So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

【短いですよ】人権は人間の権利ではないこと 人権という言葉は本当は適当ではなく、「人間としての当たり前」、あるいは「人間である権利」とするべきであること [事務所生活]


明日、某官庁の研修会で人権について語ってきます。
そこでは、人権は人間の権利だと説明して
わかりやすくお話しする予定だったのですが、

しかしこれはやはり不正確ではないかと
今日になって考えているのです。
権利というと、例えばお金を請求する権利や
サービスを受ける権利も権利で、
これは人権ではないと感覚的に思います。

普通の権利と人権としての権利と違うわけです。
しかし、同じ権利の権の字が使われているので、
普通の権利は、国によって実現するものという縛りがありますから、
どうしても人権とは、
国の認めたもの、六法に載っているもの、
裁判所が認めたもの
だから人権かそうではないかは知識が必要だと考えてしまう
その原因というか問題の所在があるように思われるのです。

いやここまで読む人もあまりいらっしゃらないほど
人権という言葉はかたすぎるのです。
もういいや移動しようと思っていることと思います。
賢明かもしれません。

しかし、英語などでは human rights
ですから、直訳すると人権なのです。

このライツが曲者で、
これを「権利」と訳したのは、何度か取り上げた西周なのでしょう。
しかし、このライツ、辞書で見ると
正義、筋道、正当等という語感があるということですから、
日本語的には、「理」という立派な言葉があったわけです。
だから、本来は、人権と訳さず、
「人理」という言葉を使えば良かったのです。
人権委員会ではなく、人理委員会
画数も少し減ります。

ただ、これもわかりにくいので、
正当というか、あるべき姿というか、当たり前
という言葉に置き換えて、
人権としては人間としての当たり前
と説明することが分かりやすくなるはずです。

例えば
「生まれながらの髪を黒く染めろ」という校則は
人権侵害だというよりも
人間としての当たり前を侵害している
という方が「ああそうだね」と
納得しやすいのではないでしょうか。

あるいは、
「それは人間性を害しているとまでは言えないと思うな」
と議論にはなるでしょう。

「人権侵害だ」、「・・・」、「人権侵害ではない」、「・・・」
というよりは
納得しながら議論できるとは思いませんか。

もう一つ、human rights なのですが、
これが rights of humanではないことに着目する
というのも一つの解決方法かもしれません。

つまり「人間の権利」という訳は間違いで、
「人間である権利」という訳が正当かもしれないということなのです。

そうするとですね、
生まれながらの髪の毛を黒く染めろといわれることは、
人間であることを否定された
いや人間であることまでは否定されていない
と議論になりますね。
つまり、人間としての当たり前がどこにあるか
という議論と同じになるように思うのです。

いずれにしてももやもやは残ります。
それは、「人間が人間として扱われること」
とはどういうことかという
一人一人の人間観に違いがあるからなのだと思います。

何が人間として扱われるべきことか
これは、人間として扱われていないという人の
話に耳を傾けて理解しようとしなければ
わからないことです。

権利が生まれる時は
当事者が声をあげて、それ多くの人が聞きいれる時だといわれるのは、
こう考えていくと論理的なのだと思いました。

お話しの予定のダイジェスト版は
対人関係学のページあります
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/moral.html
の中の
「差別を受けない権利 人権とは人間として当たり前の状態ということ 憲法14条」
nice!(0)  コメント(0) 

3歳児神話は、神話ではない。聞こえが良い主張には警戒するべきだということ。 [家事]


「3歳児神話」という言葉自体があいまいなのですが、
国や医学会では、きちんと意味を定めて使っています。

問題は、一般向けの記事等で、
大学教授や専門家を名乗る人たちが、
3歳児神話があるために女性が社会進出を妨げられている
と主張するときの3歳児神話は
敢えて意味をぼかして使っているということなのです。

3歳児神話という誰が主張しているかわからない
仮想理論を叩くことによって、
母親を、就労という形での限定された社会参加がしやすいような
社会心理的な環境を作ることが目的となっているようです。

否定論者は、本来、
子どもの健全な成長という利益と
母親の社会参加という利益の対立を
どのように調整するかという議論を立てるべきなのに、
3歳児神話というあいまいな概念をたてて
子ども健全な成長という利益を
黒く塗りつぶして見えなくしています。

先日も、ある大学の学部長に語らせていました。
議論の特徴は
何ら科学的ではないでたらめな論調
というところにあります。

早期に子供を親から話すことは
日本の伝統を引き継ぐ天皇家でも行われている
だから、早く親から話した方がよい
と本当に言っているのです。

そもそもこれは皇室や大名家の風習で、
親子の情が入ると政治に差しさわりが出るから
そのような人間的なつながりを排除するための
帝王学の考え方で行われていたものです。

その伝統に反対したのが、ほかならぬ
今上陛下の母上美智子様だということは
ほとんどの国民が知っているでしょう。
その学者の論調は
美智子様の教育方針を妨害した
おつきの女官たちを支持するものです。

また、小さい子どもたちに
働く母親の姿を見せることは有意義だ
という主張もあるのですが、
3歳未満の子供たちは、
働く母親の姿を見ることはないでしょう。
ただ自分の近くに母親がいないという体験をするだけです。

三歳児神話否定論者が目隠しをする
子どもの発達の利益ということを述べますと、
これは、戦後、ボウルビーとエインズワースの
愛着理論、アタッチメントの理論
という理論を外せません。

ボウルビーは戦災孤児の施設を回り、
幼いときに施設で育った子どもたちの
発達上の問題を調査しました。

その結果、赤ん坊は、
母親のような特定の人間の愛着を受けることによって
精神的に安定し、健全に発達していく
ということを発見しました。

この愛着とは何かというときわめて単純なことで、
身近に親を感じることです、
目で見て、声を聴いて、
抱かれることによって
皮膚の感触を知り、体温を感じ、においを感じる
そこで安心感を抱き、人間を信じ
適切な人間関係の距離を学んでいく
ということのようです。

逆にこの愛着に恵まれないで育った子は、
人間に恐怖を感じて常に疑い、警戒しているか、
媚びるように近づくことでしか人間と関われないか
という両極端のどちらかの障害を持つ場合があります。

ある時期までは、
子どもは近くに親がいることが大切ですし、
ごく初期には、それは母親になることが自然なのでしょう。

しかしある時期からは
母親だと限定する必要はなくなるようです。
ただ、いつも同じ人でなければ
愛着は形成されにくいようです。
同じ声、同じ肌触り、同じ匂いが
子どもに安心感を与えるからなのでしょう。

さて、この愛着形成など
何歳まで親がそばにいることが必要かについては
議論が必要だとは思うのですが、
それらを一切目隠しするのが
三歳児神話否定論者です。

彼らは、何を目的に無茶な議論をしているのでしょうか。

論調を見ると一目瞭然で、
「母親の就労の促進」
という一点に絞られているようです。

いくつかの疑問がわきます。
なぜ子どもの養育に価値を認めないのか、
なぜ女性の社会進出が就労限定なのか
なぜ子どもの養育が母親限定なのか、
なぜ父親の養育という観点がないのか

女性の就労を促進するとしても
なぜ男女格差の賃金の是正を主張しないのか
なぜ保育施設の量的質的拡充を主張しないのか

それにもかかわらずなぜ、母親の就労ありきなのか

これに対する選択肢としては、
家族の一人の就労で家族が豊かな気持ちで暮らす社会を目指し、
その社会では母親が就労し、父親が子育て家事をするということを選べる
そういう主張をしてもよいように思われるのです。

これを主張しない理由は暗黙の前提があるからではないか
と疑っているところです、つまり、
家事、育児の労働は、人間としての価値が低い
だから、男性がこれをやるということは初めからありえない
家事、育児は女がやるもの、
だから安っぽい家事育児にかかわる人を減らして、
生産性を向上させるためには、
母親の就労を促進することが効率的だ
というものです。

これが本当の気持ちならば著しい女性蔑視ですし、
家事、育児の価値を不当に低めるものです。
家事育児ハラスメントの真骨頂ですし、
人間性を否定してまでも生産性を向上させる
という主張です。

アメリカのフェミニストであるナンシー・フレイザーが
警告しているように、
一見女性の立場を向上させる動きのように見えて、
結果的にグローバリズムの新自由主義の召使になっている危険性
を意識する必要があるでしょう。

いくつかの3歳児神話否定論者の非科学的なあいまいな議論は、
結局、良質な労働者なのに、
安価で、都合が悪ければいつでも解雇できるという特徴を持った
女性労働者を提供することが目的のようにさえ感じられます。

そのために子どもの健全な成長という利益や
人間らしく生きるという利益が
見えないように黒く塗りつぶされているのです。

もう一つ看過できないことがネットで書き込まれていました。
スェーデンの子育て事情ですが、
論者は、スェーデンでは、子どもが一歳になると
みんな保育所に入れるということで、
文脈からは子ども愛着理論を意に介さない国のように紹介されています。

しかしスェーデンは、愛着理論に理解がある国で、
子どもが3歳になるまでは、直接親が関われる制度が
整備されているのです。
木村慶子, 高橋愛子『頭がいい親の13歳からの子育て』 2002年

スェーデンは、保育など社会福祉も充実しているから
1歳で保育所に預けられるのでしょう。
日本では、無認可保育所でさえ、
抽選で外れて預けることができない人もいます。

そのような話に一切言及しないで、
親が費用と危険を負担して子ども預けなければならない日本で、
とにかく就労だけを促進するというのですから、
大変恐ろしい主張だと思います。

私は、共稼ぎの家庭で育ちましたし、
自分たち自身が共稼ぎです。
そういう環境しかわかりませんし、
その環境自体に問題も感じていません。

問題は、本来家庭の自由であるはずの
誰が働くか、誰が家事育児をするかということが
暗黙の前提の下で誰かから強く誘導されているということ、
男は外で働かなくてはならず、
家事育児は、男が従事する価値がない
男が働くことは前提で、女も企業で働かなければならない
というように
自由に自分たちの生き方を選ぶことができなくなっているということです。

もっともらしい主張は、きちんとその誤りをみつけ、
否定することが人間性を守るために必要である
そんな危険な社会になっているのではないでしょうか。

nice!(0)  コメント(0) 

【勝手に解説&ネタばれ】角田光代「坂の途中の家」結果的に思い込みDVを描いた傑作 妻ある人全員にお勧め。 [家事]


