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【批判】文科省の中学校政策が、いじめや自死対策に逆行していると思う理由 規範意識の考え方が浅はかだということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

インターネットを見ていたら、
文部科学省の通知に出くわしました。


児童生徒の規範意識の醸成に向けた生徒指導の充実について(通知)http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/04121502/052.htm

これは大変な問題だと思いましたら、
平成18年の通達文書のようです。
しかし、現在も文科省のホームページに掲載されていることからすると
まだ有効な通知なのでしょうし、
10年以上もこのような方針が
教育現場で通用しているということなので、
事態は深刻だと思い、
やはり私なりの意見を言わせていただきたいと思いました。

1 文科省通知の意味
2 様々な問題点
3 通知の最大の問題点は規範意識の理解不足
4 競馬の調教の方が合理的であること
5 人間の場合の群れを作る仕組み
6 少年事件から規範意識を考える
7 学校で規範意識を醸成する本当の当たり前の方法

1 文科省通知の意味

文部科学省の通知は、主として中学生の
暴力行為、いじめ、不登校などの問題を
解決しなければならないというところから出発しているようです。

その解決方法として中心になるのが、
規範意識の醸成というわけです。
文科省のいう意味は、
ゼロ・トレランス方式というアメリカの方式で
これは、アメリカの生徒の銃乱射事件や麻薬常習
という状況を是正するため
禁止事項と違反行為を予め事細かに定めて
違反行為があれば必ず処罰するという
必罰主義とでもいうような対応方法です。

禁止事項をすれば罰を与えられるという
心理的威嚇によって、
禁止事項行為を拘束する
という政策になります。

毅然とした対応
等と言われますが、
毅然とした対応をすることは当然として、
毅然として何をするのかが
問題だと思います。

毅然として子どもを処罰する
というのが文科省の通知の態度ということです。

2 様々な問題点

上記の通知は、
私は大問題だと思います。

読めばすぐに問題点が浮かんできます。
いくつか上げてみましょう。

①  暴力行為やいじめの発生を防ぐという視点がない

あれ?威嚇で防止しようとしているのではないの?
と思われるかもしれません。しかし、
 
暴力行為やいじめは起きるものだという
前提に立っていると思います。
原因を無くそうとする視点がないのです。

威嚇で問題行動を抑制することは
実はあまり効果を期待できないのです。
要は、見つからなければ良い
ということになりかねません。

人間としてやってはいけないではなく、
禁止されているからやらない
ということを教えているようなものです。

②  子どもたちが成長するという視点がない

子どもの問題行動は、
子どもの人格が未熟であることが理由であることが多いです。
問題行動が起きても、適切に働きかけて
子どもを成長させることによって解決する
これが教育ですが、
だから教育という発想はないようです。
文部科学省という役所は
教育を放棄しているといわれてもしかたがないと思います。

③  原因を探究しようという発想がない

① と同じことかもしれませんが、
子どもたちの問題行動には理由があり、
この理由を除去しようという発想がありません。

例えば昭和の年代では、
ここまで過酷な問題行動は多くなかったと思うのですが、
現代的な問題があるのではないか
という発想は感じられません。
現代社会の特有の理由があると思うべきです。

子どもたちは暴力を起こすものだ、
いじめを起こすものだという前提をおいている
そういうように思えてなりません

一言で言えば
教育という発想がありません。
子どもたちは勝手に大人になれ、
国は、それに働きかけはしない、
但し行動の拘束はする。
そんな印象を受けてしまいます。

おそらく文部科学省や学校現場は、
校内暴力などの荒れる学校や学級崩壊に
無抵抗な状態だったのだと思います。

これがかなりのトラウマになっているのでしょう。

それは理解できるとしても
また
子どもたちを取り巻く環境の変化があって
子どもたち自身の変化が起きていたとしても、
私には、情けないという気持ちが起きてしまいます。

子どもたちと向き合う能力に問題があるのではないか
ということです。
もしかすると
教員採用、教育委員会採用から始まり、
管理職の登用などの
教育行政に、人事管理上等の問題があるのではないか
教育という目的以外の考慮が幅を利かせているのではないか
という危惧を払しょくできません。

3 通知の最大の問題点は規範意識の理解不足

文科省は、規範意識の醸成の方法として
必罰主義を採用すると言っているわけです。

つまり、何か罰を受けるとか
不利益を受けるということで、
罰を受けないように、不利益を受けないように
ルールを覚えようという発想です。

これは、法律の素人の発想です。

法律や道徳を守ろうという意識を
規範意識(きはんいしき)といいますが、

罰せられないようにしようということは
規範意識とは少し違うように思います。

ルールを守ろうという意識の方が
少し規範意識に近づくと思います。

もう少し正確に言えば
ルールの存在を承認し、
存在するルールを守ろうという意識です。

さらにわかりやすく言えば、
ルールを守ることは手段であって、
本当は、
仲間との関係を大切にして
群れを維持しようという考えを持つということなのです。

そして、それこそが、
人間が自分を大切にするという意味だと思います。

どうやって、そのような
高い意識を持つようにするか
そのことについて
お話ししていきたいと思います。

4 競馬の調教の方が合理的であること

競馬という競技を例えにしてみましょう。
馬は、生まれたばかりでは人間のいうことをききません。
ゲートから出ませんし、
ゴールに向けて走る必要も
馬にはありませんから走らないでしょう。
すべて人間の事情です。

それが、どうやって、レースが成立するか
ということを考えてみましょう。

一部の人は、まだ誤解をしていて
鞭で叩くから仕方なく馬はゴールに向かって
全力疾走をさせられているという
動物虐待の結果がレースだと思っている人もいるようです。

しかし、ただ早そうな馬を連れてきて
鞭で叩いたとしても
レースにはなりません。
馬は暴れ出すでしょう。
騎手を振り落とすこともあるでしょう。

実は、馬は、
群れを作って走りたいという本能と
群れの先頭に立ちたいという本能があります。

この本能があることによって、
肉食獣から襲われても
群れ単位で行動することができるし、
群れ単位で逃げていくことができ、
結果として群れの頭数を維持してきたわけです。

この本能を利用してレースをしているのです。
レース中に騎手が落馬をしても、
最後までゴールを目指して走り続ける馬が
少なくない理由もここにあります。

本能を利用して、
あるいは行動習性を利用して
人間の望む行為に誘導して行くというのが調教です。

子どもに規範意識を持たせるという場合には、
人間という群れを作る動物の本能を活かして、
ルールを守るという喜びや
積極性を持たせるべきなのです。

そうでなくて、
恐怖や痛みの威嚇で行為を誘導するとすれば、
調教以下の働きかけということになってしまいます。
必罰主義とは、このように調教以下の
低俗な行為ということになります。

子どもを、人間を馬鹿にした行為ということです。

それでは、人間の本能、習性とは
どのようなものなのでしょうか。

5 人間の場合の群れを作る仕組み

人間の祖先がチンパンジーの祖先と別れて
800万年が経過しているといわれています。
その間、ずうっと人間は群れを作って生活していました。
言葉や文字を使うようになったのは、
ごくごく最近です。

しかし、群れを作っているということは、
群れの秩序を守って生活していたということです。
これをしてはいけないとか
こういう時にこうするべきだとか
ルールがあったはずです。

言葉もないのにどうやって、
ルールを認識し、それを守ったのでしょう。

群れを作る動物は、
結果として群れるだけでなく、
群れを維持する本能があり、
群れを弱くしない行動をする習性があったと思うのです。

例えば、私たちは小さくて弱いものを見ると
可愛いと思います。
可愛いものを大切にして守りたくなる
これが本能的行動習性の一つだと思います。

弱いものを危険にさらして命を落とさせてしまうと
弱いものから順に群れの頭数が減っていき、
結局群れ全体が滅亡してしまうので、
弱い個体を守ろうとすることは
群れを維持するためにとても有効な習性となります。

平等だったり、公平だったりという正義も
群れを維持するための本能的感情だったと思います。

さらに言えば、
自分と群れの他の構成員との区別は
あまりなかったのではないかと考えています。
群れを守るということが第一命題で、
他の構成員を押しのけて自分の利益を得る
ということは、
あまり考えなかったのではないかと思います。

100年も前の日本の農村部では
その名残があったはずです。

いつしか、それが記憶から失われて
きれいごとになってしまいました。
一つは文明開化の負の側面だと考えていますし
一つは敗戦の混乱期に原因の一端があると感じています。

とにかく、
オオカミのように牙もなく
クマのように爪もなく
馬のような脚力も
リスのような敏捷性もない人間が
800万年も子孫を残してきたのは、
ギリギリの餓えの連続の中で
必死に群れの頭数を維持しようという本能が
あったからだと思います。

現代的に表現すると
仲間を大切にしようとする本能があった
と言えるのだと思います。
それが自分を大切にする意味だった時代が
800万年近く続いたということなのだと思います。

群れの秩序を守る、群のルールを守るということは
本当は人間の遺伝子に組み込まれた本能なのです。

6 少年事件から規範意識を考える

この問題がとてもわかりやすいのは少年事件です。
仲間がひどい目にあったときに
武器をもって相手を襲撃してけがを負わす
そういう事件が少年の間ではよく起きています。

学校の規則や法律を守らないで、
仲間との関係を優先してしまう。

こういうことがどうして起きるかというと、
少年にとって、学校や国、社会は、
自分を守るものではなく、
自分を追い込むも存在、
自分を馬鹿にする存在であり、
仲間は、自分を守ったり、
自分を一人の人間として扱ってくれる存在なのです。
居心地の良い仲間とは限らないのですが、
自分の居場所が確保されている人間関係です。

だから、自分を守るため、
仲間との関係性、仲間の中のルールを守ろうとするのです。
校則や法律を守ろうとしないのです。

そうすると子どもたちに規範意識を持ってもらうとか
人間関係を大切にするということを要求する時
どうすればよいか
自然とわかると思います。

7 学校で規範意識を醸成する本当の当たり前の方法

例えば幼稚園で乱暴な子どもがいて
お友達を叩いてしまう
そういう場合に、罰を与えれば
乱暴は治るのでしょうか。

おそらく多くの幼稚園では、
普通に
お友達を大切にすること
親切にすることで
良好な人間関係が形成できることを
教えているでしょう。

園児たちは
どこかしら気恥ずかしい気持ちを持ちながら
先生の言われたとおりに友達に接して
友達から自分を迎え入れられたことを喜びながら
幼稚園生活を送ることになります。

先ず、良好な人間関係の作り方を教える必要があるでしょう。

子どもは未熟な存在です。
より安定した人間関係が形成できるように
指導していく必要があります。

他者と一緒にいることがたまらなく不安な子どもたちがいます。
この場合、当該子どもだけでなく、
周囲の子どもたちも指導をしていくことが有効です。
また、過剰な人間関係に期待をしている場合
修正をしていくことも有効でしょう。

