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自死(自殺)・不明死、葛藤 ブログトップ
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自死に誘導する言葉に注意。苦しみを抱えたら苦しいと表現できることこそ必要。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

苦しい時は苦しいと言える仲間がいることこそ大切です。

地獄の苦しみを抱いて朗らかに生きているように見えても
それは無理してそうみせているのです。

仲間がいないのなら、適切な人とつながることができます。
例えば、みやぎの萩ネット―ワークという組織もありますが
http://miyaginohaginetwork.blog.fc2.com/
今日は別の問題をお話させてください。

ネットで最近鼻につく「名言」というのが出回っています。

「世の中には人には言えない苦しみや地獄を抱えた人もいる。
 それでもニコニコ朗らかに生きる強い人がいる。」

地獄を抱えた人が朗らかに生きているわけではありません。
無理してそうみせているのです。
なぜそんなことをするか
まじめで責任感が強く、人との和を大事にしすぎるからです。

例えば家族とか、友人とか
大切にしているから、
自分の置かれている状況を伝えて苦しませたくない。
そう無意識に行動しているだけです。

決してマネをしてはなりません。

朗らかに生きているふりをすることは
大変労力を使うそうです。

親と離れて暮らしている地獄を抱えている人が、
親の元に尋ねて行かなければならず行くときは、
親の前では、「何事もない」と言い
わざとはしゃいで見せたりするようです。

でも、親の家から帰ると
わざとはしゃいだことによって
ぐったりとして、2,3日寝込むと言います。


はしゃいでいるからと言って朗らかに生きているわけではないのです。

色々な人がいろいろなことを言うのは良いですが、
それが人類普遍の正しいことだと押し付けることは
大変危険なことです。

もともと他人に相談できない人が、
益々、誰にも相談できないようになり、
孤立していくことが大変心配です。

人の生き死にかかわることです。
私の考えでは、こういう無責任な言葉は極めて有害な
人を死に追いやる言葉だ
と警鐘を鳴らす必要を大いに感じています。

悪意のある言葉ではないことは重々分かっています。
しかし、だからこそ危険なのです。

地獄のように苦しいときに
朗らかにすることは誤りで
大変危険なことです。

苦しいときには苦しいと
辛いときには辛いと
いうことこそが理性的な行動です。

それを受け止めてくれる人を
粘り強く探しましょう。



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仲の良い家族関係は自死から守る事情になると同時に、自死を促進してしまう事情にもなる。知らない人が自死者の家族を非難することが犯罪的な理由。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




自死が起きると、
特に子どもが自死すると
ネットなどの書き込みに訳知り顔で
親が放置していたのだろう等と書き込みをする人がいる。

「自死の理由は一つではない」とか言って
親子関係にも問題があったはずだなどということは
余りにも愚かしく、自分の無知をさらすだけだ。
自死のメカニズムが複雑なことを説明しないで、
「自死の理由は複数ある」と断言することは
このような危険性がある。

一口に自死の理由と言っても
自死を考えるまで追い込まれた理由と
そこから自死の考えを無くすために機能しなかった理由では
意味合いがまるっきり違う。
説明を抜きに自死の理由は複数あるなんて言う説明は、
その人を追い込んだ理由を薄めてしまう。

自死の原因を家族に求める安直な人たちは、おそらく、
「自死する場合は、その直前に
これから自死しますよというなんらかのサインが出ていて
家族ならそれに気が付くはずなのに
それを見逃したから自死を止められなかった。」
なんて馬鹿なことを考えているのだろう。

だから、自死のサインを見逃さないように
何がそのサインなのかわかるように一生懸命勉強するのだろう。
こんなことに血眼をあげているから
自死予防を困難にさせる原因になっている。

自死のサインなんて死んでからしかわからない。
それもこじつけのような話であることが多い。

自分は関係がないのに、しかも自死について知らないのに
自死遺族を非難するのは実は理由がある。
自分を守るためだ。

自死の事実があったことを知ると、
大抵の人は事の大きさ、深刻さを精神的に持て余してしまう。
病気で死ぬことはある程度納得することができる。
しかし、病気でもないのに死んでしまうことは
それは誰しも脅威である。

脅威、危険を感じてしまうと、人間は、
とにかく自分や自分の家族に自死が起きないようにという
防衛意識を無意識のうちに抱いてしまう。

自死のメカニズムや、その人の具体的な悩みなんてものは
残された人はなかなかわからない。
説明してもすぐには理解できない。
そうなると、同じことが自分や家族に起きないということを
どうにか納得して安心したくなる。
誰かに落ち度があることを声に出して言い聞かせて
自分はそうではないと安心しようとしている行為のようだ。

遺族を苦しめて、
自分が安心したいという行為なわけだ。

そうでなければ
自分がその人を自死に追い込んだと自覚している者が
別に原因があると他者を責めて、
自分が責められないようにして
ムキになっているかどっちかのことが多いようだ。

親子関係については、
自殺対策の専門家の方々でも
誤解をしている向きがあるように感じてならない。

現在専門家が自殺対策を考える場合、
「自死の「保護因子」を増やし、強化し、
自死への「危険因子」を減らす」
という一件もっともな考え方が示されることが多い。
医学的用語がまだまだ頻繁に用いられている。
あたかもがんの保護因子を増やし危険因子を減らす
という文脈のごとしである。

この二者択一的な考え方の最大の問題点は
評価を誤りやすく
逆方向の働きかけをしてしまう危険がある
ということだ。

ある局面においては保護因子になるが
ある局面においては危険因子になるものがある。

だから局面を間違えると、
支援者たちが自死を促進させてしまっていることがありうる。
例えば良好な親子関係である。

つまり、仲の良い親子関係は
自死を防ぐ場合もあるが
自死を後押ししてしまう場合もある。

どちらかというと自死を後押しすることが多い
と感じる。

逆に、仲の悪い人間の顔(例えば姑)を思い出して
自分が死んだらあいつを喜ばせるということに気が付き、
自死を思いとどまったという例もある。
本当に直前、ギリギリのところで命拾いをした実例である。

なぜ、仲の良い家族の存在が
自死を後押ししてしまうか。

おさらいとして自死のメカニズムを確認する。

主として対人関係の危険となる事情を認識
  ↓
危険と感じ、不安が募る
  ↓
不安を解消したいという要求が生まれる
  ↓
不安解消するための行動を行う
  ↓
不安解消をする行動が見つからない
  → 絶望感、孤立感
  ↓
不安解消要求の著しい肥大化
  ↓
不安さえ解消できれば死んでも良い
  ↓
死ぬことが「希望」となる
  ↓
自分は死ななければならない

という過程をたどる。

不安を解消する行動を探すとき
家族に相談ができれば
確かに自死を実行することが少なくなるだろう。

しかし、追い込まれた人は
家族に相談することができない。

原因はいくつもある。

1 家族に心配をかけたくない
2 追いつめられたものの心理としての孤立感が
  他者へ頼る発想を奪う
  (追いつめられると、自ら孤立していってしまう。)
3 同様に相談しても無駄だという悲観的な思考を産む
4 自分受けている辱めを家族に伝えることが
  家族に申し訳がない。
  自分が情けない人間であることが
  家族に申し訳ない。
5 家族から励まされることを想像してしまうと
  とても耐えられない
6 家族に、これまで通り普通に接してもらえなくなる

もともとそれほど仲の良くない家族関係であれば、
「自分が今苦しんでいるのはお前のせいだ」
と責任転嫁することができる。
自罰意識をそらすことができることは大きい。

仲の良い家族の場合
こういう責任転嫁の言葉を吐くことによって
家族を傷つけることを恐れてしまう。
もともとそういう発想にはならない。

家族が大切だからこそ
自分が苦しんでいることが重荷になって行く。


その他にも苦しんでいることを
家族が気が付かない理由はいっぱいある
長時間労働や単身赴任で
そもそも家族と顔を会わせない。

家族の元にいる時は安心しているので、
不安な様子を見せない。
不安な様子があっても務めて家族の前では
平気なそぶりをしたり、笑い顔を作ったりする。

これはとてつもなく精神的エネルギーが必要で
家族の前でごまかすと
その後の大半は寝て過ごしたくなるくらい
消耗しきっているとのことだ。

当然、きちんと考えることも
正当に評価することもできなくなり、
こらえる力も無くなり
自死が促進されていく要因になる。

しかし、まだ訳知り顔でいう人が出てくるだろう

「家族の仲が良いならば
学校や職場で嫌なことがあっても
家に逃げ込めばよいのだから
転校や退職をすればよいのだから
死のうとはしないのではないか」

これを説明するのが対人関係学の理論だが、
結論だけを述べるにとどめる。

現代の人間はいくつかの集団に所属して生活している
家族、学校、職場、職場の中でも派閥、その他
それらの集団は、相対的なものであって
本来は離脱することが可能な人間関係である。
しかし、人間の脳の理解力は
それを正しく認識することができず、
一つの相対的な集団からの離脱の危険があると
本能的に離脱を回避しようという
要求(意思)を持ってしまい、
回避のための行動を探してしまう。
こういう動物なのだということである。

