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「女性らしさ」 女性性を否定する呪いから女性を解放する時期に来ている。一部のジェンダーフリー論はフェミニズムとは言えないと主張する理由 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

先日、自分の写真をたくさん掲載するNPO法人の関係者の記事を読み、
「ああなるほど」と、膝を打ちました。

女の子らしく」しろというのは呪いなのだそうです。
ヒーローもの等で女性が補助役でしか登場しないのは
「女の子らしさ」の呪いなのだそうです。

結局、この論調は一部のフェミニズムを自称する団体と共通で、
象徴的な主張です。
要するに、「女性も兵士にしなければならない」ということです。
これがフェミニズムの堕落の象徴的な主張なので、
考えてみようと思いました。

「女の子のくせに」とどんな時に注意されるでしょうか。
最近、自分の意見を鮮明に表明する場合に
女の子を引き合いにして注意されるということは
さすがになくなっていると思います。
森友学園でさえ、女の子にも宣誓をさせていましたが。

子どもを育てていて、
自分ではあまり男の子らしくとか女の子らしく
とかいうことを言った記憶はありません。
ただ、いろいろな集団活動の現場で
耳にすることが無かったわけではありません。

女の子のくせにという言葉が発せられるのは、
一つに乱暴なことをする場合
だったと思います。

その時は、そこで女性を出さなくてもよいのではないか
と正直思いましたが、
今は、それが女性らしいと感じることは
理由があることだと思うようになっています。

乱暴をしないというところに焦点を当ててみます。

先日、母性についての誤った理解は、
女性性と母性が混乱しているからだ
と指摘しましたので、この点については触れません。
「母性幻想の根源は、ヒト女性行動傾向との混乱にある。人間の価値はどこに。」 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-02-23

私の主張は、行動学的に見て、
人間の女性が争いを好まず、共存を志向している
という特徴を遺伝子的に有しているというものです。

但し、現代のすべての女性にそういう傾向が色濃くあるとか
そうあらねばならないということを主張しているわけではありません。

繰り返しもあるのですが、少し説明します。

すべての出発点は、
ヒトが二足歩行をするところにあると考えています。
その影響があると思うのですが、

受精してもなかなか着床しない。
流産しやすい。
走り回らなくても重い物をもっても骨盤が開く
四足歩行の場合は重い物は持たない。
妊娠期間が長すぎる
出産が危険である。
出産後に母が死亡するケースもある。
死産も多い。
生まれてすぐ死亡しやすい。
生まれてからかなり長期間自力行動ができない。
新生児は極めて弱い。
新生児の依存度が高く長期間にわたる。

こういう傾向があったわけです。

このため、チンパンジーの祖先と別れて800万年
原人と別れて20万年という人類の歴史の大部分が

子どもは母親だけが育てるものではなく、
母親を中心としつつも群れが育てるものだ、
そのために共鳴共感のメカニズムが母親以外の者と成立する
という極めてまれな生物となっている。
母親以外の大人が赤ん坊を可愛がり守ることがある。

こういうヒトの行動傾向が
ヒトが種を保存させるために必要でした。

言葉もない時代からヒトはこのような行動をとってきた。
それは遺伝子的に組み込まれることによってのみ
ヒトという動物に普遍的な傾向となったわけです。

二足歩行がこのような動物としての特徴を作ったのか、
群れを作る特徴が二足歩行を可能としたのか
なかなか面白い問題だと思います。

当時、群れは自分を守るものですから、
あまり個の確立は求められない時代が続いたわけです。

群れを守るというのは群れの頭数を維持するということが基本です。
大部分の人の歴史では、
40歳を超えて生存するということはあまりなかったと思われます。
そうだとすると、子どもを出産すること
子どもを自立するまで死なせないで育てること
これがヒトの一番のテーマでした。

一つには流産を避けること、
狩りなどの戦闘行為に女性を参加させないということは
流産を避けて、出産率を高めるためには必要だったはずです。

もっとも植物の採取だって、アスファルト道路なんてないのだから
流産の危険を回避するためにはいかせない方が確実だったと思います。

それは女性が劣っていることを示すものではなく
単純な役割分担ということです。

いつしか遺伝子的な行動が
文化的な感情を伴うようになるわけです。
なんとなく静かに過ごす女性が好ましいような風潮は
人間独特のものですが、
遺伝子的な行動という頼りない行動様式を
文化的な確実なものにしていったのだと思います。

(アントニオダマシオは
 二次の情動は、後天的なものと割り切っているようですが、
 私は、少なくない部分は遺伝子的要請と文化の混在によるものだ
 と漠然と思っています。)

具体的な男性や女性がどうかというより、
このような人類の悠久の営みによって
遺伝子的にいくつかの傾向が生じてしまうのは、
人類が歴史から切り離せない形で生存していることから
当然のことです。

男性は、命がけで狩りをすることが役割ですから、
動物に対する殺戮を嫌っていたのでは話になりません。
また時には他の群れとの戦闘もあったと思います。
どうしても、共存そのものではなく、
共存に必要な狩りや戦闘の遺伝子が入ってきているでしょう。
不正を許さないということも
チームプレイに自分や群れの命がかかっていることから
どうしても峻厳になる傾向があるのと同時に
感情が高ぶってしまうことも合理的な理由があるわけです。

これに対して女性は、
群れを守るという役割があります。
チームプレイを乱したところで、
よっぽどのことが無ければ命にかかわりませんので、
寛容性があるというか、攻撃性が低いというか
そういう傾向になりやすいと思います。
そこが、正しさよりも優しさを選択する発想になるのでしょう。

男性はどうしても白黒をつけたいわけです。
論理学でいえば矛盾を許さないアリストテレス論理学です。

女性は白黒よりも共存を志向するため
双方の利点を尊重しようとするわけです。
ヘーゲルの弁証法論理学がなじみやすいですね。

こういう女性らしさは確かにあるように思われます。
新幹線の二人掛けの椅子に座っていて
先ず、女性がひじ掛けからはみ出すということは
経験がありません。
男性はひじ掛けから肘がはみ出して出っ張っていると
どうしてもムカッと怒りの感情が出てきてしまいます。
ちょっと、突っついてみたりして。

女性は、あまり、このムカッという感情が
どうやらでないようなのです。

もっともここにも論点があって、
女性は怖いから言わないのだという人もいます。
そうかもしれません。
ただ、色々私的にリサーチしてみたところ、
どうやら傾向として、
反射的な怒りは男性の傾向のようです。
女性を馬鹿にしてという意味付けをした場合に
女性は怒りを持つような感覚を受けています。

これは日常家事的にはもっと鮮明に現れてきます。
本当によく聞くのが、
スーパーマーケットのレジに並んでいた場合、
例えば横入りだったり、その他不道徳な行為に
夫は反射的に怒りの感情を持ち、
感情を抑えきれないで注意等の行動をすることがあり、
妻はそれに耐えられないということをよく聞きます。