励まして、自信を持たせることが必要な場合も多いでしょう。

他人の弱さを承認する、
他人の欠点を責めない
他人の不十分なところを補う
そんな人間関係を作ることを教えることが必要です。

これが人権教育の根幹です。
また、職場で過労死しない基礎的な人間関係を
形成する力となり、
将来的に自分を守る手段、訓練にもなります。

子どもたちはいろいろなものから追い込まれています。
親だったり、塾だったり、学校だったり
友達だったり、社会だったり、
こうでなくてはならない、
こうでなければ負け組になるということで
自分らしく生きることを否定されています。

貴方は悪いわけではなく、
行動を修正していけば
もっと快適な生活が送れる
そういうことを教えていくのが教育ではないでしょうか。

必罰主義は
未熟が悪だということになります。
ありのままでいることが悪だということになります。
励ますのではなく、徹底的に否定することになりかねません。

弱い者が悪だ
悪にならないように必死に努力して
ひと時も気を抜かないでいなければならない
そう言われ続けているのが現代の子どもたちのような
そんな気がして仕方がありません。

現在のいじめや自死は
こうした世の中の必罰主義が作り出している
と私は思います。

その上学校でまで
子どもたちの失敗を悪と決めつけ
失敗したものは生まれつき失敗すると言って処罰をする
さらにストレスをかけていくという
悪徳労務管理で子どもたちの余裕を搾り取るものです。

学校の状況を改善する方法と
全くもって逆行していると思います。

もっともっと批判を大きくするべきだと思いました。

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あがり症の方、気持ちがゆっくりできない方へ マインドフルネス的な呼吸法、20分で方法も理論も分かり、一生忘れないで使える方法 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 具体的な技術
 ⅰ)筋肉の緊張の緩和
   私たちの体の筋肉は、結構無駄に緊張しています。できるだけ、無駄な緊張をとることから始めましょう。と言っても、さあ、緊張を緩和させなさいと言われても、できません。逆に緊張させるところから始める方が簡単です。顔の筋肉を緊張させることから始めましょう。
  ① 顔の筋肉を眉間に寄せる感覚で
    顔全体を動かしてみましょう。
    眉間にしわを寄せ、
    唇をすぼめて心もち上にあげ、
    頬の筋肉も寄せる感じで、
    できるだけ力を入れましょう。
  ② 二秒力を入れ続けましょう。
  ③ 力を抜きます。
    筋肉が戻るような感覚を感じることでしょう。
    これが脱力の感覚です。
  ④ まだ、脱力しきれていない筋肉を感じたら
    脱力をしてゆきましょう。
    先ほど脱力した時の感覚を続けるような感じです。
    額とか、目の周りとかさらに緩めることができませんか。
    口やあごの筋肉も緩めることができそうです。
  ⑤ 徐々にのどの筋肉、型の筋肉、背中の筋肉等
    どんどん緩めていきましょう。
  申し遅れましたが、
くれぐれも転んでけがなどしないように、
安全な場所で行ってください。
⑥ いろいろな音が聞こえてきたリ、
  かゆかったり、軽い痛みを感じるかもしれません。
  痛いとかかゆいとか我慢できない場合は対処してください。
  また初めから始めればよいです。
  あとは、ただ、ただ、感じてください。
  匂いもするかもしれませんが、やはり十分感じてください。
  感じる以上の反応をしない
  ということが大切なことです。
  感じる以上頭では考えないということが大切なことです。
 
 ⅱ)呼吸法
   この時の姿勢は、座禅が最も合理的のようです。
   但し、座禅を組むと痛い場合はやめてください。
   あぐらでもよいですが、片方の足をもう片方の足の
   太ももの上に乗せても効果的です。
   とっさの場合は、どんな姿勢でも良いです。

  ① 静かに息を吸い、ゆっくり吐きましょう。
  ② そうして再び息を吸います。
    鼻から息を吸うことを意識しましょう。
    鼻の粘膜で、空気が鼻から入っていることが確認できますか。
    鼻が詰まっているときは口から息を吸いますが、
    口の中の粘膜で、空気が入って動いていることを確認しましょう。
腹や胸が膨らんでいることを感じてください。
  ③ ゆっくり息を吐きだしましょう。
    腹や胸がしぼんでいくことを感じましょう。
    鼻や口から息が出て行くことを感じましょう。
   空気の移動を感じるわけですが、
   同時に自分の体を感じることができています。
   やはり、ただ感じてください。
頭では何も考えないようにしましょう。

実際に覚えるのは以上です。
できるだけ他人のいない部屋等で行うことが良いのですが、
呼吸法などは、人ごみの中でもできるリラックス法です。
誰にも気づかれないようにすることができます。

2 理論
 ⅰ)なぜ緊張するのか
   眠っているときはともかく、起きているときは、
   人間は緊張しているようです。
   緊張とは、危険に気が付いて、
   危険が現実化した時に備えて
   いつでもよけたり、逃げたりできるように
   準備するということです。
   人間に限らず動物全般は、
   眠りから覚めると多少は緊張が始まるようです。

   危険への対応とは
   筋肉を動かすことです。
   筋肉を緊張させていれば、
   素早く、力強く、筋肉を使って
   よけたり、逃げたりしやすくなります。

   人間がチンパンジーの祖先から分かれて800万年と言われますが、
   その間ずうっとそうやって危険に備えてきたわけです。
   そうする仕組みが体に合った者だけが
現代に遺伝子を残してきたのでしょう。

   しかし、現代社会では、
   日常的に緊張する必要がありません。
   虎やオオカミが襲ってくることも少なく、
   安全に守られているからです。

   また、自動車事故や戦争などは、
   身構えていても防ぐことができませんから、
   やはりあまり筋肉を緊張させる必要がありませんが、
   遺伝子に組み込まれた準備的緊張が
   どうしても起きてしまうのでしょう。

   もう一つ重大な事情があります。
   
   それは、人間が群れを作る動物であることから来る
   群れの中での立場が悪くなる場合にも
   危険を感じてしまい、
   筋肉が緊張してしまう性質があるということです。

   例えば、試験に失敗するかもしれないとか、
   人前に出て発表しなければならないとか、
   あるいは、
   上司から叱られるとか、
   自分の悪口を陰で言われていることに気が付いた時とか、
   
   そういう場合に、カーとなったり、ドキドキしたりしますが、
   同時に手を握り締めていたり、
   顔がこわばっていたりとか、
   緊張していることがあると思います。

   人間の体は、そんなに都合良くできていません。
   身体的危険の感じ方とは別に
   群れの(対人関係的)危険の感じる方法を
   自然は用意していませんでした。
   感じた結果は同じ反応になってしまうのです。

   仕事上の不安や、家族の人間関係の不安、
   学校での友達や先生との関係も
   いつの間にか筋肉が緊張しているのは、
   このような理由があるからでした。

   この緊張は、身体的な危険の場合は逃げるために合理的な反応でした。
   しかし、対人関係上の危険については、
   有効性はありません。
   かえって、緊張によって失敗を招く場合があるなど、
   無駄なことが多い反応ということになります。

   いずれにしても
   群れを作る動物である人間は、
   緊張の種は尽きません。
   知らず知らずのうちに緊張が当たり前になってしまっているようです。
 
ⅱ)存在しない危険・過大視してしまう危険
  先回りして危険を感じようとする

   緊張が続くと悪いことが起きます。
   身体生命の危険ですとわかりやすいですし、
   悪いことが起きるとも言えないのです。
   翌犬に追いかけられた場合のことを例に挙げられます。
   
   先ず、頭の中の発想として
安全な場所に行くことが最優先になります。
   当然と言えば当然ですね。

   そうして、先々のことや複雑なことは考えられなくなります。
   安全な場所に行く以外のことは考えない方が
   ひたすら逃げることに専念できますからね。

   また二者択一的思考になります。
   自分は安全なところにたどり着いたか、まだ危険か
   という判断だけが頭の中で優先されます。

   さらには、まだ危ないのではないかと
   そういう風に慎重になる傾向が生まれます。
   言い方によっては、安全策を第一にすると言えますが、
   悪く言えば、まだ危ないのではないかという
   悲観的な考えが支配的になります。

   怖いと思うと
   実際にはそれほど危険なことでもないのに、
   どんどん危険だと思い、怖くなります。

   ゴキブリの這うような音がしただけで
   実際はいないゴキブリに脅えたりします。
   また、ゴキブリがそれほど害がないのですが、
   ゴキブリが病原菌の塊で、
   身の破滅だというような恐怖を感じる人もいるでしょう。

   しかし、ゴキブリを捕獲したり殺したりすると
   恐怖感がだいぶ軽減されるようです。

   危険を感じると、
   実際には存在しない危険を感じてしまうようになったり、
   実際にはそれほど大きくないのに
   大きな危険があるように感じてしまうようになったりするようです。

   これも安全優先の思考パターンから来るものだと思います。
   生き残るためのメカニズムなのでしょう。

   これは、身体生命の危険だけでなく、
   対人関係上の危険でも同じなようです。
   対人関係上の危険では、
   悪いことが起きてしまいます。

   危険を感じて、それが継続すると、
   どんどん危険を感じ易い状態になっていく
   ということがありそうです。

   そうして、ありもしない危険を思いついて
   益々緊張を強めていきます。
   先回り危険予測みたいなものに最終的には陥り、
   何をやってもうまくいくはずがないと
   強く思いこんでしまいます。

   危険スパイラルみたいなものです。
  
   もうこうなると、こじつけのような不安がどんどん生まれます。
   自分でも気が付かないうちにネガティブな感情になっていきます。
   始末に負えないのは、
   具体的な危険が想定できないということです。

   具体的な危険、つまり、危険の内容を言葉でいえる危険ではない。
   漠然とした危険ということになると思います。
   特に、身体生命の危険ではなく
   対人関係的危険の特徴です。

   人間の中にいると何となく不安になる。
   不安を解消するために、
   人間のいるところに行かない
   逆に攻撃されないように、強がって
   攻撃したらし返すぞというオーラを出す、
   何かに夢中になりすぎてしまう、
   お酒など、薬物に逃げ込んでしまう。
   人を信じられなくなってしまう。

   いろいろな不具合が
   知らないうちに起きてしまう。
 
   危険・不安スパイラルを
どこかで一度切ってしまう必要が出てきます。

 ⅲ)無駄な危険を感じなくする方法 体を感じる方法

   無駄な危険を感じると
   例えば作業においては、
   ケアレスミスが増えていきますし、
   二者択一的な思考が、第三の方法という発想を妨害します。
   抽象的な、美しさとか、友情とか、愛情とか
   そういうことを感じることができなくなっていきます。
   先ほどの不安解消行動が
   社会病理につながることもあります。

   現代のストレス社会(緊張過剰社会)こそ、
   リラックスの方法が求められていると思います。

   危険を感じなくする方法、
   しかも本当の危険に対処できる方法が必要です。

   向精神薬による危険を感じにくくする方法は、
   他の色々な感情もなくしていくので
   副作用のない方法がほしいという要求は
   現代的な要求(ニーズ)なのでしょう。

