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「汝の敵を愛せよ」、紛争学(ウインウイン)と代理人の役割 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

紛争学というといかにもいかめしい響きがありますが、
「ウインウイン」なんていう言葉は、紛争学が発祥だと思うのですが、
割とポピュラーになっていますね。

アメリカ調停技術の理論から発生した学問で、
特に継続的な人間関係の紛争を解決するための理論
と私はうるおぼえで把握していました。

主として家事紛争の場面で活用されているのですが、
もともとは、会社と労働組合の紛争の研究から
理論が発展していったという歴史があり、
まさに私の業務分野に関連している学問であります。

紛争学といえば、日本では、
レビン小林久子先生が有名で、
九州大学の先生だったのですが、
宮城県や山形県に根強いファンがいて、
先生の講演会ともなると、
車を乗り合わせて駆け付けるという現象が起きます。

先生が各分野のADRのご指導をしている
お弟子さん方ともいう方々ということであります。

私は、平成20年だったと思うのですが、
地元の法科大学院のシンポジウムに
パネリストとして招かれて、
レビン小林先生のお話を聞きながら、
議論をさせていただきました。

何を話せばよいのかわからないので、
紛争学についての文献を読ませていただいたのですが、
目から鱗でした。
その後、弁護士会の執行部に入ったことと相まって、
猛然といろいろなことを興味に任せて考えていき、
このブログを開設したことも相乗効果となり、
対人関係学に突き進んでいきました。

なぜパネラーとして呼ばれたかというと、
当時、交通事故のADRであっ旋委員(調停委員みたいなもの)
をやっていて、
あっ旋委員の中から誰かが行くことになっていて、
おそらく年長の私がやらされたのだったと思います。

お互いに、相手が100%悪いと言いあっている
交通事故当事者の示談をまとめていっていた
ということから、
なぜまとまるのか
訴訟と何が違うのかという話をさせていただいたと思います。

この辺のことは詳細は忘れているのですが、
このブログのどこかに書いているので、
後で読んでみたいと思います。

紛争学の教訓(私が把握して記憶している範囲)は、
私のころまでは、複数の先輩弁護士から言われていたことで、
「人間関係を解決する」のが法律家であり、
事件を処理するのではないというところにあります。

どちらが正しいか、
どちらがいくら支払うかということばかり考えても
それは裁判は終わるのでしょうけれど、
人間関係は解決しません。

一方の言い分ばかりを勝たせると
その事件は万々歳となっても
紛争の火種が残ることにより、
新たな事件が勃発して、
結局、幸せになれない
というようなことになることを
恥としなければならない
みたいな感覚なのでしょうか。

また、多くの事案で、
実は金銭についてはそれほど重要視していないのに、
外に主張するポイントがなく、
金額を軸に争っていると
なんか違うということがあります。

「謝ってほしい」
という要求の意味は深く、
今後の人生にとっての意義は大きいことに
気付かされることがあります。

もっとも当事者は、
猛烈に不愉快だったり、傷ついていたりしているわけですが、
必ずしも、それがどこから来るかわからないことが多くあります。

実は、報酬がもらえなかったこと自体に不満が集中しているよりも、
これだけクライアントのために努力して
それを相手が知っているのに、
その努力を否定するかのような金額の根切に対して、
自分が馬鹿にされたというところに
一番のわだかまりがあるなんてことがあります。

相手も、
とにかく金銭を支払いたくないという一点張りで、
相手の人格を傷つけたことを自覚しないまま、
全面的にこちらの落ち度を主張してしまい、
全面戦争になってしまうということがあります。

それは当事者では、なかなか言葉にして
裁判所などに伝えることは難しいのです。

調停委員が、事案をよく理解して、
双方の本当に言いたいことを言い当てて、
双方がそれなりに問題を解決する調停案を作れれば
それでよいのですが、
紛争で葛藤を強めている当事者がそれをすることは
なかなか難しいという実情があります。

だから弁護士が代理人になるのだろうと思うのです。
もちろんこれは私の考えです。
一般かしなければならないということではないのですが、
できれば頭の中に入れていただきたいと思うのです。

弁護士は、依頼者の真意、紛争の要点を把握し、
相手方がどうしてそのような行動をとったかを推論し、
双方の言い分が、法的レベルで対立していたとしても
法理論とは別の座標軸から、
解決の糸口を探し出すことで
紛争を解消することが可能となるはずです。

これに対して、弁護士は、当事者の利益を追及するもので、
その利益は人それぞれ違うとしたら
金銭的な追及をするしかないという考えもあり得るでしょう。

ただ、この考えでは、
弁護士は、依頼者の利益を法律理論で翻訳し、
相手方とは相いれない関係にあることを前提として、
優劣にすべてをかけるということになってしまいます。

紛争の解決にはつながりません。

確かに価値観は人それぞれなのかもしれません。
だから、打ち合わせが必要なのだと思います。

どうして、弁護士を依頼したいのか
法的手続きの中で、本当に解決したいことは何か、
要するに、何のために事を起こすかということですね。

ここをしっかり押さえて、はっきりしないと、
望み通りの結果を出しても満足されないことが
多くあります。
ほぼ完ぺきな仕事をしても
こちらに怒りをぶつけられる場合だってあるのです。

私は、人間の価値に多様性があるとしても、
弁護士が、自分の人格に基づいて提案することは
必要なことだと思うのです。

訴訟や調停は技術ではなく、
人格と人格のぶつかり合いによる
共同作業だと考えています。
その過程の中で、
依頼者、相談者から多くのことを学ぶことができ、
誰かのためにその知識を活かすことができる
そうして、生きる意欲が低下している人に
再び生きる希望を持ってもらう。

そういう素晴らしい理想があるように思えるのです。

「汝の敵を愛せよ」
勝手なことを言うとキリスト教の方々にお叱りを受けると思うのですが、
人間の紛争を解決する時の最大のツールがこれだと思います。

敵を叩き潰すのではなく、
敵を敵ではなくする
味方になるまでにはいかないとしても
対立関係を解消する。

そのためには、
敵を否定するのではなく、
敵を理解しようとすることが必須のことだと思います。

そのためには、相手を馬鹿にするのではなく、
敬意をもって接するようにするべきなのでしょう。
それが、思わぬ失敗をすることを防止する秘訣でもあります。

当事者は、葛藤が強いために、
なかなか自然とこういう考えになることはできません。

弁護士は、依頼者の100%の味方なのですが、
それは、依頼者の表面的な言動に忠実に従うのではなく、
自分と依頼者の人間関係に基づく共同作業の中で、
依頼者の真の利益について問題提起をして、
一緒に構築していくことなのだと思います。

だから、どっぷり依頼者の感情に追随するのではなく、
岡目八目が発揮できる位置に立ち、
依頼者の本当の利益を害しないように
依頼者に代わって、依頼者の敵を愛する
という作業こそが必要なのだと思います。

危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道 [家事]

私は、弁護士なので、自分が担当していない事件については
理由がない限りコメントできないと思っているので、
今までコメントしてこなかったのですが、
あまりにもヒステリックな議論が横行していることを憂慮して
書かざるを得ない気持ちになっています。

今年1月に起きた長崎の女性死亡事件と
4月に起きた父と子の死亡事件について
離婚した男性の殺人だと決めつけて
面会交流中に起きたのだから、
面会交流は危険だという印象を与える操作を
ネット上で展開している人たちがいます。

ちなみに長崎の事件は犯人は特定されていません。

ところで、親子心中事件はそんなに多いのでしょうか。
政府統計によると、
平成26年の子どもを巻き込んだ心中事件は27件
うち23件は母親の心中で、父親の心中は二番目にも入りませんでした。
ほとんどなかったという結果です。
心中以外の虐待死は、母23件(363.6%)、父3件

25年ですと
心中事件 母18件、父13件
心中以外 母16件 父8件

24年ですと
心中事件 母24件 父6件
心中以外 母38件 父3件

23年は
心中事件 母33件 父表示されず
心中以外 母33件 父11件

それ以前も母の手に係る子殺しは二けたを維持しているようです。

但し、母親の子どもに対する殺人事件の少なくない割合に
出産日の殺害という類型があることは気に留めておいてください。

離婚後の殺害という分類はありません。

この統計を見ると、
仮に、長崎と兵庫の事件が離婚後の元夫の犯行だとしても
極めて例外的な事件であることがわかります。

一般的に
「離婚前後はお互いに気持ちも生活も落ち着いていない時期である。そのようなときに面会交流をおこなうことに危険が伴うことは、素人でも理解ができる。」

という根拠にはならないことは、
資料を隠されなければ、
学生さんも理解できるところでしょう。


では、離婚後しばらくすると葛藤がおさまるのでしょうか。
ある類型の離婚事例では、私のみてきた事例では
離婚後数年程度では葛藤が収まらない事例が多いようです。
「子どもをとられるのではないか。」
「何か良くないことが起きるのではないか。」
と不安定になっているケースが多くあります。

その類型では、男性の方も
精神的に不安定になり、
社会生活に適応が難しくなったり、
鬱的な日常と付き合わざるを得ない
悲惨な場合が多くあります。

しかし、その反対の事例では、
再婚率が高くなるように感じています。
離婚までの時間がかかっても、
離婚後の葛藤は鎮まるようです。

どういう類型が予後が悪くなるのかというと
「逃走型離婚」とでもいうようなケースです。

多重債務を抱えて夜逃げをするようなものです。
いつまでもいつまでも恐怖が消えないどころか、
元々はなかった恐怖まで上乗せされていきます。

逃走型離婚の予後が悪い理由の女性側のメカニズムについては
既に論じていますので省略します。

「支援による子連れ別居は、女性に10年たっても消えない恐怖を植え付ける  女の敵は女」2

取り残された方の心理ですが、
先ず、わけがわからない状態に陥ります。
朝まで一緒に日常の会話をしていた家族が、
仕事から帰ったら誰もいなくなっていることは
とてつもない衝撃です。

小さい子どもがいるケースが多く、
とても心配になります。
警察に届け出を出そうとすると
赤の他人の警察官が居場所を分かっているようなことを言います。
それでも、夫に教えることはしません。

「自分だけが家族から排除されている」
ということだけが強烈に理解できてしまうわけです。

実際は妻の実家に帰ることが多いのですが、
実家に行くと近くに警察官が待ち構えていて、
警察署に連れていかれて、
精神的虐待だから近づくなと
法的根拠のない事実上の強制をしてくることも
少なくありません。

市役所に行けば、自分の家族の住所がわかる書類は
一切見せられません。
「あなたと話すことは何もない」
等と職員から言われて
何が何だかわからないうちに、
市民としても当たり前に扱ってもらえなくなっています。

一番基本となる群れである家族と
一番強権力がある公権力が、
自分のすべてを否定してきている状態です。

これまで犯罪と無縁でいた善良な市民は
自分が犯罪者というレッテルを張られたという意識を持つようです。

子どもたちとも会えません。クリスマス目前でいなくなった家族や
クリスマス後にいなくなる家族があって
微妙なニュアンスの差があるのが実情です。

子どもたちは自分を嫌っているわけではない
日常の生活からそう考えます。
学校にも通っておらず、
学校も、結局は、どんな状態でも
転校手続きを進めてしまいます。
転校先では母親の旧姓を名乗っていることもあります。

