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【警鐘】DVで避難をしてきた女性に子どもがいる場合は、早急に子どもの主治医に確認をする必要がある事 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

子どもの命や健康を無視した行政行為が
あまりにも乱発しているので
警鐘を鳴らしたいと思いました。

ある時、夫が帰宅したら妻も子どもも
家からいなくなっているということがここ数年
さらに増加しています。

夫は、心配なので、警察に相談し捜索願を出そうとします。
ところが、警察が取り合ってくれないということが全国各地で起きています。
なんていうことでしょう。

おかしいじゃないかということで
警察になおも問い合わせると、
警察からは意外な答えが返ってきます。
「奥さんとお子さんは安全な場所にいるから
 捜索願は受理できません。」

夫は疑問に思います。
なぜ、警察は、妻と子が家を出たことを知っているのだろう。
なぜ、警察は、妻と子の居場所を知っているのだろう。

答えはこうです。
先ず、妻は、役所か警察署に相談をしています。
夫が自分のことをあれこれ口やかましく指図して
思い通りにならないと暴言を吐くし、
自分は叩かれたこともある。

妻は10年近くの間に一度か二度あった暴力
暴力と言っても怒って叩いたというよりも
興奮状態にある妻を取り押さえようとしたことを
つい最近起きたように語ります。
話は断片的である上に
つじつまが合わないこともあるようです。

それでも相談を受けた人は、
「あなたは精神的に虐待を受けている」
と迷うことなく宣言します。

なぜでしょうか。
なぜ、見てもいないことを一方の話だけで
確定してしまうのでしょう。

答えは簡単です。
マニュアルでそうしろとされているからです。
でもあまりにもおかしいではないかと普通なら思うでしょうが、
マニュアルに逆らうと出世できなくなります。
具体的には勤務評価が「C」とか「D」とかをつけられるということです。
勤務部署によっては、激しく糾弾されます。

妻子を抱えて、安定した身分にいるのに
見ず知らずの人のために惨めな思いをしたくない
おそらくそういう風に思う人が大半なのでしょう。

それでも、ぽつぽつ、おかしさに気が付き始めた部署も
最近出てきています。

ではどうやってその人たちは心の折り合いをつけているのでしょう。
そのために必要なことはDV研修です。

虐待された妻の話が断片的だったり
つじつまが合わなかったりするのは、
虐待されたために精神的に不安定になっているからだ
妻の言葉のおかしさを重視するということは
虐待された人に寄り添っていない
こういう呪文を暗記しますので、
目の前にいる説得力があってお話しする人がいても
気にしないようにできるようです。

目の前の説得力のある夫の話に対しては
どのように対応するのでしょうか。
「DVする側はみんなそういうのですよ。」
DVする側は外面が良く、話も落ち着いている
絶対話を聞いてはならない。
そういうマニュアルなのです。

そして妻に言い放ちます。
「DVは治りませんから、直ちに逃げなさい」
そうして、
「子どもを連れて家を出てDVシェルターに入りなさい」
と宣言します。
このまま家にいると身の安全が保障されないとか
2,3時間かけて説得していた事例があります。
説得したほうの公文書にしっかり残っていました。

妻がもう一度話し合いたいと言ったけれど
粘り強く説得したと得意気に報告していました。

そうして、夫が相談しようとしても
「あなたと話すことはない」
ということでシャットアウトされるわけです。
もちろんこれもマニュアルです。

さて、この場合、子どもがいる場合に大きな問題があります。
妻が、PTSDの症状の様に精神的不安定になり、
夫に対する攻撃的な言動をする場合の
少なくない割合に
子どもが障害を持っているというケースがあります。

通常であれば聞き流したり
愚痴を言って終わるような夫の言動が、
子どもの障害を責められているように聞こえる場合は、
それこそ、不安が蓄積していくような
精神不安の症状を示すことがあります。

甲状腺機能障害や婦人科系の疾患がある場合、
あるいは精神疾患を抱えている場合
その不安は収拾のつかない焦燥感を伴うことが
しばしばみられます。

そして、その障害が外からはっきりわかる場合はよいのです。
何らかの対応をしましょうということになるからです。

ところが、障害が外からわかりづらい場合、
妻は、子どもの障害を否定する場合があります。

子どもの障害について認めたくないということについては
男女差はあまりないようです。
むしろ、母親の方が治療に積極的な場合も
少なくありません。

しかし、精神的不安が昂じている場合、
子どもの障害を無かったことにしたい言動をしたケースが
実務的には見られました。
そしてそれが私の周りで増えているのです。

だから、特定のケースのことを念頭に行っているのでは
ありません。残念ながら。
特定の都道府県だけの問題ではなく、
複数の自治体の住民からの相談が寄せられています。

もう、母親(妻)の方は、長年の心労から
冷静な思考ができない状態になっている場合があり、
必要な検査等も受けさせない
病気はないんだと確信しているかのようなふるまいをします。

中には、近々手術をすることになり、
日程調整に入ろうとしたときに、
子どもを連れて逃げ出したケースもあります。

いずれのケースでも役所はマニュアル通りの対応をします。
夫が、病院の検査を受けなければならない、
手術をしなければならないと言っても、

「ははあ、これは、夫が子どもを取り返すための手段だなと
 病院に待ち伏せをしているに違いない。」
とでも思うのでしょう。
役人が夫に放つ言葉は決まっています。
「あなたと話すことは何もない。」
夫はますます焦るわけですが、
それもマニュアルに書いてある通りだなと思って終わるのでしょう。

書いていてむかむかしてきましたが
マニュアル通りに決まっています。
人間ですから、感情があるわけですから
理不尽なことをされたら怒りますし、
子どものことが心配だから焦るわけです。

役人は聞き流して、確認もせずに済ませるでしょう。
一応聞いてみて報告するからというような
親身な対応はとられないことが多いようです。

私は大変疑問なのです。

なぜ、その子どもの健康に重大な影響があるかもしれないことを
無視できるのかということです。
「母親はそんなことは言っていない」という回答は、
すべての責任を母親に負わせることです。
腰が引けた寄り添いというものは
えてしてそういうものです。

子どもが適切な治療を受けないで
取り返しのつかないことになったら
母親が言わなかったからということを言うのでしょう。

母親として否定したいという心情を理解しようとはしません。
マニュアルに書いていないからです。

事が子どもの健康に関することになれば、
きちんと裏をとる必要があると思います。
夫から、
診断名、症状
主治医と病院を聞いて、
父親と母親から子どもの健康についての
情報開示の同意書をとったうえで、
病院に確認すれば足りることです。

夫から診断書が提出されれば、
母親の同意が無くても
病院に治療の緊急性と
疾患の重大性について問い合わせるべきです。

私は、自分の事件を担当する場合でも
お金を出してくださる依頼者に対して、
貴方と子どものどちらの利益を選択しなければならない場合は
子どもの利益を優先した提案をしますと言っています。

なぜか
自分で自分のことを対処できない子どもは
大人が守らなければならないと思うからです。

しかし、役所では、
精神的DVを訴える妻を守る(隔離する)マニュアルはあっても
子どもを守るためのマニュアルはないようです。

今、適切な治療を受けられないで
役所やその関連施設に放置されている子どもたちを
何人か知っています。

訴訟をしたり、役所に抗議したりしていますが
遠方の事例はなかなか対処できないことがあります。
父親が悲観して自殺を考えてしまう事案もあります。

目を覚ましてほしいと思います。
子どもを助けてほしいと切に願います。




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【緊急】現在政府が進めている生活保護水準の切り下げに反対する。取り返しのつかないことが起きる。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

1 生活保護受給がなぜ権利なのか 憲法は人間をどのように見ているか

生活保護制度は、生活が困窮した場合に、生活費や教育費、介護費や医療費などの費用を公費で負担する制度です。
日本の国は、自立自助が原則です。つまり、労働によって収入を得て、自分や家族の生活費を自分で得て支出するということです。しかし、何らかの事情で、働けない等の生活費を得ることができなくなる場合はあります。
これを憲法25条1項は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定めて、権利であると宣言しています。これは、憲法の人間観を表していて興味深いものがあります。
先ず、「健康で」という言葉に着目してください。人間は、ただ、生存するだけでなく、人間としてのほこりをもって生存するものだとの考えが示されています。不衛生、不健康な環境の中で生活する人がいれば、国は救い出さなければならないという責任を負わせたわけです。もっとも、不衛生、不健康な環境にいた場合は、生命それ自体も脅かされるということもあるでしょう。
さらに、「文化的な」生活を送るのが人間だと考えていることが示されています。文化的というのは、その時代、その時代に応じたという意味もあります。文化というのは歴史的に進化するからです。鎌倉時代であれば、竪穴式住居のような家に住んでいても、文化的でありましたでしょうが、現在は、現在にふさわしい生活の程度が、「人間として生きる」という意味になるということです。
憲法は、13条で、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」として、人間は、尊重されて生きていくものだという考えを明確にしています。この「尊重」の具体的内容が、14条以下の人権のカタログだと考えることができるでしょう。憲法25条も人間として尊重されるという具体化です。
そうすると、憲法は、衛生的で健康的な環境で生活し、その時代の人としてふさわしい生活様式を送らなければならないという考えを示しているわけです。
その25条のさらなる具体化が生活保護法です。

