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ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説 [進化心理学、生理学、対人関係学]


先日お話しした長すぎるブログ記事
怒りや憎しみは、今虐待されている子、これから虐待される子を救えないということ。虐待防止のパラドクスについて 厳罰化、児相の権限強化、親権の停止が解決と逆行していること
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-10

の中で、
詳細を割愛したことを掘り下げていこうと思います。

今回のテーマは、文明のない時代に(例えば200万年前に)、
どのようにして人間は身を守ったのかということです。

肉食獣から襲われれば、対抗しようがありません。
逃げるにも足が遅く、木登りもそれほど得意ではない。
開き直って闘おうにも
牙も爪も大したものではありません。
だから、これまで生き残ってきたということが
実に不思議です。

ハイエナくらいの小動物ならば追っ払うこともできたかもしれませんが、
ライオンや熊となるとお手上げです。

それでも私たちは生き残っています。
どうやって身を守ったのでしょうか。

これまでの見解では、
ここのところをあまり取り上げられていないように感じます。
もっとも、私の知る範囲では取り上げられていないということなので
本当はきちんと考えられているかもしれません。
しかし、これまでの文献などでの描かれ方は、
襲われてしまったら仕方がない、
仲間はなすすべなく抵抗できず、自分たちだけ逃げた
というように描かれていました。
(私の知る範囲ですが)

でも、それはおかしいと思います。
仲間が襲われて指をくわえてみているならば、
人類は絶滅していることが自然なのではないでしょうか。

人間は例えば200万年くらい前は
既に群れを作って生活していたようです。
狩猟採集時代と言われています。
群れの人数は30人とも言われ、
その群れが数個連携していたとも言われています。

もし、なすすべなく放置して
肉食獣が食べ放題だとすれば、
30人の群れはあっという間に死滅するでしょう。

仮に1か月に1人食べられたとしても、
人間の群れは、徐々に減っていくはずです。

臨月の妊婦とか
新生児とか標的になれば
直ぐに死滅することは容易に想像がつくと思います。
そんなにすぐに次の子どもを出産することはできません。
懐胎から10ヶ月必要ですし、
生まれてきてもすぐに死ぬことが多かったはずです。

1ヶ月に1人食べられてしまうと
毎月一人が生まれなければマイナスになります。
それは、30人の群れでは無理な話です。

私たちが死滅せずに生き残っている以上
私は、人間はなすすべなく食べられたのではなく、
肉食獣に抵抗して生き残ったと考えるしかありません。

その方法は、集団の力です。
それと「勇気」という心のシステムです。

結構、肉食獣と闘うことができたと思うのです。
今まさに対象物を捕食しようとしている動物は、
実は防御はがら空きです。
捕食に全神経を使うからです。

だから、襲われていない群れの他の構成員が
よってたかって肉食獣を攻撃すれば、
けっこう太刀打ちできるのではないでしょうか。
無防備な捕食中の肉食獣からすると
あちらからこちらから棒や石で殴られることは
たまったものではないと思うのです。

攻撃参加する人間の個性
敏捷さ、腕力の強さ、闘い抜く意思等によって異なるのですが、
おそらく成人男性の場合、数人いれば
そう簡単に食べられてしまうことはなかったと思います。

女性が多く、子どももいる集団の場合は、
筋肉の量が女性は少ないとすれば
10人弱くらいの攻撃参加が必要だったと思います。
それ以上いても、人間が密集してしまいますから
攻撃参加というよりも、子どもや老人、病者をかばい
攻撃が変わらないように備えたでしょう。

肉食獣にしてみれば
やはり反撃されるのは怖いわけです。
反撃を覚悟していますから、
自分の身を守るために
勝てないと思った瞬間、逃げ出すはずです。
実験するわけにはいきませんが、
結構有効に反撃することができたでしょう。

但し、これが成功するためには条件があります。
複数人の攻撃参加と
最後まで手を緩めないで攻撃を続ける
ということが絶対条件だったと思います。

この考えを支持する文献は見当たらないのですが、
私は、これが正しいと思います。
最後でお話ししますが、
こういう行動を人間がしていたとすると
とてもいろいろな出来事が説明できるからです。

さて、このように攻撃してくる肉食獣を
みんなで取り囲んで叩くという私の説を、
袋叩き反撃仮説と名付けることとします。

袋叩き反撃仮説に対する批判として想定できるものは、
「肉食獣は誰しも怖いのだから、
生物の自分を守るという本能として
自分にも危害が加わる可能性のある行動は
しないのが自然ではないか。
だから、反撃することはありえない。」(批判A)
というものが考えられます。