「自分が人間として尊重されていない」
そう感じてしまうことに、有り余る事情があると思います。

一番の問題なことは、
どうしてそういうことになったのか見当がつかないことです。

こういうことになると、人間の考えることは
ほぼ共通しています。

先ずは、あったことを否定したくなるわけです。
何かの間違いであり、悪い夢で
目が覚めればまた日常が戻ってくる。
悪い冗談なのだろうと最初は思うでしょう。

だんだん警察官の制服を見るにつれ
現実に引き戻されていきます。

次に思うことは、
妻の本心ではないということです。
妻の実家に操られている
警察や男女参画や弁護士が主体的に行っている。

離婚調停や裁判で、自分が認識している事実と明らかに違うことが述べられているので、
その気持ちを強くしていきます。

一向に子どもとは会えません。

ここからの対応は個性や環境やタイミングの違いで
バリエーションがあるのですが、
要するに強い危機意識への対処の方法の違いに過ぎません。

ある人は、うつ状態になります。
すべてをあきらめて、
自分が再び尊重されることが不可能だと悟り、
生きる意欲を少しずつ失っていくわけです。
だいたいが焦燥型のうつで、
突然大声でわが身の不幸を嘆きたくなる
知らない人はびっくりするような精神状態です。

ある人は攻撃的になります。
意識としては、
「自分は間違ったことをしていないのに
 どうしてこんな目にあうのか」
というような感覚なのだと思います。

この時妻を攻撃の対象とするケースと
妻は攻撃の対象としないで、
弁護士や裁判所に対する怒りを募らせるケースと
それぞれです。

このような感情の不安定さを招いた一番の原因は、
わけのわからないうちに自分が否定された
ということなのです。

人間も他の動物と同様「生きていこう」と思うわけです。
但し、他の動物と違うことは
「人間として生きていきたい」ということです。

それは、「群れの中で尊重されて生きていく」
ということなのです。

これが理由もわからずに強烈に否定されてしまうと、
人間として生きていこうということが否定されることから危機意識が強くなり、
それに負けて逃避するか、
自分を守るためにやみくもにエキサイトするか
どちらかになってしまうことは
理の必然なのです。


どうすればよいのでしょうか。


離婚は、通常どちらかが離婚したくて
どちらかが離婚したくないというものです。

離婚したい側のすることは、
最終的には、自分が離婚したいという気持ちを
相手に理解してもらい、相手にあきらめてもらうことなのです。

自分の気持ちを理解してもらうためには、
相手を理解することが早道です。

「あの時、あなたは、こういうことを言った。
 あなたの感覚では、親愛の情を示すことなのかもしれない
 でも、私は言われて嫌だった。
 だから、あなたにまじめにやめてほしいと言ったのに
 あなたは私を馬鹿にしたように笑うだけだった。
 私は、これからもああいう場面のたびに傷つくことを言われる
 自分が大切にされていないと感じると思うと
 生きる気力が失われていくように感じた」

といえばよいのに、

「あなたは、あの時、こういう言葉で
 精神的虐待をした。モラルハラスメントだ。」
となってしまうと、
とてもではありませんが、
何が何だかわかりませんから
離婚したいという気持ちを許容する気にはなりません。

「精神的虐待のつもりではないことは
 分かっていたはずなのに針小棒大だ」
と感じてしまうことは当然でしょう。

「あなたは厳格するぎるお父様に育てられたので、
 私のそういうところを見過ごすことができないで
 こういう態度をした。
 確かに言っていることは正しいことかもしれないけれど
 私もどうしてもできない時があって、
 その時にああいう態度をとられると
 自分自身を否定されているような感じで
 あなたと一緒にいるとと、自分がだめな人間だと
 思われ続けているような気持ちになっていく」

といえばよいところを

「あなたの父もDVだから、DVが遺伝したんだ。」
という主張になれば収拾がつかなくなります。

実際に理解できなくても
理解しようとしている姿勢を見せると
離婚が早くなるものです。

当事者の方々はなかなかそれが難しいことですが、
代理人である弁護士は、当事者化しないで、
そのような合理的な主張を調停では組み立てられるはずです。

離婚事件の当事者の双方の痛みに向き合う作業をしなければ
代理人とは言えないのだろうと思います。

要するに、離婚したい方は、
離婚したいほど相手の嫌なところについて
相手なりに理由があるはずだと考え
その理由を言い当ててあげる。

相手を理解しても、
それでも、今後の人生
一緒に生活をしたくない
というメッセージを伝えなければならないはずです。
そして、それが、相手にあきらめてもらう王道なのです。

しかしながら、実際は、
わずかのすきをついて、
「それは取りようによっては精神的虐待といえる」
「裁判で主張すれば離婚できるかもしれない」
というような主張が横行しているように感じます。

子どもじみたゲーム感覚です。
とても、人の一生に影響を与える離婚事件を取り組んでいるようには
思えないのです。

当事者が一対一で話し合うことは難しいことが多いのですが、
夫婦には夫婦しかわからないことが多くあります。
一概に自分を否定しているわけではないということは
代理人を通してでも伝えることができます。

離婚を迅速に円満に進めるためには、
相手の十分な理解を通じて、自分の気持ちを理解してもらう
ということに尽きると思っています。


もう一つの
離婚を紛糾させて、当事者の感情を興奮に至らしめる事情は
「子どもを会わせない」ということです。
不思議なことに、多少の暴力事案であっても
子どもたちは、親を嫌いにならないということが多くあります。
子どもの方が、当事者夫婦よりも
かなり冷静に公平に見ているようです。

親に会いたいという気持ちは
言えない事情があっても多くの場合はあります。
会いたくないといっても
いざあってしまえば、時が遡ったような
親子関係が出現することが多いです。

ただ、年齢的に親と打ち解けることができなくなる時期があり、
4,5歳の、親の手を握り締めて歩いていた時を
求めていたのでは失望するでしょう。

また、相手が打ち解けないことに動揺してしまうと、
子どもはますます打ち解けるタイミングを逃してしまいます。
最悪なのは、「どうして楽しそうにしないのだ」といってしまうことです。

気にしなければ良いのです。
一緒にできることを探すのがベストですが、
親が一緒にいて楽しい、嬉しいという
そういうことを伝えれば時期になごんできます。
無条件に大事にされることが
子どもにとって一番です。

そのためには負の感情も肯定してあげることが
辛いですが必要となるのですが
いろいろと疑心暗鬼になるのも理解できるところです。

とにかく、子どもに会わせないということが
別居親の精神的葛藤を高めます。

親子という関係を否定されてしまうことは
特に日本人にとっては、
自分の宗教を否定されたような
強烈な衝撃を与えることです。

未来永劫子どもとは会えないという考えは
とてつもなく深刻な危機意識を与えてしまいます。

離婚調停の文書で大げさな表現を使い、
子どもに会わせない
ということが
相手を挑発することになることは
理解できると思われます。

さて、そのことを裏付ける統計がやはりあります。

離婚統計ですが、
以下のとおりです。
離婚統計.jpg

平成14年をピークに下がり続けています。
これを知らないで、
未だに離婚数は増加していて、
3件に一件が離婚する時代だなんてことを言っている人もいます。

その年の離婚数が
その年の婚姻数の3分の1だ
ということに過ぎません。

結婚している夫婦は、その年に結婚した夫婦だけではありません。
もっとたくさんいるわけですから、
夫婦の3組に1組が離婚するわけではありません。

このように離婚数は右肩下がりに減少しているのですが、
次のグラフを見てください。

面会交流調停新受件数.jpg

面会交流調停や審判の申立件数は
右肩上がりに上がっているのです。

配偶者暴力相談の相談件数の10分の1が
面会交流調停の数とぴったり合っています。
これが偶然であるとは思えません。

いかに、一方が納得行かない離婚や
子どもとの別れが増えているのか
ということをはっきり示しているのだと思います。

そして、その納得のゆかない離婚や別居に、
一方的な子どもを連れた逃走型離婚の増加が
関係しているのではないかという推論が成り立つはずです。


もし危険な面会交流が増えているとすれば、
それは作られた危険であり、
大人同士、人間同士の
当然な切り結びを否定して
相手の人格を否定するやり方に起因している可能性が
極めて高いと思う次第であります。

防止するべきは面会交流ではなく、
相手の人格を否定するような別居、離婚のかたち、
稚拙でヒステリックな方法論だと思います。

【緊急】 なぜ中学生は自殺するのか 対策のための自死のメカニズムの考察 対人関係学的仮説 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

某教育委員会が小学生や中学生にあてて

緊急メッセージのプリントを配布したようだ。

どうやら、「絶対に死なないでください」

という趣旨の話が印刷されているようだ。


ついに、万策尽きて、子どもにすがっている事態になっている。

教育委員会は、というか大人は、

子どもを育てることが役割であり、

死への誘導を絶ち、

生(健全な成長)への誘導を行うことが

その責務である。

もはや、誘導する方法が分からなくなり、

「死なない」という結論だけを

大人ができない代わりに

子どもに実現してもらおうと懇願しているわけだ。


また、「死ななければ良い」という発想をあらわにしており、

子どもたちの幸せよりも、

苦しくても不幸でも傷ついても

死という結果が生じなければ良い

という発想があらからまであり、隠そうともしない。


そして、それを誰も止める人がいなかったわけだ。

まさに教育の断末魔を聞いているような暗澹たる気持ちである。


これは、きっと、

どうして中学生が自死するかというメカニズムに全く興味を持たないため、

考えていないのだろうと思い、

緊急で仮説を申し述べたい次第である。



1 自死者の心もち


  自死者の心もちは、自死未遂者から聞けばある程度知りうることだ。

  共通することは、

  生きようとする意欲が失われているということだ。


  それはどういう心持かというと、

  高所から転落しつつある人の心もちと似ている。


  転落者は、瞬時に、「もはやこれまで」という気持ちになる。

  その結果、一瞬にして気絶したり仮死状態になるそうだ。


  本当の絶望とは、生きる意欲を失ってしまうことだ。


  これは、物理的に、生命身体の安全回復が

  不可能であると悟った場合である。


  人間が感じる危険は、生命身体に限らない。

  特定の対人関係の中で、

  自分が尊重されて存在することに対する危険

  対人関係的危険も感じる。

  詳しくは対人関係学で検索してほしい。


  左上のリンクだったり、

  このブログ



  対人関係学的危機は、要するに、その群れから排除される

  という危険を感じることだ。

  

  ただ、身体生命の危険と違って

  対人関係学的危険は、すぐに結果が出ない。

  もしかしたら、もしかしたらという

  排除の予期不安だけが来る日も来る日も

  押し寄せてくることになる。


  助かる方法はないと感じ、

  緩やかに転落していく。


  あるいは、誰も人がこない山中に

  両手両足を縛られて

  脱出できないようにして

  ただ死を待つ感覚なのだろう。


  抵抗は無駄だと悟ったとき、

  生きる意欲も徐々に失われていく。


  転落や猛獣に目の前で遭遇した場合、

  仮死状態になったことにより命拾いをする

  ということがあるらしい。


  対人関係的危険の時も、

  うつ状態になって命拾いをするということがあり得るかもしれない。


  しかしながら、向精神薬の服用などで

  無駄な元気が出てしまうと、

  生きる意欲が無くなるだけでなく、

  「自分は死ななければならない」

  という意識に変貌していく場合があるようだ。


  こうなってしまった後で、

  「絶対死なないでください。」

  ということが、あまり役に立たないことは

  すぐに理解できることだと思う。


  いじめをしている方だって、

  殺そうとしているわけではないし、

  死ぬかもしれないと思っているわけでもない。

  「絶対に死なないでください」

  という言葉は、やはりうつろなものとしてとらえられるだろう。



2 対人関係的危険を感じ、絶望を抱く場面


  人間は対人関係的危険を感じると

  身体生命の危険を感じた場合と同様

  安全な場所にたどり着こうと必死になる。


  どんな場合に対人関係的危険を感じるかといえば

  一番は、自分が孤立しているということを実感する時である。


  仲間の中で一段低く見られる(○○のくせに)

