ここで、「感覚」についての補足ですが、
なぜ感覚があるかというと、主として
危険を察知して、危険を回避するためにあるわけです。

いわゆる普通の人が、神経を集中するべきか否かを
無意識に判断しているのは、
その他の音は、危険が無い(対応する必要が無い)と
無意識に判断していることになります。
でもそれが本当に正しいのか、対応する必要が無いのか
については、実際はよくわかりません。
むしろ、相手との話に夢中であったばかりに
危険に気が付かなかったということを
思い当たる人もいらっしゃると思います。

あまりにも多くの音が聞こえてしまうので、
すべてに意識を向けなければならないので、
かなり疲れてしまうことなのですが、
中には超人的な人がいて、
すべての音を聞き分ける人もいるとすれば
例えば聖徳太子ということでしょうね。

聖徳太子のエピソードから逆に考えてみれば、
一度にたくさんの音が聞こえてしまうということは、
複数の人から同時に話しかけられて、
回答をしなければならない状態というと
わかりやすいかもしれません。

聖徳太子なら良いでしょうが。

もう一段階脱線すると、
これらの音がすべて聞こえても、
それをありのままに受け止めて、
いちいち反応をしない、
危険対応という感覚の機能を
意識的に放棄するということが
「禅」ということになるかもしれません。
体を「無意識」=人体という生理的メカニズムに解放してあげるということかもしれません。

もちろん、もしかしたらということですが。


意識の外におかないということで
ふさわしい職業が、点検ということになります。
精密機械の最終点検ということもあるのですが、
会計もそのひとつかもしれません。


もし、同時多発的な感覚があっても、
それを処理することができれば、
侵襲に気が付きやすいということにもなるのかも
しれません。


自閉症の優位性の小まとめ

価値観の問題ですが、
自閉症傾向のある人だけだと、
組織ががたがたといびつな動き方をするのかもしれません。
簡単に言うと生産性というかスピード感が阻害される
というデメリットがあるでしょう。

ただ、生産性やスピード感だけが正しいこととして
重視され過ぎてはいないでしょうか。

わかりやすく(と思うのですが)たとえ話をすると、
東京から盛岡まで移動する。」という場合、
早く盛岡に到達することに価値を置くなら新幹線に乗っていく
ということが正しいわけです。

しかし、
桜の開花状況を確認しながら行くとか
地酒の違いを鑑賞する
方言の違いを聴き比べてみる
というのであれば、
各駅停車で行くとか、路線バスの旅が正しいわけです。

どこかの企業や社会の現段階が
「既定路線を維持するだけで、
これから数十年間安泰が約束されている」
というのならば新幹線で行けばよいですが、
そんな企業なんて一つもないと思います。

新幹線と各駅停車を併用する
ということが、
今の世の中求められているはずなのです。

極めて精緻な仕事をしたり、
独創的なアイデアを出したりするためには、
自閉症傾向のある人を採用したり、
敢えて自閉症傾向のスタイルにする必要があり、
そのためのデメリットに目をつぶるということが
どうしても必要だと思います。

メリットデメリットを
いかに要領よく組み合わせるかということが肝要です。

適材適所ということですね。

現代は、
歩留まりを極力減らす、経費を減らす
という内向きの戦略が流行しているようです。

上に立つ人が、自分の地位に自信がなく、
汲々(きゅうきゅう)としている場合、
自分の理解の範囲内で組織が動くことを求めてしまうようです。
その結果、組織全体が平板化して、
悪く言えば、クローンばかりになってしまう。
個性をなくすことをしているくせに
今の若い者は個性がないなんて笑えないことを
言っている人もいるかもしれません。

何よりも、クローンの一番のデメリットは
一つだめになれば、
あっという間に全体がだめになってしまう
という恐ろしいことになることです。

もしかしたら、保険の掛け金を惜しんでかけないで
後は野となれ山となれという状態なのかもしれません。



なぜあの人は、人の話をろくに聞かないくせに、都合の悪いことを言うとこちらが怒鳴ったと抗議するのか。もしかしたら感覚過敏かもしれない。「自閉症の世界」感想文4 with NHKスペシャル「発達障害」 [家事]


私が「自閉症の世界」を読んでいる時、
都合良くNHKスペシャルで、
「発達障害 ~解明される未知の世界~」
という番組を放送していました。

あの竜頭蛇尾に終わった産後クライシスの時の
二人の司会ということでちょっと心配したのですが、
(なぜそんなことを言うかについては
 「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

とても興味深く、見ごたえのある番組でした。

ただ、自閉症については
やや感覚過敏に偏っているかなと思いつつ、
その分十分なプレゼンがなされていてよかったかもしれません。

ここで聴覚過敏ということについて
大変興味深い映像と音声の説明がありました。

自閉症の人の音声の感じ方ということなのですが、
これは番組を観ていただくしかないのですが、
(なんとかというNHKの見逃しチャンネルとか。
 この週は翌日のクローズアップ現代も、
 引きこもりの自立ビジネスの弊害を取り上げており
 お金を払う価値があるかもしれません。)

いわゆる普通の人は、
自分に必要な音と不要な音を無意識に区別して、
不要な音を聞かないというか、
意識の外に放り投げることをしているというか、
音がしないものとして扱っている
ということらしいのです。

この前書いた大雑把に受け止めるという力技を使えるのです。

ところが自閉症の人は、このように大雑把になれず
聞こえる音のすべてを聞いてしまう
ということらしいのです。

だからスーパーマーケット買い物をすると
パチンコ屋のじゃらじゃらした音の洪水の中にいるような
いたたまれなさを感じているみたいです。
(パチンコをしている人は、あまり気にならない)

だから、話し相手の声だけに集中することができない理由があるそうです。
例えば喫茶店で1対1で話していても、
その人の声とほかの人の声や車の音やエアコンの音、調理の音、サーブの時の音
等が平等に聞こえてくるために、
その人の声がよく聞き取れないということになるようです。

ただ、私は、結局、人によって、音の聞こえ方が違うのだ
と理解するべきだと感じました。

ある特定の音が苦手だということも
人によって違うようです。
例えば、私は人がかけている掃除機の音が苦手です。
できるなら別室に行くか外に出たくなります。
でも、自分で掃除機をかける時は、
それほど嫌な感じはしません。

もしかしたら、人によって、
台所の水仕事の音が嫌だったり、
ガスコンロの音が怖かったりするのではないかと
番組を観ながら思うようになりました。

あるいは食器のぶつかる音とか扇風機の音が
どうしても気になってしまい、
こちらの話す声が聞こえないということもありそうです。

こちらの感覚からすると
「こちらの声が相手に聞こえないはずがない」
と思うわけですが、
案外、相手にとっては
意味を持った言葉としては聞こえていない
ということがありそうです。

それから、夫婦問題で、妻側から
「夫がよく私のことを怒鳴る」という訴えが出されます。
普段の限定された私と夫との付き合いからは
直ぐに信じられないほど、穏やかな話し方をする人もいます。
(但し、地声の大きい人も確かにいます。)

一つには、実際に妻の前だけ人格が変わる人もいるかもしれませんが、
もしかしたら、妻の方が、夫の声に過敏に反応している
という可能性がありそうなのです。

特に、時々自分の問いかけに応えないので、
「ことによると耳が遠いのではないか」と誤解していたりすると、
大事な時には、しっかりはっきり発声してしまい、
ついつい、大きな声を出しているのかもしれません。
それから、夫側が真剣な表情をして声を出しているわけですから、
ついつい怒鳴り顔になっていることも考えられます。

そうすると大きな声は出しているし
真面目顔で口を大きく開けていることから
にくにくしげにこちらに向かって
叫んでいるように受け止める可能性はあるでしょうね。

もちろん、そうなってしまうと、
恐怖感情などが出てきますから、
言葉の意味を正確に認識することも
難しくなることでしょう。
脳が勝手に「話を聞くより逃げろ」
と指令を出している可能性があります。

