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ハロー効果 対人関係学が行動経済学・プロスペクト理論と出会う [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


先日、某保健所主催の医療機関対象の講演会でお話してきました。

「人間は、エラーを犯すものである。
気が緩んでいたからとか、真剣さが足りなかったから
とかいう反省をしていたのではエラーは防げない。

ある状況の中で、人間は誰しもある傾向のエラーを犯しやすい
そういう自覚をもって、
その犯しやすいエラーを予め想定して事に当たることが
エラーを予防する有効な方法である。」

なんてことを言ってきたのでした。

そうしたら、その後の駅での時間調整で
行動経済学の本に出合いました。
全くの偶然です。
ノーベル経済学賞を何人か出しているというのです。

さすがに私はとは言いませんが、
対人関係学はノーベル賞をとれるだろうと思っていますから、
どれどれと手に取って拝見してみたのです。

そうしたら、私が今しがた話していた内容が
もっと明確に理論化されているではありませんか。
つまり、それまでの経済学は、
コンピューターの様に合理的な行動をする人間を想定して
理論が構築されているのですが、
行動経済学は、生身の人間の行動傾向を反映した
系統的エラーを組み込んだ
経済学を樹立しようとしているようなのです。

その日一冊「かくて行動経済学は生まれり」
マイケル・ルイス
次の日もう一冊「行動経済学の逆襲」
リチャード・セイラー(ノーベル経済学賞の経済学者)
そして、「ファストアンドスロー」 上・下
ダニエルカーネマン(ノーベル経済学賞受賞の心理学者)
と立て続けに買って読んでしまいました。

面白いです。入門として結果オーライだと思います。
このブログで特に断りがなくページ数を記入する場合は
ファストアンドスローハヤカワ文庫版です。

この本を読むと、対人関係学の先生筋の論者の文献が
多数引用されていて、それだけで驚くとともに納得します。
ロイ・バウマイスター、アントニオ・ダマシオ等々
親近感を持って読める理由がわかるような気がします。

第28章「悪い出来事」は、周辺部分を含めて
対人関係学の記述としても通用するではないですか。

では、もうすでに行動経済学があるから
対人関係学は用済みなのでしょうか。
ノーベル賞は取れないのでしょうか。

実は、行動経済学の本を読みながら、
その近似性に驚くとともに、
その違いもはっきりしてきました。

1 分野、視点の違い
  
行動経済学やプロスペクト理論は、
経済学に限らず、政策学や訴訟技術など
多くの分野で応用されています。

対人関係学は、主として自死予防に始まり、
犯罪予防、夫婦問題や子育て等の家庭内の人間関係の調整
職場のパワハラ予防や労務管理、クレーマー問題、
学校のいじめ予防や生徒のメンタルヘルス等という人間関係の調整等
対人関係的紛争の調整や予防が対象ということになります。
社会病理というエラーの予防に力点があるわけです。

また、刑事弁護や紛争学、弁護業務や相談業務
等でも考察をしているので、
それは行動経済学をもっと導入するべきだという視点も出てきました。

2 統計手法の有無

行動経済学は、統計的な実証、実験をもとにしている科学ですが、
対人関係学の最大のウィークポイントはここにあります。
理論科学と言えば聞こえが良いのですが、
受け手の方々が、「ああそうだな」と実感していただく
ということに頼っています。
そういう意味では、科学的手法が確立していないということを
自覚するべきでしょう。

3 人間観の違い

行動経済学はどちらかと言えば人間の行動という
表出されたものに力点を置きますが
対人関係学は、どちらかと言えば原理論理に
力点を置きます。
進化論的観点から見た考察なのですが、

人間の脳は、現代社会に合理的に対応するまでは
今だに進化を遂げていないということが前提です。
2,300万年は遅れているということです。
その頃の時代に最もよく合理的に対応するレベルであるからこそ、
現代社会では不具合や不合理をきたしている
それがヒューマンエラーの源だという考えです。

「ファストアンドスロー」に出てくる「システム1」が
特にそれだということなのです。
是非お読みください。

4 環境に対する見方

行動経済学は、ヒューマンエラーは環境よりも
人間であることから起きるものであるという傾向があり、
環境因を重視する立場を批判するようです。
対人関係学は、環境因を重視します。

環境因がヒューマンエラーを強めるという見方もしています。

以上の違いがあるので、まだノーベル賞受賞は間に合うと思っています。


それでは、具体的に「ハロー効果」について
対人関係学の解釈をお話して終わりにします。

ハロー効果とは、
ある人のすべてを自分の目で確かめてもいないことまで含めて
好ましく思う(または全部を嫌いになる)傾向
を言います(上巻149頁)。

確かにこれはよくあることで、
つい、あの人が言っているのだから確かだろうとか
あの人の選んだコースは私はとらないとか
芸能人や政治家を応援するパターンなのでしょう。

