So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

虐待の根本的な防止のために、「子育て支援基地」を地区ごとに配置する提言 [家事]



1 子育て支援基地

  子育て支援政策を各自治体は行っているようですが、必ずしも共通の政策がないのかもしれません。私のこれからお話しする「子育て支援基地」は、実際に仙台市にある、あるいはあった、子育て支援の一時預かり保育がベースになっています。ただ、少しはみ出しています。
  子育て支援基地は、子どもの一時保育をベースにしているのですが、どうしても保育というと、両親が働いていることが前提とされているようです。私は、後に述べる理由から、両親が働いているか否かにかかわらず、子どもを受け入れてほしいと思います。但し、利用人数の関係がありますから、当初は、週2回程度、利用時間も午前中だけとか、午後だけとかという制限があってもやむを得ないと思います。
  お母さんが子どもを連れて、フラッと入れる場所が良いと思います。できれば、地上階、1階にあるとよいです。公立保育所に併設した、あるいはその建物の中の一部屋があてがわれると本当は便利です。しかし、仙台市もあれよあれよという間に公立保育所が無くなって行ってしまいました。子育て支援基地には保育士さんがいて、保育士さんはできるだけベテランの女性が良いと思います。一度退職された方で、週に2回程度なら働けるという方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。基地では、短時間子どもを預けることもできるし、子どもと一緒に時間を過ごすことも許されてほしいです。紅茶等が用意されていたりして、先生に子育ての悩みを自然に打ち明けられる雰囲気を作ってもらいたいと思います。その間、子どもは、子ども同士自由に遊んでいるし、何かあれば、保育士さんが対処できます。一時預かりをする場合は、人数調整もあるでしょうから前もって予約をしてもらいますが、子育て相談は母親が同伴であれば随時行うことができるという具合が良いと思います。

2 孤立婚と子育て支援基地

  私の得意な200万年前でさえ、人間の場合は、子育ては母親だけがするのではなく、群れ全体で行っていたようです。これは、母親だけが子どもに食料を分け与えるサルと人間の決定的な違いです。農村部ではつい最近まで神社の境内などが子どもたちの自主的な遊び場になっていて、年長者が年少者をうまくあつかっていました。家々には祖父母がいて、あるいは茶飲みに来る近所の人がいて、誰彼となく子育てを手伝ったり、相談に乗ったりということがあったようです。また、現代のような厳しい受験競争や職場環境もなく、現代ほど相談が必要なこともなかったかもしれません。
  ところが、現代は、マンションなどの住宅事情や人間の行動傾向から、子育てを親だけがやるような風潮になっています。これは、人類史が始まっても初めてのことです。そもそも二人だけの部屋に子どもが生まれるのです。最初から孤立している孤立婚です。
  大家族で育ったことの無い親は、他人の子育てのリアルを知りません。大家族ならば、自分の親が弟や妹を子育てしている場面や年の離れた兄や姉が子育てしている場面を見ているでしょうし、親戚の子育ても観ているかもしれません。それができないので、本やインターネットで理想的な子育ての情報を入手したり、わずかな本音トークに接したりしていますが、情報発信者の生活環境も分からない上に、発信した情報の真実性も分かりません。それにもかかわらず、良い会社に正社員で就職するための大学、高校、中学と遡っていき、乳幼児教育などもお金をかけて行わなければ、子どもが一生食うに困らない状態にならないような風潮もあります。しっかりしたリアルな情報がないことと、不安の材料が多いことがあわさって、子育ては不安に満ちています。
  一見順調に子育てをしているようでも、例えばすぐ風邪をひくとか、夜泣きがひどいとか、実際は子育て者は苦労しています。手がかかるため、自分の時間がありません。
  母親が中心に子育てをしている家庭が多いのですが、最近は父親もできる限り育児参加をしているようです。皇太子殿下の子育てがきっかけになっていると思いますが、幕末や明治の外国人の日本に関する文献を読むと、もともと日本人男性は子どもが好きなようです。また、客観的にも孤立婚ですから父親が子育てをしなければ母親はパンクしてしまいます。
  特に職業を持っていた女性は、子育てを楽しむ余裕がないと、自分は社会の中で活躍していたのに、今はこの赤ん坊に振り回されている、自分がこの赤ん坊の奴隷のようになっているように感じる人が少なからずいるようです。これは母親の職業が自分の裁量で行える職業だったかという裁量の程度と、子どもの手のかかり具合に比例するようで、母性云々の話ではないように思います。そういう心身とも赤ん坊に振り回されている時は特にそうなのですが、母親は父親の子育てを評価できないようです。これは出産後の脳の構造が変化しているとのことで、赤ん坊に対しては共感、共鳴ができるけれど、父親に対しては共感、共鳴が起こりにくい状態になっているというところにも由来しているようです。母親が孤立感を深める要因になっています。
  現在の夫婦は、子育てに関して、人類史に類例を見ないほどの困難を抱えています。子どもは群れで育てるという人間の本能にも反します。様々な社会環境から2世代、3世代同居ができないのであれば、あるいは自然発生的な地域コミュニティーが形成できないのであれば、行政がこれを補うサービスをすることが合理的ではないでしょうか。
  もし、私の言う子育て支援基地があったら、お母さんは、2,3時間とはいえ、育児から解放されます。自分のための買い物に行ってもよいでしょうし、読書や音楽鑑賞など、自分の時間を作ることができます。時間の切れ目のない子育てからのわずかながらの解放は、大いにリフレッシュできるでしょう。また、単身赴任や長時間労働等の夫が子育てに協力できない場合は、その時間はとても貴重なものになるでしょう。
  最も貴重なことは、社会が母親に対して子育てを休んでよいのだというメッセージを送ることです。そしてそれを現実化してくれることです。子育てに喜びを感じて、不平を言ってはいけないと思い込んでいるお母さんがたくさんいらっしゃいます。母性神話に苦しめられているお母さん方もまだまだ多くいらっしゃいます。サボりたいとか投げ出したいという気持ちを持つこと自体に罪悪感を持つようです。2時間か3時間の自由行動ですが、頑張った御褒美を行政が用意することはとても素敵なことだと思います。
  産休等で仕事を休んでいるお母さん方にも、専業主婦のお母さんにも、子育て支援基地は必要な行政サービスだと思います。

3 虐待が起きる原因と子育て支援基地の役割

  虐待が起きる原因は、驚くほどの無知と孤立です。普通のお母さんでさえ、子育てには不安があり、孤独な育児をしていると感じています。それでもインターネット記事などを見て、やってはいけないこと、心配しなくてよいこと等を必死に情報入手しています。ところが、そのような情報を入手できないお母さん方は、例えば子どもに大人の食べるものを与えたり、衛生面での配慮が足りなかったりすることがあります。赤ちゃんの生理に無知なため、大人に合わせた食事の時間にしたり、逆に食べさせすぎたりしたりします。些細な無知の積み重ねが子どもに悪影響になって現れることもあります。
  孤立は、この無知を修正することができません。誰かが、親の間違いを優しく直してくれれば、親は修正することができます。しかし、虐待事件の親たちは、適切な人間とつながることができず、自分と同じ無知な大人や、全く赤ん坊を可愛いともかわいそうとも思わない大人とつながってしまっていました。子育ての相談と言えば児童相談所かもしれませんが、そのような親にとって児童相談所は、自分の子育てに至らないことがあると、子どもを奪って会えなくする怖い機関だという認識が作られていることが多くあります。また、児童相談所は、平素の育児相談を受け付ける余裕はないでしょう。
  そうだとすると、子育て支援基地が最適なのです。数時間とはいえ、ベテランの保育士さんが子どもを観察できますし、子どもと母親の関わりを観察することができます。無知を修正するきっかけが多く生まれます。愛情のかけ方を教えることもできます。
  この時、良いのは、年配の保育士さんなのです。一つには多くの親子を見てきたということが絶対的な強みです。ある程度のはみだしがあっても許容できる人たちです。また、つい虐待をしたくなるという孤立した親に対して、それはあなただけでないよと、のんびり言ってくれることが期待できるからです。親にとっては、自分の育った環境がそうだったことが、例えば児童相談所にとっては虐待だということが結構あります。年配の保育士さんなら、それはこうすればもっと良いよと教えてくれることが期待できます。
  ここでの鉄則は、虐待を即時に否定しないことです。修正するべきエラーだと扱ってくれることです。そうやって、みんな同じ道をたどったということを知ることによって、同じ地平からのアドバイスということで親たちは救われ、子どもへの愛おしい気持ちを回復することができるのです。
  また、母親は、どんなに父親がアドバイスしたり、慰めたりしても、あまり喜びを感じないようです。わかってくれない、話を聞いてくれないという不満はどうやらつきもののようで、父親はあきらめるべきポイントのようです。しかし、ベテランの保育士さんから、「このお子さんは確かに手がかかるから、お母さん大変だね」と言ってもらえることで、涙を流すほど救われるのだそうです。あまり追いつめない。でも言うことは言う。言い方を許容的、支持的に行う。これができるのは子育て支援基地だけだと思います。
  週に二度、一度でも、あそこに行くことができる、あそこに行けば自分を理解してくれる人がいる、つかの間の自由も手に入る、行った後は子育てが楽になるということが続けば、乳児への虐待は確実に減少することと思います。

4 幼児の虐待と子育て支援基地

  幼児への虐待も、無知と孤立です。子育てのやり方がわからないから、ペットを育てた経験から同じように育ててしまったり、親の都合で定期的な食事、おやつを与えなかったり、衛生状態が悪いということがあるようです。この種の虐待に関しても、乳児の時と同じように子育て支援基地は機能します。
  また、これまで頼りにしてきた保育士さんですから、あるいはこれまで子育て支援基地を利用してきてよいイメージがあれば、また、自分が否定されていないという安心感から、なんとなくフラッと尋ねることもあるでしょうし、話を聞こうという気にもなるでしょう。子どもたちも、自力で歩行するようになり、近所に子育て支援基地があれば、いざとなったら遊びに来ることもできます。あまりにも親の子育てがひどく、命の危険や直ちに健康を害する危険があれば、その時は児童相談所に通告することもあるでしょう。
  しかし大事なことは、「それはみんな経験している」という言葉と、「それをやったら子どもがきちんと育たないよ」という意見を柔らかく言ってくれる相談できる相手がいることが、子どもたちにとっては有益だと思います。
  もしかしたら、きちんとやりたいけれど、色々な事情でやれないという親たちもいるかもしれません。支援基地では、通常は保育士さんがいればよいとおもうのですが、時折、ケースワーカーや心理士、弁護士、できればお医者さんなどが普段着で訪れ、気軽に相談に乗る機会があれば良いのかもしれません。
  さらには、幼児教育がいろいろ形で費用を伴って盛んに売り出されています。学習塾だけでなく、ビアノやバレエなど、幼児の内からかなり本格的にやらされる風潮があります。これは、子どもにとっては相当のストレスになるようです。しかし、子どもたちは頑張りますし、やればやるだけ伸びる時期でもあります。全く大人が想定しないやり方を編み出したりして、指導者を超えて熟達することもあるようです。だから大人は、特に親はやらせたがるわけです。自分はこんなにできなかったのに、この子はこんなにできると思ってしまうのです。もしかしたら、それは子どもにとってはかなり無理なことで、コルチゾールなどのストレスホルモンによって、脳や内臓が委縮しているかもしれません。そんな時に、子どもたちの逃げ場にもなってもらえれば、どんなに子どもたちは救われるでしょうか。

5 まとめ

  児童虐待は、とんでもない無知と孤立から起きるものです。それは、親の責任でもなく、社会環境が原因です。親の孤立を解消することが、急務です。しかし、虐待親の烙印を押されて、子どもをとられてしまうという不安を抱えた親は、自ら孤立を選ぶ傾向もあります。
  そして、どんな親でも、一つ間違えば虐待を起こしてしまう可能性があり、孤立しているためにそれが虐待だと気が付かない場合もあります。
  わずかの時間、特に説教されたりしないで、具体的に良い方法を教えてもらえるような場所があれば、そこに行って誰かと話をすることの負担はだいぶ軽減されるでしょう。その基地の中核には保育士さんがいて、地域の経験者、専門家がふらりと立ち寄るようなコミュニティーになれば、虐待は減っていくと思います。
  現在、児相の規模と権限の拡大が、虐待防止として提案されています。しかし、児相の規模と権限拡大は、虐待予備軍の親たちの孤立を進めてしまう恐れもあると思います。あらゆるまなざしを自分たちに対する監視だと受け止めるでしょう。できれば、児相と保育所の中間的な機関があればよいと思うのです。例えば親子のショートステイとかそういうものです。もう一つ、児相の拡大の問題があります。児相は虐待があって初めて介入を行うという特徴があります。虐待後の措置が厳しいものになることからそういう条件になります。しかし、虐待は発見した時には、既に深刻な状態が起きているかもしれません。免疫に支障が出れば、小さい子なんてあっという間に命の危険が訪れます。虐待が起きてからの対策は、虐待死を防ぎきることはできないと思います。また、死ななければ良いというものでもなく、暖かな家庭、失敗や欠点を受け止めてもらう体験がなく、人間が信頼できるという体験がないまま、大人になって行く子どもたちを放置してはなりません。虐待の要因を取り除いて虐待を無くすためにどうするかという根本的なアイデアを多く出し合って、人間らしい喜びを子どもたちに与えることを考えるべきだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

道徳の起源に関するアジア的な規範理解に基づく考察 [進化心理学、生理学、対人関係学]

認知心理学の大勢のように心の起源を狩猟採集時代の生活様式におくことには異論がない。しかし、道徳の起源をその頃におくことには疑問がある。問題の所在は、道徳の性質と起源の意味にある。道徳などの規範は、あくまでも意識の外に存在するものでなければならないと考える。そしてそれに従うという承認の契機があって初めて実存する(H.LA.ハート)。狩猟採集時代に、このような外在的な規範があったとは考えることは無理があると思う。加えて当時は、外在的な規範が存在しなくても群れを形成し、維持することが可能だったと考えるからである。
道徳の起源を狩猟採集時代に求める考えは、当時30人から200人の群れが形成されていたのであるから、群れ形成のためには何らかの人間を規律する仕組みがあったはずだとの前提があるように思われる。人間の心、行動を外から制約することが必要だという考えである。私はこれが不要だという主張をする。
狩猟採集時代に群れの形成を可能としたものは、規範ではなく、感情であり、それは共鳴と共感であると考える。
その説明をする前に、狩猟採集時代の群れの在り方について理解、あるいは想像力が必要である。当時は、原則として、人間は、生まれてから死ぬまで一つの群れで生活していた。つまり、生まれてから死ぬまで同じ構成員と過ごしていた。人間の個体識別の能力に適う少人数だったため、誰がどういう人間かということを熟知していた。共感、共鳴を抱きやすい環境であると考える。客観的にも、群れが弱体化すると、飢えが生じたり、肉食獣に捕食される可能性が増加したり、出産と子育てに支障が生じたりという不利益が生まれてしまう。
だから、群れの中では、誰かが困っていたり苦しんでいたら、自分が困っていたり苦しんでいる場合と同じ感情を持つことは極めて合理的である。助けようとする行動が自然に起こり、助けられた方は群れに感謝し、群れのために尽くそうという気持ちが自然にわいてきただろう。
食料や情報を平等に分け与えていたし、分業をきちんと行っていた。これは客観的には、少数の群れの中で貧富の差があることは、弱者が衰弱して、結局群れが弱体化し、消滅しやすくする。平等は合理的である。主観的には、不利益を与えられる者がいると、その者が悲しんだり苦しんだりする。これに共鳴して、何とか助けたいという気持ちになったのだろう。
群れの中での共鳴共感の仕組みによる助け合いは、当時の人間が置かれた環境に適合するために群れを作るにあたっての必要条件であった。この行動傾向が確立していくことこそ、心が形づけられることである。群れの仲間同士は、一つの体のパーツのように、お互いが深刻な対立をすることなく、生活をしていたことだろう。外在的な法律や道徳は不要であった。
この考えは、アジア的哲学の中にとどめられている。孔子は、論語の中で、次のエピソードを述べている。
評価の高い軍師が孔子と話をする機会に、「私の地方には、自分の父親がまぎれてきた他人の羊を返さずに自分のものにしたと、訴え出た人物がいる。正直な人間だ。」と言った。これに対して孔子は、「私の地方では、正直な人間の意味が違う。親は子の悪事を隠し、子は親の悪事を隠すことが自然の摂理に素直な行いだと考えられている」と返したとされている。
軍師は、外在的規律である道徳的正しさを述べている。しかし、孔子は、親子の情を重視したとされているエピソードである。孔子は、親と一緒になって盗みを働くことを称賛しているわけではない。法律家の立場から考えると刑罰という国家的規範にも限界があり、親子の自然な感情を処罰の対象とすることは慎重にしなければならないというものである。それは、国家の秩序の目的が、国民の平穏な生活を維持するためのものであり、親子が助け合って生活することがその一つの理想となる。国家はそのための道具であるという考えである。この考えは日本の刑法にも取り入れられており、親族をかばうための行為は、刑が免除される規定がある。また、法は家庭に入らないと定式化され、家族間の犯罪も刑が免除される規定がある。法が家庭に入らないということは世界各地にある考え方だが、孔子の考えはさらに一歩進めたアジア的な規範意識と言えそうである。これは、家族間の情愛と、法、道徳という外在的規律ツールを厳然と区別するところに特徴があるのではないだろうか。
この家族間の情愛について、孔子の時代から狩猟採集時代へと年代を遡らせて考えた場合、そこにあるのは家族よりも広い人間が集まり、家族よりも多い人数の集団を形成している「群れ」である。原則としてこの群れのメンバーとだけ一生を過ごしていたのであるから、孔子の時代や現代の「家族」よりも濃い人間関係があったと思われるのである。おそらく、群れ全体の利益と個人の利益の衝突は、それほど考える必要もなかったと思われる。共鳴共感が起こりやすく、利害対立が起こりにくい時代だったと思う。そして、群れに貢献することが、各構成員の気持ちが落ち着く、つまり副交感神経を活性化させることだった。この生理的変化も群れを形成し維持する誘導要因だったと考える。結局、外在的規範、道徳がなくても、群れは形成できた。それ以上の秩序は不要だったと考える。
それでは、外在的な規範である道徳の起源はどこにあるのか。先ず、道徳はいつごろから生まれたのか。
私は、農業革命前夜頃だと考えている。農業生産物の増加は、定住の傾向を促進するとともに、群れの集団の人数が増加した。さらに、他の群れとの交流が起こるようになって行った。かかわりあう人間の数が、飛躍的に増大し、個体識別ができない数の人間と関わり合いを持つようになった。また、例えば水利をめぐっての争いなど、人間同士で利害関係が対立する場面も生まれてきたかもしれない。
それ以前の狩猟採集時代は、自分以外の人間は仲間だった。しかし、その後は、自分以外の人間が他人である場合が生まれた。さらに利害対立する者がでてきたのである。そうなると、人間同士が争うことによって、共倒れになる危険も増えてきた。また、争いは、狩猟採集時代はごく例外的なイベントであったため、利害対立する相手とはいえ、仲間かも知れないという意識のある人間と対立することによって、傷つくものが現れると、対立の勝者も傷つくことが多かったと思われる。
このため、感情、情動に任せて行動をしないで、道徳に従った行動をすることが合理的になって行く。これが、道徳の起源だと私は考える。相手に対する共感、共鳴はできないが、特定の行動をしなければならない、あるいは、してはならないということが道徳の始まりだったと思われる。道徳が存在する必要性、必然性が生まれたのである。そして、道徳など、他人同士を規律する規範の合理性を求めて、事態を単純に、直感的に見ないで、何らかの行為をしたことにより生じるいろいろな結果を考えるようになっていっただろう。人間の脳が発達していったと思われる。この規範意識の醸成は、農業のように、直ちに結果が出ずに将来的な結果を求めて、準備活動をする作業と会い関連して育まれたものと考える。農業の発明は、単に食糧事情だけでなく、人間と人間の結びつきや人間の脳の機能にも影響を与えていったのである。
では、その時の道徳は、どこからきたのか。何をお手本として作られたのか。何が道徳的に満たされた理想的な人間関係だったのか。
私は、これこそが狩猟採集時代の人間関係であったと思われる。共感、共鳴を素直に抱けない相手であっても、およそ人間を攻撃してはならない。人間が困っている時は助けなければならない。人間の弱さ、欠点、不十分点を攻撃したり批判したりしてはならない。みんな平等に扱われなければならない。原則として仲間から追放してはならない。集団に対して不利益を与えてはならない。こういった狩猟採集時代の人間関係の当たり前が、多人数か、群れの中の群れの形成によって、当たり前ではなくなって行った。その当たり前だったことに反する行為は、心理的にも負担だったと思われる。道徳は、本来、狩猟採集時代の濃い人間関係にない者同士を、あたかも濃い人間関係であるかのように扱うことを要請するものである。このため、狩猟採集時代の人間観を色濃く残していた当時の人間たちも、素直に受け入れていったものと思われる。人間の行動傾向が数百万年かけて確立し、行動様式も脳の構造も、適応しやすいように進化していった。農業の発展によって環境こそ変化したが、人間の心は、容易に変化しない。それまでの間に形成された行動様式、人間関係の感覚をもとに形成された道徳が、心地よいものであったことは想像しやすい。心地よいとは、緊張が解かれること、生理的に言えば、交感神経の活性化から副交感神経の活性化へと変化することである。人間は素直に快楽に従ったのである。
この脳の構造や遺伝子にしみ込んだような行動様式は、現代においても継承されている。一方で、人間同士が助け合うことを体験したり、目撃しただけでも心地よい気持ちになる。弱い者を見て、愛おしい、かわいいという気持ちになり、弱い者が無抵抗のまま攻撃されるところを見ると怒りが湧いてくる。見ず知らずの人間と、相手が人間だというだけで、うっかり信頼を寄せてしまったり、横路美や悲しみを分かち合うこともある。他方では、自分が狩猟採集時代の群れの構成員のように扱われたいと思っている。扱われないことによって、辛い思い、寂しい思い、悔しい思いをする。一人だけ分配されないとか、仲間から排除されたり、職場や学校で無視をされたり、嫌がることをされたりすると、悔しい思いをしたり、執拗に攻撃されると生きる意欲が失われていくことがある。
正当にも、これらの感情が現れることは人間らしい感情だとされている。そして、その理由も人間だから当たり前だとされている。そこで言う人間とは何だろうか、人権とは何だろうか。私は、狩猟採集時代に、厳しい自然環境に適応するために人間が形成した脳の構造と生理的仕組みだと考えている。

nice!(0)  コメント(0) 

