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自死(自殺)・不明死、葛藤 ブログトップ
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青森市のいじめ防止審議会の報道発表がどうして不可解なのか、疑問を2点提示する。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成28年8月に、青森の中学校で
中学2年生の女性が自死をした事件で、

「5月末で任期を終える市いじめ防止対策審議会は28日、同市内で臨時会を開いた。終了後の会見で、審議会会長の櫛引素夫・青森大学教授は、報告書原案で「1年夏から2年の初夏にかけて4件のいじめを認定している」と明らかにしたが、いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかったと説明した。」
との報道がありました。

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170529025524.asp

2点ほど意見があります。

第1は、いじめ防止対策審議会は、何を目的に調査をしてきたのかという点です。

この委員会の正確な設置要綱はわからないのですが、
おそらく、将来、いじめを無くし、
自死者を出さないための調査をして、
調査結果を報告するのが目的だったはずです。

そうだとすれば、この最終結論は極めて不可解です。

「いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかった」
ということはどうして述べる必要があったのでしょうか。
私は、権限外の発言ではないかとすら感じています。

ニュースでは、いじめが自死の引き金だったと
断定することができなかったなどということも言っていたようです。
これも権限外の発言だと思います。

この審議会は、
当該事例の調査を行い
自死の危険性のある行為を提示し
何を繰り返してはいけないのか
ということを提案する組織のはずなのです。

このところを理解されていないのではないか
という疑問が出てきてます。

これが例えば、裁判の損害賠償請求の場合ですと、
いじめなどの行為と自死という結果が
一般人から見て行為と結果という関係にあることが
相当であると認められることが必要となります。

これは、その因果関係が認められてしまうと
加害者が損害賠償を支払わなければならなくなるからです。
ある程度、厳密に検討する必要が出てきます。

これに対していじめ防止の場合は、
「本来は」
もっと緩やかに自死といじめの関係を判断してよいはずです。
もっとも、あれもこれもだめだとして、
生徒たちの自由を過度に制限するようなことにならないことは必要だと思いますが、
この点はそれほど重視しなくてよいはずです。

ところが、この様な理念的な判断ができない事情が
確かにあるようです。

一つは、このようないじめ防止の審議会の
目的に関心のない人が審議委員になることです。

また、一つは、
将来の損害賠償の裁判に
審議会の調査結果が使われるのではないか
という心配をすることがあげられます。

これは、当事者にもそういう心配があり、
調査に応じたら、
自分が損害賠償を請求されるのではないだろうか、
他人の裁判に巻き込まれて煩わしいことになるのではないだろうか
等という心配があるようです。
特に加害者とされた子どもたちやその親は
調査に協力しない傾向があるようです。

私は、いじめ防止審議会の調査結果報告は、
できるだけ関係者に公表するべきであり、
そうでないといじめ防止の有効打にならないと思っています。
そうすると、個人名などは非公表として、
危険のある行為類型だけを指摘する方法が
求められるのだと思います。

良い、悪いということすら不要で、
「これからこういうことは危険だからやらないように」
というトーンにしかならないことだと
考えています。

先ずは、亡くなった子どものためにも、
損害賠償よりも、
同じ悲しみを繰り返さない
ということで徹底しなければならないと思っています。

そのためには、危険類型の解明の
積み重ねがどうしても必要だと思うからです。

学校には、
関与の範囲で
必要に応じて謝罪などがなされることが
加害者とされる子どもたちの健全な成長のためにも
必要であることを理解して指導していただきたいと思います。

実際、中学生の遺族で、
最初から、加害者を裁判所に突き出したいとか
損害賠償を請求するとか
希望している人をあまり見たことがありません。

その後の調査が曖昧だったり、
事実が隠されたり
不必要な報告がなされたりすることで、
ことさら自死した子どもに責任を帰属させるから
遺族が怒るということを目の当たりにしているところです。

発想が実態と逆なのです。

だから、自分の任務でもないのに、
いじめ以外にも原因があるかもしれないとか
いじめが自死の引き金になったと断定できないとか
余計なことにこだわるわけです。

思春期うつなどという奇想天外な理由を
どのような根拠で言っているかわかりませんが、
そういうことを言い出すわけです。

詳細はわかりませんが、
りまさんの晴れやかな写真が、
「そんな思春期うつなどではない」
と雄弁に物語っているような気さえします。

青森県では過去において
女子高生の自死が
摂食障害を原因としたものである可能性があると
奇想天外な説明をしたこともありました。

もし、審議委員の任務がいじめや自死予防ではない
というなら謝罪しますが、
いじめや自死予防のための審議会ならば、
この期に及んで、他に原因が無いとは言えないから原因が特定できないとか
引き金になっていると断定できないとか言っている段階で、
委員として適格性を考えなければならなかったのではないか
と思わせるエピソードでした。

この報道に接して
もう一つ意見があります。

いじめを4件認定したと言っています。

この審議会が認定できたということは
民事訴訟にも耐えうる証明があったということなのでしょうが、
そうだとすると、当人の精神的な苦痛を
もっと考えることができたはずです。

これができない理由もある程度考えることができます。
過労死の認定でもよくあることなのですが、
一つ一つのエピソードを個別的に評価して、
一つ一つは、良くある話であり、重い話ではない
重い話が4つあっても、全体として重くならない
という論法です。
これは、はじめから因果関係を否定するための論法なのです。

それぞれ一つ一つが重くなくても
それを生身の一人の人間が受けていたら
大変重いことになるのです。

単純に言えば、
100mを20秒で走りなさい。
50mを2分で泳ぎなさい
それほど難しいことではないのですね。
しかし、
50mを泳いで、そのままプールの入り口から
100mを走りなさい。
全体で3分でやりなさい
ということです。

できる人もいるでしょうが、
大変なことだということは誰でもわかることでしょう。

いじめの場合はもっとわかりやすいかもしれません。
ヒントは、4つのいじめエピソードは
分断していないということです。

いじめの内容は報告されていませんが、
(いったい何のための報告だったのかここにも疑問があります。予防に必要の範囲で公開しなければ意味がないのではないかと思います。)

例えば、4月にクラスで取り囲まれて悪口を言われた
5月にラインで、理由のない謝罪をみんなから求められた、
7月に一人だけクラスの行事に呼ばれなかった、
9月に、靴を隠された
ということが仮にあったとしましょう。

そうだとすると、苦痛を感じるのは、
それぞれ悪口を言われたときだけとか、
ラインに書き込まれたときだけとか
呼ばれなかったことだけとか
そういうわけではないのです。

心は分断して出来事を感じることはありません。

積み重なっていくということもあるでしょうし、
孤立感を絶望感に高めるということもあるでしょう。
大事なことは、その間一貫して
自分が仲間として認められていないという
気持ちを感じ続けるということなのです。

「また、ああいうことがあったらどうしよう。」
ということを、おそらく毎日感じ続けていたでしょう。

4つのいじめがあったとしたならば
いじめが解消された心温まるエピソードでもなければ、
その期間ずうっといたたまれない気持ちで毎日を過ごしていた
ということなのです。

そうなってくると、
個別の出来事がいじめに該当しないと思っても
本人を苦しめることが出てきてしまいます。
本人が追い込まれて悪く受け止めるようにもなります。

調査の審議会があるのであれば、
せめて、
本人が何を嫌がっていたと思われるのか
何をやめてほしいと思っていたのか、
その可能性を調査して報告するべきではないでしょうか。

いじめかどうかもどうでも良いことになるはずです。
未だにいじめと認定できるのかどうかが
マスコミの関心ごとのようで、
審議会の目を曇らす一因になっているようです。

どうやったら自死を無くすかということですが、
死ななければ良いってものではないのです。

いじめを一度受けると
何でもない些細なことでも
「あの時と同じことが起きるのではないだろうか」
という怯えが出てきてしまい、
その後の人間関係にも、重大な影響が出てしまいます。

いじめを無くすためには、
死の引き金だけを無くすのではなく、
外に自死の原因が無い場合のいじめを無くすだけでなく、
人を困らせる、いたたまれなくする行為を
全部なくすことを考えなければならないと思います。

そのためには、審議会の認定を緩やかにするとともに
そういうものだから、
審議会の調査結果が裁判の証拠にはならない
性質上、証拠として使えるものではない
ということも徹底するべきです。

何よりも、今後
同じようないじめをさせないために
何が、どのように危険な行為なのか
みんなに教えてあげるという
指導に活かす調査結果にならなければならないはずです。

それは当該学校だけでなく、
社会一般に認知されて、
他人の心に配慮するという風潮を作る必要もあるはずです。

せっかくのいじめ調査という貴重な機会が
無駄にされることだけはどうしても納得できません。


どこかで、オープンな議論がなされることを
求めてやみません。

「自閉症の世界」(ブルーバックス)感想文3 自閉症スペクトラムの本当の意味は、普通の人の中にも自閉症的要素があるということかもしれない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


昨日このような記事を見ました。
「自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

「私とおんなじことを言っている」と驚いたのですが、
書いていらっしゃる方は、「自閉症の世界」を翻訳された方でした。
この先生の本を読んで感じたことを書いているのだから、
私は、その掌の上で踊っているのであり、
当然と言えば当然ですし、
「おんなじこと」と言うのは不遜なことでありました。

ただ、私の言っていることも
あながち見当外れではなかったという安心感をいただきました。
それとも、結論がたまたま近かっただけでしょうか。

まあ、私の場合は、専門家が言っているのではなく、
素人のたわごとだと思ってご寛容のほどをお願いします。

自閉症をもう一度おさらいすると
1 社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
2 こだわりが見られること(興味の範囲が著しく限られている。)
の2点ということになるそうです。


遺伝子的に言えば、
特定の家系に自閉症の現れる率が高いとしても、
遺伝子的には古い遺伝子であり、
一般の人たちに広く共有されているらしいというのです。

もしかすると、
いわゆる普通の人でも、
自閉症の種を持っているのかもしれません。

自閉症の人たちは、
音だとか、光や色だとか
強い拒否反応を示すことがあるようです。

ブーンという蛍光灯の音とか、
黄色の色彩やフラッシュのような光で
パニックになる等の反応を示す人がいるようです。
(緑や茶色の穏やかな色を好むことが多いらしいです。
 自閉症の人たちには、優れた音楽家や画家がいます。)

もしかすると(こればっかりなので恐縮ですが)
われわれも、
本当は、音や色彩が不快に感じているのかもしれません。
はっきりとこれが嫌だと特定できないだけかもしれない
と考えることはできないでしょうか。

実は私は、蛍光灯の音とか持続する音は嫌いですし、
フラッシュは嫌ですね。
黄色は嫌だという自覚はありませんが。

現在、ブロードウエイでは、
そのような花火やストロボを使用しないバージョンの
舞台公演をしたり、
「アナと雪の女王」も感覚に優しい形の上映を
するようになっているそうです。

おそらく、
そういう舞台や映画は、
自閉症ではない人にとっても
優しい、快いものになっているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

めんどうくさく言うと
「嫌だ」と感じる閾値と「嫌だ」と表明する閾値が
自閉症の人が低いだけなのかもしれないということです。
いわゆる普通の人は
快不快でいえば不快なのだけれど
自分でそれをはっきり自覚しないだけだかもしれないし、
自閉症の人は「嫌だ」と感じると「嫌だ」と表現してしまうという違いがあるだけかもしれないと思うのです。

不快を感じないだけで
実は生理的な侵襲を受けていて
侵襲が蓄積されて初めて自覚をする
あるいは無自覚に何らかの症状が出て
原因不明とされている
ということが無いとも限らないだろうと
思ってみたりしています。

