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【警鐘】DVで避難をしてきた女性に子どもがいる場合は、早急に子どもの主治医に確認をする必要がある事 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

子どもの命や健康を無視した行政行為が
あまりにも乱発しているので
警鐘を鳴らしたいと思いました。

ある時、夫が帰宅したら妻も子どもも
家からいなくなっているということがここ数年
さらに増加しています。

夫は、心配なので、警察に相談し捜索願を出そうとします。
ところが、警察が取り合ってくれないということが全国各地で起きています。
なんていうことでしょう。

おかしいじゃないかということで
警察になおも問い合わせると、
警察からは意外な答えが返ってきます。
「奥さんとお子さんは安全な場所にいるから
 捜索願は受理できません。」

夫は疑問に思います。
なぜ、警察は、妻と子が家を出たことを知っているのだろう。
なぜ、警察は、妻と子の居場所を知っているのだろう。

答えはこうです。
先ず、妻は、役所か警察署に相談をしています。
夫が自分のことをあれこれ口やかましく指図して
思い通りにならないと暴言を吐くし、
自分は叩かれたこともある。

妻は10年近くの間に一度か二度あった暴力
暴力と言っても怒って叩いたというよりも
興奮状態にある妻を取り押さえようとしたことを
つい最近起きたように語ります。
話は断片的である上に
つじつまが合わないこともあるようです。

それでも相談を受けた人は、
「あなたは精神的に虐待を受けている」
と迷うことなく宣言します。

なぜでしょうか。
なぜ、見てもいないことを一方の話だけで
確定してしまうのでしょう。

答えは簡単です。
マニュアルでそうしろとされているからです。
でもあまりにもおかしいではないかと普通なら思うでしょうが、
マニュアルに逆らうと出世できなくなります。
具体的には勤務評価が「C」とか「D」とかをつけられるということです。
勤務部署によっては、激しく糾弾されます。

妻子を抱えて、安定した身分にいるのに
見ず知らずの人のために惨めな思いをしたくない
おそらくそういう風に思う人が大半なのでしょう。

それでも、ぽつぽつ、おかしさに気が付き始めた部署も
最近出てきています。

ではどうやってその人たちは心の折り合いをつけているのでしょう。
そのために必要なことはDV研修です。

虐待された妻の話が断片的だったり
つじつまが合わなかったりするのは、
虐待されたために精神的に不安定になっているからだ
妻の言葉のおかしさを重視するということは
虐待された人に寄り添っていない
こういう呪文を暗記しますので、
目の前にいる説得力があってお話しする人がいても
気にしないようにできるようです。

目の前の説得力のある夫の話に対しては
どのように対応するのでしょうか。
「DVする側はみんなそういうのですよ。」
DVする側は外面が良く、話も落ち着いている
絶対話を聞いてはならない。
そういうマニュアルなのです。

そして妻に言い放ちます。
「DVは治りませんから、直ちに逃げなさい」
そうして、
「子どもを連れて家を出てDVシェルターに入りなさい」
と宣言します。
このまま家にいると身の安全が保障されないとか
2,3時間かけて説得していた事例があります。
説得したほうの公文書にしっかり残っていました。

妻がもう一度話し合いたいと言ったけれど
粘り強く説得したと得意気に報告していました。

そうして、夫が相談しようとしても
「あなたと話すことはない」
ということでシャットアウトされるわけです。
もちろんこれもマニュアルです。

さて、この場合、子どもがいる場合に大きな問題があります。
妻が、PTSDの症状の様に精神的不安定になり、
夫に対する攻撃的な言動をする場合の
少なくない割合に
子どもが障害を持っているというケースがあります。

通常であれば聞き流したり
愚痴を言って終わるような夫の言動が、
子どもの障害を責められているように聞こえる場合は、
それこそ、不安が蓄積していくような
精神不安の症状を示すことがあります。

甲状腺機能障害や婦人科系の疾患がある場合、
あるいは精神疾患を抱えている場合
その不安は収拾のつかない焦燥感を伴うことが
しばしばみられます。

そして、その障害が外からはっきりわかる場合はよいのです。
何らかの対応をしましょうということになるからです。

ところが、障害が外からわかりづらい場合、
妻は、子どもの障害を否定する場合があります。

子どもの障害について認めたくないということについては
男女差はあまりないようです。
むしろ、母親の方が治療に積極的な場合も
少なくありません。

しかし、精神的不安が昂じている場合、
子どもの障害を無かったことにしたい言動をしたケースが
実務的には見られました。
そしてそれが私の周りで増えているのです。

だから、特定のケースのことを念頭に行っているのでは
ありません。残念ながら。
特定の都道府県だけの問題ではなく、
複数の自治体の住民からの相談が寄せられています。

もう、母親(妻)の方は、長年の心労から
冷静な思考ができない状態になっている場合があり、
必要な検査等も受けさせない
病気はないんだと確信しているかのようなふるまいをします。

中には、近々手術をすることになり、
日程調整に入ろうとしたときに、
子どもを連れて逃げ出したケースもあります。

いずれのケースでも役所はマニュアル通りの対応をします。
夫が、病院の検査を受けなければならない、
手術をしなければならないと言っても、

「ははあ、これは、夫が子どもを取り返すための手段だなと
 病院に待ち伏せをしているに違いない。」
とでも思うのでしょう。
役人が夫に放つ言葉は決まっています。
「あなたと話すことは何もない。」
夫はますます焦るわけですが、
それもマニュアルに書いてある通りだなと思って終わるのでしょう。

書いていてむかむかしてきましたが
マニュアル通りに決まっています。
人間ですから、感情があるわけですから
理不尽なことをされたら怒りますし、
子どものことが心配だから焦るわけです。

役人は聞き流して、確認もせずに済ませるでしょう。
一応聞いてみて報告するからというような
親身な対応はとられないことが多いようです。

私は大変疑問なのです。

なぜ、その子どもの健康に重大な影響があるかもしれないことを
無視できるのかということです。
「母親はそんなことは言っていない」という回答は、
すべての責任を母親に負わせることです。
腰が引けた寄り添いというものは
えてしてそういうものです。

子どもが適切な治療を受けないで
取り返しのつかないことになったら
母親が言わなかったからということを言うのでしょう。

母親として否定したいという心情を理解しようとはしません。
マニュアルに書いていないからです。

事が子どもの健康に関することになれば、
きちんと裏をとる必要があると思います。
夫から、
診断名、症状
主治医と病院を聞いて、
父親と母親から子どもの健康についての
情報開示の同意書をとったうえで、
病院に確認すれば足りることです。

夫から診断書が提出されれば、
母親の同意が無くても
病院に治療の緊急性と
疾患の重大性について問い合わせるべきです。

私は、自分の事件を担当する場合でも
お金を出してくださる依頼者に対して、
貴方と子どものどちらの利益を選択しなければならない場合は
子どもの利益を優先した提案をしますと言っています。

なぜか
自分で自分のことを対処できない子どもは
大人が守らなければならないと思うからです。

しかし、役所では、
精神的DVを訴える妻を守る(隔離する)マニュアルはあっても
子どもを守るためのマニュアルはないようです。

今、適切な治療を受けられないで
役所やその関連施設に放置されている子どもたちを
何人か知っています。

訴訟をしたり、役所に抗議したりしていますが
遠方の事例はなかなか対処できないことがあります。
父親が悲観して自殺を考えてしまう事案もあります。

目を覚ましてほしいと思います。
子どもを助けてほしいと切に願います。




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【緊急】現在政府が進めている生活保護水準の切り下げに反対する。取り返しのつかないことが起きる。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

1 生活保護受給がなぜ権利なのか 憲法は人間をどのように見ているか

生活保護制度は、生活が困窮した場合に、生活費や教育費、介護費や医療費などの費用を公費で負担する制度です。
日本の国は、自立自助が原則です。つまり、労働によって収入を得て、自分や家族の生活費を自分で得て支出するということです。しかし、何らかの事情で、働けない等の生活費を得ることができなくなる場合はあります。
これを憲法25条1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定めて、権利であると宣言しています。これは、憲法の人間観を表していて興味深いものがあります。
先ず、「健康で」という言葉に着目してください。人間は、ただ、生存するだけでなく、人間としてのほこりをもって生存するものだとの考えが示されています。不衛生、不健康な環境の中で生活する人がいれば、国は救い出さなければならないという責任を負わせたわけです。もっとも、不衛生、不健康な環境にいた場合は、生命それ自体も脅かされるということもあるでしょう。
さらに、「文化的な」生活を送るのが人間だと考えていることが示されています。文化的というのは、その時代、その時代に応じたという意味もあります。文化というのは歴史的に進化するからです。鎌倉時代であれば、竪穴式住居のような家に住んでいても、文化的でありましたでしょうが、現在は、現在にふさわしい生活の程度が、「人間として生きる」という意味になるということです。
憲法は、13条で、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」として、人間は、尊重されて生きていくものだという考えを明確にしています。この「尊重」の具体的内容が、14条以下の人権のカタログだと考えることができるでしょう。憲法25条も人間として尊重されるという具体化です。
そうすると、憲法は、衛生的で健康的な環境で生活し、その時代の人としてふさわしい生活様式を送らなければならないという考えを示しているわけです。
その25条のさらなる具体化が生活保護法です。

2 なぜ、権利が必要なのか 尊重されないとどうなるか

 憲法は、人間として尊重されるためのカタログだということですが、どうして権利が保障されることが必要なのでしょうか。それは、きれいごとでは済まない切実な必要性があるからだと思います。
 人間は、攻撃力も逃げる力もない動物なので、群れを作って生き延びてきました。言葉の無い時代にも群れを作る仕組みがあったわけです。それは、群れの中にとどまりたいという意識であり、裏側から見た場合、群れから外されそうになると不安・危機意識を感じ、なんとか群れにとどまろうと行動をするという仕組みです。
 人間として尊重されない場合、仲間として扱われていない場合、群れから外されそうになっていると感じ、人間は言葉ができる前から続く不安・危機意識の感情が激しくなります。この不安や危機意識の感じ方は、生命身体に対する不安や危機意識を感じる方法で感じることは知られてきたところです。同じように血圧が上がり、脈拍が上がり、体温が上がり、血液が内臓から筋肉に向かうようになるという生理的変化、二者択一や悲観的な考えになるという脳の活動の変化が起きてしまいます。また、程度も強いようです。言葉の無い時代、この不安感、危機意識によって人間が生き延びてきたわけですから、かなり強い不安感、危機意識を感じることになります。
 権利は、人間を尊重する方法だとお話ししました。この権利が侵された状態ということになると、権利侵害をされた方は、人間として尊重されていない、社会の仲間と認められないという意識になるでしょう。強い不安、危機感を覚えてしまうことになります。自分が仲間として認められない、100年前の水準で生活していることを知られたくないし、屈辱に感じるでしょう。屈辱に感じるということこそが、自分が人間として認められていないと感じる一つの表現なのではないでしょうか。
 このような状態が続くと、そして、自分が人間として尊重される日がこないのではないかという絶望を感じると、人間は絶望を感じることを回避するシステムが作動してしまいます。一つは、感情を無くし、生きる意欲を失い、人間の中に入れなくなることや、生きるための活動である食事をしたり睡眠をとったりという活動が鈍くなります。もう一つは、感情を無くし廃人になることに失敗した人たちは、このまま死ぬまで辛い状況が続くのか死ぬかという極端な二者択一的思考に支配され、自死を考え、実行することが起きてきます。
 生活保護受給者の自殺率は、全国民の2倍になっています。自殺率とは、人口10万人当たりの自殺者数です。平成20年から22年までの生活保護受給者の自殺者数と自殺率は公表されています。
「生活保護受給者の自殺者数について 生活保護受給者の自殺者数について」厚生労働省社会・援護局保護課 http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001ifbg-att/2r9852000001ifhr.pdf

