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保護命令をかわした先で考える家族再生 攻撃してくる相手に近づこうとする人はいないということ [家事]

保護命令4部作ということなので、
これまでの3件もよかったら見てください。

様々な事情で
妻が子どもを連れて別居し
会えないどころか連絡も取れない
という相談が増えています。

身に覚えのない暴力や虐待を理由に、
裁判所から行動制限の申立まで来てしまいます。

中には確信犯的な妻がいて、
不貞を成就させるとか、転居を希望するためにとか
夫を切り捨てるための子連れ別居保護命令も実際にあるので、
強く断言できないケースもあるのですが、

家族再生をする気持ちがあるなら
家族再生を目指してほしいと思うのです。

仮に元の通り一緒に暮らせないとしても、
先ずは、子どもをあなたに会わせることを
何とかして実現していただきたいのです。

間違えた方向で頑張らなくても
お子さんにとっては少しでも状況の改善が見込めるので、
無駄にならない努力です。

それを意識的にやろうとしてできるのは
あなたしかいません。

家族再生の方法論が少しずつ確立していく中で
嬉しいニュースが届きました。

保護命令が出された事案だったのですが
保護命令中に面会交流調停、離婚調停が始まり、

離婚は応じることになったのですが、
保護命令期間開け直ぐに直接交流が実現し、
その後半年で
祖父母付きの宿泊付き面会が決まり、実行され、
その後も旅行形式の面会交流が実施されているそうです。

ここまでではないけれど
面会交流が実施されるケースは増えています。

うまくゆくケースの特徴は
家族再生という目標を徹底し、
それに矛盾する行動をとらない
ということに尽きるでしょう。

これがなかなかできないのです。

考えてみれば当たり前なのですが、
人間はどうしても危険から自分を守ろうとします。
人間に限らず動物全般がそうです。

こういうケースで感じる危険は
対人関係的危険です。
つまり
特定の仲間から外されそうになる時に
人間はとても強い不安を感じるものです。
(この不安は、自死や殺人、いじめ、パワハラ等
 色々な社会病理の原因になります。)

家族という仲間、夫婦という仲間から
一方的に、多くは理不尽に感じる形で
外されようとしているわけですから、
不安や危険を感じ、
本能的に、反射的に
自分を守ろうとするのはむしろ当たり前のことです。

この場合の防衛行為は二種類あり、
一つは、抜け殻のようになってしまい、
やる気がなく引きこもりがちになってしまうパターンと
もう一つは、自分を外そうとする仲間に
怒りをもって攻撃するパターンです。

二つのパターンが両方出現し、
気分感情が乱高下することが
むしろ普通かもしれません。
気分感情は乱高下するのですが、
不安や危険を感じているということで
一本筋が入っています。

家族をやり直したいという気持ちと
相手を許せないという怒りが
どちらもある状態が普通です。

家族再生をするためには、 
この相手を許せないという気持ちを出さずに、 
相手を攻撃しないということが 
鉄則なんです。 

だから、
家族再生を目指すのか
目指さないのか
決めなければなりません。

腹を決めないまま
本当は家族再生したいのに
気分、感情のまま相手を責めれば
結局再生なんてできません。
益々悪くなるだけです。
だから普通に調停を闘ってしまうと
当然家族関係、夫婦関係は
悪化の一途をたどるだけです。

相手を攻撃するのは防衛行為ですから
これを止めなければなりません。
相手との感覚では
自分を棄てることが大切です。
*1

困ることは、
よし自分を棄てようと思っても
自分が相手を攻撃していることに気が付かないことです。
それは相手に対する攻撃だよと言うと
「自分が間違ったことを言っていますか?」
「自分だけ我慢するなんて不合理ではないですか」
「子どもを虐待しているのは連れ去りをした相手方の方ですよ」
「自分子ども会う権利は無いのですか」
「私が被害者なのですよ」
ということをおっしゃいます。

言っていることはその通りだと思います。
しかし、その気分感情で相手方に働きかけてしまうと
相手は怖がったり、嫌がったりするわけです。
あなたから遠ざかろうとします。

相手の一番後ろめたいところを受け入れること
相手の失敗、不十分点を攻撃しない、責めない、追及しない
ということは
自分が相手の行為で危険を感じている一番の事情を
容認することなので、
これはなかなか難しいし、
無理をすることはできないのです。
だから決めることが必要だということになります。

家族再生をあきらめてあなたの正義を貫くということも
一つの選択肢なのかもしれません。

但し、正義というと聞こえが良いのですが、
家族に正義を持ち込むことは間違いだと思っています。
本当にその正義は家族を幸せにするか
そういう観点で是非考えてみていただきたいと思うのです。

正義よりも、相手の感情をモチベーションにするべきです。
*2

多くの場合で正義を主張することは、
突き詰めれば自分を守ることだと思います。
私はそれを止めて
家族再生に向けて考えることの方が
ご自分の不幸も軽減されると確信しています。

いずれにしても
正しさを追及したいのか
家族再生を目指すのかは
矛盾するものです。
どちらかを選ばなければなりません。

ウォーラースタインも
人間は、子どもたちの健康や安全のためには
自分の命をなげうって子どものことを考えるけれど
離婚の場面では、
子どものことを考えず、自分のことばかり考えると書いていますが、
それは自覚しておくべきです。

子どものことを考えないで子連れ別居する妻と
子どものことを考えないで正義を貫くことは
同じことのように第三者からは感じられます。

これは、ただ知識があるだけでは
なかなか実践できることではありません。

先ほど紹介しました面会交流がうまくいっている人と私は、
この観点から何度も深刻な激論を交わしました。
その都度、私もあきらめかけるのですが、
最初の決断がしっかりしているしお人柄もあるのでしょう、
ギリギリのところから巻き返して
相手との関係では見事にご自分を抑えきりました。
今彼は幸せを実感しています。

自分を棄て、
自分を含めた家族をやり直そうと考えると
見えてくることがたくさんあります。

一緒に住んでいた時の
相手の心細さや
自分に対するギリギリの気遣い
自分の相手の気持ちを無視した行動等
それが分かっていれば
もう少し自分の行動を修正しようと思ったということですし、

無理に相手を変えようとしたところに問題があったのかもしれない
ということなのです。

こういうと、男ばかり損をする、不公平だと
いう人が出てきます。
それも分かるのですが、
女性は出産という不公平を抱えているわけです。

だいたい、子どもが生まれる前は円満な夫婦でも
子どもが生まれた後にぎくしゃくが始まるものです。
2人きりなら自分を棄てて相手をたてるということは
自然にやっています。

しかし、子どもが生まれると
庇う相手が増えてしまうことで、
子どものためにという理屈で妻に意見をすることが始まります。

これは妻側もそうです。
出産に伴って女性のホルモンバランスが乱高下することにより
意味もなく不安を感じる傾向になってしまうこともあって
自分と子どもを守ろうとして攻撃的になる
という傾向になることは仕方がなく出てきます。

その傾向をちょうどよい具合に加減することなんて
そもそも不可能です。
だから妻が変わったと言っても、
実際は命より大切なわが子を産んでくれた結果
そうなっただけで、
妻には責任がないことなのかもしれないのです。

もし、面会交流が実現して
お子さんがあなたと会うと嬉しそうな顔をしたり
恥ずかしそうな顔をする場合は、
妻は、お子さんにあなたの悪口を言っていないということです。
また、面会交流の実施は
それなりに負担ですけれど、
子どもを連れてくることも嫌でできない
というような状態ではないかも知れません。

こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、
感謝の気持ちをもって
無視されても、それを相手の背中に聞かせるつもりで
言葉に出すことをお勧めします。

それにもかかわらず
調停で、妻の代理人からああいわれたこういわれたと
怒って反撃していたのでは
うまくいくはずのものもうまくゆかなくなります。

チャンスを見落としてしまうわけです。

怒りは代理人に任せることが得策でしょう。
最上の策は相手にしないことです。

最後に
妻が怖がる攻撃は自分に対する攻撃だけではありません。
妻の代理人に対する攻撃
裁判所に対する攻撃
行政や支援者に対する攻撃
それらすべてのあなたの攻撃感情、攻撃言動が
妻を怖がらせ、あなたから遠ざかろうとする原因になります。

そもそも妻は常に不安な状態があるから
子連れ別居などという過激な行動をしてしまうわけです。
過剰に安心できない状態になっています。

あなたが攻撃的行動をとっていれば
自分に向かうという考えがなくても
同居時の事情を思い出したりすることもあるでしょう。
ただ、攻撃的環境に自分をおきたくないということもあるでしょう。

SNSで近況をアップされること自体に
不安を感じる母親もたくさんいます。
不安を感じてはいけない、間違っている
ということを言っても始まらないのです。

北風からマントを守ろうとした旅人のように
益々自分を守ろうとするだけです。
*3


家族再生をしたいのか、
自分の感情を優先するのか
後々後悔しないために、
あるいは、ここをゼロポイントとして
現状の改善を目指すならば
それをはっきり自覚し、
それに矛盾した行為はしないということを
徹底しなければなりません。


*1 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 忘れさせられた日本のこころといさかいの真の原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-03-02

*2正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-02-18

*3 北風と太陽の本当の意味、あるいは他人に対する優しさと厳しさの具体的意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-18


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保護命令の事件の相談を受けた弁護士の先生方へ [家事]


1 はじめに

偶然にも保護命令の事件を何件か担当するようになりました。
その経験の中から
保護命令の運用手続きが
私たちの知っている法体系から
かなり逸脱した法制度になっていることを強く感じています。

その中で冤罪とも言うべき決定が多く出され、
多くの人間が、
子どもや家族と会ったり連絡を取ったりすることさえも
1年以下の懲役又は100万円以下の刑罰の威嚇のもと
国家権力によって禁じられ、
精神を破綻させている実情があります。

保護命令は、
配偶者の生命身体に重大な危険がある場合に限定されているはずですが
実際の運用では、
そのような危険がない場合にも保護命令が出されています。
その手続きの中で、当事者は一人での対応を余儀なくされ、
弁護士を選任する権利を実質的奪われています。

2 普通郵便での期日直前の連絡という運用

先ず、保護命令申立事件は、
迅速な処理が要請されていることから
運用上は、申立がなされてから1週間以内に
謄本を相手方に発送するようですし、
謄本発送から1週間以内に
当時者審尋期日が入れられているようです。
通常事件の答弁書に当たる当事者意見書は
その前日までに提出をしなければなりません。

しかも迅速性を理由に、
書留郵便での送達をせずに、
普通郵便で郵送されますから、
実際に相手方が謄本を見るのが、
発送から3日後ということもあるようです。

そうすると、水曜日に裁判所から発送したものが、
金曜日の夕方に到着すると
弁護士を依頼するのがどうしても月曜日以降になってしまい、
反論書の提出が翌日ということになりかねません。

保護命令決定を受けた後で離婚調停になったときに
相談に来る人があまりにも多すぎるのですが、
それは、本人の油断ではなく、
そもそもそのように本人が十分に対応できないような
運用がなされているということが
実態に即した理由であるようです。

3 弁護士の初動 申立書の主張の吟味

弁護士が最初に行わなければならないことは、
申立書記載の事実が要件事実の求めている内容で記載されているか
という点の吟味です。

保護命令申立書は
シェルターや役所に用紙が備え置かれており、
アンケートに答える形で記載するようになっています。
ですから、実際は申立人本人が手書きで記載していることが多くあります。

保護命令を出す要件ですが、
①過去に暴力や生命に関する脅迫があったこと
②その後の事情で、今後さらに
 申立人の身体・生命に関して重大な危険があると言えること
ということになります。

しかし、実際に保護命令が決定された申立書を見ても、
そのような事情が記載されていないことが多く、
相手方が申立人の居所を探しているような事情だけが記載されていることが
多くあります。

保護命令の申立代理人や女性支援者は
女性を夫等から遠ざけることが
保護命令の目的や機能だと思っていて
身体生命の重大な危険を予防するという
高いハードルを意識していないことが多いようです。

また、自分に暴力を振るわない夫でも
児童虐待をしていることを(もちろん誇張して)
主張して保護命令の理由としていることもあります。

先ず、真実の法律要件に立ち返って、
申立人の主張が真実だとしても
要件事実の主張になっていない場合は、
それをきちんと主張することが第一になります。

主張自体失当の申立が極めて多く
それでも保護命令は決定されることが多いようです。

4 申立書主張の吟味2 真実性、信用性

申立書は何かを書かないと埋まりません。
申立人は言われるままに埋めていきます。
ニュースソースを明かせませんが、
書き方の指導を受けることもあるようです。

本当は危険でもないことが
いかにも危険なように記載されることがあります。

例えば、本当は
植木にはさみを入れようとして
盆栽を探して、小言を言っていただけなのに、
植木ばさみをもって追い掛け回された
というように誇張されることが実際ありました。

