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一つの困難が解決した時こそ、自死(自殺)の危険性が高まる時 自死予防のためには「人間としてのあたりまえ」を壊さないことしかないのではないか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


自死が起きたときに、
なぜ?せっかくこの問題が解決したのに?
と思うことが多くあります。

例えば、派遣労働者で無理難題を押し付けられていて
友人たちの勧めで仕事をやめようと決意したのにというときや
大きなイベントの実務的な責任者になっていて、
そのイベントがようやく終了したときとか、
せっかく悩んでいたことがそれなりに解決したというのに、
その人が自死してしまったという事件を何件か経験したことがあります。

むしろ、そういうときこそ
自死をする危険が高まっているということを
心得ておくことが必要だということになります。

よくよくその事情を調べてみると
どうやら理由があることだということになりそうです。


一つは、うつ病の場合についてよく言われていることは、
最も落ち込んでいるときには、
自死をする気力もなくなっているので
自死が起きにくいということです。

2次関数のグラフ、Uの字のグラフですが、
これを思い浮かべてください。
一番下の底の時よりも、
底の手前の部分やそこから少し右に進んで上向きな状態で
自死が起きやすいというものです。
これもそうかもしれません。


次に、過労死などの事例では、
それまで、言われたこと、やらなくてはならないことばかりを
無我夢中でただ言われた通り行っていたのですが、
例えば仕事をやめるという決意をしたときとか、
イベントが終わりもうその仕事はやらなくてもよいのだと思うときとかに、
自分で自分の行動を決めるという行動パターンになりますが、
そうすると受動的に苦しんでいるより、
積極的に苦しみから解放される手段をとろう
という気持ちのパターンが生まれてしまう
ということがあるように感じます。


また、自死する人は責任感が強い
このため、いやな仕事でもきちんとこなそうとするし、
最後までやり遂げようとしてしまう。
だから仕事が続いているときは自死しようなんて考えない。
それが一段落ついたために、
それまでしたくてもできなかったこと
つまり自死することができる
という気持ちにさせてしまうのかもしれません。

もちろん実際にはほかにもやるべきことがあるのですが、
冷静に全体像を見渡せる精神的な余裕がないために、
一つ終わったということが自死の引き金になるのかもしれません。


私が裁判で主張した論理としては、
解決したのに解決していないことで、
無限に苦しみが続くという絶望を感じたというものです。

その人は、色々な仕事を同時にこなさなければならないという
仕事上の特色をもっていた学校の先生でした。
これはどの先生も同じですが、
特にその先生はいろいろな分野で責任者のような仕事をしていました。

その上、全国行事の事務責任者をしていました。
それ自体が時間を取られ、様々なやるべきことがあった仕事でした。
その全国行事が終了した直後に自死をしたわけです。

全国行事が終了して肩の荷を下ろしたのと同時に、
また翌日から日常の過重労働を行わなければならない
結局、過重労働から解放されないと思うと、
こんなに努力したのにもかかわらず、
何も変わらないという気持ちになると思うのです。

やってもやっても、解放されない
無限の苦しみが待っていると感じ、
絶望が起きても不思議ではないように思いました。

本当はイベントが終わるまでだと思って無理して仕事をしていて
それが終わったのだから
少しだけそれまでより仕事が軽減されるのですが
これまでと同じ過重労働が続いて、退職まで変わらない
と考えてしまうということがあるのでしょう。
これは地獄だったと思います。


実は問題が解決していなかったということもあるでしょう。
派遣先でパワハラを受けていた労働者が
友人の勧めで会社を辞めることにした
これでもうパワハラを受けなくて済むということで
本人も喜んでいたし、友達も安心していた。
けれども、どうやら本人は、自分が辞めることで
派遣元の会社に迷惑がかかる、仕事を打ち切られてしまう
そういう心配をしていたようです。
夢遊病者のように会社からでていき自死をしたようです。


その人が自死しそうだとわかれば、
その人のそばにいることが一番です。
具体的に死にそうになったら止めるというのではなく、
自分を心配している人、気遣う人がそばにいるということを
皮膚感覚で感じてもらい、その事実を脳に刷り込んで、
自死しようという気持ちを起こさせないことです。