正義感が必ずしも肯定的にばかり作動しない
ということになる場面ですね。

男性は、ルールを守らない方が悪い
という価値観で行動する傾向がありそうです。
女性は、ダイレクトに調和を求める傾向がありそうです。
例えば、夫はルール違反でなければ自由な行動をしますが、
妻は、人から見られて恥ずかしい行動はしてほしくありません。

このポイントが
実は、妻が夫に対して恐怖を感じたり
自分を否定されていると感じるポイントになっている
と私は離婚の事例を担当して感じることが多いです。

フェミニズムは、第2派フェミニズムまでは、
女性のこのような非戦闘的、寛容的、協調的な傾向で
世界を変えようとしていました。
それらの傾向は、公正公平、弱者救済、平和の志向に
論理的にもなじみやすいわけです。

平成28年10月20日のAFPの配信記事ですが
「イスラエルとパレスチナの女性活動家ら、平和を訴える行進」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161020-00010007-afpbbnewsv-int
とても素晴らしいことですし、
これぞフェミニズムだと私は思います。
女性らしさを大切にした活動で、
世界から称賛されるべき人類史的な活動だと思います。

確かに、遺伝子的な要請に文化的なものが加わるとき、
時々の権力の所在によって、
本来遺伝子的な要請ではない事項が付加されます。
女性らしさは、慎みだという事項は、
全くこういうものであり、唾棄すべきものだと思います。

しかし、ヒトという生物的な女性らしさを否定しまうことは
何の根拠もなく、かえって女性を苦しめるものです。
一部のジェンダーフリー論者が国家権力と結びついて、
女性の権利を剥奪していきました。
深夜労働を解禁し、生理休暇を事実上廃止しました。
女性であることを理由に保護されるのがけしからんということらしいです。
そうしてまで果たしたい女性の社会進出はどうなったのでしょう。
賃金格差はどこまで解消されたのでしょうか。

女性らしさを理由にできないということは
女性にとっては大変つらい場合もあります。

また、今の一部のジェンダーフリー論は
女性であることを否定するもので、
女性を男性化しようとしているのではないかと
思えて仕方がないことがあります。

自分の写真をべたべた乗せるNPO法人関係者みたいに
女性も過労死させろと言っているようなものです。

戦闘シーンで女性が補助的な立場でなく
攻撃を主導する立場で喜ぶのは誰でしょう
会社が決めたルールにのっとって
自分の個人的な事情を無視して長時間働くことで
喜ぶ人は誰でしょう。

実は、「女の子らしさ」を否定することは、
強欲な利益至上主義者の手先の効果が
主な効果になっていないでしょうか。

深夜労働を拒否できない状態にすることで
安い労働力を使えると喜んでいる人がいるわけです。
毎月生理休暇が取りにくい状態を
確実に喜んでいる人がいるわけです。
男性並みに活動し、
無自覚流産しても
何のも痛痒も感じない人たちがいるわけです。

これは、800万年の人類史上初めて
女性が、女性であることから受ける
当然の利益を奪われている時代ではないでしょうか。

むしろ、
男性を女性並みにしろと言う主張自体が健全です。

なぜならば、今の時代、
戦闘的な本能は不要である上、有害だからです。
正しさよりも優しさが必要な時代だからです。
もっと、女性の遺伝子的傾向が
社会の支配的傾向になるべきです。
今なお続いている戦争を少しでも少なくし、
それぞれの人間の条件を無視して
過労死するまで働かせることを
優しさで否定するべきです。
誰かを攻撃したくなるような要因を探り
ダイレクトに共存するための文化を構築するべきです。

それには何が正しくて、あるべき姿だなんていうような
男性的な発想は有害になるだけではないかと
今は考えています。

もし、今の第3派フェミニズムの趨勢が
このような発想、遺伝子的女性らしさの強調ですね、
これを否定するのであれば、
それはフェミニズムと呼ぶべきではないと思います。
女性を解放しないで、男性化させるだけの
論調に成り下がっていると思います。
人類史の中で恥ずべき最悪の論調です。
女性性の否定という呪いから生身の女性を解放するべきです。
女性であることを理由に堂々と自分を大切にすることを
是とするべきです。
それは自分だけの利益ではありません。

時代は、男性化社会から女性的傾向社会へと
変化することが客観的に求められていると思います。
そうでなければ人類の生き残り自体が怪しくなっていくでしょう。
案外第4派フェミニズムの担い手は
日本では女性ではなく、
理性的に目覚め、自らの弱点を認識した
男性なのかもしれません。

いなばの白うさぎの対人関係的解釈 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

大国主命大神の話の中に出てくる
因幡の白兎の話は有名ですが、
最近の子どもたちは知らないかもしれません。

島の白うさぎが、陸地にわたりたくても手段がない
一計を案じてわにざめをだまし、
白うさぎの一族とわにざめの一族の
どちらが多いか数えてあげるから
島から陸地まで並んでみてくれと
働きかけました。

わにざめは、それを信じて
おとなしく並んだので
数を数えるふりをして
わにざめの背中を渡り、
さあ、上陸だという時になって
それは嘘だ。自分は上陸したかっただけだと
ぽろっと話してしまったために
わにざめは怒って
よってたかってかみつき
皮をむかれてしまった。

かなり重症で苦しんでいた時に
大国主命の兄たちが通りかかって、
海の水に入って乾かすとよくなると騙しました。
それを信じて乾かしていたところ
塩が傷口に入ってきて
ますます苦しむことになった。

そこを通りかかったのが
末弟の大国主命で、
淡水で洗い、ガマの穂綿にくるまることを教え
白うさぎの傷口が癒えたというお話です。

白うさぎは大変感謝をして、
大国主命がお姫様と結婚することを助けたり
いろいろと恩を返すことになるという話です。


しかし、この話、
もともとうさぎが悪いんです。
わにざめをだましたのですから。

おそらく、当時、多くの数を数えるということも
ある程度の知識が必要であり、
素養のない人は、
数のペテンにあっていたことと思います。

なにせ、算用数字が使えないどころか、
文字すらもあったのか疑わしい時代のことです。
数字をごまかして
他人をだまそうとすれば
簡単に騙せた時代だったかもしれません。

なんらかの制裁を受けること自体は仕方のないこと
かもしれません。

皮をむかれたら生きてはいけませんので、
そこまでが実際あったことではなく、
おそらく、四面楚歌の状態になったのだと思います。

そこを通りかかった大国主命の兄たちも
神様ですから、
今でいえば為政者だったのでしょう。

為政者としては勧善懲悪を徹底していた時代ですから、
当事者の私的制裁を受けた後の白うさぎに対して
さらに追い打ちをかけて罰したということになるでしょう。

これは、正義です。正義の制裁ということになります。
言葉を変えてみれば常識ということですし、
多数派の考えということも言いうるかもしれません。

人をだました者をリアルに描くことは
かなり強烈なことだったので、
白うさぎということにして、
印象を緩和したのだと思いますし、
加害者性を緩めた表現になっているのでしょう。

