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How to love our enemies 汝の敵の愛し方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



前回の記事では、
敵とは、
自分の仲間の中における自分の立場を危うくする存在
と定義しました。

愛そうとするだけで、
交感神経のある程度の低下を期待できるので、
それだけでも役に立つ思考技術だとも言いました。

しかし、敵を愛するということは簡単なことではありません。

もう一つ、愛する意味について考える必要がありそうです。

日常的に愛するという言葉は、
「気が付いていたらいつの間にか好きになっていた」
というような自発的な感情として語られると思います。

しかし、敵は、
自分の人間関係を危うくする存在ですから、
けがをさせられたり、命を脅かされることと同じで、
生き物として、
好ましい感情が自然にわいてくるということはありえません。
生き物の特徴である
生きようとする意欲を持つことは、
生きるための障害を取り除こうとすることこそ自然な感情です。

その障害を好ましいと思うことは、
むしろ不道徳なことだと思います。

おそらく、キリストの説く愛、アガペーは、
そのような自然な自発的感情ではなく、
能動的な行為であると思います。
愛とは、努力を伴う思考作業だと思います。

最低限の条件として、
相手の存在を否定しないことになるのではないでしょうか。

愛とは、相手が人間として存在することを
承認することが出発点だと思います。

ここで、大人の思考、合理的思考として
行わなければならないことがあります。

敵だと思う相手は、
自分と独立して存在するのだということです。

相手から嫌な思いをさせられると、
ついつい、自分と相手の関係性だけで
相手が存在するように考えてしまいます。
相手が自分に嫌な思いをさせる理由を
自分の存在や自分と相手の関係性に求めてしまうのです。

敵である相手が自分から独立して存在するという考えは、
相手の自分に対する敵対行為は、
先ず、相手自身の状態の反映かもしれない
と考えることができます。

何か、別に理由があるのではないか
と考えることを提案します。

特に、相手の自分に対する妨害行動が
怒りや憎しみを伴っている場合は、
相手が何らかの不安を抱いている場合です。

先ず、自分の存在を脅かす出来事を感じた場合、
人間に限らず多くの動物は、
不安を感じます。

その次に、不安の解消可能性の主観的判断に応じて、
怒り、
憎悪、
恐怖、
絶望

不安解消方法を実行できる場合、
怒りを感じ、不安の原因を攻撃することによって
不安を解消しようとします。

直ちに不安の原因を除去できなくても
いずれ攻撃によって不安を解消できるかもしれない
と思うと憎悪を感じます。

自分の力では不安を解消できない、
不安から逃げなければならない場合は
恐怖を感じます。

逃げることもできない場合は
絶望を感じるほかありません。

怒りの特徴の一つが、
根本的な不安に怒りが向かわないということがあります。
怒りの根本的原因は、
国家だったり、社会だったり、会社だったり制度だったり、
とても太刀打ちできないことが多いからです。

大雑把に言って、
怒りの80%以上は八つ当たりではないかと感じています。

例えば、あなたが道を歩いていて肩がぶつかり、
相手からにらまれたとしても、
彼の根本的不安は、
貴方がよけなかったことではなく、
上司が自分を公平に見てくれないことだったり、
自分の妻が言いがかりみたいなことで喧嘩を売ってきたことだったり、
就職先が見つからないことだったりします。

自分が、他人から大事にされていない
だから、あなたと肩がぶつかったことも、
貴方という不特定多数人の一人が
やはり自分を尊重していないと
自分は馬鹿にされる存在だと
勝手にいじけていることの反映である可能性があるわけです。

怒りは、このように、
それ自体では、何かが解決しないどころか
ますます自分を窮地に追い詰めることもあります。

でも、
怒っているとき、誰かを攻撃しているとき、
一時的に不安が解消ないし緩和されるので、
追い込まれている人ほど怒りやすくなるものです。

さて、
他人の怒りと出会ったならば
最初に行うことは、
その人は、あなたにとって大切にするべき人間関係にある人か否か
という判断をすることです。

道で肩がぶつかったような人であれば、
何ら大切にするべき人ではないので、
貴方はこの人との関係が悪くなる心配をする必要がありません。
早急にこの人との関係を切り、その場から離脱することを目指しましょう。

やるべきことは形式的なことです。
謝罪をするなど、
敵意のないこと、ぶつかる意図がなかったことを示しましょう。
これを誠実に行うことがエチケットというやつです。

それでも相手がグダグダいうようだったら、
誰かに助けを求め、
相手に勝てると思わせない工夫をすることです。
つまり、誰かに助けを求めるということです。

次に、敵だと思う相手が
継続的な人間関係を作らなければならない人である場合です。

この場合でも、特に家族以外であれば、
最終的には、人間関係から離脱をする選択肢もある
ということを意識することは大切です。

しかし、第1次的には、
相手の不安の根源を見極めることでしょう。
相手と自分の関係の文脈で事態を理解しようとしないで、
先ずは、相手には何らかの不安があり、
その不安を解消しようとしているという
上から目線で全体を見る
という思考作業が有効だと思います。

それから先は、先の事例と共通します。
即ち孤立しないこと。
仲間に相談することです。
どうしても自分は、相手の悪意を感じると
自分を守ろうとしますから、
自分と相手の関係に原因を求めようとします。
だから、危険意識を感じない第三者の
視点を利用するということです。

だから、その相談相手は、
相手との対立をあおるような人は失格です。

そうして、相手に敵意のないことを示します。
挨拶というものはそういうものです。
返事を返さなくても
堂々と挨拶を続けること、
そうしながら自分の仲間を増やすことです。

仲間は、その現場になくてもかまいません。
一番有効な仲間は家庭にいます。
家族を大切にするということは、
とても大切なことなのです。

ただ、それでも解決しない場合は、
専門家の視点を導入する必要があります。

この時、現段階では、職業はあまりあてになりません。
職場や学校等トラブルの専門家でなくてはなりません。

問題は、家族の中に敵がいると感じる場合です。

しかし、基本的な作業は同じです。
先ず、相手が何について不安を感じているのか、
それは解消するべきなのか、
その人間関係を断ち切ることを決断するべきなのか、
一緒に考えることです。

そうして、自分は敵意がないということを示すことです。

家族以外の第三者が、
相手に働きかけて
自分に対する怒りの感情を作り出している場合があります。

その作り出された怒りを抱いた相手に
こちらも怒りを向けては
解決しなくなります。

怒りを作り出した相手が誰なのか
どうしたら怒りが錯覚であるのかを
相手が理解するのか
考えるべきでしょう。

それが解決の第一歩です。


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東日本大震災の自分の命を犠牲にして他人を守った人たちを尊重することと、二度目は許さない決意の具体化と 特攻隊が議論される8月に [自死(自殺)・不明死、葛藤]

1 人のために犠牲になることは尊いことである。否定されるべきではない。

  8月になると、特攻隊の評価をめぐった論争がおこります。しかし、整理がなされていないため、お互いに、都合の悪いところに目をつぶったまま議論がなされている印象を受けてしまいます。このブログでも、この2年、この問題を取り上げています。対人関係学的視点で、今年も問題を整理して確認したいと思います。
  先ず、他人のために犠牲になることは、否定されるべきことではないという一般論があると思います。
  これは群れを作る動物である人間が他の動物と区別されるポイントになります。他の動物でも、例えば子育て中の母親が子供の命を救うために決死の戦いに挑むということはありますが、それ以外ではあまり一般的ではないでしょう。人間は、血縁関係が無くても他者のために自分を犠牲にすることがあります。
  本来は、群れを形成する仕組みなのですが、群れの中に存在したいという根源的要求を人間は持っているわけです。群れの中に存在したいのですから、群れから排除されるあらゆる兆候が、人間にとっては結構大きなストレスになります。ストレスを感じると自分の行動を修正したり、環境に働きかけて、仲間の一員となるべく行動をするわけです。仲間として尊重されるための行動の大きな柱が、「仲間の役に立つことをする。」ということです。仲間を助けるということも、仲間の役に立つことをしたと感じる大きな行動でしょう。また、「仲間という群れ自体を守る」ということを志向することもあり、「仲間の役に立つこと」、「群れを守るということ」を、無条件に行動してしまう傾向があるようです。

  これは人間らしいことです。だから、むしろ、自分の個人的な利益のために、仲間を犠牲にすることの方が、人間の自然な感情に反する行為です。このような行為をする場合には、特異な体験だったり、生い立ちだったり、何らかの不自然な理由があると考えるべきだと思います。

2 自分の命を差し出すことは、必ずしも強制がある場合だけではない。

  本来、他人を守るために行動することは、このように人間の本能に根差した行為であり、理屈を抜きにして行われることです。このため、誰からか強制されなくても、自分の命を犠牲にして他者を守るということは少ない事例ではありません。
  平成23年3月11日、東日本大震災の津波で多くの人が亡くなりました。その中には、仙台市若林区役所の職員の方(2名)、南三陸町の職員の方をはじめとする自治体職員の方、警察官の方、消防署職員や消防団員の方等津波から住民を避難させるために、命の危険のあることを顧みず、避難誘導を行い、津波に飲み込まれて命を失った方々がいらっしゃいます。
  この方々は、本当に尊いお仕事をなされた方々であり、称賛されるべき方々です。ここで私が申し上げる「称賛」については、すぐ後で検討します。
  彼らは、直前まで死の恐怖があったことは間違いないでしょう。メールなどの記録が残っています。しかし、もう一方で、他人の命を助けているという使命感によって、精神が高揚していた様子もうかがうことができます。残された数少ない記録をたどると、その場所にいる住民を安全な場所に非難させるために、あえて危険な箇所に踏み込んでいったり、危険な状況が差し迫っていてアナウンスをしていた人が非難しても、さらに交代してアナウンスを続けた方もいらっしゃいます。ほとんど報道もされていません。嘆かわしいことだと思います。特攻隊員を賛美する人のわずかの割合でも、このように同時代を生きて、他人を守るためにあえて自分の命を犠牲にした人を知ろうとする人が出てくることを祈るばかりです。