妻が、顔をしかめて
「夫から、がーって怒鳴られた」
と「感じていること」は、案外真実なのかもしれません。

ここで、
「自分が怒鳴っていないから、
 行動を修正する必要はない」
ということを主張してしまっている場合があります。
ついついそう考えてしまうというか。

ここで、
「ああ、ちょっとかわいそうなことをしたな。」
という意識があれば、
100%うまくいくわけではないけれど、

50%くらい意識的に穏やかに話すことに勤めることで、

妻側も
「ああ、怒って言っているわけではないのかもしれない」
と気が付くきっかけになればハッピーになる可能性が
あるのかもしれません。

「怒鳴っていない」と怒鳴るよりも(これはどうしても怒鳴る)
「怒鳴っているように聞こえるんだぁ」
と驚いて見せることが有効かもしれません。

自閉症の世界を
自閉症の人たちだけの世界ではなく、
いわゆる普通の人たちも
少しずつ共有していると考えれば、

もっとエレガントな世の中にするための
豊富なヒントがあるように思えてきました。

「自閉症の世界」(ブルーバックス)感想文3 自閉症スペクトラムの本当の意味は、普通の人の中にも自閉症的要素があるということかもしれない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


昨日このような記事を見ました。
「自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

「私とおんなじことを言っている」と驚いたのですが、
書いていらっしゃる方は、「自閉症の世界」を翻訳された方でした。
この先生の本を読んで感じたことを書いているのだから、
私は、その掌の上で踊っているのであり、
当然と言えば当然ですし、
「おんなじこと」と言うのは不遜なことでありました。

ただ、私の言っていることも
あながち見当外れではなかったという安心感をいただきました。
それとも、結論がたまたま近かっただけでしょうか。

まあ、私の場合は、専門家が言っているのではなく、
素人のたわごとだと思ってご寛容のほどをお願いします。

自閉症をもう一度おさらいすると
1 社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
2 こだわりが見られること(興味の範囲が著しく限られている。)
の2点ということになるそうです。


遺伝子的に言えば、
特定の家系に自閉症の現れる率が高いとしても、
遺伝子的には古い遺伝子であり、
一般の人たちに広く共有されているらしいというのです。

もしかすると、
いわゆる普通の人でも、
自閉症の種を持っているのかもしれません。

自閉症の人たちは、
音だとか、光や色だとか
強い拒否反応を示すことがあるようです。

ブーンという蛍光灯の音とか、
黄色の色彩やフラッシュのような光で
パニックになる等の反応を示す人がいるようです。
(緑や茶色の穏やかな色を好むことが多いらしいです。
 自閉症の人たちには、優れた音楽家や画家がいます。)

もしかすると(こればっかりなので恐縮ですが)
われわれも、
本当は、音や色彩が不快に感じているのかもしれません。
はっきりとこれが嫌だと特定できないだけかもしれない
と考えることはできないでしょうか。

実は私は、蛍光灯の音とか持続する音は嫌いですし、
フラッシュは嫌ですね。
黄色は嫌だという自覚はありませんが。

現在、ブロードウエイでは、
そのような花火やストロボを使用しないバージョンの
舞台公演をしたり、
「アナと雪の女王」も感覚に優しい形の上映を
するようになっているそうです。

おそらく、
そういう舞台や映画は、
自閉症ではない人にとっても
優しい、快いものになっているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

めんどうくさく言うと
「嫌だ」と感じる閾値と「嫌だ」と表明する閾値が
自閉症の人が低いだけなのかもしれないということです。
いわゆる普通の人は
快不快でいえば不快なのだけれど
自分でそれをはっきり自覚しないだけだかもしれないし、
自閉症の人は「嫌だ」と感じると「嫌だ」と表現してしまうという違いがあるだけかもしれないと思うのです。

不快を感じないだけで
実は生理的な侵襲を受けていて
侵襲が蓄積されて初めて自覚をする
あるいは無自覚に何らかの症状が出て
原因不明とされている
ということが無いとも限らないだろうと
思ってみたりしています。

また、そういう自閉症の人たちが嫌がる
音や光、色彩が
それでごまかしていて、本質を隠すことにも
つながっているかもしれません。

そういう意味では、自閉症の方々の感覚に
学ぶところが大きいという可能性があるように思われます。
おそらく、将来的にはそういう社会が実現する場所も
あるのではないかと想像してみたりもします。

それをブロードウエイやディズニーという
エンターテイメントの王道が実現しているということが
偶然ではないように思われるのです。

そのような物理的な感覚だけでなく、
社会の問題も同じということは考えられないでしょうか。

診断基準が変わって、自閉症と診断されている人が増えているというよりも
自閉症者そのものが増えているとしたら、
それは理由があることだと考えなければならないでしょう。

ここで問題にするべきだということは、
精神障害は、相対的な概念だということです。
先ほどの自閉症の診断基準のうち、
複数の対人関係の障害があれば自閉症であるなら、
強いこだわりがあっても
コミュニティーがそれを受け入れれば
障害にはならないということです。

逆に同じ人でも
自分を受け入れないコミュニティに入ってしまうと
障害という診断が下される可能性が出てくることになります。

常に思うのですが、
精神科の診断には、
その人の周囲が健全なコミュニティであることを前提として、
周囲に協調しなければならないという
隠れたメッセージを感じています。

変わり者の私だから思うのでしょうが、
対人関係の不具合が
弱い者に原因をしわ寄せしているように
感じることが多くあるのです。

だから、一つの可能性として、
自閉症者が増えているとすれば
それは、むしろ個体に原因を求めるのではなく、
他者に対して不寛容なコミュニティが増えている
ということではないかということを
自分たちのために点検するべきなのではないか
と思うのです。

幼稚園や小学校などにおいては粗暴性により身の安全が保たれないことは
寛容にはなれないので、
安全については最低限の確保が図られる必要はあると思います。
(自閉症の子どもが粗暴傾向にあるというわけではないようです。
 感情を抑制できないために結果として粗暴になる
 ということが正しいような実感があります。
 だから、犯罪の原因にアスペルガー障害をもってくることは
 本当に妥当性があるのか、専門家の方々に教えを乞いたいと切実に思います。)
当面は、粗暴性に対抗する物理力ということですが、
将来的には、粗暴的感情を寛解させるノウハウの獲得
ということになるのだと思います。

また、表現行為を抑制するという発想よりも、
感覚的な刺激の解放的な対処方法の確立が理想なのでしょう。
要は、「自分がそのコミュニティに受け入れられている」
という安心感をいかに獲得するかということだと思います。

自閉症の人の中には、心を許すと人懐こく
来いと言わなくても、いつでも気が付けば隣にいる
という人もいるようです。
信頼できる人の指示には、一応従っておこうという
行動傾向がある人も多いように思われます。
ある意味、納得できないけれど学習はするということなのかもしれません。
何か、パニックになったときも
その人の声を聞くことで
安心しているということもあるように思われます。

本の中でレインマンの原型になったビルという人物のエピソードも
それを示しているように思われます。

ところが、コミュニティの方に余裕がない場合
他の人と同じ行動をとらないこと自体で
イライラするのはある意味当然のことでしょう。

前々回、ちょっとだけ触れたケースですが、
弁護士どうしの会議をしていて、
その人以外の人がみんな、
会議を一つ一つ厳密にするよりも
あとは主催者に一任して早く終わりにしようとしているのに、
「どうしてそこにこだわる」
という意見を出して、
進行を止めて自説を展開する人がいました。

いつものそのようなことで、
その人が発言を求めただけでうんざりするようになりました。

ある時、こちらも開き直り、
終わらないなら徹夜でもなんでもしてやると思うようになった時、
その人の意見は、ほとんどの人とは意見を異にするが、
よく聞くと(余裕がなければこれができない)、
確かに問題の所在を的確にとらえているという評価ができる
ということに気が付いたというか、同意できるというか
理解ができるようになったのです。

そして、案外、そういう議論を抜きにことを進めていくことで
間違いや、不適切な方向への親和性が出てくる
彼の意見を大勢の意見に置き換えることはできないけれど、
彼の意見の要素をしっかり組み入れて運用しなければならないことが多い
ということを実感できるようになりました。