人間が他の人間を攻撃できる理由 虐待、いじめ、パワハラ、ネット炎上 [進化心理学、生理学、対人関係学]



本来人間は、他者との共鳴力、共感力があり、
母子関係になくても、
自然と助け合ったり、一緒に楽しんだりする
能力を持った生き物です。

共鳴力、共感力とはどういうものでしょう。

それは、
誰かが苦しんでいる姿を見ると
苦しいだろうなあとかわいそうになり、
何とかしてあげようと手を指し伸ばすきっかけになります。

悲しんでいる人を見ると
悲しくなって、
何とか励まそうとします。

楽しんでいる人を見ると
自分も楽しくなってしまい
一緒に楽しもうとするということもあるでしょうね。

これを生理的変化で表現してみます。

先ず、誰かから責められていて苦しんでいる人は、
危機意識を感じていて、
生理的には交感神経が亢進し
心臓が高鳴り、体温も上昇し、
逃げようとしていたり、反撃しようとしていたり、
あるいはどうする方法も見つけられずに
危機感のアイドリング状態が続いていたりします。

この責められている人に対して
共鳴し、共感するというときも
自分に危機が発生していないにもかかわらず、
責められている人を見て
やはり交感神経が亢進し
同じように、心臓が高鳴って、体温が上昇して
という生理的変化が起きるようです。

そして、助けようとする人は
危機を与えている者に対して
攻撃をしてかばおうとしますから
怒りのモードになることが多いようです。

不思議なことに
自分自身が誰かを攻撃している場合も、
相手が苦しんでいるのを見ると
意識していなくとも、
やはり、交感神経が亢進することがあります。

攻撃しているさなかでは、
怒りのモードにありますから、
あまり他者への共鳴、共感は起こりにくいのですが、
攻撃が終了してから、
思い出してしまいます。

怒りのモードが覚めて、
共鳴、共感が事後的に働いてしまう場合が
案外多くあるようです。

思い出しては緊張し、
交感神経が亢進してしまう
ストレスが高まって、持続してしまう
このような状態が慢性化して
精神的に破綻をきたす場合があり、
極端には自死に至る場合もあります。

どうやら人間は
そういう生き物のようです。

そういう苦しみから逃れるためには、
人間への共感、共鳴を遮断するしかありません。
共感や共鳴は勝手に起きますので、
なかなかできることではありませんが、
色々な事情から
共感、共鳴を遮断できた人がいるとします。

しかし、人間に対する共感、共鳴を遮断してしまうことは、
人間を大切な存在だと感じないことになるようです。
他人が苦しんでも、泣いても、怖がっても
気にしなくなるということはそういうことです。

そしてそれは、他者への無感情にとどまらず、
人間一般に対する無感情を伴います。
つまり、自分自身でさえも
かけがえのない大切な存在だと
感じなくなって行ってしまいます。

多くは、自分自身が大切な存在だと
思えなくなってから
共感、共鳴が遮断されることが多いようです。

そうすると、自分の命も大切なものではなく、
自分の社会的立場も大切なものだと感じなくなり、
周囲から孤立しやすくなり、
反社会的行動に出たり、
極端な話は自死に至りやすくなる
ということになってしまいます。


この共感と共鳴がピュアに存在していたのが
狩猟採集時代の群れの生活です。
何も武器のない人間が生き残るためには
運命共同体として群れの仲間を大切にして
群れを強くするしかありませんでした。
また
他の群れとの交流が現代のようにありませんから、
自分以外の他人というものは
全員が群れの仲間でしたから
人間=仲間というところから心が形成された
ということになります。

いつも一緒にいる仲間が
苦しんだり、悲しんだりしていれば
自分がそういう危機に直面していなくても
自分が苦しんでいる、悲しんでいるように
交感神経が亢進し、
群れ全体で一人の仲間を助けたのでしょう。
そう考えるのは、
そう考えなければ、弱い人間が生き延びることは
ありえないと思うからです。

よほどのことがない限り、
群れの仲間を攻撃したり
不利益を与えたりするということは無かったと思います。

そういう意味で、群れの仲間と自分と
あまり区別できなかった時代が
共感と共鳴がピュアに働いていた時代と
言いました。

その時代に形成された脳の構造は、
現代もほとんど変わらないと言います。
脳が変わらないのだから、
同じように他人の苦しみ、悲しみを
共感し、共鳴してしまうのです。

でも、共感し、共鳴するならば
はじめから他の人間を攻撃できないはずです。
しかし、虐待やいじめ、パワハラが起きています。
それが原因で命を失う人間も少なくありません。

なぜ、他人を攻撃できるようになったのでしょう。
何かが変わったのです。
脳の構造が変わらないとしたら
それ以外の何かが変わったということになります。
人間を取り巻く環境が変わったということになります。

先ず、狩猟採集時代は
人間はみんな、生涯一つの群れで生活していましたが、
現代では、家庭、学校、職場、地域など複数の群れに所属し
さらには社会、国家、世界等という人間とのかかわりまである。
(群れの複数化、相対化)

狩猟採集時代は、200名弱の人間とのかかわりだったので、
個体識別ができ、仲間だと認識できたのに
現代社会は、一日街に出ただけで
何万という人を目にすることがあり得るほど
多くの人間と接するようになった。
(識別能力以上の人数とのかかわり)

結果として、
狩猟採集時代は、自分以外の人は
すべて仲間だったのに、
現代の自分以外の人間は
仲間であると受け止められない
ということになるようです。


助け合わない、他人のために戦わない
ということは説明がつくとして、
どうして、同じ群れの人間を攻撃するようになるのでしょう。

家では親が子を虐待し、
学校ではいじめや苛烈な指導があり、
職場ではパワハラやセクハラがある
ネットでは、特定の人が袋叩きに合う。

積極的に攻撃することが
なぜできるのかという視点で考えることが
根本的で、効果的な予防方法を構築するヒントになるでしょう。

私は、弁護士や人権擁護委員として
攻撃を受ける被害者からも事情を聴きますが、
攻撃をする加害者からも話を聞く機会が豊富にあります。

共通する加害者の意識として
「正当防衛」の意識、言い訳があるようです。
これは自己弁護ということではありません。
客観的に自分が悪いことをしたということを認識すれば
正当防衛が主張できないことはよくわかっているからです。

でも、どこかに他人を攻撃している時に
自分あるいは自分達を守っているという意識が感じられます。

<ある内縁の夫の虐待を放置した母のケース>

虐待する親、あるいは虐待を放置する親の場合、
母親でも、その虐待行為の瞬間は、
例えば、自分と内縁の夫との関係を壊されたくない
という意識があって、
虐待を結果的に容認していたようです。

もっとも、容認というと不正確かもしれません。
虐待はなかったと、あるいは虐待したのは内縁の夫ではない
ということを熱心に主張していました。

ただ、子どもがどのような被害を受けたかについては
母親は正確に把握しているのです。
口にすることもはばかることを
きちんと言葉で言っていました。
分かっているのです。

しかし子どもの被害を防止しなければならないのに、
自分と内縁の夫の関係性を優先してしまうのです。
あるいは、内縁の夫をかばってしまうのです。

この時、自分の子どもと母親は、
同じ群れの仲間ではなかったと思います。
母親は内縁の夫と同じ群れを形成したいと望んでいたあまり、
子どもが群れの外にはみ出してしまったのです。
もっと正確に言うと、子どもと母親は一つの群れであったのに、
内縁の夫が登場し、
内縁の夫が母親の子どもと群れの仲間になり切れなかったために
母親は、本来自分の子どもの苦しみや恐怖に
共鳴しなければならなかったのに
内縁の夫のイライラに共感、共鳴してしまったのです。
その瞬間は、母親は自分の子どもが仲間ではなくなって、
人間ですらなくなっていたのでしょう。

母親は選択するべきでした。
子どもと自分が一つの群れになれないのならば、
A:内縁の夫とは群れになることをあきらめる
B:子どもを別の群れに帰属させる
  子どもの父親、どちらかの祖父母、公的機関

それができなかった事情もあったみたいです。
その母親は、これまでの人生において
尊重された経験や、助けられた経験
そのような安住した人間関係にいた経験を
余り持ち合わせていないようです。

常に自分が周囲から否定されていると
感じ続けていたようです。

自分が母親として子どもを手放すということは、
自分を否定することだという意識を
強く持ったみたいです。

また、子どもを手放すと
一生子どもと関わることができない
という母親らしい思いもあったようです。

また、内縁の夫が即物的な評価をしたにすぎないかどうかはともかく、
とりあえず、自分を女性として認めてくれる存在であったことから、
内縁関係を維持することは
自分を守ることだったのかもしれません。

今にして思うと、母親は
とにかく自分自身に自信がなく、
自分という原形をとどめないまでに
繕った人でした。


<ある中学生のいじめのケース>

いじめの事例でも防衛意識は常にあります。
これをしなくてはならない、これをしてはならない
ということが、今の中学生には多くあります。
一発受験ではなく推薦の場合は
365日、公私の区別なく見張られている想いのようです。

特に進学に有利な立場にいる者ほど、
そのような息苦しさを感じているようです。

部活動にもまじめに土日も休まないで参加しなければいけない
サボれば推薦がとれない
そんな意識が本人や家族にあるようです。

それにもかかわらず、
推薦なんて初めから無理だから
部活動を休んでも、
学校を休んでテストの成績が悪くなっても
全く平気だよ
部活に行くより女の子と買い物に行った方がよいや
と自由な行動をする人間がいた場合、
息苦しさを感じている推薦志望組は、

うらやましい
とは思わずに、
ルールを破る不正義者
というような評価をするようです。
そして怒りを感じるようです。

息苦しさを感じる者どうしが仲間を形成します。
息苦しさを感じていない者はターゲットとなり
ルールを逸脱する共通の敵のような存在になるようです。

仲間と異質な立場にあり、
仲間に不利益を与えるという意識で、
攻撃が始まるようです。

ここでは、学校という群れの中に、
群れの仲間から一気に敵に転落する人間が現れてしまいました。

このような攻撃が仲間内だけで行われるのではなく、
同時多発的に行われてしまえば、
そのターゲットはいじめても良い「もの」だ
という烙印が押されます。
これは、人間扱いしなくてもよい対象だ
という意識が生まれたことです。

特に子どもだけでなく、
教師が、ターゲットを批判するようになると
正義によって悪をうつという構図は
歯止めがきかなくなります。

この時の加害者の意識は、
ターゲットを人間扱いしないことによって
ようやく、息苦しい生活から
脱落しないための行動をしている
という意識があるようです。

怒りは、本来自分を苦しめる社会や
監視をしている学校に向けられるべきです。
しかし、社会や学校と行っても
具体的な怒りの対象が見えてきませんし、
勝ち目がないことは初めからわかっています。
そうかといって、そのような社会から逃げるわけにはいかない、
高校進学をあきらめるわけにもいかない。

しかし、息苦しさやうまくいかないかもしれないという危機感に
常にさらされ続けている
自分を守りたいという意識が、

ルールを守らないという、
本来であれば自分に対する危険にはなりようのない
ターゲットの行為に正義に反する行為という烙印を押させ、
顔の見えるターゲットに対する怒りを抱かせ、
怒りの特徴である
対象物が衰弱するまで攻撃を続けるという
そういう行動をとらせるわけです。

もう一言付け加えると、家庭の問題があります。
家庭への帰属意識が強すぎると
親の望んだ行動をとるようになります。
自分が成績を落としたり問題行動をしたりして
親を悲しませたくないという
共感と共鳴が働いています。

そうすると、家族という群れを守るために
自分は、ルールを守って推薦を受けられなくなるようなことは
絶対しないという意識が強くなるでしょう。

家族が、自分の子どもさえよい学校に入れればそれでよい
という考えになることは
家族と他人の子どもたちの間に群れ意識がない現状のPTA制度からは
ある意味通常のことかもしれません。

そうすると、子どもは、
家族との間のルールを守ることを優先し、
同じクラスに配属された子ども同士が
仲間であるということを感じにくくなる
ということもあるように感じます。
簡単に意識の上で
仲間から排除できる仕組みがあるように思われます。


<ある小学生中学年のいじめのケース>

もう少し低学年
小学校の中学年位にも、本格的ないじめが起きています。
教室の中で小さなグループがわかれ、
特別な事情がない限り、小グループの構成員の変更はありません。
幼稚園教育で、このようなグループ分けが
奨励されているようなことをしているのですが、
それを指摘しても幼稚園の先生はピンと来てくれませんでした。

そのグループにはリーダーがいる場合があり、
リーダーがグループを組織します。
だいたいは、その仲間に入りたいメンバーと
なんだかわからないけれど
これまでの行きがかりから
メンバーにされてしまった子どもがいるようです。

非自発的にメンバーになった子どもは
やはり自由ですから、
グループをあまり大事にしないで
別の友達のところに行ったりします。
それが自然だと思うのですが、
そうするとリーダーは、
自分を捨てた、自分を尊重しないというネガティブな気持ちになるようです。

最初は、色々な方法で
自由メンバーをつなぎとめようとしますが、
なお自由にふるまわれると
攻撃に転じます。

最初は内緒話をしながら
焼きもちを焼かせて復帰を促しますが
そのうち
サッカーのシミュレーションのように
何もないところで自由人から攻撃を受けたかのように
嘆き悲しむ行為をします。

メンバー志望の子どもたちは
リーダーの嘆き悲しむ姿から正義感が奮い起こされ、
また、もともと何も努力をしていないのにメンバーになっている子に
憤りもあるのかもしれません。
訳も分からないのに
リーダーが泣いているというだけで
共感し、共鳴してしまい、
ターゲットが悪いという判断をして、
ターゲットを仲間として認めず、
人間扱いしない、即ち、攻撃を開始します。

リーダーは自分を守るため、
取り巻きはリーダーを守るため
正義感と、防衛意識をもっていじめを行うようです。

このリーダーは、
背景を知る機会があったのですが、
家族の中であまり尊重されていませんでした。
普通には接していたのでしょうが、
兄弟の方がずば抜けて優秀だったために
親の関心は兄弟の方に向いていました。
この子は、自分に監視を向けてもらいたくて
母親の意向を積極的に体現しようと
涙ぐましい努力を
家庭の中でも行っていたようでした。

仲間の中にいるという安心感を持ちにくく、
仲間を引き留めようとする行動を起こしやすく、
結局、最後は取り巻きが煩わしくなり、
リーダーを追放していました。

リーダーのターゲットに対する攻撃は、
結局、自分がグループという群れの中から外されそうになっている
という不安感を解消しようという防衛行動でした。

<いじめまとめ>

いじめは、バリエーションがあるようですが
防衛意識、正義感はつきものです。
子どもたちの論理をきかなければ
結果だけを非難しても
いじめはなくなりません。

昨今の親は、自分の子どもが損しないようにということばかり考えて
貴重な共同作業の経験を奪うことがあるようです。
生徒会役員になると勉強する時間が無くなるとか
誰かを助けていたら自分の勉強がおろそかになるとか
クラスという一つの人間関係の中に
その背景にある家族の思惑が絡んでいけば
子どもは自律的にものを考えることができなくなり、
クラスは一つの人間関係ではなく
純然とした他人の集合体になってしまいます。

但し、
誰かをかばうことは称賛されるべきことだと思うのですが、
そのために自分の命を失うということになれば、
家族としては、いたたまれないわけです。
見ず知らずの人を助けなくてもよい
わが子だけは無事に帰ってきてほしい
これは当然だと思います。

しかし、どうやらそれが極端に現れて過ぎており
余裕のない行動傾向が拡大しているように思います。


<パワーハラスメントのあれころ>

パワーハラスメントや長時間労働は
労働者の心と体を蝕むだけでなく、
家族関係も傷が入ります。
一緒にいる時間が少なくなれば
それだけで関係が希薄になりかねませんし、
イライラしたまま帰宅することが多くなれば
家庭の中が殺伐としてきます。

大変深刻な影響が生じることです。

上司のパワーハラスメントは
防衛意識の典型でしょう。

<上司からの締め付けの連鎖型>

例えば営業所のノルマの問題があって
所長がパワハラを行う場合は、
営業成績の良い人に対してだという
傾向があります。

所長は、自分のさらに上司からねじを巻かれていますから
成績を上げることだけを考えます。
もともと成績の良い人にもっと頑張ってもらえば
成績は上がりますが、
成績が悪い人に成績をあげさせるように
指導する能力がパワハラ上司にはありません。

もともと成績が良い人に対する
もっとやれるはずなのに
怠けているのではないか
というような期待が
どぎつい叱責になる場合があります。

あるいはその危機感をつかの間解消するために
叱責するということもあるようです。

こういう場合は、上司は、自分の上司や会社との
群れの関係を重視して、
自分の部下を群れの仲間ととらえられなくなっています。
道具のように考えていて、
傷ついたり、汚れたり、弱れば
取り換えのきく存在だと無意識に扱っているのです。
部下の困惑に共感、共鳴することができない状態なので、
それは、自分に対する抵抗、
攻撃だとしか受け止められなくなっています。
反論すると逆上するのは、こういう構造にあるからです。

ベストを尽くす
という目標から
ベスト以上を搾り取るという
「ストレッチ」という労務管理をしているところは
パワーハラスメントが起きやすい職場です。


<能力がない自覚のある自己防衛型>

自分は、営業経験も能力もないのに
総務畑を歩いてきて営業所の所長になったような人は
他の部下が仕事上のアドバイスなどを
ターゲットを頼るのが面白くなく
ターゲットの評価が高まることで、
自己の立場が危うくなるように感じるようです。

このため
ターゲットの些細な不十分点をことさらにあげつらって
あるいは、ターゲットを攻撃するところ
周囲に見せることによって
自分の権威を高めようとします。

こういう上司ではなく、
大過なく過ごせばよいと考える上司は、
ターゲットがほかの部下から頼りにされても
危機感を抱きませんから
防衛行動としてのパワーハラスメントには出ないのです。

このように能力欠如の自覚があり、不安がある場合のパワハラは
先に紹介した小学校中学年の
いじめの構造と全く一緒です。

このような職場では、上司は孤立しやすく、
部下を仲間だとみることがむずかしくなるという
そういう効果が生まれるようです。

パワーハラスメントの防衛式の特徴は、
攻撃をする対象である部下から攻撃を受ける等
危機感を与えられたから、防衛意識が生まれるのではなく、
はじめから危機感を抱かされている
他ならぬ会社の人事的な行動から
無駄な危機感を抱かされているというところにあると思います。

たまたま危機感のはけ口に適している
つまり勝てる、反撃されないという部下に対して、
攻撃行動が起きています。


<ネット炎上について>

勝てるという意識は集団になれば簡単に持ちやすくなります。
自分たちや自分より弱い者を守るという意識が
怒りを増強します。
狩猟採集時代の肉食獣に襲われたものを
みんなで袋叩きにして肉食獣を追っ払った
ということを想定すればとてもわかりやすいと思います。

その典型がネット炎上です。

ターゲットの些細な過ちを
鬼の首を取ったように攻撃を開始します。
最初は、義憤にかられて書き込みをしています。
しかし、攻撃参加者が増えていけばいくほど
怒りは大きくなり、
怒りが怒りを増大させている状況になって行きます。

そして、インターネットの書き込みをしても
自分が反撃されることは考えにくいので、
怒りが純粋に怒りのまま継続していきます。

こういう場合は書き込みをする人間からすれば、
芸能人や政治家はもちろん仲間ではないので、
人間として扱わなくなるのです。

では書き込み者は誰と仲間だと思っているのでしょう。
これは、仮想の仲間であることが多いようです。
実際は、特に面識もなく、意見交換もしていないのですが、
自分の意見は支持されるだろう、
みんなも同じ気持ちに違いない
少なくとも同調者が多く出るだろう
というあまり自覚していない意識です。

