So-net無料ブログ作成
検索選択
自死(自殺)・不明死、葛藤 ブログトップ
前の10件 | -

くよくよしたりいかったりする前に、自分の行動の修正を考えると楽になるかも [自死(自殺)・不明死、葛藤]

他人の言動を気にする人の多くが、
「ただ気にしているだけ」
という場合が意外に多いのです。

くよくよ悩む人に限って、
ただただ悩んでいるようで、
苦しみのスパイラルに陥りがちの様です。

他人の言動によって、
落ち込んだり、
逆に怒ったりするということは、
その人との関係に
危機感を感じているということ
というのが対人関係学の主張です。

危機感とは、その人との関係が
壊れてしまうのではないか、
その人たちから自分が仲間はずれにされるのではないか
ということで、
この危機感を感じて行動を抑止したり修正することで、
人間は群れを作ることができわけです。
だから言葉のない時代からの
人間の生きる仕組みだったわけです。

だから、本来は、
くよくよ考えている時間はもったいない
ということになります。

その危機が、
自分の行動によって生じたのではないかと考え、
もし自分の行動をこう修正していたら、
自分も相手も快適だったかもしれない
という
今後の相手との付き合い方の修正の
絶好のチャンスなのです。

ここは、少し難しい思考が必要かもしれません。
大体は無防備な発言をしているのですが、
どの発言が相手の機嫌を損ねたのか、
見つける作業は、
相手の気もちを考えて検討しなければならないからです。

また、自分が修正する必要はない
と無意識に頑張ってしまうこともあるでしょう。

ただ、改める必要がある考えとしては、
赤ちゃんでなければ、
対人関係は、自分が構築することだという
意識を持つということです。

「自分が自由に何をやっても許される。
 相手が会わせてくれなければ困る。」
ということを無意識に志向している場合、
自分の行動を修正する
という発想がなかなか出てきません。
これは赤ちゃんだけが許される依存なのだと思います。

赤ちゃん的依存志向の場合は、
相手が自分に批判的だと感じると、
もうどうして良いかわからなくなり、
単に落ち込むか、
無かったことにしたり、
相手が悪いということにしたりするから、
解決が難しくなってしまいます。


本当はこうすればよかった
ということを思いついた後の話です。

こうすればということを
「本当に自分ができるのか」
ということも考える余裕があるとよいでしょう。

たとえば
夜中まで寝ないで頑張るとか
外のすべてを犠牲にして取り組むとか
できないことをしようとしてはいないか
ということです。

自分にとっての相手の大切さですが、
できないことをしようとすると
とても苦しくなってしまいます。

早晩行き詰まるでしょう。

次善の策を考える必要があるようです。

また、ベストは、
自分は、こういうことを修正したいけれど
自分の能力から言うとここまでが限界だ
どうしましょう。
と相談できることです。

大体は、
そこまでわかってくれたら
それだけでうれしいというか満足することが多いので、
無理しなくても済む
ということになるはずです。

しかし、相手が
自分ができないことを要求してくる場合は、

むしろ相手との人間関係の在り方を考えるべきです。

本当に、自分の行動を修正してまでも
人間関係を続けるべきなのか
という疑問を持つことがとても大切です。

どうしても人間は群れを作るという性質上
対人関係の不具合を必要以上に気にしてしまいます。
これは無意識に行われるので、
意識して選別する必要があるわけです。

100万年前くらいは、
人間は生まれてから死ぬまで
たった一つの群れで生活していたのですが、
現代は、
家庭、学校、職場、地域、研究会等
様々な群れに帰属していますし、
同じ群れに属さない人たちと
街ですれ違うばかりか、
同じ建物で居住しています。

それにもかかわらず、
一つの群れで一生を終えたときの
遺伝子的な感情が残ってしまっています。

ここは、意識的に、
検討をする必要があるわけです。

例えば、
街で、見ず知らずの人にぶつかって
怒られたような場合、
さすがに自分が悪い場合は、
謝る必要はあるでしょうが、
それ以上落ち込んだり、怒ったりする必要はないでしょう。

例えばスマホを見ないで歩く
という自分の行動を修正すればよいでしょう。

家庭で、パートナーから小言を言われた場合、
それはかけがえのない群れですから、
自分の行動の修正を考えるとよいでしょう。
ここでコツは、自分が悪かったから改める
という後ろ向きな考えに陥らずに、
パートナーとのより快適な関係のために
相手の言い分(多少依存的傾向も)を
受け入れる工夫をしてみる
ということも考えてよいと思います。

大体は、何が相手の気に障ったのかを
言い当てることによって、
それだけで、相手は落ち着くでしょう。
相手は、あなたの何らかの行動で、
「自分が尊重されていない」
と思っているだけかもしれないからです。

これが職場ですと、
上司の厳しい評価によって落ち込むことがあるかもしれません。

会社は確かに、生きていくために重要な群れです。
できるなら、転職のリスクは負いたくないですし、
群れに帰属したいという本能が現れてくる要素として、
毎日顔をあわせて、群れの意識が高まっているからです。

しかし、現代の会社が、どこまで群れの名前に値するか
大変疑問がある例が多くなりました。
本当に自分を仲間として認めているのか、
単なる、自分で考える便利な機会の一つと考えているのか
見極める必要があるわけです。

できないことをしなければならない
という態度なのか、
自分に責任が無いのに叱責されているのか、
ということが重要な判断材料になると思います。

会社の要求することを
無条件でやろうとしないで、
立ち止まって考える必要があると思います。

会社の代わりも、会社にとって自分の代わりも
あり得るということを忘れないでください。


いじめ会見から見た取手市教育委員会の違法性。教育委員会の状態こそ重大事態だと思う理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

このような行政の違法性を帯びた行為を正すことができたのは、
ご遺族がマスコミの前で語りだしたところが大きいと感じ、
わが子を亡くされた悲しみの中にありながら
やむにやまれぬ想いを強く感じるとともに
自死やいじめられることによる偏見が遺る社会の中で
行動された勇気に心より敬意を表します。


取手市の教育委員会が、
平成27年に中3の女性が自死した案件で、
ろくに調べもしないうちに「いじめはなかった」
「重大事態ではなかった」としていたのに、
一転して「いじめはあった」と言い出したことが
ニュースになっている。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170531/k10011000911000.html


今回の取手市の当初の対応は、
日本の法律である
「いじめ防止対策推進法」に反する行政行為がなされた
という違法性を帯びた行為であり、
被害を受けたのが子どもたちであると観念するべきなので、
重大なスキャンダルだと思う。

先ず、「いじめはなかった」ということに対して
どのような法律違反なのかについて説明を試みる。

「いじめ防止対策推進法」2条1項はいじめの意味を定める。
「この法律において『いじめ』とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」

平成25年10月11日文部科学大臣の通達の
「いじめ防止などのための基本的な方針」において、
このことを解説しており、
「心身の苦痛を感じているもの」
の意味を限定して解釈しないようにと
予め取手市の事態を見越したように
懇切丁寧に説明している。

「この程度なら苦痛と言えない。」
「この程度なら子どもたちの中でよくある事」
「本人が大丈夫と言っているので苦痛ではない」
等というようなことを言わないようにということで
きちんとあらかじめ予防線を張っていたわけだ。

しかし、この予防線は、
各地の教育委員会や学校現場で
やすやすと突破されてきた。

いじめ対策防止推進法は、
子どもたちの健全な成長のために
いじめを防止するというところに主眼があるのだから、
子どもたちが苦痛に感じることを
みんなで防止するための法律だ。

だから、いじめの定義自体にこだわる必要さえも
本来ない。
いじめかどうかにこだわらず、
法律で示す生徒の苦痛を確認したら
調査を開始するべきだということでよいのだと思う。

しかし、学校や教育委員会は、
上記のように、なにかれと理屈をつけて
あえて「いじめ」の有無を問題として、
「いじめ」ではないと言い張ってきた。

ここで疑問がわいてくる。
なんのために、「いじめではない」と言っているのかということだ
いじめ防止、生徒の苦痛を防止すること以上に
学校や教育委員会が大切にしているということが
何かあるということだろう。

それはいったい何なのだろうかということだ。

もしかしたら、ゲスの勘繰りだという批判を覚悟でいえば、
当該学校の校長、教育長などが、
いじめを起こしたら、出世に響くということで
いじめを「無かったことにしよう」
としているのではないだろうか。

もしそうなら
自分の利益のために生徒に苦痛を与えても良い
ということになり
学校側がそういう行動原理であれば、
いじめを見てみぬふりをする生徒を指導すること等
できないだろうし、
生徒は大人の茶番を見抜くだろう。

また、学校などが本来子どもを守るべき立場であることを考えると、
自分の利益のためにいじめをなかったことにするということは、
いじめに加担しているという評価になることも
あり得ることになる。

また、そのような、偶然的な事情で
出世を決める制度自体にも疑問を持ち
さっさと改めるべきだろう。
いじめの本質を分かっていない制度であり、
いじめ防止に逆行することが
嫌というほど明らかになっているはずだ。

それにもかかわらず、
その制度自体に手を付けない張本人たちが、
指導として、子どもたちに態度を改めろといったところで
空しいことになってしまうだろう。

いじめの定義についてはこのあたりにするが、
問題は「重大事態」の解釈である。

「いじめ防止対策推進法」は
28条で、重大事態に適切に対処し、
重大事態と同様の事態が繰り返されることを防止することを定めている。

具体的には、
先ず、学校内に調査チームを組織し、
アンケート調査などを行って事実関係を明確にする
ということである。

その「重大事態とは」
一 いじめにより当該学校に在籍する児童等の生命、心身又は財産に重大な被害が生じた疑いがあると認めるとき。
二 いじめにより当該学校に在籍する児童等が相当の期間学校を欠席することを余儀なくされている疑いがあると認めるとき。

先ほどの文科大臣の通達では、
「児童生徒や保護者からいじめられて重大事態に至ったという申立てがあったときは、その時点で学校が『いじめの結果ではない』あるいは『重大事態とは言えない』と考えたとしても重大事態が発生したものとして報告・調査等に当たる」
とされている。

取手市教育委員会や学校の初期の対応は、
この通達に反し、法律に反する行政行為だった。

こうするだろうという予想されたために
わざわざ具体例を示して注意をした
文科省の予防線は、
それこそなかったもののように突破されていたのである。

あまりにもひどすぎる事態の原因を考えてみる。

一つにこのような通達を読んでいなかった
ということが考えられる。
教育委員会で誰一人読んでいないのであれば、
それは教育委員会としての体をなしていない
と言われなければならないだろう。