また、そういう自閉症の人たちが嫌がる
音や光、色彩が
それでごまかしていて、本質を隠すことにも
つながっているかもしれません。

そういう意味では、自閉症の方々の感覚に
学ぶところが大きいという可能性があるように思われます。
おそらく、将来的にはそういう社会が実現する場所も
あるのではないかと想像してみたりもします。

それをブロードウエイやディズニーという
エンターテイメントの王道が実現しているということが
偶然ではないように思われるのです。

そのような物理的な感覚だけでなく、
社会の問題も同じということは考えられないでしょうか。

診断基準が変わって、自閉症と診断されている人が増えているというよりも
自閉症者そのものが増えているとしたら、
それは理由があることだと考えなければならないでしょう。

ここで問題にするべきだということは、
精神障害は、相対的な概念だということです。
先ほどの自閉症の診断基準のうち、
複数の対人関係の障害があれば自閉症であるなら、
強いこだわりがあっても
コミュニティーがそれを受け入れれば
障害にはならないということです。

逆に同じ人でも
自分を受け入れないコミュニティに入ってしまうと
障害という診断が下される可能性が出てくることになります。

常に思うのですが、
精神科の診断には、
その人の周囲が健全なコミュニティであることを前提として、
周囲に協調しなければならないという
隠れたメッセージを感じています。

変わり者の私だから思うのでしょうが、
対人関係の不具合が
弱い者に原因をしわ寄せしているように
感じることが多くあるのです。

だから、一つの可能性として、
自閉症者が増えているとすれば
それは、むしろ個体に原因を求めるのではなく、
他者に対して不寛容なコミュニティが増えている
ということではないかということを
自分たちのために点検するべきなのではないか
と思うのです。

幼稚園や小学校などにおいては粗暴性により身の安全が保たれないことは
寛容にはなれないので、
安全については最低限の確保が図られる必要はあると思います。
(自閉症の子どもが粗暴傾向にあるというわけではないようです。
 感情を抑制できないために結果として粗暴になる
 ということが正しいような実感があります。
 だから、犯罪の原因にアスペルガー障害をもってくることは
 本当に妥当性があるのか、専門家の方々に教えを乞いたいと切実に思います。)
当面は、粗暴性に対抗する物理力ということですが、
将来的には、粗暴的感情を寛解させるノウハウの獲得
ということになるのだと思います。

また、表現行為を抑制するという発想よりも、
感覚的な刺激の解放的な対処方法の確立が理想なのでしょう。
要は、「自分がそのコミュニティに受け入れられている」
という安心感をいかに獲得するかということだと思います。

自閉症の人の中には、心を許すと人懐こく
来いと言わなくても、いつでも気が付けば隣にいる
という人もいるようです。
信頼できる人の指示には、一応従っておこうという
行動傾向がある人も多いように思われます。
ある意味、納得できないけれど学習はするということなのかもしれません。
何か、パニックになったときも
その人の声を聞くことで
安心しているということもあるように思われます。

本の中でレインマンの原型になったビルという人物のエピソードも
それを示しているように思われます。

ところが、コミュニティの方に余裕がない場合
他の人と同じ行動をとらないこと自体で
イライラするのはある意味当然のことでしょう。

前々回、ちょっとだけ触れたケースですが、
弁護士どうしの会議をしていて、
その人以外の人がみんな、
会議を一つ一つ厳密にするよりも
あとは主催者に一任して早く終わりにしようとしているのに、
「どうしてそこにこだわる」
という意見を出して、
進行を止めて自説を展開する人がいました。

いつものそのようなことで、
その人が発言を求めただけでうんざりするようになりました。

ある時、こちらも開き直り、
終わらないなら徹夜でもなんでもしてやると思うようになった時、
その人の意見は、ほとんどの人とは意見を異にするが、
よく聞くと(余裕がなければこれができない)、
確かに問題の所在を的確にとらえているという評価ができる
ということに気が付いたというか、同意できるというか
理解ができるようになったのです。

そして、案外、そういう議論を抜きにことを進めていくことで
間違いや、不適切な方向への親和性が出てくる
彼の意見を大勢の意見に置き換えることはできないけれど、
彼の意見の要素をしっかり組み入れて運用しなければならないことが多い
ということを実感できるようになりました。

もちろん彼が自閉症だったということではないのですが、
要は、大勢の感覚が必ずしもあてにならない
ということの一つの体験ではありました。

おそらく、話し合うべき時間がたっぷりあれば、
彼の意見に賛成反対をするだけでなく
どのように彼の問題意識を反映させるか
という議論に発展したのだと思います。

要するに自閉症は
当該個体のコンディションによって成立するだけでなく、
当該個体を取り巻くコミュニティのコンディションによって
「協調的でない」と烙印を押されてしまう可能性がある
ということを言いたいのです。

例えば、学校もそうでしょう。
本当にそれが大切なことか
例えば組体操をやりたくない怖いということを素直に言えば、
協調性が無いということになってはいないでしょうか。

疲労の中で、さらに残業をさせられるのを拒否することで
協調性が無いとして、叱責の対象になってはいないでしょうか。

もしかしたら、皆がやる気になっているシンポジウムでも、
一人だけ、その企画は納得できないと困らせている人がいる場合、
本当にやる必要があるシンポジウムなのか
考え直すということがあっても良いのかもしれません。

また、集団ヒステリーのような状態に
コミュニティがなっていることがあるように思えます。

「21世紀の失政」ということで、
平成23年3月ころの文芸春秋で特集がありました。
その中で、保守派の論陣や自民党の年配の方々が
小選挙区制を挙げていたことに驚いた記憶があります。

小選挙区の議論が国会でなされていた時、
私は、小選挙区制は、
社会的要素を反映した代表制にするべきだという
憲法学の立場から賛成できなかったのですが、
同じ憲法を学んでいたはずの友人たちが、
もう小選挙区制は実現することになっていると言って、
議論をすることすら反対されたという経験があります。

私なんかよりも優秀な大学の方たちでした。
というか、私のネタ元の教授の講義を受けていたはずなのです。
不快とか何とかいうよりも、
とても不思議なことが起きているという印象が強かったです。

私なんかは、自分にちょっと自閉症の傾向があると思うと
どちらかという嬉しくなってしまうのですが、
そういう優秀な人たちは
おそらく自閉症とは全く縁のない人たちなのでしょう。
人間的には良い人たちで、今でも仲良くさせていただいています。

コミュニティ自体に緊張感が持続しているケースもあります。
例えば、プロ野球のチームで
連続勝利記録みたいなものがかかっているときに、
何らかの拍子で単純ミスをしてしまって
居場所がなくなるということもあるでしょう。

例えば無理な売り上げ目標を
本社から有無を言わせずに押し付けられ、
何とかそれを実現しないと
営業所長の首が飛ぶみたいな状況の中で、
子どもの授業参観なので有休をとるといったら
やはり、協調性が無いと言われるのかもしれません。

自閉症という概念は、
むしろ、いわゆる普通の人たちの
コミュニティの在り方を考える
強力な道具になる可能性という
大きな魅力を感じます。

多数の暴走を止めるきっかけにはなるように思われます。

「自閉症の世界」途中感想2 自閉症と自閉症スペクトラムの概念と普通の人たちの大雑把の力 時々SNSの弊害の理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

この記事は、ブルーバックスの「自閉症の世界」を読みながら考えていることを
忘備録的に記載しているものであって、
治療についての検討や、社会的提言をするものではありません。

私の中でなんとなく済ませていた「自閉症」の意味でしたが、
少し整理します。

自分の殻に閉じこもって引きこもる
という意味ではなくて、

社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
こだわりが見られること
が診断基準となっているようです。

簡単に言うと、
他者との感情的つながりを結びにくいというか、
面倒くさく言うと
他者との結びつき方がわからないので、
積極的に他者と結びつこうとは思わないし、
他者からの自分の評価というものも関心がない
そういう意味で自閉というのだと思います。

これらの点について、本は、
自閉症が注目され始めてから現代まで、
時代ごとの変遷と登場人物等のレポートが詳細になされていて、
読み物としても、興味を絶やさず読むことができます。

単なる理論の説明ではなく、
人間がどうかかわるか、戦争(ナチス)の影まで出てきます。


次に自閉症スペクトラムという言葉が出てきます。
これも誤解を受ける概念でして、
障害の程度に幅がある
というわけではなく、

一つには、
自閉症の出方は千差万別であり、
その人それぞれの特徴があるということです。
そのため、
自閉症という診断がついたからと言って、、
ではどうするかという答えが一義的に出てくるわけではなさそうです。

また一つには、
いわゆる普通の人と自閉症の人との間に
線を引くということがなかなか難しく、
いわゆる普通の人の中にも
自閉症的傾向を持つ部分がある
ことがおかしくないということのようです。

また、なんとなく精神障害というくくりで語られることから
知的能力に問題があるような誤解もあるのですが、
この点も千差万別だそうです。


むしろ、知的能力の高い人も多いようです。
コンピューターの分野もそうですし、
物理化学の分野や
数学等において、
いわゆる普通の人では到底不可能な業績を上げている人たちの多くに
自閉症の診断基準を満たすのではないかという人たちがいる
ということのようです。

「レインマン」という映画では、
数的感覚や記憶力の突出した人として描かれています。
(もっとも、映画ではカジノでこの能力を使って大儲けをするのですが、
 リアルで試そうとしたときは
 「それは不正だ」と言って、能力を使うことを拒否したそうです。)

この「レインマン」が企画され上映される経過も詳細に書かれているのですが、
かなり感動を覚える部分です。

特別な能力があるのに
周囲に溶け込むことができないということは、
むしろ、特別な感覚があるから
周囲に溶け込むことができない
ということなのかもしれません。

出典を覚えていなくて恐縮なのですが、
「聴覚が優れていて、記憶力が突出している人は、
 逆に、声で人を識別できない。」
ということを読んだ記憶があります。

人間の声というのは体調や感情によって
ずいぶん変わるのだそうです。
そのため、一度聞いた声を完璧に識別して
完璧に記憶していると
「前に聞いた声と違う」
ということになってしまうのだそうです。

むしろ、ある程度おおざっぱに識別して
大ざっぱに記憶していた方が
実務的にはうまくいく
ということらしいです。

電話の音声信号なんて、
そういうおおざっぱだからこそ成り立つのではないでしょうか。

そういう風に厳密な感覚を持っている人たちにすれば、
大ざっぱに事が運んでいくことは耐えられないことでしょう。

「事が運べばよいや」
という価値観の場合は、
細かいことにこだわると、周囲が受け入れなくなるでしょう。

しかし、
「正確に、正しく」が運用よりも優先(生産性より緻密性)
という価値観の場合は、
例えば精密部品のチェック等の場合は、
貴重な戦力になるわけです。

これは上司(指導者)の性格に対応する場合も
あるいは、上司が部下に対する対応を考える場合も
参考になるようです。


また、自閉症の人の中には、
他者からの評価に価値をおかない人がいるようです。
自分のこだわりを満足させることこそがモチベーションということですね。

いわゆる普通の人は、
様々な情報を幅広く獲得してそれに対する無意識の反応をしているようです。
その無意識の脳の活動を停止させれば、
思考に集中することができ、
さらに、いい加減なことで止めることができなければ、
形而上学的とも思えてしまうような抽象的な数式や図形が
頭の中だけで組み立てられることもできるのかもしれません。

この様々な情報というのが
他者の気持ちや自分の置かれている立場
ということらしいのです。


少しずれますが、
SNSがなぜ他人に対して攻撃的になるかということを述べたことがあります。

その考察の中で、
リアル対面の会話というのが、
相手の反応だけでなく、相手の存在
相手の感情や立場など、色々なことを考えて、
実際に言葉として表明する事象や
言葉やしぐさの表現を自己規制している
ということと、