  私は、この人たちを称賛しても称賛しきれないと思っています。この人たちの活動で命が救われた人たちも多くいらっしゃいます。
  死に対する恐怖が存在するからと言って、そのことだけで、自分の命を犠牲にすることが、常に強制によって行われるわけではないということが肝心です。もしそこまで否定してしまったら、人間が利己的な動物だと誤った認識を持つだけでなく、利己的な行動以外は嘘くさいきれいごとだということになってしまいます。そういう心配がある為に、この点を確認する必要があると思いました。

3 人のために犠牲になる状況は、ギリギリの状況である。そのような状況を作らないことこそが肝要である。

  人間が他者を守るために、命を投げ出すことのある動物であると言っても、そのような事態は極限的な事態であり、簡単に死んで解決しようとするものではありません。当然のことです。
  一つには、他に方法がないことが条件になると思います。北海道の吹雪の中で、道が見えなくなり、二人とも共倒れになるという時に、お父さんが自分の着ている服を脱いで娘さんを温めて娘さんを助けて自分が亡くなったという事例も、まさにそのような極限的な状況だったでしょう。
  津波が迫っているのに、停電で情報が入らず、いつもの津波と同じだと思ってとどまっている人たちがいるということも、差し迫った危険で回避の方法が無い状態です。
  そして、いずれの自己犠牲も、他者の命が助かる可能性があったこと、実際に助かった人たちがいたことが、遺された我々にとっても救いになるでしょう。
  
  しかし、私はまだ考えがまとまらないことがあります。
  東日本大震災で住民の避難誘導のために命を落とした人たちの中で、もし自分の命を守るために、公務を放棄して逃げることは肯定されるべきことなのかということです。また、もし自分の子どもが公務員で、逃げられる状況があったときに公務に反して逃げることを望むか、命をなげうって公務を遂行することを是とするかという問題です。
  本人が選択するべき問題だということが必須の前提となります。ここで、いささかでも強制のニュアンスがあってはなりません。要するに、命を投げ出す公務を、断ろうと思えば断ることができる余地が残されていなければならないということが前提です。人間は、一方で群れを作る動物として群れを守り、群れに貢献したいという根源的要求があります。しかし、同時に動物として、命を長らえたいという本能的な要求があります。自己犠牲が強制されてしまうと、それは本能に根差した行動ではなく、高揚感は起きず、動物としての死の恐怖だけがむき出しになることですから、それはただただ惨(むご)いことだからです。
  
  私は、どうしても、もし自分の子どもやつながりのある人たちが、命の危険のある公務を命じたら、どんな理由をつけてもいいから、自分だけ逃げてきてほしいと感じざるを得ません。それが正しいとか誤っているとかいうことは、おそらく誰にも言えないことではないかとぼんやり考えています。

  他人のために自分の命を犠牲にするということは、極限的な話なのだと思います。南三陸町の職員の方々は、これから津波に巻き込まれて命を失うということを認識していました。メールなどで、家族に自分が死ぬことを謝罪しています。とても切ない話です。

  肝心なことは、極限的なことが、予想をはるかに超えて起きてしまったことです。その時は想定の範囲の外にありました。しかし、一度起きたことは、想定しなければなりません。
  生きていた当事者と、生きている関係者の苦しみが現実に存在したということです。残された我々は、このような極限的な状態が起きることを可能な限り排除することが求められていると思います。少なくとも、同じような極限状態が二度起きることを回避することが人間の正常な営みなのだと思います。

4 人のために亡くなった人を肯定するとはどういうことか。

  自分の命を犠牲にして他人の命を救ったという偉業は、肯定されるべきです。人間らしい行動であると肯定されるべきです。そうして、極限状態の中で、冷静に対応されたことには、いくら尊敬をしても足りないと思います。

  その人は、普通の人間ですし、その人の家族、友人も普通の人間です。普通の人間として、感情を持ち、愛情を持ち、人生があったわけです。人間として生きていたわけです。その人たちを肯定するということは、およそ被災公務員とか、そういう抽象的な人間として肯定されるべきではないのです。それぞれの人の名前と、顔と、家族を認識し、そのすべてを肯定することなのだと思います。そうは言っても、私は、名前がわかっている人は、せいぜい数十名に過ぎません。お写真を見せてもらった方々は20名を上回る人数でしょうか。遺族の方々も100名程度しかお会いしていません。
  まだまだ偉そうに肯定するべきだと言える資格はありません。

  それはともかく、避難誘導が公務であるという公務員制度を称賛することがどこかおかしいことはよくわかると思います。

5 新たな犠牲を産まない方策を整えること。命を落とさない避難誘導はどこまで整備されたのか

  さて、東日本大震災で住民を避難させるために自分の命を犠牲にした人たちの称賛と追悼は、まだ始まっていないように思えてなりません。地方公務災害補償基金も、なかなか自己犠牲を認めようとはしませんでした。
  今一番心配なことは、彼女ら、彼らの犠牲がどこまで活かされているのかということです。自分の命を犠牲にして、避難誘導を呼びかけなければもっと多くの人たちが亡くなっていたのですが、現在は同規模の津波が来た時、公務員の命を犠牲にしなくても避難誘導が可能になっているのでしょうか。安全な場所からの避難誘導がなされる仕組みが確立されているのでしょうか。私こそ不勉強で申し訳なく思っています。かさ上げ工事がどの程度有効なのか、よくわかりません。それでも、避難誘導は必要になるはずです。その対策がどの程度講じられているの、ぜひとも知りたいところです。宮城県だけでなく、他県でも同様です。
  そのような二の轍を踏まない対策が講じられることによって、失わなくて済む命が助かるというのであれば、東日本大震災の住民を守るために事故の命を犠牲にした人たちの行為の尊さをより高めることになるものであると考えています。

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自死者に自死の原因を求めるコメントが発生する原因の分析 3つの理由 今の若者が弱くなったのではなく・・・ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の報道があると、
自死の原因を個人に求める意見が目につきます。

その人が弱いから自死したんだということが
未だに私の周りでも言われています。

その代表的な言い回しは、
「今の若者は、昔に比べて弱くなった。」
というものです。

遺族は、当然、こういう意見を目にすると
深く傷つきます。

思いきって、顔を出したり、名前を出したりするのではなかったと
声をあげたことを苦やみます。
そうして、また沈黙が続くわけです。

個体の弱さが自死の原因だという烙印を押してしまうと
周囲は、身内を非難されることを嫌い
自死を隠すようになります。
これは、将来の自死予防にとっては
障壁になります。

しかし、ただ反発しているだけでは解決しないので、
私みたいな立場の者は、
どうしてそういう風なコメントを
わざわざ、遺族が目にするだろう場にするのか
ということを分析することが必要でしょう。

コメントをする人は、決して変な人ではなく、
むしろ良心的で、正義感のある人でもあります。

今回は、3つの理由を考えます。
第1に、情報不足
第2に、自己防衛本能に基づく反応
第3に、自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
    についての理解不足
です。

第1 情報不足

例えば、先日、23歳の消防士の自死について
パワハラが原因だとして損害賠償を提起し、
マスコミ各社に大きく取り上げていただきました。

それでも、
「これくらいのことで、自死するのか」
という感想が見られました。

マスコミで報道されたのは、
遂行困難な業務を押し付けられたとか
机を蹴りながら深夜まで怒鳴られた
という印象的なことに限定されます。

実際の現場では、
消防職員は、24時間勤務の2交代制で
夜間も、1時間の勤務が当番であるほか、
仮眠室から移動できないという制約があり、
勤務(当務)チームから逃げられない
という密室の出来事だ
という事情がある事。

同僚が見てみぬふりをしているため、
絶対的な孤立感がある事、
1日おきに深夜、ほぼ必ず説教がある事、
それも大声で、同僚に聞こえよがしに、
人格が否定される言葉が羅列していること、
前に怒鳴りながら指導された言いつけを守ると、
逆に怒鳴りつけられること、

チームのトップ3人からパワハラなどを受けていたこと、

とにかく、24時間狭い場所で一緒にいるわけですから、
気の毒に思った人がいても
「ちょっとひどかったな」
と後で慰めることもできないわけです。

その場にいた別の人の話では、
消防署の建物の中は、常日頃
まるでお通夜の会場のようだった
ということでした。

そのパワハラの理由も
数か月前に
「しっかりした」消防士になると言ったことを
もう一度言ってみろと言われ
「ちゃんとした」消防士になると言ったことをとらえて
「いい加減なことを言うな」
と机を蹴りながら深夜に怒鳴られているのです。

しっかりした証拠があるだけでも
まだまだひどいことがあるのです。

報道では、情報が不足しているのは
限られた時間、紙面のため
仕方がないことです。

また、こちらも目立ったパワハラなどの事情は拾えますが、
チクチクした嫌みや
わざとらしい無視や険しい視線を投げるなどということは
拾いきれません。

本当の孤立感は、
むしろ、パワハラとパワハラの行間から出てくることなのだと思いますが、
そこは推測するしかありません。

一度出勤すると
翌朝まで耐え続けなければいけないという覚悟を
毎回の出勤のたびに奮い立たせなければ
ならないわけです。

事実亡くなられた方は、
毎回出勤のたびに、
コンビニのトイレなどで食べたものを戻しながら
出勤していたようです。

彼は、中学校の時に応援団長をしていたほか
中学、高校に相撲部に在籍し、
全国大会で、立派な成績を収めていたスポーツマンです。

もともとメンタルが弱かったら、
そのような成績は治められません。

さらに、最後に勇気を振り絞って、
署長に直談判に行ったのに
署長は改善を一言も言わず、
病院に行けと言うだけでした。
頼みの綱も切れたという事情もありました。

それにしても、
なかなか自死を公務災害と認めない機関が
自死を公務災害と認めたのだから
よほどの事情があったと
推測してほしいなあとは思うところです。


第2 自己防衛に基づく本能反応

「そんな隠れた情報があるということは知らなかった」
ということはもっともなことです。

しかし、そうであるならば、どうして、
遺族が見るかもしれないSNSで
「今どきの若者は」と発信してしまうのでしょう。

少なくとも、否定的な言動をしなくてもよいと思うのです。

酔っぱらって自制がきかない場合はともかくです。
(自分でもよくありますから。)

