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DVサイクル論という日本の男女参画行政が全面的に採用する非科学的俗説の弊害と真実のありか [家事]

1 目黒事件の精神科医の証言

目黒事件の裁判員裁判で精神科医が証人として証言した。「母親はDVをされていて、DVがなかったら放置はなかった。」というものだった。母親の放置があるとして、それが夫の精神的支配によるものだということについては成り立ちうる立論だと考えていたが、そのための立証は、案の定、皮相な俗論であり、科学的な鑑定意見のようなものではなかった。前提としてDVはあったのかという議論が必要となってしまい、かつ、それは証明できていないものとなってしまった。この日本型DV論ともいえる論が持つ弱点が端的に表わされてしまった。また、この俗論に基づいた実務の手法の弊害が如実に表れた結果である。もう少し事実に即した丁寧な証言がなされるべきであったと思われる。
ちょうど良い機会であるから、この証言の元になった日本型DV論がどのように誤っていて、どのような弊害があるか、真実はどこにあり、そしてどうすべきかについて考えてみたいと思った。

2 日本型DV論の非科学性の源泉

日本型DV論は、アメリカの心理学者であるLenore E. Walker らの理論「バタードウーマン」に全面的に負っている。この理論は、筆者の心理セラピーのクライアントの話を総合して組み立てている。したがって統計的な立証ではないし、そのエビデンスとしての価値も疑問視されている。科学ではなく、どちらかというと女性の保護、解放という視点、目的からの立論である。
それにもかかわらず、日本の男女参画政策を担う、内閣府男女参画局、地方の男女参画、警察の生活安全課、厚生労働省婦人援護施設、児童相談所等では、無批判に全面的にこの理論にそって行政行為を行っている。莫大な予算も投入されている。

3 DVサイクル理論

この理論の根幹は、DVサイクルというものである。妻は、身体的暴力や精神的暴力をうけても夫と別れられない。その理由として、DVサイクルというものが存在しているからだという理論の重要なポイントである。つまり、DVは、一辺倒ではなく、暴力などが爆発する爆発期、その後暴力を反省し、謝罪し取り入ろうとするハネムーン期、それがなくなり暴力がいつ始まるか緊張が高まる緊張期という3つの時期が繰り返される。そして、暴力を受けても、ハネムーン期があるために、本当は夫は優しい人なのではないか、いい人なのではないか、爆発するのは自分が悪いためではないか、あるいはもう爆発は起らないのではないかと期待してしまう。このために妻は夫から離れられないと主張する理論である。

人間観も独特である。DVを行う夫は、結局、自己愛性パーソナリティ障害の患者で、相手を支配しようとする人格を持っていて、治療などによって改善されない。だから妻が暴力から解放されるためには逃げなければならない。分離だけが唯一の解決方法となる。そしてこの理論の実践場面においては、警察をはじめとする行政は、夫は妻を殺すだろうから子どもと自分の命を守るためにとにかく逃げろと、抵抗する妻に何時間も説得を続けている。
実は、妻に対しても独特の人間観をもっている。妻の性格も虐待される要因があるとする。妻は、暴力にも従順であり、自己主張をしない。夫に依存する傾向にあるとする。要するに男性に依存してしか生きられない哀れな存在であるとみる。売春婦と異なるのは、DVを受けている妻は夫一人に依存しているが、売春婦は不特定多数の男性に依存しているという違いだけであるというものである。この思想が端的に表れている事情は、DVを受けている妻を一時保護する婦人援護施設は、もともとは売春防止法が生まれたのちに元売春婦の生活の更生のために使われていた施設だったものを引き継いでいるということである。担当部局も同じである。運用も同じ思想で行われる。施設に保護された女性は、自発的な行動が禁止され、外部と連絡を取ることも禁止される。放っておくとまた男性のもとへ依存する行動に戻るからだということも、売春婦保護の思想と取り扱いを引き継いでいるからである。大事な家族の将来を夫と話し合うことをさせないのも、もと売春婦に売春宿と話し合いをさせなかったことの自然な流れなのであるう。主体的な思想を注入しようとしているのだから、どこかの国の理念と全く同じである。保護される女性は保護と教育、更生の対象として扱われる。私はこの扱いに抵抗がある。

4 日本型DV理論の誤りと弊害

先ず、端的な間違いは、現在DVと認定されて、家族分離がなされている事案の多数で、DVサイクルは当てはまっていないことからも本当は明らかである。暴力や支配を目的とした妻を追い詰める言動の爆発が存在していないことが実際には多数だろう。爆発期が存在していないこともあり、また日本男性の特徴ともいえるが、ハネムーン期が存在しない。多くの事例では緊張の継続の時期だけである。これでは、「なぜ、DVがあるのに(本当は緊張が継続しているのに)夫と別れることができないのか、」ということを説明できないことになる。

また、恐怖感情がない場合にもかかわらず、どうして夫の思想に共鳴するのかということが説明つかない。目黒事件では、「児相に目を付けられるだろうけれど、それは子どもが悪い」という趣旨のラインをどうして夫の暴力や強制もないのに自発的に打ったのかということが説明できない。

行政やその下請団体は、DVサイクル理論によって、女性が息苦しさを感じている場合、それは夫のDVが原因だと根拠なく決めつけて家族分離を進めてしまう。分離以外の方策を検討する余地がない。選択肢が用意されていないのである。強引に妻が子どもを連れて別居を開始し、夫が一人家に取り残されて妻子の居所もわからなくされた結果、夫が苦しむばかりではなく、子どもも自分が父親から分離されたことで不安にさらされる。また、暴力父の子であるという悩みが生まれることもあって自分に対する評価が著しく下がる。さらには、妻自身も、自分は理由なく人間扱いされていなかった、殺されるところだったという恐怖が生まれてしまい、自分が逃げているという意識を持たされることによって恐怖が固定化してしまい、夫から逃げても何年も恐怖感情がよみがえってしまうことがよく見られる。誰も幸せにはならないことが多い。
子どもの幸せは考えられておらず、妻に認知のゆがみがあっても是正できない。夫の人権は無視されている。これが日本型DV理論に基づく対策なのである。

5 真実はどこにあるのか

1) 女性の息苦しさの正体(原因が夫婦関係以外)

女性、特に子どもを産んだ母親の息苦しさの正体は、それが離婚事件などの紛争になっている場面では、「自分が主体的に生きられない」ということが多く、もう少し具体的に言えば「自分で自分のことを決めることができない。」というものである。「何か悪いことが起きそうだ」という焦燥感と、「自分だけが損をしている」という被害者感情が伴うことが多い。

必ずしもそれは、夫に原因があるわけではない。夫以外の原因としては、
産後うつ、
もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12

内科疾患やパニック障害などの精神疾患
存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-12-04

等がある。

日本の行政の「DVがある」との認定にあたっては、妻からしか事情を聞かない。夫から話を聞くことはない。このため、妻に息苦しさ、焦燥感、被害感情があれば、それは夫のDVがあると決めつけられることが多い。そういう結果しか出ない聞き取りを行うマニュアルがあるからである。妻本人がそれを否定しても、あなたは夫からしいたげられていると「教え込む」のである。妻は夫という男性に依存するしかできない要保護のかわいそうな人間だとされているので、自分が受けているDVを認識していない、だから行政がきちんとDVがあったことを自覚させなければならないと考えている。命の危険があるから、直ちに子どもを連れて夫から逃げて、元売春婦のために作られた婦人援護施設に囲われて居場所を隠される。携帯電話も取り上げられ、向精神薬の服用を強く促される施設もあると言われている。

2) 夫のDVがある場合

夫に妻を支配したいという意図があり、この意図に基づいて暴力や、言動による精神的な追い込みがある事例は確かにある。なぜ夫は、支配を意欲するのか。
答えは、妻との関係継続の意欲と自己防衛である。両者は同じことを角度を変えてみているだけのことである。
夫の一番の関心事は、妻から否定されないこと、妻から愛想をつかされないことである。このことに過剰に敏感になっている。妻の否定評価が起きそうだと感じてしまうと、反射的にそれを無かったことにしようとする。力づくで否定評価をさせないようにするということである。くどくどと言い訳をしたり、ごまかしたりすることは少なく、逆切れして妻を攻撃する。また、妻の自分に対する否定評価が起こりそうな場合、先制攻撃を仕掛けたりする。自分の失敗が妻に原因があるような言動をするのである。妻は、もとより、攻撃しようと思って話をするわけではなく、客観的事実を指摘する場合も多い。また、確かに妻が無神経に言葉を発することもあるが、夫が過敏になっているため、聞き流すべき言葉も、夫は自分を否定しているように感じたりしてしまう。夫は危険から逃げる形で回避することもせず、あくまでも妻を攻撃して、強引に危険を解消としているのである。その危険とは、「妻からの自分に対する否定評価」であり、究極には「妻の自分からの別離」である。この危険を回避するために妻を攻撃するという矛盾した行動しかできないのである。
一方妻は、夫を攻撃するつもりもなく、無邪気に言葉を発していたり、行動をしたりしているのに、夫が過敏に反応をするので、夫が逆上するポイントがわからない。夫は、自分を守る意識が強いので、自分の逆上を余裕をもって制御することができない。妻は、いつ夫が爆発するかわからないため、常に戦々恐々としている。夫ならどうしてほしいかということを常に考えている。爆発させないためである。こうして夫ならどうしてもらいたいか、どうすれば否定されないで済むかということが行動原理になってしまう。これでは自分で自由に自分の行動を決めることができなくなり、常に夫の目を意識するようになり息苦しくなっていく。
このパターンでは、夫は、本当は自分に自信がない。自信がないからごまかそうとするのである。虚勢を張るのである。仕事上の自信はあるという場合は、職場の人間関係には問題がない。しかし、男として、パートナーとして自信がない事情があると、職場では問題がないが家庭ではDVをしているという場合がある。実は極めてデリケートな問題を抱えていることが多い。また、全般的に人間関係に自信がなく、職場でも家庭でも問題が生じている場合もある。
このような人物は、主として、結婚以前の時期に人間関係を円満に形成した経験がない場合、円満な人間関係のサンプルを見ていないために人間関係を円満に形成する方法を知らない場合がある。また、いろいろな人間関係で自分が常に否定され続けてきた経験があるために、自分に自信が持てないという場合もある。また、職場などで、あるいは社会的状態が、自分が否定されている、人間として扱われていないと感じている場合も多い。
いずれにせよ、このパターンの圧倒的多数の事例でもおよそ命の危険はない。

3) 夫のDVがない場合

夫の目を気にして緊張を強いられる場合なのに、夫に前述のような支配の意志がない場合がある。これは日本に多いパターンのように思われる。このような場合も、行政に相談してしまうと、夫のDVが「ある」と認定されてしまう。そして、妻は命の危険があるからともと売春婦の更生施設に「保護」される。
支配の意志がないにもかかわらず、妻の行動に対して否定的評価をしたり、妻に対して過剰な指図をしたりするような場合が典型的な場合である。このような場合、夫の性格が几帳面であり、完全を目指し、正義感が強いような場合が多い。妻の些細な失敗を許すことができず、妻の感情を無視して妻の行動を是正しようとしてしまう。細かなことにいちいち口を出す。行動の要求の標準が高い。正義や道徳に、妻の感情より大きく価値を置いている。そして致命的なことは、肯定的評価、感謝をしないということ、妻の感情を満足させるような行動を自発的にしようとしないことである。
この場合でも、妻は、自分が指図やダメ出しばかりされていうるが、夫と妻の価値観が同一ではないため夫の行動基準がわからない。どうして自分の好きにさせてもらえないのかわからない。理詰めで否定する夫、指図ばかりして自由を与えない夫という評価となり、あたかもDVを受けているような息苦しさを感じてしまう。
夫の価値観の形成は、私は教育や、これまでの生い立ちによるところが大きいのではないかと疑っている。要するに子どものころ、親や学校、友人などから自分がやらされていた標準をクリアすることが人間として当然だと思い、道徳や正義を実践しないことは人間として許されないことであり、それがわずかに逸脱したことがあったとしても厳しく否定されてきたので、人間関係とはそういうものだと学習してしまっている場合が多いように思われる。「自分は努力していた。その努力をしていない妻は許せない。」と感じているのかもしれない。こういう「正しい夫」は、学歴が高いとか、仕事で成功しているという人に多いように感じる。この正しさの意識は、妻の感情を考慮しない要因になっていると感じられる。
まれに夫に共感する能力が劣っている場合がある。こういうことをしたら相手は屈辱的に感じるだろうとか、大事に扱われないことを感じ寂しく思うだろうとか、そういう相手の気持ちを理解することができないのである。相手の感情を考慮できないので、頭で理解できる正しい行動をする。おそらく自分たち家族が損をしないようにということで、妻の自由であるべき行動を細かく制限してしまう。こういう夫は、他人の気持ちがわからなくても、これまでの学習によって、社会のあるべき行動パターンを「知って」いて、そういう正しい行動をすることができるので、あまり周囲から気が付かれることがない。むしろ、頭で記憶している「正しい」行動パターンに従って行動する傾向があるため、過剰に道徳的に、過剰に丁寧に人と接しているなという印象を与えるが、悪い人ではないだろうと思われている。特に深く付き合わない人はその人が他人の感情に共鳴できないことに気が付かない。