  自分の仲間の中での発言権が無い(お前は黙ってろ)

  嫌のことを自分だけがやらせられる。

  健康を願われないどころか暴力をふるわれる。

  弱点を責められる、笑われる、批判される。

  一人だけ、頑張っても褒められない。

  その他差別。

  等々々。


 

  そして、その原因、自分の弱点が、

  自分ではどうしようもないこと

  国籍、親の職業、病気、体質等々

  ということになると、

  自分が群れに迎え入れられるという希望がたたれてしまう。

  第1の絶望ということになる。


  第2の絶望がある。


  このように、対人関係的危険を慢性的に、持続的に感じ続けると、

  些細なことでも、さらなる危険を感じやすくなる。

  例えば、誰かに話しかけて、

  その相手が気が付かないだけなのに、

  あのせいで、自分は無視されている

  というように感じやすくなるようだ。

  かさぶたができ初めの傷口のように敏感になる。


  ささいなことが、深刻なことになる。


  中学生の時期が絶望しやすいのは、

  思春期ということもある。


  本当に微妙な思春期の男女の機微の中で、

  自分の思いが伝わらないことはよくあることである。

  

  夢破れて、自分とは何かを考える契機になることもある。


  しかし過敏になっていると、

  それさえも、自分がいじめられている要素のせいだと

  絶望感が深まるようだ。


  今度はうまくいかもしれないという

  生きる意欲が失われるからだ。



3 中学生の絶望の深さが大人の深さよりも深い理由


  先ず、中学生は大人よりも、

  これから長く生きるということが負担になる。


  これから何十年も

  この孤独と付き合っていかなければならない

  と考えて、気が遠くなるだろう。

  楽しいことがあるだろうなんて考える余裕がない。

  「普通の人はそうだろうけれど、

   自分だけは違う。」

  という意識を強めるだけの気休めはやめた方が良い。


  それから、危険の程度を把握することが困難だという事情もある。


  大人は、それなりに、失敗や困難な状況を経験しており、

  この程度の危険だと、どれくらい深刻な結果が生じるか

  ということを、無意識の中で記憶のファイリングを通して

  覚悟をすることができる。


  また、その過程の中で、対処方法が思いつくことがある。

  これらは、睡眠中に無自覚のまま行われている。


  ところが、子どもは、そのような体験が乏しい。

  特に小学校までは親の庇護が有効に働いている。

  将来を考えて絶望が深まるということは

  またリアリティに乏しいという事情もある。


  特に今の中学生は、

  強制的に将来を考えさせられている。

  社会保険のない非正規の生活についても

  折に触れ突き付けられている。


  推薦で高等学校に行くためには、

  毎日の学校生活で失敗があってはならない。

  一発試験という考え方ではなく、

  毎日毎日失敗が許されない

  という状況にあるようだ。


  そのような空気は敏感に子どもたちに蔓延し、

  自分の失敗を大人が許さないように、

  同級生の失敗に対しても不寛容になるようだ。


  それまでも中学生はけんかやいじめを経験していると思われるが、

  長期間にわたり、制裁を受けるいじめられ方を経験していない

  長期間にわたり、関係のない人からも消極的攻撃をされ、

  無視をされるという、

  これまでに経験のない類の対人関係的危機を体験する。


  そうすると、その危険の程度は

  過去の危険と照合してもその輪郭を図りかねて、

  感じる危険の度合いが著しく大きく深いものになっていく。


  悪夢は、こうして出現する。

  本来、出来事の危険の程度を

  過去の出来事のファイリングを通じてその外苑を腹に落とす作業をするべき

  レム睡眠時に、

  ファイリングしきれないために、対処のない恐怖感情がよみがえる。

  その時、悪夢を見ている。


  中学生という時期には耐えられない危険を

  持て余しているという現実がある。


  子どもの自死が早計に行われていたり

  考えが足りないで行われるというように

  子どもの絶望を軽く考えてはいけない。


  もちろん、

  子どもは、大人が感じるより深く大きな絶望を感じていて、

  その回復可能性の手段をはじめから持たされない状態にある。

  大人以上の苦しみを抱いている。

  この点をきちんと押さえずになめた対応をしても

  子どもに馬鹿にされるだけである。



4 謝った対策


  一つは、「絶対に死なないでください」

  という結論押し付け型の対策である。

  すでにたくさん批判したので省略。


  二つは、「命を大切にしましょう」

  命を大切にするのは生き物の本能である。

  この本能が欠けているとすれば理由がある。

  その理由を探究せずに

  命を大切にしましょうと言っても、

  「これから何十年も苦しみながら生きながらえてください」

  ということに等しいだろう。


  大切なはずの命を軽く扱われている子が

  そんなことを言われてどのように思うか想像してみてほしい。

  

  また、加害者も命を取ろうとしてはいない。

  どちらかといえば正当防衛という意識を持っていることが多い。


  三つは、「死ねば親が苦しむ」

  そんなことわからないで自死する人はいない。

  生きていて申し訳ないと思ってしまうから自死するのである。

  さらに苦しめる。


  四つ目は、「信頼できる大人を見つけよう」

  言っていて恥ずかしくないのかどうかわからないけれど、

  子どもがどうやって信頼できる大人とそうでない大人を区別するのか、

  変なSNSで悪質な大人に食い物にされるだけではないのか。


  五つ目は、「SOSの出し方教育、援助希求を教える

  どこまで子どもに甘えれば気が済むのか、

  人間の子どもは、本能的には大人に援助を求めるようにできている。

  それができないのは、信頼できる大人がいないだけの話である。


  大人が、死ななけれ良いようなメッセージを流し続けている中

  子どもはどんなに技術を教えられても

  自分の命をそのような大人に委ねようとしないことは当たり前すぎる。


  六つ目は、スクールカウンセラー

  スクールカウンセラーが有効なのは、

  本当は大学以降なのではないだろうか。


  人間として接触している人以外に

  その人の職業を信頼して援助を求めろということは

  はたして、中学生や小学生に有効なのか

  疑問が大きい。


  また、死ななければ良いという大人は

  「心の専門家」ということで安心してしまい、

思考提示となり

  丸投げをしてしまう傾向にないだろうか。


  それは根本的対策につながるのであろうか。

  仙台の中学校にスクールカウンセラーはいなかったのか。



5 一応の対策


  先ず、孤立が自死に大きな影響を与えていることから

  孤立を解消することが対策になるはずだ。


  これまでの中学生の自死の事例から

  どのような孤立、対人関係的な危機を感じていたか

  要素を抽出する必要があるが、

  腰を据えて、研究チームを構成する必要がある。

  行政が責任をもって、大学の講座を開設するくらいの意識で

  長期的な研究をする必要がある。


  中学校までは、

  クラス担任が、中心になり、クラスというコミュニティーを

  充実させることが肝要であると思われる。


  教科なのか、行事なのか、クラス単位で一つのことを行い、

  その出来栄えを競うのではなく、

  協力や、仲間を補うことを評価の対象とするようなことに

  意識的に取り組むことが考えられる。


  合唱大会にしても体育大会にしても

  勝ち負けという、緊張、失敗を許さないことだけが行われ、

  孤立感を深める要素だけが蔓延している状況を変える必要がある。


  そのためには、クラス担任の負担を昭和の程度まで削減しなければならない。

  クラス担任が、子どもたちの顔を見る時間を増やし

  一人一人の変化をとらえることができるようにするべきだ。


  外部の人に頼り、クラス担任を軽視するような

  現代の風潮は逆効果だと私は思う。


  暗く落ち込んでいる、自死間際の人を見つけて病院に連れていくのではなく、

  楽しそうでない子どもを見つけて、仲間の輪に迎え入れる

  ということ。


  とにかく、皆と一つのことをする

  力のないものをかばうことの楽しさ   

  という人間の本能に組み込まれた喜びを体験させることが

  教育だと思う。


  いじめを止めるのではく、

  仲間づくりをする過程の中で

  いじめが無くなっているはずだという目標設定である。



  次に、子どもたちの逃げ道をつくるということだ。


  不幸にしていじめが起きてしまえば、

  緊急避難場所が必要だ。


  緊張を解く場所ということだ。


  いろいろな理由があって、

  家庭が休まる場所ではないことが多い。

  これも親が悪いというだけの単純な話ではない。


  何をしても良い、自由な場所

  ゲームをしても良いし、本を読んでも良いし、勉強しても良い

  そうして、信頼できる大人がいて、

  話したければ話しても良いし、

  話したくなければ話さなくてもよい。


  話をしはじめたら、必ず最後まで聞いてくれる人がいる。

  途中で遮ることもされない。

  説教を言われたり、批判をされることもない。

  肯定できるところを肯定されればよい。

  自分のことを自分で決められる居場所が必要だ。


  「居場所」にいるうちに、

  生きる意欲を回復させ、

  学校の方では指導を行う。


  「居場所」が学校の導入になればよい。


  これは頭の固い大人には理解されにくいところかもしれない。



  いじめをする側、傍観する側に対する働きかけも

  考える必要がある。


  これはまさに教育そのものなのだと思う。

  

  教育とか学問とか、人間の健全な成長とは何か、

  私は、インテリジェンスを高めることだと思う。

  

  インテリジェンスとは直訳すると情報だが、

  日本語のニュアンスとしては、

  他人の痛みを理解し、他人を助けるという

  知識と人格態度を合わせた概念だと思う。


  そういう意味で、人間は一生勉強し続けるものだと

  大学で教わった。


  そして、それは、きれいごとではなく

  人間の本能的な要求であると考えるの対人関係学だ。


  だから、他人を攻撃したり、弱点を突くことにこそ

  ゆがんだ理由があると考えて、

  その理由を探究することに意味があると考えている。


  また、他人を攻撃したり

  攻撃されている他人を見ることで

  人間の本能的な能力である共鳴、共感が働き

  加害者や傍観者も人間が大切なものであるという意識が薄れ、

  その過程で心理的な苦しさが発生し、

  人間を大切にする意識が薄れるとともに

  自分を大切にするという意識も薄れていく。

  人間性が失われていくと考えている。


  そうして人間的な喜び、素直な感性ではなく

  得られる利益や、地位という

  本来二次的な価値に過ぎないものに

  人生をささげてしまうという

  不幸の連鎖を招いてしまう。


  楽しくない一生を過ごす人

  焦りの中で一生が終わる人

  安堵を感じることを許されない人

  マグロのように泳ぎ続けなければ死んでしまうような

  そんな人ばかりが増えていくわけだ。


  集団教育の中でこそ、

  人を助ける人間本来の喜びを体験させるべきだ。


  いじめをしないということを調教するのではなく、

  助け合うことが楽しいことだという

  まさに教育を行う場にするべきだと思う。


  また、大人たちがいがみ合ってはだめだ。

  学校と保護者は協力関係にあるべきだ。


  無駄なPTAの行事などをルーティンで行うことに意味はなく、

  子どもたちの様子を、誰を責めるのではなく、

  大人たちがまず、共同作業で見守るということ

  自分の子どもだけでなく

  自分たちの子どもたちの健全な成長のために

  協力し合うということ。


  そのためには、学校は隠し事をしてはならない。

  虚心坦懐に保護者から学んで見せることが必要だろう。



6 子どもたちへ


  

