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和を以て貴しとなす。17条憲法は思ったより哲学だった。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

厩戸皇子が自らしたためたという17条憲法
7世紀ころの文章であることはどうやら間違いではないようです。

その第1条が和をもって貴しとなるという文章から始まるわけですが、
うっかりすると、
人間は相互に仲良くすることが一番だ
という意味にとられてしまうことがあるようです。

それであれば根本的に意味を取り違えていることになると思います。

本当は漢文で書かれているのですが、
読み下し文で見てみましょう。


一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

これが、1条の全文です。

和が「やわらぎ」と訳されていますが
「わ」の方が意味が通じやすいように思われます。
私は、仲良くするという意味ではなくて
「一体となろう」という意味だと思うのです。

どうして和が達成できないかが次にかかれています。

それは、一部の者が徒党を組むことによって、
全体の利益を損ねるということが書かれているようです。

対人関係学的に言えば
複数の群れが併存しているために、
一部の群れの利益だけを追及すると
全体が害されるという主張ではないでしょうか。

一部の群れは、群れの中では仲が良いのです。
おそらく、血のつながりであったり住んでいる地域の仲間であったり
自然と、互いの利益を第1に考えようとする条件があるのでしょう。

また、人間は、どうしても身近な人間の利益は考えることができるし、
それを追及しようとするのですが、
そのことによって別の人が不利益を受ける
ということを洞察することができないし、
また、見知らぬ人の不利益はあまり気にしない
という間違いを犯しやすい
ということがあります。

このため誰かと仲が良いことが
かえって誰かを傷つけたり
全体の利益を害したりする
だから、一筆書きの輪のように
全体の利益を考えていこう
特定の人たちの利益を考えることはやめよう
ということを決まりごとにしようということだと
私は思います。

17条憲法は、そのあとの条文をみても
一般的な道徳を説いたものではなく
あくまでも統治の原理を示したものです。

皇族が、豪族の中で相対的に有力であるに過ぎないという
政治勢力地図の中の時、
外国からの圧迫も置き始めていたので
日本は、結束して外国と対抗しなければならない時代でした。

こういう時代に即して
国の統治をするための最も必要な事項が掲げられているのではないでしょうか。
その意味で、立派な憲法と呼ぶにふさわしい内容になっていると
私は思います。

そして単に豪族たちが相争うことをするなということでなく、
和をもって貴しとするということですから
なんともポジティブな表現ではないでしょうか。

注目するべきは
第1条も、最終である第17条も
合議制を説いているところです。

十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)

少数の集団が、こそこそと利益を追及すると
どうしても全体としては損害を被ります。
正義が交代してしまいます。

堂々と公にしたうえで、
良いものは良い、悪いものは悪いと
議論するという方法を取れとのことが記されています。

但し、自分の利益を主張し合うのではなく、
全体の利益を考えること
これは、現代の為政者も耳が痛いのではないでしょうか。

また、これは国家だけの原理ではありません。

対人関係すべからくそうでしょう。

物事の見通しのない人は、
誰かを助けようとするとき、
その人の感情を第1にすることが正義だと思ってしまいうようです。

しかし、人の感情、負の感情は
人と人との関係の中で生まれることが多いわけです。
誰かと対立しているようなとき、
負の感情をあらわにしている人を助けようとすることは人情です。

「そんなことされたの?それはひどいよね。」
と、悲しい顔をした人を見たら言ってしまいそうです。
しかし、紛争は、その人とその人の関係者の間で起きていることなのです。
その人の不安を肯定してしまうことで、
その人とその人の関係者の仲に亀裂が生じてしまい、
結局その人も今よりも苦しい立場に陥ることが
実際には多くあります。

国家という大きな話ではなくても
人間の関係を考えてみると
夫婦、友人、取引関係もそうですが、
関係の一部だけを優遇しようとすると
元も子もなくしてしまう
だから、問題になっている人間関係全体を
高めていく方向で修復することが
必要な視点ということになります。

最後にいじめが起きる典型的パターンをお話しします。

AさんとBさんは元々仲良しでした。
CさんやDさんは、自分たちも仲間に入れてもらっているけれど
AさんがBさんを優遇するので少しわだかまりがありました。

Aさんは、Bさんを大事にしていて、
Bさんとだけ一緒にいることができれば良いと思っていました。

でもBさんは、いろいろな人と仲良くすることができます。

Aさんは、Bさんが自分を大切には思っていないと感じてしまいます。
Aさんは、最初はBさんをつなぎとめようと必死になります。
わざと意地悪をして気を引こうとしたりします。
Aさんは、CさんとDさんを利用して
これ見よがしに、Bさんに対して内緒話をしたりするわけです。

CさんとDさんは、
Aさんが悲しんだり怒ったりするので、
Aさんに感情移入していきます。
Aさんを助けようとして、
「本当にBさんはひどいね」
と、Bさんが何も悪くないのに
Aさんの不安を肯定してしまいます。

いつしか、意地悪がエスカレートしていき、
Bさんは3人から無視されたり嫌がらせをされたりします。

この段階では、学校は、「相性が悪い」
ということで済ませようとして介入しないことがあります。
しかし、この段階で3人以外に加害行為をする人が現れると、
Bさんは、いじめても良い人だという烙印を押されて
いじめが完成するのです。

他人の悩みや悲しみに首を突っ込むならば
全体としてのその人の人間関係を考えなければなりません。
目に見える感情にだけ対処しようとすることは
人間関係破壊することです。

まさにそれがいじめそのものであることが
多い。

和を以て貴しとなす

私たちの時代でも
鋭い輝きを放っていると
私は思います。


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どうして身近な人間である級友を消耗させるまでいじめることができるのか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

前回、いじめの手法は、200万年前の
人間の狩りをする手法と同じで
相手が消耗するまで集団で追いつめることだ
ということをお話ししました。

しかし、当時の人間が狩りをしたのは、
あくまでも、人間ではない動物だったはずです。

むしろ当時は、全員が平等であることが原則で、
特に弱い者を擁護、援助していたはずだということも言いました。
理由は、そうでなければ、厳しい自然界で
人間という中途半端な動物が
生き残ることができなかったからだとも言いました。

では
そのように仲間と一体化する習性のある人間の私たちが
どうして仲間であるはずの同級生を消耗するまで追いつめることができるのでしょう。

通常いじめの研究をするときは、
どうしていじめたくなるのかというサイドに光が当たりますが、
どうしていじめることができるのか、可能なのか、抵抗が無いのか
ということにこそ光を当てるべきだと思うのです。

人間はいじめをする本性があるという
非科学的で大雑把な議論は何の役にも立ちません。

一番考えなければならないことは、
心は200万年前からあまり変わっていない
つまり人間は自分と同じ群れ(人間関係)の人間からは
尊重されていないと、とてつもなく不安になり
尊重されようと自分の行動を修正しようとする習性をもっていて
それは現代でもそのままだということです。

しかし、人間を取り巻く環境
特に人間関係が様変わりしたことに着目しなければなりません。

200万年前であれば、人間は
生まれてから死ぬまでただ一つの群れに所属するだけでした。
そこで赤ん坊が子どもになり、大人へと成長し
子どもを産んで育てて、一生を終えていたわけです。
狩りをするのも同じ群れのチームで行いました。

(ただ、繁殖がどのように行われたかについては
 別考慮をするべきではないかと思いますので
 繁殖に関しては除いて考えます。)

自分以外の人間 = 群れの構成員
だったのです。

人間のテーマの「生き残るということ」と「群れが存続すること」と
ほとんど重なったはずですから
群れの仲間は、非常に濃い仲間、運命共同体だったはずです。

ところが現代は、
家族以外にも、学校、職場、地域、趣味のサークルなど
人間は様々な群れに属しています。
そのほとんどが期間限定です。

現代では、家族さえも、
簡単に別離ができますし、
職場の都合でリストラなんてことも起こりうる時代です。

同じ学校に通う生徒だと言っても
みんな家庭や部活や習い事という群れに同時に所属しています。
200万年前では考えられなかったこととして、
ある群れの人間関係が他の群れの影響を受けて変容する
という可能性が生じているのです。

みんなで助け合ってテストの答えを完成させる
なんてことを言ったら相手にされないでしょう。
家庭の思惑が、子どもたちの行動に当然に反映されてしまいます。

また、せいぜい数年の期間限定の群れだということで、
群れの帰属意識はそれほど強くならないことも仕方がないことでしょう。
200万年前の群れに比べると
現代の中学校などの人間関係は
とてつもなく薄いものだと把握しなければなりません。

そのような薄い人間関係でありながら
なんとなく利害対立を感じながら
協力し合う関係という意識付けの無いまま
狭い教室に押し込められているわけです。

さらに社会的背景として、
同僚と競走をしなければならないという
過当競争の意識付けだけは注入されているのが
現状ではないでしょうか。

例えば中学卒業後の進路である受験を考えると
学校の生徒たちも
一応競争相手という利害対立する関係かもしれません。
実際の受験、合格者合格率を考えてみれば
数人が同じ学校を受験したところで、
合否にそれほど影響はないでしょう。

しかし、
校内選考等で、上位何人かに入らないと
その高校を中学校が受験を事実上許さない
なんてことになると利害対立が先鋭化してしまいます。

さらに、受験の結果
例えばある人は倒産の恐れの無い大企業に就職できて
老後も社会保険に守られる結果となる。
しかし、ある人は、期間限定の仕事しかなく
次の就職の心配をしながら低賃金で働き、
老後動けなくなったら、わずかな国民年金に頼らなければならない
ということになると、
受験競争の意味あいが異なってきて、
無駄な競争意識が蔓延していくことになります。

