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家族の中に他人を作り家族を分断させる「呪い」の思想 [家事]

 

現代日本の家族関係は、大変もろいものです。
自分は夫から、妻から、親から子から、
一段低い人間だとみられていないか
自分だけ損をさせられているのではないか
と考えてしまって、
家に帰ることが安らぎにならないということが
すぐに起きやすくなっているようです。

一つは家族の人数が少なくなっていて
相手に対する依存度が大きくなっていること
このために家族の自分に対する評価を過剰に気にしてしまう。
人数が少なくなった家族生活のノウハウが無く、
これまでの人間を大切にする生活の知恵も継承されない
というところにも原因があると思います。

もう一つは、家の外の学校や職場が
とても安心できる人間関係を築けない上、
外のストレスが、家庭に持ち込まれやすくなっていることです。

放っておいたならば家庭は機能しません。
意識的に家族という人間関係を作っていく
という作業が必要な時代だと思っています。

家族という群れの強い一体感を作る必要があるのです。
「私たち」という言葉で語られる居心地の良い関係を作る
そういう作業を意識的に行う必要があると思います。

ところがこれに逆行して
家族という人間関係を他人に変えることを良しとする考えが
かなり影響力を持っているということを知りました。

先日地元の有力紙の書評で、
「炊事、洗濯、掃除、子育てに介護が
女性の無償労働行われていて、
その原動力は、外部から注入された「愛」だ
どれだけ尽くしているかで愛をはかられる
だから苦しい」
という一文を読みました。

これはすさまじい「呪い」だと感じました。
もしかしたら、悩んでいる妻たちに対して
「それは夫のモラハラのためだ。精神的DVだ。」
という人たちも同じようなことを考えているのではないか
と思いつき背筋が凍るような思いをしました。

この論者は物書きだそうですから、言葉は正確なのだと思います。
そうすると
炊事、洗濯、掃除、子育てに介護を
無償で行っているということを非難していることになります。

論者は、家事に対価を要求していることになります。
この発想は
すべての労働は対価を要求できるという論理を
前提にしています。
それでは外で働いて給料を家に入れている男性は
誰にどのような対価を求めればよいのかということになってしまいます。

家族のための行動に対価を求める発想は間違っています。
お小遣いをもらって家事をする子どもは別ですが。

あまりにも資本主義経済に毒されている発想です。

資本主義経済体制において賃金を取得するのは、
「他人のために自己の労働力を提供する」からです。

極端な話からはじめると
人間が自分で生きる営みに対しては
誰も対価を要求しません。
例えば一人暮らしの場合、
買い物に行くのも、調理をするのも、食事をするのも、排便をするのも
誰も対価を要求しようとしません。

次に
自分の子どもの子育てをする場合も
授乳、おしめ交換、沐浴、衣服の購入と着替え
おそらく誰かに対価を要求しようと思う人は
本気で思う人はいないといってよいでしょう。

つまり、自分たちのための行動であれば
あるいは仲間のための行動であれば
人間はそれをやりたくてするものであり、
対価を望んで行動するわけではないのです。

ところが、論者の論調は、
家事労働が無償で行われていることを非難してみせることで、
あるいは少なくとも否定的な評価をすることで、
家族の営みの中に
他人性を滑り込ませているのです。

実際に対価を求めなくても
こういう考えが頭の片隅に引っかかると
夫婦は「人間の群れ」としては成り立たたなくなります。

人間は言葉のない時代から群れを作ってきました。
群れとして成立する原理は、言葉ではなく
法律や道徳でもなく、
群れを作るための感情をもっていたからです。

つまり、ずうっと仲間でいたいという感情と
その裏の関係にある仲間として認められないと感じたり、
仲間から外されると感じたりすると
恐怖や不安を感じるシステムが組み込まれていたのです。

共感する能力を背景として
仲間が困っていたら自分のこととして助けたくなり、
仲間が喜んでいたら一緒にうれしくなる。

群れの中の弱い者を保護しようとする感情

このような共感モジュールが遺伝として継承されて
群れを形成してきたと考えるほかはありません。

だから、見返りを求めることなどなく、
仲間のために自分のできることをした
その結果仲間が喜べば自分もうれしいし、
仲間が苦しみを味あわなくてよくなれば
自分もほっとしたはずです。
こうやって人類は群れを作ってきたと思います。

いちいち対価を期待して群れに奉仕するならば、
言葉のない時代に群れは成り立ちません。
即時交換でない限り、
具体的な労働力の提供を記録する方法もありません。
対価を要求して仲間割れになり
群れなど作れなかったことでしょう。

その結果、人間は飢えたり、肉食獣に捕食されたりして、
今よりもずうっと前に種が滅亡したはずです。

だから
仲間のための役に立ちたいということが
人間の本性だと考えます。
仲間のための行動に対価は本質的に必要ないのです。

心が形成されたとされる200万年前の狩猟採集時代は
自分と仲間の区別もあまりつかなかったと思います。
自分の利益は仲間の利益とほぼ完全に一致していました。
生まれてからの付き合いなので、
仲間の感情は手に取るように予測できたはずです。
「自分は」という自分だけを主体として発想を持つことはあまりなく、
「自分たちは」という言葉でものを考えることが
圧倒的に多かったことでしょう。

自分たちと言える仲間の中にいることが
人間にとっては安らぎでした。

ところが論者は、
最も基本的な人間の群れである家族の中に
「私たち」という文脈を否定して
夫と妻を、対立する「個」として分断します。

論者とは異なり、
人間の本性として
家族のために食事を作りたいという男女は多く、
家族みんなのために掃除機をかけるという感覚の人間がほとんどでしょう。
家族の洗濯を一度にするという家庭も多いのではないでしょうか。

それにも関わらず、論者は、
対価を獲得しない労働は損をさせられている
という考えを導入し、家族の仲間を他人にするのです。
本当は、大げさな話ではなく人間の本性なのに、
「それはあなただけ損をしている」
というささやきを繰り返す。
そのささやきに抵抗できず、
「それは愛だ」と答えるや否や
論者たちは、
愛というのは幻想であり、
女性が男性のために奉仕するための「構造的差別」の道具だ
と断言しているのです。

人間の本性を浅はかな理屈で否定するのですから
まさに呪いです。

私たちという仲間の中にいることによって得られる
安らぎ、癒し、充実感という人間の本性的に基づく機能は、
家族が分断されて、個としての対立を際立たされてしまうと
それができなくなってしまいます。

家庭が休まる場所では無くなり、
「自分が損させられている」
という感情が次々に押し寄せてくるようになるでしょう。
「自分は馬鹿にされている」と思うようになるでしょう。

まさに呪いです。

呪われた結果、
何をやっても、自分が誰かに強制されて行っている
家族のための行動に罪悪感を覚えるようになり、
仲間に安心を与えたという喜びは感じられなくなります。

「今いる家庭から逃れたい」
という病的な志向を抱くようになるのももっともです。

これを呪いと言わずして何と言いましょう。

考え方ひとつで
幸せを奪われる人もいるのです。

一度かかった呪いは簡単には解けません。
繰り返し安心感を与えるという
頼りない作業を続けなければなりません。

それでは、女性という人格は
家族の中に埋没する従属的立場なのか
という批判が予想されるところです。

ところが、
それは全く逆なのです。

そもそも、対等の仲間としての群れであれば、
誰が支配するということありえません。
お互いの行動を尊重することが
本来の群れです。
突き詰めて言えば、これが現代社会の日本では
なかなかうまくできないのです。
まだまだ時代の過渡期で、
現代の家族制度に対応しきれていないと考えるべきです。

また、論者の発想こそが
依存傾向の強い人間の発想で、
人間関係を支配と従属でしか考えられない人の発想です。

論者は幼いころから
誰かから評価されたい
という意識を強すぎるくらい持って生きてきたのでしょう。
小さいころから「良い子」だったのだと思います
良い子というのは「親にとって都合の良い子」です。

学校でも良い子、世間的にも良い子でいることに
自分の価値を見出してきたのでしょう。

だから、他者から女らしくしろと言われたら女らしくして、
愛に絶対的価値があると言われれば
愛が足りないといわれることを恐れるのでしょう。
個として確立していない時期に、
目標を他人から設定されて
疑問を持ちながらもとりあえず従ってきたわけです。

だから、他人から「愛が足りない」と言われることが苦しいのでしょう。
社会一般の評価など、本来どうでもよいことです。

自分の行動によって
家族が安心して生活できれば
それでよいはずです。
他人などどうでもよい。
自分のできる範囲での行動で足りなければ
家族を動かして解決すればよいし
家族だけで足りなければ
もっと大きな仲間を作ればよいのです。

依存傾向が強い人は、
夫から評価されることを過度に求めます。

夫から否定されることを恐れて
夫に働きかけないで、
不満ばかりためることになります。
夫が自ら察して解決してくれないと
非難を始めたりしてゆきます。
子どもが親にするように夫に依存してしまっているのです。

依存傾向の強い人が家族から切り離されてしまったら、
個人として確立した人間になるのでしょうか
それは難しいでしょう。
違う誰か、つまり実家や行政や宗教、あるいは自分の幼い子どもと
別の依存相手を探すだけである場合が少なくありません。

夫も妻も、
自分に頼り切っている相手に喜びを感じていたら、
相手はやがて評価を気にしすぎるようになり、
あなたが負担になりすぎて、
一緒にいることが苦しくなる
その結果逃れていきたくなることもある
ということに気づきましょう。

相手が自分の判断で何か実行したことを尊重すること
相手の裁量権を広く認めることこそ
相手が家族のためにしたことは文句を言わない
ということが長続きするコツのようです。

仲間の一体化と従属は全く違います。
相手に裁量権を認めることも
自分が個として確立して初めてできることかもしれません。

家族を分断することはとても簡単に行われています。
呪いがかかった家族を再生することは困難なことです。
しかし、現代社会では家族の再生、再構築が
どうしても必要なことだと考えています。

私たちの幸せのため
敢えて困難な道を作り上げようではありませんか。

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