2 なぜ、権利が必要なのか 尊重されないとどうなるか

 憲法は、人間として尊重されるためのカタログだということですが、どうして権利が保障されることが必要なのでしょうか。それは、きれいごとでは済まない切実な必要性があるからだと思います。
 人間は、攻撃力も逃げる力もない動物なので、群れを作って生き延びてきました。言葉の無い時代にも群れを作る仕組みがあったわけです。それは、群れの中にとどまりたいという意識であり、裏側から見た場合、群れから外されそうになると不安・危機意識を感じ、なんとか群れにとどまろうと行動をするという仕組みです。
 人間として尊重されない場合、仲間として扱われていない場合、群れから外されそうになっていると感じ、人間は言葉ができる前から続く不安・危機意識の感情が激しくなります。この不安や危機意識の感じ方は、生命身体に対する不安や危機意識を感じる方法で感じることは知られてきたところです。同じように血圧が上がり、脈拍が上がり、体温が上がり、血液が内臓から筋肉に向かうようになるという生理的変化、二者択一や悲観的な考えになるという脳の活動の変化が起きてしまいます。また、程度も強いようです。言葉の無い時代、この不安感、危機意識によって人間が生き延びてきたわけですから、かなり強い不安感、危機意識を感じることになります。
 権利は、人間を尊重する方法だとお話ししました。この権利が侵された状態ということになると、権利侵害をされた方は、人間として尊重されていない、社会の仲間と認められないという意識になるでしょう。強い不安、危機感を覚えてしまうことになります。自分が仲間として認められない、100年前の水準で生活していることを知られたくないし、屈辱に感じるでしょう。屈辱に感じるということこそが、自分が人間として認められていないと感じる一つの表現なのではないでしょうか。
 このような状態が続くと、そして、自分が人間として尊重される日がこないのではないかという絶望を感じると、人間は絶望を感じることを回避するシステムが作動してしまいます。一つは、感情を無くし、生きる意欲を失い、人間の中に入れなくなることや、生きるための活動である食事をしたり睡眠をとったりという活動が鈍くなります。もう一つは、感情を無くし廃人になることに失敗した人たちは、このまま死ぬまで辛い状況が続くのか死ぬかという極端な二者択一的思考に支配され、自死を考え、実行することが起きてきます。
 生活保護受給者の自殺率は、全国民の2倍になっています。自殺率とは、人口10万人当たりの自殺者数です。平成20年から22年までの生活保護受給者の自殺者数と自殺率は公表されています。
「生活保護受給者の自殺者数について 生活保護受給者の自殺者数について」厚生労働省社会・援護局保護課 http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001ifbg-att/2r9852000001ifhr.pdf

これによると、全国民と生活保護受給者の自殺率の割合は以下のとおりです。
平成20年 25.3 54.8
平成21年 25.8 62.4
平成22年 24.9 55.7
どの年も、全国民の割合の倍以上の割合で生活保護受給者が自死しています。
 生活保護の水準が下がることで、衛生状態や食事の関係、寒暖への対応という生物的な意味からも命が失われる危険は増えるかもしれません。しかし、その生活保護の水準を下げるということは生活水準が下がるわけですから、仲間として認められていないという気持ちや人間として尊重されていないという気持ちがもっと低下する危険が生じます。また、これまで維持してきたコミュニティーに参加できなくなっていく危険もあります。
 生活保護水準の切り下げは、生活保護受給者の自死の危険を増加させることになります。そればかりではなく、感情を喪失したり、生きる意欲が失われていく危険が強くあるということになります。
 これ以上の生活保護の水準の切り下げは、日本という国家の体裁を保つためにもやめるべきです。

3 生活保護世帯以外にとっての生活保護の恩恵

 世界的な格言として、「社会政策は最良の刑事政策だ」という言葉があります。社会政策とは、国民の生活を破綻させない仕組みを作るなどして、生活を安定させる政策を言います。雇用と必要な賃金を確保して、労働による収入で生活を安定させる労働政策や、賃金の中からも保険料を支払い老齢や怪我、病気という収入が途絶えることに備えた社会保険等の社会保障、それから生活保護等の公的扶助の3点がその要素となります。貧困対策だけでなく、国民の生活の向上が視野におかれていることがポイントだと思います。
 さて、このような社会政策が後退して、貧困が国中にあふれると、刑事犯罪が増えて殺伐した世の中になる。だから、社会政策を実施することが犯罪を減少させる効果的手段だということが格言の意味です。
 この格言は、社会政策が充実する前の時代の状況や、交代した時の状況から経験論的に言われているものだと思います。しかし、これには、理由があることが最近知られてきています。
 経済的困窮は、生物的困窮だけでなく、社会的困窮を意識させるものであるということは先に述べました。そのベースにある人間の状態が、不安と危機意識を感じている状態です。そうすると、自分を守ろうという意識が強くなります。何かがあると、自分が攻撃されているという意識を持ちやすくなってしまいます。不遇な環境にある人が攻撃的になることは理由があります。
 さらに、自分が人間として尊重されていないという意識は、そもそも人間が尊重されなければいけないという意識を失わしめます。そうでなければ、自分が尊重されていないことと感情的な折り合いがつかなくなるからです。人間が尊重されていないということは、人間の命に価値を見出せなくなってしまいます。そうすると、自分が他人に苦しみや悲しみを与えることに躊躇する気持ちが少なくなってしまいます。犯罪とはこういうものです。また、自分が社会から尊重されていない、社会は自分を守ってくれないという意識は、自分を守ってくれる仲間を守ろうとします。自分を守るための自然な感情です。そうなってしまうと、法律という社会を守るルールを守ろうとしなくなり、暴力団や不良仲間という仲間のルールを法律や道徳に優先するようになります。これらの根底にある者は、危機意識に根差して歪んでしまった自己防衛の意識ということになります。自分の防衛ということですから、攻撃は強く、ルールを逸脱する傾向になってゆきます。
 このような意識は、刑事犯罪だけに向かうわけではありません。離婚や自己破産などの多重債務も起こりやすくなります。
 二者択一的思考は、自分の将来の予測や他人に対する配慮という複雑な思考を停止させます。自分や家族、子どもを大切にすることを深く考えずに、今起きている障害からの解放を志向してしまい離婚に至ったり、借金やクレジットの後の返済について深く考えずにお金を使い、不意の事故等の出費のために返済ができなくなることを予測することができなくなります。自死、犯罪認知件数、離婚、自己破産申立件数等は連動しています。
 自分が経済的困窮に陥らなくても、経済的困窮に陥った人を見たり、劣悪な環境にいる人を見ることによって、人間の感情は揺れ動いてしまいます。群れを作る人間の工夫は、共鳴力、共感力というちからもあります。そもそも、仲間から外されそうになっている可動かも、仲間の感情や思考を想像しなければできないことです。また、これによって仲間を作る利益を最大限に引き延ばすということもあります。仲間が苦しんでいるけがや食中毒などは、これだけ苦しいのだから自分はその怪我や食中毒をしないようにしようとか、仲間が食料を見つけて喜んでいる時は、一緒に食料を採取しようとするモチベーションになるわけです。また、苦しんでいる仲間を放置してしまうと、仲間が死んでしまい、群れの頭数が減っていってしまい、群れが成立しなくなるので、苦しんでいる仲間の苦しみを共感し、共鳴し、助けることによって群れを維持することができたということになります。今生きている私たちは、そういう群れを作ってきた人間たちの子孫だということになります。
 だから、自分の知り合いではなくても、経済的に困窮して生活が安定しない人たちが存在するということは、群れを作るための感情である不安や危機意識が自然にわいてきてしまいます。その不安や危機意識を感じなくするためには、人間というものが尊重されなければならない存在ではないという気持ちを持つ必要が出てきます。厳密に言うと、人間は完全に自分と他人を区別して感情を持つようにはできていません。自分だけよければよいやという思考は、しばしば勘定によって支持されないことは理由があるということになります。
 刑事犯罪や自死、離婚や自己破産申請は、生活保護受給者よりも受給していない人たちによっても起こされています。
 経済的困窮者を切り捨てずに、できる限り援助するということは、人間は尊重されるべきだという意識を育てることになると私は思います。社会が悪循環を停めて好循環に向かう有力かつ効果的な方法ではないかと考えています。
 特に現在の若者は、将来のことを考えると不安になり、プレッシャーになるようです。40年以上前の小学生だった私たちは、将来は何とかなるんじゃないかとあまり深く考えることはありませんでした。ところが、現在の小学生は正社員になることが目標とさせられています。アルバイト生活になると、将来年老いてから年金などが出ないという恐怖を植え付けられている子どもも少なくないようです。意味を正確に把握していないとしても、そのために良い学校に行く、そのために勉強や部活動を頑張ることを押し付けられている子どもが少なくありません。この心理的歪み、勝利の喜びではない敗北の恐怖に基づく行為強制が、いじめや子どもの自死につながっていると私は思います。
 生活保護の水準を切り下げることで、これまで述べてきたことは拡大していくでしょう。もはや生活保護受給者だけでなく、その影響は全国民に及んでいくでしょう。
 生活保護水準の切り下げは、国の威信をかけて阻止する必要があると主張します。取り返しのつかないことになる蓋然性があると思います。

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加害者プログラムという時点で終わっている。楽しい家庭の再生プログラムこそ主流にしよう!一例として産後クライシスの本質は出産後の夫婦の変化に対応しきれないための不具合という考え方。 [家事]

夫婦の問題なのですが、
DVをした主として夫の更生プログラムとして、
加害者プログラムというセミナーや勉強会が開催されます。

かなり高額な受講料をとるみたいです。
加害者プログラムの受講証明を持ってきてから
子どもに会わせるかどうか決める
なんていうやり取りもあるのでしょう。

私としては、夫婦問題で
一方を加害者と否定評価を込めた言葉で表すこと自体
本当に役に立つプログラムなのか、懐疑的になります。

例えば、夫が妻に暴力をふるったら
暴行罪の加害者でしょうけれど、
夫婦問題について一方を加害者
他方を被害者と決めつけることはデメリットも多いと思います。

このセミナーの当然の帰結は
夫婦の一方に対してだけ
考えを改めさせて
それで夫婦の状態を良くしようとするネーミングでしょう。

もしそうなら、一方だけが
自己否定を叩きこまれて、
今後は相手に服従していく
と極端に言えば、そういうことに
なりかねないわけです。
ひどい場合は、洗脳のセミナーになってしまいます。

夫婦の状態がうまくいかない、
一方が他方を怖がり、不快に思い、憎み
一緒にいたくないという意思と行動が起これば
それを是正することが求められます。

特に子どものためには
例え親同士が離婚を選択しても、
子どもは一生自分の母と父の子として生きていきます。
離婚してまでも、子どもの前でも
相手を怖がり、不快に思い、憎んでいたのでは
子どもの健全な成長を阻害する危険があるからです。

夫婦の状態が健全ではない理由は、
一方だけの問題ではなく、
相互の関係性の中にこそ見出さなければならないと思います。
なぜならば、
夫が妻を拉致してきて結婚に至ったという事例でもない限り、
元々は望んで夫婦になったはずだからです。

行政や児童相談所等から精神的虐待だ
と認定される夫の多くに、
あれこれと妻の弱点を指摘して
ああしろ、こうしろと命令する夫がいます。

これを支配を目的とした行動だと評価すると
精神的虐待になるわけです。
この点難しいことを考えないで
妻側が不快に思っていたら
即、精神的虐待だと
認定する機関が多すぎることは
加害者プログラムと共通の要素があります。