   その方法が筋肉の緩和と呼吸法なのです。

   これは、人間が、
   身体的な危険と
   対人関係的危険という
   二種類の危険を感じるけれど
   感じ方が一緒だということを
   逆に利用するということです。

   体に危険はないということを自覚することによって、
   体の危険に対処するための
   筋肉の緊張をとくということです。
   これは同時に血圧を下げ、脈拍を減少させるなどの
   効果も期待できます。

   ではどうやって、
   体に危険が無いということを感じるのでしょう。

   実は、これも体が危険を感じる仕組みを
   逆手に取る方法なのです。
   
   危険の感じ方は以下のとおりです。
   ①人間が危険を感じるのは理屈ではない。
   ②危険は無意識に感じている。
   ③視覚、聴覚、味覚、嗅覚、皮膚感覚のセンサーが
   何かをとらえると脳が勝手に危険だと判断する。
   その結果、色々な緊張が脳の指令によって起きるわけです、

   そうだとすると、
   五感で、安全だと感じた場合は、
   脳が勝手に危険信号を停止させるということを期待しています。

   一番先回り危険予測をしないセンサーが
   皮膚感覚だということになります。
   のんびり皮膚感覚を感じていれば、
   脳は危険が迫っていないと勝手に判断するわけです。

   あとは視覚、聴覚、嗅覚等で何かを感じていても
   ただ、その通りを受け止めて
   先回り危険予測をしなければ、
   どんどん落ち着いて行く
   というこういう理屈です。

   だから、本来、呼吸法さえしっかりできれば、
   安心感を獲得できることが期待できます。
   少なくとも焦りはだいぶ軽減されることになります。

   但し、既に、危険スパイラルの中に
   現代人は、多かれ少なかれ巻き込まれていますから、
   呼吸法を始める前に
   強制リセットをする必要も出てきます。
   このために、筋肉の緊張をとる方法を
   先に行うことを今回の説明では行いました。

   理屈は同じですが、
   筋肉の大きな動きの方が
   皮膚感覚を感じ易くしやすいと思いました。

   これは、本来は、
   歌唱方法です。
   のどの緊張をとることによって
   声を出しやすくするための方法です。

   同じようなことが、
   自律神経訓練法等で紹介されることもありますが、
   結局交感神経を鎮めて
   副交感神経を高め、
   体のメンテナンスを体がしやすくするということだと思います。

   緊張を解くということは難しいので、
   あえて緊張を強めてみて、
   自然に緊張が緩和しますから、
   その動きをさらに進めるという方法で
   筋肉の緊張を緩めていくという方法論です。

3 さらなる背景、人間観
   
  人間は、意識をもって、道具や言葉を使い、
  他の動物ができないいろいろなことを成し遂げ
  現在の繁栄を築きました。

  ところが、この意識が独り歩きをするようになり、
  人間本来の力を封じ込めてしまう
  という悪さをするようになったようです。

  本来自然治癒力を助けるための薬などの方策が、
  逆に自然治癒力を妨害するような
  あるいは新たな問題を引き起こすような事態を招いています。

  意識や不安感もこの自然治癒力の一つではあるのですが、
  過剰に不安や危険意識をもってしまうということは
  人間にはよくあることです。
  身体生命においても、
  捻挫などをして痛みを感じることによって
  安静にすることによって
自然治癒力で回復させるという仕組みがありますが、
  よくあることとして、
  この痛みを感じさせる反応が強くなりすぎて
  逆に症状の回復を阻害することがあります。
  これを是正するために湿布などが使われるわけです。

  危険意識、不安が過剰に起こるということは
  精密機械ではない生き物として人間の宿命です。
  このような原理を把握して、
  過剰な反応を抑えるということが、
  筋肉緊張であり呼吸法です。

  もう一つ、人間の自我意識が強すぎると
  うまくゆかなくなることもあります。
  先回り危険予測が起きやすくなるようです。

  もともと、人間というのは単体の生命ではありません。
  いろいろな細菌がいなければ生きていけないばかりではなく、
  細胞一つ一つが独立の生命体と考えることもできます。
  それらが遺伝子のデザインによって、
  ある程度適正に働くことによって、
  本来自然にうまくゆくようです。
  
  意識は、このような生命のユニットの
  大雑把なかじ取りをすればよいのです。
  寒いので暖かくしようとか、
  おなかがすいたので何か食料を探そうとか、
  緻密なことは細胞や細菌に任せる。

  自分というものが、
  それほど絶対的なものではないけれど、
  多くの命の運命を握っている大雑把な司令塔
  というような感覚になることによって、
  本当に必要なもの、必要なことと
  本当はどうでも良いことを見極める
  という姿勢があるということを
  頭の片隅におかれると
  結構楽になるかもしれません。

4 無駄話
  最近マインドフルネスがブームのようです。
  私は、マインドフルネスという概念は、
  認知行動療法の一つの弁証法的行動療法からくる
  理論だと思っていましたが、
  必ずしもそれに限られないようです。

  私の呼吸法は、マインドフルネスに
  大変よく似ていて驚いているのですが、
  実際の教科書は、
  バベット・ロスチャイルドという人の
「PTSDとトラウマの心理療法
  心身統合アプローチの理論と実践」
 (創元社)です。
  自分の体を感じることをアンカーとする
  拠りどころとするというようなものでしょうか
  という理論を応用したものです。

  この人も私もそうなのですが、
  アントニオ・ダマシオという脳科学者の
  ソマティックマーカー理論
  がもとになっています。

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自殺サイトの何が問題か、その危険性とそもそもの根本的な問題。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自殺サイトには様々な危険性があります。
どうして危険なのかその理由についてお話ししたいと思います。

先ず、色々な困難な問題や病気があるからと言って、
直ちに自死につながるということではありません。
なぜならば、死ぬことは誰しも怖いからです。

自死に至る前段階として、
様々な事情から生きる意欲を失い始める時期があるようです。
それに至る一つのパターンをごく大雑把に言うと
自分が人間として認められていないと感じることによって
生きる意欲を失うというパターンがあります。
パワハラやいじめによる自死や
貧困や人間関係の不良による自死がこのパターンのようです。

人間として認められないとは、
仲間として扱われていないということのようです。

それでもいつか自分も仲間として認められたいと思うのですが、
それが不可能だと実感していくと
徐々に生きる意欲を失っていくという現象が起きるようです。

但し、本人の気持ちはそのように整理されてはいません。
漠然とした不安や出口のない息苦しさで、
心休まる暇もなく、大変苦しい時間が連続しています。

具体的な理由もなく、精神疾患等によって
漠然とした苦しさが蔓延していたり、
具体的な理由から精神疾患に陥る、あるいは重症になっていく
という悪循環も起きていきます。

この時期、その人たちが求めているのは、
救いです。
再び仲間として尊重されるという喜びです。
生きようとしているのです。

しかし、その手段が無いと感じるわけです。

そうすると、
この苦しみを感じ続けていくことの
その苦しみが強くなっていきます。

その時、間違った逃げ道を与えると
のどが乾ききった旅人が水を飲むように
その道に突き進んでいくということが起きてしまいます。

自死者の直前の状態はこういう状態です。
この苦しみから逃れたいということですね。
救済を渇望しているとも言えるでしょう。

その時に「自殺」というアイデアを注入するとどうなるでしょう。
「死んでしまえばこの苦しみはなくなる」
という考えが浮かんできてしまうのです。
そうすると、少し暖かい、ほっとした気持ちになるようです。
明るい兆しと受け止めてしまいます。

追いつめられた人は二者択一的志向になりますから
このまま苦しみ続けるのか、死ぬか
というテーマが設定されてしまいます。

要するに死ぬという結論しか出てこない
テーマ設定です。
あとは、意識ではなく
生き物としての感覚が
死を猶予しているだけになってしまいます。

自殺サイトの第1の危険性は、
救済を渇望している人に
自死が救済になるという気持ちを
作ってしまうところにあります。

第2の危険性は、
死ぬことの抵抗がなくなることです。
人が、それほど難しいことなく
物理的に死に至る方法を身近にすることは、
人間が大切にされるものではないという感覚を作っていきます。

人間は、自分も含めて
人というものが大切な存在で、
尊重されるべきだという
ある意味神秘性を感じて生きているようです。

悲しんだり苦しんだりしたらかわいそうだから
何とか助けてあげたいという気持ちが
自分も生きていくという気持ちと重なるわけです。

ところが、人間が虐げられたり、
命を失う目にあうことについて
当たり前のように体験したり、目撃したりしていくうちに

人間という生物は
ただ、化学反応で成り立っているものだという
感覚が強くなってしまいます。

命があってもなくても
それほど意味があることではないという感覚になっていくと、
死ぬことが怖いという感覚が
薄れていってしまうようです。

また、自分だけでなく
外の人も平気で死んでいくという考えは、
自分が死ぬことに抵抗もなくなっていきます。

自殺サイトなど、自死がありふれたものになっていくことは
死への抵抗が失われていくという意味で
大変危険なことです。

第3に、手段を示すことの危険性があります。
このまま苦しみ続けるか自死するか
というテーマ設定から、
このまま苦しみ続けるか、あの方法で自死するか
という具体性を獲得してしまうと、
結局その方法から逃れることができなくなっていきます。

その方法が、自分を苦しみから救い出す方法として、
明るい、どこか暖かいような幻想をもって行くようです。

だんだんとその方法をとらないことが
苦しくなっていくようです。
実行することについて、抵抗できなくなっていくようです。

自殺サイトの危険性を整理すると、
追いつめられた人に対して
引き金を引かせる危険が第1だろうと思います。

第2が、人間を大切にすることができなくなる
という危険でしょう。

だから、自殺サイトがあることが
自殺の増加につながるということは間違いありません。

しかし、ここで考えていただきたいことは、
自殺サイト云々の話は対症療法の側面があるということです。

根本的に、追いつめられていなければ、
自殺サイトを見ても嫌悪感しか生まれないでしょう。

そこまで人を追いつめることをやめることが
根本治療として考えられなければならないことです。

仲間として尊重されていないと
感じる仕打ちをやめなければなりません。

何が、仲間として尊重されていない事情なのかを
明らかにしないと、
なかなか自分の行為で他人が傷ついているとは
考えることは難しいことは確かです。

それがこのブログの大きな目的ですが、

一つの方法として
自死を思い立ったり
自死を遂げられなかった人から
多く学ぶことをすることが急務だと思います。

あまりに統計的な調査が多すぎて、
おそらく電話などで調査しているのでしょうけれど
人間が見えてこない研究が多いように思われるところであります。

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座間9遺体事件の情報から、子どもたちの心を守るための対人関係学からの提案とお願い [自死(自殺)・不明死、葛藤]


