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【御礼】類型200万件(ビュー?)突破記念 対人関係学のページ全面リニューアルのお知らせ [閑話休題]

昨日、このブログの類型数が200万件を突破しました。
お読みいただいた方々に感謝を述べなければならないと
強く感じました。

というのも、ブログ一般では、驚くべき数ではないのかもしれませんが、
なにせこのブログの各記事は、
第1に、長い。
第2に、内容が固い。必ずしも読んでいて楽しいわけではない。
第3に、発想が飛びすぎているところがあり、
一読して理解しずらいことが多い。
それなのに、ろくに推敲もしないまま書きなぐっている。

およそ読みやすいブログではありません。
私が言うのだから間違いないでしょう。

それにもかかわらず、
10年経過しないで200万ビューというのは、
正直驚いています。
このブログをお読みいただける環境の方々の
筆者を超える教養とご寛容に
素直に頭が去ります。

200万件というのは大きな節目なので、
何か記念のことをやりたいと思っていたのですが、
ちょうど、
4月にヤフージオシティーズが閉鎖となり、
事務所のホームページを強制リニューアルするはめとなり、
ホームページビルダーを21にお金をかけてバージョンアップして、
せっかく身に着けたノウハウがあったし、

このブログと事務所のホームページと三位一体である
対人関係学のホームページが
5年前に作成していて、
体裁も乱雑だし、内容も古くなったかなと思い、
リニューアルしようと思い立ちました。

そうしたら、5年前のものがそんなに古くなっていなかったのです。
この間、進化心理学や進化生物学、認知心理学や大脳生理学など
勉強しまくったはずなのに、
それほど理論的進化はなかったことになります。
ちょっとショックでした。
5年前に既に完成されていたと思うようにすることにしました。

ただ、このブログよりは、簡潔にわかりやすくを
一応心掛けて
一度様々な論点を整理しようと思いました。

ちょうど令和に代わるときに10連休があったため
その時間を利用して作業を進めることができました。
このため(本当は過去分と区別をするために)
令和対人関係学のページという制作コードにしました。

過去分はリニューアルのアーカイブにまとめてはみましたが、
自分にとっては、史料価値があるし
この時期からこういうことを言っていたのだという
証拠みたいになるかなと思い
過去のホームページは閉鎖しないことにしました。
(ただだったもので)

新しい対人関係学のホームページは、
インデックスというか、用語の確認というか、
あると便利です(これも自分にとって)。

また、いくつかの理論のようなものは、
このブログを書いているうちに思い付いたものが多いのです。
それから実務で話していることを文字にしようと思ったのも
このブログを書いていたからだと思います。

今もそうなのですが、
誰かに読んでいただくということを念頭に
記事を書いていると、
日記を書くよりも緊張感というか、
もっと読んでもらいたい、
もっと説得力を身につけたい
もっと必要なことを考えたい
という気持になるものです。
そういう意味で、二つのホームページとこのブログは
三位一体だと感じています。

そして私一人で作成しているのではなく、
お読みいただいている方とご一緒に作り上げている
というように感じています。
そうでなければできなかったと思います。

最後に新しいページの中身を紹介します。
<トップページ> あまり内容はありません。
目次を加えました。
ただ、対人関係学をどうして作ろうとしたかを簡単に書いています。

<対人関係学概要・用語のページ>
対人関係学について、丁寧に説明しています。
ブログや各論のページでは、省略したり最小限にしたりしている
そういう大事なことを書いています。
お手数とお時間をかけさせてしまいますが、
これを読んでいただければ、他の記事もわかりやすくなります。

用語について
これも各論を読んでいただいたり、
このブログを読んでいただいたりしたときに、
あると便利だろうなと思い作りました。
正確性よりわかりやすさに力点を置いています。

<研究ノート・妄想のページ> 対人関係学の説明として
どんな勉強をしてこう考えたかということを
紹介しておいた方が便利かなと思い作りました。

今のところこのブログの記事を並べています。
これで気が付いたのですが、
対人関係学のページを作る場合は
ハーマンの「心的外傷と回復」だったり、
思い込みDVを提唱する時にはウォーラースタインだとか
けっこう勉強した成果をすぐに表現したい
という傾向が見えて我ながら面白かったです。

妄想の欄の記事が、実は一番読んでいただきたいところなのですが、
どこまで役にたつものか不明で、
かつ専門的にどこまで間違っていないのかということが
全く自信がないので、
敢えて妄想と名付けました。
ドーキンス博士の利己的遺伝子批判は、
対人関係学の内容を説明する
もう一つの概要説明となっています。

ラスコー洞窟の謎についても
これぞ対人関係学
という内容になっていると思うのですが、
いかがでしょうか。

<道徳・正義・人権のページ>
このテーマは、とても気に入っていいます。
ほとんど書き下ろしです。
誰も言わないだろうことを主張しております。

「道徳の起源・人の心の形成期に道徳はなかった」
「正義を肯定的に語ることは金輪際やめよう」
「人権として『権利が生まれる時』、『弁解する権利』『表現の自由 自分のことは自分で決める』」
という記事で、力を入れているところなのですが、
正義を否定するというと悪魔みたいで面白いと感じています。

<故事等再定義のページ>
このブログで好評をいただいた記事を中心にブログ記事をリンクさせています。
故事ことわざって、おばあちゃんの知恵袋のように、
その理由はわからないけれど
それに従って生活することで、無用な争いを避ける
無用な孤立や疎外感を防ぐ
というような生活実務上役にたつことが多いようです。
ところが現代の孤立した若夫婦には
それがなかなか伝わりません。
そういう視点で、再定義、再評価しています。

<解決のためのツールのページ> 自分で悩むとき、誰かを支援するとき、フリーハンドではなく
しっかりした武器があることが有効です。
「部分的承認の技法」
「プラスワンの技法」
「心は後からついてくる 対人関係的危険」
弁護士の技術は大事なところまで一子相伝的なところがあるので、
敢えて文字にして使えるものなら使ってもらおう
ということも、このブログの目的なのです。

<自死(自殺)のページ>
「自死に至るメカニズム」
「子どもの自死の第三者委員会は何を検証するのか」
このページは最優先で補充していくつもりです。
事務所のホームページにも自死対策のページがあるので
ここもどうすみ分けるかが課題です。

<夫婦円満の秘訣と夫婦仲が壊れる原因のページ> 「良い夫婦の条件 DV案件から考える」
「『出産したら別の人』と心得ることの意味」
産後クライシスや脳機能の変化、ホルモンバランスの変化をまとめています。

「真正DVとはなにが起きているのか」
書いてて苦しくなりましたので、読まれる場合は自己責任でお願いいたします。

書き下ろしというか、まとめを意識して、
これだけで各論点が抑えられるようにとの目的です。

<子育て・いじめ・虐待のページ> 「子どもをいじめに負けない人間に育てる家族力とは何か」
「いじめる側の分析 なぜいじめることができるのか」
「いじめのパターンと分析 わが子がいじめにあった時の対処法」
「LINE等のSNSがなぜいじめに利用されるのか 危険の所在 おとなもだけど」
「虐待の原因と予防対策」

力を入れたページです。最近力を入れています。

<職場の人間関係のページ> ここは対人関係的労務管理をやや詳しく紹介しています。
ここも補充が必要ですが、
事務所のホームページとのすみわけに悩むところです。

<クレーマー・無差別殺人のページ> 「クレーマーへの対応」
のみとなっていますので補充が必要ですね。

<医科学・脳科学への要望のページ> 「病気が生活に影響を与えることの研究と啓発をお願いしたい」
「それ本当に統合失調症という診断でよいのですか」(ブログ記事の転載)

<アーカイブのページ> 以上です。盛りだくさんですが、構想はまだまだ完成していません。
今後ブログとの連携を図りながらになるでしょうけれど
充実させていきながら
誤字脱字の訂正とかリンクとか
やっていきたいと思っています。




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京都府警の指導によるYこども園の子どもの親をさらし者にする訓練を無批判に報道する京都新聞に対する疑問 [家事]

20190524122415hoikuen1000l.jpg

この写真を見てください
母親と暮らす子供を別居の父親が連れ去ろうとする事件を想定した訓練で、園に侵入しようとする父親を保育士たちがさす股などで抵抗しているのだそうです。
指導したのは京都府警八幡署と京都府警少年課
実行しているのは京都府八幡市のYこども園
そしてこれを報道しているのは京都新聞です。
https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20190524000085/1



第1に、これは、子どもにとって精神的衝撃を与えられるものです。
ちょっと考えればわかることですが、
自分の父親ですよ。
自分の父親が、寄ってたかって凶悪犯扱いされ、
武器を持って攻撃されている図を
目の当たりに見せられるのです。

かなりショックです。
大変むごいことです。
将来的に記憶が残るでしょう。
自分の父親がみんなから悪として
憎悪の対象として扱われた記憶です。

この記憶の問題が顕在化するのは
15歳ころ、自我が統一される時、
自分は絶対的悪の父親の子どもだという記憶が
アイデンティティーの確立に入り込んでしまうことです。
当然、自分に対する評価が低下してしまい、
自尊心が高まる記憶ではないのです。
それ以前に取り返しのつかないことに
なっているかもしれません。
子どもたちは容赦ないですから
子どもの親も含めてその日から
あの人の子どもだとその子を扱うでしょう。

