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なぜ言葉も生まれていない200万年前にヒトは群れを作ることができたのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

これは、前々回のWEB上予行演習の続きというか
修正しようと思っているところです。
では

ということで、人間とは何かということを考えなければならないのですが、
それは本来、各人が考えることであり、
誰かの考えを押し付けるということはできないと思っているので、
では皆さんよく考えておいてくださいで終わるのが筋が通っていると思うのですが、
それで帰るのも何なので、一つの考えをサンプルとして示したいと思います。

私は、人間は群れを作る動物だというところに着目したいのです。
進化生物学では、200万年前ころから人間は群れを作っていたと言われています。
もちろんそれ以前に、母と子を中心とした集団生活はあったでしょうが、
そういう血縁関係を必ずしも前提としない群れだったと言われています。
30人から100人弱くらいの群れで、
数十人の群れがいくつか関連してあったという考え方もあります。

いずれにしても、基本的には、一生涯、
同じ群れで過ごしていたようです。

そのころは、小動物を狩りしてたんぱく質を摂り
植物を採取して栄養を補充していたとされています。
群れの中でチームが分かれていたようです。

さて、当時は、言葉のない時代なのですが、

言葉もない時代にどうやって群れを作っていたか
ここが問題です。
でも、ほかの動物も言葉が無くても群れを作りますね。

イワシなんて、魚ですけれど、群れで泳ぎます。
大きな水族館でイワシが集団で泳ぐ様は
それは見事で、目を引きつけれられます。

あれ、何で群れで泳ぐかというと
イワシは、集団の内側に入ろうとする性質があるかららしいんです。
みんながみんな魚群の中に入ろうとした結果、
一つの巨大な魚のような群泳が成立していると
こういうことなようです。

集団の内側で泳ぎたいという感情というか気持ちで
成立していることになります。
水面下ではそういう事情が働いていたのですね。
もっとも、イワシは水面の下にしかいませんが。

それで、どうやってそういう都合の良い仕組みができたかというと、
それは、意外に簡単なことで、
中には気まぐれなイワシというか
自由や個性を主張するイワシがいてもよいでしょう。

あんな魚臭い中では泳ぎたくないやなんてことを思って、
ふらふらと自由に海の中で余裕をかましていると
もうそれは、マグロやカツオなんかに目を付けられて
パクっと食われてしまうわけです。

パクっと食われるから骨がのどに引っかかるなんてこともありません。
単独遊泳をしているイワシなんて
極上のスイーツみたいなものです。

そうすると、そういう自由傾向のある遺伝子は
すぐ途切れてしまう。
結果的に、群れの内側で泳ぎたいと思っているイワシの子孫だけが
生き残っていく
そしてだんだんイワシというものは
群れの内側に入り込みたいという性質のものばかりになってしまったと
まあ自然淘汰ってことですね。

哺乳類に目を向けると馬なんてのも
言葉が無くても群れを作るわけです。
これも、やはり本能があり、
群れの先頭で走りたいのだそうです。

これに目を付けて競争を成立させたのが競馬です。

あれ無理やり走らせているのではなく
本能を利用しているから成立するのです。

そうやってみんなが先頭に立ちたいから
群れ全体が早く移動できるようになり、
肉食獣から逃げられると、うまくできているようです。

だから言葉がない時代に人間が群れを作ることを
そんなに複雑にな考える必要はないと私は思いますよ。

色々難しい議論をする人たちが幅を利かせていますから
私がいくら叫んでも届かないのですが、
嗅覚をほとんど放棄した人間が
血をかぎ分けて血縁集団を作ったとか
後で他人が役に立つから最初に恩義を売っているとか
そういう相互互恵なんて小理屈が無くても群れを作れるんです。

人間もイワシや馬とおんなじで
一人でいるのが嫌なんです。
一人にならなければならないと思うと
もうそれだけで不安でたまらなくなる。
だから誰かと一緒にいようとする
基本はこれです。

では、それからどうするか
人間に他の動物と比べて違うというか特徴的なことが何かと言えば、
他者に共感する能力があるということです。

これは2歳時くらいになると
誰が教えるわけではなくそういうことをしてしまうようですね。

子どものおもちゃで、
星型や丸形、長方形などの積み木みたいなのと
その形がくりぬかれている机の小さいのみたいなのがあり、
同じ形だと下に落ちるなんてのがありますでしょう。

子どもの前で、大人が
なかなか下に落とせなくて困った顔をしながらやっていると、
子どもの中には、その人の代わりに
積み木と同じ型の方に誘導して落としてあげる
なんてことをやる坊ちゃん、嬢ちゃんがいるそうです。

同じように下に落とさないでがちがちぶつけていても
ニコニコと楽しんでやっていると、
手伝うことをしないで
自分もまねをしてがちがちたたき出して、
楽しむのだそうです。

人間は、2歳くらいになると
相手が困っているか楽しんでいるかわかり、
困っているときは助けて、
楽しんでいるときは一緒に楽しむことができるようです。
共感する能力が初めからあるわけです。