重大事態ではないという決議までしたというのだから
恥ずかしい限りである。
また、わざわざ決議をしたことについても
何か後ろめたい気持ちが感じられる。


法律や通達ではなく、
私的利益が行動基準だったと言わざるを得ないだろう。
私的利益のために、法令違反の行為をしておきながら、
税金から報酬を受ける理由はない。

いじめ防止対策推進法のこれらの条文は、
細かい技術的な法律や通達ではない。
子どもたちの命や人生にかかわるいじめ問題防止ということで
話題になった法律である。

もしも、知っていてそれを守らなかったというならば、
それこそ犯罪的な行動だということにならないだろうか
国の定めた行為規範を意図的に破ったことになるからだ。


教育委員会が謝罪の記者会見をしたが、
「謝罪」口にしていながら、反省が不十分であるという
新たな問題も浮上した。

新たな問題の第1は、
「自殺との関係はわからない」
という、言わなくてもよい発言をしていることだ。

いじめ対策防止推進法は
自死と関係のあったいじめだけを防止するのではない。
重大事態だって、自死だけを取り上げているのではない。

あれは記者会見であって
縁側の茶飲み話ではない。
いじめが確認されれば、個別指導を含めて
防止する措置をとらなければならない。
しかも、その事実関係を明確にするために、
調査を行うのである。

ただ、教育委員会に寄り添って解釈すると
マスコミが、そのあたりのことを理解しないまま
いじめがあったとすれば自死と関係があるのか
と質問したことに答えたのかもしれない。
そうだとすると、もっと上手に回答する必要があったとともに
マスコミに対していじめ防止対策推進法について、
きちんと説明をする必要があったということだろう。

それには法律や通達を読まなければならない。

新たな問題の2は、
謝罪と言っても、
「遺族への配慮に欠けたものだったと謝罪」
というのである。

遺族への配慮が欠けたというか、
さらに鞭打つ行為をしているということは確かだが、
それだけではない。

むしろ、法律に反した行動を行ったことは、
新たないじめの危険から子どもたちを守る手立てをとらなければならないのに
それをしなかったということなのだ。
被害者は子どもたちだと観念するべきだと思う。

最も重大な過ちに何ら言及はない。

未だにいじめ防止対策推進法を
勉強していないことがよくわかる。

ただ、こうなることについては心当たりもある。

過去において、
学校内での自殺案件が生じた場合の
対応マニュアルみたいなものがあって、
そこでは、遺族への配慮を特に強調して
遺族への対応マニュアルみたいになっていた。

こういう裏マニュアルみたいなものだけは
よく知っているのだろう。
このような対応をすることは十分理解できる。

なぜそうなるのか、

学校教育現場が多忙になると、
思考が停止ないし停滞する。
そうなると、
自分の価値観で子どもたちと向き合えず、
マニュアルみたいな考えなくても対応できるものを
求める傾向になるからだ。

いずれにしても、
記者会見にこれだけの人数が顔を出すのであれば、
事前にきちんと何について説明をすることが
行政組織として正しいのかということを
打ち合わせをして臨むべきだし、
県教委などとも協議をして臨むべきだと思われる。

協議をして臨んでいたら、
その協議では足りなかったことが明らかになったのだから、
さらに上と協議をするべきだったということになる。

いじめ問題は、
誰かの出世とか、刑罰の適用ではなく、
子どもたちに再度のいじめが無いようにするためのことだ
ということを徹底してほしい。

この記事が何かの役に立つことを
切実に願う次第である。

モラトリアムの形骸化と中学生の自死 群発自殺を避けるため報道の在り方を考えてほしい [自死(自殺)・不明死、葛藤]

子ども自死が軽薄に行われていると思っている人は、
もう一度せめて高等学校の倫理の教科書でも読んでほしい。
ギリシャ以前のページだけでかまわない。

モラトリアムの形骸化ということが言われて久しい。

われわれが大学生だったころ
今から30年くらい前は、
大学を卒業したら企業戦士となり
24時間働くのだから、
大学生の時は受験と企業戦士の間の
中休みという意識があった。
馬鹿なことをやりながら、
いろいろなところで人間や生き方について学んでいた。
モラトリアム真っ盛りということだった。

しかし、我々が大学を卒業するころには、
大学の講義をいい加減に済ませて、
司法試験や公務員試験予備校に通う学生が増えていった。

大学は、企業や公務員の予備校へと変貌していった。
就職やその後のスキルアップを意識していったのは、
よりよく生きようとか、より高みを目指そうというより、
生き残りのための活動が必要だと
意識され始めたからではないかという気もする。

就職難や就職後の困難を想定してそれに対して対応を始める
モラトリアムが形骸化していく事情として
指摘されるているところである。

要するに、普通の生活をするために
普通以上に頑張らなければならないということだと思う。

このモラトリアムの形骸化が高等学校に降りてくるのは、
それからさほど時間を要しなかった。
大学受験に必死になるのは続いているが、
工業高校などでは、
校内専攻で選ばれないと
社会保険のついた企業の正社員になれないということで
子どもたちを監理するようになっていった。

むしろ、就職難や雇用の劣悪化を
利用しての生徒指導をせざるを得ない状況ということで、
高等学校さえ、
モラトリアムではなくなっていった。

それが、今中学生まで降りているのだと思う。

自分が今ドロップアウトをすると
これから70年の人生を
苦痛と屈辱で生きていかなければならない
極端に言えばそのような恐怖が
少しずつ忍び寄ってきているわけだ。

成績の良い子の場合は小学生まで押し寄せていて、
中高一貫校や私立中学校への受験に
大学受験以上の努力を強いられている。

それに伴う弊害は
学校関係者なら知らないとは言えないはずだ。

いじめの主体が、
そのようなエリートになっているケース増えているからだ。

おそらく、エリートのいじめ加害者からすると、
自分が努力していること、
やりたくないけれどやらなくては普通になれないからと
頑張っていやっていることを
いとも簡単にやらない子どもがいる。

自分が推薦で進学するために
毎日神経をすり減らしていることを
あざ笑われた気持ちになるらしい。

「お前は自由でうらやましいな」
という感覚が、
いつしか、うっとうしい邪魔な奴
ということになるケースがあるようだ。

また、誰かを攻撃し、
自分はそいつよりも優位な人間なんだ
と思わないと、
心のバランスをとれない状態になっている子どももいる。

テストの成績が悪いと
家でも居場所がなくなる子どもたちも多い。

学校で失敗すると
家でも責められる
ということになると、
失敗を大人に隠すようになることは当然だろう。

親も自分の子どもが「普通」になれなかったらどうしよう
という焦りが強く、
むしろ、子どもは大人の焦りに引きずられている
と考えるのが自然だろう。

全員が全員そうだということではないし、
人によって感じ方が違うことも多いと思う。

しかし、昭和の中学生と
今の中学生がまるっきり違う立場にあることを
理解しなければ始まらないようだ。

今の中学生の状態を一言でいうと
失敗をすることが許されないという
緊張状態の持続の中にいる
「なんとかなるだろう」
という青年期の特権を行使できない状態にあるということだ。

だから、いじめも起きやすいし、
絶望も感じやすくなっている。

中学生にとって自死問題は、
以上のように他人事ではない。
中学生を子どもに持つ親の心配も募っている。

マスコミの方々にご配慮をお願いしたい。
せめて、自死の方法について報道することはやめてほしい。
自分を大切にできない人が、
自死という手段を抽象的考えるにとどめておいてほしい。
具体的な方法がインプットされると、
抽象的な希死念慮(自分は死ななければならないかもしれない)は、
自分は、「その方法で死ななければならないかもしれない」
という念慮に変わっていく。
自死を思いとどまる可能性が一気に低下してしまう。

また、連日身近な自死の報道を繰り返すことで、
死ぬことの恐怖が薄れていく危険がある。

マスコミも含めて、本気で自死を止めるという
姿勢を貫かなければ、
いくら誰かを批判しても説得力を失うだろう。

群発自殺のメカニズムを絶つことが必要だと思う。

人はなぜ自ら死ぬことができるのかを考えることが自殺予防に不可欠であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]

仙台では、中学生の自死が多発しており、
緊急事態というべき状態です。
私は、何よりも、この問題に、大人は緊急に力を注ぐべきだと思います。
何よりもです。

今は
みんなで力を合わせ、知恵を出し合うべきでしょう。
子どもに対して
「死ぬな」、「死なないでください」
メッセージを出すことは有効だと思いません。

それはその発言者に向かって、
「死なせるな」と結論を求めることと
大差がないと考えるからです。

「なぜ死にたいと思うか」
このことすら、あまりまじめに議論がなされているとは思えませんが、
世界の研究者はさらに先を研究し、実践しています。

例えば、Thomas E. Joiner Jr. は、
「なぜ人が死ぬことができるのか」
というところに着目して検討をしています。

考えてみれば当たり前ですが、
死にたいと思うほどつらくても
生きている以上、
死ぬことが怖いために自死を決行することができない
はずです。

しかし、自死者は決行してしまう。
なぜか。
死ぬことが怖くないのでしょうか。

ジョイナーは、
生前の体験が、
死ぬことを徐々に怖くなくする、
死ぬということに慣れていっている
これが、自死の潜在能力を高めてしまう
ということを言っています。

少しずつ、死ぬような体験をしているということです。

ジョイナーが指摘しているのは、
死ぬ場面に立ち会うことで
死への閾値が下がることを指摘しています。

戦争やテロ等、人が人を殺す場面に立ち会うこと、
自傷行為が
典型的な死の閾値が下がる事情です。

被害者として、
少しずつ死に接近する体験を重ねていくうちに、
死の恐怖の閾値が下がってきてしまうということなのだと思います。

体が傷つけられても
体験前のような、強いおそれが無くなっていくわけです。
少しずつ、死への抵抗感がなくなっていく
ということなのかもしれません。


注目するべきことは、
外科医の自死率が高いということです。


人の生死に立ち会う仕事ということでもあるのでしょうが、
人間の命の神秘性を否定する仕事、
皮を切ってまた縫い合わせるということが
人間の命の価値という約束事よりも、
物理化学の仕組みによって構成されている
という人間の側面を突き付けられるからかもしれません。

よく、戦争の加害者が精神的に傷つくのがおかしい
という人がいます。
そうでしょうか。
人が、人の命が軽く扱われているということを目の当たりにすると
無意識のうちに共鳴力、共感力が働いてしまう
死の恐怖が伝わってしまうということは
むしろ当たり前のことだと思います。

この恐怖を軽減させないと
日常生活に支障が来ますので、
本能的な防衛行動で、
人間の命はそれほど軽いものではない
という意識を持とうとするのではないでしょうか。

自分を無意識にごまかしているわけです。

これが持続していくと、
「およそ人間の命に価値はない」
という感覚になってゆき、
やがて、
「自分の命だってそれほど価値のあるものではない」
という感覚が侵入してきやすくなるものだと思います。

但し、
自分が傷つかなくても、
自死の潜在能力が身についていく可能性がある
と指摘しているのは
ジョイナーではなく対人関係学の方です。

さらに、対人関係学は提案しています。
(ジョイナーは、自殺の対人関係「理論」)

身体生命が傷つくことだけが死の閾値を下げるのではない。
対人関係的危機にさらされ続けることも
同様に死への閾値を下げる
ということです。

ちょっと説明が必要でしょう。
人間は動物として、身体生命の危険を感じて
それを回避しようと本能的に行動をします。

これと同じように、
人間は、群れを作る動物として、
対人関係的危険を感じて
それを回避しようと本能的に行動をします。

対人関係的危険とは、簡単に言うと群れから追放される危険のことを言います。
仲間として認められていないということを感じ取ると
群れから追放されてしまう危険としてとらえてしまうのです。

遺伝子に組み込まれた
どこかに帰属していたいという欲求は、
それが満たされないと、結局死につながるかもしれないと感じるという
反応を起こしてしまうほど人間のウイークポイントです。

だから、仲間として尊重されないようなことは
ほっといてもしないようになるわけです。
何をすると、相手にされなくなるかということについては、
後天的な学習の力も大きいようです。

そうして、これは、
全く仲間を作らないで行動しているよりも、
仲間の中にいて、尊重されない
ということの方が深刻なダメージを受けるようです。

会社や学校という
仲間の中にいなくてはならないという前提があるから、
そこから外されまいと、
人間は必死に努力をするということになります。

常に仲間から外される体験をしていると
人間として生きることに
希望を持てない状態が続くことになります。
自分という一番のかけがえのない人間が
迫害され続けていると感じれば、
人間が大事なものだということを
感じられなくなることは誰でもわかることです。

大事な人間なのに、どうしてこういう目にあうのだろう
という疑問は解決しません。
そんなことも考えたくないわけですが、
本能的に、どうしても堂々巡りをしてしまいます。

そして、そういう迫害のきっかけになっていることが
自分の常日頃の振る舞いだということになれば、
修正することができるのですが、

自分の属性である、
生まれた国、親、先天的な障害
社会のスタンダートと異なること
ということになると修正することができません。

仲間として迎え入れられることに絶望を感じなくてはならなくなるわけです。


ですから、私としては、
命の授業をすることは、下手をすると逆効果になるという意見に賛成です。
そんなことをするよりも、
仲間として尊重されていない生徒がいれば、
先ず、受け容れるコミュニティー、家族だったり教師だったりで
がっちり居場所を作るということが急務です。
無条件に存在を肯定する=仲間として扱う
ということを繰り返し感じてもらうことが必要です。

担任が、生徒の誰かが仲間として迎え入れられていない
ということに気づくためには、
生徒の顔を見る時間を確保することが必要です。
担任に、余計な文書作成などをさせることは
担任からこの力を奪う犯罪的なことだと考えています。

それから、中学生の自死=いじめ
という短絡的な見方をしてはだめです。
いじめかどうかにこだわっていたのでは、
いじめさえ見逃すことが
この間嫌というほど証明されているのではないでしょうか。

仲間として迎え入れられていない生徒がいたら、
無条件で、手当てをする必要があります。

また、障害や国籍等
本人が努力しても修正できない事情が原因で
差別される等、仲間として受け入れられない状況は、
重大事態です。
すべてをストップしても、先ず解決する必要があります。

仲間に入れろという結論の押し付けでは
何も解決しないことは言わなくてもよいと思います。

やろうとしても、できないことで責められることも
それに次ぐ絶望を与える事情ということになります。
人はいろいろな個性や能力の違いを前提として
仲間を作ってきたわけです。

いつしか、現代日本では、
そんなことさえもわからなくなったということを
自覚するべきです。


被害者の精神的健康だけでなく、
加害者の精神的健康も蝕んでいくことになります。

人権問題というのは、
人間が人間らしく生きていくための
不可欠なツールだということが対人関係学の結論です。
道徳でも、総合学習でもよいのですが、
ここが抑えられないのであれば、
人格の向上はあり得ないと思っています。

学校という集団教育は害にしかなりません。

そして、どうしても仲間の中に迎え入れられることができないケースの場合、
居場所を作るということも考えてほしいのです。

そこへ行けば、
無条件で自分が尊重されるという場所、
やりたいことをやれる場所、
一人でいることが苦痛ではない場所、
誰かと話したくなったら、
話を聞いてくれる人がいる場所

そんなに難しいことではないと思いますが、
議論が散漫になることは避けようと思いますので、
今日はこれで終わりにします。





青森市のいじめ防止審議会の報道発表がどうして不可解なのか、疑問を2点提示する。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成28年8月に、青森の中学校で
中学2年生の女性が自死をした事件で、

「5月末で任期を終える市いじめ防止対策審議会は28日、同市内で臨時会を開いた。終了後の会見で、審議会会長の櫛引素夫・青森大学教授は、報告書原案で「1年夏から2年の初夏にかけて4件のいじめを認定している」と明らかにしたが、いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかったと説明した。」
との報道がありました。

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170529025524.asp

2点ほど意見があります。

第1は、いじめ防止対策審議会は、何を目的に調査をしてきたのかという点です。

この委員会の正確な設置要綱はわからないのですが、
おそらく、将来、いじめを無くし、
自死者を出さないための調査をして、
調査結果を報告するのが目的だったはずです。

そうだとすれば、この最終結論は極めて不可解です。

「いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかった」
ということはどうして述べる必要があったのでしょうか。
私は、権限外の発言ではないかとすら感じています。

ニュースでは、いじめが自死の引き金だったと
断定することができなかったなどということも言っていたようです。
これも権限外の発言だと思います。

この審議会は、
当該事例の調査を行い
自死の危険性のある行為を提示し
何を繰り返してはいけないのか
ということを提案する組織のはずなのです。

このところを理解されていないのではないか
という疑問が出てきてます。

これが例えば、裁判の損害賠償請求の場合ですと、
いじめなどの行為と自死という結果が
一般人から見て行為と結果という関係にあることが
相当であると認められることが必要となります。

これは、その因果関係が認められてしまうと
加害者が損害賠償を支払わなければならなくなるからです。
ある程度、厳密に検討する必要が出てきます。

これに対していじめ防止の場合は、
「本来は」
もっと緩やかに自死といじめの関係を判断してよいはずです。
もっとも、あれもこれもだめだとして、
生徒たちの自由を過度に制限するようなことにならないことは必要だと思いますが、
この点はそれほど重視しなくてよいはずです。

ところが、この様な理念的な判断ができない事情が
確かにあるようです。

一つは、このようないじめ防止の審議会の
目的に関心のない人が審議委員になることです。

また、一つは、
将来の損害賠償の裁判に
審議会の調査結果が使われるのではないか
という心配をすることがあげられます。

これは、当事者にもそういう心配があり、
調査に応じたら、
自分が損害賠償を請求されるのではないだろうか、
他人の裁判に巻き込まれて煩わしいことになるのではないだろうか
等という心配があるようです。
特に加害者とされた子どもたちやその親は
調査に協力しない傾向があるようです。

私は、いじめ防止審議会の調査結果報告は、
できるだけ関係者に公表するべきであり、
そうでないといじめ防止の有効打にならないと思っています。
そうすると、個人名などは非公表として、
危険のある行為類型だけを指摘する方法が
求められるのだと思います。

良い、悪いということすら不要で、
「これからこういうことは危険だからやらないように」
というトーンにしかならないことだと
考えています。

先ずは、亡くなった子どものためにも、
損害賠償よりも、
同じ悲しみを繰り返さない
ということで徹底しなければならないと思っています。

そのためには、危険類型の解明の
積み重ねがどうしても必要だと思うからです。

学校には、
関与の範囲で
必要に応じて謝罪などがなされることが
加害者とされる子どもたちの健全な成長のためにも
必要であることを理解して指導していただきたいと思います。

実際、中学生の遺族で、
最初から、加害者を裁判所に突き出したいとか
損害賠償を請求するとか
希望している人をあまり見たことがありません。

その後の調査が曖昧だったり、
事実が隠されたり
不必要な報告がなされたりすることで、
ことさら自死した子どもに責任を帰属させるから
遺族が怒るということを目の当たりにしているところです。

発想が実態と逆なのです。

だから、自分の任務でもないのに、
いじめ以外にも原因があるかもしれないとか
いじめが自死の引き金になったと断定できないとか
余計なことにこだわるわけです。

思春期うつなどという奇想天外な理由を
どのような根拠で言っているかわかりませんが、
そういうことを言い出すわけです。

詳細はわかりませんが、
りまさんの晴れやかな写真が、
「そんな思春期うつなどではない」
と雄弁に物語っているような気さえします。

青森県では過去において
女子高生の自死が
摂食障害を原因としたものである可能性があると
奇想天外な説明をしたこともありました。

もし、審議委員の任務がいじめや自死予防ではない
というなら謝罪しますが、
いじめや自死予防のための審議会ならば、
この期に及んで、他に原因が無いとは言えないから原因が特定できないとか
引き金になっていると断定できないとか言っている段階で、
委員として適格性を考えなければならなかったのではないか
と思わせるエピソードでした。

この報道に接して
もう一つ意見があります。

いじめを4件認定したと言っています。

この審議会が認定できたということは
民事訴訟にも耐えうる証明があったということなのでしょうが、
そうだとすると、当人の精神的な苦痛を
もっと考えることができたはずです。

これができない理由もある程度考えることができます。
過労死の認定でもよくあることなのですが、
一つ一つのエピソードを個別的に評価して、
一つ一つは、良くある話であり、重い話ではない
重い話が4つあっても、全体として重くならない
という論法です。
これは、はじめから因果関係を否定するための論法なのです。

それぞれ一つ一つが重くなくても
それを生身の一人の人間が受けていたら
大変重いことになるのです。

単純に言えば、
100mを20秒で走りなさい。
50mを2分で泳ぎなさい
それほど難しいことではないのですね。
しかし、
50mを泳いで、そのままプールの入り口から
100mを走りなさい。
全体で3分でやりなさい
ということです。

できる人もいるでしょうが、
大変なことだということは誰でもわかることでしょう。

いじめの場合はもっとわかりやすいかもしれません。
ヒントは、4つのいじめエピソードは
分断していないということです。

いじめの内容は報告されていませんが、
(いったい何のための報告だったのかここにも疑問があります。予防に必要の範囲で公開しなければ意味がないのではないかと思います。)

例えば、4月にクラスで取り囲まれて悪口を言われた
5月にラインで、理由のない謝罪をみんなから求められた、
7月に一人だけクラスの行事に呼ばれなかった、
9月に、靴を隠された
ということが仮にあったとしましょう。

そうだとすると、苦痛を感じるのは、
それぞれ悪口を言われたときだけとか、
ラインに書き込まれたときだけとか
呼ばれなかったことだけとか
そういうわけではないのです。

心は分断して出来事を感じることはありません。

積み重なっていくということもあるでしょうし、
孤立感を絶望感に高めるということもあるでしょう。
大事なことは、その間一貫して
自分が仲間として認められていないという
気持ちを感じ続けるということなのです。

「また、ああいうことがあったらどうしよう。」
ということを、おそらく毎日感じ続けていたでしょう。

4つのいじめがあったとしたならば
いじめが解消された心温まるエピソードでもなければ、
その期間ずうっといたたまれない気持ちで毎日を過ごしていた
ということなのです。

そうなってくると、
個別の出来事がいじめに該当しないと思っても
本人を苦しめることが出てきてしまいます。
本人が追い込まれて悪く受け止めるようにもなります。

調査の審議会があるのであれば、
せめて、
本人が何を嫌がっていたと思われるのか
何をやめてほしいと思っていたのか、
その可能性を調査して報告するべきではないでしょうか。

いじめかどうかもどうでも良いことになるはずです。
未だにいじめと認定できるのかどうかが
マスコミの関心ごとのようで、
審議会の目を曇らす一因になっているようです。

どうやったら自死を無くすかということですが、
死ななければ良いってものではないのです。

いじめを一度受けると
何でもない些細なことでも
「あの時と同じことが起きるのではないだろうか」
という怯えが出てきてしまい、
その後の人間関係にも、重大な影響が出てしまいます。

いじめを無くすためには、
死の引き金だけを無くすのではなく、
外に自死の原因が無い場合のいじめを無くすだけでなく、
人を困らせる、いたたまれなくする行為を
全部なくすことを考えなければならないと思います。

そのためには、審議会の認定を緩やかにするとともに
そういうものだから、
審議会の調査結果が裁判の証拠にはならない
性質上、証拠として使えるものではない
ということも徹底するべきです。

何よりも、今後
同じようないじめをさせないために
何が、どのように危険な行為なのか
みんなに教えてあげるという
指導に活かす調査結果にならなければならないはずです。

それは当該学校だけでなく、
社会一般に認知されて、
他人の心に配慮するという風潮を作る必要もあるはずです。

せっかくのいじめ調査という貴重な機会が
無駄にされることだけはどうしても納得できません。


どこかで、オープンな議論がなされることを
求めてやみません。

「自閉症の世界」(ブルーバックス)感想文3 自閉症スペクトラムの本当の意味は、普通の人の中にも自閉症的要素があるということかもしれない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


昨日このような記事を見ました。
「自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

「私とおんなじことを言っている」と驚いたのですが、
書いていらっしゃる方は、「自閉症の世界」を翻訳された方でした。
この先生の本を読んで感じたことを書いているのだから、
私は、その掌の上で踊っているのであり、
当然と言えば当然ですし、
「おんなじこと」と言うのは不遜なことでありました。

ただ、私の言っていることも
あながち見当外れではなかったという安心感をいただきました。
それとも、結論がたまたま近かっただけでしょうか。

まあ、私の場合は、専門家が言っているのではなく、
素人のたわごとだと思ってご寛容のほどをお願いします。

自閉症をもう一度おさらいすると
1 社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
2 こだわりが見られること(興味の範囲が著しく限られている。)
の2点ということになるそうです。


遺伝子的に言えば、
特定の家系に自閉症の現れる率が高いとしても、
遺伝子的には古い遺伝子であり、
一般の人たちに広く共有されているらしいというのです。

もしかすると、
いわゆる普通の人でも、
自閉症の種を持っているのかもしれません。

自閉症の人たちは、
音だとか、光や色だとか
強い拒否反応を示すことがあるようです。

ブーンという蛍光灯の音とか、
黄色の色彩やフラッシュのような光で
パニックになる等の反応を示す人がいるようです。
(緑や茶色の穏やかな色を好むことが多いらしいです。
 自閉症の人たちには、優れた音楽家や画家がいます。)

もしかすると(こればっかりなので恐縮ですが)
われわれも、
本当は、音や色彩が不快に感じているのかもしれません。
はっきりとこれが嫌だと特定できないだけかもしれない
と考えることはできないでしょうか。

実は私は、蛍光灯の音とか持続する音は嫌いですし、
フラッシュは嫌ですね。
黄色は嫌だという自覚はありませんが。

現在、ブロードウエイでは、
そのような花火やストロボを使用しないバージョンの
舞台公演をしたり、
「アナと雪の女王」も感覚に優しい形の上映を
するようになっているそうです。

おそらく、
そういう舞台や映画は、
自閉症ではない人にとっても
優しい、快いものになっているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

めんどうくさく言うと
「嫌だ」と感じる閾値と「嫌だ」と表明する閾値が
自閉症の人が低いだけなのかもしれないということです。
いわゆる普通の人は
快不快でいえば不快なのだけれど
自分でそれをはっきり自覚しないだけだかもしれないし、
自閉症の人は「嫌だ」と感じると「嫌だ」と表現してしまうという違いがあるだけかもしれないと思うのです。

不快を感じないだけで
実は生理的な侵襲を受けていて
侵襲が蓄積されて初めて自覚をする
あるいは無自覚に何らかの症状が出て
原因不明とされている
ということが無いとも限らないだろうと
思ってみたりしています。

また、そういう自閉症の人たちが嫌がる
音や光、色彩が
それでごまかしていて、本質を隠すことにも
つながっているかもしれません。

そういう意味では、自閉症の方々の感覚に
学ぶところが大きいという可能性があるように思われます。
おそらく、将来的にはそういう社会が実現する場所も
あるのではないかと想像してみたりもします。

それをブロードウエイやディズニーという
エンターテイメントの王道が実現しているということが
偶然ではないように思われるのです。

そのような物理的な感覚だけでなく、
社会の問題も同じということは考えられないでしょうか。

診断基準が変わって、自閉症と診断されている人が増えているというよりも
自閉症者そのものが増えているとしたら、
それは理由があることだと考えなければならないでしょう。

ここで問題にするべきだということは、
精神障害は、相対的な概念だということです。
先ほどの自閉症の診断基準のうち、
複数の対人関係の障害があれば自閉症であるなら、
強いこだわりがあっても
コミュニティーがそれを受け入れれば
障害にはならないということです。

逆に同じ人でも
自分を受け入れないコミュニティに入ってしまうと
障害という診断が下される可能性が出てくることになります。

常に思うのですが、
精神科の診断には、
その人の周囲が健全なコミュニティであることを前提として、
周囲に協調しなければならないという
隠れたメッセージを感じています。

変わり者の私だから思うのでしょうが、
対人関係の不具合が
弱い者に原因をしわ寄せしているように
感じることが多くあるのです。

だから、一つの可能性として、
自閉症者が増えているとすれば
それは、むしろ個体に原因を求めるのではなく、
他者に対して不寛容なコミュニティが増えている
ということではないかということを
自分たちのために点検するべきなのではないか
と思うのです。

幼稚園や小学校などにおいては粗暴性により身の安全が保たれないことは
寛容にはなれないので、
安全については最低限の確保が図られる必要はあると思います。
(自閉症の子どもが粗暴傾向にあるというわけではないようです。
 感情を抑制できないために結果として粗暴になる
 ということが正しいような実感があります。
 だから、犯罪の原因にアスペルガー障害をもってくることは
 本当に妥当性があるのか、専門家の方々に教えを乞いたいと切実に思います。)
当面は、粗暴性に対抗する物理力ということですが、
将来的には、粗暴的感情を寛解させるノウハウの獲得
ということになるのだと思います。

また、表現行為を抑制するという発想よりも、
感覚的な刺激の解放的な対処方法の確立が理想なのでしょう。
要は、「自分がそのコミュニティに受け入れられている」
という安心感をいかに獲得するかということだと思います。

自閉症の人の中には、心を許すと人懐こく
来いと言わなくても、いつでも気が付けば隣にいる
という人もいるようです。
信頼できる人の指示には、一応従っておこうという
行動傾向がある人も多いように思われます。
ある意味、納得できないけれど学習はするということなのかもしれません。
何か、パニックになったときも
その人の声を聞くことで
安心しているということもあるように思われます。

本の中でレインマンの原型になったビルという人物のエピソードも
それを示しているように思われます。

ところが、コミュニティの方に余裕がない場合
他の人と同じ行動をとらないこと自体で
イライラするのはある意味当然のことでしょう。

前々回、ちょっとだけ触れたケースですが、
弁護士どうしの会議をしていて、
その人以外の人がみんな、
会議を一つ一つ厳密にするよりも
あとは主催者に一任して早く終わりにしようとしているのに、
「どうしてそこにこだわる」
という意見を出して、
進行を止めて自説を展開する人がいました。

いつものそのようなことで、
その人が発言を求めただけでうんざりするようになりました。

ある時、こちらも開き直り、
終わらないなら徹夜でもなんでもしてやると思うようになった時、
その人の意見は、ほとんどの人とは意見を異にするが、
よく聞くと(余裕がなければこれができない)、
確かに問題の所在を的確にとらえているという評価ができる
ということに気が付いたというか、同意できるというか
理解ができるようになったのです。

そして、案外、そういう議論を抜きにことを進めていくことで
間違いや、不適切な方向への親和性が出てくる
彼の意見を大勢の意見に置き換えることはできないけれど、
彼の意見の要素をしっかり組み入れて運用しなければならないことが多い
ということを実感できるようになりました。

もちろん彼が自閉症だったということではないのですが、
要は、大勢の感覚が必ずしもあてにならない
ということの一つの体験ではありました。

おそらく、話し合うべき時間がたっぷりあれば、
彼の意見に賛成反対をするだけでなく
どのように彼の問題意識を反映させるか
という議論に発展したのだと思います。

要するに自閉症は
当該個体のコンディションによって成立するだけでなく、
当該個体を取り巻くコミュニティのコンディションによって
「協調的でない」と烙印を押されてしまう可能性がある
ということを言いたいのです。

例えば、学校もそうでしょう。
本当にそれが大切なことか
例えば組体操をやりたくない怖いということを素直に言えば、
協調性が無いということになってはいないでしょうか。

疲労の中で、さらに残業をさせられるのを拒否することで
協調性が無いとして、叱責の対象になってはいないでしょうか。

もしかしたら、皆がやる気になっているシンポジウムでも、
一人だけ、その企画は納得できないと困らせている人がいる場合、
本当にやる必要があるシンポジウムなのか
考え直すということがあっても良いのかもしれません。

また、集団ヒステリーのような状態に
コミュニティがなっていることがあるように思えます。

「21世紀の失政」ということで、
平成23年3月ころの文芸春秋で特集がありました。
その中で、保守派の論陣や自民党の年配の方々が
小選挙区制を挙げていたことに驚いた記憶があります。

小選挙区の議論が国会でなされていた時、
私は、小選挙区制は、
社会的要素を反映した代表制にするべきだという
憲法学の立場から賛成できなかったのですが、
同じ憲法を学んでいたはずの友人たちが、
もう小選挙区制は実現することになっていると言って、
議論をすることすら反対されたという経験があります。

私なんかよりも優秀な大学の方たちでした。
というか、私のネタ元の教授の講義を受けていたはずなのです。
不快とか何とかいうよりも、
とても不思議なことが起きているという印象が強かったです。

私なんかは、自分にちょっと自閉症の傾向があると思うと
どちらかという嬉しくなってしまうのですが、
そういう優秀な人たちは
おそらく自閉症とは全く縁のない人たちなのでしょう。
人間的には良い人たちで、今でも仲良くさせていただいています。

コミュニティ自体に緊張感が持続しているケースもあります。
例えば、プロ野球のチームで
連続勝利記録みたいなものがかかっているときに、
何らかの拍子で単純ミスをしてしまって
居場所がなくなるということもあるでしょう。

例えば無理な売り上げ目標を
本社から有無を言わせずに押し付けられ、
何とかそれを実現しないと
営業所長の首が飛ぶみたいな状況の中で、
子どもの授業参観なので有休をとるといったら
やはり、協調性が無いと言われるのかもしれません。

自閉症という概念は、
むしろ、いわゆる普通の人たちの
コミュニティの在り方を考える
強力な道具になる可能性という
大きな魅力を感じます。

多数の暴走を止めるきっかけにはなるように思われます。

「自閉症の世界」途中感想2 自閉症と自閉症スペクトラムの概念と普通の人たちの大雑把の力 時々SNSの弊害の理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

この記事は、ブルーバックスの「自閉症の世界」を読みながら考えていることを
忘備録的に記載しているものであって、
治療についての検討や、社会的提言をするものではありません。

私の中でなんとなく済ませていた「自閉症」の意味でしたが、
少し整理します。

自分の殻に閉じこもって引きこもる
という意味ではなくて、

社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
こだわりが見られること
が診断基準となっているようです。

簡単に言うと、
他者との感情的つながりを結びにくいというか、
面倒くさく言うと
他者との結びつき方がわからないので、
積極的に他者と結びつこうとは思わないし、
他者からの自分の評価というものも関心がない
そういう意味で自閉というのだと思います。

これらの点について、本は、
自閉症が注目され始めてから現代まで、
時代ごとの変遷と登場人物等のレポートが詳細になされていて、
読み物としても、興味を絶やさず読むことができます。

単なる理論の説明ではなく、
人間がどうかかわるか、戦争(ナチス)の影まで出てきます。


次に自閉症スペクトラムという言葉が出てきます。
これも誤解を受ける概念でして、
障害の程度に幅がある
というわけではなく、

一つには、
自閉症の出方は千差万別であり、
その人それぞれの特徴があるということです。
そのため、
自閉症という診断がついたからと言って、、
ではどうするかという答えが一義的に出てくるわけではなさそうです。

また一つには、
いわゆる普通の人と自閉症の人との間に
線を引くということがなかなか難しく、
いわゆる普通の人の中にも
自閉症的傾向を持つ部分がある
ことがおかしくないということのようです。

また、なんとなく精神障害というくくりで語られることから
知的能力に問題があるような誤解もあるのですが、
この点も千差万別だそうです。


むしろ、知的能力の高い人も多いようです。
コンピューターの分野もそうですし、
物理化学の分野や
数学等において、
いわゆる普通の人では到底不可能な業績を上げている人たちの多くに
自閉症の診断基準を満たすのではないかという人たちがいる
ということのようです。

「レインマン」という映画では、
数的感覚や記憶力の突出した人として描かれています。
(もっとも、映画ではカジノでこの能力を使って大儲けをするのですが、
 リアルで試そうとしたときは
 「それは不正だ」と言って、能力を使うことを拒否したそうです。)

この「レインマン」が企画され上映される経過も詳細に書かれているのですが、
かなり感動を覚える部分です。

特別な能力があるのに
周囲に溶け込むことができないということは、
むしろ、特別な感覚があるから
周囲に溶け込むことができない
ということなのかもしれません。

出典を覚えていなくて恐縮なのですが、
「聴覚が優れていて、記憶力が突出している人は、
 逆に、声で人を識別できない。」
ということを読んだ記憶があります。

人間の声というのは体調や感情によって
ずいぶん変わるのだそうです。
そのため、一度聞いた声を完璧に識別して
完璧に記憶していると
「前に聞いた声と違う」
ということになってしまうのだそうです。

むしろ、ある程度おおざっぱに識別して
大ざっぱに記憶していた方が
実務的にはうまくいく
ということらしいです。

電話の音声信号なんて、
そういうおおざっぱだからこそ成り立つのではないでしょうか。

そういう風に厳密な感覚を持っている人たちにすれば、
大ざっぱに事が運んでいくことは耐えられないことでしょう。

「事が運べばよいや」
という価値観の場合は、
細かいことにこだわると、周囲が受け入れなくなるでしょう。

しかし、
「正確に、正しく」が運用よりも優先(生産性より緻密性)
という価値観の場合は、
例えば精密部品のチェック等の場合は、
貴重な戦力になるわけです。

これは上司(指導者)の性格に対応する場合も
あるいは、上司が部下に対する対応を考える場合も
参考になるようです。


また、自閉症の人の中には、
他者からの評価に価値をおかない人がいるようです。
自分のこだわりを満足させることこそがモチベーションということですね。

いわゆる普通の人は、
様々な情報を幅広く獲得してそれに対する無意識の反応をしているようです。
その無意識の脳の活動を停止させれば、
思考に集中することができ、
さらに、いい加減なことで止めることができなければ、
形而上学的とも思えてしまうような抽象的な数式や図形が
頭の中だけで組み立てられることもできるのかもしれません。

この様々な情報というのが
他者の気持ちや自分の置かれている立場
ということらしいのです。


少しずれますが、
SNSがなぜ他人に対して攻撃的になるかということを述べたことがあります。

その考察の中で、
リアル対面の会話というのが、
相手の反応だけでなく、相手の存在
相手の感情や立場など、色々なことを考えて、
実際に言葉として表明する事象や
言葉やしぐさの表現を自己規制している
ということと、

相手方も、言葉だけでなく、
その声の調子や顔の表情、
しぐさやシチュエーションを含んで、
相手方を受け止めているということを考えました。

これに対してSNSは、
相手が目の前にいないので、
こういった配慮が極端に低下するようです。

相手と協調するという志向も低下してしまうようです。

すると、相手と協調しながらことを進めていこうという意識が後退し、
自分が考えている正論をどこまでも追求しようとする
客観的に見てこだわりが生まれてしまい、
結果として相手や第三者を不愉快にさせることを
言ってしまっているということがあるようです。

攻撃しようという意識を持ちやすいというよりも
相手の気持ちの優先順位を下げる結果、
自己防衛の気持ち(領域侵犯に対する攻撃等)が強く表現される
その結果、相手が傷ついたり不愉快になる
という結果になるように思われます。

だからこういう人に対しては、
第三者が顔を見せて、相手方の顔を見て
直接話すことによって、
瞬時に社会性を取り戻して、
ひたすら謝り続ける
ということになることがありました。

匿名性の世界というのは、
「ばれないから何を書いてもいいや」
ということよりも、
「対象について想定できないため
 協調の価値観が無くなって、
 自分の『正しさ』を追及してしまう。
 その結果、相手の感情を害することを気にしなくなる」
ということなのかもしれません。

このブログも自戒しなければならないところであります。


ところで、大雑把に済ますことができないということになると、
一番困るのが、
他人の感情なのでしょう。

どうして人は怒るのか
どうして人は笑うのか、
どうして人は悲しむのか、

案外単純ではないようです。

感情的になられても
その理由がわからないことは結構あるでしょう。

それでも、普通の人たちは、
なんとなく泣いたらかわいそうに思い
怒らせたら恐縮して、
笑うと一緒に笑おうとするのではないでしょうか。

大雑把に処理するからこそ、アンテナを広く張れるのかもしれません。

そこに合理性や正義を要求することは
考えてみれば酷なことかもしれません。
他人と接するということは
厳密に考えれば
難しいことかもしれません。

厳密に考えて他人の感情がわからないため
他人が嫌なわけではないけれど、
なるべく関わりたくないということならば
分かるような気がしないでもありません。


ここで力を発揮するのが大雑把という力技なのかもしれません。

特に私のように歳を取ると
逆に、
人からどう思われようともういいや
という気持ちになるということですね。
特に異性関係なんかが最たるものでしょう。

自分がやるべきことをやって、
相手の反応を見て、
「ああこれはだめなのね」
ということを学習して、それはしない。

その上で相手から誤解されたって
あまり深く傷つかない。
必要の範囲で
職場では話し合いをして、是正を行い
家族の中では、自分の対応を変えてみる
そう、あっさりとした人間関係の構えの方が
案外うまくいくというように思えるのです。

極力、知らない人にはちょっかいかけない。

若いころは、
かなり難しいことを成し遂げようとして
できないからと言ってくよくよしていたなあ
ということなのかもしれません。

他人に対して、
どうしてっていうくらい多くを求める人たちがいますが、
(求めるのはいいけれど、できないからってとやかく言うな)
もしかして、そういう人たちは、自分の頭の中で、
こうあるべきだというこだわりが強すぎるのかもしれません。

そんなことを考えながら
分厚い本を読み進めています。

「自閉症の世界」の途中感想 自閉症者がこの世の中に不可欠な存在であるということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

講談社ブルーバックスの
「自閉症の世界」という本を読んでします。
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%9F%E5%86%85%E9%9D%A2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/406502014X

弁護士が、医学関係の本を読むのは、
仕事に必要な場合がほとんどです。
あとは自分の健康に関してですね。

これまでも、精神的な分野では、
認知症の研究をしましたが
(研究といっても、当時は新書等一般向けの書物)
これは、認知症の家族を殺した人の
弁護活動をするためでした。

パーソナリティ障害の勉強もしましたが、
事件の相手方が、自分も私の依頼者もパーソナリティ障害だから
理解をしてほしいということで、
付箋のたくさんついた新書を渡してくれたことがきっかけでした。

事件が終わっても、
認知症やパーソナリティ障害の勉強をすることで、
じゃあ、そうではないとされるいわゆる普通の人間とは何か
という宿題が残されてゆきました。

これが対人関係学の基礎になっていることは間違いありません。

対人関係学は、当初は、
私以外の、いわゆる普通の人たちが、
群れに協調しようとする志向が強いということに着目して始まったように思います。

このブログの震災前の記事などを読むと
群れに「埋没」する志向を持った人たちという言い方をしており、
ちょっとひどい表現になっています。

これが東日本大震災の経験と
ジョイナーの「自殺の対人関係理論」
バウマイスターの「The need to belong」という論文
アントニオダマシオの「デカルトの誤り」
を張り合わせて、
対人関係学になったわけなのです。

そもそもは、(普通の)人間以外の立場に立って(普通の)人間を観察し、
人間とは何かということを考えていたことになるのかもしれません。

いま、スティーブ・シルバーマンの
「自閉症の世界」(講談社ブルーバックス)を読んでいるのですが
これを読んで、以上のことを思い出した次第です。

もう何年か前になりましたが、
ある小学生のいじめの事件に長期的にかかわったことがあります。
ご父兄のご意向で、法的ではない解決を模索していました。

この時に、子どもたちとも、間接的にではありますが
関わらせていただきました。

その中で、いじめとは別件で、
感情の制御が難しく、
誰彼構わず粗暴にして、
授業中も自分勝手なことをしてしまうお子さんがいらっしゃいました。

保護者会でも話題になったようです。
医学的立場というか、子どもの専門家という人も、
「目立ちたい子」ということで片付けようとしていたそうです。

しかし、被害を受けているお子さん方がかなり深刻な状態だということ
という点からも、
何とかしなければいけない段階に来ているということで
目立ちたいということで済ませるわけにはいかないだろう
という反発もありましたし、

子どもたちからの話を聞くと、
みんなの前で目立ちたいというよりは、
自分の思い通りにふるまおうとして、
それがみんなからどう思われるかについて気にしないために
結果として目立ってしまっているだけだ
という気持ちになっていたという、
一方でのその子に対する親近感?からも反発がありました。

その子は、むやみやたらに爆発していたわけではなく、
それなりに理由があって怒りのモードになっていたことは
子どもたちから事情を聴くとよく理解ができました。
(子どもは本当に公平にものを見ているようです。)
特に、私が一番尊敬していた子どもF君が、
彼との待ち合わせの約束にだいぶ遅れてしまって
一緒に遊ぶ約束が守られなかった
その結果その子が暴れたので、自分に原因がある
という話を自らみんなの前でしたことには感銘を覚えました。

自分を制御しない子を特別視する先生の前では暴走気味でしたが、
(「いや、その子に対してそこまですることないでしょう」
  というエピソードが確かにありました。
 先生も怖かったようです。)
彼を理解して普通に扱ってくれる先生の前では
比較的平穏に過ごせていたようです。
(但し、この先生も、いじめに関しては
 こちらの期待通りには進めていただけませんでした。
 「性格が会わない」のであって、
 いじめではないということで切り捨てられてしまいました。)

実際その子は、能力が高く、
頭脳コンテストみたいなところで優勝経験もあります。
実際は、手を出す子と出さない子と区別もしていたようです。
自分がほかの子に暴力をふるっているくせに、
いじめられていた子どもをかばうこともありました。

そういう場合でも、他人からどう思われるという意識がないことで
かばうことに全くの躊躇がなかったようです。

この子は、小学生のうちに、
粗暴な態様が影を潜めてゆき、
F君をはじめ、友達が仲間として扱ったことから、
その友達の言うことをよく聞いて、
自分を規律するようになっていきました。
友だちの忠告は素直に従うのです!

F君をはじめ、子どもたちってすごいと思ったエピソードです。

彼が自閉症の診断基準を満たしていたかどうかはわかりません。

彼を見たり、
私が弁護士会の役員であったときに、
会議で進行を遅らせる、
外の人とは一風変わった観点で発言する人を見ていて、
あるいは、特に高校時代の自分を思い出して
「自閉症の世界」に書かれている子どもたちの様子が
理解できるように思いました。

みんなが当たり前のように
お約束事だとしてふるまっていることが、
自分にはそのお約束事が見えてこないし、
それに従おうという気持ちも持てないのです。

どうしてみんな、自分と違うことが
正しいと思い、それに従うことができるのだろうか
不思議なのです。

あたかも、皆、これから乗る特別電車の切符を持っているのに、
自分だけが切符を持っていないみたいな感覚です。
みんながいつの間に切符を手にしたか不思議でたまりません。
何か自分がなすべきことをしていなかったのかという罪悪感さえ出てきます。

私も中学生までもそういうことがあったように思うのですが、
みんなもっと小さいときからの付き合いなので、
私を「そういうやつ」と思って当たり前に接していてくれていたのかもしれません。
私の周りには、F君みたいな人がたくさんいたのかもしれません。

考えてみれば、
不特定多数の人に向けてこんなブログを書いていること自体が、
協調志向のないことを端的に表しているのかもしれません。

他人の反応を気にしないでやりたいことをやる
犯罪や不道徳な行為でなければ、
それは自由なはずなのですが、
よくわからないお約束事があって、
ダメなこともある。

そのことに敏感な人と
そうでない人がいる。

これまでは、例えば、
前頭前野腹内側部の機能停止ないし低下で
いろいろな説明をしていたのですが、
自閉症の場合、どうやら違うようです。

ある程度は他人の感情がわかるのです。
可愛そうという気持ちもわくときはわきます。

また、将来的な派生問題を推測したり、
複雑な思考をすることもできます。

ただ、他人の反応がわかりながらも
それが自分の行動を制御するきっかけにならない
モチベーションとして成り立たない
ということだし、

その群れに協調しない志向に
程度や種類もあって
単純ではないからです。

この「自閉症の世界」を読んでいると、
そういうことに思いをはせることができます。

いわゆる普通の人が、本能的に気にすることに
一切興味がない分、
本当に考えたいことに集中することができます。

いわゆる普通の人が、
「そんなことできるわけないだろう」
と言って、着手しないことにも着手できるということがあります。

いわゆる普通の人が、
「それが正しいんだ」
ということも、納得できなければ
正しいという評価はしません。

頭で論理的に理解できないことに
賛成することもできないわけです。

こういってしまうと
いわゆる普通の人が劣っているように言っているようにも聞こえるかもしれませんが
そういうことではありません。

特定のリーダーを中心とした秩序を形成しようとしなければ
集団の力は発揮できないでしょう。

自分が理解しなくても、協調する志向が無ければ
国家も成り立たないでしょう。
国家の否定的側面が無くなったとしても
莫大な肯定的側面も否定するわけにはゆかないでしょう。

協調志向は人間が、群れを作り、
本能的限界を超えた人数の共同作業をするために
どうしても必要な能力なのです。

では、自閉症の人たちは能力が劣るのでしょうか。

そうではないということを最後に述べたいと思います。

初めから無理だよと思っていたら、
現代の科学は成り立たないということです。
シリコンバレーに象徴的な現代は、
いわゆる普通の人が無理だと考えていた
コンピューターやインターネット
できる、作りたいと思った人たちがいて成り立ったわけです。

その前提となる電気や電話もそうなのでしょう。

空を飛ぶことだって、
いわゆる普通の人が、ばかばかしくて考えようともしなかったことを
真剣に考えていた人たちがいます。

即ち、科学の進歩には、
いわゆる普通の人ではない人たちが不可欠なのです。

これは、この分野でいわゆる普通の人と特殊能力の人を
橋渡しした人たちがいたということなのだと思います。

これが、例えば政治の世界であると、
そのお約束は理解ができないからダメだと思う
という人たちが発言権を持つことによって、
おきそうになった戦争を止められるかもしれません。

例えば、過労死職場やいじめなど
ダメなものはだめといえる雰囲気が作れるのかもしれません。

自閉症と診断された人や
自閉症ではないかと考えている人が、
適切な役割や発言権を持つ社会が
実はとても強い社会なのだと私は思います。

自閉症があると、
人間関係が苦痛になり、
通常の生活を送ることが困難になる場合があります。
そういう意味では「障害」の定義に含まれるのかもしれません。

しかし、本当に障害があるのは、
自閉症の人たちを尊重したり、発言に耳を傾けなかったり、
薬や環境で排斥しようとする社会の方ではないかと
この本を読んでいるとそう思いたくなってしまいました。

自閉症の人たちが過ごしやすい環境は、
いわゆる普通の人たちにとってなお過ごしやすい環境だという
可能性はないでしょうか。

普通に暮らすことのハードルが
人類史上最大になっているのが
現代社会なのかもしれません。

後半を読み進めたいと思います。






【緊急】 なぜ中学生は自殺するのか 対策のための自死のメカニズムの考察 対人関係学的仮説 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

某教育委員会が小学生や中学生にあてて

緊急メッセージのプリントを配布したようだ。

どうやら、「絶対に死なないでください」

という趣旨の話が印刷されているようだ。


ついに、万策尽きて、子どもにすがっている事態になっている。

教育委員会は、というか大人は、

子どもを育てることが役割であり、

死への誘導を絶ち、

生(健全な成長)への誘導を行うことが

その責務である。

もはや、誘導する方法が分からなくなり、

「死なない」という結論だけを

大人ができない代わりに

子どもに実現してもらおうと懇願しているわけだ。


また、「死ななければ良い」という発想をあらわにしており、

子どもたちの幸せよりも、

苦しくても不幸でも傷ついても

死という結果が生じなければ良い

という発想があらからまであり、隠そうともしない。


そして、それを誰も止める人がいなかったわけだ。

まさに教育の断末魔を聞いているような暗澹たる気持ちである。


これは、きっと、

どうして中学生が自死するかというメカニズムに全く興味を持たないため、

考えていないのだろうと思い、

緊急で仮説を申し述べたい次第である。



1 自死者の心もち


  自死者の心もちは、自死未遂者から聞けばある程度知りうることだ。

  共通することは、

  生きようとする意欲が失われているということだ。


  それはどういう心持かというと、

  高所から転落しつつある人の心もちと似ている。


  転落者は、瞬時に、「もはやこれまで」という気持ちになる。

  その結果、一瞬にして気絶したり仮死状態になるそうだ。


  本当の絶望とは、生きる意欲を失ってしまうことだ。


  これは、物理的に、生命身体の安全回復が

  不可能であると悟った場合である。


  人間が感じる危険は、生命身体に限らない。

  特定の対人関係の中で、

  自分が尊重されて存在することに対する危険

  対人関係的危険も感じる。

  詳しくは対人関係学で検索してほしい。


  左上のリンクだったり、

  このブログ



  対人関係学的危機は、要するに、その群れから排除される

  という危険を感じることだ。

  

  ただ、身体生命の危険と違って

  対人関係学的危険は、すぐに結果が出ない。

  もしかしたら、もしかしたらという

  排除の予期不安だけが来る日も来る日も

  押し寄せてくることになる。


  助かる方法はないと感じ、

  緩やかに転落していく。


  あるいは、誰も人がこない山中に

  両手両足を縛られて

  脱出できないようにして

  ただ死を待つ感覚なのだろう。


  抵抗は無駄だと悟ったとき、

  生きる意欲も徐々に失われていく。


  転落や猛獣に目の前で遭遇した場合、

  仮死状態になったことにより命拾いをする

  ということがあるらしい。


  対人関係的危険の時も、

  うつ状態になって命拾いをするということがあり得るかもしれない。


  しかしながら、向精神薬の服用などで

  無駄な元気が出てしまうと、

  生きる意欲が無くなるだけでなく、

  「自分は死ななければならない」

  という意識に変貌していく場合があるようだ。


  こうなってしまった後で、

  「絶対死なないでください。」

  ということが、あまり役に立たないことは

  すぐに理解できることだと思う。


  いじめをしている方だって、

  殺そうとしているわけではないし、

  死ぬかもしれないと思っているわけでもない。

  「絶対に死なないでください」

  という言葉は、やはりうつろなものとしてとらえられるだろう。



2 対人関係的危険を感じ、絶望を抱く場面


  人間は対人関係的危険を感じると

  身体生命の危険を感じた場合と同様

  安全な場所にたどり着こうと必死になる。


  どんな場合に対人関係的危険を感じるかといえば

  一番は、自分が孤立しているということを実感する時である。


  仲間の中で一段低く見られる(○○のくせに)

  自分の仲間の中での発言権が無い(お前は黙ってろ)

  嫌のことを自分だけがやらせられる。

  健康を願われないどころか暴力をふるわれる。

  弱点を責められる、笑われる、批判される。

  一人だけ、頑張っても褒められない。

  その他差別。

  等々々。


 

  そして、その原因、自分の弱点が、

  自分ではどうしようもないこと

  国籍、親の職業、病気、体質等々

  ということになると、

  自分が群れに迎え入れられるという希望がたたれてしまう。

  第1の絶望ということになる。


  第2の絶望がある。


  このように、対人関係的危険を慢性的に、持続的に感じ続けると、

  些細なことでも、さらなる危険を感じやすくなる。

  例えば、誰かに話しかけて、

  その相手が気が付かないだけなのに、

  あのせいで、自分は無視されている

  というように感じやすくなるようだ。

  かさぶたができ初めの傷口のように敏感になる。


  ささいなことが、深刻なことになる。


  中学生の時期が絶望しやすいのは、

  思春期ということもある。


  本当に微妙な思春期の男女の機微の中で、

  自分の思いが伝わらないことはよくあることである。

  

  夢破れて、自分とは何かを考える契機になることもある。


  しかし過敏になっていると、

  それさえも、自分がいじめられている要素のせいだと

  絶望感が深まるようだ。


  今度はうまくいかもしれないという

  生きる意欲が失われるからだ。



3 中学生の絶望の深さが大人の深さよりも深い理由


  先ず、中学生は大人よりも、

  これから長く生きるということが負担になる。


  これから何十年も

  この孤独と付き合っていかなければならない

  と考えて、気が遠くなるだろう。

  楽しいことがあるだろうなんて考える余裕がない。

  「普通の人はそうだろうけれど、

   自分だけは違う。」

  という意識を強めるだけの気休めはやめた方が良い。


  それから、危険の程度を把握することが困難だという事情もある。


  大人は、それなりに、失敗や困難な状況を経験しており、

  この程度の危険だと、どれくらい深刻な結果が生じるか

  ということを、無意識の中で記憶のファイリングを通して

  覚悟をすることができる。


  また、その過程の中で、対処方法が思いつくことがある。

  これらは、睡眠中に無自覚のまま行われている。


  ところが、子どもは、そのような体験が乏しい。

  特に小学校までは親の庇護が有効に働いている。

  将来を考えて絶望が深まるということは

  またリアリティに乏しいという事情もある。


  特に今の中学生は、

  強制的に将来を考えさせられている。

  社会保険のない非正規の生活についても

  折に触れ突き付けられている。


  推薦で高等学校に行くためには、

  毎日の学校生活で失敗があってはならない。

  一発試験という考え方ではなく、

  毎日毎日失敗が許されない

  という状況にあるようだ。


  そのような空気は敏感に子どもたちに蔓延し、

  自分の失敗を大人が許さないように、

  同級生の失敗に対しても不寛容になるようだ。


  それまでも中学生はけんかやいじめを経験していると思われるが、

  長期間にわたり、制裁を受けるいじめられ方を経験していない

  長期間にわたり、関係のない人からも消極的攻撃をされ、

  無視をされるという、

  これまでに経験のない類の対人関係的危機を体験する。


  そうすると、その危険の程度は

  過去の危険と照合してもその輪郭を図りかねて、

  感じる危険の度合いが著しく大きく深いものになっていく。


  悪夢は、こうして出現する。

  本来、出来事の危険の程度を

  過去の出来事のファイリングを通じてその外苑を腹に落とす作業をするべき

  レム睡眠時に、

  ファイリングしきれないために、対処のない恐怖感情がよみがえる。

  その時、悪夢を見ている。


  中学生という時期には耐えられない危険を

  持て余しているという現実がある。


  子どもの自死が早計に行われていたり

  考えが足りないで行われるというように

  子どもの絶望を軽く考えてはいけない。


  もちろん、

  子どもは、大人が感じるより深く大きな絶望を感じていて、

  その回復可能性の手段をはじめから持たされない状態にある。

  大人以上の苦しみを抱いている。

  この点をきちんと押さえずになめた対応をしても

  子どもに馬鹿にされるだけである。



4 謝った対策


  一つは、「絶対に死なないでください」

  という結論押し付け型の対策である。

  すでにたくさん批判したので省略。


  二つは、「命を大切にしましょう」

  命を大切にするのは生き物の本能である。

  この本能が欠けているとすれば理由がある。

  その理由を探究せずに

  命を大切にしましょうと言っても、

  「これから何十年も苦しみながら生きながらえてください」

  ということに等しいだろう。


  大切なはずの命を軽く扱われている子が

  そんなことを言われてどのように思うか想像してみてほしい。

  

  また、加害者も命を取ろうとしてはいない。

  どちらかといえば正当防衛という意識を持っていることが多い。


  三つは、「死ねば親が苦しむ」

  そんなことわからないで自死する人はいない。

  生きていて申し訳ないと思ってしまうから自死するのである。

  さらに苦しめる。


  四つ目は、「信頼できる大人を見つけよう」

  言っていて恥ずかしくないのかどうかわからないけれど、

  子どもがどうやって信頼できる大人とそうでない大人を区別するのか、

  変なSNSで悪質な大人に食い物にされるだけではないのか。


  五つ目は、「SOSの出し方教育、援助希求を教える

  どこまで子どもに甘えれば気が済むのか、

  人間の子どもは、本能的には大人に援助を求めるようにできている。

  それができないのは、信頼できる大人がいないだけの話である。


  大人が、死ななけれ良いようなメッセージを流し続けている中

  子どもはどんなに技術を教えられても

  自分の命をそのような大人に委ねようとしないことは当たり前すぎる。


  六つ目は、スクールカウンセラー

  スクールカウンセラーが有効なのは、

  本当は大学以降なのではないだろうか。


  人間として接触している人以外に

  その人の職業を信頼して援助を求めろということは

  はたして、中学生や小学生に有効なのか

  疑問が大きい。


  また、死ななければ良いという大人は

  「心の専門家」ということで安心してしまい、

思考提示となり

  丸投げをしてしまう傾向にないだろうか。


  それは根本的対策につながるのであろうか。

  仙台の中学校にスクールカウンセラーはいなかったのか。



5 一応の対策


  先ず、孤立が自死に大きな影響を与えていることから

  孤立を解消することが対策になるはずだ。


  これまでの中学生の自死の事例から

  どのような孤立、対人関係的な危機を感じていたか

  要素を抽出する必要があるが、

  腰を据えて、研究チームを構成する必要がある。

  行政が責任をもって、大学の講座を開設するくらいの意識で

  長期的な研究をする必要がある。


  中学校までは、

  クラス担任が、中心になり、クラスというコミュニティーを

  充実させることが肝要であると思われる。


  教科なのか、行事なのか、クラス単位で一つのことを行い、

  その出来栄えを競うのではなく、

  協力や、仲間を補うことを評価の対象とするようなことに

  意識的に取り組むことが考えられる。


  合唱大会にしても体育大会にしても

  勝ち負けという、緊張、失敗を許さないことだけが行われ、

  孤立感を深める要素だけが蔓延している状況を変える必要がある。


  そのためには、クラス担任の負担を昭和の程度まで削減しなければならない。

  クラス担任が、子どもたちの顔を見る時間を増やし

  一人一人の変化をとらえることができるようにするべきだ。


  外部の人に頼り、クラス担任を軽視するような

  現代の風潮は逆効果だと私は思う。


  暗く落ち込んでいる、自死間際の人を見つけて病院に連れていくのではなく、

  楽しそうでない子どもを見つけて、仲間の輪に迎え入れる

  ということ。


  とにかく、皆と一つのことをする

  力のないものをかばうことの楽しさ   

  という人間の本能に組み込まれた喜びを体験させることが

  教育だと思う。


  いじめを止めるのではく、

  仲間づくりをする過程の中で

  いじめが無くなっているはずだという目標設定である。



  次に、子どもたちの逃げ道をつくるということだ。


  不幸にしていじめが起きてしまえば、

  緊急避難場所が必要だ。


  緊張を解く場所ということだ。


  いろいろな理由があって、

  家庭が休まる場所ではないことが多い。

  これも親が悪いというだけの単純な話ではない。


  何をしても良い、自由な場所

  ゲームをしても良いし、本を読んでも良いし、勉強しても良い

  そうして、信頼できる大人がいて、

  話したければ話しても良いし、

  話したくなければ話さなくてもよい。


  話をしはじめたら、必ず最後まで聞いてくれる人がいる。

  途中で遮ることもされない。

  説教を言われたり、批判をされることもない。

  肯定できるところを肯定されればよい。

  自分のことを自分で決められる居場所が必要だ。


  「居場所」にいるうちに、

  生きる意欲を回復させ、

  学校の方では指導を行う。


  「居場所」が学校の導入になればよい。


  これは頭の固い大人には理解されにくいところかもしれない。



  いじめをする側、傍観する側に対する働きかけも

  考える必要がある。


  これはまさに教育そのものなのだと思う。

  

  教育とか学問とか、人間の健全な成長とは何か、

  私は、インテリジェンスを高めることだと思う。

  

  インテリジェンスとは直訳すると情報だが、

  日本語のニュアンスとしては、

  他人の痛みを理解し、他人を助けるという

  知識と人格態度を合わせた概念だと思う。


  そういう意味で、人間は一生勉強し続けるものだと

  大学で教わった。


  そして、それは、きれいごとではなく

  人間の本能的な要求であると考えるの対人関係学だ。


  だから、他人を攻撃したり、弱点を突くことにこそ

  ゆがんだ理由があると考えて、

  その理由を探究することに意味があると考えている。


  また、他人を攻撃したり

  攻撃されている他人を見ることで

  人間の本能的な能力である共鳴、共感が働き

  加害者や傍観者も人間が大切なものであるという意識が薄れ、

  その過程で心理的な苦しさが発生し、

  人間を大切にする意識が薄れるとともに

  自分を大切にするという意識も薄れていく。

  人間性が失われていくと考えている。


  そうして人間的な喜び、素直な感性ではなく

  得られる利益や、地位という

  本来二次的な価値に過ぎないものに

  人生をささげてしまうという

  不幸の連鎖を招いてしまう。


  楽しくない一生を過ごす人

  焦りの中で一生が終わる人

  安堵を感じることを許されない人

  マグロのように泳ぎ続けなければ死んでしまうような

  そんな人ばかりが増えていくわけだ。


  集団教育の中でこそ、

  人を助ける人間本来の喜びを体験させるべきだ。


  いじめをしないということを調教するのではなく、

  助け合うことが楽しいことだという

  まさに教育を行う場にするべきだと思う。


  また、大人たちがいがみ合ってはだめだ。

  学校と保護者は協力関係にあるべきだ。


  無駄なPTAの行事などをルーティンで行うことに意味はなく、

  子どもたちの様子を、誰を責めるのではなく、

  大人たちがまず、共同作業で見守るということ

  自分の子どもだけでなく

  自分たちの子どもたちの健全な成長のために

  協力し合うということ。


  そのためには、学校は隠し事をしてはならない。

  虚心坦懐に保護者から学んで見せることが必要だろう。



6 子どもたちへ


  

  ここまで読んだ未来の大人たちはいるだろうか。

  ほかの大人たちと同じような勝手なことを言っていると

  怒っているかもしれない。


  ここまで読んだ方ならわかっていると思うが、

  大人なんて大したことはない。

  未来の大人たちを教育する環境が

  情けないほど欠落している。


  それでもあなたたちは、この社会で生きていくしかない。


  先ず、大人に多くを期待してはいけない。

  全部が全部大人たちにやってもらおうと思ってはいけない。


  この記事で一つだけ理解してもらいたいのは、

  「誰かを攻撃すると自分が損をする」ということだ。

  損をするということは、これからの人生の中で

  楽しいと思える時間が少なくなるということだ。


  これは、どう考えたって損だと思わないか。


  先ず、何もできない大人を責めても

  得にもならない。

  何もできない大人を許すところから始めてほしい。


  その次に、大人が動かないのであれば、

  大人を動かす工夫をしてみよう。

  子どもは大人に命令をすることができないが、

  うまく誘導することができるかもしれない。


  できれば担任の先生を敵に回さないこと。

  信頼をしているという嘘は、やがて本当になるのだから

  どんどん嘘をつけばよい。


  学校に対して命令できる大人を探そう。

  いろいろな配布物があったと思う。

  そこに電話番号があるはずだ。

  カンパネラの切符は自分で握りしめていた。


  そうして、担当者の中には

  全く役に立たない人がいるということも気が付こう、

  一度ダメでも別の担当者であればなんとかなる

  ということがあることを知ろう。


  これは、大人になって、必ず役に立つことだ。


  

  大人が勝手に作った制度を変えるのは

  未来の大人たちだ。


  今の世の中よりももっと良い、もっと楽しい世の中を作る。

  この復讐のバトンを絶対話さないでほしい

  

  要領の良い子は、大人の敷いたちんけなレールを走り

  そのはるか先まで到達して未来を変えてほしい。


  要領の悪い子は、

  自分が苦しいというメッセージを遠慮なくぶつけてほしい

  但し、大人は、自分が子どもだったことを忘れている。

  伝える努力は必要だ。


  苦しい体験が財産になるということは本当だ。

  ただ、それには少しばかりの工夫が必要だ。


  昔の子どもたちは、

  くよくよ考えすぎることが少なかった。

  

  それは魔法の呪文を身につけていたからだ。


  「なんとかなるだろう。」

  という呪文だ。


  実際にも、身体生命の危険で何ともならないことはあるが

  対人関係的な危険で何ともならないことはない。

  

  すべては、対人関係的な危険を特有の感じ方で感じることができず、

  身体生命の危険の感じ方で感じてしまっているという

  脳の錯覚からきている。

    

  危険に対して恐怖を感じるのは、

  危険を避ける行動に出るためのきっかけを与えるため

  という理由がある。


  だから、必然的に、

  危険が起きてしまった後よりも

  危険が起きるのではないかという直前が

  最も怖い。


  対人関係的な危険で

  そんなに怖いことは起きない。


  なんか冒頭の某教育員会に対する批判が

  そのまま当てはまることばかり言っているような気がする。

  大変申し訳ない。

  もっと気の利いたことを、もっと実効性のある場所でいえるよう

  努力をすることが私の喜びなので、楽しいと思える時間なので、

  気が付いたことがあったら、

  ぜひ教えてほしい。

  お願いばかりで本当に申し訳ない。    

 

いじめ調査委員会は何を発表するべきか 中学生の自死を予防するために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

中学生の自死事案があると、

第三者委員会の調査があり、報告があるのですが、


よく、

いじめがあったとかなかったとか

あったとして、

いじめが自死の一因だったとか、

自死との因果関係は認められなかったとか、

そういう結果ばかりが報道されます。


中途半端な報道だということです。


一つには、マスコミが、

一般大衆の被害感情をあおり、

誰かを攻撃したいという意識を頼りに

視聴率や部数を稼ごうとしているところに問題があるのでしょうが、


もしかすると、調査委員会も、

その中途半端なところまでしか調査の分析が

できていないのかもしれません。


必要なことは、

じゃあ、どうすればよかったのか

ということです。


誰かを攻撃して、

いじめ加害者を攻撃して、

留飲を下げても

いじめはなくなりません。原因を分析していじめの原因を除去することが

いじめ防止だということは誰でもわかっています。


仮に加害生徒を特定しなくても

加害行為を特定して、

なぜそれが自死者を追い込む要因となるのか、

そして、その加害行為をしないために

どんな工夫が必要か

そういうことを報告し、報道してもらいたいのです。


それができないのは、

いじめ調査という制度に構造的な問題があるのかもしれません。


1 いじめかどうかを気にしすぎること


自死の原因がいじめだったのかどうかということに

あまり意味を感じていません。


いじめであろうとなかろうと、

その子を追い込んだ原因であれば

予防するべきだからです。


法律上のいじめの定義は、

「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」

となっています。


被害者の主観に依拠して定義づけされています。

メリットは、その子が嫌だということをやめるということで

理にかなっていることです。

これまでの弱い者強い者等余計な条件が無くなりました。


デメリットは、その子が「精神的苦痛が無い」と

言わせられればいじめにならないことです。

「大丈夫?」と聞いて

「大丈夫」と答えさせようとする理由がここにあります。


もう一つのデメリットは、

というか、定義を作ること自体のデメリットですが、

いじめではなければ手当てしない

という発想が出てきてしまうことです。


「攻撃ではない」

「いじめではなくからかいだな」

「その子にだけ集中していたわけではない」

と、いじめではないとするための工夫だけが進歩していきます。


学校ないし学校の人間関係という舞台で、

何らかの精神的圧迫が加えられたのであれば、

それを除去するべきです。


いじめかどうかというワンクッション

置かなければならないことに情けなさを感じるべきです。


そのためには、

「いじめが無ければとりあえずよい」

という発想を捨てなければなりません。


「いじめをなくす」

という目標では足りず、

例えば、

「みんなで、お互いの弱点をかばい合う」

とか、

「助け合って一つのことを行う」

とか、

「みんなが楽しい学校生活」

というゼロの先のプラスを目標として

指導をしていく必要があると思っています。


生き生きしていない目をした生徒がいたら

気遣いあう学校であるべきだということは

遠い理想論なのでしょうか。

そうだとしたら、子どもを学校にやる理由はどこにあるのでしょう。


2 損害賠償の証拠にされてしまう。


いじめ調査委員会には強制権限がありません。

このため、事情聴取を断られることが多いようです。

特に加害者とされる生徒と保護者は拒否するようです。


うかつなことを良心に任せて言ってしまって、

それが記録として残ってしまい、

あるいは結果として報道されてしまい、

後で裁判の証拠として出されてしまうと、

損害賠償を払わなければならなくなると思うことは

あるいはやむを得ないことかもしれません。


自分の言ったことが

どの程度原因とされるかわからないことが多いのでなおさらでしょう。


一般にいじめというと

2,3人の特定グループが

執拗に嫌がらせや脅迫、恐喝を繰り返していた

というイメージを持ちやすいのですが、

それは少数です。


さすがにそういうことがあれば

多くの事例では、子どもも動きますし、

大人も動くからでしょう。


多い事例は、

結構な人数の子どもたちが

日常的にからかいと称して

その子の弱点を笑いの対象として


周囲も同調したり

そういう子どもを注意しようと思っているうちに

自死や不登校となってしまい、

何もしない傍観者といわれてしまうケースでしょう。


「いじる」という楽屋言葉が

一般的に使われているところに

大きな疑問があります。


このように誰かをいじって笑いをとるということが

否定的なニュアンスで語られないところに

日本の情けない現状があると思います。

テレビで放送するべきことではありません。


ソフトなからかいでも

それが、

からかわれる生徒が固定化されてしまい、

一方、

あまり面識のない子どもまでがいじりに参加してしまうと、

孤立感が出てきます。


だんだんと、その子と一緒にいることで

自分のステイタスが低下するような感覚が蔓延していき、

その子と人間的な交流を避けるようになります。


その子から見ると、

自分が差別されていると感じ、

その解決の糸口が見つからないと、

絶望的な孤立感を抱くようです。


そうだとすると、

確かに、あの時、あの子のいじりに参加したなとか

みてみぬふりをしたなという意識があると、

それが自死の原因になったと言われてしまうと、

それを否定したいという気持ちにもなるでしょう。


訴えられるという恐怖も出てくるでしょう。


口をつぐんでしまう構造があるのだと思います。


3 証明の程度についての誤解


いじめ調査が何のために行われるのか、

その目的をはっきりさせる必要があります。


再発防止ということが目的であれば、

実は、自死や不登校と何らかの関係があると思われることは

どんどん指摘をして、

それをしないためにはどうすればよいのか

ということをどんどん提起するべきだと思います。


多少、その出来事が本当にあったかどうか確信が持てなくても

そういうことがあった可能性があると認定できるようにするということです。


調査とはそういうものだということになれば、

いじめ調査の結果を裁判の証拠で使えない程度のものにとどめる

ということがあり得ることだと思います。


「特定の生徒○○によるいじめがあった」

「それが原因で生徒が自死した」

という認定をするべきではないかもしれないということです。


いろいろな出来事が自死につながる可能性がある

調査委員会で気が付いたのは

こういう出来事、こういう出来事

それらの出来事が、自死した生徒に孤立感を与えてしまい、

些細なこういう出来事やこういう出来事も

自分がみんなから拒否されていると

感じてしまう要因になっていった。


だから、こういうことがあったら、

生徒同士でこういうような声掛けをして、

先生はこういう形で指導をしていくことが考えられる

という調査結果の報告、答申になるべきだと思います。


ここでも、ゼロの先のプラスを目指すという発想が

予防策の提言への特効薬になるはずです。


つまり、いじめという犯罪類似の行為があるとすると

その「加害者」に対する報復をしなければならない

という一般的な報復感情が生まれてしまい、

悪は罰せられるべきだという意識につながってしまいます。


しかし、一人一人が楽しい学校生活を送るために

それを妨げるものを除去するための調査だということになれば、

自死につながる可能性のあるものを

どんどん排除していけばよいのだと思います。


あれをやってだめ、これをやってだめというのではなく、

これをやりましょう、こうすると楽しいよ

という問題提起というわけです。




人間関係で苦しむ子どもを作らないようにしたいのか、

いじめる子どもをこらしめたいのか、

どちらかを選ばなければならないのではないか

と感じているところです。

前の10件 | - 自死(自殺)・不明死、葛藤 ブログトップ
メッセージを送る