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無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

なぜ、無差別襲撃事件が起きるのかを検討するにあたっては、
なぜ、通常は無差別襲撃事件を私たちは起こさないのか
ということを考えることが王道だということになるでしょう。

<無差別襲撃をしない理由として考えられるもの>

 なぜ、私たちはかかわりのない人を攻撃しないのか。これは二つに分けて考えられます。ⅰ)そもそも関わりのない人を襲撃しようと思わない。ⅱ)仮に襲撃しようと思っても、思いとどまる事情がある。この二つです。

ⅰ)襲撃しようと思わない理由。
 ① 防衛の必要がない(相手から攻撃されない)
 人間が人間を攻撃するのは、通常は自分を守るためという理由のようです。通常はかかわりのない人から自分が襲われないために、こちらから反撃しようというきっかけがありません。但し、ここでは、「八つ当たり」という怒りに基づく行動形態を考慮しなければなりませんが、あとでお話しします。
② 人間の尊厳を認識している
 無意識にアリや蚊等の小動物を攻撃することはあっても、人間は大事にしなければならないからむやみに攻撃しないものだという認識によって、そもそも攻撃しようと思わないという側面もあるでしょう。攻撃するとかわいそうだからとか、敵対している人間でなければ、できることならむしろ仲良くしたいと無意識に感じているということもあると思います。ベクトルの向きが、自然状態では攻撃とは真逆の位置にあるのだと思います。
ⅱ)襲撃しようとする気持ちを思いとどまる理由
  職場で理不尽な目にあったり、実家で喧嘩をしたりして、家族に八つ当たりをしたくなるということはあるでしょう。「怒り」は、なんらかの危険を感じた場合、その危険を解消するための行動のようです。ただ、「おそれ」とは違って、行動対象が危険の原因と必ずしも対応しないようです。怒りの行動に出る場合は、相手に対して勝てるという意識が必要なようなのです。但し、危険を感じると、感覚的には自分を守る意識が過敏になっていますから、些細な危険を向けられた自分よりも弱い者に対して怒りの行動、すなわち攻撃に出るようです。これが「八つ当たり」です。
  では、八つ当たりをしたくなった場合でも、人間は無差別な攻撃をするわけではなく、甘えてよいと思う対象に対してだけ攻撃をするものです。どうしてあたりかまわず八つ当たりの攻撃をしないのでしょう。考えられる理由は以下のとおりです。
③法律で処罰されるから
④社会的信用を無くすから
⑤人を襲ってはいけないと教わってきたか
⑥反撃されるからら

こんなところでしょうか。
③、④、⑤は、大体同じようなことでしょうか。
法律で処罰されることの最大の困りごとは、
例えば刑務所に入れられることによって、
それまでの自分の人間関係が
無くなってしまうのではないか
というところにありそうです。

③、④、⑤.⑥は、
結局のところ、自分を大切にしているために
自分に危害を加えないために
無関係の人を襲撃しないということになると思います。

<無差別襲撃をする人の特徴、自分を大切にしない>

こう考えていくと、
私たちが、少なくとも現時点まで無差別襲撃をしない理由は、
自分を大切にしているからだといえるのではないでしょうか。

八つ当たりのようなことをしようと思う事情があり
無防備な3歳くらいの子ども公園を一人で走っている姿を見ても、
襲撃しようとは思いません。
その弱い子どもを攻撃することで、
人から非難されることになっては困る、
これまで通りの生活ができなくなるという理由もあるでしょうが、
それ以前に、小さい子どもを無意識に守ろうとしてしまい、
攻撃をしようとすることさえも思いつかないでしょう。
小さい子どもは大切にされるべきだという感情が
元々備わっているように感じられます。

ところが、無差別襲撃をする人は、
そのような心理状態ではありません。

相手をかわいそうだと思わないことがあっても
同時に、自分がこれから行う自分の行為によって
社会的に追放されることを
恐れることはないのです。

今回の登戸事件での襲撃者は
行為から20秒足らずで自殺をしました。
まさに、自分を大切にしようという発想が
全くなかったわけです。

<なぜ自分を大切にできなくなるのか>

「自分を大事にする」という言葉があります。
通常は、身体の健康の維持に努めるということでしょう。
それはわかりやすいです。
もう一つ、自分の人間関係を良好に保ち、
家族、学校、職場の人間関係の中にいることで
苦痛にならないようにする
という意味もあると思います。
対人関係的意味での自分を大事にする
ということになると思います。

対人関係的意味での自分を大事にするということは、
自分という一人の人間を大事にするために
自分の関係する人間を大事にすることが必要だ
あるいは、自分を大事にすることと仲間を大事にすることは
結局は同じことだということになるはずです。

およそ人間は、単体で独立して存在しているものではなく、
自分のつながりのある人との関係で
人格が形成され、発露されているようです。
自分が望む人とのつながりが維持されるのか絶たれるのか、
つながりのあり方、程度などによって
自分の感情や幸せの度合いが変わってくるわけです。

だから無差別襲撃者が
自分を大切にしていないということは、
自分が他者とかかわっていないということを
実感しているのだと思います。

人間と人間との関係は
相互に影響を与えあっている関係です。
自分を攻撃してくる人に対しては
近づこうとしないでしょう。
自分に親切な人に対しては、
こちらも親切にしたくなるものです。

自分を大切にしないということが
対人関係的には、
自分の属する人間関係を大切にしないことだとすれば、
対人関係的な意味で自分を大切にしない理由は、
およそ、自分が大事にされた対人関係を持たないということや
自分にかかわる他者という者は
自分を否定し、攻撃するものだ
という認識を持っているということが考えられます。
つまり、孤立しているということです。

この「孤立」が原因だというのは、
客観的に孤立しているか否かということではなく、
自分が孤立を感じているという主観的なものです。

そしてなぜ孤立しているかという原因も問いません。
主として自分に原因がある場合でも
孤立をしている以上、
自分の関係を大切にしようなどということは思いませんし、
それはとりもなおさず
自分と他者の関係を良好に保とうとは
思わない状態になっているからです。

<孤立と他者への攻撃の関係>

孤立を自覚していると、
自分に対する配慮も、他者に対する配慮もできなくなります。
それでも、将来的に孤立を解消したいという希望があれば、
他者との関係がこれ以上悪化しないように
自分の行動を制御するでしょうし、
つまり、自分を大事にしようとすると思います。

ところが、孤立が確定的になり、
将来にわたって孤立が解消できないだろうと認識した場合、
人は絶望するようです。
人間の脳は、あらゆる方法を使って絶望を回避するのですが、
様々な負の衝撃により絶望が回避できない場合があるようです。

その場合は生きる意欲を失います。
身体生命の危険の絶望は、
余命宣告というような例を除いて
瞬時に死が訪れることを意味しますから、
気絶をすれば足ります。

ところが対人関係的な絶望は
来る日も来る日も絶望に悩まされます。
絶望から逃れるために、
自死という行動を止めることができなくなるようです。

自死という行動を止められなくなった場合、
一人で自死に至ることが大多数ですが、
無差別襲撃者は、他者を攻撃してから自殺するのです。

大きな違いは、
一人で自死する場合は、
家族や友人、仲間というつながりを大切にしていて
つながりからも自分を大切にされているという認識があるからです。

それでも、様々な事情で、良好な関係があるにもかかわらず
特定の対人関係の孤立を原因として
絶望を回避できなくなるのが人間のようです。

(なお、母子心中等、身近の人間を巻き込む自死は、
不思議なことに
巻き込む相手に対しての愛情がある場合です。
もちろん冷静な形での愛情ではありません。
追い詰められた上での歪んだ認知の上の愛情です。)