同じことを言っても
ある人は口汚くののしられ、
ある人は歓迎されるということがあります。
私はどちらかというとハロー効果の恩恵を受けているようです。
肝心なところでは逆に損をしているようですが。

さて、どうしてハロー効果が起きるのか
ということが対人関係学の独壇場なわけです。
それは、以下のように説明します。

「人間は、動物の一種ですから、
 危険に対する反応、危険回避がシステム上重大なものと
 位置づけられています。

 危険を感じた場合に、その危険を解消することが
 最大のテーマとなり、体のシステムが動き出します。
 これは、意識の変化より先に動き出すのです。

 人間の最大の脅威は人間ですから、
 見ず知らずの人を見た場合には、
 脅威、危険を感じます。

 人間も、この『危険を解消する』ということがテーマとなり、
 『危険を解消したい』ということが他のシステムを押しのけて
 最優先課題になるわけです。

 だから、見ず知らずの人間を見た場合には、
 『敵なのか味方なのか』ということが最優先課題になります。

 意識的な思考をする前にシステム1が瞬時に
 これまでの自分の記憶を総動員して、
 声、容姿、服装、匂い等の要素を照合し、
 敵か味方かを勝手に分けてしまうわけです。

 一度味方だと思うと、それはもう仲間ですから
 仲間の弱点や欠点などは補おうという傾向が意識に現れてきます。

 一度敵だと思うと危険人物ですから
 相手のすべてが自分を攻撃する表れだという意識になるわけです。

 まあ現代では、通常は見ず知らずの人と会う時は
 理性を働かせて、ニュートラルな状態に持っていって
 その人本位ということで観察しようとするのですが
 (システム2)
 人間の本能(またはシステム1)は
瞬時の区別をしたがるもののようです。

 もっとも、瞬時に敵を見抜かないと
 200万年前ですと自分や仲間がやられてしまいます。
 このころはとても合理的だったのです。

 ただ2,300万年に限らず
 現代でもその必要性が無いとは言えないのかもしれません。

 味方、仲間だと考えると危険が解消しますから
 目的が達成されます。

 敵だと考えると
 不安を解消するために攻撃したり、
 逃げ出したりすることによって不安を解消しようとするわけです。



 まあ、そう考えているんだけどなあということでしょうか。



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AERA 2017年1月29日号の面会交流に関する記事が具体的にどのように間違っているか [家事]

離婚する夫婦の7割に未成熟子がおり、婚姻期間5年未満の離婚率が高いことから、大多数の離婚家庭に小さな子どもがいるのが日本の特徴です。共働き夫婦でも、子どもが小さい場合は特に母親への依存度が高く、母親が主たる監護者として子どもの養育を担っているケースが大半です。母親が親権者となる割合が圧倒的に高いのは、これが理由です。

家庭裁判所では、監護継続の原則があって、
生まれてからの時間、一緒にいる時間がどちらの親が多いかが
親権者を決める大きな要素になります。
出産後の母体の保護という観点と、男女間の賃金格差という社会的事情から、
父と母とどちらが仕事を休んで子育てをするかといえば、
圧倒的に母親が仕事をしないで、あるいは仕事の時間を短縮して、
子育てをすることが多いため、母親が親権者になるケースが多いのです。

但し、子の監護について、母親に事情があって子育てに
夫以上に関与できない場合もあります。
しかし、こういう場合でも監護継続の原則を理解していないためか、
母親側に親権が認められる場合があります。
裁判所は自ら立てた基準を理解していないのではないか、
子育ては女性がするものというジェンダーバイアスがかかっているのではないか
と思われる事案もあります。

 父親が面会交流を求める場合、最も重要なのは子どもの健全な成育です。

父親が面会交流を求めるか否かにかかわらず、
現在の科学においては、子どもが別居親と一緒の時間を過ごすことが、
離婚の与える子どもへのマイナス効果を軽減することなどから、
子どもの健全な成長にとって必要だとされています。

面会交流も含め、主たる養育責任を担っている母親が必要だと考える、適切な養育環境が最大限考慮されるべきです。

日本の法律が、先進国の中で異例なことに、単独親権制度をとっているのは、
歴史的な事情を克服していないだけの話です。
お隣の韓国も離婚後であっても子どもが両親が育てるべきだという法制度になっています。
だから、離婚後であっても、両親が子どもの成長に責任を持つべきだ
というのが世界の流れということになります。