問題はここからなのです。
大国主の話は、インドが由来のおとぎ話だとされているのですが、
全く知識はないのですが、
白うさぎを助けるということが
もしかしたら日本的な話なのではないかと思うのですが、

大国主は、そんな狡猾で弱い者いじめの白うさぎに対して
適切な対処方法を告げて
白うさぎを蘇生させました。

悪事を処罰するという正義だったり、常識に
反する行動をとったのです。
許すということですね。

どんな者であっても、
困っている状態、瀕死の状態(対人関係的に)であれば
救いたくなり、救ってあげる
というところに価値を置いている
という話なのではないかと
そう思うのです。

この種の物語の傾向として
助けられた者は恩を返すのですが、
それは本質ではないように思えるのです。

善悪にかかわらず人を助ける。
それが人を再生させる
ということのメッセージが、
生きることだけで厳しい時代の中で
育まれていたのだと思います。

衣食足りて礼節を知るの対人関係的補足 友人間のリンチの構造(ちょっとネガティブなのでその意味で閲覧注意) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

中国の「菅子」が出典のようです。
意味は、

「一国の為政者たるものは、計画をたてて経済を豊かにしなければならぬ。豊かな国へは、どんなに遠くからでも 人民は集まってくるし、開発の進んだ国から逃げ出す人民はひとりもいない。その日暮らしにもことかく者に礼節 を説いたところでなんになろう。生活が豊かになれば、道徳意識は自然 と高まるものであり、衣食が十分であれ ば、自分の名誉や恥とかを重くみるようになる。」
ということらしいです。

紀元前600年頃の話ですから、
文明、生産技術と、生活状態が直結していたのでしょう。

なぜ、衣食が足りないと礼節を忘れるのでしょうか。
この場合の「衣食足りる」とは、この時代のことですから
寒さをしのぐ手段、飢えをしのぐ手段がある
ということになるでしょう。

寒さをしのげず、飢えたままであれば
人間だって動物ですから
生きようとするわけです。


飢えていたり、凍えていたりして
生存の危険が生じている場合は、
先ず、食料を口にしたい
生存の不安を解消したいという意識が高まります。

他の群れのやぎをこっそり奪っても食べたいと思うでしょう。
そして、このような慢性的な不安がある場合は、
他の群れのやぎを奪うことによって、
後でもめ事になるというような、

他人の気持ちを考えるという共鳴する能力や
将来的にまずいことが起きるかもしれないという推察力が
活動を停止ないし低下してしまいます。

だから、道徳とか、正義とか
目に見えないものが、心のストッパーにならないのです。
おそらく自分の家族の命を助けるために
他人の家族に不利益を与えるということが多かったと思われます。

この時期には権力者が存在していますから、
新都市の形成のために移住させられた形で
地縁も血縁もない群れが隣り合わせに存在した
可能性があります。

すると、仲間という意識はないですから
自分たちの生存競争のために
他の群れと敵対することはあったでしょう。
大変興味深いです。
家族や少し大きい小集団の中では
分け合って生活したとしても、
隣の群れとは、生存競争が激しかったりしたのでしょう。

だから、礼節を知らないというのは
飢えもあるのでしょうが、飢えそのものではなく
生命の危機に慢性的にさらされていることによって
交感神経の活性化が慢性的に持続していたことによる
脳の機能の停止ないし低下という側面を見逃してはいけない
のだと思います。

現代社会でも、礼節をわきまえず、
ヘイトスピーチを行ったり、
身近な人間をリンチで殺したり、
家族に暴力をふるうなどということが行われます。

曲がりなりにも、衣食はあるはずです。
どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。

対人関係学は、衣食が足りても、
交感神経の活性化が慢性的に持続している事情があるからだ
これが、現代社会においての
「衣食」なのだと考えます。

即ち、
このことわざを作った菅仲のころは、
群れの結束は強かったものと思われます。
群れの構成員どうしはかばい合い、補い合っていたと思います。
そうでなければ、群れ全体が消滅してしまうからです。
一人だけ食料を独占してしまうと
群れの他の構成員が死滅していき、
群れを失った者は、農業をすることもできません。
また、一つの群れに属するだけで、
複数の群れに属するということは滅多になかったはずです。

これに対して現代社会は、
家族を中心とする群れに所属するだけでなく、
学校や会社に所属していますし、
税金を払ったり選挙を行い、社会につながっています。
犯罪によって、実名が報道されたり、
ネットに自分の居場所を見つけたり、
ネットで傷ついたりしているわけです。
群れが複数存在しています。

群れの構成員相互の関係も
例えば、家族であっても、
あまり一緒にいる時間がないことが多いのではないでしょうか。

学校といっても他人の集まりということが多く、
好きや弱みを見せるといじめられたり、
就いていけなくなるということがあるのではないでしょうか。

職場といっても、人間として大事に扱われるのではなく、
会社の利益のために、人格を消すことを要求され、
恥ずかしさとか、辛さとか、そんなことは考慮されない
人間らしい結びつきも否定されてはいないでしょうか。

社会についても、
子どもたちは、中学の後半で、
自分の一生を悟ってしまう。
明るい展望を持つことを許されずに、
自分が将来的にみじめな生活を余儀なくされると
そんな気持ちになることも達が
かなりの数で存在するように感じてしまいます。

そのような子どもたちの唯一のよりどころは
同じような境遇の子どもたちです。
友達というような積極的プラスの付き合いではなく、
自分のそばにいる人間がいるという
ぎりぎり最低限の安心感のようです。

その子の弱いところを承認して助け合うわけではなく、
もともと承認されていないと感じる者同士が、
家庭でも、学校でも、職場でも
自分の存在自体を否定されていると感じている者たちにとって、
存在自体を承認する、一緒にいること自体を承認するという
最低限の「仲間」だった可能性があります。

16歳の少年が亡くなったケースでは
電話やメールに出なかったことが犯行の動機とされています。

これは、加害者たちにとっては死活問題だったのでしょう。
仲間すら、自分たちの存在を否定するという意識を持ってしまうと、
自己防衛的な意識が極めて強くなってしまいます。
危険をより大きなものととらえます。

そして、その対象者が、自分より弱い、自分たちは勝てる
という意識を持ってしまうと、
本来、社会や、家庭、学校との関係で持っている不安に対する
カウンター行動が、
弱い、勝てると思われる相手に向かってしまうわけです。