相手方も、言葉だけでなく、
その声の調子や顔の表情、
しぐさやシチュエーションを含んで、
相手方を受け止めているということを考えました。

これに対してSNSは、
相手が目の前にいないので、
こういった配慮が極端に低下するようです。

相手と協調するという志向も低下してしまうようです。

すると、相手と協調しながらことを進めていこうという意識が後退し、
自分が考えている正論をどこまでも追求しようとする
客観的に見てこだわりが生まれてしまい、
結果として相手や第三者を不愉快にさせることを
言ってしまっているということがあるようです。

攻撃しようという意識を持ちやすいというよりも
相手の気持ちの優先順位を下げる結果、
自己防衛の気持ち(領域侵犯に対する攻撃等)が強く表現される
その結果、相手が傷ついたり不愉快になる
という結果になるように思われます。

だからこういう人に対しては、
第三者が顔を見せて、相手方の顔を見て
直接話すことによって、
瞬時に社会性を取り戻して、
ひたすら謝り続ける
ということになることがありました。

匿名性の世界というのは、
「ばれないから何を書いてもいいや」
ということよりも、
「対象について想定できないため
 協調の価値観が無くなって、
 自分の『正しさ』を追及してしまう。
 その結果、相手の感情を害することを気にしなくなる」
ということなのかもしれません。

このブログも自戒しなければならないところであります。


ところで、大雑把に済ますことができないということになると、
一番困るのが、
他人の感情なのでしょう。

どうして人は怒るのか
どうして人は笑うのか、
どうして人は悲しむのか、

案外単純ではないようです。

感情的になられても
その理由がわからないことは結構あるでしょう。

それでも、普通の人たちは、
なんとなく泣いたらかわいそうに思い
怒らせたら恐縮して、
笑うと一緒に笑おうとするのではないでしょうか。

大雑把に処理するからこそ、アンテナを広く張れるのかもしれません。

そこに合理性や正義を要求することは
考えてみれば酷なことかもしれません。
他人と接するということは
厳密に考えれば
難しいことかもしれません。

厳密に考えて他人の感情がわからないため
他人が嫌なわけではないけれど、
なるべく関わりたくないということならば
分かるような気がしないでもありません。


ここで力を発揮するのが大雑把という力技なのかもしれません。

特に私のように歳を取ると
逆に、
人からどう思われようともういいや
という気持ちになるということですね。
特に異性関係なんかが最たるものでしょう。

自分がやるべきことをやって、
相手の反応を見て、
「ああこれはだめなのね」
ということを学習して、それはしない。

その上で相手から誤解されたって
あまり深く傷つかない。
必要の範囲で
職場では話し合いをして、是正を行い
家族の中では、自分の対応を変えてみる
そう、あっさりとした人間関係の構えの方が
案外うまくいくというように思えるのです。

極力、知らない人にはちょっかいかけない。

若いころは、
かなり難しいことを成し遂げようとして
できないからと言ってくよくよしていたなあ
ということなのかもしれません。

他人に対して、
どうしてっていうくらい多くを求める人たちがいますが、
(求めるのはいいけれど、できないからってとやかく言うな)
もしかして、そういう人たちは、自分の頭の中で、
こうあるべきだというこだわりが強すぎるのかもしれません。

そんなことを考えながら
分厚い本を読み進めています。

「自閉症の世界」の途中感想 自閉症者がこの世の中に不可欠な存在であるということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

講談社ブルーバックスの
「自閉症の世界」という本を読んでします。
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E9%96%89%E7%97%87%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7%E3%81%AB%E6%BA%80%E3%81%A1%E3%81%9F%E5%86%85%E9%9D%A2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3/dp/406502014X

弁護士が、医学関係の本を読むのは、
仕事に必要な場合がほとんどです。
あとは自分の健康に関してですね。

これまでも、精神的な分野では、
認知症の研究をしましたが
(研究といっても、当時は新書等一般向けの書物)
これは、認知症の家族を殺した人の
弁護活動をするためでした。

パーソナリティ障害の勉強もしましたが、
事件の相手方が、自分も私の依頼者もパーソナリティ障害だから
理解をしてほしいということで、
付箋のたくさんついた新書を渡してくれたことがきっかけでした。

事件が終わっても、
認知症やパーソナリティ障害の勉強をすることで、
じゃあ、そうではないとされるいわゆる普通の人間とは何か
という宿題が残されてゆきました。

これが対人関係学の基礎になっていることは間違いありません。

対人関係学は、当初は、
私以外の、いわゆる普通の人たちが、
群れに協調しようとする志向が強いということに着目して始まったように思います。

このブログの震災前の記事などを読むと
群れに「埋没」する志向を持った人たちという言い方をしており、
ちょっとひどい表現になっています。

これが東日本大震災の経験と
ジョイナーの「自殺の対人関係理論」
バウマイスターの「The need to belong」という論文
アントニオダマシオの「デカルトの誤り」
を張り合わせて、
対人関係学になったわけなのです。

そもそもは、(普通の)人間以外の立場に立って(普通の)人間を観察し、
人間とは何かということを考えていたことになるのかもしれません。

いま、スティーブ・シルバーマンの
「自閉症の世界」(講談社ブルーバックス)を読んでいるのですが
これを読んで、以上のことを思い出した次第です。

もう何年か前になりましたが、
ある小学生のいじめの事件に長期的にかかわったことがあります。
ご父兄のご意向で、法的ではない解決を模索していました。

この時に、子どもたちとも、間接的にではありますが
関わらせていただきました。

その中で、いじめとは別件で、
感情の制御が難しく、
誰彼構わず粗暴にして、
授業中も自分勝手なことをしてしまうお子さんがいらっしゃいました。

保護者会でも話題になったようです。
医学的立場というか、子どもの専門家という人も、
「目立ちたい子」ということで片付けようとしていたそうです。

しかし、被害を受けているお子さん方がかなり深刻な状態だということ
という点からも、
何とかしなければいけない段階に来ているということで
目立ちたいということで済ませるわけにはいかないだろう
という反発もありましたし、

子どもたちからの話を聞くと、
みんなの前で目立ちたいというよりは、
自分の思い通りにふるまおうとして、
それがみんなからどう思われるかについて気にしないために
結果として目立ってしまっているだけだ
という気持ちになっていたという、
一方でのその子に対する親近感?からも反発がありました。

その子は、むやみやたらに爆発していたわけではなく、
それなりに理由があって怒りのモードになっていたことは
子どもたちから事情を聴くとよく理解ができました。
(子どもは本当に公平にものを見ているようです。)
特に、私が一番尊敬していた子どもF君が、
彼との待ち合わせの約束にだいぶ遅れてしまって
一緒に遊ぶ約束が守られなかった
その結果その子が暴れたので、自分に原因がある
という話を自らみんなの前でしたことには感銘を覚えました。

自分を制御しない子を特別視する先生の前では暴走気味でしたが、
(「いや、その子に対してそこまですることないでしょう」
  というエピソードが確かにありました。
 先生も怖かったようです。)
彼を理解して普通に扱ってくれる先生の前では
比較的平穏に過ごせていたようです。
(但し、この先生も、いじめに関しては
 こちらの期待通りには進めていただけませんでした。
 「性格が会わない」のであって、
 いじめではないということで切り捨てられてしまいました。)

実際その子は、能力が高く、
頭脳コンテストみたいなところで優勝経験もあります。
実際は、手を出す子と出さない子と区別もしていたようです。
自分がほかの子に暴力をふるっているくせに、
いじめられていた子どもをかばうこともありました。

そういう場合でも、他人からどう思われるという意識がないことで
かばうことに全くの躊躇がなかったようです。

この子は、小学生のうちに、
粗暴な態様が影を潜めてゆき、
F君をはじめ、友達が仲間として扱ったことから、
その友達の言うことをよく聞いて、
自分を規律するようになっていきました。
友だちの忠告は素直に従うのです!

F君をはじめ、子どもたちってすごいと思ったエピソードです。

彼が自閉症の診断基準を満たしていたかどうかはわかりません。

彼を見たり、
私が弁護士会の役員であったときに、
会議で進行を遅らせる、
外の人とは一風変わった観点で発言する人を見ていて、
あるいは、特に高校時代の自分を思い出して
「自閉症の世界」に書かれている子どもたちの様子が
理解できるように思いました。

みんなが当たり前のように
お約束事だとしてふるまっていることが、
自分にはそのお約束事が見えてこないし、
それに従おうという気持ちも持てないのです。

どうしてみんな、自分と違うことが
正しいと思い、それに従うことができるのだろうか
不思議なのです。

あたかも、皆、これから乗る特別電車の切符を持っているのに、
自分だけが切符を持っていないみたいな感覚です。
みんながいつの間に切符を手にしたか不思議でたまりません。
何か自分がなすべきことをしていなかったのかという罪悪感さえ出てきます。

私も中学生までもそういうことがあったように思うのですが、
みんなもっと小さいときからの付き合いなので、
私を「そういうやつ」と思って当たり前に接していてくれていたのかもしれません。
私の周りには、F君みたいな人がたくさんいたのかもしれません。

考えてみれば、
不特定多数の人に向けてこんなブログを書いていること自体が、
協調志向のないことを端的に表しているのかもしれません。

他人の反応を気にしないでやりたいことをやる
犯罪や不道徳な行為でなければ、
それは自由なはずなのですが、
よくわからないお約束事があって、
ダメなこともある。

そのことに敏感な人と
そうでない人がいる。

これまでは、例えば、
前頭前野腹内側部の機能停止ないし低下で
いろいろな説明をしていたのですが、
自閉症の場合、どうやら違うようです。

ある程度は他人の感情がわかるのです。
可愛そうという気持ちもわくときはわきます。

また、将来的な派生問題を推測したり、
複雑な思考をすることもできます。

ただ、他人の反応がわかりながらも
それが自分の行動を制御するきっかけにならない
モチベーションとして成り立たない
ということだし、

その群れに協調しない志向に
程度や種類もあって
単純ではないからです。

この「自閉症の世界」を読んでいると、
そういうことに思いをはせることができます。

いわゆる普通の人が、本能的に気にすることに
一切興味がない分、
本当に考えたいことに集中することができます。

いわゆる普通の人が、
「そんなことできるわけないだろう」
と言って、着手しないことにも着手できるということがあります。

いわゆる普通の人が、
「それが正しいんだ」
ということも、納得できなければ
正しいという評価はしません。

頭で論理的に理解できないことに
賛成することもできないわけです。

こういってしまうと
いわゆる普通の人が劣っているように言っているようにも聞こえるかもしれませんが
そういうことではありません。

特定のリーダーを中心とした秩序を形成しようとしなければ
集団の力は発揮できないでしょう。

自分が理解しなくても、協調する志向が無ければ
国家も成り立たないでしょう。
国家の否定的側面が無くなったとしても
莫大な肯定的側面も否定するわけにはゆかないでしょう。

協調志向は人間が、群れを作り、
本能的限界を超えた人数の共同作業をするために
どうしても必要な能力なのです。

では、自閉症の人たちは能力が劣るのでしょうか。

そうではないということを最後に述べたいと思います。

初めから無理だよと思っていたら、
現代の科学は成り立たないということです。
シリコンバレーに象徴的な現代は、
いわゆる普通の人が無理だと考えていた
コンピューターやインターネット
できる、作りたいと思った人たちがいて成り立ったわけです。

その前提となる電気や電話もそうなのでしょう。

空を飛ぶことだって、
いわゆる普通の人が、ばかばかしくて考えようともしなかったことを
真剣に考えていた人たちがいます。

即ち、科学の進歩には、
いわゆる普通の人ではない人たちが不可欠なのです。

これは、この分野でいわゆる普通の人と特殊能力の人を
橋渡しした人たちがいたということなのだと思います。

これが、例えば政治の世界であると、
そのお約束は理解ができないからダメだと思う
という人たちが発言権を持つことによって、
おきそうになった戦争を止められるかもしれません。

