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なぜ、人間関係の紛争(例えば夫婦喧嘩)収束せずに拡大するのか。「かわいそうだからやめる」ができない研究4 [家事]


小脳は、例えば歩いている場合、
異常があればそれを感じて
態勢や運動を修正しているらしい。

例えば真っ直ぐ歩こうとしているのに
地面が坂になっていて
体が斜めに倒れてきた場合は、
小脳は態勢の異常を感じて
体を起こそうとする

異常を感じることも
修正することも
意識には上らない。
自動的に行われている。

能は活動を節約しようとする傾向があり、
予想通りの動きに関しては、何ら反応しない。
前回の記事で書いたとおり
自分で自分をくすぐってもくすぐったく感じない。

これを実験した人がいて、
簡単に言うと
二人が指を一本ずつ出して指で押し合いをするとする
それぞれに対して、
「相手と同じ力で押し返すこと」
という指示を出す。

すると、その実験を続けているうちに
二人ともどんどん押す力が強くなって行く
という結果が出た。

これも小脳の働きで説明がつく。

押している方と押されているほうが同じ力で押している場合、
小脳は、
自分が予想した力を出しているのだから
ことさら「自分で押している」
という感覚が持てないらしい。
「押さなくてはならない」という意識があるものだから、
本当は釣り合っている押し方をしているのに
押しているという実感を持とうとして
さらに強く力を入れてしまうかららしい。

これらのことは、D・J・リンデンという人が河出文庫で出している
「脳はいい加減にできている」という本の中で説明している。

これは、対外的な物理的変化あるいは器質的変化の問題なのだけれど
私は、人間関係でも同じ原理が起きているのではないかと感じた。
言葉のけんかをしていても
相手から受けた攻撃と同じ攻撃をすることは
攻撃している実感がなく
それを上回る攻撃をしなければならないと感じて
攻撃はエスカレートする傾向にあるのではないかということである。

人間の紛争がなぜ起きるのか、
一般的には、つきつめると
自分を守る行為、自分の仲間を守る行為が衝突した場合に起きる。

対立する紛争当事者はどちらも自分を守るために攻撃する
相手に責任があろうと、正義があろうと、落ち度があろうと
そのようなことにかかわりなく、
自分を守るために相手を攻撃する。

そうして、自分の反撃は
「相手が自分を攻撃した同じ程度で反撃しているに過ぎない」
だから許される
という無意識の正当性を感じようとする。
特に家族など仲間同士の紛争の場合は
そのような意識を持つようだ。

典型的な紛争は夫婦問題である。

妻が自分をないがしろにしたと思えば
「同じだけ」夫は妻をののしる。
妻は、夫が自分を支配しようとしていると感じると
周囲を味方につけて、夫の攻撃にふさわしい反撃をする。

実際は、
けんかの始まりは相手に悪意がないことが多い。
それにもかかわらず、
人は誰しも相手に嫌われるのではないかという不安を持っており、
その不安が強すぎる人は、
自分が攻撃されたのではないかと感じやすくなり、
攻撃されたという断定が起き、
被害感情が全開になる。

自分に被害が生まれるのだから、
被害を埋め合わせようとして反撃してしまう。
この反撃は、意図的な攻撃である。

但し、その時、自分の攻撃の強さは、
相手が自分にした攻撃と同じくらいの強さにとどめているつもりだ。
自分から罪のない人を攻撃しているという
感覚は持ちたくないようだ。

同じくらいの攻撃だけど
一つは、そもそも攻撃をしていないのに攻撃をされた
という意識を相手は持っているので、
相手は自分を守るために
「同じ強さ」の攻撃に出る。

この時の「同じ強さ」は
攻撃する側の感覚であるから、
双方攻撃しあっているその最中にあっては、
指の押し相撲のように、
相手の攻撃の強さに相殺されて
自分の攻撃の「同じ強さ」は
相手の攻撃の2倍になる傾向にある。

「相手が攻撃してきたから反撃したまで」
「相手と同じだけしか攻撃していない」
という趣旨の言い訳をよく聞く。
しかし、それは、人間の脳の能力に問題があるため、
客観的には額面通りの結果以上のことが起きている。
過剰反撃になりがちなのである。

双方の紛争が続くと
強さは、どんどん2倍ずつエスカレートしていくことになる。

相手を破滅させるほど
攻撃が極端に強くなっていく。
前回と同レベルの強さの反撃は
反撃をしている実感がわかなくなるからだ。

自分が攻撃されているという感覚
つまり被害者意識が強すぎるという原因はあるものの
他方も、気が付かないうちに反撃行為が強くなっていき
それが相手の被害者意識をさらに高める
という悪循環に陥る。

あまりにもうまく説明できるように感じた。

もっとも、夫婦のような対人関係における
相手方に対する作用のずれを
小脳や体性感覚皮質で感じて修正するということは
非科学的な発想であろう。
脳の部分については脳科学者にまかせよう。

今の攻撃の話は、物理的攻撃というより
おもに言葉による攻撃である。

夫婦の場合、最終的には
「出ていけ」、「離婚だ」ということになるが、
要するに、仲間であることを否定する言動が攻撃であり、
否定の度合いが攻撃の強さである。

この攻撃の度合いについても
発言する方と発言を聞く方は
全く異なった認識をすることになる。

発言をする方は、どのような発言をするか
夢中になってわけわからないとはいえ、
ある程度は予測をつけて発言をする。
真意が別にあることも自覚している。
だから、それほど強い攻撃ではないと思っているかもしれない。

しかし、発言を受ける方は
相手から口に出されて初めて言葉を聴き取るために、
すっかり予測することは不可能だから、
警戒感が強い状態で受け止めるので、
強い刺激に受け止める傾向になる。

常に攻撃は、攻撃者が思っている以上に
攻撃を受ける側は強く感じているようである。

そして、それを受け止めた側の反撃も
自分の受けた攻撃と同じ強さでは
既に反撃として意識されない傾向にあるので、
それを上回った程度になってしまう。

つまり、最初は5の強さの攻撃も
相手は5プラス5で10の強さとなり
次は20の強さとなり、
次は40となって行くわけである。

防衛本能に任せた反撃をしているうちは
全体を上から見ることはできない
最終的には、ただ、相手を叩き潰すことに
全力を挙げるよう脳が命令してしまう。
大変恐ろしいことだ。

相手に反撃している時は
相手は仲間ではなく
敵対する者であり、
やがて人として尊重するということも
できなくなっていく。

より大きいダメージを与えることだけが
目的になってしまう。
やがて関係が破綻する。

これはもう、どちらかが反撃をやめるしかない。

「自分が悪い」と言って謝ることができれば最高だ。
即時にそれをできる人は素晴らしい。

謝らなくてもやめることはできるなら
それも素晴らしい。
相手方にやめるように言う必要はない。
自分が争いを中断する、反撃をしないという
単独行為ですむ。
実は、それほど難しいことではない。

逆に、相手を言葉で打ち負かしてしまったらどうだろうか。
自分は正しかったのだから、それでよいと思うだろうか。
それによって、相手は間違った行為をした人間だ
ということを思い知らせると、
相手がかわいそうである。

相手をかわいそうになるほどつらい思いをさせても
筋を通さなければならないことって
それほど多いことだろうか。
家族が家族である以上、それはない。

相手を否定してでも筋を通すなら
仲間の解消をするべき場合も多い。
しかし、始まりはそれほどの話ではないことが多い。

また、相手を打ち負かしても
それは仲間を打ち負かしたことだから
反撃ができないという体験、記憶を
相手に植え付けるという効果が確実に生まれてしまう。

それはお互いが快適な生活を営むことに
多大なる支障になるし、
崩壊の原因として蓄積されていく。

結局はいいことは何もない。
しかしそれにはなかなか気が付かない。

双方の攻撃を止めるためには
自分の攻撃で傷つく相手をかわいそうだと思うことが有効だ。

しかし、自然にはこれは思わない。
だから、自然にはかわいそうだと思わないことを
忘れないようにする。
そうして、無理に紛争が生じたら
それを思い出すことにするしかない。

あなたは途中でそれを思い出す。
相手はそんなこと知らない。
あなたが攻撃をやめても
しばらくは攻撃が続くだろう。

その攻撃を黙って聞く。
自分が最後にした攻撃から、その直前にした相手の攻撃をひいた
おつりが来ていると思うしかない。
少し視線を斜め下に下げて、
悲しそうな顔をして黙る。

どの程度攻撃が続くかは、
おつりの大きさによるものだと
我慢しよう。

沈黙が生まれたら幸運を感じよう。
謝るもよし、
興味のある話題を振るのもよし、
こちらから話しかけるべきだろう。

そして、自分の言動で取り乱してくれる相手に
感謝の気持ちを捧げよう。

あなたの攻撃に取り乱さなくなった相手は
既にあなたが仲間ではないと
腹をくくっているかもしれないからだ。

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いじめの判断は「原則として」被害者を基準とするべきことの理由 「可哀そうだからやめる」ができないことの考察3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由
2 どうして、客観的な判断をしようとするのか
3 被害者が被害を過敏にとらえている場合の対応

1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由

誰かにくすぐられるとくすぐったいのに
自分でくすぐってもくすぐったく感じない
この理由を一言で言うと、
「くすぐったく感じる必要がないから感じない」
ということになるらしいです。

では、なぜ他人が触る時はくすぐったくなる必要があるか。
それは、皮膚感覚が働いて、
異物が自分の体の触れられる場所にあるから
「危険があるのか確認して対策を立てろ」
という、危険回避の必要があるからだということになるでしょう。

これに反して自分が自分をくすぐる場合は。
予め、すなわち実際に触る前から
脳の無意識の部分が、
いつ、どのように触るか予想しています。
当然予想通りの触り方をするのですから、
何らかの対処をとる必要がなく
くすぐったく感じる必要はありません。

D・J・リンデン「脳はいい加減にできている」河出文庫
デイヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳──意識は傍観者である 」
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いじめやハラスメントの時も同じことが起きているようです

友達同士で喧嘩をして、悪口を言ったとします
発言する方と発言を受ける方は
全く異なった認識をしています。

発言をする方は、どのような発言をするかについて、
発言の全体像を把握しています。
トータルで考えることができるので、
それほど強い調子で言っているつもりはないかも知れません。

しかし、発言を受ける方は
相手から口に出されて初めて言葉を聴き取るために、
何をどのように発言されるかについて
予測することは不可能です。
警戒感が強い状態で、つまり攻撃に対して敏感になっている状態で
言葉の一つ一つを順番に聞いていくしかありません。
順次反応していくことになるので、
どんどん強い刺激になっていくように受け止める傾向にあります。

言葉一つ一つに反応していくことから
相手が話し終わってから内容を吟味することもできません。

攻撃者が思っている以上に
攻撃を受ける側は強い敵意が
自分に向けられているように感じるものです。

だから、
攻撃者は、攻撃する意図がない場合さえあります。
例えば、極端な話、道理を説いている場合があるのです。
「ブランコに並んでいる時に横入りしてはダメだよ」
という趣旨のことを言っているのだけなのに
言われた方は
楽しくブランコに乗ろうと期待に胸を膨らませていたところ、
(並んでいたけれど、ガラスが落ちていたので、
 みんなのためにちょっと捨てに行っていたかもしれない)
カウンターを浴びせられた形になり
驚いているし、
相手の表情などから自分が攻撃を受けているということを感じ、
言葉一つ一つが鋭く聞こえてしまい
「お前なんかみんなと一緒に遊ぶ資格がない」
と言われたように受け止めていることがありうるのです。

当然これはいじめではない可能性もあるのですが
言われて傷ついている様子があれば、
大人が何らかの対応をする必要があります。

皆の前で言われたことどもをフォローすること、
自分が横入りを注意したことで
思わぬ衝撃を与えてしまった子をフォローすること
これが大人としてやるべきことです。

必要なだけでなく、
いじめを産まない人間関係を形成するチャンスなのです。

ともすれば、
けんか両成敗で、どちらも「悪い」
ということになってしまうことがあるかもしれませんが
良い悪いではなく、
どうすればよかったのか
ということを大人を交えて話し合うことが良いのです。

それぞれの良いところをはっきり共通認識にして、
一緒に成長していく仲間であることを自覚させる
ということが理想です。

これを阻む思考上の最大の敵は
実は、「善悪」であり、「正義」であり、「秩序」です。

子どもたちに悪意がないということを前提として
エラーを修正していく
これが肝要ではないでしょうか。

そのためには、「加害者」、「被害者」という言葉は
使わない方が良いのだと思います。

いずれも、子どもが孤立している、マイナス評価されている場合は
大人が対応をする機会にしなければなりません。

2 どうして、客観的な判断をしようとするのか

それにもかかわらず、
特に学校は、いじめがあったか無かったか
慎重に判断する傾向にあるように感じられます。

慎重に判断する結果
なかなかいじめだと認定しないために、
必要なフォローができない状態になっているかもしれません。

もしかすると「いじめがあった」と認定すれば、
色々と処理するべき手続も多くあるのかもしれません。
報告書などの手続きがあるかもしれません。
その対応を教育委員会なりに評価を受けなければならないのかもしれません。

そうでなくとも、
いじめの記録等をつけなければならず、
加害者とされた児童生徒の記録に加えなければならないのかもしれません。

いじめと認定して、加害者とされた児童生徒に不利益が及ぶというなら
いじめの認定に慎重にならざるを得ず、
それがいじめか否かを客観的に判断しようとしてしまう
動機になってしまいます。

暴力や脅迫などの犯罪行為であれば
警察の問題が出てくるのですが、
そうではない場合は、
いじめを制裁の対象にするという硬直な扱いでは、
適切な対応ができなくなってしまいます。

やるべきことは、通常は、
子どもたちの行動の修正です。
大人もそうなのですから、まして子どもの場合、
自分が言った言葉が相手にどう伝わるかなんてわからないことが多いので、
相手が傷ついている可能性があるのです。

「どういう風にふるまえば、双方が楽しく生活できるか」
ということを目標とするべきなのです。

ところがそういう目標ではなく
「いじめゼロを目指す」
なんてことを目標にすると
こういう弊害がでてくるわけです。

プラスを作っていく、教育していくことを目指すべきなのに
マイナスを無くしていくという発想の貧困さを
指摘しなければならないでしょう。

ひとりの生徒なのに、
「いじめ認定」という烙印を押してしまうと
極悪人として別の人格にかわったように
扱うようになるのかもしれません。

いじめる生徒もいじめられる生徒もどちらも自分の教え子だ
という意識に欠けるところがあるのではないでしょうか。

3 被害者(の親)が被害を過敏にとらえている場合の対応

被害を受けているという子どもを基準に考えると
不合理な結果が生まれるのではないかという
現場の心配があるようです。

相談事例で増えてきているのは、
自分の子どもがいじめの加害者だと
攻撃されているというものです。

いじめの被害者だと主張する子どもの親から
いじめの加害者だという膨大なメールなどの攻撃を受ける
他人にもいじめがあると言いふらされているようだ
というものです。

実際の被害者の親だと主張する人のメールなどを見ると
脅迫すれすれの内容が記載されていますし、
加害者の子どもの人格を否定するような内容もありました。
復讐心や防衛意識はわかるとしても
明らかに不穏当なものでした。

この事例は小学校低学年の事例で、
それまで仲良しだった子ども同士が
クラス替えで別のクラスになったそうで、
加害者とされた児童は、
新しいクラスのお友達と仲良くなってしまい、
被害者とされた子どもにあまりかまわなくなった
ということが発端のようでした。

ここには、
被害者とされた子どもが加害者とされた子どもへの
依存傾向があるというよりは
被害者とされた子どもの親が、
加害者とされた子どもに、自分の子供の面倒を見てほしい
という依存傾向があったようです。

実際には被害者とされた子どもは、
新しいクラスになじんでおり、
友達もたくさんいて楽しく過ごしているようです。

母親だけが、
加害者とされた子どもを恨んでいたようです。

これをもっていじめだと主張していたわけです。

どうやら母親も、自分が子どもの時
いじめにあった過去があり、
自分の子どもも同じように虐められるのではないかという
強い不安があったようです。

おそらく最初は、クラスも変わって
被害者とされた子どもも心細い気持ちだったと思います。
加害者とされた子どもにかまってほしかったと思います。
それを母親に訴えたということもあることでしょう。

もしかしたら、加害者とされた子どもが
新しいクラスの子と話をしていることに夢中で
被害者とされた子どもに対応ができず、気も回らず、
結果として無視した事実もあったかもしれません。

被害者だと主張する子どもの母親は、
加害者だとされた子どもの母親に相談して、
不安を打ち明けて、
お呼ばれ会をするなり、
共同のイベントのセッティングをするとか
新しいクラスの子との遊びを応援する等して
他人に頼って解決すればよいのですが、
それができなかったようです。

被害者を主張する子どもの母親は
何度も学校に赴いていじめを訴えたようです。
どうやら
事実関係も分からないくせに
被害者を主張する子どもの母親に
同調してしまった人たちも存在したようです。
当然のごとく被害者を主張する母親は
無責任な共感によって
ますます不安を感じるようになって行ったようです。

学校は対応に苦労したようです。

「客観的な意味でのいじめが認定できないので、
いじめとして対応できない」
そういう感覚だったのではないでしょうか。

やがて、被害者主張の母親は、
学校から自分がモンスターペアレント扱いされていると思うようになり、
加害者扱いの子どもとその母親を攻撃するようになりました。

学校は、メールなどのはっきりした証拠が残る攻撃に対しては
きちんと対処をしていたようです。
学校から注意を受けると
加害者主張をした母親の攻撃はしばらく止まりました。