しかし、人間である以上、
死亡した個人に原因を求めたくなるということは
実は自然な感情であることを
理解しなくてはならないことだと思います。

自死がなぜ嫌われるかというと、
一番は、
今まで元気で(外見上)生きていた人が、
突然命が無くなるという現象だからだと思います。

要するに、
「自分も今元気だけれど
 次の瞬間自死するかもしれない」
という危険を、本能的に感じてしまう
からです。

「そんなこと感じたことが無い」
ということは、正直な感想でしょう。

ところが、実際は、潜在意識の中で
他人の死を、自分の死に置き換えています。
無意識の共鳴反応が、人間の場合には起きてしまいます。
これは群れを作る動物の本能的反応です。

例えば、
誰かが怪我をして、大変なことになると、
その場に近寄らなくなるわけです。
誰かの痛みに共感して、新たな痛みを避けるということが
群れを作るアドバンテージです。

誰かが食べたら
おなかを壊したという食べ物は
食べないということが
本能的な対応です。

その時人間は余計な反応をしているわけです。

けがをした、痛そうだ、あそこに行くと
同じように痛い思いをする、
だから行かない。
とか

あれを食べた人がげーげーはいている
とても苦しそうだ
あれを食べる
同じように苦しい思いをする
だから食べない。
という具合です。

丁寧に埋葬された死体を見ても
それ程嫌な気持ちにはなりませんが、
無惨な遺体を見ると
とても嫌な気持ちになるのも
無意識に自分に置き換えて、
危険を感じている状態だと説明することが
できると思います。

特にほかの動物よりも人間は、
身内(母親)以外の者から情報を獲得するという特徴があります。
即ち、他人の感情に、共鳴、共感するという特質を持った動物です。

ここがチンパンジーなどの猿との決定的違いです。

そうすると、他人の死であっても
どこか共鳴してしまう可能性があることは
承認いただけると思います。

そして
なるべくしなくてよい不幸な出来事への共鳴は
本能的に避けようとします。

共鳴を避ける努力を
無意識で行っています。

例えば、
他人が病気で亡くなったのであれば、
今、自分はその病気でないということで
安心できるわけです。

登山で誰かが亡くなったら、
自分は山に登らないようにしよう
ということで安心できるわけです。

しかし、自死は、
そのメカニズムが理解できないということを大きな原因として、
安心する方法がわかりません。

そこで、無意識に、
自死者と自分が違うんだという
その違いを探します。

そうすると、
「自死者は弱い人間だから死んで逃げたのだ、
 自分は弱い人間ではないから、
 自死することはない」
ということで、安心したくなるわけです。

これは、生き物として、
自然に、無意識に行われる反応で
悪意はありません。

もう一つ、
自死者の絶望を追体験したくない
ということも、防衛本能からの反応です。

だから、もっといろいろなことがあったのではないか
等、
具体的な事情を想像したり、
調べたりすることを本能的に避けます。

これはほかのシーンでも見られます。
悩んでいる人を励まそうとして、
「貴方は悪くない」
と言う人たちがいまだにいます。

その人の絶望の闇を見ないで、
否定してしまえますから、
大変楽なことです。

弁護士もまじめにやろうとすると
本能に逆らって、死者の絶望の闇を覗く
ということですから、
文字通り、因果な仕事だと思います。

自死対策に取り組むならば、
このような本能に逆らった理性を
根性いれて働かせなければなりません。

自死が起きたことを知らせること自体
本当はやっていいのかどうか、
疑問が無いわけではないのはこういう理由です。

しかし、人が自死をするのは
必ず理由のあることです。
その理由を探すことで、有効な自死予防が初めて講じられます。

そのためには、
一つ一つの自死をないがしろにしないで調査、分析し、
きちんと将来に向けた解決策を確立するべきだと思い、
活動をしている次第です。


第3 自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
   についての理解不足

これは、自死問題が、第2の理由でタブー視され、
特殊な個人的な問題だという理解が一般的であったために
なかなか検討が進まず、
一言でいって他人事でした。

先ず、その人の特殊な事情、うつ病や統合失調症という
病気が原因だろうという対策が立てられました。

医療の領域の問題だとされていました。

これまでともすれば、
自死対策=うつ病対策
とされてきたことは理由がありました。

一つの大きな転機は、
21世紀になっておきました。
自身の父親が自死をした体験を持つ心理学者ジョイナーが
ある発見をしました。

人は死にたいと自死願望をもっても、
死ぬことが怖いために死なないのだということです。

実に当たり前のことが注目されていませんでした。
「自死した人は特殊な人だ」
という防衛本能的反応が、
真実から目をそらした象徴的な結果です。


ジョイナーの自死理論は、
自死に至る過程の中で、死ぬことが怖くなくなっていく事情がある
と説明します。

死ぬことが怖くなくなるのは、
少しずつ、死を受け入れる環境があるからだというのです。

自分で自分を傷つけるリストカットなどの自傷行為もそうですが、
戦争体験等の体験が
徐々に死を身近なものとして感じてしまい、
死ぬことに対する抵抗力が無くなっていく
と説明しています。

これをさらに勝手に説明をしているのが
われらが「対人関係学」です。

自分が大事にされない体験が
およそ人間というものに対する価値観が低下していき、
人間の命の価値を低いものに感じてきてしまう。

命の価値を認めなくなれば、
死に対する恐怖も弱くなっていくという関係にあります。

つまり、自分が大切にされない体験
というものは、
人間にとって極めて有害で、
対人関係的危機感を抱かせる事情です。

その事情の中でも、自分が生きようとする意欲を持つためには、
大切にされなくてもそれほどダメージを持たないという
馴化(じゅんか。なれ)を無意識に生じさせます。

痛みを痛いと感じなくなるわけです。
それは、強くなるのではなく、鈍感になるということです。
また、人間が大切にされるものではないという馴化は、
繰り返されるうちに、
人間に対する価値観の低下を意味することになっていくわけです。

そうすると、こんな命を維持して苦しみ続けることに
理由を感じにくくなってしまいます。

死に対する抵抗力が無くなるわけです。

また、ジョイナーは、死に対する抵抗力の低下の事情を
身体生命に関する死の受け入れということで
とらえているようですが、

対人関係学は、
群れから尊重されないということも
人間の価値を低下していく事情になると考えています。

人間は、
身体生命の危険のほかに
対人関係的危険を感じる生き物である
そして、対人関係的危険に対する反応は、
身体生命の危険に対する反応をかりて、
同じ反応をしているということを主張しています。

この辺はアントニオダマシオの
「デカルトの誤り」で示された二次の情動とは、
対人関係的危険に対する反応であると
割り切って理解しているということになります。

そうすると、
このような対人関係学的見解に立った場合、
自死者の自死の原因を求めることとどのように
違いが生じてくるのでしょうか。

対人関係学的理解を前提とすると、
自死の原因を自死者という個人に求めて
自死者の治療やカウンセリングによって解決する
ということを主として行うわけではないということになります。

対人関係的な危険を感じさせるような
群れ、
学校や職場、家族や地域等様々な群れの
あり方を変えていくということが
有力な自死予防の解決策だということになります。

今日の結論を述べる前に、
もう一つお話します。

それは、人間の脳はそれほど短期間に変化しない
ということです。
自分が若者の時に耐えられたストレスが、
今の若者が耐えられなくなるということが
非科学的なのです。

脳の構造や仕組みは、
大雑把に言うと800万年それほど変化がなく、
20万年前からは、ほとんど変化していないでしょう。

それが、わずか数十年で
同じストレスに耐えられていた脳が、
退化して耐えられないようになる
ということはありえないと思います。

この論理と、
自死が起きやすくなる条件としての
自分が人間として尊重されていないという体験の積み重ねが必要だ
という条件を組み合わせれば、

「今の若者が弱くなった」ということは誤りであり、
実は、
「今の若者は、人間として尊重されないという体験を
 昔と比べて積み重ねられている」
ということなのです。

弱い人間が増えたのではなく、
人間が生きるにしては過酷過ぎる環境が増えた
と説明する方が科学的だし、
予防にとっては有効だと考えます。


当たり前に生きていれば、正直に生きていれば
死ぬまでなんとかなったという我々の子どものころとは違い、
ちょっと失敗すると、
一生幸せになれないという
失敗が許されないという
厳しい環境を感じさせられている
と、私は思います。






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くよくよしたりいかったりする前に、自分の行動の修正を考えると楽になるかも [自死(自殺)・不明死、葛藤]

他人の言動を気にする人の多くが、
「ただ気にしているだけ」
という場合が意外に多いのです。

くよくよ悩む人に限って、
ただただ悩んでいるようで、
苦しみのスパイラルに陥りがちの様です。

他人の言動によって、
落ち込んだり、
逆に怒ったりするということは、
その人との関係に
危機感を感じているということ
というのが対人関係学の主張です。

危機感とは、その人との関係が
壊れてしまうのではないか、
その人たちから自分が仲間はずれにされるのではないか
ということで、
この危機感を感じて行動を抑止したり修正することで、
人間は群れを作ることができわけです。
だから言葉のない時代からの
人間の生きる仕組みだったわけです。

だから、本来は、
くよくよ考えている時間はもったいない
ということになります。

その危機が、
自分の行動によって生じたのではないかと考え、
もし自分の行動をこう修正していたら、
自分も相手も快適だったかもしれない
という
今後の相手との付き合い方の修正の
絶好のチャンスなのです。

ここは、少し難しい思考が必要かもしれません。
大体は無防備な発言をしているのですが、
どの発言が相手の機嫌を損ねたのか、
見つける作業は、
相手の気もちを考えて検討しなければならないからです。

また、自分が修正する必要はない
と無意識に頑張ってしまうこともあるでしょう。

ただ、改める必要がある考えとしては、
赤ちゃんでなければ、
対人関係は、自分が構築することだという
意識を持つということです。

「自分が自由に何をやっても許される。
 相手が会わせてくれなければ困る。」
ということを無意識に志向している場合、
自分の行動を修正する
という発想がなかなか出てきません。
これは赤ちゃんだけが許される依存なのだと思います。

赤ちゃん的依存志向の場合は、
相手が自分に批判的だと感じると、
もうどうして良いかわからなくなり、
単に落ち込むか、
無かったことにしたり、
相手が悪いということにしたりするから、
解決が難しくなってしまいます。