現代では、誰かが理不尽な被害を受けていても
多くの人は見てみぬふりをするものです。
批判Aは、普通に考えれば指示されやすいと思います。

批判Aに対する反論を試みます。
反論としては、この批判は、
現代社会という環境に生息する人間の感情を前提とし過ぎる
というものです。

大切なことは、200万年前の環境を前提として考えることです。

この点について説明します。
人間の心や行動も、人間の置かれた環境によって形成される
という考え方を私は支持します。
それは、環境に適応して生き抜くためのシステムだと思うのです。

人間とゴリラ、チンパンジーは、
太古は同じ動物が先祖だったそうです。
800万年くらい前になってようやく
人間の先祖とゴリラの先祖はわかれて
別々の進化の道をたどるようになりました。

その後も人間とチンパンジーの祖先は共通でした。
今から700万年ないし600万年前になって
人間の先祖とチンパンジーの先祖が枝分かれしました。

その頃、人間の先祖は木の上で、
豊富に実っていた樹の実を食べて生活していたようです。

ところが今から400万年前頃から
地球が冷えていき、樹の実が少なくなり
食べ物に困るようになっていったようです。
そのため、人間の祖先は徐々に、樹の上から
地上に降り立ち、動物を狩って生きるようになったと言われています。

200万年頃には、この狩猟採取の時代になっていっただろうということです。

長い時間かけて、からだの構造も変わり始め
二足歩行の骨格が確立していきました。
からだの物理的構造だけでなく、
行動様式も変わっていったと思います。
この行動様式こそ、人間が生き残る理由だったのだと思います。
なぜならば、からだの構造だけでは
やはり、肉食獣からの攻撃に反撃できないからです。
からだの構造以外の理由が必要だからです。

その数百万年かけて確立した行動様式の一つが
袋叩き反撃という行動様式でした。

この行動様式が成立するメカニズムが問題です。
先ず、肉食獣を怖がらず反撃するということ、
そして反撃の手を緩めないということでした。

これはどういう仕組みでしょうか。

言葉もない時代ですから
反撃する約束をしていたとか
そういう道徳が成立していたとか
そういうことはあまり考えられませんし、
そんな弱い仕組みでは
袋叩き反撃が起こるかどうかは偶然に左右されたことでしょう。

もっと強い仕組み、
本能的な仕組みがあったはずです。

先ず、当時の群れについて、
現代との違いを意識することが大切です。

当時の群れは、生まれてから死ぬまで
基本的にはずうっと同じ群れでした。
この群れで生きていかなければなりません。
また、いつも一緒にいました。
現代社会のように、朝に家族がバラバラになり、
それぞれの構成員がそれぞれの別の群れに入っていき、
夜にまた戻るというものではなく、
基本的には同じ群れで行動していたということです。
確かに昼間は、狩猟チームと留守番採取チームと別れたでしょうが、
群れ以外の人間と接触していたわけではありません。

人数が少ないので、
それぞれの構成員の個性も把握していたことでしょう。
まさに運命共同体だったはずです。
血縁の有無にかかわらず
家族以上に家族だった
そんな人間関係だったと思います。

誰かの痛み、苦しみは、自分のことのように
群れの仲間も反応したでしょう。
現代のように、自分と自分以外の人間を
区別して生活していたわけではなく
群れという一つの有機体のそれぞれのパーツ
というような感覚だったと思います。

第1の袋叩き反撃を支えた人間の特徴は、
親子を超えた共鳴力、共感力を持っていたこと
ということになります。

共鳴力、共感力が群れの仲間のピンチに対して
共同して反撃を行おうという動機になるということは
理解しやすいと思うのですが、
それでも、肉食獣は怖い。
至近距離で牙や爪を見た場合は
通常は恐怖で震え上がるでしょう。
この点を克服する仕組みが必要です。

先ほど攻撃する行動を選択するためには、
無意識の勝てるという気持ちが必要だと説明しました。
肉食獣に勝てると思えるでしょうか。
どうやって、勇気を出したのでしょうか。

この点が袋叩き反撃仮説の問題点でありましたが、
逆にこの点が大きなヒントになり、
仮説の理論的中核になっているところです。

「勝てる」と思うのです。
どちらかといえば「勝たなければならない」
というニュアンスもあるのですが、
少なくとも負けるとは思わない心理状態になっているようです。

このような反撃に出る時は
自分一人で反撃しているという意識はないのです。
自分たちが自分たちの仲間の弱い者を守る
という意識になっているようです。

群れによって、群れを守るという意識があるようです。
単体の人間が大型肉食獣と戦うのではなく、
群れという、いわば巨大な動物が
大型肉食獣と戦うという意識のようです。