<場面設定>

「刑事裁判の補充裁判員になった里沙子は、子供を殺した母親をめぐる証言にふれるうち、彼女の境遇に自らを重ねていくのだった―。社会を震撼させた乳幼児の虐待死事件と“家族”であることの光と闇に迫る、感情移入度100パーセントの心理サスペンス。」
と紹介されています。

この刑事裁判では、
子どもを殺した母親水穂が、
追い詰められた上でわけわからなくなり、
気が付いたら赤ちゃんが浴槽で溺死していた
という弁護側の主張と

ブランド志向のわがままな女が、
子どもが邪魔になったので殺した
という検察の主張が対立して進んでいきます。

つまり殺意の内容をめぐって
追い詰められていたのか、追い詰められてはいなかったのか
ということを争点に裁判が進行していきます。

補充裁判員になった主人公は、
子どもを産んだ母親が追い詰められていく心理を
他の裁判員たちが理解しないことに焦りを感じながら、
自分の子育てや夫婦の会話を振り返りはじめます。

そして、少しずつ、
自分も水穂被告と同じように
追い詰められていたことに「気づき」出すのです。

特段意味のなかった主人公と夫の会話に、
夫の蔑みというか、自分を一段低く見ている発言に
「気づき」だすわけです。
そしてそれは夫の自分に対する憎悪があるからだ
と解釈をします。

ここまでが第一段です。

<夫の言葉が自分を否定していると感じるように変化>

主人公は、この裁判員裁判が始まるまでは、
自分の生活の不満を自覚してはいません。
3歳の娘のイヤイヤ期には手を焼いていますが、
夫には特別な不満もなく生活していました。

もともとは、夫の言葉
「裁判員が辛いなら自分(夫)から辞退の電話をかけようか」とか
「ビールばかり飲んでいたらアルコール依存症になるよ」とかを
日常の会話として受け止めていたはずです。

それが、主人公の心の中で、
自分は夫から裁判員裁判をする能力がないと決めつけられた
アルコール依存症だと決めつけられた
さらにさかのぼって
主人公が選んだ結婚式の引き出物を否定したこと、
友達に紹介しようとしたとき声を荒げて拒否されたこと、
娘に対する対応など
全て自分を否定する言動だったと考えると
筋が通ると思うようになっていきます。

そして、それを感じていた自分は
無意識に夫の顔色を窺ってばかりいて、
「常識がない」とか、「そんなことも分からないのか」とか
そういう言葉を言われないために
びくびくして生活していたということに「気付き」ます。
夫が怖くなっていくのです。

このあたり、作家はとても巧みで、
とてもリアルな表現になっています。
出来事に関してはできるだけニュートラルに記述されているので、
主人公の心情の変化が逆に強く印象付けられます。

<変化の理由>

どうして主人公の、特に夫に対する
心情の変化が起きたのでしょう。

この心情の変化こそが、
思い込みDVの実態です。

この変化の理由は、簡単ではありません。
多くの事情が、複雑に絡み合っています。

1)出産に伴う生理的変化

この小説が世に出たころは、脳科学の発見がまだないのですが、
その後、出産に伴って母親の脳は、
新生児に共鳴、共感しやすく変化するため、
大人、特に男性の心に共感しにくくなるという発見がなされました。

この脳機能の変化のため、夫が何を考えているのかわからなくなり、
自分が支持されているという実感もなくなり、
自分は、家の中で孤立していると感じ易くなるようです。

小説の中にも表現されていましたが、
がっしりとした体格の声のでかい男が家にいることだけで
恐怖を感じるようになってしまうというのです。

2)孤立婚の中での夫に対する過剰な依存

今の世の中は、
夫婦は孤立しているので、
心理的に、夫に依存してしまう傾向がどうしてもあります。
「夫が自分を見限ったらこの世の終わりだ」
極端に言えば、そのような恐怖を
無自覚に抱いてしまいがちになるようです。

だから、夫が怖いというのは
暴力や暴言に身の危険を感じるという以上に、
自分に対する否定評価によって、
離婚を言いだされるのではないか、つまり、
強烈な対人関係的な危機を感じている
という表現が正確なのでしょう。

見限られるというのは、
夫が自分とは別の群れに移動するということです。
自分だけが取り残されるという心配がおきるわけです。

3)夫の実家

主人公は、裁判員裁判の日は、
子どもを夫の両親に預けます。
そこで、夫と夫の家族のチームワークに接することが
いやでも毎日のように起こります。

夫が自分よりも
夫の両親の関係の方を大事にしているような感覚になりますし、
家に帰るのをぐずる娘までも
夫の両親のチームに移動して自分が孤立するのではないかという
自覚できない不安も
主人公をイライラさせる要因になっていると思います。

4)社会的孤立

特に仕事をしていて、出産とともにやめた母親は
社会的にも、自分が孤立していると感じることがあるようです。
それでも育児は休めない。
これでは、自分だけ損をしているという
そういう気持になっていくでしょう。
あたかも自分だけが、子どもの召使になったような気がする
という声を聴くこともあります。

このあたりの事情を
作者はリアルに織り込んでゆきます。

<主人公の考察、夫婦は対等か>

主人公は、被告人水穂と自分を重ね合わせるようになり、
被告人水穂が追い込まれていったことに共感を抱き始めます。
しかし、他の裁判員や裁判官が理解をみせないために、
主人公は焦りを感じていきます。
主人公の苛立ちにに共感を示している自分にも
気づかされるところです。

そして、夫がおしめを汚した娘を
主人公に押し付けるエピソードが絶妙なタイミングで挟み込まれます。

主人公は、このような自分の状態に照らして、
「夫婦という関係は対等なのか」
つまり、初めから妻はハンディキャップがあるのではないか
ということを考えるようになります。

夫婦の対等の意味とは何かという考えに進みます。
この主人公の思考の変化は圧巻でした。

自分の思い通りいかなかったこと
住居や収入、生活の様子など
全てが不平等な態度に終始する夫に
自分が何も言えなかったから
夫から見限られたくなかったからだ
というように感じていくさまが描かれています。

夫の何気ない一言や態度等が
自分を追い込んでいったと考えていくのです。

こんな時
もっともらしい権威のある人から
「それは夫のあなたに対する精神的虐待です。」
等と宣言されてしまったら、
「ああ、やっぱりそうだったんだ」
と思考が固定化されてしまうことを
手に取るように理解できるようになるでしょう。

<主人公の2回目の変化>

作者の角田さんの真骨頂は
母と娘の葛藤です。
もっと突っ込んで言えば、
母に精神的に支配されていると感じている
娘の葛藤ということでしょうか。
このテーマで数々の傑作が生みだされています。

この小説では、この点がメインテーマではなく
背景事情となっているようですが、
母親に対する葛藤が重要なきっかけとなって描かれています。

主人公は、夫だけでなく、
母親からも否定されていたと思い当たります。
結局母親は自分に対して優位性を示したかったと整理します。
子どものころはなんでも子ども中心に優しかった母親だけに、
その後の干渉がより強い心理的負担になっていたようです。

ただ、愛された記憶から、
母親は自分を否定したけれど
自分を憎んでいたわけではないということにも思い当たります。
もしかしたら、夫も、
自分を憎んでいるから否定したのではなく、
そのようにしか愛することができない人なのだ、
自分はそんな人の愛を求めていたのだ
という風に考えが変化します。

これは大きな変化だと思います。

孤立婚のために夫にだけ依存していて
夫を絶対化してしまっていたところから解放された
というようにも感じられます。

<裁判と主人公の共通する問題点>

裁判員裁判では、
主人公は、最後の最後で
自分の主張をまとめることができました。
とても説得力がある主張だと思います。

判決でもその考えが一部受け入れられるのですが、
実際の裁判ではなかなかこうはいかないのではないか
と思えてしまいます。

夫が被告人水穂を追い込んだ
ということには、
夫の言動がすべて微妙すぎるからです。

主人公の考えと
裁判での弁護団の考えには共通項があります。
それは、
「母親が心理的に追い込まれているのだから
追い込んだ人物がいるはずだ。」
それは夫だ。
という誤った前提です。
これが思い込みDVを産み出す要因でもあります。

母親が追い込まれる原因は、前述のとおり
出産に伴う脳機能の変化、ホルモンバランスの変化によって、
孤立婚の中での夫に対するそれまでの依存傾向との矛盾が現れ、
自分の孤立した育児の疲労と相まって
追い込まれていくという
そういう事情は確かにあるはずなのです。

だから、夫の言動だけから妻が追い込まれた
という流れで説明しようとすると
どうしても、微妙なニュアンスと論理を超えた共感を求める
そういうことになってしまうわけです。
これが実際の思い込みDVです。

<夫の責任>

それでは、夫には、
妻が追い込まれた原因は全くないのか
という問題がでてくることでしょう。

現時点では、
夫が悪いとは言い切れないが
夫に原因がないとも言えないのではないか
というあいまいな感想を持っています。

つまり、
夫には、妻を追い込まないために
できることがあったということです。
妻のデリケートなメンタルを理解し、
ダメ出しを極限まで控えて
妻の考えを尊重する。

妻が失敗しても、
「いいからいいから」
と責めない、批判しない、笑わない。
特に子どもの前では妻を立てる。

それでも、妻は
夫のフォローを嫌みだと思うかもしれないのです。

この逆、
些細なことでダメ出しをして
妻の判断を否定する、
不十分な点を責める
あれこれと指図する
ということをしない
それだけでもせめて行うべきだったのです。
私自身の悔恨を込めてそう考えます。

こちらが悪くなくても
妻は苦しんでいる
ということから出発するべきだったのです。

<主人公のその後>

当初は、この主人公と夫は
うまくいかなくなるのではないかと
そんな心配をしていました。

しかし、この点も作者は見事なのですが、
その後のことはもちろん書かない
しかし、
主人公の考えと違って、
復職を後押しする夫の発言があって
自分の考えが正しいのかどうか
揺らいでいる心情が織り込まれます。

主人公は、
最も悪い考えの時には、
自分は夫から憎まれているのではないかと考え
次に、そんな愛し方しかできない夫だったと考えを変えました。
そして、
新たなエピソードを通じて
再び安心の記憶が刷り込まれていく
その端緒を鮮やかに切り取って描いているわけです。

一番大切なことが、
夫婦関係は
いつも今の時点から、新たに
お互いに対する安心の記憶を
積み上げていくものだ
という主張に感じられます。
大賛成です。
これまでとは、少し違う
あたらしい夫婦の関係が
主人公夫婦にも積み上げられていくような
将来を予感させて小説は終わります。