これによると、全国民と生活保護受給者の自殺率の割合は以下のとおりです。
平成20年 25.3 54.8
平成21年 25.8 62.4
平成22年 24.9 55.7
どの年も、全国民の割合の倍以上の割合で生活保護受給者が自死しています。
 生活保護の水準が下がることで、衛生状態や食事の関係、寒暖への対応という生物的な意味からも命が失われる危険は増えるかもしれません。しかし、その生活保護の水準を下げるということは生活水準が下がるわけですから、仲間として認められていないという気持ちや人間として尊重されていないという気持ちがもっと低下する危険が生じます。また、これまで維持してきたコミュニティーに参加できなくなっていく危険もあります。
 生活保護水準の切り下げは、生活保護受給者の自死の危険を増加させることになります。そればかりではなく、感情を喪失したり、生きる意欲が失われていく危険が強くあるということになります。
 これ以上の生活保護の水準の切り下げは、日本という国家の体裁を保つためにもやめるべきです。

3 生活保護世帯以外にとっての生活保護の恩恵

 世界的な格言として、「社会政策は最良の刑事政策だ」という言葉があります。社会政策とは、国民の生活を破綻させない仕組みを作るなどして、生活を安定させる政策を言います。雇用と必要な賃金を確保して、労働による収入で生活を安定させる労働政策や、賃金の中からも保険料を支払い老齢や怪我、病気という収入が途絶えることに備えた社会保険等の社会保障、それから生活保護等の公的扶助の3点がその要素となります。貧困対策だけでなく、国民の生活の向上が視野におかれていることがポイントだと思います。
 さて、このような社会政策が後退して、貧困が国中にあふれると、刑事犯罪が増えて殺伐した世の中になる。だから、社会政策を実施することが犯罪を減少させる効果的手段だということが格言の意味です。
 この格言は、社会政策が充実する前の時代の状況や、交代した時の状況から経験論的に言われているものだと思います。しかし、これには、理由があることが最近知られてきています。
 経済的困窮は、生物的困窮だけでなく、社会的困窮を意識させるものであるということは先に述べました。そのベースにある人間の状態が、不安と危機意識を感じている状態です。そうすると、自分を守ろうという意識が強くなります。何かがあると、自分が攻撃されているという意識を持ちやすくなってしまいます。不遇な環境にある人が攻撃的になることは理由があります。
 さらに、自分が人間として尊重されていないという意識は、そもそも人間が尊重されなければいけないという意識を失わしめます。そうでなければ、自分が尊重されていないことと感情的な折り合いがつかなくなるからです。人間が尊重されていないということは、人間の命に価値を見出せなくなってしまいます。そうすると、自分が他人に苦しみや悲しみを与えることに躊躇する気持ちが少なくなってしまいます。犯罪とはこういうものです。また、自分が社会から尊重されていない、社会は自分を守ってくれないという意識は、自分を守ってくれる仲間を守ろうとします。自分を守るための自然な感情です。そうなってしまうと、法律という社会を守るルールを守ろうとしなくなり、暴力団や不良仲間という仲間のルールを法律や道徳に優先するようになります。これらの根底にある者は、危機意識に根差して歪んでしまった自己防衛の意識ということになります。自分の防衛ということですから、攻撃は強く、ルールを逸脱する傾向になってゆきます。
 このような意識は、刑事犯罪だけに向かうわけではありません。離婚や自己破産などの多重債務も起こりやすくなります。
 二者択一的思考は、自分の将来の予測や他人に対する配慮という複雑な思考を停止させます。自分や家族、子どもを大切にすることを深く考えずに、今起きている障害からの解放を志向してしまい離婚に至ったり、借金やクレジットの後の返済について深く考えずにお金を使い、不意の事故等の出費のために返済ができなくなることを予測することができなくなります。自死、犯罪認知件数、離婚、自己破産申立件数等は連動しています。
 自分が経済的困窮に陥らなくても、経済的困窮に陥った人を見たり、劣悪な環境にいる人を見ることによって、人間の感情は揺れ動いてしまいます。群れを作る人間の工夫は、共鳴力、共感力というちからもあります。そもそも、仲間から外されそうになっている可動かも、仲間の感情や思考を想像しなければできないことです。また、これによって仲間を作る利益を最大限に引き延ばすということもあります。仲間が苦しんでいるけがや食中毒などは、これだけ苦しいのだから自分はその怪我や食中毒をしないようにしようとか、仲間が食料を見つけて喜んでいる時は、一緒に食料を採取しようとするモチベーションになるわけです。また、苦しんでいる仲間を放置してしまうと、仲間が死んでしまい、群れの頭数が減っていってしまい、群れが成立しなくなるので、苦しんでいる仲間の苦しみを共感し、共鳴し、助けることによって群れを維持することができたということになります。今生きている私たちは、そういう群れを作ってきた人間たちの子孫だということになります。
 だから、自分の知り合いではなくても、経済的に困窮して生活が安定しない人たちが存在するということは、群れを作るための感情である不安や危機意識が自然にわいてきてしまいます。その不安や危機意識を感じなくするためには、人間というものが尊重されなければならない存在ではないという気持ちを持つ必要が出てきます。厳密に言うと、人間は完全に自分と他人を区別して感情を持つようにはできていません。自分だけよければよいやという思考は、しばしば勘定によって支持されないことは理由があるということになります。
 刑事犯罪や自死、離婚や自己破産申請は、生活保護受給者よりも受給していない人たちによっても起こされています。
 経済的困窮者を切り捨てずに、できる限り援助するということは、人間は尊重されるべきだという意識を育てることになると私は思います。社会が悪循環を停めて好循環に向かう有力かつ効果的な方法ではないかと考えています。
 特に現在の若者は、将来のことを考えると不安になり、プレッシャーになるようです。40年以上前の小学生だった私たちは、将来は何とかなるんじゃないかとあまり深く考えることはありませんでした。ところが、現在の小学生は正社員になることが目標とさせられています。アルバイト生活になると、将来年老いてから年金などが出ないという恐怖を植え付けられている子どもも少なくないようです。意味を正確に把握していないとしても、そのために良い学校に行く、そのために勉強や部活動を頑張ることを押し付けられている子どもが少なくありません。この心理的歪み、勝利の喜びではない敗北の恐怖に基づく行為強制が、いじめや子どもの自死につながっていると私は思います。
 生活保護の水準を切り下げることで、これまで述べてきたことは拡大していくでしょう。もはや生活保護受給者だけでなく、その影響は全国民に及んでいくでしょう。
 生活保護水準の切り下げは、国の威信をかけて阻止する必要があると主張します。取り返しのつかないことになる蓋然性があると思います。

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精神と肉体の関係を考えている貴方へ 心は生命を維持するシステムだと考えた場合の自殺の本質に関する試論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



貴方は精神と肉体の関係を考えているとのこと
それを知って、貴方の成長をまぶしく感じました。
素晴らしいテーマだと思います。

このテーマの場合は正解を探し当てるのではなく、
自分が納得するまで考えることが良いと思います。
それは、貴方が人間とは何かということを考えることであり、
それは、貴方がどう人間としてどう生きていくかを考えることだと思います。

誰かから答えを教えられるということではなく、
自分の頭で考えることが大切なのでしょう。

一つの考え、こういう考えもあるのかもしれない
というアイデアをここで話させてください。

結論から言えば、
心も体も、生きるための命を守るシステムだ
という考え方です。

体が命を守るシステムであるということは
理解しやすいと思います。

脳や内臓を筋肉や骨、皮膚が物理的にも守り、
血液が栄養や酸素を運ぶ、
それらを脳などがコントロールする。

目や耳、鼻が危険を感じ、神経が脳に伝え、
脳は、体の各部分を逃げるモード、闘うモードにする。

あるいは脳は、
危険のパターンを記憶して、
危険を回避しようとする。
利益の道筋を記憶して
利益を獲得している。

実によくできたシステムです。

では、心とは何でしょう。
貴方は精神と言いましたね。

私は、心も、体を守るシステムの一つだと思うのです。
但し、ここでいう心は、心のすべてではなく
心の骨格です。

骨格ということがどういうことかというと
家で例えれば、
屋根、壁、柱が骨格中の骨格でしょう。
さらに窓や床も骨格かもしれません。

でも家はそれだけでなく、
壁紙や断熱材や、色々な付属物があるわけです。

そのような骨格以外のはなしではなく
あくまでも心の骨格の話です。

なぜ、心が命を守るシステムなのかについては
実際に心が命を守る様子を見れば明らかです。

危険が迫っていて、逃げなければならない時、
心は恐怖のモードにあります。
逃げる以外の思考を停止して、
今安全になったか、まだ危険かという
二者択一的な思考とし、確実に逃げ通すことだけを考えるから、
逃げられる確率が上がります。

危険は迫っているけれど、闘って振り払う時
心は怒りのモードにあります。
相手の心情を配慮することを停止し
相手を確実に叩きのめすために容赦のない状態にします。
相手を確実に叩きのめそうとするモードに入ることが
相手に勝つ確率を上げることになります。

この他にも、利益を獲得した時の心の状態が喜びであり、
緊張が突然不要になり、急激に緩和した状態が
笑いというモードです。
危険が迫っていないときには安らぎを感じるでしょう。

仲間の中にいる時に安らぎを感じることは
仲間もリラックスできるから、
自分が仲間から好ましく思われるでしょう。

これが、心が命を守る様子です。

貴方はきっとこう言うことでしょう。
心はそんなに単純なものではない。
ずっとずっと複雑なものだと。
危険に対する反応だけが心ではないはずだと。

ここで考えてほしいことは
人間が生きるということの意味です。
他の動物ならば、多くの場合
生物的に生きるということを考えれば
良いのだと思います。

だけど人間は生物として生きるだけでなく
仲間、家族だったり、友人だったり、同僚だったり
の中で尊重されて生きるということが
必要な動物ではないでしょうか。

例えば、貴方は、仲間の中で邪魔者にされたら
とても苦しいだろうなということは想像がつくと思います。
自分で勝手に、邪魔者とされているのではないか
と思うだけで苦しいですよね。
仲間の中で一番下の人間として扱われるとか
仲間から出て行ってほしいと思われたり
仲間から役立たずと思われたりしたら
とても苦しいでしょうし、
自分が大切に思う仲間ならなおさら耐えられないでしょう。

人間は、命や健康を維持したいという要求と同等に
仲間の中で尊重されたい、仲間として認められたい
という要求を持った生き物だと思いませんか。

チンパンジーの祖先から分かれて800万年と言われます。
武器も逃げ足もない人間は
生物的健康だけでなく対人関係的健康を守ろうとし
実際に守ることができたものの子孫だけが
群れを作ることに成功して生き残ってきたのだと思います。
それが私たちです。

だから、私たちが
対人関係的な健康を守ろうとするのは
遺伝子レベルの話なので、
そう簡単に変えることはできません。

私たちは、群れを作るシステムとして
即ち生きるシステムとして
心を持っているのです。

だから対人関係的な危険に対する反応として
生物的反応と同じ、恐怖、怒り、喜び等の
心の反応が現れると考えることはできないでしょうか。

確かに、心や精神は複雑でしょう。
そのことをむきになって否定する必要性もないと思います。
ただ、心の根本、骨組みは、
危険や利益に対する反応かもしれない
生きるための合理的な仕組みかもしれないという
考え方もあることを
頭の片隅に置いておくとよいと思います。

貴方の考えるテーマの中に、
自死は、精神と肉体の対立だというものがあるようです。
心が命を守るためのシステムならば
どうして、心で肉体を滅ぼすのか、
貴方は当然疑問に思うでしょう。

ここで補助線を引くことを許してほしい。
あの数学の図形で出てくるあれです。

それは、
人間はそれほど強くない
ということです。

強くないということは、
最後の最後まで、本当に最後まで
死ぬことをあきらめないということが
できない生物であり、
絶望を感じることができない生物だ
ということを言っています。

ここでも生物学的な危険の場合はわかりやすいと思います。
例えば銃で胸を打たれる場合、
最後の最後まで生きようと意識をはっきりさせていたら、
自分が銃弾が胸に激突して、体が壊れる様子を認識してしまいます。
もしかすると、死ぬよりもつらい時間になるかもしれません。

