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幸せの定義:その人の望む人間関係において、安定した立場が継続している状態、またはその時の感情 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死、いじめ、過労死、破産離婚、犯罪
というあらゆる社会病理の予防のためには、
不幸をなくすという目標を掲げるよりも、
幸福になるという目標を掲げるべきだと思います。

では、その人が感じる幸福とは何か

「その人の望む人間関係において

安定した立場が

継続している状態

またはその時の感情」


これを幸せと定義づける試みをしてみます。


1 「人間関係」

現代人は、様々な人間関係の中で生活しています。
家族、職場、学校、友人という身近で継続的な関係の外
病院、お店、交通機関等比較的短期で、
関係が希薄な人間関係もあります。
また、社会や国家のように
漠然とした人間関係の一員ということにもなっています。

2 「望む」

その人によってそれぞれの人間関係の
大切さとその程度は違うようです。

家族が第一で、家族との関係さえよければ
職場で苦労しても幸せを感じる人もいれば、

同好会みたいなところで評価が高ければよくて、
家族にさえあまり多くを望まない人もいると思います。
すべてを犠牲にして、社会的評価、何らかの表彰等
を勝ち取ろうと人生をかけている人もいるでしょう。

ただ、そうはいっても、
どこかの人間関係で、自分が迫害されていると
なかなか幸せだと納得することは難しいかもしれません。

むしろ不幸は、
自分の大切にしていない人間関係の中で起きてしまい、
自分が大切な人間関係にも影響を与えるのかもしれません。

3 「安定した立場」

安定した立場とは、一言でいえば、
追放や排除の心配がない
仲間あるいは人間関係を構成する者
として受け入れてくれるということです。

この安定を感じるための要素、事情についても
人によって様々です。

リーダー的な立場でないと安心できない人
何事か自分の役割を果たすことで安心する人
要するに仲間から必要とされることで
安心する人たちですね。
むしろ、
誰からも非難されないで受け入れてもらえば
それでよい人もいらっしゃいますね。
強い人だということになるようです。

仲間の注目を浴びたい人
なるべくそっとしておいてほしい人
様々ですね。

また、それぞれの人間関係において
望む安定した関係も異なることが自然でしょう。

家族や友人など、継続的で密な人間関係では
自分の弱点をさらけ出しても
そこを攻撃されないような
強い信頼関係を望むでしょうし、

社会的な評価のように
多少無理をしてつくろっても
尊敬を集めたいというという
尊重されていることを感じる形があるでしょう。

4 継続

恒常的な人間関係の安定感ということは
なかなか難しいようです。
完全に調和し続けること自体は無理な話で、
少しずつ修正しながら
仲間と自分の求める安定を探していく
ということがノーマルということでよいのでしょう。

逆に言えば、一瞬の幸福
というものもあるでしょう。

例えば街頭で困っていたら、
見ず知らずの人に親切にされたというような
偶然の人間関係の中で
幸福を感じることもあるでしょう。

5 不幸との関係

幸せの定義の検討においては
対義語である不幸を検討する必要があると思います。

このブログのテーマである対人関係学からの帰結です。
幸せの定義についての説明は、
抽象的でピンと来ない方もいらっしゃると思います。

謎解きの意味も込めて、先ず対人関係学を簡単におさらいです。

人間はチンパンジーの祖先から分かれて
800万年といわれています
この大半の時代、武器も文明もたなかった人間は、
群れを作って生き延びるしかありませんでした。

言葉もない時代に群れを作れたというのは、
群れを作ろうとする遺伝子を持った個体だけが
生き延びてきたことに由来します。

群れを作る遺伝子の仕組みというのは、
仲間から排除、追放されるようなことをしようとすると
本能的に危険を感じて、自分の行動を修正する
という仕組みです。
前頭前野腹内側部という脳の部分が主として担い、
他者への共鳴力、共感力、
将来に対する推察力が必要になります。

こうして自分を群れから排除されないようにするわけです。

また、群れの頭数を確保する仕組みもあります。
可愛い」という感情です。
これは、群れの一番弱い者を守ろうとする
本能的な仕組みということだと思います。
赤ん坊など弱い者は攻撃の対象となります。
これを守ることで群れの頭数を守り
群れを恒常的に守っていくことになります。

群れのために戦う場合、
恐れを感じにくくなるという仕組みもあります。
誰かのために戦う者は強いということですね。

そう考えてみると
群れに属しないで孤立していることは
常に不安に苦しむことになりますから
不幸なのだと思います。

もちろん、群れの中に物理的に存在しても
尊重されず、攻撃的を受け続けている場合、
物理的に孤立している以上に孤立感を感じるでしょう。

本当の不幸の中にいる場合に、
不幸を感じなくて済む方法が、
感情自体を失わせることなのかもしれません。

喜びも悲しみも、興味関心もなくすことで、
不幸せを乗り切ろうとする仕組みなのかもしれません。

だから幸せといっても、
全くにこにこだけしているわけではなく、
微修正しながらも群れの中で尊重されて生きていく
ということになりそうです。

トータルな営みの中で
自分が恒常的な関係を継続する、
排除や追放の不安がない状態
そのような状態の人間の感情が
幸せということになるのではないかという試論でした。

自殺対策基本法が、子どもの自殺対策で、子どもに対処させることを求めることに対する疑問 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自殺対策基本法は、改正されて、
17条で、心の健康保持に関する養育及び啓発の推進
が掲げられた。

3項前半の人間として尊重しあういう意識を持たせる
ということは、総論として賛成であるが、
後半の「困難な事態、強い心理的負担を受けた場合等における対処の仕方を身に付ける等のための教育又は啓発その他当該学校に在籍する児童、生徒等の心の健康の保持に係る教育又は啓発を行うよう努めるものとする。 」
という点については、問題があると思う。

困難な事態、強い心理的負担を受けた場合にそなえて、
子どもが対処の方法を予め身につけておく
というそんな教育があると思っているのだろうか?
ぜひ具体例を教えてもらいたい。
大人だって無理なことだ。

子どもの自死対策で大事なことはそれなのか?

私は、子どもの自殺対策で最も大事なことは、
子どもが追い込まれない環境を大人が整備するということ、
子どもが困難な事態や強い心理的負担を受けないようにする
環境整備だと思っている。

そして、子どもがそのような事態に直面してしまったら、
大人がいち早く気が付き、
子どもを孤立させないで大事にかばうことだと思う。

要するに、子どもの自死対策は
大人の問題なのである。

ある新聞の今日の社説で、
子どもに援助の求め方を教えるべきだと言い、
子どもが大人に援助を求めないのは、
心が弱いと思われるのが嫌だからだなどといっている。
だから、子どもの考え方を変えさせるための教育が必要だというのである。


(その社説は、自殺対策基本法の改正には何も触れていなかった。
白書を引用しているだけなので、法改正を知らなかったのかもしれない)

法律を作った国も、白書の論者も、新聞も
子どもがなぜ大人に助けを求めないかを
少しでよいから考えてほしい。

他の動物と異なり人間の子どもというのは、
群れの大人に依存して生きている。
困難なことがあれば、大人に助けを求める動物なのである。
それが助けを求めなくなったとしたら
明確な理由があるはずだ。

この理由は、誰でも少し考えればわかることだ。
つまり、
助けを求めても大人は助けてくれない
さらに、助けを求めると、大人はぎゃくに自分を攻撃する
ということを学習しているからだ。

せめて辛さに共感してくれたり、
逃げ場所を提供してくれれば大人に逃げ込むだろうが、
それすら拒否されることを学習してしまっている。

これ以上傷つくことを避けるために
助けを求めることをしない。

助けの求め方を教えても
身近に助けを求めるに値する大人がいないのだ。

だからかもしれないが、その新聞は、
信頼できる大人や機関を見つけることが
第一であるようなことを書いている。

やれやれだ。
おきまりの、心の専門家に心の問題を委託する
という主張らしい、
親や教師や地域の大人はこのままでという前提らしい。。

体の痛みは、体に傷など不具合があることを教え、
そこをかばうためのシグナルである。

心の苦しみや痛みも、
対人関係等に不具合があるというシグナルではないだろうか。

対人関係等の不具合を改善するための制度なのに
痛みを感じなくするテクニックだけ覚えてしまったら、
それこそ、本当に追い込まれきってしまうまで
頑張り続けるマシーンが量産されるだけのことではないのか。

そういう危険な事態にならないことを祈るばかりだ。

大人は子どもを守るものだ。
自分の子ども以外でも守るものだ。
そういうことが忘れられれば、
子どもたちが絶望することは当たり前だと思う。

自殺予防対策における連携の意味 業種間の相互乗り入れ [自死(自殺)・不明死、葛藤]



<自死の原因論の誤解とその理由>

自死予防として他業種の連携が必要であると
ようやく言われ出してきたようです。
「自死予防の原因は平均4つあるから
それぞれの分野の専門家が連携する必要ある」
みたいな説明がなされることもあります。

ここはちょっと誤解があるようですから、
説明しておきます。

こういう原因並列論の文脈で語る人たちの中には、
警察の統計に基づいて話をしている場合があります。
ここで誤解というか理解不十分があるわけです。
警察は自殺が起きた場合、捜査をします。
目的は事件性の有無です。
主として殺人事件や傷害致死事件ではないか
という観点で捜査をしなければなりません。

家族や会社の同僚から事情聴取したり、
遺書を読んだりするわけです。
そして死亡の原因を探ります。

そうして、自死であり
他殺ではないということが判断できれば
「事件性なし」という事件処理をします。

自死であるとするためには
自死の原因が必要だということになります。

ここでいう原因は
あらかじめ用意されたカテゴリーの中から選ぶわけですが、
家庭問題、健康問題、経済・生活問題、
勤務問題、男女問題、学校問題、その他、不詳
という9つのカテゴリーの中から選ばれます。