4) 妻側の事情

妻は、夫の価値観に従おうとするから、それに従うことが苦痛になるという現象が起きる。夫がどう言おうと、「私はそうは思わない。あなたとは価値観が違う。」と平然としていられるならば、苦しくはならない。そうはならない原因がどこにあるか。ここで、夫の暴力が怖い、暴力の記憶が冷凍保存されているので従わざるを得ないという服従の論理だけで説明しようとすると無理が生まれる。人間はそんなに単純ではない。怖いならば言われる前に逃げるだけの話である。それができない理由は実は人間の本能にある。
人間は、無意識に自分の属する群れを強化しようとしている。そのために、群れの秩序をつくり、なるべく群れの構成員が一体として動けるようにしようとする。群れの中にリーダー的な人物が現れ、それが群れにおいて承認されると、リーダーに迎合するようになる。これは人間が群れを作る動物であることからくる本能的な行動である。
本来夫婦は、それぞれが話し合って秩序を形成すればよいのだが、何かの拍子で、夫がリーダーになってしまうと、リーダーの意思を尊重するようになるし、リーダーの意図を先取りして、自分の意図だと意識しないでリーダーの意志に基づいて行動や思考をするようになってしまう。
以前から私は、これは「服従」ではなく、「迎合」だと言っていた。「Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある」https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-05
その関係については考えが及ばなかったが、「服従」が自分の意志に反して他人の指示命令に従うことだが、「迎合」は自分の意志自体が他人の意志に乗っ取られる状態であるから、「迎合」は「服従」を超えた支配が完成されている状態という関係になる。

もともと、秩序を作ろうという本能があるうえに、妻が自分自身を否定的に評価している場合は、妻は自分以外の他人に、リーダーシップをとってもらいたいと思い、リーダーシップに迎合する傾向が強くなる。自分に自信がないという場合である。こうなるのも、もともとの性格というより、それまでの生い立ちや体験から、自分の意見を他者から否定され続けていて、社会的な自分の位置づけが低いものだと刷り込まれている場合が多いのではないだろうかと思う。
また、夫が自己主張を積極的にするような場合は、リーダーに迎合しようとする本能が通常以上に強まるのかもしれない。
このように夫と妻の状態によって、妻が過剰に夫の意見に迎合しようとするようになり、その結果息苦しさが生まれるということが、離婚事件でよく見られる関係である。
妻側の事情として、夫に対する愛情が強すぎる場合がある。ここまで行くと愛情という言葉が適当なのか自信がなくなる。しかし、夫のことが好きすぎて、夫から否定的評価が下されることが怖いと過剰に警戒心が強くなっているということは確かにある。離婚訴訟では虐待の証拠として日記が提出されることがある。裁判で出された日記を、裏の意味を含めて解読すると。過剰な警戒心が認知の歪みになっている過程がが明らかに浮かび上がることがしばしばある。例えばこういう失敗があり、夫からこういうふうに言われるのではないかという怯えが、記憶の中でこういうふうに言われたとすり替わっているのである。この記憶のすり替えが客観的証拠から裏付けられてしまうことも多いのである。そして自分を守るために夫に対する攻撃が始まる。こういうパターンは、見ていて大変痛ましい思いがする。好きすぎて被害者意識を抱き、相手を攻撃して自分を守る姿を見ることはは本当に切ない。またこういうパターンの場合は危険でもある。夫と別れたことによって、一番傷つくのは別離を強く望んだはずの妻のほうであることが多く、病的な悲嘆が起きることを経験している。

6 謎はどのように説明されるのか

1) 先ず、DVサイクルとは何なのか

夫は、妻をアプリオリに苦しめようとしているわけでもなく、そのような人格だというわけでもない。ただ、妻との関係を維持しようとしたいだけのである。爆発期というのは、結局逆切れや、先制攻撃という自分を守る手段としてのふるまいである。その自分の行動が、妻から嫌われる原因になると自覚すれば、そのことを無かったことにしたくなる。怒りという感情はあまり持続しない。ひと時の怒りの感情が消失すれば、ひたすら謝り続け、妻に奉仕することになることは自然の流れである。
それでも妻は、夫の爆発も、一転した謝罪攻勢も当然ながら理解できない。このために混乱もするし緊張もする。夫は自分に自信がないから、謝りながらも、自分についてのコンプレックスから、妻が自分を否定評価するのではないかという警戒感も生まれ、表出してしまう。これが緊張期である。
このような感情に任せた行動であるがゆえに、必ずしもサイクル通りに事が運ばないことが多い。特に日本人男性は、例えばイタリア人男性のように女性を持ち上げたり、べたべたした愛情表現が苦手であるから顕著なハネムーン期というものがないことが多い。自分が否定されるのではないかという警戒感はあったとしても、特に爆発することは少ない。結果的に支配のための爆発であることは否定できないとしても、能動的に支配を目的として暴力や暴言を意図的に行うというよりは、どちらかといえば、反射的に自分を守ろうとして、突発的に相手をねじ伏せてその場を乗り切ろうとするという表現のほうがしっくりくるように感じられる。

2) なぜ妻は息苦しさを抱えながらも夫から逃れないのか

これはいろいろな理由がある。
一つ目は、自分が苦しいと感じていると自覚できないという事情があるからだ。
自分が苦しんでいるというように、自分を客観的に観察し、評価することは大変難しいことだ。ましてやその原因に思い至るということは難しい。自分は、とにかく夫の意志を実現しようとしているだけである。やらなくてはならないことができない、だから何とかやり抜こうと頑張ってしまっている。イライラはするだろうけれど苦しんでいるという自覚はない。過労死、いじめなどすべての慢性ストレスから抜け出せない原因として考えなければならない理論である。夫婦関係においてはこれがよりよくあてはまる。
二つ目は、夫の愛、愛と呼べないまでも、自分に対する執着を自覚しているからである。夫は自分から離れたくないから自分につらく当たるということは、当事者はよく理解してしまう。そもそも恋愛の一つの側面として、自分を受け入れてくれると感じたことが恋愛の始まりになったり、恋愛感情を高める一つの要素になったりする。ハネムーン期がなくても、それは当然感じるものであるらしい。愛されている環境から自ら離脱するということがなかなかできない。特に繁殖期の年齢では難しいようだ。愛されている実感が、離脱に対する抵抗になっているのだ。愛されている実感がなくなれば、ためらうことなく夫のもとから逃げ出す。だから、アメリカ型DVがある場合はなかなか逃げ出すことができず、爆発期はないものの、愛情を感じるエピソードが何もない日本型の場合は、子どもを連れて逃げ出すことが簡単に起きてしまうのだ。

3) なぜ、子どもの虐待を放置するのか

支配が完成された妻は、夫の意志が正しい、夫の意志を尊重することが家族がうまくいく方法だと無意識に感じてしまっている。それは自分の意志をなるべく捨てよう、自分の考えは劣っており、家族ダメにしてしまうという意識と同じことになる。夫の子どもに対する虐待を、虐待とは感じられなくなってしまっている。夫のやることは、子どもにとっても利益だと感じてしまっているのである。それでも夫のいないところで子どもを甘やかさずにはいられない自分は、だらしない母親だと思ってしまっている。自分で考え、判断することをやめるように自分を強制し、それに自分自身を慣らそうとしているのである。
夫に迎合するほど支配が完成している場合は、夫が子どもが悪いということを喜ぶと分かっていれば、積極的に子どもを悪くいうことも起きる。これが服従を超えた迎合である。そこに必ずしも恐怖感情は必要がない。
恐怖感情から服従する段階を超えた、もっと人格が荒廃する状態となっているのである。DVサイクル論の信奉者たちは、このような深刻な状態にあることを理解できないであろう。「支援者」たちの妻に対する「男に依存するみすぼらしい女性」という意識は、真実についての考察を停止させる。

7 ではどうすればよいのか。

1) 知識の提供(価値観の転換)

せっかく好きあって夫婦になった二人の関係が、ただ苦しいものになってしまう原因は、知識がないことが大きい。逆に言えば知識があれば、ちょっとの努力で簡単に解決する可能性もあるということだと考えている。
パートナーが自分のことを自分で決められないということは、人間としてとても苦しいのだということを知る必要がある。知れば、行動を改める人が多い。
自分が関係性について過敏になっているということを自覚することも大切である。自分の失敗をごまかすよりも、誠実に謝罪するほうが関係性の継続に役に立つのだということを知る必要がある。これは、妻のアシストがあるとより効果的であり、夫の自信にもつながる。
夫も妻も、それぞれ、相手に自信をつける言動をする工夫は必要であろう。相手の言動が自分を支えれば、相手にもそれをしようとするのが夫婦である。
例えば書店に行っても、この種の本のコーナーがない。どうすれば、幸せになれるのか、家族の作り方のノウハウを教える本がない。例えばテレビ番組でも、それを問題提起するようなものがない。
人は、それぞれ勝手に傷つくばかりである。広く、家族の在り方を議論するべきである。現代社会は、夫婦は孤立しており、自分たちの状態が歪んでいることに気づくことさえできない状態なのである。

2) 苦しさの気づき、孤立しないこと

自分で自分が苦しく感じているということを客観的に認識することは至難の業である。しかし、苦しんでいることを他人が観察することはそれほど難しいことではない。誰かに話をしている中で、自分の精神的状態に気が付くことが多い。これまでの時代では、夫婦は、いろいろな人間に囲まれて生活していた。どちらかの両親と同居していたり、仲人の家を定期的に訪問したり、職場の上司や同僚と家族ぐるみの付き合いが当たり、親戚付き合いがあったり、町内の交流があったりした。ところが、現代では、夫婦は孤立している。夫婦やその子どもの利益を考えておせっかいを焼く人たちが周囲に誰もいないのである。特に都市部の住宅事情は、大家族の同居を難しくしている。終身雇用を前提としていない職場の人間関係は職場外での人間としての付き合いを難しくする。面倒なことにかかわらないようにする。マンションは、エレベーターの中で一緒になっても、挨拶さえしないということも珍しくない。夫婦は孤立しているがために、お互いに依存しあう傾向が強くなってしまう。誰も異変に気が付かないことが多い。過度の従属、迎合があった場合、誰かに苦しいのではないかと尋ねられる環境を作る必要がある。これができなければ行政が関与するべきだが、現状では、行政は、夫婦を立て直すのではなく、分離させる傾向が強くある。
子どもの幸せを第1に考える人で、夫婦のあり方を夫婦に支持的に判断できる人間を近くに配置するべきである。

3) 家族を温かく見守る機関を創設すること

一つは、人間の付き合い方を変えていくことである。積極的に家族ぐるみの付き合いを工夫していくこと。できれば、同年代ではなく、年代の異なる人との交流を行うことが有効だと思う。疑似父母、疑似祖父母である。本来自分たちの両親、祖父母から学ぶことが自然であり、一番小さい子どもの幸せを願う人たちであるから、最も合理的で、適切なアドバイスをすることが期待できる。
二つは、そのような交流をしようにも、ノウハウもなく、その相手もなかなか見つからないということが現代日本の実情である。それを解決するために、家事紛争調整センターを創設することを以前にも提案した(家事調整センター企画書http://doihouritu.com/family.html)。以前は紛争が起きたあとの調整を主眼にしていた。しかしなるべく早く相談にゆき、解決を援助してもらう機関としなければならない。それにとどまらず、個別紛争の普遍的な部分を抽出し、一般的な予防の宣伝をするとともに、あるべき家族の形を研究し、宣伝することも、その任務とされるべきだと、今回の考察を踏まえて考えている。
賛同される多くの人で、日本の家族を支えていく理性的な行動の波が起こされなければならない。


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幸せでないと感じる大人は、幸せになるための行動をしていない人が多い 幸せになることは努力が必要だが、不幸せになることは簡単であることの理由 [家事]

幸せでないと感じる大人は、幸せになるための行動をしていない人が多い 幸せになることは努力が必要だが、不幸せになることは簡単であることの理由

弁護士としての職業がら
長年人間関係の紛争に多くかかわっています。

これまでもうすうす感じていて、確信に変わったことがあります。
例えば家族などの人間関係で紛争になり
不幸せになる人の多くに共通のパターンがあるということです。

現状では、人間関係が壊れて不幸せになることは
どうすることもできないことだ
という考えにもとづいた扱いが
裁判所を中心に支配的になっているように感じます。

でも、もし不幸せになるパターンがあるなら、
そのパターンをふまないことで
不幸せにならないで済む方法があるのかもしれない
そしてそれは案外意識さえすれば簡単なことではないかと思い、
ここでお話しする次第です。

不幸せになるパターンについて、結論だけ言うと
相手から幸せにしてもらうということだけを待っていて
相手が自分を幸せにしないことに怒っている人です。
自分から幸せになるための行動をしないで待っている人ですね。


これが子どもなら許されることでしょう。
親を幸せにしようと子どもが努力するということはないですから。
親なんてものは、放っておいても
自分の子どもをかわいいと思ってしまうので、
それだけで幸せになるものですから、
「生まれてきてくれただけでありがとう」でよいのです。

大人はそうはいきません。

現代の人間社会は
人が二人集まると利害対立が生まれてしまうので、
放っておくと紛争が始まってしまうようです。

これが人間の心が生まれた時代とされる、200万年前なら
生まれてから死ぬまでおんなじ人たちと生活していて
その人たち以外とは原則として出会いもしなかったのですから、
利益は全く対立せずに
平等に助け合っていけたようです。

200万年前は、
仲間の誰かが病気をしたりけがをしたりして動けないと
頭数が減ってしまうという、群れ全体の死活問題となるので、
弱い者と見たらみんなで守ったようです。
自分と群れの他人との区別もはっきりとはつかなったのではないでしょうか。

ところが現代は違います。

また、200万年前から現代の前までの多くの時代
人間は数十人の群れで生活していたことが普通であり、
今のような「若夫婦と子ども」という少人数の家族になったのは
ごくごく最近のことのようです。

今は夫婦がお互いの感情を、
お互いだけで落ち着かせなくてはならないのです。
これは大変なことです。
一方では相手に不満の感情を爆発させてケンカしたとしても
自分たちでその後始末をしなければならない
現代の孤立婚は、何かと無理が起こりやすい環境だと思います。


ひとたび夫婦の信頼関係が揺らぐと疑心暗鬼が生まれ、
自分は相手から大切にされていないのではないかと思いがちになり、
ふつうは気にならない些細なことが、
自分を嫌っている証拠のように思えてくるようです。
あれもこれもそう思えてきますから
だんだんと一緒にいることだけで苦痛となり、
家族を解消したいと思うようになっていくようです。