例えば、過労死職場やいじめなど
ダメなものはだめといえる雰囲気が作れるのかもしれません。

自閉症と診断された人や
自閉症ではないかと考えている人が、
適切な役割や発言権を持つ社会が
実はとても強い社会なのだと私は思います。

自閉症があると、
人間関係が苦痛になり、
通常の生活を送ることが困難になる場合があります。
そういう意味では「障害」の定義に含まれるのかもしれません。

しかし、本当に障害があるのは、
自閉症の人たちを尊重したり、発言に耳を傾けなかったり、
薬や環境で排斥しようとする社会の方ではないかと
この本を読んでいるとそう思いたくなってしまいました。

自閉症の人たちが過ごしやすい環境は、
いわゆる普通の人たちにとってなお過ごしやすい環境だという
可能性はないでしょうか。

普通に暮らすことのハードルが
人類史上最大になっているのが
現代社会なのかもしれません。

後半を読み進めたいと思います。






【緊急】 なぜ中学生は自殺するのか 対策のための自死のメカニズムの考察 対人関係学的仮説 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

某教育委員会が小学生や中学生にあてて

緊急メッセージのプリントを配布したようだ。

どうやら、「絶対に死なないでください」

という趣旨の話が印刷されているようだ。


ついに、万策尽きて、子どもにすがっている事態になっている。

教育委員会は、というか大人は、

子どもを育てることが役割であり、

死への誘導を絶ち、

生(健全な成長)への誘導を行うことが

その責務である。

もはや、誘導する方法が分からなくなり、

「死なない」という結論だけを

大人ができない代わりに

子どもに実現してもらおうと懇願しているわけだ。


また、「死ななければ良い」という発想をあらわにしており、

子どもたちの幸せよりも、

苦しくても不幸でも傷ついても

死という結果が生じなければ良い

という発想があらからまであり、隠そうともしない。


そして、それを誰も止める人がいなかったわけだ。

まさに教育の断末魔を聞いているような暗澹たる気持ちである。


これは、きっと、

どうして中学生が自死するかというメカニズムに全く興味を持たないため、

考えていないのだろうと思い、

緊急で仮説を申し述べたい次第である。



1 自死者の心もち


  自死者の心もちは、自死未遂者から聞けばある程度知りうることだ。

  共通することは、

  生きようとする意欲が失われているということだ。


  それはどういう心持かというと、

  高所から転落しつつある人の心もちと似ている。


  転落者は、瞬時に、「もはやこれまで」という気持ちになる。

  その結果、一瞬にして気絶したり仮死状態になるそうだ。


  本当の絶望とは、生きる意欲を失ってしまうことだ。


  これは、物理的に、生命身体の安全回復が

  不可能であると悟った場合である。


  人間が感じる危険は、生命身体に限らない。

  特定の対人関係の中で、

  自分が尊重されて存在することに対する危険

  対人関係的危険も感じる。

  詳しくは対人関係学で検索してほしい。


  左上のリンクだったり、

  このブログ



  対人関係学的危機は、要するに、その群れから排除される

  という危険を感じることだ。

  

  ただ、身体生命の危険と違って

  対人関係学的危険は、すぐに結果が出ない。

  もしかしたら、もしかしたらという

  排除の予期不安だけが来る日も来る日も

  押し寄せてくることになる。


  助かる方法はないと感じ、

  緩やかに転落していく。


  あるいは、誰も人がこない山中に

  両手両足を縛られて

  脱出できないようにして

  ただ死を待つ感覚なのだろう。


  抵抗は無駄だと悟ったとき、

  生きる意欲も徐々に失われていく。


  転落や猛獣に目の前で遭遇した場合、

  仮死状態になったことにより命拾いをする

  ということがあるらしい。


  対人関係的危険の時も、

  うつ状態になって命拾いをするということがあり得るかもしれない。


  しかしながら、向精神薬の服用などで

  無駄な元気が出てしまうと、

  生きる意欲が無くなるだけでなく、

  「自分は死ななければならない」

  という意識に変貌していく場合があるようだ。


  こうなってしまった後で、

  「絶対死なないでください。」

  ということが、あまり役に立たないことは

  すぐに理解できることだと思う。


  いじめをしている方だって、

  殺そうとしているわけではないし、

  死ぬかもしれないと思っているわけでもない。

  「絶対に死なないでください」

  という言葉は、やはりうつろなものとしてとらえられるだろう。



2 対人関係的危険を感じ、絶望を抱く場面


  人間は対人関係的危険を感じると

  身体生命の危険を感じた場合と同様

  安全な場所にたどり着こうと必死になる。


  どんな場合に対人関係的危険を感じるかといえば

  一番は、自分が孤立しているということを実感する時である。


  仲間の中で一段低く見られる(○○のくせに)

  自分の仲間の中での発言権が無い(お前は黙ってろ)

  嫌のことを自分だけがやらせられる。

  健康を願われないどころか暴力をふるわれる。

  弱点を責められる、笑われる、批判される。

  一人だけ、頑張っても褒められない。

  その他差別。

  等々々。


 

  そして、その原因、自分の弱点が、

  自分ではどうしようもないこと

  国籍、親の職業、病気、体質等々

  ということになると、

  自分が群れに迎え入れられるという希望がたたれてしまう。

  第1の絶望ということになる。


  第2の絶望がある。


  このように、対人関係的危険を慢性的に、持続的に感じ続けると、

  些細なことでも、さらなる危険を感じやすくなる。

  例えば、誰かに話しかけて、

  その相手が気が付かないだけなのに、

  あのせいで、自分は無視されている

  というように感じやすくなるようだ。

  かさぶたができ初めの傷口のように敏感になる。


  ささいなことが、深刻なことになる。


  中学生の時期が絶望しやすいのは、

  思春期ということもある。


  本当に微妙な思春期の男女の機微の中で、

  自分の思いが伝わらないことはよくあることである。

  

  夢破れて、自分とは何かを考える契機になることもある。


  しかし過敏になっていると、

  それさえも、自分がいじめられている要素のせいだと

  絶望感が深まるようだ。


  今度はうまくいかもしれないという

  生きる意欲が失われるからだ。



3 中学生の絶望の深さが大人の深さよりも深い理由


  先ず、中学生は大人よりも、

  これから長く生きるということが負担になる。


  これから何十年も

  この孤独と付き合っていかなければならない

  と考えて、気が遠くなるだろう。

  楽しいことがあるだろうなんて考える余裕がない。

  「普通の人はそうだろうけれど、

   自分だけは違う。」

  という意識を強めるだけの気休めはやめた方が良い。


  それから、危険の程度を把握することが困難だという事情もある。


  大人は、それなりに、失敗や困難な状況を経験しており、

  この程度の危険だと、どれくらい深刻な結果が生じるか

  ということを、無意識の中で記憶のファイリングを通して

  覚悟をすることができる。


  また、その過程の中で、対処方法が思いつくことがある。

  これらは、睡眠中に無自覚のまま行われている。


  ところが、子どもは、そのような体験が乏しい。

  特に小学校までは親の庇護が有効に働いている。

  将来を考えて絶望が深まるということは

  またリアリティに乏しいという事情もある。


  特に今の中学生は、

  強制的に将来を考えさせられている。

  社会保険のない非正規の生活についても

  折に触れ突き付けられている。


  推薦で高等学校に行くためには、

  毎日の学校生活で失敗があってはならない。

  一発試験という考え方ではなく、

  毎日毎日失敗が許されない

  という状況にあるようだ。


  そのような空気は敏感に子どもたちに蔓延し、

  自分の失敗を大人が許さないように、

  同級生の失敗に対しても不寛容になるようだ。


  それまでも中学生はけんかやいじめを経験していると思われるが、

  長期間にわたり、制裁を受けるいじめられ方を経験していない

  長期間にわたり、関係のない人からも消極的攻撃をされ、

  無視をされるという、

  これまでに経験のない類の対人関係的危機を体験する。


  そうすると、その危険の程度は

  過去の危険と照合してもその輪郭を図りかねて、

  感じる危険の度合いが著しく大きく深いものになっていく。


  悪夢は、こうして出現する。

  本来、出来事の危険の程度を

  過去の出来事のファイリングを通じてその外苑を腹に落とす作業をするべき

  レム睡眠時に、

  ファイリングしきれないために、対処のない恐怖感情がよみがえる。

  その時、悪夢を見ている。


  中学生という時期には耐えられない危険を

  持て余しているという現実がある。


  子どもの自死が早計に行われていたり

  考えが足りないで行われるというように

  子どもの絶望を軽く考えてはいけない。


  もちろん、

  子どもは、大人が感じるより深く大きな絶望を感じていて、

  その回復可能性の手段をはじめから持たされない状態にある。

  大人以上の苦しみを抱いている。

  この点をきちんと押さえずになめた対応をしても

  子どもに馬鹿にされるだけである。



4 謝った対策


  一つは、「絶対に死なないでください」

  という結論押し付け型の対策である。

  すでにたくさん批判したので省略。


  二つは、「命を大切にしましょう」

  命を大切にするのは生き物の本能である。

  この本能が欠けているとすれば理由がある。

  その理由を探究せずに

  命を大切にしましょうと言っても、

  「これから何十年も苦しみながら生きながらえてください」

  ということに等しいだろう。


  大切なはずの命を軽く扱われている子が

  そんなことを言われてどのように思うか想像してみてほしい。

  