なぜそれ誇張だと言い切れるかというと、
申立人本人は、事実と違うことを言っているので、
自分の言ったことを忘れていたからです。
後の離婚訴訟等で、
妻ご本人がそのような事実はないと断言されていました。

相手方は、特に自分の能力に自信のある男性は、
申立人の主張を論破しようとしてしまいます。
結論はどちらかなのかを言わず、
ありえないということを自分なりに説明しようとしています。

先ず、あったのか、なかったのか
誇張されているなら真実はどのようなものだったのか、
結論を聞き出すまでに時間がかかることがあります。

事実を争うとなった場合、
次に何らかの証拠があるかどうか
間接事実しかないことが通常ですが、
その直後に家族仲良く笑顔で写真に納まっている
等の証拠があることが結構多くあります。

ここでも単なる暴力の有無ではなく、
申立人の生命・身体に「重大な」危険のある場合だ
ということを常に意識しておく必要があるようです。

5 具体的危険犯の主張をしましょう

けっこうこの「重大な危険」を抽象的にとらえて、
離婚調停が申し立てられたこと
子どもを連れて別居したこと
連絡先を明かさない事
等が
紛争が存在していることをもって
重大な危険があると
裁判所が認定してしまうことがあります。

しかし、平成14年の東京高裁のように
3月29日決定(判例タイムズ1141号267頁)

本来具体的に重大な危険がなければ発令できない保護命令ですから、
抽象的危険では足りず具体的危険が必要だという主張をすることが
効果的であるようです。
冤罪で受ける相手方の不利益を丹念に主張するべきでしょう。

事実認定をフリーハンドでさせない努力が必要だと思います。
穏当な調停手続きを履践していることをもって
暴力の危険があるという事実認定をしてしまったら
調停を含めた裁判制度の否定になると思います。

6 当事者の状態に対するご理解を

当事者の多くは、ある日帰宅したら
荷物も、家族もいなくなってしまったということで
先ず呆然としています。
中には、警察官が立ち合いで荷物を引き上げるということさえあります。
相手の実家に行ったら警察官10名から取り囲まれた
という事案もありました。

いずれも暴力がない事案です。
警察官に抗議をしたところ
暴力がなくてもDVだとの返事があり、
いわゆるDV法が、
身体的暴力がある場合にだけ警察が法定の支援措置をとることができる
という法律も警察庁の通達も
まるで分っていないことが実情です。

暴力をふるっていない夫は、
このような自分の力ではどうすることもできない
理不尽な思いをしています。
子どもにも会えない状態が続いていることも多く、
その喪失感、屈辱感はとても強いものがあります。

自分を守ろうとすることが
こういう場合、人間の当たり前の心理状態になっています。
中には鬱状態を呈している人もいます。

きちんとしたカウンセラーや医師を紹介する
ことが必要な場合も多くあります。

ストレートに質問に答えず
まず自分を守る言い訳ばかりが出てくることも多くあります。
できるだけ丁寧に何をするべきかを説明してください。

なぜか、それなりに能力の高い人たちが
冤罪保護命令の被害者になることが多いので、
一度こつを呑み込めば頼もしい依頼者になります。

7 プラスの事実の掘り出し

暴力を振るわない事情を掘り出すことも有効のようです。
どんなに追い込まれても感情的にならず、
口論しても手を出すことはなかった
ということは、法の要件を考えた時には
とても良い前例となるようです。

家族思いのことを
申立人側は子どもに執着する性質だと
独自の保護命令の目的に基づいて主張してきますが、
冷静に反論していきましょう。

法律制度に則った解決をしようとしていることは
とても重大な良い事情となるようです。

未だに行政はレノア・ウォーカーの
DVサイクルを言い出して
いい時期があってもそれはDVにつきものだと
主張しているようです。

しかしレノアウォーカーは、
自己の施療体験を述べているにすぎず
科学的に論証されたものではないという評価が定まっています。
良い事情は、どんどん提出した方がよさそうです。

8 自主的な行動抑制

どうしても裁判官は、
夫の妻子に対しての接触を嫌う傾向の方が多いようです。
それにしても法律要件を欠くのだから
保護命令を出してはダメなのですが、
実質的に接触避けるために
危険という抽象的概念を活用して
危険を認定してしまうことが多くあります。

相手方の方から自主的に
離婚調停等が継続している際には
近づかない、用事があるときは代理人を通して行う
ということを誓約することが効果的です。

それでも国家から刑罰の威嚇によって遠ざけられるより
とてもマシです。
また、妻側の一番の興奮ポイントは
子どもを連れて別居したことを
夫が非難してくるだろうということで、
そこに対して過敏になっています。

そのことを許す、理解するという夫の態度は
妻の緊張をだいぶ緩和させるようです。

実際に夫が近づいただけでパニックになることが多いので、
面会や連絡はしばらく遠慮した方が
将来の家族再生にはむしろ有効のようです。

実際の事例では、
申立人が裁判官からの勧告で取り下げたにもかかわらず
取り下げた理由として相手方の自主規制の誓約をあげて来ました。
けっこう威力がある主張のようです。

9 憲法論をきちっと書く
 
これまで述べてきたような民事訴訟法の規定の内
被告の防御権を軽視するような法手続きや運用は
意見書の中できちっと主張するべきだと思います。
分かる裁判官にはわかるでしょうし、
これは、いい加減な決定を出したら
抗告は当然するし、憲法論で最高裁まで争うぞ
という気構えを示すことにもなります。
その際、冤罪保護命令が出された人の
家族を失う喪失感や
子どもの親としてのコミュニティーの中で
暴力人間のレッテルを張られること等
保護の必要性もあり、
その保護の必要性と女性保護の迅速性の調和として
保護命令手続があるのだから
条文を超えて相手方の防御権を害することについては
きっちり問題の所在として示す必要があると思います。


10 冤罪保護命令と戦うことは誰を守るのか

第1に子どもがいる場合は子どもを守ることになります。
考えても見てください。
子どもから見た場合、
自分の父親が、自分の母親に暴力をふるい
身体生命に重大な危険を与える可能性があるとして
裁判所で刑罰の威嚇をもって近づくなと命令された
ということを
後々まで引きずるわけです。

実際に、夫に対して自宅付近を歩いてもいけない
という保護命令も出されたことがあります。
そんな無茶な保護命令を
自分の実の父親が受けたということになると

親に対しての像が悪くなるばかりではなく、
思春期の自我の目覚めるころ、
自分はそのようなDV者の血をひく存在であると
意識せざるを得なくなるのです。

優しかった父親の記憶は喪失し、
叱られた時の記憶だけが父親の記憶になってしまいます。
父親から愛されたことの無い自分という意識は
自己評価の低下を招くことになると思います。

それが冤罪であったならば
取り返しのつかないことになります。

もう一人、申立人である妻本人にとっても
保護命令が出されることは精神的に悪影響があります。

冤罪保護命令が出されるときの多くは、
妻側が何らかの不安を抱えている時です。
理由がある不安の場合もありますが、
理由のない不安を抱えている場合も多く確認されています。
産後うつやパニック障害等の精神疾患、
精神的状態を悪化させる内科疾患や薬の副作用

妻が不安を抱えていれば
夫の虐待があるとのマニュアルに基づいて
「あなたは悪くない」一辺倒の支援が多くあります。

このような支援を受けた女性の中には、
相談をするたびに自分の夫がひどい人だと言われるたびに
精神状態が悪化していったと言う人がいます。

自分は夫という最も身近な存在から
何も理由もなく攻撃をされるような人間なのだ
という意識が固定化され
精神的に落ち込んでいくようです。

不安や焦燥感のすべてが夫に原因があると思いこみ、
とにかく逃げなければ命が危ない
と言われ続け、嫌悪感が恐怖に育っていったと話してくれました。

実際の公文書でも
妻がクリスマスや年末年始だけでも
夫を入れた家族で暮らしたいといったところ、
2時間かけて逃げることを自分が説得したと
警察官が報告しています。

その事例は妻の妄想だったということが
後の保護手続き却下の決定の中で認定されています。

保護命令を受けて逃げ続けると
妻は、いつまでもいつまでも夫が自分を探しに来る
という恐怖を抱き続けることになります。

「近くにおいでの際はお立ち寄りください」
というハガキが届いただけで
警察駆けこんだ元妻は、別居から12年が経っていました。

実は冤罪保護命令を阻止することでもっとも救われる人間は
申立本人なのかもしれません。

11 余事記載

刑事事件で無罪判決をとることや
再審無罪とすることは
弁護士の本懐のように言われています。
冤罪を防ぐことが弁護士の第1の役割であるということは
おそらく共通認識だと思います。

刑事事件は、手厚い刑事訴訟法や当番弁護士、国選弁護人によって
手厚く被告人の利益が守られています。
ところが保護命令はこのような手続き保障がなされておらず、
極めて脆弱な状態です。
冒頭述べた準備期間や実質的弁護人選任権もありますが、
口頭弁論が開かれないことが多いために決定に理由が付されません。
事後的な手続き保障も脆弱です。

私は、どうしてこのような制度が
弁護士や弁護士会から容認されているのか
不思議でたまりません。
構造的に冤罪が生まれる教科書のような制度です。

女性保護だからでしょうか。
女性保護の場合冤罪は仕方がないというのでしょうか。

それならば
犯罪被害者保護のために冤罪も仕方がないと
その先生方は言うのでしょうか。

保護命令事件は、時間がないということもありますが
受任を拒否する弁護士もいるようです。

比較的古くなった私としては
保護命令を取り巻く環境が
どうしても理解できません。

このように、社会から孤立する人を弁護することが
弁護士の本懐だということが
嫌悪の的になるような弁護士界の現状は、
司法の危機ではないかと
余計なことを考えています。

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冤罪保護命令から人権を守るために当事者が知っておくべきこと [家事]

1 保護命令の阻止という目的意識を持つこと

先ず何よりも、
冤罪であれば保護命令を裁判所に出させない
ということです。

夫婦は普通、多少の小競り合いがありますから、
自分は保護命令を出されても仕方がないと思うかもしれません。
できれば早急に弁護士に確認をした方が良いと思います。

保護命令の最大の被害者は子どもたちです。
このことについては、いずれ別の機会にお話しします。
また、申立人自身のあなたへの恐怖、嫌悪感が固定化されてしまいます。

2 保護命令は、何もしなければ決定が出ると思うべし

冤罪保護命令でよくある誤りは
申立書に書いてあることが嘘だったり
きわめて誇張されていたりして
荒唐無稽なことばかり書いてあるから
こんないいかげんなことで
重大な保護命令が出るわけがない
として、きちんと対応しないことです。

しかし、実際はそれで保護命令は出ています。
保護命令が出ると、その過酷さは甚大で、
多くの人たちが精神科治療を必要とする状態になっています。

3 自分は動揺していると自覚しなくても決めつけるべし

突然家のポストに地方裁判所から大きな封筒が入っています。
なんとなく開けてみると
あなたの奥さんが裁判所に保護命令を申し立てて
この決定が出れば、あなたは
奥さんや子どもたちに面会することも、連絡を通ることを
近くを通りがかることさえも禁止され
違反すれば懲役1年また100万円以下の罰金
という前科者になるということなので、
冷静でいられる人はいません。

パニックになることが通常で、それによって
動揺して見当違いのことを始めたり、
逆上して警察沙汰になったり、
あとで後悔することが多くあります。

必ず誰か、あなたのことを考える人に相談するべきです。

4 できれば弁護士に頼むべし

弁護士を頼まないで自分で作った反論書は、
書かない方がよいような自分に不利な内容になっていることが多いです。
自分の感情を制御できないということを
自分で示しているようなものです。
普通の人間ならそうなってしまいます。

第三者が冷静に記載することだけでも大分違います。
また、何を言うべきかということも
法律を知らなければわかりません。
必要なことを書かないで見当違いのことばかり力を入れることは、
プラスにならないどころかマイナスにしかなりません。

しかし、保護命令の反論書の締め切りまでは、
通常時間が数日しかありません。
弁護士に知り合いがいないことが通常ですから
あきらめてしまいがちになりますが、
ここが頑張りどころです。

