So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

【講演告知】職場ストレスが家庭に与える深刻な影響とそのメカニズム 死ななければ良いってものじゃない 支援者が必ず持つべき視点 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

2019年2月21日木曜日 6時45分から
仙台駅前アエル28階研修室において

自死防止の多業種ネットワークみやぎの萩ネットワーク
主催の定例会において
「家庭の問題の真の原因は家族の職場にあるのかもしれない
〜職場ストレスが家庭に与える深刻な影響とそのメカニズム」
と題したお話をさせていただきます。

だいたいおかしいわけです。
人間の行動や感情が
その置かれている環境によって大きく影響を受ける
ということは争いのないことのはずです。

ところが、弁護士や心理士その他の支援者は、
いざ相談を受ける段になって
そのことをコロッと忘れてしまうようです。

夫が怒りっぽくてしつこい
子どもがふさぎがちでやる気がないようだ
という質問を受けると

「それは夫のDVだ、一生治りません」とか
「子どもはうつ病だから薬を処方してもらいましょう」とか
人間の行動や感情が
その人の既に完成された人格であるときめつけ
家族分離を勧めているのです。

非科学的なエレナ・ベーカーの結果論の輸入を
それとも知らないで信奉しているカウンセラーが多すぎます。
どうもカウンセラーという人たちは、
偉い人、有名な学者が言ったということをもって
エビデンスとしている傾向があり、
正直辟易することが多くあります。

しかし、その固定人格の烙印を押された事例の少なくない事例に
環境的要因があることを目撃しています。
環境的要因を共有することによって
家族のきずなが深まり、
続く困難に立ち向かうことができた
という事例も多くかかわっています。

その環境の中の無視しえないものが
過重労働等の職場のストレスです。

「その旦那さんの出勤時間と帰宅時間はどうなっていますか?」
という一言から問題が解決することも多くありました。

環境的要因に目を向けると
根本的解決手段にアプローチできる可能性が高まるだけではなく、
解決行動を協働することによって
問題発生以前よりも良い結果が生まれることもあります。

お互いを支え合う行動ができるからです。

これに対して、相手の人格の問題と決めつけてしまうと、
家族に対する恐怖の感情が生まれてきます。
あなたは悪くない、それは精神的虐待だというアドバイスを聞くごとに
「自分が理由なくしいたげられている。
 自分は、相手からどうでもいい存在だと思われている」
という意識が固定化してゆき、
恐怖感、疎外感、相手に対する嫌悪感が募っていくようです。

相手の行動のすべてが、
自分を否定する行動だと意識されるようになり、
楽しかった出来事の記憶も
自分が馬鹿にされても耐えていたという意味の再構成が起きてしまい、
記憶の改変が起きるようです。

この悲劇をお話して一緒に考えてもらおうと思っています。

どんなに職場で辛いことがあっても
家庭ではスタンダードを維持しなければならない
ということは理想であって
人間観として端的に間違っていると思います。
だから実務的ではない、
つまり問題を解決しないのです。

弱い人間であることを前提として
家族が意識していない問題を顕在化させ
苦しみを共有するだけでも
人間は強くなれます。

職場のストレスは
対人関係的危険の意識を高めます。
いわば傷口が開いている状態です。

対人関係的危険を解消したくても
職場のストレスの場合はなかなか解消できないことが
多くあります。

職場という対人関係で開いた傷口ですが、
対人関係的危険意識ということで
家庭という対人関係の中でも
傷口が開いている状態なので、
些細なことで敏感に反応してしまうのです。

危険を防衛する仕組みは、
記憶の仕組みとかなり重なるのですが、
危険に対処しようとする神経活動が起きています。
防衛意識が過敏になっている状態です。

この神経活動は、それほど緻密なものではないから
対人関係の中で尊重されていないという傷口が
家庭でも閉じにくくなっています。

それで、過敏な神経にさわってしまい、
怒りという防衛行動が誘発されてしまう
ということが多くみられるわけです。

家庭を家族の安全基地にする作業こそが必要です。

また、労働者である当事者はなかなか職場に文句を言えませんが、
家族ならば職場に文句を言うことができることがあります。
憲法で保障されているのは労働者の労働組合ですが、
家族組合を作って、職場と交渉をするということも
アリなのかもしれません。

今の地域労組は、
家族も組合員となって団体交渉に参加する労組もあります。

もしかしたら、
働き改革を推進する力は家族にあるのかもしれません。
働き方改革の目的も、労働者家族の幸せにおくべきでしょう。

当日のお話は、
悲劇的なお話をいくつか行い、
環境の人間に与える影響を紹介し、
どのような支援をするべきだったのか
一緒に考えていきたいと思います。




 
nice!(0)  コメント(0) 

脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期 [刑事事件]


全体が長くなるので、
最初に抜粋した部分だけ載せます。
全文はその後に載せておきます。



4 少年法適用年齢と脳科学
 
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、
 人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、
 扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、
 前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。
 その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど
 「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。
 扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、
 闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、
 何らかの形で自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。
 お金がなくて盗みに入ったり、
 攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、
 実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、
 危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、
 複雑な装いをみせます。

 いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。
 思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、
 関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、
 自分を制御します。

 この制御をする脳の部分が前頭葉です。
 協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、
 良いことをしようと思っているのではないということになります。

 扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、
 前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、
 自分の中で対立が起きているわけです。
 
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、
 20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。
 前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。
 アクセルの性能は完成したけれど、
 ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。
 これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。

 だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、
 19歳までは子どもとして扱おうということは、
 脳科学的には理にかなっていることになります。

 本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、
 一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。
 賛成反対という必要はないのですが、
 このような観点も科学的に証明されているのだから、
 法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。

 もともとこういう学問をするべきだと、
 研究対象を義務付けることには私も反対です。
 科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。
 但し、その研究成果については、
 社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。

 それを促すためにも、日弁連は、
 法律以外の学問分野についても意識的に
 アンテナを張り巡らせる必要があると思います。

 相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、
 連携はできないものだと思います。

 日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、
 脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、
 残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。



脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期

賛成、反対という単純な話ではなく

1 少年法の適用年齢引き下げの動き
民法や公職選挙法の成人年齢が18歳に引き下げられました。これに伴って少年法の適用年齢も20歳差から18歳に引き下げられる動きがあるようです。日本弁護士連合会は、この動きに反対しています。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/child_rights/child_rights.html#hantai
少しわかりにくいと思うので、少年法と刑法の関係を説明します。大人は犯罪をすると、刑事裁判にかけられて懲役刑や罰金刑という刑が科せられる手続きに入ります。ここでいう大人は、現在では20歳以上を言います。19歳以下の場合はどうなるかというと、原則として、大人の刑事手続きの対象とはしないで、少年法の適用を受けるという扱いになっています。
 少年法の適用があれば、刑事事件ではなく少年保護事件となり、大人の刑事事件が地方裁判所や簡易裁判所で行われるのと異なり、家庭裁判所で手続きが行われ、処罰という観点ではなく保護、更生の観点からの処遇になり、死刑は無期懲役としなくてはならず、無期懲役の刑が相当な場合は10年から15年の刑にできるなどと定められています。
 これが現在は19歳と18歳もこのような扱いであるけれど、少年法の適用年齢を18歳未満とすると、19歳と18歳は大人として刑事事件として手続が進められることになります。
 少年事件の特に重大事件は、徐々に減少しているということが実態なのですが、一つ一つの事件が大きく印象的に取り上げられるために、少年に対する処罰感情が強くなっていることも改正の背景にはありそうです。

2 なぜ刑法とは別に少年法があるのか
 少年に対する処罰を厳格化する人たちがいることは確かです。被害者やその家族からすれば、犯人が成人でも少年でも被害感情はそれほど変わらないでしょう。被害は一つなのに、少年だからといって厳格な刑事手続きから外されるということは感情的には納得できないでしょう。
 しかし、国家政策は被害者の感情も考慮に入れながら、別の要素も重視していかなければなりません。
 では、なぜ、少年は大人の手続きではなく、少年法の手続きにしたのでしょうか。
 極端な話からすると、例えば、4歳の子どもが、スーパーでお菓子を食べてしまったとします。大人であれば万引きということで窃盗罪となります。警察に連れていかれて留置所に留置され、起訴されて裁判が始まり、実刑判決となれば刑務所に行きます。これが大人の手続きです。これを4歳の子どもに適用できないし、適用しても世の中に良いことはないでしょう。(このため、14歳未満の刑法犯は処罰の対象ともなりません。14歳以上は、少年法の適用はあるものの、交流上に留置されて取り調べられる可能性があります。)
 大人と子どもについて、区別することは理由があると思います。その線をどこでひくかという問題です。問題提起を研ぎ澄ませると、「少年法の適用がある19歳と適用がない20歳は、何が違うのか」という問題になります。
 この法律は、戦後直後に制定されているのですが、あまり科学的な議論があったわけではありません。人間には個性があり、若いのに立派な人もいれば、年を取っているのにだらしのない人がいることは事実です。本来年齢で決めることは非科学的な感じもします。しかし、法律はどこかで線をひかなければなりません。その場その場で法律の適用が異なると、混乱してしまい、無秩序な状態になってしまいます。結局、年齢で線を引くことがはっきりするうえ、比較的公平だということで落ち着いたのでしょう。
 もう少し食いついていくと、大雑把なのは仕方がないとして、何らかの理屈はあっただろうということです。
 一番大きな理由は、大人は待ったなしで自分のやったことの責任を問われなければならないのですが、少年はまだ成長の途中であるから、更生する可能性がある。大人と同じ前科をつけることで、社会の中での足かせをはめてしまうと、少年の立ち直る機会が失われてしまうので妥当ではないという考えです。少年のころの失敗をすべて残して立ち直れなくなってしまうより、立ち直らせて社会に無害になってもらった方が世の中のためにも有益だという考えもあります。

3 人が処罰される理由と法学と脳科学
脳科学や心理学を勉強していると、刑法の理論というものが、実はとても科学的であったことに驚いてしまうことがあります
日本の刑法が制定されたのは1907年ですが、これはプロイセン刑法などの影響を受けているので、実際の刑法理論は19世紀のものです。しかし、その後に明らかになった脳科学的知見とこの19世紀の法学が矛盾なく整合するのです。
 一番わかりやすいのは、人を処罰する根拠です。

 刑法理論は、自分がこれからやろうとすることが犯罪に該当することならば、「やっぱりやめた」と思いとどまらなくてはならない。それなのに思いとどまることをしないで、実行したことが非難に値する。つまり処罰できる。というものです。
 だから、思いとどまることを期待できない、子ども、生理的反射、病気の症状などについては、自由意思に基づく行為ではないので、「やっぱりやめた」と思うチャンスがなく、非難できないので、刑罰の対象としないのです。
 面白いことは、非難の対象が「思いとどまる」ということをしない点にあるということです。これは脳科学の知見から実に正しいことだったのです。
 1960年代、ベンジャミン・リベットという人が実験を行いました。指をあげる時の脳波の変化を測定しました。そうしたところ、指をあげようと思ってから指をあげるまでに4分の1秒かかったということがわかりましたが、実は指をあげようという意識が生まれる1秒以上も前に、脳は指をあげるための活動を始めていたというのです。
 私たちは、自分が、何かをしようとして何かをしていると思っています。実際は違うということになります。先ず、無意識に脳が、その何かをしようと検討を始めていたのです。その後に意識がそれをしようと思い、それをする。あるいは、それを止めようと思い、思いとどまる。こういう流れでありました。
 だから無意識の検討から、意識的な意欲までの1秒間で、人はその無意識の検討を思いとどまるかそのまま実行するかという選択をしていのです。最初の無意識の脳活動は、その人の人格にかかわらずに勝手に思考を始めています。殺そうか、万引きしようか、侮辱しようかと。刑法理論はこの無意識を処罰の根拠としません。それは認めた上で、「やっぱりやめた」と思いとどまらなかったことを処罰の対象とするのですから、人間の意思決定の仕組みを前提にしたかのような理論だったわけです。
刑法理論の人間観は、経験的、直観的に作り上げられたものでしょう。しかし、犯罪だけでなく、人間の行動や意思決定を実に正確にとらえていて、リベットがあとからこれを裏付けたことになります。

4 少年法適用年齢と脳科学
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。お金がなくて盗みに入ったり、攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、複雑な装いをみせます。いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、自分を制御します。この制御をする脳の部分が前頭葉です。協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、良いことをしようと思っているのではないということになります。扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、自分の中で対立が起きているわけです。
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。アクセルの性能は完成したけれど、ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、19歳までは子どもとして扱おうということは、脳科学的には理にかなっていることになります。本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。賛成反対という必要はないのですが、このような観点も科学的に証明されているのだから、法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。
 もともとこういう学問をするべきだと、研究対象を義務付けることには私も反対です。科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。但し、その研究成果については、社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。それを促すためにも、日弁連は、法律以外の学問分野についても意識的にアンテナを張り巡らせる必要があると思います。相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、連携はできないものだと思います。日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。

