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人間が他の人間を攻撃できる理由 虐待、いじめ、パワハラ、ネット炎上 [進化心理学、生理学、対人関係学]



本来人間は、他者との共鳴力、共感力があり、
母子関係になくても、
自然と助け合ったり、一緒に楽しんだりする
能力を持った生き物です。

共鳴力、共感力とはどういうものでしょう。

それは、
誰かが苦しんでいる姿を見ると
苦しいだろうなあとかわいそうになり、
何とかしてあげようと手を指し伸ばすきっかけになります。

悲しんでいる人を見ると
悲しくなって、
何とか励まそうとします。

楽しんでいる人を見ると
自分も楽しくなってしまい
一緒に楽しもうとするということもあるでしょうね。

これを生理的変化で表現してみます。

先ず、誰かから責められていて苦しんでいる人は、
危機意識を感じていて、
生理的には交感神経が亢進し
心臓が高鳴り、体温も上昇し、
逃げようとしていたり、反撃しようとしていたり、
あるいはどうする方法も見つけられずに
危機感のアイドリング状態が続いていたりします。

この責められている人に対して
共鳴し、共感するというときも
自分に危機が発生していないにもかかわらず、
責められている人を見て
やはり交感神経が亢進し
同じように、心臓が高鳴って、体温が上昇して
という生理的変化が起きるようです。

そして、助けようとする人は
危機を与えている者に対して
攻撃をしてかばおうとしますから
怒りのモードになることが多いようです。

不思議なことに
自分自身が誰かを攻撃している場合も、
相手が苦しんでいるのを見ると
意識していなくとも、
やはり、交感神経が亢進することがあります。

攻撃しているさなかでは、
怒りのモードにありますから、
あまり他者への共鳴、共感は起こりにくいのですが、
攻撃が終了してから、
思い出してしまいます。

怒りのモードが覚めて、
共鳴、共感が事後的に働いてしまう場合が
案外多くあるようです。

思い出しては緊張し、
交感神経が亢進してしまう
ストレスが高まって、持続してしまう
このような状態が慢性化して
精神的に破綻をきたす場合があり、
極端には自死に至る場合もあります。

どうやら人間は
そういう生き物のようです。

そういう苦しみから逃れるためには、
人間への共感、共鳴を遮断するしかありません。
共感や共鳴は勝手に起きますので、
なかなかできることではありませんが、
色々な事情から
共感、共鳴を遮断できた人がいるとします。

しかし、人間に対する共感、共鳴を遮断してしまうことは、
人間を大切な存在だと感じないことになるようです。
他人が苦しんでも、泣いても、怖がっても
気にしなくなるということはそういうことです。

そしてそれは、他者への無感情にとどまらず、
人間一般に対する無感情を伴います。
つまり、自分自身でさえも
かけがえのない大切な存在だと
感じなくなって行ってしまいます。

多くは、自分自身が大切な存在だと
思えなくなってから
共感、共鳴が遮断されることが多いようです。

そうすると、自分の命も大切なものではなく、
自分の社会的立場も大切なものだと感じなくなり、
周囲から孤立しやすくなり、
反社会的行動に出たり、
極端な話は自死に至りやすくなる
ということになってしまいます。


この共感と共鳴がピュアに存在していたのが
狩猟採集時代の群れの生活です。
何も武器のない人間が生き残るためには
運命共同体として群れの仲間を大切にして
群れを強くするしかありませんでした。
また
他の群れとの交流が現代のようにありませんから、
自分以外の他人というものは
全員が群れの仲間でしたから
人間=仲間というところから心が形成された
ということになります。

いつも一緒にいる仲間が
苦しんだり、悲しんだりしていれば
自分がそういう危機に直面していなくても
自分が苦しんでいる、悲しんでいるように
交感神経が亢進し、
群れ全体で一人の仲間を助けたのでしょう。
そう考えるのは、
そう考えなければ、弱い人間が生き延びることは
ありえないと思うからです。

よほどのことがない限り、
群れの仲間を攻撃したり
不利益を与えたりするということは無かったと思います。

そういう意味で、群れの仲間と自分と
あまり区別できなかった時代が
共感と共鳴がピュアに働いていた時代と
言いました。

その時代に形成された脳の構造は、
現代もほとんど変わらないと言います。
脳が変わらないのだから、
同じように他人の苦しみ、悲しみを
共感し、共鳴してしまうのです。

でも、共感し、共鳴するならば
はじめから他の人間を攻撃できないはずです。
しかし、虐待やいじめ、パワハラが起きています。
それが原因で命を失う人間も少なくありません。

