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存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究 [家事]

夫が仕事から家に帰ったら
妻や子どもと家具などが消えていて
行方も分からないという
突然の子連れ別居は、
それほど珍しい事例ではなくなっています。

事前の話し合い抜きに
妻が行動を起こすケースの中には、
妻が不貞を成就するために行うケースや
逆に実際に夫が言動で妻を追い込んでいる
という極端なケースもあるにはあるのですが、

大半は、
妻は夫のDVから逃れるために行動を起こしたと主張するのですが、
DVの具体的内容が語られることはなく、
夫からすると、どうして妻が子連れ別居をしたのか
理由を理解できないというケース群です。

このようなケースの多くで、
妻に精神的問題があることが見られます。
病気の有無については夫がそう判断しているのではなく、
実際に裁判などに診断書が出されるケースや、
裁判所によって妻に理屈のつかない不合理な行為がある
と認定されるということです。

妻に限らず

「人間は理由なく不安になる生物である」

ということを先ず理解していただきたい。
理由なくというのは、
夫がDVを行わなくても、
他の人間関係に思い悩まなくても
ということです。

離婚裁判に見られた疾患で一番多いのは
甲状腺機能の異常です。
亢進も、低下も両方見られます。
内科疾患ではC型肝炎ですが、
これはインターフェロンの副作用ということがあるかもしれません。
夫婦仲が悪くなった時期に妻がプレドニンを継続的に服用していた
という例もありました。
精神科の病名では
不安障害が多く、うつ病がこれに続きます。
病名はわからないものの投薬から推測すると
統合失調症の診断が出ていたのではないか
という事例もあります。
パニック障害、産後うつ、更年期障害、等の病名もありました。

妻の疾患以外では、
子どもが先天的障害を抱えた事例が多いです。
最近では子どもが発達障害だと診断された事例が多いのですが、
うまれながらの障害を子どもがもっている事案も多いです。

同居時の妻の発言などから
子どもが先天的な障害を持って生まれてきたのは、
母親である自分に原因がある
と多かれ少なかれ、自責の念を持ってしまうようです。

子どもが先天的な障害を持っている場合、
その子どもを連れて別居するケースもありますが、
障害のない子どもだけ連れて
障害のある子どもは連れて行かないで
別居に至るケースもあります。

このような妻たちに共通することは

漠然とした不安を抱いていること

です。

その不安の内容とは、
本人もなかなか気が付かないのですが、
家族の中で、自分が尊重されていないと感じること
極端に言えば、追放されるかもしれない
一人ぼっちになるかもしれない
という危険を感じているようです。
家庭が安住の地、帰るべき場所になっていないようです。

つまり、妻の不安の始まりは
夫による積極的加害行動がない(弱い)
場合でもありうるし、
実感としてはそのような場合が多いように思われます。

問題は、なぜ、

「漠然とした不安があると
ありもしない夫のDVがあると思いこむようになるのか」

というところにあるでしょう。

例えば甲状腺機能に問題がある人の大半は
離婚をしないわけです。
単に病気から妄想が生じるという
短絡的なメカニズムではないことは間違いありません。
何か理由があるはずです。

先ず、理解していただきたいことは
原因がどこにあるかに関わらず、
妻の心理状態としては、
不安で居ても立っても居られない状態になっている
毎日が生きづらくて、楽しいことがない
という深刻な状態になっている可能性があるということです。

そうです。夫の行為が原因でなくても
家族がそのように苦しんでいるということを理解していただきたいです。

さて
不安を抱くと、妻に限らず、人間に限らず

「不安を解消したいという要求」

が生まれます。
不安を解消したいという要求に沿って
恐れをもって逃げる行動を起こすか、
怒りをもって攻撃する行動を起こしたりします。

不安・危険の意識
     ↓
 不安解消要求を抱く
血液の変化、思考の変化   →  不安解消行動がみつからない
     ↓                ↓
 不安解消行動(闘争、逃走)    不安解消要求の増大
                      ↓
                  不安を解消するためなら何でもする

これに反して不安を解消する行動が見つからなければ
不安解消要求が弱まることがなく
どんどん大きくなってゆきます。

不安解消要求から逃走、闘争等の不安解消行動への流れは
動物が危険を回避するための仕組みですから、
生きるための仕組みです。

それにもかかわらず、
不安解消行動が見つからなければ、
生きること以上に、不安を解消する要求が大きくなってしまいます。

「死んでも良いから不安を解消したい」

という意識になるわけです。

不安解消要求が起きていれば
逃げ始めなくても、闘い始めなくても
血液の流れは逃げたり戦ったりするための変化が始まっています。
脳の機能自体も
余計なことは考えずにひたすら逃げる、ひたすら戦う
というモードに入っています。
余計なこと、つまり複雑な思考が停止ないし低下しています。

これが極端な二者択一的思考、悲観的思考の原因です。

からだは逃避モードないし戦闘モードに入っているのに
不安解消行動が見つからない
これは大変危険な状態です。
「死ねば、不安が解消される。」
と思いつくと、明るい気持ちになってしまうこともあります。
それだけ不安解消要求は、強烈な心理作用のようです。

家庭の問題で自死に至るということは多くはないのですが
心中という形態をとるので、記憶に残りやすいようです。
不安解消要求の肥大は大変危険なことです。

さて、妻の不安は、本来は漠然としたものですが、
妻が一番大切にしている群れが家族の場合、
家族から追放されるのではないかということが
一番の不安になります。
漠然とした不安は、大事なものがなくなるのではないか
という形になりやすいという事情があるようです。
一番悪いことが起きるという悲観的傾向を反映しています。

だから、「離婚」とか「出て行け」とか「終わりだ」
という言葉は絶対に禁句にしなければなりません。


こういう場合は、共通して以下のような気持ちになるようです。
自分が尊重されていない。
自分が軽く扱われていて、
いてもいなくてもよいように思われているのではないか。
具体的には、
自分だけ損をさせられているのではないか。
自分の実家(ルーツ)が馬鹿にされているのではないか。
自分の気持ちを無視されているのではないか
自分のことや子どものこと、家族のことを
自分が決めることを許されていない。
自分は子どもや家族の奴隷だと思われているのではないか
等々の気持ちになることが多いようです。

もともと原因のない不安ですから
不安解決行動は見つかりません。
このため不安解消要求だけが肥大していきます。

「離婚をして、夫と関係なく生活できれば
不安がなくなる」
という考えになることがあるようです。

構造は、自死の構造と類似しています。

第三者から観ると
相手を好きすぎて自滅していく人は
大変多くいらっしゃいます。
とてもいたましい出来事に映ります。

夫と別居、離婚というアイデアが出てしまえば
そっと誰かが背中を押しさえすれば、
不安解消要求が肥大化しているために、
子連れ別居の行動に出てしまう
どうもそういう形が基本にあるようです。

付随的な話ですが、
妻のヒステリーを抑え込まない方がよいということは、
ヒステリーや逆切れを起こすということで
妻が不安解消行動を自発的にやっている
ということだからです。
「配偶者のヒステリーは抑え込まないほうが良い。賢い対処法」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-31

また、ヒステリーに寛容な姿勢を示すことで、
自分が尊重されているということを実感できます。
ありがたく受け止めるべきなのでしょう。

<夫側の原因>
夫は、妻の不安を解消せずに増強させていることが
多く見られます。
・汚いこと、嫌なこと、面倒なことを妻に押し付けている
・妻のやることなすことに否定評価すること
・意見が違うと、無駄に論理的に又は無駄に大声を出し制圧すること
・それができないとお前にはわからないと否定すること
・妻や妻の両親、兄弟を否定すること
・妻の至らないことに説教すること
・子どもの前で妻よりも自分の能力が上だという結果になる行動をすること
 (子どもが生まれる前に妻から褒められた調理すら、
  子どもが生まれた後に嬉々として行うと
  妻が不安になることがあるようです。)
・子どもの前で妻に対して論評することは増強理由でしょうか。
・一緒にいる時間が短い
夫としても、妻に八つ当たりをする意識はないとしても、
知らず知らずのうちに妻の不安を増強していることが通常です。

論理性、道徳性、正しさが夫の行動原理ですから、
自分が間違っていないという意識になってしまうと
妻が傷ついていることが分かりにくくなります。

自分が間違っていなければ
妻の方が悪い、自分は関知しない
ということになってしまいます。

第三者から観ると
妻が風邪をひいたのは自分が風邪をひかせたわけではない
だから看病しない
と言っているようなものです。

一段階ギアをあげて
妻が苦しんでいるのだから
仲間として何とかしてあげよう
という気持ちになることが大切ですし、

自分が悪くなくても苦しみを緩和してあげよう
という発想になるべきなのです。

ところが、こういうことは誰も教えないので
自分がしていることが相手に打撃を与えていることも知りませんし、
何とかしてあげたいという気持ちはあっても
何もできないということになってしまいます。
そもそも相手が苦しんでいることすらわからない。