怒りの大部分は八つ当たりです。

回復できないはずの自分の存在意義の回復の行動ですから、
攻撃行動は、終わりが見つかりようがありません。

社会的存在に対する不安が慢性的に持続していて、
相手の心情を考えるような共鳴能力や
このまま続けると死んでしまうのではないか、
そうなったら取り返しのつかないことになってしまうという
近い将来を予測する推察力は
脳の機能が停止ないし低下しているために
発動することはありません。

凄惨な結果になる傾向になってしまいます。

だから、少年たちの加害も、
貧困が原因というよりも、
少年たちが置かれた、承認されない、否定されているような
社会構造にあると考えなければ再発防止にならないのではないでしょうか。

よるべき場所がない少年たちが吹き溜まりのように集まってしまうことは
社会の問題だと思います。
つまり、少年たちが、独力で改善することは極めて困難です。

それでも、社会は気楽なものです。
自分たちが、加害者を追い込んで、
交感神経の活性化が慢性的に持続される状況に落としておきながら、
全て自己責任ということで
加害者を処罰して終わりとしようとしているわけです。

これから、同種の事件は増えるでしょう。
むしろ、陰湿化、非人間化してくると思います。
自分が大切に扱われていないと思う人たちは
他人を大切にしようという気持ちになれないし、
どうすれば他人を大切にできるのかもわかりません。

それでも社会は、追い込まれた少年たちを放置して
即ち被害を放置して、
自分たちが追い込まれている社会からの不安、危機意識を
加害者に対する怒りにすり替えていくことでしょう。

自分のこととして原因を考え、対策を講じないで、
悪いやつを悪いと怒ればよいのですから
とても気楽なことだと思います。


人の振り見て我が振り直せ 自己洗脳の脱却方法 損して得取れ 和の心の再構築 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

一年くらい前も同じことわざで記事を書きました。

「共鳴力、共感力は、人の振り見て我が振り直せシステム。後天的に学習できる。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-04-01

その時は、人間という弱い動物が生き残るシステムとして
共鳴力、共感力が必要だったということで
お話ししました。

今回は、自分の思い込みを是正する方法として論じます。

例えば離婚調停等をやっていて
「どちらが悪い」という不毛な論争から脱却できたとしても
楽しく家族として生活するためには
現状を改善しなければなりません。

相手に対する不満のポイントばかりが目につくのですが、
実は、そこに不満を抱いていること自体が
解決を不能としている場合があります。

誰しも
自分がこうしたいという感情を基軸に
物を考えたり、感じたりするのですが、
その自分の感情は、果たしてそれでよいのか
ということを考えなければ
解決しないことがあります。

元々、相手にこうしてほしい、ああしてほしいと
願って望んでも
相手も心がありますから
結論だけ押し付けられても
反発することがむしろ多いのではないでしょうか。

相手を変えるためには
こちらかがわかって見せることが
唯一の方法だ

と考えています。

どちらが正しいなんて子どもみたいなことから卒業しても
相手に負けたくないという気持ちがあったのでは
対人関係は解決しないのです。

主義主張があることは別として、
例えば、
食事を作る場合、
自分だけが調理をするのは損をしている気持ちになる
という奥さんがいたとします。

ところがこのご夫婦の場合、
奥さんは、調理はそれほど嫌いではない、
また、おかずの出し入れで、
旦那さんが機嫌が良くなったり悪くなったり
きわめて単純で、(男は大概そうですが)
相手のコントロールが可能というのであれば、
調理をすればよいわけです。

食事を作るのは相手のためではなく、
家族の在り方をコントロールする方法だし、
家族のために作るというフォアザチームの発想を持てば
自分も家族というチームの一員なのですから
損をしているという感覚は強くならないはずです。

知らず知らずのうちに、
チームの状態を一員として判断するのではなく
自分と夫との
対抗関係として人間関係を見てしまっているのです。

「損をしている」という感覚をもつという抵抗感があるということは
「損」とは、自分が尊重されていないことを表すような
そういう評価をしてしまっています。

「損」は間違っているのでしょうか。
家族のために
自分の労力を使うということは損でしょうか。

損得は、近代というか、資本主義的というか
そういう価値観だと思うのですが、
こういう評価基準は家庭の中に入るべきなのでしょうか。

逆に夫は、
自分だけが家族のために働いて
会社で嫌な目にあって苦労している
これを損と言いはしないでしょうが、
だから家族は自分を尊重しろ
というのであれば、
やはり損得の感覚が滑り込んでいるような気がします。

妻に負けたくない、夫に負けたくない、
損をしたくない
という気持ちが、
家族というチームの構成員の中で生まれることは
チームを解消する方向に働くでしょう。

ある意味負けりゃあ良いんです。
それで家族が楽しくなるのなら
一時的に負けても、それでより結びつきが強くなったり
家族が家族でいることに居心地が良くなるなら
なんぼでも負けましょう。

なぜかそれができない。
変な価値観に支配されているわけです。
こういう夫婦は、一方的に負けたくないというより、
相互に意地を張っていることが多いようです。
先日述べたように相互作用だからです。

どちらが、妙な価値観からいち早く脱却するか
という問題なのですが、
既に自分に確立されてしまった価値観を
改めて疑うということはとても難しいことです。

弁護士みたいな第三者が口添えしても
感覚を修正することは大変難しいようです。

このたび、その方法を見つけました。
それは、
むしろ相手の悪いところ、嫌いなところを
徹底的に分析するところです。

相手は、自分に負けたくないと思っている
自分に何か言われると、指図をされているように不愉快になる。
意地を張って言わなくても良いことを言っている。
子どものことを顧みない。
まるで子どもだ。
等々など。

さあ、ここからが問題なのですが、
じゃあ自分はそういうところはないのか
ということです。

多くの場合、形が多少違っても
同じような発想になっています。
意地を張っています。

自分のこととしてはわからないけれど
相手を見て、自分と照らし合わせることで、
相手の嫌なことはそっくり自分もおんなじだと
気が付くことができるでしょう。

ロールプレイングとは、これです。
司法試験などのグループ学習も
これを期待して行っています。
「他人を評価する時は、自分の実力は1.5倍増しになる」
ということです。

対抗意識がありますから
すぐにそれ(自分も相手と同じにはりあっていること)
を認めることはできません。
「自分の行動は、相手が悪いからこうなった」
という発想になるでしょう。

でも現状を変えようとした場合
過去においてどちらが悪いということは
あまり意味のないことです。

どちらがよい関係を作ろうとしたかで
考えればよいのではないでしょうか。

ここで、相手にあわせるという形で
自分を変えて見せる
「私はあなたを尊重しているよ」
という強烈なメッセージになるはずです。

近代的、文明的、西洋的価値観を捨てて
損して得取れではないですが、
和の価値観を再生するべきだと思います。

あなたのご家庭だけでなく、
職場や地域もそうですが、
必要以上の功利的な価値観は、
結局悪くなるだけのような気が
最近特にしているのです。

北ニケンクヮヤソショウガアレバ 裁判についての誤解 真実を知りたい、白黒をつける  [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