今こそ、家族をはじめとする仲間に意識的に優しくしよう

1 子どもたちと私たち一般の方に向けて
2 報道機関に向けて
3 警察、検察、弁護士等刑事手続きご担当者に向けて

連日陰惨な情報が垂れ流しになっています。
座間の9遺体事件の衝撃のために、
アメリカで起きたテロや
少し前の高速道路上の事件やタイヤで親子がなくなった事件の
衝撃が薄れてしまうほどです。
この変化は情報の受け手に過ぎない私たちの
心にとっても極めて危険なことが起きていることを示しています。

どうして、自分と関係の無い人の出来事にも
嫌な気持ちになるのでしょう。
対人関係学的には理由のあることだと考えています。

少し説明すると
先ず、人間は、動物として、
危険が迫ってくることを五感で感じたら、
危ないと思って、避けたり、逃げたりします。
それだけでなく、
人間は、群れを作る動物として、
仲間が被害を受けたら、
危ないと思って、被害を受けないように工夫をします。

この時に人間の心の動きは、
被害を受けている仲間の苦しさや悲しさ、痛みを感じ、
(共鳴する、自分のこととして受け止めるわけです。)
危険が起きているという危機感を抱いて、
同じ被害にあわないようにしようと行動をするという仕組みです。

危機感は、危険回避のためのシステムです。
共鳴、共感は無意識に起きてしまう現象ですから
止めることができません。
人間の危険を回避する遺伝子に組み込まれた仕組みということになります。

だから、陰惨な事件を見ると、
無意識に、被害者や場合によっては加害者にも共感し、
とてつもなく嫌な気持ちになるわけです。

ところが、
そのむごさの程度が強すぎると、
共鳴、共感を心が持てあますことになります。
特に危険を回避する方法がない時には心があふれてしまいます。

先ず、拒否反応を示します。
知りたくない、見たくないという感じです。

次に、自分は同じ危険に会うことはないということを
何とか自分自身に思いこませて合理化したくなります。
その時の反応は、加害者が特殊な人間であるから、
加害者と同類の人間に自分は出会わないだろうと
思いたくなるものです。
加害者に対して感情的に反発をします。

さらには、被害者にも落ち度があるのではないか
ということを探し出します。
被害者が特殊な人間だから被害に遭った
自分は特殊な人間ではないから大丈夫ということです。
被害者に対して攻撃をする心理の一つの原因だと思います。

これらは、自分が同じ危険に会わないはずだと思い込みたいという
安心感を求めての無意識の反応であり、
生きるための仕組みです。

しかし、このような拒否反応や合理化で対処しきれないと
理由もなく、不安や恐怖が襲ってくることになります。
ここまでは、それでも、生きるための工夫ですから
まだ健全な要素が残ります。

そうでない場合としては、
心を慣らしてしまうという危険が
一番心配されるべきことだと思います。
つまり、
人間はそれほど大切にされるべき存在ではない
だから、
どんな酷いことがあっても、
それほど悪いことでも危険なことでもない
という感覚を獲得してしまうことです。

他人も、自分さえも、
無意識に存在価値を肯定できなくなっていきます。

他者を大事にしない、自分を大事にしないということから
犯罪が起きる環境、自死が起きる環境、
その他の社会病理が起きる環境が
熟成していってしまうと考えています。

直ちに模倣犯が起きるわけではありませんが、
このように人間を大事にしないということは
対人関係上の不具合である社会病理が起きやすくなる要因だと
考えています。

このような退廃や人格の荒廃から子どもたちや
自分たちを守るためにどうしたらよいか。
このことについて、提案します。

1 子どもたちと私たち一般の方に向けて

先ず、できる限り、事件報道を見ない、見せないこと
どうしても最近の報道は、事実の衝撃的な部分を
クローズアップして表現しようとする傾向があります。
とても危険な状態だと思います。
一つ一つが、受け手の心を傷つけているのに
注目を集めるために、ことさら刺激的な表現をしています。
いっそのこと、ニュースを見ないようにするということも
これ以上の攻撃を受けないために
緊急避難として必要かもしれません。

大人は嫌な気持ちがしますが、
子どもは感性が確立していなくて、
こういうことを含めて常識を形成してしまいますので、
特に注意が必要です。

次に、ニュースを見ないことにも限界がありますし、
起きた事実を否定してももはや意味がないでしょう。

事件報道による心の被害を0にするという発想から、
事件報道があっても、傷つかない心を作る
という発想に切り替えることも有効です。

この時、単純に被害を0にするとなると、
感じなくすることしか結局出てこず、
結局人格の荒廃が起きてしまうことは、
先ほど述べた通りです。
「メンタルを鍛える」ということを安直に考えないでください。

あくまでも0の先のプラスを目指さなければなりません。

これは簡単な理屈です。例えば、
何か熱いものに触って指をやけどした場合、
指も熱くなっています。
ここで0を目指すということは
36度のぬるま湯を指にあてることです。
36度が元々の体温だからです。

0の先のプラスを目指すということは、
0度近い冷水をやけどした指にあてることです。
むしろ冷やすことで、
やけどの治療をするということになります。

では、実際にはどうしたらよいか。

人間性を回復させる行為を意識的にするということです。
群れの中にいる安心感を獲得してもらうということです。
例えば、
誰かから、失敗を許される、不足をカバーしてもらう、
多少のことがあっても、仲間として尊重されている
という実感を持ってもらうことです。
人間は群れを作る動物ですから、
仲間の中で尊重されている自分が大事にされていると感じると
勝手に、安心感を獲得することができます。

具体的には、
だから、子どもたちのやらなければいけないこと
勉強だったり、片付けだったり、
少しだけ、報道が続いている間だけでも
厳しさを緩めてあげることを提案します。

また、良いところを言葉にして褒めるとか
ありがとう等という言葉を意識的に使い、
仲間の中で役に立っている存在である自分
という意識を持ってもらいましょう。

これは子どもに限らず
大人の間でも有効です。

また、仲間をケアするための行動は、
自分にとっても仲間の中で役割を果たしているという意識を持てますので、
自分にとっても人間性の荒廃に対抗する活動だということになります。

座間の報道で動揺をしているか、していないかにかかわらず、
有効な活動であると思います。
動揺が見えてからでは遅いと思います。

2 報道機関に向けて

あまり必要のない報道は行うべきではないでしょう。
衝撃度を競い合うことでの評価は今回ばかりはやめていただきたい。
人体損傷の内容や具体的な手段などは
いちいち報道することではないと思います。

今、国民の潜在的ニーズは
人間が信じられるということ、人間同士の協力がありがたいということ
そういう人間性を回復したいということにありますので、
そのようなニュースや番組を意識的に制作していただきたいと思います。

3 警察、検察、弁護士等刑事手続きご担当者に向けて

私は、犯罪は、行為者の持って生まれた条件から起きるのではなく、
行為者が置かれた環境が大きな要因であると感じています。
今回の事件が起きる背景というものが必ずあると思います。
どうか、その部分を掘り下げていただきたいと思います。

単に加害者に対する制裁ということばかりを考えていると
この犯罪に至る仕組みの分析が弱くなります。

刑事手続きの担当者とはいえ人間です。
おそらく、その背景を捜査していくうちに
今回の犯罪に準じた陰惨な事実に出くわすと思われます。
かなりの心理的負担となるでしょう。

しかし、その背景事情こそ、現実に起きていることだし、
今回の犯人以外の人も
その背景事情を体験しているかもしれません。
今回の犯罪予備軍がいるかもしれないことになります。

その背景事情をなくすことこそが
犯罪抑止の特効薬であると思います。
そのような観点から
事件を掘り下げていただきたく
お願い申し上げる次第です。

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How to love our enemies 汝の敵の愛し方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



前回の記事では、
敵とは、
自分の仲間の中における自分の立場を危うくする存在
と定義しました。

愛そうとするだけで、
交感神経のある程度の低下を期待できるので、
それだけでも役に立つ思考技術だとも言いました。

しかし、敵を愛するということは簡単なことではありません。

もう一つ、愛する意味について考える必要がありそうです。

日常的に愛するという言葉は、
「気が付いていたらいつの間にか好きになっていた」
というような自発的な感情として語られると思います。

しかし、敵は、
自分の人間関係を危うくする存在ですから、
けがをさせられたり、命を脅かされることと同じで、
生き物として、
好ましい感情が自然にわいてくるということはありえません。
生き物の特徴である
生きようとする意欲を持つことは、
生きるための障害を取り除こうとすることこそ自然な感情です。

その障害を好ましいと思うことは、
むしろ不道徳なことだと思います。

おそらく、キリストの説く愛、アガペーは、
そのような自然な自発的感情ではなく、
能動的な行為であると思います。
愛とは、努力を伴う思考作業だと思います。

最低限の条件として、
相手の存在を否定しないことになるのではないでしょうか。

愛とは、相手が人間として存在することを
承認することが出発点だと思います。

ここで、大人の思考、合理的思考として
行わなければならないことがあります。

敵だと思う相手は、
自分と独立して存在するのだということです。

相手から嫌な思いをさせられると、
ついつい、自分と相手の関係性だけで
相手が存在するように考えてしまいます。
相手が自分に嫌な思いをさせる理由を
自分の存在や自分と相手の関係性に求めてしまうのです。

敵である相手が自分から独立して存在するという考えは、
相手の自分に対する敵対行為は、
先ず、相手自身の状態の反映かもしれない
と考えることができます。

何か、別に理由があるのではないか
と考えることを提案します。

特に、相手の自分に対する妨害行動が
怒りや憎しみを伴っている場合は、
相手が何らかの不安を抱いている場合です。

先ず、自分の存在を脅かす出来事を感じた場合、
人間に限らず多くの動物は、
不安を感じます。

その次に、不安の解消可能性の主観的判断に応じて、
怒り、
憎悪、
恐怖、
絶望

不安解消方法を実行できる場合、
怒りを感じ、不安の原因を攻撃することによって
不安を解消しようとします。

直ちに不安の原因を除去できなくても
いずれ攻撃によって不安を解消できるかもしれない
と思うと憎悪を感じます。

自分の力では不安を解消できない、
不安から逃げなければならない場合は
恐怖を感じます。

逃げることもできない場合は
絶望を感じるほかありません。

怒りの特徴の一つが、
根本的な不安に怒りが向かわないということがあります。
怒りの根本的原因は、
国家だったり、社会だったり、会社だったり制度だったり、
とても太刀打ちできないことが多いからです。

大雑把に言って、
怒りの80%以上は八つ当たりではないかと感じています。

例えば、あなたが道を歩いていて肩がぶつかり、
相手からにらまれたとしても、
彼の根本的不安は、
貴方がよけなかったことではなく、
上司が自分を公平に見てくれないことだったり、
自分の妻が言いがかりみたいなことで喧嘩を売ってきたことだったり、
再就職先が見つからないことだったりします。