そうすると、
「会社でいじめにあいノルマもきつく、
うつ病にかかったが、
単身赴任のため家庭との折り合いを欠いて」
なんてことになれば、
健康問題、勤務問題、家庭問題が
ぽちっと押されるわけです。

会社の上司を事情聴取して
パワハラはありません
なんて言われると、
ハイそうですかということになるわけです。

上司が殺したり、
自死するよう脅迫したのでなければ
事件性はないわけですから
それ以上警察も突っ込まないわけです。

また、そのカテゴリーの中で
主従も決めません。
該当するカテゴリーは全てチェックします。
チェックしたカテゴリーのすべてが
自死にどの程度関連するかなんてことは
あまり関心がないということになります。

こんな統計をもとに自死の原因は
平均4つあるなんて言うことは
無責任極まりないと言わざるを得ません。

上記事情では、
パワハラとノルマ過多が自死の原因であるべきでしょう。
単純並列切によると
自死の原因は複数あるから
労働だけが原因ではない
だから会社は全部の責任を負わない
なんてことがまかり通ってしまうことになります。

本来自死の原因が複数あるという意味は、
複数の次元から考えなければならないという意味です。
並列的に原因が並ぶわけではありません。

精神科医の松本俊彦先生は
入れ子構造という考え方を紹介しています
(「自殺問題と法的援助」 日本評論社)
いれこという言葉になじみがないのですが
マトリューシカのことです。
人形を開けると中に人形が入っていて
その人形を開けるとまた人形が入っているという
あれです。

また、原因論というよりも
どうすれば自死が防げたかという観点からの考察で、
たとえ、職場でひどい目にあっても
それを同僚が家庭に報告し、
タッグを組んで一人をフォローし、
精神状態によっては、精神療法を受けたり、
法的な解決方法を専門家に相談したり
退職した後の生活方法のレクチャーを受けたり
ということで、
あるべき対処方法を用意して
会社と対決する
ということを言っているわけです。

少なくとも責任論と原因論は分けて
ものを言うべきです。

<具体的なリスク者に対する連携例>
さて、

上記事例で自死が起きたことの責任を追及されるべきは、
会社です。
では、自死する前に具体的に
どのような連携をして自死を予防するのでしょうか。

先ず、弁護士のところに相談に来たとします。
弁護士は、法的手続きが何かできるかどうか
最低限その点について検討するのは当然です。

悩みがあると言うなら
じゃあ、カウンセリング受けてください。
良いところを自力で探してください、
眠れないなら精神科に行ってください。
それじゃあさようなら
というわけにはいかないです。

そもそも、弁護士のところに法律相談に来て
生(なま)の悩みをぶつけてくるというのは、
相当その弁護士は人間味があふれる人のため
信頼される人徳のある人です。
通常は、様子がおかしいということを察知して
こちらから水を向けてみます。

案の定希死念慮などがあれば、
自分の信頼できる精神科医に
事案の詳細を紹介した文書を作成し
そのお医者さんに持っていくように本人に渡します。

様子がおかしいということを見抜く力も必要です。
それ以前に、パワハラや孤立という事情があるならば
おかしくなって当たり前だという人間観が必要なのです。

また、家族などのコミュニティーの共有問題にする
ということを提起して(奥さんに話しなさいとか)、
具体的方法を一緒に考えます。
場合によっては、家族にも来てもらい
具体的な状況と心配のポイントについて説明します。
具体的な対処方法について家族に提起します。

お医者さんに対しては、
これから予想される具体的手続きと
起こりうる葛藤の高まるポイントについて知らせ、
警戒をお願いするわけです。

お医者さんの方から、
治療の必要上、直ちに手続きに入らないで
これこれの期間様子を見れないかとか
手続きを断念できないかという話も来ることがあります。

依頼者が最終的には決めることだとしても
お医者さんからの情報提供をもとに
手続きを進めることについての
メリットデメリットを提起し直して
依頼者が判断しやすいように提供します。

手続きを断念する場合も、
主治医の先生と依頼者を通じて連絡を取り合い、
その後のフォローも行います。

ここから言えることは、
先ず、その人が治療の必要性があるかどうか
という判断をすることになります。
まあ、必要ないという判断はあまりしませんが。
それはお医者さんが判断するべきだからです。

但し、自分が知りえた事情を
依頼者が全てお医者さんに告げるとは限りません。
医学的に見て必要な事項については、
できるだけ漏らさずに紹介状に記載する必要があります。
そのストレスのポイントについては、
実は本人が説明してもなかなかお医者さんに理解できない
事情があります。

一つは、お医者さんは、
会社は良識ある大人の集団だと思い込んでいます。
会社についていけないのは、
本人の人格が未熟だからだと
思い込む傾向があるようです。

お医者さんの元を訪れた段階では
既に精神的に疲弊しきっているため
防御的な反応をしているということを
あまり理解してくれない先生もいます。

だから信頼できるお医者さんを紹介するのですが、
それでも現在の会社や学校の
異様な人間関係については
あまり理解されていないようです。

弁護士はここを補う必要があるわけです。
要するに先入観を持ってもらうのではなく、
先入観を排除してもらうために
紹介状を作成するのです。

ある程度の精神医学的な知識が
どうしても必要になります。

それにもかかわらず、
いまだに、自死やうつのことは
精神科医に任せて弁護士は立ち入らない
という考えの弁護士が大勢います。

しかしその考えでは、
弁護士は通常業務をするだけで、
自死予防の連携には入らないことになります。
今、目の前に、自死を予定している人がいても
そのことはないことにして
通常業務だけをすることになってしまいます。

前述の精神科医松本俊彦先生は、
自死の原因が入れ子構造にあるから
何が必要かというと
それぞれの業種が相互にそれぞれの業種に
相互乗り入れをするべきだという考えを紹介しています。

もちろん、弁護士が一から精神医学を
学ぶということは現実的ではないでしょうし、
あまり効果が上がらないでしょう。
しかし、積極的にいろいろな文献を読んだり、
直接精神科医に教えを乞うということは
とても大切なことだと思います。

一番必要なことは、
その人の状態を見て治療の必要性を考えるというより、
その人の置かれた境遇が
およそ人間にとって精神的に圧迫する境遇か
という洞察の方を鍛えることだと思います。

<一般予防における連携>

我が国の自死予防対策で一番遅れていると思われるのが、
一般的な自死予防の方法論の研究だと思います。
これは、自死予防=精神科治療
という図式に安住していた時期が長かったためです。

うつが自死の原因だとしても
それが増加した要因は、
例えば遺伝的な内因性のうつではなく、
ストレス因によって引き起こされたり
強い影響を受けたうつの増加が原因だったはずです。
そうだとすれば、うつを予防する
という発想がどうしても必要だったはずです。
こういう発想はあまり目にしませんでした。

唯一、過労死、過労自死予防だけが
そのような予防対策だったようにも思えます。

過労死、過労自死予防は、
医師と弁護士が共同研究を行い、
医師によって弁護士が医学的な知識や考え方を学び
訴訟において主張立証をして、
医師は弁護士から労働実態や行動経緯等を知らされ、
最終的には、かなりの相互乗り入れがなされました。

私が力を入れているのは、
家族問題です。
家族問題で自死をする男性がかなり多くいます。

誰かが悪いという視点を外して、
どうすれば、家族が崩壊しないか、
家族の崩壊を招く疾患とは何か
ということが研究されていないように思われるのです。

誰かは研究しているのでしょうが
現在苦しんでいる家族には伝わっていません。

これは理由があると思います。
お医者さんは、身体的疾患の治療をすることで
命を長らえたり、身体的苦痛を解消することに
専念することはもっともなことだからです。

また、当人でさえ
身体的疾患によって、
例えば悲観的な思考傾向に陥っているということに気が付きません。

しかし一定の疾患が、認知の歪みを生じさせ
家族を危殆に至らしめる可能性があるようです。

そういうことを問題提起するのは、
やはり、離婚問題を担当する
弁護士がやらなくてはならないことだと思うのです。

精神問題は医者やカウンセラーが担当するというのでは、
検討が始まりさえしないことも多くあるように思われます。

無理かどうかやってみましょう。
また間違いがあれば、正してもらいましょう。
何もやらないで等閑視しているのでは、
あまりにも情けないと思うのです。

今回は、弁護士と医師、カウンセラーとの連携を
お話ししましたが、
もっともっとそういうことを意識的に行う必要があると
そういう連携をしていくことを
一歩ずつ実現させていきたいと考えています。


人はなぜ争うか。仲間に対して怒りを抱く理由。対人関係学宣言。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



対人関係学は、人間は本来、
群れに協調しようとする生き物であり、
群れから追放される不安を抱くと
自分の行動を修正するし、
群れの仲間のためならば
自分の命さえ提供することがあると説明する。

そうであれば、
なぜ、紛争が起きるのだろう。
戦争で人々が殺し合い、
夫婦が分かり合えずののしり合い、
いじめやパワーハラスメントが起きるのだろう。

対人関係学は、
あまりにも現実離れした理想論なのだろうか。

実は、対人関係学は、
もともと、人間の紛争が研究対象である。
どうして紛争が生じるのか、
どうすれば紛争を防ぐことができるのか
というところから考えが出発している。
そうして行き着いたのが、
人間の遺伝子的な協調性だった。

答えは最初に用意されていたのであり、
今回はそれにさかのぼる思考実験をしてみる。

1 紛争の理由としての脳の限界

  まず、そもそも、追放される危険を感じるところの
  仲間として認識できる人数が
  人間も、それほど多くない
  という理由がある。

  イギリスの心理学者ダンバーが提唱した
  ダンバー数という霊長類の理論がある。
  それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限は、
脳の容量によってきまっていて、
  ホモサピエンスの上限値は、平均150人
  100人から230人というのだ。

  現代はグローバル社会である。
  世界中の何十億という人間が
  ともすれば運命共同体となる。
  
  しかし、人間の脳の発達は
  この状況に追い付いていない。

  おそらく、サピエンスが成立して
800万年ないし20万年の
  ほとんどの期間
  150人くらいの集団で行動していたので、
  実務的にはそれで十分だったということなのだろう。

