So-net無料ブログ作成
検索選択

不合理な離婚、子連れ別居の源流は、昭和62年の最高裁判決にあるのではないか。その効果は離婚意思が有れば離婚が認められるという野蛮な制度になっているということ [家事]

昭和62年9月2日、最高裁判所大法廷は、
浮気をして別居した夫からの離婚請求を認めた。
いわゆる有責主義から破綻主義に移行したとされる判決である。

私はこの結論自体にも反対だが、
さらにこの破綻主義が独り歩きして、
裁判所においても日本の家族制度の破壊が
行われ始めていると感じている。

連れ去り別居、離婚とも関連するので、
記録にとどめたいと考えた。

<最高裁の事案>

最高裁の事案は、70歳の夫婦の事案である。
子どもができず二名の養子を迎え入れて平凡に生活していたが、
結婚12年目に夫が浮気をして、それが発覚し
夫は浮気相手と同棲するようになった。
また二人の子どもをもうけて認知をした。

その後34年を経過して
夫は二つの会社の代表取締役、不動産会社の取締役
として経済的に安定した生活を送っている。
妻は、人形店に勤務などしていたが
裁判時には無職になっていた。

また、上告人の主張だが、
夫は全財産を妻に給付したという事情があると主張している。

<最高裁の判断>

不貞をした夫からの離婚請求を事実上認めた。
(破棄差し戻し)

<最高裁の論理不貞の場合でも離婚を認める場合>

それまで日本の裁判所では、
離婚(回復しがたい婚姻破綻)の責任のある方
(本件では浮気した夫)からの
離婚請求は認めてこなかった。

本最高裁判決は
責任がある方からの離婚請求でも
二人の間が回復しがたい破綻状態にある場合は、
離婚を認める
という舵を切った判決ということになる。
法律は何も変わっていないのに
裁判所が法律の取り扱いを変更したことになる。

但し、無条件に有責配偶者の離婚を認めるのではなく、
条件が付いている。
1) 夫婦の別居が両当事者の年齢及び同居期間との対比において相当の長期間に及ぶこと
2) 夫婦の間に未成熟の子が存在しない場合
3) 離婚の相手方が、離婚により、
   精神的・社会的・経済的に
   極めて過酷な状態におかれる等
   離婚を認容することが著しく社会正義に反しない場合
 この判決では、このような条件を付けたはずだった。

<最高裁の理由>
上記の条件付きながら、最高裁が
有責配偶者からの離婚を認めた理由は以下のとおり

1)有責配偶者からの離婚を認めないと法律に書いてない
2)夫婦という実態がないことを法的に追認するべきだ
a)夫婦とは、永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯に共同生活を営むものである。
b)一方又は双方が、
この意思を確定的に喪失し、
夫婦としての共同生活の実態を欠いて
回復の見込みが確定的にない場合は、
夫婦としての社会生活上の実質的基礎を失っている。
 C)その場合に戸籍だけ夫婦というのは不自然
3)但し、正義に反することを認めてはだめだが、
  上記条件があれば正義に反しない

こういう理屈である。

<私の最高裁判決批判>

1 実態は悲惨な結論を招く
  弁護士をやっていて、この判決以降
  有責配偶者の離婚請求あるいは
  責任のない配偶者に対する離婚請求が
  裁判で認められるようになってきたように思います。
  具体的にどういうことかは後で述べます。
  
  この最高裁判決までは有責配偶者からの
  離婚請求は認められていませんでした。
  破たんの責任のない配偶者は
  離婚をされない権利が保障されていたことになります。
  ところが、この判決以降、
  自分が悪くないにもかかわらず
  裁判所から、自分が離婚したくないという気持ちを
  無視され、圧殺されるようになったしまったのです。

  これは、離婚を請求された方にとっては
  青天の霹靂です。
  精神的にかなりのショックを受けます。
  何も悪いことをしていないのに、
  相手の心変わりによって
  離婚を国家から命じられるということなのです。

  言われた当事者を目の当たりにすると、
  この判決の妥当性にははなはだしい疑問があります。

2 判例変更の根拠が薄弱である事

 a)
  これまで有責配偶者の離婚請求を
  裁判所は認めてこなかったわけですが、
  その時から有責性はだめだと
  法律には書いていませんでした。

  法律に書いていなくても
  裁判所の判断が確立していれば
  みんな、争っても裁判所ではこうなる
  ということを予想して争いをしていたわけですから
  書いてないから良いよということは
  あまり説得力はないと思います。

  これを最初に述べること自体が
  自身のなさの表れのように感じます。
b)
  次に、最高裁が考える夫婦ですが、
  「夫婦とは、永続的な
   精神的及び肉体的結合を目的として
   真摯に共同生活を営むものである。」

  私は、これ、余計なお世話だと思うのですけどね。
  皆さんどうお思いでしょう。

  いろいろな人間が夫婦という人間関係を形成するのですから、
  夫婦のかたちとは様々あって良い
  というのが民主主義的な考え方だと思います。

  精神的結合のかたちも様々ですが、
  肉体的結合ということは必ずしも条件ではないでしょう。
  肉体的条件、精神的条件、あるいは年齢的条件から
  それらの目的を必ずしも持つわけではない
  と思うのです。

  勝手に夫婦像を作って、
  それに会わなければ法的保護の対象外だというのは
  あまりにも冷酷な印象を私は受けます。
  誰が夫婦をこういう風に決めたのか
  何を根拠に行っているのか
  疑問が大きいところです。

 C)
 「一方又は双方が、
  この意思を確定的に喪失し、
  夫婦としての共同生活の実態を欠いて
  回復の見込みが確定的にない場合は、
  夫婦としての社会生活上の実質的基礎を失っている。」

   実はここが曲者であり、要注意のところです。
   一方が確定的に、肉体的結合を目的としなくなって、
   なおかつ共同生活をしていない場合は
   社会的に夫婦と言えないよ
   ということなのですが、

   一方当事者の「意思」を強調しているところは
   この判決の後の裁判実務に
   大きな影響を与えているところです。

   社会的に夫婦と言えるかどうかと
   そうした責任のある者の
   「離婚したい」という気持ちを
   相手の
   「離婚したくない」
   という気持ちを圧殺しても認めるかは
   大きな壁で隔てられてきたはずなのです。

   社会実態が変わったわけでもないのに
   判例を変更するのにもかかわらず、
   この社会実態が理由となることは
   理解をしかねるところです。

   籍をそのままにするのが不自然だとしても
   籍を抜くことが許されるべきかという問題とも
   同じように連動しないと思われます。

3 最高裁判決後の裁判実務
   
最高裁判所が示した破綻主義は
(有責配偶者からの離婚請求を認めるという考え方)
すでに破綻主義の枠を超えて、
独り歩きを始めています。
現状では、一方当事者の離婚の気持ちが固い場合
ほとんど離婚が認められる傾向になってしまっている
という状態です。

先ず、客観的に共同生活をしていないということが
必要なはずだと思われるかもしれません。

しかし、別居してほどなくして離婚調停を申し立てても、
離婚調停を開催し、裁判を続けていれば
あっという間に2年くらいたってしまいます。
裁判所は、2年を経過したことをもって
「客観的に共同生活が営まれていない」
と判断するケースがあります。

ほとんどそれだけ、つまり、
離婚したいという意思があって
別居さえすれば
離婚が認められてしまいます。

我々古い法律家の感覚からすると、
同居時に起きた破綻を示すエピソードは
あまり必要とされていないようです。
相手方はいろいろなことがあったというのですが、
重要視していないので、
あまりきちんと調べたり、
証拠法則に則って認定することはありません。
これが言った者勝ちの原因なのではないでしょうか。

未成熟の子どもがいても
子どもを養育することができれば
ノーカウントとされているような気がします。
相手方が生活が困難な状況は確かにないでしょう。
だって、別居で一人暮らしを余儀なくされているのだから、
これからだって同じだから
生物として生きていくだけならなんとなかるはずでしょう。

最高裁判所の判決の中に
こうなることの卵のようなものがありました。
   
「一方又は双方が、
この意思を確定的に喪失し、」
という部分です。

破綻主義と言いますが、
結局は、離婚したいという意思が強いならば
破綻と認めることになるのですから、
もはや「意思主義」と呼ぶべきなのです。

他国においては、このように意思主義で離婚を認めても、
アメリカの多くの州等先進国では
離婚後の子どもの養育計画書を提出させたり
レクチャーを受けたりという手当てもありません。
もはや自由に、相手方や子どものことを決めなくても
離婚できるという野蛮な国が日本なのです。

他にいろいろな制度を作って
離婚に伴う不具合を整備して破綻主義を採用した
先進国とは異なり
破綻主義で離婚ができるという結論だけを
真似しているのが日本の裁判所だと
非難するべきだと思います。

4 最高裁判所判決以降の調停実務
   
これが最高裁判所の判決の影響か
元からこういう傾向があったかについては
自信がないところですが、
  
この最高裁判決以降に弁護士になった私としては、
まだ、弁護士になりたてのころは
離婚について、人情の機微に触れるような
調停委員の先生方の対応があったように
思います。

最近の調停は、
申立人の離婚の意思が固く、
相手方が離婚の意思が無い
ということが確認できれば、
もう調停は打ち切って裁判にしようとします。

話し合いは、
離婚を前提とした養育費や財産分与
慰謝料の額だけだと決めつけているような気がします。
違いますか?