自分が、他人から大事にされていない
だから、あなたと肩がぶつかったことも、
貴方という不特定多数人の一人が
やはり自分を尊重していないと
自分は馬鹿にされる存在だと
勝手にいじけていることの反映である可能性があるわけです。

怒りは、このように、
それ自体では、何かが解決しないどころか
ますます自分を窮地に追い詰めることもあります。

でも、
怒っているとき、誰かを攻撃しているとき、
一時的に不安が解消ないし緩和されるので、
追い込まれている人ほど怒りやすくなるものです。

さて、
他人の怒りと出会ったならば
最初に行うことは、
その人は、あなたにとって大切にするべき人間関係にある人か否か
という判断をすることです。

道で肩がぶつかったような人であれば、
何ら大切にするべき人ではないので、
貴方はこの人との関係が悪くなる心配をする必要がありません。
早急にこの人との関係を切り、その場から離脱することを目指しましょう。

やるべきことは形式的なことです。
謝罪をするなど、
敵意のないこと、ぶつかる意図がなかったことを示しましょう。
これを誠実に行うことがエチケットというやつです。

それでも相手がグダグダいうようだったら、
誰かに助けを求め、
相手に勝てると思わせない工夫をすることです。
つまり、誰かに助けを求めるということです。

次に、敵だと思う相手が
継続的な人間関係を作らなければならない人である場合です。

この場合でも、特に家族以外であれば、
最終的には、人間関係から離脱をする選択肢もある
ということを意識することは大切です。

しかし、第1次的には、
相手の不安の根源を見極めることでしょう。
相手と自分の関係の文脈で事態を理解しようとしないで、
先ずは、相手には何らかの不安があり、
その不安を解消しようとしているという
上から目線で全体を見る
という思考作業が有効だと思います。

それから先は、先の事例と共通します。
即ち孤立しないこと。
仲間に相談することです。
どうしても自分は、相手の悪意を感じると
自分を守ろうとしますから、
自分と相手の関係に原因を求めようとします。
だから、危険意識を感じない第三者の
視点を利用するということです。

だから、その相談相手は、
相手との対立をあおるような人は失格です。

そうして、相手に敵意のないことを示します。
挨拶というものはそういうものです。
返事を返さなくても
堂々と挨拶を続けること、
そうしながら自分の仲間を増やすことです。

仲間は、その現場になくてもかまいません。
一番有効な仲間は家庭にいます。
家族を大切にするということは、
とても大切なことなのです。

ただ、それでも解決しない場合は、
専門家の視点を導入する必要があります。

この時、現段階では、職業はあまりあてになりません。
職場や学校等トラブルの専門家でなくてはなりません。

問題は、家族の中に敵がいると感じる場合です。

しかし、基本的な作業は同じです。
先ず、相手が何について不安を感じているのか、
それは解消するべきなのか、
その人間関係を断ち切ることを決断するべきなのか、
一緒に考えることです。

そうして、自分は敵意がないということを示すことです。

家族以外の第三者が、
相手に働きかけて
自分に対する怒りの感情を作り出している場合があります。

その作り出された怒りを抱いた相手に
こちらも怒りを向けては
解決しなくなります。

怒りを作り出した相手が誰なのか
どうしたら怒りが錯覚であるのかを
相手が理解するのか
考えるべきでしょう。

それが解決の第一歩です。


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東日本大震災の自分の命を犠牲にして他人を守った人たちを尊重することと、二度目は許さない決意の具体化と 特攻隊が議論される8月に [自死(自殺)・不明死、葛藤]

1 人のために犠牲になることは尊いことである。否定されるべきではない。

  8月になると、特攻隊の評価をめぐった論争がおこります。しかし、整理がなされていないため、お互いに、都合の悪いところに目をつぶったまま議論がなされている印象を受けてしまいます。このブログでも、この2年、この問題を取り上げています。対人関係学的視点で、今年も問題を整理して確認したいと思います。
  先ず、他人のために犠牲になることは、否定されるべきことではないという一般論があると思います。
  これは群れを作る動物である人間が他の動物と区別されるポイントになります。他の動物でも、例えば子育て中の母親が子供の命を救うために決死の戦いに挑むということはありますが、それ以外ではあまり一般的ではないでしょう。人間は、血縁関係が無くても他者のために自分を犠牲にすることがあります。
  本来は、群れを形成する仕組みなのですが、群れの中に存在したいという根源的要求を人間は持っているわけです。群れの中に存在したいのですから、群れから排除されるあらゆる兆候が、人間にとっては結構大きなストレスになります。ストレスを感じると自分の行動を修正したり、環境に働きかけて、仲間の一員となるべく行動をするわけです。仲間として尊重されるための行動の大きな柱が、「仲間の役に立つことをする。」ということです。仲間を助けるということも、仲間の役に立つことをしたと感じる大きな行動でしょう。また、「仲間という群れ自体を守る」ということを志向することもあり、「仲間の役に立つこと」、「群れを守るということ」を、無条件に行動してしまう傾向があるようです。

  これは人間らしいことです。だから、むしろ、自分の個人的な利益のために、仲間を犠牲にすることの方が、人間の自然な感情に反する行為です。このような行為をする場合には、特異な体験だったり、生い立ちだったり、何らかの不自然な理由があると考えるべきだと思います。

2 自分の命を差し出すことは、必ずしも強制がある場合だけではない。

  本来、他人を守るために行動することは、このように人間の本能に根差した行為であり、理屈を抜きにして行われることです。このため、誰からか強制されなくても、自分の命を犠牲にして他者を守るということは少ない事例ではありません。
  平成23年3月11日、東日本大震災の津波で多くの人が亡くなりました。その中には、仙台市若林区役所の職員の方(2名)、南三陸町の職員の方をはじめとする自治体職員の方、警察官の方、消防署職員や消防団員の方等津波から住民を避難させるために、命の危険のあることを顧みず、避難誘導を行い、津波に飲み込まれて命を失った方々がいらっしゃいます。
  この方々は、本当に尊いお仕事をなされた方々であり、称賛されるべき方々です。ここで私が申し上げる「称賛」については、すぐ後で検討します。
  彼らは、直前まで死の恐怖があったことは間違いないでしょう。メールなどの記録が残っています。しかし、もう一方で、他人の命を助けているという使命感によって、精神が高揚していた様子もうかがうことができます。残された数少ない記録をたどると、その場所にいる住民を安全な場所に非難させるために、あえて危険な箇所に踏み込んでいったり、危険な状況が差し迫っていてアナウンスをしていた人が非難しても、さらに交代してアナウンスを続けた方もいらっしゃいます。ほとんど報道もされていません。嘆かわしいことだと思います。特攻隊員を賛美する人のわずかの割合でも、このように同時代を生きて、他人を守るためにあえて自分の命を犠牲にした人を知ろうとする人が出てくることを祈るばかりです。

  私は、この人たちを称賛しても称賛しきれないと思っています。この人たちの活動で命が救われた人たちも多くいらっしゃいます。
  死に対する恐怖が存在するからと言って、そのことだけで、自分の命を犠牲にすることが、常に強制によって行われるわけではないということが肝心です。もしそこまで否定してしまったら、人間が利己的な動物だと誤った認識を持つだけでなく、利己的な行動以外は嘘くさいきれいごとだということになってしまいます。そういう心配がある為に、この点を確認する必要があると思いました。

3 人のために犠牲になる状況は、ギリギリの状況である。そのような状況を作らないことこそが肝要である。

  人間が他者を守るために、命を投げ出すことのある動物であると言っても、そのような事態は極限的な事態であり、簡単に死んで解決しようとするものではありません。当然のことです。
  一つには、他に方法がないことが条件になると思います。北海道の吹雪の中で、道が見えなくなり、二人とも共倒れになるという時に、お父さんが自分の着ている服を脱いで娘さんを温めて娘さんを助けて自分が亡くなったという事例も、まさにそのような極限的な状況だったでしょう。
  津波が迫っているのに、停電で情報が入らず、いつもの津波と同じだと思ってとどまっている人たちがいるということも、差し迫った危険で回避の方法が無い状態です。
  そして、いずれの自己犠牲も、他者の命が助かる可能性があったこと、実際に助かった人たちがいたことが、遺された我々にとっても救いになるでしょう。
  
  しかし、私はまだ考えがまとまらないことがあります。
  東日本大震災で住民の避難誘導のために命を落とした人たちの中で、もし自分の命を守るために、公務を放棄して逃げることは肯定されるべきことなのかということです。また、もし自分の子どもが公務員で、逃げられる状況があったときに公務に反して逃げることを望むか、命をなげうって公務を遂行することを是とするかという問題です。
  本人が選択するべき問題だということが必須の前提となります。ここで、いささかでも強制のニュアンスがあってはなりません。要するに、命を投げ出す公務を、断ろうと思えば断ることができる余地が残されていなければならないということが前提です。人間は、一方で群れを作る動物として群れを守り、群れに貢献したいという根源的要求があります。しかし、同時に動物として、命を長らえたいという本能的な要求があります。自己犠牲が強制されてしまうと、それは本能に根差した行動ではなく、高揚感は起きず、動物としての死の恐怖だけがむき出しになることですから、それはただただ惨(むご)いことだからです。
  
  私は、どうしても、もし自分の子どもやつながりのある人たちが、命の危険のある公務を命じたら、どんな理由をつけてもいいから、自分だけ逃げてきてほしいと感じざるを得ません。それが正しいとか誤っているとかいうことは、おそらく誰にも言えないことではないかとぼんやり考えています。

  他人のために自分の命を犠牲にするということは、極限的な話なのだと思います。南三陸町の職員の方々は、これから津波に巻き込まれて命を失うということを認識していました。メールなどで、家族に自分が死ぬことを謝罪しています。とても切ない話です。

  肝心なことは、極限的なことが、予想をはるかに超えて起きてしまったことです。その時は想定の範囲の外にありました。しかし、一度起きたことは、想定しなければなりません。
  生きていた当事者と、生きている関係者の苦しみが現実に存在したということです。残された我々は、このような極限的な状態が起きることを可能な限り排除することが求められていると思います。少なくとも、同じような極限状態が二度起きることを回避することが人間の正常な営みなのだと思います。

4 人のために亡くなった人を肯定するとはどういうことか。

  自分の命を犠牲にして他人の命を救ったという偉業は、肯定されるべきです。人間らしい行動であると肯定されるべきです。そうして、極限状態の中で、冷静に対応されたことには、いくら尊敬をしても足りないと思います。

  その人は、普通の人間ですし、その人の家族、友人も普通の人間です。普通の人間として、感情を持ち、愛情を持ち、人生があったわけです。人間として生きていたわけです。その人たちを肯定するということは、およそ被災公務員とか、そういう抽象的な人間として肯定されるべきではないのです。それぞれの人の名前と、顔と、家族を認識し、そのすべてを肯定することなのだと思います。そうは言っても、私は、名前がわかっている人は、せいぜい数十名に過ぎません。お写真を見せてもらった方々は20名を上回る人数でしょうか。遺族の方々も100名程度しかお会いしていません。
  まだまだ偉そうに肯定するべきだと言える資格はありません。