  従って、その人数を超えると
  仲間として関係を築きたいという
  協調の志向自体が自然発生的にはなくなってしまうのだろう。
  
但し、共鳴力、共感力は、
  およそ人間のかたちをしていれば発生するから、
  仲間だと認識していなくとも
  助けようとする行動にでる。

2 防衛行動

  しかし、そうだとしても、
150人未満の職場や学校のクラス
  そもそも家庭の中においても紛争は生じる。
  確実に仲間であると思っているにもかかわらず、
  なぜ紛争が生じるのだろう。
  
  その理由が防衛行動にある。
  対人関係上の危機を感じた場合、
  自己の行動を修正する形で危機を乗り越えるが、
  修正のかたちは、大きく分ければ二通りある。
   相手が嫌がるだろう自分の行為をやめる(逃避型)
   相手を屈服させて行為を継続する(闘争型)
  である。
   
  本来は、逃避型が本能にかなっている。
  闘争型であれば、客観的には
  対人関係的危機が増大することの方が多いだろうから、
  対立遺伝子として定着する合理性がないからである。

  つまり、紛争の原因として
  防衛行為であるというだけでは
  何ら答えとは言えない。

  なぜ、闘争型という修正行動9*によって
  対人関係の危機を乗り越えようとするのか
  これこそが真の命題である。

  ここから先も、論理的考察であって
  歴史的な検討ではない。
  例えばうさぎの耳が長い理由は
  音によって敵の存在を感知し、
  いち早く闘争行動に出ることに適している
  という類の話である。

  人間が群れから追放される予感に対して
  不安を抱き、自己の行動を修正する理由は、
  自分を群れの中に帰属させ続けるためである。
  群れの各メンバーが、このような志向を持てば、
  群れから外されるメンバーは出てこないことになる。
  
  この結果、群れの頭数が確保される。

  他の動物に比べて
  逃走力も、闘争力も見劣りするヒトは、
  群れの頭数を確保することによって、
  生存競争の中で滅びることを免れていた。

  集団的な狩り、収穫、
  集団的な闘争(防衛)
  集団的な保温、
  そして集団的な子育てをすることが
  弱い人間には必要なことだった。

  言語を操るはるか以前の必要性なので、
  それは文字で記録されたのではなく
  遺伝子に記録されたのである。
  即ち、対人関係上の危機を感じる個体だけが
  子孫を残してゆき、
  やがてそれがヒト(ホモサピエンス)の
  種としての特質となったと考えている。

  そうだとすると
群れに帰属し続けていることが
  自分の利益であると無意識に感じているとすれば、
  それを否定して余りある行動原理が必要で
  それが紛争の理由だということになる。

  ただ、それは単純ではない。

  まず、第1に、群れと個体が対立する場面がある。

  最終的に、群れから追放されたり攻撃を受けるたりする時、
  ヒトも、動物である以上、
  自らの身体生命を守ろうと抵抗する。
  この抵抗をしているときの
  感情的表現が怒りである。
 
  これは人として成立するはるか以前から
  動物として成立するための前提条件であるから
  群れを作っても消えるということはない。
  群れに協調するヒトとしての遺伝子と
  群れと対立しても自分を守ろうとする
  動物としての遺伝子という
  場面によっては矛盾する遺伝子を
  ともに持っていることになる。

  攻撃は、客観的に存在しなくとも
  攻撃を受けている感覚があれば、
  自分を守ろうとして、
  逃げたり、闘ったりすることになる。

  そうだとすると、
  群れの誰かに攻撃する時の基本は、
  先ず、対人関係上の危険を感じていること
  次に、その危険は群れによってもたらされている
  という感覚をもっていることである。
  また、怒りを抱く条件として、
  相手と戦って勝てるという意識が必要だということになる。
  勝てるという意識がなくても、
  「ここで戦わなければ致命的な結果が生じるという」
  そういう意識がある場合も怒りを持つのかもしれない。
  
  怒りを抱いている場合、
  当人は、まだ望みを捨てているわけではない。

  第2に、自分が群れから尊重されていないという意識がある場合である。
  自分を追放しようとしている者が群れのメンバーで、
  そのメンバーから自分が尊重されているという実感がある場合、
  自分の不利益を宣告されても
  怒りを抱くということになりにくい場合がある。
  例えば「姥捨て山」の例等がそれであろう。

  
それとは逆に、自分がいわれのない攻撃を受けていると感じる場合や
  自分の行動に修正するべき客観的理由はないと
  主観的に考えている場合に怒りは生まれるのだろう。

  自分が尊重されているという経験が無かったり、
  自分の仲間が尊重されていないという経験が重なると
  およそ人間は尊重されるべきだという
  感覚を持てなくなる。

  自分が尊重され、他人も尊重されていると
  人間は尊重されるべきだという意識が生まれ、
  誰かが誰かを尊重しないということに
  強い抵抗感を覚えることになる。

  ここでいう尊重は、究極的には、
  対象者を群れの仲間として認め続ける
  ということである。
  蔑みや、心無い批判、嘲笑、
もちろん攻撃や無視などは、
  群れからの追放を予感させるため、
  対人関係的危険を感じさせる行為である。
  
  自分や仲間が尊重されていないと感じたならば、
  他人を尊重しようとする動機もなくなる。
  仲間に対する容赦ない攻撃ができるようになる。

  このような事態は悲劇である。
  自分が仲間として尊重されたいという動機から
  逆に仲間に対して攻撃し、
  攻撃された仲間が、自分は尊重されていないと
  対人関係上の危険を与えてしまうからである。

  仲間になりたい気持ちが
  仲間との関係を危殆に至らしめる皮肉である。

  実際の対人関係上の不具合のほとんどが
  このような悲劇であると感じている。

  要するに、仲間に対しての怒りを伴う攻撃は、
  自分が尊重されていないことに対する
  防衛行動であると説明できると思う。

3 打撃の錯誤 怒りを向けるべき相手の不合理性

  ここで注意しなければならないのは、
  怒りの原因が、必ずしも怒りの矛先にあるのではない
  そういうことが多いということである。

  ざっくばらんに言うと
  自分が何らかの病気になって、余命が長くないのではないかという不安や
生活上の不便と、
  社会的に、さげすまれていて、誰からも相手にされない不安と、
  いじめやパワーハラスメントと
  その不安の現れ方はみんな一緒だということだ。

  要するにストレスが生じる、即ち
  脈拍が増加し、血圧が高まり、体温が上昇する。
  血液は内臓から筋肉に流れる量が増加する。
  これを感情的に表現すれば不安ないし怒りである。

  自分のストレスがどこから来るのか、
  正確に把握することは実は困難である。
  不安の感情からさかのぼることができないからだ。
  
  だから、職場で自分が尊重されていないことから来る
  不安を抱えて帰宅して、
  子どもの些細ないたずらが、
  自分を馬鹿にしてやっているように感じてしまい、
  子どもを必要以上に叱ったり恐怖に陥れたりするが、
  それは、実は職場でのストレスを解消しようとしている場合がある。

  部下の失態を叱責しているつもりでも
  自分が自分の上司から叱責を受けていたことによるストレスのため、
  部下が、熱心に仕事をしていないのではないかという疑念が生じ、
  そこを叱責という形でぶつけているだけかもしれない。

  親が金銭的に恵まれていなくて、
  みすぼらしい格好で、世間に引け目を感じていて、
  無差別的に、自分が誰からも尊重されていないと感じ、
  子どもに対する愛情のかけ方を知らないことから
  子どもであるがゆえに起きる、失敗や不十分点を
  怒りをもって叱責し、暴力もふるっていると、
  子どもは、最初から他人と協調することや他人に親切にするという発想を持てない。

  そういう子どもは、友達との関係で思い通りにならないと、
  どうすれば自分の希望する、
  その子と仲良くすることができるのかわからない。
  このため、いつも自分の近くにいることを要求し、
  それがかなわない場合は、
  自分が馬鹿にされたと思い攻撃をする。
  自分が家庭で受けていることを再現する。

  いじめられた子どもは、
  感情のみならず学力や生きる意欲という点で
  十分に回復しきれないということが少なくない。

  謝罪の会を開けば解決というわけではない。
  それと気づかない無数のトラウマ的体験をする。

  進学や就職に問題が生じるかもしれない。
  不遇な思いをしていて、
  社会全体から自分は尊重されていない、
  自分はもっと能力があるはずなのに
  正当に評価されない
  という意識を持つかもしれない。

  かなり複雑な対人関係的危険を感じ続けているかもしれない。
  周囲に自分より弱い者を探すだろう。
  怒りの口実を探して、わけのわからない理屈をたてるだろう。
  無責任な媒体の影響を受けるかもしれない。

  無差別殺人が起こる要因になっているかもしれない。

  ここでまた注意。
  無差別殺人というのは、その通り、極めて例外的なこと。
  しかし、無差別殺人には至らないけれど、
  何らかの対人関係上の不具合が生じている可能性は極めて高いと思う。
  ぎすぎすした人間関係の中で、
  誰かが新たに傷ついているかもしれない。
  ちょっとした嫌がらせと無差別殺人は
  他人を尊重しないという軸で考えると
  程度の違いかもしれないし、
  程度の違いには偶然的な要素もあるかもしれないと
  そう思えないだろうか。

4 今考えていること

  世の中の現状は、例えば江戸時代に比べると
  かなり悲観的に考えなければならないだろう。
  
  子どもすらも、
  失敗が許されないという意識で
  日々学校に通ってはいないだろうか。
  普通にしていれば、普通に生き続けることが
  保障されていないと感じてはいないだろうか。

  当時は、どんなことがあっても村八分とはいえ、
  家事と葬式の時はコミュニティーの一員とされた。
  今は、それすらない。
  人間として尊重されているという意識をもって
  安らかに生きている人はどれだけいるだろうか。