  ここまで読んだ未来の大人たちはいるだろうか。

  ほかの大人たちと同じような勝手なことを言っていると

  怒っているかもしれない。


  ここまで読んだ方ならわかっていると思うが、

  大人なんて大したことはない。

  未来の大人たちを教育する環境が

  情けないほど欠落している。


  それでもあなたたちは、この社会で生きていくしかない。


  先ず、大人に多くを期待してはいけない。

  全部が全部大人たちにやってもらおうと思ってはいけない。


  この記事で一つだけ理解してもらいたいのは、

  「誰かを攻撃すると自分が損をする」ということだ。

  損をするということは、これからの人生の中で

  楽しいと思える時間が少なくなるということだ。


  これは、どう考えたって損だと思わないか。


  先ず、何もできない大人を責めても

  得にもならない。

  何もできない大人を許すところから始めてほしい。


  その次に、大人が動かないのであれば、

  大人を動かす工夫をしてみよう。

  子どもは大人に命令をすることができないが、

  うまく誘導することができるかもしれない。


  できれば担任の先生を敵に回さないこと。

  信頼をしているという嘘は、やがて本当になるのだから

  どんどん嘘をつけばよい。


  学校に対して命令できる大人を探そう。

  いろいろな配布物があったと思う。

  そこに電話番号があるはずだ。

  カンパネラの切符は自分で握りしめていた。


  そうして、担当者の中には

  全く役に立たない人がいるということも気が付こう、

  一度ダメでも別の担当者であればなんとかなる

  ということがあることを知ろう。


  これは、大人になって、必ず役に立つことだ。


  

  大人が勝手に作った制度を変えるのは

  未来の大人たちだ。


  今の世の中よりももっと良い、もっと楽しい世の中を作る。

  この復讐のバトンを絶対話さないでほしい

  

  要領の良い子は、大人の敷いたちんけなレールを走り

  そのはるか先まで到達して未来を変えてほしい。


  要領の悪い子は、

  自分が苦しいというメッセージを遠慮なくぶつけてほしい

  但し、大人は、自分が子どもだったことを忘れている。

  伝える努力は必要だ。


  苦しい体験が財産になるということは本当だ。

  ただ、それには少しばかりの工夫が必要だ。


  昔の子どもたちは、

  くよくよ考えすぎることが少なかった。

  

  それは魔法の呪文を身につけていたからだ。


  「なんとかなるだろう。」

  という呪文だ。


  実際にも、身体生命の危険で何ともならないことはあるが

  対人関係的な危険で何ともならないことはない。

  

  すべては、対人関係的な危険を特有の感じ方で感じることができず、

  身体生命の危険の感じ方で感じてしまっているという

  脳の錯覚からきている。

    

  危険に対して恐怖を感じるのは、

  危険を避ける行動に出るためのきっかけを与えるため

  という理由がある。


  だから、必然的に、

  危険が起きてしまった後よりも

  危険が起きるのではないかという直前が

  最も怖い。


  対人関係的な危険で

  そんなに怖いことは起きない。


  なんか冒頭の某教育員会に対する批判が

  そのまま当てはまることばかり言っているような気がする。

  大変申し訳ない。

  もっと気の利いたことを、もっと実効性のある場所でいえるよう

  努力をすることが私の喜びなので、楽しいと思える時間なので、

  気が付いたことがあったら、

  ぜひ教えてほしい。

  お願いばかりで本当に申し訳ない。    

 

いじめ調査委員会は何を発表するべきか 中学生の自死を予防するために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

中学生の自死事案があると、

第三者委員会の調査があり、報告があるのですが、


よく、

いじめがあったとかなかったとか

あったとして、

いじめが自死の一因だったとか、

自死との因果関係は認められなかったとか、

そういう結果ばかりが報道されます。


中途半端な報道だということです。


一つには、マスコミが、

一般大衆の被害感情をあおり、

誰かを攻撃したいという意識を頼りに

視聴率や部数を稼ごうとしているところに問題があるのでしょうが、


もしかすると、調査委員会も、

その中途半端なところまでしか調査の分析が

できていないのかもしれません。


必要なことは、

じゃあ、どうすればよかったのか

ということです。


誰かを攻撃して、

いじめ加害者を攻撃して、

留飲を下げても

いじめはなくなりません。原因を分析していじめの原因を除去することが

いじめ防止だということは誰でもわかっています。


仮に加害生徒を特定しなくても

加害行為を特定して、

なぜそれが自死者を追い込む要因となるのか、

そして、その加害行為をしないために

どんな工夫が必要か

そういうことを報告し、報道してもらいたいのです。


それができないのは、

いじめ調査という制度に構造的な問題があるのかもしれません。


1 いじめかどうかを気にしすぎること


自死の原因がいじめだったのかどうかということに

あまり意味を感じていません。


いじめであろうとなかろうと、

その子を追い込んだ原因であれば

予防するべきだからです。


法律上のいじめの定義は、

「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」

となっています。


被害者の主観に依拠して定義づけされています。

メリットは、その子が嫌だということをやめるということで

理にかなっていることです。

これまでの弱い者強い者等余計な条件が無くなりました。


デメリットは、その子が「精神的苦痛が無い」と

言わせられればいじめにならないことです。

「大丈夫?」と聞いて

「大丈夫」と答えさせようとする理由がここにあります。


もう一つのデメリットは、

というか、定義を作ること自体のデメリットですが、

いじめではなければ手当てしない

という発想が出てきてしまうことです。


「攻撃ではない」

「いじめではなくからかいだな」

「その子にだけ集中していたわけではない」

と、いじめではないとするための工夫だけが進歩していきます。


学校ないし学校の人間関係という舞台で、

何らかの精神的圧迫が加えられたのであれば、

それを除去するべきです。


いじめかどうかというワンクッション

置かなければならないことに情けなさを感じるべきです。


そのためには、

「いじめが無ければとりあえずよい」

という発想を捨てなければなりません。


「いじめをなくす」

という目標では足りず、

例えば、

「みんなで、お互いの弱点をかばい合う」

とか、

「助け合って一つのことを行う」

とか、

「みんなが楽しい学校生活」

というゼロの先のプラスを目標として

指導をしていく必要があると思っています。


生き生きしていない目をした生徒がいたら

気遣いあう学校であるべきだということは

遠い理想論なのでしょうか。

そうだとしたら、子どもを学校にやる理由はどこにあるのでしょう。


2 損害賠償の証拠にされてしまう。


いじめ調査委員会には強制権限がありません。

このため、事情聴取を断られることが多いようです。

特に加害者とされる生徒と保護者は拒否するようです。


うかつなことを良心に任せて言ってしまって、

それが記録として残ってしまい、

あるいは結果として報道されてしまい、

後で裁判の証拠として出されてしまうと、

損害賠償を払わなければならなくなると思うことは

あるいはやむを得ないことかもしれません。


自分の言ったことが

どの程度原因とされるかわからないことが多いのでなおさらでしょう。


一般にいじめというと

2,3人の特定グループが

執拗に嫌がらせや脅迫、恐喝を繰り返していた

というイメージを持ちやすいのですが、

それは少数です。


さすがにそういうことがあれば

多くの事例では、子どもも動きますし、

大人も動くからでしょう。


多い事例は、

結構な人数の子どもたちが

日常的にからかいと称して

その子の弱点を笑いの対象として


周囲も同調したり

そういう子どもを注意しようと思っているうちに

自死や不登校となってしまい、

何もしない傍観者といわれてしまうケースでしょう。


「いじる」という楽屋言葉が

一般的に使われているところに

大きな疑問があります。


このように誰かをいじって笑いをとるということが

否定的なニュアンスで語られないところに

日本の情けない現状があると思います。

テレビで放送するべきことではありません。


ソフトなからかいでも

それが、

からかわれる生徒が固定化されてしまい、

一方、

あまり面識のない子どもまでがいじりに参加してしまうと、

孤立感が出てきます。


だんだんと、その子と一緒にいることで

自分のステイタスが低下するような感覚が蔓延していき、

その子と人間的な交流を避けるようになります。


その子から見ると、

自分が差別されていると感じ、

その解決の糸口が見つからないと、

絶望的な孤立感を抱くようです。


そうだとすると、

確かに、あの時、あの子のいじりに参加したなとか

みてみぬふりをしたなという意識があると、

それが自死の原因になったと言われてしまうと、

それを否定したいという気持ちにもなるでしょう。


訴えられるという恐怖も出てくるでしょう。


口をつぐんでしまう構造があるのだと思います。


3 証明の程度についての誤解


いじめ調査が何のために行われるのか、

その目的をはっきりさせる必要があります。


再発防止ということが目的であれば、

実は、自死や不登校と何らかの関係があると思われることは

どんどん指摘をして、

それをしないためにはどうすればよいのか

ということをどんどん提起するべきだと思います。


多少、その出来事が本当にあったかどうか確信が持てなくても

そういうことがあった可能性があると認定できるようにするということです。


調査とはそういうものだということになれば、

いじめ調査の結果を裁判の証拠で使えない程度のものにとどめる

ということがあり得ることだと思います。


「特定の生徒○○によるいじめがあった」

「それが原因で生徒が自死した」

という認定をするべきではないかもしれないということです。


いろいろな出来事が自死につながる可能性がある

調査委員会で気が付いたのは

こういう出来事、こういう出来事

それらの出来事が、自死した生徒に孤立感を与えてしまい、

些細なこういう出来事やこういう出来事も

自分がみんなから拒否されていると

感じてしまう要因になっていった。


だから、こういうことがあったら、

生徒同士でこういうような声掛けをして、

先生はこういう形で指導をしていくことが考えられる

という調査結果の報告、答申になるべきだと思います。


ここでも、ゼロの先のプラスを目指すという発想が

予防策の提言への特効薬になるはずです。


つまり、いじめという犯罪類似の行為があるとすると

その「加害者」に対する報復をしなければならない

という一般的な報復感情が生まれてしまい、

悪は罰せられるべきだという意識につながってしまいます。


しかし、一人一人が楽しい学校生活を送るために

それを妨げるものを除去するための調査だということになれば、

自死につながる可能性のあるものを

どんどん排除していけばよいのだと思います。


あれをやってだめ、これをやってだめというのではなく、

これをやりましょう、こうすると楽しいよ

という問題提起というわけです。




人間関係で苦しむ子どもを作らないようにしたいのか、

いじめる子どもをこらしめたいのか、

どちらかを選ばなければならないのではないか

と感じているところです。

「子どものしつけに熱心な」父親が、妻から「子どものために離婚」を要求される場合に何が起きているかについて その1 [家事]

本記事は三部構成です。

順に「前の記事」に続いています。

 

1 ある離婚パターン

 

考えてみると、昔から多い事例だったのですが

子どもを守るために」という理由で

妻が離婚を申し出るパターンがあります。

 

夫が、ある日家に帰ると、

妻も子どももいなくなっていて、

行方も知れず、途方に暮れてしまいます。

 

妻に暴力をふるったことはなく

取り立ててひどい暴言もない。

少なくとも、妻よりひどい暴言はない。

 

それなのに、離婚調停の申立書が届き、

警察官が、家庭の中に入ってくることも多くあります。

場合によっては、保護命令が申し立てられ、

電話やメールをすることも禁止される上

自由に外を散歩することさえ禁止されることもあります。

 

離婚調停申立書の離婚理由を見て愕然とします。

自分が子どもを虐待していることを理由としていからです。

読んでも意味がわからないことが多いのではないでしょうか。

 

全てにおいてやる気がなくなったり、

怒りがこみあげてきたり、

精神的に不安定になりますが、

不安定になっていること自体に気づかないことも少なくありません。

 

そして、これは、誰かの陰謀なのだろうと考えるでしょう。

虚偽の理由によって、離婚を申し出るということは、

妻が浮気をしているとか

弁護士や行政、警察にそそのかされたとか

妻の両親が主導しているとか

そういうことを考え始めることも自然なことなのでしょう。

(実際そういう場合も少なくありません)