宮沢賢治の雨ニモ負ケズの中に

北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

という一節があります。
弁護士になってからは、ずうっと引っかかっていた節です。

権利が侵害されている人にとって
裁判という手続きで権利侵害が回復される
人間性を回復する手段だと意気込んでいたからかもしれません。

といっても、今そのような考え方を
全面的に改めたわけではありません。
そのような効果も全くないとは言えないのはもちろんです。

ただ、それは、必ずしも結果が保証されているものではなく、
むしろ、ギャンブル的要素が強い不確かなものだという
そういう考えも色濃くなっているのであります。

裁判を行う当事者と接する仕事なのですが、
なんのために裁判をしているかという文脈で、
真実を知りたいとか
裁判で白黒つけるんだ
とかおっしゃる方がいて
その気持ちはよくわかるのですが、
裁判は、そこまで精緻なものではありません。

お医者さんなどに診断書を記載してもらう場合も、
自然科学的に一点の曇りがない場合でなければ
協力できないとおっしゃる方もいて
苦労して説明することも多くあります。


真実を発見するシステムとしても
裁判という制度は決して万能ではありません。

100%の真実を見出すシステムでもありません。

では裁判がどういう制度かということですが、
人間関係で紛争が起きた場合、
いつまでも紛争が続くと
当事者だけでなく、周囲も険悪になっていったり、
力の強い者だけが幅を利かす弱肉強食の正解になってしまいます。

このため、主として秩序回復のため
国家権力の強制を背景として、
強引に結論を決めてしまうという制度なのです。

これだけでも、法律や裁判を使わないで済むなら
使わない方が良いということを基本に据えるべきだと思います。

ではどうやって、真実かどうかわからないのに
結論を出せるのでしょう。

それが証明責任です。

大体は、請求する方が
請求がもっともだという裏付け(証拠)を提出する責任を負います。
これがある程度もっともだという時は、請求する方が勝ち、
裏付けを出せなければ請求する方が負け
という、単純化するとそういうルールを決めて
争う制度です。

厳密に言えば、真実かどうかで結論が決められるのではなく
真実だと証明できるかどうか
という話になります。

もっとも、裁判官も常日頃から研鑽を重ねていてい
法律だけでなく、裁判の下になる知識も勉強しているのですが
人間の知識や思考には限界があります。

例えば、交通事故でむち打ち症になったという事例を
考えてみましょう。

まず、今現在むち打ち症で痛みが残っているかどうか
そこからして、証明ができません。
むち打ち症の損害賠償を請求する方は
証明ができないだけで、負けてしまう可能性があるわけです。

また、交通事故の原因が
どちらがどれだけ責任を持つかという過失割合という問題があり、
80%悪いとか55%だとか言いますが、
そんなことメジャーがあるわけではありませんから
真実なんて、本当は決め用がありません。
過失割合の表があるのですが、
突き詰めれば、
過去の裁判例で、平均するとこうだっから
というあやふやな理由しかないのです。

では、かっちり過失割が場合分けできれば
ある程度真実は、白黒は決められるのでしょうか?
これも無理です。
どちらが先に交差点に入ったか、
どちらがどのくらいスピードを出していたか、
どちらかが止まってからぶつかったか、止まる前か
なかなか実際はわかるものではありません。

目撃者がいたとしても
さあこれから交通事故が起きるからきちんと目撃しましょう
なんてことはありえません。
もし何らかの予感がして一生懸命見ていたとしても、
あれ、あれ、あれ、もう一回見せて
ということがむしろ普通ではないでしょうか。

いずれにしてもあてになりません。

一番あてにならないのが当事者です。
相手が悪いという気持ちは強いのですが、
多くの当事者の相手が悪いという理由は、

いつもと同じように自分は運転していた
いつもは事故は起きない、
すると自分は悪くない
だから悪いのは相手だ
という論理?が最も多いのです。

そして、少なくない割合で
いつも道路交通法違反の運転をしていることがわかります。

それでも、裁判で判決が出されるわけです。
裁判なんてこういうものかもしれません。

勝ち負けにはギャンブル的要素があるということは
少しお分かりになったと思います。

だから、
白黒が付いたのではなく、
白黒をつけたことにするということが実態にあっていて、
真実がわかったと実感することはあまりありません。

救うべき人を救っているのか
そらおそろしくなるわけです。

相手方に証拠を出せといっても
出しませんし、
はなはだしくは
もうその文書は燃やして捨てた
ということになると、
どうしようもないことも多いです。

数日前に、対立司法から人間関係調整手続きにという記事を書きました。
一つにはこういう理由もあります。

もしかしたら、今日の記事を読まれた方の中で
絶望的気持ちを抱かれた方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、思うのです。
本当に白黒をつけることは必要なのだろうかということです。
交通事故なんて、多くの割合は当事者が悪いのではなく
危険な自動車走行を許しているという問題があり、
そこから不可避的に生じているのだから、
損害保険システムを改良して、被害者救済をした方が合理的なのではないか
という発想があってもよいように思うのです。

被害があった場合、
どちらかが悪いので被害が生じた
という論理こそ、もしかしたら嘘くさいのではないでしょうか。

過去の評価を強引に定めるより、
よりよい将来に向けた改善作業こそ必要なのではないでしょうか。

過去の出来事に、心がとらわれて
自分の人生を足踏みしたり後退したりしていることこそ
もったいないような気がします。

人間関係調整手続きは、このような考え方に立脚しています。

そう考えると
宮沢賢治の雨ニモマケズの方が
深い洞察力のある本質をついた考えなのかもしれないと
ようやくそういう考えに至ったというお話でありました。

小糠(こぬか)三合持ったら婿(むこ)に行くな 伝統的な対処方法 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

男は婿養子になるものではない
ということわざとして知られています。
気苦労が多いからということが一般的な理由です。

これがなぜなのか。
女だって嫁に行くわけです。
なぜ男だけが婿に行かない方が良いといわれるのでしょうか。

出典として近松門左衛門の「卯月の紅葉」が紹介されています。
婿養子になった男が舅等から嫌がらせを受け
妻と心中するという筋書きです。

婿養子がいびられるという設定はリアルなのかもしれませんが、
妻と心中するというところはファンタジーです。
なぜならば、
婿養子の心理的圧迫は、
妻が、妻の両親と結束するため
自分だけが仲間はずれにされているという
疎外感に本質があるからです。