自分の興味関心や能力、向き不向きで仕事を決めるのではなく
老後の安定、収入だけが決定要素になりやすいという
事情も生まれてくるでしょう。

不安感は嫌が上にも増強していきます。

では、試験ではなく、推薦で入学をする場合
学力推薦でもスポーツ推薦でも
何か間違いを犯したら推薦がだめになります。
こういう状態が続くことはかなりのストレスになります。
常に自分を評価する人の目にさらされ続ける
という意識が生まれるかもしれません。

あるいはそれは学校ではなく
親の目が最大のストレス要因かもしれません。
本当は十分幅のある道なのに
とてつもなく細い道の上をバランスを取りながら
ようやく歩いているという感覚になっていくのではないでしょうか。
一発試験と違って
学校の評価を365日3年間気にし続けなければならなくなります。

いじめをする側で増えているのは、
学校の中の勝ち組である将来有望な人たちだということが傾向だとすると
このような原因があるはずです。

自分の群れは、全く関係の無い同級生ではなく
自分を評価する権限のある教師や親だとすれば、
同級生に対する群れ意識はますます希薄になっていきます。

このように人間関係が希薄化するのは、
今現実に生きている環境は仮の群れで
本当に自分が所属するべき群れは別にある
という意識付けがなされると加速していくことになります。

さらに、希薄化した人間関係、
群れ意識、仲間意識を持てない人間関係の中では、
人間は、人間に対してあるべき思考を失います。
それが怒りのメカニズムです。

不安感を抱いた時人間に限らず生物は
何とか解消したいという気持ちになります。
不安を作る者に対して攻撃して不安を解消する場合の心もちを
「怒り」と言います。
不安から全力で遠ざかろうとして逃げている場合の心もちを
「恐怖」と言います。

不安を解消するためには、
合理的に対策を考えることが根本ですが、
まず最初に人間がしてしまうことは、
怒って攻撃するか
恐れを抱いて逃げるかのどちらかです。

ところが、不安が将来に対する不安であったり、
評価者から自分がどうみられるかについての不安である場合、
そのような社会制度や親のプレッシャーに
怒りを持って対応しても何も不安感は解消されません。

また、不安があるからと言って
学校に行かないわけにもいきませんので
恐怖を抱いて逃げるわけにもいきません。
そもそもどこに逃げても不安は解消されません。

それでも何とか危機感、不安感を解消したい。
こういう中途半端な状況が蔓延しているのが今の中学生ではないでしょうか。

こういう場合、つまり危機感、不安感を感じているのに
上手に解消できない場合に起こる現象が
可愛く言えば八つ当たりです。
自分よりも弱い者が自分に対して行う
些細な侵襲行為に大げさに反応して
「自分を守る」という言い訳を持ちながら、

わずかな侵襲(たとえば気に入らない)を口実に
社会制度によって抱かされた不安を重ねて
弱い者に怒りをぶつけるということです。

ただ、その怒りのぶつけ方は
ストレートに暴力や暴言として表現されるだけでなく、
執拗に追い詰めていく200万年前の狩りのスタイルが
行使される場合も少なくないということなのです。

いじめが起きるとき、あるいは仲違いがいじめに転化する時
いじめる側にとっていじめのターゲットになる者は、
仲間ではないのです。
自分を攻撃する加害者と烙印を押すのです。
即ち、人間としては扱わないということになります。

だから自分を守るために攻撃し、
加害行為がルーチンになるうちに先祖がえりをして
執拗に追い詰めるようになるわけです。
共犯者は、
加害者を守る、共感を示すという錦の御旗をもって、
ターゲットを攻撃するようになります。
やはり、追いつめ型狩りが始まります。

いじめを受けるターゲットに
いじめの原因を求めることはナンセンスです。
どのように生きていても
誰かに迷惑をかけなければ自由に生きていって良いはずです。
間違っても、いじめられる、即ち
人間扱いされない仕打ちを受ける理由はありません。
さらには、加害者の怒り、攻撃動機は八つ当たりに過ぎないからです。


いじめをする側の思考力の低下がも指摘しなければなりません。

将来などの不安が蔓延している場合は、
交感神経の活性が持続化し、慢性化している状態になります。
試験勉強の様な頭の使い方を日常ではしませんから、
このような生理的状況は思考にストレートに影響を与えます。

それは、
将来的な展望をもって現在を把握することができない
今目の前にある課題だけが検討課題になる
他人の気持ち感情に共鳴、共感する能力が少なくる。
誰かが肯定してくれることを志向し、自分の価値観で行動できない
多数派に居続けなければ安心できない
という思考パターンに陥ります。

この結果、多数の人たちがいじめているのだから
ターゲットはいじめてもよい対象なのだ
という考えに安易に飛びつくようになります。

感情が豊かな教室の実力者が攻撃しているのだから、
その攻撃に乗ることが
自分が評価されるチャンスだと思っているようです。

いじめのターゲットはいじめの加害者たちから人間扱いされていません。
少なくともいじめをしている時はそうです。
夢中になって追いつめているわけです。恐ろしいことです。
だから、ターゲットがどのような気持ちになっているのか
等ということを考えたりできないようです。

後で落ち着いて考えると
とんでもないことをしたという気持ちになることが多いのは
そういうことです。

このようないじめの特質を踏まえて対策を立てる必要があります。
ところが、現在の対策は
とりあえず、いじめの件数を減らそう、
いじめによる子どもの自死を減らそうということに汲々としています。
こんな、思考停止の対応をしているから、
昨年度中高生の自死が平成年間最高になるわけです。
子どもに対する対応は間違っているのです。

いじめに対して命の授業が行われることがあります。
これほどばかばかしいことはありません。
私には、このような授業のいくつかは
どんなに虐められて生き地獄の思いをしても
死んではいけないということを押し付けているだけのように聞こえてしまいます。
死ぬ方が悪いという思考を作り上げる危険があるように思えてなりません。

また、加害者も、命をとろうとまでは思っていません。
ただ、本能的に追い詰めようとしているだけなのです。
命の授業をしたところで
いじめ防止に効果で気だとは思えない次第です。

私のブログを何度か読んでいただいている人にはくどいのですが、
SOSの出し方教育ということも、
結局子どもがSOSの出し方が下手なので
大人が気が付かないという
子どもの自己責任、大人の責任回避の政策としか考えられません。
子どもに甘えるな、SOSを出さなければならない環境こそ防止しろ
それが一番でなければ、いじめも自死も増えていくだけです。


ではどうするか。

一つには、仲間意識を形成させる指導が必要です。
競争ではなく、助け合いや無償の援助の喜びを与えること
自分が仲間の役に立つことの喜びですね。
共同作業を通じて、目標を完成ではなく
目標を助け合い、チーム作りにおく必要があると思います。

その仲間形成は、父兄も巻き込んで行う必要があるようです。
むしろ大人たちが、積極的に尊重しあう姿を見せ
サンプルを提示することが有効だと思います。

この時、仲間であるための条件、なんらかの役割を果たす
ということはしない。
とにかく、単純に近くにいるということが大切なのです。

学校があって、教室があって授業があるということは
何十年も変わらないのですが、
どうも私には、生徒同士の距離が遠すぎ、
心理的接触さえも希薄になっているのではないか
と感じることが多くあります。

実はこういう活動は、
将来の過労死の訓練にもなります。
仲間を頼ったり、助けたりする関係
そういう関係を形成する時間的余裕がないのかもしれません。

二つ目は、人間とは何かという教育です。
道徳の時間には、こういう問題に取り組むべきです。
少なくとも同僚との人間関係よりも
上司との人間関係を大切にするように誘導したり、
国家に帰属すればすべて安全という幻想も
何も解決せず有害です。
人間は尊重されなければ生きる意欲を失っていく
ということを教育していくべきです。
逆に、尊重されることで力を発揮していくものだ
ということもよいと思います。

三番目として
ただいるだけで尊重される体験が必要です。
現代の社会は親子関係も希薄で、
親が子どもとして尊重する条件を付ける時代です。
祖父母との結びつきが弱い。
無条件で可愛がられた経験が無い
これでは群れの中で尊重された体験が
乏しくなることも当たり前です。

自分が群れにとどまるために努力するように
同級生にも努力を要求していくことになります。

努力しない子どもに対して敵意を感じることもあるようです。

四番目としては徹底介入です。
教師が一番弱い子を守る姿勢を鮮明にすることです。
えこひいきという批判に対しては、
校長や教頭が担任を徹底的にかばうこと。

根本には、教師が忙しすぎるということです。
忙しいと、追いつめられている子どもたちの様に
思考力が低下していきます。
将来的な展望をもって現在を把握することができない
今目の前にある課題だけが検討課題になる
他人の気持ち感情に共鳴、共感する能力が少なくる。
誰かが肯定してくれることを志向し、自分の価値観で行動できない
多数派に居続けなければ安心できない
という行動傾向を教師が持ってしまいます。

だからことが起きないと行動しないのです。
ターゲットの顔色が変わったことには気が付いても
ではどうしましょうという発想にならず
何とか勝手に収まってくれという気持ちになり、
ターゲットの存在を疎ましく思う傾向になるのも
ある意味必然的なことです。

根本は、世の中から無駄な競争意識をなくすことです。
少なくとも老後の不安の無い生活を国は保証するべきです。

派遣労働や有期雇用は減らさなければなりません。

私は、現状の受験制度は改めるべきだと思います。
いじめの現場を見ると一発勝負の受験こそが
ストレスを軽減するように思われます。
現状は、子どもたちが評価者である学校の顔色を窺っているというような
危険な状態ではないでしょうか。

スポーツについても
学校の部活動が関与する全国大会はやめるべきです。
その代わりスポーツ少年団を自治体や国は援助すればよいと思います。

就職採用についても
学歴偏重で本当に企業が必要な人材を確保できているのか
真剣に考えるべき時期だと思います。
経済にとってどのような人材が必要なのか、
これまでの様に上司の命令に忠実になるような人材の選び方を続けると
なんだかわけのわからない人が
総理大臣の配偶者が支援しているということで
一流大学を出た最高エリートたちが
忖度してスーパースペシャルな便宜を図ろうとするのではないでしょうか。

