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家族再生を目指すならば、調停でやっていけないこと、心構え(暫定版) 共感チャンネル2 [家事]

一度壊れた家族、夫婦を再生させることはなかなか難しく、どうすればよいかというノウハウは、確立されていないどころか、検討すらされていないということが実情ではないでしょうか。敢えてこれに挑戦するのは、ひとえに子どもたちの健全な成長に役に立つと考えられるからです。このため、無謀であることを重々承知の上、挑むわけです。また、不十分ながらも成果はそれなりに出始めています。この理論が将来的にはもう少しマシになることを信じて暫定版としました。

再生の役に立つ方法は難しいのですが、やってはいけないことは簡単です。
一言でいえば、相手を心理的に圧迫する結果になることです。
心理的に圧迫するとは
・困惑させること
・恐怖心を抱かせること
・屈辱を与えること
等の自分の調停行為が相手に伝わることによって、相手を嫌な気持ちにさせることです。

どういう行為が、これらの結果を生み出してしまうかということですが、
一言でいえば、相手を否定することです。
・相手の行為の否定  同居時の行為の否定 いかにだらしないか等
           別居の否定     連れ去りは許さない等
・相手の考えの否定  子どもはゆっくり遊ばせることが良いとか逆とか
           お金をもっと貯金した方がよいとか逆とか
           相手が選んだ調度品や食べ物の趣味とか
・感情の否定     怖いわけがないとか、苦しいわけがないとか
           子どもを攻撃することに理由がないとか
・発言の封殺

 せっかくの調停というチャンスの場があるのに、相手の悪口ばかり言って、売り言葉に買い言葉で対立をあおってしまっていたのでは意味がありません。例えば、再同居という結果、面会交流という結果を求めようとしているなら、そのために必要なことを行い、デメリットとなる行為はしないということを徹底するべきです。
なぜか、逆方向の行為をしてしまい、調停になっても、自分が一方的に相手を評価する立場だというような振る舞いをしてしまっていることが多くあります。これにはなかなか気が付きません。例えば同居中、夫が一方的に妻の行為を評価し、ダメ出しばかりしていると、妻は自分が支配されている気持ちになると同時に、他者を一方的に評価してダメ出しをするという行為パターンを学習してしまいます。ある時、夫を一方的に評価して子どもを連れた別居が起きる危険を高めているわけです。

相手を一方的に評価したり、結果として相手を心理的圧迫してしまったりする理由の一つには、調停の目標が定まっておらず、相手の主張に反応するだけだったということがありますが、表題のとおり今回はこれを想定しません。それでも、家族再生を願って調停に臨んでいるにもかかわらず、相手を攻撃してしまうということを考えるべきなのです。
代理人として感じることは、相手を攻撃してしまう理由として自覚すべきことは、無意識、無自覚に自己防衛をしてしまうということです。これは無理もないことなのです。妻から離婚を申し立てられたり、妻が子どもを連れて別居したりということがあれば、本能的に家族の役に立ちたいと思っている人間は、それらの妻の行為は自分の全人格を否定する行為と受け止めます。そうすると本能的に自分を守ろうとしてしまうのであり、それは生きものとして当然であり、普通の反応だということになります。
しかし、その本能に任せて、自分が正しく相手が間違っているという姿勢を見せてしまうと、調停委員との関係も不利になります。調停では、調停委員に中立以上になってもらう。ということが鉄則です。それにもかかわらず、独断的な言動をしたり、過剰な自己防衛や責任転嫁、大声などの感情的な対応をしていたら、デメリットしか生まれません。但し、こういう反応は自然な反応ですから、つい出てしまうものです。信頼できる代理人に同行してもらい、ブレーキをかけてもらうということをお薦めします。だから調停委員とけんかするのは、代理人に任せておきましょう。

やってはいけないことから、何をするべきかを逆に考えてみましょう。

単純に言えば、自己防衛をしないということ。「棄身飢虎」というお釈迦様だったか聖徳太子だったかの言葉があります。自分を棄てるところに活路を見出すということです。なかなか難しいことですが、本当のピンチならばこれで切り抜けるしかありません。
しかし、自己防衛は生物の反応です。条件反射的な反応です。なかなか防衛行為をやめることは難しいです。抽象的には、夫婦間に対立構造を持ち込まないということです。例えば妻は自分と敵対していて自分に対する攻撃をすると思うと、妻の行動の一つ一つに危機感を感じてしまいます。そうすると石を投げられてよけるように、いちいち反応をしてしまうわけです。その反応、反射をあえて制御するということですから難しいことですし、抽象的にやれと言われてできるものでもありません。
そこでプラン1とプラン2をたてて、さらに1+2という3段階のプランを考えてみました。

プラン1 対立構造ではなく、家族という一つのチームに不具合が生じているとして考える
 例えば、妻が子どもを連れて別居したということであれば、本来一緒にいるべき家族が分離しているという不具合が生じているということになります。サッカーの作戦ボードのように考えていきましょう。自分を含めたチーム状態を客観的に評価してみるのです。
 家族には夫さん、妻さん、子さんがいるとします。
妻さんが子さんを連れて家から出たという客観的な状況があるとします。
夫さんはまた家族で暮らしたいという希望があります。
妻さんは、それを拒否しているということになります。

そこで、その妻さんの理由は何なのか整理してみます。
妻さんの主張は、夫さんの行為A、B、Cを同居拒否の理由としてあげたとします。
この理由に対する夫さんの反論は以下のものです。
Aについては、その行為は存在するがやむを得なかった。
Bについては、事実無根である。
Cについては、その行為は存在するが、妻さんが悪いからだ

次に考えることは、妻さんは、夫さんのこの主張を受け入れるかということになります。
妻さんが受け入れないならば、主張は対立してしまうということになります。
これが客観的な対立状況です。

