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自死(自殺)・不明死、葛藤 ブログトップ
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日大アメフト傷害事件で起こったことについての解説を、謝罪会見から試みる [自死(自殺)・不明死、葛藤]

昨日、日大アメフト傷害事件の直接の加害者の謝罪会見がありました。
20歳の若者が名前と顔をさらしての会見でしたが、
関係者、特に本人にとって賢い行動選択だったと思います。

ところで、20歳とは言え、
どうして相手に対する暴行を止めることができなかったのか。
また、どうして、指導陣は
傷害をそそのかしたのか。
それらについては、本人たちも分からないでしょう。
記者は本人に回答を求めていましたが、
それは無理です。

謝罪会見で述べられた事実から分析をしましょう。

経緯は、
加害者は、高校時代から有望なフットボール選手で、
高校時代の監督が日大のコーチになったということもあるのか
日大に入学しフットボール部に所属した。

加害者は優秀な選手で、全日本チームのメンバーにも選ばれていた。

ところが、事件の3日前から
監督が加害者をいじめにかかり、
なんくせをつけ、自分の言うことを聞かなければ
全日本も辞退させる
ということを言い出し、

さらに練習にも参加させないという
なりふり構わない対応を始めました。

1 もともとの体育会気質

もともと、スポーツは、上意下達が徹底しているとこがあります。
勝利という明確な目標があり、
経験豊かな指導者が、研究を重ねて、
勝利への最短距離を伝授していくわけです。

そもそも、監督やコーチなどの言葉に逆らうということは
発想として出てこないわけです。

2 群れの中にとどまる本能

そうでなくとも、チームに入ってしまうと
そのチームから外されたくないと思ってしまうのが
人間の本能です。

この人間の本能を利用して
勝利という明確な目標を絶対善として、
他の価値観に優先させる結果、

上の言うことを守ることが
秩序を守ることと同じことになっていきます。

3 落差理論

人間は、今いるポジションを維持することを望みます。
だから、高いポジションにいる人が
下に転落することは精神的に著しい打撃になります。

立場がなくなってしまうということです。
刑事事件で加害者が自死をするケースが比較的多いのですが、
こういう理由なのだと思います。

日大の加害者は、
全日本のメンバーに選ばれていましたから
メンバーから外れることはとても強い抵抗感があったはずです。
ましてや試合のメンバーからも外されることは、
それだけで、外されまいとする心の動きを強くさせます。

外されないためにどうしたらよいだろうかという
そういう発想にしかならないのはそういう理由です。

彼が全日本のメンバーから外れるということは、
当時の自分自身を崩壊させることであり、
自分自身を守ろうと必死になってしまった
という言い方もできると思います。

4 加害者の暴行当時の心

加害者は、暴行当時、
既に二者択一的な思考に陥っていたのだと思います。
傷害を遂行するか、自分を崩壊させるか
そういう視野狭窄の心理状態に追い込まれた
ということが追い込まれたという意味です。

他に選択肢はありませんでした。

退場にならないことに焦りが生じ、
まだ暴力が足りないのかとと感じていたでしょう。
3回目のファールでようやく退場になり、
もう、暴力をしなくてよいのだという安心感が
号泣になったと考えられます。

彼のためにももっと早く退場させるべきでした。
審判も、まさか意図的にやるはずがないという思い込みがありますから、
意図的な暴行だと認定することが難しかったのだと思います。

彼の心理状態が
このように選択の余地がなかったとしても
自分の行ったことについての責任はとらなくてはなりません。
今回の謝罪会見は良い責任の取り方だったのではないでしょうか。

では、監督やコーチの心理はどのようなものでしょうか。

一言で言って、監督は自分の地位を脅かす存在だと
自分にとって加害者危険な存在だと
本能的に感じていたのだと思います。

自分に関係なく全日本選抜となり、
しかもスタイルがフェアプレーで、
自分に対する恭順の姿勢も足りないと感じていたということです。

上意下達が完成されていないと
実力のない上司は不安になるものです。

無意識のうちに
そういう異分子を叩き潰して、
自分に従わせようとします。

母親が子どもにすることがある洗脳ですが、
徹底的に、自分の彼に対する役割を行わず
彼に対する排除の言動を繰り返した挙句、
泣きついてきた彼を迎え入れて、
監督の下に就くことに喜びや安ど感を経験させていくわけです。

それが行われてしまうと
群れにとどまる本能などから
何でも言うことを聞くようになってしまいます。

自ら率先して忖度をするようになるわけです。

コーチは、支配者と服従者と
両方の側面をもって、
監督に媚び、選手を従わせようとしていたことになります。

さて、それにしても、
どうして罪もない相手をつぶすという方針が作れるのでしょう。

それは、第1の原因は、
監督の危機感が強すぎて、
勝利を絶対的に必要とし過ぎたということがあると思います。

その原因はわかりません。
過労死現場でいえば、
実力がないのに役職ばかり上に上がって行って
常に転落の予感に脅えている場合があります。

また、さらに自分の上司から
同じように洗脳されている場合もありました。
もちろんその人の人格的な問題がある場合もあります。

いずれにしても防衛意識が強いということだけは言えると思います。

人間が人間を攻撃しても平気な顔をしていられるのは、
自分や仲間を守るためだと自分に言い聞かせている場合です。

ここまでお話していてお気づきになられた方が多いと思いますが、
今回の日大アメフト傷害事件は、
会社のパワーハラスメントとかなりの部分で重なります。

その本質は、 人間を人間としてみないことです。

相手が生身の人間で
痛みを感じ、精神的に恐怖を感じ、
家族がいて友達がいる
そういう当たり前のことを
感じられなくなっているということです。

痛めつけることが目的化しているともいえると思います。

長時間労働も
家族から切り離され、
心も四六時中仕事のことばかりを考え
夢の中でも仕事をしている状態
毎日がイライラし
家族から見捨てられたり
子どもたちの健全な成長を奪われ、
挙句の果てに命を落とすわけです。

労働者が人間であることが
見事に捨象された考え方です。

今回は他のチームの選手への加害を余儀なくされました。
過労死は、
自分を死に追い込むということですから、
他人とその家族に危害を加えるか
自分とその家族に危害を加えるか
という違いがあるだけで
心理構造は変わっていません。

さて、4年前の今日
国会では過労死等防止対策推進法が可決されました。
そして今年の今日
衆議院では
高度プロフェッショナル制度が強行採決されようとしています。

暴行による傷害は目に見えますが
過重労働によるダメージは目で見ることができません。

しかし本質は同じなのです。

日大は、選手の謝罪会見を受け
相手選手をつぶせと言ったことを認めながら
なお、選手が監督の指導の意図するところに反する行為をした
ということを公式ホームページに掲げました。

考えなしの反射行為ということはあることです。
しかし、この見解が削除されないまま掲載され続けるならば、
日大は反社会的組織だということになります。

他人の人格を尊重することはモラルであり、コンプライアンスです。
比ゆ的な話だとしても
つぶせということはこれらに反するからです。

高度プロフェッショナル制度で労働基準法の労働時間法制を外す
ということも同様ではないでしょうか。


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連休明けの今日、学校に行かなかったあなたと親御さんに  [自死(自殺)・不明死、葛藤]

今日GW明けです。
おそらく、中学生を中心とする多くの子どもたちが
学校に行きたくないと感じていることでしょう。

実際に学校に行かなかった方もたくさんいると思います。

親としては大変心配になります。
学校に行きたくない理由は人によってたくさんあるのですが、
とにかく行けと強制したくなるのも仕方がありません。
それでも、行きたくない気持ちが強い
かなり強い、病的とも思える拒否反応を示すこともあります。

親として一番心配なことは、
とりあえず家から出て、学校に行かないことです。
家の中で、家族に、「学校に行かない」
と宣言して行かないのであれば、
少し安心してもよいのだと思います。

多少なりとも、親を信頼している
という見方もできるからです。
大切なことは、
無理やり行かせないことです。

もちろん行くように説得するべきですし、
そのためには事情を聴くことが必須です。
行く気持ちにさせる努力は必要だと思います。

ダメなのは
頭ごなしに行かなくてはならない
あるいは強制的に学校に連れていくことかもしれません。
行きたくないという気持ちだけは、存在するのです。
無いことにはできない部分です。

気持ちを動かすことができなければ
むしろ「今日は」あきらめる
という選択肢を持つべきだと思います。

今日、突然学校に行かないと言い出すお子さんも
このまま学校に行かないのはまずいと思っています。
本当は、
「今日だけは」行きたくないというお子さんが多いようです。

端的に、
このままいけなくなってしまうのではないか
それなら無理しても行った方が良いと思う。
と意見を述べ、
「明日からは行く」
ということであれば、
「今日は」休むことを支持してもよいかもしれません。

私が思うのですが、
私が中学生だった40年前と現代では
中学校という人間関係は
ずいぶん様変わりしているように感じるのです。

子ども同士の厳しさみたいなものがあり、
許されないという雰囲気が強いようです。

あまり詳細には繰り返しませんが、
良い学校に入って、良い仕事について
解雇の心配と無年金の心配のない環境に入らなければならない
という切迫感を強く感じます。

良い学校に入るためには、
全教科で水準以上の成績を収めなければならない
学校生活で失敗することも許されない
という息苦しさを感じます。

そのため、子どもたち同士でも、
相手の些細な過ちや
求められる水準を満たさない事による中傷が
容赦なく行われます。

例えば部活動に出ないと
ラインなどで、どうして出てこないのだという
一斉攻撃が始まります。

顧問が、それを行うこともあります。

部活動は、
ブラック企業の非人間的な集団生活を送ることに備えるための
精神修業の場ではなく、
充実や、喜びや、楽しさのためにある
という考えは、はじめから無いようです。

このような子どもたちの過酷な攻撃に追い打ちをかけるのが
連帯責任を理由にする叱責です。

一人がいろいろな理由で共同行動できないことが
他の子どもたちが叱られる理由になるという
江戸時代でもめったになかったことを
平気で行ている学校もあります。

また、できないことはできないのに、
陰口をして、子ども同士が嘲笑するということも
今の学校ではあるようです。

「許されない環境」が学校にはあるようです。

ゴールデンウイーク中
家族の中で安心して生活していたお子さんが、
連休明けに学校に行きたくないということは
こういう環境を考慮に入れれば
むしろ当然のことかもしれません。

私たち大人は、
そういう嫌なことを何度も経験していますから、
お子さんの悩みの理由がそれほど深刻なものとは
感じられないということも仕方がありません。

しかし、経験したことの無い苦しみの強烈さというものは
なかなか思い出すことができないものです。
また、その行きたくない理由がなかなか改善できないならば
お子さんは、
将来的にこの苦しみから逃れられない
という長期的な絶望感を感じているかもしれません。

学校に行きたくないということは
文字通りよほどのことだと考えましょう。

特に、小学校などでいじめをされた経験がある場合、
また、あの時と同じ気持ちになるかもしれない
というとてつもないストレスを抱えている可能性もあります。

行きたくないという理由を親が理解できなくても
行くことが極度の苦痛であることはありうることです。

さて、親としては子どもが学校を休んだ以上
学校に行かないことに罪悪感を感じてもらいたいと思うかもしれません。
または、本当に頭がおかしくなってしまったのかしらと
大変ご心配されるかもしれません。

しかし、今、特に今日限定で頭に入れておいていただきたいことは、
子どもは、親から特別扱いされることをとても嫌がることです。
特にはれ物に触るような扱いが苦手です。
普通にいつも通り接してほしいということが本音です。

大事なことは、
「明日から行くんだよね」ということを
ダメ押ししないことです。
(これが一番心配ですが)
行くことを前提にいそいそと準備をする
という姿勢が良いみたいです。

もう、「今日は」仕方がないという割り切り
これが、問題を最小限度にとどめるコツのようです。

さて、今まで今日休んだあなたがこれを読んで
どう思ったでしょうか。
全然わかっていないという評価かも知れません。
しかし、
そういうこと親に言ってほしいという部分が少しでもあるなら、
もう少しだけ読み進めていただきたいのです。

それは、あなたが今日休むことを私は賛成する。
その理由についてです。
大きく言えば、
あなたが自分自身を大切にするために
今日休むことが必要だと思うからです。

親御さんにもそれを理解してもらいたいと思って書きました。
その上で、
もっと、もっと、より自分を大切にすることを提案したいのです。

それは変えなくてもよい所は変えないままでも
考え方を少しだけ変えるということです。

変えなくてもよいところは、
あなたが今日学校に行きたくない事情を
嫌だと思うことです。
それは無理に変えることはできません。

ちょっとだけ変えることをご提案することは、
その嫌な事情の中で、
「自分を責めない」ことです。

できないことはできなくてもよいのです。

誰かから、先生だったり、同級生だったりから
嫌な評価をされたところで出来ないものは仕方がありません。
そんなことができなくたって
日常生活に支障はないでしょう。

要するに、人間はそれぞれ、
向いていないことがある
という事実を覚えるということです。

それにもかかわらず。
さっきも言ったように、
今の学校教育の中には全部をできなければいけないという
人間工学的に非科学的な軍隊思想みたいなものがあって、
一人一人を苦しめています。

あたかもできないことが悪だというような感じです。
これは間違っています。

先生や嫌な同級生が否定評価をしても
あなたは、自分自身を否定してはいけません。
向いていないだけなのです。

覚えていていただきたいことは、
向いていない事なのに他人からやいのやいのと否定されると
いつしか、人間としてすべて否定されているような
そんな感覚に陥ってしまいます。
これは人間誰しもそうです。
あなただけではありません。

しかし、真実はそのことが向いていないだけです。
他の人が簡単にできることが
できないということはよくあります。
言われると私も嫌な気持ちになります。

でもできないことなんていくつもあります。
逆にあなたでなければできないことも
必ずあるんです。

例えば、誰か友達に
「私も嫌な気持ちになったんだよ
 あなただけではないよ」
ということを言えるのもあなただけです。

欠点や弱点が多い人の方が
他人の役に立つことが多いのです。
私はそういう人たちをたくさん見てきています。

あなたの人生には向いていることが必ずあります。
しかし、それはあなたが、自分自身を認めてあげないと
見えてこないことかもしれません。

嫌な環境かもしれませんが、
他人に左右されず、
自分の向いていることを見つけていくことが
人生の喜びです。

私は、50歳を過ぎて
ようやくそれがわかってきました。
まだまだチャンスは十分あります。

今日一日思い切り贅沢をしましょう。
向いていないことは、今日一日きりすてて
ちょっと苦手だけど、このことほどではないことで
比較的できるかもしれないと思えることに
取り組んでみましょう。


家族の中で気まずくなったら、
このブログを紹介して読んでもらってください。





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「楽しむ工夫を行う」という考え方 むしろ「それどころではない]人のために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

私も人間ができていないというか、
いろいろなことで行き詰まり、
いろいろな人間関係で不愉快になったり
苦しんだりするわけです。

「心とは、対人関係の状態を反映した反応だ」
とか言って、それを承認ばかりしてしまう
自分の苦しみを放置してしまうという
過ちを犯しそうになることもあります。

過ちですね。

同級生でフェイスブックを始めた人がいて、
その人の記事で「自分をご機嫌にさせる」
というアイデアが突然目に飛び込んできました。

うつうつとしていた事情があったときだったので、
最初は、「おや?」と感じ、共感を覚えただけでしたが、
どうもずうっと引っかかっていて
やがて衝撃になっていきました。

ちょっと理屈っぽく説明しますね。

人間を含めて動物のテーマは、
「危険をいかに回避するか」ということにあると思います。
交感神経のシステムも、群れを作ることもみんな
そのために備わった特質だということができるでしょう。

要するに人間も他の動物と同じで、危険には敏感で
放っておいても危険、ネガティブなことは気づく
意識していなくても気づき、
ネガティブな気持ちになるようにできているわけです。

何か、偶然誰かが親切にしてくれたりという
そういうことが無い限り、
概ね不安を感じ易くなっている状態で、
不安を感じないときに無感情になるのが関の山なわけです。

私は、自分自身が、
まだ自分の理論を習得していないということがわかりました。

過労死も、いじめも、自死も
それを無くせばよいってものじゃない。
0を目指すのではなく、0の先のプラスを目指す
ということを震災以来他人には言ってきました。

自分自身の生き方にそれを当てはめていなかったのです。

これまでは、苦しさ、辛さなどの
ネガティブな感情を無くしたいと考えていましたが、
それはしょせん0を目指すという発想です。

その先のプラスを目指さなければ
0にだってならないということでした。
大事なことはプラスの感情を作るということだったのです。

同級生のようにご機嫌まではいかなくてもよいかな
と思うのですが、
「なんとなく楽しいな」
と感じる状態を増やすことはできるかな
と思えてきました。

こころは、対人関係の状態に対する反応ですから、
待っていても、楽しくはなりません。
人間は動物として危険に対して敏感ですから
放っておくと不安の種ばかりが生まれてしまう。

だから、
楽しもうとして工夫をすることが必要だったのです。

「人間は環境に働きかけて環境を変える動物だ」
ということでした。

楽しみは、もう何でもよいと思います。
今は仙台は桜が満開です。
好きな人は楽しめばよい。

歩くのが好きな人、自転車が好きな人
本を読むのが好きな人
仕事だってよいのかもしれません。

ただ、本当に苦しい時は、
そんなこともする気にはなりません。

愛する人を失った場合
家族と離別した場合、
そんなことをする気持ちにはなりません。

家族のように、その人にとって基盤となる群れは、
その構成員が一人でも欠けてしまえば
別の群れになってしまいます。
「その人と一緒にいる群れ」は無くなってしまうのですから、
自分自身を失うことになるわけです。
何もする気が無くなって当たり前です。

苦しいとき、悲しい時は
苦しむしかないでしょうし、
悲しむことが大切なのでしょう。

でも、
悲しみは抱えたままでも
何とかしたいと思うようになったら、
苦しさから抜け出したいと思ったら、
楽しむ工夫をしなければなりません。

愛する人を失ったという
究極の対人関係上の危機感から
ほんの少し抜け出すためには、
悲しみを無くそうとすることは間違いなのでしょう。

むしろ悲しみを抱えたまま、
愉しいと思うことをする工夫をするということなのでしょう。

もしあなたに小さな子供がいるならば、
クリスマスや誕生祝や
動物園や遊園地に行くというアイデアを持つ必要がありそうです。

子どもの笑顔を見て、
今回の記事の様に、
「子どもを楽しませることを忘れていた」
と言ってくださった方からの手紙をいただいたこともありました。
自分のこととして理解していなかったということになります。

その人は、愛する人を失って、
子どもと自分に障害があって
一人で子どもを育ててという
壮絶な生き方をしている人でした。

愛する人を失ったという
究極の対人関係上の危機感から
ほんの少し抜け出すためには、
対人関係の中で癒されることが特効薬だ
ということも理の必然でしょう

誰かのために行動をする
自分より弱い者のために行動をする。
これが正解だということになりそうです。

中原中也は
「春日狂想」という詩の中で
愛する者が死んだ時には
(私たち普通の人間は、
私から言わせてもらえば当たり前の人間は、)
「奉仕の気持ちになること」だと言っています。
これは、詩人独特の洞察力における真実を語っていると思います。

愉しくはしゃいだ気持ちになるということは、
特に私のような中年男性には難しいことですが、
「なんとなくいい感じ」を感じることはできますし
それで十分楽しい気持ちになれます。

それは意識しないとできません。
工夫しなければできないことかもしれません。
でもできるのです。

こつは、全面的に楽しくなることではなく、
「楽しい気持ちになる時間もあってもよい」ということです。
むしろ悲しみを捨てようとしないことが
大切なのかもしれません。

怒りは怒りのままでよい。
ただ、誰かに優しくなる時間もあってもよい。
誰かに感謝する時間があってもよい。
そういうことなのかもしれません。



special thank Ukkey
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慢性・持続性ストレスへの旅 2 セリエのストレス定義の「非特異的反応」とは何か [自死(自殺)・不明死、葛藤]

昨日のキャノンの文章は、文章も簡潔で
意図も論理も明確で大変読みやすかったです。
「からだの知恵」講談社教養文庫

一点セリエの文章は、おそらく書きながら
いろいろなことが問題点と来て浮かんできて
あれやこれや手当てしながら書いているような感じで、
読みやすいとは言えません。
「現代社会とストレス」叢書・ウニベルシタス

おそらく翻訳の問題もあるのでしょう。
当初の翻訳が昭和39年ということで
改定はしたものの難しい日本語が最初の内は続きます。

キャノンが文系のための理系の文章ならば
セリエは、理系のための文系の文章という感もあります。

でも、そのおかげでいろいろ面白いことも分かってきました。

ネットなどで、セリエの説いたストレスの定義が
「外部環境からの刺激によって起こる歪みに対する非特異的反応」
とされているようでして、
この「非特異的反応」ということがよくわかりませんでした。

特異的ということは、ネットの辞書では
「あるものだけにみられる質的な特殊さ」
と書いています。

特定の、あるいは定まったと考えると
訳が分からなくなります。

この点、セリエは、
もともとは医者を志しており、
言わる病人の良く見られる状態
熱とかだるさとか、しんどさとか
そういう一般的な症状に着目していたようです。

しかし、指導医は、一般的症状は取り上げず
病気特有の症状のみを探していた、
これにセリエは疑問を持ち、
一般的な症状とはどういうものだろう
ということに興味を持ち研究を続けたそうです。

そんなこと研究しても意味無いだろうという
という当時のまっとうなアドバイスも多くあったそうです。

この一般的に見られる症状が
どうやら「非特異的反応」のようです。

これはキャノンを引用する方がわかりやすいかもしれません。

キャノンとセリエは、同じ副腎でも
キャノンは副腎髄質、セリエは副腎皮質に着目しているようです。

何らかの危険因子を認識して交感神経が興奮すると
副腎髄質からアドレナリンが放出される。
アドレナリンはホルモンであるから、
血液に乗って、全身に行き渡ってしまう。

だから、必要が無くても
心拍数が増加し、血圧が増加し、体温が上昇し
血糖値が症状し、血液が筋肉に向かい、
血液が凝固しやすくなる
ということになるわけです。

フルコース反応が起きてしまう。

私の昨日ご紹介した拙文も
この延長線上に位置づけられるものです。

要するに体の反応はとても合理的にできているのですが、
ピンポイントで反応が起きるのではなく、
どしゃっとぶちまけるように起きてしまうので、
どうしても、過不足が出てきてしまう。

意味はあるのだけれど無駄な反応もあり、
あるいは過剰な反応とでもいいましょうか。
その副作用で、
新たな問題が生じてしまう。

これが過労死であり、
ストレス起因性、ストレス誘因性の精神疾患だ
と考えています。

対人関係的なストレスについては
セリエも本の後半で考察しているようなので、
とても楽しみです。


余計な話ですが、
セリエは、ストレスの定義について
いろいろな場所で、色々な定義をあげています。
ネットの定義がセリエの定義として良いのかについては
現段階(本の3分の1くらいの段階)では留保が必要なようです。

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慢性・持続性ストレスへの旅 1 キャノン 「生きる知恵」 対人関係のhomeostasis [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、過労死弁護団の年に2回の会議に出席してきました。
その会議に向けての研究報告書が出されていて、
それによると、
現在の労災認定基準では、エピソード的な出来ごとが重視されるが
もっと有害なストレスがあり、それは慢性・持続性ストレスであるとし、
この解明が重要だというのです。

私は、最近はいじめの問題でこの論理を主張していたのですが、
さすがは過労死弁護団だと改めて敬意を表したくなりました。

私は平成27年6月に
「交感神経持続による反応群」という概念と対人関係的アプローチの提案
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/koukanjizokuhannougunn.pdf

という拙文を作成していますが、

改めて、勉強し直そうと思い、
先ずはキャノンから読み始めることにしました。
本当は、弁護団の報告書ではセリエの論文が紹介されていて、
それを入手しようとしたところ、
キャノンの本も、紹介されていたので、
ついでに買ったところ、先に来たので読み始めたということでした。

大変な驚きでした。
これまで、色々な文献やネットで引用していた物だけを見て
キャノンを認識していたのです。
だいたい20世紀前半の科学者ということなので、
正直ここまでとは思っていませんでした。

要するに、今から100年前に活躍した人なのですが、
既に体系ができていて、
それまでの研究を
homeostasis(訳者のルビでは、ホメオステーシス)
という観点からまとめた本が、
「からだの知恵 この不思議なはたらき 」(講談社学術文庫)
という本でした。

特に驚いたことは、
私のあちこちでお話しする三分の1くらいは
この本に書いていあることだったことです。

有害なものを認識すると
逃げるか戦うかという体の準備が起こり、
交感神経が活性化し、副腎髄質からホルモンが分泌され、
血圧が上昇し、脈拍が増加し、体温が上昇し、
瞳孔が広がり、血液が内臓から筋肉に向かう
さらには出血に備えて血液が凝固しやすくなる。
これは全部キャノンがこの本の中でも述べています。
さらにその仕組みについて解説しています。

さらに、さらに、
キャノンは、実際に攻撃行動や、逃亡行動に出る前に
このような反応が起きてしまうことを述べていて、
準備段階として反応が始まっている
ということも明確に述べています。

これで、おっかなびっくりいう必要はなく
「100年前にすでにキャノンも言っているとおり」
と科学的に述べることができるようになりました。

そうして、キャノンは、
こういう反応は、
体の状態を一定に保つための仕組みだ
=homeostasisということでくくっています。

今回の私のテーマもhomeostasisとストレスの関係だったので、
どんぴしゃりのことを約100年前にテーマとして本を書いている人がいたのでした。

気を取り直すと、
私のテーマは、身体生命の有害を覚知した場合ではなく、
対人関係的な有害を覚知した場合のストレス反応なのですが、
この点については、これからの課題のようです。
まだまだやりつくされているわけではないと。

結局、対人関係的な危機感、不安感も
homeostasisの観点から論じることが
有効なのではないかという
観点を獲得したことが大きな収穫です。

とにかく、キャノン先生とお呼びしたくなるような
上質の刺激をいただきました。

最後にマメ知識を一つ
鳥肌というか、さむイボというかありますよね。
あれは、人間に太い毛があったことの名残なのだそうです。
寒さ(身体に有害な事情)を感じると
交感神経が活性化され、
太い体毛や羽毛を逆立てて
皮膚近くに空気の膜を作り
体温の低下を防止していたそうです。

人間の体毛が薄くなったため、
毛を逆立てても空気の膜はできませんが、
その名残としてこのような反応だけ残ったそうです。

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職場のイライラから家族に攻撃的になりかけたときは、うつになりかけた時。メモ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

職場での人間関係が職場で完結せずに、
イライラなどが家庭に持ち込まれることが多くあります。

ちょっと壮大なテーマですので、
メモとしてアップします。

今のところの研究段階での途中経過として、
職場の人間関係がなぜ最悪自死までいってしまうのか
考えるべき要素をあげます。

<考えるべき要素>

1 職場(取引関係相手)に無意識に期待すること

先ず、労働者にとって会社は、
嫌な上司たちだとしても
無意識に、「自分を守るべき組織」あるいは
「自分を守ってもらいたい人々」
だと感じているようです。

はじめっから敵だと思えば、
ある意味何を言われても不愉快な思いをするだけで、
家庭への影響や、自分の精神状態への影響が
それほどではないでしょう。

パワハラ被害の本質はどうやら
仲間だと思っている人からの攻撃
いわゆる後ろから鉄砲を撃たれる
という感覚になることのようです。

パワハラ事件に怒ってばかりいると
こういうことが見えなくなります。
被害者である労働者は、
自分を大事にしてもらいたいという要求があるところに
逆の対応をされるので辛いということがあるようです。

2 カウンター
少し続けますと、カウンターが成立してしまう条件があります。

いつもに増して、より庇ってもらいたい
気持ちを分かってもらいたいと言うときに
逆に攻撃を受けたり、庇ってもらえない時も
心理的負担が大きいようです。

例えば、会社の中で、同僚から暴力を受けたとか、
取引先からあまりにも理不尽な扱いを受けた
というような場合は
無意識に会社に守ってもらいたいという気持ちになっているようです。

ところが、事情が分かっても
逆に労働者の方が上司から攻められたり、
理不尽なことをなかったことにされているのに
何も会社からの援助が無かったりした場合、
かなりきつい心持になります。

関数曲線の様にきれいには対応しないでしょうが、
理不尽なトラブルに巻き込まれて援助を希求するという
事情が強ければ強いほど
上司の扱いがそれほどひどくなくても
期待する援助が強いものですから
些細なことで傷つきやすくなるという関係にありそうです。

理不尽なトラブルがあるのに
会社が労働者に理不尽な責任転嫁をすると
とんでもなく重大な心理負荷になるという関係にあるようです。

3 逃げられない関係(継続する関係)

会社を辞めるという発想にはなりにくいです。
どうも、無意識の意思決定では、
会社という継続的な人間関係は離脱できない
という発想に支配されるようです。

苦しいからと言って、
では会社を辞めようかという発想は
自然発生的には出てこないとみるべきです。

現状に対しての反応である感情は、
このように無意識に生じるものであり、
現場、特に対人関係を変化させるということは
きわめて意識的に、第三者から提案されないと
なかなか検討すらできないということです。

<職場のイライラの構造>
そもそも、上司から嫌味を言われたり
不公平な扱いを受けたり
理不尽な叱責をされると
どうしてイライラするのでしょう。
また、イライラするということは
どのような状態なのでしょう。


職場で、パワーハラスメントを受けたり、
理不尽な扱いを受けると、

継続的な関係であり運命共同体の様に職場を考えていることからは、
ただ、自分がないがしろにされている。
逃げ場所が無く、さらさrて攻撃を受けている
という感覚を持つようです。

逃げられない、逃げないということから
恐怖という感覚になりにくいということを
頭に入れてください。

危険が近づいてくるという認識がありながら、
それから逃げようとすることができないという感覚です。

また、上司に対してキレることがなかなかできない。
そんなことしたら解雇されてしまいますし、
上司に対して、キレても良いんだ
という感覚を持つことはなかなかできないようです。

そうすると、怒ることもできない。

総じて犬が嫌いな人が、
敵意を見せた犬が吠えながらじわじわ近づいてくる
しかし、足を縛られていて動けない。
そんな感覚でしょうか。

対人関係上の危険に対する反応も全く同じです。

自分が上司の様子を見て、
仲間から攻撃されている、
仲間として扱われず無視される、
仲間の中で格下のように扱われる

ということを感じた場合、
やはり、危機感を感じます。

この危機感を解消しようと思うわけです。
でも逃げることも闘うこともできない。
危機感を抱いたままの状態、不安な状態が
職場の外に持ち越されることになります。

危険意識、不安の解消ができないことが
人間にとって極めて有害な状態のようです。

危険が迫ってきたら、何とか危険を回避したい
その方法として逃げたい、あるいは闘いたい
これは人間に限らない生き物の本能です。

危険を感じて、危険を受け入れるということでは
命がいくつあっても足りません。
危険があることが嫌だ、解消したい
そのために逃げる、闘う
という流れになるようです。

通常は、危険を感じると
直ちに行動に出ますので、
意識されないポイントですが、

危険を感じることと
解消行動をすることには
厳密にはタイムラグがあるようです。

さて、
逃げることも闘うこともできない場合
解消できない危険の感覚、不安が持続します。

そうすると、かなり過敏な精神状態ということになります。

傷を負って出血した後の傷口のようなものです。
通常は、かゆいとも思わない些細な刺激が
飛び上がるほどの痛みに感じます。

このように危機感のアイドリング状態にあるときは、
この危機感の解消を求めていますが、
突如として危機感を解放することはできません。

会社の建物から出たとたんに走りだしたり、
誰彼構わずにけんかをするわけにはいきません。

ただ敏感になっていますから、
道で肩がぶつかっただけで、
自分は馬鹿にされているのではないだろうか、
この人は自分を攻撃しようとしているのではないかと
感じやすくなるわけです。

相手が怖そうな場合は、そうでもないですが、
弱そうで勝てるということになると、
それをきっかけとして
職場で作られたイライラもぶつけてしまう
ということになるようです。

例えば会社で作られたイライラが80ポイントだとして、
肩が触れたということが5ポイントだとしても、
イライラを解放する時は85ポイントがまとめてぶつけられるというわけです。

ただ、理性が無くなるわけではないので、
滅多に、道を歩いているだけの人に絡むということはありません。

帰宅して、
子どもの些細なしぐさ、失敗が(5ポイント程度)
自分を攻撃している、馬鹿にしていると感じてしまい、
85ポイントを子どもにぶつけてしまうのです。

まあ、そこまで行かなくても
いつもなら聞き流しているような小言に対しても
自分を守ろうという無意識の反応が起きてしまい、
どうでも良いことでも、
「自分を守るためにはいい加減に済ませられない」
というイライラモードになるようです。

家族に対してイライラしていたり、攻撃的になっていたりする
実はそれが職場でのイライラ度の方が多いという場合、
大切なことは怒っているということではなく、
危機感を抱いているということです。

この危機感は、家族に八つ当たりして一時的に解消したとしても、
原因は会社の中で次の出勤日を待っていますから、
会社に行けばまたイライラが復活します。

解決できないのです。
また、怒ることができないという時間が
限りなく積み重ねられていくだけです。

そうすると、慢性的な危機感の持続は、
自分の身を守ることができないという感覚になっていき
絶望感に様子を変えていきます。
生きる意欲が失われていき、
活動が鈍くなるし、将来的なことも予測できなくなっていきます。
生きるための活動が全般的に停止していきます。

つまり、うつ状態となるでしょう。

必要以上の怒りの感情は
うつの危険がある状態を表していると思います。

以下また、メモ
うつは自分で気づくことはなかなか難しい
八つ当たりをしている自分に気付くことはまだできるかもしれない。
そういう場合に、自分を支える発想

1 いざとなればイライラ異を与える人間関係をやめることができる
  という自己暗示をかけ続ける。
  逃げ道を意識的に作るということです。

2 自分の別の仲間に優しくする
  例えば職場でイライラしたならば
  思いっきり家族のために奉仕をする。

  自分が優しくなれば、家族も優しくしてくれる、喜んでくれる
  役割感を持つことがだいぶ効果的のようです。

  家族に助けを求められれば良いのでしょうが
  男性の場合も女性の場合も
  なかなか難しいようです。

  特別扱いされることで役割感の喪失を予想してしまい、
  また、自分が家族からも格下として扱われるのではないかという
  不安をもつようになるようです。
  家族には、普通の状態として接してもらいたい
  という意識があるようです。

3 結構有効なことは、
  他人を気にしない人をサンプルとしてみることです。
 
  メジャーリーグで4番打者だった新庄さんが、
  日本ハム時代に優勝パレードをした時、
  一人だけ冬ソナの格好をして参加して
  監督から怒られたという話をしていました。

  怒られて気にしませんでしたかという質問に
  笑顔で
  まったく気にしませんでした。
  と豪快にお話になったところをみて、
  だいぶ救われたということがありました。

  ああ、それでもよい人もいるんだということが
  なぜか気持ちを溶かしてもらった
  そんな感覚でした。

  いろいろな無意識のドグマから解放される有効な方法として
  実際にそのような発想の元生きている人を見るということは、
  自分では同じ行動をとることができなくても
  ほっとして心の窓が開かれて、光が差すような気持ちになれました。

  メモ代わりに





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執拗ないじめは、200万年前の人類の狩りの手法から来ている。傷つく心も200万年前の環境を反映している。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

いじめ事件でそのいじめの概要を聞いていると
どうしてここまで容赦なく、執拗に行うことができるのか
信じられない気持ちになります。
加害者は、いじめをするために生まれてきたような
極悪非道の人間ではないかと思うことにも理由があるような気もします。

しかし、
ハヤカワノンフィクション文庫の
ダニエル・E・リーバーマンの
「人体600万円史」を読むと
ああ、そういうことかということがわかります。

200万年前、まだ人間が、狩りの道具を持っていない頃、
人間が動物を狩る方法は、
ターゲットとなる動物を追いかけていくそうです。
どこまでも追いかけていくうちに
ターゲットの動物の体温は上昇していきます。

当然追う側の人間の体温も上昇するのですが、
人間の皮膚には汗を出す汗腺が膨大にあり、
汗を出し、汗が気化する時に
周囲の皮膚のエネルギーを奪いますから、
皮膚の温度が下がり、体温を下げることができます。

一方ターゲットになった動物は、
汗腺が少なくて、熱い毛皮に覆われていますから、
どこまでも体温が上がっていきます。

また、人間は二足歩行なので、
移動のカロリー消費は、
四足歩行より少なくて済むという利点もあるようです。

そうこうしているうちに
ターゲットの動物がヒートアップしてしまい、
ダウンしてしまいます。
すかさず息の根を止めて、
いっちょ上がりということになります。

人間の狩りの仕方を一言でいえば、
消耗戦をしかけ勝ち抜くということなのです。
相手が消耗するまで追いつめるということですね。
「人体」のほかに
NHK出版新書「絶滅の人類史」更科功にも記載されています。

この追い方なのですが、
一人の人間が追いつめるのではなく、
おそらく複数のグループで共同して追いつめていったのだと思います。
無防備な単独行動をとってしまうと、
獲物を追っているつもりが、
もっと大型の動物に自分が狙われてしまい
ひとたまりもなくなるからです。

おそらく、大勢の人間で、
ターゲットがわざと全力で逃げるように
囃し立てながら追っていったのでしょう。

学校のいじめも
最初は、些細ないさかいからけんかが起こります。
加害者は、被害者になるターゲットが自分を攻撃したと感じ
自分を守るためにターゲットを攻撃します。

加害者は、感情を豊かに表現できる場合が多いので、
訳の分からない共犯者は
どうしても加害者に共感してしまいます。

そうしているうちに、
最初は防衛行為として始めた加害が、
いつしかルーチンになっていくとともに
全く関係の無い第三者が攻撃参加をしていくうちに
いじめとして成立するようになっていくわけです。

集団でターゲットを追いつめる
ターゲットが消耗するまで追いつめるということは
人間の狩りのスタイルそのものですから、
本能的な攻撃スタイルということになるようです。

自然発生的にやむということが起きにくい事情があるようです。

ターゲットとされた方も
200万年前の群れの感覚を持ち続けています。

200万年前は、群れは
大きければ大きい方が安心です。
外敵から身を守るため、
寒さから体温を奪われないためには、
ある程度の頭数が必要です。

それから、狩りをするチームと
群れを守り、狩りが失敗した時に備えて
植物を採取するチーム
赤ん坊を育てるチーム
留守を守るチームが
有機的に一体となって運命共同体を形成していたと思われます。

強い者が弱い者を攻撃してしまうと、
あるいは攻撃しないまでも自分だけが大きな利をとると
弱い者から順に死んでいきますので、
群れ全体が小さくなっていき
先細りで絶滅していったでしょう。

あるいはメンバーの弱点、不十分点をせめてたとしても
生まれてから死ぬまで同じメンバーですから、
多くを望んでも仕方がないので
彼のできることをして貢献してもらう
という発想になったでしょう。

群れに害をもたらさない限り
全員が平等に扱われたはずです。
これが人類の特徴なのです。

そういうきれいごとを人間が選んだのではなく、
そうでなければ死滅したので、
仲間を大切にする者の子孫だけが生き残っていったということになります。
こういう平等に扱わなかった群れは
死に絶えていったのです。

さて、人類の群れについては環境が様変わりしているにもかかわらず、
人間は200万年前の記憶から逃れられないようです。
そのような遺伝子を持ってしまっているからです。

自分が同じ仲間から攻撃される、無視される、
仲間よりも一段低い身分として扱われる
ということに、
とてつもない不安を感じます。

相手が自分に攻撃しないならば
この強い不安は、怒りとして表現されます。
しかし、相手にかなわないという意識があれば
恐怖を感じ逃げ出すことが基本です。

しかし、逃げることができない学校にいかなければなりません。
不安だけが持続しているにもかかわらず
怒りも、恐怖も感じることができず、
その不安を受け入れなければなりません。
これは生物にとってかなりきついことで、
徐々に生きる意欲を失っていく、消耗していく
ということになってしまいます。

逃げられる恐怖のほうが、軽いのです。
不安、即ち危険があることを認識しているにもかかわらず、
逃げることも闘うこともできないことは、
恐怖よりも強い絶望を与えることになるわけです。

いじめは
ターゲットとなる被害者が
人間扱いされないことに不安感を感じ続け
その不安を解消できない状態が
どこまでも続く現象ということになります。

攻撃する方は、
ターゲットをルーチンで、本能のままに攻撃し続けますが、
この時、ターゲットである被害者を仲間とみていないどころか
人間としてみていないのです。

いじめられるもの、差別されるものの絶望は
こうやって生まれていきます。

もうこうなると大きなエピソードなんていりません。
ターゲットが、自分が仲間として扱われていない
ということを意識させればよいわけです。

対等の仲間としてふるまうターゲットを
否定すればよいだけです。

この人類進化生物学の成果を踏まえて考えると
いじめの加害者には誰でもなる可能性があるということ
その時にストッパーは自然発生には起きにくいこと、
外部から強制的に止めなければいけないこと
「いじめを止める」ということでは不十分であること
「人間扱いしない」ということを止めなければならなず、
かなりの意識改革と
自分たちがやっていることがいかにひどいことかを
改めて覚醒させなければならないということになります。

このように、一緒にクラスメートを人間扱いしないということは、
クラスという一つの群れという意識を
大人たちが作れないということ、
自分以外はライバルなのだという強烈な意識付けがされていること、
自分を守るために必死にならなければならないという意識付けがなされていること
等があるようです。

「人間扱いしないということやめる」ということは、
何もしないことではありません。
「人間扱いする、仲間として接する」
ということでなければなりません。
そうでない限り、
不安は続きます。

悪さされることの不安ではなく、
不安の本質は、孤立させられるということだからです。

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【講演告知】なぜ人は助け合えないのか。なぜ他人を攻撃できるのか [自死(自殺)・不明死、葛藤]


平成30年3月15日午後6時から
仙台アエル 28階エルソーラ研修室において
私のお話会があります。

と言っても本当は、当日7時から
自死予防の多業種ネットワークである
みやぎの萩ネットワークの総会があるので、
時間調整のために1時間お話をする
ということであります。

みやぎの萩ネットワークは、
自死遺族団体、カウンセラー、ケースワーカー
社会保険労務士、司法書士、弁護士
中小企業診断士、税理士、精神科医等々の
様々な業種が、自死予防という一点で終結し、
相談活動を中心に積極的に活動するネットワークです。

毎月、色々な業種の方が
自分の専門にまつわるお話をして
活動の助けにしています。
誰が何をしているかは、業種を聞いただけでは
なかなかわかりませんので、勉強になります。

どうか、当日ご出席していただき、
このような活動にも興味を持っていただければ幸いです。


それで、私の話は1時間くらい
「なぜ人は助け合えないのか。なぜ他人を攻撃できるのか」
という題のお話です。
自分では、とても面白い話になると思っています。

お話の中身は、小分けにすると
以下のような表題をつけています。

1 ダイエットは失敗するようにできている
2 人間の体は200万年前仕様
3 環境との不適合という現代病
4 心を覗けば200万年前が見えてくる
5 友だちの数は脳の大きさで決まる。
6 複数の群れに同時帰属という不自然
7 なわばりの無い不安
8 不安と母親を見失う赤ん坊
9 攻撃とは
10 人間がなかなか一人前にならない理由
11 ではどうすればよいのか

このお題は、私の友人のたこ焼き屋さんから出されたものです。
彼は、まじめでセンスのある人で、
出来事から、素直にそうつぶやいたのですが、
私には、とても衝撃的で、
今年の研究テーマとなっています。

上記の1~3は、人類進化生物学を
とてもわかりやすく説明します。
4は、私のオリジナルです。
4までは、本当は人間は
助け合うようにできているというお話を
できるだけ科学的に、実証的に説明します。

5からは、いよいよなぜ助け合えないのか
その原因をズバリ分析していくのですが、
5は、進化生物学者というか人類学者というか
ロビンダンバー教授の考えを紹介し
人間の限界をリアルに見ていきます。

6、7は、現代社会を進化の視点から
生物学、行動学の視点から分析します。

8については、いじめられたり
ハラスメントを受ける時の人間の心の反応を
わかりやすく説明します。

9は、攻撃したくなる理由です。
10,11からどうすればよいのか
についてお話をしながら、
ご一緒に考えていこうと
まあこういう趣向になっています。

面白いですよ~

もう一つみやぎの萩ネットワークのインフォメーションですが、
3月17日2時から
宮城県警本部のはす向かいにある
管工事会館9階大会議室で
兵庫県の弁護士渡部 吉泰先生をお招きして
講演会を開催します。

先生は、大津のいじめ自死事件で
調査委員を務められております。
いじめ調査の在り方などについて
お話していただく予定となっております。

愛宕上杉通に面し、旧NHKの向かいで
1階が政府刊行物センターとなっています。

どの企画も無料
だと思うんだけどなあ。

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自分の生きる価値があるかという質問のどこがどうして間違っているか。生きていくのに生きる価値なんて不要であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]


「私は生きる価値があるでしょうか。」
そのような問いかけをする人がいました。

生きていくのに生きる価値なんて必要はありません。
人間ばかりではなく、動物や植物までも
価値があるから生きるわけではありません。

考えればわかることなのですが、
そんなことを考えてしまうのは理由があります。
そのことを少し考えましょう。

先ず、生きる価値ということのおかしさについてお話しします。
「生きる価値」とはどういう意味で使われるのでしょう。
価値が無ければ生きていけないというなら
生きるための条件を満たさなければならないとか、
生きるための資格を持たなければならないということでしょうか。

生きるための条件や資格ということが、
この世の中に存在しないということは
誰しも知っていることです。

ミミズだって、オケラだって、アメンボだって
誰かから条件や資格をもらっているわけではありません。

もちろん、ミミズ並みに生きればよいということではないでしょう。
「人間として生きる」価値ということなのでしょう。

人間が生物として生存する資格が必要だということがないのは、
他の動物と一緒です。
(こういう当たり前のことを確認していくことが「論理」です。)

だからおそらく、そこでいう生きる価値ということは
生物的な命の問題ではなく、
「人間社会の中で人間として扱われる資格」、
そのような意味あいなのだろうと思います。
そういう意味あいであれば
その資格が有るどうかを考えるのは、
ある意味人間らしい悩みだと思います。

対人関係学は、人間の不安を大きく二つに分けます。
まず動物としての不安、つまり
身体、生命、健康に何らかの危機があるのではないか
と感じることです。
危機を感じている時の心の状態を不安と言います。

もう一つの不安は、人間特有の不安です。
自分の群れから、追放されてしまうのではないか
という危機感を感じることです。
究極には仲間から外されることですが、
自分が仲間から尊重されていないと感じると
仲間から外される予兆ではないかと
危機を感じるのです。

これらの不安は意識できないというか
意識する前に感じてしまうところに特徴があります。

人間は、むしろこの不安があるからこそ、言葉もない時代から
群れを作れたのだと思います。
つまり、そういうことに不安を抱き、
不安を抱くと不安を解消したいと思い、
解消しようとするために、
そのために仲間として認めてもらうように行動した。

結果として群れを作り、
群れを作ることによって、食料を確保し、猛獣などの危険から
自分たちを守ってきたわけです。


だから、自分の生きる資格ということが不安であるということは、
群れを作る人間の特有の感覚だろうと思います。
そして今そう言う不安を感じている理由は、
その人が仲間から外されそうな予兆を感じているからだ
ということになります。

仲間とは、
社会の仲間だったり、職場の仲間だったり、
家族だったり、学校だったり、友人関係だったりです。
そういう仲間から自分が尊重されていない
という意識を持つ場合に危機を感じることになります。

そして、
本当は、その中の一つの群れの中での不具合なのに
すべての群れの中で尊重されていないと感じてしまう
人間とはそういうもののようです。

どういう時に仲間として尊重されていないと感じるか。
何か失敗をした場合、罪を犯したとかルールを破ったという場合、
自分が仲間として認められなくなるだろうと思うのは
なんとなくわかると思います。
自分の行動によって不安を感じる場合ですね。

逆に仲間の自分に対する行動によって
そのように感じる場合があるでしょう。
無視されたり、理由なく攻撃されたり、
笑われる等、仲間の中で一段低い存在として扱われたり、
自分の弱点や、不十分な点をズバリ指摘されたり、
仲間の行動との関係で不安を感じる場合ですね。

さらに、不遇な環境にいるために
社会から、自分がさげすまれているのではないかと
感じてしまう場合もそうでしょう。

それから、理由がなく不安を感じる場合もあります。
うつ病や内臓疾患によるうつ状態などで
脳の働きにエラーが起きている場合です。

日常的に起こる些細なことすべてが悪い予兆だと感じ易くなります。

ただ、現代社会に特有な事情もあります。
「生きる価値」ということを意識する理由として、
実際の人間のグループ内において
一人の人間として尊重されるための
ハードルが高すぎるという事情があることは事実だと思います。

「良い子でなければ叱られる」から始まって、
「成績優秀で、先生から注意されない子どもでなければならない」とか
「猛勉強して、あの学校以上のランクの学校に合格しなければ」
誰かから許されないような気持ちになったり負けた気持ちになったりする。
「ノルマを達成しなければならず、
そのためには深夜まで、休日まで働かなければならない」とか

「働かなければならない」とか
「結婚しなければ」、「子どもをもうけなければ」等々のハードルを
乗り越えなければならないと思いこまされていて
そうでなければ一人の人間として尊重されないのではないか
という不安を抱く人は多いでしょう。

しかしそれらは、貴方の事情ではありません。
誰か、あなた以外の第三者の事情に過ぎないのに
それがその通りだと思いこまされているのです。

一つの具体例として、
JRが国鉄から民営化されるとき
「余剰人員」という言葉が言われたことがあります。
しかし、もともと不要な人を採用したわけではなく、
会社の組織編成が代わり、
人員整理の方針となったときに
構想から外れた人を余剰人員と言ったのでした。

その人が余剰かどうかは
人間として余剰な人間であるのではなく、
経営方針が変わった会社にとって
人件費を払いたくないという会社の都合だったのです。

このように、生きる価値とか資格というと
誰か特定の人の利益だったり、価値観だったりに照らして
即ち、自分以外の人の物差しを使って
価値が無いとか、余剰とかいうことを思い込まされていることがある
ということなのです。
これは注意が必要です。
これは無駄な悩みです。


自分は誰かのために生きているわけではありません。
動物もすべてそうです。
自分や自分たちが生きようとする
ということがあるだけです。

「自分のために生きる」というのもちょっと違うと思います。
「生きている以上、ただ生き続けようとする」
ということが生き物の基本ですし、生きるということだと思います。

だからまず、今生きている以上
生きようとすることが無条件に肯定されなければなりません。
ご自分も他人もそうです。

「自分には生きる資格がないのではなかろうか」
という気持ちになったら、
脳が誤作動を起こしていると直ちに思い出してください。

そしてそういうことをいう人が自分以外にもいたら
教えてあげてください。

人の気持ちを少し軽くしたり、温かくしたりできる
あなたしかできないことがある。
あなたが笑って見せることで救われる人がいる。
あなたが感謝を伝えることでうれしい人がいる。
あなたがおはようというだけで心が温かくなる人がいる。
人生すてたものではないと思い直せる人がいる。

売店の人だったり、料理店の人だったり
病院の人だったり、学校の人だったり
あなたが、「自分はあなたの仲間です」
というメッセージを伝えることが
あなたの不安をかき消す特効薬になるでしょう。


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虐待親に逆上する人たちは虐待死予防に役に立たない以上に有害であること [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日生後6か月の子どもを両親が衰弱死させたという報道があった。2人はおよそ2週間日中から夜間にかけて娘を自宅に放置。アルバイトやパチンコをしていたとみられて・・・とのことであった。

私は、この書き方が不自然であると思った。
アルバイトって言ったって、
それしか仕事が無かったのかもしれない。
パチンコと言っても、
パチンコをするためにに外に行ったのではなく
仕事先で2時間待機(無給だろう)を余儀なくされて
パチンコでもするしか思い浮かばなかったのかもしれない。

この報道では、パチンコで遊ぶために
子どもを放置したように受け手に印象を与えるので、
ミスリードではないかと指摘した。
実はよく読むとそれを匂わす
記者の配慮もある。

前に報道された私の依頼者の事件でも
マスコミは、
警察発表を裏もとらずに垂れ流していた。

真実追求や人権侵害のおそれを気にせず
怒りを誘導することが目的だ
としか思われない報道姿勢だと
常々感じていた。

このような虐待の背景としては
必ず現代の貧困があると確信している。

さて、そのようなことをフェイスブックに書き込んだら、
この親が鬼か蛇か、人間ではない
という怒りのコメントをわざわざくれた人がいた。
私がその両親に怒りを示さないことが悪いかのように
フェイスブック仲間の前で
そのことで公然と非難されたと感じた。

さらに「この両親は正しくない」と
コメントを書き込む人まで出た。
私は、この両親が正しいという気は毛頭ない。

しかし、私が怒らないことによって、
あるいはこの両親を責めないことによって
この両親があたかも正しいかのように
私が言っていると感じたようだ。

私達は、自分の怒る感情を疑うべきだ。

読者に怒りを起こさせる報道は
それによって読者、視聴者をつなぎとめるための
儲けの理論である。
人為的に怒らせることによって、
自分の本当の問題の所在から目をそらせ、
国民を簡単に戦争や、弱い者いじめに誘導する
有史以来の常とう手段である。

どうしてこの人たちが
私を面前で罵倒するように
怒りをあらわにしなければ気がおさまらないのか
それは、結局何の役にも立たない
一番弱い人の役に立たないということを
少し考えてみた。

<怒りは怒る人の自己防衛に過ぎないこと>

なぜ人は他人の子どもでもひどい目にあって死ぬと
怒るのか。
先ず、死んだ子供に共感してしまうということはわかりやすい。
ここまでは誰しも一緒なのだ。
無抵抗の赤ん坊が
おなかをすかして泣いていても
だんだん力が弱くなって衰弱していく様子を
思い起こして嫌な気持ちにならない人はいないだろう。
具体的にイメージがつかない人はいるかもしれない。

ではどうして怒るのか。

一つには、無抵抗の弱い赤ん坊に共鳴すると
その危機感、絶望感を
そのまま抱き続けることは人間は苦手だ
何とか危機感、絶望感、絶望的な不安感を解消しようと
無意識の反応を示してしまう。

その反応とは逃げるか戦うかなのだが
逃げるべき切迫する危険はわが身にはない。
加えて、犯罪者として悪と決めつけられた相手に対しては
わが身の危険を感じることはない
怒るという感情を持つことによって
危機感、絶望感、絶望的な不安感を
解消しようとしているのである。

また、行動経済学の見地からすると
不正それ自体を許さないという意識は
経済的効率性を度外視して行動に出ることがあるらしい。

しかし、要するに怒りは
自分の感情を収めきれない場合の
自分を守るための反応だということを頭に入れておいた方が良いと思う。

だから、怒る人にとって真実はどうでも良いことで
報道の、相手に怒る部分だけをクローズアップして
もしかしたら違うのではないかという理性は
見る影もなくなってしまう。

怒る人のもう一つのメリットも看過できない
虐待親は人間ではないという怒りは、
「私とは違う」という意識付けなのである。
自分とは連続性の無い者のすることであり、
きわめて特殊な、自分とは住む世界の違う者だ
ということで安心することができる。

しかし、刑事事件や虐待事例を多く扱っている私からすれば、
そのような思い込みを持つことができない。
虐待親は私たちと連続する人間の中の一人である。
ただ、それぞれの条件、環境が
彼らを追い込んでいるだろうと
確信に似た推測をしている。

その一つが貧困である。
貧困についてはまた改めて説明する。

この、「自分と異なる類型の人間」
というアイデアこそ有害である。
誰にとってか。それは、
この次に虐待死する子どもを救うことができない
という意味において有害である。

同じ人間がどうして子どもが衰弱死するまで放っておくか
どのような条件や環境があると
子どもを安全に育てることができないのか
それを考えることをしないからだ。

「自分と異なる類型の人間」のアイデアにしがみつく人たちは
特殊な人間だからその特殊な人間を排除する
という理屈になる。

実際に大阪で二人の子どもを餓死させた母親は
裁判員裁判で懲役30年の刑が確定した。

裁判員も餓死した子どもたちの写真を見ていると思う。
防衛本能が強く働くし、
自分は安全という環境があるので、
怒りの感情を量刑に反映したのだろう。
極めて自然な人間の行動である。
しかし、それでは子どもの虐待死は防げない。

私も、どちらかというと
怒りを前面に出すタイプの人間だった。
虐待という無抵抗であり、
親に庇護を求める子どもたちに対して
強度の共鳴をしてしまっていたと思う。

しかし、そんな無邪気な対応ができなくなったのは
虐待者からの相談だった。
法務局の人権擁護委員として電話相談をしていた。
自分が2歳の子を虐待しているといわれている母親から
相談の電話が来た。

この時、感情のままに母親を説教するということであれば、
母親は直ぐに電話を切っただろう。
止めたいのにやめられない虐待が続き、
子どもの命は風前の灯火になったかもしれない。

電話相談をするくらいの母親は、
自分の行動が虐待に当たり、
子どもに心身の影響を与えることは
既に知っている。
知識を吹き込む説教は意味がない。

子どもに対する愛情が無い親はいない。
子どもが憎いわけではない。
しかし、あたかも一般市民が虐待死の報道に触れて
怒りを抑えられないように
母親も怒りを子どもに向けてしまうのだ。

分かっていながら止められない
でも止めたい
どうするか。

子どもの命がかかっていると思うと
文字通り真剣勝負である。
私は、一緒に考えるという手法をとっていた。

指導するとか、援助するというのも違う。
相手の意見をすべて否定せずに、
ではどうしようかという
対等のメンバーとして知恵を出し合った。
結構オープンダイアローグ的な会話ができたように思える。
少なくとも、母親も電話を切らなかった。

話をしていて、そのお母さんが孤立している
ということがよくわかった。
そして、そのお母さんに抵抗なく溶け込んでいける場所を紹介した。
人権擁護委員の電話相談は、当番制なので
その後どうなったかについてはわからない。

でも
その方法ならやれる
ということを言ってもらった。

私は何を話したのか。
何のことはない。
自分の体験に基づいて、自分たちはどうしたか
ということをお話ししたのだ。

自分たちが苦しんだり不安になった経験を
このお母さんもしているとわかれば
あとは話は簡単だ。
自分たちが何を利用し、どのように危機を乗り切ったかを
話していくことがお母さんもすんなり理解してくれた理由だったのだろう。

そのお母さんの子育ての未熟さと
私の子育ての時の未熟さは
連続している。

ただ自分にあったものが
そのお母さんには決定的に欠落していた。

一番は困った時に助けてくれるつながりだ。

子どもから離れる時間を作ってくれる
パートナーであり、自分たちの両親である。

大阪の二人の子どもたちを餓死させた母親は
そのようなつながりが無かった。
自分たちの弱さをカバーしてくれる人はいなかった。

おそらく子供の泣き声が聞こえてきても
どうしたのか尋ねる人もいなかったのだろう。
その人を責めるわけではもちろんないが、
それが現代の日本社会の貧困なのだと思う。

虐待する母親は
私や私たちと連続している。
どこが違うのか、
その違うところを補う方法があれば、
虐待をしなくて済む。

排除の論理は、
子どもたちを救えない。
事後的に虐待死した子どもたちを
可愛そうに思うだけである。

誰からも子どもの愛し方を学ばなければ
子どもを愛することは難しい。
分断されている現代の日本社会の中では
驚くべきことが起きる。
それは、必ずしもその人だけの責任ではない。

怒りをあおる報道で
事情も知らないで怒るということは
歳のせいもあるだろうけれど
最近はなくなった。


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