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【緊急】 なぜ中学生は自殺するのか 対策のための自死のメカニズムの考察 対人関係学的仮説 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

某教育委員会が小学生や中学生にあてて

緊急メッセージのプリントを配布したようだ。

どうやら、「絶対に死なないでください」

という趣旨の話が印刷されているようだ。


ついに、万策尽きて、子どもにすがっている事態になっている。

教育委員会は、というか大人は、

子どもを育てることが役割であり、

死への誘導を絶ち、

生(健全な成長)への誘導を行うことが

その責務である。

もはや、誘導する方法が分からなくなり、

「死なない」という結論だけを

大人ができない代わりに

子どもに実現してもらおうと懇願しているわけだ。


また、「死ななければ良い」という発想をあらわにしており、

子どもたちの幸せよりも、

苦しくても不幸でも傷ついても

死という結果が生じなければ良い

という発想があらからまであり、隠そうともしない。


そして、それを誰も止める人がいなかったわけだ。

まさに教育の断末魔を聞いているような暗澹たる気持ちである。


これは、きっと、

どうして中学生が自死するかというメカニズムに全く興味を持たないため、

考えていないのだろうと思い、

緊急で仮説を申し述べたい次第である。



1 自死者の心もち


  自死者の心もちは、自死未遂者から聞けばある程度知りうることだ。

  共通することは、

  生きようとする意欲が失われているということだ。


  それはどういう心持かというと、

  高所から転落しつつある人の心もちと似ている。


  転落者は、瞬時に、「もはやこれまで」という気持ちになる。

  その結果、一瞬にして気絶したり仮死状態になるそうだ。


  本当の絶望とは、生きる意欲を失ってしまうことだ。


  これは、物理的に、生命身体の安全回復が

  不可能であると悟った場合である。


  人間が感じる危険は、生命身体に限らない。

  特定の対人関係の中で、

  自分が尊重されて存在することに対する危険

  対人関係的危険も感じる。

  詳しくは対人関係学で検索してほしい。


  左上のリンクだったり、

  このブログ



  対人関係学的危機は、要するに、その群れから排除される

  という危険を感じることだ。

  

  ただ、身体生命の危険と違って

  対人関係学的危険は、すぐに結果が出ない。

  もしかしたら、もしかしたらという

  排除の予期不安だけが来る日も来る日も

  押し寄せてくることになる。


  助かる方法はないと感じ、

  緩やかに転落していく。


  あるいは、誰も人がこない山中に

  両手両足を縛られて

  脱出できないようにして

  ただ死を待つ感覚なのだろう。


  抵抗は無駄だと悟ったとき、

  生きる意欲も徐々に失われていく。


  転落や猛獣に目の前で遭遇した場合、

  仮死状態になったことにより命拾いをする

  ということがあるらしい。


  対人関係的危険の時も、

  うつ状態になって命拾いをするということがあり得るかもしれない。


  しかしながら、向精神薬の服用などで

  無駄な元気が出てしまうと、

  生きる意欲が無くなるだけでなく、

  「自分は死ななければならない」

  という意識に変貌していく場合があるようだ。


  こうなってしまった後で、

  「絶対死なないでください。」

  ということが、あまり役に立たないことは

  すぐに理解できることだと思う。


  いじめをしている方だって、

  殺そうとしているわけではないし、

  死ぬかもしれないと思っているわけでもない。

  「絶対に死なないでください」

  という言葉は、やはりうつろなものとしてとらえられるだろう。



2 対人関係的危険を感じ、絶望を抱く場面


  人間は対人関係的危険を感じると

  身体生命の危険を感じた場合と同様

  安全な場所にたどり着こうと必死になる。


  どんな場合に対人関係的危険を感じるかといえば

  一番は、自分が孤立しているということを実感する時である。


  仲間の中で一段低く見られる(○○のくせに)

  自分の仲間の中での発言権が無い(お前は黙ってろ)

  嫌のことを自分だけがやらせられる。

  健康を願われないどころか暴力をふるわれる。

  弱点を責められる、笑われる、批判される。

  一人だけ、頑張っても褒められない。

  その他差別。

  等々々。


 