だから、無差別襲撃をする人の孤立は
絶対的な孤立だということになるはずです。

どこの対人関係でも孤立していて
どこの対人関係でも改善が不可能だ
という絶対的孤立なのでしょう。

そうなってしまうと
人間とは大切にされるべき存在だとは
およそ考えられなくなるはずです。

人間の命などは、
守られるべき価値のあるものだとは
考えられなくなるのです。

絶対的孤立の中で、
全ての人間が自分の味方ではないと思うのだから、
この絶対的孤立の苦悩を自分に味会わせているのは
全ての人間だということになるでしょう。

人間は、味方でなければ敵だと
うっかり判断してしまう動物らしいです。
そうすると、すべての人間が味方でない以上
自分にとって敵になるわけです。

襲撃する相手は誰でもよいということになります。
相手をかわいそうだと思うこともありませんし、
おそらく襲うことができたから襲った
そういう理不尽な事態が起きた
そういうことなのでしょう。
突然のことで無防備だった方
子どもなので抵抗できなかった方々


命を落とされた方、
生存はしているけれど
心に深い傷を負った方にとっては、
全く理不尽でやりきれない話が
目を背けないで本件を見たときの真実だと思います。

<これからやるべきこと>

このような惨劇が我が国においても繰り返し起きています。
予防に力を入れなければ防ぐことはできません。
今回は、一連の襲撃行為は10数秒だったと報道されています。
襲撃が起きてしまってからでは、
防ぐことはなかなかできないのです。

予防のためには、
襲撃者に対する
徹底的な調査、研究が第1です。
私は、主だった無差別襲撃の背景に
私が述べた事情が共通項としてあると思っています。

国家的プロジェクトとして
客観的な調査を行うべきだと思います。

調査するべき事項は
襲撃者の
孤立の現状、孤立の経緯、孤立の原因
想定される対人関係(家族、学校、職場)の状態、
孤立解消の可能性とその点の襲撃者の主観
襲撃者が疎外を受けていたとしたら
誰からどのようにされていたことか。

誰がどのようにかかわることのできる可能性があったか
居場所を作るとしたら、どのようなものが想定されるか
予算を惜しまずに研究するべきです。

今回の多くの犠牲者の方々の犠牲を重く受け止めるのならば、
本格的な再発予防を徹底していただきたいと思ってやみません。



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無差別襲撃事件の予防のために1 登戸事件の生存被害者の方、特に生存しているお子さんの被害を考える。「心のケア」は、専門家に丸投げするものではないこと。 [刑事事件]

事件が起きることによって
普段意識していない「日常の形」が見えてきます。
そうであるからこそ、
日常の形を知らなければ
事件の本質を知ることができず、
事件を予防する有効な手立ては作れないことになります。

昨日の川崎市登戸の事件の重みを
考えていきたいと思います。
亡くなられたお二方のご冥福を
心よりお祈り申し上げます。

今回は、生存者の被害とは何かについて
特にお子さん方について考えます。

お子さん方の「心のケア」が口に出されていますが、
その実態、内容は語られていないように思います。
専門家に任せればそれで解決するという問題ではないように思えてなりません。

そもそもケアが必要な「心の被害」とは何なのでしょうか。
それは
人間の安心の記憶がリセットされてしまうことだと思います。

キーワードは、
・予測不可能な攻撃
・死の危険の体験
・自己統制不全
というところにあります。

<他人を信じてしまう「こころ」がつくられる仕組み>

先ず、人間は、他人に対しては(自分を攻撃するものでない限り)、
どうしても安心感をもってしまうようです。
山中で道に迷うと恐怖と焦燥感に苦しみますが、
ようやく人里にたどり着いて民家などが見えると
ほっとしてしまうわけです。

これは理由のあることだと思います。
一つは群れを作るヒトという動物の
遺伝子的に組み込まれたものです。

他の人間をやみくもに敵だと思って警戒ばかりしていたら
群れを作れることはできないので
警戒しない、仲間だと思ってしまうことは
人間に必要な性質たということになります。

自分の母親以外の大人の感情にも共鳴するということが
二歳くらいから起き始めるといわれています。
これは、人間だけでサルにはありません。

もう一つは学習です。
人間の乳児期、幼児期は無防備で、無能力ですから、
どうしても大人の全面的な世話が生存のために必要になります。
だから乳幼児期を通り過ぎても生き残っている個体は、
必ず他者(親等)の全面的な世話を受けてきたことになります。
他の人間から、自分の弱点を補ってもらい、
援助を受けた体験があるということになります。

なんとなく他人は自分にとって役に立つ
という記憶を乳幼児期を過ぎた人間がもっているのは、
赤ん坊の時に全面的に世話を受けた体験からもきているのでしょう。

ただ、それとは別に、そして同時に
知らない人を警戒するという、これも本能があるようです。
信頼と警戒の
その折り合いを学習しながら成長するわけです。

学習していく過程の中で、
「自分とかかわりのない人は自分に危害を加えない」
という大切な社会性を学習していきます。
ここでいう「学習」とは、真実を知ることではありません。
そういうものだという記憶を形成することです。

<人間を信じるこころが壊れる仕組み>

人間が信頼できるという記憶は、
家やいにしえの村という閉鎖的な空間においては、
十分に形成されていきますが、
何らかの悪い大人によって
中断されることもあります。

現代社会ではその危険性は高くなっています。

無関係の子どもに怒鳴り散らす大人
性的加害をする大人、
アクシデントにもかかわらず感情的に攻撃する大人等
それから、いじめですね。

それでも、無関係な人間から攻撃されると
そこでへこたれているわけにはいかないので
通常は、それを教訓に行動を改善を試みます。
今度は攻撃されないようにしようという
防衛本能に基づく思考処理が行われるのです。

例えば、夜は一人で歩かないようにしようとか、
関係の無い大人にちょっかい出すことは怖いからやめようとか
そのような客観的に合理的な選択をすることが通常です。

つまり、危険の記憶と危険の直前の記憶を照合し、
危険回避の方法を学習するわけです。
危険回避が可能だと腹に落ちた場合、
危険に対する過剰な警戒は終了します。
逆に言うと頭では分かっても
回避可能だということが腹に落ちないと
警戒心が解除されるということがないのです。

警戒心は心身を疲労させますから
解除できないことは
心の疲労が蓄積されてゆきます[exclamation]

腹に落とす方法は、
眠っているときのレム睡眠のファイリング機能によると
考えられるようになっています。
眠っている時ですから無意識に行われるのですが、
覚醒しているとき以上に脳が活発に活動しているのですから、
無意識ですが、脳の機能ということになります。


このようにうまく、記憶のファイリングができれば、
例えば、自分の感じた恐怖は例外的な場面であり、
その例外的な場面に出くわしたら対処をすれば危険が回避できる。
対処をすることは可能だから、今度は安全だ
ということになります。
日常生活で、無関係な通行人等と
また安心してすれ違うことができるようになります。

ところが、そのような危険と関係のある前触れが思い当たらない場合、
記憶のシステムは混乱してしまいます。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
という結論が出てもおかしくはないのですが、
それは出さないように脳が勝手に動くようです。