しかし、裁判所の実質的な運用は「原則面会交流」で、母親が子どもの健全な成育に適さないと考える面会交流も父親の要求によって認められているのが現状です。

これは、実態とはかけ離れた主張です。
1)実質的に原則面会交流が認められるべきだというのは、
先ほど述べたように子の利益のためです。
2)母親が子どもと同居している場合に、
父親との面会交流を拒否する場合が多くあります。
面会を拒否する同居親から、どのような子どもの利益を考えて面会を拒否するのか
ということを聞いたことがありません。
代理人として相手方に問いただしても答えが返ってきたためしがありません。
会わせたくないというのが、拒否の最大の理由です。
論者の見解は、一見、母親側の拒否を援助しているかのように見えますが、
面会拒否はこのような人間の当たり前の感情を理由としているわけではない、
そういうわがままな拒否は否定されるべきだという冷酷な主張です。
会わせたくないという事実は受け止めた上で、
どうやって、そのハードルを下げるかということが
実務では関係者一同が知恵を出し合っているということが実情です。
いかにして、同居親の安心感を獲得していくかということは、
みんなで考えるべきことです。
3)逆に父親が子どもと同居して、母親の面会を拒否する場合も多いです。
この論者は、母親がわが子に会えないことを全く考慮していません。
論者の論を進めると、母親は父親の拒否を受け入れるべきだ
ということになりかねません。
理不尽に子どもに会えない、あるいは極めて制限的にしか会えない
母親や子どもたちの表情が浮かんできて、憤りを禁じ得ません。

そもそも、離婚の9割は協議離婚で、DVや虐待などの深刻な問題がない夫婦は、離婚後の子どもの養育についても話し合って決めている。裁判所の判断が求められる高葛藤の夫婦は、仮にDVや虐待がなくとも困難な問題を抱えていることが多い。「松戸裁判」の東京高裁判決では「父母の葛藤を軽減していくことも重要だ」と述べている。夫婦の葛藤が高いままでは、裁判所が面会交流を命じても、子どもの成育にとって望ましくない結果になる可能性が高い。単純に夫婦と子どもの問題とは別、とは言えないのです。

このあたりが論者が最新の科学的知見について
不勉強なことが顕著に露見している点です。

たしかに、昭和の年代までは、このような議論がありました。
しかし、20世紀のうちに、
1)離婚の場合は、長年月を経ても元結婚相手に葛藤を抱き続け、
その葛藤も弱くならないことが多い。
2)子どもが別居親との面会を望んでおり、
面会交流をしていた子どもの方がそうでない子どもよりも、
離婚が子どもに与えるマイナス効果が少ないということが立証されています。

高葛藤の場合に子どもを別居親に合わせるべきではないという主張は、
なんら実証されたものではないということで、
(医者の頭の中だけで考えついたアイデアでした)
21世紀は日本以外ではあまり顧みられていません。

ほとんどの事例で離婚後も葛藤が続いているのだから、
子どもは別居親に会えないということになってしまいます。
別居親と面会させることによって、子どものマイナス効果が軽減するのですが、
別居親と会わせないで同居親が子育てに責任を持つということでは、
別居親に合わせないでマイナス効果を軽減させるという難題を同居親に責任を課すことであり、
これは極めて過酷な要求だと思います。

但し、その場合の被害者は子どもなのです。

 フレンドリーペアレントルールを絶対視するのも疑問です。相手に寛容であるほうが親権者とされるなら、「子どもにとって危険な父親」であっても、明確な証拠がない限り、母親は裁判でそれを主張しにくくなる。なぜなら裁判官に「根拠のない主張をして、父親との交流を制限するアンフレンドリーな親だ」と判断される恐れがあるからです。  母親はそれを避けようと、父親の危険性は主張せずに「寛容性」を示し、親権だけは取ろうと考える。すると、「絶対に子どもに会わせてはいけない父親」にも面会交流できる機会を与えてしまうことになる。最悪の場合、面会交流中に子どもを殺すという悲惨な事件につながってしまうこともあるのです。

父親が本当に合わせてはならない人間であれば、
子どものために堂々と主張するべきです。
具体的な根拠を示して主張をすれば、面会交流は実施されません。
面会交流をさせない基準も裁判所において確立しています。
そうでない場合でもやはり、裁判所は自ら定めた基準以外の基準を作り出して
面会を不当に制限することがいまだに残っています。

殺人事件に限らず刑事事件については、
人間の環境の中での感情の流れが大きくかかわっています。
不合理なことを人間が行うことには、必ず合理的な経緯があるのです。
これは法律家であれば知らなければならないことです。

悲惨な事件が起きると、あの人は悪い人だったのだという
結果バイアスがかかります。
事件前の性格や行動などの事情を検討しないで、
殺人があったからもともと危険だったという後付けの考え方では
何も予防することはできません。
バイアスや後付けの理論ということがありがちだということを自覚して
自らはそのような事実に反するとらえ方をしないとうところが、
一般の方と法律家の決定的な違いだと思います。本来は。

 面会交流がかえって子の福祉を害することがないよう、裁判所には慎重な判断が求められます。

昭和の年代に知識がとどまっている、周辺科学に関心がない、
バイアスに注意を払わない、実態を分からないのに主張だけはする。
そういう人の主張によって、子どもたちの健全な成長が阻害されないように、
裁判所には慎重な判断が求められると思います。


