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正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

これから、私は正義を否定します。日本語の正義という言葉に価値をおくべきではないということを説明していきます。あくまでも日本語の正義なので、justice を否定するのではありません。宗教や法律などを否定するものでもありません。一神教や二元論についての考察でもありません。日本語の正義、あるいは、正義だと正面を切って名乗らないものも含めて、それらが実は有害な結果をもたらすものであるということを説明していきます。現代社会の病理の根本に正義があり、この解決のために、正義というものに代わる価値観を提案することを目標としています。

1 正義は人を幸福にしない。正義は人を攻撃する時の言い訳だ。

 正義の名のもとに、人は殺されていきます。世界的規模でみると、戦争や大規模紛争があります。正義の名のもとに命を落としているのは、罪もない子どもたちが大きな割合を占めているようです。戦争に限らず、大規模な紛争は、それぞれが正義は我にあるということを主張しあいます。
 そんな大きな話ではなくても、例えば家庭の中では、相手に対して「間違っている」と怒りをあらわにして非難し、追いつめることがあります。虐待するもの言い訳は、大抵は相手を正しているというものです。
 学校でも、子どもたちは、些細なルールに従わなかったことに対して怒りを持って非難をします。ただ気に食わないだけの場合なのに、正義に反する部分を探し出して攻撃を開始することが多いようです。正義は、しばしばいじめの言い訳に使われています。
 会社でも、部下に対して上司は、会社の正義を振りかざして、正義に到達しない部下の人格を否定する言動を行い、部下のプライベートを奪い取っています。
 これらの対人関係の現代的不具合において、正義は、攻撃をする者が攻撃している自分や攻撃している相手に対してそれを宣言し、攻撃をより激しくする道具として使われることが多いのです。ひとたび自分が正義になると、相手が正義ではないのだから悪だという意識になり、悪を駆逐して、排除しよう、攻撃してもよい存在だという意識付けが気が付かないうちに進んでいるようです。
 正義は相手に対して心理的な負担を与えるだけでなく、自分に対しても心理的圧迫を与える効果を持ちます。正義のレベルに到達しない場合には、レベルに到達しようとして、自分の弱さを否定し、自分ではない何者かに生まれ変わろうとするように、無理をします。正義に到達しないことで人は不安に陥ります。不安の内容は、自分が悪だと烙印を押されるのではないか、突き詰めると仲間から排除されるのではないかという不安です。正義は、自分自身に対しても緊張を強いる概念です。
 正義は人を幸せにしません。自分と他人に緊張を強制し、人を追い込みます。正義が人を癒すことはありません。排除の論理です。
 ひとたび人間関係に紛争が起きてしまった場合、正義に固執することは紛争を解決しないばかりか、紛争を拡大することを目にしてきました。


2 正義は日本人の心の外にある

 正義について、一般には、普遍的価値のあるもので、人間はその価値を肯定し、その価値の実現に向けて行動をするべきものだと考えられていると思います。そのような概念は英語でいえばジャスティスjusticeです。例えば一つの地域で一つの宗教だけが信仰されているのであれば、何がジャスティスで何がそれに反するかということについては共通認識があり、深刻な混乱は生じないでしょう。
 しかし、日本には、国家レベルでも国民の意識でも、ごく狭いエリアのケースを除いては、単一宗教の時代はありませんでした。八百万の神々の存在を認め、とるに足らないと思われるようなものにまで神が宿り、神の使者とされてきました。価値や行動原理の物差しは一つではないという多元的な価値観が存在したのです。神話の神も弱点をもっており、他の神が別の神を打ち負かすときもあれば、遠慮をするときもあるという具合です。万能の神は存在しません。人々の意識は八百万の神の存在を背景にしていたために、物事を正義と悪とに割り切って考えることはなかったようです。盗人にも三分の理等と言う格言が国民共通のものとなっていました。捨てる神があれば拾う神ありということわざもあります。勧善懲悪はあくまでも子供向けの話という認識が通用していたと思います。例えば、忠臣蔵にしても、正義か悪かといえば、待ったなしに悪のはずです。国家権力の中枢で秩序を害した主君が処罰されたことを逆恨みして、罪のない相手方をリンチの果てに殺害したのですから正義とは言えません。しかし、戯作者も読者も、赤穂浪士の心情を理解し、共感を示しているのです。幕府までも、切腹を命じて武士の名誉を保たせたというのですから、正義の観点からは理解できない出来事のはずです。
 もともと日本では、正義という単純な価値観は存在せず、人間の心や行動について、単純に割り切ることをしないで、心や行動の共感できる部分、できない部分を分けて分析的に評価することができていた民族だったと思います。その背景には八百万の神への畏敬があったのだと思います。
 では、いつ頃、どのようにして正義は作られたのでしょうか。

3 正義が作られた目的

 私は、正義という概念が日本にはなかったのですから、正義という言葉も元々は日本にはなかったと考えています。おそらく、幕末か明治維新のころ、justiceの邦訳のために作りだされた言葉だと見当をつけています。時の政権にとってジャスティスという概念はとても有益な概念だったはずです。時代は大航海時代に続き産業革命が起き、西欧列強が植民地や貿易を求めて海外に進出をしていた時期です。この時の西欧列強の言い分が未開の地に文明を導入するという正義でした。日本は植民地となることを回避すると同時に、西欧列強のように海外進出を狙っていたわけですから、西欧列強と同じように自国の利益を主張してもはばからなくて済む正義という概念がほしくてたまらなかったはずです。他国との紛争や侵略について具体的な説明を国民に対してすることは難しいのですが、正義のための行動だということによって、ことをスムーズに進めることができたわけです。正義に反する主張をするものは、悪だと決めつけて排除することができることは、大変都合の良いことでした。
 ここで、justiceの訳語として「義」の文字が使われたことは、大変興味深いことです。正義という言葉が用いられる前は、日本人は「義」という言葉を正確に用いていたようです。
 義とは、自然なものではなく人工物だということが本来的な意味です。義足、義眼、義歯等がその意味で使われています。人間関係においても、義父母、義兄、義弟等、血縁関係は無いけれど、血縁関係ある場合と同程度に扱うべき人間関係を指す言葉として使われています。義という言葉は、この様に血縁関係のような自然な感情によって配慮しあうことができる人間関係ではなく、何らかの形で共同体を形成する人間関係の中で、自然な情愛に代わるルールや作法などとして使われていました。但し、義と情愛は対立する概念ではなく、人間関係を規律する場面の違いに応じて、義が優先されたり情愛が優先されたりするということのようです。いずれにしても、義は他人どうしを規律する概念であるということになります。実際孔子も、情愛を優先させるべき家族の問題で、国家秩序を優先させることに、それは不自然なことだと異論を呈しています。
 このように、少なくとも江戸時代までの日本人は、義が他人どうしを規律する概念であり、義によって社会秩序を形成していくものだということは知っていたはずです。義という文字は現代においても使われています。江戸時代までの感覚も、正義という言葉ができた後でも、続いていたと思います。
 この義に、正しいという屋上屋を重ねて正義という言葉が生まれたわけです。正義という言葉、概念はさっそく大々的に使われ始めました。その後の日本史に照らすと、作られた目的に大きく貢献したと思います。


4 正義に騙される理由

  正義という言葉が普及していくにつれて、日本人がその義の本来の意味を忘れ始めていったようです。義という言葉は使われず、正義という言葉に収斂されていったからです。それとともに、正義の言葉の意味もどんどん曖昧になっていったと思います。
  正義という言葉は、現代では、少年少女向けの戦闘漫画の、「正義の味方」という使われ方がもしかすると一番多いのかもしれません。ここでいう正義は、それだけを切り離すことができません。正義の味方という一つの言葉で、弱い者の味方という意味となります。正義は、しばしば弱者保護の意味で使われます。
  ここでいう弱者は子どもを中心とした物理的な弱者、立場の弱い者等、人によって使う意味が異なってくるでしょう。いずれにしても、不合理な扱いを受けている人たちも弱者として把握し、そのような人たちを守ることが正義ではないかと感じられることもありそうです。それを真正面から正義という言葉を使うかどうかはともかくとして、考え方としては正義の考え方です。
  つまり、正義は、少なくとも、平等、公平、及び弱者保護がその概念の範囲に入っていると言えると思います。不平等が起きている時、不公平が起きている時、弱い者いじめがなされている時、それを正すことが正義の行動だということになるでしょう。
  人間は、この3要素の実現に、反対する感情を持つことが苦手です。平等、公平、弱者保護は、無意識に肯定するべきことだと感じてしまい、その行動に従わなくてはならない、賛成しなくてはならないという気持ちが無意識に起きてしまいます。そして、それを害する者に対する敵意が勝手に生まれてしまい、害する者に対する制裁を肯定する傾向にあります。
  この人間の性質は遺伝的なものです。ヒト、少なくともホモサピエンスを形作る特徴であるようです。
  人間の心は、200万年前の狩猟採集時代に形成されたということが、認知心理学のコンセンサスになっています。手が今の形をしているのは、物をつかんだり投げたりすることに有利なために徐々に進化していきました。同じように心も、その当時の暮らしの環境に適応していくように形成されました。その当時の生活環境で心の形成の関係で特筆するべきことは、数十人の群れ、あるいは200人程度の群れの集合体で生活していて、ほとんどの人間は生まれてから死ぬまで同じ群れのメンバーとだけ共同生活をしていたということです。群れの頭数の確保ということが一番の関心ごとでした。群れがある程度大きいから、肉食獣に襲われにくくなるし、狩猟採集も可能になるからです。群れが小さいとそれができなくなります。もし、群れの中で力が強い者だけが利益を勝ち取っていたならば、絶対的に食料が不足している時代ですから、群れの弱い者から順に死んでいき、やがて群れの頭数が減り、結局は群れが消滅するしかなくなります。だから、一人だけ食料がないという仲間はかわいそうだから、仲間に平等に食料を分けることは、結果として群れの頭数を確保しました。不合理な扱いを受ける仲間もかわいそうだし、反発をして群れに攻撃されても困りますから、公平に扱うことは群れを強化したでしょう。赤ん坊のように弱い者を可愛いと思い、大事にする性質は、他の動物に比べても無力な赤ん坊を守り、群れの新陳代謝を可能にするための不可欠の要素だったことでしょう。このような心は数百万年かけて形成され、その後も人類史の大部分がこの性質によってうまくいっていました。当然私たちの心も、本来はこのような心を持っているわけです。
  ちなみにどうやってそんな都合良く、人間が形成されたのかといえば、簡単な話です。そのような心を持たなかったメンバーは群れを形成することができませんので、どんどん淘汰されていっただけの話です。私たちは、平等、公平、弱者保護に価値をおく心を持っている選ばれた人間の末裔だということになります。心は遺伝子に組み込まれていったのです。
  だから、正義という言葉を聞くと、なんとなく太古の心が動き出してしまい、抵抗をすることができなくなってしまうわけです。しかし、正義の内容をよくよく聞いてみると、平等、公平、弱者保護とは必ずしも関係の無いことが主な内容だとか、確かに平等、公平、弱者保護にはなるけれど、それを実行してしまうと別のところで不平等、不公平、弱い者いじめが起きてしまうということが起きてしまうことがよくあります。典型的には戦争です。しかし、正義という言葉を聞くと、考えることができなくなってしまうようです。
  では次に、正義がどうして誤りを起こすかということを考えてみます。


5 正義には間違いがつきものであることの理由

 1)生物学的な思考停止
   正義が問題となる場面は、不正義が起きているあるいはこれから起きる場面です。何らかのマイナスの価値が存在していて、それを正す場面で使われる言葉です。だから、何も悪いことが起きていないけれど、もっと良いことを起こそうと言うときに使う言葉ではありません。
   先ず、不平等、不公平、弱い者いじめが起きているとされる。すると、私たちの太古の心は、勝手に反応してしまいます。自分が不平等、不公平、弱い者いじめをされている場合は、ストレートに自分に危険が襲ってきているわけです。正義という言葉を持ち出して、それを正すのですから、危険を与える者を攻撃して、危険を排除しようとしている状態です。その際の感情は怒りです。自分ではない別の人が攻撃を受けている場合も、その人がかわいそうだという共感を抱き、やはり危険を攻撃によって排除しようという心理になりますから、感情としては怒りです。
   怒りも、恐怖も、危険を排除しようとしている時の心理状態ですが、このような場合は、複雑な思考ができなくなります。最大のテーマは危険が継続しているか危険が消失したかということですので、二尺択一的な思考方法があれば足りることになります。危険を確実に消失させようとするわけですから、危険の消失は慎重に判断することになり、悲観的な思考となります。怒りの際の悲観的な思考は、相手に対する容赦のない攻撃として現れます。相手を悪だと考え、同じ人間としての仲間ではないと考えることは怒りの状態の心情をうまく説明していると思います。要するに攻撃してもかまわない相手なのだという意識です。危険消失という機能が求められていて、物事を単純化して考えるようにしていますから、相手の心情や周囲の目、あるいは他の問題の所在、正義を実行することによって長期的に見た場合にどのような不利益が生じるかという複雑な思考は停止ないし低下します。そのような複雑な思考をすることは、危険を叩きのめしてしまう一心不乱な行動の妨げになるので、停止させることが合理的なのです。
   大脳生理学的に言えば、前頭前野腹内側部の活動が低下するということになりそうです。意思決定の二重過程モデルに照らすと、分析的思考が停止するということになると思います。
   正義を耳にしてしまうと、人間の思考はこのように頼りないものになってしまうようです。言われている正義が、本当に正義なのかという吟味をすることがとても難しくなってしまい、不正義が正されることについて焦りをもって待ち望むような状態になってしまうのです。
   だから、正義という言葉が出てしまうと、本当は何をするべきなのかという思考が働かなくなってしまい、正義を言い出した人の都合の良いように心を操作されてしまうということが起きやすくなるのです。

 2)多元的な群れの存在
   正義が間違いを犯す典型的な場面は、なるほど確かにその正義を実現するとある人は助かるけれど、その人が助かる以上に多くの人が、もっと深刻な不利益を被るという場面です。
   先ほど、人間の心は、200万年前の単一の群れで一生を終えたころに形成されたとお話ししました。ところが現代社会では、多元的な複数の群れに所属して人間は生きています。家族、学校、職場、経済活動をする取引相手、自治体、国家、社会、インターネットや貿易でつながる外国の人や会社、地球という一つの環境に住んでいる人たち等、同時に複数の群れに所属しています。実際につながりを実感している人もいれば、通常は意識にも上らない人たちの中にも所属していることがあります。
   単一の群れで生活している時代は、群れの頭数を確保するという共通の利益がありました。また、自分の行動によって、不平等や不利益、弱い者いじめを正すこともできました。それによって、誰かが不利益を受けるとしても、それほど難しいことなしに調整が可能だったでしょう。とにかく、目に見える人は仲間だったわけです。
   ところが、現代社会ではこれが通用しません。同じ学校の同じクラスに通っていても、クラスという群れでは仲間だけれども、家族という別の群れにも所属していて、その意味では仲間ではありません。家族の利益を学校に持ち込むと、子ども同士が利益相反している局面もよく出てくることです。これは実際に利益相反しているというよりも、そのように思いこまされるということが実際のところかもしれません。
   このような時代の変化に心は対応していません。環境と心のミスマッチが起きています。
   目に見える人が苦しんでいたら、その人を助けようという心はあります。特に仲の良い友達が苦しんでいたら、仲の良い友達を助けることが正義になります。本当は、別の子どもが仲の良い友達から不利益を受けていて、その別の子どもが反撃をしているとか、正当な行動をしているだけなのに、仲の良い友達が勝手に傷ついていることをとらえ、仲の良い友達に共感してしまい、別の子どもを攻撃してしまうこともよくあります。その時は、正義の意識ですから、別の子どもに保護されるべき利益があるかもしれない等とは考えないのです。正義に反する悪だという意識が生まれています。こうやっていじめは始まります。
   複数の群れにいることを自覚して行動するか、学校にいる間だけは一つの群れで過ごすという行動様式を獲得しなければ解決しない問題なのかもしれません。
   いずれにしても、現代社会の多元的な群れの存在は、その実態の曖昧な正義をそのままストレートに実行してしまうと、新たな不合理な被害者が生まれかねないのです。これを無くすためには正義に価値をおくことはやめるべきです。

6 正義に騙されないために

  意図的に正義を利用する人間は、論理ではなく、相手の正義感情を動かそうとします。相手の思考を停止させ、自分の主張を通しやすくするためです。太古の人間の感情を掘り起こそうとします。弱い者が抵抗をすることなく攻撃されたということをことさら強調するわけです。そして、他人の感情を動かすために、自分の感情が動いていることを猛然とアッピールします。「私はかわいそうで涙が止まらなかった。」とか、「怒りに震えることをどうすることもできなかった。」等の言葉が出てきます。そうして、自分だけではなく自分と同じ感情を持っている人がいることをアッピールします。それを聞いているうちに人間は、だんだん太古の心が活性化されていくようです。その意図が分かって聞いていると気恥ずかしいくらいばかばかしい訴えなのですが、まじめな人、不平等、不公平、弱者保護に敏感な人は、何とかしなければならないと、すぐに焦りの感情を抱いてしまうようです。オピニオンリーダーを呼ばれる立場の人でさえ、そのような焦燥感に無抵抗に追随した姿を目の当たりにして複雑な思いをしたことがあります。ひとたび感情を操作されてしまうと、だからどうするこうするということはあまり吟味をしなくなります。不正義を正すということで精一杯で、提起された行動のデメリットについて何ら考慮しないで、正義を正すという大合唱が始まりました。人間は、実に弱く脆いものだということをつくづく感じさせられました。戦争はこのようにして起きたのだなあと感心したくらいでした。感情に訴えかけてくる手法がみられたら、直ちに冷静になる必要があるわけです。特に、感情的にだれも異論がないということと、その感情に基づいて行う行動は全く別物だという意識を持つべきです。
  特に、法律や国家政策など、多くの人間に影響を与える問題については、正義を振りかざして決めてはいけないところです。一つの法律が、うまく機能する場面と逆に機能してしまう場面のあるところを探して、少しでも不具合がないようにしなければなりません。個別事件を解決しようして国家政策を定めると、それによる不利益が必ず出てくると考えるべきです。法律とはそういうものです。「目には目を歯には歯を」で有名な紀元前18Cのハムラビ法典も、正義による制裁が過酷になる人間の性質を踏まえ、目をつぶされたら目をつぶす範囲で、歯を折られたら歯を折る限度で罰を与えるという、正義感情の抑制のために作られた法律だと理解されています。
  正義感情を理由として、国家政策や法律の改変の主張が行われる場合は、くれぐれも注意が必要です。国が正義を持ちだしたら、胡散臭いという気持ちをもって注意を払う必要がありますし、企業が正義を持ち出した場合は、先ずは企業の利益追求が真の目的としてあるのではないかということを疑うべきだということになります。

7 正義を棄てることは、人にやさしくなること

  ここまでお読みいただいた方も、まだ、正義を棄てされることには抵抗があるかもしれません。私を悪魔の使いのように不快を感じている方もいらっしゃるかもしれません。それは正義という言葉や概念がなくなったら、世の中は混乱するのではないかという不安があるからではないでしょうか。しかし、正義なんて言葉や概念がなくても世の中は混乱しません。江戸時代までの日本の秩序正しい社会は、幕末や明治初頭の外国人の記録から明らかです。八百万の神のお力もあったのでしょうが、おそらく、当時の世界第一の規模の大都市であった江戸において、多様な人間関係の中で調和的に平和に生きていく方法を確立していったという側面があったのだと思います。
  正義ではなく、相手の気持ちを尊重するということに心情や行動の拠点を置くべきです。特に、家族や学校、職場等、目に見える相手との人間関係では、正義ではなく、相手の心情を尊重するという原理に置き換えなければならないと考えています。相手の置かれた客観的状況においては、相手が苦しく感じるだろう、怖い思いをするだろう、かわいそうだから止めよう。こういうことが人々の行動原理になるべきなのです。これができないから虐待やいじめ、パワハラ等が起きるのだと私は強く訴えたいのです。
  その上で、つまり他者の心情への共感を基盤とした、平等、公正、弱者保護を実現していくということをするべきだと思います。曖昧で、裏の意味が隠されやすい正義等と言う言葉を使う必要はないと思います。
  さらに、そのような共鳴や共感に基づく対人関係は、マイナスからゼロを目指す概念ではなく、ゼロの先のプラスを目指すことのできる思考ツールです。家族、友人、同僚の中にいることで、安心できて癒される、この人間関係を大切にするために生きているという実感をもてる幸せを感じるための思考ツールだと考えています。
  正義の名のもとに、相手に緊張を強いるだけでなく、自分にも緊張を強制していたと最初にお話しました。正義は、個人個人の弱点や不十分点、失敗を許さない傾向にあります。しかし、人間は弱い者ですし、完璧ではなく、常に正義を目指す生きものでもありません。ずるい考え、よこしまな考え、安易な方向でずるい考えを持つこともあるでしょう。その不完全なことを正義は認めません。正義を棄てることは人間の弱さを認めることです。自分の弱さも認めてあげましょう。但し、それを行動に移す場合は、それによって不利益を受ける誰かの心情を考えるようにすることが必要です。そして、「かわいそうだからやめる」ということをしなければなりません。
  人間の心は、200万年前に形成されたまま進化していないと言いました。心は進化しなくても、頭脳、思考形式はだいぶ進化したようです。おそらく、現代の環境変化と心のミスマッチを解消する思考が「理性」というものなのでしょう。
  正義を棄てることは理性を働かすことを容易にして、人にやさしくなれる。人というのは仲間の誰かであり、通りがかりの人であり、また自分自身なのです。ありのままに自分を否定することなく、理性的な行動をする。これが、これからの行動原理になることだと考えております。

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【講演告知】職場ストレスが家庭に与える深刻な影響とそのメカニズム 死ななければ良いってものじゃない 支援者が必ず持つべき視点 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

2019年2月21日木曜日 6時45分から
仙台駅前アエル28階研修室において

自死防止の多業種ネットワークみやぎの萩ネットワーク
主催の定例会において
「家庭の問題の真の原因は家族の職場にあるのかもしれない
〜職場ストレスが家庭に与える深刻な影響とそのメカニズム」
と題したお話をさせていただきます。

だいたいおかしいわけです。
人間の行動や感情が
その置かれている環境によって大きく影響を受ける
ということは争いのないことのはずです。

ところが、弁護士や心理士その他の支援者は、
いざ相談を受ける段になって
そのことをコロッと忘れてしまうようです。

夫が怒りっぽくてしつこい
子どもがふさぎがちでやる気がないようだ
という質問を受けると

「それは夫のDVだ、一生治りません」とか
「子どもはうつ病だから薬を処方してもらいましょう」とか
人間の行動や感情が
その人の既に完成された人格であるときめつけ
家族分離を勧めているのです。

非科学的なエレナ・ベーカーの結果論の輸入を
それとも知らないで信奉しているカウンセラーが多すぎます。
どうもカウンセラーという人たちは、
偉い人、有名な学者が言ったということをもって
エビデンスとしている傾向があり、
正直辟易することが多くあります。

しかし、その固定人格の烙印を押された事例の少なくない事例に
環境的要因があることを目撃しています。
環境的要因を共有することによって
家族のきずなが深まり、
続く困難に立ち向かうことができた
という事例も多くかかわっています。

その環境の中の無視しえないものが
過重労働等の職場のストレスです。

「その旦那さんの出勤時間と帰宅時間はどうなっていますか?」
という一言から問題が解決することも多くありました。

環境的要因に目を向けると
根本的解決手段にアプローチできる可能性が高まるだけではなく、
解決行動を協働することによって
問題発生以前よりも良い結果が生まれることもあります。

お互いを支え合う行動ができるからです。

これに対して、相手の人格の問題と決めつけてしまうと、
家族に対する恐怖の感情が生まれてきます。
あなたは悪くない、それは精神的虐待だというアドバイスを聞くごとに
「自分が理由なくしいたげられている。
 自分は、相手からどうでもいい存在だと思われている」
という意識が固定化してゆき、
恐怖感、疎外感、相手に対する嫌悪感が募っていくようです。

相手の行動のすべてが、
自分を否定する行動だと意識されるようになり、
楽しかった出来事の記憶も
自分が馬鹿にされても耐えていたという意味の再構成が起きてしまい、
記憶の改変が起きるようです。

この悲劇をお話して一緒に考えてもらおうと思っています。

どんなに職場で辛いことがあっても
家庭ではスタンダードを維持しなければならない
ということは理想であって
人間観として端的に間違っていると思います。
だから実務的ではない、
つまり問題を解決しないのです。

弱い人間であることを前提として
家族が意識していない問題を顕在化させ
苦しみを共有するだけでも
人間は強くなれます。

職場のストレスは
対人関係的危険の意識を高めます。
いわば傷口が開いている状態です。

対人関係的危険を解消したくても
職場のストレスの場合はなかなか解消できないことが
多くあります。

職場という対人関係で開いた傷口ですが、
対人関係的危険意識ということで
家庭という対人関係の中でも
傷口が開いている状態なので、
些細なことで敏感に反応してしまうのです。

危険を防衛する仕組みは、
記憶の仕組みとかなり重なるのですが、
危険に対処しようとする神経活動が起きています。
防衛意識が過敏になっている状態です。

この神経活動は、それほど緻密なものではないから
対人関係の中で尊重されていないという傷口が
家庭でも閉じにくくなっています。

それで、過敏な神経にさわってしまい、
怒りという防衛行動が誘発されてしまう
ということが多くみられるわけです。

家庭を家族の安全基地にする作業こそが必要です。

また、労働者である当事者はなかなか職場に文句を言えませんが、
家族ならば職場に文句を言うことができることがあります。
憲法で保障されているのは労働者の労働組合ですが、
家族組合を作って、職場と交渉をするということも
アリなのかもしれません。

今の地域労組は、
家族も組合員となって団体交渉に参加する労組もあります。

もしかしたら、
働き改革を推進する力は家族にあるのかもしれません。
働き方改革の目的も、労働者家族の幸せにおくべきでしょう。

当日のお話は、
悲劇的なお話をいくつか行い、
環境の人間に与える影響を紹介し、
どのような支援をするべきだったのか
一緒に考えていきたいと思います。




 
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脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期 [刑事事件]


全体が長くなるので、
最初に抜粋した部分だけ載せます。
全文はその後に載せておきます。



4 少年法適用年齢と脳科学
 
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、
 人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、
 扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、
 前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。
 その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど
 「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。
 扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、
 闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、
 何らかの形で自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。
 お金がなくて盗みに入ったり、
 攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、
 実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、
 危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、
 複雑な装いをみせます。

 いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。
 思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、
 関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、
 自分を制御します。

 この制御をする脳の部分が前頭葉です。
 協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、
 良いことをしようと思っているのではないということになります。

 扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、
 前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、
 自分の中で対立が起きているわけです。
 
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、
 20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。
 前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。
 アクセルの性能は完成したけれど、
 ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。
 これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。

 だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、
 19歳までは子どもとして扱おうということは、
 脳科学的には理にかなっていることになります。

 本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、
 一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。
 賛成反対という必要はないのですが、
 このような観点も科学的に証明されているのだから、
 法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。

 もともとこういう学問をするべきだと、
 研究対象を義務付けることには私も反対です。
 科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。
 但し、その研究成果については、
 社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。

 それを促すためにも、日弁連は、
 法律以外の学問分野についても意識的に
 アンテナを張り巡らせる必要があると思います。

 相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、
 連携はできないものだと思います。

 日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、
 脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、
 残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。



脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期

賛成、反対という単純な話ではなく

1 少年法の適用年齢引き下げの動き
民法や公職選挙法の成人年齢が18歳に引き下げられました。これに伴って少年法の適用年齢も20歳差から18歳に引き下げられる動きがあるようです。日本弁護士連合会は、この動きに反対しています。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/child_rights/child_rights.html#hantai
少しわかりにくいと思うので、少年法と刑法の関係を説明します。大人は犯罪をすると、刑事裁判にかけられて懲役刑や罰金刑という刑が科せられる手続きに入ります。ここでいう大人は、現在では20歳以上を言います。19歳以下の場合はどうなるかというと、原則として、大人の刑事手続きの対象とはしないで、少年法の適用を受けるという扱いになっています。
 少年法の適用があれば、刑事事件ではなく少年保護事件となり、大人の刑事事件が地方裁判所や簡易裁判所で行われるのと異なり、家庭裁判所で手続きが行われ、処罰という観点ではなく保護、更生の観点からの処遇になり、死刑は無期懲役としなくてはならず、無期懲役の刑が相当な場合は10年から15年の刑にできるなどと定められています。
 これが現在は19歳と18歳もこのような扱いであるけれど、少年法の適用年齢を18歳未満とすると、19歳と18歳は大人として刑事事件として手続が進められることになります。
 少年事件の特に重大事件は、徐々に減少しているということが実態なのですが、一つ一つの事件が大きく印象的に取り上げられるために、少年に対する処罰感情が強くなっていることも改正の背景にはありそうです。

2 なぜ刑法とは別に少年法があるのか
 少年に対する処罰を厳格化する人たちがいることは確かです。被害者やその家族からすれば、犯人が成人でも少年でも被害感情はそれほど変わらないでしょう。被害は一つなのに、少年だからといって厳格な刑事手続きから外されるということは感情的には納得できないでしょう。
 しかし、国家政策は被害者の感情も考慮に入れながら、別の要素も重視していかなければなりません。
 では、なぜ、少年は大人の手続きではなく、少年法の手続きにしたのでしょうか。
 極端な話からすると、例えば、4歳の子どもが、スーパーでお菓子を食べてしまったとします。大人であれば万引きということで窃盗罪となります。警察に連れていかれて留置所に留置され、起訴されて裁判が始まり、実刑判決となれば刑務所に行きます。これが大人の手続きです。これを4歳の子どもに適用できないし、適用しても世の中に良いことはないでしょう。(このため、14歳未満の刑法犯は処罰の対象ともなりません。14歳以上は、少年法の適用はあるものの、交流上に留置されて取り調べられる可能性があります。)
 大人と子どもについて、区別することは理由があると思います。その線をどこでひくかという問題です。問題提起を研ぎ澄ませると、「少年法の適用がある19歳と適用がない20歳は、何が違うのか」という問題になります。
 この法律は、戦後直後に制定されているのですが、あまり科学的な議論があったわけではありません。人間には個性があり、若いのに立派な人もいれば、年を取っているのにだらしのない人がいることは事実です。本来年齢で決めることは非科学的な感じもします。しかし、法律はどこかで線をひかなければなりません。その場その場で法律の適用が異なると、混乱してしまい、無秩序な状態になってしまいます。結局、年齢で線を引くことがはっきりするうえ、比較的公平だということで落ち着いたのでしょう。
 もう少し食いついていくと、大雑把なのは仕方がないとして、何らかの理屈はあっただろうということです。
 一番大きな理由は、大人は待ったなしで自分のやったことの責任を問われなければならないのですが、少年はまだ成長の途中であるから、更生する可能性がある。大人と同じ前科をつけることで、社会の中での足かせをはめてしまうと、少年の立ち直る機会が失われてしまうので妥当ではないという考えです。少年のころの失敗をすべて残して立ち直れなくなってしまうより、立ち直らせて社会に無害になってもらった方が世の中のためにも有益だという考えもあります。

3 人が処罰される理由と法学と脳科学
脳科学や心理学を勉強していると、刑法の理論というものが、実はとても科学的であったことに驚いてしまうことがあります
日本の刑法が制定されたのは1907年ですが、これはプロイセン刑法などの影響を受けているので、実際の刑法理論は19世紀のものです。しかし、その後に明らかになった脳科学的知見とこの19世紀の法学が矛盾なく整合するのです。
 一番わかりやすいのは、人を処罰する根拠です。

 刑法理論は、自分がこれからやろうとすることが犯罪に該当することならば、「やっぱりやめた」と思いとどまらなくてはならない。それなのに思いとどまることをしないで、実行したことが非難に値する。つまり処罰できる。というものです。
 だから、思いとどまることを期待できない、子ども、生理的反射、病気の症状などについては、自由意思に基づく行為ではないので、「やっぱりやめた」と思うチャンスがなく、非難できないので、刑罰の対象としないのです。
 面白いことは、非難の対象が「思いとどまる」ということをしない点にあるということです。これは脳科学の知見から実に正しいことだったのです。
 1960年代、ベンジャミン・リベットという人が実験を行いました。指をあげる時の脳波の変化を測定しました。そうしたところ、指をあげようと思ってから指をあげるまでに4分の1秒かかったということがわかりましたが、実は指をあげようという意識が生まれる1秒以上も前に、脳は指をあげるための活動を始めていたというのです。
 私たちは、自分が、何かをしようとして何かをしていると思っています。実際は違うということになります。先ず、無意識に脳が、その何かをしようと検討を始めていたのです。その後に意識がそれをしようと思い、それをする。あるいは、それを止めようと思い、思いとどまる。こういう流れでありました。
 だから無意識の検討から、意識的な意欲までの1秒間で、人はその無意識の検討を思いとどまるかそのまま実行するかという選択をしていのです。最初の無意識の脳活動は、その人の人格にかかわらずに勝手に思考を始めています。殺そうか、万引きしようか、侮辱しようかと。刑法理論はこの無意識を処罰の根拠としません。それは認めた上で、「やっぱりやめた」と思いとどまらなかったことを処罰の対象とするのですから、人間の意思決定の仕組みを前提にしたかのような理論だったわけです。
刑法理論の人間観は、経験的、直観的に作り上げられたものでしょう。しかし、犯罪だけでなく、人間の行動や意思決定を実に正確にとらえていて、リベットがあとからこれを裏付けたことになります。

4 少年法適用年齢と脳科学
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。お金がなくて盗みに入ったり、攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、複雑な装いをみせます。いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、自分を制御します。この制御をする脳の部分が前頭葉です。協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、良いことをしようと思っているのではないということになります。扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、自分の中で対立が起きているわけです。
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。アクセルの性能は完成したけれど、ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、19歳までは子どもとして扱おうということは、脳科学的には理にかなっていることになります。本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。賛成反対という必要はないのですが、このような観点も科学的に証明されているのだから、法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。
 もともとこういう学問をするべきだと、研究対象を義務付けることには私も反対です。科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。但し、その研究成果については、社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。それを促すためにも、日弁連は、法律以外の学問分野についても意識的にアンテナを張り巡らせる必要があると思います。相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、連携はできないものだと思います。日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。

6 ネタバラシと雑感
 今回の種本は、「あなたの知らない脳 意識は傍観者である。」David Eagleman(ハヤカワノンフィクション文庫)です。脳神経学者が、刑事政策について立派に意見を述べられています。
 イーグルマンは、この本でもう一歩進めて、人間には自由意思なんて存在しないということをかなり説得的に説明しています。だから犯罪者について非難できるところ探すことはナンセンスであり、非難可能性を処罰の根拠としてしまうと処罰をする理由は無くなってしまうということを言っています。もっとも、だから処罰しなくて良いのだということを言っているのではなく、社会防衛から処罰は必要だと言っています。非難可能性ではなく、修正可能性をもって処罰の根拠とするべきだということを言っています。
 大変魅力的な考えです。実際、私も多くの刑事被告人の方とお話してきましたが、自由意思や平等なんて言うのはフィクションだと常々感じています。もともと追い込まれている人たちが犯罪に出るということが実感です。この人が処罰されることは不平等で理不尽なことだと何度感じたことでしょう。
 しかし処罰をしないわけにはいかない。平等や公正というフィクションは維持されなければならないと一方で感じてもいます。ただ、社会防衛的な考えを徹底してしまうと、その人の危険性(イーグルマンでいうところの修正可能性)によって、その人の刑期の長さが決まってしまうという不都合が生じるということはよく言われていることです。私は、あくまでも非難であり、罪に対する応報(むくい)として刑罰というものを考える必要性があるとは思っています。
 考えさせられる典型例は、飲酒や薬の影響のために、「やっぱりやめた」ということが考えにくいような場合です。理論を貫いて、期待できないから無罪にするという割り切りは難しいです。
 どこかでフィクションをフィクションだと自覚しながらも、使わなければならないという法律学の宿命があるように感じました。

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