思えば、事件を扱う中で、
人の気持ちの問題、精神の問題が大切だなと
思うようになった事件類型が
養子の類型でした。

最初の事例は、
婿に入った夫が働かない、怠け病だというものでした。
そのお婿さんはうつ病に罹患していました。

私の継続的相談者で自死された事案も
婿養子の方で、
家族のために一生懸命やっていたのですが、
評価されない。
だんだん何をやってもうまくゆかなくなり、
完全な孤立無援の状態となり
自死をしたようです。

最近も、ギャンブル依存症の事案があったのですが、
突き詰めていくと
家庭に帰りたくないほど疎外感を受けていて
パチンコ店が閉店するまで帰らなかった
ということでした。

では、それだけ婿いびりがあるのでしょうか?
どうもそうではなさそうです。
いずれの事案も、
意識的な攻撃はなかったように思われます。

それでも、疎外感は強烈なものがありました。
攻撃されたり、否定されているわけではないけれど
自分が尊重されているとは思われない
というところが本質のようです。

例えばどういうことかということを聞き出しても
案外些細なことから、自分だけよそ者だと
感じているようなことが多かったです。

どうも、男性は、女性に比べて
妻の両親になじむということが難しいようです。

先日DV(男性から女性への)の勉強会に行って
男性は、女性に対して
家にくぎや画びょうを打つだけで激昂する
というようなことを聞きました。

しかし、それは男の属性ではなく
所有者の属性のようです。

男性が女性にそのようなことを言うのは
DV夫とされる人だけのようですが、
案外、多くの婿養子の方々は
妻や舅、姑から
同じようなことを言われているようです。

もちろん悪意があっていっているのではないのですが、
その都度婿養子の方は、
私たちの家の「私たち」の中に
自分だけが含まれないことをつきつけられているようです。

男性の属性だと非難されていることは
実は経済的支配者の属性であり、
男性の方が経済的に優位なので
目立たないだけなのかもしれません。


小糠(こぬか)とは
米を精米する時に出るくずです。
精米する理由は、おいしく食べるためと
柔らかくするためでしょう。

コメの一部ですから
食べることはできます。
ただ、精米後のコメの方が
炭水化物、糖質が多いのでおいしいです。

ぬかにはいろいろな成分が多く、
現代人などは食べた方が良い栄養素が多いのですが、
雑味が多すぎておいしいという感覚を持ちにくい
ということがあります。

また、炭水化物が少ないですから
エネルギーを取り入れにくいです。

1合1食だとすれば、
とにかく動物としてその日を生きていけるくらいの糧があるなら
婿養子になんて行くな
という強烈な意味です。

それだけ、婿養子に行って悲惨な目に遭ってきた男性がいたのでしょう。

もともと日本の婚姻制度は
妻問い婚があって、婿入り婚となり
嫁入り婚となったといわれているようです。
思考錯誤の上、嫁入り婚に落ち着いたのでしょう。

現代は、独立婚が主流のようです。

婿にならなくても
妻または妻の実家の方が経済的に優位だったり、
社会的地位があったり
近くに妻の両親が住んでいるという場合も
同様の問題が影を落とすことがあります。

こういう場合、
ご自分たちには悪意がなくても、
いつしか、妻が、自分の夫ではなく
実家の方に帰属意識が傾いてしまう
ということが問題の発端です。

いろいろな原因、事情がありますので、
一概に解決方法を述べることができません。

伝統的な婿養子の場合、
婿を迎える側が、
婿の心象風景に対処しているという風習もあります。

名字や子孫を残すという風習がありますので、
切実に養子を求めるケースがあります。
最近は減ったでしょうか。
こういうご家庭では、
お婿さんを尊重する工夫がされています。

実は対処方法はいたって簡単なのですが、
夕飯の時、婿さんに、おかずを一品多く出す
ということです。
大体は刺身を出すことが多いようです。

結構宮城県では、この風習が普及しています。
伝統的に引き継がれているようです。

女性の方は、
そんなことで満足するのかと驚かれるかもしれませんが、
案外満足するものです。
私なら、おかずを大盛にしてもらっても嬉しいでしょう。

単純な男性は案外多いものです。

しかし、逆に
一番体が大きい人が夫だとすると
それでもおかずの量が一緒というだけで、
疎外感を感じてしまうのかもしれません。
一人だけ肉が少ないとなおさらかもしれませんね。

ただ、どのような理由でおかずを一品多くするか
ということを理解しないで
おかずはちゃんと多くしていました
というようなことをおっしゃる方もいらっしゃるのですが、
そういう場合、
知らず知らずのうちに、
男性が、自分はないがしろにされていると
疎外感を受けている場合があったりして、
なかなか難しいところもあります。

いずれにしても、伝統的に婿養子は
疎外感を感じやすいという事実認識が社会にあり、
それに対処する方法が伝えられているということなのです。

先人の知恵は
婿養子の具体的なその人がどのような気持ちかということではなく
婿養子という対人関係の状態から
先手を打って気を使うということを確立していたことになります。
そういうものだという問答無用の慣習の実行です。

そうやって、群れの弱い部分を守る工夫をしていたのでしょう。

類型的なものの見方の方が
ヒューマニズムを実践する場合があるようです。


人はパンのみにて生きるにあらず 「私」という感覚は他人とのつながりの中で成立 心的外傷と回復ノート [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

‘TRAUMA AND RECOVERY’ by Judith Lewis Herman

ハーマンは、本書を つながりを取り戻す本
だと述べています。

要するに心的外傷が起きると
自己を喪失したり破壊したりしてしまう。
これが症状の本質のようです。

この「自己」というのが、
自分以外の人々との関係において形成されて
維持されているもの
だというのです。(75頁等)

外傷、つまり
強烈な恐怖や孤立無援感、自己統制力の喪失
完全な自己消滅の脅威等を体験すると
この、
他の人たちのつながり(家族愛、友情、恋愛、そして地域社会
への感情的紐帯)を引き裂かれるわけです。

他者とのつながりが切れた人間は
過剰に危険に敏感になり、
恐怖体験が突然襲ってきたり悪夢を見たり
意識が変容していくというのです(49頁)。

これが繰り返し論じられています。

PTSDという病態から、
自己、私という感覚はどういうものかということが
解き明かされているように感じました。

人間は、基本的に、あるいは根源的に
(要するに生まれながらというか遺伝的といいますか)
他者とつながって生きていく動物だということになるようです。

人間とは、
食事を摂り、排せつして、睡眠をとり
食料を探して
単体として生命維持活動をしていれば生きていける
というわけではなさそうです。

人はパンのみにて生きるにあらず
とは新約聖書の言葉ですが
そこでは、パンだけではなく、
神の言葉の一つ一つによって生きるということが書かれていますが
ここでいう神が
調和的な人間社会の相互互助的な関係等の
人間を人間として成り立たしめる法則
という意味と同じだとすると
この言葉は、対人関係学の要諦そのものだと
勝手に感じ入りました。