 

このように、相手に打撃を与える方法で別居が始まると

夫は、なかなか自分の行為に原因があるということに

思い当たることができなくなります。

また妻の心情を思いやることもできなくなります。

 

そもそも、「自分は間違ったことをしていない

間違ったことをしてないために自分が不利益を与えられるいわれがない」

という発想が人間の特に男の自然の発想です。

 

子どもを連れての突然の別居という方法は、

解決を遠のかせて、

事態を深刻に、双方にとって危険な状態にする

稚拙な方法であると私は思います。

 

2 夫(父)の言い分

 

確かに自分は子どもに厳しいところもあった

ということに、運が良ければ気が付くこともあるでしょう。

それだけで、立派な人物だと思います。

こういう理不尽な思いをした場合の人間の心理は、

自分を守るために、他人に原因を求めるものですし、

その過程の中で、無意識に自分の弁護に役に立つ記憶をかき集めているからです。

 

しかし、問題はこの先に進まないことです。

厳しく接したことには言い分があるということです。

 

1)      厳しくしたのは理由がある

 

なるほど、特に理由がないのにわが子に厳しくする人はあまりいません。

子どもの年齢によってまちまちですが、

例えば、おもちゃを片付けないで違う遊びを始める

勉強をしないでゲームばかりをしている。

そして、これまでも同じことを言っているのに守らない

また、大事な時に頑張らない

これを放置していると子どもがだめになってしまう

という意識があり、理由があるというわけです

子どもに八つ当たりをしていたわけではない。

むしろ子どものために行ったという意識があるからです。

 

2)      自分は子どもを理解し、コミュニケーションがとれている

 

確かに、こういうお父さんは、

子育てを妻に任せっきりという人とは正反対のようです。

妻に用事がある時は、自分で子どもを見ることができます。

遊園地やキャンプやミニ旅行に子どもを連れていくこともできるようです。

子どもの好きな漫画やゲームもわかっていて、

子どもと一緒に楽しむことができると思っています。

だから、多少厳しくしてもメリハリができていて、

子どもとしっかりコミュニケーションがとれている

と自分で思っていますし、

それはあながち独りよがりというわけではなさそうです。

 

3)      そうして、一番事態の理解ができない理由は、

別居の前日まで、普通にみんなで

一つ屋根の下で暮らしていて

会話も普通にあり、心の交流もあったのに

どうしてある日突然心変わりとなったのか

理解できないというものです。

誰が考えたって、それはそういう気持ちになるでしょう。。

本当に突然の別居という方法は

長期的に見れば紛争を拡大する稚拙な方法だと思います。

 

3 妻の実際の気持ち

  

  これは案外単純で、

  離婚調停で妻が言っている

  夫に対する、恐怖、嫌悪、不快という負の感情は

  実際に感じていることが多いです。

  一言で言って、夫と一緒にいることに安心できないのです。

  この原因は次に述べますが、子どもたちはどうでしょう。

 

  子どもたちが本当に怖がっているかどうかは

  それぞれの事情によって違います。

  

  よく妻が主張しているパターンは

  子どもが何人かいる場合、

  「一番上の長男にばかりつらく当たる」ということですが

 

  こういう場合でも、長男が本当に父親を怖がっているかと言えば、

  怖がっていないことも多いのですが、

  結果として深刻な精神症状が出ている場合もあります。

  

  むしろこの時父親を怖いというのは

  長男が厳しくあつかわれているのを見ていた二番目の子ども

  ということが多いです。

  ただ、これは、なかなか疑わしいことが多く、

  父親の行為を見て父親を怖がっているというよりは

  怖いと思うべきだという意識が強い場合も多く見られます。

  実際に会うと最初は拒否的ですが、

  父親が気にしないで遊びなどを始めると

  すぐに昔のように一緒にはしゃぐようになることが多いからです。

 

  3番目の子どもがいる場合、通常は全く怖がっていません。

 

「前の記事」に続きます。

 

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「子どものしつけに熱心な」父親が、妻から「子どものために離婚」を要求される場合に何が起きているかについてその2 [家事]

4 妻の否定的な感情の理由

 

  それでは、なぜ、妻は夫に安心できなくなるのでしょうか。

  もちろん理由があることです。

 

1)      自分が叱責されているときと同じようにつらい

 

夫だって、妻がねちねちと子どもにあたっていると

イライラするわけですから、

当然妻だって同じでしょう。

 

夫が、感情を伴って子どもを叱責すると

子どものつらい感情に、

場合によっては本人が感じているよりも

母親が強く共鳴してしまうということは、

親ですから当たり前です。

 

そうすると子どもを守ろうという意識も当然強くなります。

それでも叱責をやめない父親に敵意が自然に湧き出てきます。

 

これは、とても便利な仕組みで、

過剰な親の叱責に対する抑止効果となります。

どうしても親も感情的になることがありますが、

両親がそろっているときは、

お互いがストッパーになるわけです。

  

    大体、子どもの弱点は親の遺伝です。

    自分が言われたくないことを夫が子どもにとはいえ

言っているのですから、

    だんだんと腹が立ってくることも、

これも男も女も一緒でしょう。

    子どもへの叱責を口実に自分の悪口を言われているような

感覚になることを感じたことはあると思います。

 

    それでも調子に乗って夫が子供を叱り続けると

    妻は、「自分を無視している」

    という気持ちになっていくようです。

 

    「子どもを守るための離婚」という理由の少なくない部分に

    自分を守るためということが入っていることは当然だし

    それは通常は、子どものためになる仕組みに基づくものだ

ということになります。

 

2)      子どもに障害がある場合

 

この種の事例では、お子さんに障害があるケースが多いです。

子どもの障害については、一つ傾向があります。

父親は、それが障害であることを否定する傾向にあり、

障害がない子として接する傾向にあります。

 

母親は、障害であること認める傾向にあります。

そうして、子どもの障害に対して

男親から見れば、必要以上ではないかと思えるほど

自分の落ち度のように罪悪感を抱いているようです。

 

母親は自分で叱る分にはそれほど感じないようですが、

父親に子どもが叱られていると、

自分が障害なく生まなかったことを

父親に責められているというか、

自分のせいで子どもが父親に責められているような反応を示してしまうようです。

もちろん、父親はそんなことまで頭が回らないのです。

子どもをかわいそうだとみていないからです。

 

子どもが片付けなかったり

最後の踏ん張りがきかなかったり

勉強をしなかったりしても、

それは障害の為であり、自分が悪いんだ

という意識で、余計に子どもがかわいそうに思うようです。

 

夫が「正しいこと」を言うことにより、

妻は身を切られるような苦しみを感じていたのです。

 

これが毎日続くことによって、

母親は次第に追い込まれていきます。

終わることのない家族の営みが苦痛になっていきます。

苦痛を終わらせたいという要求が出てくることは

自然なことだと思います。

 

離婚という方法を示されて飛びつくということは

もしかしたら、夫の行動も一因となっていることも

どうやらあるようです。

 

3)      もっと端的に、夫の

 

 

 

 

 

夫の叱りによって、否定的感情だけが子どもに伝わり、

 

教育的効果がない場合が多くあります。

 

この場合は子どもは恐怖を、妻は嫌悪を感じます。

 

 

 

「ちゃんとしろ、ちゃんとしろ」と

 

結局何を言っているか伝わっていなくて

 

怒っていることだけは伝わる場合、

 

 

 

「だからだめなんだ」というような場合もそうですね。

 

 

 

傍で聞いていると同じ言葉ばかりを繰り返している場合、

 

 

 

年齢的な到達度から比べると

 

どだい無理なことをやれと言っている場合

 

 

 

子どもに何らかの事情があるのに

 

それを知らないで、理解しないで、気が付かないで

 

結局無理を強いているような場合、

 

 

 

言葉遣いが乱暴な場合

 

自分では親身になっているつもりでも

 

特に女性が聞くと大変怖いものらしいです。

 

 

 

罰として食事を抜くとか

 

家から外に出す

 

というような叱り方の限度を超えている場合。

 

 

 

こういう場合もあるようです。

 

 

 

それでも自分は悪くないという父親がいますが、

 

それはだめです。

 

こういう場合は、子どもに障害があるお母さんのように

 

毎日が苦痛になり、

 

父親が嫌悪と恐怖の対象のように思われてきます。

 

 

 

ちょうど職場の嫌な上司と

 

毎日同居しているようなものです。

 

 

 

 

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「子どものしつけに熱心な」父親が、妻から「子どものために離婚」を要求される場合に何が起きているかについてその3 [家事]

5 なぜ夫は稚拙な叱り方をするのか

  こんなことを夫がして、

  妻の言い分を聞かないで

  正しいことをするのを妨害するなという態度だと

 

  妻が行政や警察に相談して

  「それは精神的虐待です。DV男は一生治りません」

  という言葉に縋りついてしまうのですが、

  このような稚拙な叱り方をすることには理由があり、

  比較的簡単に行動を改めることはできます。

  但し、自分の行動が合理的ではなく、

  特に妻の感情を害しているということを理解し、

  妻の感情を害さないことに価値を置かなければなりませんが。

 

  では、その理由を考えてみましょう。

 

1)      父親が育った環境に原因がある場合

 

父親にやさしくされた記憶のない人が結構います。

そもそも父親と生活した記憶のない人

父親に厳格に育てられすぎて、

自分の意見を父親に受け入れてもらった記憶のない人

 

父親から厳しくされて、追い込まれたという記憶のない人も

父親から厳しくされ過ぎて子どもが絶望的な孤立感を抱く

ということを理解できません。

 

こういう父親には

子どもも、自分で考えて自分の身を守りたいという気持ちが

少しずつ出てくることを理解させる必要があります。

絶望的な孤独の恐怖を教える必要があります。

 

2)      職場での環境

 

夫の会社が、従業員に甘えているよう会社で

会社の論理が夫の行動原理である場合があります。

 

無理なノルマを課して長時間労働を強いる職場

従業員の人格を無視してパワハラをしても誰も止めない職場

 

上司に説明をすることをすべて言い訳だといわれて

許されない職場

 

下請けや取引先を食い物にするような職場

 

そのように合理性よりも

厳しさを追及している会社

人を大事にしないで、結局生産性が阻害されている

日本の平均的な会社で、

自分が扱われているように

長男を扱ってしまう

ということも見られるようです。

 

八つ当たりや報復というよりも

それが男として当然の扱いだと

思いこんでいるような印象を受けます。

 

会社の洗脳から自分を解放する必要があります。

 

3)      教育やしつけのノウハウがない

 

例えば、片づけをしない子どもに

片づけをさせる方法を知らないということです。

知らないくせに、片付けさせたいので、

「片付けろ」と求める結論を連呼するしかないのです。

 

片づけをするように誘導することができないのです。

せめて、なだめたりすかしたりという知恵があれば

もう少しうまくゆくでしょう。

 

4)      子どもの事情を考慮できない

 

子どもが、どうしてそういうことをするのか

あるいはしないのかについて

情報量が少ない場合があります。

 

原因がわからないのに

行動の修正を誘導するということは難しいことです。

それはイライラもしてくるでしょう。

 

この間知ったことですが、

耳から聞く情報が頭に入りにくい

というお子さんもいらっしゃるようです。

 

面倒でも雑記帳を手元において

字や絵をかいて

教えるという方法をとると有効です。

 

また、集中力が足りない、続かない子どもは

多くいますし、また

将来知的職業に就く人の子どものころというのは

大抵そんな感じです。

興味関心が、次から次へと移ってしまうのです。

 