妻さんに夫さんの主張を受け入れろと結果ばかり要求してもそれは受け入れられないでしょう。むしろ逆効果となることが多いでしょう。
この硬直状態と言う現状を変えるためには、可変要素を見つけてうまく修正することです。対立状況の中、相手が変わることが期待できなければ、自分が変わってみせるしかありません。
対立構造を解消するほぼ唯一の手段は可変要素を自分だと認識し、自己の行為を修正する。これに尽きるわけです。自分を修正することによって家族というチーム状態の修正を試みるわけです。ではどのように修正するか。とりあえずプラン1の作戦ボードをそのままにして、プラン2を検討しましょう

プラン2 相手の価値観と感情を共有し、相手を安心させる
自分の行動のモチベーションや、人間の評価を、社会的なルールに依存してしまうことが、特に男性の場合多くあります。道徳だったり、社会的常識だったり、あるいは法律や正義だったりということです。しかも、この社会的ルールに依存していると相手を一方的に評価をしていることが多いようです。
 もう少しきれいに掃除をするのが当たり前だろうとか、きちんと部屋を片付けることが常識だとか、もっとやりくりを工夫するべきだとか、スマホばかりしている、オークションばかりしていて、教育上悪いとかですね。その主張は、第三者から見ると「確かにこれはひどい」と頷けることが多くあります。

特に子どもが生まれると、子どもの視点、子どもを守る視点が強くなります。ここで注意するべきことがあります。現代の人間は、仲間を守ろうとするとき、守ろうとしているその仲間以外の人間を敵だと感じてしまうということです。敵である以上、配慮のかけらも無くなり過酷なことをしていることが多いのです。いじめにしてもパワハラにしても、このような現代の人間的傾向を反映していますが、その説明はまたの機会にします。いずれにしても、子どもが生まれると、先の社会的ルールの依存が大きくなってきてしまいます。常識を強く振りかざして評価してしまった結果、そのことによって生じた相手の苦しさ、悲しさに気が付かないということがあります。子どもの前で叱責されることは大変な屈辱です。対人関係的危険を強く感じて防御の姿勢に入ってしまいます。しかし、「子どものために」という意識は、相手の感情に対して無頓着にさせてしまいます。

 この結果、過酷な行為をしているかもしれません。
 そもそもできないことを強要しているかもしれません。それまでは気にならなかったことが子どもが生まれたことで気になってしまい、「やれ」という態度になっているかもしれません。 また、出産によってホルモンバランスが変化し、一時的にできなくなっているということもよくあります。迅速な行動が苦手になる場合もあるようです。つまり、本人に責任がないかも知れないことで、相手を責めているかもしれないのです。たとえるならば、無理なノルマを強要するパワハラみたいなものです。「できない?やると言っただろう?じゃあどうするんだ。できないと大変なことになるよなあ。わかっているよな。どうすればよいかなんて俺に聞くな。」ということをあなたは相手に言っていないでしょうか。仕事はともかく、家庭ではできなくても仕方がないのです。そういう方と結婚したのはあなたです。相手ができないことはあきらめるしかありません。あきらめた上で、少しずつ改善する方法を探しましょう。

 よくここで家族の中の働き手の方が言うことは、「仕事で疲れているんだから」というタームです。一件もっともなことを言っているようですが、これはあくまでも会社の論理です。家庭の中に入れてはいけない社会ルールです。家庭生活ごときができなくなるほど生気を搾り取られる働き方に疑問を持たなければならないのです。このタームを口にするくらいなら、もっと楽な仕事に転職するか、収入が見込めないけれどどちらを選ぶということを相談しなければならないはずなのです。異論はあると思いますが、調停ではそう考えましょう。

 相手の気持ちになって、相手の言い分をすべて通そうとすると1週間で精神的な破綻をきたすというデータもあるので、ほどほどでよいようです。

必要なことは、過去の出来事など主張が対立しているエピソードがあったとき、その時
・相手は困っていたかもしれない
・相手は不条理だと思ったかもしれない
・できないことを強要されていると思ったかもしれない
・子どもの前で顔をつぶされたと思ったかもしれない
・自分が否定されて追い出されるのではないかと怖かったかもしれない
・大好きなあなたから軽蔑されるという不安があったかもしれない
そしてかわいそうなことをしたかもしれない
その可能性を、罪悪感を抱くべき可能性を肯定する
そういう発想が生まれればそれでよいのだと思います。
自分たちの外にある社会的ルールではなく、相手の感情をモチベーションにする、相手の感情を肯定するということの訓練がプラン2ということになります。

そして、プラン1+2です。
硬直していた客観的状況、あなたの行為ABCについての再評価をしましょう。
A やむを得なかった
   → もっとうまくやる方法があったのではないか。
B 事実がない
   → そういう事実は客観的には存在しないが、妻さんからすればそういう風に受け止めたの ではないか、そういうことがあったような気持ちになったのではないか。
C 相手が悪い
   → 相手の弱点を自分が補う方法があったのではないか。無理や不可能を相手に強いたのではないか。
このような再評価を可能な限りしてみることができれば、次のプランです。

プランX 相手を安心させる実践

 調停が開催されることは大きなチャンスです。全く会えなくてどこにいるかわからないという事態を見ていると本当にそう思います。

 さて、相手が離婚を求めている時の多くは、相手はあなたと一緒にいることが嫌だということですが、無自覚にですがあなたを安心できない存在だという精神状態になっていることが殆どです。そんな馬鹿なと思った人も、それでも普通に同居していたと言いたい人も、プラン1+2を習得すれば、別の可能性が見えてきているはずです。そこでいう相手の感じている安心できない感覚、端的に言えば危険とは、身体生命の危険ではなく、自分が否定されるのではないかという心理的圧迫を感じているということです。

「記憶」という用語を使って言えば、あなたが安心できる人間だという記憶が再生できない状態なのです。それが、あなたは私を否定したり、傷つけたりする人間だという、危険の記憶に置き換わっているようです。あなたがとるべき方法は、相手の危険の記憶を安心の記憶に上書きして置き換えていくことしかありません。安心の記憶とは、どんな時でも自分の弱点、欠点、不十分点を、責められない、批判されない、笑われないということです。

