So-net無料ブログ作成
検索選択

子を連れて別居した妻に対して家族再生を進めるために克服するべき夫の2つの誤った意識傾向 [家事]

子どもを連れて別居するお母さん方は、
いろいろな不安を抱えていらっしゃいます。

夫が暴力などを行わない場合であったとしても、
病気が原因であろうと、
誰かの無責任なアドバイスがあろうと、
自分の夫に対して「怖い」という気持ちがあります。

この怖いという感情が夫には理解ができないところです。
それはそうかもしれません。
今までひとつ屋根の下で生活していて、
一緒に笑ったり、相談を受けたり
ガンガン言い返されたりしていたのに、
自分のことを妻が怖いと思っていると言われても
なかなか実感が持てないということは理解ができるような気がします。

だから、自分の元を去った妻が子どもに会わせないことは
妻の嫌がらせだと自然に考えてしまうのだと思います。
自分の元を去ったことも、誰か新しい男性ができたのではないか
ということを考える人も多くいらっしゃいます。
調停や訴訟の妻側の言い分を書いた書類を見ても
まさか妻が書いているはずはない、
弁護士がいいようにねつ造して主張しているんだ
と、思う傾向にあるようです。

金銭的な条件が悪くなることや
子育てが大変になることを
(ある程度)覚悟して別居するほど
妻が追い込まれていることや
必死になっているということを
理解することができないのです。

自分は理由のない攻撃を受けていると夫は思っています。

本当は、そういう夫たちも
また、夫婦と子どもたちで生活をしたいと
思っていることが殆どです。

だったら、
妻の心情を理解して、自分の行動を修正することが
どうしても必要なのです。

先ず、妻が、自分を怖がっているという事実を認めなければ
話は始まらないのです。

ここで合理的な行動に進まない二つの理由があります。

一つは、自分は間違ったことをしていないという意識です。

なるほど彼は正しいのです。
勉強をしない子どもを注意したり、
きちんと話を聞かない子どもを注意したり、
家計簿をつけない妻に家計簿をつけるように言ったり、
子どもに無駄な出費をする妻に反対意見を言ったり、

間違ったことを言っていないから
自分の行動を修正する必要はないという意識こそが間違いなのです。

知らず知らずのうちに、夫は
妻に対して100点を要求しているわけです。
あるいは常に80点以上とか。
それができないと、否定的感情をあらわにしてしまうのです。
これはパワーハラスメントと似ています。

相手の事情を考慮せずに結果を出すように要求するわけです。
片づけをするのは当たり前だろう、掃除をするのは当たり前だろう
ということで当たり前なのですが、
できない人もいれば、できない時もある。
そこを許すというか、受け容れることができないようなのです。

できなければしょうがないということが
なかなかできないようです。

どうも、姑(しゅうとめ)的な視点、評価者になっているようです。
だから妻も、
夫の母親からも馬鹿にされているのではないか
という意識を無自覚に持ってしまい
ますます息苦しくなるようです。

妻のできないことを夫が補えばよいのですが、
自分はこんなにできるんだぞということを
無自覚にアッピールしてしまう場合が最悪です。

妻が、自分の弱さ、不十分な点を
日常生活で隠したりごまかさなければならないとしたら、
家にいて安心することができません。
夫と同じチームにいる実感が無くなり、
ただ自分を攻撃したり責めたりするだけの
夫から逃げたくなるようです。

これから別居した妻と復縁したいという場合でも、
妻の落ち度をSNS等でアップしている人もいます。
同じ仲間の落ち度を他人にさらすということは
仲間としてしてはいけないことです。

仲間であるということは
相手の弱点を受け入れる、
失敗は目をつぶり、自分が補う
ということなのだと思います。
なかなか難しいことですが、
自らを戒めたいと思います。

もう一つの復縁を阻害する意識は
対抗心です。
無意識に妻と対抗心を持ってしまうようです。

これは子どもを連れて出て行かれた以上
ある程度やむを得ないことですが、
一番は、
「妻だけが子どもと時間を過ごすことができて
 自分は一人でいなければならない」
相手がずるいという感覚です。

どっしりと受け止めて、
自分を怖がること自体を受け止める必要があるのですが、
なかなか難しいです。

別々に暮らしてなお、
相手とはりあおうとしてしまいます。
妻は、それを何らかの方法で感じ取って
息苦しさ感を強めるわけです。

この間違っていないという意識と
対抗意識は、
自分の行動を修正することを妨げます。

間違っていないといっても
妻は追い込まれている
どうしていいかわからない状態になっているのです。

間違っていなくても
先ず、仲間である妻の感情を優先し、
相手を追い込まないことに価値を置くべきだと思います。
相手の弱さを許して、
相手が自分と同じチームの仲間なのだと
安心してもらうことにこそ、
最大の価値を置くべきなのです。

自分から間違いを指摘されたり、
非難されている妻がかわいそうだと思うことが
出発点にするべきなのです。

妻が喜ぶならば
自分が二の次になってもむしろ喜びであった
結婚直前の時の状態を再現するべきなのです。
あの時できたのだから、
さらに自分の子どもを産んでもらったのだから
そもそもこんな自分と一緒にいてくれているのだから
最大限の尊重と保護をするべきなのです。
(鋭いブーメランが自分をえぐる)

変な男女平等
つまり男も女も全くの平等だという意識は捨てるべきです。
対人関係学的に言っても、
女性は、男性に比べて(個別具体的な男女ではなく総体としての男女)
チームの中で安定したポジションにいることを欲する傾向にあります。

大事にされなければ傷ついてしまう傾向にあります。
星の王子様のバラは見事に象徴的です。
男は妻の3歩先を歩いて
自分が盾になり妻だけは逃がすという意識を
常に持ち続けたいところです。

もう一つの問題は、
簡単に別居を進めるべきではないということです。
家族再生の弁護士やカウンセラーが
妻の潜在的な息苦しさを評価して
適切な修正方法を提起するというサービスを
どこででも安価に受ける必要があります。

夫が凶暴だから別居するというよりも
別居の仕方が夫を凶暴化させて
夫の対抗心を無駄にあおり、
夫の行動修正を妨げている
そう感じてなりません。







「今でも人を殺したいと思う。」という言葉が反省を表している可能性がある事。対人関係学的な弁護人の役割 [刑事事件]

タリウム事件を連続して題材にしてしまいます。
前の記事で紹介したコラムでは、
以下のように紹介されています。

他方で元名大生が発する一言一言は、胸をえぐられるほど衝撃的だった。
 「生物学的なヒトなら誰でも良かった」
 「人を殺したい気持ちは今も週1、2回生じる」
 「個々がかけがえのない人だという感覚がない」
 殺意の矛先は家族や親友にとどまらず、法廷の裁判官や弁護人、傍聴者にも向けられた。

これを読むと、通常は、
「未だに反省していない」と感じることでしょう。

そうなのかもしれないけれど、
そうでないかもしれないということにつて
弁護士の立場からご説明します。

犯罪はそれ自体不道徳ですが、
なかなか自分のしたことが不道徳なことだということを
実感をもって理解できない人がいます。
だからこそ犯罪を事前に止められなかったわけですが。

自分のしたことがどういう風に悪いのか
誰にどのような迷惑をかけるのか
ということを、
私は弁護人として最初に考えてもらうようにしています。

最初は漠然とした考えしかありませんが、
話し合ううちに、徐々に
カメラのピントが合うように
はっきり理解される被告人の方も出てきます。

(最後までピンボケの場合もないわけではありません)

すると、飛躍的に反省や後悔がの感情がでてきて、
「自分が取り返しのつかないことをした
 そういうことを二度とやらないためにはどうしたらよいだろう」
と敬虔な気持ちになる方も少なくないのです。

このような方々は、
犯罪実行時は、自分の味方がいない
という意識がある方が多いように感じられます。

常に、自分を守っていなければ
誰かから攻撃をされてしまうという意識です。

攻撃といっても、ピストルで撃たれるわけではなく、
馬鹿にされるとか笑いものにされるとか
自分だけ損をさせられるとか、
自分だけ危険な目にあうとか
裏切られるとかそういうことです。