  そして、その原因、自分の弱点が、

  自分ではどうしようもないこと

  国籍、親の職業、病気、体質等々

  ということになると、

  自分が群れに迎え入れられるという希望がたたれてしまう。

  第1の絶望ということになる。


  第2の絶望がある。


  このように、対人関係的危険を慢性的に、持続的に感じ続けると、

  些細なことでも、さらなる危険を感じやすくなる。

  例えば、誰かに話しかけて、

  その相手が気が付かないだけなのに、

  あのせいで、自分は無視されている

  というように感じやすくなるようだ。

  かさぶたができ初めの傷口のように敏感になる。


  ささいなことが、深刻なことになる。


  中学生の時期が絶望しやすいのは、

  思春期ということもある。


  本当に微妙な思春期の男女の機微の中で、

  自分の思いが伝わらないことはよくあることである。

  

  夢破れて、自分とは何かを考える契機になることもある。


  しかし過敏になっていると、

  それさえも、自分がいじめられている要素のせいだと

  絶望感が深まるようだ。


  今度はうまくいかもしれないという

  生きる意欲が失われるからだ。



3 中学生の絶望の深さが大人の深さよりも深い理由


  先ず、中学生は大人よりも、

  これから長く生きるということが負担になる。


  これから何十年も

  この孤独と付き合っていかなければならない

  と考えて、気が遠くなるだろう。

  楽しいことがあるだろうなんて考える余裕がない。

  「普通の人はそうだろうけれど、

   自分だけは違う。」

  という意識を強めるだけの気休めはやめた方が良い。


  それから、危険の程度を把握することが困難だという事情もある。


  大人は、それなりに、失敗や困難な状況を経験しており、

  この程度の危険だと、どれくらい深刻な結果が生じるか

  ということを、無意識の中で記憶のファイリングを通して

  覚悟をすることができる。


  また、その過程の中で、対処方法が思いつくことがある。

  これらは、睡眠中に無自覚のまま行われている。


  ところが、子どもは、そのような体験が乏しい。

  特に小学校までは親の庇護が有効に働いている。

  将来を考えて絶望が深まるということは

  またリアリティに乏しいという事情もある。


  特に今の中学生は、

  強制的に将来を考えさせられている。

  社会保険のない非正規の生活についても

  折に触れ突き付けられている。


  推薦で高等学校に行くためには、

  毎日の学校生活で失敗があってはならない。

  一発試験という考え方ではなく、

  毎日毎日失敗が許されない

  という状況にあるようだ。


  そのような空気は敏感に子どもたちに蔓延し、

  自分の失敗を大人が許さないように、

  同級生の失敗に対しても不寛容になるようだ。


  それまでも中学生はけんかやいじめを経験していると思われるが、

  長期間にわたり、制裁を受けるいじめられ方を経験していない

  長期間にわたり、関係のない人からも消極的攻撃をされ、

  無視をされるという、

  これまでに経験のない類の対人関係的危機を体験する。


  そうすると、その危険の程度は

  過去の危険と照合してもその輪郭を図りかねて、

  感じる危険の度合いが著しく大きく深いものになっていく。


  悪夢は、こうして出現する。

  本来、出来事の危険の程度を

  過去の出来事のファイリングを通じてその外苑を腹に落とす作業をするべき

  レム睡眠時に、

  ファイリングしきれないために、対処のない恐怖感情がよみがえる。

  その時、悪夢を見ている。


  中学生という時期には耐えられない危険を

  持て余しているという現実がある。


  子どもの自死が早計に行われていたり

  考えが足りないで行われるというように

  子どもの絶望を軽く考えてはいけない。


  もちろん、

  子どもは、大人が感じるより深く大きな絶望を感じていて、

  その回復可能性の手段をはじめから持たされない状態にある。

  大人以上の苦しみを抱いている。

  この点をきちんと押さえずになめた対応をしても

  子どもに馬鹿にされるだけである。



4 謝った対策


  一つは、「絶対に死なないでください」

  という結論押し付け型の対策である。

  すでにたくさん批判したので省略。


  二つは、「命を大切にしましょう」

  命を大切にするのは生き物の本能である。

  この本能が欠けているとすれば理由がある。

  その理由を探究せずに

  命を大切にしましょうと言っても、

  「これから何十年も苦しみながら生きながらえてください」

  ということに等しいだろう。


  大切なはずの命を軽く扱われている子が

  そんなことを言われてどのように思うか想像してみてほしい。

  

  また、加害者も命を取ろうとしてはいない。

  どちらかといえば正当防衛という意識を持っていることが多い。


  三つは、「死ねば親が苦しむ」

  そんなことわからないで自死する人はいない。

  生きていて申し訳ないと思ってしまうから自死するのである。

  さらに苦しめる。


  四つ目は、「信頼できる大人を見つけよう」

  言っていて恥ずかしくないのかどうかわからないけれど、

  子どもがどうやって信頼できる大人とそうでない大人を区別するのか、

  変なSNSで悪質な大人に食い物にされるだけではないのか。


  五つ目は、「SOSの出し方教育、援助希求を教える

  どこまで子どもに甘えれば気が済むのか、

  人間の子どもは、本能的には大人に援助を求めるようにできている。

  それができないのは、信頼できる大人がいないだけの話である。


  大人が、死ななけれ良いようなメッセージを流し続けている中

  子どもはどんなに技術を教えられても

  自分の命をそのような大人に委ねようとしないことは当たり前すぎる。


  六つ目は、スクールカウンセラー

  スクールカウンセラーが有効なのは、

  本当は大学以降なのではないだろうか。


  人間として接触している人以外に

  その人の職業を信頼して援助を求めろということは

  はたして、中学生や小学生に有効なのか

  疑問が大きい。


  また、死ななければ良いという大人は

  「心の専門家」ということで安心してしまい、

思考提示となり

  丸投げをしてしまう傾向にないだろうか。


  それは根本的対策につながるのであろうか。

  仙台の中学校にスクールカウンセラーはいなかったのか。



5 一応の対策


  先ず、孤立が自死に大きな影響を与えていることから

  孤立を解消することが対策になるはずだ。


  これまでの中学生の自死の事例から

  どのような孤立、対人関係的な危機を感じていたか

  要素を抽出する必要があるが、

  腰を据えて、研究チームを構成する必要がある。

  行政が責任をもって、大学の講座を開設するくらいの意識で

  長期的な研究をする必要がある。


  中学校までは、

  クラス担任が、中心になり、クラスというコミュニティーを

  充実させることが肝要であると思われる。


  教科なのか、行事なのか、クラス単位で一つのことを行い、

  その出来栄えを競うのではなく、

  協力や、仲間を補うことを評価の対象とするようなことに

  意識的に取り組むことが考えられる。


  合唱大会にしても体育大会にしても

  勝ち負けという、緊張、失敗を許さないことだけが行われ、

  孤立感を深める要素だけが蔓延している状況を変える必要がある。


  そのためには、クラス担任の負担を昭和の程度まで削減しなければならない。

  クラス担任が、子どもたちの顔を見る時間を増やし

  一人一人の変化をとらえることができるようにするべきだ。


  外部の人に頼り、クラス担任を軽視するような

  現代の風潮は逆効果だと私は思う。


  暗く落ち込んでいる、自死間際の人を見つけて病院に連れていくのではなく、

  楽しそうでない子どもを見つけて、仲間の輪に迎え入れる

  ということ。


  とにかく、皆と一つのことをする

  力のないものをかばうことの楽しさ   

  という人間の本能に組み込まれた喜びを体験させることが

  教育だと思う。


  いじめを止めるのではく、

  仲間づくりをする過程の中で

  いじめが無くなっているはずだという目標設定である。



  次に、子どもたちの逃げ道をつくるということだ。


  不幸にしていじめが起きてしまえば、

  緊急避難場所が必要だ。


  緊張を解く場所ということだ。


  いろいろな理由があって、

  家庭が休まる場所ではないことが多い。

  これも親が悪いというだけの単純な話ではない。


  何をしても良い、自由な場所

  ゲームをしても良いし、本を読んでも良いし、勉強しても良い

  そうして、信頼できる大人がいて、

  話したければ話しても良いし、

  話したくなければ話さなくてもよい。


  話をしはじめたら、必ず最後まで聞いてくれる人がいる。

  途中で遮ることもされない。

  説教を言われたり、批判をされることもない。

  肯定できるところを肯定されればよい。

  自分のことを自分で決められる居場所が必要だ。


  「居場所」にいるうちに、

  生きる意欲を回復させ、

  学校の方では指導を行う。


  「居場所」が学校の導入になればよい。


  これは頭の固い大人には理解されにくいところかもしれない。



  いじめをする側、傍観する側に対する働きかけも

  考える必要がある。


  これはまさに教育そのものなのだと思う。

  

  教育とか学問とか、人間の健全な成長とは何か、

  私は、インテリジェンスを高めることだと思う。

  

  インテリジェンスとは直訳すると情報だが、

  日本語のニュアンスとしては、

  他人の痛みを理解し、他人を助けるという

  知識と人格態度を合わせた概念だと思う。


  そういう意味で、人間は一生勉強し続けるものだと

  大学で教わった。


  そして、それは、きれいごとではなく

  人間の本能的な要求であると考えるの対人関係学だ。


  だから、他人を攻撃したり、弱点を突くことにこそ

  ゆがんだ理由があると考えて、

  その理由を探究することに意味があると考えている。


  また、他人を攻撃したり

  攻撃されている他人を見ることで

  人間の本能的な能力である共鳴、共感が働き

  加害者や傍観者も人間が大切なものであるという意識が薄れ、

  その過程で心理的な苦しさが発生し、

  人間を大切にする意識が薄れるとともに

  自分を大切にするという意識も薄れていく。

  人間性が失われていくと考えている。


  そうして人間的な喜び、素直な感性ではなく

  得られる利益や、地位という

  本来二次的な価値に過ぎないものに

  人生をささげてしまうという

  不幸の連鎖を招いてしまう。


  楽しくない一生を過ごす人

  焦りの中で一生が終わる人

  安堵を感じることを許されない人

  マグロのように泳ぎ続けなければ死んでしまうような

  そんな人ばかりが増えていくわけだ。


  集団教育の中でこそ、

  人を助ける人間本来の喜びを体験させるべきだ。


  いじめをしないということを調教するのではなく、

  助け合うことが楽しいことだという

  まさに教育を行う場にするべきだと思う。


  また、大人たちがいがみ合ってはだめだ。

  学校と保護者は協力関係にあるべきだ。


  無駄なPTAの行事などをルーティンで行うことに意味はなく、

  子どもたちの様子を、誰を責めるのではなく、

  大人たちがまず、共同作業で見守るということ

  自分の子どもだけでなく

  自分たちの子どもたちの健全な成長のために

  協力し合うということ。


  そのためには、学校は隠し事をしてはならない。

  虚心坦懐に保護者から学んで見せることが必要だろう。



6 子どもたちへ


  

  ここまで読んだ未来の大人たちはいるだろうか。

  ほかの大人たちと同じような勝手なことを言っていると

  怒っているかもしれない。


  ここまで読んだ方ならわかっていると思うが、

  大人なんて大したことはない。

  未来の大人たちを教育する環境が

  情けないほど欠落している。


  それでもあなたたちは、この社会で生きていくしかない。


  先ず、大人に多くを期待してはいけない。

  全部が全部大人たちにやってもらおうと思ってはいけない。


  この記事で一つだけ理解してもらいたいのは、

  「誰かを攻撃すると自分が損をする」ということだ。

  損をするということは、これからの人生の中で

  楽しいと思える時間が少なくなるということだ。


  これは、どう考えたって損だと思わないか。


  先ず、何もできない大人を責めても

  得にもならない。

  何もできない大人を許すところから始めてほしい。


  その次に、大人が動かないのであれば、

  大人を動かす工夫をしてみよう。

  子どもは大人に命令をすることができないが、

  うまく誘導することができるかもしれない。


  できれば担任の先生を敵に回さないこと。

  信頼をしているという嘘は、やがて本当になるのだから

  どんどん嘘をつけばよい。


  学校に対して命令できる大人を探そう。

  いろいろな配布物があったと思う。

  そこに電話番号があるはずだ。

  カンパネラの切符は自分で握りしめていた。


  そうして、担当者の中には

  全く役に立たない人がいるということも気が付こう、

  一度ダメでも別の担当者であればなんとかなる

  ということがあることを知ろう。


  これは、大人になって、必ず役に立つことだ。


  

  大人が勝手に作った制度を変えるのは

  未来の大人たちだ。


  今の世の中よりももっと良い、もっと楽しい世の中を作る。

  この復讐のバトンを絶対話さないでほしい

  

  要領の良い子は、大人の敷いたちんけなレールを走り

  そのはるか先まで到達して未来を変えてほしい。


  要領の悪い子は、

  自分が苦しいというメッセージを遠慮なくぶつけてほしい

  但し、大人は、自分が子どもだったことを忘れている。

  伝える努力は必要だ。


  苦しい体験が財産になるということは本当だ。

  ただ、それには少しばかりの工夫が必要だ。


  昔の子どもたちは、

  くよくよ考えすぎることが少なかった。

  

  それは魔法の呪文を身につけていたからだ。


  「なんとかなるだろう。」

  という呪文だ。


  実際にも、身体生命の危険で何ともならないことはあるが

  対人関係的な危険で何ともならないことはない。

  

  すべては、対人関係的な危険を特有の感じ方で感じることができず、

  身体生命の危険の感じ方で感じてしまっているという

  脳の錯覚からきている。

    

  危険に対して恐怖を感じるのは、

  危険を避ける行動に出るためのきっかけを与えるため

  という理由がある。


  だから、必然的に、

  危険が起きてしまった後よりも

  危険が起きるのではないかという直前が

  最も怖い。


  対人関係的な危険で

  そんなに怖いことは起きない。


  なんか冒頭の某教育員会に対する批判が

  そのまま当てはまることばかり言っているような気がする。

  大変申し訳ない。

  もっと気の利いたことを、もっと実効性のある場所でいえるよう

  努力をすることが私の喜びなので、楽しいと思える時間なので、

  気が付いたことがあったら、

  ぜひ教えてほしい。

  お願いばかりで本当に申し訳ない。    

 

いじめ調査委員会は何を発表するべきか 中学生の自死を予防するために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

中学生の自死事案があると、

第三者委員会の調査があり、報告があるのですが、


よく、

いじめがあったとかなかったとか

あったとして、

いじめが自死の一因だったとか、

自死との因果関係は認められなかったとか、

そういう結果ばかりが報道されます。


中途半端な報道だということです。


一つには、マスコミが、

一般大衆の被害感情をあおり、

誰かを攻撃したいという意識を頼りに

視聴率や部数を稼ごうとしているところに問題があるのでしょうが、


もしかすると、調査委員会も、

その中途半端なところまでしか調査の分析が

できていないのかもしれません。


必要なことは、

じゃあ、どうすればよかったのか

ということです。


誰かを攻撃して、

いじめ加害者を攻撃して、

留飲を下げても

いじめはなくなりません。原因を分析していじめの原因を除去することが

いじめ防止だということは誰でもわかっています。


仮に加害生徒を特定しなくても

加害行為を特定して、

なぜそれが自死者を追い込む要因となるのか、

そして、その加害行為をしないために

どんな工夫が必要か

そういうことを報告し、報道してもらいたいのです。


それができないのは、

いじめ調査という制度に構造的な問題があるのかもしれません。


1 いじめかどうかを気にしすぎること


自死の原因がいじめだったのかどうかということに

あまり意味を感じていません。


いじめであろうとなかろうと、

その子を追い込んだ原因であれば

予防するべきだからです。


法律上のいじめの定義は、

「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」

となっています。


被害者の主観に依拠して定義づけされています。

メリットは、その子が嫌だということをやめるということで

理にかなっていることです。

これまでの弱い者強い者等余計な条件が無くなりました。


デメリットは、その子が「精神的苦痛が無い」と

言わせられればいじめにならないことです。

「大丈夫?」と聞いて

「大丈夫」と答えさせようとする理由がここにあります。


もう一つのデメリットは、

というか、定義を作ること自体のデメリットですが、

いじめではなければ手当てしない

という発想が出てきてしまうことです。


「攻撃ではない」

「いじめではなくからかいだな」

「その子にだけ集中していたわけではない」

と、いじめではないとするための工夫だけが進歩していきます。


学校ないし学校の人間関係という舞台で、

何らかの精神的圧迫が加えられたのであれば、

それを除去するべきです。


いじめかどうかというワンクッション

置かなければならないことに情けなさを感じるべきです。


そのためには、

「いじめが無ければとりあえずよい」

という発想を捨てなければなりません。


「いじめをなくす」

という目標では足りず、

例えば、

「みんなで、お互いの弱点をかばい合う」

とか、

「助け合って一つのことを行う」

とか、

「みんなが楽しい学校生活」

というゼロの先のプラスを目標として

指導をしていく必要があると思っています。


生き生きしていない目をした生徒がいたら

気遣いあう学校であるべきだということは

遠い理想論なのでしょうか。

そうだとしたら、子どもを学校にやる理由はどこにあるのでしょう。


2 損害賠償の証拠にされてしまう。


いじめ調査委員会には強制権限がありません。

このため、事情聴取を断られることが多いようです。

特に加害者とされる生徒と保護者は拒否するようです。


うかつなことを良心に任せて言ってしまって、

それが記録として残ってしまい、

あるいは結果として報道されてしまい、

後で裁判の証拠として出されてしまうと、

損害賠償を払わなければならなくなると思うことは

あるいはやむを得ないことかもしれません。


自分の言ったことが

どの程度原因とされるかわからないことが多いのでなおさらでしょう。


一般にいじめというと

2,3人の特定グループが

執拗に嫌がらせや脅迫、恐喝を繰り返していた

というイメージを持ちやすいのですが、

それは少数です。


さすがにそういうことがあれば

多くの事例では、子どもも動きますし、

大人も動くからでしょう。


多い事例は、

結構な人数の子どもたちが

日常的にからかいと称して

その子の弱点を笑いの対象として


周囲も同調したり

そういう子どもを注意しようと思っているうちに

自死や不登校となってしまい、

何もしない傍観者といわれてしまうケースでしょう。


「いじる」という楽屋言葉が

一般的に使われているところに

大きな疑問があります。


このように誰かをいじって笑いをとるということが

否定的なニュアンスで語られないところに

日本の情けない現状があると思います。

テレビで放送するべきことではありません。


ソフトなからかいでも

それが、

からかわれる生徒が固定化されてしまい、

一方、

あまり面識のない子どもまでがいじりに参加してしまうと、

孤立感が出てきます。


だんだんと、その子と一緒にいることで

自分のステイタスが低下するような感覚が蔓延していき、

その子と人間的な交流を避けるようになります。


その子から見ると、

自分が差別されていると感じ、

その解決の糸口が見つからないと、

絶望的な孤立感を抱くようです。


そうだとすると、

確かに、あの時、あの子のいじりに参加したなとか

みてみぬふりをしたなという意識があると、

それが自死の原因になったと言われてしまうと、

それを否定したいという気持ちにもなるでしょう。


訴えられるという恐怖も出てくるでしょう。


口をつぐんでしまう構造があるのだと思います。


3 証明の程度についての誤解


いじめ調査が何のために行われるのか、

その目的をはっきりさせる必要があります。


再発防止ということが目的であれば、

実は、自死や不登校と何らかの関係があると思われることは

どんどん指摘をして、

それをしないためにはどうすればよいのか

ということをどんどん提起するべきだと思います。


多少、その出来事が本当にあったかどうか確信が持てなくても

そういうことがあった可能性があると認定できるようにするということです。


調査とはそういうものだということになれば、

いじめ調査の結果を裁判の証拠で使えない程度のものにとどめる

ということがあり得ることだと思います。


「特定の生徒○○によるいじめがあった」

「それが原因で生徒が自死した」

という認定をするべきではないかもしれないということです。


いろいろな出来事が自死につながる可能性がある

調査委員会で気が付いたのは

こういう出来事、こういう出来事

それらの出来事が、自死した生徒に孤立感を与えてしまい、

些細なこういう出来事やこういう出来事も

自分がみんなから拒否されていると

感じてしまう要因になっていった。


だから、こういうことがあったら、

生徒同士でこういうような声掛けをして、

先生はこういう形で指導をしていくことが考えられる

という調査結果の報告、答申になるべきだと思います。


ここでも、ゼロの先のプラスを目指すという発想が

予防策の提言への特効薬になるはずです。


つまり、いじめという犯罪類似の行為があるとすると

その「加害者」に対する報復をしなければならない

という一般的な報復感情が生まれてしまい、

悪は罰せられるべきだという意識につながってしまいます。


しかし、一人一人が楽しい学校生活を送るために

それを妨げるものを除去するための調査だということになれば、

自死につながる可能性のあるものを

どんどん排除していけばよいのだと思います。


あれをやってだめ、これをやってだめというのではなく、

これをやりましょう、こうすると楽しいよ

という問題提起というわけです。




人間関係で苦しむ子どもを作らないようにしたいのか、

いじめる子どもをこらしめたいのか、

どちらかを選ばなければならないのではないか

と感じているところです。

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