通常はこういう最後まで意識があるのではなく、
気絶するか、仮死状態になるようです。

最後まで意識があることで生き残る可能性が高くなるより、
気絶して無抵抗になる、自然に身を任せる方が
生き残る可能性が高くなるという指摘もあります。

これは、飢えた猛獣の前に突然投げ出された場合も
同じでしょう。

そうすると、人間は死ぬよりもつらい状態の認識を
回避するシステムがあるのかもしれません。
絶望を回避するシステムということかもしれません。

生物学的な絶望だけでなく、
対人関係的な絶望も同じことが起きているのだと思います。

自分が生きるために大切だと感じていた仲間から
仲間として扱われていないことを感じてしまい、
仲間として再び尊重されることはないという絶望が近づくと
人間はそれを感じることを回避するシステムが
作動してしまうのでしょう。

生物学的危険と対人関係の危険の違いは
生物学的危険は、結果が即時に現れるわけです。
高所から転落して死亡するとか、
猛獣に食べられて死亡するとかですね。

しかし対人関係的な危険は
実際には結果がなかなか出ません。
というか出ないことも多いです。
来る日も来る日も、危険が迫ってくる状態で
結論が先延ばしされている。
しかし回復不能であることは間違いない。

おそらく、誰も来ない絶壁にかけられた橋から落ちて、
途中の細い枝に引っかかっている状態で、
やがて枝が折れて、再び転落するだろう状態のようなものかもしれません。

ここから先は、意識ができることではないのでしょう。
無意識にストッパーが作動してしまうのだと思います。
それは心ともいえるものかもしれませんが、
その人の人格とはあまり関係の無いものだと思います。
ちょうど暑いと汗をかくことが
その人の人格とは関係の無いものと同じだと思うのです。

絶望を感じることを回避するためのシステムが作動した状態、
生きる意欲が失われたときの状態で
自死が起きるのだと思います。

そこには睡眠障害や精神障害で
脳、心が正常に作動していないという事情も
大きく影響を与えていることが多いと思います。

死ぬよりも辛い出来事を体験したことが無い人
そのような精神状態を想像できない人は
自死を語るべきではないのかもしれません。

ところで、心を鍛える、精神を鍛えるという言葉があります。
心や精神を鍛えることによって、
命を守るということなのかもしれません。
私はおかしなことだと思います。

先に行ったことがもし正しいとしたら、
心は、危険のセンサーということにもなります。
心を鍛えるということは、
センサーの感度を鈍らせることです。

対人関係的危険は、
例えば自分が仲間に迷惑をかけることでも発生しますが
心を鍛えることは
仲間に迷惑をかけても気にしないことに
つながる危険はないでしょうか。

自分だけよければ人に損させてもよいという人はたくさんいますが、
心が強いのでしょうか。

おそらく、心が弱いから自死をするという誤解があるのではないかと
思われます。
むしろ心が強い人ほど、自分の肉体や精神の限界まで
自分を追い込むことをしてしまう傾向にあります。

ここでも危険を感じるセンサーが
既に弱まっているということがわかると思います。

心は、任意にコントロールできるものではない
と私は思います。
またするべきでもないのでしょう。

それではどうするか。
どうやって自分を支えるか。
ここでもう一度、
人間とは何かということを考えていただきたい。
人間が群れを作る意味を考えていただきたいのです。

人間は、決して一人では生きていけないものです。
遺伝子にそう組み込まれてしまっているからです。

だから、心を鍛えるのではなく
自分の仲間関係を強いものにしていく
ということが一つの解決方法なのだと思うのです。

心は、環境に対する反応だとすれば、
環境の方を改善するという発想です。
心は不変要素であり、環境こそが可変要素なのではないでしょうか。

自分の人間関係、社会の人間関係を温かいもの変えていく
それは人間に無理を強いることではなく、
人間の本能を目覚めさせていくことなのだから
環境的に阻害される事情があっても
必ず前進することだと思うのです。

たしか、それを希望と名付けのは
貴方だったはずです。


私の考えは選択肢の一つ
あるいはヒントに過ぎません。
明るいヒントになれば幸いです。

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【批判】文科省の中学校政策が、いじめや自死対策に逆行していると思う理由 規範意識の考え方が浅はかだということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

インターネットを見ていたら、
文部科学省の通知に出くわしました。


児童生徒の規範意識の醸成に向けた生徒指導の充実について(通知)http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/04121502/052.htm

これは大変な問題だと思いましたら、
平成18年の通達文書のようです。
しかし、現在も文科省のホームページに掲載されていることからすると
まだ有効な通知なのでしょうし、
10年以上もこのような方針が
教育現場で通用しているということなので、
事態は深刻だと思い、
やはり私なりの意見を言わせていただきたいと思いました。

1 文科省通知の意味
2 様々な問題点
3 通知の最大の問題点は規範意識の理解不足
4 競馬の調教の方が合理的であること
5 人間の場合の群れを作る仕組み
6 少年事件から規範意識を考える
7 学校で規範意識を醸成する本当の当たり前の方法

1 文科省通知の意味

文部科学省の通知は、主として中学生の
暴力行為、いじめ、不登校などの問題を
解決しなければならないというところから出発しているようです。

その解決方法として中心になるのが、
規範意識の醸成というわけです。
文科省のいう意味は、
ゼロ・トレランス方式というアメリカの方式で
これは、アメリカの生徒の銃乱射事件や麻薬常習
という状況を是正するため
禁止事項と違反行為を予め事細かに定めて
違反行為があれば必ず処罰するという
必罰主義とでもいうような対応方法です。

禁止事項をすれば罰を与えられるという
心理的威嚇によって、
禁止事項行為を拘束する
という政策になります。

毅然とした対応
等と言われますが、
毅然とした対応をすることは当然として、
毅然として何をするのかが
問題だと思います。

毅然として子どもを処罰する
というのが文科省の通知の態度ということです。

2 様々な問題点

上記の通知は、
私は大問題だと思います。

読めばすぐに問題点が浮かんできます。
いくつか上げてみましょう。

①  暴力行為やいじめの発生を防ぐという視点がない

あれ?威嚇で防止しようとしているのではないの?
と思われるかもしれません。しかし、
 
暴力行為やいじめは起きるものだという
前提に立っていると思います。
原因を無くそうとする視点がないのです。

威嚇で問題行動を抑制することは
実はあまり効果を期待できないのです。
要は、見つからなければ良い
ということになりかねません。

人間としてやってはいけないではなく、
禁止されているからやらない
ということを教えているようなものです。

②  子どもたちが成長するという視点がない

子どもの問題行動は、
子どもの人格が未熟であることが理由であることが多いです。
問題行動が起きても、適切に働きかけて
子どもを成長させることによって解決する
これが教育ですが、
だから教育という発想はないようです。
文部科学省という役所は
教育を放棄しているといわれてもしかたがないと思います。

③  原因を探究しようという発想がない

① と同じことかもしれませんが、
子どもたちの問題行動には理由があり、
この理由を除去しようという発想がありません。

例えば昭和の年代では、
ここまで過酷な問題行動は多くなかったと思うのですが、
現代的な問題があるのではないか
という発想は感じられません。
現代社会の特有の理由があると思うべきです。

子どもたちは暴力を起こすものだ、
いじめを起こすものだという前提をおいている
そういうように思えてなりません

一言で言えば
教育という発想がありません。
子どもたちは勝手に大人になれ、
国は、それに働きかけはしない、
但し行動の拘束はする。
そんな印象を受けてしまいます。

おそらく文部科学省や学校現場は、
校内暴力などの荒れる学校や学級崩壊に
無抵抗な状態だったのだと思います。

これがかなりのトラウマになっているのでしょう。

それは理解できるとしても
また
子どもたちを取り巻く環境の変化があって
子どもたち自身の変化が起きていたとしても、
私には、情けないという気持ちが起きてしまいます。

子どもたちと向き合う能力に問題があるのではないか
ということです。
もしかすると
教員採用、教育委員会採用から始まり、
管理職の登用などの
教育行政に、人事管理上等の問題があるのではないか
教育という目的以外の考慮が幅を利かせているのではないか
という危惧を払しょくできません。

3 通知の最大の問題点は規範意識の理解不足

文科省は、規範意識の醸成の方法として
必罰主義を採用すると言っているわけです。

つまり、何か罰を受けるとか
不利益を受けるということで、
罰を受けないように、不利益を受けないように
ルールを覚えようという発想です。

これは、法律の素人の発想です。

法律や道徳を守ろうという意識を
規範意識(きはんいしき)といいますが、

罰せられないようにしようということは
規範意識とは少し違うように思います。

ルールを守ろうという意識の方が
少し規範意識に近づくと思います。

もう少し正確に言えば
ルールの存在を承認し、
存在するルールを守ろうという意識です。

さらにわかりやすく言えば、
ルールを守ることは手段であって、
本当は、
仲間との関係を大切にして
群れを維持しようという考えを持つということなのです。

そして、それこそが、
人間が自分を大切にするという意味だと思います。

どうやって、そのような
高い意識を持つようにするか
そのことについて
お話ししていきたいと思います。

4 競馬の調教の方が合理的であること

競馬という競技を例えにしてみましょう。
馬は、生まれたばかりでは人間のいうことをききません。
ゲートから出ませんし、
ゴールに向けて走る必要も
馬にはありませんから走らないでしょう。
すべて人間の事情です。

それが、どうやって、レースが成立するか
ということを考えてみましょう。

一部の人は、まだ誤解をしていて
鞭で叩くから仕方なく馬はゴールに向かって
全力疾走をさせられているという
動物虐待の結果がレースだと思っている人もいるようです。

しかし、ただ早そうな馬を連れてきて
鞭で叩いたとしても
レースにはなりません。
馬は暴れ出すでしょう。
騎手を振り落とすこともあるでしょう。

実は、馬は、
群れを作って走りたいという本能と
群れの先頭に立ちたいという本能があります。

この本能があることによって、
肉食獣から襲われても
群れ単位で行動することができるし、
群れ単位で逃げていくことができ、
結果として群れの頭数を維持してきたわけです。

この本能を利用してレースをしているのです。
レース中に騎手が落馬をしても、
最後までゴールを目指して走り続ける馬が
少なくない理由もここにあります。

本能を利用して、
あるいは行動習性を利用して
人間の望む行為に誘導して行くというのが調教です。

子どもに規範意識を持たせるという場合には、
人間という群れを作る動物の本能を活かして、
ルールを守るという喜びや
積極性を持たせるべきなのです。

そうでなくて、
恐怖や痛みの威嚇で行為を誘導するとすれば、
調教以下の働きかけということになってしまいます。
必罰主義とは、このように調教以下の
低俗な行為ということになります。

子どもを、人間を馬鹿にした行為ということです。

それでは、人間の本能、習性とは
どのようなものなのでしょうか。

5 人間の場合の群れを作る仕組み

人間の祖先がチンパンジーの祖先と別れて
800万年が経過しているといわれています。
その間、ずうっと人間は群れを作って生活していました。
言葉や文字を使うようになったのは、
ごくごく最近です。

しかし、群れを作っているということは、
群れの秩序を守って生活していたということです。
これをしてはいけないとか
こういう時にこうするべきだとか
ルールがあったはずです。

言葉もないのにどうやって、
ルールを認識し、それを守ったのでしょう。

群れを作る動物は、
結果として群れるだけでなく、
群れを維持する本能があり、
群れを弱くしない行動をする習性があったと思うのです。

例えば、私たちは小さくて弱いものを見ると
可愛いと思います。
可愛いものを大切にして守りたくなる
これが本能的行動習性の一つだと思います。

弱いものを危険にさらして命を落とさせてしまうと
弱いものから順に群れの頭数が減っていき、
結局群れ全体が滅亡してしまうので、
弱い個体を守ろうとすることは
群れを維持するためにとても有効な習性となります。

平等だったり、公平だったりという正義も
群れを維持するための本能的感情だったと思います。

さらに言えば、
自分と群れの他の構成員との区別は
あまりなかったのではないかと考えています。
群れを守るということが第一命題で、
他の構成員を押しのけて自分の利益を得る
ということは、
あまり考えなかったのではないかと思います。