なんか選挙公約みたいになってきましたので
そろそろ終わりにしますね。

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ハロー効果 対人関係学が行動経済学・プロスペクト理論と出会う [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


先日、某保健所主催の医療機関対象の講演会でお話してきました。

「人間は、エラーを犯すものである。
気が緩んでいたからとか、真剣さが足りなかったから
とかいう反省をしていたのではエラーは防げない。

ある状況の中で、人間は誰しもある傾向のエラーを犯しやすい
そういう自覚をもって、
その犯しやすいエラーを予め想定して事に当たることが
エラーを予防する有効な方法である。」

なんてことを言ってきたのでした。

そうしたら、その後の駅での時間調整で
行動経済学の本に出合いました。
全くの偶然です。
ノーベル経済学賞を何人か出しているというのです。

さすがに私はとは言いませんが、
対人関係学はノーベル賞をとれるだろうと思っていますから、
どれどれと手に取って拝見してみたのです。

そうしたら、私が今しがた話していた内容が
もっと明確に理論化されているではありませんか。
つまり、それまでの経済学は、
コンピューターの様に合理的な行動をする人間を想定して
理論が構築されているのですが、
行動経済学は、生身の人間の行動傾向を反映した
系統的エラーを組み込んだ
経済学を樹立しようとしているようなのです。

その日一冊「かくて行動経済学は生まれり」
マイケル・ルイス
次の日もう一冊「行動経済学の逆襲」
リチャード・セイラー(ノーベル経済学賞の経済学者)
そして、「ファストアンドスロー」 上・下
ダニエルカーネマン(ノーベル経済学賞受賞の心理学者)
と立て続けに買って読んでしまいました。

面白いです。入門として結果オーライだと思います。
このブログで特に断りがなくページ数を記入する場合は
ファストアンドスローハヤカワ文庫版です。

この本を読むと、対人関係学の先生筋の論者の文献が
多数引用されていて、それだけで驚くとともに納得します。
ロイ・バウマイスター、アントニオ・ダマシオ等々
親近感を持って読める理由がわかるような気がします。

第28章「悪い出来事」は、周辺部分を含めて
対人関係学の記述としても通用するではないですか。

では、もうすでに行動経済学があるから
対人関係学は用済みなのでしょうか。
ノーベル賞は取れないのでしょうか。

実は、行動経済学の本を読みながら、
その近似性に驚くとともに、
その違いもはっきりしてきました。

1 分野、視点の違い
  
行動経済学やプロスペクト理論は、
経済学に限らず、政策学や訴訟技術など
多くの分野で応用されています。

対人関係学は、主として自死予防に始まり、
犯罪予防、夫婦問題や子育て等の家庭内の人間関係の調整
職場のパワハラ予防や労務管理、クレーマー問題、
学校のいじめ予防や生徒のメンタルヘルス等という人間関係の調整等
対人関係的紛争の調整や予防が対象ということになります。
社会病理というエラーの予防に力点があるわけです。

また、刑事弁護や紛争学、弁護業務や相談業務
等でも考察をしているので、
それは行動経済学をもっと導入するべきだという視点も出てきました。

2 統計手法の有無

行動経済学は、統計的な実証、実験をもとにしている科学ですが、
対人関係学の最大のウィークポイントはここにあります。
理論科学と言えば聞こえが良いのですが、
受け手の方々が、「ああそうだな」と実感していただく
ということに頼っています。
そういう意味では、科学的手法が確立していないということを
自覚するべきでしょう。

3 人間観の違い

行動経済学はどちらかと言えば人間の行動という
表出されたものに力点を置きますが
対人関係学は、どちらかと言えば原理論理に
力点を置きます。
進化論的観点から見た考察なのですが、

人間の脳は、現代社会に合理的に対応するまでは
今だに進化を遂げていないということが前提です。
2,300万年は遅れているということです。
その頃の時代に最もよく合理的に対応するレベルであるからこそ、
現代社会では不具合や不合理をきたしている
それがヒューマンエラーの源だという考えです。

「ファストアンドスロー」に出てくる「システム1」が
特にそれだということなのです。
是非お読みください。

4 環境に対する見方

行動経済学は、ヒューマンエラーは環境よりも
人間であることから起きるものであるという傾向があり、
環境因を重視する立場を批判するようです。
対人関係学は、環境因を重視します。

環境因がヒューマンエラーを強めるという見方もしています。

以上の違いがあるので、まだノーベル賞受賞は間に合うと思っています。


それでは、具体的に「ハロー効果」について
対人関係学の解釈をお話して終わりにします。

ハロー効果とは、
ある人のすべてを自分の目で確かめてもいないことまで含めて
好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向
を言います(上巻149頁)。

確かにこれはよくあることで、
つい、あの人が言っているのだから確かだろうとか
あの人の選んだコースは私はとらないとか
芸能人や政治家を応援するパターンなのでしょう。

同じことを言っても
ある人は口汚くののしられ、
ある人は歓迎されるということがあります。
私はどちらかというとハロー効果の恩恵を受けているようです。
肝心なところでは逆に損をしているようですが。

さて、どうしてハロー効果が起きるのか
ということが対人関係学の独壇場なわけです。
それは、以下のように説明します。

「人間は、動物の一種ですから、
 危険に対する反応、危険回避がシステム上重大なものと
 位置づけられています。

 危険を感じた場合に、その危険を解消することが
 最大のテーマとなり、体のシステムが動き出します。
 これは、意識の変化より先に動き出すのです。

 人間の最大の脅威は人間ですから、
 見ず知らずの人を見た場合には、
 脅威、危険を感じます。

 人間も、この『危険を解消する』ということがテーマとなり、
 『危険を解消したい』ということが他のシステムを押しのけて
 最優先課題になるわけです。

 だから、見ず知らずの人間を見た場合には、
 『敵なのか味方なのか』ということが最優先課題になります。

 意識的な思考をする前にシステム1が瞬時に
 これまでの自分の記憶を総動員して、
 声、容姿、服装、匂い等の要素を照合し、
 敵か味方かを勝手に分けてしまうわけです。

 一度味方だと思うと、それはもう仲間ですから
 仲間の弱点や欠点などは補おうという傾向が意識に現れてきます。

 一度敵だと思うと危険人物ですから
 相手のすべてが自分を攻撃する表れだという意識になるわけです。

 まあ現代では、通常は見ず知らずの人と会う時は
 理性を働かせて、ニュートラルな状態に持っていって
 その人本位ということで観察しようとするのですが
 (システム2)
 人間の本能(またはシステム1)は
瞬時の区別をしたがるもののようです。

 もっとも、瞬時に敵を見抜かないと
 200万年前ですと自分や仲間がやられてしまいます。
 このころはとても合理的だったのです。

 ただ2,300万年に限らず
 現代でもその必要性が無いとは言えないのかもしれません。

 味方、仲間だと考えると危険が解消しますから
 目的が達成されます。

 敵だと考えると
 不安を解消するために攻撃したり、
 逃げ出したりすることによって不安を解消しようとするわけです。



 まあ、そう考えているんだけどなあということでしょうか。



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ラスコー洞窟の謎を解く。対人関係学の挑戦。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

壁画で有名なラスコー洞窟はフランスにある。
洞窟と言っても、かなり長細い。
200mを超える長さで、
枝分かれをしている。
この洞窟の壁に動物や人間の絵が描かれている。

約2万年前にかかれたその壁画は
ゆたかな色彩が施されており、
動物たちの形はリアルであり、生き生きとしている。

ラスコー.jpg


このラスコー洞窟の壁画にはいくつかの謎があるという。
一つは、洞窟の中に武器と思われる道具が
かなりの量、残されていたこと。

二つは、この洞窟の一番奥深い所、
井戸の空間と呼ばれるところの絵が何を意味しているのか
ということ
井戸の写真.jpg

三つ目は、そもそもなぜこの洞窟に
これだけの絵が描かれたのか
ということだそうだ。

前提として、
この洞窟は、居住用ではないことである。
どうやら人類は洞窟に居住していたというわけではなく、
外で、竪穴式住居に居住していたらしい。

このため、他の洞窟でも武器や道具が
洞窟内におかれていたということはなかったらしい。
このために、第1の疑問が起きる。

ヒントとしては、この時期、文字は存在しない。
言葉があったどうか、どのような言葉あったか
私はわからないが、
文字がないということから、
それほど複雑な言葉自体がなかったのではないかと考える。

ただ、文字の出発ともいうべき
数字というか、数を表す絵文字らしきものが
あったようだ。

そこまで言えば、私が何を言いたいか
おおよそ見当をつけた人もいることと思われる。

そう!

ラスコー洞窟の絵は、
言葉の代わりに描かれたと私は考える。

今でも土木建築の設計図は、
言葉ではなく絵で表現される。
言葉をどんなに厳密に使っても
実際に絵で描かれた図面を見る方が
簡便かつ正確である。

先ず、おびただしい動物の絵の意味は
絵画とか芸術というわけではなく
きわめて実用的なものだったと考える。

おそらく、
集団的な狩りをする場合に
狩りの方法について打ち合わせをするために
描かれたものだと考える。

バッファローやマンモスの
どこを狙ってどのような攻撃をすれば
しとめることができるのか
それを壁に描いて、
情報を共有することが目的だったと思われる。

そのため、できるだけリアルに
動物の構造を描く必要があった。
色の違いなども
どうしても必要な情報内容だったと思われる。

このために、できるだけリアルに彩色するために
顔料を開発していったのだと思う。

これが第三の謎の答えだと思う。

では、言葉のない時代に
どのようにして、狩りの打ち合わせをしたのか。
それが第一の答えになる。

つまり、実際に武器を手にして
壁画の絵に向かって攻撃をしたのだと思う。
バッファローの腹に矢を突き立てたりしたのだろう。
これならば、言葉が通じなくても
狩りの初心者が何をすればよいか
一目瞭然であるし、
攻撃の際に大いに役に立ったはずだ。

だから、洞窟に武器が持ち込まれて使われていたから
同区に武器が残されても不思議ではないということになる。

そうして、最後に乗った第二の謎
井戸の空間の絵の意味である。

井戸の写真.jpg

この絵は、右にバッファローがいる。
バッファローは左側に頭を向け、
右側に尻を向けて立っている。
右上の尻から斜め左下にやりが付き抜かれており、
腹からは腸がはみ出している。

バファローの左側には
頭が鳥で、その下が人間の体のものが
倒れている。

私は、これは警告だと思う。

人間であれば、はらわたが出た段階で
もはや戦闘不能である。
ところがバファローは、
はらわたが出た直後は戦闘能力が残されている。
うかつに近づくとこちらの命が失われる。

はらわたが出た段階でバファローはやがて死ぬ
焦って近づかないで、
弱り切ってから近づかなければならない。
私にはそのようなメッセージが聞こえてくるような気がする。

鳥の頭は死者を表している。

少なくともこの絵を見た者はバファローにやりを命中させて
はらわたが出たとしても
近寄ろうとはしなくなるだろう。

言葉は、記憶を補うものである。
自分が体験しない出来事でも
言葉で注意を喚起することができる。
言葉を通じて他者の心情に
共鳴、共感することができる。

この言葉のない時代に、
絵を通じて、
危険を教え、えさの獲得方法を教える
そんなことが洞窟で繰り広げられていたのではないか。

絵の達人たちが
命がけで描いていたものだと
私はそう考える。
やがて、文字ができる
その始まりでもあると思い描いている。


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孔子の「仁」と対人関係学 人間にとって大切なことと儒学が戦争遂行に利用されたポイント [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 

孔子の政治思想は、徳治主義と呼ばれます。
権力者が正しい行いをすれば民衆も正しくふるまう
という考えの元、
先ず権力者が襟を正せと説きました。

これに対する政治思想は法治主義と言いますが、
現代の法治主義と言葉は同じですが、意味は違います。
その頃の法治主義は、
人は元来どうしようもない考えを持っているので、
権力者が指図をしてた民を従わせ、
従わない者は処罰する
というものです。

こういう風に考えると徳治主義は、
人は元来どうしようもない存在ではなく、
正しいことに向かって行動する
という性質があるとの人間観を前提にしていることになります。
正しい方向を権力者が自分の行動で指し示せば
国はよりよく統治できるということで、
(修己知人)
性善説が前提になっているように思われます。

これが孔子の政治思想の根本ですし、
法治主義的な考え方は真っ向から批判していますので、
これに反する行動をする権力者が
儒学を振りかざして説教したとしても
その儒学は眉唾のまがい物ということになります。

民に道徳を指図して、これに従わない者を処罰する
というのは孔子の教えとは全く無関係ということです。
ここがまがい物と本物の区別の基準です。

2 

孔子は、人の生き方を説いたとも言われていますが、
論語を読む限り、統治論、政治思想、あるいは法律論を説いている
と弁護士としての私にはうつります。
(最終的にはあまり区別は必要なくなるのですが)

その文脈で、
孔子が立派な人にとって必要なことは
「仁」であると述べています。
高校生の倫理社会の教科書では
「仁とは、人を愛することだ」と説明されていますが、
なるほどと思いました・

そういうわけで仁がテーマです。

では、孔子が言う人を愛することとは何でしょうか。
孔子は「仁」の基本は、「孝悌」だと言います。
高校の教科書では、この孝悌とは、
「親子・兄弟間の自然生まれる親愛の情」
としています。私はこの解釈を支持します。

そして、その孝悌の情を、家族だけでなく
集落に広げ、村に広げ、
国家にも広げていく
ということを孔子は説きます。

そうすれば、国家は愛にあふれたものになる
ということになります。

なるほど一つの理想だと思います。
そのように考えると、
孔子が政治とは何かということに回答しているのですが、
権力者が国民の要求を先回りして考えること、
人々をねぎらうことだ
と言った言葉につながると思います。
そしてもう一つ大切なことは
それを続けることということでした。

これは国家の政治だけでなく、
家族の関係でもいえることだと思います。

孔子の黄金律は、自分が嫌がることを相手にもしない
ということだと言われていますが、
この部分を考えると
イエスの黄金律と全く同じということになるでしょう。
相手が欲していることを常に考えることが
愛であるということですから。

さらに、愛について、あるいは親子の心情について
極限的な例についての見解が述べられています。
父親が迷い込んできた他人の羊を
返さないで自分の物したということを
子どもが警察に訴え出たという話です。
それを称賛する人に対して、孔子は
「親は子のために隠す子は親のために隠す」
ということを述べています。
これについては前に書きましたので
省略します。

「親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-11



孝悌の情が国中に満ちるためには、
ただ自然に任せているだけでは不十分で、
具体的な孝悌のパターンを鍛えることが必要だということになります。
それが、克己、恕、忠、信ということになります。

克己とは自分に打ち勝つということですが、
現代では、自分の弱さ、怠惰に打ち勝つことという意味が一般的です。
克己心をもって受験に取り組むとかですね。
立身出世のための言葉になってしまっています。

孔子の教えの「克己」とは
私利私欲を抑えるということのようです。
他者との協調を優先するべきだ
という考え方のように感じました。
そうして私利私欲を捨てて他者と協調することは、
人間本来の考え方だと主張しているように感じるのです。

こざかしい文化等がその人間本来の考え方を曇らせているのであるから
目の曇りを晴らす、それが本来の克己ということになるはずです。

「恕」とは他人を思いやること
先ほど述べた孔子の黄金律ということになります。

ちなみに忠は自分を欺かないこと
信は他者を欺かないことということだそうです。

4 

さて、我田引水的に論語を読むわけですが、
対人関係学は、本来人間は
仲間と協調して生きていこうとする習性があり、
仲間のために努力することに喜びを感じる動物であると考えます。

それが言葉や経済等様々な文明によって目を曇らせ
本来の習性、本能によって行動できないために
様々な不具合が生じると説明しています。

これは、きれいごとを言っているのではなく
チンパンジーの祖先と人間の祖先が分かれて800万年
力も俊敏さもない人間が絶滅しないで生き延びた
のは群れを作ることができたからだと思うのですが、
群れを作る原理だったのだと思っています。

この観点から論語を読むと、
仁というのは、
この人間の本能に純粋に耳を傾けることということになります。
どこに人間の本能の純度が高く残っているかというと
親子の情愛ではないかと思われますので、
孝悌の情が仁の基本であるということは
とても合理的なことだということになります。

先ほど子は親のために隠すという言葉がありましたが、
親を警察に告発した子の行動は「直き(なおき)行い」ではないと孔子は言い、
親をかばうことが直きことだと述べています。

一般的にはこの「直き」は「正直」と訳されますが、
対人関係学的には、
文字通り人間の群れを作る本能にストレートだという意味で、
直き心こそ耳を傾けるべきもので、価値があるものだ
という解釈になります。

本当は友達や同僚と仲良くしたいのだけど
それをできなくする事情が現代社会にはある
その事情を少なくし、事情の影響を弱くしていく方法が
対人関係の研究テーマだということになりますので、
孔子の教えとはだいぶ近いのかもしれません。

また、人々が仲良くすることによって
新たな問題が起きにくくなり、
人類は、余計なストレスから解放されて
そのアドバンテージを発揮できるようになっていく
ということなのですが、
そのためには、

仲間の失敗や欠点、不十分点を
責めない、笑わない、いたずらに批判しない
許し、補い、助ける

ということが大切であり、
それが人間本来の群れを作る仕組みだった
ということを主張しています。

これが恕であり、親のために隠すということにつながることだと思います。

そのように仁を探究し、
仁を形にする礼で他人と接することが孔子の教え
ということであれば
対人関係学と
ほとんど同じなのかもしれません。

あくまでも我田引水的に読んだ場合のことです。

これが紀元前4世紀とか5世紀の考察ですから
とても素晴らしいと感銘を受けている次第です。



ところが、儒学は、
戦前国家イデオロギーとして、
戦争遂行の道具とされていました。

学校では教師が孝を教えて
戦場に子どもたちを駆り立てました。

権力者は、自ら手本となることなく、
民を指図し、それに反対する考えを持っただけで
法によらず処罰し、拷問にかけたわけです。
不道徳にもきりがない状態です。

どうして、国中を愛であふれさせようとした孔子の教えが
戦争遂行の道具となったのでしょうか。

いくつかポイントがあります。

一つは、「孝悌」の解釈です。
先ほどは倫理社会の教科書の解釈を紹介しましたが、
儒学では、年長者に対する尊敬と奉仕の感情
という意味だとされているようです。
しかし、これが家族から、集落、国家へと広がってしまうと、
家長への服従、集落の長への服従、
そして国家権力に対する服従になってしまいます。

国家と国家権力者が同一視され、
全体主義の理論武装になってしまいます。

民は、国家の奴隷となってしまい、
権力者は
民の欲することを先回りすることもなく
ねぎらうこともなくなってしまいます。
現実にそうなってしまったわけです。

最も大切な政治思想である
権力者が徳をもって国を治める徳治主義
ということがどこかに行ってしまったわけです。

孝悌とは、確かに年長者に対しての尊敬だと
読めるような話も論語には書かれているのですが、
年長者に年少者は尊敬もって接するという
単純な意味ではなさそうです。

ここでいう年長者は、養われる対象ということなので、
かなりの年長者に対するものではないか
特別の意味があるのではないかと考えています。
当時の人間の寿命や健康状態も知っておく必要がありそうです。

孝悌については、
あくまでも徳治主義の観点から
読み直す必要がありそうな気がしているところです。

もう一つの象徴的なことは「恕」の解釈です。
これは、権力者の民に対する思いやりや、
相互の思いやりということなのですが、
民の国家に対する奉仕活動の意味にすり替えられてしまいました。

現在、儒学や恕の思想に学んで
公立学校で、駅や公園のトイレを素手で掃除させている教育員会が
自慢げに写真付きで宣伝していますが、
まさに戦争協力で利用された儒学を復活させて
広めようとしていることに外なりません。

民がよりよく充実して生きることの価値観を奪い
権力に奉仕させることにすり替える戦前の教育と言えるでしょう。

このように孔子の教えの根本である徳治主義に
反するような教えは孔子の教えとは無関係であり、
警戒をしなければならないということになります。

では徳治主義とは何か
そのような政は現実にあったのかということで、
孔子は周という殷の後の王国をモデルにします。

私は、東日本大震災の直後の
今上陛下、皇后陛下の被災地ご訪問を挙げたいと思います。

この詳細は当時書きました
「両陛下宮城県の被災地に、避難所に。水仙の雅な本歌取り。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2011-04-28

その時書かなかったのですが、
両陛下は作業着をお召しになって避難所を回られました。
お召し物が汚れるからではなく、
被災者の心情を配慮してそのような服装をなさったものと思います。
着の身着のままでようやく生き延びて
埃まみれの避難所に
立派なお召し物のお二人がいらっしゃったら
被災民はどう思われるでしょう。
これが「恕」だと思います。

作業服をお召しになってひざまずいて被災者とお話された
両陛下のお姿を思い出すと
今でも涙が出てきます。

両陛下の徳を拝見して、
被災者の特に高齢の方々は生きる意欲を取り戻し、
国中が一つになって復興を目指した
そういうふうに私は思っています。

これこそが徳治主義だと思います。

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汝の敵を愛せよ イエスキリストの言葉と対人関係学から考える合理性 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

キリスト教の教義に立ち入った話をするわけではありません。

対人関係学的に考えた場合、
この言葉はとても素晴らしい言葉です。
ヒューマニズムそのものですし、
これは、人間が生きていくために
常に意識する必要があるということが
対人関係学の帰結です。

ただ、それは、その方がよりよく生きられる
というよりも、
損をしない生き方、
失敗を大きくしない方法という
生きるための知恵という意味合いがあります。

先ず、
群れを作る動物である人間には、
仲間の中で尊重されて存在したいという
遺伝子に組み込まれた根源的要求があります、

尊重されて存在するとは、
自分が、いつまでも群れの中に安住できる状態でありたい
ということです。
追放の危険を感じないで存在する
と言い換えてもよいでしょう。

「敵」というのは、
結局、自分以外の人間であり、
怒りを向ける相手
という存在だと思います。

これは、せんじつめれば、
自分の群れの中での安住を
相手に妨害されているという
危機感を感じて、
この危機感を解消しようとする
心理状態の一つが怒りだということです。

もちろん、
身体生命の危険が生じた場合も
怒りが生じる場合がありますが
今回は身体生命の危険ではなく
対人関係の危険による
怒りについての考察です。

怒りを持つことは、
怒りを持った人に、
様々な不利益を与えてしまいます。

第1に、怒りを持つと
その相手と自分との人間関係が
極めて不安定なものになってしまいます。

その相手から追放される可能性もあるでしょうし、
そもそも、仲間という関係が失われてしまうことは、
群れを作る動物である人間としては、
遺伝子的レベルで、
無意識に不安を感じてしまうことになります。

第2に、相手に怒りを向けると
不思議なことに、
怒られた相手に対して
気持ちの深いところで、
同情というか、情けなさの共鳴というか
自覚することが難しい嫌な気持ちがわいてきます。

誰かに攻撃的な気持ちになると、
自分の心も傷つけることが
どうしても避けられないようになります。

それでも、そういうきれいごとな気持ちにはならないよ
というひともいるでしょう。
そういう人は、誰かを攻撃することに
もしかして馴れてしまったのかもしれません。

しかし、そういう人が本当にいたとしたら、
その人は、
人間という存在が傷つけられていても
心を痛めないという状態になってしまっているので、
およそ人間は大事にしなければならない
という気持ちを持つことができなくなっていることになります。

そうなると、
自分のことも、大切にすることが
難しくなっていきます。
大切にしているつもりでも、
たとえば、財産を確保しているだけだったり、
身体の完全性を確保しているだけだったりすることがあります。

心が摩耗していけば、
後ろめたさの一切ない安心感というものを得ることが
さらに難しくなり、
益々形式的な幸せを求めるようになりますが、
言葉では幸せだと言い聞かせても
満足ができる状態にはなりません。
益々形式的幸せを求めて、
自分と他人を不幸にしてゆきます。

これが第3の不利益です。

第4の不利益は、もっと実務的な話です。

怒りは、
交感神経を活性化させてしまいますから、
様々な要素を検討するという能力が低下し、
二者択一的思考となってしまいます。

また、将来的な見通しを立てるとか、
他人の感情の状態といった
複雑な思考ができにくくなってしまいます。

相手に対する怒りが増大していき、
相手を、いろいろな意味でたたきのめさなければならない
という意識を持ちやすくなります。

周囲の人間に対しても、
自分の敵か味方かという択一的な評価になりがちです。
いろいろな出来事も、
相手と自分の関係の中で起きているような錯覚が生じます。

様々な事実を見誤るということが生じるわけです。
関係のないところでミスをしたりすることも出てくるでしょう。

象徴的なことは、
敵と味方を見誤まることです。

信用してはならない人を信用して
大きな損をすることが出てきます。
本当は、自分が間違った人を味方につけていても、
うまくいかないことは、当初の敵のせいだ
という怒りの思考に支配されていますから、
気が付きません。

本当に自分に不利益を与えている人が
自分が味方だと思いこまされている人かもしれません。

本当に戦うべき相手は別にいるかもしれません。
しかし、怒りに支配されている状態では、
脳の機能が低下していますから、
気が付くことはできません。

では、怒らなければ良いのでしょうか。
冷静に自分の利益を検討すればよいのでしょうか。

それはそうなのですが
どうすれば、自分の存在を脅かすのではないか
と思っている相手に対して、怒りを抱かずに
冷静に対処できるのでしょう。
これはなかなか難しい技術です。

少なくとも、
その困難な矛盾を解決する方法が、
汝の敵を愛せよ
という方法論なのです。

怒らない
ということはなかなか難しいです。
しかし、怒りを覚えたときに、
相手を愛する努力をする
そうすると、
怒りはだいぶ緩和されます。

攻撃して叩き潰す
という動物の本能を緩和させることができます。
自分が何をしなければならないか
ということが、見えてきやすくなると思いませんか。

怒りに任せて頓珍漢なことをするよりも
よっぽど自分の本当の利益を追求しやすくなります。

対人関係学は、
ゼロの先のプラスを目指すことを主張します。
いじめゼロを目指すのではなく、相手の弱点をかばいあうことをする
とか、
パワハラゼロを目指すのではなく
助け合う職場関係を作る
といったように、
悪いことをしない
ということでは、なかなか解決が付かない問題は、
その反対の行動をとることで、
解決に近づいていくという主張です。

だから、
汝の敵に怒りを向けるな
ということではなく、
汝の敵を愛せよ
という言葉が
とても素晴らしいと
いつも感動をもって自分に言い聞かせている次第です。


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知恵の実と失楽園、文明と不平等の起源 なぜ科学が人類を滅ぼそうとするのか。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

アダムとイブは、
禁じられていた知恵の樹の実を食べたことで、
楽園を追放されました。

禁じていたのはエホバだとされています。

この記事は、この聖書のエピソードを
解説するわけではありません。

対人関係学的に見た場合、
この聖書の記載が、
人類史の大きな転換点を象徴的に表現したものだという
真理を感じたので、
そのわけをちょっとお話してみようと思います。


おそらくアダムとイブという
個を確立する以前の人間は、
群れの中の一員という意識、無意識が大勢を占めていて、
一人一人の利益が衝突するということは
あまりなかったものと思われます。

人間の先祖がチンパンジーの先祖から分かれて
800万年と言われています。
そのほとんどの時期、
人間は群れを作って生存していて、
群れの構成員は全て平等だったと思います。

牙や爪といった武器を持たず、
逃げるための脚力や、敏捷性等を持たない人間は、
一人で生きていたのでは、
外敵から簡単に捕食されてしまっていたでしょう。

しかし、比較的大型の体格をした人間が、
集団を形成することは、
猛獣から見ても不気味ですから、
襲われにくかったと思います。

要するに群れの頭数が
人間の祖先を守ってきたわけです。

だから、群れ全体の頭数を確保することが
人間にとって必要でした。
食料は平等に分けられたと思いますし、むしろ、
むしろ弱い者にこそ手厚く施されたことでしょう。

なぜならば、
弱い者が病気になり、死んでしまったら
頭数が減ってしまうからです。
強い個体も、
自分が強いことで群れから大事にされることで満足し、
おそらく、自分の働きに応じて食料をよこせ
という発想はなかったことでしょう。

自分と群れを対立的に考えるのではなく、
群れの他の構成員と自分も
それほど区別がつかなかったと思います。

「自分が」ではなく、
「私たちの群れが」という意識だったでしょう。

だから、自分の死にあたっても、
群れの存続が図られるのであれば、
それほど怖さは無かったと思われます。
個体が群れに埋没していたともいえるかもしれません。

このような平等は、きれいごとではなく、
個体が生存するための必須条件です。
つまり平等を守ることができる群れだけが
群れの頭数を確保して
遺伝子を継承することができた
ということになると思います。

われわれはその末裔ということになるでしょう。

この遺伝子上の仕組みのために、自分の利益のために
他の構成員に不利益を与えるということは、
自然と嫌悪の情が湧いたのだと思います。
理屈ではなく、遺伝子レベルでの志向、感情
ということになるわけです。

さらに、抜け駆けをする個体を駆除しなければ、
群れを守れないというのであれば、
抜け駆けする個体を集団の力によって駆除したでしょう。

それは、おそらく何百万年かけて
遺伝子に定着していったものと思われます。

ここ数万年の最近になって、
食料が備蓄できるようになってきて、
また生産力も人工的に高められることによって、
客観的には、
必ずしも平等を貫かなくても、
弱い個体が死滅して群れの頭数が減り自分も死ぬ
ということにはならなくなりました。

しかし、客観的な事実の変化に反して
かなり長い間強制平等は徹底されていたと思います。

強制平等が生まれたのも、
理性の力というよりは、
強制平等を志向する遺伝子だけが生き残ったということですから、
客観的に強制平等の必要性が無くても
遺伝子が伝える感情がそう簡単になくなることはないからです。

そうだとすると、知恵の樹の実を食べることを禁じたのは、
遺伝子の声であり、
そういう遺伝子に作り上げた地球の神秘であり、
そういう意味で神であったということは
とても良く理解することができたのです。

では、結局知恵の樹の実の「知恵」とは
何だったのでしょう。

肯定的な面を見ると、
客観的な合理性のないルールを疑い、
必要のない縛りから個体を解放する
という面があるでしょう。

しかし、否定的な面を見ると、
自分の知識の範囲だけで行動することになったとともに、
自分の利益と他者の利益を対立させるようになり、
簡単に言えば利己主義の始まりだということになるでしょう。

他人と自分の区別をするようになり、
他人をさておいても自分の利益を守る。
弱い者を踏みつぶしても自分の利益を図る
ということが始まったわけです。

群れ全体の利益と自分の利益が
同じものにならなくなったために、
自分の個体の死というものが、
とてつもなく恐ろしいものになっていったわけです。

楽園から追放されて以来
「人間は死ぬようになった」ということは
こういう意味で、真理だと思います。

他者と自分の区別を感じるようになり、
他者との間で優越的地位を保とうとすれば、
羞恥の感情も現れるでしょう。

聖書の記載は全く正しいと感じるわけです。

人間が知恵を獲得したことが
原罪だというキリスト教の教えも
すんなり受け止めることができます。


知恵や理性は、私もこれまで
正しいもののように思っていました。
あるいは好ましいものだと思っていました。

しかし、まさにこの抜け駆けという意味での
「知恵」の中には
遺伝子から来る感情である、
「仲間に不利益を与えてしまって申し訳ない」
というものや、
自分の行為によって不利益を受けて、
悲しんだり、途方に暮れたりする仲間の
負の感情に対して共感を覚えたり、共鳴してしまったりという
遺伝子から来る感情を抑圧することができてしまいます。
そうして、自分の利益を図ることができるから図る
という意識的あるいは無意識の働きが
可能になるという仕組みが生まれます。

弱肉強食を是認することは、
知恵や理性の力ということになるでしょう。

知恵や理性の集団的な表れである「文明」も
もしかしたら、利己的な思考の表れではないかと
ハラリの「サピエンス全史」を読むと
そう思わざるを得なくなります。

これを端的に表したのが、
ヒュースケンの「日本日記」です。
ヒュースケンは、幕末ハリスの通訳として
来日した人物で、
日記をつけていたものが公刊されています。

西洋文明が入ってくる前の
美しい日本人の情景がふんだんに記載されています。
日本の滞在時間が長くなるほど、
西洋文明とは異なる日本人の行動様式にひかれていったようです。

ヒュースケンは、次のように書き記しています。
「今や私がいとしさを覚えはじめている国よ、この進歩は本当に進歩なのか?この文明は本当にお前のための文明なのか?この国の人々の質素な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことができなかった私には、おお、神よ、この幸福な情景が今や終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳を持ち込もうとしているように思われてならないのである。」(青木枝朗訳岩波文庫221頁)

結局、このヒュースケンの見通しが正しかったかもしれません。

この点において、ハラリもサピエンス全史下巻で、言及しています。

要約すると、
境界を接しない国に対する侵略は、技術や国力で実現したのではなく、
西洋的な文明によって実現していった
だから、いち早く文明を取り入れた日本が、
西洋列強から支配されず、
他国を侵略していくに至った
というのです。

もちろんここでいう「文明」は
「知恵」や「理性」の総体としての「文明」です。

日本が西洋列強から支配されなかった原因が
西洋文明の導入にあるというハラリの考えは
私は不十分ではないかと思います。

日本の文化と秩序は、
日本人が意識的に形成していったものです。
そこには武士や僧侶たちの意識的な活動がありました。

但し、他のアジアの国々やイスラム圏の国々と異なり、
日本が、他国に攻め込んで支配しようとするようになったんは、
明治維新という、日本の西洋化の結果だと言われれば
得心できるところが多くあります。

「文明」は、他者との競争をもたらしましたが、
競争を勝ち抜くために
物事を単純に割り切るようになりました。

正と悪、
あるいは正と誤
自分側と敵側、
やるかやられるか、
好ましいもの嫌いなもの
加害者と被害者
支配する者と服従する者
勝つ者と負ける者
理性と感性あるいは、理性と本能

単純化して対立させることによって
「同じ人間なのだ」という当たり前の理解を
自分で封殺することができるようになったわけです。
だから、他人を陥れて
自分の利益を図ることができるのです。

これは、明治維新以来
日本においても徐々に定着するようになりました。

江戸時代までの日本は、
善悪で割り切るのは子どもの発想でした。
いや子どもですら、
例えば、仁義礼智忠信孝悌という
様々な価値観があるということを
読本などで知っていました。

かたき討ちは、
人を殺すことでよくないが、
親の敵を討つという側面では共感できる
という複雑な思考を
当たり前のようにしていたことになります。

文明が徹底されれば
ただの殺人者ということで終わってしまいます。

きわめて極端な結論の
どちらかに入ってしまうことにしかなりません。

サピエンス全史のハラリは、
一神教と多神教の影響を示唆しています。

割り切ってしまうことでは、
因幡の白兎は、
わにざめをだました悪ということになり、
皮をはがれても仕方がない
という存在なのでしょう。

しかし、大国主命は、
そんな白うさぎを助けます。
助けることが肯定的に描かれているのが
日本の心だと思います。
簡単に言えば、
「いくら何でもやり過ぎだ。
 もういいじゃないか。」
という発想です。

こういう発想は文明開化とともに
実際上否定されていくことになります。

明治維新以後に書かれた歴史書は
ことさら江戸時代の負の側面を強調していますが、
明治維新はまさに日本のイデオロギー対決の場面ですから、
少し懐疑的に見る必要があるでしょう。

江戸時代までの貧富の差は、
貧しき者の立場をつぶすということはなく、
生活は保障されていたわけです。
上に立つ武士が自らを正して
質素倹約に価値を置いて、
経済的実力以上の振る舞いを禁じていた
という側面があったことを見逃すべきではないでしょう。

もちろん、日本文化の否定的側面もあるのですが、
肯定的側面があまり正当に評価されていないのではないか
という問題意識があるわけです。

さて、そうはいっても、
文明という欲望の正当化という体系様式は、
科学の発展に寄与してきたことも間違いのない事実でしょう。
文明の正の側面ということになると思います。

しかし、その文明ということの出発点が
個人の利益を追求するということであったことの
必然的帰結として、あるいは内包する矛盾として
科学の発展の帰結が、
核兵器や地球温暖化という
人類の滅亡ということになりかねない状態にあります。

また、消えない800万年の遺伝子が、
平等に扱われない苦しい感情の源とになったり、
平等に扱わない自責感情の源となり、
社会的ストレスとなっています。

もともと、遺伝子の声から耳をふさぐことで出発した
知恵や科学や理性や文明です。
理由の理解できない掟から
人間(強者)を解放したという側面がありました。

しかし、
今は、遺伝子の声にこそ耳を傾け
人間本来の幸せを感じる感情を実現させるために、
あるいは、人間の滅亡を回避するために、
弱肉強食の常識を疑うことに使われるべきです。

知恵をそのような方向で
全力で稼働させなければならない時期に来ていると
私は考えます。



手を離した方が母親だ 大岡裁きの意味するものと その人情もなくした文明未開の日本での戦略 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

大岡裁きで、
一人の子どもをめぐって、二人の女性が
「自分こそ母親だ」と譲らず、
ついに南町奉行所でお裁きを受けることになった。

奉行大岡忠相は二人の女性に対して
子どもの両手を持ち引っ張ることを命じた。

一人の女性が痛がる子どもがかわいそうで
腕を離したところ、
大岡は、
そちらを母親と決めた。

わが子の痛みをかわいそうだと思う方が母親だ
という理由であった。


これはもちろんフィクションで、
南町奉行といえば
県警本部長と高等裁判所の長官を兼職するような
典型的な官僚であり、管理職なので、 
滅多なことで自ら現場に出ることはなく、
そもそも親子確認の訴えなんて事件は
受理さえされなかったでしょう。

庶民の願望が現れたものとみるべきです。

では、どうして、このようなストーリーを
生み出した人がいて、受け容れる人がいたのでしょうか。

先ず、第1に、現代との間隔が違うのは親子関係というものです。

どこまで真実性が追及されるかということですが、
一言でいうと、
「そんなのわからないよ」
という意識が最終的には支配的でした。

日本の民法も、実は、
分からないことにこだわるよりも
さっさと決めた方が子どものため
という思想があります。
嫡出子推定制度や
嫡出否認の訴えが、ぐずぐずしていると
提出できなくなるという制度などが
そういう考えの元現行法で定められています。

さらに江戸時代になると
名づけの親とか、拾い親とか
とにかく親をたくさん作って
みんなで子どもを育てるということが当たり前でした。

だから、今ほど、
血縁関係を厳密に(ヒステリックに)考えていたわけではない
ということをまず背景事情として押さえておく必要があると思います。

次に出てくるのは、
では、親として一番重大な資質とは何か
ということです。

子どもが痛がってもその痛みを気にしないで引っ張り続ける。

こういうことは実は世間でよくあることです。
子どもが真実の母親の元にいることが幸せだ
ということが独り歩きして、
親の言うとおりにすることが子どもの幸せだということになり、
親のエゴを子どもに押し付けて
子どもが苦しんでいても手当てをしない
といえば、心当たりがあると思います。

この大岡裁きは、
結局、
子どもが一緒ににいると幸せになる人
あるいは、
子どもを自分のエゴで苦しめない人
それが親だというメッセージだと思うのです。

実はこういう話は世界各地にあるようで、
有名なソロモン王の裁きでは、
子どもを切り裂いて二人に半分ずつ与えよと命じ
私はいらないから生きたまま相手に渡してくださいと
懇願した女性に子どもを渡したという話もあります。

親が、子どもに執着するあまり
子どもが悲鳴を上げていることに気が付かない
ということが、
世界的に存在する問題の所在なのでしょう。

私が多く扱っている事件が
まさに子の取り合いの事件です。
しかも、真実の親どうしの取り合いです。

親どうしが離婚をしても
子どもと親の関係は死んでも続きます。
それにもかかわらず、
親の離婚が一方の親と子どもの
いわゆる子別れにつながってしまうということが
21世紀になっても日本では続いています。

他国と比べて子どものための法制度の整備
ということが著しく遅れていることにも原因があります。

離婚後は一方の親だけが法定代理権や監護権を持つ
という制度は、
一方の家に子どもを遺し
追放された親の干渉を遮断するという
封建的な観念の元
どの国もそういう制度でした。

ところが先進国、お隣の韓国など
このような不合理な制度を改めているうえ、
共同親権がスムーズに進むように
行政サービスや司法サービスを充実させています。

日本は全くの野放しどころか、
子別れを行政が促進しているという
子どもを大切しない野蛮な国として
世界から注目を浴びているところなのです。

さて、
日本の大岡裁きは、現在も受け継がれているのでしょうか、
日本の裁判所では、そういう扱いは少数といってよいでしょう。
どこまでもどこまでも、子どもの腕を引っ張り続ける親が
親権をとるという図式になることが多数です。

このことについて次回お話ししたいと思います。
一番の問題は、
そのような引っ張り続ける母親であっても
「子どもは母親のところにいなければかわいそうだ」
という思い込みがあるようです。

今子供の腕を引っ張り続けているのは
母親だけでなく、奉行所までが加担している
という状況です。
文明もなければ人情もない
荒れ果てた祖国の心象風景に立ち会っている思いです。

しかし、私の経験では、
大岡裁きは、現代においてもなお存続しているし、
それが悲劇的な形になって現れるということです。

ほかならぬ子どもたちは、
自分がもう一人の親と自由に会えないことに
疑問を持ちだしています。
最近は、子どもたちがもう一人の親の方に
逃げ帰っているということが
身近でも起き出しています。

なぜ逃げかえるのかというと、
一つは、別居親の悪口を言われることがいたたまれないこと
(当たり前のことですが、自分の悪口に聞こえてきます)
一つは、兄弟間の差別
一つは、また親子みんなで暮らしたいという気持ちを
実現してくれそうなのは別居親の方だ
という意識が多いようです。

今、わが子に会えなくなって
落胆している親御さんがたくさんいらっしゃいます。
できることは、
針の穴を通すような難しい作業ですが、

自分が子どもがかわいそうだから、
自分のエゴをひっこめるという作業をして、
それを子どもたちに伝える作業をすることです。

相手親と一緒にいる子どもたちを責めていないし
褒めてあげる。
一緒にいる親の悪口を子どもたちに伝えない。

一緒になって腕を引っ張り続ける構図を
早く上から見下ろすことができるようになり、
止める。
譲歩をしながら、
最終的な子どもとの信頼関係をどのように作っていくか
そういう戦略になるのだと思います。

「村八分」から見たいじめと心のケアの本質及び道徳と文明と歴史の前進の落とし穴 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

「村八分」という言葉がある。
村の総意で、秩序逸脱者の家に対する制裁であり、
共同して絶交するという形で
村にいながらにして排除されるものである。

「八分」というのは、
絶交はするが、火事と葬儀の時だけは
絶交を解いて助け合うという意味からきているという。

残りの八分とは、
成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行
とされる。

二分の絶交を解く理由は、
消火活動を助けないと類焼するからということと
死者の腐敗から臭いや伝染病の危険があるから
といわれているようだ。

この理由に対する違和感と
村八分という精神的負荷を与える行為が、
いじめの本質を表していることにふと思い当たり、
少し考えてみた。

先ず、
いじめの本質について、

おそらく、
全部で10あるうち2だけ絶交を解くので八分
という言い方は、何らかのこじつけであろうと思われる。
8個は何でもよいのだと思う。

要は、お祝い事や困りごとは、
村で共同で祝ったり助け合ったりする
その輪の中から排除するというところに本質があるからである。

慶びごとがあるのに誰も一緒にお祝いしてくれない
これは、精神的追放を強く感じることである。
実際に困って、誰かに助けを求めたいときに
誰も手を差し伸べてくれない
ということも同じように苦しい。

いじめとは、あるいは職場のモラルハラスメントとは、
何もない時に起こる
目に見えた嫌がらせ(作為のいじめ)、
だけではなく、
いじめているように見えないけれど、
当然仲間なら共同行動をしてくれるはずの時に
それをしない嫌がらせ(不作為のいじめ)
もあり、
いじめの本質が、
コミュニティーからの排除の意思表示にある
ということが村八分ではわかりやすく示されている。

では、なぜ2つの出来事では絶交を解くのか。

先ず類焼を防ぐということに疑問がある。
舞台は江戸時代の農村部である。
これが確かに都市部の商工労働者の住宅であれば、
近隣の建物と密集しているので、
類焼を防ぐことは必要だが、
農村部は、隣家ともかなりの距離があり、
山林に類焼がある可能性はあるとしても、
住宅への類焼は
それほど一般的ではなかったはずだ。

加えて、ホースすらない時代に
消火活動をどうやって行っていたのか。
特に類焼を防ぐためには、
火元の付近の家を壊すことしかなかったはずだ。

私は、消火活動について絶交を解くのではなく、
火事の後のいわゆる火事見舞いについて、
要するに家屋焼失後の後処理について、
絶交を解いて共同作業を行う
ということではないかと考えている。

次に死者の腐敗臭や伝染病についても
隣家との間隔が離れていることを前提に考えると、
あまり説得力はない。

また、埋葬ならば、
当時は土葬であることも考えると、
それほど共同作業の物理的必要性が高いとは思われない。
すくなくとも、それだけで絶交を解くとは思えないのだ。

ここで、日本には「人が死んだら罪を水に流す」
という思想があり、これを理由として上げる人もいる。
それは、なかなか魅力的な考えだ。

但し、実際は村八分は、
「家」単位で行われていて、
罪を犯した人ではなく、
その親が死ぬ場合も
即ち、もともと罪を犯していない人が死んで
罪を犯した人が生き残っている場合もあり、
この場合でも絶交を解くという理由が少し苦しくなると思う。


私が考える2分の理由は、
端的に、喪失感に対する精神的手当だと思う。
今はやりの言葉で言えば、心のケアである。
但し、それは、
焼失後の最低限度の家庭再建
埋葬から葬儀までの最低限の行為を
共同で行うことであり、
それ自体が心のケアなのだと思う。

心のケアとは何をするべきなのか
という本質がまず示されている。
一言でいえば
その人にとってのコミュニティー機能の回復であり
その本質は共同作業である。

さらに、家族の死亡や火災による家屋の焼失による
人間の喪失感は、
どのような罪を犯した人間に対しても
手当てされるべきだという
当時の「常識」が垣間見ることができる。

もう一つ、
どんな罪を犯した人間でも
家族がかばうことが当たり前だということが
家族ぐるみで絶交されることの本質だ
という側面を見逃すことはできない。

そうだとすると、
罪びとに対する制裁の気持ちが強くても
その家族に対する制裁の気持ちは、
時とともに和らぐのだろうということが考えられる。

そうだとすると、そうだとすると、
人が死んだとき、火事の時、
せめてそういう時は、
力になりたいという感情も
あり得る話なのだと思う。

但し、実際の村八分も
村八分という言葉も
このような二分の絶交解除という理性的な対応ではなかったようだ。
江戸時代についてはよくわからないが
特に戦後の事件については、そのような印象がある。

例外のない排除ということと受け止められていると思う。
もしかしたら、それが自然の感情なのかもしれない。

だから、二分の絶交解除という制度を
誰がどのようにして作ったのか
大変興味がある。

この言葉が確認されているのは
幕末らしい。

村八分という概念は江戸時代に生まれた可能性がある。
そうだとすると、
私は、苛烈になりやすい村の排除に対して、
武士が宗教の力を借りて
排除の感情をすり替えた可能性があるのではないかと
感じている。

そうだとすると、
村八分という陰惨な風習を表す言葉が、
全国的に流通している理由も説明がつく。

武士という制度自体が公務員であり、
その後の明治維新のプロパガンダで
不当な攻撃をされているが、
実際は、道徳を確保していた側面がある。

仙台では四谷用水という開放式の用水路があり、
街を流れる用水路は清流として利用された。
どこかで述べようと思うが、
それは神社やお寺を利用して清流を確保し、
足軽より上の武家屋敷の間に本流を通すことで
水質を監理していた。
そして、年に二回の川底の掃除など
徹底していた。

江戸時代が終わり廃藩置県によって
清流は失われた。

道徳といっても理念的な規範ではなく、
江戸時代は生活を支えていたのである。

死によって罪を水に流すというのは、
仏教を言い訳に利用したのだと思う。

家族の死や自宅の焼失という喪失感を
放置しないことで、
八分にされた家族の破れかぶれの行動を防止し、
あまりにもかわいそうな家族を目の当たりにすることで
住民たちの心がすさむことを防止し、
共同体機能を回復させていくことで、
農業労働者、生産地を疲弊させない
という機能を経験的に必要としていた
と考えている。

それを道徳とか「常識」とかといって
武士の強制力をもって実現していた
可能性は無いだろうか。

また、庶民も
その常識を受け入れるインテリジェンスがあったのだと思う。

ギリギリの理性が
道徳を軽視する勢力によって取り除かれ
村八分という言葉が形骸化され、
全面排除と同義になったのではないかと
にらんでいる。

封建制度が崩壊したのは
歴史の前進なのかもしれません。
しかし、歴史の前進は、
すべてが正しく合理的であるとは限らない
ということを考えるべきだと思うのです。
それは当たり前のことだと思います。

不合理が是正される側面と同時に
それまで、合理性があって意識的に大切にされていたことが、
無意識に脱落している可能性もあることを見逃さないことが
大切であると思います。

それが新しい体制と矛盾しないのであれば、
理性的にそれを取り込んでいくことが
人間関係の営みの点で必要なことだと常に感じています。

そうでなければ、
歴史が進むにつれて、
人間の感情や、当たり前の心が
失われていく危険があることになってしまいます。

現在、パワーハラスメントやいじめ
趣味の集団や地域で
二分すらないような集団的な排除が行われているように
感じてなりません。
昔当たり前だった人の心が
ないがしろにされている原因が、
文明そのものにあるということも視野に入れて
問題に対処するべきなのでしょう。




相手を黒く塗りつぶして黒だと批判する この人はどうしてヒステリックに突っかかってくるのかについての考察 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

相手を黒く塗りつぶして黒だと批判するというのは、
刑法の平野龍一先生の刑法総論が出典です。

他者への批判は、他者の論理的矛盾を示して
どういう風に矛盾するかを説明することが本当なのでしょうが、
やみくもに批判をして
その弟子たちは、なんだかわからないけれど、
その説への批判は、右に倣えですましている
という弊害が法律の学者の中にもあるわけです。

だから、批判されている本家本元筋から説明を受けると
全く目から鱗ともいうような衝撃を受け
「今までの批判は何だったんだ」
となることがあります。

大家の間でもこういうことがありますから
われわれの日常の中に、
そういう不合理な批判、突っかかりがあっても
不思議なことではないのでしょう。

この歳になると
批判をしてもらうことも少なくなるので、
批判でも何でも意見をいただくことがありがたいので、
何とかそこから改善点を学ぼうとしてしまうのですが、
自分の矛盾点を指摘されているのでもなければ、
派生問題の不都合を指摘されるわけでもなく、
こちらの言っていることと全くかみ合わないところで
エキサイトされていると、
やっぱり、嫌な気持ちになるものです。

こういうことは職場では多くあるのかもしれません。
パワハラ上司の指導がこうなっている傾向にあるかもしれません。

受け手は、何が何だかわからないけれど
攻撃されていることだけは理解できるということで
対人関係的な危機意識を無自覚に募らせてしまいます。

一言でいって、
「自分の領域を犯された」
という意識を持ってしまうと
相手に対して攻撃的になってしまう
ということがあるようです。

上司と部下であれば、
自分が上司としてこれくらいの尊敬なり、優位性が必要だと感じているのに、
部下の方が、一般職員から頼りにされていたり、
技術的能力が高かったりすると
部下を自分より下に下げようとして
揚げ足を取り出す(攻撃しやすいところから攻撃する)
ということが起こるようです。

これは、自分の上司としての領域を侵されたことに対する
危機意識の反映なのかもしれません。

こういうことを目撃した時は、
言われている方がへこんでいることが多いので、
批判が的を得ていないと思うということを
せめて、言われた方にだけでも告げてあげてほしいと思います。
これがあるとだいぶ救われます。

余力があれば、
やはりそういう的を得ていない批判は
単なる人格攻撃ですから、
上手にやめさせるべきではあります。

異業種間でもそういうことはあるようで、
例えば、教育の分野についての発言を
他の業種が行うと、
「学校の実情も知らないのにいい加減なことを言うな」
という形の批判が起きることがあります。

その批判がまっとうな批判ではなく、
単なる領域侵害に対する危機感の表れの場合は、
その話のどの点が実情に合わないかということを
具体的な指摘が無いのでよくわかります。

話をしている人が、何とかしなければならないと思って
善意でお話をしていただいているのだから、
もし実情に合わないところがあれば
指摘してあげることが親切で、建設的だと思うのですが、
領域侵害危機繁栄の場合は、
違う、間違っている、正しくない
という結論だけが出てきます。

相手や周囲に、不快な感情だけを与える行為ということになるでしょう。
大体は匿名で行われます。

結論のみ提示型の批判のほか、
専門領域引っ張り型の批判も見られるところです。

その専門領域の事例について述べていないのに、
この専門領域の事例では妥当しない
ということだけなら、
アウトラインを画する作業に役に立たないともいえないのですが、

その専門領域の対象者に対する批判だと決めつけられると、
そのことについて言っているのではないのになあと
だんだんどうでもよくなるわけです。

おそらく、その主張に対する批判ではなく、
それまでのその領域への踏み込みに対して危機意識を持っていて
それがあるとき噴出したということなのでしょう。

こういう場合、相手を黒く塗りつぶして黒だと批判するという
平野先生の批判が当てはまる批判形式になるのでしょう。

特に自死問題についての連携の中では
どうしても、他業種の領域に足を踏み込んで活動する必要があります。

そうではなくて、
心の問題はカウンセラーだということになってしまうと、
カウンセラー以外何もできないことになってしまいます。

それでは、連携ではなく分業になってしまいます。
要するにたらいまわしですね。

我慢しあいながら付き合わなければならないのだと思いますし、
法律の領域に口を出してくる業種があっても
歓迎するべきなのでしょう。
というか、権利が生まれるときというのは、
だいたいが、先ず、法律家以外の人たちが声を上げだして、
法律や法律の周辺科学の人たちと連携して
国家の承認にいたるものです。
自分の業種以外の知見を積極的に取り入れることが
本来的に法律学の命なのです。


どんどん分野を移動してお話は進むのですが、

これが親しい人間関係の場合は
領域侵害の危機意識ではない場合があります。

家族だったり友人関係だったりですね。

必ずしも相手に批判するわけではないのですが、
何か意見を言おうとしている時、
「これを言ったら攻撃されるのではないか」
という意識的あるいは無意識の不安を持つと
なかなか言うことができません。

それでも、言おうと思うことがあるのでしょうね。
そのために、怒りを少し借りてくる必要がある場合があります。

要するに、
「これを言ったら攻撃されるのではないか」
という思考形態が強すぎるので
これを麻痺させる作業ということになります。

この脳の活動を低下させるために
「怒り」という感情が必要になるようです。
あるいは、脳の活動を低下させた状態が
「怒り」なのかもしれません。

ところが、
これで発言することはできるのですが、
「怒り」の中での発言は
これを言ったらどういう感情になるだろうかという
将来に対する推論や
相手の心情に対する共鳴力が
同時に低下してしまいます。

先ずは、本当に言いたいことを言うことが難しくなります。
怒りに任せての発言で、なおかつ相手の気持ちを考えませんので
無駄に攻撃的になります。
話を組み立てることができないので、
否定的な結論だけが出てきます。
おそらく、それなのだろうと思いますが、
相手の言い分も理解することが難しくなり、
相手の言っていることが頭に入らなくなるようです。
同じことを波紋のように繰り返して言ってしまいます。

これが夫婦間だとかの関係だと
心底辟易してしまうわけです。
こちらも怒りがわいてきてしまい、
収拾がつかなくなるということですね。

先ず、怒りをもって話す人は、
危機意識を持っている人だと感じて聞くと
何割かは心が軽くなります。

「ああ、一方的にアドバンテージを預けられちゃったな」
と考えると、何割かは落ち着きます。

もし、これが家族であれば、
相手が怒りを借りなければ発言できない
ということを気にするべきかもしれません。

どうしたらよいか、
相手が怒って発言しているときがチャンスなのかもしれません。
怒って発言しても、
言葉を額面通り受け取らなくて、
本当に言いたいことを言い当ててあげて、
(こちらに怒りが向かっていても
 本当の敵は外部にあることが多いようです。)
受け止めて、あるいは、受け流してあげる
ということをしていくうちに、
相手も落ち着いてくるようです。

これを繰り返していくことによって、
少しずつ、発言しても窮地に陥らない
ということ学習してもらうということになるわけです。
そうして、怒らなくても話すことができる領域が
拡大していけば、平穏な生活となるわけです。

結局両者が、自己防衛をしながら付き合うということは
家族の場合、結構苦しいものです。
弱みをすべて見せ合う(原則として)関係が
楽な関係であるということになります。

この時、怒らなくても良いんだよということは逆効果だと思います。
「怒っていない!」ということになるからです。
本人は、怒っているのではなく、
言いたいことがあって、それを言うために工夫しているだけなのでしょう。

真剣に、真意に向き合うということがコツなのでしょう。

職場でも、何か指示を出すとびくびくしている部下がいます。
改善を提案すると、自分が批判をされているかのように
不機嫌な様子を見せます。

これも慣れが必要なのですが、
むしろ、そういう態度にいちいち気にしないという
上司の側の馴れの方が有効なのかもしれません。

その時も、上司を馬鹿にしているのではなく、
自己防衛の行動だと思えば
何パーセントかは、心が楽になるように思います。


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