<余事記載
 気がついたら乳児ができ死していたということがありうるか>

裁判の方では、水穂被告が、
その日のことはあまり覚えていなくて
入浴させなければいけないと浴室まで来たことは覚えているが、
子どもを浴槽の水の中に落としたことについては
記憶がないと主張します。
こんなことはありうるのでしょうか。

可能性はあります。
「短期記憶障害」と言われる疾患です。

これは、強烈に感情を動かす事情があった場合に起きます。
主として、命の危険を感じるような
強い危険があったような場合です。

水穂被告には命の危険がありませんでした。

しかし、わが子が水の中に落ちたということで
子どもの命の危険に直面したこと、
自分の不注意で子どもの命を奪うかもしれない
その結果、夫や夫の親や、社会から
自分が追放されるという恐怖
これらが一気に押し寄せてきたために
今起きている出来事を記憶することが
できなくなった可能性はあると思います。

実際に短期記憶障害が起きていたかどうか客観的にはわかりません。
しかし、大部分の場合、
被告人にとって経緯を記憶していた方が
裁判上は有利になります。
どうして落としたのか
どうして助けられなかったのかが説明できれば、
その理由を説明することができるからです。

ところが、この点の記憶がないと言ってしまうと、
故意に溺死させようと投げ込んだのではないか
という疑いが強くなってしまいます。

覚えていないと言うことは勇気が必要です。
そんなことはないだろうと何度も聞かれます。
警察からも検察官からも
そして一番しつこく聞くのは弁護人です。

それでも覚えていないと言い続ける場合は
本当に覚えていないことがあるのだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

「拡大自殺」論批判 「死にたければ一人で」論争がどちらに転んでも世の中を悪くするしかない理由と理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

登戸の事件を受けて
「死にたければ一人で死ね」という
SNSでの書き込みをすることの是非が議論されている。

是ということを臆面もなく主張することについての違和感と
非とする論者の隠れたすさまじい差別意識を説明することが
本拙稿の目的である。

1 「死にたければ一人で」の隠された前提

「死にたければ一人で死ねば」
無意識の前提がある。それは、
・犯人は、一人で死にたいのに、それが嫌だから(怖いから)
誰かを巻き添えにしたいのだから「死にたいなら一人で死ねば」
・犯人は、どうせ死ぬのだから、死ぬ前に
ひとはな咲かせようと、目立とうと多数を襲撃した
・犯人は自分で死のうとしているが、死ぬにあたって
自分に冷たくした社会に復讐しようとしている
だから死にたければ一人で死ねば
ということが隠されていると思う。

無意識の前提が怖いのは、修正が利かないことと
問題の所在が隠されてしまうことで、
刺激的な、印象的な言葉だけが取りざたされてしまうことだと思う。

これらの前提自体が、まず本当にそうなのか
議論されなければならないはずだ。

2 無差別襲撃に対する理解。

一人で死にたくない論、目立とう論、復讐論
全て見当はずれの可能性が高い。
犯人が死亡しているので、真実はわからない。
おそらく犯人自身にも説明ができないだろう。

無差別襲撃の心理、追い込まれるとはどういうことかは
最近(5月30日)述べたので詳しくは繰り返さない。
「無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。」 https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-05-30

要点は、追い詰められた事情としては
絶対的孤立
家族、職場、地域その他あらゆる人間関係に仲間として帰属していない
絶望
将来にわたり、どこかの人間関係に帰属することが不可能だという認識
であり、これが起きてしまうと
人間の命に価値観を一切持てなくなり、
他人の命も、自分の命も大切なものだという感覚がなくなり、

人間だからと言って、命を奪うことに
心理的抵抗がなくなる。それをしない理由がないという状態になる。

だから、復讐心がなくてもかかわりのない他者を殺すことができるし、
自分に対する他者の評価を気にしない状態なので、
目立ちたいとも思わなくなっている。
さらには、一人で死ぬことに特に抵抗がないので、
他人を巻き込むことが自分にとって価値があるわけでもない。

おそらく、「たくさんの人間を殺すことができそうだ」
と思ったから襲撃した
とそういうことなのだと思う。

3 一人で死ねば論の幼稚性

友人同士などで、登戸事件のニュース記事を見て
死にたかったら一人で死ねばいいということを話すことについて
とやかく言うつもりはない。
情において十分理解できることである。

しかし、それがメディアに取り上げられる場合は、
不特定多数の第三者に伝わり、
差し障るヒトにも当然伝わるのだから、
デメリットを考えて話すべきことは当然だ。

自分の発言がメディアに取り上げられることを知っていながら、
「言いたいから言った」
というのは、いい大人が言うことではない。
感情を垂れ流すことを恥じないなら芸は成立しないだろう。

4 「一人で死ね」自粛論は、自死の差別を助長する

しかし、より多くの人を深刻に傷つけるのは
むしろ、「一人で死ね」の自粛を呼びかける側だ。
その結論ではなく、その結論に至る過程に大きな問題がある。

こちらも隠された前提、無自覚の前提を持っている。
言い出した藤田氏の提起を超えているようだ。

問題点を際立たせる表現をすると、
「引きこもりの人たちは、自死の危険が高く
かつ、無差別襲撃をしかねない」という前提を置き、
だから、一人で死ねということを言って
無差別襲撃に駆り立てるようなことを言ってはならない
としているのである。

藤田氏の提案にも違和感があったが、
その後に続く一部の論者の主張には嫌悪感も生まれた。

引きこもっている人たちのほとんどは 自死をしないし殺人もしない

自死する人の99%以上は殺人をしない

それにも関わらず、
引きこもりの人や自死する人、自死リスクのある人を
無差別殺人者の予備軍みたいに扱っている
という印象を受けた。
すさまじい偏見だと言わなければならない。

このような論者の共通項があった、
「拡大自殺」という書籍を引用しているのだ。
ネット上での「拡大自殺」は、
それがどうしたという内容のない議論だったので、
その危険性について私も気が付かなった。

しかし、尊敬する江川紹子氏まで
引用していることに危機感を抱いて読んでみた。
その結果、
私の感覚の正しさが裏付けられたと思う。

5 「拡大自殺」の内容

第1章 大量殺人と拡大自殺
私は読むに堪えられなかった。
決めつけと罵倒に終始していると感じたからだ。
やまゆり園事件を中心に紹介している。
事件の確定囚を自己愛性パーソナリティー障害だと決めつけ、
事件、行為について罵倒することは理解できるが、
犯人の「人格」を想像と決めつけで論難している。
そもそも自己愛性パーソナリティー障害だとする
診断上の根拠を示していない。
筆者は精神科医なのであるが、
他者を精神科医として病気だと主張する態度として
このように日常の実務が行われているならば
震撼させられる。

第2章 自爆テロと自殺願望
これは、淡々と専門家のルポを紹介している章で、
それなりに興味深かった。

第3章 警察による自殺
特にコメントはない。

第4章 親子心中
なぜか、圧倒的に事例の少ない父子心中を
週刊誌の記事をもとにして冒頭に掲げ
憶測を交えて論じたうえで
統計的に圧倒的に多い母子心中の話が展開されている。
同一化、利己的というキーワードが出るが、
私には、理解が容易ではなかった。

第5章 介護心中
事例が豊富に紹介されており興味深かった。

終章 拡大自殺の根底に潜む病理
ここの差別の理論的根拠が展開されていた。
第1章よりも読むに堪えない記述であった。

6 拡大自殺論のフロイト派の展開が差別の根源

筆者は、
「自殺願望を抱いている人がなぜ他の誰かを道づれに無理心中を図るのか」
という問題提起を立てる。
これは重大な誤りを含んでいる。
言葉だけを見ると、
「自殺願望を抱く人は、他の誰かを道連れに無理心中を図るものだ」
という隠された前提があることになるからだ。

私のこの文章を読んでいる方々の多くは、
私があげあしをとっているだけだと感じられるだろう。
しかし、そのあとの展開は、
私の指摘が正しいことが明らかになる。

ともかく、
自殺願望を抱く人のほとんどは他者を道連れにしようとしない
殺人をする人の大部分は自死しない
ということが真実である。

それにも関わらず、このような問題提起をするということは、
何も考えていないで書いているか
答えがあらかじめ用意されているための前振りにすぎないか
どちらかである。

この本では後者であった。

この後の展開ではフロイトを引用して
うつ病の患者の苦悩は
「サディズム的意向と憎悪の意向との自己満足」であり、
自殺願望とは、他者への攻撃衝動の反転したもので、
自己懲罰という回り道をとおって、
もとの対象に複数する
と述べる。

筆者は現役の精神科医であり、うつ病の治療も多く手掛けているだろう。
このような理論にのっとってうつ病患者と接し、
治療をしているということになるのだろうか。

この論理の進め方の最大の疑問は、
なぜ、この論理が正しいと考えるのかについて
何ら根拠が示されていないということである。
私には、「フロイトが言ったから正しい」としか伝わらない。
あたかも聖書に書いてあることと違うからといって
地動説を否定したようなものではないだろうか。

さらに筆者はM.ベネゼックを引用し、
「他の誰かを殺そうとする意図なしに、
自殺することはあり得ない」とまで述べ、
畳みかけて「自殺は復讐である」という図式を
無批判、根拠なしに繰り返す。

W.ブロンベルグを引用し、
他殺か自殺かは、復讐という動機の強弱にある
とまで言ってのけている。

これが現役の精神科医の文章である。

フロイトについては、私は
他の認知心理学者よりは大いに評価している。
当時、
無意識を発見したこと、
精神病理には、患者の体験が影響を与えていること
それを発見したことは
全ての認知科学に多大な功績があると思う。
対人関係学ですら
フロイトがいなかったら成立していなかったと思う。

しかし、現在では、日本以外では、
脳科学や精神医学の発展によって、
実務的影響は限定的なものになっている。

フロイトが言っているから正しいという論理は
日本以外では通用するものではない。

正直言って
フロイト派の自死に関するメカニズム理論であれば、
対人関係学の理論の方が
悠に正確で実務的であると
確信している。
対人関係学の自死に関するページ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/suicide.html

7 無差別襲撃をする人と自死者の違い

特に「拡大自殺」を引用しながら
「死にたいなら一人で死ね」というなという論者は、
自死者や、自死リスクを抱えている人間は、
無差別殺傷者の予備軍であるという主張になる。

だから、「一人で死ね」というメッセージが伝わると
無差別殺人を起こすという警告をしているのである。
 
この背景として、自殺をするようなものは
自分とは別種類の人間であり、
自分はそのような型の人間の外にいて
その人間を支援する尊い存在だという
強烈な差別意識が感じられる。