このように世話焼き夫につきものなのは
依存志向の妻です。
結婚前は母親に依存し、反発し、
結婚後は夫に依存していたケースが少なくありません。

幸せな結婚生活も、夫が作るべきで、
自分はそれを享受するだけ。
夫が幸せを作れなければ
性格の不一致を理由に離婚という筋書きが多すぎるように思えます。

自分は主体的に人生を切り開いているのではなく、
夫が何とかしてくれるのを待つという
人生をギャラリーから鑑賞する人のようです。
そうして、夫依存をやめると
一度は反発した母親に
依存する相手を変えるだけの人生ということになります。

夫婦状態の改善のためには
共同作業ということを始めることが
必須条件だと思います。

加害者セミナーというのは
名前のとおりが良く、宣伝がしやすく、
利益が上がりやすいということがあるのでしょう。
それはなんとなくわかります。
でも、本気で楽しい家庭を作りたいなら
加害者セミナーと同時に
被害者セミナーも開催するべきだと思います。

家庭のことは、加害、被害ではなく、
これからどう作り上げるかという視点こそが
大切ですし、
自分を殺して我慢するのではなく、
もともと持っていた愛情や善意の
発言の仕方を工夫するということ、
相互に相手が安心して共同生活を送るための
気構えと工夫を考えていく
ということこそが本筋だと思います。

例えば、一つの例として、
夫婦二人ならば、子どもが生まれる前ならば
世話焼き夫に依存妻でも逆でも全く問題がありません。
本人たちがそれを望んでやっているのですから、
「その生き方は間違っている」と
第三者が目くじら立てる必要性について
私は理解できません。

問題が起きるのは子どもが生まれるからです。

子どもが生まれると、
母親はホルモンバランスの変化などがあって
女性から母親へと変貌します。

もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12 

「人格」なんていう細かいことにこだわっている場合ではないのです。
それほど、妊娠出産は一大事業です。

先ず、一つ一つ、自分で子どもに接しなければならないのですから、
依存的な行動傾向はできなくなります。
自分が最終責任者になります。
これはとてつもなく、強烈な変化を求められているわけです。

自分の頭で考えて実行したことを否定されると
たまったもんじゃないということは
創造できると思います。

そこで相も変わらず、世話焼き夫が
実情も知らず、疲労や精神的ストレスも知らず
結論だけを押し付けて来たら、
妻から見れば
精神的虐待だと感じるでしょう。
あるいは他人から精神的虐待だと言われると
ああそうかも知れないなと思う余地がある
ということになります。

夫は出産後の妻に対して
少なくとも子育てに関しては
妻の裁量を広範に認める必要が出てきます。

依存傾向から、自主的行動を持ちつつある妻を
積極的に応援、援助する必要性が出てきます。
本当は共同作業と言いたいのですが、
妻の行動を支援するということがわかりやすいと思います。

妻の裁量を尊重するということがキーワードです。

責めない、笑わない。批判しない。

最近の親御さんは、少子化のため、
一人の子供に手をかける時間が多くなっています。
何とか完璧な子育てをしようという
どだい無理なことを目指してしまいがちです。

それでも、父親があれこれ口を出すよりも
母親の行動を尊重することが
結局子どもにとって一番良いということは
取り返しがつかなくなってからわかる事柄です。

無理やりでも褒めて誘導することくらいしか
できないことでしょう。

本当はDVということではなく、
出産という妻の変化、夫婦の変化に対応できずに
不具合が生じているだけの場合もある。
だから、変化を認識し、理解し、
相手が望むことはなにかということを相互に理解し、
大変だけどやりがいのある人生を送る
そんな幸せを呼び込むことが実行的だと思うのです。

そんな程度なことを目標として、
その実現を阻む認知の歪みを但し、
具体的に修正を行うことを試しながら
検証していく
そんなプログラムこそ主流になってほしいものです。


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平成29年の面会交流事件で見えてきた傾向と対策 [家事]

平成29年の面会交流調停事件

事案は、プライバシー保護のために事実を変えています。
また、私の面倒くさがりのために記録を当たっていません。
但し、裁判所や弁護士に関しては比較的事実に基づいています。
アルファベットは氏名の頭文字ではありません。
大体は、一方が子どもを連れて、突如家を出た事案

H事案 小学校低学年 精神的虐待を主張するが裏付けが怪しい
    それまで続けられていた面会交流が途切れた時点で調停申立
    調停委員が最悪のケースで、
      冒頭子どもに会いたい理由を尋ねたので、
      仕方なく怒鳴りまくる
      相調停員も、父親が子どもを心理的に圧迫した
という妻側の話を真に受け注意するので、
また怒鳴りまくる。
    最終的に裁判官が交代となり、熱心に妻を説得し、
    妻側代理人も妻のかたくなな態度に半ば呆れて
    面会交流の取り決めをする。
    不完全ながら、月1回、10時間弱の面会
    最終的には、父側も大胆に譲歩を積み重ねていった。
    裁判官の説得が功を奏した事案。
    実際は、夫の過重労働が背景にある。
    過重労働の影響を妻が理解できなかった面はかわいそう。

T事案 小学校高学年と中学生 相手方代理人なし。
    精神的虐待を主張するも、曖昧。
    調査官が、母親の影響を受けているのが
    丸わかりの子どもの調査報告書を提出
    心理士の批判のための意見書提出
    身体的暴力が無いのに警察が介入した事案
    一定の事務連絡はできるようになるが
    審判で間接交流となったので抗告を考えたが、
    細いパイプができたことを評価して抗告断念
    相手方に代理人がついたが、
    どちらかと言えば中立的評価ができる弁護士だった。
    調査官、裁判官が面会交流に全く非協力的だった事例

    妻の母による妻の精神的支配が見られる事例

F事案 小学校高学 代理人がついて精神的虐待を主張
    しかし、矛盾だらけで反論なくなる。
    妻が子どもを連れて、ショッピングなどに誘うようになり、
    月に2回以上の面会が自然にできるようになる。
    但し、妻に何らかの精神不安定が見られる。
    相手の不可思議な行動を悪意ととらえないで
    精神的不安定が理由だと考え、
    夫の母なども支援的に妻に接するようになったことが
    有効だったと思われる。
    不可思議、理解不能な事例。
    精神に影響を与える内科疾患のあるケース。

B事案 小学校低学年 代理人がついて精神的虐待を主張
    特に子どもに対する虐待を主張
    主張をしては撤回するを繰り返す。
    結局、子どもを父親から離せと言っていたのは
    子どものかかりつけ医(内科)等であったことが判明
    精神に影響がある内科疾患を妻が有していて、
    不安を全て夫が原因だとされたようだ。
    夫から事情も聴かないでそのような働きかけをする医師を
    何とかしようと考えている。
    調査官が子どもとしっかり向き合い、信頼を得て
    子どもの本音を聞き出してくれた
    調査官と裁判官が、
    相手方と相手方代理人を強硬に説得してくれて
    第1回面会が実現した。
    調査官の説得が功を奏した事案。

O事案 未就学児 代理人がついて精神的虐待を主張
    調査官に裁判官がいい加減な調査命令を出し
    職業倫理に反していい加減な調査報告書を作成し、
    ぶち切れまくった事案
    ぶち上げた後、
    調停委員と調査官が妻を強硬に説得し、
    強引に面会交流が開始された。
    警察が最後は協力的になってくれた事案
    妻側に精神疾患がある事例、母親の支配も見られる。

Z事案 小学校低学年 代理人がついて精神的虐待を主張
    別居時に荷物の引き上げに警察が介入した事案
    弁護士が入る前から、
    メール添付の写真で子どもたちの様子は送られていた。
    子どもが父親に会いたがっていることも隠さない
    本当は離婚をしたくないのではないかと思わせられた。
    自然と面会交流が始まったという印象
    調査官調査などはなし。
    やや性格的な問題が見られる。
    実は、妻が母親に支配されていることが
    うかがわれる事情が多く出てきた。

A事案 未就学児 代理人がついて精神的虐待と一度の暴力を主張
    妻にトラウマがあり、夫が地雷を踏んでしまった
    妻が母親に支配されている傾向も見られた。
    かなりやり合ったが、妻側代理人が
    面会交流の実現に熱心になってもらい、
    自ら立ち会う、子どもを父親と遊ばせる工夫をするなど
    私の出る幕が無いくらい活躍してくれた。
    最終的には、笑顔で裁判所を後にした事例
    弁護士の役割は大きいと実感した事案。

K事案 母親が夫婦生活で精神的消耗し
    子どもをおいて家を出てしまった事例
    相手方は代理人を立てず。
    意図的とも思えるのらりくらりの調停
    調停委員、調査官は相手方を説得せず。
    相手方の意見をスピーカーの様に伝えるだけ。
    裁判所を信じたこちらが馬鹿だったと
    捨て台詞を言った事案。
    最終的には、裁判官が父親を説得し、
    調停成立。


1 実感として一番強いことは、
  裁判所が、相手方を説得すれば、
  面会交流は実現するものだということ。
  もちろん、相手方の会わせたくない事情や
  漠とした不安を解消するために
  こちら側から相手方に対する配慮を
  形にして伝える必要がある。
  安全に面会交流が行われるための工夫を
  こちらから提案することで、
  相手方も、裁判所も安心して面会交流が実施される
  という流れになる。
  裁判所が積極的に同居親に働きかけなければ
  面会交流が実現する可能性は低くなる。

2 事案としては精神的虐待を主張するが、
  矛盾や、根拠の薄弱なところが多い。
  矛盾を指摘すると対応がまずい。
  思い込みDVが多いようだ。
  但し、本当に、夫と会うのが怖い。
  短絡的に夫の精神的虐待と周囲が決めつけていることが多い。
  夫から事情を聴いたうえで、事を始めてほしい。
  子どもを親から引き離すということを
  その影響をもっとまじめに考えてほしい。
  表立って妻側が主張しなければ
  夫側が反論をすることは難しいので
  裁判所の中で暗黙の了解で
  DV夫だから会わせないということになると
  袋小路に陥る。

3 妻側の精神的不安定がめにつく。
  特定の内科疾患が相変わらず多い。

4 妻が母親から支配されているケースも多い。
  要するに夫の些細な言動を、
  夫が妻を追放する兆しだと呪いをかけ、
  妻(自分の娘)に自信を失わせて、
  自分(母親)は最後までお前を見捨てない
  早く分かれてこちらに来い
  というような感じ。
  この問題が深刻だという理由は、
  妻が自分の子に同じことを繰り返している節がある事。