  もしかしたら、これを読んでいる人たちの中には、
  自分が現状での勝ち組だから、それでよい
  と考えている人も多いのかもしれない。
  あるいは、その人の人生の長さから考えると
  それでよいと言えるのかもしれない。
  そういう価値観もあるだろう。

  しかし、
  大きな地球の歴史、生物の歴史から考えると
  我々人類が生き延びて、
  さらにはネアンデルタール人との
  生存競争にも勝てたのは、
  ホモサピエンスの結束の力だったのではないだろうか。

  それしか能のないホモサピエンスが
  結束力を失った時、
  種としての終わりが始まるときであろうと思う。

  群れの仲間を尊重することで生き延びてきた
  生存に適さないはずのホモサピエンスが、
  個体に価値の序列をつけ始めてしまうと、
  自然の驚異に粉砕されてしまうことになる
  そう思えてならない。

  対人関係学は経済学ではない
  どのような社会制度が妥当かという考察はしない。
  しかしどのような社会制度であったとしても、
  人間が尊重されていない状況を
  一つ一つ是正していくはるかな営みが
  今を起点として求められているような気持ちでいる。

  かつて、世界史には、天才的な神や仏が現れて
  同じような活動を行った。
  その時々の、人間の尊重の仕方を教えた。

  現代においてそのような世界史的な天才は
  育ちにくいと思われる。
  むしろ、我々名もない人間たちが
  できるだけ多く力を合わせて
  人間が尊重される方向へ
  具体的な行動を研究し、実践することが
  求められていると思う。

  人間の弱点、不十分点、失敗を
  それゆえに低価値評価をすることをやめよう。
  人間である、つながりがある
  それだけで仲間として迎え入れよう。

  冒頭、対人関係学は
  現実を無視した理想論に過ぎないのかと自問した。
  答えは否である。

  単なる理想論ではなく、
  現実を超越することを目指した極端な理想論であると
  ご理解いただければ幸いである。

  私はくじけるだろう。私の肉体は滅びるだろう。
  しかし、ホモサピエンスであることに誇りを抱く者達が
  私の考えが大筋において間違っていないことを証明してくれると信じる。

自殺予防のキーワードは生きようとする意欲の喪失 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、熊本の自死予防シンポジウでお話をさせていただき、パネルディスカッションにも参加し、とても刺激を受けました。もやもやしていたことがはっきりしてきたこともあります。このシンポジウムを契機に考えたことについて述べます。

1 自死者の心理状態

  上記パネルディスカッションの中で、「本当は生きたいと思っているのに、なぜ自死を選ぶのか」という問いかけがあった。
  この点は自死の心理の理解のために極めて微妙な話である。些細な言葉の表現の問題にこだわるのかと受け止められることを承知で、あえて口を挟んだ。
 「自死者は自死を選択しているわけではない。サバイバー研究などを踏まえて、以下の事例を紹介する。電車通勤をしていて、ある日電車が来たとき、『このまま飛び込めば楽になる』とふらふらと向かったところ、予想に反して早く電車が到着したので、事なきを得た事例がある。この人は、そういうことがあったことを2年間忘れていた。選ぶという心理状態にはない。自死を実行するかどうか、偶然的要素もある。」と説明した。
  司会の方から衝動性の考慮も大切だと言われた。
  時間の進行もあるので、さらなる口を挟むことはしなかったが、このやり取りで私の考えは進んだ。
  自死者が衝動的に自死をしたくなるわけではない。確かに、周囲の人から見れば、それまで自死をするという気配が無いところで、突然自死が決行されれば衝動的に見えるかもしれない。体内からアルコールや向精神薬が検出されれば、衝動性が高まったと評価されるかもしれない。しかし、それは正確ではない。
  自死者の多くは、家族等周囲に心配をかけないようにする傾向がある人が多い。自死の意欲やうつを隠そうとする。このため、周囲は自死をするまでその危険性に気が付かないことがほとんどだ。しかし、本人からすると、突然自死を思い立つということはむしろ少ないようだ。
  サバイバーたちから話を聞いてみると、朝起きたときから、自死の手段を考えるという人が多いように感じる。死ぬことは確定していて、あとはその手段というわけだ。それをわずかに残った精神力で、極力押し返しているという状態のようだ。アルコールや向精神薬は、わずかに残った抑止力を奪い、むしろ自死に向けた行動力を付与してしまうのだろう。
  だから、衝動的に自死をしたくなったり、衝動的に自死の行為に出たりするのではなく、慢性的に自死の誘惑にかられ続けている状況であるという表現が実態にあっている。そうすると、その中で生き続けているということは、慢性的に自死をしないことの努力をしていると考えるべきなのだろう。
サバイバー研究を踏まえてもう一言付け加えれば、自死を選ぶという選択肢があるのではなく、「死ななくてはならない」という強度の思い込みの感情が継続しているという方が正しいようだ。希死念慮や視野狭窄が病的に現れる場合は、そのようなすさまじい心理状況であるとサバイバーたちは語る。
  慢性的に、自死を考え、自死をすることが確定事項となっているという状態はどのような状態か。私は、これこそが、「生きようとする意欲が失われている状態」であるという概念を定立することが有益であると考える。
  生きようとする意欲を失いながらも、それとは矛盾するところの生きようとする生物活動がある。その綱引きをしているのだと思う。このような一人の人の中にある矛盾をありのままに把握できるか否かが、自死に対する理解が可能となるかどうかの分かれ目になると思う。

2 生きようとする意欲とそれが失われた状態について

  生きようとする意欲とは、意識するものではない。生物として存在する以上どんな生き物にも存在する。生きることを志向する活動である。あるいはそれが生きているということなのだろう。自律神経が動き、生命活動が生理的に行われる。外部から栄養を摂取し、危険から身を守り、生殖活動をして子孫を増やす。生の営みである。生きようという理由から精神活動を意識的に行うのではない。おそらく、生きようとする意欲とは、生きていることと同じことを意味し、一つのことについての別の角度からの表現なのだろうと思う。生きている以上は生きようとする意欲が、無意識に存在する。血液が循環し、新陳代謝が行われる。これは意識するものではない。死を意識しても、たとえばその日死刑になることがわかっていても、食事をとり、水を飲み、日常のルーティン活動を行うがごときである。

  生きようとする意欲について、動物と植物には大きな違いがある。それは、動物の場合は、危険を回避する行動をとるということである。感覚機能を使って危険を感じ、身体の運動機能を使って逃げたり、闘ったりして、危険を回避する。
  このような機能のない植物の場合は生きようとする意欲が失われるということを観察することはないが、動物の場合は、危険を回避する行為を行わないという形で生きようとする意欲が失われることを観察することができる。しかし、人間以外の動物では、生きようとする意欲が失われることを観察することは稀であろう。
  では、人間の生きようとする意欲が失われるということは、どういうことか。この例として良く言われることは、絶望的な危険の状態に直面して気絶することである。高所から転落した時等、自分では危険回避の方法がないと悟った場合、その瞬間に気絶をしていたと生還者が語るという。危機回避の方法の存否の認識については、危険の客観的程度に比例するというよりも、それぞれの個性によってだいぶ違うようだ。気絶する場合も、自らが意識して意識を失うのではなく、無意識に気絶してしまうだろうことは、想像できることだ。結果として、客観的に生きようとする意欲が失われている状態である。
  このような極端な身体生命の危険があって、それに対応して気絶をするということはわかりやすい。しかし、危険が即時に現実化しない場合、例えばがんの宣告をされたからと言って、死ぬまで気絶しているということは無いだろう。もしかすると、奇跡的な回復や新薬の開発など、あるいは誤診だったということも含めて、望みを失っていないのかもしれない。しかし、最初の宣告の後、八方手を尽くしても、早晩死に至るという結論が動かないとき、というより、動かないという認識に至ったとき、ヒトは絶望する。しかし、気絶のような「生きようとする意欲を失う状態」には通常ならないだろう。但し、希望を失ったことによる心身の変化が生じてくる。このことについて考察を進める。
  次にお話することは、危険に直面して危機回避の行動をとれないことが、高所から転落するように即時に結果が出る場合ではなく、慢性的に継続する状態の場合、どのような精神状況になるかということである。

3 慢性的な危険と生きようとする意欲の喪失

  即時ではないが死は避けられない状況の場合、徐々に生きようとする意欲が失われていくということがある。最もわかりやすいのはうつ状態になることである。現在ではうつ状態は、操作的診断方法によって診断される。これは、いくつかの症状の継続があるかないかという方法で判断される。しかし、伝統的には、うつ病の定義は、全精神活動の停止に特徴があるという。うつ状態も、精神病理的に言えば、精神活動の停止ないし低下ということになるはずだ。
  ここでいう精神活動とは何か。それは生きるための活動であると私は考える。人間として生きるために、朝目覚めて、外に出て社会的な活動をして収入を得て、食事をとり、家族を作り、休息をとる。これがうつ状態になれば全般的にできなくなる。朝起きないし、対人関係を形成することが困難になり、性欲、食欲、睡眠欲が減退する。
  精神活動の最も重大な低下状態は、そのすべてを行えない状態である。重症うつ病である。ただ、上記の精神活動の中で、対人関係の活動以外、生物として生きる活動はできる場合もある。また、好ましい友人とは交際できるが、職場に行くことはできない、学校に行くことはできない等、精神活動の低下の程度、分野があると思われる。
  それらをすべてうつ病と呼ぶかどうかは、本稿は医学的な考察ではないので、ここでは考えない。ただ、大づかみで考えた場合、危険回避の方法が無くなった場合、絶望を感じ、全般的ないし部分的に精神活動が停止ないし低下するのであり、それは生きようとする意欲が徐々に停止ないし低下していく状態だと把握できるのではないかということが肝要であると提起したい。