そうだとすると、では、
このような不幸せにならないようにするための行動、
幸せになる行動があるとすれば、何をすればよいのでしょうか。

答えは簡単で、
不幸せになる行動をしないこと
もっと言えば、逆をすればよいということになります。


相手に不満を抱かせないようにすること
怖がらせない、悲しませない、困惑させないということでしょうか。

そうはいっても、相手の気持ちが分からないことがあったり、
そういうつもりではないのにうっかり不満にさせることもあるので、
嫌なことを嫌だと自由に言ってもらえる環境を整えること、
それも必要になるでしょう。


ここで大切なことは、
「自分なら不満を抱くだろう行動をしない」のではなく、
「相手が不満を感じる行動をしない」ということです。
私はこれはされても気にしないから相手にもしてかまわないとか
相手がそれで不満に思うならば相手が悪い
とかいうのではだめだということですね。

例えば、
私は男で、男友達同士では
大きな声で、多少乱暴な言葉で話をするのが楽だ
だから、相手が女であっても、大きな声で話をしても
多少言葉が乱暴でも
それを不満に思わないでほしい
というような無茶を言わないということです。

多くの家事事件を見ていると
女性の多くは、大声や、乱暴な言葉は
本当に怖いようです。
やかましく反論していたとしても
それは怖くないことを意味しているのではなく、
こわいから必死になってやめてもらおうとしている
と言うことが、むしろ一般的だと言えるようです。

基準は「相手の気持ち」です。
自分の気持ちや道徳などの一般論ではありません。
一番身近にいて、いつも一緒にいる人の感情です。
実はそれほど難しいことではないはずです。
わからなければ聴けばよいですし。

またこれも完璧にやらなくてはならないということはなく、
例えば、つい大声で話をしてしまってから
ごめんごめんと謝ってから小さい声で言い直すだけでも
相手の心を尊重したことになるようです。


相手の不満に思うことをしないだけではなく、
それ以上に相手を
ねぎらうこと、気遣うことをする。
という方がやりやすいかもしれません。

体の具合が悪ければ分担を代わるとか、
何か努力をしたら尊敬を示すとか
自分のために何かをしてもらったら喜び感謝する。
相手の感情に沿うことをするということが
相手を人間として扱うということのようです。
せっかくあなたのために行動したのに
喜びも感謝もしないとへこむわけです。

毎日顔を合わせている時間中
相手のことを考え続けなくてはならないということではなく
そういうこともするということです。
プレゼントなんて言うのは一番わかりやすいのですが、
一緒に暮らしていたら、案外されてうれしいことが
もっと簡単にあるようです。

相手の感情を考えて
相手の喜ぶことをすることができる動物は人間くらいです。

相手がうれしいと喜んでいることが
自分もうれしいことだと思えるようになれば
それを考えることも楽しくなるでしょう。

そりゃあやるべきです。

夫婦しか大人がいない家庭が多いのですが、
大人が二人しかいないならば
相手が自分をどう考えているかと言うことが
心を左右する決定的な事情になっています。
逆に言えば相手が自分を尊重してくれているなら
幸せを感じることもできるわけです。

さてこのあたりまでお話をすると
自分から不幸になっていく人たちの反論が聞こえてきます。

「なんでそこまで卑屈にならなければならないのか。」
こういうお叱りは必ずうけます。

まるで相手を幸せにすることは損だと言わんばかりです。
自分は他人から幸せにしてもらう存在であり、
自分を幸せにしない相手にこちらだけ努力することは無駄なことだ
という発想を持ち続けているのであれば
事態を好転することは難しいかもしれません。

そのような価値観を持つことを否定することはしません。
どちらを選ぶかは個人の自由です。

さて、相手を幸せにすることで
どのような効果が上がるのでしょうか。

相手が疑心暗鬼になることが少なくなる
と言うことが一つの期待できる効果です。

疑心暗鬼になってしまうと
警戒感が過敏になってしまいます。
些細なことも、自分を攻撃しているのではないかという
意味づけをしてしまうことが起きてしまいます。

そうやって、自分が否定されていると感じることで、
自分を守ろうという気持になってきます。
ちょっとしたことで警戒して自分を守るために
必要以上の反撃をしてくることがあります。
何の気なしに口にしたことで
あげあしをとられたり、嫌みを言われたり
そういう経験はないでしょうか。
いちいち気が滅入る事情になりますね。

人は自分を守るとき
逃げるか、攻撃するかという二つの行動をします。
攻撃してくるときには
自分をあなたから守ろうとする動機が隠れています。

逆に自分が尊重されていると感じて
疑心暗鬼にならないですんでいるならば、
そういう無駄な攻撃はなくなります。

多少不満はあった場合であっても
あなたの善意は善意として受け止めるでしょう。

あなたが外食に誘ったときに
本当は洋食が食べたくても
和食でも心づかいの方に感謝できるようになるでしょう。

ところが疑心暗鬼になると
和食ならば行かないよなんてことになりかねません。
行こうとした店で、前に嫌なことがあったことが
思い出されてしまうことにもつながるかもしれません。

旅行に行こうとした場合でも
体力的に疲れるのに
あちらこちらで意見が対立するのはもっと疲れる
と言うことで拒否されて、面白くない気持ちになるわけですが、
疑心暗鬼にならなければ
とりあえず行ってみようか
という気持になる確率が高くなるでしょう。
楽しかった方の記憶を思い出しやすくなるものです。
期待をすると良いことを探そうとしてしまうものです。
相乗効果が期待できます。

こうなってくると
一緒にいても苦痛でないどころか楽しくなっていくと思います。

そうすることによって、
相手も疑心暗鬼にならず幸せになれば、
こちらに敵対的になるということは
起こりにくくなるものです。

また、こちらが気づかいすることによって
相手も同じような気づかいをすることが
ある程度は増えてゆきます。
自分が家に帰って
邪魔にされるどころか気遣われて、尊重される
一緒に楽しい時間を過ごすことができる。

例えばこれが一つの幸せの形だと思います。
一緒に住む相手を幸せにすることは
自分の幸せに直結することだと思います。

このプランがうまくいかないケースはいくつかあります。

一つは、自分がした努力よりも
相手がする努力の方が小さいという
形式的平等論です。

この考えは厄介です。

形式的平等をとるか幸せをとるか
どちらかを選ぶ必要があります。
どちらが余計に努力したかなんてことは
本当はわからないことです。

それを自分の方が損しているというのでは、
結局自分の方が少ない努力でリターンを多くしないと
不満が残る人だと厳しく評価されなければならないのです。

これは幸せになれません。
潔く、見返りを求めないで相手を幸せにすることが第一だ
と割り切る方が幸せになれるのです。

二つ目の幸せになるプランを阻害する事情は、

既に関係が悪化している場合です。

悪化しているときに
こちらから先に相手に奉仕するような形になるのは
いかにも悔しいし、
相手も疑心暗鬼に凝り固まっていれば
こちらの善意も疑ってしまいます。

でも、縁あって結婚したのであれば
結局は何とかなると思えるのです。
無駄だと思っても、
努力してダメだったというのであれば、
あきらめもつくというものです。

これが、相手が自分を幸せにすることを
待ち続けているだけならば、
恨みだけが積み重なってしまうようです。

自分は大人だから自分から相手に働きかける
そういうふうに思いを転換することは
とても画期的なことです。

そしてできるところから始める
飽きずに続ける
相手の厳しい反応は聞き流す。

こちらが相手より、より大人だから
相手の厳しい態度を許す、責めない、笑わない。

そうやって安心の記憶を刷り込んでいく。
こちらの努力次第ですが、
三日坊主では関係は変わらないと思うので、
1か月はがんばってみましょう。

そうすれば馴れてきますから
3か月は延長できるようになるでしょう。

なんでそういう気持悪いことをするのだと
尋ねられれば95%成功したようなものですから
この記事を見せてあげてください。

あとは一緒に幸せになりましょう。
夫婦がそれをすることは誰からも非難されることではありません。


幸せを阻害する事情はまだまだありそうです。

双方の体調の悪化ということがしばしば
疑心暗鬼の原因になることがあります。
できるだけ安心させる行動に出ることを
意識的に行う必要があります。

双方の職場が家庭を破壊するような職場である
と言うこともよくあります。
長時間労働で一緒にいる時間が少ないとか、
会社の飲み会が異常に長いとか
パワハラでもやもやした気分が家庭に持ち越されてしまうとか
収入を第一に考えるか、幸せを第一に考えるか
これは二人で考えなければなりません。
声に出して率直に話し合いをする必要があります。

なかなかの難敵は外野です。
実家とか友人たちですね。
外から見れば
なんでそんな卑屈なことをするのと
茶々を入れることになることは目に見えています。

これが現代社会の難しい所なのです。
心は200万年前からあまり変化していないと言われていますので、
同時に複数の群れからのリクエストを調整することは
なかなか難しいことです。
はっきり優先順位を決めるべきだと思います。
わたしは、家族を優先することが
幸せになるという究極目的に合致すると思っています。

親からすると
子どもが相手のご機嫌を取るようなことをするように見えて、
子どもに不自由な思いをさせているように感じるかもしれません。
友人たちはわざと飲み会に誘うかもしれません。

ご機嫌を取る相手が誰かで変わるのだということです。
仲間であれば
それは卑屈なことではなく人間の自然な行為なのだ
という確信を持ってください。

まああまり外野に教えない方がよいかもしれません。
でもうまく言ったら自慢してください。
君も幸せになれるんだよと教えてあげてください。



さて
今日は私も花でも買って帰ろうとしましょう。

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子どもを別居親に会わせるのは、法律ではない。最強のツールの別居親の同居親への「配慮」とは何か。面会交流困難事案対策の実務上のまとめ。 [家事]


面会交流調停*は、だいぶ改善されたという印象があるのですが、
困難案件というのも一定数あるのも確かです。
別居親の代理人の立場からすると、
同居親の頑固な言いがかりや
裁判所が毅然とした態度をとらないことに
イライラするものです。

*面会交流調停:離婚や離婚前の別居によって、子どもが一方の親と別居していて会うことができない場合等に、主として別居親が子どもとの面会交流を求めて家庭裁判所に申し立てる調停

しかし、こういう困難案件こそ
子どもの健全な成長のために
面会交流をする必要性が高いので、
面会交流をあきらめるわけにはいかないのです。

会えない別居親の方が私より
もっとイライラすることは当然です。
別居親の方々は、色々学習している方が多く、
法律や条約はどうなっているとか
片親疎外によって子どもの健全な成長が阻害される
そんなことを主張しようとするのです。

私に対して「法律は・・・」
等と言ってくるのも気持ちは理解できます。

しかし、今の家庭裁判所の運用を見ていると、
法律は、残念ながら、
子どもを別居親に会わせる決め手にはなりません。
法律で強硬に面会交流が実現するということは
シミュレーションしてみることも難しい状況です。

子どもが別居親に会わないことによる弊害を述べても
同居親の心に届くことはあまりありません。
反発だけは確実におきます。
このような主張や面会交流調停申し立て自体が
同居親に対する嫌がらせだという入れ知恵をする人もいるようです。

裁判官でさえ、家裁月報の調査官の論文に対して、
「私はその考えをとらない」
等と平気で言い放つ人もいる始末です。
自分の衝動的行動を抑える訓練が必要だと
切実に感じる瞬間です。

ただ、裁判官が命じることによって面会が実現する場合もあります。
同居親の意思を無視して面会交流が実施される場合があるわけです。

こういった場合の少なくない事例で、
子どもたちは面会交流をすることによって傷ついてしまいます。

例えば同居親の反発の激しい中で試験的な面会が行われた場合、
子どもは別居親に会えて、一緒に時間を過ごすことができて
夢みたいに幸せな瞬間なのです。
私から見れば、会えなかった期間が嘘のように打ち解けて、
夢中になって遊び、
別れ間際は、何とも言えない切ない行動をとるわけです。

ところが同居親の後日の報告では、
面会をした後、子どもは情緒不安定になり
場合によっては吐き気や発熱が起きた
子どもは「もう会いたくない」、「しばらく会わなくてもよい」と言っている。
等とご報告されるわけです。

これはあながち嘘を言っているわけではなく、
本当のことである可能性が高いのです。

原因は何か
子どもの同居親への忖度(そんたく)なのです。

同居親が別居親への葛藤が高い等の事情で面会に納得してない場合
子どもに聞こえるように別居親に対する否定的な言動を吐かなくても
面会日が近づくにつれて、
同居親が嫌悪や怒り、恐怖の感情あるいは焦りを
隠せない状態になってしまうと、
子どもは、現在自分を保護している同居親に気を使うのです。
別居親をこれ以上動揺させたくないと思ってしまいます。

別居親と一緒に時間を過ごして
楽しかった
うれしかった
また会いたい
一緒にいたい
ということを
同居親に「言ってはいけない」と察してしまうのです。

私は面会交流時に、久しぶりに別居親が現れたときに
嬉しい驚きと、その感情を押し殺そうとする
なんとも複雑な表情をする子どもたちをたくさん見ています。

別居親に会えてうれしいのに、
同居親のことを気遣って、
うれしい気持ちを表すことをしてはいけない
と無意識の反応をしてしまっているのです。

子どもたちは自分の感情を押し殺すことを覚えていくでしょう。
楽しんでしまったことに罪悪感を感じてしまうでしょう。
あるいは、楽しいのに楽しいと言えない自分を責めてしまうでしょう。
子どもたちにとって面会が負担になる瞬間です。

せめて、同居親が子どもの前だけでも、
別居親と会うことは「子どもだから当たり前だ」
せめて「仕方がないから何とも思わない」
「うれしくないけれど、嫌でもない」
という態度をしてくれれば、
子どもの自分から離れた世界を承認してくれたら
子どもたちはこんな苦労をしないで済むのです。