インターネットで検索したり、
知り合いにも協力してもらって
力になってくれそうな弁護士を探しましょう。

弁護士が引き受けてくれそうだということになれば、
出会ってから結婚して、現在に至るまでの経過表
A4版で、1,2枚でよいでしょう
これを作って持っていってください。

もう一つ、
申立書に記載された事実が正しいか間違っているか
誇張されている場合は、真実はどうなのか
それだけを書いたメモを弁護士に渡せるように準備しましょう。

ここで一番まずいのは理由から書くことです。
こんなことが起こるはずがないという証明を書いてしまう
自分に自信のある人が多すぎるように思います。

あなたは事実を体験しているのですから
あったか無かったか、真実はどうか
という結論を書かなくてはなりません。

このブログの一つ前の記事をあなたが依頼する弁護士さんに
プリントアウトして渡してください。
ちゃんとした弁護士なら、
自分が何をしなければならないか
直ちに理解することでしょう。

5 裁判所の審尋期日の心構え

とにかく一人で行かない事。
裁判所は完全アウエイですし、
とんでもないことが決まりそうになっているのですから
興奮を抑えることはなかなか難しいです。

しかし、嘘でもよいから冷静にしなければなりません。

暴力をふるう人間をどう見抜くか
裁判所で暴力をふるう人は滅多にいません。
裁判所では、
自分の感情を抑えているかどうかで判断されがちです。
自分の感情を抑えられない人は暴力をふるう
という風に考えてしまいます。

だから、
大声をあげない事、
質問を否定する時は、ゆっくりと考えてから話すこと、
裁判官の質問を遮らない事、
質問の意味が分からなければ弁護士に尋ねること
常に敬語を使うこと
身振り手振りは極力抑えること
膝においているこぶしに力を入れない事

つまり
普通にふるまえばよいのですが、
こういうことは意識しないと
普通ではいられないということを心がけましょう。

自分を守ろうとしない事、これが大事です。
自分ではなく、
子どもたちや家族を守るという視点が必要です。
自分を守ろうとすると
言い訳をしてしまいます。
言い訳をしようとすると
それを言うべきなのか、どのように言うべきなのか
ということを冷静に判断できません。

6 とにかく真実が何かを語りつくす

もしかすると
裁判所は申立人の話を鵜呑みにして
間違った判断をするかもしれません。

それでも、この手続きの中で
あなたが真実を語りつくすことは
あなたの家族にとって必要なことです。

自分自身を守ろうとするのではなく
子どもや家族を守ろうとする姿を示す
それができれば、結果はついてくるかもしれません。

追記

仮に保護命令の要件がないという場合でも
妻は、本当に夫を怖がっている、嫌悪している場合があります。
とても不条理なことですが、
しばらくそっとしておくことが必要な場合が多くあります。
保護命令が出なくても
自分は妻の行動を直ちに規制するつもりはなく
自主的に連絡もしない
ということを先行して述べることも
効果的です。

逆説的な話かもしれませんが、
それが家族再生の早道になることは多くあります。

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やっぱり保護命令手続の現状の運用はおかしい [家事]

この他に、口頭弁論を経ても理由を付さないとかいろいろ問題があるようです。


1 保護命令の要件 重大な危害の具体的危険の存在
保護命令は、「被害者が更なる配偶者からの暴力によりその生命又は身体に重大な危害を受けるおそれが大きいとき」(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律10条)に発令される。
この保護命令に違反した場合は、「一年以下の懲役または一〇〇万円以下の罰金」(同法29条)に処せられることに照らすと、上記発令要件については、単に将来暴力をふるうおそれがあるというだけでは足りず、従前配偶者が暴力をふるった頻度、暴力の態様及び被害者に与えた傷害の程度等の諸事情から判断して、配偶者が被害者に対してさらに暴力をふるって重大な危害を与える危険性が高い場合を言うと解するのが相当である。同旨東京高等裁判所平成14年3月29日決定(判例タイムズ1141号267頁)。
   そして上記高裁は、「これを本件についてみると、前記一の認定事実によると、抗告人は、平成八年以前にフィリピン国滞在中に相手方に暴力を振るって傷害を負わせ、また、平成一三年一月一三日に抗告人が相手方の身体を蹴ったりするなどの暴力を振るって抗告人に外傷性頸部症候群及び全身打撲の傷害を負わせているが、平成一四年一月二日には、抗告人か相手方の手をつかんで相手方を戸外に引っ張り出したことを超えて、抗告人が相手方に傷害を負わせたということはできず、その後に、相手方に暴力を振るったという事実もない。したがって、以上の事情によれは、抗告人か相手方に対して更に暴力を振るって相手方の生命又は身体に重大な危害を与える危険性が高いということはできないというべきである。」としている。
   結局、上記高等裁判所は、懲役1年以下という重い刑罰が予定されている保護命令を相手方に課すためには、配偶者暴力が、生命身体に重大な危害を与える具体的危険が存在することが必要であり、抽象的な危険では足りないということを判示していると解される。これは正当である。

具体的事実は略

7 手続進行に関する意見
  保護命令の手続きは法21条によって、民事訴訟法の適用を受ける。民事訴訟法は、国民が正当な訴訟活動を行わないで、その権利を奪われないように、被告の権利を守るための手続きが定められている。民事訴訟法のこのような被告の権利擁護のための手続きは、憲法31条、13条で定められる適正手続きの補償からの要請でもある。
  確かに、保護手続きの規定は迅速な手続きも要請している。しかし、一方、保護命令が発せられると、相手方は、1年以下の懲役又は罰金100万円以下の刑罰の威嚇のもと、わが子との連絡すら事実上とれなくなる。刑務所に収監されても我が子と会うことを国家は禁止しない。このように本来自由であるはずの穏当な交流すらも公権力から刑罰の威嚇をもって禁止されることは、父親として、配偶者として失格の烙印を押されたと受け止めるものである。その喪失感、自分の力では何ともならないという閉塞感は強烈なものである。しばしば、真実に反する内容で保護命令が出された事例を中心に、相手方に精神障害が生じている。自死が起きることも少なくない。また相手方は子どものコミュニティーにかかわることができなくなる。子どものコミュニティーを中心に、自分の配偶者の生命身体に重大な危険を与える人物であるとの評価が公のものになる。自己の社会的評価は著しく低下する。国家権力の強制において実現させられるのである。保護命令が発せられたものは、屈辱感とともに、大きな疎外感を与えられ、心理的負荷は甚大なものとなる。
  保護命令の手続きにおいては、緊急性がある事情が示されている場合を除いては、民事訴訟法の定める相手方の権利を守るための手続きは、迅速性の要請があっても省略されるべきではない。
  ところが、保護命令手続は保全手続きではないにもかかわらず、申立書副本の送達はなされない。送達とは民事訴訟法においては、送達場所を届けない限り、書留郵便において行わなければならない。しかし、そのような扱いをしていない。本件でも、裁判所からの発送が×月1日で、普通郵便で相手方の住所地のポストに投函されていたため、宿直明けの×月3日になって初めて保護手続きが申し立てられたことを相手方は知った。加えて、意見書の提出が同月7日までと定められており、その間5日しかない。しかも間に土曜日と日曜日を挟んでいる。これでは、有効な反論、防御を行うことは不可能である。また、自己の重大な権利を奪われる可能性、人格を侵害される可能性があるにもかかわらず、弁護士との打ち合わせも十分に行うことができない。代理人選任権も事実上奪われている。司法統計上も、保護命令事件の代理人選任率は異常なまでに低い。民事訴訟法の定める民事的な手続き補償がなされない状態であると言わざるを得ない。
  刑事事件でさえも、無罪推定の原則がある。被疑者被告人の防御権が手厚く保障されている。ところが、保護手続き命令の手続きにおいては、このような防御権は極めて脆弱である。それにもかかわらず、保護命令が発せられると、暴力や脅迫などに該当しない、自己の配偶者や子どもと面会するという人間として自然な感情に基づく行為、本来国家が関与するべきではない私事に対しても刑罰の適用となってしまうのである。これでは犯罪を実行した場合に刑罰が科せられる刑事事件よりも過酷な手続きになってしまう。刑事事件に比較すると防御権はほとんど認められないのと同じである。
  また、保全手続きではないことは、民事訴訟法が準用されていることや、相手方の反論権が形式上認められていることからも明らかである。保全手続きは、本案で争うことができる。ところが、保護命令に本案はない。子どもたちと会えない期間は取り戻すことができない。保護命令によって面会ができないことに伴う周囲の評価、配偶者の生命身体に重大な危険を与える人間だという評価も回復する方法がない。
 このような重大な問題をはらむ保護命令手続であることに鑑み、拙速な審理を回避し、改めて相手方に十分な防御権を行使し得る状態にするべく、反論の準備を改めて補償するべきであると考える。3週間後に改めて口頭弁論期日を設けるべきであると考える。また、事実認定は証明によって行われなければならないと考える。


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身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 忘れさせられた日本のこころといさかいの真の原因 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

空也上人の歌が出典だという説が有力であるようです。
宮本武蔵の歌にも出てくるという話もあります。
君が代と同じで、
その心を永きにわたって日本人が共有してきた言葉だと思います。

この部分だけを文字通りに読めば
「溺れてしまった場合、
いたずらにもがいてしまうと
呼吸もできないし浮力も活かせない
益々苦しくなるだけだ
むしろ溺れることを恐れないで体を投げ出せば
浮力で体が浮かび上がり
呼吸もできるし
休むことだってできる」
という意味になります。

一般的な言葉の意味としては
窮地に陥ったときには
死ぬ覚悟があって、
初めて窮地を乗り切る活路が生まれる
というものだとされています。
この解釈は
どうやら宮本武蔵の歌(武芸の極意)が
影響を与えているようです。

本来この言葉は、
窮地に陥った場合に限定されたものではなく、
日常の人間の生き方にこそ当てはまるものだと思います。
特に自分が大事にしたい人間関係では
時々は意識する必要のある事柄を示しています。

対人関係学の観点からは、
全く正しい、とても的を射た言葉だということになります。

では、なぜ、身を捨てることが必要なのでしょうか。
身を棄てるということはどう言うことでしょうか。

この言葉には人間関係の紛争、いさかいに対する
深い洞察があります。

人間関係で紛争が起きるのは、
大抵は、自分を危険から守ろうとする気持ちが勝っているからです。
自分を守ると言っても、日常生活においては、
命の危険があるわけではありません。
ではどんな危険がから自分を守ろうとするのでしょうか。

それが対人関係的危険です。

対人関係的危険とは、例えば
「仲間からの評価が下がる」ということです。
評価が下がると
「立場がなくなる」とか、「顔がつぶれる」
ということになり、
さらには、
「仲間から外される」
という一番大きな危険につながっていきます。

人間は、群れを作り始めたころから
つまり今から何百年も前から
仲間から外されるということを
恐れている人生を送ってきました。

仲間から外されないように
行動を工夫して生きてきたわけです。

中には仲間から外されること恐れない個体もいたでしょう。
そういう個体は仲間から外れ行きますから、
飢えたり、
肉食獣に捕食されたりして
死滅していきます。
このため、仲間から外されることを恐れるものだけが
群れを形成し協力して生き延びてきたわけです。

だから、我々現在の人間は
遺伝子レベルで、
仲間から外されることを恐れるようにできています。
仲間から外されることにつながる
仲間の評価が下がるということにも
同じような危険意識を持つわけです。
これが対人関係的危険です。

対人関係的危険の意識は何百万年も受け継がれています。
あまり危険にさらされ続けると
心身が壊れてしまいますから、
人類は、色々な工夫をして
安心して共同生活をする工夫をして
危険にさらされ続けることを避けてきたわけです。

その工夫とは、例えば
人を必要以上に追い込んではいけないとか
理由もなく人を攻撃してはいけないとか
人を馬鹿にしてはいけないとか
他人のものを奪ってはいけないとか言うのも
そういう観点から意味付けをすることが可能でしょう。

ところが現代社会は
必要以上に人は追い込まれています。
せっかく祖先が作り上げた
様々の共同で生きていく仕組みが
現代社会では壊されたり機能しなくなったりしているようです。

例えば、
職場では、無理なノルマが課され、
無理をしなければ、
従業員として失格だというような評価がされ、
また常にノルマや仕事態度を自己点検させ、
評価を気にして仕事をしなければならず
ふいに理不尽に会社の都合で退職しなければならなくなる。
安心して職場にいることはできず、
同僚と世間話をする時間もありません。