どうやら被害者主張の母親は精神的に問題があったようです。

たびたびの攻撃にさらされて
加害者扱いの子どもの母親の方も精神的な負担に
耐えられなくなってきたようでした。

学校はどうすればよかったのでしょうか。
何か修正するところはあるのでしょうか。

学校からすると、
「あなたは精神的に問題があって
妄想傾向にあるから病院に行った方がよい」
ということはできないでしょう。

手を焼いた状態だったと思います。
出来ればかかわりたくないということが人情ではあるでしょう。

初期対応の際に
いじめかどうかの認定を後回しにするという決断が
必要だったと思います。
先ずは、子どもたちに事実関係を確認するのではなく、
母親の心配事をきちんと掘り下げるということを
第1にされるべきだったのでしょう。

母親が実際に何を心配しているのか
現実に起きていることに対する抗議というより、
この派生問題として将来起きるであろうことを心配しているのであれば、
学校としてできることは
母親を励ますことなのだろうと思います。

子どもがクラスでなじむように
サポートすることを説明することが有効だと思います。
そしてお子さんはきちんとたくましく成長しているということを
事実をもって紹介して不安の材料を極力なくしていき、
安心してもらうことが第1でしょう。

そして、
母親の過剰な行動は
第三者の子どもたちにも伝わっていき
その結果子どもが窮地に陥るというデメリットも
きちんと伝えるべきでしょう。

こういう親の不安の結果、
友達を無くす不幸な子どもがあちこちに増えています。

低学年の子どもにとって
クラス替えというものはこういうものであるし、
少人数の友達だけの付き合いから
クラス全体の交流を作っていく過程で
克服されていくことを説明するべきだし、
そういう人間関係作りをしていく
ということを意識するべきだと思います。

正義感の強い先生の場合、
悪いことをしていない子どもを加害者扱いして
理不尽な要求を通そうとする保護者に対して
強い態度で押し切ろうとすることがあるかもしれませんが、
逆効果になります。

被害者主張している親に精神的な問題があり、
秩序や正義感に問題があるわけではないという場合は
その根本原因を把握して、そこを手当てするしかないようです。

そしてその根本原因は
子どもが孤立したり攻撃を受けたりするという不安です。
ここを一緒に適切に評価していくということが求められるようです。

これは加害者扱いされて苦しむ親に対しても同様です。
きちんと学校が把握している事実関係についての評価を告げて、
子どもを守るということを約束をする必要があります。

いじめの問題が扇情的に報道されてしまうと
自分の子どももいじめを受けるのではないか
いじめによって子どもが自死するのではないかという
不安を抱く親が増えることは当然の成り行きです。

それを踏まえて報道がなされるべきであることは当然です。
裏付けをとらない決めつけ報道は害悪にしかなりません。
こういう主張があったことを報道しているだけだという
ゴシップ週刊誌のような言い訳を新聞が行うことは
情けない限りです。

おそらくこのような「正義」の報道は下火にはならないでしょう。
誰かを攻撃する姿勢によって、別の誰かを苦しめることは続くでしょう。

学校はそういう情けない社会状況を踏まえて、
過敏になっている保護者の対応を考えなければなりません。

学校も逃げないで真正面から対応するだけでなく、
利用できる人間を大いに利用するべきです。
教育委員会も学校現場が、
外部の応援を受ける体制を推進していただきたいと思います。

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ゼンメルワイスの失敗、正義、真理が握りつぶされる理由  [家事]


イグナツ・ゼンメルワイス(1816~1865)医師

19世紀のウィーンのある病院の1科では
出産に伴う妊婦の死亡が異常に多かった。
死亡原因は産褥熱
つまり、お産の時に妊婦に細菌感染が起こり
細菌が血流にのって全身に回り
毒素による熱が出て敗血症で死亡したのである。

ゼンメルワイスは、この原因を突き止めた。
同科の出産の介助をしていたのが医学生で、
その医学生が遺体解剖をした後に手を洗わないで
出産介助をしていたため、
遺体の毒が医学生の手を汚し
その手で介助したために
出産の際に毒が妊婦に移ったと主張した。

彼は、出産の介助の前に
塩素系での手洗いを励行した。
その結果、産褥熱の発生を激減させた。

その後「徐々に」手洗いがヨーロッパに広まっていったとのことである。

しかし、ゼンメルワイスは、
英雄になるどころか
医学界から追放され、郷里のブタペストに戻り、
精神科に入院させられ、47歳で病死した。

この話を最初に読んだのは、
津田敏秀著「医学的根拠とは何か」(岩波新書)である。

真実は報われないということで衝撃を受けた。

先日、ジェニファー・アッカーマン著
「かぜの科学」(ハヤカワ文庫)を読んだら
やはりゼンメルワイスのことが記載されていた。
少し、別の角度からの説明もなされていた。

当時の産科医たちは、
ゼンメルワイスの主張を取り上げなかったばかりか
ゼンメルワイスの取り組みを妨害さえしたそうだ。
そしてそれはどうやら
ゼンメルワイスの性格に起因していたというのである。

ゼンメルワイスは、自分の考えに異を唱えた人たちを
「大量虐殺の共犯」、「医学界のネロ」、「殺人犯」
等と呼んだらしい。
医師たちは、このようなゼンメルワイスを容認できず、
主張を取り上げるどころか
ゼンメルワイスを狂人として扱ったようだ。

「医学的根拠とは何か」の該当部分を読み直してみると、
ゼンメルワイスは、
「医師が産褥熱で人を殺す」というビラを撒き、これが
精神科に入院させられたきっかけだと記載してあった。

まだ、細菌という概念も生まれていなかった時代のことである。
パスツールが「生命の自然発生」を否定し、
養蚕業の救済を始めたばかりのころで、
コッホが炭疽菌を培養するのも
ゼンメルワイスの死後10年経ってからである。

もしかしたら当時の医学界には
徒弟制度のような感覚があり
先輩である親方が絶対的存在だから
先輩を否定したり、批判するということが
ありえないことだったのかもしれない。

伝統と権威を否定するゼンメルワイスについては
怒りの対象ではなくて
どちらかというと奇行を行う危険な狂人だと
そのような扱われ方だったのかもしれない。

ゼンメルワイスの語る真実は
文字通り葬り去られたことになる。

一方ゼンメルワイスが当時の医学界を
強烈に罵ったことはよく理解できる。

子どもを授かるというしあわせの絶頂の時に、
何も悪いことをしていない妊婦が
人を助けるべき医師や医学生によって
命を奪われる様子を彼は見てきた。

夫をはじめとする家族が
妊婦が死ぬことで嘆き悲しむ姿を
目の当たりにしていた。

しかも、単に手を洗えばよいと
口を酸っぱくして言っているにもかかわらず
それを無視して危険な作業を続けていた、
あるいは敢えて手を洗わせないで作業をさせて
案の定妊婦の命を落とさせているのだから
「殺人者」、「虐殺者」ということは
ゼンメルワイスにすると文字通りの評価
正しい表現だったと確信していてもおかしくない。

しかし、ゼンメルワイスは
医学界から抹殺された。

さて、もし仮にタイムマシーンで
ゼンメルワイスの時代に行けたら
何をすることが正解だろうか。

答えは、ゼンメルワイスに対して
「暴言を慎め」ということで間違いないと思う。

確かにゼンメルワイスの手洗いは
徐々にヨーロッパに浸透していった。
長い歴史を考えると多くの母親たちを救ったことになる。

しかし、
彼が追放され精神病院に行っている間
なお手洗いをしないで出産介助が行われ
産褥熱で死んでいった母親が大勢いたことになる。

一人でも多くの命を救うためには、
けんか腰の正攻法?という手段をやめて
うまく立ち回らなければならなかったはずだ。

妨害を極力小さくすること
結果論だが、それがゼンメルワイスがやるべきことだった。

しかし、おそらく、
ゼンメルワイスは、自分では罵詈雑言を止められなかっただろう。
なぜならば、
当時のギルドを色濃く残していた医学界で
先輩たちに対して悪態をつくことができるほど
伝統と権威を意に介さない性格でなければ
産褥熱の原因が
医学的手法にあるかもしれないという
否定の発想に立てなかったかもしれないと思うからだ。

科学的発見と彼の性格はセットだったかもしれないのだ。


現代でも
正しいことが受け入れられないことが
山のように多く、
無力感や屈辱感にさいなまれ、
人生を棒に振る人たちが多くいる。

不条理に反撃をするために
相手に対して攻撃的な言動をする人たちも多い。
しかし、
彼らが受けた不条理に見合う「正確な」評価、表現は
相手方からすれば
悪態や罵詈雑言に受け止められている。
ゼンメルワイスのころと同じ構造は現代でも起きている。

さらに厄介なことは
不条理を行った相手方だけでなく、
中立的な人間や自分の仲間でさえも
罵詈雑言等攻撃的言辞に辟易して
関わりを遠慮され、
ゼンメルワイスのように孤立を招いているのである。

真実は、それだけでは力にならない。
その人が孤立するだけならまだ良いが
その人が守ろうとする人たちを
結果として見殺しにしている事態にもなりかねない。

あたかもゼンメルワイスが
守らなくてはいけない妊婦を
みすみす見殺しにしなければならない事態と
全く同じ事態が今も起きている。

では、現代のゼンメルワイスたちは
どうすればよいのか。

少なくとも行うべきことは
仲間を作り孤立しない事だ。

ただ、現代のゼンメルワイスは
仲間を作ると益々怒りがエスカレートするようだ。
仲間ごと孤立していくか
仲間同士の内部分裂が繰り返される。

仲間を選ばなければならない。

怒りをあおる人間には警戒しなければならない。
不条理を受けている場合
怒りを共有することはとても気持ちが良い。
救われた気持ちになる。
しかしそれは大変危険だ。
それから前に進めなくなる。
不条理を拡大再生産する危険がある。

心地よい響きを聞き続けると
修正提案に対しては拒否反応が出やすくなるらしい。
心地よいことを言う人が味方で
耳が痛いことを言う人が敵になって行くようだ。
人間の意識決定の大部分はこのようになされているようだ。
これでは「内部固め」で手いっぱいになってしまい、
それすらできなくなり、分裂に向かうことは必定だろう。

仲間には、怒りに物足りない人間を必ず加えるべきだ。
他人に対して働きかける場合
中立的な人間や反対者に対して働きかける場合は、
怒りに縛られていない人間が行わなければならない。
共感を実感できない仲間、
むしろ他人に共感できない性質をもつ仲間は貴重である。

真実や正確な表現に甘えてはいけないのだ。
主張することで自分のストレスを発散させることを優先するならば、
それはとりもなおさず結果を出すことをあきらめる
という選択と同じ意味なのだということに気が付かなければならない。

ゼンメルワイスの名誉は
死後30年してパスツールによって回復された。
現在では、ゼンメルワイスは母親たちの救世主と称えられている。

ゼンメルワイスは、その発見を通して妊婦を救済した
そして、ゼンメルワイスは、その失敗を通して
運動の普遍的な方法論を教えてくれた。

現実にはパスツールはなかなか現れない。


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どうしていじめることが「できる」のか。「かわいそうだからやめる」ができない理由2 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 いじめの加害者は、特殊な人間ではなく普通の人間だと考えるべきこと

もしかすると
「いじめの加害者は、
精神的にいびつな構造を持っていて、
相手を苦しめることを何とも思わないというような
冷酷無比の特殊な人間だ」
と一般には考えられているのかもしれません。

被害者やその家族がそう受け止めることは、
もっともなことですし、
私や私の家族がそのような攻撃を受ければ
私もそう感じるでしょう。

問題は、
いじめなどを防止しなければならない人が
「いじめをする人間は冷酷無比の特殊な人格をもった人間だ」、
という考えに陥っているとすると、
いじめ防止は、特殊な人格者探しをすることになるだろうし、
いじめをした者は、特殊な人格者として
治療、矯正、あるいは隔離の対象となってしまう
危険があるということです。
早い話、
それでいじめは防止できない
ということが今回申し上げたいことです。

私は、防止の観点からは、
いじめは、
子どもたちの人間関係が未熟なために、
人間関係で必要な配慮ができなかった
そしてそれを修正できなかったという
「エラー」として把握するべきだ
と考えています。

どういう場合に「エラー」が起きるか
それを突き止めて
先回りをして対策をして
「エラー」を起こさないということが
防止の観点からは有効だと考えています。
行動経済学という
近年ノーベル賞を輩出している
分野の応用ということになります。

特殊な人格者の行為ではないと考えるべき理由は、
同じ子どもが
いじめをする方にも回るし
いじめられる方にも回る
普通の子どもが被害者にも、加害者にもなる
そういう性質のものだからです。

冷酷無比の人格を探していたり、
命の大切さを教える教育をしていても
いじめ防止にはつながらないと思うのです。

「相手を殺しても良い」と思って
いじめをする子どもは滅多にいません。
逆に何らかの精神的構造上問題があって、
いじめをするならば
命の大切さを教えても仕方がない
ということになるでしょう。

私は、犯罪にしても、離婚にしても、パワハラにしても
加害者と呼ばれる人と話をする機会が多いのですが、
そのような冷酷無比の精神構造になっている人はおらず、
「普通の人」の範囲であることが多いという印象です。
家族がいて、家庭を大事にできる人であったりします。

2 いじめ防止のヒント、共感とは何か

ただ、共通の事情として、
いじめや犯罪などの攻撃行為をしている時、
相手をかわいそうだと思うことができない
相手に共感できないという
状態になっているようです。

「共感とは何か」ということを端折って説明すると、
先ず、相手の気持ちがわかることではないようです。
では「共感とはなにか」というと、
「あたかも自分が相手のその立場にいるという
感覚を持ってしまい、
相手と同じように
自分が苦しい、つらい、悲しい、寂しい、怖い
という感情を抱いてしまうこと」
ということなのだろうと思います。

厳密に言えば
相手の気持ちを共有するのではなく、
相手の立場を共有するということです。
相手の立場を共有するためには、
相手の置かれた客観的事情だけでなく
相手の表情、声等に現れた相手の感情も
立場を推測する事情になります。

相手の気持ちを受け止めているつもりでも
実際は自分の感じ方をしているので
実は勘違いをしているということがあっても
それは仕方がないということになるようです。

そうやって相手の気持ちを追体験しているうちに
自分も苦しくなるのですから、
自分の苦しさを止めるために
相手を苦しめる事情を解消したいと自然に思い、
加害行為を止めたり、やめさせたりするわけです。

これがミラーニューロンによる共感の仕組みで、
ホモサピエンスが群れを作ることができた仕組みです。
ホモサピエンスがネアンデルタール人より
子孫を長らえさせることができたのは、
この仕組みを体内に持っていたからだと思います。

人間らしい、サピエンスらしい行為、気持ちというのは
人間が仲間に対して
(厳密に言えば敵ではない人間に対して)
遺伝子上自然に持つ気持ちのようです。

3 いじめ防止のコンセプト エラーへの先回り対処

いじめ対策のコンセプトとしては、
「遺伝子的には仲間に共感することが自然なのに
共感できなくなる『事情』というものが存在する。
だから共感できないし、かわいそうと思わないでいじめる。
そう考えると、
その『事情』を除去することで、
もともと人間として備えている共感の仕組みを
発動させることができる。」
というものです。

その事情とは、「防衛意識」が強くある場合です。
防衛意識と言っても「自分を守る場合」だけではなく、
家族であったり友人であったり「仲間を守る場合」、
「弱い者を守るという意識がある場合」、
「正義や社会を守る意識」も
ゆがんだ形で作用することがあります。

もう一つは、脳の構造にも原因があるようです。
「自分がこれからする行為についてのダメージ評価は、
相手が実際に受けるよりも軽くなる傾向にある」
ということのようです。

今回は防衛意識に焦点をあてます。

そうすると
「いじめは、
防衛意識が強く働いているために
いじめられる子どもの気持ちを無視してしまうという
『エラー』が生じて起こる。
だから、『エラー』が起きる事情をパターン化して
先回りして『エラー』を起こさないように必要な介入をする。」
ということがいじめを軽微な段階で辞めさせる手段となるし、

「『エラー』が起きないように
事が起きる前から
そのような事情を作らないように指導していくということ」
が根本的な事前のいじめ予防ということになると思います。

4 ホモサピエンスが共感を閉ざす場合

 1) 共感の始まり

ではどういう場合に
他人に共感できなくなるか
自己防衛意識が高まるのか
ということです。

それは、200年前の人間の暮らしをイメージすると
とてもわかりやすく理解することができます。

人間の心は、約200万年前
狩猟採集をしていた時代に形作られた
と考えるのが認知心理学の大勢です。
私(対人関係学)は、認知心理学と別角度から
この結論に到達しましたので、
この結論を支持しています。

この時は、原則として
ヒトが生まれてから死ぬまで同じメンバーで固定されていた時代で、
群れの仲間に対しては
防衛意識が生まれにくい事情がありました。
理由を一言で言うと、「仲間は自分を排除しない」
という確固たる意識がありますから、
疑心暗鬼というものが生まれにくく、
防衛をする必要がなかったからです。

逆にどういう場合に
防衛意識を抱くかということを考えれば
その構造が理解できると思います。

 2)肉食獣との闘い

防衛意識を抱く一番の事情は
肉食獣に遭遇した時でしょう。
自分が逃げることが基本ですが、
群れの仲間が逃げられないときも、
寄って集って袋叩きにして反撃をしたと考えています。

防衛意識は、攻撃意識を含みます。

攻撃は、怒りという感情に支えられて
相手を倒す以外のことを発想としても持ちえないほど
強力な行動意欲をもつ現象です。
徐々に、肉食獣は
「人間が集団でいる時は自分が危険になるから襲わない」
という本能を獲得したわけです。
(これは肉食獣の防衛意識です)