そう思えるような事案に対して攻撃するわけです。
そうして、誰も同調しなければ
勝てるという意識はしぼんでいきますので
怒りも消滅していきます。

逆に同調者が現れてくれば
勝てるという意識が強くなって行く
つまり自分は正しかった勝つべきだ
ということから
相手が消耗するまで怒りが持続していきます。

現代のインターネット社会は、
このような仮想敵を作ることができるという
危険な側面もあります。
また、真相が明らかにされず、
表情や声も断片的なものですから、
相手を人間扱いしないことによる
負の共感、共鳴を感じにくくしてくれます。

インターネットの危険性は、
人間らしい感情が捨象され、
文字などの情報だけが流通するところにある
と思います。

本来あまり利害関係の無い芸能人などを叩く心理は、
やはり防衛意識にあるのですが、
その防衛しようとする危険は
当該芸能人からもたらされたものではなく、
リアル社会、即ち攻撃者の
実生活が大きな影響を与えることが
多くあるようです。
簡単に言えば八つ当たりです。


<まとめ>

例えば街ですれ違った人までも
助け合いを求めることは、
様々な偶然が必要かもしれません。

しかし、それができないことは、
自分が何らかの危機感、不安感を抱えて
助ける余裕がないという側面があるのだと思います。

この不安がどこから来るのか、
作らなくてもよい不安なのではないか
一つ一つ、人を攻撃する現場の事例から
分析が行われるべきだと思います。

根本的には、国連人権委員会が日本に対して指摘するように
過度な競争社会を解消することが
必要なのだと思います。

当面、直ちにできることは
できるだけ人間を分断しないことが
呵責なき攻撃を防止するための方法だと思います。

群れの中に群れを作らず
できるだけ一つの群れとして扱うようにして
行動できるようにすることです。

そのためには、特に、
同じような地域、年代に住む子どもたちが、
互いに反発しあわなくてもすむような
社会構造に誘導していく必要があると思います。


競争が必然だということは
思い込まされた神話に過ぎないと
気付くべきだと思います。
現代社会において競争は、
既に過度になっており、
弊害の方がはるかに多いことに
各分野の専門家は気が付き声をあげていくべきだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

現代社会において人が助け合うことができない理由 心は200万年前に置き去りにされている。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



進化心理学に限らず認知心理学においても
人間の心が形成された時期は、
狩猟採集時代(旧石器時代)と言われています。

日本では(というより私はか)
あまり知られていませんでした(不勉強でした)。
偶然、この進化心理学とわれらが対人関係学の
結論部分が一致したことは興味深いことです。

私は、自分でそんなことを言っていながら、
どうしてこの時の生活様式が、
現代社会のわれわれに引き継がれたのかについて
なかなか説明ができませんでした。

遺伝子の記憶等ということを口走っていたのですが、
どうやら落ち着いて考えると
それもあながち間違っているというわけではないなと
思うようにはなっているのですが、*1

どうやら、話は逆だったようです。

チンパンジーと人間の祖先がわかれたのは
600万年前と言われています。
それまでは共通の祖先だったわけです。

おそらく、分かれ始めたころは
チンパンジーの祖先と人間の祖先と言っても
それほど厳密に別の種ではなかったはずです。
何せもともとは同じ種だったからです。

この頃は、まだ、樹の上で生活していたようです。
豊富な木の実がありましたから
木の上で生活できるような体の仕組みがあれば
生きていけたわけです。

群れを作る必要性もそれほどなかったことでしょう。

しかし、400万年くらい前から
地球には氷期が訪れます。
木の実が1年中ある時代が無くなるとともに
ジャングルが縮小していったようです。
食べられる実をつける木が減っていったのです。
エサが減少すれば縄張り争いもし烈になったでしょう。

木の上は住みにくい、生きにくいと感じた一群が
地上に降りてくるわけです。
地上には地上の生きにくさがあったでしょう。
木の実がないのに肉食獣がいます。
とてつもなく厳しい環境でした。

先ず、木の実ではなく、
動物を食べることができなければなりません。
そうでなければカロリーが不足するからです。
一番カロリーを必要としたのは脳だとされています。

ビタミンの豊富な内臓は肉食獣が食べますので、
残された骨についた肉なんかを食べていたのだとされています。

肉は食べられないという先祖たちは
木に帰れれば木に帰り、
それができなければ死滅することになります。

最初は、それで何とかやっていたようですが、
さらに時代が進み、
だいたい今から200万年くらい前には、
群れを作って集団行動をするようになったようです。

そうしなければならない事情があったのでしょう。
そしてそれに適応したのです。

つまり、群れを作り、群れを大切にする
自分と群れの他の仲間と
その大切さにおいては区別がつかないほど
群れを大切にする能力のある人間たちだけが
過酷な事情の中で生き残っていった
ということになります。

群れの仲間が肉食獣に襲われていたら
カーッと逆上して肉食獣を叩きに行く
そういう性格を持っていた人たちだけが
肉食獣から襲われてもただ食べられてばかりいないで反撃し
やがて肉食獣からも恐れられるようになって行ったのでしょう。
*2 袋叩き反撃仮説

群れの弱い者を食い物にして
自分だけ利益をむさぼることをしない、
弱い者に共鳴、共感して分け与えたグループだけが
弱いものから順に自滅して群れが縮小して消滅する
ということを避けることができたのでしょう。

群れの仲間に弱点があっても
責めない、攻撃しない、邪魔にしない
補い、助ける。
そうすることができる群れだけが強くなったはずです。

群れにいると安心することができる構成員だけが
昼間の生死にかかわるストレスによる体(血管等)の消耗を
副交感神経の活性化によって修復することができて
子孫を遺すことができたのでしょう。

徐々に、このように群れを作る仕組みを持った者たちだけが生き残り
このような心の仕組みを持たないものは
死滅していったということだと思います。

もちろん、当初から、このような行動傾向(心の仕組み)
・仲間のピンチを自分のこととして立ち向かう
・平等に分け与える
・仲間の弱点、欠点、不十分点を補おうとする
・仲間の中に入ると安らぎを感じる
・仲間を攻撃しない
が完全に備わった個体がそれほどいたわけではないでしょう。

徐々に、数百万年かけて脳の容量も大きくなるうちに
どうやらその方が、気持ちいい、楽だ、安全だ
という流れになって行ったのだと思います。
偶然の事情も多くあったでしょう。
徐々に行動傾向(心の仕組み)が固まっていった
ということだと思います。

このような狩猟採集時代は
おそらくつい最近
2万年前位まで続いていたし、
日本においては、江戸時代、
農村部では戦後までその残存物があったと思います。

私たちの心にも、
狩猟採集時代に人間関係を
求めてしまう残存物があるようです。

これは仕方がないことです。
人間の行動傾向(心の仕組み)は、
数百万年かけて、からだの構造である脳の構造を変化させながら
作られてきたものです。
わずか100万年でこれが入れ替わってしまうほど
進化は迅速ではないからです。

ところで先に述べた狩猟採集時代の行動傾向
心の仕組みを形成した条件は何でしょう。

外在的環境としては、
群れが存在することが個体が生存し子孫を継承することの
絶対条件だった。
そして、そのことを、ある程度認識していた。

人間の内的要因としては
群れの他者(即ち母子関係にないもの)の、
痛み、苦しみを、感じ取ることができるところの
共鳴する能力、共感する能力を有していたこと。
が必要だったと思います。

群れの形態としては
原則として、各個体は、生涯
一つの同じ群れで生活した
群れの人数は概ね200人未満
(個体識別できる人数)
ということになると思います。

現在の、ホモサピエンスの行動傾向は、
狩猟採集時代のもの
・仲間のピンチを自分のこととして立ち向かう
・平等に分け与える
・仲間の弱点、欠点、不十分点を補おうとする
・仲間の中に入ると安らぎを感じる
・仲間を攻撃しない
とは、大きく様変わりしています。

人間の脳の構造はそれほど変わっていません。
共鳴力や共感力をつかさどる脳は
きちんと存在しています(前頭前野腹内側部)
しかし、支配的ではないけれど行動傾向として
・他人の災難を見てみぬふりをする
・貧富の差がある
・仲間の弱点を執拗に攻撃する
・学校や職場、家庭でも、常に不安を抱いている。
ということが起きています。

この原因についての私の考えからは、
脳の構造の変化よりも
環境が変化したからではないか
ということになります。

この違いというのが、
先ず、我々が
群れが一つの群れだけでなく
様々な群れに帰属しているということです。
家庭、学校、職場、社会、地域、国家
様々な人間関係があります。

それぞれの群れの中の一つないし二つが無くなっても
あるいはそれらの群れから外されても
個体は生きていけます。
群れの絶対性は無くなりました。

さらには、関わる人数は果てしなく多くなり、
通勤途中に見る人物だけでも
相当な人数に上ります。
同じ社会で暮らしているのに
誰が誰だかわかりません。

人間の大脳皮質の量からすると
その出会う人間すべてを仲間だと認識することは
とても無理です。

狩猟採集時代の自分以外の人間は
みんな個体識別できる仲間でした。

当時の「他人」の概念は仲間と同じだったのです。
現在の「他人」の概念は仲間と同じではありません。
同じ脳の構造を持っていても、
個体識別できない他人に対して
共鳴する能力、共感する能力を
自然に発揮させることは無理だということになるでしょう。

ここは個体差があって、
人間の形をしていれば、共鳴、共感してしまう人がいる一方、
同じ職場、同じ教室、同じ家にいる人にも
共鳴、共感することが苦手な人もいます。
しかし、狩猟採集時代のように
安定した行動傾向、心の動きをもつことは
はじめから期待することはできないようです。

ここに矛盾があります。
心は狩猟採集時代のころからあまり変わりません。
仲間だと思う人からは、
・自分のピンチに一緒に立ち向かってほしい
・自分にも平等に分け与えてほしい
・自分の弱点、欠点、不十分点を補ってもらいたい。
 (責められたくない、批判されたくない、笑われたくない)
・仲間の中に入ると安らぎを感じたい
・自分を攻撃しないでほしい
とつい、感じてしまうのです。

この要求が満たされないと
自分は仲間から追放されるのではないかという
対人関係的危機(*3)感を抱いてしまい
ストレスが持続してしまいます。

環境が変わっても
心は200万年前におきざりのままです。
心は苦しめられることになります。

それでは、今後人間はどのように適応していくべきでしょうか。
どのような行動傾向があるべき姿なのでしょうか。

狩猟採集時代の要求を捨てるべきでしょうか。

これは無理でしょう。
1、そんなに都合よく脳の構造は変化しません。
2、誰かが苦しんでいる、悲しんでいるところを見ると
  つい共鳴、共感してしまう。
  これは事後的追体験によって、
共感者にストレスを与えてしまいます。
できることならば、すべての人が助け合った方が
生物学的には望ましいのです。
3、核や、地球温暖化、戦争、グローバル経済などから
  実は客観的には、
世界中の人間が運命共同体になってしまっている
この因果関係を把握することができるならば、
感覚的には、個体識別ができないために
仲間だと思えない人間に対しても
仲間だとして接することの必要と可能性がある
と私は思います。

4 どうでしょうか、私は、客観的に
  できるだけ多くの人、できればすべての人が
  一つの群れになり、
  ・仲間のピンチを自分のこととして立ち向かう
・平等に分け与える
・仲間の弱点、欠点、不十分点を補おうとする
・仲間の中に入ると安らぎを感じる
・仲間を攻撃しない
  ということをできる限り行うということが、
  人類生存のための客観的な条件になるように
  思えて仕方がないのです。
  これができなければ、
  人類は滅びるだろうなと思っています。



*1
遺伝子に記憶装置があり
遺伝子が記憶して子孫に記憶をよみがえらせている
というわけではありません。
(但し、比ゆ的に言えば、あながち間違いでもない。
 記憶の正体が、ニューロンの動的な活動だとすると
 それを保持(指示)する別のものが必要ではないか。
 そしてそれは、おそらくグリア細胞であり、遺伝子がそれだ
 ということに、
これから100年もしない間に人類は到達するでしょう。)

*2
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-19

*3 対人関係的危機
動物は一般に、身体生命の危機を感じると交感神経が活性化し、闘うか逃げるかという行動を起こしやすく、完遂しやすくする仕組み、心拍数の増加、血圧の上昇、体温の上昇、内臓の活動の低下と血液の流れを筋肉に向かわせる等の反応を起こす。人間は、身体生命の危険だけでなく、自分の所属する群れから仲間として尊重されていないと思うと同様の反応を起こしてしまう。この反応の中には、複雑な思考が停止し、一つのことだけに手中してしまう傾向、二者択一的な思考傾向、共鳴力、共感力の低下などの脳の機能低下が起きるという共通項もある。

nice!(0)  コメント(0) 

「死にたい」気持ちに寄り添うとはどういうことか。生きる仕組みが自死をさせる自死のメカニズムのパラドクスと、自死予防対策のパラドクス。 [進化心理学、生理学、対人関係学]


あなたが相談に乗っている人から
「実は死にたいんだ。消えてなくなりたいんだ。」
と打ち明けられた場合、
つい、
「死ぬなんてダメだよ。
死ぬ気になって頑張ればなんとかなるよ。」
と励ましてしまいそうになるでしょう。

この回答がだめだということは
自死対策のマニュアルにはよく書いてあります。

なぜダメかというと、
相談者は、
「自分の死にたい気持ちを勇気を出して打ち明けたのに、
その感情を頭ごなしに否定された。
この人は、私のことを否定する。理解しない。」
ということになり、支援をはなれてしまうからだ
とされています。
このことはそうだと思います。

自死によって命を無くさないためには、
「死にたい」という気持ちを否定してはいけない
自死予防対策のパラドクスです。

では、どうしたらよいのか。
死にたいという気持ちを肯定するのか。
そんなことは抵抗がある。
ということになるのはもっともです。

では、死ぬことを肯定をしないで何をするかということで、
どうして死にたいか理由を尋ねていく等ということが
マニュアルには記載されています。

それはそうなのですが、
それは、それまで理由を話さないで
突如死にたいと言われる場合にのみ妥当することでしょう。
そんな唐突に死にたいというほど
相談を受ける方が相談者から信頼されているということは
余り想定できません。

通常はそれまで、色々と苦境を語られて、
つまり先に理由を語られて、
最後に死にたいと言われるのです。

それにもかかわらずマニュアル通りに
改めて死にたい理由はなんですかとは聞きにくいし、
それまで言っていた理由を聞いていて
そんなことで死にたいというのは
相談を受ける方が理解できないと感じていたとすると、
もう手詰まりになるでしょう。

ここでまず考えなければならないのは、
「死にたい」
「死んではダメだ」
ということは、文章的には整合しているように見えますが、
実際は、かみ合っていない会話なのです。
この点を理解すると、何らかの方策が見えてくるかもしれません。

死にたい人は、実際は生きたいのだ
とよく言われますが、
その意味について、理解をすることが必要です。

死にたい人は、先ず、なんらかの危機感を感じています。
最初は、その危機感を何とか解消しようと思っていたはずです。
しかし、その解決方法が見つからない。
見つけようとしても見つからないという場合もありますし、
はじめから見つかるはずがないと思い込んでいる場合もあります。
あるいは、何に危機を感じているのかはっきり自覚しないで
解決方法がない、手詰まりだと感じている場合も案外多いです。

動物は生きるために、危険を解消しないといけないわけですが、
放っておいても危険が過ぎ去るものでもありません。

そこで生きる仕組みとして、
危険を感じたら、危機感を解消しようという
反応、心の仕組みを作ったのです。
危機感を解消しようとすることによって
具体的に危険を解消するという仕組みです。

危険を覚知し、脳が危険だと判断すると
一方で脳の中の扁桃体から副腎に信号が送られ
副腎髄質から
闘うか、逃げるか、どちらにも対応する
アドレナリンなどのホルモンが分泌されます。
副腎皮質からは、
コルチゾールなどのストレス対抗ホルモンが分泌されます。

一方で逃げるため、闘うために体に無理をさせ、
何とかそれを短期に解決させようという仕組みが働きます。
これは意思とは関係がなく、反応として起きています。

これを心理面で見れば、
一瞬の間に、

危険だ

→ 危険を解消したいという意識
  (危機感解消欲求)

→ 危険解消行動の選択
勝てそうもないから逃げよう、勝てそうだから闘おう
  (ほとんど無意識)

→ 危険解消行動
逃げる行動(心理面は恐怖)、攻撃(心理面は怒り)
となります。

実際に逃げる行動をしたり、攻撃をしたりすれば
危険を解消したいという気持ちは和らぎます。
危険を脱した時に、最終的に消滅するわけです。

ところが、
逃げる行為も、闘う行為もできない場合、
あるいは、逃げても逃げても危険がつきまとう場合
闘っても闘っても危険の方が持ちこたえている場合、
危機感を解消したいという欲求、あるいは志向、衝動
あるいは生理的な反応が持続してしまうことになります。

これが、身体生命の危険の場合ですと
危険が現実化されたり、解消する場合は一瞬で結果が出ますので、
危機感解消欲求が持続することはあまりありません。

逃げることも闘うこともできないと瞬時に判断する場合は
高所からの転落や猛獣の前に出くわした場合等ですが、
気絶したり、仮死状態になることができます。

また、けがにならない程度の危険であれば、
長期にわたって危険が現実化しない場合は、
それほど危険だとは感じなくなる、馴化が起きる
ということで危機感解消欲求は消滅します。

しかし、身体生命の危険でも
ガンで余命宣告を受けた場合
馴化が起きることはなく、
危機感解消欲求が持続してしまいます。

危機感解消欲求が持続する典型的な危険は対人関係的危険です。
自分の所属する対人関係、学校や職場や家庭その他において
自分が仲間として認められていない、
究極には仲間から外されるという危険を感じた場合は、
例えば、いじめやパワハラ、虐待のような場合は、
個性による違いはあるものの、
相手を攻撃することがそもそもできません。
(立場、人数など力の差がある場合が典型的です。)

または逃げる行為、学校をやめたり、退職したりすると
今後の人生に多大な悪影響(収入の大幅な減少等)が起きるとか
家族を悲しませるとかという理由で
逃げることもできない。

むしろ瞬時に追放されてしまえば
かえって予後は良いのですが、
毎日、毎日、執拗に苦しめられ続けるから
気絶したりすることもできない。

こうなると、危機感解消欲求だけが
持続していくことになります。

この危機感解消欲求が生じていると、
思考も常時機能低下状態です。
二者択一的になります。
危険か安全かだけがテーマになりがちです。
複雑な思考もできなくなり、
悲観的な思考に陥りやすくなります。
もう一つ、これらの結果、
解決を急ぎたくなります。
簡単にできることを志向しますし、
強い者に寄りかかりやすくなります。

これももともとは危険を解消するための仕組みです。

おそらくこのような人間の心理的反応が確立したのが、
狩猟採集時代という今から200万年前くらいだと言われているので、
当時は、このような極端な心理的構造で事足りたのでしょう。

危険といえば、肉食獣に襲われるとか
自然環境だったからです。
危機感解消欲求が持続することは想定しなくて済んだわけです。

しかし、現代社会は複雑であり、
危険といえば身体生命の危険だけではなく、
むしろ、対人関係的な危機感を感じることが
多くなってしまいました。

かつては唯一絶対的な群れだったのですが、
現代ではそれぞれの対人関係、
学校、職場、家庭や社会、国家でさえも
200万年前に比べれば相対的なもので
いざとなれば離脱すればよいという環境になりました。

しかし、
人間の心は200万年前のままの部分があるので、
およそ、人間関係から外されそうになると
何とか外されまいということになってしまいます。

一つの群れで一生を過ごしていたことの名残みたいなものです。

このため、
解消されない危険、
危機感解消欲求の持続は、
これまでの人類は想定していなかった事態ですから、
人間にはあまり耐性がないのです。

何とか早く解消したいという要求が大きくなって行き、
焦燥感が増大していくことになります。
益々、思考が単純化していきます。

思わず、危機感解消行動に出てしまいます。
この危機感解消行動は、
人によって、あるいは環境によって異なります。

多く見られる解消行動は
自分の危機感を
本来は無関係な相手に怒りをぶつけて
あるいは損害を与えて解消してしまうことです。

われわれも八つ当たりだったなと
それほど継続していない危険意識を
ついつい解消しようと罪もない弱者に
子ども等の家族とかに八つ当たりすることが
あったことと思います。

もう少し深刻な行動が
犯罪であり、いじめやパワハラであり、虐待等
これも言ってしまえば八つ当たりの行動です。
犯罪等をむしゃくしゃしてやったとか、
ストレスを解消しようとしてやった
ということの意味がこれです。
危機感を解消したいための行動ということです。

ただ、いくらこれらの八つ当たりを繰り返しても
元々の危険はなくなりませんので
危機感解消欲求は根本的には、解消しないのですが、

それでも怒りに基づく行動をしている時には
それも危機感解消行動ですから、
行動中は危機感を感じにくくなるようです。

そのような八つ当たりのように
罪もない人を攻撃することができないまじめな人は
どうなるのでしょうか。

イライラ、ストレスを発散することなく
危機感解消行動にさらされ続けることになります。

これが限界まで来ると、
「とにかく危機感を解消したい」
という感覚が独立したテーマになってしまいます。

本来は『危険』を解消するためのメカニズムでしたが、
危険を解消するというところまで考えが到達しないで
「とにかく『危機感』を解消したい」
となってしまうようです。

