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人権は人間の権利ではないこと 人権という言葉は本当は適当ではなく、「人間としての当たり前」、あるいは「人間である権利」とするべきであること [事務所生活]

明日、某官庁の研修会で人権について語ってきます。
そこでは、人権は人間の権利だと説明して
わかりやすくお話しする予定だったのですが、

しかしこれはやはり不正確ではないかと
今日になって考えているのです。
権利というと、例えばお金を請求する権利や
サービスを受ける権利も権利で、
これは人権ではないと感覚的に思います。

普通の権利と人権としての権利と違うわけです。
しかし、同じ権利の権の字が使われているので、
普通の権利は、国によって実現するものという縛りがありますから、
どうしても人権とは、
国の認めたもの、六法に載っているもの、
裁判所が認めたもの
だから人権かそうではないかは知識が必要だと考えてしまう
その原因というか問題の所在があるように思われるのです。

いやここまで読む人もあまりいらっしゃらないほど
人権という言葉はかたすぎるのです。
もういいや移動しようと思っていることと思います。
賢明かもしれません。

しかし、英語などでは human rights
ですから、直訳すると人権なのです。

このライツが曲者で、
これを「権利」と訳したのは、何度か取り上げた西周なのでしょう。
しかし、このライツ、辞書で見ると
正義、筋道、正当等という語感があるということですから、
日本語的には、「理」という立派な言葉があったわけです。
だから、本来は、人権と訳さず、
「人理」という言葉を使えば良かったのです。
人権委員会ではなく、人理委員会
画数も少し減ります。

ただ、これもわかりにくいので、
正当というか、あるべき姿というか、当たり前
という言葉に置き換えて、
人権としては人間としての当たり前
と説明することが分かりやすくなるはずです。

例えば
「生まれながらの髪を黒く染めろ」という校則は
人権侵害だというよりも
人間としての当たり前を侵害している
という方が「ああそうだね」と
納得しやすいのではないでしょうか。

あるいは、
「それは人間性を害しているとまでは言えないと思うな」
と議論にはなるでしょう。

「人権侵害だ」、「・・・」、「人権侵害ではない」、「・・・」
というよりは
納得しながら議論できるとは思いませんか。

もう一つ、human rights なのですが、
これが rights of humanではないことに着目する
というのも一つの解決方法かもしれません。

つまり「人間の権利」という訳は間違いで、
「人間である権利」という訳が正当かもしれないということなのです。

そうするとですね、
生まれながらの髪の毛を黒く染めろといわれることは、
人間であることを否定された
いや人間であることまでは否定されていない
と議論になりますね。
つまり、人間としての当たり前がどこにあるか
という議論と同じになるように思うのです。

いずれにしてももやもやは残ります。
それは、「人間が人間として扱われること」
とはどういうことかという
一人一人の人間観に違いがあるからなのだと思います。

何が人間として扱われるべきことか
これは、人間として扱われていないという人の
話に耳を傾けて理解しようとしなければ
わからないことです。

権利が生まれる時は
当事者が声をあげて、それ多くの人が聞きいれる時だといわれるのは、
こう考えていくと論理的なのだと思いました。

お話しの予定のダイジェスト版は
対人関係学のページあります
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/moral.html
の中の
「差別を受けない権利 人権とは人間として当たり前の状態ということ 憲法14条」
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非難されている無罪の裁判官は実は正義漢 わかりやすいいじめのリアル構造 [事務所生活]

19歳の娘に同意なき性交を強要したとして
起訴された父親が無罪となり、
マスコミがこぞって無罪にした裁判官を非難しているようです。

SNSなんぞで裁判官批判をしている人たちもおおいようです。

一般の方々が疑問に思うのはもっともなのですが、
巨大マスコミも無条件で裁判官を批判し、
実名報道や直撃取材を面白おかしく行い、
識者としてそれに同調する人も出てきたということから、
この記事を書かざるを得ないと思いました。

先ず、無罪になったことについては、
致し方ないことです。
要するに子の父親を処罰する法律がなかった
ということです。

法律がなくても悪いから処罰しろ
というのが今のマスコミの論調になってしまいます。
しかし、特に刑事罰を科する時は
法律を厳格に考えなければなりません。

例えば、いわゆるDV法で保護命令という制度があります。
現在暴力を受けている配偶者が、
今後も身体生命に重大な危険を及ぼす暴力を受ける可能性がある場合は、
相手を自分に近づけさせない命令を出してもらう制度です。
この保護命令に反して近づいた場合は
6か月以下の懲役、100万円以下の罰金が課されます。

もし、悪いから罰せよということが裁判で通ったらどうなるでしょう。

典型的なケースとして、妻が会社の忘年会だからと自分の子が風邪をひいて寝込んでいるのに、夕方から出かけて行って、夫が会社を早退して子どもの看病をしていたのに、妻はなかなか帰ってこない。子どもの様子を知らせるラインを送っても返事もない。2時過ぎにようやく帰ってきて、玄関先でも誰かと電話をしている。夫は寝ないで看病していたので、怒り心頭に発して、玄関まで言って大声で怒鳴った。妻は、夫が邪魔で玄関に入れないので、夫を突き飛ばして中に入ったところ、酔っぱらってもいたのでよろけて床に膝をぶつけて、痣ができた。翌日夫が家に帰ってきたら妻は風邪の治りかけの子どもと一緒に身の回りのものをもって家を出て行って後だった。何日かして裁判所から、妻が保護命令を申し立てたと連絡が来た。それによると、妻は12月の寒空の中、夫から家から引きずり出されて、突き飛ばされて膝を打った。証拠の痣の写真と打撲の診断書がある。凍死の危険もあった。

これで、暴力を受けていて、命の重大な危険があるとして
保護命令が出され、
自宅近くを散歩することも禁止する。
そういうことが頻繁に起きることが許される事態に
なってしまいます。

色々論点がありますが、非道の父親の例では、
抗拒不能の要件が無いとという判決理由でした。
抗拒不能にした非道の父親の行為がなければならないと解することは
現在の法理論ではノーマルな法解釈なので、
無罪判決はありうる判断です。

ただ、この裁判官の真意はわかりませんが、
もしかしたら、法律がこの非道の父親を裁けないことに
憤りを感じてたと解釈できるのです。

では、ここからが本題です。

裁判官を批判する人たちは
どうして非道の父親の言語道断の行為を知っているのでしょう。
それは無罪判決に書いてあるからだと思います。
ここがポイントです。

無罪判決ならば、通常は、
抗拒不能だと認定したことを書けばよいのです。
ところが、
この判決では、父親の非道な行いが
赤裸々に詳細に記載されています。
確かに関連事実なので書いてはダメだというわけではないでしょうが、
書かなくてもよいことをあえて書いていた
というようにも感じられます。

刑事判決は公開の法廷で読み上げられますので
国民が判決の内容を知りうることになります。
裁判官の真意として考えられることの一つは、
この事件は無罪にするけれど
この男はここまでひどい男なのだということを
敢えて公にしようとした
と想像することができるのです。

実は、裁判官の怒りが感じられることなのです。

もう一つ、こんなに人倫に反する行為なのに
日本の法律ではこれを裁くことができない
ということを全国にアピールしたかったということも
考えられます。

裁判官を批判する人たちも
裁判官の書いた判決によって事態を把握したわけです。
裁判官の意図が私の言うようなものならば
裁判官の意図はある程度実現されたのではないでしょうか。

この非難されている裁判官は、
正義を実現しようとしていた可能性が高いと
私は思います。
裁判官として無罪判決を書き
人間として男を糾弾したのです。

一部では、性犯罪に甘い司法だという批判の一群の事件の中に
この判決を位置づける人たちもいますが、
明確に暴行や脅迫、地位を利用して薬物を飲ませて乱暴した
明確な行為者が不起訴になる事案とは全く異なるのです。

ここで、すべてを一緒くたにするマスコミや
マスコミに乗じてわれわれの正義感をあおるSNSが
何かを目的にわれわれの正義感を利用しているのではないかと
警戒することの必要性をわれわれに教えていると
思わなければなりません。

少なくとも裁判官を批判しているうちは
正当にこの人を裁く法律を作るか作らないか
という議論を妨げてしまうということはあるでしょう。

もう一つは、
法律を緩めて裁判所が
国民感情に依拠して
裁判所が自分勝手に国民を刑務所に送る道を開くことに
手を貸してしまうことにつながりかねないということです。

私たちの正義感が悪用されようとしている
ということに注意が必要だと思うのです。

そして、これは、いじめの構造そのものなのです。

誰かが、とてもかわいそうだという事情があります。
今回のケースでは娘さんです。
人間は、弱い者を守ろうとする本能があるとします。
また、その人の苦痛をそれぞれの人がそれぞれの人なりに
共感し、自分の苦痛として追体験をしています。

そうすると、娘を守ろうとする強い感情が起こります。
この強い感情は、一種の危機感です。
自分が安全な場所にいる場合は、
この危機感を解消しようとする行動は
怒りによる攻撃です。

本来怒りの先は、非道な父親か
非道な父親を裁く法律を作ってい無い国家に向けられるべきでしょう。

しかし、非道な父親は名前も分かりませんし、
無罪とされてしまった。
国家に問題があるとは気がついていない。
そうすると勢い、名前をさらされた裁判官に怒りが向かう。

こういう仕組みなのです。

本当は勇気をもって国民に対して告発した人に対して
ちょうどよい怒りの的になってしまい、
それをあおるマスコミやオピニオンリーダーがいるために
簡単に国民の正義感は
裁判官に対して怒りとなってしまうのです。

怒りはこのように、
本来向かうべきでない相手に向かわされるということが
よくあります。
戦争はこれを利用しなければ起こすことはできません。

憲法9条を守れとかいうならば信じられるとか
そういう単純な発想では理不尽な戦争が近づくばかりです。

この裁判官に対するいじめは誰がしているのでしょう。
この裁判官を叩いているマスコミやSNSをみた
法律関係者が沈黙を守ることもいじめだ
ということを言いたいのです。

法律関係者ならば誰しも
私が考えたことを考えているはずです。
そういう刑法解釈の訓練を受けているからです。

それでも沈黙を守っている。
敢えて裁判官をかばうことで
自分に攻撃を向けられることを嫌がっているのではないでしょうか。
それはよくわかります。

しかし、これほどの怒りの大合唱が
特定の一人に向かうことは
しかも理不尽に向かうことは
まぎれもないいじめですから、
誤解を解くべき人たちは誤解を解かなければならないと思います。

そうでなければいじめを見ている子どもたちと一緒だと思います。

発言を躊躇している自分の姿は
いじめを完成させる子どもたちの姿なのです。

私はいじめを無くしたいと考えているので、
自分にできることをしてみました。


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依頼者とコミュニケーションが取れない理由 カウンセリングの人間観と弁護士業務 [事務所生活]

私は、いつもは、
他の弁護士と共同しないで
一人で事件を担当します。

しかし、まれに
一人の被疑者と時間差で面会したり、
事務的な作業で同じ依頼者と
複数の弁護士で打ち合わせをすることがあります。

自分以外の弁護士が、
依頼者とどのように接しているかを知る貴重な機会です。

中には、被告人を軽蔑するような態度をとったり、
相談に来た人を説教したりして、
上から目線の弁護士がいることに
驚いたりします。

依頼者とコミュニケーションが取れないとか
依頼者が理解できないと
悩みを持つ人は大変良心的だということになります。
もしかすると
多くの弁護士は、そもそも
コミュニケーションを取ろうとか
理解しようとか
そんなことが必要だとも考えていないかもしれないからです。

人間ですから、
もちろん、理解しずらい相性の悪い人
という人がいてもおかしくありません。

また、弁護士のスタイルというのは
千差万別であるところが力でもあると思うので、
一概に良い悪いという二者択一的判断にはなじまないとも思います。

ただ、悩む弁護士の方に、
一つの解決方法のヒントをお話ししたいと思います。

私が何か特別なヒューマニズムの持ち主とか
人一倍謙虚な性格だ
というわけではありません。

いくつか理由のあるうちの一つは、
知識です。
人間とは何かという人間観についての「知識」なのです。

私がこれを学んだのは
平木典子先生の朝日選書「カウンセリングの話 増補」です。

司法試験に合格して、
法律以外の勉強に飢えていた時、
真っ先に購入して読んだ本です。

現在、3回目の読み直しをしているところです。

その都度ほとんど覚えておらず、新鮮な気持ちで読めるのですが、
ぼんやり覚えていたのが、
カウンセリングの前提としての人間観の記述でした。

P19 マクレーガーのXY理論
マクレーガーは人間信頼論にたちます。

人間信頼論とは
人間は本性的に働くことが好きであり、
遊びや休息と労働は同じものである。
人間はそもそも、成長したり創造したり働いたりする意欲が備わっている存在で、
その意欲が自然に発揮できるような状況に人間を置くことが大切だと考える。
という風に考えるそうです。

マクレガーの師匠がマズローという人で、

P21 マズローの人間観
人間は生まれながらにして
より成長しよう
自分の持てるものを最高に発揮しようと
動機付けを持つ存在である
という人間観を持ち、

欲求の五段階説というものを唱えています。

⑤ 自己実現の要求 可能性の実現、使命の達成
④ 承認の要求   人から尊敬されたい、自尊心を持ちたい。   
③ 所属と愛の欲求 集団に所属したい。友情を分かち合いたい。
② 安全の欲求   保護されたい。雨風をしのぎたい
① 生理的欲求   性欲。飢え、渇きを満たしたい。


①が満たされて②の要求が出てきて、
①と②が満たされて③の要求が出てくる
というのです。

但し、対人関係学では、この関係は
そのような段階を踏むものではなく、
また、大きく、身体生命の要求と対人関係的要求は
次元を異にするもので併存するものだと考えるので、

身体生命の安全とは        
動物としての欲求        
生理的な欲求、食欲、
性欲、睡眠欲、その他、     
身体生命の危険を回避する欲求  

対人関係的な安全                
人間としての要求                
集団に尊重されて帰属したい
尊敬される、自己実現などは手段的な要求
自尊心、友情は結果的な要求

ということになり、
自分の身体の安全を顧みずに
対人関係的要求に基づく行為に出ることがある
と説明するのです。

違いはあるのですが、
マズローの五段階欲求の
概念がある意味前提となったり論だということに
気が付きました。

それはさておき、
弁護士業務にとっての一番大事な人間観は
ロジャースのものです。

P36
ロジャーズ 来談者中心療法
従来行われてきたカウンセリングは、
指示的なカウンセリングではないか。
つまり、カウンセラーが中心で、
「ああせよ」「こうせよ」と指示する傾向の強いカウンセリングではないかと批判し、
自分のカウンセリングは非指示的―後に来談者中心に改められる━で、
クライエントの成長の力を信じ、
その力と決断力を中心に進めるカウンセリングであると主張したのである。

クライエントというのは、
実は問題の所在を知っているものだということに気づいた。
あれこれアドバイスはしていたが、
カウンセラーが考えているよりもはるかに深い問題を、
クライエントは知っていたのだ。

クライエントは本来問題を知っているのだ。
しかも問題をどう解決し、
どのように生きていこうかということを真剣に考え、
自分の中ではぐくんでいるのは、実はクライエント本人何度だ。

P40
カウンセラーは、
クライエントが本来持っている力を発揮できない障害や負担を
取り除く援助をする。

カウンセラーとクライエントは人間として同等のところにいる。

カウンセリングの援助は、
どちらかというとともに歩むという考え方が基本になる。
知識や技術を一方的に押し付けるのではなく、
むしろ相手の力の方を頼りにしながら、
一緒に歩んでいく存在なのである。

1年くらい前に、
人を支援する方法ということをこのブログに書いて、
さも自分が発見したように述べていましたが、
ロジャースの編み出した療法として
確立していた物でありました。

但し、私は、この論述を忘れていたのであり、
オープンダイアローグの手法の根幹がここにあると
そういう分析から考えついたと思っていたのですが、
やはり、記憶の基本的なとこに
覚えていたからこそ分析できたのでしょう。

少し結論めいたことを言って終わりましょう。

①これらの人間の根底にあることは、
人間はよりよく生きられればよりよくいきたいと
そういう方向性を持った動物であるということ。

②犯罪や破産や離婚等の社会的病理は、
よりよく生きられない何らかの障壁があったということであること。
即ち必ず理由があるということ。

③弁護士や、その他の支援をする人たちの任務は
その障壁を取り除く手伝いをすること
そのための専門的な知識と技術を用いるのだということ

④その障壁は、通常語られない
弁護士の予備知識には入っていない
従って、クライアント本人が
それに気が付いて、克服する方法を見出し、
克服する作業を行わなければならないこと、

⑤つまり弁護士は、
クライアントにあれこれ指図をして
あるいはクライアントから離れて仕事をするのではなく、
クライアントと
人間的な意味である生きる意欲を回復するために
共同作業をする仲間のプロなのだ
ということです。

間違っても、
「犯罪をするような人」の属性があるわけではなく、
犯罪に至る本人以外の環境などの理由がある
ということだと思います。

属性で犯罪するのであれば
有効な弁護はできないと確信しています。

弁護士は偉そうにしていたので、
仲間になることはできません。
それでは、クライアントの潜在能力が発揮できません。

例えばその人を弁護するという仕事であれば、
その人から学ばなければ、
出発点に立つこともできないわけです。

さて、
そもそも根幹である
「人間は生まれながらにして
 より成長しよう
 自分の持てるものを最高に発揮しようと
 動機付けを持つ存在である」
ということが正しいのかどうか
きれいごとではないか
という疑問が残っている方もいらっしゃるでしょう。

これは、対人関係学的に言えば
疑いを持つほどの話でもない
ということになります。

つまり、
①動物である以上、個体は「生きようとする」
②人間である以上、個体は、「群れから尊重されながら生きようとする」
つまり、「群れから排除されないように生きようとする」
ということですね。
そして、
③群れにとどまるためには、
群れに必要とされるために
自分がより成長して群れからより尊重されなければならない
より自分の持てる力を発揮しようとする。
これは当たり前だということになります。

即ち、人間が成長や高度の能力を身につけようとする存在だということは
きれい事というよりは
どちらかという強迫観念に近いもの
であるとする方が近いと思います。

これがゆきすぎて無理をする環境となると
過労死が起こるわけです。

カウンセリングの人間観から
対人関係学の人間観を説明しました。




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特攻隊員は、どうして任務を拒否したり、反乱を起こさなかったのか。日本の民族的特質からの検討 [事務所生活]



特攻隊員が、概ね、自分の意思で死地に赴いたと
主張する人たちがいます。

その根拠として、
もし、特攻隊の任務がその意思に反していたのならば、
拒否したり、反乱したりしていただろう、
そういう話はそれほどないので、
意思に反していなかった
という論法をたてています。

これは誤りです。

明治維新以来の富国強兵政策や
天皇を頂点とした国家主義という
国民の価値観の構築政策
それに反する主義、思想、宗教の徹底的な排斥
等という系統的な長期にわたる思考改造政策
価値観の創設という事業については
私でなくても誰かがお話しているでしょう。

軍隊の上官の言葉は、天皇陛下の言葉と同じくらい
異を唱えるべきものではないという意識が植え付けられた
という軍隊のイデオロギーについても
私以上に語るべき人がいるでしょう。

ましてや、特攻攻撃は、
陸軍の上層部で決定されたことであり、
天皇陛下が決めたことだと思っているのだから、
それに反対するということが
兵士たちにとって、あり得ないことであることも
私なんぞが言う話ではないでしょう。

では、私が何を言うかというと
日本人の秩序維持志向という観点です。

江戸時代において、
即ち明治維新という文明に毒されていない時代において、
日本人は、秩序を重んじ、
自己中心的な行動を戒めていた
ということが報告されています。

ヒュースケンの「日本日記」
モースの「日本その日その日」
その他、幕末から維新直後にかけて
来日した外国人たちが、
こぞって日本人の秩序を重んじる傾向が
一般庶民においても浸透している
ということを報告しています。

自国民ならば、こんな時、
収集がつかないくらいに混乱した状況になるだろう
と述べています。

私は日本人として、
このような国、国民に誇りを持っています。
私の愛国心の源があるわけです。

さて、このような国民性は、
明治維新以降の西洋文明によって
厳しく批判されるようになります。
ヒステリックに、
個人の尊重と秩序の尊重が対立させられ、
個人の尊重に重きを置かれるようになっています。

しかし、どんな「文明」をもってしても、
日本人の仲間を思いやり、
自分が一歩退くという美風は
なかなか消えるものではなかったと思います。
大分弱まっているとはいえ、
現代にも続いているところです。

西洋文明の影響を色濃く受けた人たちは、
秩序を重んじるという性質は、
長いものに撒かれろとか
権力に迎合する弱さだというかもしれません。

もしかするとそのような側面もあるのかもしれません。

しかし、仲間としてまとまることによって得られる利益があるから
仲間としてまとまる気風が生まれて、根付いたのだ
という考えもあり得ると思います。

また、本来、日本では、
上に立つべき人が上に立ち、
誤りが起こりにくい仕組みを作っていたとは考えられないでしょうか。

もちろん完璧な歴史というものはありませんから
いろいろとはみ出しながら
その根本が目指されたのだと思います。

この点、江戸時代の後半に
上に立つべき人ではない人が上に立ち
幕府を弱体化したという解釈がなされることがあります。
しかし、明治維新は江戸幕府の体制を否定する宿命がありますから、
歴史の評価は慎重に行う必要があります。

例えば日米和親条約や、修好通商条約などは
屈辱的な条約ですが、
幕府の外交の稚拙さからくるものだと
そういう批判があるように思いますが、

実際に、当時の列強の圧力から
国体を維持した外交努力と技術は
特筆されるべき出来事だという評価も
一方であることを知っていただきたいと思います。

秩序を維持する志向というのは
例えば教科書を作って、
それに全国民を習わせるというものではなく、
日本人の心の中に継承されているものです。

その仕組みというものが必ずありますから
分析していくのも面白い歴史の勉強かもしれません。

秩序という言葉は、
一般的な(平時の)生活だけでなく、
特別な出来事(有事の)行動の原理とか
幅広く使われています。

特に有事の際には、
出来事を検証している時間的余裕がないので、
自分の役割を瞬時に判断して
秩序を守る行動をすることになります。

日本人的な秩序維持のしくみは、
自分の意見を後景におしやって、
上に立つべき人を探したり、
自分を劣後させて他人に席を譲る形で
穏当な状態を保つという所にあります。

リーダー的な役割を担うべき人がいたら従い、
いなかった場合は、
強い者が譲っていくということです。
徹底した平等原理を、自分と相手に求めていきます。

東日本大震災の時に
世界が驚嘆した秩序維持は、
このようにして行われたと体験してみて思います。
日本人の心が現代にも受け継がれていたことになります。

もっとも、それを受け継いだ日本人は、
血縁的日本人だけではなく、
日本に住んでいた者ということになるでしょう。
それが震災の真実です。

意思に反して、
わずかの食料を買うために
長時間行列を作って待っていたとしても
反乱をする人や暴動を起こす人はいませんでした。

この日本人の心情を悪用したのが
明治維新と大日本帝国です。
その根源は「文明」にあると私はにらんでいます。

特攻隊が編成された当時
上に立つべき人の究極的な存在が天皇陛下でした。
自分の命が奪われるとしても、
逃げる場所がないこともありますが、
秩序を重んじる国民性は、
特攻隊員になることは自分の意思に反するという
そんな理由で
反乱を起こしたり、暴動をしたりということは
ありえないことだったのです。

この気持ちの継承は
東日本大震災だけではなく
われわれの身近にあることです。

例えば警察官が、
平成25年12月の通達に反して、
夫の妻に対する身体的暴力が無い場合にも
夫の行動の自由を奪い、
家庭に入ってきて、
夫を任意出頭という形で事実上拘束し、
やってもいない暴力を
将来的にしないという誓約書を書かせたりしています。
妻から暴力の訴えが無くてもしているところです。

これに対して、よほど豪胆な人でなければ、
警察の要請する任意出頭を拒否できないし、
誓約書の作成を拒否することもできない人が普通でしょう。

これは警察官が怖いということだけが理由ではないはずです。
警察官という仕事の内容を理解して、
警察官の指示には従うべきだという
秩序維持の感覚が、
やってもいないことを前提とした
権力の行使に反発をしながらも
理不尽を感じながらも
意思に反する誓約書を書かされながら、
自分の利益を後景に押しやり
抵抗しないのではないでしょうか。

抵抗しないというよりも
抵抗できない心理に初めからなっているわけです。

他国の国民ならいざ知らず、
日本人が反乱や抵抗を起こしにくい民族だということを
知らない人、理解できない人が
日本に多く住むようになってきたことに驚いている次第です。

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四谷用水 天空を流れるもう一本の広瀬川 道徳は意識的に作り、維持するもの [事務所生活]

大雑把に言って1600年頃
(今から400年以上前のこと)

伊達政宗は、それまで
宮城県の北西部岩出山という所に城を構えていた。
一説によると、当初は石巻に進出したかったようだ。
海路を重視していたことは、
後に支倉常長をローマに派遣していることからもわかる。
石巻港から世界に向かいたかったようだ。

当時すでに徳川家康が実権を握っていたらしく、
城を移動するにも
家康の事実上の許可が必要だったようだ。
政宗は戦略を立てた。

最初から石巻に移ると言ったら
家康は反対するだろう
広大な平地があり、交通の要所である
仙台に移ると言えば反対されるだろうから、
「仕方なく」石巻に移れるだろう
と目論んだ。

ところが家康は仙台での築城を許可したために、
「仕方なく」仙台に城を構えることになったという説だ。

確かに政宗は「困ったこと」になったと悩んだはずだ。

仙台平野は確かに広大だが、
当時は広大な荒地、不毛の土地だった。
当時から広瀬川はあったのだが、
今の仙台の中心部から
標高約30mも下を流れているため、
仙台の中心部では水利が悪すぎたからだ。

杜の都とは程遠い状態だったようだ。

雨が降らなければたちまち干上がる土地が
仙台の中心部だった。

政宗は、水路を作り、
広瀬川上流から水路に水を流し、
街に水を供給しようとした。
これが四谷用水である。

四谷用水.jpg

(仙台市ホームページ 四谷用水再発見事業より)

仙台中心部に碁盤の目のように水路が張り巡らされ、
水路から水を得ることができただけでなく、
自然浸透によって、
この水は地下を流れ
街のあちらこちらで、地中浅いところで
井戸水が湧くという効果もあった。

つい最近まで、中心部の繁華街で、
この地下水で水割りを飲ませるカウンターバーがあった。
軟水で、滑らかな口当たりの水のために、
ピート香の少ないながらも
独特の緊張感のある日本のウイスキーに
相性が抜群によかった。
それは余計なことだけど。

水路の最初の地点である水取口は、
川の流れを一部せき止めて
水が水路に向かうように工夫されている。
この堰が地名をとって四谷堰であったので、
四谷用水と呼ばれている。

その場に行くとおそらく感じる人も多いと思うが、
水取口まで行くのは、
崖をだいぶ下っていかなければならないので、
「ずいぶん低いところにあるなあ」ということだ。

四谷用水の流れる原理は、
位置エネルギーを運動エネルギーに帰ることだけ、
要するに、高いところから低いところに
水が勝手に流れていくだけのことである。

そうすると、町中のどの部分よりも
水取口が高いところになければならない。
(かなり当たり前のことを言っています。)

四谷取水.jpg

第一の驚きは、
「どうして、この川のこの地点の標高が、
 町中の地面の標高よりも高いということが
わかったのだろう。」
ということである。

何を基準として標高を測定したのか
皆目見当がつかない。
1600年頃の測量技術の先進性に
ただただ敬服するしかない。

次に、取水口から水が流れていくのだが、
徐々に徐々に下に流さないと
途中で逆流したり、
町中でかなり掘り下げないと
水が流れなくなってしまう。

しかし、普通の小川のように
自然の流れを確保するように
滑らかに傾斜して水路が設置してある。
(100mで3.5m下がる勾配になっている)
この測量技術と土木技術も
私には驚嘆するしかない。

その上、途中隧道になっているのだ。
(トンネルね。)
電気も計算機も何もない時代に
曲がりくねった水路を
地形に合わせて作っていったのである。

実際の四谷用水は
完成まで長い年月を要したのだが、
本流を通したのは1600年頃。
伊達政宗の命を授かったのは
北上川の治水工事で有名な川村孫兵衛。

この人はもともと毛利藩の人らしいが、
関ヶ原の戦いで伊達政宗が見出し
仙台に引っ張ってきたようだ。
伊達政宗は、出兵するたびに
いろいろなものを持ち帰る趣味、特技があったようだ。

伊達政宗の海外進出の野望と併せて考えると、
おそらく川村らは、
海外の知識を身につけていたのではないかと
考えるべきではないかと思われる。

元々の和算の素養があって
その素養をもとに蘭学を吸収していたのだと思う。

伊達政宗は、海外の物品を輸入するよりも
科学を輸入して国を治めたかったのではないかと
勝手に考えているところである。

四谷用水は、そのような測量技術、土木技術の
最高水準によって作られたのだが、

それだけではなく、
伊達政宗は
関西や東海から石切り職人をはじめとして
職人や商人を集めてきて
居住地を確保して街を形成していった。

何もない荒地から
水道設備の敷設を中心として
人も集め、
都市計画を進めていったことになる。

杜の都は
景観も人間も
後に人為的に作られたものだということも
とても面白い。

四谷用水は、
都市を流れる清流だった。
氾濫の恐れのない穏やかな水路は、
水を供給するという実利だけでなく、
水辺の近くに住む者の
心の安らぎを確保したものと思われる。

寄せ集めの都市住人たちの
共通の心のふるさとの形成に
大いに役立ったのではないかと思われる。

さて、実はここからが本題なのだが、
この清流は、廃藩置県によって失われたとされている。
水が汚くなったのだ。
場所によっては、昭和の時代でも
流れ自体は残っていたのだが、
まさか。それを飲んでいた人はいないだろう
というくらい、清流とは程遠かった。

その後自動車などが近くを通るようになり、
きれいでもない用水は
住民の邪魔者となってしまい、
蓋をされるようになり、
埋められて跡形もなくなったりした。
今は、産業用水として一部残っているほかは
意味不明の里道として
名残をとどめているだけである。

おっぺシャン前.jpg

いわゆる赤道として処理されていたため、
売買の対象とならず、
区画整理も行き届かないこともあり、
また、戦火から逃れたところということもあって、
マンションの陰に行き先のない道として残っている。

東北大学病院の敷地に
わずかに用水の跡があり、
開放式の水路跡の先に
地下隧道の入り口を見ることができる。

支倉堀トンネル.jpg

さて、ここから読み取れることは、
江戸時代は、水の水質を
意識的に確保していたということだ。

廃藩置県によってその意識が失われてしまったので、
水質が悪化したということなのではないかという視点である。

四谷用水の水質を確保していた工夫と考えられることがある。

取水口は都市部ではなく、山間部であるが、
都市部に入るあたりから神社や寺が
水路の近辺に存在していることが今でもわかる。


私が知っているだけでも、
大崎八幡神社、龍寶寺、
春日神社、瀬田谷神社、そして
街の入り口にある林宅寺がある。

当時の神社や寺は、
文字通り、人気のないところに建てられていたから、
その近辺を流れる水路の水は、
神聖なものだという意識付けがなされたのではないかと
想像している。
水を汚すということは、天罰や仏罰にふさわしい行為
だという意識付けがなされていたはずだ。
人々は、水そのものに敬意を払っただろう。

街に入ると、本流の両端には
足軽より身分の高い武士の家が連なっていた。
本流の水質を確保することが肝要であるから、
そのように統制がとれた集団によって、
水質を確保するべく、監視をしていたのだと思う。

神頼みだけでなく、
武力を背景として水質を確保していたことになる。
権威というものが、水質の確保という実利につながっていたので、
町民も権威に素直に従ったのだと思う。

そうして、水質を確保しながら
年に2回川底の掃除を、町中総出で行ったらしい。
この共同行動によって自分たちが水路の水質を確保する
という動機づけになったのだろう。

当時は、迷信などもあったのだと思うけれど
肝心なことは、どうしてその言いつけを守る必要があるか
どうしてこの人の言うことに従わなければならないのか
ということが目に見えてわかったことだったのだと思う。

そうして、上に立つ武士も
自分が逸脱行為をすることで、
失われる実利や秩序が乱れるということを
常に意識して、自らを正していたのだろう。

その為に武士がなすべき行為は、おそらく膨大にあり、
それらをこなしてこそ
自分たちが存在する意義があるということを
ある程度は自覚していたはずだ。



伊達政宗は、不毛の荒れ地仙台に
四谷用水を通した。
それによって町に緑が栄え
杜の都となった。

そこで作られたものは、ただ水を流すという
測量技術や土木技術だけでなく、
清流をそれぞれの持ち場で
自分たちが大切にしていくという意識づくりであり、
それは、武士と町民との垣根を作らない
ふるさとづくりだった。

肝心なことは、
「水をきれいに保て」
と命令することではなく、
きれいにしたいという
心を作り上げたということなのだと思う。

自閉症の優位性から見た現代の日本社会、企業が停滞している原因 「自閉症の世界」ブルーバックス感想文5 [事務所生活]

自閉症ばかりをとりあげていると、
どうやら本当にキリがなくなりそうなので、
中間まとめをして、離れることとします。

<自閉症の優位性1 理解できないことは行動原理にならない。>

例えば、いわゆる普通の人は、
「空気を読む」ということをして、
大勢の意見に従って行動をすることができます。
自分はよく理解できていないのに、
みんながこうだからと言って「右ならえ」ができるのです。

自閉症の人も「空気を読む」ことはできるようなのですが、
それに従うことができないということが多いようです。
分からなくても「とりあえず協調」することができない
協調を拒否する閾値が低いともいえるでしょうし、
協調の閾値が高いともいえるでしょう。

こういう人がふさわしい職業としては、
法律家、特に裁判官ということになるようです。
事件の本質を見て、納得のゆく判断をする
決して事件とは関係のない
上司の考えとか、出世とか
内閣の意向とかを関係なく判断をするのは、
空気を読まない人がふさわしいと思います。

物理、化学、数学などの研究も
見返りを求めるとどうしても、真理から遠ざかるので、
自閉症の傾向のある人がうってつけということになります。

実は、江戸時代までに日本でも和算という学問があり、
例えば三角形や四角形の中に納まる複数の円の直径の算出を
漢数字で計算して、
問題が解けたということで、
絵馬に書いて神社に奉納していたそうです。
世間の評価や物質的な見返りのためにしていたのではなく、
真理の探求だけが目的だったということになります。
まさに神にわかってもらえばそれで十分
という神との対話に喜びを得ていたのかもしれません。

和算は、中には棚田(たなだ)の設計が三角関数の理解を前提としていたといわれるように、
実務に応用していた節もあるようです。

電化製品や自動車など、
人が思いつかない発明をするのも、
見返りを求める体制で行っているのであれば、
単なる偶然を待っていることと同じだと思います。

今の日本が、江戸時代と比べても
そういった独創性に乏しく、経済が苦戦しているのも、
無駄に上司に協調することを求め過ぎた結果ではないか
というのは言い過ぎなのでしょうか。

そして、昔は、いわゆる普通の人が理解できない人も
「変わり者」という社会の中にポジションがあった
という側面もあるように思うのですが、どうでしょう。

考えてみれば、江戸時代の職人の
徒弟制度というのは、
まさに自閉症者が、
一人の人格主体として尊重されるためには
極めて有効な制度だったのかもしれません。

いずれにしても現代日本は、
それまでの歴史の中で重用されていた自閉症傾向のある人を
社会や企業が受け入れなくなった、
重要視しなくなったのではないか
それが衰退の原因であり、
これを是正しなければ、復活はあり得ないのではないか
とにらんでいるところです。

そういう意味ではこのブログも自閉症的だと
胸を張って言いたいところです。


<自閉症の優位性2 見過ごさない>

これは自閉症の人がみんなそうだというのは少し酷でして
処理能力が突出して長けた人ということになります。

自閉症の人は、感じたままに音、映像を認識します。
これまでも言ってきましたので、
ざっくりと言いますと。

いわゆる普通の人たちは、
音にしても意識しないで、要、不要を区別し、
不要な音を意識の外に追いやってしまうのです。
自閉症の人は、
すべてが聞こえてしまうので、
肝心の話し相手の声が相対的に聞こえにくくなる
ということらしいのです。

映像も、スーパーなんかも色の洪水になってしまって、
すべてを意識せざるを得なくなっているようです。

ここで、「感覚」についての補足ですが、
なぜ感覚があるかというと、主として
危険を察知して、危険を回避するためにあるわけです。

いわゆる普通の人が、神経を集中するべきか否かを
無意識に判断しているのは、
その他の音は、危険が無い(対応する必要が無い)と
無意識に判断していることになります。
でもそれが本当に正しいのか、対応する必要が無いのか
については、実際はよくわかりません。
むしろ、相手との話に夢中であったばかりに
危険に気が付かなかったということを
思い当たる人もいらっしゃると思います。

あまりにも多くの音が聞こえてしまうので、
すべてに意識を向けなければならないので、
かなり疲れてしまうことなのですが、
中には超人的な人がいて、
すべての音を聞き分ける人もいるとすれば
例えば聖徳太子ということでしょうね。

聖徳太子のエピソードから逆に考えてみれば、
一度にたくさんの音が聞こえてしまうということは、
複数の人から同時に話しかけられて、
回答をしなければならない状態というと
わかりやすいかもしれません。

聖徳太子なら良いでしょうが。

もう一段階脱線すると、
これらの音がすべて聞こえても、
それをありのままに受け止めて、
いちいち反応をしない、
危険対応という感覚の機能を
意識的に放棄するということが
「禅」ということになるかもしれません。
体を「無意識」=人体という生理的メカニズムに解放してあげるということかもしれません。

もちろん、もしかしたらということですが。


意識の外におかないということで
ふさわしい職業が、点検ということになります。
精密機械の最終点検ということもあるのですが、
会計もそのひとつかもしれません。


もし、同時多発的な感覚があっても、
それを処理することができれば、
侵襲に気が付きやすいということにもなるのかも
しれません。


自閉症の優位性の小まとめ

価値観の問題ですが、
自閉症傾向のある人だけだと、
組織ががたがたといびつな動き方をするのかもしれません。
簡単に言うと生産性というかスピード感が阻害される
というデメリットがあるでしょう。

ただ、生産性やスピード感だけが正しいこととして
重視され過ぎてはいないでしょうか。

わかりやすく(と思うのですが)たとえ話をすると、
「東京から盛岡まで移動する。」という場合、
早く盛岡に到達することに価値を置くなら新幹線に乗っていく
ということが正しいわけです。

しかし、
桜の開花状況を確認しながら行くとか
地酒の違いを鑑賞する
方言の違いを聴き比べてみる
というのであれば、
各駅停車で行くとか、路線バスの旅が正しいわけです。

どこかの企業や社会の現段階が
「既定路線を維持するだけで、
これから数十年間安泰が約束されている」
というのならば新幹線で行けばよいですが、
そんな企業なんて一つもないと思います。

新幹線と各駅停車を併用する
ということが、
今の世の中求められているはずなのです。

極めて精緻な仕事をしたり、
独創的なアイデアを出したりするためには、
自閉症傾向のある人を採用したり、
敢えて自閉症傾向のスタイルにする必要があり、
そのためのデメリットに目をつぶるということが
どうしても必要だと思います。

メリットデメリットを
いかに要領よく組み合わせるかということが肝要です。

適材適所ということですね。

現代は、
歩留まりを極力減らす、経費を減らす
という内向きの戦略が流行しているようです。

上に立つ人が、自分の地位に自信がなく、
汲々(きゅうきゅう)としている場合、
自分の理解の範囲内で組織が動くことを求めてしまうようです。
その結果、組織全体が平板化して、
悪く言えば、クローンばかりになってしまう。
個性をなくすことをしているくせに
今の若い者は個性がないなんて笑えないことを
言っている人もいるかもしれません。

何よりも、クローンの一番のデメリットは
一つだめになれば、
あっという間に全体がだめになってしまう
という恐ろしいことになることです。

もしかしたら、保険の掛け金を惜しんでかけないで
後は野となれ山となれという状態なのかもしれません。



性的役割分担を主張し、男も女も生産効率に寄与することで人間の価値を統一するべきだという奇妙な一部のフェミニズムについての考察 [事務所生活]

日本には、世界的視点、歴史的視点に立つと
とても独特なフェミニズムの一派があります。
ごく一部の人たちですが、

この一派の家庭に対する考え方と
雇用問題に対する考えかたを見てゆきましょう。

<家庭に関する考え方>

第1に、性による役割分担をするべきだと
強行に主張します。
具体的には、
離婚に際して、
子どもは母親だけが育てるべきだと主張します。

できるだけ父親の情緒的関与を排斥することを
主張し、実践します。
特に離婚後の父親は、
子どもと情緒的なかかわりをするべきではなく、
就労して金銭収入をあげて、
金銭的にのみ子育てに関与するべきだと
主張します。

まさに男性が就労し、女性は育児を行う
という主張を現在でも貫いています。
一貫しています。

第2は、女性という性は
国家による手厚い保護を受けなければならない
という主張です。
法令では、身体的暴力や
極端な脅迫の場合にのみ
警察権力が家庭に入ることができるとされていますが、
妻が夫の言論による不快な思いをした場合は、
法令に反してでも
直ちに警察権力は私人間の活動に介入するべきだ
と主張しています。

女性はとても弱く、
男性の暴力のみならず、
言葉によっても傷つきやすいので、
女性の主張は必ず認められなければならず、
男性が女性の意見を否定的に表する場合は、
警察権力を介入させて女性を保護するべきだとしています。

第3は、女性は、思考能力的に劣っていると考えています。
支離滅裂な話であっても、
それは男性の支配によるものであるとして、
女性の話を疑うということは許されないと主張しています。
女性とはそういう性だという主張なのでしょうか。

それに比べて男性は、狡猾で論理的な話を組み立てる能力があるから、
男性の話を信用してはならないとしています。
男性と女性の主張が食い違う場合、
主張の論理を吟味してはならず、
女性の話を信用しなければ差別者だとされています。

「理解が足りない」、「寄り添っていない」
という烙印を押されないように一派の人間は
細心の注意を自分に繰り返し言い聞かせるそうです。

第4は、女性は自己決定が許されません。
一度一派の保護を受けると、
必ず、離婚調停を申し立てなければなりません。
弁護士を依頼して離婚調停を申し立てなければ、
保護を打ち切ると言い、離婚を強制します。
法律の要件を満たしていなくても
常に用意してある保護命令申立用紙に記入することを勧められます。

「夫ともう一度話してみる」
ということを言うような女性は、
経済的にも精神的にも夫に依存している女性であるか、
DVによって洗脳されているとみなされ、
地域によっては、大量の向精神薬の服用を
義務付けられているという報告もあります。

女性は、自分で意思決定できる能力がない
という考え方のようです。

夫と連絡を取らないために
携帯電話などの連絡手段を奪われる場合もあるようです。

一方、女性に対して精神的疾患を疑うことは許されません。
すべては、夫に原因を求めなければならないとされています。

このため、統合失調症も、双極障害も
甲状腺機能低下症も亢進症も
適切な治療受けることが遅延する傾向にあります。
このような疾患が発覚しても、
女性の夫から精神的虐待を受けたということが
妄想だったかもしれないと考えることは
言語道断であるようです。

第5に、個人の個性よりも遺伝的要素を重視します。
保護を受けた女性は、子どもが男性の場合
一定年齢に達すると未成年であっても
男性は女性の保護施設を退出しなければなりません。
あてもなく一緒に退所するか男の子だけ施設に預けるか
という選択の自由はあるようです。
夫の子どもという遺伝的要素を重視するようです。
教育は無意味であるという決定論的な立場と
男性観が如実に表れているわけです。

このため、離婚が奨励されているのかもしれません。
あたらしい家族制度として、
夫のいない家族というものを理想としている
一派が存在するようです。


<雇用関係に関する考え方>

第6に、女性の肉体的条件がある事を否定しようとしています。そんな物は無いというのでしょう。
それまで禁止されていた女性の深夜労働を解禁し
それまで認められていた生理休暇を廃止しました。

一派の主張と合致しますし、そのような立場から法改正を主張していました。
女性の働かせ方に制限があることが
女性が社会進出をしない理由であるとして廃止するべきだと主張していたのです。

女性が女性であることを否定したわけです。
要するに、大切にするべき価値は、
労働時間当たりの生産量であり、
よりよく生きる、楽しく生きるということは
価値として劣後するものだということです。

過労死するのも男女平等に
ということなのかもしれません。

国には重量物取り扱い指針があり、
女性は一定重量以上のものを扱うことができません。
これは、女性は男性に比べて筋肉量が少なく、
一定以上の重量物を持ち上げると
骨盤が開きやすくなるために、流産の危険が増加する
ということが理由なのですが、
女性の保護は、妊娠してからという発想のようで、
筋肉量に違いがあるということも
差別的だという主張がなされるのかもしれません。

第7に、社会的な不合理について
あまり主張を鮮明にしません。
同じ労働をしながら
賃金やその他の待遇が違ういわゆる非正規労働が、
女性のライフサイクルに合わせた合理的な制度だとして、
低賃金労働の構造的要因になっているということに対しても
あまり著名な主張が見られませんが、
これは私が勉強不足なのかもしれません。

もっとも、これら非正規労働や成果主義労務管理等の問題点について
オピニオン的な役割を果たしているのが
竹信美恵子先生であることは言うまでもありません。
家事労働が低く見られて低賃金労働の温床になっていること等
実証的な研究に基づく鋭い告発を次々となさっています。
しかし、この一派は、
国や社会が、介護労働や保育労働といった家事的な労働に対して
低賃金や低労働条件の労働を強いることを解明し批判している先生の主張を
夫が妻の家事に依存しているという主張にすり替えています。
国家社会の女性に対するハラスメントを
夫の妻に対するハラスメントに矮小化しているわけです。

このすり替えは、社会的告発を家庭のレベルで封じ込め
介護労働や保育労働の賃金の上昇を阻止します。
その結果、介護企業や派遣企業の利益の流出を避けることができます。

ことによると、派遣会社の株主と人的関係があるかもしれません。
しかし、論者の支持者の方がは、
身近の男性が批判されることに喝采し、
思考停止となり、指示し続けるようです。
大変わかりやすい戦略です。

ソーシャルなフェミニズムの主張は
こうしてインドアフェミニズムの刹那的な快楽誘導で
封じ込められていきます。

第8に、社会的な女性の役割を否定します。
これは、生産性重視に価値を置く一貫した姿勢から来るものなのかもしれません。
効率性や競争に価値を置くのではなく、
人間関係の調和や弱者保護に価値を置く
という傾向が女性の傾向だということは
女性に対する差別だと考えるのでしょう。

第9として、数字を重視します。
女性の管理職や、女性の審議委員の数字が
男性と同等であることを要求します。

あくまでも価値は生産効率に置きながら、
女性であるという理由で役職に就けるというのです。
実際は、生産効率等価値ではその女性よりも優位だと思っている特定の男性からは、
不合理で差別的な人事だと不満を持たれて、
女性であることを理由に昇進した女性は
陰湿な男性の嫉妬に苦しめられているようです。
男性と同じ時間外労働をしろと追及されているようです。
家族と一緒に過ごす時間を大切にする
という人間らしい働き方を主張することはあまり効きません。

過労死のジェンダーバランスを気にしているのかもしれません。

女性的価値の尊重を普及させることもなく、
特定の利益を助長するだけの効率性という価値観を温存したいようです。

女性が管理職や審議会委員になることの合理的理由を説明することさえも
タブーとされています。
「ジェンダーバランス」という呪文を唱えると
それ以上の口出しはできないことになっています。

この結果、男性は、男性であるということを理由に
昇進適格があったとしても昇進できません。

数字には強いようです。
DV政策に熱心に取り組まれていらっしゃいますが、
そこで追及されているのはあくまでも数字です。
相談件数、検挙件数等については
アプリオリに追求されているようです。
具体的内容について言及されることは稀です。


第10に男女の賃金格差についても
実質的には是正を放置をしています。

何しろ男性優位の価値観にありますので、
女性の労働者としての価値を認めていません。
男性以上の労働をしても
女性の賃金は男性の何割かという
このような不合理よりも、
先ず、家庭内の男性批判が優先のようです。

これでは、派遣会社の経営者から
大変感謝されることでしょう。

一部の人にとどまることですが、
このような傾向をすべて兼ね備えながら、
自らをラディカルと名乗る人たちがいることは
大変興味深いと思います。

ラディカリー コンサーバティブ フェミニズム
というのが実態に合っているようです。

【事件報告】日本国籍のない在日外国人の父親を確定する訴訟の方法 実務家向け [事務所生活]

極めて珍しいと思われる訴訟をしましたので
報告をします。
もしかしたら、解決をあきらめている方も
いらっしゃるのではないかと思ったからです。

但し、法律的に必ずこうなるというものではなく、
けっこう阿吽の呼吸があることなので、
お含みおきいただきながらお読みください。
その意味で、あえて不正確な表現を使っている個所もあります。

事案は、後に韓国籍を取得したけれど
出生時朝鮮国籍だった方の件です。

この方の母親も父親も朝鮮国籍で後に韓国籍に変えています。

母親が、かつて朝鮮国籍の方と結婚していました。
この時、受理証明書を区役所から交付を受けることによって
母国法でも正式な婚姻とされるようです。

ところが事情があって離婚をしたのですが、
離婚届を出したにもかかわらず、
役所はこれをきちんと受理せず、放置していたようです。
このため、後に離婚届け受理証明書の交付を受けることができませんでした。

その約1年後に母親がやはり朝鮮国籍の男性と再婚し、
役所は婚姻届けを受理しました。

そうして、当事者が出生したのですが、
離婚をしたことが受理届けによって証明できないために
形の上ではお母さんが重婚状態になっていたため、
父親について法的に確定できないという事態になってしまいました。
(本当はこの扱いにも疑問があります)

事情があって、判決によって父親を確定する必要が生じたことから
当事務所に依頼にいらっしゃったということになります。

<訴訟の名称>

ここで日本法のおさらいですが、
日本国籍を有する者が重婚した場合の父親を定める方法は民法で定められており
父を定める訴え(773条)で解決します。
(曖昧をそのままにしています)

これは、子どもと母親の二人の夫との間に
嫡出子推定が法律上働いてしまうからです。

ところが外国籍の場合は、戸籍もありませんので
773条の場面ではないということになります。

このため、一般的な確認訴訟を提起しました。

<被告>

この場合、被告は、父親を巡って争いがある相手ということになります。
(733条の場合は、二人の夫が被告となる。)
国が紛争当事者だとすると
家事審判手続き法の規定により、検察官ということになるようです。
(やや微妙な問題をそのままにしています)

<準拠法>
さて、次にというか、前提的問題となるのは
外国人の親子関係を、どこの国の法律で裁判をするか
という問題になりますが、
これは、法の適用に関する通則法28条、29条
で出生地の法律ということになります。

<朝鮮国籍の場合>
出生の時に朝鮮国籍である場合とてつもなく困難な問題が生じます。
この場合、朝鮮を北朝鮮だとすると
北朝鮮の家族法が日本紹介されていないからです。
存在すらもわからないので、準拠法に使うことができません。

このため、
韓国法を準拠法とするべきだと主張しました。
その理由
1 朝鮮の国籍は、日本が併合していた時の国名であるから
  北朝鮮を指すものではないこと。
2 母親の出身地が現在の韓国であるから韓国とするべきである。
3 当事者全員の主観でも北朝鮮ではなく韓国籍であり、
  実際に韓国籍に変えたこと。
  それ以前に、北朝鮮を国籍とするという
  意思決定がないこと
などです。

このあたり法律的に正しいのか怪しいのですが、
実務では、えいやあと大韓民国法を根拠法とする
運用がなされているようです。

まあ、その他にもいろいろなことを乗り越えて
無事、判決によって父親が定められました。

大変参考になった文献として
第3版 「在日」の家族法 日本評論社

【それは誤解です】弁護士が法律の条文で物事を解決する職業だと思っている人が結構いるという件 [事務所生活]

「弁護士は法律の条文で物事を処理するんでしょ。」

先日、ボランティアの集まりで、そういうことを言う隣接業種の方がいらっしゃったということで、これはこのブログのネタに最適だと思ってしまった次第です。

裁判所を通さない示談交渉はもちろん、
調停やADRや裁判上の和解
そもそも裁判の事実認定においても、
法律の条文は、あまり関係がないことが
実は多いのです。

それも法律だと言われてしまっては困りますが、
人権だったり、公平だったり
あるいは親子の情愛等が
解決手段として使われる方が多いと思います。

あるいは社会常識だったり、
医学的知識だったり。

過労死をはじめとする労働災害や交通事故は
医学的な論争になることもあります。

離婚や面会交流は
心理学や精神医学的知見が重視されなければなりません。
子どもの健全な成長のためということが
解決の基準とされるべきです。

ある相続の争いの事件で、
双方の誤解を解くために
心理学や医学の文献だけを証拠提出したこともあります。

法律の条文で決着をつけるような
簡単な事案ばかりではないのです。

それもそのはず。
法律がいかに多くても
現実の人間関係を規律するには
あまりにも少ないですし
あまりにも抽象的です。
これが法律の宿命です。

それだけ、人間関係や紛争は、
類型化しにくい事情が多くあるわけです。

それを知っているのが法律家のはずなのですが、
弁護士以外の法律家にも
弁護士の仕事について誤解があるようです。

それには理由があります。
司法書士や社会保険労務士の仕事は、
主として手続き的な仕事です。
それらの手続きは定型的なので
どうしても、法律の条文や
通達に従って仕事を進める比重が
多くなっていくという特徴があるわけです。

もっとも、その手続きを選択するまでには
やはり条文以外の要素も出てくるとは思います。


しかし、そういう誤解があったのかということで
納得できることもあります。

テレビ番組や、インターネットの法律相談で
法律的にはどうなのか
自分の要求は法律的に認められるのか
という質問が多くあり、
弁護士としては違和感がありながら
回答をしていました。
(テレビには出ていませんが、念のため)

実際の法律相談でもないことはないのですが、
あまり多い相談形式ではありません。

実際の相談は、
「今困りごとがある
これをどうやって解決するか」
という相談なのです。

「法律ではこうだよ
法律では認められるよ」
と言ったって、
それで解決することなんてないのです。

例えばパワハラ一つ取ったってそうです。
そもそもパワハラの定義自体曖昧だし、
ワンマン社長のパワハラが違法だとしても
法律違反だと宣告して解決する
ということにはなりません。

従業員が、あんたパワハラだといって
無くなればよいのですが、
先ずそれを簡単に言うことも難しいですし、
報復されれば、
裁判闘争になるでしょう。
弁護士を頼めばお金もかかります。

その人の個別事情を考えると
法律的には間違っていないにもかかわらず、
退職することがベストだということも
実際にはあるのです。

私は、対人関係上の争いは、
特に家族や仲間に関する争い事は、
法律や裁判で解決するべきではない
と考えています。

このブログを読んでいただいている方には
ご理解いただいていることだと思います。

結局
人間とは何か
紛争や心の葛藤が
どちらも悪くない状況でも起き得る
ということを直視することが
紛争解決の王道だと思っています。
特に大切な仲間同士の紛争については
そのように考えています。

ではどうやって解決するか、
それが対人関係学の
一つの使命だと思っています。

私の研究テーマということになります。

戦争の条件とマスコミの貢献、私たちの心の中で戦争の準備は既に始められている。「この世界の片隅で」を観て [事務所生活]

「この世界の片隅で」を観ました。
おそらく、「単なる反戦映画」
というものは存在しないのだ
ということを改めて感じています。

この映画を観て、
喜びや悲しみという人間の当たり前の在り方を
根底から奪う戦争というものに対して、
当たり前のように絶望を押し付けてくる戦争に対して、
それを起こさないという人間としての役割を
自分が与えられているということを自覚しました。

怒りという浮ついた感情より深く
人間の精一杯の生の営みを
仲間である人間として支える
そういう役割です。

「ぼーっとしたまま一生を終わりたかった。」
といったすずの叫びを忘れることはないでしょう。
映画を観て泣けたならもう少し苦しくなかったでしょう。


現代の戦争は、
為政者だけの判断で起こすことはできません。
ある程度の大衆の支持が必要です。

日本の為政者も、明治以来
国民を戦争支持へと誘導し続けてきました。
いくつかあるうちの誘導の方法の中で、
国民感情ということについてお話ししたいと思います。

国民感情とは、戦争を支持する
漠然とした世論です。
どの程度の人数の
どの程度の強さが必要なのかは
よくわかりませんが
そういう支持が見られてきました。

支持とは熱のようなもので、
熱に浮かされている国民がある程度存在すると
冷静な国民は黙らざるを得なくなるようです。

私の父と伯父は
太平洋戦争末期、10代の半ばを過ぎていました。
既に特攻隊が出動しており、
報道もされていたようでした。

父と伯父は特攻隊を知り、
祖父に対して、自分も特攻隊になると志願したそうです。
祖父は、死ぬことだけがお国のためになることではないと
一喝したそうです。

感受性の強い子どもたちが、
戦争の熱に浮かれており、
年配の者は、比較的冷静に見ていたのかもしれません。
しかし、既に戦争を支持する国民感情は
完成されていたわけです。

戦争支持のためには「怒り」の感情が
優位になっていることが必要です。
相手国の人間を殺害することを厭わないためには、
どうしても「怒り」という感情が必要です。

親が子どもを見殺しにせざるを得ない状況
兵士にも親があり家族があるということを厭わない状況
家族や夫婦、恋人や友人が
死別していく状況
体を不自由にされて一生涯苦しむ状況
心がすさんでいく状況

ありとあらゆる戦争にまつわるその人の状況について
何も気にしないという戦争当事国の
国民感情を支えるものは「怒り」の感情です。

「怒り」は、自分に降りかかった危険を
回避するための脳内の反応です。
これによって、脳がホルモン分泌を促し、
交感神経が活性化し、
脈拍、血圧、体温の数値を上昇させ、
筋肉を動かしやすくして戦いやすくするわけです。
その時の自覚している気分が怒りです。

さらに怒りの状態では
思考の焦点は、戦闘が終了したか否か
勝ったか負けたかという
二者択一的なものとなり、
極端な思考の視野狭窄がおこります。
相手に対する配慮などということは
起きにくくなるわけです。
そうすることで、生存率が高まる
ということになります。
「怒り」は生物としての生きるための仕組みです。

この視野狭窄のために、
戦争相手の人間に対する思考が停止し、
相手方の苦しみなどについて
考えが及ばなくなります。

国民の中に多少の戦争反対の動きがあったとしても、
そもそも戦争をするべきかやめるべきか
という思考が生まれてきませんから、
議論にならないことは当たり前なのです。

では、国民の「怒り」は作ることができるのでしょうか。
それには、まず、「怒り」の成り立ちを
お話ししましょう。

「怒り」は、危機に対する反応だと言いました。
この場合の危機は、実は何でもよいのです。
例えば、害虫を見て、害虫を攻撃するような
危機の所在に対して適確に対応するよりも、

別所からの危機に対して
他方に攻撃をしてしまう、
いわゆる八つ当たりということが多いということが
「怒り」の特徴です。

例えば、職場で上司に激しく叱責されて
職場内の自分の立場に危機意識を持っていると
帰宅してもイライラした感情が続き、
何気ない家族の言葉に敏感に反応してしまい、
些細な言葉(些細な危機感)に対して、
不相応の強い攻撃をしてしまう
ということがよくあることと思います。

人間は、身体生命の危機だけでなく
対人関係の危機においても
同じような反応をします。

これが、自分より強い相手で
まともに責めても勝てないということが
初めからわかっていると
「怒り」という感情は起きにくいです。
「勝てるという判断」が「怒り」
を起こしやすい条件ということになります。

ちなみに勝てないという判断は、
不安や恐怖という気持ちになって現れます。

勝てない相手が原因の危機意識は
相手に対して「怒り」の感情を形成できませんが、
危機意識は持続しているわけです。

この時、勝てる相手が原因となっている危機意識が生まれれば、
勝てない相手の危機意識も合わさることによって
大きな「怒り」が形成されてしまうわけです。

第1の結論です。
国民に「怒り」を持たせるためには
危機を与えればよいということなります。

危機は対人関係的な怒り、
即ち、自分が所属している群れの中の
居場所がなくなるかもしれない(立場を失う)とか
自分だけが損をしているというような意識も含みます。

つまり、
失業、いじめ、パワハラ、
ほしいものが「自分だけ」手に入らない
低収入、将来に対する不安
家族や職場での不信感、疎外感
そういうものが人為的に作ることができるのであれば
潜在的に「怒り」を形成する火種を作ることができるわけです。


さて、「怒り」にはもう一つ特徴があります。
実は、相手に勝てないと判断しても
「怒り」を形成して戦いを挑む場合があります。
それは、仲間に対する攻撃があった場合です。
人間が群れを形成する動物としての本能として
仲間、特に弱い仲間を助けようとする
行動をするというものがあります。

この本能は、自分が無謀な戦いに挑むという行動だけでなく、
弱い者に対して可愛いという感情を持ったり、
弱い者を助ける行動に自分の喜び、達成感を抱いたり、
他人の行動に称賛をする感情を抱いたりします。

心が勝手に反応することが
本能の本能たるゆえんなのです。

誰かのために戦うものが強い理由がここにあります。

母熊が子どもを守るために攻撃的になる理由もそうです。
但し、人間は母子の間だけではなく、
血縁関係のない仲間に対しても
守ろうとする意識を持ってしまいます。

自分はともかく、自分たち、自分の仲間が
危機になることを許さないという意識です。
「正義感」という言葉の多くが
このことを指すのではないでしょうか。

戦争末期、私の父や叔父が特攻隊に志願した理由も、
おそらく、母親や姉や妹といった女性、
自分より年下の子どもたちを守ろう
という意識だったのだと思います。

父が私に繰り返し伝えていたメッセージが
この「弱い者を守れ」というものでした。

このような仲間を守る意識は、
本能的に、自分が死ぬ恐怖すらも忘れさせます。

「憲法9条を守ろう」と主張する人たちに対する
少なくない人たちの潜在的な反発、不信感は、
弱い者を守ろうという意識に支えられているのです。
これは意識的な意識であることも少なくありません。

第2に、「怒り」は、自分たちを守ろうとする本能が
刺激されて怒るということでした。

そうすると、
いま私たちが、自分たちの日常を離れて
「怒り」を誘導されていることが多いことに
気が付くことと思います。

ひところ、SNSで、
ちょっといい話として、
妊産婦や障碍者、老人等が攻撃を受けているという設定があり、
それを女子高生や、バスの運転手、一人の老人が
攻撃者を追い込めてしまう
というような「事例」紹介記事が増えていました。
おそらく、フェイスブックなど反応がわかる媒体を通じて
どのようなシーンが人々の怒りの共感を広げるか
解析することができたと思います。

今、それがテレビ番組とまでなっています。

「誰かを攻撃したい」ということが
危機の八つ当たりの特徴です。
そして、攻撃感情に後ろめたさを持たないために
攻撃対象が悪であることが必要なのです。

相手を悪と塗りこめて、
悪だと叩いて喝采する
自分たちの持っている危機意識を
幾分解消する
こんな勧善懲悪が流行しているようです。

戦前直前以外の日本においては
就学以前の子ども向けとされていたはずの勧善懲悪が
大人の間で流行しているという状態なのです。

報道でも同種の手法が
反省もなく繰り返されています。

一つはいじめの報道です。
いじめの起きた学校を、突き止め、
記事では匿名にしながら、
校舎の写真を掲載したり放送したりして
どの学校でそれが起きているか
捜させようとしているわけです。

不特定多数人がどの学校で起きたかを知ることは
いじめの解消には無関係です。

その報道で何が起きるでしょうか。
その校舎を知っている人が学校を特定し、
学校内部の事情を知るものが、
いじめられた生徒、いじめた生徒
担任など学校関係者などの
実名や写真をインターネットで公表するのです。

全く無関係な人の実名や写真も
被害者加害者として流されることもある上、
その学校の生徒全員が
加害者扱いされています。

全く無関係な学校の地域の住民までが
罪悪感を抱かされています。

何にも関係のない人たちが
正義感を振りかざして、
漠然とした対象を攻撃しているのです。
まさにこれこそが「怒り」の構造です。

先日このブログでも紹介しましたが、
教師の不適切発言が報道されました。
言葉だけが切り離されて報道されたということ、
報道の内容と学校、教育委員会の対応に
警戒するべきだと言わせていただきました。

今日はその後日談をお知らせしたくて
書いているものです。

生徒たちに対する説明会の数日後
保護者に対する説明会があったそうです。
夜に開催されたにもかかわらず、
100人以上の人たちが参加したようです。

かなりの人数の保護者の方々が発言したとのことですが、
全員が、加害者だと報道された教師を
擁護する発言だったとのことでした。

新聞に情報を提供した人の主観でもって
学校や教育委員会が振り回されて、
教師を悪者扱いにして、
学校や教育委員会が不適切な対応をしたために、
かえって当該子どもが、友達から浮いてしまっている
というのです。

学校側がマスコミからたたかれるという危機意識を
当該教師に対する攻撃に転嫁させて、
それで保護者に納得してもらおうという
「怒り」の共有を形成しようとした意図が
保護者から見透かされて、逆に攻撃を受けた
ということでした。

それにしても、当該教師は
生徒たちや保護者からの信頼が厚く、
「ほかの先生だったらよいけれど」というわけではないでしょうが、
よりによってその先生が生徒を虐めたと
攻撃されることが納得できない
というような感情が校長と教育委員会を除く
生徒と教師と保護者の総意だったようです。

(これを書いているときにも私の心にも
 校長や教育委員会に対してかすかな攻撃意図があり、
 保護者たちの対応に喝采しているという
 「怒り」の構造があることを自覚しなければなりません。)

それにしても、このひどい報道
被害者とされる保護者の主観に意図した報道は、
あたかもそれが真実行われたような印象をまき散らし、
その学校に通う生徒たちの圧倒的多くを傷つけました。
保護者達に危機感を与えました。
当該子どもは、友達の中に戻れないまま冬休みを迎えました。

そのような、誰かが傷つく、不利益を被るということを
少しでも推測できる能力があるならば、
いたずらに「正義感」をふりかざすことは
できないはずです。
これがインターネットの私的なブログならばともかく、
新聞報道でなされることの
なんと愚かしいことか落胆せざるを得ません。

昨今のこの新聞の学校攻撃は異常だと思います。

(また、そのような記事に対して、
 教育委員会は抗議や申し入れをする予定はないと
 説明会で述べていたそうです。)

これは、当該新聞社が
戦争協力を始めているか否かにかかわらず、
弱い者が攻撃されているということを印象付け
真実か否かにかかわらず「怒り」を拡散しているわけです。
マスコミという、要請されたインテリジェンスに照らして厳しく見ると
戦争に必要な条件づくりをしているということです。

マスコミの戦争犯罪は
大本営発表の虚偽の事実を報道したり
必要な事実を報道しないこと以上に、
国民の危機意識をあおり、
「自分たち」の防衛を意識付け、
他国に勝てるという情報を提供し、
「怒り」をあおったことにあります。

そうやって、国民の多くに戦争支持を誘導したのです。

まさに、この報道は
現在のマスコミの状態が
戦争前の程度まで低下していることを示すものだと
思えてなりません。

21世紀の私たちは
素朴な怒り、素朴な正義感こそ
警戒するべきだと思います。

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