群れの仲間の苦しみ、痛みに対する共鳴共感から、
瞬時に群れとしての行動という意識は
勝てるという意識に直結するのでしょう
瞬時に行動に移る、即ち反撃参加をしているということになります。
この時の意識は、怒りです。
怒りで訳が分からなくなっている状態です。
後で考えると、ずいぶん危ないことをしたのだなあ
と肝を冷やしてしまうようです。

仲間を攻撃され、その場に別の仲間がいる
そして怒りに支配される。
それが袋叩き反撃仮説の根幹になるわけです。

200万年前当時は、さしたる武器はありません。
旧石器時代は、石の武器はなく、
肉などを切り分けるための道具として石器が使われていたようです。
その辺に落ちている石を握ってたたくくらいの知恵はあったでしょうが、
木の棒が一番の武器だったかもしれません。
それでも、数で勝る人間の群れは
かなり強かったと思います。

こうやって、死に物狂いの袋叩き反撃をしているうちに
肉食獣もだんだん学習してきます。
人間には、うかつに手を出せないぞと思うようになるでしょう。
特に、人間が群れでいる時は
自分の命が危険になるということを覚えていきます。
複数の人間の匂いは不吉なものになったことでしょう。

だんだんと人間が複数いる状態では
襲われにくくなっていったと思います。

それでも、昨今の進化心理学の立場からは
反論Bがありそうです。

利己的遺伝子という問題です。
リチャード・ドーキンスという進化生物学者が提唱した理論です。

但し、実は私は、
その理論を誤解をしている人が多いのではないかと疑っています。
つまり、ドーキンス先生はそんなこと言っていないのではないか
ということを
自分の理解の浅さを棚に上げて考えるのです。

つまり、
本来利己的遺伝子理論は
「結果として」、進化は、遺伝子が自己の遺伝子を継承するように行われている。
そのために、遺伝子が個体を利用している「ように見える」。
ということでした。

だから、本来的理論を貫けば、
個体が利他的な行動をしているように見えても
結果として自己の遺伝子が継承されるのに有利な行動であれば
それも利己的な活動といえる
ということだったはずです。

しかし、一部の有力な学説では、
自己犠牲というのは利己的な遺伝子の理論に反する
と強硬に主張される研究者もおられるようです。
この学説からすると、仲間の誰かが襲われたら
遺伝子は、自分が乗っている個体を逃がすように仕向けるはずだ
ということになると主張するのでしょう。

ところが、例えばハチやアリが
巣を守るために自分の命と引き換えに敵を攻撃するのですが、
この行動の進化論的な理由が必要となります。
遺伝子を継承させる行動だと説明しなければならない
と考えられているようです。
そこで、この点の説明として、
ハチやアリの遺伝子が群れの仲間とかなりの部分(75%)で共通だから
自分を犠牲にしても自分の遺伝子を残すことに準ずる行動だ
という血縁理論を持ち出してきます。

人間は、さらに、子どもであっても遺伝子は50%です。
子どもを守る、子どもでもない群れを守るということは
なかなか説明がつきません。

そこで、群れの構成は元来血縁関係者で作られていて、
比較的近い血縁、DNAを本能的にかぎ分けて
血縁を守る行動が自己を犠牲にする行動
であるかのような説明をされるようです。

しかし、
第1に、生殖して子孫を産むわけですから
完全な遺伝子の継承ということはクローンで増える場合を除き
ありえないことです。

雌雄生殖という戦略をとっている以上
遺伝子の完全性ということは方針としては捨てられています。

第2に、遺伝子が個体を動かすのは
あくまでも原理的なもの、あるいはシステムであり、
あるいは生理現象です。
個々の具体的な行動を遺伝子が指示するわけではない
と言ってよいと思います。
この発想は、遺伝子自体が個体を動かして
目的をもって行動するものだということが
前提とされているように感じられます。

しかし、DNA等が個体を動かしているわけではなく、
結果として遺伝子を継承するように進化が進んでいる
ということに過ぎないと思うのです。
結果論ということです。

第3に、人間は、嗅覚が退化しています。
このこと自体が、血縁をそれほど重視していないことを
示しているように思われます。
他の動物の場合、嗅覚で血縁をかぎ分けて
仲間であると判断することができるそうです。

人間という種は、
そういう細かいことは気にしないで
近くにいる人間同士が仲間になり、
安心感を共有して群れを維持していたのだと思います。
なぜならば、そうしなければ
人間は子孫を遺せなかったからです。