100年も前の日本の農村部では
その名残があったはずです。

いつしか、それが記憶から失われて
きれいごとになってしまいました。
一つは文明開化の負の側面だと考えていますし
一つは敗戦の混乱期に原因の一端があると感じています。

とにかく、
オオカミのように牙もなく
クマのように爪もなく
馬のような脚力も
リスのような敏捷性もない人間が
800万年も子孫を残してきたのは、
ギリギリの餓えの連続の中で
必死に群れの頭数を維持しようという本能が
あったからだと思います。

現代的に表現すると
仲間を大切にしようとする本能があった
と言えるのだと思います。
それが自分を大切にする意味だった時代が
800万年近く続いたということなのだと思います。

群れの秩序を守る、群のルールを守るということは
本当は人間の遺伝子に組み込まれた本能なのです。

6 少年事件から規範意識を考える

この問題がとてもわかりやすいのは少年事件です。
仲間がひどい目にあったときに
武器をもって相手を襲撃してけがを負わす
そういう事件が少年の間ではよく起きています。

学校の規則や法律を守らないで、
仲間との関係を優先してしまう。

こういうことがどうして起きるかというと、
少年にとって、学校や国、社会は、
自分を守るものではなく、
自分を追い込むも存在、
自分を馬鹿にする存在であり、
仲間は、自分を守ったり、
自分を一人の人間として扱ってくれる存在なのです。
居心地の良い仲間とは限らないのですが、
自分の居場所が確保されている人間関係です。

だから、自分を守るため、
仲間との関係性、仲間の中のルールを守ろうとするのです。
校則や法律を守ろうとしないのです。

そうすると子どもたちに規範意識を持ってもらうとか
人間関係を大切にするということを要求する時
どうすればよいか
自然とわかると思います。

7 学校で規範意識を醸成する本当の当たり前の方法

例えば幼稚園で乱暴な子どもがいて
お友達を叩いてしまう
そういう場合に、罰を与えれば
乱暴は治るのでしょうか。

おそらく多くの幼稚園では、
普通に
お友達を大切にすること
親切にすることで
良好な人間関係が形成できることを
教えているでしょう。

園児たちは
どこかしら気恥ずかしい気持ちを持ちながら
先生の言われたとおりに友達に接して
友達から自分を迎え入れられたことを喜びながら
幼稚園生活を送ることになります。

先ず、良好な人間関係の作り方を教える必要があるでしょう。

子どもは未熟な存在です。
より安定した人間関係が形成できるように
指導していく必要があります。

他者と一緒にいることがたまらなく不安な子どもたちがいます。
この場合、当該子どもだけでなく、
周囲の子どもたちも指導をしていくことが有効です。
また、過剰な人間関係に期待をしている場合
修正をしていくことも有効でしょう。

励まして、自信を持たせることが必要な場合も多いでしょう。

他人の弱さを承認する、
他人の欠点を責めない
他人の不十分なところを補う
そんな人間関係を作ることを教えることが必要です。

これが人権教育の根幹です。
また、職場で過労死しない基礎的な人間関係を
形成する力となり、
将来的に自分を守る手段、訓練にもなります。

子どもたちはいろいろなものから追い込まれています。
親だったり、塾だったり、学校だったり
友達だったり、社会だったり、
こうでなくてはならない、
こうでなければ負け組になるということで
自分らしく生きることを否定されています。

貴方は悪いわけではなく、
行動を修正していけば
もっと快適な生活が送れる
そういうことを教えていくのが教育ではないでしょうか。

必罰主義は
未熟が悪だということになります。
ありのままでいることが悪だということになります。
励ますのではなく、徹底的に否定することになりかねません。

弱い者が悪だ
悪にならないように必死に努力して
ひと時も気を抜かないでいなければならない
そう言われ続けているのが現代の子どもたちのような
そんな気がして仕方がありません。

現在のいじめや自死は
こうした世の中の必罰主義が作り出している
と私は思います。

その上学校でまで
子どもたちの失敗を悪と決めつけ
失敗したものは生まれつき失敗すると言って処罰をする
さらにストレスをかけていくという
悪徳労務管理で子どもたちの余裕を搾り取るものです。

学校の状況を改善する方法と
全くもって逆行していると思います。

もっともっと批判を大きくするべきだと思いました。

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あがり症の方、気持ちがゆっくりできない方へ マインドフルネス的な呼吸法、20分で方法も理論も分かり、一生忘れないで使える方法 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 具体的な技術
 ⅰ)筋肉の緊張の緩和
   私たちの体の筋肉は、結構無駄に緊張しています。できるだけ、無駄な緊張をとることから始めましょう。と言っても、さあ、緊張を緩和させなさいと言われても、できません。逆に緊張させるところから始める方が簡単です。顔の筋肉を緊張させることから始めましょう。
  ① 顔の筋肉を眉間に寄せる感覚で
    顔全体を動かしてみましょう。
    眉間にしわを寄せ、
    唇をすぼめて心もち上にあげ、
    頬の筋肉も寄せる感じで、
    できるだけ力を入れましょう。
  ② 二秒力を入れ続けましょう。
  ③ 力を抜きます。
    筋肉が戻るような感覚を感じることでしょう。
    これが脱力の感覚です。
  ④ まだ、脱力しきれていない筋肉を感じたら
    脱力をしてゆきましょう。
    先ほど脱力した時の感覚を続けるような感じです。
    額とか、目の周りとかさらに緩めることができませんか。
    口やあごの筋肉も緩めることができそうです。
  ⑤ 徐々にのどの筋肉、型の筋肉、背中の筋肉等
    どんどん緩めていきましょう。
  申し遅れましたが、
くれぐれも転んでけがなどしないように、
安全な場所で行ってください。
⑥ いろいろな音が聞こえてきたリ、
  かゆかったり、軽い痛みを感じるかもしれません。
  痛いとかかゆいとか我慢できない場合は対処してください。
  また初めから始めればよいです。
  あとは、ただ、ただ、感じてください。
  匂いもするかもしれませんが、やはり十分感じてください。
  感じる以上の反応をしない
  ということが大切なことです。
  感じる以上頭では考えないということが大切なことです。
 
 ⅱ)呼吸法
   この時の姿勢は、座禅が最も合理的のようです。
   但し、座禅を組むと痛い場合はやめてください。
   あぐらでもよいですが、片方の足をもう片方の足の
   太ももの上に乗せても効果的です。
   とっさの場合は、どんな姿勢でも良いです。

  ① 静かに息を吸い、ゆっくり吐きましょう。
  ② そうして再び息を吸います。
    鼻から息を吸うことを意識しましょう。
    鼻の粘膜で、空気が鼻から入っていることが確認できますか。
    鼻が詰まっているときは口から息を吸いますが、
    口の中の粘膜で、空気が入って動いていることを確認しましょう。
腹や胸が膨らんでいることを感じてください。
  ③ ゆっくり息を吐きだしましょう。
    腹や胸がしぼんでいくことを感じましょう。
    鼻や口から息が出て行くことを感じましょう。
   空気の移動を感じるわけですが、
   同時に自分の体を感じることができています。
   やはり、ただ感じてください。
頭では何も考えないようにしましょう。

実際に覚えるのは以上です。
できるだけ他人のいない部屋等で行うことが良いのですが、
呼吸法などは、人ごみの中でもできるリラックス法です。
誰にも気づかれないようにすることができます。

2 理論
 ⅰ)なぜ緊張するのか
   眠っているときはともかく、起きているときは、
   人間は緊張しているようです。
   緊張とは、危険に気が付いて、
   危険が現実化した時に備えて
   いつでもよけたり、逃げたりできるように
   準備するということです。
   人間に限らず動物全般は、
   眠りから覚めると多少は緊張が始まるようです。

   危険への対応とは
   筋肉を動かすことです。
   筋肉を緊張させていれば、
   素早く、力強く、筋肉を使って
   よけたり、逃げたりしやすくなります。

   人間がチンパンジーの祖先から分かれて800万年と言われますが、
   その間ずうっとそうやって危険に備えてきたわけです。
   そうする仕組みが体に合った者だけが
現代に遺伝子を残してきたのでしょう。

   しかし、現代社会では、
   日常的に緊張する必要がありません。
   虎やオオカミが襲ってくることも少なく、
   安全に守られているからです。

   また、自動車事故や戦争などは、
   身構えていても防ぐことができませんから、
   やはりあまり筋肉を緊張させる必要がありませんが、
   遺伝子に組み込まれた準備的緊張が
   どうしても起きてしまうのでしょう。

   もう一つ重大な事情があります。
   
   それは、人間が群れを作る動物であることから来る
   群れの中での立場が悪くなる場合にも
   危険を感じてしまい、
   筋肉が緊張してしまう性質があるということです。

   例えば、試験に失敗するかもしれないとか、
   人前に出て発表しなければならないとか、
   あるいは、
   上司から叱られるとか、
   自分の悪口を陰で言われていることに気が付いた時とか、
   
   そういう場合に、カーとなったり、ドキドキしたりしますが、
   同時に手を握り締めていたり、
   顔がこわばっていたりとか、
   緊張していることがあると思います。

   人間の体は、そんなに都合良くできていません。
   身体的危険の感じ方とは別に
   群れの(対人関係的)危険の感じる方法を
   自然は用意していませんでした。
   感じた結果は同じ反応になってしまうのです。

   仕事上の不安や、家族の人間関係の不安、
   学校での友達や先生との関係も
   いつの間にか筋肉が緊張しているのは、
   このような理由があるからでした。

   この緊張は、身体的な危険の場合は逃げるために合理的な反応でした。
   しかし、対人関係上の危険については、
   有効性はありません。
   かえって、緊張によって失敗を招く場合があるなど、
   無駄なことが多い反応ということになります。

   いずれにしても
   群れを作る動物である人間は、
   緊張の種は尽きません。
   知らず知らずのうちに緊張が当たり前になってしまっているようです。
 
ⅱ)存在しない危険・過大視してしまう危険
  先回りして危険を感じようとする

   緊張が続くと悪いことが起きます。
   身体生命の危険ですとわかりやすいですし、
   悪いことが起きるとも言えないのです。
   翌犬に追いかけられた場合のことを例に挙げられます。
   
   先ず、頭の中の発想として
安全な場所に行くことが最優先になります。
   当然と言えば当然ですね。

   そうして、先々のことや複雑なことは考えられなくなります。
   安全な場所に行く以外のことは考えない方が
   ひたすら逃げることに専念できますからね。

   また二者択一的思考になります。
   自分は安全なところにたどり着いたか、まだ危険か
   という判断だけが頭の中で優先されます。

   さらには、まだ危ないのではないかと
   そういう風に慎重になる傾向が生まれます。
   言い方によっては、安全策を第一にすると言えますが、
   悪く言えば、まだ危ないのではないかという
   悲観的な考えが支配的になります。

   怖いと思うと
   実際にはそれほど危険なことでもないのに、
   どんどん危険だと思い、怖くなります。

   ゴキブリの這うような音がしただけで
   実際はいないゴキブリに脅えたりします。
   また、ゴキブリがそれほど害がないのですが、
   ゴキブリが病原菌の塊で、
   身の破滅だというような恐怖を感じる人もいるでしょう。

   しかし、ゴキブリを捕獲したり殺したりすると
   恐怖感がだいぶ軽減されるようです。

   危険を感じると、
   実際には存在しない危険を感じてしまうようになったり、
   実際にはそれほど大きくないのに
   大きな危険があるように感じてしまうようになったりするようです。

   これも安全優先の思考パターンから来るものだと思います。
   生き残るためのメカニズムなのでしょう。

   これは、身体生命の危険だけでなく、
   対人関係上の危険でも同じなようです。
   対人関係上の危険では、
   悪いことが起きてしまいます。

   危険を感じて、それが継続すると、
   どんどん危険を感じ易い状態になっていく
   ということがありそうです。

   そうして、ありもしない危険を思いついて
   益々緊張を強めていきます。
   先回り危険予測みたいなものに最終的には陥り、
   何をやってもうまくいくはずがないと
   強く思いこんでしまいます。