そうなると
他人を攻撃できない、逃げることもできないエネルギーが
行き場を失って自分に向かうわけです。
もうこの時点で思考力はかなり消耗し、衰弱しています。

こうなってしまうと
簡単な解決を望みます。とにかく「解決」したいのです。
二者択一的な思考にも陥っていきます。

「このまま苦しみ続けるか
 (危機感を解消するか即ち)死ぬか」
という思考になるようです。
死ぬことによって、『危機感』は
解消されることを知っているからです。

そして生真面目な人たちは
「死にたい」という以上に
「自分は死ななければならないのだ」
という自分に対して否定の気持ちが
強くなっているようです。

孤立していなければ
ついそういう考えに陥っても
何かが間違っていると引き返すことがあるようですが、
誰かの言葉を思い出したり
誰かの顔を思い出したり、
誰かの何らかの行為を思い出して、
今の自分の考えと照らし合わせることが
できる場合が存在するようです。

ところが孤立していれば
そのような引き返すきっかけがなくなり、
「このまま苦しみ続けるか死ぬか」
という解決不能の命題にとらわれてしまうようです。

危機感を解消したい欲求があるから
危険解消行動を選択し、実行するという
生きるためのメカニズムでした。

ところが、環境と脳の構造のミスマッチがある。
つまり、脳の危険解消システムが適応しない現代の環境が、
脳が予定していない危機感解消欲求の慢性的持続という事態を作り、
自死行為をさせてしまうという
このパラドクスが自死の構造だと考えます。


そうだとすると最初に戻って
「死にたいと」打ち明けられた場合に
どうすればよいのかということを考えましょう。

打ち明けられた方は、
「死にたい」と言われても、
死ぬか死なないかということを考える必要はありません。
死にたいと言われて死んではいけないという会話が
実はかみ合っていないということはそういうことです。

現在、その死にたいと言った相談者は、
危機感解消欲求が持続している状態かもしれない
先ずそう考えるべきでしょう。

表面的な訴えで原因を特定できたと満足せずに、
何が相談者の危機感の原因なのか
一緒に考える必要があると思います。

ここでも注意が必要です。
相談者が回答を知っているような
やり取りをする場合があります。
マスコミの記者会見などが典型例です。

しかし
相談者は自分の悩みの本質的原因に気が付いていないことがあります。
「相談者に教えてもらう」ということは、
相談者の答えを待っているのではなく
一緒に考えることです。

例えば
借金があると相談者が行ったことによって
借金があるから自死したいのねとそこで終わってしまうと、
実は、その背景にギャンブル依存があり、
ギャンブル依存の背景に失恋や解雇がある
ということにたどり着きません。

借金の解決方法を回答したのに、
あるいは借金を解決したのに
自死してしまうのは、
原因を解決していなかったからかもしれません。

ここで一番だめなのは、
この人はこれだけのことで死を選択する人なんだ
という決めつけです。

あくまでも、自分と連続している人間なのだという姿勢で
自分だったらどうだろうと
相手の苦しみの地平に立つ必要があるし、
理解できない場合は、
理解したいのでもう少し聞かせてほしいということを
率直に伝えるべきです。

現在の苦しい状態、悩んでいる状態
八方ふさがりな状態を承認すること
きちんと自分でもそういう状態になればそうなるかもしれないな
ということが理解、共感かもしれません。

この悩みの起源にさかのぼるまで、
相手の気持ち、感情を肯定していくことが
理解、共感していくことだと思います。

なるほどそれでは、死にたい「くらい」辛い
と思えば率直に言えばよいのだと思います。
この意味で肯定を続けていかなければ
ある程度の真相にはたどり着けません。

一つ一つ肯定されていけば
相談者が自然と、解決する希望が出てきます。
解決できるかもしれないということを実感するからです。

「死にたい」という気持ちによりそうということは
そう言うことだと思います。
なかなか難しいことだと思います。

相談を受ける方が、
きちんと相談を受ける環境を作らなければなりません。
一番は時間をたっぷりとることです。

このためには、イレギュラーな相談にならないように
相談者にも協力してもらう必要があります。
今、こういう弁護士の関与方法を
有志弁護士や行政と検討をしています。
このための思考ノートでした。

nice!(0)  コメント(0) 

引きこもりの科学 引きこもりこそ人間らしい行動である。対策のパラドクス。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



引きこもりという現象が起きています。
不登校から始まって
徐々に社会の中での家庭内引きこもりの
年齢が高まっています。

考えてみれば
引きこもるということは
人間の生理からすると
むしろ当たり前なのではないかと
正しい行動選択なのではないかと
そういう風に考えるようになってきました。

引きこもりについて考えてみます。

ロビン・ダンバーという進化生物学者は、
人間が個体識別できる人間の人数を
50人から200人くらいだろうという
研究結果を発表しています。

かなり幅のある数字ですが、個性の違いに起因しているようです。
厳密に言えば大脳皮質の量の個体差ということのようです。

農業革命前は、
狩猟採集をして生活していて、
一説によると30人から50人くらいの群れで
一説によると200人くらいの群れで
共同生活をしていたようです。

一つの群れで一生を終えるならば
50人くらいの人間の個体識別ができれば
(誰がどういう人かを認識できること)
それで足りたということになります。

逆に言うと
そのような人数の個体識別ができるように
人間の大脳皮質が進化したのだということになります。

だいたい200万年前までには
このような脳が形成されたようです。
チンパンジーと別れて600万年ですから
数百万年かけて形成されたということになります。

農業革命が1万年くらい前と言われていますから、
人類史のほとんどが、
50人くらいの固定した人たちとだけ
一生を過ごしたことになります。

急に国家だグローバル経済だと言われても
都合良く脳の容量は急には変わりません。

200万年前当時の生活をきちんと想像することが
現代の社会病理の解決にとって
不可欠なことだと考えています。

50人の群れの人間関係は小さいかもしれませんが、
相当濃いものだったと思います。
血縁の有無にかかわらず群れを形成したようですが、
なんせ一生変わらないメンバーですから、
そのメンバーですべてを行わなければなりません。

メンバーの中には役に立つ者も
役に立たない者もいたでしょう。
でも、批判しても、笑っても、責めても
変化には限界があります。
あまり強く言って、いじけて群れをはなれれば、
その群れを離れた者も野獣の餌食になるでしょうが、
群れ自体が小さくなって行きますので、
群れを出ることは、群れに残る者にとっても
不安、危機感を感じさせるものだったと思います。

そういうこともあり、
また、個体識別ができるということの結果として、
それぞれの構成員は互いに
個体の変化が期待できないことを把握していたはずです。
弱さ、不十分さを
群れは受け入れていたのだと思います。

構成員は、
あたかも、群れという一つの体の
手だったり、足だったりというパーツのようなものだったのでしょう。
右手が不自由なら左手でカバーしたでしょう。
右足が不自由だからと言って
右足を切り捨てることをしないことと一緒だったのだと思います。

前に、武器も逃走手段もない時代に
人間はどうやって生き残ったかということで
袋叩き反撃仮説を述べさせていただきました。
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-19

誰かが肉食獣に襲われた場合、
群れの他の構成員が、一斉に反撃を行い
怒りをもって袋叩きを行ったということで
危険を回避した、回避できたという仮説です。

一人では大型肉食獣には太刀打ちできません。
多ければ多いほど撃退できる可能性が高まったでしょう。

肉食獣の方も、うっかり人間を襲うと
袋叩きに合うので危険だ、不吉だと学習し、
なかなか人間を襲うことをしなくなって行ったと思います。
特に複数の人間がいる時は襲わなくなって行ったと思います。

人間の方も
狩りなどで群れを離れたグループ行動をするときは
少人数なので、言い知れぬ緊張感を持ったし、
屈強な群れのメンバーが狩りをして群れを離れている時は、
留守番部隊も緊張をしていたと思います。
肉食動物に対抗するためには、
緊張を持続することが必要でした。

しかし、縄張りに戻り
群れの全メンバーが揃うと
人数的に、肉食獣に襲われても十分反撃できますし、
そもそも大勢の人間がいるということで
肉食動物の方も警戒したでしょうから
特に襲われることは滅多にないという
状態になっていたのだと思います。

人間は群れに戻ったとき、
緊張が解かれたと思います。

これを生理学的に観察しますと
群れから離れている時は、
肉食獣に襲われやすくなりますので、
臨戦態勢を敷きます。
いつでも攻撃に、あるいは逃亡に移らなければなりませんので、
交感神経が活性化しています。

危険であることを認識し、
扁桃体が交感神経を活性化します。
副腎髄質や副腎皮質からホルモンが出され、
心臓が活動的になり、内臓にある筋肉を
走ったり叩いたりするために筋肉に流そうとします。
心拍数が増加し、血圧が高くなるわけです。
体温も上がります。
かあーっとなり、ドキドキするわけです。
その他にも血液が粘化したり
血糖値が上がったりして、
闘ったり、逃げたりすることをしやすくする
からだの状態を作るような
様々な反応が起きる状態です。

これを心の状態で見ると
不安、危機感、緊張という心の状態です。

これに対して縄張りに戻った場合、
緊張が解かれますので、
心臓の活動は静かになり、体温は低下し、
血液もサラサラに戻ります。
落ち着くわけです。
交感神経が鎮まるだけでなく
副交感神経が活性化しやすい状況となります。

この時の心の状態は、落ち着き、平穏
安らぎ、癒しというものでしょう。

緊張よりも平穏の方が楽なわけですから、
人の中にいたいという気持ちがあり、
群れから離れたくないという気持ちになるのは
極めて自然なことだと思います。

人間は、緊張を伴う捕食するために生きるのではなく、
生きるために緊張を伴う狩りをする
という当たり前のことだと思います。

昼に交感神経が優位になり、
夜に副交感神経が優位になるという
概日リズムが形成されるのも
昼に狩りに行き、夕方群れに戻る
というライフスタイルに適合しています。

この概日リズムは、細胞レベルで起きているようです。
現代の人間にも受け継がれています。

(ちなみに、一日中交感神経が活性化して
副交感神経が活性化しない状態が続くと
血圧の上昇や血液の粘化が続くことですから、
血管が硬化したり、血管内にカスがたまりやすくなります。
これが続くと心筋梗塞やくも膜下出血を起こしやすくなり、
過労死の原因になります。)

このような生理的変化は無意識に起こります。
ああ、自分は安全なんだなと考えて副交感神経が活性化するのではなく、
なんとなく、群れから離れると緊張し、
群れに戻るとほっとするということだと思います。

この結果、人間の恐怖は、
動物が感じる恐怖である身体生命に直面する危険を認識しただけでなく
かけがえのない群れから外されるという場合にも
危険を同じように感じるようになり、
交感神経が活性化されるように
なったのだろうと思います。

これが対人関係的危険です。
対人関係的危険を感じても、
現代では、例えば、警察官に呼び止められたり、
上司から叱責されたり、何かミスしても
走って逃げたり、開き直って闘うということはありませんので、
交感神経が活性化してもあまりよいことはないのですが、
200万年前は対人関係的危険、即ち
群れから追放されそうな場合は、
肉食獣や自然の脅威にさらされるわけですから
合理的な反応だったのかもしれません。

群れに戻るということは、群れのある場所に戻るということで、
200万年前は定住をしていたわけではないのですが、
比較的長期に滞在する縄張りはあったようです。
縄張りに戻ることは、
かなりの安心感を抱いたことでしょう。

縄張りはそういう意味で神聖なものだったと思います。
だから、この縄張りが侵されるようなことになれば、
全員が命がけで、徹底的に侵入者を排除したでしょう。
縄張り意識は人間だけでなく
群れを作る動物でよく見られます。

縄張りは、物理的な生きる空間というだけでなく
精神的にも必須な空間で、
これがなければ、緊張感が解かれませんので
早死にしてしまうということになります。
過労死が起きてしまいます。

ここで考えてみてください。
もし、私たちが200万年前にタイムトラベルできたとして、
群れの中に入って安心できるでしょうか。
いつ肉食獣に襲われるかわからない状況で、
ピストルなどの武器もなく
煉瓦の壁に囲まれた居住環境もないのに、
安心できるでしょうか。
とても無理だと思います。

でも当時の人間は、
確かに概日リズムを刻んでいて
副交感神経が活性化していたはずです。
つまりそんな環境でも、群れに帰ると安心したと思います。
そうでなければみんな過労死して
私たちが生まれてこなかったからです。

群れに戻ることで安心した
その原因をまとめると
一つは、群れの中にいることで肉食獣が襲ってきにくい
二つは、いざ襲われても群れが守ってくれるだろうという期待
三つは、群れのメンバーは、
個体が自分ではどうすることもできない欠点、不十分点、弱点によって、
 個体を攻撃しないということがあるのだと思います。
 
そうでなければ、何かしら弱点を抱えた人間は、
群れから外されないように常に緊張していなければなりません。
200万年前ですから、成人になる前に
色々な病気やけがをしたでしょう。
五体満足で一生を終わるということは
よほど恵まれた少数派だったと思うのです。
みんな弱点があった、欠点があった。
しかし、群れの構成員は、お互いを一つの体の
パーツのようにかばいあったはずだと思うのです。

これらがセットになって、人間は
概日リズムを維持、形成し、生き永らえたのだと思います。

現在は、飢餓に苦しむ地域は根絶されていませんし、
戦争も続いています。
しかし、その他の地域では
肉食獣に襲われることはほとんどありません。
飢えに苦しむことも回避することができます。
病気やケガも治療を受けることができます。

でも、
私たちは、人の中にいて安心できるでしょうか。
緊張を解くことがどのくらいできるでしょうか。

できていないと思います。
学校も、職場も、家庭でさえも
常に緊張にさらされている人が
多すぎるように思うのです。

その原因を考えてみましょう。

現在は、関わりになる人間は200人では到底足りません。
朝に出勤のために家を出て職場に着くまでに
何百人以上の人間を至近距離で目撃します。
しかも、200年前では考えられないほど
密集しています。
とても個体識別できません。

この人たちは、仲間なのでしょうか。

先ず、個体識別できない時点で
200万年前なら仲間ではありません。
敵かもしれないという緊張感を抱かせたことでしょう。

何か失敗すると庇ってくれる親切な人もいるにはいます。
しかし、みんながみんなそういう人ばかりではなく、
些細なことで攻撃をしてくる人たちも多くいます。
歩くのが遅いだけで叱責する人もいるでしょうし、
ちょっとよろけただけでにらむ人もいます。

安心することはできず、緊張は必要ですが、
通常は、命の危険を感じるほどではありません。

さて、無事に学校や職場にたどり着いたら
群れですし、ある程度個体識別できるクラスや部署で
いつもの場所に座るのですから安心できるでしょうか。

職場では当然のこととされているようですし、
学校でさえも
個体の個性である弱点、欠点を受け入れたり、
失敗を受け入れてくれる人は滅多にいません。

失敗が許されない群れです。
自分の近くにいる人たちが
仲間のか敵なのかわかりかねます。

もし、弱点、欠点を受け入れ、
助けを求めたら助けてくれる人を
同じ群れの仲間だとしたならば、
もしかすると、仲間がいない環境かもしれません。

縄張りは家庭だけかもしれません。

では家に帰ると安心できるでしょうか。
家族は、家族を攻撃しないのでしょうか。
学力が低い、出世が遅い、給料が少ない、
掃除ができない、人間付き合いが下手だ
弱点、欠点をついてくることだらけのような気がします。
もちろん、現代社会では、特に日本では、
少しでも努力をしないと
将来的な不利益があるとされていますから、
努力をさせることも家庭の義務でしょう。
それ自体が悪いことではありません。
ただ、200万年前の群れとは
決定的に違うのです。

群れの中にいる現代の個体は、
確かに学力が低い、給料が少ないという
自分の弱点がわかりますから、
それを指摘されなくても
群れから外されそうになる不安、危機感を感じます。
緊張が高まるのです。
具体的に肉食獣が見えなくても危険意識を感じる
交感神経が活性化する
いわゆる対人関係的危険を感じ続けるのです。

安らいだり、くつろいだり、癒されたりすることが
圧倒的に少ない。
むしろ肉食獣に囲まれ、飢えの危険が現実的な
200万年前よりも緊張が解けないのです。

これもまた真実だと思います。

児童生徒の引きこもりの原因となっている
人間関係を考察しましょう。

人間は、脳は200万年前とそれほど変わらないし、
数百万年かけて形成した心の仕組みが
農業革命から1万年では簡単に変わらないので、
群れに対する期待はほとんど同じと考えてよいでしょう。

およそ群れであれば、自分の
欠点、弱点、不十分点を受け入れてほしいと思うでしょうし、
自分が攻撃されていれば群れに助けてほしいと思うでしょう。

学校でいじめにあったらどうでしょうか。
いじめが起きる時、
ターゲットの欠点、弱点、不十分点が
批判され、笑われ、責められます。
弱点を攻撃してくるわけです。
まさに200万年前の人間の狩りの手法です。
むしろ、孤立させて、弱体化して攻撃するのです。

ターゲットにとって攻撃してくる相手は
自分の群れの仲間とは認識できないでしょう。
攻撃している者達も、ターゲットを仲間として扱っていません。
群れに侵入してきた野獣のように、
怒りをもって消耗するまで攻撃し続けるのです。

いじめがこういう単純に少数の加害者と一人の被害者
だけで構成されるのであれば、
いじめが終われば回復する可能性があります。
しかし、通常いじめは傍観者も重要な役割を果たしています。

傍観者がいるということは、
自分が攻撃されているのに、群れの仲間が助けてくれない
ということです。

自分が攻撃されていても助けてくれない傍観者も、
ターゲットにとっては群れの仲間ではありません。
加害者、傍観者を含めて、
群れ全体が自分を群れから排除しようとしていると感じるのです。
これは恐ろしいことです。
対人関係的危機感を最大に感じるでしょう。

ちなみにいじめられている時は、
弱い支援は、支援だと感じない特徴があるようです。
事実を認識していても支援の手を差し伸べられていることに
なかなか気が付くことは無いようです。
自分が陥っている窮地の程度に応じて
求めるものが大きくなっていると考えれば納得できます。

決定的なことは大人です。

子ども同士でいさかいがあったとしても、
それを何とかしてくれるのが大人だと
無意識に信じているところがあります。

その大人が、
助けてくれない、被害を放置している
ということになると、
わずかな望みが絶たれてしまいます。
絶望です。

ますます、ターゲットが
いじめてもよいのだ、仲間ではないのだ
という評価になってしまい、
怒りのボルテージが上がってしまうのです。

いじめがなくても大人が、
子ども同士のコミュニティーの中で
欠点、弱点、不十分点を
批判し、笑い、責める、
その子にとって不可能なことを要求するようになると、
子どもはどうしてよいかわからなくなります。

絶望が起きます。

一つの学校でいじめられたり、無茶な指導をされても
転校するなり学校をやめれば済む話だろうと
そういう正論を吐く人もいらっしゃいます。

それはそうなのですが、
群れは群れなのです。
数百万年かけて形成されてきた
人間の心、無意識の反応は、
理性的に抑えることは難しいのです。

群れから外される
という対人関係的危機は
無意識に感じてしまう反応のようです。

対人関係的危険を感じると
逆に何とかして群れの中で尊重されたいと感じてしまいます。
しかし、その方法がない
危機感だけが、慢性的に持続していくことになります。
家族にも心配をかけたくない
こんな情けない自分を教えることで
家族を悲しませたくない
という気持ちも起きてしまうようです。

何も言わないで学校に行かなくなるわけです。
当たり前のこと、自然なことだと思います。

対人関係的危険が慢性的に持続して
解決方法がないと認識することが絶望ですし
絶望を味わうことは予後が悪く
自死の危険が高まります。
学校に行かないことは、
とても有効な命を守る手段となります。

このようなお子さん、大人もそうですが、
一つの対人関係、学校、職場でいじめにあうと、
人間自体が怖くなります。
個体識別できる親や家族は良いとしても、
個体識別できない人はみんな敵になります。

群れの外の人間を、
200万年前の人間が見た時の
緊張をしてしまうわけです。

これが、人間として当たり前の姿だと思います。

われわれ人間は、見ず知らずの人間と
歩道ですれ違っても、満員電車で押し合っても
いちいち危険を感じません。

これは学習の成果です。

親子の本能的な安心感、
あるいは親の献身的な子育ての中で
安心感が育まれ、
親が安心して接する人間に対して
親をまねて緊張しなくて良いということを学習していきます。

また、見ず知らずの人間と接触しても
悪いことが起きないという経験の積み重ねから
人間に対する脅威が馴化するのです。

(人見知りをして知らない大人に泣き出す子供は
正しい反応、自然な反応といえるでしょう。)

ところが、群れ全体から攻撃されるという経験をすると
また、仲が良いと思っていた友達から攻撃されると、
あるいは、守ってくれると思っていた教師から攻撃されると
人間は、本当は安心できない動物だと気が付くわけです。
普通に生活していて犯罪に巻き込まれる人も同様です。
戦争のように、人間から致命的な攻撃を受けた場合も同様でしょう。

それは危険であることを学習するというよりも、
200万年前の群れの外の人間を見た時の反応が
よみがえってしまうということに近いと思います。
馴化が解かれるということです。