人間が子孫を遺すシステムは
敢えて血縁へのこだわりを捨て
近くにいるものに仲間意識、親近感を抱く
認知心理学でいう単純接触効果を
自然は選択させたのだと思います。

群れを構成する仲間は、
常に一緒にいることから
弱点も、得意分野も、個性も
すべて把握しており、
群れを強くするという意識から、
それらの弱点や欠点も
責めないで、カバーしてきたのでしょう。
自然と、相手の感情を理解し、共有するようになった
ということはそれほど不思議ではないと思います。

逆に言えば、それができた人間の子孫だけが生き残り
それができなかった人間の子孫は木に帰るか
死に絶えたということが適者生存の仕組みだと思います。

つまり、利己的な遺伝子は
利他的行動をするようにすることを
遺伝子継承の絶対手段として選択したということになると思います。
それは、群れという「絶対的な自分たち」を守ることによって
各個体を守ったということになります。


袋叩き反撃仮説の批判Cということも考えておく必要があります。
互恵的利他主義という理論があります。

恩を売ることによって、
将来的な見返りが期待できる
という説です。
恩を売ることによって、仲間の中の評判をあげて、
自分が困ったときに助けてくれるだろうという効果を狙ったもの
ということがそれらの概要です。

この互恵的利他主義の理論は
袋叩き反撃仮説とは、
相いれない部分があります。

袋叩き反撃仮説と互恵的利他主義理論の違いは、
利他行動に出る場合の精神状態です。
袋叩き反撃仮説では、衝動的に相手を助ける行動に出てしまう。
むしろそれは、自分を抑えることができなくなる心のシステムだと説明します。
互恵的利他主義の理論は、冷静に、打算的に行動していることになります。

これは利他行動が起きる状況や利他行動の内容によって異なると思いますが、
大型肉食獣から襲われた場合に群れ全体で反撃する場合には、
われらが袋叩き反撃仮説が妥当するでしょう。
将来的な見返りを期待しての行動であれば、
自分の命を失うかもしれないような行動には出ないと思われるからです。

では、逆に、冷静な状況であればどうでしょう。
例えば、肉を群れのメンバーで分け合った後に
一人だけ肉を食べないうちにカラスに肉をとられてしまったような場合、
この場合は、既に逃げたカラスに
怒りをもって攻撃するわけにはいきませんので、
ある程度冷静でいられるでしょう。

もし、この場合、互恵的利他主義が妥当するのならば、
互恵的利他主義論者からは、袋叩き反撃自体という行動なんて
人間はやっていない、それはお前の妄想だ
といえば一件落着になります。
袋叩き反撃などしなくても
人間は肉食獣に食べられても
何とか生き延びたということになり、
袋叩き反撃仮説は葬り去れることになりかねません。

袋叩き反撃仮説は、
このカラスにエサを盗られた場合の説明として
食料を失った群れの仲間のくやしさや喪失感に
共鳴、共感しだろうということからやはり出発します。
そのくやしさ、喪失感をよそに
自分だけ食料を食べることが
申し訳ない気持ちになってしまいます。

可愛そうだから、おなかがすくことのひもじさを知っているから
自分の食料が減ることを我慢して
食料を分け与えただろうと説明します。

単純な話、そういう感情を持っただろうということです。

群れは運命共同体ですから、
誰かが苦しんでいる場合
群れとして放っておけないのだという感情が
群れを弱体化させないシステムなのだという説明になります。
そして、群れを弱体化させない事こそが
自分という個体を守る最大の方法ということが
当時の当事者の意識をはなれた客観的な評価となるでしょう。

この時、群れ全体を守るという意識は不要です。
個体同士の共鳴、共感による支援が
結果として群れ全体を維持していたということです。

これに対して互恵的利他主義理論を検討します。
一番の問題は、人間の思考能力のとの関係だと思うのです。
将来的な見返りを期待してということも、
かなり後期、農業革命の前夜ころにはあったと思います。
つまり最近ですね。
しかし、200万年前にそれが可能だったのか
疑問があるのです。

その疑問の中核は、将来的な因果関係の把握をする
能力が人間に当時あったのかということです。

今その場では見えない将来的な利益
というものを観念できなければなりません。
それに対して空腹は現在のもので、
感覚としてはわかりやすいものです。
現在のわかりやすい自分の感覚を抑え込んで
将来的な見返りを期待できたでしょうか。