だから、
同居親の意思に反して強行に面会を勝ち取ることは
子どもの健全な成長の観点からみれば
もしかしたら逆効果になることもあるかもしれません。

しかしあきらめるわけにはいきません。

子どもたちを
別居親に会わせないわけにはいかないのです。
子どもは会わないと色々なことを感じ、考えてしまい、
特に自我が確立する思春期の時期になってから
悪い影響が噴出します。
両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10

しかし、面会交流が正常に行われることによって
このマイナスの影響がだいぶ軽減されると言われています。

なんとしても面会交流を実現する必要があるわけですが、
法律で、裁判所任せではうまくゆかない。
そうすると
法律でこうなっているとか
こういうことが正しいということだけ言っているのではなく、
作戦を考えるべきです。

面会交流実現の最大のハードルは
同居親の感情だということになります。

私は、このような面会交流困難案件での
同居親の別居親の拒否感情の多くが、
同居時に、同居親が
「自分のことを自分で決めることができない」
という不安ないし焦燥状態にあることが
別居親への拒否感につながっているように思います。
特に母親が同居親になっている場合です。

このような心理状態は、
例えば妻が、何かをした場合、
食器を買ったり、子どもの塾の申し込みをしたり、
そういう場合に、夫が
それはダメだと常にダメ出しをして
眉間にしわを寄せられたり、大声を出して否定されたりして
どうしてよいかわからなくなり、
逆にあれをやれこれをやれという指図ばかりをして、
自分で自分のことを決めることができず、
自分のやったことや考えは否定され、
自分がしようと思わなかったことは召使のように強要されている
と感じ続けた末の感情ということだと感じています。
「指図とダメ出し」の結果の心理で、
一緒にいることが息苦しくなり、
息することさえも注意されるのではないかという
極端な心理状態になっているということです。

もちろん、そういう心理状態になる原因は様々です。
本当に夫に支配欲がある場合や会社の八つ当たりの場合もありますが、
夫の暴力や暴言がない場合も多く、
少なくても通常の夫の行動である範囲と言える場合が
ほとんどだと感じています。

夫側の原因というよりも
妻の方の少し病的な思い込みによる自滅の場合もあるし、
そんな状態で第三者の無責任なアドバイスによって、
あなたの不安や焦燥感という心理状態は
夫のモラハラが原因だと思い込まされる場合もあるわけです。

ただ現在子どもを別居親に会わせようと思っているときの問題は
原因がどこにあるかを突き止めることではなく、
そういう心理状態になっているという結果なのです。

別居親側が自分に原因がないから
同居親は子どもに会わせるべきだというのは
それはそうなのですが、
それは理屈であって
同居親のハードルを下げることはできません。

これが心の問題ではなく体の問題で、
足を怪我して歩行が困難になった原因が
ふざけて踊っていて足をくじいたのか
子どもをかばって助けようとして足をくじいたかにかかわりなく、
歩けないのだから家族が変わって家事などをしなければいけないわけです。

自業自得だから痛くても我慢して歩け
ということにはならないはずです。
心の問題も同じでしょう。

同居親の心理的状態が、少し病的なことが原因だとしても、
同居親のハードルを下げて子どもを別居親に会わせるためには、
別居親が同居親をフォローするしかないことは、
身体の問題も心の問題も一緒だとは考えられないでしょうか。

離婚を突きつけられても、あるいは離婚をしても
さらにはどちらかが再婚しても、
子どもがいる以上は、家族なのだと思います。
家族一人の状態が悪い時は
別の家族がカバーしなければならないのでしょう。

相手が自業自得だからと言って
子どもの面倒をだれも見ないという理屈にはならないはずです。

もし少し病的に相手が自分を毛嫌いしていたならば
こちらが相手をフォローして子どもの健全な成長を
守らなければならないはずだと思います。

ところが、
これを調停や裁判で、
法律がこうなっているから子どもを会わせなければならない
とか、
子どもへの悪影響があるから会わせなければならない
会わせないことは子どもの虐待だ
と「相手に向かって」正論で主張することは、
同居親からすれば
結局別居親からの指図とダメ出しとしか受け取らず、
役所や警察の言うとおり、
私は別居親からモラルハラスメントを受けていた
相手は自分に、あれをやれこれをやれ
これはだめだというその繰り返しをしている
としか思われないわけです。
相変わらず、同居した時と同じだ
やっぱり嫌だということになるわけです。

子どもを別居親に会わせることに近づかないどころか、
益々子どもを別居親から遠ざける結果になってしまっている
という耐えられない皮肉な状況に陥ってしまっていることになります。

それでも子どもを別居親に会わせることを
あきらめるわけにはいかないのです。

ところがそこには大きな壁があります。

別居親が同居親に対してフォローすることの一番難しい問題は、
別居親の感情です。

それはそうでしょう。当たり前だと思います。
わけのわからないうちに突然家からいなくなり
少なくない事例でどこに子どもたちがいるのかさえも分からないし、
近づこうとすれば警察が出動するわけです。

中には、家の現金や預金をごっそり持ち出して、
夫名義のクレジットカードで200万円を超えるキャッシングを
された事例までありました。
それでも婚姻費用の調停まで起こされるわけです。

さらには、弁護士から
あたかも自分が妻に対してDVをした粗暴な夫みたいに扱われたり、
いわれのない保護命令を出されたり、
調停に行くと、イヤホンとカムを付けた目つきの悪い職員が
自分が廊下に出るとうろうろしている
役所に行って子どもたちの住所の記載されている書類と取ろうとすると
「あなたに話すことは何もない」
なんて態度をとられてしまう。
まるでなんかの容疑者の扱いです。
こういうことが実際に多発しているのです。

まともな神経では耐えられない状況ですし
実際に抑うつ状態になり通院を始める人もいます。
自死も少なくありません。

そういう人たちに対して
そういうことをした同居親をフォローする必要があると
今私は書いているのです。
子どもを連れて逃げ去ることで
別居親を夫(妻)として、父親(母親)として、男(女)として、人間として
否定しているその相手を、
子どものためとはいえフォローすることが有効だと言おうとしているのです。
先ほどの身体的不具合と精神的不具合の最大の違いは、
相手がこちらを攻撃しているということがあるわけです。

但し、大切なことは自分の命です。
精神面からも命を落とすことがあるので、
今から言うことをしなくてはならない
という価値観を持っていうわけにはいきません。

もし、自分を捨てて
子どもを別居親に会わせて
子どもが最悪の状態にならないことを選ぶ
という場合に限定した話とさせてください。

腹が決まればやることは割と簡単です。
原因が、同居親が別居親からの指図とダメ出しばかりされて
自分で自分のことを決めて行動できない
と感じていることだとすれば
その逆をすることです。

先ず、指図とダメ出しだと受け取られることはしない
但し、
子どもと会うことはあきらめない
虚偽の事実は認めない
ということだけは毅然と主張しなければだめです。

誤った事実認定がなされてしまうと、
それが判決書として残ってしまうと
後々取り返しのつかないことになるからです。

同様に保護命令も法律の要件がない場合は
断固として命令を出させてはいけません。

さて
指図とダメ出しをしないと言っても、
別居してしまっている以上、
指図とダメ出しをする余地がないわけです。
ところがわずかの接点である裁判書類で
指図とダメ出しをしていた。

まず、無駄な非難はしないということ。
事実の違いだけを述べること

非難しないと言ってもそれはなかなか伝わらない。
指図とダメ出しをしないと言っても伝わらない。

つまり、逆のことを相手に伝えるということが
やるべきことになるということです。

つまり、
相手の行動を承認するということになります。
非難しないで承認するということです。

一番相手が不安に感じている自分のしたことは
子どもを連れての別居です。
別居に対して非難しないこと。
一次的な別居はやむを得ないという承認です
これを形にすることは婚姻費用を自主的に支払うこと、
家族なのだから費用を負担するという強烈なメッセージを与えるためには、
自主的に支払うことです。
私が受任後、最初にすることは
相手方に送金先の口座を尋ねることです。

(自主的に送金をした方が別居親にとっても結果的に良いことがたくさんあります。)

あるいは、荷物を送ったり、引き取りに来ることを承認することです。

その後、準備書面や陳述書を作成するときに、
相手の落ち度や、相手の主張が虚偽だということだけを言うのではなく、
積極的に相手を承認していたことを付け加えることが考えられます。

つまり指図とダメ出しの反対は、
感謝と謝罪です。
それまで言わなかった言葉を改めて言うということですね。
ここで嘘をついてはダメですよ。
良いところとこちらが改めるべきだったところを
必死になって探し出して述べるという作業になるでしょう。

同居親は別居親が「一方的に悪い」とは、
本当は思っていないことが多いようで、
謝罪と言っても自分の非をあげつらって謝り倒すのも
重くなるので逆効果のようです。

あの時こうしてしまったけれど
本当はこうすればお互い気持よく生活できたね
というトーンが良いようです。

現在、本当は自業自得かもしれませんが
子どもを育てているのですから、
子どもの親として感謝の言葉を述べることも
有効です。
飽きずにねぎらうこと
そして続けることが大切です。

これまで、私が知っているなかで一番同居親をののしった別居親は
プレゼント攻勢まで行いました
自分の本心を隠して相手を安心させたわけです。
別居は続きましたが、
調停を中止させ、子どもたちも帰ってきました。

とても利口な闘いだったと思います。
但し、こういう器用なことはなかなかできません。

もし面会交流や手紙のやり取りが許されているのであれば
それもチャンスです。チャンスは活かしましょう。
指図とダメ出しをしない
子どもたちを通じて感謝をする。
これは子どもたちにとっても居心地の良い空間を作る
特別な効果があります。

一方の親やそのジジババが他方の親の悪口を言う空間と
他方の親を配慮し気遣う空間
どちらが居心地がよいか考えればわかることです。
子どもが安らいだ時間を過ごせば、
誰に忖度することなく、自分の感情のままで行動できる体験をすれば、
その自由さ、自分の心に嘘をつかいことの楽しさは、
どんなに隠しても同居親は気が付くもののようです。
会わせることも「仕方がないな」と思う瞬間だそうです。

そうして、当事者同士は葛藤を下げようと行動します。

裁判所に対しては法律と子どもの効果を主張するわけですが、
今の裁判体や調停委員会の状態が一般論が足りない裁判所ならば
そこを追求する必要があります。
但し、局面では、どうにかして子どもに別居親を会わせようと
裁判官も相手を説得している場面では、
こちらの配慮を示すべきです。

そういう局面で一般論を叫んでいても
味方を敵に回すだけです。

相手の心のハードルを下げる努力を見せて、
何とかお願いするということを伝えてもらう
極論するとそういうことになります。
(初めからそれではだめだと思います。そういう調停の局面を作っておくことは必要で、そのためには、多少の裁判所との軋轢は覚悟する必要があると思います。しかし、敵に回さないようにしなければならないのはもちろんです。)

面会の条件を受け入れやすいものにする、
面会時のこちらの注意事項について、自主的に宣言する
相手が会わせやすいような場所や協力者を用意する
こういう労力の積み重ねがボディーブローのように
後々効いてくるようです。
(面会交流は、小さく産んで大きく育てる。そのためには実施後のねぎらいの継続が有効です。)

さあ、それができるかどうかです。
極端に理不尽な思いをしている別居親が
それでは相手の言いなりだと反発されることは
至極もっともなのです。

これをやれというわけにはいかないでしょう。
自分の気持ち、感情を大切にすることも悪いことではないでしょう。

ただ、大変なご苦労をして
自分の気持ちを殺してでも、
子どもをご自分に会わせたいという場合の
その方法について現時点のまとめを試みてみました。

せっかくの思いと覚悟がありながら、
無意識に逆方向の行動を起こしている方々のための
お叱り覚悟のメッセージです。

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離婚予防、家族再生、当事者の心を軽くする離婚の研究会こそ行われるべきだと考えていること [家事]

弁護士に相談すると、離婚を進められてしまうのは、
弁護士が離婚のやり方しか習わないからだと前に書きました。

あなたの妻が弁護士に相談すると離婚を勧められるのは、理由のあることでした。
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-02-08

しかし、本来は、弁護士ほど
離婚予防 → 家族再生の
ノウハウのデータを持っている職業はないはずなのです。

調停や裁判、示談交渉に限らす、
弁護士という第三者を入れて離婚をしようとしているのですから
離婚したい理由を言葉にして相手に伝える作業をしています。

これだけなら、カウンセリングルームや行政相談でもあることです。
しかし、弁護士は違いがあります。
相手の主張を聴く職業だということがとても大きな特徴です。

妻や夫なりの言い分を聴いて
相手方の言い分を聴く
そうすると真実というか、リアルなイメージが
少しずつ形成されていくのです。

子どもの話を聴くと益々リアルになっていきます。

ところがいっぱいいっぱいの弁護士だと、
自分の依頼者が言っていることだけが真実で
相手の言っていることは全てうそだというような聞き方をしますから
それでは、弁護士というアドバンテージを持つことはできません。

また、とにかく事件を終わらせればよいという活動の場合も
なぜ破たんに至ったのか等と言うことはあまり考えずに
依頼者側に有利な事情ばかりをクローズアップして主張するのかもしれません。

要領の良い人はそれですませることができるのかもしれません。

しかし、要領の悪い私のような弁護士は、
自分の依頼者の言い分をよく聴いて
相手方の反論もよく聴いて
どうしてこうなったのかということを依頼者と一緒に考えて
自分たちや子ども将来のために
どういう風に解決することが一番望ましいかを
一緒に考えることをすることが
当事者のためになる解決への近道だと思います。

もっともそこで
色々な人たちの言葉をうのみにしてはなりません。
どういう立場の人が、それを言うことによって
どういう効果を期待しているか
それも無意識の作業だということを
理解してお話を聴かなければなりません。

このブログで皆さんと考えてきたことです。
思い込みDVシリーズや
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-01-29
など、
人間は、無意識に行動しているということをしっかり把握すること、
そしてそれに気がつかないことも多いということで
では、人間の行動原理は何なのかということを考えることが
対人関係学の一つのテーマです。