就職に当たっても、
一度就職したら安心して人生を全うすることはできず
働きながら次の職場の心配をしなければならない人も多くなりました。
老後の補償もなく、それを考えないで
今生きることで精一杯の職場もあります。

安定した人生を送るためにといって
危険意識に過敏な思春期の時期にもかかわらず、
少しでも良い進学を目指して
他人よりも良い成績を目指しているわけです。

家庭でも
給料が低いと言われないかびくびくし、
成績が悪いと尊重されないということでテストを隠したり
片付けができない、料理が下手だということで
評価が下がる、低評価を口に出されてしまうのではないか
ということが怖い
毎日が脅えて暮らす日々
ということはどこにでも見られる日本に
なっているようです。

現代の日本人は
自分が誰かから低評価されるのではないかという
危険意識を抱いている
という傾向が強いと思います。

そういう風に育ってきていますし、
大人になってもどこかで低評価が行われるわけです。
実際に低評価され排除されたのが自分ではなくても
少しでも気を緩めると
今度は自分だということで強い不安が生まれます。

いわば、対人関係的危険の
傷口が開いている状態なのです。

傷口が開いているので過剰に敏感になっています。
通常ならば、膝に何かが当たっても
難にも気にしない人でも
膝がけがをしていてかさぶたもできていない状態だから
ちょっと触っただけで痛くなり、
足をひっこめるとか、悲鳴をあげるとか反応してしまいます。

だから、例えば夫と妻で役割分担をして、
妻が食事を作り夫が食器を洗うということにした場合、
傷口が開いているので、
夫から見て食事が手抜きだとか量が少ないとか
自分が馬鹿にされると思ってしまいます。
大事にされていないという気持ちになってしまいます。
自分を守ろうと無意識に感情や行動が起きてしまいます。
それは怒りになり、自分を守るために、
相手を攻撃して、自分が尊重されないことを否定したいのです。

妻は、夫の食器洗いが下手で納得行かないと
もしかしたら過去において食器洗いでこっぴどく叱られた記憶から
その時の傷口が又開き、
その時自分が言われたことを夫に言い、
わざと夫の目の前で食器を二度洗いをするかもしれません。
自分を守ろうとしている行動です。

数え上げるときりがないのですが、
悪意のない相手の行動にもかかわらず
傷口が開いていると
自分を低評価していると勝手に思うように
なってしまいます。

不満ならば自分で食事を作るとか、総菜を買ってくれば良いのですが、
それをしてしまうと、
自分の調理を低評価されたと
今度は妻が落ち込むということもあるので
けっこうデリケートな問題です。


本来は、そんなことで
改めて低評価をするということはありませんし、
例えば食事の作り方が雑だからといって
離婚したくなるわけではありません。

むしろ、疑心暗鬼になって自分を守ろうとするあまり
怒りを相手に向かわせることこそ
2人の関係を悪化させる原因なのです。

弁護士から見た場合の夫婦関係の不具合は
ほとんどがこの過剰反応から始まっています。
常に相手が悪いのであって自分は悪くない
と感じている事案なのです。

その人の状況はなかなか修正することができません。
多くの危険意識は無意識に生まれるため
傷口が開いていることも意識できません。

怒りが向かう相手は
どうして相手が怒っているかわかりません。
怒っている相手も、自分が怒っているという自覚があまりありません。
無意識の自己防衛に集中しています。

働いている人は職場で傷口が開き
家に帰って過敏のために怒りが生まれることがあります。
体調や病気が原因で
何も理由がなくても傷口が開いている人も多くいます。

対人関係の紛争は、
このような自己防衛感情、自己防衛行動の
ぶつかり合いから生じることが殆どです。
そしてこれは自分で自覚することができません。
意識の上では、先ず相手方の攻撃があったというところから
ことは始まっていると錯覚しています。

自分の大切な人間関係で
このようなもめごとや相手の傷口を広げない方法は
果たしてあるのでしょうか。

それが自分を棄てることなのです。
これはなかなか難しいことです。
なぜならば人間の本能、遺伝子に反することだからです。

もちろん自分のすべてを捨てきれることはできません。
また常にそのような生き方をすることも不可能でしょう。

でも、せめて2回に一回くらい、
大切な人といさかいを始めた時
大切な人の行動にカチンときたとき
「自分を棄てる」というアイデアを
頭のどこかで起動させることができれば、
大抵のいさかいは大きくなりません。

合理性、正義、理不尽、平等、正義
そのような価値観は
例えば家庭の中では棄てましょう。
だってそれは、
自分を守るための言い訳です。
怒りの感情を盛り上げるための燃料です。

せめて、自分の怒りに相手が傷ついているのを見た時、
相手をかわいそうに思い、
どうしたら良いかということで
思い出してください。

そう考えることが現代社会における
大人の愛なのだと思います。


例えば封建社会は様々な問題があり
克服されるべき制度であることは
間違いありません。

しかし、その否定のされ方が
全て一緒くたに否定された側面もあり、
本来否定しなくてもよい事柄も
否定されてしまったのではないかと
そう思えてなりません。

封建社会は、
現代社会よりも生きやすかっただろうなと
思うことがあります。

決められたことをやっていれば
それなりに尊重されたのではないかなあと思います。
現代とは違って。

現代とは違って
自分の領分という言葉があって、
そこには仲の良い人間も立ち入れない
そういうルールがあったからです。

このあたりの歴史は、
日本の近代化の過程で
黒く塗られてしまい
大いなる誤解を与えられているようです。

日本において古来は、
そもそも共同体意識が強く、
共同体の中で、自分を棄てることが
現代よりも多くできたのだと思います。
そうすることによって
共同体の仲間としての地位が
きちんと約束されていたのだと思います。

やるべきことをやれば
誰からも文句を言われないから、
多少の感情的な攻撃があっても
やることをやっているという意識があるため
防衛感情を起こす必要がなかったのだと思います。
理由もなく生まれてくる感情を
聞き流すことができたのだと思います。

近代化は
「個人」を単位とするということが
無条件でもてはやされてしまい
あるいはそのように追い込まれてしまい、
自分を棄てるという発想を奪われているのかもしれません。

あるいは戦争などの近代化を進めた歴史の中で
自分を棄てるという美徳が
国や産業など、大きすぎてヒトの感情が追い付かない
集団の一方的な利益のために利用されてしまったことから
封建制度が否定されたように一緒くたに否定されてしまい、
無条件で個人が尊重されなければならないと
思いこまされてしまうようになったのかもしれません。
しかし、それは、現代社会の病理を見ていると
個人の分断による、初期設定された傷口となっているように
感じられてなりません。


自分を棄てるということは
あくまでも自分を守るためであり、
自分が大切にしている仲間の幸せのためだということと
そのことによる個人が幸せになることと
切り離せないことなのだということを
そういう考えを
はじめから考えさせないという
悲劇の側面が強く表れている、

現在日本の人と人の紛争を見ていて
そう思えて仕方ないのです。


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正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

これから、私は正義を否定します。日本語の正義という言葉に価値をおくべきではないということを説明していきます。あくまでも日本語の正義なので、justice を否定するのではありません。宗教や法律などを否定するものでもありません。一神教や二元論についての考察でもありません。日本語の正義、あるいは、正義だと正面を切って名乗らないものも含めて、それらが実は有害な結果をもたらすものであるということを説明していきます。現代社会の病理の根本に正義があり、この解決のために、正義というものに代わる価値観を提案することを目標としています。

1 正義は人を幸福にしない。正義は人を攻撃する時の言い訳だ。

 正義の名のもとに、人は殺されていきます。世界的規模でみると、戦争や大規模紛争があります。正義の名のもとに命を落としているのは、罪もない子どもたちが大きな割合を占めているようです。戦争に限らず、大規模な紛争は、それぞれが正義は我にあるということを主張しあいます。
 そんな大きな話ではなくても、例えば家庭の中では、相手に対して「間違っている」と怒りをあらわにして非難し、追いつめることがあります。虐待するもの言い訳は、大抵は相手を正しているというものです。
 学校でも、子どもたちは、些細なルールに従わなかったことに対して怒りを持って非難をします。ただ気に食わないだけの場合なのに、正義に反する部分を探し出して攻撃を開始することが多いようです。正義は、しばしばいじめの言い訳に使われています。
 会社でも、部下に対して上司は、会社の正義を振りかざして、正義に到達しない部下の人格を否定する言動を行い、部下のプライベートを奪い取っています。
 これらの対人関係の現代的不具合において、正義は、攻撃をする者が攻撃している自分や攻撃している相手に対してそれを宣言し、攻撃をより激しくする道具として使われることが多いのです。ひとたび自分が正義になると、相手が正義ではないのだから悪だという意識になり、悪を駆逐して、排除しよう、攻撃してもよい存在だという意識付けが気が付かないうちに進んでいるようです。
 正義は相手に対して心理的な負担を与えるだけでなく、自分に対しても心理的圧迫を与える効果を持ちます。正義のレベルに到達しない場合には、レベルに到達しようとして、自分の弱さを否定し、自分ではない何者かに生まれ変わろうとするように、無理をします。正義に到達しないことで人は不安に陥ります。不安の内容は、自分が悪だと烙印を押されるのではないか、突き詰めると仲間から排除されるのではないかという不安です。正義は、自分自身に対しても緊張を強いる概念です。
 正義は人を幸せにしません。自分と他人に緊張を強制し、人を追い込みます。正義が人を癒すことはありません。排除の論理です。
 ひとたび人間関係に紛争が起きてしまった場合、正義に固執することは紛争を解決しないばかりか、紛争を拡大することを目にしてきました。


2 正義は日本人の心の外にある

 正義について、一般には、普遍的価値のあるもので、人間はその価値を肯定し、その価値の実現に向けて行動をするべきものだと考えられていると思います。そのような概念は英語でいえばジャスティスjusticeです。例えば一つの地域で一つの宗教だけが信仰されているのであれば、何がジャスティスで何がそれに反するかということについては共通認識があり、深刻な混乱は生じないでしょう。
 しかし、日本には、国家レベルでも国民の意識でも、ごく狭いエリアのケースを除いては、単一宗教の時代はありませんでした。八百万の神々の存在を認め、とるに足らないと思われるようなものにまで神が宿り、神の使者とされてきました。価値や行動原理の物差しは一つではないという多元的な価値観が存在したのです。神話の神も弱点をもっており、他の神が別の神を打ち負かすときもあれば、遠慮をするときもあるという具合です。万能の神は存在しません。人々の意識は八百万の神の存在を背景にしていたために、物事を正義と悪とに割り切って考えることはなかったようです。盗人にも三分の理等と言う格言が国民共通のものとなっていました。捨てる神があれば拾う神ありということわざもあります。勧善懲悪はあくまでも子供向けの話という認識が通用していたと思います。例えば、忠臣蔵にしても、正義か悪かといえば、待ったなしに悪のはずです。国家権力の中枢で秩序を害した主君が処罰されたことを逆恨みして、罪のない相手方をリンチの果てに殺害したのですから正義とは言えません。しかし、戯作者も読者も、赤穂浪士の心情を理解し、共感を示しているのです。幕府までも、切腹を命じて武士の名誉を保たせたというのですから、正義の観点からは理解できない出来事のはずです。
 もともと日本では、正義という単純な価値観は存在せず、人間の心や行動について、単純に割り切ることをしないで、心や行動の共感できる部分、できない部分を分けて分析的に評価することができていた民族だったと思います。その背景には八百万の神への畏敬があったのだと思います。
 では、いつ頃、どのようにして正義は作られたのでしょうか。