妻は、夫に何とかしてもらおうと詰め寄りますので、
かえって、自分が責められているように感じてしまう。
苦しくなって(夫に不安解消要求が起きて)
妻を突き放す形で解消してしまう。
すると妻はますます不安になる。
こういう悪循環が起きています。

対策として
家族の間に、正しさとか、道徳とか、論理性さえも
持ち込むべきではないということです。
あくまでも家族の感情が少しでも上を向く
ということを価値観にするべきなのでしょう。

<支援者の原因>

前に、配偶者加害相談事例と面会交流調停申立が
極めて密接に関連しているというお話をしました。
行政などの支援の問題は統計上明らかです。
危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11

先に名古屋地裁の判決で示されたように
配偶者加害保護事業が目的外使用をされている
という判示がなされましたが、
ようやく事態を正面から裁判所が認めたという感があります。

本来、夫が妻の不安を増強するかどうかはともかく、
夫にそこまで原因があるわけではないのに、
妻に精神的不安定があると
行政や司法は、
夫の精神的虐待が原因だと決めつける傾向がありました。

決めつけるとは、
妻が夫のDVの危険性を強く主張しないのに
夫からも事情聴取をすることなく、
夫の精神的虐待が「存在する」と決めつけることです。
そうして、夫は妻と子どもの行方が分からなくなるので、
事実上家族から引き離されてしまうのですが、
夫はどうすることもできないという事態に陥ります。
当然自死の危険性も高くなります。

決めつけ行為は行政のあらゆる場所で見られます。
自治体は妻からの申し出だけによって住民票を秘匿します。
児童相談所の中には、別居している子どもを一時保護し、
妻の言い分だけをもって、妻に子どもを引き渡し
夫が子どもと会うことすらできない状態にします。
裁判所は、妻の身体生命の重大な危険も認められないのに
保護命令を出すケースが、残っています。
家庭裁判所すら、妻側の警備の要請を
無条件に信じて、複数の職員を
あからさまに警備させて夫の神経を逆なでしているところがあります。
警察も、ひところほどではないにしても
妻からの申立によって、些細な行為もストーカーとして警告し、
警察署に連れて行って、暴力をふるったことの無い夫に
「二度と暴力はふるわない」
との誓約書を書くようにせまるところもありました。

妻が不安優位な精神状態にあっても
夫がその原因になっているのかは別の話なのですが、
別の話だと当たり前のことを言うと
「DVに理解がない。寄り添っていない。」
と言われる、上司から評価されるわけです。
だから、夫に何らかの虐待があると考えることが
女性に寄り添う姿勢だとどうしようもないことになっています。

妻はもともとDVなんて受けていませんから、
家に帰ってクリスマスを祝いたい、お正月を迎えたい
というのですが、
2時間でも3時間でもかけて
それは命の危険があると説得した結果、断念してもらった
と有頂天になっているとさえ思える
報告書を読んだことがあります。

後に、DVはなかったと裁判所で認定されても
行政が責任を認めて夫に補償した
という話は聞きません。

それでその結果、子どもの成長に問題が生じたり、
妻自身が恐怖を固定化されている
という事案はたくさん見ています。
「支援による子連れ別居は、女性に10年たっても消えない恐怖を植え付ける  女の敵は女2」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-12-10

もっとも「寄り添い」支援が有害であることは
夫婦問題に限りません。
裁判でも、事情が分からない支援者が
弁護団と当事者の打ち合わせの後で、
それはなんぼなんでもおかしいとか言いながら、
打ち合わせ結果と異なることを当事者に吹き込むことがあります。

弁護団と当事者の信頼関係がなくなるのですが、
その後当事者は、解決不能の裁判に
膨大な時間とお金を費やして
徒労の結果となることが殆どです。
それでも支援者は、その時間とお金を償うことはありません。

さて、それでは、妻は、どうして
行政の言った、ありもしないDVがあると
思い込むようになるのでしょう。
これが思いこみDVなのです。

夫はありもしないことを妻が主張しているのですから
妻が嘘をついている、嘘をつかされていると感じますが、
妻は、次第にそれが真実起きたことだと
記憶が変容しているようなのです。

一つに不安解消行動が見つからないで
不安解消要求が増大している時、
記憶の短期障害が起きています。

新しい出来事の記憶が定着しない
という現象のようです。

但し、自分の不安が現実化したと思われるときだけは
記憶しています。
だから、自分がヒステリックになって
意味不明の行動をして
(家のベランダから外に出ようとする行動、
 裸足で外に走りだそうとする行動
 興奮して夫を連打する行動)
危険回避のために手足をつかまれ、
場合によっては転んでしまう

そうすると、意味不明の行動をしているという
自覚も記憶はなくなっているのです。
もともと記憶していないという方が正確かもしれません。

強く痣になるくらいに手足をつかまれた、
畳に転がされた
という結果だけが記憶されている
ということが起きるようです。

常日頃、夫からは暴力を振るわれていないのに、
その時だけ、つかむとか転がされるという暴力があった。
ということだけは自分の記憶なのですが、
しかし、なぜそのように夫が暴力をふるったのか
前後関係の記憶がない
ということが起きています。

このような短期記憶障害は著明な精神症状ですが、
通常は、恐怖や驚愕が起きている時の症状だと
説明されています。
こういうこともあって、
「短期記憶障害があることから、恐怖体験をしたのだろう
つまり、夫からDV被害を受けたのだろう」
という流れになっているようです。

肝心なことは
妻が嘘をついている、真実を隠しているという事案よりも
実際記憶がない、あるいは
痣や転がった畳のことはよく覚えていて
自分が暴力を振るわれたのではないか
という不安だけが存在しているということです。

人間は、記憶が曖昧であるとき、
適当な事実があったとして記憶の隙間を埋める
ということをするそうです。

逆に言うと、
つじつまがわからないことは
何とか心の中だけででも
整合性のあるストーリーを作り上げたくなる動物のようです。

実感としてなんとなくわかります。
自分の両手首を見たら痣ができている
記憶の始まりで自分が畳に寝転んでいて
夫が上から見ている
という記憶だけがあれば
どうしてそうなったのか気になるし、
何らかのストーリーを作らないと
落ち着かないということはあるように思います。

これはなぜ記憶というものがあるのか
ということに関わってきます。

記憶がなければ
危険だとわかっていることを行ってしまうので、
あっという間に命がなくなるからです。

何が危険で、どうやって危険を回避したかということを記憶して
危険を回避して生き延びるために記憶というものがあると
考えられたら考えてください。

そうすると、自分に痣ができているという結果が
どのようにして起きたかということは
知りたいことだということになりますし、
記憶が欠落していれば何らかのストーリーを作って
危険回避の方法があると納得して
安心したいということになるでしょう。

そうやって、真実が知りたいと思っている時に
妻の支援者が
「それは夫のDVですよ」
と言えば、つじつまの合った話が完成しますから
「夫からDVを受けた」
という記憶が作り上げられるわけです。

しかし、実際はDVを受けていないので、
自分に痣ができていたり、寝転んでいる事情を
詳しく質問しても出てこないのです。

これは、実際は存在しない身体的DVの記憶が
作り上げられる過程です。

もう予想がついていると思うのですが、
存在しない精神的DVの虚偽記憶の作り方も同じです。

自分が不安を抱えていて、解消行動もないということは
実際にかなりのストレスフルの状態です。
場合によっては、猛獣にかみつかれそうになっている状態と
同様なストレスフルになります。

命の危険はないけれど、
不安解消要求が慢性的に持続しているために
精神的な消耗は猛獣の場合よりも大きくなるからです。
人間の不安解消要求に耐えられる時間は
ごく短いもののようです。

耐性期間を超えて苦しみ続けている人にとって、
「あなたが苦しんでいるのは
夫の精神的虐待が原因だ」
といわれれば、そうなのかと記憶が書き換えられるのです。

妻の方も、
自分の苦しんでいる原因がある
言葉で説明できる
というと、人間の危機回避のシステム上
大変楽になります。
夫から離れさえすれば
不安が解消できると思って
そのアイデアに飛びつくわけです。
これは生きるための仕組みである以上
妻の立場に立って考えると
やむを得ない側面もあるように思われます。
(と思うことができますか?)