これは間違ってもサルにはできません。
サルは集団で生活しますが
心の交流というかお世話するのは
母ザルからその子どものサルへと決まているそうです。

サルと違って
共鳴共感で群れを成り立たせてきたのが
人間様だということになるようです。

なぜそんな能力があるかというと
一匹で泳ぐイワシのように、
一人で生活するにはあまりにも弱いわけです人間は。

道具を作れなかった時代には、
一人で小動物を捕まえて殺すなんてことは
とても運がよくなければできなかったでしょう。
そういう脚力も、牙も爪もなかったからです。

体毛が薄いために汗をかいててめいの体温は下げられるという利点を活かして
ひたすら追いかけて追い詰めるという狩りの方法だったようです。
小動物を熱中症にしてしとめたらしいです。

また、肉食獣に狙われたら
走って逃げる脚力も、飛んで逃げる翼もなかった。
もう集団で、
誰かが襲われたら集団で立ち向かった
無鉄砲なまでに助けようとした
こういう本能でしのいできたわけです。

そうやって集団で反撃することによって
肉食獣も
下手に攻撃したらあちらからこちらから逆襲される
という経験を蓄積して
よほど困った時でなければ人間は襲えない
ということを学習していったのだと思います。

共鳴共感というのは
相手の感情を理解するということですが、
その実態は、
相手と同じ気持ちになるということですね。

仲間が悲しんでいれば
自分も同じように元気をなくして泣いてしまい、
仲間に元気を出してもらおうといろいろ頑張る。
相手が元気が出れば、自分も元気になる。

足をくじいて痛がっていたら
自分はけがをしていないのに足が動かなくて困っている
と言うときと同じ反応を脳がしてしまうわけです。
そうして、相手を支えて歩かせることで
相手の不安を解消すれば自分も安心する。

仲間のイベントの脳内の追体験が共感なのです。

これが極限までいけば
相手と自分の区別があまりつかなくなるわけです。
特に生まれてから死ぬまで一緒に生活していると
結局仲間の誰かが困っていると自分が何とかしたくなる。
自分が困っているときも自分は何とかしようとする。
そこに違いがあまりなくなります。

そして、自分はこのくらいは平気だと思っても
相手はもっと苦しんでいるかもしれないと思うと
自分よりも相手を何とかしようと思うようになるでしょう。

だから偶然甘い果物が手に入って
自分も腹を空かせていたとしても、
一人で食べようという発想が生まれなかったのでしょうね。
仲間も腹を空かせているだろうし、
仲間がこれを食べたら喜ぶだろうなと考えると
仲間に果物を持って帰ろうということになるわけです。

親が子どもを思って食べないということと
全く同じなわけです。

そして、仲間の中で一番弱い者を守ろうとしたのも
人間の本能だと思います。
とにかく群れでいることが当時の人間の生命線だとすれば
弱い者を守らなければ弱い者は死んでしまいますから
弱い者を守ろうとしない群れは
弱い者から順番に死んでいったことでしょう。
赤ん坊なんて育たたないわけです。

そういう群れはどうなったか
動物狩猟も植物採取もできなくなり
肉食動物からはスイーツ扱いされて死滅していったでしょう
子孫を残せなかったことでしょう。
イワシと同じ理屈です。

さてさて、
認知心理学という最近ノーベル賞を受賞している学問分野では
共通認識として、
人間の心は200万年前頃完成して
今もほとんど変わらないとされています。

「ええっ!」と疑問を大きく叫ばれたい方も多いと思います。
そんな慈しみと愛情を持った生物だったとしたら
今の日本社会は人間の社会は説明つかないだろうと思っている方もいるでしょう。
大量殺人や、いじめ、パワハラ、児童虐待など
目を覆いたくなるようなことばかり起きている
200万年前と同じ人間ではないのではないか、あるいは、
そんな共感の原理なんてきれいごとじゃないかと
お考えになる方もごもっともです。

しかし、よく考えてみてください。

誰かから悪口を言われたり、誰かからとんでもないことをされて
自分という人間が当たり前に扱われなければ、
嫌な気持ちになりますよね。

解雇だ、学校来るな、家から出ていけなんて
一人ぼっちにされることは命の危険が無くても
とても怖く感じませんか。

誰かに助けてもらえばうれしいでしょうし
困っていても誰も助けてもらえなければとても怖くなります。

人間は、200万年前の一心同体の群れで過ごしていたように
仲間に自分を尊重されたいと心が思ってしまうのです。

弱い者小さいもの、児童虐待などを聞くと
とても腹が立ってしまいませんか。
これも人間の本能なのです。

逆説的に、
人間の心が200万年前と基本的には変わらないということが
よく考えると実感できると思います。

では、どうして人間は仲間のために我慢するということをやめ
弱肉強食、特に共食いのように
他人を食い物にするようになったのでしょう。

どうして共感原理で生きる人間が
他者を排斥することが「可能なのか」という命題になると思います。

色々な理由が考えられますが、
私は他者とのかかわりのあり方が
決定的に変わってしまったというところを指摘したいです。
これが環境と心のミスマッチというわけです。

ここから先も長くなるので概要だけ。あとは対人関係理論のホームページ
「心と環境のミスマッチ」をご参照ください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
(ページの下の方には要約版もあります)

一つは群れの多元化(家族、学校《クラス、部活、小グループ》、職場、地域、社会)
群れの相対化(離婚、退学、転職、その他)
である人間の膨大な数と人間に対しての希薄化

これによって、利害対立にうまく対応できず、
さらに自分の生き残りに不安があることで、防衛意識が強く働き
攻撃が可能となる


ところで、
やっぱりかなり長くなるので、
これを話すことは無理だな。




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