4 対人関係的危険と生きようとする意欲の喪失

  末期がんが自死の原因の大半ではない。多くは、対人関係、職場、学校、地域、家族、あるいは社会との関係が自死の原因として指摘されている。自死予防として、ソーシャルネットワークやコミュニケーションによる予防が妥当する場面である。対人関係的問題と生きようとする意欲を失わせる危機回避の不可能感の関係について、どのように説明するかが問題である。
  私は、この拙文の中で、「危険」については、身体生命の危険を例に挙げてきた。しかし、本項は、少なくとも人間は、身体生命の危険と同様に、対人関係においても危険を感じるということを述べていきたい。その前に、身体生命の危険の回避のしくみについて脳科学的観点から確認する。
 
<身体生命の危機回避の仕組み>
  先ず、前述のように、動物としては、身体生命の安全を守るという形で生きようとする意欲を観察することができる。即ち、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)によって危険を感知すると、身体の運動能力を使って危険を回避する行動にでるというのが動物の仕組みがある。危険を感知すれば、逃げるか、闘うかという行動を選択する。
この時、自分で自分の身を守ろうとしていると把握することが大切である。危険が迫らなくても、危険を感じ取る感覚機能(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)が奪われれば、それだけで不安を感じる。また、危険回避の方法である闘争や逃走の手段を奪われる、身体拘束等をされればそれだけで不安になる。危険が生じても、自分で自分の身を守れないということが、それ自体が強い不安を抱かせる。金縛りという現象がまさにそれである。
この危機回避の仕組みは、視覚的に観察できる部分が上述であるが、視覚的には観察できない体内の反応としても起きている。即ち、逃げる等の危機回避行動を効果的に行うために体内に変化が生じている。体温が上昇し、脈拍や血圧が増加し、通常は内臓に流れている血液が筋肉に流れるようになる。こうして体が動かしやすくなり、筋肉の能力が一時的に高まるのである。これらの反応を、セリエやキャノンはストレスと名付けた。

 <対人関係的危険>
  人間は、身体的危険の外に、もう一つの危険を感じる動物である。これは、群れを作る動物であることに由来する。群れから外されそうになることを示す事情を認識して危機感を感じ、自分の行動を修正しようとする仕組みである。例えば、言いたいことを我慢したり、一人だけ抜け駆けしないようにしたりするのがそれである。
  仲間に迷惑をかけたり、仲間の中で顔向けできないことをしてしまったりすると、不安になってしまう。この時も、対人関係的な危険を感じているのである。
  顔が赤くなったり、胸がドキドキしたり、顔が熱くなったりする。
これは身体生命の不安と同じ反応である。即ち、体温が上昇したり、脈拍や血圧が増加したり、血流も筋肉に向かっている。要するにストレスが生じているのである。
対人関係上の危険においては、これらは意味がない反応である上、むしろ有害になることが多い。誰かから叱責されたからといって、走って逃げなければならないということもないだろうし、失敗するたびに誰かと戦うということもあり得ない。むしろ、緊張が高まり、新たなミスを発生させる原因にもなる。
アントニオ・ダマシオは、「デカルトの誤り」の中で、私のいう身体生命の危険に対する反応を「一次の情動」と名付け、私の言う対人関係上の危険に対する反応を「二次の情動」と名付けた。もちろん正確に言えば、高名なアントニオ・ダマシオのデカルトの誤りを読んで、私が二次の情動を対人関係上の危険と単純化したということが正しい。ここでダマシオは、節約のために手直しして使いまわす特技を持つ自然は、一次の情動と虹の情動を表に出すために、それぞれ独立した機構を用意することはしなかった。自然は単に、一次の情動を伝えるためにすでに用意されている同じチャンネルを使って、二次の情動が表出されるようにしている。」と説明している。
対人関係上の危険を感じた場合でも、身体生命の危険を感じているときと同じように、ストレスが発生する。これが持続するにより、血管の脆弱化や動脈硬化などが生じる。これは、クモ膜下出血や脳内出血、心筋梗塞や大動脈解離といういわゆる過労死の原因となる。危険にさらされることによる弊害は、身体生命の危険であろうと対人関係の危険であろうと同様だということになる。

5 対人関係的危険の特質

対人関係的危険は身体生命の危険と重大な点において異なる。
身体生命の危険を五感で感じるような場合は、危険が現実化するか去るかは即時に判明することが多い。このため、ストレスが慢性化ないし持続化するということは少ない。これに対して、対人関係的な危険については危険が即時に現実化しない。むしろ、危険が現実化しないまま、その危険だけが慢性的に持続することが多いように思われる。いわゆるパワーハラスメントやいじめのケースである。ここで一つ注意しておきたいのは、パワーハラスメントやいじめは、個々の印象的な出来事、大声での叱責や暴力行為、人格否定行為という出来事に本質があるのではなく、そのような対人関係の状態が継続することが心身に悪影響を与えるということである。
そうすると、簡単には、ヒトは対人関係上の危険が現実化することに回避の手段がないという絶望に陥るということではない。いじめなどを例にすると、何か攻撃行動を受けたとしても、それは改善されるだろうという願いを込めた見通しを立てる。これも無意識である。ところが、いじめが頑固に継続してゆき、自分が群れの中に受け入れられないという認識が継続したり、様々な行動修正の試みが功を奏さなかったりした時、不可能感は強固になってゆく。
また、攻撃をしている者が強烈な権力を持っている場合、たとえば子どもにとっての教師であるとか、絶対的な上司であるとかという場合も絶望感が強固になっていく。多数対一人という構図ができた場合も同様であろう。また、自分の行動を修正できない場合、国籍とか治療不可能な疾患、障害等を理由とする場合も、対人関係的危険を回避する希望が失われやすくなる。
これらは、要するに危機回避の方法を奪われているという認識を与える事情であり、身体生命の危機回避における手足を縛られた状態と類似することになる。
肝心なことは、即時に絶望を感じるのではなく、日々の対人関係の時間によって、少しずつ絶望に近づいていくということである。そうだとすると、生きようとする意欲も、気絶するように即時に反応するのではなく、少しずつ低下していくということが理屈に合っているということになる。

6 複数の対人関係を意識しない理由

  例えば会社であるとか、例えば学校であったとしても、あるいは夫婦でも、その自分を攻撃してくる人との関係がすべてではないことは、第三者は容易に判断できる。夫婦であれば離婚をする、職場であれば転職をする、学校であれば転校をするという方法があるはずである。どうして、一つの不良な対人関係が原因で生きようとする意欲が失われるのかという疑問が生じるだろう。
  しかし、対人関係的な危険を感じることは、遺伝子的なレベルで受け継がれているホモサピエンスの特徴である。対人関係的危険を感じ、修正して群れから追放されないようにするというのは、群れを作るための本能なのだ。そうだとすると、およそ群れであれば、本人にとって重要ではなくとも、無意識に対人関係的危険を感じ、無意識に行動を修正して群れに帰属し続けようとし、無意識にそれが不可能だと感じれば絶望を感じてしまうものなのである。人類は長期にわたって、一つの群れで一生を終わらせてきた。複数の群れに所属するということはせいぜい数千年の歴史があるだけであり、日本人の大半は、二百年前は単一の群れで一生を終えていたのである。
  その群れから離脱すればよいというのは理性の活動であろう。しかし、遺伝子レベルの反応は、よそ群れから外されそうになると、危険の予感(不安)を感じ、行動を修正しようとし、何とか群れに帰属しようとしてしまう。極端な話、通りすがりのようなグループからの攻撃ですら危険の意識が芽生えてしまうものだ。

7 生きようとする意欲失われている状態の「心理」

  これまでの考察からすると、生きようとする意欲が失われた状態は、心の状態の問題だけではないということが導かれると思う。生きようとする意欲が失われた状態は、脳内のホルモンの分泌に影響を与えている。ロジックな思考によって生きようとしなくなるのではなく、もっと根底の生きようとする意欲を活発化させる脳内の機能の問題であると思われる。
  この状態になってしまうと、脳内の機能の活性化をしていくことが求められる。但し、それは、投薬によって可能のとなるのか、投薬以外の方法によって可能になるのか、本稿では結論を留保しておく。個別の状態に適応した改善の働きかけが必要であるということになるとは思う。
  少なくとも気の持ちようという精神論でもなく、不十分になったホルモンを補充すれば足りるという問題ではないだろう。分泌量が減っていた

8 自殺予防として行うこと

  第1、0次予防として、生きようとする意欲を失わしめるような対人関係的な危険を発生させる人間集団の在り方を改善する必要がある。慢性的、持続的な絶望は予後が悪い。ひとたび失ってしまった、生きようとする意欲を取り戻すことは容易ではない。
  人間がどのような場合に対人関係の危険を感じるか、危険回避を絶望視するか、生きようとする意欲を失うか、人間についての考察が不可欠となる。
  第2に、生きようとする意欲が停止ないし低下した人を見つけるポイントは、そのことを示す指標に気が付くことである。これは従前事故傾性といわれているものである。しかし、うつ者はうつを隠すということからも、なかなかこのことに気が付くことは困難である。コミュニティが、仲間の誰かが生き生きとしていないときに、安心感、見捨てない気持ちを伝えていくことが必要となるであろう。
  第3に、生きようとする意欲を取り戻す活動こそが自死予防の活動だということになる。一つの方法として、特定の対人関係上の危険が原因である場合、その対人関係の修正を試み、それが困難である場合は、別の対人関係の在り方を強化し、帰属志向を満足させ、安心感や安全感を感じてもらうというコミュニティ機能の強化を提案する。
  最後は、駆け足になったが、生きようとする意欲という概念ないし視点を導入することが、自死予防対策には有益だと考える次第である。

母性幻想の根源は、ヒト女性行動傾向との混乱にある。人間の価値はどこに。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


先日、テレビでトランスジェンダーの映画を紹介していました。
女性の監督が、男性にやがて母性が芽生え始めるという作品の説明をしているのを聞いて、
「ああ、そういうことか。」と思いついた次第です。
「それは間違っているだろう」と。