本当はこうすればよかった
ということを思いついた後の話です。

こうすればということを
「本当に自分ができるのか」
ということも考える余裕があるとよいでしょう。

たとえば
夜中まで寝ないで頑張るとか
外のすべてを犠牲にして取り組むとか
できないことをしようとしてはいないか
ということです。

自分にとっての相手の大切さですが、
できないことをしようとすると
とても苦しくなってしまいます。

早晩行き詰まるでしょう。

次善の策を考える必要があるようです。

また、ベストは、
自分は、こういうことを修正したいけれど
自分の能力から言うとここまでが限界だ
どうしましょう。
と相談できることです。

大体は、
そこまでわかってくれたら
それだけでうれしいというか満足することが多いので、
無理しなくても済む
ということになるはずです。

しかし、相手が
自分ができないことを要求してくる場合は、

むしろ相手との人間関係の在り方を考えるべきです。

本当に、自分の行動を修正してまでも
人間関係を続けるべきなのか
という疑問を持つことがとても大切です。

どうしても人間は群れを作るという性質上
対人関係の不具合を必要以上に気にしてしまいます。
これは無意識に行われるので、
意識して選別する必要があるわけです。

100万年前くらいは、
人間は生まれてから死ぬまで
たった一つの群れで生活していたのですが、
現代は、
家庭、学校、職場、地域、研究会等
様々な群れに帰属していますし、
同じ群れに属さない人たちと
街ですれ違うばかりか、
同じ建物で居住しています。

それにもかかわらず、
一つの群れで一生を終えたときの
遺伝子的な感情が残ってしまっています。

ここは、意識的に、
検討をする必要があるわけです。

例えば、
街で、見ず知らずの人にぶつかって
怒られたような場合、
さすがに自分が悪い場合は、
謝る必要はあるでしょうが、
それ以上落ち込んだり、怒ったりする必要はないでしょう。

例えばスマホを見ないで歩く
という自分の行動を修正すればよいでしょう。

家庭で、パートナーから小言を言われた場合、
それはかけがえのない群れですから、
自分の行動の修正を考えるとよいでしょう。
ここでコツは、自分が悪かったから改める
という後ろ向きな考えに陥らずに、
パートナーとのより快適な関係のために
相手の言い分(多少依存的傾向も)を
受け入れる工夫をしてみる
ということも考えてよいと思います。

大体は、何が相手の気に障ったのかを
言い当てることによって、
それだけで、相手は落ち着くでしょう。
相手は、あなたの何らかの行動で、
「自分が尊重されていない」
と思っているだけかもしれないからです。

これが職場ですと、
上司の厳しい評価によって落ち込むことがあるかもしれません。

会社は確かに、生きていくために重要な群れです。
できるなら、転職のリスクは負いたくないですし、
群れに帰属したいという本能が現れてくる要素として、
毎日顔をあわせて、群れの意識が高まっているからです。

しかし、現代の会社が、どこまで群れの名前に値するか
大変疑問がある例が多くなりました。
本当に自分を仲間として認めているのか、
単なる、自分で考える便利な機会の一つと考えているのか
見極める必要があるわけです。

できないことをしなければならない
という態度なのか、
自分に責任が無いのに叱責されているのか、
ということが重要な判断材料になると思います。

会社の要求することを
無条件でやろうとしないで、
立ち止まって考える必要があると思います。

会社の代わりも、会社にとって自分の代わりも
あり得るということを忘れないでください。


いじめ会見から見た取手市教育委員会の違法性。教育委員会の状態こそ重大事態だと思う理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

このような行政の違法性を帯びた行為を正すことができたのは、
ご遺族がマスコミの前で語りだしたところが大きいと感じ、
わが子を亡くされた悲しみの中にありながら
やむにやまれぬ想いを強く感じるとともに
自死やいじめられることによる偏見が遺る社会の中で
行動された勇気に心より敬意を表します。


取手市の教育委員会が、
平成27年に中3の女性が自死した案件で、
ろくに調べもしないうちに「いじめはなかった」
「重大事態ではなかった」としていたのに、
一転して「いじめはあった」と言い出したことが
ニュースになっている。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170531/k10011000911000.html


今回の取手市の当初の対応は、
日本の法律である
「いじめ防止対策推進法」に反する行政行為がなされた
という違法性を帯びた行為であり、
被害を受けたのが子どもたちであると観念するべきなので、
重大なスキャンダルだと思う。

先ず、「いじめはなかった」ということに対して
どのような法律違反なのかについて説明を試みる。

「いじめ防止対策推進法」2条1項はいじめの意味を定める。
「この法律において『いじめ』とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」

平成25年10月11日文部科学大臣の通達の
「いじめ防止などのための基本的な方針」において、
このことを解説しており、
「心身の苦痛を感じているもの」
の意味を限定して解釈しないようにと
予め取手市の事態を見越したように
懇切丁寧に説明している。

「この程度なら苦痛と言えない。」
「この程度なら子どもたちの中でよくある事」
「本人が大丈夫と言っているので苦痛ではない」
等というようなことを言わないようにということで
きちんとあらかじめ予防線を張っていたわけだ。

しかし、この予防線は、
各地の教育委員会や学校現場で
やすやすと突破されてきた。

いじめ対策防止推進法は、
子どもたちの健全な成長のために
いじめを防止するというところに主眼があるのだから、
子どもたちが苦痛に感じることを
みんなで防止するための法律だ。

だから、いじめの定義自体にこだわる必要さえも
本来ない。
いじめかどうかにこだわらず、
法律で示す生徒の苦痛を確認したら
調査を開始するべきだということでよいのだと思う。

しかし、学校や教育委員会は、
上記のように、なにかれと理屈をつけて
あえて「いじめ」の有無を問題として、
「いじめ」ではないと言い張ってきた。

ここで疑問がわいてくる。
なんのために、「いじめではない」と言っているのかということだ
いじめ防止、生徒の苦痛を防止すること以上に
学校や教育委員会が大切にしているということが
何かあるということだろう。

それはいったい何なのだろうかということだ。

もしかしたら、ゲスの勘繰りだという批判を覚悟でいえば、
当該学校の校長、教育長などが、
いじめを起こしたら、出世に響くということで
いじめを「無かったことにしよう」
としているのではないだろうか。

もしそうなら
自分の利益のために生徒に苦痛を与えても良い
ということになり
学校側がそういう行動原理であれば、
いじめを見てみぬふりをする生徒を指導すること等
できないだろうし、
生徒は大人の茶番を見抜くだろう。

また、学校などが本来子どもを守るべき立場であることを考えると、
自分の利益のためにいじめをなかったことにするということは、
いじめに加担しているという評価になることも
あり得ることになる。

また、そのような、偶然的な事情で
出世を決める制度自体にも疑問を持ち
さっさと改めるべきだろう。
いじめの本質を分かっていない制度であり、
いじめ防止に逆行することが
嫌というほど明らかになっているはずだ。

それにもかかわらず、
その制度自体に手を付けない張本人たちが、
指導として、子どもたちに態度を改めろといったところで
空しいことになってしまうだろう。

いじめの定義についてはこのあたりにするが、
問題は「重大事態」の解釈である。

「いじめ防止対策推進法」は
28条で、重大事態に適切に対処し、
重大事態と同様の事態が繰り返されることを防止することを定めている。

具体的には、
先ず、学校内に調査チームを組織し、
アンケート調査などを行って事実関係を明確にする
ということである。

その「重大事態とは」
一 いじめにより当該学校に在籍する児童等の生命、心身又は財産に重大な被害が生じた疑いがあると認めるとき。
二 いじめにより当該学校に在籍する児童等が相当の期間学校を欠席することを余儀なくされている疑いがあると認めるとき。

先ほどの文科大臣の通達では、
「児童生徒や保護者からいじめられて重大事態に至ったという申立てがあったときは、その時点で学校が『いじめの結果ではない』あるいは『重大事態とは言えない』と考えたとしても重大事態が発生したものとして報告・調査等に当たる」
とされている。

取手市教育委員会や学校の初期の対応は、
この通達に反し、法律に反する行政行為だった。

こうするだろうという予想されたために
わざわざ具体例を示して注意をした
文科省の予防線は、
それこそなかったもののように突破されていたのである。

あまりにもひどすぎる事態の原因を考えてみる。

一つにこのような通達を読んでいなかった
ということが考えられる。
教育委員会で誰一人読んでいないのであれば、
それは教育委員会としての体をなしていない
と言われなければならないだろう。

重大事態ではないという決議までしたというのだから
恥ずかしい限りである。
また、わざわざ決議をしたことについても
何か後ろめたい気持ちが感じられる。


法律や通達ではなく、
私的利益が行動基準だったと言わざるを得ないだろう。
私的利益のために、法令違反の行為をしておきながら、
税金から報酬を受ける理由はない。

いじめ防止対策推進法のこれらの条文は、
細かい技術的な法律や通達ではない。
子どもたちの命や人生にかかわるいじめ問題防止ということで
話題になった法律である。

もしも、知っていてそれを守らなかったというならば、
それこそ犯罪的な行動だということにならないだろうか
国の定めた行為規範を意図的に破ったことになるからだ。


教育委員会が謝罪の記者会見をしたが、
「謝罪」口にしていながら、反省が不十分であるという
新たな問題も浮上した。

新たな問題の第1は、
「自殺との関係はわからない」
という、言わなくてもよい発言をしていることだ。

いじめ対策防止推進法は
自死と関係のあったいじめだけを防止するのではない。
重大事態だって、自死だけを取り上げているのではない。

あれは記者会見であって
縁側の茶飲み話ではない。
いじめが確認されれば、個別指導を含めて
防止する措置をとらなければならない。
しかも、その事実関係を明確にするために、
調査を行うのである。

ただ、教育委員会に寄り添って解釈すると
マスコミが、そのあたりのことを理解しないまま
いじめがあったとすれば自死と関係があるのか
と質問したことに答えたのかもしれない。
そうだとすると、もっと上手に回答する必要があったとともに
マスコミに対していじめ防止対策推進法について、
きちんと説明をする必要があったということだろう。