先ほど引用した私の5月30日のブログで述べた肝心なことは、
無差別事件を起こすものと
ほとんどの自死事案には大きな違いがあるということである。

無差別事件の加害者は、
あらゆる対人関係の中で孤立していて、
完全に回復については絶望し、
既に人間として生きる意欲をなくしているということだ。

これに対してほとんどの自死者は、
例えば家族を
それは現在の家族が多いが、過去の家族、未来の家族を
大切に、大切にされていたという記憶がある
例えば、友人、例えば行きずりの人でも
大切にしている対人関係があるということである。

この差は質的に全く異なる。決定的に異なる。

8 何が足りないのか。当事者の発言をくみ上げること。

どうしてこのような鼻持ちならない攻撃が横行するのか。
自分の頭で考えていないで雰囲気でものを考えているから
というのが一つある。

もう一つは、
誰かを支援するという第三者的な視点が
最大の問題であることに気が付かなければならない。

これを是正するためには当事者の発言に依拠することである。

自死未遂者の意見、
自死リスク者の意見、
そして自死遺族の意見が反映されなければならない。

これがない限りは、
自死対策は、
差別と偏見を拡大し、
自死予防とは逆行するばかりである。

このことが分かりやすく示されたことに
今回の論争の意味があったのかもしれない。

nice!(0)  コメント(0) 

必要なことは、改心ではなく、言動修正。「心は後からついてくる」 愛すべきまじめすぎる人たちへ。 [家事]

必要なことは、改心ではなく、言動修正。「心は後からついてくる」 愛すべきまじめすぎる人たちへ。

なるほどとひざを打ちました。

私の提案する
夫婦間の紛争予防
家族再生の方法について、
頭では理解できるけれど
心がついて行かないというご指摘がありました。

この部分はとても実務的なご指摘なので、
共有させていただきたいと思いました。

どうご回答するか少し悩みました。

先ず頭に思い浮かんだのは、
「そりゃあそうだよな。」
ということです。

何もなければ攻撃しないものです。
何かあって、それに悪く反応して
それが悪い意味で相乗効果となり、
引き返せなくなるのが、
人間関係の紛争です。

特に離婚問題では、
子どもと引き離されたり、
やってもいないことをやったとか
大げさに言われたりとかしています。
相手が自分に悪意を持っているとしか感じられません。
当然防衛意識に基づく反撃にふさわしい
怒りや憎悪の感情になっています。
感情的になるなというのは無理な注文です。

「では、私の主張は空理空論なのか」

自分自身で袋小路に入るところでした。
だから、最初に答えにたどり着いたときは
自分でも半信半疑なところがありましたが、
今は、堂々と言えます。

正解は、
「心はどうでもよい。
言動だけ修正すればよい。」
ということでした。

そして、これが対人関係学の
一番大事なところでした。

要は相手の気持ちが
自分といることで安心できるようにすること
一度自分といることで危険を感じるようになった相手の心に
自分といることが危険ではない
という安心感を刷り込んでいく
ということなのです。

その行動のテクニック
ということで割り切って良いと思うのです。

こころは、その人の置かれた環境を反映するもので、
生理的な反応だと割り切って考えています。
(あくまでも、紛争予防、人間関係修復の観点です)
環境を変えることで、相手の心が変化しますが、
目に見えない、感じ取れない
こちらの心の変化では
相手の心は変化しません。

私が袋小路入りそうになったのは、
「言動を修正するときに、
自分の心から修正しなければならない。」という、
意識に上らない前提を作っていたからではないか
というところに思い当たりました。

つまり、まじめすぎるのです。
無意識に、「嘘をついてはいけない」
という正義、道徳感情が入り込んでいたわけです。
これが、邪魔者なのです。

あまり紹介したくない例ですが、
これまで、子どもを連れ去られた父親で
母親への憎悪を聞くに堪えない形で語っていた
一番ひどいことばかり言っていた人は、
母親と子どもの前だけでは
母親を喜ばせることを言ったり
プレゼントを与えたりと
一番積極的に相手の心に働きかけていました。

その結果子どもたちが帰ってきました。
しかし夫婦の修復の話は聞いていません。

通常母親に弁護士が就くと
母親側対父親という図式ができてしまいますが、
母親側を分断して
気持ちの上では逆に直接対決となったようです。

私の担当した例で現在も好転進行中の例は、
父親の心は両極端に動いていて
修復したいという気持がありながらも
憎悪による制裁の気持ちもあって、
行動を一貫させるために、
毎回大激論となったことを覚えています。

この例では、
結局、二つの心は併存したまま
頭で行動や言動をコントロールして、
予め事態を想定したため、
相手の弱さによるこちらへの不利益行動を
(面会一回さぼり)
許容する言葉を発して、
結果としては、寛容な行動をとることができました。

そういう結果をいくつか積み重ねて、
こちらが相手に敵意がないこと、
相手の失敗を責めないことを刷り込んだということなのでしょう。
相手からの譲歩が徐々に大きくなっていき、
関係がだいぶ良くなりました。
半年後はほぼフリーハンドでの父子の交流が実現している
と言って差し支えないでしょう。

そうすると人間関係は相互作用ですから、
こちらも、
相手に寛容にすることの心地よさを学習していきますから、
相乗効果で距離がつまっていきました。
常に感謝の心に基づく言動を口にするようになりました。

先ず、理性で環境を整えればよいのです。
別のことを考えていても
相手にそれと察せられなければ良いのです。

環境が整っていけば
自然と心が後からついてくる
それは、相手も自分も一緒なのです。

環境とは、
欠点、弱点、不十分点を
責めない、批判しない、馬鹿にしない
ということです。

小さいとき、
子ども同士の遊びの会話に中に
祖母が介入してたしなめられたことを思い出しました。
ずいぶん形式的なことを言うなあ
と今にしてみればそういう気持になったことを覚えています。
でもそれが、年長者の知恵なんだなと
今ならはっきりわかります。

相手に何かを求める時は、
相手に結論を提示するだけでは実効性が薄いです。
結論に誘導するサービスをすることが
肝心です。

心は後からついてくるものです。
先ず、理性で、自分の心の落ち着き先の
環境を整えましょう。





nice!(0)  コメント(1) 

現代の家族が不安定であることの根源的理由と、家事紛争予防、早期調整システムの必要性 [家事]

1 人間の心が家族に求めること

人間の心は、200万年前に形成されたとされています。
その当時の人間の群れの状態を反映しています。

自分の苦しみや不安を他者に理解してもらいたい
自分の失敗や欠点、不十分点にかかわらず
家族という群れに永続的に帰属したい。
これを脅かされる事情はたまらなく嫌だ。
自分を仲間として当たり前に扱ってほしい。
というようなものです。

かといって大人になれば、
自分を低く見てほしくない、
色々な出来事があっても
憐れむ対象ではなく、
いつもの通り接してほしい
ということになります。

もっと実践的に言えば
否定と指図だけをされるのは嫌だ
ということになるでしょう。

これは少し気を付ければ可能なことで
ささやかな要求だと思います。

2 ぶつかる尊重されない感覚

一般に結婚するときは、お互いを愛すること
つまり大切にすることを誓うのですが、
その誓いを貫くことはなかなか難しいようです。

つまり、
パートナーの気持ちを第一に考えて行動する
という発想が後退していくのです。

離婚事件から見た場合は、
それは、もう一方の価値観の押し付けと
それに基づく行動ができないことに対する否定的評価
ということになり、
否定と指図だけの生活という感覚を与えてしまうようです。

その押し付けてしまう価値観とは
効率であり、
正義であり、
常識であり、
あるいは衛生等と言うこともあります。

価値観自体が間違ってはいないことも多いのです。
しかし、働きかけ方がうまくないので、
プラスに働くことはなく、
家庭崩壊にだけ向かってしまうようです。

最低限のことができない場合、
それをするために工夫は、大変高度な働きかけが必要です。

本当は一緒にやるということしかありません。

また、家庭以外の職場や学校などの
抱えきれないストレスをつい発散してしまう
つまり自分がやられたように家族に働きかけてしまう
ということもよく見られることです。

そんな場合、相手の弱点が特に目につき
自分が馬鹿にされているような感覚を受けるようです。
自分が大切にされていない、尊重されていない
という感覚なのでしょうね。

このようにお互いにお互いから
尊重されていない感覚は、
相手の感情を感じ取って
どんどん大きくなってしまいます。

3 現代の夫婦の最大の問題環境とは

なかなか気が付きにくいことですが、
夫婦の安定性を害する最大の環境要因は、
家族の人数が少なすぎるということだと思います。

人間には適材適所があるのだから、
他にすることがなくても
どうしても片づけをすることが苦手だとか
捨てることが苦手だということはありうることです。

計算が苦手で、欲しいものを買ってしまう
という一瞬はけっこうあるものです。

それでも料理が得意だとか
子どもの教育が得意だとか
その逆のパターンとか
それぞれあるわけです。

さらに共稼ぎなどの事情があれば
十分な時間もないのですから、
益々苦手なことができなくなります。

人間の心の形成期は、
人間の家族は数十名いたそうです。
一人ぼっちにはなる心配はありませんでした。
必ずしも血のつながりのない人もいて、
一つの群れでお互いを支え合っていたようです。

そうだとすると
料理が得意な人は料理のリーダーになり、
子育てが得意な人は子育てのリーダーになり、
狩りが得意な人は仮のリーダーになり、
それぞれが協力し合って家族として生活していた
ということになります。

それぞれ仕事の分担もあり、
狩猟チームと、植物採取子育てチームと
別れていたようです。

他の群れの存在はよくわかりませんから
他の群れの人と、自分の群れの人の比較をすることもなく
ありのままの自分の姿で生活していたことでしょう。

ところが現代では、
子どもが小さければ、
外で稼いでくるのは男だけの仕事になりますし、
家で子どもを育てるのは母親だけの仕事になりがちです。
それぞれが、相手の領分に手を出していたら、
休む暇もないでしょう。

心は人での余裕のある時の状態を要求していますが、
とても十分にかなえられない環境と
なっていると思います。
損根本問題が、
人手が必要であるにもかかわらず
人でないないことです。

心のおもむくまま
相手に感情をぶつけることは、
本当は不可能を相手に強いることだということが
なかなか自覚されることはありません。


4 孤立婚の「人手」

このように本来数十人で暮らしているような感覚の人間が
夫婦二人だけで日常を回すのは
夫婦が孤立している状態だともいえるのではないでしょうか。

人手が足りない、
これは、一つには、文字通り作業をする人数が足りない
ということです。
同時に
知識が少ないということも意味します。

特に故事ことわざとか、おばあさんの知恵袋とか
なかなか活字にならない経験や伝承の蓄積が
若い夫婦には入ってこない。
このため、要領の悪いことを努力するとか
初めからやり直さなければならないことをするとか、
過剰に気にしすぎるとかいうことが起きているようです。