  それはともかく、避難誘導が公務であるという公務員制度を称賛することがどこかおかしいことはよくわかると思います。

5 新たな犠牲を産まない方策を整えること。命を落とさない避難誘導はどこまで整備されたのか

  さて、東日本大震災で住民を避難させるために自分の命を犠牲にした人たちの称賛と追悼は、まだ始まっていないように思えてなりません。地方公務災害補償基金も、なかなか自己犠牲を認めようとはしませんでした。
  今一番心配なことは、彼女ら、彼らの犠牲がどこまで活かされているのかということです。自分の命を犠牲にして、避難誘導を呼びかけなければもっと多くの人たちが亡くなっていたのですが、現在は同規模の津波が来た時、公務員の命を犠牲にしなくても避難誘導が可能になっているのでしょうか。安全な場所からの避難誘導がなされる仕組みが確立されているのでしょうか。私こそ不勉強で申し訳なく思っています。かさ上げ工事がどの程度有効なのか、よくわかりません。それでも、避難誘導は必要になるはずです。その対策がどの程度講じられているの、ぜひとも知りたいところです。宮城県だけでなく、他県でも同様です。
  そのような二の轍を踏まない対策が講じられることによって、失わなくて済む命が助かるというのであれば、東日本大震災の住民を守るために事故の命を犠牲にした人たちの行為の尊さをより高めることになるものであると考えています。

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自死者に自死の原因を求めるコメントが発生する原因の分析 3つの理由 今の若者が弱くなったのではなく・・・ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の報道があると、
自死の原因を個人に求める意見が目につきます。

その人が弱いから自死したんだということが
未だに私の周りでも言われています。

その代表的な言い回しは、
「今の若者は、昔に比べて弱くなった。」
というものです。

遺族は、当然、こういう意見を目にすると
深く傷つきます。

思いきって、顔を出したり、名前を出したりするのではなかったと
声をあげたことを苦やみます。
そうして、また沈黙が続くわけです。

個体の弱さが自死の原因だという烙印を押してしまうと
周囲は、身内を非難されることを嫌い
自死を隠すようになります。
これは、将来の自死予防にとっては
障壁になります。

しかし、ただ反発しているだけでは解決しないので、
私みたいな立場の者は、
どうしてそういう風なコメントを
わざわざ、遺族が目にするだろう場にするのか
ということを分析することが必要でしょう。

コメントをする人は、決して変な人ではなく、
むしろ良心的で、正義感のある人でもあります。

今回は、3つの理由を考えます。
第1に、情報不足
第2に、自己防衛本能に基づく反応
第3に、自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
    についての理解不足
です。

第1 情報不足

例えば、先日、23歳の消防士の自死について
パワハラが原因だとして損害賠償を提起し、
マスコミ各社に大きく取り上げていただきました。

それでも、
「これくらいのことで、自死するのか」
という感想が見られました。

マスコミで報道されたのは、
遂行困難な業務を押し付けられたとか
机を蹴りながら深夜まで怒鳴られた
という印象的なことに限定されます。

実際の現場では、
消防職員は、24時間勤務の2交代制で
夜間も、1時間の勤務が当番であるほか、
仮眠室から移動できないという制約があり、
勤務(当務)チームから逃げられない
という密室の出来事だ
という事情がある事。

同僚が見てみぬふりをしているため、
絶対的な孤立感がある事、
1日おきに深夜、ほぼ必ず説教がある事、
それも大声で、同僚に聞こえよがしに、
人格が否定される言葉が羅列していること、
前に怒鳴りながら指導された言いつけを守ると、
逆に怒鳴りつけられること、

チームのトップ3人からパワハラなどを受けていたこと、

とにかく、24時間狭い場所で一緒にいるわけですから、
気の毒に思った人がいても
「ちょっとひどかったな」
と後で慰めることもできないわけです。

その場にいた別の人の話では、
消防署の建物の中は、常日頃
まるでお通夜の会場のようだった
ということでした。

そのパワハラの理由も
数か月前に
「しっかりした」消防士になると言ったことを
もう一度言ってみろと言われ
「ちゃんとした」消防士になると言ったことをとらえて
「いい加減なことを言うな」
と机を蹴りながら深夜に怒鳴られているのです。

しっかりした証拠があるだけでも
まだまだひどいことがあるのです。

報道では、情報が不足しているのは
限られた時間、紙面のため
仕方がないことです。

また、こちらも目立ったパワハラなどの事情は拾えますが、
チクチクした嫌みや
わざとらしい無視や険しい視線を投げるなどということは
拾いきれません。

本当の孤立感は、
むしろ、パワハラとパワハラの行間から出てくることなのだと思いますが、
そこは推測するしかありません。

一度出勤すると
翌朝まで耐え続けなければいけないという覚悟を
毎回の出勤のたびに奮い立たせなければ
ならないわけです。

事実亡くなられた方は、
毎回出勤のたびに、
コンビニのトイレなどで食べたものを戻しながら
出勤していたようです。

彼は、中学校の時に応援団長をしていたほか
中学、高校に相撲部に在籍し、
全国大会で、立派な成績を収めていたスポーツマンです。

もともとメンタルが弱かったら、
そのような成績は治められません。

さらに、最後に勇気を振り絞って、
署長に直談判に行ったのに
署長は改善を一言も言わず、
病院に行けと言うだけでした。
頼みの綱も切れたという事情もありました。

それにしても、
なかなか自死を公務災害と認めない機関が
自死を公務災害と認めたのだから
よほどの事情があったと
推測してほしいなあとは思うところです。


第2 自己防衛に基づく本能反応

「そんな隠れた情報があるということは知らなかった」
ということはもっともなことです。

しかし、そうであるならば、どうして、
遺族が見るかもしれないSNSで
「今どきの若者は」と発信してしまうのでしょう。

少なくとも、否定的な言動をしなくてもよいと思うのです。

酔っぱらって自制がきかない場合はともかくです。
(自分でもよくありますから。)

しかし、人間である以上、
死亡した個人に原因を求めたくなるということは
実は自然な感情であることを
理解しなくてはならないことだと思います。

自死がなぜ嫌われるかというと、
一番は、
今まで元気で(外見上)生きていた人が、
突然命が無くなるという現象だからだと思います。

要するに、
「自分も今元気だけれど
 次の瞬間自死するかもしれない」
という危険を、本能的に感じてしまう
からです。

「そんなこと感じたことが無い」
ということは、正直な感想でしょう。

ところが、実際は、潜在意識の中で
他人の死を、自分の死に置き換えています。
無意識の共鳴反応が、人間の場合には起きてしまいます。
これは群れを作る動物の本能的反応です。

例えば、
誰かが怪我をして、大変なことになると、
その場に近寄らなくなるわけです。
誰かの痛みに共感して、新たな痛みを避けるということが
群れを作るアドバンテージです。

誰かが食べたら
おなかを壊したという食べ物は
食べないということが
本能的な対応です。

その時人間は余計な反応をしているわけです。

けがをした、痛そうだ、あそこに行くと
同じように痛い思いをする、
だから行かない。
とか

あれを食べた人がげーげーはいている
とても苦しそうだ
あれを食べると
同じように苦しい思いをする
だから食べない。
という具合です。

丁寧に埋葬された死体を見ても
それ程嫌な気持ちにはなりませんが、
無惨な遺体を見ると
とても嫌な気持ちになるのも
無意識に自分に置き換えて、
危険を感じている状態だと説明することが
できると思います。

特にほかの動物よりも人間は、
身内(母親)以外の者から情報を獲得するという特徴があります。
即ち、他人の感情に、共鳴、共感するという特質を持った動物です。

ここがチンパンジーなどの猿との決定的違いです。

そうすると、他人の死であっても
どこか共鳴してしまう可能性があることは
承認いただけると思います。

そして
なるべくしなくてよい不幸な出来事への共鳴は
本能的に避けようとします。

共鳴を避ける努力を
無意識で行っています。

例えば、
他人が病気で亡くなったのであれば、
今、自分はその病気でないということで
安心できるわけです。

登山で誰かが亡くなったら、
自分は山に登らないようにしよう
ということで安心できるわけです。

しかし、自死は、
そのメカニズムが理解できないということを大きな原因として、
安心する方法がわかりません。

そこで、無意識に、
自死者と自分が違うんだという
その違いを探します。

そうすると、
「自死者は弱い人間だから死んで逃げたのだ、
 自分は弱い人間ではないから、
 自死することはない」
ということで、安心したくなるわけです。

これは、生き物として、
自然に、無意識に行われる反応で
悪意はありません。

もう一つ、
自死者の絶望を追体験したくない
ということも、防衛本能からの反応です。

だから、もっといろいろなことがあったのではないか
等、
具体的な事情を想像したり、
調べたりすることを本能的に避けます。

これはほかのシーンでも見られます。
悩んでいる人を励まそうとして、
「貴方は悪くない」
と言う人たちがいまだにいます。

その人の絶望の闇を見ないで、
否定してしまえますから、
大変楽なことです。

弁護士もまじめにやろうとすると
本能に逆らって、死者の絶望の闇を覗く
ということですから、
文字通り、因果な仕事だと思います。

自死対策に取り組むならば、
このような本能に逆らった理性を
根性いれて働かせなければなりません。

自死が起きたことを知らせること自体
本当はやっていいのかどうか、
疑問が無いわけではないのはこういう理由です。

しかし、人が自死をするのは
必ず理由のあることです。
その理由を探すことで、有効な自死予防が初めて講じられます。

そのためには、
一つ一つの自死をないがしろにしないで調査、分析し、
きちんと将来に向けた解決策を確立するべきだと思い、
活動をしている次第です。


第3 自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
   についての理解不足

これは、自死問題が、第2の理由でタブー視され、
特殊な個人的な問題だという理解が一般的であったために
なかなか検討が進まず、
一言でいって他人事でした。

先ず、その人の特殊な事情、うつ病や統合失調症という
病気が原因だろうという対策が立てられました。

医療の領域の問題だとされていました。

これまでともすれば、
自死対策=うつ病対策
とされてきたことは理由がありました。

一つの大きな転機は、
21世紀になっておきました。
自身の父親が自死をした体験を持つ心理学者ジョイナーが
ある発見をしました。

人は死にたいと自死願望をもっても、
死ぬことが怖いために死なないのだということです。

実に当たり前のことが注目されていませんでした。
「自死した人は特殊な人だ」
という防衛本能的反応が、
真実から目をそらした象徴的な結果です。


ジョイナーの自死理論は、
自死に至る過程の中で、死ぬことが怖くなくなっていく事情がある
と説明します。

死ぬことが怖くなくなるのは、
少しずつ、死を受け入れる環境があるからだというのです。

自分で自分を傷つけるリストカットなどの自傷行為もそうですが、
戦争体験等の体験が
徐々に死を身近なものとして感じてしまい、
死ぬことに対する抵抗力が無くなっていく
と説明しています。