だから、他人に弱みを見せるということが
できない状態が持続しているということになります。

これは、タイミングと会わせると強くなります。

自分が誰かから被害を受けたのに、
誰も同情したり、いたわったりしてくれないという場合
逆に
自分がみんなのために貢献したのに
誰もねぎらってくれないばかりか
笑い者にされてしまう
ということもあるでしょう。

およそ、心情的に仲間という人が
身近にいないということになります。

犯罪によって警察署に留置されているというような場合は、
自分が悪いことをしたために責められるということは理解できます。

こういう時にニュートラルな立場の弁護士が
犯罪を責めることをしないで、
どうして犯罪に至ってしまったか
どうして事前にやめることができなかったか
ということを被疑者と一緒に考える姿勢を示したら、
被疑者被告人は、自分の弱い部分を見せても
そこを責められない
という体験をすることが出てきます。

これが、新鮮な体験だという人も少なくありません。
安心すると話し出します。
弱い部分を見せても良いのだと思うと
安らぐことができるようです。

裁判が終わるまでの限定的ではありますが
片面的なコミュニティーができるわけです。

弁護士だけでなく、
警察官の方にも同様な態度で接してもらうと、
自分の悪かったことを言うことが
自分が更生する等良い方向に向かう条件だと
素直に認識するようになります。

こういう時、弁護士が質問する場合は
答えが大体わかりますから
ドラマチックに盛り上げて完結することができるのですが、

検察官の反対質問や
裁判官の補充質問でも
同じように素直になってしまうと
その時の悪い感情やその後の感情
(裁判時には克服しているのですが)
包み隠すことをしないで
積極的に話していくことがあります。
(そこまで言わんでよいと言いたくなるくらい)

それが強烈すぎて、
現在は克服されているにもかかわらず、
検察官なんかは、いまだに反省をしていないと責め、
頓珍漢な裁判官もそのような認定をしてしまう場合も
弁護人としては心配しなければならなくなり、
あれだけ美しく完結した弁護人質問を
つぎはぎを繕うことも出てきます。
大体裁判官は理解してもらえることが多いですが。

前回引用したコラムからも、
被告人が、素直に供述している様子がうかがわれます。
少なくとも露悪的に殺意を見せびらかしているわけではなさそうです。

質問されたから誠実に答えている可能性があります。
それを応えるのが自分の役割だということですね。
うそをつかないことでメリットがあると感じているということです。

誰にも言えなかった殺意を言うことができたという
弁護団との交流による貴重な経験があったのだと思います。

弁護活動が対人関係学的には成功された可能性があります。

もう一つ付け加えます。

彼女にとって人を殺すということは
おそらく心理的抵抗が少ない状態であり、
それは、器質的問題か生育環境なのか
通常人の感覚を超えた問題がありそうです。

要するに、普通の人が人を殺すという場合、
罪悪感だったり、生物的な嫌悪、恐怖だったり
抵抗が強くあるわけです。

これを打ち破るためには、
怒りだったり、恨みだったり
強烈なエネルギーを伴う負の感情が必要になります。

だから、「今でも人を殺したい」
という言葉を聞くと、
強烈な負の感情があるものだと
無意識に受け止めて、険しい感情になるわけです。

ところが、彼女は、
そのような怒りとか恨みとかの負の感情を抜きに
人を殺したいという気持ちになるようです。

今回の裁判体は、
常識の枠の中で被告人を把握し、
無期懲役の刑を宣告しました。

そういう考えも成り立つとは思いますが、
他の適切な選択肢を持ったうえで
専門的に判断することが必要だった事案だと
思いました。







タリウム事件のコラムに寄せて、人が興味本位で人を殺すことができるとした場合の可能性と刑事罰の意味 [刑事事件]

今朝の地元紙に、タリウム事件を取材した記者のコラムが掲載された

<タリウム事件>衝撃の真相 消えぬ「なぜ」 http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170403_13015.html

丁寧な、率直な内容になっており、
真実に迫ろうとする矜持も見えて素晴らしいと思った。

刑罰と医療とどちらが適切かということは難しく、
結局は、その時々の政策に委ねられるものであり、
刑罰の運用として一義的に回答が用意されているものではない。

それはどういうことか。

殺人事件にしても
人が人を殺すということには理由がある。
殺そうと思うことにも理由があるが、
殺すことができたことにこそ理由がある。

人間は、どんなに陥れられたとしても
なかなか相手を殺すことはできない。

そういう動物である。
というか、むしろ動物一般がそうなのかもしれない。

基本的には、自分を守るために殺すということになる。

殺さなければ、自分が殺されるということ。
戦争が典型的である。
相手から殺されるだけではなく、
規律違反で殺されるというものも大きい。

猛獣が草食動物を殺すのも、
肉を食べて生き延びるという目的がある。

では、目的があれば簡単に殺せるかというと
そうでもないようだ。

人を殺すことの抵抗感があり、
なかなか殺すことは難しい。
この抵抗感を奪う仕組みが怒りの感情である。

興奮状態となり、
相手に対する共鳴力、共感力が著しく低下し、
この人を殺した場合、将来どうなるか
自分が探し出されて裁判になるとか
広く家族を含めて報道されるとか
そういう将来のことを推測する力もなくなる。

相手を殺すか自分が死ぬかという
極端な二者択一的な選択肢が残されるだけで、
いわゆる無我夢中で殺害行為を実行する
というのが典型的な例のようだ。
こういう場合、記憶も鮮明ではない。

極限的な事例で他人を殺すことの抵抗力が無くなり、
必要最低限の行為にとどまる場合は、
刑が軽くなることはある。
変な話、殺してはだめだけれど殺したくなるよねと
そういう殺人者に部分的に共感してしまうからである。
これは、裁判官が共鳴するというよりも、
おそらく世論からもある程度の同情が寄せられるだろう
という場合という方が正確だろう。

タリウム事件は、その典型的場面とは
はるかにかけ離れていたようだ。

感情的な高まり、自己防衛意識
それらがなくて、冷静に他人を殺害したいという
初めから他人を殺す抵抗感がないような
行動だったとのことである。

こういうケースでは厳罰化になりやすい。

こういうことが起きるケースは
本当は生まれた後の理由は、考えにくい。

あるとしても、
これまでの例からは、
物心ついた時から不遇で、
誰からも大事にされたことが無く、
馬鹿にされ続け、迫害され続け、
社会からも尊重されなかった。
他人とのかかわりに何のメリットも感じないで
育ってしまったケースである。

こういう場合、
自分が尊重されるべき人間だという感覚を持てず、
他人を尊重するという意識も育たない。
相手の気持ちを理解する目的は
思いやることではなく、
相手に対して付け入るスキを探すということである。

だから、後天的に、人を殺すことの抵抗を持てない場合は、
全く無防備な幼少期の育った環境に問題あったケースなのであるから、
本人がそのような人格を形成した責任は本人にはない。

考えようによっては、その殺人犯こそ一番の被害者であり、
その後の教育治療によって、
少しでも人間の輪の中で安らぎを受けられるように
してあげることが、
原因に対する結果として、あるべきことだという考えもあり得るだろう。

ところが、こういうケースの裁判
つまり金銭や自分の保身のために、
相手の命を亡き者にすることを冷静に考え、
計画を立てて実行するというケースであるが、
通常、身勝手で冷酷な犯罪だとして
厳罰を科される。死刑や無期懲役の判決が出やすい。

法律は原則として、
どのような生い立ちであろうと、
不遇で何の喜びも、他者との関係の暖かさも知らない者も
等しく法律が適用される。

医療措置となるためには、明確な精神医療の診断がなされ
それを裁判員や裁判官が理解しなければならない。
先に述べた通り、それは裁判官個人ではなく、
世論がそれに共感できるかということを
裁判官が判断するかどうかということにかかる。