だから相手が嘘を言っているという理解ではなく
相手が感じていることは事実だ
では、事実関係もないのにどうしてそう考えるのだろう
という風に話を進めていけばよいのです。

相手が嘘を言っているとして、相手の言動を否定するより、
そういう考え方もあるのだろうかな
という限度で認めないと
結局、第三者の裁判官に、自分たち家族の運命を
勝手に決められてしまうということを意識するべきです。

対立する相手との話し合いは
部分的承認を積み上げていく作業が不可欠になると思います。

少なくとも代理人の弁護士は、
このようなすべての人の話が本当だったら
という見方をすることができる職業だし、
人間関係の解決まで視野に入れた場合は
そうするべきではないかなと考えています。

みんなその人なりの根拠を持っているような気がします。

そうすると、当事者の方々の感情がすれ違っていることが
偶然に左右された悲劇的結果であり、
切ない話であることが多いように感じられるわけです。

最初のボタンの掛け違い、
何に気が付くべきだったのかという
数学の図形問題の補助線みたいなものが
不思議と見えてくるものです。

そうすると離婚や、対人関係紛争の
予防について、まとまった考えを持つことができるようになると思います。
誰だって、このような切ない悲劇を
未然に防ぎたくなるものではないかと思います。

そうして、補助線が見えてきて
無意識に傷ついているイメージが見えてくると
一度壊れたものでも、
少しずつ修復をすることが可能なのではないかと
考えるようになるのは、私だけではないのではないかなと
思うようになっています。

当事者の望む着地点ではないかもしれないけれど
今やっている何が悪いのかということが自覚できれば
今よりは良くなることは当然のことだと思います。
ところが、
そういう視点が無ければ
離婚調停や裁判を
やればやるほど関係が悪くなるだけということになります。
悲劇の後押しをする過程になってしまいます。

仮に離婚が避けられないとしても
関わり方次第では
双方の心が軽くなる離婚の方法もあるのではないかと
思えてなりません。

当事者に輪をかけて弁護士が熱くなっていたのでは
第三者が入る意味がないのではないかとも感じ出しています。

現在弁護士の勉強会は
如何に離婚を進めるか
離婚を前提として何をどのくらい請求するのか
というようなことでとどまっているような気がします。

それが弁護士の役割なのでしょうか。
そうだとすれば少し寂しすぎはしないでしょうか。

離婚予防や、家族再生、
当時やの葛藤を少しでも鎮める離婚の
方法論を検討する学習会があってもよいのではないかと
お話しさせていただいた次第です。

弁護士以外の職種に呼びかけた方が早いのでしょうか。


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相手を憎むから不幸になるということ 十数年子どもと会えなかったお母さんから学んだこと [家事]

十数年間子どもに会えなかった母親からお話を伺う機会がありました。
その母親は子どもを連れ去ることをせず、
色々あって父親に子どもを奪われた形になっていました。
そして十数年間、一度も会えずに過ごしていました。

その間母親は、将来子どもがこちらに来ても良いように
コツコツと仕事をし、
コツコツとキャリアをアップさせてゆきました。

子どもは年端もいかない幼児ですから
母親の記憶などないわけで、
とても頼りない話だったと思います。

しかし、子どもは母親を頼ってきました。
その時は来たのでした。
努力の成果で子どもの力になることができたというのです。

持ち前の能力が寄与したことは間違いありませんが、
「だらだらと年月を重ねること」を
それほど厭わないで、信じて前を向いていた
という姿勢が功を奏したようでした。

子どもも独立し、現在も良い関係を保っているようです。

まあこういう話をすると、
渦中にいる当事者の方々の中には、
気休めにもならないということをいう人もいます。
その気持ちはそうなのでしょう。

しかし、こういう事例も現実にはあるのだということを知っていただくことで、
ご自分の過酷な現在を
未来につなげて考えるようになる人もいることも事実です。
このお母さんもそうでした。
私の仕事をご存じで、
そういう方々に伝えてほしいとお話ししてくださいました。

もう一つ、お話しするべきだということがありました。
実は、子どもが母親のもとに戻ってきたことには理由がありました。

子どもの母親と父親が離婚してから父親は再婚したのですが、
父親は母親を憎み続け恨み続けていたようです。
子どもを母親から取り上げてもなお
母親の大事な時期にストーカーまがいのことまでしたようです。

そんな父親の母親への憎悪は子どもにも伝わり
子どもへもダイレクトに負の感情がぶつけられる
ということもあったようです。

父と子の仲が悪くなり、
十数年も子どもを取り上げてきたのに、
子どもを持て余して母親に押し付けてきた
母親側からすればそのような形でした。

一般的に父親にしても母親にしても
離婚に伴って子どもにあえなくなる場合
絶望的な気持ちになる人を多く見ています。

すぐに子どもだけが戻ってくるという例もありますが、
多くは子どもに会えず、
家裁の調査官の報告書などで
「今は会いたくない」
と子どもが言っていることを知らされるなどして、
なかなか子どもに会うこともできない場合も少なくありません。

家裁の手続きの中で絶望が深まるということも少なくないようです。
そうして、自分はこのように孤独に苦しんでいるのに、
相手は子どもと楽しく生活しているのだろうということを考え、
ますます苦しくなるようです。

しかし、今回の事例に限らず、
子どもを引き取った方も苦しんでいる場合が少なくなく、
再婚をしてもなお、相手に負の感情を抱いているケースがあるのです。
男性の場合は、怒りや憎悪のことが多いようです。
女性の場合は、恐怖や嫌悪の場合が多いようです。

しかし、今回お話を伺った母親のように
相手に対する負の感情にとらわれることなく、
淡々と今自分ができることを行い、
充実した現在の生活を送っておられる方もいます。

この差はどこにあるのでしょう。

一つはきちんと気持ちの上で離婚できたかどうか
ということになると思います。

きちんと離婚できたというためには、
その後の相手の人生と自分とを切り離すことができることです。
もう他人なのだから、相手がどうなっても
他人ごととして徹底できるということが必要です。
感情はどうしようもないけれど、
頭で理解して、行動ではとらわれないということなのでしょう。

もう一つ、子どもに対して、
子どもを通して相手を感じずに、
子どもを一人の独立した人間と見ることなのでしょう。

これは同居親の方は苦労するようです。
どうしたって、相手に似てきますから。
顔が似てくる、声が似てくる、
記憶がないはずの別居親に、話し方がそっくりだとか
ということが実際あるそうです。

相手に対する負の感情にとらわれていると
子どもを相手と同一視してつらく当たってしまうようです。

一緒に住んでいる子どもとの軋轢が大きくなることは
双方が幸せになることができなくなります。

最初は自分が被害者という意識があったから相手を憎むのでしょうが、
そのうちは、相手を憎むから自分と子どもが幸せになれない。
という風に変わっていくものなのかもしれません。

こういう時
子どもを確実に助けることができるのは、
子どもと離れて暮らす方の親です。

居場所がないと感じていた同居親から離れて、
自分を無条件で受け入れてくれる親がいるということは、
どんなにか安心することでしょう。

私はアンデルセンの醜いアヒルの子が
本当は自分は白鳥だったと気が付くときの気持ちに
似ているのではないかと思います。

ここまで極端に同居親との関係が悪化するケースでなくても、
子どもは、潜在的にもう一人の親とあって確認をしたいようです。

子どもは自分で自分の運命を決めることができず、
親によって一方的に決められた運命を受け入れているのですが、
色々な調査研究からすると、
子どもは、自分が望んだ親との別離でないことから、
別居親に自分は捨てられたと感じるもののようです。

ここが、自分に自信がなくなり、
自分を大切にできなくなるポイントです。

でも、心の中では、自分が捨てられたはずはないと思いたいのです。
だから、行動が不安定になることがあります。

ちょうど過労死事件で、
母親が働きすぎて体が悪くなり出張先の病院で急に亡くなった
という事案がありました。
お子さんはずいぶん後まで、
母親が自分より仕事を選んだんだと
荒れた生活をしていたようです。

このお子さんは、母親が亡くなってしまいましたから
そうではないということを母親に確認することはできませんでした。

離婚事件の場合は、
子どもはその誤解を解くことができます。
その誤解を解くことができるのも別居親です。
子どもは無意識に、別居親と一緒に過ごしていない罪悪感があるようです。
怒っていないよと安心させるのも別居親です。
また、子どもために生活環境も整っているということでも
子どもも安心するでしょう。

ただ、
そんなことにならないことが一番です。
離婚したとしても、
子どもがそのような自分を否定するようなことのないよう
のびのびと自信を持って生活するように
子どもをもう一人の親とできるだけ自由に
一緒の時間を過ごさせるべきです。

そもそも離婚にならないように
家族を意識的に作っていくということが大切です。

しかし、不幸にして、
子どもと切り離されたとしても、
子どもは、別居親を必要としていますし、
別居親に頼らなければならない時も出てくるのです。
子どもために、別居親しかできないことがある。

事実を持って語ってくれたお母さんから、
多くのことを強烈に学びました。


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これから結婚する人や新婚さんに言ってはならない呪いの言葉は、「最初が肝心」 NOコミュニケーション2 [家事]

結婚が決まった人にお祝いをするとき、
「尻に敷かれないためには最初が肝心だぞ」とか、
「夫の横暴を許さないためには最初が肝心よ」
とか言うことを先輩風を吹かせていっている人を
見たことがあると思います。

このように夫婦のどちらかが主導権をとるものだ
相手にとられると苦しい、
だから最初から主導権を取れ
というアドバイスほど百害あって一利なしのものはないでしょう。

新婚ほやほやの時に
これを真に受けて威張りくさる人はいないでしょうが、
(めったにいないでしょうが?それほどいないでしょうが?)
長い時間二人きりでいるようになると
「あれ?あれ?ちょっと・・・」みたいな時が出てきます。

そういうときそういえば、あの時言われたなあ。
みたいに思い出して、
主導権を取ろうとして
相手の気持ちを無視したり、否定したりして
話をややこしくするようです。

子どもが生まれた後とかが多いですかね。

どちらかが主導権をとるという観点は、
本来チームであるべき夫婦に亀裂を生むものです。
つまり、二人で一つのユニットなのに、
二人しかいないメンバーの中に
対抗心を注入してしまうものです。

本来利害共通でよいのに、
相手の言い分を押さえつけて自分の言い分を通しやすくする
ということですから、
利害対立の構造ができてしまいます。
まさに呪いの言葉なのです。

結婚するときは、特に結婚したばかりは、
お互いに、自分の意見、感想を自由に言える状態にするための
雰囲気を作るとか、ルールを作るという工夫こそするべきなのです。

こまめに言いたいことを言うということが
長続きするための必須条件です。

こういうことを我慢して言わない人がいます。
どうなるでしょうか。
だんだん、自分のことを自分で決められないという不満が蓄積し、
ある時耐えられなくなって爆発するわけです。

ヒステリーを起こしたり、大声を出したりするなら
まだましなのです。
結局言いたいことを言いますから
ある程度気持ちが軽くなるわけです。

それができない人は
ある日、相手にわからないように
共同生活に終止符を打つわけです。
家に帰ったらもういなかった
ということが実際に起きています。

違和感をこまめに口に出して、
簡単に是正するべきことは是正して
思い違いをしているなら考えを修正して
チームを維持することの方が
理性的です。

問題は、こういうことを言ったら傷つけるだろうかとか
こういうことを言ったら怒るだろうか
という遠慮をどのように克服するかなのですが、
前回お話ししたNOコミュニケーションの訓練なのです。

①何が嫌なのか頑張って特定する。
②どうして嫌なのか頑張って説明する。
③自分は悪くないけれど、ごめんねとかお願いねと付け加える。

これがNOを言う方の心構えです。

言われる方の心構えは、
自分の人格が否定されているわけではないという理解、
相手がNOを言うのは、関係を維持するため
つまり二人の仲を長続きさせたいと思っているということ、
NOと言ってもこちらが理解するだろうという信頼を寄せてもらっていること、
教えていただくという気持に双方なること
配慮があれば感謝すること、
どうするべきかとか、どうするのが合理的かではなく
相手の気持ちが自分の行動を決める一番の要素だと思うこと
こんな感じですかね。

そうして、NOコミュニケーションが穏便に成立したら
プチお祝い会をするというのもよいでしょう。
将来の破綻を回避した二人にとってはとても有益な出来事だからです。

何でも言える、何でも言われてよいという関係を作ることこそ
居心地の良い、帰りたくなる場所ということになるでしょう。

こういう関係を作ることに一番有害なのが
最初が肝心と言って
相手の気持ちを否定することだということは
結婚している人ならだれでもわかることだと思います。

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弁護士は家族トラブルなどの場合、もっと警察(生活安全課)に足を運ぶべきだ。 [家事]




先日家庭内トラブルの案件の仕事で新幹線に乗りました。
その地に住む依頼者と一緒に、他県の警察署の生活安全課を訪問するためです。
依頼者の相手方が警察に相談していたという情報があったので、
面談するべきだと思ったからです。
私にとってはいつもの普通の業務です。

犯罪をしてしまった人を担当する警察の部署は
刑事課という部署ですが
防犯、女性や少年の保護、その他の事案を扱うのは
生活安全課という部署です。
(ちなみに刑事課と生活安全間の警察官が刑事ですね)

私は、離婚、別居、面会交流の事案を多く担当しています。
依頼者の妻が家を出て
警察、生活安全課に相談していることが多いということもあり、
よく警察を訪問します。
できるだけ早く、依頼者を連れて生活安全課に行くようにしています。

警察に行く弁護士側の一番の目的は
警察に中立になってもらうことです。
家族間の紛争には、可能ならば公権力は入らないでほしいのですが、
それがだめなら、一方の利益で動かず、中立になってもらいたい
そういう思いがあります。