それには法律や通達を読まなければならない。

新たな問題の2は、
謝罪と言っても、
「遺族への配慮に欠けたものだったと謝罪」
というのである。

遺族への配慮が欠けたというか、
さらに鞭打つ行為をしているということは確かだが、
それだけではない。

むしろ、法律に反した行動を行ったことは、
新たないじめの危険から子どもたちを守る手立てをとらなければならないのに
それをしなかったということなのだ。
被害者は子どもたちだと観念するべきだと思う。

最も重大な過ちに何ら言及はない。

未だにいじめ防止対策推進法を
勉強していないことがよくわかる。

ただ、こうなることについては心当たりもある。

過去において、
学校内での自殺案件が生じた場合の
対応マニュアルみたいなものがあって、
そこでは、遺族への配慮を特に強調して
遺族への対応マニュアルみたいになっていた。

こういう裏マニュアルみたいなものだけは
よく知っているのだろう。
このような対応をすることは十分理解できる。

なぜそうなるのか、

学校教育現場が多忙になると、
思考が停止ないし停滞する。
そうなると、
自分の価値観で子どもたちと向き合えず、
マニュアルみたいな考えなくても対応できるものを
求める傾向になるからだ。

いずれにしても、
記者会見にこれだけの人数が顔を出すのであれば、
事前にきちんと何について説明をすることが
行政組織として正しいのかということを
打ち合わせをして臨むべきだし、
県教委などとも協議をして臨むべきだと思われる。

協議をして臨んでいたら、
その協議では足りなかったことが明らかになったのだから、
さらに上と協議をするべきだったということになる。

いじめ問題は、
誰かの出世とか、刑罰の適用ではなく、
子どもたちに再度のいじめが無いようにするためのことだ
ということを徹底してほしい。

この記事が何かの役に立つことを
切実に願う次第である。

モラトリアムの形骸化と中学生の自死 群発自殺を避けるため報道の在り方を考えてほしい [自死(自殺)・不明死、葛藤]

子ども自死が軽薄に行われていると思っている人は、
もう一度せめて高等学校の倫理の教科書でも読んでほしい。
ギリシャ以前のページだけでかまわない。

モラトリアムの形骸化ということが言われて久しい。

われわれが大学生だったころ
今から30年くらい前は、
大学を卒業したら企業戦士となり
24時間働くのだから、
大学生の時は受験と企業戦士の間の
中休みという意識があった。
馬鹿なことをやりながら、
いろいろなところで人間や生き方について学んでいた。
モラトリアム真っ盛りということだった。

しかし、我々が大学を卒業するころには、
大学の講義をいい加減に済ませて、
司法試験や公務員試験予備校に通う学生が増えていった。

大学は、企業や公務員の予備校へと変貌していった。
就職やその後のスキルアップを意識していったのは、
よりよく生きようとか、より高みを目指そうというより、
生き残りのための活動が必要だと
意識され始めたからではないかという気もする。

就職難や就職後の困難を想定してそれに対して対応を始める
モラトリアムが形骸化していく事情として
指摘されるているところである。

要するに、普通の生活をするために
普通以上に頑張らなければならないということだと思う。

このモラトリアムの形骸化が高等学校に降りてくるのは、
それからさほど時間を要しなかった。
大学受験に必死になるのは続いているが、
工業高校などでは、
校内専攻で選ばれないと
社会保険のついた企業の正社員になれないということで
子どもたちを監理するようになっていった。

むしろ、就職難や雇用の劣悪化を
利用しての生徒指導をせざるを得ない状況ということで、
高等学校さえ、
モラトリアムではなくなっていった。

それが、今中学生まで降りているのだと思う。

自分が今ドロップアウトをすると
これから70年の人生を
苦痛と屈辱で生きていかなければならない
極端に言えばそのような恐怖が
少しずつ忍び寄ってきているわけだ。

成績の良い子の場合は小学生まで押し寄せていて、
中高一貫校や私立中学校への受験に
大学受験以上の努力を強いられている。

それに伴う弊害は
学校関係者なら知らないとは言えないはずだ。

いじめの主体が、
そのようなエリートになっているケース増えているからだ。

おそらく、エリートのいじめ加害者からすると、
自分が努力していること、
やりたくないけれどやらなくては普通になれないからと
頑張っていやっていることを
いとも簡単にやらない子どもがいる。

自分が推薦で進学するために
毎日神経をすり減らしていることを
あざ笑われた気持ちになるらしい。

「お前は自由でうらやましいな」
という感覚が、
いつしか、うっとうしい邪魔な奴
ということになるケースがあるようだ。

また、誰かを攻撃し、
自分はそいつよりも優位な人間なんだ
と思わないと、
心のバランスをとれない状態になっている子どももいる。

テストの成績が悪いと
家でも居場所がなくなる子どもたちも多い。

学校で失敗すると
家でも責められる
ということになると、
失敗を大人に隠すようになることは当然だろう。

親も自分の子どもが「普通」になれなかったらどうしよう
という焦りが強く、
むしろ、子どもは大人の焦りに引きずられている
と考えるのが自然だろう。

全員が全員そうだということではないし、
人によって感じ方が違うことも多いと思う。

しかし、昭和の中学生と
今の中学生がまるっきり違う立場にあることを
理解しなければ始まらないようだ。

今の中学生の状態を一言でいうと
失敗をすることが許されないという
緊張状態の持続の中にいる
「なんとかなるだろう」
という青年期の特権を行使できない状態にあるということだ。

だから、いじめも起きやすいし、
絶望も感じやすくなっている。

中学生にとって自死問題は、
以上のように他人事ではない。
中学生を子どもに持つ親の心配も募っている。

マスコミの方々にご配慮をお願いしたい。
せめて、自死の方法について報道することはやめてほしい。
自分を大切にできない人が、
自死という手段を抽象的考えるにとどめておいてほしい。
具体的な方法がインプットされると、
抽象的な希死念慮(自分は死ななければならないかもしれない)は、
自分は、「その方法で死ななければならないかもしれない」
という念慮に変わっていく。
自死を思いとどまる可能性が一気に低下してしまう。

また、連日身近な自死の報道を繰り返すことで、
死ぬことの恐怖が薄れていく危険がある。

マスコミも含めて、本気で自死を止めるという
姿勢を貫かなければ、
いくら誰かを批判しても説得力を失うだろう。

群発自殺のメカニズムを絶つことが必要だと思う。

人はなぜ自ら死ぬことができるのかを考えることが自殺予防に不可欠であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]

仙台では、中学生の自死が多発しており、
緊急事態というべき状態です。
私は、何よりも、この問題に、大人は緊急に力を注ぐべきだと思います。
何よりもです。

今は
みんなで力を合わせ、知恵を出し合うべきでしょう。
子どもに対して
「死ぬな」、「死なないでください」
メッセージを出すことは有効だと思いません。

それはその発言者に向かって、
「死なせるな」と結論を求めることと
大差がないと考えるからです。

「なぜ死にたいと思うか」
このことすら、あまりまじめに議論がなされているとは思えませんが、
世界の研究者はさらに先を研究し、実践しています。

例えば、Thomas E. Joiner Jr. は、
「なぜ人が死ぬことができるのか」
というところに着目して検討をしています。

考えてみれば当たり前ですが、
死にたいと思うほどつらくても
生きている以上、
死ぬことが怖いために自死を決行することができない
はずです。

しかし、自死者は決行してしまう。
なぜか。
死ぬことが怖くないのでしょうか。

ジョイナーは、
生前の体験が、
死ぬことを徐々に怖くなくする、
死ぬということに慣れていっている
これが、自死の潜在能力を高めてしまう
ということを言っています。

少しずつ、死ぬような体験をしているということです。

ジョイナーが指摘しているのは、
死ぬ場面に立ち会うことで
死への閾値が下がることを指摘しています。

戦争やテロ等、人が人を殺す場面に立ち会うこと、
自傷行為が
典型的な死の閾値が下がる事情です。

被害者として、
少しずつ死に接近する体験を重ねていくうちに、
死の恐怖の閾値が下がってきてしまうということなのだと思います。

体が傷つけられても
体験前のような、強いおそれが無くなっていくわけです。
少しずつ、死への抵抗感がなくなっていく
ということなのかもしれません。


注目するべきことは、
外科医の自死率が高いということです。


人の生死に立ち会う仕事ということでもあるのでしょうが、
人間の命の神秘性を否定する仕事、
皮を切ってまた縫い合わせるということが
人間の命の価値という約束事よりも、
物理化学の仕組みによって構成されている
という人間の側面を突き付けられるからかもしれません。

よく、戦争の加害者が精神的に傷つくのがおかしい
という人がいます。
そうでしょうか。
人が、人の命が軽く扱われているということを目の当たりにすると
無意識のうちに共鳴力、共感力が働いてしまう
死の恐怖が伝わってしまうということは
むしろ当たり前のことだと思います。

この恐怖を軽減させないと
日常生活に支障が来ますので、
本能的な防衛行動で、
人間の命はそれほど軽いものではない
という意識を持とうとするのではないでしょうか。

自分を無意識にごまかしているわけです。

これが持続していくと、
「およそ人間の命に価値はない」
という感覚になってゆき、
やがて、
「自分の命だってそれほど価値のあるものではない」
という感覚が侵入してきやすくなるものだと思います。

但し、
自分が傷つかなくても、
自死の潜在能力が身についていく可能性がある
と指摘しているのは
ジョイナーではなく対人関係学の方です。

さらに、対人関係学は提案しています。
(ジョイナーは、自殺の対人関係「理論」)

身体生命が傷つくことだけが死の閾値を下げるのではない。
対人関係的危機にさらされ続けることも
同様に死への閾値を下げる
ということです。

ちょっと説明が必要でしょう。
人間は動物として、身体生命の危険を感じて
それを回避しようと本能的に行動をします。

これと同じように、
人間は、群れを作る動物として、
対人関係的危険を感じて
それを回避しようと本能的に行動をします。

対人関係的危険とは、簡単に言うと群れから追放される危険のことを言います。
仲間として認められていないということを感じ取ると
群れから追放されてしまう危険としてとらえてしまうのです。

