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保護命令下に申し立てられた面会交流調停が成功した理由 [家事]


今にして思うと無謀だったかもしれませんが、
保護命令が出された2か月後に面会交流調停を申し立て、
1年近くかかりましたけれど無事解決した事例があります。
調停成立前に直接面会交流も行われ、
祖父母も同席できています。

もともと妻側と調停を行う合意があったのですが、
調停委員や調査官からは、保護命令の期間中ということもあり
相手が調停に応じない場合はどうするんだと
ご心配をいただきました。
こちらには、もともと出してはいけない命令が出た
という認識がありましたし、
妻との会話もあったということから
まあまあということで押し切ってしまいました。

結局妻側も誠実な対応をされまして、
着地点に落ち着くことができました。

実際は、保護命令の要件である
生命身体に重大な危険があるかといえば
客観的にはないと言ってよいのですが、
色々な事情がわかると、
なるほど、客観的にはそのような事情はないけれど
妻にとってみれば、主観的には、
それくらいインパクトのあることがあったのかもしれない
ということは理解できました。
また、
そういう理解をした方が解決のためにはよさそうだ
ということで事を進めることに依頼者と決めました。

つまり、普通に葛藤の高まりの中で
子どもを連れて別居したという典型事例だと把握しました。

その中で無事直接面会ができた一番の理由は、
本人である夫が、「第1目標は家族再生」
ということを貫いたことでした。

どうしても、相手や弁護士や裁判所
あるいは法制度や運用を責めたくなるのですが、
ただでさえ不安と恐怖と息苦しさを持っている妻を
攻撃することや誰かを攻撃している自分をみせることは
家族再生と逆行します。
この感情を抑えることは大変苦労します。

怒りで夢中になって、
相手の落ち度を強調したり、
(やりくりが下手とか、掃除ができないとか、子どもに手を挙げるとか)
一方的な連れ去りは子どもに深刻な影響を与える
とか言うことを主張したくなるのです。
それらはおそらく正しい主張なのでしょう。
しかし、家族再生と逆行します。
相手を余計に怖がらせるだけで、
あるいは息苦しくさせるだけで
とにかく近づきたくないという気持ちにさせるだけです。

夫は妻の弱点をピンポイントで攻撃できるのです。
一番してはいけないことをしてしまうのです。

だから弁護士が少し冷めた視点で、
それを言ってはダメだというか
こういうデメリットが発生するということを言わなければなりません。
これは何度も何度も激しいやり取りがありました。
しかし、家族再生という第1目標がぶれなかったので、
依頼者を信頼してやりあうことができました。

彼は、もともとこのブログを読んで依頼されたので、
私が忘れているようなことも思い出してくれました。
また、どんなに感情的になっていても
私の話をメモをしながら聞いてもらいました。
こちらも必死で考えて、必死にアドバイスしていたようです。
帰りは、すぐ別れて解放させていただきました。
それくらい密度の濃い時間でした。
毎回へとへとになっていました。

第2の理由は、
法律や裁判所に解決してもらうのではなく
自分が相手を安心させる工夫をすることで
相手の解決しようとする気持ちを誘導する
という姿勢に立てたことです。

正しさよりも相手の気持ちを優先する
ということですね。

ところが、現実は
家庭の中でもそうですが、裁判所の中でも
どちらかが正しくて、どちらかが間違っている
という論理の枠組みを前提としてしまうために
非難合戦が始まってしまうのです。

要するに自分は悪くないということに
終始しているだけなのです。

これは、離婚を進める側の人たちの論理の枠組みです。
だから同じ土俵に立ってやり合ったのでは
ただ家庭が壊れていくだけに決まっています。
家庭の中に勝者も敗者もあってはならないのです。

ところが人間ですから、自分が攻撃されていると思えば
守りたくなる、つまり相手を攻撃したくなることは
当たり前なのです。
いかに早くここから脱却するかがポイントです。
つい攻撃してしまうのが人間だと気が付くことが必要です。

こちらはこちらで戻ってきてほしいという切実な気持ちがある
相手は相手で戻ることのできない心理的な負担がある
お互いが真実であり、
その原因が必ずしも二人のどちらかだけにあるわけではない
ということがリアルのはずです。

双方認めあわないと話が始まらない
双方が少しでも相手方の言うことが
嘘ではないかも知れないなと思わないと
譲歩は難しいようです。

時間はかかりましたが
お二人とも高次の域に上られたようでした。

結婚する直前のように
相手の気持ちを一生懸命考える
調停の時はそれをしなければいけないようです。

面会交流実現の理由の3

現在を未来につながる通過点ととらえる。

結論としてはそういうことになると思います。
本人もいろいろ知識を増やしてきましたから、
例えば調停条項はここまで書き込まないと
強制執行できないとか主張するのです。

しかし、家族関係は強制執行してしまうと
形は作られても中身がぶち壊れてしまう場合が少なくありません。

余り将来のことまで事細かく決めてしまうと
相手方が心理的に圧迫されてしまい、
面会を行ことが嫌になり、
徐々にフェイドアウトしてしまうことも多くあります。

相手を安心させる
そのチャンスをひとまず与えられたのだから、
少ないチャンスを生かしてどこまでも安心させて、
将来の家族再生への方向へつなげる
こういう方針です。

子どもたちはまだ入学前ですから、
将来のお泊りのことまで今決めるわけにはいかないのです。

子どもたちが小学校に入学して
安心の記憶を定着させていき、
さらなる共有時間を提案してもらおう
ということで、
調停条項に同意しました。

離婚さえも、
このまま拒否しているよりも
受け入れた方が
将来の関係をよくするのではないか
ということで同意しました。

仲良くするために分かれるということは
とても切ないことです。
ある意味自分を捨てても家族の安心につなげるということで
彼は自分を少しだけ取り戻したように感じました。


最後に一つだけ。
劇的に相手の対応が変わったポイントとなったと思われる
エピソードを教えてもらいました。

実は相手は調停期間中のある時、
一度だけ約束を実行しなかったことがありました。

これは事前に想定できたことでした。
おそらく遅かれ早かれそういうことは来る。
どうしても、こちら側は、
相手が自分に攻撃した行為ととらえるけれど、
こういう時こそチャンスなんだと
繰り返し打ち合わせをしていました。

小さな子どものことだから不意の病気などの事情はある。
そうでなくても子育てに夢中で忘れることだってある。
また、気分が乗らなくて、
どうしてもこちらに接触したくないときもある。

そういう時に、相手の約束違反に腹を立てないで、
そういうこともあるさと大きいところを見せる
そうすることで、相手を許す気持ちになることで、
相手は安心感を獲得する。
責めない批判しない。

通常は相手のミスがないので
なかなか安心感を持ってもらうエピソードはでてきません。
大きなポイントを稼ぐ場面がないわけです。
ところが、相手の失敗があれば許してあげるという
大きなポイントをゲットできる貴重な機会になるわけです。
代替日なんて言わないで
むしろ鷹揚に構えた方がよいと打ち合わせをしました。

案の定、相手から埋め合わせを逆提案されたし、
直接面会交流の打ち合わせが充実した
というサプライズが待っていました。

約束の日がすべてではないわけです。
その日をなしにすることで
さらに大きな明日が生まれる可能性があるということ。
そしてそうなったという報告を受けました。

離婚しても離れて暮らしても
子どもがいる以上
私は家族は家族だと思います。
先ずこちらがそういう意識をもって、
永く続いていくということを意識しながら
対応を考えるということを学びました。

いろいろありましたが、
調停委員、調査官の方々に恵まれまして、
無事調停が成立しました。

もっと一般的な考察も含めて報告を書きだしたのですが、
考察を深めると本一冊になることがわかりましたので、
ご報告はこれまでとさせていただきたいと思います。


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労災死亡事案等で会社がかけていた保険の署名押印の手続きをしたが、遺族に保険金が支払われない場合 [労災事件]

会社の業務中の事故等で、家族がお亡くなりになった場合、
会社から、
「保険金をおろす手続きをするので、
 同意書などに署名押印してほしい」ということで、
会社の人か保険代理店の人が持参した用紙に
署名押印をするということがあります。

しかし、いつまでたっても会社からはお金の支給はない
「あの書類は何だったんだ」
というような案件が、どうも現実にあるようです。
これは、本来遺族に引き渡されるべきお金を
会社が遺族に引き渡さないということが起きている可能性があります。

多くは、従業員や下請労働者がなくなった場合
定額で支給される損害賠償保険であることが多いようです。

このような保険は団体定期保険等と呼ばれています。
他人の生命に保険をかけることが特徴です。

かつては、規制が緩やかで、
従業員が死亡しても企業がお金を遺族に渡さない
ということが多発して大問題になりました。
一つは、他人が死亡したことによって会社が利得することは
不道徳ではないかということ
一つは、安全配慮をしなかった会社が利得するのでは
安全対策などを会社が怠るようになるのではないか
ということです。

これが許されていたのは日本くらいで
他国では、企業に利得を残さないことが
法律で定められることが一般的です。

そこで、平成8年、ようやく日本でも基準を見直して、
総合福祉団体定期保険
という商品が導入されました。
現在では、このような保険に変更されているはずです。
この商品内容は、金融庁の監督指針Ⅱに従って
作られていることになっています。

つまり、
主契約部分は、会社が定めた遺族補償規定に基づく支給金額
を上限としている
保険金を全額遺族に支払う
但し、付加契約においてヒューマンバリュー特約を付けて
主契約の金額以下、かつ、2000万円以下でなければならない
としています。

つまり、原則として保険金は遺族に全額支払われる
ということになります。
また、保険会社は、直接遺族にお金を振り込まず
一旦契約者である会社に振り込む場合は、
遺族が振込みがあることを知った場合にのみ
会社に保険金を払うという扱いになっています。

だから、いったん会社にお金が入るので、
遺族の署名押印が必要となるわけです。

それにもかかわらず、
遺族にお金が支払われないということは、
大変な問題になる可能性があることになります。

ところがこれが発覚しにくい事情があります。
一つは遺族に情報がないからです。
社内の弔慰金規定などは知らないでしょうし、
遺族にお金が払われなければならないという情報もないでしょう。
また、自分で保険金をかけていたわけではないので、
保険会社から保険が払われるということすら
知らないことが多いようです。

また、本ブログ記事のような情報を
積極的に広めている媒体もほとんどないでしょう。

金融庁が管轄となるのですが、
主として、金融庁は保険会社に対しての説明をする機関でして、
一般消費者の質問は不馴れなようです。
監督指針の内容をすべて把握しているわけでもなく、
本件の規定についても概ね頭に入っている
というわけでは必ずしもないようです。

だから、遺族は
なんか変だな、保険が出るようなのだけどな
ということを思いながらいつしか忘れていくことも
実際はあるようです。

会社に問い合わせてもごまかされるし、
金融庁に問い合わせても要領を得ない
ということになりそうです。
保険会社では、このような変更があることを
知らない担当者もかなり多いようです。

お金はかかるけれど、
支給金額が1千万円を超える事案もありますので
それが不当にもらえないということになりますから
弁護士に依頼することが早道です。
但し、「総合福祉型団体定期保険」
という言葉を知っている弁護士を探すことが必要です。

実際の事例では、びっくりするほど迅速に解決した事例もあります。

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木村草太先生の共同親権に関する論説に対する疑問 [家事]

憲法学者の木村草太先生は、ご自身のブログの中で
「共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切」
と題する論説を発表されている。

この論説に対して、実務法曹として
疑問を述べ、教えを請いたいと思う。

先ず、共同親権推進派の根拠として木村先生は、
1)扶養義務の履行確保(2)面会交流の促進(3)同居親による虐待防止につながる
という3点を挙げる。

意図してなされたのか、単に知らなかったのかは不明なのだが、
共同親権を推進する理由即ち立法事実(法律制定の現実社会に照らした理由)は
第1に、子どもの福祉である。

現在欧米諸国や中国、韓国の国々において
離婚後も父母が親権を行使する共同親権が主流である。
他の外国が共同親権をとるから日本も共同親権を
ということではなく、
先進国がすべて共同親権制度をとるのは
その必要性があるからだ。

それは、
離婚によって、子どもに負の影響が与えられる
それは自己肯定感の低下等である。
離婚をしても別居している親も子どもにかかわりがあると
この影響が軽減されたり払しょくされたりする。
だから、離婚後も両親が子どもに関わることが
子どもの健全な成長に役立つ。
これが立法事実である。

子どもを権利主体とした考え方は
長らくなかった。
第2次世界大戦後、
ボウルビー(John Bowlby)がイタリアの孤児院等を調査研究し、
愛着理論を形成していったが、
この時が子どもの視線での政策の始まりだとされている。

その後、ウォーラースタイン博士Judith Wallersteinらの
25年にわたる追跡調査研究によって
離婚による子供たちの負の影響が明らかになってきた

同研究は、追跡調査という研究手法の限界から批判されたが、
後にアメイトAmatoらの大規模統計調査によって
その正しさが証明された。
子どもは離婚によって、自己肯定感が低下する傾向にあり
同居していない親によるかかわりによってそれが改善される。
この命題を否定するエビデンスを私は知らない。

個々の実体験に基づく例外的な事象はありうるが
科学的手法を用いたエビデンスが無いということである。
現在では、離婚そのものよりも
離婚後の経済的困窮化と親の葛藤が
子どもに悪影響を与えると整理されている。

これらの科学的到達を踏まえて、
すべての先進国において共同親権制度が導入された。

だから、共同親権制度の創設という立法論を議論するにあたっては、
立法事実の存在の有無が議論されなければならないし、
比較法的観点からの論述が必須ということになるはずだ。
なぜか木村先生の立法論の議論にはこれらの視点が欠落している。

特定の誰かがこれらのことを言っていないということは
議論をしない理由にはならない。

さて、最も大事な推進理由が検討されていないので、
その後の木村先生の議論はあまり意味をなさないものになってしまっている。

特に「子どもの健全な成長」のために
よりより方法を検討する
ということが共同親権の議論なので
この議論が欠落していることは
後の議論に重大な影を落としている。

上記3点の理由付けの検討として、
「現在の法制度を正しく踏まえているか検討」されている。

共同親権の内容についてこれから議論がなされる立法論において
現行制度にそれに代わる制度があるので、
共同親権の推進に理由がないという建付けの議論になっている。


それは何らかの制度はあるだろう。
しかしそれでは不十分だから新制度を導入する
というのが立法論なので、
現行制度があるから新制度はいらない
という議論設計は、
はじめからまじめな立法論になっていない
議論の枠組み自体が新制度の否定に向かう論理の流れになっている。
外見の形式は整っているかもしれないが
実質がないように感じられる。

また
それぞれの制度が立法事実に照らして十分か
あるいは子供の福祉の観点からもっと良い制度にしよう
こういう観点が欠落している。

例えば、子どもの養育に関わることと養育費を支払うことを
切り離して議論すべきだという議論がある。
局面においては正論である。

しかし、常に連絡を取り合い、心の交流がある場合と
子どもと1度も顔も見られず、声も聞けない場合と
どちらがより養育費の支払いに積極的になれるだろうか。

理屈よりも、子どもの健全な成長を図る担保を
張り巡らせるほうが子どもの利益の観点から建設的だと思われる。

面会交流がなかなか進まないこともこれまで述べてきたとおりである。
現在、離婚前は共同親権ではあるが、
別居とともに、監護権が同居親に移り
他方の親権は事実上存在しない状態になっている。

これは、離婚すればどうせ単独親権であり、
事実上別居などによって実質的に離婚状態だから
戸籍に先行して単独親権にしようという
悪しき慣行が横行している状態である。
子どもの健全な成長という視点はない。

共同親権制度の実現によって
これらの問題の解決に向けた動きが期待できる。

要するに、子どもがいる夫婦は離婚するのは自由だが、
子どもがいる以上我慢しなければならないところは我慢しなければならない
ということだ。
これが日本を除く世界標準の考え方だということになる。

共同親権制度はこういう風潮を強力に後押しすることになる。

また、共同親権が虐待防止につながることについても理解できないと
木村先生はおっしゃる。

共同親権によって、両方の親が子どもの養育に関わることによって
一方の親が体に傷や痣をつけることはしなくなるだろう。
もう一方の親に見つかる可能性が高くなり、
親権を剥奪される可能性が高まるからだ。

教育や衛生面もしかりである。

単独親権制度は
子どもは親の所有物だという
過去の思想の遺物だという側面がある。
一緒に暮らしていても
別居親の目を気にすることで
虐待が防止される上
子どもを所有物だとする見方をしにくくなる。

こういうことはどの推進論者でも
普通に言っていることだ。
あるいは少し考えればわかる。

そもそも木村先生の論説の問題点は、
現行法制度が代替できるから新法が不要だという枠組みである。
そうして、現行の親権制度に照らして
新法の議論が間違っているとも言っている。

大事なことは共同親権の中身自体を
これから決めていくということである。
別居を前提として共同親権制度の中身も
おそらく変化が生じていくだろう。
これらの研究は既に法務省において蓄積されている。

それにもかかわらず、
現行親権制度を前提として
推進派が正しく理解していないという
その理屈も理解はできない。

もう一つ、
法律家としての議論の第一として、
日常生活は、当事者の自治で決めてゆくのが第一であり、
法律や裁判は、当事者の自治で決められない場合の
最終手段であるということ
できれば裁判所に出頭しないで
平穏な生活を送ることを
第1に考えなければならないことだ。

こういう制度があるから新しい制度は不要だ
裁判ができるから問題ない
という議論は、実務家の感覚からは
素直に受け止められない。

いずれにしても、
立法事実の検討や比較法的な検討のない立法論を
どうして木村先生はなさるのか、
どうしてそのような検討を踏まえないで
共同親権制度を否定するのか。
この点が最大の疑問である。

法律論に基づかない立法の否定をする
そのモチベーションがどこにあるのか大変興味がある。
共同親権や面会交流という
子の福祉の制度を否定するのは今回が初めてではなく
先生の一貫した姿勢であるが、
結論と立法事実や比較法を用いない議論も一貫している。

なぜ、これまでのご自身の業績が否定されるような
論を繰り返し展開されるのか
教えをいただければ幸いである。


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「自己有用感」の概念整理とメリット、いじめ防止概念としてのデメリット [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


1 「自己有用感」の概念

  現在いじめ防止について、各自治体で取り組みを強めている。
  その中で、いじめ防止に有用な概念だということで「自己有用感」というタームが使われることがある。このタームの仕様については、有益である側面を認めつつも、デメリットもあるのではないかということで取り上げる。
  「自己有用感」とは、日本の文部科学省管轄の中で、一部有力に唱えられている概念であり、ごく一部では労務管理理論の中でも取り入れられている。その定義は「他の人の役に立てたことによる満足感や自信」等とされる。
  この概念は、「日本型ピアサポート」という教育実践理論の中において、育てられてきた概念である。やや回りくどくなるが、説明をする。
「ピアサポート」とは、一般には、同じ困難な課題を抱えた者同士が、仲間を作り、助け合い、支え合う活動を言う。遺族の会とか被害者の会とかはピアサポートと言えるだろう。教育現場においては、これとは異なる意味で使われている。「ピア」(peer)を文字どおり「仲間」という概念で使用し、「子ども同士によって」とか、「教師や保護者を抜きに子どもだけで」という意味あいで使用している。イギリスの、ピアカウンセリングという活動から始まっていると思われる。イギリスのピアカウンセリングとは、選ばれた生徒がある程度のカウンセリング技術を習得し、下級生などのカウンセリングを行うもので、いじめ防止などの効果等を期待されるという。日本型ピアサポートの論者によると、ピアカウンセリングは、イギリスという上級生下級生の形を作りやすい伝統に適合するものであり、日本の6,3,3制の学校制度にはなじまないこと、カウンセリング技術の習得が困難であること、一部の優秀な生徒だけが恩恵を受けるということ等から取り入れられないと批判している。そして、カウンセリングではなく、共同活動の中で自己有用感を獲得することを目指した、日本型ピアサポートという活動を行うこととした。ここでの共同活動とは、異年齢交流、職場体験、地域交流等とされている。
  自己有用感の周辺概念は、自己肯定感、自己効力感がある。これらの概念との違いを述べる必要がある。
  自己肯定感とは、自己否定の対義語で、自己の存在等を肯定する概念である。現状に対する満足、安心感、生まれてきたことの喜び等が含まれる。自己肯定感と自己有用感の違いは、自己有用感とは他者とのかかわりの中で獲得したものであり、他者から与えられたものではなく自分で獲得した感覚であるというところにある。概念的には、自己有用感は、自己肯定感を獲得するための一つの手段と位置付けられるべきであると考える。
  自己効力感との違いも簡単に触れる。自己効力感は何らかの課題、目標を立てて、それを実現することによって得られる感覚であるとされる。違いは、自己有用感は他者とのかかわりの中で獲得するというところにある。
  自己有用感という概念は、教育上一定のメリットのある概念であると思われるが、極めて狭い範囲でのみ流通している概念である。

2 「自己有用感」のメリット

  人間の安定した精神状態が、他者との特に仲間の中での自分の存在の状況を反映しているということに着目している点は卓見だと感じる。このような自己有用感を獲得することによって、精神的安定の獲得に資することは間違いない。また、知識を詰め込む方法ではなく、体験を通じて獲得するという点にも魅力を感じる。
  また、自死リスクに関するこれまでの議論とも整合する。「役割意識の喪失」が起こると自死リスクが高まるという議論がある。例えば、勤労による収入で家族を支えていたという自負のある者が、リストラにあったり、会社が倒産したり、自らが健康を害したりして失職をすることによって、役割意識が失われ、自死リスクが高まるというような形で使われる。自己有用感は、役割意識の喪失の対義語的な概念だとすれば、これまでの議論に整合する。

3 「自己有用感」獲得過程への疑問

  自己有用感発生の活動として、異年齢交流、地域交流、職場体験が指摘されているが、教育関係の議論がよくわからないためか、私には理解が難しい。
異年齢交流は、昭和の高度成長期のあたりには普通に見られた、地域での異年齢の子どもたちの集団的な遊びのことを言うと思われる。確かに年長者は、年少者の面倒を見て、秩序をもって遊んでいたことは私も体験している。しかし、その中で、本当に自己有用感を獲得できていたのかについては疑問もある。通常みられる異年齢集団は、小学校低学年以下の小集団であると思われるが、この時期の年齢差は、力の違いに顕著にあらわれ、力の強い者に力の弱い者が従うという秩序も一方であった。また、面倒を見ている年長者は、同年齢の者たちと対等に付き合えない者が自分より低年齢で、言うことを聞く者たちを束ねていたという側面もあった。下の子どもたちは、年齢の上の子と遊ぶ楽しさ、実年齢よりも上の自分を体験した充実感もあったが、理不尽な扱いに我慢を強いられたということもあったと思う。必ずしも、積極面だけがあったわけではない。
  異年齢交流によって、仮に自己有用感が得られたとしても、それによって同年代の子どもたちのコミュニティーに有益な効果があったかということについて得心は行かない。小学校のいじめ事件で、低学年の児童に対して面倒見の良かった高学年の児童がいじめにあったという事件もあった。低学年との交流の中で自己有用感を獲得していたとしても、それがどこまで効果が持続するのかも疑問だ。いじめの加害、被害の中でそのようにして獲得した自己有用感が何かの役に立つということについて、もう少し丁寧な説明が必要だと感じる。異年齢交流よりもむしろ自己有用感論者が指摘する、昔の子どもたちが、親の手伝いをして、家庭の中で役割を果たしていた、そこで自己有用感を持ったという主張の方がよく理解できる。
  職場体験や、地域交流が自己有用感を獲得することに有効であるということは、自分の子どもたちの職場体験や地域行事への参加の様子を見てもよく理解できないところである。職場体験などは、特にその職場によって体験内容が異なる。地域の大人たちへの尊敬や、実際の職場の理解については有益な体験だと実感できたが、自己有用感と結びつくということは感じられない。地域交流について、夏祭りなどの参加をもって自己有用感を獲得するとする主張があるが、これは全く理解できない。地域交流の中で、低学年の児童を高学年の児童がお世話をするという体験を通じて、自分よりも弱い者に対していたわるとか、支えるという体験は貴重だと思うが、自己有用感という概念が必要だということは理解できない。
  また、自己有用感概念はピアサポートの議論を前提として論じられているため、ピアサポートの形態が自己有用感の概念にも影響を与えている。ピアサポート論者は、自己有用感は、大人が与えてはいけない感覚であると主張する傾向にある。
  例えば、論者は、褒め育てとの違いを強調する。褒め育てで獲得した自己肯定感は脆弱であると主張する。私は、この点は、大人が子どもの何をほめることが有効かという議論に置き換わらないものかと考えている。つまり、無条件の自己肯定感に対応をするようなほめ方、つまり根拠のない褒め方で獲得した自己肯定感は脆いところがあるかもしれない。しかし、子どもが何かできた時に、その行為と結果、あるいは行為ないし努力に対して肯定的な評価をすること、特に他者とのかかわりにおいて役割を発揮したことに対する大人の肯定的評価は、子どもの自己有用感も育むのではないかと感じている。要するにピアサポートの場面以外においても、本来自己有用感は獲得できるのだと思う。大人たちの関与失くして自己有用感を獲得できるのかについては極めて懐疑的である。
付言すると、子どもたちが家庭の中で役割を与えられないということは、このような役割に対する親の肯定評価を受ける機会が少なくなっているということかもしれない。
まとめると、論者の言うように、自己有用感は、理屈通り獲得できる物なのかということに疑問がある。特に自己有用感を普及しようとする論者が直接子どもを指導する場合を想定することはできず、自己有用感プログラムは実際の教師が実践するということを考慮した場合を想定しなければならない。また、地域交流などにおいては、教師が関与しないことも想定しなければならない。自己有用感の追求は、果たして時間や労力という費用に見合うものなのかを検討する必要があるように感じられる。

4 「自己有用感」概念をいじめ防止のツールとすることの危険性

  自己有用感の概念は、危険性をはらんでいる。自己有用感概念は、自己肯定感を獲得する方法としては意義があると思う。但し、自己肯定感についても、自己有用感の追求抜きにも獲得することもできる。たとえそれが脆い物であっても、繰り返し自分が尊重されているという体験を通じて、自己肯定感を獲得し得る。家族など基盤となるコミュニティーにおいて自己肯定感を獲得することは、家族をはなれた他者とのコミュニケーションにとっても有効に働く。
  このような自己有用感の獲得の中で、特に自己有用感を優先させて実践することについては、以下の危険性ないしデメリットを考えなければならないはずだ。
  問題点の第一は、自己有用感を獲得する条件として「誰かの役に立たなければならない」という思考、あるいは「有用なものだけが精神的安定の獲得が許される」という思考に陥る危険があるということだ。
  これは、子ども人権や子どもが学校という公的な人間関係の中で自分が尊重されていると感じる条件として、他者との中で有用でなければならない、他者の中で評価される行動をしなければならないというものを競ってしがちになる危険があるということだ。
現在、政権与党の議員から、例えば憲法を改正して、生まれながらに権利を有する天賦人権説を排斥しようとか、義務を履行した者が権利を行使できるとか、個人よりも国家が尊重されるべきだなどという発信がなされて物議をかもしている。これらの考えは、世界標準の人権概念と相いれない。日本国憲法にも反する内容である。法律家とすれば、驚愕する内容であり、良識を疑う主張であると感じる。
これらの考えは、権利や安心を獲得するためには、バーターとして他者の役に立つことをしなければならないという考え方に親和してしまうのではないかという不安が半ばを過ぎる。
このような懸念は国立教育政策研究所のリーフの記載内容によってより高まる。リーフにおいて「自尊感情」よりも「自己有用感」の育成を目指す方が適当だと明示している。この根拠のひとつとして、自己有用感の育成過程において規範意識の重要性を組みこんで育成を行うことができるという趣旨が記載されているからだ。
  ここでいう規範意識の内容や規範意識を持つための方法論などデリケートな問題がある。規範は多義的な性質をもつ内容があるからだ。例えば、「人を傷つけてはいけない」というものも規範である。これは、自然な感情と合致する規範である。しかし、行政法規、例えば建築基準法上の建物の高さを守らなければならないという高さは、きちんと法律の知識を獲得しなければ得ることができない。このように規範には自然規範というべき規範と法定規範とでも言うべき規範がある。私は、児童生徒の段階では、学校生活のルールを守るということについては、ルールである以上守らなければならないという規範意識(最小限の規範遵守の意識)を持つことは、学校運営の実務上必要なことであると思っている。しかし、いじめを防止するための規範意識を育む教育が、このように自分の感情から離れた規範、あるいは感情が追い付かない規範を無条件に守るという行動を要請するものであっては、あまり効力を期待できないと感じている。禁止事項を増やせばいじめが無くなるというものではない。必要な教育は、自然規範がなぜあるのかという規範や道徳の心とも言うべき点であり、これが相手に対する思いやりであり、相手の苦しい気持ち、怖い気持ち、寂しい気持ちなどに対する共鳴、共感の心を育むことであると私は思う。リーフレットが言う規範意識の重要性を組み込んで育成を行うという意味が、社会的に守らなければならないことを守ることを条件としてのみ得られる自己有用感の獲得を追求するということになってしまうと、日本国憲法や教育基本法などの教育主体が律せられる国家規範に反することとになってしまうという懸念が払しょくできない。
  問題点の第2は、自己有用感を獲得できた子どもたちとできないことどもたちの格差を、子どもたちが感じてしまうのではないかという危険があるということだ。
  例えば、実際の中学校の例で、グループに分かれ、それぞれグループの構成員の良いところを3つずつ発表するという指導がなされていた。クラスのリーダー格の生徒は、他者から、役に立つ点を指摘され、誇らしい気持ちになった。ところが、いじめを受けていた生徒は、全く評価されないという攻撃を受け、あるいはとるに足らないところを、例えば給食を残さないで食べる等、指摘されるにとどまった。自己有用感の授業が新たないじめの場に使われてしまった。この授業も大きな原因となり、対象となった生徒は長期不登校となった。
  いじめというまで極端な例がなくとも、また、発表しあうということをしなくても、大人の視点にしろ、子どもの視点にしろ、役に立つ、活躍する子どもと、そうではない子どもの格差が自己有用感獲得のための授業をすることによって際立ってしまうという危険性は常に存在する。これは、自己有用感が他者とのかかわりの中での評価にまつわる感情であることから、不可避的につきまとう危険なのである。
  しかし、自己肯定感の獲得や人権教育の観点からすると、このような格差を子どもたちに共有させることは問題が大きい。無駄に役割喪失感を掘り起こす危険があるからだ。人の役に立たない人間であると子どもなりに評価してしまうことは、いじめの危険も作ってしまう。
  もっとも、自己有用感を主張する論者も、子どもが役割意識を持たなくても自己肯定感を持つことを否定しているわけではないだろう。しかし、現実の実践の場面においては、自己有用感の獲得を追求し、その他の方法での自己肯定感獲得の努力をしなくてもよいのだというようにとられかねないということである。  
5 まとめ
  以上から、「自己有用感」概念は、うまく獲得すれば、自己肯定感、自尊感情獲得に有益である側面がある。しかし、実際の教育現場においての獲得過程においては不透明であり、かつ地域などとの連携には課題が大きすぎるように思われる。また、他者との関係での役割を果たすこととバーターとして獲得できるものだとすると、大いなる取りこぼしが起きるのではないかという不安と、果たした役割の程度の問題によって自尊感情が低下する子どもが生まれたり、いじめの口実になったりする不安が払しょくできない。日本型ピアサポート論者が、イギリスのピアカウンセリングに対する批判(実践のための技術の困難性と、一部の者に対する恩恵)が、結局自己有用感獲得概念にそのまま当てはまるのではないかという疑問がある。現段階においては、少なくともいじめ対策に限定して考えた場合、自己有用感の獲得を基軸とすることは時期尚早ではないかと思われる。

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正義はなぜ怒りを伴うのか(1)部活動をさぼったことによる怒りの考察 [進化心理学、生理学、対人関係学]


例えば、不慣れな道路を運転する人が
一方通行の道に逆走の形で入ってくると
優しく注意する人もいますが、
鬼の形相で正面衝突せんばかりに
攻撃をしてくる人もいます。
確かに危険な運転ですが、
よろよろと走っている場合は
逆走だと知らせればみんな改めるので、
それほど怒りを大きくする必要も
ないのではないかと思うことがあります。

この場合の怒りは
誰かが危険な目にあうからということではなく
交通ルールを破ったことに対して
抱いたようです。
いわば正義の怒りです。

今回は、
ルールを破ったことによって
具体的な誰かが直接具体的な不利益を受ける場合は
除いて考えています。
例えば、不正入試で入学をして
その結果正当な誰かが不合格になった
という場合は除くということです。

実際のいじめの事件で報道されていたものの中に
部活動に参加しないということで
非難されて攻撃されたというものが
けっこう目につきます。

この時、ラインなどで欠席者を攻撃した
生徒さんの心理こそ
ルール違反に対する怒りによるもの
ではなかったでしょうか。

なぜ彼らは怒ったのでしょうか。
怒りに任せてラインでの攻撃を加えたのでしょうか。
このラインの書き込みは、報道によれば、
どうして部活に出ないのだという
比較的穏当なものもあれば、
屈辱的なコラージュを作って添付した
というものもあったそうです。
それをグループ全体が閲覧し、
誰も止めるものがいなかったようです。

彼らは、怒りという感情に支配されていますから、
相手を倒そうという目的を追求してしまう傾向にあります。
その結果、いじめ被害者の感情をおしはかって
こういうことをするとかわいそうだからやめようとか
ここまでやるのはやり過ぎだからやめよう
等という、
共鳴共感による自己抑制が効かない状態になっています。
気持ちがつながるチャンネルが閉じられている
ということになります。

怒りとは、もともとは、
危険に対して攻撃することによって
危険を無くそうとするときの感情ですから、
何らかの危険、
生命身体、財産、名誉、感情が害されそうになっていること
を感じて発動されることが元々の人間感情です。

そして自分の危険だけでなく
仲間と感じる人間の危険に対して発動される場合も多く、
どちらかというと、この方が
容赦ない怒りになる傾向があるようです。

しかし、部活動に来ないというルールが破られても
誰の危険も生じません。
ルールを破るという本人だけが
もしかしたら不利益を受けるかもしれないくらいです。

どうもルールを破ることから
正義に反する行為だということになり、
それ自体が怒りを産んでいるように感じられます。

そしてこの怒りは、
仲間の誰かに言われなき不利益を与えた場合と
同じような容赦のないものになっているようです。

なぜ怒るのか。

当たり前ではないかという人もいるかもしれません。
ルールを破った人に対して怒りを覚えるのは理屈じゃない
とイライラしている方もいらっしゃるでしょう。

しかし、
感情というシステムは、特に怒りという感情のシステムは、
人間が生きていくために必要だから
あるわけです。
怒りの感情は攻撃によって危険を除去する場合の心の状態ですし、
恐怖の感情は逃走によって危険を除去する場合の心の状態です。

そう考えるとルールを破ったことによる怒りも
自分に対する危機や
仲間に対する危機を感じているのでしょうか。

一つの考えとしては、
進化の過程で正義が破られるとき
怒りの感情を持つようになった
という説明があり得ると思います。

進化心理学は、人間の心理は、
約200万年前の狩猟採集時代に形成された
と考えています。
この時代から脳があまり変わっていないからです。

200万年前は
原則として死ぬまで同じ群れで生活していましたし、
仲間の人数もそれほど多くなく30人から150人程度といわれており、
このくらいの人数なら、言葉が無くても
誰がどんな性格をしていて、どういう行動傾向にあるかわかるので、
感情移入がしやすい状態だったでしょう。
また、交換のできない運命共同体ですから、
仲間を大切にしたと思います。
それが結果として自分を守っていたわけです。
ルールというものを作らなくても
仲間を出し抜いたら、
仲間がかわいそうだという意識を持ち、
秩序も公平も保つことができたと思います。

多少感情移入する能力が足りない個体が生まれても、
教育の中で是正していったと思います。

しかし、どういう拍子かに
他人に感情移入することのできない個体が生まれ、
教育がうまくいっても心がついてこなかったため、
自分の利益のために仲間のもの
例えば食料を自分で食べてしまうことが
多々あるような個体が生まれた可能性があります。

これが続き、被害が重大になれば、
他の仲間は、不利益を受ける仲間を救うために
感情移入できない個体に怒りを感じます。
こうなると、当時であろうとも、
感情移入できない個体には
仲間というチャンネルが閉ざされますから、
仲間だと思わず、
人間に襲い掛かるクマや虎のような扱いとなり、
容赦なく攻撃を加えて群れから排除をしたでしょう。

しかし
この行動原理は正義を破る、ルールを破るところから来るのではなく、
不利益を受けた仲間の危険を除去する
という古典的な怒りのパターンだったはずです。

時を下って
農業が起ころうかという頃になると、
人口も増え、集落も大きくなり、
集落間の協力やいざこざも勃発しますから、
一生涯で出会う人数もどんどん多くなって行ったでしょう。
こうなると、感情移入や共鳴、共感だけでは
秩序は成り立たなくなるはずです。

集落の中に派閥みたいなものができたり、
集落間の争いになれば、
自分のグループを守るために
隣のグループを攻撃するという
きっかけが生まれてしまうからです。

仲間を守る
ということだけでは
解決がつかなくなるわけです。

そこで、大集団を規律する決まり事が生まれるわけです。
共存のためのルールということになります。
最初は、殺すなとか盗むなとかいう
共鳴、共感プラスアルファみたいなところから始まったでしょう。
自然の感情でルールを守る必要があるのだなあとか
感じていたことでしょう。
ルールは、自分や仲間を無用な争いから守るもので
ルールを破ることは
自分や仲間を危険にすることだということは
理解しやすかったと思います。

それから、もしかすると農業の黎明期ですから
ルールに従って土地を耕し
種をまき、世話をすることで
収穫が約束されるとなると
ルールはとても役に立つ
という感覚にもなったことでしょう。

これらのルールは破ると
自分や仲間の誰かが被害を受ける
ということが実感としてわかりますから、
ルールを守らない者に対して
自然と怒りを持つ関係になっていたでしょう。

しかし、人数が多くなり
利益集団の関係が複雑になるにつれ、
一般の個体にはよくわからないけれど、
ルールだから守らなければならない
というルールが作られ始めたと思います。

自然に必要だと理解できるルールと
ルールという点では同じですから、
これらのどうしてそのルールがあるかわからないルールも
破る者に対して、
自分や仲間が不利益や危険を与えられるような感覚になり、
怒りを抱くようになった。

というのが進化論的に獲得した感情の説明に
なるはずです。

ここまで苦労して説明方法考えて
文字を入力したのですが、
どうも私はこの説明に懐疑的です。

懐疑的だという理由は、
自分や仲間の具体的な不利益もないし
誰にもそれほど迷惑がかかるわけでもないのに
ルールを守らなかっただけで
相手の人格を否定するほどの
怒りを持つということがありうるのか
ということが納得できないからです。

おそらくもっと分析的に検討する必要がありそうです。
ルールを破ったことに対してすぐに怒りを持ったのか
ということを検討するべきだと思います。

この時、数学の補助線みたいに有用な思考ツールは
現代社会の怒りの大部分は八つ当たりだという仮説です。
怒りは危険を攻撃によって除去しようとするときの感情だと言いました。

しかし、現代社会の危険は
なかなか攻撃によって除去できないものばかりです。
生命身体に対する攻撃というものは
それほど多く想定できません。
むしろ日常的な不安は対人関係上のもので
学校や職場から排除されるとか、
失敗して低く見られるとか
定年退職まで収入があるような職場がないとか
就職できるだろうかという危機感が
むしろ多いと思います。
そのために家庭でねじを巻かれるという危機感もあるでしょう。

そうすると、相手が大きすぎたり
対処の方法がないということで
危機感を解消したいのだけれど解消できない
というアイドリング状態が続いていると思います。

大人も会社の上司から攻撃されても
おいそれと反撃できませんから
やはり危機感を解消したいアイドリング状態が続きます。

一言でいえば
勝てると思う相手、仲間のために勝たなくてはならないという相手
に対してだけ
攻撃によって危機感を解消する行動に出ません。
職場の上司や社会や国に対して
勝てると思う人はいませんから
危機感解消欲求ばかりが強くなっているのが
現代社会なのだと思います。

だから、「勝てると思う相手」に攻撃が向かうわけです。
ただ、何の関係もない、何の落ち度もない相手に
やみくもに怒りだすということもなかなかできないようです。
そこで、
些細な落ち度をきっかけに、
社会や会社や学校という相手に関係の無いところで起きた
危機感を弱い者にぶつける
これが現代型怒りだと思います。

上司から叱責されてイライラしていて
家に帰って子どもが反抗的な態度をした
ということで怒りをぶつけるパターンがこれですね。

逆に夫婦喧嘩をして機嫌が悪く
部下の言動が自分に失礼だと言いがかりをつけて目くじらをたてたり、
自分の上司から営業所の売り上げが低いと嫌味を言われて
部下に当たり散らすとか
そういう八つ当たりです。

些細な危機感を与えた相手に
自分が抱いている大きな危機感解欲求をぶつけるわけです。

但し何らかの危機感を抱かさせなければならない。
これが、ルールを破るということではないでしょうか。

つまり、
慢性的に危機感解消欲求を抱いていると
早くこの欲求を充足したいという
焦燥感に似たイライラを抱えている状態になるのでしょう。
こうなると、
自分が勝てる相手を探しているようなものです。

はっきり言って何でもよかったのです。
最初は,部活動をさぼるのは良くないよというか
冷静に部活動に出てこなかった理由は何?
と尋ねるところから始まったのでしょう。
この時点で怒りがあったとしても
それほど大きな怒りではなかったはずです。

(辛い部活動を休みたかったけれど休まないで自分は行ったのに
休んでのほほんとしやがって
ということを感じていたら
怒りも出てくるかもしれません。)

だけど、彼は、部活動に出なければならないというルールを破った
ということが
ラインという文字で確認されました。

彼は、ルールを破った人間という認定をされました。
ここがきっかけだったのだと思います。

ルールを守らなければならない
という形での非難をしなくてはならない
あるいは非難をしても良いのだ
という意識が生まれたのだと思います。

これがラインを通じて集団的に形成されていったのでしょう。

そうしてルールを破ったことを非難していたはずが、
非難という攻撃行動をしているのですから
いつしか怒りに転じていった
あるいは怒りが大きくなって行った。
そうすれば、集団の相手に対する共鳴共感のチャンネルは
固く閉ざされてしまいます。

また、ラインというツールの特徴ですが、
相手の顔を見て行動しているわけではないということ、
相手の悲しんでいたり、怖がっていたりという
感情を見ることができません。
相手に対しするチャンネルは全く開かれなくなります。

集団対一人という図式は
勝てるという意識を嫌がおうにも盛り上げます。
怒りを止める事情が無くなるのです。
それは攻撃を止めないことを意味します。

相手の有効な抵抗がなければ
さらに怒りは大きくなります。
怒りは危険がなくなるまで
つまり、相手が倒れるまで追いつめるためのツールです。
また、相手の顔が見えなければ
相手が苦しんでいるという想像力も機能しません。
相手の感情に共鳴するチャンネルは固く閉ざされたままです。

怒りが共有された場合の人間の攻撃は
極めて過酷になります。

やがて、攻撃しても良い相手だという
意識付けがなされます。
怒りの共有化とはこういうことです。
仲間全体に対する危険をもたらすもの
みたいな扱い、
それは、狩猟採集時代の
他人に感情移入ができないがゆえに仲間から排除された個体と同じく
人間として扱われず、
群れを襲うクマや虎のような扱われ方に
なっているということになります。

そのきっかけになったことが
攻撃された対象者がルールを破ったことにあります。
ルールを破ったことをもって
攻撃されてもよい人間
という扱いを受けてしまったようです。

誰かが理性的に止めなければ
対象の相手の神経がすっかり消耗してしまうまで
攻撃する方法があるうちは攻撃をする
これが人間の行動原理ということになります。

人間の脳は、少人数で単一のグループで生活することに
適応しているのですが、
大人数複数の群れと共存する生活には
対応しきれていないということかもしれません。

ルールや約束を守るべきだという
規範意識、道徳意識が
現代の中学生などの子どもには、
いじめに転化する可能性があるということなのだと思います。

それだけ常に心理的に圧迫されているのが
現代の中学生の実態なのでしょう。

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【考察メモ】内部告発者は、どうして報復されるのか。対人関係チャンネルと規範の効力に関する考察をてことして [進化心理学、生理学、対人関係学]



ネットを見ていたら、
職場の不正を告発したところ、
職場から不利益を受け続けているという
記事がありました。

こういう方々は、「自分は世界中から孤立している」
と自分で感じ易いです。
記事にしていただいたことは大きな応援になるので、
他人事でも嬉しいことです。

そのネット記事は大学の不正経理(裏金作り)でした。
研究分野での業者との癒着があり、
業者から裏金用の資金を取得していたようです。

内部告発者はこれを正すために
大学の責任者に告発したところ、
責任者は、告発の事実を
不正を行った研究者に教えてしまい、
上司である研究者から内部告発に対する報復として
様々な不利益が長期にわたって続いている
というものでした。

この場合に考えなければならない規範は、
「研究者は、業者から不正な利益を得てはいけない。」
というものです。

この規範の存在にはいくつか存在理由があります。
そのうちの一つには、
業者から利益を得てしまうと
変な人間関係ができてしまい、
業者に不利になるような研究を発表できないとか
そもそもそのような研究をしないとかいう問題があります。

あるいは、公明公正に行わなければならない会計をゆがめ、
恣意的な経理が蔓延して収拾がつかなくなる
という問題もあります。

極端な話は、
人間関係のしがらみの中で
不正データの作出をしてしまう
という事態もありえないことではありません。
そもそも研究の客観性にも疑問を持たれてしまいます。

こういう、「なぜそれが禁じられているか」
という本質を常に意識して感じていれば
どんな言い訳をしようとも裏金作りなどしないでしょう。
しかし、それができない事情があるようです。

常に本質を強く意識することは難しいので、
特定の行為を禁止するという必要性から
道徳や法律という「規範(きはん)」を作って、
その規範を破ると制裁が科されるということを通じて
禁止事項をさせないようにする必要があるわけです。

規範とは、平たく言うとルールです。

但し「ルール」という言葉を使うと、
ゲームをしているプレイヤーなどの狭い人間関係を規律する
というイメージがありますから
規範という言葉を使います。
規範は、ある程度不特定多数の要素のある
人間関係で通用するルールとなると思います。
国家とか、社会とか、業界全体とかですね。

規範にはさまざまなタイプがあります。

人を殺してはいけないとか
怪我をさせてはいけない
というルールは、
本来被害者に共鳴、共感することによって
自分の行動を押しとどめるという形で修正する
という形で実行できる物
つまり、人間の「自然な」心に従えば通常は守られるのであって
本来その外に敢えてルールを作る必要のないもの
というようなものも、
規範の中に入っています。

また、ここからはダメでここまでは良い
というような限界が不明で
国等が人為的に線を決めるようなものも
法律という規範として定められています。

規範、道徳というものは、多種多様です。

そこで、考えやすいように3タイプに分類を試みます。

一つは、冷静な状態、第三者からすれば
他者や仲間に対する共鳴、共感によって、
自己を規律するべきだけど
あえて規範にもなっている<Aタイプ>
(刑法でいえば、例えば
殺人 他人を殺してはいけない
傷害 他人を傷つけてはいけない
窃盗 他人の物を盗んではいけない)
(人が殺されることは酷いことだ
 人が痛い思いをするのはかわいそうだ
 人が物をとられるということは困る上精神的にもショックを受ける
 という共鳴共感を事前想定して行動を抑止する)

一つは、被害者を直感的には想定しにくいけれど、
少し考えれば、それをすること、しないことによって
第三者や社会等に対して不利益を与えることを想定でき
それが想定で切れば自然に正義感を伴いやすい<Bタイプ>
(刑法でいえば例えば
収賄 公務員は職務に関して金品を受け取ってはいけない
不正経理 経理は適正に行わなければならない
風紀を乱す罪等々)

一つは、第三者が政策的に決めて
知らなければ禁止されていることが分からないため
禁止行為をしても感情的正義感の葛藤が起こりにくい<Cタイプ>
(行政法規の中の一部等)

タイプ別に規範を破る原因は以下のとおりです。

Aタイプは、
被害を受けた時の被害者の感情を想定しやすいはずだが、
被害を受けた人に共鳴共感ができない事情があって
規範を破るという特徴があります。

Bタイプは、
具体的な被害者を咄嗟に想定できず、
比較的、高度な思考をしないと
禁止行為を行った際の不特定多数人の不利益を想定できず、
その意味で行為と被害の因果関係が
Aタイプに比べた場合はやや把握しにくい
ここに自分や仲間の利益を優先する等の事情がある場合
という特徴があるでしょう。

Cタイプは、主として、特別な免許を持っている人が
禁止事項として命令されているものの場合が多く、
どちらかというと考えても規範の内容が出てくるものではなく、
禁止事項等を覚えるしかないというところに特徴があります。
Bタイプに近く、覚えているけれど
不特定多数の利益に共鳴、共感しにくく
自分や仲間の利益を優先する等の事情がある場合に
規範が破られるという特徴があるでしょう。

ところで、私が刑事弁護人として
被疑者被告人の方々の反省をお手伝いする時、
Aタイプはもちろんですが、
BもCも
どうして、その禁止事項があるのか
ということを考えていただいています。

その禁止事項を破ることが
どうして悪いのか、
誰にどのような迷惑をかけるのか
常にここから出発します。

みんな、自分がしたことが法律で禁止されている
ということはわかっています。
だから規範意識を回復させるためには、
規範を教えていたのでは何にもなりません。

規範に引き付けた説明をすると
規範の目的、意味、効用等を
理解していくことが必要になります。

それを理解するために有効な思考が
誰にどのような迷惑をかけているか
ということをイメージしてもらうことなのです。

その人たちのケースに合わせて個別的に
一緒に考えるという作業が必要になります。

規範に関する話をもう一つ
ある収容所のようなところの実話なのですが、
一般には「決まりだから守れ」という態度でいることが多く、
「決まりのせいで不自由な思いをさせられている」
と感じ易く、決まりを守れということに反発しがちになります。

ところがある場所で、看守に相当する人が、
「この決まりが無ければこうなってしまうだろう
 そうなると、こういう人たちは嫌な思いをするでしょう
 だから、これは守ってもらわないといけないんだ」
という説明をしたところ、
収容者の人たちは、
反発が無くなっただけでなく、
自分たちが尊重されていると感じたそうです。
今では率先して決まりを守っていると
嬉しそうに言っていました。

この場合も、誰にどのように迷惑をかけるか
という思考ツールが
規範意識、決まりを守る
そしてそれが自分自身を守る
という意識を高めたということができると思います。

そして自分が規範を守ることが
自分が尊重されていることと結びついて考えられていたようでした。

被害を受ける人との共鳴、共感のチャンネルがつながると
規範意識を回復させやすい
ということを意識させられたエピソードです。

ちなみに収容所みたいなところの規範は
AタイプのものとBタイプのものがあったようです。


さて、規範を破るということを考察してみます。

Aタイプの規範違反をしてしまう場合は、
色々な事情で
共鳴、共感のチャンネルを閉じている場合
ということになります。

典型的な場面は正当防衛です。
自分が攻撃をされているので、
反撃に出る
反撃に出る時は怒りモードになるから、
相手の痛みなどについて考慮するチャンネルは
閉じられています。

自分が攻撃されているだけでなく、
仲間が攻撃されている場合も
仲間に対するチャンネルが大きく開くために
同じように、相手に対する
共鳴共感のチャンネルは閉じられます。

「正当防衛」は犯罪の成否の問題ですが、
犯罪というほど強烈な場面ではないとしても
相手がこちらを攻撃していると思えば、
反対に相手が嫌がることをやっても
それほど気にならなくなるようです。

例えば親子でも
子どもを叱っている時に
子どもが集中力がないだけなのに
同じ失敗を繰り返すと、
「何度も同じことを言わせて、」と
熱心に叱っている「自分が馬鹿にされているような気持ちになり」、
つまり子どもが自分を攻撃しているように感じてしまい、
子どもへの共鳴、共感のチャンネルが閉じられてしまい、
瞬間的に虐待みたいなことが起きてしまう場合があります。

家庭だけでなく、学校や職場でも起きるわけですが、
深入りせず、今日は話を進めます。

この時の攻撃者の気持ちは
自分や仲間を守るという意識を持ち、
そのために自分の攻撃する対象を仲間と思わない、
というモードになっています。

共鳴共感チャンネルが閉じられる他の場合として
自分の属するグループの共鳴、共感チャンネルが大きく開いた結果
グループの外の人間との
共鳴、共感のチャンネルを閉じてしまう
という現象が起きます。

典型例は、
地域の非行少年グループの一員になると
同じグループの仲間を大事にするあまり、
仲間以外の人間、一般社会に対してぞんざいになり、
粗暴になったり、たとえば万引きをしたり
ということが起きる場合があります。

彼らにとって
仲間の中で通用する規範、ルール、掟
は良く守りますが、
社会のルールを守ろうという意識は
大分弱くなってしまいます。
優先順位が下がるようです。

また、これとも別の場合では、
特定のグループに所属しておらず、
自分が世の中で孤立していると感じる場合に
社会のルールを大切にしようという気持ちが
薄れていく要因になっているようにも感じられます。

孤立による不安は
だんだん世の中全体が自分を攻撃しているという意識になり
無差別攻撃事件につながる要因になりそうです。
あるいは、自死の原因にもなります。

また、その行為によって被害を受ける相手方の顔が見えない場合も
共鳴共感のチャンネルが開かないことがあります。
量販店における万引きがこのケースの典型でしょう。

たくさんある商品の中から
ちっぽけな商品を万引きしても
誰かが困るという発想にはなかなかなれないようです。
悪いことだということは重々承知しているのですが、
(つまりこれから規範に反する行為をするという意識があるけれど)
それがブレーキにはなりません。

こういう場合の刑事弁護の場合も、
誰かに迷惑がかかるということを
具体的な事例を想定してもらい
ヒントを出しながら一生懸命考えてもらいます。

予め被害者の顔を想定してもらうことによって
次の犯罪の予防につなげようとするわけです。
誰かが窮地に立たされている時の表情
同じように困ったときの自分の体験を
重ね合わせてもらうようにしています。

規範を覚えるのではなく、
規範違反をした場合の被害者の心情を
想像する訓練をして
被害者の気持ちに共鳴、共感する力を回復する
という感じでしょうか。

規範を守ろうとするモチベーションの強さは、
共鳴、共感が一番強くて
次に正義感、規範意識のようです。
法律で決まっているから
ということは、一般の方には有効ですが、
切羽詰まった状態では、
力にならなくないやすいようです。


さて、以上を踏まえて内部告発者が
不利益を受けるメカニズムについての考察です。


そもそも規範意識あるいは正義感というものも
行動原理としての扱いは
人によって程度が大きく異なるようです。

それを強く意識して行動原理にする人もいるのですが、
それが強く意識することができず、
仲間のために目をつぶるという傾向がある人もいます。
どちらが良いということは一概に言えず、
家庭の中で一般的規範にこだわって
家族を攻撃しがちな人などはその弊害でしょう。

この規範意識の強さのギャップが
内部告発者が冷遇されるメカニズムのようです。


先ず、業者が、研究者に便宜を図る行為から見ていきましょう。

業者からしても
「研究者は、業者から不正な利益を得てはいけない。」
という規範はあるわけです。
「研究者に不正な利益を与えてはならない。」
という表現になりますが、同じことの裏表です。

業者が裏金を渡している時は
この規範をまもろうという意識が低下しているわけです。

この場合は、規範を守るというよりも優先された
強い行動原理があるようです。
例えば、
「売り上げをあげる」という至上命題が招く場合が多いと思います。
売り上げをあげなくてはならないという行動原理は、
業者の会社の内部の論理です。
共鳴共感のチャンネルが、
会社にとのチャンネルばかりが開いているようで、
会社の利益、会社内でのみ通用する規範意識が強くなり、
社会的な規範が後退してしまうということになりそうです。

具体的に見える顔が
裏金をもらって喜ぶ研究者の顔
裏金を渡して喜ぶ上司の顔
ということも、そちらにチャンネルが開きやすい事情でしょう。

これはちょうど不良グループの少年が、
仲間の掟を守ろうとするあまり
社会的規範を大切にしなくなる
ということと全く同じことです。

社会に対するチャンネルを開く
正義感を正常に保つということは、
具体的に困る人の顔をイメージできない場合は
脆くなってしまうようです。

また、研究者に対する合法的な便宜の提供と
不正な利益供与の限界が難しくなれば、
正義感の敷居が低くなる要素になるでしょう。
(例えば、研究者に報酬を出して行う講演会
 ほとんど講習会に参加するだけで、
 交通費やお土産などが支給される場合
 これが繰り返されると
 研究者に何かと理由をつけて
 金品を渡す癖がついてしまい、
 もらう方も抵抗が低くなってしまう。)

不正な利益を受ける方の研究者の
規範を破るメカニズムを見てみましょう。

その不正によって生じる不具合をイメージできない
このため不正ではなく、「このくらいは許される」
という言葉に弱い。
なぜそれが不正なのかを具体的にイメージできなければ
限界点はどんどん下がってしまう。
こうやって徐々に不正は蔓延してゆくのでしょう。
不正であってもあえて行為を行う傾向になるということですが、
もしかすると
それが不正であるかどうかも分からなくなるのかもしれません。

さてネット事案の内部告発者は
転勤で、この部署に配属されたばかりのようでした、
いわゆる悪馴れみたいなものがないために
限界点は健全に高い位置にあります。
このため研究者の行為が明らかに不正であると認識します。

転勤前にコンプライアンスのレクチャーを受けていたことも
不正か不正でないかの正しい基準が明確になっていた
原因となっているでしょう。

一瞬で不正義だと強く感じて、
これに順応しない理由がここにあります。
まっさらな気持ちでは不正義には抵抗感が生じますから、
不正に対する順応を拒否する志向もうまれます。

この告発者は
研究者たちは、重大な規範を破るものと認識しますから
社会(研究業界)を害する行為をしている者たち
という認識を持ちます。
当然同じ仲間だという意識は持ちにくくなります。
このため不正義に対する容赦がなくなり
内部告発をすることに対する躊躇は低くなります。

これに対して内部告発を受ける方
大学の責任者の意識が問題となります。

ネットのケースだと
大学責任者と研究者は、従来から面識があったはずです。
おそらく、責任者は自らが不正な利益を得ていなくても
ある程度不正が行われたことを知っていたかもしれません。

こうなると、
先ず、大学責任者と研究者は同じ仲間だという意識を
相互に持つようになります。
責任者に不正に対する反感があったとしても
研究者たちへの共鳴、共感のチャンネルが開いています。

不正に対する処分が
研究者にとってかなりきついもの
例えば停職だったり、懲戒解雇だったり
社会的立場と業界における立場を失う
ということも理解できますから
研究者が窮状に陥ることについて
共鳴共感のチャンネルが強く開いてしまいます。

社会的不正義という不特定多数というか
抽象的なものに対するチャンネルは
反射的に閉ざされてしまいます。

これが不正を見逃すことによって、
仲間である研究者を助けようとする原理です。

責任者の視点で内部告発者を見る場合、
責任者が研究者の方を仲間と認識していますから
その反射的結果として
内部告発者は仲間を攻撃する者という意識になります。
内部告発者を敵だという意識になりやすくなります。

こうなってしまうと、
内部告発者がどのような不利益を受けても
あまり気にしなくなります。
怒りが加わり、いよいよ内部告発者へのチャンネルが
固く閉じられるのです。

仲間を守るために
内部告発者を攻撃することが
正義の意識になる場合もうまれることになります。

このため、内部告発者の告発が
どんなに正義にかなうものでも
内部告発者が不利益を与えられ続けても、
可愛そうだとは思われないのです。

つまり内部告発はもともと
握りつぶされる要素を含んでいるということです。

内部告発は
しがらみのない第三者が告発を受理するシステムを
作っておかなければならない理由が
ここにあります。

内部告発を握りつぶさないシステムは
全体の組織(事案では大学)のために
必ず作らなければなりません。

握りつぶされてしまうと
内部告発者が不利益を被るだけでなく、
組織自体が危殆に陥る危険があります。
ネットのケースでも
その時に自浄努力をして再発防止をするべきなのに
内部告発を握りつぶして、
不正が温存されてしまったために
後に不正が改めて発覚し、
第三者委員会の設置をさせられて
処分もあったようです。

おおごとになってから対処するということは
とても大変です。

これは、大学の責任者が
大学全体の利益を守るよりも
不正をした研究者の利益を守りやすいことに
原因があります。

全体を守るために
敢えて構成員と接触ない人が
内部告発を受理するというシステムが
どうしても必要だということになろうかと思います。

この分析は、
内部告発者を守るためには、
不正をしてはならない
(不正の利益を得てはならない、
 内部告発を握りつぶしてはならない)
ということを強調して
例えば規範を破った者に刑事罰を科す
ということが必ずしも有効ではない
ということを示しているかもしれません。

なぜならば、
それらの不正をした人たちは
規範の存在を知っているにもかかわらず
それぞれの継続した事情から
規範を破っているからです。

但し、責任者が
研究者や業者から金品の提供を受けていたら
それは論外であり刑事罰の対象とするべきかもしれません。

また、握りつぶしたのか
調査したけれどクロの心象を得られなかったのか
そういう問題もあるので
刑事罰は危険が伴うというべきでしょう。

むしろ、これらが人間の行動原理として
あり得る行為である「エラー」としてとらえ、
エラーを起こさない工夫や
エラーを起こした場合の対処方法を
予め作っておくことが
より実効性のある方法だと思うのです。

なお、内部告発をする場合、
必ず事前にやるべきことは
信頼できる見方を作るということです。
組織を信用しきってはいけません。
組織の担当者はエラーをする可能性があるからです。

信頼できる同僚を選ぶ場合も
対象者とのチャンネルを気にするべきです。
同じネット記事の他の事例では、
内部告発に強い弁護士に相談していたため
被害が小さく終わった
という報告がなされていました。
極めて有益な情報だと思います。

とても良いネット記事だったと思います。
本間誠也さんというフリーの記者さんの記事でした。


もう一つだけ、
組織を大切に思うならば、
ネットの内部告発者のような
新しい人材を積極的に受け入れる必要がある
ということも示されていると思います。

悪馴れして組織をつぶすことを
防止してくれるのは、
其れが不正義で会うという認識が可能な人
つまり、仲間意識の低い外部の人です。

逆に言うとこれらの対策
・内部告発を受けるのはしがらみのない第三者という制度
・内部告発を受けるものが対象者から不正な利益を得た場合の制裁措置
・新しいメンバーを定期的に受け入れる(人的交流)運用
・不正か否かの基準の明確化とレクチャー
これらの対策が講じられていない組織は
信用されない社会になることが望ましいと思います。

ある程度公的な組織の社会的責任だと思います。

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共同親権制度の条件整備を通じて、その先の共同養育の実現を目指そう。子どもの利益の観点からの法制度創設を歓迎する。我々のやるべきことは。 [家事]


上川法相が、共同親権の検討を指示しました。
この時期に突然という感は確かにあります。
これまで共同親権制度の創設に取り組んでいた人々は、
想定していた議員立法ではなく、
政府が主導するということに戸惑っていると思います。

この時期の法相の指示は、
おそらくハーグ条約の実質的履行に
従わない日本社会というか、
子どもを一方の親が
他方の親から引き離すことが
それほど問題視されない風土について
アメリカをはじめとする批判に対する対処
という外圧によるという側面はあるのだろうと思います。

上川法相は、
目黒女児死亡事件と関連付けて
共同親権の導入を説明しています。
この事件の影響も
間違いなくあるものと思われます。

ちなみに、6月7日の私のブログ
【提案】児相を責める前に私たちこそが考えを改めよう!目黒5歳女児事件のような虐待死を繰り返さないための共同養育という人間らしい方法
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-07

しかし、法務省の児童虐待防止チームは、
虐待と親権の問題について
平成19年の児童虐待の防止等に関する法律及び児童福祉法の一部を改正する法律制定以来
親権の問題については調査研究を進めていました。

「児童虐待防止のための親権制度研究会」
という有識者の会議を設置し、委託研究を進めていました。
もっとも、この会議は、
虐待をした親の親権をどのように制限するか
という観点の研究で、
そのために、私も注目していました。

弁護士実務や人権擁護委員としての実務の中で
確かに親から離さなければならない虐待のケースや
これは親を援助することによって解決することができるケース
様々なケースがあり、
一律に親権が制限されることに危機感を持っていたからです。

ただ、この研究会の中で、
海外の親権制度を大学の研究者の方が行い、
研究報告書が発表されています。

児童虐待防止のための親権制度研究会報告書等の公表について
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji191.html

フランス、イギリス、ドイツの法制度の報告がありますが、
いずれも、共同親権の報告から始まっているのです。

法務大臣の指示ということで報道されるのですが、
法務省においては、このように
海外の親権制度の研究の蓄積があります。

唐突に出てきた感がありますが、
決して思いつきというものではなく、
蓄積に基づいた法務省の成果を踏まえてのこと
ということができると思います。

ハーグ条約に関する外圧ということを言いましたが、
もっと、大きな流れもあります。
それは、先進国は、上記3国だけでなく、
ほぼ共同親権制度をとっているということです。
アメリカの各州もそうですし、
お隣の韓国も共同親権制度です。

親子断絶防止法の真の不十分点 結論を押し付けずに誘導する姿勢の大韓民国民法にはるかおいて行かれている
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-03-31

これらの国々は、キリスト教の影響が強く、
もともと自由に離婚ができず、
裁判所の関与が必要であったところが多いです。

日本は離婚届を出せば離婚できますから
それらの国々との事情はだいぶ違います。

しかし、結果的に自由に離婚ができないことから、
離婚後の子どもの福祉を保障しやすくなった
ということが言えるでしょう。

それでは、共同親権制度は
日本の保守勢力から反対されるかというと
必ずしもそうではなく、
共同親権制度を取り上げて掘り下げている
一番のメディアが日本会議の機関紙
だというところが興味深いところでもあります。

離婚後というか、離婚の前後に関わらない
共同親権制度ということは、
不可避的な流れですので
どのみち共同親権制度は実現すると思います。

問題はその先です。
制度があってもそれに反する実態が蔓延すれば
何の役にも立たないからです。

共同親権制度の内容は
国によってバリエーションがありそうです。

基本的に親権は、
法定代理権と監護権
ということになります。

子どもに変わって契約書を作成したり、
親権者として同意の署名をしたり
というのが代理権です。

子どもがどこに住むか
どのように育てるか
ということが監護権だと考えてください。

監護権の内容についても揺れていますので
この程度に抑えているとよいでしょう。

夫婦が子どもと同居していれば
まあ意見の対立はあるけれど
何とかなるものですが、

離婚して離れて暮らしている場合、
いちいち相手方の同意を得なければ
携帯電話一つ与えられないということは不便です。

どうやら、
日常家事に関することは
その時子どもと暮らしている親が自由にできるけれど、
子どもの将来を決定づけるような選択は
共同で行う
ということが共同親権の内容になりそうです。

それにしても、重大なことに限ったとしても
離婚した夫婦が話し合わなければなりません。

そもそも、
一方の親とだけ暮らし続けるということが
共同親権の元では許されなくなり、
育児についても
時間差となるかどうなるかはともかく
ともかく共同で行うということになります。

離婚に伴う子どもの心理に対する
負の影響は緩和されると思いますが、
これですべてが解決されるわけではありません。

その一番の証明が、
現在でも離婚前は日本においても共同親権制度
となっているのですが、
夫婦の別居が起きると
共同親権制度が成り立たなくなってしまうからです。

共同親権の幻想と、決めつけDVの共通性
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-06-29

共同親権が制度として成立するためにも、
実質的な共同養育を実現させるためにも
そのための条件づくりをすることが
必要なことだと考えています。

一方の親が死亡するなどして
どうしても関わらない場合はともかく、
生きていて子どもを親と会わせないということは、
ほぼ必然的に子どもに負の影響を与えてしまいます。
(各ご家庭の程度の違いは大きくありますが。)

片親疎外の原理と面会交流ないし共同養育の論理 離婚後も「両親」というユニットであることの意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-25

しかし、それがわかっていても
相手に子どもを預けることが不安だという
現実的な問題、
離婚した相手と話し合いができないという
現実的な問題
子どもが別居親に会うことを躊躇しているという
現実的な障害があります。

法律的にこうしろと言うだけでは、
実際は、子どもにとって効果的な制度にならない危険があるし、
日本の現状のままでは制度を形骸化させる可能性もあると思います。

これらの現実的な問題を
ハードルを低くするような努力、
制度設計、
ソフト面、ハード面の整備が必要だと思います。

例えば、
離婚に伴う共同養育に関する講習会
これは、双方の親だけでなく
子どもに対しても
安心して双方の下で生活してよいんだ
ということを説明することも必要なようです。

極端に子どもに対して、
相手の悪口を吹き込むことの是正。
何が悪口になり
何が子どもの負担になるか
どのように子どもの負担になるか。

そういう知識を与えることが必要ですし、
そのためには、こういうことを研究することが必要です。
どうすれば、離婚した相手と話すことの
抵抗感が下がるのか
こういうノウハウが確立されるべきだと思います。

さらには、実際の話し合いの
サポートをする機関も整備されるべきだと思います。

これらは、任意の団体ではなく
少子化対策の意味合いも込めて
国や自治体ががっちりサポートするべきだと思います。
どうしても任意団体だと費用が掛かりすぎて
多くのご家庭では無理が生じているからです。
その分子どものために使うことができなくなる
という問題があると思います。

共同養育に伴う養育費の各自負担
(同じ期間子どもを養育するのであれば、
 どちらかがどちらかに養育費を支払うということが
 軽減されてしまう。あるいは無くなる。)
に対する補助制度
(根本的には男女の賃金格差の是正)

だから、一つには
法務省の共同親権実行研究会をつくり、
子どもの共同養育を実現させるという観点から
どちらが悪いということを捨てて、
現実の障害を一つ一つ洗い出して
緩和させる研究をするべきです。

(その行きつく先は、究極には、
離婚予防の対人関係学だと
私は思っています。)

さらにそれに向けて
当事者の意見をどんどん出して
制度を充実させていく工夫が必要です。

共同親権制度はゴールではありません。
共同親権制度を実現してくための
現実の条件づくりをしていく過程で
「共同養育」の基盤整備をしていく
ということがとても大事だと思います。

いずれにしても共同親権制度が実現することは
大いに歓迎すべきだと思います。
その理由の一つは、
これまで、離婚後の子どもの福祉、利益
という観点からの法整備が無かったのですから、
一大転換期になるということです。

理由の二つ目は、
国家予算がつくということです。
共同親権導入の条件づくりにも
予算がつくことでしょう。

共同親権制度が創設される以前の
面会交流についても
国や自治体が公費で支援することが
共同親権制度実施の条件整備の
情報取得に最も効果的だという観点から
充実を期待し得るのではないかと思うこともあります。

いずれにしても
子どもにとってチャンスであることは間違いありません。
政府に期待できないとか
騙されるというようにそっぽを向くのではなく、
本当に子どものためになるような制度にするため、
当事者や支援者こそが
充実した制度にするためにどんどん提言するべきではないかと
私は考えています。

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【メモ】子どもを連れて別居した夫婦を再生する方法についての検討の途中経過 [家事]



妻が子どもを連れて別居したケースで
一時期著しく困難だった面会交流が、
最近では定期的に行われるようになり、
時代の変化を感じているところです。

しかし、依頼される方々の本当の願いは、
家族がまた昔のように
一緒に楽しく暮らすことです。

方法はあるのかということで、
今回はリクエストもありましたので、
とりあえず、現状行っている対策と
困難のポイントを途中経過として記録し、
次につなげることをしてみようと思います。

1 これまでうまく言ったケース

20代のケースでは、
離婚調停をしても、
妻が妊娠をして調停が取り下げられたケースや
連絡が取れないなと思っていたら同居していたケース
入籍されていたケースなど
弁護士の間でも、不可思議なのは男女の仲
なんてことを言われていました。

繁殖期という時期の人間の行動は
理屈で割り切れないことが多いようです。

それとは別に
DV事案で警察が出動し、
保護命令は出なかったものの
シェルターから法テラスで弁護士受任のケースで
結局弁護士を使わないで、自主的に解決して
今も仲良く暮らしているご夫婦がいらっしゃいます。

このケースでは、
当初から男性が、自分自身に怒りを向け、
すべての原因を自分で引き受け、
女性の事情をすべて飲み込み、
女性を一切責めないまま
戻ってくることを切望したケースです。

但しこれらのケースは典型的なケースではありません。
典型的なケースとは、
・最終子出産後2年くらいまでに起きる
・同居中暴力はない
・子どもは父親になついている。
・別居後、どんどん拒否反応が激しくなる。

2 出産後の脳の変化に対する理解

先ず、相手の状態を知るということが鉄則でしょう。

先日のブログで、
妻の不安の理由の一つ、大きな理由として
脳科学の成果を取り入れた分析をしてみました。

妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17

誰かが悪くなくても
夫に責任がなくても
出産した女性は、子どもに神経がとられる
夫に感情移入できなくなる。
その結果、夫が何を考えているのかが分からなくなり、
一緒にいることが怖くなる。
ということでした。

<困難なポイント>

今までなんでもなかったことに、
妻が急に拒否反応を起こすわけですから
夫は戸惑うわけです。
今までよかったのだから、これからもやる
という思考をとってしまう。
(自分は悪くない)
頭の中に出産後に妻が変化するという情報が入っていても
つい、むきになる反応をしてしまう。

妻は、「自分が嫌がることをやる夫」
ということで、ますます嫌悪感と恐怖感を増大させる
という悪循環があります。

また、妻の変化や限界に対して
怒ったり、説教したり正しさを押し付けてしまう。
できないことをやれと言われる辛さは
かなり大きいもののようです。

3 相手を変えようとしたら自分が変わってみせることが必要

意思を持った人間の行動を変えることは
とても難しいことだということから出発しなければなりません。

自分が変わって、それをみせることを先行することが
残された方法ということになりそうです。

結論を押し付けるのではなく
こちらが望む方向に誘導するということです。
だから、どうでもよいことをあれこれ要求することをしない
という工夫も必要でしょうね。
自分でやれることは自分でやるということかもしれません。

結論を押し付けるのではなく、
自分が変わることによって
変わることはできるんだと
こういう風に変わればよいのだという
サンプルを提示することになります。

可能性と方法を示すと
なんとなく自分もと思うことを期待しています。

<困難なポイント>

自分の言っていること、していることは
正しいから修正する必要がない
という考え方が
もっともなことでもあるのですが
やはりネックになります。

だから変わるのは自分ではなく
相手だということになってしまう。

双方これが貫かれてしまうと
何も変化は生まれません。

4 対人関係はチームだということを意識する

妻を正そう、正しい行いをしてもらおう
自分が悪くないのに否定しないでもらいたい
という
対立構造が夫婦の中に持ち込まれると
収拾がつかなくなるようです。

妻と自分、そして子どもたちは
一つのチームであり、
チームの不具合を修正し
チーム状態を向上させるという発想が必要
だということです。

例えばサッカーなら、
日本代表なんていう立派なチームでない
普通の町内のチームなら
足の遅い選手もいれば
キック力のない選手もいます。

足の遅い選手がいた場合
別の選手が動かなければなりません。
「あいつが足が遅いのが悪い」
と言って、努力をしなければ
勝てるわけがありません。

足が遅くても能力を発揮できるポジションにおいて
他の人が走り回る。
少しでもチーム全体のパフォーマンスを向上させるのがチームです。
誰かが悪い、正しければそれでよい
という発想ではなく、
チーム全体の状態をよくする
という発想が必要だと思います。

別居しても離婚しても
客観的には
子育てという一つの目標に向かっている
チームになる。
相手にも主張しなければなりませんが
自分でもそれを徹底することが必要でしょう。

<困難なポイント>

どうしても子どもを連れていかれているから
自分が妻から攻撃を受けている
という意識が知らず知らずのうちに支配的になります。
相手に攻撃行動、怒りを持ってしまうと
同じチームの一員という感覚が失われてしまいます。

また、妻が子どもを連れて行くことにより
子どもにも害悪を与えているという意識は
子どもを守ろう、子どもの敵は妻だ
ということになってしまうので、
むしろこっちの方が
妻はチーム外という意識を持ちやすいかもしれません。

これは、この事案に必ずついて回る
困難なポイントです。
ここをいかに克服して、
それを妻に知ってもらうか
ということが最大のポイントと言っても
過言ではないようです。

5 自分の修正行動を相手に示す

自分の行動を修正しても
相手に示さないと意味がありません。
なかなか、シャイな人が多いようで
このアッピールが下手なようです。

また、いざ示そうとすると
押しつけがましくなってしまう人も多いようです。
この辺のさりげなさを演出することは
相手の気持ちに立って自分の行動を
予め計画する必要がありそうです。

5 少ないチャンスを生かす

チャンスとは、
面会交流が行われていれば、
面会交流の受け渡しの時、
子どもを通じてのアピール
(これは、つまり、母親をほめればよい話なので、
 ルールに反するということはないでしょう。)

調停をやっているのであれば
調停委員を通じて自分の思いを伝えることができますし、
陳述書に共感を示すことを書くことができます。

わずかのチャンスを逃さずに
相手が安心する情報を提供し続ける
ということが作戦です。

安心する情報は敵意がないことを示すことで、
分かりやすく言えば、感謝と謝罪です。

調停も面会交流もできない
そもそも連絡が取れない
という場合は、
妻の親とか、共通の友人に伝えるしかないでしょうね。
その際に注意しなければならないことは、
妻の居場所を探っているというそぶりを示さないこと、
これが大事です。
探していないよということを言うと逆に変ですから
しばらく距離を置くというつもりならば従う
という言い方になるのだと思います。

だから伝言を頼むのではなく、
自分の心境を聞いてもらう
というアプローチが良いと思います。

<困難なポイント>

但し、子どもを連れていかれていますから
なかなか感情がついてきません。
これはもっともなことです。

どうしても、相手を責めたい
謝罪がほしいということは人情です。

しかし、そのことが主たる目的に
いつの間にかなってしまうことが多くあります。
子どもの前で、
妻に対して優越する情報を
提供してしまうことがあります。

「子どものために」
ということの行動だということはわかるのですが、
妻から見れば、
・これ見よがしに自分ができないことをしてみせる。
・子どもに対して自分が劣っているということを
 アッピールしている
等という行動になってしまっている
それに気が付かない
ということは多々あります。

これが正しいことだと思ったら、
正しさを求めることを封印する
という思考が有効かもしれません。

あくまでもやり直す場合ですが、
そのためには割り切りと徹底が必要なようです。

わずかなチャンスを生かさず
逆にオウンゴールを繰り返す人は
かなり多いです。

6 努力の方向

先ず、相手は、夫といることに不安があります。
何を考えているのかわからないということから出発します。
安心できないようです。

一つは、過去の出来事に依存してよりを戻すよりも、
新たに、「夫は安心できる」
という記憶を刷り込んでいくというスタイルが有効だろう
ということがあります。

安心できるということは
攻撃されないということ
仲間はずれにされないということ

要するに仲間として尊重されているという
実感を持ってもらうということです。

相手の嫌がることをしない
感謝を中心として、こまめに謝罪すること
相手の欠点、不十分点、失敗を
責めない、笑わない、批判しない
ということはわかってきました。

<困難なポイント>

相手がしてほしいことをして
相手がしてほしくないことをしない
という発想に立てない。
良かれと思ってやっていることなのですが。

自分がしてほしいことが
相手は嫌なことということはたくさんあります。
これは一般論では語れません。

派手なことをしないと伝わらない人
さりげなく、自然に受け入れてもらいたい人
ただ一緒にいることが一番な人
行動をしたい人
人それぞれ様々です。

ここをよく考える、
妻はどうしてほしいか
どうされるのが嫌なのか
それができない。

自分はこうしてほしいと思い
相手の気持ちを考えないで
あるいは相手が嫌だというサインを出しているのに
間違っていない、子どものためだ
ということで実行してしまう人が
けっこういます。

7 悪い点を修正するよりも良かったところを強調する

これはまだ未消化なところがあるのですが、
誠実に反省をすると、どうしても重くなることがあります。
重すぎて気持ちが暗くなるとデメリットがあるようです。

反省することは良いとして
良かった時のことを感謝を込めてアッピールする
ということが必要なようです。

良かった時期があることは
直ちに記憶がよみがえらないことであったとしても
やはりアドバンテージになる可能性があります。

出来事、旅行とか、遊園地とか、外食とかを
記述的に思い出しても
あまり効果が無いようです。

思い出してもらうのは
その時楽しかったという感情です。
思い出してもらうというよりも
その時の楽しさを追体験してもらう
というような感覚が良いのかもしれません。

遊園地で観覧車に乗ったというよりも
寒かったので、肉まん食べてほっこりした
とかそういう感情というか
皮膚感覚に語り掛けることが有効かもしれません。




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死刑に賛成する人も反対する人も、亡くなった方々のご冥福をお祈りすることと、心が殺伐になることを食い止める方法 [進化心理学、生理学、対人関係学]


オウム真理教の関連で、
今月13名の死刑が執行されました。

死刑に賛成、反対にかかわらず、
一般国民の視点で
死刑執行に伴う負の効果が
あまり論じられていなかったのではないかと
そう思っていたところがあり、
少し考えてみました。

賛成反対に関わらず、
無防備であることは危険なことだと感じたからです。


先ず、死刑の報道を受けて嫌な気持ちになる
ということはどう言うことか
どう対処するべきかということを考えます。

次に、自分はへっちゃらだよ
死刑は当然だよという気持ちが本当ならば
それは少し深刻な状態であると思いますので、
その理由について述べたいと思います。

本拙文は死刑についてのある程度の言及がありますので、
閲覧は各自の責任でお願いします。
なるべくあっさりと書くことを意識して書いてはいます。
前半部分の最後までお読みいただくことをお勧めします。

本拙文の目的として死刑制度の廃止か存続か
という議論の一方に加わるつもりはないことを
お断りいたします。


<前編:死刑の報道を聞いて嫌な気持ちになった人向け>

死刑が執行されたと言えば、
反対と賛成にかかわらず
嫌な気持になる人が多いと思います。

何とも言えない嫌な気持ち
胸糞悪いとか
複雑な気持ちとか
あるいは閉塞感だったり
いろいろな表現があると思います。

また、その程度も人さまざまで
一瞬嫌な気持ちになったけれどあとは忘れているよとか
夢に出てきそうだとか、
人間や命について考えこんでしまっている
という程度の違いがあるでしょう。

死刑執行を聞いて嫌な気持になるとき
これは心の変化が起きているだけでなく、
体の中で確実に変化が生じています。

人によってだいぶ違いがあるのですが
執行を聞いたことにより
人間の命の危険があることを認識し、

副腎髄質ホルモンが分泌され
逃げたり戦ったりしやすいように
心臓の打ち方が大きく早くなったり
血液の流れに変化が生じて筋肉に血流が多く流れるようになったり、
副腎皮質ホルモンが分泌され、
内臓に有害な影響を与えたりしています。
このような体内の変化の
意識面の状態が嫌な「気持ち」なのです。

これは、受刑者の危機感に共鳴、共感して
起きてしまっている現象です。

共鳴、共感というと
その人に親近感を覚えていたり
賛成、理解をしている場合だけに
起きるもののように思われるかもしれませんが、
およそ人間の危機的状態を知覚すれば
多少なりとも生理的変化は起きてしまいます。

これが群れを作る動物である人間の特性です。

危険に直面している人本人は、
逃げたり戦ったりして危機を脱出するために
からだの変化が必要です。
交感神経が活性化し副腎髄質ホルモンを分泌し、
副腎皮質ホルモンが分泌されるわけです。
これによって筋肉を動かしやすくして
走って逃げたり、手足を動かして戦ったりしやすいように
からだの中が変化しているのです。

危機に直面している本人ではなく
見たり聞いたりしているだけの人間でも、
同じような体の中の反応、変化が
起きてしまう現象が、共鳴、共感です。

現代社会においては、共鳴、共感は無駄な話かもしれません。
しかし、大雑把に言って200万年前は合理的な反応でした。

当時人間は、ほとんど一生
同じ人たちと群れを作って暮らしていたわけですが、
群れの仲間が逃げているなら、
見ているほうも恐怖を感じて逃げて
群れの仲間が戦うなら、
見ているほうも怒りにまみれて戦うことで、
危険から自分たち群れを守り、
結果として自分を守って生き延びてきました。

あるいは
仲間が襲われていることを目撃した場合
怒りをもって別の仲間が攻撃をして仲間を助ける
ということですね。

仲間の危険を自分のことだとして感じることができれば、
群れ全体で行動することができ、
それだけ、危険から逃げ伸びる確率が増えるわけです。
だから、群れの仲間の危険であれば
同じ生理的変化が生じることは合理的だったのです。

この共鳴、共感が、
他の動物に比べて取り柄がなく弱い人間が生き延びてきた
群れを作る仕組みです。
大雑把に言えば200万年前の生活スタイルです。

現在はマンションのように同じ場所に住んでいても
挨拶も交わさないような人間関係ですし、
隣で襲われている人を助ける人も少なくなりました。

しかし、脳の構造は200万年前からそれほど変わりません。

当時は「人間」と言えば群れの仲間だったため、
人が襲われていると思えば
いちいち確認しなくても群れの仲間のピンチということで
迅速に行動に出ていたのでしょう。

その特質が受け継がれてしまっていますから、
相手がだれであろうと
極端な話、人間の形をしているものが危険に直面していれば
勝手に共鳴、共感してしまっている
そういうもののようです。

死んでしまった人にも共鳴、共感は働きますから、
人は死んだからと言って粗末に扱えず、
きちんと埋葬手続きを行い、
死者を供養するという
仲間の死に対する共鳴、共感による精神的混乱から
対処する文化を育んできたのでしょう。

死刑執行の場合は、さらに厄介なことがあります。

死刑は、
執行までは、まったくの健康体でいる人間が
執行によって命を奪われるということです。
しかも、執行の場面では、
抵抗することができません。
確実に命を失うにもかかわらず
危険からまぬかれることができない
抵抗することもできない絶望があります。

この絶望に共鳴、共感してしまうことが
厄介なことなのです。

一度、共鳴、共感によって、人間の体が危険を感じて
危険に備えた変化をしているのですが、
その危険を解消する方法がないということで、
何とか危険を解消したいという
その気持ちだけが勢いよく空回りをしてしまう危険があります。

これがまさに、
言いようのない不快感、
胸糞悪い感覚
閉塞感
という嫌な気持ちの正体でしょう。

つまり、危険を感じ
危険に対処する方法がないことを感じている
そのことに共鳴してしまっているということです。

絶望を回避するためのシステムは
人間の脳に限りなく組み込まれています。
それだけ絶望を感じることは
今後生きていくことに深刻なダメージを与えます。

死刑執行のニュースを聞いたという
単独の出来事では心配ないかも知れませんが、
その他の事情、もともと精神的な疲労が蓄積していたとか
そういう事情が積み重なっている場合には
生きる意欲が削られる危険があると思います。

死刑を執行された方々に対して
無意識に共鳴、共感してしまっているという側面があります。
これについては、やはり、
これまで育んできた
死者に対する文化的方法である
冥福を祈るということを素直に行うことが
心を軽くする方法であろうと考えます。

ところが、死刑を執行された方々のご冥福を祈ることが
不道徳ではないかという心理的制約があることも事実です。
一つに、死刑を執行された人の犯罪による
被害者やその遺族の苦しみは、
国民の犯罪の記憶が薄れても薄れないからです。

確かにそうかもしれません。
死刑の犯罪を振り返り、
被害者の方の苦しみに思いをはせ、
無くなった方のご冥福こそ
優先してお祈り申し上げる。

とても大事なことだと思います。
私は、亡くなられた方皆さんのご冥福をお祈りします。


<後編:人の死に鈍感になることの怖さ>


嫌な気持ち=絶望の追体験を回避する仕組みとして
怒りを抱くという方法があります。

死刑執行をされた人たちを
人間とはみなさないという思考パターンです。
怒りは、対象をせん滅させるときの感情ですから、
仲間ではないという気持ち抱いています。
怒っている対象には、共鳴、共感は起きにくくなっています。
そのための怒りだということもできるでしょう。

被害者ご本人や遺族ご本人であれば、
むしろ怒りを自然と持つことができるでしょう。
私なら死ぬまで怒るでしょう。
自分や、家族というかけがえのない仲間を
加害され、殺されればもっともな話です。

そのような自然な怒りは良いのですが、
結果として怒りがあおられることについては
警戒が必要です。

死刑報道があると
そもそもどんな犯罪を起こしたから死刑になったという
報道がなされます。
あるテレビ局は、
選挙速報よろしく
執行された都度、
顔写真に執行済みのシールを貼ったと言います。
怒りを、執行された人に向けようとする行為だと思います。

この怒りには、大きなデメリットがあります。
それは怒りが長続きしないということです。
もし、執行済みシールで
その時は盛り上がったとしても、
少し時間をおくと
かえって大きな嫌な気持ち
自己嫌悪が襲ってくることになります。

人間を死に至らしめたことに
喜びを感じた記憶というものは
自分自身を蝕む危険性があります。

怒りという方法も一つなのですが、
人の死に対して鈍感になるということも
絶望の追体験を感じなくて済む方法です。

人が死んだって何とも思わないよ
ということですね。

実は、これが怖いことです。
人間性が阻害されていくことです。

人間の気持ちに対する共感するチャンネルを
自ら閉ざしている可能性があるからです。
群れの中で尊重されて生活するということが
人間が安心して生活できる状態です。
人間の生理的な健康を後押しする生活スタイルです。

そこでは、群れの仲間に対する共鳴、共感によって、
自分が群れから尊重されているということ実感します。
他者への共感のチャンネルが開いていることが
安心の前提条件になっているようです。

これを閉ざしてしまうと、
自分が安心して人の中で暮らせなくなる危険があります。
周囲の人間が自分をどのように思っているか
全くわからない
この場合は、大変不安になってしまいます。

逆に考えると
人間は、色々な人が物理的に近くにいるけれど
自分に敵意を持っている人はいないだろう
という暗黙の了解の中で
見ず知らずの人の中で生活しているということになります。

この暗黙の了解が成り立たなくなる
これが大変恐ろしいことです。

こういう人は危険を常に感じ、
危険を回避しようと常に感じていて
その結果ある人は人の中から逃げようとしたり、
その結果ある人は絶えず誰かを攻撃したり、
自分を攻撃したりして
不安を解消しようとする危険性があります。

もう一つ
共鳴、共感のチャンネルを閉ざし、
他人の命、感情に鈍感になってしまうことは、
自分の命に対しても鈍感になってしまう危険があります。

これがかなり厄介なことです。

人間はなぜ簡単に自死することができないのかというと
それは死ぬことが怖いからです。
死ぬのが怖くなくなると自死が起こりやすくなります。
戦争体験や悲惨な犯罪被害の体験
そういう死と隣り合わせの体験をしていくと
死が怖くなくなっていくようです。

この場合も他者との共鳴、共感のチャンネルが
閉ざされて、孤立化している状態になります。

リストカットなどの自傷行動も同様です。
リストカットをしなければ心の平衡を保てない事情は、
他者との共鳴、共感のチャンネルを開いていることが
自分の安全を脅かした体験があるからだと
考えられないでしょうか。

私は、これに、
人間として尊重されない体験
仲間として扱われない体験も
同様に死ぬことが怖くなくなっていく
原因になると私の実務を通じて、
つまり、いじめやパワハラ、虐待事件を見て思います。

自死に親和する体験だと考えています。

他人の不幸があっても
自分が安全ならどうということはないと
そう思うかもしれません。
しかし、そこに厄介な事情があるのは、
人間の共鳴力、共感力です。

他人が尊重されない、仲間として扱われない
ということをされている人を見ると
およそ人間が大切にされないものだということを感じ、
その中には無意識に自分も含まれてしまうようです。

原始的な反応ですし、無意識の反応ですから
他人と自分の区別をつけて反応することが
難しいようです。

人間が大切に扱われない究極が
殺されることです。
つまり死刑執行です。

この人が大切に扱われない、命を奪われる絶望の
共鳴、共感が起こらないということは、
死ぬことの恐怖を感じさせにくくなり、
自死に近づいてしまう危険があると思います。

また、そのようなことに馴れていくことは
死の危険に鈍感になって行くことです。

この究極の形態が自死なのですが、
自死に至らなくても
人間を大事に思えなくなることで

犯罪を起こしやすくなる
(他人に苦しみを与えることに抵抗を感じなくなる)
他人を攻撃しやすくなる
夫婦や友人などの人間関係を大切にしようとしなくなる。

そういうことが起きてしまうわけです。

犯罪の罪深さとは、
被害者の周りの人の人間性を傷つけるという
二次的、三次的な被害を与えることでもある
その上、死刑が執行されればされたで、
さらにその傾向を強めてしまう。
犯罪の罪深さは、
単純ではない罪深さが本当はある
ということだと思います。