母性というものが神格化され、
自分は母性が足りないのではないかという女性が
深刻に悩んでいるということが
家庭紛争の遠因になっていることが多くあります。

男性から見れば、
子どもに優しい妻を見ることは、
まあ、プラスに作用することもあるのですが、
それほど愛情を持たなくたって、
やることをやっているわけですから
マイナスに見るということはほとんどないのです。
隙あれば、俺が愛情を注ぐという父親も多いくらいです。

ところが女性は、
子どもに愛情を感じられないと言って悩んでは、
そのイライラを子どもにぶつけて虐待になったり、
夫に対する防衛的攻撃感情をあらわにしたりと
家族を巻き込んで自滅していくことがあります。

なるほど、聖母マリア像のように
慈愛に満ちた優しい姿が母性だとすると
そうではない自分に悩むことが出てくるのかもしれません。

対人関係学的に言えば
そもそも、母性のとらえ方が間違っているということです。

母性という以上は、
出産と授乳行為に伴う心情的変化ないしは
行動傾向の特質ということになるはずです。

女性である以上母性があるはずだということは
きわめて非科学的なファンタジーです。

そもそも、出産と授乳はホルモンの急激な変化を起こします。
妊娠から出産までは、女性の体内では
女性ホルモンが多く分泌されます。
ところが、出産以降は、
女性ホルモンが極端に減少して、
ほとんど分泌されなくなります。
女性ホルモンが無くなることによって、
母乳を生成するためのホルモンであるプロラクチンが分泌されるようになります。
女性ホルモンが無くならないと
プロラクチンが分泌しないという関係にあるようです。

イタリアの研究では、
プロラクチンは、敵対感情を高める
という調査結果が出たそうです。

要するに、子連れの母熊や母オオカミが
他者が子どもに近づくだけで敵意を示して
襲ってくるということに関係しているのではないでしょうか。

敵から無防備な子どもにおっとりした母親だけであれば、
動物は子孫を残せなかったことでしょう。
子どもを産んだばかりの母親が攻撃的になることは、
動物が生きるために必要な仕組みだと思います。

もっとも、プロラクチンは母乳を生成しますが、
母乳が無事に赤ちゃんの口に入るためには
オキシトシンというホルモンの分泌が必要なようで、
このオキシトシンは、幸せホルモンと呼ばれるように、
穏やかに、他者を信じる気持ちを作る作用があるようです。

母親が険しい表情をしていつもうなっているばかりではなく、
穏やかな表情で赤ん坊を見守るのは
何もフィクションではなく、オキシトシンの作用のようです。

このように、プロラクチンとオキシトシンという
敵対感情ホルモンと
絆ホルモンと
同時に分泌されなければ、母乳が出ませんので
母親の感情というものは相矛盾するものである
ということ言えるようです。

オキシトシンの分泌がなされていても
プロラクチンの影響が大きければ、
何か悪いことが起きるのではないかという不安に苦しめられ、
常に攻撃的感情を抱いているということも
それこそ母性の特徴としてあり得るわけです。

このことだけからしても
聖母マリア像になるか、攻撃的な母熊になるかは
ホルモンの分泌状態に左右されるということですから
母性とは、極めて偶然的な事情であり、
生理的変化であって、
あるいは一過性の状態であって
その人の人格や性格、ましては人間としての価値とは
全く無関係だということになるのです。
悩むことはメリットはなく、デメリットしかありません。

ところで、ここでいう母性とか母親の愛情というのは、
本来、母子の一体感というべきだと思います。
自分以外の者に対する愛情があふれているのではなく、
母親にとっては、自分と子どもの区別がつかないということです。
自分と子どもとの区別は、子どもの反抗期によって
母子双方が徐々に身につけていくものだと思っています。
これも、生きるための仕組みだと思います。

だから、自分を犠牲にして子どもに尽くすというのは
ある意味間違いです。
自分の本体を犠牲にして、自分の分身の利益を図る
という意識の側面があるということでよいのだと思います。

こういう意味での自己犠牲の母性は、
母親が自分自身、本体を大切にする習慣があるかないかで
現れ方が変わるわけです。
もともと自分が大切にされていないという感情が残っていると
自分の分身である子どもも大切にできないという可能性があるわけです。

対人関係学は、ここを重視します。
もし、子どもを大事に思えない、愛せないというならば、
先ず、自分を大事にしてみることから始めてみては
いかがでしょうか。

それから、子どもを守らなければならないという責任感が強すぎて、
何か悪いことが起きるかもしれないという不安感に苦しめられると
子どもを守ることができないという悲観的な考えに支配されて、
子どもを虐待してしまう、極端な話殺してしまうということがあるわけです。
これは、人間だけの行動様式ではなく、
自然界でも確認されていることです。

さて、長くなりましたがいよいよ本題です。
(ごめんなさい)

これまで母性だと信じられていた美しい感情
たとえば、弱者の保護、無条件の慈しみ、公正、
という人間のつながりを重視する感情は
どこから来るものなのでしょうか。

それは裏を返せば、
弱肉強食の拒否、自己利益の優先の否定的評価
と言えるでしょう。

これは、ヒトの群れを作る性質から形成された
遺伝子的な特徴なのだと思います。

そして、それが色濃く表れているのは
男性よりも女性においてということになると思います。

サルから分かれて800万年、原人から分かれて20万年
人は群れを作って生きてきました。

男性が狩りをして、女性が住みかを守って
ということがよく言われます。
(どこまで、整然とそれが行われていたかについたに
やや疑問がないわけではないですが、)
それには合理性があります。

当時の群れは、
それほど大きな人数ではなかったと思われます。
だから、群れの頭数を確保するということが
生き残りのためには至上命題だったと思われます。
また、出産も他の動物に比べて不利な条件でしたので、
生まれてきてもなかなか育ちませんでした。

群れの頭数を維持するためには、
ともかくも、出産までこぎつけることが
必要だったはずです。
流産の危険を避けることは、
群れの悲願だったはずです。

そうだとすると、
およそ女性には、駆けまわったり闘ったりする
狩りの仕事を避けさせるようになっていくことは
自然な流れだと思います。

女性が狩りをしない群れが
なぜか、出産率が高いという法則を
何年もかけて見つけて行ったということです。

狩りをしないことが平気だったり
狩りをしないことを好む女性が
徐々に遺伝子上優位に立っていったとは考えられないでしょうか。

一つは、このような理由から
生き物を殺すことを厭わない遺伝子が
特に女性の中で相対的に減少していった
ということは考えられないでしょうか。

もう一つは、
男性は、狩りをする性だとすると、
生きるための行動である、
狩りを遂行する、仕事を完成させる
ということを志向するようになっていった
ということではないでしょうか。

女性は、住みかを守ることで群れを守ってきたわけですから、
群れを壊す者、群れを壊す行動を排除しようとしていたと思うのです。
弱い赤ん坊などをぞんざいに扱う行為をやめさせたり、
自分だけ食料を食べようとする行為を禁止したりして、
群れの弱い者を守ることによって
群れ全体の弱体化を阻止する
役割を果たしてきたのではないでしょうか。

(もっとも、群れとして行動するのですから、
800万年にしろ、20万年にしろ、
それぞれの群れの事情もあったわけで、
整然と男性と女性の役割がわけられていたわけではなく、
ボワンとした傾向として残ったのではないか
というくらいに考えています。)

要するに、
主として男性は、群れの共存のための狩り等の遂行に価値を置く傾向にあるけれど
主として女性は、群れの共存そのものに価値を置く傾向に
長い年月をかけてなっていったのだと思うのです。

これは、現代社会においても残存していると思うのです。

結局母性というのは、ホルモンの作用を中心とした生理的作用によって出現する一過性の状態であり、
ヒトの女性になんとなくよく見られる
弱者の保護、無条件の慈しみ、公正は、
遺伝子的な傾向ではあるけれど
理性的な要素が強いものであると思います。
自然に感じるというよりは、
これがこのまま続いたらどうなるだろうかという
将来的要素、派生的要素を考える
脳の力が必要だということになります。

こちらの力が多くあるかどうかということこそ
人間としての価値なのだと思います。

現代社会は、やや男性的傾向が強すぎると思いますので、
女性的傾向が優位に立つことで人類は幸せになれると思っています。


国の自殺対策が、ようやく対人関係学の方向を向き始めた件 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

近似の国の自死対策には大きな変化が見られるという。
一言で言って、
うつ病が悪化して自死に至るというモデル
(疾病モデル)には限界があり、
この疾病モデルから、
総合的・包括的な対策として自死対策を再構築する方向へ
転換するのだという。

10年間かけて自死対策の理念と方法の大きなパラダイムシフトが起きた
とのことである。

ようやく、国が対人関係学に近づいてきた
ということである。
最近、どや顔の記事が多いので恐縮だが、
これはまさに、この通りである。

平成24年の自殺対策大綱見直しの時の
パブリックコメントを末尾に掲載する。
但し、これは、字数制限があるほか、
募集期間が数日しかなく、
慌てて記載したために、
文書としてあまり洗練されていないことを
お断りしておく。
まあ、いつものブログ記事とおんなじなので
実力通りかもしれない。

