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無差別襲撃事件の予防のために1 登戸事件の生存被害者の方、特に生存しているお子さんの被害を考える。「心のケア」は、専門家に丸投げするものではないこと。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

昨日の川崎市登戸の事件の重みを
考えていきたいと思います。
亡くなられたお二方のご冥福を
心よりお祈り申し上げます。

今回は、生存者の被害とは何かについて
特にお子さん方について考えます。

お子さん方の「心のケア」が口に出されていますが、
その実態、内容は語られていないように思います。
専門家に任せればそれで解決するという問題ではないように思えてなりません。

そもそもケアが必要な「心の被害」とは何なのでしょうか。
それは
人間の安心の記憶がリセットされてしまうことだと思います。

キーワードは、
・予測不可能な攻撃
・死の危険の体験
・自己統制不全
というところにあります。

<他人を信じてしまう「こころ」がつくられる仕組み>

先ず、人間は、他人に対しては(自分を攻撃するものでない限り)、
どうしても安心感をもってしまうようです。
山中で道に迷うと恐怖と焦燥感に苦しみますが、
ようやく人里にたどり着いて民家などが見えると
ほっとしてしまうわけです。

これは理由のあることだと思います。
一つは群れを作るヒトという動物の
遺伝子的に組み込まれたものです。

他の人間をやみくもに敵だと思って警戒ばかりしていたら
群れを作れることはできないので
警戒しない、仲間だと思ってしまうことは
人間に必要な性質たということになります。

自分の母親以外の大人の感情にも共鳴するということが
二歳くらいから起き始めるといわれています。
これは、人間だけでサルにはありません。

もう一つは学習です。
人間の乳児期、幼児期は無防備で、無能力ですから、
どうしても大人の全面的な世話が生存のために必要になります。
だから乳幼児期を通り過ぎても生き残っている個体は、
必ず他者(親等)の全面的な世話を受けてきたことになります。
他の人間から、自分の弱点を補ってもらい、
援助を受けた体験があるということになります。

なんとなく他人は自分にとって役に立つ
という記憶を乳幼児期を過ぎた人間がもっているのは、
赤ん坊の時に全面的に世話を受けた体験からもきているのでしょう。

ただ、それとは別に、そして同時に
知らない人を警戒するという、これも本能があるようです。
信頼と警戒の
その折り合いを学習しながら成長するわけです。

学習していく過程の中で、
「自分とかかわりのない人は自分に危害を加えない」
という大切な社会性を学習していきます。
ここでいう「学習」とは、真実を知ることではありません。
そういうものだという記憶を形成することです。

<人間を信じるこころが壊れる仕組み>

人間が信頼できるという記憶は、
家やいにしえの村という閉鎖的な空間においては、
十分に形成されていきますが、
何らかの悪い大人によって
中断されることもあります。

現代社会ではその危険性は高くなっています。

無関係の子どもに怒鳴り散らす大人
性的加害をする大人、
アクシデントにもかかわらず感情的に攻撃する大人等
それから、いじめですね。

それでも、無関係な人間から攻撃されると
そこでへこたれているわけにはいかないので
通常は、それを教訓に行動を改善を試みます。
今度は攻撃されないようにしようという
防衛本能に基づく思考処理が行われるのです。

例えば、夜は一人で歩かないようにしようとか、
関係の無い大人にちょっかい出すことは怖いからやめようとか
そのような客観的に合理的な選択をすることが通常です。

つまり、危険の記憶と危険の直前の記憶を照合し、
危険回避の方法を学習するわけです。
危険回避が可能だと腹に落ちた場合、
危険に対する過剰な警戒は終了します。
逆に言うと頭では分かっても
回避可能だということが腹に落ちないと
警戒心が解除されるということがないのです。

警戒心は心身を疲労させますから
解除できないことは
心の疲労が蓄積されてゆきます[exclamation]

腹に落とす方法は、
眠っているときのレム睡眠のファイリング機能によると
考えられるようになっています。
眠っている時ですから無意識に行われるのですが、
覚醒しているとき以上に脳が活発に活動しているのですから、
無意識ですが、脳の機能ということになります。


このようにうまく、記憶のファイリングができれば、
例えば、自分の感じた恐怖は例外的な場面であり、
その例外的な場面に出くわしたら対処をすれば危険が回避できる。
対処をすることは可能だから、今度は安全だ
ということになります。
日常生活で、無関係な通行人等と
また安心してすれ違うことができるようになります。

ところが、そのような危険と関係のある前触れが思い当たらない場合、
記憶のシステムは混乱してしまいます。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
という結論が出てもおかしくはないのですが、
それは出さないように脳が勝手に動くようです。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
ということは、
将来同じ危険が生じたら、
今度は危険を回避できないということですから、
絶望を感じることになります。

しかしこの絶望については
なにがなんでも受け入れないということが
脳のシステムのようです。

脳は迷走ともいえる「工夫」をしてしまいます。
例えば、本来、何ら客観性のない事象を
危険の予兆だと評価して決めつけ、
その予兆があると危険を想起して過去の感情をぶり返させ
警戒をさせるのです。

例えば、雨の日に性的被害にあった被害者は
雨が降ると被害にあった時の感覚がよみがえることがあるようです。
雨が降ると不安が大きくなってしまい、
外に出ることができなくなることがあるそうです。

