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離婚事件弁護士が感じた議会制民主主義に対する勘違いと共謀罪成立過程 [弁護士会]

離婚事件を多く扱っていると、
自分のことを反省しながら考えることがあります。

最近の家庭では、
大人が、「わざと負けてあげる」
という美徳が無くなったように思うのです。

自分の小さい時を考えると、
父親がわざと相撲で負けてくれて、
「ようし、がんばるぞお」という
やる気が出たように思います。

今の大人たちは、
わが子に対してもムキになって
「負けまい」と本気になってかかっている
ということはないでしょうか。

どこから来るのかわからない自信、
なんとなかるんじゃないかという根拠のない楽観論は
人生の節々に必要だと思うのですが、
案外、そういう親子間の八百長相撲から
来ているということはないでしょうか。

夫婦においても同じです。

どうでもよいこと、つまり
家庭生活が快適に、楽しくなるような方向に
一切関係のない自分のこだわりを
相手に押し付けてしまう
ということが、
相互の理解を奪ってしまい、
無駄に家庭を暗く息苦しくしていることがあるようです。

「自分は」こうしたい、こういう風にするものだと思っていた。
「相手は」それをしない。
あたかも、それをしないことが人間として劣っているように
無駄な攻撃をしているようです。

こういうことがなぜ起きるのかというと、
第三者から見ればですが、
自分をそうやって守っている
という意識をビンビン感じてしまいます。

自分の発言を受け入れてもらえないことが
自分が否定されているという気持ちに直結して
自分を守ろうとして声が大きくなったり、
トーンが高くなったりしているように感じます。

例えば、カーテンの選び方ひとつをとっても、
例えば妻が選んだカーテンには、
良い面(デザイン、価格)もあれば悪い面(遮光)もあるのに、
悪いところだけ述べて否定する
という具合です。

「このカーテンどうお?」
「光を遮らないからだめ。」
という会社の決裁者みたいなことを言っていれば、
家庭というほかに逃げ場を作るべきではない空間においては
大変息苦しくなるに決まっているわけです。

「このカーテンどうお?」
「値段は手ごろだね。デザインはあなたに任せる。
 ただ、遮光性が弱いということが気になりはするね。」

という「問題の所在」を提起することによって、
「じゃあ、カーテンでなくて
 こちらの売り場に同じデザインのこれがあるからこっちにしようか?」
「ああ、いいねえ。」
となるわけです。

デザインという、なんともいえることを肯定されることは
二人の親近感を増大させるわけです。

効率を考えると
最初の妻の提案したカーテンを否定する
という結論だけ提示すればよいのでしょうが、
それは「家族」ではないと考えることはできないでしょうか。

まあ、そこは別の機会に。

こういう風に、結論を押し付け合うのではなく、
問題の所在を出し合って、
より良い方法を編み出していくということが
実生活ということなのだと思います。

離婚事件から学んだことです。

夫婦の中で無駄な対決姿勢が多いのは、
一つに、どうすれば、ケンカをしないで
相手の提案を修正することができるのかということを
学んでいないために知らない
ということが多いように思います。

もう一つ、防衛意識が高くなりすぎているということですが、
家庭内の防衛意識というよりも、
職場や学校などで、
「自分を守らなければ、自分は組織からはみ出してしまう」
という危機感での行動が、家庭でも続いているように感じます。

全面的に否定しないでよいところを評価してから
否定的部分を提示するという
「部分的承認の技法」とか
相手に修正を提案する時
価値的な表現を使わない
良い、悪い、正しい、間違っている
等という「価値を込めない技法」
等を意識的に使っていって
否定や提案によって
「自分が否定された」、「仲間として認められない」
という工夫が必要な気がします。

そういう職場や学校の風潮だけでなく、
やはり、国の手本であるべき
政治の世界の幼児性が
夫婦に反映しているという側面があるのではないか
ということが本記事のテーマです。


よく見る勘違いとしては、
民主主義=多数決
という技術的な問題に還元してしまっている議論です。

これが、大統領に強い権限を与えて
議会を形骸化したり、無くしたりする
ということであれば、
民主主義=多数決で、
選挙で投票を獲得した者の意見を
最優先するということになるのでしょう。

ところが、わが日本国の民主主義は、
「議会制」民主主義なのです。
確かに首相は議会が選任するのですが、
それで議会の役割が終わるわけではありません。

議会によって、
内閣の提案を否定したり、修正することが
予定されているわけです。

これが予定されていないけれど
選挙によって行政を選び
行政が多数意見として強力に国家を動かしていく
というのがファシズムです。

選挙という過程が存在しないのは
ボナパルティズムといいます。
ナポレオン式ということですね。

日本はこれらの独裁制度をとらず、
議会制民主主義をとっています。

全権を内閣に委ねているのではない
ということは異論が無いところでしょう。

また、議会制民主主義をとる以上、
内閣の決定だけで国家運営ができず、
摩擦が生じるという
効率性から見た場合のデメリットがあると思います。

そのデメリットを補うメリットがあるから
デメリットに目をつぶるわけです。

それは、内閣の提案した行政的な必要性を
様々な視点から検証して、
より良いものに高めていく
ということを期待したからなのだと考えるべきだと思います。

要するに、議会制民主主義は
〇か[×]かという二者択一的な議論を予定していない
ということだと思います。

そうして、相互に譲り合い、より良いものにするためには、
提案者も否定者も
メリットデメリットを提出しあい、
問題の所在を明確にして、
その点に対する見解を鮮明にすることが
不可欠のことなのです。

議会という開かれた決定過程は、
この問題の所在を透明にすることによって、
国民の判断を容易にして、
国民の代表である議員の
態度決定に影響を与えるという
もう一つの民主主義のメリットを呼び込みます。

従って、国会の重要法案の審議は、
本来、何事にも代えて、中継をし、
公平な解説が加えられなければなりません。

本来、反対、賛成の前に、
この問題の所在が明らかにされるべきで、
そうでないと、どの部分にメリットがあり
どの部分にデメリットがあるのか
全くわかりません。

理屈の上では反対もできないことになりますが、
国民の権利が制限される可能性があるということであれば、
賛成することができないということになってしまいます。

どんな法案も、予算も
メリットがあればデメリットがあります。
メリットだけを言う議論、デメリットだけを言う議論は
あまり信用するべきではないということになります。


共謀罪という重要法案であるにもかかわらず、
実質的に問題の所在を出し合う議論が求められ、
実質的な立法過程の透明度が要求される
委員会での議論が尽くされなかったということは
議会制民主主義の根幹を揺るがす
ということになることを
つくづく感じたわけです。

こういう国会の状況が
国民の夫婦問題などに暗い影を落としている
という感想を申し上げた次第です。

ところで、憲法違反の集団的自衛権が法定された理由 [弁護士会]

集団的自衛権という言葉、
今年はあまり聞こえてきませんが、
PKOは容赦なく始まりました。
法律は通っちゃったわけです。

どうして明らかな憲法違反の法律が通るのか、
刑法に矛盾するうえ大義名分のないカジノ法案が
成立しそうな状況で気になり始めました。

いろいろな問題点があるのですが、
現政権を批判してばかりでは次につながりません。
憲法秩序という国の秩序を維持する側としては、
自分たちの行動の修正を検討することによって
あすにつながると思っています。

<戦争法案というネーミング>

一つの切り口として
「戦争法案」というネーミングに
問題の所在があったと思います。

もちろん、戦争法案というネーミングは
戦争反対を主張する人たちをひきつけた功績もあると思います。
若者たちの政治参加を実現したワードだったかもしれません。

ところが、冷静に見ると、
実は戦争に賛成ではない人たちを
ひきつけることはできなかった要因があると思います。

理念的に抑止論や自衛のための戦争論を否定したとしても、
現実の日本の有権者の多数は、
中国や北朝鮮の軍事的脅威、あるいは、もっと漠然と
何も防衛手段を持たないことの不安を感じている
ということを認めなくてはなりません。

この絶対的多数派である素朴穏健派は、
「他国から攻め込まれたらどうする」
という問題提起には逆らえないという
心理的事情があります。

さらに、政権側は、
当時の防衛法である
周辺事態法の存在を意図的に隠し
「集団的自衛権を法制化しなければ
 他国やテロの餌食になる。」
というキャンペーンを張ったわけです。

これに対する正しい回答は、
「周辺事態法、日米安全保障条約の下
 自衛隊を主体として祖国を防衛する手段は
 すでに整備されている。」
というものだったのです。

「だから、それを超えて海外での戦争に加担する
 集団的自衛権は必要ない。」
という論理の流れであれば、
穏健的多数派も納得してくれていました。
あれ?集団的自衛権って何?
と疑問を持ってくれていたのです。