なぜ、他人を攻撃できるようになったのでしょう。
何かが変わったのです。
脳の構造が変わらないとしたら
それ以外の何かが変わったということになります。
人間を取り巻く環境が変わったということになります。

先ず、狩猟採集時代は
人間はみんな、生涯一つの群れで生活していましたが、
現代では、家庭、学校、職場、地域など複数の群れに所属し
さらには社会、国家、世界等という人間とのかかわりまである。
(群れの複数化、相対化)

狩猟採集時代は、200名弱の人間とのかかわりだったので、
個体識別ができ、仲間だと認識できたのに
現代社会は、一日街に出ただけで
何万という人を目にすることがあり得るほど
多くの人間と接するようになった。
(識別能力以上の人数とのかかわり)

結果として、
狩猟採集時代は、自分以外の人は
すべて仲間だったのに、
現代の自分以外の人間は
仲間であると受け止められない
ということになるようです。


助け合わない、他人のために戦わない
ということは説明がつくとして、
どうして、同じ群れの人間を攻撃するようになるのでしょう。

家では親が子を虐待し、
学校ではいじめや苛烈な指導があり、
職場ではパワハラやセクハラがある
ネットでは、特定の人が袋叩きに合う。

積極的に攻撃することが
なぜできるのかという視点で考えることが
根本的で、効果的な予防方法を構築するヒントになるでしょう。

私は、弁護士や人権擁護委員として
攻撃を受ける被害者からも事情を聴きますが、
攻撃をする加害者からも話を聞く機会が豊富にあります。

共通する加害者の意識として
「正当防衛」の意識、言い訳があるようです。
これは自己弁護ということではありません。
客観的に自分が悪いことをしたということを認識すれば
正当防衛が主張できないことはよくわかっているからです。

でも、どこかに他人を攻撃している時に
自分あるいは自分達を守っているという意識が感じられます。

<ある内縁の夫の虐待を放置した母のケース>

虐待する親、あるいは虐待を放置する親の場合、
母親でも、その虐待行為の瞬間は、
例えば、自分と内縁の夫との関係を壊されたくない
という意識があって、
虐待を結果的に容認していたようです。

もっとも、容認というと不正確かもしれません。
虐待はなかったと、あるいは虐待したのは内縁の夫ではない
ということを熱心に主張していました。

ただ、子どもがどのような被害を受けたかについては
母親は正確に把握しているのです。
口にすることもはばかることを
きちんと言葉で言っていました。
分かっているのです。

しかし子どもの被害を防止しなければならないのに、
自分と内縁の夫の関係性を優先してしまうのです。
あるいは、内縁の夫をかばってしまうのです。

この時、自分の子どもと母親は、
同じ群れの仲間ではなかったと思います。
母親は内縁の夫と同じ群れを形成したいと望んでいたあまり、
子どもが群れの外にはみ出してしまったのです。
もっと正確に言うと、子どもと母親は一つの群れであったのに、
内縁の夫が登場し、
内縁の夫が母親の子どもと群れの仲間になり切れなかったために
母親は、本来自分の子どもの苦しみや恐怖に
共鳴しなければならなかったのに
内縁の夫のイライラに共感、共鳴してしまったのです。
その瞬間は、母親は自分の子どもが仲間ではなくなって、
人間ですらなくなっていたのでしょう。

母親は選択するべきでした。
子どもと自分が一つの群れになれないのならば、
A:内縁の夫とは群れになることをあきらめる
B:子どもを別の群れに帰属させる
  子どもの父親、どちらかの祖父母、公的機関

それができなかった事情もあったみたいです。
その母親は、これまでの人生において
尊重された経験や、助けられた経験
そのような安住した人間関係にいた経験を
余り持ち合わせていないようです。

常に自分が周囲から否定されていると
感じ続けていたようです。

自分が母親として子どもを手放すということは、
自分を否定することだという意識を
強く持ったみたいです。

また、子どもを手放すと
一生子どもと関わることができない
という母親らしい思いもあったようです。

また、内縁の夫が即物的な評価をしたにすぎないかどうかはともかく、
とりあえず、自分を女性として認めてくれる存在であったことから、
内縁関係を維持することは
自分を守ることだったのかもしれません。

今にして思うと、母親は
とにかく自分自身に自信がなく、
自分という原形をとどめないまでに
繕った人でした。


<ある中学生のいじめのケース>

いじめの事例でも防衛意識は常にあります。
これをしなくてはならない、これをしてはならない
ということが、今の中学生には多くあります。
一発受験ではなく推薦の場合は
365日、公私の区別なく見張られている想いのようです。