ところがこれがなかなか難しい。

別に家庭があるために、その人につきっきりになれないとか 、
危険は分かるけれど遠い所に住んでいるとか

誰がどのように危険に対処するのか難しい場合が多くあるようです。

ただ、黙って近くにいた方が良いのですが、
余計な励ましをして逆効果になったり、
その人の絶望を持て余してイライラして叱責してしまったり
実際はなかなか難しいようです。

むしろ、手紙とか、写真とか
その人がいつでも自分が支持されていることを意識できる方法を
考えた方が良い場合もありそうです。



それより、そのように今にも死にそうな危険があるということが
なかなかわからないことが一番の困りごとです。

自死するような責任感の強い人は、
自分の仲間、家族とか友人の前では、
苦しんでいることを見せないことが多いからです。

ニコニコ笑って、楽しそうにしていた
ということをよく聞きますが、
無理をしていることが多いようです。

その人が苦しんでいるようには見えなかったということと
苦しんでいなかったということはまるっきり別物だ
ということになります。

だから自死を防ぐことが難しいのです。

自死予防の政策にあたっては
その人の感情を推し量ることはできない
そう割り切るべきだと私は考えています。

その人が取り巻かれている客観的状況が
人間としてのあたりまえの状態になっていない
ということを重視するべきだと思います。

働いている人だったら
一週間に一度は会社とはまるっきり関係のない時間を過ごす
これができないことをおかしいと感じなければならないでしょう。

毎晩深夜にならないと帰宅しない
これは人間としてのあたりまえではないとしましょう。
そういう感覚がなくなっているかもしれませんが、
そうだとしても理性で、
家族と夕飯を一緒に食べられないことはおかしいと
歯止めをかけなければなりません。

会社での叱責が、ずいぶん刺激になってしまい
帰宅してもそれを引きずっていたり
翌日や翌々日に持ち越すこともおかしいと感じましょう。

子どもたちも
例えばリストカットがあったら人間としてのあたりまえではないのです。
なにから逃れたいと思っているのか必ず解決しなければなりません。
目立とうとか、関心を引こうということだとしても
それは人間としてのあたりまえではありません。
なぜそういう行動をとってしまうのか
必ず大人が解決しなければなりません。
目立とうと思うのは悪いことではありませんが、
自分を傷つけて目立とうとしたり、
自分の物、立場を傷つけて目立とうとすることは
人間としてのあたりまではないのです。
あきれている場合ではありません。

誰かをいじるとか、からかうということも、
どうやら人間としてのあたりまえではないようです。
やくざの世界ならともかく、
人格を向上させる学校でそれが行われてはなりません。
本人は嫌がることができないものだと心がけましょう。
笑ってやり過ごさなければ負けだと思っているということで良いようです。

一人の子をみんなで攻撃することも異常です。
その子が間違っていたとしても
逃げ場がない状態にすることは大変危険なことですし、
もうやめようよという子がいないなら、
子どもが子どもを裁くようなことはやめさせましょう。


遅刻をしたり無断欠席をしたり、早退したりする場合は
理由が納得できるまで尋ねましょう。
子どもが奇妙なことをした場合は必ず解決しましょう。

校則だから守れという低次元の話ではなく、
あなたが心配だからというモチベーションを持ちましょう

怖がらないで、面倒くさがらないで
子どもと向き合いましょう。

子どものために向き合いましょう。

どうやら今の日本にかけていることは
そういうことのような気がしています。
あたりまえでないことに慣れてしまっているようです。

子どもや部下を大事に思うということよりも
自分の保身のために迷惑がっている大人ばかりのようです。

人間がぞんざいに扱われていることに
慣れてしまっているようです。

若者が尊敬され、尊重される社会ではなくなっているようです。
しあわせということばが
あまり人々の口に上がらなくなったように感じます。
結婚式くらいでしか聞かないような気がします。

ノルマや指図ではなく、
人間が幸せになるために行動する
そういうモチベーションが
当たり前ではなくなっているのではないでしょうか。

人間が群れを作る能力を失い始めているようです。
どんなに文明が発達していても、
それでは、人間の足場は崩れ落ちてしまうでしょう。

本気で人間を取り戻すことを
今からでも始めるべきです。

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