時間の把握がなされなければできないことです。
時間という観念はあったのでしょうか。

私は、時間についての理解は、
農業ないし植物栽培を行うようになって
発展して行ったのではないかと考えています。

また、かかわる人間が多くなり、
群れの人数も増え、他の群れとの交流も開始され
それまでのように感情に任せていたのでは、
ひずみが大きくなっていくにつれて
因果関係の把握の能力も向上して行ったのではないかと思います。

また、ある程度文字のような記録も
発明されなければ
特に将来についての因果関係ということの把握は
難しいのではないかと想像しています。

また、食べ物の切実さがあるでしょう。

現代社会では、食べ物が無くなっても
買い足せばよいですから、経済的な不利益にすぎません。
しかし、200万年前は
今度いつ肉が手に入るのかがわかりません。
肉は貴重なものだったと思います。

それでも分け合う場合には、
将来的な見返りの期待では弱いのではないでしょうか。
共鳴共感に基づく、助けたいという気持ち、
一言で言って愛情に基づくものだ
という方がやはり説明しやすいのではないかと思います。

もっと切実さがない例も検討しましょう。

肉を切り分ける時に、切り分ける意欲のあるものが
石器を無くしてしまった場合、
自分の石器を貸すということは、
将来的な打算ではなく、
今、そいつに石器を持たせて肉を切り分けさせることが
自分にとっても、群れにとっても利益になります。
特に将来的な打算を持ち出す必要もないでしょう。

このように将来的な利益を打算的に考えるということは
当時の人間にとって、複雑すぎるのではないかと思うのです。
先ず、「将来」という観念を持つことができたのか
次に、将来の利益ということを想定することができたのか、
このような高度な因果関係を理解し、
目の前の自分の欲望を制御するということは、
もう少し時代をさかのぼり、
農業革命前後になってようやく可能になると
私は考えます。

さあ、袋叩き反撃仮説の最後のハードルです。
批判Dは、フリーライダー論です。

そもそも、袋叩き反撃仮説は、
群れを守ることが至上命題ではなく、
共鳴共感によって、仲間を援助したいという
衝動というか、感情というか、あるいは欲望というか
そういう即時的な行動を主張しているので、
本来関係がないのですが、
検討をしましょう。

フリーライダー論は、内部からの崩壊論とも呼ばれ、
もし、群れを守ることが、至上命題だとしたら、
大方の群れの構成員は、
群れを守っただろうけれど、
突然変異の個体が現れて、
自分は群れのために尽くさず、
恩恵をむさぼるだけの行動をするだろう。

この突然変異は、何も負担せず
利益だけを獲得するのだから、
群れの中でかなり優位に立つだろう。
そうすると、相対的に群れを守ろうとする個体が
突然変異の個体に駆逐されていき、
生殖を通じて群れの中で突然変異の子孫が優勢を占めてゆき、
群れを守ろうとする者がいなくなり、
群れが消滅するのではないか
という理論のようです。

袋叩き反撃仮説においても、
突然変異の個体が現れて、
利益だけをむさぼって、
それが子孫を増やしていったら
同じように群れが壊滅するという危険があるように思います。


実際にそういう仕組みで壊滅した群れもあったと思います。
しかし、現在まで人間は生き延びた。
そこには、何らかの仕組みがあるはずです。

突然変異は現れるものです。
袋叩き反撃仮説の場合ですと
すべての出発点が、群れの他の個体に対する
共鳴、共感です。
突然変異は、他者に共鳴、共感することができないということですから、
ダマシオのいう、前頭前野腹内側部が
欠損ないし機能低下していれば出てきます。

また、現在においてパーソナリティ障害や
自閉症スペクトラムの一部等
そのような事象については多数報告されています。

おそらく、人類史が始まってからも
他者に共鳴、共感できない個体は多数出現しているし、
共鳴、共感の程度も統一されているわけではなかったでしょう。

では、どうやって、人間は
群れの他の構成員に共鳴、共感できない性質をもつ個体に
滅亡されずに済んだのでしょう。


その答えの一つが、
人間は対人関係的危機を感じる動物だということです。
人間は、今でも群れの中にいたいという本能的要求を持っています。
また、それは、極限的な孤立した場面では
どのような目にあっても誰かと一緒にいたい
という形で現れますが、
通常は、群れの中に安定して存在したい
という形であらわれます。
一人の構成員として尊重されていたいということです。
そして、自分が群れの中で不安定な立場にあることを自覚すると
危機感を感じます。
この危機感は、身体生命の危機感と同様に
交感神経を活性化させ、ストレスホルモンを放出させます。
心拍数が増加し、血圧が高まる等ほぼ同一の反応をします。

この対人関係的危機感を感じることの
直接間接的な効果として
突然変異の個体が優位にならない仕組みができているということが
袋叩き仮説からの説明ということになります。