本件は、結局そのようなケースではないとして
無期懲役の判決となった。

しかし、私は、このケースは、
今の後天的な事情が理由になっていない可能性があるのではないかと
感じている。

生い立ちなど後天的ケースで、
他人を殺すことに抵抗感がないというケースはあるにせよ
なかなか他人を殺す抵抗感が一切残っていない
ということまで極端にはなりにくい。

なぜならば、100パーセント他人に依存する
乳児期には、誰かに手をかけて
生存を援助してもらっているからである。
そうでなければ大人になっていない。

虐待を受けても、
虐待を受けっぱなしという事例よりは
わずかながらでも過保護にされている時期が存在し
その記憶があるからだ。

だから、冷酷非情な犯罪の場合も、
自己保身という身勝手だとしても、冷酷だとしても
人を殺すためにはそれなりの理由があることが原則だ。
社会の不満を弱者に向けるということでも、
自己完結している殺害行為者の頭の中では
自己防衛の意識があるものである。

本件にはそれがない。
これが本件の最大の特徴だろうと思う。

あまりにも極端なケースであり、
育った環境では説明がつかない事情がありそうだ。

対人関係学的な発想からすると
脳の器質的な問題があるのではないかということである。

具体的に言えば、脳の
前頭前野腹内側部の機能に障害がある場合である。
この辺りは、アントニオ・ダマシオの
「デカルトの誤り」に詳しい。
岩波文庫にもなっている。

先ず前提として、脳は、
その部分部分によって役割がちがっていて、
例えば目から移った光を脳で画像として処理する脳の部分が
損傷すると目は見えなくなるが、
呼吸はできる。
音を処理する部分は別の部分であるし、
言葉の意味を把握する部分も別である。
部分的な損傷は、その機能をなくすが他の機能はなくさない。

もっとも呼吸機能をなくせば死ぬことにはなる。

そういうことで、鉄道事故で
前頭前野腹内側部の損傷を受けた人間の事例や
腫瘍があって圧迫されて機能障害になった事例では、

自分が他人の中でどのように思われるかというような感覚が欠落し、
(他者に対する共鳴力、共感力が欠落する。)
将来的な予測ということが苦手になり、
今浮かんだアイデアにとらわれてしまう
等という共通の異常行動が見られたというのである。

事故によって脳機能が低下した場合は人格的変貌が起きる。
しかし、日常生活を営むことができなくなるわけではない。
知能が低下するわけではない。

この脳の機能が人間のモチベーションの原理となっており、
ダマシオは「二次の情動」と名付けた。
対人関係学は、ダマシオに断りもいれず、
それは対人関係的危険を感じて行動を修正する仕組みだと
説明しているところである。
(一次の情動が身体的危険を感じて行動を修正する仕組み)

私が興味を持っているのは、
裁判での鑑定が、脳の機能検査がなされたかということである。

責任能力は、心理学的な能力である以前に
本来は生物学的な能力が存在することが求められている。
脳は、部分的に機能低下があり得るものだとすると、
部分的な脳の機能検査も可能である。

fMRI等によって血流の動きも把握できる。

ただ、もし、前頭前野腹内側部の機能低下がみられたとして、
即ち、脳の器質的問題から殺害を実行したとして、
刑罰にどのように影響を与えるかということについては、
直ちに結論が出ることではないだろう。
量刑も変わらないかもしれない。

要するに、現在の刑事罰は、
その人に責任があると言えるのかわからない事案でも、
治安維持の観点だったり、
被害者や世論の処罰感情によって
処罰されているからである。

逆に言うと、
もし、犯人以外の責任が重いとした場合に
処罰をしないならば、
犯罪行為をした原因を突き止められないケースを除いて、
処罰をしにくくなってしまう。

そういう環境で育ったならば仕方ないねとか
脳の器質的問題があるならば仕方ないね
ということも、現状においてなかなか言いにくい。

せいぜい、情状として「その1割でも裁判官に届け」
ということが関の山かもしれない。
届けば音の字であって、届かないことが一般的だ。

刑務所が、強制労働の場ではなく、
対人関係の改善のために、
自分が尊重されるという体験と
他者を尊重するという体験の場にすることも
なかなか実現することは難しいだろう。

現状は、職員の方の努力はありながらも
制度としては逆方向になっていることもあるようだ。

ただ、これが理想だとすることを忘れないでほしい。

法諺(ほうげん)という専門家の中のことわざの一つとして、
「社会政策こそ最良の刑事政策だ」
というものがある。

貧困や殺伐とした環境を改善することが、
刑務所に収監することよりも
犯罪を減らすことにつながるということである。

今回禁を犯して
自分が担当していない事件について
言及をしてしまった。

河北新報の記事に大いに触発されてしまったということになる。






自殺対策基本法が、子どもの自殺対策で、子どもに対処させることを求めることに対する疑問 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自殺対策基本法は、改正されて、
17条で、心の健康保持に関する養育及び啓発の推進
が掲げられた。

3項前半の人間として尊重しあういう意識を持たせる
ということは、総論として賛成であるが、
後半の「困難な事態、強い心理的負担を受けた場合等における対処の仕方を身に付ける等のための教育又は啓発その他当該学校に在籍する児童、生徒等の心の健康の保持に係る教育又は啓発を行うよう努めるものとする。 」
という点については、問題があると思う。

困難な事態、強い心理的負担を受けた場合にそなえて、
子どもが対処の方法を予め身につけておく
というそんな教育があると思っているのだろうか?
ぜひ具体例を教えてもらいたい。
大人だって無理なことだ。

子どもの自死対策で大事なことはそれなのか?

私は、子どもの自殺対策で最も大事なことは、
子どもが追い込まれない環境を大人が整備するということ、
子どもが困難な事態や強い心理的負担を受けないようにする
環境整備だと思っている。

そして、子どもがそのような事態に直面してしまったら、
大人がいち早く気が付き、
子どもを孤立させないで大事にかばうことだと思う。

要するに、子どもの自死対策は
大人の問題なのである。

ある新聞の今日の社説で、
子どもに援助の求め方を教えるべきだと言い、
子どもが大人に援助を求めないのは、
心が弱いと思われるのが嫌だからだなどといっている。
だから、子どもの考え方を変えさせるための教育が必要だというのである。


(その社説は、自殺対策基本法の改正には何も触れていなかった。
白書を引用しているだけなので、法改正を知らなかったのかもしれない)

法律を作った国も、白書の論者も、新聞も
子どもがなぜ大人に助けを求めないかを
少しでよいから考えてほしい。

他の動物と異なり人間の子どもというのは、
群れの大人に依存して生きている。
困難なことがあれば、大人に助けを求める動物なのである。
それが助けを求めなくなったとしたら
明確な理由があるはずだ。

この理由は、誰でも少し考えればわかることだ。
つまり、
助けを求めても大人は助けてくれない
さらに、助けを求めると、大人はぎゃくに自分を攻撃する
ということを学習しているからだ。

せめて辛さに共感してくれたり、
逃げ場所を提供してくれれば大人に逃げ込むだろうが、
それすら拒否されることを学習してしまっている。

これ以上傷つくことを避けるために
助けを求めることをしない。

助けの求め方を教えても
身近に助けを求めるに値する大人がいないのだ。

だからかもしれないが、その新聞は、
信頼できる大人や機関を見つけることが
第一であるようなことを書いている。

やれやれだ。
おきまりの、心の専門家に心の問題を委託する
という主張らしい、
親や教師や地域の大人はこのままでという前提らしい。。

体の痛みは、体に傷など不具合があることを教え、
そこをかばうためのシグナルである。

心の苦しみや痛みも、
対人関係等に不具合があるというシグナルではないだろうか。

対人関係等の不具合を改善するための制度なのに
痛みを感じなくするテクニックだけ覚えてしまったら、
それこそ、本当に追い込まれきってしまうまで
頑張り続けるマシーンが量産されるだけのことではないのか。