「何ら危険を回避する方法はなかった」
ということは、
将来同じ危険が生じたら、
今度は危険を回避できないということですから、
絶望を感じることになります。

しかしこの絶望については
なにがなんでも受け入れないということが
脳のシステムのようです。

脳は迷走ともいえる「工夫」をしてしまいます。
例えば、本来、何ら客観性のない事象を
危険の予兆だと評価して決めつけ、
その予兆があると危険を想起して過去の感情をぶり返させ
警戒をさせるのです。

例えば、雨の日に性的被害にあった被害者は
雨が降ると被害にあった時の感覚がよみがえることがあるようです。
雨が降ると不安が大きくなってしまい、
外に出ることができなくなることがあるそうです。

例えば、子どものころ窓から外を見ていたら
右隣の家に住む精神不安を抱える人間から
突如窓から顔を出してこちらをにらみつけられて
とてつもない罵声を浴びせられ
驚いて自分の家にいても安心できないという体験をした場合は、
「何か右の方から悪いことが始まる」
という感覚を持ってしまうことがあるようです。

私でさえ、このような人を複数人知っています。
その人たちはみんな統合失調症の診断を受けてしまいました。

そのような客観的には不合理な「予兆」に対する過剰な不安が
本人も医師も記憶のゆがみだということに
なかなか気が付きません。

本人ですら、感情がぶり返すきっかけが何なのか
それすらわからないことが多いようです。
雨ということであればわかりやすいのですが、
臭いであったり、
風の音であったり、
服の色であったり
意識に上らない記憶に反応していることが多いそうです。

危険に対する過剰反応によって、
人間そのものを恐れるようになる
ということは自然の流れです。

予測不可能ないじめや
執拗に繰り返されるいじめ
回復手段がないいじめは、
子どもの社会性を奪うことが少なくありません。
社会に出ることができなくなり、
引きこもりや精神科病棟の住人になるお子さんを
多く見たり聞いたりしています。

何かわからないけれど自分が攻撃されるという恐怖や
絶望を回避するために
「自分が悪いから攻撃されるんだ。
 でも自分の何が悪いかわからない。
 自分の存在が悪いのではないか。」
という徹底した自責の念によって
他者とのかかわりができなくなるようです。

こういうケースでは、
およそ人間(ただし家族だけは例外)は、
自分に対して危害を加えるものだという
学習がなされてしまっているのだと思います。

今回の事件は、
2名の方が死亡し、多数が重傷を負った事件です。

凄惨な場面、音声、匂いとともに
命にかかわる危険だという強烈な記憶が
植え付けられてしまっているでしょう。

命に係わることですから、
人間の心の無意識のシステムは
命の危険に対する警戒感から
早く解放されたいという要求が大きくなっているはずです。

それにもかかわらず、今回のケースは。
全く被害者に落ち度がありません。
自分の行動を修正するポイントがまったく見つかりません。

合理的な警戒をすることによって安全の確保ができる
という安心を腹に落とす作業ができません。

事件が終わっても、
果てしなく警戒感が続く危険があります。

さらには、事件が20秒弱で完結してしまっていることからも
事件が起きてから自分の力で回避する方法がありません。
自分ではどうすることもできないという自己統制不全を
強く感じる可能性があります。

そうすると、
強烈な危険の感覚を受けたにもかかわらず、
記憶のファイリング作用による
安心感を獲得する仕組みは機能しないことになります。
危険から解放されたいという要求ばかりが、
行き場を失って過剰に肥大してしまうわけです。

つまり、
この次は、自分の命がないということにおびえ続けるか
人間を信じられなくなり、人間を見ると恐怖を感じるか、
理不尽なことに自分が悪いという自責の念にさいなまれるか
という苦しみが続きかねないことになります。

<心のケアとは何なのか>

先ほど学習とは真実を知ることではないといいましたが、
実際に、今回の事例でもわかるように、人間は、
必ずしも安心できる対象ではないのです。
それにもかかわらず、危険ではないという経験を積み重ねて
警戒を解いていくということが学習の意味です。

今回の事件の生存者の方々、
報道を受けて大きな衝撃を受けた方の中に
このような学習がリセットされて、
人間に対しての安心感を失う方が出てくるかもしれません。
平気な様子を装っていたとしても
そういうものだと思って何らかの対処をする必要があります。

では、
このようなお子さん方の「心のケア」とはなにをいっているのでしょう。

私は、心のケアを精神科治療や心理療法とは別の角度で考えています。

論理的結論とすれば、
人間に対する信頼の記憶
(関係の無い人間は攻撃してこないという記憶)
がリセットされてしまったのだから、
これから、少しずつ安心の記憶を刷り込んでいく
これが論理的な回復の方法ということになるでしょう。

精神科治療や心理療法という
当事者の心に働きかける方法だけでは
解決できないのではないかと考えています。

多くの大人たちが、
道などですれ違う子どもたちに対して
自分が子どもの記憶を形成に関与しているという自覚をもって
子どもの安心感を阻害しない日常を提供する
ということをする必要があると思います。

チャンスがあれば
安心してよいのだよ、あなたをみんなで守るからね
という扱いをされた記憶を刷り込むことです。

特別扱いするのではなく、
日常の仲間として当然のことだという扱いをすることで、
それは被害にあったお子さん方だけに対して行うのではなく、
およそ子どもに対しての大人の対応として行われなければ
逆効果になる危険があることです。

腫れ物に触るような特別扱いをされることは
仲間の外に置かれる感覚になることがあり、
安心感を奪うことがあるようです。

心のケアは、専門家に丸投げをするのではなく、
私たち大人のやるべきことなのだと思います。
子どもは社会で守るものだということを
意識する必要があると思います。

私たちが何をするべきか
それを今後も考えていこうと思います。
そのために、まず、被害を受けた方々のうち、
生存者に対しても深刻な影響があるということから
考えを初めて見ました。

次回は加害者の行為について
予防の観点からどのように検討するか
という問題を考えてみたいと思います。

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「自分が拒否されている」と感じるのは、攻撃的になっていることに自分で気付いていないからかもしれないこと。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



人の悩みの多くが、
「自分が(特定の)人から受け入れられていない。」
と感じることにあるではないでしょうか。

具体的に言えば
夫婦仲が悪い。相手がいつもニコニコしていない。優しくない。
いじめにあっている
パワハラにあっている。
正当な評価がされていない。
あるいは、
売り上げが上がらない
支持が集まらない
賛同者が集まらない
自分の言うことが相手にされない

あの人と同じことを言っているのに
あちらは絶賛されてこちらは無視される。

等々。

自分自身にももちろん覚えがあります。

そんなときによくあるのは、
自分が攻撃的になっているために、
他人が近寄りたくないという気持になっている
ということです。

自分が攻撃している相手から敬遠される
それならまだわかりやすいのですが、
自分が攻撃をしていない人からも
自分との距離を持たれてしまう。
あるいは、距離を置かれるどころか
自分に対して攻撃的な言動をしてくる。

自分ではその原因が分からず、
「どうして自分は他者から受け入れられないのだろう」
と思い悩むわけです。

「自分を受け入れない他者は間違っている」
と憤る人もいますが、
これも思い悩むことの一種です。

自覚がないのに
自分の攻撃性によって他者が自分を受け入れない現象には、
二つのパターンがあります。

一つは、相手を攻撃しているつもりがないのに、
相手は攻撃されていると感じるパターン(A)。

もう一つは、相手ではなく
明白に別の人を攻撃しているのだけれど
敬遠されるパターンです(B)。

Aパターンの典型例は、
夫婦間、職場(特に上司)でよく見られます。

Aパターンで自分の言動が攻撃と思えない理由も二つあり、
自分こそ攻撃を受けているので防御しているに過ぎないと
無自覚に感じていて、
自分が攻撃しているという意識をもてない(A-1パターン)。

相手が間違っているので、正そうとしているだけで
いわば事務連絡的な言動だという意識のため
攻撃ではないというパターン(A―2パターン)
に分かれると思います。

大事な人間関係で不具合を感じている場合は、
プラスワンの理論で、
自分の言い分、相手の言い分を並べて比較して、
どちらが正しいということではなく、
相手の感情に配慮して不具合を修正する
という作業をしなければならないと考えます。

A―1パターンでは、正当防衛の連鎖を
自分から断ち切らなければ収まりません。
自分を守らないことによって、
相手に安心を感じてもらう作戦が有効です。
敢えて言えば(たとえば家庭内)憲法9条作戦です。
(関係を切ればよいならそれほど悩まないでしょうから
 その方法をとれない場合の最善策ということになります。)

A―2パターンでは、
<攻撃とは何か>
ということを自覚する必要があります。

これは、単純に言動だけを見て判断することはできません。
相手との距離、相手のあなたに対する期待などの
その人ごとの要素でだいぶ変わってきます。

例えば家庭ならば、
相手はあなたといることに安らぎを感じたいものです。
あなたが帰ってくる時刻になると
恐怖と緊張で心と体が硬直するという家庭は
家庭の機能をはたしていません。

安らぎを感じるためには
ただいるだけでは不十分で
理想を言えばねぎらいの言動があるべきですし、
そうではなくても、自分自身を受け入れてもらう
という時間が必要です。
言葉については
言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう!を参照してください。

ところが、ねぎらいも寛容もないということでは、
安らぎを感じないで緊張と恐怖だけの存在になってしまいます。
この場合、ニュートラルという状態がない場合がある
ということを意識しましょう。
つまり、プラスがなければマイナスになる危険があるということです。

離婚の最大、最多の原因が、
「会話が、指図と否定だけの生活」だったということです。
この場合、
言っていることが正しければ正しいほど、
相手の落ち度をさらすことになります。

あなたが口を開こうとすると
自然に防衛行動をしようとしてしまうことは、
本能的な反射活動です。

口を開かれることが怖くてたまらなくなるのです。
そのうちにあなたの存在自体が相手にとっては、
自分を否定し、指図する存在だというように
単純化していく危険があるわけです。

ところが、言っている方は
当たり前のことを言っているだけなので、
そのことになかなか気が付きません。

ある日、街でばったりと出会って、
相手が自分を見つけて喜んでおらず、
瞳孔が開いて硬直している
恐怖感情をあらわにしているところに出くわすことになりかねません。

そういう体験があればまだ修正が利くのでしょう。
「良い夫婦の条件」http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/couple.html

一応念のために、街で相手に会った時は、
なにがなんでも先に見つけて、笑顔を作り、手を振るなどして、
相手に恐怖感情を表現させないように先回りをする
ということを頭に入れておきましょう。

A―2パターンの防止のためには、特に家庭の場合は
正義を持ち込まない。
正義や常識、効率性ではなく、
相手の気持ちに配慮して行動するということになります。

A-2パターンは、難解で
自分の何が悪かったのかということに深く思い悩みます。
これも夫婦問題で多いパターンだということを
知識として知っていないと
これが原因だということさえ思い当たらないことかもしれません。


次にBパターンですが、
Bパターンがあるときは、Aパターンが併存していることが多いようです。
特にA-2パターンですね。
正義感の強い人によく現れます。

Bパターンの起きる場所ですが、
これも、夫婦や職場の間でも起きているのですが、
むしろ社会的な人間関係にみられることが多いようです。

職場の雰囲気が悪くてお客さんが減るということは
この典型的パターンです。
それから、常連しか集まらない政治的なSNS
社会運動の活動
自分は、自分たちは正しいことを言っているのに
第三者からの暖かい支援を受けにくい
そう悩んで、改善したい場合は、
ぜひ真剣に検討するべきだと思います。

また、
同じ事を同じように言っているのに、
なぜか相手の方にばかり賛成が集まり、
そして相手は批判がされない。
こちらの賛成はいつものメンバーだけで、
広がらない。
かえって、陰で自分は批判や中傷がなされる。
なぜ、あなたから足を引っ張られなければならないんだ。

また、自分としては当然言うべき社会的発言をしているのに、
家族からは嫌がられる。
(家族の情報を知らない人にさらすことに抵抗することは当然として、
 そういうことをしないのに嫌がられる。)

これはなぜ起きるのでしょうか。

人間の「秩序の形成に参加しよう」とする本能に原因がありそうです。

人間は無意識に秩序を形成する行動を選択する動物のようです。
もっともこれがなければ群れを作ることはできません。

この秩序を形成しようとする本能の出方には
バリエーションがあります。
・群れのトップに従おうとすること
・決まりごとに従おうとすること
・群れの仲間と仲よくしよう、仲良くされたいと思うこと
そうして、
・争いがあると不安になること
・争いの当事者にならないようにしようとすること
・争いの外に自分を位置づけようとすること
等です。
いじめの傍観者の心理は、
この秩序形成本能が悪い方に出ているように思われます。

だから、
他者に対して怒りをあらわにしている人や、
誰かを攻撃していたりする人は、
あるいは誰かを馬鹿にしたり嘲笑したりする人は、
秩序を壊している人と感じるので、
近づこうとしないし、
共感チャンネルを閉ざそうとする気持ちが生まれる
ということになります。

秩序を維持しようとしている人の方が攻撃されているときは、
さらに、弱い人を守ろうという意識まで発動されて、
批判者に憎悪の感情が持たれるということもあります。
これは、理性的な判断ではなく、
即時的な、条件反射的な感情なのです。

正しいことを言っている、
言わなければならないことを言っている
そういう気持で発言していても、
結果としては
「乱暴者が暴れている」
という意識で冷ややかに見られていることと同じだし、

無意識に自分が争いに巻き込まれるという恐怖(焦り)が生まれ、
余計な紛争を起こそうとするあなたに対して
いらだちが生まれるわけです。
少なくとも、一緒にいて安らぎを感じませんから、
一気にマイナスの感情になっている可能性も大いにあるわけです。

もう一つ、袋叩き反撃仮説というものがあり、

ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説

誰かが戦っていると、
無意識に自分も闘いに参加しなくてはならない
という人間の本能があって、
仲間であればあるほど参加しなくてはならないという
強迫神経症みたいな心理が働き、

誰かを批判する言動が的を射ていればそれだけ、
つまり正しければ正しいだけ、
行動を起こさない自分が責められている
という感覚も持つようです。
自分を守ろうとする意識が
(発言者から見れば)誤作動を起こしているのでしょう。

この分析に基づけば、
二つの目的を実現する方法が見えてきます。

一つには、自分の意見が中立の第三者とか、反対者にも受け入れられるという目的
もう一つは、自分の発言によって大事な人が遠ざからないという目的です。

<鉄則>
結論を重視するのであれば(怒りを発散すればよいというのでなければ)
怒りの感情をあらわにした発言などをしないこと
誰か「特定の人を」責める形、批判する形をとらないこと
やむなくそういう場合でも、人間に対する敬意を払うこと、
誰か特定の人を悪だと決めつけないこと
利害対立をあおらないこと。

会社、学校、社会などの不具合を修正するという視点をもつこと
具体的には、みんなの利益という観点からの主張
夫婦双方(私たち)の利益
クラス全体の利益
会社と顧客双方の利益
社会全体の利益
という視点からの発言をする。

既存の秩序、価値観の否定に終わらないこと
新しい秩序形成の提案、新しい価値の提案の形にすること
旧秩序、旧習慣の合理性の部分を肯定すること

受け手の行動は、あくまでも受け手の自由裁量にゆだねること

相手に何を求めるか
ということを明確にすることも大切でしょう。

またもう一つ考えられる理由があります。

他人は、よほどのことがなければ
あなたの絶望を覗きたくありません。
絶望に共感してしまうと
苦しくてならないので自己防衛行動を
無意識に選択する場合もあります。
このため、あなたの行動やあなた自身を
無かったことにしたい。
あなたに原因があるから(悪いから)
仕方がないと納得して自分の心の折り合いをつけたい。
これが、あなたが攻撃される理由なのかもしれません。

誰彼構わず苦境を吐露せずに、
信頼できる人だけに、あなたの苦しみを受け止める人だけに
限定して心情を打ち明けるべきです。


なお、自分の大事な人の前では
誰かを批判することは最低限にするということも
あるいはしないということも
選択しなければならないことがある
ということもお考え下さい。



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【御礼】類型200万件(ビュー?)突破記念 対人関係学のページ全面リニューアルのお知らせ [閑話休題]

昨日、このブログの類型数が200万件を突破しました。
お読みいただいた方々に感謝を述べなければならないと
強く感じました。

というのも、ブログ一般では、驚くべき数ではないのかもしれませんが、
なにせこのブログの各記事は、
第1に、長い。
第2に、内容が固い。必ずしも読んでいて楽しいわけではない。
第3に、発想が飛びすぎているところがあり、
一読して理解しずらいことが多い。
それなのに、ろくに推敲もしないまま書きなぐっている。

およそ読みやすいブログではありません。
私が言うのだから間違いないでしょう。

それにもかかわらず、
10年経過しないで200万ビューというのは、
正直驚いています。
このブログをお読みいただける環境の方々の
筆者を超える教養とご寛容に
素直に頭が去ります。

200万件というのは大きな節目なので、
何か記念のことをやりたいと思っていたのですが、
ちょうど、
4月にヤフージオシティーズが閉鎖となり、
事務所のホームページを強制リニューアルするはめとなり、
ホームページビルダーを21にお金をかけてバージョンアップして、
せっかく身に着けたノウハウがあったし、

このブログと事務所のホームページと三位一体である
対人関係学のホームページが
5年前に作成していて、
体裁も乱雑だし、内容も古くなったかなと思い、
リニューアルしようと思い立ちました。

そうしたら、5年前のものがそんなに古くなっていなかったのです。
この間、進化心理学や進化生物学、認知心理学や大脳生理学など
勉強しまくったはずなのに、
それほど理論的進化はなかったことになります。
ちょっとショックでした。
5年前に既に完成されていたと思うようにすることにしました。

ただ、このブログよりは、簡潔にわかりやすくを
一応心掛けて
一度様々な論点を整理しようと思いました。

ちょうど令和に代わるときに10連休があったため
その時間を利用して作業を進めることができました。
このため(本当は過去分と区別をするために)
令和対人関係学のページという制作コードにしました。

過去分はリニューアルのアーカイブにまとめてはみましたが、
自分にとっては、史料価値があるし
この時期からこういうことを言っていたのだという
証拠みたいになるかなと思い
過去のホームページは閉鎖しないことにしました。
(ただだったもので)

新しい対人関係学のホームページは、
インデックスというか、用語の確認というか、
あると便利です(これも自分にとって)。

また、いくつかの理論のようなものは、
このブログを書いているうちに思い付いたものが多いのです。
それから実務で話していることを文字にしようと思ったのも
このブログを書いていたからだと思います。

今もそうなのですが、
誰かに読んでいただくということを念頭に
記事を書いていると、
日記を書くよりも緊張感というか、
もっと読んでもらいたい、
もっと説得力を身につけたい
もっと必要なことを考えたい
という気持になるものです。
そういう意味で、二つのホームページとこのブログは
三位一体だと感じています。

そして私一人で作成しているのではなく、
お読みいただいている方とご一緒に作り上げている
というように感じています。
そうでなければできなかったと思います。

最後に新しいページの中身を紹介します。
<トップページ> あまり内容はありません。
目次を加えました。
ただ、対人関係学をどうして作ろうとしたかを簡単に書いています。

<対人関係学概要・用語のページ>
対人関係学について、丁寧に説明しています。
ブログや各論のページでは、省略したり最小限にしたりしている
そういう大事なことを書いています。
お手数とお時間をかけさせてしまいますが、
これを読んでいただければ、他の記事もわかりやすくなります。

用語について
これも各論を読んでいただいたり、
このブログを読んでいただいたりしたときに、
あると便利だろうなと思い作りました。
正確性よりわかりやすさに力点を置いています。

<研究ノート・妄想のページ> 対人関係学の説明として
どんな勉強をしてこう考えたかということを
紹介しておいた方が便利かなと思い作りました。

今のところこのブログの記事を並べています。
これで気が付いたのですが、
対人関係学のページを作る場合は
ハーマンの「心的外傷と回復」だったり、
思い込みDVを提唱する時にはウォーラースタインだとか
けっこう勉強した成果をすぐに表現したい
という傾向が見えて我ながら面白かったです。

妄想の欄の記事が、実は一番読んでいただきたいところなのですが、
どこまで役にたつものか不明で、
かつ専門的にどこまで間違っていないのかということが
全く自信がないので、
敢えて妄想と名付けました。
ドーキンス博士の利己的遺伝子批判は、
対人関係学の内容を説明する
もう一つの概要説明となっています。

ラスコー洞窟の謎についても
これぞ対人関係学
という内容になっていると思うのですが、
いかがでしょうか。

<道徳・正義・人権のページ>
このテーマは、とても気に入っていいます。
ほとんど書き下ろしです。
誰も言わないだろうことを主張しております。

「道徳の起源・人の心の形成期に道徳はなかった」
「正義を肯定的に語ることは金輪際やめよう」
「人権として『権利が生まれる時』、『弁解する権利』『表現の自由 自分のことは自分で決める』」
という記事で、力を入れているところなのですが、
正義を否定するというと悪魔みたいで面白いと感じています。

<故事等再定義のページ>
このブログで好評をいただいた記事を中心にブログ記事をリンクさせています。
故事ことわざって、おばあちゃんの知恵袋のように、
その理由はわからないけれど
それに従って生活することで、無用な争いを避ける
無用な孤立や疎外感を防ぐ
というような生活実務上役にたつことが多いようです。
ところが現代の孤立した若夫婦には
それがなかなか伝わりません。
そういう視点で、再定義、再評価しています。

<解決のためのツールのページ> 自分で悩むとき、誰かを支援するとき、フリーハンドではなく
しっかりした武器があることが有効です。
「部分的承認の技法」
「プラスワンの技法」
「心は後からついてくる 対人関係的危険」
弁護士の技術は大事なところまで一子相伝的なところがあるので、
敢えて文字にして使えるものなら使ってもらおう
ということも、このブログの目的なのです。

<自死(自殺)のページ>
「自死に至るメカニズム」
「子どもの自死の第三者委員会は何を検証するのか」
このページは最優先で補充していくつもりです。
事務所のホームページにも自死対策のページがあるので
ここもどうすみ分けるかが課題です。

<夫婦円満の秘訣と夫婦仲が壊れる原因のページ> 「良い夫婦の条件 DV案件から考える」
「『出産したら別の人』と心得ることの意味」
産後クライシスや脳機能の変化、ホルモンバランスの変化をまとめています。

「真正DVとはなにが起きているのか」
書いてて苦しくなりましたので、読まれる場合は自己責任でお願いいたします。

書き下ろしというか、まとめを意識して、
これだけで各論点が抑えられるようにとの目的です。

<子育て・いじめ・虐待のページ> 「子どもをいじめに負けない人間に育てる家族力とは何か」
「いじめる側の分析 なぜいじめることができるのか」
「いじめのパターンと分析 わが子がいじめにあった時の対処法」
「LINE等のSNSがなぜいじめに利用されるのか 危険の所在 おとなもだけど」
「虐待の原因と予防対策」

力を入れたページです。最近力を入れています。

<職場の人間関係のページ> ここは対人関係的労務管理をやや詳しく紹介しています。
ここも補充が必要ですが、
事務所のホームページとのすみわけに悩むところです。

<クレーマー・無差別殺人のページ> 「クレーマーへの対応」
のみとなっていますので補充が必要ですね。

<医科学・脳科学への要望のページ> 「病気が生活に影響を与えることの研究と啓発をお願いしたい」
「それ本当に統合失調症という診断でよいのですか」(ブログ記事の転載)

<アーカイブのページ> 以上です。盛りだくさんですが、構想はまだまだ完成していません。
今後ブログとの連携を図りながらになるでしょうけれど
充実させていきながら
誤字脱字の訂正とかリンクとか
やっていきたいと思っています。




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京都府警の指導によるYこども園の子どもの親をさらし者にする訓練を無批判に報道する京都新聞に対する疑問 [家事]

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この写真を見てください
母親と暮らす子供を別居の父親が連れ去ろうとする事件を想定した訓練で、園に侵入しようとする父親を保育士たちがさす股などで抵抗しているのだそうです。
指導したのは京都府警八幡署と京都府警少年課
実行しているのは京都府八幡市のYこども園
そしてこれを報道しているのは京都新聞です。
https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20190524000085/1



第1に、これは、子どもにとって精神的衝撃を与えられるものです。
ちょっと考えればわかることですが、
自分の父親ですよ。
自分の父親が、寄ってたかって凶悪犯扱いされ、
武器を持って攻撃されている図を
目の当たりに見せられるのです。

かなりショックです。
大変むごいことです。
将来的に記憶が残るでしょう。
自分の父親がみんなから悪として
憎悪の対象として扱われた記憶です。

この記憶の問題が顕在化するのは
15歳ころ、自我が統一される時、
自分は絶対的悪の父親の子どもだという記憶が
アイデンティティーの確立に入り込んでしまうことです。
当然、自分に対する評価が低下してしまい、
自尊心が高まる記憶ではないのです。
それ以前に取り返しのつかないことに
なっているかもしれません。
子どもたちは容赦ないですから
子どもの親も含めてその日から
あの人の子どもだとその子を扱うでしょう。

先ず、警察はこのような子どもの心理を
気にしない危険性が高くあります。
それは、主眼が犯罪者の検挙だからです。
犯罪者の検挙という絶対正義を実行する際、
その妨げになる要素は後景に追いやられます。
勢い、子どもの利益にかまってはいられなくなるようです。

数年前、児童虐待で父親が逮捕された報道がありました。
その際、性的虐待も視野に入れて追及する
という警察発表が全国ニュースで報道されました。
犯人である父親の氏名、ある程度の住所もさらされました。
その子供が被害者ですから
その苗字、その住所の子どもが
性的虐待を受けたかのような報道がなされたのです。
その結果、子どもは転校を余儀なくされました。

警察は父親をさらすことに夢中で
子どもをさらしていたことに気が付かなかったのかもしれません。

ところが、のちに裁判で、
児童虐待の事実は認められず、
性的虐待云々は、母親の妄想であるとの認定がされたのです。

警察はある程度そういうところだということは
ある意味理解できるのですが、
こども園は保育士や教師がいるところです。
それらの教育を受けた人間が
警察の論理で、子どもに精神的外傷を与えるような訓練を
平気でしていたということは
非難されて仕方がないでしょう。

こども園であるにもかかわらず、
子どもの利益を最優先していないと
評価されても仕方がないでしょう。

侵入する者がいたら
子どもを建物の中に入れて、
警察を呼べばすむことです。
攻撃する必要があるのでしょうか。
晒しものにする必要があるのでしょうか。

批判の第2点は、
侵入してくるのが母親だったら
やはり、大勢で取り囲んで
子どもの前で刺す股で突くことをするのでしょうか。
子どもの命に対する危険性は
統計的に言えば母親のほうが父親よりも
圧倒的に多いのです。

また、母親が家から追い出されて
子どもと会えないということは少ないわけではありません。
そのようなケースで父親と暮らしている子供を
母親が取り戻しに来るということは
ありうるわけです。

この母親を取り囲むのか
みんなで憎悪の対象にして
子どもの前でさらし者にするのか
それを聞いてみたいです。

もし、母親と父親を別に扱うなら、
それは性差別でしょう。

多くの家族事件で、
包丁などの凶器を持ち出しているのは
実は母親です。
力の弱い女性だからこそ、
殺傷能力の強い武器を持とうとすることを
理解しておかなければなりません。

3 男女差別でのジャッジをこども園がしてよいのか

両親の争いは、
通常はどちらが悪いというよりも
すれ違い、行き違いで溝が埋まらなくなる
という図式が多いのです。

その結果、子どもを取り合うというながれになります。

住んでいた家を、子どもを連れて出ていくということが
どこまで是認できるか大変疑問です。
少なくとも子どもにとって父親あるいは母親と
別れなければならない理由が弱いことが
圧倒的多数のようです。

それにもかかわらず、
父親が取り戻しに来たからと言って
それに応じないことはともかくとして
大勢で取り囲んで攻撃することは
過剰反応だというしかありません。

これは、子どもと一緒に住んでいる母親は守るべき対象で
取り戻しに来た父親は攻撃する対象だと
類型的に割り切っていることが前提だと思われます。

しかし、実際の事件では
母親が医師から統合失調症疑いとされていて、
包丁を振り回して暴れているので夫が110番したら、
警察が母親を保護するだけでなく、
子どもまで母親と一緒に「保護」してしまい
父親に所在を告げないという事態がありました。

子どもは母親から脅迫されており
逃げることができない状態になっていました。
数か月後になってから
ようやく命からがら逃げだして
父親に保護されましたが、
精神的外傷を負ってしまい
学業に多大な影響が出てしまいました。

未だに警察から、父親へも娘へも
謝罪の一つもありません。

少なくとも、子どもを連れて出ていった母親が
必ずしも正しいというわけではないのです。

このような訓練は、防犯上実務的なものではありません。
父に限らず母にしても、
子どもを取り戻そうとして狂気にとらわれた人間を
素人の女性職員が立ち向かえるわけがありません。

これらの職員は常に武器を持ち歩いて保育をするのでしょうか。
結局、父親を悪だと決めつける洗脳的な
刷り込みをしているに過ぎないのではないでしょうか。
子どもを連れ戻そうとする親の思いを
ふざけてかるく考えてはいけません。
蛮勇を命じて負傷した場合、
園はどうやって責任をとるつもりなのでしょうか。
こういう人たちに、子どもを任せられるのでしょうか。

4 批判の最大ポイントは京都新聞の報道姿勢だ

これらの問題行動は、
それぞれ個別事情があって、
おそらく、警察全般が無批判に行うことではないでしょうし、
京都という土地柄とは無関係でしょう。
Yこども園以外には、無批判にこのような協力をしないと信じたいです。
要するに個別事情なのだと思います。

それを大ごとにしているのは京都新聞だと思います。

ちょっと考えただけで上記のような批判は
私でなくとも誰でも思いつくことです。
間違った訓練であるということは
写真を見ても明白でしょう。

それにもかかわらず
無批判に報道をすることによって
洗脳的刷り込みがなされていく危険があります。

おそらく事件報道について
警察からの情報がなければ記事が書けないために
警察の報道要請にたいしては
無批判に追随しているのだと思います。

ジャーナリズムは社会の木鐸として
警鐘を鳴らすことが使命だと言われることがあります。
このような報道姿勢は
ジャーナリズムではなく
まさに大本営発表を垂れ流した
日本のマスコミの伝統を受け継いでいる
ということなのでしょう。

竹やりで戦争を完遂させようとした図柄が
そのままだということにも違和感を感じないのでしょう。

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言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう! [進化心理学、生理学、対人関係学]

言葉がどうやって生まれたかについては
学説の争いがあります。

警告説
危険の存在を知らせるために言葉が生まれた。
サルの中には、危険を声で知らせ合う種類があって、
その声で、空からの危険なのか
地面からの危険なのかわかるので、
逃げ方が変わるらしいです。

毛づくろい説
サルが群れの仲間と相互に毛づくろいをして
コミュニケーションをとっていることから
体毛が薄くなった人間は
毛づくろいの代わりに
言葉を出し合うようになったというのです。
ロビン・ダンバー先生の説です。

この場合のコミュニケーションというのは、
お互いに敵意がないことの証明で、
心配しなくてよいよ、安心してよいよ
という信号のようなもので、
言葉というより音があればよい
例えばボー、ボーとなだめるように言えば
それで事足りたのでしょう。

この説に対しては、
現在の言葉がこれだけ多数に上ることを
説明できないという批判があります。

私は、それぞれの説は、
それぞれ正しいとして良いのではないかと考えています。
特に言葉が多いことの説明は、
時期的な違いに還元できると思っています。

要するに、今を去ること約200万年前、
人間は群れを作り生活していたわけですが、
狩猟採集をして生活していたとされており、
男は小動物を狩ってたんぱく質を確保し
女性等は子育てをしながら植物採集をしていた
のではないかとされています。

ここでいう女性とは、おそらく繁殖期のことで、
子孫を残すためには、
女性は走り回らない方がよい
ということを覚えていったのでしょう。
いずれにせよ、当時、子育てと植物採集は
群れが生き延びるための必要条件でした。

この頃の狩りは
体毛の濃い動物をどこまでも追い詰めて
熱中症様の状態に消耗させてしとめる
といういじめのような狩りだったので、
体毛の薄い人間は有利でした。
狩りチームは、危険と隣り合わせですから、
危険の種類や危険の程度を教えあるために
声の信号を使ったということはありうることです。

採取チームでも同じかもしれません。

群れの中では、突然不安に襲われることはよくあることで、
例えばオオカミの遠吠えを聞いたら
襲われるのではないかと恐怖になるでしょう。
また、出産に伴う生理的、脳科学的変化はあるし、
不意の死別もよくあることだったわけで、
対人関係的危険も共感モジュールによって存在したはずですから、
とにかく不安には事欠かなかったはずです。

大丈夫だよ、私たちは仲間だよ
という信号を声で発したということは
目に浮かぶのではないでしょうか。

声を出された方は、
自分が不安だということをわかってくれている、
自分の味方だと言ってくれている
ということを感じて
不安をある程度治めたことでしょう。

これを言葉の出発と言えるかどうか
厳密なことはわかりませんが、
このような行為をしていたということは
納得できることのように思われます。

先ずは、のどから音を出す習慣が存在することが
言葉が生まれる大前提だと思うので、
その意味でこれは言葉の始まりだと思います。

それから言葉が、語彙が増えていった理由が、
対人関係学が強調する
複数の群れが相互に影響を与え合うようになり、
人間の能力を超えた人数とのかかわりが始まったことによるもので、
それは農業革命が起きた時期、
つまり、今からせいぜい2万年前のことだと思います。

なぜ言葉が増えていったか。
その前になぜ単一の群れの場合は
言葉がいらないかということですが、
生まれてから死ぬまで同じ仲間と過ごし、
日常生活がずうっと一緒で
一人の時間を楽しむなんてことがない時代は、
仲間と自分の区別がつかない状態で、
一つには、仲間の状態を常に思いやっていたし、
一つには、仲間の感情は言葉がなくてもすぐに分かった
ということで、言葉は不要だったのだと思います。

仲間の置かれた状態を見て
自分がその状態にあると感じ
自分の問題として仲間の問題を解決しようとした
これが共感モジュールの根幹です。

その時代は、危険とはおおむね自然の驚異で、
それを知らせ合うことと、
理由があってもなくても不安に対して
慰めることができればよかったから、
ボー、ボーのイントネーションさえ違えれば
用事がすべて済んだのかもしれません。

ところが、複数の群れが関与し合い、
人類の脳の限界を超えた人間との関与が始まると、
利害調整をするためには、
細かい区別が必要になったはずです。

また、危険の内容も、
人間からの攻撃という厄介な攻撃を検討しなくてはならないし、
人数が多くて名前を付けなければ、
誰がどのような性質をしているか混乱してしまい、
相手を記憶していることも難しくなったということもあるでしょう。

それ以前の危険が、
生命身体に決定的な打撃を与える危険であればたりて、
それほど種類も多くなかったのに、
仲間ではない人間とかかわることによって
危険の程度も幅が広がったし
危険の種類や対応も同様に広がったはずです。

もしかしたら不安の種類や程度も
同じように広がっていったのかもしれません。

かかわりあう人間の数と群れの種類が増えるたびに
言葉が増えていったのだと思います。

アルファベットの起源が
交易を盛んにしていたフェニキア人の文字だということは
とても象徴的な話だと思います。

そして言葉が生まれることによって
さらに詳しく場合わけができたり、
道徳が生まれたりして、
さらに危険が増えて、言葉が増える原因となったのだと思います。

現代はそれが極致に達している状態なのでしょう。
我々が日常生活を送っていても
日本語だけでは不便で、
インターネットなどでも外来語をつかわなければならないようになっています。

このように(私の考えが間違ってなければ)、
言葉は、当初、仲間を助けるため、
仲間に対する思いやりを示すために始まったにもかかわらず、
複数の群れ、多すぎる人間関係の中で
変質していったことになります。
この時期から言葉による攻撃も始まったのかもしれません。

私たちの心は
約200万年まえに、つまり狩猟採集時代に
形作られたということらしいのです。
だから、私たちは仲間というか人間から
思いやりを持って接してほしい、
攻撃をしないで助けてほしいと
そう思ってしまう生き物のようです。

ところが、現代社会の複雑さから
基本的群れである家族でさえも、
言葉がなければコミュニケーションが取れない
そんな希薄な人間関係になってしまっているのではないでしょうか。

家族の中での対立は、
家族の外の人間関係である
会社、学校、地域、あるいは社会、国家
の対立関係、疎外されている感覚が
反映して起きている
そこから出発していると説明できると思います。

私たちは家族や
あるいは会社や学校でも、
言葉の原点に立ち返ることが
必要なのではないかと思うのです。

言葉を相手にある危険を回避させるということは
現代社会ではあまり使わないでしょうから
どちらかというと、
相手の不安をなだめるために言葉を使う。

しつこいですが、それは
ボー、ボーでよいのだと思います。
相手を攻撃しないということは
じゃあどうやればよいのとわかりませんから
相手を積極的に落ち着かせる
自分にはあなたに敵意はないよということを
積極的に言葉として発するということなのでしょう。

何を言えば良いかわからない人のために文明があります。
先ず挨拶です。
おはよう、お帰り、いただきます。
全ての挨拶は、敵意のないことの表現だと思います。

天気がいいね。花が咲いたね。
意味のない言葉こそが、敵意がないことの表明です。
日本語ではお愛想と言いますね。
真理を的確に表したネーミングです。

上級編は、感謝や謝罪なのでしょうが、
意味のない会話をする努力
これが言葉の出発点であり、
200万年前に生まれていたインテリジェンスなのだと思います。

言葉が伝えるべき最大の情報は、
私はあなたに敵意がありません。
あなたを大事に思っています。
ということに尽きるのでしょう。

負けるな現代人!


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すべての子どもたちが、親から大切にされて生きる権利、親を大切に思える実感を持って生きる権利を奪わないでほしい [家事]

すべての子どもたちは、
親から自分が大事にされていると感じることによって
自分は尊重されるべき人間なのだと
自分を大切にすることができるようになるし、
人間は尊重されるべき存在だと
人間を大事にすることができるようになるようです。

親から大事に扱われることは、
人間として健全に成長するための
基盤となる環境なのでしょう。

自分が親から大事にされること、
親が大切だと思えることは、
子どもにとってかけがえのない権利だということになります。

対人関係学では、
この意味における親は、親であれば何でも良いと考えます。
実の親であろうと育ての親であろうと
一緒に住んでいようと離れて暮らしていようと
今、生きていようと死んでいようと
親の記憶を含めて、親であれば
子どもにとって大切な存在であると主張します。

まず、親の命が奪われる事態をなくしてほしい。
現代では、過労死、事故死、争いによる死亡、そして自死と
親の命が奪われることが多くあります。
人類の英知を結集して
人の命が不合理になくならないためにどうしたらよいか
最優先で研究して欲しいと思います。

次に、生きていても、
子どもが親に会えなくなる事態が頻発しています。
子どもの権利条約では
子どもが親の愛情を受けて育つことが
国際的な権利だと定められています。
このことをよく考えてほしいのです。

事情があって親と分離することが必要でも
シャットアウトするのではなく、
少しでも直接の交流をする工夫を
皆で考える必要があると思います。

いろいろな働きかけをして
一日でも早く一緒に暮らせるようにする
そういう方向で働きかけを行うべきなのに、
分離してそれで終わりという
子どもの成長する権利を省みない
そんな取り返しのつかないことが横行している
と常々感じています。

第三者が親の人格を否定している姿を
子どもに見せつけるのは即刻やめるべきです。

子どもが親から離されても
親の元に逃げる時は、
自分が差別されているときと
親を否定されることに耐え切れなくなったときのことです。
自分の親が否定されることは、
子どもの将来に悪影響を与えるだけでなく
子どもにとって、今辛いことです。

次に、
人の親に対して、
家庭に影響を持ち込むような心理的圧迫をかけないでほしいのです。
職場や社会で責められ、心理的に圧迫されると
気持ちがすさみ、自分を守ることに過敏になってしまいます。
自分より弱い子どもからさえも
自分を守ろうとして子どもを攻撃したり、
子どもに八つ当たりをしたりしてしまいます。

だから、人の能力を超えるノルマを課したり、
その人に屈辱感を与える扱いをしたり、
その人の判断を許さないマニュアルや
すべてのことを上司の判断にゆだねる方法、
不合理な、人を馬鹿にするような評価、
こういうことはやめてほしいと切に願います。
こういうことに嫌悪を感じる人間性を取り戻しましょう。

それから長時間労働や単身赴任で
子どもと一緒に生きる時間を奪わないでほしいです。

最後に、
肝心の親である私たちは、
子どもの前では少しだけ無理をしましょう。

食場や社会のことを、気持ちの上で
家庭に持ち込まないようにするのです。
これはなかなか難しいことかもしれません。

しかし、
この世の中の大人の代表として
この世の中の子どもの代表である我が子のために
気持ちを切り替えましょう。

社会で不遇な思いをしていても
その中でも、少しでも、幸せに生きる工夫をしていること
その中でも、子どもを大切にしていることを
子どもたちにわからせることはできます。
自分ができる範囲ですればよいのです。
初めからあきらめなければそれでよいと思います。

過ちを犯した人も
罪を認めて反省し、償い、
立ち直ろうとする姿を見せることができます。
これは今の世の中では最も役に立つ親の務めかもしれません。

酒やギャンブルが夫婦不和の争いの種なら
子どものために、少しずつ控えましょう。
子ども前ではやめるように頑張りましょう。

親同士が争わないことも大切だけど、
悪口や争いをなくそうなんてことではなく、
それ以上に探し出してでも親同士がほめあうようにすれば
子どもはきっと幸せになるはずです。

相手の行動を口やかましく論評するのではなく、
相手の行動を最大限尊重し、
感謝の気持ちを子どもの前で示しましょう。

子どもの前で怒る姿、誰かを攻撃する姿も
できるだけやめたほうが良いかもしれません。
それがどんなに正義であっても
子どもがそれを理解できなければ
怒る人間に甘えようとはしないでしょう。
親といることに安心できなくなるかもしれません。

もし今あなたが人生の意味を見失っているならば、
子どものために生きるというアイデアを考えてほしいのです。
自分を捨てて子どもに仕えるということです。

自分を守ることをやめて、自分を危険にあえて晒してでも
子どもを守ることに全力を挙げるということです。

今あなたに子どもがいなくても
誰の子どもでも子どもは結局
大人が育てなければならないわけで、
みんなで子どもを育てる
それがどうやら人間の本来の行動傾向なのだそうです。

結局子どもが健全に育つためには
誰もが尊重されて、誰もが不合理な扱いを受けない
そういうことが必要なのだと思います。

子どもから親を奪うことが
次の時代には持ち越されないように
この時代で終わりになりますように。

令和元年子どもの日万歳。

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