3 正義が作られた目的

 私は、正義という概念が日本にはなかったのですから、正義という言葉も元々は日本にはなかったと考えています。おそらく、幕末か明治維新のころ、justiceの邦訳のために作りだされた言葉だと見当をつけています。時の政権にとってジャスティスという概念はとても有益な概念だったはずです。時代は大航海時代に続き産業革命が起き、西欧列強が植民地や貿易を求めて海外に進出をしていた時期です。この時の西欧列強の言い分が未開の地に文明を導入するという正義でした。日本は植民地となることを回避すると同時に、西欧列強のように海外進出を狙っていたわけですから、西欧列強と同じように自国の利益を主張してもはばからなくて済む正義という概念がほしくてたまらなかったはずです。他国との紛争や侵略について具体的な説明を国民に対してすることは難しいのですが、正義のための行動だということによって、ことをスムーズに進めることができたわけです。正義に反する主張をするものは、悪だと決めつけて排除することができることは、大変都合の良いことでした。
 ここで、justiceの訳語として「義」の文字が使われたことは、大変興味深いことです。正義という言葉が用いられる前は、日本人は「義」という言葉を正確に用いていたようです。
 義とは、自然なものではなく人工物だということが本来的な意味です。義足、義眼、義歯等がその意味で使われています。人間関係においても、義父母、義兄、義弟等、血縁関係は無いけれど、血縁関係ある場合と同程度に扱うべき人間関係を指す言葉として使われています。義という言葉は、この様に血縁関係のような自然な感情によって配慮しあうことができる人間関係ではなく、何らかの形で共同体を形成する人間関係の中で、自然な情愛に代わるルールや作法などとして使われていました。但し、義と情愛は対立する概念ではなく、人間関係を規律する場面の違いに応じて、義が優先されたり情愛が優先されたりするということのようです。いずれにしても、義は他人どうしを規律する概念であるということになります。実際孔子も、情愛を優先させるべき家族の問題で、国家秩序を優先させることに、それは不自然なことだと異論を呈しています。
 このように、少なくとも江戸時代までの日本人は、義が他人どうしを規律する概念であり、義によって社会秩序を形成していくものだということは知っていたはずです。義という文字は現代においても使われています。江戸時代までの感覚も、正義という言葉ができた後でも、続いていたと思います。
 この義に、正しいという屋上屋を重ねて正義という言葉が生まれたわけです。正義という言葉、概念はさっそく大々的に使われ始めました。その後の日本史に照らすと、作られた目的に大きく貢献したと思います。


4 正義に騙される理由

  正義という言葉が普及していくにつれて、日本人がその義の本来の意味を忘れ始めていったようです。義という言葉は使われず、正義という言葉に収斂されていったからです。それとともに、正義の言葉の意味もどんどん曖昧になっていったと思います。
  正義という言葉は、現代では、少年少女向けの戦闘漫画の、「正義の味方」という使われ方がもしかすると一番多いのかもしれません。ここでいう正義は、それだけを切り離すことができません。正義の味方という一つの言葉で、弱い者の味方という意味となります。正義は、しばしば弱者保護の意味で使われます。
  ここでいう弱者は子どもを中心とした物理的な弱者、立場の弱い者等、人によって使う意味が異なってくるでしょう。いずれにしても、不合理な扱いを受けている人たちも弱者として把握し、そのような人たちを守ることが正義ではないかと感じられることもありそうです。それを真正面から正義という言葉を使うかどうかはともかくとして、考え方としては正義の考え方です。
  つまり、正義は、少なくとも、平等、公平、及び弱者保護がその概念の範囲に入っていると言えると思います。不平等が起きている時、不公平が起きている時、弱い者いじめがなされている時、それを正すことが正義の行動だということになるでしょう。
  人間は、この3要素の実現に、反対する感情を持つことが苦手です。平等、公平、弱者保護は、無意識に肯定するべきことだと感じてしまい、その行動に従わなくてはならない、賛成しなくてはならないという気持ちが無意識に起きてしまいます。そして、それを害する者に対する敵意が勝手に生まれてしまい、害する者に対する制裁を肯定する傾向にあります。
  この人間の性質は遺伝的なものです。ヒト、少なくともホモサピエンスを形作る特徴であるようです。
  人間の心は、200万年前の狩猟採集時代に形成されたということが、認知心理学のコンセンサスになっています。手が今の形をしているのは、物をつかんだり投げたりすることに有利なために徐々に進化していきました。同じように心も、その当時の暮らしの環境に適応していくように形成されました。その当時の生活環境で心の形成の関係で特筆するべきことは、数十人の群れ、あるいは200人程度の群れの集合体で生活していて、ほとんどの人間は生まれてから死ぬまで同じ群れのメンバーとだけ共同生活をしていたということです。群れの頭数の確保ということが一番の関心ごとでした。群れがある程度大きいから、肉食獣に襲われにくくなるし、狩猟採集も可能になるからです。群れが小さいとそれができなくなります。もし、群れの中で力が強い者だけが利益を勝ち取っていたならば、絶対的に食料が不足している時代ですから、群れの弱い者から順に死んでいき、やがて群れの頭数が減り、結局は群れが消滅するしかなくなります。だから、一人だけ食料がないという仲間はかわいそうだから、仲間に平等に食料を分けることは、結果として群れの頭数を確保しました。不合理な扱いを受ける仲間もかわいそうだし、反発をして群れに攻撃されても困りますから、公平に扱うことは群れを強化したでしょう。赤ん坊のように弱い者を可愛いと思い、大事にする性質は、他の動物に比べても無力な赤ん坊を守り、群れの新陳代謝を可能にするための不可欠の要素だったことでしょう。このような心は数百万年かけて形成され、その後も人類史の大部分がこの性質によってうまくいっていました。当然私たちの心も、本来はこのような心を持っているわけです。
  ちなみにどうやってそんな都合良く、人間が形成されたのかといえば、簡単な話です。そのような心を持たなかったメンバーは群れを形成することができませんので、どんどん淘汰されていっただけの話です。私たちは、平等、公平、弱者保護に価値をおく心を持っている選ばれた人間の末裔だということになります。心は遺伝子に組み込まれていったのです。
  だから、正義という言葉を聞くと、なんとなく太古の心が動き出してしまい、抵抗をすることができなくなってしまうわけです。しかし、正義の内容をよくよく聞いてみると、平等、公平、弱者保護とは必ずしも関係の無いことが主な内容だとか、確かに平等、公平、弱者保護にはなるけれど、それを実行してしまうと別のところで不平等、不公平、弱い者いじめが起きてしまうということが起きてしまうことがよくあります。典型的には戦争です。しかし、正義という言葉を聞くと、考えることができなくなってしまうようです。
  では次に、正義がどうして誤りを起こすかということを考えてみます。


5 正義には間違いがつきものであることの理由

 1)生物学的な思考停止
   正義が問題となる場面は、不正義が起きているあるいはこれから起きる場面です。何らかのマイナスの価値が存在していて、それを正す場面で使われる言葉です。だから、何も悪いことが起きていないけれど、もっと良いことを起こそうと言うときに使う言葉ではありません。
   先ず、不平等、不公平、弱い者いじめが起きているとされる。すると、私たちの太古の心は、勝手に反応してしまいます。自分が不平等、不公平、弱い者いじめをされている場合は、ストレートに自分に危険が襲ってきているわけです。正義という言葉を持ち出して、それを正すのですから、危険を与える者を攻撃して、危険を排除しようとしている状態です。その際の感情は怒りです。自分ではない別の人が攻撃を受けている場合も、その人がかわいそうだという共感を抱き、やはり危険を攻撃によって排除しようという心理になりますから、感情としては怒りです。
   怒りも、恐怖も、危険を排除しようとしている時の心理状態ですが、このような場合は、複雑な思考ができなくなります。最大のテーマは危険が継続しているか危険が消失したかということですので、二尺択一的な思考方法があれば足りることになります。危険を確実に消失させようとするわけですから、危険の消失は慎重に判断することになり、悲観的な思考となります。怒りの際の悲観的な思考は、相手に対する容赦のない攻撃として現れます。相手を悪だと考え、同じ人間としての仲間ではないと考えることは怒りの状態の心情をうまく説明していると思います。要するに攻撃してもかまわない相手なのだという意識です。危険消失という機能が求められていて、物事を単純化して考えるようにしていますから、相手の心情や周囲の目、あるいは他の問題の所在、正義を実行することによって長期的に見た場合にどのような不利益が生じるかという複雑な思考は停止ないし低下します。そのような複雑な思考をすることは、危険を叩きのめしてしまう一心不乱な行動の妨げになるので、停止させることが合理的なのです。
   大脳生理学的に言えば、前頭前野腹内側部の活動が低下するということになりそうです。意思決定の二重過程モデルに照らすと、分析的思考が停止するということになると思います。
   正義を耳にしてしまうと、人間の思考はこのように頼りないものになってしまうようです。言われている正義が、本当に正義なのかという吟味をすることがとても難しくなってしまい、不正義が正されることについて焦りをもって待ち望むような状態になってしまうのです。
   だから、正義という言葉が出てしまうと、本当は何をするべきなのかという思考が働かなくなってしまい、正義を言い出した人の都合の良いように心を操作されてしまうということが起きやすくなるのです。

 2)多元的な群れの存在
   正義が間違いを犯す典型的な場面は、なるほど確かにその正義を実現するとある人は助かるけれど、その人が助かる以上に多くの人が、もっと深刻な不利益を被るという場面です。
   先ほど、人間の心は、200万年前の単一の群れで一生を終えたころに形成されたとお話ししました。ところが現代社会では、多元的な複数の群れに所属して人間は生きています。家族、学校、職場、経済活動をする取引相手、自治体、国家、社会、インターネットや貿易でつながる外国の人や会社、地球という一つの環境に住んでいる人たち等、同時に複数の群れに所属しています。実際につながりを実感している人もいれば、通常は意識にも上らない人たちの中にも所属していることがあります。
   単一の群れで生活している時代は、群れの頭数を確保するという共通の利益がありました。また、自分の行動によって、不平等や不利益、弱い者いじめを正すこともできました。それによって、誰かが不利益を受けるとしても、それほど難しいことなしに調整が可能だったでしょう。とにかく、目に見える人は仲間だったわけです。
   ところが、現代社会ではこれが通用しません。同じ学校の同じクラスに通っていても、クラスという群れでは仲間だけれども、家族という別の群れにも所属していて、その意味では仲間ではありません。家族の利益を学校に持ち込むと、子ども同士が利益相反している局面もよく出てくることです。これは実際に利益相反しているというよりも、そのように思いこまされるということが実際のところかもしれません。
   このような時代の変化に心は対応していません。環境と心のミスマッチが起きています。
   目に見える人が苦しんでいたら、その人を助けようという心はあります。特に仲の良い友達が苦しんでいたら、仲の良い友達を助けることが正義になります。本当は、別の子どもが仲の良い友達から不利益を受けていて、その別の子どもが反撃をしているとか、正当な行動をしているだけなのに、仲の良い友達が勝手に傷ついていることをとらえ、仲の良い友達に共感してしまい、別の子どもを攻撃してしまうこともよくあります。その時は、正義の意識ですから、別の子どもに保護されるべき利益があるかもしれない等とは考えないのです。正義に反する悪だという意識が生まれています。こうやっていじめは始まります。
   複数の群れにいることを自覚して行動するか、学校にいる間だけは一つの群れで過ごすという行動様式を獲得しなければ解決しない問題なのかもしれません。
   いずれにしても、現代社会の多元的な群れの存在は、その実態の曖昧な正義をそのままストレートに実行してしまうと、新たな不合理な被害者が生まれかねないのです。これを無くすためには正義に価値をおくことはやめるべきです。

6 正義に騙されないために

  意図的に正義を利用する人間は、論理ではなく、相手の正義感情を動かそうとします。相手の思考を停止させ、自分の主張を通しやすくするためです。太古の人間の感情を掘り起こそうとします。弱い者が抵抗をすることなく攻撃されたということをことさら強調するわけです。そして、他人の感情を動かすために、自分の感情が動いていることを猛然とアッピールします。「私はかわいそうで涙が止まらなかった。」とか、「怒りに震えることをどうすることもできなかった。」等の言葉が出てきます。そうして、自分だけではなく自分と同じ感情を持っている人がいることをアッピールします。それを聞いているうちに人間は、だんだん太古の心が活性化されていくようです。その意図が分かって聞いていると気恥ずかしいくらいばかばかしい訴えなのですが、まじめな人、不平等、不公平、弱者保護に敏感な人は、何とかしなければならないと、すぐに焦りの感情を抱いてしまうようです。オピニオンリーダーを呼ばれる立場の人でさえ、そのような焦燥感に無抵抗に追随した姿を目の当たりにして複雑な思いをしたことがあります。ひとたび感情を操作されてしまうと、だからどうするこうするということはあまり吟味をしなくなります。不正義を正すということで精一杯で、提起された行動のデメリットについて何ら考慮しないで、正義を正すという大合唱が始まりました。人間は、実に弱く脆いものだということをつくづく感じさせられました。戦争はこのようにして起きたのだなあと感心したくらいでした。感情に訴えかけてくる手法がみられたら、直ちに冷静になる必要があるわけです。特に、感情的にだれも異論がないということと、その感情に基づいて行う行動は全く別物だという意識を持つべきです。
  特に、法律や国家政策など、多くの人間に影響を与える問題については、正義を振りかざして決めてはいけないところです。一つの法律が、うまく機能する場面と逆に機能してしまう場面のあるところを探して、少しでも不具合がないようにしなければなりません。個別事件を解決しようして国家政策を定めると、それによる不利益が必ず出てくると考えるべきです。法律とはそういうものです。「目には目を歯には歯を」で有名な紀元前18Cのハムラビ法典も、正義による制裁が過酷になる人間の性質を踏まえ、目をつぶされたら目をつぶす範囲で、歯を折られたら歯を折る限度で罰を与えるという、正義感情の抑制のために作られた法律だと理解されています。
  正義感情を理由として、国家政策や法律の改変の主張が行われる場合は、くれぐれも注意が必要です。国が正義を持ちだしたら、胡散臭いという気持ちをもって注意を払う必要がありますし、企業が正義を持ち出した場合は、先ずは企業の利益追求が真の目的としてあるのではないかということを疑うべきだということになります。