人間が本来持っている
助け合いの精神とか、分け合う精神等
人間を形作るものが
富の蓄積や支配によって傷つけられているために

それを是正し、本来的な人間に立ちかえるようにしようとすると
神という存在が必要であり、
それはおそらく人類普遍的なものではないかと
考えています。

楽園を追放された人間は
追放されたがゆえに神を必要としているのだと思います。

この自己を形成する最初のつながりが
赤ん坊の際にケアする両親だということになります。
人間は生まれた直後から
尊重されて育っていくわけです。
誰かに助けられて生きているというわけです。

この自己は、外傷の瞬間においては、
被害者の視点というものは全く一片の価値もなくなってしまう
外傷的事件は、
自分は自分以外の人たちとの関係の中で自分自身でありうる
という信念はを破壊するというのです(78頁)。

もう少し分析した記述としては
「自己」という心理的構造体は、
自己身体像と内面化された他者像とともに、本人に
<自分は整合性があり目的を持った存在である>
という感覚を与えてくれる様々の価値と理想からなるものであるが、
これが侵略され、体系的に破壊される。

即ち<コントロールされ犯されうる身体>
<他者を見はなし他者から見放されるる人間>
というイメージが付きまとうそうです。

これは、他者の命じるままに生きるロボットであり、
あるいは移動のできない植物だと指摘しています
(143頁)

他者とのつながりが断たれた人を見ることはあまりないかもしれませんが、
他者とのつながりが断たれた状態の人の行為に
弁護士は良く立ち会います。

例えば、犯罪です。
その人は、これをすることによる罪悪感を感じない状態になって
実行をすることが多いようです。
誰かを傷つけることも感じませんし、
発覚した場合の自分の不利益もまともに検討しませんし、
自分が傷ついていく、自分の価値を貶める
ということも考えません。

これらは、他者とのかかわり、社会とのかかわりを
感じていたり、考えたりしない限り感じないことなのでしょう。

浪費の場合も同じかもしれません。
返すことを考えないで買ってしまったり借りてしまったりする
ということも同じでしょう。

過重労働も同じかもしれません。
会社とのかかわりだけがテーマになってしまい、
自分を取り巻く大事な家族や友人、
その中で成立する自己が見失われているように感じます。

ギャンブル依存やアルコール依存も
同じ側面があるかもしれません。

この極端な状態が自死なのでしょう。
完全に他者とのつながりが絶ちきれています。
他者とのつながりは耐えられない苦痛としか
感じることができない状態なのでしょう。


だから、回復の過程では
自分自身と和解し、
他者と結合していくという過程をたどります。
境界線を保ちつつ、自分以外の者の
ものの見方と境界線を尊重する(324頁)
という回復過程をたどるようです。

もっとも、境界線があることが
自分を感じる不可欠な要素なのでしょう。

私は、つながりの回復とは
PTSDの治療だけでなく、
各種依存症の治療の論理でもあり、
また、予防の論理ではないかと考えています。

犯罪にしても、依存症にしても、自死にしても
要は、少しずつつながりが薄れていくということなのだと思います。
孤立無援感だったり、絶望だったりが
少しずつ進んでいくことに本質があるのだと思います。

そうであれば、
何か事が起きる前から
少しずつ、つながりを感じる力を強めていくことが
様々な問題行動にでないカギではないかと思います。

そして、
予防を一歩進めて考えることこそ必要だと思います。

何も悪いことが起きない状態を目標にすることは
いわば0(ぜろ)を目指す活動です。
0という目標に到達しても
おそらく喜びも充実感もないでしょう。

むしろ、神の意思を実現するような人間界をつくる
ということこそ目標とされるべきだと思います。

相互互恵的な、相互扶助的な
他人を尊重し、自分が尊重される
そのような人間の関係を作る。

その一つ一つの出来事が
おそらく喜びであるし、充実感を感じることでしょう。

なにやら宗教的になってきました。
それでよいのだと思います。
宗教の本質はわかりませんが、
そこに流れている部分は
全く同じだと思います。


芸は身を助ける 理不尽過重労働からの生還者がなぜ仕事をやめることができたか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

このブログで述べている故事、ことわざは、
あくまで、対人関係学的解釈ですから
くれぐれも受験の時に引用しないでくださいね。


ということで芸は身を助ける。

普通は、
収入がないときに芸事で家計の足しになった
なんていう意味で使われるのかもしれません。

しかし、もっと深遠な意味があるのではないかということ
過労死過労自死遺族の会東北希望の会の例会で感じました。

例会には、遺族だけでなく、友人たちや
今労災で苦しんでいる人たち、
働き方を研究している人たちもやってきて、
名古屋かにやさしい時間を過ごしているのですが、

その日は、20年近く勤めていた職場を
スパッと退職したという方もいらっしゃいました。

この方の職場は、結構固い仕事なのですが、
数年前に上司が変わってから
理不尽なことが増え、
人数も減少して、ずうっと忙しくなってしまった上に
同僚が理不尽に事実上解雇されたりしたという中で、

簡単に言うとうつ状態になって、
引きこもりの始まりみたいになったそうです。

ここで、すごい!とおもったのが
その人は、
自分がおかしい
このままでは自分が壊れていくと自覚したそうです。

なぜすごいかというと
私がかかわる労災事件では
自分の体調の変調に気が付かず、
あるいは気が付いたとしてもそのまま理不尽な環境から脱出できず
うつ病になったり、自死されたりする
という事案ばかり見てきたからです。

良く気が付きましたね。
率直な感想がこれでした。

しかも、退職も
苦しみから逃れようとして
他に選択肢がなくなりというのではなく、
やめても何とかなるだろうという
前向きな気持ちで退職した
というところも驚きでした。

私は、質問を続けました。

どうやら、自分の状態に気が付いた一因として
その人がしていた習い事が関係しているようです。

これは、何でもよいのだと思います。
剣道みたいなものでも、書道、茶道、華道
音楽も同じかもしれません。

一つの道にひたすらに打ち込んでいると、
それをすることで、自分の心の状態がわかるようです。

書道であれば、自分の字が乱れていると感じるのでしょうか。

一般的には、
こころは、対人関係の状態に対する反応ですから、
その対人関係の中にいるうちには
無意識に反応しているだけですから
自分の心の状態がわからないわけです。