遺伝子に組み込まれた
どこかに帰属していたいという欲求は、
それが満たされないと、結局死につながるかもしれないと感じるという
反応を起こしてしまうほど人間のウイークポイントです。

だから、仲間として尊重されないようなことは
ほっといてもしないようになるわけです。
何をすると、相手にされなくなるかということについては、
後天的な学習の力も大きいようです。

そうして、これは、
全く仲間を作らないで行動しているよりも、
仲間の中にいて、尊重されない
ということの方が深刻なダメージを受けるようです。

会社や学校という
仲間の中にいなくてはならないという前提があるから、
そこから外されまいと、
人間は必死に努力をするということになります。

常に仲間から外される体験をしていると
人間として生きることに
希望を持てない状態が続くことになります。
自分という一番のかけがえのない人間が
迫害され続けていると感じれば、
人間が大事なものだということを
感じられなくなることは誰でもわかることです。

大事な人間なのに、どうしてこういう目にあうのだろう
という疑問は解決しません。
そんなことも考えたくないわけですが、
本能的に、どうしても堂々巡りをしてしまいます。

そして、そういう迫害のきっかけになっていることが
自分の常日頃の振る舞いだということになれば、
修正することができるのですが、

自分の属性である、
生まれた国、親、先天的な障害
社会のスタンダートと異なること
ということになると修正することができません。

仲間として迎え入れられることに絶望を感じなくてはならなくなるわけです。


ですから、私としては、
命の授業をすることは、下手をすると逆効果になるという意見に賛成です。
そんなことをするよりも、
仲間として尊重されていない生徒がいれば、
先ず、受け容れるコミュニティー、家族だったり教師だったりで
がっちり居場所を作るということが急務です。
無条件に存在を肯定する=仲間として扱う
ということを繰り返し感じてもらうことが必要です。

担任が、生徒の誰かが仲間として迎え入れられていない
ということに気づくためには、
生徒の顔を見る時間を確保することが必要です。
担任に、余計な文書作成などをさせることは
担任からこの力を奪う犯罪的なことだと考えています。

それから、中学生の自死=いじめ
という短絡的な見方をしてはだめです。
いじめかどうかにこだわっていたのでは、
いじめさえ見逃すことが
この間嫌というほど証明されているのではないでしょうか。

仲間として迎え入れられていない生徒がいたら、
無条件で、手当てをする必要があります。

また、障害や国籍等
本人が努力しても修正できない事情が原因で
差別される等、仲間として受け入れられない状況は、
重大事態です。
すべてをストップしても、先ず解決する必要があります。

仲間に入れろという結論の押し付けでは
何も解決しないことは言わなくてもよいと思います。

やろうとしても、できないことで責められることも
それに次ぐ絶望を与える事情ということになります。
人はいろいろな個性や能力の違いを前提として
仲間を作ってきたわけです。

いつしか、現代日本では、
そんなことさえもわからなくなったということを
自覚するべきです。


被害者の精神的健康だけでなく、
加害者の精神的健康も蝕んでいくことになります。

人権問題というのは、
人間が人間らしく生きていくための
不可欠なツールだということが対人関係学の結論です。
道徳でも、総合学習でもよいのですが、
ここが抑えられないのであれば、
人格の向上はあり得ないと思っています。

学校という集団教育は害にしかなりません。

そして、どうしても仲間の中に迎え入れられることができないケースの場合、
居場所を作るということも考えてほしいのです。

そこへ行けば、
無条件で自分が尊重されるという場所、
やりたいことをやれる場所、
一人でいることが苦痛ではない場所、
誰かと話したくなったら、
話を聞いてくれる人がいる場所

そんなに難しいことではないと思いますが、
議論が散漫になることは避けようと思いますので、
今日はこれで終わりにします。





青森市のいじめ防止審議会の報道発表がどうして不可解なのか、疑問を2点提示する。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成28年8月に、青森の中学校で
中学2年生の女性が自死をした事件で、

「5月末で任期を終える市いじめ防止対策審議会は28日、同市内で臨時会を開いた。終了後の会見で、審議会会長の櫛引素夫・青森大学教授は、報告書原案で「1年夏から2年の初夏にかけて4件のいじめを認定している」と明らかにしたが、いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかったと説明した。」
との報道がありました。

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170529025524.asp

2点ほど意見があります。

第1は、いじめ防止対策審議会は、何を目的に調査をしてきたのかという点です。

この委員会の正確な設置要綱はわからないのですが、
おそらく、将来、いじめを無くし、
自死者を出さないための調査をして、
調査結果を報告するのが目的だったはずです。

そうだとすれば、この最終結論は極めて不可解です。

「いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかった」
ということはどうして述べる必要があったのでしょうか。
私は、権限外の発言ではないかとすら感じています。

ニュースでは、いじめが自死の引き金だったと
断定することができなかったなどということも言っていたようです。
これも権限外の発言だと思います。

この審議会は、
当該事例の調査を行い
自死の危険性のある行為を提示し
何を繰り返してはいけないのか
ということを提案する組織のはずなのです。

このところを理解されていないのではないか
という疑問が出てきてます。

これが例えば、裁判の損害賠償請求の場合ですと、
いじめなどの行為と自死という結果が
一般人から見て行為と結果という関係にあることが
相当であると認められることが必要となります。

これは、その因果関係が認められてしまうと
加害者が損害賠償を支払わなければならなくなるからです。
ある程度、厳密に検討する必要が出てきます。

これに対していじめ防止の場合は、
「本来は」
もっと緩やかに自死といじめの関係を判断してよいはずです。
もっとも、あれもこれもだめだとして、
生徒たちの自由を過度に制限するようなことにならないことは必要だと思いますが、
この点はそれほど重視しなくてよいはずです。

ところが、この様な理念的な判断ができない事情が
確かにあるようです。

一つは、このようないじめ防止の審議会の
目的に関心のない人が審議委員になることです。

また、一つは、
将来の損害賠償の裁判に
審議会の調査結果が使われるのではないか
という心配をすることがあげられます。

これは、当事者にもそういう心配があり、
調査に応じたら、
自分が損害賠償を請求されるのではないだろうか、
他人の裁判に巻き込まれて煩わしいことになるのではないだろうか
等という心配があるようです。
特に加害者とされた子どもたちやその親は
調査に協力しない傾向があるようです。

私は、いじめ防止審議会の調査結果報告は、
できるだけ関係者に公表するべきであり、
そうでないといじめ防止の有効打にならないと思っています。
そうすると、個人名などは非公表として、
危険のある行為類型だけを指摘する方法が
求められるのだと思います。

良い、悪いということすら不要で、
「これからこういうことは危険だからやらないように」
というトーンにしかならないことだと
考えています。

先ずは、亡くなった子どものためにも、
損害賠償よりも、
同じ悲しみを繰り返さない
ということで徹底しなければならないと思っています。

そのためには、危険類型の解明の
積み重ねがどうしても必要だと思うからです。

学校には、
関与の範囲で
必要に応じて謝罪などがなされることが
加害者とされる子どもたちの健全な成長のためにも
必要であることを理解して指導していただきたいと思います。

実際、中学生の遺族で、
最初から、加害者を裁判所に突き出したいとか
損害賠償を請求するとか
希望している人をあまり見たことがありません。

その後の調査が曖昧だったり、
事実が隠されたり
不必要な報告がなされたりすることで、
ことさら自死した子どもに責任を帰属させるから
遺族が怒るということを目の当たりにしているところです。

発想が実態と逆なのです。

だから、自分の任務でもないのに、
いじめ以外にも原因があるかもしれないとか
いじめが自死の引き金になったと断定できないとか
余計なことにこだわるわけです。

思春期うつなどという奇想天外な理由を
どのような根拠で言っているかわかりませんが、
そういうことを言い出すわけです。

詳細はわかりませんが、
りまさんの晴れやかな写真が、
「そんな思春期うつなどではない」
と雄弁に物語っているような気さえします。

青森県では過去において
女子高生の自死が
摂食障害を原因としたものである可能性があると
奇想天外な説明をしたこともありました。

もし、審議委員の任務がいじめや自死予防ではない
というなら謝罪しますが、
いじめや自死予防のための審議会ならば、
この期に及んで、他に原因が無いとは言えないから原因が特定できないとか
引き金になっていると断定できないとか言っている段階で、
委員として適格性を考えなければならなかったのではないか
と思わせるエピソードでした。

この報道に接して
もう一つ意見があります。

いじめを4件認定したと言っています。

この審議会が認定できたということは
民事訴訟にも耐えうる証明があったということなのでしょうが、
そうだとすると、当人の精神的な苦痛を
もっと考えることができたはずです。

これができない理由もある程度考えることができます。
過労死の認定でもよくあることなのですが、
一つ一つのエピソードを個別的に評価して、
一つ一つは、良くある話であり、重い話ではない
重い話が4つあっても、全体として重くならない
という論法です。
これは、はじめから因果関係を否定するための論法なのです。

それぞれ一つ一つが重くなくても
それを生身の一人の人間が受けていたら
大変重いことになるのです。

単純に言えば、
100mを20秒で走りなさい。
50mを2分で泳ぎなさい
それほど難しいことではないのですね。
しかし、
50mを泳いで、そのままプールの入り口から
100mを走りなさい。
全体で3分でやりなさい
ということです。

できる人もいるでしょうが、
大変なことだということは誰でもわかることでしょう。

いじめの場合はもっとわかりやすいかもしれません。
ヒントは、4つのいじめエピソードは
分断していないということです。

いじめの内容は報告されていませんが、
(いったい何のための報告だったのかここにも疑問があります。予防に必要の範囲で公開しなければ意味がないのではないかと思います。)

例えば、4月にクラスで取り囲まれて悪口を言われた
5月にラインで、理由のない謝罪をみんなから求められた、
7月に一人だけクラスの行事に呼ばれなかった、
9月に、靴を隠された
ということが仮にあったとしましょう。

そうだとすると、苦痛を感じるのは、
それぞれ悪口を言われたときだけとか、
ラインに書き込まれたときだけとか
呼ばれなかったことだけとか
そういうわけではないのです。