ところが、政治家たちは、
政府キャンペーンに対して
侵略はされないとか
自衛のための戦争などない侵略戦争の口実だ
というだけで、
素朴的穏健派とのコミュニケーションを
自ら断ち切ってしまったわけです。

集団的自衛権に反対すればよいのに、
戦争反対の主張を繰り返し、
まんまと政権のキャンペーン戦略に
はまってしまったのだと思います。


<こちらこそ体制派>

素朴的穏健派は、
安倍首相を支持するというより
現在の体制を維持しようという
群れの論理で動くわけです。

あの時、何も戦争反対の持論を
主張するべき政治的情勢ではなかったのです。
むしろ、歴代の自民党政府を支持する
という態度を鮮明にするべきだったともいます。
われらこそがトラディショナル日本政治だとして
安倍政権こそ、異端であると
錦の御旗を奪うような戦略が
必要だったのだと思います。

論点がずれていたわけです。
また、日本多数派である
素朴的穏健派を見ていなかったのだと思います。

<エリート意識による多数派否定>

正しいことを言っている人たちは、
言わない人を間違っている
あるいは劣っているという態度を示します。
当時、自民党に賛成するなんて、

「騙されている」
「民主主義が育っていない」
「民度が低い」
というような表現をしました。

一般人はそれを聞いて
鼻もちならないエリート意識で、
「自分たち」を馬鹿にしていると
感じないわけはないのです。

ちょっと考えればわかることです。

どうせ意見を押し付けられるなら
民間政党よりも
政府の立派な人たちの意見を聞いた方が
現状維持ができる、
だって、今までそれでやれてきたのだから
という意識に誘導されるでしょう。

これは、長年来言われ続けてきたことですが
一向に改まりませんでした。

<過激表現>

この絶対的多数派である素朴的穏健派の
行動原理は、
争いを嫌うということです。

相手の人格を攻撃することはもっとも嫌います。

「死ね」等と言う言葉がプラカードにかかれている以上
一緒にされたくないという気持ちが先行してしまいます。
ヒットラーの顔になぞらえだコラージュなど
もってのほかということになります。

商業用ポスターにさえ黒マジックでひげを書き足しても、
喜ぶ子どもは少数です。
別にファンではなくても不快に思うのです。

アメリカでだれが大統領になろうとも
日本では通用しない手法です。


<対立と統一から弁証法的運動への転換の必要性>

どちらが正しいかという対立構造の
対立軸を間違ったのは反対派の方でしたが、
間違った対立軸のままで、
対立感情だけがあおられていきました。

これによって、絶対多数派である
素朴的穏健派は引いて行ったわけです。


その一方で
無理な統一行動の中で、
理性的保守派も
戦争反対の声の中で、
自分たちの主張、
素朴的穏健派が受け入れる主張を
ひそめるようになってしまいました。

1+1が3にならず、
1.2くらいにとどまってしまった要因です。

全体的な流れの中で、
自分たちのやり方を貫きつつ、
どこの運動体を大きくするかという視点で、
戦略的に行動をするべきだったと思います。

理性的保守派が運動基盤を持たず
人が好過ぎたということがあだになったと思います。

そういう情勢であれば、
理性的保守派を、
自陣の体制を縮小してでも
テコ入れをするべきだという発想を
今後は持つべきだと思います。

意識的ではないけれど
党利党略を優先させてしまう本能に
逆らえなかったという視点を
持つべきだと思っています。

正しい、優越している、合理性がある
という意見の統一を試みる精神活動から
相手のニーズ、感情にあわせた主張を展開する
それぞれが、それぞれの持ち場に応じて
お互いを殺さないで活かしていくという
弁証法的行動療法や
オープンダイアローグという
心理療法が参考になると思います。




今沖縄県高江で起きていること 森住卓氏の写真に寄せて 機動隊の若者のメンタルと [弁護士会]

うかつでした。
ずうっと、インターネットでボーっと写真は見ていたのですが
辺野古の問題だろうと勘違いしていました。

「やんばるに生きる」で知られる沖縄県高江で
いまヘリパットの基地建設が強行されています。
ヘリパットは、オスプレイの離着訓練をするそうで、
騒音、低周波、墜落の不安など
人が生活できる環境ではなくなる可能性があります。
(柔らかく表現すれば)

このことに気づかされたのは、
フェイスブックに投稿された森住卓氏の写真でした。
プロの著名なカメラマンで、
http://www.morizumi-pj.com/
誰しも一度はその写真を見ていると思います。

この方の写真が、圧倒的でした。
160人の集落に終結した1000人の機動隊
外部からの侵入を阻止するかのような
道路を遮断する検問
人が人として扱われず、
排除の対象物とされている様子
その悔しさや切なさ、しかし希望を失わない目の光

異様な状況もさることながら、
森住氏の透徹した視点に感銘を受けます。
すさまじい状況の中で息づく
人間の心がしっかりと映し出されていました。

ぜひフェイスブックで検索してご覧いただければと思います。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ce828b3e154d379bc84e0334472a6e63
(検索の仕方が良くわからないので、貼り付けがあったブログ)

上記ブログでは張り付けされていなかったのですが、
私は、機動隊の若者たちの表情に目が釘付けになっていました。

そこには、日本人の警察官が、日本人の無抵抗な住民たちを
力づくで排除しなければならない役職を遂行する
人間の目がありました。

いじめの講演や人権教室でよくお話をするのですが、
人間が尊重されていない出来事、
人間性が傷つけられている出来事を
目撃してしまうと
人間は、無意識、無自覚に
いやな気持になります。

これは人間が群れの一員として生きながらえるための
遺伝子上のシステムです。

自分も苦しくなるのです。
加害者も苦しくなるのです。

そして、それが繰り返されると
そのたびに苦しむことは、生きていくために有害であるため
これも、無意識、無自覚に反応として、
苦しまないようにする装置が働きます。

だんだん、人間を尊重する、大事にする
という意識を弱めていくわけです。

こうやって、共鳴、共感が起きてしまうことを防ぎます。
一言で言うと
自分の人間性をすり減らしていくわけです。

これは、他人を尊重しないということだけではすまないことに
注目するべきです。

およそ人間、自分を含めた人間一般を
大事にしなくなるという効果が出てしまいます。

するとどうなるでしょう。
自分を大切にしないと
好奇心で覚せい剤や危険ドラッグに手を出してみようとするわけです。
自分を大切にしている人は、自分を廃人にする危険に手を出しません。

犯罪行為をするようになります。
人間を大事にする人は
他人が苦しむことに抵抗があります。
人間を大切に考えている人は
自分を貶める犯罪行為をすることに抵抗があります。
その抵抗がなくなってしまうのです。

家族も大切にできなくなります。
なにか、外の規範を優先させたり
効率や利益を優先させたりして
相手の気持ちを尊重するということをしなくなります。
相手の顔をつぶすということに抵抗がなくなります。

最終的に孤立します。
それでも、普通は死ぬことが怖いから
自死には至りませんが、
人間は大切にされなければならない
という感覚が薄れる効果として、
命の重さを感じなくなるので、
死ぬことへの抵抗がだいぶ下がってしまいます。
自死に近づいていくわけです。

森住氏の写真は、
今まさに、人間性が傷つけられていっている
現在進行形の心の動きを
機動隊の警察官の目に見事に映し出しています。

排除されても、その力、輝きを失っていない
高江の住民の瞳とは好対照となっています。

あえて、機動隊の警察官に対する視点から
お話をさせていただきました。

日本人の警察官が、日本人の老人や子供を含む住民たちを
無抵抗の状態から排除する
大勢を取り囲んで排除するということが
厳然とした事実として行われています。

そのすべての人たちが傷ついているのです。
しかし、沖縄のマスコミ以外
ほとんど報道がなされていません。

スマホのアプリがそれほど報道価値があることなのでしょうか。
読者の興味、売り上げしか興味がないなら
戦後のカストリ雑誌と大差はないでしょう。

これは、実は沖縄だけでなく、
東北の宮城県の問題でもあります。

福島原発の放射能にまみれた
放射性廃棄物の最終処分場の建設地として
宮城県の山間部が候補地となっています。
住民たちは反対行動に立ちあがっていて
昨年度においては、国は調査を断念しました。