例えば、子どものころ窓から外を見ていたら
右隣の家に住む精神不安を抱える人間から
突如窓から顔を出してこちらをにらみつけられて
とてつもない罵声を浴びせられ
驚いて自分の家にいても安心できないという体験をした場合は、
「何か右の方から悪いことが始まる」
という感覚を持ってしまうことがあるようです。

私でさえ、このような人を複数人知っています。
その人たちはみんな統合失調症の診断を受けてしまいました。

そのような客観的には不合理な「予兆」に対する過剰な不安が
本人も医師も記憶のゆがみだということに
なかなか気が付きません。

本人ですら、感情がぶり返すきっかけが何なのか
それすらわからないことが多いようです。
雨ということであればわかりやすいのですが、
臭いであったり、
風の音であったり、
服の色であったり
意識に上らない記憶に反応していることが多いそうです。

危険に対する過剰反応によって、
人間そのものを恐れるようになる
ということは自然の流れです。

予測不可能ないじめや
執拗に繰り返されるいじめ
回復手段がないいじめは、
子どもの社会性を奪うことが少なくありません。
社会に出ることができなくなり、
引きこもりや精神科病棟の住人になるお子さんを
多く見たり聞いたりしています。

何かわからないけれど自分が攻撃されるという恐怖や
絶望を回避するために
「自分が悪いから攻撃されるんだ。
 でも自分の何が悪いかわからない。
 自分の存在が悪いのではないか。」
という徹底した自責の念によって
他者とのかかわりができなくなるようです。

こういうケースでは、
およそ人間(ただし家族だけは例外)は、
自分に対して危害を加えるものだという
学習がなされてしまっているのだと思います。

今回の事件は、
2名の方が死亡し、多数が重傷を負った事件です。

凄惨な場面、音声、匂いとともに
命にかかわる危険だという強烈な記憶が
植え付けられてしまっているでしょう。

命に係わることですから、
人間の心の無意識のシステムは
命の危険に対する警戒感から
早く解放されたいという要求が大きくなっているはずです。

それにもかかわらず、今回のケースは。
全く被害者に落ち度がありません。
自分の行動を修正するポイントがまったく見つかりません。

合理的な警戒をすることによって安全の確保ができる
という安心を腹に落とす作業ができません。

事件が終わっても、
果てしなく警戒感が続く危険があります。

さらには、事件が20秒弱で完結してしまっていることからも
事件が起きてから自分の力で回避する方法がありません。
自分ではどうすることもできないという自己統制不全を
強く感じる可能性があります。

そうすると、
強烈な危険の感覚を受けたにもかかわらず、
記憶のファイリング作用による
安心感を獲得する仕組みは機能しないことになります。
危険から解放されたいという要求ばかりが、
行き場を失って過剰に肥大してしまうわけです。

つまり、
この次は、自分の命がないということにおびえ続けるか
人間を信じられなくなり、人間を見ると恐怖を感じるか、
理不尽なことに自分が悪いという自責の念にさいなまれるか
という苦しみが続きかねないことになります。

<心のケアとは何なのか>

先ほど学習とは真実を知ることではないといいましたが、
実際に、今回の事例でもわかるように、人間は、
必ずしも安心できる対象ではないのです。
それにもかかわらず、危険ではないという経験を積み重ねて
警戒を解いていくということが学習の意味です。

今回の事件の生存者の方々、
報道を受けて大きな衝撃を受けた方の中に
このような学習がリセットされて、
人間に対しての安心感を失う方が出てくるかもしれません。
平気な様子を装っていたとしても
そういうものだと思って何らかの対処をする必要があります。

では、
このようなお子さん方の「心のケア」とはなにをいっているのでしょう。

私は、心のケアを精神科治療や心理療法とは別の角度で考えています。

論理的結論とすれば、
人間に対する信頼の記憶
(関係の無い人間は攻撃してこないという記憶)
がリセットされてしまったのだから、
これから、少しずつ安心の記憶を刷り込んでいく
これが論理的な回復の方法ということになるでしょう。

精神科治療や心理療法という
当事者の心に働きかける方法だけでは
解決できないのではないかと考えています。

多くの大人たちが、
道などですれ違う子どもたちに対して
自分が子どもの記憶を形成に関与しているという自覚をもって
子どもの安心感を阻害しない日常を提供する
ということをする必要があると思います。

チャンスがあれば
安心してよいのだよ、あなたをみんなで守るからね
という扱いをされた記憶を刷り込むことです。

特別扱いするのではなく、
日常の仲間として当然のことだという扱いをすることで、
それは被害にあったお子さん方だけに対して行うのではなく、
およそ子どもに対しての大人の対応として行われなければ
逆効果になる危険があることです。

腫れ物に触るような特別扱いをされることは
仲間の外に置かれる感覚になることがあり、
安心感を奪うことがあるようです。

心のケアは、専門家に丸投げをするのではなく、
私たち大人のやるべきことなのだと思います。
子どもは社会で守るものだということを
意識する必要があると思います。

私たちが何をするべきか
それを今後も考えていこうと思います。
そのために、まず、被害を受けた方々のうち、
生存者に対しても深刻な影響があるということから
考えを初めて見ました。

次回は加害者の行為について
予防の観点からどのように検討するか
という問題を考えてみたいと思います。

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