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「今でも人を殺したいと思う。」という言葉が反省を表している可能性がある事。対人関係学的な弁護人の役割 [刑事事件]

タリウム事件を連続して題材にしてしまいます。
前の記事で紹介したコラムでは、
以下のように紹介されています。

他方で元名大生が発する一言一言は、胸をえぐられるほど衝撃的だった。
 「生物学的なヒトなら誰でも良かった」
 「人を殺したい気持ちは今も週1、2回生じる」
 「個々がかけがえのない人だという感覚がない」
 殺意の矛先は家族や親友にとどまらず、法廷の裁判官や弁護人、傍聴者にも向けられた。

これを読むと、通常は、
「未だに反省していない」と感じることでしょう。

そうなのかもしれないけれど、
そうでないかもしれないということにつて
弁護士の立場からご説明します。

犯罪はそれ自体不道徳ですが、
なかなか自分のしたことが不道徳なことだということを
実感をもって理解できない人がいます。
だからこそ犯罪を事前に止められなかったわけですが。

自分のしたことがどういう風に悪いのか
誰にどのような迷惑をかけるのか
ということを、
私は弁護人として最初に考えてもらうようにしています。

最初は漠然とした考えしかありませんが、
話し合ううちに、徐々に
カメラのピントが合うように
はっきり理解される被告人の方も出てきます。

(最後までピンボケの場合もないわけではありません)

すると、飛躍的に反省や後悔がの感情がでてきて、
「自分が取り返しのつかないことをした
 そういうことを二度とやらないためにはどうしたらよいだろう」
と敬虔な気持ちになる方も少なくないのです。

このような方々は、
犯罪実行時は、自分の味方がいない
という意識がある方が多いように感じられます。

常に、自分を守っていなければ
誰かから攻撃をされてしまうという意識です。

攻撃といっても、ピストルで撃たれるわけではなく、
馬鹿にされるとか笑いものにされるとか
自分だけ損をさせられるとか、
自分だけ危険な目にあうとか
裏切られるとかそういうことです。

だから、他人に弱みを見せるということが
できない状態が持続しているということになります。

これは、タイミングと会わせると強くなります。

自分が誰かから被害を受けたのに、
誰も同情したり、いたわったりしてくれないという場合
逆に
自分がみんなのために貢献したのに
誰もねぎらってくれないばかりか
笑い者にされてしまう
ということもあるでしょう。

およそ、心情的に仲間という人が
身近にいないということになります。

犯罪によって警察署に留置されているというような場合は、
自分が悪いことをしたために責められるということは理解できます。

こういう時にニュートラルな立場の弁護士が
犯罪を責めることをしないで、
どうして犯罪に至ってしまったか
どうして事前にやめることができなかったか
ということを被疑者と一緒に考える姿勢を示したら、
被疑者被告人は、自分の弱い部分を見せても
そこを責められない
という体験をすることが出てきます。

これが、新鮮な体験だという人も少なくありません。
安心すると話し出します。
弱い部分を見せても良いのだと思うと
安らぐことができるようです。

裁判が終わるまでの限定的ではありますが
片面的なコミュニティーができるわけです。

弁護士だけでなく、
警察官の方にも同様な態度で接してもらうと、
自分の悪かったことを言うことが
自分が更生する等良い方向に向かう条件だと
素直に認識するようになります。

こういう時、弁護士が質問する場合は
答えが大体わかりますから
ドラマチックに盛り上げて完結することができるのですが、

検察官の反対質問や
裁判官の補充質問でも
同じように素直になってしまうと
その時の悪い感情やその後の感情
(裁判時には克服しているのですが)
包み隠すことをしないで
積極的に話していくことがあります。
(そこまで言わんでよいと言いたくなるくらい)

それが強烈すぎて、
現在は克服されているにもかかわらず、
検察官なんかは、いまだに反省をしていないと責め、
頓珍漢な裁判官もそのような認定をしてしまう場合も
弁護人としては心配しなければならなくなり、
あれだけ美しく完結した弁護人質問を
つぎはぎを繕うことも出てきます。
大体裁判官は理解してもらえることが多いですが。

前回引用したコラムからも、
被告人が、素直に供述している様子がうかがわれます。
少なくとも露悪的に殺意を見せびらかしているわけではなさそうです。

質問されたから誠実に答えている可能性があります。
それを応えるのが自分の役割だということですね。
うそをつかないことでメリットがあると感じているということです。

誰にも言えなかった殺意を言うことができたという
弁護団との交流による貴重な経験があったのだと思います。

弁護活動が対人関係学的には成功された可能性があります。

もう一つ付け加えます。

彼女にとって人を殺すということは
おそらく心理的抵抗が少ない状態であり、
それは、器質的問題か生育環境なのか
通常人の感覚を超えた問題がありそうです。

要するに、普通の人が人を殺すという場合、
罪悪感だったり、生物的な嫌悪、恐怖だったり
抵抗が強くあるわけです。

これを打ち破るためには、
怒りだったり、恨みだったり
強烈なエネルギーを伴う負の感情が必要になります。

だから、「今でも人を殺したい」
という言葉を聞くと、
強烈な負の感情があるものだと
無意識に受け止めて、険しい感情になるわけです。

ところが、彼女は、
そのような怒りとか恨みとかの負の感情を抜きに
人を殺したいという気持ちになるようです。

今回の裁判体は、
常識の枠の中で被告人を把握し、
無期懲役の刑を宣告しました。

そういう考えも成り立つとは思いますが、
他の適切な選択肢を持ったうえで
専門的に判断することが必要だった事案だと
思いました。







タリウム事件のコラムに寄せて、人が興味本位で人を殺すことができるとした場合の可能性と刑事罰の意味 [刑事事件]

今朝の地元紙に、タリウム事件を取材した記者のコラムが掲載された

<タリウム事件>衝撃の真相 消えぬ「なぜ」 http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170403_13015.html

丁寧な、率直な内容になっており、
真実に迫ろうとする矜持も見えて素晴らしいと思った。

刑罰と医療とどちらが適切かということは難しく、
結局は、その時々の政策に委ねられるものであり、
刑罰の運用として一義的に回答が用意されているものではない。

それはどういうことか。

殺人事件にしても
人が人を殺すということには理由がある。
殺そうと思うことにも理由があるが、
殺すことができたことにこそ理由がある。

人間は、どんなに陥れられたとしても
なかなか相手を殺すことはできない。

そういう動物である。
というか、むしろ動物一般がそうなのかもしれない。

基本的には、自分を守るために殺すということになる。

殺さなければ、自分が殺されるということ。
戦争が典型的である。
相手から殺されるだけではなく、
規律違反で殺されるというものも大きい。

猛獣が草食動物を殺すのも、
肉を食べて生き延びるという目的がある。

では、目的があれば簡単に殺せるかというと
そうでもないようだ。

人を殺すことの抵抗感があり、
なかなか殺すことは難しい。
この抵抗感を奪う仕組みが怒りの感情である。

興奮状態となり、
相手に対する共鳴力、共感力が著しく低下し、
この人を殺した場合、将来どうなるか
自分が探し出されて裁判になるとか
広く家族を含めて報道されるとか
そういう将来のことを推測する力もなくなる。

相手を殺すか自分が死ぬかという
極端な二者択一的な選択肢が残されるだけで、
いわゆる無我夢中で殺害行為を実行する
というのが典型的な例のようだ。
こういう場合、記憶も鮮明ではない。

極限的な事例で他人を殺すことの抵抗力が無くなり、
必要最低限の行為にとどまる場合は、
刑が軽くなることはある。
変な話、殺してはだめだけれど殺したくなるよねと
そういう殺人者に部分的に共感してしまうからである。
これは、裁判官が共鳴するというよりも、
おそらく世論からもある程度の同情が寄せられるだろう
という場合という方が正確だろう。

タリウム事件は、その典型的場面とは
はるかにかけ離れていたようだ。

感情的な高まり、自己防衛意識
それらがなくて、冷静に他人を殺害したいという
初めから他人を殺す抵抗感がないような
行動だったとのことである。

こういうケースでは厳罰化になりやすい。

こういうことが起きるケースは
本当は生まれた後の理由は、考えにくい。

あるとしても、
これまでの例からは、
物心ついた時から不遇で、
誰からも大事にされたことが無く、
馬鹿にされ続け、迫害され続け、
社会からも尊重されなかった。
他人とのかかわりに何のメリットも感じないで
育ってしまったケースである。

こういう場合、
自分が尊重されるべき人間だという感覚を持てず、
他人を尊重するという意識も育たない。
相手の気持ちを理解する目的は
思いやることではなく、
相手に対して付け入るスキを探すということである。

だから、後天的に、人を殺すことの抵抗を持てない場合は、
全く無防備な幼少期の育った環境に問題あったケースなのであるから、
本人がそのような人格を形成した責任は本人にはない。

考えようによっては、その殺人犯こそ一番の被害者であり、
その後の教育治療によって、
少しでも人間の輪の中で安らぎを受けられるように
してあげることが、
原因に対する結果として、あるべきことだという考えもあり得るだろう。

ところが、こういうケースの裁判
つまり金銭や自分の保身のために、
相手の命を亡き者にすることを冷静に考え、
計画を立てて実行するというケースであるが、
通常、身勝手で冷酷な犯罪だとして
厳罰を科される。死刑や無期懲役の判決が出やすい。

法律は原則として、
どのような生い立ちであろうと、
不遇で何の喜びも、他者との関係の暖かさも知らない者も
等しく法律が適用される。

医療措置となるためには、明確な精神医療の診断がなされ
それを裁判員や裁判官が理解しなければならない。
先に述べた通り、それは裁判官個人ではなく、
世論がそれに共感できるかということを
裁判官が判断するかどうかということにかかる。

本件は、結局そのようなケースではないとして
無期懲役の判決となった。

しかし、私は、このケースは、
今の後天的な事情が理由になっていない可能性があるのではないかと
感じている。

生い立ちなど後天的ケースで、
他人を殺すことに抵抗感がないというケースはあるにせよ
なかなか他人を殺す抵抗感が一切残っていない
ということまで極端にはなりにくい。

なぜならば、100パーセント他人に依存する
乳児期には、誰かに手をかけて
生存を援助してもらっているからである。
そうでなければ大人になっていない。

虐待を受けても、
虐待を受けっぱなしという事例よりは
わずかながらでも過保護にされている時期が存在し
その記憶があるからだ。

だから、冷酷非情な犯罪の場合も、
自己保身という身勝手だとしても、冷酷だとしても
人を殺すためにはそれなりの理由があることが原則だ。
社会の不満を弱者に向けるということでも、
自己完結している殺害行為者の頭の中では
自己防衛の意識があるものである。

本件にはそれがない。
これが本件の最大の特徴だろうと思う。

あまりにも極端なケースであり、
育った環境では説明がつかない事情がありそうだ。

対人関係学的な発想からすると
脳の器質的な問題があるのではないかということである。

具体的に言えば、脳の
前頭前野腹内側部の機能に障害がある場合である。
この辺りは、アントニオ・ダマシオの
「デカルトの誤り」に詳しい。
岩波文庫にもなっている。

先ず前提として、脳は、
その部分部分によって役割がちがっていて、
例えば目から移った光を脳で画像として処理する脳の部分が
損傷すると目は見えなくなるが、
呼吸はできる。
音を処理する部分は別の部分であるし、
言葉の意味を把握する部分も別である。
部分的な損傷は、その機能をなくすが他の機能はなくさない。

もっとも呼吸機能をなくせば死ぬことにはなる。

そういうことで、鉄道事故で
前頭前野腹内側部の損傷を受けた人間の事例や
腫瘍があって圧迫されて機能障害になった事例では、

自分が他人の中でどのように思われるかというような感覚が欠落し、
(他者に対する共鳴力、共感力が欠落する。)
将来的な予測ということが苦手になり、
今浮かんだアイデアにとらわれてしまう
等という共通の異常行動が見られたというのである。

事故によって脳機能が低下した場合は人格的変貌が起きる。
しかし、日常生活を営むことができなくなるわけではない。
知能が低下するわけではない。

この脳の機能が人間のモチベーションの原理となっており、
ダマシオは「二次の情動」と名付けた。
対人関係学は、ダマシオに断りもいれず、
それは対人関係的危険を感じて行動を修正する仕組みだと
説明しているところである。
(一次の情動が身体的危険を感じて行動を修正する仕組み)

私が興味を持っているのは、
裁判での鑑定が、脳の機能検査がなされたかということである。

責任能力は、心理学的な能力である以前に
本来は生物学的な能力が存在することが求められている。
脳は、部分的に機能低下があり得るものだとすると、
部分的な脳の機能検査も可能である。

fMRI等によって血流の動きも把握できる。

ただ、もし、前頭前野腹内側部の機能低下がみられたとして、
即ち、脳の器質的問題から殺害を実行したとして、
刑罰にどのように影響を与えるかということについては、
直ちに結論が出ることではないだろう。
量刑も変わらないかもしれない。

要するに、現在の刑事罰は、
その人に責任があると言えるのかわからない事案でも、
治安維持の観点だったり、
被害者や世論の処罰感情によって
処罰されているからである。

逆に言うと、
もし、犯人以外の責任が重いとした場合に
処罰をしないならば、
犯罪行為をした原因を突き止められないケースを除いて、
処罰をしにくくなってしまう。

そういう環境で育ったならば仕方ないねとか
脳の器質的問題があるならば仕方ないね
ということも、現状においてなかなか言いにくい。

せいぜい、情状として「その1割でも裁判官に届け」
ということが関の山かもしれない。
届けば音の字であって、届かないことが一般的だ。

刑務所が、強制労働の場ではなく、
対人関係の改善のために、
自分が尊重されるという体験と
他者を尊重するという体験の場にすることも
なかなか実現することは難しいだろう。

現状は、職員の方の努力はありながらも
制度としては逆方向になっていることもあるようだ。

ただ、これが理想だとすることを忘れないでほしい。

法諺(ほうげん)という専門家の中のことわざの一つとして、
「社会政策こそ最良の刑事政策だ」
というものがある。

貧困や殺伐とした環境を改善することが、
刑務所に収監することよりも
犯罪を減らすことにつながるということである。

今回禁を犯して
自分が担当していない事件について
言及をしてしまった。

河北新報の記事に大いに触発されてしまったということになる。






【追悼せいたかさん】万引き犯人が罪を認めるまで(すいません、わかる人だけの部分けっこうあり) [刑事事件]

マサルは、警察官だ。
警察官と言っても、犯人を逮捕したり、道案内をしたりするわけではない。
犯人が逮捕されてから警察署で生活するときに対応する
いわゆる留置係という仕事をしている。

警察は、犯人を逮捕するのが仕事だと思っている人もいるが、
逮捕した後にいろいろ調べて、
刑事裁判を遂行する準備をする法律家なのだ。
犯人がいなければ裁判が成り立たないということから、
逃亡されないように身柄を拘束するのも
やはり警察の仕事だということになる。

犯人と言っても、凶悪犯ばかりいるわけではなく、
警察署の中では、
おとなしく規則に従って、静かに生活している人が多い。

素直に罪を認める人もいれば、
どうやったって犯人であることは間違いがないのに
自分はやっていないという人もいる。

でも、マサルにはそれはあまり関係がない。
裁判で有罪になるまでは、無罪の人と扱う
それだけのことだ。

今日は風変わりな犯人・・
おっと、無罪推定なので、
罪をしたと疑われている人
ヒギシャという言い方をする。
風変わりなヒギシャのお話をする。
まだ若い男性である。

名前をいうわけにはいかないので、
ジムニーと呼んでおこう。
全くの日本人の顔をしているのだか、
まあ良いでしょう。

ジムニーの罪名は窃盗罪だ。
万引きをしたとされている。
スーパーでCDプレーヤーを万引きした。

やや画質が悪いにしても防犯カメラにも映っているし、
なによりも、ジムニーの乗っていた自動車
レジを通していないCDプレーヤがあった。

おそらく、罪を認めて謝って
弁償するなりすれば、
逮捕ということにはならなかったのではないかとも
マサルは思っていた。

最初、弁護士会から来た弁護士は、
狭い面会室で、
透明なプラスティック板越しに
大声でどなられていたようだ。
無料でアドバイスに着た弁護には、
とても気の毒だった。

すぐに、もう一人の弁護士が来た。
そういえば、この弁護士が面会室に来た時に、
変わったことが起きた。

もっとも起きたというように、はっきりしたことがあったわけではないが、
警察署の二階の面会室に案内した時に、
留置場のドアを開けたときに、
足元につむじ風が起きたような気がした。

偶々、書類を落としそうになったので
下を向いた瞬間のことだったが、
風が吹いていった方向を見ても
何も見えなかった。

二人目の弁護士には、
ジムニーは大きな声を出していなかったようだ。
弁護士との面会は秘密でおこなわれるので、
聞き耳を立てるわけにはいかないので、
詳しいことはわからないが、
面会が終わった後のジムニーの顔はみものだった。

とても困ったような表情で、
何か言いたいことがあるようだが、
誰も聞いてくれる人もいないとあきらめたというような
そんな中途半端な顔で、
話しかける言葉もなかった。
人間があんな表情をしたのは初めてみた。

弁護士さんの方は、
着たときと同じようにニコニコしていて、
私にもお世話になりましたと
礼儀正しく声をかけて帰っていった。

その日の夕方になりかけた時間、
マサルは、設備の点検のため巡回をしていた。
ジムニーは、たまたま一人で部屋を使っていた。
相部屋のヒギシャがいることが普通は多い。

マサルがちょうどジムニーの部屋の裏側で作業をしていたとき、
ジムニーの声が聞こえてきた。
マサルがいるところは、
留置係の警察官がヒギシャの様子を点検する表側ではなく、
裏側であった。
マサルからジムニーが見えないが
ジムニーからもマサルが見えない位置関係にある。

ジムニーは何かの気配を感じて驚いたようだった。
表側には同僚もいるはずだから、
本当に誰かが侵入したら連絡があるだろうと思い、
マサルは作業を続けた。

ジムニーは誰かと話しているようだった。
「そんなことないよ。ヒコのせいじゃないよ。」
ヒコといったのか、ヒトといったのか、
良くわからないが、ヒコといったように聞こえた。

「自分で、やらないようにしなければいけないんだ。」
「そんなに欲しかったわけではないんだけど。」
あれあれ、ジムニーは、罪をようやく認めたようだ。
でも、刑事の前で言わなければ意味がない。
それを告げ口するのは、自分の仕事ではない。

「いや、約束を守らなかったのは
 あのスーパーの警備員なんだよ。
 警察には言わないって言ったのに
 なかなか帰してくれなくて、
 そうしたら警察が来たじゃないか。
 話が違うって思ってね。
 じゃあ、自分もやってないって言ってしまったんだ。」

「だけど今日の弁護士は、
 やっていないならきちんと話をしろっていうんだ。
 やっていないのに、やったというのが
 警察官にも迷惑だからなって。
 プロなんだから、もっと疑ってくれなくちゃあな。」

「わかっているよ。もちろんわかっているよ。
 俺が悪いんだから。
 俺のことをこの世のすべての人間が疑っても
 自分だけは信じるといわれてもさあ。
 そのことで
 責任をとるのは俺自身しかいないって言われちゃったらねえ。」

その日の夜、書類を下に運ぼうと
留置場のドアを開けたときにも、
つむじ風が吹いた。


次に弁護士が来た後にも
ジムニーは、「独り言」を言っていた。

「刑事裁判の反省は、一般用語の反省とは違う。
 3つのことを考えることだ。
 一つは、自分がしたことでだれにどういう迷惑をかけたか。
 誰かが、困るんだって話だな。
 店の人が困るのかな。
 でも、万引きされたら、その分売り上げが上がらないよな。
 売場の主任あたりが給料減らされるのかな。
 住宅ローンや、子どもの学校のお金が足りなくなったら
 なるほどかわいそうだね。それをやったのは俺かぁ。
 やっぱり悪いな俺。」


「二つ目は何だっけ?
 そうそう、原因かあ。
 悪いことだってことはさすがにわかるけれど
 じゃあ、何で止められなかったのか。
 だから、君がこれなかったこととは関係がないって。
 何かに追い詰められていると起きるって、
 俺、何に追い詰められていたのかな。
 でも、もう大丈夫、
 ヒコがいるってことがわかったから
 もう一人じゃないよね。
 いいんだ。いつもいなくても一人じゃないってことがわかったから」

「三つめ、三つ目と
 これからどうやって生活するかか。
 絵にかけるように具体的にと、
 俺、目標を持って生きるということを考えてみたんだ。
 貯金しようかなと思う。
 新車の原付買うんだ。
 三年くらいで買ってやろうと思う。
 そして、あの山に通うんだ。
 あの小屋のあたりだけは、
 絶対に手放さないって。
 いつか友達を作って、
 天気の良い日に、パーティー開きたいな。
 そのためには、こんなところにいてはだめだよな。」

「俺、本当は、最初に警察官が来た時、
 みんなの顔を思い出したんだ。
 もう二度と俺の前に姿を見せてくれないんじゃないかって
 俺、終わっちまったのかなあって、
 そう思ったら自分が悪いのに、
 警察呼ばれたことに怒ったりしてさあ。
 ごめんな。こんなところに来させてしまって。
 みんなからヒコが怒られるかもしれないよな。
 ありがとうな。。
 俺絶対普通になって、
 みんなの役に立って見せる。俺でもできるよな。
 そうすれば、ヒコも鼻が高いよな。
 もう帰ったほうが良いよ。
 俺は大丈夫。いるってわかっただけでもう大丈夫だよ。
 今度、あの小屋で元気で会うためにもう帰ってくれた方が安心だよ。」

マサルは、書類を下に運ぶように言われて
留置場のドアを開けた。
その日はドアを開けたまま、十分時間を取って、
天井の点検を念入りに行うことにした。

なんとなく、つむじ風がゆっくり通っていった気がした。
耳の近くでカジカガエルが鳴いたような錯覚を受けた。
笑顔の気配がした。

自首をお考えの方に 犯罪を行ったことに気が付いた時にすること [刑事事件]

私の事務所には、わけあって
2か月に1度くらいは、
自首に関する電話相談が来ます。

罪名として多いのは、
窃盗(万引き)と業務上横領です。

私の事務所に連絡をするくらいですから、
自首を考えていらっしゃいます。

犯罪を実行してしまったことは問題ですが、
犯人だと気が付かれる前に
被害者に事実を告げて謝罪したり
警察に自分の罪を告白するということは
大変勇気が必要なことです。
私は無条件に尊敬の気持ちをもって
対応しています。

皆さん、一番気にすることは
自分の罪に対する刑罰が
どのくらいになるかということです。

悪いことをしたわけなので、
そんなことを気にしないで
自首をするべきだということは
みなさん100も承知です。

でも、すべての刑法犯の方々が
その点を気にされることは、
情において当然のことだと考えますし、
弁護士は、端的に見通しを述べるべきだと思っています。

失職や刑事裁判はやむを得ないと考えていらっしゃるのですが、
皆さん一様に、
家族や関係者に対する迷惑の程度という観点からも
刑罰の見通しをお聞きになりたい様です。

もちろん被害者がいるわけですから、
そもそも犯罪をしないことが
家族に迷惑をかけない一番の方法だったのですが、
そんなことも100も承知です。
100も承知でも
やはり聞かないわけにはゆかないということも
よくわかります。

特に、自分のお子さんに対して
刑務所に行った親の子どもだといわれることを
気にされている方が多いようです。

情に流されて安易な見通しを言うわけにはゆきません。
私の回答でがっかりされる方もいらっしゃいます。

しかし、私は思うのです。

やったことをなかったことにするわけにはゆかない。
人間なので失敗は仕方がないのではないか。
それでも、親として子どものためにしてあげられることがある。

一つは、反省をして、被害者に誠意を見せることです。
心をどうこうというより、やはりお金で償うことが基本です。
一度に支払えないならば
支払い終わるまで支払い続けるという
自分の責任の果たし方を示すということだと思います。

失敗をしても、
その責任を償う姿を示すことが
いろいろな意味で子どもが学ぶことが多いと思います。

一つには社会との関係です。
一度刑務所に行くかもしれない罪を犯しても、
二度と過ちを繰り返さないということです。

あるいは、社会の偏見や
悪の誘惑が再び訪れるかもしれません。
しかし、
一度過ちを犯しても、
コツコツと立ち直ることができる
ということを示すことは
子どもにとって大きいことです。

今、子どもたちは、
「失敗が許されない」
という緊張感に、毎日さらされているようです。
ささいな失敗を苦にして
精神的に立ち直れなくなってしまっています。

人間は失敗する。
しかし、失敗から立派に立ち直って見せる。
それを示すことは
子どもにとって救われることになるでしょう。

それができるのは、
失敗をしたあなたなのです。
あなたしかできないことがあるのです。


万引きにしても横領にしても、その他の犯罪にしても
被害者の方々は、実際の被害や
加害者の意図以上に深く傷ついています。

自分が人間として尊重されていないという
強烈な疎外感を受けて落胆しています。

もし自首をすれば、
自分が考えているよりも
世の中すてたものではないなと
救われる人もいらっしゃいます。

これから先も同じような被害に遭うのではないか
という精神的外傷を追っている方の
不安を解消することだってあります。

これも、罪を犯した人が謝ることが
一番効果があることです。

被害者に謝罪に行って
自首をすると告げたときに、
弁償をしてくれればかまわないと
言ってくれることもないわけではありません。

それはこういうことなのかもしれません。

罪を犯した人は、
失敗したことを自覚し、
やらなければ良かったと思っている人が多いようです。
そして苦しんでいいらっしゃいます。

せっかくそういう気持ちになったのならば、
是非自首をするべきです。
被害者も加害者も家族の方々も
それで、だいぶ救われるのです。
自首をしないことはもったいないです。

でもどうやったら良いか
パニックになってしまってわからないことも
多くあります。
是非、弁護士に相談いただければと考えていますし、
弁護士は、
自分の職業がなんであるかを自覚し、
八方が一番良い状態になるよう、
暖かく援助することをお願いしたいと思っております。


人を殺しても必ずしも死刑にならない理由、「目には目を」の本当の意味、死刑制度廃止の日弁連決議と反対派の「寄り添う」ということに対する疑問 [刑事事件]

人が殺されるということはすさまじい衝撃です。
その人の夢や希望や人間関係が絶たれるということもあります。
家族としても、いつもどおりり「行ってまいります」と行って出かけたのだから、
いつもどおり「ただいま」と帰ってくるものだと思っています。
そんな当たり前のことすらかなわなくなるわけです。

それだけではありません。
社会の中でも報道されることによって、
被害者の絶望に共鳴共感してしまい、
絶望の追体験をしてしまったり、

絶望の追体験を回避するために、
人が死ぬことに対する感じ方が磨滅していくという
人間性が喪失していくという被害もあります。
これが二次被害、三次被害の被害の連鎖を招くこともあります。
社会秩序の観点から、犯人を厳しく処罰するという必要性もあるかもしれません。

そうだとすると、犯人は死刑にしてもおかしくない
という感覚もあり得ることでしょう。

意外なことと思われるかもしれませんが、
日本弁護士連合会は、
これまで死刑制度の廃止を意見表明してきたことはありませんでした。
しかし、平成28年10月の人権大会において
初めて死刑制度廃止の意見を採択しました。

なぜ、人が死ぬという重大な結果がありながら、
死刑制度に反対するのでしょうか。

一つは、世界の国々において死刑がどんどん廃止されていること、
裁判は完璧ではなく、本当は罪を犯していないのに、
間違って犯人とされて、そのまま死刑を宣告されるという
冤罪がありえないとは言えないこと
実際に日本の刑事裁判で、何人か一度死刑が確定してから
再審で無罪となり釈放された人たちが存在します。

それから、殺人犯が、犯人だけの責任で凶悪犯罪を行ったわけではない
ということが、
実は多いという以上にほとんどだという事情があります。

本人の生い立ちや、その後の境遇などから、
普通に育つことができず、
自分は価値のない存在だと思いこまされていくうちに
人間の命に対しての価値を理解できない大人になっていく
ということが一般的に見られます。

その人自身やその人の家族、周囲の人間も原因を作っているのですが、
特に、社会とか国家とか大きなものの仕組みの中で
そのような人格が形成されてしまうということは
とても多いことです。

犯人に死刑を宣告する国家に責任がある場合
自分に責任があるくせに、犯人だけを非難するということは、
ムシが良すぎるということになるわけです。

ここは難しいところで、
それでも、被害者や遺族には何らの責任もないことが多くあります。

ただ、遺族の感情を優先して裁判が行われてしまうと
かなり過酷な判決が出る傾向となってしまいます。
殺人に対して必ず死刑ということになると、
かえって殺伐とした社会になり、秩序が乱れる
ということにもなります。

今から4000年近く前のハムラビ法典で、
よく、「目には目を歯には歯を」という条文が引用され、
「悪いことをしたら、同じような悪い罰を与えられる。」
という文脈で引用されています。

ところがこれは、本当は、
報復感情が強くなり、刑がどこまでも過酷になることを防ぐために、
被害の限度で罰を与えるべきだという制度なのです。

もっともハムラビ法典も、子が父親を打ったときは
この手を切り落とすとあるように
特定の国家秩序を促す条文もあります。

4000年以上前から、国家やそれに準じる組織ができた場合、
私的報復感情に任せるのではなく、
もっとひろい社会秩序の観点から、
一つには、被害者の報復感情を、国家というフィルターを通すことによって、
ソフティケートするという意味合いがあります。
また別の側面では国家の思惑によって刑の在り方が影響を受けていた
という意味合いもあるわけです。

こういう点、特に、冤罪が起こりうることだという
弁護士の実感から多くの弁護士は死刑廃止を主張していました。

しかし、弁護士の中でも
死刑の威嚇によって犯罪から遠ざける効果が期待できるとか
秩序形成に不可欠だというかという理由で
死刑制度の維持を主張していた人も少なくありませんでした。

このため、日弁連は直ちに死刑制度の廃止を主張せずに、
国民的議論が尽くされるまで死刑の執行を停止しよう
という主張にとどめてきました。

確かに今回の反対派の主張のように、
その状況に、特段の変更がないにもかかわらず、
今死刑制度の廃止を主張するということには
やや唐突であるという感じは否定できません。

上げること、上げる内容について、間違っているとは思いませんが、
死刑廃止の運動を日弁連が一丸となって行うという
運動論的観点からは、少しわからないこともあります。

但し、今回、死刑制度廃止に反対した論者の「論理」
にはもっと驚きました。

死刑制度廃止は犯罪被害者遺族感情に反するからというのです。
遺族に寄り添っていないというのです。

反対するなら反対するとしても、
それでは、真犯人ではないにもかかわらず有罪とされ
死刑を執行される人が出てくる可能性があることについて
どのように考えるのかを明らかにしなければ議論になりません。

ここが十分説明されなければ、
遺族が怒りの対象としている人物が真犯人ではない可能性があったとしても、
遺族の怒りを配慮して死刑を執行するべきだということにはならないのでしょうか。
 
 一番の疑問は、そもそもなぜ
「犯罪被害者遺族に寄り添うから死刑廃止を主張してはならない」
となるのかという点です。
そこでいう「寄り添う」とは一体何なんでしょう。

そもそもすべての犯罪被害者遺族が、
むき出しの報復感情を持っているわけではありません。
死刑など刑の制度と報復感情は別意にとらえている方々も多く、
そういう方々が実感としてはむしろ一般的でだと思います。
殺したいくらい憎いという気持ちは当然だと思いますが、
どうしても死刑にしないと気が済まないという方々は本当に多数派なのでしょうか。


もっとも、遺族の怒りを否定する必要はありません。
当然遺族の怒りに共感を示すことこそ必要だと思います。
ただ、第三者の弁護士として、
積極的に死刑にしたいと感情に基づいて動くことは話は別だと思います。
法律家である弁護士が、死刑執行をただ漫然と追随していることは、
本当に寄り添いになるとは思えないのです。

これは寄り添っているのではなく、複雑な人間の感情の
一側面だけをゆがんだ形で助長することにはなると思います。
寄り添いとは、果たして、
相手の表明された感情に無条件に追随することなのでしょうか。
どうして、「あなたが怒りを持つことは当然だ。」
ということにとどめてはだめなのでしょう。

むしろ、被害者としての感情を法律家である弁護士が
無条件に肯定していくことによって、
被害者が社会的に孤立していくことをも助長する危険もあると思います。
そうだとすれば、被害者はますます立ち直れなくなっていきます。
弁護士の寄り添いは遺族にとってもむしろ有害だということになる。

私の周囲にも、あらゆる死亡被害者遺族がいます。
きちんと遺族感情に共鳴共感を示すことによって、
法制度の限界を説明すればそれなりに理解を示してもらえています。
むしろ、事件の社会的背景を一緒に話し合うことによって、
より社会的な視点を持つことができ、
私の被害は私たちの被害であり、
私たちは私たちでなければできない社会的貢献がある
ということを自覚していただくことで、
生きる力を取り戻して怒られる姿を何人も目の当たりにしています。

そしてそれは、私が教えることではなく、
遺族が自ら考え、私が教わることが常のことなのです。
多くの被害者遺族の方々に接しているからこそ
私は、人間の回復力、生命力に感動することができているのです。

寄り添うということは、
できる限りその悲しみや絶望さえも共感し、
被害者の生に意味がある事、被害者の名誉を守るとともに、
遺族を正常なコミュニティーに復帰させる方向での力を
後押しすることだと思います。

そのためには、加害者を全面的に否定することではなく、
加害者を理解し、加害者を弁護する能力が
被害者のために必要だと考えています。 

失敗を成功の母とする弁護人、付添人の役割PMG ( Post-Mistaking Growth ) [刑事事件]

実際によくあるのですが、
被疑者、被告人や、保護事件の少年と話していて
本人から、「逮捕されてむしろよかった」
という言葉を聞きます。

例えば、覚せい剤をやめようとして頑張っていても
どうしても、悪い仲間が寄ってきて誘われる。
誘われると決心が鈍る、断り切れない。

だから、覚せい剤をやめためには、
今は、逮捕されて、覚せい剤や使用者のいないところにいることが
自分にとっては幸いだ。

とか、

どうしても、自分は万引きを繰り返してしまう。
どうしてなのかわからなかった
でも、警察官や弁護士と話して、
落ち着いて考えてみて
自分の気持ちを圧迫しているものがある
ことががわかった。

こういう人たちに協力してもらい、
こういう方法で解決すればよいとわかったから
もう大丈夫だと思う。

逮捕されて、自己破産という制度があることがわかった、
生活保護という制度があることがわかった等

心理面、生活面、刑事政策面など
その人だけでは解決できない外部要因が重なって、
二者択一的な思考、
自分がこれをしたら誰にどんな迷惑をかけるか
自分がどういう立場になるかという
将来的なことを推測する思考が低下ないし停止して
犯罪を実行しているわけです。

もともと、素の状態で
犯罪を行う人はいないようです。
この犯罪に向かわせる外部要因を
「犯罪環境」と言います。

どんなに、反省を口にしても、
この犯罪環境から抜け出さなければ
結局、犯罪に向かってしまうわけです。

改善できない犯罪環境もある場合があるでしょうが、
その場合でも周辺的な犯罪環境を解消することによって
犯罪率は著しく低下するはずです。

失敗をしただけでは、成功にはつながりません。
失敗の原因を正しく分析し、
多角的に分析し、
原因を除去することによって、
その人の成長があるわけです。

逆に、その明確な失敗がなければ、
例えば、万引きを繰り返しても逮捕されないことが続くと、
取り返しのつかないところまで行ってしまっている
ということがあります。

そのためにも、
できるだけ、1度目の失敗は許されてほしいと思います。
もちろん、適切な働きかけを行い、
原因を分析し、対策を講じることのできる
支援者が必要です。
これが弁護人の役割だと思うのです。

気持ちが弱かった
流されやすい性格だった
今度は二度としない
というのが、だめな反省例です。

何の原因も分析されていませんし、
対策も立てようがありません。
どうやって気持ちを強くするのか、
腹筋を鍛えるのとわけが違います。

Post-Mistaking Growth とは、
心理学の用語で
Posttraumatic Growth
トラウマ後の成長
というものがあり、
そこからのパクリです。

対人関係学的労務管理のエッセンスとして
企業研修や、官公署の幹部研修の
最後のところでお話をしているテーマです。

出発は刑事弁護だったわけです。

これは人間の成長の基本です。

だから、夫婦関係、子育て、会社の人間関係にも
もちろん応用がきく話です。

その前提として、色々な不具合を
「失敗」というかどうかは別として
改善が必要なこと
という認識は必須になります。

不具合を隠そうとすることは
成長につながらないどころか
失敗が繰り返されていくということにつながります。

たくさんそういうケースは目にすることができますね。

足立区わいせつ容疑医師逮捕は、連れ去り虚偽DV(警察関与型)と構造が類似している可能性がある [刑事事件]

5月に、全身麻酔で手術をしたのちの女性患者に
わいせつな行為をしたとして、
足立区の病院の非常勤医師が警視庁に逮捕され
NHKを初めてとして実名報道がなされ、
病院の写真までテレビで流された。

虚偽DV事件で、子どもへの些細な懲戒を
重大事件のように扱い逮捕され、
性的虐待も取り調べると報道され、
職場まで撮影報道された事件を
ありありと思いだした報道だった。

舞台となった病院の見解はネットで見れる。

「警視庁による当院非常勤医師逮捕の不当性に抗議する」
http://yanagihara.kenwa.or.jp/statement.html

これによると、
女性の訴えは、術後35分の間に行われている。
従って、わいせつ行為もそれまでになされなければならない。

その部屋は4人部屋で、他に3人の患者がいた
看護師が頻繁に出入りする部屋だった。

女性患者は、翌日に、次回の予約を入れた。
予約通り二週間後に診察を受け、また予約を入れた。

病院も調査を行い、わいせつ行為は物理的に不可能である旨
調査記録、診療録等を警察に提示した。

2か月間そのようなやり取りを経て
所轄の千住署からは何の連絡も来なくなった。

そうしたところ、手術から3ヶ月を経て、
女性の供述に信ぴょう性があるということで、
突然逮捕に踏み切った。
それも千住署ではなく警視庁がである。

客観的に犯行を実行することが不可能であるにもかかわらず、
どうして、女性の供述の信ぴょう性が高いのだろうか。
腑に落ちない。

それにしても、事実関係に目をつぶって、
「被害」を主張する者の言い分にのっとって、
相手を逮捕してしまう。
そして実名を公表する
という手法は、この間何度も見ていることである。

報道機関は、内規があり、
警察の逮捕発表は、必ず報道することになっているそうだ。
警察は、報道をすることを予定して発表していることになる。

世論は、医師の立場を利用して患者という弱い立場の者に悪さした
というシチュエーションに飛びつき、
警察を支持するだろうという読みはあったと思う。

ところが、マスコミも、微妙に今回の報道は
ニュアンスを伝えてきていた。
続報をいち早く打ち、疑問があることを印象付けた。

これは、当該病院である柳原病院の
上述のコメントをいち早く公開したことによるもので
ファインプレーである。

これを読めば、今回の逮捕は不当であると感じざるを得ない。

問題はここからである。
警察を非難していても始まらない。
もっとも、逮捕状を出した、裁判官こそ注目されなければならないと思われる。

問題は、なぜ、警視庁(県警本部の東京版)ともあろうところが、
不必要な逮捕に踏み切ったのかというところにある。
しかも、逮捕の根拠は、「被害」を訴える
女性の言い分だけだという。

これは、先日アップして、数日間で何百人という方にお読みいただいた
「子どもの連れ去りDVが多発している。警察の違法、通達違反の民事介入」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-08-23
という記事に書かせていただいた事案と似ている。

妻の言い分だけで、夫のDVを認定し、
夫を警察署に連行して、暴力を振るわないという誓約書をかかせ、
妻や子どもを探さないと誓約させ、
妻の居場所を隠す。
そして、重要なことは法律や通達で、
このような警察官の支援措置は、
身体暴力があった場合に明確に限定されている
それにもかかわらず、これに反して介入している
という事案と似ている。

もしかすると、
今回の事案も、
「被害者に寄り添う」ということを旗印に、
法律の厳格な執行よりも、
「女性保護」を優先させたのではないかと
そのような危惧をしている。

この場合の女性保護は
女性を保護することではなく、
男性を制裁することである。

警察官と直接話をしたが、
「法的根拠がなくてやっているわけではない
 25年12月20日付の通達も
 変更されている可能性がある。」
というのである。

しかし、そもそも身体的暴力に限定するのは
法律で定められていることであり、
法改正はなされていない。

警察庁生活安全局に確認したが
25年通達も改められていないとのことだった。
(お忙しい中、調査確認の上のご回答いただきありがとうございました。)

要するに、日々の研修の中で、
通達が改正されたような錯覚を現場の警察官が
持ってしまっているということが重大な問題である。

通達を知らないで権力を行使していることもおそろしい。

一般市民の行動の範囲で、合法的に
女性の権利を啓発するのは何ら問題ないが、
自らが国家権力の行使という、強大な力で
一般市民の活動の自由を実質的に奪っていることに
恐れを抱かないということは、
基本となる警察官職務執行法も理解していない
といわざるを得ない。

そうは言っても、警察官になろうという方々は、
正義感にあふれ、人情味のある方々である。
そういう意味で、現場の警察官の方々は
とても親近感がある。

わが事務所は、警察官、自衛官、消防官
ご家族、ご遺族の方々は、初回相談無料としている。
体を張って、住民、国民の安全を守ろうとする心意気に賛同しているからだ。

だからこそ、
そのような警察官の正義感を操作するものの正体を明らかにして、
無茶な活動をさせることをやめていただきたいと強く思う。

おそらく一つの要因として統計があるのではないかとにらんでいる。

DV女性支援の類型別の件数を報告させられれば、
数字が上がらなければ、数字を作りたくなるのが人情である。
もっともそのような統計は、数字を増加させる狙いももちろんあるだろう。

もしかすると、そんな数字のために、
一人一人の平穏な暮らしが破壊されているかもしれないのだ。
善良に社会生活を送っている男性が、
あるときは、女性加害ということで逮捕されさらされて
職を失い、
妻子を失い、
不合理なしうち、孤立無援感、解決不能感等から
世捨て人のようになったり、自死をしたりと
その人の人間としての生を否定することになっているのだ。

数字のために、生身の人間の人生が
台無しにされているとしたら
とてもやりきれないことである。

本事件については、
裁判所が勾留決定しないことを切に願う。

相模原事件において、彼が人を殺せた理由と相手が障害を持った方という理由について事後的プロファイルをするべきだ [刑事事件]

犯人の弁護を目的とはしていません。
もちろん刑事責任能力について言及するつもりもありません。

ただ、異常な犯罪であることは間違いないところです。
ただ、ただ、精神異常者の犯罪ということで
一件落着にしてよいのか、そういう問題なのか
ということを考えてみたいのです。

圧倒的多数の精神病患者は、
犯罪を実行しません。
こことだけから見ても、
彼の特殊性を研究するべきです。
彼の特殊性とは、彼の成育環境と
近時の出来事
その中で、彼が、
人間が大事にされなければならないという気持ちが
薄れていく事情がなかったか研究することです。

あくまでも、将来にむけて
類似犯罪を防止することが目的です。

最近テレビドラマでもプロファイリングが取り上げられています。
犯人が不明である段階で
犯罪の手口や被害者、場所、時刻その他の事情から
人間の行動傾向に照らして
犯人像を絞り込んでゆき、
捜査対象を狭めていく操作技術のことです。

対人関係学においては、事後的に、
犯人のこれまでの状況を調査し、
彼が犯罪になじんでいった要因を検討します。
人間には生まれながらの犯罪者はおらず、
環境的要因から人間は大切にされなければならないという意識が磨滅していき、
他人に対しての配慮もしなくなって、
犯罪を実行「できる」と考えます。
犯罪になじむ要因を「犯罪環境」と言っています。

犯罪環境とはどのようなことかというと
人間が迫害を受けても平気になる環境です。

人は、もともとは、他人が攻撃されていても
可愛そうだと思ったり、むごいことだと傷ついたりします。

ところがこれが続くと
毎回心を痛めることに抵抗が生じてしまいます。
精神的苦しさを継続することは当人にとって有害なので、
ストッパーがかかるわけです。

どうやってストッパーをかけるかというと
無意識ですが、
人間が大切にされなければならない
という感覚をすり減らしていくことによって、
ひどい目を見ても、
心を痛め亡くなっていくという仕組みです。
つまり、馴れるということです。

しかし、それが続いていくと
自分自身をも大切にしなくなり、
犯罪を実行したり、薬物などに手を出して
自分の体が傷つくこともそれほど気にしなくなってしまいます。

では、どうやってなれるかですが、
一つは、もちろん、自分が大事にされない体験を重ねていくことです。
自分が不合理に傷つけられることは、
頭の中で合理化していくことは難しいです。

侵害から回避する方法がないという絶望をかんじることは
人間に限らず、生きていくための支障になるようです。
そのため、人間はそれほど大切にされなくてもいいとか
自分が悪いとか
そういうギリギリの自己防衛反応が心理的に起きるようです。

もう一つは、他人が迫害される場面を見続けることです。
どうしても共鳴、共感してしまい、
精神的苦しさを回避しようという防衛反応を
起こしてしまう。
これを回避するためには、感情を失わせる
という手段にでてしまうようです。

大事にされるとか、尊重されるということの意味は
仲間扱いされるということです。

欠点や、弱点、失敗等について
責められらない、馬鹿にされない、許される
あるいは、補ってもらえる
ということととらえてください。

彼が、どのような犯罪環境にいたのか
刑事裁判終了後も調査するべきです。
被告人に、強制労働なのか、予防調査の対象となるか
選択できる制度を作るべきだと思っています。


次に、彼が、なぜ重度重複障害を持たれた方を対象としたか
という問題があります。

怒りがなぜ、彼女らに向かったかということです。

但し、彼の手紙などを字面に逐一反応することに意味はないと思います。

怒りは、その原因(自分を不安にさせた原因)には向かいません。
勝てると思う相手に、通常怒りは向かいます。
要するに、怒りの多くは八つ当たりということになると思います。

自分の何らかの不安を自分より弱い、無抵抗なものに対して向ける
ということは、いじめやパワハラの構造と同一です。

この場合何らかの口実を作りますが、
怒りの対象が定まった後になってしまえば、
自分の攻撃を正当化するだけですから
そこに意味はないわけです。

自分より弱い者を見つけて
自分が弱い者を支配することで、
自分の不安をしばし解消する
これが現代型怒りといえる現象です。


だからこの事件で気になるのは、
障碍者差別の言動ではなく

むしろ、ゆがんだ共感を示しているような点です。
障害者の苦しみ云々という発想が出てくるところです。
もしかすると、自分のおかれた疎外された状況と
障害を持った方々とを重ね合わせた節はないか
彼が働いていたとき、
入所者はどのように扱われていたのか
というところに注目したいのです。

もっとも施設が、入所者を不適切に扱った
ということを想定しているのではありません。
彼が、どこかに、敏感に反応性ていたのではないか
自分と重なり合うところを見つけてしまったのではないか
ということを調査するべきだと思うのです。

彼自身が人間性を失っていく過程を
細部にわたり調査しきって、
検討を行い、
間違っても類似事件が起きないように
しかるべき措置を取るべきだと思います。

対人関係修復士という仕事 対立から関係修復へ4 刑事弁護 [刑事事件]

刑事事件は、被告人が、国から裁かれるので、
一見対人関係修復士の仕事はないようにも思われます。

しかし、対人関係学の出発点は、
刑事弁護かもしれないと思っています。

刑事事件の圧倒的多数は、偶然起きているわけではありません。
加害者の多くが、突然加害行為を始めるわけでもありません。

これは、情状弁護論という体系があるのですが、
その中で、「犯罪環境」という言葉を使って説明しています。

即ち、人間は、通常は、社会と協調して生活していくようにできています。
しかし、自分が尊重されないという認識が蓄積していくと、
協調することに価値をおかなくなっていきます。
犯罪を実行してしまう敷居がどんどん低くなっていって、
抵抗がなくなってしまい、遂には実行してしまうわけです。

このような、マイナス環境を犯罪環境と言っています。
被告人が再度犯罪を実行しないためには、
被告人に、自分自身の犯罪環境を自覚してもらい、
そこから離脱してもらうことが必要です。

逆にそうすることによって、再犯の可能性が低くなります。

被害者に弁償をするということも、その一環です。
疎遠にしていた親と連絡を取り、支援をもらうということも活動の内容となります。
そのためには、相互理解が必要ですが、
そのお手伝いをするということも多くあります、。

だから、対人関係学的刑事弁護、情状弁護論は、
少しでも刑を軽くするという目標は立てません。
あくまでも、その加害者の再犯の防止が目標です。

そのためには、反省のお手伝いということも
大きなウエイトを占めています。

犯罪をするような環境を改善することが目標です。
対立的な刑事弁護ではなく、
検察官や裁判官にも協力してもらい、
加害者のこれからの人生を
生まれてきて良かったと思えるようにすること
これが目標です。

これが十分行うことができれば
結果はついてくるものです。

台東区主婦死亡事件は、本当に高1娘による殺人だったのか?捜査側が立証するべきこと [刑事事件]

具体的事件に対する言及は、
通常は行わないのですが、
断定抜きに疑問という形で
取り上げさせていただきます。

先日、台東区のマンションで、
40代の主婦がソファで死亡していた
という事件がありました。
高校生の娘が通報し、
警察が駆け付けたところ
近くにタオルがあって
首を絞められたような跡があったとのことでした。

その死亡推定時刻ころ
第三者の指紋がドアノブについていないということで
同居の高校生女子が、
殺人容疑で逮捕されたという報道がなされました。

高校生女子が殺人罪となるか否かは
裁判で決められることですが、
殺人罪というのは、ハードルが高そうです。

第1に、
殺人だとして、凶器は何かということです。
もし、タオルだというのならば
少し無理があるかもしれないと思います。

タオルの幅や材質、長さにもよるのですが、
普通の手ぬぐいの大きさのタオルであれば、
人を殺すことはかなり難しいと思います。

太過ぎて首を絞めるのが大変だ、
短すぎて、握力だけでタオルをつかんでいたとしたら
高校生女子の握力で絞められるだろうか
ということです。

当然、主婦は抵抗をするでしょう。
その抵抗を制して
握力だけで首を絞めて殺人を完遂できるのでしょうか。

第2に、主婦が抵抗したのならば
何らかの抵抗の後が
犯人や、被害者の爪に残るはずです。
それは残っていたのかどうかということです。
それが残っているのならば、
警察は、わざわざドアの指紋を報道機関に流すことをせず、
(あやふやな状況証拠ですから)
確かな証拠があると説明するでしょう。

第3に、主婦が抵抗できない状態だったとしたら
睡眠薬を飲んでいたとか、泥酔していたとかですね。
そのようなものが、死体から検出されたでしょう。
死後、24時間立っていないのだから
検出されると思います。

そのような報道もありません。
(報道機関に発表していないだけかもしれません)

第4は動機です。
自分の母親を殺すということは
母親側の行動か、本人の心理状態に
極めて大きな特徴があるはずです。

しつけが厳しすぎた
という報道がなされ、
あたかも、それが殺人の動機のように言われていますが、
通常の虐待が、
殺意を育むということは、いくつかの条件が必要なようです。

虐待の結果、
家族以外の、友人や恋人との
コミュニケーションに重大な支障が起きていることです。

親が厳しすぎたらから殺したというのでは
あまりに短絡的です。
高校生女子は否認しているとのことです。
根拠のない結びつきのほのめかしということになれば、
治安維持に逆行する
無駄な不安を蔓延させることです。

この情報源は、
1 逮捕までの経緯が極秘に行われたこと
2 逮捕直後の報道であること
からすると、
ある程度、警察の捜査に基づいていると思われます。

本当にマスコミは、自分の足で裏を取ったのでしょうか。
この点が、かなり心配なところであり、
注目したいところです。

確かな事実関係、
具体的な事実関係
情報源が
明らかでない段階で
朝のワイドショーが行われます。

エログロナンセンスで
興味本位で、
警察発表を裏をとらずに前提にしたコメントを見かけたら
カストリマスコミ
と批判するべきだと思います。

端的に、事故死や自死の可能性を追及するべきです。

自死というとそれこそ不可能に思われるでしょうが、
多くの自死、特に縊死は
足の届くところで行われます。

強固な、生の放棄が感じられます。

兵庫県の、
疑似家族の連続殺人事件の主犯容疑者は
留置施設の中で、
同室者がいるにもかかわらず
知られないように自死を遂げています。

このような強固な意志があれば、
タオルで自死することがむしろ可能かもしれません。

人前で娘をきつく叱ったり
虐待ではないかと通報されたりしたということが真実なら
この主婦は、不安を強く感じやすい状態であることを示しています。

そして、ここでこういう行動をしたならば
例えば、娘の顔がつぶれるとか
近所から異常に聞こえる
ということを、冷静に判断できないという
心理状態が続いていたことを示しています。

ドアノブに、娘と二人分の指紋しかついていない
ということと関連して、
主婦の側の置かれた状況をきちんと調査するべきです。

素朴な疑問として、
もし高校生女子が母親を殺したとしたら、
自分で通報した上に、
凶器ではないかと思われるタオルを
そのままにして警察官を読んだということが
引っかかるところです。

じけんのあった2月から5月まで
任意で取り調べをしていたのでしょうが、
真犯人が高校生でありながら
自白をしていないというのであれば
よほどのことがあったものと思われます。
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