こういう子どもでも

一緒にいることで、集中力が続くことがあります。

中学校の部活動の顧問みたいなものです。

 

しかし、偶然うまくいっただけなので

どうしてうまく言ったのか教訓がわからず、

妻ではなく自分がやったほうがうまくゆくという

勘違いが起きる理由もここにあるのです。

 

5)      理想が高すぎる

 

自分だって子どもの年齢の時は、

そんなに大してきちんとできていなかったのに

子どもに多くを望む人もいます。

そりゃあ、大人になった今なら簡単でしょう。

子どもの時に、自分が要求していることが

できていたかということを

振り返ることができない人も多くいるようです。

 

6)      正しさに価値観をおくこと

 

やはり男性の方が多いようなのですが、

正しいことをやっていればうまくゆくと信じている人です。

もっとわかりやすく言えば

間違ったことをしていないのにどうしてつらい思いをするのか

と、自分の境遇について思考停止になってしまうヒトです。

 

正しさは、一つではない

そうだとすると正しさがぶつかり合うことがある

 

    一見正しいようだが、

    個別事情という情報を見落として結局正しくない場合がある

 

    正しさは他人同士を規律する概念であり、

    家族を規律する行動規範は

    相手の気持ちを大切にするということだと

考えることはできませんでしょうか。

    そういう考え方もあるかもしれない

    という程度でよいので、そういう視点を持ってみると

    見えてくることもあるようです。

 

6 どうすればよいのか

 

1)      もし、やり直すことができた場合

 

まだ、妻が我慢しているうちに

夫は行動を修正するべきです。

何よりも、このように、

子どもの都合も聞かないで正しい事ばかり押し付けていると、

子どもは父親の話を受け付けなくなります。

 

人間も他の動物と同じように、

自分で自分の身を守りたいという要求があります。

この思いが強くなる時期が反抗期と言われる時期です。

 

自分の行動を自分で決められないということは

自分の身を自分で守れないという意識となり、

それは、生きることの妨害者として意識付けされてしまうからです。

 

逆に、すべて親の言いなりになる場合は、

親の言うことを聞かないと自分で何もできない

依存体質になりますので、

子どもの健全な成長を妨げるだけのことです、

 

    それぞれの事情に合わせた解決方法が必要なのですが、

    一つの方法論として

    チームとして行動するということがあります。

 

    家族というチームの中の

    両親というユニットで対応するということです。

    

    子どもの問題については、

    特に叱る場合は、

    母親と相談して、情報を共有し、

    どう誘導するかという観点で意見を出し合う

    ということです。

 

    そして、自分が子どもをどうしたいという

    理想から始まるのではなく、

    今の子どもの状態を0として、

    ここからどう誘導してプラスを増やしていくか

    という発想に切り替えると良いかもしれません。

 

    要するに、子どもを信頼するということなのです。

    子どもの人格は自分と同じところと妻と同じところと

    親と関係のないところがあり

    興味が尽きないところです。

    これを楽しむことができれば幸いです。

 

    子どもを縛るのではなく

    自由に行動できる部分を承認するということなのでしょう。

    

    チームのメンバーを自分の思い通りに動かそうとするのではなく、

    それぞれの良いところを引き出し

    それぞれの弱点をかばおうとするということですね。

 

2)      不幸にしてバラバラになったとき

 

もし、私の分析に心当たりがあるならば、

自分の行動を修正するという方法で

チーム状態を修復できる可能性が出てきます。

 

相手があなたを怖がっているならば

安心させることをめざすことです。

 

少しずつ、安心させることです。

貴方と「一緒にいても、悪いことが起きない」

という経験を少しずつ積んでもらい

なれてもらうということなのです。

 

但し、最初は、自分の行動を修正しようとしている

ということを理解してもらう何らかの行動が必要です。

 

それは次のような文章を作成することが有効だと思います。

 

   自分の行動の何が修正すべきことだったのか

 これを具体的に、述べることです。

   その時どうすればよかったのか

ということですね。

 

例えば、

平成28年夏ごろ、

自宅で、子どものゲーム機を取り上げて隠したことがあった。

この時、子どもなりに精神的に辛いことがあり、

何もする気になれず

ゲームをすることによって気を紛らわせて、

つらい思いをやり過ごそうとしていたのに、

そんなことを聞きもしないで取り上げて隠してしまった。

子どものつらい気持ちに気づくことも、共感してあげることもできず、

ただ、勉強しろという気持ちをぶつけてしまった。

 

子どもにもうまくやれないときがあることを理解せず、

信じてあげることもできなかった。

子どもは、家族として信頼されていないという

辛い気持ちが強くなったかもしれない。

 

妻は、そんな子どもの気持ちを察して黙っていたのだから、

自分が行動に出る前に一言事情を聴けばよかった。

 

これからは、先ず、何か理由があるかもしれないという態度で、

家族を先ず肯定することから始める。

先ず、妻から事情を聞いてから、

妻と相談してから強い行動に出ることにしようと思う。

 

とか、

 

29年1月に子どもに食事をさせないということをしてしまった。

子どもにとっては食事をしないということは、

自分を家族として認めてもらっていない、

何かあったら守ってくれないという

絶望的な孤独を与えてしまった。

どんなに子どもが言うことを聞かなくても

粘り強く、子どもを尊重しながら

少しずつ修正していくように考えるし、

妻がそんなことをやめてと言っているときは、

先ず必ず妻に従い、

どうしたらよいか相談する

とか

 

相手の心を言い当ててあげて

それでよいんだというメッセージを送り続ける

ということだと思います。

 

長々と書きましたが

何かの参考になれば幸いです。

 

一番のカギは、

自分が攻め込まれている状態で難しいことなのですが、

自分を守るという発想よりも

家族の状態を自分が修正する

という意識を持てるかどうかだと思います。

 

 


母親が娘を支配し、娘に子どもを連れて別居させて離婚をさせるその仕組み [家事]


少し前に、斉藤由貴と波留が出演した
NHKのドラマ「お母さん、娘をやめて良いですか?」
が放送されていました。
大変興味深く観ていました。

離婚事件を担当していて、
貴方の妻がどうしてこういう行動をとるか
ドラマを観ている人には説明が楽になりました。
このようなことは実際に起きています。

どこまで母親が意図的に娘を操作しているのか、
無意識に行った結果なのかはわかりませんが、
娘は母親の意向を受けて離婚をするということが
けっこう起きています。


そこには極めて高度な心理操作が行われています。

しかもどうやら子どものころからの長期にわたる作業のようです。

NHKドラマでもあるのですが、
母と娘の間にある種の関係ができてしまうと、
娘にとっては母親の気持ちにたどり着くことが正解なのです。
娘は無意識に正解を探すようになります。

例えばコーヒーカップを買う場合一つとっても、
自分の母親ならばどれを選ぶだろうかと考えます。
そもそも、自分がどういうものが使ってみて心地よいか
という発想がないのです。
母親に褒めてもらったコーヒーカップを使うことが
心地よく、安心するようです。

服装もそうです。
母親に気に入られるような服装を選ぶようになります。

部活や自分の進路さえも母親の気持ちを考えます。
母親の意見がわからないと、何も決定できない
自分の選択が正しいのか不安になるようですね。
そういう風に母親に作られてしまうわけです。

但し母親も確かな意見があるわけではなく、
娘が自分の意見に従うことを求めているだけのような
そういう印象を受けることも多くあります。
(かなり無茶なことを子どもに要求して
子どもが反発して呪いが解けることもあります)

ところで、どうやってそのように子どもを飼育するか
ということですが、
実に驚くべき方法でした。

先ず、わが子に対して、孤独の恐怖を味あわせるのです。
(あるいは既にある小さな不安を無理やり大きくして)
子どもが助けを求める状況を作っておいて、

母親である自分だけがあなたを助ける存在だと
打って変わって手を差し伸べます。
子どもは、やっぱり母親が大切だと思わされるわけです。

「お前はだめな子だ。劣っている子だ。
だからみんなから見放される。
一人ぼっちで生きて行かなければならない。
現にお父さんも見捨てた。」

こう言う言葉は、
小さい子にはとてつもなく恐怖です。
自分はどうなるのだろうという気持ちになります。

子どもが十分恐怖を味わったなと思った段階で、
「でもお母さんだけはお前を見捨てない。
お母さんだけはお前の味方だ。」
と繰り返し吹き込みます。

へたをすると、フルコースで一晩中やっていることもあるようです。
但し、こういうあからさまな心理操作をやる場合と
時間をかけて誘導する場合とバリエーションはあるようです。

だんだん母親の言うことを先取りしようとするようになるようです。

このような心理操作は、子どもを心理的な恐慌に陥れるもので、
精神的虐待であり、許されない行為だと思います。

私は、こういう心理操作は、
離婚後の母子家庭に起きる場合があるものだと思っていましたが、
そうではなく、父親もいる家庭の方が露骨に行われているようです。

では、父親は何をしているのでしょう。

単身赴任や長時間労働のため、家庭にいない
ということがありますが、
むしろ、父親が気が弱くて、
母親を制止できないというケースが多いようです。
おしなべて、離婚調停等で出てくるのは
妻の母親であり、父親の影は極めて薄いです。
父親はいないものとして事態は進んでゆきます。

この魔力から離れるためにあるのが
反抗期だという言い方もできるでしょう。
親と異なる人間関係(幼稚園、学校)ができて、
その軸足が外に移動することで
呪いが解けるときがあります。

しかし、子どもにいじめなどがあると
助けてくれるのはやっぱり母親だけだという意識が強まり
呪いの威力が強化されてしまうこともあります。

支配された子どもは極めて優等生です。
自分のやりたいことをやるという発想がなく、
「お母さんなら自分にどういう風に行動してもらいたいか」
という発想で動きますので、
学校ではきちんとしており、
実力を超えて勉強をしようとします。

疲れたとか、遊びたいという気持ちは
母親が悲しい顔をするので自分で否定していきます。

「休もう」とか「途中だけどあきらめよう」
という気持ちは、
自堕落な情けないことだと
そんなことを考える自分を悪だと責めるようになります。
(過労死予備軍も同時に育てていることになります)

友だちからは、四角四面で面白くないやつ
子どもらしくないロボットみたいなやつで、
自分を守ろうとせずに先生に言つけたりしますから、
嫌われていじめられたりします。

それよりも深刻なことは、
自分で自分を守ろうとすることを放棄しているので、
他人の気持ちを考えて自分の行動を修正することも
なかなかできないままに大人になっていくようです。
なんで自分は他人に受け入れられないか
分かりません。
「こういうことをすれば、他人が不愉快になる」
ということを学習しないまま体は大きくなります。
友人関係にはあまり重きを置かないので気にしないから、
何も学ばないままになっているのです。

最初の破たんは15歳のころです。
自分というものがありませんから
自分と他人の区別がつかなくなり、不安になります。
自分とは何かということを考えることが恐ろしくなります。
友達がいないどころか、いじめにあっているかもしれません。

引きこもり、拒食、過食が始まる時期で、
それが昂じるとリストカットや薬物が始まります。

自分の欲望すべてを否定し、罪悪感をもつようです。

しかし、この時期も余計なことを考えないで
母親の言うとおりに過ごすことで安心する一群があります。
比較的成績もよく、自分が恵まれていると感じて
母親のおかげだと思うのでしょう。
偶然仲の良い友達ができて
苦しむ必要がない場合もあるようです。

そうした場合の次の破たんの時期が
大体は結婚相手との関係です。
この手の母親は娘の結婚相手を
自分が決めるという意気込みが強くあるようです。
何度も見合いをさせますが、
破談にしているのは、実質的には母親です。