そのお話の前に、前提問題を解決しておきましょう。

共鳴、共感ができないという現象が起きる原因が
脳の器質的な問題がある場合以外に
育った環境というものがあります。

共鳴、共感は、人間の子どもが、
愛情を注がれて、尊重されて育った場合に
強くなっていくようです。

他の動物に愛情を注いでも
なかなか共感、共鳴力は育ちにくいのですが、
育ちやすくなっているのは脳の構造にあり、
これは遺伝的に決定されていることです。

しかし、せっかく人間の脳の構造があっても、
虐待を受けて育った子どもたちは
愛着障害を起こし、
他の人間が、安心できる存在ではなく
自分に危険を与える存在であるということを学習してしまい、
攻撃を受けないような行動を起こす傾向になります。
危害を受けないように他者とのかかわりを極力避けるか
危害を受けないように媚びていくか
両極端な行動傾向となるわけです。

これに対して、狩猟採集時代は
子どもは、群れの維持のための宝です。
また、それほどたくさん生まれませんし、
生まれてからすぐに死なない子どもも多くありませんでした。
人間は、弱く小さい仲間を無条件にいとおしいと思い
大切に大切に扱ったことでしょう。
動物から襲われそうになったなら
それこそ死ぬ気で戦ったはずです。
そういう個体群だけが生き残ったわけです。

生まれながらにして
群れという自分を大切にしてくれる存在は
個体として心地よさを感じたことでしょう。
他の群れの構成員を大切にするということを
身をもって教えられて大人になっていったわけです。

だから、そういう育った環境からすると
多少共鳴力、共感力を感じる脳機能が
生まれつき低下しているくらいならば
大人になっていく過程で
突然変異の要素は小さくなっていったことだと思います。

それでも、強固な突然変異というものが
存在したかもしれません。
そのような場合、それが多数にならない仕組みは
どういうものだったのでしょう。

一つには、共鳴力、共感力を示さない行動をする者は
群れの中で違和感をもたれます。
それでも特に群れの他の者、特に弱者に不利益を与えなければ、
変わり者というポジションを与えられるでしょう。

ただ、共鳴力、共感力が弱い者も、
仲間の中での自分の地位というものを判断する能力はあるようです。
仲間の中で、自分だけ他の構成員と違う扱いをされると、
疎外感、危機感を感じます。

当時、仲間から、自分が尊重されていないということを感じることは
大きな恐怖感情を抱かせたでしょう。
現代であれば、この危機感は攻撃的行動を呼び起こすものでしたが、
当時は、群れが個体を排斥するということは、
よほどのことだったと思います。
排斥は群れにとっても大事な頭数を減らすことです。
排斥される者の心情に、共鳴、共感したからかもしれません。
だから、よほどのことがない限り
群れから追放されるということはなかったと思います。

しかし、仲間の特に弱者に対して不利益を与えることは
仲間の中の敵、怒りの対象者を作ったと思います。
この時の排斥行動は強烈なものだったと思います。

仲間からの反応によって
自分がなすべきこと、なすべきではないことは
学習されていったと考えます。

最初は、突然変異個体も仲間ですから、
他の構成員も穏当に扱っていたでしょう。
突然変異の個体も直ちに怒りの行動に移らず、
自分自身の行動を修正していったのではないでしょうか。
他の構成員と違うことをするのは
それだけで怖いことだったはずです。

そうでなくても、他の構成員から
自分ならば、他の個体に愛情を持った行動をするのに、
なぜ、あの突然変異個体は自分と同じ行動をしないのか
という違和感を持たれていきます。

何か大きなことがあったとき、
「あいつは逃げる」というレッテルを張られることは
群れの中での評価を下げていったでしょう。
「理解できないやつ」
という不気味な存在になったと思います。

そのような事例がもし、同時期に起こったのであれば、
成人の突然変異体がどのように冷遇を受けるか
幼年の突然変異体が学習するので、
行動を多数に修正することになったでしょう。

このようにして、
突然変異体である、他の構成員への
共鳴力、共感力が欠損している者は
群れの中で優位になることがなく、
群れという環境に適合しない個体ということで
多数にならなかった。
場合によっては、強烈に排除された。
というのが袋叩き反撃仮説からの
結論になります。

これは、規範の起源を考える時に
有効なツールになると思いますが、
この対人関係的危機感や共鳴共感に基づく行動は、
あくまでも、絶対的多数派は、
自然な感情であったので、
それ自体は規範ではありません。