先ず、警察はこのような子どもの心理を
気にしない危険性が高くあります。
それは、主眼が犯罪者の検挙だからです。
犯罪者の検挙という絶対正義を実行する際、
その妨げになる要素は後景に追いやられます。
勢い、子どもの利益にかまってはいられなくなるようです。

数年前、児童虐待で父親が逮捕された報道がありました。
その際、性的虐待も視野に入れて追及する
という警察発表が全国ニュースで報道されました。
犯人である父親の氏名、ある程度の住所もさらされました。
その子供が被害者ですから
その苗字、その住所の子どもが
性的虐待を受けたかのような報道がなされたのです。
その結果、子どもは転校を余儀なくされました。

警察は父親をさらすことに夢中で
子どもをさらしていたことに気が付かなかったのかもしれません。

ところが、のちに裁判で、
児童虐待の事実は認められず、
性的虐待云々は、母親の妄想であるとの認定がされたのです。

警察はある程度そういうところだということは
ある意味理解できるのですが、
こども園は保育士や教師がいるところです。
それらの教育を受けた人間が
警察の論理で、子どもに精神的外傷を与えるような訓練を
平気でしていたということは
非難されて仕方がないでしょう。

こども園であるにもかかわらず、
子どもの利益を最優先していないと
評価されても仕方がないでしょう。

侵入する者がいたら
子どもを建物の中に入れて、
警察を呼べばすむことです。
攻撃する必要があるのでしょうか。
晒しものにする必要があるのでしょうか。

批判の第2点は、
侵入してくるのが母親だったら
やはり、大勢で取り囲んで
子どもの前で刺す股で突くことをするのでしょうか。
子どもの命に対する危険性は
統計的に言えば母親のほうが父親よりも
圧倒的に多いのです。

また、母親が家から追い出されて
子どもと会えないということは少ないわけではありません。
そのようなケースで父親と暮らしている子供を
母親が取り戻しに来るということは
ありうるわけです。

この母親を取り囲むのか
みんなで憎悪の対象にして
子どもの前でさらし者にするのか
それを聞いてみたいです。

もし、母親と父親を別に扱うなら、
それは性差別でしょう。

多くの家族事件で、
包丁などの凶器を持ち出しているのは
実は母親です。
力の弱い女性だからこそ、
殺傷能力の強い武器を持とうとすることを
理解しておかなければなりません。

3 男女差別でのジャッジをこども園がしてよいのか

両親の争いは、
通常はどちらが悪いというよりも
すれ違い、行き違いで溝が埋まらなくなる
という図式が多いのです。

その結果、子どもを取り合うというながれになります。

住んでいた家を、子どもを連れて出ていくということが
どこまで是認できるか大変疑問です。
少なくとも子どもにとって父親あるいは母親と
別れなければならない理由が弱いことが
圧倒的多数のようです。

それにもかかわらず、
父親が取り戻しに来たからと言って
それに応じないことはともかくとして
大勢で取り囲んで攻撃することは
過剰反応だというしかありません。

これは、子どもと一緒に住んでいる母親は守るべき対象で
取り戻しに来た父親は攻撃する対象だと
類型的に割り切っていることが前提だと思われます。

しかし、実際の事件では
母親が医師から統合失調症疑いとされていて、
包丁を振り回して暴れているので夫が110番したら、
警察が母親を保護するだけでなく、
子どもまで母親と一緒に「保護」してしまい
父親に所在を告げないという事態がありました。

子どもは母親から脅迫されており
逃げることができない状態になっていました。
数か月後になってから
ようやく命からがら逃げだして
父親に保護されましたが、
精神的外傷を負ってしまい
学業に多大な影響が出てしまいました。

未だに警察から、父親へも娘へも
謝罪の一つもありません。

少なくとも、子どもを連れて出ていった母親が
必ずしも正しいというわけではないのです。

このような訓練は、防犯上実務的なものではありません。
父に限らず母にしても、
子どもを取り戻そうとして狂気にとらわれた人間を
素人の女性職員が立ち向かえるわけがありません。

これらの職員は常に武器を持ち歩いて保育をするのでしょうか。
結局、父親を悪だと決めつける洗脳的な
刷り込みをしているに過ぎないのではないでしょうか。
子どもを連れ戻そうとする親の思いを
ふざけてかるく考えてはいけません。
蛮勇を命じて負傷した場合、
園はどうやって責任をとるつもりなのでしょうか。
こういう人たちに、子どもを任せられるのでしょうか。

4 批判の最大ポイントは京都新聞の報道姿勢だ

これらの問題行動は、
それぞれ個別事情があって、
おそらく、警察全般が無批判に行うことではないでしょうし、
京都という土地柄とは無関係でしょう。
Yこども園以外には、無批判にこのような協力をしないと信じたいです。
要するに個別事情なのだと思います。

それを大ごとにしているのは京都新聞だと思います。

ちょっと考えただけで上記のような批判は
私でなくとも誰でも思いつくことです。
間違った訓練であるということは
写真を見ても明白でしょう。

それにもかかわらず
無批判に報道をすることによって
洗脳的刷り込みがなされていく危険があります。

おそらく事件報道について
警察からの情報がなければ記事が書けないために
警察の報道要請にたいしては
無批判に追随しているのだと思います。

ジャーナリズムは社会の木鐸として
警鐘を鳴らすことが使命だと言われることがあります。
このような報道姿勢は
ジャーナリズムではなく
まさに大本営発表を垂れ流した
日本のマスコミの伝統を受け継いでいる
ということなのでしょう。

竹やりで戦争を完遂させようとした図柄が
そのままだということにも違和感を感じないのでしょう。

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言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう! [進化心理学、生理学、対人関係学]

言葉がどうやって生まれたかについては
学説の争いがあります。

警告説
危険の存在を知らせるために言葉が生まれた。
サルの中には、危険を声で知らせ合う種類があって、
その声で、空からの危険なのか
地面からの危険なのかわかるので、
逃げ方が変わるらしいです。

毛づくろい説
サルが群れの仲間と相互に毛づくろいをして
コミュニケーションをとっていることから
体毛が薄くなった人間は
毛づくろいの代わりに
言葉を出し合うようになったというのです。
ロビン・ダンバー先生の説です。

この場合のコミュニケーションというのは、
お互いに敵意がないことの証明で、
心配しなくてよいよ、安心してよいよ
という信号のようなもので、
言葉というより音があればよい
例えばボー、ボーとなだめるように言えば
それで事足りたのでしょう。

この説に対しては、
現在の言葉がこれだけ多数に上ることを
説明できないという批判があります。

私は、それぞれの説は、
それぞれ正しいとして良いのではないかと考えています。
特に言葉が多いことの説明は、
時期的な違いに還元できると思っています。

要するに、今を去ること約200万年前、
人間は群れを作り生活していたわけですが、
狩猟採集をして生活していたとされており、
男は小動物を狩ってたんぱく質を確保し
女性等は子育てをしながら植物採集をしていた
のではないかとされています。

ここでいう女性とは、おそらく繁殖期のことで、
子孫を残すためには、
女性は走り回らない方がよい
ということを覚えていったのでしょう。
いずれにせよ、当時、子育てと植物採集は
群れが生き延びるための必要条件でした。

この頃の狩りは
体毛の濃い動物をどこまでも追い詰めて
熱中症様の状態に消耗させてしとめる
といういじめのような狩りだったので、
体毛の薄い人間は有利でした。
狩りチームは、危険と隣り合わせですから、
危険の種類や危険の程度を教えあるために
声の信号を使ったということはありうることです。

採取チームでも同じかもしれません。

群れの中では、突然不安に襲われることはよくあることで、
例えばオオカミの遠吠えを聞いたら
襲われるのではないかと恐怖になるでしょう。
また、出産に伴う生理的、脳科学的変化はあるし、
不意の死別もよくあることだったわけで、
対人関係的危険も共感モジュールによって存在したはずですから、
とにかく不安には事欠かなかったはずです。

大丈夫だよ、私たちは仲間だよ
という信号を声で発したということは
目に浮かぶのではないでしょうか。

声を出された方は、
自分が不安だということをわかってくれている、
自分の味方だと言ってくれている
ということを感じて
不安をある程度治めたことでしょう。

これを言葉の出発と言えるかどうか
厳密なことはわかりませんが、
このような行為をしていたということは
納得できることのように思われます。

先ずは、のどから音を出す習慣が存在することが
言葉が生まれる大前提だと思うので、
その意味でこれは言葉の始まりだと思います。

それから言葉が、語彙が増えていった理由が、
対人関係学が強調する
複数の群れが相互に影響を与え合うようになり、
人間の能力を超えた人数とのかかわりが始まったことによるもので、
それは農業革命が起きた時期、
つまり、今からせいぜい2万年前のことだと思います。

なぜ言葉が増えていったか。
その前になぜ単一の群れの場合は
言葉がいらないかということですが、
生まれてから死ぬまで同じ仲間と過ごし、
日常生活がずうっと一緒で
一人の時間を楽しむなんてことがない時代は、
仲間と自分の区別がつかない状態で、
一つには、仲間の状態を常に思いやっていたし、
一つには、仲間の感情は言葉がなくてもすぐに分かった
ということで、言葉は不要だったのだと思います。

仲間の置かれた状態を見て
自分がその状態にあると感じ
自分の問題として仲間の問題を解決しようとした
これが共感モジュールの根幹です。

その時代は、危険とはおおむね自然の驚異で、
それを知らせ合うことと、
理由があってもなくても不安に対して
慰めることができればよかったから、
ボー、ボーのイントネーションさえ違えれば
用事がすべて済んだのかもしれません。

ところが、複数の群れが関与し合い、
人類の脳の限界を超えた人間との関与が始まると、
利害調整をするためには、
細かい区別が必要になったはずです。

また、危険の内容も、
人間からの攻撃という厄介な攻撃を検討しなくてはならないし、
人数が多くて名前を付けなければ、
誰がどのような性質をしているか混乱してしまい、
相手を記憶していることも難しくなったということもあるでしょう。

それ以前の危険が、
生命身体に決定的な打撃を与える危険であればたりて、
それほど種類も多くなかったのに、
仲間ではない人間とかかわることによって
危険の程度も幅が広がったし
危険の種類や対応も同様に広がったはずです。

もしかしたら不安の種類や程度も
同じように広がっていったのかもしれません。

かかわりあう人間の数と群れの種類が増えるたびに
言葉が増えていったのだと思います。

アルファベットの起源が
交易を盛んにしていたフェニキア人の文字だということは
とても象徴的な話だと思います。

そして言葉が生まれることによって
さらに詳しく場合わけができたり、
道徳が生まれたりして、
さらに危険が増えて、言葉が増える原因となったのだと思います。

現代はそれが極致に達している状態なのでしょう。
我々が日常生活を送っていても
日本語だけでは不便で、
インターネットなどでも外来語をつかわなければならないようになっています。

このように(私の考えが間違ってなければ)、
言葉は、当初、仲間を助けるため、
仲間に対する思いやりを示すために始まったにもかかわらず、
複数の群れ、多すぎる人間関係の中で
変質していったことになります。
この時期から言葉による攻撃も始まったのかもしれません。

私たちの心は
約200万年まえに、つまり狩猟採集時代に
形作られたということらしいのです。
だから、私たちは仲間というか人間から
思いやりを持って接してほしい、
攻撃をしないで助けてほしいと
そう思ってしまう生き物のようです。

ところが、現代社会の複雑さから
基本的群れである家族でさえも、
言葉がなければコミュニケーションが取れない
そんな希薄な人間関係になってしまっているのではないでしょうか。

家族の中での対立は、
家族の外の人間関係である
会社、学校、地域、あるいは社会、国家
の対立関係、疎外されている感覚が
反映して起きている
そこから出発していると説明できると思います。

私たちは家族や
あるいは会社や学校でも、
言葉の原点に立ち返ることが
必要なのではないかと思うのです。

言葉を相手にある危険を回避させるということは
現代社会ではあまり使わないでしょうから
どちらかというと、
相手の不安をなだめるために言葉を使う。

しつこいですが、それは
ボー、ボーでよいのだと思います。
相手を攻撃しないということは
じゃあどうやればよいのとわかりませんから
相手を積極的に落ち着かせる
自分にはあなたに敵意はないよということを
積極的に言葉として発するということなのでしょう。

何を言えば良いかわからない人のために文明があります。
先ず挨拶です。
おはよう、お帰り、いただきます。
全ての挨拶は、敵意のないことの表現だと思います。

天気がいいね。花が咲いたね。
意味のない言葉こそが、敵意がないことの表明です。
日本語ではお愛想と言いますね。
真理を的確に表したネーミングです。

上級編は、感謝や謝罪なのでしょうが、
意味のない会話をする努力
これが言葉の出発点であり、
200万年前に生まれていたインテリジェンスなのだと思います。

言葉が伝えるべき最大の情報は、
私はあなたに敵意がありません。
あなたを大事に思っています。
ということに尽きるのでしょう。

負けるな現代人!


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すべての子どもたちが、親から大切にされて生きる権利、親を大切に思える実感を持って生きる権利を奪わないでほしい [家事]

すべての子どもたちは、
親から自分が大事にされていると感じることによって
自分は尊重されるべき人間なのだと
自分を大切にすることができるようになるし、
人間は尊重されるべき存在だと
人間を大事にすることができるようになるようです。

親から大事に扱われることは、
人間として健全に成長するための
基盤となる環境なのでしょう。

自分が親から大事にされること、
親が大切だと思えることは、
子どもにとってかけがえのない権利だということになります。

対人関係学では、
この意味における親は、親であれば何でも良いと考えます。
実の親であろうと育ての親であろうと
一緒に住んでいようと離れて暮らしていようと
今、生きていようと死んでいようと
親の記憶を含めて、親であれば
子どもにとって大切な存在であると主張します。

まず、親の命が奪われる事態をなくしてほしい。
現代では、過労死、事故死、争いによる死亡、そして自死と
親の命が奪われることが多くあります。
人類の英知を結集して
人の命が不合理になくならないためにどうしたらよいか
最優先で研究して欲しいと思います。

次に、生きていても、
子どもが親に会えなくなる事態が頻発しています。
子どもの権利条約では
子どもが親の愛情を受けて育つことが
国際的な権利だと定められています。
このことをよく考えてほしいのです。

事情があって親と分離することが必要でも
シャットアウトするのではなく、
少しでも直接の交流をする工夫を
皆で考える必要があると思います。

いろいろな働きかけをして
一日でも早く一緒に暮らせるようにする
そういう方向で働きかけを行うべきなのに、
分離してそれで終わりという
子どもの成長する権利を省みない
そんな取り返しのつかないことが横行している
と常々感じています。

第三者が親の人格を否定している姿を
子どもに見せつけるのは即刻やめるべきです。

子どもが親から離されても
親の元に逃げる時は、
自分が差別されているときと
親を否定されることに耐え切れなくなったときのことです。
自分の親が否定されることは、
子どもの将来に悪影響を与えるだけでなく
子どもにとって、今辛いことです。

次に、
人の親に対して、
家庭に影響を持ち込むような心理的圧迫をかけないでほしいのです。
職場や社会で責められ、心理的に圧迫されると
気持ちがすさみ、自分を守ることに過敏になってしまいます。
自分より弱い子どもからさえも
自分を守ろうとして子どもを攻撃したり、
子どもに八つ当たりをしたりしてしまいます。

だから、人の能力を超えるノルマを課したり、
その人に屈辱感を与える扱いをしたり、
その人の判断を許さないマニュアルや
すべてのことを上司の判断にゆだねる方法、
不合理な、人を馬鹿にするような評価、
こういうことはやめてほしいと切に願います。
こういうことに嫌悪を感じる人間性を取り戻しましょう。

それから長時間労働や単身赴任で
子どもと一緒に生きる時間を奪わないでほしいです。

最後に、
肝心の親である私たちは、
子どもの前では少しだけ無理をしましょう。

食場や社会のことを、気持ちの上で
家庭に持ち込まないようにするのです。
これはなかなか難しいことかもしれません。

しかし、
この世の中の大人の代表として
この世の中の子どもの代表である我が子のために
気持ちを切り替えましょう。

社会で不遇な思いをしていても
その中でも、少しでも、幸せに生きる工夫をしていること
その中でも、子どもを大切にしていることを
子どもたちにわからせることはできます。
自分ができる範囲ですればよいのです。
初めからあきらめなければそれでよいと思います。

過ちを犯した人も
罪を認めて反省し、償い、
立ち直ろうとする姿を見せることができます。
これは今の世の中では最も役に立つ親の務めかもしれません。

酒やギャンブルが夫婦不和の争いの種なら
子どものために、少しずつ控えましょう。
子ども前ではやめるように頑張りましょう。

親同士が争わないことも大切だけど、
悪口や争いをなくそうなんてことではなく、
それ以上に探し出してでも親同士がほめあうようにすれば
子どもはきっと幸せになるはずです。

相手の行動を口やかましく論評するのではなく、
相手の行動を最大限尊重し、
感謝の気持ちを子どもの前で示しましょう。

子どもの前で怒る姿、誰かを攻撃する姿も
できるだけやめたほうが良いかもしれません。
それがどんなに正義であっても
子どもがそれを理解できなければ
怒る人間に甘えようとはしないでしょう。
親といることに安心できなくなるかもしれません。

もし今あなたが人生の意味を見失っているならば、
子どものために生きるというアイデアを考えてほしいのです。
自分を捨てて子どもに仕えるということです。

自分を守ることをやめて、自分を危険にあえて晒してでも
子どもを守ることに全力を挙げるということです。

今あなたに子どもがいなくても
誰の子どもでも子どもは結局
大人が育てなければならないわけで、
みんなで子どもを育てる
それがどうやら人間の本来の行動傾向なのだそうです。

結局子どもが健全に育つためには
誰もが尊重されて、誰もが不合理な扱いを受けない
そういうことが必要なのだと思います。

子どもから親を奪うことが
次の時代には持ち越されないように
この時代で終わりになりますように。

令和元年子どもの日万歳。

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上の子が可愛くなくなるのは当たり前、大事なことはそれを意識してきちんとケアすること [家事]

上の子が可愛くなくなるのは当たり前、大事なことはそれを意識してきちんとケアすること

よく、SNSや雑誌などで、こういう悩みを目にします。
赤ちゃんを産んだばかりのお母さんが、
その赤ちゃんのお兄さんやお姉さんといった上の子を
以前のように可愛いと思えないというのです。
まとわりついて煩わしく思えてしまう
そんな自分に愕然とするというのです。

実は、これはよくあることというか
その人によって違いはあるけれど
多かれ少なかれ皆感じる傾向なんだそうです。
出産によって脳の活動に変化することによるものだそうです。
自動切り替えが起きているので、
自分ではどうしようもないことらしいです。

これは、人間の赤ちゃんが大きくなるためには
とても大切なことです。
人間の赤ちゃんは歩くことも話すこともできませんから、
痛いとか、おなかがすいたとか、暑いとか寒いとか
そう思っても自分では何もすることができず
大人にすべてしてもらわなければなりません。
だからおかあさんが、
赤ちゃんの些細な変化にも気が付いて
機敏に対応することによって
赤ちゃんは健やかに育つことができるというわけです。

このように赤ちゃんの世話に集中するために、
赤ちゃん以外の気持ちに共感をすることが
できにくくなってしまうわけです。
ですから、上の子が可愛くなくなった
というのではなく、
赤ちゃんに集中しているだけのことなのです。
だから、上の子が可愛くなくなると感じることは
自然な流れであり、
気にする話ではないわけです。

これが逆ならば大変なことになります。
赤ちゃんが産まれたのに
付き合いの長い上の子への集中が続いてしまうと
赤ちゃんへの関心がおろそかになり
赤ちゃんの些細な変化に気が付かず、
赤ちゃんが病気やけがをしがちになるからです。

しかし、そうはいっても上の子はかわいそうです。
もともとは自分に向けられていた集中が
赤ちゃんにとられてしまったことを敏感に察知して、
上の子の赤ちゃん返りが起こるのかもしれません。
母親などに自分が拒否されたと感じてしまうとと
深刻な影響も出かねません。

大事なことは、
上の子を可愛いと思えない自分を責めるのではなく、
無意識に心の変化は起きるものだ
ということを自覚して(予め知識として準備して)、
やるべき行動を理性で実行するということです。
感情に任せてやりたいことをやるのではなく、
家族関係を良好なものにするために自分が考えて
家族関係を作っていくということを心がけるということですね。
上の子は寂しく感じているはずだ
だからこうしよう。と。

では具体的にどうするか。
一つの方法として、
上の子を赤ちゃんからチームの一員に格上げすることです。
「チーム赤ちゃんケア」の仲間の一員として尊重することです。
この時、「寂しい思いをさせてごめんね」
等という謝罪は逆効果です。
自分が親からないがしろにされているという疑心暗鬼を
肯定してしまうことになりかねないからです。
むしろ、チームの活動をしたことにして
好ましい行動を徹底的に感謝し、ほめることです。

独りで食器を運んだとか、
独りでトイレに行ったとか、
赤ちゃんに優しい言葉をかけたとか

感謝してほめて、自分が役に立っているということを自覚させると
そういう行動が多くなってきます。
自分も助かるし、良いことが増えて行きます。
(良い子とは親にとって都合の良い子です。)

但し、時々は親どうしが協力して
上の子を特別扱いをしてあげましょう。
「赤ちゃんには悪いけれどおいしいものを食べに行こう。」とか
「遊園地に行こう」とかですね。

もう一言余計なことを言います。

この赤ちゃんに集中するシステムは、
本当に母親だけなのかということです。
いろいろなご夫婦を見ていると
むしろ父親のほうが、母親よりも子煩悩になる
そういうお父さんをみかけます。

赤ちゃんの世話が足りないと、
それまで怒ったこともないのに
母親に抗議をしたりする父親までいます。

私は、人間の場合、
群れの中で一番弱い者を大事にする性質がある
という説を唱えています。
そうじゃなければ、人間は群れを作れなかっただろうというものです。

人間の場合は、母親、父親だけでなく、
誰彼構わず、赤ちゃんを大切にするように
脳のプログラミングがあるのかもしれませんね。
上の子が可愛くなくなるという事象は
まさに私の説を裏付けているのだと思うのですがいかがでしょう。

また、こころとは何かを示すヒントになっていると思います。

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非難されている無罪の裁判官は実は正義漢 わかりやすいいじめのリアル構造 [事務所生活]

19歳の娘に同意なき性交を強要したとして
起訴された父親が無罪となり、
マスコミがこぞって無罪にした裁判官を非難しているようです。

SNSなんぞで裁判官批判をしている人たちもおおいようです。

一般の方々が疑問に思うのはもっともなのですが、
巨大マスコミも無条件で裁判官を批判し、
実名報道や直撃取材を面白おかしく行い、
識者としてそれに同調する人も出てきたということから、
この記事を書かざるを得ないと思いました。

先ず、無罪になったことについては、
致し方ないことです。
要するに子の父親を処罰する法律がなかった
ということです。

法律がなくても悪いから処罰しろ
というのが今のマスコミの論調になってしまいます。
しかし、特に刑事罰を科する時は
法律を厳格に考えなければなりません。

例えば、いわゆるDV法で保護命令という制度があります。
現在暴力を受けている配偶者が、
今後も身体生命に重大な危険を及ぼす暴力を受ける可能性がある場合は、
相手を自分に近づけさせない命令を出してもらう制度です。
この保護命令に反して近づいた場合は
6か月以下の懲役、100万円以下の罰金が課されます。

もし、悪いから罰せよということが裁判で通ったらどうなるでしょう。

典型的なケースとして、妻が会社の忘年会だからと自分の子が風邪をひいて寝込んでいるのに、夕方から出かけて行って、夫が会社を早退して子どもの看病をしていたのに、妻はなかなか帰ってこない。子どもの様子を知らせるラインを送っても返事もない。2時過ぎにようやく帰ってきて、玄関先でも誰かと電話をしている。夫は寝ないで看病していたので、怒り心頭に発して、玄関まで言って大声で怒鳴った。妻は、夫が邪魔で玄関に入れないので、夫を突き飛ばして中に入ったところ、酔っぱらってもいたのでよろけて床に膝をぶつけて、痣ができた。翌日夫が家に帰ってきたら妻は風邪の治りかけの子どもと一緒に身の回りのものをもって家を出て行って後だった。何日かして裁判所から、妻が保護命令を申し立てたと連絡が来た。それによると、妻は12月の寒空の中、夫から家から引きずり出されて、突き飛ばされて膝を打った。証拠の痣の写真と打撲の診断書がある。凍死の危険もあった。

これで、暴力を受けていて、命の重大な危険があるとして
保護命令が出され、
自宅近くを散歩することも禁止する。
そういうことが頻繁に起きることが許される事態に
なってしまいます。

色々論点がありますが、非道の父親の例では、
抗拒不能の要件が無いとという判決理由でした。
抗拒不能にした非道の父親の行為がなければならないと解することは
現在の法理論ではノーマルな法解釈なので、
無罪判決はありうる判断です。

ただ、この裁判官の真意はわかりませんが、
もしかしたら、法律がこの非道の父親を裁けないことに
憤りを感じてたと解釈できるのです。

では、ここからが本題です。

裁判官を批判する人たちは
どうして非道の父親の言語道断の行為を知っているのでしょう。
それは無罪判決に書いてあるからだと思います。
ここがポイントです。

無罪判決ならば、通常は、
抗拒不能だと認定したことを書けばよいのです。
ところが、
この判決では、父親の非道な行いが
赤裸々に詳細に記載されています。
確かに関連事実なので書いてはダメだというわけではないでしょうが、
書かなくてもよいことをあえて書いていた
というようにも感じられます。

刑事判決は公開の法廷で読み上げられますので
国民が判決の内容を知りうることになります。
裁判官の真意として考えられることの一つは、
この事件は無罪にするけれど
この男はここまでひどい男なのだということを
敢えて公にしようとした
と想像することができるのです。

実は、裁判官の怒りが感じられることなのです。

もう一つ、こんなに人倫に反する行為なのに
日本の法律ではこれを裁くことができない
ということを全国にアピールしたかったということも
考えられます。

裁判官を批判する人たちも
裁判官の書いた判決によって事態を把握したわけです。
裁判官の意図が私の言うようなものならば
裁判官の意図はある程度実現されたのではないでしょうか。

この非難されている裁判官は、
正義を実現しようとしていた可能性が高いと
私は思います。
裁判官として無罪判決を書き
人間として男を糾弾したのです。

一部では、性犯罪に甘い司法だという批判の一群の事件の中に
この判決を位置づける人たちもいますが、
明確に暴行や脅迫、地位を利用して薬物を飲ませて乱暴した
明確な行為者が不起訴になる事案とは全く異なるのです。

ここで、すべてを一緒くたにするマスコミや
マスコミに乗じてわれわれの正義感をあおるSNSが
何かを目的にわれわれの正義感を利用しているのではないかと
警戒することの必要性をわれわれに教えていると
思わなければなりません。

少なくとも裁判官を批判しているうちは
正当にこの人を裁く法律を作るか作らないか
という議論を妨げてしまうということはあるでしょう。

もう一つは、
法律を緩めて裁判所が
国民感情に依拠して
裁判所が自分勝手に国民を刑務所に送る道を開くことに
手を貸してしまうことにつながりかねないということです。

私たちの正義感が悪用されようとしている
ということに注意が必要だと思うのです。

そして、これは、いじめの構造そのものなのです。

誰かが、とてもかわいそうだという事情があります。
今回のケースでは娘さんです。
人間は、弱い者を守ろうとする本能があるとします。
また、その人の苦痛をそれぞれの人がそれぞれの人なりに
共感し、自分の苦痛として追体験をしています。

そうすると、娘を守ろうとする強い感情が起こります。
この強い感情は、一種の危機感です。
自分が安全な場所にいる場合は、
この危機感を解消しようとする行動は
怒りによる攻撃です。

本来怒りの先は、非道な父親か
非道な父親を裁く法律を作ってい無い国家に向けられるべきでしょう。

しかし、非道な父親は名前も分かりませんし、
無罪とされてしまった。
国家に問題があるとは気がついていない。
そうすると勢い、名前をさらされた裁判官に怒りが向かう。

こういう仕組みなのです。

本当は勇気をもって国民に対して告発した人に対して
ちょうどよい怒りの的になってしまい、
それをあおるマスコミやオピニオンリーダーがいるために
簡単に国民の正義感は
裁判官に対して怒りとなってしまうのです。

怒りはこのように、
本来向かうべきでない相手に向かわされるということが
よくあります。
戦争はこれを利用しなければ起こすことはできません。

憲法9条を守れとかいうならば信じられるとか
そういう単純な発想では理不尽な戦争が近づくばかりです。

この裁判官に対するいじめは誰がしているのでしょう。
この裁判官を叩いているマスコミやSNSをみた
法律関係者が沈黙を守ることもいじめだ
ということを言いたいのです。

法律関係者ならば誰しも
私が考えたことを考えているはずです。
そういう刑法解釈の訓練を受けているからです。

それでも沈黙を守っている。
敢えて裁判官をかばうことで
自分に攻撃を向けられることを嫌がっているのではないでしょうか。
それはよくわかります。

しかし、これほどの怒りの大合唱が
特定の一人に向かうことは
しかも理不尽に向かうことは
まぎれもないいじめですから、
誤解を解くべき人たちは誤解を解かなければならないと思います。

そうでなければいじめを見ている子どもたちと一緒だと思います。

発言を躊躇している自分の姿は
いじめを完成させる子どもたちの姿なのです。

私はいじめを無くしたいと考えているので、
自分にできることをしてみました。


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対人関係学の概要 ~弁護士が考える人間関係の紛争の原理~ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

事務所のホームページをリニューアルしているところで、
ちょうどよい機会なので、
対人関係学についてのアウトライン
というか基礎概念というかを
まとめることにしました。
http://www.doihouritu.com/


ちょくちょく断りもなくこのブログでも述べているので、
気になっていた方(いないでしょうが)にはお勧めです。
文字列が折り返しているところは飛ばして読んでもらって構いません。

ではでは

対人関係学とは、
紛争、いさかい、ケンカ、
あるいは、社会病理
(自死、いじめ、パワハラ、DV、虐待、犯罪、多重債務等々)
という人間の行動の原因を探究し、
原因を除去する等して
これらの負の活動を解決し、防止し、
逆に人間が生まれてきてよかったと
より多く実感できる人間関係を構築するための
研究です。

対人関係学の基本概念について、以下述べます。

<対人関係的危険>
人間は2種類の危険を感じると構成します。
1つは、生命身体、健康に害が及ぶことの危険です。   
2つ目は、対人関係的危険です。

 前提として、人間は、単独で生きようとする動物ではなく、人間のつながりの中に自分をおこうとする根源的要求があり、この要求が満たされないと心身に不具合を生じるという理論があります。「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)
人間は、現在の人間関係を維持しようとするため、この人間関係の中で安定して継続的にとどまることが拒絶されることを不安に感じ、拒絶につながる出来事を覚知すると、生命身体と同様の反応を起こす。この、拒絶につながる出来事が対人関係的危険である。自分が人間関係の正当な構成員として尊重されていない、尊重されないことにつながる行動をした、あるいは他の構成員からの評価、待遇についての生の情報と、その情報に対する経験、学習等後天的な情報による評価を加えて危険性を無意識に判断している。危険だと判断した後の生理的変化は、生命身体の危険とほとんど同じである。

ここでいう人間関係とは、家族、学校、職場、地域、サークルという具体的な人間関係だけではなく、社会や国家というものも含まれる。その危機感の強さ及び反応の強さは、人間関係の種類、個性、危険の程度などで変化する。

<危険反応の脳機能への影響>

これまで、生理的に交感神経の活性化に着目されていました
           W・B・キャノン「からだの知恵」(講談社学術文庫)
           HPA軸
しかし、人間関係の不具合を見ていると、
共通の思考パターンがあるのではないかと考えるようになりました。
つまり、
・ 複雑な思考が鈍り、二者択一的思考になる。
・ 他者の心情に対する共鳴が起きにくくなる
・ 将来的な見通しが立てられなくなり、近視眼的になる。
・ 因果関係を把握することが困難になる。
・ 物事を悲観的にとらえる。

これもいわゆる「逃げるか戦うか」という
危険に対する防御反応ということで理解が出来ます。

要するに一心不乱で逃げる(相手を叩き潰す)ことが、
動物の逃げる目的をよりよく達成できるからです。
「自分が安全な領域に逃げ切ったか否か」
という二者択一的思考があれば逃げるには十分です。
できるだけ悲観的に、まだ危険があると考えた方が
より確実に逃げ切ることができるでしょう。

逃げている時はなりふり構わずに逃げるべきで
他人からどう見られるか等ということを気にしていたのでは
逃げる効果が失われていくでしょう。

逃げきってから考えればよいことを
今考えることは逃げるための行為の邪魔になるでしょう。

このような思考状態にするために
脳の一部の機能が停止ないし低下します。
それがアントニオ・ダマシオが指摘した
前頭前野腹内側部
ということになるのだと思うのです。
「デカルトの誤り」岩波文庫

ダマシオの言う二次の情動と
対人関係的危険とは強い関連性があると思っています。

<危険解消要求>

ところで、脳科学あるいは生理学では、
危険に対する反応は、
感覚器官による情報の覚知、
→ 大脳での情報処理、
→ 視床下部での評価
→ 危険に対する反応
という流れをとります。

さらに大雑把に言うと
危険の覚知 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
という流れになるわけです。

脳科学的ないし生理学的にはこれでよいのでしょうけれど
便宜上
危険の覚知 → 危険解消要求 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
と危険解消要求という概念がはいると
様々なことが説明しやすくなります。

通常生命身体の危険は、危険の覚知から危険解消行動
その後の危険解消ないし実現という結果までが
極めて短期間で終了することが多いのです。
(例外的にはがんの告知など)
このため、危険解消要求などという概念は不要でした。

ところが、対人関係的危険は
実際には、人間関係からの追放という結果は
なかなか起きることがなく、
その危険だけが継続していきます。

例えばいじめがあっても
学校から追放されるわけではなく、
自分が尊重されていないという危険意識だけが
日々継続されてしまっているのです。

何とか正常な人間関係の仲間として尊重されたいという
危険解消要求が継続するわけですが、
危険解消行動に出ることもできません。
方法も見つかりません。

そうすると危険解消要求だけがどんどん肥大化していき、
最大の要求になって行ってしまいます。

本来生きるための危険に対する反応システムなのですが、
危険解消要求が充足されるなら
死んでも良いという考えるようになり自死が起きる

また、交感神経の活性化の慢性持続により、
脳機能の停止ないし低下が進み、
二者択一的思考パターン、悲観的思考パターンが
支配的になってしまい
危険解消要求に逆らえなくなると考えます。

危険解消要求の肥大は、
思いついてしまった不適切な危険解消行動を
自己制御することができなくするわけです。

様々な可変要素により
自死、犯罪、離婚、多重債務、虐待等
社会病理の原因を説明することが可能となります。

ここから先が対人関係学の実務編です。


<本来の人間は、共感のシステムにより仲間と協調する動物>
対人関係学の人間観は、
人間の心(対人関係の状態に対する反応)は、
約200万年前に形成されたという
認知心理学のコンセンサスに賛同しています。

当時生まれてから死ぬまで同じ群れに暮らしており、
群れが強く、大きくなることが
自分の利益と完全に一致するし、
誰かが弱って頭数が減れば
自分の命の危険が現実化するので、
弱い者を必死に守っただろうと考えられるのです。

ほとんど自分と仲間の区別がつかなかった
のではないかと思います。

この時代に、
一番弱い者を守ろうとする性質のあるもの、
仲間と争わないで、助ける者
仲間をいたわり合う者
その基礎として、仲間の苦しみや悲しみ
喜びを含めた感情を
自分も追体験するという共感の能力によって
共有する動物となったということです。

こういう性質をもつヒトだけが
厳しい自然環境に適応して
子孫を残せたのだと思います。
われわれは、その協調性の遺伝子を持った
末裔なのです。
人間の根本的価値観はここにあります。

但し、人間も動物ですから
自分が攻撃されれば反撃するわけです。
群れの仲間の特殊な性格の人間で
教育で矯正できなかった者というものも観念できますが、

主として他のヒトでしょう
仲間ではないヒトが飢えなどの理由で
他の群れを攻撃する
これに対する反撃はあったと思います。
ヒトがヒトを攻撃する場面はあったのでしょう。

しかし、それ以外は、他者(群れの)に協調する生き物
ということが本質です。

<時代と心のミスマッチは複数の群れの同時併存による>
では、なぜ現代社会において
他の群れの人間とばかりではなく、
家族、職場、学校という同じ人間関係の中で
紛争を起こすのかということが
問題になるわけです。

そのヒントは、
ダニエル・リーバーマンの
「人体」(ハヤカワノンフィクション文庫)にあります。

進化において獲得した性質は、
当時の環境に適合する性質であり、
環境が変化すると適合しなくなるというミスマッチにより、
虫歯や生活習慣病などの現代病が起きるというのです。

こころが獲得した進化の適応とは
原則として死ぬまで一つの群れで生活していたという
人間関係の条件の中で形成されたものです。
実はこの単一対人関係の時代は、
例えば日本の農村部では
ごく最近まで少しずつ変化をしながら継続していました。

ところが、現代では、
家庭、学校、職場、地域、サークルなど
かなり多くの群れに同時に所属しています。
どれも、相対的な群れであり、
それなくしては生きることがままならない
という群れは一つもありません。

だから、学校という一つの群れの中に
全く異なる群れに所属しているものが共存しているため、
共鳴する力、弱い者を守ろうとする力
という人間らしい力が発揮しずらくなっていると考えます。

同じ群れの中にいても
峻烈な利害対立が生じていて、
仲間の中の敵が存在する状態となっています。

このような対人関係の環境が、
他の人間を攻撃するということの抵抗を下げてしまい、
その結果、人間は、
様々なところで慢性的な対人関係的危険を
感じるようになっています。

危険に敏感になりすぎているように感じます。
そのため、本当は利害が一致している仲間に対しても
自分のみを守ることに過敏になり
攻撃されていると感じやすくなります。
これに対する防衛意識が起きやすくなり、
反撃行動に出やすくなるのではないでしょうか。

こころと環境のミスマッチが
社会病理の根本原因であるという結論となるわけです。

<対人関係の改善の主張>

対人関係学の主張は、
一つに、犯罪を含めた社会病理について
個人を非難することによっては解決ができないということです。

それぞれの社会病理がどのようにして起きたのか分析し、
対人関係の在り方を修正することによって
そのエラーの部分を取り除くことができると考えますし、
エラーが起こりにくくするような人間関係を構築し
予防に活かすということになります。

その中で、防衛行為というところ、
危険解消要求の肥大という視点により
分析を進めるということになります。

どんな社会になっても、
自分が大事にする対人関係を強化することによって、
こころの安定を図ることができるはずだと考えます。

そしてそれは、
他の人間と共感し、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じ、
他者を守ろう、助けよう、一緒に楽しもうという性質があり、
一番弱い者を一番に守ろうという
人間の本質に寄り添った行動を取り戻すだけのことだから
決して不可能ではないと考えています。

人間の幸せは、
自分が大切にする人間関係において
自分が尊重されていると実感することだ
と対人関係学は考えます。

人間が生きようとすること
人間らしく生きようとすること
これを無条件に肯定することが
すべての前提に置かれています。

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こころがすさむ、心がすさんでいるとはどういうことか. [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



心が荒む(すさむ)という言葉があります。
なかなかうまく説明しているものが見つかりません。

対人関係学では、
「自分の人間関係のつながりにおいて、自分が尊重されていないと意識している場合又は無意識に感じている場合の心の状態」を言います。
もう少し専門的に言えば
「自分が所属している人間関係において、他の構成員から自分が安定した所属の継続を許容されていないと感じる場合の生理的変化の意識の領域における反映」
ということになります。

人間は、動物という側面と人間という側面と両方兼ね備えています。
動物として、本能的に生き続けたいと意欲します。
人間としては、仲間の中で尊重されていたいと意欲するわけです。

そしてその意欲がうまくいかないときに起きる生理的変化は
(血圧の上昇、脈拍の増加、体温の上昇、脳機能の変化等)
生命が脅かされている時と
仲間の中での尊重がなされなくなる時
基本的にはほとんど同じ変化です。

人間は危険を感じ、不安を抱くことで、
危険だと思われる行為を止めたり修正したりするし、
ひとたび危険が発生したら、危険を回避する行動をとり
命を維持しています。

戦闘地域には近づかないとか
夜の独り歩きをしないとか
何かが飛んできたらよけるとかと同じように、

仲間から非難されるような言動はとらないとか
うっかり失敗してしまったら
何とか穴埋めをしようとしたりするわけです。

ところが、いつも思い通りの名誉回復ができるわけではありません。
うまく尊重を回復されない場合は、
危険解消要求がさらに大きくなって行きます。

この場合、
戦うか逃げるかという行動に出てしまいます。
これは様々なタイミングが作用しますので、
色々な行動に出てしまうので、一概にどう行動するかいえませんが、

例えば、仲間の中に留まるように「力ずく」で対応する。
自分を尊重しない相手を攻撃する
場合によってはライバルを追い出すという行動ですね。
多くのドメスティックバイオレンスの原理です。

同じ「力ずく」での対応でも
自分よりも弱い者を攻撃することによって
危険意識を解消しようとする
いわゆる八つ当たりもよく見られます。
会社での危険を家で八つ当たりするような場合です。
社会的に不遇な場合、子どもに過酷になるのが児童虐待でしょう。

もう一つの対応が「逃げる」という対応ですが、
具体的には自暴自棄のような対応をする
他者とかかわりを持たなくなる
他者からどう見られるかということを気にしなくなる
ということが代表例でしょう。

いずれにしても、本当は仲間と良好な関係を作りたい
という気持ちがあり、
それがうまくゆかないという危機感、不安感が過度に肥大して、
良好な関係を作ることよりも
それと逆行するような危機解消行動に出てしまう
これが心が荒んでいるという状態です。

さらに、
その危険解消要求が過度に持続してしまったり、
危険意識が強烈なものである場合
危機感の総量が一定限度を超える場合、
精神破綻が起きるのではないでしょうか。

例えば、子どものころいじめにあって
救いがない絶望を味わってしまうと
統合失調症と同様の精神状態になり
回復が難しいことがあります。

家族にも凶暴になって収拾がつかず、
精神病院に入院させるほかない状態に
なってしまいます。
こころの荒みが進むと
一生を台無しにする可能性のある危険がある
と感じざるを得ません。

危険解消要求が肥大化しすぎると、
死ぬことによって、危険を感じなくしたいとまで
追い込まれることになります。

そこまで行かなくても
八つ当たりの類似行動のような
犯罪やクレーマー、いじめや虐待のような
社会病理の原因にもなります。

あるいは、自傷行為や薬物乱用などで
現実の危険意識、不安感を解消するなどの
行動に出てしまうこともあるわけです。

こころが荒むということは放置してはいけません。

どうやって、心の荒みを解消したらよいでしょう。
心が荒むという言葉の対義語は何なのでしょう。

ご自分の心が荒んでいるということに気がつくことは
なかなかありません。
先ず、気がつくことが難しい。

例えば書道や華道をやって、
「自分の心が乱れている」
ということに気がついて
行動を修正するという人がいました。
私は「芸は身を助ける」の本質がこれだと思います。
それほど万人ができることではないでしょう。

一つは、
自分が尊重されたい組織を大切にすることだと思います。
なんか心が苦しいなと思った時ほど
例えば家族を大切にする行動をするということです。
心をほっておくと
自分を大切にしてもらいたいという行動に出るのですが、
敢えて仲間を大切にするということです。
これを私は自分を棄てるという表現を使います。

自分に、あるいは自分を守ることの意識が強すぎて
自分をおとしめている
こういう状態に陥っているわけです。

自分を守ることの意識を捨てることが
回復への一歩になるのは理屈です。
但し、ただ、自分を棄てることはできない。
このため、自分の仲間を大切にする
自分のみを犠牲にしても大切にする。
という行動をとることで、
結果として
自分に対する過剰な防衛意識を緩和することができる。
こういう考えです。

日本の詩人でも
中原中也は、「春日狂想」で
愛する者を失った時は、奉仕の気持ちになることなんです
と詩っています。

石川啄木が「一握の砂」
「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」
と歌っています。

詩人は、直観的に人間の本質を見抜いて
生きるための手立てを探り当てたのだと
私は思っています。

プラスアルファの効果があって、
こちらが優しくすれば
相手も優しくしてくれる
というのが確かにあるかもしれません。

しかし、それは、自分を棄てることの本質とは別の話です。

アメリカの幸福を考える学会があって、
そこでの実験心理学の実験の結果、
他人の利益を考える方が
人の心は安定する、しあわせを感じるというらしいのです。

https://gigazine.net/news/20190403-simple-trick-instantly-improve-mood/

私はこれは正しいと思います。
これも人間が群れを作ってくることができた
システムの一つなのでしょう。

そもそも、われわれ人間が、仲間を意識して行動するのは、
仲間の中にいたいということが出発点です。
心が生まれたとされる約200万年前は、
一生一つの群れで過ごしたと思われるので、
自分を守ることと仲間を守ることは
それほど区別する必要がなく
自分と他人の区別もあまりなかった時代だったと思います。
仲間を守ろうとする本能が
本来人間には存在していると考えることは
それほど無理のないことだと思います。

見返りを期待しないで
仲間の利益を考える。

これこそが
こころが荒むことの対義語であり、
その時の精神状態は
落ち着いていて安定しているのだろうと思います。

こころが荒まないようにする
予防にもなるわけで、
しあわせになる方法であると
考えた方が前向きなのかもしれません。

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いじめを傍観する子どもと大人の心理学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成31年4月19日4月19日(金曜日)
18時45分~20時 アエル28階研修室で
テーマ「学校問題について語り合う」
~いじめ・不登校・教育~
のお話会があるとのことです。
参加費無料、事前予約不要ということなので、
勉強しに行ってこようと思います。

メインスピーカーはスクールカウンセラーもされていて、
直接子どもたちと接している方とのことです。
これは、多業種自死予防ネットワーク
みやぎの萩ネットワークが主催です。

さて、今回は、おとなしくお話を聞いて
自分の見聞を広めるということが目的です。
しかし、良い機会なので、
いじめの問題について、
傍観者の心理についてまとめてみようと思いました。

この記事は
最後にほのぼのすることが書かれているわけではありません。
最後まで不快な思いをするかもしれません。
冒頭申し上げておきます。


1 いじめの傍観者は、秩序と協調性を重んじるタイプの人間

いじめを傍観する人間について、
いじめの加害者と同じように、
冷酷で、自己本位の人間ではないかと
考えている人もいるかもしれません。

例えていうならば、
ナチスドイツのユダヤ人大量殺人を実行した
アイヒマンもそのように考えられていました。

ところが1963年、ハンナ・アーレントの
「イェルサレムのアイヒマン」では、
アイヒマンは机に座って自分の仕事をこなすだけの
凡庸な人間だと研究結果を発表しています。

この主張に対しては、かなり多くの批判が集中しましたが、
スタンレー・ミルグラムは
いわゆるアイヒマン実験(服従実験)によって、
人間が、他者を傷つけることができることを証明しました。

「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05

この実験結果を私なりに大雑把にまとめると以下のとおりになると思います。

1)人間は、自分の属する人間関係において、
  秩序を保ち、秩序に協調しようとする。
2)その過程で、自分の行為によって他者が苦しんでいても
  秩序の形成主体の意向に従い、
  他者を苦しめることを止めない。
3)但し、その場合、他者を苦しめることに葛藤を抱くが、
  種々の合理化をして行為を継続する。
4)但し、自分の行為によって他者が苦しんでいることが
  生々しく感じ取れる場合には、
  秩序に反発することもある。

私は、この観点からいじめの傍観者の心理を
考えてみることにします。

もう少し、上記の結果を現実に即してかみ砕きます。

A いじめる側の権威に服従してしまう。

本当は、不合理な理由でのいじめであるとか、
多数派が一人などを孤立させていて
やってはいけないことが客観的に起きているのに、
そのような評価をしないようにします。

つまり、いじめではなく、当事者間のトラブルだ
と無意識に事態を再構成してしまいます。
そして、トラブル、ケンカは秩序を乱すものであるから、
自分はなるべく関わらないようにしようという意識を作る
ということではないかと思うのです。

いじめる側といじめられる側は、
当然いじめる側が多数派となりますから、
傍観者たちは、
いじめる側を擁護する心理を作り出します。
擁護までしなくても、
批判したり、否定しにくくなります。
いじめる側が秩序を形成しているからです。

B いじめられる側への共感に蓋をする

人間は、苦しんでいる人を見ると自分も苦しんでしまいます。
2歳くらいからこのような共感の能力を発揮してしまうようです。
いくら、対等のけんかが起きているだけだとごまかしても、
実際に苦しんでいたり、無表情になったりしている
いじめられている側の心情を感じないわけはありません。

自分の苦しみを解消したいという要求は
生きていくための要求ですからここでも発動されます。

いじめられる側への共感を止める方法を
無意識に発動して自分を守るわけです。

一つは、いじめられている人間は、
自分の仲間ではなく異質な存在だという合理化です。
いじめられる人の何らかの特徴は、合理化の道具にされます。
それに全く合理性はありません。
自分に言い聞かせるためのおまじないみたいなものでしょう。

それが進んでいくと、
いじめられる側の落ち度、欠点、不十分点を探し始めます。
いじめが正当化されていくわけです。
正義の行動をしているということを自分に思いこませていくわけです。
だいたいの「正義」という言葉はこのように使われます。

「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-02-18

ひとたび正義という言葉が表に出ると
いじめは過酷になって行く傾向があるようです。

このようにいじめられる子に対する共感発動を
必死で思いとどめます。
保身という意味合いもあるのでしょうが、
予防の観点からは、
それは人間の権威に対する迎合の本能だと
把握しておく必要があると思います。

いじめられている子が
苦しむ表情をみせたり、泣いたりすると
さらにいじめが激しくなるのも
共感を止めるためのメカニズムです。

C 変わり者を排除する学校

このようないじめに対する傍観が
最近増えているとしたら、
それは、変わり者の否定や
学級委員制度の廃止と教師の無色化が
原因だと思います。

ここでいう変わり者とは、
秩序を重んずることなく、
協調性に価値をおかない者です。

子どもたちを管理する観点からは
教師の言うことを聞かず、勝手なことをして
教室の秩序を乱す者なのですが
それだけに、
秩序を形成する権威に迎合せず、
自分がおかしいと感じたことをおかしいと主張したわけです。

おかしいと言われると、
確かにおかしいと目が覚めるわけですから、
いじめを阻止する行動が多数派になって行きます。
少なくともいじめに協力する人間は減るわけです。

これが、人類史における変わり者の役割でした。
ところが、現代社会、学校教育は
この変わり者を抹殺しようとしています。
障害だ、病気だと決めつけて、
投薬したり隔離してまで、変わり者を排除しようとしている
そんなふうに感じることがあります。

秩序と協調性をヒステリックに重んじる風潮ができるわけです。

学級委員という係がなくなったということも驚きです。
学級委員は役目柄、
「それはやめろよ」というのですから、
秩序や協調性を気にする必要はないし、
級友もそういう役目をしているということで尊重しますし、
級友が迎合する的の権威になりうるわけです。

こうやって、子どもたちが人間関係秩序を学んでいったのですが、
なぜか無くなっています。

このため、迎合する対象を喪失して子どもたちは
本来教師に迎合の対象をもって行くことが
予定されていたのでしょう。
しかし、教師も、
自ら権威を否定したり、
権威を発揮することを放棄している状況が
あちこちで見られるようです。

結局、秩序と協調性を重んじる児童生徒は、
少し突出した行動をとる子ども
感情が豊かな子ども
体力的に優位な子どもに
権威を求めて協調しようとしてしまうのではないでしょうか。
そうだとしたら、これもいじめを傍観する原因になります。

D いじめられる子の心理

いじめられている被害者は、
当然自分をかばってくれるはずだ
不合理や残酷な仕打ちを是正してくれるはずだと思っていますから、
加害者と平等に扱われることは
絶望を感じてしまいます。

自分がいじめられることで、自分が悪いわけではないのに
傍観者から、不快な思いを与えた張本人は自分だと
言われているような感覚になります。

こうやっていじめの被害者は孤立していきます。
その孤立こそが、被害者のメンタリティーを
決定的に傷つけてゆくわけです。


2 単純接触効果、プライマリー効果

さらに、人間は、これまで付き合いが長く強い者が
味方であるという感覚を持ってしまう動物のようです。
私は、この原因の一つとして、
長く付き合ったり、強い結びつきがある相手は
その心情が理解しやすいため
共感を抱きやすいということがあると思っています。

いじめている側との付き合いが長かったり
一緒に行動して喜怒哀楽を共にしていれば、
なんとなくそちらに味方をしたくなるものです。

ひっそりと目立たない子であったり、
内気で感情を表に出せない子が
いじめられる対象になることには原因があるわけです。
それから、友達と深くかかわることが苦手な子も
同じ原因で、共感を持たれにくいということがあります。

元々長く付き合っていた子が
誰かをいじめていても、
それはトラブルに過ぎず、
対等なケンカなのだろうと思いこみを持ちやすくなります。

いじめられる子の恐怖や屈辱よりも
いじめている方のいら立ちや怒りに
つい共感してしまうということが起こりやすくなるのでしょう。

3 少しだけ解決の展望

私は、正義や秩序の過度の強調をやめ、
可愛そうだからやめる
という行動原理を子どもたちに
優先するべき選択肢として与えることが必要だと思います。

また、クラスならクラスを一つの群れとして行動する
そういう習慣づけをする指導を行うことも有効だと思います。
仲間を守るということの体験を意図的にさせる指導も必要でしょう。


4 組織の論理、大人のいじめ

さて、ここまでお読みになって、
正義感の強い方の中には、
こんなまだるっこしい検討に何の意味があるのだ
傍観するなんて卑怯者であり、加害者と同等だと
そう感じている方もいらっしゃるかもしれません。
自分たちの時代ではそのような傍観はしなかった
という方もいらっしゃるでしょう。

しかし、大人の世界でもいじめがあり、
それは、主義主張にかかわらず、
相手を異質のものとして排斥していることで
起きることが多くあります。

大人の世界でもいじめがあって
コツコツと努力していた人たちが
些細なことで全面否定され、
それまでの生き方を変えざるを得ないことがありました。

つい最近もいくつかそのような事例を目にしてしまいました。

加害者は自分なりの大義名分をもって攻撃し
周囲の人たちも、それを注意したりやめさせたりしません。
加害者も周囲の人たちも、
日頃立派なご主張をされている方々です。