娘の前で相手のことをいろいろと難癖をつけて、
娘に断らせるのです。
「あの人、あの犯罪をした人に似ているあの人」とか
「ああいう顔って遺伝するのよね。」とか

人間完璧な人はいません。
どこかに非難できるところはありますし、
好みもひとそれぞれです。

実際は、気に食わないのではなく、
娘をとられるのが嫌なだけのようです。

それでも、偶然交際が始まることがあります。
巡り合うことはそれほど難しいことではありません。
娘にとって母親以外に、
自分のことを好きだと言ってくれる人は、
とても新鮮に感じられます。

この時から、夫と母親の綱引きが始まっているのです。
繁殖期の力は侮れません。
娘は、母親の眉をひそめて断れというサインも見逃します。
難癖をつける母親の言葉は聞こえません。
むしろ、母親が疎ましくなるのかもしれません。
今まで、母親から支配を受けていたことの
その意味を急に悟るようです。
結婚直前、母親と娘の仲は良くなく、
夫は、前から折り合いが悪いように聞かされるのでしょう。

結婚し、子どもを授かることはそれほど遠い話ではありません。
しかし、ハッピーエンドとはならず、本当の悲劇はこの後始まります。

いくつかのパターンがあるようですが、
妻となった娘が理由なく不安を感じるようになります。
気の迷いだったり、
産後のうつ気味かなといわれたり、
全般性不安障害だといわれたり、
早い更年期といわれることもあるでしょう。
重い病気にかかったり、
子どものことで思い悩むこともそれは出てきます。

どうやら、現実の乗り越えるべき出来事が出てきてしまい、
そしてそれへのうまい対処がなかなかできないと
(別に対処しないでやり過ごせばよいだけなのに、)
不安になってゆき、自然と母親を求めるようになるようです。
かつての呪いが時を経てよみがえるようなものです。

また、実際に甲状腺機能の異常とか
職場での人間関係による適応障害やうつ病
不安を感じさせる要素は年齢とともに出現しやすくなります。

この時期に、夫が適切な対処をすればよいのですが、
妻に何が起きているかわからないものですから、
できたものではありません。
長時間労働等で家にいる時間が短かったり、
疲れ果てて、一緒に悩むこともできなかったり、
何か妻が暗い顔をしていると
自分が悪いと責められているような気持ちになって
逆に妻を攻撃してしまうこともあるようです。

そうすると、妻は娘に戻り、母親に助けを求めるようになるようです。

母親は、かつての日本では、
「嫁に出したのだから」とぐっとこらえて、
知恵をつけてまた来なさいよと追い出していたのですが、
今の日本では、矜持が無くなったのでしょう。

「その不安は夫が原因だ。私だけは見捨てないと」
猛然と綱引きの綱を引き始めるのです。
かつて、自分の夫を駆逐したことを
今度は娘の夫に対して行うわけです。

「貴方の不安は正しい。不安を持つべきだ。
貴方はひどい目にあっている。
早く逃げないとあなたも子どももだめになってしまう。」

これに役所や警察が裏打ちするわけです。
「あなたの不安は正しい。不安を持つべきだ。
 あなたが受けているのは精神的虐待だ。
 早く逃げないとあなたも子どももだめになってしまう。」

そうすると、娘に戻った妻は、
幼稚園の時に母親からベッドで聞かされた
怖い思いと、その後に来る安心感を思い出して、
夢中で母親の気持ちを言い当てようという傾向を
取り戻してしまうわけです。

夫と別居して母親の元に戻る
ということをあっさりやり遂げてしまいます。
自分が求められているのではなく
母から見た孫を求めていることも察していますが、
喜んで差し出すわけです。
母親が喜びさえすれば安心だ
というパターンを復活させているからそれでよいのです。

これが徹底すると調停に出てくる離婚理由は、
・夫が自分の母親に失礼なことをした
・母親の話では夫はこんなことをしていた
ということになるわけです。

「自分」という存在がかつてのように失われ、
母親が自分の体と心を乗っ取るわけです。

夫とともに「自分の気持ち」も失います。
また、子どもから父親を奪います。

そうして、父親を排除して
また自分と同じような娘を作ろうとするのです。

実際は、子どもが男の子の場合も多くあります。
マザーコンプレックスという言葉がひところはやりましたが、
おそらく、少なくない部分で、
洗脳めいた活動がなされた母親依存症なのだったのかもしれません。

封建制度の昔は、家長とか戸主がいて、
また道徳が人々の心に明確があって、
このような行為は、諌められていたようです。

封建制度を否定したからといって、
家族を大切にするという作業、行動を
否定してしまっては、
人間は健全に成長できない仕組みになっていると思います。

今家族は分断されています。
若い夫婦は、何も知識も経験も
伝統や慣習も受け継ぐことが困難な状況にあります。
よこしまな気持ちに無防備な状態です。

そうであれば、
やはり公的に、家族の在り方を研究し、
家族を壊すものを解明し、
家族を維持し、楽しい生活を送るということを
科学的に研究するべきだと思います。



過重労働が与える家庭への深刻な影響 妻のパワハラと子どもを連れての別居と離婚調停に至る経過(全般性不安障害) [労災事件]

過労死・過労自死遺族の会東北希望の会の
今年度の年間テーマは、過重労働の家庭に与える影響です。
昨年は、「どのようにして死ぬ前に過重労働職場を離脱したか」でした。
過労死防止啓発シンポジウム宮城ご報告 解決例の蓄積と他人の目の導入 survivor8

私は、過労死と離婚が今仕事の二本柱なので、
そういうことが良く目につくのでしょう。

過労死で死なないまでも、
それによって、家族が不幸になっていくということがあるので、
死ぬほどひどい職場でなくとも
(たまたま死者がまだ出ていないだけかもしれませんが)
過重労働はなくさなければいけないと思っているのです。

また、家庭に影響が出始める過重労働があるということは
死亡に至る危険が高まってきている
という指標にもなるようです。

離婚調停の中で、
妻側が、資料を出してくることがあります。
どういう事情があって離婚したいのか、
どこでどう相談をして、どういうアドバイスをもらったか
という資料です。
なぜか最近、よく出てきます。

その資料を見ていると、
勉強をして、曇りのない目で分析すれば、
「ああ、これは夫とは関係がなく追い込まれていたのだな」
ということがわかることが多いので助かっています。
どんどん資料を出してもらいたいと思います。

それに、一緒に住んでいた夫がいるのですから、
知識を補充することができます。
立体的に自体が把握できる貴重な事例ができあがります。

例えば、
子どもを連れて別居した妻の事例がありました。

このお母さんは、働きながら子育てをしていた方でした。

4月になり、職場の上司が変わりました。
この上司との折り合いが悪く、
夫に相談をすることが頻繁となりました。

(この時夫は、適確なアドバイスをしてしまったのですが、
 本当は、「それは大変だね。」と
 まず共感を言葉で示すことが必要でした。)

職場での軋轢がひどくなったのは、秋ごろです。
元々、まじめで責任感のある女性だったので、
上司の言うことをまともに受け過ぎたのかもしれません。
いろいろな言葉を受け流すということができない人でした。

だんだん、上司の言葉を悪くとるようになってしまって、
漠然と
何か良くないことが起きるのではないか、
自分ばかり損をしているのではないか
というような不安を抱くようになり、
あまり眠れなくなったようです。

もっとも、自分では全く眠れないと思っていますが、
実際は、短時間かもしれませんが眠っていたそうでした。
(夫のはなし)

年末から、不安は夫に向かうようになりました。
夫から何か言われると、
自分が責められているのではないかと思うようになり、
むきになって反論をするようになりました。

「コーヒーが飲みたいね」といわれると、
「自分ばかりコーヒーを飲みやがって、俺にもいれろ」
といわれたように受け止めるような感じです。
そういう風に受け止めた結果、
夫に対して、あれこれ不満をぶちまけて切れた状態になるのです。

子どもが散らかしているのを叱って片付けさせようと夫がすると、
自分のせいで子どもがまともではないと言われたような気になって

ただ夫が肩のあたりをポンポンと叩いたのに、
頭を叩いて首根っこを抑えつけて体を制圧した
と受け止めていたようです。
ただ、この感覚は、おそらくリアルタイムでは、
なんとなく嫌だなという気持ちだったのに、
時間をおいて、
具体的な記憶(真実ではない記憶)にすり替えられていく
といった感じでした。

年が明けて3月に、妻は、
子どもを連れて別居しました。
夫に何も言わないで突然でした。

ほどなく離婚調停が起こされました。

その中の資料で、
全般性不安障害という診断を
2月に受けていたことがわかりました。

全般性不安障害とは、
1. 仕事や学業、将来、天災、事故、病気などのさまざまな出来事または活動について、過剰な不安と心配がある。しかし、その原因は特定されたものではない。
2. 不安や心配を感じている状態が6ヶ月以上続いており、不安や心配がない日よりある日のほうが多い
3. 不安や心配は、次の症状のうち3つ以上の症状を伴っている。
o そわそわと落ち着かない、緊張してしまう、過敏になってしまう
o 疲れやすい
o 倦怠感
o 動悸・息切れ
o めまい・ふらつき感
o 集中できない、心が空白になってしまう
o 刺激に対して過敏に反応してしまう
o 頭痛や肩こりなど筋肉が緊張している
o 眠れない又は熟睡した感じがない

という病気だそうです。

精神科医の診断ですから、この基準に則って診断されています。
要するに妻は、
2月の6か月以上前から不安を抱いていたことになります。
前の年の9月頃からですね。

夫との関係は良好だったのですが、
仕事でのストレスが徐々に高まっていった時期だということになります。

その後の年末にかけての夫との緊張関係は、
この全般性不安障害が原因である可能性があるわけです。

即ち、病気のために、悪く悪く考えるようになり、
ちょっとした夫との会話も
自分を責めているのではないかと受け止めてしまうようになったということです。

妻に悪気はないので、
このことが分かったのなら、夫の方も対応を考えられました。

夫婦の場合はどうしても、
一方が不満や不安を表明する場合、
相手に対して攻撃的に発言することがある上、
そうでないとしても、
どうしても発想として、
一方が苦しんでいるのは他方が「悪い」からだと
思い込んでしまう
仮想加害者も、仮想被害者もです。

仮想被害者は、自分が悪くないと主張するのですが、
その際に、
「自分ではなく、相手が悪い」
という余計なことを口走る傾向にあります。

客観的には、どちらもかわいそうなのですが、
当事者は気が付きません。

だから、家族の誰かが悪いという発想は捨てるにこしたことがないのです。

ただ、相手が全般性不安障害に罹患しているとなると、
できれば夫婦そろって、本当は病院に行って専門医から
どういう病気で、どういう傾向があるか、
妻が不安を口にした場合、
不安で辛いということは共感を示しても、
その不安が実現するような肯定の仕方はしない。

例えば、仕事がなくなってしまうという不安に対しては、
「それは心配だね。
 もし本当にそうならば、正式に言われなくてはならないし、
 解雇の理由がないからそもそもなくならないよ。」
等と、説明することができます。
「大丈夫だよ。何とかなるんじゃない。」
というだけで安心することもあるみたいです。

その人によって違うようなので、
マニュアルはできませんが、
要は発言の後の妻の様子を見て、
安心するようなことを覚えればよいのです。

自分が責められているときも、
「ああ、不安なんだな」と受け止めることもできるし、
妻が責めれていると思う時も
「ごめんごめん。心配かけたね」
ということができるわけです。