特に進学に有利な立場にいる者ほど、
そのような息苦しさを感じているようです。

部活動にもまじめに土日も休まないで参加しなければいけない
サボれば推薦がとれない
そんな意識が本人や家族にあるようです。

それにもかかわらず、
推薦なんて初めから無理だから
部活動を休んでも、
学校を休んでテストの成績が悪くなっても
全く平気だよ
部活に行くより女の子と買い物に行った方がよいや
と自由な行動をする人間がいた場合、
息苦しさを感じている推薦志望組は、

うらやましい
とは思わずに、
ルールを破る不正義者
というような評価をするようです。
そして怒りを感じるようです。

息苦しさを感じる者どうしが仲間を形成します。
息苦しさを感じていない者はターゲットとなり
ルールを逸脱する共通の敵のような存在になるようです。

仲間と異質な立場にあり、
仲間に不利益を与えるという意識で、
攻撃が始まるようです。

ここでは、学校という群れの中に、
群れの仲間から一気に敵に転落する人間が現れてしまいました。

このような攻撃が仲間内だけで行われるのではなく、
同時多発的に行われてしまえば、
そのターゲットはいじめても良い「もの」だ
という烙印が押されます。
これは、人間扱いしなくてもよい対象だ
という意識が生まれたことです。

特に子どもだけでなく、
教師が、ターゲットを批判するようになると
正義によって悪をうつという構図は
歯止めがきかなくなります。

この時の加害者の意識は、
ターゲットを人間扱いしないことによって
ようやく、息苦しい生活から
脱落しないための行動をしている
という意識があるようです。

怒りは、本来自分を苦しめる社会や
監視をしている学校に向けられるべきです。
しかし、社会や学校と行っても
具体的な怒りの対象が見えてきませんし、
勝ち目がないことは初めからわかっています。
そうかといって、そのような社会から逃げるわけにはいかない、
高校進学をあきらめるわけにもいかない。

しかし、息苦しさやうまくいかないかもしれないという危機感に
常にさらされ続けている
自分を守りたいという意識が、

ルールを守らないという、
本来であれば自分に対する危険にはなりようのない
ターゲットの行為に正義に反する行為という烙印を押させ、
顔の見えるターゲットに対する怒りを抱かせ、
怒りの特徴である
対象物が衰弱するまで攻撃を続けるという
そういう行動をとらせるわけです。

もう一言付け加えると、家庭の問題があります。
家庭への帰属意識が強すぎると
親の望んだ行動をとるようになります。
自分が成績を落としたり問題行動をしたりして
親を悲しませたくないという
共感と共鳴が働いています。

そうすると、家族という群れを守るために
自分は、ルールを守って推薦を受けられなくなるようなことは
絶対しないという意識が強くなるでしょう。

家族が、自分の子どもさえよい学校に入れればそれでよい
という考えになることは
家族と他人の子どもたちの間に群れ意識がない現状のPTA制度からは
ある意味通常のことかもしれません。

そうすると、子どもは、
家族との間のルールを守ることを優先し、
同じクラスに配属された子ども同士が
仲間であるということを感じにくくなる
ということもあるように感じます。
簡単に意識の上で
仲間から排除できる仕組みがあるように思われます。


<ある小学生中学年のいじめのケース>

もう少し低学年
小学校の中学年位にも、本格的ないじめが起きています。
教室の中で小さなグループがわかれ、
特別な事情がない限り、小グループの構成員の変更はありません。
幼稚園教育で、このようなグループ分けが
奨励されているようなことをしているのですが、
それを指摘しても幼稚園の先生はピンと来てくれませんでした。

そのグループにはリーダーがいる場合があり、
リーダーがグループを組織します。
だいたいは、その仲間に入りたいメンバーと
なんだかわからないけれど
これまでの行きがかりから
メンバーにされてしまった子どもがいるようです。

非自発的にメンバーになった子どもは
やはり自由ですから、
グループをあまり大事にしないで
別の友達のところに行ったりします。
それが自然だと思うのですが、
そうするとリーダーは、
自分を捨てた、自分を尊重しないというネガティブな気持ちになるようです。

最初は、色々な方法で
自由メンバーをつなぎとめようとしますが、
なお自由にふるまわれると
攻撃に転じます。

最初は内緒話をしながら
焼きもちを焼かせて復帰を促しますが
そのうち
サッカーのシミュレーションのように
何もないところで自由人から攻撃を受けたかのように
嘆き悲しむ行為をします。

