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一人暮らしの高齢者の万引き事件から考える高齢者問題とキハン意識の本質と孤独との関係 [刑事事件]

一人暮らしの高齢者の万引き事件から考える高齢者問題とキハン意識の本質と孤独との関係

<万引きができる仕組み>
<思考実験A>
<思考実験B>
<何が言いたいのか>
<高齢者問題とどんな関係があるのか>

<万引きができる仕組み>

何年か前から、郡部の警察署の方とお話しすると
高齢者の一人暮らしの方が万引きをする事件が多い
という話題が出されることがありました。

高齢者の心理については前回の記事でお話ししましたので
是非ご参照ください。
一人暮らしの高齢者のかんぽ生命被害の実例から考える高齢者問題 身近な将来の自分たちの問題
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-07-17

万引きをするときに多いのは、
理性のエアポケットが生じていることです。
何か激しい感情に支配されて
大切なことを考える理性が機能しない場合もありますし、
何も考えることができないアイドリングのような状態のときもあるようです。

共通することは、まさにその時
自分がすることは悪いことだ、だからしてはいけない
という気持が働かないということです。
これを「キハン(規範)意識が働かない状態」と言います。

犯罪を繰り返すとキハン意識はすり減って無くなっていくと扱われていますが、
そうでなくてもキハン意識が働かないことがありそうです。

これからちょっとだけ思考実験をしましょう。

<思考実験A>
あなたが、どうしても欲しがっていた小さな商品が目の前にあって、
将来にわたって絶対あなたが犯人だということはわからないという状況があった場合、
(これを具体的に想定できれば、何かの賞がもらえるかもしれません)
あなたは盗みをするでしょうか。

もちろんあなたが盗めば誰かが損をすることになります。

実験を抜きに推測でものを語るのが悔しいのですが、
もし自分が盗むことが誰にも知られなくても
多くの人は盗みをしないでしょう。
仮に盗んだとしても、なにがしかの後ろめたい気持ちになると思うのです。

そうであれば、あなたにキハン意識があるということになります。

<思考実験B>

逆に現実のあなたではなくて
あなたの周囲の人たち全体が混乱している特殊な事情がある場合、
例えば、あなたが数十人の仲間と共同生活している
かなりのサバイバル生活で
そのメンバー全員が
仲間のものは盗まないけれど
仲間以外の者は平気で盗み(カバンの置き引きとかでしょうかね)
その社会も盗まれた方が悪いという風潮がある場合はどうでしょうか。

もちろん、それが現行犯で見つかれば
警察に捕まり刑務所に行くこともあるのですが、
共同生活している仲間は、そんなことはしょっちゅうあるので、
警察や刑務所から出てくると再び仲間の中に戻れるという場合。

そういう生活の中にあなたがいるという
シチュエーションがしっかりつかめることができるかどうかに
この実験が関わっているのですが、
おそらく実験Aよりも、実験Bの方が
盗むという回答が多いのではないかと考えているのです。

<何が言いたいのか>

結局キハン意識というのは、
例えばキハン意識をもつことができないで盗みをしてしまうと
自分の仲間の中での立場が悪くなることが嫌だというように
自分が仲間から受け入れられ続けたいという意識が
それを守らせる一番の実現保障なのではないかということです。

仲間の中から転がり落ちたくないという気持が
共同生活のルールを守らせる原動力だということです。

但し、その仲間とは、現実の仲間というよりも、
自分の心の中で、仲間でいるための資格みたいなものがあって
それを失うことが怖いからルールを守る
という構造なのだと思います。

だから、周りも盗みをやっていて、盗んでも仲間は非難しないというなら
実験Bのように盗みをすることに抵抗がなくなるはずです。

この原理で起きているのが、
ルーズな会社の中での業務上横領事件です。
会社のお金で高額な使い込みをすれば事件になりますが、
みんながやっている程度のことは
悪いという気持が薄れていってしまって
不正に会社のお金を流用していることが多いのです。

誰かの業務上横領が発覚したら
その人の個人責任にしないで
会社全体のお金の使い方を点検する必要があることが実際です。

<高齢者問題とどんな関係があるのか>

高齢者が孤独だということを言おうとしているのですが、
客観的には違うだろうという反論もあるでしょう。
高齢者の多くに子どもがいて、孫がいて
必ずしも一人で生きているわけではないし、
万引きをして新聞報道でもされてしまえば
あるいは刑務所に収監されてしまえば、
子どもや孫の肩身も狭くなるわけです。

それはそうなんです。

だけど、実際には、なかなか子どもと会うこともできず、
電話もたまにしか来ない。
勇気を出してこちらから電話をかけると
「用事がないなら切るよ」と言われる。
たまに電話が来たかと思うと
「あれをやれこれをやれ、あれやるなこれやるな」
という指図とダメ出しばかり。
自分が認知症かどうかのチェックばかりされる
といういことではむしろ電話なんて来なくてよい
と思ってしまうかもしれません。

確かに親子関係や祖父母と孫の関係はあるのですが、
それだけで、
自分は「親子関係の中に帰属している」と感じるでしょうか
「子どもという仲間がいる」と感じるでしょうか

感じ方には個性の違いによってだいぶ違うと思いますし、
離れて暮らすという形態もいろいろ違うと思うのです。
一概に言えませんけれど、
でも一人暮らしの身になってしまうと
もう少し、所属感、仲間意識を満足させる方法が
実行可能な方法があるように思うのです。

万引きする高齢者の方も
自分の子どもの事情は分かっているので、
恨みに思ったり不満に思ったりということで
腹いせや当てつけで万引きするわけではありません。

「自分がだれかとつながっている」とか
「家族がいる」という
実感が持てなくなっているということからくるのだと思います。
仲間からの評価が下がるということに恐れを抱かなくなり、
盗むことにためらいが無くなる瞬間が生まれてしまうのでしょう。

一緒に暮らすことは
様々な制約があるということは
仕事がら嫌と言うほど見ています。
現実社会の中で
直ちにそれをするべきだということを言うわけにはゆかないでしょう。

しかし、一緒に暮らせなくても
何らかの方法で
自分が相手を自分の家族として気にかけているということを
相手にわかってもらうことはできると思うのです。

キーワードは明日は我が身です。

できるなら、顔を出すだけでも出すということを
家族で協力して、あるいは分担して行うことで
その行動を自分の子どもに見せるだけで、
自分が高齢者になったときの選択肢を子どもに与えることになります。

それは自分の老後の利益のためだけでなく、
自分の子どもが高齢者になったときに
孤独を感じない方法を提起することでもある
そう考えるべきなのでしょう。

家族で、そりゃあそうだなと
協力し合って
兄弟でも協力し合うことができれば
高齢者にもっと気遣う風潮が
社会の中にできてくるのだと思います。

孤独を感じている人は
案外身近にいるのかもしれません。

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一人暮らしの高齢者のかんぽ生命被害の実例から考える高齢者問題 身近な将来の自分たちの問題 [家事]



特に地方などでは、
都会に出て就職したり、しょっちゅう転勤したりと
年老いた親と離れて暮らす人たちが多く、
親もどちらかが亡くなる年齢になると、
高齢者が一人暮らしをしているケースが多くあります。

子どもからすると親の健康問題が一番の心配事ですが、
今話題のかんぽ生命の、必要のない保険加入で貯金がだいぶ減ったとか
不必要な消火器や高額布団、貴金属の購入、
そしてオレオレ詐欺というか特殊詐欺ですか、
一人暮らしだとそういうことの被害にあっているのではないか
という心配もあります。

そうかと思うと、近隣トラブルを起こしていたり、
万引きをして警察沙汰になったりと
後は自動車運転トラブルですか
被害の心配だけでなく加害者になる心配も出てきます。

何とかしなくてはと思うのですが、
自分たちの生活で精いっぱいで
どうすることもできないということで、
「あまり考えないようにする」ということしかできない
ということもリアルな話のような気がします。

不安をあおるようなお話になるのですが、
原因を考えて実現可能な対策を立てる必要がありそうです。

かんぽ生命の不必要な契約については
少し前から相談がありました。
事情があって一人暮らしをしていた高齢の父親が
必要のない保険に次々に加入して
莫大な保険料を払っていたというものです。

ところが、事件にはなりませんでした。
父親本人が被害にあったことを認めなかったからです。

どうやって必要のない保険に加入して
無駄な保険料を払わされていたのでしょうか。
どうして父親は自分が被害者であることを認めなかったのでしょうか。

高齢の父親は自宅で一人暮らしをしていました。
若い時は、固い仕事についていて、それなりの地位にありました。
心身とも年齢の割にはしっかりしていました。
一人で暮らすには十分な年金も支給されていました。

毎日が休日で、一日が長く感じられたことでしょう。
誰かと話をする機会もなく、
電話でのやり取りもそんなに頻繁にというわけではなかったようです。

そんなとき、郵便局からかんぽ生命の勧誘に
職員が来るようになりました。
おそらく久しぶりの人間との会話が
高齢の父親にとっては楽しかったと思います。

また、子どもたちのたまに来る電話は
心配のあまりなのでしょう
食事のこと、火の始末のこと、薬のこと
あれをやってはダメだ、これをこうしろと言う
さしずとダメ出しばかりで面白くない電話が
多かったのかもしれません。

勧誘をしに来る職員は
色々なことをほめてくれるわけです。
やれ男の高齢者にしては家がきれいになっているとか
元気そうでうらやましい、自分は生活習慣病でとか
働いていたときに、周囲からちやほやされた感覚が
よみがえってきたのかもしれません。
さりげなく、年金の金額や、貯金額なども
うまく聞き出していたかもしれません。

もしかすると、職員は、相手の感触が良ければ、
わざと保険の話をおざなりにして、
趣味の話を聞き出すなどして
話の糸口をつかもうとしたのかもしれません。

そうしてたびたび勧誘に来るようになると
一人暮らしの高齢者は
職員を取引相手だとは見ないようになり、
話し相手だと認識するようになります。

こうなると職員は、
保険内容を説明するよりも、
自分のノルマのことなどの話をどこかに刷り込んでいたかもしれません。
高齢者から見れば、
保険を契約することで、話し相手を助けることができる
という気持が芽生えていたかもしれません。

人間は「だれかとつながっていたい」
「群れの中に帰属したい」という本能的な要求を持っています。
これは、「仲間の役に立ちたい」という気持になって現れることがあります。
高齢者は潜在的に仲間のために役に立ちたいと
感じていると思うべきなのかもしれません。

ここで職員は、殺し文句を発するわけです。
この保険が下りることによって喜ぶのは
お子さんやお孫さんですよと
「お孫さんのために保険をかけてみてはいかがでしょうか」と

そう言われてしまうと
自分が何かの役に立つことができる
孫や子供が喜ぶことをすることができる
という人間の本能的な要求を刺激されてしまうわけです。

さしずやダメ出ししかしない相手だが、
なんだかんだ言って俺の子どもだ
俺が子どもや孫のために何とかしてやるんだ
という意識はとても幸福なものだったでしょう。

そして、目の前のこの人も助かる。

高齢者は、まるっきり騙されているように見えても
だまされているかもしれないということは薄々感じているようです。
それ程自分に自信があるわけではありません。
相手に自分と話をするメリットが無ければ
もうここには来ないということを知っています。

(高齢者の法律相談で、相談される内容として
遠く離れて音沙汰のない子どもよりも
毎朝声をかけてくれる近所の娘さんに遺産を渡したいと
まあ、イメージで言えばそんな相談類型が多いのです。)

一度契約が成立すると
職員が焦って頻繁に訪れない限り、
あとはどんどん契約をしてくれる
そんなことが起きていたようです。

おそらく高齢の男性にとって
無駄な保険料は保険料として支払ったというより、
話し相手に対する小遣いみたいな感覚だったのかもしれません。

また、現金を支払うわけではなく、
郵便貯金通帳からの引き落としなので、
どのくらい財産が無くなっていたのかは
通帳を記帳しなければわかりません。
その高齢の男性は、記帳しにいかなかったので
ずうっと貯金が目減りしていたことが分かりませんでした。

ある時公共料金の引き落としができなくなり、
子どもたちの知るところとなって、
この問題が発覚したというのが経緯です。

だまされたことを認めることが怖くて
通帳記帳をするのが怖かったのかもしれません。



このケースでは、お子さん方が皆さん遠方にいらっしゃった上、
今更同居ということもなかなか難しい事情がありました。
自分たちとしてはほっといているわけではなく、
気持ちの上では常に気にかけていたこともよくわかります。

ただ、高齢の父親としては、
自分の存在が忘れられているのではないかという
そういう無自覚の寂しさがあったようです。

例えば読書や釣りや映画鑑賞という趣味があっても、
それだけでは人間は生きられないようです。
誰かのつながりの中で
尊重されて生きていきたいという要求があるようです。

ただ、誰かと一緒にいればよいというのではないようです。
だから、老人のための施設に入っても
介護の対象となるだけの人ということでは、
孤独は解消しない危険があります。
むしろプライドを傷つけられるということが起こりそうです。
何らかの役割を与えられた方が
生き生きとするのかもしれません。

まだ、子どもと同居しても
さしずとダメ出しの会話しかなければ、
あるいは家の中に住んでいても
家族の外に置かれていたのでは
孤立感が拡大すると指摘する
自死対策の専門家の医師も指摘します。