日本の法律では
離婚裁判をするときは、
必ずその前に調停を申し立てなければなりません。
(調停前置主義)

表面的な離婚意思の言葉はともかく、
いろいろな離婚後の派生効果等を一緒に考え、
離婚ということは避けられない結論なのか
ということを確認することによって、

一つは、やり直しの方策があれば
それをひとまず追及するということもありますし、

離婚という結論が避けれない場合でも
相手の真意を砕いて説明を受けることによって
ある程度は納得して離婚に応じることができる
離婚が不可避ならば
円満に離婚ができたということがあったように思います。

こういう作業は、当事者の精神衛生上も
離婚後の子どもの養育についても
無駄ではなく有益だったと思います。

昔の調停委員の先生が告げる
相手方の離婚の意思の説明は
重みがあり、絶望感もうけますが
新しい将来に目を向ける効果もありました。

いろいろな調停委員の先生がいますが、
今は、とても軽いような気がするのは
私だけでしょうか。

離婚条件について話し合いができるかどうか
だけでの調停ならば、
わざわざ調停を前置する必要もないと思います。
こういう調停ならば
単に訴訟を増やさないための下請けのような気がしまう。
要するに裁判所の利益のための家事調停です。

そうではなく、離婚は、
家族という人間の営みの基礎となる重要な
対人関係の解体ということだから、
なるべく当事者の納得のゆくところで結論を出し、
軽々しく国家が家庭に介入しない
という理念があったはずですが、
今は形骸化しているように思われます。

家庭裁判所で、離婚調停や訴訟で
事故が起きやすいのは、
このように、自分の人生を
裁判所の都合で形式的に処理されていると
感じる人が増加していることに
原因があると私は思います。

その気はないと思うのですが
人を馬鹿にしているのです。

5 連れ去りアドバイス
 
こういう裁判実務、最高裁判所の判決を
少しずつ取り入れていったのが、
一部にいる
連れ去りアドバイザーなのでしょう。

別居して離婚したくないと言えば
裁判で離婚ができる。
調停等で話し合うとぼろが出るので、
すぐに調停を不調にしたり取り下げて、
離婚訴訟にしてしまいましょう。

だから、先ず、別居することが第1です。
連れ戻されると、
「あなたは、また夫のところに戻るでしょうから」
居場所を相手に隠して別居しましょう。
   
子どもと別れたくないならば
子どもは一緒に連れて出てください。

学校を転校させたり
親に会わせるわけにはいかないけれど
「あなたが幸せにならないと
 子どもは幸せになりませんよ。」
 子どもにつらい思いをさせても
 連れて出てください。

子どもを育てるためにはお金が必要です。
こういう気持ちにさせたのは
相手の責任が大きいのです。
相手に何らかの虐待があれば
慰謝料が高額になるのですが・・・
どうしますか?

ちなみにここにあるのが
保護命令申立書です。
簡単でしょう?

「あなたは、意志の弱いダメな人間ですから
 放っておくと夫と連絡を取るでしょう。」
 だから携帯電話は預かります。

離婚制度の変遷の中で、
責任もなく離婚を強いられる大人、
わけのわからないうちに両親が別居して
もう一人の親と会えなくなる子ども、
そうして、自分のことを自分で決められず
軽蔑されながら、上から目線で
あれこれと指示されたように動かなければならない女性

いわれたとりやったのに
ろくに慰謝料ももらえず
話が違うといっても
どうすることもできません。
   
このような離婚制度の闇は
最高裁判決がもとになっている可能性があるぞと
今考えている次第です。

手を離した方が母親だ 大岡裁きの意味するものと その人情もなくした文明未開の日本での戦略 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

大岡裁きで、
一人の子どもをめぐって、二人の女性が
「自分こそ母親だ」と譲らず、
ついに南町奉行所でお裁きを受けることになった。

奉行大岡忠相は二人の女性に対して
子どもの両手を持ち引っ張ることを命じた。

一人の女性が痛がる子どもがかわいそうで
腕を離したところ、
大岡は、
そちらを母親と決めた。

わが子の痛みをかわいそうだと思う方が母親だ
という理由であった。


これはもちろんフィクションで、
南町奉行といえば
県警本部長と高等裁判所の長官を兼職するような
典型的な官僚であり、管理職なので、 
滅多なことで自ら現場に出ることはなく、
そもそも親子確認の訴えなんて事件は
受理さえされなかったでしょう。

庶民の願望が現れたものとみるべきです。

では、どうして、このようなストーリー
生み出した人がいて、受け容れる人がいたのでしょうか。

先ず、第1に、現代との間隔が違うのは親子関係というものです。

どこまで真実性が追及されるかということですが、
一言でいうと、
「そんなのわからないよ」
という意識が最終的には支配的でした。

日本の民法も、実は、
分からないことにこだわるよりも
さっさと決めた方が子どものため
という思想があります。
嫡出子推定制度や
嫡出否認の訴えが、ぐずぐずしていると
提出できなくなるという制度などが
そういう考えの元現行法で定められています。

さらに江戸時代になると
名づけの親とか、拾い親とか
とにかく親をたくさん作って
みんなで子どもを育てるということが当たり前でした。

だから、今ほど、
血縁関係を厳密に(ヒステリックに)考えていたわけではない
ということをまず背景事情として押さえておく必要があると思います。

次に出てくるのは、
では、親として一番重大な資質とは何か
ということです。

子どもが痛がってもその痛みを気にしないで引っ張り続ける。

こういうことは実は世間でよくあることです。
子どもが真実の母親の元にいることが幸せだ
ということが独り歩きして、
親の言うとおりにすることが子どもの幸せだということになり、
親のエゴを子どもに押し付けて
子どもが苦しんでいても手当てをしない
といえば、心当たりがあると思います。

この大岡裁きは、
結局、
子どもが一緒ににいると幸せになる人
あるいは、
子どもを自分のエゴで苦しめない人
それが親だというメッセージだと思うのです。

実はこういう話は世界各地にあるようで、
有名なソロモン王の裁きでは、
子どもを切り裂いて二人に半分ずつ与えよと命じ
私はいらないから生きたまま相手に渡してくださいと
懇願した女性に子どもを渡したという話もあります。

親が、子どもに執着するあまり
子どもが悲鳴を上げていることに気が付かない
ということが、
世界的に存在する問題の所在なのでしょう。

私が多く扱っている事件が
まさに子の取り合いの事件です。
しかも、真実の親どうしの取り合いです。

親どうしが離婚をしても
子どもと親の関係は死んでも続きます。
それにもかかわらず、
親の離婚が一方の親と子どもの
いわゆる子別れにつながってしまうということが
21世紀になっても日本では続いています。

他国と比べて子どものための法制度の整備
ということが著しく遅れていることにも原因があります。

離婚後は一方の親だけが法定代理権や監護権を持つ
という制度は、
一方の家に子どもを遺し
追放された親の干渉を遮断するという
封建的な観念の元
どの国もそういう制度でした。

ところが先進国、お隣の韓国など
このような不合理な制度を改めているうえ、
共同親権がスムーズに進むように
行政サービスや司法サービスを充実させています。

日本は全くの野放しどころか、
子別れを行政が促進しているという
子どもを大切しない野蛮な国として
世界から注目を浴びているところなのです。

さて、
日本の大岡裁きは、現在も受け継がれているのでしょうか、
日本の裁判所では、そういう扱いは少数といってよいでしょう。
どこまでもどこまでも、子どもの腕を引っ張り続ける親が
親権をとるという図式になることが多数です。

このことについて次回お話ししたいと思います。
一番の問題は、
そのような引っ張り続ける母親であっても
「子どもは母親のところにいなければかわいそうだ」
という思い込みがあるようです。

子供の腕を引っ張り続けているのは
母親だけでなく、奉行所までが加担している
という状況です。
文明もなければ人情もない
荒れ果てた祖国の心象風景に立ち会っている思いです。

しかし、私の経験では、
大岡裁きは、現代においてもなお存続しているし、
それが悲劇的な形になって現れるということです。

ほかならぬ子どもたちは、
自分がもう一人の親と自由に会えないことに
疑問を持ちだしています。
最近は、子どもたちがもう一人の親の方に
逃げ帰っているということが
身近でも起き出しています。