そういう危険な事態にならないことを祈るばかりだ。

大人は子どもを守るものだ。
自分の子ども以外でも守るものだ。
そういうことが忘れられれば、
子どもたちが絶望することは当たり前だと思う。

親子断絶防止法の真の不十分点 結論を押し付けずに誘導する姿勢の大韓民国民法にはるかおいて行かれている [家事]

もういい加減よいだろうと思うのだけど
今出ている親子断絶防止法案は、
特に賛成する人はいないのではないかと思われる。
それよりも、
全くオープンな議論もなく、
法案自体が改悪されていることに着目するべきだろう。

改悪したのは、女性を自分の欲望の対象としか見ない
国会議員だとされている。

とにかく、低レベル過ぎるのだ。
本当に離婚後の子どものことを考えているのか。
といっても、もはや誰も信じないだろう。
葛藤の高い元夫と元妻の
どちらの利益をとるかの駆け引きの産物になっていると感じる。

どのくらい、低レベルの遅れた状況かということは
お隣の韓国の離婚制度を参考にすると
一目瞭然である。

先ず、離婚自体がこれほど野放しにされている国も
先進国では日本くらいである。

普通の国は、離婚に伴う養育費や面会交流の取り決めについて書類を作成し、
裁判所の許可をとる等の手続きが必要とされている。
親が自分の気持ちを優先して
子どもの利益をそっちのけで離婚を優先することを避けるためである。

日本は、面会交流や養育費について
それなりのことを離婚届に記載すれば
誰もチェックなどしないで離婚が成立してしまう。
全く不道徳な国である。

通常の先進国は、
離婚後も共同親権である。これが原則。

単独親権制度は日本の国民性に合致しているという意見があるが、
子どもをそっちのけで離婚を優先する国民性が日本の国民性だなどと
誰が言っているのだろう。

あるいは、他の先進国と比べて
深刻なDVが多発する野蛮な国民性だとでもいうのだろうか。
まじめに考えてほしい。

なんにせよ、あまり法案がオープンにされていないので、
ネット情報だよりということもあり、不確かな法案なのだが、
じゃあ、面会交流一つ取ったって、
具体的にどうやって実現するか
どのように規定されているのか、
見えてこない。

これに対して、既に2007年から
子どもの福祉に配慮した離婚手続きを整備した韓国は、
2014年にさらなる具体的配慮がなされている。
どんどん日本は置いてきぼりを食っている。

2007年の大韓民国民法改正では
子の養育と子の親権者決定に関する協議書の提出義務が課された。
これが不十分である場合は、補正命令や家庭法院の訂正決定がなされる。
子どもの将来に対して当事者任せにしないのだ。

また、「離婚案内」というガイダンスがなされていて、
専門相談員との相談勧告がされる場合がある。
別居親の面会交流についても説明を受ける。

離婚案内を受けて、
「離婚をめぐる法的問題」や
「親の離婚が子に与える影響」などのレクチャーも受ける。

2014年になると、
離婚をするためには、日本の家庭裁判所にあたる家庭法院で
離婚意思確認申請の手続きが必要とされているが、
その際、ソウル家庭法院では、
専門の相談員が、相談員と面談することになっている。
その後に上記の離婚案内を受ける。

大事なことは、このような細やかな働きかけをして、
離婚後の共同親権の実効性を確保しようとしているのである。
養育費や面会交流が
「ああなるほど必要なのだな」と
「それなら子どものために頑張るか」
という誘導がなされているのである。

きわめて実務的である。

もしかすると日本の親子断絶防止法案は
「面会交流はやったほうがいいですよ」
「自治体は援助しなさい」
という言いっぱなしの結論押し付け型ではないだろうか。

こういう定めであれば、無駄に不安になる人が続出してもやむを得ない。

面会交流の実施の具体的な後押しになることが
何も定められていない恐れがある。

問題は会わせるか会わせないかという不毛な
決着済みの議論の中で生まれた法案だというところが
消耗の議論の始まりなのである。

「どのように会わせるか」
ということが定めらることが重要なのである。

同居親が安心して、大きな苦痛なく
別居親と面会させる
物的施設や
心理的葛藤を鎮める援助者が必要なのである。

その過程の中で、
あわせないことがこの福祉に合致するという例外的ケースを発見し、
面会交流を実現しなかったり、
付添型の面会交流等の厳格な手続きをとる等の
ふるいをかけることができる。


こういうことを法定化しないで、
法律で面会交流したほうがいいですよと定めても
なんの力にもならないだろう。

当然、離婚制度も問題になるだろう。
葛藤を高め、危険性を高める離婚が横行している
多くの人たちが離婚にまつわり
無駄に精神的ダメージを追っている。

子どもが、別居を余儀なくされた親が、
そして死ぬまで逃げているという意識を持たされた同居親もである。

お隣の国でできていることが
日本でできないことはないだろう。
よく学んで、より良い制度を作ればよいだけの話のはずである。

韓国は日本以上に儒教の影響の強いお国であったと理解していたが、
それでも先進国の例に漏らさず、共同親権制度をとっている。
そうして日本のはるか先を行く制度を法律や
そうる家庭法院の規則で実現しているのである。

養育費についても差し押さえと転付命令を一つの手続きでできるようだ。
専門の取り立て制度もあるようだ。

すべては子どもの健全な成長のためである。

最近、配偶者加害の影響を回避するための論者の主張を曲解して、
面会交流原則廃止と必死さだけが伝わってくる論陣を張っている
学者や社会活動家が跳梁している。


よく勉強してから
公的な発言をするべきであり、
そのような発言を繰り返したところで
役所から気に入られるわけではない。

エビデンスがないという前に
アメイトやウォーラスタイン等を勉強し
どのように議論がなされているか
せめて知ってから発言するべきである。



参考文献
家族法と戸籍を考える(50)義務面談,面会交流センターと養育費履行管理院 : 離婚紛争解決の入口と出口に関する韓国の新展開(二宮 周平 金 成恩)戸籍時報 (741), 11-22, 2016-06  日本加除出版
ネット上では読めないようだ。

韓国法における養育費の確保・面会交流センターの実務について 宋 賢鍾 , 犬伏 由子 , 田中 佑季

http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00224504-20150928-0130.pdf?file_id=105395






わが子に会えない親の会(仮称)第3回会合報告 [家事]

このブログを読んで、この会を知って、
新たに参加した方がいたので、
これは、報告しなければならないと思って。

先ず、次回は
4月21日金曜日
18時ころから
遅刻可、但し割り勘(但し自己申告で飲み過ぎた人加算)

先日、子どもと離れて暮らす親の人たちの交流会を
仙台駅前の某居酒屋で行いました。

今年に入って毎月行っていますので
3回目になります。

前回からの人や
今回初めての人、
前回来なくて今回の人
皆勤賞の私と
いろいろな人が、
仕事を終わった人から順番に集まってきます。

持ち回りで幹事を決めて、
店を予約してもらいます。
結構他の席と区切られているので、
自由に話をすることができます。

大体一人3000円台に収まります。

あたらしい人が来るたび自己紹介から始めますが、
みんな、仕事から帰ったら
家族と荷物が無くなっていて、
子どもに自由に面会できない
という事情を抱えています。

自己紹介の途中で、
仕事の関係で時間までにこれなかった人が
到着するたびに乾杯をやり直します。
結構、メンタル的につらい人たちが多いので、
また会えたことにほっとして
自然と乾杯ということになるわけです。

