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なぜ弁護士は殺人者を弁護するのか、弁護するとはどういうことか。ある妻殺しの事件に寄せて [刑事事件]

なぜ弁護士は、
罪を犯した人を弁護するのでしょう。
例えば人を殺した人を弁護するということは
どういうことなのでしょう。

人を殺した場合、
ルールに従って、
制裁を受けなければなりません。

ルールに従って制裁するということは、
あくまでの社会の仲間として扱うということです。
人間として扱うということです。
人間として扱うからこそ
人を殺した場合制裁を受けるのです。

これが人権です。

この「ルール」の大きな柱が、
言い分を聞くという手続きです。
どんな人にも言い分があります。

その言い分で罪が軽くなろうと
逆に重くなろうと
言い分を言わせることが
仲間として扱うということです。
人間として扱うということです。

だけど人を殺した人は
その言い分をうまく言うことができないことが多いのです。
人の命を奪ったということで
激しい精神的動揺があることが普通です。

また逆に、人を殺す場合は
精神的葛藤が続いたり、
極端に強い葛藤が生じたりして
自分でもわけのわからない状態の中で、
取りつかれたように人を殺す
ということが起きているので、
自分で自分の行為をうまく説明できないことも
多いのです。

そうだとすると
言い分をいうことも
実際は難しいことなのです。

ましてや、
世界中が自分を非難しているという
絶対的なアウエイ状態ですから
言えることも言えなくなるのが
人間です。

ですから、
罪を犯した人には
弁護士という人間が
その人に代わって言い分を述べることが
どうしても必要になります。

だから弁護士は、
どのような人の弁護をするときでも
その人の立場に立って、
その人の言い分を一緒に考えて
その人の分まで主張をしなければなりません。

人間の弱さにはいろいろな形があります。
その弱さを十分に理解しないと
罪を犯した人の言い分を思いつくことができないでしょう。

夫が妻を殺した事件がありました。
夫婦には2歳の子供がいます。
かわいい男の子です。
夫は我が子をかわいがりました。
息子も、父親に対して
何のわだかまりもなく安心しきって笑っている
そんな写真もありました。

しかし、夏、
突然妻は子どもを連れて行方をくらましました。
夫の話によると
妻は、子どもを産んだ後あたりから
精神的なトラブルを抱えだしたようです。

真実はわかりません。
しかし、これは理にかなったことです。
いくつかの研究結果から
女性は子どもを産んだ直後、
大人の男性(夫)に対して共感を抱きにくくなり、
その結果不安になりやくすなり、
鬱的状態になると報告されています。

程度の違いは大きくあるけれど
誰にでも何らかのそういう変化が
起きるということだそうです。

私が関わった実際の事件でも
一人目の子どもを産んだ時から
わけもなく不安に陥りやすくなり
すべてがうまくいかなくなるのではないかと考えだし、
2人目の子どもが生まれたあたりから
かなりその傾向が強くなり、
突発的な事情から
子どもを連れて出ていくということが
とても多く起きています。

これは、
脳の機能変化とホルモンバランスの変化であって
環境が変わらないのに
勝手に起きてしまうことが多いのですが、
そのことはまだ、
多くの人が知るところになっていません。

理由がなく不安になる女性に対しては、
「あなたは悪くない」
「夫の精神的虐待が原因だ」
「夫のDVは治らない」
「命を守るために逃げなければならない」
とだけ、マニュアル通りのアドバイスをする人たちがいます。

そいうことを言われるたびに
妻の精神状態は刻々と悪化していきます。
そうして、全力で
夫に知られないように行方をくらますように促され
実行するしかなくなります。

本当は、子どもを産んだ女性に対しては
これまでと違ってことさら親切にしなければならないのですが、
知識も時間も精神的余裕もない男性は、
生む前と同じ対応をしてしまいます。

自分が何も変わらない、これまでといっしょなのに、
妻が子どもを連れて出て行った。
いったい何が起きているのか
とただ呆然とするしかありません。

「彼」は妻が子どもを連れて出て行って
1週間してようやく、
子どもと妻がいなくなってしまった
という言葉を発することができるようになりました。

さらに1週間して
ようやく、ただひたすら歩き続けるという
行動に移すことができるようになったようです。
でも彼ができたのはそれだけでした。

しかし、その後は
仕事はしていたようですが
何もする気が起きず、ふさぎがちになったようです。
かなりアルコールに依存するようにもなっていったようです。

無理もないでしょう。
あんなに可愛がっていた子どもと
突然全く会えなくなったのです。
辛い仕事でも
子どもの寝顔を見ることで
生きてきた喜びを実感していたのに。
すべてが奪われた気持ちになっても
不思議ではありません。

本当は、妻に対して
「そういう不安は誰にでもあるよ。私もあったもの。
 気の持ち方で何とでもなるよ。
 子どもがいるのだから、夫婦で乗り越えなければね。」
と言ってくれたり
「そんなに心配ならば私が意見するから、
 旦那を連れておいで。」
と言ってくれる人がいれば
妻も子どもも家族のままでいられたはずです。

夫に対しても
「子どもが生まれる前と同じじゃだめだよ。
 とても敏感になっているのだから、
 ことさら優しくしてあげて
 多少のヒステリーは大目に見てあげなさいね。
 あと私に愚痴言いにくればいいから。」
と教えてあげる人がいればよかったのです。

そんな人が街中にあふれていたのは
もう50年も前のことなのでしょうか。

仮に別居が仕方がなかったとしても、
子どもの様子を知らせたりする人がいたり、
電話だけでもできる状態だったら
どんなにか救われたことでしょう。

ところが二人は孤立していたようです。
夫はますます孤立を深めてしまいました。

夫は普通のサラリーマンです。
仕事仲間からも信頼されていて
呆然としてただ歩くことしかできない夫に
付き合ってあげた友人もいたようです。
決して、子どもや妻から引き離さなければならない
元々は危険な人物ではなかったはずです。

夫が、家族に会えない時間が経過するにつれて
だんだん精神的に追い込まれていったことは
簡単に想像することができます。

あんなに愛を誓い合った妻が自分を見捨てて
それだけでなく、子どもも自分から奪ったわけです。
自分が、夫としても、父親としても
否定されてしまったと感じることは当然です。
まるで生きていてはいけないと
言われたような気になるそうです

一番深刻な問題は、
なぜそうなったのか本当にわからないことです。
もう一つ、
どうすればこの状態が解消されるのかについても
全くわからないことなのです。

解決をしたいという気持ちがありながら
解決する方法が全く見つかりません。
そうすると、だんだんと
解決したいという欲求だけが強くなり、
毎日、毎秒が、
イライラと焦りだけの時間になって行きます。

自分を取り戻すことだけがテーマになって行きます。
こんな状態にしたのが妻だということだけが
考えないようにしても、頭から離れられなくなります。
本当はまた元の状態に戻りたいのに、
その手段が全く分からない。

とにかく今の状態を何とかしたい。
こんな精神状態がどんどん悪化していきます。

そこから妻を殺すまでの心理状態は
本人でなければ語れないことだと思います。

ただ言えるのは、
彼が元々危険な人物ではなかったということです。
彼を危険な人物に追い込まれた理由があるということです。

これを国家や自治体の関与で行っているとしたら、
本当に彼だけに全責任を負わして良いのでしょうか。

国家や自治体の政策が稚拙で非科学的で、
偏っていたために彼を追い込んでいたとしたならば、
追い込まれた末の行為の責任の一端は
国家が負わなければならないのではないでしょうか。

彼を追い込んだ張本人の国家が
裁判の名のもとに全責任を彼に負わせることは
本当にフェアーなのでしょうか。

彼と彼女には遺された子どもがいます。
とても愛らしい顔で笑うお子さんです。

ただ、人を殺したから悪いというだけでなく、
複雑な事情を子どものために明らかにして
いただきたいのです。

お子さんが
自分は本当は
幸せの家庭の中で生まれてきたことを
教えなければなりません。

事情があって父親は人間の弱さが生じてしまったに過ぎず
自分は根っからの悪人の子どもではない
ということを納得して
自信をもって生きていくためにも
裁判では真実が明かにしなければなりません。
それは、父親であり、間違いをした
あなたしかできないことなのです。

弁護人の先生、よろしくお願いいたします。



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保護命令をかわした先で考える家族再生 攻撃してくる相手に近づこうとする人はいないということ [家事]

保護命令4部作ということなので、
これまでの3件もよかったら見てください。

様々な事情で
妻が子どもを連れて別居し
会えないどころか連絡も取れない
という相談が増えています。

身に覚えのない暴力や虐待を理由に、
裁判所から行動制限の申立まで来てしまいます。

中には確信犯的な妻がいて、
不貞を成就させるとか、転居を希望するためにとか
夫を切り捨てるための子連れ別居保護命令も実際にあるので、
強く断言できないケースもあるのですが、

家族再生をする気持ちがあるなら
家族再生を目指してほしいと思うのです。

仮に元の通り一緒に暮らせないとしても、
先ずは、子どもをあなたに会わせることを
何とかして実現していただきたいのです。

間違えた方向で頑張らなくても
お子さんにとっては少しでも状況の改善が見込めるので、
無駄にならない努力です。

それを意識的にやろうとしてできるのは
あなたしかいません。

家族再生の方法論が少しずつ確立していく中で
嬉しいニュースが届きました。

保護命令が出された事案だったのですが
保護命令中に面会交流調停、離婚調停が始まり、

離婚は応じることになったのですが、
保護命令期間開け直ぐに直接交流が実現し、
その後半年で
祖父母付きの宿泊付き面会が決まり、実行され、
その後も旅行形式の面会交流が実施されているそうです。

ここまでではないけれど
面会交流が実施されるケースは増えています。

うまくゆくケースの特徴は
家族再生という目標を徹底し、
それに矛盾する行動をとらない
ということに尽きるでしょう。

これがなかなかできないのです。

考えてみれば当たり前なのですが、
人間はどうしても危険から自分を守ろうとします。
人間に限らず動物全般がそうです。

こういうケースで感じる危険は
対人関係的危険です。
つまり
特定の仲間から外されそうになる時に
人間はとても強い不安を感じるものです。
(この不安は、自死や殺人、いじめ、パワハラ等
 色々な社会病理の原因になります。)

家族という仲間、夫婦という仲間から
一方的に、多くは理不尽に感じる形で
外されようとしているわけですから、
不安や危険を感じ、
本能的に、反射的に
自分を守ろうとするのはむしろ当たり前のことです。

この場合の防衛行為は二種類あり、
一つは、抜け殻のようになってしまい、
やる気がなく引きこもりがちになってしまうパターンと
もう一つは、自分を外そうとする仲間に
怒りをもって攻撃するパターンです。

二つのパターンが両方出現し、
気分感情が乱高下することが
むしろ普通かもしれません。
気分感情は乱高下するのですが、
不安や危険を感じているということで
一本筋が入っています。

家族をやり直したいという気持ちと
相手を許せないという怒りが
どちらもある状態が普通です。

家族再生をするためには、 
この相手を許せないという気持ちを出さずに、 
相手を攻撃しないということが 
鉄則なんです。 

だから、
家族再生を目指すのか
目指さないのか
決めなければなりません。

腹を決めないまま
本当は家族再生したいのに
気分、感情のまま相手を責めれば
結局再生なんてできません。
益々悪くなるだけです。
だから普通に調停を闘ってしまうと
当然家族関係、夫婦関係は
悪化の一途をたどるだけです。

相手を攻撃するのは防衛行為ですから
これを止めなければなりません。
相手との感覚では
自分を棄てることが大切です。
*1

困ることは、
よし自分を棄てようと思っても
自分が相手を攻撃していることに気が付かないことです。
それは相手に対する攻撃だよと言うと
「自分が間違ったことを言っていますか?」
「自分だけ我慢するなんて不合理ではないですか」
「子どもを虐待しているのは連れ去りをした相手方の方ですよ」
「自分子ども会う権利は無いのですか」
「私が被害者なのですよ」
ということをおっしゃいます。

言っていることはその通りだと思います。
しかし、その気分感情で相手方に働きかけてしまうと
相手は怖がったり、嫌がったりするわけです。
あなたから遠ざかろうとします。

相手の一番後ろめたいところを受け入れること
相手の失敗、不十分点を攻撃しない、責めない、追及しない
ということは
自分が相手の行為で危険を感じている一番の事情を
容認することなので、
これはなかなか難しいし、
無理をすることはできないのです。
だから決めることが必要だということになります。

家族再生をあきらめてあなたの正義を貫くということも
一つの選択肢なのかもしれません。

但し、正義というと聞こえが良いのですが、
家族に正義を持ち込むことは間違いだと思っています。
本当にその正義は家族を幸せにするか
そういう観点で是非考えてみていただきたいと思うのです。

正義よりも、相手の感情をモチベーションにするべきです。
*2

多くの場合で正義を主張することは、
突き詰めれば自分を守ることだと思います。
私はそれを止めて
家族再生に向けて考えることの方が
ご自分の不幸も軽減されると確信しています。

いずれにしても
正しさを追及したいのか
家族再生を目指すのかは
矛盾するものです。
どちらかを選ばなければなりません。

ウォーラースタインも
人間は、子どもたちの健康や安全のためには
自分の命をなげうって子どものことを考えるけれど
離婚の場面では、
子どものことを考えず、自分のことばかり考えると書いていますが、
それは自覚しておくべきです。

子どものことを考えないで子連れ別居する妻と
子どものことを考えないで正義を貫くことは
同じことのように第三者からは感じられます。

これは、ただ知識があるだけでは
なかなか実践できることではありません。

先ほど紹介しました面会交流がうまくいっている人と私は、
この観点から何度も深刻な激論を交わしました。
その都度、私もあきらめかけるのですが、
最初の決断がしっかりしているしお人柄もあるのでしょう、
ギリギリのところから巻き返して
相手との関係では見事にご自分を抑えきりました。
今彼は幸せを実感しています。

自分を棄て、
自分を含めた家族をやり直そうと考えると
見えてくることがたくさんあります。

一緒に住んでいた時の
相手の心細さや
自分に対するギリギリの気遣い
自分の相手の気持ちを無視した行動等
それが分かっていれば
もう少し自分の行動を修正しようと思ったということですし、

無理に相手を変えようとしたところに問題があったのかもしれない
ということなのです。

こういうと、男ばかり損をする、不公平だと
いう人が出てきます。
それも分かるのですが、
女性は出産という不公平を抱えているわけです。

だいたい、子どもが生まれる前は円満な夫婦でも
子どもが生まれた後にぎくしゃくが始まるものです。
2人きりなら自分を棄てて相手をたてるということは
自然にやっています。

しかし、子どもが生まれると
庇う相手が増えてしまうことで、
子どものためにという理屈で妻に意見をすることが始まります。

これは妻側もそうです。
出産に伴って女性のホルモンバランスが乱高下することにより
意味もなく不安を感じる傾向になってしまうこともあって
自分と子どもを守ろうとして攻撃的になる
という傾向になることは仕方がなく出てきます。

その傾向をちょうどよい具合に加減することなんて
そもそも不可能です。
だから妻が変わったと言っても、
実際は命より大切なわが子を産んでくれた結果
そうなっただけで、
妻には責任がないことなのかもしれないのです。

もし、面会交流が実現して
お子さんがあなたと会うと嬉しそうな顔をしたり
恥ずかしそうな顔をする場合は、
妻は、お子さんにあなたの悪口を言っていないということです。
また、面会交流の実施は
それなりに負担ですけれど、
子どもを連れてくることも嫌でできない
というような状態ではないかも知れません。

こんなことを言うと叱られるかもしれませんが、
感謝の気持ちをもって
無視されても、それを相手の背中に聞かせるつもりで
言葉に出すことをお勧めします。

それにもかかわらず
調停で、妻の代理人からああいわれたこういわれたと
怒って反撃していたのでは
うまくいくはずのものもうまくゆかなくなります。

チャンスを見落としてしまうわけです。

怒りは代理人に任せることが得策でしょう。
最上の策は相手にしないことです。

最後に
妻が怖がる攻撃は自分に対する攻撃だけではありません。
妻の代理人に対する攻撃
裁判所に対する攻撃
行政や支援者に対する攻撃
それらすべてのあなたの攻撃感情、攻撃言動が
妻を怖がらせ、あなたから遠ざかろうとする原因になります。

そもそも妻は常に不安な状態があるから
子連れ別居などという過激な行動をしてしまうわけです。
過剰に安心できない状態になっています。

あなたが攻撃的行動をとっていれば
自分に向かうという考えがなくても
同居時の事情を思い出したりすることもあるでしょう。
ただ、攻撃的環境に自分をおきたくないということもあるでしょう。

SNSで近況をアップされること自体に
不安を感じる母親もたくさんいます。
不安を感じてはいけない、間違っている
ということを言っても始まらないのです。

北風からマントを守ろうとした旅人のように
益々自分を守ろうとするだけです。
*3


家族再生をしたいのか、
自分の感情を優先するのか
後々後悔しないために、
あるいは、ここをゼロポイントとして
現状の改善を目指すならば
それをはっきり自覚し、
それに矛盾した行為はしないということを
徹底しなければなりません。


*1 身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 忘れさせられた日本のこころといさかいの真の原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-03-02

*2正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-02-18

*3 北風と太陽の本当の意味、あるいは他人に対する優しさと厳しさの具体的意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-18


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保護命令の事件の相談を受けた弁護士の先生方へ [家事]


1 はじめに

偶然にも保護命令の事件を何件か担当するようになりました。
その経験の中から
保護命令の運用手続きが
私たちの知っている法体系から
かなり逸脱した法制度になっていることを強く感じています。

その中で冤罪とも言うべき決定が多く出され、
多くの人間が、
子どもや家族と会ったり連絡を取ったりすることさえも
1年以下の懲役又は100万円以下の刑罰の威嚇のもと
国家権力によって禁じられ、
精神を破綻させている実情があります。

保護命令は、
配偶者の生命身体に重大な危険がある場合に限定されているはずですが
実際の運用では、
そのような危険がない場合にも保護命令が出されています。
その手続きの中で、当事者は一人での対応を余儀なくされ、
弁護士を選任する権利を実質的奪われています。

2 普通郵便での期日直前の連絡という運用

先ず、保護命令申立事件は、
迅速な処理が要請されていることから
運用上は、申立がなされてから1週間以内に
謄本を相手方に発送するようですし、
謄本発送から1週間以内に
当時者審尋期日が入れられているようです。
通常事件の答弁書に当たる当事者意見書は
その前日までに提出をしなければなりません。

しかも迅速性を理由に、
書留郵便での送達をせずに、
普通郵便で郵送されますから、
実際に相手方が謄本を見るのが、
発送から3日後ということもあるようです。

そうすると、水曜日に裁判所から発送したものが、
金曜日の夕方に到着すると
弁護士を依頼するのがどうしても月曜日以降になってしまい、
反論書の提出が翌日ということになりかねません。

保護命令決定を受けた後で離婚調停になったときに
相談に来る人があまりにも多すぎるのですが、
それは、本人の油断ではなく、
そもそもそのように本人が十分に対応できないような
運用がなされているということが
実態に即した理由であるようです。

3 弁護士の初動 申立書の主張の吟味

弁護士が最初に行わなければならないことは、
申立書記載の事実が要件事実の求めている内容で記載されているか
という点の吟味です。

保護命令申立書は
シェルターや役所に用紙が備え置かれており、
アンケートに答える形で記載するようになっています。
ですから、実際は申立人本人が手書きで記載していることが多くあります。

保護命令を出す要件ですが、
①過去に暴力や生命に関する脅迫があったこと
②その後の事情で、今後さらに
 申立人の身体・生命に関して重大な危険があると言えること
ということになります。

しかし、実際に保護命令が決定された申立書を見ても、
そのような事情が記載されていないことが多く、
相手方が申立人の居所を探しているような事情だけが記載されていることが
多くあります。

保護命令の申立代理人や女性支援者は
女性を夫等から遠ざけることが
保護命令の目的や機能だと思っていて
身体生命の重大な危険を予防するという
高いハードルを意識していないことが多いようです。

また、自分に暴力を振るわない夫でも
児童虐待をしていることを(もちろん誇張して)
主張して保護命令の理由としていることもあります。

先ず、真実の法律要件に立ち返って、
申立人の主張が真実だとしても
要件事実の主張になっていない場合は、
それをきちんと主張することが第一になります。

主張自体失当の申立が極めて多く
それでも保護命令は決定されることが多いようです。

4 申立書主張の吟味2 真実性、信用性

申立書は何かを書かないと埋まりません。
申立人は言われるままに埋めていきます。
ニュースソースを明かせませんが、
書き方の指導を受けることもあるようです。

本当は危険でもないことが
いかにも危険なように記載されることがあります。

例えば、本当は
植木にはさみを入れようとして
盆栽を探して、小言を言っていただけなのに、
植木ばさみをもって追い掛け回された
というように誇張されることが実際ありました。

なぜそれ誇張だと言い切れるかというと、
申立人本人は、事実と違うことを言っているので、
自分の言ったことを忘れていたからです。
後の離婚訴訟等で、
妻ご本人がそのような事実はないと断言されていました。

相手方は、特に自分の能力に自信のある男性は、
申立人の主張を論破しようとしてしまいます。
結論はどちらかなのかを言わず、
ありえないということを自分なりに説明しようとしています。

先ず、あったのか、なかったのか
誇張されているなら真実はどのようなものだったのか、
結論を聞き出すまでに時間がかかることがあります。

事実を争うとなった場合、
次に何らかの証拠があるかどうか
間接事実しかないことが通常ですが、
その直後に家族仲良く笑顔で写真に納まっている
等の証拠があることが結構多くあります。

ここでも単なる暴力の有無ではなく、
申立人の生命・身体に「重大な」危険のある場合だ
ということを常に意識しておく必要があるようです。

5 具体的危険犯の主張をしましょう

けっこうこの「重大な危険」を抽象的にとらえて、
離婚調停が申し立てられたこと
子どもを連れて別居したこと
連絡先を明かさない事
等が
紛争が存在していることをもって
重大な危険があると
裁判所が認定してしまうことがあります。

しかし、平成14年の東京高裁のように
3月29日決定(判例タイムズ1141号267頁)

本来具体的に重大な危険がなければ発令できない保護命令ですから、
抽象的危険では足りず具体的危険が必要だという主張をすることが
効果的であるようです。
冤罪で受ける相手方の不利益を丹念に主張するべきでしょう。

事実認定をフリーハンドでさせない努力が必要だと思います。
穏当な調停手続きを履践していることをもって
暴力の危険があるという事実認定をしてしまったら
調停を含めた裁判制度の否定になると思います。

6 当事者の状態に対するご理解を

当事者の多くは、ある日帰宅したら
荷物も、家族もいなくなってしまったということで
先ず呆然としています。
中には、警察官が立ち合いで荷物を引き上げるということさえあります。
相手の実家に行ったら警察官10名から取り囲まれた
という事案もありました。

いずれも暴力がない事案です。
警察官に抗議をしたところ
暴力がなくてもDVだとの返事があり、
いわゆるDV法が、
身体的暴力がある場合にだけ警察が法定の支援措置をとることができる
という法律も警察庁の通達も
まるで分っていないことが実情です。

暴力をふるっていない夫は、
このような自分の力ではどうすることもできない
理不尽な思いをしています。
子どもにも会えない状態が続いていることも多く、
その喪失感、屈辱感はとても強いものがあります。

自分を守ろうとすることが
こういう場合、人間の当たり前の心理状態になっています。
中には鬱状態を呈している人もいます。

きちんとしたカウンセラーや医師を紹介する
ことが必要な場合も多くあります。

ストレートに質問に答えず
まず自分を守る言い訳ばかりが出てくることも多くあります。
できるだけ丁寧に何をするべきかを説明してください。

なぜか、それなりに能力の高い人たちが
冤罪保護命令の被害者になることが多いので、
一度こつを呑み込めば頼もしい依頼者になります。

7 プラスの事実の掘り出し

暴力を振るわない事情を掘り出すことも有効のようです。
どんなに追い込まれても感情的にならず、
口論しても手を出すことはなかった
ということは、法の要件を考えた時には
とても良い前例となるようです。

家族思いのことを
申立人側は子どもに執着する性質だと
独自の保護命令の目的に基づいて主張してきますが、
冷静に反論していきましょう。

法律制度に則った解決をしようとしていることは
とても重大な良い事情となるようです。

未だに行政はレノア・ウォーカーの
DVサイクルを言い出して
いい時期があってもそれはDVにつきものだと
主張しているようです。

しかしレノアウォーカーは、
自己の施療体験を述べているにすぎず
科学的に論証されたものではないという評価が定まっています。
良い事情は、どんどん提出した方がよさそうです。

8 自主的な行動抑制

どうしても裁判官は、
夫の妻子に対しての接触を嫌う傾向の方が多いようです。
それにしても法律要件を欠くのだから
保護命令を出してはダメなのですが、
実質的に接触避けるために
危険という抽象的概念を活用して
危険を認定してしまうことが多くあります。

相手方の方から自主的に
離婚調停等が継続している際には
近づかない、用事があるときは代理人を通して行う
ということを誓約することが効果的です。

それでも国家から刑罰の威嚇によって遠ざけられるより
とてもマシです。
また、妻側の一番の興奮ポイントは
子どもを連れて別居したことを
夫が非難してくるだろうということで、
そこに対して過敏になっています。

そのことを許す、理解するという夫の態度は
妻の緊張をだいぶ緩和させるようです。

実際に夫が近づいただけでパニックになることが多いので、
面会や連絡はしばらく遠慮した方が
将来の家族再生にはむしろ有効のようです。

実際の事例では、
申立人が裁判官からの勧告で取り下げたにもかかわらず
取り下げた理由として相手方の自主規制の誓約をあげて来ました。
けっこう威力がある主張のようです。

9 憲法論をきちっと書く
 
これまで述べてきたような民事訴訟法の規定の内
被告の防御権を軽視するような法手続きや運用は
意見書の中できちっと主張するべきだと思います。
分かる裁判官にはわかるでしょうし、
これは、いい加減な決定を出したら
抗告は当然するし、憲法論で最高裁まで争うぞ
という気構えを示すことにもなります。
その際、冤罪保護命令が出された人の
家族を失う喪失感や
子どもの親としてのコミュニティーの中で
暴力人間のレッテルを張られること等
保護の必要性もあり、
その保護の必要性と女性保護の迅速性の調和として
保護命令手続があるのだから
条文を超えて相手方の防御権を害することについては
きっちり問題の所在として示す必要があると思います。


10 冤罪保護命令と戦うことは誰を守るのか

第1に子どもがいる場合は子どもを守ることになります。
考えても見てください。
子どもから見た場合、
自分の父親が、自分の母親に暴力をふるい
身体生命に重大な危険を与える可能性があるとして
裁判所で刑罰の威嚇をもって近づくなと命令された
ということを
後々まで引きずるわけです。

実際に、夫に対して自宅付近を歩いてもいけない
という保護命令も出されたことがあります。
そんな無茶な保護命令を
自分の実の父親が受けたということになると

親に対しての像が悪くなるばかりではなく、
思春期の自我の目覚めるころ、
自分はそのようなDV者の血をひく存在であると
意識せざるを得なくなるのです。

優しかった父親の記憶は喪失し、
叱られた時の記憶だけが父親の記憶になってしまいます。
父親から愛されたことの無い自分という意識は
自己評価の低下を招くことになると思います。

それが冤罪であったならば
取り返しのつかないことになります。

もう一人、申立人である妻本人にとっても
保護命令が出されることは精神的に悪影響があります。

冤罪保護命令が出されるときの多くは、
妻側が何らかの不安を抱えている時です。
理由がある不安の場合もありますが、
理由のない不安を抱えている場合も多く確認されています。
産後うつやパニック障害等の精神疾患、
精神的状態を悪化させる内科疾患や薬の副作用

妻が不安を抱えていれば
夫の虐待があるとのマニュアルに基づいて
「あなたは悪くない」一辺倒の支援が多くあります。

このような支援を受けた女性の中には、
相談をするたびに自分の夫がひどい人だと言われるたびに
精神状態が悪化していったと言う人がいます。

自分は夫という最も身近な存在から
何も理由もなく攻撃をされるような人間なのだ
という意識が固定化され
精神的に落ち込んでいくようです。

不安や焦燥感のすべてが夫に原因があると思いこみ、
とにかく逃げなければ命が危ない
と言われ続け、嫌悪感が恐怖に育っていったと話してくれました。

実際の公文書でも
妻がクリスマスや年末年始だけでも
夫を入れた家族で暮らしたいといったところ、
2時間かけて逃げることを自分が説得したと
警察官が報告しています。

その事例は妻の妄想だったということが
後の保護手続き却下の決定の中で認定されています。

保護命令を受けて逃げ続けると
妻は、いつまでもいつまでも夫が自分を探しに来る
という恐怖を抱き続けることになります。

「近くにおいでの際はお立ち寄りください」
というハガキが届いただけで
警察駆けこんだ元妻は、別居から12年が経っていました。

実は冤罪保護命令を阻止することでもっとも救われる人間は
申立本人なのかもしれません。

11 余事記載

刑事事件で無罪判決をとることや
再審無罪とすることは
弁護士の本懐のように言われています。
冤罪を防ぐことが弁護士の第1の役割であるということは
おそらく共通認識だと思います。

刑事事件は、手厚い刑事訴訟法や当番弁護士、国選弁護人によって
手厚く被告人の利益が守られています。
ところが保護命令はこのような手続き保障がなされておらず、
極めて脆弱な状態です。
冒頭述べた準備期間や実質的弁護人選任権もありますが、
口頭弁論が開かれないことが多いために決定に理由が付されません。
事後的な手続き保障も脆弱です。

私は、どうしてこのような制度が
弁護士や弁護士会から容認されているのか
不思議でたまりません。
構造的に冤罪が生まれる教科書のような制度です。

女性保護だからでしょうか。
女性保護の場合冤罪は仕方がないというのでしょうか。

それならば
犯罪被害者保護のために冤罪も仕方がないと
その先生方は言うのでしょうか。

保護命令事件は、時間がないということもありますが
受任を拒否する弁護士もいるようです。

比較的古くなった私としては
保護命令を取り巻く環境が
どうしても理解できません。

このように、社会から孤立する人を弁護することが
弁護士の本懐だということが
嫌悪の的になるような弁護士界の現状は、
司法の危機ではないかと
余計なことを考えています。

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冤罪保護命令から人権を守るために当事者が知っておくべきこと [家事]

1 保護命令の阻止という目的意識を持つこと

先ず何よりも、
冤罪であれば保護命令を裁判所に出させない
ということです。

夫婦は普通、多少の小競り合いがありますから、
自分は保護命令を出されても仕方がないと思うかもしれません。
できれば早急に弁護士に確認をした方が良いと思います。

保護命令の最大の被害者は子どもたちです。
このことについては、いずれ別の機会にお話しします。
また、申立人自身のあなたへの恐怖、嫌悪感が固定化されてしまいます。

2 保護命令は、何もしなければ決定が出ると思うべし

冤罪保護命令でよくある誤りは
申立書に書いてあることが嘘だったり
きわめて誇張されていたりして
荒唐無稽なことばかり書いてあるから
こんないいかげんなことで
重大な保護命令が出るわけがない
として、きちんと対応しないことです。

しかし、実際はそれで保護命令は出ています。
保護命令が出ると、その過酷さは甚大で、
多くの人たちが精神科治療を必要とする状態になっています。

3 自分は動揺していると自覚しなくても決めつけるべし

突然家のポストに地方裁判所から大きな封筒が入っています。
なんとなく開けてみると
あなたの奥さんが裁判所に保護命令を申し立てて
この決定が出れば、あなたは
奥さんや子どもたちに面会することも、連絡を通ることを
近くを通りがかることさえも禁止され
違反すれば懲役1年また100万円以下の罰金
という前科者になるということなので、
冷静でいられる人はいません。

パニックになることが通常で、それによって
動揺して見当違いのことを始めたり、
逆上して警察沙汰になったり、
あとで後悔することが多くあります。

必ず誰か、あなたのことを考える人に相談するべきです。

4 できれば弁護士に頼むべし

弁護士を頼まないで自分で作った反論書は、
書かない方がよいような自分に不利な内容になっていることが多いです。
自分の感情を制御できないということを
自分で示しているようなものです。
普通の人間ならそうなってしまいます。

第三者が冷静に記載することだけでも大分違います。
また、何を言うべきかということも
法律を知らなければわかりません。
必要なことを書かないで見当違いのことばかり力を入れることは、
プラスにならないどころかマイナスにしかなりません。

しかし、保護命令の反論書の締め切りまでは、
通常時間が数日しかありません。
弁護士に知り合いがいないことが通常ですから
あきらめてしまいがちになりますが、
ここが頑張りどころです。

インターネットで検索したり、
知り合いにも協力してもらって
力になってくれそうな弁護士を探しましょう。

弁護士が引き受けてくれそうだということになれば、
出会ってから結婚して、現在に至るまでの経過表
A4版で、1,2枚でよいでしょう
これを作って持っていってください。

もう一つ、
申立書に記載された事実が正しいか間違っているか
誇張されている場合は、真実はどうなのか
それだけを書いたメモを弁護士に渡せるように準備しましょう。

ここで一番まずいのは理由から書くことです。
こんなことが起こるはずがないという証明を書いてしまう
自分に自信のある人が多すぎるように思います。

あなたは事実を体験しているのですから
あったか無かったか、真実はどうか
という結論を書かなくてはなりません。

このブログの一つ前の記事をあなたが依頼する弁護士さんに
プリントアウトして渡してください。
ちゃんとした弁護士なら、
自分が何をしなければならないか
直ちに理解することでしょう。

5 裁判所の審尋期日の心構え

とにかく一人で行かない事。
裁判所は完全アウエイですし、
とんでもないことが決まりそうになっているのですから
興奮を抑えることはなかなか難しいです。

しかし、嘘でもよいから冷静にしなければなりません。

暴力をふるう人間をどう見抜くか
裁判所で暴力をふるう人は滅多にいません。
裁判所では、
自分の感情を抑えているかどうかで判断されがちです。
自分の感情を抑えられない人は暴力をふるう
という風に考えてしまいます。

だから、
大声をあげない事、
質問を否定する時は、ゆっくりと考えてから話すこと、
裁判官の質問を遮らない事、
質問の意味が分からなければ弁護士に尋ねること
常に敬語を使うこと
身振り手振りは極力抑えること
膝においているこぶしに力を入れない事

つまり
普通にふるまえばよいのですが、
こういうことは意識しないと
普通ではいられないということを心がけましょう。

自分を守ろうとしない事、これが大事です。
自分ではなく、
子どもたちや家族を守るという視点が必要です。
自分を守ろうとすると
言い訳をしてしまいます。
言い訳をしようとすると
それを言うべきなのか、どのように言うべきなのか
ということを冷静に判断できません。

6 とにかく真実が何かを語りつくす

もしかすると
裁判所は申立人の話を鵜呑みにして
間違った判断をするかもしれません。

それでも、この手続きの中で
あなたが真実を語りつくすことは
あなたの家族にとって必要なことです。

自分自身を守ろうとするのではなく
子どもや家族を守ろうとする姿を示す
それができれば、結果はついてくるかもしれません。

追記

仮に保護命令の要件がないという場合でも
妻は、本当に夫を怖がっている、嫌悪している場合があります。
とても不条理なことですが、
しばらくそっとしておくことが必要な場合が多くあります。
保護命令が出なくても
自分は妻の行動を直ちに規制するつもりはなく
自主的に連絡もしない
ということを先行して述べることも
効果的です。

逆説的な話かもしれませんが、
それが家族再生の早道になることは多くあります。

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やっぱり保護命令手続の現状の運用はおかしい [家事]

この他に、口頭弁論を経ても理由を付さないとかいろいろ問題があるようです。


1 保護命令の要件 重大な危害の具体的危険の存在
保護命令は、「被害者が更なる配偶者からの暴力によりその生命又は身体に重大な危害を受けるおそれが大きいとき」(配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律10条)に発令される。
この保護命令に違反した場合は、「一年以下の懲役または一〇〇万円以下の罰金」(同法29条)に処せられることに照らすと、上記発令要件については、単に将来暴力をふるうおそれがあるというだけでは足りず、従前配偶者が暴力をふるった頻度、暴力の態様及び被害者に与えた傷害の程度等の諸事情から判断して、配偶者が被害者に対してさらに暴力をふるって重大な危害を与える危険性が高い場合を言うと解するのが相当である。同旨東京高等裁判所平成14年3月29日決定(判例タイムズ1141号267頁)。
   そして上記高裁は、「これを本件についてみると、前記一の認定事実によると、抗告人は、平成八年以前にフィリピン国滞在中に相手方に暴力を振るって傷害を負わせ、また、平成一三年一月一三日に抗告人が相手方の身体を蹴ったりするなどの暴力を振るって抗告人に外傷性頸部症候群及び全身打撲の傷害を負わせているが、平成一四年一月二日には、抗告人か相手方の手をつかんで相手方を戸外に引っ張り出したことを超えて、抗告人が相手方に傷害を負わせたということはできず、その後に、相手方に暴力を振るったという事実もない。したがって、以上の事情によれは、抗告人か相手方に対して更に暴力を振るって相手方の生命又は身体に重大な危害を与える危険性が高いということはできないというべきである。」としている。
   結局、上記高等裁判所は、懲役1年以下という重い刑罰が予定されている保護命令を相手方に課すためには、配偶者暴力が、生命身体に重大な危害を与える具体的危険が存在することが必要であり、抽象的な危険では足りないということを判示していると解される。これは正当である。

具体的事実は略

7 手続進行に関する意見
  保護命令の手続きは法21条によって、民事訴訟法の適用を受ける。民事訴訟法は、国民が正当な訴訟活動を行わないで、その権利を奪われないように、被告の権利を守るための手続きが定められている。民事訴訟法のこのような被告の権利擁護のための手続きは、憲法31条、13条で定められる適正手続きの補償からの要請でもある。
  確かに、保護手続きの規定は迅速な手続きも要請している。しかし、一方、保護命令が発せられると、相手方は、1年以下の懲役又は罰金100万円以下の刑罰の威嚇のもと、わが子との連絡すら事実上とれなくなる。刑務所に収監されても我が子と会うことを国家は禁止しない。このように本来自由であるはずの穏当な交流すらも公権力から刑罰の威嚇をもって禁止されることは、父親として、配偶者として失格の烙印を押されたと受け止めるものである。その喪失感、自分の力では何ともならないという閉塞感は強烈なものである。しばしば、真実に反する内容で保護命令が出された事例を中心に、相手方に精神障害が生じている。自死が起きることも少なくない。また相手方は子どものコミュニティーにかかわることができなくなる。子どものコミュニティーを中心に、自分の配偶者の生命身体に重大な危険を与える人物であるとの評価が公のものになる。自己の社会的評価は著しく低下する。国家権力の強制において実現させられるのである。保護命令が発せられたものは、屈辱感とともに、大きな疎外感を与えられ、心理的負荷は甚大なものとなる。
  保護命令の手続きにおいては、緊急性がある事情が示されている場合を除いては、民事訴訟法の定める相手方の権利を守るための手続きは、迅速性の要請があっても省略されるべきではない。
  ところが、保護命令手続は保全手続きではないにもかかわらず、申立書副本の送達はなされない。送達とは民事訴訟法においては、送達場所を届けない限り、書留郵便において行わなければならない。しかし、そのような扱いをしていない。本件でも、裁判所からの発送が×月1日で、普通郵便で相手方の住所地のポストに投函されていたため、宿直明けの×月3日になって初めて保護手続きが申し立てられたことを相手方は知った。加えて、意見書の提出が同月7日までと定められており、その間5日しかない。しかも間に土曜日と日曜日を挟んでいる。これでは、有効な反論、防御を行うことは不可能である。また、自己の重大な権利を奪われる可能性、人格を侵害される可能性があるにもかかわらず、弁護士との打ち合わせも十分に行うことができない。代理人選任権も事実上奪われている。司法統計上も、保護命令事件の代理人選任率は異常なまでに低い。民事訴訟法の定める民事的な手続き補償がなされない状態であると言わざるを得ない。
  刑事事件でさえも、無罪推定の原則がある。被疑者被告人の防御権が手厚く保障されている。ところが、保護手続き命令の手続きにおいては、このような防御権は極めて脆弱である。それにもかかわらず、保護命令が発せられると、暴力や脅迫などに該当しない、自己の配偶者や子どもと面会するという人間として自然な感情に基づく行為、本来国家が関与するべきではない私事に対しても刑罰の適用となってしまうのである。これでは犯罪を実行した場合に刑罰が科せられる刑事事件よりも過酷な手続きになってしまう。刑事事件に比較すると防御権はほとんど認められないのと同じである。
  また、保全手続きではないことは、民事訴訟法が準用されていることや、相手方の反論権が形式上認められていることからも明らかである。保全手続きは、本案で争うことができる。ところが、保護命令に本案はない。子どもたちと会えない期間は取り戻すことができない。保護命令によって面会ができないことに伴う周囲の評価、配偶者の生命身体に重大な危険を与える人間だという評価も回復する方法がない。
 このような重大な問題をはらむ保護命令手続であることに鑑み、拙速な審理を回避し、改めて相手方に十分な防御権を行使し得る状態にするべく、反論の準備を改めて補償するべきであると考える。3週間後に改めて口頭弁論期日を設けるべきであると考える。また、事実認定は証明によって行われなければならないと考える。


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身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ 忘れさせられた日本のこころといさかいの真の原因 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

空也上人の歌が出典だという説が有力であるようです。
宮本武蔵の歌にも出てくるという話もあります。
君が代と同じで、
その心を永きにわたって日本人が共有してきた言葉だと思います。

この部分だけを文字通りに読めば
「溺れてしまった場合、
いたずらにもがいてしまうと
呼吸もできないし浮力も活かせない
益々苦しくなるだけだ
むしろ溺れることを恐れないで体を投げ出せば
浮力で体が浮かび上がり
呼吸もできるし
休むことだってできる」
という意味になります。

一般的な言葉の意味としては
窮地に陥ったときには
死ぬ覚悟があって、
初めて窮地を乗り切る活路が生まれる
というものだとされています。
この解釈は
どうやら宮本武蔵の歌(武芸の極意)が
影響を与えているようです。

本来この言葉は、
窮地に陥った場合に限定されたものではなく、
日常の人間の生き方にこそ当てはまるものだと思います。
特に自分が大事にしたい人間関係では
時々は意識する必要のある事柄を示しています。

対人関係学の観点からは、
全く正しい、とても的を射た言葉だということになります。

では、なぜ、身を捨てることが必要なのでしょうか。
身を棄てるということはどう言うことでしょうか。

この言葉には人間関係の紛争、いさかいに対する
深い洞察があります。

人間関係で紛争が起きるのは、
大抵は、自分を危険から守ろうとする気持ちが勝っているからです。
自分を守ると言っても、日常生活においては、
命の危険があるわけではありません。
ではどんな危険がから自分を守ろうとするのでしょうか。

それが対人関係的危険です。

対人関係的危険とは、例えば
「仲間からの評価が下がる」ということです。
評価が下がると
「立場がなくなる」とか、「顔がつぶれる」
ということになり、
さらには、
「仲間から外される」
という一番大きな危険につながっていきます。

人間は、群れを作り始めたころから
つまり今から何百年も前から
仲間から外されるということを
恐れている人生を送ってきました。

仲間から外されないように
行動を工夫して生きてきたわけです。

中には仲間から外されること恐れない個体もいたでしょう。
そういう個体は仲間から外れ行きますから、
飢えたり、
肉食獣に捕食されたりして
死滅していきます。
このため、仲間から外されることを恐れるものだけが
群れを形成し協力して生き延びてきたわけです。

だから、我々現在の人間は
遺伝子レベルで、
仲間から外されることを恐れるようにできています。
仲間から外されることにつながる
仲間の評価が下がるということにも
同じような危険意識を持つわけです。
これが対人関係的危険です。

対人関係的危険の意識は何百万年も受け継がれています。
あまり危険にさらされ続けると
心身が壊れてしまいますから、
人類は、色々な工夫をして
安心して共同生活をする工夫をして
危険にさらされ続けることを避けてきたわけです。

その工夫とは、例えば
人を必要以上に追い込んではいけないとか
理由もなく人を攻撃してはいけないとか
人を馬鹿にしてはいけないとか
他人のものを奪ってはいけないとか言うのも
そういう観点から意味付けをすることが可能でしょう。

ところが現代社会は
必要以上に人は追い込まれています。
せっかく祖先が作り上げた
様々の共同で生きていく仕組みが
現代社会では壊されたり機能しなくなったりしているようです。

例えば、
職場では、無理なノルマが課され、
無理をしなければ、
従業員として失格だというような評価がされ、
また常にノルマや仕事態度を自己点検させ、
評価を気にして仕事をしなければならず
ふいに理不尽に会社の都合で退職しなければならなくなる。
安心して職場にいることはできず、
同僚と世間話をする時間もありません。

就職に当たっても、
一度就職したら安心して人生を全うすることはできず
働きながら次の職場の心配をしなければならない人も多くなりました。
老後の補償もなく、それを考えないで
今生きることで精一杯の職場もあります。

安定した人生を送るためにといって
危険意識に過敏な思春期の時期にもかかわらず、
少しでも良い進学を目指して
他人よりも良い成績を目指しているわけです。

家庭でも
給料が低いと言われないかびくびくし、
成績が悪いと尊重されないということでテストを隠したり
片付けができない、料理が下手だということで
評価が下がる、低評価を口に出されてしまうのではないか
ということが怖い
毎日が脅えて暮らす日々
ということはどこにでも見られる日本に
なっているようです。

現代の日本人は
自分が誰かから低評価されるのではないかという
危険意識を抱いている
という傾向が強いと思います。

そういう風に育ってきていますし、
大人になってもどこかで低評価が行われるわけです。
実際に低評価され排除されたのが自分ではなくても
少しでも気を緩めると
今度は自分だということで強い不安が生まれます。

いわば、対人関係的危険の
傷口が開いている状態なのです。

傷口が開いているので過剰に敏感になっています。
通常ならば、膝に何かが当たっても
難にも気にしない人でも
膝がけがをしていてかさぶたもできていない状態だから
ちょっと触っただけで痛くなり、
足をひっこめるとか、悲鳴をあげるとか反応してしまいます。

だから、例えば夫と妻で役割分担をして、
妻が食事を作り夫が食器を洗うということにした場合、
傷口が開いているので、
夫から見て食事が手抜きだとか量が少ないとか
自分が馬鹿にされると思ってしまいます。
大事にされていないという気持ちになってしまいます。
自分を守ろうと無意識に感情や行動が起きてしまいます。
それは怒りになり、自分を守るために、
相手を攻撃して、自分が尊重されないことを否定したいのです。

妻は、夫の食器洗いが下手で納得行かないと
もしかしたら過去において食器洗いでこっぴどく叱られた記憶から
その時の傷口が又開き、
その時自分が言われたことを夫に言い、
わざと夫の目の前で食器を二度洗いをするかもしれません。
自分を守ろうとしている行動です。

数え上げるときりがないのですが、
悪意のない相手の行動にもかかわらず
傷口が開いていると
自分を低評価していると勝手に思うように
なってしまいます。

不満ならば自分で食事を作るとか、総菜を買ってくれば良いのですが、
それをしてしまうと、
自分の調理を低評価されたと
今度は妻が落ち込むということもあるので
けっこうデリケートな問題です。


本来は、そんなことで
改めて低評価をするということはありませんし、
例えば食事の作り方が雑だからといって
離婚したくなるわけではありません。

むしろ、疑心暗鬼になって自分を守ろうとするあまり
怒りを相手に向かわせることこそ
2人の関係を悪化させる原因なのです。

弁護士から見た場合の夫婦関係の不具合は
ほとんどがこの過剰反応から始まっています。
常に相手が悪いのであって自分は悪くない
と感じている事案なのです。

その人の状況はなかなか修正することができません。
多くの危険意識は無意識に生まれるため
傷口が開いていることも意識できません。

怒りが向かう相手は
どうして相手が怒っているかわかりません。
怒っている相手も、自分が怒っているという自覚があまりありません。
無意識の自己防衛に集中しています。

働いている人は職場で傷口が開き
家に帰って過敏のために怒りが生まれることがあります。
体調や病気が原因で
何も理由がなくても傷口が開いている人も多くいます。

対人関係の紛争は、
このような自己防衛感情、自己防衛行動の
ぶつかり合いから生じることが殆どです。
そしてこれは自分で自覚することができません。
意識の上では、先ず相手方の攻撃があったというところから
ことは始まっていると錯覚しています。

自分の大切な人間関係で
このようなもめごとや相手の傷口を広げない方法は
果たしてあるのでしょうか。

それが自分を棄てることなのです。
これはなかなか難しいことです。
なぜならば人間の本能、遺伝子に反することだからです。

もちろん自分のすべてを捨てきれることはできません。
また常にそのような生き方をすることも不可能でしょう。

でも、せめて2回に一回くらい、
大切な人といさかいを始めた時
大切な人の行動にカチンときたとき
「自分を棄てる」というアイデアを
頭のどこかで起動させることができれば、
大抵のいさかいは大きくなりません。

合理性、正義、理不尽、平等、正義
そのような価値観は
例えば家庭の中では棄てましょう。
だってそれは、
自分を守るための言い訳です。
怒りの感情を盛り上げるための燃料です。

せめて、自分の怒りに相手が傷ついているのを見た時、
相手をかわいそうに思い、
どうしたら良いかということで
思い出してください。

そう考えることが現代社会における
大人の愛なのだと思います。


例えば封建社会は様々な問題があり
克服されるべき制度であることは
間違いありません。

しかし、その否定のされ方が
全て一緒くたに否定された側面もあり、
本来否定しなくてもよい事柄も
否定されてしまったのではないかと
そう思えてなりません。

封建社会は、
現代社会よりも生きやすかっただろうなと
思うことがあります。

決められたことをやっていれば
それなりに尊重されたのではないかなあと思います。
現代とは違って。

現代とは違って
自分の領分という言葉があって、
そこには仲の良い人間も立ち入れない
そういうルールがあったからです。

このあたりの歴史は、
日本の近代化の過程で
黒く塗られてしまい
大いなる誤解を与えられているようです。

日本において古来は、
そもそも共同体意識が強く、
共同体の中で、自分を棄てることが
現代よりも多くできたのだと思います。
そうすることによって
共同体の仲間としての地位が
きちんと約束されていたのだと思います。

やるべきことをやれば
誰からも文句を言われないから、
多少の感情的な攻撃があっても
やることをやっているという意識があるため
防衛感情を起こす必要がなかったのだと思います。
理由もなく生まれてくる感情を
聞き流すことができたのだと思います。

近代化は
「個人」を単位とするということが
無条件でもてはやされてしまい
あるいはそのように追い込まれてしまい、
自分を棄てるという発想を奪われているのかもしれません。

あるいは戦争などの近代化を進めた歴史の中で
自分を棄てるという美徳が
国や産業など、大きすぎてヒトの感情が追い付かない
集団の一方的な利益のために利用されてしまったことから
封建制度が否定されたように一緒くたに否定されてしまい、
無条件で個人が尊重されなければならないと
思いこまされてしまうようになったのかもしれません。
しかし、それは、現代社会の病理を見ていると
個人の分断による、初期設定された傷口となっているように
感じられてなりません。


自分を棄てるということは
あくまでも自分を守るためであり、
自分が大切にしている仲間の幸せのためだということと
そのことによる個人が幸せになることと
切り離せないことなのだということを
そういう考えを
はじめから考えさせないという
悲劇の側面が強く表れている、

現在日本の人と人の紛争を見ていて
そう思えて仕方ないのです。


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