  また、加害者も命を取ろうとしてはいない。

  どちらかといえば正当防衛という意識を持っていることが多い。


  三つは、「死ねば親が苦しむ」

  そんなことわからないで自死する人はいない。

  生きていて申し訳ないと思ってしまうから自死するのである。

  さらに苦しめる。


  四つ目は、「信頼できる大人を見つけよう」

  言っていて恥ずかしくないのかどうかわからないけれど、

  子どもがどうやって信頼できる大人とそうでない大人を区別するのか、

  変なSNSで悪質な大人に食い物にされるだけではないのか。


  五つ目は、「SOSの出し方教育、援助希求を教える

  どこまで子どもに甘えれば気が済むのか、

  人間の子どもは、本能的には大人に援助を求めるようにできている。

  それができないのは、信頼できる大人がいないだけの話である。


  大人が、死ななけれ良いようなメッセージを流し続けている中

  子どもはどんなに技術を教えられても

  自分の命をそのような大人に委ねようとしないことは当たり前すぎる。


  六つ目は、スクールカウンセラー

  スクールカウンセラーが有効なのは、

  本当は大学以降なのではないだろうか。


  人間として接触している人以外に

  その人の職業を信頼して援助を求めろということは

  はたして、中学生や小学生に有効なのか

  疑問が大きい。


  また、死ななければ良いという大人は

  「心の専門家」ということで安心してしまい、

思考提示となり

  丸投げをしてしまう傾向にないだろうか。


  それは根本的対策につながるのであろうか。

  仙台の中学校にスクールカウンセラーはいなかったのか。



5 一応の対策


  先ず、孤立が自死に大きな影響を与えていることから

  孤立を解消することが対策になるはずだ。


  これまでの中学生の自死の事例から

  どのような孤立、対人関係的な危機を感じていたか

  要素を抽出する必要があるが、

  腰を据えて、研究チームを構成する必要がある。

  行政が責任をもって、大学の講座を開設するくらいの意識で

  長期的な研究をする必要がある。


  中学校までは、

  クラス担任が、中心になり、クラスというコミュニティーを

  充実させることが肝要であると思われる。


  教科なのか、行事なのか、クラス単位で一つのことを行い、

  その出来栄えを競うのではなく、

  協力や、仲間を補うことを評価の対象とするようなことに

  意識的に取り組むことが考えられる。


  合唱大会にしても体育大会にしても

  勝ち負けという、緊張、失敗を許さないことだけが行われ、

  孤立感を深める要素だけが蔓延している状況を変える必要がある。


  そのためには、クラス担任の負担を昭和の程度まで削減しなければならない。

  クラス担任が、子どもたちの顔を見る時間を増やし

  一人一人の変化をとらえることができるようにするべきだ。


  外部の人に頼り、クラス担任を軽視するような

  現代の風潮は逆効果だと私は思う。


  暗く落ち込んでいる、自死間際の人を見つけて病院に連れていくのではなく、

  楽しそうでない子どもを見つけて、仲間の輪に迎え入れる

  ということ。


  とにかく、皆と一つのことをする

  力のないものをかばうことの楽しさ   

  という人間の本能に組み込まれた喜びを体験させることが

  教育だと思う。


  いじめを止めるのではく、

  仲間づくりをする過程の中で

  いじめが無くなっているはずだという目標設定である。



  次に、子どもたちの逃げ道をつくるということだ。


  不幸にしていじめが起きてしまえば、

  緊急避難場所が必要だ。


  緊張を解く場所ということだ。


  いろいろな理由があって、

  家庭が休まる場所ではないことが多い。

  これも親が悪いというだけの単純な話ではない。


  何をしても良い、自由な場所

  ゲームをしても良いし、本を読んでも良いし、勉強しても良い

  そうして、信頼できる大人がいて、

  話したければ話しても良いし、

  話したくなければ話さなくてもよい。


  話をしはじめたら、必ず最後まで聞いてくれる人がいる。

  途中で遮ることもされない。

  説教を言われたり、批判をされることもない。

  肯定できるところを肯定されればよい。

  自分のことを自分で決められる居場所が必要だ。


  「居場所」にいるうちに、

  生きる意欲を回復させ、

  学校の方では指導を行う。


  「居場所」が学校の導入になればよい。


  これは頭の固い大人には理解されにくいところかもしれない。



  いじめをする側、傍観する側に対する働きかけも

  考える必要がある。


  これはまさに教育そのものなのだと思う。

  

  教育とか学問とか、人間の健全な成長とは何か、

  私は、インテリジェンスを高めることだと思う。

  

  インテリジェンスとは直訳すると情報だが、

  日本語のニュアンスとしては、

  他人の痛みを理解し、他人を助けるという

  知識と人格態度を合わせた概念だと思う。


  そういう意味で、人間は一生勉強し続けるものだと

  大学で教わった。


  そして、それは、きれいごとではなく

  人間の本能的な要求であると考えるの対人関係学だ。


  だから、他人を攻撃したり、弱点を突くことにこそ

  ゆがんだ理由があると考えて、

  その理由を探究することに意味があると考えている。


  また、他人を攻撃したり

  攻撃されている他人を見ることで

  人間の本能的な能力である共鳴、共感が働き

  加害者や傍観者も人間が大切なものであるという意識が薄れ、

  その過程で心理的な苦しさが発生し、

  人間を大切にする意識が薄れるとともに

  自分を大切にするという意識も薄れていく。

  人間性が失われていくと考えている。


  そうして人間的な喜び、素直な感性ではなく

  得られる利益や、地位という

  本来二次的な価値に過ぎないものに

  人生をささげてしまうという

  不幸の連鎖を招いてしまう。


  楽しくない一生を過ごす人

  焦りの中で一生が終わる人

  安堵を感じることを許されない人

  マグロのように泳ぎ続けなければ死んでしまうような

  そんな人ばかりが増えていくわけだ。


  集団教育の中でこそ、

  人を助ける人間本来の喜びを体験させるべきだ。


  いじめをしないということを調教するのではなく、

  助け合うことが楽しいことだという

  まさに教育を行う場にするべきだと思う。


  また、大人たちがいがみ合ってはだめだ。

  学校と保護者は協力関係にあるべきだ。


  無駄なPTAの行事などをルーティンで行うことに意味はなく、

  子どもたちの様子を、誰を責めるのではなく、

  大人たちがまず、共同作業で見守るということ

  自分の子どもだけでなく

  自分たちの子どもたちの健全な成長のために

  協力し合うということ。


  そのためには、学校は隠し事をしてはならない。

  虚心坦懐に保護者から学んで見せることが必要だろう。



6 子どもたちへ


  

  ここまで読んだ未来の大人たちはいるだろうか。

  ほかの大人たちと同じような勝手なことを言っていると

  怒っているかもしれない。


  ここまで読んだ方ならわかっていると思うが、

  大人なんて大したことはない。

  未来の大人たちを教育する環境が

  情けないほど欠落している。


  それでもあなたたちは、この社会で生きていくしかない。


  先ず、大人に多くを期待してはいけない。

  全部が全部大人たちにやってもらおうと思ってはいけない。


  この記事で一つだけ理解してもらいたいのは、

  「誰かを攻撃すると自分が損をする」ということだ。

  損をするということは、これからの人生の中で

  楽しいと思える時間が少なくなるということだ。


  これは、どう考えたって損だと思わないか。


  先ず、何もできない大人を責めても

  得にもならない。

  何もできない大人を許すところから始めてほしい。


  その次に、大人が動かないのであれば、

  大人を動かす工夫をしてみよう。

  子どもは大人に命令をすることができないが、

  うまく誘導することができるかもしれない。


  できれば担任の先生を敵に回さないこと。

  信頼をしているという嘘は、やがて本当になるのだから

  どんどん嘘をつけばよい。


  学校に対して命令できる大人を探そう。

  いろいろな配布物があったと思う。

  そこに電話番号があるはずだ。

  カンパネラの切符は自分で握りしめていた。


  そうして、担当者の中には

  全く役に立たない人がいるということも気が付こう、

  一度ダメでも別の担当者であればなんとかなる

  ということがあることを知ろう。


  これは、大人になって、必ず役に立つことだ。


  

  大人が勝手に作った制度を変えるのは

  未来の大人たちだ。


  今の世の中よりももっと良い、もっと楽しい世の中を作る。

  この復讐のバトンを絶対話さないでほしい

  

  要領の良い子は、大人の敷いたちんけなレールを走り

  そのはるか先まで到達して未来を変えてほしい。


  要領の悪い子は、

  自分が苦しいというメッセージを遠慮なくぶつけてほしい

  但し、大人は、自分が子どもだったことを忘れている。

  伝える努力は必要だ。


  苦しい体験が財産になるということは本当だ。

  ただ、それには少しばかりの工夫が必要だ。


  昔の子どもたちは、

  くよくよ考えすぎることが少なかった。

  

  それは魔法の呪文を身につけていたからだ。


  「なんとかなるだろう。」

  という呪文だ。


  実際にも、身体生命の危険で何ともならないことはあるが

  対人関係的な危険で何ともならないことはない。

  

  すべては、対人関係的な危険を特有の感じ方で感じることができず、

  身体生命の危険の感じ方で感じてしまっているという

  脳の錯覚からきている。

    

  危険に対して恐怖を感じるのは、

  危険を避ける行動に出るためのきっかけを与えるため

  という理由がある。


  だから、必然的に、

  危険が起きてしまった後よりも

  危険が起きるのではないかという直前が

  最も怖い。


  対人関係的な危険で

  そんなに怖いことは起きない。


  なんか冒頭の某教育員会に対する批判が

  そのまま当てはまることばかり言っているような気がする。

  大変申し訳ない。

  もっと気の利いたことを、もっと実効性のある場所でいえるよう

  努力をすることが私の喜びなので、楽しいと思える時間なので、

  気が付いたことがあったら、

  ぜひ教えてほしい。

  お願いばかりで本当に申し訳ない。    

 

いじめ調査委員会は何を発表するべきか 中学生の自死を予防するために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