   危険スパイラルみたいなものです。
  
   もうこうなると、こじつけのような不安がどんどん生まれます。
   自分でも気が付かないうちにネガティブな感情になっていきます。
   始末に負えないのは、
   具体的な危険が想定できないということです。

   具体的な危険、つまり、危険の内容を言葉でいえる危険ではない。
   漠然とした危険ということになると思います。
   特に、身体生命の危険ではなく
   対人関係的危険の特徴です。

   人間の中にいると何となく不安になる。
   不安を解消するために、
   人間のいるところに行かない
   逆に攻撃されないように、強がって
   攻撃したらし返すぞというオーラを出す、
   何かに夢中になりすぎてしまう、
   お酒など、薬物に逃げ込んでしまう。
   人を信じられなくなってしまう。

   いろいろな不具合が
   知らないうちに起きてしまう。
 
   危険・不安スパイラルを
どこかで一度切ってしまう必要が出てきます。

 ⅲ)無駄な危険を感じなくする方法 体を感じる方法

   無駄な危険を感じると
   例えば作業においては、
   ケアレスミスが増えていきますし、
   二者択一的な思考が、第三の方法という発想を妨害します。
   抽象的な、美しさとか、友情とか、愛情とか
   そういうことを感じることができなくなっていきます。
   先ほどの不安解消行動が
   社会病理につながることもあります。

   現代のストレス社会(緊張過剰社会)こそ、
   リラックスの方法が求められていると思います。

   危険を感じなくする方法、
   しかも本当の危険に対処できる方法が必要です。

   向精神薬による危険を感じにくくする方法は、
   他の色々な感情もなくしていくので
   副作用のない方法がほしいという要求は
   現代的な要求(ニーズ)なのでしょう。

   その方法が筋肉の緩和と呼吸法なのです。

   これは、人間が、
   身体的な危険と
   対人関係的危険という
   二種類の危険を感じるけれど
   感じ方が一緒だということを
   逆に利用するということです。

   体に危険はないということを自覚することによって、
   体の危険に対処するための
   筋肉の緊張をとくということです。
   これは同時に血圧を下げ、脈拍を減少させるなどの
   効果も期待できます。

   ではどうやって、
   体に危険が無いということを感じるのでしょう。

   実は、これも体が危険を感じる仕組みを
   逆手に取る方法なのです。
   
   危険の感じ方は以下のとおりです。
   ①人間が危険を感じるのは理屈ではない。
   ②危険は無意識に感じている。
   ③視覚、聴覚、味覚、嗅覚、皮膚感覚のセンサーが
   何かをとらえると脳が勝手に危険だと判断する。
   その結果、色々な緊張が脳の指令によって起きるわけです、

   そうだとすると、
   五感で、安全だと感じた場合は、
   脳が勝手に危険信号を停止させるということを期待しています。

   一番先回り危険予測をしないセンサーが
   皮膚感覚だということになります。
   のんびり皮膚感覚を感じていれば、
   脳は危険が迫っていないと勝手に判断するわけです。

   あとは視覚、聴覚、嗅覚等で何かを感じていても
   ただ、その通りを受け止めて
   先回り危険予測をしなければ、
   どんどん落ち着いて行く
   というこういう理屈です。

   だから、本来、呼吸法さえしっかりできれば、
   安心感を獲得できることが期待できます。
   少なくとも焦りはだいぶ軽減されることになります。

   但し、既に、危険スパイラルの中に
   現代人は、多かれ少なかれ巻き込まれていますから、
   呼吸法を始める前に
   強制リセットをする必要も出てきます。
   このために、筋肉の緊張をとる方法を
   先に行うことを今回の説明では行いました。

   理屈は同じですが、
   筋肉の大きな動きの方が
   皮膚感覚を感じ易くしやすいと思いました。

   これは、本来は、
   歌唱方法です。
   のどの緊張をとることによって
   声を出しやすくするための方法です。

   同じようなことが、
   自律神経訓練法等で紹介されることもありますが、
   結局交感神経を鎮めて
   副交感神経を高め、
   体のメンテナンスを体がしやすくするということだと思います。

   緊張を解くということは難しいので、
   あえて緊張を強めてみて、
   自然に緊張が緩和しますから、
   その動きをさらに進めるという方法で
   筋肉の緊張を緩めていくという方法論です。

3 さらなる背景、人間観
   
  人間は、意識をもって、道具や言葉を使い、
  他の動物ができないいろいろなことを成し遂げ
  現在の繁栄を築きました。

  ところが、この意識が独り歩きをするようになり、
  人間本来の力を封じ込めてしまう
  という悪さをするようになったようです。

  本来自然治癒力を助けるための薬などの方策が、
  逆に自然治癒力を妨害するような
  あるいは新たな問題を引き起こすような事態を招いています。

  意識や不安感もこの自然治癒力の一つではあるのですが、
  過剰に不安や危険意識をもってしまうということは
  人間にはよくあることです。
  身体生命においても、
  捻挫などをして痛みを感じることによって
  安静にすることによって
自然治癒力で回復させるという仕組みがありますが、
  よくあることとして、
  この痛みを感じさせる反応が強くなりすぎて
  逆に症状の回復を阻害することがあります。
  これを是正するために湿布などが使われるわけです。

  危険意識、不安が過剰に起こるということは
  精密機械ではない生き物として人間の宿命です。
  このような原理を把握して、
  過剰な反応を抑えるということが、
  筋肉緊張であり呼吸法です。

  もう一つ、人間の自我意識が強すぎると
  うまくゆかなくなることもあります。
  先回り危険予測が起きやすくなるようです。

  もともと、人間というのは単体の生命ではありません。
  いろいろな細菌がいなければ生きていけないばかりではなく、
  細胞一つ一つが独立の生命体と考えることもできます。
  それらが遺伝子のデザインによって、
  ある程度適正に働くことによって、
  本来自然にうまくゆくようです。
  
  意識は、このような生命のユニットの
  大雑把なかじ取りをすればよいのです。
  寒いので暖かくしようとか、
  おなかがすいたので何か食料を探そうとか、
  緻密なことは細胞や細菌に任せる。

  自分というものが、
  それほど絶対的なものではないけれど、
  多くの命の運命を握っている大雑把な司令塔
  というような感覚になることによって、
  本当に必要なもの、必要なことと
  本当はどうでも良いことを見極める
  という姿勢があるということを
  頭の片隅におかれると
  結構楽になるかもしれません。

4 無駄話
  最近マインドフルネスがブームのようです。
  私は、マインドフルネスという概念は、
  認知行動療法の一つの弁証法的行動療法からくる
  理論だと思っていましたが、
  必ずしもそれに限られないようです。

  私の呼吸法は、マインドフルネスに
  大変よく似ていて驚いているのですが、
  実際の教科書は、
  バベット・ロスチャイルドという人の
「PTSDとトラウマの心理療法
  心身統合アプローチの理論と実践」
 (創元社)です。
  自分の体を感じることをアンカーとする
  拠りどころとするというようなものでしょうか
  という理論を応用したものです。

  この人も私もそうなのですが、
  アントニオ・ダマシオという脳科学者の
  ソマティックマーカー理論
  がもとになっています。

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自殺サイトの何が問題か、その危険性とそもそもの根本的な問題。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自殺サイトには様々な危険性があります。
どうして危険なのかその理由についてお話ししたいと思います。

先ず、色々な困難な問題や病気があるからと言って、
直ちに自死につながるということではありません。
なぜならば、死ぬことは誰しも怖いからです。

自死に至る前段階として、
様々な事情から生きる意欲を失い始める時期があるようです。
それに至る一つのパターンをごく大雑把に言うと
自分が人間として認められていないと感じることによって
生きる意欲を失うというパターンがあります。
パワハラやいじめによる自死や
貧困や人間関係の不良による自死がこのパターンのようです。

人間として認められないとは、
仲間として扱われていないということのようです。

それでもいつか自分も仲間として認められたいと思うのですが、
それが不可能だと実感していくと
徐々に生きる意欲を失っていくという現象が起きるようです。

但し、本人の気持ちはそのように整理されてはいません。
漠然とした不安や出口のない息苦しさで、
心休まる暇もなく、大変苦しい時間が連続しています。

具体的な理由もなく、精神疾患等によって
漠然とした苦しさが蔓延していたり、
具体的な理由から精神疾患に陥る、あるいは重症になっていく
という悪循環も起きていきます。

この時期、その人たちが求めているのは、
救いです。
再び仲間として尊重されるという喜びです。
生きようとしているのです。

しかし、その手段が無いと感じるわけです。

そうすると、
この苦しみを感じ続けていくことの
その苦しみが強くなっていきます。

その時、間違った逃げ道を与えると
のどが乾ききった旅人が水を飲むように
その道に突き進んでいくということが起きてしまいます。

自死者の直前の状態はこういう状態です。
この苦しみから逃れたいということですね。
救済を渇望しているとも言えるでしょう。

その時に「自殺」というアイデアを注入するとどうなるでしょう。
「死んでしまえばこの苦しみはなくなる」
という考えが浮かんできてしまうのです。
そうすると、少し暖かい、ほっとした気持ちになるようです。
明るい兆しと受け止めてしまいます。

追いつめられた人は二者択一的志向になりますから
このまま苦しみ続けるのか、死ぬか
というテーマが設定されてしまいます。

要するに死ぬという結論しか出てこない
テーマ設定です。
あとは、意識ではなく
生き物としての感覚が
死を猶予しているだけになってしまいます。

自殺サイトの第1の危険性は、
救済を渇望している人に
自死が救済になるという気持ちを
作ってしまうところにあります。

第2の危険性は、
死ぬことの抵抗がなくなることです。
人が、それほど難しいことなく
物理的に死に至る方法を身近にすることは、
人間が大切にされるものではないという感覚を作っていきます。

人間は、自分も含めて
人というものが大切な存在で、
尊重されるべきだという
ある意味神秘性を感じて生きているようです。

悲しんだり苦しんだりしたらかわいそうだから
何とか助けてあげたいという気持ちが
自分も生きていくという気持ちと重なるわけです。

ところが、人間が虐げられたり、
命を失う目にあうことについて
当たり前のように体験したり、目撃したりしていくうちに

人間という生物は
ただ、化学反応で成り立っているものだという
感覚が強くなってしまいます。

命があってもなくても
それほど意味があることではないという感覚になっていくと、
死ぬことが怖いという感覚が
薄れていってしまうようです。

また、自分だけでなく
外の人も平気で死んでいくという考えは、
自分が死ぬことに抵抗もなくなっていきます。

自殺サイトなど、自死がありふれたものになっていくことは
死への抵抗が失われていくという意味で
大変危険なことです。

第3に、手段を示すことの危険性があります。
このまま苦しみ続けるか自死するか
というテーマ設定から、
このまま苦しみ続けるか、あの方法で自死するか
という具体性を獲得してしまうと、
結局その方法から逃れることができなくなっていきます。

その方法が、自分を苦しみから救い出す方法として、
明るい、どこか暖かいような幻想をもって行くようです。

だんだんとその方法をとらないことが
苦しくなっていくようです。
実行することについて、抵抗できなくなっていくようです。

自殺サイトの危険性を整理すると、
追いつめられた人に対して
引き金を引かせる危険が第1だろうと思います。

第2が、人間を大切にすることができなくなる
という危険でしょう。

だから、自殺サイトがあることが
自殺の増加につながるということは間違いありません。

しかし、ここで考えていただきたいことは、
自殺サイト云々の話は対症療法の側面があるということです。

根本的に、追いつめられていなければ、
自殺サイトを見ても嫌悪感しか生まれないでしょう。

そこまで人を追いつめることをやめることが
根本治療として考えられなければならないことです。

仲間として尊重されていないと
感じる仕打ちをやめなければなりません。

何が、仲間として尊重されていない事情なのかを
明らかにしないと、
なかなか自分の行為で他人が傷ついているとは
考えることは難しいことは確かです。

それがこのブログの大きな目的ですが、

一つの方法として
自死を思い立ったり
自死を遂げられなかった人から
多く学ぶことをすることが急務だと思います。

あまりに統計的な調査が多すぎて、
おそらく電話などで調査しているのでしょうけれど
人間が見えてこない研究が多いように思われるところであります。

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座間9遺体事件の情報から、子どもたちの心を守るための対人関係学からの提案とお願い [自死(自殺)・不明死、葛藤]


今こそ、家族をはじめとする仲間に意識的に優しくしよう

1 子どもたちと私たち一般の方に向けて
2 報道機関に向けて
3 警察、検察、弁護士等刑事手続きご担当者に向けて

連日陰惨な情報が垂れ流しになっています。
座間の9遺体事件の衝撃のために、
アメリカで起きたテロや
少し前の高速道路上の事件やタイヤで親子がなくなった事件の
衝撃が薄れてしまうほどです。
この変化は情報の受け手に過ぎない私たちの
心にとっても極めて危険なことが起きていることを示しています。

どうして、自分と関係の無い人の出来事にも
嫌な気持ちになるのでしょう。
対人関係学的には理由のあることだと考えています。

少し説明すると
先ず、人間は、動物として、
危険が迫ってくることを五感で感じたら、
危ないと思って、避けたり、逃げたりします。
それだけでなく、
人間は、群れを作る動物として、
仲間が被害を受けたら、
危ないと思って、被害を受けないように工夫をします。

この時に人間の心の動きは、
被害を受けている仲間の苦しさや悲しさ、痛みを感じ、
(共鳴する、自分のこととして受け止めるわけです。)
危険が起きているという危機感を抱いて、
同じ被害にあわないようにしようと行動をするという仕組みです。

危機感は、危険回避のためのシステムです。
共鳴、共感は無意識に起きてしまう現象ですから
止めることができません。
人間の危険を回避する遺伝子に組み込まれた仕組みということになります。

だから、陰惨な事件を見ると、
無意識に、被害者や場合によっては加害者にも共感し、
とてつもなく嫌な気持ちになるわけです。

ところが、
そのむごさの程度が強すぎると、
共鳴、共感を心が持てあますことになります。
特に危険を回避する方法がない時には心があふれてしまいます。

先ず、拒否反応を示します。
知りたくない、見たくないという感じです。

次に、自分は同じ危険に会うことはないということを
何とか自分自身に思いこませて合理化したくなります。
その時の反応は、加害者が特殊な人間であるから、
加害者と同類の人間に自分は出会わないだろうと
思いたくなるものです。
加害者に対して感情的に反発をします。

さらには、被害者にも落ち度があるのではないか
ということを探し出します。
被害者が特殊な人間だから被害に遭った
自分は特殊な人間ではないから大丈夫ということです。
被害者に対して攻撃をする心理の一つの原因だと思います。

これらは、自分が同じ危険に会わないはずだと思い込みたいという
安心感を求めての無意識の反応であり、
生きるための仕組みです。

しかし、このような拒否反応や合理化で対処しきれないと
理由もなく、不安や恐怖が襲ってくることになります。
ここまでは、それでも、生きるための工夫ですから
まだ健全な要素が残ります。

そうでない場合としては、
心を慣らしてしまうという危険が
一番心配されるべきことだと思います。
つまり、
人間はそれほど大切にされるべき存在ではない
だから、
どんな酷いことがあっても、
それほど悪いことでも危険なことでもない
という感覚を獲得してしまうことです。

他人も、自分さえも、
無意識に存在価値を肯定できなくなっていきます。

他者を大事にしない、自分を大事にしないということから
犯罪が起きる環境、自死が起きる環境、
その他の社会病理が起きる環境が
熟成していってしまうと考えています。

直ちに模倣犯が起きるわけではありませんが、
このように人間を大事にしないということは
対人関係上の不具合である社会病理が起きやすくなる要因だと
考えています。

このような退廃や人格の荒廃から子どもたちや
自分たちを守るためにどうしたらよいか。
このことについて、提案します。

1 子どもたちと私たち一般の方に向けて

先ず、できる限り、事件報道を見ない、見せないこと
どうしても最近の報道は、事実の衝撃的な部分を
クローズアップして表現しようとする傾向があります。
とても危険な状態だと思います。
一つ一つが、受け手の心を傷つけているのに
注目を集めるために、ことさら刺激的な表現をしています。
いっそのこと、ニュースを見ないようにするということも
これ以上の攻撃を受けないために
緊急避難として必要かもしれません。

大人は嫌な気持ちがしますが、
子どもは感性が確立していなくて、
こういうことを含めて常識を形成してしまいますので、
特に注意が必要です。

次に、ニュースを見ないことにも限界がありますし、
起きた事実を否定してももはや意味がないでしょう。

事件報道による心の被害を0にするという発想から、
事件報道があっても、傷つかない心を作る
という発想に切り替えることも有効です。

この時、単純に被害を0にするとなると、
感じなくすることしか結局出てこず、
結局人格の荒廃が起きてしまうことは、
先ほど述べた通りです。
「メンタルを鍛える」ということを安直に考えないでください。

あくまでも0の先のプラスを目指さなければなりません。

これは簡単な理屈です。例えば、
何か熱いものに触って指をやけどした場合、
指も熱くなっています。
ここで0を目指すということは
36度のぬるま湯を指にあてることです。
36度が元々の体温だからです。

0の先のプラスを目指すということは、
0度近い冷水をやけどした指にあてることです。
むしろ冷やすことで、
やけどの治療をするということになります。

では、実際にはどうしたらよいか。

人間性を回復させる行為を意識的にするということです。
群れの中にいる安心感を獲得してもらうということです。
例えば、
誰かから、失敗を許される、不足をカバーしてもらう、
多少のことがあっても、仲間として尊重されている
という実感を持ってもらうことです。
人間は群れを作る動物ですから、
仲間の中で尊重されている自分が大事にされていると感じると
勝手に、安心感を獲得することができます。

具体的には、
だから、子どもたちのやらなければいけないこと
勉強だったり、片付けだったり、
少しだけ、報道が続いている間だけでも
厳しさを緩めてあげることを提案します。

また、良いところを言葉にして褒めるとか
ありがとう等という言葉を意識的に使い、
仲間の中で役に立っている存在である自分
という意識を持ってもらいましょう。

これは子どもに限らず
大人の間でも有効です。

また、仲間をケアするための行動は、
自分にとっても仲間の中で役割を果たしているという意識を持てますので、
自分にとっても人間性の荒廃に対抗する活動だということになります。

座間の報道で動揺をしているか、していないかにかかわらず、
有効な活動であると思います。
動揺が見えてからでは遅いと思います。

2 報道機関に向けて

あまり必要のない報道は行うべきではないでしょう。
衝撃度を競い合うことでの評価は今回ばかりはやめていただきたい。
人体損傷の内容や具体的な手段などは
いちいち報道することではないと思います。

今、国民の潜在的ニーズは
人間が信じられるということ、人間同士の協力がありがたいということ
そういう人間性を回復したいということにありますので、
そのようなニュースや番組を意識的に制作していただきたいと思います。

3 警察、検察、弁護士等刑事手続きご担当者に向けて

私は、犯罪は、行為者の持って生まれた条件から起きるのではなく、
行為者が置かれた環境が大きな要因であると感じています。
今回の事件が起きる背景というものが必ずあると思います。
どうか、その部分を掘り下げていただきたいと思います。

単に加害者に対する制裁ということばかりを考えていると
この犯罪に至る仕組みの分析が弱くなります。

刑事手続きの担当者とはいえ人間です。
おそらく、その背景を捜査していくうちに
今回の犯罪に準じた陰惨な事実に出くわすと思われます。
かなりの心理的負担となるでしょう。

しかし、その背景事情こそ、現実に起きていることだし、
今回の犯人以外の人も
その背景事情を体験しているかもしれません。
今回の犯罪予備軍がいるかもしれないことになります。

その背景事情をなくすことこそが
犯罪抑止の特効薬であると思います。
そのような観点から
事件を掘り下げていただきたく
お願い申し上げる次第です。

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How to love our enemies 汝の敵の愛し方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



前回の記事では、
敵とは、
自分の仲間の中における自分の立場を危うくする存在
と定義しました。

愛そうとするだけで、
交感神経のある程度の低下を期待できるので、
それだけでも役に立つ思考技術だとも言いました。

しかし、敵を愛するということは簡単なことではありません。

もう一つ、愛する意味について考える必要がありそうです。

日常的に愛するという言葉は、
「気が付いていたらいつの間にか好きになっていた」
というような自発的な感情として語られると思います。

しかし、敵は、
自分の人間関係を危うくする存在ですから、
けがをさせられたり、命を脅かされることと同じで、
生き物として、
好ましい感情が自然にわいてくるということはありえません。
生き物の特徴である
生きようとする意欲を持つことは、
生きるための障害を取り除こうとすることこそ自然な感情です。

その障害を好ましいと思うことは、
むしろ不道徳なことだと思います。

おそらく、キリストの説く愛、アガペーは、
そのような自然な自発的感情ではなく、
能動的な行為であると思います。
愛とは、努力を伴う思考作業だと思います。

最低限の条件として、
相手の存在を否定しないことになるのではないでしょうか。

愛とは、相手が人間として存在することを
承認することが出発点だと思います。

ここで、大人の思考、合理的思考として
行わなければならないことがあります。

敵だと思う相手は、
自分と独立して存在するのだということです。

相手から嫌な思いをさせられると、
ついつい、自分と相手の関係性だけで
相手が存在するように考えてしまいます。
相手が自分に嫌な思いをさせる理由を
自分の存在や自分と相手の関係性に求めてしまうのです。

敵である相手が自分から独立して存在するという考えは、
相手の自分に対する敵対行為は、
先ず、相手自身の状態の反映かもしれない
と考えることができます。

何か、別に理由があるのではないか
と考えることを提案します。

特に、相手の自分に対する妨害行動が
怒りや憎しみを伴っている場合は、
相手が何らかの不安を抱いている場合です。

先ず、自分の存在を脅かす出来事を感じた場合、
人間に限らず多くの動物は、
不安を感じます。

その次に、不安の解消可能性の主観的判断に応じて、
怒り、
憎悪、
恐怖、
絶望

不安解消方法を実行できる場合、
怒りを感じ、不安の原因を攻撃することによって
不安を解消しようとします。

直ちに不安の原因を除去できなくても
いずれ攻撃によって不安を解消できるかもしれない
と思うと憎悪を感じます。

自分の力では不安を解消できない、
不安から逃げなければならない場合は
恐怖を感じます。

逃げることもできない場合は
絶望を感じるほかありません。

怒りの特徴の一つが、
根本的な不安に怒りが向かわないということがあります。
怒りの根本的原因は、
国家だったり、社会だったり、会社だったり制度だったり、
とても太刀打ちできないことが多いからです。

大雑把に言って、
怒りの80%以上は八つ当たりではないかと感じています。

例えば、あなたが道を歩いていて肩がぶつかり、
相手からにらまれたとしても、
彼の根本的不安は、
貴方がよけなかったことではなく、
上司が自分を公平に見てくれないことだったり、
自分の妻が言いがかりみたいなことで喧嘩を売ってきたことだったり、
再就職先が見つからないことだったりします。

自分が、他人から大事にされていない
だから、あなたと肩がぶつかったことも、
貴方という不特定多数人の一人が
やはり自分を尊重していないと
自分は馬鹿にされる存在だと
勝手にいじけていることの反映である可能性があるわけです。

怒りは、このように、
それ自体では、何かが解決しないどころか
ますます自分を窮地に追い詰めることもあります。

でも、
怒っているとき、誰かを攻撃しているとき、
一時的に不安が解消ないし緩和されるので、
追い込まれている人ほど怒りやすくなるものです。

さて、
他人の怒りと出会ったならば
最初に行うことは、
その人は、あなたにとって大切にするべき人間関係にある人か否か
という判断をすることです。

道で肩がぶつかったような人であれば、
何ら大切にするべき人ではないので、
貴方はこの人との関係が悪くなる心配をする必要がありません。
早急にこの人との関係を切り、その場から離脱することを目指しましょう。