規範は、自分の意思を外在的に制約するもの
と考えるべきだと考えています。

この仲間のために怒りを募らせるという現場を
時々テレビで見られるということを説明します。
野球中継などで
投手が打者の頭部近くに投球した場合等で、
打者が投手に怒りを表現したことをきっかけとして
両チーム全員がグラウンドに飛び出して乱闘騒ぎになります。

大部分は、監督の命令など
外在的に自分の意思を操作する仕組みによって
意識して飛び出していることが多いでしょう。
これは互恵的な利他行為というよりも、
契約ないし規範に基づく行為です。

しかし、よくよく見ていると、
余り当事者性のない人同士が
当事者よりもエキサイトしてつかみかかったりしているシーンを
目にすることがあります。
これは、相互に袋叩き反撃の名残だと思います。

集団で攻撃しているうちに怒りが生まれてしまい、
相手を叩きのめすことを自然に志向してしまうわけです。
中には元々の私怨もあるかもしれませんが、
攻撃行動をしているうちに本気になっているのではないでしょうか。
そこには、仲間のためにとか、仲間を守るという
奇妙な言い訳があったはずです。


このうち、袋叩き仮説が
説明しやすい社会病理として
ネット炎上、いじめ、クレーマーがあります。

ネット炎上は、
誰かのうっかりした発言をとらえて
利害関係のない発言者を執拗に攻撃をする現象です。

あるいは
犯罪者や社会的に否定評価された人を
飽きずに執拗にネット攻撃を繰り返す現象だとしてもよいでしょう。

まず、攻撃してもよい人間をターゲットにします。
誰から見ても明らかに悪いと評価されるだろう人間が
ターゲットになります。

大事なことは、自分のターゲットに対する攻撃が
他者からも支持されるだろうと予測できる相手ということになります。
そして、他者の攻撃参加も期待できる場合です。
既に攻撃されていれば、安心して攻撃を開始することになります。

例えば虐待をして子どもを死なせてしまった親とか
無差別殺人をした者とか
とにかく、自信をもって否定評価できる人物であることが必要です。

ターゲットが定まれば容赦ない攻撃が展開されます。
名前を暴かれ、写真が公表され、親族までさらされます。

彼らは、袋叩き反撃をしているのです。

この場合の想定されている役割は、
虐待による児童死亡の場合は、
亡くなった児童が、自分たちの群れの仲間になります。
両親は、子どもを襲う肉食獣です。

弱い者を攻撃した両親は人間扱いする必要がないという
太古の本能によって攻撃が展開されるのです。

200万年前当時の人間の狩猟のスタイルは
動物を集団で追っていき、
動物が逃げるのを追いかける
さらに逃げる動物を追いかけて、
動物を脱水状態にしたところを
袋叩きにして息の根を止めるというものでした。
体毛の少なく、汗腺が豊富な人間は
熱中症になりにくい体質があります。

また二足歩行という省エネの移動方法も
相手を消耗させる狩りのスタイルに有効でした。

現在は、走って追いつめません。
インターネットの書き込みで追いつめていきます。
この時、発信した情報が
ターゲットに届くか届かないかはどうでもよいことのようです。
攻撃している、そして、その攻撃が
仮想の仲間であるインターネット上で
賛同されたり、評価されたりすることがあれば、
本能を満たすからです。

怒りという感情の特徴もこの炎上にプラスになります。
怒りは、危険の対象に必ずしも向かわない
という特質があります。
いわゆる八つ当たりということです。

人間は危険を感じたら
何とかして危険を解消したい、解消行動をとりたい
と思うようです。
ところが危険を与える相手が大きすぎると
怒って危険を解消できない。

例えば、勤務している会社であったり
例えば国家とか社会であったりした場合ですね。

こういう場合に、そこから逃げることもできませんので、
危機感のアイドリング状態が起きてしまいます。
それでも危機感を解消したいわけで、
解消したいという要求、衝動が高まっていきます。

そこに「勝てる」と思えるターゲットが出現すれば、
それまでの危機感を足して、
相手を攻撃するわけです。

誰からも指摘をされなければ、
こじつけでもよいから攻撃したくなります。
攻撃を開始し、袋叩きの状態になれば、
相手を叩きのめすまで攻撃は収まりません。
まさに袋叩き仮説です。

インターネットの攻撃は
リアル社会での危機感を解消する
格好な八つ当たりの対象だということになります。

この時、攻撃者が感じている意識は、
仲間を守るための行動だという感覚です。

でも、実際は、虐待された幼児とは
リアル社会では何のつながりもありません。
仲間でも何でもありません。

おそらくこのような仮想の仲間が成立するのは、
インターネットができる前からのことだと思います。
農業革命以降
見ず知らずの人間とも何らかの形でつながるという環境が
本来の群れと、群れ以外の人間との区別が
曖昧になって行ったことに起因していると思います。