中学生の自死事案があると、

第三者委員会の調査があり、報告があるのですが、


よく、

いじめがあったとかなかったとか

あったとして、

いじめが自死の一因だったとか、

自死との因果関係は認められなかったとか、

そういう結果ばかりが報道されます。


中途半端な報道だということです。


一つには、マスコミが、

一般大衆の被害感情をあおり、

誰かを攻撃したいという意識を頼りに

視聴率や部数を稼ごうとしているところに問題があるのでしょうが、


もしかすると、調査委員会も、

その中途半端なところまでしか調査の分析が

できていないのかもしれません。


必要なことは、

じゃあ、どうすればよかったのか

ということです。


誰かを攻撃して、

いじめ加害者を攻撃して、

留飲を下げても

いじめはなくなりません。原因を分析していじめの原因を除去することが

いじめ防止だということは誰でもわかっています。


仮に加害生徒を特定しなくても

加害行為を特定して、

なぜそれが自死者を追い込む要因となるのか、

そして、その加害行為をしないために

どんな工夫が必要か

そういうことを報告し、報道してもらいたいのです。


それができないのは、

いじめ調査という制度に構造的な問題があるのかもしれません。


1 いじめかどうかを気にしすぎること


自死の原因がいじめだったのかどうかということに

あまり意味を感じていません。


いじめであろうとなかろうと、

その子を追い込んだ原因であれば

予防するべきだからです。


法律上のいじめの定義は、

「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」

となっています。


被害者の主観に依拠して定義づけされています。

メリットは、その子が嫌だということをやめるということで

理にかなっていることです。

これまでの弱い者強い者等余計な条件が無くなりました。


デメリットは、その子が「精神的苦痛が無い」と

言わせられればいじめにならないことです。

「大丈夫?」と聞いて

「大丈夫」と答えさせようとする理由がここにあります。


もう一つのデメリットは、

というか、定義を作ること自体のデメリットですが、

いじめではなければ手当てしない

という発想が出てきてしまうことです。


「攻撃ではない」

「いじめではなくからかいだな」

「その子にだけ集中していたわけではない」

と、いじめではないとするための工夫だけが進歩していきます。


学校ないし学校の人間関係という舞台で、

何らかの精神的圧迫が加えられたのであれば、

それを除去するべきです。


いじめかどうかというワンクッション

置かなければならないことに情けなさを感じるべきです。


そのためには、

「いじめが無ければとりあえずよい」

という発想を捨てなければなりません。


「いじめをなくす」

という目標では足りず、

例えば、

「みんなで、お互いの弱点をかばい合う」

とか、

「助け合って一つのことを行う」

とか、

「みんなが楽しい学校生活」

というゼロの先のプラスを目標として

指導をしていく必要があると思っています。


生き生きしていない目をした生徒がいたら

気遣いあう学校であるべきだということは

遠い理想論なのでしょうか。

そうだとしたら、子どもを学校にやる理由はどこにあるのでしょう。


2 損害賠償の証拠にされてしまう。


いじめ調査委員会には強制権限がありません。

このため、事情聴取を断られることが多いようです。

特に加害者とされる生徒と保護者は拒否するようです。


うかつなことを良心に任せて言ってしまって、

それが記録として残ってしまい、

あるいは結果として報道されてしまい、

後で裁判の証拠として出されてしまうと、

損害賠償を払わなければならなくなると思うことは

あるいはやむを得ないことかもしれません。


自分の言ったことが

どの程度原因とされるかわからないことが多いのでなおさらでしょう。


一般にいじめというと

2,3人の特定グループが

執拗に嫌がらせや脅迫、恐喝を繰り返していた

というイメージを持ちやすいのですが、

それは少数です。


さすがにそういうことがあれば

多くの事例では、子どもも動きますし、

大人も動くからでしょう。


多い事例は、

結構な人数の子どもたちが

日常的にからかいと称して

その子の弱点を笑いの対象として


周囲も同調したり

そういう子どもを注意しようと思っているうちに

自死や不登校となってしまい、

何もしない傍観者といわれてしまうケースでしょう。


「いじる」という楽屋言葉が

一般的に使われているところに

大きな疑問があります。


このように誰かをいじって笑いをとるということが

否定的なニュアンスで語られないところに

日本の情けない現状があると思います。

テレビで放送するべきことではありません。


ソフトなからかいでも

それが、

からかわれる生徒が固定化されてしまい、

一方、

あまり面識のない子どもまでがいじりに参加してしまうと、

孤立感が出てきます。


だんだんと、その子と一緒にいることで

自分のステイタスが低下するような感覚が蔓延していき、

その子と人間的な交流を避けるようになります。


その子から見ると、

自分が差別されていると感じ、

その解決の糸口が見つからないと、

絶望的な孤立感を抱くようです。


そうだとすると、

確かに、あの時、あの子のいじりに参加したなとか

みてみぬふりをしたなという意識があると、

それが自死の原因になったと言われてしまうと、

それを否定したいという気持ちにもなるでしょう。


訴えられるという恐怖も出てくるでしょう。


口をつぐんでしまう構造があるのだと思います。


3 証明の程度についての誤解


いじめ調査が何のために行われるのか、

その目的をはっきりさせる必要があります。


再発防止ということが目的であれば、

実は、自死や不登校と何らかの関係があると思われることは

どんどん指摘をして、

それをしないためにはどうすればよいのか

ということをどんどん提起するべきだと思います。


多少、その出来事が本当にあったかどうか確信が持てなくても

そういうことがあった可能性があると認定できるようにするということです。


調査とはそういうものだということになれば、

いじめ調査の結果を裁判の証拠で使えない程度のものにとどめる

ということがあり得ることだと思います。


「特定の生徒○○によるいじめがあった」

「それが原因で生徒が自死した」

という認定をするべきではないかもしれないということです。


いろいろな出来事が自死につながる可能性がある

調査委員会で気が付いたのは

こういう出来事、こういう出来事

それらの出来事が、自死した生徒に孤立感を与えてしまい、

些細なこういう出来事やこういう出来事も

自分がみんなから拒否されていると

感じてしまう要因になっていった。


だから、こういうことがあったら、

生徒同士でこういうような声掛けをして、

先生はこういう形で指導をしていくことが考えられる

という調査結果の報告、答申になるべきだと思います。


ここでも、ゼロの先のプラスを目指すという発想が

予防策の提言への特効薬になるはずです。


つまり、いじめという犯罪類似の行為があるとすると

その「加害者」に対する報復をしなければならない

という一般的な報復感情が生まれてしまい、

悪は罰せられるべきだという意識につながってしまいます。


しかし、一人一人が楽しい学校生活を送るために

それを妨げるものを除去するための調査だということになれば、

自死につながる可能性のあるものを

どんどん排除していけばよいのだと思います。


あれをやってだめ、これをやってだめというのではなく、

これをやりましょう、こうすると楽しいよ

という問題提起というわけです。




人間関係で苦しむ子どもを作らないようにしたいのか、

いじめる子どもをこらしめたいのか、

どちらかを選ばなければならないのではないか

と感じているところです。

幸せの定義:その人の望む人間関係において、安定した立場が継続している状態、またはその時の感情 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死、いじめ、過労死、破産離婚、犯罪
というあらゆる社会病理の予防のためには、
不幸をなくすという目標を掲げるよりも、
幸福になるという目標を掲げるべきだと思います。

では、その人が感じる幸福とは何か

「その人の望む人間関係において

安定した立場が

継続している状態

またはその時の感情」


これを幸せと定義づける試みをしてみます。


1 「人間関係」

現代人は、様々な人間関係の中で生活しています。
家族、職場、学校、友人という身近で継続的な関係の外
病院、お店、交通機関等比較的短期で、
関係が希薄な人間関係もあります。
また、社会や国家のように
漠然とした人間関係の一員ということにもなっています。

2 「望む」

その人によってそれぞれの人間関係の
大切さとその程度は違うようです。

家族が第一で、家族との関係さえよければ
職場で苦労しても幸せを感じる人もいれば、

同好会みたいなところで評価が高ければよくて、
家族にさえあまり多くを望まない人もいると思います。
すべてを犠牲にして、社会的評価、何らかの表彰等
を勝ち取ろうと人生をかけている人もいるでしょう。

ただ、そうはいっても、
どこかの人間関係で、自分が迫害されていると
なかなか幸せだと納得することは難しいかもしれません。

むしろ不幸は、
自分の大切にしていない人間関係の中で起きてしまい、
自分が大切な人間関係にも影響を与えるのかもしれません。

3 「安定した立場」

安定した立場とは、一言でいえば、
追放や排除の心配がない
仲間あるいは人間関係を構成する者
として受け入れてくれるということです。

この安定を感じるための要素、事情についても
人によって様々です。

リーダー的な立場でないと安心できない人
何事か自分の役割を果たすことで安心する人
要するに仲間から必要とされることで
安心する人たちですね。
むしろ、
誰からも非難されないで受け入れてもらえば
それでよい人もいらっしゃいますね。
強い人だということになるようです。

仲間の注目を浴びたい人
なるべくそっとしておいてほしい人
様々ですね。

また、それぞれの人間関係において
望む安定した関係も異なることが自然でしょう。

家族や友人など、継続的で密な人間関係では
自分の弱点をさらけ出しても
そこを攻撃されないような
強い信頼関係を望むでしょうし、

社会的な評価のように
多少無理をしてつくろっても
尊敬を集めたいというという
尊重されていることを感じる形があるでしょう。

4 継続

恒常的な人間関係の安定感ということは
なかなか難しいようです。
完全に調和し続けること自体は無理な話で、
少しずつ修正しながら
仲間と自分の求める安定を探していく
ということがノーマルということでよいのでしょう。

逆に言えば、一瞬の幸福
というものもあるでしょう。

例えば街頭で困っていたら、
見ず知らずの人に親切にされたというような
偶然の人間関係の中で
幸福を感じることもあるでしょう。

5 不幸との関係

幸せの定義の検討においては
対義語である不幸を検討する必要があると思います。

このブログのテーマである対人関係学からの帰結です。
幸せの定義についての説明は、
抽象的でピンと来ない方もいらっしゃると思います。

謎解きの意味も込めて、先ず対人関係学を簡単におさらいです。

人間はチンパンジーの祖先から分かれて
800万年といわれています
この大半の時代、武器も文明もたなかった人間は、
群れを作って生き延びるしかありませんでした。

言葉もない時代に群れを作れたというのは、
群れを作ろうとする遺伝子を持った個体だけが
生き延びてきたことに由来します。

群れを作る遺伝子の仕組みというのは、
仲間から排除、追放されるようなことをしようとすると
本能的に危険を感じて、自分の行動を修正する
という仕組みです。
前頭前野腹内側部という脳の部分が主として担い、
他者への共鳴力、共感力、
将来に対する推察力が必要になります。

こうして自分を群れから排除されないようにするわけです。

また、群れの頭数を確保する仕組みもあります。
可愛い」という感情です。
これは、群れの一番弱い者を守ろうとする
本能的な仕組みということだと思います。
赤ん坊など弱い者は攻撃の対象となります。
これを守ることで群れの頭数を守り
群れを恒常的に守っていくことになります。

群れのために戦う場合、
恐れを感じにくくなるという仕組みもあります。
誰かのために戦う者は強いということですね。

そう考えてみると
群れに属しないで孤立していることは
常に不安に苦しむことになりますから
不幸なのだと思います。

もちろん、群れの中に物理的に存在しても
尊重されず、攻撃的を受け続けている場合、
物理的に孤立している以上に孤立感を感じるでしょう。

本当の不幸の中にいる場合に、
不幸を感じなくて済む方法が、
感情自体を失わせることなのかもしれません。

喜びも悲しみも、興味関心もなくすことで、
不幸せを乗り切ろうとする仕組みなのかもしれません。

だから幸せといっても、
全くにこにこだけしているわけではなく、
微修正しながらも群れの中で尊重されて生きていく
ということになりそうです。

トータルな営みの中で
自分が恒常的な関係を継続する、
排除や追放の不安がない状態
そのような状態の人間の感情が
幸せということになるのではないかという試論でした。

自殺対策基本法が、子どもの自殺対策で、子どもに対処させることを求めることに対する疑問 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自殺対策基本法は、改正されて、
17条で、心の健康保持に関する養育及び啓発の推進
が掲げられた。

3項前半の人間として尊重しあういう意識を持たせる
ということは、総論として賛成であるが、
後半の「困難な事態、強い心理的負担を受けた場合等における対処の仕方を身に付ける等のための教育又は啓発その他当該学校に在籍する児童、生徒等の心の健康の保持に係る教育又は啓発を行うよう努めるものとする。 」
という点については、問題があると思う。

困難な事態、強い心理的負担を受けた場合にそなえて、
子どもが対処の方法を予め身につけておく
というそんな教育があると思っているのだろうか?
ぜひ具体例を教えてもらいたい。
大人だって無理なことだ。

子どもの自死対策で大事なことはそれなのか?

私は、子どもの自殺対策で最も大事なことは、
子どもが追い込まれない環境を大人が整備するということ、
子どもが困難な事態や強い心理的負担を受けないようにする
環境整備だと思っている。

そして、子どもがそのような事態に直面してしまったら、
大人がいち早く気が付き、
子どもを孤立させないで大事にかばうことだと思う。

要するに、子どもの自死対策は
大人の問題なのである。

ある新聞の今日の社説で、
子どもに援助の求め方を教えるべきだと言い、
子どもが大人に援助を求めないのは、
心が弱いと思われるのが嫌だからだなどといっている。
だから、子どもの考え方を変えさせるための教育が必要だというのである。


(その社説は、自殺対策基本法の改正には何も触れていなかった。
白書を引用しているだけなので、法改正を知らなかったのかもしれない)

法律を作った国も、白書の論者も、新聞も
子どもがなぜ大人に助けを求めないかを
少しでよいから考えてほしい。

他の動物と異なり人間の子どもというのは、
群れの大人に依存して生きている。
困難なことがあれば、大人に助けを求める動物なのである。
それが助けを求めなくなったとしたら
明確な理由があるはずだ。

この理由は、誰でも少し考えればわかることだ。
つまり、
助けを求めても大人は助けてくれない
さらに、助けを求めると、大人はぎゃくに自分を攻撃する
ということを学習しているからだ。

せめて辛さに共感してくれたり、
逃げ場所を提供してくれれば大人に逃げ込むだろうが、
それすら拒否されることを学習してしまっている。

これ以上傷つくことを避けるために
助けを求めることをしない。

助けの求め方を教えても
身近に助けを求めるに値する大人がいないのだ。

だからかもしれないが、その新聞は、
信頼できる大人や機関を見つけることが
第一であるようなことを書いている。

やれやれだ。
おきまりの、心の専門家に心の問題を委託する
という主張らしい、
親や教師や地域の大人はこのままでという前提らしい。。

体の痛みは、体に傷など不具合があることを教え、
そこをかばうためのシグナルである。

心の苦しみや痛みも、
対人関係等に不具合があるというシグナルではないだろうか。

対人関係等の不具合を改善するための制度なのに
痛みを感じなくするテクニックだけ覚えてしまったら、
それこそ、本当に追い込まれきってしまうまで
頑張り続けるマシーンが量産されるだけのことではないのか。