但し、どのような精神的虐待行為なのかは
なかなか言葉で説明をすることができません。
ようやく支援者が聴き取ったエピソードが
毎月5万円しかお金を渡されないということならば
「それは精神的虐待だ。DVだ」
と高らかに宣言しているようです。

しかし、実際の事例では、
旦那さんの賃金が手取り20万円程度で、
妻は専業主婦。
電気、ガス、水道などの公共料金は夫の通帳から引かれ、
子どもたちの分を含めた保険のお金も
そこには含まれない、
コメやみそなどは夫が買い
ほとんどおやつ代というか小遣いなのです。

無理やりDVに仕立てようと根掘り葉掘り尋ねられ、
ようやくヒットした話なので、
妻も実はこうだとは言えなくなるようです。

あとはシェルターにでも行ってしまえば
携帯電話は取り上げられ、
自由に家に帰ることもできなくなります。

保護命令の申立書の用紙が渡され、
名前を書いて、アンケート用紙に記載すれば
申し立てることができます。
この時、妻も半信半疑な人がいるらしいのですが、
裁判所は保護命令を出したと言っています。

やはり自分は夫から命を奪われそうになっていたのかと
新たな恐怖感情が生まれるきっかけになるでしょう。

ある人は、もう離婚が成立したと嘘を言って
離婚調停を依頼したことになっていた弁護士費用を
法テラスに払って、
手紙を出しただけの弁護士に報酬も支払う約束をして、
夫の元に逃げ帰りました。
離婚の成功報酬は夫が支払いました。

現在、妻の不安とその不安による家庭崩壊については、
私以外それほど言っている人がいるようには思われません。
勉強不足であれば幸いだと思っているくらいです。
肝心の内科医が、家庭崩壊の危険の啓発と
不安に対する対処方法について
あまり興味を持っていないようです。

人間が家族など人間関係を持っていれば
その人間関係が壊れることの予防をしなければならないと思います。
これが現代日本の科学では欠落しているというのは言い過ぎでしょうか。

また、何らかの妻の支援の啓発では
夫の家事参加、共同家事でお茶を濁されることが多いようです。
できないことをやれということで、
妻の不安は解消されず、
夫のストレスも大きくなって行き、
しわ寄せが子どもへの八つ当たり
ということは心配しすぎでしょうか。

一昔前までならば
夫婦は大家族や、地域コミュニティーの中で
お互いへの対応を学びながら、
年寄りに怒られながら
夫婦として長年暮らしていたわけです。

今はこれがありません。
隙あれば、夫婦仲を壊して実家に戻そうとする
親が増えているように感じてなりません。

家族という、弱いユニットですが、
人間が安心する場所として機能すべき場所を
国民世論で育てていく必要があると
痛切に感じています。

行政や自治体という妨害者を乗り越えて
家庭が崩壊するメカニズムを研究し
たくましく幸せな家庭を作るために、
もっともっと国民的議論、研究が巻き起こすことが
今求められていると思われてなりません。

もっと力があればと思わずにはいられません。

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日本の自殺対策は道半ば うつ病対策から環境改善総合政策への移行と対人関係学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



日本の自死対策のトップとも言うべき方の
お話を聞く機会がありました。
印象的なことは、
これまでの自死対策は、うつ病対策だったが、
現在の対策は、環境改善に移行してきた
というお話でした。

私は、弁護士の立場から
業務や付随活動で自死を扱ってきた経験から
あるべき自死対策は環境改善だと
言い続けてきました
これがようやく受け入れられたと感じ感激した次第です。

しかし、実際の自治体や国などの自死対策の現状を見ると、
うつ病対策から環境改善への移行は
道半ばであると思います。
自分自身についても、
多かれ少なかれそういう発想に立ち切れていない
ということを折に触れて痛感します。

ここで誤解を避けるための説明が必要でしょう。
うつ病対策を止めるべきだと言っているわけではないことです。
うつ病が改善されれば自死に至らないということもあることです。

問題なのは、これまでは、うつ病対策に重点を置きすぎてきた
ということです。
これには理由があります。

うつ病が自死を招く可能性があるということは
医学的に承認されてきたことです。
うつ病以外の要因については、曖昧模糊としていました。
このために自死対策が医学的に承認されたうつ病対策になっていた
という側面があると思います。

また諸外国の自死対策において
うつ病対策がとられていたという事情もあります。

しかし、うつ病対策に偏重している国よりも
環境改善政策を織り交ぜた北欧などの国の方が
自死者の数、率の減少がみられた
という事情もでてきました。

また、内因性のうつ病以外でも
多重債務による自死、過重労働による自死、いじめ自死
等によって、
外部的事情と自死という因果関係も
社会的に認知をされ始めました。

WHOも自死は防ぐことのできる死であるとし、
社会的要因も強調するようになった。
国も自死は、追いつめられた末の死だとの認識を示すに至りました。

このような背景事情からもうつ病対策偏重から
環境改善を含んだ総合政策に移行してきたわけです。

さらに
うつ病対策偏重には
重大な限界があったことも指摘しなければなりません。

うつ病対策が、うつ病者に対して、
治療を充実させ、社会復帰の諸施策を講じていく、
その結果、生きる意欲を取り戻すという一連の政策ならば、
極めて重要であり、現代においても必要な政策です。

しかし、従来の自死対策は、これとは異なっています。
うつ病者を「気づき」(発見し)、精神科医療につなぐ
そのためのゲートキーパー養成事業に
という図式化された政策を行ってきていました。

ところが、うつ病者を見つけることは
実際には困難なことです。
北海道大学名誉教授の山下格先生の
精神医学ハンドブックでは、
重症うつ病者を除くうつ病者の圧倒的多数は
うつ病を隠すと指摘されていますし、

実際に私が接しているうつ状態の人たちも
よくお話してくれているところです。

相手に心配をかけたくないという気持ちが
自分のうつを隠すということを
自然に起こしてしまうようです。

このため、医者も気が付かず、
順調に治療をしていたつもりが
突然の自死を招いてしまうことがあると
山下先生は注意喚起をされています。

実際は自死のサインなどなく、
あったとしても事前に把握できるものではありません。
それにもかかわらず、
うつ病を見逃した、自死のサインを見逃したと
そういう発想になりやすく
自死者を防ぐ役には立たないにもかかわらず、
自死者の周囲に自責の念を植え付けるだけの
理論になってしまっていたのが実情でした。

また、精神科につなぐのは良いとしても
つないだ後の対策もなく
医師任せになっていたという問題点も指摘しなければなりません。

主訴ごとに(不安だ、眠れない、焦ってしまう等々)
重大な副作用を持つ薬の種類が増えていくという
多剤処方の問題の改善や
居場所のない、引きこもるしかない社会の状況の改善についても
必要性すら浸透されていないのが現場でしょう。

ひとたびうつ病になると
風邪のように短期間で治癒することは多いわけではなく、
長期間社会復帰できない状態が続くことも少なくありません。

うつ病対策に偏重していたにもかかわらず、
うつ病対策自体が結果として十分なものではなかったのです。

そうして、
多重債務や過重労働、いじめなど
うつ状態に陥らせ、判断力を奪う要因をそのままにして
うつ状態になってから対策を立てるということに
批判が起きていたことは自然のことでした。

国は、このことに気がついて、
現在各自治体に
「事業の棚卸し」というユニークな名称の指示を出しています。

これまでうつ病対策とは思われなかった事業に
自死対策の効果があるということを指摘し、
各自治体に事業の自死対策との関連付けという
再評価を求めました。

しかし、各自治体では、
従来の自殺対策=うつ病対策
という図式が浸透しすぎていて、
国がサンプルとしてあげた事業だけが、
その理由も理解されないまま
自死対策関連事業とされているという側面も否めません。

これもうつ病対策偏重の弊害でしょう。


うつ病対策から環境改善を含む総合政策にかわるということは
自死の理解に対する変化も必要となります。

それは、一言で言えば
「自死をする人は、自死になじむ特別な個性のある人
ではなくて、
誰でも同じ環境に立たされれば、
自死をする危険がある。」
という人間観にたつことです。

こういう考えになかなか立つことは難しいようです。
原因として、
臨床医学にしても、臨床心理学にしても
「個別のクライアントの治療」という観点の学問であり、
「当人の症状をどのように改善するか」
という発想になりがちである。
原因をクライアントの中に探す宿命を負っているように感じます。

端的に言えば、ある医学雑誌で、
会社に適応できないのは
労働者側に精神的成熟が足りないからだ
という決めつけで、論を進めている記事がありました。

それは、会社という社会制度は適切に運用されていて、
その場になじめないのは
なじめない側に原因がある
という発想のように感じました。

うつ病偏重の政策の根本的由来もここにあると思うべきです。
だから症状が出現することを待って
症状の改善という政策に疑問を抱かなかったと考えられるでしょう。

臨床医学から公衆衛生的発想に
切り替えが必要なのだと思います。

人間の普遍性にもっともっと着目するべきなのです。
そのような人間観に立った研究が
特に日本では遅れていると感じます。

環境によって、病気ではない人が病気になり
あるいは極端な視野狭窄や自由意思を奪われ
自死に追い込まれています。
この事態を防止する実務的研究が必要です。

どうしても、「こころ」の問題が絡みますから、
話が哲学的隘路にはまり込んでしまう傾向があります。
そうではなく、
自死防止、視野狭窄防止の範囲で
人間を理解すればよいのです。
それ以上の複雑な部分も認めつつ、
快適に、幸せに暮らすことができればよい範囲で
研究すればよいという実務的な学問です。