誤解ではなくて、正解なのです。
だから、なかなか元に戻らないのです。

家に引きこもるだけでなく、
自室に引きこもるということも
理由のあることなのです。

引きこもりを一度に解消することは難しいです。
少しずつ個体識別ができて、
自分の弱点、欠点、不十分点
(一番は引きこもっているということ)
を批判しない、笑わない、責めない人を作ることが
解決策ということになるでしょう。

「学校に出て来いよ」
と弱点を突くようなことをいわれるよりも、
家の中で一緒に遊んだり勉強したり
引きこもりを承認してくれる仲間があることが
逆に馴化を促し、
学校復帰のきっかけになった事例を
いくつか体験しています。
この人は大丈夫、この人も大丈夫という
焦らない馴化の道筋です。

引きこもりを解消するためにも、
引きこもりを許容する、承認するという
対策のパラドクスがやはりあるようです。

献身的な子ども、献身的な教師の経験を
制度化していくような工夫が求められているようです。

nice!(0)  コメント(4) 

ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説 [進化心理学、生理学、対人関係学]


先日お話しした長すぎるブログ記事
怒りや憎しみは、今虐待されている子、これから虐待される子を救えないということ。虐待防止のパラドクスについて 厳罰化、児相の権限強化、親権の停止が解決と逆行していること
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-10

の中で、
詳細を割愛したことを掘り下げていこうと思います。

今回のテーマは、文明のない時代に(例えば200万年前に)、
どのようにして人間は身を守ったのかということです。

肉食獣から襲われれば、対抗しようがありません。
逃げるにも足が遅く、木登りもそれほど得意ではない。
開き直って闘おうにも
牙も爪も大したものではありません。
だから、これまで生き残ってきたということが
実に不思議です。

ハイエナくらいの小動物ならば追っ払うこともできたかもしれませんが、
ライオンや熊となるとお手上げです。

それでも私たちは生き残っています。
どうやって身を守ったのでしょうか。

これまでの見解では、
ここのところをあまり取り上げられていないように感じます。
もっとも、私の知る範囲では取り上げられていないということなので
本当はきちんと考えられているかもしれません。
しかし、これまでの文献などでの描かれ方は、
襲われてしまったら仕方がない、
仲間はなすすべなく抵抗できず、自分たちだけ逃げた
というように描かれていました。
(私の知る範囲ですが)

でも、それはおかしいと思います。
仲間が襲われて指をくわえてみているならば、
人類は絶滅していることが自然なのではないでしょうか。

人間は例えば200万年くらい前は
既に群れを作って生活していたようです。
狩猟採集時代と言われています。
群れの人数は30人とも言われ、
その群れが数個連携していたとも言われています。

もし、なすすべなく放置して
肉食獣が食べ放題だとすれば、
30人の群れはあっという間に死滅するでしょう。

仮に1か月に1人食べられたとしても、
人間の群れは、徐々に減っていくはずです。

臨月の妊婦とか
新生児とか標的になれば
直ぐに死滅することは容易に想像がつくと思います。
そんなにすぐに次の子どもを出産することはできません。
懐胎から10ヶ月必要ですし、
生まれてきてもすぐに死ぬことが多かったはずです。

1ヶ月に1人食べられてしまうと
毎月一人が生まれなければマイナスになります。
それは、30人の群れでは無理な話です。

私たちが死滅せずに生き残っている以上
私は、人間はなすすべなく食べられたのではなく、
肉食獣に抵抗して生き残ったと考えるしかありません。

その方法は、集団の力です。
それと「勇気」という心のシステムです。

結構、肉食獣と闘うことができたと思うのです。
今まさに対象物を捕食しようとしている動物は、
実は防御はがら空きです。
捕食に全神経を使うからです。

だから、襲われていない群れの他の構成員が
よってたかって肉食獣を攻撃すれば、
けっこう太刀打ちできるのではないでしょうか。
無防備な捕食中の肉食獣からすると
あちらからこちらから棒や石で殴られることは
たまったものではないと思うのです。

攻撃参加する人間の個性
敏捷さ、腕力の強さ、闘い抜く意思等によって異なるのですが、
おそらく成人男性の場合、数人いれば
そう簡単に食べられてしまうことはなかったと思います。

女性が多く、子どももいる集団の場合は、
筋肉の量が女性は少ないとすれば
10人弱くらいの攻撃参加が必要だったと思います。
それ以上いても、人間が密集してしまいますから
攻撃参加というよりも、子どもや老人、病者をかばい
攻撃が変わらないように備えたでしょう。

肉食獣にしてみれば
やはり反撃されるのは怖いわけです。
反撃を覚悟していますから、
自分の身を守るために
勝てないと思った瞬間、逃げ出すはずです。
実験するわけにはいきませんが、
結構有効に反撃することができたでしょう。

但し、これが成功するためには条件があります。
複数人の攻撃参加と
最後まで手を緩めないで攻撃を続ける
ということが絶対条件だったと思います。

この考えを支持する文献は見当たらないのですが、
私は、これが正しいと思います。
最後でお話ししますが、
こういう行動を人間がしていたとすると
とてもいろいろな出来事が説明できるからです。

さて、このように攻撃してくる肉食獣を
みんなで取り囲んで叩くという私の説を、
袋叩き反撃仮説と名付けることとします。

袋叩き反撃仮説に対する批判として想定できるものは、
「肉食獣は誰しも怖いのだから、
生物の自分を守るという本能として
自分にも危害が加わる可能性のある行動は
しないのが自然ではないか。
だから、反撃することはありえない。」(批判A)
というものが考えられます。

現代では、誰かが理不尽な被害を受けていても
多くの人は見てみぬふりをするものです。
批判Aは、普通に考えれば指示されやすいと思います。

批判Aに対する反論を試みます。
反論としては、この批判は、
現代社会という環境に生息する人間の感情を前提とし過ぎる
というものです。

大切なことは、200万年前の環境を前提として考えることです。

この点について説明します。
人間の心や行動も、人間の置かれた環境によって形成される
という考え方を私は支持します。
それは、環境に適応して生き抜くためのシステムだと思うのです。

人間とゴリラ、チンパンジーは、
太古は同じ動物が先祖だったそうです。
800万年くらい前になってようやく
人間の先祖とゴリラの先祖はわかれて
別々の進化の道をたどるようになりました。

その後も人間とチンパンジーの祖先は共通でした。
今から700万年ないし600万年前になって
人間の先祖とチンパンジーの先祖が枝分かれしました。

その頃、人間の先祖は木の上で、
豊富に実っていた樹の実を食べて生活していたようです。

ところが今から400万年前頃から
地球が冷えていき、樹の実が少なくなり
食べ物に困るようになっていったようです。
そのため、人間の祖先は徐々に、樹の上から
地上に降り立ち、動物を狩って生きるようになったと言われています。

200万年頃には、この狩猟採取の時代になっていっただろうということです。

長い時間かけて、からだの構造も変わり始め
二足歩行の骨格が確立していきました。
からだの物理的構造だけでなく、
行動様式も変わっていったと思います。
この行動様式こそ、人間が生き残る理由だったのだと思います。
なぜならば、からだの構造だけでは
やはり、肉食獣からの攻撃に反撃できないからです。
からだの構造以外の理由が必要だからです。

その数百万年かけて確立した行動様式の一つが
袋叩き反撃という行動様式でした。

この行動様式が成立するメカニズムが問題です。
先ず、肉食獣を怖がらず反撃するということ、
そして反撃の手を緩めないということでした。

これはどういう仕組みでしょうか。

言葉もない時代ですから
反撃する約束をしていたとか
そういう道徳が成立していたとか
そういうことはあまり考えられませんし、
そんな弱い仕組みでは
袋叩き反撃が起こるかどうかは偶然に左右されたことでしょう。

もっと強い仕組み、
本能的な仕組みがあったはずです。

先ず、当時の群れについて、
現代との違いを意識することが大切です。

当時の群れは、生まれてから死ぬまで
基本的にはずうっと同じ群れでした。
この群れで生きていかなければなりません。
また、いつも一緒にいました。
現代社会のように、朝に家族がバラバラになり、
それぞれの構成員がそれぞれの別の群れに入っていき、
夜にまた戻るというものではなく、
基本的には同じ群れで行動していたということです。
確かに昼間は、狩猟チームと留守番採取チームと別れたでしょうが、
群れ以外の人間と接触していたわけではありません。

人数が少ないので、
それぞれの構成員の個性も把握していたことでしょう。
まさに運命共同体だったはずです。
血縁の有無にかかわらず
家族以上に家族だった
そんな人間関係だったと思います。

誰かの痛み、苦しみは、自分のことのように
群れの仲間も反応したでしょう。
現代のように、自分と自分以外の人間を
区別して生活していたわけではなく
群れという一つの有機体のそれぞれのパーツ
というような感覚だったと思います。

第1の袋叩き反撃を支えた人間の特徴は、
親子を超えた共鳴力、共感力を持っていたこと
ということになります。

共鳴力、共感力が群れの仲間のピンチに対して
共同して反撃を行おうという動機になるということは
理解しやすいと思うのですが、
それでも、肉食獣は怖い。
至近距離で牙や爪を見た場合は
通常は恐怖で震え上がるでしょう。
この点を克服する仕組みが必要です。

先ほど攻撃する行動を選択するためには、
無意識の勝てるという気持ちが必要だと説明しました。
肉食獣に勝てると思えるでしょうか。
どうやって、勇気を出したのでしょうか。

この点が袋叩き反撃仮説の問題点でありましたが、
逆にこの点が大きなヒントになり、
仮説の理論的中核になっているところです。

「勝てる」と思うのです。
どちらかといえば「勝たなければならない」
というニュアンスもあるのですが、
少なくとも負けるとは思わない心理状態になっているようです。

このような反撃に出る時は
自分一人で反撃しているという意識はないのです。
自分たちが自分たちの仲間の弱い者を守る
という意識になっているようです。

群れによって、群れを守るという意識があるようです。
単体の人間が大型肉食獣と戦うのではなく、
群れという、いわば巨大な動物が
大型肉食獣と戦うという意識のようです。

群れの仲間の苦しみ、痛みに対する共鳴共感から、
瞬時に群れとしての行動という意識は
勝てるという意識に直結するのでしょう
瞬時に行動に移る、即ち反撃参加をしているということになります。
この時の意識は、怒りです。
怒りで訳が分からなくなっている状態です。
後で考えると、ずいぶん危ないことをしたのだなあ
と肝を冷やしてしまうようです。

仲間を攻撃され、その場に別の仲間がいる
そして怒りに支配される。
それが袋叩き反撃仮説の根幹になるわけです。

200万年前当時は、さしたる武器はありません。
旧石器時代は、石の武器はなく、
肉などを切り分けるための道具として石器が使われていたようです。
その辺に落ちている石を握ってたたくくらいの知恵はあったでしょうが、
木の棒が一番の武器だったかもしれません。
それでも、数で勝る人間の群れは
かなり強かったと思います。

こうやって、死に物狂いの袋叩き反撃をしているうちに
肉食獣もだんだん学習してきます。
人間には、うかつに手を出せないぞと思うようになるでしょう。
特に、人間が群れでいる時は
自分の命が危険になるということを覚えていきます。
複数の人間の匂いは不吉なものになったことでしょう。

だんだんと人間が複数いる状態では
襲われにくくなっていったと思います。

それでも、昨今の進化心理学の立場からは
反論Bがありそうです。

利己的遺伝子という問題です。
リチャード・ドーキンスという進化生物学者が提唱した理論です。

但し、実は私は、
その理論を誤解をしている人が多いのではないかと疑っています。
つまり、ドーキンス先生はそんなこと言っていないのではないか
ということを
自分の理解の浅さを棚に上げて考えるのです。

つまり、
本来利己的遺伝子理論は
「結果として」、進化は、遺伝子が自己の遺伝子を継承するように行われている。
そのために、遺伝子が個体を利用している「ように見える」。
ということでした。

だから、本来的理論を貫けば、
個体が利他的な行動をしているように見えても
結果として自己の遺伝子が継承されるのに有利な行動であれば
それも利己的な活動といえる
ということだったはずです。

しかし、一部の有力な学説では、
自己犠牲というのは利己的な遺伝子の理論に反する
と強硬に主張される研究者もおられるようです。
この学説からすると、仲間の誰かが襲われたら
遺伝子は、自分が乗っている個体を逃がすように仕向けるはずだ
ということになると主張するのでしょう。

ところが、例えばハチやアリが
巣を守るために自分の命と引き換えに敵を攻撃するのですが、
この行動の進化論的な理由が必要となります。
遺伝子を継承させる行動だと説明しなければならない
と考えられているようです。
そこで、この点の説明として、
ハチやアリの遺伝子が群れの仲間とかなりの部分(75%)で共通だから
自分を犠牲にしても自分の遺伝子を残すことに準ずる行動だ
という血縁理論を持ち出してきます。

人間は、さらに、子どもであっても遺伝子は50%です。
子どもを守る、子どもでもない群れを守るということは
なかなか説明がつきません。

そこで、群れの構成は元来血縁関係者で作られていて、
比較的近い血縁、DNAを本能的にかぎ分けて
血縁を守る行動が自己を犠牲にする行動
であるかのような説明をされるようです。

しかし、
第1に、生殖して子孫を産むわけですから
完全な遺伝子の継承ということはクローンで増える場合を除き
ありえないことです。

雌雄生殖という戦略をとっている以上
遺伝子の完全性ということは方針としては捨てられています。

第2に、遺伝子が個体を動かすのは
あくまでも原理的なもの、あるいはシステムであり、
あるいは生理現象です。
個々の具体的な行動を遺伝子が指示するわけではない
と言ってよいと思います。
この発想は、遺伝子自体が個体を動かして
目的をもって行動するものだということが
前提とされているように感じられます。

しかし、DNA等が個体を動かしているわけではなく、
結果として遺伝子を継承するように進化が進んでいる
ということに過ぎないと思うのです。
結果論ということです。

第3に、人間は、嗅覚が退化しています。
このこと自体が、血縁をそれほど重視していないことを
示しているように思われます。
他の動物の場合、嗅覚で血縁をかぎ分けて
仲間であると判断することができるそうです。

人間という種は、
そういう細かいことは気にしないで
近くにいる人間同士が仲間になり、
安心感を共有して群れを維持していたのだと思います。
なぜならば、そうしなければ
人間は子孫を遺せなかったからです。

人間が子孫を遺すシステムは
敢えて血縁へのこだわりを捨て
近くにいるものに仲間意識、親近感を抱く
認知心理学でいう単純接触効果を
自然は選択させたのだと思います。

群れを構成する仲間は、
常に一緒にいることから
弱点も、得意分野も、個性も
すべて把握しており、
群れを強くするという意識から、
それらの弱点や欠点も
責めないで、カバーしてきたのでしょう。
自然と、相手の感情を理解し、共有するようになった
ということはそれほど不思議ではないと思います。

逆に言えば、それができた人間の子孫だけが生き残り
それができなかった人間の子孫は木に帰るか
死に絶えたということが適者生存の仕組みだと思います。

つまり、利己的な遺伝子は
利他的行動をするようにすることを
遺伝子継承の絶対手段として選択したということになると思います。
それは、群れという「絶対的な自分たち」を守ることによって
各個体を守ったということになります。


袋叩き反撃仮説の批判Cということも考えておく必要があります。
互恵的利他主義という理論があります。

恩を売ることによって、
将来的な見返りが期待できる
という説です。
恩を売ることによって、仲間の中の評判をあげて、
自分が困ったときに助けてくれるだろうという効果を狙ったもの
ということがそれらの概要です。

この互恵的利他主義の理論は
袋叩き反撃仮説とは、
相いれない部分があります。

袋叩き反撃仮説と互恵的利他主義理論の違いは、
利他行動に出る場合の精神状態です。
袋叩き反撃仮説では、衝動的に相手を助ける行動に出てしまう。
むしろそれは、自分を抑えることができなくなる心のシステムだと説明します。
互恵的利他主義の理論は、冷静に、打算的に行動していることになります。

これは利他行動が起きる状況や利他行動の内容によって異なると思いますが、
大型肉食獣から襲われた場合に群れ全体で反撃する場合には、
われらが袋叩き反撃仮説が妥当するでしょう。
将来的な見返りを期待しての行動であれば、
自分の命を失うかもしれないような行動には出ないと思われるからです。

では、逆に、冷静な状況であればどうでしょう。
例えば、肉を群れのメンバーで分け合った後に
一人だけ肉を食べないうちにカラスに肉をとられてしまったような場合、
この場合は、既に逃げたカラスに
怒りをもって攻撃するわけにはいきませんので、
ある程度冷静でいられるでしょう。

もし、この場合、互恵的利他主義が妥当するのならば、
互恵的利他主義論者からは、袋叩き反撃自体という行動なんて
人間はやっていない、それはお前の妄想だ
といえば一件落着になります。
袋叩き反撃などしなくても
人間は肉食獣に食べられても
何とか生き延びたということになり、
袋叩き反撃仮説は葬り去れることになりかねません。

袋叩き反撃仮説は、
このカラスにエサを盗られた場合の説明として
食料を失った群れの仲間のくやしさや喪失感に
共鳴、共感しだろうということからやはり出発します。
そのくやしさ、喪失感をよそに
自分だけ食料を食べることが
申し訳ない気持ちになってしまいます。

可愛そうだから、おなかがすくことのひもじさを知っているから
自分の食料が減ることを我慢して
食料を分け与えただろうと説明します。

単純な話、そういう感情を持っただろうということです。

群れは運命共同体ですから、
誰かが苦しんでいる場合
群れとして放っておけないのだという感情が
群れを弱体化させないシステムなのだという説明になります。
そして、群れを弱体化させない事こそが
自分という個体を守る最大の方法ということが
当時の当事者の意識をはなれた客観的な評価となるでしょう。

この時、群れ全体を守るという意識は不要です。
個体同士の共鳴、共感による支援が
結果として群れ全体を維持していたということです。

これに対して互恵的利他主義理論を検討します。
一番の問題は、人間の思考能力のとの関係だと思うのです。
将来的な見返りを期待してということも、
かなり後期、農業革命の前夜ころにはあったと思います。
つまり最近ですね。
しかし、200万年前にそれが可能だったのか
疑問があるのです。

その疑問の中核は、将来的な因果関係の把握をする
能力が人間に当時あったのかということです。

今その場では見えない将来的な利益
というものを観念できなければなりません。
それに対して空腹は現在のもので、
感覚としてはわかりやすいものです。
現在のわかりやすい自分の感覚を抑え込んで
将来的な見返りを期待できたでしょうか。

時間の把握がなされなければできないことです。
時間という観念はあったのでしょうか。

私は、時間についての理解は、
農業ないし植物栽培を行うようになって
発展して行ったのではないかと考えています。

また、かかわる人間が多くなり、
群れの人数も増え、他の群れとの交流も開始され
それまでのように感情に任せていたのでは、
ひずみが大きくなっていくにつれて
因果関係の把握の能力も向上して行ったのではないかと思います。

また、ある程度文字のような記録も
発明されなければ
特に将来についての因果関係ということの把握は
難しいのではないかと想像しています。

また、食べ物の切実さがあるでしょう。

現代社会では、食べ物が無くなっても
買い足せばよいですから、経済的な不利益にすぎません。
しかし、200万年前は
今度いつ肉が手に入るのかがわかりません。
肉は貴重なものだったと思います。

それでも分け合う場合には、
将来的な見返りの期待では弱いのではないでしょうか。
共鳴共感に基づく、助けたいという気持ち、
一言で言って愛情に基づくものだ
という方がやはり説明しやすいのではないかと思います。

もっと切実さがない例も検討しましょう。

肉を切り分ける時に、切り分ける意欲のあるものが
石器を無くしてしまった場合、
自分の石器を貸すということは、
将来的な打算ではなく、
今、そいつに石器を持たせて肉を切り分けさせることが
自分にとっても、群れにとっても利益になります。
特に将来的な打算を持ち出す必要もないでしょう。

このように将来的な利益を打算的に考えるということは
当時の人間にとって、複雑すぎるのではないかと思うのです。
先ず、「将来」という観念を持つことができたのか
次に、将来の利益ということを想定することができたのか、
このような高度な因果関係を理解し、
目の前の自分の欲望を制御するということは、
もう少し時代をさかのぼり、
農業革命前後になってようやく可能になると
私は考えます。

さあ、袋叩き反撃仮説の最後のハードルです。
批判Dは、フリーライダー論です。

そもそも、袋叩き反撃仮説は、
群れを守ることが至上命題ではなく、
共鳴共感によって、仲間を援助したいという
衝動というか、感情というか、あるいは欲望というか
そういう即時的な行動を主張しているので、
本来関係がないのですが、
検討をしましょう。

フリーライダー論は、内部からの崩壊論とも呼ばれ、
もし、群れを守ることが、至上命題だとしたら、
大方の群れの構成員は、
群れを守っただろうけれど、
突然変異の個体が現れて、
自分は群れのために尽くさず、
恩恵をむさぼるだけの行動をするだろう。

この突然変異は、何も負担せず
利益だけを獲得するのだから、
群れの中でかなり優位に立つだろう。
そうすると、相対的に群れを守ろうとする個体が
突然変異の個体に駆逐されていき、
生殖を通じて群れの中で突然変異の子孫が優勢を占めてゆき、
群れを守ろうとする者がいなくなり、
群れが消滅するのではないか
という理論のようです。

袋叩き反撃仮説においても、
突然変異の個体が現れて、
利益だけをむさぼって、
それが子孫を増やしていったら
同じように群れが壊滅するという危険があるように思います。


実際にそういう仕組みで壊滅した群れもあったと思います。
しかし、現在まで人間は生き延びた。
そこには、何らかの仕組みがあるはずです。

突然変異は現れるものです。
袋叩き反撃仮説の場合ですと
すべての出発点が、群れの他の個体に対する
共鳴、共感です。
突然変異は、他者に共鳴、共感することができないということですから、
ダマシオのいう、前頭前野腹内側部が
欠損ないし機能低下していれば出てきます。

また、現在においてパーソナリティ障害や
自閉症スペクトラムの一部等
そのような事象については多数報告されています。

おそらく、人類史が始まってからも
他者に共鳴、共感できない個体は多数出現しているし、
共鳴、共感の程度も統一されているわけではなかったでしょう。

では、どうやって、人間は
群れの他の構成員に共鳴、共感できない性質をもつ個体に
滅亡されずに済んだのでしょう。


その答えの一つが、
人間は対人関係的危機を感じる動物だということです。
人間は、今でも群れの中にいたいという本能的要求を持っています。
また、それは、極限的な孤立した場面では
どのような目にあっても誰かと一緒にいたい
という形で現れますが、
通常は、群れの中に安定して存在したい
という形であらわれます。
一人の構成員として尊重されていたいということです。
そして、自分が群れの中で不安定な立場にあることを自覚すると
危機感を感じます。
この危機感は、身体生命の危機感と同様に
交感神経を活性化させ、ストレスホルモンを放出させます。
心拍数が増加し、血圧が高まる等ほぼ同一の反応をします。

この対人関係的危機感を感じることの
直接間接的な効果として
突然変異の個体が優位にならない仕組みができているということが
袋叩き仮説からの説明ということになります。

そのお話の前に、前提問題を解決しておきましょう。

共鳴、共感ができないという現象が起きる原因が
脳の器質的な問題がある場合以外に
育った環境というものがあります。

共鳴、共感は、人間の子どもが、
愛情を注がれて、尊重されて育った場合に
強くなっていくようです。

他の動物に愛情を注いでも
なかなか共感、共鳴力は育ちにくいのですが、
育ちやすくなっているのは脳の構造にあり、
これは遺伝的に決定されていることです。

しかし、せっかく人間の脳の構造があっても、
虐待を受けて育った子どもたちは
愛着障害を起こし、
他の人間が、安心できる存在ではなく
自分に危険を与える存在であるということを学習してしまい、
攻撃を受けないような行動を起こす傾向になります。
危害を受けないように他者とのかかわりを極力避けるか
危害を受けないように媚びていくか
両極端な行動傾向となるわけです。

これに対して、狩猟採集時代は
子どもは、群れの維持のための宝です。
また、それほどたくさん生まれませんし、
生まれてからすぐに死なない子どもも多くありませんでした。
人間は、弱く小さい仲間を無条件にいとおしいと思い
大切に大切に扱ったことでしょう。
動物から襲われそうになったなら
それこそ死ぬ気で戦ったはずです。
そういう個体群だけが生き残ったわけです。

生まれながらにして
群れという自分を大切にしてくれる存在は
個体として心地よさを感じたことでしょう。
他の群れの構成員を大切にするということを
身をもって教えられて大人になっていったわけです。

だから、そういう育った環境からすると
多少共鳴力、共感力を感じる脳機能が
生まれつき低下しているくらいならば
大人になっていく過程で
突然変異の要素は小さくなっていったことだと思います。

それでも、強固な突然変異というものが
存在したかもしれません。
そのような場合、それが多数にならない仕組みは
どういうものだったのでしょう。

一つには、共鳴力、共感力を示さない行動をする者は
群れの中で違和感をもたれます。
それでも特に群れの他の者、特に弱者に不利益を与えなければ、
変わり者というポジションを与えられるでしょう。

ただ、共鳴力、共感力が弱い者も、
仲間の中での自分の地位というものを判断する能力はあるようです。
仲間の中で、自分だけ他の構成員と違う扱いをされると、
疎外感、危機感を感じます。

当時、仲間から、自分が尊重されていないということを感じることは
大きな恐怖感情を抱かせたでしょう。
現代であれば、この危機感は攻撃的行動を呼び起こすものでしたが、
当時は、群れが個体を排斥するということは、
よほどのことだったと思います。
排斥は群れにとっても大事な頭数を減らすことです。
排斥される者の心情に、共鳴、共感したからかもしれません。
だから、よほどのことがない限り
群れから追放されるということはなかったと思います。

しかし、仲間の特に弱者に対して不利益を与えることは
仲間の中の敵、怒りの対象者を作ったと思います。
この時の排斥行動は強烈なものだったと思います。

仲間からの反応によって
自分がなすべきこと、なすべきではないことは
学習されていったと考えます。

最初は、突然変異個体も仲間ですから、
他の構成員も穏当に扱っていたでしょう。
突然変異の個体も直ちに怒りの行動に移らず、
自分自身の行動を修正していったのではないでしょうか。
他の構成員と違うことをするのは
それだけで怖いことだったはずです。

そうでなくても、他の構成員から
自分ならば、他の個体に愛情を持った行動をするのに、
なぜ、あの突然変異個体は自分と同じ行動をしないのか
という違和感を持たれていきます。

何か大きなことがあったとき、
「あいつは逃げる」というレッテルを張られることは
群れの中での評価を下げていったでしょう。
「理解できないやつ」
という不気味な存在になったと思います。

そのような事例がもし、同時期に起こったのであれば、
成人の突然変異体がどのように冷遇を受けるか
幼年の突然変異体が学習するので、
行動を多数に修正することになったでしょう。

このようにして、
突然変異体である、他の構成員への
共鳴力、共感力が欠損している者は
群れの中で優位になることがなく、
群れという環境に適合しない個体ということで
多数にならなかった。
場合によっては、強烈に排除された。
というのが袋叩き反撃仮説からの
結論になります。

これは、規範の起源を考える時に
有効なツールになると思いますが、
この対人関係的危機感や共鳴共感に基づく行動は、
あくまでも、絶対的多数派は、
自然な感情であったので、
それ自体は規範ではありません。

規範は、自分の意思を外在的に制約するもの
と考えるべきだと考えています。

この仲間のために怒りを募らせるという現場を
時々テレビで見られるということを説明します。
野球中継などで
投手が打者の頭部近くに投球した場合等で、
打者が投手に怒りを表現したことをきっかけとして
両チーム全員がグラウンドに飛び出して乱闘騒ぎになります。

大部分は、監督の命令など
外在的に自分の意思を操作する仕組みによって
意識して飛び出していることが多いでしょう。
これは互恵的な利他行為というよりも、
契約ないし規範に基づく行為です。

しかし、よくよく見ていると、
余り当事者性のない人同士が
当事者よりもエキサイトしてつかみかかったりしているシーンを
目にすることがあります。
これは、相互に袋叩き反撃の名残だと思います。

集団で攻撃しているうちに怒りが生まれてしまい、
相手を叩きのめすことを自然に志向してしまうわけです。
中には元々の私怨もあるかもしれませんが、
攻撃行動をしているうちに本気になっているのではないでしょうか。
そこには、仲間のためにとか、仲間を守るという
奇妙な言い訳があったはずです。


このうち、袋叩き仮説が
説明しやすい社会病理として
ネット炎上、いじめ、クレーマーがあります。

ネット炎上は、
誰かのうっかりした発言をとらえて
利害関係のない発言者を執拗に攻撃をする現象です。

あるいは
犯罪者や社会的に否定評価された人を
飽きずに執拗にネット攻撃を繰り返す現象だとしてもよいでしょう。

まず、攻撃してもよい人間をターゲットにします。
誰から見ても明らかに悪いと評価されるだろう人間が
ターゲットになります。

大事なことは、自分のターゲットに対する攻撃が
他者からも支持されるだろうと予測できる相手ということになります。
そして、他者の攻撃参加も期待できる場合です。
既に攻撃されていれば、安心して攻撃を開始することになります。

例えば虐待をして子どもを死なせてしまった親とか
無差別殺人をした者とか
とにかく、自信をもって否定評価できる人物であることが必要です。

ターゲットが定まれば容赦ない攻撃が展開されます。
名前を暴かれ、写真が公表され、親族までさらされます。

彼らは、袋叩き反撃をしているのです。

この場合の想定されている役割は、
虐待による児童死亡の場合は、
亡くなった児童が、自分たちの群れの仲間になります。
両親は、子どもを襲う肉食獣です。

弱い者を攻撃した両親は人間扱いする必要がないという
太古の本能によって攻撃が展開されるのです。

200万年前当時の人間の狩猟のスタイルは
動物を集団で追っていき、
動物が逃げるのを追いかける
さらに逃げる動物を追いかけて、
動物を脱水状態にしたところを
袋叩きにして息の根を止めるというものでした。
体毛の少なく、汗腺が豊富な人間は
熱中症になりにくい体質があります。

また二足歩行という省エネの移動方法も
相手を消耗させる狩りのスタイルに有効でした。

現在は、走って追いつめません。
インターネットの書き込みで追いつめていきます。
この時、発信した情報が
ターゲットに届くか届かないかはどうでもよいことのようです。
攻撃している、そして、その攻撃が
仮想の仲間であるインターネット上で
賛同されたり、評価されたりすることがあれば、
本能を満たすからです。

怒りという感情の特徴もこの炎上にプラスになります。
怒りは、危険の対象に必ずしも向かわない
という特質があります。
いわゆる八つ当たりということです。

人間は危険を感じたら
何とかして危険を解消したい、解消行動をとりたい
と思うようです。
ところが危険を与える相手が大きすぎると
怒って危険を解消できない。

例えば、勤務している会社であったり
例えば国家とか社会であったりした場合ですね。

こういう場合に、そこから逃げることもできませんので、
危機感のアイドリング状態が起きてしまいます。
それでも危機感を解消したいわけで、
解消したいという要求、衝動が高まっていきます。

そこに「勝てる」と思えるターゲットが出現すれば、
それまでの危機感を足して、
相手を攻撃するわけです。

誰からも指摘をされなければ、
こじつけでもよいから攻撃したくなります。
攻撃を開始し、袋叩きの状態になれば、
相手を叩きのめすまで攻撃は収まりません。
まさに袋叩き仮説です。

インターネットの攻撃は
リアル社会での危機感を解消する
格好な八つ当たりの対象だということになります。

この時、攻撃者が感じている意識は、
仲間を守るための行動だという感覚です。

でも、実際は、虐待された幼児とは
リアル社会では何のつながりもありません。
仲間でも何でもありません。

おそらくこのような仮想の仲間が成立するのは、
インターネットができる前からのことだと思います。
農業革命以降
見ず知らずの人間とも何らかの形でつながるという環境が
本来の群れと、群れ以外の人間との区別が
曖昧になって行ったことに起因していると思います。

ちなみに、一般的な攻撃対象に飽き足らず、
安定的に常時攻撃できる相手がほしくなります。
例えば政治的な書き込みの中には、
何でここまでというような怒りに満ちた書き込みがあります。
袋叩き反撃をしているのです。
常に行動を共にする仲間がいれば
反撃を受けることもそれほど心配ではありません。
まさに肉食獣にともに反撃する仲間が存在するということです。
だんだんと仲間を形成し、
同じようなターゲットに対して同じような攻撃を
繰り返すようになって行くということも理由のあることです。

このような事例は、いじめにも当てはまります。

いじめのターゲットは、
要するにいじめてもよい人間だとされてしまった人間です。

ターゲットを攻撃しても
誰からも非難されない、かえって支持されると、
あるいは誰かの攻撃が承認された場面を目撃していると
ターゲットはいじめてもよい対象だという評価が定まってしまいます。
この時、ターゲットに共感寄せる人間以外にとって
ターゲットは人間ではなく肉食獣になってしまいます。

最初はからかいでしょうが、
からかいも攻撃です。
攻撃している感情が怒りですから
からかいが継続すれば、純然たる攻撃に変わり、
それが怒りという感情になります。
怒りが完成してしまえば、
相手が消耗するまで攻撃を継続するわけです。

いじめ予防の効果的な方法は
からかいを禁止することですし、
いじめてもよい人間はいないということで
徹底的にかばうということをすることです。
からかいの中でも、からかわれる方とからかう方に
双方向性が無い場合は、
その時点でいじめだと考えるべきです。
また、ターゲットが孤立していて
からかい側が多数である場合もそれは紛れもなくいじめです。
袋叩きの構造になっている場合は
怒りがエスカレートする極めて危険な状態です。

いじめの加害者たちも
何かしら、ターゲットを非難します。
それは、言いがかりやこじつけと言うべきものです。
それでも
自分たちを守るために攻撃をしているのだという
言い訳をしながら、正当化をしながら
いじめを行っています。
怒りが完成してしまうと
もうそういうこともどうでもよくなり、
怒りをもって攻撃を繰り返します。
ターゲットが消耗するまで続きます。

クレーマーも
相手に勝てると思えないだろう相手にも挑んでいきます。
この時、クレーマーの心理としては
自分が受けた不合理な対応は
自分ならまだ我慢できるけれど、
自分より弱いお年寄りや子どもだったら大変なことになる
だからみんなのために戦う
という奇妙な論理を持っています。

客観的には単独行動なのですが、
自分は一人ではなく、社会的正義だという意識があります。
クレーマーも、主観的には袋叩き反撃をしています。
自分を守る理屈がいつしか攻撃となり、
怒りを完成させていきます。
クレーマーは、陰で攻撃するのではなく、
多数がいる場面での攻撃を好みますが、
これは袋叩き反撃をしている意識だから当然です。


ところで性善説、性悪説と口に出す人や
人間の本性はいじめを防げないというようなことが言われます。
私はかなり大雑把な議論だと感じています。

私から言わせれば、
人間は、元々の単一の少数の群れで育ったころの
その心、感覚を、正義と呼んでいるだけなのだろうと思っています。
数百万年かけてそのような心を育ててきたのです。
農業革命前夜はせいぜい2万年前です。
数百万年かけて形成したものが
2万年程度でそう簡単に変わりはしないのです。

心が
人間のかかわりの人数の巨大化と
複数の群れに所属しているという
新しい環境に適応していない
こういうミスマッチによって病理的現象が起きるのだと思います。

理性によって仲間意識をもつことができれば
解消する問題ではあると思うのです。
見ず知らずの人との仲間意識は
それこそ困難なことだと思います。
しかし、もはや世界は運命共同体になりつつあります。
環境問題や世界大戦になった場合の地球の破滅が典型です。
経済の仕組みも同様に世界中に影響しあっているのでしょう。

理性的に、協調、共存共栄のシステムを構築する必要があると思います。

そこまで世界的な大きな話ではなく、
家族や職場、学校その他の人間関係において
不合理を理性によって調整する、
そして、一緒にいることが癒しになる人間関係を形成する。
そのノウハウを蓄積する
これが対人関係学です。
袋叩き反撃仮説も、
進化生物学からではなく、むしろ逆方向である
現代の社会的病理の原因を考える中で
考え出された仮説であります。

nice!(1)  コメント(0) 

【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために [弁護士会]

5歳の結愛さんが亡くなった事件は、新幹線殺人事件や米朝会談で、早くも下火になっているようです。まるで、この事件の報道は役割を終えたような印象さえあります。
しかし、この事件は、事件そのものよりも、その後のマスコミや私たちの反応の方にこそ、大きな問題があることを浮き彫りにしました。

<死亡後の時系列が報道されない。>

第1報直後、1社だけは報道したという記憶があるのですが、事件後の時系列の問題です。
結愛さんが亡くなったのが3月2日です。義父が結愛さんに2月にした暴行に対して傷害罪で逮捕されたのは翌日3月3日です。義父は既に傷害罪では起訴されていました。3か月以上を経て、6月6日に実母が保護責任者遺棄致死罪で逮捕され、義父も再逮捕されたと報道がありました。奇妙なことは、報道では、実母が何月何日に逮捕されたのかについて報じないことが多いということです。いつ、どこで、誰が、どのようにどうしたという基本の事実報道がないがしろにされています。これが第一の不思議です。

しかし、私たちは、5歳の子どもの死という結果が衝撃的だったことから、逮捕日時が報道されないことについてはあまり気にしません。私も、事件報道直後は、そんなことは興味も関心も持てませんでした。

事件報道は、警察とマスコミと事実上の協定があり、警察発表をほぼそのまま報道しなければならないようになっているそうです。独自に裏をとっても、警察発表に疑問を持たせる報道はできないことになっているようです。
今回の事件は、既に結愛さんが死亡直後に、父親が逮捕されているのですから、マスコミはその事実を知っていたはずです。しかし、どの社も独自の取材をして事実を報道することはありませんでした。
そうすると、義父の逮捕から3ヶ月何をしていたのかについて疑問に感じなければなりません。
なぜ母親は逮捕されなかったのか。言葉でいえば慎重に捜査を進めていたということなのですけれど、再逮捕まで3ヶ月も父親が勾留されたということについては疑問がないわけではありません。

<あまりにもタイミング良く公開された手紙画像の意味>

その後、続報というにドンピシャなタイミングで、例の手紙が画像で公表されます。これは、結愛さんの苦境をアッピールすることにうってつけであり、それだけ両親に対する憎悪があおられました。
しばらくは私も手紙を正視できなかったのですが、文章を読んでみると、子育てをした経験がある人ならだれでも疑問を感じることも読み取っていくわけです。この手紙について、もし結愛さんが文案を考えて、文字にしたとするならば、5歳という年齢に照らして考えると、相当学力の進んだお子さんということになるでしょう。字も大変しっかりしていますが、何よりも文章校正がしっかりしすぎています。本人が考えて書いたものではない可能性があります。おそらく実際は、親から言われたまま書いたのでしょう。それにしても立派な字を書かれています。
しかし我々は、報道の見出しだけを見て、結愛さんが何とか許してほしいと思ってその思いを文字にしたと思い込んでしまいます。こんな手紙を書かせた両親に対する増悪が嫌が負うにも大きくなりました。

警察はこの手紙を公表をしていますが、いつ、どういう機会に書かされたのかについては説明がなされていません。冷静に考えれば、少なくとも衰弱している状態での筆跡ではないと考えることが自然だと思います。ところが、「暴行」、「ネグレクト」、「衰弱」というキーワードが先行していますから、我々の頭の中では、結愛さんが衰弱しながら、それでも容赦のない虐待がなされ、最後の力を振り絞って必死に許しを請う5歳時の姿がイメージされてしまいます。おそらくこういう事実があったなんてことは誰も言っていないのでしょう。しかし、この手紙の画像を発表したほうは、我々がそう思うことを想定し、狙って行ったと考えるべきです。加害者に対する憎悪をあおっています。

また、本来であれば、このような画像を公表することについては、弁護士や法律関係者は批判をするべきです。画像だけ公開して、文書作成の経緯について公表しないことは、誤った事実認識を誘導することにもなります。しかし、この点をついたのは、私が見る限り、ルポライターの杉山春さんだけでした。

母親の逮捕と義父の再逮捕が、事件発覚から3ヶ月後ですから、警察の方は相当な準備ができたはずです。もっと早く母親を逮捕することもできたのではないでしょうか。証拠の散逸などを考えれば、もっと早く逮捕するべきだったかもしれません。

<衰弱死の原因と胸腺萎縮の関係で考えるべき二つのストーリー>

また、マスコミが報道しやすいように、その次のタイミングで、結愛さんの胸腺の萎縮ということを発表します。繰り返すことになりますが、警察は3カ月前から捜査をしているのです。順次証拠が発見されたわけではなく、証拠は大量に警察にあったのです。マスコミが一度に報道してしまうと、情報量が多すぎるので、報道しにくく、波状に情報を提出することによって、受け手の情報処理も容易になります。つまり、いっぺんに情報を出すより、逐次出していった方が、実母と義父に対する国民の増悪が強くなるという効果があるのです。

ここで、疑問がわいてもおかしくないと思うことがあります。結愛さんの死因です。最後は敗血症になることは、むしろ死亡の場合は少なくないので、敗血症という病名によっては、何があったかを判断する決め手にはなりません。

問題は、胸腺萎縮と衰弱の関係です。

マスコミ報道からは、食事を与えられないで衰弱した結果、衰弱死したようなイメージが与えられます。しかし、別の可能性もあるのです。虐待は前提としてあることは良いとしても、胸腺が異常に萎縮したことによって、免疫機能が低下し、何らかの感染症が発症し(敗血症は感染を基盤として発症する急性循環不全)、食事がとれなくなって衰弱死したのではないかということも考えられるのです。どちらにせよ虐待が原因だということならば、それほどの違いがないことになるのですが、イメージが違ってきます。胸腺萎縮が先行して状態が悪化したのならば、夫婦は結愛さんの状態が悪化しているけれど、どうしてよいかわからないし、自分たちが虐待したことが発覚してしまうだから、病院に行くなどの手当てをしないまま衰弱死に至ったということになります。この場合の衰弱は急激に進行するかもしれません。しかし、胸腺萎縮が原因で免疫不全になったのではないならば、つまり、死ぬまで虐待を繰り返し、どんどん衰弱しているにもかかわらず虐待をさらに続け、結果として死亡させた。その時胸腺が異常に委縮していたということになったという可能性もあります。これは極悪な対応と言われても仕方ありません。違いは、「体重が平均より12kg低かった理由が、食事を与えないという虐待行為が原因なのか、胸腺萎縮による栄養摂取の機能不全が原因なのか」にあります。ずいぶん様相が変わるようにも思えるのです。いずれにしても、加害者の供述と医学的知見とのセットで真実が判断されなければなりません。

 しかし、マスコミ報道からは、虐待の繰り返しにより食事を与えず、結果として死亡時の解剖で胸腺が委縮していたという方のストーリーを私たちのイメージに植え付ける結果となっています。

 なぜ、警察は3カ月も使って準備を行い、マスコミを通じて、憎悪をあおる工夫をしたのかということが疑問になります。一般の方々はそんな疑問を抱かなくてもよいのですが、弁護士ならば当然疑問視しなければならないはずです。ところがこの指摘をしているのは、私が知る範囲では、虐待のルポライター杉山春さんだけでした。
 ここで、警察に悪意や違法な意図があったということを言っているわけではないのです。ここは注意していただかないと話がややこしくなるばかりです。純粋な正義感に基づく憤りということも十分考えられるところです。それぞれが役割を果たさなければならないということが主題なのです。

ただ、この報道は、裁判に大きな影響を与えてしまうわけですから、そのような疑問をマスコミは当然持つはずなのですが、私からは何もマスコミの悩みが見えてきません。そして、法律家や福祉関係者(自称も含む)からも、そのような疑問が上がってこないように感じるのです。このこと自体は、人権の危機ということになります。

<児相非難の行き着く先は。マスコミの程度の問題>

マスコミは、国民の怒りをあおり、その怒りの矛先を実母と義父に向けることと同時に、児童相談所にも向けます。介入するか介入しないか、どのように介入するかということについては、色々な要素を考慮しなければなりません。介入することによってのデメリットもあるからです。そこには悩みがあるのです。しかし、マスコミは、香川と東京の児童相談所の介入によって救えたはずだという論調を強調します。
今冷静に考えるとすぐにわかると思うのですが、このようにあおられた怒りの矛先が児童相談所に向かうことは、児童相談所が当然配慮しなければならないデリケートな問題を配慮せずに、ひたすら強行に出る、警察と連携しながらでも強硬に行うという結論にしか至りません。問題の所在を全く無視した二者択一的思考が横行しているということは大きな恐怖です。
現在でも、理不尽な国や自治体の介入で、家族が壊されて、修復不能な状態になって泣いている人、自死をする人、健全な成長が阻害されている人たちがたくさんいます。これはこのような二者択一的な政策による犠牲者たちです。二者択一的思考によって、犠牲者を増やし、それは、今度は自分や自分の子どもが犠牲者になるかもしれないのです。
マスコミが、そのような自覚を持たないで報道しているとすれば、それは、大変危険な存在になっているといわざるを得ません。

<虐待の原因を考えないということ>

マスコミの論調で際立っていることは、虐待が起きる要因を考えていないことです。これが致命的なエラーだと感じます。
その上で憎悪をあおっていくのです。そうすると、処罰だ、権力の介入だということに行きつくことは理の必然でしょう。どのようにして虐待を減らすことができるかということを考えているつもりになっていると思いますが、実際には、起きている虐待をどう処罰するか、どう死なないようにするかということしか考えることができない枠組みがすでに作られていることに気が付きません。私たちの正義感が、怒りで誘導され、複雑な考え、一歩引いた考え、根本的な問題を考える力が奪われていることに気が付かないのです。
言うまでもありませんが、虐待死は氷山の一角です。死ななくても、安心できる家庭を経験しないで大人になってしまうことが許されていいわけではないのです。しかし、原因を考えないで怒りに任せて単純な思考をしてしまうと、強い者、国家権力や警察に解決をゆだねたくなるというエラーが起きます。最終的には大いに頼りにするべきなのですが、先ずは、虐待を起こさない、軽いうちに解消する方法こそ考えるべきです。これは前回の記事でくどくど述べましたので、繰り返しません。
今回は、エラーに焦点を絞りましょう。

それでも、意見に全面的に賛成するかどうかはともかく、原因論について考える意見が少しずつ表明されています。自民党の三原議員は、色々と父親とのつながりの薄い子どもたちの母親を孤立させないことの大切さを訴えていますし、国民党の玉木議員は児相依存の傾向はあるものの、児相を責める前に児相の職員を拡充しようと訴えています。最悪の事態からは、少しずつ上を向き始める動きも見えてきました。(6月23日追記;玉木氏は死は児相の増員は下ろさないものの、親権停止や養育費の義務化等ドンドン議論が表面化しているようです。むしろ自民党の三谷氏は面会交流に言及する外、フェイルセーフの観点から政策を自民党で議論していることを紹介されています。)先ずは歓迎しましょう。そして議論が起きることを期待します。

最悪の事態について、TBSのサンデーモーニングで引用されていた主張について、若干触れましょう。
紹介された方は、自称児童福祉の実践者だそうですが、エラーの塊のような主張をしています。
先ず、例の手紙が、子どもが虐待から逃れるために自分で考えて書いているという印象操作を利用して、先ず読み手の増悪をあおっています。何も冷静な考察もありません。
次に時系列をあげますが、死亡後の時系列はありません。目的が死亡を回避するための振り返りだからだろうと思います。
しかし、虐待の原因について、全く考察がありません。あくまでも死なないために児相はどうするべきだったかという観点からの考察になっています。
そうして、児童相談所の権限拡大、警察との情報共有、それだけにとどまらず、裁判所による親権停止の拡大まで言いだしています。それらの問題の所在であるデメリットについては一切言及がありません。まさに二者択一的思考の典型です。虐待についての原因考察がありませんので、虐待が起きてから死なないためにどうするかという発想となるしかないのです。徹底しているというべきでしょう。

われわれ、自死予防、いじめ予防、パワハラ予防にかかわる者は、対策を講じる場合、死ななければ良いという発想に陥りがちだということを自覚しています。しかし、死ななければ良いというマイナスからゼロを目指す方法によっては、有効な具体的対策が立てられないことも知っています。嫌なことを防ぐのではなく、良いことを増やす、ゼロの先のプラスを目指すということで、初めて効果ある対策が立てられるという基本姿勢を持っています。

彼が、どう言おうと、それは彼の意見なので、とやかく言うのではありません。問題は、このようなエラーだらけの意見を取り上げ、結局は警察や権力の意図を体現する意見を肯定的に紹介するマスコミの程度の問題、あるいは、それがマスコミ自身の意図だとすると、その危険性について訴えたいわけです。マスコミだけでなく、人権活動家を自称する人たちまでもが、無批判にこのような権力の意見を体現するような意見を拡散しています。責任を感じて猛省していただきたいということが本当の気持ちなのかもしれません。そして、せめて杉山春さんのルポルタージュでも読んで、少しは虐待の原因を考えていただきたいと思います。あなた方がまじめに考えなければ、誰が虐待を防ぐ提案をするのか厳しく考えていただきたいと思います。

nice!(1)  コメント(2) 

怒りや憎しみは、今虐待されている子、これから虐待される子を救えないということ。虐待防止のパラドクスについて 厳罰化、児相の権限強化、親権の停止が解決と逆行していること [家事]

 東京目黒で起きた結愛さんが亡くなった事件で、多くの方々が憤りを表明されています。見ず知らずのお子さんが亡くなったことに対して怒りをもつことができるということは、人間独特の能力です。単なる法律違反という捉え方ではなく、亡くなられたお子さんの孤独や絶望、さまざまな感情に共鳴、共感してのことになりますから、とても人間らしい感覚だと思います。
 しかし、怒りという感情は、エラーを伴いやすいものです。私が危惧しているエラーとは、せっかくの人間らしい感情が、今起きている児童虐待やこれから起きる児童虐待から罪のない子どもたちを救うことが出来ないばかりか、増やしてしまうことです。
 このエラーがなぜ起きるのか。具体的にエラーは何か。どうしてそれがエラーなのか、それではどうすればよいというのかについてご説明をすることがこの拙文の目的です。
 
 まず、「怒り」とはどういう構造なのかということについて、私の考えているところをご説明します。

 最初に危険が近づいていることを脳が認識し、危機意識を抱きます。脳は、この危機意識を解消したい、危険から逃れたいという志向をします。このとき危険を解消する方法の違いによって二種類の感情に分かれます。ひとつは、危険に対して働きかけることで危険を解消できるという意識がある場合は、危険に対して攻撃を起こし、相手の危険がなくなるまで攻撃を続けるという行動を起こさせます。この時に抱いている感情が怒りです。ふたつ目は、危険と戦っても勝てないだろうという意識がある場合は、危険から逃げようとします。このときの感情は恐怖です。危険を感じた場合、怒りたい、怯えたいということは、このように本能的な要請であり、命を維持していくためのメカニズムです。
 結愛さんが亡くなったことに対する怒りは、人間が、仲間の苦しさ、怖さを追体験し、共鳴したことによって生じたものです。事後的ではあるのですが、仲間を守りたいという意識で、これは強烈な怒りを生む傾向があります。これは、人間が農業を行なうはるか前の狩猟採集時代に、肉食獣から襲われた仲間を群れ中の集団で攻撃することによって自分たちを守りあったときの名残だと考えています。そのような仲間を守ろうとした者だけが、自分たちを守り、子孫を遺してきました。私たちの心は、このように環境に適合するように形成されたといわれています。そのため、現代においても、仲間のために仲間の敵を寄ってたかって叩こうとする習性があるわけです。
 怒りをもつことで、環境に適合することが出来たという、その意味について説明します。怒りは危険に働きかけて、危険を解消するときの感情だといいました。この場合の危険を肉食獣だとします。肉食獣も腹を減らしているから危険を承知で人間に襲い掛かっているわけですから、なんとか食いついた人間を捕食したいと思っています。これに対して、力の弱い人間は、怖いという逃げる意識を持たないで、相手を殺す勢いで、あるいは殺そうとして、攻撃をしなければなりません。肉食獣を亡き者にするという目標を持って、余計なことは考えず、撲殺することを目指して、ただひたすらに叩き続けることが必要です。なるべく安心せずに、確実に危険が無くなるまで、つまり確実に絶命させるまで、叩き続ける方が、命が助かることになるということは理解しやすいでしょう。これに対して「勝てるのだろうか」、「自分だけは逃げたほうが良いのではないだろうか」、「もうかわいそうだから叩くのをやめようか」などということを途中で考えて、叩く力を緩めたら、たちまち手負いの肉食獣は、そのひるんだ者いるところを通って逃げ出すか、その者を新しい標的にするかもしれません。このように怒りと、余計なことを考えないことと、確実にしとめるまで怒り続けるということは、命を守るためのセットの行動様式です。
 200万年前の狩猟採集時代は、危険といえば肉食獣や自然地形等ですから、このような単純な怒りの構造があれば危険回避のツールとしては十分だったのでしょう。
 しかし、複雑多様になった現代では、このような単純な怒りの様式によっては危険が解消出来ない場合も多くなりました。むしろ、怒ることでデメリットが生まれることが多いことは、われわれもよく経験しているところです。仲間を守るための強烈な怒りは、仲間を助けることにも作用するのですが、現代の複雑な社会においては、いじめやクレーマーなどの社会病理の要因にもつながる側面を持っています。


怒りがデメリットを生むことの要因についてまとめてみました。

・ 複雑な思考をすることが出来なくなる。
  余計なことを考えないことが怒りの効用でした。相手を叩くことだけに集中する方が良く、色々なことを考えてしまうことは危険だからでした。どうやら怒りが生じると、自動的に脳の複雑な思考を担当する部分が機能低下を起こすようです。これが人間や動物が生きる仕組みでした。
  複雑な思考をすることができなくなるため、派生的な因果関係を考えることが苦手になります。叩けば痛いとか、かまれれば痛いとか、直接の因果関係だけが判断可能ということになります。
・ 二者択一的な思考になる。
   これも、複雑な思考が出来なくなることからその結果としてこういうことがおきるのだと思います。つまり、敵か味方か、危険か危険から脱したかというものです。命をかけて戦っていますから、瞬時に判断することが求められていますので、このような単純化は狩猟採集時代には合理的なものでした。
・ 迅速かつ安易な解決を志向する。
   これも、戦いの途中の脳の構造ですから、理解しやすいと思います。複雑なことを考えられず、瞬時の判断が求められると共に、早く危険から解放されたいと思うことは当然でしょう。二者択一的思考とあいまって、強い者に頼るという傾向も現れていきます。
興味深いことに、本来は客観的に危険を脱するための仕組みだったのです。しかし、自然が作った方法は、危険意識を解消したいと志向するというツールを使って危険から脱する行動を起こすという仕組みを作りました。だから、いつしか、危機意識を脱したいという思いが過剰反応を起こしてしまい、独り歩きを始めることによって危険から脱するための行為と矛盾する行動を起こすということも現れたりします。この典型的な行動が自死です。
・ 後戻りすることが出来なくなる。
   後戻りのきっかけを作るための複雑な思考は出来ませんので、当然といえば当然ですが、後戻りしない行動傾向がより確実に危険を解消するために有益なことは理解しやすいと思います。途中で戦うことをやめることは死を意味するからです。自分の行為を客観的に見ることができなくなることもこの特徴からきているのかもしれません。
・ 共鳴、共感が出来なくなる。
   これは、他人と共鳴共感する脳の部分が、複雑な思考をする脳の部分と同じ部分だということから当然だと思います。アントニオ・ダマシオが発見した前頭前野腹内側部という脳の部分です。

厳罰化というエラー

 目黒事件では、無抵抗な子どもを長期にわたって苦しめ、助けがない状態に追い込んだということから、継父に対しても、放置した母親に対しても、怒りを抱くということは人間の感情としては自然なことでしょう。
 中には、虐待死に対する刑罰を厳罰化しようという主張が見られます。つい頷いてしまう主張です。しかし、これはエラーといわなりません。つまり、厳罰化は新しい犠牲者を救うことと何の関係もないからです。
 そのことについて説明します。
・ <虐待は自覚なく行なわれる。>客観的には死の危険がある行為が行なわれているのですが、加害者にはその自覚がありません。むしろ何かしら言い訳をしながら加害行為が行なわれています。虐待死の罰を重くしても、自分がいましていることに対しての罰だと認識しないことがほとんどだということです。
・ <人は法律があるから犯罪をしないわけではない。>もっともそういう人もいるかもしれませんが、実際は、自分が誰かを苦しめることに抵抗感があるのでやりません。やりたくても我慢しているよりも、多くの人はやりたいとも思わないものです。本当は殺したいのだけど、法律があるから踏みとどまっている人、なくなれば直ぐに実行するという人がどれだけいるでしょうか。実際の加害者、刑事被疑者や被告人と話すと、法律で禁止されていることは知っています。道徳的に間違っていることも複雑な行政法規でない限りはよく分かっています。
いずれにしても、罰則が重くなってもそれによって、虐待がなくなることはあまり期待することが出来ないということが実態なのです。

厳罰化の問題で看過できない問題があります。それは厳罰化の主張は実は論理的には死ななければ良いということを言っていることと同じになってしまうということです。おそらくそんなことを承認している人はいらっしゃらないでしょう。根本的には虐待をしないこと、これを目指さなければなりません。虐待死の厳罰化は死なない場合は厳罰化にならないでしょう。
それでは、死ななくても虐待自体に厳罰を課すことで解決に向かうのでしょうか。これにも疑問があります。虐待はつい起こる現象ですが、原因があります。虐待の原因をつぶすことによって、虐待しようとさせないことが根本解決です。これに対して刑罰を重くすることは、虐待をしようとする原因を放置して、虐待放置して、案の定虐待した場合に厳罰に処すということになってしまいます。
又、厳罰化することが出来ればそれで達成感が生まれてしまい、根本解決に向かわないことも心配しなければなりません。
さらに言えば、厳罰化するという思想は、「その人たちが特殊な人たちで、自分とは別の種類の人間なのだ」という意識を持ってしまいます。虐待をする人はとめることが出来ない、だから厳罰化して隔離することが必要だという優生保護法における不妊手術と同じ発想になっている危険は無いでしょうか。虐待という言葉には当てはまらないと思っていても、私たち親が子どもの事情を無視してしまうことは皆無なのでしょうか。もしかしたら、量的な違いや、偶然生まれた環境の違いに過ぎない相対的なものかもしれないという視点は必要だと思います。
厳罰化はエラー、すなわち虐待解消に役に立たないと思っています。

 親権停止、児童相談所の権限強化、里親や施設の拡充というエラー
 
 児童福祉の実践に関わらない人が良く主張する内容です。児童福祉の専門家によれば、これらは現実を知らない人の主張だと切り捨てられています。
 親権停止といってもそう簡単ではなく、現実の親権停止の申し立てはとても少ない件数です。いろいろな問題があるからです。本当に親権停止をする事案なのかということは大変難しい問題です。親権停止となれば、子どもと親が引き離され、子どもは児童養護施設に入れられます。間違って親権停止になることで、子どもは実の親から引き離されて、大人に対する不信感が堅固なものになってしまいます。親とはなれた時間が家族の関係を薄めてしまい、健全な成長をむしろ害することになります。実際に親権停止を申し立てられる親御さんは、訴訟能力が低く、弁護士を依頼する経済力もないことが多いようです。誤判を犯さないためには、申し立てる方が責任を持たなければならず負担が大きいのです。又、親権喪失ではなく、一定期間の停止としたのは親子の再統合を図ることが狙いですが、実際に再統合の働きかけがあることを私が関与した事例では見られませんでした。
 児童相談所の権限が強化されることについてもデメリットがあります。子どもが転んだなどで怪我をしただけで虐待が疑われ、長期間にわたって子どもと引き離されたという訴えもあります。一方的な判断を公平に検証するシステムがないことが問題だと思います。また、強い態度に出ることだけが独り歩きして児相に押し付けられているという現実があるでしょう。こういう事例もありました。うつ病という調子の波がある病気で、重い状態のときに掃除が出来ないのですが、その場合に虐待だと認定されて、子どもを取り上げられそうになっているという相談もありました。
 又、現実には、施設入所が国によって抑制されてしまい、里親への誘導がなされているようです。しかし、里親のなり手が十分でない上に、里親だからすべてが上手くいくという保証がないことも当然のことです。特に子育て経験がない里親が多いことは心配なことです。
 これらの現実を見ないで、親権の停止、児童相談所の権限強化、里親制度の拡充を主張することは、あまりにも無責任です。怒りは、強い者になびく行動を招くという理論どおりですし、安易な解決を目指すという理論どおりの主張です。一番の問題は、ある意味厳罰化の主張以上に、根本問題である虐待の撲滅を考えていないことです。あくまでも虐待が起きた後の対症療法に過ぎません。とにかく死ななければ良いという発想で、まじめな議論とは思えません。
 ところが、報道を見ると、虐待の撲滅、百歩譲って減少という観点からの論調は見受けられません。比較的良心的だと思っていた番組も、専門家でもない人の意見をなぜかわざわざ持ってきて、エラーだらけの意見を紹介している始末です。子どもの利益ということが、これまであまりこの国では考えられていないということがはっきりしてしまった悲しい出来事でした。それにしても、真面目に虐待に取り組んでいる人がいることすら知らないということはとても嘆かわしいことです。