運動をして汗をかけば
皮膚感覚でそれがわかるのですが、
心を感じる心というものはないようです。

ところが、自分の心の状態を
客観的に見ることができる
書道の書、茶道のお茶、華道の花の状態は
なるほど貴重なものだと思います。

スポーツ選手も
練習をしていて体調に気が付くことでしょう
武道も、自分の体調気にが付くだけでなく、
心の状態に気が付くということがあるかもしれません。

芸は身を助けるというのは
一つのことに打ち込んでいることによって、
その芸の状態を客観視できるようになり、
それで、体調や精神的不調に気が付き
自分の行動を修正する、
それによって、命や人格を守ることができる
という
深遠な話ということが
むしろ、実際上多い出来事ではないかと
考えされられた出来事でした。




金持ち喧嘩せず 実るほど頭を垂れる稲穂かな 笑う門には福来る。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

金持ちというのは、所持金や預貯金が多いひとというわけではないのでしょう。

おそらく、人間がもっとカツカツで生活しているとき、
衣食住が欠落して、簡単に死んでしまう時に、
何かあっても、すぐに生きていくのに困らない程度の
そんな金持ちなのだと思います。

喧嘩するというのは、
自分が攻撃されることに敏感になっている人が
自分を守るために行うとみることができます。

なんだか、馬鹿にされているという
社会的な自分の立ち位置を反映して
特に、攻撃と見る必要がないのに
攻撃されていると思ってしまうわけです。

目があっただけで、攻撃されていると思ったり、
ニコニコ談笑しながら歩いている人を見ても
自分を嘲笑しているのではないかと思い、
喧嘩になったりしています。

これは極端な話ですが、
これを薄めた話は
職場でも学校でも、家庭でもよくあると思います。

それに対して、
生活が安定して、
自分を攻撃する人などいないと思える人であれば、

そもそも他人の行為が、自分を攻撃していると思うことはないので、
喧嘩するきっかけがないということになります。

また、攻撃する方から見ても
自分より弱い者に対して攻撃するという動物の性格からすれば
そういう社会的に立場が確立した人に対して
おいそれと攻撃することはない、怒りを持ちにくい
ということになります。

これが「金持ち喧嘩せず」の意味だと思います。

このような境地に達していなければ
自分がいつ攻撃されるかわからないので
戦闘態勢を緩めることはできません。
そのような緊張状態が
相互作用によって相手を警戒させるわけです。

相手の警戒を解くために有効なことは
敵意がないことを示すことです。
不安感の勝る人は、これがどうしてもできません。

しかし、敵も作らず、過度の心配もしないという
社会的な立場が確立した人は
警戒感を解除することができます。
敢えて警戒感を解除する方法というのは、
敵意のないことを示すことですが、
その一つの洗練された方法が

へりくだる

という方法です。

これに対して警戒感の強い人は
敵に弱みを見せないぞとしてしまうわけです。

いい年になって
当たり前に仕事を続けているのであれば
本当は、どんな仕事かに限らず、
へりくだれるようになりたいものです。

これが実るほど頭を垂れる稲穂かな
の本当の意味です。
これは自然にそうなるのです。

もう一つの敵意のないことを示す方法が
笑う
ということだそうです。

NHKヒューマンという番組が本になっていますが
その中で、アメリカ軍がイラクの部族の協力を得るために行ったのが
この笑うという作戦だったそうです。

笑う門には福来る。

敵意のないことを示すことによって、
相互作用で相手方も敵意を無くす。
楽しい人間関係が形成できるとともに、
他人も敵意のないところに近寄ってきて
仕事だったり、有益だ情報だったり
嬉しいプレゼントを持ってきてくれたりして
対人関係の中で尊重して調和的に暮らすことができる。

これが即ち「福」
というのだと思います。

男子厨房に入らず 男は食い物のことでとやかく言わない [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

男子厨房に入らずという言葉は、
孟子なんかを引用して
厨房は、生を殺すところであるから穢れている
そういう穢れたところに立派な男は入らない
なんていう
男尊女卑の典型的なものとされているようです。

封建制度は、とかく批判の対象となり、
その制度を克服して平等、民主主義なんかが出てきたと
言われています。

ただ、基準をどこにおくかによって
様々な評価が可能であるはずです。
国家などの統治システムに基準を置くか
人々の暮らし、精神的安定に基準を置くか

それそれメリットデメリットもあるし
もともと合理性があって、封建制度が生まれたわけです。

また、封建制度の中で、人々の営みが
システムの改良を行っていたはずなのです。

例えば男尊女卑について
家庭の中ではどうでしょう。
確かに男が外で働き、女が家を守る
ということが典型的な青写真です。
性による固定された役割分担があったと思います。

しかし、私たちの両親や祖父母を見て
男は女を蔑視していたでしょうか。
どうもそうは思われないのです。

台所で料理をすることを
蔑視していたでしょうか。
違うと思います。

しかし、多くのご家庭の中で
男子は通常は厨房に入らなかった。
これは理由があることだと思うのです。

どうしても男は外で働きますから
料理をするとなると、
夕飯が遅くなってしまいます。

電機などが整備されていませんから
あまり暗くなってからの夕食ということは
合理的でなかったはずです。
どうしても、夫婦のうちの一人は
昼下がりから
いろいろな夕飯の準備をすることが合理的だったはずです。

それでも、長時間労働なんてあまりない時代ですから
男も厨房に入ろうと思えば入れたはずです。
しかし入らなかった。

一つの考えとして
役割分担をした以上は、
男性は、女性に調理を含む家事全般をゆだねていた
と考えられないでしょうか。

任された方も、
任されたのに、
やれ、もっとしょっぱくしろとか、魚が足りないとかいわれていたのでは、
大変面倒で、煩わしいわけです。

労務管理においても
要求度が高く、裁量の余地の少ない労働は
過重になりやすく、過労死を産みやすいとされています。

作る人の判断で、自由に作っていただくことが
ストレスを軽減するためには必要なことなのです。

(また、女性よりも上手に料理をしてしまうと
 プライドも傷つけてしまいます。)

さらに、食べたときに、あれこれ評価するようでは
困惑して、傷ついてしまいますから
出されたものはつべこべ言わないで食べる
こうして要求度も下げて
ストレスをさらに軽減することになります。

私は、それがすべてとは言いませんが
男子厨房に入らずと、男は食い物のことでとやかく言わない
というセットは、
当時厨房で料理し、家事全般を取り行っていた
女性に対しての
男性のあるべき姿を教えていた
という側面があると思っています。

もちろん封建制度に戻せということはありえないことです。
封建制度の方が良かったということも意味のないことです。

しかし、形式的にすべてを否定してしまうと
現代に通じる大切なことが見失われてしまいます。

過去における人間の家庭における配慮
これは封建制度の中にもしっかりとあったわけです。

そしてその中には、
制度の転換ととともに失われてしまったものも
あるように思われます。

そしてそれが、
現代社会における社会病理を解決する
一つの有力な方法になるように思われます。

過去のものとして否定し去るのではなく、
大いに学ぶものもあるように思います。



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