これをさらに勝手に説明をしているのが
われらが「対人関係学」です。

自分が大事にされない体験が
およそ人間というものに対する価値観が低下していき、
人間の命の価値を低いものに感じてきてしまう。

命の価値を認めなくなれば、
死に対する恐怖も弱くなっていくという関係にあります。

つまり、自分が大切にされない体験
というものは、
人間にとって極めて有害で、
対人関係的危機感を抱かせる事情です。

その事情の中でも、自分が生きようとする意欲を持つためには、
大切にされなくてもそれほどダメージを持たないという
馴化(じゅんか。なれ)を無意識に生じさせます。

痛みを痛いと感じなくなるわけです。
それは、強くなるのではなく、鈍感になるということです。
また、人間が大切にされるものではないという馴化は、
繰り返されるうちに、
人間に対する価値観の低下を意味することになっていくわけです。

そうすると、こんな命を維持して苦しみ続けることに
理由を感じにくくなってしまいます。

死に対する抵抗力が無くなるわけです。

また、ジョイナーは、死に対する抵抗力の低下の事情を
身体生命に関する死の受け入れということで
とらえているようですが、

対人関係学は、
群れから尊重されないということも
人間の価値を低下していく事情になると考えています。

人間は、
身体生命の危険のほかに
対人関係的危険を感じる生き物である
そして、対人関係的危険に対する反応は、
身体生命の危険に対する反応をかりて、
同じ反応をしているということを主張しています。

この辺はアントニオダマシオの
「デカルトの誤り」で示された二次の情動とは、
対人関係的危険に対する反応であると
割り切って理解しているということになります。

そうすると、
このような対人関係学的見解に立った場合、
自死者の自死の原因を求めることとどのように
違いが生じてくるのでしょうか。

対人関係学的理解を前提とすると、
自死の原因を自死者という個人に求めて
自死者の治療やカウンセリングによって解決する
ということを主として行うわけではないということになります。

対人関係的な危険を感じさせるような
群れ、
学校や職場、家族や地域等様々な群れの
あり方を変えていくということが
有力な自死予防の解決策だということになります。

今日の結論を述べる前に、
もう一つお話します。

それは、人間の脳はそれほど短期間に変化しない
ということです。
自分が若者の時に耐えられたストレスが、
今の若者が耐えられなくなるということが
非科学的なのです。

脳の構造や仕組みは、
大雑把に言うと800万年それほど変化がなく、
20万年前からは、ほとんど変化していないでしょう。

それが、わずか数十年で
同じストレスに耐えられていた脳が、
退化して耐えられないようになる
ということはありえないと思います。

この論理と、
自死が起きやすくなる条件としての
自分が人間として尊重されていないという体験の積み重ねが必要だ
という条件を組み合わせれば、

「今の若者が弱くなった」ということは誤りであり、
実は、
「今の若者は、人間として尊重されないという体験を
 昔と比べて積み重ねられている」
ということなのです。

弱い人間が増えたのではなく、
人間が生きるにしては過酷過ぎる環境が増えた
と説明する方が科学的だし、
予防にとっては有効だと考えます。


当たり前に生きていれば、正直に生きていれば
死ぬまでなんとかなったという我々の子どものころとは違い、
ちょっと失敗すると、
一生幸せになれないという
失敗が許されないという
厳しい環境を感じさせられている
と、私は思います。






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くよくよしたりいかったりする前に、自分の行動の修正を考えると楽になるかも [自死(自殺)・不明死、葛藤]

他人の言動を気にする人の多くが、
「ただ気にしているだけ」
という場合が意外に多いのです。

くよくよ悩む人に限って、
ただただ悩んでいるようで、
苦しみのスパイラルに陥りがちの様です。

他人の言動によって、
落ち込んだり、
逆に怒ったりするということは、
その人との関係に
危機感を感じているということ
というのが対人関係学の主張です。

危機感とは、その人との関係が
壊れてしまうのではないか、
その人たちから自分が仲間はずれにされるのではないか
ということで、
この危機感を感じて行動を抑止したり修正することで、
人間は群れを作ることができわけです。
だから言葉のない時代からの
人間の生きる仕組みだったわけです。

だから、本来は、
くよくよ考えている時間はもったいない
ということになります。

その危機が、
自分の行動によって生じたのではないかと考え、
もし自分の行動をこう修正していたら、
自分も相手も快適だったかもしれない
という
今後の相手との付き合い方の修正の
絶好のチャンスなのです。

ここは、少し難しい思考が必要かもしれません。
大体は無防備な発言をしているのですが、
どの発言が相手の機嫌を損ねたのか、
見つける作業は、
相手の気もちを考えて検討しなければならないからです。

また、自分が修正する必要はない
と無意識に頑張ってしまうこともあるでしょう。

ただ、改める必要がある考えとしては、
赤ちゃんでなければ、
対人関係は、自分が構築することだという
意識を持つということです。

「自分が自由に何をやっても許される。
 相手が会わせてくれなければ困る。」
ということを無意識に志向している場合、
自分の行動を修正する
という発想がなかなか出てきません。
これは赤ちゃんだけが許される依存なのだと思います。

赤ちゃん的依存志向の場合は、
相手が自分に批判的だと感じると、
もうどうして良いかわからなくなり、
単に落ち込むか、
無かったことにしたり、
相手が悪いということにしたりするから、
解決が難しくなってしまいます。


本当はこうすればよかった
ということを思いついた後の話です。

こうすればということを
「本当に自分ができるのか」
ということも考える余裕があるとよいでしょう。

たとえば
夜中まで寝ないで頑張るとか
外のすべてを犠牲にして取り組むとか
できないことをしようとしてはいないか
ということです。

自分にとっての相手の大切さですが、
できないことをしようとすると
とても苦しくなってしまいます。

早晩行き詰まるでしょう。

次善の策を考える必要があるようです。

また、ベストは、
自分は、こういうことを修正したいけれど
自分の能力から言うとここまでが限界だ
どうしましょう。
と相談できることです。

大体は、
そこまでわかってくれたら
それだけでうれしいというか満足することが多いので、
無理しなくても済む
ということになるはずです。

しかし、相手が
自分ができないことを要求してくる場合は、

むしろ相手との人間関係の在り方を考えるべきです。

本当に、自分の行動を修正してまでも
人間関係を続けるべきなのか
という疑問を持つことがとても大切です。

どうしても人間は群れを作るという性質上
対人関係の不具合を必要以上に気にしてしまいます。
これは無意識に行われるので、
意識して選別する必要があるわけです。

100万年前くらいは、
人間は生まれてから死ぬまで
たった一つの群れで生活していたのですが、
現代は、
家庭、学校、職場、地域、研究会等
様々な群れに帰属していますし、
同じ群れに属さない人たちと
街ですれ違うばかりか、
同じ建物で居住しています。

それにもかかわらず、
一つの群れで一生を終えたときの
遺伝子的な感情が残ってしまっています。

ここは、意識的に、
検討をする必要があるわけです。

例えば、
街で、見ず知らずの人にぶつかって
怒られたような場合、
さすがに自分が悪い場合は、
謝る必要はあるでしょうが、
それ以上落ち込んだり、怒ったりする必要はないでしょう。

例えばスマホを見ないで歩く
という自分の行動を修正すればよいでしょう。

家庭で、パートナーから小言を言われた場合、
それはかけがえのない群れですから、
自分の行動の修正を考えるとよいでしょう。
ここでコツは、自分が悪かったから改める
という後ろ向きな考えに陥らずに、
パートナーとのより快適な関係のために
相手の言い分(多少依存的傾向も)を
受け入れる工夫をしてみる
ということも考えてよいと思います。

大体は、何が相手の気に障ったのかを
言い当てることによって、
それだけで、相手は落ち着くでしょう。
相手は、あなたの何らかの行動で、
「自分が尊重されていない」
と思っているだけかもしれないからです。

これが職場ですと、
上司の厳しい評価によって落ち込むことがあるかもしれません。

会社は確かに、生きていくために重要な群れです。
できるなら、転職のリスクは負いたくないですし、
群れに帰属したいという本能が現れてくる要素として、
毎日顔をあわせて、群れの意識が高まっているからです。

しかし、現代の会社が、どこまで群れの名前に値するか
大変疑問がある例が多くなりました。
本当に自分を仲間として認めているのか、
単なる、自分で考える便利な機会の一つと考えているのか
見極める必要があるわけです。

できないことをしなければならない
という態度なのか、
自分に責任が無いのに叱責されているのか、
ということが重要な判断材料になると思います。

会社の要求することを
無条件でやろうとしないで、
立ち止まって考える必要があると思います。

会社の代わりも、会社にとって自分の代わりも
あり得るということを忘れないでください。


いじめ会見から見た取手市教育委員会の違法性。教育委員会の状態こそ重大事態だと思う理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

このような行政の違法性を帯びた行為を正すことができたのは、
ご遺族がマスコミの前で語りだしたところが大きいと感じ、
わが子を亡くされた悲しみの中にありながら
やむにやまれぬ想いを強く感じるとともに
自死やいじめられることによる偏見が遺る社会の中で
行動された勇気に心より敬意を表します。


取手市の教育委員会が、
平成27年に中3の女性が自死した案件で、
ろくに調べもしないうちに「いじめはなかった」
「重大事態ではなかった」としていたのに、
一転して「いじめはあった」と言い出したことが
ニュースになっている。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170531/k10011000911000.html


今回の取手市の当初の対応は、
日本の法律である
「いじめ防止対策推進法」に反する行政行為がなされた
という違法性を帯びた行為であり、
被害を受けたのが子どもたちであると観念するべきなので、
重大なスキャンダルだと思う。

先ず、「いじめはなかった」ということに対して
どのような法律違反なのかについて説明を試みる。

「いじめ防止対策推進法」2条1項はいじめの意味を定める。
「この法律において『いじめ』とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」

平成25年10月11日文部科学大臣の通達の
「いじめ防止などのための基本的な方針」において、
このことを解説しており、
「心身の苦痛を感じているもの」
の意味を限定して解釈しないようにと
予め取手市の事態を見越したように
懇切丁寧に説明している。

「この程度なら苦痛と言えない。」
「この程度なら子どもたちの中でよくある事」
「本人が大丈夫と言っているので苦痛ではない」
等というようなことを言わないようにということで
きちんとあらかじめ予防線を張っていたわけだ。

しかし、この予防線は、
各地の教育委員会や学校現場で
やすやすと突破されてきた。

いじめ対策防止推進法は、
子どもたちの健全な成長のために
いじめを防止するというところに主眼があるのだから、
子どもたちが苦痛に感じることを
みんなで防止するための法律だ。

だから、いじめの定義自体にこだわる必要さえも
本来ない。
いじめかどうかにこだわらず、
法律で示す生徒の苦痛を確認したら
調査を開始するべきだということでよいのだと思う。