6 ネタバラシと雑感
 今回の種本は、「あなたの知らない脳 意識は傍観者である。」David Eagleman(ハヤカワノンフィクション文庫)です。脳神経学者が、刑事政策について立派に意見を述べられています。
 イーグルマンは、この本でもう一歩進めて、人間には自由意思なんて存在しないということをかなり説得的に説明しています。だから犯罪者について非難できるところ探すことはナンセンスであり、非難可能性を処罰の根拠としてしまうと処罰をする理由は無くなってしまうということを言っています。もっとも、だから処罰しなくて良いのだということを言っているのではなく、社会防衛から処罰は必要だと言っています。非難可能性ではなく、修正可能性をもって処罰の根拠とするべきだということを言っています。
 大変魅力的な考えです。実際、私も多くの刑事被告人の方とお話してきましたが、自由意思や平等なんて言うのはフィクションだと常々感じています。もともと追い込まれている人たちが犯罪に出るということが実感です。この人が処罰されることは不平等で理不尽なことだと何度感じたことでしょう。
 しかし処罰をしないわけにはいかない。平等や公正というフィクションは維持されなければならないと一方で感じてもいます。ただ、社会防衛的な考えを徹底してしまうと、その人の危険性(イーグルマンでいうところの修正可能性)によって、その人の刑期の長さが決まってしまうという不都合が生じるということはよく言われていることです。私は、あくまでも非難であり、罪に対する応報(むくい)として刑罰というものを考える必要性があるとは思っています。
 考えさせられる典型例は、飲酒や薬の影響のために、「やっぱりやめた」ということが考えにくいような場合です。理論を貫いて、期待できないから無罪にするという割り切りは難しいです。
 どこかでフィクションをフィクションだと自覚しながらも、使わなければならないという法律学の宿命があるように感じました。

nice!(0)  コメント(0) 

調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由 [家事]



例えば母親が子どもを連れて家を出て実家などに住みだして
子どもを父親に会わせない状態となってしまうと
父親の方は、面会交流調停といって、
子どもに会うためのというか、
子どもを父親に合わせて安心させるための
調停を家庭裁判所に申し立てます。

母親が子どもを連れて家を出て
父親に会わせないために
調停が申し立てられるわけですから
母親は父親に対して並々ならぬ
敵意というか、嫌悪というか、恐怖というか
マイナス感情を持っていて
子どもを父親に会わせたくないことが多いです。

そうすると、会わせるか会わせないという
消耗な議論になってしまうので、
家庭裁判所は
調査官という専門官に子どもの様子を調査させます。
子どもから意見を聞く手続きですが、
小学校低学年くらいまでは
子どもの意見を聞くというより
現在の様子を調査するということが多いようです。

それでも、子どもがそれ以上の年齢だとか、
積極的に発言をする意欲を示している場合は、
子どもが父親等別居親に会いたいかについて
発言させることがあります。

その時、よほどのことがない限り、
子どもは別居している父親に
「会いたくない」と言うものです。
あるいは「どっちでもいい」等投げやりな発言をします。

その発言が調査官報告として
記録に残りますから、
同居親は、鬼の首を取ったように
子どもを父親に合わせることは
「無理だ。時期尚早だ。」と拒否するわけです。

しかし、
子どもは別居親に会いたくないわけではなくとも
「会いたくない」と言うものだということを
心得ておく必要があります。

子どもが会いたくないといったということを理由に
子どもを別居親に会わせない等ということをしてしまうと、
自分が父親に会わないのは自分が会いたくないと言ったからだと
子どもに責任を負わせてしまうことになってしまいます。

これでは子どもが
将来的にも自責の念を抱き続けてしまう危険があります。
大人は、子どもの胸のうちを理解して、
障害がない限り子どもを別居親に会わせる努力をしなければなりません。
同居親は会わせたくなくても我慢しなければなりませんし
別居親は悔しくても同居親が少しでも安心して会わせるために
安心させる工夫しなければなりません。
裁判所や法律関係者は、
子どもの将来を考えて、別居親と健全な関係を構築するために
双方に強く働きかけなければなりません。

面会交流調停は子どものためにあるものですから、
大人の感情で子どもが別居親に会えなくなったら
取り返しのつかないことになる危険があります。
説得をしなくてはならない
ということになります。

さて、なぜ子どもは別居親に会いたくない
と言うのでしょうか。

一つは、現段階(調査時)の子どもの記憶の問題があります。

調査官調査の段階における
子どもの別居親に対する記憶は
当然ながら同居時のものです。
同居時の記憶とは、
父親と母親がいがみ合ってけんかをしているという記憶です。
子どもにとってはいたたまれないとても嫌な記憶です。

その時のことを再現したくありません。
自分の父親と母親が喧嘩をしている
何とも言えない不安な、恐ろしい気持ちになりたくありません。

その嫌な記憶は、父親に会うことを躊躇させます。

夫婦喧嘩は、大体は双方に責任があるのですが、
子どもはどちらが悪いかなんてジャッジはしませんし
させてはいけないわけです。

子どもは、実は母親と父親が別の人間だということを
はっきりと理解できているわけではなく、
二人そろって一組の「両親」というユニットだ
くらいの感覚を残していることが多いようです。
もともとどちらが悪いという発想にはなりにくいようです。

ただただ、穏やかに和やかにいてほしいという
結果だけを求めています。
子どもですから当然でしょう。

ここまでは分かりやすいと思いますが、
問題は、
同居時の嫌な記憶があるとしても、
同居している親と「一緒に暮らしたくない」
等と言う子どもはめったにいません。
別居親だけに拒否反応を示すわけですから、
ど素人は、「別居親が悪くて同居親が悪くない」
という判断をしがちです。

しかし、これは単純に同居しているか別居しているかの
それだけの違いを反映しているだけのことがほとんどのようです。

もともと子どもは、親というものに対して
緊張感と安心感を抱くものです。

基本的には、自分は親から見捨てられないという安心感を抱いており、
それでも、悪いことをして叱られると
恐怖感や不安感をもつものです。
そうやって、群れで過ごすルールを覚えていき、
ルールを守って過ごすことで
安心して生活をすることを覚えていきます。

このため、一緒に過ごしていれば、
多少叱られたり、あるいは逸脱行為があったりしても、
一緒にいる安心感も同時に味わうことができます。

虐待されている親に対してだって
一緒に住んでいることで安心感を得ています。
群れにいるということで安心感を持つ
人間の特性なのでしょう。
親の良いところを探してでも
安心したいのだと思います。

平成14年に広島で母親と祖母に虐待されて
10歳で死んだ女の子も
亡くなる直前に自分を虐待している母親に対して
「お母さんありがとう。大好きだよ。」という手紙を書いています。
この気持ちは本当だと思います。
だから痛ましいのです。

子どもは虐待されても
同居親に拒否反応を持てないということを
記憶しておく必要があります。

つまり、嫌なことはあるけれど
一緒に住んで生活を続けているのですから、
安心したいという本能が優先しますから
子どもは同居親に対して拒否反応を示すことが
なかなかないのです。
また、前回の記事のように、
同居親と一緒に住んでいるので、
叱られても何とかなっているわけですから
日々不安が解消されながら緊張を解決しているわけです。
それが一緒に住んでいるということです。

ところが父親の記憶は、過去のものです。

一緒に暮らしている人間に対する記憶ではないので
安心の感覚を持つ要求が生まれません。
同居バイアスがかからないと
別居親についての記憶は、
夫婦喧嘩をしているときの記憶となってしまうことは、
記憶というものが危険を記憶して
危険に近寄らないためのものだという
その本質からも理解できるでしょう。

特に母親が感情的になり、
父親が理路整然と母親を論破して
母親がさらに感情的になれば
子どもからすれば
父親が母親をイジメているという記憶にしかなりません。

また、厳格すぎる父親の場合は、
しつけが厳しいために
子どもたち自身が父親から叱責されて
困惑しているという記憶が先に立ってしまいます。

別居親の方が、自分についてのお子さんの記憶について
楽しい記憶が先ず出てくるだろうということは
記憶のメカニズムからするとあまりにもロマンチックで
現実味がありません。

したがって、別居している子供が抱いている
別居親に対する記憶は、
同居親を攻撃している目撃記憶、
叱られて困惑している困惑ないし恐怖記憶
つまり緊張の記憶がまず出てきてしまいます。

別居親がしつけに厳格で同居親がフォローする役割分担だった場合は
むしろ別居親と一緒にいないことが安心の材料だ
ということになっている場合も結構あるようです。

このときに、別居親に会いたいかと尋ねられたら、
まず、緊張の記憶が出てきますから、
「今は会いたくない」
ということが自然なことなのです。

実際はどうしても嫌というわけではないのですが、
緊張が先に立ってしまいますから
会うことが「しんどい」ということがリアルなのでしょう。

ここは前回の記事でも分析しています。
「長期休みの最終日が辛い理由」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-28

さらには、子どもの後ろめたさという事情もあります。
早い子の場合は就学前の6歳くらいから、
子どもは、
同居親と一緒に生活していることが
つまり別居親と生活していないことが
後ろめたい気持ちになっているようです。

別居親と久しぶりに再会したとき
別居親に謝るお子さんを目撃することがあります。
とても痛ましい光景です。

動物は、無意識に自分を守るものですから、
この後ろめたさを合理化するために
別居親の落ち度を数え上げるということが
起きているのかもしれません。

一緒に住んでいる親については
安心材料を探すわけですから
ちょうど反対のことをしています。

このように、
同居親が、あるいは祖父母などの同居人が
同居親の悪口を吹き込まなくても
子どもは、別居親に「会いたい」とは言わないものです。

さらに同居親が別居をした後も苦しんでいるとか、
同居親が別居親に強い葛藤を抱き続けている場合、
それだけで子どもの別居親に対する拒否反応を
高めてしまうことはお判りでしょう。

何とか目の前にいる同居親を助けたいと考えることは
子どもの成長なのです。

別居親を攻撃することで、
自分の後ろめたさを正当化し、
同居親に同化することで、
安心感を獲得したいという本能が発動されてしまうからです。

もし、子どもが
別居親に会いたくないと言いながらも
同居親との楽しかった出来事を語りだしているのならば、
直ちに面会交流を始めるべきです。
本当は子どもは別居親と会いたいといっているようなものです。

同居していない親との
楽しい記憶は薄れていきます。
そうすると、
別居親の悪い記憶だけが残り
同居親をイジメていた絶対的悪の人に固定化されていきます。
ますます同居親をかばおうとして
同居親の気持ちを忖度するようになります。
よく言われるのは、
アイデンティティーが確立するべき
15歳のころ、
絶対的善の同居親と絶対的悪の別居親の
間に生まれた自分ということで
自己イメージが混乱してしまい、
自我の確立に支障がでてしまう
その結果、自尊心を持つことができなくなり
様々な問題行動を起こすようになってしまう
ということを心配しなくてはなりません。

もし、実際に、別居親が同居時に
子どもの意思を制圧するような暴力や脅迫をして
会ったとたんに子どもが精神症状を起こすというような
極端な場合でなければ、
早急に面会をして
悪いイメージを拭い去るだけでなく、
安心の記憶を取り戻させるべきです。

試行面会を早急に実施するべきです。
子どもが会いたくないと言って
その理由を夫婦喧嘩だというのであれば
間接的な虐待ということもできるかもしれませんので
面会阻害事由がある可能性があります。
試行面会を行うパターンに該当すると言えるでしょう。

即ち、調査官の立会いの下
いち早く試行面会を実施する必要があります。

通常は、父親が久しぶりの面会に感極まることがなければ
昨日も会ったように自然に会うことができれば、
子どもは、瞬時に安心の記憶を取り戻すものです。

父親が「やあ」と笑顔で話しかければ
それだけで、自分は許され、尊重されているということを
子どもが瞬時に理解できるからです。
安心の記憶を取り戻すことができるからです。

この機会は子どものこれからの人生にとって
何にも代えがたい、生きてゆくための財産になります。
この機会を奪うことは許されません。

同居親には申し訳ないのですが、
少し無理をしてもらわなければなりません。
裁判所関係者や法律関係者は
自然に同居親が同意をするという
ファンタジーを捨てて、
無理をさせる気構えを示さなければなりません。

実際の面会交流が実現する時は
調停委員や裁判官の強い説得があることが多いのです。

その代わり、同居親が安心出来る条件づくりを
こと細かく設定することは考えなければなりません。
相手を攻撃する姿勢は全面的に改めるべきです。
拉致だ北朝鮮だと自分が罵られて
ああ、自分が悪かったんだな会わせなくてはダメなのだなと
子どもを会わせようとするわけはないのです。
メールや電話で脅かされ、
自分が夫婦の問題を抱えているということを
SNSで拡散されたら
「もしかして会わせることは仕方ないのかも知れないな」
等と考えている人だって
「絶対に会わせない」と決意を強めるだけだと考えられないでしょうか。

別居親も同居親も
ご自分の感情を優先するのではなく
お子さんのために我慢してもらいたいと
切に願います。

(今回の記事は、通常言われている片親疎外の概念を
 なるべく使わないようにして書いています。
 実際はこちらが真の片親疎外のリアルかもしれません。
 通常の片親疎外の記事は、
 両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由
 https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10
nice!(1)  コメント(1) 

長期休みの最終日が辛い理由 結構みんなが辛い理由 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

長期休みの最終日が辛い理由

ゴールデンウイークや夏休みなど
長期休み明けは子どもの自死が増える
大人だって、気が滅入る。
今年(平成30-31)の年末年始は
9日間事務所が休みになったので、
私でさえ、出勤のことを思ってしんどくなったことがあった。