こんなことをしなければならないのかと思う人もいるかもしれませんが
考えてみてください。
インフルエンザに罹ったときに、
布団に寝かせて、ゆっくり休ませますよね。
これと全く同じことなのです。

では、本件事例は、どうして別居になり、
離婚調停になったのでしょうか。

第1に、全般性不安障害を夫に告げなかったのです。
これでは、夫は何が起きているかわかりません。
突然、妻が攻撃的になり、
感情的になったと戸惑うだけになります。

第2に、では妻は誰に相談したのでしょうか。
先ずは自分の母親でした。
母親はしょうがないかもしれません。
病気になったのは夫のせいだと考える傾向が
最近のジジババにはとても多くうんざりします。

昔は、子供夫婦の独立と円満な生活を後押ししていたジジババは
今は、子どもに代わって相手を攻撃する傾向にあります。
我が国の文化的衰退を象徴的に示すものだと思います。
過労死の温床もこんなところにあるかもしれないと思います。

第3は、行政と警察です。
ここの果たしている役割は犯罪的だというべきでしょう。

強引に、夫の精神的虐待によって
不安が出現していると決めつけて
できるだけ早く子どもを連れて別居することを勧めたというのです。
弁護士も関与していたようです。

離婚調停で出てきた陳述書によれば、
何ら精神的虐待を示すものはなく、
客観的な調査結果からすると
つじつまの合わない不合理な主張といわざるを得ません。

要するに、極めてあやふやな話で、
簡単に家庭の崩壊を指導しているということです。

これでは不安を抱えた人が
行政機関に相談に行くと
必ず離婚を勧められることになるでしょう。

相談対応の引き出しが、
離婚しかないからです。
その必要性等一切検討せずに、
主張の裏付けを求めることもなく、
家庭を壊しているのです。

このことが離婚調停に提出された資料から
はっきりと確定できたのです。
こんな無責任なアドバイスで、
子どもは親から引き離されるのです。

夫が何が起きたかわからずに
精神的に混乱することは
極めて自然な成り行きです。

これは当該妻にとっても大きな精神的侵襲です。

全般性不安障害ですから、
根拠がなく不安になり、悪いことが起こるのではないかと
考えているわけです。

これら税金で動いている家庭崩壊軍団は、
あなたの不安は、正しいという烙印を押しているわけです。
不安に感じることは正しいということは、
あなたは不安を感じるべき環境にいる
あなたは逃げるべきだということですから、
ますます患者さんの不安を増長していっているわけです。

離婚しても親と子どもは会いましょう
なんていう曖昧な法律を作ったところで、
こういう親と子どもを引き離すことを
何の理解もないマニュアル人間たちが
税金で行っていることをやめさせなければ、
子どもたちだけでなく、親どうしも
むごい別れを押し付けられ続けるだけです。

こういう世の中ですから、
過重労働や、職場の人間関係を良好にしないと
あっという間に税金を使われて
離婚に誘導されてしまい、
子どもたちが不幸になるということになります。

失敗が許されず、緊張や不安を強いているのは、
ほかならぬ国家なのかもしれません。


続・身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 離婚調停における必須戦略と自分を変える勇気という作戦 [家事]

先日書いたブログの記事

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 杉山先生から頂いたコメントをきっかけに」

に、とても切ないコメントをいただきました。

相手の気持ちを考えてみた場合、
自分を変えることで、
あるいは自分の主張を一部譲歩することで
状況が良くなるかもしれないと思うことがあるけれど、
それはとても勇気が必要だ

というものでした。

引くことで、なるほど相手の気持ちは柔らかくなるかもしれないけれど、
それは自分が家族から益々離れてしまうことを意味することなので不安だ
それでも自分は引かなければならないのかもしれない
と思うことは、大変つらいことです。

一つ、考え方の試行錯誤を示してみます。

先ず、一歩引くことで、
現状より状況が悪くなるかどうかを見極める必要がありそうです。

ここから先の話は、
いつもと私が言っていることと違うことを言っているように思われるでしょうが、
離婚(円満)調停は、戦争なのです。
 戦争である以上作戦をたてて望まないとだめだ」
ということを対人関係学を始める前から今でも
依頼者に申し上げています。

作戦を構築するためには、
相手と自分の分析をしなければなりません。
この分析を抜きに感情のおもむくまま
調停を進めている方が多いと感じます。

相手の状況を考えるとは、
相手が今何を考えているか、
相手の望んでいることは何か、
その背景は何か、
相手の状況において、こちらに有利に働くポイントは何か
不利に働くポイントは何か。
これを考えることです。

但し、調停申立書や準備書面
調停委員から聞く相手方の発言だけで
一喜一憂していたのでは調停にはなりません。

あなたは、これまでの生活の歴史という
一番貴重な情報をおもちなのですから、
そこから、相手の変化の要因を分析する
という一番有効な分析ツールを持っていることになります。

この場合、自分が相手の変化に
どの程度関与していたかを冷静に見極める
過不足なくリアルに見極めるということが必要です。

自分が良くても悪くても、自分に何らかの原因がある
というならばチャンスです。
それを言い当てて、対応策を提示する
という爆弾を落とすことができるからです。
これが有効打になることが少なくありません。

自分の「やったこと」に問題があれば簡単ですけれど、
自分が「やらなかったこと」に原因があるというのであれば、
何をすればよかったかという分析が必要になります。

この分析方法をとれば、
あなたが実行することができる作戦を
構築することができるという利点があります。

また、自分の対応に問題があるのに、
引かないでどんどん攻め込むというのであれば、
それは自分で状況を悪化させていることになります。

この場合、一歩退くことは
自分の感覚では後退しているように見えても、
客観的には、ずんずん前進している
ということになります。

もしかすると、退いているように見えるだけ
ということがあるのです。
状況分析をしていないことによる
戦略ミスということになります。

相手を理解し、自分を理解するということは
離婚する時も、修復する時も必須の作戦で、
離婚でもめているときこそ、
相手を理解することに力を入れるべきなのです。


ここで、相手方弁護士や行政、調停委員に
責任を擦り付けてしまったのでは、
武器を持つことができません。
状況を変えていくためには、
やはり自分の行動を修正することが
最も確実にできることなので、
そこを考えることが有効であると思います。

自分の行為で相手が嫌がっている部分を
冷静に周到に分析する必要があるわけです。
分析ツールが、言わずもがなですが、対人関係学なのです。

自分を攻撃してきていることは、
自分を怖がっているからかもしれない。
相手が仲間はずれにされる不安を感じているからかもしれない。

怒りという助けがなければ
自分にものが言えないだけなのかもしれない。

そういう発想に立ってみると見えてくることがあるようです。
もしかしたら、
あなたが相手に対して現状を怒りを持っているのは、
あなたが不相当な攻撃を受けていることが原因かもしれません。
自分が悪くないのに、子どもを連れて出て行かれた。
状況が呑み込めないまま警察と一緒に相手がきて
荷物を持ち去られるままにしなければならなかった。


なにくそと怒りが沸き立たなければ
自己効力感が無くなり抵抗力が無くなってしまいます。
だからどうしても攻撃的になることは
仕方がありません。

ただ、ここで、攻撃一辺倒となると
家族を守ることができません。
ここでいう家族とはご自分も含めてということです。

また、逆に、自虐的な分析も有害です。
相手の心には響かないため、
事態が打開できる有効打にならないからです。

先ず、良い悪い、正しい誤りという評価をしないで、
どうして相手がそういう心情になったのか
冷静に過不足なく分析することが必要だということになります。

分析が終わったら、
分析結果を相手に示すことが必要です。
相手を理解していることを示すこと、
自分を理解してもらおうとすること。

これも、夫婦の歴史の中で生まれてきた
経験に裏打ちされた独自の言語があるはずなのです。
この相互理解が欠けていたために
チームが遊離している状態が
家族紛争だと思います。

やや抽象的な言葉に終始しましたが、
戦略上最も大切なことは、
「どうしたいか」ということの自覚です。

「やり直したい」という気持ちがあるならば、
それを前面に立てることが必要です。
弁護士や友人に堂々と宣言しましょう。
無理だというヒトとは別れればよいです。

そうして、やり直したいということと
矛盾した行動を自分がしないように
見守ってもらうことが大事です。

但し、目標は
大目標の外に、中間目標を用意することがコツです。

毎回最終決戦で、こちらの言う通りにしない相手に怒っていたのでは
距離が縮まるわけがありません。
手をつないで歩く場合は、
一番遅い人の速度で歩かなければならなりません。

また、手をつないで歩くだけで
幸せですから、
先を急ぐ必要もないわけです。

今日はここまで進んだからいいやと
そういう評価の仕方を導入してください。
結論に到達しなかったからだめというのは、
あまりにも非科学的な、ないものねだりではないでしょうか。

そのためには、相手の反応を見極めて、
どこまで進むべきかということは
臨機応変にその場で定める必要があります。

また、そこに向かうためには、
無理な方向から攻めるのではなく、
相手の一番弱い部分から変化をさせていくことが肝要です。

さて、また、最後に誰の利益を目標とするべきか
という問題をお話ししなければなりません。

例えば、面会交流の場合、
当事者の方が、「子どもに会いたい」ということを
いうことは仕方のないことですが、
それだけだと負けてしまいます。

「会いたい」と「会わせたくない」の争いだと
裁判所はあまり積極的に介入してもらえない傾向があるからです。
本当は、人情的にも、
子の親を子どもに会わせたいんだということで出発したとしても、
私はそういう言い回しは、ここ何年かしていません。

子どもをこの親に、大人たちが努力して
あわせなければいけないんだということであれば、
誰も賛成しないわけにはゆきません。
ここから、裁判所も出発しなければなりません。
そのために、どうやって障害を取り除いていくか。
という議論に進めるということですね。

ところが、そう言っても、
なかなか子供の視点で調停が進みません。
ここだけは、何度も何度も
調停委員や裁判官、調査官を説得しなければなりません。
反対しないだけでは足りずに、
賛成してもらわなければなりません。

先ず、子どもの視点から始めるべきだということですが、
その先にあるのは、家族というチームの在り方の問題です。

子どもの健全な成長のためには、
家族構成員間に、最低限度の信頼関係が必要です。
家族のかたちはそれぞれあります。
同居の家族もいれば、一部別居の家族もあるわけです。
しかし、子どもを健全に育てるため、
お互い悪口を言わず、
子どもに親を誇れるように協力しなければなりません。

ここを目標にすることが
客観的というか理屈では求められているのだと思います。

自分の利益と、家族の利益は
常に一緒であることが理想なのですが、
表面的には、自分の感情を殺して
家族というチームの状態を悪くしないことも
必要な局面があるように思われるのです。

「自分」とは何でしょう。

家族間で対立しながらも、
配偶者がいて子どもがいれば、
別居しても、離婚しても
やはり家族であるし、
家族であると考えることが必要だと思います。

離れて暮らしていても
家族相互にいたわり合うことを続ける必要が
どうしてもあると思うのです。

自分とは、
そのような家族も含めて
家族を持った人間であることなのだと思います。

家族のためにできること
別居しても、離婚しても
それは必ずあるのだと思います。

離婚に際して、そのようなことを考えなくて済む国は、
実は先進国では日本だけのようです。
離婚後をしたら今生の別れという
非科学的な信仰を持ち続けているのかもしれません。

一度家族を作ったということは
消えない大きな出来事であるということが
世界標準の考え方であり、
人間を大事に考える考え方だと思います。

いま日本で苦しんでいる人たちこそ、
自分を大事にするということの意味を考え、
人間を大事にするとは何かを提起していくことが
求められていると思います。

あなたでなければできないことの一つだと思います。
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