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共通テーマ:育児

虐待親に逆上する人たちは虐待死予防に役に立たない以上に有害であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日生後6か月の子どもを両親が衰弱死させたという報道があった。2人はおよそ2週間日中から夜間にかけて娘を自宅に放置。アルバイトやパチンコをしていたとみられて・・・とのことであった。

私は、この書き方が不自然であると思った。
アルバイトって言ったって、
それしか仕事が無かったのかもしれない。
パチンコと言っても、
パチンコをするためにに外に行ったのではなく
仕事先で2時間待機(無給だろう)を余儀なくされて
パチンコでもするしか思い浮かばなかったのかもしれない。

この報道では、パチンコで遊ぶために
子どもを放置したように受け手に印象を与えるので、
ミスリードではないかと指摘した。
実はよく読むとそれを匂わす
記者の配慮もある。

前に報道された私の依頼者の事件でも
マスコミは、
警察発表を裏もとらずに垂れ流していた。

真実追求や人権侵害のおそれを気にせず
怒りを誘導することが目的だ
としか思われない報道姿勢だと
常々感じていた。

このような虐待の背景としては
必ず現代の貧困があると確信している。

さて、そのようなことをフェイスブックに書き込んだら、
この親が鬼か蛇か、人間ではない
という怒りのコメントをわざわざくれた人がいた。
私がその両親に怒りを示さないことが悪いかのように
フェイスブック仲間の前で
そのことで公然と非難されたと感じた。

さらに「この両親は正しくない」と
コメントを書き込む人まで出た。
私は、この両親が正しいという気は毛頭ない。

しかし、私が怒らないことによって、
あるいはこの両親を責めないことによって
この両親があたかも正しいかのように
私が言っていると感じたようだ。

私達は、自分の怒る感情を疑うべきだ。

読者に怒りを起こさせる報道は
それによって読者、視聴者をつなぎとめるための
儲けの理論である。
人為的に怒らせることによって、
自分の本当の問題の所在から目をそらせ、
国民を簡単に戦争や、弱い者いじめに誘導する
有史以来の常とう手段である。

どうしてこの人たちが
私を面前で罵倒するように
怒りをあらわにしなければ気がおさまらないのか
それは、結局何の役にも立たない
一番弱い人の役に立たないということを
少し考えてみた。

<怒りは怒る人の自己防衛に過ぎないこと>

なぜ人は他人の子どもでもひどい目にあって死ぬと
怒るのか。
先ず、死んだ子供に共感してしまうということはわかりやすい。
ここまでは誰しも一緒なのだ。
無抵抗の赤ん坊が
おなかをすかして泣いていても
だんだん力が弱くなって衰弱していく様子を
思い起こして嫌な気持ちにならない人はいないだろう。
具体的にイメージがつかない人はいるかもしれない。

ではどうして怒るのか。

一つには、無抵抗の弱い赤ん坊に共鳴すると
その危機感、絶望感を
そのまま抱き続けることは人間は苦手だ
何とか危機感、絶望感、絶望的な不安感を解消しようと
無意識の反応を示してしまう。

その反応とは逃げるか戦うかなのだが
逃げるべき切迫する危険はわが身にはない。
加えて、犯罪者として悪と決めつけられた相手に対しては
わが身の危険を感じることはない
怒るという感情を持つことによって
危機感、絶望感、絶望的な不安感を
解消しようとしているのである。

また、行動経済学の見地からすると
不正それ自体を許さないという意識は
経済的効率性を度外視して行動に出ることがあるらしい。

しかし、要するに怒りは
自分の感情を収めきれない場合の
自分を守るための反応だということを頭に入れておいた方が良いと思う。

だから、怒る人にとって真実はどうでも良いことで
報道の、相手に怒る部分だけをクローズアップして
もしかしたら違うのではないかという理性は
見る影もなくなってしまう。

怒る人のもう一つのメリットも看過できない
虐待親は人間ではないという怒りは、
「私とは違う」という意識付けなのである。
自分とは連続性の無い者のすることであり、
きわめて特殊な、自分とは住む世界の違う者だ
ということで安心することができる。

しかし、刑事事件や虐待事例を多く扱っている私からすれば、
そのような思い込みを持つことができない。
虐待親は私たちと連続する人間の中の一人である。
ただ、それぞれの条件、環境が
彼らを追い込んでいるだろうと
確信に似た推測をしている。

その一つが貧困である。
貧困についてはまた改めて説明する。

この、「自分と異なる類型の人間」
というアイデアこそ有害である。
誰にとってか。それは、
この次に虐待死する子どもを救うことができない
という意味において有害である。