しかし、学校や教育委員会は、
上記のように、なにかれと理屈をつけて
あえて「いじめ」の有無を問題として、
「いじめ」ではないと言い張ってきた。

ここで疑問がわいてくる。
なんのために、「いじめではない」と言っているのかということだ
いじめ防止、生徒の苦痛を防止すること以上に
学校や教育委員会が大切にしているということが
何かあるということだろう。

それはいったい何なのだろうかということだ。

もしかしたら、ゲスの勘繰りだという批判を覚悟でいえば、
当該学校の校長、教育長などが、
いじめを起こしたら、出世に響くということで
いじめを「無かったことにしよう」
としているのではないだろうか。

もしそうなら
自分の利益のために生徒に苦痛を与えても良い
ということになり
学校側がそういう行動原理であれば、
いじめを見てみぬふりをする生徒を指導すること等
できないだろうし、
生徒は大人の茶番を見抜くだろう。

また、学校などが本来子どもを守るべき立場であることを考えると、
自分の利益のためにいじめをなかったことにするということは、
いじめに加担しているという評価になることも
あり得ることになる。

また、そのような、偶然的な事情で
出世を決める制度自体にも疑問を持ち
さっさと改めるべきだろう。
いじめの本質を分かっていない制度であり、
いじめ防止に逆行することが
嫌というほど明らかになっているはずだ。

それにもかかわらず、
その制度自体に手を付けない張本人たちが、
指導として、子どもたちに態度を改めろといったところで
空しいことになってしまうだろう。

いじめの定義についてはこのあたりにするが、
問題は「重大事態」の解釈である。

「いじめ防止対策推進法」は
28条で、重大事態に適切に対処し、
重大事態と同様の事態が繰り返されることを防止することを定めている。

具体的には、
先ず、学校内に調査チームを組織し、
アンケート調査などを行って事実関係を明確にする
ということである。

その「重大事態とは」
一 いじめにより当該学校に在籍する児童等の生命、心身又は財産に重大な被害が生じた疑いがあると認めるとき。
二 いじめにより当該学校に在籍する児童等が相当の期間学校を欠席することを余儀なくされている疑いがあると認めるとき。

先ほどの文科大臣の通達では、
「児童生徒や保護者からいじめられて重大事態に至ったという申立てがあったときは、その時点で学校が『いじめの結果ではない』あるいは『重大事態とは言えない』と考えたとしても重大事態が発生したものとして報告・調査等に当たる」
とされている。

取手市教育委員会や学校の初期の対応は、
この通達に反し、法律に反する行政行為だった。

こうするだろうという予想されたために
わざわざ具体例を示して注意をした
文科省の予防線は、
それこそなかったもののように突破されていたのである。

あまりにもひどすぎる事態の原因を考えてみる。

一つにこのような通達を読んでいなかった
ということが考えられる。
教育委員会で誰一人読んでいないのであれば、
それは教育委員会としての体をなしていない
と言われなければならないだろう。

重大事態ではないという決議までしたというのだから
恥ずかしい限りである。
また、わざわざ決議をしたことについても
何か後ろめたい気持ちが感じられる。


法律や通達ではなく、
私的利益が行動基準だったと言わざるを得ないだろう。
私的利益のために、法令違反の行為をしておきながら、
税金から報酬を受ける理由はない。

いじめ防止対策推進法のこれらの条文は、
細かい技術的な法律や通達ではない。
子どもたちの命や人生にかかわるいじめ問題防止ということで
話題になった法律である。

もしも、知っていてそれを守らなかったというならば、
それこそ犯罪的な行動だということにならないだろうか
国の定めた行為規範を意図的に破ったことになるからだ。


教育委員会が謝罪の記者会見をしたが、
「謝罪」口にしていながら、反省が不十分であるという
新たな問題も浮上した。

新たな問題の第1は、
「自殺との関係はわからない」
という、言わなくてもよい発言をしていることだ。

いじめ対策防止推進法は
自死と関係のあったいじめだけを防止するのではない。
重大事態だって、自死だけを取り上げているのではない。

あれは記者会見であって
縁側の茶飲み話ではない。
いじめが確認されれば、個別指導を含めて
防止する措置をとらなければならない。
しかも、その事実関係を明確にするために、
調査を行うのである。

ただ、教育委員会に寄り添って解釈すると
マスコミが、そのあたりのことを理解しないまま
いじめがあったとすれば自死と関係があるのか
と質問したことに答えたのかもしれない。
そうだとすると、もっと上手に回答する必要があったとともに
マスコミに対していじめ防止対策推進法について、
きちんと説明をする必要があったということだろう。

それには法律や通達を読まなければならない。

新たな問題の2は、
謝罪と言っても、
「遺族への配慮に欠けたものだったと謝罪」
というのである。

遺族への配慮が欠けたというか、
さらに鞭打つ行為をしているということは確かだが、
それだけではない。

むしろ、法律に反した行動を行ったことは、
新たないじめの危険から子どもたちを守る手立てをとらなければならないのに
それをしなかったということなのだ。
被害者は子どもたちだと観念するべきだと思う。

最も重大な過ちに何ら言及はない。

未だにいじめ防止対策推進法を
勉強していないことがよくわかる。

ただ、こうなることについては心当たりもある。

過去において、
学校内での自殺案件が生じた場合の
対応マニュアルみたいなものがあって、
そこでは、遺族への配慮を特に強調して
遺族への対応マニュアルみたいになっていた。

こういう裏マニュアルみたいなものだけは
よく知っているのだろう。
このような対応をすることは十分理解できる。

なぜそうなるのか、

学校教育現場が多忙になると、
思考が停止ないし停滞する。
そうなると、
自分の価値観で子どもたちと向き合えず、
マニュアルみたいな考えなくても対応できるものを
求める傾向になるからだ。

いずれにしても、
記者会見にこれだけの人数が顔を出すのであれば、
事前にきちんと何について説明をすることが
行政組織として正しいのかということを
打ち合わせをして臨むべきだし、
県教委などとも協議をして臨むべきだと思われる。

協議をして臨んでいたら、
その協議では足りなかったことが明らかになったのだから、
さらに上と協議をするべきだったということになる。

いじめ問題は、
誰かの出世とか、刑罰の適用ではなく、
子どもたちに再度のいじめが無いようにするためのことだ
ということを徹底してほしい。

この記事が何かの役に立つことを
切実に願う次第である。

モラトリアムの形骸化と中学生の自死 群発自殺を避けるため報道の在り方を考えてほしい [自死(自殺)・不明死、葛藤]

子ども自死が軽薄に行われていると思っている人は、
もう一度せめて高等学校の倫理の教科書でも読んでほしい。
ギリシャ以前のページだけでかまわない。

モラトリアムの形骸化ということが言われて久しい。

われわれが大学生だったころ
今から30年くらい前は、
大学を卒業したら企業戦士となり
24時間働くのだから、
大学生の時は受験と企業戦士の間の
中休みという意識があった。
馬鹿なことをやりながら、
いろいろなところで人間や生き方について学んでいた。
モラトリアム真っ盛りということだった。

しかし、我々が大学を卒業するころには、
大学の講義をいい加減に済ませて、
司法試験や公務員試験の予備校に通う学生が増えていった。

大学は、企業や公務員の予備校へと変貌していった。
就職やその後のスキルアップを意識していったのは、
よりよく生きようとか、より高みを目指そうというより、
生き残りのための活動が必要だと
意識され始めたからではないかという気もする。

就職難や就職後の困難を想定してそれに対して対応を始める
モラトリアムが形骸化していく事情として
指摘されるているところである。

要するに、普通の生活をするために
普通以上に頑張らなければならないということだと思う。

このモラトリアムの形骸化が高等学校に降りてくるのは、
それからさほど時間を要しなかった。
大学受験に必死になるのは続いているが、
工業高校などでは、
校内専攻で選ばれないと
社会保険のついた企業の正社員になれないということで
子どもたちを監理するようになっていった。

むしろ、就職難や雇用の劣悪化を
利用しての生徒指導をせざるを得ない状況ということで、
高等学校さえ、
モラトリアムではなくなっていった。

それが、今中学生まで降りているのだと思う。

自分が今ドロップアウトをすると
これから70年の人生を
苦痛と屈辱で生きていかなければならない
極端に言えばそのような恐怖が
少しずつ忍び寄ってきているわけだ。

成績の良い子の場合は小学生まで押し寄せていて、
中高一貫校や私立中学校への受験に
大学受験以上の努力を強いられている。

それに伴う弊害は
学校関係者なら知らないとは言えないはずだ。

いじめの主体が、
そのようなエリートになっているケース増えているからだ。

おそらく、エリートのいじめ加害者からすると、
自分が努力していること、
やりたくないけれどやらなくては普通になれないからと
頑張っていやっていることを
いとも簡単にやらない子どもがいる。

自分が推薦で進学するために
毎日神経をすり減らしていることを
あざ笑われた気持ちになるらしい。

「お前は自由でうらやましいな」
という感覚が、
いつしか、うっとうしい邪魔な奴
ということになるケースがあるようだ。

また、誰かを攻撃し、
自分はそいつよりも優位な人間なんだ
と思わないと、
心のバランスをとれない状態になっている子どももいる。

テストの成績が悪いと
家でも居場所がなくなる子どもたちも多い。

学校で失敗すると
家でも責められる
ということになると、
失敗を大人に隠すようになることは当然だろう。

親も自分の子どもが「普通」になれなかったらどうしよう
という焦りが強く、
むしろ、子どもは大人の焦りに引きずられている
と考えるのが自然だろう。

全員が全員そうだということではないし、
人によって感じ方が違うことも多いと思う。

しかし、昭和の中学生と
今の中学生がまるっきり違う立場にあることを
理解しなければ始まらないようだ。

今の中学生の状態を一言でいうと
失敗をすることが許されないという
緊張状態の持続の中にいる
「なんとかなるだろう」
という青年期の特権を行使できない状態にあるということだ。

だから、いじめも起きやすいし、
絶望も感じやすくなっている。

中学生にとって自死問題は、
以上のように他人事ではない。
中学生を子どもに持つ親の心配も募っている。

マスコミの方々にご配慮をお願いしたい。
せめて、自死の方法について報道することはやめてほしい。
自分を大切にできない人が、
自死という手段を抽象的考えるにとどめておいてほしい。
具体的な方法がインプットされると、
抽象的な希死念慮(自分は死ななければならないかもしれない)は、
自分は、「その方法で死ななければならないかもしれない」
という念慮に変わっていく。
自死を思いとどまる可能性が一気に低下してしまう。

また、連日身近な自死の報道を繰り返すことで、
死ぬことの恐怖が薄れていく危険がある。

マスコミも含めて、本気で自死を止めるという
姿勢を貫かなければ、
いくら誰かを批判しても説得力を失うだろう。

群発自殺のメカニズムを絶つことが必要だと思う。
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