しかし、高江が前例となれば
今度は宮城県の山間部にも
東京や神奈川県の機動隊員が退去するかもしれません。

まさに他人ごとではないのです。

反対、賛成、いろいろあるかもしれません。
いろいろな要素を考慮しなければならないかもしれません。

しかし、その方法も含めて
公にさらして、
わかりやすく説明し、議論して決めていくべきです。

国の強権が、隠密裏に人権を侵害していくことを
前例としてはいけないと強く訴えます。

安全保障法制(押し付け法制)成立 されど歴史は前進した。さらなる高みを目指しましょう!憲法復活の日は、国民の手による本当の憲法成立の日 [弁護士会]

安全保障法案が成立しました。
しかし、字面が変わっただけで、
まだ、日本は何も失っていません。

むしろ、日本国民は
安全保障法案に対する戦いによって、
歴史的な成果を勝ち取ったと思うのです。

1 個人の確立による共闘の歴史的成立
2 政治的意思表明の経験
3 「アメリカ」と日本の関係の鮮明化
4 これからの行動の方向

1 個人の確立による共闘の歴史的成立
 何よりも、日本の市民が、
 自分の皮膚感覚で政治的な行動を行うようになった
 それが普通の人がやっていることだととらえられるようになった
 ということは画期的だと思います。

 組織に属しているから仕方なく
 半ば命令されて動くのではなく、
 それぞれが、自分の皮膚感覚で行動する
 という経験を直接間接体験しました。

 自分の意思で、行きたくて集会に行き、
 言いたいことがあるからシュプレヒコールをする
 中身にはいろいろ注文はありますが
 これまでの日本では多数派とは言えない活動だったと思います。

 その結果、創価学会員が公然と公明党を批判する
 という象徴的な出来事につながりました。

 これまで、引っ込み思案だった
 学者や元裁判官まで声をあげました。
 自民党OBや官僚OBも声をあげ
 現政権の誤りが際立ち、
 国民を励ましました。

 その成果の一つが野党共闘です。
 民主党と共産党が共闘すること自体驚きですが、
 維新の党と共産党が手をつないだのですから
 歴史は動いているのです。
 しかも、橋下、松井が
 その役割果たすべく、共闘分断工作をしたにもかかわらず
 国民の圧力によって、
 それぞれの党は譲歩し、共闘を解かなかったのです。
 「次の多数派」の受け皿ができつつあるわけです。
 小林節先生の、
 共産党を排除してはいけない
 共産党は少し我を押えなければいけない
 というスピーチが印象的でした。

 小林先生もそうですが、
 長谷部先生だって、
 安全保障法案の議論をするまでは、
 政権側の人間だという評価だったのですから、
 実に今回の出来事の象徴的な人物だと思います。

 私の周りでも終盤
 集団的自衛権そのものに疑問を持ち、
 法案反対を声に出す人たちが増えました。

 いつもの人たちがいつものように意思表明していたのではなく、
 これまで黙っていた人たちが、具体的に声を出すようになりました。
 原発問題にもないことでした。
 
 今、日本には北風が荒れ狂っているわけですが
 国民は共闘というマントを
 しっかりと握るようになったわけです。
 
2 政治的意思表明の経験
 
 自分の皮膚感覚を言葉にするということは、
 多方面に影響が出てくるでしょう。

 事なかれ主義、協調主義で成り立っていた
 職場、地域、学校などの対人関係で
 自分の気持ちを言葉にするようになるでしょう
 混乱も生じるかもしれません。

 やがて、これは対人関係の良好な発展に
 大きく寄与するでしょう。
 言葉の出し方を学んでいくことが必要となるでしょう。

 原発問題やTPP、教育問題や食糧問題、
 年金問題や財政問題
 あらゆる分野で声を上げた経験が
 活かされるようになるでしょう。

 日本は近代がないといわれています。
 市民革命を形成していないことが
 日本人気質に影響を与えているといわれています。
 メリットもデメリットもあったと思います。

 しかし、今回の安全保障法案反対の活動は
 日本の近代を獲得する
 大きな可能性を秘めていると思います。

 トップの誤りを是正して、
 協議して最善にたどり着くということが
 国の隅々で起こり始めるでしょう。
 
3 「アメリカ」と日本の関係の鮮明化

 今回の議論を通じて鮮明になってきたのは、
 日本と「アメリカ」の関係です。

 憲法に反する安全保障法案は
 日米安全保障条約には合致するわけです。
 日本には、憲法を頂点とする法体系と
 日弁安全保障条約、日米地位協定、安全保障法制と連なる
 憲法体系とは別個の統治の体系があることが
 国民の間にわかりやすい状態にさらされました。

 また、共産党が暴露したアメリカ国防省から
 集団的自衛権の法律はどうなったという催促話や
 所管大臣である防衛大臣や
 最高責任者である総理大臣が
 法案の必要性、文言の意味、射程範囲について
 まるで説明できないことから
 日本政府が策定した法律ではないことが明らかになり、
 案文自体が
 「アメリカ」から押し付けられたことがはっきりしてしまいました。

 安全保障法制の議論がなければ
 漠然としかわからなかったことが

 山本太郎議員の質問も役割を果たしたのですが、

 創元社の戦後再発見シリーズ双書
 堤未果氏の一連の著作等によって
 その全貌が明らかになりました。

 これらの書籍は売れているそうです。
 ますます売れていくと思いますし
 「戦争法案」反対というスローガンを叫ぶ人は
 ぜひ読んでほしいと思います。

 今回安全保障法案を推進した人たちは
 押しなべて憲法はアメリカに押し付けられたといっているようです。
 しかし、今回の議論によって、
 集団的自衛権こそ「アメリカ」によって押し付けられたものだ
 ということがわかりやすく鮮明になりました。

 今回の法案成立で
 憲法9条は停止してしまいました。
 「アメリカ」の押し付け法案によって停止してしまいました。

 しかし、だからこそ、
 この先、安全保障関連法を撤廃すれば
 憲法9条は復活します。
 そればかりではなく、
 「アメリカ」の圧力を跳ね返して
 日本国民が憲法9条を制定したということができるわけです。

 真実国民が憲法9条を制定したことになる
 それが安全保障関連法の廃止の日なのです。
 なんてすばらしい目標なのでしょう。

 「アメリカ」とは何かについては
 堤さんの一連の著作をぜひお読みください。

4 これからの行動の方向
 
 敗因を分析して対策を立てるのがセオリーですが、
 ちょっと待ってください。

 もともと、選挙結果からすると
 法案成立は常識的には当然の流れで
 一部の政党だけの反対と
 一定程度の棄権によって、法案は
 「夏までに成立する」はずでした

 それがここまで反対運動の広がりの中
 ここまで大きな行動に発展し、
 秋を迎えることができたのです。
 単純な敗北ではなく
 むしろ勝利の側面を大きく感じます。

 それにしても法律は成立してしまいました。
 原因は、はっきりしていますし
 これまで述べてきたとおりです。
 
 それは
 30%の現政権に消極的に賛成している人たちの
 半分をこちらの陣営に招き入れることです。

 単純な戦争反対ではこれはできません。
 安倍首相の個人攻撃は
 30%の人たちには逆攻撃なのです。
 また、おそらく正しくないでしょう。

 必要なことは
 国民の中に、分断、対立を持ち込ませないことです。
 
 保守と革新、右翼と左翼、
 安全保障法制や憲法破壊にとって
 何の意味もない区別です。

 私は、日の丸をもって
 デモや集会に参加するつもりです。

 決して欲張らず、
 安全保障法制成立の前に戻す
 ということ、
 国民が自ら憲法9条を復活制定させるという
 一致点以上のものを持ち込まない
 ということを最優先していただきたいと思います。

 分断者は、性懲りもなく現れるでしょう。
 自分の心の中にも表れるでしょう。

 政権を攻撃してダメージを与えるよりも
 多数を形成して与えるダメージの方が
 より破壊力が強いということを認識しましょう。

 そのためには、過去に一時点にしか妥当しなかった
 原理原則論を持ちだすのはやめましょう。
 
 他人と仲良くすることは案外骨の折れることかもしれません。
 しかし、
 今の日本の不具合の多くが
 この骨折りを回避しようとして起きているような気がしてなりません。
 努力の仕方を忘れてしまっているために起きているのかもしれません。

 案外、安全保障法制の一時的成立は
 日本社会に取ってとても良いことになるかもしれません。

 今、うつろな目をしている人たちが
 明日の敗北者であり、
 目の輝きを失わないものが
 明日の勝利者です。

 答えは、遅くない時期にでるでしょう。

 さあ、安全保障法制の一時的成立を踏み台にして
 もっと高いところを目指してゆきましょう。

法律家として野党の物理的抵抗を支持する理由  [弁護士会]

本来今時分安全保障法案が成立していたかもしれませんでした。
野党の体を張った審議阻止が功を奏して
参議院安保特別委員会が開催できませんでした。

これは、確かに、国会手続きが予定している事態ではありません。
形式的には法に反する行動のようにも見えます。
しかし、法律家として、私はこの行動を指示します。
その理由について述べます。