なぜ逃げかえるのかというと、
一つは、別居親の悪口を言われることがいたたまれないこと
(当たり前のことですが、自分の悪口に聞こえてきます)
一つは、兄弟間の差別
一つは、また親子みんなで暮らしたいという気持ちを
実現してくれそうなのは別居親の方だ
という意識が多いようです。

今、わが子に会えなくなって
落胆している親御さんがたくさんいらっしゃいます。
できることは、
針の穴を通すような難しい作業ですが、

自分が子どもがかわいそうだから、
自分のエゴをひっこめるという作業をして、
それを子どもたちに伝える作業をすることです。

相手親と一緒にいる子どもたちを責めていないし
褒めてあげる。
一緒にいる親の悪口を子どもたちに伝えない。

一緒になって腕を引っ張り続ける構図を
早く上から見下ろすことができるようになり、
止める
譲歩をしながら、
最終的な子どもとの信頼関係をどのように作っていくか
そういう戦略になるのだと思います。

「村八分」から見たいじめと心のケアの本質及び道徳と文明と歴史の前進の落とし穴 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

「村八分」という言葉がある。
村の総意で、秩序逸脱者の家に対する制裁であり、
共同して絶交するという形で
村にいながらにして排除されるものである。

「八分」というのは、
絶交はするが、火事と葬儀の時だけは
絶交を解いて助け合うという意味からきているという。

残りの八分とは、
成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要旅行
とされる。

二分の絶交を解く理由は、
消火活動を助けないと類焼するからということと
死者の腐敗から臭いや伝染病の危険があるから
といわれているようだ。

この理由に対する違和感と
村八分という精神的負荷を与える行為が、
いじめの本質を表していることにふと思い当たり、
少し考えてみた。

先ず、
いじめの本質について、

おそらく、
全部で10あるうち2だけ絶交を解くので八分
という言い方は、何らかのこじつけであろうと思われる。
8個は何でもよいのだと思う。

要は、お祝い事や困りごとは、
村で共同で祝ったり助け合ったりする
その輪の中から排除するというところに本質があるからである。

慶びごとがあるのに誰も一緒にお祝いしてくれない
これは、精神的追放を強く感じることである。
実際に困って、誰かに助けを求めたいときに
誰も手を差し伸べてくれない
ということも同じように苦しい。

いじめとは、あるいは職場のモラルハラスメントとは、
何もない時に起こる
目に見えた嫌がらせ(作為のいじめ)、
だけではなく、
いじめているように見えないけれど、
当然仲間なら共同行動をしてくれるはずの時に
それをしない嫌がらせ(不作為のいじめ)
もあり、
いじめの本質が、
コミュニティーからの排除の意思表示にある
ということが村八分ではわかりやすく示されている。

では、なぜ2つの出来事では絶交を解くのか。

先ず類焼を防ぐということに疑問がある。
舞台は江戸時代の農村部である。
これが確かに都市部の商工労働者の住宅であれば、
近隣の建物と密集しているので、
類焼を防ぐことは必要だが、
農村部は、隣家ともかなりの距離があり、
山林に類焼がある可能性はあるとしても、
住宅への類焼は
それほど一般的ではなかったはずだ。

加えて、ホースすらない時代に
消火活動をどうやって行っていたのか。
特に類焼を防ぐためには、
火元の付近の家を壊すことしかなかったはずだ。

私は、消火活動について絶交を解くのではなく、
火事の後のいわゆる火事見舞いについて、
要するに家屋焼失後の後処理について、
絶交を解いて共同作業を行う
ということではないかと考えている。

次に死者の腐敗臭や伝染病についても
隣家との間隔が離れていることを前提に考えると、
あまり説得力はない。

また、埋葬ならば、
当時は土葬であることも考えると、
それほど共同作業の物理的必要性が高いとは思われない。
すくなくとも、それだけで絶交を解くとは思えないのだ。

ここで、日本には「人が死んだら罪を水に流す」
という思想があり、これを理由として上げる人もいる。
それは、なかなか魅力的な考えだ。

但し、実際は村八分は、
「家」単位で行われていて、
罪を犯した人ではなく、
その親が死ぬ場合も
即ち、もともと罪を犯していない人が死んで
罪を犯した人が生き残っている場合もあり、
この場合でも絶交を解くという理由が少し苦しくなると思う。


私が考える2分の理由は、
端的に、喪失感に対する精神的手当だと思う。
今はやりの言葉で言えば、心のケアである。
但し、それは、
焼失後の最低限度の家庭再建
埋葬から葬儀までの最低限の行為を
共同で行うことであり、
それ自体が心のケアなのだと思う。

心のケアとは何をするべきなのか
という本質がまず示されている。
一言でいえば
その人にとってのコミュニティー機能の回復であり
その本質は共同作業である。

さらに、家族の死亡や火災による家屋の焼失による
人間の喪失感は、
どのような罪を犯した人間に対しても
手当てされるべきだという
当時の「常識」が垣間見ることができる。

もう一つ、
どんな罪を犯した人間でも
家族がかばうことが当たり前だということが
家族ぐるみで絶交されることの本質だ
という側面を見逃すことはできない。

そうだとすると、
罪びとに対する制裁の気持ちが強くても
その家族に対する制裁の気持ちは、
時とともに和らぐのだろうということが考えられる。

そうだとすると、そうだとすると、
人が死んだとき、火事の時、
せめてそういう時は、
力になりたいという感情も
あり得る話なのだと思う。

但し、実際の村八分も
村八分という言葉も
このような二分の絶交解除という理性的な対応ではなかったようだ。
江戸時代についてはよくわからないが
特に戦後の事件については、そのような印象がある。

例外のない排除ということと受け止められていると思う。
もしかしたら、それが自然の感情なのかもしれない。

だから、二分の絶交解除という制度を
誰がどのようにして作ったのか
大変興味がある。

この言葉が確認されているのは
幕末らしい。

村八分という概念は江戸時代に生まれた可能性がある。
そうだとすると、
私は、苛烈になりやすい村の排除に対して、
武士が宗教の力を借りて
排除の感情をすり替えた可能性があるのではないかと
感じている。

そうだとすると、
村八分という陰惨な風習を表す言葉が、
全国的に流通している理由も説明がつく。

武士という制度自体が公務員であり、
その後の明治維新のプロパガンダで
不当な攻撃をされているが、
実際は、道徳を確保していた側面がある。

仙台では四谷用水という開放式の用水路があり、
街を流れる用水路は清流として利用された。
どこかで述べようと思うが、
それは神社やお寺を利用して清流を確保し、
足軽より上の武家屋敷の間に本流を通すことで
水質を監理していた。
そして、年に二回の川底の掃除など
徹底していた。

江戸時代が終わり廃藩置県によって
清流は失われた。

道徳といっても理念的な規範ではなく、
江戸時代は生活を支えていたのである。

死によって罪を水に流すというのは、
仏教を言い訳に利用したのだと思う。

家族の死や自宅の焼失という喪失感を
放置しないことで、
八分にされた家族の破れかぶれの行動を防止し、
あまりにもかわいそうな家族を目の当たりにすることで
住民たちの心がすさむことを防止し、
共同体機能を回復させていくことで、
農業労働者、生産地を疲弊させない
という機能を経験的に必要としていた
と考えている。

それを道徳とか「常識」とかといって
武士の強制力をもって実現していた
可能性は無いだろうか。

また、庶民も
その常識を受け入れるインテリジェンスがあったのだと思う。

ギリギリの理性が
道徳を軽視する勢力によって取り除かれ
村八分という言葉が形骸化され、
全面排除と同義になったのではないかと
にらんでいる。

封建制度が崩壊したのは
歴史の前進なのかもしれません。
しかし、歴史の前進は、
すべてが正しく合理的であるとは限らない
ということを考えるべきだと思うのです。
それは当たり前のことだと思います。

不合理が是正される側面と同時に
それまで、合理性があって意識的に大切にされていたことが、
無意識に脱落している可能性もあることを見逃さないことが
大切であると思います。

それが新しい体制と矛盾しないのであれば、
理性的にそれを取り込んでいくことが
人間関係の営みの点で必要なことだと常に感じています。

そうでなければ、
歴史が進むにつれて、
人間の感情や、当たり前の心が
失われていく危険があることになってしまいます。

現在、パワーハラスメントやいじめ
趣味の集団や地域で
二分すらないような集団的な排除が行われているように
感じてなりません。
昔当たり前だった人の心が
ないがしろにされている原因が、
文明そのものにあるということも視野に入れて
問題に対処するべきなのでしょう。




いじめ会見から見た取手市教育委員会の違法性。教育委員会の状態こそ重大事態だと思う理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

このような行政の違法性を帯びた行為を正すことができたのは、
ご遺族がマスコミの前で語りだしたところが大きいと感じ、
わが子を亡くされた悲しみの中にありながら
やむにやまれぬ想いを強く感じるとともに
自死やいじめられることによる偏見が遺る社会の中で
行動された勇気に心より敬意を表します。