と書き出すと、
多くの人たちは、通常不快になります。
子どもの話だと、あまりリアルに苦しみを感じなくても、
(共感しずらい)
大人の話だと、リアルすぎて苦しくなるわけです。
(苦しみを想像しやすい)

当たり前の話ですが
巻き込まれなくてよい争いに巻き込まれたくないのです。
これが権威に迎合する最大の理由なのでしょう。

ちなみに先の大人の例を続けますと、
排除の論理は、
その人と主義主張が違うからではなく、
その人が自分の人間関係の仲間ではないからということでした。

同じ仲間ではないということで
異質性を際立たせて、
苦しみや絶望への共感に蓋をしているのでしょう。

自分の同じグループの人たちの感情や権威に迎合し、
攻撃の理屈を無理やり肯定しているのかもしれません。
この組織の論理がさらに強くなると、
組織外の人間の感情への共感を
自然と遮断できるようになるのかもしれません。

特に目的を持った組織は、
目的遂行が大義名分となり、
人間に対する共感がおろそかになる危険があります。

それは特に注意しないとそうなってしまう
いじめの傍観者の問題を考えながら、
これは、いじめは子どもの問題ではなく
大人たちの生き方の問題が子どもに反映しているのだと
考える必要があるということを改めて感じました。

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あなたが悩んでいることは本当に悩むべきことか.(プラスワンの理論Ⅱ) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 通りすがりの人との関係

 あなたが悩む必要がなく悩んでいる典型的な場面は、通りすがりの人から何かの悪口を言われたような場合です。
 あなたが、今後も継続する人間関係で不安になる場合は悩む必要があるのですが、おそらく二度と会わないだろう人との関係で悩む必要はありません。通りすがりの犬にほえられたようなものです。このような場合でも人間は二つの理由で悩んでしまいます。
 一つは、相手が人間であるからです。人間は、人間から攻撃されると、本能的に仲間から攻撃されたような気持ちになり、防衛意識が芽生えてしまいます。これは、200万年くらい前の人間の心が完成したころ、人間は生まれてから死ぬまで一つの群れで暮らしていましたから、およそ人間からの攻撃の場合、群れからの攻撃だと錯覚してしまうからです。
 もう一つは、そのおかしな人からの悪口なのに、あたかも社会全体を代表した意見だと受け止めてしまう傾向があるからです。社会という群れから追放されるかのような危機感を抱いてしまうわけです。
 いずれにしてもプラスワンの理論で紙に書くとき、あなたは登場させることができますが、通りすがりに悪口を言った相手は登場させることができません。関係がないのです。道を歩いていて誰彼構わずに悪口を言うような人は、言っていることも失礼であるし、あなたのことを分かっていったわけでもありませんので、気にすることが無駄なことです。ただ、変な人とすれ違ってしまった偶然を呪うだけでよいのです。

2 一見仲間だと思ってしまう卑怯者との関係

 次に、一見群れの中からの攻撃なのだけれど、よくよく考えてみれば、実は通りすがりと同じで、関係ないと言っても過言ではない人からの攻撃である場合が実際は多くあります。
 その人とあなたは、同じ時間同じ場所に一緒にいるということがどれくらいあるかを考えることが大切です。実際は、近くに入るとしても、一緒にはいないことが多くあります。少なくとも共同作業をしなくてもよい関係にすぎないということです。本当はあまり気にする必要がないということで終わる場合があります。
 しかし、その人と直接会うことはないけれど、共通の知り合いが多くいると困ったことになります。通常そういう場合に悩む内容は、こちらの知らないうちに共通の知り合いに一方的な話を吹き込んで、共通の知り合いから自分が追放される、そこまで行かなくても評価を下げられるということが悩ましい事態ということになります。
 そういう陰でこそこそ破壊工作をする相手を卑怯者と定義することにします。その卑怯者は、読んで字のごとしですが、卑しくて、怯えているものなのです。あなたの行動や存在によって、自分の立場が危うくなるという危険に怯えているのですが、卑しい性格のために、正々堂々と努力して立場を回復させることができず、またあなたに直接何かを言うことが出来なくて、卑怯な行動に終始しているということになります。

 もしその卑怯者があなたの家族ではないとしたら、そういう人との関係を修復する必要はありません。一度修復したからと言って、あなたが努力して事を成し遂げようとするたびに邪魔をするわけですから、関係を遮断するべきです。あなたが我慢して修復するべき関係なのか、大切にするべきなのは大いに吟味するべきです。
 さっさとこの関係に見切りをつけなければ、あなたが本当に大事にするべき関係に悪影響が生まれてしまいます。

3 あなたが本当に考えるべき人間関係

 あなたが大切にするべきかもしれないのは、その卑怯者との人間関係ではなく、共通の人間関係の方です。
 特に卑怯者からあれこれ言われても、なお、あなたに寄り添っている人たちはかけがえのない仲間です。それにもかかわらず、卑怯者に対する怒りが強すぎる場合、共通の仲間が卑怯者の影響を受けて自分から離れるということが心配ですから、ついその危険意識によって仲間を攻撃してしまうことがおきるのです。これによって、仲間が離れていくことが一番の悲劇です。また、あなたの怒りが強くて、あなたと卑怯者の争いに巻き込まれたくないということで去っていく人もいます。ここを考えるべきなのです。
 さらには、あなたが終始イライラしていることで、本来なんの関係もないはずの家族に八つ当たりをしてしまうこともあります。卑怯者が一人いるだけで、あなたは大損をしてしまい、不幸になってしまいます。
 
 大事なことは、いち早く卑怯者との人間関係を、心の中で断ち切ることです。同じ群れの仲間ではないということをはっきりと自覚することです。
 これがとても大事なことです。

4 卑怯者に追随する人との関係

 では、共通の人間関係の内、あなたになお寄り添っている人は良いとして、卑怯者が行った欠席裁判の結果、あなたから離れていく追随者をどう考えるべきかということがあります。
 人間はおよそ200万年前に心が完成し、その時の生活は、生まれてから死ぬまで同じ群れの仲間と生活していましたから、およそ人間から攻撃されるとくよくよと悩んでしまうとか怒りに燃えてしまうという性質があります。冒頭検討したように通りすがりの人から攻撃を受けても腹が立ったりがっかりしたりする通りです。
 通りすがりの人間ではなく、それまで共通の知り合いだと思っていたし、そんなに悪い関係でなかったにもかかわらず、卑怯者に追随することはショックだと思います。
 しかし、理性的に考えて、本当に不安になる必要がある人たちなのでしょうか。もともと人間は、より近くにいる人の味方になるという単純な思考回路になっています。また、権威に追随するという性質もあります。群れを作るという性質がこういう傾向を産むわけです。また卑怯者があなたより弱い立場にいるような場合も、弱い方に味方をしようという単純な性質もあります。決して、人間が自分の仲間を選ぶような理性的な行動をする生き物ではありません。だから追随者があなたではなく卑怯者に追随したとしても、それはあなたが否定されたわけではないのです。何らかの考え抜かれた行動ではありません。一番の証拠は、あなたにことの真偽を確かめないで、あなたにつらい行動をとっているではありませんか。そういう追随者たちは、おそらくこれまでも同様のことをしてきたでしょうし、これからもするでしょう。
 追随者たちとも同じ群れの仲間ではないとはっきり自覚するべきです。
 
5 しあわせを基準に大切にするべき仲間を考えるべきこと

 人間に対して不利益を与える場合、その人間の言い分に耳を傾けるということが、歴史的に人間が獲得してきた知性です。一方の言い分だけで誰かの評価を決めるということは、この知性がないということです。日本の憲法は、罪を犯した人でさえ、自分の言い分を堂々と述べることが人間の権利であるということを適正手続きの補償という言葉で述べています。つまり、言い分をさせないでその人につらくあたるということは、その人の人間性を否定するということなのです。つまり、人間として、してはならないことです。
 それでも、どうしてもその人が自分の人生にとってなくてはならない人なら、自分の行動を修正して、頭を下げてつなぎとめることになります。しかし、家族以外で、本当にそういう思いをしてつなぎとめなければならない人はいるのでしょうか。ここはとても大事な吟味が必要です。
 その場合の最大のデメリットは、あなたが本当に守らなければならない人間関係に影響が生じることです。あなたがイライラと悩み続けること、悩みが持続することは計り知れない思考上の問題が生まれてしまいます。あなたは、単に悩みが継続しているために、危険意識を抱く安くなり、悲観的な考えに既に陥ってしまっているかもしれません。
 仕事や勉強や、ボランティアや、あなたが大事にしていることがあると思います。その大事にしていることのキーマンのように思う人かもしれません。しかし、その大事にしていることに、あなたの人生が奪われるかもしれないという視点も大事です。
 「何を基準として考えるべきか。」
 私は、
あなたが幸福に生きるため
という価値観を基準にするべきだと思います。
 私が考える幸福とは、
あなたが尊重されるべき人間関係で尊重されて生活すること
だと思っています。
 すべての人間とすべての利害が一致するということは現代社会ではありえません。相手を攻撃せず、自分の仲間を大切にすることを考えましょう。

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