それは、被害者とは関係の無い一般国民も
程度はだいぶ違う、質的に違うとは言っても
人間性が阻害される被害を受ける
というものであることを
考えなければならないと思います。

自分の家族、子ども達、
自分の愛する人たちを守るために、
人はどんな人でも死を悼まれる存在であると
せめて思うことが
人間性を削り取られないための
有効策になると考えます。

先ずは、犯罪の被害に遭われた方々のご冥福を
心よりお祈り申し上げることが必要だと思います。

そして、罪深い人だとしても
国家秩序のために命を落としたのですから
無くなった後でご冥福をお祈りすることに
後ろめたさを感じなくても良いのだと思います。

そして、同種の犯罪が行らないように
ご自分のできる活動を行うことが
とても有効な行動であると感じています。

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片親疎外の原理と面会交流ないし共同養育の論理 離婚後も「両親」というユニットであることの意味 [進化心理学、生理学、対人関係学]

片親疎外とは
「離婚や長期間の別居で、
 子どもが一方の親とだけ同居することによって、
 家族同居の間は、別居親との仲が良好であったのに、
 別居後は、別居親を拒否するようになることを通じて、
 子ども自身の自我の統一が不全になる等
 子どもの健全な成長が阻害されること」
ということになると思います。

以前、私が実務で体験した
片親疎外の実例について報告したことがあります。
両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10

この時は、「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary
という心理学の論文からアプローチしたのですが、

最近の脳科学からのアプローチが
案外事態の単純かつリアルな説明になるのではないか
と思いましたので、
説明を試みてみます。

先ず、前提として、
「人間の脳は、
 対立している両当事者のうち
 一方に共鳴、共感すると 
 他方に対しての共鳴、共感が
 起こりにくくなる。」

「人間の脳の共鳴、共感の力は
 案外それほど豊かではなく
 限界がすぐに来てしまう」
という仮説を前提としておきます。

もう一つ注意点として、
実際は、子どもと同居する親は
母親とは限りません。
母親も別居を強いられることはたくさんあります。
ただ多いのは母親が子どもと同居する場合ですので、
説明しやすく理解しやすいために
同居親を母親、別居親を父親として説明します。

さて

夫婦の別居を子どもから見た場合、
それまで両親というユニットのもとで生活していたのに、
子どもは突然、父親と会えなくなります。

子どもにとって、両親はユニットであり、
二人の人格が独立しているとは感じていません。
一緒に生活する時間の長い方に共鳴することは多いですが、
分離して考えることはできません。
(思春期くらいにようやく把握するようになるようです)

だから、「お母さんとお父さんとどちらが好き?」
という質問に対して
両者を区別して認識していないために
戸惑うことがあります。

ところが、別居によって、
ユニットの半分が無くなったのですから、
子どもは大変怖い思いをするそうです。
父親が自分の元からいなくなったという認識をするようです。
子どもらしい自己中心的な認識です。

そうすると、
父親がいなくなったのだから
母親もいなくなるのではないか
という不安が起きてしまうようです。

つまり子どもである自分が
天涯孤独になるのではないか
という漠然とした不安です。
相当怖いことだと思います。

この不安の解消のために、
現在同居している母親との結びつきを強めるよう
無意識の意思が働いてしまいます。

母親に対する感情移入が強くなります。
これが一つ。

もう一つは、
母親がそばにいること、
母親が離婚後の何らかの不安を抱えていると
精神的に不安定になることがあります。

この場合、子どもの年齢と個性によって
あるいは長女等という立場の役割感によって、
違いはあるようですが、
弱い者(この場合母親)を守ろうという
群れを作る人間の本能が活性化してしまい、
母親への感情移入が
さらに強くなってしまいます。

両親の元で生活している時は
母親、父親のどちらかだけへの感情移入をせず、
バランスをとって成長していきます。
その結果、徐々に両親への感情移入が薄れ、
子ども独自の世界である
幼稚園や学校の中で、
先生や友達への共鳴、共感する力も
育まれていきます。

ところが
特別な事情によって、
母親への感情移入が強度に起こるようになると
つまり
母親がどういう気持ちなのかということに
常に注意を払い、
母親に積極的に共鳴しようとするあまり、

共鳴、共感のキャパがいっぱいとなり、
母親以外の他者への共鳴、共感の
力が弱くなってしまうようです。

弱い者を守ろうという正義感は強いのですが、
友達である同年齢の子どもたちの
等身大の心情については理解することができないため、
四角四面な奴
と敬遠されるようになるのだと思います。

片親疎外の現象として、
思春期の頃、自我の確立がうまくいかず、
自分とは何かということに苦しむ
ということが指摘されています。

これもうまく説明がつくようです。
同年代の子どもたちに
共鳴、共感ができないということが起こるために、
片親疎外の子どもは
学校等の中で孤独を感じます。

人間が他人を怖がらないのは
同じようなことを考えて、
同じような行動をするだろうという
暗黙の約束事があるからです。
人間どうしの暗黙のルールによる安心感があるからです。

このルールがあてにならないという体験をしてしまうと
(暴力や虐待などによる孤立ですね)、
PTSDやパニック障害、不安障害が
起きてしまうのではないでしょうか。

片親疎外が強すぎる場合、
そのようなトラウマ体験がないにもかかわらず
同年代の人間に対する共鳴、共感ができず、
安心感を抱くことができないため、
常に不安な状態になることもあるようです。

可愛そうなことは、
思春期は‘つがい’になるための準備期間なので、
異性からの承認要求が強くなるのですが、
異性の前の人間の部分の共鳴共感ができず、
コミュニケーションがうまくゆかないので、

絶望的な思いをしたり
逆に著しい反発を感じたりして
不安定になります。

十代半ばで将来を悲観し、
自分を否定的に感じてきて、
引きこもり、リストカット等で
自分の葛藤を対処しようとするように
なってしまうことも出てきます。

私が目の当たりにしたケースは
こういうことだったように感じられます。

但し、ここまで重篤な事態に必ずなるわけではなく、
友達に恵まれたり、先生に恵まれて
バランスを失いながらも支えられる
ということが多いかもしれません。

こういう場合は、
友達や先生への共鳴、共感が働くようになるので、
孤立感が解消されると説明できるでしょう。

但し、母親に対しての感情移入が強く
父親に対して感情移入できずに拒否感が強くなると、
自分が両親から(特に母親)独立した一人の人間だ
という感情が起きにくく、
かつ、同年代の子どもたちとの共鳴共感が弱くなり、
孤立を深めてしまうと
孤立している自分というものが強く意識されるのですが、
その想念を持て余してしまうという感覚になるのでしょう。

他者と違うところがあるところを肯定的にとらえられず、
個性の違いは不安ばかりを抱かせるのかもしれません。


片親疎外のもう一つの特徴である
別居親である父親への拒否感情ですが、
これもうまく説明ができるようです。

しかも、片親疎外が
同居親である母親が
父親の悪口を言わない場合でも起こる現象だ
ということも併せて説明ができてしまいます。

つまり、子どもは、
分離不安と、接触時間が長いことから
母親に対しての感情移入を強めてしまいます。

この反射的効果として、
別居している父親への共鳴力、共感力は
能力が残されていないため
枯渇してしまいます。

記憶というか、思い出すという作業が
過去の出来事の追体験による共鳴、共感だとすれば、
父親への共鳴、共感装置が壊れている状態の場合は、
追体験による共鳴、共感ができないのですから、
思い出すという作業もできなくなるのです。

その結果、父親との楽しい思い出ということが
感情を伴わない記録的な出来事になってしまい、
父親側が大切にしている同居時の出来事も
子どもにとっては、
現在の自分とは別の過去の自分
とでもいうような記憶に変容してしまうことがあるようです。

(これは、当たり障りのない面会交流が行われただけで
 父親への共感が瞬時に復活し、
 劇的に記憶がよみがえるということを
 何度か目の当たりにしています。)

別居後に父親が
手紙を出したり、学校を訪問したりすること
親が会えない我が子に会いたいという心情は
子を持つ親であれば理解できることなのですが、
既に片親疎外が完成され、
母親への共鳴、共感の思考パターンが確立すると
不愉快な、あるいは恐怖を伴った
感覚になるようです。

でもそれは、子ども本人としては、
母親の思考パターンであることを理解せずに
自分の思考パターンであると感じています。

母親は父親の悪口を言う必要がないのです。
子どもは、
自分が生きるための仕組みとして、
母親への感情移入を強くさせ、
自分の感情と母親の感情が
区別がつかない状態になっているのです。

その結果、父親の感情を受け入れる能力が枯渇し
共鳴、共感できない大人ということで
拒否する感情に支配されるわけです。


さて、このまま子どもが大人になることで
支障が出ないということがあるのでしょうか。

私は、先ほど言った通り、
母親以外の他者との共鳴、共感がある場合は
社会性が育まれますので、
自己肯定感、自尊感情が無くなることがない
ということを目撃しています。

しかし、引きこもり等、
社会とのかかわりが断たれている場合は
かなり深刻な状態になるようです。

さらに、友人関係が成立していても
母親とも心理的葛藤が生まれてしまう場合もあり、
この場合は
孤立感が進んでいくようです。
共鳴、共感の混乱が生じてしまい、
このために他者とのかかわり、他者への感情移入が
スムーズにできないようになるのではないでしょうか。

それとは別に、表面的には、
父親にだけ拒否感情が集中し、
父親以外には円満な人間関係が築かれる
という現象が見られることがあります。

一つは、それでもよくよく見れば、
成人男性に対する理由のない拒否感や
友人関係の中でも自己肯定感が少なく、
病的にすぐにくじけやすくなっている場合もあります。

二つは、そもそも、自分の父親という
遺伝的に近い人間を否定的評価することは、
自分に対する否定的評価につながることが少なくありません。
そのことを自覚するからこそ
父親の拒否感情が強くなることもあるようです。
爆弾を自分の心の中に抱えていることになります。

父親との面会が窮地を救った例もあります。
思春期を過ぎたお子さんの事例で、
父親との面会が長期にわたって断絶していた事例で、
お子さんが深刻な心理状態になった事例があります。

思春期以前は、比較的自由な面会交流によって
父親への共感のチャンネルが確保されていたのですが、
突然、面会ができなくなっていました。
自分の夢のためにハードな努力をしていたお子さんでしたが、
よくよく考えると
母親が父親に認めてもらいたいという願望から
子どもへ圧力がかかっていたのかもしれません。
その夢の実現に黄色信号がともったころ、
心理的に破たんが生まれました。

両親どうしのコミュニケーションがうまくゆかず、
母親の援助サインは、
父親を攻撃するアクションになってしまいました。
双方に代理人がつき、
両親が争っている場合でないこと
本当に必要なことは父と子のかかわりであることを理解し、
面会を復活させたことにより、
子どもは、今まで取り組んでいた夢を
自分の夢として再構成し、
立ち直ることができたようでした。

双方の代理人が行ったことは
争いをやめるということだけです。
あとは、親子が解決したのでした。
家族で解決したということになると思います。

このように、
子どもは、放っておくと
脳の構造というか、神経の働き方によって、
母親への感情移入と、
母親の意思、感情の取り込みを行ってしまいます。
それは生きるための仕組みだということになります。

だから、父親への共感のチャンネルを開けておくことは
子どもの将来にとってとても大切なことだと思います。
できるだけ自由に、
そして母親から沈黙の拒否感情を受けないで
「お父さんとあって良かったね」という
楽しい体験にするように工夫することは
子どもの健全な成長にとって極めて重要なことだと思います。

それは、同居親である母親だけの義務でなく、
母親を励まし、面会に対する肯定感を引き出す工夫をする
父親の義務でもあります。

離婚して、別居しても
子どもの別居親に対する共感のチャンネルを
確保することによって
子どもに同居親だけのチャンネルだけにせずに、
社会に向けてチャンネルを用意する
これが面会交流や、離婚後の共同養育の
生理学的、原理的意味になりそうです。

離婚後の両親というユニットの形、意味は
双方これで十分だと考えた方がよいかもしれません。

離婚は、相互の否定ではないのです。
当事者ですから、
強い言い分が色々とあるでしょう。
しかし、人間関係は、良い悪いという二元論では割り切れません。
どちらかが悪かった、よかったということよりも
タイミングだったり、環境だったり、
つまり、一緒にいる時間、労働時間、経済状態
親の健康状態や自分の役割、
自分の健康状態だったり
共感チャンネルの開け閉めの訓練だったり
そういう原因が大きくなって
夫婦というチームとして成り立たなくなった
ということだと、
第三者としては常々強く感じています。

離婚は、自分が相手から否定されたのではなく、
相互に、この人と一緒に生活することに

「向いていなかった」

ということに尽きるのではないでしょうか。

離婚をしても子どもがいる場合、
共同して子育てをすると言っても、
元の家族を再現するわけではありません。
子どもの共感のチャンネルを開ける
という作業をするだけと言えばするだけです。

その範囲で、子どものために
淡々と事務をこなせばよいのです。
双方それ以上望まず、
望むときは子どもとは別の機会にするということを
心がければよいと思います。

ただ、父親も母親も孤立している場合
ストレートにSOSを出せないし、
SOSを出せばよいのだということに
気が付かないことも多くあります。

人間の限界に優しい人の援助によって
無駄な「つまり」を無くしていく
そういう仕組みがあればよいと思います。
それは、共同親権を実質的に実現するために
不可欠な機関だと思います。

前に考えた制度を載せて今回は終わりとします。

家事調整センター企画書
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

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