警察が間違った介入をすることは弊害が大きいです。
精神的に問題のある一方当事者の話を真に受けて
二人の関係を収拾のつかない状態に持っていくということがあります。
警察が味方しなかったほうは
行政や世間から犯罪者のように扱われてしまいます。
精神的なダメージが強く、重いうつ状態を招きます。

そればかりではなく、
子どもがどちらかの人質に取られた形になり、
長期にわたって精神的に不安定な親から逃げ出せないで
苦しみ続けるという事案が起きるからです。

しかし、こういう一方に利益が生じて
それ以外の当事者に弊害が大きく出るということには
構造的な理由があります。

犯罪をしたというのであれば、
警察は被疑者としてですが、
その人を呼び出して、その人から話を聞きます。

ところが、そういう犯罪としては取り扱わない
家庭内暴力、特に精神的暴力などの場合は、
被疑者としては扱いませんので、
対象者から話を聞くということがないのです。

ただ、防犯対象者として観察を続け、
何かあれば、すぐに出動して身柄を拘束したり
被疑者にしてしまうわけです。

これは、一方の側からだけ事情を聴くということから
不可避的に、どうしても起きてしまうことなのです。
警察官を利用して相手を遣り込めようという場合でなくても、
一方の側が感じた事情を一方的に聞くということですから、
誤りや、大げさや、勘違いや、ニュアンスの違い
ということがありうることです。
これが一つ。

もう一つは、話を聞くだけではなく、
一方当事者だけの顔を見ている、
苦しみや悲しみの表情を見ているということも大きなことです。

顔を見れば、人間は共感してしまう生き物です。
なんとなく、こちらを助けようという気持ちになるのです。
特に正義感の強い警察官は
困っている人を助けようと思ってしまいます。

その二つ、一方の主観に基づいて事案を把握することと
相談者の顔しか見ないということから
相手に対するイメージがとてつもなく悪い人間だというイメージを持ってしまいがちになる。
これが人間です。

精神的DVなんて言う暴力のない事案の相談の場合さえも
頭の中のイメージは、なたをもって妻を追いかけまわす
狂暴な夫のイメージを抱いている可能性があるわけです。

だから、もう一方の当事者である自分の依頼者本人から事情を説明させ、
本人の顔を見せることが重要なのです。
「あれ?イメージが違うな。普通のヒトっぽいな」
と思わせることができれば成功です。

そのために弁護士は何をするのでしょうか。

私の場合は、まず、事前にいついつ行くから対応してくれと
電話で予約を取ります。
ここで、多くは、「なにしに来るんだ」ということを言われます。

ここで中立になってもらいたいために行くのだ
ということをいう馬鹿な弁護士はいないと思います。
目的を聞かれているのではなく、
警察に来て、何を話すのだ
ということを聞かれているのです。

この時、警察のほうにも利益があるということを
アッピールしなければなりません。

警察の介入する目的は、一言で言えば防犯
危険の未然防止にありました。
だから、危険が存在しない、警察に協力する
ということをアッピールすることになり、
それは、双方利害が一致することなので
警察も訪問を拒否することができない
というところを説明しなければなりません。

ここでもそれをそのまま言う弁護士はいないと思いますが、
一応念のために電話の話し方を説明しますが、

当事者の家庭の問題に
公務とはいえ他人に介在してもらっているのだから、
家族が世話になっているということです。
だから、世話になっていることに対する感謝と
ご迷惑をおかけしたことの謝罪が第一の目的になる
ということは、世間の常識です。
(これはいろいろなところに訪問する目的になります。)

それから、こちらの把握している事情を説明したい
という事案解明についての説明も
公正中立という建前から拒否しにくい内容となります。

これを弁護士が代理する目的としては
一つは、主観的に口論をするのではなく、
一歩離れた全体像を把握して説明するということ、
相手方の言うように感情のままに怒鳴り散らす人間ではなさそうだ
という安心感と
何かあったら弁護士が制御するという安心感を与えることです。
(まあ、それほど心配していないでしょうけれど
 クレーマーみたいな人が来て抗議すると言えば
 忙しいから来年にしてくださいと言われることの反対をするのです)

予約の時間に遅れないように弁護士は依頼者を同行し
生活安全課に行くわけです。
総合案内のない警察署も多いため、
事前に聞いておくと生活安全課に直接来てください
と言われることが多いようです。

時間をとっていただいたことを感謝し、
本人に感謝と謝罪をしてもらい、
弁護士が把握している全体像を説明していきます。

きちんと依頼者の一番知られたくないことを知っていないと
争点把握ができないので、説得力はなくなります。
事情聴取はきっちり行っていなければなりません。

この時、相手方が虚偽の事実を言っているだろうなと想定できるところは
反対事情の裏付けをきちっと提出できるようにしておくべきです。
医師の診断書なんかはよく持って行きますし
コピーを用意していくことが多いです。
それから、スマホのラインやショートメールの画像は
すぐ出るようにしておいて、
プリントアウトしたものを渡せるようにしておくとよいでしょう。

真実がこれだと見せると
大変驚かれることが度々あります。
無ければ、信用されないままなのだと考えると
結構怖い思いをします。

警察官の仕切りを邪魔しない程度に
弁護士が話すわけですが、
当事者はなかなか理路整然と話すことはできません。
自分のことですから当然です。
また、当事者の意見はこうだけど弁護士としてはこういうふうに見ている
ということを話すことも有効でしょう。

ここでどっちが悪くて、あるいはより悪くて
こちらはむしろ被害者だとかいうことは
警察はあまり興味がないでしょうし、デメリットだけしか残らないでしょう。
この意味であくまでも目指すのは中立だということは
何度も意識する必要があると思います。
警察が興味があるのは、防犯です。
危険はありませんよということさえ言えば良いのです。

そして、当事者には、反省するべきことはしっかり反省してもらう。
これが大事です。
悪いと思っていなければまたやるのだろうと思うわけですから
自分の悪いところは自覚している
ということが大切です。

それから、どのような形で修復を考えているか
警察の方から見てどう思われるだろうかという
フィルターを付けて考えることは後々も有効です。

所要時間は1時間弱ということが多いようですが
時間は十分とっておいたほうが良いと思います。
時に待たされることがあります。

生活安全課の職員は、
各警察署でも人当たりの良さや頭の良さ勉強熱心の
エース級をそろえています。
勉強をしていますし、
現場を見ていますから、
実感と実態に即して話せばわかっていただけることが多いです。
加えて情がありますし、家族の再生も
他の公的機関よりもよほど考えてくれています。

上から目線ではなく、
私は、相談させていただきに行くという感じでお話ししています。
家族再生のヒントになるようなことをよく言ってもらっています。

こちらが相手を心配している事柄について
冬にあまり冬服を持たずに別居しているとか
生活費を送りたいとか
そういう事柄ならば、相手に連絡してくれることがあります。

ここ5年の直接面会して話した事例では
あまり悪い思い出がありません。
(電話だと一般論で押し切られてしまったことがありますが。)

先日の訪問では、
温かい言葉もいただき、依頼者も感激していました。
気になった言葉もあります。
防犯対象者から警察に来ることはまずないと
私たちが来たことに驚かれたことです。

これは警察の方からではなく当事者方の何人かからですが
自分も警察署に弁護士の何人かに同行を依頼したけれど
誰一人応じてくれなかったということを聞きました。

警察への同行は弁護士でしかできない仕事だと思います。
積極的に生活安全課だけでなく、
弁護士は警察署に同行するべきではないかと思って、
この記事を書いている次第です。






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一人暮らしの高齢者のかんぽ生命被害の実例から考える高齢者問題 身近な将来の自分たちの問題 [家事]



特に地方などでは、
都会に出て就職したり、しょっちゅう転勤したりと
年老いた親と離れて暮らす人たちが多く、
親もどちらかが亡くなる年齢になると、
高齢者が一人暮らしをしているケースが多くあります。

子どもからすると親の健康問題が一番の心配事ですが、
今話題のかんぽ生命の、必要のない保険加入で貯金がだいぶ減ったとか
不必要な消火器や高額布団、貴金属の購入、
そしてオレオレ詐欺というか特殊詐欺ですか、
一人暮らしだとそういうことの被害にあっているのではないか
という心配もあります。

そうかと思うと、近隣トラブルを起こしていたり、
万引きをして警察沙汰になったりと
後は自動車運転トラブルですか
被害の心配だけでなく加害者になる心配も出てきます。

何とかしなくてはと思うのですが、
自分たちの生活で精いっぱいで
どうすることもできないということで、
「あまり考えないようにする」ということしかできない
ということもリアルな話のような気がします。

不安をあおるようなお話になるのですが、
原因を考えて実現可能な対策を立てる必要がありそうです。

かんぽ生命の不必要な契約については
少し前から相談がありました。
事情があって一人暮らしをしていた高齢の父親が
必要のない保険に次々に加入して
莫大な保険料を払っていたというものです。

ところが、事件にはなりませんでした。
父親本人が被害にあったことを認めなかったからです。

どうやって必要のない保険に加入して
無駄な保険料を払わされていたのでしょうか。
どうして父親は自分が被害者であることを認めなかったのでしょうか。

高齢の父親は自宅で一人暮らしをしていました。
若い時は、固い仕事についていて、それなりの地位にありました。
心身とも年齢の割にはしっかりしていました。
一人で暮らすには十分な年金も支給されていました。

毎日が休日で、一日が長く感じられたことでしょう。
誰かと話をする機会もなく、
電話でのやり取りもそんなに頻繁にというわけではなかったようです。

そんなとき、郵便局からかんぽ生命の勧誘に
職員が来るようになりました。
おそらく久しぶりの人間との会話が
高齢の父親にとっては楽しかったと思います。

また、子どもたちのたまに来る電話は
心配のあまりなのでしょう
食事のこと、火の始末のこと、薬のこと
あれをやってはダメだ、これをこうしろと言う
さしずとダメ出しばかりで面白くない電話が
多かったのかもしれません。

勧誘をしに来る職員は
色々なことをほめてくれるわけです。
やれ男の高齢者にしては家がきれいになっているとか
元気そうでうらやましい、自分は生活習慣病でとか
働いていたときに、周囲からちやほやされた感覚が
よみがえってきたのかもしれません。
さりげなく、年金の金額や、貯金額なども
うまく聞き出していたかもしれません。

もしかすると、職員は、相手の感触が良ければ、
わざと保険の話をおざなりにして、
趣味の話を聞き出すなどして
話の糸口をつかもうとしたのかもしれません。

そうしてたびたび勧誘に来るようになると
一人暮らしの高齢者は
職員を取引相手だとは見ないようになり、
話し相手だと認識するようになります。

こうなると職員は、
保険内容を説明するよりも、
自分のノルマのことなどの話をどこかに刷り込んでいたかもしれません。
高齢者から見れば、
保険を契約することで、話し相手を助けることができる
という気持が芽生えていたかもしれません。

人間は「だれかとつながっていたい」
「群れの中に帰属したい」という本能的な要求を持っています。
これは、「仲間の役に立ちたい」という気持になって現れることがあります。
高齢者は潜在的に仲間のために役に立ちたいと
感じていると思うべきなのかもしれません。

ここで職員は、殺し文句を発するわけです。
この保険が下りることによって喜ぶのは
お子さんやお孫さんですよと
「お孫さんのために保険をかけてみてはいかがでしょうか」と

そう言われてしまうと
自分が何かの役に立つことができる
孫や子供が喜ぶことをすることができる
という人間の本能的な要求を刺激されてしまうわけです。

さしずやダメ出ししかしない相手だが、
なんだかんだ言って俺の子どもだ
俺が子どもや孫のために何とかしてやるんだ
という意識はとても幸福なものだったでしょう。

そして、目の前のこの人も助かる。

高齢者は、まるっきり騙されているように見えても
だまされているかもしれないということは薄々感じているようです。
それ程自分に自信があるわけではありません。
相手に自分と話をするメリットが無ければ
もうここには来ないということを知っています。

(高齢者の法律相談で、相談される内容として
遠く離れて音沙汰のない子どもよりも
毎朝声をかけてくれる近所の娘さんに遺産を渡したいと
まあ、イメージで言えばそんな相談類型が多いのです。)

一度契約が成立すると
職員が焦って頻繁に訪れない限り、
あとはどんどん契約をしてくれる
そんなことが起きていたようです。

おそらく高齢の男性にとって
無駄な保険料は保険料として支払ったというより、
話し相手に対する小遣いみたいな感覚だったのかもしれません。

また、現金を支払うわけではなく、
郵便貯金通帳からの引き落としなので、
どのくらい財産が無くなっていたのかは
通帳を記帳しなければわかりません。
その高齢の男性は、記帳しにいかなかったので
ずうっと貯金が目減りしていたことが分かりませんでした。

ある時公共料金の引き落としができなくなり、
子どもたちの知るところとなって、
この問題が発覚したというのが経緯です。

だまされたことを認めることが怖くて
通帳記帳をするのが怖かったのかもしれません。



このケースでは、お子さん方が皆さん遠方にいらっしゃった上、
今更同居ということもなかなか難しい事情がありました。
自分たちとしてはほっといているわけではなく、
気持ちの上では常に気にかけていたこともよくわかります。

ただ、高齢の父親としては、
自分の存在が忘れられているのではないかという
そういう無自覚の寂しさがあったようです。

例えば読書や釣りや映画鑑賞という趣味があっても、
それだけでは人間は生きられないようです。
誰かのつながりの中で
尊重されて生きていきたいという要求があるようです。

ただ、誰かと一緒にいればよいというのではないようです。
だから、老人のための施設に入っても
介護の対象となるだけの人ということでは、
孤独は解消しない危険があります。
むしろプライドを傷つけられるということが起こりそうです。
何らかの役割を与えられた方が
生き生きとするのかもしれません。

まだ、子どもと同居しても
さしずとダメ出しの会話しかなければ、
あるいは家の中に住んでいても
家族の外に置かれていたのでは
孤立感が拡大すると指摘する
自死対策の専門家の医師も指摘します。