攻撃する相手には共感をしません。

例えばゴキブリが嫌いな人が
家にゴキブリが出たと言って
叩いたり殺虫剤をかけて
完全に動きを停止するまで戦い続ける
という具合です。

相手にも命がある、親もいて子もいるかもしれない
等ということは全く考えないでしょう。
殺し終わった後に考えるかどうかはともかく。

闘っている時、
ゴキブリに共感する人はいないわけです。
(それほど嫌いではない人はそもそも闘わないでしょうし)

 3)ネアンデルタール人との闘い

肉食獣以上に危険だったのは
近接種でしょう。
ホモサピエンスの場合、ネアンデルタール人が
種全体の仮想敵になっていたと思います。

サピエンスと姿かたちが近い
うっかりすると、突発的に、
相手に共感することがあったかもしれません。
特に赤ん坊とかですね。

この辺の事情はなかなか想像しきれないのですが、
飢えなどで困ってくれば
危険を顧みずに
双方が攻撃を始めた可能性があったと思います。

この時も、別種ということもあり、
こちらの生命線を犯す事情があれば
自分や仲間を守るために
攻撃する、
攻撃すれば共感を停止する
ということはあったと思います。

 3)サピエンスの他の群れとの闘い

近接種ばかりではなく、同じ種である
サピエンスが攻撃対象となる場合もあったでしょう。
先ずは他の群れのサピエンスです。

極端な食糧不足の際等に
他の群れを襲う場合があった可能性はあると思います。
同じ種に対して、共感を起こさないように攻撃はできたでしょうか。

攻撃ができたと思います。
「他の群れ」との物理的な距離が一番の決め手となりますが、
従前から遭遇を繰り返し友好関係にある群れは
攻撃しにくかったと思います。
個体識別ができれば、共感システムが発動してしまうからです。
この共感システムを閉鎖するためには、
かなり強い怒り(強い防衛意識、危機感)が必要だったと思います。

それと反対で
見ず知らずの群れとの闘いの場合は、
共感を停止しやすかったと思います。
みたことの無い人間は、個体識別ができませんので、
共感がしにくいという事情があったのだと思います。

「攻撃をしてくる見ず知らずの人間」は
防衛意識に支えられて
肉食獣と同じ扱いになりやすい
ということです。

但し、同じサピエンスですから、
痛みや苦しみ、死の恐怖は見てわかるわけです。
怒りで一時的に共感システムを閉鎖しているだけですから、
戦いに勝利して怒りが収まった後は
共感システムが作動してしまい、
同じ苦しみが襲ってきたのかもしれません。

 4) 同じ群れの中の危険人物との闘い

一番困るのが
群れの中の敵ということになります。

当時は、みんな生きるだけで
いっぱいいっぱいの状態でした。
だから、人間にも「糖」などの栄養分を
摂取しやすくするシステム
体内に備蓄するシステムが発達したわけです。

このような食糧事情、生存環境の下で
一人だけ「ぬけがけ」することは
(蜂蜜のありかを隠して仲間に分けないとか)
他の群れに栄養が行き渡らず、
弱い個体から死にはじめますから
群れの個体数が減少してゆき
頭数が減ることによって
肉食獣からの防御や食糧の採取に不利になり、
結局は群れの死滅を意味しました。
大変危険な存在だということになります。

このように他者に共感する能力が欠損する個体も
一定程度生まれてきたことでしょう。
もっとも、
通常は、子どものころにその片鱗が見えますから
群れ全体で矯正したと思われます。
人間が幼体から成体に代わるための時間が
他の動物と比べて著しく長期間になっている理由は、
このような群れで生きるための
訓練の時間を要するからだという説があります。

長い時間をかけて矯正をしても
先天的に共感をする能力が欠如して矯正ができない
しつけにも従わないという
群れに危害を加える場合は
群れ全体として「防衛意識」を持つことになります。

群れ全体の防衛意識が高まり
怒りのモードになると
危険人物は強制的に排除されたのだと思います。

母親等は悲しみとあきらめがあったかもしれませんが、
攻撃が開始されると
攻撃の核となる人物たちは怒りのモードになっていますから、
相手に対する共感チャンネルは閉じてしまいます。
相手の怯え、痛み、苦しみに対して反応せず、
殺すか追放するまで攻撃を緩めなかったことでしょう。

攻撃者の数は増えます。
攻撃しても良い相手だ
共感を閉ざすべき相手だ
という感覚が広がると
怒りは、群れの別の人間の怒りを呼び起こし、
容赦ない攻撃がエスカレートしていったと思います。
プロレスを見ていて観客が興奮するようなものです。
怒りとはそういうものです。

危険人物は
「仲間」から、「群れを襲う肉食獣」の扱いになったわけです。

そうすることによって危険分子を排除し
群れの消滅を回避してきたのだと思います。

 5)いじめの構造

このシステムは今でも私たちの心を形作っていると思います。

いじめにおいても
周囲の多数が攻撃参加している段階になると
「いじめても良い人間だ」
という意識に変貌していますから、
いじめられている子に対して
共感チャンネルは閉ざされています。

いじめられる子は、
多数からすれば人間扱いされておらず、
200万年前の肉食獣と同様に扱われているわけです。

こうなったらいじめが完成されてしまっています。

ここで、
いじめられている側の子の状況を分析しましょう。

いじめられている子は、自分が
「人間扱いされていない」
と感じています。
言葉で表現することは難しいでしょうけれど、
仲間として扱われないで理由もわからず攻撃されるということは
そういうことです。
あたかも、攻撃的なネアンデルタール人の中に
放り込まれたように感じているはずです。

それはとてつもない恐怖、疎外感でしょう。
具体的ないじめ行為がなくても、
その場にいること自体で安心できないのです。
やがてそれは、いじめの空間にいなくても
自分が存在していること自体に安心できなくなります。
自分が仲間として扱われるということに絶望した場合、
生きる意欲を失っていき、
精神のバランスも保てなくなることが少なくありません。

これはいじめられているその時だけでなく、
何年かたった後でも
「人間は自分に危害を与えるものだ」
という意識がちょっとしたことでぶり返してしまいます。
不安感がずうっと継続している場合もあります。
なにせ、人間が近くにいないという環境は
なかなか望めないからです。
統合失調症の症状を呈する子どもたちも少なくありません。
中学校、高校時代の大半を入退院の生活を送り
その後も社会参加ができず、
一生が台無しになる危険があるのです。

ある程度多数が一人の子だけを
からかったり、いじったりしていれば
からかってもいい子だ、いじってもいい子だ
という意識が生まれますから
「虐めても許される子」だという意識になり
すぐにいじめが完成してしまいます。
また、からかいやいじりがあった時点で
本人にとっては深刻ないじめを受けている
「自分は人間扱いされていない」という
絶望感を感じている可能性もあるわけです。

こうならないように子どもを死守しなければなりません。

何が加害者の防衛意識を発動させるのかということを考えましょう。

この時、加害者側の事情、被害者側の事情を
リアルに考えなければなりません。
そういうと、
「被害者にも悪いところがある」
という論調が頭に浮かびます。
こういう消耗な趣味的な議論を避けるために一言言っておきます。

本気で防止を考える時は
「良いとか悪いを抜きにして考えなければならない。」
ということが大切です。
いじめにつながる事情があるなら、
その時は悪いこととはいえなくても
ことごとく除去していかなければなりません。
被害者が悪い、被害者は悪くないという次元で論じていたのでは、
いじめが起きる事情をリアルに見ることができません。

あくまでも
加害者、被害者、取り巻く人たちの
「人間関係の状態を修正する」
という発想が必要です。

では、どういう場合に
加害者の防衛意識が
いじめられる子への攻撃へと向かうのか
防衛意識を発動するきっかけとは何かを
検討しましょう。

5 防衛意識が生まれる事情

 1)自分が攻撃を受けた場合

防衛意識を持つ流れは、
自分に危険があると認識し、
危険を回避したいという要求が生まれ、
危険を回避しようという行動をしよう
つまり防衛意識ということになります。

危険の中身ですが、
身体生命の危険を感じた時に
防衛意識が生まれることは
分かりやすいと思います。

ただ、自分の身体生命の危険を感じて
反撃がいじめの端緒となるということは
それほど多いことではありません。

むしろ対人関係的危険を感じたときが
いじめの端緒の攻撃につながることが多いようです。
対人関係的危険とは、
顔をつぶされるとか、立場を無くすとか
「仲間の中で自分の評価が下がる場合」を主として想定してください。
仲間はずれにつながる不利な事情ということになるでしょう。

典型的な例は、もともとは親密な人間関係があった場合
ということが少なくないようです。

相手が自分以外を優先していると感じる場合とか
自分の弱点を見られてしまったとか
自分の知られたくないことをみんなに告げているようだとか
そういう場合です。

あるいは、親友だったのに
最近、相手が自分から離れていくような気がする
そういう場合です。

これは、そのような扱いが客観的にある場合はむしろ少なく
実際はそこまで悪く考えなくてもよいのに
悪く考えてしまう場合が多いようです。

危機感は主観的なものですから、
危険があると感じると防衛意識が発動されてしまいます。

だから、
加害者にもともとコンプレックスがある場合は、
危機感を抱きやすく、
親密な人間関係がなかったのに防衛行動に移りやすいです。

容姿を気にしていた子は
容姿の良い子が自分を馬鹿にしているように感じたり、

自分の学業成績に不満の子が
学業成績に不満のない子が自分をあざ笑っていると感じたり、
(実際は、加害者の方が成績上位である場合も少なくありません
 コンプレックスは劣っている場合だけでなく
 自分の目標値との乖離等が原因で起きる場合もあるようです。)

音楽が不得意の子が
ピアノのコンクールでよい成績を収めた子から
馬鹿にされていると感じたりという具合です。

 2)友達・仲間が攻撃を受けた場合

人間の良いところが裏目に出ることもあります。
友達が危険な目にあっていると思うと
自分も危険な目にあっているような追体験をして、
勝手に防衛意識が生まれることが良くあります。

本当は友達が悪くて、
相手が正当な反撃をしただけなのに、
友達が悔しい思いをしているのを見ると、
友達がかわいそうに思い、防衛意識が生まれ、
相手を攻撃するということはいじめの端緒でよくあります。

公平に見れば、相手の方がかわいそうなのですが、
友達といる時間が長いので、
友だちの表情や動作から感情を読み取りやすくなっていて
つまり共感しやすいので、
友達に味方してしまうわけです。

相手と付き合いが短かったり、薄かったり、
相手は感情表現に乏しいといった場合は
感情移入がしづらくなります。

時間的な目撃状況の具合で
相手が気の毒なところは見ておらず、
友達が傷ついているところだけ見ているということも
友だちの方にだけ感情移入する原因となるようです。

公平に物事を見るということは
実は難しいことで、
公平にものを判断するためには
ある程度先ず共感を遮断する必要がある
ということは頭に入れておいていただきたいと思います。

そして、わがままな友達を守ろうとする
取り巻き連中が多くなればなるほど、
相手をいじめてよいのだという風潮が強まり、
無関係な子どもたちも攻撃に加わっていきます。
そしていじめが完成します。

 3)「正義」・「ルール」が守られない場合

「正義」を守るという意識は
いじめに転化しやすいようです。
「正義」は、「ルール」と置き換えてもよいでしょうし
大きな集団と置き換えてもよいでしょう。
この場合の大きな集団とは、
ダンバー数からすると150人を超えた人数ということになります。

子どもですから大したことの無い正義なのです。
例えば、部活をさぼるということがありました。
運動部や吹奏楽部など
毎日部活動にでることが明示、黙示のルールになっている場合、
体調や気分によっては、出たくない日も出てくるでしょう。
それでも頑張って毎日部活に出ている子からすれば、
平気でさぼっているような子を見ると
むかつくようです。

私はどちらかというとサボる側でしたから
よくわからないところはあるのですが、
まじめに部活動にいっている方は
理由なく部活に来ないことを
「ずるい」という気持ちになるようです。

彼らにとっては部活動に行くことが正義ですから、
正義を守るため、
結局は自分を守るため、
相手を容赦なく攻撃するようです。

共感チャンネルは閉ざされて
ラインなどで多くの参加者が一人を非難し、
かわいそうだと思うことがなくなるようです。
「部活をさぼっただけなのに」
という論理は通用しないようです。

ラインは、文字情報しか画面に出ませんので、
相手が苦しんだり怖がっている様子はうつりません。
言われた相手に共感して
かわいそうだからやめようなどということが
起こりにくいシステムです。

正義を守ろうとか、集団を守ろうということになると、
そして守ろうとしないものに制裁が加わるようになると、
それを守らないことの恐怖感情が強くなるとともに、
その緊張を逸脱する者に対する憎しみが増大するようです。

実際は、子どもたちの自然な正義感というよりも、
例えば、部活に来なくていけない
という厳しい指導があったり、風潮があったり、
運動で学校推薦を使って進学しなければならないとか
どこどこの高校に行かなければうちの子ではないとか
一生フリーターで老後は無年金だとか、
大人が子どもを追い込んでいることがほとんどだと思います。

 4)八つ当たりと敏感体質

ここまでお話してきて
気が付いた方もいらっしゃると思いますが、
防衛意識とは、
自分に危機を与える対象に対して
まっすぐに向かうわけではないことが特徴です。

防衛意識は、
「とにかく危険を回避したい」
という要求に基づいて起きます。

例えば、自分の容姿に悩んでいる人が
容姿の良い人に馬鹿にされていると思うことについて
容姿の良い人に責任はありません。

成績を気にしない人が
成績を気にする人から恨まれる筋合いもありません。

つまり八つ当たりからいじめが始まる
ということが多いはずです。

今の子どもたちは危機感を持たされて
無防備に不安にさらされています。

良い学校に入り、
ブラック企業ではない会社の正社員になることが
多くの子どもたちの目標にされています。

地方の実業高校などでは
校内選考でよい成績を収めないと学校推薦しない
ということが、
生徒を黙らせる道具になっているところがあります。
「一生フリーターで無年金で老後を迎えるのか」
という言葉が脅し文句になっていました。

そもそも思春期は将来に対する不安があると思うのですが、
現代社会は、ブラック企業、フリーター、無年金等の
具体的な不安に子どもたちはさらされていると思います。

何とか不安から解放されたいという思いがある一方
それは直ぐに解消されない不安だということになります。
何とか一時的にも不安から逃れるために、
どうしたら良いだろうかと考えるわけです。

そうすると、
他人のごく些細な言動、あるいは振る舞いが
自分を馬鹿にしている、自分よりも優越している
というように感じやすくなり、
不安感、危機感を感じ易くなるようです。

不安に対して、あるいは他人の自分に対する評価を
いつも気にしているために、
敏感になっているようです。

本当は社会制度や経済状況から与えられた危険意識だったのに、
些細な言動をとらえて、別の子どもを攻撃することで
一時しのぎをしたくなる
これは無意識に起きます。
不安解消要求の誤作動です。

その八つ当たりの対象は
「自分よりも弱い者」です。
容易に「虐めてもいい子」にしやすいターゲットを
本能的に見つけ出すわけです。

なぜならば、
怒りに基づく行動は
通常、自分より弱い者に対してしか起きないのです。
自分より強い者に対して起きる感情は恐れです。

相手がある程度力があり、
一対一では勝てるかどうかわからない場合は、
数を頼んで勝てる状況を作っておいて
集団攻撃を行い、
攻撃をします。

最近のいじめは、被害者になんの誘引行動がなくても
強引に起こされる場合があるようです。

最初はからかいやいじりなのでしょうが、
攻撃を繰り返していくうちに
相手に対する共感チャンネルが閉じられていき、
攻撃参加が多数になると
「いじめてもよい子」というレッテルが張られ、
共感チャンネルが次々と閉じられていくわけです。

そのターゲットは、
例えば、障害を持っている子
孤立しやすい子
反応が遅い子
反撃をしない子
という場合もありますが、

突出して恵まれているけれど
取り巻きを作らない一匹狼

先生や、子どものリーダー格(年長)が
敵視したり、低評価をする子
等が「いじめてもよい子」になりやすいようです。

例えば、何らかのコンクールでよい成績を収めた子がいて、
コンクールにさえ出られなかった者が妬みを友達に話し、
その友達も同じ嫉妬を持っており、
それに無責任に追随する子が生まれると、
妬みが社会的に肯定されたような錯覚を起こすようです。
妬みを抑えておこうというタガが外れ、
小さな攻撃を繰り返していくうちに
人間扱いされていないと感じる被害者が
生きる意欲を失っていく
ということがありました。


学校でのいじめが起きる場合
教師がターゲットに対して
否定的な言動をしたことがきっかけになる場合があります。
この場合、その子が
クラス全体のお荷物として扱われることから
クラスに害悪を与える存在という評価に移行しやすく
正義を守るため、私たちの授業を守るため
その子は悪だ、「いじめてもよい子だ」
という状況が起きてしまうようです。

6対策

先ずいじめの生まれる原因のまとめです。

<加害者になりやすい子>
不安を抱きやすい子 抱きやすい事情のある子
(兄弟間差別、高い学歴を家庭が求めている子)
やるべきことを無理をしてもきちんきちんとやろうとする子
コンプレックスを抱きやすい子
友達に依存している子(その友達から見離されると孤立すると思っている子)
自分の言うことに無条件に追随する友達がいる子

<被害者になりやすい要素>
(属人的要素)
周囲に面識のない、足りないと思われている子
(転校生、長期休み)
一人だけ多数と違う特徴のある子
(外国籍が少数の場合)

(行動傾向)
本人に依存している友達を持ちながら
その友達の依存要求に無頓着な子

多数が心配していることを心配していない子がいる場合
(気にしない、満ち足りている)
進学、就職、容姿、将来のこと、
部活動などルールにルーズな子
服装、身だしなみにルーズな子
他人に損をさせること平気な子