もちろん相手が嫌がる行動をしないという鉄則があります。この場合は沈黙は金です。
安心させる行動を積極的にするということになります。この場合は、沈黙は役立たずです。

前提とするのは、相手方の感情や対立ポイントについての正確な情報の入手です。調停や相手方代理人とのやり取りで、積極的に情報収集をしましょう。反発心を抑えて、相手に言わせるようにしなければなりません。カチンとくることばかりですが、一旦は受け入れて持ち帰りましょう。
その上で、自分の代理人等と、情報の精査をすることが必要です。例えば、相手は言いすぎますから、叩かれたと言っていますが、どこかにぶつけて痣ができたと本当は言いたいということも結構多くあります。あるいは、こちらとしてはそんなつもりはなかったけれど、相手がこういう傾向にあるならば、それは、相手が言うような出来事だと受け止めた可能性があるとか、なんせ二人の間の出来事ですから、もう一つの情報源はあなたです。自己防衛を辞めて、プラン1+2を実践すれば、可能性は見えてきます。

そうして、肯定できる部分を徹底的に肯定する。探し出して肯定するわけです。行為は肯定できないけれど、感情は肯定できるというならばはっきりと肯定しましょう。包括的にすべて認める必要は一切ありません。主として感情を肯定することがポイントです。また、できる譲歩は全て譲歩しましょう。譲歩できないところは、なぜできないか、断捨離の気持ちで再確認しましょう。そして、肯定や譲歩をせっかくしたのならば、それを相手に伝える努力をしなければもったいないということになります。また、ポイントは事実関係の争いは対立ポイントとして温存することはやむを得ませんが、感情の有無の争いは争っても仕方がありませんので工夫して肯定しましょう。評価、感情のポイントは深入りしないということも考えなければなりません。

相手に伝える努力は、一つは調停委員を通じて伝えてもらうということです。本気度とか、真剣度は文章ではなかなか伝えられませんので、調停委員の先生にこういう態度でしたよと言ってもらうしかありません。

もう一つは陳述書というか、上申書というか、反省文などの書面です。実質的にはラブレターということになります。ラブレターを書いているという自覚をもてばある程度何を書くべきか、どのように書くべきなのかということが分かります。
相手を安心させるために書くということです。「責めない、批判しない、笑わない」ということは、こういうことをしないということなので、なかなか積極的に表現することはできません。むしろ、感謝と謝罪をすることによって安心させるという方法をとることも必要でしょう。
まず自分のために書くわけではないということ。

反省する際に、深刻に反省すればよいというものではなく、相手の心に届かなければなりません。暗い深刻な反省ばかりでは読む方が辛くなります。ラブレターなのですから未来に向って書くということが基本でしょう。この時も、相手に嫌な思いをさせたという謝罪は必要かもしれませんが、どちらかというと、自分が悪かったというよりこういう風に行動を修正すればよかったという方がよいように思うのですが、それは相手の反応を想定するということが必要でしょう。とにかく、今度は責めない、批判しない、笑わないということを伝える工夫ということになるかもしれません。つまり、プラン1+2の再評価を上手にちりばめていくことが求められています。

そうして、将来的なビジョンを示せればなお良いということになります。特に女性は、気まずさをリセットする能力を評価する傾向にあるように感じます。

また、過去の悪い出来事ばかりではなく、楽しかった出来事を再確認するということも安心の記憶への上書きとして使えますし、これは同居していた人のアドバンテージです。相手との楽しい出来事を共有していることは圧倒的な強みです。相手は楽しかった記憶がなかったわけではなく、思い出せないだけだからです。問題は書き方です。簡単に楽しい記憶はよみがえりません。ディズニーランドに行ったよねというだけでは、歩き疲れて辛かったとか、途中で雨に降られて寒くなったとかいう記憶だけがよみがえるかもしれません。具体的に書く必要がありそうです。ダメだと思っていたけれどイベントの抽選に当たって大喜びしてくれたとか、記念撮影していたらミニーマウスが一緒に入ってくれたとか、そこまで思い出して相手の記憶の再生を手伝うことが効果的なようです。

 感謝のエピソードも有効のようです。男性の場合、大体がお弁当や食事がおいしかったとか、手間暇をかけてもらったとかそういうことが多いのですが、それでよいと思います。相手が努力したことをきちんと評価し、感謝することは重要だと思います。

 ラブレターと一番違うことは、誰かに読んでもらうことです。押しつけがましくなっていないか、自己防衛や相手を批判しているように読めてしまうことが無いか、よく意味が通じているか、かえって負担にならないか等、チェックをしてもらうということは大事です。

 最後に、再生に向かって頑張る、ダメでも最後まで努力をしてみるという決意が生まれたら、それを支持する人とだけ相談しましょう。一番悪い悪魔のささやきは、「相手に屈服して言いなりになるのか、一方的に自分だけ悪者になって良いのか、自分だけ反省するなんて不公平じゃないのか」等々です。困ったことに、善意や正義感からのアドバイスです。しかし、家族の中に対立構造は持ち込まない、フォア・ザ・チームの気持ちでチーム状態の不具合を修正する、相手は自分に安心さえしてくれればリターンは必ずある、そういう強い気持ちと、それを励まして後押ししてくれる仲間を大切にしましょう。

 とりあえず、戦略はジャブを打ち続けるようなもので、決め手に欠けることが最大の弱点です。しかし、相手に安心してもらうということは、そういう気の長い行為なのだと思います。どこに決め手となるパンチがあるのか、どこに有効な打ちどころがあるのかは、残念ながら今後の課題です。また、それはおそらく、それぞれのご家庭の個別事情になるのではないかと現状では思っています。