やるべきことは形式的なことです。
謝罪をするなど、
敵意のないこと、ぶつかる意図がなかったことを示しましょう。
これを誠実に行うことがエチケットというやつです。

それでも相手がグダグダいうようだったら、
誰かに助けを求め、
相手に勝てると思わせない工夫をすることです。
つまり、誰かに助けを求めるということです。

次に、敵だと思う相手が
継続的な人間関係を作らなければならない人である場合です。

この場合でも、特に家族以外であれば、
最終的には、人間関係から離脱をする選択肢もある
ということを意識することは大切です。

しかし、第1次的には、
相手の不安の根源を見極めることでしょう。
相手と自分の関係の文脈で事態を理解しようとしないで、
先ずは、相手には何らかの不安があり、
その不安を解消しようとしているという
上から目線で全体を見る
という思考作業が有効だと思います。

それから先は、先の事例と共通します。
即ち孤立しないこと。
仲間に相談することです。
どうしても自分は、相手の悪意を感じると
自分を守ろうとしますから、
自分と相手の関係に原因を求めようとします。
だから、危険意識を感じない第三者の
視点を利用するということです。

だから、その相談相手は、
相手との対立をあおるような人は失格です。

そうして、相手に敵意のないことを示します。
挨拶というものはそういうものです。
返事を返さなくても
堂々と挨拶を続けること、
そうしながら自分の仲間を増やすことです。

仲間は、その現場になくてもかまいません。
一番有効な仲間は家庭にいます。
家族を大切にするということは、
とても大切なことなのです。

ただ、それでも解決しない場合は、
専門家の視点を導入する必要があります。

この時、現段階では、職業はあまりあてになりません。
職場や学校等トラブルの専門家でなくてはなりません。

問題は、家族の中に敵がいると感じる場合です。

しかし、基本的な作業は同じです。
先ず、相手が何について不安を感じているのか、
それは解消するべきなのか、
その人間関係を断ち切ることを決断するべきなのか、
一緒に考えることです。

そうして、自分は敵意がないということを示すことです。

家族以外の第三者が、
相手に働きかけて
自分に対する怒りの感情を作り出している場合があります。

その作り出された怒りを抱いた相手に
こちらも怒りを向けては
解決しなくなります。

怒りを作り出した相手が誰なのか
どうしたら怒りが錯覚であるのかを
相手が理解するのか
考えるべきでしょう。

それが解決の第一歩です。


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東日本大震災の自分の命を犠牲にして他人を守った人たちを尊重することと、二度目は許さない決意の具体化と 特攻隊が議論される8月に [自死(自殺)・不明死、葛藤]

1 人のために犠牲になることは尊いことである。否定されるべきではない。

  8月になると、特攻隊の評価をめぐった論争がおこります。しかし、整理がなされていないため、お互いに、都合の悪いところに目をつぶったまま議論がなされている印象を受けてしまいます。このブログでも、この2年、この問題を取り上げています。対人関係学的視点で、今年も問題を整理して確認したいと思います。
  先ず、他人のために犠牲になることは、否定されるべきことではないという一般論があると思います。
  これは群れを作る動物である人間が他の動物と区別されるポイントになります。他の動物でも、例えば子育て中の母親が子供の命を救うために決死の戦いに挑むということはありますが、それ以外ではあまり一般的ではないでしょう。人間は、血縁関係が無くても他者のために自分を犠牲にすることがあります。
  本来は、群れを形成する仕組みなのですが、群れの中に存在したいという根源的要求を人間は持っているわけです。群れの中に存在したいのですから、群れから排除されるあらゆる兆候が、人間にとっては結構大きなストレスになります。ストレスを感じると自分の行動を修正したり、環境に働きかけて、仲間の一員となるべく行動をするわけです。仲間として尊重されるための行動の大きな柱が、「仲間の役に立つことをする。」ということです。仲間を助けるということも、仲間の役に立つことをしたと感じる大きな行動でしょう。また、「仲間という群れ自体を守る」ということを志向することもあり、「仲間の役に立つこと」、「群れを守るということ」を、無条件に行動してしまう傾向があるようです。

  これは人間らしいことです。だから、むしろ、自分の個人的な利益のために、仲間を犠牲にすることの方が、人間の自然な感情に反する行為です。このような行為をする場合には、特異な体験だったり、生い立ちだったり、何らかの不自然な理由があると考えるべきだと思います。

2 自分の命を差し出すことは、必ずしも強制がある場合だけではない。

  本来、他人を守るために行動することは、このように人間の本能に根差した行為であり、理屈を抜きにして行われることです。このため、誰からか強制されなくても、自分の命を犠牲にして他者を守るということは少ない事例ではありません。
  平成23年3月11日、東日本大震災の津波で多くの人が亡くなりました。その中には、仙台市若林区役所の職員の方(2名)、南三陸町の職員の方をはじめとする自治体職員の方、警察官の方、消防署職員や消防団員の方等津波から住民を避難させるために、命の危険のあることを顧みず、避難誘導を行い、津波に飲み込まれて命を失った方々がいらっしゃいます。
  この方々は、本当に尊いお仕事をなされた方々であり、称賛されるべき方々です。ここで私が申し上げる「称賛」については、すぐ後で検討します。
  彼らは、直前まで死の恐怖があったことは間違いないでしょう。メールなどの記録が残っています。しかし、もう一方で、他人の命を助けているという使命感によって、精神が高揚していた様子もうかがうことができます。残された数少ない記録をたどると、その場所にいる住民を安全な場所に非難させるために、あえて危険な箇所に踏み込んでいったり、危険な状況が差し迫っていてアナウンスをしていた人が非難しても、さらに交代してアナウンスを続けた方もいらっしゃいます。ほとんど報道もされていません。嘆かわしいことだと思います。特攻隊員を賛美する人のわずかの割合でも、このように同時代を生きて、他人を守るためにあえて自分の命を犠牲にした人を知ろうとする人が出てくることを祈るばかりです。

  私は、この人たちを称賛しても称賛しきれないと思っています。この人たちの活動で命が救われた人たちも多くいらっしゃいます。
  死に対する恐怖が存在するからと言って、そのことだけで、自分の命を犠牲にすることが、常に強制によって行われるわけではないということが肝心です。もしそこまで否定してしまったら、人間が利己的な動物だと誤った認識を持つだけでなく、利己的な行動以外は嘘くさいきれいごとだということになってしまいます。そういう心配がある為に、この点を確認する必要があると思いました。

3 人のために犠牲になる状況は、ギリギリの状況である。そのような状況を作らないことこそが肝要である。

  人間が他者を守るために、命を投げ出すことのある動物であると言っても、そのような事態は極限的な事態であり、簡単に死んで解決しようとするものではありません。当然のことです。
  一つには、他に方法がないことが条件になると思います。北海道の吹雪の中で、道が見えなくなり、二人とも共倒れになるという時に、お父さんが自分の着ている服を脱いで娘さんを温めて娘さんを助けて自分が亡くなったという事例も、まさにそのような極限的な状況だったでしょう。
  津波が迫っているのに、停電で情報が入らず、いつもの津波と同じだと思ってとどまっている人たちがいるということも、差し迫った危険で回避の方法が無い状態です。
  そして、いずれの自己犠牲も、他者の命が助かる可能性があったこと、実際に助かった人たちがいたことが、遺された我々にとっても救いになるでしょう。
  
  しかし、私はまだ考えがまとまらないことがあります。
  東日本大震災で住民の避難誘導のために命を落とした人たちの中で、もし自分の命を守るために、公務を放棄して逃げることは肯定されるべきことなのかということです。また、もし自分の子どもが公務員で、逃げられる状況があったときに公務に反して逃げることを望むか、命をなげうって公務を遂行することを是とするかという問題です。
  本人が選択するべき問題だということが必須の前提となります。ここで、いささかでも強制のニュアンスがあってはなりません。要するに、命を投げ出す公務を、断ろうと思えば断ることができる余地が残されていなければならないということが前提です。人間は、一方で群れを作る動物として群れを守り、群れに貢献したいという根源的要求があります。しかし、同時に動物として、命を長らえたいという本能的な要求があります。自己犠牲が強制されてしまうと、それは本能に根差した行動ではなく、高揚感は起きず、動物としての死の恐怖だけがむき出しになることですから、それはただただ惨(むご)いことだからです。
  
  私は、どうしても、もし自分の子どもやつながりのある人たちが、命の危険のある公務を命じたら、どんな理由をつけてもいいから、自分だけ逃げてきてほしいと感じざるを得ません。それが正しいとか誤っているとかいうことは、おそらく誰にも言えないことではないかとぼんやり考えています。

  他人のために自分の命を犠牲にするということは、極限的な話なのだと思います。南三陸町の職員の方々は、これから津波に巻き込まれて命を失うということを認識していました。メールなどで、家族に自分が死ぬことを謝罪しています。とても切ない話です。

  肝心なことは、極限的なことが、予想をはるかに超えて起きてしまったことです。その時は想定の範囲の外にありました。しかし、一度起きたことは、想定しなければなりません。
  生きていた当事者と、生きている関係者の苦しみが現実に存在したということです。残された我々は、このような極限的な状態が起きることを可能な限り排除することが求められていると思います。少なくとも、同じような極限状態が二度起きることを回避することが人間の正常な営みなのだと思います。

4 人のために亡くなった人を肯定するとはどういうことか。

  自分の命を犠牲にして他人の命を救ったという偉業は、肯定されるべきです。人間らしい行動であると肯定されるべきです。そうして、極限状態の中で、冷静に対応されたことには、いくら尊敬をしても足りないと思います。

  その人は、普通の人間ですし、その人の家族、友人も普通の人間です。普通の人間として、感情を持ち、愛情を持ち、人生があったわけです。人間として生きていたわけです。その人たちを肯定するということは、およそ被災公務員とか、そういう抽象的な人間として肯定されるべきではないのです。それぞれの人の名前と、顔と、家族を認識し、そのすべてを肯定することなのだと思います。そうは言っても、私は、名前がわかっている人は、せいぜい数十名に過ぎません。お写真を見せてもらった方々は20名を上回る人数でしょうか。遺族の方々も100名程度しかお会いしていません。
  まだまだ偉そうに肯定するべきだと言える資格はありません。

  それはともかく、避難誘導が公務であるという公務員制度を称賛することがどこかおかしいことはよくわかると思います。

5 新たな犠牲を産まない方策を整えること。命を落とさない避難誘導はどこまで整備されたのか

  さて、東日本大震災で住民を避難させるために自分の命を犠牲にした人たちの称賛と追悼は、まだ始まっていないように思えてなりません。地方公務災害補償基金も、なかなか自己犠牲を認めようとはしませんでした。
  今一番心配なことは、彼女ら、彼らの犠牲がどこまで活かされているのかということです。自分の命を犠牲にして、避難誘導を呼びかけなければもっと多くの人たちが亡くなっていたのですが、現在は同規模の津波が来た時、公務員の命を犠牲にしなくても避難誘導が可能になっているのでしょうか。安全な場所からの避難誘導がなされる仕組みが確立されているのでしょうか。私こそ不勉強で申し訳なく思っています。かさ上げ工事がどの程度有効なのか、よくわかりません。それでも、避難誘導は必要になるはずです。その対策がどの程度講じられているの、ぜひとも知りたいところです。宮城県だけでなく、他県でも同様です。
  そのような二の轍を踏まない対策が講じられることによって、失わなくて済む命が助かるというのであれば、東日本大震災の住民を守るために事故の命を犠牲にした人たちの行為の尊さをより高めることになるものであると考えています。

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自死者に自死の原因を求めるコメントが発生する原因の分析 3つの理由 今の若者が弱くなったのではなく・・・ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の報道があると、
自死の原因を個人に求める意見が目につきます。

その人が弱いから自死したんだということが
未だに私の周りでも言われています。

その代表的な言い回しは、
「今の若者は、昔に比べて弱くなった。」
というものです。

遺族は、当然、こういう意見を目にすると
深く傷つきます。

思いきって、顔を出したり、名前を出したりするのではなかったと
声をあげたことを苦やみます。
そうして、また沈黙が続くわけです。

個体の弱さが自死の原因だという烙印を押してしまうと
周囲は、身内を非難されることを嫌い
自死を隠すようになります。
これは、将来の自死予防にとっては
障壁になります。

しかし、ただ反発しているだけでは解決しないので、
私みたいな立場の者は、
どうしてそういう風なコメントを
わざわざ、遺族が目にするだろう場にするのか
ということを分析することが必要でしょう。

コメントをする人は、決して変な人ではなく、
むしろ良心的で、正義感のある人でもあります。

今回は、3つの理由を考えます。
第1に、情報不足
第2に、自己防衛本能に基づく反応
第3に、自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
    についての理解不足
です。

第1 情報不足

例えば、先日、23歳の消防士の自死について
パワハラが原因だとして損害賠償を提起し、
マスコミ各社に大きく取り上げていただきました。

それでも、
「これくらいのことで、自死するのか」
という感想が見られました。

マスコミで報道されたのは、
遂行困難な業務を押し付けられたとか
机を蹴りながら深夜まで怒鳴られた
という印象的なことに限定されます。

実際の現場では、
消防職員は、24時間勤務の2交代制で
夜間も、1時間の勤務が当番であるほか、
仮眠室から移動できないという制約があり、
勤務(当務)チームから逃げられない
という密室の出来事だ
という事情がある事。

同僚が見てみぬふりをしているため、
絶対的な孤立感がある事、
1日おきに深夜、ほぼ必ず説教がある事、
それも大声で、同僚に聞こえよがしに、
人格が否定される言葉が羅列していること、
前に怒鳴りながら指導された言いつけを守ると、
逆に怒鳴りつけられること、

チームのトップ3人からパワハラなどを受けていたこと、

とにかく、24時間狭い場所で一緒にいるわけですから、
気の毒に思った人がいても
「ちょっとひどかったな」
と後で慰めることもできないわけです。

その場にいた別の人の話では、
消防署の建物の中は、常日頃
まるでお通夜の会場のようだった
ということでした。

そのパワハラの理由も
数か月前に
「しっかりした」消防士になると言ったことを
もう一度言ってみろと言われ
「ちゃんとした」消防士になると言ったことをとらえて
「いい加減なことを言うな」
と机を蹴りながら深夜に怒鳴られているのです。

しっかりした証拠があるだけでも
まだまだひどいことがあるのです。

報道では、情報が不足しているのは
限られた時間、紙面のため
仕方がないことです。

また、こちらも目立ったパワハラなどの事情は拾えますが、
チクチクした嫌みや
わざとらしい無視や険しい視線を投げるなどということは
拾いきれません。

本当の孤立感は、
むしろ、パワハラとパワハラの行間から出てくることなのだと思いますが、
そこは推測するしかありません。

一度出勤すると
翌朝まで耐え続けなければいけないという覚悟を
毎回の出勤のたびに奮い立たせなければ
ならないわけです。

事実亡くなられた方は、
毎回出勤のたびに、
コンビニのトイレなどで食べたものを戻しながら
出勤していたようです。

彼は、中学校の時に応援団長をしていたほか
中学、高校に相撲部に在籍し、
全国大会で、立派な成績を収めていたスポーツマンです。

もともとメンタルが弱かったら、
そのような成績は治められません。

さらに、最後に勇気を振り絞って、
署長に直談判に行ったのに
署長は改善を一言も言わず、
病院に行けと言うだけでした。
頼みの綱も切れたという事情もありました。

それにしても、
なかなか自死を公務災害と認めない機関が
自死を公務災害と認めたのだから
よほどの事情があったと
推測してほしいなあとは思うところです。


第2 自己防衛に基づく本能反応

「そんな隠れた情報があるということは知らなかった」
ということはもっともなことです。

しかし、そうであるならば、どうして、
遺族が見るかもしれないSNSで
「今どきの若者は」と発信してしまうのでしょう。

少なくとも、否定的な言動をしなくてもよいと思うのです。

酔っぱらって自制がきかない場合はともかくです。
(自分でもよくありますから。)

しかし、人間である以上、
死亡した個人に原因を求めたくなるということは
実は自然な感情であることを
理解しなくてはならないことだと思います。

自死がなぜ嫌われるかというと、
一番は、
今まで元気で(外見上)生きていた人が、
突然命が無くなるという現象だからだと思います。

要するに、
「自分も今元気だけれど
 次の瞬間自死するかもしれない」
という危険を、本能的に感じてしまう
からです。

「そんなこと感じたことが無い」
ということは、正直な感想でしょう。

ところが、実際は、潜在意識の中で
他人の死を、自分の死に置き換えています。
無意識の共鳴反応が、人間の場合には起きてしまいます。
これは群れを作る動物の本能的反応です。

例えば、
誰かが怪我をして、大変なことになると、
その場に近寄らなくなるわけです。
誰かの痛みに共感して、新たな痛みを避けるということが
群れを作るアドバンテージです。

誰かが食べたら
おなかを壊したという食べ物は
食べないということが
本能的な対応です。

その時人間は余計な反応をしているわけです。

けがをした、痛そうだ、あそこに行くと
同じように痛い思いをする、
だから行かない。
とか

あれを食べた人がげーげーはいている
とても苦しそうだ
あれを食べると
同じように苦しい思いをする
だから食べない。
という具合です。

丁寧に埋葬された死体を見ても
それ程嫌な気持ちにはなりませんが、
無惨な遺体を見ると
とても嫌な気持ちになるのも
無意識に自分に置き換えて、
危険を感じている状態だと説明することが
できると思います。

特にほかの動物よりも人間は、
身内(母親)以外の者から情報を獲得するという特徴があります。
即ち、他人の感情に、共鳴、共感するという特質を持った動物です。

ここがチンパンジーなどの猿との決定的違いです。

そうすると、他人の死であっても
どこか共鳴してしまう可能性があることは
承認いただけると思います。

そして
なるべくしなくてよい不幸な出来事への共鳴は
本能的に避けようとします。

共鳴を避ける努力を
無意識で行っています。

例えば、
他人が病気で亡くなったのであれば、
今、自分はその病気でないということで
安心できるわけです。

登山で誰かが亡くなったら、
自分は山に登らないようにしよう
ということで安心できるわけです。

しかし、自死は、
そのメカニズムが理解できないということを大きな原因として、
安心する方法がわかりません。

そこで、無意識に、
自死者と自分が違うんだという
その違いを探します。

そうすると、
「自死者は弱い人間だから死んで逃げたのだ、
 自分は弱い人間ではないから、
 自死することはない」
ということで、安心したくなるわけです。

これは、生き物として、
自然に、無意識に行われる反応で
悪意はありません。

もう一つ、
自死者の絶望を追体験したくない
ということも、防衛本能からの反応です。

だから、もっといろいろなことがあったのではないか
等、
具体的な事情を想像したり、
調べたりすることを本能的に避けます。

これはほかのシーンでも見られます。
悩んでいる人を励まそうとして、
「貴方は悪くない」
と言う人たちがいまだにいます。

その人の絶望の闇を見ないで、
否定してしまえますから、
大変楽なことです。

弁護士もまじめにやろうとすると
本能に逆らって、死者の絶望の闇を覗く
ということですから、
文字通り、因果な仕事だと思います。

自死対策に取り組むならば、
このような本能に逆らった理性を
根性いれて働かせなければなりません。

自死が起きたことを知らせること自体
本当はやっていいのかどうか、
疑問が無いわけではないのはこういう理由です。

しかし、人が自死をするのは
必ず理由のあることです。
その理由を探すことで、有効な自死予防が初めて講じられます。

そのためには、
一つ一つの自死をないがしろにしないで調査、分析し、
きちんと将来に向けた解決策を確立するべきだと思い、
活動をしている次第です。


第3 自死のメカニズム(どうして死ぬことができるか)
   についての理解不足

これは、自死問題が、第2の理由でタブー視され、
特殊な個人的な問題だという理解が一般的であったために
なかなか検討が進まず、
一言でいって他人事でした。

先ず、その人の特殊な事情、うつ病や統合失調症という
病気が原因だろうという対策が立てられました。

医療の領域の問題だとされていました。

これまでともすれば、
自死対策=うつ病対策
とされてきたことは理由がありました。

一つの大きな転機は、
21世紀になっておきました。
自身の父親が自死をした体験を持つ心理学者ジョイナーが
ある発見をしました。

人は死にたいと自死願望をもっても、
死ぬことが怖いために死なないのだということです。

実に当たり前のことが注目されていませんでした。
「自死した人は特殊な人だ」
という防衛本能的反応が、
真実から目をそらした象徴的な結果です。


ジョイナーの自死理論は、
自死に至る過程の中で、死ぬことが怖くなくなっていく事情がある
と説明します。

死ぬことが怖くなくなるのは、
少しずつ、死を受け入れる環境があるからだというのです。

自分で自分を傷つけるリストカットなどの自傷行為もそうですが、
戦争体験等の体験が
徐々に死を身近なものとして感じてしまい、
死ぬことに対する抵抗力が無くなっていく
と説明しています。

これをさらに勝手に説明をしているのが
われらが「対人関係学」です。

自分が大事にされない体験が
およそ人間というものに対する価値観が低下していき、
人間の命の価値を低いものに感じてきてしまう。

命の価値を認めなくなれば、
死に対する恐怖も弱くなっていくという関係にあります。

つまり、自分が大切にされない体験
というものは、
人間にとって極めて有害で、
対人関係的危機感を抱かせる事情です。

その事情の中でも、自分が生きようとする意欲を持つためには、
大切にされなくてもそれほどダメージを持たないという
馴化(じゅんか。なれ)を無意識に生じさせます。

痛みを痛いと感じなくなるわけです。
それは、強くなるのではなく、鈍感になるということです。
また、人間が大切にされるものではないという馴化は、
繰り返されるうちに、
人間に対する価値観の低下を意味することになっていくわけです。

そうすると、こんな命を維持して苦しみ続けることに
理由を感じにくくなってしまいます。

死に対する抵抗力が無くなるわけです。

また、ジョイナーは、死に対する抵抗力の低下の事情を
身体生命に関する死の受け入れということで
とらえているようですが、

対人関係学は、
群れから尊重されないということも
人間の価値を低下していく事情になると考えています。

人間は、
身体生命の危険のほかに
対人関係的危険を感じる生き物である
そして、対人関係的危険に対する反応は、
身体生命の危険に対する反応をかりて、
同じ反応をしているということを主張しています。

この辺はアントニオダマシオの
「デカルトの誤り」で示された二次の情動とは、
対人関係的危険に対する反応であると
割り切って理解しているということになります。

そうすると、
このような対人関係学的見解に立った場合、
自死者の自死の原因を求めることとどのように
違いが生じてくるのでしょうか。

対人関係学的理解を前提とすると、
自死の原因を自死者という個人に求めて
自死者の治療やカウンセリングによって解決する
ということを主として行うわけではないということになります。

対人関係的な危険を感じさせるような
群れ、
学校や職場、家族や地域等様々な群れの
あり方を変えていくということが
有力な自死予防の解決策だということになります。

今日の結論を述べる前に、
もう一つお話します。

それは、人間の脳はそれほど短期間に変化しない
ということです。
自分が若者の時に耐えられたストレスが、
今の若者が耐えられなくなるということが
非科学的なのです。

脳の構造や仕組みは、
大雑把に言うと800万年それほど変化がなく、
20万年前からは、ほとんど変化していないでしょう。

それが、わずか数十年で
同じストレスに耐えられていた脳が、
退化して耐えられないようになる
ということはありえないと思います。

この論理と、
自死が起きやすくなる条件としての
自分が人間として尊重されていないという体験の積み重ねが必要だ
という条件を組み合わせれば、

「今の若者が弱くなった」ということは誤りであり、
実は、
「今の若者は、人間として尊重されないという体験を
 昔と比べて積み重ねられている」
ということなのです。

弱い人間が増えたのではなく、
人間が生きるにしては過酷過ぎる環境が増えた
と説明する方が科学的だし、
予防にとっては有効だと考えます。


当たり前に生きていれば、正直に生きていれば
死ぬまでなんとかなったという我々の子どものころとは違い、
ちょっと失敗すると、
一生幸せになれないという
失敗が許されないという
厳しい環境を感じさせられている
と、私は思います。






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