心は分断して出来事を感じることはありません。

積み重なっていくということもあるでしょうし、
孤立感を絶望感に高めるということもあるでしょう。
大事なことは、その間一貫して
自分が仲間として認められていないという
気持ちを感じ続けるということなのです。

「また、ああいうことがあったらどうしよう。」
ということを、おそらく毎日感じ続けていたでしょう。

4つのいじめがあったとしたならば
いじめが解消された心温まるエピソードでもなければ、
その期間ずうっといたたまれない気持ちで毎日を過ごしていた
ということなのです。

そうなってくると、
個別の出来事がいじめに該当しないと思っても
本人を苦しめることが出てきてしまいます。
本人が追い込まれて悪く受け止めるようにもなります。

調査の審議会があるのであれば、
せめて、
本人が何を嫌がっていたと思われるのか
何をやめてほしいと思っていたのか、
その可能性を調査して報告するべきではないでしょうか。

いじめかどうかもどうでも良いことになるはずです。
未だにいじめと認定できるのかどうかが
マスコミの関心ごとのようで、
審議会の目を曇らす一因になっているようです。

どうやったら自死を無くすかということですが、
死ななければ良いってものではないのです。

いじめを一度受けると
何でもない些細なことでも
「あの時と同じことが起きるのではないだろうか」
という怯えが出てきてしまい、
その後の人間関係にも、重大な影響が出てしまいます。

いじめを無くすためには、
死の引き金だけを無くすのではなく、
外に自死の原因が無い場合のいじめを無くすだけでなく、
人を困らせる、いたたまれなくする行為を
全部なくすことを考えなければならないと思います。

そのためには、審議会の認定を緩やかにするとともに
そういうものだから、
審議会の調査結果が裁判の証拠にはならない
性質上、証拠として使えるものではない
ということも徹底するべきです。

何よりも、今後
同じようないじめをさせないために
何が、どのように危険な行為なのか
みんなに教えてあげるという
指導に活かす調査結果にならなければならないはずです。

それは当該学校だけでなく、
社会一般に認知されて、
他人の心に配慮するという風潮を作る必要もあるはずです。

せっかくのいじめ調査という貴重な機会が
無駄にされることだけはどうしても納得できません。


どこかで、オープンな議論がなされることを
求めてやみません。

「自閉症の世界」(ブルーバックス)感想文3 自閉症スペクトラムの本当の意味は、普通の人の中にも自閉症的要素があるということかもしれない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


昨日このような記事を見ました。
「自閉症者が人類社会に「不可欠」である理由 〜実は障害ではない!」 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51688

「私とおんなじことを言っている」と驚いたのですが、
書いていらっしゃる方は、「自閉症の世界」を翻訳された方でした。
この先生の本を読んで感じたことを書いているのだから、
私は、その掌の上で踊っているのであり、
当然と言えば当然ですし、
「おんなじこと」と言うのは不遜なことでありました。

ただ、私の言っていることも
あながち見当外れではなかったという安心感をいただきました。
それとも、結論がたまたま近かっただけでしょうか。

まあ、私の場合は、専門家が言っているのではなく、
素人のたわごとだと思ってご寛容のほどをお願いします。

自閉症をもう一度おさらいすると
1 社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
2 こだわりが見られること(興味の範囲が著しく限られている。)
の2点ということになるそうです。


遺伝子的に言えば、
特定の家系に自閉症の現れる率が高いとしても、
遺伝子的には古い遺伝子であり、
一般の人たちに広く共有されているらしいというのです。

もしかすると、
いわゆる普通の人でも、
自閉症の種を持っているのかもしれません。

自閉症の人たちは、
音だとか、光や色だとか
強い拒否反応を示すことがあるようです。

ブーンという蛍光灯の音とか、
黄色の色彩やフラッシュのような光で
パニックになる等の反応を示す人がいるようです。
(緑や茶色の穏やかな色を好むことが多いらしいです。
 自閉症の人たちには、優れた音楽家や画家がいます。)

もしかすると(こればっかりなので恐縮ですが)
われわれも、
本当は、音や色彩が不快に感じているのかもしれません。
はっきりとこれが嫌だと特定できないだけかもしれない
と考えることはできないでしょうか。

実は私は、蛍光灯の音とか持続する音は嫌いですし、
フラッシュは嫌ですね。
黄色は嫌だという自覚はありませんが。

現在、ブロードウエイでは、
そのような花火やストロボを使用しないバージョンの
舞台公演をしたり、
「アナと雪の女王」も感覚に優しい形の上映を
するようになっているそうです。

おそらく、
そういう舞台や映画は、
自閉症ではない人にとっても
優しい、快いものになっているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

めんどうくさく言うと
「嫌だ」と感じる閾値と「嫌だ」と表明する閾値が
自閉症の人が低いだけなのかもしれないということです。
いわゆる普通の人は
快不快でいえば不快なのだけれど
自分でそれをはっきり自覚しないだけだかもしれないし、
自閉症の人は「嫌だ」と感じると「嫌だ」と表現してしまうという違いがあるだけかもしれないと思うのです。

不快を感じないだけで
実は生理的な侵襲を受けていて
侵襲が蓄積されて初めて自覚をする
あるいは無自覚に何らかの症状が出て
原因不明とされている
ということが無いとも限らないだろうと
思ってみたりしています。

また、そういう自閉症の人たちが嫌がる
音や光、色彩が
それでごまかしていて、本質を隠すことにも
つながっているかもしれません。

そういう意味では、自閉症の方々の感覚に
学ぶところが大きいという可能性があるように思われます。
おそらく、将来的にはそういう社会が実現する場所も
あるのではないかと想像してみたりもします。

それをブロードウエイやディズニーという
エンターテイメントの王道が実現しているということが
偶然ではないように思われるのです。

そのような物理的な感覚だけでなく、
社会の問題も同じということは考えられないでしょうか。

診断基準が変わって、自閉症と診断されている人が増えているというよりも
自閉症者そのものが増えているとしたら、
それは理由があることだと考えなければならないでしょう。

ここで問題にするべきだということは、
精神障害は、相対的な概念だということです。
先ほどの自閉症の診断基準のうち、
複数の対人関係の障害があれば自閉症であるなら、
強いこだわりがあっても
コミュニティーがそれを受け入れれば
障害にはならないということです。

逆に同じ人でも
自分を受け入れないコミュニティに入ってしまうと
障害という診断が下される可能性が出てくることになります。

常に思うのですが、
精神科の診断には、
その人の周囲が健全なコミュニティであることを前提として、
周囲に協調しなければならないという
隠れたメッセージを感じています。

変わり者の私だから思うのでしょうが、
対人関係の不具合が
弱い者に原因をしわ寄せしているように
感じることが多くあるのです。

だから、一つの可能性として、
自閉症者が増えているとすれば
それは、むしろ個体に原因を求めるのではなく、
他者に対して不寛容なコミュニティが増えている
ということではないかということを
自分たちのために点検するべきなのではないか
と思うのです。

幼稚園や小学校などにおいては粗暴性により身の安全が保たれないことは
寛容にはなれないので、
安全については最低限の確保が図られる必要はあると思います。
(自閉症の子どもが粗暴傾向にあるというわけではないようです。
 感情を抑制できないために結果として粗暴になる
 ということが正しいような実感があります。
 だから、犯罪の原因にアスペルガー障害をもってくることは
 本当に妥当性があるのか、専門家の方々に教えを乞いたいと切実に思います。)
当面は、粗暴性に対抗する物理力ということですが、
将来的には、粗暴的感情を寛解させるノウハウの獲得
ということになるのだと思います。

また、表現行為を抑制するという発想よりも、
感覚的な刺激の解放的な対処方法の確立が理想なのでしょう。
要は、「自分がそのコミュニティに受け入れられている」
という安心感をいかに獲得するかということだと思います。

自閉症の人の中には、心を許すと人懐こく
来いと言わなくても、いつでも気が付けば隣にいる
という人もいるようです。
信頼できる人の指示には、一応従っておこうという
行動傾向がある人も多いように思われます。
ある意味、納得できないけれど学習はするということなのかもしれません。
何か、パニックになったときも
その人の声を聞くことで
安心しているということもあるように思われます。

本の中でレインマンの原型になったビルという人物のエピソードも
それを示しているように思われます。

ところが、コミュニティの方に余裕がない場合
他の人と同じ行動をとらないこと自体で
イライラするのはある意味当然のことでしょう。

前々回、ちょっとだけ触れたケースですが、
弁護士どうしの会議をしていて、
その人以外の人がみんな、
会議を一つ一つ厳密にするよりも
あとは主催者に一任して早く終わりにしようとしているのに、
「どうしてそこにこだわる」
という意見を出して、
進行を止めて自説を展開する人がいました。

いつものそのようなことで、
その人が発言を求めただけでうんざりするようになりました。

ある時、こちらも開き直り、
終わらないなら徹夜でもなんでもしてやると思うようになった時、
その人の意見は、ほとんどの人とは意見を異にするが、
よく聞くと(余裕がなければこれができない)、
確かに問題の所在を的確にとらえているという評価ができる
ということに気が付いたというか、同意できるというか
理解ができるようになったのです。

そして、案外、そういう議論を抜きにことを進めていくことで
間違いや、不適切な方向への親和性が出てくる
彼の意見を大勢の意見に置き換えることはできないけれど、
彼の意見の要素をしっかり組み入れて運用しなければならないことが多い
ということを実感できるようになりました。

もちろん彼が自閉症だったということではないのですが、
要は、大勢の感覚が必ずしもあてにならない
ということの一つの体験ではありました。

おそらく、話し合うべき時間がたっぷりあれば、
彼の意見に賛成反対をするだけでなく
どのように彼の問題意識を反映させるか
という議論に発展したのだと思います。

要するに自閉症は
当該個体のコンディションによって成立するだけでなく、
当該個体を取り巻くコミュニティのコンディションによって
「協調的でない」と烙印を押されてしまう可能性がある
ということを言いたいのです。

例えば、学校もそうでしょう。
本当にそれが大切なことか
例えば組体操をやりたくない怖いということを素直に言えば、
協調性が無いということになってはいないでしょうか。