子育てに、それは集中しています。

5 相手に対する過度の依存

人間は群れを作る動物ですが、
本能的に誰かにつながっていたい、
誰かとの関係を永続させたいと思ってしまう本能があります。

これが若い夫婦二人の場合、
相手の自分に対する気分感情を絶対的なものに
思ってしまう要因になってしまいます。

相手の一挙手一投足に
過敏に反応してしまい、
傷ついたり、いかったりしているようです。

二人ではなく、ジジババがいたり
長老様がいたりすれば、

夫婦の些細なもめごとがあっても、
長老様がニコニコしていれば
自分がそれほど窮地に立っているわけではないと
感じることができ、
不安が軽減されるでしょう。

夫や妻から感情的な対応を取られても
群れから追放される心配はしなくてよい
ということになるからです。

現代の孤立した夫婦は
その緩衝材がありません。

6 感情のブレーキ役の第三者

家の中に長老がいて、
夫が妻にピリピリしていたら、
がみがみするなと一括できるでしょう。

妻が夫に対して不安な気持ちを持っていたら
なだめたり夫に意見を言ったりできるでしょう。

いさめ方の巧拙はあるでしょうが、
一人の感情に任せた言動に
ブレーキをかける人がいたわけです。

一緒に、あるいは、身近に暮らしているけれど、
利害関係にないので、
自分を守る意識なく、
家族全体のために判断できて、
意見を言っても自分の立場も悪くならない
そういう人がいることが
数十人の群れに適応した心に
適合した環境なのでしょう。

7 家事紛争の予防、早期解決事業モデル

このように現代の夫婦問題を再構成すると
解決のための方法は見えてきます。

ただ、今更集団で生活するということは
マンションという居住環境や
生活様式から難しいでしょう。

集団生活にならない
おいしい所だけを工夫する方が
現実的でしょう。

そうすると、
契約仲人集団みたいな事業があればよいのではないでしょうか、

以前提案した家事調整センター

もっと早期から
紛争が起きる前から利用するということです。

つまり、
結婚後、仲人センター(仮称ですよ)と契約して
1年1度あるいはもう少し多く、
何がなくても訪問して近況を話す。
センターの方は、特に問題が生じていなくても、
話の中からうかがえる
紛争になりそうな火種をみつけて、
一般論のように紛争が生じるレクチャーをする。

また二人が工夫しているところについては
特に意識しないでよくやっているところを
具体的に指摘して肯定する
という面談活動をする。

ここで何か問題が起きている場合は、
調整へと進むわけです。
早期に発見すれば
双方のプライドを傷つけることなく
解決することが容易だと思います。

出産が決まれば
利用できる制度を紹介するとか、
注意事項をレクチャーするとか、

出産すれば
手伝いを手配するとか
子どもを育てるに便利な資源を紹介するとか

子どもの教育をめぐって口論となれば
臨時に双方の意見を聞き
調整の選択肢を提案するとか
そういう活動ができればよいのではないでしょうか。

具体的な人手の手配、
おばあちゃんの知恵の敬称、
紛争の未然防止による不安の抑制、
早期介入による対立の激化の防止

そんなセンターが身近にあればよいのではないでしょうか。

問題は、それが事業として成り立つかどうかですが、
それは、誰かに考えてもらいましょう。

nice!(0)  コメント(0) 

無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

なぜ、無差別襲撃事件が起きるのかを検討するにあたっては、
なぜ、通常は無差別襲撃事件を私たちは起こさないのか
ということを考えることが王道だということになるでしょう。

<無差別襲撃をしない理由として考えられるもの>

 なぜ、私たちはかかわりのない人を攻撃しないのか。これは二つに分けて考えられます。ⅰ)そもそも関わりのない人を襲撃しようと思わない。ⅱ)仮に襲撃しようと思っても、思いとどまる事情がある。この二つです。

ⅰ)襲撃しようと思わない理由。
 ① 防衛の必要がない(相手から攻撃されない)
 人間が人間を攻撃するのは、通常は自分を守るためという理由のようです。通常はかかわりのない人から自分が襲われないために、こちらから反撃しようというきっかけがありません。但し、ここでは、「八つ当たり」という怒りに基づく行動形態を考慮しなければなりませんが、あとでお話しします。
② 人間の尊厳を認識している
 無意識にアリや蚊等の小動物を攻撃することはあっても、人間は大事にしなければならないからむやみに攻撃しないものだという認識によって、そもそも攻撃しようと思わないという側面もあるでしょう。攻撃するとかわいそうだからとか、敵対している人間でなければ、できることならむしろ仲良くしたいと無意識に感じているということもあると思います。ベクトルの向きが、自然状態では攻撃とは真逆の位置にあるのだと思います。
ⅱ)襲撃しようとする気持ちを思いとどまる理由
  職場で理不尽な目にあったり、実家で喧嘩をしたりして、家族に八つ当たりをしたくなるということはあるでしょう。「怒り」は、なんらかの危険を感じた場合、その危険を解消するための行動のようです。ただ、「おそれ」とは違って、行動対象が危険の原因と必ずしも対応しないようです。怒りの行動に出る場合は、相手に対して勝てるという意識が必要なようなのです。但し、危険を感じると、感覚的には自分を守る意識が過敏になっていますから、些細な危険を向けられた自分よりも弱い者に対して怒りの行動、すなわち攻撃に出るようです。これが「八つ当たり」です。
  では、八つ当たりをしたくなった場合でも、人間は無差別な攻撃をするわけではなく、甘えてよいと思う対象に対してだけ攻撃をするものです。どうしてあたりかまわず八つ当たりの攻撃をしないのでしょう。考えられる理由は以下のとおりです。
③法律で処罰されるから
④社会的信用を無くすから
⑤人を襲ってはいけないと教わってきたか
⑥反撃されるからら

こんなところでしょうか。
③、④、⑤は、大体同じようなことでしょうか。
法律で処罰されることの最大の困りごとは、
例えば刑務所に入れられることによって、
それまでの自分の人間関係が
無くなってしまうのではないか
というところにありそうです。

③、④、⑤.⑥は、
結局のところ、自分を大切にしているために
自分に危害を加えないために
無関係の人を襲撃しないということになると思います。

<無差別襲撃をする人の特徴、自分を大切にしない>

こう考えていくと、
私たちが、少なくとも現時点まで無差別襲撃をしない理由は、
自分を大切にしているからだといえるのではないでしょうか。

八つ当たりのようなことをしようと思う事情があり
無防備な3歳くらいの子ども公園を一人で走っている姿を見ても、
襲撃しようとは思いません。
その弱い子どもを攻撃することで、
人から非難されることになっては困る、
これまで通りの生活ができなくなるという理由もあるでしょうが、
それ以前に、小さい子どもを無意識に守ろうとしてしまい、
攻撃をしようとすることさえも思いつかないでしょう。
小さい子どもは大切にされるべきだという感情が
元々備わっているように感じられます。

ところが、無差別襲撃をする人は、
そのような心理状態ではありません。

相手をかわいそうだと思わないことがあっても
同時に、自分がこれから行う自分の行為によって
社会的に追放されることを
恐れることはないのです。

今回の登戸事件での襲撃者は
行為から20秒足らずで自殺をしました。
まさに、自分を大切にしようという発想が
全くなかったわけです。

<なぜ自分を大切にできなくなるのか>

「自分を大事にする」という言葉があります。
通常は、身体の健康の維持に努めるということでしょう。
それはわかりやすいです。
もう一つ、自分の人間関係を良好に保ち、
家族、学校、職場の人間関係の中にいることで
苦痛にならないようにする
という意味もあると思います。
対人関係的意味での自分を大事にする
ということになると思います。

対人関係的意味での自分を大事にするということは、
自分という一人の人間を大事にするために
自分の関係する人間を大事にすることが必要だ
あるいは、自分を大事にすることと仲間を大事にすることは
結局は同じことだということになるはずです。

およそ人間は、単体で独立して存在しているものではなく、
自分のつながりのある人との関係で
人格が形成され、発露されているようです。
自分が望む人とのつながりが維持されるのか絶たれるのか、
つながりのあり方、程度などによって
自分の感情や幸せの度合いが変わってくるわけです。

だから無差別襲撃者が
自分を大切にしていないということは、
自分が他者とかかわっていないということを
実感しているのだと思います。

人間と人間との関係は
相互に影響を与えあっている関係です。
自分を攻撃してくる人に対しては
近づこうとしないでしょう。
自分に親切な人に対しては、
こちらも親切にしたくなるものです。

自分を大切にしないということが
対人関係的には、
自分の属する人間関係を大切にしないことだとすれば、
対人関係的な意味で自分を大切にしない理由は、
およそ、自分が大事にされた対人関係を持たないということや
自分にかかわる他者という者は
自分を否定し、攻撃するものだ
という認識を持っているということが考えられます。
つまり、孤立しているということです。

この「孤立」が原因だというのは、
客観的に孤立しているか否かということではなく、
自分が孤立を感じているという主観的なものです。

そしてなぜ孤立しているかという原因も問いません。
主として自分に原因がある場合でも
孤立をしている以上、
自分の関係を大切にしようなどということは思いませんし、
それはとりもなおさず
自分と他者の関係を良好に保とうとは
思わない状態になっているからです。

<孤立と他者への攻撃の関係>

孤立を自覚していると、
自分に対する配慮も、他者に対する配慮もできなくなります。
それでも、将来的に孤立を解消したいという希望があれば、
他者との関係がこれ以上悪化しないように
自分の行動を制御するでしょうし、
つまり、自分を大事にしようとすると思います。

ところが、孤立が確定的になり、
将来にわたって孤立が解消できないだろうと認識した場合、
人は絶望するようです。
人間の脳は、あらゆる方法を使って絶望を回避するのですが、
様々な負の衝撃により絶望が回避できない場合があるようです。