虐待の原因を学ぼう

 ではどうしたらよいか。実に簡単なことを、厳罰化論者も児童福祉の現実を知らない人の児相の権限拡充論者も見落としています。怒りは、一つ一つ論理を積み重ねていくことが苦手です。何かを予防する場合は、その原因を突き止め、原因を除去することです。病気の場合でも、のどから感染するならうがいをするでしょうし、食べすぎが病気を招いている人ならば食べないようにするということです。虐待を予防するならば、虐待の原因を突き止め、その原因を取り除けばよいということになります。厳罰化論も、児相の権限拡充論も、特徴としては、原因の分析をせずに対策を論じるという非論理的な誤りを犯していることになります。
 では、どのように虐待の原因を分析するのかということになります。遠回りでも、一つ一つの事案を分析し、共通項を探すことが鉄則です。これをしないことは、特殊な人間だけが虐待をするという非科学的な決めつけですから、正しい解決にはたどり着きません。具体的事例の分析には、虐待の加害者の協力が不可欠です。虐待は密室で行われているのですから、加害者しか知りえないことが多いのです。また、加害者自身が自覚していない、無意識の行動も多くあります。こうなると、加害者を憎悪するだけでは何も解決しないということがお分かりになるでしょう。むしろ、加害者に対して支持的に、自分が何をしたのか、どうしてそれを止められなかったのか、そしてその背景として加害者が歩んできた人生、環境はどのようなものだったのかという聞き取りと分析をしなければなりません。これは、一緒に考えるというアプローチなのです。加害者に対して処罰感情だけしかなければ、つまり憎しみのアプローチだけならば、およそ将来に向けた虐待はなくならないのです。
 杉山春さんというルポライターがいます。大きな虐待事件について、何件も加害者から詳細な聞き取りを行い、丁寧な分析をされ、ルポルタージュを作成されています。新書になっていますから、入手しやすくなっています。弁護士以上に弁護士の思考ができる人です。私も随分文献を読ませていただき勉強させていただきました。
 虐待の原因は、共通する部分が多くあります。一言でいえば、無知と孤立です。子どもの愛しかたを知らず、接し方を知らず、何が必要で何が不要なのかを知らない、限度も常識もわからない。つながるべき人、つながるべき機関につながらないで、自ら孤立していく、自分たちを食い物にする人たちにつながってしまうという共通性もありました。どうしてそうなってしまうかというと、自分が愛された経験がなかったり、逆にいじめを受けたり虐待を受けたりしたということが看過できない事情としてはあるようです。そして、それが非常識なこと、それをすることは子どもがかわいそうだという意見があることについて、孤立しているために誰からも指摘されないまま、客観的には虐待が継続してしまうということが共通項のようです。
 人間はもともと両親だけで子育てをするようにはできていません。例えばチンパンジーは、母親だけが子ザルに食料を分け与えます。人間は、懐胎期間が長いことやお産が重いこと、新生児が長期間全く自立していないことから、母親だけが子育てをすることは不可能です。だから群れで子育てをしていたのです。小さく弱いものをかわいいと思う感情を持っているのが人間です。この感情は群れで子育てをした名残でしょう。文明ができると、かえってこのコアな群れは小さくなり、戦後しばらくすると、子育ては夫婦のみで行わなくてはならなくなり、事情によっては母親だけが子育てをする場合も増えています。しかし、その様式は、人類史を見ても、これまであまりなかった子育ての方法で、現代においてもかなり無理がある形態です。
 ここで、厳罰化や児相の権限を強めるため、疑いを持って近隣同士が子どもを持つ親に対する監視を強める社会になったらどうなるでしょう。ますます虐待を隠し、陰湿化し、後戻りできないまま虐待死していく子どもが増えることを心配しなくてはなりません。完全なエラーが生まれると思います。
 もう一つ、厳罰化などの考えに差別の思想があることを指摘しました。しかし、孤立した夫婦の子育てという観点からすれば、少なからずどの家庭でも虐待は起きています。子どもに強すぎる反応をすることはあるでしょうし、八つ当たりをしなかったという人はどれだけいるのでしょうか。多かれ少なかれ、子どもの心を傷つけることを親は行っています。周囲がそれを指摘してあげて、修正させてあげることがどうしても必要なのだと思います。
 これも怒りのもう一つの特徴と関係があります。怒りは、実は危険の対象にだけ向かうとは限らないということです。例えば会社でミスをしたり、上司から叱責されたり、仕事がうまくいかない、そういう場合は身体生命の危険はありませんが、会社での立場が悪くなるという意味で危険を感じます。しかし、会社に対してというか、上司に対して反抗的な態度で怒りをぶつけることができません。危険意識を抱いたまま解消する方法がない状態が生まれてしまいます。心は、危険意識を解消したいといういらだちという表現になります。この危険意識を50とします。子どもというものは、親に対して安心していますし、人間関係がうまくコントロールできませんから、親に失礼なことをすることがあります。親は2とか3とかせいぜいそのくらいの危険意識を持つ程度でしょう。しかし、子どもは弱いですから、子どもには勝てるという意識があります。何とか危機意識を解消したいという無意識の思考は、せいぜい危険度3くらいの、普通なら決して行動に出ない危機意識に怒りを向けてしまいます。この怒りは53の怒りを解消しようとする傾向にあり、必要以上に過酷になってしまいます。八つ当たりということが典型的な虐待です。虐待は、私たちの日常と断絶しているものではなく、連続しているものだと考えたほうが良いと思われます。
虐待が苛酷になる場合は、驚くほどの無知が加わります。2日程度食事を与えなくても、お菓子か何かあれば死なないだろうとか、お菓子のほかに水分が必要だとか、そういうことを本当に知らないと子どもはあっさり死んでしまうのです。また、自分は過去同じことをされたけれど我慢できたという意識が生まれてしまいます。仕事をしなければいずれ死ぬのだから、仕事の時は我慢してほしい。そういう場合に過酷な結果が生まれるようです。まさかと思うような思考過程が現実にあるのです。厳罰化がいかに予防の観点からは無意味なのか理解されたことと思います。
こういった原因を解消するためには、孤立を防ぐことと、わからないなら教えてあげること、安心して相談できる環境をつくること、知らないことで責められない、笑われない、批判されないということが肝心です。隠す親たちは、自分で理解できないまま、自分の無知を理由に笑われたり、批判されたり、責められたりしてきました。いじめもその一つです。
私は、弁護士をやりながら人権擁護委員もやっています。虐待している親からの電話相談も受けることがあります。いろいろな事情があって孤立しているということが特徴的です。相談をするくらいだから、虐待を辞めたいと思っているのです。虐待の事実に目くじらを立てて批判したのでは電話は切られてしまいます。励ましながら、責めない、笑わない、批判しないということは鉄則です。そのうえで一緒に考えます。自分の子育ての反省を赤裸々に語り、その時助けてもらった人、機関を紹介します。これなら利用できるというつながりを見つけた時は、相談者も私も心底安心し、安心が共有されたことを喜び合うような相談会になります。
虐待行為の修正に有効な機関は、子育て支援です。子育ての不安を支持的に聞き、具体的な解消方法を相談できるととても良いです。ところが、公立保育園の減少で、子育て支援をする場所の確保も苦労しているようです。地区に一つ、だれでも気軽に訪れることができて、ベテランの担当員、例えば保育士を退職した方が、ゆっくりお話を聞ける環境があると良いです。紅茶とクッキーをいただきながら話をするという環境がたくさんあるといいなと思います。子どもも遊べる環境があるとなおよいでしょう。
そのほかにも、気軽な立ち寄り所があって、地域的なコミュニケーションが作れるような、居場所が作られればと思います。これらは、親の相談場所であるとともに、子どもの逃げ場所にもなるわけです。
奇妙な話ですが、児童虐待を防ぐためには、児童虐待をしている親を憎んで排除するのではなく、親の虐待する心を承認し、許すことなのです。虐待防止のパラドクスということでしょうか。
このような親と子どもがコミュニティーの一員として受け入れられることが必要なのですが、現実の社会は、特に虐待予備軍というような家庭はどこのコミュニティーにも属さずに孤立しています。始めからコミュニティーを作るというより、町内会や子育て支援など行政がコミュニティーの種を作っていくことが求められると思います。被災地では被災した地元のお年寄りと地元の小学校の子どもたちの交流が行われています。これは、子どもたちを守ることにもつながりますし、孤立したお年寄りを元気づける等大きな効果が生まれています。
長期的には、子どもが安心できる人間関係を幾重にも構築していくことだと思います。安心できる人間関係は人の心を癒します。助け合う人間関係を積極的に構築していくことが根本的な問題でしょう。

子どもが一緒に住まない親と、頻繁に会えることが当たり前の世の中にしよう

 江戸時代は、実の親のほかに名付け親,拾い親、抱き上げ親等、何人もの親がいました。関係が密な人間関係が形成されている時代でさえ、子どもたちはたくさんの逃げ道がありました。余計なお世話をしあう制度的保証があったといえると思います。「俺の子どものことに口を出さないでくれ。」、「馬鹿言ってんじゃないよ、俺が名付け親だろう。俺の子どもをぞんざいに扱うな。」というやり取りがあったと思うと楽しくなります。子どもは皆で育てるものという意識が感じられます。これが多くの人たちの共通認識でした。
 現代の子育ては孤立しています。簡単にコミュニティーは構築しにくいでしょう。大体、話を聞くにしても場所がありません。なかなか自宅を晒すことは抵抗が多くてできないということが多いのではないでしょうか。
 その中でも注目するべきは、深刻な児童虐待が、実の親ではなく、母親の新しい夫、内縁の夫、交際相手が関与して行われることがみられるということです。この場合は、実の父親がどこかにいるということになります。この実の父親は、強力な子どもの味方になるでしょう。
 ところが、現在の日本では、離婚をしてしまうと、子どもはどちらかの親だけと生活し、一緒に暮らしていない親と面会すらできないことが多いです。離婚前の別居の段階でも同様です。これには歴史的背景があります。戦前の家制度の下では、子どもは家のものだという意識がありました。そのため、家を出ていくほうは子どもを置いて出ていかなければなりませんでした。子どもに里心、母親を恋する心が強くなり、家を出て行かれては困るので、離婚が親と子の未来永劫の別れにされてしまっていました。戦後しばらく、高度成長期ころまではこのような感覚が多かったようです。その後、女性の収入が向上したり、女性の人権が確立していくとともに、母親が子どもを引き取って離婚をするケースが増えて、大勢になっていきました。しかし、離婚は子どもとの未来永劫の別れという意識、あきらめも一方にあり、子どもをあきらめるという風潮が残ったように思います。子どもが両親から愛情を受けて育つほうが健全に成長する、離婚のマイナス影響が緩和されるということは、世界中の調査によって確立していることですが、日本においてはあまり重視されませんでした。封建制度の下では子どもは家の付属物で、高度成長期以降は母親の付属物のように扱われていたと厳しく見るべきです。
 なぜこのように厳しく見る必要があるかというと、日本を除く先進国は、離婚後も子どもを父母双方が養育する、父母双方に親権(親責任)があるという共同親権の制度をとっています。子どもの利益を親から切り離して考えるべきだということがお隣の韓国も含めて先進国の共通の考え方なのです。ところが、日本では、ようやく離婚後、離婚前の別居時の面会交流という考え方が進み始めたという段階にとどまっているからです。だから、子どもの独自の権利を承認するということが日本においては急務の課題です。このひとりの人間として尊重しない最悪の結果が虐待なのです。
 とりあえず、現制度では、面会交流の拡充です。面会交流が頻繁に行われると、虐待をすればすぐにわかってしまいます。だから、虐待に対する抑止効果になるでしょう。しょっちゅう別れた相手と子どもが面会するということが煩わしいという気持ちもあるかもしれません。でも仕方がありません。子どもは双方の親から愛される権利がある独立した人格だからです。子どもを連れての離婚はそういうものだということを社会的に常識にする必要があります。また、実際に虐待があって様子がおかしかったら、実の親なら毅然とした対応をするでしょう。会えないから帰るということはせずに、納得できるまで面会を要求するでしょう。子どもにとって力強い味方になります。すべての親が虐待をするわけではありません。しかし、子どもが実の親に会うことのデメリットは、同居親のわずらわしさしかありません。逆にメリットとしては、逃げ道があるという安心感があるだけでなく、離婚に伴って子どもが自分の価値を低く考えてしまう負の影響を緩和することができるということが科学的に証明されています。何事もなくても面会することで、子どもにとっては利益なのです。子どもを一人の人格を持つ主体だと考えるのであれば、このような子どもの利益を積極的に推進するべきであり、妨害することは虐待だと考える風潮が作られることが必要です。
 なぜ、このように大切な面会が十分行われないのでしょう。最近は裁判所も強く面会を勧めるようになりつつあります。実際、裁判所から言われれば、同居親も子どもが喜ぶ面会交流なら応じなければいけないだろうという認識を持つものです。
 面会交流が進まないのは、同居親の、子どもを離婚した相手に会わせたくないという感情を子どもの利益以上に尊重してしまう風潮が、法曹界や社会に根強いということなのです。モノを言えない子ども、同居親に遠慮をする子どもの声なき声を取り上げようとせず、同居親の感情をいさめないどころか先取りして代弁する人たちもいます。これでは、同居親は会わせようとする気持ちを起こすことができません。
 そうはいっても、会わせたくないという感情まで否定することは現実的ではありません。自分も相手に会いたくないということは実際に強くあります。だから必要なことは、同居親の精神的負担をできるだけ軽減した面会方法を工夫することです。例えば、面会交流の施設を自治体が提供するということは、精神的負担をだいぶ軽減します。その中で、双方の不安を解消する提案をするスタッフがいればなおよいと思います。現在でもこのような団体があるにはあるのですが、費用も高額になっています。自治体こそが、安価な施設を作って同居親の背中を押すべきだと私は思います。現在の少子化の時代、子どもたちが健全に育つためのそれほど多くもない費用の支出に躊躇することはばかげています。
 
 虐待の問題は、このように社会全体で解決する問題です。人の心の問題です。これを罰則を強化して解決しようとか、逆に親権の停止や児童相談所の権限の拡充で解決しようとすることは、まったく虐待の実態を見ない安直な考え方だと思います。孤立して、十分な知識のない家庭を援助するのではなく、刑罰や親権停止の威嚇によって、結果として虐待だけをなくすという政策が根本問題を解決しないどころか、何ら子どもたちの幸せに結びつかないことはご理解いただけると思います。



私は無宗教ですが、新約聖書のヨハネによる福音書第8章では、イエスのもとに罪を犯した女性が連れてこられます。モーゼの律法によって、みんなで石を投げて殺さなければならないといって、イエスの考えを聞きに来たのでした。イエスは即答せず、もどかしい時間が流れました。ようやく語ったことは、自分を省みて罪がないと思う人間だけが石を投げればよいと言ったそうです。年齢の高い者から、一人また一人と帰って行ったそうです。そして、イエスと罪を犯した女性だけが残りました。イエスは、自分はだれも裁かないと言い、女性に対してこれからは過ちをしないように述べたというのです。
私の人生に影響を与えた一節です。

もし神がいて、現代社会に天使を遣わされ、犠牲が生まれたとしたら、憎しみを募らせたり、人の裁きを重くしたりするという気持ちは、たとえそれが正義感から出たものだとしても間違いなのでしょう。自分たちを省みて、迫害されている愛を解き放ち、慈しみといたわりを強く大きくしていかなければ、犠牲が意味のないものになってしまうと私は思います。


nice!(1)  コメント(0) 

【提案】児相を責める前に私たちこそが考えを改めよう!目黒5歳女児事件のような虐待死を繰り返さないための共同養育という人間らしい方法 [家事]

何の抵抗することもできず、
何の責められる理由もなく、
5歳の女児が、絶望を抱きながら亡くなりました。
同居していた母親から助けられることの無い
絶対的孤立を感じていたことと思います。

こういう悲惨な出来事があった場合、
人間が犯しやすいエラーは
誰かを責めることです。

誰かを責めることでは
悲劇の繰り返しを絶つことはできません。

児童相談所を責めることは慎重にするべきです。
この種の事案で児童相談所を責めた結果、
本来引き離さなくてもよい親子が
引き離されるということが起きています。

目黒事件という起きてしまったことから目を離さず、
二度とこういう悲劇を起こさないようにしなければなりません。

私たちが変わることで悲劇が一つでも減るならば、
どんどん変わっていこうではありませんか。

今回は不幸にして5歳女性は亡くなりました。
しかし、これは氷山の一角と考えるべきです。
つまり、
亡くならないまでも
心身を虐待され、
安心して帰るべき家を持たない子どもたちがいるのです。

人間が助け合うものだとか、信じられるものだということを
知らないまま大人になっていく子どもたちがいるということなのです。
人間として生まれてきたはずなのに
人間として生まれてきた喜びに接することができない子どもたちがいるのです。

このような最も基本的な人権が今後も守られないなら
そんな社会は死滅していくだけでしょう。


児童虐待一般の問題を考えても仕方がありません。
きちんと目をそらさずに実態をみなくてはいけません。

過酷な児童虐待は、
母親の新しい夫や交際相手の男が行い
実の母親が放置したり、共同加害をしておきます。

統計的にも父親の子殺しは極めて少数です。

危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11

母親が多いのは新生児を殺すことがあるからです。
母親の交際相手や新しい夫が虐待死、過酷になることが多いのです。

前夫の子殺しは猿の行動です。
今号の雑誌「正論」では、
埼玉大学名誉教授 長谷川三千子と動物行動学研究家 竹内久美子が
「セクハラ
 そんなのチンパンジーでは常識です
 他人の尻馬に乗る「#ME TOO」運動」
と題して対談をしています。

この表題からしても、チンパンジーもセクハラをするのだから
人間がしても仕方がない、批判するな
と受け止めかねない内容になっています。

しかしさらなる問題はその後です。
チンパンジーの雄は雌と繁殖行為をするために
相手のメスの前夫との子どもを殺すということを述べていました。
チンパンジーのセクハラが常識だから非難をやめろというのならば、
チンパンジーも子どもを殺すからなんだというのでしょう。
そらおそろしいことが、埼玉大学名誉教授らによって
語られているわけです。

なぜ人間は服を着ているか少し考えるべきです。
また、人間の雄の犬歯が大きくない理由についても考えるべきでしょう。

正論という名前の雑誌ですから
今回の事件を受けて
何らかの説明記事を次号で出すことだと思います。

それはともかく、
前夫との子どもを殺すのは猿並みです。
しかし、そういう猿並みの男が現代日本に一定数いるのだということになるでしょう。

我が子に対する過酷な虐待を放置している母親の事情があるのかもしれませんが、
その事情について大変興味があります。
詳細な説明を引き出して国民に還元し、
悲劇の防止に役立てるべきだと思います。

いずれにしても、今回の事件が特異な二人によって起こされたというよりは、
今後も起きる要素があるのだということを
しっかり考えなければなりません。

現在この種の事件を繰り返さないために考えるべきこと
私たちが修正するべきことが一つあります。

それは、離婚をしたら、
一方の親だけが子どもと関わり
他方の親はお金だけを払うものだ
という単独養育の風潮があるということです。
もしかしたら、私もどこかでそういう風に考えているのかもしれません。

「だって、理由があって離婚するのだから
 相手とは二度と会いたくないのが当たり前じゃない。」
そういう風に、子どもを別居親に会わせることは
同居親にかわいそうなのではないかと思う傾向があるかもしれません。

確かに嫌でしょう。会わせたくないでしょう。
その気持ちまで否定しようとは思いません。

しかし、そのような素朴な感情が支持される風潮は、
母親が子どもを父親に会わせないことの疑問を
私たちから奪ってしまいます。

今回5歳の女性が死亡しました。
女性には父親がいたはずです。
父親という逃げ道があったはずなのです。
しかし、この様な会わせたくないことを支持する風潮は
子どもからせっかくあるはずの逃げ道を奪ってしまうのです。

もっとも、別居親と死別していた、遠方にいる等の事情もあるかもしれません。
しかし、その時は、父親の両親など新たな逃げ道が
子どものために用意されるべきだと思います。

子どもが別居親と面会することのメリットは数え切れません。

これまでアメイト等によって統計的に裏付けられてきたメリットとして
自尊心の低下の防止があげられていますが、
もっと現実的な効果があります。

今回の目黒事件のような虐待を防ぐことです。
平均体重より12kgも軽い身体状態をみたら、
子どもを奪い取ることができます。
自分の子どもですから、
会いに来たのに子どもに会わせられないまま帰る
やる気のない公務員に任せるよりも確実です。

また、そのような状態になる前の抑止力になります。
即ち、1カ月に一度でも子どもと別居親が会うということになれば、
虐待を疑わせるようなことはできなくなります。

別居親との面会がなかったことが
東京を密室にしてしまいました。

確かに同居親には抵抗があるでしょう。
しかし、やっぱり子どもを産んだ以上は仕方がないのです。

子どもを会わせないわけにはいかない

こういう風潮に私たちを変えていかなければなりません。
みんなが同居親の精神的苦痛を配慮して、
子どもとの面会を助けるような社会にしなければなりません。
同居親を励ますことが必要です。

行政は、離婚した相手と自分は会いたくないけれど
子どもには会わせてよいという同居親が
子どもに会わせやすくするような環境を整えることが急務です。

安価な使用が可能とならなければなりません。
それは行政こそがやるべきなのです。

(私のこのような主張が河北新報に掲載された後
 記者さんが宮城県と仙台市に見解をただしたそうですが、
 どちらも全く考えていないという回答だったそうです。)

現在は、同居親の自分ファーストの感情を支持し
別居親と子どもを引き離すことばかりが行われています。

子どもへの影響を考えることができず
感情的になっている方を支持するということは
感情のまま子殺しをする
直接的な因果関係しか認めない猿並みの思考だと
自分たちを厳しく戒める必要があると思います。

私たちは人間なのです。
親に会いたい子どもの援助をしなければなりません。
会いたいといえない子どもにこそ必要なことです。
それができるのは人間だけです。

ここでもう一つ児相を責める前に指摘しなければならないことがあります。

それは国会議員です。

一部の議員連盟は、
この種の事件の頻発を防止し、親子の絆を断絶させないということから
法案を作成しています。
私は修正されて換骨奪胎になった法案を全面的に指示することはできません。
しかし、何年も前から準備している法案を
一度も国会で議論しないということは、
きわめて怠慢で無責任な態度だと思います。

法案が通ればデメリットも多いのですが、
子どもを別居親に会わせるべきだという傾向を作ることができる
というメリットがあり、
その法律を執行する過程で
具体的な対策も立てられるかもしれません。

通らないにしても
国会で議論をすることは重要です。

今この問題は、日本会議の機関紙くらいでしか
系統的に取り上げられていません。
これが現実なのです。

幾重にも子どもの逃げ道を張り巡らせて、
目黒事件のような悲劇を断絶することが必要です。
そのための第1歩が
離婚後の共同養育ということになります。

あと何回罪のない子どもの
絶対的孤立、絶望の末の死の報道に
私たちは立ち会わなければならないのでしょうか。
nice!(1)  コメント(0)