疲労の中で、さらに残業をさせられるのを拒否することで
協調性が無いとして、叱責の対象になってはいないでしょうか。

もしかしたら、皆がやる気になっているシンポジウムでも、
一人だけ、その企画は納得できないと困らせている人がいる場合、
本当にやる必要があるシンポジウムなのか
考え直すということがあっても良いのかもしれません。

また、集団ヒステリーのような状態に
コミュニティがなっていることがあるように思えます。

「21世紀の失政」ということで、
平成23年3月ころの文芸春秋で特集がありました。
その中で、保守派の論陣や自民党の年配の方々が
小選挙区制を挙げていたことに驚いた記憶があります。

小選挙区の議論が国会でなされていた時、
私は、小選挙区制は、
社会的要素を反映した代表制にするべきだという
憲法学の立場から賛成できなかったのですが、
同じ憲法を学んでいたはずの友人たちが、
もう小選挙区制は実現することになっていると言って、
議論をすることすら反対されたという経験があります。

私なんかよりも優秀な大学の方たちでした。
というか、私のネタ元の教授の講義を受けていたはずなのです。
不快とか何とかいうよりも、
とても不思議なことが起きているという印象が強かったです。

私なんかは、自分にちょっと自閉症の傾向があると思うと
どちらかという嬉しくなってしまうのですが、
そういう優秀な人たちは
おそらく自閉症とは全く縁のない人たちなのでしょう。
人間的には良い人たちで、今でも仲良くさせていただいています。

コミュニティ自体に緊張感が持続しているケースもあります。
例えば、プロ野球のチームで
連続勝利記録みたいなものがかかっているときに、
何らかの拍子で単純ミスをしてしまって
居場所がなくなるということもあるでしょう。

例えば無理な売り上げ目標を
本社から有無を言わせずに押し付けられ、
何とかそれを実現しないと
営業所長の首が飛ぶみたいな状況の中で、
子どもの授業参観なので有休をとるといったら
やはり、協調性が無いと言われるのかもしれません。

自閉症という概念は、
むしろ、いわゆる普通の人たちの
コミュニティの在り方を考える
強力な道具になる可能性という
大きな魅力を感じます。

多数の暴走を止めるきっかけにはなるように思われます。

「自閉症の世界」途中感想2 自閉症と自閉症スペクトラムの概念と普通の人たちの大雑把の力 時々SNSの弊害の理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

この記事は、ブルーバックスの「自閉症の世界」を読みながら考えていることを
忘備録的に記載しているものであって、
治療についての検討や、社会的提言をするものではありません。

私の中でなんとなく済ませていた「自閉症」の意味でしたが、
少し整理します。

自分の殻に閉じこもって引きこもる
という意味ではなくて、

社会的コミュニケーションおよび対人相互関係が複数の状況で障害されていること
こだわりが見られること
が診断基準となっているようです。

簡単に言うと、
他者との感情的つながりを結びにくいというか、
面倒くさく言うと
他者との結びつき方がわからないので、
積極的に他者と結びつこうとは思わないし、
他者からの自分の評価というものも関心がない
そういう意味で自閉というのだと思います。

これらの点について、本は、
自閉症が注目され始めてから現代まで、
時代ごとの変遷と登場人物等のレポートが詳細になされていて、
読み物としても、興味を絶やさず読むことができます。

単なる理論の説明ではなく、
人間がどうかかわるか、戦争(ナチス)の影まで出てきます。


次に自閉症スペクトラムという言葉が出てきます。
これも誤解を受ける概念でして、
障害の程度に幅がある
というわけではなく、

一つには、
自閉症の出方は千差万別であり、
その人それぞれの特徴があるということです。
そのため、
自閉症という診断がついたからと言って、、
ではどうするかという答えが一義的に出てくるわけではなさそうです。

また一つには、
いわゆる普通の人と自閉症の人との間に
線を引くということがなかなか難しく、
いわゆる普通の人の中にも
自閉症的傾向を持つ部分がある
ことがおかしくないということのようです。

また、なんとなく精神障害というくくりで語られることから
知的能力に問題があるような誤解もあるのですが、
この点も千差万別だそうです。


むしろ、知的能力の高い人も多いようです。
コンピューターの分野もそうですし、
物理化学の分野や
数学等において、
いわゆる普通の人では到底不可能な業績を上げている人たちの多くに
自閉症の診断基準を満たすのではないかという人たちがいる
ということのようです。

「レインマン」という映画では、
数的感覚や記憶力の突出した人として描かれています。
(もっとも、映画ではカジノでこの能力を使って大儲けをするのですが、
 リアルで試そうとしたときは
 「それは不正だ」と言って、能力を使うことを拒否したそうです。)

この「レインマン」が企画され上映される経過も詳細に書かれているのですが、
かなり感動を覚える部分です。

特別な能力があるのに
周囲に溶け込むことができないということは、
むしろ、特別な感覚があるから
周囲に溶け込むことができない
ということなのかもしれません。

出典を覚えていなくて恐縮なのですが、
「聴覚が優れていて、記憶力が突出している人は、
 逆に、声で人を識別できない。」
ということを読んだ記憶があります。

人間の声というのは体調や感情によって
ずいぶん変わるのだそうです。
そのため、一度聞いた声を完璧に識別して
完璧に記憶していると
「前に聞いた声と違う」
ということになってしまうのだそうです。

むしろ、ある程度おおざっぱに識別して
大ざっぱに記憶していた方が
実務的にはうまくいく
ということらしいです。

電話の音声信号なんて、
そういうおおざっぱだからこそ成り立つのではないでしょうか。

そういう風に厳密な感覚を持っている人たちにすれば、
大ざっぱに事が運んでいくことは耐えられないことでしょう。

「事が運べばよいや」
という価値観の場合は、
細かいことにこだわると、周囲が受け入れなくなるでしょう。

しかし、
「正確に、正しく」が運用よりも優先(生産性より緻密性)
という価値観の場合は、
例えば精密部品のチェック等の場合は、
貴重な戦力になるわけです。

これは上司(指導者)の性格に対応する場合も
あるいは、上司が部下に対する対応を考える場合も
参考になるようです。


また、自閉症の人の中には、
他者からの評価に価値をおかない人がいるようです。
自分のこだわりを満足させることこそがモチベーションということですね。

いわゆる普通の人は、
様々な情報を幅広く獲得してそれに対する無意識の反応をしているようです。
その無意識の脳の活動を停止させれば、
思考に集中することができ、
さらに、いい加減なことで止めることができなければ、
形而上学的とも思えてしまうような抽象的な数式や図形が
頭の中だけで組み立てられることもできるのかもしれません。

この様々な情報というのが
他者の気持ちや自分の置かれている立場
ということらしいのです。


少しずれますが、
SNSがなぜ他人に対して攻撃的になるかということを述べたことがあります。

その考察の中で、
リアル対面の会話というのが、
相手の反応だけでなく、相手の存在
相手の感情や立場など、色々なことを考えて、
実際に言葉として表明する事象や
言葉やしぐさの表現を自己規制している
ということと、

相手方も、言葉だけでなく、
その声の調子や顔の表情、
しぐさやシチュエーションを含んで、
相手方を受け止めているということを考えました。

これに対してSNSは、
相手が目の前にいないので、
こういった配慮が極端に低下するようです。

相手と協調するという志向も低下してしまうようです。

すると、相手と協調しながらことを進めていこうという意識が後退し、
自分が考えている正論をどこまでも追求しようとする
客観的に見てこだわりが生まれてしまい、
結果として相手や第三者を不愉快にさせることを
言ってしまっているということがあるようです。

攻撃しようという意識を持ちやすいというよりも
相手の気持ちの優先順位を下げる結果、
自己防衛の気持ち(領域侵犯に対する攻撃等)が強く表現される
その結果、相手が傷ついたり不愉快になる
という結果になるように思われます。

だからこういう人に対しては、
第三者が顔を見せて、相手方の顔を見て
直接話すことによって、
瞬時に社会性を取り戻して、
ひたすら謝り続ける
ということになることがありました。

匿名性の世界というのは、
「ばれないから何を書いてもいいや」
ということよりも、
「対象について想定できないため
 協調の価値観が無くなって、
 自分の『正しさ』を追及してしまう。
 その結果、相手の感情を害することを気にしなくなる」
ということなのかもしれません。

このブログも自戒しなければならないところであります。


ところで、大雑把に済ますことができないということになると、
一番困るのが、
他人の感情なのでしょう。

どうして人は怒るのか
どうして人は笑うのか、
どうして人は悲しむのか、

案外単純ではないようです。

感情的になられても
その理由がわからないことは結構あるでしょう。

それでも、普通の人たちは、
なんとなく泣いたらかわいそうに思い
怒らせたら恐縮して、
笑うと一緒に笑おうとするのではないでしょうか。

大雑把に処理するからこそ、アンテナを広く張れるのかもしれません。

そこに合理性や正義を要求することは
考えてみれば酷なことかもしれません。
他人と接するということは
厳密に考えれば
難しいことかもしれません。

厳密に考えて他人の感情がわからないため
他人が嫌なわけではないけれど、
なるべく関わりたくないということならば
分かるような気がしないでもありません。


ここで力を発揮するのが大雑把という力技なのかもしれません。

特に私のように歳を取ると
逆に、
人からどう思われようともういいや
という気持ちになるということですね。
特に異性関係なんかが最たるものでしょう。

自分がやるべきことをやって、
相手の反応を見て、
「ああこれはだめなのね」
ということを学習して、それはしない。

その上で相手から誤解されたって
あまり深く傷つかない。
必要の範囲で
職場では話し合いをして、是正を行い
家族の中では、自分の対応を変えてみる
そう、あっさりとした人間関係の構えの方が
案外うまくいくというように思えるのです。

極力、知らない人にはちょっかいかけない。

若いころは、
かなり難しいことを成し遂げようとして
できないからと言ってくよくよしていたなあ
ということなのかもしれません。

他人に対して、
どうしてっていうくらい多くを求める人たちがいますが、
(求めるのはいいけれど、できないからってとやかく言うな)
もしかして、そういう人たちは、自分の頭の中で、
こうあるべきだというこだわりが強すぎるのかもしれません。

そんなことを考えながら
分厚い本を読み進めています。

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