離婚をした人、調停中の人
それも様々ですね。

子どもと会えなくなった時期も
千差万別です。

メンバー同士、
自分と違うところを見つけて
慰め合ったり励まし合ったりするところも面白いです。

今全く子どもと会えない人は、
それでも自分は子どもが思春期の手前まで
一緒に暮らせたことを
幸せに感じなければならないなと思い、

4歳の子と自由に会えなくなった人は
それでも全く会えないわけではなく、
制限付きながらも面会できるところに
幸せだと思いなさいよと励まされるわけです。

どちらかというと、
そうやって納得するというよりも、
相手を励ますことによって、
生きていく力を少しずつ取り戻していく
ということでしょうか。

仙台開催なので、
今は宮城県の人たちが中心です。
土地柄なのか、
子どもを連れ去った母親に対する憎しみや
攻撃的発言はあまりないことが特徴かもしれません。

どうすればよかったのか、
今後自分をどのように修正して
相手の変化を修正するか
という視点での建設的な話し合いが
自然と主流になります。

とても素晴らしい。
尊敬に値する話し合いだと感じ入っています。

ただもちろん、
子どもに会いたいという気持ちは、
当事者でなければ話せない言葉で
聞いているだけで、身を切る思いです。

全員が、配偶者暴力のない事案です。
(調停や裁判でも主張されていない)
また、奥さんが離婚の原因になりやすい
三大疾患を抱えています。
大変勉強になります。

当事者の方々は、
そんなことはあまり気にしません。
同じ思いをしている人たちなので、
面倒な説明をする必要がなく、
事実を淡々と話せば
気持ちを分かってくれるという安心感があるようです。

また、相手の気持ちがわかっているからこそ、
空虚な励ましや、アドバイスはありません。
発言一つ一つが相手に対する思いやりに満ちて
ぼんやりと灯りがともるような言葉になっているようです。
だから、厳しい話題なのですが、
にこやかに、和やかに話は進みます。

ブログを見て積極的に参加される方もいるのですが、
私の依頼者とかは、何度誘っても来ない人もいます。

来ればよいのになあといつも思います。

次回参加をご希望の方は、
ブログ左上のプロフィール欄から
あるいはリンク先から
弁護士事務所のホームページを見つけていただき、
ホームページの上のタブの事務所案内をクリックしていただき、
電話番号をお調べいただいて
お問い合わせください。

次回も仙台駅前付近の居酒屋で行います。


上から目線の「過労死するくらいなら仕事をやめろ」ということが有害だと考える理由 [労災事件]


SNSなんかで、よく事情も分からずに
「自殺するな」とか、
過労死するくらいなら仕事をやめろ」とか、
なんで?っていうくらい上から目線で
攻撃的に語り掛ける人がいますが、
やめてもらえないかと思います。

わたしでさえ、なんか責められているみたいで、
苦しくなってしまいます。
そこで働いていることが
悪いことをしているみたいに思えてきます。

だいたい、伝わるべき人の心に響きません。

その理由

「あたかも、そういう上からの人は、
 過重労働等で苦しんでいる人が
 自分の苦しさを自覚していて、
 それが過重労働によるものだと
 理解している
 そうして、過重労働から抜け出す選択肢を持っていながら、
 その選択肢を、行使しないで、しがみついている。
 つまらない見栄や、生活費のためが、その理由だ。」

これらは、概ね間違いです。

第1に、
自分が苦しいということを自覚することはなかなか難しい
という事情があります。
苦しいんですが、苦しみの連続なのですが、
何とかしなくてはならないという気持ちがあります。
自分が苦しんでいるという客観的な視点はありません。

これに気が付けば、多くの人は仕事をやめますよ。
どうやって、それに気が付くかということを
東北希望の会では、弁護士、心理士、
遺族、当該労働者のチームで去年研究したのでした。

特に、過労死に陥りやすい人は、
家族と接する時間が短いので、
家族の気づきはなかなか困難なので、

仕事との距離を置く(四、五日休む)ことが有効で、
距離を置くことを考えるべき性格の人
距離を置くべき事情を類型化し報告しています。

そのまとめの記事
【宣伝】 過労死する前に仕事をやめる方法 心理学者のみた過労死防止の技術 過労死防止啓発シンポジウム宮城 
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-10-27

この中では、特に、おかしくなる前から
華道とか、茶道とか、
自分の心の状態が客観視できることを続けることも
有効だということを報告しています。

それだけ、自分の状態を自覚することは
大変難しいようです。

第2に、過重労働のために苦しいという自覚はさらに難しい。

過労死や過労自死になりやすい人は、
苦しいからといってそれをやめようとしません。
先ず「与えられた仕事はやらなければならない。」
次に「やり通すことができない場合はさらに頑張る。
   残業してでもやり遂げなければならない。」
そして、「途中で投げ出すと、自分がだめな人間になる。」
という意識を持つ人が驚くほど多いのです。

従って、苦しいと自覚しても、
それは自分が悪いのだということで、
さらに頑張る理由にしかならないのです。
ここもポイントです。

おそらく、仕事のために苦しんでいるという自覚があるのですが、
さらに頑張ることが、彼らにとって
自己防衛の行動として自分を守る意識なのでしょう。

企業の方も、
まじめで責任感が強いという人に
甘えて仕事を振っていると、
思わぬ落とし穴があるということで、
「この人は特別大丈夫だ」
という気持ちを捨てることが大切です。

第3に、自発的に退職する選択肢はないということ。

特に、過重労働や職場の人間関係が原因で、
悩み切っている人たちは、
退職する選択肢はないようです。

いろいろな過労うつ体験者の話を聞いても、
もう辞めたいという気持ちにはならないようです。
「このまま苦しみ続けるか、
 死ぬか。」
という視野狭窄状態になっているようです。
やめるということと死ぬということが
同じ意味になってしまっているところが怖いところです。

第4に、生活費のために退職しないわけではない。
確かに、収入がなくなることはとても怖いです。
しかし、そこまで、つまり退職後のことまで
考えが及ぶようなら、半分危険から脱出しかけている状態です。

生活費が無くなることを恐れて
仕事をやめられない
というわけではないのです。

対人関係学的に言えば、
人間は本能的に、所属する群れ(対人関係)から
外されないように努力してしまう
ということなのです。

いじめも同じです。

攻撃されればされるほど、
自分の行動を修正しようとしますが、
どうしても群れから追放されることを
免れる手段がない、不可能だと認識すると
生きる意欲が失われていく
というように把握していた方が
予防の上からは有効だと思います。

冒頭掲げたSNSは
善意なのはわかるのですが、
以上申し上げたことから、
苦しんでいる労働者をさらに鞭打つ
あなたの選択肢は間違っている
ということを突き付けているだけで、
退職しろという結論が正しいとしても、
どうやってその結論に向かえばよいのかということを
一言も提案しないで
絶望だけを突き付ける結果となる
そういう可能性があるということを
指摘しなければなりません。

他人が頑張れと言っても
下手すれば、死ねといっていることと同じになる場合があります。

きちんとした信頼関係を築いた上で、
相手が自分の状態を自覚し、
合理的な選択肢を持てるように
誘導することが必要です。

また、それは専門家だけが行うことよりも、
家族なり友人関係なり、
その人を取り巻いている
暖かな対人関係の存在を自覚させ、
問題のある職場などの対人関係に
不具合があることに気が付かせる
そういう丁寧な
集団的な作業こそが有効であると
経験上感じていることを申し上げておきます。

私がフェミニストだったら、強硬に離婚後の共同親権を主張するだろうということ。20年先を行く韓国の法制度並みに。 [家事]

突然、ある有名な判決の事件の代理人をした
弁護士の方から電話があり、
面会交流を含めた離婚に関する法制度のことで
しばらく話し込んでしまったのですが、
なかなか刺激的な体験でした。

その中でも話題になったことを、
その後のこちらの調査も含めて少しお話します。

つい2,3日前に思いついた話なので、
まだ持論ともいえないでしょうが、
論を持ったというところまでは言えると思います。

先ず、離婚をした場合に、父と母の
どちらを親権者とするかという法制度では、
特に理性的な考察をしなければ
単独親権制度ということになるのでしょう。

離れて暮らす父と母が共同で親権を行使すると
居住場所にしても、教育方針にしても
離婚しても話し合って合意しなければならないので、
実際は不便だろうということで、
どちらかに単独で行使したほうが
子どもの利益になるだろうという
そういう考えはもっとものようです。

日本においても単独親権制度なのですが、
そういう合理性に基づいた立法とだけも
言い切れないのではないかとそう思いだしました。

もともと日本の戦前の法制度は、
母は原則法的能力がないとされていました。
はっきりとした男女差別の考えですね。

戦前の法制度では、
父系を中心として血統を重んじた概念であるところの
「家」という制度が個人よりも優先されていまして、
個人の気持ちというのが家に劣後していたわけです。