(対人関係的反応)
からかわれてもからかい返したりしない子
怒れない子
感情表現の乏しい子

(状態像)
仲の良い友達のいない子
孤立しがちな子
からかわれやすい子
いじられやすい子

(環境的要因)
教師が評価を伴う指導をすることが多い子
体育系や吹奏楽部等集団行動が必要であり、欠席が自由にできない部活の子
生徒同士を過度に競争させる環境
小集団の構成に変化があるとき

おそらく指導要領だったり、マニュアルや教育理論だったりに
記載はされていることなのでしょうけれど
力点のポイント、関連付け
ということで私も考えてみました。

1) 総論

「かわいそうだからやめる」
そのために共感チャンネルを開く
という指導を行うべきです。

そのためには、ルールを守るとか正義、道徳を死守する
というより、
相手の気持ちに基づいて行動をする
という行動原理を徹底するべきなのです。

ここで、教育界にはトラウマがあることが
問題の所在であることを意識しなければなりません。

校内暴力です。
荒れる教室です。

どうしても、静かな穏やかな教室
という結果を求めたいので、
それを押し付けようとします。
このために、ルールや道徳を強調し、
逸脱者に対する制裁が許容されてしまう現象が起きます。

しかし、いずれにしても根は一つですから、
原因に向き合うべきです。
結果としてルールが守られやすくなる、
道徳的行動をするというためには、
やはり、一緒にいる人の気持ちを行動原理にする
ということを教えていく必要があります。
これが道徳の基本です。

ではどうやってこれを訓練するかということですが、

先ずは、お互いをよく知ることが必要です。
但し、個人情報を頭に入れるということではなく、
一番は一緒にいるということです。
心理学的には単純接触効果と言いますが、
一緒にいることで、感情の推移をつかみやすくする
これが共感の基礎になります。

次は、他人の弱点を尊重する、助けるという体験です。
感謝され、尊重される体験は
人間の遺伝子的な性質を掘り起こしていきます。
こういう行動は称賛しましょう。

具体的には集団活動なので、
合唱や演劇、運動などが良いのですが、
クラス対抗にして成績をつけてしまうと、
一人の弱点がお荷物になり、悪になってしまいますから、
順位はつけない。
評価する側は、良いところに目をつけ、
そこを評価するという工夫が求められます。
適当にお茶を濁すのではなく、
子どもたちが
「そこを評価してほしい」
「そういうところも評価の対象になるのか」
と目を輝かせる講評が必要です。
さて、そのように共感チャンネルを開いて
「かわいそうだからやめる」を支配的空気にする
最大の特効薬は、
本人たちが尊重されることです。
尊重されるとは、
自分の弱点、欠点、不十分点を理由に
評価を下げられたり、仲間はずれにされたりしない
つまりありのままの自分でよいのだという自信です。

こういう体験を重ねていくこと、
学校だけでなく、家庭や地域でも
体験が増えていくことが望ましいです。

少なくとも先ずは、
弱点、欠点、不十分点は
何らかの形でカバーすることであって、
それを理由として仲間として扱わない
ということを止めることです。

根本的には、小学生に老後の心配をさせない社会、
安心して安定した職業に就く社会が
失敗に寛容な社会が解決策なのですが、
一朝一夕には実現しません。
むしろ、そのような社会の基礎を作るくらいの気概で
子どもたちの教育に取り組むべきではないでしょうか。


2) 加害者を作らない

思春期は、人生の目標や未来設計をしますが
経験不足や社会状況から見通しが立てられない
という現実も見えてくるときです。

コンプレックスや挫折を抱きやすい時期だ
ということになるでしょう。

将来の目標に向かって努力するということも尊いのですが、
ありのままの自分を大切にする、
誰かに自分を大切にしてもらうということも
大事なことです。
他人の人権を侵害しない特効薬は
ありのままの自分が大切にされるということにあります。

現時点の到達点を否定的にとらえるのではなく
そこを出発点、0ポイントだという考え方が必要です。
どんな成績、部活動の状況でも
それを理由に低い扱いがなされてはいけません。
知らず知らずに成績に良い子に共感を持ちやすいのですが、
教師は内なる差別がないか厳しく点検しましょう。

また、子どもたちが、成績や容姿、運動能力等で
人間の序列を作るような振る舞いをしていたら、
それはやめさせましょう。

ご家庭の中で、兄弟間の差別があったり
無理な目標をたてさせているような場合、
休息を与えることを意識してもらいましょう。

クラスの内外で、少人数グループが形成されている場合、
グループを解体させるというよりは、
より大きなグループ、クラス全体の行動をすること
どのような子でも、
色々な人たちと行動を共にすることができるし
それは楽しいことだということを気づかせましょう。

また、過度な部活動はやめましょう。
休みない部活動に自然と反発することは
人間として当然なことです。

極端な集団活動の相互矯正になっていないか
教師と生徒、生徒同士の関係を点検する必要があります。

私は、部活動の全国大会を廃止するべきであるし、
部活動の成績が進学に有利になることを改めるべきだと思っています。
地域の少年団等に積極的に援助するべきだと思います。

3)被害者を作らないために

教師が、子どものリーダー等の協力を得ながら
被害者になりやすい子を
積極的に仲間の輪に入れていくことを意識する必要があります。
端的に言えばなえこひいきです。

必要なえこひいきはしなくてはなりません。

えこひいきは、馴れない仲間から馴れた仲間に代わるまでの
一時的なものもありますが、
生まれもって弱い子
孤立しやすい子、怒れない子、仕返しや抗議ができない子
克服できない弱点のある子と言ったように
ある程度持続的に行う必要がある場合もあります。

とにかく
「いじめてもいい子は一人もいない」
ということを大人が体を張って示す必要があります。
からかいやいじりが承認されてはいけません。
特にからかう側とからかわれる側が入れ替わらない場合は
いじめだとしてかまいません。

自分はいじめられても仕方がない子ではない。
いじめはやめてもらわなければならない
ということを理解させましょう。
味方がいるという自信をもってもらうのです。

子どもたちの日常生活をよく見て
「かわいそうだからやめる」
という子どもたちの行動が見られたら
それは大いに称賛しましょう。

4)教師の指導
まず、ルールを破ったり、自分の利益のために他人に不利益を与えた場合も、
感情的になり、他の子どもたちの前で叱責することは
「いじめてもよい子」を作るきっかけになります。

深刻な事例であればあるほど
個別の指導が必要だということになります。

深刻な被害をもたらした行為であれば
教師といえども単独では行動せずに
チームプレーを心がけるべきです。

子どもが完成された人格ではないことをくれぐれも意識し、
どうするべきなのか一緒に考えるという姿勢が必要です。
また、事後的にですけれど被害を受けた子供に
共感することを覚えさせる良いチャンスです。

部活動指導に熱心なあまり
部活動をさぼる子ども、特に練習を休んで掃除や雑用をする際に休む子を
感情的にののしったことから
堰を切った水のようにいじめが完成してしまった事例もあります。
教師自身が正義やルールを理由として
個別の子どもの感情を忘れてしまってはなりません。

体罰は、本人に屈辱感や恐怖感を与えるだけでなく
周囲にも恐怖感を与えるとともに
本人の屈辱感に対応する他者の優越感を呼び起こし、
本人に対して対人関係的不安を
周囲に対して「いじめてもよい子」という
人格を考慮しない風潮が生まれてしまいます。

命の授業に変わる授業として、
人間の弱さと人間が弱いからこそ助け合う
という人間の在り方を教えましょう。

人間らしく生きることの
楽しさ、充実した生活、
人の役に立つ喜びは
遺伝子の中に組み込まれていますから、
それを掘り起こすことによって
子どもたちは遺伝子で理解していきます。


以上、いくつか「エラー」が生まれる場面を見てきました。
大事なことはいじめの具体的な事例を報告しあい、
なぜいじめられたか、
つまり
何が子どもたちの防衛意識を刺激したか
どこで共感が閉ざされたのか
いじめられた子どもが「いじめてもよい子」
になった契機はどこにあるのか
事例を蓄積して共有しなければならないということです。

このような視点での研究が進むことを
心から願います。

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人間は幸福でなければならない。しあわせになるために始めること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 対人関係学における「しあわせ」

対人関係学は、突き詰めるとしあわせになるための学問です。
しかし「具体的にしあわせとは何ですか。」という問題は、
あまり突き詰めて考えられてこなかったような気がします。

対人関係学においての「しあわせ」とは、
「自分の対人関係の中で尊重されて存在していること」
「尊重されて存在すること」とは
「排除される心配を感じないこと」です。

整理すると
「自分の対人関係の中で安心して過ごす事」
ということになります。

もちろん、これだけがしあわせとは言うつもりはありません。
人によっていろいろなしあわせがあるでしょう。

対人関係学には、目的があります。
人間関係にある人たちどうしが支え合い、
生きるための意欲を維持するための学問です。

支え合いに必要な限度で
しあわせを考えればよいということになります。
多少おせっかいな要素もあるのですが、
それ以外をしあわせではないというわけではなく
支えるためのツールということになります。

2 なぜそれを「しあわせ」と呼ぶか

生理学的に見た場合
人間という生物は、安心して帰ることのできる場所に帰ると
交感神経が鎮まります。
血圧が低下し、脈拍が低下し、
内臓の近辺に血液が充実している等
こういう状態です。
つまり安らぎ、穏やかさを感じている状態です。

対人関係学では、これがしあわせと呼ぶのです。
しあわせを感じるような人間関係を構築することが目標となります。
人間関係とはあらゆるものがありますが、
先ずは、家庭、学校、職場等の身近なものから考えます。

安心の逆を考えてみましょう。

常に戦闘態勢でいなければならない家庭、学校、職場にいたら
どうなってしまうでしょう。

虐待が絶えない家庭、いじめや指導死の学校
パワハラやセクハラ、過労死の職場
隙を見せると誰かから攻撃されて
不利益なことが起きてしまう
自分を否定されてしまう。

このような対人関係では
逆に交感神経ばかりが活性化してしまいます。

この不安を解消したいという意識ばかりが強くなり、
八つ当たりのような新たな攻撃が始まったり
人間関係の解消、離婚、転校、引きこもり、退職、犯罪
そして自死が起きてしまいます。

人間は不幸が続くことに適応できないようです。
幸福でいなければ生きる意欲を無くしていくようです。
不幸が、自分の新たな不幸を作り、
自分の周囲の不幸を招き、
雪だるま式に不幸が拡大していくわけです。

実際に交感神経が鎮まらなければ
心筋梗塞や脳卒中になるばかりではなく
精神的な問題も発生してしまいます。

また
疑心暗鬼や嫉妬心ばかりが横行し
自分の利益を確保するために相手を傷つけてもかまわない
ということが起きてしまいます。
さらに不幸が拡大再生産されてしまいます。

どうやら、不幸の始まりは誤解やエラーによって起きている
ことも多いようなのです。

すべての利益に優先して
しあわせになることを目指す
そういう発想があってもよいのではないかと思います。

人間はしあわせでないと
自分が益々不幸になっていくだけでなく、
他人をも不幸にしてしまう可能性が生まれる。
人間はしあわせでなければならないようにできているようです。

3 しあわせはそれほど大それたことではない

対人関係学が目指すしあわせは、
例えば1年間、ひと時も途絶えることなく
続くことを目標にしているわけではありません。

しあわせを感じる時間を増やしていくということです。
不幸を感じる時間を減らすということです。

不幸は、対人関係学的な不幸だけではなく、
不治の病に陥ること
生きている以上死ぬことを避けられない事、
事故による傷害や死亡、
あるいは犯罪に巻き込まれるなどの不幸もあります。
戦争の犠牲になることも将来ないとも限らない
環境問題もそうですから、不安の種は尽きません。

自分たちができる自分たちのしあわせの実現
対人関係的なしあわせ
その時間を増やすという発想は絵空事ではありません。

東日本大震災は、私たちに
「一時しのぎ」の重要性を教えてくれました。
生きていることがやっとのような
何もないときに
芸能人やスポーツ選手、キャラクターが被災地に来て、
他愛もないアトラクションを行うだけで
あるいは天皇皇后両陛下が被災地を訪問されただけで、
しあわせな気持ちになり、
生きる意欲を取り戻した
という経験をしています。

私たちの日常の不幸には、
このような効果的な一時しのぎの方たちは
訪れてはくれません。

しかし、私たち自身が
自分の群れの在り方を改善することができるなら、
一時しのぎが、飛び飛びであっても
継続することが期待できます。
不幸があっても、
しあわせがあれば、
生まれてきてよかったと思いながら
多くの時間を過ごせることになります。

これが対人関係学の目的です。

先ずは、避けられる不幸を避けることが
しあわせになる第1歩です。

4 自分から不幸になるということについて

ところで
弁護士をしていてよく目につく不幸は、
自分の仲間を攻撃してしまうことで起きるパターンです。

<基本形>
Aさんが、八つ当たりかなんかで
Bさんを攻撃したとします。
Bさんは、Aさんが自分を不幸にする行動していると
危険意識を持ちます。
AさんとBさんが属する仲間(家族とか友人関係等)から、
Aさんは自分を排除しようとしていると
Bさんは感じるわけです。

その結果、
ある場合は、Bさんはその攻撃で傷つき苦しみます。
ある場合は、Bさんは自分を守るために反撃します。

攻撃したAさんも、
相手Bさんが苦しんでいるところを見てしあわせにはなりません。
Bさんが苦しんでいることを見ても、怒っているところを見ても
Aさんは、Bさんの状態をみて、
今度は自分が攻撃されるだろうと考えてしまうわけです。

あるいはBさんが苦しんでいるのを見て
一緒に苦しくなってしまうことも多くあります。
同じ対人関係の中では
争っていること自体で、交感神経が活性化されます。

つまりいずれにしてもBさんを攻撃しても
Aさんの不安は消えないのです
その結果双方の怒りが持続してしまうことが多くあります。

<応用というより現実に多い型>

Aさんは、通常は、Bさんが自分を嫌っている
自分との関係を終わりにしたいと思っているかもしれないという
漠然とした誤解に基づいてBさん攻撃します。

実際はAさんの対人関係的危機感は実在しない事実に基づくこと
で始まることが多いようです。

BさんがAさんを攻撃したという事実は存在しないにもかかわらず、
それでもAさんが攻撃をしてしまうと
AさんがBさんを攻撃したという事実は実在しています。
Bさんは、理由なく攻撃してくるのだから自分が嫌いなのだろうと
対人関係的危機感を抱くのは当然です。

Bさんは、Aさんに対して不信感を持つでしょうし
反撃をするかもしれません。
そうして、実際にAさんから離れていくわけです。

自分の誤解で、自分が不幸になる
こういうことが対人関係紛争の大きな一類型です。

実際はBさんも、多かれ少なかれ
Aさんに対する対人関係的危険意識を持っていたり、
知らず知らずのうちに、
Aさんの対人関係的危険意識をあおるような行為をしてしまっている
ということがあります。

自分と他人の関係に絶対的な自信を持っている人は少なく、
多かれ少なかれ対人関係には不安に基づく疑心暗鬼がつきものです。
自信を見せびらかせて歩いているような人も
実は自信のなさを隠そうと必死になっているという場合も
少なくありません。

実は、このような不安があるからこそ
相手に配慮して生きていたわけで、
人間が群れを作って生き延びてきた原理だというのも
対人関係学の一つの結論です。

人間は古来(200万年くらい前から)、
相手の不安を気遣い、
相手に対人関係的危険意識を持たせないように工夫して生きてきました。

現代社会には、これを妨害するような事情がたくさんあります。
それはおいおい説明するとしましょう。

5 自分から不幸にならないために

自分が、意識的に
相手を尊重することを行動で示すということです。

先ほども言いましたが、
人間には対人関係的な不安がありますから、
自分から相手を尊重することは
なかなか難しいものです。
相手が自分に好意を寄せてくれるならば
こちらも親切な行動をする
ということは比較的簡単です。

分かりやすく極端に言えば、
自分をこれから捨てようとしているかもしれない相手を
気遣って、支えてあげる行動をするということは、
無駄な努力をすることになるかもしれない
惨めなことかもしれない
と思ってしまうかもしれません。


誰しも、自分は損をしたくないと思うのかもしれません。
自分の大事な人よりも得をしたいと思うわけがないのに、
無意識にそういう行動をしているのかもしれません。

しかし支え合いを始める時は、
誰かが最初にそれをしなければなりません。
疑心暗鬼のままでは、
お互い歩み寄ることができません。

どうやら自分を大事にしすぎると
最初の気遣いができないという関係にあるようです。

それならば
自分を大事にしない事が良いのかもしれません。
自分を棄てるという意識が必要な場合もあるかもしれません。
相手のためにそれをしてあげるという意識は、
それ自体、本当はしあわせになることなのですが、
現代社会ではここが難しいようです。

しあわせを感じにくい人は、
これができないようです。

自分を大事にしすぎるあまり
仲間から疎ましがられ、
結局は孤立してしまうのです。

自分を守ろうとして自分を孤立させる
こういう悲劇を弁護士はよく見ています。

ここでいう自分を大事にするとは、
自分の体を大事にするというよりも、
自分の信念、こだわり
あるいは体面を守るということが多いと思います。

これが余裕のない状態で展開されると
自分が正しいと思うルールを
仲間に守らせる。
守らない仲間を攻撃するということに
自分で意識しないでもそうなっています。

自分を守るため、
仲間ではない人の意見を聞いて、
それを形式的に仲間に適用して
結果として本当の仲間を攻撃してしまうということも
よく見られます。

自分を守ろうとするために
自分から孤立に向かっていく人たちがたくさんいます。

6 しあわせの切符は、相手の感情を尊重し、共感するということ

相手のために自分を棄てるのは良いとして
どうすればよいのか
ということになりますよね。

簡単に言えば、相手の気持ちを優先する
相手の不幸を防止する
つまり、相手に
自分はあなたを突き放すことは決してしない
という安心感を与えることです。

相手を肯定すること、相手の感情肯定すること
肯定できる部分を探し出してでも肯定することです。

それができないことならば
「やろうとしているのだけれどできない
ごめんね」と投げかければよいわけです。

基本は、相手の嫌がることをしない
相手の顔をつぶすことはしない。
から始まって、
相手のしてほしいことをする。
相手に賛成できるところを探し出して賛成する。
ということになります。