同じ人間がどうして子どもが衰弱死するまで放っておくか
どのような条件や環境があると
子どもを安全に育てることができないのか
それを考えることをしないからだ。

「自分と異なる類型の人間」のアイデアにしがみつく人たちは
特殊な人間だからその特殊な人間を排除する
という理屈になる。

実際に大阪で二人の子どもを餓死させた母親は
裁判員裁判で懲役30年の刑が確定した。

裁判員も餓死した子どもたちの写真を見ていると思う。
防衛本能が強く働くし、
自分は安全という環境があるので、
怒りの感情を量刑に反映したのだろう。
極めて自然な人間の行動である。
しかし、それでは子どもの虐待死は防げない。

私も、どちらかというと
怒りを前面に出すタイプの人間だった。
虐待という無抵抗であり、
親に庇護を求める子どもたちに対して
強度の共鳴をしてしまっていたと思う。

しかし、そんな無邪気な対応ができなくなったのは
虐待者からの相談だった。
法務局の人権擁護委員として電話相談をしていた。
自分が2歳の子を虐待しているといわれている母親から
相談の電話が来た。

この時、感情のままに母親を説教するということであれば、
母親は直ぐに電話を切っただろう。
止めたいのにやめられない虐待が続き、
子どもの命は風前の灯火になったかもしれない。

電話相談をするくらいの母親は、
自分の行動が虐待に当たり、
子どもに心身の影響を与えることは
既に知っている。
知識を吹き込む説教は意味がない。

子どもに対する愛情が無い親はいない。
子どもが憎いわけではない。
しかし、あたかも一般市民が虐待死の報道に触れて
怒りを抑えられないように
母親も怒りを子どもに向けてしまうのだ。

分かっていながら止められない
でも止めたい
どうするか。

子どもの命がかかっていると思うと
文字通り真剣勝負である。
私は、一緒に考えるという手法をとっていた。

指導するとか、援助するというのも違う。
相手の意見をすべて否定せずに、
ではどうしようかという
対等のメンバーとして知恵を出し合った。
結構オープンダイアローグ的な会話ができたように思える。
少なくとも、母親も電話を切らなかった。

話をしていて、そのお母さんが孤立している
ということがよくわかった。
そして、そのお母さんに抵抗なく溶け込んでいける場所を紹介した。
人権擁護委員の電話相談は、当番制なので
その後どうなったかについてはわからない。

でも
その方法ならやれる
ということを言ってもらった。

私は何を話したのか。
何のことはない。
自分の体験に基づいて、自分たちはどうしたか
ということをお話ししたのだ。

自分たちが苦しんだり不安になった経験を
このお母さんもしているとわかれば
あとは話は簡単だ。
自分たちが何を利用し、どのように危機を乗り切ったかを
話していくことがお母さんもすんなり理解してくれた理由だったのだろう。

そのお母さんの子育ての未熟さと
私の子育ての時の未熟さは
連続している。

ただ自分にあったものが
そのお母さんには決定的に欠落していた。

一番は困った時に助けてくれるつながりだ。

子どもから離れる時間を作ってくれる
パートナーであり、自分たちの両親である。

大阪の二人の子どもたちを餓死させた母親は
そのようなつながりが無かった。
自分たちの弱さをカバーしてくれる人はいなかった。

おそらく子供の泣き声が聞こえてきても
どうしたのか尋ねる人もいなかったのだろう。
その人を責めるわけではもちろんないが、
それが現代の日本社会の貧困なのだと思う。

虐待する母親は
私や私たちと連続している。
どこが違うのか、
その違うところを補う方法があれば、
虐待をしなくて済む。

排除の論理は、
子どもたちを救えない。
事後的に虐待死した子どもたちを
可愛そうに思うだけである。

誰からも子どもの愛し方を学ばなければ
子どもを愛することは難しい。
分断されている現代の日本社会の中では
驚くべきことが起きる。
それは、必ずしもその人だけの責任ではない。

怒りをあおる報道で
事情も知らないで怒るということは
歳のせいもあるだろうけれど
最近はなくなった。


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裁判員裁判が厳罰化することには理由があるということ [弁護士会]


裁判員裁判が厳罰化するということは
弁護士の中では共通認識となっています。
それ以前の裁判官による裁判に比べて
一般の人たちが入る裁判員裁判は、
刑が重くなるだけでなく、
被告人の主張が排斥されることが多いというわけです。

学者の中には、
裁判官が裁判員を誘導しているのではないか
というご指摘もあるのですが、
直ぐ近くでやり取りをしている立場としては
裁判員の方々の率直かつ
共通の考えによって、
このような傾向となっているように思われます。