同居や施設入所をすればよいというものではない
ということが言えそうです。
ここでも、家事や体調変化等で「死ななければ良い」
という考え方が、
人間として生活する喜びの追及を邪魔するようです。

お金をかけるとか、無理して同居するよりも
理想を言えば週に一度泊まりに行って
世話になるということが良いようです。

食事を作ってもらったり、
話を聞いて勉強させていただいたり、
世話になるということが良いようです。

仕事の話、家族の話
なんでも良いし、繰り返し同じことでも良いでしょう。

帰る時に
「ありがとう、また来るね」と言える過ごし方が理想です。
言葉で説明すれば、
親が自分にしてくれたことをねぎらう言葉を発するということです。

週1度は距離や家族の状態でなかなか難しいのですが、
月1度、2か月に1度
できるだけ直接会うことが大事なようです。

電話や動画電話も良いように思うのですが、
すぐに飽きてしまうことも多いようです。
高齢者の方が役割を発揮している意識になれないからです。

あくまでも実際の面会の「つなぎ」として考える方がよさそうです。
また、用事が無くても週に1度以上
決まった時間に電話をするということも良いようです。
この時は短い電話でもよいので、定期便はお勧めです。
今日は電話が来る日だなということで
あるいは明日は電話が来る日だなということで
安心することもあるようです。

自分が生きていくだけで大変な世の中なのですが、
高齢者になることは
運が良ければ誰にでも起こることです。
つまり、近い将来の自分のことなのです。

自分の将来が少しでも寂しくならないように
親を生きた教材として、
人間を大切にすること
自分が大切にされることの
訓練をするということであり、
自分が死んだあと子供や孫が
大切にされるための実践的練習なのかもしれません。

自分の親の共同作業になることが理想なのだと思います。

同居できないからと言って全て諦めないで
現実にできることはいろいろあるのかもしれません。

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命の授業と聞くと怒りをもって反発する理由 真の命の授業とは [自死(自殺)・不明死、葛藤]

命の尊さを教えることが大切だと
イジメや自死の予防の文脈で無邪気に主張する大人たちがいる。
そんな主張を聞くと不安や焦燥にかられる
これでは、自死やいじめは減らない。

命の尊さを誰に理解させようとするのだろうか。

自死を考えている子どもだろうか
そうだとしたら自死がどうして起きるのか
ということをまるで考えていないことになる。

自死は二つの側面で考える必要がある。
一つは、現在の困難な状況から逃れたいのだけれど
逃れられない事情があって
逃れたいという気持ちばかりが大きくなるものだから、
今の状況から逃れられたいあまり、逃れることを
命を維持することよりも優先したくなることから起きる。
それだけ追い込まれているということだ。

もう一つの側面は、
死ぬのはだれでも怖い
しかし、自分が尊重されないことが続き、
自傷行為や自死未遂を起こしながら
死ぬことの怖さに慣れていってしまうということだ。
これが客観的に追い込まれているということだ。

どちらの側面も無意識に、無自覚に
心のほうが変化していく。
自分ではその変化に気が付かない。

自分が命を大切にできなくなっていることに気が付かないから
命を大切にしましょうということを聞いても
「それはそうですね」ということにしかならない。

また、本気で自死をしそうな人に
命の大切さ、尊さを教えることが有効だというのならば、
自死する人は命を大切に考えない人だということになってしまう。
自死する人はこういうこともわからない人だという考えのように
思えてしまう。
これは差別と偏見を植えつける有害な考え方だ。

自死は追い詰められた末の、他の手段を思い浮かばなくなってしまう
そうやって起きる
追い込む環境によって、だれしも自由意思を奪われるのだ。
誰だってその環境におとしいれられれば
自死をしてしまうのが人間だと考えるべきだ

命を大切にしない人というレッテル張りをする人たち一人一人に
私は話を聞きたいと思う。

「いいや、いじめをする人に対して、命の大切さを教えるのだ」
という反応も来るかもしれない。
それこそおかしいと思う。

では、いじめをした人たちは、
イジメられた子の命をなくそうと思ったのだろうか
もしかしたら死ぬかもしれないけれどまあいいやと思って
いろいろな行動をしたということになる。
だから命は大切だというのだろうからだ。

それも違うだろう。
誰も殺そうと思ってやってはいない。

もう一つ致命的な誤解があるように思える。
自死につながるいじめというのが
強烈な暴力や辱めの行為が明確にあるという誤解だ。

自死は、何か強烈な行為があったことによって
起きるとは限らない。
小さな攻撃を執拗に繰り返した結果として、
例えば口をきかないとか
その人だけを非公式な集まりに呼ばないとか
そういうことが継続して
もはや仲間として尊重されることはないという絶望を受けても
人は自死をする。
こういう人たちは強烈のエピソードがないから
自死といじめの因果関係は確認できなかった
ということをいうような人たちだ。

多くの自死の危険のある環境を
平気で放置する人たちなのだろう。

命の授業と聞くと
特に生命誕生とか、命の価値とかいう話を聞くと
いじめ対策は
いじめで死にさえしなければよいんだという根性が
透けて見えるような気がしてならない。

その結果、
どんなに苦しんでも、どんなにつらくても
どんなに怖くても、どんなに悔しくても
とりあえず死ぬな、命は大切だ
苦しみ続けても、辛い状態が続いても
怖さが消えなくても、悔しい状態が続いても
命があればそれでよしという冷たい考えに思えて仕方がない。
追い込まれている人頼りの自死対策は
もはや対策とは言わないだろう。

それは無茶な話だ
それでは自死は防げない。

そもそも
いじめがなければそれでよいのか
死ななければそれでよいのか

もしそうだとすれば、
いじめはなくならない
自死はなくならない。

管理の立場から責任を追及されたくないということが主眼で
生徒の幸せはどこかに置き忘れられているのだろう。

命の授業なんて百害あって一利なしだ。

どうして命の授業なんてことを思いついたか
自死のメカニズムも
イジメのメカニズムも考えず、
つまり原因を考えて対策を立てるのではなく、
イジメによる自死をなくすという結果だけを求めたという
安直な発想だろう。

それによって、傷つく人が生まれ、
守ることができた人を
守る行動をしないで無駄なことをしなければならない。。
これでは時間がもったいない。

自死予防、いじめ予防のための授業ならば、
本当に教えるべきは、
生物としての命ではなく
人間としての命についてだ。

命があるのは、
家畜だってゴキブリだって同じだからだ。

人間が生きるということは何か
人間とは何か
それを大人が自分なりに教えるということが
人間としての命の授業だろう。

人間はひとりで生きられない
集団で生きなければ生きることができない
共存の形を教えるのが人間としての命の授業だ。
それが対人関係学だ。

人間が尊重されるべきだということ
人間の尊重の仕方
大切な人を安心させる方法
こういうことをこそ教えるべきだと思う

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「子の連れ去り」からの家族再生の開拓者たち。正しい夫からの卒業に挑む。思い込みDVシリーズ [家事]

私の場合、通常は「子連れ別居」という言葉を使うのですが、
今回は、「それにもかかわらず」感を出すために子の連れ去りと表記しました。

<家族再生派が増えていることとその理由>

ある日夫が仕事から帰宅したら妻も子も家にいない
もしやと思って実家に行くと警察がやってきて夫を制止する。
どこに行ったか分からないケースも多い。
やがて、保護命令や離婚調停の申立書が
裁判所から届き、
子どもに一度も会えないまま離婚になり養育費だけは支払わなければならない。
そんなケースが多発しています。

こういう場合、夫としては調停で怒りをぶつけて
最後まで法的に争うか
全て諦めて相手の言いなりになってしまうか
極端に言えばどちらかであることがこれまでの多数でした。

ところが最近家族再生を志向する夫が増えてきました。
なるべく話し合いで解決しよう

妻をできる限り安心させて、
せめて子どもとの面会交流を充実させよう

という方針の夫たちです。

理由は、子ども会いたいからです。

どんなに正論をぶつけて真実を立証しても、
妻が子どもを会わせることに協力しないと
現実には子どもと会うことができません。

裁判所で審判をもらっても
なんだかんだ言っても
やはり母親が頑として子どもを会わせなければ
会えないわけです。

面会できても、子どもも母親と父親の板挟みになって
苦しそうにしています。

そもそも、本当に真実に従い、
子どもの利益を考えた審判が出ると
信じ切るわけにはいかないという実情も大きいです。

自分と子供という大事な関係を
他人の判断に任せることはできない。

自分のできる限りやれることをやる
出来れば妻ともやり直したい
と考える夫が増えてきています。

そのためには、争わずあきらめず 家族再生の努力をするという選択をするわけです。

<家族再生夫の戦略>

家族再生派の戦略は妻を安心させること
先ずはこれに尽きます。

妻が自分のもとから去る理由が
自分を嫌悪しているからないし怖がっているからだ
ということを認めます。

但し、妻が怖がるのは自分が悪い場合だけではない
ということを腹に落とします。
*1
但し、但し、自分が「悪く」なくても、
自分の行為によって、妻の感情は悪化するし、
自分の行為によって、逆に妻の感情も緩和する

と考えるわけです。
意見の対立する相手にこちらの結論に同意してもらうためには、
結論を押し付けてもうまくいかない、
相手をこちらの結論に誘導することが必要だ
*2
そのためには、こちらが自分の行動を修正してみせる
それしか方法がないだろう
それがこちらの戦略です。

<思い込みDVの妻の不安の形>

ここから先は思い込みDVの事例を念頭にお話を進めます。

思い込みDVとは、
客観的には身体的暴力も言葉の暴力もないのに、
妻が何らかの暴力を受けていると感じているケースを言います。

その理由で一番多いのが「夫の正しさ」です。
結論からいうと
夫が正しいので、妻は
自分のことを自分が決められなくなる
これが不安を産む一つの大きなポイントです。

夫の正しさが息苦しさを生む構造は
後注で述べます。
*3

ただ、ここで押さえていなければならないのは、
正しいことを言う、相手の誤りを正すという場合は、
自分でも意外なほど、
相手に対して過酷な対応をしていることが多いということです。
相手を馬鹿にしたり、軽蔑したりしているように
受け取られてしまいがちだということです。

そして、厄介なことに、
自分では正義を実現しようとしている
という自覚がありません。
どうやって自分の気持ちを知るかというと
言葉でしかわかりません。
こうするのが「当然」でしょう
こうするのが「常識」だよ
「当たり前」、「普通は、」

これを言われてしまうと
妻は常識がないつまり非常識
普通ではなく異常
軽蔑されても仕方がない人間だ
と言われているようなものです。

当然仲間から普通以下だとか常識外れなどと
非難を受けたくはありません。
言われないようにしようと思うのです。

だから、これから何かしようとしたときに
例えば食事の準備の買い物をしようとか
子どもに服を着せて外出しようとか
一つ一つのことをしようとするときに
夫の小言を思い出して
ああ言われたらどうしよう、こう言われたらどうしよう
と思い悩むことが積み重なってしまうのです。

夫の言っていることがなんとなく正しいですから
だんだん自分が間違っているような気持にもなります。

その上で、あれをしろ、これをしろと
しないとまた普通ではない常識ではない等と言われると
一日中、夫から文句を言われないように
自分の行為を点検をしながら生活しなければならなくなります。

これは精神的に参ってしまいますし、
もう解放されたいという気持になっていってしまうことは
イメージできるのではないでしょうか。

ここまで極端に矢継ぎ早な指示とダメ出し
をしているわけでは実際はないのですが、
妻の側に事情があって
不安になりやすい状態の場合は、*1
一つの言葉でも、頭の中をいつも占領している
という状態になることがあるわけです。

<再生派夫の具体的行動 妻を安心させること>

一言で言ってしまうと、

指図(さしず)とダメ出し

が、妻を苦しめるということを
大きな柱として押さえておくことが必要です。

次に、別居してしまうと今更、指図とダメ出しはできない
と考えがちなのですが、
これがそうではない。

例えば調停などをしていると
陳述書や準備書面で相手に指図とダメ出しをしてしまう
ということがあります。

別居したことを責めること
例えば理由がないとかわがままだとかですね。
一人で子どもを育てることで子どもが幸せにならないこと
連れ去りだ、拉致だと責めることです。

責めないまでも、子どもにとって父親からの愛情が必要だと
教えさとすことです。

これらは、連れ去られた夫が一番言いたいことです。

「一番言いたいこと」をあえて言わない。

これをまた夫から言われてしまうと
妻は、夫はあいも変わらず指図とダメ出しを繰り返そうとしている
私は夫と会いたくない。同じ場所で息をしたくない
ということになっちゃうのです。
夫が「一番言いたいこと」は
妻が「一番言われたくないこと」だからです。
ここに最初の矛盾が登場します。

どうしても必要があれば代理人弁護士に言ってもらうとか。
調停委員会との内部調整でお願いするということになろうかと思います。

特に調停委員会が妻側を説得して子どもを父親に会わそうとしていて
議題はどうやって会わせるかということに移っているのに、
面会交流の必要性を話しを続けることは、
委員会に対しても窮屈な思いをさせてしまい、
なるほど奥さんは夫が嫌なんだなと印象を作ってしまうという
デメリットしかありません。

夫がやるべきことは妻を安心させること
指図とダメ出しをしないということを理解してもらうこと
それなのに、一番言われたくないことを言われることは
逆効果以外の何物でもないのです。

おそらく調停の議題は、
こちらは面会したい、するべきだ
相手は会わせたくないということなので、
「会わせるか会わせないか」ということで停滞することが多いです。
しかし、かまうことはありません。

「どうやって会わせるか」という議題に正々堂々とすり替えましょう。
つまり、子どもを会わせるように連れてくるためにも
母親の協力が必要だ
母親は子どもを夫に会わせることに不安があるので
会わせたくないと言う。
調停委員にそこはこちらも十分理解できると言ったうえで、
だから、こちら側が母親の不安をできるだけ軽減させて
母親をできる限り安心させて
母親に面会に協力してもらおうとしようとする
そのためにどうしたらよいか一緒に考えてほしい
子どもたちのために考えてほしい
というところから議論を始めるべきなのでしょう。

そうすると、会わせるか会わせないかという議論から
どうやって会わせるかという議題へとすり替えることができるのです。
ここを会わせるべきだということを繰り返していては
子どもは決して父親に会えません。

<母親を安心させる方法>

一緒に住んでいないのだから、
指図やダメ出しをしませんと宣言されても
妻は安心をしません。

妻に
「ああ大丈夫かもしれないな。悪いことは起きないのかな」
と思わせなければならないわけです。

指図やダメ出しというマイナス行為をしないのではなく、
プラスの行為をすることを提案することが理想です。
一緒に住んでいなければどちらも難しいです。

それでもやるしかありません。
一つには、面会交流の具体的イメージを語ることです。
希望がどのくらいのペースでどのくらいの時間を行うのか、
ということはもちろん
例えばどこでどういうことをするのか
ということもなるべく具体的に提案することが先ず基本のようです、

次に、面会交流の際の遵守事項をこちらで先行的に誓うことです。
誓っても何も不利益がない上に、相手は多少安心するようです。
例えば、母親の悪口は言わない
生活状況を尋ねない
父親に会えないことが母親の意思だと言わない
(お母さんが良いと言ったらもっと会えるよ等)
こういうことは、子どもにとって有害な話なので、
子どもためにやめましょう。
後は、高額のプレゼントを送るときは母親の了解を得るとかですね。

こういうことを言われないうちにやる
ということです。

もちろん、養育費を毎月支払うことも言われなくてもやる。

そうやって、相手が一番嫌がる
子どもを連れて別居したことを責めないで容認する
という姿勢を示すということなのです。
心から容認することはできませんから形だけするということですね、
心は後からついてくればそれでよいわけです。

子どもに対する手紙を書くということも
有効な場合があります。
子どもに対する手紙の中で、母親の言いつけを聞けとか
母親を立てることを書くということですね。
母親に対して、子どもに渡してもらうときも、
一人で子育てをすることの感謝とねぎらいをする。
父親にとって嫌なことをさせようとしているわけですが、
それが母親にとって安心する材料だということになるのでしょう。
どうにも皮肉な話です。
おそらく何回も「心は後からついてくる」
とお題目のように繰り返すことになるのでしょう。

ただ、手紙の中で、どうしても、
夫の言いたいことを言ってしまう危険があります。
出来れば代理人と内容について吟味を重ねて良しとなったら提出
という慎重な態度が求められます。
手紙も代理人を通じて相手方代理人に送る方が無難です。
こういう手紙を出したということを
裁判所に提出して調停委員会にも隠さず見てもらい助言を受ける
ということも有効です。

そんなこんなして、子どもと面会交流が実現しても
気を許してはいけません。
「夫の言いたいこと」を言ってしまうのはこの時です。
逆に、言いたくないことを言うことで面会交流が
時間的に場所的に拡大していくことも少なくないのにです。

ここで言いがちな正しい夫の言葉は、
例えば、
「風邪ひいて微熱があるのに
 なんで面会に連れてきたんだ。」
というのが典型的なものです。

そうです、「夫の言いたい言葉」、正義というのは、
本当は、夫なりの愛情表現なのです。
相手のために良かれと思って言うことがほとんどなのです。
だけど、言い方が悪くて
あるいは正義による無意識の攻撃的言動や
相手のとらえ方に問題があるとか言う理由で*1
それがねじれて伝わっているだけのことが多いのです。
本当はそうなのです。

どうやら、愛情を本能のままに表現することを
セーブするということが大事なようです。
私たち不器用で恥ずかしがりの男たちは
女性に人気がある男性の口先だけのようなわざとらしいセリフが苦手です。
でも、受け取る方はそちらの方がよいようなのです。

夫は言い方を考えなければなりません。
さっきの事例で
色々な無理な事情があるにもかかわらず子どもが面会に来るときは、
子どもの年齢にもよりますが、
父親に会いたいという強い意思に基づく場合が実は多いようです。
父親に会いたい事情があるという言いかえもよいかもしれません。
元々会いたいのですが、
その時、たとえ面会が布団の中で休んでいるだけだとしても
父親と一緒にいたいということがあるのです。

母親側も、親切というより義務感によることもあるかもしれませんが
子どもを会わせなければならないという焦りもあるかもしれません。
夫に悪いから会わせてあげようという鬼の霍乱もあるかもしれません。

夫は一言、無理しなくても大丈夫だよ
と言ってあげればよいのです。

それを、
こういう時は家で休んでいるのが常識だろうとか
ふつうはこうするとか言って
つい正義感が無意識に出てきてしまい、
相手を圧迫してしまうし、

子どもも面会が億劫になったり、
自分のことを大切に思わないのだろうかと思うこともあります。

母親側もじゃあどうすればいいのだ
と混乱してしまうわけです。

相手の判断を尊重するというところが
親切心ゆえに難しくなるというのが
思わぬ落とし穴なのです。
失敗が多い人は
相手に話をするときは
紙に原稿を書いてから
電話をしたリ、メールをしたりした方がよいのです。

<家族再生は無駄ではないこと>

これだけ言いたいことを我慢したり
言いたくないことを無理して言っても
離婚を回避するという意味での家族再生は
なかなか難しいということが実態です。

特に35歳を過ぎると難しいです。
でも、たとえ一度離婚をしても、
曲がりなりにも面会交流が続くということに
つながっていくようです。

安心感を積み重ねていけば
面会交流の時間も場所も拡大する傾向になります。
ルーズになるわけです。
だから、面会交流調停の取り決めは
小さく生んで大きく育てろといわれるわけです。

一番言いたいことを言わずに
一番言いたくないことを言う
こころは後回し
という技術が高まっていけば
面会交流をするたびに
相手は安心感を積み上げてくれるわけです。

離婚を受け入れて
相手の面会交流のめんどくさいから一回パスも受け入れた人は
離婚調停成立前に祖父母同席の面会交流が実現し、
離婚調停から3か月で宿泊付きの面会交流に拡大し、
子どもを父親宅に泊めるというところまで拡大しました。

もうこうなると、心が一緒についてきて
お互いに感謝の応酬という
その先を予感させる事態も起こっているのです。

家族再生は困難な道のりですが、
トライして損はないはずだと
頑張っている人たちを応援していて実感しています。

*1 
存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-12-04
もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12
妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17

*2
北風と太陽の本当の意味、あるいは他人に対する優しさと厳しさの具体的意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-18

*3
<夫の正しさが息苦しさを産む構造>

これから言うことは、人間に限らず動物全般に共通する心理です。
ただ、リアル感を出すため、あえて「人間は」という言い方をします。

人間は、危険を察知して、無意識に生理的な変化を起こし
危険から解放されたいと願い、
危険から解放されるための行動を行います。

(この「生理的変化」こそがストレスなのです。)

ところが、危険を察知しないにもかかわらず、
ストレス反応が起きる場合があります。

代表的には、危険が来た場合に対処できない場合です。
例えば目隠しをされた場合、逃げることができなくなります。
何か危険が迫っているということもないはずなのに、
何とも言えない恐怖が襲ってきます。
手足を縛られて、放置された場合も恐怖を感じるでしょう。
何か具体的な危険が迫っていなくても
わけのわからない危険が迫っているような
そんな感覚になってしまいます。

食事や睡眠や排せつの機会を与えられ続けられたとしても
目隠しして手足を縛られ続けられたら
ストレスで精神的に参ってしまうと思います。

極端な話、妻は
そのような精神状態になっていることがあるようです。

つまり、自分で自分のことを決められないと感じると
危険がないにもかかわらず、
危険が迫り来ても自分でそれを振り払うことができない
と感じているのだと思います。

<妻の不自由感の生まれる構造>

妻はなぜ自分のことを自分で決められないと思うのでしょうか。
どうやら、自分で決めることが怖くなるようです。

どうして自分で決めることが怖くなるのでしょう。
自分で決めたことをいちいち否定されるからです。
帰ってくるなり玄関が乱雑になっているとか
食事の準備をしていれば匂いがどうのこうのとか
カーテンを変えれば、勝手に買ったことを怒られ、
自分の買ったレシートを見つけ出しては金額に文句を言う
子育てについては、自分の気に入らないことがあれば反対し、
子どもの前で叱られたりする。
クレジットカードの申込書の書き方が分からなければ馬鹿にされ、
やることなすこと否定され、ダメ出しされていけば
自分が何かをすると夫から否定されるということで
もう嫌な気持ちになっていくわけです。

さらに帰宅前に、細かいことを
あれをやっておけ、これをやっておけと指示されてしまうと
自分の予定も立てることができません。

これは大変つらいことでしょう。

暴力なんかふるわなくても
人格を否定されている、
どれがとは具体的には言えないけれど
精神的虐待を受けている
という気持になっていくのはよくわかると思います。

夫の目を気にして、自分のことすら自分で決められなくなる
ということは理解しやすいように思います。



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家族の中に他人を作り家族を分断させる「呪い」の思想 [家事]

 

現代日本の家族関係は、大変もろいものです。
自分は夫から、妻から、親から子から、
一段低い人間だとみられていないか
自分だけ損をさせられているのではないか
と考えてしまって、
家に帰ることが安らぎにならないということが
すぐに起きやすくなっているようです。

一つは家族の人数が少なくなっていて
相手に対する依存度が大きくなっていること
このために家族の自分に対する評価を過剰に気にしてしまう。
人数が少なくなった家族生活のノウハウが無く、
これまでの人間を大切にする生活の知恵も継承されない
というところにも原因があると思います。

もう一つは、家の外の学校や職場が
とても安心できる人間関係を築けない上、
外のストレスが、家庭に持ち込まれやすくなっていることです。

放っておいたならば家庭は機能しません。
意識的に家族という人間関係を作っていく
という作業が必要な時代だと思っています。

家族という群れの強い一体感を作る必要があるのです。
「私たち」という言葉で語られる居心地の良い関係を作る
そういう作業を意識的に行う必要があると思います。

ところがこれに逆行して
家族という人間関係を他人に変えることを良しとする考えが
かなり影響力を持っているということを知りました。

先日地元の有力紙の書評で、
「炊事、洗濯、掃除、子育てに介護が
女性の無償労働行われていて、
その原動力は、外部から注入された「愛」だ
どれだけ尽くしているかで愛をはかられる
だから苦しい」
という一文を読みました。

これはすさまじい「呪い」だと感じました。
もしかしたら、悩んでいる妻たちに対して
「それは夫のモラハラのためだ。精神的DVだ。」
という人たちも同じようなことを考えているのではないか
と思いつき背筋が凍るような思いをしました。

この論者は物書きだそうですから、言葉は正確なのだと思います。
そうすると
炊事、洗濯、掃除、子育てに介護を
無償で行っているということを非難していることになります。

論者は、家事に対価を要求していることになります。
この発想は
すべての労働は対価を要求できるという論理を
前提にしています。
それでは外で働いて給料を家に入れている男性は
誰にどのような対価を求めればよいのかということになってしまいます。

家族のための行動に対価を求める発想は間違っています。
お小遣いをもらって家事をする子どもは別ですが。

あまりにも資本主義経済に毒されている発想です。

資本主義経済体制において賃金を取得するのは、
「他人のために自己の労働力を提供する」からです。

極端な話からはじめると
人間が自分で生きる営みに対しては
誰も対価を要求しません。
例えば一人暮らしの場合、
買い物に行くのも、調理をするのも、食事をするのも、排便をするのも
誰も対価を要求しようとしません。

次に
自分の子どもの子育てをする場合も
授乳、おしめ交換、沐浴、衣服の購入と着替え
おそらく誰かに対価を要求しようと思う人は
本気で思う人はいないといってよいでしょう。

つまり、自分たちのための行動であれば
あるいは仲間のための行動であれば
人間はそれをやりたくてするものであり、
対価を望んで行動するわけではないのです。

ところが、論者の論調は、
家事労働が無償で行われていることを非難してみせることで、
あるいは少なくとも否定的な評価をすることで、
家族の営みの中に
他人性を滑り込ませているのです。

実際に対価を求めなくても
こういう考えが頭の片隅に引っかかると
夫婦は「人間の群れ」としては成り立たたなくなります。

人間は言葉のない時代から群れを作ってきました。
群れとして成立する原理は、言葉ではなく
法律や道徳でもなく、
群れを作るための感情をもっていたからです。

つまり、ずうっと仲間でいたいという感情と
その裏の関係にある仲間として認められないと感じたり、
仲間から外されると感じたりすると
恐怖や不安を感じるシステムが組み込まれていたのです。

共感する能力を背景として
仲間が困っていたら自分のこととして助けたくなり、
仲間が喜んでいたら一緒にうれしくなる。

群れの中の弱い者を保護しようとする感情

このような共感モジュールが遺伝として継承されて
群れを形成してきたと考えるほかはありません。

だから、見返りを求めることなどなく、
仲間のために自分のできることをした
その結果仲間が喜べば自分もうれしいし、
仲間が苦しみを味あわなくてよくなれば
自分もほっとしたはずです。
こうやって人類は群れを作ってきたと思います。

いちいち対価を期待して群れに奉仕するならば、
言葉のない時代に群れは成り立ちません。
即時交換でない限り、
具体的な労働力の提供を記録する方法もありません。
対価を要求して仲間割れになり
群れなど作れなかったことでしょう。

その結果、人間は飢えたり、肉食獣に捕食されたりして、
今よりもずうっと前に種が滅亡したはずです。

だから
仲間のための役に立ちたいということが
人間の本性だと考えます。
仲間のための行動に対価は本質的に必要ないのです。

心が形成されたとされる200万年前の狩猟採集時代は
自分と仲間の区別もあまりつかなかったと思います。
自分の利益は仲間の利益とほぼ完全に一致していました。
生まれてからの付き合いなので、
仲間の感情は手に取るように予測できたはずです。
「自分は」という自分だけを主体として発想を持つことはあまりなく、
「自分たちは」という言葉でものを考えることが
圧倒的に多かったことでしょう。

自分たちと言える仲間の中にいることが
人間にとっては安らぎでした。

ところが論者は、
最も基本的な人間の群れである家族の中に
「私たち」という文脈を否定して
夫と妻を、対立する「個」として分断します。

論者とは異なり、
人間の本性として
家族のために食事を作りたいという男女は多く、
家族みんなのために掃除機をかけるという感覚の人間がほとんどでしょう。
家族の洗濯を一度にするという家庭も多いのではないでしょうか。

それにも関わらず、論者は、
対価を獲得しない労働は損をさせられている
という考えを導入し、家族の仲間を他人にするのです。
本当は、大げさな話ではなく人間の本性なのに、
「それはあなただけ損をしている」
というささやきを繰り返す。
そのささやきに抵抗できず、
「それは愛だ」と答えるや否や
論者たちは、
愛というのは幻想であり、
女性が男性のために奉仕するための「構造的差別」の道具だ
と断言しているのです。

人間の本性を浅はかな理屈で否定するのですから
まさに呪いです。

私たちという仲間の中にいることによって得られる
安らぎ、癒し、充実感という人間の本性的に基づく機能は、
家族が分断されて、個としての対立を際立たされてしまうと
それができなくなってしまいます。

家庭が休まる場所では無くなり、
「自分が損させられている」
という感情が次々に押し寄せてくるようになるでしょう。
「自分は馬鹿にされている」と思うようになるでしょう。

まさに呪いです。

呪われた結果、
何をやっても、自分が誰かに強制されて行っている
家族のための行動に罪悪感を覚えるようになり、
仲間に安心を与えたという喜びは感じられなくなります。

「今いる家庭から逃れたい」
という病的な志向を抱くようになるのももっともです。

これを呪いと言わずして何と言いましょう。

考え方ひとつで
幸せを奪われる人もいるのです。

一度かかった呪いは簡単には解けません。
繰り返し安心感を与えるという
頼りない作業を続けなければなりません。

それでは、女性という人格は
家族の中に埋没する従属的立場なのか
という批判が予想されるところです。

ところが、
それは全く逆なのです。

そもそも、対等の仲間としての群れであれば、
誰が支配するということありえません。
お互いの行動を尊重することが
本来の群れです。
突き詰めて言えば、これが現代社会の日本では
なかなかうまくできないのです。
まだまだ時代の過渡期で、
現代の家族制度に対応しきれていないと考えるべきです。

また、論者の発想こそが
依存傾向の強い人間の発想で、
人間関係を支配と従属でしか考えられない人の発想です。

論者は幼いころから
誰かから評価されたい
という意識を強すぎるくらい持って生きてきたのでしょう。
小さいころから「良い子」だったのだと思います
良い子というのは「親にとって都合の良い子」です。

学校でも良い子、世間的にも良い子でいることに
自分の価値を見出してきたのでしょう。

だから、他者から女らしくしろと言われたら女らしくして、
愛に絶対的価値があると言われれば
愛が足りないといわれることを恐れるのでしょう。
個として確立していない時期に、
目標を他人から設定されて
疑問を持ちながらもとりあえず従ってきたわけです。

だから、他人から「愛が足りない」と言われることが苦しいのでしょう。
社会一般の評価など、本来どうでもよいことです。

自分の行動によって
家族が安心して生活できれば
それでよいはずです。
他人などどうでもよい。
自分のできる範囲での行動で足りなければ
家族を動かして解決すればよいし
家族だけで足りなければ
もっと大きな仲間を作ればよいのです。

依存傾向が強い人は、
夫から評価されることを過度に求めます。

夫から否定されることを恐れて
夫に働きかけないで、
不満ばかりためることになります。
夫が自ら察して解決してくれないと
非難を始めたりしてゆきます。
子どもが親にするように夫に依存してしまっているのです。

依存傾向の強い人が家族から切り離されてしまったら、
個人として確立した人間になるのでしょうか
それは難しいでしょう。
違う誰か、つまり実家や行政や宗教、あるいは自分の幼い子どもと
別の依存相手を探すだけである場合が少なくありません。

夫も妻も、
自分に頼り切っている相手に喜びを感じていたら、
相手はやがて評価を気にしすぎるようになり、
あなたが負担になりすぎて、
一緒にいることが苦しくなる
その結果逃れていきたくなることもある
ということに気づきましょう。

相手が自分の判断で何か実行したことを尊重すること
相手の裁量権を広く認めることこそ
相手が家族のためにしたことは文句を言わない
ということが長続きするコツのようです。

仲間の一体化と従属は全く違います。
相手に裁量権を認めることも
自分が個として確立して初めてできることかもしれません。

家族を分断することはとても簡単に行われています。
呪いがかかった家族を再生することは困難なことです。
しかし、現代社会では家族の再生、再構築が
どうしても必要なことだと考えています。

私たちの幸せのため
敢えて困難な道を作り上げようではありませんか。

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自尊心・自尊感情 対人関係学のホームページより転載 [進化心理学、生理学、対人関係学]

対人関係学のホームページより
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
お時間ある方むけです。すいません。

自尊心・自尊感情

自尊心、自尊感情という言葉が、話題になることが多くあります。ただ、その意味は論者によって違いがあるようです。一般的には、自分を大切な存在だと思う感情ということになるでしょう。
自尊心をもつことは、人格形成や情緒の安定のために重要であると考えらえています。逆に自尊心の欠如は、情緒が不安定となり、アルコールなどの薬物乱用、犯罪やギャンブル、性行動の逸脱、依存症、いじめ、自死等社会病理の原因になると言われています。
それほど大事なものならば、子どもには自尊心を持ってもらいたいと思うのですが、少し漠然としすぎているために、結局何なのか、どうやったら自尊心を持つことができるのか、自尊心を持てない危険性が、あいまいで、頼りなく感じます。今回はそのお話しです。
少し、自尊心を調べていたら、ちょうどよい説明を見つけました。
辻正三先生という方が、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)で書かれている説明です。そこには、「たいていの人は、自分が他人から受け入れられ、また自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望を意識的、無意識的にもっている。これが自尊心にほかならない」と説明されています。私が、対人関係学的な自尊心として説明したい定義にぴったりなので、この意味について勝手に解説をするところから始めていきたいと思います。

<辻正三先生の定義を勝手に解説>

1)自分が他人から受け入れられたいという意味と、たいていの人が感じる理由

ここから、すでに対人関係学なので、その原理についてはいつも説明している通りです。つまり、人間の心は約200万年前に形成された。その時代は、狩猟採集時代で、一つの群れの中で人間は一生を終わっていた。人間は群れを作らないと飢えや肉食獣の攻撃に耐えられなかった。言葉のない中で群れを作るための感情を持っているものだけが群れを作り子孫を残してきた。ということです。
子の群れを作るための感情の一つが、「群れの中にいたい。群れにとどまりたい。」という感情なのです。群れの中にいると、安全を感じ、安らいだ気持ちになるわけです。このことは、群れからは追放されるのではないかと感じると、とても不安になることを意味します。この不安は、けがをしたり、病気になったりするのではないかという不安と、同じ心持であることが知られています。この。「群れの中にいたい、群れにとどまりたい、群れから追放されると不安や恐怖を感じる」という感情が、現代的には「他人から受け入れられたい」という表現になるわけです。他人から受け入れられるということは群れにいることを許されるということですし、受け入れられないと感じることは、追放されるのではないかと感じることだからです。
私たちは、200万年以上、群れを作って生活をしてきた人間の子孫ですから、人の個性によって程度は違いますが、多かれ少なかれ、他人から受け入れられたいという気持を遺伝子に持っているのです。

2)自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望

自分の存在価値とはどういうものでしょうか。
これも、今の説明の延長線上にあります。一つは「群れにとどまりたい」という心に由来すると思います。はっきりした流れを意識することは少ないのですが、自分が群れにとって有用であるならば、群れに留まる資格のようなものがあるという感覚を持てるのではないでしょうか。だから、群れにとって自分が役に立つ人間だという感覚は、群れの中で安定した立場を感じさせるのだと思います。自死の研究をしていると、これを裏付ける理論が出てきます。自死の危険を高める要素として「役割感の喪失」というものがあります。働いて家にお金を入れていた人が失業してしまう場合とか、社会的地位の高い人が犯罪をして立場をなくすとか、そういう場合が典型的です。自死は、自尊感情を失った場合に多く起きることから、裏から自尊心の意味を考える道具になると思います。
ただ、今の説明は間違っていないのですが、それだけでは不十分だと思うのです。ズバリ言うと、何か役に立つことができないと、自分の存在価値を感じられないのかということなのです。なるほど、群れにとって役に立つならば、それは価値を感じやすくなるでしょう。しかし、客観的にみれば、群れにとってのその人の存在価値の最も重要なことは、200万年前の時代は頭数に貢献することでした。一人でも多ければ、獲物を追い詰める時に隙が無くなり、獲物を逃がさない確率が増えたでしょう。一人でも多ければ、食べられる植物を見つける確率も高くなります。一人でも多ければ、誰かが襲われた時、野獣を追い払いやすくなるでしょうし、そもそも野獣が群れを恐れて近づきにくくなるということがあると思います。群れにとっては、群れに調和して存在することが、その人の価値だったと思うのです。人並み以上に役に立つということは、必ずしも自分の存在価値を感じることに必要ではないと思うのです。
つまり、自分が群れの役に立つという感覚は、自尊心を高めやすくなるが、それがなければ自尊心を持てないというものではないという関係になるのでしょう。
そうだとすると、自分の存在価値とは、本当は、「群れから受け入れられている」という感覚そのものではないかと私は思います。

<自尊心を持つことがどうして素晴らしいのか>

説明したように、自尊心は、人間が群れを作る動物であることから、群れから受け入れられていることに満足を感じてしまう性質を言います。群れから受け入れられている状態が、人間の能力を発揮できる状態だということがいえるでしょう。人間本来の気持ちに基づく行動をするようになるわけです。群れの役に立ちたいという気持に基づく行動をするようになります。「群れのために」という気持は、自分を奮い立たせ、困難を克服し、努力を継続させることを可能にします。群れの一番弱い者を守ろうという気持もいかんなく発揮できることになります。本当の自尊心を持つことは、人間社会の協調を実現しますので、自尊心を持つ人たちの群れは、争い自体が起きにくくなるでしょう。その群れのメンバーは、相互に受け入れあうようになり、益々自尊心が高まっていくことでしょう。

<自尊心が欠如するとどうして社会病理の行動に出るのか>

自尊心が欠如するという状態は、自分が群れの仲間から受け入れられていないということを感じるところから出発します。通常は、どうして受け容れられないのかを自己点検して、自分の行動を修正し、群れに受け入れられるように努力をしています。子どもの時期は、この習性が活発に行われ、集団生活になじむように、自分のするべき行動、するべきでない行動を学習し、身に着けてゆく時期です。
ところが、どうしても自分が群れの仲間から受け入れられない、自分が群れの仲間から辛く扱われる。尊重されていない、大事にされていない。自分の苦しい感情を放置される。こういう感情が積み重なってゆくと、群れに受け入れられることをあきらめるようになっていきます。無駄な努力だと思うのでしょうね。やる気がなくなることは理解しやすいと思います。
しかし、群れに受け入れられたいという気持は、無意識の気持ちであるし、本能的なものなので、これを捨て去ることはできません。群れに受け入れられていないという状態を感じ続けることは、不安を感じ続けることになってしまいます。不安を感じることは、不安から解放されたいという気持を感じることにつながります。何とかして、自分の今ある不安を無くしたい。しかしその方法が見つからない。本当は群れから受け入れられることによって、人間は癒されるのです。しかし、それが実現しない。そうなると、不安が大きくなるし、不安から解放されたいという気持が大きくなってしまいます。群れから受け入れられる代わりの不安から解放される方法があると、それに飛びついてしまいます。
薬物、アルコール、シンナー、麻薬は、その典型的な方法です。薬理作用で、不安を忘れることができます。しかし、それは一時的なもので、その効果がなくなると不安が襲ってきます。また、神経に耐性ができて薬に反応しにくくなりますから、どんどん過激になっていく傾向にあります。
依存症も、その文脈で説明できる場合が多いでしょう。不安を軽減させる、忘れる、そのための儀式、逃げ場ということになるでしょう。
犯罪など、誰かを攻撃するということも不安解消行動が背景として存在することが多くあります。
不安の継続は、思考力を低下させます。複雑な思考ができにくくなります。一番複雑な思考とは、他人の感情を理解することです。これができなくなります。かわいそうだという気持が持ちにくくなります。それから、簡単な刹那的な考えしかできなくなり、良いか悪いか、損するかしないか、危険か危険ではないかというような二者択一的な思考になってしまいます。また、あきらめが多くなる悲観的な傾向も生まれてしまいます。
元々他者から受け入れられないという感覚が自尊心の欠落ですから、自分を大切にできません。社会的に禁止されていることでも不安を解消するためにはやってしまいます。それも、思考力の低下が大きく影響しているのでしょう。
だから、自尊心の欠落の究極の形態は自死なのです。大変危険な状態であるし、人間誰しも同じような性質を持っています。自尊心は大切なのです。

<自尊心と似て非なるもの 危機意識に基づくプライド>

自尊心という言葉を調べていたら、案外多くにプライドという言葉を当てはめる説明がありました。良い意味のプライドなら自尊心の一部を構成するかもしれません。しかし、プライドの用法として例えば、「あの人はプライドばかり高くて付き合いにくい。」等と言う意味で使われることがあります。
この場合のプライドとは、私たちの言う自尊心とは異なり、自分をこういう風に受け入れてほしいという心の状態を言うのだと思います。むしろ、本当は自分はこれほどすぐれた人物なのに、世間はそのように評価しないという、「受け入れられていない」状態の認識なのですから、自尊心がない状態でさえあるのです。自尊心が持てないために、見当違いなプライドを持っているということになるのでしょう。このプライドを含めて自尊心だという見解ももちろんあります。ただ、その場合の自尊心は、今述べたような、あると素晴らしく、ないと危険だというものでもなく、大切にされるべき自尊心ではないことになります。それは、自尊心ではないと今は言っておこうと思います。

<現代社会と自尊心>

心が形成された200万年前と現代社会の違いは、いろいろあります。いつからを現代社会と呼ぶかという問題も違いの考察には必要です。ここでは、一つだけ指摘しておきます。それは、200万年前は、人間は生まれてから死ぬまで、基本的には、一つの群れで一生を終えていたということです。子どもを産むのも、育てるのも、学習するのも、狩りや植物採取をするのも、同じ群れでした。ところが現代は、結婚して別の群れに移動し、子どもを産み、学校という群れに所属し、会社という群れに所属する。それらの小さい群れを構成する社会や国という群れにも所属し、自分の趣味や研究をする群れにも所属したりします。子どもの環境によって大人もPTA等の群れを作ります。
人間は、放っておくと、そのすべての群れから、自分が受け入れられているという気持を持ちたいと思ってしまうようです。
逆に言うと、すべての人間のかかわりの中で、自分が受け入れられていないと感じると不安な気持ちになってしまうのです。
道を歩いていても、見ず知らずの人から罵倒されればいやな気持になるし、怖い気持ちにもなるでしょう。自分は普通に運転しているつもりでも、急いでいる人が運転している場合、後ろからクラクションを鳴らされることもあるでしょう。それが身体生命の危険がなくても、不安が生まれてきます。悲しい気持ちになったり、怖い気持ちになったり、逆に怒りが起こったりするわけです。
このように、多くの人とかかわりを持ち、たくさんの群れに所属するようになると、人間関係が薄いものになっていくということも理解しやすいと思います。生まれてから死ぬまで同じ人と過ごすという群れと比べるとわかりやすいでしょう。そうすると、いちいち、道ですれ違った人の役に立ちたいと思うことは、少なくなってしまいます。自分や自分の仲間という狭い群れの利益のために、群れの外にいる人たちが困ることになっても、実行してしまうということが起きやすくもなっています。その結果、不意打ちのように、自尊心が傷つけられることが起こりやすくなっています。
人間の心は200万年前とほとんど変わっていません。そのように薄い人間関係ならば、その人から何を言われても、健康に影響がないならば、気にする必要はないのですが、なかなかそうはなりません。かといってすべての人の幸せを願うということもなかなか貫くことは難しい。そうすると、自分や自分たちの利益のために、他人が不利益を受けるということをやってしまうのですが、やっても平気でいられずに、悩んだりするわけです。ただ私は、それが人間のいとおしい所だと思うのです。
しかし、多すぎるかかわりの中で、人間が大切にされていないことに馴れてしまうと、およそ人間が大切にされなければいけないという感覚は薄れていきます。それは他人に対してだけでなく、多かれ少なかれ自分にも反映されてしまいます。およそ人間は大切にされなくてもよいんだという感覚が起きてしまいます。益々自尊心が確保できない社会構造になっていると思うのです。

<自尊心をもつためには 人間関係をどう構築するか>

自尊心を持つためにどうしたらよいかということは難しいのですが、自尊心を傷つけることは簡単です。
「お前はこの群れに不要な人間だ。」「出ていけ。」「群れにとって迷惑だ。」「役にたたない。」
というメッセージを発信すれば、自尊心は傷つけられます。
何か大変なことをやらせるよりも、役割を与えない方が自尊心を傷つけるという学者もいます。そのような露骨な言動をするだけでなく、仲間であれば当然してもらえることをしてもらえないということです。健康を気遣われずに暴力を振るわれる。危険なことをやらされる。一人だけ情報や食料を当てないで差別する。努力を無視して、正当な評価をしない。いじめやパワハラ、虐待が典型的な自尊心を傷つける行為です。暴力がなくても人間は不安を感じ、心を壊し死んでしまう動物なのです。
自尊心を確保するためにはこの逆をするということなのでしょう。
仲間であることを否定する言動をしない。一緒にいることだけで歓迎されるということなのでしょう。最近の家族も、どこまで成績をあげないとうちの子ではないとか、どのくらい給料を持ってこないと夫ではないとか、きちんと片づけが出来なければ妻ではないとか、仲間であることに条件を付けるかのような言動が見られます。条件を付けるということは発奮させるということになるのですが、何十メートルもある谷に渡したロープの上を歩いて行けと命じ、「落ちて死にたくないならば落ちるな」というようなものかもしれません。条件を満たさないと仲間から外すと言っているようなものだからです。これでは、自尊心を確保するどころか傷つけてしまうことになるでしょう。」
むしろ無条件に存在を肯定することから始めるべきです。そうして仲間に能力を発揮してもらう方がよほどよいのです。自尊心が育っていれば、つまり、どんなことがあっても仲間は見捨てないという認識があれば、仲間から弱点を指摘されたとしても自分を守ろうとして嘘をついたり隠したりする必要はなくなります。仲間もそれを攻撃的に言う必要も動機もありません。つまり強い心が育つわけです。だから、褒め育てをするということと、無条件に仲間として存在を肯定するということは全く違うわけです。そして、その能力にふさわしい役割を与えることも自尊心を高めていくという関係にあるわけです。仲間の役に立つことをした場合は、正当に評価し、称賛する。そうやって楽しい群れが作られていくはずですし、その群れの構成メンバーは、能力を発揮しやすくなるわけです。
失敗をしても責めたり非難したりするのではなく、群れとして無条件に存在を認めるのですから、一緒に考えるという行為になるはずです。失敗をすればするだけ成長していくことが可能となります。

<現代社会の罠にどう立ち向かうか>

理屈を言えば、家庭の中では、何とか、子どもだけでなく、親も含めて、自尊心を高める接し方が出来そうです。しかし、条件反射的に怒ったり、自分の心の状態によっては、自分が攻撃されているような感覚を持ってしまって、相手に対して、しなくてもよい反撃をしてしまいそうです。実際は完ぺきな自尊心の高めあいは難しいようです。それでも何とかできるかもしれません。
問題は、子どもが学校に行き、父母が会社や地域の集まりに出て、あるいは街の中を歩いていて、自尊心を傷つけられるような対応をされた場合に、どのように自尊心を確保していくかというところにありそうです。昨今のパワハラの話やいじめの話を聞くと、絶望的な気持ちになりかねません。
先ず自分たちでできることは、家族という基地を強化することです。外で困難な出来事があったときこそ、「家族は絶対に見捨てない」、「誰から何を言われようと、あなたと一緒にご飯を食べることが私の幸せだ」というメッセージを伝えることです。そして、ここが難しいのですが、どんなにつらい思いをしていたとしても、家族は、「いつもと同じように接する」ということが大切なようです。腫れ物に触るように接せられると、自分が家族の重荷になっているという風に感じてしまい、家族に困難を打ち明けることができなくなるということらしいのです。「外でどんなことがあっても、家の中では、当たり前の家族だ。あなたも家の中ではいつものように過ごしてよいのだ」ということが、役割感の喪失みたいな気持ちにならないポイントのようです。これは意識してかからないととてもできることではないように思います。
自尊心が育ったお子さんは、何かあっても、すぐ不安になることがなく、些細なことにびくびくしなくなります。攻撃されているという感覚を持ちにくいので、反撃もする必要がないので、争いになりにくいです。それでも、今のいじめは、変なところでライバル視して、攻撃してくるということも多くあります。自尊心だけでは対抗できません。それでも、本当の意味で自尊心が高く、家族に受け入れられているという自信がある子は、嫌なことも隠さないで家族に打ち明けられやすくなります。家族が学校に働きかけたり、場合によっては転校させるという手段もとれるわけです。こういう意味で家庭が基地になるのではないかと考えています。
では、学校や職場などの人間関係にどのように切り込むか。
先ず、放っておくと、誰かの自尊心を傷つけるのが、学校や職場等現代の人間関係だということを自覚しましょう。その人が存在すること以上の価値を求めるのが現代社会だからです。効率であったり、優秀さであったり、利益であったり、正義であったり、人間関係の希薄さは、人間が存在しているという事実だけでは満足しないし、極端な例を言えば人間の命よりも優先される事情があるようです。
無力な私たちは、その社会の変化に対応して脳を変化させることもできませんから、そういう構造をよく理解するということから出発するしかありません。
そうして、そのような価値観の中に、人間が存在することに絶対的価値があるという価値観を少しずつ意識して滑り込む必要があるでしょう。それでも、価値観の転換は起きないでしょう。しかし、少しでも人間の存在に価値を認めるという価値観を導入することによって、自尊心を傷つける人間関係の出来事が否定的な評価を受けるようになり、関係の改善を考えるようになれば徐々に社会は変わっていくのだと思います。
そして、これは現実的な希望を持てない途方もない夢物語ではないと思います。
それは、人間の心は200万年前のままだからです。できることならば、仲間に受け入れられて過ごしたい。できることなら傷ついて悲しむ仲間を見たくない。できることならば他人を助けたい。できることならば穏やかに安心して暮らしたいという気持があるのではないでしょうか。しかしそれが自分や自分たちの不利益につながるためになかなかできないだけなのではないでしょうか。そういう環境を見るとうれしくなるし、それが実現すれば安心した気持ちになったり、誇らしい気持ちになったりするならば、人間はやはりそういう動物なのだと思います。人間の本能に逆行することを言っているわけではないのです。本能をいかんなく発揮するために、環境を整えるだけだとは言えないでしょうか。
壮大な話はともかくとしても、とりあえず家族を守るということを意識することから始めてみてはいかがでしょうか。


不要な記載
この記事は、おそらく、加筆をしたり修正したりしていくと思います。場合によっては全面的に書き換えになったりもするかもしれません。その都度修正して末尾に修正日と修正内容を記録していくことにしてひとまず公開しようと思います。
自尊心、自己肯定感について色々な話がネットなどであふれています。とても大切なことなのですが、疑問が生まれてしまう内容も少なくありません。そんな中で辻正三先生の解説に接して、「これだ」という思いが生まれてしまい、勝手に解説をすることが、話が分かりやすくなるなと図々しく思った次第です。辻先生の解説が、あまりにも対人関係学の主張と一緒だと驚き、また、対人関係学の結論は、突拍子もないことではないのだなと勇気づけられました。
自尊心、自己肯定感については、バウマイスターという心理学者が第1人者なのだそうです。実は、このバウマイスターの「The need to belong」という論文が、対人関係学の父と言うべき論文なのです。母は、心的外傷と回復(J ハーマン)なのですが。自尊心、人間のモチベーションというバウマイスターの領域が、対人関係の領域とかぶることはむしろ当然で、本当はもっともっと研究したいところなのですが、こちらはむしろ実務系の学問であると自負しているので、修正しながら理論の成長を目指したいと思います。
2019年6月28日 初稿

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子どもに会えない母親の方たちへ 子どものために親であることを主張しよう。ヒステリー、人格障害、うつ等で自己否定している人は、もう自己否定しなくても良いはずです。 [家事]

<母親が子どもと会えないパターン>

父親が子どもと会えないパターンは、
母親が子どもを連れて別居し、
行く先を隠していたり、
わかっていても、近づくと警察に妨害されたりする場合です。

これに対して母親が子どもと会えないパターンは、
家から追い出される場合です。

どちらのパターンも、
子どもが会うのを拒否している
子どものために会わせない方が良い
と子どもと同居する親は主張するのですが、

母親の場合に会わせない理由は、

母親がいわゆるヒステリー状態になって
感情抑制が効かずに収拾がつかなくなる。

うつ状態になっていて家事をしない

子どもが危険であり、教育上よくない。
なまじ会わせると
子どもが寂しがって困るから会わせない
というものです。

そして、もっともらしい医師の意見書を出して、
母親が、
人格障害(パーソナリティ障害)だとか
解離性障害、
極度のパニック障害、不安障害
うつ病、
ひどい事例では統合失調症、躁病
等の診断を、
本人を診察もしていないのに行うのです。

男性の場合、
身に覚えのない夫による打撲や傷害などの診断書が
離婚裁判などで暴力の証拠として提出されることがありますが、
ちょうど同じような感じで意見書が提出されます。

そして母親自身が、
自分は母親として人間として失格だと思わされてしまい、
子どものために子どもの前から去るべきだ
と一瞬思わせられてしまいます。

母親の両親も娘の行為は確かにひどい。
申し訳ないという気持になり、
母親が、「一時的に」という当初の約束で実家で休んでいるうちに
二度と子どもに会わせられなくなり、
いつしか離婚の話が
当たり前のように始まるのです。

実家もあきらめムードですから
母親も自分が悪いんだろうなと
頭ではあきらめようとしてしまいます。

<ヒステリーは母親だけの責任ではない>

以下の説明には個人差があるのですが、
多かれ少なかれこうなると説明がされています。

「産後うつ」という言葉はようやく根付き始めています。
その現象は多角的に説明されるようになってきました。

比較的歴史が古いのは、生理学的裏付けであるホルモンの急激な変化です。
妊娠、出産までは女性ホルモンが大量に分泌され、
出産後は女性ホルモンの分泌がなくなってから
授乳のためのホルモンが分泌されるようになる、
この時、警戒心が強くなり、攻撃的な性格に変化する。
ということはある程度判明していました。

出産直後の母親が、子連れの母熊のように
夫が子どもの近くに来てもうなり声をあげて威嚇する人がいる
という話が巷でも言われているようですが、
極端な例ではそうなるのでしょう。

また、出産の痛みを緩和させるため
コルチゾールという脳内ホルモンが分泌されるのですが、
これが脳を委縮させて
安心を感じにくくさせる
ということも指摘されています。
詳しくは、私のブログを参照ください。
「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

それに加えて、近時は脳の機能分析からの説明がなされ出しました。
出産に伴って、
母親は赤ん坊の状態に敏感になるあまり
大人の気分感情に対して共感できなくなり、
その結果、夫などが何を考えているか分からなくなり、
不安になっていく、
産後うつの原因はこれだ
という脳科学の成果も
日本の大学とスペイン大学が相次いで発表しました。

これについてはこちらの記事に詳しく書きました。
「妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17

まとめますと、
女性は出産すると、
ホルモンや脳の機能が変化してしまう。
その結果不安を感じやすくなる。

不安を感じると、不安を解消したくなるというのが生き物共通の生きる仕組みです。
不安を解消する方法は2パターン(逃げるか戦うか)あって
一つは、
不安に負けて落ち込み、生きる意欲を失っていく。
つまり、寝ない、食べない、人と接触しないというパターン。
もう一つは、
不安を与える相手等を攻撃することによって
安心感を獲得しようとする。
これがヒステリー等の脱抑制状態だと私は思います。
この時の不安はいろいろあります。
将来のこと、子どものこと、自分のこと
健康のこと、家計のこと
自分たち家族の人間関係などです。

特に子どもと夫婦だけの孤立家庭では
夫にしか頼るひとがいないので、
自分と夫との関係が不安の大きなテーマです。

何か事情がある場合には不安が大きくなるのですが、
事情がなくても不安がわいてきてしまいます。

そして何が不安なのか、どうして不安なのか
については、なかなかうまく言葉で説明できません。

とにかく不安だ、目の前に夫がいる
不安を解消したい、爆発する。
そういう関係ですね。

だから、夫に対しても、私は、
あんまり気にしないで、流すのが一番だよ
等と言うわけです。(前回の記事を参照ください)

私の言っていることが少しでも正しいなら
1 特に産後のいわゆるヒステリーは、
  母親の自由意思によって起きているのではない。
  そうせざるを得ない事情があり、
  そのコントロールが難しい人がいて当たり前だ。
  母親が「悪い」わけではない。
2 母親が子どもを出産したことに伴って生じる
  という側面が強い。
3 いわゆるヒステリーを起こす人は
  理由がわかない不安で苦しい気持ちになっている。
4 ヒステリーを起こしたこと自体で不安になる。

そうだとすると、母親だけを責めることは
間違っている
ということになると思うのです。

ちょうど出産をしたときに入院して
家事が何もできないとしても
誰も非難しないと思うのです。

そういう体の問題ではなく、
(体の状態を反映した)心の状態が
自由が利かないからと言って
母親自身に責任を押し付けて非難するということなので、
産後の体力が不十分なことを非難することと
全く同じではないかと思うのです。

小さい子どもを大人が手分けして育てるように、
自由が利かない母親をみんながフォローするというのが
人間らしいことなのではないかと思います。

少なくとも出産した母親は
無意識にそれを望んでいるはずです。

<昔の日本人はみんなそれを知っていたのに現代日本は>

前も書きましたが、
21世紀になって産後うつが脚光を浴びてきましたが、
日本には、そういうメンタルなことも
風習という形で考慮されていました。

「産後うつと母親による子どもの殺人と脳科学 床上げの意味、本当の効果」 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2014-12-11

出産後の母親にはしばらく
授乳以外は何もさせず、
布団もたたまないということをしていたわけです。
もちろんそばにいる大人は夫だけではなく、
色々な人立が便利に使われていたのです。

これは母体を休ませるという意味だけでなく、
みんなが母子を支えるということを実践して、
母親の精神的安定を図る狙いがあった
と私は思うのです。

文明成立前の日本の女性たちは、
自分がそうされてありがたかったから
今度は自分がそうする
そうしない家庭は人でなしだとののしる
ということで、風習を作ってきたのでしょう。
男には決して説明しなかったでしょうが、
察しの良い男は気がつくし、
そうでない男は、それが決まり事だからと
素直に従ったのでしょう。


昔の日本人の風習は、
このように人の心を配慮するために
人間関係の工夫を定めたことが多くて
本当に感心させられます。

ところが今は、
里帰り出産ができればまだ何とかなりますが、
それすらできない母親がたくさんいます。
床上げどころか退院してすぐに
家事全般をやらなければならない事態も多いのではないでしょうか。

体力的には、それほど難しいことではない人もいるでしょう。
家電なども便利になりました。
しかし、人間と人間の関係を反映した感情の状態である
心を安心させるものは人間関係だけなのです。

江戸時代あたりまでは大っぴらに認められていた
素人女性の「かんしゃく」が、
どうやら明治維新以降否定される傾向になってきたように思われます。

女性の生理に反した風習が
いつのまにか蔓延したように感じられます。

これは現代でもその方向に社会が進んでいるように思われます。

<自分を恥じている人はもう恥ずかしい人ではない 親はパーフェクトである必要はない>

だからいわゆるヒステリーや、産後うつによる家事放棄は、
女性の自己責任で終わってはダメなのだと言いたいのです。
昔の日本人は、家(親戚一同みたいな意味)の連帯責任だったし、
ご近所の支えがあったわけです。

少なくとも父親が母親と一緒に悩んで、
母親を安心させて解決する方向が
試されなければならないと思います。

確かに強烈な妻からのDVもあるので、
みんなみんなそうしろというわけにはいきませんが、
多くの事例の中で
夫が一方的な被害者だとは言い切れないようです。

だからと言って夫が「悪い」わけではありません。
一番は妻の状態についての知識が普及されていない
次に孤立婚や過重労働の中で夫が妻と一緒に悩む余裕を持てない
ということが大きいでしょう。

一時的にでも育児から解放される施設が
あまりにも少なすぎることも指摘させていただきたい。
保育所の中では働いている女性の子どもが優先で
働いていない母親の子どもは保育所に入れられないということが多くあります。

これでは、保育所は、子どものための機関ではなく、
母親が働くため会社のための機関に思えてきてしまいます。
科学的には、すべての母親の育児の補助をすることが
厚生労働省の観点からは必要だと思います。
そうでないならば保育所は厚生労働省ではなく、
国土交通省か財務省の管轄にするべきです。

孤立婚なのだから
母親を社会が支えないでどうするのだと
私は本気でそう思っています。

ところが、子どもの利益のためにということで
役所(児童相談所等)は
女性の状態が支援が必要だということに対して一切目をつぶり
母親を敵視しているかのように感じられることがあります。
子どもに母親と敵対させようとすら感じる時さえあります。
女性の権利を主張する人たちも
なぜかこの点について発言しているところを
不勉強のためか知りません。

どうか、多くの科学者が
「家族の幸せ」に大きな価値を見出して
合理的な解決方法を提言してもらいたいと思います。

さて、
出産した女性が、不安のただなかにいることは重々承知ですが、
もうひと踏ん張りしてほしいと願わずにはいられません。
子どものためには母親の存在は不可欠だからです。

2歳くらいまでは、
どんなに父親が頑張っても
子どもは母親でなければだめだと
リテラシーの異常に高い幼児が発言していたことを聞いたことがあります。
胎内記憶、においや音なのではないかと思いますが、
母親がいることで安心感を子どもに与えるようです。

もし将来的に子どもが、
母親が頭がおかしくなったから分離させたと聞かされたら、
一つには、自分は頭のおかしい血が流れていると思うでしょうし、
一つには、真実をリアルに認識できたときに
自分にまつわる忌まわしい残虐的な出来事がおきたと
悩むことになるでしょう。

追い出されないように頑張ってほしい
追い出さされても、
子どもは両親が育てるべきだという
主張を続けてほしいのです。

そのために必要なことは知識と仲間です。

自分の脱抑制の声や行動を覚えていても
あなただけに責任があるわけではないし、
あなたの人格でもないことが多い。

確かに、子どもや夫を驚かせて怖がらせて悩ませていますから、
申し訳ないという気持を持つことは尊いと思います。
でも必要以上に恥ずかしがったり、
自分で自分をコントロールできないことが異常ではないかと
思い込みすぎると、益々コントロールが利かなくなります。
開き直りの癖がついてしまいます。
脱抑制以外の時は、
開き直ることをしないで不安を打ち明けるしかないです。
恥ずかしいと思った人は、もう「恥ずかしい人」ではありません。
げたを預けてみるという気持の方が
相手にとっても落ち着きにつながりますし、
その結果、あなたの不安も軽減されるでしょう。

開き直るより、謝るより
まず相談です。
それが家族でなければ、家族っていったい何なんでしょう。

「一緒に解決してほしい」ということを提案するべきです。
解決方法はいくつかあります。
一番の特効薬は、家族の支えだと思います。
家族の支えを誘引するために、
恥ずかしがらずに頼ってみるべきなのです。

子どものために親がパーフェクトである必要はありません。
親がパーフェクトに近くても
必ずしも子育てがパーフェクトであることと一致しません。
むしろ、家族の弱点を家族全体で支え合っていくことが
人間らしい生き方であり、
最上の教育であり、
子どもに安心感を与えることです。
それが現代日本で忘れられていることだと思います。

もう一言仲間についてなのですが、
誰が悪い、だれが悪くないとか
良い悪いで行動を決定する人は
仲間のふりをした敵だと思って間違いはないでしょう。

きちんとした知識を持って
合理的に現状分析と対策を説明できる人が必須です。
粘り強く家族みんなの幸せを考える人を
仲間につけて、一緒に頑張りましょう。
相手を攻撃するのではなく、
一緒に解決してもらうことをまず考えることが大切だと思います。

子どもにとって最善の利益は、
両親から愛情を注がれることだと確信しているからです。

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妻からのDV、ヒステリーを軽減する方法 [家事]

前に「配偶者のヒステリーは抑え込まないほうが良い 賢い対処法」という記事を書きまして、
今もかなり読んで頂いています。反響も多くいただく記事です。
ご連絡をいただくと、
記事の通りにやったら少し軽くなったという話や
ご自分の体験に基づく分析なども聞けることが多く、
そのまま知識の蓄積になります。

その中で、何人かから寄せられた夫の側の情報と、
女性の側からの情報も加味して考えると
どうやら、案外、夫の言動が引き金になっていることが多い
ことが分かってきました。
夫は、そのことに気が付かないで無防備に話してしまっている
ということもよくわかってきました。
貴重な情報を共有するべく、
何が引き金になるのかということを中心に述べます。

先ず、結論だけ書きまして
あとから解説を書きます。

根本的な原因と、抜本的な対策は
男女差がないなあということに、今回改めて気が付きました。

1 結論 虎の尾を踏まない

  妻の不安をあおる言動、助長する言動をしない。

2 妻の不安とは何か
  人間の心は、仲間から自分をかけがえのない仲間(取り替えることのできない存在)だと扱ってもらうことを求めています。ところが、いろいろなことが原因になって、
「自分が仲間として扱われていないのではないか」
と不安を感じやすくなってしまっていることがあります。

妻の不安とは、夫から自分が、
仲間から外されるのではないか。見捨てられるのではないか。
仲間として対等に扱われていない、一段低く見られているのではないか。
仲間の資格がないと思われているのではないか。
自分という存在が負担になっているのではないか。
という不安だということになります。

3 不安をあおる言動

<別離不安>
離婚。
出ていけ。
結婚するんじゃなかった。
自分にはふさわしくない。住む世界が違う人だ。
あなた以外の人はもっときちんとしている。
理解できない。
妻の親や親せきに対する低評価の言葉
夫の子どもの溺愛(特に娘の場合)
夫の子どもへの厳しすぎる態度と無関心(特に息子の場合)
夫が子どもの障害を気にすること。
自分(妻自身)がヒステリーを起こすこと、夫に対してDVをすること。

<格下不安>
こんなこともわからないのか
常識に反するだろう、常識がない
子どもでもわかる。
どうせわからないだろうけれど
容姿、体型への言及(賞賛以外)
子どもの前での指図とダメ出し
自分の欠点、不十分点、失敗の自覚
俺の言っていることこそが正義だ

<不作為>
妻の失敗、不十分点、欠点を
無かったことにする努力をしないこと

4 DV ヒステリーの構造

別離ないし格下扱いされることによる不安を感じる
→ 不安を解消したいという要求が生まれる
(→ 落ち込んで悩み、役所でモラハラだと意見を言われて別居・離婚)
→ 不安の対象を攻撃して不安を解消する
  相手に反撃させないために、声を大きく、言葉を汚く、威嚇的言動になる。必要があれば、包丁など武器を持ち出す。当初の目的は対等になるための精神的支え。
妻の言葉は、別離不安と矛盾する内容は当たり前。あくまでも不安解消行動という本能的反応であり、論理的な行動ではない。

5 夫の心構え、あるべき態度

何があっても、絶対妻を見捨てない。自分が妻を守るという姿勢を見せる
(心は後からついてくる)

妻のヒステリーは自分と一緒にいられなくなるという不安だ
妻の言葉は意味がない。いちいち真に受けない。忍耐こそ愛、人間の大きさ。

妻の失敗、不十分点、弱点は、「いいよいいよ」という笑顔
眉間にしわを寄せないこと。

不安をあおる言動は絶対しない。論理的な反論、相手の言動が論理的ではない、常識的ではない、正義ではないという無意味かつデメリットだらけの対応は絶対しない。

家事子育ては夫は妻の補助。

6 虎の尾を踏む理由

子どもを守るとき
理想の育児をしようとするとき
子どものことに夢中で妻の不安を忘れてしまう。
正義、合理性、常識等を優先することに夢中で、妻の心を考慮しないとき、

7 ヒステリーに対する対処

あまり相手にしないこと、反論してよいことは何もない
終わったら、無かったことにする
事務連絡など普通の会話をする。

子どもの前では反論しない
あとで子どもと妻を別々に
フォローをする、愚痴を聞く。
キーワードは家族だよ。

解説
1 虎の尾を踏まない

以前、配偶者のヒステリーは抑え込まないほうが良い。賢明な対処法という記事を書きました。この時、私は、女性相談室張りに、あなた(夫)は悪くないと言っていました。しかし、その後の事例の蓄積によって、ヒステリーやDVの引き金になっているのは夫の言動であるというケースが実は多いようだと感じてきました。夫のそういう言動には理由があることも多いので、夫が「悪い」わけでは必ずしも無いようなのですが、夫は自分の言動を修正することによって、妻のヒステリーや、DVを軽減することができる可能性が高いというべきだと感じ、改めて記事を作成した次第です。
しかし、いろいろな事情で、夫は、自分が妻の虎の尾を踏んでいることに気が付いていないのです。それももっともな理由があるのですが、何がエラーワードなのかをあらかじめ意識することによって、言わなくてよいことを回避することができる場合が多いようです。

2 妻の不安

これはこれまで散々申し上げてきましたので、省略しますが、
人間である以上、理由なく不安を感じるのは仕方ないですし、
出産をした女性であればなおさらなのです。
不安を感じやすくなったとはいえ、あなたがかつて結婚しようとした女性と同一人物です。ヒステリーが子どもを産んだ代償だとしたら、その苦しさを夫婦で分かち合うことは当然なのかもしれません。子どもは産んでもらったけれど、そのあとに生理的に続いてしまう反応は拒否というのでは、「いいとこどり」であり、妻ばかり損をしているという妻の感覚は、もっともだということになりそうです。
特に現代社会は、夫婦と子どもだけで生活していることが多いです。妻が頼れる大人は夫しかいないという状況が一般的です。その唯一の頼りたい夫が妻の不安に対応しないのでは、妻の不安は増大して歯止めがきかなくなってしまうこともやむを得ない側面があります。おっとであるあなたが頼りないのではなく、妻にとって、あなたに依存してしまう要因が社会にあるということです。あなたへの依存度が強くなれば、不安も強くなるのは当然のことです。問題は、妻自身がそれを自覚していないということです。理由がよくわからず不安だけは感じるものですから、厄介なことです。
別離不安を招く言動とと格下不安を招く言動でまとめてみました。両者の関係は、結局は格下に扱われることは、「どうでも良い相手」として扱われることなので、夫にとって自分はいつでも切り離してもいい存在だということを想起させますので、隠した不安も、最終的には別離不安の一種だという関係です。

3 不安をあおる言動
不安の中身が分かれば、何が不安をあおるのか分かりやすいと思います。ただ、その言葉が、不安を与える言葉だということを知っていないとつい言いたくなったから言うということが起こります。「離婚する。」とか「出て行け」とかいう言葉は絶対言ってはなりません。事情がなければ言わないこともよく分かっています。でもどんな事情があっても、こういう言動は、はっきりと「悪い」です。子ども、親という血縁関係のある人は妻の属性であると考えましょう。妻の努力では修正のきかない妻の属性ですから、否定評価を言うことはもってのほか、妻の不安を固定化し増大させます。妻は、子どもが女の子である場合、無意識にライバル視する場合があります。父、母、子というチーム全体ということを意識しましょう。逆に男の子の場合は妻は自分と同一視する場合があります。夫の子どもに対する厳しい対応は、自分が厳しくされているような危機意識を持ってしまうようです。妻が厳しすぎる対応だと言うならば、自分の子どもに対する接し方を修正しましょう。自分の感情を自覚することは難しいです。後で考えると厳しすぎたかなということがわかりますが、その時は、理由があって夢中ですから、誰かに言ってもらわなければ歯止めがききません。行動修正の良い機会だと心得ましょう。配偶者の、目を気にすることは、実は理想的な子育てを後押しをするかもしれません。
子どもの障害は、不安を起こす大きな要因になっています。誰も障害が母親のせいだとは言いません。でも、子を産んだ母親は不安過敏になっていますから、自分が責められているような感覚をもってしまうようです。安易に大丈夫だよと不安を否定することも気を付けた方がよいようです。先ずは一緒に悩むこと、妻の苦しさを共有してから、そのあとで、楽天的な話をした方がよさそうです。順番が大切だということになります。

やっかいなことは、妻は、自分のヒステリーなどDVが、自分でも恥ずかしいし、苦しいようです。それをつかれることが一番嫌なようです。それが嫌だからさらに夫を攻撃してしまう、自分を追い込んだのは夫だと思うようにしてしまうわけです。アルコール依存症の人が、酒を飲む自分を忘れたいから酒を飲むと言っていることに似ています。星の王子さまに出てきましたね。気にしてないということをアッピールすることが有効です。
DV、ヒステリーを無かったことにする方法は後で述べます。
容姿に関しては、信じられないくらいこだわっています。何を言っても当てこすりだと思う傾向にあります。言わないことこそ安全策でしょう。
妻の行動が常識に反する、非効率だ、正義に反するということで、つい怒ってしまうことがあります。まじめで責任感の強い夫が陥るわなです。しかし、あなたの常識や効率性は、職場等他人同士を規律する概念ではないでしょうか。それは本当に家庭の中でも求められることでしょうか。よく考えることが必要な場合が多いです。職場では求められても、家庭では求められないことも多く、少なくとも声を荒げて指摘しなくてもよいことが実に多くあります。


4 ヒステリーの構造

不安が高じて、不安解消要求も高まりすぎている状態です。不安の正体が本人はわからないのですから、不安解消の合理的方法もわかりません。でもなんと解消したいという要求だけは間違いなくあります。不安とは夫が自分を見捨てるのではないかという不安ですから、不安を与えているのは夫の存在ということになってしまいます。だから夫に対して攻撃をするわけです。認知症の人が、自分の一番支えになってもらっている嫁がものを取ったと攻撃するようなものなのです。
但し、本当に夫が怖いならば、攻撃しません。最悪逃げていくだけです。子どもを連れて別居するというパターンです。妻からあなたが攻撃されているということは、妻はあなたに対して根本的には信頼している、あなたが自分を攻撃してこないという信頼があるということになります。一緒にいたいから攻撃するということですから夫は大変です。しかし、第三者から見るととても切ない現象なのです。一緒にいたい気持ちが高じて攻撃してしまい、攻撃したことによって不安が増大していくということですから。そして、これはあなたの妻だけではありません。多すぎるエビデンスが現在も私に寄せられ蓄積されています。但し、この不安→夫への攻撃→さらなる不安→さらなる攻撃という悪循環に疲れてしまい、子連れ別居をするというパターンも少なくありません。それを断ち切ることができるのは、現代社会では夫くらいなのです。
妻が包丁を持ち出すことは結構あります。但し、これは、夫との力の格差を埋めて対等性を維持しようという衝動であることが多いようです。妻は自分は力が弱いという自覚があるのです。刺そうという攻撃的意思がないことのほうが多いす。但し、威嚇で振り回しているうちは良いですが、興奮状態が高まってわけがわからなくなり誰かに切りつけ始めたら、多少の負傷をいとわずに取り上げることは必須です。

5 対処法と夫の心構え

妻の不安を解消することが論理的な対応だということになります。不安解消するためには、大丈夫だよというメッセージを届けることです。
ところが、妻のただならぬ感情的な言動を目にしてしまうと防衛本能が全開になり、無意識に妻の行動、言葉をこちら側の攻撃だと受け止めてしまい、一つ一つに反撃したくなってしまいます。
例えば、間違っても、妻のヒステリー状態の言葉に論理的に対応してはなりません。論理的な行動ではない言葉に対して論理的に対応するということは極めて滑稽なことです。自分と妻の感情を抑えること、不安を解消することこそ、合理的対応です。ヒステリーやDVを起こしている以上は、妻はあなたと別れたくないと感じています。あなたの別離不安は不要だと論理的な対応をしてください。
妻に反論することは、「あなたは論理性がない馬鹿だ」と言って妻の格下不安を掻き立てることになりますし、感情的になる人間は嫌いだ、一緒にいたくないという別離不安を招く強烈なメッセージになってしまいます。「人間だからそういうこともあるね」という態度をするとことが有効です。夫のほうこそ、いつまでも一緒にいたい妻から攻撃されて悲しいという態度が正解です。
もっとも子どもっぽい夫の対応は、「ヒステリーになるな」という結論を要求することです。妻も自由意思でヒステリーになっているわけではありません。不安を共有して一緒に落ち着く方法を考えなければならないのに、相手にだけ要求して何とかしようというのであれば、いやいやをする子どものような対応でではありませんか。落ち着きに誘導するのが大人の対応です。常識的でない、論理的でない、感情的だという非難は、火に油を注ぐだけのデメリットしかない対応です。子どもが迷惑するだけです。(言いたくなるのはわかりますよ。)
それから、いつも私が夫に尋ねるのですが、例えば片付けできない妻に対して片付けないことを責めているのではないかと尋ねると、「片付けできないことを非難していませんよ。何も言わないで自分で片付けようとするのです。でも私が片付けようとすると、妻が逆上するんです。」という人が多いのです。最近は私もこの言葉で安心しないで、「ちょっと待てよ」と思わなければならないことが分かってきました。言葉では妻を非難しなくても、眉間にしわを寄せて、ため息をつきながら、いやいや片づけをしていれば、それは非難していることと一緒だからです。作り笑いでよいですから、「いいよいいよ」と言いながら、片付けをしていくことが有効なのです。同じ片付けをするのに、自分が妻のヒステリーに火をつけていたのではもったいないです。些細なところで攻撃になるかフォローになるか全く違う結果になるのです。眉間のしわは、妻に背を向けてから寄せましょう。
子どもの前では母親は神様です。神様性を傷つけることは一切厳禁です。子どもの前ではね。
男女参画から叱られるでしょうが、家事育児のリーダーは妻であり、夫はリーダーの指示通りに動く補助員という位置づけが正解の場合が多いということを心がけましょう。妻を立てるということです。そういう外観を作るということです。「私が言わなければ何もしないのだから」と愚痴をこぼされれば、鼓腹撃壌です。こふくげきじょうと読みますので、ぜひ調べてください。
あなたのダメ出しは、良い効果がなく、妻を不安にするだけです。くれぐれも職場の常識を家庭には持ち込まないということを意識してください。

6 虎の尾を踏む理由

人間は一つの利益を追求するとき、他の利益が目に入らなくなる傾向があります。夫が、子どもを大事に考えてしまうあまり、その結果、妻の感情を考慮しなくなってしまうことは、そのためです。子煩悩の父親が陥るわなです。子ども優先はよいのですが、妻が機嫌を損ねた結果、子どもが迷惑をこうむるのであれば子どもにとってもデメリットしか残りません。断言します。妻の賛同がなければ、独りよがりの理想の育児なんて成功しません。そして、命令では妻の賛同は起こりません。イニシアチブを妻に与えて、実践を通じて実質的に換骨奪胎をいつの間にか実現するという方法が上策のようです。
子どもの利益のために妻に意見を言うときあなたがエラーを起こす時です。言わないという選択肢、言う時期を選ぶという選択肢、言う内容を修正するという選択肢を用意し始めましょう。
常識、正義、効率性、合理性等、職場で求められている価値観以上に、妻のご機嫌を優先させるということがあっても良いと私は思います。

7 起きたヒステリーに対する対処

永遠に続くような感覚になったとしても、ヒステリーはすぐに収まります。ここがチャンスです。黄金期です。ヒステリーがなかったように、普通の会話をすぐにしましょう。「事務連絡」が最適です。時候のあいさつでもよいでしょう。「指図とダメ出し」以外なら何でも良いと思います。とにかく妻の弱点、欠点、失敗と関連付けられないことを話しましょう。意味のない会話こそ言葉の本質です。このように気持ちの切り替えができる男性が好ましいと考える女性は極めて多いのです。その意味が若い時は分からなかったのですが、どうやらこういうことだと今さらきがつきました。この切り替えこそ、ヒステリーを気にしている女性にたいする圧倒的なフォローになります。基本は、「いいよいいよ」という笑顔ですね。ヒステリーのときの妻は別の人、もうその人は亜空間に消えたのだから、戻ってきた妻と日常を再開するわけです。

今回の記事に反することをしていた自覚がある方は、ともかく自分の行為と妻の不安の関係を意識して自分の行為を点検しながら、1か月頑張ってみてください。その際に、外野(親戚、友人、役所等)の意見は聞かないということが大切です。他人は「離婚しろ」と言うに決まっています。あなたも逃げたいです。不安を解消したいです。それを真に受けてしまいがちになるのは当たり前です。でも、あなたは純然たる被害者ではないかもしれません。あなたの行動を修正することによって、ヒステリーになる不安が小さくなり、あなたも子どもたちも楽になる、家族みんながハッピーになるかもしれません。また、それを真に受けて離婚をして、子どもたちの親権が母親になり、あなたの収入の大半を養育費に支払う生活を送ることになっても誰からも責任を取ってもらえません。
妻の不安をあおらず、助長せず、安心を与えていくという行動修正を1か月やってみてはいかがでしょうか。
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人権は人間の権利ではないこと 人権という言葉は本当は適当ではなく、「人間としての当たり前」、あるいは「人間である権利」とするべきであること [事務所生活]

明日、某官庁の研修会で人権について語ってきます。
そこでは、人権は人間の権利だと説明して
わかりやすくお話しする予定だったのですが、

しかしこれはやはり不正確ではないかと
今日になって考えているのです。
権利というと、例えばお金を請求する権利や
サービスを受ける権利も権利で、
これは人権ではないと感覚的に思います。

普通の権利と人権としての権利と違うわけです。
しかし、同じ権利の権の字が使われているので、
普通の権利は、国によって実現するものという縛りがありますから、
どうしても人権とは、
国の認めたもの、六法に載っているもの、
裁判所が認めたもの
だから人権かそうではないかは知識が必要だと考えてしまう
その原因というか問題の所在があるように思われるのです。

いやここまで読む人もあまりいらっしゃらないほど
人権という言葉はかたすぎるのです。
もういいや移動しようと思っていることと思います。
賢明かもしれません。

しかし、英語などでは human rights
ですから、直訳すると人権なのです。

このライツが曲者で、
これを「権利」と訳したのは、何度か取り上げた西周なのでしょう。
しかし、このライツ、辞書で見ると
正義、筋道、正当等という語感があるということですから、
日本語的には、「理」という立派な言葉があったわけです。
だから、本来は、人権と訳さず、
「人理」という言葉を使えば良かったのです。
人権委員会ではなく、人理委員会
画数も少し減ります。

ただ、これもわかりにくいので、
正当というか、あるべき姿というか、当たり前
という言葉に置き換えて、
人権としては人間としての当たり前
と説明することが分かりやすくなるはずです。

例えば
「生まれながらの髪を黒く染めろ」という校則は
人権侵害だというよりも
人間としての当たり前を侵害している
という方が「ああそうだね」と
納得しやすいのではないでしょうか。

あるいは、
「それは人間性を害しているとまでは言えないと思うな」
と議論にはなるでしょう。

「人権侵害だ」、「・・・」、「人権侵害ではない」、「・・・」
というよりは
納得しながら議論できるとは思いませんか。

もう一つ、human rights なのですが、
これが rights of humanではないことに着目する
というのも一つの解決方法かもしれません。

つまり「人間の権利」という訳は間違いで、
「人間である権利」という訳が正当かもしれないということなのです。

そうするとですね、
生まれながらの髪の毛を黒く染めろといわれることは、
人間であることを否定された
いや人間であることまでは否定されていない
と議論になりますね。
つまり、人間としての当たり前がどこにあるか
という議論と同じになるように思うのです。

いずれにしてももやもやは残ります。
それは、「人間が人間として扱われること」
とはどういうことかという
一人一人の人間観に違いがあるからなのだと思います。

何が人間として扱われるべきことか
これは、人間として扱われていないという人の
話に耳を傾けて理解しようとしなければ
わからないことです。

権利が生まれる時は
当事者が声をあげて、それ多くの人が聞きいれる時だといわれるのは、
こう考えていくと論理的なのだと思いました。

お話しの予定のダイジェスト版は
対人関係学のページあります
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/moral.html
の中の
「差別を受けない権利 人権とは人間として当たり前の状態ということ 憲法14条」
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3歳児神話は、神話ではない。聞こえが良い主張には警戒するべきだということ。 [家事]


「3歳児神話」という言葉自体があいまいなのですが、
国や医学会では、きちんと意味を定めて使っています。

問題は、一般向けの記事等で、
大学教授や専門家を名乗る人たちが、
3歳児神話があるために女性が社会進出を妨げられている
と主張するときの3歳児神話は
敢えて意味をぼかして使っているということなのです。

3歳児神話という誰が主張しているかわからない
仮想理論を叩くことによって、
母親を、就労という形での限定された社会参加がしやすいような
社会心理的な環境を作ることが目的となっているようです。

否定論者は、本来、
子どもの健全な成長という利益と
母親の社会参加という利益の対立を
どのように調整するかという議論を立てるべきなのに、
3歳児神話というあいまいな概念をたてて
子ども健全な成長という利益を
黒く塗りつぶして見えなくしています。

先日も、ある大学の学部長に語らせていました。
議論の特徴は
何ら科学的ではないでたらめな論調
というところにあります。

早期に子供を親から話すことは
日本の伝統を引き継ぐ天皇家でも行われている
だから、早く親から話した方がよい
と本当に言っているのです。

そもそもこれは皇室や大名家の風習で、
親子の情が入ると政治に差しさわりが出るから
そのような人間的なつながりを排除するための
帝王学の考え方で行われていたものです。

その伝統に反対したのが、ほかならぬ
今上陛下の母上美智子様だということは
ほとんどの国民が知っているでしょう。
その学者の論調は
美智子様の教育方針を妨害した
おつきの女官たちを支持するものです。

また、小さい子どもたちに
働く母親の姿を見せることは有意義だ
という主張もあるのですが、
3歳未満の子供たちは、
働く母親の姿を見ることはないでしょう。
ただ自分の近くに母親がいないという体験をするだけです。

三歳児神話否定論者が目隠しをする
子どもの発達の利益ということを述べますと、
これは、戦後、ボウルビーとエインズワースの
愛着理論、アタッチメントの理論
という理論を外せません。

ボウルビーは戦災孤児の施設を回り、
幼いときに施設で育った子どもたちの
発達上の問題を調査しました。

その結果、赤ん坊は、
母親のような特定の人間の愛着を受けることによって
精神的に安定し、健全に発達していく
ということを発見しました。

この愛着とは何かというときわめて単純なことで、
身近に親を感じることです、
目で見て、声を聴いて、
抱かれることによって
皮膚の感触を知り、体温を感じ、においを感じる
そこで安心感を抱き、人間を信じ
適切な人間関係の距離を学んでいく
ということのようです。

逆にこの愛着に恵まれないで育った子は、
人間に恐怖を感じて常に疑い、警戒しているか、
媚びるように近づくことでしか人間と関われないか
という両極端のどちらかの障害を持つ場合があります。

ある時期までは、
子どもは近くに親がいることが大切ですし、
ごく初期には、それは母親になることが自然なのでしょう。

しかしある時期からは
母親だと限定する必要はなくなるようです。
ただ、いつも同じ人でなければ
愛着は形成されにくいようです。
同じ声、同じ肌触り、同じ匂いが
子どもに安心感を与えるからなのでしょう。

さて、この愛着形成など
何歳まで親がそばにいることが必要かについては
議論が必要だとは思うのですが、
それらを一切目隠しするのが
三歳児神話否定論者です。

彼らは、何を目的に無茶な議論をしているのでしょうか。

論調を見ると一目瞭然で、
「母親の就労の促進」
という一点に絞られているようです。

いくつかの疑問がわきます。
なぜ子どもの養育に価値を認めないのか、
なぜ女性の社会進出が就労限定なのか
なぜ子どもの養育が母親限定なのか、
なぜ父親の養育という観点がないのか

女性の就労を促進するとしても
なぜ男女格差の賃金の是正を主張しないのか
なぜ保育施設の量的質的拡充を主張しないのか

それにもかかわらずなぜ、母親の就労ありきなのか

これに対する選択肢としては、
家族の一人の就労で家族が豊かな気持ちで暮らす社会を目指し、
その社会では母親が就労し、父親が子育て家事をするということを選べる
そういう主張をしてもよいように思われるのです。

これを主張しない理由は暗黙の前提があるからではないか
と疑っているところです、つまり、
家事、育児の労働は、人間としての価値が低い
だから、男性がこれをやるということは初めからありえない
家事、育児は女がやるもの、
だから安っぽい家事育児にかかわる人を減らして、
生産性を向上させるためには、
母親の就労を促進することが効率的だ
というものです。

これが本当の気持ちならば著しい女性蔑視ですし、
家事、育児の価値を不当に低めるものです。
家事育児ハラスメントの真骨頂ですし、
人間性を否定してまでも生産性を向上させる
という主張です。

アメリカのフェミニストであるナンシー・フレイザーが
警告しているように、
一見女性の立場を向上させる動きのように見えて、
結果的にグローバリズムの新自由主義の召使になっている危険性
を意識する必要があるでしょう。

いくつかの3歳児神話否定論者の非科学的なあいまいな議論は、
結局、良質な労働者なのに、
安価で、都合が悪ければいつでも解雇できるという特徴を持った
女性労働者を提供することが目的のようにさえ感じられます。

そのために子どもの健全な成長という利益や
人間らしく生きるという利益が
見えないように黒く塗りつぶされているのです。

もう一つ看過できないことがネットで書き込まれていました。
スェーデンの子育て事情ですが、
論者は、スェーデンでは、子どもが一歳になると
みんな保育所に入れるということで、
文脈からは子ども愛着理論を意に介さない国のように紹介されています。

しかしスェーデンは、愛着理論に理解がある国で、
子どもが3歳になるまでは、直接親が関われる制度が
整備されているのです。
木村慶子, 高橋愛子『頭がいい親の13歳からの子育て』 2002年

スェーデンは、保育など社会福祉も充実しているから
1歳で保育所に預けられるのでしょう。
日本では、無認可保育所でさえ、
抽選で外れて預けることができない人もいます。

そのような話に一切言及しないで、
親が費用と危険を負担して子ども預けなければならない日本で、
とにかく就労だけを促進するというのですから、
大変恐ろしい主張だと思います。

私は、共稼ぎの家庭で育ちましたし、
自分たち自身が共稼ぎです。
そういう環境しかわかりませんし、
その環境自体に問題も感じていません。

問題は、本来家庭の自由であるはずの
誰が働くか、誰が家事育児をするかということが
暗黙の前提の下で誰かから強く誘導されているということ、
男は外で働かなくてはならず、
家事育児は、男が従事する価値がない
男が働くことは前提で、女も企業で働かなければならない
というように
自由に自分たちの生き方を選ぶことができなくなっているということです。

もっともらしい主張は、きちんとその誤りをみつけ、
否定することが人間性を守るために必要である
そんな危険な社会になっているのではないでしょうか。

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