そのためには、
相手の気持ちに敏感にならなければなりません。
嫌がっていることに気が付かないとか
やってほしいことに気が付かないということがだめなわけです。

どうしてそのようなエラーをするかというと
多くは自分を守るためという発想です。

例えば、
自分の良いところを評価してもらいたくて、
アッピールをしてしまいます。
例えば、楽器を弾いて見せたり、
料理をして見せたりということをするわけです。

おそらく、それをすることによって
母親等から褒められた経験があり、
母親と同じように自分を称賛してもらいたいのでしょう。

しかし
それをみた相手は
自分ができないことができることをこれ見よがしに強調された
馬鹿にされたと受け止める場合もあります。

例えば、
友人関係を大切にするあまり、
しょっちゅう自分の友達を家に呼ぶ
しかし、相手はあまり社交的ではなく、
他人が家に出入りすることは実は嫌だ

あるいは、家を空けて友達の集まりに行ってしまう。

あなたは、友達づきあいは健全であり
何も悪いことはしていないので、
自分は悪くないと思っても、
相手は寂しがっているかもしれません。

自分が間違っていない、正しいということが
相手の感情に気づかなくさせているということがあるようです。

自分を大事にするあまり
相手の感情に注意を払うことができない
注意を払う余裕がないというより、
注意を払う発想がないという感じです。

今、あなたが不幸だと感じているならば
特に
自分は何も悪いことをしていないと感じている場合、
先ず、自分を棄てることから始めることがよいかもしれません。
自分を勘定の外において、
あなたが一番自分に寄り添ってもらいたい人のことを
どうやって大事にするか
何をしたら喜んでくれるのか

そして恥ずかしがらずに
相手のためにそれをしているということも
はっきり伝わるように行動をしてみる

自分を棄てることによって
しあわせを逃がさないで手繰り寄せる
ということがあるようです。

あなたが大切に思っている人が
あなたと一緒でよかったと思う時間が増えることが
結果としてしあわせを招くし
しあわせを長続きさせることになるのだと思います。

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10代前半の少女が身内に強姦されたと嘘を言う理由 それが片親疎外だ [家事]


今日(31年1月8日)、大阪地方裁判所で、
無実にもかかわらず、
娘を強姦したという汚名を着せられ
懲役12年の刑を宣告され、
実際に3年半刑務所に入れられ
平成27年に無罪判決を得た男性が
検察官や裁判官を訴えた国家賠償請求訴訟で
男性側の請求が棄却された。

詳細が分からないので、この裁判については様子を見る。

私が言いたいのは地裁、高裁、最高裁の誤審が
なぜ起きたのかということについてである。

男性は当時65歳
被害を訴えた女性は14歳。
男性は母親の再婚相手である。

裁判所は、ほとんどこれだけの理由で
男性を強姦犯人と認定した。

判決中に、理由として
「実際に起きてもいないのに
14歳の少女が強姦されたというわけがない」
という趣旨のことが記載されていたそうである。

しかし、実際は、10代前半の少女は、
されてもいない性的虐待を
されたという理由があり、
この事件だけではなく嘘をついている。

私が担当した事件でも
長期間にわたって実の父親が性的虐待をしていた
という主張を母親がして、
父親は別件で逮捕勾留されたにもかかわらず、
報道ではさも実の娘に性的虐待をしていたかのような
印象を受ける記事が流された。
実名報道だったので、
少女も転校を余儀なくされた。
また父親の職場の建物までテレビで流された。

さらには民事系の裁判まで起こされた

幸いにして、逮捕の前日に
夫婦の問題で相談に見えられていたので、
直ちに弁護活動に入ることができたため
性犯罪は立件さえされなかった。

母親の裁判上の請求も棄却された。
つまり性的虐待は存在しなかったと
裁判所では判断された。

内部記録を見ると
どうやら少女は、警察の段階では
一度は性的虐待があったと言ったようである。
立件さえされなかったので、
記録を見ることはできなかったが、
間接的にうかがい知ることができた。

つまり、少女は嘘をついたのである。

なぜ少女は嘘をついたのか。

裁判の決定書では、
性的虐待は母親の妄想だとした。

なぜ母親は自分の娘が夫におかされていると
妄想を抱いたのか
そしてそれを娘に語らせたのか
これが問題である。

私の担当した例は、
母親が精神的に問題を抱えていた。

母親の作成した文書からは
母親が娘の第二次成長期に対して
憎悪を抱いていたことが読み取れた。
背景としては、
自分の漠然とした不安の原因を夫に求めて
夫を攻撃することで不安を解消する傾向があった。

不安とは対人関係的不安である。
自分が仲間から外されるのではないか
ということを無意識に感じていたのだと思う。

娘の成長という現実と
漠然とした不安の原因が夫にあるという決めつけ
そして自分が孤立するのではないか
つまり、夫と娘が、自分を排除するのではないかという無意識が
夫が娘を女性として扱っているという妄想を引き起こしたのだろう。
とてもわかりやすいと思う。

母親が妄想を抱いて
それを娘に語らせようとすることは説明がつくとして、
ではなぜ、娘が
ありもしない性的被害を語るのか。
ここが問題である。

私は、端的に言えば片親疎外の極端な例であると考えている。

片親疎外については
片親疎外の原理と面会交流ないし共同養育の論理 離婚後も「両親」というユニットであることの意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-25

今回の事件の再審無罪判決でも
元少女は
母親から何度も「やられたやろう」と問い詰められ、虚偽の強姦被害を告白したと説明したことが信用性があるとされている。

今回の事件の母親が、
意図的に少女に偽証させたのか
精神的問題から妄想を抱き、結果として押し付けたのか
それは不明である。

しかし、まだ母親に精神的にも生活面でも依存しなければならない
10代前半の子どもたちは、
母親から何度も言われてしまえば、
それを言わないことはできないことがある。

実の母親が、苦しみを絞り出すように
あるいは自分に対して憎悪に満ちて
これこれこういうことをされたのだなということを
繰り返し繰り返し言われると、
それを否定することができなくなる。

母親を救わなければならないという意識や
母親から嫌われたくないという意識、
嫌われてはいけないという無意識が
母親がこういうことがあったと言ってほしいのだ
という意識を形成してしまい
母親の期待を裏切ることができなくなってしまうようだ。

この時、
目の前に父親がいないことが
幼い子どもにとっては
父親に対する裏切りを意識させない大きな理由になるようだ。

母親に迎合することで精一杯であり、
父親に対する配慮をする精神的余裕がないのである。

かくして少女は、嘘を言う理由、必然性をもって
ありもしない性的虐待を語りだす。

但し、ここで一番傷ついているのは
嘘を言って父親や家族を
無実の罪に陥れた少女自身である。

今回の事件では、
母親と離別したこともあり、
自分がうその証言をしたと
少女自らが捜査機関などに告げたらしい。

無実の人を刑務所に入れた
取り返しのつかないことをした
という葛藤が続いていたものと思われる。
それは大変恐ろしい日々だったと思う。

私の担当した事件では、
一度警察で話をした後では
一切虚偽事実を言おうとしなかった。

母親こそが
実の父親のありもしない性的虐待を
子どもに言わせたという
精神的虐待を与えていたのである。
これは性的虐待でもある。

子どもは大変苦しんだろうと思う。
その後、裁判などで
母親から再び証言をするように迫られたのだと思うが、
少女はこれを拒否したのだろうと思う。

いずれにしても父親を陥れても
母親の思いを実現してしまう
これが片親疎外のメカニズムであり、
片親疎外を受けた子供の苦しみである。
二人の少女は、片親疎外から脱却することができた。

もし、片親疎外から脱却できない場合は、

少女はその後も父親からの性的虐待を主張し、
記憶もいずれ性的虐待があったように改変される可能性がある。
そうすると、
自分は性的倒錯や虐待をする父親の子どもであるという
取り返しのつかない意識が固定されてしまう。

アイデンティティが確立する15歳ころは
いわゆる思春期であり、性的な芽生えが起きる時期である。
母親の妄想が真実だという意識が継続していれば、
性は醜く汚らわしい、おぞましいものになってしまう。

取り返しのつかないことになるだろう。

今回の国賠は、この議論を
改めて行う機会を与えてくれた。

そして、片親疎外に
司法が加担したことを鮮明にしてくれた。

実際には、片親疎外や妄想、記憶の改変について知識がないならば
司法、行政、NPOで
このような悲惨な子どもたちを生み出していることになる。

これらの機関が
母親の妄想に寄り添うことが
私の関わりの中でも数多く見られている。

今回裁判所は国賠請求を棄却した。
その詳細な論理は不明であるが、
また同じことが起きて、また同じ間違いをしても
司法は責任をもたないという宣言ならば
法秩序はほころび始めるだろう。

子どもたちの健全な成長という視点から
この事件を注目するべきであると考える。



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共同親権制度導入までやるべきこと [家事]



1 共同親権は既定路線であるが内容は不確定

世界の流れであるし、法務省の審議会の自然流れに沿った
法務大臣の発言でもあることから
共同親権制度が導入されるということは
既成の事実です。

しかし、共同親権制度の内容は
諸外国においていろいろ変化があるので、
その内容については不透明だというべきでしょう。

一部では、共同親権制度にさえなれば、
離婚をしても、子どもたちを養育することができる
と考えている方々がいらっしゃいます。

また一部には、共同親権制度となっても
何も変わらないという人がいます。

私はどちらも極端な考えであると思います。

離婚後の子どもの養育が形はともあれ
両親によって行われるということは
子どもにとって、
離婚によるマイナス影響を軽減する大きなチャンスです。

これまで単独親権制度の下で、
子どもが別居親から養育を受ける権利が
大きな制約を受けて、
離婚によるマイナス影響を
子どもたちが無防備にかぶっていた状態でした。

共同親権ということで、
離婚後も、子どもは両親から養育を受ける権利がある
ということを国が制度化することによって
多くの子どもたちが
別居親からの養育を受けるチャンスが広がるでしょう
ここは軽視してはなりません。

但し、離婚した両親が憎しみあい、嫌悪しあっていれば、
同居親は別居親に
子どもを合わすことすらしない状態が続きますから、
共同親権を宣言しただけでは、解決しません。

例えば、ある国の制度は、
子どもが生まれた時から、
それぞれ個別に固有に親権を有し、
離婚をしても親権は影響を受けない
という共同親権制度があります。

これだけでは、相互憎しみ事例において、
子どもが別居親から養育を受けるきっかけが
生まれません。

そう、
これは、離婚する前の
一方が子どもを連れて別居している
現在の日本の共同親権制度の状態と
何も変わりません。

これだけでも共同親権制度ということだけで
相互憎しみ事例は今と同じこと
ということになるでしょう。

共同親権制度をチャンスです。
私たち大人が、子どもたちのための
よりよい在り方を提案し実現していくことが
大切だと思います。
大きなチャンスであることを
軽視してはいけません。

2 子どもの権利を基本に据えよう

日本は、もともと尊属殺人が通常殺人よりも重く処罰されていた
という歴史があります。
子どもが親の付属物であった歴史が長くあります。

もっとも、付属物と言っても、
悪い側面だけではなく、
それだけ親と子の結びつきが強かったという側面もあり、
親が子どもを責任をもって育てた
という歴史もあるようです。

ところが、
ゲダモノ未満のような親が出現し、
子どもの利益よりも自分の利益を考えて行動するが
日本社会の中で一定割合に達してきたため、
子どもを親から守るために
「子どもの権利」という概念で、
国等が私的生活に介入する必要が生まれた
と考えてみるとわかりやすいかもしれません。

分かりやすく言うと
「親がしあわせでなければ子どもも幸せではない
 だから子供のために離婚する。」
等という安易なフレーズをよく聞きますが、
実際は子どもの将来などを考えていません。

離婚をして、
子どもの健全な成長を考えず、
子どもを別居親に会わせない親が
つまり自分の幸せのために
子どもの幸せを考えない親が
かなりの数に上るようになりました。

ところで
自由に離婚ができる国は、
先進国では日本だけです。
通常、離婚は
離婚後の子どもの養育計画が確立して
初めて許可されるようになっています。

親子断絶防止法の真の不十分点
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-03-31

離婚は自分たちが勝手に決めておいて、
子どもたちの意見も聞かないくせに、
どちらにつくかということだけ
子どもたちの発言を許すという
傲慢な論理の人たちが大勢います。
子どもは自分の利益のために利用しようとしている
と感じることが少なくありません。

離婚に当たっては、
子どもに権利がある
健全に成長する権利があるのです。

このことを多くの大人たちが理解するべきです。

共同親権制度には、
子どもの権利が確保される制度や運用が
セットになっていなければなりません。
子どもの権利があるということを
きちんと大人たちが自覚する
これが共同親権制度を実質化する基本中の基本
大原則です。

ここを放置して形だけ制度が作られようとすると
かなり中途半端な抜け穴だらけの
子どもにとって迷惑なだけの制度となる心配もあります。

3 何が足りないのか(実質的な問題の所在)

現状からみて問題は、
離婚をした父と母に
一人の子どもを共同で育てるための
最低限度の信頼関係さえ成り立ちにくい
ということが最大の問題だと思います。

会いたくない、話したくないは良いとしても
電話やメールすらかわしたくない
という重症なケースは現実に多くあります。
こういうケースの中には、
居場所を知られること自体が不安だとして
住所も分からないため、手紙も出せないことが多くあります。

妻と夫が逆のパターンもありますが、
話をイメージしやすいように表現すると

妻は夫を嫌悪して、憎悪しているのです。
でも、なぜ嫌悪して憎悪しているかについて
妻は説明できないし、原因もはっきり自覚しない
夫も理解できないし、どうして妻がそうなったかについて
原因が分からない。

本来であれば、その状態と原因を理解し、
嫌がる原因を薄める行為を共同で行うべきなのですが、
分からないものだから
妻が自分を嫌がることを強める行為を延々繰り返してしまう。
そんな悲惨な状態をよくみています。

4 妻の恐怖、嫌悪の問題を克服させるための3要素

それは当事者夫婦だけが解決することではなく、
第三者の関与がなければ
なかなかクリアされないと強く感じています。

つまり、
1)妻の夫に対する嫌悪感、恐怖感を低下させる工夫、
2)夫の妻に対する怒りを低下させ、葛藤をさらに高めない工夫
3)面会を具体的に進めるための第三者の援助
が必要だということになります。

5 理解を浸透させるべき要素としての 
連れ去り別居をする妻の心情に対する理解による
夫への負の感情の低減の試み
 
これは、夫、妻自身、支援者の
3者の共通理解が必要です。

先ずは妻の状態についての理解です。
これが夫にはなかなか理解できないようです。
昨日までうまく行っていたのに
どうして急に別居するのか
という訴えが多くあります。

子連れ別居は、こういうことに対する対処を
全く省略するので、
益々こういう傾向が強くなって行きます。

そうして、どうしても人間は合理化しますので、
昨日まで妻とは普通にやっていた
この子連れ別居は妻の意思ではないのではないか
弁護士や行政にそそのかされたのだ
妻も被害者だし、自分も被害者だ
という発想になることは自然な流れになってしまいます。

しかし、実際の奥さんの言葉を聞くと
「夫と同じ空間で呼吸をしたくない」
「街で後ろ姿の似ている人を見ているだけで息ができなくなる。」
という言葉出てきますし、
実際に家庭裁判所で声をかけられただけで
気を失ったという人もいます。

夫と過ごす家に帰ることが嫌で
うつ病になったという人もいます。

実際はそのくらい嫌われているのですが、
夫は、嫌われる理由に心当たりがないので、
嫌われているということを信じないのです。

心当たりがないことは容易に理解できます。
要するに私もあなたも、
明日には妻が子どもを連れて家を出ていく可能性があると言われて
「ああ、そうだろうな」とは思わないことと同じことなのです。

しかし、妻の言葉を素直に受け止めることが必要です。
自分は嫌われている。
弁護士や行政がどう言おうと
外の多くの妻は子連れ別居をしないし、
そもそも弁護士や行政に相談に行かないのです。

誰が悪いかはともかく、
夫と一緒に生活したくない状態になっている
ということだけは理解しなければなりません。

これは妻自身も理解しなければなりません。
本当に夫に原因があって、
今の嫌な自分があるのだろうかということを
自問自答しなければなりません。

ヒントは、いつから夫と心が通わなくなったのか
ということです。



 産後の変化(脳科学的に)
「妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17
  産後の変化(ホルモンバランスの変化)
   「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」
   https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12
  内科疾患等
   「甲状腺機能障害、産後うつ、月経前症候群の対人関係に及ぼす研究を! 家族再生・崩壊予防学会の創設を訴える。」
   https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-03-08

夫側の事情
   
   存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-12-04

   「正しい」夫の家事、育児が、思い込みDVを感じるまでに
妻を追い込む理由についての考察と、その予防方法と事後的対処方法の検討
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/omoikomi.html
等多数


6 支援の在り方 あるべき支援

現在の支援の在り方の最大の問題点は、
妻側の事情しか聴かない
ということにあります。

妻側の事情しか聴かないのに
「夫はあなたを殺すかもしれないから直ちに逃げろ、
家に帰るな、居場所を知らせるな。」
ということを言うわけです。

「支援者」も、妻の夫に対する
恐怖感、嫌悪感が、
夫にだけ原因があるという見方をしてはいけません。
現代では、「支援者」こそが、
共同親権の実質化を阻む要因となっている場合もあります。

無責任に妻の不安をあおり、固定化しているという
妻自身の精神面にも悪影響を永続化しています。
子どもの健全な成長を妨げ、
子どもに会えない夫やその関係者を大量生産しています。

事実このような夫に対する妻の嫌悪の状態でも
適切にかかわることができれば、
離婚は避けられないとしても
子どもの両親としてかかわることが可能となったケースが
増えてきています。

もっともっと、
ソフトランディングをする方法を模索して、
相互理解を深めることが大切です。

そもそも、相互に嫌悪感や恐怖感を抱かなくて済む
方法を真剣に模索することが必要だと思います。

このブログの感想をいただいたのですが、
ある女性の方が、離婚を考えて、ネット検索などして、
夫のモラルハラスメントの記事を読んだり、
電話相談などをして
「夫の加害行為があなたの苦しみの原因だ」
等という回答を聞いているうちに、
これらの対応が、自分のメンタルを悪化させているのではないか
と感じてきたそうです。

しかし、実際に面談して相談に乗ってくれた方は、
子どものことも考えて、熟考することを勧めてくれたようです。

ここで「命の危険があるから逃げなさい」
等と言われたらと思うと恐ろしくなります。


出来ればもう一歩進めて、
夫に対して働きかける機関が必要です。

あなたに原因がなくても奥さんは苦しい状態だ。
あなたの行動を修正することによって
家族が安心してこれからも生活できるかもしれない。
今「自分は悪くない」と言い張って
聞く耳もたないというような態度をとると
一生後悔するんだよ
子どもも傷ついてしまうことになるよと
ちょっとの工夫を提案する
という支援です。

仮に妻の精神不安が
夫との対人関係トラブルに原因があるならば、
夫婦の在り方の修正こそ
あるべき姿であることは誰もがわかることです。

現在の問題点の第2は
妻の精神不安=夫の加害行為
との決めつけです。
夫婦の問題を資格も何もない
偏見に満ちた講習を受けただけの
公務員やNPOが
現実の夫婦の個別の事情の吟味も何もなしに
ただマニュアルに従って担当していることです。

夫から事情を聞かない理由は、
マニュアルに書いてあります。
虐待された妻が支離滅裂なことを言うことと
加害者である夫が冷静に嘘を言うことはセットだそうで、
加害者の夫の論理的説明を聞くと騙されて
寄り添うことができないのだそうです。

そんなことも見抜けない相談員によって
子どもの将来は塗りつぶされているのです。

でも本当は、
講習で話されたアメリカの事例を鵜呑みにして
「夫は殺人鬼であり、自分にも暴力が向けられる」
というような怯えがあるのかもしれません。

このような妻の不安=夫の虐待だから妻を逃がせ
というマニュアルを改めることは必須だと思います。


支援の事情
   不安を肯定することによって、
   不安を固定化し、増強する
   「危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道」
   https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11

   「支援による子連れ別居は、女性に10年たっても消えない恐怖を植え付ける  女の敵は女2」
   https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-12-10



当面は、できるはずの面会交流の実行を増やすことです。
面会交流の場所が無いということが
結構実務的に面会交流を妨げていることがあります。
特に農村部です。

当面は、
妻が安心して、夫と子どもが面会できる施設を
行政が増やすことです。

面会交流施設は市町村ごとに作る必要があります。
図書館や科学館などの公共施設ももっと利用しやすいように
することも考えてほしいものです。
県や政令市では、
宿泊施設を併設した面会施設を作るべきでしょう。

支持的な支援者・企業も増員するべきです。
面会の環境づくりを助けることを主眼とする必要があります。

面会交流を支援する協力テーマパークもあるとよいと思います。
どんどん便宜を図るべきです。

あるべき支援について
   家事相談センター企画書
  http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

  公的面会交流事業の開始を求める
  http://heartland.geocities.jp/doi709/menkaikouryuu.html

共同親権制度は早晩実現します。
事情を知っている人たちが
どんどん実情を広めて、
制度を実質化する提案をするべきです。

その際、子どもの利益に視点を置くことが
実現のカギになると思われます。

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Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある [進化心理学、生理学、対人関係学]




スタンレー・ミルグラムのアイヒマン実験は、
認知心理学の文献を見るとよく出てくる。
行動科学の教科書ならばなおさらである。

これは1960年から始められた実験で
かなりのインパクトを与えた。

この実験結果は、いじめ、パワーハラスメント、
あるいは、離婚紛争の特定の類型の場合など、
人間の加害行動を分析し、防止するために
とても有益な事件結果であると思う。

但し、それらに実践にいかすためには、
ポイントについて整理し直す必要があると感じている。

以下、再評価、再構成を試み
実践に応用することを試みる。

1 ミルグラムの服従実験の概要

ミルグラムの実験の概要は以下の通り。

イェール大学教授の実験ということで
協力者を公募した。
一回の実験で応募者は1名ずつ実験に参加する。

実験は、教授と応募による被験者、
そして、仕込みのサクラの3人である。
教授と被験者は同じ部屋にいて、
被害者役のサクラは基本は別室にいる

これは記憶力の強化の実験だと称して、
簡単な確認テストを被験者が出題する。
それに対して被害者役が回答するのだが、
誤答の場合は罰として
腕に巻いた装置から電流を流される。
そして誤答するたびに、15vずつ電圧を強くする
最終的には450ボルトに達し、
その後は誤答するたびに450ボルトが流される。

被害者役には、実際は電流は流れていないが、
役者なので、電圧に応じた苦しみの演技をする。

この実験は10年以上にわたり各地で続けられた。

「多くの被験者は、電撃を受ける人物の懇願がどんなに切実になろうとも、電撃がどんなに苦痛をもたらすように見えようとも、教授に従い続け、最高レベルまで電圧をあげて罰を与えた。」

(ウィキでもよいし、河出文庫「服従の心理」)

最も多くの被験者は、被害者が苦しんでいることを目の当たりにして、
教授に文句を言って、実験の中止を提案したりする。
しかし、用意された説得文句によって電撃を与え続けた。

ミルグラムがした被験者についての分析として、
被験者の多くがサイコパスというよりも、
礼儀正しい人、約束を守ろうとする人、途中でやめることが気まずい人
が、最後まで義務を履行したとしている。

過労死する人の典型とぴったり重なる人物像である
このことは大変興味深い。

2 ミルグラムの服従事件の目的

現在、認知心理学を学ぶ者からすると、
この実験が特定の政治的意図に基づいて行われた
というものではないことは簡単に理解できることである。

ハンナ・アーレントが
「イェルサルムのアイヒマン」を
雑誌ニューヨーカーに連載を始めたのが1963年であり、
ミルグラムの実権は1960年に始まっていることからも
それはわかる。

また、権威を国家権力と同視しているわけでもない。

人間の行動傾向、行動原理の研究であり、
現在で言えばモチベーション研究の草分けともいえるべき
画期的実験である。
純粋な科学であり、
それをどう現実社会に応用するのかは
応用する人々の問題である。

私は、この実験の成果を
パワーハラスメントやいじめの予防に応用できると考えており、
第三者が一方に支援した夫婦間紛争の解決のヒントにもなると
考えている。

ただ、その際は、
使い勝手を良くするために、
実験結果をカスタマイズする必要がある。

2 用語の再評価、再構築

言葉についての再定義をしようと思っている。
その言葉は、
「服従」と「権威」である。

ⅰ)服従

先ずは服従という用語である。
原語は、obedience である。
服従と訳すことに誤りはない。

ただ、日本語の服従とは、
自由意思を制圧されるに足る支配を受けている状態
をいうという感覚がある。
つまり、服従している人は支配者の命令以外の
他の選択肢を持てない状態にあるという語感がある。

しかしミルグラムの実験では
暴力や脅迫その他の不利益の示唆による自由意思の制圧はない。
このため、誤解を与えるのではないかという懸念があるから
「服従」という言葉を使うことには抵抗がある。

こういう場合を表現する日本語は難しい。
実際は誘導に従うだけである。
「迎合」程度の表現が
正確ではないかと思う。

但し、もろ手を挙げて迎合しているわけではなく、
葛藤を抱きつつ、結果として
迎合した行動をとる
ということは留意している必要がある。

ⅱ)権威

次に「権威」の意味を検討する。

ミルグラムの実験では、
権威の象徴として、「イェール大学の教授」という要素が使用された。

優秀なことで有名な大学の教授ということで、
知識、知能が秀逸であることが示されている
また社会的権威がある(多くの人が一目置く)存在である。
社会的に意義のある実験を実施している人だ
という人的属性をもつことになる。

人的属性と同時に、
自分が参加している実験が社会的、歴史的意義のある事件であり、
遂行することが自分の役割だということを感じ易い
ということは異論のないところだろう。
電撃を与えるという危険な行為ではあるがが、
知識や経験に裏付けられて行っているはずだから、
安全であるはずだとか、
これまでも危険が無かったことが裏付けられているはずだ
という安心感もあったと思われる。

権威とは従うことで安心感を得られる存在
であることが必要であろうと思われる。
責任を権威に転化できるということを
ミルグラムも重視していた。

もう一つ重視するべきポイントとして
被験者は、被害者に電流を流したことについて、
被害者の落ち度を指摘することが多かったと指摘している。

これらの事情から総合的に考えると、
私は、被験者が従った「権威」とは
教授に属する評価というような人的側面だけではなく、
その指示による行為の結果を
正当化できる要素があることが必要だという
行為の属性の側面も必要であると考える。

それは例えば正義であり、
または結果に到達するための効率であり、
または実験を進める秩序である。
約束された、あらかじめ定められたルールであったりする。

被害者の落ち度を強調する理由は
自己弁護であるが、
正当性によって、
被害者の身体的平穏を電流で壊すことの
自己の行為を弁護している
ということになると思われる。

そうだとすると、
権威は、正しさや秩序で正当化されていなければならない。

仮に教授が
「被害者が自分に挨拶をしなかったので
 回答の正誤にかかわらず
 どんどん電圧をあげて電流を流してください。」
という指示を出していたら、
被害者の落ち度を理由にすることができないのだから、
抵抗性は増加したことになるはずである。
教授の権威も著しく低下しただろう。

権威とは、
権威者という人的属性の側面と
指示の内容の「正当性」
つまりもっともらしさという行為内容の側面が
要素として不可欠であると私は考える。

3 「権威」を「群れの論理」として再構成する

そうだとすると結局権威は何であり
どこから来るのか。

ミルグラムは、これを
「なぜ服従するか」という服従側の論理として分析している。

これは、人がヒエラルキー的な構造の中で機能してきたことによる
と説明している。
つまり、ホモサピエンスが文明をもつ以前、
戦闘能力も逃走能力もない人間が
厳しい自然環境の中で生き残った理由が
ヒエラルキーのある群れを作ったことにあるというのである。

統一意志の元、
攻撃を加えて狩りを行い、
子育てや植物採集を分担して行い、
それぞれの力を発揮したことによって
生き延びることができたというのである。

人間が群れを作ってきた以上、
群れの意思に従う本能が遺伝子に組み込まれたはずだ
というよう主張だと私は解釈している。

つまり、「権威」とは「群れの論理」である。
それは、行動を支持する権威者であり、
正義であり、ルールであり、道徳である。
個体を集結させる絆のようなものである。

必ずしも権威者である必要はない。
「空気を読む」という日本語がある。
人間が集まっている時に、
一時的に言葉を使わないで
何かの行動をするコンセンサスが生まれる時がある。

例えば、
皆で小さいことは気にしないで
ただバカ騒ぎをしようというコンセンサスが生まれた場合、
哲学的な話を提起しないというようなものだ。
敢えて、バカ騒ぎなどして何が得になるのだ
等と発言しようものならば
「空気を読めない者」と評価されてしまう。

これも群れを優先する論理であり、
群れの理論に迎合している現象だと思う。

群れの論理は、
権威者がいなくても
一時的なものでも
あるいは漠然とした多数であっても
人間は従う行動をとってしまうという傾向がある
ということになると私は考える。

4 迎合に伴うジレンマとは何か

ミルグラムの実験は、
イェール大学の教授という権威者と
意義ある実験の遂行という秩序、正義等の
群れの論理が権威であった。

被験者は権威、群れの論理に従ったのだが
大きな葛藤があった。

これは、被害者役の苦痛に対する共感なのだろうと思う。
決して正義ではない。

実験における正義は実験の遂行だった。
被害者の苦痛や実験停止の懇願は
正義を遂行することの妨害でしかなかった。
人間は、瞬時の(熟考しない)行動決定において、
対立する当事者の
それぞれの正義を評価することは困難である。

被験者が感じたジレンマは、
被害者の苦しみに対する共感だったのではないか
と考えている。

つまり、ジレンマとは
他者に対する共感に基づく行動感情と
群れの論理によっておこる行動感情の
矛盾に対面していたことなのではないかということである。

共感に基づく行動感情とは、
被害者が電撃で苦しそうだから
電撃を流すことをやめようかという感情である。

これに対して群れの論理によっておこる行動感情とは、
実験を遂行するための共同行動を完遂しよう
という感情である。

この行動感情は、両立しないため、
どちらかを選択しなければならず、
葛藤が生じるわけである。

だから、群れの論理よりも共感の方が強まれば
群れの論理ではなく共感感情に基づく行動をすることになる。
これもミルグラムの実験で明らかにされている。

ミルグラムは、実験の条件をいくつか変えた
変種の実験を周到に行っている。
その一つの変種の実験として、
被験者と被害者との距離を変えて実験を行っている。

① 被験者と被害者を別々のスペースに配置し、
  間を曇りガラスで仕切る。
② ①に加えて、被害者の声が聞こえるようにする。
③ ②に加えて、場所を同じ部屋にする。
④ ③に加えて、電撃を与える時に
  被験者が被害者に手を添える。

①から④に行くにつれて、
被験者は電撃を与えることを拒否する確率が増えた。

共感は、相手の置かれている状況を
自分が置かれている状況として認識し、
生理的、感情的反応をすることである。

そうだとすると、
相手に近くなるほど共感しやすくなる。

近づくほど権威に対する抵抗が生じることについての
ミルグラムの分析は、
共感がもたらす合図、否認と知覚の狭窄、相互作用の場
行動のつながりの実感、初期の集団形成、習得した行動傾向
等としている。

主として、共感に基づく行動というくくりでとらえることが可能であろう。

5 ミルグラムは何を発見したのか

私は、ミルグラム実験は、
人間は権威に迎合するという以上の心理を発見している
と考えている。

つまり、
人間は、共感に基づいて行動するという性向があり、
群れの論理に基づいて行動するという性向もある
ということが第1である。

そうして、共感に基づいての行動は
群れの論理によって後退してしまう傾向がある
ということが第2である。

また、群れの論理の正当性については、
瞬間的な行動の場合は、
疑わないで迎合する傾向にあるということが
第2の結論のメカニズムなのだと思う。

これを対人関係学的に表現すると、
人間は、
自分が属する群れの論理に従う傾向にあり、
群れの論理から逸脱した人間は
群れの仲間であると実感しにくくなり、
共感を閉ざす傾向にある
ということになる。

表現を変えると、
群れの論理である
正義、秩序、効率等が働いてしまうと、
それに反する者に対しては
共感を閉ざしてしまい、
苦しみや悲しみ、孤独等の負の感情を示しても
助けようとか、協力しよう
という気持ちになれないということである。

6 効率について補足

「効率」が群れの論理であるということについては、
今回、ミルグラムの分析を受けて
初めて思い当たった。

群れの論理は、
人を機能させるためのツールである
一人ではできないことを
集団で行うというものである。

例えば動物を集団で狩るという場合、
音をたてないで動物に近づくような場合に、
興奮を抑えられなくて声を出す者がいたとすれば、
狩ることのできたはずの動物を
取り逃がすことになってしまう。
群れの目的を達することが効率であり、
正義である。
群れの目的を阻害する者は、
群れの論理に反した行動をする者だということになる。

効率を群れの目的の達成ととらえ直すと
効率は間違いなく群れの論理となる。

もっとも狩猟採集時代の大半は
効率はそれほど問題にならず、
「妨害か推進か」という程度の
大雑把な問題だったのではないか。
文明が進んでいくにつれて、
オールオアナッシングから
より多くの物を獲得する効率が重視され始めた
ということが、
近年の傾向にも合致して実態を反映しているのではないかと
考えている。

7 パワーハラスメントへの応用

パワーハラスメントの典型として、
同僚の面前で、従業員を罵倒する
という行為類型がある。

同僚は沈黙を守り、
当該従業員は孤立する。
誰も自分を助けてくれず、
不合理な罵倒が職場で是認されていると感じ、
自分の存在が否定されているような危機感を感じる。

なぜ同僚が助け舟を出さないかということについて、
その場にいた同僚から事情聴取をする機会があった。
すると、一様に、
「発言ができる雰囲気ではなかった」
という回答があった。
私は、
「ここでアクションを起こすと
次の標的になるからではないか」
と問いかけてみた。
積極的な賛同というよりも、
消極的な肯定だったということが
リアルな評価だった。

しかし、実態は、
同僚たちは、被害者に対する共感よりも
群れの論理を優先させたという側面もあるかもしれない。

つまり、
パワハラ上司という権威者が
企業の利潤追求という目的を基本として、
それに逸脱したということを指摘するわけだ。
(冷静に考えれば言いがかりであることが多い)
企業という群れの論理に対して
人間の行動傾向として
異議を申し立てにくいという側面があったのだ。

同僚たちは、
被害者が精神的に追い込まれているだろうという認識は持っている。
よく聞く言い訳としては
「でも、上司の言っていることは間違っていない」
ということを言うものだが、
それは群れの論理に迎合していることを
明確に示すものだったのだ。

もっと群れの論理が顕著なことは、
パワハラ上司の取り巻きである。
あるいは、パワハラ上司の上司かもしれない。
人を追いつめても一切否定的なことは言わない。
群れの論理が強烈に支配しており、
「責められる被害者が悪い」
ということを言いだす。

もはや葛藤も生じないほど
パワハラ上司との群れの一体性を感じており、
同時に、被害者と同じ群れに帰属するという意識は
実質的に失われている。

パワハラを予防する一つの方法としては、
発言の内容、目的が企業の理念に沿ったものでも、
例えば同僚の面前で叱責してはいけない
長時間にわたって叱責してはいけない
具体的に業務の改善方法を示さなければいけない
等の禁止事項を増やすことが一つかもしれない。

しかし、根本的問題としては、
共感を閉ざさない方法を構築するべきであろう。
一人一人の従業員の置かれている状況を
自分が置かれているものと把握し、
従業員と共同して問題を解決していく
という姿勢が最良である。

そのためには、
部下は自分の仲間だという意識を徹底することと
上司と部下を分断させるような方針を
会社経営者は下に降ろさないということ
上司の上司が、
上司を飛び越えて従業員の置かれている状況を
把握することを可能とすることだということになる。

8 いじめへの応用

子どもたちの間では
つまらないことが権威になる。
ゲームが特異なことや体が強いこと
漫画の知識があること
スマホを自由に操作できること

子どもたちの中では、
物おじしないで他人に指図する子どもが
気がつけば権威をもっていることもある。

一つ一つの瞬間的な友達同士の娯楽の中で
不用意な権威が発生することがある。

権威は簡単に生まれすぐに消滅する。

しかし、不用意な権威者に
取り巻きができてしまうと、
権威は強力かつ持続的なものになってしまう。

明らかに不当な
権威者の被害者に対する要求によって
被害者が苦しんでいたとしても、
取り巻きは権威者との仲間であることを意識するため、
被害者の苦しみに対して共感することができない。

権威者や取り巻きにとって
いじめは群れを守るための正義なのだ。

ここで被害者が
授業について行けず、
あるいは結果として授業の効率を下げてしまい、
群れの頂点に立つ教師から
効率を害する者
という評価が下ると、
群れの論理は被害者を排除するようになる。

はじめから誰かの悪意が存在しないとしても、
仲間からの除外が起こりうるし、
共感を閉ざす対象が生まれてしまう。

その結果、偶然の攻撃が肯定的に受け止められ、
やがて悪意の攻撃が繰り返されるようになる。
積極的な攻撃とともに重大な打撃を与えるのは
仲間はずれという孤立である。

被害者は、自分が毎日通わなければならない学校という人間集団が
自分の味方がいない人間集団であると受け止めていく。
きわめて不気味であり、
時折繰り出される攻撃が
傷口に塩を塗るような刺激となる。
やはり自分には傷口があるということを
いやがうえにも再確認させられる。

いじめが増えている学校に足りないものは何か。

被害者に対して共感して行動を起こすということである。
嫌がっているから、かわいそうだから
止めるということができていない。

いじめを生み出さないためには
逆回転をする必要がある。
せめてクラスメイトにだけは
共感を絶やさないという
教育、訓練が必要だ。

なぜこれができないのか。

それは、学校の中で、
群れの論理が肥大化しているからだ。

正義、秩序、ルール、効率等が
子どもたちの価値観において優先されている。

子どもという未熟な存在は
これらの群れの論理から
きわめて簡単に
逸脱行動をしてしまうものである。

簡単に多数から群れの論理で
排除されてしまうことになる。
これが現場だとすれば理解しやすい。

一人一人の子どもたちの
短期目標によって順位をつけるということを控えめにして、
共感を占めてして助け合うという行動を
積極的に取り入れるべきだろう。

成績についての一喜一憂ではなく、
人に助けられる喜び、安心感
人を助けることの喜び、感謝をされる喜び
というものを体験させる教育こそ
いじめ防止の特効薬になると考える。

我田引水的にミルグラムを改変してしまったかもしれないが、
折に触れて再学習をするべき
素晴らしい研究だと思った。

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「利己的遺伝子」論批判 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 「利己的な遺伝子」が生まれた経緯

利己的遺伝子論は、ドーキンス博士の衝撃的理論である。
比ゆ的に言えば、進化とはDNAの永続性のための営み
ということになる。

人間も他の動植物もDNAを存続させる乗り物に過ぎない
ということを発表し、
認知学者を中心に衝撃を与えた。

あたかも、フロイトが、無意識を発見した時の
ヨーロッパ知識層が抱いたような衝撃なのだろうと思う。
少しずつ、人間の行動、命の営みが解明されていく
人間の真否性のベールが明かされつつあるその途上の大きな出来事である。

ドーキンス博士は、どうして「利己的な遺伝子」を著したのか。
本文に明示してある限り、二つのことが目的とされている。
群淘汰説の論理的な否定と
人間が時折見せる利他的行動の理由を解き明かすことだ。

群淘汰説とは
進化における環境への適応をする主体を
個体ではなく群だとする。
群、即ち種や集団の利益のために
個体が奉仕することが行われ、
そのような構造の集団は強いため
世の中は自己犠牲をする個体集団の群れが多数となる
というような結論になってしまう。

このような「群淘汰説」は、正面切って正当性を主張されることはないが
形を変えて、素朴に主張されることがいまだにあり、
人々の素朴な正義感に合致するので
見過ごされることがある旨ドーキンス先生は指摘している。

しかし、群淘汰説を否定すると、
個体が群れのために自己犠牲の行動をする理由について
遺伝子レベルでは説明がつかなくなるので、
そのような「利他行為」の説明方法が必要となる。
これが、血縁者の利益、近似遺伝子の利益を図る説や
相互互恵説(将来的なギブアンドテイクの期待)を
生み出す要因となっている。

2 考察の前の確認

私は、利他行為、利己行為という二者択一的な考え方に疑問があるが、
どちらかと言われれば、
利己的行為をすることが生物の基本であると考えている。
比ゆ的に見れば、
利己的行動をすることこそ遺伝子の普遍的法則だと言ってもよいと思う。
それでよいと思う。

ただ、利己的、即ち個体が自分の利益のために行動をすることの意味を
もう少し複雑に把握するべきだろうと考えている。
利己行為と関連付けない利他行為がある
と単純に切り離して考える考え方が、
議論を錯綜させていると思っている。

その説明をする前に、くどいくらいおさらいをする必要性がある。
遺伝子は意志を持たないということだ。
遺伝子を共有する種自体が、環境不適合によって滅亡しているのだから、
遺伝子自体が滅亡しているという現象はありふれて起きてきた。
遺伝子は必ずしも万能の間違いのない行動をするわけでもない。

「利己的遺伝子」と遺伝子に意志があるような比喩を使うのは、
長期間かけて生き残ってきた遺伝子の
法則性に対する比喩である。

しかし、人類が子孫を遺してきたのは
あくまでもこれまでの環境に適応してきたという結果であり、
例えば将来を約束するものではない。
むしろ、人類に関して言えば
自らが作り上げた環境によって、
種が滅びる可能性を高めている状態である。
また、環境への適応という一連の現象は
何万年、何百万年と言いう長い営みの中で生まれるのであるから、
その意味では、現在、我々が生き延びているのは、
現在進行形ではなく
過去の適応の結果を著しているに過ぎない可能性もある。
あたかも光り輝いて見える恒星の映像を
地上で観察しているに過ぎないことと同じである。
実態は既に爆発して亡くなっている可能性すらあるのである。

これをくどくどと確認しないと
比喩が比喩であることを忘れてしまう。

さて、では、人間の利他的行動をどのように説明するか
働きアリや働きバチの自己犠牲の行動をどのように説明するか
人間が生きるということはどう言うことなのか。
われわれの疑問は、実はこういう問題であろう。

3 哺乳類における母親の子に対する利他行動

先ず、典型的な利他行動であるところの
親の子に対する犠牲的な行動については
少し独特の視点から説明することが必要だろう。

ここでは群れを作らない動物の、例えば熊の
利他行動を説明する。
熊は、母熊だけが子育てをする。
父親や祖父母、兄、姉は子育てに参加しない。

母熊は子熊を守るために、無謀な闘いに挑むこともある。
子熊を逃がすために、自己犠牲的な行動に出ることもある。

しかし、これは実は利他行動ではない
立派な利己行動である。

母熊にとって子熊は自分の体の一部であり
自分と子熊の区別がつかない。
懐胎期間中は実際に子熊は母熊の体内に存在し、
有機的に母熊とつながり母親の体の一部を構成していた。
自分の体内から生まれてきた子熊だから
自分の一部であると感じることに何ら不思議はない。

だから、自分とは違う個体に愛情を注いでいるというよりは、
自分の体の弱い部分をいたわっている
という感覚が近いと思われる。
私はそれを愛情と呼んで何ら差し支えがないと思っている。

そのため、子どもが自分とは別異の意思主体であると
種々の事情で認識するに至るや
それまで愛情深く育てていた子どもを
自分の元から遠ざけようとするわけである。
これが「子離れ」である。

これは、誰かが意図してこういう行動や仕組みを作ったわけではない
たまたま、そのような行動をしてきた結果
庇護が必要な時期の子どもが母熊に守られて
遺伝子を継承していくことができたという結果に過ぎない。

この仕組みは、おそらく
哺乳類には、ある程度不変な行動であると推測している。

もちろん群れで生活する人間も
このような遺伝子的行動が見られる。
母親がともすれば、自分の子どもを独立した人格だと認識しきれず、
自分の思い通りに行動をすることを強く求めることがある。
父親の子どもの支配とはまた別な
母親の子どもの支配があるように感じられている。

4 ハチの「利他行動」

ハチやアリの利他行動は、まぎれもない利他行動であるように見える。
ミツバチが、巣を守るために、敵に針を刺し、
針を刺すことによって自分の体を崩壊させて死に至る。
これほどの自己犠牲はないように思われる。

しかし、ハチは、巣を守るために自分を犠牲にしようという
目的をもって行動しているのだろうか。

疑問を言葉にすると
1)ハチは、本当に「巣」を守ろうとしているのか。
自分がいる場所、安住しようとしている場所に、
妨害物が近づいたので、
反射的に攻撃しているだけではないのか。
つまり、匂いや光、風などの
変化に反応しているのではないかということである。
巣を守るための攻撃だと限定してしまうと、
巣の近く以外の場所では、
ハチは刺さないということにもなってしまうが、
これは違うだろう。
さらには、自分が生まれた巣ではなくても、
移された巣になじめば、巣を守るかのような行動をするだろう。
2)次に、ハチは、相手に針を刺すことで自分が死ぬ
という因果関係を把握しているのかということである。
因果関係が把握されてこそ犠牲という評価が成り立つだろう。
もちろん動物の個体であるから、
自らの命を長らえようとする性向があることは当然だと思う。
しかし、ハチは死のうとして行動をしているのではなく、
単に針を刺すという行為だけを決定している
のではないかということである。
それによって、自己という個体が死ぬという結果
までは想定していないと考えられないだろうか。
ハチの因果関係把握の能力も低いと思われるが、
それ以上に、攻撃行動に出るというシステムが
強く働くような仕組みがあるということである。

人間で言えば怒りである。
人間でさえ、怒りで我を忘れて、危険な行動に出ることがある。
 これらの疑問を解消する結論は、
ハチにはもともと自分を生き永らえさせようとする遺伝子があり、
巣のようなものに近寄るものがいた場合に、
自分を守るための攻撃が発動しやすくなるシステムが
遺伝子上組み込まれているという結論である。
たまたまそういう習性をもっていたから、
巣を中心としたコロニーを形成し、
子孫を有効に増やすことができて、
その結果として種が生き永らえてきた
というように考えるべきではないだろうか。
 
ハチは、遺伝子に基づいた行為をする。
基本的には、自分が生き永らえようと努力するモジュールが
遺伝子に組み込まれている。
しかし、外敵が現れた時に反応しやすいモジュールも
同時に組み込まれているため、
自己保身モジュールと外敵反応モジュールが競合する場合は、
後者が優先されてしまうということになるだけの話である。
そのようなモジュールが組み合わされていたので、
現代まで種が存続したということである。

ハチは、巣を守ろうとしているのではなく、
たまたま自分を守る個体の大きな巣の近くで挑発すると
多数のハチが怒りに任せて攻撃してくる
ということである。

ハチは利他的だという前提をおいて、
「ハチはどうして利他的行動をするのだろう」
という問題提起をすること自体に疑問を感じる。
血縁や近似関係等という議論は
特に何らかの有益な効果をもたらすものではないだろう。
血縁や近似関係等は、
そもそも個体の行動原理としてはフィクションである。
遺伝子は意志を持っていない。

5 人間の「利他行為」を導いた環境

 認知心理学者たちは、極めて重要なコンセンサスを持っている。
それは、人間の心はおよそ200万年前に形成されたというものである。
私は、200万年前という年代の特定はできなかったものの、
人間が群れを形成し、
群れの中で一生を終わる時期に形成された心が
現代でも受け継がれているということを主張してきた。
だから認知心理学のコンセンサスには大いに勇気づけられた。
 
なぜそのような心が形成されたかについて、
もっと議論するべきではないかと考えている。
つまり、どのような心が形成されて、
種が存続するためにどのように有利だったのかということである。

 その頃の人間を取り巻く環境は、
氷期でジャングルが減少したことにより競争が激しくなり、
森の木の上の生存競争に敗れて地上に降りて生活をしていた。
肉食獣が多くいたので、
命を長らえるためには肉食獣に対抗する方法が必要だった。
しかし、人間には、馬のように逃げるための脚力はない。
鳥の翼もない。敏捷性も小型動物ほどはない。
闘うための牙もなく、顎の力も弱い。
なんとも生存競争には適さない動物だった。

 このような環境に適応するためには、
群れを作るしかなかった。
比較的大型の動物である人間が集団でいることによって、
リスクを回避する動物である肉食獣は、
もう少し安全な対象を狩ることを志向したはずであるから、
人間は襲われにくい。
立って移動することも実際よりも大きな動物であると
肉食獣に誤解を指せるメリットもあったのではないかと思われるが、

さらに、誰かが肉食獣の攻撃を受ける時に
集団で反撃をしたということがあれば、
肉食獣は一つの個体に攻撃中という
無防備な状態を反撃されてしまうと、
リスクを避けて逃亡したと思われる。

人間を襲うと集団反撃のリスクがある。
「集団でいる時は人間は襲えない」
という記憶が肉食獣の中で形成されていくことによって、
人間が肉食獣によって絶滅しなかったとは考えられないであろうか
(袋叩き反撃仮説)。

 さらに、木の下に降りた段階で、
人間は小動物の狩りをするようになったと考えられている。
当初はハイエナのように死肉をあさっていたが、
集団で小動物の個体を追いつめて
弱ったところを狩ったのだろうと言われている。
この狩りの手法からしても
人間が群れを作ることのメリットが大きかった。

 人間が選択したことは、利他行為をする傾向ではなく、
群れを作るということであった。
あくまでも、群れを作るためのモジュールとして
利他行為と見える行動をしているのであった。
当時の群れを作るための方法は、言葉や道徳ではない。
複雑な言葉が生まれる前から群れを作っていたのである。
だから、群れを作るということは
遺伝子の要請を受けて行っていた
本能的行動であると考えなければならない。
私が考える群れを作るモジュールを説明する。

6 人間が群れを作るために遺伝子に組み込んだモジュール

1) 最も基本的なモジュールは、単独行動をせずに集団の中にいようとするという志向である。誰かの近くにいようとすることだ。この裏返しの表現は、単独になること、仲間外れになることを恐れることである。自分が隣にいる人間から嫌われそうになる、つまり外に追いやられそうになると感じた場合、自分の行動を修正し、関係の修復を図る。自分が追放されそうになった原因を記憶し、繰り返さないということができるようになるだろう。その記憶は、「自分の追放」という危険の認識を伴い、同様の行動をしそうになると、不安感が生まれ、行動を抑制したはずだ。これも、誰かと一緒にいようとする傾向から生まれた行動パターンだと思う。
2) 群れの中にとどまるように行動を修正するために必要なモジュールとして、共感というシステムがある。他者の感情を、自分も追体験して、同じ生理的変化を起こすシステムである。これによって、群れの誰かが危険を感じた場合に、共感によって自然に交感神経が活性化され、逃走や闘争に移行しやすい体の状態が作られる。このシステムがないと、自分の行為によって相手が嫌がっていることに気づくことができない。また、気づいたとしても、嫌がっているからやめようという行為に出ることもできない。共感のシステムによって、相手が嫌がっている ⇒ 相手が苦しがっている ⇒ 自分も嫌な気持ちになるし、苦しい ⇒ 自分が行為をやめることによって相手の苦しみがなくなるので ⇒ 自分も苦しくなくなる ⇒ だからやめようということになる。
   相手が喜んでいれば自分もうれしい。群れに早く帰ろうということにもつながる。
   この共感モジュールによって、袋叩き反撃が可能になるのであす。
3) 自分の近くにいるものを仲間だと感じることも群れを作るためのモジュールである。認知心理学における「単純接触効果」である。わかりやすく言えば200万年前、生まれてから死ぬまで基本的には同じ仲間と暮らしていた。例外として繁殖に伴うグループ間移動という可能性もあると思われるが、その可能性についてはここでは割愛する。群れの仲間は近くにいるのであるから、仲間という認識を持ちやすい。群れの仲間を仲間だと認識することは合理的である。近くにいれば、その者の喜怒哀楽や感情の程度、因果関係も分かりやすい。共感をしやすくなる。つまり感情の共有ができやすい。さらに仲間だという意識が強くなる。共感が強くなれば、仲間の一体性が生まれる。つまり、自分が仲間と別の人間だということにあまり意味をおかなくなる。徐々に群れを守ることと自分を守ることが区別がつかなくなりにくくなる。
   単純接触効果は、単純なことだが力強い理論だと思う。自分の遺伝子を守ろうとするという法則は、個体レベルでは全く当てはまらない。遺伝子が近いものを守ろうとすることさえ、個体レベルでは何が自分に近い遺伝子化はわからない。遺伝子レベルの話をすれば、人間という種の遺伝子が存続すれば満足するのであって、人間の種類には興味関心を示す証拠はない。逆に人間は他の哺乳類と比べても嗅覚が格段に弱い。この時点で、遺伝子は血縁を維持しようとする志向を止めていると言わなければならないはずである。これに対して、近くにいる者は、見ればわかる。近くにいる者に仲間として共鳴できれば群れを作ることができる。単純なものほど強いと感じる次第である。
   この点区別が必要なのだが、本体的には近くにいるものが仲間なのだけれど、生まれてから死ぬまで基本的に一緒にいることから、人間は仲間だという感情が生まれやすくなる。喜怒哀楽が共通であれば、つい感情を共有してしまうことになる。これは単純接触効果よりはだいぶ弱い効果であるが、このような付随的な効果が生まれていることには注意が必要である。
4) 弱い者を守ろうとする志向も群れを作るための必須のモジュールである。群れを維持するためには、一番弱い赤ん坊を守らなければならない。そうでなければ、やがて一人一人、死を向かえていき、群れは消滅する。群れを維持させよう、子孫を遺そうとすることは遺伝子の普遍的な特徴である。群れを存続させるためには、一番弱く、現時点では何の役にも立たない赤ん坊を守る志向が必要である。
   この点、当初は母親を中心に子どもを守っていたということは疑いがない。他の動物と一緒である。母親は出産とともに、共感のアンテナを赤ん坊に張りめぐらす。赤ん坊の空腹、不快、その他感情を共有しやすくする。これは赤ん坊の生存に極めて有効なシステムである。
ところが、人間は、母親だけが子育てをするわけではないという際立った特徴を有している。子どもも母親以外の個体の真似をする。母親以外の個体と感情を共有しているのである。
他の動物はそれほど大事にしない赤ん坊を大切にするためにはどのようなシステムが遺伝子に組み込まれているか。それは弱い者を守ろうとするシステム、弱さを理由とする不安や恐怖に対して追体験をしやすいシステムがあるということが合理的であろう。日本語の「かわいい」という言葉は、弱い者、小さいものをいつくしみ守ろうとする言葉である。
赤ん坊だけでなく、傷ついたもの、老いた者、弱い者を守ろうとし、弱い者を守ることを善とする心のシステムはこうして生まれた。袋叩き反撃仮説においても、肉食獣に襲われている絶対的恐怖感を追体験し、わが身の危険を顧みずに反撃に参加するのである。
    だから、空腹の他者に食料を分け与えること、傷ついた他者をかばうこと、弱い他者を助けることは、純然たる利他行為ではなく、弱い者に対する共感によって、自分が苦しんでしまい、この苦しみを解消するための行為なのである。   
 5) 仲間のために役に立とうという志向。共鳴共感が蔓延すれば、自分と他人の区別がつかなくなり、群れと自分の関係も一体的なものと感じる傾向が生まれてしまう。動物の個体の生存を維持しようという志向は、群れの維持の志向と区別がつきにくくなる。
    また、仲間が喜ぶことは、自分もうれしい。その結果、その人間関係を仲間と感じることによって、仲間のための行為をしようとする傾向が高まる。これもモジュールと言えばモジュールだろう。ただ、基本的には、人間が他者の近くにいたい、他者に対する共感をする力があるということから派生したモジュールということもできるかもしれない。
 6) 仲間のための群れを作るモジュールとフリーライダー論
    この点、他者のための行動をする個体が多い中で、他者からの恩恵を受けるが、他者に対する恩恵を与えない個体が増殖するのではないかという、いわゆるフリーライダー論が主張されることがある。
    この理論が、理論上のものだと思う私の立場は、群れを作るモジュールの成り立ちからすれば理解されると思われる。確かに、個体の突然変異などがあり、フリーライダーが得をするという事態は個別の事態としては起きるだろう。しかし、人間が群れを作った経緯からすると、フリーライダーは、そもそも生まれにくい。不労所得を得るためのフリーライダーの志向が生まれるためには、共感による行動習性ができない個体ということを前提にしなければならない。
    このような個体は、幼体から成体になる過程で矯正されたであろうし、強制されない場合は駆逐されただろう。およそ200万年前、人間が生き延びるために必死であった時代は、生き延びることに支障が生じる原因を排除してきたと考えられるからである。それができなかった群れは消滅した。それだけの話である。
 7) 仲間のための群れを作るモジュールと相互互恵主義
    人間の利他行動を相互互恵的行動だと理解する理論がある。これについても私のモジュール論からすれば無駄な議論だということになる。
    そもそも、誰かに親切にするとき、親切にすることが気持ちよいから親切にするのか、後で見返りがあるから親切にするか、現実的にはどうだろうか。見ず知らずの人に親切にしたからと言って、後でその人から親切にしてもらおうということを想定していることの方が少ないと思う。明らかなフィクションである。理論上のものに過ぎない。
    ただ、群れを作るモジュールは、人間の個体に概ね備わっていると考えれば、他者の利益になる行動を共感によって行うことは、利他行動をした個体にとっても他者から利益行為をしてもらえる可能性が高くなる。その意味で結果として相互互恵の関係が生まれるということは言えるかもしれない。このあたりが、遺伝子が意思を持つような表現をした上で議論を進めることの弊害なのであろう。個体としての行動原理と、主としての行動傾向をはっきり区別して論じていないから混乱が起きるのではないかと考える次第である。相互互恵主義の理論が、個体が将来的な見返りないしその可能性を求めて利他行為をするというのであれば、間違いである。遺伝子が、結果として、相互互恵が起こりやすい状況を作ったというのであれば、それは間違いではないだろう。この説明の違いは、モラルとは何か、なぜ人はモラルに従うのかについての説明で意味を持ってくる。
8) 必死さときれいごと
    人間が群れを作るためのモジュールを概観した。現代ではそれはきれいごとであり、絵空事であると思われる人も多いだろう。しかし、200万年前の弱弱しい人間は、こうしなければ生き延びることはできなかった。生きるためのギリギリの傾向だったはずだ。環境に適合した奇跡的な志向を持った人間のグループが、たまたま存在したのだろう。その軌跡がなければ人間は既に滅んでいただろう。このモジュールは、きれいごとというような趣味の世界の話ではなく、環境に適合するための奇跡のモジュールだったのだ。命がけで遺伝子の指示を実践していたのである。
    ところが、現代の人間社会では、大方きれいごとという評価が起こるだろう。どうして、群れを作るモジュールが現代社会では機能しないのかということを説明する必要があるだろう。
    群れを作るモジュール論の最大の問題は、他説ではなく現実である。

7 群れを作るモジュールが機能しない環境
かくして人類は、約200万年前ころ、
人間としての心を獲得していた。
   その特徴として、近くにいる者を仲間だと思い、
仲間が悲しんでいたら一緒に悲しみ、
仲間が苦しんでいたら一緒に苦しみ、
仲間の空腹を満たすためなら自分の食料を提供し、
仲間のためならばわが身を投げ捨て闘う、
仲間の中でも一番弱い者を助けようとする。こういう心である。
   
私は、基本的には、
現代人にもこれらの心のシステムは受け継がれていると思っている。
現代人が「善」だとか「正しい」とか、「道徳的だ」という場合は、
この遺伝子に組み込まれた心のシステムで実感している。

また、逆に、自分がこのように扱われていない場合には、
精神状態を圧迫して、極端な場合、精神破綻や自死に至るのである。
   しかし、現代社会においては、
フリーライダー論が幅を利かせているように、
このような心が人間の本性だということは、
きれいごとだと一笑に付されることの方が多いかも知れない。
  
 それでは、最大の問題の所在である現実、
他者に対して過酷な行為をする現実、
他者への共感を峻拒するような現実、
戦争からいじめ虐待まで、
本来人間の心からは起こりえないと思われる現象が
なぜ起きる現実を説明しなければならない。
  
 一言で言えば、環境の変化である。

同じことは私たちの体にありふれたものとして起きている。
  200万年前頃、糖は、手に入りにくいものであった。
私たちの体は、その頃の環境に合わせてデザインされている。
糖が口に入ればおいしいと感じ、糖をなるべく多く摂取しようとする。
また、エネルギー源として使うため、
安易に排出せず、体内で蓄積しようとする。
ところが現代では、安価で糖を窃取できるため、
このような糖欠乏に備えたシステムがあだとなり、
糖尿病などの生活習慣病を起こす原因となっている。

虫歯にしても、炭水化物もとらず、
口の中で時間をかけて咀嚼しなければならない物を
食べていた時代は唾液で分解されるために
虫歯にはなりにくかったとされている。
このような環境の変化に対しての不適合はありふれて起きている。
  
 心の問題も環境に対する不適合で説明するべきであると考えている。
  
心の問題に対して影響を与えた環境の変化とは、
人間の群れの形態の変化である。
これは、人間自身が自分たちの環境を変化させたことになる。
現代は200万年前と異なり、
一人の人間が複数の群れの中で生活している。
家族、学校、会社、地域、趣味のサークル、SNSの仲間と
継続的な人間関係に所属している。
または、国家、社会という広い人間関係の中にも存在している。
病院や弁護士、小売店など、
短期的限定的な人間関係を形成することもある。
さらには、学校や会社にも派閥みたいな内部集団を形成する場合もある。

   200万年前は、一つの集団で一生を終えたため、
   仲間を気遣うことで問題は解決していた。
   しかし、今は複数の仲間がいること
   どちらかの仲間の利益を追求すると
   別の仲間を不幸にしてしまうということが起きてしまった。

   同じ場所にいるのに、
   利害対立するような関係になることがある。
   
   徐々に仲間を大切にするということが
   非常に複雑なものになり、
   すべての仲間を大切にすることが不可能なことになる。
   こうして、一緒にいる人間が
   必ずしも仲間ではなくなり、
   一緒にいる人を大切にしないということが始まった
   ということになる。

   仲間を超えた普遍的な正義や道徳は、
   時として仲間を許さない理由として
   使われることになる。

   群れが代替可能なことから
他者といても安心できない心が生まれ、
   疑心暗鬼を蔓延させる
   自分を防御する意識は
   時折先制攻撃を引き起こす。

   これが原理である。

   あとは、この原理に乗って、
   人間の社会的病理を各論として説明できるはずだ
   ある程度は、この観点から
   社会病理を説明しても来た。

8 人類という大きな群れを形成する可能性について

人類はこれからも
同じ人間を傷つけては殺し、
益々人間関係が希薄、かつ殺伐とさせて、
自己の利益のために地球を滅ぼすのだろうか。

私の考察は、
社会や国家という人間関係や
国家間の関係を論じたものではない。

一人一人の人間の行動を取り上げたものである。

しかし、
人間が、遺伝子から独立した思考をすることができるとすれば、
その幸せを追求するために
異なった群れ相互の間にも
人間として利益が一致することに気が付くはずである。

IT革命や交通手段の発達は、
また、環境問題や移民問題は、
世界を一つの群れとして扱う可能性を強めている。
群れ相互の共存の方法を見つけ出すことができれば、
無駄な争いは減少していくだろう。

克服するべき課題は多くても
人間にはその可能性があるものだと
理論上は導き出されている。

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【広告宣伝】御社の「パワハラ規制強化への対策」は十分ですか?生産性アップにつなげるパ原防止策の企業研修を担当します。 [労働事件]


いよいよ、国もパワハラ対策に力を入れ始めました。
パワハラ防止の企業努力が求められていて、
今後パワハラによるメンタル不調や自死が起きた場合の
企業に対する世論や責任はますます厳しくなるでしょう。

企業は、パワハラ対策を強化しなければならなくなっています。

ところが、経営者がいかに「パワハラを無くそう」と焦っても
なかなかパワハラは根絶できず、
現場からは嫌な報告が上がってくる
ということがあるようです。

企業の労務担当の方は、
国のガイドラインを読んだり
講師を招いたり、セミナーに参加したりして
防止策を研究しているわけですが、
いまひとつピンときません。
「わが社にパワハラの芽がないか
どうやって早期発見することができるのか。」
確信が持てないうちに時間ばかりが過ぎていきます。

なぜ研修がピンとこないのかについては理由があります。

1 特殊な事例ばかり紹介される。

パワーハラスメントと縁のない人たちも
パワハラ講師をしています。
生の実態が分からない人たちが無理やり講師をするときは、
過労死の裁判例を説明するようです。

こういう人たちは、判決しか見ていません。
判決だけを見てパワハラを語ろうとしますから、
結論だけしかわかりません。

確かに何をやって、労働者がどうなると
企業はいくらの金額を払うということはわかりますが、
それがどういう経過の中から起きたことなのか
そのことを見ていた同僚の目はどう映ったか
その他の生の事実については何も書いていません。

このため、そういう話を聞かされても、
「特殊な会社の特殊な人格の上司が
 とてつもなく酷いことをやった。
 うちの会社は普通の会社だし、
そんな変な人はいない。
うちの会社には関係ないだろう。」
ということになってしまいがちです。

2 結局何がパワハラかわからない

あるいは、
こういうこともパワハラになります
こういうこともパワハラになります。
ということが繰り返されて、
「これでは実務が回らない。」
と思ってしまうと、
結局運を天に任せて
今まで通りの日常を繰り返してしまう
ということになってしまいます。

何がパワハラなのかが結局よくわからない
どうしてそれをしてはダメなのか
ではどうしたら良いのか
ということも分かりません。

これは、事例をただ集めるだけで、
パワハラが起きる要因、
パワハラによって生じる労働者の影響
それによって二次的に起きる家族への影響
という実態の分析がなされていない事に原因があります。

私はいろいろな人と分析チームを作り、
厚生労働省の過労死防止啓発シンポジウムなどで
研究の成果を発表しています。

私の周りには、法律家や遺族だけでなく、
心理学の学者さん、カウンセラーさん
社会保険労務士さんや
なによりも、現にパワハラで苦しんでいる
多くの労働者と身近に接していて
分析チームに入ってもらっています。

このため、自信をもって分析結果を発表できるのです。

3 警鐘は鳴らされるが、ではどうしたら良いかわからない。

中には、いくつかのパワハラの実態はわかっているけれど
正義感が強すぎて伝わらないということもあります。
過労自死が起きれば、本人だけでなく
家族が一番苦しい思いをしますし、
同僚にも深刻な影響が生じています。

このため、
「パワハラは悪であり、追放しなければならない」
という声高の主張で終わる場合があります。
それはそうなのですが、
そこで思考を停止してしまうと
具体的な防止策が出てきません。
「防止しろ」と言われて終わりです。
善悪二分論は防止の力になりにくいです。

具体的職場において
危険な要素がどこにあり、
どう改善していくかという
「思考」ができなければなりません。

変な表現ですが、
パワハラ上司に対する理解(賛成や支持ではない)
をすることが
普通の企業で普通の上司によるパワハラを無くすためには
どうしても必要なことだと私は思います。

4 「パワハラを無くす」という発想が逆に難しくしている

「パワハラを無くす」ということが目標とされています。
これは実態を考える上でとても邪魔になります。
今あるパワハラの原因を温存して
具体的なパワハラ行為だけを止めるように努力する。
と考える傾向がどうしても生まれますから
どうしても無理が生まれます。

あたかも、怒りを抑えるためには
怒りそうになってから
色々と手立てをする
というようなもので、
頭でわかっていても
実践することはとても難しい
結局、絵に描いた餅ということになります。

それだけならばよいけれど、
「自分はダメな人間だ」
というような罪悪感や無力感に
無駄にさいなまれることもあるようです。

パワハラを無くす、いじめを無くす、自死を無くす
それだけでは、目標としては足りません。

もちろん企業ですから
利潤の追求はしなければなりません。
しかし、パワハラを起こさない職場は、
一人一人の従業員のモチベーションが高まり
逆に生産性をあげている実績もあるのです。

つまり、
パワハラ、過労死を無くすという
マイナスからゼロを目指すのではなく、
その先にあるプラスを目指さないと
本当の改革にはならないと思っています。

このようなことをお話ししながら、
従業員が尊重されるという意味をお話しし
それが生産性のアップにつながるという道筋を
お話しする予定です。

お話しする内容は、
基本的にはこのブログにアップしています。
労働、労災のカテゴリーに主に入っています。

実績
過労死訴訟、労災認定、示談交渉、職場の人間関係改善、相談等実務豊富

最近の講演実績
港湾労災防止協会 平成27年度東北地区安全衛生セミナー
「メンタルヘルスと安全配慮義務」
法務局幹部研修 「ハラスメントの起きない職場づくり」
厚生労働省過労死防止啓発シンポジウム
 30年福島会場「過労死が起きる働かせ方を知る
~26件の精神疾患事例の分析から~」
 28年岩手会場「過労死・過労自死のない社会を目指して」
他仙台会場、山形会場
医療関係者主宰 「過重労働が家族に与える影響」」
社会保険労務士研究会
        「労働災害による損害賠償について」外
熊本県弁護士会 「復興過労死の防止 東日本大震災の教訓を生かして」
厚生労働省 過労死防止啓発教室 
宮城、岩手、青森等の大学、高校、専門学校での授業講師
その他、人権、いじめ、クレーマー、家族力の育み方、離婚、自死等をテーマに、学校、PTA,自治体(教育委員会、保健所等)、弁護士会、心理士会、企業、医療関係者等での講演多数
現職 人権擁護委員 調停委員 精神医療審査会委員等 自殺対策連絡協議会
元職 東北学院大学法科大学院講師(労働法)

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