もちろん彼が自閉症だったということではないのですが、
要は、大勢の感覚が必ずしもあてにならない
ということの一つの体験ではありました。

おそらく、話し合うべき時間がたっぷりあれば、
彼の意見に賛成反対をするだけでなく
どのように彼の問題意識を反映させるか
という議論に発展したのだと思います。

要するに自閉症は
当該個体のコンディションによって成立するだけでなく、
当該個体を取り巻くコミュニティのコンディションによって
「協調的でない」と烙印を押されてしまう可能性がある
ということを言いたいのです。

例えば、学校もそうでしょう。
本当にそれが大切なことか
例えば組体操をやりたくない怖いということを素直に言えば、
協調性が無いということになってはいないでしょうか。

疲労の中で、さらに残業をさせられるのを拒否することで
協調性が無いとして、叱責の対象になってはいないでしょうか。

もしかしたら、皆がやる気になっているシンポジウムでも、
一人だけ、その企画は納得できないと困らせている人がいる場合、
本当にやる必要があるシンポジウムなのか
考え直すということがあっても良いのかもしれません。

また、集団ヒステリーのような状態に
コミュニティがなっていることがあるように思えます。

「21世紀の失政」ということで、
平成23年3月ころの文芸春秋で特集がありました。
その中で、保守派の論陣や自民党の年配の方々が
小選挙区制を挙げていたことに驚いた記憶があります。

小選挙区の議論が国会でなされていた時、
私は、小選挙区制は、
社会的要素を反映した代表制にするべきだという
憲法学の立場から賛成できなかったのですが、
同じ憲法を学んでいたはずの友人たちが、
もう小選挙区制は実現することになっていると言って、
議論をすることすら反対されたという経験があります。

私なんかよりも優秀な大学の方たちでした。
というか、私のネタ元の教授の講義を受けていたはずなのです。
不快とか何とかいうよりも、
とても不思議なことが起きているという印象が強かったです。

私なんかは、自分にちょっと自閉症の傾向があると思うと
どちらかという嬉しくなってしまうのですが、
そういう優秀な人たちは
おそらく自閉症とは全く縁のない人たちなのでしょう。
人間的には良い人たちで、今でも仲良くさせていただいています。

コミュニティ自体に緊張感が持続しているケースもあります。
例えば、プロ野球のチームで
連続勝利記録みたいなものがかかっているときに、
何らかの拍子で単純ミスをしてしまって
居場所がなくなるということもあるでしょう。

例えば無理な売り上げ目標を
本社から有無を言わせずに押し付けられ、
何とかそれを実現しないと
営業所長の首が飛ぶみたいな状況の中で、
子どもの授業参観なので有休をとるといったら
やはり、協調性が無いと言われるのかもしれません。

自閉症という概念は、
むしろ、いわゆる普通の人たちの
コミュニティの在り方を考える
強力な道具になる可能性という
大きな魅力を感じます。

多数の暴走を止めるきっかけにはなるように思われます。

「自閉症の世界」途中感想2 自閉症と自閉症スペクトラムの概念と普通の人たちの大雑把の力 時々SNSの弊害の理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

この記事は、ブルーバックスの「自閉症の世界」を読みながら考えていることを
忘備録的に記載しているものであって、
治療についての検討や、社会的提言をするものではありません。

私の中でなんとなく済ませていた「自閉症」の意味でしたが、
少し整理します。

自分の殻に閉じこもって引きこもる
という意味ではなくて、

社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
こだわりが見られること
が診断基準となっているようです。

簡単に言うと、
他者との感情的つながりを結びにくいというか、
面倒くさく言うと
他者との結びつき方がわからないので、
積極的に他者と結びつこうとは思わないし、
他者からの自分の評価というものも関心がない
そういう意味で自閉というのだと思います。

これらの点について、本は、
自閉症が注目され始めてから現代まで、
時代ごとの変遷と登場人物等のレポートが詳細になされていて、
読み物としても、興味を絶やさず読むことができます。

単なる理論の説明ではなく、
人間がどうかかわるか、戦争(ナチス)の影まで出てきます。


次に自閉症スペクトラムという言葉が出てきます。
これも誤解を受ける概念でして、
障害の程度に幅がある
というわけではなく、

一つには、
自閉症の出方は千差万別であり、
その人それぞれの特徴があるということです。
そのため、
自閉症という診断がついたからと言って、、
ではどうするかという答えが一義的に出てくるわけではなさそうです。

また一つには、
いわゆる普通の人と自閉症の人との間に
線を引くということがなかなか難しく、
いわゆる普通の人の中にも
自閉症的傾向を持つ部分がある
ことがおかしくないということのようです。

また、なんとなく精神障害というくくりで語られることから
知的能力に問題があるような誤解もあるのですが、
この点も千差万別だそうです。


むしろ、知的能力の高い人も多いようです。
コンピューターの分野もそうですし、
物理化学の分野や
数学等において、
いわゆる普通の人では到底不可能な業績を上げている人たちの多くに
自閉症の診断基準を満たすのではないかという人たちがいる
ということのようです。

「レインマン」という映画では、
数的感覚や記憶力の突出した人として描かれています。
(もっとも、映画ではカジノでこの能力を使って大儲けをするのですが、
 リアルで試そうとしたときは
 「それは不正だ」と言って、能力を使うことを拒否したそうです。)

この「レインマン」が企画され上映される経過も詳細に書かれているのですが、
かなり感動を覚える部分です。

特別な能力があるのに
周囲に溶け込むことができないということは、
むしろ、特別な感覚があるから
周囲に溶け込むことができない
ということなのかもしれません。

出典を覚えていなくて恐縮なのですが、
「聴覚が優れていて、記憶力が突出している人は、
 逆に、声で人を識別できない。」
ということを読んだ記憶があります。

人間の声というのは体調や感情によって
ずいぶん変わるのだそうです。
そのため、一度聞いた声を完璧に識別して
完璧に記憶していると
「前に聞いた声と違う」
ということになってしまうのだそうです。

むしろ、ある程度おおざっぱに識別して
大ざっぱに記憶していた方が
実務的にはうまくいく
ということらしいです。

電話の音声信号なんて、
そういうおおざっぱだからこそ成り立つのではないでしょうか。

そういう風に厳密な感覚を持っている人たちにすれば、
大ざっぱに事が運んでいくことは耐えられないことでしょう。

「事が運べばよいや」
という価値観の場合は、
細かいことにこだわると、周囲が受け入れなくなるでしょう。

しかし、
「正確に、正しく」が運用よりも優先(生産性より緻密性)
という価値観の場合は、
例えば精密部品のチェック等の場合は、
貴重な戦力になるわけです。

これは上司(指導者)の性格に対応する場合も
あるいは、上司が部下に対する対応を考える場合も
参考になるようです。


また、自閉症の人の中には、
他者からの評価に価値をおかない人がいるようです。
自分のこだわりを満足させることこそがモチベーションということですね。

いわゆる普通の人は、
様々な情報を幅広く獲得してそれに対する無意識の反応をしているようです。
その無意識の脳の活動を停止させれば、
思考に集中することができ、
さらに、いい加減なことで止めることができなければ、
形而上学的とも思えてしまうような抽象的な数式や図形が
頭の中だけで組み立てられることもできるのかもしれません。

この様々な情報というのが
他者の気持ちや自分の置かれている立場
ということらしいのです。


少しずれますが、
SNSがなぜ他人に対して攻撃的になるかということを述べたことがあります。

その考察の中で、
リアル対面の会話というのが、
相手の反応だけでなく、相手の存在
相手の感情や立場など、色々なことを考えて、
実際に言葉として表明する事象や
言葉やしぐさの表現を自己規制している
ということと、

相手方も、言葉だけでなく、
その声の調子や顔の表情、
しぐさやシチュエーションを含んで、
相手方を受け止めているということを考えました。

これに対してSNSは、
相手が目の前にいないので、
こういった配慮が極端に低下するようです。

相手と協調するという志向も低下してしまうようです。

すると、相手と協調しながらことを進めていこうという意識が後退し、
自分が考えている正論をどこまでも追求しようとする
客観的に見てこだわりが生まれてしまい、
結果として相手や第三者を不愉快にさせることを
言ってしまっているということがあるようです。