取手市の教育委員会が、
平成27年に中3の女性が自死した案件で、
ろくに調べもしないうちに「いじめはなかった」
「重大事態ではなかった」としていたのに、
一転して「いじめはあった」と言い出したことが
ニュースになっている。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170531/k10011000911000.html


今回の取手市の当初の対応は、
日本の法律である
「いじめ防止対策推進法」に反する行政行為がなされた
という違法性を帯びた行為であり、
被害を受けたのが子どもたちであると観念するべきなので、
重大なスキャンダルだと思う。

先ず、「いじめはなかった」ということに対して
どのような法律違反なのかについて説明を試みる。

「いじめ防止対策推進法」2条1項はいじめの意味を定める。
「この法律において『いじめ』とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。」

平成25年10月11日文部科学大臣の通達の
「いじめ防止などのための基本的な方針」において、
このことを解説しており、
「心身の苦痛を感じているもの」
の意味を限定して解釈しないようにと
予め取手市の事態を見越したように
懇切丁寧に説明している。

「この程度なら苦痛と言えない。」
「この程度なら子どもたちの中でよくある事」
「本人が大丈夫と言っているので苦痛ではない」
等というようなことを言わないようにということで
きちんとあらかじめ予防線を張っていたわけだ。

しかし、この予防線は、
各地の教育委員会や学校現場で
やすやすと突破されてきた。

いじめ対策防止推進法は、
子どもたちの健全な成長のために
いじめを防止するというところに主眼があるのだから、
子どもたちが苦痛に感じることを
みんなで防止するための法律だ。

だから、いじめの定義自体にこだわる必要さえも
本来ない。
いじめかどうかにこだわらず、
法律で示す生徒の苦痛を確認したら
調査を開始するべきだということでよいのだと思う。

しかし、学校や教育委員会は、
上記のように、なにかれと理屈をつけて
あえて「いじめ」の有無を問題として、
「いじめ」ではないと言い張ってきた。

ここで疑問がわいてくる。
なんのために、「いじめではない」と言っているのかということだ
いじめ防止、生徒の苦痛を防止すること以上に
学校や教育委員会が大切にしているということが
何かあるということだろう。

それはいったい何なのだろうかということだ。

もしかしたら、ゲスの勘繰りだという批判を覚悟でいえば、
当該学校の校長、教育長などが、
いじめを起こしたら、出世に響くということで
いじめを「無かったことにしよう」
としているのではないだろうか。

もしそうなら
自分の利益のために生徒に苦痛を与えても良い
ということになり
学校側がそういう行動原理であれば、
いじめを見てみぬふりをする生徒を指導すること等
できないだろうし、
生徒は大人の茶番を見抜くだろう。

また、学校などが本来子どもを守るべき立場であることを考えると、
自分の利益のためにいじめをなかったことにするということは、
いじめに加担しているという評価になることも
あり得ることになる。

また、そのような、偶然的な事情で
出世を決める制度自体にも疑問を持ち
さっさと改めるべきだろう。
いじめの本質を分かっていない制度であり、
いじめ防止に逆行することが
嫌というほど明らかになっているはずだ。

それにもかかわらず、
その制度自体に手を付けない張本人たちが、
指導として、子どもたちに態度を改めろといったところで
空しいことになってしまうだろう。

いじめの定義についてはこのあたりにするが、
問題は「重大事態」の解釈である。

「いじめ防止対策推進法」は
28条で、重大事態に適切に対処し、
重大事態と同様の事態が繰り返されることを防止することを定めている。

具体的には、
先ず、学校内に調査チームを組織し、
アンケート調査などを行って事実関係を明確にする
ということである。

その「重大事態とは」
一 いじめにより当該学校に在籍する児童等の生命、心身又は財産に重大な被害が生じた疑いがあると認めるとき。
二 いじめにより当該学校に在籍する児童等が相当の期間学校を欠席することを余儀なくされている疑いがあると認めるとき。

先ほどの文科大臣の通達では、
「児童生徒や保護者からいじめられて重大事態に至ったという申立てがあったときは、その時点で学校が『いじめの結果ではない』あるいは『重大事態とは言えない』と考えたとしても重大事態が発生したものとして報告・調査等に当たる」
とされている。

取手市教育委員会や学校の初期の対応は、
この通達に反し、法律に反する行政行為だった。

こうするだろうという予想されたために
わざわざ具体例を示して注意をした
文科省の予防線は、
それこそなかったもののように突破されていたのである。

あまりにもひどすぎる事態の原因を考えてみる。

一つにこのような通達を読んでいなかった
ということが考えられる。
教育委員会で誰一人読んでいないのであれば、
それは教育委員会としての体をなしていない
と言われなければならないだろう。

重大事態ではないという決議までしたというのだから
恥ずかしい限りである。
また、わざわざ決議をしたことについても
何か後ろめたい気持ちが感じられる。


法律や通達ではなく、
私的利益が行動基準だったと言わざるを得ないだろう。
私的利益のために、法令違反の行為をしておきながら、
税金から報酬を受ける理由はない。

いじめ防止対策推進法のこれらの条文は、
細かい技術的な法律や通達ではない。
子どもたちの命や人生にかかわるいじめ問題防止ということで
話題になった法律である。

もしも、知っていてそれを守らなかったというならば、
それこそ犯罪的な行動だということにならないだろうか
国の定めた行為規範を意図的に破ったことになるからだ。


教育委員会が謝罪の記者会見をしたが、
「謝罪」口にしていながら、反省が不十分であるという
新たな問題も浮上した。

新たな問題の第1は、
「自殺との関係はわからない」
という、言わなくてもよい発言をしていることだ。

いじめ対策防止推進法は
自死と関係のあったいじめだけを防止するのではない。
重大事態だって、自死だけを取り上げているのではない。

あれは記者会見であって
縁側の茶飲み話ではない。
いじめが確認されれば、個別指導を含めて
防止する措置をとらなければならない。
しかも、その事実関係を明確にするために、
調査を行うのである。

ただ、教育委員会に寄り添って解釈すると
マスコミが、そのあたりのことを理解しないまま
いじめがあったとすれば自死と関係があるのか
と質問したことに答えたのかもしれない。
そうだとすると、もっと上手に回答する必要があったとともに
マスコミに対していじめ防止対策推進法について、
きちんと説明をする必要があったということだろう。

それには法律や通達を読まなければならない。

新たな問題の2は、
謝罪と言っても、
「遺族への配慮に欠けたものだったと謝罪」
というのである。

遺族への配慮が欠けたというか、
さらに鞭打つ行為をしているということは確かだが、
それだけではない。

むしろ、法律に反した行動を行ったことは、
新たないじめの危険から子どもたちを守る手立てをとらなければならないのに
それをしなかったということなのだ。
被害者は子どもたちだと観念するべきだと思う。

最も重大な過ちに何ら言及はない。

未だにいじめ防止対策推進法を
勉強していないことがよくわかる。

ただ、こうなることについては心当たりもある。

過去において、
学校内での自殺案件が生じた場合の
対応マニュアルみたいなものがあって、
そこでは、遺族への配慮を特に強調して
遺族への対応マニュアルみたいになっていた。

こういう裏マニュアルみたいなものだけは
よく知っているのだろう。
このような対応をすることは十分理解できる。

なぜそうなるのか、

学校教育現場が多忙になると、
思考が停止ないし停滞する。
そうなると、
自分の価値観で子どもたちと向き合えず、
マニュアルみたいな考えなくても対応できるものを
求める傾向になるからだ。

いずれにしても、
記者会見にこれだけの人数が顔を出すのであれば、
事前にきちんと何について説明をすることが
行政組織として正しいのかということを
打ち合わせをして臨むべきだし、
県教委などとも協議をして臨むべきだと思われる。

協議をして臨んでいたら、
その協議では足りなかったことが明らかになったのだから、
さらに上と協議をするべきだったということになる。

いじめ問題は、
誰かの出世とか、刑罰の適用ではなく、
子どもたちに再度のいじめが無いようにするためのことだ
ということを徹底してほしい。

この記事が何かの役に立つことを
切実に願う次第である。

モラトリアムの形骸化と中学生の自死 群発自殺を避けるため報道の在り方を考えてほしい [自死(自殺)・不明死、葛藤]

子ども自死が軽薄に行われていると思っている人は、
もう一度せめて高等学校の倫理の教科書でも読んでほしい。
ギリシャ以前のページだけでかまわない。

モラトリアムの形骸化ということが言われて久しい。

われわれが大学生だったころ
今から30年くらい前は、
大学を卒業したら企業戦士となり
24時間働くのだから、
大学生の時は受験と企業戦士の間の
中休みという意識があった。
馬鹿なことをやりながら、
いろいろなところで人間や生き方について学んでいた。
モラトリアム真っ盛りということだった。