但し、まだ、対人関係学に近づいただけで、
具体的な方向は見えてこない。

「自殺問題の解決には、医学の領域を超えた
 公衆衛生学の考えや手法を活用する必要がある
 と認識されるようになった。」
と述べるだけである。

そもそも医学の領域を超えた公衆衛生
という言葉はおかしい。

結局、うつ病ということで精神科医に丸投げするのをやめて
科学的な原因の分析を始めましょうと言っているにすぎないと
感じてしまう。

例えば、仙台市などでは、
既に数年前から、
行政と民間と中間機関の
ソーシャルネットワークの構築を
自死予防対策に位置づけて
進めている。

まだ手探り状態の段階だが、
自死未遂者の多層的な支援等
いくつかの先進的な実績が上がっている。

自治体における自死対策、
あるいは国の自死対策も同様なのだが、
結局は、健全な行政行為、
特に福祉行政の充実が特効薬だ。

国についても、福祉だが、
失業率の低下が自死対策に有効であることは
ずうっと前から定説になっている。

そうだとすると特に自治体における自死対策は
不要なのだろうか、
そうではないだろうことは言うまでもない。

一つにソーシャルワークという
個別的な対応が有効になると思う。

縦割り行政の横糸を這わせる仕事になるだろう。

もう一つは、自死予防の観点の導入
自死予防の観点からの行政内容の修正ということになると思われる。

現在の行政は、
本来、行政であることのうまみを放棄して
無駄に競争原理や、効率を取り入れて
行政の質を落としている。

それぞれ、費用の問題などがあり、
その結果として現状があるわけだ。
この無意味な方向への力の傾注を是正し、
行政のアドバンテージを発揮させるような
政策の修正が求められる。

修正の契機として、自死予防の観点からの見直し
ということが有効になるだろう。

自死予防の観点とは、
人が尊重されるということに価値を置くことである。
その人の弱点、欠点、不十分点を
批判されず、笑われず、価値否定されないことである。

お金がない人、
病院や学校へ向かう手段のない人、
住居に問題がある人
体調などに問題がある人
働けない人
友達がいない人
こういう人たちが
生きていてよかったと思える行政こそが
自死対策の基本である。

予算の観点、効率の観点、その他もろもろの従来の行政の観点の外に
自死予防の観点をもうけていただくことになるだろう。

その中で、
家族や、学校、職場の関係についての
相談を受けたり、
解決方法を提言したりと
対人関係を改善していくということが
さらなる発展形であると思われる。

端的に言えば、
夫婦関係の不具合、特に妻からの相談を
それは精神的虐待だから離婚をするように
という切り捨て行政から、

夫側に働きかけて、改善の方法を
選択肢として提示して、
将来にしこりを残さない方法や、

子育てにご苦労されている人たちの
積極的な支援をクリエイティブに進めていくこと。

使用者団体と労働者団体等と
積極的に職場の改善方法について
公開でディスカッションをするということも
あり得ることではないかと考えている。

極端なことを言えば
自死予防対策とは
自死者をなくすことが目標ではないと考えている。

尊重される人間関係を進めていくことだと思っている。

この意見が受け入れられるまで、
さらに10年くらいかかるのかもしれないが、
10年で追いついてきたならば
それは歓迎するべきことなのだろう。

後退することもあるかもしれないのだからね。



 この項目において、職場、学校、地域という、人の集まりの単位に着目して、体制整備を進めるという点に、積極的に賛同します。
 私の意見の結論は、この体制整備の内容について、第1に、集まりの単位毎の、人と人とのあり方についての現状を分析した上で、あるべき姿を議論するべきだということと、第2に、この人の集まりの中に家族を含めていただきたいということです。
 私は、弁護士として、自殺事件、自殺対策に積極的に関与しています。その経験からの感想ですが、現在の人の集まりは、職場のパワーハラスメント、学校のいじめ、家庭でのドメスティックバイオレンスや虐待等、人が人を追い込む関係になっていしまっており、これが、自殺の高止まりの本質的問題ではないかと感じています。
 また、一度蓄積され始めたストレスや、うつ病は、実際は、その影響が解消されることが容易ではないことも感じています。
 自殺予防のもうひとつの視点として、ストレスを作らない、うつ病を作らないという視点をもっと強調することが有効ではないかと考えています。
これは、一言で言えば、人を追い込む人間関係から、人と人とが助け合う人間関係への転換を追求するということです。
 私は、仙台市で東日本大震災を経験しました。悲惨な出来事もありました。しかし、一方、ライフラインが途絶した中で、見ず知らずの人と人とが、言葉を交わし、励ましあい、自分ができることを積極的に行って相手を助けるということを何度も経験しました。この時は、人が近くにいるということで、無条件に、安らぎや癒し、活力を感じることができました。本来人と人の集まりには、このようなコミュニティの力というものあるはずだと思うのです。
 その最も大切な人の集まりが家族ではないでしょうか。家族を中心としたいくつもの人間の集まりが、人と人とが助け合う関係になれば、気づきやストレスへの対応、治療へのつなぎももっと効果を発揮すると思います。
 また、自殺対策が、人間らしい社会を追求するということになれば、もっと楽しく、もっと多くの人が参加できる夢のある活動になるのではないかと考えています。


それ本当に統合失調症という診断でよいのですか? [自死(自殺)・不明死、葛藤]

労災事件や損害賠償事件、
あるいは破産事件や離婚事件でも
統合失調症だと診断された方と
お話しする機会があります。

人権擁護委員としても、
人権相談を受けることが少なくありません。

ゆっくりお話を聞かないと
何も解決しないで時間切れということが多いのですが、
ゆっくりと時間をかけてお話しすると、
今抱えている問題の解決方法の展望が
見えてくることもあります。

わりと、統合失調症の方とお話しすることが
苦にならないタイプなので、
話し込んでしまうことも多くあります。
こういうことができるのは、
人権相談を受けている場合でしょうか。

だんだん、「そりゃあ、そう思いたくもなるよね。」
というきっかけみたいなものが見えてくることがあります。

ただ、
統合失調症だと診断されている方の中で、
どうしても、統合失調症だという診断に疑問を持つ場合があります。
医学的には全くの素人なので、
本来恐れ多いことなのですが、
事例がたまってきたので、
ちょっと言わせていただこうと思います。

本業の先生方におかれては、
素人のつぶやきだと大目に見ていただければ幸いです。

第1類型
それまで、統合失調症の症状がなかったのに
50代以降で発症したとされる例
70歳代で発病したと診断された例もあるのですが、
10代20代で何ともなく、
老齢に差し掛かってから発病するということがあるのでしょうか。

素人的にはICD-10の診断基準をどうして満たすのか
理解に苦しむ例でもありました。

第2類型
うつ病性妄想、パニック障害、不安障害と思われる事例。
特に、日常的理解から分断された幻覚幻聴があるわけではなく、
不安を表現しているだけではないかと
感じるのです。
そう思って処方されているお薬を教えてもらったら、
やはり抗不安薬と睡眠薬しか処方されていませんでした。
それならどうして統合失調症という診断をしたのだろうかと
この点は素人らしい疑問を抱くわけです。

(この事例はかなり症状が悪化し、
 入院を視野に転院したところ、
 うつ病であると診断されて、
 日常生活を問題なく送っていらっしゃいます。)

第3類型
ストレス性疾患ないしPTSD
労災や事件性の不安というのがあって、
例えば、常に自分の右側に何かいるような気がする
という主訴の患者さんがいらっしゃいました。

この方は、統合失調症ということで
セロトニンドパミン拮抗薬を処方されて、
身体障碍者の認定もされました。
うつろな目をして、筋肉がこわばり、
口が閉まらずよだれが流れる、
じっとしていることができずに
定期的に椅子から立ち上がりうろうろする。

全て薬の副作用でした。

話を聞いていたら、
ある日、仕事でデスクワークをしていたところ
隣で働いていた同僚から
顔を殴られたということがあったそうです。
ええ、そうです、
この同僚は右隣に座っていました。

けっこう激しく殴られたのですが、
この同僚の方が精神的に破たんしていたようでした。
さらに、この被害者の不幸なことは、
突然の暴行の被害者でありながら、
会社が十分な対応をしないで、
契約期間が満了したということで
派遣切りにあってしまったというところにあります。

記憶というものが、どうして必要なのかというと、
危険なものが何かを覚えて、
危険を感じたら、それを回避するという行動をとること
(逆に利益があることを覚えて、繰り返す)
に主として存在意義があると思います。

例えば、その方の事例で、
同僚が奇声を上げて、走り回った挙句、
目を血走らせて、怒りの表情をあらわにして
襲い掛かってきたら、
まだ、逃げようがあるわけです。

その時逃げられなくても、
そういうことが又次にあれば、
危険だから逃げればよいという
記憶を定着させて安心することができます。

ところが前触れなく、
突如右側からこぶしが自分の顔面に襲ってきたらどうでしょう。
防ぎようも、身構えようもないわけです。

それでも、脳は、安心したいですから、
何らかの対処方法を無意識に考えだします。
しかし、有効な対処方法はない。
そのため、こぶしが襲ってきた
右側を防御しなければならない
という記憶が生まれてしまうわけです。

(この事例は転院され、
 無事に薬を変えてもらい、
 症状が劇的に消失しました)

これは、無意識の防衛反応です。

こういう場合は統合失調症というよりも
PTSDという状態なので、
カウンセリングを行い、
偶然的な不幸であることの理解と
通常は心配する必要性がないことの理解、
いざとなったら、助けてくれる仲間の存在の自覚
という新たな記憶を刷り込んでいくことが有効なのだと思います。

なぜセロトニンドパミン拮抗薬なのか
全く理解に苦しみます。素人ですから私。

疑問は、
幻覚幻聴と、「漠然とした不安」の区別が
曖昧に扱われているのではないか
ということです。

私の素人理解では、
日常的理解から分断された
具体的な幻覚と幻聴が存在し、
それに支配されている場合が統合失調だと思っていました。

先ず、なんとなく右側が怖いとか
後ろから誰かが来るようだ
というような抽象的な不安が
幻覚幻聴と言っても良いものなのだろうか
ということが疑問です。

もっと、まとまっていて、たとえば、
警察が始終電波を飛ばして自分の行動を命令するとか
日本創世記の神が自分に降りてきて
世界を支配する方法を授けたとか
某宗教団体が24時間自分を見張っているとか
割と、自分を支配する相手や
支配をする方法を具体的に語る方が
統合失調というイメージなのですが
どうなんでしょう?