攻撃しようという意識を持ちやすいというよりも
相手の気持ちの優先順位を下げる結果、
自己防衛の気持ち(領域侵犯に対する攻撃等)が強く表現される
その結果、相手が傷ついたり不愉快になる
という結果になるように思われます。

だからこういう人に対しては、
第三者が顔を見せて、相手方の顔を見て
直接話すことによって、
瞬時に社会性を取り戻して、
ひたすら謝り続ける
ということになることがありました。

匿名性の世界というのは、
「ばれないから何を書いてもいいや」
ということよりも、
「対象について想定できないため
 協調の価値観が無くなって、
 自分の『正しさ』を追及してしまう。
 その結果、相手の感情を害することを気にしなくなる」
ということなのかもしれません。

このブログも自戒しなければならないところであります。


ところで、大雑把に済ますことができないということになると、
一番困るのが、
他人の感情なのでしょう。

どうして人は怒るのか
どうして人は笑うのか、
どうして人は悲しむのか、

案外単純ではないようです。

感情的になられても
その理由がわからないことは結構あるでしょう。

それでも、普通の人たちは、
なんとなく泣いたらかわいそうに思い
怒らせたら恐縮して、
笑うと一緒に笑おうとするのではないでしょうか。

大雑把に処理するからこそ、アンテナを広く張れるのかもしれません。

そこに合理性や正義を要求することは
考えてみれば酷なことかもしれません。
他人と接するということは
厳密に考えれば
難しいことかもしれません。

厳密に考えて他人の感情がわからないため
他人が嫌なわけではないけれど、
なるべく関わりたくないということならば
分かるような気がしないでもありません。


ここで力を発揮するのが大雑把という力技なのかもしれません。

特に私のように歳を取ると
逆に、
人からどう思われようともういいや
という気持ちになるということですね。
特に異性関係なんかが最たるものでしょう。

自分がやるべきことをやって、
相手の反応を見て、
「ああこれはだめなのね」
ということを学習して、それはしない。

その上で相手から誤解されたって
あまり深く傷つかない。
必要の範囲で
職場では話し合いをして、是正を行い
家族の中では、自分の対応を変えてみる
そう、あっさりとした人間関係の構えの方が
案外うまくいくというように思えるのです。

極力、知らない人にはちょっかいかけない。

若いころは、
かなり難しいことを成し遂げようとして
できないからと言ってくよくよしていたなあ
ということなのかもしれません。

他人に対して、
どうしてっていうくらい多くを求める人たちがいますが、
(求めるのはいいけれど、できないからってとやかく言うな)
もしかして、そういう人たちは、自分の頭の中で、
こうあるべきだというこだわりが強すぎるのかもしれません。

そんなことを考えながら
分厚い本を読み進めています。

「自閉症の世界」の途中感想 自閉症者がこの世の中に不可欠な存在であるということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

講談社ブルーバックスの
「自閉症の世界」という本を読んでします。
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%9F%E5%86%85%E9%9D%A2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/406502014X

弁護士が、医学関係の本を読むのは、
仕事に必要な場合がほとんどです。
あとは自分の健康に関してですね。

これまでも、精神的な分野では、
認知症の研究をしましたが
(研究といっても、当時は新書等一般向けの書物)
これは、認知症の家族を殺した人の
弁護活動をするためでした。

パーソナリティ障害の勉強もしましたが、
事件の相手方が、自分も私の依頼者もパーソナリティ障害だから
理解をしてほしいということで、
付箋のたくさんついた新書を渡してくれたことがきっかけでした。

事件が終わっても、
認知症やパーソナリティ障害の勉強をすることで、
じゃあ、そうではないとされるいわゆる普通の人間とは何か
という宿題が残されてゆきました。

これが対人関係学の基礎になっていることは間違いありません。

対人関係学は、当初は、
私以外の、いわゆる普通の人たちが、
群れに協調しようとする志向が強いということに着目して始まったように思います。

このブログの震災前の記事などを読むと
群れに「埋没」する志向を持った人たちという言い方をしており、
ちょっとひどい表現になっています。

これが東日本大震災の経験と
ジョイナーの「自殺の対人関係理論」
バウマイスターの「The need to belong」という論文
アントニオダマシオの「デカルトの誤り」
を張り合わせて、
対人関係学になったわけなのです。

そもそもは、(普通の)人間以外の立場に立って(普通の)人間を観察し、
人間とは何かということを考えていたことになるのかもしれません。

いま、スティーブ・シルバーマンの
「自閉症の世界」(講談社ブルーバックス)を読んでいるのですが
これを読んで、以上のことを思い出した次第です。

もう何年か前になりましたが、
ある小学生のいじめの事件に長期的にかかわったことがあります。
ご父兄のご意向で、法的ではない解決を模索していました。

この時に、子どもたちとも、間接的にではありますが
関わらせていただきました。

その中で、いじめとは別件で、
感情の制御が難しく、
誰彼構わず粗暴にして、
授業中も自分勝手なことをしてしまうお子さんがいらっしゃいました。

保護者会でも話題になったようです。
医学的立場というか、子どもの専門家という人も、
「目立ちたい子」ということで片付けようとしていたそうです。

しかし、被害を受けているお子さん方がかなり深刻な状態だということ
という点からも、
何とかしなければいけない段階に来ているということで
目立ちたいということで済ませるわけにはいかないだろう
という反発もありましたし、

子どもたちからの話を聞くと、
みんなの前で目立ちたいというよりは、
自分の思い通りにふるまおうとして、
それがみんなからどう思われるかについて気にしないために
結果として目立ってしまっているだけだ
という気持ちになっていたという、
一方でのその子に対する親近感?からも反発がありました。

その子は、むやみやたらに爆発していたわけではなく、
それなりに理由があって怒りのモードになっていたことは
子どもたちから事情を聴くとよく理解ができました。
(子どもは本当に公平にものを見ているようです。)
特に、私が一番尊敬していた子どもF君が、
彼との待ち合わせの約束にだいぶ遅れてしまって
一緒に遊ぶ約束が守られなかった
その結果その子が暴れたので、自分に原因がある
という話を自らみんなの前でしたことには感銘を覚えました。

自分を制御しない子を特別視する先生の前では暴走気味でしたが、
(「いや、その子に対してそこまですることないでしょう」
  というエピソードが確かにありました。
 先生も怖かったようです。)
彼を理解して普通に扱ってくれる先生の前では
比較的平穏に過ごせていたようです。
(但し、この先生も、いじめに関しては
 こちらの期待通りには進めていただけませんでした。
 「性格が会わない」のであって、
 いじめではないということで切り捨てられてしまいました。)

実際その子は、能力が高く、
頭脳コンテストみたいなところで優勝経験もあります。
実際は、手を出す子と出さない子と区別もしていたようです。
自分がほかの子に暴力をふるっているくせに、
いじめられていた子どもをかばうこともありました。

そういう場合でも、他人からどう思われるという意識がないことで
かばうことに全くの躊躇がなかったようです。

この子は、小学生のうちに、
粗暴な態様が影を潜めてゆき、
F君をはじめ、友達が仲間として扱ったことから、
その友達の言うことをよく聞いて、
自分を規律するようになっていきました。
友だちの忠告は素直に従うのです!