私は、法科大学院で、昨日労働組合法を講義してきました。
ストライキや団体交渉が、権利だという説明をするのです。

近代市民法的に考えると
労働者は、使用者と雇用契約を締結し、
使用者が提示した条件で働き、
決められた時間、労働力を提供する
と約束しているのだから
約束以上の労働条件、賃金を要求し、
それを通すために、労働力の提供をストップする
というのだから、
違法にも見える行為が権利として認められていることを説明します。

もちろん当初は禁圧されて、
団体交渉やストライキをやろうとする者なら
強要罪、脅迫罪で刑務所に入れられ、
労働組合を結成することだけで
死ぬまで刑務所に入れられた人たちもいるわけです。
労働組合に損害賠償が認められ
壊滅していきました。

しかし、そのように禁圧されても禁圧されても
団体交渉を行い、ストライキを続けてきたことにより、
労働者が政治的な力を身につけてきて
ついに国家は
処罰をしないということとなり
損害賠償も否定されるようになりました。

どうして、莫大な犠牲を払っても
なえないで、くじけないで
労働者は戦い続けたのでしょうか。

ここがポイントです。

それは、国家から禁圧されても
法律的には違法であっても、
労働者群が、
自分たちの要求
(契約で承認した以上の労働条件の要求)
は正しい、
自分たちの要求を通す活動方法、態様
(団体交渉、ストライキなど)
は正しい
という正当性の確信があったからだと分析されています。

要するに、法律を守ろうとすることは
ルール、秩序を守ろうとすることです。
正しさに従うということといってもよいといえるでしょう。

自分たちの要求、行動をしなければ、
自分たちは、人間として尊重されないで生きていかなければならない
という
正当性の確信が、
形式的な法律をまもるよりも
ルール的に、道徳的に正しいという確信に高まったのです。
「規範意識の確立」という言い方もします。

現在現政権が強行採決しようとする
安全保障法案は、
法律家は誰でも、
立憲主義に反するといって反対しています。

憲法9条改正論者も
集団的自衛権肯定論者も
立憲主義に反するという理由で反対しています。

近代以降の現代国家は、
一部の宗教国を除いて、
憲法を最高規範として、
憲法の範囲で国家権力を行使する
制度を持っています。

憲法に反する国家行為をしたいならば
憲法を改正してから行わなければなりません。

法律が有効である大前提は
憲法に適合することです。

法律家の立場から
現政権のやっていることを評価すると
憲法に真正面から反する行為を
国家権力の行使として
立法しようとしていることになります。

日本の法秩序を崩壊させる極めて異常な行動です。

異常なことは
所管大臣である防衛大臣が、
法律について、まともに説明できないことです。

ホルムズ海峡封鎖が
日本の存立危機自体とつながるどんな場合があるか、
説明できていません。

戦禍が及ぶ蓋然性
についても説明できていません。

法律の根幹が説明できないということは異常事態です。

これは、所管大臣
即ち法案作成の現場責任者が
法案の中身を知らないということを意味します。
誰が法案を作成したのでしょう。
日本の政府関係者が法案作成したのであれば、
事務畑の局長が説明するはずですが
そのような報道は一切ありません。

おそらく、
日本人が原案を作成したのではない
外国人が原案を作成して
日本語に訳しただけなので、
その説明ができないというと理解が容易です。
押し付け法案という疑いが濃厚です。

この法案に反対する運動は
日本が独立国家になるための運動だとも考えられます。

何よりも、法案の最高責任者である首相が、
個別的自衛権と集団的自衛権の違いが分かっていない。
これは驚くべきことです。
現行自衛隊法は
日本が直接侵略される場合だけではなく
間接的に侵略される場合にも
自衛権を発動することができる規定があります(3条)。

中国や北朝鮮から侵略されたらば
現行法と安全保障条約できっちりと防衛できるように
法律はすでに整備されています。

(もっとも、東北の被災者は
 もっとも日本が無防備だった東北だ震災の直後
 北朝鮮から送られてきたのが
 テポドンではなく義援金だったということは
 よく記憶しています。)

今、この自衛隊法3条を改正し、
日本の直接間接侵略がなくても
自衛隊の行動を行うことが可能としようと
安全保障法案はもくろんでいるわけです。
なんのためでしょうか。
誰の利益なのでしょうか。

さらに、
集団的自衛権の行使を閣議決定した後の選挙で
自民党が圧勝したから
自民党の提案した法案に反対するのは民主主義に反する
としたり顔で主張する人たちもいます。

民主主義は無制限ではありません。
憲法の範囲内で国家権力を行使するという大前提があります。
憲法は改正されない限り、存続します。

また、投票は白紙委任ではありません。
個別論点についてものを言うなということは
服従の強制です。
民主主義とは無縁です。

国会という制度がなくて
政府を直接選挙で選ぶというならば
そのような議論を検討する余地もあるかもしれません。

しかし、選挙をしているのは国会議員です。
改めて個別論点の議論をするから国会があるわけです。

砂川基地事件について改めて述べるのも気が引けるのですが、
これは、日本にアメリカ軍を置くことが憲法違反かという論点で、
アメリカ軍を置くことも自衛の方法として
禁止されているわけではないかもしれない
という判決であって、
日本の自衛隊が集団的自衛権を行使することを
認めた判決ではないことは明らかです。

これも今回の法案が外国から押し付けられた法案だということを
物語る裏付けになるでしょう。
砂川基地判決自体が
アメリカのダグラスマッカーサー二世日本大使が
外務大臣に圧力をかけ、
田中耕太郎最高裁長官が同大使に報告をしながら
出した判決だということが
公文書から明らかになっています
(「検証 法治国家崩壊」創元社 吉田敏浩)

今回、なぜ継続審議とせずに強行採決を行うのか
砂川基地判決から学ぶべきです。

本来日本の裁判制度は
地裁、高裁、最高裁と3審制がとられています
砂川基地判決は
地裁の伊達判決で違憲判決がでて、
その後高裁をとばして
国は最高裁判所に跳躍条約するという
異常な行動に出ました。

これは、時間を置けば置くほど
伊達判決の影響力が浸透して、
米軍に対する反対世論が大きくなるため
伊達判決を早く否定したかったからです。

いつ、誰がどこでということが
公文書上明らかになっています。

昭和34年3月31日 午前8時
(伊達判決の翌日)
おそらく東京帝国ホテルの一室で
ダグラスマッカーサー二世が、
日本の藤山愛一郎外務大臣(当時)に対して
跳躍上告を直接指示したそうです。

藤山大臣は、全面的に同意したと
アメリカ側の文書には残っています。
そして事実そのとおり行われたわけです。
(以上前掲本)

今回継続審議にした場合、
法案反対運動がさらに盛り上がる可能性が高いため、
どうしても強行採決しなければならない
砂川基地判決と同じ問題の所在があるわけです。

もし、これまで私が述べていたことがそのとおりならば、
安全保障法案に対する反対は、
立憲主義を守る戦いであると同時に
日本が独立国家であるための戦いということになります。

目的も、そのための行動態様も
日本を守るために必要なものであり、
正当性を有すると確信ができ
規範意識に高められるものだと思われます。

暴力の行使や物の破壊に至らないことは
当然の条件になりますが、
物理的抵抗力を、私が
法律家として支持する理由は
このようなところにあります。






























































国際人権(自由権)規約第1選択議定書をだれも反対しないのに、議論のにも俎上にも上らない理由は、安保法制の議論(砂川基地判決の勉強)によって簡単に解決してしまいました。 [弁護士会]

最近安全保障法制の議論で
砂川事件判決がよく引用されているのですが、
われわれ元司法受験生にとっては
統治行為論とか跳躍上告とかいう
アウトラインはよくわかっているのですが
あれ?どういう判決だったけ?
ということで改めて調べたいと思っていたのです。

このことがなければ読まなかった本が
これです。

検証・法治国家崩壊 (「戦後再発見」双書3) 単行本 – 2014/7/20
吉田 敏浩 (著), 新原 昭治 (著), 末浪 靖司
創元社

http://www.amazon.co.jp/%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E3%83%BB%E6%B3%95%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%B4%A9%E5%A3%8A-%E3%80%8C%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%80%8D%E5%8F%8C%E6%9B%B83-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%95%8F%E6%B5%A9/dp/4422300539

砂川事件は、1950年代の事件なのですが、
農家の農地を
米軍の基地拡張のために強制収容しようとしていて
そのための測量に反対している農家が
労働組合や学生に応援を呼びかけ
スクラムを組んで抵抗したそうです。