メンバー志望の子どもたちは
リーダーの嘆き悲しむ姿から正義感が奮い起こされ、
また、もともと何も努力をしていないのにメンバーになっている子に
憤りもあるのかもしれません。
訳も分からないのに
リーダーが泣いているというだけで
共感し、共鳴してしまい、
ターゲットが悪いという判断をして、
ターゲットを仲間として認めず、
人間扱いしない、即ち、攻撃を開始します。

リーダーは自分を守るため、
取り巻きはリーダーを守るため
正義感と、防衛意識をもっていじめを行うようです。

このリーダーは、
背景を知る機会があったのですが、
家族の中であまり尊重されていませんでした。
普通には接していたのでしょうが、
兄弟の方がずば抜けて優秀だったために
親の関心は兄弟の方に向いていました。
この子は、自分に監視を向けてもらいたくて
母親の意向を積極的に体現しようと
涙ぐましい努力を
家庭の中でも行っていたようでした。

仲間の中にいるという安心感を持ちにくく、
仲間を引き留めようとする行動を起こしやすく、
結局、最後は取り巻きが煩わしくなり、
リーダーを追放していました。

リーダーのターゲットに対する攻撃は、
結局、自分がグループという群れの中から外されそうになっている
という不安感を解消しようという防衛行動でした。

<いじめまとめ>

いじめは、バリエーションがあるようですが
防衛意識、正義感はつきものです。
子どもたちの論理をきかなければ
結果だけを非難しても
いじめはなくなりません。

昨今の親は、自分の子どもが損しないようにということばかり考えて
貴重な共同作業の経験を奪うことがあるようです。
生徒会役員になると勉強する時間が無くなるとか
誰かを助けていたら自分の勉強がおろそかになるとか
クラスという一つの人間関係の中に
その背景にある家族の思惑が絡んでいけば
子どもは自律的にものを考えることができなくなり、
クラスは一つの人間関係ではなく
純然とした他人の集合体になってしまいます。

但し、
誰かをかばうことは称賛されるべきことだと思うのですが、
そのために自分の命を失うということになれば、
家族としては、いたたまれないわけです。
見ず知らずの人を助けなくてもよい
わが子だけは無事に帰ってきてほしい
これは当然だと思います。

しかし、どうやらそれが極端に現れて過ぎており
余裕のない行動傾向が拡大しているように思います。


<パワーハラスメントのあれころ>

パワーハラスメントや長時間労働は
労働者の心と体を蝕むだけでなく、
家族関係も傷が入ります。
一緒にいる時間が少なくなれば
それだけで関係が希薄になりかねませんし、
イライラしたまま帰宅することが多くなれば
家庭の中が殺伐としてきます。

大変深刻な影響が生じることです。

上司のパワーハラスメントは
防衛意識の典型でしょう。

<上司からの締め付けの連鎖型>

例えば営業所のノルマの問題があって
所長がパワハラを行う場合は、
営業成績の良い人に対してだという
傾向があります。

所長は、自分のさらに上司からねじを巻かれていますから
成績を上げることだけを考えます。
もともと成績の良い人にもっと頑張ってもらえば
成績は上がりますが、
成績が悪い人に成績をあげさせるように
指導する能力がパワハラ上司にはありません。

もともと成績が良い人に対する
もっとやれるはずなのに
怠けているのではないか
というような期待が
どぎつい叱責になる場合があります。

あるいはその危機感をつかの間解消するために
叱責するということもあるようです。

こういう場合は、上司は、自分の上司や会社との
群れの関係を重視して、
自分の部下を群れの仲間ととらえられなくなっています。
道具のように考えていて、
傷ついたり、汚れたり、弱れば
取り換えのきく存在だと無意識に扱っているのです。
部下の困惑に共感、共鳴することができない状態なので、
それは、自分に対する抵抗、
攻撃だとしか受け止められなくなっています。
反論すると逆上するのは、こういう構造にあるからです。

ベストを尽くす
という目標から
ベスト以上を搾り取るという
「ストレッチ」という労務管理をしているところは
パワーハラスメントが起きやすい職場です。


<能力がない自覚のある自己防衛型>

自分は、営業経験も能力もないのに
総務畑を歩いてきて営業所の所長になったような人は
他の部下が仕事上のアドバイスなどを
ターゲットを頼るのが面白くなく
ターゲットの評価が高まることで、
自己の立場が危うくなるように感じるようです。