このように多くの人がそうだそうだと思うと
「そういうものだ」になってしまい、
思考が停まってしまう。

そして、単純に
学校や職場の人間関係の問題に問題がある
というような犯人探しに躍起になってしまう。
ところが、何が原因で、どう修正するかについても
まともな議論さえ広がらないのだから、
向こう岸の議論に思えてしまう。
要するに今困っている人にとって、
何の役にも立たない議論だということだ。

とりあえず対症療法を考える人も
いても良いと思う。

問題の所在は、
長期休み前は、その人間関係の中で
ともかくも生き残って
やってきたわけだ。

また同じことをやって生き延びればよいし
実際に多くの人間は休み前と同じように
困難をすり抜けて生きることができる。

つまり、休み前に耐え抜いていることが
休みを挟んでしまうと耐えられなくなる
この仕組みを真剣に考える必要があるのではないだろうか。

その人にとって休み前の生活、人間関係は、
おそらくかなりの緊張の連続だったと思う。
単純な緊張だけでなく、
複数のストレッサーがあって、
ひっきりなしに強い緊張が訪れて、持続して
しかも、顔がつぶされるとか、立場を失うとか
本気で参ってしまう危険を前に
強烈な緊張状態にあり、
局面においては、完全に孤立していると感じていたかもしれない。

これに対して家庭がうまくいっている場合は、
ストレスをあまり感じなくてよい。
だから緊張する必要が少ない。
副交感神経が活性化され、
生理的にはメンテナンスに適した環境になっている。
消耗した神経や血管が修復に向かう。

ストレスという交感神経が活性化された状態から
副交感神経が活性化され緊張がゆるみ切る状態である。

人間は、ストレスがかかり続けると
一気に破綻するが、
緊張がゆるみ過ぎると
行動を起こすことが難しくなるようだ。

通常は一日の内、大雑把に言うと
昼間に交感神経が活性化し
夜は副交感神経が活性化し
一日のリズムの中で活動とメンテナンスを行っている
(サーカディアンリズム)

おそらく、平日に学校に通っている日々も
このような生理的リズムがあるのだろう。
但し、
例えば学校で緊張状態が90ポイントになるとすると
帰宅しても60ポイントとかにしか下がらないのだろうと思う。
また明日のことを考えると
戦闘態勢を解除するわけにはいかないからだ。
朝起きた段階が60ポイントだとすると、
身支度を整えながら80ポイント近くまで上がっていき、
学校に着くころには90ポイントまで上げることは
おそらくそれほど難しいことではないのだと思う。

ところが、長期休みになって、
翌日に緊張のポイントを90にあげる必要がなければ、
日頃のストレス疲れの反動で
休みが続くうちにどんどん緊張ポイントが下がり、
10ポイントくらいになっているのではないかと思う。

10から90に持っていくことはなかなか難しいのだろう。
いきなり90ポイントまで上げなくてはならないと思うと
それはしんどいだろう。

もう一つ理由がある
学校でのストレスのかかる出来事が
対処方法抜きに思い出されてしまうという問題だ。
本当は緊張をしているにしても、
何らかの形でやり過ごしている。

緊張ポイントが高く維持されている時は、
嫌な奴の嫌みが来ても無視をしたり笑ってご増すという
処世術とセットになって思い出すことができる。
理不尽な先輩に会わないように
行動経路を工夫していたかもしれない。

ところが、緊張レベルが低い時は、
ごまかしの対処方法が思い浮かばず、
困難の場面だけが思い浮かんでしまう。
この結果、真正面から正攻法で対処することしか
思い浮かばなくなってしまうようだ。

真正面からの正攻法で対処して失敗した記憶だけが
その時窮地に陥った感情だけがぶり返すわけだ。

しかし、実際は
耐えきっているし、
ごまかしているし
先延ばししているのだ。
これをえいやっとやっているので、
緊張をしていない状態では、
思い出すことができないのだ。

ここまでのことをまとめてみる。

長期休み明けは
緊張ポイントが、通常時よりかなり下がっている。
このため、通常時が緊張状態だったことを体が忘れている。
困難な出来事を想定してしまうが、
緊張状態を作っての対処方法とることを思い出せない。
だから対処方法を思い出したとしても、
それがまたできるとは思われない。

真正面の正攻法での対処方法しか思い浮かばないが
やはりそれができるとは思えない。
出来ないからこそ嫌な記憶なのだ。

その結果、自分が顔がつぶされ、立場がなくなる
ということだけが頭を駆け巡る。
孤立と不可能だけが現実だと感じてしまう。
つまり絶望が起こりやすくなる。

しかし、原因が分かれば対策は簡単にできるかもしれない。

先ず、対処方法を思い出す方法がある。
休みの日学校の近くまで行ってみるということだ。
誰もいない教室に入れればなお良い。
誰もいない教室で一人でいると
なんとなく天下を取ったみたいに安心できる。

実はこの年末年始私も誰もいない事務所に何回か行った。
部屋の片づけをしなくてはならないという
差し迫った必要性があったから行ったのだが、
やはりなんとなく落ち着いた。
私の場合特に理由のない不安というか焦りというか
そういうものを持っていたのだが、
誰もいない事務所に座って仕事をしていると
そういうマイナスの気持ちは
自然と薄らいでいった。
年末年始の間、何回か事務所に足を運んだ。

環境の中で記憶が喚起されるという側面がある。
何とかなってきたじゃないかという自信みたいなものも
湧いてくるだろう。
実際、多くの不安はなんとかなるものである。

次の方法は、
あまりまじめに考え過ぎないことだと思う。
実際休み前は結構適当にやっていたはずだ。
勉強や仕事に関しては適当にやっても困るが、
人間関係については、結構
耐え抜く、ごまかす、先延ばしする
でしのいできたはずだ。
卒業すれば会うことも無くなる人間とは
そんなにまじめに決着をつける必要もない。

逃げられるところは逃げることも勉強だ。
逃げ込むべき場所、逃げ込むべき人は
えり好みしなければ見つかる。
逃げられる時間は確実に逃げよう。
ずるいと思っても、自分が一番だ。

色々困難な現実があり、
不合理な攻撃を受けることも
勉強だ。
危険や困難があっても
一時しのぎや自信をもてる自分のフィールドを作ることも
若いうちに経験しておくとその後役に立つだろう。

一人で打ち込める楽器、読書、収集
それからいざと言うとき守ってもらう家族に
前もって奉仕しておくこと、
できることはやっておいてよいだろう。
自分の危険の程度がそれでわかることがあるので、
よくよくの時に逃げ出すという選択肢を持つことができる。

困難を乗り切ったら自分を癒す方法があると
本当に困ったときも立ち直ることができる。

長期休み明け、
学校に行きたくないのはあなただけではない
原理を考えると誰にでもあることなのだ。

学校に行きたくて仕方がない人というのは、
家庭の中にいる方が緊張を強いられる人だと
憐れむくらいでちょうどよいことになる。

でもだいたいは学校に着くころは、
緊張状態も上がっていき、
行きたくなかった記憶も薄れてくることが多いだろう。

学校で色々嫌なことがあっても
前日に布団の中で嫌がっていた状態よりは
幾分過ごしやすいことが分かるはずだ。



nice!(1)  コメント(0) 

【怖いもの知らずの妄想的仮説】どうしてセロトニンが不足すると抑うつ状態になるのか、 [閑話休題]



脳科学者に記憶の仕組みを語らせると
アメフラシという軟体動物が出てくる。
アメフラシは、神経が太く少ないので、
神経の観察にもってこいだからとのことである。

アメフラシにも神経があり、
水管に触られるとエラをひっこめるという反射行動をする。
エラは大事な器官なので、外敵から守るために
触られると危険があると判断し、
引っ込めるのだ。

ところが触り続けると、
エラをひっこめなくなる。
これを危険がないという記憶が生じたというかどうかはともかく、
引っ込めなくなる。
記憶の原始形態のように説明される。

この研究が進み、
引っ込めなくなるメカニズムについて解明された。
そもそも引っ込めるメカニズムは、
感覚神経が異物を感じた場合、
その信号をいくつかの神経を通って、
運動神経に伝えて、
エラ引っ込め運動をするということらしい。

その神経から神経に信号を伝える時、
セロトニンという伝達物質が必要だけど、
危険をしょっちゅう感じてセロトニンを出していると
次第にセロトニンを作れなくなる
このため、神経信号が運動神経に伝わらず、
引っ込め反射ができなくなる
こういうわけらしい。

だから、しばらく危険がなければ
やがてセロトニンの作成能力が復活して
また引っ込め反応をするとのことだ。

「セロトニンですって?」

われわれにわか勉強マンは、
セロトニンと言えば、ましてやセロトニン不足と言えば
うつ病である。

アメフラシもうつ病になるのだろうかと
短絡的な考えを抱いたことは仕方がないだろう。
短絡ついでに、
もしかしたら、
人間のうつ病のセロトニン不足も、
危険を感じすぎて
セロトニン作成能力オーバーになっているのではないかと
そう感じてしまったのも仕方がないだろう。

アメフラシはそれほど神経が多くないので
うつ病になるかどうかわからないが
人間は確実に神経が多い。
そうすると、セロトニン不足で活動が鈍ると
活動が鈍ったことを心配し、焦る神経もあるかもしれない。

その神経は、
「いざ危険が起きてもセロトニン不足のために対応できない」
という予期不安を感じているのではないだろうか
と考えてみてしまった。

つまり、精神的な抑うつ状態は、
 セロトニン不足から直結しているのではなく、
 セロトニン不足を覚知したことによる反応ではないか
 ということ

このような解決手段がないことを覚知することによる
予期不安の自然発生は比較的わかりやすい。

例えば光の刺さない真っ暗なところにいると
それだけで怖くなる。
何かに襲われたらどうしようという気持ちになる。
もっと漠然とした不安、恐怖かもしれない。

実際、山の中のトンネルを歩いたことがある。
20歳前後の男性数人で歩いたのだが
皆、怖さを口に出し、
幽霊が出たらどうしようという気持ちにさえなった。

これは暗闇の中で何かがあったら、
見えないために対応ができない
という意識ないし無意識が
恐怖を掻き立てているものではないだろうか。

狭いところに閉じ込められたり
手や足を縛られた時も
言い知れない恐怖が湧いてくる。
逃げたり戦ったりできないことの恐怖が、
ありもしない危険を感じさせるのだろう。

うつ病においてもこのような
先回り不安を抱いているのではないだろうか。

そもそも、セロトニンやノルアドレナリンが
神経の間に少なくなったとすれば
その生物学的効果は、
神経間の伝達に支障が生じるだけのことである。
それ自体が抑うつ状態を生じさせるという
メカニズムにはならないだろう。

もしかすると危険等の連続で、
セロトニン、ノルアドレナリンの放出過剰が起き、
あるいは先天的な要因で
アメフラシのようにセロトニン等の放出の不能状態が
先ず生まれているのだと思われる。

その結果、危険が生じているのに
神経間の伝達が弱くなっているということを
脳のどこかが感じるのだろう。

(セロトニン不足をある神経にチクるのは神経ではなくグリア細胞ではないか。
 チクられる神経は脳幹とかいわゆる古い脳ではないか。)


すると、光のない世界、音のない世界
からだを動かせない世界の恐怖のように
何かあった場合に対処できないという
先回り不安が生じてしまうのではないか。

そうして、何かをすることで
危険が発生することを回避しようとして、
活動をしないように体が反応してしまう。
ここでいう何かをすることとは、
生きるための活動である。

意識的な思考、無意識の行動を抑え込む必要がある。
行動に出ないように体が反応するからだ。

全精神活動が低下していき
生きるための意欲が失われていくように思われ、
生きる行動が鈍っていく。
うつ病というのはそういうことなのではないだろうか。


また、生きるということは
危険や困難を乗り越えていくことなのかもしれない。



nice!(1)  コメント(0) 

【怖いもの知らずの妄想的仮説】記憶想起のメカニズム仮説 [閑話休題]


貯蔵された記憶をどのようなメカニズムで想起するか
ということが現在の課題となっているようです。

記憶は、先ず海馬で記憶され(秒から分単位)
内側側頭葉に保管され(もう少し長い)
そして大脳皮質に貯蔵され、長期記憶になる
とされています。
ここまでは解明が進んだそうです。

しかし、貯蔵された記憶が
意識に上らせるメカニズムは
これからの課題とのこと。

ここで、無責任な見解を述べることは
まさに素人の醍醐味なわけです。

私は、記憶の貯蔵自体が想起のメカニズムだと
大胆な提案をしたいと思っています。

先ず記憶がどのように長期記憶へ移行していくか
ということとも関連するのですが、
その前に、記憶とは何かということを
ごくごく大胆に端折って説明すると、

物事に対して人間が反応するということは、
何らかの神経伝達活動が起きているということです。
この神経伝達活動は、無数のパターンを作ることができるそうです。
それぞれの反応のパターンを神経が再現できる
これが記憶です。

従って、同じ反応を反復継続すれば、
記憶として定着しやすくなるわけです。

しかし、生きて活動していれば
次々と刺激が現れますから、
同じ反応だけを反復するということはできません。
しかし、反復しなければ記憶として定着しない
記憶として定着している以上反復している。
いつ反復しているのか。
もう寝ている時しかありません。