F君をはじめ、子どもたちってすごいと思ったエピソードです。

彼が自閉症の診断基準を満たしていたかどうかはわかりません。

彼を見たり、
私が弁護士会の役員であったときに、
会議で進行を遅らせる、
外の人とは一風変わった観点で発言する人を見ていて、
あるいは、特に高校時代の自分を思い出して
「自閉症の世界」に書かれている子どもたちの様子が
理解できるように思いました。

みんなが当たり前のように
お約束事だとしてふるまっていることが、
自分にはそのお約束事が見えてこないし、
それに従おうという気持ちも持てないのです。

どうしてみんな、自分と違うことが
正しいと思い、それに従うことができるのだろうか
不思議なのです。

あたかも、皆、これから乗る特別電車の切符を持っているのに、
自分だけが切符を持っていないみたいな感覚です。
みんながいつの間に切符を手にしたか不思議でたまりません。
何か自分がなすべきことをしていなかったのかという罪悪感さえ出てきます。

私も中学生までもそういうことがあったように思うのですが、
みんなもっと小さいときからの付き合いなので、
私を「そういうやつ」と思って当たり前に接していてくれていたのかもしれません。
私の周りには、F君みたいな人がたくさんいたのかもしれません。

考えてみれば、
不特定多数の人に向けてこんなブログを書いていること自体が、
協調志向のないことを端的に表しているのかもしれません。

他人の反応を気にしないでやりたいことをやる
犯罪や不道徳な行為でなければ、
それは自由なはずなのですが、
よくわからないお約束事があって、
ダメなこともある。

そのことに敏感な人と
そうでない人がいる。

これまでは、例えば、
前頭前野腹内側部の機能停止ないし低下で
いろいろな説明をしていたのですが、
自閉症の場合、どうやら違うようです。

ある程度は他人の感情がわかるのです。
可愛そうという気持ちもわくときはわきます。

また、将来的な派生問題を推測したり、
複雑な思考をすることもできます。

ただ、他人の反応がわかりながらも
それが自分の行動を制御するきっかけにならない
モチベーションとして成り立たない
ということだし、

その群れに協調しない志向に
程度や種類もあって
単純ではないからです。

この「自閉症の世界」を読んでいると、
そういうことに思いをはせることができます。

いわゆる普通の人が、本能的に気にすることに
一切興味がない分、
本当に考えたいことに集中することができます。

いわゆる普通の人が、
「そんなことできるわけないだろう」
と言って、着手しないことにも着手できるということがあります。

いわゆる普通の人が、
「それが正しいんだ」
ということも、納得できなければ
正しいという評価はしません。

頭で論理的に理解できないことに
賛成することもできないわけです。

こういってしまうと
いわゆる普通の人が劣っているように言っているようにも聞こえるかもしれませんが
そういうことではありません。

特定のリーダーを中心とした秩序を形成しようとしなければ
集団の力は発揮できないでしょう。

自分が理解しなくても、協調する志向が無ければ
国家も成り立たないでしょう。
国家の否定的側面が無くなったとしても
莫大な肯定的側面も否定するわけにはゆかないでしょう。

協調志向は人間が、群れを作り、
本能的限界を超えた人数の共同作業をするために
どうしても必要な能力なのです。

では、自閉症の人たちは能力が劣るのでしょうか。

そうではないということを最後に述べたいと思います。

初めから無理だよと思っていたら、
現代の科学は成り立たないということです。
シリコンバレーに象徴的な現代は、
いわゆる普通の人が無理だと考えていた
コンピューターやインターネット
できる、作りたいと思った人たちがいて成り立ったわけです。

その前提となる電気や電話もそうなのでしょう。

空を飛ぶことだって、
いわゆる普通の人が、ばかばかしくて考えようともしなかったことを
真剣に考えていた人たちがいます。

即ち、科学の進歩には、
いわゆる普通の人ではない人たちが不可欠なのです。

これは、この分野でいわゆる普通の人と特殊能力の人を
橋渡しした人たちがいたということなのだと思います。

これが、例えば政治の世界であると、
そのお約束は理解ができないからダメだと思う
という人たちが発言権を持つことによって、
おきそうになった戦争を止められるかもしれません。

例えば、過労死職場やいじめなど
ダメなものはだめといえる雰囲気が作れるのかもしれません。

自閉症と診断された人や
自閉症ではないかと考えている人が、
適切な役割や発言権を持つ社会が
実はとても強い社会なのだと私は思います。

自閉症があると、
人間関係が苦痛になり、
通常の生活を送ることが困難になる場合があります。
そういう意味では「障害」の定義に含まれるのかもしれません。

しかし、本当に障害があるのは、
自閉症の人たちを尊重したり、発言に耳を傾けなかったり、
薬や環境で排斥しようとする社会の方ではないかと
この本を読んでいるとそう思いたくなってしまいました。

自閉症の人たちが過ごしやすい環境は、
いわゆる普通の人たちにとってなお過ごしやすい環境だという
可能性はないでしょうか。

普通に暮らすことのハードルが
人類史上最大になっているのが
現代社会なのかもしれません。

後半を読み進めたいと思います。






親子断絶防止法に関する木村草太氏のコメントに対する批判 [家事]

平成29年5月17日に、
「親子断絶防止法の課題」と題したYouTube
ネット上に拡散されていました。
NHKラジオの、社会の見方私の視点という番組の
音声データのようです。

時間も限られていたことは理解できるのですが、
おそらく法学者としてコメントを求められたのだと思います。
この意見が法律家の意見だとされてしまうことは、問題が大きすぎると思いました。

古くからの友人にも説明をすることを要請されましたので、
あまり気が進まなかったのですが、忘備録を記しておきます。

1 視点が大人の利益しかないこと

 面会交流は、子どもの健全な成長のために行うものです。
 確かに、子どもと別居している親が子どもに会いたいことは当然です。
 しかし、法律は、子どもの健全な成長のために
 面会交流を拡充しようとしているのです。

 そして、これは、かけがえのない親だからという抽象的な俗論ではなく、
 20世紀後半からの世界的な実証研究によって、
 離婚の子どもに与える影響が深刻であり、
 健全な成長を阻害するという研究結果に基づいた
 科学的な結論なのです。

 25年間以上にわたり60組の離婚家庭を調査した
 ウォーラーシュタイン博士らの研究や
 大規模統計調査のアメイトの研究結果の報告等
 離婚後の子どもの心理的問題、
 そして、面会交流がその負担を軽減するという
 実証的研究結果が報告されました

 その結果を踏まえて日本の民法も改正され、
 子どもの健全な成長のために面会交流を促進する一つの方法として
 離婚届に面会交流の方法を記載することを要求するようになったのです。

 現在、裁判所も法務省も面会交流の促進をしているところです。

2 面会交流を危険視するのは科学的ではない

  次に面会交流を危険視することに対して疑問があります。

  木村氏は、今年1月に起きた長崎の事件と
  4月に起きた兵庫県の事件を危険の裏付けだとしています。

  これはきわめて乱暴なことでして、
  例えば、夜の酒場の口論から殺人事件につながった事件が多くありますが、
  そうだとすると、夜に酒場を営業することを禁止するような議論ではないでしょうか。

  要するに、本当に危険なのは面会交流ではなく、
  殺人に至る人間関係にあります。

  これはついこの間書きましたので、繰り返しません。
  「危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道」

  刑事弁護を担当する法律実務家からすれば、
  あまりにも当然のことです。

  なお、木村氏の論法で法律実務家からすると驚いてしまうことは、
  上記二つの事件について、新聞報道くらいしか知らないで発言しているということです。
  長崎の事件については、犯人が特定されたとどうやって断定するのでしょうか。

  要するに、仮にその報道が正しく、
  離婚した夫が犯人だとしても、
  面会交流の機会で起きたという情報しかないのです。
  
  殺人を犯すまで、精神的に圧迫されている場合、
  その精神圧迫に至る様々な要因があります。
  犯人の性格や考え方もあるでしょうが、
  被害者や第三者との関係、
  別離に至った原因と、方法等
  人が人を殺すということは簡単なことではありません。
  
  それを面会交流の時人が殺されたからといって
  面会交流が危険だというのは
  学者としての意見というのはお粗末すぎます。

  人間の営みに対しての敬虔な態度が欠けていると思います。

  また、彼が、このようなことを言わなければ
  面会交流が進んだのに
  過度の警戒感を持ってしまって
  子どもが親に会えない事態が生まれるのではないかという
  心配もあります。

  ちなみに、子どもに対する虐待死について
  父親よりも母親の方が多いことについても
  先ほど紹介したブログ記事の
  一番後ろの方に政府統計を示しています。

  また、面会交流中に暴力や虐待がしばしばある
  という聞き捨てならないことも言っていましたが、
  統計資料などがあるなら示すべきでしょう。
  おそらく日本の統計資料もないままに
  言っているのではないかと
  私は疑っています。

3 同居親が自己の感情を抜きに行動しているとする点

  聞いていて開いた口が塞がらなかったのは、
 
  同居親は、子どものことを第1に考えてふるまっている。
  同居親が別居親に会わせたくないと言っているならば、
  面会交流をさせないまっとうな理由があるからだ

  という発言です。
  これはひどい。
  さすがに、某私立大の教授だってここまでは言いません。
  こういうのを法律用語で
  畢竟独自(ひっきょうどくじ)の見解だというところです。

  そういうケースもまれにあるのかもしれませんが、
  
  大体は会わせることに抵抗がある

  会わせなければならないのはわかっているが、
  相手方と顔をあわせるのが嫌でどうしても具体的に約束できない

  ということが多いと思います。
  嫌がらせで会わせないというケースよりも
  こういうケースが多いと私は理解しています。

  そして、それも人間なのである程度やむを得ないところがあるから、
  何とかそのような葛藤を鎮める方法を編み出しながら
  具体的な面会交流を進めているのです。

  木村氏が法律学者として発言しているならば
  自説に対する根拠を述べるべきです。

  何も根拠がなく、子どもたちが親に会う可能性を
  阻害する発言を法学者として無邪気にすることは
  許されることではないと思います。

  家事実務を知らないなら発言を慎むべきですし、
  根拠のないことは言うべきでもありません。 

4 古典的な20世紀の議論にとどまっている点

  木村氏は、面会交流の実施は
  同居親に心理的負担をかける
  同居親に心理的負担がかかると子どもにとってもよくない
  だから面会交流を努力義務でもすることはできない

  子どもに強要することもできない
  という二つのことをいっぺんに話しているようです。

  これは、20世紀のゴールドシュミットやアンナ・フロイトの主張で、
  ああ、よく勉強しているなとは思います。
  但し残念なことに子どもの発達心理学は長足の進歩を遂げており、
  現代においては、
  定年間際の家裁の調査官くらいしか支持していない学説です。
  
  この理論は、既に心理学会でも家裁のまっとうな調査官の間でも
  採用されてはいません。
  採用されていない理由は、裏付けがないということです。
  科学的ではないからだということになります。  


  彼らも確かに面会交流には賛成だが、
  同居親の葛藤が鎮まったら面会交流をすればよい
  と主張します。

  しかし、その後の調査によると
  離婚後の相手方に対する葛藤は
  多くのケースでつきものであり、
  25年を経ても続くことが多いことがわかっています。
  人間ですから仕方のないこともあると思います。

  葛藤が鎮まるころには、
  どうしても、子どもは成人に達してしまっています。

  実質的に面会交流を否定する議論であることは
  理解できることだと思います。

  このような根拠のない面会交流制限から
  子どもたちの離婚の負の影響を軽減しようという
  科学者たちの様々な調査によって、
  現代では面会交流が進められるようになっている
  というのが、
  法律的見解として述べられなければならないのです。

  実務に携わる法律家は、
  調査官の方々のたゆまぬ調査研究を学んで
  自分の主張をしているのでして、
  ちょっと調べればわかることを調べないで
  わかったふりをしているというのが
  木村草太氏の発言だと感じるわけです。

  もし、木村氏が、このような科学の発展を踏まえてもなお、
  ゴールドシュミットらの見解を支持するというのであれば、
  すでに誰も支持していない説であるけれど
  特異な理由があって支持するということを
  述べるべきです。
  それが述べられていない以上
  議論の経過について知らないで発言していると
  評価するしかありません。

5 家庭裁判所に対する勝手な批判

  木村氏は、わずかの時間の中で様々なことを言っています。
  その中の一つとして、この時の木村氏の発言を
  象徴するような見解が述べられています。

  それは、
  本来面会交流がなされるべきではないが
  裁判所の人員不足で、
  DVや虐待を見抜けないために
  面会交流を認めてしまっている事例が多いようなことを
  言っていることです。

  人員不足が原因ということはどういうことでしょうか。
  よくわかりません。
  NHKで、民法のテレビ番組にも出ている学者が
  そのようなことを言えばみんな信じてしまう危険があります。

  よくわからない大学の教授が
  インターネットでつぶやいているのとは
  わけが違います。

  法律家が裁判所批判をする場合は、
  まさにそれが法律家の仕事ですから
  それこそ豊富なエビデンスを示しながら行うものです。

  何も資料がなく決めつけで裁判所を批判しているのであれば、
  それは法学者を名乗るべきではないでしょう。

  どのケースでDVや虐待があったのに
  裁判所が面会交流を認めたのでしょうか。
  それがどれくらいの頻度があるのでしょうか。
  法学者として見解を述べるならば
  それを明らかにするべきです。

  どちらかというと、
  DVや虐待が無いにもかかわらず
  面会交流が認められず
  手紙やメールのやり取りだけを強いられている
  というケースが実務的な実感としては多いのです。

  彼の議論の特徴はここにあります。

  私人である父親と母親の権利の調整をする場合、
  どちらかの意見に偏って判断することは大変危険です。

  DVや虐待が「あった」ということは
  大変難しいことですし、
  それぞれの立場によって違うということも大いにあります。

  そもそも日本の法律のDV概念が極めて曖昧かつ広範です。

  そういう場合でも面会交流が有効であることは
  ランディバンクラフトの引用で
  何度かこのブログでも紹介しているところです。

  要するに、複雑な人間の感情を一切捨象して
  一方の見方だけを肯定し、
  他方の見方を否定してしまっては、
  私人間の紛争調整はできません。


6 同居親の児童虐待は国家権力の強制力によって解決するべきだという点
 
  さすが見かねたアナウンサーがいろいろ突っ込みを入れるのですが、
  他説を考慮しない彼の発言は意に介さないで続きます。
  あるいは争点があることを理解しないのかもしれません。

  アナウンサーが
  同居親からの児童虐待があるケースを考慮した方が良いということに対して、
  そのようなケースは虐待防止法や監護権の変更で対処するべきだ
  と発言しています。

  まさに国家権力万能論です。
  面会交流が月に2回でもあれば、
  子どもの様子が変わったことはすぐ気が付くでしょうし、

  宿泊付きの面会交流があれば 
  痣やたばこのやけどなどにも気が付くでしょう。

  そもそも、相手親に会わせることを考えれば
  虐待などできない心理的な担保になると思います。

  子どもも、いざとなれば別居親に逃げればよい
  という逃げ道を意識することができれば
  虐待を告発することもできるでしょう。

  虐待は、世間からわからないようになされています。
  法律的制度があったところで少なくならないということから
  法律的制度があればそれでよい
  ということは児童の権利に対する、あまりにも無理解ではないでしょうか。

  また、そんなに簡単に保護を受けたり
  ましてや親権変更にが実現できるというような実務的感覚はありません。

  これに対して子どもの親が
  定期的にわが子に接することの方が
  まっとうな解決であるし、あるべき姿だと私は思います。

7 面会施設について
  
  面会施設を作り、無償で提供するべきだということも言っています。
  この結論自体は賛成です。

  しかし、この人、
  親を見張りながら面会をさせる施設が必要だとか
  監視が必要だと
  そういう言い方をラジオでしているのです。

  一緒に暮らしていた自分の子どもが親と会うのですよ。
  人間の感情を傷つけることを厭わない人が
  法学者として語ることに抵抗を覚えます。

  結局、全件原則DV虐待事案として扱え
  という主張のように感じられます。

  施設が必要であることは
  家事調整センター企画書

  で述べていますが、
  万人が犯罪者で国家権力の強制力に服すべきだ
  という観点からの議論ではなく
  現実の人間の弱さを前提として
  どうやって、大人の都合で子どもに与える負の影響を軽減するか
  無駄な大人同士の対立を鎮めて
  みんなが苦しみを少しでも和らげるという観点で述べています。

  ああそうかとここまで書いて気が付きました。
  彼の話は冷たいのです。

  それは別居親に対してだけ冷たいのではなく
  同居親に対しても
  自分の感情を持つことが許されず、
  子ども最善の利益で動かなければならない
  という人間像を前提とした議論になっているような
  冷酷さを感じます。

どうしてNHKは彼に発言をさせたのでしょうか。
それが一番の疑問かもしれません。
彼の議論が法学者としての一般的な見解だと
誤解を与えることはどうしても避けたいところです。

その次の週は、
家族問題に取り組んでいらっしゃる青木先生がお話しするようです。

問題点に対する研究の歴然とした差が
聞き比べると容易にわかることだと思います。

  
  
  

相手を黒く塗りつぶして黒だと批判する この人はどうしてヒステリックに突っかかってくるのかについての考察 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

相手を黒く塗りつぶして黒だと批判するというのは、
刑法の平野龍一先生の刑法総論が出典です。

他者への批判は、他者の論理的矛盾を示して
どういう風に矛盾するかを説明することが本当なのでしょうが、
やみくもに批判をして
その弟子たちは、なんだかわからないけれど、
その説への批判は、右に倣えですましている
という弊害が法律の学者の中にもあるわけです。

だから、批判されている本家本元筋から説明を受けると
全く目から鱗ともいうような衝撃を受け
「今までの批判は何だったんだ」
となることがあります。

大家の間でもこういうことがありますから
われわれの日常の中に、
そういう不合理な批判、突っかかりがあっても
不思議なことではないのでしょう。

この歳になると
批判をしてもらうことも少なくなるので、
批判でも何でも意見をいただくことがありがたいので、
何とかそこから改善点を学ぼうとしてしまうのですが、
自分の矛盾点を指摘されているのでもなければ、
派生問題の不都合を指摘されるわけでもなく、
こちらの言っていることと全くかみ合わないところで
エキサイトされていると、
やっぱり、嫌な気持ちになるものです。

こういうことは職場では多くあるのかもしれません。
パワハラ上司の指導がこうなっている傾向にあるかもしれません。

受け手は、何が何だかわからないけれど
攻撃されていることだけは理解できるということで
対人関係的な危機意識を無自覚に募らせてしまいます。

一言でいって、
「自分の領域を犯された」
という意識を持ってしまうと
相手に対して攻撃的になってしまう
ということがあるようです。

上司と部下であれば、
自分が上司としてこれくらいの尊敬なり、優位性が必要だと感じているのに、
部下の方が、一般職員から頼りにされていたり、
技術的能力が高かったりすると
部下を自分より下に下げようとして
揚げ足を取り出す(攻撃しやすいところから攻撃する)
ということが起こるようです。

これは、自分の上司としての領域を侵されたことに対する
危機意識の反映なのかもしれません。

こういうことを目撃した時は、
言われている方がへこんでいることが多いので、
批判が的を得ていないと思うということを
せめて、言われた方にだけでも告げてあげてほしいと思います。
これがあるとだいぶ救われます。

余力があれば、
やはりそういう的を得ていない批判は
単なる人格攻撃ですから、
上手にやめさせるべきではあります。

異業種間でもそういうことはあるようで、
例えば、教育の分野についての発言を
他の業種が行うと、
「学校の実情も知らないのにいい加減なことを言うな」
という形の批判が起きることがあります。

その批判がまっとうな批判ではなく、
単なる領域侵害に対する危機感の表れの場合は、
その話のどの点が実情に合わないかということを
具体的な指摘が無いのでよくわかります。

話をしている人が、何とかしなければならないと思って
善意でお話をしていただいているのだから、
もし実情に合わないところがあれば
指摘してあげることが親切で、建設的だと思うのですが、
領域侵害危機繁栄の場合は、
違う、間違っている、正しくない
という結論だけが出てきます。

相手や周囲に、不快な感情だけを与える行為ということになるでしょう。
大体は匿名で行われます。

結論のみ提示型の批判のほか、
専門領域引っ張り型の批判も見られるところです。

その専門領域の事例について述べていないのに、
この専門領域の事例では妥当しない
ということだけなら、
アウトラインを画する作業に役に立たないともいえないのですが、

その専門領域の対象者に対する批判だと決めつけられると、
そのことについて言っているのではないのになあと
だんだんどうでもよくなるわけです。

おそらく、その主張に対する批判ではなく、
それまでのその領域への踏み込みに対して危機意識を持っていて
それがあるとき噴出したということなのでしょう。

こういう場合、相手を黒く塗りつぶして黒だと批判するという
平野先生の批判が当てはまる批判形式になるのでしょう。

特に自死問題についての連携の中では
どうしても、他業種の領域に足を踏み込んで活動する必要があります。

そうではなくて、
心の問題はカウンセラーだということになってしまうと、
カウンセラー以外何もできないことになってしまいます。

それでは、連携ではなく分業になってしまいます。
要するにたらいまわしですね。

我慢しあいながら付き合わなければならないのだと思いますし、
法律の領域に口を出してくる業種があっても
歓迎するべきなのでしょう。
というか、権利が生まれるときというのは、
だいたいが、先ず、法律家以外の人たちが声を上げだして、
法律や法律の周辺科学の人たちと連携して
国家の承認にいたるものです。
自分の業種以外の知見を積極的に取り入れることが
本来的に法律学の命なのです。


どんどん分野を移動してお話は進むのですが、

これが親しい人間関係の場合は
領域侵害の危機意識ではない場合があります。

家族だったり友人関係だったりですね。

必ずしも相手に批判するわけではないのですが、
何か意見を言おうとしている時、
「これを言ったら攻撃されるのではないか」
という意識的あるいは無意識の不安を持つと
なかなか言うことができません。

それでも、言おうと思うことがあるのでしょうね。
そのために、怒りを少し借りてくる必要がある場合があります。

要するに、
「これを言ったら攻撃されるのではないか」
という思考形態が強すぎるので
これを麻痺させる作業ということになります。

この脳の活動を低下させるために
「怒り」という感情が必要になるようです。
あるいは、脳の活動を低下させた状態が
「怒り」なのかもしれません。

ところが、
これで発言することはできるのですが、
「怒り」の中での発言は
これを言ったらどういう感情になるだろうかという
将来に対する推論や
相手の心情に対する共鳴力が
同時に低下してしまいます。

先ずは、本当に言いたいことを言うことが難しくなります。
怒りに任せての発言で、なおかつ相手の気持ちを考えませんので
無駄に攻撃的になります。
話を組み立てることができないので、
否定的な結論だけが出てきます。
おそらく、それなのだろうと思いますが、
相手の言い分も理解することが難しくなり、
相手の言っていることが頭に入らなくなるようです。
同じことを波紋のように繰り返して言ってしまいます。

これが夫婦間だとかの関係だと
心底辟易してしまうわけです。
こちらも怒りがわいてきてしまい、
収拾がつかなくなるということですね。

先ず、怒りをもって話す人は、
危機意識を持っている人だと感じて聞くと
何割かは心が軽くなります。

「ああ、一方的にアドバンテージを預けられちゃったな」
と考えると、何割かは落ち着きます。

もし、これが家族であれば、
相手が怒りを借りなければ発言できない
ということを気にするべきかもしれません。

どうしたらよいか、
相手が怒って発言しているときがチャンスなのかもしれません。
怒って発言しても、
言葉を額面通り受け取らなくて、
本当に言いたいことを言い当ててあげて、
(こちらに怒りが向かっていても
 本当の敵は外部にあることが多いようです。)
受け止めて、あるいは、受け流してあげる
ということをしていくうちに、
相手も落ち着いてくるようです。

これを繰り返していくことによって、
少しずつ、発言しても窮地に陥らない
ということ学習してもらうということになるわけです。
そうして、怒らなくても話すことができる領域が
拡大していけば、平穏な生活となるわけです。

結局両者が、自己防衛をしながら付き合うということは
家族の場合、結構苦しいものです。
弱みをすべて見せ合う(原則として)関係が
楽な関係であるということになります。

この時、怒らなくても良いんだよということは逆効果だと思います。
「怒っていない!」ということになるからです。
本人は、怒っているのではなく、
言いたいことがあって、それを言うために工夫しているだけなのでしょう。

真剣に、真意に向き合うということがコツなのでしょう。

職場でも、何か指示を出すとびくびくしている部下がいます。
改善を提案すると、自分が批判をされているかのように
不機嫌な様子を見せます。

これも慣れが必要なのですが、
むしろ、そういう態度にいちいち気にしないという
上司の側の馴れの方が有効なのかもしれません。

その時も、上司を馬鹿にしているのではなく、
自己防衛の行動だと思えば
パーセントかは、心が楽になるように思います。


自分の子どもに会えない母親の面会交流調停について [家事]

不思議なことに、
意図的に面会交流のイメージを悪くしようとしている人たちは、
夫婦離婚した場合、子どもを監護している親が
母親だと決めつけている印象があります。

しかし、面会交流に取り組んでいる弁護士の共通認識ですが、
少なくない割合で、
母親もわが子に会えない状況に苦しんでいます。

意図的に面会交流のイメージを悪くしようとしている人たちが
男性に対して攻撃しようとしている文章を読むと、
面会交流に取り組んでいる弁護士は、
わが子に会えない母親に思いをはせてしまうのです。

まるで、子どもを連れて別居しない母親は
支援の対象ではないと言わんばかりに感じてしまいます。

これが、子どもを連れて離婚した母親だけを
商売の対象としている人たちであれば理解できるのですが、
勤務先の大学を常に掲げて意見を述べている学者が言っているのを見ると
その大学の水準を考えてしまうところですし、
「フェミニスト」を名乗られてしまうと、
支援を受ける女性には、子どもがいることが条件だと切り捨てられるような
差別意識を感じてしまいます。
男性に対する差別の他に
弱い女性に対する差別意識を感じてしまいます。


母親が子どもと会えなくなる形態は
父親が会えなくなる形態と異なることが多いです。

つまり、父親が子どもに会えなくなるのは、
母親が子どもを連れて、父親の元を去る場合が多いのに対して、
母親が子どもに会えなくなるのは、
父親から、子どもを取り上げられて
一人で家から追い出されるというパターンが圧倒的に多いです。

そして、これは一般化できるかどうかわかりませんが、
母親に実家が無かったり、
両親がいても夫に遠慮しているように怒らなかったり
というパターンが多く、
母親が孤立していることが多いように感じています。

ところで追い出される原因はいろいろあると思うのですが、
私が多く体験しているのは、
夫の両親と折り合いが悪くなり追い出されるということが多く、
その原因となるのが、
妻のヒステリー、うつなどの精神疾患
その他身体疾患が目につきます。

少なくない割合に妻の不貞ということがありますが、
多くのケースに、妻の不貞を誘引したのが
家庭の中の孤立という現象があります。
それでも不貞は賛成できることではありませんが、
ギリギリの精神状態になっていることから、
生きるための活動であることは理解できる気がするケースがほとんどです。

私は不貞に関する事件を多く扱っているのですが、
ギリギリの病的な環境の中で、
何かから逃げるような刹那的な行動であるケースがほとんどで、
最近のテレビドラマのような、
あっけらかんとした明るい不倫などというものは
変な話、不貞に対するというか、人間に対する冒涜だと感じてしまいます。

それはともかく

面会交流調停において、
子どもと同居する父親の主張は以下のとおり判で押したように
みんな同じことを言います。

・面会交流が大切なことは理解している。
・母親のいない生活が始まったばかりなので、精神的に安定していない。
 気持ちが落ち着いたら面会交流を始めたい。
・子どもが母親と会うことや電話をすることを嫌がっている。
・まず、手紙で子どもの写真を送るところから始めたい。

言うことは、男も女も同じです。

裁判所は、「面会交流の必要性は理解している」と言われると
安心してしまい、それで解決と直結して今います。
しかし、そんなことを言っても
具体的な面会交流に話を進むことはありません。

会えない子どもから見れば、
親と面会できないことには変わりないのです。

未だに裁判所は、このような実態について気が付いていません。
具体的な面会交流の話が始まらなくても
のんびりしていることが多いようです。
子どもに会えない親の焦燥感を
少しは考えなくてはならないのではないでしょうか。

「子どもを母親に取られてしまうのではないか」
という不安が、調停委員の報告を聞いただけでこちらはわかります。
男親の方が女親よりもわかりやすいのですが、
言葉をそのまま受け取る裁判所には良くわからないようです。


<なぜ母親は子どもを置いて出てきてしまうのか>

「子どもを置いてくるから悪いんじゃん。」
と、切り捨てるような考えを持つ人もいるかもしれません。

しかし、多くの場合(私が担当した事例では漏れなく)
おいてこざるを得ない事情があります。

その多くが、精神的問題です。
精神的に疲弊しているのです。

一言で言えばPTSD様の状態になっています。
本当の精神的な虐待が起きている場合があります。
連日の人格否定の発言や無視
母親としての対面を子どもの前で汚す行動
自分のつながりを切られてしまう
という極限的な配偶者加害が起きているケースがあります。

体重が極端に減少しているケースも多く、
慢性的な睡眠障害と併せて
精神的にも抵抗力がなくなっている状態です。

現実に精神的に虐待されているケースもあれば、
精神疾患によって虐待があるように思っている場合があることは
子どもを連れて別居するケースと同じです。

但し、真正の虐待(支配と従属関係)の割合が
母が子を置いて別居する時に多いと思います。

配偶者加害が完成すると、抵抗力がなくなります。
「何とかしよう」とか、「何とかできるのではないか」
という発想すらがなくなるわけですし、
「自分が悪いからこうなる」という気持ちに逃げ込むことで
自分をギリギリ保っている状態ですから、
自分が不合理な状態にさらされているのではないか
と疑うことも難しくなります。

だから、行政や女性支援者に相談に行くということが
なかなかないのです。
アドバイスを受けることなく、
言われるがままに子どもを置いて家を出ていくことになります。

こういう本当の配偶者加害(真正DV)のケースは
離婚させて「はい終わり」
という安直なかかわり方はできません。
いつ自傷行為や自死が起きるかわかりません。
さらには、また、配偶者加害の追い打ちがくる可能性もあります。
がっちりチームを組んで、1年や2年は連絡を取りあい、
人とのつながりを取り戻す共同作業を行います。

長期的なつながりの中で、
配偶者加害の被害者は生きる力を取り戻し、
病前のレベルまで活き活きと活動を開始することができるようになります。

まさに複雑性PTSDの知見がぴったり当てはまる状態です。
そういう方々とかかわって、
J L ハーマンの「心的外傷と回復」(みすず書房)が、
きわめて真実の道筋を述べていることを理解することができます。

日本で行われるDV政策の多くを
まがいもののようにいう理由は
こういう体験に根差すものなのです。

さらに、こういう真の配偶者加害の被害者を苦しめるのが、

「面会交流は、離婚の影響が落ち着いてから」
「子どもの意見を聞きましょう」
「継続性の原則」
さらには、
「面会交流は危険です」
等という妄言です。

本当に支援し続けなければならない女性を
面会交流を危険視する人たちが
追い込んでいるわけです。

わが子に会えない母親も
別居してしばらくすると
子どもを置いて出たことの誤りに気が付きます。

離婚調停などが始まって、
支援をする人たちとのつながりが生まれると
闘う気持ちも出てくることがあります。

しかし、面会交流を理解できない弁護士に当たる確率が高い
という事情があります。
女性の権利を回復する闘いだとして
いつも面会交流に抵抗する弁護士が紹介されるからです。

優秀な方々なので、金銭的な面では成果が上がるでしょう。
しかし、子ども会えるようにはなりません。
「どうしてこれだけ金銭的に勝ち取ったのに、
 離婚に応じないのだ?」
と、どちらの代理人かわからなくなるような
説得をされてしまいます。

子どもと会えない母親からすると
自分の子どもを金で売るような感覚になることもあるのです。

辛さを理解して、その上での提案だったら
どんなに救われるでしょう。
そういうお母さんから電話をもらって
電話口で一緒に泣くこともあります。

面会交流に取り組む弁護士は、
男女を敵対させる気持ちが理解できません。
性別にかかわりなく親が子を慕い、子が親を慕う心情に
偽りはないと感じているはずです。

稚拙で、不合理で、差別意識に基づく
親子を引き裂く司法が根絶されるよう、
もっともっと多くの弁護士が
面会交流に取り組むようになることを
願ってやみません。

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