だから戦前の法制度の離婚は
原則として家が気に入らない妻が(嫁が)、
「家」から追放される
というものでした。

もちろん、こういう制度は
日本国憲法における男女平等や
個人の尊厳原理に反するものなので、
戦後日本国憲法の成立に伴って、
民法も改正されました。

ただ、当時は、
まだ、子どもの成長や、子どもの人格
ということを法律に反映するということが
世界的にも遅れていましたから、
日本においても、あるべき離婚後の親権制度については
従来の離婚の制度を部分的に手直しする
という範囲での改正でした。

即ち、
封建制度の単独親権制度が
単に男女平等という観点だけから修正され、
子どもの権利や、子どもの健全な成長
という観点からの修正までは及ばなかったことになります。

両親が離婚してしまうと
子どもがもう一方の親とはなかなか会えない
ということは続いたわけです。

これまで母親が差別されて、子どもに会えない状態だったのが、
子どもに対して寂しい思いをさせる加害者が
平等の立場になったにすぎません。

時代的な限界なので、当時の立法を批判するわけではありません。

ただ、子どもがどちらかの親の単独親権に服す
ということは、
単に離婚が男女に葛藤をもたらせ持続する
という普遍的な事情の陰に
封建制度の残存物という側面があることを
現代人は認識しなければなりません。
しかも、性差別に根差した残存物だったのです。

男女平等の観点から現行制度をもう少し見てみましょう。
高度成長期以前は、家イデオロギーや
女性の働く環境の劣悪という諸条件から、
離婚後に子どもを引き取るのは父親が多かったようです。
家イデオロギーの希薄化に伴って、
高度成長期以後は母親が引き取るようになりました。

しかし、いまだに家イデオロギーのように
気に入らない嫁を追い出す悲惨な事件が無くなってはいない
ということを忘れてはなりません。
また、収入が低いということから
泣く泣く父親に子どもを預けて離婚している事例も多くあります。

あたかも封建イデオロギーに基づく単独親権制度で、
子どもを引き取りやすくなっていた男性が、
男女平等で逆に子どもと引き離されるように、
単独親権制度の恩恵を受けていた女性が
同じ女性の子別れを作り出してしまっている危険がある
ということを忘れてはならないのです。

但し、本当に女性は「恩恵」を受けているのでしょうか。
単独親権制度は合理的なのでしょうか。

そもそも、離婚後に女性が子どもを引き取るべきだ
という考えはどこから来るのでしょう。
子どもと離れたくないという気持ちは男女共通です。

現在のアタッチメントの理論は、
ともすれば、性差による役割分担の考えに基づいている危険があります。

アタッチメントの理論を提唱したボウルビーは、
必ずしも母親とのアタッチメントが不可欠だとは言っていません。
胎内記憶とアタッチメントというくくりでは
理論づけられているわけではないようです。

産後直後は母体の回復の必要がありますから、
母親が専従子育て者になることに合理性はありますが、
「母体が回復してもなお、母親が職を持たずに子育てをしなければならない」
ということは、性差による役割分担の主張だ
ということになるはずです。

裁判所は、現実の男女の労働条件や賃金格差を
現状追認的に肯定する傾向があります。

何が何でも、子どもが小さいうちは
母親が育てるべきだという考えが
性差別による役割分担論だとすると
離婚後も、主たる監護者である母親を親権者とするべきだという考えは
性差別による役割分担を現状追認する敗北主義的な主張
だということにならないでしょうか。

離婚後も母親が親権者になるべきだという考えがあります。
日本の親権者は、監護権、法定代理権があります。
一般的には親権者が子どもと同居して、
働きながら子どもを育てるということを余儀なくされるわけです。
それが母親でなければならないという主張があります。

その中の一つには、父親は、外に出て働いて、養育費を払えばよいのだという考え、
ないし感情があるようです。
まさに、封建イデオロギーの性差による役割分担の主張です。
この本音が、むしろ、男女平等を訴える側から出されていることが少なくない
ということは私の認識がおかしいでしょうか。

それから、母親が子どもを育てるべきだという考え方も
母性信仰という極めて古典的な女性蔑視ではないでしょうか。

この考えで行くと離婚後父親は孤独を抱えながらも自由に生活ができ、
再婚するチャンスも多いわけです。
これに対して、離婚後の母親は、
子どもの弁当を作り、幼稚園などの送り迎えをして、
さらに食事の準備から身の回りの世話をして
ということになり、
子どものためばかり時間を使い、
自分という一人の人間であることを否定されているような
そういう状況にあるわけです。

母性信仰に離婚後の女性を縛り付けているのは
男女、どちらが多いのでしょうか。

男性が親権を持つのか、
女性が親権を持つのか
二者択一的な選択肢は、
子どもの健全な成長という視点が欠落しています。

同じ儒教の国である韓国
離婚後は共同親権です。

民法などが改正されて、
離婚の時には裁判所が後見的に
離婚や親の葛藤が与える子どもへのマイナス影響
等のレクチャーが公的になされていますし、
養育費や面会交流の定めを書面にする義務があります。
それが不十分である場合は
是正を求められたり、裁判所が定めたりするようです。

面会交流センターというものも
日本でいう家庭裁判所の中にあり、
面会交流支援や引き渡し支援など
子どもの健全な成長のためのサービスが運用されています。

子どもという次世代の国家を担う者への
国家的配慮がなされているわけです。

日本は未だに、
子どもの健全な成長とは何かということについて
理解が進んでいないようです。
親子断絶防止法案を見ても、
精神論ばかりであり、具体的なことは
子どもの意見を尊重して面会交流を進める
ということぐらいです。

何も学習せずに、
子どもの成長など掛け声だけだということが
韓国の法制度と比較すると歴然です。
感情の対立を放置し
国家が子どもの健全な成長の観点から
後見的に、面会交流を進めやすくする
という肝心な点がきわめて抽象的です。

そうして、現在の離婚制度が
極めて女性蔑視、女性の役割論に基づいている
ということは、一切考慮されていません。

韓国と比べても
20年くらい日本は遅れている
といわざるを得ないようです。

この20年の遅れは、現在の評価です。
日本が子どもの健全な成長のための理性的な改革がなされない以上、
時がたつにつれて遅れの期間が増大していくことになります。

残念ながら、役に立たずに弊害ばかりの
親子断絶防止法が
せめて、オープンな議論が始まるならばともかく、
こっそりと提案されるだけであるならば、
取り返しのつかない遅れが確定してしまうような危惧があります。


浮気をされた女性の心理 何年たっても消えない傷の正体 [家事]


(本質的には男女差はないと思うのですが、
説明しやすいため、夫が浮気をした場合ということで。)


小さな子どもを抱えた、浮気をされた奥さんの
離婚調停の代理人になることが
これまで何度かありました。

特に、浮気現場が自宅だという場合は
かなり精神的なダメージが強く出るようです。

自宅に入ることがどうしてもできなくなるようです。
会社なり、実家なりから、自宅に帰ろうとしても
どうしても体が動かなくなる
金縛りにあったように自分で自分の体を
動かせない状態になるようです。

死ぬような危険なことはないのに、
あたかも自宅に帰ると死ぬような怖い出来事が起きるような
そんな不吉な感覚のようです。

また、自宅で不貞が起きようと別の場所であろうと
浮気をした夫に対しては、
近しい気持ちが無くなります。

生理的な嫌悪ということはなんとなく理解ができるのですが、
恐怖すら感じるようです。
あたかも夫が自分を殺すかのような
壮絶な恐怖を感じているようです。

どうして恐怖を感じたようになるのか。

これは対人関係学的な考察をすれば
理解を助けることになると思います。

人間も動物ですから
身体生命の危険に対しては、恐怖を感じます。
人間独特の感覚として、
自分が仲間から外されそうだということを感じると、
やはり自分が危険な状態であると感じます。
ドキドキしたり、顔が赤くなったり、熱くなったりですね。