7 正義を棄てることは、人にやさしくなること

  ここまでお読みいただいた方も、まだ、正義を棄てされることには抵抗があるかもしれません。私を悪魔の使いのように不快を感じている方もいらっしゃるかもしれません。それは正義という言葉や概念がなくなったら、世の中は混乱するのではないかという不安があるからではないでしょうか。しかし、正義なんて言葉や概念がなくても世の中は混乱しません。江戸時代までの日本の秩序正しい社会は、幕末や明治初頭の外国人の記録から明らかです。八百万の神のお力もあったのでしょうが、おそらく、当時の世界第一の規模の大都市であった江戸において、多様な人間関係の中で調和的に平和に生きていく方法を確立していったという側面があったのだと思います。
  正義ではなく、相手の気持ちを尊重するということに心情や行動の拠点を置くべきです。特に、家族や学校、職場等、目に見える相手との人間関係では、正義ではなく、相手の心情を尊重するという原理に置き換えなければならないと考えています。相手の置かれた客観的状況においては、相手が苦しく感じるだろう、怖い思いをするだろう、かわいそうだから止めよう。こういうことが人々の行動原理になるべきなのです。これができないから虐待やいじめ、パワハラ等が起きるのだと私は強く訴えたいのです。
  その上で、つまり他者の心情への共感を基盤とした、平等、公正、弱者保護を実現していくということをするべきだと思います。曖昧で、裏の意味が隠されやすい正義等と言う言葉を使う必要はないと思います。
  さらに、そのような共鳴や共感に基づく対人関係は、マイナスからゼロを目指す概念ではなく、ゼロの先のプラスを目指すことのできる思考ツールです。家族、友人、同僚の中にいることで、安心できて癒される、この人間関係を大切にするために生きているという実感をもてる幸せを感じるための思考ツールだと考えています。
  正義の名のもとに、相手に緊張を強いるだけでなく、自分にも緊張を強制していたと最初にお話しました。正義は、個人個人の弱点や不十分点、失敗を許さない傾向にあります。しかし、人間は弱い者ですし、完璧ではなく、常に正義を目指す生きものでもありません。ずるい考え、よこしまな考え、安易な方向でずるい考えを持つこともあるでしょう。その不完全なことを正義は認めません。正義を棄てることは人間の弱さを認めることです。自分の弱さも認めてあげましょう。但し、それを行動に移す場合は、それによって不利益を受ける誰かの心情を考えるようにすることが必要です。そして、「かわいそうだからやめる」ということをしなければなりません。
  人間の心は、200万年前に形成されたまま進化していないと言いました。心は進化しなくても、頭脳、思考形式はだいぶ進化したようです。おそらく、現代の環境変化と心のミスマッチを解消する思考が「理性」というものなのでしょう。
  正義を棄てることは理性を働かすことを容易にして、人にやさしくなれる。人というのは仲間の誰かであり、通りがかりの人であり、また自分自身なのです。ありのままに自分を否定することなく、理性的な行動をする。これが、これからの行動原理になることだと考えております。

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【講演告知】職場ストレスが家庭に与える深刻な影響とそのメカニズム 死ななければ良いってものじゃない 支援者が必ず持つべき視点 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

2019年2月21日木曜日 6時45分から
仙台駅前アエル28階研修室において

自死防止の多業種ネットワークみやぎの萩ネットワーク
主催の定例会において
「家庭の問題の真の原因は家族の職場にあるのかもしれない
〜職場ストレスが家庭に与える深刻な影響とそのメカニズム」
と題したお話をさせていただきます。

だいたいおかしいわけです。
人間の行動や感情が
その置かれている環境によって大きく影響を受ける
ということは争いのないことのはずです。

ところが、弁護士や心理士その他の支援者は、
いざ相談を受ける段になって
そのことをコロッと忘れてしまうようです。

夫が怒りっぽくてしつこい
子どもがふさぎがちでやる気がないようだ
という質問を受けると

「それは夫のDVだ、一生治りません」とか
「子どもはうつ病だから薬を処方してもらいましょう」とか
人間の行動や感情が
その人の既に完成された人格であるときめつけ
家族分離を勧めているのです。

非科学的なエレナ・ベーカーの結果論の輸入を
それとも知らないで信奉しているカウンセラーが多すぎます。
どうもカウンセラーという人たちは、
偉い人、有名な学者が言ったということをもって
エビデンスとしている傾向があり、
正直辟易することが多くあります。

しかし、その固定人格の烙印を押された事例の少なくない事例に
環境的要因があることを目撃しています。
環境的要因を共有することによって
家族のきずなが深まり、
続く困難に立ち向かうことができた
という事例も多くかかわっています。

その環境の中の無視しえないものが
過重労働等の職場のストレスです。

「その旦那さんの出勤時間と帰宅時間はどうなっていますか?」
という一言から問題が解決することも多くありました。

環境的要因に目を向けると
根本的解決手段にアプローチできる可能性が高まるだけではなく、
解決行動を協働することによって
問題発生以前よりも良い結果が生まれることもあります。

お互いを支え合う行動ができるからです。

これに対して、相手の人格の問題と決めつけてしまうと、
家族に対する恐怖の感情が生まれてきます。
あなたは悪くない、それは精神的虐待だというアドバイスを聞くごとに
「自分が理由なくしいたげられている。
 自分は、相手からどうでもいい存在だと思われている」
という意識が固定化してゆき、
恐怖感、疎外感、相手に対する嫌悪感が募っていくようです。

相手の行動のすべてが、
自分を否定する行動だと意識されるようになり、
楽しかった出来事の記憶も
自分が馬鹿にされても耐えていたという意味の再構成が起きてしまい、
記憶の改変が起きるようです。

この悲劇をお話して一緒に考えてもらおうと思っています。

どんなに職場で辛いことがあっても
家庭ではスタンダードを維持しなければならない
ということは理想であって
人間観として端的に間違っていると思います。
だから実務的ではない、
つまり問題を解決しないのです。

弱い人間であることを前提として
家族が意識していない問題を顕在化させ
苦しみを共有するだけでも
人間は強くなれます。

職場のストレスは
対人関係的危険の意識を高めます。
いわば傷口が開いている状態です。

対人関係的危険を解消したくても
職場のストレスの場合はなかなか解消できないことが
多くあります。

職場という対人関係で開いた傷口ですが、
対人関係的危険意識ということで
家庭という対人関係の中でも
傷口が開いている状態なので、
些細なことで敏感に反応してしまうのです。

危険を防衛する仕組みは、
記憶の仕組みとかなり重なるのですが、
危険に対処しようとする神経活動が起きています。
防衛意識が過敏になっている状態です。

この神経活動は、それほど緻密なものではないから
対人関係の中で尊重されていないという傷口が
家庭でも閉じにくくなっています。

それで、過敏な神経にさわってしまい、
怒りという防衛行動が誘発されてしまう
ということが多くみられるわけです。

家庭を家族の安全基地にする作業こそが必要です。

また、労働者である当事者はなかなか職場に文句を言えませんが、
家族ならば職場に文句を言うことができることがあります。
憲法で保障されているのは労働者の労働組合ですが、
家族組合を作って、職場と交渉をするということも
アリなのかもしれません。

今の地域労組は、
家族も組合員となって団体交渉に参加する労組もあります。

もしかしたら、
働き改革を推進する力は家族にあるのかもしれません。
働き方改革の目的も、労働者家族の幸せにおくべきでしょう。

当日のお話は、
悲劇的なお話をいくつか行い、
環境の人間に与える影響を紹介し、
どのような支援をするべきだったのか
一緒に考えていきたいと思います。




 
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脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期 [刑事事件]


全体が長くなるので、
最初に抜粋した部分だけ載せます。
全文はその後に載せておきます。



4 少年法適用年齢と脳科学
 
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、
 人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、
 扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、
 前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。
 その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど
 「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。
 扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、
 闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、
 何らかの形で自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。
 お金がなくて盗みに入ったり、
 攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、
 実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、
 危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、
 複雑な装いをみせます。

 いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。
 思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、
 関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、
 自分を制御します。

 この制御をする脳の部分が前頭葉です。
 協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、
 良いことをしようと思っているのではないということになります。

 扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、
 前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、
 自分の中で対立が起きているわけです。
 
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、
 20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。
 前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。
 アクセルの性能は完成したけれど、
 ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。
 これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。

 だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、
 19歳までは子どもとして扱おうということは、
 脳科学的には理にかなっていることになります。

 本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、
 一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。
 賛成反対という必要はないのですが、
 このような観点も科学的に証明されているのだから、
 法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。

 もともとこういう学問をするべきだと、
 研究対象を義務付けることには私も反対です。
 科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。
 但し、その研究成果については、
 社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。

 それを促すためにも、日弁連は、
 法律以外の学問分野についても意識的に
 アンテナを張り巡らせる必要があると思います。

 相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、
 連携はできないものだと思います。

 日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、
 脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、
 残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。



脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期

賛成、反対という単純な話ではなく

1 少年法の適用年齢引き下げの動き
民法や公職選挙法の成人年齢が18歳に引き下げられました。これに伴って少年法の適用年齢も20歳差から18歳に引き下げられる動きがあるようです。日本弁護士連合会は、この動きに反対しています。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/child_rights/child_rights.html#hantai
少しわかりにくいと思うので、少年法と刑法の関係を説明します。大人は犯罪をすると、刑事裁判にかけられて懲役刑や罰金刑という刑が科せられる手続きに入ります。ここでいう大人は、現在では20歳以上を言います。19歳以下の場合はどうなるかというと、原則として、大人の刑事手続きの対象とはしないで、少年法の適用を受けるという扱いになっています。
 少年法の適用があれば、刑事事件ではなく少年保護事件となり、大人の刑事事件が地方裁判所や簡易裁判所で行われるのと異なり、家庭裁判所で手続きが行われ、処罰という観点ではなく保護、更生の観点からの処遇になり、死刑は無期懲役としなくてはならず、無期懲役の刑が相当な場合は10年から15年の刑にできるなどと定められています。
 これが現在は19歳と18歳もこのような扱いであるけれど、少年法の適用年齢を18歳未満とすると、19歳と18歳は大人として刑事事件として手続が進められることになります。
 少年事件の特に重大事件は、徐々に減少しているということが実態なのですが、一つ一つの事件が大きく印象的に取り上げられるために、少年に対する処罰感情が強くなっていることも改正の背景にはありそうです。

2 なぜ刑法とは別に少年法があるのか
 少年に対する処罰を厳格化する人たちがいることは確かです。被害者やその家族からすれば、犯人が成人でも少年でも被害感情はそれほど変わらないでしょう。被害は一つなのに、少年だからといって厳格な刑事手続きから外されるということは感情的には納得できないでしょう。
 しかし、国家政策は被害者の感情も考慮に入れながら、別の要素も重視していかなければなりません。
 では、なぜ、少年は大人の手続きではなく、少年法の手続きにしたのでしょうか。
 極端な話からすると、例えば、4歳の子どもが、スーパーでお菓子を食べてしまったとします。大人であれば万引きということで窃盗罪となります。警察に連れていかれて留置所に留置され、起訴されて裁判が始まり、実刑判決となれば刑務所に行きます。これが大人の手続きです。これを4歳の子どもに適用できないし、適用しても世の中に良いことはないでしょう。(このため、14歳未満の刑法犯は処罰の対象ともなりません。14歳以上は、少年法の適用はあるものの、交流上に留置されて取り調べられる可能性があります。)
 大人と子どもについて、区別することは理由があると思います。その線をどこでひくかという問題です。問題提起を研ぎ澄ませると、「少年法の適用がある19歳と適用がない20歳は、何が違うのか」という問題になります。
 この法律は、戦後直後に制定されているのですが、あまり科学的な議論があったわけではありません。人間には個性があり、若いのに立派な人もいれば、年を取っているのにだらしのない人がいることは事実です。本来年齢で決めることは非科学的な感じもします。しかし、法律はどこかで線をひかなければなりません。その場その場で法律の適用が異なると、混乱してしまい、無秩序な状態になってしまいます。結局、年齢で線を引くことがはっきりするうえ、比較的公平だということで落ち着いたのでしょう。
 もう少し食いついていくと、大雑把なのは仕方がないとして、何らかの理屈はあっただろうということです。
 一番大きな理由は、大人は待ったなしで自分のやったことの責任を問われなければならないのですが、少年はまだ成長の途中であるから、更生する可能性がある。大人と同じ前科をつけることで、社会の中での足かせをはめてしまうと、少年の立ち直る機会が失われてしまうので妥当ではないという考えです。少年のころの失敗をすべて残して立ち直れなくなってしまうより、立ち直らせて社会に無害になってもらった方が世の中のためにも有益だという考えもあります。