刑事裁判の厳罰化は、
裁判員裁判という制度にその理由があると考えるべきです。

裁判員裁判と裁判官による裁判の違いは
初めて刑事裁判にかかわった人たちが裁判をする
ということから来ています。

大きく言うと二つのことにあると思われます。

一つは、法的知識、法的理解、訓練があまりないこと
一つは、事件、特に損害を目の当たりにした経験があまりないこと
ということになります。

裁判員裁判を行う事件は重罪事件と決められています。
典型的な事件は殺人事件です。
殺人事件では、通常、
殺人の事実を示すために、死体の写真が証拠提出されます。
死因と思われる怪我の状態が写っているわけです。
色身を落としたり、写真を少なくしたり、
あまりショックを受けないような配慮はされますが、
死体は死体です。

人間は、生きている人間を見ることはあっても
なかなか死体を見るということはありません。
しかも、外傷のある死体の写真を見ることは
滅多にないことです。

言い知れない嫌な気持ちになります。

これは、対人関係学の立場からすると
無意識に死体に対して共鳴共感してしまうと考えます。

人間は、群れの構成員から学ぶという習性があります。
群れの誰かが喜んでいれば、それを理解し、
自分も利益にあずかるということですし、

群れの誰かが苦しんでいたり、悲しんでいたりすれば
それを理解してしまいます。
一つには、その人を助けようとする本能が発動することと
一つには、同じ苦しみを追わないようにする動機付けになる
ということです。

死体に共鳴、共感するということは、
既にどうしようもなくなった状態ということですから、
死の間際の壮絶な苦しみだったり
もはや助からないという絶望感に共鳴してしまうことになります。

自分ではそれを意識しているわけではなく、
ただ、体調的な嫌悪感から嘔吐やめまいを起こしたりすることがあります。

これは、人間の自然な反応だと言えるでしょう。

そうすると、このようなむごい事態について
何らかの決着をつけることを志向します。
これが許されることは断じて容認できません。
不安感、絶望感に近づけば近づくほど、
それを解決したいという無意識の心の動きが出てきます。

一つには、理解を拒否するパニック状態に陥る
一つには、無かったことにしたいという気持ち
一つには、誰かのせいにしたい
ということがごくごく自然な人間の反応です。

人が簡単に命を奪われるということを
なんとか否定したいというように
心が動いてしまうわけです。
その存在は、人間をたまらなく不安にします。
共鳴力、共感力を通じて
被害者の過去の死亡と自分の将来の危険が
結びついてしまうということです。

誰かのせいにしたいという心の動きに注目です。

これらの心の動きは、不安や危機意識に還元できること
不安や危機意識を解消したいという志向があること、
解消行動として闘争と逃亡があり、
危険を作るものに対して勝てるという意識があれば
闘争によって解消しようとする傾向があり、
闘争によって解消しようとしている心の状態が怒り
ということになります。

裁判員は、中には不安を持て余して
裁判を続けることが不可能な人も出てきます。
これは当然なことだと思います。

しかし多くは、自分が安全な立場にいるということを
相当程度理解しています。
不安解消行動は怒りになる傾向にあります。
また、加害者が一段低いところで
おとなしく座っていますから、
責任は目の前の人間だと思うことは
当然のことです。

勢い、被告人に怒りを覚え
被告人を厳しく処罰することで
不安を解消しようという傾向に
意識しなければなりやすいのです。

その結果、
その人を処罰する方向での考えが強くなり、
もともと正当防衛や緊急避難など
被告人に有利な制度が頭に入りにくくなる
ということになります。

むごい結果を起こした被告人を
「自分たち」とは別の存在なのだと意識することによって
被告人の苦しみやジレンマに対する共鳴、共感を
水から遮断した結果ということもあるでしょう。

被告人に有利な情状について
冷静に考えることはとても至難の業でしょう。

さて、これが裁判官であればどうでしょう。

裁判官は、一人で裁判をするまでは
原則10年のキャリアが必要になります。
それまでに死体の写真もある程度見るようになります。

はじめは誰でも裁判員と同じ反応となります。
しかし、徐々に、自分とは関係の無い出来事であることを
理解していきます。
悲惨な状況に馴れていくわけです。

嫌悪感や、絶望感、怒り
という心の原因となる不安感、危機意識は
感じにくくなるということが通常です。

そうすると、その結果である
嫌悪感、絶望感、怒りという感情的部分が後退し、
理性的な判断ができやすくなるという
環境が整備された形になるわけです。

昔は罪を犯した場合、
集団的に罰するということがあったようです。
一人の人に集団で石をぶつける姿が
聖書などに喪描かれています。

これは、一つは、神との誓いを破るという
とてつもない滞在を目の当たりにした
不安、危機意識があり
無抵抗の人間に対して
「勝てる」という意識から怒りの意識を持ちやすくなり、
順法精神がある自分とは、全く違う存在という
自分を安心させるメカニズムが発動するので、
意思が当たる人の苦しみや痛みに
共鳴共感するシステムを遮断して、
酷いことをやめるきっかけを失うからです。

しかし、後々自分の行動を思い返して、
人は後悔をするか、
他人を攻撃することに痛みを感じなくなるか
いずれにしても悪い結果となるので、
近代の裁判は
理性的にふるまえる立場の者が
訓練して理性的にふるまって行う
ということに改められたわけです。

日本の裁判員裁判制度は
そのような近代裁判の本質とは何かを
問うているのだと思います。

私は即刻制度を廃止するべきだと考えます。

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震災避難計画は、人間の不合理な行動を織り込んで策定するべき。避難時の記憶が曖昧であることは当然ということ。 [震災等]

東日本大震災から6年10ヶ月が経った。
正直まだ6年10か月だ。
ニュースで祈りをささげているひとをみると
自然に涙が出てくる。

できるだけ今後起こりうる大震災において
被害者を少なくするための提言をしていかなければならない。
気持ちを新たにした。

いま、地元紙は、一面で
小学校の避難誘導の検証をしている。
個人情報等の制約がある中、
できる限り客観的に検証しようという
その姿勢は伝わる。

しかし、
実際に取材をすればわかるであろう
学校が待機をした理由、
その後の選択した避難経路について、
具体的な話が報告されていないのではないか
という感想は多くの宮城県民は持つだろう。

ただ、住民と相談してということであれば、
その住民がどのような発言をして、
なぜその発言をしたか、
教員はどの程度その発言を信じたのか
行動動機にどの程度貢献したのか
それを検証しなければ
真実は見えないはずだ。

だから、勢い
人物が特定される学校教員の発言が
その信用性を超えて重大視され、
検証チームの意図がどこにあるかにかかわらず、
学校の責任追及となるように
印象付けられてしまう危険があるように思われる。

だから、その教員の発言が
他の住民などの発言と矛盾する
等ということが大見出となっているのだ。

しかし、人間は合理的に行動しない。
これが最近の科学のトレンドだ。
特に、避難時には不合理な行動をする。
後で考えれば不合理という意味だが。

そのメカニズムは再三このブログで述べている。

まさに命の危険があり逃げているという状況である。
交感神経が活性化され、
心臓は早く大きく打ち始める
血圧が上がり、脈拍が増加し、体温が上昇する。
内臓の動きが弱まり、
血液は筋肉へと流れていく。

もちろん脳の活動も変化する。
複雑な思考は停止する。
将来的なことを予測したり、
人の心をおしはかったり、
細かなことに気を使わなくなる。

すべては、逃げるための
人間の生きるための仕組みである。

血液が筋肉に流れるのは、
筋肉を動かして足を使って逃げるためである。

では、複雑な思考が停止するのはどうしてか
これも逃げきるための生きる仕組みである。

人間がチンパンジーの祖先から分かれて800万年
動物として成立してから
さらに気が遠くなる年月が流れている。
その中で適者生存の原則の元、
種として生きる仕組みが整ってきたわけだ。

おそらくそれらの期間
余計なことを考えずに
安全な場所にたどり着くことが
逃げきる確率が一番高かったのだろう。

二者択一的考え方とは
安全な場所にたどり着いたのか
まだ危険が継続しているのか
ということである。

さらに、
悲観的な考え方になり、
まだ安全ではないかも知れない
という思考こそが
逃げ切る確率を高めた

楽観的に何とかなるかもしれない
なんて思っていたら
簡単に食い殺されていただろう。

われわれはその子孫であり、
そのような遺伝子を受け継いでいる。
命の危険があると思ってしまえば、
あとは自動的に体が変化してしまうのである。

もう一つ、記憶が曖昧になるということも
交感神経が高まり過ぎた状況では起きる。

一つは、もともと視野が狭くなっているから
十分な情報を落ち着いて統合する機能は低下している。
記憶の前に、正しく認識していないのだ。

さらに、認識したとしても
それを意味づける機能は弱まっている。
また、過去の出来事と照合して対策を立てる
というようなことも低下している。

そうすると、断片的な知覚を感じているだけなので、
記憶として定着することはそもそも期待できないのである。

また、恐怖や悲観的な思考傾向のために
知覚自体がゆがめられている上、
記憶もゆがめられる。

これが、人間として当たり前の状態なのである。

状況を確実に把握し、
適確な行動を判断して行動に移る
ということができない脳の構造になっているのである。

私たちは東日本大震災を経験して、
海辺でもない地域でも
大地震の恐怖で、
不合理な行動をしたり
合理的な行動しなかったりしたことを記憶している。
自分はどの程度合理的な判断ができたのか、
自分はともかく家族の、子どもや年寄りの心配をしていた人ならば、
冷静な行動ができなかったことは
よくわかっているはずだ。

遺族でもない第三者が、
特定の個人などの責任を追及するということは
このような不合理な行動をとる人間の生理に反する
極めて過酷な行動を要求することになる。

まるで裁判所の事実認定だ。

不合理な行動をするのは当たり前だ。
だから、それを織り込んで、
なるべく考える要素を排除した
避難計画を策定することこそ
東日本大震災の教訓のはずだ。

特定の誰かが、
文字通り超人的な行動をしなかったことを責めてばかりいたのでは
教訓がまるで生かされないことになってしまう。
そのことが心配でならない。

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ラスコー洞窟の謎を解く。対人関係学の挑戦。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

壁画で有名なラスコー洞窟はフランスにある。
洞窟と言っても、かなり長細い。
200mを超える長さで、
枝分かれをしている。
この洞窟の壁に動物や人間の絵が描かれている。

約2万年前にかかれたその壁画は
ゆたかな色彩が施されており、
動物たちの形はリアルであり、生き生きとしている。

ラスコー.jpg


このラスコー洞窟の壁画にはいくつかの謎があるという。
一つは、洞窟の中に武器と思われる道具が
かなりの量、残されていたこと。

二つは、この洞窟の一番奥深い所、
井戸の空間と呼ばれるところの絵が何を意味しているのか
ということ
井戸の写真.jpg

三つ目は、そもそもなぜこの洞窟に
これだけの絵が描かれたのか
ということだそうだ。

前提として、
この洞窟は、居住用ではないことである。
どうやら人類は洞窟に居住していたというわけではなく、
外で、竪穴式住居に居住していたらしい。

このため、他の洞窟でも武器や道具が
洞窟内におかれていたということはなかったらしい。
このために、第1の疑問が起きる。

ヒントとしては、この時期、文字は存在しない。
言葉があったどうか、どのような言葉あったか
私はわからないが、
文字がないということから、
それほど複雑な言葉自体がなかったのではないかと考える。

ただ、文字の出発ともいうべき
数字というか、数を表す絵文字らしきものが
あったようだ。

そこまで言えば、私が何を言いたいか
おおよそ見当をつけた人もいることと思われる。

そう!

ラスコー洞窟の絵は、
言葉の代わりに描かれたと私は考える。

今でも土木建築の設計図は、
言葉ではなく絵で表現される。
言葉をどんなに厳密に使っても
実際に絵で描かれた図面を見る方が
簡便かつ正確である。

先ず、おびただしい動物の絵の意味は
絵画とか芸術というわけではなく
きわめて実用的なものだったと考える。

おそらく、
集団的な狩りをする場合に
狩りの方法について打ち合わせをするために
描かれたものだと考える。

バッファローやマンモスの
どこを狙ってどのような攻撃をすれば
しとめることができるのか
それを壁に描いて、
情報を共有することが目的だったと思われる。

そのため、できるだけリアルに
動物の構造を描く必要があった。
色の違いなども
どうしても必要な情報内容だったと思われる。

このために、できるだけリアルに彩色するために
顔料を開発していったのだと思う。

これが第三の謎の答えだと思う。

では、言葉のない時代に
どのようにして、狩りの打ち合わせをしたのか。
それが第一の答えになる。

つまり、実際に武器を手にして
壁画の絵に向かって攻撃をしたのだと思う。
バッファローの腹に矢を突き立てたりしたのだろう。
これならば、言葉が通じなくても
狩りの初心者が何をすればよいか
一目瞭然であるし、
攻撃の際に大いに役に立ったはずだ。

だから、洞窟に武器が持ち込まれて使われていたから
同区に武器が残されても不思議ではないということになる。

そうして、最後に乗った第二の謎
井戸の空間の絵の意味である。

井戸の写真.jpg

この絵は、右にバッファローがいる。
バッファローは左側に頭を向け、
右側に尻を向けて立っている。
右上の尻から斜め左下にやりが付き抜かれており、
腹からは腸がはみ出している。

バファローの左側には
頭が鳥で、その下が人間の体のものが
倒れている。

私は、これは警告だと思う。

人間であれば、はらわたが出た段階で
もはや戦闘不能である。
ところがバファローは、
はらわたが出た直後は戦闘能力が残されている。
うかつに近づくとこちらの命が失われる。

はらわたが出た段階でバファローはやがて死ぬ
焦って近づかないで、
弱り切ってから近づかなければならない。
私にはそのようなメッセージが聞こえてくるような気がする。

鳥の頭は死者を表している。

少なくともこの絵を見た者はバファローにやりを命中させて
はらわたが出たとしても
近寄ろうとはしなくなるだろう。

言葉は、記憶を補うものである。
自分が体験しない出来事でも
言葉で注意を喚起することができる。
言葉を通じて他者の心情に
共鳴、共感することができる。

この言葉のない時代に、
絵を通じて、
危険を教え、えさの獲得方法を教える
そんなことが洞窟で繰り広げられていたのではないか。

絵の達人たちが
命がけで描いていたものだと
私はそう考える。
やがて、文字ができる
その始まりでもあると思い描いている。


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