その範囲では、人間はそれほど大差がない
そう思います。

私は対人関係学という考えを提唱してきました。

簡単にいうと、

人間は、群れの中で尊重されて生活したい
という本能的要求がある。(所属の根源的要求)

群れの中で尊重されない事情があると
生命身体の危機感と同様の生理的変化をともう
危機感を感じる(対人関係的危険)

危険を感じると危険を解消したい要求が出現する
これに基づいて、
恐怖を伴う逃走
怒りを伴う闘争(攻撃)
という危険解消行動を行う。

対人関係的危険についても群れにとどまる志向をしてしまう。

しかし、群れの中で尊重される方法がないと認識すると
危険解消要求は極限まで高まってしまう。

現在人間は複数の群れ(家族、職場、学校他)に所属しますが
すべての群れでこのような反応を無意識にしてしまいます。
だから、例えば家庭に問題がなくても
学校でいじめを受けていれば、
危険解消要求が極限まで高まってしまうことも
よく観られることです。

危険解消要求が昂じると
複雑な思考ができにくくなり、
将来的因果関係、他人の気持ちという思考能力が低下し、
折衷的な志向ができなくなる二者択一的な思考に陥り

生存要求よりも危機解消要求が強まってしまう、
現在の危機感を解消することが何よりも最優先事項となり、
自死、離婚、退学、犯罪、いじめ、虐待などの
行動に出ることを制御できなくなる

従って、最も重要なことは
対人関係的危険を起こさないようにすること
適切に解消すること、
ということになります。

ただ、現在の段階では、
何が対人関係的危険を感じさせることなのか
ということを
共通認識にしていくことこそが
求められているように思われます。

知らず知らずのうちに
対人関係的危険を起こさせていることが
余りにも多いようです。

もし、この対人関係学の概念が正しいとすればということになるでしょうが、
どうやって、このことを多くの人に理解していただけるようになるのでしょう。
とりあえず、
あきらめないで頑張っていこうと思います。

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【講演のお知らせ】「普通の夫が妻から離婚を突き付けられる理由」 ~「家族の中の他人」が生まれる時~ [家事]

すいません。開始時間は6時45分だそうです。
私はなるべく6時からスタンバイしています。
12月14日

12月20日午後6時からアエル28階研修室で
講演会を行います。(主催:みやぎの萩ネットワーク)
現代の夫婦はあまりにも夫婦関係に無防備だと感じます。
私は離婚事件も多く担当する弁護士ですが、
離婚事件を担当していると
離婚しなくてもよい夫婦が
いつの間にか泥沼の訴訟劇を繰り広げている
と感じることが多くあります。
相手の欠点弱点不十分点を強調し
双方多大なる精神的打撃を受けています。

夫は身も心も打ち砕いて働いていたのに
妻たちは、夫が定年になり
家にいることに恐れをなしているという
悲しすぎる現実が多く生まれているようです。

そして明日は我が身です。
楽しく生きるために、
家族の楽しさを子どもに引き継ぐために、
家族が、「ただいま」と笑顔で家に帰れるために、
一生懸命お話をさせていただきたいと思います。

夫の立場、妻の立場の方
それからこれから結婚しようと考えている方
是非おいでください。
今ならまだ間に合うかもしれません。

お話をする内容は以下の通りです。

第1部 実態編

あなたの妻は実際はあなたをどのように感じているのか
法律事務所での妻の言動:「同じ空気を吸いたくない」
家裁の調停の部屋の出来事
妻が抱いている不安
夫が家の中にいる他人 ボブ・サップ
不安を解消したい = 動物の生きる基本

幕間 問題の所在 何か原因があるということに気が付くこと

どういうタイミングで妻にとって夫が「変わった」のか
共感とはなにか
心が通っていれば

第2部 分析編 家族という仲間から他人になる事情

出産による変化
赤ん坊に対して共感しやすくなる効用
大人に共感できないことの効果
産後うつへのケアと精神的変化を招く病
大人になれない夫
実に簡単な封建制度化の夫婦
夫の家庭の中での不在
家庭の中に正義を持ち込む夫
日本人男性には多い子どもの視点

第3部 対策編 楽しい家庭、安心できる家族は自分たちで作る

パーソナルスペースの活用
安心 = 仲間として尊重される
安心の記憶が想起できないことへの対処
言葉の効用 = 敵意のないことを示す 会話は毛づくろい
話を聞くという訓練

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八神純子さんを絶賛する!もっともっと活躍してほしい。前向きに世界を進めるために。 [震災等]



先日、宮城県の人権啓発セミナーで、
八神純子さんとトークセッションをしてきました。

八神純子さんはあの「みずいろの雨」の歌手の方です。
震災後に被災地の支援を続けていらっしゃるそうです。
今回も気仙沼(本吉)という、
仙台からとてつもない時間を要する場所での
講演会でした。

私は、このような企画を考える委員をしているのですが、
八神純子さんがいらっしゃることは
私たちの仕事とは関係なくはじめから決まっていました。
だから
どのように、八神さんにお話ししていただき、
どこに人権の問題をからめるかというのが今回の仕事でした。
(基本的には自由にお話しいただくことになりました。)

本当は企画をする仕事なのですが、
自分たちの方がギャラが安いし
誰かに細かく指示をするのが面倒だから
企画委員が自分でお話をしてしまうというのが
といういつものパターンなので、
今回はだいぶ違いました。

八神さんは前日にも
ガンの病院でコンサートをされたそうです。
広い待合室兼エントランスを利用したようです。
実は、今年の9月に、
この病院で知人を亡くしていたので、
知人を思い出して涙ぐんでしまいました。

音楽の好きだった人で
八神さんのCDも持っていました。
耳も目もあまり機能しなくなっていましたが、
八神さんがドレスを着て歌を歌うというだけで、
よく見えなくても、聞こえなくても
一時に苦しみ、痛み、不安から解放されたことでしょう。

闘病している本人だけでなく、
付き添っている家族にとっても
ほっとできる時間だったことでしょう。

こういうことで救われるということは
震災で経験しました。

ボランティアってすごい。
頭が下がる思いでした。

そして次の日、車で3時間かけて
こちらの会場にも来ていただいたわけです。
私だって来ただけでへたばっていたのですから
なおさらだったと思います。

会は大成功だったと思います。
先ず、八神さんのお話をいただき、
(お話の最後にアカペラで「スマイル」)
トークセッションをして、
最後は八神さんのミニコンサートでした。

お話の部は、自分の子育ての反省をお話され、
特にお母さん方に熱く共感されていました。
トークセッションでは、
ろくな打ち合わせをしなかったにもかかわらず、
無茶振りに対しても的確にコメントを出していただいて
大変ありがたかったです。

トークセッションの時間はあっという間でしたが、
私ともう一人の企画委員の先生のお話を
何とかちりばめて
子どもの人権についてもお話しできたと思います。

ミニコンサートでは、
幸い立派なグランドピアノがあったので、
弾き語りも披露していただきました。

最初は「みずいろの雨」
美しい高音は健在で迫力があります。
曲の順番に自信がないのですが、
震災の後に書かれた「翼」?
話の流れにもあうご自身のお子さんの高校卒業式の時の
「さくら証書」
あの「パープルタウン」

もう会場全体が感動で拍手が鳴りやまず、
アンコールは「Mr.ブルー」
私が聞きたかったのはこの曲だったので
感激しました。びっくりしました。
ピアノを弾きながらの歌声だったのですが
この曲が一番ドラマチックでした。
改めていい曲です。

八神さん、ほとんどボランティアでした。
多少謝礼があったとしても
八神さんに見合うものでは到底ありません。
なんせ自治体の運営ですから
八神さんにふさわしい扱いでもなかったと思います。
本当は大変失礼もあったと思います。

それなのに
スタッフと記念撮影まで応じていただいて、
ただただ、頭が下がりました。


帰りにドライブインで八神さんのCDを買って
聞きながら帰ったのですが、
夜の高速道路にぴったりでした。
いまさらながら、こんな良い曲だったんだと驚きました。
サウンドは私のドンピシャの世代ということもありますが、
歌詞がまた良いのです。
前向きで素晴らしい世界観です。

八神さんが楽曲を提供していた歌手(娘さんはkahoさん)の
とあるアルバムはよく聞いていました。
八神さんが曲を提供していたとわかり
またまた驚きました。

おそらくほとんどプロモートされていないのでしょう。
これだけ、ご活躍されているのに
ほとんど話題に上らなかったことの方が
驚きです。
いかんです。

Mr.ブルーは、現代のテーマ曲にふさわしい名曲です。
(同級生に話したら、彼は
「想い出のスクリーン」をあげていました。
なんか苦い後悔があるのでしょう。)

今度はコンサートに行きたいです。
舞台の上で歌う八神さん、お話している八神さんは
とってもチャーミングでした。
本当を言えば、なによりもその笑顔に参りましたので
これを書いているところであります。

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【お知らせ】11月27日 福島、厚生労働省主催過労死等防止対策推進シンポジウム 普通の企業で過労自死が起こる仕組みと効果的な対策 [労災事件]

ついこの間と同じ記事ではなく、
今度は福島での厚生労働省シンポジウムのお知らせです。

概要は以下の通りなのですが、
私が基調報告をいたします。

参加お申し込みは以下のサイトから簡単にできます。
https://www.p-unique.co.jp/karoushiboushisympo/#area2-6

特徴的なことは、
私の担当した26件の実際の事例を分析した結果に基づいての報告であること
(個別事件の報告ではありません
 死亡事例16件、死亡に至らない精神疾患事例10件)
弁護士が担当したのですから、かなり詳細に事実関係を調査しています。

その上で、もともと確信犯的にパワーハラスメントをしなくても、
つまり普通の企業でも
パワハラが起きてしまい
従業員が精神的に傷つき、自死に至る
ということが起きてしまうというということを
説明しています。

どこにその原因があるかということを
あるいはどういう叱責が精神的に悪いのかということを
具体的な事例に基づいて説明しています。

過労自死を出した会社が悪い会社で
これから起こさなくしろ
という投げっぱなしなお話ではなく、
どうすれば、精神疾患事案を出さないようにできるのか
一緒に考えて、提案するお話です。

特に福島の企業の方は必見だと
手前みそですが思います。

実際の事件を担当した立場からの説明
パワハラ講習というのは
余りないようです。

このような話ができるのは何も私だけの力ではなく、
東北希望の会には、臨床心理士、産業カウンセラー
社会保険労務士等々
あらゆるジャンルの人たちがいて
大学の研究者の方々とも連携しているからこそ
できることです。

今回は私が代表してお話しするということなのです。

ごくごく骨の部分だけ以下に貼り付けます。



精神疾患事案26例の分析
  土井法律事務所(仙台)

本分析の前提 ------------------------------------------------------
確信犯的な使い捨て企業ではない。
   悪意を持って追い込んだわけではない。
   上司が特異な人格破綻者ではない。
つまり、
普通の企業において、
普通の上司が
労働者を精神的に追い込む可能性についての考察
----------------------------------------------------------------------------

対象事件の条件 =============================================
労災認定や公務災害認定で精神疾患を認定された事案、あるいは、
精神科の治療を受けるに至った事案、ないしは
企業が精神疾患に罹患したこと、業務が原因で罹患したことを認めた事案精神疾患事案だと思われても、これらの条件を満たさない例は除いた。

1企業から見た過労死、精神疾患事案
2 結果としての自死、精神疾患
 
3 事例にみられる叱責の内容
 ================ 
1)効果のない叱責
2)大声の叱責
3)矛盾する指示
4)不平等、不公正な取り扱い
5)理由のない決めつけでの叱責
6)遂行不可能な指示
7)不利益の示唆を含む叱責
================

4 不適切な叱責が行われる職場の条件
  =========================== 
  小さな事業場(10人未満)
  上司と部下が1対1でコミュニケーションをすることが多い
  上司と部下の力の差が大きい
  上司の会社内の立場が弱い
  異質な人がいる
  長時間労働
  上司の行動が経営者から把握されづらい
  ===========================
 5 被害者のサイドで見る
1)被災者の属性
   年齢には無関係
   責任感が強く投げ出さず、能力が高いため言われたことをできてしまう。
 素直なのでやれと言われたらやらなくてはならないと感じる。
  家族は、働き方に対して口出しをしない。どうしても働けということもない。やめてもいいよというケースがある。
2)孤立感
 3)不可能感
   不可能な業務指示、矛盾した業務指示
   自分が当該上司から尊重されるようになることの不可能感
6 考察
    わざと辛く当たって発奮させるというのは、よほど信頼関係(自分のことを尊重しているという確信)がない限り、言葉を額面通りとる。「発奮させるため」ということは、第三者が客観的な評価をすれば、つらく当たる「口実」だと思われても仕方がない。
    対象労働者の環境、諸条件、経験年数、知識と与えられた仕事量にてらして、「当該労働者の状況を推測する」ということが欠けている。やらなければならないという会社の事情が優先されて、無理が通ってしまう。
    上司が自分の能力のなさを叱責でごまかしている。あるいは、自分の能力のなさに気が付いていない。能力とは、人を動かすちから、効果的な指示、困難を受け止める度量、上司に対して穏便に筋を通すノウハウ
7 対策1 何に注意するか
  過剰叱責が起きやすい職場にあることの自覚
  <上司の方へ>
 <経営者の方へ>
8 対策2 心構えないし点検方法
  <部下は>
  孤立していないか。
  不可能を強いられていないか。
  自分と上司ないし経営者が一つのグループになって、部下が、グループに敵対する存在だと感じていないか。
自分(たち)の足を引っ張る存在、
自分(たち)に不利益を与える存在、
自分(たち)を苦しめる存在
   ⇒ これが成立すると、本能的に部下は「敵だ」という意識になってしまう危険があります。その結果、過酷な叱責、人格否定の言動が起きてしまうようです。
     かわいそうだからやめようというパターンが成立しなくなります。
当該部下を仲間として考えるように意識する必要が生まれます。

9 人間関係論(メイヨー)の修正骨子
  人間は、自分が尊重される集団を仲間であると認識する。
  人間は、仲間だと思う集団のために本能的に働こうとする。
  自分が尊重されていると思わせる労務管理は、生産性を高める。
参考文献
 A 「コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする
    申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。」カレン・フェラン
   大和書房
  
B 「モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする」
   マリー=フランス・イルゴイエンヌ 紀伊國屋書店
  
  AとBを整合させて考えると、亜流コンサルタントはGE「ぽい」手法を提案するが、生産性向上をあげる部分(=人を大切にする部分)を除いて提案しているということになる。経営者は、短期的な売り上げに過度にこだわりをもたされ、厳しいか厳しくないかということに労務管理手法の選択基準をおいていると判断した亜流コンサルタントが「ニーズ」に適合する手法を提案していると考えると整合する。

 C 「労働時間の経済分析」山本勲 黒田祥子 日本経済新聞出版社
 D 「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン みすず書房
   

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「かわいそうだからやめる」ということがなぜできないのかの研究メモ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



最近、お話に行くときの肝で使うフレーズです。
パワハラでも、長時間労働でも、いじめでも、夫婦問題や虐待でも
結局
自分がしていることで、相手が苦しんでいる状態にあると気づいて
ああ、かわいそうだから、これ以上はやめようとか
これから自分がすることが相手を苦しめることなので、
やっぱりやめておこう
ということができない現象なのだと
そういうことを言っています。

かわいそうだからやめるということは
本来、人間のが自然と行う行動原理のはずです。
(本来というのは200万年くらい前のことです)
ところが、人間が所属する群れが複雑になってきたので、
この「本来」が通用しなくなってきたと
つまり環境の変化に適応できないために
こういう現象が起きているのだと考えています。

だから、かわいそうだからやめるようにしようという「人権教育」は、
もともとある人間の志向を際立たせるということなので、
案外理性的に効果を上げるだろうと
のんびり考えているわけです。

ところで、「かわいそうだからやめる」ということは
分析的に考える必要がありそうです。
つまり、言葉ではそれだけですけれど
意味を考えると、いくつかの言葉が省略されているということです。

だから、本当は、
「相手が苦しんでいることがわかりました。
 それは自分の行為によって相手を苦しめているようです。
 相手が苦しんでいると自分も苦しくなります。
 自分の苦しさを止める意味でも
 相手が苦しむ自分の行為をやめます。」
ということになるはずなのです。

これを要素に分けますと、
①相手の苦しみの認識(客観的評価)
②自分が相手を苦しめている(因果関係の把握)
③苦しんでいる相手がかわいそう
④自分も苦しくなる
⑤相手を苦しめている行為をやめる(行動)

という段階です。
これがどうしてできないのかについて考えてみます。

①の相手の苦しみを認識できない事情とは何か
通常は、相手の表情などを見て把握できるのですが、
メールやラインなどのインターネットの場合は
文字情報しか相手の情報がなく、顔も見えませんので
脅えていたり、泣いていたりという
実際の相手の表情が見えません。
インターネットの場合、そもそも①が把握できないということになり、
かわいそうだからやめるということができなくなる理由がありそうです。

この他に、似たようなケースですが、
相手がどこにいるかわからないけれど何らかの攻撃をする場合も
同様に「かわいそうだからやめる」という思考にはなりません。

相手が店員さんとかサービス業の人とか、
下請の業者の人とか、立場が弱くて
不愉快な表情をできない人に対しても
①が成立しなくなる可能性があります。

関連すると、相手は、苦しんでいないはずだ
という思い込みがある場合も、
①が成立しません。

他者を使って攻撃する場合も、
「攻撃するように」と命じるだけで
相手との矢面に立たない場合
上司だったり、親分だったり、いじめの首謀者だったり、
①が成立しません。

いじめの被害者は、いじめられるときに感情を隠蔽しますので、
①が成立しにくくなる傾向にあるようです。

ちょっとレベルが違う話ですが、
とにかく相手を見ない、見ないようにする場合も
①が成立しません。

ちょっとコメントすると
相手の感情を見ないから相手が苦しんでいるとわからなかった
というのはダメなんでしょうね。
「こういうことをすれば、相手は苦しむはずだ
 だからやめよう」
という発想が必要で、
学校のいじめや職場のパワハラ、セクハラでは
そういう論理で行かないと防止できないし、
ネット被害なんかもそうなのだろうと思います。

②自分の行為が相手を苦しめている
ということが分からない場合

よく言うことは、自分を守っている、仲間を守っている
という場合です。
相手が攻撃してきているのだから自分を守る
という無意識の行動をしている場合は、
相手が苦しんでいることも気が付きにくいですが、
相手が苦しんでいることに気がついても
相手が自分のしたことで苦しんでいると考えやすいようです。

自分自身が相手を苦しめている
という発想にならないようです。

防衛行為と似たような行為としては
正当行為、必要な行為だという意識がある場合、
簡単な例を出せば、勉強しない子どもを叱る場合、
親が「勉強しろ」とやかましく言うから子どもが苦しんでいると思わないで、
子どもが勉強しないで自分勝手に苦しんでいる
と思うようです。

パワハラの場合も
自分が過剰叱責をするから苦しんでいるのではなく、
親の育て方が悪い、性格が悪いから
会社でうまくやって行けずに苦しんでいる
と解釈してしまうようです。

相手が了解していることだと考える場合も②が成立しないようです。

また、自分の行為が相手に与える影響を正当に評価できない場合も
自分の行為のために苦しんでいるとはわからないでしょう。
多少苦しむかもしれないけれど
実は重い苦しみを与えているというケースはありそうです。

感じ方が人によって異なる
ということはわきまえておく必要がありそうです。

③と④
相手がかわいそうだと思って自分が苦しくなる
これは実は一つのことです。
共感とは、相手方の感情の追体験です。
苦しみの追体験なわけです。

相手が、例えば親が死んで悲しんでいる時に
自分も一緒に泣くということは、
自分の親が死んだような感情を持ってしまう
つまり悲しいということが共感の理論です。

相手が戦場にいて、命の危険があるという映画を見た場合も
自分も命の危険があるかのように
からだは生理的な反応をするようです。

もっとも、本人ではない場合は
その反応の強さにはずいぶん違いがあるので
プチ追体験みたいなものですね。

この共感が豊かに起きることこそ、人間を人間たらしめている事情です。
これができたので、逃げることも闘うことも劣る人間が
今まで生き延びてきたのだと思います。

この追体験ができない事情があると思います。
要するに人間性を喪失する事情です。

一番切ないのは、
自分が同様の苦しみを味わいつくしたので、
自分が同じことをされたとしても、
もはや苦しいとは思わない
という場合です。

また、自分の置かれている環境が厳しすぎて、
他者の苦しさに追体験する余裕がないという事情もあります。

相手と敵対している時に、相手に共感できない
ということも興味深い現象です。
同じ人間であっても、あるいは人間だからこそ、
一番の敵が人間だったという歴史があるようです。

基本的に人間は、人間を見ると味方だと思うようです。
しかし、相手から攻撃されてしまうと、
相手は、人間ではなく、クマやオオカミと同じように
「敵」ということになり、
仲間という感覚が生まれなくなります。
そうだとすると共感が起こらないようです。

但し、後に冷静になると、
記憶の中では人間という仲間を攻撃してしまった
ということになるようです。

問題は、というか、今考えていることは
人間は、敵だという意識がなくても
「共感を任意に拒絶できるのだろうか」
ということなのですが、この問題はここでは割愛しましょう。

最後⑤ 行動を停止することができない場合です。

相手に共感して、自分も苦しいけれど
戦争とか、上司のパワハラとか、
自分が行為をやめることによって、
今度は自分がもっと苦しい立場に立たされる
という場合も行動を停止できない場合なのでしょうね。



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自死に誘導する言葉に注意。苦しみを抱えたら苦しいと表現できることこそ必要。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

苦しい時は苦しいと言える仲間がいることこそ大切です。

地獄の苦しみを抱いて朗らかに生きているように見えても
それは無理してそうみせているのです。

仲間がいないのなら、適切な人とつながることができます。
例えば、みやぎの萩ネット―ワークという組織もありますが
http://miyaginohaginetwork.blog.fc2.com/
今日は別の問題をお話させてください。

ネットで最近鼻につく「名言」というのが出回っています。

「世の中には人には言えない苦しみや地獄を抱えた人もいる。
 それでもニコニコ朗らかに生きる強い人がいる。」

地獄を抱えた人が朗らかに生きているわけではありません。
無理してそうみせているのです。
なぜそんなことをするか
まじめで責任感が強く、人との和を大事にしすぎるからです。

例えば家族とか、友人とか
大切にしているから、
自分の置かれている状況を伝えて苦しませたくない。
そう無意識に行動しているだけです。

決してマネをしてはなりません。

朗らかに生きているふりをすることは
大変労力を使うそうです。

親と離れて暮らしている地獄を抱えている人が、
親の元に尋ねて行かなければならず行くときは、
親の前では、「何事もない」と言い
わざとはしゃいで見せたりするようです。

でも、親の家から帰ると
わざとはしゃいだことによって
ぐったりとして、2,3日寝込むと言います。


はしゃいでいるからと言って朗らかに生きているわけではないのです。

色々な人がいろいろなことを言うのは良いですが、
それが人類普遍の正しいことだと押し付けることは
大変危険なことです。

もともと他人に相談できない人が、
益々、誰にも相談できないようになり、
孤立していくことが大変心配です。

人の生き死にかかわることです。
私の考えでは、こういう無責任な言葉は極めて有害な
人を死に追いやる言葉だ
と警鐘を鳴らす必要を大いに感じています。

悪意のある言葉ではないことは重々分かっています。
しかし、だからこそ危険なのです。

地獄のように苦しいときに
朗らかにすることは誤りで
大変危険なことです。

苦しいときには苦しいと
辛いときには辛いと
いうことこそが理性的な行動です。

それを受け止めてくれる人を
粘り強く探しましょう。



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【お知らせ】 過労死等防止対策推進シンポジウム 仙台 やる気のある若者による生産性向上を実現する会社の作り方。浜田真理子さんのミニコンサート付き [労災事件]

平成30年11月13日火曜日2時から
エルパーク仙台(三越定禅寺通り館、旧141)
スタジオホールで
厚生労働省主催の
過労死等防止対策シンポジウムを開催します。

まだまだ余裕がありますが、
下記ページから予約していただくと確実です。

https://www.p-unique.co.jp/karoushiboushisympo/#area2-3

なんで私がこれをここで宣伝しているかというと
企画及びちょこっと出演をするからです。

ブラック企業対策仙台弁護団事務局長から
若者使い捨て企業とは何かというお話と
グリーンディスプレイ事件という事件の概要の説明があり、

遺族(お母さん)の訴えがあった後、
パネルディスカッションに入ります。
まず、事件を支援していたポッセの方のお話があります。

そうして話し合いに入っていくのですが、
テーマは普通の企業がブラックになってしまう要因と対策
ということになります。

老舗企業であっても、
若者に対する見方にはやや危険なところがあり、
世代が離れてしまうと、自分と違うところを持つ人の
良さということに気が付きにくいということがあるのでしょう。

社会保険労務士の先生から、そのような
企業の実態を報告いただきます。
同時に若者が起こした職場改革の実例にも言及していただき、

さらには、離職率0のために生産性が150%上がったという
奇跡の企業の紹介があります。

なぜ、一方で若者が追い込まれて
生産性が上がらず
皆が不幸になる企業がある一方、

低賃金なのにやる気のある労働者ばかりで
生産性が上がり
それなりの幸せを獲得している企業があるのか

その秘密について解き明かしていく予定です。

何よりもミニコンサートの紹介をしたかったのです。
これまで、遠野物語のあんべ光俊さん
翼の折れたエンジェル作詞作曲の高橋研さん
という信じられないアーチストのミニコンサートをしてきましたが、
今回は浜田真理子さんというシンガーソングライターの
ミニコンサートがあります。

とにかく歌がうまい。
私が言うことではないのですが、
音階の正確さが、延ばす音の一定感が
聞く方に心地よいのではないかと
にらんでいます。

熱狂的なファンが多いので、
余り余計なことは言わない方が身のためだと思いますが、
無料で生の浜田真理子さんを聞ける
ということを告知することも
身のためだということに気が付いて告知している次第です。

おそらく当日でもふらり来れると思うのですが、
先ほどの頁から申し込みをしていただくことが
確実だと思います。

ちなみに私は、浜田真理子さんのアルバムは
タウンガールブルースというのがとても好きです。






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働き過ぎの男たちが不安定なパートタイム家族になっていないか。中高年の働き改革は定年後の自分のために急務 [家事]



夫が定年間近の妻たちの女子会での話題は、
定年後に夫が一日中家にいることになることに対する
不安と言うか、半ば嫌悪感を
確認しあうことらしいです。

男の立場からすると
家族のために体と睡眠時間と神経をすり減らして働いた挙句、
ようやく定年退職になって一息つこうとしたところを
邪魔者扱いされるのですから
とてもやりきれない思いがあります。

パートタイムや派遣労働等の非正規雇用は
不安定雇用等と言われ、潜在的失業者と言われることがありますが
家族という視点で見た場合、
働き過ぎの夫はパートタイム家族のようです。

朝ご飯を食べて家を出て、
夕方帰ってきて夕ご飯を食べたり食べなかったり、
風呂に入って寝る。
会話らしい会話もなく、
そして起きてまた仕事に行く。

余り人間らしい接点がないと言えばないかも知れません。

認知心理学でいうところの
単純接触効果は、
人間は、近くに長くいる人に情が湧いてしまう
仲間だと思ってしまうというものですが、

逆に一緒にいる時間が短いと
仲間だという意識が根付かないで薄れていくのでしょう。
一緒にいる時間中寝ていたのでは
何の意味もないわけです。

何か相談事があっても
例えば子どものこととか相談したくても
家にいなかったり、
「仕事で疲れているんだから後にしてくれ」
とか言って相手にしないことのつけが
積もり積もっているかもしれません。

家族は、あなたのお金以外の価値を
あなたに期待することをあきらめているかもしれません。

短時間だけ家に一緒にいるという
いわばパートタイム家族は、
不安定家族であり、潜在的孤立者なのかもしれません。

まさか追い出されたりはしないでしょうが、
好意をもって受け入れられなければ
大変居づらい余生となってしまいます。
健康面で不安がある場合も
あまり熱心に心配されることもなく
十分な介護をしてもらえないかも知れません。

仲間だと思われていない夫は注意する必要があります。
あなたは、自分が攻撃的意図をもって話をしなくても
家族は、特に妻は、
あなたに安心していません。
端的に言えば敵かもしれないと思っています。
あなたは自分を攻撃する存在かもしれないと思っているわけです。
これは理屈ではなく、感覚ないし本能です。

仲間は自分を守ってくれるものですが、
あなたが給与を家計に入れることは
高度に抽象的なので、本能を動かしにくいのです。
実感として守られているとすんなり受け止められないかも知れません。
ましてや、あなたの苦労が瞬時に理解できるわけでもありません。

さて、仲間だと実感できない場合は、
自分を攻撃するかもしれないと身構えるのは本能です。
あなたの些細な言動が
自分を攻撃しているものかもしれないと考え
危険の可能性のあるものに対して素早く対応しようとするのも本能です。

あなたが、家族に対して
うっかり会社で部下に対してする以上に
命令的な口調や辛辣な評価をしてしまうと
ああ、やっぱり自分を攻撃する存在なのだ
という防御を固めていくことになってしまいます。
次第にあなたから遠ざかることによって
妻は自分を守ろうとするでしょう。

自分は大丈夫だと自信のある方はどれくらいいるのでしょう。
そうならないためにどうしたら良いのでしょう。

私は、自分の働き方改革をすることが必要だと思います。

キーワードは、既に出ています。
「仕事で疲れているんだから後にしてくれ」
これは家庭のことは後にしてくれ、
自分以外の家族で解決してくれ
ということなのです。

誰しも働く男性は共感するセリフですが、
ここが間違っているということが「働き方改革」です。

考えても見てください
家族のために働いているのに
家族のために話を聞くこともできない
これは矛盾なのです。
本末転倒だったということをしっかり自覚する必要があります。

あなたがまだ定年前であるならば
このような働き方はやめるべきです。
長時間働いて、家族と一緒に過ごす時間が足りない上に
わずかの短い時間を家族のために使えないくらい
心身ともに疲労しているならば
それは「家族のために働いている」
とは考えてはならないのです。

自分が会社などで、上司や同僚や部下に
評価されるために働いている
そう思い直した方がよいようです。

そのことが悪いわけではありません。
しかし、不安定家族となる要素です。
どちらをとるかはあなた次第です。

ここで再度申し上げますが
仲間意識というのは、
理屈で構築するものではありません。
直感や本能で感じるものです。

あなたが家族のために給料を稼いできた
それが当たり前だと思うならば
あなたが家庭を顧みないで働いて
給料を家に入れることも当たり前だ
という意識になっているわけです。

こんなに頑張っても報われないなんてひどいじゃないか
と思うのも当然ですが、
仲間だと感じることができない「人」が不遇な思いをしても
その無念さに共感されることはないのです。
いち早くこのことに気が付くべきです。

家族との時間を減らしたり
家族との時間に疲労を残して貢献できないような仕事は
やめるべきです。

もちろん家族と話し合う必要はあります、
家族と一緒にいる時間を増やしたい、大切にしたい
という意思表示は、きっちり口に出して言うべきです。

必要な収入を確保しながら
家族といる時間を増やすということが理想です。
若い人ならば転職をするということもあるでしょう。
逆にあなたがある程度力があるならば、
労働時間短縮に知恵と力を使うべきです。

多少の収入減であれば
家族にも理解されるでしょう。
家族といる時間を増やすための努力も
家族に情報提供をするべきです。

失敗しても仲間意識だけは生まれていきますし、
家族のために働いているという意識も持ってもらえるでしょう。
何よりも、話をすることが
仲間意識を育てる大きなポイントです。

ロビン・ダンバーという私の尊敬する学者は
人間がサルのように他者の毛づくろいをしない理由は
言葉による接触ができるからだと
言葉の発生を説明しています。

攻撃的意味あいのない言葉は
敵意がないことを示しているということであれば
そういう側面が強くあるのだと思います。

自分のために、自分の老後のために
労働時間を短縮して家族といる時間
家族と話をする時間を増やすということが
私たちの働き方改革ということになるのだと思います。

では、家族といる時間を長く増やして
何をすればよいのでしょう。
何を話せばよいのでしょう。

もしかしたら、そのような不安を持っているかもしれません。

ロビン・ダンバーの学説は、
こういうところでも役に立ちます。

会話は「毛づくろい」ということです。

猿が毛づくろいをするのは敵意がないことを示し仲間意識を作るためです。
私はあなたに敵意がありませんということですから、
会社での会話のように
何か目的を達成するための手段ではありません。
何を話すということではありません。

もしかするとそれが一番苦手なのがわれわれ男性なのですが、
一番のコツは、
ニコニコして、話を聞くということです。
そして突っ込まない。
突っ込む場合でも、こういう場合もあるよというように
否定しないで修正する。
芸人のマネをして突っ込むと
家庭の中ではきつくなりやすいということを覚えましょう。

共感できるところを探し出して共感することも良いです。
「ああ、そうだね」ということでもよいです。
かなり面倒だと思っているかもしれませんが、
女性同士はみんなそうやっていますし、

要はなれということです。

進学に備えて勉強をして
就職に備えて進学したのですから
老後に備えて毛づくろいコミュニケーションを
学んでいくことはそれほど難しいことではありません。

また、常に完璧にしなければならないものでもないです。
攻撃的にならなければ
「わからない」という逃げ道もアリです。

また、会話が苦手な方は
家の外に出るということを積極的に行うことがよいでしょう。
家の外にいると、一緒にいるだけで心強いです。
荷物を持ってもらえばもっと嬉しいです。

まあ、同じ趣味をもって同じ時間を過ごすなんてことも
提唱されているようですが、
ハードルが高いように私は思います。
日常を共有する方が無難だし確実な気がします。

「ばかばかしい」

とここまで読まれた方の何割かはそう思っているでしょう。
そういう方こそ
人間の幸せについて考えるべきです。

一緒にいることを喜ばれる仲間がいること
私はこれが人間の幸せだと思っています。

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仲の良い家族関係は自死から守る事情になると同時に、自死を促進してしまう事情にもなる。知らない人が自死者の家族を非難することが犯罪的な理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死が起きると、
特に子どもが自死すると
ネットなどの書き込みに訳知り顔で
親が放置していたのだろう等と書き込みをする人がいる。

「自死の理由は一つではない」とか言って
親子関係にも問題があったはずだなどということは
余りにも愚かしく、自分の無知をさらすだけだ。
自死のメカニズムが複雑なことを説明しないで、
「自死の理由は複数ある」と断言することは
このような危険性がある。

一口に自死の理由と言っても
自死を考えるまで追い込まれた理由と
そこから自死の考えを無くすために機能しなかった理由では
意味合いがまるっきり違う。
説明を抜きに自死の理由は複数あるなんて言う説明は、
その人を追い込んだ理由を薄めてしまう。

自死の原因を家族に求める安直な人たちは、おそらく、
「自死する場合は、その直前に
これから自死しますよというなんらかのサインが出ていて
家族ならそれに気が付くはずなのに
それを見逃したから自死を止められなかった。」
なんて馬鹿なことを考えているのだろう。

だから、自死のサインを見逃さないように
何がそのサインなのかわかるように一生懸命勉強するのだろう。
こんなことに血眼をあげているから
自死予防を困難にさせる原因になっている。

自死のサインなんて死んでからしかわからない。
それもこじつけのような話であることが多い。

自分は関係がないのに、しかも自死について知らないのに
自死遺族を非難するのは実は理由がある。
自分を守るためだ。

自死の事実があったことを知ると、
大抵の人は事の大きさ、深刻さを精神的に持て余してしまう。
病気で死ぬことはある程度納得することができる。
しかし、病気でもないのに死んでしまうことは
それは誰しも脅威である。

脅威、危険を感じてしまうと、人間は、
とにかく自分や自分の家族に自死が起きないようにという
防衛意識を無意識のうちに抱いてしまう。

自死のメカニズムや、その人の具体的な悩みなんてものは
残された人はなかなかわからない。
説明してもすぐには理解できない。
そうなると、同じことが自分や家族に起きないということを
どうにか納得して安心したくなる。
誰かに落ち度があることを声に出して言い聞かせて
自分はそうではないと安心しようとしている行為のようだ。

遺族を苦しめて、
自分が安心したいという行為なわけだ。

そうでなければ
自分がその人を自死に追い込んだと自覚している者が
別に原因があると他者を責めて、
自分が責められないようにして
ムキになっているかどっちかのことが多いようだ。

親子関係については、
自殺対策の専門家の方々でも
誤解をしている向きがあるように感じてならない。

現在専門家が自殺対策を考える場合、
「自死の「保護因子」を増やし、強化し、
自死への「危険因子」を減らす」
という一件もっともな考え方が示されることが多い。
医学的用語がまだまだ頻繁に用いられている。
あたかもがんの保護因子を増やし危険因子を減らす
という文脈のごとしである。

この二者択一的な考え方の最大の問題点は
評価を誤りやすく
逆方向の働きかけをしてしまう危険がある
ということだ。

ある局面においては保護因子になるが
ある局面においては危険因子になるものがある。

だから局面を間違えると、
支援者たちが自死を促進させてしまっていることがありうる。
例えば良好な親子関係である。

つまり、仲の良い親子関係は
自死を防ぐ場合もあるが
自死を後押ししてしまう場合もある。

どちらかというと自死を後押しすることが多い
と感じる。

逆に、仲の悪い人間の顔(例えば姑)を思い出して
自分が死んだらあいつを喜ばせるということに気が付き、
自死を思いとどまったという例もある。
本当に直前、ギリギリのところで命拾いをした実例である。

なぜ、仲の良い家族の存在が
自死を後押ししてしまうか。

おさらいとして自死のメカニズムを確認する。

主として対人関係の危険となる事情を認識
  ↓
危険と感じ、不安が募る
  ↓
不安を解消したいという要求が生まれる
  ↓
不安解消するための行動を行う
  ↓
不安解消をする行動が見つからない
  → 絶望感、孤立感
  ↓
不安解消要求の著しい肥大化
  ↓
不安さえ解消できれば死んでも良い
  ↓
死ぬことが「希望」となる
  ↓
自分は死ななければならない

という過程をたどる。

不安を解消する行動を探すとき
家族に相談ができれば
確かに自死を実行することが少なくなるだろう。

しかし、追い込まれた人は
家族に相談することができない。

原因はいくつもある。

1 家族に心配をかけたくない
2 追いつめられたものの心理としての孤立感が
  他者へ頼る発想を奪う
  (追いつめられると、自ら孤立していってしまう。)
3 同様に相談しても無駄だという悲観的な思考を産む
4 自分受けている辱めを家族に伝えることが
  家族に申し訳がない。
  自分が情けない人間であることが
  家族に申し訳ない。
5 家族から励まされることを想像してしまうと
  とても耐えられない
6 家族に、これまで通り普通に接してもらえなくなる

もともとそれほど仲の良くない家族関係であれば、
「自分が今苦しんでいるのはお前のせいだ」
と責任転嫁することができる。
自罰意識をそらすことができることは大きい。

仲の良い家族の場合
こういう責任転嫁の言葉を吐くことによって
家族を傷つけることを恐れてしまう。
もともとそういう発想にはならない。

家族が大切だからこそ
自分が苦しんでいることが重荷になって行く。


その他にも苦しんでいることを
家族が気が付かない理由はいっぱいある
長時間労働や単身赴任で
そもそも家族と顔を会わせない。

家族の元にいる時は安心しているので、
不安な様子を見せない。
不安な様子があっても務めて家族の前では
平気なそぶりをしたり、笑い顔を作ったりする。

これはとてつもなく精神的エネルギーが必要で
家族の前でごまかすと
その後の大半は寝て過ごしたくなるくらい
消耗しきっているとのことだ。

当然、きちんと考えることも
正当に評価することもできなくなり、
こらえる力も無くなり
自死が促進されていく要因になる。

しかし、まだ訳知り顔でいう人が出てくるだろう

「家族の仲が良いならば
学校や職場で嫌なことがあっても
家に逃げ込めばよいのだから
転校や退職をすればよいのだから
死のうとはしないのではないか」

これを説明するのが対人関係学の理論だが、
結論だけを述べるにとどめる。

現代の人間はいくつかの集団に所属して生活している
家族、学校、職場、職場の中でも派閥、その他
それらの集団は、相対的なものであって
本来は離脱することが可能な人間関係である。
しかし、人間の脳の理解力は
それを正しく認識することができず、
一つの相対的な集団からの離脱の危険があると
本能的に離脱を回避しようという
要求(意思)を持ってしまい、
回避のための行動を探してしまう。
こういう動物なのだということである。

簡単に退学すればいい、転校すればよいというけれど
実際にそれを検討したり決意するという精神活動は
人間が最も苦手としているのである。
追い込まれれば追い込まれるほどしがみついてしまう。
人間はそういう生き物であるようだ。

もう一言いうと、
認知心理学の定説だが、
人間の心はおよそ200万年前にできた。
この時の人間は生まれてから死ぬまで
一つの群れで生活していた。

人間の心はこの時からそれほど進化していないのに
環境が複数の群れで生活するよう劇的に変化してしまった。
人間の心、脳と環境のミスマッチが起きているので苦しい
ということになる。

このように自死予防は
実はとても難しい。
合理的に考えれば自死は防げるのだが、
合理的に考えることができない状況に追い込まれるから
自死が起きてしまう。

この理解をしないで、追い込まれている人に対して、
家族の優しい圧力
良好な人間関係力を浴びせて
自我消耗させてしまうことは
文字通り致命的な誤りになる。


自分にとって精神的に負担な出来事が起きても
深く考えることなくそれを誰かのせいにするということは
とにかくやめた方がよい。

自死者の遺書を見ると
自死者がいかに家族を大切に考えていたかがよくわかる
そして家族の具体的な状況を
事細かに知っていることが分かる。
子どもの学校行事や部活動の大会など
事細かく心配している。

しかし合理的な思考ができない状態になっているので、
「だから生き抜こう」
という結論にはならない。

自死遺族の大部分は良好な人間関係であった家族を自死で亡くしている。
自死をなかったことにしたいという不可能を願っている
自死を受け止めることのできない第三者から攻撃を受ければ
絶対的な孤立が訪れてしまう。
考えもなく遺族に責任を求める言動は
極めて危険なことであることは
落ち着いて考えてみれば当たり前のことだと
理解していただけることだと思われる。



文中で自死のサインを探すことでは
自死を防ぐことはできないと述べています。
ではどうするかということですが、
自死が、ほぼ無意識の領域で決意されることからも、
本人の苦しさを基準に考えてはならないということを
提案しているところです。

ややメンタルの弱い人を基準に、
その人の置かれている状況を客観的に判断し、
不可能を強いられている
孤立感が起きる可能性のある状態だ
と第三者が判断したら、
その環境からその人を離脱させる
環境を改善するか、集団から文字通り脱退させる
そして、安全な集団に一時避難をさせる
安全な集団もどのようにその人に接するか
きっちりレクチャーされた集団で、
外部の人間が随時修正ができる状態
にして、回復を待つ
大雑把に言えばそういう政策に重点を置くべきだ
と考えています。

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