その場合は生きる意欲を失います。
身体生命の危険の絶望は、
余命宣告というような例を除いて
瞬時に死が訪れることを意味しますから、
気絶をすれば足ります。

ところが対人関係的な絶望は
来る日も来る日も絶望に悩まされます。
絶望から逃れるために、
自死という行動を止めることができなくなるようです。

自死という行動を止められなくなった場合、
一人で自死に至ることが大多数ですが、
無差別襲撃者は、他者を攻撃してから自殺するのです。

大きな違いは、
一人で自死する場合は、
家族や友人、仲間というつながりを大切にしていて
つながりからも自分を大切にされているという認識があるからです。

それでも、様々な事情で、良好な関係があるにもかかわらず
特定の対人関係の孤立を原因として
絶望を回避できなくなるのが人間のようです。

(なお、母子心中等、身近の人間を巻き込む自死は、
不思議なことに
巻き込む相手に対しての愛情がある場合です。
もちろん冷静な形での愛情ではありません。
追い詰められた上での歪んだ認知の上の愛情です。)

だから、無差別襲撃をする人の孤立は
絶対的な孤立だということになるはずです。

どこの対人関係でも孤立していて
どこの対人関係でも改善が不可能だ
という絶対的孤立なのでしょう。

そうなってしまうと
人間とは大切にされるべき存在だとは
およそ考えられなくなるはずです。

人間の命などは、
守られるべき価値のあるものだとは
考えられなくなるのです。

絶対的孤立の中で、
全ての人間が自分の味方ではないと思うのだから、
この絶対的孤立の苦悩を自分に味会わせているのは
全ての人間だということになるでしょう。

人間は、味方でなければ敵だと
うっかり判断してしまう動物らしいです。
そうすると、すべての人間が味方でない以上
自分にとって敵になるわけです。

襲撃する相手は誰でもよいということになります。
相手をかわいそうだと思うこともありませんし、
おそらく襲うことができたから襲った
そういう理不尽な事態が起きた
そういうことなのでしょう。
突然のことで無防備だった方
子どもなので抵抗できなかった方々


命を落とされた方、
生存はしているけれど
心に深い傷を負った方にとっては、
全く理不尽でやりきれない話が
目を背けないで本件を見たときの真実だと思います。

<これからやるべきこと>

このような惨劇が我が国においても繰り返し起きています。
予防に力を入れなければ防ぐことはできません。
今回は、一連の襲撃行為は10数秒だったと報道されています。
襲撃が起きてしまってからでは、
防ぐことはなかなかできないのです。

予防のためには、
襲撃者に対する
徹底的な調査、研究が第1です。
私は、主だった無差別襲撃の背景に
私が述べた事情が共通項としてあると思っています。

国家的プロジェクトとして
客観的な調査を行うべきだと思います。

調査するべき事項は
襲撃者の
孤立の現状、孤立の経緯、孤立の原因
想定される対人関係(家族、学校、職場)の状態、
孤立解消の可能性とその点の襲撃者の主観
襲撃者が疎外を受けていたとしたら
誰からどのようにされていたことか。

誰がどのようにかかわることのできる可能性があったか
居場所を作るとしたら、どのようなものが想定されるか
予算を惜しまずに研究するべきです。

今回の多くの犠牲者の方々の犠牲を重く受け止めるのならば、
本格的な再発予防を徹底していただきたいと思ってやみません。



nice!(0)  コメント(0) 

無差別襲撃事件の予防のために1 登戸事件の生存被害者の方、特に生存しているお子さんの被害を考える。「心のケア」は、専門家に丸投げするものではないこと。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

昨日の川崎市登戸の事件の重みを
考えていきたいと思います。
亡くなられたお二方のご冥福を
心よりお祈り申し上げます。

今回は、生存者の被害とは何かについて
特にお子さん方について考えます。

お子さん方の「心のケア」が口に出されていますが、
その実態、内容は語られていないように思います。
専門家に任せればそれで解決するという問題ではないように思えてなりません。

そもそもケアが必要な「心の被害」とは何なのでしょうか。
それは
人間の安心の記憶がリセットされてしまうことだと思います。

キーワードは、
・予測不可能な攻撃
・死の危険の体験
・自己統制不全
というところにあります。

<他人を信じてしまう「こころ」がつくられる仕組み>

先ず、人間は、他人に対しては(自分を攻撃するものでない限り)、
どうしても安心感をもってしまうようです。
山中で道に迷うと恐怖と焦燥感に苦しみますが、
ようやく人里にたどり着いて民家などが見えると
ほっとしてしまうわけです。

これは理由のあることだと思います。
一つは群れを作るヒトという動物の
遺伝子的に組み込まれたものです。

他の人間をやみくもに敵だと思って警戒ばかりしていたら
群れを作れることはできないので
警戒しない、仲間だと思ってしまうことは
人間に必要な性質たということになります。

自分の母親以外の大人の感情にも共鳴するということが
二歳くらいから起き始めるといわれています。
これは、人間だけでサルにはありません。

もう一つは学習です。
人間の乳児期、幼児期は無防備で、無能力ですから、
どうしても大人の全面的な世話が生存のために必要になります。
だから乳幼児期を通り過ぎても生き残っている個体は、
必ず他者(親等)の全面的な世話を受けてきたことになります。
他の人間から、自分の弱点を補ってもらい、
援助を受けた体験があるということになります。

なんとなく他人は自分にとって役に立つ
という記憶を乳幼児期を過ぎた人間がもっているのは、
赤ん坊の時に全面的に世話を受けた体験からもきているのでしょう。

ただ、それとは別に、そして同時に
知らない人を警戒するという、これも本能があるようです。
信頼と警戒の
その折り合いを学習しながら成長するわけです。

学習していく過程の中で、
「自分とかかわりのない人は自分に危害を加えない」
という大切な社会性を学習していきます。
ここでいう「学習」とは、真実を知ることではありません。
そういうものだという記憶を形成することです。

<人間を信じるこころが壊れる仕組み>

人間が信頼できるという記憶は、
家やいにしえの村という閉鎖的な空間においては、
十分に形成されていきますが、
何らかの悪い大人によって
中断されることもあります。

現代社会ではその危険性は高くなっています。

無関係の子どもに怒鳴り散らす大人
性的加害をする大人、
アクシデントにもかかわらず感情的に攻撃する大人等
それから、いじめですね。

それでも、無関係な人間から攻撃されると
そこでへこたれているわけにはいかないので
通常は、それを教訓に行動を改善を試みます。
今度は攻撃されないようにしようという
防衛本能に基づく思考処理が行われるのです。

例えば、夜は一人で歩かないようにしようとか、
関係の無い大人にちょっかい出すことは怖いからやめようとか
そのような客観的に合理的な選択をすることが通常です。

つまり、危険の記憶と危険の直前の記憶を照合し、
危険回避の方法を学習するわけです。
危険回避が可能だと腹に落ちた場合、
危険に対する過剰な警戒は終了します。
逆に言うと頭では分かっても
回避可能だということが腹に落ちないと
警戒心が解除されるということがないのです。

警戒心は心身を疲労させますから
解除できないことは
心の疲労が蓄積されてゆきます[exclamation]

腹に落とす方法は、
眠っているときのレム睡眠のファイリング機能によると
考えられるようになっています。
眠っている時ですから無意識に行われるのですが、
覚醒しているとき以上に脳が活発に活動しているのですから、
無意識ですが、脳の機能ということになります。


このようにうまく、記憶のファイリングができれば、
例えば、自分の感じた恐怖は例外的な場面であり、
その例外的な場面に出くわしたら対処をすれば危険が回避できる。
対処をすることは可能だから、今度は安全だ
ということになります。
日常生活で、無関係な通行人等と
また安心してすれ違うことができるようになります。

ところが、そのような危険と関係のある前触れが思い当たらない場合、
記憶のシステムは混乱してしまいます。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
という結論が出てもおかしくはないのですが、
それは出さないように脳が勝手に動くようです。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
ということは、
将来同じ危険が生じたら、
今度は危険を回避できないということですから、
絶望を感じることになります。

しかしこの絶望については
なにがなんでも受け入れないということが
脳のシステムのようです。

脳は迷走ともいえる「工夫」をしてしまいます。
例えば、本来、何ら客観性のない事象を
危険の予兆だと評価して決めつけ、
その予兆があると危険を想起して過去の感情をぶり返させ
警戒をさせるのです。

例えば、雨の日に性的被害にあった被害者は
雨が降ると被害にあった時の感覚がよみがえることがあるようです。
雨が降ると不安が大きくなってしまい、
外に出ることができなくなることがあるそうです。

例えば、子どものころ窓から外を見ていたら
右隣の家に住む精神不安を抱える人間から
突如窓から顔を出してこちらをにらみつけられて
とてつもない罵声を浴びせられ
驚いて自分の家にいても安心できないという体験をした場合は、
「何か右の方から悪いことが始まる」
という感覚を持ってしまうことがあるようです。

私でさえ、このような人を複数人知っています。
その人たちはみんな統合失調症の診断を受けてしまいました。

そのような客観的には不合理な「予兆」に対する過剰な不安が
本人も医師も記憶のゆがみだということに
なかなか気が付きません。

本人ですら、感情がぶり返すきっかけが何なのか
それすらわからないことが多いようです。
雨ということであればわかりやすいのですが、
臭いであったり、
風の音であったり、
服の色であったり
意識に上らない記憶に反応していることが多いそうです。

危険に対する過剰反応によって、
人間そのものを恐れるようになる
ということは自然の流れです。

予測不可能ないじめや
執拗に繰り返されるいじめ
回復手段がないいじめは、
子どもの社会性を奪うことが少なくありません。
社会に出ることができなくなり、
引きこもりや精神科病棟の住人になるお子さんを
多く見たり聞いたりしています。

何かわからないけれど自分が攻撃されるという恐怖や
絶望を回避するために
「自分が悪いから攻撃されるんだ。
 でも自分の何が悪いかわからない。
 自分の存在が悪いのではないか。」
という徹底した自責の念によって
他者とのかかわりができなくなるようです。

こういうケースでは、
およそ人間(ただし家族だけは例外)は、
自分に対して危害を加えるものだという
学習がなされてしまっているのだと思います。

今回の事件は、
2名の方が死亡し、多数が重傷を負った事件です。

凄惨な場面、音声、匂いとともに
命にかかわる危険だという強烈な記憶が
植え付けられてしまっているでしょう。

命に係わることですから、
人間の心の無意識のシステムは
命の危険に対する警戒感から
早く解放されたいという要求が大きくなっているはずです。

それにもかかわらず、今回のケースは。
全く被害者に落ち度がありません。
自分の行動を修正するポイントがまったく見つかりません。

合理的な警戒をすることによって安全の確保ができる
という安心を腹に落とす作業ができません。

事件が終わっても、
果てしなく警戒感が続く危険があります。

さらには、事件が20秒弱で完結してしまっていることからも
事件が起きてから自分の力で回避する方法がありません。
自分ではどうすることもできないという自己統制不全を
強く感じる可能性があります。