これは人間が群れを作るための遺伝子的仕組みで、
仲間の感情を読み取って、自己の行為を修正し、
仲間から外されないようにするわけです。

ひどいことを言ったら、逆に攻撃されるから言わないとか、
ここで助けないと恨まれると思うから助けるとか

あるいは、テストで悪い点数を取らないように頑張ろうとか
会社を首にならないために頑張るとか
まあ、そういうことですね。

そうして、何か失敗をして上司から叱責されると、
とてもドキドキしたり不安になります。
これは、交感神経の活性化といって、
血圧が上昇し、脈拍が増加し、体温も上昇する等の
体内の生理的変化なのです。

この反応は、身体生命の危険を感じた時と
大ざっぱにいうとまるっきり一緒です。

身体生命の危険についても
ちょっとひっかき傷ができるだけの危険から
出血多量などで死亡する危険まで
その危険性に応じて交感神経の活性化の度合いが代わると思うのですが、

対人関係的危険についても
ちょっとからかわれるだけから
追放されてしまうまで程度があることでしょう。

夫に浮気された妻の状態は、
死亡の危険に匹敵する危険の感じ方をするのだと思います。

特に女性は、男女関係において
チームになることを重視するようです。
これは、出産をする性として
遺伝子上組み込まれている合理的な志向です。

夫が浮気をすることは
自分と夫とあるいは子どもが一つのチームだと安心していたのに、
チームの中に異分子が現れてしまい、
一つの閉じた、安心できるチームではなくなったということのようです。

自宅に泥棒が入った人の話を聞くと、
自分の家なのに、自分の家だという安心感が無くなる
ということを言います。
常に泥棒がいるのではないかという感覚だそうです。

自宅に強盗が入ったらなおさらでしょう。

夫が浮気をしたということは
家庭という建物の中に強盗が入ったような感じなのでしょう。
その強盗が浮気相手ではなく夫なのです。
もはや同じチームの仲間ではなく、
自分をチームから追放しようとしている
という感覚になるのでしょう。
完全に敵であり、
自分の対人関係的な生存を脅かす
攻撃者、生きる活動の妨害者というように
脳が勝手に感じてしまうということが近いようです。

だから、浮気をした夫に恐怖を感じるということは
対人関係学的な理解をすれば
極めて自然な流れだと思います。

問題なのは、この後です。
自分は、このような恐怖や屈辱や疎外感を感じながらも
子どものためにやり直そうとして、
離婚をせずに同居を続けたとします。

やり直すと言いましたが、
実際にやり直すことは難しいようです。
やり直している人もいます。

むしろ、
これまでとは違った
あたらしい関係を作っていくという方が
近い場合も多いようです。

この考えは、離婚を避けたい場合は有効です。
どうしても、昔のようにわだかまりなく生活することが不可能でも、
少しずつ、同居に馴(な)れていく
ということはあり得ることです。

そうやって努力をしていくのですが、
ふと何かの拍子に
努力ができなくなることがあります。

浮気の証拠と同じものをテレビで見かけたとか、
浮気の場所を通りがかったとかですね。

但し、
そういう頭の記憶をよみがえさせる場合だけでなく、
体が記憶していることで苦痛がよみがえることがあるようです。
例えば、浮気が発覚した時の気温であるとか
沈丁花の匂いがしたとか
転んでひざを痛めたとか、
そういう、本人も気が付かない出来事を
体が覚えていることがあるようです。
その体の記憶が浮気と結びつけられてしまっているのです。

これは相当根深い心の痛みを抱えていたことが
わかります。

みんながみんなそうではないのですが、
夫の浮気がPTSDのようになっている場合があるわけです。

夫としては。何年も前の浮気だし、
その後平穏に暮らしていたのだから
まさか、その浮気が原因で妻が自分を拒否している
ということを理解することができません。

何か別に原因があるのではないかと
考えることはむしろ自然かもしれません。

PTSDのような状態になる場合、
妻は古い記憶を思い出して嫌な気持ちになっているのではありません。
その時に感じた屈辱感や恐怖感を
その時と同じように感じているようです。
記憶がよみがえったのではなく
感覚がよみがえっているのです。

ここから逆に浮気をされた心理を考察すると
先ず、「自分」という感覚が壊されたということになります。
自分とか自我というのは、生命体単体で感じるものではありません。
自分を取り巻く大切な仲間とのつながりを含めて
「自我」というものを感じているそうです。
そうだとすると、夫という大切仲間との
つながりが絶たれることは、
結局「自分」というものが崩壊してしまう感覚を持つ
ということになります。

また、浮気をされたことによって
夫以外の人との関係でもつながりがたたれたと
そういう感覚も持つのかもしれません。

これが孤立感であり、疎外感であり、
人間の生命線を絶たれる不安を感じているということであり、
命の危険に匹敵する出来事だということになります。

また、一番安心を感じたい、
一番基本的な仲間の裏切りであるから
絶望感を感じやすくなります。

この絶望を感じたくないために、
時に、自分が何か悪かったからではないかと
罪責感を抱いたりするわけです。

「あなたは悪くない」
というアドバイスは、
この罪責感を抱くことによって
絶望感を回避しようとする活動を遮断することですから
とても危険なことだということになります。

その罪責感にも寄り添うことが本当の寄り添いです。
極限的状況において何が起こったのかということ罪悪感を伴った意識をすすんで分かち合うことが寄り添いなのです。
そうすることによって初めてもつれた糸をほぐすことができるわけです。

ここまで考察が進めば、女性にとって
夫に浮気をされたということは
個性による違いはあるにしても
強姦された場合と大差のない精神的被害を受けていた可能性がある
ということになります。

ずいぶん前の浮気を言い出したということは
精神的にはかなり危険な状態です。

夫とのつながりを復元できない場合は、
夫以外の親や兄弟、子ども、友人等
つながりの中で癒されることが必要です。
新たな自我を形成していく過程で
恐怖反応を克服していく必要があります。

「ずいぶん前のことを今更言い出すなんて」
という人は、
人間を支援したり、人間の紛争に関与したりすることを
一切やめていただいたいと思ってやみません。

参考文献
「心的外傷と回復」(みすず書房)
ジュディス L ハーマン

自殺予防対策における連携の意味 業種間の相互乗り入れ [自死(自殺)・不明死、葛藤]



<自死の原因論の誤解とその理由>

自死予防として他業種の連携が必要であると
ようやく言われ出してきたようです。
「自死予防の原因は平均4つあるから
それぞれの分野の専門家が連携する必要ある」
みたいな説明がなされることもあります。

ここはちょっと誤解があるようですから、
説明しておきます。

こういう原因並列論の文脈で語る人たちの中には、
警察の統計に基づいて話をしている場合があります。
ここで誤解というか理解不十分があるわけです。
警察は自殺が起きた場合、捜査をします。
目的は事件性の有無です。
主として殺人事件や傷害致死事件ではないか
という観点で捜査をしなければなりません。

家族や会社の同僚から事情聴取したり、
遺書を読んだりするわけです。
そして死亡の原因を探ります。

そうして、自死であり
他殺ではないということが判断できれば
「事件性なし」という事件処理をします。

自死であるとするためには
自死の原因が必要だということになります。

ここでいう原因は
あらかじめ用意されたカテゴリーの中から選ぶわけですが、
家庭問題、健康問題、経済・生活問題、
勤務問題、男女問題、学校問題、その他、不詳
という9つのカテゴリーの中から選ばれます。

そうすると、
「会社でいじめにあいノルマもきつく、
うつ病にかかったが、
単身赴任のため家庭との折り合いを欠いて」
なんてことになれば、
健康問題、勤務問題、家庭問題が
ぽちっと押されるわけです。

会社の上司を事情聴取して
パワハラはありません
なんて言われると、
ハイそうですかということになるわけです。

上司が殺したり、
自死するよう脅迫したのでなければ
事件性はないわけですから
それ以上警察も突っ込まないわけです。

また、そのカテゴリーの中で
主従も決めません。
該当するカテゴリーは全てチェックします。
チェックしたカテゴリーのすべてが
自死にどの程度関連するかなんてことは
あまり関心がないということになります。