 とにかく、家族再生を志した場合、上記の努力に無駄な努力はないと思います。離婚が回避できなくても、面会交流が実現し、充実につながるということが多く見られます。そうすると、面会交流の機会に、相手を安心させる活動を続けるチャンスができたことになります。但し、精神的な負担に耐えられるかということもチェックが必要です。再生という方針は支持していても、精神状態を気にかけて作戦放棄の選択肢を提示できる仲間の存在があることが望ましいことも実情です。

 家族の在り方は実に様々です。こうでなければいけないという態度をとらず、かつ、将来に向けて今できる活動、今必要な活動を行うという視点が大切であると思います。

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プロスペクト理論の「原理」と対人関係への応用 ひき逃げの心理等 [進化心理学、生理学、対人関係学]

ノーベル経済学賞を受賞した認知心理学者カーネマン(Kahneman)先生と
トゥヴェルスキー(Tversky)先生の
プロスペクト(予想、見通し)理論というものがある。

結論からいうと、
人間は利得(gain)の文脈ではリスク回避の意思決定をする傾向にあるが、
損失(lose)の文脈ではリスク指向(risk seek)の意思決定をする傾向がある
というものである。

これは実験をもとに理論化されている。
二つの選択肢のどちらを選ぶかというものである。

実験1
まずあなたが現金300ドルを贈られ、あなたの全財産がその分増加した
と想像せよ。
その後あなたは次の2つの選択肢から選ぶよう求められている。
A;確実な100ドルの利得
B;50%の確率で200ドルの利得、50%の確率で何の利得もない

実験2
まずあなたが現金500ドルを贈られ、あなたの全財産がその分増加した
と想像せよ。
その後あなたは次の2つの選択肢から選ぶよう求められている。
C;確実な100ドルの損失
D;50%の確率で200ドルの損失、50%の確率で何の損失もない

カーネマン先生らの実験の結果は、
実験1ではAを選択した者が多く、72%
実験2ではDを選択した者が多く、64%
とのことである。

そこで、利得の文脈(実験1)では、確実さを求めるのに、
損失の文脈(実験2)では、ギャンブルに出るという結論となった。

おそらく心理学の分野では、
プロスペクト理論という結論が明らかになれば、
あとは、それを現実に適用したり
ある現象をプロスペクト理論を用いて説明する
ことに勢力を向けるのだろう。
特に臨床心理の場合、事象の説明としての理論が多いように感じる。

対人関係学は、どうしても、
なぜ、そのような傾向を人間が持つかということを考えてしまう。
着目するのは、損失の文脈である。
Risk seek という英語の訳、ニュアンスの問題もあるけれど、
私は、リスクを指向するという表現は、不十分だと思う。
なぜリスクを指向するような結果になるかということを
もっと考えてみてしまう。

人間の行動傾向や脳の構造は、200万年前に成立したという
認知心理学の前提に立って考える。
経済的損失は、狩猟採集時代の当時は、
端的に「危険」を意味しており、
まず、これを生命身体の危険として考え始める。
プロスペクト理論の事例の損失の文脈を
危険が迫っているときに、どういう選択をする傾向があるか
このように言い換えることができるとする。

すると、危険を回避しようとするときに限って
ギャンブルにでるということになると
違和感が出てくるだろう。
もっと別の言い方があるのだと思う。

即ち、人間が危険に直面した場合、
人間は、可能性があるのであれば、
危険をゼロにしたいと思い、
ゼロにする可能性のある行動を選択してしまう
ということなのではないだろうか。

そして
危険をゼロにしようとするあまり、
その危険ゼロ行動をした場合に生じてしまう
新たな危険については、正当な評価ができなくなり、
あるいは正確に想定できなくなり、
あまりに気にしないで当初の危険を回避しようとするのである。

心理的には
当初の危険を回避したいという意欲、欲求が大きくなりすぎて、
回避行動によって生じる新たな危険に気が回らなくなる
あるいは過小評価をしてしまう
ということなのだろう。

この理論の行動ですぐに思いつくのはギャンブル依存症だ。
例えばパチンコで3万円損した人は
損を取り戻そうとしてさらにパチンコをする。
また、損をするだろうことはきちんと評価をすることはできない。
勝って損を取り戻すことを強く想定してしまい、
お金をつぎ込んでしまう。

これは、自分の損という個人的文脈だけでなく、
仲間の損害を回避しようとする際にも起こる。
例えば、200万年前の人類が
仲間が肉食獣に襲われているとき、
仲間を助けようとすることに集中するあまり、
自分がけがをしたり食い殺されたりということを
あまり考えずに仲間を助けようと攻撃参加するという
私の袋叩き仮説そのものでもある。

ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-19

さてこれまで危険を身体生命の危険として説明したが、
人間が感じる危険は、対人関係的危険というものもある。
生命身体の危険がなくても、
仲間(対人関係)の中で、自分が仲間として扱われなくなる危険でも、
身体生命と同様の危険に対する生理的反応をしてしまう。
交感神経の活性化を中心とする生理的反応だ。

例えば、失敗して職場に迷惑をかけるとか、
うっかり友達を攻撃してしまい、クラスの顰蹙をかったり、
批判されたり、叱責されたり、嘲笑されたりして、
将来的に自分が仲間から排除されたり、
仲間から攻撃されたりすることにつながると感じる事態が
対人関係的危険を感じる事態である。

対人関係にこそプロスペクト理論が当てはまる。

犯罪の多くが危険を回避しようとして
新たなより深刻な危険を引き起こすことによって起きている。
例えばひき逃げである。

自分の運転する自動車で他人を轢いてしまった場合、
被害者を救助する義務がある。
これをしないのがひき逃げであり、
罪が一つ増えるだけでなく、それ以上に刑罰が重くなる。
それにもかかわらずひき逃げは起きる。

ひき逃げをする者が感じている危険は対人関係的危険である。
それまで犯罪とは無縁の生活をしていたのに、
逮捕され、犯罪者とされてしまう。
それによって、社会の中での立場が悪くなるだけでなく、
職場での排除が起きたり、家族にも顔向けできなくなる。
まさに対人関係的な危険を感じてしまう。

ひき逃げをする人は、
できることならこのような危険をゼロにしたい
つまり、犯人として発覚しない方法があるならばそうしたい。
というリスクをゼロにしたいという強い欲求を抱く、
そのリスクゼロにすべての神経を集中してしまうあまり、
自分が事故を起こしたことがほぼ確実に発覚することや
発覚して刑が重くなるという
新たなリスクを正当に評価できなくなってしまう。
ますます対人関係が悪くなるというリスクが見えなくなる。

こういう心理構造でひき逃げという行為が起きてしまう。

犯罪に至らない場合でも
例えば、何点か商品を購入してお金を払う段で
自分が計算を間違ってバツが悪くなり、
店員の計算の仕方に文句をつけたり
説明が悪かったなどと逆切れするのも、
自分の計算間違えというバツの悪さをなかったことにしようとして
クレーマーとか人格的問題という新たなリスクを背負ってしまう
プロスペクト理論が当てはまる。

家庭でも、何か小さい声で話している家族が
自分の悪口を言っているのではないかと勘違いをしてしまい、
不機嫌になったり、怒り出したりして
嫌な思いをさせてしまうということがある。

対人関係にこそプロスペクト理論がぴったりとあてはまる場面が多い。
対人関係を悪くしないためにこれを頭に入れておくことは
とても有益である。

おさらい
「対人関係におけるプロスペクト理論」
当初のリスクを避けようとすることに夢中になってしまい、
回避行動によって生じる新たなリスクを十分想定せず、
案の定新たなリスクを発生させてしまうこと。

身体生命の危険ではそうすることはできないが
対人関係的危険の場合は、
自分を捨てる、危険に我が身を晒すということが
危険を最小限にする可能性があることを
頭に入れておく必要がある。

2018年9月26日追記

わけあって、一日中役所に詰めていなければならず、
かつ、弁護士の仕事ができないという事情から
スタノビッチ先生のkeith E.stanovich
「現代世界における意思決定と合理性」
Decision Making and Rationality in the Mdern World
を読んでいたところ、

プロスペクト理論について、
損失に対してリスク指向的である理由として
人々は完全な損失を回避する機会を持ちたいという考えを好む
という説明がなされ、
プロスペクト理論から派生した
保有効果(emdowment)は、損失回避(lose aversion)に由来する現象だ
との説明もなされていた。

あたかも私が発見したような表現が1行なされているが、
単なる勉強不足であったことが露呈され、赤面の至りである。

本家カーネマン先生を読んで理解が不足していたところを
スタノビッチ先生を読んで学ぶことができたということになる。

スタノビッチ先生の二重意思決定モデルを
カーネマン先生から学んだことを思い出す。
自分としては、この学習結果はとても気に入っている。
勉強とはとても面白いと思った。
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なぜ「人権派弁護士」は誤りを犯すか。福岡殺人教師事件、長野殺人告訴事件、吉田ますみ氏のルポを題材として  共感チャンネル理論1 [進化心理学、生理学、対人関係学]

現在、版を重ねて事件後の追録を載せて、
吉田ますみ氏の新潮文庫「でっちあげ」が
平積みで売り出されています。
この事件は、福岡市の中学校の教師が
生徒を差別して自殺教唆をした
全国の初の教師の生徒に対するいじめ事案ということで、
マスコミでセンセーショナルに扱われ、
裁判にもなっています。

しかし後に、そのほとんどが虚偽事実に基づく
ものであることが明らかになったのですが、
数百人の弁護士が虚偽の事実に基づいて
教師を攻撃した保護者の代理人に名を連ねた事件です。

長野県の事件は、高等学校の事件で、
不幸にも生徒さんは自死をして亡くなっています。
テレビドラマ「明日の約束」のモデルになったと言われている事件です。
吉田氏の「モンスターマザー」新潮社で
詳細なルポルタージュを読むことができます。

この事件でも、民事訴訟が提起されているのですが、
1審判決で生徒の自死の原因は学校にはないとされ、
控訴が取り下げられるという経過をたどっています。

いずれも弁護士がかかわっている事件です。
それも「人権派弁護士」と言われるまじめな弁護士が
虚偽の事実に基づいて
結果的には罪のない人を追い込みました。

なぜこのようなことが起きたのか、
考える必要があると感じました。

ところで、唐突ですが、
私は人権派弁護士とは呼ばれたくありません。
弁護士は人権擁護と社会正義の実現のための職業ですから、
「人権派弁護士」というと、冷たい氷とか、飛ぶ飛行機のように
屋上屋を重ねた表現になってしまいます。

ことさら何かを強調したいけれどはっきり言わない
そんなもどかしい違和感もあります。

ただし、
半世紀前の偉人とも呼べる弁護士が
人権派弁護士だと言われていたことは理解できます。

当時は、(半世紀前)
人権を侵害する主役は国家であるということが
強いコンセンサスがあった時代です。

冤罪事件を典型として、
人権侵害をする国家権力と
人権侵害をされる少数派の個人
という風に図式化できたようです。
戦前の思想弾圧等の残像が強かったという事情もあるでしょう。

ポイントとしては
加害者対被害者という二項対立の図式の中で
弱者保護のために徹底した反撃をする
これらができることが正義だったということになると思います。

時を下っていくと、
このような図式が曖昧になってきます。
人権侵害をするのが巨大企業だったり、マスコミだったり
国家や自治体によって、人権救済ないし
人権の普及啓発活動が不可欠なものとして行われるようになっています。

また、一般の人同士が
インターネットによって第三者を巻き込むことによって
加害者と被害者が入れ替わることがおきることもある時代です。

単純な二項対立による事案の理解と行動では
紛争が拡大していくだけで、
罪もない人たちが損害を受けるということも
多くなっています。

例えば学校で、
二つの事件のように
教師がした行為に見合わない
苛烈な制裁を受けるということは
私も現場で目撃をしています。

例えば家庭の中で、
暴力も脅迫もないのに
精神的DVを受けたということで、
夫が公権力によって
いわれのない不利益を受けるということも
また多く目撃しています。

この私の記事の内容は、
そういういわれのない加害行為に関与する
弁護士を批判する結果となってしまうのですが、

ルポに出てきた弁護士や
人権派弁護士を批判することが目的なのではありません。

むしろ、吉田氏のルポに登場する弁護士の中には
人格や仕事ぶりにおいて、今なお敬愛する先輩もいらっしゃいます。

私自身、弁護士になりたてのころは
他者から見れば人権派弁護士に映っていたこともあったでしょう。

だから自分への自戒を込めた考察であり、
自分たちすべての弁護士に起こりうる事柄として
エラーを防止するという目的の元考えたことを述べるものです。

ちなみに、ウィキベディアの人権派の項目については
早急に修正が必要であるということもついでに述べておきます。

さて、二つの事件は、共通の要素があります。
先ず、
ほとんど(全く)落ち度がない教師が、保護者から攻撃される。
攻撃は虚偽の事実を作出して行われる。
マスコミがそれを取り上げる。
保護者に弁護士がつく。
裁判になる。
保護者の主張の大部分は裁判によって否定される。
ということが根幹です。

その他に、
保護者の加害行為の論拠として
資格のある医師の診断書が提出される。
その診断書の信用性は裁判によって否定される。
保護者側でかかわった人たちの反省の有無や内容は不明
ということも共通しているようです。

なぜ人権派弁護士、マスコミ、医師は、
攻撃者の虚偽の主張に加担したのでしょうか。

間違いをした3者に共通の要素があります。
それは正義感であり、弱者保護の意識です。
これを増強した要素はそれぞれの職業によって異なります。

マスコミは、
弱者保護を名目として強者を攻撃すること
しかもこの図式を分かりやすく提示することで
国民受けが良いこと、部数や視聴率を増やすことを
よく知っています。

私の依頼者に対する報道などを見ていると
この図式を鮮明にするために
実際の細かい事実関係は削ぎ落して
容疑者に不利な部分を強調して報道するし、
独自に裏をとることなく一方の主張(警察発表)を報道する
ということがあるように感じています。

医師は、職業柄
目の前に来ている患者の保護が職務内容です。
診断基準に適合しない診断書を作成することによって、
第三者が傷つき、損害を被っても
その傷つく表情を想定することができません。
だから、医学的知見に基づいていない診断書の作成については、
それによって傷つく第三者が制御因子にはならないようです。

医師に関して、二つの事件に共通することは、
いじめられたとする少年本人の話ではなく、
母親の話をもとに診断しているということにあります。
医師は他人の話を信用しやすいという
育ちの良さも要因にあるのかもしれません。

問題は弁護士です。
およそ人権派弁護士が、
依頼者を増やそうとして無理筋の事件を
記者会見までやってやろうということは実際はありません。
また仕事柄、依頼者と対立する相手方の存在は
容易に想定できます。
紛争解決のためには細やかな想定をしなければなりません。
弁護士にはマスコミや医師の弱点がないはずなのに
どうして、事案を誤るのでしょうか。
ここが一番のテーマです。

それは、半世紀前は正義であったところの
二項対立、つまり世の中には加害者と被害者がいるという世界観
保護のための徹底攻撃
という人権派弁護士の美徳が災いしているのだということが
私の結論です。

説明のための補助線としてある理論を紹介します。
共感チャンネル理論というものが
現在構築されています。
簡単に説明すると
人間が他者の心情に共感できる能力は
極めて限定的であること。
対立する一方に共感してしまうと
対立する相手に対する共感チャンネルが閉じてしまい
あくまでも敵対する者だという認識が固定してしまうこと。
共感する対象を保護することを第一と考えてしまい、
保護対象の弱点は見ないようにし、
見てしまっても都合よく解釈しなおしてしまうこと。
敵対する相手に関してはその者の利点は見ないようにし、
弱点の情報だけを集めてしまうこと。
そして、敵か味方かという根本的態度決定は
非論理的に直感によって、一瞬で決められてしまうこと。

概要このようなものです。

そして共感ということは、最近の脳科学の成果を踏まえると、
対象者の感情を理解することというよりも
対象者と同じ感情を抱くということらしいです。
もっと厳密にいうと、
対象者が置かれている環境、
特に感情を動かす要因となる環境に
自分も置かれているように感じ、
同じような反応をすること
ということになるようです。

普通の人間は、
自分が窮地に立たされた場合、
何か言い訳を探したり、
窮地に追い込んだ相手に反撃して
窮地を脱しようとします。

おそらく人権派弁護士は、
自分が窮地に立った場合なら
言い訳したり逆切れしたりしないで
正々堂々と謝罪するなどして対処するのだと思います。

しかし、自分の依頼者が保護するべき弱者だと認識してしまうと、
保護すべき弱者の環境を共有してしまい、
自分の窮地の場合はしなかった
言い訳を探したり、逆切れして反撃してしまう
こういう現象が起きてしまうのだと思います。

その前提として、どうしても正義感が発動する時は、
二項対立の世界観が前提となってしまい、
弱者に対する保護感情を抱いてしまうと、
自動的に弱者を追い込んだものを探してしまい、
その者を加害者として敵対感情が募ってしまうようです。

あとは、共感してしまった弱者に都合の悪い事情は薄く、
加害者の都合の良い事情も薄く、
弱者の都合の良い事情は過度に濃く、
加害者の都合の悪いところも過度に濃く
評価してしまう図式にはまり込んでしまうようです。

この事件は正義のための事件だとか
社会的に意義がある事件だとか言って
報酬をもらわないとか、
報酬をごく少なくして事件を引き受ける場合が
人権派弁護士にはありがちですが、
そういう事件こそ要注意な事件になるわけです。
共感が強くなりすぎてしまい、
依頼者の不正に加担している可能性がある事件類型だ
ということになります。

吉田氏のルポでは、弁護士が
不利な証拠を事前に見ないままで事を起こしたような記述もあります。
事案をよく知らないで多くの弁護士が代理人になった
ということも紹介されています。
うっかりすると私の名前もあるかもしれないし、
私の知り合いの名前は多数あるでしょう。

全く見なかったかどうかはともかく、(それはないと思う)
十分な検討ができていなかったことは事後的にはよくわかります。

私も大先輩から(この方は押しも押されもせぬ人権派弁護士ですが
おそらく誤りをしないタイプのスーパーマンです。
半世紀前の人権派弁護士はこういうタイプが多く
現代の人権派弁護士とは少しタイプが違います。)

依頼者が困った困ったと
盛んに窮状を訴える事件は注意するようにとか
逆に感情移入できないからといって事件を選ぶなとか
結論としては、共感チャンネル理論に基づいたような
アドバイスを受けたことを思い出しました。

冷酒とオヤジの説教は後から効いてくる
とはよく言ったものです。

感情移入による誤りを防ぐための方策をまとめます。

1 二項対立の図式で人間関係を見ない

一般の人同士の対立の場合は特にそうなのですが、
正義と悪、加害者と被害者
という図式ではみてはならないのでしょう。

学校悪、生徒善という図式が本件ではできてしまったのですが、
それは結果としてそうなるかもしれませんが、
慎重な評価を踏まえなければならないでしょう。

もっと複雑なことはDVや虐待です。

例えば夫をDV加害者にしたり
親を虐待親だと決めつけることは
実際の出来事をリアルに見ることを不可能にしてしまいます。

一番の問題点は
結局誰も救われなかったということになることです。
目黒事件については、
多くの善良な人たちが、
虐待死を防ぐためだと言って
家庭の中に警察や役所の介入の余地を広げることを
どさくさに紛れて推進してしまいました。

そのことのデメリットなど
何の検討もしていないのです。

2 敵だと思う人間に共感チャンネルを開く

当初は、自分の依頼者に対する共感チャンネルを
絞って狭くするということを考えていたのですが、
なかなかそれは難しいことです。

むしろ相手に対する共感チャンネルを開くことが
実務的な対処方法だと思います。

どうしてあの人はこういうことをしたのだろうか
あの人なりの合理性とは何か
ということを考えることです。

これは、しかし、
勝負事一般の鉄則だと思います。
相手の立場に立って、相手が何を考えているのか
ということを推測することによって、
相手の弱点を打つということですから、
勝利にとって必須の思考でしょう。

対人関係的には勝ち負けは入りませんが、
解決に向けての王道になることも間違いないと思います。

敢えて敵に共感してみるということです。

これは、その時の勝負だけでなく
トラブル予防にも大きな効果が期待できます。
相手に賛成することは必要ではありません。
「ああ、そういうことを考えてしまうことも
 あるのかもしれないな。」とすることが理解です。

これは通常の弁護士ならば経験があることです。
刑事弁護がまさにこれです。
罪を犯した人がなぜ罪を犯したのか
これが理解できなければ刑事弁護は始まらないかも知れません。

この二つが当面の戦略です。

余談ですが、
福岡の事件の場合、弁護士が謝った原因の
大きな要因が、
クレームに対する校長や教育委員会の対応のまずさです。

事実関係を曖昧にしたまま
とにかく激しいクレームを抑えようと
いい加減な事実認定をして謝罪をさせています。

この結果傷ついたのが
当の生徒本人であり、
その一部始終を見ていた同級生たちでした。

教育委員会の不十分な事実認定は
判決にも影響を及ぼしています

私もクレーマー対処法などの講演をするのですが、
毅然とした対応は
クレーマーに対する共感チャンネルを開いたところから
始まるものです。
自己防衛が最初に来てしまうことは
判断を誤ります。


このお話はいずれまた。

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保護命令下に申し立てられた面会交流調停が成功した理由 [家事]


今にして思うと無謀だったかもしれませんが、
保護命令が出された2か月後に面会交流調停を申し立て、
1年近くかかりましたけれど無事解決した事例があります。
調停成立前に直接面会交流も行われ、
祖父母も同席できています。

もともと妻側と調停を行う合意があったのですが、
調停委員や調査官からは、保護命令の期間中ということもあり
相手が調停に応じない場合はどうするんだと
ご心配をいただきました。
こちらには、もともと出してはいけない命令が出た
という認識がありましたし、
妻との会話もあったということから
まあまあということで押し切ってしまいました。

結局妻側も誠実な対応をされまして、
着地点に落ち着くことができました。

実際は、保護命令の要件である
生命身体に重大な危険があるかといえば
客観的にはないと言ってよいのですが、
色々な事情がわかると、
なるほど、客観的にはそのような事情はないけれど
妻にとってみれば、主観的には、
それくらいインパクトのあることがあったのかもしれない
ということは理解できました。
また、
そういう理解をした方が解決のためにはよさそうだ
ということで事を進めることに依頼者と決めました。

つまり、普通に葛藤の高まりの中で
子どもを連れて別居したという典型事例だと把握しました。

その中で無事直接面会ができた一番の理由は、
本人である夫が、「第1目標は家族再生」
ということを貫いたことでした。

どうしても、相手や弁護士や裁判所
あるいは法制度や運用を責めたくなるのですが、
ただでさえ不安と恐怖と息苦しさを持っている妻を
攻撃することや誰かを攻撃している自分をみせることは
家族再生と逆行します。
この感情を抑えることは大変苦労します。

怒りで夢中になって、
相手の落ち度を強調したり、
(やりくりが下手とか、掃除ができないとか、子どもに手を挙げるとか)
一方的な連れ去りは子どもに深刻な影響を与える
とか言うことを主張したくなるのです。
それらはおそらく正しい主張なのでしょう。
しかし、家族再生と逆行します。
相手を余計に怖がらせるだけで、
あるいは息苦しくさせるだけで
とにかく近づきたくないという気持ちにさせるだけです。

夫は妻の弱点をピンポイントで攻撃できるのです。
一番してはいけないことをしてしまうのです。

だから弁護士が少し冷めた視点で、
それを言ってはダメだというか
こういうデメリットが発生するということを言わなければなりません。
これは何度も何度も激しいやり取りがありました。
しかし、家族再生という第1目標がぶれなかったので、
依頼者を信頼してやりあうことができました。

彼は、もともとこのブログを読んで依頼されたので、
私が忘れているようなことも思い出してくれました。
また、どんなに感情的になっていても
私の話をメモをしながら聞いてもらいました。
こちらも必死で考えて、必死にアドバイスしていたようです。
帰りは、すぐ別れて解放させていただきました。
それくらい密度の濃い時間でした。
毎回へとへとになっていました。

第2の理由は、
法律や裁判所に解決してもらうのではなく
自分が相手を安心させる工夫をすることで
相手の解決しようとする気持ちを誘導する
という姿勢に立てたことです。

正しさよりも相手の気持ちを優先する
ということですね。

ところが、現実は
家庭の中でもそうですが、裁判所の中でも
どちらかが正しくて、どちらかが間違っている
という論理の枠組みを前提としてしまうために
非難合戦が始まってしまうのです。

要するに自分は悪くないということに
終始しているだけなのです。

これは、離婚を進める側の人たちの論理の枠組みです。
だから同じ土俵に立ってやり合ったのでは
ただ家庭が壊れていくだけに決まっています。
家庭の中に勝者も敗者もあってはならないのです。

ところが人間ですから、自分が攻撃されていると思えば
守りたくなる、つまり相手を攻撃したくなることは
当たり前なのです。
いかに早くここから脱却するかがポイントです。
つい攻撃してしまうのが人間だと気が付くことが必要です。

こちらはこちらで戻ってきてほしいという切実な気持ちがある
相手は相手で戻ることのできない心理的な負担がある
お互いが真実であり、
その原因が必ずしも二人のどちらかだけにあるわけではない
ということがリアルのはずです。

双方認めあわないと話が始まらない
双方が少しでも相手方の言うことが
嘘ではないかも知れないなと思わないと
譲歩は難しいようです。

時間はかかりましたが
お二人とも高次の域に上られたようでした。

結婚する直前のように
相手の気持ちを一生懸命考える
調停の時はそれをしなければいけないようです。

面会交流実現の理由の3

現在を未来につながる通過点ととらえる。

結論としてはそういうことになると思います。
本人もいろいろ知識を増やしてきましたから、
例えば調停条項はここまで書き込まないと
強制執行できないとか主張するのです。

しかし、家族関係は強制執行してしまうと
形は作られても中身がぶち壊れてしまう場合が少なくありません。

余り将来のことまで事細かく決めてしまうと
相手方が心理的に圧迫されてしまい、
面会を行ことが嫌になり、
徐々にフェイドアウトしてしまうことも多くあります。

相手を安心させる
そのチャンスをひとまず与えられたのだから、
少ないチャンスを生かしてどこまでも安心させて、
将来の家族再生への方向へつなげる
こういう方針です。

子どもたちはまだ入学前ですから、
将来のお泊りのことまで今決めるわけにはいかないのです。

子どもたちが小学校に入学して
安心の記憶を定着させていき、
さらなる共有時間を提案してもらおう
ということで、
調停条項に同意しました。

離婚さえも、
このまま拒否しているよりも
受け入れた方が
将来の関係をよくするのではないか
ということで同意しました。

仲良くするために分かれるということは
とても切ないことです。
ある意味自分を捨てても家族の安心につなげるということで
彼は自分を少しだけ取り戻したように感じました。


最後に一つだけ。
劇的に相手の対応が変わったポイントとなったと思われる
エピソードを教えてもらいました。

実は相手は調停期間中のある時、
一度だけ約束を実行しなかったことがありました。

これは事前に想定できたことでした。
おそらく遅かれ早かれそういうことは来る。
どうしても、こちら側は、
相手が自分に攻撃した行為ととらえるけれど、
こういう時こそチャンスなんだと
繰り返し打ち合わせをしていました。

小さな子どものことだから不意の病気などの事情はある。
そうでなくても子育てに夢中で忘れることだってある。
また、気分が乗らなくて、
どうしてもこちらに接触したくないときもある。

そういう時に、相手の約束違反に腹を立てないで、
そういうこともあるさと大きいところを見せる
そうすることで、相手を許す気持ちになることで、
相手は安心感を獲得する。
責めない批判しない。

通常は相手のミスがないので
なかなか安心感を持ってもらうエピソードはでてきません。
大きなポイントを稼ぐ場面がないわけです。
ところが、相手の失敗があれば許してあげるという
大きなポイントをゲットできる貴重な機会になるわけです。
代替日なんて言わないで
むしろ鷹揚に構えた方がよいと打ち合わせをしました。

案の定、相手から埋め合わせを逆提案されたし、
直接面会交流の打ち合わせが充実した
というサプライズが待っていました。

約束の日がすべてではないわけです。
その日をなしにすることで
さらに大きな明日が生まれる可能性があるということ。
そしてそうなったという報告を受けました。

離婚しても離れて暮らしても
子どもがいる以上
私は家族は家族だと思います。
先ずこちらがそういう意識をもって、
永く続いていくということを意識しながら
対応を考えるということを学びました。

いろいろありましたが、
調停委員、調査官の方々に恵まれまして、
無事調停が成立しました。

もっと一般的な考察も含めて報告を書きだしたのですが、
考察を深めると本一冊になることがわかりましたので、
ご報告はこれまでとさせていただきたいと思います。


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