これをアメリカが強制的に排除しろと命令したので、
日本の警察がスクラムを組んでいるだけの学生、労働組合
日本山妙法寺のお坊様方に対して
暴力をふるって排除した
というところから始まったそうです。

この時、大学からも
たくさんの学生が
ダンプカーの荷台に乗り込んで
立川市まで駆け付けものでした。
って、生まれた前のことですが、
「青春の門」という映画で
私、この役をやって
歌を歌っているんです。
ああ、この事件の時の役だったのかと
今日気が付きました。

ただ、この時、農民らの排除のために
アメリカは、自衛隊も出動させろと
命令したそうですが、
時の防衛庁長官は
これを断固拒否したという話も掲載されています。
ずいぶん今と違うなあと思いました。

そんなこんなの砂川基地闘争の中で
米軍基地の中に入った23名の中の
7名が特別法で処罰されたのが
砂川基地判決なのですが

1審の伊達秋雄裁判官は、
特別法が違憲無効だとして
被告人全員を無罪としたのです。
いわゆる伊達判決といわれる有名な判決です。

それをアメリカの日本大使が
外務大臣を通じて
跳躍上告をするよう命じて
その通り検察官はするのですが、

当時の最高裁長官田中耕太郎は
訴訟進行の見通しや
合議の流れなどを
アメリカ大使に報告しているのです。

これらはアメリカの公文書館で見られるそうです。

本には、原文のコピーが掲載されています。

言いたいことは山ほどあるのですが、
長くなりすぎるので小出しにするとして、

基地訴訟との関連も考えると
私が2010年1月にこのブログで書いた
国際人権(自由権)規約第1選択議定書が
歴代政府、中曽根さんも含めて
誰も反対していないのに
民主党なんてマニュフェストに掲げたのに
全然議論すらされていない
という不思議の謎も
簡単に解決できることですね。

つまり、選択議定書が批准されると
個人通報制度という制度を日本国民も使えるようになり、
人権侵害が、裁判でも回復されない場合、
直接国連に訴え出て
勧告をしてもらうことができるのです。

基地や低空飛行で
人権を侵害されている日本国民は、
最高裁に行っても
飛行の差し止めはされません。

しかし、せめてアメリカ本土並みに
気を使ってくれということは
国連でも受け入れざるを得ないと思いますので、
基地問題に勧告が出てしまう。

困るのはアメリカと
アメリカの利益を
言いなりになって代弁している日本政府ですから、
日本政府が選択議定書を批准しようとしても、
アメリカに止められればできない
議論の俎上にも上らないということは
考えれば
実に簡単に解ける謎でした。

安全保障法制の議論がなければ
ずうっと気が付かなかったと思います。


「戦争法案」というネーミングのデメリットと議論の方法についての意見 [弁護士会]

8月30日、国会をはじめ、各地で
安全保障法案反対のデモンストレーションがありました。
NHKでさえ、夜の7時のニュースでは映像を付けて取り上げました。
廃案まであと一歩というところまで来たと思いますが
その一歩というのが、歴史的に超えることができなかった壁だ
ということになります。

その一歩をどこに向ければよいのか考えてみたいと思います。

私は、立憲主義維持という法律家の立場から
わが国が直接間接侵略を受けなくても武力を行使する
安全保障法案に反対する立場です。

今考えなければならないのは、
デモなどの表現行為が、
ストレートに政権を追い込んで法の成立を断念させる
ということではないということです。

多数派を形成することが歩みの方向でなければなりません。
30パーセントは、現在の内閣を支持しているわけです。
どうして支持しているのかについてを考える必要があります。
この方々の共鳴共感が必要なのです。

本来国防に関することなので、
他国の模範となるような格調高い議論をするべきだと考えているのですが、
怒りが優っている状態で、それができていません。

もっとも推進派の議論というのも格調が高くない。
第1に 対案を出せというものがありますが、いただけないというほかありません。

そもそも対案は、出すべき場合とそうでない場合があります。

例えば、いじめ対策の場合は、私は
「命を大切にしよう」と掛け声をかけるばかりではだめで
教師の雑務を減らせと対案を出すのですが、これは
いじめをなくすべしという問題の所在が共有されているからです。

これと反対に夫婦で、
夫が「高い釣竿を買いたい」と提案した場合、
「そんな余裕がないから買わない」と妻がいうのは
釣竿を買う必要性を共有していないからです。
それにもかかわらず
妻に対案を出せとはまともな大人は誰も言わないでしょう。

今、安全保障法制の論点は、
「我が国が直接間接侵略のおそれがない場合にも武力を行使するべきか。」
というものです。
そういうことを決める必要性を認めていない人は
対案出さずにただ「反対」ということが論理一貫した態度ということになります。

それにもかかわらず「対案を出せ」と批判するのは、
先の夫婦のケースで釣竿だめなら対案を出せというようなものです。

「対案を出せ」というのは、企業の会議でよく言われているようです。
元企業戦士も、この言葉で野党を批判します。
しかし、それは、売り上げを上げる等の
問題の所在が共有化されているために
そういう主張が通るわけです。

企業に飼いならされ過ぎた人たちが
対案を出せということを言うのであれば、
企業マニュアルは、万能のものとして扱われていることになります。
マニュアルは、
「時と場合」によって使い分けなければならないということについて
うまく運用ができていないという弱点があるようです。

第二に格調が高くない主張は、
推進派、反対派双方ありうるかもしれませんが、
自分の結論を、意見対立している人に押し付けて
本来その結論についての理由を主張しあわなければならないのに
「理由は言わなくてもわかって当然」とか
「もう決まったことだ」とか
「わからない奴は馬鹿だ、子どもでもわかる。」
というような形でごまかすということです。

同じ日本に暮らすもの同士、
いたわりと尊敬をもって、本来、国防を議論するべきなのです。
そこに論点があるならば日本の将来のために
懇切丁寧に労をいとわないで説明するべきです。
だから私は、愛国心(普通の当たり前の意味)を持たない人には、
国防の議論をご遠慮いただきたいと思っています。

もう少し根本的な、格調の高くない論理があります。

30%の内閣支持者の多くの方が、
他国の侵略に対する不安から
集団的自衛権を指示しているという
非論理的な現象があるようです。

どうも安全保障法案の推進者の方々は、
「中国や北朝鮮が攻めてきて戦わないで
 侵略され放題になってもいいのか」
 という論理のすり替えを意図的に行っているようです。

本来それらは、個別的自衛権の範囲ですから
周辺事態法や自衛隊法、日米安全保障条約のもと、
きっちりと自国防衛の武力行使を行うわけです。

今は、「直接、間接わが国が侵略されていない場合にも
自衛隊などが武力行使をする」
ように拡大するかという問題なのですが、
反対者は個別的自衛権も否定していると
すり替えられています。

そのすり替えを裏付けているのが
実は「戦争反対」という単純なスローガンです。
防衛戦争にも反対しているのだと、
すり替えを刷り込まれた人たちには写っています。
そういう風にすり替えているともいえるでしょう。

戦争法案というネーミングがここまで運動を大きくしてきたという
そういう側面は否定できないでしょう。
そのスローガンを下ろせということは今や暴論でしかありません。

しかし、そこにはデメリットも当然あるのだという
当たり前のことは頭に入れておく必要があるように思われます。

論点を明確にするような努力も必要なのでしょう。
個別的自衛権は、きっちり行使するのだということです。

もう一つ
「戦争法案」のネーミングについては、
ただの非防衛戦争の危険以上の危険についての思考を
停止させるのではないかと危惧しているところです。

あたかも安倍首相がヒットラーのように
戦争をやりたがっているという主張も、
同様にいかがなものかと思います。
30%の人たちの少なくない部分の人たちは
このような首相を嘲笑するような表現は
生理的に受けつけないようです。

安倍首相が、主体的にこの法案の必要性を認め
法案の構成をデザインしているのか、
疑問があります。
むしろ、機に乗じて
持論を実現しようとしているというのがリアルなのではないでしょうか。
この点は、国会論議で明らかになってきたというべきでしょう。
もっとも報道はされませんが。

また、アメリカの押し付けという大雑把な考え方も
敵と味方を誤らせるのではないかと思われます。
堤実果さんの一連のルポルタージュでは、
アメリカから搾取されている最大の国民は、
実はアメリカ国民だという告発がなされています。

国会の終盤、
議院は、法案の派生効果、影響こそ
具体的に議論するべきです。
武器輸送だけでなく、武器警護という点についても
十分議論を尽くすべきだと思われますが
議論されている形跡はありません。

新聞は、国防という大事な議論なのですから
もっと、きちんと議論を掲載するべきです。
しかし、野党によって政府が追い込まれている委員会質問も
きちんと答弁したような報道が繰り返されています。
マスコミはあてにならないようです。

一人一人がきちんと知る権利を実現させ、
反対者の意見を吸い上げながら、
論点をクリアーにしていけば、
この問題は落ち着くべきところに落ち着かざるを得ないと
考えています。

熊田議員の発言は、男女参画、両性の平等の観点から言及するべきだ。 [弁護士会]

自民党の熊田議員

本当は、このブログに転載するのも不愉快なのですが、
毎日新聞によると以下のように熊田議員が
自身のホームページに掲載したようです。

「ある時、産休補助でみえた若い女性教師が生意気だということになって、いつかギャフンと言わ せようと仲間とチャンスをうかがっていたんです。放課後、先生がトイレ掃除の点検にやってき ました。好機到来です。中に入ったところで外からドアを押さえて閉じ込めたんです。そして、 天窓を開け、用意していた爆竹を次々に投げ込んだんですよ。はじめは「開けなさい」と命令し ていた先生も、そのうち「開けてください」とお願い調になり、最後は涙声で「開けて〜」と絶 叫調に変わってきた。「やった〜」と快感でしたね。」


http://mainichi.jp/select/news/20150808k0000m010078000c.html

現在は、以下のように、ホームページからは削除されています。

「このたび私のHP上に記載した、若い頃にやってしまった度を過ぎた悪戯について、各方面より多 くのご批判を頂きました。ご不快な思いをされたすべての皆様と、関係各位に心よりお詫び申し あげます。」

不思議なことに、
男女参画や両性の平等を唱える人たちからの批判が
私には少ないように感じるのですが、
「寛容」ということなのでしょうか。

冒頭の「女性教員が生意気だ」
ということが大問題なはずです。
私の感覚ではそうです。

現在、女性は、数合わせの管理職に抜擢され、
懸命に、女性代表の気持ちで職務を遂行されています。
ところが、
それをやっかむ男性職員(部下)から、
「女性のくせに生意気だ」
「女性だから出世した」
というハラスメントにさらされています。

この女性教員も、
産休の先生の代わりの勤務ということですから、
もしかすると、
正職員を目指して張り切って
職務に当たっていたのかもしれません。

このくまだという男は、
果たして、張り切って職務に当たった教員が
男性だとしても、生意気だとして
同じ行為に及んだでしょうか。
ここがポイントだと思います。

卑怯だと思うのは、
集団で、攻撃したことです。

相手の反撃の方法を断っておいて
閉所に閉じ込めての攻撃ですから、
まさにいじめです。

先生は、プライドも捨てて、
加害者に助けを乞うまで
追い詰められていたのです。

どうしてそれに快感を感じるのでしょう?

くまだ以外は、
やってみて、後味の悪さと
罪悪感ばかり感じる
悔恨の思い出であってほしいと願っています。

働く職場環境において、
絶対数で男性が多いとなれば、
あるいはその職制レベルで男性が多いとなれば、
女性が管理職として登用され
その能力を発揮するためには、
それなりの配慮をすることが当然です。
生身の人間のあるべき姿です。

女性が輝く社会の
最低限の条件が、
女性の身の安全です。

一から十まで
女性蔑視ということが
私は問題だと思うのです。

私の卒業した高校は
当時男子校でした。
芸術科目だけ、
女性の先生がいらっしゃいました。

ある日、前の時間が押してしまい、
女性の先生の授業に
数人で遅れて行ったことがあります。
わき目も振らずに急げば間に合ったし、
間に合った生徒も多くいました。

すかさず、体育の教師が待ち構えていて、
遅れて行った私を含む数名が平手打ちをされました。
女性に対する配慮が足りないということだったと思います。

不思議な体験なのですが、
体罰を受けたというよりも
「痛みをいただいた」
という感覚でした。

みんな一礼して
教室に入っていきました。

乱暴な話だから、
決して勧められることではないと思うのですが、
その平手打ちをした教師は、
生徒の人格を認め、尊重したからこそ、
非礼なことをしたことに対して、
あるべき人間像を示した
という風に受け止めました。

男女参画の目標が
単なる数合わせではなくて、
女性が生き生きと輝く社会としようとしているのに、
与党議員が、自己の女性に対する卑怯な
犯罪行為を臆面もなく公にさらしているのですから、
政府の政策に疑いの目を持たなければなりません。

ホームページを見る限り、
自分の過去の犯罪行為と
それをホームページに掲載したことの問題点として
彼が認識しているのは、
関係各位に不愉快な思いをさせたということに
尽きるようです。

これを読んだ、犯罪被害者である当該女性の先生が、
あの時に感じた屈辱感を
この得意げなホームページを読んで
同じ気持ちになっているだろうというそのことすら、
念頭におかれていないのです。

ましてや、
天下国家の観点からの
自省など
考えもつかないことでしょう。



磯崎補佐官のツイートを善解してこそ見えてくる安全保障法制を導入する理由 [弁護士会]

磯崎国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官
(第2次安倍内閣・第2次安倍改造内閣・第3次安倍内閣)。

磯崎氏のツイッターを見れば、立場の違いを超えて感心せざるを得ない。https://twitter.com/isozaki_yousuke

よくこれだけの返信をしていると思う。
私なら、これでは仕事にならない。これでは、身が持たない。
これだけの量を一人で返信しているならば、
確かに、失言など出てきてもおかしくないかもしれない。
要するに、いまだに彼はツイッターを続けている。

そして、安全保障法制の議論が始まった矢先の、
「法的安定性は関係がない」という発言。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150727-00000080-mai-pol


菅官房長官は、法的安定性を否定したものではないと述べているが、
そこまでいうならば、ではどういう意味か説明するべきだろう。
そのための官房長官なのだと思う。
おそらく官房長官の発言の真意は、
「法律に安定性は不要といった意味ではない」
というくらいの意味なのだろうけれど、
それは当然なことなので、あまり意味のあることではない。
要するに、それ以上のフォローができなかったということなのだろう。

内閣総理大臣補佐官の発言をフォローするならば、
官房長官として真意を伝えるべきだ。
菅官房長官の役割は、自分たちの代表者である内閣が、
間違いのない活動をしているということを国民、
特に内閣を支持している人たちに伝えることだと思う。
菅官房長官の説明は、「大勢いる」、「何人もいる」あたりから、
説明を聞いても安心できなくなっている。
ご苦労されていることは理解できる。

磯崎氏が有名になったのは、
自身のツイッターに対する10代の女性の反論に対して、
再反論ができなくなって、ブロックをしたという出来事だった。

http://togetter.com/li/832562

これは、善解できることだ。
火事のたとえは、いまだに安倍首相も模型や図を示して持ち出している。
おそらく、内閣の中の公式的な説明なのだろう。
磯崎氏は、ここで、内閣で取り決めた説明以上のことを
言えなかったのだということは想像が付くことである。
いわば羽を縛られて飛べというようなものである。
いかに鴻鵠といえど、羽を縛られたら、燕雀に頭上を許すこととなる。

彼がなぜ、品のない批判に対してもいちいち答えていたかということは、
彼の誠実な人柄なのだろう。
それは、彼のツイッターに対する膨大な返答の量から推測が付く。

ただ、この例えでは後方支援では足りず、
戦闘に加わるべきだと読めてしまう。
また、素人が戦闘に加わったら、
消防官たるアメリカの迷惑になるだけだろう
ということも見事に表現されているように思われる。

それはさておき、磯崎氏が、本当に述べたかったことは、
この例えからも透けて見えるように、
自国の防衛に汲々とするなということなのだろう。
集団的自衛権は、国際秩序の維持という積極的平和主義
を目的としているのであるから、
自国の防衛力を地球の裏側に振り分けることも辞さない
という高邁な理想を語りたかったのだと思う。

http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-07-20

しかし、それは、内閣の取り決めによって許されなかった。
それで、たとえ話の解説に終始してしまったのだと思う。
ただ、もしかすると、そちらに話を持っていかなかったことは、
自身のツイッターに対する返信に一つ一つ応えよう
という誠実な対応が原因だったのかもしれない。
この火事のたとえ話は、おそらく法案が成立するまで続いていくのだろう。
これが、「丁寧な説明」ということのすべてのような印象さえある。

磯崎氏のツイッターで有名なものとしては、
「立憲主義を大学の講義で聞いたことがない。」
というものである。
http://健康法.jp/archives/2893

これに対しては、いろいろ批判があるが、
私は、案外それは正しいのかもしれないと思う。
立憲主義は、前に書いたけれど、
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-12

中学生の歴史と公民で習うものだ。
高校の政治経済でも習うかもしれない。
大学で習うとすれば、一般教養としての法学、憲法、法哲学などだろうが、
改めて立憲主義に言及しないことも考えられることである。
今更説明しなければならない人間が
東大法学部には入ってこないだろうからである。

もちろん、どの憲法の教科書にも記載されている。
しかし、講義では聞かないことも無理のない話かもしれない。

講義では聞かないのは無理のないことかもしれないが、
磯崎氏が立憲主義について知らなかったというわけではないだろう。
中学や高校を出ているということだけではなく、
磯崎氏は大学教授を務めていたことがあるようだからだ。
1996年4月 自治大学校研究部長・教授の職にあった。

では、なぜ立憲主義なんて聞いたこともないみたいなことを述べたのだろう。
これは、政治的意図があったと善解しなければならない。
遅くともこの時、内閣の中では、
立憲主義が解釈改憲の障壁となることは意識されていたのだろう。

立憲主義という観念を乗り越えることが、
安全保障法制にとっては不可欠なものだということで、
打ち合わせがなされていたのだろう。

ところが、立憲主義は、学説ではない。
近代市民革命がもたらしたものであることからわかるように、
資本主義社会に不可欠な国家の仕組みなのである。
また、日本においては、立憲主義を整備したことによって、
国際社会において一人前になっていったという大事な制度である。
立憲主義こそが、先進国で価値を共有する
自由と民主主義の根本なのである。

http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-16

ここで、疑問だと思ったのは、
それでは、立憲主義をないことにして、
日本は国際社会の中で本当に尊重され続けるのだろうかということである。

集団的自衛権は、
国際社会の中の地位を高めるために解禁をしようという目的があったはずだ。
それなのに、国民の理解なしに、憲法に反して、立憲主義に反して、
これを行うことで、国際社会上の地位が危うくなるのではないか
という危惧はないのだろうか。

北朝鮮と一緒の国家体制だということになってしまい、
韓国や中国、その他東アジアの国々からも馬鹿にされるかもしれないということである。

ただ、ここでも善解するべきだろう。
要するに、評価を気にするべき国と、気にするべきでない国があり
、気にするべき国が積極的に評価するなら、
断行することが国益にかなうということなのであろう。

それは、もちろんアメリカ等であろう。
この場合の国益とは何であろうか。
アメリカは、日米安保で日本を守ってくれている。
基地がある限り、それは変わらないであろう。
守りを強化するということも、具体的には考えにくい。

そうだとすると、アメリカとの交易の問題なのだろうと思われる。
時同じくしてTPPの交渉が進められている。
集団的自衛権の問題となにがしかリンクしていると思われる。
少なくとも日本が集団的自衛権を行使して、
アメリカの役割を少しでも担うことができれば、
もっぱら費用の問題だとは思うが、
アメリカからは、高く評価してもらえるだろう。

内閣にとって、自国に対する国際的評価が一部で低落しても、
アメリカなどの評価を上げることが、国益(交易)に合致すると考えたに違いない。

そして、集団的自衛権、国民の理解はなく、
支持もされない政策であるが、アメリカ等からは評価される政策を、
多数決ルールを目いっぱい使って成立させようという矢先、
磯崎氏がツイッターで法的安定性を後景視する発言がでたわけだ。
安倍総理が、法的安定性に配慮しながらすすめると説明していることをしり目に、
大雑把なツイートをしてしまったことにはなる。

しかし、あれだけを多い返信の中から、
よく一つの問題ツイートを救い上げたということは感心するしかない。
内閣総理大臣補佐官という立場の重みを感じる。

法的安定性は、立憲主義と思想を共通にしている、
特に、資本主義社会に不可欠な仕組みである。
即ち、資本家が活動をしているときに、
資本主義社会以前の封建主義時代であると、
法律を勝手に変えて、資本家が設けた財産を没収したりすることも可能だったわけだ。
それでは、安心して商売をすることができないために、
ルールをあらかじめ定めて、
自分の行動が守られるか守られないかを予測することができるようにして、
資本家が安心して活動できるようにしたということである。

これは出発点であって、もちろん、資本家だけが恩恵を受けるわけではない。
いわば国家秩序である。
国家秩序が保たれることは、全国民が享受することである。
また、日本は、秩序を重んじる国民性の美しい国である。
このような国益を後景に追いやってまで実現しようとする国益とは何か
ということを考えざるを得ない。

大学教授まで勤めて、法執行を行う内閣総理大臣補佐官が
法的安定性を理解していないはずがない。

法的安定性が後景に追いやられる場合というのは、
有事である。時局が安定していないのに、
法的安定性を求めるすべのない時期ということである。

国際情勢の変化というのはそこまで切迫しているのだろうか。
本当はそこまで切迫しているのに、
国民が動揺するからということで情報を隠しているのだろうか。
大変不安にさせるツイッターである。

そうでなければ、日本がどこかの国から、
脅迫されているということだろう。
但し、不利益を告げられて、さ
もなければ集団的自衛権を行使しろということは、
考えにくいのではないか。

日本の財政を握られていて、
「言うこと聞かないと、国家財政を破綻させてしまうぞ、福祉予算を使えなくするぞ。」
なんて言うことは非現実的だろう。
おそらく、大きな利益誘導がなされていると考えることが現実的かもしれない。
法的安定性を後景においやるほど、大きな利益なのだろう。


今回の磯崎氏の最大の問題は、
磯崎氏が、これほど安倍政権の足を引っ張り続けているにもかかわらず、
更迭をされないことだ。

それどころか、今日もツイートし続けている。これをどう見るか。

官邸は、磯崎氏の行動、言動を、過ちだと評価することが
できないでいるということである。
積極的にか消極的になのかはともかく、
容認していることになる。
最初の火事のたとえのツイート炎上は、
いまだに安倍首相自身がたとえている話であり、
打ち合わせ通りのたとえ話だし、
その後のやり取りは、返信者の礼を失した言葉遣いにも
一因があるとの考えだろう。

次の立憲主義では、安全保障担当補佐官のツイートとしては、
不穏当に過ぎるので、これは何らかの注意があってしかるべきだが、
それもない。
少なくともそれを感じさせないほど、
磯崎氏は精力的に発進、返信への回答を続けている。

その中で、同趣旨の法的安定性を後景に追いやるツイートをしても、
菅官房長官はかばい切っている。
磯崎氏の、国益を後景に追いやっても、
他国の利益誘導、脅しに追随する、しかもその中身を明かさないという姿勢は、
官邸にとって違和感のある言動ではないということだろう。

安倍首相自身が、これまでどおり火事のたとえを繰り返すというのであれば、
模型を図面化したとしても、
「これ以上の説明はしない。国人の理解を求める活動をしないで、法案を成立させる。」
という決意の表れと読み解くしかない。


自民党員の方々、特に国会議員の方々がまだ気が付かないはずはないと思う。
このまま、明白な国益を犠牲にして、存在自体不明確な国益だと
国民が考える安全保障法制を進めていったら、
法案が成立しても、自民党が消滅する可能性が存在するのではないだろうか。

崩れ落ちるときは、一気だったということを、
もはや忘れてしまったのだろうか。
操舵とすると、国民よりもすぐ忘れるのは、むしろ国会議員だということになる。

そして、今の日本から自民党がなくなってもよいと考えているのだろうか。
そこまでして、通さなければならない安全保障法制とは何なのだろうか。
選挙区において、有権者に一人一人が説明しなければならない日は
秒読みの段階に来ていると思う。

積極的平和主義という国際貢献を目的とした安全保障法制、集団的自衛権に、抑止力の高まりまで期待することは無理があるのではないか。 [弁護士会]

<議論の前提>
議論を単純に」するために以下の前提を置きます。
「自衛隊の防衛力、日米安保条約は、国土防衛の観点から
一定の抑止力を有している。」

1 立法の主たる目的は積極的平和主義だったはず

もともと、今回の
集団的自衛権の行使を目的とした安全保障法制は
積極的平和主義を推し進め、日本が国際貢献を果たす
というところにあったわけです。

平成26年7月1日の閣議決定でもそうですし、
http://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/anpohosei.pdf

安倍首相が、アメリカ上下院での演説でもそう語っています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_001149.html


これは、湾岸戦争などで、
日本が金銭的支援をした時に

「金だけ出しても国際貢献にならない。」
日本も血を流さなければならない。」
というところから始まっています。

そういうことですから、
日本本土の平和を高めることが出発点ではない
それで良いはずだったと思うのです。

ただ、日本も血を流すことによって、
アメリカからの信頼が高まり、
日米安保同盟が強化されることによって、
抑止力が高まる
という説明はなされています。

国会での安全保障法制を見ていると、
安全保障法制によって、
抑止力が高めることが法律の目的みたいなことになっていて
そもそもの出発が逆転しているような印象があります。

2 もともと積極的平和主義には危険が付きもの

集団的自衛権はというと、
直接間接の侵略がなくても
防衛力を発動するわけです。
(自衛隊法改正法案3条)

要するに、本土ではない別のところでの
戦闘行為に加担するのです。

この戦闘が日本の存立危機事態となるのであれば
集団的自衛権行使は
存立危機自体を回避することにはなるでしょう。

ただ、うまくゆけばの話です。
この戦闘行為で、日本が加担する方が負ければ、
戦闘行為が日本にまで及ぶでしょう。

また運よく存立危機自体を回避しても、
「なんで日本がこちらに攻撃するのか?」
と攻撃された相手国は驚き、恨み、
今までノーマークだった我が国に怒りの矛先が向き、
危険が持続していくかもしれません。
新たな敵を増やすということですね。

このあたりは、存立危機事態という概念が
具体的に想定されていないということが
リアルな安全保障法制の整備の理解の
桎梏となっていることを
わかりやすく示す事情になると思います。


また、存立危機事態でなくとも、
武器警護ということで
武器使用が許されるということになります。
これは、アメリカ軍に限らないのです。
(自衛隊法改正案95条の2)

(アメリカの信頼を高めることだけが
 この法整備の目的ではないのでしょう
 じゃあ何でしょう?)

ミサイルの警護のための武器使用の場合は、
正当防衛の範囲という制限があるとはいえ
相当の武力を使っての防衛力の行使となりますから
普通に戦争が始まる可能性があります。
これまで、無関係だった国やそれに準ずる団体が
敵国になってしまうのですから、
戦争の危険、国土が攻撃されるという危険が
新たに生まれる可能性は否定できません。

そもそも積極的平和主義とはこういうものですから
それは織り込み済みのはずです。

自国の防衛力である護衛艦を
地球の裏側であるホルムズ海峡まで派遣するのだから、
本土防衛の防衛力は低下します。
国際貢献、積極的平和主義とは
このような覚悟が必要です。

要するに直接の本土防衛の観点からは
集団的自衛権行使は
抑止力はむしろ低下するわけです。

3 現行周辺事態法があることが無視されている

次に、政府の説明が不十分な点と感じるのは、
「北朝鮮や中国が責めてくるから
集団的自衛権を行使できるようにする。」
というものです。

北朝鮮や中国に関しては、
まさに自衛権行使であり、
「集団的」自衛権ではありません。

わが自衛隊が抑止力ですし、
日米安保条約が抑止力です。
加えて、周辺事態法があるわけです。

北朝鮮や中国からの本土防衛と
集団的自衛権は果たして関係があるのか、
周辺事態法のどこが足りなかったのかということは
ぜひ参議院で議論、説明してほしいと思います。

国民の理解を得るためには、
この点の丁寧な説明が必要なのかもしれません。
これが説明できなかったら、
本土防衛と集団的自衛権は関係のないこととなり、
むしろ本土防衛には有害だということになるから、
(地球の裏側に国土防衛の防衛力を割くから)

これまで安全保障法制と安倍内閣を支持してきた
(不支持をしていなかった)
善意の国民が、不支持に回ることになってしまいます。

一国平和主義ではなく
積極平和主義の下での集団的自衛権行使のための法案ですから
志の低い議論を、法案提出側が行うことは
矛盾にしかなりません。

4 間接的抑止力論は国際情勢の変化に対応できるか
次に、
「アメリカの信頼を得ることで
日米同盟が強化され、抑止力が高まる」
ということです。
これは二つの角度からの説明が必要でしょう。

4-1 日米安保を幻想的にではなく現実的に見た場合

第1に、
「抑止力を肯定する」という、
リアリティをもって世界の動きを見る方々にとっては
あまり説明の必要もないのですが・・・

アメリカが安保条約を締結したのは、
自国の利益を守るためです。

アメリカが善意で、つまり日本が友好国だから
守ってあげたいという
ロマンティックな話ではありません。

アメリカの世界戦略のために、
日本という「不沈空母」が必要だ
という利害一致があるからです。

言われなくても自国の基地を守る。
ということです。

日本が積極的平和主義で
国際的な活動を活発にしたら
アメリカがどのようにプラス変化することを
想定しているのでしょう。

心構えくらいは変わってくるかもしれませんが、
抑止力の観点から
本当に何かが変わるのでしょうか。

具体的な防衛力の観点からは
アメリカはこれまで通り自国の基地を
淡々と守るでしょう。

この点、アメリカの日本防衛に対する
具体的なプラスの変化があるならば
この点をできるだけ具体的に説明すると
国民の理解が深まるかもしれません。

竹島や尖閣諸島に米軍が出動するとか。
国後に出動するとか。
テポドンが撃ち落されるとか。

4-2 テロには抑止力がきかないこと

第2に、
抑止力は万能ではないということです。

閣議決定でもアメリカ演説でも
国際情勢の変化として
テロリズムとサイバー攻撃が意識されています。

このテロリズムとは、
まともな軍事的衝突をしてもかなわないから、
(即ち、抑止力があるから)
国権の発動としての戦争はできないので、
(国というほどのまとまりはないとか)
個別撃破戦略をとるというものでしょう。

いわば抑止力が生み出した
殺人形態ということになります。

現代の国際情勢下での、「力による制圧」は
まとまった形のあるものを握りつぶすのではなく
いわば泥のようなものを握るわけですから
指と指の間からはみ出してくることが必定です。

テロ対策は、集団的自衛権の行使ではなく、
自国の警護に予算を割かなければいけない類型です。

サイバー攻撃もしかりです。
サイバー攻撃に対してどうやって武力で警護するのでしょうか。

安倍首相の演説や閣議決定が指摘する
国際情勢の変化は、
これまでの力の制圧では
平和が保たれないということを
正しくまた皮肉にも示しているわけです。

それにもかかわらず
テロやサイバー攻撃を
集団的自衛権の理由の中で述べられているので、

うっかり聞いていると
単純に危機感をあおられてしまい
何とか危機感を解消して安心感を獲得するために
やみくもに武力行使を可能としておきたいという
不安心理を利用するかのような
国民を馬鹿にしているような
そんな誤解をしてしまいそうです。

そもそも法律案では
日本と関係のないテロは
存立危機事態とはならない
そうだとすると、集団的自衛権の行使とは
ゆかないはずです。
積極的平和主義に貢献できなくなります。

武器警護(95条の2)で防衛力を発揮するだけです。

5 見逃せない武器警護の拡大

このような場合に自衛隊の武器警護が可能なのか、
この解釈で良いのか、参議院で議論してほしいと思います。

また、アメリカ以外の国の武器警護をするという規定が
わざわざ新設されている(95条の2)のですが、
それはどこの国なのか説明が必要です。
オーストラリアならば、これまでの自衛隊法のように
オーストラリア軍についての規定をするべきですが
どうしてそうしなかったのか説明が必要です。

一触即発のX国とY国があり
自衛隊がX国から要請されて、
Y国との国境付近にミサイルを移動する際の
警護に出動するとします。
Y国がこれはX国のY国への侵略開始だとして
一方的に、自衛権を発動して空爆に及んだ場合
自衛隊は正当防衛としてY国に対して
武器使用することになります。

相手は戦闘機なので、自動小銃で応戦するわけにはゆきません。
地対空ミサイルなどで応戦するわけですが、
当然、何の利害関係のないY国は、我が国に宣戦布告をする
そう言う危険性を持つのでしょうか。

私の解釈が間違っているのか
ぜひ説明して、安心させていただきたいと思います。

6 細かい条文の疑問

ちなみによくわからないのが、
自衛官に対する国外犯の創設です。
自衛隊法改正案の122条の2なのです。
国内行為の119条の7,8号を準用しているのですが
4.5.6号を引用しないのはわかる気がするのですが、
1号 政治活動の禁止とそれに対する刑罰
2号 労働組合の結成の禁止とそれに対する刑罰
3号 ストライキの禁止とそれに対する刑罰
が準用されていない理由がわかりません。

海外で労働組合活動をしたり
ストライキをすることは許されるのでしょうか
なにか、政治活動でもさせる予定があるのでしょうか。

細部にわたるとよくわからない規定もあるようです。
なんたって、10の法律の改正案があるので、
ほんらいそれぞれ80時間ずつ必要なはずです。
今回は、自衛隊法改正だけを述べていますが、
これだけ疑問なことが出てきています。






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