一夜漬けで得た知識が翌日のテストの時間に記憶されているのに
帰るまでには失われているのは
長期記憶になっていなかったから
つまり寝ていなかったからということになります。
受験本番では役に立たないのはこういうわけです。

寝ている時の記憶はありませんが、
レム睡眠という時間は、
起きている時と同じように脳が活発に活動しています。

反応が繰り返し再現されているわけです。
しかし、あまり強い刺激の場合
例えば犬が嫌いな人がいぬから吠えられ
追われて逃げたという反応を再現すると
眠りながら駆けだしてしまったりする危険があります。

しかし、レム睡眠は「うまくできています。」
脳から運動神経への伝達が遮断されているからです。
脳が反応しても運動神経の手前で止まっているので、
隣で寝ている人が踏みつぶされることはありません。

同時にレム睡眠時は新たな反応をしないために
感覚神経も脳と遮断されています。
寒くても対応ができません。
冬山でうたた寝をすると死ぬのは、
レム睡眠の時なのでしょう。

何も気にしないで思う存分反復再現をして
皮質で長期記憶とすることができるのです。

この長期記憶への移行が
実は想起のメカニズムではないかというのが
私の主張ということになります。

つまり、ただ反復再現しているのではなく、
この時、過去の記憶との関連付けが行われているということです。
例えば、危険の大きさ、危険回避の困難さについて
過去の記憶の中にある危険の中のどの順位に位置づけられているか
おそらく、反応の状態を診て几帳面に並べ直されているのでしょう。

レム睡眠時にファイリングがなされるということが有力ですが、
それはこういうことではないかと思うのです。

危険の大きさ、危険回避の困難さが
もっとも重要なファイリングの要素だと思うのですが、
もしかしたら、他の要素もファイリングの要素になっていて
二次元的なファイリングではなく多次元的なファイリングに
なっているのかもしれません。

細かい記憶、
文字とか、機械の名前とか、色彩とか
そういう記憶もあるのだから
多次元のファイリングがなされているのだと思うのですが、
これは私の手には余ります。
というかあまり関心のないところです。
記憶の必要性というのは危険回避の手段の蓄積に
その要諦があると思うからです。

記憶自体が関連性の中での位置づけという形で貯蔵されているので、
関連事項に刺激されれば、
記憶が自然と想起されるシステムになっている
これが私の提案です。

記憶の想起とは
実は脳が勝手に同種の反応の再現している
ということになると思います。

だから思い出すという作業は
無意識に関連付けをしているということではないか
と思うのです。

卑近な例では
台所で用事を思い出し、
自分の部屋に行ったけれど、
自分の部屋に行ったとたん
何をするか忘れるということがあります。

こういう場合は、
もう一度台所に戻って
さっきしていたことと同じことをすると
「ああ、そうだった」
ということになると思います。

そうやって二度思い出す、つまり反復した場合は
自室に行って確実に用を足すことができるわけです。

これは、短期記憶の例ですが、
関連付けをすることで、意識に上らせた例
ということになると思います。

ちなみに、機械の名前とか歴史上の人物の名前とか
およそ実生活に関係しないことは
よほど反復するか、実生活に引き付けて
つまり関連付けの中に無理やり押し込めてでないと
どんどん記憶から欠落していくでしょう。

逆に、強盗に襲われたとか、震災の記憶等は
ファイリングしきれない記憶ということになります。
それでも危険の記憶ですからもっとも重要な記憶です。
ファイリングがされなければ、
いつでも危険への対処をスタンバイしていなければなりません。
これがPTSDの原理ではないかと思います。
ファイリングは危険への対処をシミュレーションして
情動を鎮める作用もあるようです。

妄想ついでに言えば
記憶が神経の伝達パターンの再現だとすると
パターンオーバーになることを心配したくなります。

おそらく、関連付けの中で
出来事が過去過ぎて、もはや脅威ではないとするべきことは、
記憶のファイルから欠落していくというか
コンパクトに再構成されていくのではないかと思っています。
どんなに片づけが苦手な人も
脳は立派に再構成して整理しているわけです。

逆に、細部にわたる記憶が延々と続く場合は
もしかしたら、神経伝達パターンの再構成がなされていて、
伝達パターンの可変部分と不変部分があるのではないかと
利根川大先生の物まねをしたくなったりしています。

妄想よりもさらに無責任な話として
これまで、ニューロンの伝達パターンばかりが注目されているようですが、
脳の可塑性については、グリア細胞が大きな役割を果たしているのではないか
という視点での研究が必要なのではないかと
吐き出してみました。

nice!(0)  コメント(0) 

なぜ、人間関係の紛争(例えば夫婦喧嘩)収束せずに拡大するのか。「かわいそうだからやめる」ができない研究4 [家事]


小脳は、例えば歩いている場合、
異常があればそれを感じて
態勢や運動を修正しているらしい。

例えば真っ直ぐ歩こうとしているのに
地面が坂になっていて
体が斜めに倒れてきた場合は、
小脳は態勢の異常を感じて
体を起こそうとする

異常を感じることも
修正することも
意識には上らない。
自動的に行われている。

能は活動を節約しようとする傾向があり、
予想通りの動きに関しては、何ら反応しない。
前回の記事で書いたとおり
自分で自分をくすぐってもくすぐったく感じない。

これを実験した人がいて、
簡単に言うと
二人が指を一本ずつ出して指で押し合いをするとする
それぞれに対して、
「相手と同じ力で押し返すこと」
という指示を出す。

すると、その実験を続けているうちに
二人ともどんどん押す力が強くなって行く
という結果が出た。

これも小脳の働きで説明がつく。

押している方と押されているほうが同じ力で押している場合、
小脳は、
自分が予想した力を出しているのだから
ことさら「自分で押している」
という感覚が持てないらしい。
「押さなくてはならない」という意識があるものだから、
本当は釣り合っている押し方をしているのに
押しているという実感を持とうとして
さらに強く力を入れてしまうかららしい。

これらのことは、D・J・リンデンという人が河出文庫で出している
「脳はいい加減にできている」という本の中で説明している。

これは、対外的な物理的変化あるいは器質的変化の問題なのだけれど
私は、人間関係でも同じ原理が起きているのではないかと感じた。
言葉のけんかをしていても
相手から受けた攻撃と同じ攻撃をすることは
攻撃している実感がなく
それを上回る攻撃をしなければならないと感じて
攻撃はエスカレートする傾向にあるのではないかということである。

人間の紛争がなぜ起きるのか、
一般的には、つきつめると
自分を守る行為、自分の仲間を守る行為が衝突した場合に起きる。

対立する紛争当事者はどちらも自分を守るために攻撃する
相手に責任があろうと、正義があろうと、落ち度があろうと
そのようなことにかかわりなく、
自分を守るために相手を攻撃する。

そうして、自分の反撃は
「相手が自分を攻撃した同じ程度で反撃しているに過ぎない」
だから許される
という無意識の正当性を感じようとする。
特に家族など仲間同士の紛争の場合は
そのような意識を持つようだ。

典型的な紛争は夫婦問題である。

妻が自分をないがしろにしたと思えば
「同じだけ」夫は妻をののしる。
妻は、夫が自分を支配しようとしていると感じると
周囲を味方につけて、夫の攻撃にふさわしい反撃をする。

実際は、
けんかの始まりは相手に悪意がないことが多い。
それにもかかわらず、
人は誰しも相手に嫌われるのではないかという不安を持っており、
その不安が強すぎる人は、
自分が攻撃されたのではないかと感じやすくなり、
攻撃されたという断定が起き、
被害感情が全開になる。

自分に被害が生まれるのだから、
被害を埋め合わせようとして反撃してしまう。
この反撃は、意図的な攻撃である。

但し、その時、自分の攻撃の強さは、
相手が自分にした攻撃と同じくらいの強さにとどめているつもりだ。
自分から罪のない人を攻撃しているという
感覚は持ちたくないようだ。

同じくらいの攻撃だけど
一つは、そもそも攻撃をしていないのに攻撃をされた
という意識を相手は持っているので、
相手は自分を守るために
「同じ強さ」の攻撃に出る。

この時の「同じ強さ」は
攻撃する側の感覚であるから、
双方攻撃しあっているその最中にあっては、
指の押し相撲のように、
相手の攻撃の強さに相殺されて
自分の攻撃の「同じ強さ」は
相手の攻撃の2倍になる傾向にある。

「相手が攻撃してきたから反撃したまで」
「相手と同じだけしか攻撃していない」
という趣旨の言い訳をよく聞く。
しかし、それは、人間の脳の能力に問題があるため、
客観的には額面通りの結果以上のことが起きている。
過剰反撃になりがちなのである。

双方の紛争が続くと
強さは、どんどん2倍ずつエスカレートしていくことになる。

相手を破滅させるほど
攻撃が極端に強くなっていく。
前回と同レベルの強さの反撃は
反撃をしている実感がわかなくなるからだ。

自分が攻撃されているという感覚
つまり被害者意識が強すぎるという原因はあるものの
他方も、気が付かないうちに反撃行為が強くなっていき
それが相手の被害者意識をさらに高める
という悪循環に陥る。

あまりにもうまく説明できるように感じた。

もっとも、夫婦のような対人関係における
相手方に対する作用のずれを
小脳や体性感覚皮質で感じて修正するということは
非科学的な発想であろう。
脳の部分については脳科学者にまかせよう。

今の攻撃の話は、物理的攻撃というより
おもに言葉による攻撃である。

夫婦の場合、最終的には
「出ていけ」、「離婚だ」ということになるが、
要するに、仲間であることを否定する言動が攻撃であり、
否定の度合いが攻撃の強さである。

この攻撃の度合いについても
発言する方と発言を聞く方は
全く異なった認識をすることになる。

発言をする方は、どのような発言をするか
夢中になってわけわからないとはいえ、
ある程度は予測をつけて発言をする。
真意が別にあることも自覚している。
だから、それほど強い攻撃ではないと思っているかもしれない。

しかし、発言を受ける方は
相手から口に出されて初めて言葉を聴き取るために、
すっかり予測することは不可能だから、
警戒感が強い状態で受け止めるので、
強い刺激に受け止める傾向になる。

常に攻撃は、攻撃者が思っている以上に
攻撃を受ける側は強く感じているようである。

そして、それを受け止めた側の反撃も
自分の受けた攻撃と同じ強さでは
既に反撃として意識されない傾向にあるので、
それを上回った程度になってしまう。

つまり、最初は5の強さの攻撃も
相手は5プラス5で10の強さとなり
次は20の強さとなり、
次は40となって行くわけである。

防衛本能に任せた反撃をしているうちは
全体を上から見ることはできない
最終的には、ただ、相手を叩き潰すことに
全力を挙げるよう脳が命令してしまう。
大変恐ろしいことだ。

相手に反撃している時は
相手は仲間ではなく
敵対する者であり、
やがて人として尊重するということも
できなくなっていく。

より大きいダメージを与えることだけが
目的になってしまう。
やがて関係が破綻する。

これはもう、どちらかが反撃をやめるしかない。

「自分が悪い」と言って謝ることができれば最高だ。
即時にそれをできる人は素晴らしい。

謝らなくてもやめることはできるなら
それも素晴らしい。
相手方にやめるように言う必要はない。
自分が争いを中断する、反撃をしないという
単独行為ですむ。
実は、それほど難しいことではない。

逆に、相手を言葉で打ち負かしてしまったらどうだろうか。
自分は正しかったのだから、それでよいと思うだろうか。
それによって、相手は間違った行為をした人間だ
ということを思い知らせると、
相手がかわいそうである。

相手をかわいそうになるほどつらい思いをさせても
筋を通さなければならないことって
それほど多いことだろうか。
家族が家族である以上、それはない。

相手を否定してでも筋を通すなら
仲間の解消をするべき場合も多い。
しかし、始まりはそれほどの話ではないことが多い。

また、相手を打ち負かしても
それは仲間を打ち負かしたことだから
反撃ができないという体験、記憶を
相手に植え付けるという効果が確実に生まれてしまう。

それはお互いが快適な生活を営むことに
多大なる支障になるし、
崩壊の原因として蓄積されていく。

結局はいいことは何もない。
しかしそれにはなかなか気が付かない。

双方の攻撃を止めるためには
自分の攻撃で傷つく相手をかわいそうだと思うことが有効だ。

しかし、自然にはこれは思わない。
だから、自然にはかわいそうだと思わないことを
忘れないようにする。
そうして、無理に紛争が生じたら
それを思い出すことにするしかない。

あなたは途中でそれを思い出す。
相手はそんなこと知らない。
あなたが攻撃をやめても
しばらくは攻撃が続くだろう。

その攻撃を黙って聞く。
自分が最後にした攻撃から、その直前にした相手の攻撃をひいた
おつりが来ていると思うしかない。
少し視線を斜め下に下げて、
悲しそうな顔をして黙る。

どの程度攻撃が続くかは、
おつりの大きさによるものだと
我慢しよう。

沈黙が生まれたら幸運を感じよう。
謝るもよし、
興味のある話題を振るのもよし、
こちらから話しかけるべきだろう。

そして、自分の言動で取り乱してくれる相手に
感謝の気持ちを捧げよう。

あなたの攻撃に取り乱さなくなった相手は
既にあなたが仲間ではないと
腹をくくっているかもしれないからだ。

nice!(0)  コメント(0) 

いじめの判断は「原則として」被害者を基準とするべきことの理由 「可哀そうだからやめる」ができないことの考察3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由
2 どうして、客観的な判断をしようとするのか
3 被害者が被害を過敏にとらえている場合の対応

1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由

誰かにくすぐられるとくすぐったいのに
自分でくすぐってもくすぐったく感じない
この理由を一言で言うと、
「くすぐったく感じる必要がないから感じない」
ということになるらしいです。

では、なぜ他人が触る時はくすぐったくなる必要があるか。
それは、皮膚感覚が働いて、
異物が自分の体の触れられる場所にあるから
「危険があるのか確認して対策を立てろ」
という、危険回避の必要があるからだということになるでしょう。

これに反して自分が自分をくすぐる場合は。
予め、すなわち実際に触る前から
脳の無意識の部分が、
いつ、どのように触るか予想しています。
当然予想通りの触り方をするのですから、
何らかの対処をとる必要がなく
くすぐったく感じる必要はありません。

D・J・リンデン「脳はいい加減にできている」河出文庫
デイヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳──意識は傍観者である 」
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いじめやハラスメントの時も同じことが起きているようです

友達同士で喧嘩をして、悪口を言ったとします
発言する方と発言を受ける方は
全く異なった認識をしています。

発言をする方は、どのような発言をするかについて、
発言の全体像を把握しています。
トータルで考えることができるので、
それほど強い調子で言っているつもりはないかも知れません。

しかし、発言を受ける方は
相手から口に出されて初めて言葉を聴き取るために、
何をどのように発言されるかについて
予測することは不可能です。
警戒感が強い状態で、つまり攻撃に対して敏感になっている状態で
言葉の一つ一つを順番に聞いていくしかありません。
順次反応していくことになるので、
どんどん強い刺激になっていくように受け止める傾向にあります。

言葉一つ一つに反応していくことから
相手が話し終わってから内容を吟味することもできません。

攻撃者が思っている以上に
攻撃を受ける側は強い敵意が
自分に向けられているように感じるものです。

だから、
攻撃者は、攻撃する意図がない場合さえあります。
例えば、極端な話、道理を説いている場合があるのです。
「ブランコに並んでいる時に横入りしてはダメだよ」
という趣旨のことを言っているのだけなのに
言われた方は
楽しくブランコに乗ろうと期待に胸を膨らませていたところ、
(並んでいたけれど、ガラスが落ちていたので、
 みんなのためにちょっと捨てに行っていたかもしれない)
カウンターを浴びせられた形になり
驚いているし、
相手の表情などから自分が攻撃を受けているということを感じ、
言葉一つ一つが鋭く聞こえてしまい
「お前なんかみんなと一緒に遊ぶ資格がない」
と言われたように受け止めていることがありうるのです。

当然これはいじめではない可能性もあるのですが
言われて傷ついている様子があれば、
大人が何らかの対応をする必要があります。

皆の前で言われたことどもをフォローすること、
自分が横入りを注意したことで
思わぬ衝撃を与えてしまった子をフォローすること
これが大人としてやるべきことです。

必要なだけでなく、
いじめを産まない人間関係を形成するチャンスなのです。

ともすれば、
けんか両成敗で、どちらも「悪い」
ということになってしまうことがあるかもしれませんが
良い悪いではなく、
どうすればよかったのか
ということを大人を交えて話し合うことが良いのです。

それぞれの良いところをはっきり共通認識にして、
一緒に成長していく仲間であることを自覚させる
ということが理想です。

これを阻む思考上の最大の敵は
実は、「善悪」であり、「正義」であり、「秩序」です。

子どもたちに悪意がないということを前提として
エラーを修正していく
これが肝要ではないでしょうか。

そのためには、「加害者」、「被害者」という言葉は
使わない方が良いのだと思います。

いずれも、子どもが孤立している、マイナス評価されている場合は
大人が対応をする機会にしなければなりません。

2 どうして、客観的な判断をしようとするのか

それにもかかわらず、
特に学校は、いじめがあったか無かったか
慎重に判断する傾向にあるように感じられます。

慎重に判断する結果
なかなかいじめだと認定しないために、
必要なフォローができない状態になっているかもしれません。

もしかすると「いじめがあった」と認定すれば、
色々と処理するべき手続も多くあるのかもしれません。
報告書などの手続きがあるかもしれません。
その対応を教育委員会なりに評価を受けなければならないのかもしれません。

そうでなくとも、
いじめの記録等をつけなければならず、
加害者とされた児童生徒の記録に加えなければならないのかもしれません。

いじめと認定して、加害者とされた児童生徒に不利益が及ぶというなら
いじめの認定に慎重にならざるを得ず、
それがいじめか否かを客観的に判断しようとしてしまう
動機になってしまいます。

暴力や脅迫などの犯罪行為であれば
警察の問題が出てくるのですが、
そうではない場合は、
いじめを制裁の対象にするという硬直な扱いでは、
適切な対応ができなくなってしまいます。

やるべきことは、通常は、
子どもたちの行動の修正です。
大人もそうなのですから、まして子どもの場合、
自分が言った言葉が相手にどう伝わるかなんてわからないことが多いので、
相手が傷ついている可能性があるのです。

「どういう風にふるまえば、双方が楽しく生活できるか」
ということを目標とするべきなのです。

ところがそういう目標ではなく
「いじめゼロを目指す」
なんてことを目標にすると
こういう弊害がでてくるわけです。

プラスを作っていく、教育していくことを目指すべきなのに
マイナスを無くしていくという発想の貧困さを
指摘しなければならないでしょう。

ひとりの生徒なのに、
「いじめ認定」という烙印を押してしまうと
極悪人として別の人格にかわったように
扱うようになるのかもしれません。

いじめる生徒もいじめられる生徒もどちらも自分の教え子だ
という意識に欠けるところがあるのではないでしょうか。

3 被害者(の親)が被害を過敏にとらえている場合の対応

被害を受けているという子どもを基準に考えると
不合理な結果が生まれるのではないかという
現場の心配があるようです。

相談事例で増えてきているのは、
自分の子どもがいじめの加害者だと
攻撃されているというものです。

いじめの被害者だと主張する子どもの親から
いじめの加害者だという膨大なメールなどの攻撃を受ける
他人にもいじめがあると言いふらされているようだ
というものです。

実際の被害者の親だと主張する人のメールなどを見ると
脅迫すれすれの内容が記載されていますし、
加害者の子どもの人格を否定するような内容もありました。
復讐心や防衛意識はわかるとしても
明らかに不穏当なものでした。

この事例は小学校低学年の事例で、
それまで仲良しだった子ども同士が
クラス替えで別のクラスになったそうで、
加害者とされた児童は、
新しいクラスのお友達と仲良くなってしまい、
被害者とされた子どもにあまりかまわなくなった
ということが発端のようでした。

ここには、
被害者とされた子どもが加害者とされた子どもへの
依存傾向があるというよりは
被害者とされた子どもの親が、
加害者とされた子どもに、自分の子供の面倒を見てほしい
という依存傾向があったようです。

実際には被害者とされた子どもは、
新しいクラスになじんでおり、
友達もたくさんいて楽しく過ごしているようです。

母親だけが、
加害者とされた子どもを恨んでいたようです。

これをもっていじめだと主張していたわけです。

どうやら母親も、自分が子どもの時
いじめにあった過去があり、
自分の子どもも同じように虐められるのではないかという
強い不安があったようです。

おそらく最初は、クラスも変わって
被害者とされた子どもも心細い気持ちだったと思います。
加害者とされた子どもにかまってほしかったと思います。
それを母親に訴えたということもあることでしょう。

もしかしたら、加害者とされた子どもが
新しいクラスの子と話をしていることに夢中で
被害者とされた子どもに対応ができず、気も回らず、
結果として無視した事実もあったかもしれません。

被害者だと主張する子どもの母親は、
加害者だとされた子どもの母親に相談して、
不安を打ち明けて、
お呼ばれ会をするなり、
共同のイベントのセッティングをするとか
新しいクラスの子との遊びを応援する等して
他人に頼って解決すればよいのですが、
それができなかったようです。

被害者を主張する子どもの母親は
何度も学校に赴いていじめを訴えたようです。
どうやら
事実関係も分からないくせに
被害者を主張する子どもの母親に
同調してしまった人たちも存在したようです。
当然のごとく被害者を主張する母親は
無責任な共感によって
ますます不安を感じるようになって行ったようです。

学校は対応に苦労したようです。

「客観的な意味でのいじめが認定できないので、
いじめとして対応できない」
そういう感覚だったのではないでしょうか。

やがて、被害者主張の母親は、
学校から自分がモンスターペアレント扱いされていると思うようになり、
加害者扱いの子どもとその母親を攻撃するようになりました。

学校は、メールなどのはっきりした証拠が残る攻撃に対しては
きちんと対処をしていたようです。
学校から注意を受けると
加害者主張をした母親の攻撃はしばらく止まりました。

どうやら被害者主張の母親は精神的に問題があったようです。

たびたびの攻撃にさらされて
加害者扱いの子どもの母親の方も精神的な負担に
耐えられなくなってきたようでした。

学校はどうすればよかったのでしょうか。
何か修正するところはあるのでしょうか。

学校からすると、
「あなたは精神的に問題があって
妄想傾向にあるから病院に行った方がよい」
ということはできないでしょう。

手を焼いた状態だったと思います。
出来ればかかわりたくないということが人情ではあるでしょう。

初期対応の際に
いじめかどうかの認定を後回しにするという決断が
必要だったと思います。
先ずは、子どもたちに事実関係を確認するのではなく、
母親の心配事をきちんと掘り下げるということを
第1にされるべきだったのでしょう。

母親が実際に何を心配しているのか
現実に起きていることに対する抗議というより、
この派生問題として将来起きるであろうことを心配しているのであれば、
学校としてできることは
母親を励ますことなのだろうと思います。

子どもがクラスでなじむように
サポートすることを説明することが有効だと思います。
そしてお子さんはきちんとたくましく成長しているということを
事実をもって紹介して不安の材料を極力なくしていき、
安心してもらうことが第1でしょう。

そして、
母親の過剰な行動は
第三者の子どもたちにも伝わっていき
その結果子どもが窮地に陥るというデメリットも
きちんと伝えるべきでしょう。

こういう親の不安の結果、
友達を無くす不幸な子どもがあちこちに増えています。

低学年の子どもにとって
クラス替えというものはこういうものであるし、
少人数の友達だけの付き合いから
クラス全体の交流を作っていく過程で
克服されていくことを説明するべきだし、
そういう人間関係作りをしていく
ということを意識するべきだと思います。

正義感の強い先生の場合、
悪いことをしていない子どもを加害者扱いして
理不尽な要求を通そうとする保護者に対して
強い態度で押し切ろうとすることがあるかもしれませんが、
逆効果になります。

被害者主張している親に精神的な問題があり、
秩序や正義感に問題があるわけではないという場合は
その根本原因を把握して、そこを手当てするしかないようです。

そしてその根本原因は
子どもが孤立したり攻撃を受けたりするという不安です。
ここを一緒に適切に評価していくということが求められるようです。

これは加害者扱いされて苦しむ親に対しても同様です。
きちんと学校が把握している事実関係についての評価を告げて、
子どもを守るということを約束をする必要があります。

いじめの問題が扇情的に報道されてしまうと
自分の子どももいじめを受けるのではないか
いじめによって子どもが自死するのではないかという
不安を抱く親が増えることは当然の成り行きです。

それを踏まえて報道がなされるべきであることは当然です。
裏付けをとらない決めつけ報道は害悪にしかなりません。
こういう主張があったことを報道しているだけだという
ゴシップ週刊誌のような言い訳を新聞が行うことは
情けない限りです。

おそらくこのような「正義」の報道は下火にはならないでしょう。
誰かを攻撃する姿勢によって、別の誰かを苦しめることは続くでしょう。

学校はそういう情けない社会状況を踏まえて、
過敏になっている保護者の対応を考えなければなりません。

学校も逃げないで真正面から対応するだけでなく、
利用できる人間を大いに利用するべきです。
教育委員会も学校現場が、
外部の応援を受ける体制を推進していただきたいと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

ゼンメルワイスの失敗、正義、真理が握りつぶされる理由  [家事]


イグナツ・ゼンメルワイス(1816~1865)医師

19世紀のウィーンのある病院の1科では
出産に伴う妊婦の死亡が異常に多かった。
死亡原因は産褥熱
つまり、お産の時に妊婦に細菌感染が起こり
細菌が血流にのって全身に回り
毒素による熱が出て敗血症で死亡したのである。

ゼンメルワイスは、この原因を突き止めた。
同科の出産の介助をしていたのが医学生で、
その医学生が遺体解剖をした後に手を洗わないで
出産介助をしていたため、
遺体の毒が医学生の手を汚し
その手で介助したために
出産の際に毒が妊婦に移ったと主張した。

彼は、出産の介助の前に
塩素系での手洗いを励行した。
その結果、産褥熱の発生を激減させた。

その後「徐々に」手洗いがヨーロッパに広まっていったとのことである。

しかし、ゼンメルワイスは、
英雄になるどころか
医学界から追放され、郷里のブタペストに戻り、
精神科に入院させられ、47歳で病死した。

この話を最初に読んだのは、
津田敏秀著「医学的根拠とは何か」(岩波新書)である。

真実は報われないということで衝撃を受けた。

先日、ジェニファー・アッカーマン著
「かぜの科学」(ハヤカワ文庫)を読んだら
やはりゼンメルワイスのことが記載されていた。
少し、別の角度からの説明もなされていた。

当時の産科医たちは、
ゼンメルワイスの主張を取り上げなかったばかりか
ゼンメルワイスの取り組みを妨害さえしたそうだ。
そしてそれはどうやら
ゼンメルワイスの性格に起因していたというのである。

ゼンメルワイスは、自分の考えに異を唱えた人たちを
「大量虐殺の共犯」、「医学界のネロ」、「殺人犯」
等と呼んだらしい。
医師たちは、このようなゼンメルワイスを容認できず、
主張を取り上げるどころか
ゼンメルワイスを狂人として扱ったようだ。

「医学的根拠とは何か」の該当部分を読み直してみると、
ゼンメルワイスは、
「医師が産褥熱で人を殺す」というビラを撒き、これが
精神科に入院させられたきっかけだと記載してあった。

まだ、細菌という概念も生まれていなかった時代のことである。
パスツールが「生命の自然発生」を否定し、
養蚕業の救済を始めたばかりのころで、
コッホが炭疽菌を培養するのも
ゼンメルワイスの死後10年経ってからである。

もしかしたら当時の医学界には
徒弟制度のような感覚があり
先輩である親方が絶対的存在だから
先輩を否定したり、批判するということが
ありえないことだったのかもしれない。

伝統と権威を否定するゼンメルワイスについては
怒りの対象ではなくて
どちらかというと奇行を行う危険な狂人だと
そのような扱われ方だったのかもしれない。

ゼンメルワイスの語る真実は
文字通り葬り去られたことになる。

一方ゼンメルワイスが当時の医学界を
強烈に罵ったことはよく理解できる。

子どもを授かるというしあわせの絶頂の時に、
何も悪いことをしていない妊婦が
人を助けるべき医師や医学生によって
命を奪われる様子を彼は見てきた。

夫をはじめとする家族が
妊婦が死ぬことで嘆き悲しむ姿を
目の当たりにしていた。

しかも、単に手を洗えばよいと
口を酸っぱくして言っているにもかかわらず
それを無視して危険な作業を続けていた、
あるいは敢えて手を洗わせないで作業をさせて
案の定妊婦の命を落とさせているのだから
「殺人者」、「虐殺者」ということは
ゼンメルワイスにすると文字通りの評価
正しい表現だったと確信していてもおかしくない。

しかし、ゼンメルワイスは
医学界から抹殺された。

さて、もし仮にタイムマシーンで
ゼンメルワイスの時代に行けたら
何をすることが正解だろうか。

答えは、ゼンメルワイスに対して
「暴言を慎め」ということで間違いないと思う。

確かにゼンメルワイスの手洗いは
徐々にヨーロッパに浸透していった。
長い歴史を考えると多くの母親たちを救ったことになる。

しかし、
彼が追放され精神病院に行っている間
なお手洗いをしないで出産介助が行われ
産褥熱で死んでいった母親が大勢いたことになる。

一人でも多くの命を救うためには、
けんか腰の正攻法?という手段をやめて
うまく立ち回らなければならなかったはずだ。

妨害を極力小さくすること
結果論だが、それがゼンメルワイスがやるべきことだった。

しかし、おそらく、
ゼンメルワイスは、自分では罵詈雑言を止められなかっただろう。
なぜならば、
当時のギルドを色濃く残していた医学界で
先輩たちに対して悪態をつくことができるほど
伝統と権威を意に介さない性格でなければ
産褥熱の原因が
医学的手法にあるかもしれないという
否定の発想に立てなかったかもしれないと思うからだ。

科学的発見と彼の性格はセットだったかもしれないのだ。


現代でも
正しいことが受け入れられないことが
山のように多く、
無力感や屈辱感にさいなまれ、
人生を棒に振る人たちが多くいる。

不条理に反撃をするために
相手に対して攻撃的な言動をする人たちも多い。
しかし、
彼らが受けた不条理に見合う「正確な」評価、表現は
相手方からすれば
悪態や罵詈雑言に受け止められている。
ゼンメルワイスのころと同じ構造は現代でも起きている。

さらに厄介なことは
不条理を行った相手方だけでなく、
中立的な人間や自分の仲間でさえも
罵詈雑言等攻撃的言辞に辟易して
関わりを遠慮され、
ゼンメルワイスのように孤立を招いているのである。

真実は、それだけでは力にならない。
その人が孤立するだけならまだ良いが
その人が守ろうとする人たちを
結果として見殺しにしている事態にもなりかねない。

あたかもゼンメルワイスが
守らなくてはいけない妊婦を
みすみす見殺しにしなければならない事態と
全く同じ事態が今も起きている。

では、現代のゼンメルワイスたちは
どうすればよいのか。

少なくとも行うべきことは
仲間を作り孤立しない事だ。

ただ、現代のゼンメルワイスは
仲間を作ると益々怒りがエスカレートするようだ。
仲間ごと孤立していくか
仲間同士の内部分裂が繰り返される。

仲間を選ばなければならない。

怒りをあおる人間には警戒しなければならない。
不条理を受けている場合
怒りを共有することはとても気持ちが良い。
救われた気持ちになる。
しかしそれは大変危険だ。
それから前に進めなくなる。
不条理を拡大再生産する危険がある。

心地よい響きを聞き続けると
修正提案に対しては拒否反応が出やすくなるらしい。
心地よいことを言う人が味方で
耳が痛いことを言う人が敵になって行くようだ。
人間の意識決定の大部分はこのようになされているようだ。
これでは「内部固め」で手いっぱいになってしまい、
それすらできなくなり、分裂に向かうことは必定だろう。

仲間には、怒りに物足りない人間を必ず加えるべきだ。
他人に対して働きかける場合
中立的な人間や反対者に対して働きかける場合は、
怒りに縛られていない人間が行わなければならない。
共感を実感できない仲間、
むしろ他人に共感できない性質をもつ仲間は貴重である。

真実や正確な表現に甘えてはいけないのだ。
主張することで自分のストレスを発散させることを優先するならば、
それはとりもなおさず結果を出すことをあきらめる
という選択と同じ意味なのだということに気が付かなければならない。

ゼンメルワイスの名誉は
死後30年してパスツールによって回復された。
現在では、ゼンメルワイスは母親たちの救世主と称えられている。

ゼンメルワイスは、その発見を通して妊婦を救済した
そして、ゼンメルワイスは、その失敗を通して
運動の普遍的な方法論を教えてくれた。

現実にはパスツールはなかなか現れない。


nice!(0)  コメント(0) 

どうしていじめることが「できる」のか。「かわいそうだからやめる」ができない理由2 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 いじめの加害者は、特殊な人間ではなく普通の人間だと考えるべきこと

もしかすると
「いじめの加害者は、
精神的にいびつな構造を持っていて、
相手を苦しめることを何とも思わないというような
冷酷無比の特殊な人間だ」
と一般には考えられているのかもしれません。

被害者やその家族がそう受け止めることは、
もっともなことですし、
私や私の家族がそのような攻撃を受ければ
私もそう感じるでしょう。

問題は、
いじめなどを防止しなければならない人が
「いじめをする人間は冷酷無比の特殊な人格をもった人間だ」、
という考えに陥っているとすると、
いじめ防止は、特殊な人格者探しをすることになるだろうし、
いじめをした者は、特殊な人格者として
治療、矯正、あるいは隔離の対象となってしまう
危険があるということです。
早い話、
それでいじめは防止できない
ということが今回申し上げたいことです。

私は、防止の観点からは、
いじめは、
子どもたちの人間関係が未熟なために、
人間関係で必要な配慮ができなかった
そしてそれを修正できなかったという
「エラー」として把握するべきだ
と考えています。

どういう場合に「エラー」が起きるか
それを突き止めて
先回りをして対策をして
「エラー」を起こさないということが
防止の観点からは有効だと考えています。
行動経済学という
近年ノーベル賞を輩出している
分野の応用ということになります。

特殊な人格者の行為ではないと考えるべき理由は、
同じ子どもが
いじめをする方にも回るし
いじめられる方にも回る
普通の子どもが被害者にも、加害者にもなる
そういう性質のものだからです。

冷酷無比の人格を探していたり、
命の大切さを教える教育をしていても
いじめ防止にはつながらないと思うのです。

「相手を殺しても良い」と思って
いじめをする子どもは滅多にいません。
逆に何らかの精神的構造上問題があって、
いじめをするならば
命の大切さを教えても仕方がない
ということになるでしょう。

私は、犯罪にしても、離婚にしても、パワハラにしても
加害者と呼ばれる人と話をする機会が多いのですが、
そのような冷酷無比の精神構造になっている人はおらず、
「普通の人」の範囲であることが多いという印象です。
家族がいて、家庭を大事にできる人であったりします。

2 いじめ防止のヒント、共感とは何か

ただ、共通の事情として、
いじめや犯罪などの攻撃行為をしている時、
相手をかわいそうだと思うことができない
相手に共感できないという
状態になっているようです。

「共感とは何か」ということを端折って説明すると、
先ず、相手の気持ちがわかることではないようです。
では「共感とはなにか」というと、
「あたかも自分が相手のその立場にいるという
感覚を持ってしまい、
相手と同じように
自分が苦しい、つらい、悲しい、寂しい、怖い
という感情を抱いてしまうこと」
ということなのだろうと思います。

厳密に言えば
相手の気持ちを共有するのではなく、
相手の立場を共有するということです。
相手の立場を共有するためには、
相手の置かれた客観的事情だけでなく
相手の表情、声等に現れた相手の感情も
立場を推測する事情になります。

相手の気持ちを受け止めているつもりでも
実際は自分の感じ方をしているので
実は勘違いをしているということがあっても
それは仕方がないということになるようです。

そうやって相手の気持ちを追体験しているうちに
自分も苦しくなるのですから、
自分の苦しさを止めるために
相手を苦しめる事情を解消したいと自然に思い、
加害行為を止めたり、やめさせたりするわけです。

これがミラーニューロンによる共感の仕組みで、
ホモサピエンスが群れを作ることができた仕組みです。
ホモサピエンスがネアンデルタール人より
子孫を長らえさせることができたのは、
この仕組みを体内に持っていたからだと思います。

人間らしい、サピエンスらしい行為、気持ちというのは
人間が仲間に対して
(厳密に言えば敵ではない人間に対して)
遺伝子上自然に持つ気持ちのようです。

3 いじめ防止のコンセプト エラーへの先回り対処

いじめ対策のコンセプトとしては、
「遺伝子的には仲間に共感することが自然なのに
共感できなくなる『事情』というものが存在する。
だから共感できないし、かわいそうと思わないでいじめる。
そう考えると、
その『事情』を除去することで、
もともと人間として備えている共感の仕組みを
発動させることができる。」
というものです。

その事情とは、「防衛意識」が強くある場合です。
防衛意識と言っても「自分を守る場合」だけではなく、
家族であったり友人であったり「仲間を守る場合」、
「弱い者を守るという意識がある場合」、
「正義や社会を守る意識」も
ゆがんだ形で作用することがあります。

もう一つは、脳の構造にも原因があるようです。
「自分がこれからする行為についてのダメージ評価は、
相手が実際に受けるよりも軽くなる傾向にある」
ということのようです。

今回は防衛意識に焦点をあてます。

そうすると
「いじめは、
防衛意識が強く働いているために
いじめられる子どもの気持ちを無視してしまうという
『エラー』が生じて起こる。
だから、『エラー』が起きる事情をパターン化して
先回りして『エラー』を起こさないように必要な介入をする。」
ということがいじめを軽微な段階で辞めさせる手段となるし、

「『エラー』が起きないように
事が起きる前から
そのような事情を作らないように指導していくということ」
が根本的な事前のいじめ予防ということになると思います。

4 ホモサピエンスが共感を閉ざす場合

 1) 共感の始まり

ではどういう場合に
他人に共感できなくなるか
自己防衛意識が高まるのか
ということです。

それは、200年前の人間の暮らしをイメージすると
とてもわかりやすく理解することができます。

人間の心は、約200万年前
狩猟採集をしていた時代に形作られた
と考えるのが認知心理学の大勢です。
私(対人関係学)は、認知心理学と別角度から
この結論に到達しましたので、
この結論を支持しています。

この時は、原則として
ヒトが生まれてから死ぬまで同じメンバーで固定されていた時代で、
群れの仲間に対しては
防衛意識が生まれにくい事情がありました。
理由を一言で言うと、「仲間は自分を排除しない」
という確固たる意識がありますから、
疑心暗鬼というものが生まれにくく、
防衛をする必要がなかったからです。

逆にどういう場合に
防衛意識を抱くかということを考えれば
その構造が理解できると思います。

 2)肉食獣との闘い

防衛意識を抱く一番の事情は
肉食獣に遭遇した時でしょう。
自分が逃げることが基本ですが、
群れの仲間が逃げられないときも、
寄って集って袋叩きにして反撃をしたと考えています。

防衛意識は、攻撃意識を含みます。

攻撃は、怒りという感情に支えられて
相手を倒す以外のことを発想としても持ちえないほど
強力な行動意欲をもつ現象です。
徐々に、肉食獣は
「人間が集団でいる時は自分が危険になるから襲わない」
という本能を獲得したわけです。
(これは肉食獣の防衛意識です)

攻撃する相手には共感をしません。

例えばゴキブリが嫌いな人が
家にゴキブリが出たと言って
叩いたり殺虫剤をかけて
完全に動きを停止するまで戦い続ける
という具合です。

相手にも命がある、親もいて子もいるかもしれない
等ということは全く考えないでしょう。
殺し終わった後に考えるかどうかはともかく。

闘っている時、
ゴキブリに共感する人はいないわけです。
(それほど嫌いではない人はそもそも闘わないでしょうし)

 3)ネアンデルタール人との闘い

肉食獣以上に危険だったのは
近接種でしょう。
ホモサピエンスの場合、ネアンデルタール人が
種全体の仮想敵になっていたと思います。

サピエンスと姿かたちが近い
うっかりすると、突発的に、
相手に共感することがあったかもしれません。
特に赤ん坊とかですね。

この辺の事情はなかなか想像しきれないのですが、
飢えなどで困ってくれば
危険を顧みずに
双方が攻撃を始めた可能性があったと思います。

この時も、別種ということもあり、
こちらの生命線を犯す事情があれば
自分や仲間を守るために
攻撃する、
攻撃すれば共感を停止する
ということはあったと思います。

 3)サピエンスの他の群れとの闘い

近接種ばかりではなく、同じ種である
サピエンスが攻撃対象となる場合もあったでしょう。
先ずは他の群れのサピエンスです。

極端な食糧不足の際等に
他の群れを襲う場合があった可能性はあると思います。
同じ種に対して、共感を起こさないように攻撃はできたでしょうか。

攻撃ができたと思います。
「他の群れ」との物理的な距離が一番の決め手となりますが、
従前から遭遇を繰り返し友好関係にある群れは
攻撃しにくかったと思います。
個体識別ができれば、共感システムが発動してしまうからです。
この共感システムを閉鎖するためには、
かなり強い怒り(強い防衛意識、危機感)が必要だったと思います。

それと反対で
見ず知らずの群れとの闘いの場合は、
共感を停止しやすかったと思います。
みたことの無い人間は、個体識別ができませんので、
共感がしにくいという事情があったのだと思います。

「攻撃をしてくる見ず知らずの人間」は
防衛意識に支えられて
肉食獣と同じ扱いになりやすい
ということです。

但し、同じサピエンスですから、
痛みや苦しみ、死の恐怖は見てわかるわけです。
怒りで一時的に共感システムを閉鎖しているだけですから、
戦いに勝利して怒りが収まった後は
共感システムが作動してしまい、
同じ苦しみが襲ってきたのかもしれません。

 4) 同じ群れの中の危険人物との闘い

一番困るのが
群れの中の敵ということになります。

当時は、みんな生きるだけで
いっぱいいっぱいの状態でした。
だから、人間にも「糖」などの栄養分を
摂取しやすくするシステム
体内に備蓄するシステムが発達したわけです。

このような食糧事情、生存環境の下で
一人だけ「ぬけがけ」することは
(蜂蜜のありかを隠して仲間に分けないとか)
他の群れに栄養が行き渡らず、
弱い個体から死にはじめますから
群れの個体数が減少してゆき
頭数が減ることによって
肉食獣からの防御や食糧の採取に不利になり、
結局は群れの死滅を意味しました。
大変危険な存在だということになります。

このように他者に共感する能力が欠損する個体も
一定程度生まれてきたことでしょう。
もっとも、
通常は、子どものころにその片鱗が見えますから
群れ全体で矯正したと思われます。
人間が幼体から成体に代わるための時間が
他の動物と比べて著しく長期間になっている理由は、
このような群れで生きるための
訓練の時間を要するからだという説があります。

長い時間をかけて矯正をしても
先天的に共感をする能力が欠如して矯正ができない
しつけにも従わないという
群れに危害を加える場合は
群れ全体として「防衛意識」を持つことになります。

群れ全体の防衛意識が高まり
怒りのモードになると
危険人物は強制的に排除されたのだと思います。

母親等は悲しみとあきらめがあったかもしれませんが、
攻撃が開始されると
攻撃の核となる人物たちは怒りのモードになっていますから、
相手に対する共感チャンネルは閉じてしまいます。
相手の怯え、痛み、苦しみに対して反応せず、
殺すか追放するまで攻撃を緩めなかったことでしょう。

攻撃者の数は増えます。
攻撃しても良い相手だ
共感を閉ざすべき相手だ
という感覚が広がると
怒りは、群れの別の人間の怒りを呼び起こし、
容赦ない攻撃がエスカレートしていったと思います。
プロレスを見ていて観客が興奮するようなものです。
怒りとはそういうものです。

危険人物は
「仲間」から、「群れを襲う肉食獣」の扱いになったわけです。

そうすることによって危険分子を排除し
群れの消滅を回避してきたのだと思います。

 5)いじめの構造

このシステムは今でも私たちの心を形作っていると思います。

いじめにおいても
周囲の多数が攻撃参加している段階になると
「いじめても良い人間だ」
という意識に変貌していますから、
いじめられている子に対して
共感チャンネルは閉ざされています。

いじめられる子は、
多数からすれば人間扱いされておらず、
200万年前の肉食獣と同様に扱われているわけです。

こうなったらいじめが完成されてしまっています。

ここで、
いじめられている側の子の状況を分析しましょう。

いじめられている子は、自分が
「人間扱いされていない」
と感じています。
言葉で表現することは難しいでしょうけれど、
仲間として扱われないで理由もわからず攻撃されるということは
そういうことです。
あたかも、攻撃的なネアンデルタール人の中に
放り込まれたように感じているはずです。

それはとてつもない恐怖、疎外感でしょう。
具体的ないじめ行為がなくても、
その場にいること自体で安心できないのです。
やがてそれは、いじめの空間にいなくても
自分が存在していること自体に安心できなくなります。
自分が仲間として扱われるということに絶望した場合、
生きる意欲を失っていき、
精神のバランスも保てなくなることが少なくありません。

これはいじめられているその時だけでなく、
何年かたった後でも
「人間は自分に危害を与えるものだ」
という意識がちょっとしたことでぶり返してしまいます。
不安感がずうっと継続している場合もあります。
なにせ、人間が近くにいないという環境は
なかなか望めないからです。
統合失調症の症状を呈する子どもたちも少なくありません。
中学校、高校時代の大半を入退院の生活を送り
その後も社会参加ができず、
一生が台無しになる危険があるのです。

ある程度多数が一人の子だけを
からかったり、いじったりしていれば
からかってもいい子だ、いじってもいい子だ
という意識が生まれますから
「虐めても許される子」だという意識になり
すぐにいじめが完成してしまいます。
また、からかいやいじりがあった時点で
本人にとっては深刻ないじめを受けている
「自分は人間扱いされていない」という
絶望感を感じている可能性もあるわけです。

こうならないように子どもを死守しなければなりません。

何が加害者の防衛意識を発動させるのかということを考えましょう。

この時、加害者側の事情、被害者側の事情を
リアルに考えなければなりません。
そういうと、
「被害者にも悪いところがある」
という論調が頭に浮かびます。
こういう消耗な趣味的な議論を避けるために一言言っておきます。

本気で防止を考える時は
「良いとか悪いを抜きにして考えなければならない。」
ということが大切です。
いじめにつながる事情があるなら、
その時は悪いこととはいえなくても
ことごとく除去していかなければなりません。
被害者が悪い、被害者は悪くないという次元で論じていたのでは、
いじめが起きる事情をリアルに見ることができません。

あくまでも
加害者、被害者、取り巻く人たちの
「人間関係の状態を修正する」
という発想が必要です。

では、どういう場合に
加害者の防衛意識が
いじめられる子への攻撃へと向かうのか
防衛意識を発動するきっかけとは何かを
検討しましょう。

5 防衛意識が生まれる事情

 1)自分が攻撃を受けた場合

防衛意識を持つ流れは、
自分に危険があると認識し、
危険を回避したいという要求が生まれ、
危険を回避しようという行動をしよう
つまり防衛意識ということになります。

危険の中身ですが、
身体生命の危険を感じた時に
防衛意識が生まれることは
分かりやすいと思います。

ただ、自分の身体生命の危険を感じて
反撃がいじめの端緒となるということは
それほど多いことではありません。

むしろ対人関係的危険を感じたときが
いじめの端緒の攻撃につながることが多いようです。
対人関係的危険とは、
顔をつぶされるとか、立場を無くすとか
「仲間の中で自分の評価が下がる場合」を主として想定してください。
仲間はずれにつながる不利な事情ということになるでしょう。

典型的な例は、もともとは親密な人間関係があった場合
ということが少なくないようです。

相手が自分以外を優先していると感じる場合とか
自分の弱点を見られてしまったとか
自分の知られたくないことをみんなに告げているようだとか
そういう場合です。

あるいは、親友だったのに
最近、相手が自分から離れていくような気がする
そういう場合です。

これは、そのような扱いが客観的にある場合はむしろ少なく
実際はそこまで悪く考えなくてもよいのに
悪く考えてしまう場合が多いようです。

危機感は主観的なものですから、
危険があると感じると防衛意識が発動されてしまいます。

だから、
加害者にもともとコンプレックスがある場合は、
危機感を抱きやすく、
親密な人間関係がなかったのに防衛行動に移りやすいです。

容姿を気にしていた子は
容姿の良い子が自分を馬鹿にしているように感じたり、

自分の学業成績に不満の子が
学業成績に不満のない子が自分をあざ笑っていると感じたり、
(実際は、加害者の方が成績上位である場合も少なくありません
 コンプレックスは劣っている場合だけでなく
 自分の目標値との乖離等が原因で起きる場合もあるようです。)

音楽が不得意の子が
ピアノのコンクールでよい成績を収めた子から
馬鹿にされていると感じたりという具合です。

 2)友達・仲間が攻撃を受けた場合

人間の良いところが裏目に出ることもあります。
友達が危険な目にあっていると思うと
自分も危険な目にあっているような追体験をして、
勝手に防衛意識が生まれることが良くあります。

本当は友達が悪くて、
相手が正当な反撃をしただけなのに、
友達が悔しい思いをしているのを見ると、
友達がかわいそうに思い、防衛意識が生まれ、
相手を攻撃するということはいじめの端緒でよくあります。

公平に見れば、相手の方がかわいそうなのですが、
友達といる時間が長いので、
友だちの表情や動作から感情を読み取りやすくなっていて
つまり共感しやすいので、
友達に味方してしまうわけです。

相手と付き合いが短かったり、薄かったり、
相手は感情表現に乏しいといった場合は
感情移入がしづらくなります。

時間的な目撃状況の具合で
相手が気の毒なところは見ておらず、
友達が傷ついているところだけ見ているということも
友だちの方にだけ感情移入する原因となるようです。

公平に物事を見るということは
実は難しいことで、
公平にものを判断するためには
ある程度先ず共感を遮断する必要がある
ということは頭に入れておいていただきたいと思います。

そして、わがままな友達を守ろうとする
取り巻き連中が多くなればなるほど、
相手をいじめてよいのだという風潮が強まり、
無関係な子どもたちも攻撃に加わっていきます。
そしていじめが完成します。

 3)「正義」・「ルール」が守られない場合

「正義」を守るという意識は
いじめに転化しやすいようです。
「正義」は、「ルール」と置き換えてもよいでしょうし
大きな集団と置き換えてもよいでしょう。
この場合の大きな集団とは、
ダンバー数からすると150人を超えた人数ということになります。

子どもですから大したことの無い正義なのです。
例えば、部活をさぼるということがありました。
運動部や吹奏楽部など
毎日部活動にでることが明示、黙示のルールになっている場合、
体調や気分によっては、出たくない日も出てくるでしょう。
それでも頑張って毎日部活に出ている子からすれば、
平気でさぼっているような子を見ると
むかつくようです。

私はどちらかというとサボる側でしたから
よくわからないところはあるのですが、
まじめに部活動にいっている方は
理由なく部活に来ないことを
「ずるい」という気持ちになるようです。

彼らにとっては部活動に行くことが正義ですから、
正義を守るため、
結局は自分を守るため、
相手を容赦なく攻撃するようです。

共感チャンネルは閉ざされて
ラインなどで多くの参加者が一人を非難し、
かわいそうだと思うことがなくなるようです。
「部活をさぼっただけなのに」
という論理は通用しないようです。

ラインは、文字情報しか画面に出ませんので、
相手が苦しんだり怖がっている様子はうつりません。
言われた相手に共感して
かわいそうだからやめようなどということが
起こりにくいシステムです。

正義を守ろうとか、集団を守ろうということになると、
そして守ろうとしないものに制裁が加わるようになると、
それを守らないことの恐怖感情が強くなるとともに、
その緊張を逸脱する者に対する憎しみが増大するようです。

実際は、子どもたちの自然な正義感というよりも、
例えば、部活に来なくていけない
という厳しい指導があったり、風潮があったり、
運動で学校推薦を使って進学しなければならないとか
どこどこの高校に行かなければうちの子ではないとか
一生フリーターで老後は無年金だとか、
大人が子どもを追い込んでいることがほとんどだと思います。

 4)八つ当たりと敏感体質

ここまでお話してきて
気が付いた方もいらっしゃると思いますが、
防衛意識とは、
自分に危機を与える対象に対して
まっすぐに向かうわけではないことが特徴です。

防衛意識は、
「とにかく危険を回避したい」
という要求に基づいて起きます。

例えば、自分の容姿に悩んでいる人が
容姿の良い人に馬鹿にされていると思うことについて
容姿の良い人に責任はありません。

成績を気にしない人が
成績を気にする人から恨まれる筋合いもありません。

つまり八つ当たりからいじめが始まる
ということが多いはずです。

今の子どもたちは危機感を持たされて
無防備に不安にさらされています。

良い学校に入り、
ブラック企業ではない会社の正社員になることが
多くの子どもたちの目標にされています。

地方の実業高校などでは
校内選考でよい成績を収めないと学校推薦しない
ということが、
生徒を黙らせる道具になっているところがあります。
「一生フリーターで無年金で老後を迎えるのか」
という言葉が脅し文句になっていました。

そもそも思春期は将来に対する不安があると思うのですが、
現代社会は、ブラック企業、フリーター、無年金等の
具体的な不安に子どもたちはさらされていると思います。

何とか不安から解放されたいという思いがある一方
それは直ぐに解消されない不安だということになります。
何とか一時的にも不安から逃れるために、
どうしたら良いだろうかと考えるわけです。

そうすると、
他人のごく些細な言動、あるいは振る舞いが
自分を馬鹿にしている、自分よりも優越している
というように感じやすくなり、
不安感、危機感を感じ易くなるようです。

不安に対して、あるいは他人の自分に対する評価を
いつも気にしているために、
敏感になっているようです。

本当は社会制度や経済状況から与えられた危険意識だったのに、
些細な言動をとらえて、別の子どもを攻撃することで
一時しのぎをしたくなる
これは無意識に起きます。
不安解消要求の誤作動です。

その八つ当たりの対象は
「自分よりも弱い者」です。
容易に「虐めてもいい子」にしやすいターゲットを
本能的に見つけ出すわけです。

なぜならば、
怒りに基づく行動は
通常、自分より弱い者に対してしか起きないのです。
自分より強い者に対して起きる感情は恐れです。

相手がある程度力があり、
一対一では勝てるかどうかわからない場合は、
数を頼んで勝てる状況を作っておいて
集団攻撃を行い、
攻撃をします。

最近のいじめは、被害者になんの誘引行動がなくても
強引に起こされる場合があるようです。

最初はからかいやいじりなのでしょうが、
攻撃を繰り返していくうちに
相手に対する共感チャンネルが閉じられていき、
攻撃参加が多数になると
「いじめてもよい子」というレッテルが張られ、
共感チャンネルが次々と閉じられていくわけです。

そのターゲットは、
例えば、障害を持っている子
孤立しやすい子
反応が遅い子
反撃をしない子
という場合もありますが、

突出して恵まれているけれど
取り巻きを作らない一匹狼

先生や、子どものリーダー格(年長)が
敵視したり、低評価をする子
等が「いじめてもよい子」になりやすいようです。

例えば、何らかのコンクールでよい成績を収めた子がいて、
コンクールにさえ出られなかった者が妬みを友達に話し、
その友達も同じ嫉妬を持っており、
それに無責任に追随する子が生まれると、
妬みが社会的に肯定されたような錯覚を起こすようです。
妬みを抑えておこうというタガが外れ、
小さな攻撃を繰り返していくうちに
人間扱いされていないと感じる被害者が
生きる意欲を失っていく
ということがありました。


学校でのいじめが起きる場合
教師がターゲットに対して
否定的な言動をしたことがきっかけになる場合があります。
この場合、その子が
クラス全体のお荷物として扱われることから
クラスに害悪を与える存在という評価に移行しやすく
正義を守るため、私たちの授業を守るため
その子は悪だ、「いじめてもよい子だ」
という状況が起きてしまうようです。

6対策

先ずいじめの生まれる原因のまとめです。

<加害者になりやすい子>
不安を抱きやすい子 抱きやすい事情のある子
(兄弟間差別、高い学歴を家庭が求めている子)
やるべきことを無理をしてもきちんきちんとやろうとする子
コンプレックスを抱きやすい子
友達に依存している子(その友達から見離されると孤立すると思っている子)
自分の言うことに無条件に追随する友達がいる子

<被害者になりやすい要素>
(属人的要素)
周囲に面識のない、足りないと思われている子
(転校生、長期休み)
一人だけ多数と違う特徴のある子
(外国籍が少数の場合)

(行動傾向)
本人に依存している友達を持ちながら
その友達の依存要求に無頓着な子

多数が心配していることを心配していない子がいる場合
(気にしない、満ち足りている)
進学、就職、容姿、将来のこと、
部活動などルールにルーズな子
服装、身だしなみにルーズな子
他人に損をさせること平気な子

(対人関係的反応)
からかわれてもからかい返したりしない子
怒れない子
感情表現の乏しい子

(状態像)
仲の良い友達のいない子
孤立しがちな子
からかわれやすい子
いじられやすい子

(環境的要因)
教師が評価を伴う指導をすることが多い子
体育系や吹奏楽部等集団行動が必要であり、欠席が自由にできない部活の子
生徒同士を過度に競争させる環境
小集団の構成に変化があるとき

おそらく指導要領だったり、マニュアルや教育理論だったりに
記載はされていることなのでしょうけれど
力点のポイント、関連付け
ということで私も考えてみました。

1) 総論

「かわいそうだからやめる」
そのために共感チャンネルを開く
という指導を行うべきです。

そのためには、ルールを守るとか正義、道徳を死守する
というより、
相手の気持ちに基づいて行動をする
という行動原理を徹底するべきなのです。

ここで、教育界にはトラウマがあることが
問題の所在であることを意識しなければなりません。

校内暴力です。
荒れる教室です。

どうしても、静かな穏やかな教室
という結果を求めたいので、
それを押し付けようとします。
このために、ルールや道徳を強調し、
逸脱者に対する制裁が許容されてしまう現象が起きます。

しかし、いずれにしても根は一つですから、
原因に向き合うべきです。
結果としてルールが守られやすくなる、
道徳的行動をするというためには、
やはり、一緒にいる人の気持ちを行動原理にする
ということを教えていく必要があります。
これが道徳の基本です。

ではどうやってこれを訓練するかということですが、

先ずは、お互いをよく知ることが必要です。
但し、個人情報を頭に入れるということではなく、
一番は一緒にいるということです。
心理学的には単純接触効果と言いますが、
一緒にいることで、感情の推移をつかみやすくする
これが共感の基礎になります。

次は、他人の弱点を尊重する、助けるという体験です。
感謝され、尊重される体験は
人間の遺伝子的な性質を掘り起こしていきます。
こういう行動は称賛しましょう。

具体的には集団活動なので、
合唱や演劇、運動などが良いのですが、
クラス対抗にして成績をつけてしまうと、
一人の弱点がお荷物になり、悪になってしまいますから、
順位はつけない。
評価する側は、良いところに目をつけ、
そこを評価するという工夫が求められます。
適当にお茶を濁すのではなく、
子どもたちが
「そこを評価してほしい」
「そういうところも評価の対象になるのか」
と目を輝かせる講評が必要です。
さて、そのように共感チャンネルを開いて
「かわいそうだからやめる」を支配的空気にする
最大の特効薬は、
本人たちが尊重されることです。
尊重されるとは、
自分の弱点、欠点、不十分点を理由に
評価を下げられたり、仲間はずれにされたりしない
つまりありのままの自分でよいのだという自信です。

こういう体験を重ねていくこと、
学校だけでなく、家庭や地域でも
体験が増えていくことが望ましいです。

少なくとも先ずは、
弱点、欠点、不十分点は
何らかの形でカバーすることであって、
それを理由として仲間として扱わない
ということを止めることです。

根本的には、小学生に老後の心配をさせない社会、
安心して安定した職業に就く社会が
失敗に寛容な社会が解決策なのですが、
一朝一夕には実現しません。
むしろ、そのような社会の基礎を作るくらいの気概で
子どもたちの教育に取り組むべきではないでしょうか。


2) 加害者を作らない

思春期は、人生の目標や未来設計をしますが
経験不足や社会状況から見通しが立てられない
という現実も見えてくるときです。

コンプレックスや挫折を抱きやすい時期だ
ということになるでしょう。

将来の目標に向かって努力するということも尊いのですが、
ありのままの自分を大切にする、
誰かに自分を大切にしてもらうということも
大事なことです。
他人の人権を侵害しない特効薬は
ありのままの自分が大切にされるということにあります。

現時点の到達点を否定的にとらえるのではなく
そこを出発点、0ポイントだという考え方が必要です。
どんな成績、部活動の状況でも
それを理由に低い扱いがなされてはいけません。
知らず知らずに成績に良い子に共感を持ちやすいのですが、
教師は内なる差別がないか厳しく点検しましょう。

また、子どもたちが、成績や容姿、運動能力等で
人間の序列を作るような振る舞いをしていたら、
それはやめさせましょう。

ご家庭の中で、兄弟間の差別があったり
無理な目標をたてさせているような場合、
休息を与えることを意識してもらいましょう。

クラスの内外で、少人数グループが形成されている場合、
グループを解体させるというよりは、
より大きなグループ、クラス全体の行動をすること
どのような子でも、
色々な人たちと行動を共にすることができるし
それは楽しいことだということを気づかせましょう。

また、過度な部活動はやめましょう。
休みない部活動に自然と反発することは
人間として当然なことです。

極端な集団活動の相互矯正になっていないか
教師と生徒、生徒同士の関係を点検する必要があります。

私は、部活動の全国大会を廃止するべきであるし、
部活動の成績が進学に有利になることを改めるべきだと思っています。
地域の少年団等に積極的に援助するべきだと思います。

3)被害者を作らないために

教師が、子どものリーダー等の協力を得ながら
被害者になりやすい子を
積極的に仲間の輪に入れていくことを意識する必要があります。
端的に言えばなえこひいきです。

必要なえこひいきはしなくてはなりません。

えこひいきは、馴れない仲間から馴れた仲間に代わるまでの
一時的なものもありますが、
生まれもって弱い子
孤立しやすい子、怒れない子、仕返しや抗議ができない子
克服できない弱点のある子と言ったように
ある程度持続的に行う必要がある場合もあります。

とにかく
「いじめてもいい子は一人もいない」
ということを大人が体を張って示す必要があります。
からかいやいじりが承認されてはいけません。
特にからかう側とからかわれる側が入れ替わらない場合は
いじめだとしてかまいません。

自分はいじめられても仕方がない子ではない。
いじめはやめてもらわなければならない
ということを理解させましょう。
味方がいるという自信をもってもらうのです。

子どもたちの日常生活をよく見て
「かわいそうだからやめる」
という子どもたちの行動が見られたら
それは大いに称賛しましょう。

4)教師の指導
まず、ルールを破ったり、自分の利益のために他人に不利益を与えた場合も、
感情的になり、他の子どもたちの前で叱責することは
「いじめてもよい子」を作るきっかけになります。

深刻な事例であればあるほど
個別の指導が必要だということになります。

深刻な被害をもたらした行為であれば
教師といえども単独では行動せずに
チームプレーを心がけるべきです。

子どもが完成された人格ではないことをくれぐれも意識し、
どうするべきなのか一緒に考えるという姿勢が必要です。
また、事後的にですけれど被害を受けた子供に
共感することを覚えさせる良いチャンスです。

部活動指導に熱心なあまり
部活動をさぼる子ども、特に練習を休んで掃除や雑用をする際に休む子を
感情的にののしったことから
堰を切った水のようにいじめが完成してしまった事例もあります。
教師自身が正義やルールを理由として
個別の子どもの感情を忘れてしまってはなりません。

体罰は、本人に屈辱感や恐怖感を与えるだけでなく
周囲にも恐怖感を与えるとともに
本人の屈辱感に対応する他者の優越感を呼び起こし、
本人に対して対人関係的不安を
周囲に対して「いじめてもよい子」という
人格を考慮しない風潮が生まれてしまいます。

命の授業に変わる授業として、
人間の弱さと人間が弱いからこそ助け合う
という人間の在り方を教えましょう。

人間らしく生きることの
楽しさ、充実した生活、
人の役に立つ喜びは
遺伝子の中に組み込まれていますから、
それを掘り起こすことによって
子どもたちは遺伝子で理解していきます。


以上、いくつか「エラー」が生まれる場面を見てきました。
大事なことはいじめの具体的な事例を報告しあい、
なぜいじめられたか、
つまり
何が子どもたちの防衛意識を刺激したか
どこで共感が閉ざされたのか
いじめられた子どもが「いじめてもよい子」
になった契機はどこにあるのか
事例を蓄積して共有しなければならないということです。

このような視点での研究が進むことを
心から願います。

nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -