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非難されている無罪の裁判官は実は正義漢 わかりやすいいじめのリアル構造 [事務所生活]

19歳の娘に同意なき性交を強要したとして
起訴された父親が無罪となり、
マスコミがこぞって無罪にした裁判官を非難しているようです。

SNSなんぞで裁判官批判をしている人たちもおおいようです。

一般の方々が疑問に思うのはもっともなのですが、
巨大マスコミも無条件で裁判官を批判し、
実名報道や直撃取材を面白おかしく行い、
識者としてそれに同調する人も出てきたということから、
この記事を書かざるを得ないと思いました。

先ず、無罪になったことについては、
致し方ないことです。
要するに子の父親を処罰する法律がなかった
ということです。

法律がなくても悪いから処罰しろ
というのが今のマスコミの論調になってしまいます。
しかし、特に刑事罰を科する時は
法律を厳格に考えなければなりません。

例えば、いわゆるDV法で保護命令という制度があります。
現在暴力を受けている配偶者が、
今後も身体生命に重大な危険を及ぼす暴力を受ける可能性がある場合は、
相手を自分に近づけさせない命令を出してもらう制度です。
この保護命令に反して近づいた場合は
6か月以下の懲役、100万円以下の罰金が課されます。

もし、悪いから罰せよということが裁判で通ったらどうなるでしょう。

典型的なケースとして、妻が会社の忘年会だからと自分の子が風邪をひいて寝込んでいるのに、夕方から出かけて行って、夫が会社を早退して子どもの看病をしていたのに、妻はなかなか帰ってこない。子どもの様子を知らせるラインを送っても返事もない。2時過ぎにようやく帰ってきて、玄関先でも誰かと電話をしている。夫は寝ないで看病していたので、怒り心頭に発して、玄関まで言って大声で怒鳴った。妻は、夫が邪魔で玄関に入れないので、夫を突き飛ばして中に入ったところ、酔っぱらってもいたのでよろけて床に膝をぶつけて、痣ができた。翌日夫が家に帰ってきたら妻は風邪の治りかけの子どもと一緒に身の回りのものをもって家を出て行って後だった。何日かして裁判所から、妻が保護命令を申し立てたと連絡が来た。それによると、妻は12月の寒空の中、夫から家から引きずり出されて、突き飛ばされて膝を打った。証拠の痣の写真と打撲の診断書がある。凍死の危険もあった。

これで、暴力を受けていて、命の重大な危険があるとして
保護命令が出され、
自宅近くを散歩することも禁止する。
そういうことが頻繁に起きることが許される事態に
なってしまいます。

色々論点がありますが、非道の父親の例では、
抗拒不能の要件が無いとという判決理由でした。
抗拒不能にした非道の父親の行為がなければならないと解することは
現在の法理論ではノーマルな法解釈なので、
無罪判決はありうる判断です。

ただ、この裁判官の真意はわかりませんが、
もしかしたら、法律がこの非道の父親を裁けないことに
憤りを感じてたと解釈できるのです。

では、ここからが本題です。

裁判官を批判する人たちは
どうして非道の父親の言語道断の行為を知っているのでしょう。
それは無罪判決に書いてあるからだと思います。
ここがポイントです。

無罪判決ならば、通常は、
抗拒不能だと認定したことを書けばよいのです。
ところが、
この判決では、父親の非道な行いが
赤裸々に詳細に記載されています。
確かに関連事実なので書いてはダメだというわけではないでしょうが、
書かなくてもよいことをあえて書いていた
というようにも感じられます。

刑事判決は公開の法廷で読み上げられますので
国民が判決の内容を知りうることになります。
裁判官の真意として考えられることの一つは、
この事件は無罪にするけれど
この男はここまでひどい男なのだということを
敢えて公にしようとした
と想像することができるのです。

実は、裁判官の怒りが感じられることなのです。

もう一つ、こんなに人倫に反する行為なのに
日本の法律ではこれを裁くことができない
ということを全国にアピールしたかったということも
考えられます。

裁判官を批判する人たちも
裁判官の書いた判決によって事態を把握したわけです。
裁判官の意図が私の言うようなものならば
裁判官の意図はある程度実現されたのではないでしょうか。

この非難されている裁判官は、
正義を実現しようとしていた可能性が高いと
私は思います。
裁判官として無罪判決を書き
人間として男を糾弾したのです。

一部では、性犯罪に甘い司法だという批判の一群の事件の中に
この判決を位置づける人たちもいますが、
明確に暴行や脅迫、地位を利用して薬物を飲ませて乱暴した
明確な行為者が不起訴になる事案とは全く異なるのです。

ここで、すべてを一緒くたにするマスコミや
マスコミに乗じてわれわれの正義感をあおるSNSが
何かを目的にわれわれの正義感を利用しているのではないかと
警戒することの必要性をわれわれに教えていると
思わなければなりません。

少なくとも裁判官を批判しているうちは
正当にこの人を裁く法律を作るか作らないか
という議論を妨げてしまうということはあるでしょう。

もう一つは、
法律を緩めて裁判所が
国民感情に依拠して
裁判所が自分勝手に国民を刑務所に送る道を開くことに
手を貸してしまうことにつながりかねないということです。

私たちの正義感が悪用されようとしている
ということに注意が必要だと思うのです。

そして、これは、いじめの構造そのものなのです。

誰かが、とてもかわいそうだという事情があります。
今回のケースでは娘さんです。
人間は、弱い者を守ろうとする本能があるとします。
また、その人の苦痛をそれぞれの人がそれぞれの人なりに
共感し、自分の苦痛として追体験をしています。

そうすると、娘を守ろうとする強い感情が起こります。
この強い感情は、一種の危機感です。
自分が安全な場所にいる場合は、
この危機感を解消しようとする行動は
怒りによる攻撃です。

本来怒りの先は、非道な父親か
非道な父親を裁く法律を作ってい無い国家に向けられるべきでしょう。

しかし、非道な父親は名前も分かりませんし、
無罪とされてしまった。
国家に問題があるとは気がついていない。
そうすると勢い、名前をさらされた裁判官に怒りが向かう。

こういう仕組みなのです。

本当は勇気をもって国民に対して告発した人に対して
ちょうどよい怒りの的になってしまい、
それをあおるマスコミやオピニオンリーダーがいるために
簡単に国民の正義感は
裁判官に対して怒りとなってしまうのです。

怒りはこのように、
本来向かうべきでない相手に向かわされるということが
よくあります。
戦争はこれを利用しなければ起こすことはできません。

憲法9条を守れとかいうならば信じられるとか
そういう単純な発想では理不尽な戦争が近づくばかりです。

この裁判官に対するいじめは誰がしているのでしょう。
この裁判官を叩いているマスコミやSNSをみた
法律関係者が沈黙を守ることもいじめだ
ということを言いたいのです。

法律関係者ならば誰しも
私が考えたことを考えているはずです。
そういう刑法解釈の訓練を受けているからです。

それでも沈黙を守っている。
敢えて裁判官をかばうことで
自分に攻撃を向けられることを嫌がっているのではないでしょうか。
それはよくわかります。

しかし、これほどの怒りの大合唱が
特定の一人に向かうことは
しかも理不尽に向かうことは
まぎれもないいじめですから、
誤解を解くべき人たちは誤解を解かなければならないと思います。

そうでなければいじめを見ている子どもたちと一緒だと思います。

発言を躊躇している自分の姿は
いじめを完成させる子どもたちの姿なのです。

私はいじめを無くしたいと考えているので、
自分にできることをしてみました。


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対人関係学の概要 ~弁護士が考える人艶関係の紛争の原理~ [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

事務所のホームページをリニューアルしているところで、
ちょうどよい機会なので、
対人関係学についてのアウトライン
というか基礎概念というかを
まとめることにしました。
http://www.doihouritu.com/


ちょくちょく断りもなくこのブログでも述べているので、
気になっていた方(いないでしょうが)にはお勧めです。
文字列が折り返しているところは飛ばして読んでもらって構いません。

ではでは

対人関係学とは、
紛争、いさかい、ケンカ、
あるいは、社会病理
(自死、いじめ、パワハラ、DV、虐待、犯罪、多重債務等々)
という人間の行動の原因を探究し、
原因を除去する等して
これらの負の活動を解決し、防止し、
逆に人間が生まれてきてよかったと
より多く実感できる人間関係を構築するための
研究です。

対人関係学の基本概念について、以下述べます。

<対人関係的危険>
人間は2種類の危険を感じると構成します。
1つは、生命身体、健康に害が及ぶことの危険です。   
2つ目は、対人関係的危険です。

 前提として、人間は、単独で生きようとする動物ではなく、人間のつながりの中に自分をおこうとする根源的要求があり、この要求が満たされないと心身に不具合を生じるという理論があります。「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)
人間は、現在の人間関係を維持しようとするため、この人間関係の中で安定して継続的にとどまることが拒絶されることを不安に感じ、拒絶につながる出来事を覚知すると、生命身体と同様の反応を起こす。この、拒絶につながる出来事が対人関係的危険である。自分が人間関係の正当な構成員として尊重されていない、尊重されないことにつながる行動をした、あるいは他の構成員からの評価、待遇についての生の情報と、その情報に対する経験、学習等後天的な情報による評価を加えて危険性を無意識に判断している。危険だと判断した後の生理的変化は、生命身体の危険とほとんど同じである。

ここでいう人間関係とは、家族、学校、職場、地域、サークルという具体的な人間関係だけではなく、社会や国家というものも含まれる。その危機感の強さ及び反応の強さは、人間関係の種類、個性、危険の程度などで変化する。

<危険反応の脳機能への影響>

これまで、生理的に交感神経の活性化に着目されていました
           W・B・キャノン「からだの知恵」(講談社学術文庫)
           HPA軸
しかし、人間関係の不具合を見ていると、
共通の思考パターンがあるのではないかと考えるようになりました。
つまり、
・ 複雑な思考が鈍り、二者択一的思考になる。
・ 他者の心情に対する共鳴が起きにくくなる
・ 将来的な見通しが立てられなくなり、近視眼的になる。
・ 因果関係を把握することが困難になる。
・ 物事を悲観的にとらえる。

これもいわゆる「逃げるか戦うか」という
危険に対する防御反応ということで理解が出来ます。

要するに一心不乱で逃げる(相手を叩き潰す)ことが、
動物の逃げる目的をよりよく達成できるからです。
「自分が安全な領域に逃げ切ったか否か」
という二者択一的思考があれば逃げるには十分です。
できるだけ悲観的に、まだ危険があると考えた方が
より確実に逃げ切ることができるでしょう。

逃げている時はなりふり構わずに逃げるべきで
他人からどう見られるか等ということを気にしていたのでは
逃げる効果が失われていくでしょう。

逃げきってから考えればよいことを
今考えることは逃げるための行為の邪魔になるでしょう。

このような思考状態にするために
脳の一部の機能が停止ないし低下します。
それがアントニオ・ダマシオが指摘した
前頭前野腹内側部
ということになるのだと思うのです。
「デカルトの誤り」岩波文庫

ダマシオの言う二次の情動と
対人関係的危険とは強い関連性があると思っています。

<危険解消要求>

ところで、脳科学あるいは生理学では、
危険に対する反応は、
感覚器官による情報の覚知、
→ 大脳での情報処理、
→ 視床下部での評価
→ 危険に対する反応
という流れをとります。

さらに大雑把に言うと
危険の覚知 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
という流れになるわけです。

脳科学的ないし生理学的にはこれでよいのでしょうけれど
便宜上
危険の覚知 → 危険解消要求 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
と危険解消要求という概念がはいると
様々なことが説明しやすくなります。

通常生命身体の危険は、危険の覚知から危険解消行動
その後の危険解消ないし実現という結果までが
極めて短期間で終了することが多いのです。
(例外的にはがんの告知など)
このため、危険解消要求などという概念は不要でした。

ところが、対人関係的危険は
実際には、人間関係からの追放という結果は
なかなか起きることがなく、
その危険だけが継続していきます。

例えばいじめがあっても
学校から追放されるわけではなく、
自分が尊重されていないという危険意識だけが
日々継続されてしまっているのです。

何とか正常な人間関係の仲間として尊重されたいという
危険解消要求が継続するわけですが、
危険解消行動に出ることもできません。
方法も見つかりません。

そうすると危険解消要求だけがどんどん肥大化していき、
最大の要求になって行ってしまいます。

本来生きるための危険に対する反応システムなのですが、
危険解消要求が充足されるなら
死んでも良いという考えるようになり自死が起きる

また、交感神経の活性化の慢性持続により、
脳機能の停止ないし低下が進み、
二者択一的思考パターン、悲観的思考パターンが
支配的になってしまい
危険解消要求に逆らえなくなると考えます。

危険解消要求の肥大は、
思いついてしまった不適切な危険解消行動を
自己制御することができなくするわけです。

様々な可変要素により
自死、犯罪、離婚、多重債務、虐待等
社会病理の原因を説明することが可能となります。

ここから先が対人関係学の実務編です。


<本来の人間は、共感のシステムにより仲間と協調する動物>
対人関係学の人間観は、
人間の心(対人関係の状態に対する反応)は、
約200万年前に形成されたという
認知心理学のコンセンサスに賛同しています。

当時生まれてから死ぬまで同じ群れに暮らしており、
群れが強く、大きくなることが
自分の利益と完全に一致するし、
誰かが弱って頭数が減れば
自分の命の危険が現実化するので、
弱い者を必死に守っただろうと考えられるのです。

ほとんど自分と仲間の区別がつかなかった
のではないかと思います。

この時代に、
一番弱い者を守ろうとする性質のあるもの、
仲間と争わないで、助ける者
仲間をいたわり合う者
その基礎として、仲間の苦しみや悲しみ
喜びを含めた感情を
自分も追体験するという共感の能力によって
共有する動物となったということです。

こういう性質をもつヒトだけが
厳しい自然環境に適応して
子孫を残せたのだと思います。
われわれは、その協調性の遺伝子を持った
末裔なのです。
人間の根本的価値観はここにあります。

但し、人間も動物ですから
自分が攻撃されれば反撃するわけです。
群れの仲間の特殊な性格の人間で
教育で矯正できなかった者というものも観念できますが、

主として他のヒトでしょう
仲間ではないヒトが飢えなどの理由で
他の群れを攻撃する
これに対する反撃はあったと思います。
ヒトがヒトを攻撃する場面はあったのでしょう。

しかし、それ以外は、他者(群れの)に協調する生き物
ということが本質です。

<時代と心のミスマッチは複数の群れの同時併存による>
では、なぜ現代社会において
他の群れの人間とばかりではなく、
家族、職場、学校という同じ人間関係の中で
紛争を起こすのかということが
問題になるわけです。

そのヒントは、
ダニエル・リーバーマンの
「人体」(ハヤカワノンフィクション文庫)にあります。

進化において獲得した性質は、
当時の環境に適合する性質であり、
環境が変化すると適合しなくなるというミスマッチにより、
虫歯や生活習慣病などの現代病が起きるというのです。

こころが獲得した進化の適応とは
原則として死ぬまで一つの群れで生活していたという
人間関係の条件の中で形成されたものです。
実はこの単一対人関係の時代は、
例えば日本の農村部では
ごく最近まで少しずつ変化をしながら継続していました。

ところが、現代では、
家庭、学校、職場、地域、サークルなど
かなり多くの群れに同時に所属しています。
どれも、相対的な群れであり、
それなくしては生きることがままならない
という群れは一つもありません。

だから、学校という一つの群れの中に
全く異なる群れに所属しているものが共存しているため、
共鳴する力、弱い者を守ろうとする力
という人間らしい力が発揮しずらくなっていると考えます。

同じ群れの中にいても
峻烈な利害対立が生じていて、
仲間の中の敵が存在する状態となっています。

このような対人関係の環境が、
他の人間を攻撃するということの抵抗を下げてしまい、
その結果、人間は、
様々なところで慢性的な対人関係的危険を
感じるようになっています。

危険に敏感になりすぎているように感じます。
そのため、本当は利害が一致している仲間に対しても
自分のみを守ることに過敏になり
攻撃されていると感じやすくなります。
これに対する防衛意識が起きやすくなり、
反撃行動に出やすくなるのではないでしょうか。

こころと環境のミスマッチが
社会病理の根本原因であるという結論となるわけです。

<対人関係の改善の主張>

対人関係学の主張は、
一つに、犯罪を含めた社会病理について
個人を非難することによっては解決ができないということです。

それぞれの社会病理がどのようにして起きたのか分析し、
対人関係の在り方を修正することによって
そのエラーの部分を取り除くことができると考えますし、
エラーが起こりにくくするような人間関係を構築し
予防に活かすということになります。

その中で、防衛行為というところ、
危険解消要求の肥大という視点により
分析を進めるということになります。

どんな社会になっても、
自分が大事にする対人関係を強化することによって、
こころの安定を図ることができるはずだと考えます。

そしてそれは、
他の人間と共感し、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じ、
他者を守ろう、助けよう、一緒に楽しもうという性質があり、
一番弱い者を一番に守ろうという
人間の本質に寄り添った行動を取り戻すだけのことだから
決して不可能ではないと考えています。

人間の幸せは、
自分が大切にする人間関係において
自分が尊重されていると実感することだ
と対人関係学は考えます。

人間が生きようとすること
人間らしく生きようとすること
これを無条件に肯定することが
すべての前提に置かれています。

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こころがすさむ、心がすさんでいるとはどういうことか. [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



心が荒む(すさむ)という言葉があります。
なかなかうまく説明しているものが見つかりません。

対人関係学では、
「自分の人間関係のつながりにおいて、自分が尊重されていないと意識している場合又は無意識に感じている場合の心の状態」を言います。
もう少し専門的に言えば
「自分が所属している人間関係において、他の構成員から自分が安定した所属の継続を許容されていないと感じる場合の生理的変化の意識の領域における反映」
ということになります。

人間は、動物という側面と人間という側面と両方兼ね備えています。
動物として、本能的に生き続けたいと意欲します。
人間としては、仲間の中で尊重されていたいと意欲するわけです。

そしてその意欲がうまくいかないときに起きる生理的変化は
(血圧の上昇、脈拍の増加、体温の上昇、脳機能の変化等)
生命が脅かされている時と
仲間の中での尊重がなされなくなる時
基本的にはほとんど同じ変化です。

人間は危険を感じ、不安を抱くことで、
危険だと思われる行為を止めたり修正したりするし、
ひとたび危険が発生したら、危険を回避する行動をとり
命を維持しています。

戦闘地域には近づかないとか
夜の独り歩きをしないとか
何かが飛んできたらよけるとかと同じように、

仲間から非難されるような言動はとらないとか
うっかり失敗してしまったら
何とか穴埋めをしようとしたりするわけです。

ところが、いつも思い通りの名誉回復ができるわけではありません。
うまく尊重を回復されない場合は、
危険解消要求がさらに大きくなって行きます。

この場合、
戦うか逃げるかという行動に出てしまいます。
これは様々なタイミングが作用しますので、
色々な行動に出てしまうので、一概にどう行動するかいえませんが、

例えば、仲間の中に留まるように「力ずく」で対応する。
自分を尊重しない相手を攻撃する
場合によってはライバルを追い出すという行動ですね。
多くのドメスティックバイオレンスの原理です。

同じ「力ずく」での対応でも
自分よりも弱い者を攻撃することによって
危険意識を解消しようとする
いわゆる八つ当たりもよく見られます。
会社での危険を家で八つ当たりするような場合です。
社会的に不遇な場合、子どもに過酷になるのが児童虐待でしょう。

もう一つの対応が「逃げる」という対応ですが、
具体的には自暴自棄のような対応をする
他者とかかわりを持たなくなる
他者からどう見られるかということを気にしなくなる
ということが代表例でしょう。

いずれにしても、本当は仲間と良好な関係を作りたい
という気持ちがあり、
それがうまくゆかないという危機感、不安感が過度に肥大して、
良好な関係を作ることよりも
それと逆行するような危機解消行動に出てしまう
これが心が荒んでいるという状態です。

さらに、
その危険解消要求が過度に持続してしまったり、
危険意識が強烈なものである場合
危機感の総量が一定限度を超える場合、
精神破綻が起きるのではないでしょうか。

例えば、子どものころいじめにあって
救いがない絶望を味わってしまうと
統合失調症と同様の精神状態になり
回復が難しいことがあります。

家族にも凶暴になって収拾がつかず、
精神病院に入院させるほかない状態に
なってしまいます。
こころの荒みが進むと
一生を台無しにする可能性のある危険がある
と感じざるを得ません。

危険解消要求が肥大化しすぎると、
死ぬことによって、危険を感じなくしたいとまで
追い込まれることになります。

そこまで行かなくても
八つ当たりの類似行動のような
犯罪やクレーマー、いじめや虐待のような
社会病理の原因にもなります。

あるいは、自傷行為や薬物乱用などで
現実の危険意識、不安感を解消するなどの
行動に出てしまうこともあるわけです。

こころが荒むということは放置してはいけません。

どうやって、心の荒みを解消したらよいでしょう。
心が荒むという言葉の対義語は何なのでしょう。

ご自分の心が荒んでいるということに気がつくことは
なかなかありません。
先ず、気がつくことが難しい。

例えば書道や華道をやって、
「自分の心が乱れている」
ということに気がついて
行動を修正するという人がいました。
私は「芸は身を助ける」の本質がこれだと思います。
それほど万人ができることではないでしょう。

一つは、
自分が尊重されたい組織を大切にすることだと思います。
なんか心が苦しいなと思った時ほど
例えば家族を大切にする行動をするということです。
心をほっておくと
自分を大切にしてもらいたいという行動に出るのですが、
敢えて仲間を大切にするということです。
これを私は自分を棄てるという表現を使います。

自分に、あるいは自分を守ることの意識が強すぎて
自分をおとしめている
こういう状態に陥っているわけです。

自分を守ることの意識を捨てることが
回復への一歩になるのは理屈です。
但し、ただ、自分を棄てることはできない。
このため、自分の仲間を大切にする
自分のみを犠牲にしても大切にする。
という行動をとることで、
結果として
自分に対する過剰な防衛意識を緩和することができる。
こういう考えです。

日本の詩人でも
中原中也は、「春日狂想」で
愛する者を失った時は、奉仕の気持ちになることなんです
と詩っています。

石川啄木が「一握の砂」
「友がみな我よりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ」
と歌っています。

詩人は、直観的に人間の本質を見抜いて
生きるための手立てを探り当てたのだと
私は思っています。

プラスアルファの効果があって、
こちらが優しくすれば
相手も優しくしてくれる
というのが確かにあるかもしれません。

しかし、それは、自分を棄てることの本質とは別の話です。

アメリカの幸福を考える学会があって、
そこでの実験心理学の実験の結果、
他人の利益を考える方が
人の心は安定する、しあわせを感じるというらしいのです。

https://gigazine.net/news/20190403-simple-trick-instantly-improve-mood/

私はこれは正しいと思います。
これも人間が群れを作ってくることができた
システムの一つなのでしょう。

そもそも、われわれ人間が、仲間を意識して行動するのは、
仲間の中にいたいということが出発点です。
心が生まれたとされる約200万年前は、
一生一つの群れで過ごしたと思われるので、
自分を守ることと仲間を守ることは
それほど区別する必要がなく
自分と他人の区別もあまりなかった時代だったと思います。
仲間を守ろうとする本能が
本来人間には存在していると考えることは
それほど無理のないことだと思います。

見返りを期待しないで
仲間の利益を考える。

これこそが
こころが荒むことの対義語であり、
その時の精神状態は
落ち着いていて安定しているのだろうと思います。

こころが荒まないようにする
予防にもなるわけで、
しあわせになる方法であると
考えた方が前向きなのかもしれません。

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いじめを傍観する子どもと大人の心理学 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

平成31年4月19日4月19日(金曜日)
18時45分~20時 アエル28階研修室で
テーマ「学校問題について語り合う」
~いじめ・不登校・教育~
のお話会があるとのことです。
参加費無料、事前予約不要ということなので、
勉強しに行ってこようと思います。

メインスピーカーはスクールカウンセラーもされていて、
直接子どもたちと接している方とのことです。
これは、多業種自死予防ネットワーク
みやぎの萩ネットワークが主催です。

さて、今回は、おとなしくお話を聞いて
自分の見聞を広めるということが目的です。
しかし、良い機会なので、
いじめの問題について、
傍観者の心理についてまとめてみようと思いました。

この記事は
最後にほのぼのすることが書かれているわけではありません。
最後まで不快な思いをするかもしれません。
冒頭申し上げておきます。


1 いじめの傍観者は、秩序と協調性を重んじるタイプの人間

いじめを傍観する人間について、
いじめの加害者と同じように、
冷酷で、自己本位の人間ではないかと
考えている人もいるかもしれません。

例えていうならば、
ナチスドイツのユダヤ人大量殺人を実行した
アイヒマンもそのように考えられていました。

ところが1963年、ハンナ・アーレントの
「イェルサレムのアイヒマン」では、
アイヒマンは机に座って自分の仕事をこなすだけの
凡庸な人間だと研究結果を発表しています。

この主張に対しては、かなり多くの批判が集中しましたが、
スタンレー・ミルグラムは
いわゆるアイヒマン実験(服従実験)によって、
人間が、他者を傷つけることができることを証明しました。

「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05

この実験結果を私なりに大雑把にまとめると以下のとおりになると思います。

1)人間は、自分の属する人間関係において、
  秩序を保ち、秩序に協調しようとする。
2)その過程で、自分の行為によって他者が苦しんでいても
  秩序の形成主体の意向に従い、
  他者を苦しめることを止めない。
3)但し、その場合、他者を苦しめることに葛藤を抱くが、
  種々の合理化をして行為を継続する。
4)但し、自分の行為によって他者が苦しんでいることが
  生々しく感じ取れる場合には、
  秩序に反発することもある。

私は、この観点からいじめの傍観者の心理を
考えてみることにします。

もう少し、上記の結果を現実に即してかみ砕きます。

A いじめる側の権威に服従してしまう。

本当は、不合理な理由でのいじめであるとか、
多数派が一人などを孤立させていて
やってはいけないことが客観的に起きているのに、
そのような評価をしないようにします。

つまり、いじめではなく、当事者間のトラブルだ
と無意識に事態を再構成してしまいます。
そして、トラブル、ケンカは秩序を乱すものであるから、
自分はなるべく関わらないようにしようという意識を作る
ということではないかと思うのです。

いじめる側といじめられる側は、
当然いじめる側が多数派となりますから、
傍観者たちは、
いじめる側を擁護する心理を作り出します。
擁護までしなくても、
批判したり、否定しにくくなります。
いじめる側が秩序を形成しているからです。

B いじめられる側への共感に蓋をする

人間は、苦しんでいる人を見ると自分も苦しんでしまいます。
2歳くらいからこのような共感の能力を発揮してしまうようです。
いくら、対等のけんかが起きているだけだとごまかしても、
実際に苦しんでいたり、無表情になったりしている
いじめられている側の心情を感じないわけはありません。

自分の苦しみを解消したいという要求は
生きていくための要求ですからここでも発動されます。

いじめられる側への共感を止める方法を
無意識に発動して自分を守るわけです。

一つは、いじめられている人間は、
自分の仲間ではなく異質な存在だという合理化です。
いじめられる人の何らかの特徴は、合理化の道具にされます。
それに全く合理性はありません。
自分に言い聞かせるためのおまじないみたいなものでしょう。

それが進んでいくと、
いじめられる側の落ち度、欠点、不十分点を探し始めます。
いじめが正当化されていくわけです。
正義の行動をしているということを自分に思いこませていくわけです。
だいたいの「正義」という言葉はこのように使われます。

「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-02-18

ひとたび正義という言葉が表に出ると
いじめは過酷になって行く傾向があるようです。

このようにいじめられる子に対する共感発動を
必死で思いとどめます。
保身という意味合いもあるのでしょうが、
予防の観点からは、
それは人間の権威に対する迎合の本能だと
把握しておく必要があると思います。

いじめられている子が
苦しむ表情をみせたり、泣いたりすると
さらにいじめが激しくなるのも
共感を止めるためのメカニズムです。

C 変わり者を排除する学校

このようないじめに対する傍観が
最近増えているとしたら、
それは、変わり者の否定や
学級委員制度の廃止と教師の無色化が
原因だと思います。

ここでいう変わり者とは、
秩序を重んずることなく、
協調性に価値をおかない者です。

子どもたちを管理する観点からは
教師の言うことを聞かず、勝手なことをして
教室の秩序を乱す者なのですが
それだけに、
秩序を形成する権威に迎合せず、
自分がおかしいと感じたことをおかしいと主張したわけです。

おかしいと言われると、
確かにおかしいと目が覚めるわけですから、
いじめを阻止する行動が多数派になって行きます。
少なくともいじめに協力する人間は減るわけです。

これが、人類史における変わり者の役割でした。
ところが、現代社会、学校教育は
この変わり者を抹殺しようとしています。
障害だ、病気だと決めつけて、
投薬したり隔離してまで、変わり者を排除しようとしている
そんなふうに感じることがあります。

秩序と協調性をヒステリックに重んじる風潮ができるわけです。

学級委員という係がなくなったということも驚きです。
学級委員は役目柄、
「それはやめろよ」というのですから、
秩序や協調性を気にする必要はないし、
級友もそういう役目をしているということで尊重しますし、
級友が迎合する的の権威になりうるわけです。

こうやって、子どもたちが人間関係秩序を学んでいったのですが、
なぜか無くなっています。

このため、迎合する対象を喪失して子どもたちは
本来教師に迎合の対象をもって行くことが
予定されていたのでしょう。
しかし、教師も、
自ら権威を否定したり、
権威を発揮することを放棄している状況が
あちこちで見られるようです。

結局、秩序と協調性を重んじる児童生徒は、
少し突出した行動をとる子ども
感情が豊かな子ども
体力的に優位な子どもに
権威を求めて協調しようとしてしまうのではないでしょうか。
そうだとしたら、これもいじめを傍観する原因になります。

D いじめられる子の心理

いじめられている被害者は、
当然自分をかばってくれるはずだ
不合理や残酷な仕打ちを是正してくれるはずだと思っていますから、
加害者と平等に扱われることは
絶望を感じてしまいます。

自分がいじめられることで、自分が悪いわけではないのに
傍観者から、不快な思いを与えた張本人は自分だと
言われているような感覚になります。

こうやっていじめの被害者は孤立していきます。
その孤立こそが、被害者のメンタリティーを
決定的に傷つけてゆくわけです。


2 単純接触効果、プライマリー効果

さらに、人間は、これまで付き合いが長く強い者が
味方であるという感覚を持ってしまう動物のようです。
私は、この原因の一つとして、
長く付き合ったり、強い結びつきがある相手は
その心情が理解しやすいため
共感を抱きやすいということがあると思っています。

いじめている側との付き合いが長かったり
一緒に行動して喜怒哀楽を共にしていれば、
なんとなくそちらに味方をしたくなるものです。

ひっそりと目立たない子であったり、
内気で感情を表に出せない子が
いじめられる対象になることには原因があるわけです。
それから、友達と深くかかわることが苦手な子も
同じ原因で、共感を持たれにくいということがあります。

元々長く付き合っていた子が
誰かをいじめていても、
それはトラブルに過ぎず、
対等なケンカなのだろうと思いこみを持ちやすくなります。

いじめられる子の恐怖や屈辱よりも
いじめている方のいら立ちや怒りに
つい共感してしまうということが起こりやすくなるのでしょう。

3 少しだけ解決の展望

私は、正義や秩序の過度の強調をやめ、
可愛そうだからやめる
という行動原理を子どもたちに
優先するべき選択肢として与えることが必要だと思います。

また、クラスならクラスを一つの群れとして行動する
そういう習慣づけをする指導を行うことも有効だと思います。
仲間を守るということの体験を意図的にさせる指導も必要でしょう。


4 組織の論理、大人のいじめ

さて、ここまでお読みになって、
正義感の強い方の中には、
こんなまだるっこしい検討に何の意味があるのだ
傍観するなんて卑怯者であり、加害者と同等だと
そう感じている方もいらっしゃるかもしれません。
自分たちの時代ではそのような傍観はしなかった
という方もいらっしゃるでしょう。

しかし、大人の世界でもいじめがあり、
それは、主義主張にかかわらず、
相手を異質のものとして排斥していることで
起きることが多くあります。

大人の世界でもいじめがあって
コツコツと努力していた人たちが
些細なことで全面否定され、
それまでの生き方を変えざるを得ないことがありました。

つい最近もいくつかそのような事例を目にしてしまいました。

加害者は自分なりの大義名分をもって攻撃し
周囲の人たちも、それを注意したりやめさせたりしません。
加害者も周囲の人たちも、
日頃立派なご主張をされている方々です。

と書き出すと、
多くの人たちは、通常不快になります。
子どもの話だと、あまりリアルに苦しみを感じなくても、
(共感しずらい)
大人の話だと、リアルすぎて苦しくなるわけです。
(苦しみを想像しやすい)

当たり前の話ですが
巻き込まれなくてよい争いに巻き込まれたくないのです。
これが権威に迎合する最大の理由なのでしょう。

ちなみに先の大人の例を続けますと、
排除の論理は、
その人と主義主張が違うからではなく、
その人が自分の人間関係の仲間ではないからということでした。

同じ仲間ではないということで
異質性を際立たせて、
苦しみや絶望への共感に蓋をしているのでしょう。

自分の同じグループの人たちの感情や権威に迎合し、
攻撃の理屈を無理やり肯定しているのかもしれません。
この組織の論理がさらに強くなると、
組織外の人間の感情への共感を
自然と遮断できるようになるのかもしれません。

特に目的を持った組織は、
目的遂行が大義名分となり、
人間に対する共感がおろそかになる危険があります。

それは特に注意しないとそうなってしまう
いじめの傍観者の問題を考えながら、
これは、いじめは子どもの問題ではなく
大人たちの生き方の問題が子どもに反映しているのだと
考える必要があるということを改めて感じました。

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あなたが悩んでいることは本当に悩むべきことか.(プラスワンの理論Ⅱ) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

1 通りすがりの人との関係

 あなたが悩む必要がなく悩んでいる典型的な場面は、通りすがりの人から何かの悪口を言われたような場合です。
 あなたが、今後も継続する人間関係で不安になる場合は悩む必要があるのですが、おそらく二度と会わないだろう人との関係で悩む必要はありません。通りすがりの犬にほえられたようなものです。このような場合でも人間は二つの理由で悩んでしまいます。
 一つは、相手が人間であるからです。人間は、人間から攻撃されると、本能的に仲間から攻撃されたような気持ちになり、防衛意識が芽生えてしまいます。これは、200万年くらい前の人間の心が完成したころ、人間は生まれてから死ぬまで一つの群れで暮らしていましたから、およそ人間からの攻撃の場合、群れからの攻撃だと錯覚してしまうからです。
 もう一つは、そのおかしな人からの悪口なのに、あたかも社会全体を代表した意見だと受け止めてしまう傾向があるからです。社会という群れから追放されるかのような危機感を抱いてしまうわけです。
 いずれにしてもプラスワンの理論で紙に書くとき、あなたは登場させることができますが、通りすがりに悪口を言った相手は登場させることができません。関係がないのです。道を歩いていて誰彼構わずに悪口を言うような人は、言っていることも失礼であるし、あなたのことを分かっていったわけでもありませんので、気にすることが無駄なことです。ただ、変な人とすれ違ってしまった偶然を呪うだけでよいのです。

2 一見仲間だと思ってしまう卑怯者との関係

 次に、一見群れの中からの攻撃なのだけれど、よくよく考えてみれば、実は通りすがりと同じで、関係ないと言っても過言ではない人からの攻撃である場合が実際は多くあります。
 その人とあなたは、同じ時間同じ場所に一緒にいるということがどれくらいあるかを考えることが大切です。実際は、近くに入るとしても、一緒にはいないことが多くあります。少なくとも共同作業をしなくてもよい関係にすぎないということです。本当はあまり気にする必要がないということで終わる場合があります。
 しかし、その人と直接会うことはないけれど、共通の知り合いが多くいると困ったことになります。通常そういう場合に悩む内容は、こちらの知らないうちに共通の知り合いに一方的な話を吹き込んで、共通の知り合いから自分が追放される、そこまで行かなくても評価を下げられるということが悩ましい事態ということになります。
 そういう陰でこそこそ破壊工作をする相手を卑怯者と定義することにします。その卑怯者は、読んで字のごとしですが、卑しくて、怯えているものなのです。あなたの行動や存在によって、自分の立場が危うくなるという危険に怯えているのですが、卑しい性格のために、正々堂々と努力して立場を回復させることができず、またあなたに直接何かを言うことが出来なくて、卑怯な行動に終始しているということになります。

 もしその卑怯者があなたの家族ではないとしたら、そういう人との関係を修復する必要はありません。一度修復したからと言って、あなたが努力して事を成し遂げようとするたびに邪魔をするわけですから、関係を遮断するべきです。あなたが我慢して修復するべき関係なのか、大切にするべきなのは大いに吟味するべきです。
 さっさとこの関係に見切りをつけなければ、あなたが本当に大事にするべき関係に悪影響が生まれてしまいます。

3 あなたが本当に考えるべき人間関係

 あなたが大切にするべきかもしれないのは、その卑怯者との人間関係ではなく、共通の人間関係の方です。
 特に卑怯者からあれこれ言われても、なお、あなたに寄り添っている人たちはかけがえのない仲間です。それにもかかわらず、卑怯者に対する怒りが強すぎる場合、共通の仲間が卑怯者の影響を受けて自分から離れるということが心配ですから、ついその危険意識によって仲間を攻撃してしまうことがおきるのです。これによって、仲間が離れていくことが一番の悲劇です。また、あなたの怒りが強くて、あなたと卑怯者の争いに巻き込まれたくないということで去っていく人もいます。ここを考えるべきなのです。
 さらには、あなたが終始イライラしていることで、本来なんの関係もないはずの家族に八つ当たりをしてしまうこともあります。卑怯者が一人いるだけで、あなたは大損をしてしまい、不幸になってしまいます。
 
 大事なことは、いち早く卑怯者との人間関係を、心の中で断ち切ることです。同じ群れの仲間ではないということをはっきりと自覚することです。
 これがとても大事なことです。

4 卑怯者に追随する人との関係

 では、共通の人間関係の内、あなたになお寄り添っている人は良いとして、卑怯者が行った欠席裁判の結果、あなたから離れていく追随者をどう考えるべきかということがあります。
 人間はおよそ200万年前に心が完成し、その時の生活は、生まれてから死ぬまで同じ群れの仲間と生活していましたから、およそ人間から攻撃されるとくよくよと悩んでしまうとか怒りに燃えてしまうという性質があります。冒頭検討したように通りすがりの人から攻撃を受けても腹が立ったりがっかりしたりする通りです。
 通りすがりの人間ではなく、それまで共通の知り合いだと思っていたし、そんなに悪い関係でなかったにもかかわらず、卑怯者に追随することはショックだと思います。
 しかし、理性的に考えて、本当に不安になる必要がある人たちなのでしょうか。もともと人間は、より近くにいる人の味方になるという単純な思考回路になっています。また、権威に追随するという性質もあります。群れを作るという性質がこういう傾向を産むわけです。また卑怯者があなたより弱い立場にいるような場合も、弱い方に味方をしようという単純な性質もあります。決して、人間が自分の仲間を選ぶような理性的な行動をする生き物ではありません。だから追随者があなたではなく卑怯者に追随したとしても、それはあなたが否定されたわけではないのです。何らかの考え抜かれた行動ではありません。一番の証拠は、あなたにことの真偽を確かめないで、あなたにつらい行動をとっているではありませんか。そういう追随者たちは、おそらくこれまでも同様のことをしてきたでしょうし、これからもするでしょう。
 追随者たちとも同じ群れの仲間ではないとはっきり自覚するべきです。
 
5 しあわせを基準に大切にするべき仲間を考えるべきこと

 人間に対して不利益を与える場合、その人間の言い分に耳を傾けるということが、歴史的に人間が獲得してきた知性です。一方の言い分だけで誰かの評価を決めるということは、この知性がないということです。日本の憲法は、罪を犯した人でさえ、自分の言い分を堂々と述べることが人間の権利であるということを適正手続きの補償という言葉で述べています。つまり、言い分をさせないでその人につらくあたるということは、その人の人間性を否定するということなのです。つまり、人間として、してはならないことです。
 それでも、どうしてもその人が自分の人生にとってなくてはならない人なら、自分の行動を修正して、頭を下げてつなぎとめることになります。しかし、家族以外で、本当にそういう思いをしてつなぎとめなければならない人はいるのでしょうか。ここはとても大事な吟味が必要です。
 その場合の最大のデメリットは、あなたが本当に守らなければならない人間関係に影響が生じることです。あなたがイライラと悩み続けること、悩みが持続することは計り知れない思考上の問題が生まれてしまいます。あなたは、単に悩みが継続しているために、危険意識を抱く安くなり、悲観的な考えに既に陥ってしまっているかもしれません。
 仕事や勉強や、ボランティアや、あなたが大事にしていることがあると思います。その大事にしていることのキーマンのように思う人かもしれません。しかし、その大事にしていることに、あなたの人生が奪われるかもしれないという視点も大事です。
 「何を基準として考えるべきか。」
 私は、
あなたが幸福に生きるため
という価値観を基準にするべきだと思います。
 私が考える幸福とは、
あなたが尊重されるべき人間関係で尊重されて生活すること
だと思っています。
 すべての人間とすべての利害が一致するということは現代社会ではありえません。相手を攻撃せず、自分の仲間を大切にすることを考えましょう。

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プラスワンの理論  悩むあなたと支援者のための理論 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


 人間関係で悩んでいる時、あるいは悩んでいる人から相談を受けた場合に、問題を鮮明にし、解決に向かうための理論です。

1 自分を含めた人間関係の不具合として把握する。

  例えば妻ないし夫、上司ないし同僚、学校での嫌な奴
  こういう場合、解決したいという気持ちがありながら、解決に向けて行動していないことが多くあります。ただ、相手の嫌なところを思い浮かべては困惑している、不快を反芻している状態です。
  解決をするための第1歩は、相手のことばかり考えることを止めて、相手と自分の関係の状態について考え始めるということです。
  プラスワン理論のワンとは、「ご自分」のことなのです。
  相手の行動や感情は、自分の行動や存在を抜きに起きることがありません。そしてもし、相手がこちらに攻撃的な態度を示しているならば、それは、こちらの行動や存在に脅威を感じているからであり、攻撃的な態度とは防衛行動なのです。相手にとって自分はどのような存在であり、自分の行動が相手の立場を脅かしていることがないか点検してみましょう。
  この時、「自分が何か悪いことをしたか」という思考はむしろ邪魔です。良い悪いにかかわらず、相手が自分の立場を危うくするという事情があるかないかを考えなければなりません。
  あなたが誰か別の人から高評価を得ていて、それは相手ができないことだということも、相手が危機意識を持ち、あなたを攻撃する理由になります。
  あなたが何かしてはいけないことをしているならば、それを止め、相手に謝罪することに躊躇をする必要はないでしょう。あなたが正当な行動をしていても、相手が危険意識を持つ場合、それはあなたと相手の関係であなたの行動をどうするか考えればよいということになります。これはのちにお話しましょう。
2 本当に二人だけの問題か
  あなたが悩んでいることは、むしろ多くは二人だけの問題にとどまらないことが多いです。
  例えば夫婦の問題は、子どもや、親、職場に影響が及ぶことがおおくあります。子どもためにどうしたら良いかという発想も必要になるわけです。つまり子どものために意地を張らないということですね。
  例えば上司と部下の関係でも、他の同僚や取引先、逆に家庭への影響も多く生まれてしまいます。
  例えば学校でのいじめも、加害者、被害者、同級生、教師、やはり家庭への影響もあるわけです。
  こうなってしまうと、一人で悩んでいることは合理的ではないことがわかると思います。適切な援助を得て、全体のために解決に向かう行動をしていくことが合理的です。また、もしかすると、自分が悩んでいる理由は、相手方に原因があるのではなく、第三者に原因がある場合があることも見えてきます。
  学校でのいじめも、実は相手生徒の問題ではなく、教師の対応が自分を苦しませていることがあります。職場でも、上司は言いたくて言っているわけではなく、そういう風に指導しろという会社の方針に従っただけとか、夫婦の問題も相手が悪いのではなく、相手に変なアドバイスをした人間がいたりすることがあります。実は相手は敵ではなく、一緒に解決に向けた行動をするべき仲間だということがありうるのです。
  こういうこともご自分を勘定に入れることではっきり見えてきます。
  この時、簡単な図面を書いて考えることが大事です。プラスワンの理論は、理性を発揮させるための理論なのです。図面や文字で関係図を書き留めておくことは、この理性を発揮しやすくなります。理性を発揮できないときの思考は、嫌な感情を反芻する行動であり、何も考えていないことと同じです。ますます考えが停止していくだけです。そこにくさびを打つのは文字化、図面化ということで協力にすることができます。
3 正義、善悪は思考からとりあえず排除する
  先ほども言いましたが、「良い悪い」を考え出すと思考が停止してしまいます。解決に向かわないことが多いように感じます。人間行動の流れを把握してから考えても遅くはありません。
  こちらが間違っていないから自分の行動を修正しないと意地を張って、相手が悪いと言い続けて不具合を放置してよいのでしょうか。また、相手が悪くないと言い続け、どこまでも我慢するのでしょうか。特に家族や友人関係であれば良い悪いよりも、正義よりも大切なものがあるはずです。そういう親しい関係であって、自分の行動をわずかに修正すれば解決するならば、さっさと解決した方が得だという考えはどうでしょう。これは、意識しないと思い浮かんでは来ません。
4 関係改善の提案を躊躇する理由はない
  あなたの悩みは、2項で考えたように、あなただけの問題ではないし、あなたと相手の二人の問題でも実はありません。あなたと相手、あるいは第三者を含めたチームの不具合です。あなたが関係改善の提案をすることはあなただけの利益ではなく、チーム全体の利益なのです。改善の必要性を訴え、具体的な提案をすることはわがままではありません。
  そうして、一緒に考えてもらうことが大事です。あなたも自分の提案を唯一絶対のものとしないで、聞く耳を持ちましょう。あくまでもチーム全体で解決すればよいのです。
  解決を訴えるにあたっては、チーム全体の利益を考えていることをはっきり伝えましょう。また、相手が悪いという表現を使う必要はありません。端的にあなたが悩んでいることはチーム状態に不具合があるということです。チームのためを思って提案することを強調しましょう。
5 自分一人で解決する必要はない
  あなたの悩みは、チーム状態の不具合ですから、あなた一人で解決する必要はありません。一人で解決する場合は、自分で我慢すること、逃げ出すこと、あるいは相手を攻撃して倒すことしか出てこないことが自然です。
  第三者の援助を借りることにためらう必要はありません。
  但し、その第三者がプラスワンの視点に立てず、あなたに我慢を強いたり、逃げ出すことを勧めたり、あるいは一緒に相手を攻撃することしか考えられない場合は、その第三者を信用できません。単にあなたの感情に追随しているだけで、解決をしようという立場にないからです。
  あなたのためにそんな第三者に動いてもらおうとすると、チームそれ自体が消滅する危険があります。チーム状態を改善してもらうことを援助してもらえるかどうかが、信頼できるかどうかのカギになると思います。
但し、チームは永続的なものとは限りません。相手なり同僚なりが既に何らかの理由で、修正可能性が無いという場合は、あなたはチームから離脱しなければなりません。そういう選択肢も頭の中に入れておく必要がある場合があります。
6 人間関係が把握できれば悩みが終わることがある
  例えば職場に嫌な人がいて、ちょくちょく嫌味を言ってくる人がいたとします。通常のパターンだと、あなたが攻撃したからこのような行為をするのではなく、あなたの存在が自分が評価を受けるにあたって妨げになる場合が多いようです。あなたは攻撃を受けるから、危険を感じているわけですが、そう分かってしまえば、特に危険を感じなくなるでしょう。恐怖から苦笑に変わるわけです。相手のこちらに対するライバル視は変わりませんが、危険意識は圧倒的に消失することがあります。何らかのポジションをめぐって相手がエキサイトしていても、自分はそのポジションは狙っていない場合も多くあります。そういう場合は、はっきりと自分と相手がライバルではないことを告げるべきです。敵意がないことを示すことが可能になります。少しずつ関係が改善していくことは可能になるはずです。
  例えば、夫婦で、奥さんがちょっとのことでヒステリーを起こして困っている時があります。多くは、奥さんはなんとなく、人間関係が永続するのか、自分は対等のパートナーとして扱われているのか不安になっている場合です。特に子どもが生まれた直後2年位、授乳をしている時期はそういうことがあるそうです。感謝の気持ちをはっきりと伝えること、奥さんの失敗を責めない不十分点を笑わない、批判しないということがあると安心感を少しずつ獲得していくようです。そこを自分の嫁さんは・・・と悩んでいると何も解決しませんし、自分は何も悪いことをしているわけでなく、悪いのは切れる奥さんだということを言い続けていくと、取り返しのつかないことが起きるわけです。あなたのちょっとした我慢、ちょっとした言葉、ちょっとしたプレゼントで劇的に関係が修復されるのであれば、するべきです。
  

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なぜ弁護士は殺人者を弁護するのか、弁護するとはどういうことか。ある妻殺しの事件に寄せて [刑事事件]

なぜ弁護士は、
罪を犯した人を弁護するのでしょう。
例えば人を殺した人を弁護するということは
どういうことなのでしょう。

人を殺した場合、
ルールに従って、
制裁を受けなければなりません。

ルールに従って制裁するということは、
あくまでの社会の仲間として扱うということです。
人間として扱うということです。
人間として扱うからこそ
人を殺した場合制裁を受けるのです。

これが人権です。

この「ルール」の大きな柱が、
言い分を聞くという手続きです。
どんな人にも言い分があります。

その言い分で罪が軽くなろうと
逆に重くなろうと
言い分を言わせることが
仲間として扱うということです。
人間として扱うということです。

だけど人を殺した人は
その言い分をうまく言うことができないことが多いのです。
人の命を奪ったということで
激しい精神的動揺があることが普通です。

また逆に、人を殺す場合は
精神的葛藤が続いたり、
極端に強い葛藤が生じたりして
自分でもわけのわからない状態の中で、
取りつかれたように人を殺す
ということが起きているので、
自分で自分の行為をうまく説明できないことも
多いのです。

そうだとすると
言い分をいうことも
実際は難しいことなのです。

ましてや、
世界中が自分を非難しているという
絶対的なアウエイ状態ですから
言えることも言えなくなるのが
人間です。

ですから、
罪を犯した人には
弁護士という人間が
その人に代わって言い分を述べることが
どうしても必要になります。

だから弁護士は、
どのような人の弁護をするときでも
その人の立場に立って、
その人の言い分を一緒に考えて
その人の分まで主張をしなければなりません。

人間の弱さにはいろいろな形があります。
その弱さを十分に理解しないと
罪を犯した人の言い分を思いつくことができないでしょう。

夫が妻を殺した事件がありました。
夫婦には2歳の子供がいます。
かわいい男の子です。
夫は我が子をかわいがりました。
息子も、父親に対して
何のわだかまりもなく安心しきって笑っている
そんな写真もありました。

しかし、夏、
突然妻は子どもを連れて行方をくらましました。
夫の話によると
妻は、子どもを産んだ後あたりから
精神的なトラブルを抱えだしたようです。

真実はわかりません。
しかし、これは理にかなったことです。
いくつかの研究結果から
女性は子どもを産んだ直後、
大人の男性(夫)に対して共感を抱きにくくなり、
その結果不安になりやくすなり、
鬱的状態になると報告されています。

程度の違いは大きくあるけれど
誰にでも何らかのそういう変化が
起きるということだそうです。

私が関わった実際の事件でも
一人目の子どもを産んだ時から
わけもなく不安に陥りやすくなり
すべてがうまくいかなくなるのではないかと考えだし、
2人目の子どもが生まれたあたりから
かなりその傾向が強くなり、
突発的な事情から
子どもを連れて出ていくということが
とても多く起きています。

これは、
脳の機能変化とホルモンバランスの変化であって
環境が変わらないのに
勝手に起きてしまうことが多いのですが、
そのことはまだ、
多くの人が知るところになっていません。

理由がなく不安になる女性に対しては、
「あなたは悪くない」
「夫の精神的虐待が原因だ」
「夫のDVは治らない」
「命を守るために逃げなければならない」
とだけ、マニュアル通りのアドバイスをする人たちがいます。

そいうことを言われるたびに
妻の精神状態は刻々と悪化していきます。
そうして、全力で
夫に知られないように行方をくらますように促され
実行するしかなくなります。

本当は、子どもを産んだ女性に対しては
これまでと違ってことさら親切にしなければならないのですが、
知識も時間も精神的余裕もない男性は、
生む前と同じ対応をしてしまいます。

自分が何も変わらない、これまでといっしょなのに、
妻が子どもを連れて出て行った。
いったい何が起きているのか
とただ呆然とするしかありません。

「彼」は妻が子どもを連れて出て行って
1週間してようやく、
子どもと妻がいなくなってしまった
という言葉を発することができるようになりました。

さらに1週間して
ようやく、ただひたすら歩き続けるという
行動に移すことができるようになったようです。
でも彼ができたのはそれだけでした。

しかし、その後は
仕事はしていたようですが
何もする気が起きず、ふさぎがちになったようです。
かなりアルコールに依存するようにもなっていったようです。

無理もないでしょう。
あんなに可愛がっていた子どもと
突然全く会えなくなったのです。
辛い仕事でも
子どもの寝顔を見ることで
生きてきた喜びを実感していたのに。
すべてが奪われた気持ちになっても
不思議ではありません。

本当は、妻に対して
「そういう不安は誰にでもあるよ。私もあったもの。
 気の持ち方で何とでもなるよ。
 子どもがいるのだから、夫婦で乗り越えなければね。」
と言ってくれたり
「そんなに心配ならば私が意見するから、
 旦那を連れておいで。」
と言ってくれる人がいれば
妻も子どもも家族のままでいられたはずです。

夫に対しても
「子どもが生まれる前と同じじゃだめだよ。
 とても敏感になっているのだから、
 ことさら優しくしてあげて
 多少のヒステリーは大目に見てあげなさいね。
 あと私に愚痴言いにくればいいから。」
と教えてあげる人がいればよかったのです。

そんな人が街中にあふれていたのは
もう50年も前のことなのでしょうか。

仮に別居が仕方がなかったとしても、
子どもの様子を知らせたりする人がいたり、
電話だけでもできる状態だったら
どんなにか救われたことでしょう。

ところが二人は孤立していたようです。
夫はますます孤立を深めてしまいました。

夫は普通のサラリーマンです。
仕事仲間からも信頼されていて
呆然としてただ歩くことしかできない夫に
付き合ってあげた友人もいたようです。
決して、子どもや妻から引き離さなければならない
元々は危険な人物ではなかったはずです。

夫が、家族に会えない時間が経過するにつれて
だんだん精神的に追い込まれていったことは
簡単に想像することができます。

あんなに愛を誓い合った妻が自分を見捨てて
それだけでなく、子どもも自分から奪ったわけです。
自分が、夫としても、父親としても
否定されてしまったと感じることは当然です。
まるで生きていてはいけないと
言われたような気になるそうです

一番深刻な問題は、
なぜそうなったのか本当にわからないことです。
もう一つ、
どうすればこの状態が解消されるのかについても
全くわからないことなのです。

解決をしたいという気持ちがありながら
解決する方法が全く見つかりません。
そうすると、だんだんと
解決したいという欲求だけが強くなり、
毎日、毎秒が、
イライラと焦りだけの時間になって行きます。

自分を取り戻すことだけがテーマになって行きます。
こんな状態にしたのが妻だということだけが
考えないようにしても、頭から離れられなくなります。
本当はまた元の状態に戻りたいのに、
その手段が全く分からない。

とにかく今の状態を何とかしたい。
こんな精神状態がどんどん悪化していきます。

そこから妻を殺すまでの心理状態は
本人でなければ語れないことだと思います。

ただ言えるのは、
彼が元々危険な人物ではなかったということです。
彼を危険な人物に追い込まれた理由があるということです。

これを国家や自治体の関与で行っているとしたら、
本当に彼だけに全責任を負わして良いのでしょうか。

国家や自治体の政策が稚拙で非科学的で、
偏っていたために彼を追い込んでいたとしたならば、
追い込まれた末の行為の責任の一端は
国家が負わなければならないのではないでしょうか。

彼を追い込んだ張本人の国家が
裁判の名のもとに全責任を彼に負わせることは
本当にフェアーなのでしょうか。

彼と彼女には遺された子どもがいます。
とても愛らしい顔で笑うお子さんです。

ただ、人を殺したから悪いというだけでなく、
複雑な事情を子どものために明らかにして
いただきたいのです。

お子さんが
自分は本当は
幸せの家庭の中で生まれてきたことを
教えなければなりません。

事情があって父親は人間の弱さが生じてしまったに過ぎず
自分は根っからの悪人の子どもではない
ということを納得して
自信をもって生きていくためにも
裁判では真実が明かにしなければなりません。
それは、父親であり、間違いをした
あなたしかできないことなのです。

弁護人の先生、よろしくお願いいたします。



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保護命令をかわした先で考える家族再生 攻撃してくる相手に近づこうとする人はいないということ [家事]

保護命令4部作ということなので、
これまでの3件もよかったら見てください。

様々な事情で
妻が子どもを連れて別居し
会えないどころか連絡も取れない
という相談が増えています。

身に覚えのない暴力や虐待を理由に、
裁判所から行動制限の申立まで来てしまいます。

中には確信犯的な妻がいて、
不貞を成就させるとか、転居を希望するためにとか
夫を切り捨てるための子連れ別居保護命令も実際にあるので、
強く断言できないケースもあるのですが、

家族再生をする気持ちがあるなら
家族再生を目指してほしいと思うのです。

仮に元の通り一緒に暮らせないとしても、
先ずは、子どもをあなたに会わせることを
何とかして実現していただきたいのです。

間違えた方向で頑張らなくても
お子さんにとっては少しでも状況の改善が見込めるので、
無駄にならない努力です。

それを意識的にやろうとしてできるのは
あなたしかいません。

家族再生の方法論が少しずつ確立していく中で
嬉しいニュースが届きました。

保護命令が出された事案だったのですが
保護命令中に面会交流調停、離婚調停が始まり、

離婚は応じることになったのですが、
保護命令期間開け直ぐに直接交流が実現し、
その後半年で
祖父母付きの宿泊付き面会が決まり、実行され、
その後も旅行形式の面会交流が実施されているそうです。

ここまでではないけれど
面会交流が実施されるケースは増えています。

うまくゆくケースの特徴は
家族再生という目標を徹底し、
それに矛盾する行動をとらない
ということに尽きるでしょう。

これがなかなかできないのです。

考えてみれば当たり前なのですが、
人間はどうしても危険から自分を守ろうとします。
人間に限らず動物全般がそうです。

こういうケースで感じる危険は
対人関係的危険です。
つまり
特定の仲間から外されそうになる時に
人間はとても強い不安を感じるものです。
(この不安は、自死や殺人、いじめ、パワハラ等
 色々な社会病理の原因になります。)

家族という仲間、夫婦という仲間から
一方的に、多くは理不尽に感じる形で
外されようとしているわけですから、
不安や危険を感じ、
本能的に、反射的に
自分を守ろうとするのはむしろ当たり前のことです。

この場合の防衛行為は二種類あり、
一つは、抜け殻のようになってしまい、
やる気がなく引きこもりがちになってしまうパターンと
もう一つは、自分を外そうとする仲間に
怒りをもって攻撃するパターンです。

二つのパターンが両方出現し、
気分感情が乱高下することが
むしろ普通かもしれません。
気分感情は乱高下するのですが、
不安や危険を感じているということで
一本筋が入っています。

家族をやり直したいという気持ちと
相手を許せないという怒りが
どちらもある状態が普通です。

家族再生をするためには、 
この相手を許せないという気持ちを出さずに、 
相手を攻撃しないということが 
鉄則なんです。 

だから、
家族再生を目指すのか
目指さないのか
決めなければなりません。

腹を決めないまま
本当は家族再生したいのに
気分、感情のまま相手を責めれば
結局再生なんてできません。
益々悪くなるだけです。
だから普通に調停を闘ってしまうと
当然家族関係、夫婦関係は
悪化の一途をたどるだけです。

相手を攻撃するのは防衛行為ですから
これを止めなければなりません。
相手との感覚では
自分を棄てることが大切です。
*1

困ることは、
よし自分を棄てようと思っても
自分が相手を攻撃していることに気が付かないことです。
それは相手に対する攻撃だよと言うと
「自分が間違ったことを言っていますか?」
「自分だけ我慢するなんて不合理ではないですか」
「子どもを虐待しているのは連れ去りをした相手方の方ですよ」
「自分子ども会う権利は無いのですか」
「私が被害者なのですよ」
ということをおっしゃいます。

言っていることはその通りだと思います。
しかし、その気分感情で相手方に働きかけてしまうと
相手は怖がったり、嫌がったりするわけです。
あなたから遠ざかろうとします。

相手の一番後ろめたいところを受け入れること
相手の失敗、不十分点を攻撃しない、責めない、追及しない
ということは
自分が相手の行為で危険を感じている一番の事情を
容認することなので、
これはなかなか難しいし、
無理をすることはできないのです。
だから決めることが必要だということになります。

家族再生をあきらめてあなたの正義を貫くということも
一つの選択肢なのかもしれません。

但し、正義というと聞こえが良いのですが、
家族に正義を持ち込むことは間違いだと思っています。
本当にその正義は家族を幸せにするか
そういう観点で是非考えてみていただきたいと思うのです。

正義よりも、相手の感情をモチベーションにするべきです。
*2

多くの場合で正義を主張することは、
突き詰めれば自分を守ることだと思います。
私はそれを止めて
家族再生に向けて考えることの方が
ご自分の不幸も軽減されると確信しています。

いずれにしても
正しさを追及したいのか
家族再生を目指すのかは
矛盾するものです。
どちらかを選ばなければなりません。

ウォーラースタインも
人間は、子どもたちの健康や安全のためには
自分の命をなげうって子どものことを考えるけれど
離婚の場面では、
子どものことを考えず、自分のことばかり考えると書いていますが、
それは自覚しておくべきです。

子どものことを考えないで子連れ別居する妻と
子どものことを考えないで正義を貫くことは
同じことのように第三者からは感じられます。

これは、ただ知識があるだけでは
なかなか実践できることではありません。

先ほど紹介しました面会交流がうまくいっている人と私は、
この観点から何度も深刻な激論を交わしました。
その都度、私もあきらめかけるのですが、
最初の決断がしっかりしているしお人柄もあるのでしょう、
ギリギリのところから巻き返して
相手との関係では見事にご自分を抑えきりました。
今彼は幸せを実感しています。

自分を棄て、
自分を含めた家族をやり直そうと考えると
見えてくることがたくさんあります。

一緒に住んでいた時の
相手の心細さや
自分に対するギリギリの気遣い
自分の相手の気持ちを無視した行動等
それが分かっていれば
もう少し自分の行動を修正しようと思ったということですし、

無理に相手を変えようとしたところに問題があったのかもしれない
ということなのです。

こういうと、男ばかり損をする、不公平だと
いう人が出てきます。
それも分かるのですが、
女性は出産という不公平を抱えているわけです。

だいたい、子どもが生まれる前は円満な夫婦でも
子どもが生まれた後にぎくしゃくが始まるものです。
2人きりなら自分を棄てて相手をたてるということは
自然にやっています。

しかし、子どもが生まれると
庇う相手が増えてしまうことで、
子どものためにという理屈で妻に意見をすることが始まります。

これは妻側もそうです。
出産に伴って女性のホルモンバランスが乱高下することにより
意味もなく不安を感じる傾向になってしまうこともあって
自分と子どもを守ろうとして攻撃的になる
という傾向になることは仕方がなく出てきます。

その傾向をちょうどよい具合に加減することなんて
そもそも不可能です。
だから妻が変わったと言っても、
実際は命より大切なわが子を産んでくれた結果
そうなっただけで、
妻には責任がないことなのかもしれないのです。

もし、面会交流が実現して
お子さんがあなたと会うと嬉しそうな顔をしたり
恥ずかしそうな顔をする場合は、
妻は、お子さんにあなたの悪口を言っていないということです。
また、面会交流の実施は
それなりに負担ですけれど、
子どもを連れてくることも嫌でできない
というような状態ではないかも知れません。

こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、
感謝の気持ちをもって
無視されても、それを相手の背中に聞かせるつもりで
言葉に出すことをお勧めします。

それにもかかわらず
調停で、妻の代理人からああいわれたこういわれたと
怒って反撃していたのでは
うまくいくはずのものもうまくゆかなくなります。

チャンスを見落としてしまうわけです。

怒りは代理人に任せることが得策でしょう。
最上の策は相手にしないことです。

最後に
妻が怖がる攻撃は自分に対する攻撃だけではありません。
妻の代理人に対する攻撃
裁判所に対する攻撃
行政や支援者に対する攻撃
それらすべてのあなたの攻撃感情、攻撃言動が
妻を怖がらせ、あなたから遠ざかろうとする原因になります。

そもそも妻は常に不安な状態があるから
子連れ別居などという過激な行動をしてしまうわけです。
過剰に安心できない状態になっています。

あなたが攻撃的行動をとっていれば
自分に向かうという考えがなくても
同居時の事情を思い出したりすることもあるでしょう。
ただ、攻撃的環境に自分をおきたくないということもあるでしょう。

SNSで近況をアップされること自体に
不安を感じる母親もたくさんいます。
不安を感じてはいけない、間違っている
ということを言っても始まらないのです。

北風からマントを守ろうとした旅人のように
益々自分を守ろうとするだけです。
*3


家族再生をしたいのか、
自分の感情を優先するのか
後々後悔しないために、
あるいは、ここをゼロポイントとして
現状の改善を目指すならば
それをはっきり自覚し、
それに矛盾した行為はしないということを
徹底しなければなりません。


*1 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 忘れさせられた日本のこころといさかいの真の原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-03-02

*2正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-02-18

*3 北風と太陽の本当の意味、あるいは他人に対する優しさと厳しさの具体的意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-18


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保護命令の事件の相談を受けた弁護士の先生方へ [家事]


1 はじめに

偶然にも保護命令の事件を何件か担当するようになりました。
その経験の中から
保護命令の運用手続きが
私たちの知っている法体系から
かなり逸脱した法制度になっていることを強く感じています。

その中で冤罪とも言うべき決定が多く出され、
多くの人間が、
子どもや家族と会ったり連絡を取ったりすることさえも
1年以下の懲役又は100万円以下の刑罰の威嚇のもと
国家権力によって禁じられ、
精神を破綻させている実情があります。

保護命令は、
配偶者の生命身体に重大な危険がある場合に限定されているはずですが
実際の運用では、
そのような危険がない場合にも保護命令が出されています。
その手続きの中で、当事者は一人での対応を余儀なくされ、
弁護士を選任する権利を実質的奪われています。

2 普通郵便での期日直前の連絡という運用

先ず、保護命令申立事件は、
迅速な処理が要請されていることから
運用上は、申立がなされてから1週間以内に
謄本を相手方に発送するようですし、
謄本発送から1週間以内に
当時者審尋期日が入れられているようです。
通常事件の答弁書に当たる当事者意見書は
その前日までに提出をしなければなりません。

しかも迅速性を理由に、
書留郵便での送達をせずに、
普通郵便で郵送されますから、
実際に相手方が謄本を見るのが、
発送から3日後ということもあるようです。

そうすると、水曜日に裁判所から発送したものが、
金曜日の夕方に到着すると
弁護士を依頼するのがどうしても月曜日以降になってしまい、
反論書の提出が翌日ということになりかねません。

保護命令決定を受けた後で離婚調停になったときに
相談に来る人があまりにも多すぎるのですが、
それは、本人の油断ではなく、
そもそもそのように本人が十分に対応できないような
運用がなされているということが
実態に即した理由であるようです。

3 弁護士の初動 申立書の主張の吟味

弁護士が最初に行わなければならないことは、
申立書記載の事実が要件事実の求めている内容で記載されているか
という点の吟味です。

保護命令申立書は
シェルターや役所に用紙が備え置かれており、
アンケートに答える形で記載するようになっています。
ですから、実際は申立人本人が手書きで記載していることが多くあります。

保護命令を出す要件ですが、
①過去に暴力や生命に関する脅迫があったこと
②その後の事情で、今後さらに
 申立人の身体・生命に関して重大な危険があると言えること
ということになります。

しかし、実際に保護命令が決定された申立書を見ても、
そのような事情が記載されていないことが多く、
相手方が申立人の居所を探しているような事情だけが記載されていることが
多くあります。

保護命令の申立代理人や女性支援者は
女性を夫等から遠ざけることが
保護命令の目的や機能だと思っていて
身体生命の重大な危険を予防するという
高いハードルを意識していないことが多いようです。

また、自分に暴力を振るわない夫でも
児童虐待をしていることを(もちろん誇張して)
主張して保護命令の理由としていることもあります。

先ず、真実の法律要件に立ち返って、
申立人の主張が真実だとしても
要件事実の主張になっていない場合は、
それをきちんと主張することが第一になります。

主張自体失当の申立が極めて多く
それでも保護命令は決定されることが多いようです。

4 申立書主張の吟味2 真実性、信用性

申立書は何かを書かないと埋まりません。
申立人は言われるままに埋めていきます。
ニュースソースを明かせませんが、
書き方の指導を受けることもあるようです。

本当は危険でもないことが
いかにも危険なように記載されることがあります。

例えば、本当は
植木にはさみを入れようとして
盆栽を探して、小言を言っていただけなのに、
植木ばさみをもって追い掛け回された
というように誇張されることが実際ありました。

なぜそれ誇張だと言い切れるかというと、
申立人本人は、事実と違うことを言っているので、
自分の言ったことを忘れていたからです。
後の離婚訴訟等で、
妻ご本人がそのような事実はないと断言されていました。

相手方は、特に自分の能力に自信のある男性は、
申立人の主張を論破しようとしてしまいます。
結論はどちらかなのかを言わず、
ありえないということを自分なりに説明しようとしています。

先ず、あったのか、なかったのか
誇張されているなら真実はどのようなものだったのか、
結論を聞き出すまでに時間がかかることがあります。

事実を争うとなった場合、
次に何らかの証拠があるかどうか
間接事実しかないことが通常ですが、
その直後に家族仲良く笑顔で写真に納まっている
等の証拠があることが結構多くあります。

ここでも単なる暴力の有無ではなく、
申立人の生命・身体に「重大な」危険のある場合だ
ということを常に意識しておく必要があるようです。

5 具体的危険犯の主張をしましょう

けっこうこの「重大な危険」を抽象的にとらえて、
離婚調停が申し立てられたこと
子どもを連れて別居したこと
連絡先を明かさない事
等が
紛争が存在していることをもって
重大な危険があると
裁判所が認定してしまうことがあります。

しかし、平成14年の東京高裁のように
3月29日決定(判例タイムズ1141号267頁)

本来具体的に重大な危険がなければ発令できない保護命令ですから、
抽象的危険では足りず具体的危険が必要だという主張をすることが
効果的であるようです。
冤罪で受ける相手方の不利益を丹念に主張するべきでしょう。

事実認定をフリーハンドでさせない努力が必要だと思います。
穏当な調停手続きを履践していることをもって
暴力の危険があるという事実認定をしてしまったら
調停を含めた裁判制度の否定になると思います。

6 当事者の状態に対するご理解を

当事者の多くは、ある日帰宅したら
荷物も、家族もいなくなってしまったということで
先ず呆然としています。
中には、警察官が立ち合いで荷物を引き上げるということさえあります。
相手の実家に行ったら警察官10名から取り囲まれた
という事案もありました。

いずれも暴力がない事案です。
警察官に抗議をしたところ
暴力がなくてもDVだとの返事があり、
いわゆるDV法が、
身体的暴力がある場合にだけ警察が法定の支援措置をとることができる
という法律も警察庁の通達も
まるで分っていないことが実情です。

暴力をふるっていない夫は、
このような自分の力ではどうすることもできない
理不尽な思いをしています。
子どもにも会えない状態が続いていることも多く、
その喪失感、屈辱感はとても強いものがあります。

自分を守ろうとすることが
こういう場合、人間の当たり前の心理状態になっています。
中には鬱状態を呈している人もいます。

きちんとしたカウンセラーや医師を紹介する
ことが必要な場合も多くあります。

ストレートに質問に答えず
まず自分を守る言い訳ばかりが出てくることも多くあります。
できるだけ丁寧に何をするべきかを説明してください。

なぜか、それなりに能力の高い人たちが
冤罪保護命令の被害者になることが多いので、
一度こつを呑み込めば頼もしい依頼者になります。

7 プラスの事実の掘り出し

暴力を振るわない事情を掘り出すことも有効のようです。
どんなに追い込まれても感情的にならず、
口論しても手を出すことはなかった
ということは、法の要件を考えた時には
とても良い前例となるようです。

家族思いのことを
申立人側は子どもに執着する性質だと
独自の保護命令の目的に基づいて主張してきますが、
冷静に反論していきましょう。

法律制度に則った解決をしようとしていることは
とても重大な良い事情となるようです。

未だに行政はレノア・ウォーカーの
DVサイクルを言い出して
いい時期があってもそれはDVにつきものだと
主張しているようです。

しかしレノアウォーカーは、
自己の施療体験を述べているにすぎず
科学的に論証されたものではないという評価が定まっています。
良い事情は、どんどん提出した方がよさそうです。

8 自主的な行動抑制

どうしても裁判官は、
夫の妻子に対しての接触を嫌う傾向の方が多いようです。
それにしても法律要件を欠くのだから
保護命令を出してはダメなのですが、
実質的に接触避けるために
危険という抽象的概念を活用して
危険を認定してしまうことが多くあります。

相手方の方から自主的に
離婚調停等が継続している際には
近づかない、用事があるときは代理人を通して行う
ということを誓約することが効果的です。

それでも国家から刑罰の威嚇によって遠ざけられるより
とてもマシです。
また、妻側の一番の興奮ポイントは
子どもを連れて別居したことを
夫が非難してくるだろうということで、
そこに対して過敏になっています。

そのことを許す、理解するという夫の態度は
妻の緊張をだいぶ緩和させるようです。

実際に夫が近づいただけでパニックになることが多いので、
面会や連絡はしばらく遠慮した方が
将来の家族再生にはむしろ有効のようです。

実際の事例では、
申立人が裁判官からの勧告で取り下げたにもかかわらず
取り下げた理由として相手方の自主規制の誓約をあげて来ました。
けっこう威力がある主張のようです。

9 憲法論をきちっと書く
 
これまで述べてきたような民事訴訟法の規定の内
被告の防御権を軽視するような法手続きや運用は
意見書の中できちっと主張するべきだと思います。
分かる裁判官にはわかるでしょうし、
これは、いい加減な決定を出したら
抗告は当然するし、憲法論で最高裁まで争うぞ
という気構えを示すことにもなります。
その際、冤罪保護命令が出された人の
家族を失う喪失感や
子どもの親としてのコミュニティーの中で
暴力人間のレッテルを張られること等
保護の必要性もあり、
その保護の必要性と女性保護の迅速性の調和として
保護命令手続があるのだから
条文を超えて相手方の防御権を害することについては
きっちり問題の所在として示す必要があると思います。


10 冤罪保護命令と戦うことは誰を守るのか

第1に子どもがいる場合は子どもを守ることになります。
考えても見てください。
子どもから見た場合、
自分の父親が、自分の母親に暴力をふるい
身体生命に重大な危険を与える可能性があるとして
裁判所で刑罰の威嚇をもって近づくなと命令された
ということを
後々まで引きずるわけです。

実際に、夫に対して自宅付近を歩いてもいけない
という保護命令も出されたことがあります。
そんな無茶な保護命令を
自分の実の父親が受けたということになると

親に対しての像が悪くなるばかりではなく、
思春期の自我の目覚めるころ、
自分はそのようなDV者の血をひく存在であると
意識せざるを得なくなるのです。

優しかった父親の記憶は喪失し、
叱られた時の記憶だけが父親の記憶になってしまいます。
父親から愛されたことの無い自分という意識は
自己評価の低下を招くことになると思います。

それが冤罪であったならば
取り返しのつかないことになります。

もう一人、申立人である妻本人にとっても
保護命令が出されることは精神的に悪影響があります。

冤罪保護命令が出されるときの多くは、
妻側が何らかの不安を抱えている時です。
理由がある不安の場合もありますが、
理由のない不安を抱えている場合も多く確認されています。
産後うつやパニック障害等の精神疾患、
精神的状態を悪化させる内科疾患や薬の副作用

妻が不安を抱えていれば
夫の虐待があるとのマニュアルに基づいて
「あなたは悪くない」一辺倒の支援が多くあります。

このような支援を受けた女性の中には、
相談をするたびに自分の夫がひどい人だと言われるたびに
精神状態が悪化していったと言う人がいます。

自分は夫という最も身近な存在から
何も理由もなく攻撃をされるような人間なのだ
という意識が固定化され
精神的に落ち込んでいくようです。

不安や焦燥感のすべてが夫に原因があると思いこみ、
とにかく逃げなければ命が危ない
と言われ続け、嫌悪感が恐怖に育っていったと話してくれました。

実際の公文書でも
妻がクリスマスや年末年始だけでも
夫を入れた家族で暮らしたいといったところ、
2時間かけて逃げることを自分が説得したと
警察官が報告しています。

その事例は妻の妄想だったということが
後の保護手続き却下の決定の中で認定されています。

保護命令を受けて逃げ続けると
妻は、いつまでもいつまでも夫が自分を探しに来る
という恐怖を抱き続けることになります。

「近くにおいでの際はお立ち寄りください」
というハガキが届いただけで
警察駆けこんだ元妻は、別居から12年が経っていました。

実は冤罪保護命令を阻止することでもっとも救われる人間は
申立本人なのかもしれません。

11 余事記載

刑事事件で無罪判決をとることや
再審無罪とすることは
弁護士の本懐のように言われています。
冤罪を防ぐことが弁護士の第1の役割であるということは
おそらく共通認識だと思います。

刑事事件は、手厚い刑事訴訟法や当番弁護士、国選弁護人によって
手厚く被告人の利益が守られています。
ところが保護命令はこのような手続き保障がなされておらず、
極めて脆弱な状態です。
冒頭述べた準備期間や実質的弁護人選任権もありますが、
口頭弁論が開かれないことが多いために決定に理由が付されません。
事後的な手続き保障も脆弱です。

私は、どうしてこのような制度が
弁護士や弁護士会から容認されているのか
不思議でたまりません。
構造的に冤罪が生まれる教科書のような制度です。

女性保護だからでしょうか。
女性保護の場合冤罪は仕方がないというのでしょうか。

それならば
犯罪被害者保護のために冤罪も仕方がないと
その先生方は言うのでしょうか。

保護命令事件は、時間がないということもありますが
受任を拒否する弁護士もいるようです。

比較的古くなった私としては
保護命令を取り巻く環境が
どうしても理解できません。

このように、社会から孤立する人を弁護することが
弁護士の本懐だということが
嫌悪の的になるような弁護士界の現状は、
司法の危機ではないかと
余計なことを考えています。

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冤罪保護命令から人権を守るために当事者が知っておくべきこと [家事]

1 保護命令の阻止という目的意識を持つこと

先ず何よりも、
冤罪であれば保護命令を裁判所に出させない
ということです。

夫婦は普通、多少の小競り合いがありますから、
自分は保護命令を出されても仕方がないと思うかもしれません。
できれば早急に弁護士に確認をした方が良いと思います。

保護命令の最大の被害者は子どもたちです。
このことについては、いずれ別の機会にお話しします。
また、申立人自身のあなたへの恐怖、嫌悪感が固定化されてしまいます。

2 保護命令は、何もしなければ決定が出ると思うべし

冤罪保護命令でよくある誤りは
申立書に書いてあることが嘘だったり
きわめて誇張されていたりして
荒唐無稽なことばかり書いてあるから
こんないいかげんなことで
重大な保護命令が出るわけがない
として、きちんと対応しないことです。

しかし、実際はそれで保護命令は出ています。
保護命令が出ると、その過酷さは甚大で、
多くの人たちが精神科治療を必要とする状態になっています。

3 自分は動揺していると自覚しなくても決めつけるべし

突然家のポストに地方裁判所から大きな封筒が入っています。
なんとなく開けてみると
あなたの奥さんが裁判所に保護命令を申し立てて
この決定が出れば、あなたは
奥さんや子どもたちに面会することも、連絡を通ることを
近くを通りがかることさえも禁止され
違反すれば懲役1年また100万円以下の罰金
という前科者になるということなので、
冷静でいられる人はいません。

パニックになることが通常で、それによって
動揺して見当違いのことを始めたり、
逆上して警察沙汰になったり、
あとで後悔することが多くあります。

必ず誰か、あなたのことを考える人に相談するべきです。

4 できれば弁護士に頼むべし

弁護士を頼まないで自分で作った反論書は、
書かない方がよいような自分に不利な内容になっていることが多いです。
自分の感情を制御できないということを
自分で示しているようなものです。
普通の人間ならそうなってしまいます。

第三者が冷静に記載することだけでも大分違います。
また、何を言うべきかということも
法律を知らなければわかりません。
必要なことを書かないで見当違いのことばかり力を入れることは、
プラスにならないどころかマイナスにしかなりません。

しかし、保護命令の反論書の締め切りまでは、
通常時間が数日しかありません。
弁護士に知り合いがいないことが通常ですから
あきらめてしまいがちになりますが、
ここが頑張りどころです。

インターネットで検索したり、
知り合いにも協力してもらって
力になってくれそうな弁護士を探しましょう。

弁護士が引き受けてくれそうだということになれば、
出会ってから結婚して、現在に至るまでの経過表
A4版で、1,2枚でよいでしょう
これを作って持っていってください。

もう一つ、
申立書に記載された事実が正しいか間違っているか
誇張されている場合は、真実はどうなのか
それだけを書いたメモを弁護士に渡せるように準備しましょう。

ここで一番まずいのは理由から書くことです。
こんなことが起こるはずがないという証明を書いてしまう
自分に自信のある人が多すぎるように思います。

あなたは事実を体験しているのですから
あったか無かったか、真実はどうか
という結論を書かなくてはなりません。

このブログの一つ前の記事をあなたが依頼する弁護士さんに
プリントアウトして渡してください。
ちゃんとした弁護士なら、
自分が何をしなければならないか
直ちに理解することでしょう。

5 裁判所の審尋期日の心構え

とにかく一人で行かない事。
裁判所は完全アウエイですし、
とんでもないことが決まりそうになっているのですから
興奮を抑えることはなかなか難しいです。

しかし、嘘でもよいから冷静にしなければなりません。

暴力をふるう人間をどう見抜くか
裁判所で暴力をふるう人は滅多にいません。
裁判所では、
自分の感情を抑えているかどうかで判断されがちです。
自分の感情を抑えられない人は暴力をふるう
という風に考えてしまいます。

だから、
大声をあげない事、
質問を否定する時は、ゆっくりと考えてから話すこと、
裁判官の質問を遮らない事、
質問の意味が分からなければ弁護士に尋ねること
常に敬語を使うこと
身振り手振りは極力抑えること
膝においているこぶしに力を入れない事

つまり
普通にふるまえばよいのですが、
こういうことは意識しないと
普通ではいられないということを心がけましょう。

自分を守ろうとしない事、これが大事です。
自分ではなく、
子どもたちや家族を守るという視点が必要です。
自分を守ろうとすると
言い訳をしてしまいます。
言い訳をしようとすると
それを言うべきなのか、どのように言うべきなのか
ということを冷静に判断できません。

6 とにかく真実が何かを語りつくす

もしかすると
裁判所は申立人の話を鵜呑みにして
間違った判断をするかもしれません。

それでも、この手続きの中で
あなたが真実を語りつくすことは
あなたの家族にとって必要なことです。

自分自身を守ろうとするのではなく
子どもや家族を守ろうとする姿を示す
それができれば、結果はついてくるかもしれません。

追記

仮に保護命令の要件がないという場合でも
妻は、本当に夫を怖がっている、嫌悪している場合があります。
とても不条理なことですが、
しばらくそっとしておくことが必要な場合が多くあります。
保護命令が出なくても
自分は妻の行動を直ちに規制するつもりはなく
自主的に連絡もしない
ということを先行して述べることも
効果的です。

逆説的な話かもしれませんが、
それが家族再生の早道になることは多くあります。

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