  この場合、妻も母親の所有物となり
  愛する夫との別離を余儀なくされているわけで
  本当はかわいそうなのだけれど。

5 夫の側の修正ポイントは、
  妻のやってもらいたいことをやり
  やってほしくないことをやらない
  これができない場合面会交流は難しい。

  見事なまでに、
  妻が嫌がることを実行していることが多い。
  メールだったり、直接だったり
  せっかくうまくいっている面会交流も
  自分でぶち壊していることがある。

  「こんなことで嫌がる方がおかしい」っていう発想は
  自滅の発想だということを理解する必要があるようだ。

  メンツだったり、変な道徳心だったり、
  自分を守るという意識が強すぎたり

  自分から妻を遠ざけている節がある上
  調停でも繰り返してしまう。

  恋愛中にできていたことをしなくなることは
  相手にとって大きな不安材料になるようだ。

  「相手が間違っている。自分は間違っていない。」
  ということを繰り返していたら
  いくら裁判所が頑張っても面会交流は実現しない。
  正しさをとるのか、子どもに自分を会わせることをとるのか
  その岐路に立っていることを自覚しない場合は悲惨な結果になる。
  子どもにとってということ。

  相手の弱点や失敗を許すという気持ちになることが
  面会交流やその先の未来につながるということが
  私の勉強したことである。
  私はこの学びに基づいて生活を変えた。
  いやかえようとしてる。
  
  20%くらいはうまくいっている。
  目標50%
  それできっとみんなが幸せになる。
  家族の笑顔が見れれば
  ちょっとの我慢もまた涼し

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精神と肉体の関係を考えている貴方へ 心は生命を維持するシステムだと考えた場合の自殺の本質に関する試論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



貴方は精神と肉体の関係を考えているとのこと
それを知って、貴方の成長をまぶしく感じました。
素晴らしいテーマだと思います。

このテーマの場合は正解を探し当てるのではなく、
自分が納得するまで考えることが良いと思います。
それは、貴方が人間とは何かということを考えることであり、
それは、貴方がどう人間としてどう生きていくかを考えることだと思います。

誰かから答えを教えられるということではなく、
自分の頭で考えることが大切なのでしょう。

一つの考え、こういう考えもあるのかもしれない
というアイデアをここで話させてください。

結論から言えば、
心も体も、生きるための命を守るシステムだ
という考え方です。

体が命を守るシステムであるということは
理解しやすいと思います。

脳や内臓を筋肉や骨、皮膚が物理的にも守り、
血液が栄養や酸素を運ぶ、
それらを脳などがコントロールする。

目や耳、鼻が危険を感じ、神経が脳に伝え、
脳は、体の各部分を逃げるモード、闘うモードにする。

あるいは脳は、
危険のパターンを記憶して、
危険を回避しようとする。
利益の道筋を記憶して
利益を獲得している。

実によくできたシステムです。

では、心とは何でしょう。
貴方は精神と言いましたね。

私は、心も、体を守るシステムの一つだと思うのです。
但し、ここでいう心は、心のすべてではなく
心の骨格です。

骨格ということがどういうことかというと
家で例えれば、
屋根、壁、柱が骨格中の骨格でしょう。
さらに窓や床も骨格かもしれません。

でも家はそれだけでなく、
壁紙や断熱材や、色々な付属物があるわけです。

そのような骨格以外のはなしではなく
あくまでも心の骨格の話です。

なぜ、心が命を守るシステムなのかについては
実際に心が命を守る様子を見れば明らかです。

危険が迫っていて、逃げなければならない時、
心は恐怖のモードにあります。
逃げる以外の思考を停止して、
今安全になったか、まだ危険かという
二者択一的な思考とし、確実に逃げ通すことだけを考えるから、
逃げられる確率が上がります。

危険は迫っているけれど、闘って振り払う時
心は怒りのモードにあります。
相手の心情を配慮することを停止し
相手を確実に叩きのめすために容赦のない状態にします。
相手を確実に叩きのめそうとするモードに入ることが
相手に勝つ確率を上げることになります。

この他にも、利益を獲得した時の心の状態が喜びであり、
緊張が突然不要になり、急激に緩和した状態が
笑いというモードです。
危険が迫っていないときには安らぎを感じるでしょう。

仲間の中にいる時に安らぎを感じることは
仲間もリラックスできるから、
自分が仲間から好ましく思われるでしょう。

これが、心が命を守る様子です。

貴方はきっとこう言うことでしょう。
心はそんなに単純なものではない。
ずっとずっと複雑なものだと。
危険に対する反応だけが心ではないはずだと。

ここで考えてほしいことは
人間が生きるということの意味です。
他の動物ならば、多くの場合
生物的に生きるということを考えれば
良いのだと思います。

だけど人間は生物として生きるだけでなく
仲間、家族だったり、友人だったり、同僚だったり
の中で尊重されて生きるということが
必要な動物ではないでしょうか。

例えば、貴方は、仲間の中で邪魔者にされたら
とても苦しいだろうなということは想像がつくと思います。
自分で勝手に、邪魔者とされているのではないか
と思うだけで苦しいですよね。
仲間の中で一番下の人間として扱われるとか
仲間から出て行ってほしいと思われたり
仲間から役立たずと思われたりしたら
とても苦しいでしょうし、
自分が大切に思う仲間ならなおさら耐えられないでしょう。

人間は、命や健康を維持したいという要求と同等に
仲間の中で尊重されたい、仲間として認められたい
という要求を持った生き物だと思いませんか。

チンパンジーの祖先から分かれて800万年と言われます。
武器も逃げ足もない人間は
生物的健康だけでなく対人関係的健康を守ろうとし
実際に守ることができたものの子孫だけが
群れを作ることに成功して生き残ってきたのだと思います。
それが私たちです。

だから、私たちが
対人関係的な健康を守ろうとするのは
遺伝子レベルの話なので、
そう簡単に変えることはできません。

私たちは、群れを作るシステムとして
即ち生きるシステムとして
心を持っているのです。

だから対人関係的な危険に対する反応として
生物的反応と同じ、恐怖、怒り、喜び等の
心の反応が現れると考えることはできないでしょうか。

確かに、心や精神は複雑でしょう。
そのことをむきになって否定する必要性もないと思います。
ただ、心の根本、骨組みは、
危険や利益に対する反応かもしれない
生きるための合理的な仕組みかもしれないという
考え方もあることを
頭の片隅に置いておくとよいと思います。

貴方の考えるテーマの中に、
自死は、精神と肉体の対立だというものがあるようです。
心が命を守るためのシステムならば
どうして、心で肉体を滅ぼすのか、
貴方は当然疑問に思うでしょう。

ここで補助線を引くことを許してほしい。
あの数学の図形で出てくるあれです。

それは、
人間はそれほど強くない
ということです。

強くないということは、
最後の最後まで、本当に最後まで
死ぬことをあきらめないということが
できない生物であり、
絶望を感じることができない生物だ
ということを言っています。

ここでも生物学的な危険の場合はわかりやすいと思います。
例えば銃で胸を打たれる場合、
最後の最後まで生きようと意識をはっきりさせていたら、
自分が銃弾が胸に激突して、体が壊れる様子を認識してしまいます。
もしかすると、死ぬよりもつらい時間になるかもしれません。

通常はこういう最後まで意識があるのではなく、
気絶するか、仮死状態になるようです。

最後まで意識があることで生き残る可能性が高くなるより、
気絶して無抵抗になる、自然に身を任せる方が
生き残る可能性が高くなるという指摘もあります。

これは、飢えた猛獣の前に突然投げ出された場合も
同じでしょう。

そうすると、人間は死ぬよりもつらい状態の認識を
回避するシステムがあるのかもしれません。
絶望を回避するシステムということかもしれません。

生物学的な絶望だけでなく、
対人関係的な絶望も同じことが起きているのだと思います。

自分が生きるために大切だと感じていた仲間から
仲間として扱われていないことを感じてしまい、
仲間として再び尊重されることはないという絶望が近づくと
人間はそれを感じることを回避するシステムが
作動してしまうのでしょう。

生物学的危険と対人関係の危険の違いは
生物学的危険は、結果が即時に現れるわけです。
高所から転落して死亡するとか、
猛獣に食べられて死亡するとかですね。

しかし対人関係的な危険は
実際には結果がなかなか出ません。
というか出ないことも多いです。
来る日も来る日も、危険が迫ってくる状態で
結論が先延ばしされている。
しかし回復不能であることは間違いない。

おそらく、誰も来ない絶壁にかけられた橋から落ちて、
途中の細い枝に引っかかっている状態で、
やがて枝が折れて、再び転落するだろう状態のようなものかもしれません。

ここから先は、意識ができることではないのでしょう。
無意識にストッパーが作動してしまうのだと思います。
それは心ともいえるものかもしれませんが、
その人の人格とはあまり関係の無いものだと思います。
ちょうど暑いと汗をかくことが
その人の人格とは関係の無いものと同じだと思うのです。

絶望を感じることを回避するためのシステムが作動した状態、
生きる意欲が失われたときの状態で
自死が起きるのだと思います。

そこには睡眠障害や精神障害で
脳、心が正常に作動していないという事情も
大きく影響を与えていることが多いと思います。

死ぬよりも辛い出来事を体験したことが無い人
そのような精神状態を想像できない人は
自死を語るべきではないのかもしれません。

ところで、心を鍛える、精神を鍛えるという言葉があります。
心や精神を鍛えることによって、
命を守るということなのかもしれません。
私はおかしなことだと思います。

先に行ったことがもし正しいとしたら、
心は、危険のセンサーということにもなります。
心を鍛えるということは、
センサーの感度を鈍らせることです。

対人関係的危険は、
例えば自分が仲間に迷惑をかけることでも発生しますが
心を鍛えることは
仲間に迷惑をかけても気にしないことに
つながる危険はないでしょうか。

自分だけよければ人に損させてもよいという人はたくさんいますが、
心が強いのでしょうか。

おそらく、心が弱いから自死をするという誤解があるのではないかと
思われます。
むしろ心が強い人ほど、自分の肉体や精神の限界まで
自分を追い込むことをしてしまう傾向にあります。

ここでも危険を感じるセンサーが
既に弱まっているということがわかると思います。

心は、任意にコントロールできるものではない
と私は思います。
またするべきでもないのでしょう。

それではどうするか。
どうやって自分を支えるか。
ここでもう一度、
人間とは何かということを考えていただきたい。
人間が群れを作る意味を考えていただきたいのです。

人間は、決して一人では生きていけないものです。
遺伝子にそう組み込まれてしまっているからです。

だから、心を鍛えるのではなく
自分の仲間関係を強いものにしていく
ということが一つの解決方法なのだと思うのです。

心は、環境に対する反応だとすれば、
環境の方を改善するという発想です。
心は不変要素であり、環境こそが可変要素なのではないでしょうか。

自分の人間関係、社会の人間関係を温かいもの変えていく
それは人間に無理を強いることではなく、
人間の本能を目覚めさせていくことなのだから
環境的に阻害される事情があっても
必ず前進することだと思うのです。

たしか、それを希望と名付けのは
貴方だったはずです。


私の考えは選択肢の一つ
あるいはヒントに過ぎません。
明るいヒントになれば幸いです。

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孔子の「仁」と対人関係学 人間にとって大切なことと儒学が戦争遂行に利用されたポイント [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 

孔子の政治思想は、徳治主義と呼ばれます。
権力者が正しい行いをすれば民衆も正しくふるまう
という考えの元、
先ず権力者が襟を正せと説きました。

これに対する政治思想は法治主義と言いますが、
現代の法治主義と言葉は同じですが、意味は違います。
その頃の法治主義は、
人は元来どうしようもない考えを持っているので、
権力者が指図をしてた民を従わせ、
従わない者は処罰する
というものです。

こういう風に考えると徳治主義は、
人は元来どうしようもない存在ではなく、
正しいことに向かって行動する
という性質があるとの人間観を前提にしていることになります。
正しい方向を権力者が自分の行動で指し示せば
国はよりよく統治できるということで、
(修己知人)
性善説が前提になっているように思われます。

これが孔子の政治思想の根本ですし、
法治主義的な考え方は真っ向から批判していますので、
これに反する行動をする権力者が
儒学を振りかざして説教したとしても
その儒学は眉唾のまがい物ということになります。

民に道徳を指図して、これに従わない者を処罰する
というのは孔子の教えとは全く無関係ということです。
ここがまがい物と本物の区別の基準です。

2 

孔子は、人の生き方を説いたとも言われていますが、
論語を読む限り、統治論、政治思想、あるいは法律論を説いている
と弁護士としての私にはうつります。
(最終的にはあまり区別は必要なくなるのですが)

その文脈で、
孔子が立派な人にとって必要なことは
「仁」であると述べています。
高校生の倫理社会の教科書では
「仁とは、人を愛することだ」と説明されていますが、
なるほどと思いました・

そういうわけで仁がテーマです。

では、孔子が言う人を愛することとは何でしょうか。
孔子は「仁」の基本は、「孝悌」だと言います。
高校の教科書では、この孝悌とは、
「親子・兄弟間の自然生まれる親愛の情」
としています。私はこの解釈を支持します。

そして、その孝悌の情を、家族だけでなく
集落に広げ、村に広げ、
国家にも広げていく
ということを孔子は説きます。

そうすれば、国家は愛にあふれたものになる
ということになります。

なるほど一つの理想だと思います。
そのように考えると、
孔子が政治とは何かということに回答しているのですが、
権力者が国民の要求を先回りして考えること、
人々をねぎらうことだ
と言った言葉につながると思います。
そしてもう一つ大切なことは
それを続けることということでした。

これは国家の政治だけでなく、
家族の関係でもいえることだと思います。

孔子の黄金律は、自分が嫌がることを相手にもしない
ということだと言われていますが、
この部分を考えると
イエスの黄金律と全く同じということになるでしょう。
相手が欲していることを常に考えることが
愛であるということですから。

さらに、愛について、あるいは親子の心情について
極限的な例についての見解が述べられています。
父親が迷い込んできた他人の羊を
返さないで自分の物したということを
子どもが警察に訴え出たという話です。
それを称賛する人に対して、孔子は
「親は子のために隠す子は親のために隠す」
ということを述べています。
これについては前に書きましたので
省略します。

「親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-11



孝悌の情が国中に満ちるためには、
ただ自然に任せているだけでは不十分で、
具体的な孝悌のパターンを鍛えることが必要だということになります。
それが、克己、恕、忠、信ということになります。

克己とは自分に打ち勝つということですが、
現代では、自分の弱さ、怠惰に打ち勝つことという意味が一般的です。
克己心をもって受験に取り組むとかですね。
立身出世のための言葉になってしまっています。

孔子の教えの「克己」とは
私利私欲を抑えるということのようです。
他者との協調を優先するべきだ
という考え方のように感じました。
そうして私利私欲を捨てて他者と協調することは、
人間本来の考え方だと主張しているように感じるのです。

こざかしい文化等がその人間本来の考え方を曇らせているのであるから
目の曇りを晴らす、それが本来の克己ということになるはずです。

「恕」とは他人を思いやること
先ほど述べた孔子の黄金律ということになります。

ちなみに忠は自分を欺かないこと
信は他者を欺かないことということだそうです。

4 

さて、我田引水的に論語を読むわけですが、
対人関係学は、本来人間は
仲間と協調して生きていこうとする習性があり、
仲間のために努力することに喜びを感じる動物であると考えます。

それが言葉や経済等様々な文明によって目を曇らせ
本来の習性、本能によって行動できないために
様々な不具合が生じると説明しています。

これは、きれいごとを言っているのではなく
チンパンジーの祖先と人間の祖先が分かれて800万年
力も俊敏さもない人間が絶滅しないで生き延びた
のは群れを作ることができたからだと思うのですが、
群れを作る原理だったのだと思っています。

この観点から論語を読むと、
仁というのは、
この人間の本能に純粋に耳を傾けることということになります。
どこに人間の本能の純度が高く残っているかというと
親子の情愛ではないかと思われますので、
孝悌の情が仁の基本であるということは
とても合理的なことだということになります。

先ほど子は親のために隠すという言葉がありましたが、
親を警察に告発した子の行動は「直き(なおき)行い」ではないと孔子は言い、
親をかばうことが直きことだと述べています。

一般的にはこの「直き」は「正直」と訳されますが、
対人関係学的には、
文字通り人間の群れを作る本能にストレートだという意味で、
直き心こそ耳を傾けるべきもので、価値があるものだ
という解釈になります。

本当は友達や同僚と仲良くしたいのだけど
それをできなくする事情が現代社会にはある
その事情を少なくし、事情の影響を弱くしていく方法が
対人関係の研究テーマだということになりますので、
孔子の教えとはだいぶ近いのかもしれません。

また、人々が仲良くすることによって
新たな問題が起きにくくなり、
人類は、余計なストレスから解放されて
そのアドバンテージを発揮できるようになっていく
ということなのですが、
そのためには、

仲間の失敗や欠点、不十分点を
責めない、笑わない、いたずらに批判しない
許し、補い、助ける

ということが大切であり、
それが人間本来の群れを作る仕組みだった
ということを主張しています。

これが恕であり、親のために隠すということにつながることだと思います。

そのように仁を探究し、
仁を形にする礼で他人と接することが孔子の教え
ということであれば
対人関係学と
ほとんど同じなのかもしれません。

あくまでも我田引水的に読んだ場合のことです。

これが紀元前4世紀とか5世紀の考察ですから
とても素晴らしいと感銘を受けている次第です。



ところが、儒学は、
戦前国家イデオロギーとして、
戦争遂行の道具とされていました。

学校では教師が孝を教えて
戦場に子どもたちを駆り立てました。

権力者は、自ら手本となることなく、
民を指図し、それに反対する考えを持っただけで
法によらず処罰し、拷問にかけたわけです。
不道徳にもきりがない状態です。

どうして、国中を愛であふれさせようとした孔子の教えが
戦争遂行の道具となったのでしょうか。

いくつかポイントがあります。

一つは、「孝悌」の解釈です。
先ほどは倫理社会の教科書の解釈を紹介しましたが、
儒学では、年長者に対する尊敬と奉仕の感情
という意味だとされているようです。
しかし、これが家族から、集落、国家へと広がってしまうと、
家長への服従、集落の長への服従、
そして国家権力に対する服従になってしまいます。

国家と国家権力者が同一視され、
全体主義の理論武装になってしまいます。

民は、国家の奴隷となってしまい、
権力者は
民の欲することを先回りすることもなく
ねぎらうこともなくなってしまいます。
現実にそうなってしまったわけです。

最も大切な政治思想である
権力者が徳をもって国を治める徳治主義
ということがどこかに行ってしまったわけです。

孝悌とは、確かに年長者に対しての尊敬だと
読めるような話も論語には書かれているのですが、
年長者に年少者は尊敬もって接するという
単純な意味ではなさそうです。

ここでいう年長者は、養われる対象ということなので、
かなりの年長者に対するものではないか
特別の意味があるのではないかと考えています。
当時の人間の寿命や健康状態も知っておく必要がありそうです。

孝悌については、
あくまでも徳治主義の観点から
読み直す必要がありそうな気がしているところです。

もう一つの象徴的なことは「恕」の解釈です。
これは、権力者の民に対する思いやりや、
相互の思いやりということなのですが、
民の国家に対する奉仕活動の意味にすり替えられてしまいました。

現在、儒学や恕の思想に学んで
公立学校で、駅や公園のトイレを素手で掃除させている教育員会が
自慢げに写真付きで宣伝していますが、
まさに戦争協力で利用された儒学を復活させて
広めようとしていることに外なりません。

民がよりよく充実して生きることの価値観を奪い
権力に奉仕させることにすり替える戦前の教育と言えるでしょう。

このように孔子の教えの根本である徳治主義に
反するような教えは孔子の教えとは無関係であり、
警戒をしなければならないということになります。

では徳治主義とは何か
そのような政は現実にあったのかということで、
孔子は周という殷の後の王国をモデルにします。

私は、東日本大震災の直後の
今上陛下、皇后陛下の被災地ご訪問を挙げたいと思います。

この詳細は当時書きました
「両陛下宮城県の被災地に、避難所に。水仙の雅な本歌取り。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2011-04-28

その時書かなかったのですが、
両陛下は作業着をお召しになって避難所を回られました。
お召し物が汚れるからではなく、
被災者の心情を配慮してそのような服装をなさったものと思います。
着の身着のままでようやく生き延びて
埃まみれの避難所に
立派なお召し物のお二人がいらっしゃったら
被災民はどう思われるでしょう。
これが「恕」だと思います。

作業服をお召しになってひざまずいて被災者とお話された
両陛下のお姿を思い出すと
今でも涙が出てきます。

両陛下の徳を拝見して、
被災者の特に高齢の方々は生きる意欲を取り戻し、
国中が一つになって復興を目指した
そういうふうに私は思っています。

これこそが徳治主義だと思います。

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パパは写真の人 [労災事件]

「青空と千切れ雲はパパの記憶」

高い高い青空に 千切れ雲が浮かんでた
それは私のパパの記憶の全部

私が起きる前に出かけ 眠った後に仕事が終わる
日曜日もなくて いつも家にいなかった。
私が三つになったころ、パパは写真の人になった

私はパパの動いている姿は覚えていない
パパの声も知らないし、匂いもわからない。
それでも私には、確かにパパがいた。

高い高い青空に千切れ雲が浮かんでた
それは私のパパの記憶の全部

一度だけパパに連れてってもらった
その角を曲がったとこにある近所の公園
ただ一つだけ覚えていること

高い高い青空に千切れ雲が浮かんでた
それは私のパパの記憶の全部

人はみな青空を見ると 晴れ晴れとするという
私は青空を見ると懐かしい気持ちになる
私にはパパがいたことが私にも分かるから

高い高い青空 千切れ雲が浮かんでた
それは私のパパの記憶の全部



「早く帰ってくればいいのに」

パパ早く帰ってくればいいのにって
写真のパパに言ってた私の口ぐせ

でも今日私は気づいてしまった
本当はママの口ぐせだったこと

写真の人なる前に、ママが私と二人の時
ついつい口から出てしまっていた ママの口ぐせ

パパが写真の人になった時に
ママはその言葉を言わなくなった

ママが言わなくなったことが
意味もなくわたしは寂しかった

私が写真のパパを見るたびに
早く帰ってくればいいのにって

いつも言ってたのは、ママの代わり
本当はそうだったんだ

私がいつも言うたびに
ママはどんな顔をしていたのだろう
いつしか私も言わなくなって
ママの顔も思出せない

ママは一度だって 私のいうことを
止めることはなかったけど

本当はママこそ言いたかったんだ
パパ早く帰ってくればいいのにって





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過重労働=強すぎる責任感を脱却して、過労死を防ぐための人間らしく生きる価値観への価値観の転換を [労災事件]

1 過重労働に胸を張る人々
2 過労死の弊害
3 責任感を持つことは美徳だという考え方
4 ブッダの中道の教えとイエスのアガペーに学ぶ
5 新しい価値観 人間らしく生きるということを考える


1 過重労働に胸を張る人々

開業されているお医者さんからうかがったのですが、
最近の学校の先生方の長時間労働は目に余るというのです。
60歳前の管理職の先生は
いつも深夜零時まで仕事をしているけれど
充実していて楽しいとか
別の先生も、先月時間外労働100時間になっちゃって
とか、それは高血圧は治りませんねと私も相槌を打ちました。

「ずいぶん忙しいですね」と
言外に働き過ぎが良くないよというニュアンスで言っても
教師の場合は、真顔で
「ええ、忙しいです。」というのだそうです。
他の職業の人たちは、ごまかしたり、苦笑したりと
そういう態度をとるのに、
教師は二の句を継げられない反応をするそうです。

医師の言う「忙しいですね。」という意味に
否定的なニュアンスがあることを分からないというより、
どこか誇らし気な雰囲気がある
あるいは教師だから当たり前です
という雰囲気があるそうです。

もう一つエピソードがあります。
平成29年3月の仙台市の中学校の卒業式のことです。
仙台で、一番ではないけれど古い創立だろうという名前なのですが、
卒業式の校長の祝辞で、
銀座にすし店を構えて世界中から食べにくるという
寿司職員の話が出されました。
子どものころからろくに教育も受けないで、
みんなが寝ている暗いときから起き出して準備をして、
みんなが寝た後まで仕事をして
仕事を覚えて、上り詰めて
それで銀座ですし職人をやっている。
それを見習えというのでしょうかそういう話でした。

既に電通の過労死事件が広く報道され、
国を挙げて働き方改革を唱えている時に、
あえて挑戦するように過重労働に自ら飛び込めという話でした。

ちなみに、そのすし職人の方は80歳を超えているということですから、
特別に血管や肺が丈夫な人だったということです。
同じ時代の若者たちは
どんどん過労死で死んでいきました。
今の脳・心臓疾患ではなく
結核などの伝染病や
風邪をこじらせた肺炎、衰弱死などで若い命を落としてきました。
当時の栄養状態では、
脳・心臓疾患が発症する前に
栄養不良が原因で死んでいったのです。

このため、昭和22年に制定された労働基準法は
1日8時間の労働規制が定められて今に至っているのです。
労働基準法の作成に携わったお役人は
後に労働法の教授となり教科書を書いています。
1日8時間労働制や当時の48時間労働制は
早死にしないために法律に入れたとはっきり書いています。

過労死という言葉はなくても、
当時から働き過ぎで命を落とすということは
法律に盛り込まれるほど知れ渡ったことでした。

中学校の、校長ともいう立場の人が
これから社会に巣立つ教え子に贈る言葉が
過労死にいざなう言葉を祝辞で話すというのだから
学校現場の労働に関しての考え方が
うかがい知れるというものです。

2 過労死の弊害

教師には危機感を持っていただきたい。
長時間労働を中心とする過重労働は
本人を早死にさせるだけではありません。

死に至らなくても
脳梗塞を発症して長期入院を理由に自宅に帰され
奥さんが24時間管理をしていた事例

うつ病を発症させて
奥さんが買い物行くとすぐに電話がかかってきて
いつ帰る?どこにいる?とはじまる事例

またうつ病のために奥さんと話さなくなったため、
奥さんの方で自分が嫌われたと思い込んで
離婚に至ってしまった事例、

本人がイライラして家庭不和がおこり、
子どもたちが大人の分まで家族を支えようとして
力尽きてしまった事例、

そもそも、親と一緒にいる時間が極端に少ない事例
実際には、死ななくても家族は苦しんでいるのです。

3歳で父親を亡くした事例では、
日曜日も仕事に行っていたので、
娘の父親の思い出は
2回、近所の公園に行ったことだけでした。

家族だけではありません。

自分が無邪気に長時間労働をするため
同僚が早く帰宅することがはばかられたり、
そういうこともありますが、
前任者はここまでやってくれたと言われて
後任者の長時間労働の道筋をつけたりということもあります。

学校の先生の場合は、さらなる問題があります。
教え子がいるということです。

もし、過重労働、長時間労働が
テレビの中だけのことだったら
実際に自分が、長時間労働を強いられれば、
これは異常だとか、これはひどすぎると思うことができるでしょう。
しかし、良く知っている人が
夜中学校の近くを通ると仕事をしていたり、
休日労働をしていたりすると
その異常さや、ひどいと感覚はだいぶ薄れてしまいます。
過重労働職場からの離脱が遅れてしまうということが
あると思います。それは生死を分けるでしょう。

仙台市の中学校の校長の卒業式は極端な例だと信じますが、
(おそらく教育委員会は処分したのでしょう。)
そんな馬鹿な常識外れのことを言わなくても
自分の働き方で教え子を過労死に導いてしまう
そういうことも考えてもらわなければ困ります。

3 責任感を持つことは美徳だという考え方

過重労働をする人、もっと端的に言えば
過労死でなくなる方たちは、概ね、
責任感が強く能力の高い人たちです。
学校の先生方はまさにそういう方々なのでしょう。
仕事の内容がそれを要求するのだと思います。

大切な子どものために、
やらなければならないことはやり抜くと
責任感を持ってやるからこそ
過重労働となることが当たり前だ
という意識なのでしょう。

また、PTAや社会が要請するから仕方ない
という言い訳もよく聞きますが、
これも期待に応えようという
責任感なのでしょう。

これまで私は、そのような責任感を
否定的に評価することができませんでした。
しかし一方で、自分を大切にしない、家族への責任を果たせない、
同僚や教え子に害悪をまき散らし
他人の命を縮めている原因になっているとすれば
どうにか考えを改める必要があると思います。

このように社会的に正しいと思われた価値が
後に否定された例としては戦争協力があります。
ほかならぬ学校の先生が、
仙台市の中学校の卒業式の祝辞の様に、
生徒たちを鼓舞激励して、
戦地へ送り込んでいきました。

戦争反対などをいうならば
教育の名のもとに非国民扱いをしたわけです。
万歳三唱で戦争に送り込んだわけです。

当時は、戦争に対する表面的な評価は
日本の経済を打開し、
アジアの諸国民を解放する聖戦だというものでした。

戦争に行って国のお役に立つということこそ
責任感の最たるものだったのでしょう。

戦争協力は単純否定されましたが、
滅私奉公とでもいうような責任感は
肯定的に温存されたのかもしれません。

また、今やるべきことを目の前にして
あるいは、サービスを低下させて
家族の元に帰るということも
一抹の抵抗感があることも事実です。

責任感もほどほどにということもあるでしょうが、
ではどこで責任感=過重労働に歯止めをかければよいのでしょうか。
ここは悩んでよいところだと思います。

4 ブッダの中道の教えとイエスのアガペーに学ぶ

これからいうことは、宗教の奥義ではありません。
あくまでも高等学校の倫理社会の教科書レベルのはなし
ということをお断りしておきます。

さて、ブッダが登場するころ、
インドでは、堕落に対しての抵抗が強く
厳格な戒律の元、厳しい修業が行われていました。
ジャイナ教では、万物の命を大切にするということを徹底し、
空気中の小さな生き物を誤って食べてしまわないように
白い布で口を覆うなどの徹底ぶりでした。

修行も厳しく
生死の境に追い込むような厳しい修業が尊ばれていたそうです。

ブッダもこのような修行の道に入りかけたようですが、
まさに悟りを開いて、
厳しすぎる修行から離脱したそうです。
その時に、牛飼いの少女から牛乳をもらったということが
象徴的に語られています。

中道という言葉があるのですが、
どうやら、厳しいのもほどほどにという意味ではなさそうです。
私たちはそのようにとってもよいのでしょうけれど。

道という言葉は、実践を意味するのだそうです。
中という言葉は、一つに偏らないということが中核で、
左右の間ということよりも、
むしろ、右と左とか、善と悪とか
そのような二者択一的な思考から自由になる
そういう意味のようです。

もっとも私たちは、少し単純化して、
修行を厳しくするか否かということから考えをはなれて、
本当に大事なことは何なのかということを考え、
そのためにどのような修行をするかということだと
一応押さえておきましょう。

このような状況をこのような切り口で見ると
思い起こされるのがイエスのアガペーです。

やはり当時、堕落に対抗して、
戒律という神との約束を守り
神の国を作り救済されることを目指した、
厳格でまじめな集団であるパリサイ派の人たちが
活躍していた時代です。

神との約束を守るということですから
誰もそれを否定することはできなかったわけです。

しかし、戒律を守るということは
わかりやすいだけに難しい側面が出てきます。
例えば、安息日には仕事をしないという戒律があります。
病気で苦しんでいる人がいても
安息日は治療をすることができないということになります。

戒律を守るということに縛られてしまい、
是正してよいものかなんとも難しい思いをされたことでしょう。

そんな時に登場したのがイエスです。
もっと大事なことがあるということで、
神は、善なる者にも、悪なる者にも、
変わることなく、太陽の光の恵みを与えてくださる
という神の無償の愛、絶対愛を説いたわけです。

汝の敵を愛せとか黄金律の隣人愛等
戒律ではなく愛を説き、
神との新しい約束を説いたわけでありました。

こうやって見ていると
真面目過ぎる人たちは必ず、
世の中がおかしくなるときには出てきて、
その中から至高の実践家が登場し、
新しい価値観を示していたということがわかります。

大変興味深いことです。

5 新しい価値観 人間らしく生きるということを考える

それでは、責任感に代わる価値観を説く
スーパースターに橋渡しをするために
無理を承知で考える試みをしましょう。

責任感が正しいか否か、その程度は
という問題はいったん脇に置いておきましょう。

今考えなければならないことは
まじめな人たちが過労死しないための価値観です。

過労死を招く過重労働について考えましょう。
過重労働は、人を死なせる環境です。
この環境は、生きようとすることと逆行します。
少なくとも生物的にはそのように言えるでしょう。

過重労働をするということは
自分の命を守ろうとしないことになりますから、
少なくとも生物として間違っていると言えるのではないでしょうか。

そうして、先に述べたように
家族の中で自分の役割を果たす時間が無い
ということも言えそうです。
特に子どもに与える影響は深刻です。
過労死したり、致命的な状態になり寝たきりになれば
家族を苦しめるということも過重労働の結果です。

また、同僚に自分と同じ過重労働を無言で強制することですし、
後輩に過重労働の道筋をつけるということでもあります。
それは、他人の命の危険というリスクを拡大することです。

そうだとすると、この価値観を強調することが
問題の出発のような気がしてきます。

要するに過労死を起こすような過重労働は、
自分の命や健康を蝕むという環境であるとともに
自分が大切にするべき人達の人間関係を蝕む環境
出もあると言えると思うのです。

自分が大切にするべき人たちに
大切にするという役割を果たせないと言い換えてもよいでしょう。

これは、ただ命を守るという以上に
人間は、自分とつながりのある人たちに
役割を果たしていく責任があり、
つながりのある人たちと一緒に幸せになる
なろうとすることこそ、
人間として生きるということなのではないか
ということになるのだと思います。

自分とかかわりを持って生きることで
生まれてきてよかったと思ってもらうことができれば
なんて素晴らしいことでしょう。

6 価値観の転換をすることこそ過労死予防の一つの条件

法律には、もうすでに、過労死を防ぐための工夫が
色々と施されています。
これ自体が、禁止されても自分たちの権利を訴え続けた、
先人たちの努力と犠牲の結果です。

先人たちは、自分たちの主張こそが正当だという確信を持ち
国家などからの禁止、制限に対抗してきたと言われています。

実際の労働者の権利を拡充していったパイオニアは、
イギリスなどの西洋の人たちでした。

その不屈の精神は、
日本でもある程度は存在していましたが、
自力で法律を変えるという力になったというまでには
行かなかったと思います。

それはどうしてか。
おそらく、
自分たちこそ正当だ
という意識を
どのように作っていったか
その点を考える必要があったように思います。

西洋の人たちは、
自分たちこそ正当だという意識を持つ背景として、
自分たちを大切にしよう
自分の家族を大切にしよう
自分の仲間を大切にしようと
そういう考えに習熟していたのだと思います。

時代的背景や社会構造の違いなどがあると思います。
ただ、日本ではそのように、
自分や自分のつながりのある人を大切にする
という価値観が十分に確立しては
いなかったのではないでしょうか。

責任感が、教育や社会風習で、
会社のために自分の時間を費やすということに
すり替えられていたという
側面はないでしょうか。

私は、様々な法律の工夫だけではなく、
肝心な過労死防止の保障がここにあると思います。

自分の素朴すぎる責任感を疑うべきです。
長時間労働だけでなく、
パワーハラスメントやセクシャルハラスメント
不可能なことをやれと言われる環境等
自分の職場の出来事を家族に語れない環境
そのような職場は、
人間らしく生きるという価値観に照らして
不道徳な職場だと評価されるべきです。

与えられた仕事をやり抜くという
責任感に対する価値観よりも、
人間らしく生きるという価値観を優先するべきだと思います。
その行動の結果、
リスクがあるのか、デメリットがあるのか、
ということを十分に考えて、
人らしく生きるという観点に逆行するのであれば、
人間らしく生きるという方向に転換するべきです。

それこそが、過労死をしないで働く権利、
人間らしく生きる権利を保障する価値観だと思います。

過労死を防止するためには、
価値観の転換こそが必要だと思います。

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【批判】文科省の中学校政策が、いじめや自死対策に逆行していると思う理由 規範意識の考え方が浅はかだということ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

インターネットを見ていたら、
文部科学省の通知に出くわしました。


児童生徒の規範意識の醸成に向けた生徒指導の充実について(通知)http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/04121502/052.htm

これは大変な問題だと思いましたら、
平成18年の通達文書のようです。
しかし、現在も文科省のホームページに掲載されていることからすると
まだ有効な通知なのでしょうし、
10年以上もこのような方針が
教育現場で通用しているということなので、
事態は深刻だと思い、
やはり私なりの意見を言わせていただきたいと思いました。

1 文科省通知の意味
2 様々な問題点
3 通知の最大の問題点は規範意識の理解不足
4 競馬の調教の方が合理的であること
5 人間の場合の群れを作る仕組み
6 少年事件から規範意識を考える
7 学校で規範意識を醸成する本当の当たり前の方法

1 文科省通知の意味

文部科学省の通知は、主として中学生の
暴力行為、いじめ、不登校などの問題を
解決しなければならないというところから出発しているようです。

その解決方法として中心になるのが、
規範意識の醸成というわけです。
文科省のいう意味は、
ゼロ・トレランス方式というアメリカの方式で
これは、アメリカの生徒の銃乱射事件や麻薬常習
という状況を是正するため
禁止事項と違反行為を予め事細かに定めて
違反行為があれば必ず処罰するという
必罰主義とでもいうような対応方法です。

禁止事項をすれば罰を与えられるという
心理的威嚇によって、
禁止事項行為を拘束する
という政策になります。

毅然とした対応
等と言われますが、
毅然とした対応をすることは当然として、
毅然として何をするのかが
問題だと思います。

毅然として子どもを処罰する
というのが文科省の通知の態度ということです。

2 様々な問題点

上記の通知は、
私は大問題だと思います。

読めばすぐに問題点が浮かんできます。
いくつか上げてみましょう。

①  暴力行為やいじめの発生を防ぐという視点がない

あれ?威嚇で防止しようとしているのではないの?
と思われるかもしれません。しかし、
 
暴力行為やいじめは起きるものだという
前提に立っていると思います。
原因を無くそうとする視点がないのです。

威嚇で問題行動を抑制することは
実はあまり効果を期待できないのです。
要は、見つからなければ良い
ということになりかねません。

人間としてやってはいけないではなく、
禁止されているからやらない
ということを教えているようなものです。

②  子どもたちが成長するという視点がない

子どもの問題行動は、
子どもの人格が未熟であることが理由であることが多いです。
問題行動が起きても、適切に働きかけて
子どもを成長させることによって解決する
これが教育ですが、
だから教育という発想はないようです。
文部科学省という役所は
教育を放棄しているといわれてもしかたがないと思います。

③  原因を探究しようという発想がない

① と同じことかもしれませんが、
子どもたちの問題行動には理由があり、
この理由を除去しようという発想がありません。

例えば昭和の年代では、
ここまで過酷な問題行動は多くなかったと思うのですが、
現代的な問題があるのではないか
という発想は感じられません。
現代社会の特有の理由があると思うべきです。

子どもたちは暴力を起こすものだ、
いじめを起こすものだという前提をおいている
そういうように思えてなりません

一言で言えば
教育という発想がありません。
子どもたちは勝手に大人になれ、
国は、それに働きかけはしない、
但し行動の拘束はする。
そんな印象を受けてしまいます。

おそらく文部科学省や学校現場は、
校内暴力などの荒れる学校や学級崩壊に
無抵抗な状態だったのだと思います。

これがかなりのトラウマになっているのでしょう。

それは理解できるとしても
また
子どもたちを取り巻く環境の変化があって
子どもたち自身の変化が起きていたとしても、
私には、情けないという気持ちが起きてしまいます。

子どもたちと向き合う能力に問題があるのではないか
ということです。
もしかすると
教員採用、教育委員会採用から始まり、
管理職の登用などの
教育行政に、人事管理上等の問題があるのではないか
教育という目的以外の考慮が幅を利かせているのではないか
という危惧を払しょくできません。

3 通知の最大の問題点は規範意識の理解不足

文科省は、規範意識の醸成の方法として
必罰主義を採用すると言っているわけです。

つまり、何か罰を受けるとか
不利益を受けるということで、
罰を受けないように、不利益を受けないように
ルールを覚えようという発想です。

これは、法律の素人の発想です。

法律や道徳を守ろうという意識を
規範意識(きはんいしき)といいますが、

罰せられないようにしようということは
規範意識とは少し違うように思います。

ルールを守ろうという意識の方が
少し規範意識に近づくと思います。

もう少し正確に言えば
ルールの存在を承認し、
存在するルールを守ろうという意識です。

さらにわかりやすく言えば、
ルールを守ることは手段であって、
本当は、
仲間との関係を大切にして
群れを維持しようという考えを持つということなのです。

そして、それこそが、
人間が自分を大切にするという意味だと思います。

どうやって、そのような
高い意識を持つようにするか
そのことについて
お話ししていきたいと思います。

4 競馬の調教の方が合理的であること

競馬という競技を例えにしてみましょう。
馬は、生まれたばかりでは人間のいうことをききません。
ゲートから出ませんし、
ゴールに向けて走る必要も
馬にはありませんから走らないでしょう。
すべて人間の事情です。

それが、どうやって、レースが成立するか
ということを考えてみましょう。

一部の人は、まだ誤解をしていて
鞭で叩くから仕方なく馬はゴールに向かって
全力疾走をさせられているという
動物虐待の結果がレースだと思っている人もいるようです。

しかし、ただ早そうな馬を連れてきて
鞭で叩いたとしても
レースにはなりません。
馬は暴れ出すでしょう。
騎手を振り落とすこともあるでしょう。

実は、馬は、
群れを作って走りたいという本能と
群れの先頭に立ちたいという本能があります。

この本能があることによって、
肉食獣から襲われても
群れ単位で行動することができるし、
群れ単位で逃げていくことができ、
結果として群れの頭数を維持してきたわけです。

この本能を利用してレースをしているのです。
レース中に騎手が落馬をしても、
最後までゴールを目指して走り続ける馬が
少なくない理由もここにあります。

本能を利用して、
あるいは行動習性を利用して
人間の望む行為に誘導して行くというのが調教です。

子どもに規範意識を持たせるという場合には、
人間という群れを作る動物の本能を活かして、
ルールを守るという喜びや
積極性を持たせるべきなのです。

そうでなくて、
恐怖や痛みの威嚇で行為を誘導するとすれば、
調教以下の働きかけということになってしまいます。
必罰主義とは、このように調教以下の
低俗な行為ということになります。

子どもを、人間を馬鹿にした行為ということです。

それでは、人間の本能、習性とは
どのようなものなのでしょうか。

5 人間の場合の群れを作る仕組み

人間の祖先がチンパンジーの祖先と別れて
800万年が経過しているといわれています。
その間、ずうっと人間は群れを作って生活していました。
言葉や文字を使うようになったのは、
ごくごく最近です。

しかし、群れを作っているということは、
群れの秩序を守って生活していたということです。
これをしてはいけないとか
こういう時にこうするべきだとか
ルールがあったはずです。

言葉もないのにどうやって、
ルールを認識し、それを守ったのでしょう。

群れを作る動物は、
結果として群れるだけでなく、
群れを維持する本能があり、
群れを弱くしない行動をする習性があったと思うのです。

例えば、私たちは小さくて弱いものを見ると
可愛いと思います。
可愛いものを大切にして守りたくなる
これが本能的行動習性の一つだと思います。

弱いものを危険にさらして命を落とさせてしまうと
弱いものから順に群れの頭数が減っていき、
結局群れ全体が滅亡してしまうので、
弱い個体を守ろうとすることは
群れを維持するためにとても有効な習性となります。

平等だったり、公平だったりという正義も
群れを維持するための本能的感情だったと思います。

さらに言えば、
自分と群れの他の構成員との区別は
あまりなかったのではないかと考えています。
群れを守るということが第一命題で、
他の構成員を押しのけて自分の利益を得る
ということは、
あまり考えなかったのではないかと思います。

100年も前の日本の農村部では
その名残があったはずです。

いつしか、それが記憶から失われて
きれいごとになってしまいました。
一つは文明開化の負の側面だと考えていますし
一つは敗戦の混乱期に原因の一端があると感じています。

とにかく、
オオカミのように牙もなく
クマのように爪もなく
馬のような脚力も
リスのような敏捷性もない人間が
800万年も子孫を残してきたのは、
ギリギリの餓えの連続の中で
必死に群れの頭数を維持しようという本能が
あったからだと思います。

現代的に表現すると
仲間を大切にしようとする本能があった
と言えるのだと思います。
それが自分を大切にする意味だった時代が
800万年近く続いたということなのだと思います。

群れの秩序を守る、群のルールを守るということは
本当は人間の遺伝子に組み込まれた本能なのです。

6 少年事件から規範意識を考える

この問題がとてもわかりやすいのは少年事件です。
仲間がひどい目にあったときに
武器をもって相手を襲撃してけがを負わす
そういう事件が少年の間ではよく起きています。

学校の規則や法律を守らないで、
仲間との関係を優先してしまう。

こういうことがどうして起きるかというと、
少年にとって、学校や国、社会は、
自分を守るものではなく、
自分を追い込むも存在、
自分を馬鹿にする存在であり、
仲間は、自分を守ったり、
自分を一人の人間として扱ってくれる存在なのです。
居心地の良い仲間とは限らないのですが、
自分の居場所が確保されている人間関係です。

だから、自分を守るため、
仲間との関係性、仲間の中のルールを守ろうとするのです。
校則や法律を守ろうとしないのです。

そうすると子どもたちに規範意識を持ってもらうとか
人間関係を大切にするということを要求する時
どうすればよいか
自然とわかると思います。

7 学校で規範意識を醸成する本当の当たり前の方法

例えば幼稚園で乱暴な子どもがいて
お友達を叩いてしまう
そういう場合に、罰を与えれば
乱暴は治るのでしょうか。

おそらく多くの幼稚園では、
普通に
お友達を大切にすること
親切にすることで
良好な人間関係が形成できることを
教えているでしょう。

園児たちは
どこかしら気恥ずかしい気持ちを持ちながら
先生の言われたとおりに友達に接して
友達から自分を迎え入れられたことを喜びながら
幼稚園生活を送ることになります。

先ず、良好な人間関係の作り方を教える必要があるでしょう。

子どもは未熟な存在です。
より安定した人間関係が形成できるように
指導していく必要があります。

他者と一緒にいることがたまらなく不安な子どもたちがいます。
この場合、当該子どもだけでなく、
周囲の子どもたちも指導をしていくことが有効です。
また、過剰な人間関係に期待をしている場合
修正をしていくことも有効でしょう。

励まして、自信を持たせることが必要な場合も多いでしょう。

他人の弱さを承認する、
他人の欠点を責めない
他人の不十分なところを補う
そんな人間関係を作ることを教えることが必要です。

これが人権教育の根幹です。
また、職場で過労死しない基礎的な人間関係を
形成する力となり、
将来的に自分を守る手段、訓練にもなります。

子どもたちはいろいろなものから追い込まれています。
親だったり、塾だったり、学校だったり
友達だったり、社会だったり、
こうでなくてはならない、
こうでなければ負け組になるということで
自分らしく生きることを否定されています。

貴方は悪いわけではなく、
行動を修正していけば
もっと快適な生活が送れる
そういうことを教えていくのが教育ではないでしょうか。

必罰主義は
未熟が悪だということになります。
ありのままでいることが悪だということになります。
励ますのではなく、徹底的に否定することになりかねません。

弱い者が悪だ
悪にならないように必死に努力して
ひと時も気を抜かないでいなければならない
そう言われ続けているのが現代の子どもたちのような
そんな気がして仕方がありません。

現在のいじめや自死は
こうした世の中の必罰主義が作り出している
と私は思います。

その上学校でまで
子どもたちの失敗を悪と決めつけ
失敗したものは生まれつき失敗すると言って処罰をする
さらにストレスをかけていくという
悪徳労務管理で子どもたちの余裕を搾り取るものです。

学校の状況を改善する方法と
全くもって逆行していると思います。

もっともっと批判を大きくするべきだと思いました。

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過労死防止対策推進シンポジウム宮城 過重労働が家族に与える影響 [労災事件]

平成29年11月18日土曜日
仙台メディアテーク1階オープンスクエアにおいて
厚生労働省主催の過労死防止シンポジウムを開催します。

シンポジウムと言っても
誰かが長々講演するのではありません。
(それが悪いというわけでもありませんが)

昨年過重労働等でうつ病に苦しんでいる人たちと
心理士、弁護士が共同研究を行い、
どうすれば、死ぬ前に過重労働から抜け出るか
ということを発表したのですが、
企業の労務担当の方を中心に
大きな反響をいただきました。

今回も宮城は一味違います。

実際に起きた事件
会社のトラブルを会社が放置してしまい、
逆に労働者を攻撃した形になり、
労働者がうつ病になり、
10年が経った今も働けない状態で
労災認定された事件をモデルに構成しています。

事件を、朗読劇のようにして発表し、
臨床心理士の方を中心に、
各ポイントポイントを指摘し、
どこが精神的に圧迫されたところか、
どうして精神的にきついのか、
逐一解説していきます。

パワハラとか過重労働とか、
不可能を強いられるという意識を持つのですが、
それを命令する方は、
相手を圧迫していることに
気が付かないことも多いのです。

具体的事例を参考に
ここだと指摘します。
資料配布予定(無料)

さらにメインは、
過重労働と家族の問題です。

過重労働とか過労死防止とかいう場合、
「働いている労働者の命を守る」
ということで、悪く言えば終わっているような気がするんです。

死ななければ良いということになってしまうのは論外ですが、
過重労働がある場合は、
リアルに見て、家族も苦しんでいます。

もちろん、夫や妻がうつ病になってしまって、
うつの看護や介護が大変だということもあるのですが、

病気にならなくても
苦しんでいる家族を見るのが辛いということもありますし、

病気にならなくても
イライラして家族に当たり散らすということもありますし、

病気にならなくても
家族と会話をすることが難しい状況になることもあります。

過重労働が原因で夫婦のチーム感覚がなくなってしまい、
離婚事件になるケースも最近増えていると実感しています。
このあたりが労災弁護士業務と、離婚復縁弁護士業務を
どちらも頑張っているならではの話ですね。

幸せになるために働いているのに、
家族を不幸せにするということもだめだと思うのです。
みんなが幸せになるようにすることこそ
働き方改革だと思うのです。

このモデルケースでは
旦那さんは一時重いうつ病にかかります。
奥さんもどうやらうつ的傾向にあったようです。

どこが、奥さんが精神的に圧迫されたポイントか
という問題もさることながら、
奥さんがどういう風にうつを乗り越えていったか
ということを
詳細に報告することとなります。

言い切ります。
世界中でこのような研究テーマでの
過労死防止シンポジウムはない
はず。

そして、宮城会場恒例のミニコンサート
また今年もあります。
今年もビッグネームです。

あの翼の折れたエンジェルの作詞作曲で有名な
高橋研さんが友情出演してくださるという
涙ものです。
無料なんです。

私は、高橋研さんと言えば、
加藤いずみさんの
好きになって良かったが
カラオケの持ち歌なので、
とても尊敬しています。
とても楽しみです。

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