しかし、我々が大学を卒業するころには、
大学の講義をいい加減に済ませて、
司法試験や公務員試験予備校に通う学生が増えていった。

大学は、企業や公務員の予備校へと変貌していった。
就職やその後のスキルアップを意識していったのは、
よりよく生きようとか、より高みを目指そうというより、
生き残りのための活動が必要だと
意識され始めたからではないかという気もする。

就職難や就職後の困難を想定してそれに対して対応を始める
モラトリアムが形骸化していく事情として
指摘されるているところである。

要するに、普通の生活をするために
普通以上に頑張らなければならないということだと思う。

このモラトリアムの形骸化が高等学校に降りてくるのは、
それからさほど時間を要しなかった。
大学受験に必死になるのは続いているが、
工業高校などでは、
校内専攻で選ばれないと
社会保険のついた企業の正社員になれないということで
子どもたちを監理するようになっていった。

むしろ、就職難や雇用の劣悪化を
利用しての生徒指導をせざるを得ない状況ということで、
高等学校さえ、
モラトリアムではなくなっていった。

それが、今中学生まで降りているのだと思う。

自分が今ドロップアウトをすると
これから70年の人生を
苦痛と屈辱で生きていかなければならない
極端に言えばそのような恐怖が
少しずつ忍び寄ってきているわけだ。

成績の良い子の場合は小学生まで押し寄せていて、
中高一貫校や私立中学校への受験に
大学受験以上の努力を強いられている。

それに伴う弊害は
学校関係者なら知らないとは言えないはずだ。

いじめの主体が、
そのようなエリートになっているケース増えているからだ。

おそらく、エリートのいじめ加害者からすると、
自分が努力していること、
やりたくないけれどやらなくては普通になれないからと
頑張っていやっていることを
いとも簡単にやらない子どもがいる。

自分が推薦で進学するために
毎日神経をすり減らしていることを
あざ笑われた気持ちになるらしい。

「お前は自由でうらやましいな」
という感覚が、
いつしか、うっとうしい邪魔な奴
ということになるケースがあるようだ。

また、誰かを攻撃し、
自分はそいつよりも優位な人間なんだ
と思わないと、
心のバランスをとれない状態になっている子どももいる。

テストの成績が悪いと
家でも居場所がなくなる子どもたちも多い。

学校で失敗すると
家でも責められる
ということになると、
失敗を大人に隠すようになることは当然だろう。

親も自分の子どもが「普通」になれなかったらどうしよう
という焦りが強く、
むしろ、子どもは大人の焦りに引きずられている
と考えるのが自然だろう。

全員が全員そうだということではないし、
人によって感じ方が違うことも多いと思う。

しかし、昭和の中学生と
今の中学生がまるっきり違う立場にあることを
理解しなければ始まらないようだ。

今の中学生の状態を一言でいうと
失敗をすることが許されないという
緊張状態の持続の中にいる
「なんとかなるだろう」
という青年期の特権を行使できない状態にあるということだ。

だから、いじめも起きやすいし、
絶望も感じやすくなっている。

中学生にとって自死問題は、
以上のように他人事ではない。
中学生を子どもに持つ親の心配も募っている。

マスコミの方々にご配慮をお願いしたい。
せめて、自死の方法について報道することはやめてほしい。
自分を大切にできない人が、
自死という手段を抽象的考えるにとどめておいてほしい。
具体的な方法がインプットされると、
抽象的な希死念慮(自分は死ななければならないかもしれない)は、
自分は、「その方法で死ななければならないかもしれない」
という念慮に変わっていく。
自死を思いとどまる可能性が一気に低下してしまう。

また、連日身近な自死の報道を繰り返すことで、
死ぬことの恐怖が薄れていく危険がある。

マスコミも含めて、本気で自死を止めるという
姿勢を貫かなければ、
いくら誰かを批判しても説得力を失うだろう。

群発自殺のメカニズムを絶つことが必要だと思う。

人はなぜ自ら死ぬことができるのかを考えることが自殺予防に不可欠であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]

仙台では、中学生の自死が多発しており、
緊急事態というべき状態です。
私は、何よりも、この問題に、大人は緊急に力を注ぐべきだと思います。
何よりもです。

今は
みんなで力を合わせ、知恵を出し合うべきでしょう。
子どもに対して
「死ぬな」、「死なないでください」
メッセージを出すことは有効だと思いません。

それはその発言者に向かって、
「死なせるな」と結論を求めることと
大差がないと考えるからです。

「なぜ死にたいと思うか」
このことすら、あまりまじめに議論がなされているとは思えませんが、
世界の研究者はさらに先を研究し、実践しています。

例えば、Thomas E. Joiner Jr. は、
「なぜ人が死ぬことができるのか」
というところに着目して検討をしています。

考えてみれば当たり前ですが、
死にたいと思うほどつらくても
生きている以上、
死ぬことが怖いために自死を決行することができない
はずです。

しかし、自死者は決行してしまう。
なぜか。
死ぬことが怖くないのでしょうか。

ジョイナーは、
生前の体験が、
死ぬことを徐々に怖くなくする、
死ぬということに慣れていっている
これが、自死の潜在能力を高めてしまう
ということを言っています。

少しずつ、死ぬような体験をしているということです。

ジョイナーが指摘しているのは、
死ぬ場面に立ち会うことで
死への閾値が下がることを指摘しています。

戦争やテロ等、人が人を殺す場面に立ち会うこと、
自傷行為が
典型的な死の閾値が下がる事情です。

被害者として、
少しずつ死に接近する体験を重ねていくうちに、
死の恐怖の閾値が下がってきてしまうということなのだと思います。

体が傷つけられても
体験前のような、強いおそれが無くなっていくわけです。
少しずつ、死への抵抗感がなくなっていく
ということなのかもしれません。


注目するべきことは、
外科医の自死率が高いということです。


人の生死に立ち会う仕事ということでもあるのでしょうが、
人間の命の神秘性を否定する仕事、
皮を切ってまた縫い合わせるということが
人間の命の価値という約束事よりも、
物理化学の仕組みによって構成されている
という人間の側面を突き付けられるからかもしれません。

よく、戦争の加害者が精神的に傷つくのがおかしい
という人がいます。
そうでしょうか。
人が、人の命が軽く扱われているということを目の当たりにすると
無意識のうちに共鳴力、共感力が働いてしまう
死の恐怖が伝わってしまうということは
むしろ当たり前のことだと思います。

この恐怖を軽減させないと
日常生活に支障が来ますので、
本能的な防衛行動で、
人間の命はそれほど軽いものではない
という意識を持とうとするのではないでしょうか。

自分を無意識にごまかしているわけです。

これが持続していくと、
「およそ人間の命に価値はない」
という感覚になってゆき、
やがて、
「自分の命だってそれほど価値のあるものではない」
という感覚が侵入してきやすくなるものだと思います。

但し、
自分が傷つかなくても、
自死の潜在能力が身についていく可能性がある
と指摘しているのは
ジョイナーではなく対人関係学の方です。

さらに、対人関係学は提案しています。
(ジョイナーは、自殺の対人関係「理論」)

身体生命が傷つくことだけが死の閾値を下げるのではない。
対人関係的危機にさらされ続けることも
同様に死への閾値を下げる
ということです。

ちょっと説明が必要でしょう。
人間は動物として、身体生命の危険を感じて
それを回避しようと本能的に行動をします。

これと同じように、
人間は、群れを作る動物として、
対人関係的危険を感じて
それを回避しようと本能的に行動をします。

対人関係的危険とは、簡単に言うと群れから追放される危険のことを言います。
仲間として認められていないということを感じ取ると
群れから追放されてしまう危険としてとらえてしまうのです。

遺伝子に組み込まれた
どこかに帰属していたいという欲求は、
それが満たされないと、結局死につながるかもしれないと感じるという
反応を起こしてしまうほど人間のウイークポイントです。

だから、仲間として尊重されないようなことは
ほっといてもしないようになるわけです。
何をすると、相手にされなくなるかということについては、
後天的な学習の力も大きいようです。

そうして、これは、
全く仲間を作らないで行動しているよりも、
仲間の中にいて、尊重されない
ということの方が深刻なダメージを受けるようです。

会社や学校という
仲間の中にいなくてはならないという前提があるから、
そこから外されまいと、
人間は必死に努力をするということになります。

常に仲間から外される体験をしていると
人間として生きることに
希望を持てない状態が続くことになります。
自分という一番のかけがえのない人間が
迫害され続けていると感じれば、
人間が大事なものだということを
感じられなくなることは誰でもわかることです。

大事な人間なのに、どうしてこういう目にあうのだろう
という疑問は解決しません。
そんなことも考えたくないわけですが、
本能的に、どうしても堂々巡りをしてしまいます。