簡単に退学すればいい、転校すればよいというけれど
実際にそれを検討したり決意するという精神活動は
人間が最も苦手としているのである。
追い込まれれば追い込まれるほどしがみついてしまう。
人間はそういう生き物であるようだ。

もう一言いうと、
認知心理学の定説だが、
人間の心はおよそ200万年前にできた。
この時の人間は生まれてから死ぬまで
一つの群れで生活していた。

人間の心はこの時からそれほど進化していないのに
環境が複数の群れで生活するよう劇的に変化してしまった。
人間の心、脳と環境のミスマッチが起きているので苦しい
ということになる。

このように自死予防は
実はとても難しい。
合理的に考えれば自死は防げるのだが、
合理的に考えることができない状況に追い込まれるから
自死が起きてしまう。

この理解をしないで、追い込まれている人に対して、
家族の優しい圧力
良好な人間関係力を浴びせて
自我消耗させてしまうことは
文字通り致命的な誤りになる。


自分にとって精神的に負担な出来事が起きても
深く考えることなくそれを誰かのせいにするということは
とにかくやめた方がよい。

自死者の遺書を見ると
自死者がいかに家族を大切に考えていたかがよくわかる
そして家族の具体的な状況を
事細かに知っていることが分かる。
子どもの学校行事や部活動の大会など
事細かく心配している。

しかし合理的な思考ができない状態になっているので、
「だから生き抜こう」
という結論にはならない。

自死遺族の大部分は良好な人間関係であった家族を自死で亡くしている。
自死をなかったことにしたいという不可能を願っている
自死を受け止めることのできない第三者から攻撃を受ければ
絶対的な孤立が訪れてしまう。
考えもなく遺族に責任を求める言動は
極めて危険なことであることは
落ち着いて考えてみれば当たり前のことだと
理解していただけることだと思われる。



文中で自死のサインを探すことでは
自死を防ぐことはできないと述べています。
ではどうするかということですが、
自死が、ほぼ無意識の領域で決意されることからも、
本人の苦しさを基準に考えてはならないということを
提案しているところです。

ややメンタルの弱い人を基準に、
その人の置かれている状況を客観的に判断し、
不可能を強いられている
孤立感が起きる可能性のある状態だ
と第三者が判断したら、
その環境からその人を離脱させる
環境を改善するか、集団から文字通り脱退させる
そして、安全な集団に一時避難をさせる
安全な集団もどのようにその人に接するか
きっちりレクチャーされた集団で、
外部の人間が随時修正ができる状態
にして、回復を待つ
大雑把に言えばそういう政策に重点を置くべきだ
と考えています。

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「死にたい」という人にどのように働きかけるか 死にたい「くらい」辛い事情の探し方 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


前回、死にたいという人にがんばれと言ってはいけない
ということを書いたところ
「ではどう言えばいいのだ」というお問い合わせが来ました。

なるほどごもっともです。
めったに、他人に死にたいとは言わないものですが、
もし言われたらどうしよう
励ましてはいけないしとなれば、
いったいどうすればよいのか。
黙っているわけにもいかないし
と思われるでしょう。

わからない時は、黙って聞くということも正解です。
理解しようとする気持ちを示すことになるからです。

寄り添い、共感するということが第一なのですが、
それは相手の苦しみを部分的にであれ引き受けることになるので、
大変苦しい思いをすることになります。
心中になることがあるのは絶望を共有してしまうからです。
無理をすることは避けるべきです。
「カウンセラーやなにがしかの専門家につなぐ」
という選択肢も「あり」だと思います。

実際、あなたに死にたいと言っている人は
助けてほしいという気持を無自覚ですが持っているようです。
でも、あなたが自分を助けてほしいということではなく、
「誰でもいいから助けてほしい」ということなので、
誰かにつなぐということは間違っているわけではありません。

しかし、そのお話を、あなたが
聴かなければならない立場である場合があるでしょう。

何をどう聞くかということから始めて
聞いてどうするかということを
少しお話してみます。

まず、死にたいと言うお話を聞く場合
時間を用意することが大切です。
目安として2時間くらいを確保しましょう。
確保できない場合は、
予めリミットを告げて、改めていつお話を聞く
ということをはっきり示しましょう。

話はとりとめがなくなることがほとんどです。
プロは、とにかく話を聞き続けるのですが、
私は、時系列に沿ってお話しして頂くようお願いします。
そして、聞きながら時系列表を作ります。

例えば離婚が絡むのであれば、
結婚した日、出会いの方法を
まず聞いてお話して頂きます。

職場の辛いことであれば、
いつ入社をしましたかということから始めます。

時系列は、細かい日付が大切なのではなく
エピソードの前後関係が大切です。
前後関係さえ間違えなければ
「いつ頃」ということが分かればよいです。
もちろん、話していくうちに
前後関係が入れ替わることもありますが、
それは良いことの場合が多いです。

相談者の頭の中が整理されてきた証拠です。
時系列は最終的に確認できれば良いです。

さて、お話をしてもらうということも一つの目的ですが、
こちらとしては、死にたいくらい辛い事情がどこにあるか
ということを知りたいわけです。

おさらいですが死にたい気持ちは
以下のような流れで出てくるようです。

対人関係上の問題
  ↓
危険の認識=不安
  ↓
不安解決要求
  ↓
不安解決行動

ということがノーマルな課題克服法ですが
不安解決方法が見つからない場合
不安解決要求が大きくなってしまいます。
あまりにも大きくなりすぎて
不安解決がなされればそれがすべてだという意識になり
究極的には死んで不安を感じなくしたい
という本末転倒な結論を抱いてしまうのが自死の原理です。

こちらとしては
結論としては死ぬことを否定したいわけです。

聞く側は、早くこの結論、「死んではいけない」
という結論に飛びつきたいものです。

このため、やみくもに、
相手の発言や考えを否定したくなります
ここに最大の注意を払う必要があります。

相手は思考能力にはそれほど問題がないことが多いです。
考えることができないわけではない。
しかし、本末転倒の考えに陥るのは、
十分な考えなしに、ある前提を作って
思考を出発させてしまうところにあります。

どこに問題があるのかは実はなかなか難しいものです。

それにもかかわらずやみくもに否定してしまうと
話している方は
「自分の話を聞くつもりがない」と感じたり、
「自分を馬鹿にしている」、「自分を否定している」
と感じてしまうわけです。

話を聞くほうの自分は
死にたいという人の結論を否定したいから
つい、やみくもに否定してしまう傾向にあるということを
しっかり自覚して、自分を制御し、
じっくり話を聞くことは
意識しなければできないことかもしれません。

また話すほうは、
細部にも手抜きができませんので
回りくどくなったり
遠回りすることがあります。
覚悟して付き合う必要があります。

しかし、遠回りのような気がする場合は
ある程度聞いたら
時系列に戻してもよいでしょう。
その時は、「先ほどの話ですが」
という質問をすることが有効でした。

さて聞くポイントは
当初の問題点、不安を感じた事情と
どうしてそれが解決不能なのか
その人がどのように孤立しているか
その人は何を大事にしているのか(こだわっているのか)
というところにあります。

・解決不能のポイント

・孤立

・本人のこだわり

この3要素を考えることになります。

「解決不能」とは
その人にとって解決不能であるということです。
自分なら解決できるということより、
なるほどその人は解決できないだろうな
と思えればよいわけです。

「孤立」は、
天涯孤独である必要はありません
特定の集団で孤立していれば足ります。
また、本人の言葉から
本人は、実は孤立していなくて
援助を申し出る人がいることに気が付くことが多いです。
本人が孤立を感じている
ということが分かれば孤立していると評価するべきです。

最後の「こだわり」なのですが、
このこだわりは
一般の人ならば大事にしないこだわりもあるのですが、
一般的にはそれを大事にすることが非難されないこともあります。

仕事を一生懸命行うとか
子どもを大事にするとか
通常の程度であればこだわることを肯定できることもあります。
そうです、程度の問題に着目することになります。

これらの要素が存在すれば
「死にたいくらい辛い」となるわけです。

その3要素の存在が理解できれば
「なるほどそれはつらいよね」
「あなたの状況なら誰だってつらいだろうね」
という、辛さについての共感を示すことになります。

ここまでが一区切りということになります。

繰り返しますが、
貴方が専門家でなければ、
専門家につなぐことをお勧めします。
できれば、専門家のところに
一緒に行ってあげるということが望ましいとは思います。

では解決編です。
あくまでも、専門家向けのお話になります。

ここまでお話を聞ければ
辛さのもとになった事情が理解できていると思います。

もし、何がもとになっているのわからず、
病的に全般的に不安になっている場合は
精神疾患にり患してしまっている場合があります。
これはあまり多くありませんが、確かにそういう場合があります。

職場のことが原因で不安になっているようなことを言っていても
心配の仕方が支離滅裂で、
例えば、
自分が会計を担当していて、
営業担当の上司からマスキングテープ200円を買った日付を
実際よりちょっと後で帳簿につけてほしいと言われ
それをしたとします。
確かに不正ですし、会社から処分されることを心配するのは良いのですが、
「東京地検特捜部が捜査にくる」
「自分は刑務所から出られなくなる」
などということを本気で心配して
気が付けば口にしているということは
異常だと考える選択肢を持つべきです。
これは治療適応だと思います。
そして急ぐべきです。

できれば、カウンセリングができる精神科医がベストでしょう。
2時間くらい話を聞いてくれる精神科医です。

しかし、何かわからないが
「顔の左側から危険が来る」
ということをしきりに述べるという人がいて話を聞いたら、
会社で突然、頭がおかしくなった人間がいて、
前触なく、突然顔を殴られたという出来事があったというのです。
その頭がおかしくなった同僚が左の席に座っていた
というように、なにがしかの理由がある場合もあるので、
記憶のメカニズムを説明したら
当の本人が納得したということもありました。
統合失調症と診断されて
入院して強い薬を処方され
強い副作用が出たことによって
障碍者だと認定されていた人でした。

次に、困った事情がそれなりに理解できる場合、
そうして困った事情とそれによって3要素が結び付けられる場合です。

おおもとの理由は、大体一つです。
一つの事情に端を発していることが多いです。

(但し、3要素に至る事情は複数あります。)

例えば、学校のいじめとか
上司の横暴とかパワハラとか
夫婦の問題とか
子どもの問題とか、
自分の体調ということもあるでしょう。
(不治の病にり患した。大きな手術を控えているなど)

但し、おおもとが修正要素となるとは限りません。
おおもとの人間関係をそのままにして
考え方を修正するということ
こだわりを修正する場合もありうるわけです。

「死にたい」という人の何が間違っていることが多いかというと

解決不能だと思うこと
孤立していると感じること
こだわり続けること

この3点です。

こだわりがあるから解決しない
こだわりがあるから孤立する
ということもあります。

まず、それぞれの専門家が判断するべきなのですが
本当に解決不能なのかということを吟味する必要があるでしょう。

そのためにはなぜ解決不能なのかを考える必要があります。

一人では解決できない。援助が必要だ。
自分本位のものの見方をしている
本来解決しなくて良いことだ
解決の方向が硬直している
解決とするレベルが高すぎる

追い詰められた人の意思決定がゆがんでいるというのは
分析的な思考によって決定される意思ではなく
直感で導かれる意思決定パターンの領域のようです。

もともと人間の意思決定は2種類あり
分析的思考をし、ち密にメリットデメリットを評価したり、
派生問題を考えたりして決める場合と
直感で決める場合とあるようです。

驚くほど多くのことを直感で決めているようです。
そのことを特段意識さえしないようです。
どちらの足から歩き出すかというようなことから始まって、
誰が味方で信頼できて
誰が敵で警戒したほうが良いとか
自分の進路や思想選択すら
結局は直感で決めていることが多いようです。

経済活動ですら分析的思考では決めておらず
不合理な意思決定過程を経ることが多いということを発見したことを理由に
最近のノーベル経済学賞を心理学者が受賞しているくらいです。

これには合理性があって
あらゆることが分析的思考によらなければならないとなると
行動が遅れてしまうということや
脳が消耗してしまうというデメリットがあるので
直感的に意思決定をして
エネルギーを節約しているらしいのです。
そうして、直感的判断で
たいていはうまくいくわけです。

どうやら、「死にたい」と言える人は
分析的な思考のゆがみよりも
このような直観的な意思決定に
歪みが強く表れているようです。

分析的思考ができるものだから
自分は頭はしっかりしていると思うわけです。
また、直感的思考は無意識に行われていることが多いので、
自分の「無意識の思考」のゆがみに気が付かないということも
ごく当たり前のことだということになります。

孤立にしても
「自分には味方がいない」という敵味方の判断は
まさに直感的に行うもののようで、
その人が、他人からいろいろと働きかけられていることを認識していながら
味方であると判断できないだけのことが実に多くあります。

「ここまでいかないと味方だと思えない」
という頑固な判断は、こうして生まれるようです。
また、追い詰められれば悲観的なものの見方にもなっているわけです。
例えば、
官僚や財界の地位のある人が
一度刑事処分を受けてしまうと
すべての見方がなくなり自分は社会復帰できないと
自死リスクが高まりますが、
そこまで復帰のハードルを上げる必要がない
という考えもありうるわけです。

一度過ちを犯した人は
その人でなければできない社会貢献がたくさんありますし、
どん底から這い上がるところを
家族に見せてあげるということができるわけです。

また、危険な職場から離脱して
新たな職場を求めるということも
同様に、検討事項になりにくい
ということもあり得ます。

解決のためには現状維持の要求を捨てなければならない場合が多いようです。

これに対しては、
まず、一時的にダウンサイジングをする
ビバークするという考え方を提案することが有効です。

今後レベルを落とすということは衝撃ですが、
少しずつ鳴らしていく一方で
将来に向けての再帰以上の目標を持つ
というアイデアは
第三者が提案しなければ自然には生まれないでしょう。

こだわりを捨て去る必要はなく
形を変える、一事留保する
という提案をするわけです。

人間関係について
最近、研鑽を受けもせず、深く考えもせず
まるっきり共感もしない人が介入して
かえって人を追い込む現象が多発しています。

確かに、その集団にいることが
危険性が強く、デメリットしかない
という場合は集団からの離脱が最終手段なのですが、

追い込まれた人の思考は
死んで楽になりたいという極端な場合でなくても
夫婦の困難な問題から逃げるために離婚を選択したり、
退職したり、退学したりということが行われます。
これはうつ病の症状として
従来から言われていることですが、
「不安解消要求が強くなりすぎた結果だ」と
統一した説明が可能となったわけです。

さて、
このようなゆがんだ不安解消要求を追認して
安易に離婚させることによって、
離婚をした後で、
「こんなはずではなかった。今とても苦しい。
 しかし、そのことを離婚を進めた機関に言うと
 離婚を選択したのはあなたですよ。
 こちらは責任がありません。」
といわれるという人権相談が多く寄せられています。

夫婦問題の多くは
適切な介入によって
関係が改善することが多くあります。

(問題は適切な介入をする人が少なすぎる
不適切な介入をする機関が多すぎるということにあるのですが)

安易に不安解消要求を追認することは
結局自死を追認することになるのと程度の違いしかない
と厳しく批判されなければなりません。
つまり問題の先送りです。

さらに困ったことは、
対人関係の悩みの中で
不安解消要求を追認することは
その人のパートナーを攻撃することになります。

例えば
妻が漠然とした不安がある
マニュアルで夫の精神的虐待がないかどうかしつこく尋ねる
市井の夫婦であれば必ずあるような夫婦喧嘩をもって
それは精神的虐待だ、モラルハラスメントだと決めつける
貴方は殺される危険があるから子供を連れて逃げろ
というパターンがあるとします。

子どもを連れて逃げられた夫は
呆然として、わけがわからないうちに
行政や警察からも目をつけられて
社会的に孤立してしまう
裁判所も自分の味方をしてくれない
絶対的な孤立と解決不能感が強力に置きますから
自死リスクがかなり増大していきます。

自死に至らなくても
追い込まれたことによる認知のゆがみが強くなり、
敵と味方の区別がつかなくなり
味方を攻撃する現象が起きやすくなるわけです。

どうしても困った人を見ると味方になってあげたくて
その人さえ守ることができれば
その他の人が傷つくことに気が回らなくなったり、
それほど罪のない人を敵視したりしてしまいます。

もともとの奥さんの不安を解消できないばかりか
新たに夫の自死リスクを高めるという
深刻な弊害を生んでいます。

死にたいという人に対する支援は
その人そのものを支援するだけでなく、
その人が所属する集団を支援、修正していくことだと
考えを改める必要が高いと考えています。

個人に対する治療ではないのです。

そうして、一番のその人の所属する集団は家族です。

家族の在り方に問題があるならば
修正を提案することが
真面目な支援だということになります。

私は弁護士ですが、
弁護士は人間の対立の中で
紛争を解決する専門家のはずです。

人間関係の修正という視点を
比較的持ちやすい職業のはずです。

また、今までお話ししてきたように
精神医学の観点、カウンセリングの観点
問題解決に当たってはケースワークの知識など
いろいろな専門家が集団的討論をし、
メリットデメリットを明らかにしたうえで
本人に意思決定をしてもらう

これが死にたいという人に対する
本当の支援なのだと思うのです。

私が生きているうちに
どこまで近づくのか
あまり楽観的にはなれないところです。


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なぜ、自死を考えている人に「死んだら負け」と言ってはいけないか。励ますことの危険性を知らなくてはならない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

似たような言葉に
「死ぬことを考えれば何でもできる」とか
「親が悲しむから死ぬな」とか

善意なのでしょうが、
これは人を苦しめるだけの言葉です。

苦しむのは
今死にたいと考えている人、
自死した人の遺族、
そして自死した本人です。

考えてもみてください。
今自死を考えている人に
「死んだら負けだよ」と言って
「ああそうだ、そのとおりだ
 死なないで頑張ろう。」
となることをイメージできますか。

ただ、例外的にどんな言葉でも力になることがあります。
同じ目線に立って、一緒に苦しさを共有している人です。
自分を理解してくれる人の言葉は
言葉の内容を超えた力があります。

そうではない通りすがりの人が
「頑張れよ」ということは
悩んでいる人に大変つらい気持ちを浴びせて
こらえる気持ちを消耗させることになります。

自分が理解されていないという絶望感と孤立感を
強烈に与えられてしまいます。
「こんなにギリギリ頑張っているのに、
もっと頑張れと言うのか
自分はもうこれ以上頑張れないのに」
ということになるわけです。

自死したい人たちの気持ちは
命を無くすということが目的ではないのです。

目の前に解決できない問題があり、
それをどうやって解決しようかと思い悩むわけです。
解決できないことを考えると心配になります。
どうしても解決しなければならないという気持ちが徐々に
今いる場所から助けてほしいという気持ちになります。

ところが、今いる状態から抜けられる方法がないと
「何とか、この不安から解放されたい」
という要求が大きくなります。
そして、その方法がないと絶望していきます。

「誰も自分の味方はいない」と考えていくのですが、
それは真実ではなく
悲観的なものの見方に病的に支配されているからです。

実際の事件を見ると
手を差し伸べている人はいるのですが、
助けだとは感じなくなっていることが多いようです。

そもそも生きるために危険を回避しようとするわけです。
これは、危険情報を理解し、その危険を回避しようとするわけです。
例えば、刃物を持った人がうろうろしているのを見たら
その人に見つからないように別のところに逃げる
できるだけ遠ざかるという行動をします。

刃物を持った人がいることを視覚的に確認する
  ↓
危険だと判断する
  ↓
危険回避行動(別の道に逃げる)

という理解が一般的なようです。

しかし、実際はどうやら
刃物を持った人がいることを視覚的に確認する
  ↓
危険だと判断する
  ↓
危険を回避したい(不安を解消したい)  ↓
危険回避行動(別の道に逃げる)

という
「不安を解消したいという意識・意欲が生まれて
それで初めて危険回避行動に出ることができる」
と考えるべきであるようです。

いずれにしても命を守り
生き抜くためのシステムです。

生き続けるために不安を解消したいのです。
これは通常では、つまり
人間が生きていくために通常想定された範囲では
危険を回避するとても優れたシステムです。

ところが、不安を解消したくても
その方法がないということになると、

「何もできなくなる=凍りつく」という現象を起こします。
それでも、不安解消要求は高まります。
生きていたいからです。

不安解消行動が高まるのに
その方法が見つからない
これを絶望感と呼びます。

そうすると、人や状況によって異なるのですが、
とにかく何でもよいから不安を解消することだけ
それだけが最大かつ唯一のテーマになってしまいがちになります。

本当は生きるためのシステムであるのに、
生き続けたいという要求よりも
不安を解消したいという要求が
大きく前面に出てくるわけです。
要するに、
「不安が解消できるならば死んでもよいや」
という気持ちになるということです。
本末転倒なのですが、
そこまで追い込まれているということです。

だから自死を考える人は
「死ねばこの不安から解放される」
と思うので、自死という手段を思いつくと
仄かに明るい気持ちになるそうです。
追いつめられるということはそういうことのようです。

そうして、追いつめられつづけて精神的に破たんしてきたり、
(病的な精神状態になったり)
睡眠不足や向精神薬の影響で
冷静な判断をする力が奪われていくと、

死ねば楽なるという気持ちではなく、
「自分は死ななければならない」
という強迫観念にとらわれるようになることがあります。

自死をする人は
第1希望は生き続けたいわけです。
そのために不安を解消したいという要求が生まれ、
それがいびつなほど大きくなりすぎて
本末転倒になるわけですから、

通常想定された追い込まれ方ではない
極めて異常な追い込まれ方をしている
という言い方ができるでしょう。

自死を考えている人たちは
死にたいのではなく、強く生きていきたいという要求がある
それなのに、生きていくための
不安解消方法が見つからない

他人から頑張れと言われなくたって
本人は頑張って頑張って、それでも答えがでない
という状態に追い込まれないと
死にたいとは思わないわけです。

この状態になった人に
抽象的に「頑張れ」と言っても
「死ぬくらいなら何でもできる」と言ったって
「もっと頑張れ」としか聞こえないし
それは、
「もっと苦しめ、もっと不安になれ」
ということと同じなのです。

さらには、
「お前はダメな奴だ」
という強烈なメッセージになってしまいます。
それは「生きる資格がない」ということと同じです。

一方で立ち直る力を消耗させるとともに
死ぬことを怖くなくする効果が生まれてくるのです。

逆療法、ショック療法は極めて危険です。
叱咤激励は危険なのです。

善意だからと言って容認することはできません。
マスコミも無責任に発言を増幅させてはいけません。
発言者を責める気持ちではなく、
止めていただきたいという気持ちです。

人間も生き物です。
本能的に生き続けていたいのです。
それを放棄するということは
よほどの精神的状態であることを
十分理解していただかなければなりません。



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日大アメフト傷害事件で起こったことについての解説を、謝罪会見から試みる [自死(自殺)・不明死、葛藤]

昨日、日大アメフト傷害事件の直接の加害者の謝罪会見がありました。
20歳の若者が名前と顔をさらしての会見でしたが、
関係者、特に本人にとって賢い行動選択だったと思います。

ところで、20歳とは言え、
どうして相手に対する暴行を止めることができなかったのか。
また、どうして、指導陣は
傷害をそそのかしたのか。
それらについては、本人たちも分からないでしょう。
記者は本人に回答を求めていましたが、
それは無理です。

謝罪会見で述べられた事実から分析をしましょう。

経緯は、
加害者は、高校時代から有望なフットボール選手で、
高校時代の監督が日大のコーチになったということもあるのか
日大に入学しフットボール部に所属した。

加害者は優秀な選手で、全日本チームのメンバーにも選ばれていた。

ところが、事件の3日前から
監督が加害者をいじめにかかり、
なんくせをつけ、自分の言うことを聞かなければ
全日本も辞退させる
ということを言い出し、

さらに練習にも参加させないという
なりふり構わない対応を始めました。

1 もともとの体育会気質

もともと、スポーツは、上意下達が徹底しているとこがあります。
勝利という明確な目標があり、
経験豊かな指導者が、研究を重ねて、
勝利への最短距離を伝授していくわけです。

そもそも、監督やコーチなどの言葉に逆らうということは
発想として出てこないわけです。

2 群れの中にとどまる本能

そうでなくとも、チームに入ってしまうと
そのチームから外されたくないと思ってしまうのが
人間の本能です。

この人間の本能を利用して
勝利という明確な目標を絶対善として、
他の価値観に優先させる結果、

上の言うことを守ることが
秩序を守ることと同じことになっていきます。

3 落差理論

人間は、今いるポジションを維持することを望みます。
だから、高いポジションにいる人が
下に転落することは精神的に著しい打撃になります。

立場がなくなってしまうということです。
刑事事件で加害者が自死をするケースが比較的多いのですが、
こういう理由なのだと思います。

日大の加害者は、
全日本のメンバーに選ばれていましたから
メンバーから外れることはとても強い抵抗感があったはずです。
ましてや試合のメンバーからも外されることは、
それだけで、外されまいとする心の動きを強くさせます。

外されないためにどうしたらよいだろうかという
そういう発想にしかならないのはそういう理由です。

彼が全日本のメンバーから外れるということは、
当時の自分自身を崩壊させることであり、
自分自身を守ろうと必死になってしまった
という言い方もできると思います。

4 加害者の暴行当時の心

加害者は、暴行当時、
既に二者択一的な思考に陥っていたのだと思います。
傷害を遂行するか、自分を崩壊させるか
そういう視野狭窄の心理状態に追い込まれた
ということが追い込まれたという意味です。

他に選択肢はありませんでした。

退場にならないことに焦りが生じ、
まだ暴力が足りないのかとと感じていたでしょう。
3回目のファールでようやく退場になり、
もう、暴力をしなくてよいのだという安心感が
号泣になったと考えられます。

彼のためにももっと早く退場させるべきでした。
審判も、まさか意図的にやるはずがないという思い込みがありますから、
意図的な暴行だと認定することが難しかったのだと思います。

彼の心理状態が
このように選択の余地がなかったとしても
自分の行ったことについての責任はとらなくてはなりません。
今回の謝罪会見は良い責任の取り方だったのではないでしょうか。

では、監督やコーチの心理はどのようなものでしょうか。

一言で言って、監督は自分の地位を脅かす存在だと
自分にとって加害者危険な存在だと
本能的に感じていたのだと思います。

自分に関係なく全日本選抜となり、
しかもスタイルがフェアプレーで、
自分に対する恭順の姿勢も足りないと感じていたということです。

上意下達が完成されていないと
実力のない上司は不安になるものです。

無意識のうちに
そういう異分子を叩き潰して、
自分に従わせようとします。

母親が子どもにすることがある洗脳ですが、
徹底的に、自分の彼に対する役割を行わず
彼に対する排除の言動を繰り返した挙句、
泣きついてきた彼を迎え入れて、
監督の下に就くことに喜びや安ど感を経験させていくわけです。

それが行われてしまうと
群れにとどまる本能などから
何でも言うことを聞くようになってしまいます。

自ら率先して忖度をするようになるわけです。

コーチは、支配者と服従者と
両方の側面をもって、
監督に媚び、選手を従わせようとしていたことになります。

さて、それにしても、
どうして罪もない相手をつぶすという方針が作れるのでしょう。

それは、第1の原因は、
監督の危機感が強すぎて、
勝利を絶対的に必要とし過ぎたということがあると思います。

その原因はわかりません。
過労死現場でいえば、
実力がないのに役職ばかり上に上がって行って
常に転落の予感に脅えている場合があります。

また、さらに自分の上司から
同じように洗脳されている場合もありました。
もちろんその人の人格的な問題がある場合もあります。

いずれにしても防衛意識が強いということだけは言えると思います。

人間が人間を攻撃しても平気な顔をしていられるのは、
自分や仲間を守るためだと自分に言い聞かせている場合です。

ここまでお話していてお気づきになられた方が多いと思いますが、
今回の日大アメフト傷害事件は、
会社のパワーハラスメントとかなりの部分で重なります。

その本質は、 人間を人間としてみないことです。

相手が生身の人間で
痛みを感じ、精神的に恐怖を感じ、
家族がいて友達がいる
そういう当たり前のことを
感じられなくなっているということです。

痛めつけることが目的化しているともいえると思います。

長時間労働も
家族から切り離され、
心も四六時中仕事のことばかりを考え
夢の中でも仕事をしている状態
毎日がイライラし
家族から見捨てられたり
子どもたちの健全な成長を奪われ、
挙句の果てに命を落とすわけです。

労働者が人間であることが
見事に捨象された考え方です。

今回は他のチームの選手への加害を余儀なくされました。
過労死は、
自分を死に追い込むということですから、
他人とその家族に危害を加えるか
自分とその家族に危害を加えるか
という違いがあるだけで
心理構造は変わっていません。

さて、4年前の今日
国会では過労死等防止対策推進法が可決されました。
そして今年の今日
衆議院では
高度プロフェッショナル制度が強行採決されようとしています。

暴行による傷害は目に見えますが
過重労働によるダメージは目で見ることができません。

しかし本質は同じなのです。

日大は、選手の謝罪会見を受け
相手選手をつぶせと言ったことを認めながら
なお、選手が監督の指導の意図するところに反する行為をした
ということを公式ホームページに掲げました。

考えなしの反射行為ということはあることです。
しかし、この見解が削除されないまま掲載され続けるならば、
日大は反社会的組織だということになります。

他人の人格を尊重することはモラルであり、コンプライアンスです。
比ゆ的な話だとしても
つぶせということはこれらに反するからです。

高度プロフェッショナル制度で労働基準法の労働時間法制を外す
ということも同様ではないでしょうか。


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連休明けの今日、学校に行かなかったあなたと親御さんに  [自死(自殺)・不明死、葛藤]

今日GW明けです。
おそらく、中学生を中心とする多くの子どもたちが
学校に行きたくないと感じていることでしょう。

実際に学校に行かなかった方もたくさんいると思います。

親としては大変心配になります。
学校に行きたくない理由は人によってたくさんあるのですが、
とにかく行けと強制したくなるのも仕方がありません。
それでも、行きたくない気持ちが強い
かなり強い、病的とも思える拒否反応を示すこともあります。

親として一番心配なことは、
とりあえず家から出て、学校に行かないことです。
家の中で、家族に、「学校に行かない」
と宣言して行かないのであれば、
少し安心してもよいのだと思います。

多少なりとも、親を信頼している
という見方もできるからです。
大切なことは、
無理やり行かせないことです。

もちろん行くように説得するべきですし、
そのためには事情を聴くことが必須です。
行く気持ちにさせる努力は必要だと思います。

ダメなのは
頭ごなしに行かなくてはならない
あるいは強制的に学校に連れていくことかもしれません。
行きたくないという気持ちだけは、存在するのです。
無いことにはできない部分です。

気持ちを動かすことができなければ
むしろ「今日は」あきらめる
という選択肢を持つべきだと思います。

今日、突然学校に行かないと言い出すお子さんも
このまま学校に行かないのはまずいと思っています。
本当は、
「今日だけは」行きたくないというお子さんが多いようです。

端的に、
このままいけなくなってしまうのではないか
それなら無理しても行った方が良いと思う。
と意見を述べ、
「明日からは行く」
ということであれば、
「今日は」休むことを支持してもよいかもしれません。

私が思うのですが、
私が中学生だった40年前と現代では
中学校という人間関係は
ずいぶん様変わりしているように感じるのです。

子ども同士の厳しさみたいなものがあり、
許されないという雰囲気が強いようです。

あまり詳細には繰り返しませんが、
良い学校に入って、良い仕事について
解雇の心配と無年金の心配のない環境に入らなければならない
という切迫感を強く感じます。

良い学校に入るためには、
全教科で水準以上の成績を収めなければならない
学校生活で失敗することも許されない
という息苦しさを感じます。

そのため、子どもたち同士でも、
相手の些細な過ちや
求められる水準を満たさない事による中傷が
容赦なく行われます。

例えば部活動に出ないと
ラインなどで、どうして出てこないのだという
一斉攻撃が始まります。

顧問が、それを行うこともあります。

部活動は、
ブラック企業の非人間的な集団生活を送ることに備えるための
精神修業の場ではなく、
充実や、喜びや、楽しさのためにある
という考えは、はじめから無いようです。

このような子どもたちの過酷な攻撃に追い打ちをかけるのが
連帯責任を理由にする叱責です。

一人がいろいろな理由で共同行動できないことが
他の子どもたちが叱られる理由になるという
江戸時代でもめったになかったことを
平気で行ている学校もあります。

また、できないことはできないのに、
陰口をして、子ども同士が嘲笑するということも
今の学校ではあるようです。

「許されない環境」が学校にはあるようです。

ゴールデンウイーク中
家族の中で安心して生活していたお子さんが、
連休明けに学校に行きたくないということは
こういう環境を考慮に入れれば
むしろ当然のことかもしれません。

私たち大人は、
そういう嫌なことを何度も経験していますから、
お子さんの悩みの理由がそれほど深刻なものとは
感じられないということも仕方がありません。

しかし、経験したことの無い苦しみの強烈さというものは
なかなか思い出すことができないものです。
また、その行きたくない理由がなかなか改善できないならば
お子さんは、
将来的にこの苦しみから逃れられない
という長期的な絶望感を感じているかもしれません。

学校に行きたくないということは
文字通りよほどのことだと考えましょう。

特に、小学校などでいじめをされた経験がある場合、
また、あの時と同じ気持ちになるかもしれない
というとてつもないストレスを抱えている可能性もあります。

行きたくないという理由を親が理解できなくても
行くことが極度の苦痛であることはありうることです。

さて、親としては子どもが学校を休んだ以上
学校に行かないことに罪悪感を感じてもらいたいと思うかもしれません。
または、本当に頭がおかしくなってしまったのかしらと
大変ご心配されるかもしれません。

しかし、今、特に今日限定で頭に入れておいていただきたいことは、
子どもは、親から特別扱いされることをとても嫌がることです。
特にはれ物に触るような扱いが苦手です。
普通にいつも通り接してほしいということが本音です。

大事なことは、
「明日から行くんだよね」ということを
ダメ押ししないことです。
(これが一番心配ですが)
行くことを前提にいそいそと準備をする
という姿勢が良いみたいです。

もう、「今日は」仕方がないという割り切り
これが、問題を最小限度にとどめるコツのようです。

さて、今まで今日休んだあなたがこれを読んで
どう思ったでしょうか。
全然わかっていないという評価かも知れません。
しかし、
そういうこと親に言ってほしいという部分が少しでもあるなら、
もう少しだけ読み進めていただきたいのです。

それは、あなたが今日休むことを私は賛成する。
その理由についてです。
大きく言えば、
あなたが自分自身を大切にするために
今日休むことが必要だと思うからです。

親御さんにもそれを理解してもらいたいと思って書きました。
その上で、
もっと、もっと、より自分を大切にすることを提案したいのです。

それは変えなくてもよい所は変えないままでも
考え方を少しだけ変えるということです。

変えなくてもよいところは、
あなたが今日学校に行きたくない事情を
嫌だと思うことです。
それは無理に変えることはできません。

ちょっとだけ変えることをご提案することは、
その嫌な事情の中で、
「自分を責めない」ことです。

できないことはできなくてもよいのです。

誰かから、先生だったり、同級生だったりから
嫌な評価をされたところで出来ないものは仕方がありません。
そんなことができなくたって
日常生活に支障はないでしょう。

要するに、人間はそれぞれ、
向いていないことがある
という事実を覚えるということです。

それにもかかわらず。
さっきも言ったように、
今の学校教育の中には全部をできなければいけないという
人間工学的に非科学的な軍隊思想みたいなものがあって、
一人一人を苦しめています。

あたかもできないことが悪だというような感じです。
これは間違っています。

先生や嫌な同級生が否定評価をしても
あなたは、自分自身を否定してはいけません。
向いていないだけなのです。

覚えていていただきたいことは、
向いていない事なのに他人からやいのやいのと否定されると
いつしか、人間としてすべて否定されているような
そんな感覚に陥ってしまいます。
これは人間誰しもそうです。
あなただけではありません。

しかし、真実はそのことが向いていないだけです。
他の人が簡単にできることが
できないということはよくあります。
言われると私も嫌な気持ちになります。

でもできないことなんていくつもあります。
逆にあなたでなければできないことも
必ずあるんです。

例えば、誰か友達に
「私も嫌な気持ちになったんだよ
 あなただけではないよ」
ということを言えるのもあなただけです。

欠点や弱点が多い人の方が
他人の役に立つことが多いのです。
私はそういう人たちをたくさん見てきています。

あなたの人生には向いていることが必ずあります。
しかし、それはあなたが、自分自身を認めてあげないと
見えてこないことかもしれません。

嫌な環境かもしれませんが、
他人に左右されず、
自分の向いていることを見つけていくことが
人生の喜びです。

私は、50歳を過ぎて
ようやくそれがわかってきました。
まだまだチャンスは十分あります。

今日一日思い切り贅沢をしましょう。
向いていないことは、今日一日きりすてて
ちょっと苦手だけど、このことほどではないことで
比較的できるかもしれないと思えることに
取り組んでみましょう。


家族の中で気まずくなったら、
このブログを紹介して読んでもらってください。





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「楽しむ工夫を行う」という考え方 むしろ「それどころではない]人のために [自死(自殺)・不明死、葛藤]

私も人間ができていないというか、
いろいろなことで行き詰まり、
いろいろな人間関係で不愉快になったり
苦しんだりするわけです。

「心とは、対人関係の状態を反映した反応だ」
とか言って、それを承認ばかりしてしまう
自分の苦しみを放置してしまうという
過ちを犯しそうになることもあります。

過ちですね。

同級生でフェイスブックを始めた人がいて、
その人の記事で「自分をご機嫌にさせる」
というアイデアが突然目に飛び込んできました。

うつうつとしていた事情があったときだったので、
最初は、「おや?」と感じ、共感を覚えただけでしたが、
どうもずうっと引っかかっていて
やがて衝撃になっていきました。

ちょっと理屈っぽく説明しますね。

人間を含めて動物のテーマは、
「危険をいかに回避するか」ということにあると思います。
交感神経のシステムも、群れを作ることもみんな
そのために備わった特質だということができるでしょう。

要するに人間も他の動物と同じで、危険には敏感で
放っておいても危険、ネガティブなことは気づく
意識していなくても気づき、
ネガティブな気持ちになるようにできているわけです。

何か、偶然誰かが親切にしてくれたりという
そういうことが無い限り、
概ね不安を感じ易くなっている状態で、
不安を感じないときに無感情になるのが関の山なわけです。

私は、自分自身が、
まだ自分の理論を習得していないということがわかりました。

過労死も、いじめも、自死も
それを無くせばよいってものじゃない。
0を目指すのではなく、0の先のプラスを目指す
ということを震災以来他人には言ってきました。

自分自身の生き方にそれを当てはめていなかったのです。

これまでは、苦しさ、辛さなどの
ネガティブな感情を無くしたいと考えていましたが、
それはしょせん0を目指すという発想です。

その先のプラスを目指さなければ
0にだってならないということでした。
大事なことはプラスの感情を作るということだったのです。

同級生のようにご機嫌まではいかなくてもよいかな
と思うのですが、
「なんとなく楽しいな」
と感じる状態を増やすことはできるかな
と思えてきました。

こころは、対人関係の状態に対する反応ですから、
待っていても、楽しくはなりません。
人間は動物として危険に対して敏感ですから
放っておくと不安の種ばかりが生まれてしまう。

だから、
楽しもうとして工夫をすることが必要だったのです。

「人間は環境に働きかけて環境を変える動物だ」
ということでした。

楽しみは、もう何でもよいと思います。
今は仙台は桜が満開です。
好きな人は楽しめばよい。

歩くのが好きな人、自転車が好きな人
本を読むのが好きな人
仕事だってよいのかもしれません。

ただ、本当に苦しい時は、
そんなこともする気にはなりません。

愛する人を失った場合
家族と離別した場合、
そんなことをする気持ちにはなりません。

家族のように、その人にとって基盤となる群れは、
その構成員が一人でも欠けてしまえば
別の群れになってしまいます。
「その人と一緒にいる群れ」は無くなってしまうのですから、
自分自身を失うことになるわけです。
何もする気が無くなって当たり前です。

苦しいとき、悲しい時は
苦しむしかないでしょうし、
悲しむことが大切なのでしょう。

でも、
悲しみは抱えたままでも
何とかしたいと思うようになったら、
苦しさから抜け出したいと思ったら、
楽しむ工夫をしなければなりません。

愛する人を失ったという
究極の対人関係上の危機感から
ほんの少し抜け出すためには、
悲しみを無くそうとすることは間違いなのでしょう。

むしろ悲しみを抱えたまま、
愉しいと思うことをする工夫をするということなのでしょう。

もしあなたに小さな子供がいるならば、
クリスマスや誕生祝や
動物園や遊園地に行くというアイデアを持つ必要がありそうです。

子どもの笑顔を見て、
今回の記事の様に、
「子どもを楽しませることを忘れていた」
と言ってくださった方からの手紙をいただいたこともありました。
自分のこととして理解していなかったということになります。

その人は、愛する人を失って、
子どもと自分に障害があって
一人で子どもを育ててという
壮絶な生き方をしている人でした。

愛する人を失ったという
究極の対人関係上の危機感から
ほんの少し抜け出すためには、
対人関係の中で癒されることが特効薬だ
ということも理の必然でしょう

誰かのために行動をする
自分より弱い者のために行動をする。
これが正解だということになりそうです。

中原中也は
「春日狂想」という詩の中で
愛する者が死んだ時には
(私たち普通の人間は、
私から言わせてもらえば当たり前の人間は、)
「奉仕の気持ちになること」だと言っています。
これは、詩人独特の洞察力における真実を語っていると思います。

愉しくはしゃいだ気持ちになるということは、
特に私のような中年男性には難しいことですが、
「なんとなくいい感じ」を感じることはできますし
それで十分楽しい気持ちになれます。

それは意識しないとできません。
工夫しなければできないことかもしれません。
でもできるのです。

こつは、全面的に楽しくなることではなく、
「楽しい気持ちになる時間もあってもよい」ということです。
むしろ悲しみを捨てようとしないことが
大切なのかもしれません。

怒りは怒りのままでよい。
ただ、誰かに優しくなる時間もあってもよい。
誰かに感謝する時間があってもよい。
そういうことなのかもしれません。



special thank Ukkey
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慢性・持続性ストレスへの旅 2 セリエのストレス定義の「非特異的反応」とは何か [自死(自殺)・不明死、葛藤]

昨日のキャノンの文章は、文章も簡潔で
意図も論理も明確で大変読みやすかったです。
「からだの知恵」講談社教養文庫

一点セリエの文章は、おそらく書きながら
いろいろなことが問題点と来て浮かんできて
あれやこれや手当てしながら書いているような感じで、
読みやすいとは言えません。
「現代社会とストレス」叢書・ウニベルシタス

おそらく翻訳の問題もあるのでしょう。
当初の翻訳が昭和39年ということで
改定はしたものの難しい日本語が最初の内は続きます。

キャノンが文系のための理系の文章ならば
セリエは、理系のための文系の文章という感もあります。

でも、そのおかげでいろいろ面白いことも分かってきました。

ネットなどで、セリエの説いたストレスの定義が
「外部環境からの刺激によって起こる歪みに対する非特異的反応」
とされているようでして、
この「非特異的反応」ということがよくわかりませんでした。

特異的ということは、ネットの辞書では
「あるものだけにみられる質的な特殊さ」
と書いています。

特定の、あるいは定まったと考えると
訳が分からなくなります。

この点、セリエは、
もともとは医者を志しており、
言わる病人の良く見られる状態
熱とかだるさとか、しんどさとか
そういう一般的な症状に着目していたようです。

しかし、指導医は、一般的症状は取り上げず
病気特有の症状のみを探していた、
これにセリエは疑問を持ち、
一般的な症状とはどういうものだろう
ということに興味を持ち研究を続けたそうです。

そんなこと研究しても意味無いだろうという
という当時のまっとうなアドバイスも多くあったそうです。

この一般的に見られる症状が
どうやら「非特異的反応」のようです。

これはキャノンを引用する方がわかりやすいかもしれません。

キャノンとセリエは、同じ副腎でも
キャノンは副腎髄質、セリエは副腎皮質に着目しているようです。

何らかの危険因子を認識して交感神経が興奮すると
副腎髄質からアドレナリンが放出される。
アドレナリンはホルモンであるから、
血液に乗って、全身に行き渡ってしまう。

だから、必要が無くても
心拍数が増加し、血圧が増加し、体温が上昇し
血糖値が症状し、血液が筋肉に向かい、
血液が凝固しやすくなる
ということになるわけです。

フルコース反応が起きてしまう。

私の昨日ご紹介した拙文も
この延長線上に位置づけられるものです。

要するに体の反応はとても合理的にできているのですが、
ピンポイントで反応が起きるのではなく、
どしゃっとぶちまけるように起きてしまうので、
どうしても、過不足が出てきてしまう。

意味はあるのだけれど無駄な反応もあり、
あるいは過剰な反応とでもいいましょうか。
その副作用で、
新たな問題が生じてしまう。

これが過労死であり、
ストレス起因性、ストレス誘因性の精神疾患だ
と考えています。

対人関係的なストレスについては
セリエも本の後半で考察しているようなので、
とても楽しみです。


余計な話ですが、
セリエは、ストレスの定義について
いろいろな場所で、色々な定義をあげています。
ネットの定義がセリエの定義として良いのかについては
現段階(本の3分の1くらいの段階)では留保が必要なようです。

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慢性・持続性ストレスへの旅 1 キャノン 「生きる知恵」 対人関係のhomeostasis [自死(自殺)・不明死、葛藤]

先日、過労死弁護団の年に2回の会議に出席してきました。
その会議に向けての研究報告書が出されていて、
それによると、
現在の労災認定基準では、エピソード的な出来ごとが重視されるが
もっと有害なストレスがあり、それは慢性・持続性ストレスであるとし、
この解明が重要だというのです。

私は、最近はいじめの問題でこの論理を主張していたのですが、
さすがは過労死弁護団だと改めて敬意を表したくなりました。

私は平成27年6月に
「交感神経持続による反応群」という概念と対人関係的アプローチの提案
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/koukanjizokuhannougunn.pdf

という拙文を作成していますが、

改めて、勉強し直そうと思い、
先ずはキャノンから読み始めることにしました。
本当は、弁護団の報告書ではセリエの論文が紹介されていて、
それを入手しようとしたところ、
キャノンの本も、紹介されていたので、
ついでに買ったところ、先に来たので読み始めたということでした。

大変な驚きでした。
これまで、色々な文献やネットで引用していた物だけを見て
キャノンを認識していたのです。
だいたい20世紀前半の科学者ということなので、
正直ここまでとは思っていませんでした。

要するに、今から100年前に活躍した人なのですが、
既に体系ができていて、
それまでの研究を
homeostasis(訳者のルビでは、ホメオステーシス)
という観点からまとめた本が、
「からだの知恵 この不思議なはたらき 」(講談社学術文庫)
という本でした。

特に驚いたことは、
私のあちこちでお話しする三分の1くらいは
この本に書いていあることだったことです。

有害なものを認識すると
逃げるか戦うかという体の準備が起こり、
交感神経が活性化し、副腎髄質からホルモンが分泌され、
血圧が上昇し、脈拍が増加し、体温が上昇し、
瞳孔が広がり、血液が内臓から筋肉に向かう
さらには出血に備えて血液が凝固しやすくなる。
これは全部キャノンがこの本の中でも述べています。
さらにその仕組みについて解説しています。

さらに、さらに、
キャノンは、実際に攻撃行動や、逃亡行動に出る前に
このような反応が起きてしまうことを述べていて、
準備段階として反応が始まっている
ということも明確に述べています。

これで、おっかなびっくりいう必要はなく
「100年前にすでにキャノンも言っているとおり」
と科学的に述べることができるようになりました。

そうして、キャノンは、
こういう反応は、
体の状態を一定に保つための仕組みだ
=homeostasisということでくくっています。

今回の私のテーマもhomeostasisとストレスの関係だったので、
どんぴしゃりのことを約100年前にテーマとして本を書いている人がいたのでした。

気を取り直すと、
私のテーマは、身体生命の有害を覚知した場合ではなく、
対人関係的な有害を覚知した場合のストレス反応なのですが、
この点については、これからの課題のようです。
まだまだやりつくされているわけではないと。

結局、対人関係的な危機感、不安感も
homeostasisの観点から論じることが
有効なのではないかという
観点を獲得したことが大きな収穫です。

とにかく、キャノン先生とお呼びしたくなるような
上質の刺激をいただきました。

最後にマメ知識を一つ
鳥肌というか、さむイボというかありますよね。
あれは、人間に太い毛があったことの名残なのだそうです。
寒さ(身体に有害な事情)を感じると
交感神経が活性化され、
太い体毛や羽毛を逆立てて
皮膚近くに空気の膜を作り
体温の低下を防止していたそうです。

人間の体毛が薄くなったため、
毛を逆立てても空気の膜はできませんが、
その名残としてこのような反応だけ残ったそうです。

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職場のイライラから家族に攻撃的になりかけたときは、うつになりかけた時。メモ [自死(自殺)・不明死、葛藤]

職場での人間関係が職場で完結せずに、
イライラなどが家庭に持ち込まれることが多くあります。

ちょっと壮大なテーマですので、
メモとしてアップします。

今のところの研究段階での途中経過として、
職場の人間関係がなぜ最悪自死までいってしまうのか
考えるべき要素をあげます。

<考えるべき要素>

1 職場(取引関係相手)に無意識に期待すること

先ず、労働者にとって会社は、
嫌な上司たちだとしても
無意識に、「自分を守るべき組織」あるいは
「自分を守ってもらいたい人々」
だと感じているようです。

はじめっから敵だと思えば、
ある意味何を言われても不愉快な思いをするだけで、
家庭への影響や、自分の精神状態への影響が
それほどではないでしょう。

パワハラ被害の本質はどうやら
仲間だと思っている人からの攻撃
いわゆる後ろから鉄砲を撃たれる
という感覚になることのようです。

パワハラ事件に怒ってばかりいると
こういうことが見えなくなります。
被害者である労働者は、
自分を大事にしてもらいたいという要求があるところに
逆の対応をされるので辛いということがあるようです。

2 カウンター
少し続けますと、カウンターが成立してしまう条件があります。

いつもに増して、より庇ってもらいたい
気持ちを分かってもらいたいと言うときに
逆に攻撃を受けたり、庇ってもらえない時も
心理的負担が大きいようです。

例えば、会社の中で、同僚から暴力を受けたとか、
取引先からあまりにも理不尽な扱いを受けた
というような場合は
無意識に会社に守ってもらいたいという気持ちになっているようです。

ところが、事情が分かっても
逆に労働者の方が上司から攻められたり、
理不尽なことをなかったことにされているのに
何も会社からの援助が無かったりした場合、
かなりきつい心持になります。

関数曲線の様にきれいには対応しないでしょうが、
理不尽なトラブルに巻き込まれて援助を希求するという
事情が強ければ強いほど
上司の扱いがそれほどひどくなくても
期待する援助が強いものですから
些細なことで傷つきやすくなるという関係にありそうです。

理不尽なトラブルがあるのに
会社が労働者に理不尽な責任転嫁をすると
とんでもなく重大な心理負荷になるという関係にあるようです。

3 逃げられない関係(継続する関係)

会社を辞めるという発想にはなりにくいです。
どうも、無意識の意思決定では、
会社という継続的な人間関係は離脱できない
という発想に支配されるようです。

苦しいからと言って、
では会社を辞めようかという発想は
自然発生的には出てこないとみるべきです。

現状に対しての反応である感情は、
このように無意識に生じるものであり、
現場、特に対人関係を変化させるということは
きわめて意識的に、第三者から提案されないと
なかなか検討すらできないということです。

<職場のイライラの構造>
そもそも、上司から嫌味を言われたり
不公平な扱いを受けたり
理不尽な叱責をされると
どうしてイライラするのでしょう。
また、イライラするということは
どのような状態なのでしょう。


職場で、パワーハラスメントを受けたり、
理不尽な扱いを受けると、

継続的な関係であり運命共同体の様に職場を考えていることからは、
ただ、自分がないがしろにされている。
逃げ場所が無く、さらさrて攻撃を受けている
という感覚を持つようです。

逃げられない、逃げないということから
恐怖という感覚になりにくいということを
頭に入れてください。

危険が近づいてくるという認識がありながら、
それから逃げようとすることができないという感覚です。

また、上司に対してキレることがなかなかできない。
そんなことしたら解雇されてしまいますし、
上司に対して、キレても良いんだ
という感覚を持つことはなかなかできないようです。

そうすると、怒ることもできない。

総じて犬が嫌いな人が、
敵意を見せた犬が吠えながらじわじわ近づいてくる
しかし、足を縛られていて動けない。
そんな感覚でしょうか。

対人関係上の危険に対する反応も全く同じです。

自分が上司の様子を見て、
仲間から攻撃されている、
仲間として扱われず無視される、
仲間の中で格下のように扱われる

ということを感じた場合、
やはり、危機感を感じます。

この危機感を解消しようと思うわけです。
でも逃げることも闘うこともできない。
危機感を抱いたままの状態、不安な状態が
職場の外に持ち越されることになります。

危険意識、不安の解消ができないことが
人間にとって極めて有害な状態のようです。

危険が迫ってきたら、何とか危険を回避したい
その方法として逃げたい、あるいは闘いたい
これは人間に限らない生き物の本能です。

危険を感じて、危険を受け入れるということでは
命がいくつあっても足りません。
危険があることが嫌だ、解消したい
そのために逃げる、闘う
という流れになるようです。

通常は、危険を感じると
直ちに行動に出ますので、
意識されないポイントですが、

危険を感じることと
解消行動をすることには
厳密にはタイムラグがあるようです。

さて、
逃げることも闘うこともできない場合
解消できない危険の感覚、不安が持続します。

そうすると、かなり過敏な精神状態ということになります。

傷を負って出血した後の傷口のようなものです。
通常は、かゆいとも思わない些細な刺激が
飛び上がるほどの痛みに感じます。

このように危機感のアイドリング状態にあるときは、
この危機感の解消を求めていますが、
突如として危機感を解放することはできません。

会社の建物から出たとたんに走りだしたり、
誰彼構わずにけんかをするわけにはいきません。

ただ敏感になっていますから、
道で肩がぶつかっただけで、
自分は馬鹿にされているのではないだろうか、
この人は自分を攻撃しようとしているのではないかと
感じやすくなるわけです。

相手が怖そうな場合は、そうでもないですが、
弱そうで勝てるということになると、
それをきっかけとして
職場で作られたイライラもぶつけてしまう
ということになるようです。

例えば会社で作られたイライラが80ポイントだとして、
肩が触れたということが5ポイントだとしても、
イライラを解放する時は85ポイントがまとめてぶつけられるというわけです。

ただ、理性が無くなるわけではないので、
滅多に、道を歩いているだけの人に絡むということはありません。

帰宅して、
子どもの些細なしぐさ、失敗が(5ポイント程度)
自分を攻撃している、馬鹿にしていると感じてしまい、
85ポイントを子どもにぶつけてしまうのです。

まあ、そこまで行かなくても
いつもなら聞き流しているような小言に対しても
自分を守ろうという無意識の反応が起きてしまい、
どうでも良いことでも、
「自分を守るためにはいい加減に済ませられない」
というイライラモードになるようです。

家族に対してイライラしていたり、攻撃的になっていたりする
実はそれが職場でのイライラ度の方が多いという場合、
大切なことは怒っているということではなく、
危機感を抱いているということです。

この危機感は、家族に八つ当たりして一時的に解消したとしても、
原因は会社の中で次の出勤日を待っていますから、
会社に行けばまたイライラが復活します。

解決できないのです。
また、怒ることができないという時間が
限りなく積み重ねられていくだけです。

そうすると、慢性的な危機感の持続は、
自分の身を守ることができないという感覚になっていき
絶望感に様子を変えていきます。
生きる意欲が失われていき、
活動が鈍くなるし、将来的なことも予測できなくなっていきます。
生きるための活動が全般的に停止していきます。

つまり、うつ状態となるでしょう。

必要以上の怒りの感情は
うつの危険がある状態を表していると思います。

以下また、メモ
うつは自分で気づくことはなかなか難しい
八つ当たりをしている自分に気付くことはまだできるかもしれない。
そういう場合に、自分を支える発想

1 いざとなればイライラ異を与える人間関係をやめることができる
  という自己暗示をかけ続ける。
  逃げ道を意識的に作るということです。

2 自分の別の仲間に優しくする
  例えば職場でイライラしたならば
  思いっきり家族のために奉仕をする。

  自分が優しくなれば、家族も優しくしてくれる、喜んでくれる
  役割感を持つことがだいぶ効果的のようです。

  家族に助けを求められれば良いのでしょうが
  男性の場合も女性の場合も
  なかなか難しいようです。

  特別扱いされることで役割感の喪失を予想してしまい、
  また、自分が家族からも格下として扱われるのではないかという
  不安をもつようになるようです。
  家族には、普通の状態として接してもらいたい
  という意識があるようです。

3 結構有効なことは、
  他人を気にしない人をサンプルとしてみることです。
 
  メジャーリーグで4番打者だった新庄さんが、
  日本ハム時代に優勝パレードをした時、
  一人だけ冬ソナの格好をして参加して
  監督から怒られたという話をしていました。

  怒られて気にしませんでしたかという質問に
  笑顔で
  まったく気にしませんでした。
  と豪快にお話になったところをみて、
  だいぶ救われたということがありました。

  ああ、それでもよい人もいるんだということが
  なぜか気持ちを溶かしてもらった
  そんな感覚でした。

  いろいろな無意識のドグマから解放される有効な方法として
  実際にそのような発想の元生きている人を見るということは、
  自分では同じ行動をとることができなくても
  ほっとして心の窓が開かれて、光が差すような気持ちになれました。

  メモ代わりに





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