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自尊心・自尊感情 対人関係学のホームページより転載 [進化心理学、生理学、対人関係学]

対人関係学のホームページより
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
お時間ある方むけです。すいません。

自尊心・自尊感情

自尊心、自尊感情という言葉が、話題になることが多くあります。ただ、その意味は論者によって違いがあるようです。一般的には、自分を大切な存在だと思う感情ということになるでしょう。
自尊心をもつことは、人格形成や情緒の安定のために重要であると考えらえています。逆に自尊心の欠如は、情緒が不安定となり、アルコールなどの薬物乱用、犯罪やギャンブル、性行動の逸脱、依存症、いじめ、自死等社会病理の原因になると言われています。
それほど大事なものならば、子どもには自尊心を持ってもらいたいと思うのですが、少し漠然としすぎているために、結局何なのか、どうやったら自尊心を持つことができるのか、自尊心を持てない危険性が、あいまいで、頼りなく感じます。今回はそのお話しです。
少し、自尊心を調べていたら、ちょうどよい説明を見つけました。
辻正三先生という方が、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)で書かれている説明です。そこには、「たいていの人は、自分が他人から受け入れられ、また自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望を意識的、無意識的にもっている。これが自尊心にほかならない」と説明されています。私が、対人関係学的な自尊心として説明したい定義にぴったりなので、この意味について勝手に解説をするところから始めていきたいと思います。

<辻正三先生の定義を勝手に解説>

1)自分が他人から受け入れられたいという意味と、たいていの人が感じる理由

ここから、すでに対人関係学なので、その原理についてはいつも説明している通りです。つまり、人間の心は約200万年前に形成された。その時代は、狩猟採集時代で、一つの群れの中で人間は一生を終わっていた。人間は群れを作らないと飢えや肉食獣の攻撃に耐えられなかった。言葉のない中で群れを作るための感情を持っているものだけが群れを作り子孫を残してきた。ということです。
子の群れを作るための感情の一つが、「群れの中にいたい。群れにとどまりたい。」という感情なのです。群れの中にいると、安全を感じ、安らいだ気持ちになるわけです。このことは、群れからは追放されるのではないかと感じると、とても不安になることを意味します。この不安は、けがをしたり、病気になったりするのではないかという不安と、同じ心持であることが知られています。この。「群れの中にいたい、群れにとどまりたい、群れから追放されると不安や恐怖を感じる」という感情が、現代的には「他人から受け入れられたい」という表現になるわけです。他人から受け入れられるということは群れにいることを許されるということですし、受け入れられないと感じることは、追放されるのではないかと感じることだからです。
私たちは、200万年以上、群れを作って生活をしてきた人間の子孫ですから、人の個性によって程度は違いますが、多かれ少なかれ、他人から受け入れられたいという気持を遺伝子に持っているのです。

2)自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望

自分の存在価値とはどういうものでしょうか。
これも、今の説明の延長線上にあります。一つは「群れにとどまりたい」という心に由来すると思います。はっきりした流れを意識することは少ないのですが、自分が群れにとって有用であるならば、群れに留まる資格のようなものがあるという感覚を持てるのではないでしょうか。だから、群れにとって自分が役に立つ人間だという感覚は、群れの中で安定した立場を感じさせるのだと思います。自死の研究をしていると、これを裏付ける理論が出てきます。自死の危険を高める要素として「役割感の喪失」というものがあります。働いて家にお金を入れていた人が失業してしまう場合とか、社会的地位の高い人が犯罪をして立場をなくすとか、そういう場合が典型的です。自死は、自尊感情を失った場合に多く起きることから、裏から自尊心の意味を考える道具になると思います。
ただ、今の説明は間違っていないのですが、それだけでは不十分だと思うのです。ズバリ言うと、何か役に立つことができないと、自分の存在価値を感じられないのかということなのです。なるほど、群れにとって役に立つならば、それは価値を感じやすくなるでしょう。しかし、客観的にみれば、群れにとってのその人の存在価値の最も重要なことは、200万年前の時代は頭数に貢献することでした。一人でも多ければ、獲物を追い詰める時に隙が無くなり、獲物を逃がさない確率が増えたでしょう。一人でも多ければ、食べられる植物を見つける確率も高くなります。一人でも多ければ、誰かが襲われた時、野獣を追い払いやすくなるでしょうし、そもそも野獣が群れを恐れて近づきにくくなるということがあると思います。群れにとっては、群れに調和して存在することが、その人の価値だったと思うのです。人並み以上に役に立つということは、必ずしも自分の存在価値を感じることに必要ではないと思うのです。
つまり、自分が群れの役に立つという感覚は、自尊心を高めやすくなるが、それがなければ自尊心を持てないというものではないという関係になるのでしょう。
そうだとすると、自分の存在価値とは、本当は、「群れから受け入れられている」という感覚そのものではないかと私は思います。

<自尊心を持つことがどうして素晴らしいのか>

説明したように、自尊心は、人間が群れを作る動物であることから、群れから受け入れられていることに満足を感じてしまう性質を言います。群れから受け入れられている状態が、人間の能力を発揮できる状態だということがいえるでしょう。人間本来の気持ちに基づく行動をするようになるわけです。群れの役に立ちたいという気持に基づく行動をするようになります。「群れのために」という気持は、自分を奮い立たせ、困難を克服し、努力を継続させることを可能にします。群れの一番弱い者を守ろうという気持もいかんなく発揮できることになります。本当の自尊心を持つことは、人間社会の協調を実現しますので、自尊心を持つ人たちの群れは、争い自体が起きにくくなるでしょう。その群れのメンバーは、相互に受け入れあうようになり、益々自尊心が高まっていくことでしょう。

<自尊心が欠如するとどうして社会病理の行動に出るのか>

自尊心が欠如するという状態は、自分が群れの仲間から受け入れられていないということを感じるところから出発します。通常は、どうして受け容れられないのかを自己点検して、自分の行動を修正し、群れに受け入れられるように努力をしています。子どもの時期は、この習性が活発に行われ、集団生活になじむように、自分のするべき行動、するべきでない行動を学習し、身に着けてゆく時期です。
ところが、どうしても自分が群れの仲間から受け入れられない、自分が群れの仲間から辛く扱われる。尊重されていない、大事にされていない。自分の苦しい感情を放置される。こういう感情が積み重なってゆくと、群れに受け入れられることをあきらめるようになっていきます。無駄な努力だと思うのでしょうね。やる気がなくなることは理解しやすいと思います。
しかし、群れに受け入れられたいという気持は、無意識の気持ちであるし、本能的なものなので、これを捨て去ることはできません。群れに受け入れられていないという状態を感じ続けることは、不安を感じ続けることになってしまいます。不安を感じることは、不安から解放されたいという気持を感じることにつながります。何とかして、自分の今ある不安を無くしたい。しかしその方法が見つからない。本当は群れから受け入れられることによって、人間は癒されるのです。しかし、それが実現しない。そうなると、不安が大きくなるし、不安から解放されたいという気持が大きくなってしまいます。群れから受け入れられる代わりの不安から解放される方法があると、それに飛びついてしまいます。
薬物、アルコール、シンナー、麻薬は、その典型的な方法です。薬理作用で、不安を忘れることができます。しかし、それは一時的なもので、その効果がなくなると不安が襲ってきます。また、神経に耐性ができて薬に反応しにくくなりますから、どんどん過激になっていく傾向にあります。
依存症も、その文脈で説明できる場合が多いでしょう。不安を軽減させる、忘れる、そのための儀式、逃げ場ということになるでしょう。
犯罪など、誰かを攻撃するということも不安解消行動が背景として存在することが多くあります。
不安の継続は、思考力を低下させます。複雑な思考ができにくくなります。一番複雑な思考とは、他人の感情を理解することです。これができなくなります。かわいそうだという気持が持ちにくくなります。それから、簡単な刹那的な考えしかできなくなり、良いか悪いか、損するかしないか、危険か危険ではないかというような二者択一的な思考になってしまいます。また、あきらめが多くなる悲観的な傾向も生まれてしまいます。
元々他者から受け入れられないという感覚が自尊心の欠落ですから、自分を大切にできません。社会的に禁止されていることでも不安を解消するためにはやってしまいます。それも、思考力の低下が大きく影響しているのでしょう。
だから、自尊心の欠落の究極の形態は自死なのです。大変危険な状態であるし、人間誰しも同じような性質を持っています。自尊心は大切なのです。

<自尊心と似て非なるもの 危機意識に基づくプライド>

自尊心という言葉を調べていたら、案外多くにプライドという言葉を当てはめる説明がありました。良い意味のプライドなら自尊心の一部を構成するかもしれません。しかし、プライドの用法として例えば、「あの人はプライドばかり高くて付き合いにくい。」等と言う意味で使われることがあります。
この場合のプライドとは、私たちの言う自尊心とは異なり、自分をこういう風に受け入れてほしいという心の状態を言うのだと思います。むしろ、本当は自分はこれほどすぐれた人物なのに、世間はそのように評価しないという、「受け入れられていない」状態の認識なのですから、自尊心がない状態でさえあるのです。自尊心が持てないために、見当違いなプライドを持っているということになるのでしょう。このプライドを含めて自尊心だという見解ももちろんあります。ただ、その場合の自尊心は、今述べたような、あると素晴らしく、ないと危険だというものでもなく、大切にされるべき自尊心ではないことになります。それは、自尊心ではないと今は言っておこうと思います。

<現代社会と自尊心>

心が形成された200万年前と現代社会の違いは、いろいろあります。いつからを現代社会と呼ぶかという問題も違いの考察には必要です。ここでは、一つだけ指摘しておきます。それは、200万年前は、人間は生まれてから死ぬまで、基本的には、一つの群れで一生を終えていたということです。子どもを産むのも、育てるのも、学習するのも、狩りや植物採取をするのも、同じ群れでした。ところが現代は、結婚して別の群れに移動し、子どもを産み、学校という群れに所属し、会社という群れに所属する。それらの小さい群れを構成する社会や国という群れにも所属し、自分の趣味や研究をする群れにも所属したりします。子どもの環境によって大人もPTA等の群れを作ります。
人間は、放っておくと、そのすべての群れから、自分が受け入れられているという気持を持ちたいと思ってしまうようです。
逆に言うと、すべての人間のかかわりの中で、自分が受け入れられていないと感じると不安な気持ちになってしまうのです。
道を歩いていても、見ず知らずの人から罵倒されればいやな気持になるし、怖い気持ちにもなるでしょう。自分は普通に運転しているつもりでも、急いでいる人が運転している場合、後ろからクラクションを鳴らされることもあるでしょう。それが身体生命の危険がなくても、不安が生まれてきます。悲しい気持ちになったり、怖い気持ちになったり、逆に怒りが起こったりするわけです。
このように、多くの人とかかわりを持ち、たくさんの群れに所属するようになると、人間関係が薄いものになっていくということも理解しやすいと思います。生まれてから死ぬまで同じ人と過ごすという群れと比べるとわかりやすいでしょう。そうすると、いちいち、道ですれ違った人の役に立ちたいと思うことは、少なくなってしまいます。自分や自分の仲間という狭い群れの利益のために、群れの外にいる人たちが困ることになっても、実行してしまうということが起きやすくもなっています。その結果、不意打ちのように、自尊心が傷つけられることが起こりやすくなっています。
人間の心は200万年前とほとんど変わっていません。そのように薄い人間関係ならば、その人から何を言われても、健康に影響がないならば、気にする必要はないのですが、なかなかそうはなりません。かといってすべての人の幸せを願うということもなかなか貫くことは難しい。そうすると、自分や自分たちの利益のために、他人が不利益を受けるということをやってしまうのですが、やっても平気でいられずに、悩んだりするわけです。ただ私は、それが人間のいとおしい所だと思うのです。
しかし、多すぎるかかわりの中で、人間が大切にされていないことに馴れてしまうと、およそ人間が大切にされなければいけないという感覚は薄れていきます。それは他人に対してだけでなく、多かれ少なかれ自分にも反映されてしまいます。およそ人間は大切にされなくてもよいんだという感覚が起きてしまいます。益々自尊心が確保できない社会構造になっていると思うのです。