要するに、「幻覚幻聴とは何か」ということですね。

次に、どうもお医者さんは
われわれ庶民の日常、あいまいさや不合理をくるんだ日常
ではなくて、
合理的で、整序だった日常的理解をお持ちのようで、
え?それも分断しているの?
という判断をなさることがあるように感じます。

治療の必要性がある場合もあるのでしょうが、
例えば、右側に何かある、
後ろから危険なことが起きる
という場合、
われわれだと、
何かそういう体験をしたのではないかと思ってしまいます。

先ほどの職場で殴られたという事例だけでなく、
左隣に住んでいた人が精神的に問題があり、
窓から顔を出して外を見ていただけで
こっぴどく怒鳴られて、部屋に押し掛けてきたという
体験をお持ちのお子さんは
左側が怖いという症状がありました。

そういうことを聞いてばかりいるからかもしれませんが、
何か理由があると、
つい素人は思ってしまうのです。

医学部で専門的に勉強され、
国家試験も合格され、
研修もなさった先生方に
たてつくようなことを申し上げて大変恐縮なのですが、

統合失調症の幻覚幻聴の定義
他の精神疾患との鑑別など、
ガイドラインがあるとよいのではないかと
考えている次第であります。










あると思うけど。




対人関係学における「勇気」とは アドラー心理学との対比は無理だとしても 嫌われる勇気(対人関係学) [自死(自殺)・不明死、葛藤]

対人関係学は、動物行動学の手法を用いた
自死予防、対人関係紛争解決の基礎理論です。

さて、昨今学術団体を名乗る団体から
勇気についての解釈等が創始者とは異なるということで
テレビ番組を中止ないし大幅な改善を
求めたとのことです。

まあ、その心理学についてはまるっきりわからないので、
論評は避けますが、
(ブログの中止や大幅な変更を求められても困りますし)
けっこう似ているところがあるので、
ちょうどよい機会ととらえ
ちゃっかり説明(対人関係学の方限定)を加えたいと思います。

「勇気」という言葉に該当しそうなことは
対人関係学では2点あります。

1点は、群れを作る動物として、
群れの弱い者を守るという遺伝子的な要求がある
ということです。
ここはアドラー心理学と少し似ているかもしれません。

しかし動物行動学的な手法の対人関係学は、
面倒なことは言いません。

要は、群れの頭数が減ることが
群れ全体、即ち、自分という個体の滅亡につながるため
すべての能力を総動員して
群れの仲間を守るために
勝てそうもない敵に対しても勝負を挑む
という遺伝子に組み込まれた行動様式がある
ということです。

通常の状態ですと、
危険が存在しても
「相手に勝てる」という気持ちがないと
怒りという情動が起きにくいわけです。
怒りよりも、恐れとか不安という情動が起きて
逃亡という行動に結びつくわけです。

ところが、仲間が攻撃を受けていると
勝てるかどうかはともかく
怒りの感情が先行して起きてしまい、
闘いという行動に結びつきやすくなります。

「仲間のために戦う者は強い。」
ということは正しいということが対人関係学の帰結です。
但し、強いといっても、対自分比です。

子育て中のくまオオカミ
気が荒くなり、攻撃的になるということは
その一つですが、
これはプロラクチンの分泌による生理的作用で、
母乳を与えている母親限定の話なのです。

人間はさらに群れを作る必要性が高かったために、
群れの仲間を守るという意識が強く、
怒りを誘発しやすくなります。
この時、恐怖を忘れる等の効果もあります。

頭数を減らしたくないという本能だということになります。

実は、「かわいい」という感情も
群れの一番小さく弱い者を守るという本能からきているわけです。

ところで、勇気という表現が当てはまりそうな第2の点は、
人間が危険に接近する動物だということから来ます。

通常の動物は、勝てない、危険だと思ったら
ひたすら逃げます。
これが動物の基本ですし、植物との違いということになります。

ところが、人間は逃げてばかりいたら
簡単に飢えて死ぬような中途半端な動物であったため、
危険に接近し、危険を利用して利益を受ける必要があったわけです。

わかりやすいことは
火を使うということです。
火に触るとやけどするわけで、
動物はどんどん逃げていきます。

ところが人間は、
やけどをしないように火を使う方法を覚えたわけです。

人間には、動物として逃げたいという本能の外に
逃げたいところを我慢して近づいて利用する理性が
存在しているということになります。

逃げたいけれど利益を得るために
危険に接近する
これが、もう一つの勇気といえる
人間の特徴だと思います。


面白いことは、これが人間関係ともなると
複雑に絡み合ってはいるのですが、
同じことになる場合があります。

対人関係学では、
人間は動物として、自分の身体生命の危険を感じて
逃げる等の行動を起こすだけではなく、

群れを作る動物として、
自分が所属する群れから追放される危険を感じて
行動を修正するという特性があります。

どちらの危険も感じればストレスを感じます。
具体的に言うと
体温が上昇し、血圧も上昇し、脈拍が増加しという
交感神経が活性化されます。

さて、群れの方向性が間違っている
あるいは、群れのリーダーの提唱する行動提起は
群れを滅ぼす可能性があるという場合に
相当のジレンマを抱えます。

即ち、
そのことによって群れ全体に不利益が起きることを避けたい
という要求と
避けるために、自分がリーダーなどに反対意見を言わなければならない
それをすると、群れから極端な話追放される、ないし嫌われる
という危険を感じます。

この時、群れから追放される危険を感じながらも
全体の利益のために言うべきことを言う
ということであれば、
心理学的にはわかりませんが、
対人関係学的には、
それを勇気と言って差し支えないということになります。

テレビ番組の題を
「嫌われる勇気(対人関係学)」
としていただいても、
一向にかまいません。

対人関係学:震災から生まれた自殺予防の基礎理論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

対人関係学 震災から生まれた自死予防の基礎理論
                     
技法分類 行動学

考え方:人間の感情は、個体が生存し種を保存するために不可欠な、
遺伝子に組み込まれた環境に対する反応である。

根幹の感情(生存の継続を希求する仕組み)

<動物>としての感情・・・自分の身を自分で守りたい
     いざとなったら自分の身を守る行動が
できないかもしれないという不安 
危険感覚の阻害、行動の自由の不自由感
(自力救済の行動要求)
<人間>としての感情・・・群れに帰属していたい。
   自分の行動あるいは群れの他の構成員の言動によって、
自分が群れから追放されるかもしれないという不安
(帰属の要求)

自力救済の行動要求不全
   忙しさから自分の行動の自由がないと感じる場合
   (過労死、過労自死)
   他人の支配を受けているため自分の判断での行動が
許されないと感じる場合(配偶者加害、カルト集団の洗脳)
   細部に至るマニュアルがあり、自分の判断によって行動できない
と感じる場合(過労死過労自死)
   公権力、自分より地位の高い者、多数によって、
抵抗不能であると感じる場合、
(公権力による弾圧、パワーハラスメント、指導死、いじめ)
帰属要求不全
    自分の健康が気遣われない(暴力)
      自分の人格が尊重されない
     正当な評価がなされない(成果賃金の不具合)
      具体的な指摘のない否定的評価
      自分の欠点、弱点、不十分な点に否定的評価が下される。
      群れの決定過程に参加できない
      一段低い立場のものと評価される
      自分の何らかの失敗
      仲間の損害を未然に防止できなかった
      自分が仲間の中に安住するためには仲間のための役割が必要で、
そのための必要な役割を果たせなくなった。

帰属要求不全の具体例
    社会という群れ  自分あるいは自分の家族だけが、
他の人たちよりもみすぼらしい状況にある。
    マンション    自分の部屋の周囲だけが、
ひび割れが多いのに、修繕してくれない
    みなし仮設    自分たちだけに情報がこないため、
損をしているようだ。
    職場という群れ  自分が評価されずに、自分よりも
働いていない同僚が評価されていることからすると、
自分は会社に不要な人間だと評価されているのではないか


自力救済の要求不全と帰属要求の不全の効果
    不安を感じ続けることになる。
  = 身体生命に対する危険が迫っているように交感神経が活性化され続ける。
  → 危険が係属しているか安全になったかという
二者択一型の思考になじみやすくなる。
複雑な思考、将来的な推測、相互譲歩、次善の策への発想の転換等
柔軟な思考が停止ないし低下する。
    確実に安全であることを志向するため、悲観的な思考が支配されやすくなる。

命題のリフレイン
  「このまま苦しみ続けるか死んで楽になるか。」
      ↓
  具体的な自死の方法を観念してしまうと、
思いとどまることが困難になる(自己制御力の著しい低下)

別角度からの考察
  群れから疎外され続けていくと、
自分が大切にされていないという意識が継続することになり、
自分自身も自分を大切にしようという意識、
人間は尊重されなければならないという意識が低下する。
死への閾値が下がる。

解決のための理論

1 客観的に要求不全があれば、
当然に、危機意識や不安という反応が起きるものだとして考える。
「大丈夫ですか」という問いかけは無駄で有害。
受け手は「大丈夫だ」という答えを要求されていると感じる。

2 疎外感覚を生み出す客観的条件を改善することこそが心のプライマリケア
  そのためには、疎外を感じる事情はどういうことか
絶えず問い続けること。人間とは何かが根本的な考察対象。

3 孤立こそが死の閾値を下げて、帰属要求不全を助長する最大の危険因子

4 逆に、居心地の良いコミュニティで尊重
(欠点、弱点、不十分点、失敗を責めない、嘲笑されない、
批判されない、むしろ群れの他の構成員が補ってくれる)
されていると、他の不安も解消されていく。
死の恐怖さえも和らぐ。
0の先のプラスを目指すということ。

5 怒りは、不安解消行動である。
怒りの言動に心を動かすよりも、怒りの根源にある不安を推察する。
そして、言いあてて、共感を示す。

6 安易な慰め、あなたは悪くない、死ぬほどのことはないという発言は、
その人の苦しみを否定すること。
援助者が、当事者の苦しみに共感したくないという突き放した対応。
 
不合理な自責の念すらも、その人にとっては絶望を回避するためのメカニズム。

7 大切なことは、「私はあなたを決して見捨てない。」ということを伝えること。

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