ちなみに、一般的な攻撃対象に飽き足らず、
安定的に常時攻撃できる相手がほしくなります。
例えば政治的な書き込みの中には、
何でここまでというような怒りに満ちた書き込みがあります。
袋叩き反撃をしているのです。
常に行動を共にする仲間がいれば
反撃を受けることもそれほど心配ではありません。
まさに肉食獣にともに反撃する仲間が存在するということです。
だんだんと仲間を形成し、
同じようなターゲットに対して同じような攻撃を
繰り返すようになって行くということも理由のあることです。

このような事例は、いじめにも当てはまります。

いじめのターゲットは、
要するにいじめてもよい人間だとされてしまった人間です。

ターゲットを攻撃しても
誰からも非難されない、かえって支持されると、
あるいは誰かの攻撃が承認された場面を目撃していると
ターゲットはいじめてもよい対象だという評価が定まってしまいます。
この時、ターゲットに共感寄せる人間以外にとって
ターゲットは人間ではなく肉食獣になってしまいます。

最初はからかいでしょうが、
からかいも攻撃です。
攻撃している感情が怒りですから
からかいが継続すれば、純然たる攻撃に変わり、
それが怒りという感情になります。
怒りが完成してしまえば、
相手が消耗するまで攻撃を継続するわけです。

いじめ予防の効果的な方法は
からかいを禁止することですし、
いじめてもよい人間はいないということで
徹底的にかばうということをすることです。
からかいの中でも、からかわれる方とからかう方に
双方向性が無い場合は、
その時点でいじめだと考えるべきです。
また、ターゲットが孤立していて
からかい側が多数である場合もそれは紛れもなくいじめです。
袋叩きの構造になっている場合は
怒りがエスカレートする極めて危険な状態です。

いじめの加害者たちも
何かしら、ターゲットを非難します。
それは、言いがかりやこじつけと言うべきものです。
それでも
自分たちを守るために攻撃をしているのだという
言い訳をしながら、正当化をしながら
いじめを行っています。
怒りが完成してしまうと
もうそういうこともどうでもよくなり、
怒りをもって攻撃を繰り返します。
ターゲットが消耗するまで続きます。

クレーマーも
相手に勝てると思えないだろう相手にも挑んでいきます。
この時、クレーマーの心理としては
自分が受けた不合理な対応は
自分ならまだ我慢できるけれど、
自分より弱いお年寄りや子どもだったら大変なことになる
だからみんなのために戦う
という奇妙な論理を持っています。

客観的には単独行動なのですが、
自分は一人ではなく、社会的正義だという意識があります。
クレーマーも、主観的には袋叩き反撃をしています。
自分を守る理屈がいつしか攻撃となり、
怒りを完成させていきます。
クレーマーは、陰で攻撃するのではなく、
多数がいる場面での攻撃を好みますが、
これは袋叩き反撃をしている意識だから当然です。


ところで性善説、性悪説と口に出す人や
人間の本性はいじめを防げないというようなことが言われます。
私はかなり大雑把な議論だと感じています。

私から言わせれば、
人間は、元々の単一の少数の群れで育ったころの
その心、感覚を、正義と呼んでいるだけなのだろうと思っています。
数百万年かけてそのような心を育ててきたのです。
農業革命前夜はせいぜい2万年前です。
数百万年かけて形成したものが
2万年程度でそう簡単に変わりはしないのです。

心が
人間のかかわりの人数の巨大化と
複数の群れに所属しているという
新しい環境に適応していない
こういうミスマッチによって病理的現象が起きるのだと思います。

理性によって仲間意識をもつことができれば
解消する問題ではあると思うのです。
見ず知らずの人との仲間意識は
それこそ困難なことだと思います。
しかし、もはや世界は運命共同体になりつつあります。
環境問題や世界大戦になった場合の地球の破滅が典型です。
経済の仕組みも同様に世界中に影響しあっているのでしょう。

理性的に、協調、共存共栄のシステムを構築する必要があると思います。

そこまで世界的な大きな話ではなく、
家族や職場、学校その他の人間関係において
不合理を理性によって調整する、
そして、一緒にいることが癒しになる人間関係を形成する。
そのノウハウを蓄積する
これが対人関係学です。
袋叩き反撃仮説も、
進化生物学からではなく、むしろ逆方向である
現代の社会的病理の原因を考える中で
考え出された仮説であります。

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