そして、そういう迫害のきっかけになっていることが
自分の常日頃の振る舞いだということになれば、
修正することができるのですが、

自分の属性である、
生まれた国、親、先天的な障害
社会のスタンダートと異なること
ということになると修正することができません。

仲間として迎え入れられることに絶望を感じなくてはならなくなるわけです。


ですから、私としては、
命の授業をすることは、下手をすると逆効果になるという意見に賛成です。
そんなことをするよりも、
仲間として尊重されていない生徒がいれば、
先ず、受け容れるコミュニティー、家族だったり教師だったりで
がっちり居場所を作るということが急務です。
無条件に存在を肯定する=仲間として扱う
ということを繰り返し感じてもらうことが必要です。

担任が、生徒の誰かが仲間として迎え入れられていない
ということに気づくためには、
生徒の顔を見る時間を確保することが必要です。
担任に、余計な文書作成などをさせることは
担任からこの力を奪う犯罪的なことだと考えています。

それから、中学生の自死=いじめ
という短絡的な見方をしてはだめです。
いじめかどうかにこだわっていたのでは、
いじめさえ見逃すことが
この間嫌というほど証明されているのではないでしょうか。

仲間として迎え入れられていない生徒がいたら、
無条件で、手当てをする必要があります。

また、障害や国籍等
本人が努力しても修正できない事情が原因で
差別される等、仲間として受け入れられない状況は、
重大事態です。
すべてをストップしても、先ず解決する必要があります。

仲間に入れろという結論の押し付けでは
何も解決しないことは言わなくてもよいと思います。

やろうとしても、できないことで責められることも
それに次ぐ絶望を与える事情ということになります。
人はいろいろな個性や能力の違いを前提として
仲間を作ってきたわけです。

いつしか、現代日本では、
そんなことさえもわからなくなったということを
自覚するべきです。


被害者の精神的健康だけでなく、
加害者の精神的健康も蝕んでいくことになります。

人権問題というのは、
人間が人間らしく生きていくための
不可欠なツールだということが対人関係学の結論です。
道徳でも、総合学習でもよいのですが、
ここが抑えられないのであれば、
人格の向上はあり得ないと思っています。

学校という集団教育は害にしかなりません。

そして、どうしても仲間の中に迎え入れられることができないケースの場合、
居場所を作るということも考えてほしいのです。

そこへ行けば、
無条件で自分が尊重されるという場所、
やりたいことをやれる場所、
一人でいることが苦痛ではない場所、
誰かと話したくなったら、
話を聞いてくれる人がいる場所

そんなに難しいことではないと思いますが、
議論が散漫になることは避けようと思いますので、
今日はこれで終わりにします。





青森市のいじめ防止審議会の報道発表がどうして不可解なのか、疑問を2点提示する。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成28年8月に、青森の中学校で
中学2年生の女性が自死をした事件で、

「5月末で任期を終える市いじめ防止対策審議会は28日、同市内で臨時会を開いた。終了後の会見で、審議会会長の櫛引素夫・青森大学教授は、報告書原案で「1年夏から2年の初夏にかけて4件のいじめを認定している」と明らかにしたが、いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかったと説明した。」
との報道がありました。

http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170529025524.asp

2点ほど意見があります。

第1は、いじめ防止対策審議会は、何を目的に調査をしてきたのかという点です。

この委員会の正確な設置要綱はわからないのですが、
おそらく、将来、いじめを無くし、
自死者を出さないための調査をして、
調査結果を報告するのが目的だったはずです。

そうだとすれば、この最終結論は極めて不可解です。

「いじめ以外の要因がなかった-と断言できる状況を裏付ける証言は得られなかった」
ということはどうして述べる必要があったのでしょうか。
私は、権限外の発言ではないかとすら感じています。

ニュースでは、いじめが自死の引き金だったと
断定することができなかったなどということも言っていたようです。
これも権限外の発言だと思います。

この審議会は、
当該事例の調査を行い
自死の危険性のある行為を提示し
何を繰り返してはいけないのか
ということを提案する組織のはずなのです。

このところを理解されていないのではないか
という疑問が出てきてます。

これが例えば、裁判の損害賠償請求の場合ですと、
いじめなどの行為と自死という結果が
一般人から見て行為と結果という関係にあることが
相当であると認められることが必要となります。

これは、その因果関係が認められてしまうと
加害者が損害賠償を支払わなければならなくなるからです。
ある程度、厳密に検討する必要が出てきます。

これに対していじめ防止の場合は、
「本来は」
もっと緩やかに自死といじめの関係を判断してよいはずです。
もっとも、あれもこれもだめだとして、
生徒たちの自由を過度に制限するようなことにならないことは必要だと思いますが、
この点はそれほど重視しなくてよいはずです。

ところが、この様な理念的な判断ができない事情が
確かにあるようです。

一つは、このようないじめ防止の審議会の
目的に関心のない人が審議委員になることです。

また、一つは、
将来の損害賠償の裁判に
審議会の調査結果が使われるのではないか
という心配をすることがあげられます。

これは、当事者にもそういう心配があり、
調査に応じたら、
自分が損害賠償を請求されるのではないだろうか、
他人の裁判に巻き込まれて煩わしいことになるのではないだろうか
等という心配があるようです。
特に加害者とされた子どもたちやその親は
調査に協力しない傾向があるようです。

私は、いじめ防止審議会の調査結果報告は、
できるだけ関係者に公表するべきであり、
そうでないといじめ防止の有効打にならないと思っています。
そうすると、個人名などは非公表として、
危険のある行為類型だけを指摘する方法が
求められるのだと思います。

良い、悪いということすら不要で、
「これからこういうことは危険だからやらないように」
というトーンにしかならないことだと
考えています。

先ずは、亡くなった子どものためにも、
損害賠償よりも、
同じ悲しみを繰り返さない
ということで徹底しなければならないと思っています。

そのためには、危険類型の解明の
積み重ねがどうしても必要だと思うからです。

学校には、
関与の範囲で
必要に応じて謝罪などがなされることが
加害者とされる子どもたちの健全な成長のためにも
必要であることを理解して指導していただきたいと思います。

実際、中学生の遺族で、
最初から、加害者を裁判所に突き出したいとか
損害賠償を請求するとか
希望している人をあまり見たことがありません。

その後の調査が曖昧だったり、
事実が隠されたり
不必要な報告がなされたりすることで、
ことさら自死した子どもに責任を帰属させるから
遺族が怒るということを目の当たりにしているところです。

発想が実態と逆なのです。

だから、自分の任務でもないのに、
いじめ以外にも原因があるかもしれないとか
いじめが自死の引き金になったと断定できないとか
余計なことにこだわるわけです。

思春期うつなどという奇想天外な理由を
どのような根拠で言っているかわかりませんが、
そういうことを言い出すわけです。

詳細はわかりませんが、
りまさんの晴れやかな写真が、
「そんな思春期うつなどではない」
と雄弁に物語っているような気さえします。

青森県では過去において
女子高生の自死が
摂食障害を原因としたものである可能性があると
奇想天外な説明をしたこともありました。

もし、審議委員の任務がいじめや自死予防ではない
というなら謝罪しますが、
いじめや自死予防のための審議会ならば、
この期に及んで、他に原因が無いとは言えないから原因が特定できないとか
引き金になっていると断定できないとか言っている段階で、
委員として適格性を考えなければならなかったのではないか
と思わせるエピソードでした。

この報道に接して
もう一つ意見があります。

いじめを4件認定したと言っています。

この審議会が認定できたということは
民事訴訟にも耐えうる証明があったということなのでしょうが、
そうだとすると、当人の精神的な苦痛を
もっと考えることができたはずです。

これができない理由もある程度考えることができます。
過労死の認定でもよくあることなのですが、
一つ一つのエピソードを個別的に評価して、
一つ一つは、良くある話であり、重い話ではない
重い話が4つあっても、全体として重くならない
という論法です。
これは、はじめから因果関係を否定するための論法なのです。

それぞれ一つ一つが重くなくても
それを生身の一人の人間が受けていたら
大変重いことになるのです。

単純に言えば、
100mを20秒で走りなさい。
50mを2分で泳ぎなさい
それほど難しいことではないのですね。
しかし、
50mを泳いで、そのままプールの入り口から
100mを走りなさい。
全体で3分でやりなさい
ということです。

できる人もいるでしょうが、
大変なことだということは誰でもわかることでしょう。

いじめの場合はもっとわかりやすいかもしれません。
ヒントは、4つのいじめエピソードは
分断していないということです。

いじめの内容は報告されていませんが、
(いったい何のための報告だったのかここにも疑問があります。予防に必要の範囲で公開しなければ意味がないのではないかと思います。)

例えば、4月にクラスで取り囲まれて悪口を言われた
5月にラインで、理由のない謝罪をみんなから求められた、
7月に一人だけクラスの行事に呼ばれなかった、
9月に、靴を隠された
ということが仮にあったとしましょう。

そうだとすると、苦痛を感じるのは、
それぞれ悪口を言われたときだけとか、
ラインに書き込まれたときだけとか
呼ばれなかったことだけとか
そういうわけではないのです。

心は分断して出来事を感じることはありません。

積み重なっていくということもあるでしょうし、
孤立感を絶望感に高めるということもあるでしょう。
大事なことは、その間一貫して
自分が仲間として認められていないという
気持ちを感じ続けるということなのです。

「また、ああいうことがあったらどうしよう。」
ということを、おそらく毎日感じ続けていたでしょう。

4つのいじめがあったとしたならば
いじめが解消された心温まるエピソードでもなければ、
その期間ずうっといたたまれない気持ちで毎日を過ごしていた
ということなのです。

そうなってくると、
個別の出来事がいじめに該当しないと思っても
本人を苦しめることが出てきてしまいます。
本人が追い込まれて悪く受け止めるようにもなります。

調査の審議会があるのであれば、
せめて、
本人が何を嫌がっていたと思われるのか
何をやめてほしいと思っていたのか、
その可能性を調査して報告するべきではないでしょうか。

いじめかどうかもどうでも良いことになるはずです。
未だにいじめと認定できるのかどうかが
マスコミの関心ごとのようで、
審議会の目を曇らす一因になっているようです。

どうやったら自死を無くすかということですが、
死ななければ良いってものではないのです。

いじめを一度受けると
何でもない些細なことでも
「あの時と同じことが起きるのではないだろうか」
という怯えが出てきてしまい、
その後の人間関係にも、重大な影響が出てしまいます。

いじめを無くすためには、
死の引き金だけを無くすのではなく、
外に自死の原因が無い場合のいじめを無くすだけでなく、
人を困らせる、いたたまれなくする行為を
全部なくすことを考えなければならないと思います。

そのためには、審議会の認定を緩やかにするとともに
そういうものだから、
審議会の調査結果が裁判の証拠にはならない
性質上、証拠として使えるものではない
ということも徹底するべきです。

何よりも、今後
同じようないじめをさせないために
何が、どのように危険な行為なのか
みんなに教えてあげるという
指導に活かす調査結果にならなければならないはずです。

それは当該学校だけでなく、
社会一般に認知されて、
他人の心に配慮するという風潮を作る必要もあるはずです。

せっかくのいじめ調査という貴重な機会が
無駄にされることだけはどうしても納得できません。


どこかで、オープンな議論がなされることを
求めてやみません。

わが子に会えない親の会 第5回報告 [家事]


今年の1月から毎月1回ずつやっているので、
5月ですから第5回を数えました。

今回は私を含めて9名の参加です。
初めて参加される方もいらっしゃいましたし、
久しぶりの参加の方もいらっしゃいました。
どちらもみんなが大歓迎されました。
こういうユルいところがこの会の持ち味ですね。

10年近く前に離婚された方、数年前だという方、
今離婚調停中だという方
事情は様々なのですが、
子どもに会えていない親という共通項があります。
今のところ、男性ばっかりです。

世間の面会交流の事情を報告しあったり、
2週に一度の面会交流を頑張っていたら、
裁判官も、
「最近は、そういう傾向にありますよ。」
と相手を説得してくれたという情報だとか、

どこどこの家で、
子どもが勝手に戻ってきちゃった
という情報が入れられたりと
勉強にもなりますし、
希望にもつながります。

とにかく、他の団体さんからすると
何もしていないのではないかと言われそうなところが、
われわれのウリということになると思います。

それというのも、
ただでさえ、わけがわからないうちに苦しい立場に
突き落とされているのだから、
仲間内だけは、仲良くやろうということで
集まっているからです。

この立場の人たちは
孤立しています。
会社などの日常生活は送っているのですが、
一番語りたい気持ちを
語れる場所がないのです。

語っても理解されないことが多いようです。

最近では、
子どもと別居している親は
その親に主たる原因があるという
心無い非科学的な知ったかぶりの論調があり、
さらに傷つけられているところです。

この場所は、
一番語りたいことを語ることが歓迎されており、
全員がその気持ちを理解してくれるという場所です。
話すことによって、
気持ちや行動を整理する人も少なくありません。

また、語りたくなければ語らなくてもよい。
酒を飲みたくなければご飯を食べればよい。
何かをしなくてはならないということがない
そういう会でなければならないという意味では、
メンバーに価値観を押し付けてはだめだ
という決まりごとはあるのかもしれません。

音楽鑑賞が趣味という人もいれば、
人の歌は聞きたくない自分が歌う
という人もいるでしょう。

一緒に歌って方が楽しいよ
と言ってみるのは子どものうちです。
大人になってしまうと、
自分のやり方がある程度できちゃっているのだから、
それを尊重することがエレガントではないでしょうか。

生きているのに子どもと会えない
そういう方々の居場所なのです。
いづらい気持ちが出てきてしまうことが
一番の問題なのだと思います。

第5回は、関東からも2名ご参加いただきました。

次回は6月23日金曜日6時半です。
仙台駅前の某所で行われます。
お問い合わせは土井法律事務所まで
022-212-3773

自閉症の優位性から見た現代の日本社会、企業が停滞している原因 「自閉症の世界」ブルーバックス感想文5 [事務所生活]

自閉症ばかりをとりあげていると、
どうやら本当にキリがなくなりそうなので、
中間まとめをして、離れることとします。

<自閉症の優位性1 理解できないことは行動原理にならない。>

例えば、いわゆる普通の人は、
「空気を読む」ということをして、
大勢の意見に従って行動をすることができます。
自分はよく理解できていないのに、
みんながこうだからと言って「右ならえ」ができるのです。

自閉症の人も「空気を読む」ことはできるようなのですが、
それに従うことができないということが多いようです。
分からなくても「とりあえず協調」することができない
協調を拒否する閾値が低いともいえるでしょうし、
協調の閾値が高いともいえるでしょう。

こういう人がふさわしい職業としては、
法律家、特に裁判官ということになるようです。
事件の本質を見て、納得のゆく判断をする
決して事件とは関係のない
上司の考えとか、出世とか
内閣の意向とかを関係なく判断をするのは、
空気を読まない人がふさわしいと思います。

物理、化学、数学などの研究も
見返りを求めるとどうしても、真理から遠ざかるので、
自閉症の傾向のある人がうってつけということになります。

実は、江戸時代までに日本でも和算という学問があり、
例えば三角形や四角形の中に納まる複数の円の直径の算出を
漢数字で計算して、
問題が解けたということで、
絵馬に書いて神社に奉納していたそうです。
世間の評価や物質的な見返りのためにしていたのではなく、
真理の探求だけが目的だったということになります。
まさに神にわかってもらえばそれで十分
という神との対話に喜びを得ていたのかもしれません。

和算は、中には棚田(たなだ)の設計が三角関数の理解を前提としていたといわれるように、
実務に応用していた節もあるようです。

電化製品や自動車など、
人が思いつかない発明をするのも、
見返りを求める体制で行っているのであれば、
単なる偶然を待っていることと同じだと思います。

今の日本が、江戸時代と比べても
そういった独創性に乏しく、経済が苦戦しているのも、
無駄に上司に協調することを求め過ぎた結果ではないか
というのは言い過ぎなのでしょうか。

そして、昔は、いわゆる普通の人が理解できない人も
「変わり者」という社会の中にポジションがあった
という側面もあるように思うのですが、どうでしょう。

考えてみれば、江戸時代の職人
徒弟制度というのは、
まさに自閉症者が、
一人の人格主体として尊重されるためには
極めて有効な制度だったのかもしれません。

いずれにしても現代日本は、
それまでの歴史の中で重用されていた自閉症傾向のある人を
社会や企業が受け入れなくなった、
重要視しなくなったのではないか
それが衰退の原因であり、
これを是正しなければ、復活はあり得ないのではないか
とにらんでいるところです。

そういう意味ではこのブログも自閉症的だと
胸を張って言いたいところです。


<自閉症の優位性2 見過ごさない>

これは自閉症の人がみんなそうだというのは少し酷でして
処理能力が突出して長けた人ということになります。

自閉症の人は、感じたままに音、映像を認識します。
これまでも言ってきましたので、
ざっくりと言いますと。

いわゆる普通の人たちは、
音にしても意識しないで、要、不要を区別し、
不要な音を意識の外に追いやってしまうのです。
自閉症の人は、
すべてが聞こえてしまうので、
肝心の話し相手の声が相対的に聞こえにくくなる
ということらしいのです。

映像も、スーパーなんかも色の洪水になってしまって、
すべてを意識せざるを得なくなっているようです。

ここで、「感覚」についての補足ですが、
なぜ感覚があるかというと、主として
危険を察知して、危険を回避するためにあるわけです。

いわゆる普通の人が、神経を集中するべきか否かを
無意識に判断しているのは、
その他の音は、危険が無い(対応する必要が無い)と
無意識に判断していることになります。
でもそれが本当に正しいのか、対応する必要が無いのか
については、実際はよくわかりません。
むしろ、相手との話に夢中であったばかりに
危険に気が付かなかったということを
思い当たる人もいらっしゃると思います。

あまりにも多くの音が聞こえてしまうので、
すべてに意識を向けなければならないので、
かなり疲れてしまうことなのですが、
中には超人的な人がいて、
すべての音を聞き分ける人もいるとすれば
例えば聖徳太子ということでしょうね。

聖徳太子のエピソードから逆に考えてみれば、
一度にたくさんの音が聞こえてしまうということは、
複数の人から同時に話しかけられて、
回答をしなければならない状態というと
わかりやすいかもしれません。

聖徳太子なら良いでしょうが。

もう一段階脱線すると、
これらの音がすべて聞こえても、
それをありのままに受け止めて、
いちいち反応をしない、
危険対応という感覚の機能を
意識的に放棄するということが
「禅」ということになるかもしれません。
体を「無意識」=人体という生理的メカニズムに解放してあげるということかもしれません。

もちろん、もしかしたらということですが。


意識の外におかないということで
ふさわしい職業が、点検ということになります。
精密機械の最終点検ということもあるのですが、
会計もそのひとつかもしれません。


もし、同時多発的な感覚があっても、
それを処理することができれば、
侵襲に気が付きやすいということにもなるのかも
しれません。


自閉症の優位性の小まとめ

価値観の問題ですが、
自閉症傾向のある人だけだと、
組織ががたがたといびつな動き方をするのかもしれません。
簡単に言うと生産性というかスピード感が阻害される
というデメリットがあるでしょう。

ただ、生産性やスピード感だけが正しいこととして
重視され過ぎてはいないでしょうか。

わかりやすく(と思うのですが)たとえ話をすると、
東京から盛岡まで移動する。」という場合、
早く盛岡に到達することに価値を置くなら新幹線に乗っていく
ということが正しいわけです。

しかし、
桜の開花状況を確認しながら行くとか
地酒の違いを鑑賞する
方言の違いを聴き比べてみる
というのであれば、
各駅停車で行くとか、路線バスの旅が正しいわけです。

どこかの企業や社会の現段階が
「既定路線を維持するだけで、
これから数十年間安泰が約束されている」
というのならば新幹線で行けばよいですが、
そんな企業なんて一つもないと思います。

新幹線と各駅停車を併用する
ということが、
今の世の中求められているはずなのです。

極めて精緻な仕事をしたり、
独創的なアイデアを出したりするためには、
自閉症傾向のある人を採用したり、
敢えて自閉症傾向のスタイルにする必要があり、
そのためのデメリットに目をつぶるということが
どうしても必要だと思います。

メリットデメリットを
いかに要領よく組み合わせるかということが肝要です。

適材適所ということですね。

現代は、
歩留まりを極力減らす、経費を減らす
という内向きの戦略が流行しているようです。

上に立つ人が、自分の地位に自信がなく、
汲々(きゅうきゅう)としている場合、
自分の理解の範囲内で組織が動くことを求めてしまうようです。
その結果、組織全体が平板化して、
悪く言えば、クローンばかりになってしまう。
個性をなくすことをしているくせに
今の若い者は個性がないなんて笑えないことを
言っている人もいるかもしれません。

何よりも、クローンの一番のデメリットは
一つだめになれば、
あっという間に全体がだめになってしまう
という恐ろしいことになることです。

もしかしたら、保険の掛け金を惜しんでかけないで
後は野となれ山となれという状態なのかもしれません。



なぜあの人は、人の話をろくに聞かないくせに、都合の悪いことを言うとこちらが怒鳴ったと抗議するのか。もしかしたら感覚過敏かもしれない。「自閉症の世界」感想文4 with NHKスペシャル「発達障害」 [家事]


私が「自閉症の世界」を読んでいる時、
都合良くNHKスペシャルで、
「発達障害 ~解明される未知の世界~」
という番組を放送していました。

あの竜頭蛇尾に終わった産後クライシスの時の
二人の司会ということでちょっと心配したのですが、
(なぜそんなことを言うかについては
 「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

とても興味深く、見ごたえのある番組でした。

ただ、自閉症については
やや感覚過敏に偏っているかなと思いつつ、
その分十分なプレゼンがなされていてよかったかもしれません。

ここで聴覚過敏ということについて
大変興味深い映像と音声の説明がありました。

自閉症の人の音声の感じ方ということなのですが、
これは番組を観ていただくしかないのですが、
(なんとかというNHKの見逃しチャンネルとか。
 この週は翌日のクローズアップ現代も、
 引きこもりの自立ビジネスの弊害を取り上げており
 お金を払う価値があるかもしれません。)

いわゆる普通の人は、
自分に必要な音と不要な音を無意識に区別して、
不要な音を聞かないというか、
意識の外に放り投げることをしているというか、
音がしないものとして扱っている
ということらしいのです。

この前書いた大雑把に受け止めるという力技を使えるのです。

ところが自閉症の人は、このように大雑把になれず
聞こえる音のすべてを聞いてしまう
ということらしいのです。

だからスーパーマーケット買い物をすると
パチンコ屋のじゃらじゃらした音の洪水の中にいるような
いたたまれなさを感じているみたいです。
(パチンコをしている人は、あまり気にならない)

だから、話し相手の声だけに集中することができない理由があるそうです。
例えば喫茶店で1対1で話していても、
その人の声とほかの人の声や車の音やエアコンの音、調理の音、サーブの時の音
等が平等に聞こえてくるために、
その人の声がよく聞き取れないということになるようです。

ただ、私は、結局、人によって、音の聞こえ方が違うのだ
と理解するべきだと感じました。

ある特定の音が苦手だということも
人によって違うようです。
例えば、私は人がかけている掃除機の音が苦手です。
できるなら別室に行くか外に出たくなります。
でも、自分で掃除機をかける時は、
それほど嫌な感じはしません。

もしかしたら、人によって、
台所の水仕事の音が嫌だったり、
ガスコンロの音が怖かったりするのではないかと
番組を観ながら思うようになりました。

あるいは食器のぶつかる音とか扇風機の音が
どうしても気になってしまい、
こちらの話す声が聞こえないということもありそうです。

こちらの感覚からすると
「こちらの声が相手に聞こえないはずがない」
と思うわけですが、
案外、相手にとっては
意味を持った言葉としては聞こえていない
ということがありそうです。

それから、夫婦問題で、妻側から
「夫がよく私のことを怒鳴る」という訴えが出されます。
普段の限定された私と夫との付き合いからは
直ぐに信じられないほど、穏やかな話し方をする人もいます。
(但し、地声の大きい人も確かにいます。)

一つには、実際に妻の前だけ人格が変わる人もいるかもしれませんが、
もしかしたら、妻の方が、夫の声に過敏に反応している
という可能性がありそうなのです。

特に、時々自分の問いかけに応えないので、
「ことによると耳が遠いのではないか」と誤解していたりすると、
大事な時には、しっかりはっきり発声してしまい、
ついつい、大きな声を出しているのかもしれません。
それから、夫側が真剣な表情をして声を出しているわけですから、
ついつい怒鳴り顔になっていることも考えられます。

そうすると大きな声は出しているし
真面目顔で口を大きく開けていることから
にくにくしげにこちらに向かって
叫んでいるように受け止める可能性はあるでしょうね。

もちろん、そうなってしまうと、
恐怖感情などが出てきますから、
言葉の意味を正確に認識することも
難しくなることでしょう。
脳が勝手に「話を聞くより逃げろ」
と指令を出している可能性があります。

妻が、顔をしかめて
「夫から、がーって怒鳴られた」
と「感じていること」は、案外真実なのかもしれません。

ここで、
「自分が怒鳴っていないから、
 行動を修正する必要はない」
ということを主張してしまっている場合があります。
ついついそう考えてしまうというか。

ここで、
「ああ、ちょっとかわいそうなことをしたな。」
という意識があれば、
100%うまくいくわけではないけれど、

50%くらい意識的に穏やかに話すことに勤めることで、

妻側も
「ああ、怒って言っているわけではないのかもしれない」
と気が付くきっかけになればハッピーになる可能性が
あるのかもしれません。

「怒鳴っていない」と怒鳴るよりも(これはどうしても怒鳴る)
「怒鳴っているように聞こえるんだぁ」
と驚いて見せることが有効かもしれません。

自閉症の世界を
自閉症の人たちだけの世界ではなく、
いわゆる普通の人たちも
少しずつ共有していると考えれば、

もっとエレガントな世の中にするための
豊富なヒントがあるように思えてきました。

メッセージを送る