そうすると、
強烈な危険の感覚を受けたにもかかわらず、
記憶のファイリング作用による
安心感を獲得する仕組みは機能しないことになります。
危険から解放されたいという要求ばかりが、
行き場を失って過剰に肥大してしまうわけです。

つまり、
この次は、自分の命がないということにおびえ続けるか
人間を信じられなくなり、人間を見ると恐怖を感じるか、
理不尽なことに自分が悪いという自責の念にさいなまれるか
という苦しみが続きかねないことになります。

<心のケアとは何なのか>

先ほど学習とは真実を知ることではないといいましたが、
実際に、今回の事例でもわかるように、人間は、
必ずしも安心できる対象ではないのです。
それにもかかわらず、危険ではないという経験を積み重ねて
警戒を解いていくということが学習の意味です。

今回の事件の生存者の方々、
報道を受けて大きな衝撃を受けた方の中に
このような学習がリセットされて、
人間に対しての安心感を失う方が出てくるかもしれません。
平気な様子を装っていたとしても
そういうものだと思って何らかの対処をする必要があります。

では、
このようなお子さん方の「心のケア」とはなにをいっているのでしょう。

私は、心のケアを精神科治療や心理療法とは別の角度で考えています。

論理的結論とすれば、
人間に対する信頼の記憶
(関係の無い人間は攻撃してこないという記憶)
がリセットされてしまったのだから、
これから、少しずつ安心の記憶を刷り込んでいく
これが論理的な回復の方法ということになるでしょう。

精神科治療や心理療法という
当事者の心に働きかける方法だけでは
解決できないのではないかと考えています。

多くの大人たちが、
道などですれ違う子どもたちに対して
自分が子どもの記憶を形成に関与しているという自覚をもって
子どもの安心感を阻害しない日常を提供する
ということをする必要があると思います。

チャンスがあれば
安心してよいのだよ、あなたをみんなで守るからね
という扱いをされた記憶を刷り込むことです。

特別扱いするのではなく、
日常の仲間として当然のことだという扱いをすることで、
それは被害にあったお子さん方だけに対して行うのではなく、
およそ子どもに対しての大人の対応として行われなければ
逆効果になる危険があることです。

腫れ物に触るような特別扱いをされることは
仲間の外に置かれる感覚になることがあり、
安心感を奪うことがあるようです。

心のケアは、専門家に丸投げをするのではなく、
私たち大人のやるべきことなのだと思います。
子どもは社会で守るものだということを
意識する必要があると思います。

私たちが何をするべきか
それを今後も考えていこうと思います。
そのために、まず、被害を受けた方々のうち、
生存者に対しても深刻な影響があるということから
考えを初めて見ました。

次回は加害者の行為について
予防の観点からどのように検討するか
という問題を考えてみたいと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

「自分が拒否されている」と感じるのは、攻撃的になっていることに自分で気付いていないからかもしれないこと。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



人の悩みの多くが、
「自分が(特定の)人から受け入れられていない。」
と感じることにあるではないでしょうか。

具体的に言えば
夫婦仲が悪い。相手がいつもニコニコしていない。優しくない。
いじめにあっている
パワハラにあっている。
正当な評価がされていない。
あるいは、
売り上げが上がらない
支持が集まらない
賛同者が集まらない
自分の言うことが相手にされない

あの人と同じことを言っているのに
あちらは絶賛されてこちらは無視される。

等々。

自分自身にももちろん覚えがあります。

そんなときによくあるのは、
自分が攻撃的になっているために、
他人が近寄りたくないという気持になっている
ということです。

自分が攻撃している相手から敬遠される
それならまだわかりやすいのですが、
自分が攻撃をしていない人からも
自分との距離を持たれてしまう。
あるいは、距離を置かれるどころか
自分に対して攻撃的な言動をしてくる。

自分ではその原因が分からず、
「どうして自分は他者から受け入れられないのだろう」
と思い悩むわけです。

「自分を受け入れない他者は間違っている」
と憤る人もいますが、
これも思い悩むことの一種です。

自覚がないのに
自分の攻撃性によって他者が自分を受け入れない現象には、
二つのパターンがあります。

一つは、相手を攻撃しているつもりがないのに、
相手は攻撃されていると感じるパターン(A)。

もう一つは、相手ではなく
明白に別の人を攻撃しているのだけれど
敬遠されるパターンです(B)。

Aパターンの典型例は、
夫婦間、職場(特に上司)でよく見られます。

Aパターンで自分の言動が攻撃と思えない理由も二つあり、
自分こそ攻撃を受けているので防御しているに過ぎないと
無自覚に感じていて、
自分が攻撃しているという意識をもてない(A-1パターン)。

相手が間違っているので、正そうとしているだけで
いわば事務連絡的な言動だという意識のため
攻撃ではないというパターン(A―2パターン)
に分かれると思います。

大事な人間関係で不具合を感じている場合は、
プラスワンの理論で、
自分の言い分、相手の言い分を並べて比較して、
どちらが正しいということではなく、
相手の感情に配慮して不具合を修正する
という作業をしなければならないと考えます。

A―1パターンでは、正当防衛の連鎖を
自分から断ち切らなければ収まりません。
自分を守らないことによって、
相手に安心を感じてもらう作戦が有効です。
敢えて言えば(たとえば家庭内)憲法9条作戦です。
(関係を切ればよいならそれほど悩まないでしょうから
 その方法をとれない場合の最善策ということになります。)

A―2パターンでは、
<攻撃とは何か>
ということを自覚する必要があります。

これは、単純に言動だけを見て判断することはできません。
相手との距離、相手のあなたに対する期待などの
その人ごとの要素でだいぶ変わってきます。

例えば家庭ならば、
相手はあなたといることに安らぎを感じたいものです。
あなたが帰ってくる時刻になると
恐怖と緊張で心と体が硬直するという家庭は
家庭の機能をはたしていません。

安らぎを感じるためには
ただいるだけでは不十分で
理想を言えばねぎらいの言動があるべきですし、
そうではなくても、自分自身を受け入れてもらう
という時間が必要です。
言葉については
言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう!を参照してください。

ところが、ねぎらいも寛容もないということでは、
安らぎを感じないで緊張と恐怖だけの存在になってしまいます。
この場合、ニュートラルという状態がない場合がある
ということを意識しましょう。
つまり、プラスがなければマイナスになる危険があるということです。

離婚の最大、最多の原因が、
「会話が、指図と否定だけの生活」だったということです。
この場合、
言っていることが正しければ正しいほど、
相手の落ち度をさらすことになります。

あなたが口を開こうとすると
自然に防衛行動をしようとしてしまうことは、
本能的な反射活動です。

口を開かれることが怖くてたまらなくなるのです。
そのうちにあなたの存在自体が相手にとっては、
自分を否定し、指図する存在だというように
単純化していく危険があるわけです。

ところが、言っている方は
当たり前のことを言っているだけなので、
そのことになかなか気が付きません。

ある日、街でばったりと出会って、
相手が自分を見つけて喜んでおらず、
瞳孔が開いて硬直している
恐怖感情をあらわにしているところに出くわすことになりかねません。

そういう体験があればまだ修正が利くのでしょう。
「良い夫婦の条件」http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/couple.html

一応念のために、街で相手に会った時は、
なにがなんでも先に見つけて、笑顔を作り、手を振るなどして、
相手に恐怖感情を表現させないように先回りをする
ということを頭に入れておきましょう。

A―2パターンの防止のためには、特に家庭の場合は
正義を持ち込まない。
正義や常識、効率性ではなく、
相手の気持ちに配慮して行動するということになります。

A-2パターンは、難解で
自分の何が悪かったのかということに深く思い悩みます。
これも夫婦問題で多いパターンだということを
知識として知っていないと
これが原因だということさえ思い当たらないことかもしれません。


次にBパターンですが、
Bパターンがあるときは、Aパターンが併存していることが多いようです。
特にA-2パターンですね。
正義感の強い人によく現れます。

Bパターンの起きる場所ですが、
これも、夫婦や職場の間でも起きているのですが、
むしろ社会的な人間関係にみられることが多いようです。

職場の雰囲気が悪くてお客さんが減るということは
この典型的パターンです。
それから、常連しか集まらない政治的なSNS
社会運動の活動
自分は、自分たちは正しいことを言っているのに
第三者からの暖かい支援を受けにくい
そう悩んで、改善したい場合は、
ぜひ真剣に検討するべきだと思います。

また、
同じ事を同じように言っているのに、
なぜか相手の方にばかり賛成が集まり、
そして相手は批判がされない。
こちらの賛成はいつものメンバーだけで、
広がらない。
かえって、陰で自分は批判や中傷がなされる。
なぜ、あなたから足を引っ張られなければならないんだ。

また、自分としては当然言うべき社会的発言をしているのに、
家族からは嫌がられる。
(家族の情報を知らない人にさらすことに抵抗することは当然として、
 そういうことをしないのに嫌がられる。)

これはなぜ起きるのでしょうか。

人間の「秩序の形成に参加しよう」とする本能に原因がありそうです。

人間は無意識に秩序を形成する行動を選択する動物のようです。
もっともこれがなければ群れを作ることはできません。

この秩序を形成しようとする本能の出方には
バリエーションがあります。
・群れのトップに従おうとすること
・決まりごとに従おうとすること
・群れの仲間と仲よくしよう、仲良くされたいと思うこと
そうして、
・争いがあると不安になること
・争いの当事者にならないようにしようとすること
・争いの外に自分を位置づけようとすること
等です。
いじめの傍観者の心理は、
この秩序形成本能が悪い方に出ているように思われます。

だから、
他者に対して怒りをあらわにしている人や、
誰かを攻撃していたりする人は、
あるいは誰かを馬鹿にしたり嘲笑したりする人は、
秩序を壊している人と感じるので、
近づこうとしないし、
共感チャンネルを閉ざそうとする気持ちが生まれる
ということになります。

秩序を維持しようとしている人の方が攻撃されているときは、
さらに、弱い人を守ろうという意識まで発動されて、
批判者に憎悪の感情が持たれるということもあります。
これは、理性的な判断ではなく、
即時的な、条件反射的な感情なのです。

正しいことを言っている、
言わなければならないことを言っている
そういう気持で発言していても、
結果としては
「乱暴者が暴れている」
という意識で冷ややかに見られていることと同じだし、