このため
ターゲットの些細な不十分点をことさらにあげつらって
あるいは、ターゲットを攻撃するところ
周囲に見せることによって
自分の権威を高めようとします。

こういう上司ではなく、
大過なく過ごせばよいと考える上司は、
ターゲットがほかの部下から頼りにされても
危機感を抱きませんから
防衛行動としてのパワーハラスメントには出ないのです。

このように能力欠如の自覚があり、不安がある場合のパワハラは
先に紹介した小学校中学年の
いじめの構造と全く一緒です。

このような職場では、上司は孤立しやすく、
部下を仲間だとみることがむずかしくなるという
そういう効果が生まれるようです。

パワーハラスメントの防衛式の特徴は、
攻撃をする対象である部下から攻撃を受ける等
危機感を与えられたから、防衛意識が生まれるのではなく、
はじめから危機感を抱かされている
他ならぬ会社の人事的な行動から
無駄な危機感を抱かされているというところにあると思います。

たまたま危機感のはけ口に適している
つまり勝てる、反撃されないという部下に対して、
攻撃行動が起きています。


<ネット炎上について>

勝てるという意識は集団になれば簡単に持ちやすくなります。
自分たちや自分より弱い者を守るという意識が
怒りを増強します。
狩猟採集時代の肉食獣に襲われたものを
みんなで袋叩きにして肉食獣を追っ払った
ということを想定すればとてもわかりやすいと思います。

その典型がネット炎上です。

ターゲットの些細な過ちを
鬼の首を取ったように攻撃を開始します。
最初は、義憤にかられて書き込みをしています。
しかし、攻撃参加者が増えていけばいくほど
怒りは大きくなり、
怒りが怒りを増大させている状況になって行きます。

そして、インターネットの書き込みをしても
自分が反撃されることは考えにくいので、
怒りが純粋に怒りのまま継続していきます。

こういう場合は書き込みをする人間からすれば、
芸能人や政治家はもちろん仲間ではないので、
人間として扱わなくなるのです。

では書き込み者は誰と仲間だと思っているのでしょう。
これは、仮想の仲間であることが多いようです。
実際は、特に面識もなく、意見交換もしていないのですが、
自分の意見は支持されるだろう、
みんなも同じ気持ちに違いない
少なくとも同調者が多く出るだろう
というあまり自覚していない意識です。

そう思えるような事案に対して攻撃するわけです。
そうして、誰も同調しなければ
勝てるという意識はしぼんでいきますので
怒りも消滅していきます。

逆に同調者が現れてくれば
勝てるという意識が強くなって行く
つまり自分は正しかった勝つべきだ
ということから
相手が消耗するまで怒りが持続していきます。

現代のインターネット社会は、
このような仮想敵を作ることができるという
危険な側面もあります。
また、真相が明らかにされず、
表情や声も断片的なものですから、
相手を人間扱いしないことによる
負の共感、共鳴を感じにくくしてくれます。

インターネットの危険性は、
人間らしい感情が捨象され、
文字などの情報だけが流通するところにある
と思います。

本来あまり利害関係の無い芸能人などを叩く心理は、
やはり防衛意識にあるのですが、
その防衛しようとする危険は
当該芸能人からもたらされたものではなく、
リアル社会、即ち攻撃者の
実生活が大きな影響を与えることが
多くあるようです。
簡単に言えば八つ当たりです。


<まとめ>

例えば街ですれ違った人までも
助け合いを求めることは、
様々な偶然が必要かもしれません。

しかし、それができないことは、
自分が何らかの危機感、不安感を抱えて
助ける余裕がないという側面があるのだと思います。

この不安がどこから来るのか、
作らなくてもよい不安なのではないか
一つ一つ、人を攻撃する現場の事例から
分析が行われるべきだと思います。

根本的には、国連人権委員会が日本に対して指摘するように
過度な競争社会を解消することが
必要なのだと思います。

当面、直ちにできることは
できるだけ人間を分断しないことが
呵責なき攻撃を防止するための方法だと思います。

群れの中に群れを作らず
できるだけ一つの群れとして扱うようにして
行動できるようにすることです。

そのためには、特に、
同じような地域、年代に住む子どもたちが、
互いに反発しあわなくてもすむような
社会構造に誘導していく必要があると思います。


競争が必然だということは
思い込まされた神話に過ぎないと
気付くべきだと思います。
現代社会において競争は、
既に過度になっており、
弊害の方がはるかに多いことに
各分野の専門家は気が付き声をあげていくべきだと思います。

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