3 人が処罰される理由と法学と脳科学
脳科学や心理学を勉強していると、刑法の理論というものが、実はとても科学的であったことに驚いてしまうことがあります
日本の刑法が制定されたのは1907年ですが、これはプロイセン刑法などの影響を受けているので、実際の刑法理論は19世紀のものです。しかし、その後に明らかになった脳科学的知見とこの19世紀の法学が矛盾なく整合するのです。
 一番わかりやすいのは、人を処罰する根拠です。

 刑法理論は、自分がこれからやろうとすることが犯罪に該当することならば、「やっぱりやめた」と思いとどまらなくてはならない。それなのに思いとどまることをしないで、実行したことが非難に値する。つまり処罰できる。というものです。
 だから、思いとどまることを期待できない、子ども、生理的反射、病気の症状などについては、自由意思に基づく行為ではないので、「やっぱりやめた」と思うチャンスがなく、非難できないので、刑罰の対象としないのです。
 面白いことは、非難の対象が「思いとどまる」ということをしない点にあるということです。これは脳科学の知見から実に正しいことだったのです。
 1960年代、ベンジャミン・リベットという人が実験を行いました。指をあげる時の脳波の変化を測定しました。そうしたところ、指をあげようと思ってから指をあげるまでに4分の1秒かかったということがわかりましたが、実は指をあげようという意識が生まれる1秒以上も前に、脳は指をあげるための活動を始めていたというのです。
 私たちは、自分が、何かをしようとして何かをしていると思っています。実際は違うということになります。先ず、無意識に脳が、その何かをしようと検討を始めていたのです。その後に意識がそれをしようと思い、それをする。あるいは、それを止めようと思い、思いとどまる。こういう流れでありました。
 だから無意識の検討から、意識的な意欲までの1秒間で、人はその無意識の検討を思いとどまるかそのまま実行するかという選択をしていのです。最初の無意識の脳活動は、その人の人格にかかわらずに勝手に思考を始めています。殺そうか、万引きしようか、侮辱しようかと。刑法理論はこの無意識を処罰の根拠としません。それは認めた上で、「やっぱりやめた」と思いとどまらなかったことを処罰の対象とするのですから、人間の意思決定の仕組みを前提にしたかのような理論だったわけです。
刑法理論の人間観は、経験的、直観的に作り上げられたものでしょう。しかし、犯罪だけでなく、人間の行動や意思決定を実に正確にとらえていて、リベットがあとからこれを裏付けたことになります。

4 少年法適用年齢と脳科学
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。お金がなくて盗みに入ったり、攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、複雑な装いをみせます。いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、自分を制御します。この制御をする脳の部分が前頭葉です。協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、良いことをしようと思っているのではないということになります。扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、自分の中で対立が起きているわけです。
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。アクセルの性能は完成したけれど、ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、19歳までは子どもとして扱おうということは、脳科学的には理にかなっていることになります。本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。賛成反対という必要はないのですが、このような観点も科学的に証明されているのだから、法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。
 もともとこういう学問をするべきだと、研究対象を義務付けることには私も反対です。科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。但し、その研究成果については、社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。それを促すためにも、日弁連は、法律以外の学問分野についても意識的にアンテナを張り巡らせる必要があると思います。相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、連携はできないものだと思います。日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。

6 ネタバラシと雑感
 今回の種本は、「あなたの知らない脳 意識は傍観者である。」David Eagleman(ハヤカワノンフィクション文庫)です。脳神経学者が、刑事政策について立派に意見を述べられています。
 イーグルマンは、この本でもう一歩進めて、人間には自由意思なんて存在しないということをかなり説得的に説明しています。だから犯罪者について非難できるところ探すことはナンセンスであり、非難可能性を処罰の根拠としてしまうと処罰をする理由は無くなってしまうということを言っています。もっとも、だから処罰しなくて良いのだということを言っているのではなく、社会防衛から処罰は必要だと言っています。非難可能性ではなく、修正可能性をもって処罰の根拠とするべきだということを言っています。
 大変魅力的な考えです。実際、私も多くの刑事被告人の方とお話してきましたが、自由意思や平等なんて言うのはフィクションだと常々感じています。もともと追い込まれている人たちが犯罪に出るということが実感です。この人が処罰されることは不平等で理不尽なことだと何度感じたことでしょう。
 しかし処罰をしないわけにはいかない。平等や公正というフィクションは維持されなければならないと一方で感じてもいます。ただ、社会防衛的な考えを徹底してしまうと、その人の危険性(イーグルマンでいうところの修正可能性)によって、その人の刑期の長さが決まってしまうという不都合が生じるということはよく言われていることです。私は、あくまでも非難であり、罪に対する応報(むくい)として刑罰というものを考える必要性があるとは思っています。
 考えさせられる典型例は、飲酒や薬の影響のために、「やっぱりやめた」ということが考えにくいような場合です。理論を貫いて、期待できないから無罪にするという割り切りは難しいです。
 どこかでフィクションをフィクションだと自覚しながらも、使わなければならないという法律学の宿命があるように感じました。

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調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由 [家事]



例えば母親が子どもを連れて家を出て実家などに住みだして
子どもを父親に会わせない状態となってしまうと
父親の方は、面会交流調停といって、
子どもに会うためのというか、
子どもを父親に合わせて安心させるための
調停を家庭裁判所に申し立てます。

母親が子どもを連れて家を出て
父親に会わせないために
調停が申し立てられるわけですから
母親は父親に対して並々ならぬ
敵意というか、嫌悪というか、恐怖というか
マイナス感情を持っていて
子どもを父親に会わせたくないことが多いです。

そうすると、会わせるか会わせないという
消耗な議論になってしまうので、
家庭裁判所は
調査官という専門官に子どもの様子を調査させます。
子どもから意見を聞く手続きですが、
小学校低学年くらいまでは
子どもの意見を聞くというより
現在の様子を調査するということが多いようです。

それでも、子どもがそれ以上の年齢だとか、
積極的に発言をする意欲を示している場合は、
子どもが父親等別居親に会いたいかについて
発言させることがあります。

その時、よほどのことがない限り、
子どもは別居している父親に
「会いたくない」と言うものです。
あるいは「どっちでもいい」等投げやりな発言をします。

その発言が調査官報告として
記録に残りますから、
同居親は、鬼の首を取ったように
子どもを父親に合わせることは
「無理だ。時期尚早だ。」と拒否するわけです。

しかし、
子どもは別居親に会いたくないわけではなくとも
「会いたくない」と言うものだということを
心得ておく必要があります。

子どもが会いたくないといったということを理由に
子どもを別居親に会わせない等ということをしてしまうと、
自分が父親に会わないのは自分が会いたくないと言ったからだと
子どもに責任を負わせてしまうことになってしまいます。

これでは子どもが
将来的にも自責の念を抱き続けてしまう危険があります。
大人は、子どもの胸のうちを理解して、
障害がない限り子どもを別居親に会わせる努力をしなければなりません。
同居親は会わせたくなくても我慢しなければなりませんし
別居親は悔しくても同居親が少しでも安心して会わせるために
安心させる工夫しなければなりません。
裁判所や法律関係者は、
子どもの将来を考えて、別居親と健全な関係を構築するために
双方に強く働きかけなければなりません。

面会交流調停は子どものためにあるものですから、
大人の感情で子どもが別居親に会えなくなったら
取り返しのつかないことになる危険があります。
説得をしなくてはならない
ということになります。

さて、なぜ子どもは別居親に会いたくない
と言うのでしょうか。

一つは、現段階(調査時)の子どもの記憶の問題があります。

調査官調査の段階における
子どもの別居親に対する記憶は
当然ながら同居時のものです。
同居時の記憶とは、
父親と母親がいがみ合ってけんかをしているという記憶です。
子どもにとってはいたたまれないとても嫌な記憶です。

その時のことを再現したくありません。
自分の父親と母親が喧嘩をしている
何とも言えない不安な、恐ろしい気持ちになりたくありません。

その嫌な記憶は、父親に会うことを躊躇させます。

夫婦喧嘩は、大体は双方に責任があるのですが、
子どもはどちらが悪いかなんてジャッジはしませんし
させてはいけないわけです。

子どもは、実は母親と父親が別の人間だということを
はっきりと理解できているわけではなく、
二人そろって一組の「両親」というユニットだ
くらいの感覚を残していることが多いようです。
もともとどちらが悪いという発想にはなりにくいようです。

ただただ、穏やかに和やかにいてほしいという
結果だけを求めています。
子どもですから当然でしょう。

ここまでは分かりやすいと思いますが、
問題は、
同居時の嫌な記憶があるとしても、
同居している親と「一緒に暮らしたくない」
等と言う子どもはめったにいません。
別居親だけに拒否反応を示すわけですから、
ど素人は、「別居親が悪くて同居親が悪くない」
という判断をしがちです。

しかし、これは単純に同居しているか別居しているかの
それだけの違いを反映しているだけのことがほとんどのようです。

もともと子どもは、親というものに対して
緊張感と安心感を抱くものです。

基本的には、自分は親から見捨てられないという安心感を抱いており、
それでも、悪いことをして叱られると
恐怖感や不安感をもつものです。
そうやって、群れで過ごすルールを覚えていき、
ルールを守って過ごすことで
安心して生活をすることを覚えていきます。

このため、一緒に過ごしていれば、
多少叱られたり、あるいは逸脱行為があったりしても、
一緒にいる安心感も同時に味わうことができます。

虐待されている親に対してだって
一緒に住んでいることで安心感を得ています。
群れにいるということで安心感を持つ
人間の特性なのでしょう。
親の良いところを探してでも
安心したいのだと思います。

平成14年に広島で母親と祖母に虐待されて
10歳で死んだ女の子も
亡くなる直前に自分を虐待している母親に対して
「お母さんありがとう。大好きだよ。」という手紙を書いています。
この気持ちは本当だと思います。
だから痛ましいのです。

子どもは虐待されても
同居親に拒否反応を持てないということを
記憶しておく必要があります。

つまり、嫌なことはあるけれど
一緒に住んで生活を続けているのですから、
安心したいという本能が優先しますから
子どもは同居親に対して拒否反応を示すことが
なかなかないのです。
また、前回の記事のように、
同居親と一緒に住んでいるので、
叱られても何とかなっているわけですから
日々不安が解消されながら緊張を解決しているわけです。
それが一緒に住んでいるということです。

ところが父親の記憶は、過去のものです。

一緒に暮らしている人間に対する記憶ではないので
安心の感覚を持つ要求が生まれません。
同居バイアスがかからないと
別居親についての記憶は、
夫婦喧嘩をしているときの記憶となってしまうことは、
記憶というものが危険を記憶して
危険に近寄らないためのものだという
その本質からも理解できるでしょう。

特に母親が感情的になり、
父親が理路整然と母親を論破して
母親がさらに感情的になれば
子どもからすれば
父親が母親をイジメているという記憶にしかなりません。

また、厳格すぎる父親の場合は、
しつけが厳しいために
子どもたち自身が父親から叱責されて
困惑しているという記憶が先に立ってしまいます。

別居親の方が、自分についてのお子さんの記憶について
楽しい記憶が先ず出てくるだろうということは
記憶のメカニズムからするとあまりにもロマンチックで
現実味がありません。

したがって、別居している子供が抱いている
別居親に対する記憶は、
同居親を攻撃している目撃記憶、
叱られて困惑している困惑ないし恐怖記憶
つまり緊張の記憶がまず出てきてしまいます。

別居親がしつけに厳格で同居親がフォローする役割分担だった場合は
むしろ別居親と一緒にいないことが安心の材料だ
ということになっている場合も結構あるようです。

このときに、別居親に会いたいかと尋ねられたら、
まず、緊張の記憶が出てきますから、
「今は会いたくない」
ということが自然なことなのです。

実際はどうしても嫌というわけではないのですが、
緊張が先に立ってしまいますから
会うことが「しんどい」ということがリアルなのでしょう。

ここは前回の記事でも分析しています。
「長期休みの最終日が辛い理由」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-28

さらには、子どもの後ろめたさという事情もあります。
早い子の場合は就学前の6歳くらいから、
子どもは、
同居親と一緒に生活していることが
つまり別居親と生活していないことが
後ろめたい気持ちになっているようです。

別居親と久しぶりに再会したとき
別居親に謝るお子さんを目撃することがあります。
とても痛ましい光景です。

動物は、無意識に自分を守るものですから、
この後ろめたさを合理化するために
別居親の落ち度を数え上げるということが
起きているのかもしれません。

一緒に住んでいる親については
安心材料を探すわけですから
ちょうど反対のことをしています。

このように、
同居親が、あるいは祖父母などの同居人が
同居親の悪口を吹き込まなくても
子どもは、別居親に「会いたい」とは言わないものです。

さらに同居親が別居をした後も苦しんでいるとか、
同居親が別居親に強い葛藤を抱き続けている場合、
それだけで子どもの別居親に対する拒否反応を
高めてしまうことはお判りでしょう。

何とか目の前にいる同居親を助けたいと考えることは
子どもの成長なのです。

別居親を攻撃することで、
自分の後ろめたさを正当化し、
同居親に同化することで、
安心感を獲得したいという本能が発動されてしまうからです。

もし、子どもが
別居親に会いたくないと言いながらも
同居親との楽しかった出来事を語りだしているのならば、
直ちに面会交流を始めるべきです。
本当は子どもは別居親と会いたいといっているようなものです。

同居していない親との
楽しい記憶は薄れていきます。
そうすると、
別居親の悪い記憶だけが残り
同居親をイジメていた絶対的悪の人に固定化されていきます。
ますます同居親をかばおうとして
同居親の気持ちを忖度するようになります。
よく言われるのは、
アイデンティティーが確立するべき
15歳のころ、
絶対的善の同居親と絶対的悪の別居親の
間に生まれた自分ということで
自己イメージが混乱してしまい、
自我の確立に支障がでてしまう
その結果、自尊心を持つことができなくなり
様々な問題行動を起こすようになってしまう
ということを心配しなくてはなりません。

もし、実際に、別居親が同居時に
子どもの意思を制圧するような暴力や脅迫をして
会ったとたんに子どもが精神症状を起こすというような
極端な場合でなければ、
早急に面会をして
悪いイメージを拭い去るだけでなく、
安心の記憶を取り戻させるべきです。

試行面会を早急に実施するべきです。
子どもが会いたくないと言って
その理由を夫婦喧嘩だというのであれば
間接的な虐待ということもできるかもしれませんので
面会阻害事由がある可能性があります。
試行面会を行うパターンに該当すると言えるでしょう。

即ち、調査官の立会いの下
いち早く試行面会を実施する必要があります。

通常は、父親が久しぶりの面会に感極まることがなければ
昨日も会ったように自然に会うことができれば、
子どもは、瞬時に安心の記憶を取り戻すものです。

父親が「やあ」と笑顔で話しかければ
それだけで、自分は許され、尊重されているということを
子どもが瞬時に理解できるからです。
安心の記憶を取り戻すことができるからです。

この機会は子どものこれからの人生にとって
何にも代えがたい、生きてゆくための財産になります。
この機会を奪うことは許されません。

同居親には申し訳ないのですが、
少し無理をしてもらわなければなりません。
裁判所関係者や法律関係者は
自然に同居親が同意をするという
ファンタジーを捨てて、
無理をさせる気構えを示さなければなりません。

実際の面会交流が実現する時は
調停委員や裁判官の強い説得があることが多いのです。

その代わり、同居親が安心出来る条件づくりを
こと細かく設定することは考えなければなりません。
相手を攻撃する姿勢は全面的に改めるべきです。
拉致だ北朝鮮だと自分が罵られて
ああ、自分が悪かったんだな会わせなくてはダメなのだなと
子どもを会わせようとするわけはないのです。
メールや電話で脅かされ、
自分が夫婦の問題を抱えているということを
SNSで拡散されたら
「もしかして会わせることは仕方ないのかも知れないな」
等と考えている人だって
「絶対に会わせない」と決意を強めるだけだと考えられないでしょうか。

別居親も同居親も
ご自分の感情を優先するのではなく
お子さんのために我慢してもらいたいと
切に願います。

(今回の記事は、通常言われている片親疎外の概念を
 なるべく使わないようにして書いています。
 実際はこちらが真の片親疎外のリアルかもしれません。
 通常の片親疎外の記事は、
 両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由
 https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10
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長期休みの最終日が辛い理由 結構みんなが辛い理由 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

長期休みの最終日が辛い理由

ゴールデンウイークや夏休みなど
長期休み明けは子どもの自死が増える
大人だって、気が滅入る。
今年(平成30-31)の年末年始は
9日間事務所が休みになったので、
私でさえ、出勤のことを思ってしんどくなったことがあった。

このように多くの人がそうだそうだと思うと
「そういうものだ」になってしまい、
思考が停まってしまう。

そして、単純に
学校や職場の人間関係の問題に問題がある
というような犯人探しに躍起になってしまう。
ところが、何が原因で、どう修正するかについても
まともな議論さえ広がらないのだから、
向こう岸の議論に思えてしまう。
要するに今困っている人にとって、
何の役にも立たない議論だということだ。

とりあえず対症療法を考える人も
いても良いと思う。

問題の所在は、
長期休み前は、その人間関係の中で
ともかくも生き残って
やってきたわけだ。

また同じことをやって生き延びればよいし
実際に多くの人間は休み前と同じように
困難をすり抜けて生きることができる。

つまり、休み前に耐え抜いていることが
休みを挟んでしまうと耐えられなくなる
この仕組みを真剣に考える必要があるのではないだろうか。

その人にとって休み前の生活、人間関係は、
おそらくかなりの緊張の連続だったと思う。
単純な緊張だけでなく、
複数のストレッサーがあって、
ひっきりなしに強い緊張が訪れて、持続して
しかも、顔がつぶされるとか、立場を失うとか
本気で参ってしまう危険を前に
強烈な緊張状態にあり、
局面においては、完全に孤立していると感じていたかもしれない。

これに対して家庭がうまくいっている場合は、
ストレスをあまり感じなくてよい。
だから緊張する必要が少ない。
副交感神経が活性化され、
生理的にはメンテナンスに適した環境になっている。
消耗した神経や血管が修復に向かう。

ストレスという交感神経が活性化された状態から
副交感神経が活性化され緊張がゆるみ切る状態である。

人間は、ストレスがかかり続けると
一気に破綻するが、
緊張がゆるみ過ぎると
行動を起こすことが難しくなるようだ。

通常は一日の内、大雑把に言うと
昼間に交感神経が活性化し
夜は副交感神経が活性化し
一日のリズムの中で活動とメンテナンスを行っている
(サーカディアンリズム)

おそらく、平日に学校に通っている日々も
このような生理的リズムがあるのだろう。
但し、
例えば学校で緊張状態が90ポイントになるとすると
帰宅しても60ポイントとかにしか下がらないのだろうと思う。
また明日のことを考えると
戦闘態勢を解除するわけにはいかないからだ。
朝起きた段階が60ポイントだとすると、
身支度を整えながら80ポイント近くまで上がっていき、
学校に着くころには90ポイントまで上げることは
おそらくそれほど難しいことではないのだと思う。

ところが、長期休みになって、
翌日に緊張のポイントを90にあげる必要がなければ、
日頃のストレス疲れの反動で
休みが続くうちにどんどん緊張ポイントが下がり、
10ポイントくらいになっているのではないかと思う。

10から90に持っていくことはなかなか難しいのだろう。
いきなり90ポイントまで上げなくてはならないと思うと
それはしんどいだろう。

もう一つ理由がある
学校でのストレスのかかる出来事が
対処方法抜きに思い出されてしまうという問題だ。
本当は緊張をしているにしても、
何らかの形でやり過ごしている。

緊張ポイントが高く維持されている時は、
嫌な奴の嫌みが来ても無視をしたり笑ってご増すという
処世術とセットになって思い出すことができる。
理不尽な先輩に会わないように
行動経路を工夫していたかもしれない。

ところが、緊張レベルが低い時は、
ごまかしの対処方法が思い浮かばず、
困難の場面だけが思い浮かんでしまう。
この結果、真正面から正攻法で対処することしか
思い浮かばなくなってしまうようだ。

真正面からの正攻法で対処して失敗した記憶だけが
その時窮地に陥った感情だけがぶり返すわけだ。

しかし、実際は
耐えきっているし、
ごまかしているし
先延ばししているのだ。
これをえいやっとやっているので、
緊張をしていない状態では、
思い出すことができないのだ。

ここまでのことをまとめてみる。

長期休み明けは
緊張ポイントが、通常時よりかなり下がっている。
このため、通常時が緊張状態だったことを体が忘れている。
困難な出来事を想定してしまうが、
緊張状態を作っての対処方法とることを思い出せない。
だから対処方法を思い出したとしても、
それがまたできるとは思われない。

真正面の正攻法での対処方法しか思い浮かばないが
やはりそれができるとは思えない。
出来ないからこそ嫌な記憶なのだ。

その結果、自分が顔がつぶされ、立場がなくなる
ということだけが頭を駆け巡る。
孤立と不可能だけが現実だと感じてしまう。
つまり絶望が起こりやすくなる。

しかし、原因が分かれば対策は簡単にできるかもしれない。

先ず、対処方法を思い出す方法がある。
休みの日学校の近くまで行ってみるということだ。
誰もいない教室に入れればなお良い。
誰もいない教室で一人でいると
なんとなく天下を取ったみたいに安心できる。

実はこの年末年始私も誰もいない事務所に何回か行った。
部屋の片づけをしなくてはならないという
差し迫った必要性があったから行ったのだが、
やはりなんとなく落ち着いた。
私の場合特に理由のない不安というか焦りというか
そういうものを持っていたのだが、
誰もいない事務所に座って仕事をしていると
そういうマイナスの気持ちは
自然と薄らいでいった。
年末年始の間、何回か事務所に足を運んだ。

環境の中で記憶が喚起されるという側面がある。
何とかなってきたじゃないかという自信みたいなものも
湧いてくるだろう。
実際、多くの不安はなんとかなるものである。

次の方法は、
あまりまじめに考え過ぎないことだと思う。
実際休み前は結構適当にやっていたはずだ。
勉強や仕事に関しては適当にやっても困るが、
人間関係については、結構
耐え抜く、ごまかす、先延ばしする
でしのいできたはずだ。
卒業すれば会うことも無くなる人間とは
そんなにまじめに決着をつける必要もない。

逃げられるところは逃げることも勉強だ。
逃げ込むべき場所、逃げ込むべき人は
えり好みしなければ見つかる。
逃げられる時間は確実に逃げよう。
ずるいと思っても、自分が一番だ。

色々困難な現実があり、
不合理な攻撃を受けることも
勉強だ。
危険や困難があっても
一時しのぎや自信をもてる自分のフィールドを作ることも
若いうちに経験しておくとその後役に立つだろう。

一人で打ち込める楽器、読書、収集
それからいざと言うとき守ってもらう家族に
前もって奉仕しておくこと、
できることはやっておいてよいだろう。
自分の危険の程度がそれでわかることがあるので、
よくよくの時に逃げ出すという選択肢を持つことができる。

困難を乗り切ったら自分を癒す方法があると
本当に困ったときも立ち直ることができる。

長期休み明け、
学校に行きたくないのはあなただけではない
原理を考えると誰にでもあることなのだ。

学校に行きたくて仕方がない人というのは、
家庭の中にいる方が緊張を強いられる人だと
憐れむくらいでちょうどよいことになる。

でもだいたいは学校に着くころは、
緊張状態も上がっていき、
行きたくなかった記憶も薄れてくることが多いだろう。

学校で色々嫌なことがあっても
前日に布団の中で嫌がっていた状態よりは
幾分過ごしやすいことが分かるはずだ。



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