そういう危険な事態にならないことを祈るばかりだ。

大人は子どもを守るものだ。
自分の子ども以外でも守るものだ。
そういうことが忘れられれば、
子どもたちが絶望することは当たり前だと思う。

自殺予防対策における連携の意味 業種間の相互乗り入れ [自死(自殺)・不明死、葛藤]



<自死の原因論の誤解とその理由>

自死予防として他業種の連携が必要であると
ようやく言われ出してきたようです。
「自死予防の原因は平均4つあるから
それぞれの分野の専門家が連携する必要ある」
みたいな説明がなされることもあります。

ここはちょっと誤解があるようですから、
説明しておきます。

こういう原因並列論の文脈で語る人たちの中には、
警察の統計に基づいて話をしている場合があります。
ここで誤解というか理解不十分があるわけです。
警察は自殺が起きた場合、捜査をします。
目的は事件性の有無です。
主として殺人事件や傷害致死事件ではないか
という観点で捜査をしなければなりません。

家族や会社の同僚から事情聴取したり、
遺書を読んだりするわけです。
そして死亡の原因を探ります。

そうして、自死であり
他殺ではないということが判断できれば
「事件性なし」という事件処理をします。

自死であるとするためには
自死の原因が必要だということになります。

ここでいう原因は
あらかじめ用意されたカテゴリーの中から選ぶわけですが、
家庭問題、健康問題、経済・生活問題、
勤務問題、男女問題、学校問題、その他、不詳
という9つのカテゴリーの中から選ばれます。

そうすると、
「会社でいじめにあいノルマもきつく、
うつ病にかかったが、
単身赴任のため家庭との折り合いを欠いて」
なんてことになれば、
健康問題、勤務問題、家庭問題が
ぽちっと押されるわけです。

会社の上司を事情聴取して
パワハラはありません
なんて言われると、
ハイそうですかということになるわけです。

上司が殺したり、
自死するよう脅迫したのでなければ
事件性はないわけですから
それ以上警察も突っ込まないわけです。

また、そのカテゴリーの中で
主従も決めません。
該当するカテゴリーは全てチェックします。
チェックしたカテゴリーのすべてが
自死にどの程度関連するかなんてことは
あまり関心がないということになります。

こんな統計をもとに自死の原因は
平均4つあるなんて言うことは
無責任極まりないと言わざるを得ません。

上記事情では、
パワハラとノルマ過多が自死の原因であるべきでしょう。
単純並列切によると
自死の原因は複数あるから
労働だけが原因ではない
だから会社は全部の責任を負わない
なんてことがまかり通ってしまうことになります。

本来自死の原因が複数あるという意味は、
複数の次元から考えなければならないという意味です。
並列的に原因が並ぶわけではありません。

精神科医の松本俊彦先生は
入れ子構造という考え方を紹介しています
(「自殺問題と法的援助」 日本評論社)
いれこという言葉になじみがないのですが
マトリューシカのことです。
人形を開けると中に人形が入っていて
その人形を開けるとまた人形が入っているという
あれです。

また、原因論というよりも
どうすれば自死が防げたかという観点からの考察で、
たとえ、職場でひどい目にあっても
それを同僚が家庭に報告し、
タッグを組んで一人をフォローし、
精神状態によっては、精神療法を受けたり、
法的な解決方法を専門家に相談したり
退職した後の生活方法のレクチャーを受けたり
ということで、
あるべき対処方法を用意して
会社と対決する
ということを言っているわけです。

少なくとも責任論と原因論は分けて
ものを言うべきです。

<具体的なリスク者に対する連携例>
さて、

上記事例で自死が起きたことの責任を追及されるべきは、
会社です。
では、自死する前に具体的に
どのような連携をして自死を予防するのでしょうか。

先ず、弁護士のところに相談に来たとします。
弁護士は、法的手続きが何かできるかどうか
最低限その点について検討するのは当然です。

悩みがあると言うなら
じゃあ、カウンセリング受けてください。
良いところを自力で探してください、
眠れないなら精神科に行ってください。
それじゃあさようなら
というわけにはいかないです。

そもそも、弁護士のところに法律相談に来て
生(なま)の悩みをぶつけてくるというのは、
相当その弁護士は人間味があふれる人のため
信頼される人徳のある人です。
通常は、様子がおかしいということを察知して
こちらから水を向けてみます。

案の定希死念慮などがあれば、
自分の信頼できる精神科医に
事案の詳細を紹介した文書を作成し
そのお医者さんに持っていくように本人に渡します。

様子がおかしいということを見抜く力も必要です。
それ以前に、パワハラや孤立という事情があるならば
おかしくなって当たり前だという人間観が必要なのです。

また、家族などのコミュニティーの共有問題にする
ということを提起して(奥さんに話しなさいとか)、
具体的方法を一緒に考えます。
場合によっては、家族にも来てもらい
具体的な状況と心配のポイントについて説明します。
具体的な対処方法について家族に提起します。

お医者さんに対しては、
これから予想される具体的手続きと
起こりうる葛藤の高まるポイントについて知らせ、
警戒をお願いするわけです。

お医者さんの方から、
治療の必要上、直ちに手続きに入らないで
これこれの期間様子を見れないかとか
手続きを断念できないかという話も来ることがあります。

依頼者が最終的には決めることだとしても
お医者さんからの情報提供をもとに
手続きを進めることについての
メリットデメリットを提起し直して
依頼者が判断しやすいように提供します。

手続きを断念する場合も、
主治医の先生と依頼者を通じて連絡を取り合い、
その後のフォローも行います。

ここから言えることは、
先ず、その人が治療の必要性があるかどうか
という判断をすることになります。
まあ、必要ないという判断はあまりしませんが。
それはお医者さんが判断するべきだからです。

但し、自分が知りえた事情を
依頼者が全てお医者さんに告げるとは限りません。
医学的に見て必要な事項については、
できるだけ漏らさずに紹介状に記載する必要があります。
そのストレスのポイントについては、
実は本人が説明してもなかなかお医者さんに理解できない
事情があります。

一つは、お医者さんは、
会社は良識ある大人の集団だと思い込んでいます。
会社についていけないのは、
本人の人格が未熟だからだと
思い込む傾向があるようです。

お医者さんの元を訪れた段階では
既に精神的に疲弊しきっているため
防御的な反応をしているということを
あまり理解してくれない先生もいます。

だから信頼できるお医者さんを紹介するのですが、
それでも現在の会社や学校の
異様な人間関係については
あまり理解されていないようです。

弁護士はここを補う必要があるわけです。
要するに先入観を持ってもらうのではなく、
先入観を排除してもらうために
紹介状を作成するのです。

ある程度の精神医学的な知識が
どうしても必要になります。

それにもかかわらず、
いまだに、自死やうつのことは
精神科医に任せて弁護士は立ち入らない
という考えの弁護士が大勢います。

しかしその考えでは、
弁護士は通常業務をするだけで、
自死予防の連携には入らないことになります。
今、目の前に、自死を予定している人がいても
そのことはないことにして
通常業務だけをすることになってしまいます。

前述の精神科医松本俊彦先生は、
自死の原因が入れ子構造にあるから
何が必要かというと
それぞれの業種が相互にそれぞれの業種に
相互乗り入れをするべきだという考えを紹介しています。

もちろん、弁護士が一から精神医学を
学ぶということは現実的ではないでしょうし、
あまり効果が上がらないでしょう。
しかし、積極的にいろいろな文献を読んだり、
直接精神科医に教えを乞うということは
とても大切なことだと思います。

一番必要なことは、
その人の状態を見て治療の必要性を考えるというより、
その人の置かれた境遇が
およそ人間にとって精神的に圧迫する境遇か
という洞察の方を鍛えることだと思います。

<一般予防における連携>

我が国の自死予防対策で一番遅れていると思われるのが、
一般的な自死予防の方法論の研究だと思います。
これは、自死予防=精神科治療
という図式に安住していた時期が長かったためです。

うつが自死の原因だとしても
それが増加した要因は、
例えば遺伝的な内因性のうつではなく、
ストレス因によって引き起こされたり
強い影響を受けたうつの増加が原因だったはずです。
そうだとすれば、うつを予防する
という発想がどうしても必要だったはずです。
こういう発想はあまり目にしませんでした。

唯一、過労死、過労自死予防だけが
そのような予防対策だったようにも思えます。

過労死、過労自死予防は、
医師と弁護士が共同研究を行い、
医師によって弁護士が医学的な知識や考え方を学び
訴訟において主張立証をして、
医師は弁護士から労働実態や行動経緯等を知らされ、
最終的には、かなりの相互乗り入れがなされました。

私が力を入れているのは、
家族問題です。
家族問題で自死をする男性がかなり多くいます。

誰かが悪いという視点を外して、
どうすれば、家族が崩壊しないか、
家族の崩壊を招く疾患とは何か
ということが研究されていないように思われるのです。

誰かは研究しているのでしょうが
現在苦しんでいる家族には伝わっていません。

これは理由があると思います。
お医者さんは、身体的疾患の治療をすることで
命を長らえたり、身体的苦痛を解消することに
専念することはもっともなことだからです。

また、当人でさえ
身体的疾患によって、
例えば悲観的な思考傾向に陥っているということに気が付きません。

しかし一定の疾患が、認知の歪みを生じさせ
家族を危殆に至らしめる可能性があるようです。

そういうことを問題提起するのは、
やはり、離婚問題を担当する
弁護士がやらなくてはならないことだと思うのです。

精神問題は医者やカウンセラーが担当するというのでは、
検討が始まりさえしないことも多くあるように思われます。

無理かどうかやってみましょう。
また間違いがあれば、正してもらいましょう。
何もやらないで等閑視しているのでは、
あまりにも情けないと思うのです。

今回は、弁護士と医師、カウンセラーとの連携を
お話ししましたが、
もっともっとそういうことを意識的に行う必要があると
そういう連携をしていくことを
一歩ずつ実現させていきたいと考えています。


人はなぜ争うか。仲間に対して怒りを抱く理由。対人関係学宣言。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



対人関係学は、人間は本来、
群れに協調しようとする生き物であり、
群れから追放される不安を抱くと
自分の行動を修正するし、
群れの仲間のためならば
自分の命さえ提供することがあると説明する。

そうであれば、
なぜ、紛争が起きるのだろう。
戦争で人々が殺し合い、
夫婦が分かり合えずののしり合い、
いじめやパワーハラスメントが起きるのだろう。

対人関係学は、
あまりにも現実離れした理想論なのだろうか。

実は、対人関係学は、
もともと、人間の紛争が研究対象である。
どうして紛争が生じるのか、
どうすれば紛争を防ぐことができるのか
というところから考えが出発している。
そうして行き着いたのが、
人間の遺伝子的な協調性だった。

答えは最初に用意されていたのであり、
今回はそれにさかのぼる思考実験をしてみる。

1 紛争の理由としての脳の限界

  まず、そもそも、追放される危険を感じるところの
  仲間として認識できる人数が
  人間も、それほど多くない
  という理由がある。

  イギリスの心理学者ダンバーが提唱した
  ダンバー数という霊長類の理論がある。
  それぞれと安定した関係を維持できる個体数の認知的上限は、
脳の容量によってきまっていて、
  ホモサピエンスの上限値は、平均150人
  100人から230人というのだ。

  現代はグローバル社会である。
  世界中の何十億という人間が
  ともすれば運命共同体となる。
  
  しかし、人間の脳の発達は
  この状況に追い付いていない。

  おそらく、サピエンスが成立して
800万年ないし20万年の
  ほとんどの期間
  150人くらいの集団で行動していたので、
  実務的にはそれで十分だったということなのだろう。

  従って、その人数を超えると
  仲間として関係を築きたいという
  協調の志向自体が自然発生的にはなくなってしまうのだろう。
  
但し、共鳴力、共感力は、
  およそ人間のかたちをしていれば発生するから、
  仲間だと認識していなくとも
  助けようとする行動にでる。

2 防衛行動

  しかし、そうだとしても、
150人未満の職場や学校のクラス
  そもそも家庭の中においても紛争は生じる。
  確実に仲間であると思っているにもかかわらず、
  なぜ紛争が生じるのだろう。
  
  その理由が防衛行動にある。
  対人関係上の危機を感じた場合、
  自己の行動を修正する形で危機を乗り越えるが、
  修正のかたちは、大きく分ければ二通りある。
   相手が嫌がるだろう自分の行為をやめる(逃避型)
   相手を屈服させて行為を継続する(闘争型)
  である。
   
  本来は、逃避型が本能にかなっている。
  闘争型であれば、客観的には
  対人関係的危機が増大することの方が多いだろうから、
  対立遺伝子として定着する合理性がないからである。

  つまり、紛争の原因として
  防衛行為であるというだけでは
  何ら答えとは言えない。

  なぜ、闘争型という修正行動9*によって
  対人関係の危機を乗り越えようとするのか
  これこそが真の命題である。

  ここから先も、論理的考察であって
  歴史的な検討ではない。
  例えばうさぎの耳が長い理由は
  音によって敵の存在を感知し、
  いち早く闘争行動に出ることに適している
  という類の話である。

  人間が群れから追放される予感に対して
  不安を抱き、自己の行動を修正する理由は、
  自分を群れの中に帰属させ続けるためである。
  群れの各メンバーが、このような志向を持てば、
  群れから外されるメンバーは出てこないことになる。
  
  この結果、群れの頭数が確保される。

  他の動物に比べて
  逃走力も、闘争力も見劣りするヒトは、
  群れの頭数を確保することによって、
  生存競争の中で滅びることを免れていた。

  集団的な狩り、収穫、
  集団的な闘争(防衛)
  集団的な保温、
  そして集団的な子育てをすることが
  弱い人間には必要なことだった。

  言語を操るはるか以前の必要性なので、
  それは文字で記録されたのではなく
  遺伝子に記録されたのである。
  即ち、対人関係上の危機を感じる個体だけが
  子孫を残してゆき、
  やがてそれがヒト(ホモサピエンス)の
  種としての特質となったと考えている。

  そうだとすると
群れに帰属し続けていることが
  自分の利益であると無意識に感じているとすれば、
  それを否定して余りある行動原理が必要で
  それが紛争の理由だということになる。

  ただ、それは単純ではない。

  まず、第1に、群れと個体が対立する場面がある。

  最終的に、群れから追放されたり攻撃を受けるたりする時、
  ヒトも、動物である以上、
  自らの身体生命を守ろうと抵抗する。
  この抵抗をしているときの
  感情的表現が怒りである。
 
  これは人として成立するはるか以前から
  動物として成立するための前提条件であるから
  群れを作っても消えるということはない。
  群れに協調するヒトとしての遺伝子と
  群れと対立しても自分を守ろうとする
  動物としての遺伝子という
  場面によっては矛盾する遺伝子を
  ともに持っていることになる。

  攻撃は、客観的に存在しなくとも
  攻撃を受けている感覚があれば、
  自分を守ろうとして、
  逃げたり、闘ったりすることになる。

  そうだとすると、
  群れの誰かに攻撃する時の基本は、
  先ず、対人関係上の危険を感じていること
  次に、その危険は群れによってもたらされている
  という感覚をもっていることである。
  また、怒りを抱く条件として、
  相手と戦って勝てるという意識が必要だということになる。
  勝てるという意識がなくても、
  「ここで戦わなければ致命的な結果が生じるという」
  そういう意識がある場合も怒りを持つのかもしれない。
  
  怒りを抱いている場合、
  当人は、まだ望みを捨てているわけではない。

  第2に、自分が群れから尊重されていないという意識がある場合である。
  自分を追放しようとしている者が群れのメンバーで、
  そのメンバーから自分が尊重されているという実感がある場合、
  自分の不利益を宣告されても
  怒りを抱くということになりにくい場合がある。
  例えば「姥捨て山」の例等がそれであろう。

  
それとは逆に、自分がいわれのない攻撃を受けていると感じる場合や
  自分の行動に修正するべき客観的理由はないと
  主観的に考えている場合に怒りは生まれるのだろう。

  自分が尊重されているという経験が無かったり、
  自分の仲間が尊重されていないという経験が重なると
  およそ人間は尊重されるべきだという
  感覚を持てなくなる。

  自分が尊重され、他人も尊重されていると
  人間は尊重されるべきだという意識が生まれ、
  誰かが誰かを尊重しないということに
  強い抵抗感を覚えることになる。

  ここでいう尊重は、究極的には、
  対象者を群れの仲間として認め続ける
  ということである。
  蔑みや、心無い批判、嘲笑、
もちろん攻撃や無視などは、
  群れからの追放を予感させるため、
  対人関係的危険を感じさせる行為である。
  
  自分や仲間が尊重されていないと感じたならば、
  他人を尊重しようとする動機もなくなる。
  仲間に対する容赦ない攻撃ができるようになる。

  このような事態は悲劇である。
  自分が仲間として尊重されたいという動機から
  逆に仲間に対して攻撃し、
  攻撃された仲間が、自分は尊重されていないと
  対人関係上の危険を与えてしまうからである。

  仲間になりたい気持ちが
  仲間との関係を危殆に至らしめる皮肉である。

  実際の対人関係上の不具合のほとんどが
  このような悲劇であると感じている。

  要するに、仲間に対しての怒りを伴う攻撃は、
  自分が尊重されていないことに対する
  防衛行動であると説明できると思う。

3 打撃の錯誤 怒りを向けるべき相手の不合理性

  ここで注意しなければならないのは、
  怒りの原因が、必ずしも怒りの矛先にあるのではない
  そういうことが多いということである。

  ざっくばらんに言うと
  自分が何らかの病気になって、余命が長くないのではないかという不安や
生活上の不便と、
  社会的に、さげすまれていて、誰からも相手にされない不安と、
  いじめやパワーハラスメントと
  その不安の現れ方はみんな一緒だということだ。

  要するにストレスが生じる、即ち
  脈拍が増加し、血圧が高まり、体温が上昇する。
  血液は内臓から筋肉に流れる量が増加する。
  これを感情的に表現すれば不安ないし怒りである。

  自分のストレスがどこから来るのか、
  正確に把握することは実は困難である。
  不安の感情からさかのぼることができないからだ。
  
  だから、職場で自分が尊重されていないことから来る
  不安を抱えて帰宅して、
  子どもの些細ないたずらが、
  自分を馬鹿にしてやっているように感じてしまい、
  子どもを必要以上に叱ったり恐怖に陥れたりするが、
  それは、実は職場でのストレスを解消しようとしている場合がある。

  部下の失態を叱責しているつもりでも
  自分が自分の上司から叱責を受けていたことによるストレスのため、
  部下が、熱心に仕事をしていないのではないかという疑念が生じ、
  そこを叱責という形でぶつけているだけかもしれない。

  親が金銭的に恵まれていなくて、
  みすぼらしい格好で、世間に引け目を感じていて、
  無差別的に、自分が誰からも尊重されていないと感じ、
  子どもに対する愛情のかけ方を知らないことから
  子どもであるがゆえに起きる、失敗や不十分点を
  怒りをもって叱責し、暴力もふるっていると、
  子どもは、最初から他人と協調することや他人に親切にするという発想を持てない。

  そういう子どもは、友達との関係で思い通りにならないと、
  どうすれば自分の希望する、
  その子と仲良くすることができるのかわからない。
  このため、いつも自分の近くにいることを要求し、
  それがかなわない場合は、
  自分が馬鹿にされたと思い攻撃をする。
  自分が家庭で受けていることを再現する。

  いじめられた子どもは、
  感情のみならず学力や生きる意欲という点で
  十分に回復しきれないということが少なくない。

  謝罪の会を開けば解決というわけではない。
  それと気づかない無数のトラウマ的体験をする。

  進学や就職に問題が生じるかもしれない。
  不遇な思いをしていて、
  社会全体から自分は尊重されていない、
  自分はもっと能力があるはずなのに
  正当に評価されない
  という意識を持つかもしれない。

  かなり複雑な対人関係的危険を感じ続けているかもしれない。
  周囲に自分より弱い者を探すだろう。
  怒りの口実を探して、わけのわからない理屈をたてるだろう。
  無責任な媒体の影響を受けるかもしれない。

  無差別殺人が起こる要因になっているかもしれない。

  ここでまた注意。
  無差別殺人というのは、その通り、極めて例外的なこと。
  しかし、無差別殺人には至らないけれど、
  何らかの対人関係上の不具合が生じている可能性は極めて高いと思う。
  ぎすぎすした人間関係の中で、
  誰かが新たに傷ついているかもしれない。
  ちょっとした嫌がらせと無差別殺人は
  他人を尊重しないという軸で考えると
  程度の違いかもしれないし、
  程度の違いには偶然的な要素もあるかもしれないと
  そう思えないだろうか。

4 今考えていること

  世の中の現状は、例えば江戸時代に比べると
  かなり悲観的に考えなければならないだろう。
  
  子どもすらも、
  失敗が許されないという意識で
  日々学校に通ってはいないだろうか。
  普通にしていれば、普通に生き続けることが
  保障されていないと感じてはいないだろうか。

  当時は、どんなことがあっても村八分とはいえ、
  家事と葬式の時はコミュニティーの一員とされた。
  今は、それすらない。
  人間として尊重されているという意識をもって
  安らかに生きている人はどれだけいるだろうか。

  もしかしたら、これを読んでいる人たちの中には、
  自分が現状での勝ち組だから、それでよい
  と考えている人も多いのかもしれない。
  あるいは、その人の人生の長さから考えると
  それでよいと言えるのかもしれない。
  そういう価値観もあるだろう。

  しかし、
  大きな地球の歴史、生物の歴史から考えると
  我々人類が生き延びて、
  さらにはネアンデルタール人との
  生存競争にも勝てたのは、
  ホモサピエンスの結束の力だったのではないだろうか。

  それしか能のないホモサピエンスが
  結束力を失った時、
  種としての終わりが始まるときであろうと思う。

  群れの仲間を尊重することで生き延びてきた
  生存に適さないはずのホモサピエンスが、
  個体に価値の序列をつけ始めてしまうと、
  自然の驚異に粉砕されてしまうことになる
  そう思えてならない。

  対人関係学は経済学ではない
  どのような社会制度が妥当かという考察はしない。
  しかしどのような社会制度であったとしても、
  人間が尊重されていない状況を
  一つ一つ是正していくはるかな営みが
  今を起点として求められているような気持ちでいる。

  かつて、世界史には、天才的な神や仏が現れて
  同じような活動を行った。
  その時々の、人間の尊重の仕方を教えた。

  現代においてそのような世界史的な天才は
  育ちにくいと思われる。
  むしろ、我々名もない人間たちが
  できるだけ多く力を合わせて
  人間が尊重される方向へ
  具体的な行動を研究し、実践することが
  求められていると思う。

  人間の弱点、不十分点、失敗を
  それゆえに低価値評価をすることをやめよう。
  人間である、つながりがある
  それだけで仲間として迎え入れよう。

  冒頭、対人関係学は
  現実を無視した理想論に過ぎないのかと自問した。
  答えは否である。

  単なる理想論ではなく、
  現実を超越することを目指した極端な理想論であると
  ご理解いただければ幸いである。

  私はくじけるだろう。私の肉体は滅びるだろう。
  しかし、ホモサピエンスであることに誇りを抱く者達が
  私の考えが大筋において間違っていないことを証明してくれると信じる。

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