同居や施設入所をすればよいというものではない
ということが言えそうです。
ここでも、家事や体調変化等で「死ななければ良い」
という考え方が、
人間として生活する喜びの追及を邪魔するようです。

お金をかけるとか、無理して同居するよりも
理想を言えば週に一度泊まりに行って
世話になるということが良いようです。

食事を作ってもらったり、
話を聞いて勉強させていただいたり、
世話になるということが良いようです。

仕事の話、家族の話
なんでも良いし、繰り返し同じことでも良いでしょう。

帰る時に
「ありがとう、また来るね」と言える過ごし方が理想です。
言葉で説明すれば、
親が自分にしてくれたことをねぎらう言葉を発するということです。

週1度は距離や家族の状態でなかなか難しいのですが、
月1度、2か月に1度
できるだけ直接会うことが大事なようです。

電話や動画電話も良いように思うのですが、
すぐに飽きてしまうことも多いようです。
高齢者の方が役割を発揮している意識になれないからです。

あくまでも実際の面会の「つなぎ」として考える方がよさそうです。
また、用事が無くても週に1度以上
決まった時間に電話をするということも良いようです。
この時は短い電話でもよいので、定期便はお勧めです。
今日は電話が来る日だなということで
あるいは明日は電話が来る日だなということで
安心することもあるようです。

自分が生きていくだけで大変な世の中なのですが、
高齢者になることは
運が良ければ誰にでも起こることです。
つまり、近い将来の自分のことなのです。

自分の将来が少しでも寂しくならないように
親を生きた教材として、
人間を大切にすること
自分が大切にされることの
訓練をするということであり、
自分が死んだあと子供や孫が
大切にされるための実践的練習なのかもしれません。

自分の親の共同作業になることが理想なのだと思います。

同居できないからと言って全て諦めないで
現実にできることはいろいろあるのかもしれません。

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「子の連れ去り」からの家族再生の開拓者たち。正しい夫からの卒業に挑む。思い込みDVシリーズ [家事]

私の場合、通常は「子連れ別居」という言葉を使うのですが、
今回は、「それにもかかわらず」感を出すために子の連れ去りと表記しました。

<家族再生派が増えていることとその理由>

ある日夫が仕事から帰宅したら妻も子も家にいない
もしやと思って実家に行くと警察がやってきて夫を制止する。
どこに行ったか分からないケースも多い。
やがて、保護命令や離婚調停の申立書が
裁判所から届き、
子どもに一度も会えないまま離婚になり養育費だけは支払わなければならない。
そんなケースが多発しています。

こういう場合、夫としては調停で怒りをぶつけて
最後まで法的に争うか
全て諦めて相手の言いなりになってしまうか
極端に言えばどちらかであることがこれまでの多数でした。

ところが最近家族再生を志向する夫が増えてきました。
なるべく話し合いで解決しよう

妻をできる限り安心させて、
せめて子どもとの面会交流を充実させよう

という方針の夫たちです。

理由は、子ども会いたいからです。

どんなに正論をぶつけて真実を立証しても、
妻が子どもを会わせることに協力しないと
現実には子どもと会うことができません。

裁判所で審判をもらっても
なんだかんだ言っても
やはり母親が頑として子どもを会わせなければ
会えないわけです。

面会できても、子どもも母親と父親の板挟みになって
苦しそうにしています。

そもそも、本当に真実に従い、
子どもの利益を考えた審判が出ると
信じ切るわけにはいかないという実情も大きいです。

自分と子供という大事な関係を
他人の判断に任せることはできない。

自分のできる限りやれることをやる
出来れば妻ともやり直したい
と考える夫が増えてきています。

そのためには、争わずあきらめず 家族再生の努力をするという選択をするわけです。

<家族再生夫の戦略>

家族再生派の戦略は妻を安心させること
先ずはこれに尽きます。

妻が自分のもとから去る理由が
自分を嫌悪しているからないし怖がっているからだ
ということを認めます。

但し、妻が怖がるのは自分が悪い場合だけではない
ということを腹に落とします。
*1
但し、但し、自分が「悪く」なくても、
自分の行為によって、妻の感情は悪化するし、
自分の行為によって、逆に妻の感情も緩和する

と考えるわけです。
意見の対立する相手にこちらの結論に同意してもらうためには、
結論を押し付けてもうまくいかない、
相手をこちらの結論に誘導することが必要だ
*2
そのためには、こちらが自分の行動を修正してみせる
それしか方法がないだろう
それがこちらの戦略です。

<思い込みDVの妻の不安の形>

ここから先は思い込みDVの事例を念頭にお話を進めます。

思い込みDVとは、
客観的には身体的暴力も言葉の暴力もないのに、
妻が何らかの暴力を受けていると感じているケースを言います。

その理由で一番多いのが「夫の正しさ」です。
結論からいうと
夫が正しいので、妻は
自分のことを自分が決められなくなる
これが不安を産む一つの大きなポイントです。

夫の正しさが息苦しさを生む構造は
後注で述べます。
*3

ただ、ここで押さえていなければならないのは、
正しいことを言う、相手の誤りを正すという場合は、
自分でも意外なほど、
相手に対して過酷な対応をしていることが多いということです。
相手を馬鹿にしたり、軽蔑したりしているように
受け取られてしまいがちだということです。

そして、厄介なことに、
自分では正義を実現しようとしている
という自覚がありません。
どうやって自分の気持ちを知るかというと
言葉でしかわかりません。
こうするのが「当然」でしょう
こうするのが「常識」だよ
「当たり前」、「普通は、」

これを言われてしまうと
妻は常識がないつまり非常識
普通ではなく異常
軽蔑されても仕方がない人間だ
と言われているようなものです。

当然仲間から普通以下だとか常識外れなどと
非難を受けたくはありません。
言われないようにしようと思うのです。

だから、これから何かしようとしたときに
例えば食事の準備の買い物をしようとか
子どもに服を着せて外出しようとか
一つ一つのことをしようとするときに
夫の小言を思い出して
ああ言われたらどうしよう、こう言われたらどうしよう
と思い悩むことが積み重なってしまうのです。

夫の言っていることがなんとなく正しいですから
だんだん自分が間違っているような気持にもなります。

その上で、あれをしろ、これをしろと
しないとまた普通ではない常識ではない等と言われると
一日中、夫から文句を言われないように
自分の行為を点検をしながら生活しなければならなくなります。

これは精神的に参ってしまいますし、
もう解放されたいという気持になっていってしまうことは
イメージできるのではないでしょうか。

ここまで極端に矢継ぎ早な指示とダメ出し
をしているわけでは実際はないのですが、
妻の側に事情があって
不安になりやすい状態の場合は、*1
一つの言葉でも、頭の中をいつも占領している
という状態になることがあるわけです。

<再生派夫の具体的行動 妻を安心させること>

一言で言ってしまうと、

指図(さしず)とダメ出し

が、妻を苦しめるということを
大きな柱として押さえておくことが必要です。

次に、別居してしまうと今更、指図とダメ出しはできない
と考えがちなのですが、
これがそうではない。

例えば調停などをしていると
陳述書や準備書面で相手に指図とダメ出しをしてしまう
ということがあります。

別居したことを責めること
例えば理由がないとかわがままだとかですね。
一人で子どもを育てることで子どもが幸せにならないこと
連れ去りだ、拉致だと責めることです。

責めないまでも、子どもにとって父親からの愛情が必要だと
教えさとすことです。

これらは、連れ去られた夫が一番言いたいことです。

「一番言いたいこと」をあえて言わない。

これをまた夫から言われてしまうと
妻は、夫はあいも変わらず指図とダメ出しを繰り返そうとしている
私は夫と会いたくない。同じ場所で息をしたくない
ということになっちゃうのです。
夫が「一番言いたいこと」は
妻が「一番言われたくないこと」だからです。
ここに最初の矛盾が登場します。

どうしても必要があれば代理人弁護士に言ってもらうとか。
調停委員会との内部調整でお願いするということになろうかと思います。

特に調停委員会が妻側を説得して子どもを父親に会わそうとしていて
議題はどうやって会わせるかということに移っているのに、
面会交流の必要性を話しを続けることは、
委員会に対しても窮屈な思いをさせてしまい、
なるほど奥さんは夫が嫌なんだなと印象を作ってしまうという
デメリットしかありません。

夫がやるべきことは妻を安心させること
指図とダメ出しをしないということを理解してもらうこと
それなのに、一番言われたくないことを言われることは
逆効果以外の何物でもないのです。

おそらく調停の議題は、
こちらは面会したい、するべきだ
相手は会わせたくないということなので、
「会わせるか会わせないか」ということで停滞することが多いです。
しかし、かまうことはありません。

「どうやって会わせるか」という議題に正々堂々とすり替えましょう。
つまり、子どもを会わせるように連れてくるためにも
母親の協力が必要だ
母親は子どもを夫に会わせることに不安があるので
会わせたくないと言う。
調停委員にそこはこちらも十分理解できると言ったうえで、
だから、こちら側が母親の不安をできるだけ軽減させて
母親をできる限り安心させて
母親に面会に協力してもらおうとしようとする
そのためにどうしたらよいか一緒に考えてほしい
子どもたちのために考えてほしい
というところから議論を始めるべきなのでしょう。

そうすると、会わせるか会わせないかという議論から
どうやって会わせるかという議題へとすり替えることができるのです。
ここを会わせるべきだということを繰り返していては
子どもは決して父親に会えません。

<母親を安心させる方法>

一緒に住んでいないのだから、
指図やダメ出しをしませんと宣言されても
妻は安心をしません。

妻に
「ああ大丈夫かもしれないな。悪いことは起きないのかな」
と思わせなければならないわけです。

指図やダメ出しというマイナス行為をしないのではなく、
プラスの行為をすることを提案することが理想です。
一緒に住んでいなければどちらも難しいです。

それでもやるしかありません。
一つには、面会交流の具体的イメージを語ることです。
希望がどのくらいのペースでどのくらいの時間を行うのか、
ということはもちろん
例えばどこでどういうことをするのか
ということもなるべく具体的に提案することが先ず基本のようです、

次に、面会交流の際の遵守事項をこちらで先行的に誓うことです。
誓っても何も不利益がない上に、相手は多少安心するようです。
例えば、母親の悪口は言わない
生活状況を尋ねない
父親に会えないことが母親の意思だと言わない
(お母さんが良いと言ったらもっと会えるよ等)
こういうことは、子どもにとって有害な話なので、
子どもためにやめましょう。
後は、高額のプレゼントを送るときは母親の了解を得るとかですね。

こういうことを言われないうちにやる
ということです。

もちろん、養育費を毎月支払うことも言われなくてもやる。

そうやって、相手が一番嫌がる
子どもを連れて別居したことを責めないで容認する
という姿勢を示すということなのです。
心から容認することはできませんから形だけするということですね、
心は後からついてくればそれでよいわけです。

子どもに対する手紙を書くということも
有効な場合があります。
子どもに対する手紙の中で、母親の言いつけを聞けとか
母親を立てることを書くということですね。
母親に対して、子どもに渡してもらうときも、
一人で子育てをすることの感謝とねぎらいをする。
父親にとって嫌なことをさせようとしているわけですが、
それが母親にとって安心する材料だということになるのでしょう。
どうにも皮肉な話です。
おそらく何回も「心は後からついてくる」
とお題目のように繰り返すことになるのでしょう。

ただ、手紙の中で、どうしても、
夫の言いたいことを言ってしまう危険があります。
出来れば代理人と内容について吟味を重ねて良しとなったら提出
という慎重な態度が求められます。
手紙も代理人を通じて相手方代理人に送る方が無難です。
こういう手紙を出したということを
裁判所に提出して調停委員会にも隠さず見てもらい助言を受ける
ということも有効です。

そんなこんなして、子どもと面会交流が実現しても
気を許してはいけません。
「夫の言いたいこと」を言ってしまうのはこの時です。
逆に、言いたくないことを言うことで面会交流が
時間的に場所的に拡大していくことも少なくないのにです。

ここで言いがちな正しい夫の言葉は、
例えば、
「風邪ひいて微熱があるのに
 なんで面会に連れてきたんだ。」
というのが典型的なものです。

そうです、「夫の言いたい言葉」、正義というのは、
本当は、夫なりの愛情表現なのです。
相手のために良かれと思って言うことがほとんどなのです。
だけど、言い方が悪くて
あるいは正義による無意識の攻撃的言動や
相手のとらえ方に問題があるとか言う理由で*1
それがねじれて伝わっているだけのことが多いのです。
本当はそうなのです。

どうやら、愛情を本能のままに表現することを
セーブするということが大事なようです。
私たち不器用で恥ずかしがりの男たちは
女性に人気がある男性の口先だけのようなわざとらしいセリフが苦手です。
でも、受け取る方はそちらの方がよいようなのです。

夫は言い方を考えなければなりません。
さっきの事例で
色々な無理な事情があるにもかかわらず子どもが面会に来るときは、
子どもの年齢にもよりますが、
父親に会いたいという強い意思に基づく場合が実は多いようです。
父親に会いたい事情があるという言いかえもよいかもしれません。
元々会いたいのですが、
その時、たとえ面会が布団の中で休んでいるだけだとしても
父親と一緒にいたいということがあるのです。

母親側も、親切というより義務感によることもあるかもしれませんが
子どもを会わせなければならないという焦りもあるかもしれません。
夫に悪いから会わせてあげようという鬼の霍乱もあるかもしれません。

夫は一言、無理しなくても大丈夫だよ
と言ってあげればよいのです。

それを、
こういう時は家で休んでいるのが常識だろうとか
ふつうはこうするとか言って
つい正義感が無意識に出てきてしまい、
相手を圧迫してしまうし、

子どもも面会が億劫になったり、
自分のことを大切に思わないのだろうかと思うこともあります。

母親側もじゃあどうすればいいのだ
と混乱してしまうわけです。

相手の判断を尊重するというところが
親切心ゆえに難しくなるというのが
思わぬ落とし穴なのです。
失敗が多い人は
相手に話をするときは
紙に原稿を書いてから
電話をしたリ、メールをしたりした方がよいのです。