こんな統計をもとに自死の原因は
平均4つあるなんて言うことは
無責任極まりないと言わざるを得ません。

上記事情では、
パワハラとノルマ過多が自死の原因であるべきでしょう。
単純並列切によると
自死の原因は複数あるから
労働だけが原因ではない
だから会社は全部の責任を負わない
なんてことがまかり通ってしまうことになります。

本来自死の原因が複数あるという意味は、
複数の次元から考えなければならないという意味です。
並列的に原因が並ぶわけではありません。

精神科医の松本俊彦先生は
入れ子構造という考え方を紹介しています
(「自殺問題と法的援助」 日本評論社)
いれこという言葉になじみがないのですが
マトリューシカのことです。
人形を開けると中に人形が入っていて
その人形を開けるとまた人形が入っているという
あれです。

また、原因論というよりも
どうすれば自死が防げたかという観点からの考察で、
たとえ、職場でひどい目にあっても
それを同僚が家庭に報告し、
タッグを組んで一人をフォローし、
精神状態によっては、精神療法を受けたり、
法的な解決方法を専門家に相談したり
退職した後の生活方法のレクチャーを受けたり
ということで、
あるべき対処方法を用意して
会社と対決する
ということを言っているわけです。

少なくとも責任論と原因論は分けて
ものを言うべきです。

<具体的なリスク者に対する連携例>
さて、

上記事例で自死が起きたことの責任を追及されるべきは、
会社です。
では、自死する前に具体的に
どのような連携をして自死を予防するのでしょうか。

先ず、弁護士のところに相談に来たとします。
弁護士は、法的手続きが何かできるかどうか
最低限その点について検討するのは当然です。

悩みがあると言うなら
じゃあ、カウンセリング受けてください。
良いところを自力で探してください、
眠れないなら精神科に行ってください。
それじゃあさようなら
というわけにはいかないです。

そもそも、弁護士のところに法律相談に来て
生(なま)の悩みをぶつけてくるというのは、
相当その弁護士は人間味があふれる人のため
信頼される人徳のある人です。
通常は、様子がおかしいということを察知して
こちらから水を向けてみます。

案の定希死念慮などがあれば、
自分の信頼できる精神科医に
事案の詳細を紹介した文書を作成し
そのお医者さんに持っていくように本人に渡します。

様子がおかしいということを見抜く力も必要です。
それ以前に、パワハラや孤立という事情があるならば
おかしくなって当たり前だという人間観が必要なのです。

また、家族などのコミュニティーの共有問題にする
ということを提起して(奥さんに話しなさいとか)、
具体的方法を一緒に考えます。
場合によっては、家族にも来てもらい
具体的な状況と心配のポイントについて説明します。
具体的な対処方法について家族に提起します。

お医者さんに対しては、
これから予想される具体的手続きと
起こりうる葛藤の高まるポイントについて知らせ、
警戒をお願いするわけです。

お医者さんの方から、
治療の必要上、直ちに手続きに入らないで
これこれの期間様子を見れないかとか
手続きを断念できないかという話も来ることがあります。

依頼者が最終的には決めることだとしても
お医者さんからの情報提供をもとに
手続きを進めることについての
メリットデメリットを提起し直して
依頼者が判断しやすいように提供します。

手続きを断念する場合も、
主治医の先生と依頼者を通じて連絡を取り合い、
その後のフォローも行います。

ここから言えることは、
先ず、その人が治療の必要性があるかどうか
という判断をすることになります。
まあ、必要ないという判断はあまりしませんが。
それはお医者さんが判断するべきだからです。

但し、自分が知りえた事情を
依頼者が全てお医者さんに告げるとは限りません。
医学的に見て必要な事項については、
できるだけ漏らさずに紹介状に記載する必要があります。
そのストレスのポイントについては、
実は本人が説明してもなかなかお医者さんに理解できない
事情があります。

一つは、お医者さんは、
会社は良識ある大人の集団だと思い込んでいます。
会社についていけないのは、
本人の人格が未熟だからだと
思い込む傾向があるようです。

お医者さんの元を訪れた段階では
既に精神的に疲弊しきっているため
防御的な反応をしているということを
あまり理解してくれない先生もいます。

だから信頼できるお医者さんを紹介するのですが、
それでも現在の会社や学校の
異様な人間関係については
あまり理解されていないようです。

弁護士はここを補う必要があるわけです。
要するに先入観を持ってもらうのではなく、
先入観を排除してもらうために
紹介状を作成するのです。

ある程度の精神医学的な知識が
どうしても必要になります。

それにもかかわらず、
いまだに、自死やうつのことは
精神科医に任せて弁護士は立ち入らない
という考えの弁護士が大勢います。

しかしその考えでは、
弁護士は通常業務をするだけで、
自死予防の連携には入らないことになります。
今、目の前に、自死を予定している人がいても
そのことはないことにして
通常業務だけをすることになってしまいます。

前述の精神科医松本俊彦先生は、
自死の原因が入れ子構造にあるから
何が必要かというと
それぞれの業種が相互にそれぞれの業種に
相互乗り入れをするべきだという考えを紹介しています。

もちろん、弁護士が一から精神医学を
学ぶということは現実的ではないでしょうし、
あまり効果が上がらないでしょう。
しかし、積極的にいろいろな文献を読んだり、
直接精神科医に教えを乞うということは
とても大切なことだと思います。

一番必要なことは、
その人の状態を見て治療の必要性を考えるというより、
その人の置かれた境遇が
およそ人間にとって精神的に圧迫する境遇か
という洞察の方を鍛えることだと思います。

<一般予防における連携>

我が国の自死予防対策で一番遅れていると思われるのが、
一般的な自死予防の方法論の研究だと思います。
これは、自死予防=精神科治療
という図式に安住していた時期が長かったためです。

うつが自死の原因だとしても
それが増加した要因は、
例えば遺伝的な内因性のうつではなく、
ストレス因によって引き起こされたり
強い影響を受けたうつの増加が原因だったはずです。
そうだとすれば、うつを予防する
という発想がどうしても必要だったはずです。
こういう発想はあまり目にしませんでした。

唯一、過労死、過労自死予防だけが
そのような予防対策だったようにも思えます。

過労死、過労自死予防は、
医師と弁護士が共同研究を行い、
医師によって弁護士が医学的な知識や考え方を学び
訴訟において主張立証をして、
医師は弁護士から労働実態や行動経緯等を知らされ、
最終的には、かなりの相互乗り入れがなされました。

私が力を入れているのは、
家族問題です。
家族問題で自死をする男性がかなり多くいます。

誰かが悪いという視点を外して、
どうすれば、家族が崩壊しないか、
家族の崩壊を招く疾患とは何か
ということが研究されていないように思われるのです。

誰かは研究しているのでしょうが
現在苦しんでいる家族には伝わっていません。

これは理由があると思います。
お医者さんは、身体的疾患の治療をすることで
命を長らえたり、身体的苦痛を解消することに
専念することはもっともなことだからです。

また、当人でさえ
身体的疾患によって、
例えば悲観的な思考傾向に陥っているということに気が付きません。

しかし一定の疾患が、認知の歪みを生じさせ
家族を危殆に至らしめる可能性があるようです。

そういうことを問題提起するのは、
やはり、離婚問題を担当する
弁護士がやらなくてはならないことだと思うのです。

精神問題は医者やカウンセラーが担当するというのでは、
検討が始まりさえしないことも多くあるように思われます。

無理かどうかやってみましょう。
また間違いがあれば、正してもらいましょう。
何もやらないで等閑視しているのでは、
あまりにも情けないと思うのです。

今回は、弁護士と医師、カウンセラーとの連携を
お話ししましたが、
もっともっとそういうことを意識的に行う必要があると
そういう連携をしていくことを
一歩ずつ実現させていきたいと考えています。


メッセージを送る