<自尊心をもつためには 人間関係をどう構築するか>

自尊心を持つためにどうしたらよいかということは難しいのですが、自尊心を傷つけることは簡単です。
「お前はこの群れに不要な人間だ。」「出ていけ。」「群れにとって迷惑だ。」「役にたたない。」
というメッセージを発信すれば、自尊心は傷つけられます。
何か大変なことをやらせるよりも、役割を与えない方が自尊心を傷つけるという学者もいます。そのような露骨な言動をするだけでなく、仲間であれば当然してもらえることをしてもらえないということです。健康を気遣われずに暴力を振るわれる。危険なことをやらされる。一人だけ情報や食料を当てないで差別する。努力を無視して、正当な評価をしない。いじめやパワハラ、虐待が典型的な自尊心を傷つける行為です。暴力がなくても人間は不安を感じ、心を壊し死んでしまう動物なのです。
自尊心を確保するためにはこの逆をするということなのでしょう。
仲間であることを否定する言動をしない。一緒にいることだけで歓迎されるということなのでしょう。最近の家族も、どこまで成績をあげないとうちの子ではないとか、どのくらい給料を持ってこないと夫ではないとか、きちんと片づけが出来なければ妻ではないとか、仲間であることに条件を付けるかのような言動が見られます。条件を付けるということは発奮させるということになるのですが、何十メートルもある谷に渡したロープの上を歩いて行けと命じ、「落ちて死にたくないならば落ちるな」というようなものかもしれません。条件を満たさないと仲間から外すと言っているようなものだからです。これでは、自尊心を確保するどころか傷つけてしまうことになるでしょう。」
むしろ無条件に存在を肯定することから始めるべきです。そうして仲間に能力を発揮してもらう方がよほどよいのです。自尊心が育っていれば、つまり、どんなことがあっても仲間は見捨てないという認識があれば、仲間から弱点を指摘されたとしても自分を守ろうとして嘘をついたり隠したりする必要はなくなります。仲間もそれを攻撃的に言う必要も動機もありません。つまり強い心が育つわけです。だから、褒め育てをするということと、無条件に仲間として存在を肯定するということは全く違うわけです。そして、その能力にふさわしい役割を与えることも自尊心を高めていくという関係にあるわけです。仲間の役に立つことをした場合は、正当に評価し、称賛する。そうやって楽しい群れが作られていくはずですし、その群れの構成メンバーは、能力を発揮しやすくなるわけです。
失敗をしても責めたり非難したりするのではなく、群れとして無条件に存在を認めるのですから、一緒に考えるという行為になるはずです。失敗をすればするだけ成長していくことが可能となります。

<現代社会の罠にどう立ち向かうか>

理屈を言えば、家庭の中では、何とか、子どもだけでなく、親も含めて、自尊心を高める接し方が出来そうです。しかし、条件反射的に怒ったり、自分の心の状態によっては、自分が攻撃されているような感覚を持ってしまって、相手に対して、しなくてもよい反撃をしてしまいそうです。実際は完ぺきな自尊心の高めあいは難しいようです。それでも何とかできるかもしれません。
問題は、子どもが学校に行き、父母が会社や地域の集まりに出て、あるいは街の中を歩いていて、自尊心を傷つけられるような対応をされた場合に、どのように自尊心を確保していくかというところにありそうです。昨今のパワハラの話やいじめの話を聞くと、絶望的な気持ちになりかねません。
先ず自分たちでできることは、家族という基地を強化することです。外で困難な出来事があったときこそ、「家族は絶対に見捨てない」、「誰から何を言われようと、あなたと一緒にご飯を食べることが私の幸せだ」というメッセージを伝えることです。そして、ここが難しいのですが、どんなにつらい思いをしていたとしても、家族は、「いつもと同じように接する」ということが大切なようです。腫れ物に触るように接せられると、自分が家族の重荷になっているという風に感じてしまい、家族に困難を打ち明けることができなくなるということらしいのです。「外でどんなことがあっても、家の中では、当たり前の家族だ。あなたも家の中ではいつものように過ごしてよいのだ」ということが、役割感の喪失みたいな気持ちにならないポイントのようです。これは意識してかからないととてもできることではないように思います。
自尊心が育ったお子さんは、何かあっても、すぐ不安になることがなく、些細なことにびくびくしなくなります。攻撃されているという感覚を持ちにくいので、反撃もする必要がないので、争いになりにくいです。それでも、今のいじめは、変なところでライバル視して、攻撃してくるということも多くあります。自尊心だけでは対抗できません。それでも、本当の意味で自尊心が高く、家族に受け入れられているという自信がある子は、嫌なことも隠さないで家族に打ち明けられやすくなります。家族が学校に働きかけたり、場合によっては転校させるという手段もとれるわけです。こういう意味で家庭が基地になるのではないかと考えています。
では、学校や職場などの人間関係にどのように切り込むか。
先ず、放っておくと、誰かの自尊心を傷つけるのが、学校や職場等現代の人間関係だということを自覚しましょう。その人が存在すること以上の価値を求めるのが現代社会だからです。効率であったり、優秀さであったり、利益であったり、正義であったり、人間関係の希薄さは、人間が存在しているという事実だけでは満足しないし、極端な例を言えば人間の命よりも優先される事情があるようです。
無力な私たちは、その社会の変化に対応して脳を変化させることもできませんから、そういう構造をよく理解するということから出発するしかありません。
そうして、そのような価値観の中に、人間が存在することに絶対的価値があるという価値観を少しずつ意識して滑り込む必要があるでしょう。それでも、価値観の転換は起きないでしょう。しかし、少しでも人間の存在に価値を認めるという価値観を導入することによって、自尊心を傷つける人間関係の出来事が否定的な評価を受けるようになり、関係の改善を考えるようになれば徐々に社会は変わっていくのだと思います。
そして、これは現実的な希望を持てない途方もない夢物語ではないと思います。
それは、人間の心は200万年前のままだからです。できることならば、仲間に受け入れられて過ごしたい。できることなら傷ついて悲しむ仲間を見たくない。できることならば他人を助けたい。できることならば穏やかに安心して暮らしたいという気持があるのではないでしょうか。しかしそれが自分や自分たちの不利益につながるためになかなかできないだけなのではないでしょうか。そういう環境を見るとうれしくなるし、それが実現すれば安心した気持ちになったり、誇らしい気持ちになったりするならば、人間はやはりそういう動物なのだと思います。人間の本能に逆行することを言っているわけではないのです。本能をいかんなく発揮するために、環境を整えるだけだとは言えないでしょうか。
壮大な話はともかくとしても、とりあえず家族を守るということを意識することから始めてみてはいかがでしょうか。


不要な記載
この記事は、おそらく、加筆をしたり修正したりしていくと思います。場合によっては全面的に書き換えになったりもするかもしれません。その都度修正して末尾に修正日と修正内容を記録していくことにしてひとまず公開しようと思います。
自尊心、自己肯定感について色々な話がネットなどであふれています。とても大切なことなのですが、疑問が生まれてしまう内容も少なくありません。そんな中で辻正三先生の解説に接して、「これだ」という思いが生まれてしまい、勝手に解説をすることが、話が分かりやすくなるなと図々しく思った次第です。辻先生の解説が、あまりにも対人関係学の主張と一緒だと驚き、また、対人関係学の結論は、突拍子もないことではないのだなと勇気づけられました。
自尊心、自己肯定感については、バウマイスターという心理学者が第1人者なのだそうです。実は、このバウマイスターの「The need to belong」という論文が、対人関係学の父と言うべき論文なのです。母は、心的外傷と回復(J ハーマン)なのですが。自尊心、人間のモチベーションというバウマイスターの領域が、対人関係の領域とかぶることはむしろ当然で、本当はもっともっと研究したいところなのですが、こちらはむしろ実務系の学問であると自負しているので、修正しながら理論の成長を目指したいと思います。
2019年6月28日 初稿

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子どもに会えない母親の方たちへ 子どものために親であることを主張しよう。ヒステリー、人格障害、うつ等で自己否定している人は、もう自己否定しなくても良いはずです。 [家事]

<母親が子どもと会えないパターン>

父親が子どもと会えないパターンは、
母親が子どもを連れて別居し、
行く先を隠していたり、
わかっていても、近づくと警察に妨害されたりする場合です。

これに対して母親が子どもと会えないパターンは、
家から追い出される場合です。

どちらのパターンも、
子どもが会うのを拒否している
子どものために会わせない方が良い
と子どもと同居する親は主張するのですが、

母親の場合に会わせない理由は、

母親がいわゆるヒステリー状態になって
感情抑制が効かずに収拾がつかなくなる。

うつ状態になっていて家事をしない

子どもが危険であり、教育上よくない。
なまじ会わせると
子どもが寂しがって困るから会わせない
というものです。

そして、もっともらしい医師の意見書を出して、
母親が、
人格障害(パーソナリティ障害)だとか
解離性障害、
極度のパニック障害、不安障害
うつ病、
ひどい事例では統合失調症、躁病
等の診断を、
本人を診察もしていないのに行うのです。

男性の場合、
身に覚えのない夫による打撲や傷害などの診断書が
離婚裁判などで暴力の証拠として提出されることがありますが、
ちょうど同じような感じで意見書が提出されます。

そして母親自身が、
自分は母親として人間として失格だと思わされてしまい、
子どものために子どもの前から去るべきだ
と一瞬思わせられてしまいます。

母親の両親も娘の行為は確かにひどい。
申し訳ないという気持になり、
母親が、「一時的に」という当初の約束で実家で休んでいるうちに
二度と子どもに会わせられなくなり、
いつしか離婚の話が
当たり前のように始まるのです。

実家もあきらめムードですから
母親も自分が悪いんだろうなと
頭ではあきらめようとしてしまいます。

<ヒステリーは母親だけの責任ではない>

以下の説明には個人差があるのですが、
多かれ少なかれこうなると説明がされています。

「産後うつ」という言葉はようやく根付き始めています。
その現象は多角的に説明されるようになってきました。

比較的歴史が古いのは、生理学的裏付けであるホルモンの急激な変化です。
妊娠、出産までは女性ホルモンが大量に分泌され、
出産後は女性ホルモンの分泌がなくなってから
授乳のためのホルモンが分泌されるようになる、
この時、警戒心が強くなり、攻撃的な性格に変化する。
ということはある程度判明していました。

出産直後の母親が、子連れの母熊のように
夫が子どもの近くに来てもうなり声をあげて威嚇する人がいる
という話が巷でも言われているようですが、
極端な例ではそうなるのでしょう。

また、出産の痛みを緩和させるため
コルチゾールという脳内ホルモンが分泌されるのですが、
これが脳を委縮させて
安心を感じにくくさせる
ということも指摘されています。
詳しくは、私のブログを参照ください。
「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

それに加えて、近時は脳の機能分析からの説明がなされ出しました。
出産に伴って、
母親は赤ん坊の状態に敏感になるあまり
大人の気分感情に対して共感できなくなり、
その結果、夫などが何を考えているか分からなくなり、
不安になっていく、
産後うつの原因はこれだ
という脳科学の成果も
日本の大学とスペイン大学が相次いで発表しました。

これについてはこちらの記事に詳しく書きました。
「妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17

まとめますと、
女性は出産すると、
ホルモンや脳の機能が変化してしまう。
その結果不安を感じやすくなる。

不安を感じると、不安を解消したくなるというのが生き物共通の生きる仕組みです。
不安を解消する方法は2パターン(逃げるか戦うか)あって
一つは、
不安に負けて落ち込み、生きる意欲を失っていく。
つまり、寝ない、食べない、人と接触しないというパターン。
もう一つは、
不安を与える相手等を攻撃することによって
安心感を獲得しようとする。
これがヒステリー等の脱抑制状態だと私は思います。
この時の不安はいろいろあります。
将来のこと、子どものこと、自分のこと
健康のこと、家計のこと
自分たち家族の人間関係などです。

特に子どもと夫婦だけの孤立家庭では
夫にしか頼るひとがいないので、
自分と夫との関係が不安の大きなテーマです。

何か事情がある場合には不安が大きくなるのですが、
事情がなくても不安がわいてきてしまいます。

そして何が不安なのか、どうして不安なのか
については、なかなかうまく言葉で説明できません。

とにかく不安だ、目の前に夫がいる
不安を解消したい、爆発する。
そういう関係ですね。

だから、夫に対しても、私は、
あんまり気にしないで、流すのが一番だよ
等と言うわけです。(前回の記事を参照ください)

私の言っていることが少しでも正しいなら
1 特に産後のいわゆるヒステリーは、
  母親の自由意思によって起きているのではない。
  そうせざるを得ない事情があり、
  そのコントロールが難しい人がいて当たり前だ。
  母親が「悪い」わけではない。
2 母親が子どもを出産したことに伴って生じる
  という側面が強い。
3 いわゆるヒステリーを起こす人は
  理由がわかない不安で苦しい気持ちになっている。
4 ヒステリーを起こしたこと自体で不安になる。

そうだとすると、母親だけを責めることは
間違っている
ということになると思うのです。

ちょうど出産をしたときに入院して
家事が何もできないとしても
誰も非難しないと思うのです。

そういう体の問題ではなく、
(体の状態を反映した)心の状態が
自由が利かないからと言って
母親自身に責任を押し付けて非難するということなので、
産後の体力が不十分なことを非難することと
全く同じではないかと思うのです。

小さい子どもを大人が手分けして育てるように、
自由が利かない母親をみんながフォローするというのが
人間らしいことなのではないかと思います。

少なくとも出産した母親は
無意識にそれを望んでいるはずです。

<昔の日本人はみんなそれを知っていたのに現代日本は>

前も書きましたが、
21世紀になって産後うつが脚光を浴びてきましたが、
日本には、そういうメンタルなことも
風習という形で考慮されていました。

「産後うつと母親による子どもの殺人と脳科学 床上げの意味、本当の効果」 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2014-12-11

出産後の母親にはしばらく
授乳以外は何もさせず、
布団もたたまないということをしていたわけです。
もちろんそばにいる大人は夫だけではなく、
色々な人立が便利に使われていたのです。

これは母体を休ませるという意味だけでなく、
みんなが母子を支えるということを実践して、
母親の精神的安定を図る狙いがあった
と私は思うのです。

文明成立前の日本の女性たちは、
自分がそうされてありがたかったから
今度は自分がそうする
そうしない家庭は人でなしだとののしる
ということで、風習を作ってきたのでしょう。
男には決して説明しなかったでしょうが、
察しの良い男は気がつくし、
そうでない男は、それが決まり事だからと
素直に従ったのでしょう。


昔の日本人の風習は、
このように人の心を配慮するために
人間関係の工夫を定めたことが多くて
本当に感心させられます。

ところが今は、
里帰り出産ができればまだ何とかなりますが、
それすらできない母親がたくさんいます。
床上げどころか退院してすぐに
家事全般をやらなければならない事態も多いのではないでしょうか。

体力的には、それほど難しいことではない人もいるでしょう。
家電なども便利になりました。
しかし、人間と人間の関係を反映した感情の状態である
心を安心させるものは人間関係だけなのです。

江戸時代あたりまでは大っぴらに認められていた
素人女性の「かんしゃく」が、
どうやら明治維新以降否定される傾向になってきたように思われます。

女性の生理に反した風習が
いつのまにか蔓延したように感じられます。

これは現代でもその方向に社会が進んでいるように思われます。

<自分を恥じている人はもう恥ずかしい人ではない 親はパーフェクトである必要はない>

だからいわゆるヒステリーや、産後うつによる家事放棄は、
女性の自己責任で終わってはダメなのだと言いたいのです。
昔の日本人は、家(親戚一同みたいな意味)の連帯責任だったし、
ご近所の支えがあったわけです。

少なくとも父親が母親と一緒に悩んで、
母親を安心させて解決する方向が
試されなければならないと思います。

確かに強烈な妻からのDVもあるので、
みんなみんなそうしろというわけにはいきませんが、
多くの事例の中で
夫が一方的な被害者だとは言い切れないようです。

だからと言って夫が「悪い」わけではありません。
一番は妻の状態についての知識が普及されていない
次に孤立婚や過重労働の中で夫が妻と一緒に悩む余裕を持てない
ということが大きいでしょう。

一時的にでも育児から解放される施設が
あまりにも少なすぎることも指摘させていただきたい。
保育所の中では働いている女性の子どもが優先で
働いていない母親の子どもは保育所に入れられないということが多くあります。

これでは、保育所は、子どものための機関ではなく、
母親が働くため会社のための機関に思えてきてしまいます。
科学的には、すべての母親の育児の補助をすることが
厚生労働省の観点からは必要だと思います。
そうでないならば保育所は厚生労働省ではなく、
国土交通省か財務省の管轄にするべきです。

孤立婚なのだから
母親を社会が支えないでどうするのだと
私は本気でそう思っています。

ところが、子どもの利益のためにということで
役所(児童相談所等)は
女性の状態が支援が必要だということに対して一切目をつぶり
母親を敵視しているかのように感じられることがあります。
子どもに母親と敵対させようとすら感じる時さえあります。
女性の権利を主張する人たちも
なぜかこの点について発言しているところを
不勉強のためか知りません。

どうか、多くの科学者が
「家族の幸せ」に大きな価値を見出して
合理的な解決方法を提言してもらいたいと思います。

さて、
出産した女性が、不安のただなかにいることは重々承知ですが、
もうひと踏ん張りしてほしいと願わずにはいられません。
子どものためには母親の存在は不可欠だからです。

2歳くらいまでは、
どんなに父親が頑張っても
子どもは母親でなければだめだと
リテラシーの異常に高い幼児が発言していたことを聞いたことがあります。
胎内記憶、においや音なのではないかと思いますが、
母親がいることで安心感を子どもに与えるようです。

もし将来的に子どもが、
母親が頭がおかしくなったから分離させたと聞かされたら、
一つには、自分は頭のおかしい血が流れていると思うでしょうし、
一つには、真実をリアルに認識できたときに
自分にまつわる忌まわしい残虐的な出来事がおきたと
悩むことになるでしょう。

追い出されないように頑張ってほしい
追い出さされても、
子どもは両親が育てるべきだという
主張を続けてほしいのです。

そのために必要なことは知識と仲間です。

自分の脱抑制の声や行動を覚えていても
あなただけに責任があるわけではないし、
あなたの人格でもないことが多い。

確かに、子どもや夫を驚かせて怖がらせて悩ませていますから、
申し訳ないという気持を持つことは尊いと思います。
でも必要以上に恥ずかしがったり、
自分で自分をコントロールできないことが異常ではないかと
思い込みすぎると、益々コントロールが利かなくなります。
開き直りの癖がついてしまいます。
脱抑制以外の時は、
開き直ることをしないで不安を打ち明けるしかないです。
恥ずかしいと思った人は、もう「恥ずかしい人」ではありません。
げたを預けてみるという気持の方が
相手にとっても落ち着きにつながりますし、
その結果、あなたの不安も軽減されるでしょう。

開き直るより、謝るより
まず相談です。
それが家族でなければ、家族っていったい何なんでしょう。

「一緒に解決してほしい」ということを提案するべきです。
解決方法はいくつかあります。
一番の特効薬は、家族の支えだと思います。
家族の支えを誘引するために、
恥ずかしがらずに頼ってみるべきなのです。

子どものために親がパーフェクトである必要はありません。
親がパーフェクトに近くても
必ずしも子育てがパーフェクトであることと一致しません。
むしろ、家族の弱点を家族全体で支え合っていくことが
人間らしい生き方であり、
最上の教育であり、
子どもに安心感を与えることです。
それが現代日本で忘れられていることだと思います。

もう一言仲間についてなのですが、
誰が悪い、だれが悪くないとか
良い悪いで行動を決定する人は
仲間のふりをした敵だと思って間違いはないでしょう。

きちんとした知識を持って
合理的に現状分析と対策を説明できる人が必須です。
粘り強く家族みんなの幸せを考える人を
仲間につけて、一緒に頑張りましょう。
相手を攻撃するのではなく、
一緒に解決してもらうことをまず考えることが大切だと思います。

子どもにとって最善の利益は、
両親から愛情を注がれることだと確信しているからです。

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妻からのDV、ヒステリーを軽減する方法 [家事]

前に「配偶者のヒステリーは抑え込まないほうが良い 賢い対処法」という記事を書きまして、
今もかなり読んで頂いています。反響も多くいただく記事です。
ご連絡をいただくと、
記事の通りにやったら少し軽くなったという話や
ご自分の体験に基づく分析なども聞けることが多く、
そのまま知識の蓄積になります。

その中で、何人かから寄せられた夫の側の情報と、
女性の側からの情報も加味して考えると
どうやら、案外、夫の言動が引き金になっていることが多い
ことが分かってきました。
夫は、そのことに気が付かないで無防備に話してしまっている
ということもよくわかってきました。
貴重な情報を共有するべく、
何が引き金になるのかということを中心に述べます。

先ず、結論だけ書きまして
あとから解説を書きます。

根本的な原因と、抜本的な対策は
男女差がないなあということに、今回改めて気が付きました。

1 結論 虎の尾を踏まない

  妻の不安をあおる言動、助長する言動をしない。

2 妻の不安とは何か
  人間の心は、仲間から自分をかけがえのない仲間(取り替えることのできない存在)だと扱ってもらうことを求めています。ところが、いろいろなことが原因になって、
「自分が仲間として扱われていないのではないか」
と不安を感じやすくなってしまっていることがあります。

妻の不安とは、夫から自分が、
仲間から外されるのではないか。見捨てられるのではないか。
仲間として対等に扱われていない、一段低く見られているのではないか。
仲間の資格がないと思われているのではないか。
自分という存在が負担になっているのではないか。
という不安だということになります。

3 不安をあおる言動

<別離不安>
離婚。
出ていけ。
結婚するんじゃなかった。
自分にはふさわしくない。住む世界が違う人だ。
あなた以外の人はもっときちんとしている。
理解できない。
妻の親や親せきに対する低評価の言葉
夫の子どもの溺愛(特に娘の場合)
夫の子どもへの厳しすぎる態度と無関心(特に息子の場合)
夫が子どもの障害を気にすること。
自分(妻自身)がヒステリーを起こすこと、夫に対してDVをすること。

<格下不安>
こんなこともわからないのか
常識に反するだろう、常識がない
子どもでもわかる。
どうせわからないだろうけれど
容姿、体型への言及(賞賛以外)
子どもの前での指図とダメ出し
自分の欠点、不十分点、失敗の自覚
俺の言っていることこそが正義だ

<不作為>
妻の失敗、不十分点、欠点を
無かったことにする努力をしないこと

4 DV ヒステリーの構造

別離ないし格下扱いされることによる不安を感じる
→ 不安を解消したいという要求が生まれる
(→ 落ち込んで悩み、役所でモラハラだと意見を言われて別居・離婚)
→ 不安の対象を攻撃して不安を解消する
  相手に反撃させないために、声を大きく、言葉を汚く、威嚇的言動になる。必要があれば、包丁など武器を持ち出す。当初の目的は対等になるための精神的支え。
妻の言葉は、別離不安と矛盾する内容は当たり前。あくまでも不安解消行動という本能的反応であり、論理的な行動ではない。

5 夫の心構え、あるべき態度

何があっても、絶対妻を見捨てない。自分が妻を守るという姿勢を見せる
(心は後からついてくる)

妻のヒステリーは自分と一緒にいられなくなるという不安だ
妻の言葉は意味がない。いちいち真に受けない。忍耐こそ愛、人間の大きさ。

妻の失敗、不十分点、弱点は、「いいよいいよ」という笑顔
眉間にしわを寄せないこと。

不安をあおる言動は絶対しない。論理的な反論、相手の言動が論理的ではない、常識的ではない、正義ではないという無意味かつデメリットだらけの対応は絶対しない。

家事子育ては夫は妻の補助。

6 虎の尾を踏む理由

子どもを守るとき
理想の育児をしようとするとき
子どものことに夢中で妻の不安を忘れてしまう。
正義、合理性、常識等を優先することに夢中で、妻の心を考慮しないとき、

7 ヒステリーに対する対処

あまり相手にしないこと、反論してよいことは何もない
終わったら、無かったことにする
事務連絡など普通の会話をする。

子どもの前では反論しない
あとで子どもと妻を別々に
フォローをする、愚痴を聞く。
キーワードは家族だよ。

解説
1 虎の尾を踏まない

以前、配偶者のヒステリーは抑え込まないほうが良い。賢明な対処法という記事を書きました。この時、私は、女性相談室張りに、あなた(夫)は悪くないと言っていました。しかし、その後の事例の蓄積によって、ヒステリーやDVの引き金になっているのは夫の言動であるというケースが実は多いようだと感じてきました。夫のそういう言動には理由があることも多いので、夫が「悪い」わけでは必ずしも無いようなのですが、夫は自分の言動を修正することによって、妻のヒステリーや、DVを軽減することができる可能性が高いというべきだと感じ、改めて記事を作成した次第です。
しかし、いろいろな事情で、夫は、自分が妻の虎の尾を踏んでいることに気が付いていないのです。それももっともな理由があるのですが、何がエラーワードなのかをあらかじめ意識することによって、言わなくてよいことを回避することができる場合が多いようです。

2 妻の不安

これはこれまで散々申し上げてきましたので、省略しますが、
人間である以上、理由なく不安を感じるのは仕方ないですし、
出産をした女性であればなおさらなのです。
不安を感じやすくなったとはいえ、あなたがかつて結婚しようとした女性と同一人物です。ヒステリーが子どもを産んだ代償だとしたら、その苦しさを夫婦で分かち合うことは当然なのかもしれません。子どもは産んでもらったけれど、そのあとに生理的に続いてしまう反応は拒否というのでは、「いいとこどり」であり、妻ばかり損をしているという妻の感覚は、もっともだということになりそうです。
特に現代社会は、夫婦と子どもだけで生活していることが多いです。妻が頼れる大人は夫しかいないという状況が一般的です。その唯一の頼りたい夫が妻の不安に対応しないのでは、妻の不安は増大して歯止めがきかなくなってしまうこともやむを得ない側面があります。おっとであるあなたが頼りないのではなく、妻にとって、あなたに依存してしまう要因が社会にあるということです。あなたへの依存度が強くなれば、不安も強くなるのは当然のことです。問題は、妻自身がそれを自覚していないということです。理由がよくわからず不安だけは感じるものですから、厄介なことです。
別離不安を招く言動とと格下不安を招く言動でまとめてみました。両者の関係は、結局は格下に扱われることは、「どうでも良い相手」として扱われることなので、夫にとって自分はいつでも切り離してもいい存在だということを想起させますので、隠した不安も、最終的には別離不安の一種だという関係です。

3 不安をあおる言動
不安の中身が分かれば、何が不安をあおるのか分かりやすいと思います。ただ、その言葉が、不安を与える言葉だということを知っていないとつい言いたくなったから言うということが起こります。「離婚する。」とか「出て行け」とかいう言葉は絶対言ってはなりません。事情がなければ言わないこともよく分かっています。でもどんな事情があっても、こういう言動は、はっきりと「悪い」です。子ども、親という血縁関係のある人は妻の属性であると考えましょう。妻の努力では修正のきかない妻の属性ですから、否定評価を言うことはもってのほか、妻の不安を固定化し増大させます。妻は、子どもが女の子である場合、無意識にライバル視する場合があります。父、母、子というチーム全体ということを意識しましょう。逆に男の子の場合は妻は自分と同一視する場合があります。夫の子どもに対する厳しい対応は、自分が厳しくされているような危機意識を持ってしまうようです。妻が厳しすぎる対応だと言うならば、自分の子どもに対する接し方を修正しましょう。自分の感情を自覚することは難しいです。後で考えると厳しすぎたかなということがわかりますが、その時は、理由があって夢中ですから、誰かに言ってもらわなければ歯止めがききません。行動修正の良い機会だと心得ましょう。配偶者の、目を気にすることは、実は理想的な子育てを後押しをするかもしれません。
子どもの障害は、不安を起こす大きな要因になっています。誰も障害が母親のせいだとは言いません。でも、子を産んだ母親は不安過敏になっていますから、自分が責められているような感覚をもってしまうようです。安易に大丈夫だよと不安を否定することも気を付けた方がよいようです。先ずは一緒に悩むこと、妻の苦しさを共有してから、そのあとで、楽天的な話をした方がよさそうです。順番が大切だということになります。

やっかいなことは、妻は、自分のヒステリーなどDVが、自分でも恥ずかしいし、苦しいようです。それをつかれることが一番嫌なようです。それが嫌だからさらに夫を攻撃してしまう、自分を追い込んだのは夫だと思うようにしてしまうわけです。アルコール依存症の人が、酒を飲む自分を忘れたいから酒を飲むと言っていることに似ています。星の王子さまに出てきましたね。気にしてないということをアッピールすることが有効です。
DV、ヒステリーを無かったことにする方法は後で述べます。
容姿に関しては、信じられないくらいこだわっています。何を言っても当てこすりだと思う傾向にあります。言わないことこそ安全策でしょう。
妻の行動が常識に反する、非効率だ、正義に反するということで、つい怒ってしまうことがあります。まじめで責任感の強い夫が陥るわなです。しかし、あなたの常識や効率性は、職場等他人同士を規律する概念ではないでしょうか。それは本当に家庭の中でも求められることでしょうか。よく考えることが必要な場合が多いです。職場では求められても、家庭では求められないことも多く、少なくとも声を荒げて指摘しなくてもよいことが実に多くあります。


4 ヒステリーの構造

不安が高じて、不安解消要求も高まりすぎている状態です。不安の正体が本人はわからないのですから、不安解消の合理的方法もわかりません。でもなんと解消したいという要求だけは間違いなくあります。不安とは夫が自分を見捨てるのではないかという不安ですから、不安を与えているのは夫の存在ということになってしまいます。だから夫に対して攻撃をするわけです。認知症の人が、自分の一番支えになってもらっている嫁がものを取ったと攻撃するようなものなのです。
但し、本当に夫が怖いならば、攻撃しません。最悪逃げていくだけです。子どもを連れて別居するというパターンです。妻からあなたが攻撃されているということは、妻はあなたに対して根本的には信頼している、あなたが自分を攻撃してこないという信頼があるということになります。一緒にいたいから攻撃するということですから夫は大変です。しかし、第三者から見るととても切ない現象なのです。一緒にいたい気持ちが高じて攻撃してしまい、攻撃したことによって不安が増大していくということですから。そして、これはあなたの妻だけではありません。多すぎるエビデンスが現在も私に寄せられ蓄積されています。但し、この不安→夫への攻撃→さらなる不安→さらなる攻撃という悪循環に疲れてしまい、子連れ別居をするというパターンも少なくありません。それを断ち切ることができるのは、現代社会では夫くらいなのです。
妻が包丁を持ち出すことは結構あります。但し、これは、夫との力の格差を埋めて対等性を維持しようという衝動であることが多いようです。妻は自分は力が弱いという自覚があるのです。刺そうという攻撃的意思がないことのほうが多いす。但し、威嚇で振り回しているうちは良いですが、興奮状態が高まってわけがわからなくなり誰かに切りつけ始めたら、多少の負傷をいとわずに取り上げることは必須です。

5 対処法と夫の心構え

妻の不安を解消することが論理的な対応だということになります。不安解消するためには、大丈夫だよというメッセージを届けることです。
ところが、妻のただならぬ感情的な言動を目にしてしまうと防衛本能が全開になり、無意識に妻の行動、言葉をこちら側の攻撃だと受け止めてしまい、一つ一つに反撃したくなってしまいます。
例えば、間違っても、妻のヒステリー状態の言葉に論理的に対応してはなりません。論理的な行動ではない言葉に対して論理的に対応するということは極めて滑稽なことです。自分と妻の感情を抑えること、不安を解消することこそ、合理的対応です。ヒステリーやDVを起こしている以上は、妻はあなたと別れたくないと感じています。あなたの別離不安は不要だと論理的な対応をしてください。
妻に反論することは、「あなたは論理性がない馬鹿だ」と言って妻の格下不安を掻き立てることになりますし、感情的になる人間は嫌いだ、一緒にいたくないという別離不安を招く強烈なメッセージになってしまいます。「人間だからそういうこともあるね」という態度をするとことが有効です。夫のほうこそ、いつまでも一緒にいたい妻から攻撃されて悲しいという態度が正解です。
もっとも子どもっぽい夫の対応は、「ヒステリーになるな」という結論を要求することです。妻も自由意思でヒステリーになっているわけではありません。不安を共有して一緒に落ち着く方法を考えなければならないのに、相手にだけ要求して何とかしようというのであれば、いやいやをする子どものような対応でではありませんか。落ち着きに誘導するのが大人の対応です。常識的でない、論理的でない、感情的だという非難は、火に油を注ぐだけのデメリットしかない対応です。子どもが迷惑するだけです。(言いたくなるのはわかりますよ。)
それから、いつも私が夫に尋ねるのですが、例えば片付けできない妻に対して片付けないことを責めているのではないかと尋ねると、「片付けできないことを非難していませんよ。何も言わないで自分で片付けようとするのです。でも私が片付けようとすると、妻が逆上するんです。」という人が多いのです。最近は私もこの言葉で安心しないで、「ちょっと待てよ」と思わなければならないことが分かってきました。言葉では妻を非難しなくても、眉間にしわを寄せて、ため息をつきながら、いやいや片づけをしていれば、それは非難していることと一緒だからです。作り笑いでよいですから、「いいよいいよ」と言いながら、片付けをしていくことが有効なのです。同じ片付けをするのに、自分が妻のヒステリーに火をつけていたのではもったいないです。些細なところで攻撃になるかフォローになるか全く違う結果になるのです。眉間のしわは、妻に背を向けてから寄せましょう。
子どもの前では母親は神様です。神様性を傷つけることは一切厳禁です。子どもの前ではね。
男女参画から叱られるでしょうが、家事育児のリーダーは妻であり、夫はリーダーの指示通りに動く補助員という位置づけが正解の場合が多いということを心がけましょう。妻を立てるということです。そういう外観を作るということです。「私が言わなければ何もしないのだから」と愚痴をこぼされれば、鼓腹撃壌です。こふくげきじょうと読みますので、ぜひ調べてください。
あなたのダメ出しは、良い効果がなく、妻を不安にするだけです。くれぐれも職場の常識を家庭には持ち込まないということを意識してください。

6 虎の尾を踏む理由

人間は一つの利益を追求するとき、他の利益が目に入らなくなる傾向があります。夫が、子どもを大事に考えてしまうあまり、その結果、妻の感情を考慮しなくなってしまうことは、そのためです。子煩悩の父親が陥るわなです。子ども優先はよいのですが、妻が機嫌を損ねた結果、子どもが迷惑をこうむるのであれば子どもにとってもデメリットしか残りません。断言します。妻の賛同がなければ、独りよがりの理想の育児なんて成功しません。そして、命令では妻の賛同は起こりません。イニシアチブを妻に与えて、実践を通じて実質的に換骨奪胎をいつの間にか実現するという方法が上策のようです。
子どもの利益のために妻に意見を言うときあなたがエラーを起こす時です。言わないという選択肢、言う時期を選ぶという選択肢、言う内容を修正するという選択肢を用意し始めましょう。
常識、正義、効率性、合理性等、職場で求められている価値観以上に、妻のご機嫌を優先させるということがあっても良いと私は思います。

7 起きたヒステリーに対する対処

永遠に続くような感覚になったとしても、ヒステリーはすぐに収まります。ここがチャンスです。黄金期です。ヒステリーがなかったように、普通の会話をすぐにしましょう。「事務連絡」が最適です。時候のあいさつでもよいでしょう。「指図とダメ出し」以外なら何でも良いと思います。とにかく妻の弱点、欠点、失敗と関連付けられないことを話しましょう。意味のない会話こそ言葉の本質です。このように気持ちの切り替えができる男性が好ましいと考える女性は極めて多いのです。その意味が若い時は分からなかったのですが、どうやらこういうことだと今さらきがつきました。この切り替えこそ、ヒステリーを気にしている女性にたいする圧倒的なフォローになります。基本は、「いいよいいよ」という笑顔ですね。ヒステリーのときの妻は別の人、もうその人は亜空間に消えたのだから、戻ってきた妻と日常を再開するわけです。

今回の記事に反することをしていた自覚がある方は、ともかく自分の行為と妻の不安の関係を意識して自分の行為を点検しながら、1か月頑張ってみてください。その際に、外野(親戚、友人、役所等)の意見は聞かないということが大切です。他人は「離婚しろ」と言うに決まっています。あなたも逃げたいです。不安を解消したいです。それを真に受けてしまいがちになるのは当たり前です。でも、あなたは純然たる被害者ではないかもしれません。あなたの行動を修正することによって、ヒステリーになる不安が小さくなり、あなたも子どもたちも楽になる、家族みんながハッピーになるかもしれません。また、それを真に受けて離婚をして、子どもたちの親権が母親になり、あなたの収入の大半を養育費に支払う生活を送ることになっても誰からも責任を取ってもらえません。
妻の不安をあおらず、助長せず、安心を与えていくという行動修正を1か月やってみてはいかがでしょうか。
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人権は人間の権利ではないこと 人権という言葉は本当は適当ではなく、「人間としての当たり前」、あるいは「人間である権利」とするべきであること [事務所生活]

明日、某官庁の研修会で人権について語ってきます。
そこでは、人権は人間の権利だと説明して
わかりやすくお話しする予定だったのですが、

しかしこれはやはり不正確ではないかと
今日になって考えているのです。
権利というと、例えばお金を請求する権利や
サービスを受ける権利も権利で、
これは人権ではないと感覚的に思います。

普通の権利と人権としての権利と違うわけです。
しかし、同じ権利の権の字が使われているので、
普通の権利は、国によって実現するものという縛りがありますから、
どうしても人権とは、
国の認めたもの、六法に載っているもの、
裁判所が認めたもの
だから人権かそうではないかは知識が必要だと考えてしまう
その原因というか問題の所在があるように思われるのです。

いやここまで読む人もあまりいらっしゃらないほど
人権という言葉はかたすぎるのです。
もういいや移動しようと思っていることと思います。
賢明かもしれません。

しかし、英語などでは human rights
ですから、直訳すると人権なのです。

このライツが曲者で、
これを「権利」と訳したのは、何度か取り上げた西周なのでしょう。
しかし、このライツ、辞書で見ると
正義、筋道、正当等という語感があるということですから、
日本語的には、「理」という立派な言葉があったわけです。
だから、本来は、人権と訳さず、
「人理」という言葉を使えば良かったのです。
人権委員会ではなく、人理委員会
画数も少し減ります。

ただ、これもわかりにくいので、
正当というか、あるべき姿というか、当たり前
という言葉に置き換えて、
人権としては人間としての当たり前
と説明することが分かりやすくなるはずです。

例えば
「生まれながらの髪を黒く染めろ」という校則は
人権侵害だというよりも
人間としての当たり前を侵害している
という方が「ああそうだね」と
納得しやすいのではないでしょうか。

あるいは、
「それは人間性を害しているとまでは言えないと思うな」
と議論にはなるでしょう。

「人権侵害だ」、「・・・」、「人権侵害ではない」、「・・・」
というよりは
納得しながら議論できるとは思いませんか。

もう一つ、human rights なのですが、
これが rights of humanではないことに着目する
というのも一つの解決方法かもしれません。

つまり「人間の権利」という訳は間違いで、
「人間である権利」という訳が正当かもしれないということなのです。

そうするとですね、
生まれながらの髪の毛を黒く染めろといわれることは、
人間であることを否定された
いや人間であることまでは否定されていない
と議論になりますね。
つまり、人間としての当たり前がどこにあるか
という議論と同じになるように思うのです。

いずれにしてももやもやは残ります。
それは、「人間が人間として扱われること」
とはどういうことかという
一人一人の人間観に違いがあるからなのだと思います。

何が人間として扱われるべきことか
これは、人間として扱われていないという人の
話に耳を傾けて理解しようとしなければ
わからないことです。

権利が生まれる時は
当事者が声をあげて、それ多くの人が聞きいれる時だといわれるのは、
こう考えていくと論理的なのだと思いました。

お話しの予定のダイジェスト版は
対人関係学のページあります
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/moral.html
の中の
「差別を受けない権利 人権とは人間として当たり前の状態ということ 憲法14条」
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3歳児神話は、神話ではない。聞こえが良い主張には警戒するべきだということ。 [家事]


「3歳児神話」という言葉自体があいまいなのですが、
国や医学会では、きちんと意味を定めて使っています。

問題は、一般向けの記事等で、
大学教授や専門家を名乗る人たちが、
3歳児神話があるために女性が社会進出を妨げられている
と主張するときの3歳児神話は
敢えて意味をぼかして使っているということなのです。

3歳児神話という誰が主張しているかわからない
仮想理論を叩くことによって、
母親を、就労という形での限定された社会参加がしやすいような
社会心理的な環境を作ることが目的となっているようです。

否定論者は、本来、
子どもの健全な成長という利益と
母親の社会参加という利益の対立を
どのように調整するかという議論を立てるべきなのに、
3歳児神話というあいまいな概念をたてて
子ども健全な成長という利益を
黒く塗りつぶして見えなくしています。

先日も、ある大学の学部長に語らせていました。
議論の特徴は
何ら科学的ではないでたらめな論調
というところにあります。

早期に子供を親から話すことは
日本の伝統を引き継ぐ天皇家でも行われている
だから、早く親から話した方がよい
と本当に言っているのです。

そもそもこれは皇室や大名家の風習で、
親子の情が入ると政治に差しさわりが出るから
そのような人間的なつながりを排除するための
帝王学の考え方で行われていたものです。

その伝統に反対したのが、ほかならぬ
今上陛下の母上美智子様だということは
ほとんどの国民が知っているでしょう。
その学者の論調は
美智子様の教育方針を妨害した
おつきの女官たちを支持するものです。

また、小さい子どもたちに
働く母親の姿を見せることは有意義だ
という主張もあるのですが、
3歳未満の子供たちは、
働く母親の姿を見ることはないでしょう。
ただ自分の近くに母親がいないという体験をするだけです。

三歳児神話否定論者が目隠しをする
子どもの発達の利益ということを述べますと、
これは、戦後、ボウルビーとエインズワースの
愛着理論、アタッチメントの理論
という理論を外せません。

ボウルビーは戦災孤児の施設を回り、
幼いときに施設で育った子どもたちの
発達上の問題を調査しました。

その結果、赤ん坊は、
母親のような特定の人間の愛着を受けることによって
精神的に安定し、健全に発達していく
ということを発見しました。

この愛着とは何かというときわめて単純なことで、
身近に親を感じることです、
目で見て、声を聴いて、
抱かれることによって
皮膚の感触を知り、体温を感じ、においを感じる
そこで安心感を抱き、人間を信じ
適切な人間関係の距離を学んでいく
ということのようです。

逆にこの愛着に恵まれないで育った子は、
人間に恐怖を感じて常に疑い、警戒しているか、
媚びるように近づくことでしか人間と関われないか
という両極端のどちらかの障害を持つ場合があります。

ある時期までは、
子どもは近くに親がいることが大切ですし、
ごく初期には、それは母親になることが自然なのでしょう。

しかしある時期からは
母親だと限定する必要はなくなるようです。
ただ、いつも同じ人でなければ
愛着は形成されにくいようです。
同じ声、同じ肌触り、同じ匂いが
子どもに安心感を与えるからなのでしょう。

さて、この愛着形成など
何歳まで親がそばにいることが必要かについては
議論が必要だとは思うのですが、
それらを一切目隠しするのが
三歳児神話否定論者です。

彼らは、何を目的に無茶な議論をしているのでしょうか。

論調を見ると一目瞭然で、
「母親の就労の促進」
という一点に絞られているようです。

いくつかの疑問がわきます。
なぜ子どもの養育に価値を認めないのか、
なぜ女性の社会進出が就労限定なのか
なぜ子どもの養育が母親限定なのか、
なぜ父親の養育という観点がないのか

女性の就労を促進するとしても
なぜ男女格差の賃金の是正を主張しないのか
なぜ保育施設の量的質的拡充を主張しないのか

それにもかかわらずなぜ、母親の就労ありきなのか

これに対する選択肢としては、
家族の一人の就労で家族が豊かな気持ちで暮らす社会を目指し、
その社会では母親が就労し、父親が子育て家事をするということを選べる
そういう主張をしてもよいように思われるのです。

これを主張しない理由は暗黙の前提があるからではないか
と疑っているところです、つまり、
家事、育児の労働は、人間としての価値が低い
だから、男性がこれをやるということは初めからありえない
家事、育児は女がやるもの、
だから安っぽい家事育児にかかわる人を減らして、
生産性を向上させるためには、
母親の就労を促進することが効率的だ
というものです。

これが本当の気持ちならば著しい女性蔑視ですし、
家事、育児の価値を不当に低めるものです。
家事育児ハラスメントの真骨頂ですし、
人間性を否定してまでも生産性を向上させる
という主張です。

アメリカのフェミニストであるナンシー・フレイザーが
警告しているように、
一見女性の立場を向上させる動きのように見えて、
結果的にグローバリズムの新自由主義の召使になっている危険性
を意識する必要があるでしょう。

いくつかの3歳児神話否定論者の非科学的なあいまいな議論は、
結局、良質な労働者なのに、
安価で、都合が悪ければいつでも解雇できるという特徴を持った
女性労働者を提供することが目的のようにさえ感じられます。

そのために子どもの健全な成長という利益や
人間らしく生きるという利益が
見えないように黒く塗りつぶされているのです。

もう一つ看過できないことがネットで書き込まれていました。
スェーデンの子育て事情ですが、
論者は、スェーデンでは、子どもが一歳になると
みんな保育所に入れるということで、
文脈からは子ども愛着理論を意に介さない国のように紹介されています。

しかしスェーデンは、愛着理論に理解がある国で、
子どもが3歳になるまでは、直接親が関われる制度が
整備されているのです。
木村慶子, 高橋愛子『頭がいい親の13歳からの子育て』 2002年

スェーデンは、保育など社会福祉も充実しているから
1歳で保育所に預けられるのでしょう。
日本では、無認可保育所でさえ、
抽選で外れて預けることができない人もいます。

そのような話に一切言及しないで、
親が費用と危険を負担して子ども預けなければならない日本で、
とにかく就労だけを促進するというのですから、
大変恐ろしい主張だと思います。

私は、共稼ぎの家庭で育ちましたし、
自分たち自身が共稼ぎです。
そういう環境しかわかりませんし、
その環境自体に問題も感じていません。

問題は、本来家庭の自由であるはずの
誰が働くか、誰が家事育児をするかということが
暗黙の前提の下で誰かから強く誘導されているということ、
男は外で働かなくてはならず、
家事育児は、男が従事する価値がない
男が働くことは前提で、女も企業で働かなければならない
というように
自由に自分たちの生き方を選ぶことができなくなっているということです。

もっともらしい主張は、きちんとその誤りをみつけ、
否定することが人間性を守るために必要である
そんな危険な社会になっているのではないでしょうか。

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【勝手に解説&ネタばれ】角田光代「坂の途中の家」結果的に思い込みDVを描いた傑作 妻ある人全員にお勧め。 [家事]


<場面設定>

「刑事裁判の補充裁判員になった里沙子は、子供を殺した母親をめぐる証言にふれるうち、彼女の境遇に自らを重ねていくのだった―。社会を震撼させた乳幼児の虐待死事件と“家族”であることの光と闇に迫る、感情移入度100パーセントの心理サスペンス。」
と紹介されています。

この刑事裁判では、
子どもを殺した母親水穂が、
追い詰められた上でわけわからなくなり、
気が付いたら赤ちゃんが浴槽で溺死していた
という弁護側の主張と

ブランド志向のわがままな女が、
子どもが邪魔になったので殺した
という検察の主張が対立して進んでいきます。

つまり殺意の内容をめぐって
追い詰められていたのか、追い詰められてはいなかったのか
ということを争点に裁判が進行していきます。

補充裁判員になった主人公は、
子どもを産んだ母親が追い詰められていく心理を
他の裁判員たちが理解しないことに焦りを感じながら、
自分の子育てや夫婦の会話を振り返りはじめます。

そして、少しずつ、
自分も水穂被告と同じように
追い詰められていたことに「気づき」出すのです。

特段意味のなかった主人公と夫の会話に、
夫の蔑みというか、自分を一段低く見ている発言に
「気づき」だすわけです。
そしてそれは夫の自分に対する憎悪があるからだ
と解釈をします。

ここまでが第一段です。

<夫の言葉が自分を否定していると感じるように変化>

主人公は、この裁判員裁判が始まるまでは、
自分の生活の不満を自覚してはいません。
3歳の娘のイヤイヤ期には手を焼いていますが、
夫には特別な不満もなく生活していました。

もともとは、夫の言葉
「裁判員が辛いなら自分(夫)から辞退の電話をかけようか」とか
「ビールばかり飲んでいたらアルコール依存症になるよ」とかを
日常の会話として受け止めていたはずです。

それが、主人公の心の中で、
自分は夫から裁判員裁判をする能力がないと決めつけられた
アルコール依存症だと決めつけられた
さらにさかのぼって
主人公が選んだ結婚式の引き出物を否定したこと、
友達に紹介しようとしたとき声を荒げて拒否されたこと、
娘に対する対応など
全て自分を否定する言動だったと考えると
筋が通ると思うようになっていきます。

そして、それを感じていた自分は
無意識に夫の顔色を窺ってばかりいて、
「常識がない」とか、「そんなことも分からないのか」とか
そういう言葉を言われないために
びくびくして生活していたということに「気付き」ます。
夫が怖くなっていくのです。

このあたり、作家はとても巧みで、
とてもリアルな表現になっています。
出来事に関してはできるだけニュートラルに記述されているので、
主人公の心情の変化が逆に強く印象付けられます。

<変化の理由>

どうして主人公の、特に夫に対する
心情の変化が起きたのでしょう。

この心情の変化こそが、
思い込みDVの実態です。

この変化の理由は、簡単ではありません。
多くの事情が、複雑に絡み合っています。

1)出産に伴う生理的変化

この小説が世に出たころは、脳科学の発見がまだないのですが、
その後、出産に伴って母親の脳は、
新生児に共鳴、共感しやすく変化するため、
大人、特に男性の心に共感しにくくなるという発見がなされました。

この脳機能の変化のため、夫が何を考えているのかわからなくなり、
自分が支持されているという実感もなくなり、
自分は、家の中で孤立していると感じ易くなるようです。

小説の中にも表現されていましたが、
がっしりとした体格の声のでかい男が家にいることだけで
恐怖を感じるようになってしまうというのです。

2)孤立婚の中での夫に対する過剰な依存

今の世の中は、
夫婦は孤立しているので、
心理的に、夫に依存してしまう傾向がどうしてもあります。
「夫が自分を見限ったらこの世の終わりだ」
極端に言えば、そのような恐怖を
無自覚に抱いてしまいがちになるようです。

だから、夫が怖いというのは
暴力や暴言に身の危険を感じるという以上に、
自分に対する否定評価によって、
離婚を言いだされるのではないか、つまり、
強烈な対人関係的な危機を感じている
という表現が正確なのでしょう。

見限られるというのは、
夫が自分とは別の群れに移動するということです。
自分だけが取り残されるという心配がおきるわけです。

3)夫の実家

主人公は、裁判員裁判の日は、
子どもを夫の両親に預けます。
そこで、夫と夫の家族のチームワークに接することが
いやでも毎日のように起こります。

夫が自分よりも
夫の両親の関係の方を大事にしているような感覚になりますし、
家に帰るのをぐずる娘までも
夫の両親のチームに移動して自分が孤立するのではないかという
自覚できない不安も
主人公をイライラさせる要因になっていると思います。

4)社会的孤立

特に仕事をしていて、出産とともにやめた母親は
社会的にも、自分が孤立していると感じることがあるようです。
それでも育児は休めない。
これでは、自分だけ損をしているという
そういう気持になっていくでしょう。
あたかも自分だけが、子どもの召使になったような気がする
という声を聴くこともあります。

このあたりの事情を
作者はリアルに織り込んでゆきます。

<主人公の考察、夫婦は対等か>

主人公は、被告人水穂と自分を重ね合わせるようになり、
被告人水穂が追い込まれていったことに共感を抱き始めます。
しかし、他の裁判員や裁判官が理解をみせないために、
主人公は焦りを感じていきます。
主人公の苛立ちにに共感を示している自分にも
気づかされるところです。

そして、夫がおしめを汚した娘を
主人公に押し付けるエピソードが絶妙なタイミングで挟み込まれます。

主人公は、このような自分の状態に照らして、
「夫婦という関係は対等なのか」
つまり、初めから妻はハンディキャップがあるのではないか
ということを考えるようになります。

夫婦の対等の意味とは何かという考えに進みます。
この主人公の思考の変化は圧巻でした。

自分の思い通りいかなかったこと
住居や収入、生活の様子など
全てが不平等な態度に終始する夫に
自分が何も言えなかったから
夫から見限られたくなかったからだ
というように感じていくさまが描かれています。

夫の何気ない一言や態度等が
自分を追い込んでいったと考えていくのです。

こんな時
もっともらしい権威のある人から
「それは夫のあなたに対する精神的虐待です。」
等と宣言されてしまったら、
「ああ、やっぱりそうだったんだ」
と思考が固定化されてしまうことを
手に取るように理解できるようになるでしょう。

<主人公の2回目の変化>

作者の角田さんの真骨頂は
母と娘の葛藤です。
もっと突っ込んで言えば、
母に精神的に支配されていると感じている
娘の葛藤ということでしょうか。
このテーマで数々の傑作が生みだされています。

この小説では、この点がメインテーマではなく
背景事情となっているようですが、
母親に対する葛藤が重要なきっかけとなって描かれています。

主人公は、夫だけでなく、
母親からも否定されていたと思い当たります。
結局母親は自分に対して優位性を示したかったと整理します。
子どものころはなんでも子ども中心に優しかった母親だけに、
その後の干渉がより強い心理的負担になっていたようです。

ただ、愛された記憶から、
母親は自分を否定したけれど
自分を憎んでいたわけではないということにも思い当たります。
もしかしたら、夫も、
自分を憎んでいるから否定したのではなく、
そのようにしか愛することができない人なのだ、
自分はそんな人の愛を求めていたのだ
という風に考えが変化します。

これは大きな変化だと思います。

孤立婚のために夫にだけ依存していて
夫を絶対化してしまっていたところから解放された
というようにも感じられます。

<裁判と主人公の共通する問題点>

裁判員裁判では、
主人公は、最後の最後で
自分の主張をまとめることができました。
とても説得力がある主張だと思います。

判決でもその考えが一部受け入れられるのですが、
実際の裁判ではなかなかこうはいかないのではないか
と思えてしまいます。

夫が被告人水穂を追い込んだ
ということには、
夫の言動がすべて微妙すぎるからです。

主人公の考えと
裁判での弁護団の考えには共通項があります。
それは、
「母親が心理的に追い込まれているのだから
追い込んだ人物がいるはずだ。」
それは夫だ。
という誤った前提です。
これが思い込みDVを産み出す要因でもあります。

母親が追い込まれる原因は、前述のとおり
出産に伴う脳機能の変化、ホルモンバランスの変化によって、
孤立婚の中での夫に対するそれまでの依存傾向との矛盾が現れ、
自分の孤立した育児の疲労と相まって
追い込まれていくという
そういう事情は確かにあるはずなのです。

だから、夫の言動だけから妻が追い込まれた
という流れで説明しようとすると
どうしても、微妙なニュアンスと論理を超えた共感を求める
そういうことになってしまうわけです。
これが実際の思い込みDVです。

<夫の責任>

それでは、夫には、
妻が追い込まれた原因は全くないのか
という問題がでてくることでしょう。

現時点では、
夫が悪いとは言い切れないが
夫に原因がないとも言えないのではないか
というあいまいな感想を持っています。

つまり、
夫には、妻を追い込まないために
できることがあったということです。
妻のデリケートなメンタルを理解し、
ダメ出しを極限まで控えて
妻の考えを尊重する。

妻が失敗しても、
「いいからいいから」
と責めない、批判しない、笑わない。
特に子どもの前では妻を立てる。

それでも、妻は
夫のフォローを嫌みだと思うかもしれないのです。

この逆、
些細なことでダメ出しをして
妻の判断を否定する、
不十分な点を責める
あれこれと指図する
ということをしない
それだけでもせめて行うべきだったのです。
私自身の悔恨を込めてそう考えます。

こちらが悪くなくても
妻は苦しんでいる
ということから出発するべきだったのです。

<主人公のその後>

当初は、この主人公と夫は
うまくいかなくなるのではないかと
そんな心配をしていました。

しかし、この点も作者は見事なのですが、
その後のことはもちろん書かない
しかし、
主人公の考えと違って、
復職を後押しする夫の発言があって
自分の考えが正しいのかどうか
揺らいでいる心情が織り込まれます。

主人公は、
最も悪い考えの時には、
自分は夫から憎まれているのではないかと考え
次に、そんな愛し方しかできない夫だったと考えを変えました。
そして、
新たなエピソードを通じて
再び安心の記憶が刷り込まれていく
その端緒を鮮やかに切り取って描いているわけです。

一番大切なことが、
夫婦関係は
いつも今の時点から、新たに
お互いに対する安心の記憶を
積み上げていくものだ
という主張に感じられます。
大賛成です。
これまでとは、少し違う
あたらしい夫婦の関係が
主人公夫婦にも積み上げられていくような
将来を予感させて小説は終わります。

<余事記載
 気がついたら乳児ができ死していたということがありうるか>

裁判の方では、水穂被告が、
その日のことはあまり覚えていなくて
入浴させなければいけないと浴室まで来たことは覚えているが、
子どもを浴槽の水の中に落としたことについては
記憶がないと主張します。
こんなことはありうるのでしょうか。

可能性はあります。
「短期記憶障害」と言われる疾患です。

これは、強烈に感情を動かす事情があった場合に起きます。
主として、命の危険を感じるような
強い危険があったような場合です。

水穂被告には命の危険がありませんでした。

しかし、わが子が水の中に落ちたということで
子どもの命の危険に直面したこと、
自分の不注意で子どもの命を奪うかもしれない
その結果、夫や夫の親や、社会から
自分が追放されるという恐怖
これらが一気に押し寄せてきたために
今起きている出来事を記憶することが
できなくなった可能性はあると思います。

実際に短期記憶障害が起きていたかどうか客観的にはわかりません。
しかし、大部分の場合、
被告人にとって経緯を記憶していた方が
裁判上は有利になります。
どうして落としたのか
どうして助けられなかったのかが説明できれば、
その理由を説明することができるからです。

ところが、この点の記憶がないと言ってしまうと、
故意に溺死させようと投げ込んだのではないか
という疑いが強くなってしまいます。

覚えていないと言うことは勇気が必要です。
そんなことはないだろうと何度も聞かれます。
警察からも検察官からも
そして一番しつこく聞くのは弁護人です。

それでも覚えていないと言い続ける場合は
本当に覚えていないことがあるのだと思います。

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「拡大自殺」論批判 「死にたければ一人で」論争がどちらに転んでも世の中を悪くするしかない理由と理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

登戸の事件を受けて
「死にたければ一人で死ね」という
SNSでの書き込みをすることの是非が議論されている。

是ということを臆面もなく主張することについての違和感と
非とする論者の隠れたすさまじい差別意識を説明することが
本拙稿の目的である。

1 「死にたければ一人で」の隠された前提

「死にたければ一人で死ねば」
無意識の前提がある。それは、
・犯人は、一人で死にたいのに、それが嫌だから(怖いから)
誰かを巻き添えにしたいのだから「死にたいなら一人で死ねば」
・犯人は、どうせ死ぬのだから、死ぬ前に
ひとはな咲かせようと、目立とうと多数を襲撃した
・犯人は自分で死のうとしているが、死ぬにあたって
自分に冷たくした社会に復讐しようとしている
だから死にたければ一人で死ねば
ということが隠されていると思う。

無意識の前提が怖いのは、修正が利かないことと
問題の所在が隠されてしまうことで、
刺激的な、印象的な言葉だけが取りざたされてしまうことだと思う。

これらの前提自体が、まず本当にそうなのか
議論されなければならないはずだ。

2 無差別襲撃に対する理解。

一人で死にたくない論、目立とう論、復讐論
全て見当はずれの可能性が高い。
犯人が死亡しているので、真実はわからない。
おそらく犯人自身にも説明ができないだろう。

無差別襲撃の心理、追い込まれるとはどういうことかは
最近(5月30日)述べたので詳しくは繰り返さない。
「無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。」 https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-05-30

要点は、追い詰められた事情としては
絶対的孤立
家族、職場、地域その他あらゆる人間関係に仲間として帰属していない
絶望
将来にわたり、どこかの人間関係に帰属することが不可能だという認識
であり、これが起きてしまうと
人間の命に価値観を一切持てなくなり、
他人の命も、自分の命も大切なものだという感覚がなくなり、

人間だからと言って、命を奪うことに
心理的抵抗がなくなる。それをしない理由がないという状態になる。

だから、復讐心がなくてもかかわりのない他者を殺すことができるし、
自分に対する他者の評価を気にしない状態なので、
目立ちたいとも思わなくなっている。
さらには、一人で死ぬことに特に抵抗がないので、
他人を巻き込むことが自分にとって価値があるわけでもない。

おそらく、「たくさんの人間を殺すことができそうだ」
と思ったから襲撃した
とそういうことなのだと思う。

3 一人で死ねば論の幼稚性

友人同士などで、登戸事件のニュース記事を見て
死にたかったら一人で死ねばいいということを話すことについて
とやかく言うつもりはない。
情において十分理解できることである。

しかし、それがメディアに取り上げられる場合は、
不特定多数の第三者に伝わり、
差し障るヒトにも当然伝わるのだから、
デメリットを考えて話すべきことは当然だ。

自分の発言がメディアに取り上げられることを知っていながら、
「言いたいから言った」
というのは、いい大人が言うことではない。
感情を垂れ流すことを恥じないなら芸は成立しないだろう。

4 「一人で死ね」自粛論は、自死の差別を助長する

しかし、より多くの人を深刻に傷つけるのは
むしろ、「一人で死ね」の自粛を呼びかける側だ。
その結論ではなく、その結論に至る過程に大きな問題がある。

こちらも隠された前提、無自覚の前提を持っている。
言い出した藤田氏の提起を超えているようだ。

問題点を際立たせる表現をすると、
「引きこもりの人たちは、自死の危険が高く
かつ、無差別襲撃をしかねない」という前提を置き、
だから、一人で死ねということを言って
無差別襲撃に駆り立てるようなことを言ってはならない
としているのである。

藤田氏の提案にも違和感があったが、
その後に続く一部の論者の主張には嫌悪感も生まれた。

引きこもっている人たちのほとんどは 自死をしないし殺人もしない

自死する人の99%以上は殺人をしない

それにも関わらず、
引きこもりの人や自死する人、自死リスクのある人を
無差別殺人者の予備軍みたいに扱っている
という印象を受けた。
すさまじい偏見だと言わなければならない。

このような論者の共通項があった、
「拡大自殺」という書籍を引用しているのだ。
ネット上での「拡大自殺」は、
それがどうしたという内容のない議論だったので、
その危険性について私も気が付かなった。

しかし、尊敬する江川紹子氏まで
引用していることに危機感を抱いて読んでみた。
その結果、
私の感覚の正しさが裏付けられたと思う。

5 「拡大自殺」の内容

第1章 大量殺人と拡大自殺
私は読むに堪えられなかった。
決めつけと罵倒に終始していると感じたからだ。
やまゆり園事件を中心に紹介している。
事件の確定囚を自己愛性パーソナリティー障害だと決めつけ、
事件、行為について罵倒することは理解できるが、
犯人の「人格」を想像と決めつけで論難している。
そもそも自己愛性パーソナリティー障害だとする
診断上の根拠を示していない。
筆者は精神科医なのであるが、
他者を精神科医として病気だと主張する態度として
このように日常の実務が行われているならば
震撼させられる。

第2章 自爆テロと自殺願望
これは、淡々と専門家のルポを紹介している章で、
それなりに興味深かった。

第3章 警察による自殺
特にコメントはない。

第4章 親子心中
なぜか、圧倒的に事例の少ない父子心中を
週刊誌の記事をもとにして冒頭に掲げ
憶測を交えて論じたうえで
統計的に圧倒的に多い母子心中の話が展開されている。
同一化、利己的というキーワードが出るが、
私には、理解が容易ではなかった。

第5章 介護心中
事例が豊富に紹介されており興味深かった。

終章 拡大自殺の根底に潜む病理
ここの差別の理論的根拠が展開されていた。
第1章よりも読むに堪えない記述であった。

6 拡大自殺論のフロイト派の展開が差別の根源

筆者は、
「自殺願望を抱いている人がなぜ他の誰かを道づれに無理心中を図るのか」
という問題提起を立てる。
これは重大な誤りを含んでいる。
言葉だけを見ると、
「自殺願望を抱く人は、他の誰かを道連れに無理心中を図るものだ」
という隠された前提があることになるからだ。

私のこの文章を読んでいる方々の多くは、
私があげあしをとっているだけだと感じられるだろう。
しかし、そのあとの展開は、
私の指摘が正しいことが明らかになる。

ともかく、
自殺願望を抱く人のほとんどは他者を道連れにしようとしない
殺人をする人の大部分は自死しない
ということが真実である。

それにも関わらず、このような問題提起をするということは、
何も考えていないで書いているか
答えがあらかじめ用意されているための前振りにすぎないか
どちらかである。

この本では後者であった。

この後の展開ではフロイトを引用して
うつ病の患者の苦悩は
「サディズム的意向と憎悪の意向との自己満足」であり、
自殺願望とは、他者への攻撃衝動の反転したもので、
自己懲罰という回り道をとおって、
もとの対象に複数する
と述べる。

筆者は現役の精神科医であり、うつ病の治療も多く手掛けているだろう。
このような理論にのっとってうつ病患者と接し、
治療をしているということになるのだろうか。

この論理の進め方の最大の疑問は、
なぜ、この論理が正しいと考えるのかについて
何ら根拠が示されていないということである。
私には、「フロイトが言ったから正しい」としか伝わらない。
あたかも聖書に書いてあることと違うからといって
地動説を否定したようなものではないだろうか。

さらに筆者はM.ベネゼックを引用し、
「他の誰かを殺そうとする意図なしに、
自殺することはあり得ない」とまで述べ、
畳みかけて「自殺は復讐である」という図式を
無批判、根拠なしに繰り返す。

W.ブロンベルグを引用し、
他殺か自殺かは、復讐という動機の強弱にある
とまで言ってのけている。

これが現役の精神科医の文章である。

フロイトについては、私は
他の認知心理学者よりは大いに評価している。
当時、
無意識を発見したこと、
精神病理には、患者の体験が影響を与えていること
それを発見したことは
全ての認知科学に多大な功績があると思う。
対人関係学ですら
フロイトがいなかったら成立していなかったと思う。

しかし、現在では、日本以外では、
脳科学や精神医学の発展によって、
実務的影響は限定的なものになっている。

フロイトが言っているから正しいという論理は
日本以外では通用するものではない。

正直言って
フロイト派の自死に関するメカニズム理論であれば、
対人関係学の理論の方が
悠に正確で実務的であると
確信している。
対人関係学の自死に関するページ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/suicide.html

7 無差別襲撃をする人と自死者の違い

特に「拡大自殺」を引用しながら
「死にたいなら一人で死ね」というなという論者は、
自死者や、自死リスクを抱えている人間は、
無差別殺傷者の予備軍であるという主張になる。

だから、「一人で死ね」というメッセージが伝わると
無差別殺人を起こすという警告をしているのである。
 
この背景として、自殺をするようなものは
自分とは別種類の人間であり、
自分はそのような型の人間の外にいて
その人間を支援する尊い存在だという
強烈な差別意識が感じられる。

先ほど引用した私の5月30日のブログで述べた肝心なことは、
無差別事件を起こすものと
ほとんどの自死事案には大きな違いがあるということである。

無差別事件の加害者は、
あらゆる対人関係の中で孤立していて、
完全に回復については絶望し、
既に人間として生きる意欲をなくしているということだ。

これに対してほとんどの自死者は、
例えば家族を
それは現在の家族が多いが、過去の家族、未来の家族を
大切に、大切にされていたという記憶がある
例えば、友人、例えば行きずりの人でも
大切にしている対人関係があるということである。

この差は質的に全く異なる。決定的に異なる。

8 何が足りないのか。当事者の発言をくみ上げること。

どうしてこのような鼻持ちならない攻撃が横行するのか。
自分の頭で考えていないで雰囲気でものを考えているから
というのが一つある。

もう一つは、
誰かを支援するという第三者的な視点が
最大の問題であることに気が付かなければならない。

これを是正するためには当事者の発言に依拠することである。

自死未遂者の意見、
自死リスク者の意見、
そして自死遺族の意見が反映されなければならない。

これがない限りは、
自死対策は、
差別と偏見を拡大し、
自死予防とは逆行するばかりである。

このことが分かりやすく示されたことに
今回の論争の意味があったのかもしれない。

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必要なことは、改心ではなく、言動修正。「心は後からついてくる」 愛すべきまじめすぎる人たちへ。 [家事]

必要なことは、改心ではなく、言動修正。「心は後からついてくる」 愛すべきまじめすぎる人たちへ。

なるほどとひざを打ちました。

私の提案する
夫婦間の紛争予防
家族再生の方法について、
頭では理解できるけれど
心がついて行かないというご指摘がありました。

この部分はとても実務的なご指摘なので、
共有させていただきたいと思いました。

どうご回答するか少し悩みました。

先ず頭に思い浮かんだのは、
「そりゃあそうだよな。」
ということです。

何もなければ攻撃しないものです。
何かあって、それに悪く反応して
それが悪い意味で相乗効果となり、
引き返せなくなるのが、
人間関係の紛争です。

特に離婚問題では、
子どもと引き離されたり、
やってもいないことをやったとか
大げさに言われたりとかしています。
相手が自分に悪意を持っているとしか感じられません。
当然防衛意識に基づく反撃にふさわしい
怒りや憎悪の感情になっています。
感情的になるなというのは無理な注文です。

「では、私の主張は空理空論なのか」

自分自身で袋小路に入るところでした。
だから、最初に答えにたどり着いたときは
自分でも半信半疑なところがありましたが、
今は、堂々と言えます。

正解は、
「心はどうでもよい。
言動だけ修正すればよい。」
ということでした。

そして、これが対人関係学の
一番大事なところでした。

要は相手の気持ちが
自分といることで安心できるようにすること
一度自分といることで危険を感じるようになった相手の心に
自分といることが危険ではない
という安心感を刷り込んでいく
ということなのです。

その行動のテクニック
ということで割り切って良いと思うのです。

こころは、その人の置かれた環境を反映するもので、
生理的な反応だと割り切って考えています。
(あくまでも、紛争予防、人間関係修復の観点です)
環境を変えることで、相手の心が変化しますが、
目に見えない、感じ取れない
こちらの心の変化では
相手の心は変化しません。

私が袋小路入りそうになったのは、
「言動を修正するときに、
自分の心から修正しなければならない。」という、
意識に上らない前提を作っていたからではないか
というところに思い当たりました。

つまり、まじめすぎるのです。
無意識に、「嘘をついてはいけない」
という正義、道徳感情が入り込んでいたわけです。
これが、邪魔者なのです。

あまり紹介したくない例ですが、
これまで、子どもを連れ去られた父親で
母親への憎悪を聞くに堪えない形で語っていた
一番ひどいことばかり言っていた人は、
母親と子どもの前だけでは
母親を喜ばせることを言ったり
プレゼントを与えたりと
一番積極的に相手の心に働きかけていました。

その結果子どもたちが帰ってきました。
しかし夫婦の修復の話は聞いていません。

通常母親に弁護士が就くと
母親側対父親という図式ができてしまいますが、
母親側を分断して
気持ちの上では逆に直接対決となったようです。

私の担当した例で現在も好転進行中の例は、
父親の心は両極端に動いていて
修復したいという気持がありながらも
憎悪による制裁の気持ちもあって、
行動を一貫させるために、
毎回大激論となったことを覚えています。

この例では、
結局、二つの心は併存したまま
頭で行動や言動をコントロールして、
予め事態を想定したため、
相手の弱さによるこちらへの不利益行動を
(面会一回さぼり)
許容する言葉を発して、
結果としては、寛容な行動をとることができました。

そういう結果をいくつか積み重ねて、
こちらが相手に敵意がないこと、
相手の失敗を責めないことを刷り込んだということなのでしょう。
相手からの譲歩が徐々に大きくなっていき、
関係がだいぶ良くなりました。
半年後はほぼフリーハンドでの父子の交流が実現している
と言って差し支えないでしょう。

そうすると人間関係は相互作用ですから、
こちらも、
相手に寛容にすることの心地よさを学習していきますから、
相乗効果で距離がつまっていきました。
常に感謝の心に基づく言動を口にするようになりました。

先ず、理性で環境を整えればよいのです。
別のことを考えていても
相手にそれと察せられなければ良いのです。

環境が整っていけば
自然と心が後からついてくる
それは、相手も自分も一緒なのです。

環境とは、
欠点、弱点、不十分点を
責めない、批判しない、馬鹿にしない
ということです。

小さいとき、
子ども同士の遊びの会話に中に
祖母が介入してたしなめられたことを思い出しました。
ずいぶん形式的なことを言うなあ
と今にしてみればそういう気持になったことを覚えています。
でもそれが、年長者の知恵なんだなと
今ならはっきりわかります。

相手に何かを求める時は、
相手に結論を提示するだけでは実効性が薄いです。
結論に誘導するサービスをすることが
肝心です。

心は後からついてくるものです。
先ず、理性で、自分の心の落ち着き先の
環境を整えましょう。





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現代の家族が不安定であることの根源的理由と、家事紛争予防、早期調整システムの必要性 [家事]

1 人間の心が家族に求めること

人間の心は、200万年前に形成されたとされています。
その当時の人間の群れの状態を反映しています。

自分の苦しみや不安を他者に理解してもらいたい
自分の失敗や欠点、不十分点にかかわらず
家族という群れに永続的に帰属したい。
これを脅かされる事情はたまらなく嫌だ。
自分を仲間として当たり前に扱ってほしい。
というようなものです。

かといって大人になれば、
自分を低く見てほしくない、
色々な出来事があっても
憐れむ対象ではなく、
いつもの通り接してほしい
ということになります。

もっと実践的に言えば
否定と指図だけをされるのは嫌だ
ということになるでしょう。

これは少し気を付ければ可能なことで
ささやかな要求だと思います。

2 ぶつかる尊重されない感覚

一般に結婚するときは、お互いを愛すること
つまり大切にすることを誓うのですが、
その誓いを貫くことはなかなか難しいようです。

つまり、
パートナーの気持ちを第一に考えて行動する
という発想が後退していくのです。

離婚事件から見た場合は、
それは、もう一方の価値観の押し付けと
それに基づく行動ができないことに対する否定的評価
ということになり、
否定と指図だけの生活という感覚を与えてしまうようです。

その押し付けてしまう価値観とは
効率であり、
正義であり、
常識であり、
あるいは衛生等と言うこともあります。

価値観自体が間違ってはいないことも多いのです。
しかし、働きかけ方がうまくないので、
プラスに働くことはなく、
家庭崩壊にだけ向かってしまうようです。

最低限のことができない場合、
それをするために工夫は、大変高度な働きかけが必要です。

本当は一緒にやるということしかありません。

また、家庭以外の職場や学校などの
抱えきれないストレスをつい発散してしまう
つまり自分がやられたように家族に働きかけてしまう
ということもよく見られることです。

そんな場合、相手の弱点が特に目につき
自分が馬鹿にされているような感覚を受けるようです。
自分が大切にされていない、尊重されていない
という感覚なのでしょうね。

このようにお互いにお互いから
尊重されていない感覚は、
相手の感情を感じ取って
どんどん大きくなってしまいます。

3 現代の夫婦の最大の問題環境とは

なかなか気が付きにくいことですが、
夫婦の安定性を害する最大の環境要因は、
家族の人数が少なすぎるということだと思います。

人間には適材適所があるのだから、
他にすることがなくても
どうしても片づけをすることが苦手だとか
捨てることが苦手だということはありうることです。

計算が苦手で、欲しいものを買ってしまう
という一瞬はけっこうあるものです。

それでも料理が得意だとか
子どもの教育が得意だとか
その逆のパターンとか
それぞれあるわけです。

さらに共稼ぎなどの事情があれば
十分な時間もないのですから、
益々苦手なことができなくなります。

人間の心の形成期は、
人間の家族は数十名いたそうです。
一人ぼっちにはなる心配はありませんでした。
必ずしも血のつながりのない人もいて、
一つの群れでお互いを支え合っていたようです。

そうだとすると
料理が得意な人は料理のリーダーになり、
子育てが得意な人は子育てのリーダーになり、
狩りが得意な人は仮のリーダーになり、
それぞれが協力し合って家族として生活していた
ということになります。

それぞれ仕事の分担もあり、
狩猟チームと、植物採取子育てチームと
別れていたようです。

他の群れの存在はよくわかりませんから
他の群れの人と、自分の群れの人の比較をすることもなく
ありのままの自分の姿で生活していたことでしょう。

ところが現代では、
子どもが小さければ、
外で稼いでくるのは男だけの仕事になりますし、
家で子どもを育てるのは母親だけの仕事になりがちです。
それぞれが、相手の領分に手を出していたら、
休む暇もないでしょう。

心は人での余裕のある時の状態を要求していますが、
とても十分にかなえられない環境と
なっていると思います。
損根本問題が、
人手が必要であるにもかかわらず
人でないないことです。

心のおもむくまま
相手に感情をぶつけることは、
本当は不可能を相手に強いることだということが
なかなか自覚されることはありません。


4 孤立婚の「人手」

このように本来数十人で暮らしているような感覚の人間が
夫婦二人だけで日常を回すのは
夫婦が孤立している状態だともいえるのではないでしょうか。

人手が足りない、
これは、一つには、文字通り作業をする人数が足りない
ということです。
同時に
知識が少ないということも意味します。

特に故事ことわざとか、おばあさんの知恵袋とか
なかなか活字にならない経験や伝承の蓄積が
若い夫婦には入ってこない。
このため、要領の悪いことを努力するとか
初めからやり直さなければならないことをするとか、
過剰に気にしすぎるとかいうことが起きているようです。

子育てに、それは集中しています。

5 相手に対する過度の依存

人間は群れを作る動物ですが、
本能的に誰かにつながっていたい、
誰かとの関係を永続させたいと思ってしまう本能があります。

これが若い夫婦二人の場合、
相手の自分に対する気分感情を絶対的なものに
思ってしまう要因になってしまいます。

相手の一挙手一投足に
過敏に反応してしまい、
傷ついたり、いかったりしているようです。

二人ではなく、ジジババがいたり
長老様がいたりすれば、

夫婦の些細なもめごとがあっても、
長老様がニコニコしていれば
自分がそれほど窮地に立っているわけではないと
感じることができ、
不安が軽減されるでしょう。

夫や妻から感情的な対応を取られても
群れから追放される心配はしなくてよい
ということになるからです。

現代の孤立した夫婦は
その緩衝材がありません。

6 感情のブレーキ役の第三者

家の中に長老がいて、
夫が妻にピリピリしていたら、
がみがみするなと一括できるでしょう。

妻が夫に対して不安な気持ちを持っていたら
なだめたり夫に意見を言ったりできるでしょう。

いさめ方の巧拙はあるでしょうが、
一人の感情に任せた言動に
ブレーキをかける人がいたわけです。

一緒に、あるいは、身近に暮らしているけれど、
利害関係にないので、
自分を守る意識なく、
家族全体のために判断できて、
意見を言っても自分の立場も悪くならない
そういう人がいることが
数十人の群れに適応した心に
適合した環境なのでしょう。

7 家事紛争の予防、早期解決事業モデル

このように現代の夫婦問題を再構成すると
解決のための方法は見えてきます。

ただ、今更集団で生活するということは
マンションという居住環境や
生活様式から難しいでしょう。

集団生活にならない
おいしい所だけを工夫する方が
現実的でしょう。

そうすると、
契約仲人集団みたいな事業があればよいのではないでしょうか、

以前提案した家事調整センター

もっと早期から
紛争が起きる前から利用するということです。

つまり、
結婚後、仲人センター(仮称ですよ)と契約して
1年1度あるいはもう少し多く、
何がなくても訪問して近況を話す。
センターの方は、特に問題が生じていなくても、
話の中からうかがえる
紛争になりそうな火種をみつけて、
一般論のように紛争が生じるレクチャーをする。

また二人が工夫しているところについては
特に意識しないでよくやっているところを
具体的に指摘して肯定する
という面談活動をする。

ここで何か問題が起きている場合は、
調整へと進むわけです。
早期に発見すれば
双方のプライドを傷つけることなく
解決することが容易だと思います。

出産が決まれば
利用できる制度を紹介するとか、
注意事項をレクチャーするとか、

出産すれば
手伝いを手配するとか
子どもを育てるに便利な資源を紹介するとか

子どもの教育をめぐって口論となれば
臨時に双方の意見を聞き
調整の選択肢を提案するとか
そういう活動ができればよいのではないでしょうか。

具体的な人手の手配、
おばあちゃんの知恵の敬称、
紛争の未然防止による不安の抑制、
早期介入による対立の激化の防止

そんなセンターが身近にあればよいのではないでしょうか。

問題は、それが事業として成り立つかどうかですが、
それは、誰かに考えてもらいましょう。

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