<家族再生は無駄ではないこと>

これだけ言いたいことを我慢したり
言いたくないことを無理して言っても
離婚を回避するという意味での家族再生は
なかなか難しいということが実態です。

特に35歳を過ぎると難しいです。
でも、たとえ一度離婚をしても、
曲がりなりにも面会交流が続くということに
つながっていくようです。

安心感を積み重ねていけば
面会交流の時間も場所も拡大する傾向になります。
ルーズになるわけです。
だから、面会交流調停の取り決めは
小さく生んで大きく育てろといわれるわけです。

一番言いたいことを言わずに
一番言いたくないことを言う
こころは後回し
という技術が高まっていけば
面会交流をするたびに
相手は安心感を積み上げてくれるわけです。

離婚を受け入れて
相手の面会交流のめんどくさいから一回パスも受け入れた人は
離婚調停成立前に祖父母同席の面会交流が実現し、
離婚調停から3か月で宿泊付きの面会交流に拡大し、
子どもを父親宅に泊めるというところまで拡大しました。

もうこうなると、心が一緒についてきて
お互いに感謝の応酬という
その先を予感させる事態も起こっているのです。

家族再生は困難な道のりですが、
トライして損はないはずだと
頑張っている人たちを応援していて実感しています。

*1 
存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-12-04
もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12
妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17

*2
北風と太陽の本当の意味、あるいは他人に対する優しさと厳しさの具体的意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-05-18

*3
<夫の正しさが息苦しさを産む構造>

これから言うことは、人間に限らず動物全般に共通する心理です。
ただ、リアル感を出すため、あえて「人間は」という言い方をします。

人間は、危険を察知して、無意識に生理的な変化を起こし
危険から解放されたいと願い、
危険から解放されるための行動を行います。

(この「生理的変化」こそがストレスなのです。)

ところが、危険を察知しないにもかかわらず、
ストレス反応が起きる場合があります。

代表的には、危険が来た場合に対処できない場合です。
例えば目隠しをされた場合、逃げることができなくなります。
何か危険が迫っているということもないはずなのに、
何とも言えない恐怖が襲ってきます。
手足を縛られて、放置された場合も恐怖を感じるでしょう。
何か具体的な危険が迫っていなくても
わけのわからない危険が迫っているような
そんな感覚になってしまいます。

食事や睡眠や排せつの機会を与えられ続けられたとしても
目隠しして手足を縛られ続けられたら
ストレスで精神的に参ってしまうと思います。

極端な話、妻は
そのような精神状態になっていることがあるようです。

つまり、自分で自分のことを決められないと感じると
危険がないにもかかわらず、
危険が迫り来ても自分でそれを振り払うことができない
と感じているのだと思います。

<妻の不自由感の生まれる構造>

妻はなぜ自分のことを自分で決められないと思うのでしょうか。
どうやら、自分で決めることが怖くなるようです。

どうして自分で決めることが怖くなるのでしょう。
自分で決めたことをいちいち否定されるからです。
帰ってくるなり玄関が乱雑になっているとか
食事の準備をしていれば匂いがどうのこうのとか
カーテンを変えれば、勝手に買ったことを怒られ、
自分の買ったレシートを見つけ出しては金額に文句を言う
子育てについては、自分の気に入らないことがあれば反対し、
子どもの前で叱られたりする。
クレジットカードの申込書の書き方が分からなければ馬鹿にされ、
やることなすこと否定され、ダメ出しされていけば
自分が何かをすると夫から否定されるということで
もう嫌な気持ちになっていくわけです。

さらに帰宅前に、細かいことを
あれをやっておけ、これをやっておけと指示されてしまうと
自分の予定も立てることができません。

これは大変つらいことでしょう。

暴力なんかふるわなくても
人格を否定されている、
どれがとは具体的には言えないけれど
精神的虐待を受けている
という気持になっていくのはよくわかると思います。

夫の目を気にして、自分のことすら自分で決められなくなる
ということは理解しやすいように思います。



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家族の中に他人を作り家族を分断させる「呪い」の思想 [家事]

 

現代日本の家族関係は、大変もろいものです。
自分は夫から、妻から、親から子から、
一段低い人間だとみられていないか
自分だけ損をさせられているのではないか
と考えてしまって、
家に帰ることが安らぎにならないということが
すぐに起きやすくなっているようです。

一つは家族の人数が少なくなっていて
相手に対する依存度が大きくなっていること
このために家族の自分に対する評価を過剰に気にしてしまう。
人数が少なくなった家族生活のノウハウが無く、
これまでの人間を大切にする生活の知恵も継承されない
というところにも原因があると思います。

もう一つは、家の外の学校や職場が
とても安心できる人間関係を築けない上、
外のストレスが、家庭に持ち込まれやすくなっていることです。

放っておいたならば家庭は機能しません。
意識的に家族という人間関係を作っていく
という作業が必要な時代だと思っています。

家族という群れの強い一体感を作る必要があるのです。
「私たち」という言葉で語られる居心地の良い関係を作る
そういう作業を意識的に行う必要があると思います。

ところがこれに逆行して
家族という人間関係を他人に変えることを良しとする考えが
かなり影響力を持っているということを知りました。

先日地元の有力紙の書評で、
「炊事、洗濯、掃除、子育てに介護が
女性の無償労働行われていて、
その原動力は、外部から注入された「愛」だ
どれだけ尽くしているかで愛をはかられる
だから苦しい」
という一文を読みました。

これはすさまじい「呪い」だと感じました。
もしかしたら、悩んでいる妻たちに対して
「それは夫のモラハラのためだ。精神的DVだ。」
という人たちも同じようなことを考えているのではないか
と思いつき背筋が凍るような思いをしました。

この論者は物書きだそうですから、言葉は正確なのだと思います。
そうすると
炊事、洗濯、掃除、子育てに介護を
無償で行っているということを非難していることになります。

論者は、家事に対価を要求していることになります。
この発想は
すべての労働は対価を要求できるという論理を
前提にしています。
それでは外で働いて給料を家に入れている男性は
誰にどのような対価を求めればよいのかということになってしまいます。

家族のための行動に対価を求める発想は間違っています。
お小遣いをもらって家事をする子どもは別ですが。

あまりにも資本主義経済に毒されている発想です。

資本主義経済体制において賃金を取得するのは、
「他人のために自己の労働力を提供する」からです。

極端な話からはじめると
人間が自分で生きる営みに対しては
誰も対価を要求しません。
例えば一人暮らしの場合、
買い物に行くのも、調理をするのも、食事をするのも、排便をするのも
誰も対価を要求しようとしません。

次に
自分の子どもの子育てをする場合も
授乳、おしめ交換、沐浴、衣服の購入と着替え
おそらく誰かに対価を要求しようと思う人は
本気で思う人はいないといってよいでしょう。

つまり、自分たちのための行動であれば
あるいは仲間のための行動であれば
人間はそれをやりたくてするものであり、
対価を望んで行動するわけではないのです。

ところが、論者の論調は、
家事労働が無償で行われていることを非難してみせることで、
あるいは少なくとも否定的な評価をすることで、
家族の営みの中に
他人性を滑り込ませているのです。

実際に対価を求めなくても
こういう考えが頭の片隅に引っかかると
夫婦は「人間の群れ」としては成り立たたなくなります。

人間は言葉のない時代から群れを作ってきました。
群れとして成立する原理は、言葉ではなく
法律や道徳でもなく、
群れを作るための感情をもっていたからです。

つまり、ずうっと仲間でいたいという感情と
その裏の関係にある仲間として認められないと感じたり、
仲間から外されると感じたりすると
恐怖や不安を感じるシステムが組み込まれていたのです。

共感する能力を背景として
仲間が困っていたら自分のこととして助けたくなり、
仲間が喜んでいたら一緒にうれしくなる。

群れの中の弱い者を保護しようとする感情

このような共感モジュールが遺伝として継承されて
群れを形成してきたと考えるほかはありません。

だから、見返りを求めることなどなく、
仲間のために自分のできることをした
その結果仲間が喜べば自分もうれしいし、
仲間が苦しみを味あわなくてよくなれば
自分もほっとしたはずです。
こうやって人類は群れを作ってきたと思います。

いちいち対価を期待して群れに奉仕するならば、
言葉のない時代に群れは成り立ちません。
即時交換でない限り、
具体的な労働力の提供を記録する方法もありません。
対価を要求して仲間割れになり
群れなど作れなかったことでしょう。

その結果、人間は飢えたり、肉食獣に捕食されたりして、
今よりもずうっと前に種が滅亡したはずです。

だから
仲間のための役に立ちたいということが
人間の本性だと考えます。
仲間のための行動に対価は本質的に必要ないのです。

心が形成されたとされる200万年前の狩猟採集時代は
自分と仲間の区別もあまりつかなかったと思います。
自分の利益は仲間の利益とほぼ完全に一致していました。
生まれてからの付き合いなので、
仲間の感情は手に取るように予測できたはずです。
「自分は」という自分だけを主体として発想を持つことはあまりなく、
「自分たちは」という言葉でものを考えることが
圧倒的に多かったことでしょう。

自分たちと言える仲間の中にいることが
人間にとっては安らぎでした。

ところが論者は、
最も基本的な人間の群れである家族の中に
「私たち」という文脈を否定して
夫と妻を、対立する「個」として分断します。

論者とは異なり、
人間の本性として
家族のために食事を作りたいという男女は多く、
家族みんなのために掃除機をかけるという感覚の人間がほとんどでしょう。
家族の洗濯を一度にするという家庭も多いのではないでしょうか。

それにも関わらず、論者は、
対価を獲得しない労働は損をさせられている
という考えを導入し、家族の仲間を他人にするのです。
本当は、大げさな話ではなく人間の本性なのに、
「それはあなただけ損をしている」
というささやきを繰り返す。
そのささやきに抵抗できず、
「それは愛だ」と答えるや否や
論者たちは、
愛というのは幻想であり、
女性が男性のために奉仕するための「構造的差別」の道具だ
と断言しているのです。

人間の本性を浅はかな理屈で否定するのですから
まさに呪いです。

私たちという仲間の中にいることによって得られる
安らぎ、癒し、充実感という人間の本性的に基づく機能は、
家族が分断されて、個としての対立を際立たされてしまうと
それができなくなってしまいます。

家庭が休まる場所では無くなり、
「自分が損させられている」
という感情が次々に押し寄せてくるようになるでしょう。
「自分は馬鹿にされている」と思うようになるでしょう。

まさに呪いです。

呪われた結果、
何をやっても、自分が誰かに強制されて行っている
家族のための行動に罪悪感を覚えるようになり、
仲間に安心を与えたという喜びは感じられなくなります。

「今いる家庭から逃れたい」
という病的な志向を抱くようになるのももっともです。

これを呪いと言わずして何と言いましょう。

考え方ひとつで
幸せを奪われる人もいるのです。

一度かかった呪いは簡単には解けません。
繰り返し安心感を与えるという
頼りない作業を続けなければなりません。

それでは、女性という人格は
家族の中に埋没する従属的立場なのか
という批判が予想されるところです。

ところが、
それは全く逆なのです。

そもそも、対等の仲間としての群れであれば、
誰が支配するということありえません。
お互いの行動を尊重することが
本来の群れです。
突き詰めて言えば、これが現代社会の日本では
なかなかうまくできないのです。
まだまだ時代の過渡期で、
現代の家族制度に対応しきれていないと考えるべきです。

また、論者の発想こそが
依存傾向の強い人間の発想で、
人間関係を支配と従属でしか考えられない人の発想です。

論者は幼いころから
誰かから評価されたい
という意識を強すぎるくらい持って生きてきたのでしょう。
小さいころから「良い子」だったのだと思います
良い子というのは「親にとって都合の良い子」です。

学校でも良い子、世間的にも良い子でいることに
自分の価値を見出してきたのでしょう。

だから、他者から女らしくしろと言われたら女らしくして、
愛に絶対的価値があると言われれば
愛が足りないといわれることを恐れるのでしょう。
個として確立していない時期に、
目標を他人から設定されて
疑問を持ちながらもとりあえず従ってきたわけです。

だから、他人から「愛が足りない」と言われることが苦しいのでしょう。
社会一般の評価など、本来どうでもよいことです。

自分の行動によって
家族が安心して生活できれば
それでよいはずです。
他人などどうでもよい。
自分のできる範囲での行動で足りなければ
家族を動かして解決すればよいし
家族だけで足りなければ
もっと大きな仲間を作ればよいのです。

依存傾向が強い人は、
夫から評価されることを過度に求めます。

夫から否定されることを恐れて
夫に働きかけないで、
不満ばかりためることになります。
夫が自ら察して解決してくれないと
非難を始めたりしてゆきます。
子どもが親にするように夫に依存してしまっているのです。

依存傾向の強い人が家族から切り離されてしまったら、
個人として確立した人間になるのでしょうか
それは難しいでしょう。
違う誰か、つまり実家や行政や宗教、あるいは自分の幼い子どもと
別の依存相手を探すだけである場合が少なくありません。

夫も妻も、
自分に頼り切っている相手に喜びを感じていたら、
相手はやがて評価を気にしすぎるようになり、
あなたが負担になりすぎて、
一緒にいることが苦しくなる
その結果逃れていきたくなることもある
ということに気づきましょう。

相手が自分の判断で何か実行したことを尊重すること
相手の裁量権を広く認めることこそ
相手が家族のためにしたことは文句を言わない
ということが長続きするコツのようです。

仲間の一体化と従属は全く違います。
相手に裁量権を認めることも
自分が個として確立して初めてできることかもしれません。

家族を分断することはとても簡単に行われています。
呪いがかかった家族を再生することは困難なことです。
しかし、現代社会では家族の再生、再構築が
どうしても必要なことだと考えています。

私たちの幸せのため
敢えて困難な道を作り上げようではありませんか。

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