無意識に自分が争いに巻き込まれるという恐怖(焦り)が生まれ、
余計な紛争を起こそうとするあなたに対して
いらだちが生まれるわけです。
少なくとも、一緒にいて安らぎを感じませんから、
一気にマイナスの感情になっている可能性も大いにあるわけです。

もう一つ、袋叩き反撃仮説というものがあり、

ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説

誰かが戦っていると、
無意識に自分も闘いに参加しなくてはならない
という人間の本能があって、
仲間であればあるほど参加しなくてはならないという
強迫神経症みたいな心理が働き、

誰かを批判する言動が的を射ていればそれだけ、
つまり正しければ正しいだけ、
行動を起こさない自分が責められている
という感覚も持つようです。
自分を守ろうとする意識が
(発言者から見れば)誤作動を起こしているのでしょう。

この分析に基づけば、
二つの目的を実現する方法が見えてきます。

一つには、自分の意見が中立の第三者とか、反対者にも受け入れられるという目的
もう一つは、自分の発言によって大事な人が遠ざからないという目的です。

<鉄則>
結論を重視するのであれば(怒りを発散すればよいというのでなければ)
怒りの感情をあらわにした発言などをしないこと
誰か「特定の人を」責める形、批判する形をとらないこと
やむなくそういう場合でも、人間に対する敬意を払うこと、
誰か特定の人を悪だと決めつけないこと
利害対立をあおらないこと。

会社、学校、社会などの不具合を修正するという視点をもつこと
具体的には、みんなの利益という観点からの主張
夫婦双方(私たち)の利益
クラス全体の利益
会社と顧客双方の利益
社会全体の利益
という視点からの発言をする。

既存の秩序、価値観の否定に終わらないこと
新しい秩序形成の提案、新しい価値の提案の形にすること
旧秩序、旧習慣の合理性の部分を肯定すること

受け手の行動は、あくまでも受け手の自由裁量にゆだねること

相手に何を求めるか
ということを明確にすることも大切でしょう。

またもう一つ考えられる理由があります。

他人は、よほどのことがなければ
あなたの絶望を覗きたくありません。
絶望に共感してしまうと
苦しくてならないので自己防衛行動を
無意識に選択する場合もあります。
このため、あなたの行動やあなた自身を
無かったことにしたい。
あなたに原因があるから(悪いから)
仕方がないと納得して自分の心の折り合いをつけたい。
これが、あなたが攻撃される理由なのかもしれません。

誰彼構わず苦境を吐露せずに、
信頼できる人だけに、あなたの苦しみを受け止める人だけに
限定して心情を打ち明けるべきです。


なお、自分の大事な人の前では
誰かを批判することは最低限にするということも
あるいはしないということも
選択しなければならないことがある
ということもお考え下さい。



nice!(0)  コメント(3) 

【御礼】類型200万件(ビュー?)突破記念 対人関係学のページ全面リニューアルのお知らせ [閑話休題]

昨日、このブログの類型数が200万件を突破しました。
お読みいただいた方々に感謝を述べなければならないと
強く感じました。

というのも、ブログ一般では、驚くべき数ではないのかもしれませんが、
なにせこのブログの各記事は、
第1に、長い。
第2に、内容が固い。必ずしも読んでいて楽しいわけではない。
第3に、発想が飛びすぎているところがあり、
一読して理解しずらいことが多い。
それなのに、ろくに推敲もしないまま書きなぐっている。

およそ読みやすいブログではありません。
私が言うのだから間違いないでしょう。

それにもかかわらず、
10年経過しないで200万ビューというのは、
正直驚いています。
このブログをお読みいただける環境の方々の
筆者を超える教養とご寛容に
素直に頭が去ります。

200万件というのは大きな節目なので、
何か記念のことをやりたいと思っていたのですが、
ちょうど、
4月にヤフージオシティーズが閉鎖となり、
事務所のホームページを強制リニューアルするはめとなり、
ホームページビルダーを21にお金をかけてバージョンアップして、
せっかく身に着けたノウハウがあったし、

このブログと事務所のホームページと三位一体である
対人関係学のホームページが
5年前に作成していて、
体裁も乱雑だし、内容も古くなったかなと思い、
リニューアルしようと思い立ちました。

そうしたら、5年前のものがそんなに古くなっていなかったのです。
この間、進化心理学や進化生物学、認知心理学や大脳生理学など
勉強しまくったはずなのに、
それほど理論的進化はなかったことになります。
ちょっとショックでした。
5年前に既に完成されていたと思うようにすることにしました。

ただ、このブログよりは、簡潔にわかりやすくを
一応心掛けて
一度様々な論点を整理しようと思いました。

ちょうど令和に代わるときに10連休があったため
その時間を利用して作業を進めることができました。
このため(本当は過去分と区別をするために)
令和対人関係学のページという制作コードにしました。

過去分はリニューアルのアーカイブにまとめてはみましたが、
自分にとっては、史料価値があるし
この時期からこういうことを言っていたのだという
証拠みたいになるかなと思い
過去のホームページは閉鎖しないことにしました。
(ただだったもので)

新しい対人関係学のホームページは、
インデックスというか、用語の確認というか、
あると便利です(これも自分にとって)。

また、いくつかの理論のようなものは、
このブログを書いているうちに思い付いたものが多いのです。
それから実務で話していることを文字にしようと思ったのも
このブログを書いていたからだと思います。

今もそうなのですが、
誰かに読んでいただくということを念頭に
記事を書いていると、
日記を書くよりも緊張感というか、
もっと読んでもらいたい、
もっと説得力を身につけたい
もっと必要なことを考えたい
という気持になるものです。
そういう意味で、二つのホームページとこのブログは
三位一体だと感じています。

そして私一人で作成しているのではなく、
お読みいただいている方とご一緒に作り上げている
というように感じています。
そうでなければできなかったと思います。

最後に新しいページの中身を紹介します。
<トップページ> あまり内容はありません。
目次を加えました。
ただ、対人関係学をどうして作ろうとしたかを簡単に書いています。

<対人関係学概要・用語のページ>
対人関係学について、丁寧に説明しています。
ブログや各論のページでは、省略したり最小限にしたりしている
そういう大事なことを書いています。
お手数とお時間をかけさせてしまいますが、
これを読んでいただければ、他の記事もわかりやすくなります。

用語について
これも各論を読んでいただいたり、
このブログを読んでいただいたりしたときに、
あると便利だろうなと思い作りました。
正確性よりわかりやすさに力点を置いています。

<研究ノート・妄想のページ> 対人関係学の説明として
どんな勉強をしてこう考えたかということを
紹介しておいた方が便利かなと思い作りました。

今のところこのブログの記事を並べています。
これで気が付いたのですが、
対人関係学のページを作る場合は
ハーマンの「心的外傷と回復」だったり、
思い込みDVを提唱する時にはウォーラースタインだとか
けっこう勉強した成果をすぐに表現したい
という傾向が見えて我ながら面白かったです。

妄想の欄の記事が、実は一番読んでいただきたいところなのですが、
どこまで役にたつものか不明で、
かつ専門的にどこまで間違っていないのかということが
全く自信がないので、
敢えて妄想と名付けました。
ドーキンス博士の利己的遺伝子批判は、
対人関係学の内容を説明する
もう一つの概要説明となっています。

ラスコー洞窟の謎についても
これぞ対人関係学
という内容になっていると思うのですが、
いかがでしょうか。

<道徳・正義・人権のページ>
このテーマは、とても気に入っていいます。
ほとんど書き下ろしです。
誰も言わないだろうことを主張しております。

「道徳の起源・人の心の形成期に道徳はなかった」
「正義を肯定的に語ることは金輪際やめよう」
「人権として『権利が生まれる時』、『弁解する権利』『表現の自由 自分のことは自分で決める』」
という記事で、力を入れているところなのですが、
正義を否定するというと悪魔みたいで面白いと感じています。

<故事等再定義のページ>
このブログで好評をいただいた記事を中心にブログ記事をリンクさせています。
故事ことわざって、おばあちゃんの知恵袋のように、
その理由はわからないけれど
それに従って生活することで、無用な争いを避ける
無用な孤立や疎外感を防ぐ
というような生活実務上役にたつことが多いようです。
ところが現代の孤立した若夫婦には
それがなかなか伝わりません。
そういう視点で、再定義、再評価しています。

<解決のためのツールのページ> 自分で悩むとき、誰かを支援するとき、フリーハンドではなく
しっかりした武器があることが有効です。
「部分的承認の技法」
「プラスワンの技法」
「心は後からついてくる 対人関係的危険」
弁護士の技術は大事なところまで一子相伝的なところがあるので、
敢えて文字にして使えるものなら使ってもらおう
ということも、このブログの目的なのです。

<自死(自殺)のページ>
「自死に至るメカニズム」
「子どもの自死の第三者委員会は何を検証するのか」
このページは最優先で補充していくつもりです。
事務所のホームページにも自死対策のページがあるので
ここもどうすみ分けるかが課題です。

<夫婦円満の秘訣と夫婦仲が壊れる原因のページ> 「良い夫婦の条件 DV案件から考える」
「『出産したら別の人』と心得ることの意味」
産後クライシスや脳機能の変化、ホルモンバランスの変化をまとめています。

「真正DVとはなにが起きているのか」
書いてて苦しくなりましたので、読まれる場合は自己責任でお願いいたします。

書き下ろしというか、まとめを意識して、
これだけで各論点が抑えられるようにとの目的です。

<子育て・いじめ・虐待のページ> 「子どもをいじめに負けない人間に育てる家族力とは何か」
「いじめる側の分析 なぜいじめることができるのか」
「いじめのパターンと分析 わが子がいじめにあった時の対処法」
「LINE等のSNSがなぜいじめに利用されるのか 危険の所在 おとなもだけど」
「虐待の原因と予防対策」

力を入れたページです。最近力を入れています。

<職場の人間関係のページ> ここは対人関係的労務管理をやや詳しく紹介しています。
ここも補充が必要ですが、
事務所のホームページとのすみわけに悩むところです。

<クレーマー・無差別殺人のページ> 「クレーマーへの対応」
のみとなっていますので補充が必要ですね。

<医科学・脳科学への要望のページ> 「病気が生活に影響を与えることの研究と啓発をお願いしたい」
「それ本当に統合失調症という診断でよいのですか」(ブログ記事の転載)

<アーカイブのページ> 以上です。盛りだくさんですが、構想はまだまだ完成していません。
今後ブログとの連携を図りながらになるでしょうけれど
充実させていきながら
誤字脱字の訂正とかリンクとか
やっていきたいと思っています。




nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -