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保護命令下に申し立てられた面会交流調停が成功した理由 [家事]


今にして思うと無謀だったかもしれませんが、
保護命令が出された2か月後に面会交流調停を申し立て、
1年近くかかりましたけれど無事解決した事例があります。
調停成立前に直接面会交流も行われ、
祖父母も同席できています。

もともと妻側と調停を行う合意があったのですが、
調停委員や調査官からは、保護命令の期間中ということもあり
相手が調停に応じない場合はどうするんだと
ご心配をいただきました。
こちらには、もともと出してはいけない命令が出た
という認識がありましたし、
妻との会話もあったということから
まあまあということで押し切ってしまいました。

結局妻側も誠実な対応をされまして、
着地点に落ち着くことができました。

実際は、保護命令の要件である
生命身体に重大な危険があるかといえば
客観的にはないと言ってよいのですが、
色々な事情がわかると、
なるほど、客観的にはそのような事情はないけれど
妻にとってみれば、主観的には、
それくらいインパクトのあることがあったのかもしれない
ということは理解できました。
また、
そういう理解をした方が解決のためにはよさそうだ
ということで事を進めることに依頼者と決めました。

つまり、普通に葛藤の高まりの中で
子どもを連れて別居したという典型事例だと把握しました。

その中で無事直接面会ができた一番の理由は、
本人である夫が、「第1目標は家族再生」
ということを貫いたことでした。

どうしても、相手や弁護士や裁判所
あるいは法制度や運用を責めたくなるのですが、
ただでさえ不安と恐怖と息苦しさを持っている妻を
攻撃することや誰かを攻撃している自分をみせることは
家族再生と逆行します。
この感情を抑えることは大変苦労します。

怒りで夢中になって、
相手の落ち度を強調したり、
(やりくりが下手とか、掃除ができないとか、子どもに手を挙げるとか)
一方的な連れ去りは子どもに深刻な影響を与える
とか言うことを主張したくなるのです。
それらはおそらく正しい主張なのでしょう。
しかし、家族再生と逆行します。
相手を余計に怖がらせるだけで、
あるいは息苦しくさせるだけで
とにかく近づきたくないという気持ちにさせるだけです。

夫は妻の弱点をピンポイントで攻撃できるのです。
一番してはいけないことをしてしまうのです。

だから弁護士が少し冷めた視点で、
それを言ってはダメだというか
こういうデメリットが発生するということを言わなければなりません。
これは何度も何度も激しいやり取りがありました。
しかし、家族再生という第1目標がぶれなかったので、
依頼者を信頼してやりあうことができました。

彼は、もともとこのブログを読んで依頼されたので、
私が忘れているようなことも思い出してくれました。
また、どんなに感情的になっていても
私の話をメモをしながら聞いてもらいました。
こちらも必死で考えて、必死にアドバイスしていたようです。
帰りは、すぐ別れて解放させていただきました。
それくらい密度の濃い時間でした。
毎回へとへとになっていました。

第2の理由は、
法律や裁判所に解決してもらうのではなく
自分が相手を安心させる工夫をすることで
相手の解決しようとする気持ちを誘導する
という姿勢に立てたことです。

正しさよりも相手の気持ちを優先する
ということですね。

ところが、現実は
家庭の中でもそうですが、裁判所の中でも
どちらかが正しくて、どちらかが間違っている
という論理の枠組みを前提としてしまうために
非難合戦が始まってしまうのです。

要するに自分は悪くないということに
終始しているだけなのです。

これは、離婚を進める側の人たちの論理の枠組みです。
だから同じ土俵に立ってやり合ったのでは
ただ家庭が壊れていくだけに決まっています。
家庭の中に勝者も敗者もあってはならないのです。

ところが人間ですから、自分が攻撃されていると思えば
守りたくなる、つまり相手を攻撃したくなることは
当たり前なのです。
いかに早くここから脱却するかがポイントです。
つい攻撃してしまうのが人間だと気が付くことが必要です。

こちらはこちらで戻ってきてほしいという切実な気持ちがある
相手は相手で戻ることのできない心理的な負担がある
お互いが真実であり、
その原因が必ずしも二人のどちらかだけにあるわけではない
ということがリアルのはずです。

双方認めあわないと話が始まらない
双方が少しでも相手方の言うことが
嘘ではないかも知れないなと思わないと
譲歩は難しいようです。

時間はかかりましたが
お二人とも高次の域に上られたようでした。

結婚する直前のように
相手の気持ちを一生懸命考える
調停の時はそれをしなければいけないようです。

面会交流実現の理由の3

現在を未来につながる通過点ととらえる。

結論としてはそういうことになると思います。
本人もいろいろ知識を増やしてきましたから、
例えば調停条項はここまで書き込まないと
強制執行できないとか主張するのです。

しかし、家族関係は強制執行してしまうと
形は作られても中身がぶち壊れてしまう場合が少なくありません。

余り将来のことまで事細かく決めてしまうと
相手方が心理的に圧迫されてしまい、
面会を行ことが嫌になり、
徐々にフェイドアウトしてしまうことも多くあります。

相手を安心させる
そのチャンスをひとまず与えられたのだから、
少ないチャンスを生かしてどこまでも安心させて、
将来の家族再生への方向へつなげる
こういう方針です。

子どもたちはまだ入学前ですから、
将来のお泊りのことまで今決めるわけにはいかないのです。

子どもたちが小学校に入学して
安心の記憶を定着させていき、
さらなる共有時間を提案してもらおう
ということで、
調停条項に同意しました。

離婚さえも、
このまま拒否しているよりも
受け入れた方が
将来の関係をよくするのではないか
ということで同意しました。

仲良くするために分かれるということは
とても切ないことです。
ある意味自分を捨てても家族の安心につなげるということで
彼は自分を少しだけ取り戻したように感じました。


最後に一つだけ。
劇的に相手の対応が変わったポイントとなったと思われる
エピソードを教えてもらいました。

実は相手は調停期間中のある時、
一度だけ約束を実行しなかったことがありました。

これは事前に想定できたことでした。
おそらく遅かれ早かれそういうことは来る。
どうしても、こちら側は、
相手が自分に攻撃した行為ととらえるけれど、
こういう時こそチャンスなんだと
繰り返し打ち合わせをしていました。

小さな子どものことだから不意の病気などの事情はある。
そうでなくても子育てに夢中で忘れることだってある。
また、気分が乗らなくて、
どうしてもこちらに接触したくないときもある。

そういう時に、相手の約束違反に腹を立てないで、
そういうこともあるさと大きいところを見せる
そうすることで、相手を許す気持ちになることで、
相手は安心感を獲得する。
責めない批判しない。

通常は相手のミスがないので
なかなか安心感を持ってもらうエピソードはでてきません。
大きなポイントを稼ぐ場面がないわけです。
ところが、相手の失敗があれば許してあげるという
大きなポイントをゲットできる貴重な機会になるわけです。
代替日なんて言わないで
むしろ鷹揚に構えた方がよいと打ち合わせをしました。

案の定、相手から埋め合わせを逆提案されたし、
直接面会交流の打ち合わせが充実した
というサプライズが待っていました。

約束の日がすべてではないわけです。
その日をなしにすることで
さらに大きな明日が生まれる可能性があるということ。
そしてそうなったという報告を受けました。

離婚しても離れて暮らしても
子どもがいる以上
私は家族は家族だと思います。
先ずこちらがそういう意識をもって、
永く続いていくということを意識しながら
対応を考えるということを学びました。

いろいろありましたが、
調停委員、調査官の方々に恵まれまして、
無事調停が成立しました。

もっと一般的な考察も含めて報告を書きだしたのですが、
考察を深めると本一冊になることがわかりましたので、
ご報告はこれまでとさせていただきたいと思います。


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木村草太先生の共同親権に関する論説に対する疑問 [家事]

憲法学者の木村草太先生は、ご自身のブログの中で
「共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切」
と題する論説を発表されている。

この論説に対して、実務法曹として
疑問を述べ、教えを請いたいと思う。

先ず、共同親権推進派の根拠として木村先生は、
1)扶養義務の履行確保(2)面会交流の促進(3)同居親による虐待防止につながる
という3点を挙げる。

意図してなされたのか、単に知らなかったのかは不明なのだが、
共同親権を推進する理由即ち立法事実(法律制定の現実社会に照らした理由)は
第1に、子どもの福祉である。

現在欧米諸国や中国、韓国の国々において
離婚後も父母が親権を行使する共同親権が主流である。
他の外国が共同親権をとるから日本も共同親権を
ということではなく、
先進国がすべて共同親権制度をとるのは
その必要性があるからだ。

それは、
離婚によって、子どもに負の影響が与えられる
それは自己肯定感の低下等である。
離婚をしても別居している親も子どもにかかわりがあると
この影響が軽減されたり払しょくされたりする。
だから、離婚後も両親が子どもに関わることが
子どもの健全な成長に役立つ。
これが立法事実である。

子どもを権利主体とした考え方は
長らくなかった。
第2次世界大戦後、
ボウルビー(John Bowlby)がイタリアの孤児院等を調査研究し、
愛着理論を形成していったが、
この時が子どもの視線での政策の始まりだとされている。

その後、ウォーラースタイン博士Judith Wallersteinらの
25年にわたる追跡調査研究によって
離婚による子供たちの負の影響が明らかになってきた

同研究は、追跡調査という研究手法の限界から批判されたが、
後にアメイトAmatoらの大規模統計調査によって
その正しさが証明された。
子どもは離婚によって、自己肯定感が低下する傾向にあり
同居していない親によるかかわりによってそれが改善される。
この命題を否定するエビデンスを私は知らない。

個々の実体験に基づく例外的な事象はありうるが
科学的手法を用いたエビデンスが無いということである。
現在では、離婚そのものよりも
離婚後の経済的困窮化と親の葛藤が
子どもに悪影響を与えると整理されている。

これらの科学的到達を踏まえて、
すべての先進国において共同親権制度が導入された。

だから、共同親権制度の創設という立法論を議論するにあたっては、
立法事実の存在の有無が議論されなければならないし、
比較法的観点からの論述が必須ということになるはずだ。
なぜか木村先生の立法論の議論にはこれらの視点が欠落している。

特定の誰かがこれらのことを言っていないということは
議論をしない理由にはならない。

さて、最も大事な推進理由が検討されていないので、
その後の木村先生の議論はあまり意味をなさないものになってしまっている。

特に「子どもの健全な成長」のために
よりより方法を検討する
ということが共同親権の議論なので
この議論が欠落していることは
後の議論に重大な影を落としている。

上記3点の理由付けの検討として、
「現在の法制度を正しく踏まえているか検討」されている。

共同親権の内容についてこれから議論がなされる立法論において
現行制度にそれに代わる制度があるので、
共同親権の推進に理由がないという建付けの議論になっている。


それは何らかの制度はあるだろう。
しかしそれでは不十分だから新制度を導入する
というのが立法論なので、
現行制度があるから新制度はいらない
という議論設計は、
はじめからまじめな立法論になっていない
議論の枠組み自体が新制度の否定に向かう論理の流れになっている。
外見の形式は整っているかもしれないが
実質がないように感じられる。

また
それぞれの制度が立法事実に照らして十分か
あるいは子供の福祉の観点からもっと良い制度にしよう
こういう観点が欠落している。

例えば、子どもの養育に関わることと養育費を支払うことを
切り離して議論すべきだという議論がある。
局面においては正論である。

しかし、常に連絡を取り合い、心の交流がある場合と
子どもと1度も顔も見られず、声も聞けない場合と
どちらがより養育費の支払いに積極的になれるだろうか。

理屈よりも、子どもの健全な成長を図る担保を
張り巡らせるほうが子どもの利益の観点から建設的だと思われる。

面会交流がなかなか進まないこともこれまで述べてきたとおりである。
現在、離婚前は共同親権ではあるが、
別居とともに、監護権が同居親に移り
他方の親権は事実上存在しない状態になっている。

これは、離婚すればどうせ単独親権であり、
事実上別居などによって実質的に離婚状態だから
戸籍に先行して単独親権にしようという
悪しき慣行が横行している状態である。
子どもの健全な成長という視点はない。

共同親権制度の実現によって
これらの問題の解決に向けた動きが期待できる。

要するに、子どもがいる夫婦は離婚するのは自由だが、
子どもがいる以上我慢しなければならないところは我慢しなければならない
ということだ。
これが日本を除く世界標準の考え方だということになる。

共同親権制度はこういう風潮を強力に後押しすることになる。

また、共同親権が虐待防止につながることについても理解できないと
木村先生はおっしゃる。

共同親権によって、両方の親が子どもの養育に関わることによって
一方の親が体に傷や痣をつけることはしなくなるだろう。
もう一方の親に見つかる可能性が高くなり、
親権を剥奪される可能性が高まるからだ。

教育や衛生面もしかりである。

単独親権制度は
子どもは親の所有物だという
過去の思想の遺物だという側面がある。
一緒に暮らしていても
別居親の目を気にすることで
虐待が防止される上
子どもを所有物だとする見方をしにくくなる。

こういうことはどの推進論者でも
普通に言っていることだ。
あるいは少し考えればわかる。

そもそも木村先生の論説の問題点は、
現行法制度が代替できるから新法が不要だという枠組みである。
そうして、現行の親権制度に照らして
新法の議論が間違っているとも言っている。

大事なことは共同親権の中身自体を
これから決めていくということである。
別居を前提として共同親権制度の中身も
おそらく変化が生じていくだろう。
これらの研究は既に法務省において蓄積されている。

それにもかかわらず、
現行親権制度を前提として
推進派が正しく理解していないという
その理屈も理解はできない。

もう一つ、
法律家としての議論の第一として、
日常生活は、当事者の自治で決めてゆくのが第一であり、
法律や裁判は、当事者の自治で決められない場合の
最終手段であるということ
できれば裁判所に出頭しないで
平穏な生活を送ることを
第1に考えなければならないことだ。

こういう制度があるから新しい制度は不要だ
裁判ができるから問題ない
という議論は、実務家の感覚からは
素直に受け止められない。

いずれにしても、
立法事実の検討や比較法的な検討のない立法論を
どうして木村先生はなさるのか、
どうしてそのような検討を踏まえないで
共同親権制度を否定するのか。
この点が最大の疑問である。

法律論に基づかない立法の否定をする
そのモチベーションがどこにあるのか大変興味がある。
共同親権や面会交流という
子の福祉の制度を否定するのは今回が初めてではなく
先生の一貫した姿勢であるが、
結論と立法事実や比較法を用いない議論も一貫している。

なぜ、これまでのご自身の業績が否定されるような
論を繰り返し展開されるのか
教えをいただければ幸いである。


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共同親権制度の条件整備を通じて、その先の共同養育の実現を目指そう。子どもの利益の観点からの法制度創設を歓迎する。我々のやるべきことは。 [家事]


上川法相が、共同親権の検討を指示しました。
この時期に突然という感は確かにあります。
これまで共同親権制度の創設に取り組んでいた人々は、
想定していた議員立法ではなく、
政府が主導するということに戸惑っていると思います。

この時期の法相の指示は、
おそらくハーグ条約の実質的履行に
従わない日本社会というか、
子どもを一方の親が
他方の親から引き離すことが
それほど問題視されない風土について
アメリカをはじめとする批判に対する対処
という外圧によるという側面はあるのだろうと思います。

上川法相は、
目黒女児死亡事件と関連付けて
共同親権の導入を説明しています。
この事件の影響も
間違いなくあるものと思われます。

ちなみに、6月7日の私のブログ
【提案】児相を責める前に私たちこそが考えを改めよう!目黒5歳女児事件のような虐待死を繰り返さないための共同養育という人間らしい方法
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-07

しかし、法務省の児童虐待防止チームは、
虐待と親権の問題について
平成19年の児童虐待の防止等に関する法律及び児童福祉法の一部を改正する法律制定以来
親権の問題については調査研究を進めていました。

「児童虐待防止のための親権制度研究会」
という有識者の会議を設置し、委託研究を進めていました。
もっとも、この会議は、
虐待をした親の親権をどのように制限するか
という観点の研究で、
そのために、私も注目していました。

弁護士実務や人権擁護委員としての実務の中で
確かに親から離さなければならない虐待のケースや
これは親を援助することによって解決することができるケース
様々なケースがあり、
一律に親権が制限されることに危機感を持っていたからです。

ただ、この研究会の中で、
海外の親権制度を大学の研究者の方が行い、
研究報告書が発表されています。

児童虐待防止のための親権制度研究会報告書等の公表について
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji191.html

フランス、イギリス、ドイツの法制度の報告がありますが、
いずれも、共同親権の報告から始まっているのです。

法務大臣の指示ということで報道されるのですが、
法務省においては、このように
海外の親権制度の研究の蓄積があります。

唐突に出てきた感がありますが、
決して思いつきというものではなく、
蓄積に基づいた法務省の成果を踏まえてのこと
ということができると思います。

ハーグ条約に関する外圧ということを言いましたが、
もっと、大きな流れもあります。
それは、先進国は、上記3国だけでなく、
ほぼ共同親権制度をとっているということです。
アメリカの各州もそうですし、
お隣の韓国も共同親権制度です。

親子断絶防止法の真の不十分点 結論を押し付けずに誘導する姿勢の大韓民国民法にはるかおいて行かれている
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-03-31

これらの国々は、キリスト教の影響が強く、
もともと自由に離婚ができず、
裁判所の関与が必要であったところが多いです。

日本は離婚届を出せば離婚できますから
それらの国々との事情はだいぶ違います。

しかし、結果的に自由に離婚ができないことから、
離婚後の子どもの福祉を保障しやすくなった
ということが言えるでしょう。

それでは、共同親権制度は
日本の保守勢力から反対されるかというと
必ずしもそうではなく、
共同親権制度を取り上げて掘り下げている
一番のメディアが日本会議の機関紙
だというところが興味深いところでもあります。

離婚後というか、離婚の前後に関わらない
共同親権制度ということは、
不可避的な流れですので
どのみち共同親権制度は実現すると思います。

問題はその先です。
制度があってもそれに反する実態が蔓延すれば
何の役にも立たないからです。

共同親権制度の内容は
国によってバリエーションがありそうです。

基本的に親権は、
法定代理権と監護権
ということになります。

子どもに変わって契約書を作成したり、
親権者として同意の署名をしたり
というのが代理権です。

子どもがどこに住むか
どのように育てるか
ということが監護権だと考えてください。

監護権の内容についても揺れていますので
この程度に抑えているとよいでしょう。

夫婦が子どもと同居していれば
まあ意見の対立はあるけれど
何とかなるものですが、

離婚して離れて暮らしている場合、
いちいち相手方の同意を得なければ
携帯電話一つ与えられないということは不便です。

どうやら、
日常家事に関することは
その時子どもと暮らしている親が自由にできるけれど、
子どもの将来を決定づけるような選択は
共同で行う
ということが共同親権の内容になりそうです。

それにしても、重大なことに限ったとしても
離婚した夫婦が話し合わなければなりません。

そもそも、
一方の親とだけ暮らし続けるということが
共同親権の元では許されなくなり、
育児についても
時間差となるかどうなるかはともかく
ともかく共同で行うということになります。

離婚に伴う子どもの心理に対する
負の影響は緩和されると思いますが、
これですべてが解決されるわけではありません。

その一番の証明が、
現在でも離婚前は日本においても共同親権制度
となっているのですが、
夫婦の別居が起きると
共同親権制度が成り立たなくなってしまうからです。

共同親権の幻想と、決めつけDVの共通性
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-06-29

共同親権が制度として成立するためにも、
実質的な共同養育を実現させるためにも
そのための条件づくりをすることが
必要なことだと考えています。

一方の親が死亡するなどして
どうしても関わらない場合はともかく、
生きていて子どもを親と会わせないということは、
ほぼ必然的に子どもに負の影響を与えてしまいます。
(各ご家庭の程度の違いは大きくありますが。)

片親疎外の原理と面会交流ないし共同養育の論理 離婚後も「両親」というユニットであることの意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-25

しかし、それがわかっていても
相手に子どもを預けることが不安だという
現実的な問題、
離婚した相手と話し合いができないという
現実的な問題
子どもが別居親に会うことを躊躇しているという
現実的な障害があります。

法律的にこうしろと言うだけでは、
実際は、子どもにとって効果的な制度にならない危険があるし、
日本の現状のままでは制度を形骸化させる可能性もあると思います。

これらの現実的な問題を
ハードルを低くするような努力、
制度設計、
ソフト面、ハード面の整備が必要だと思います。

例えば、
離婚に伴う共同養育に関する講習会
これは、双方の親だけでなく
子どもに対しても
安心して双方の下で生活してよいんだ
ということを説明することも必要なようです。

極端に子どもに対して、
相手の悪口を吹き込むことの是正。
何が悪口になり
何が子どもの負担になるか
どのように子どもの負担になるか。

そういう知識を与えることが必要ですし、
そのためには、こういうことを研究することが必要です。
どうすれば、離婚した相手と話すことの
抵抗感が下がるのか
こういうノウハウが確立されるべきだと思います。

さらには、実際の話し合いの
サポートをする機関も整備されるべきだと思います。

これらは、任意の団体ではなく
少子化対策の意味合いも込めて
国や自治体ががっちりサポートするべきだと思います。
どうしても任意団体だと費用が掛かりすぎて
多くのご家庭では無理が生じているからです。
その分子どものために使うことができなくなる
という問題があると思います。

共同養育に伴う養育費の各自負担
(同じ期間子どもを養育するのであれば、
 どちらかがどちらかに養育費を支払うということが
 軽減されてしまう。あるいは無くなる。)
に対する補助制度
(根本的には男女の賃金格差の是正)

だから、一つには
法務省の共同親権実行研究会をつくり、
子どもの共同養育を実現させるという観点から
どちらが悪いということを捨てて、
現実の障害を一つ一つ洗い出して
緩和させる研究をするべきです。

(その行きつく先は、究極には、
離婚予防の対人関係学だと
私は思っています。)

さらにそれに向けて
当事者の意見をどんどん出して
制度を充実させていく工夫が必要です。

共同親権制度はゴールではありません。
共同親権制度を実現してくための
現実の条件づくりをしていく過程で
「共同養育」の基盤整備をしていく
ということがとても大事だと思います。

いずれにしても共同親権制度が実現することは
大いに歓迎すべきだと思います。
その理由の一つは、
これまで、離婚後の子どもの福祉、利益
という観点からの法整備が無かったのですから、
一大転換期になるということです。

理由の二つ目は、
国家予算がつくということです。
共同親権導入の条件づくりにも
予算がつくことでしょう。

共同親権制度が創設される以前の
面会交流についても
国や自治体が公費で支援することが
共同親権制度実施の条件整備の
情報取得に最も効果的だという観点から
充実を期待し得るのではないかと思うこともあります。

いずれにしても
子どもにとってチャンスであることは間違いありません。
政府に期待できないとか
騙されるというようにそっぽを向くのではなく、
本当に子どものためになるような制度にするため、
当事者や支援者こそが
充実した制度にするためにどんどん提言するべきではないかと
私は考えています。

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【メモ】子どもを連れて別居した夫婦を再生する方法についての検討の途中経過 [家事]



妻が子どもを連れて別居したケースで
一時期著しく困難だった面会交流が、
最近では定期的に行われるようになり、
時代の変化を感じているところです。

しかし、依頼される方々の本当の願いは、
家族がまた昔のように
一緒に楽しく暮らすことです。

方法はあるのかということで、
今回はリクエストもありましたので、
とりあえず、現状行っている対策と
困難のポイントを途中経過として記録し、
次につなげることをしてみようと思います。

1 これまでうまく言ったケース

20代のケースでは、
離婚調停をしても、
妻が妊娠をして調停が取り下げられたケースや
連絡が取れないなと思っていたら同居していたケース
入籍されていたケースなど
弁護士の間でも、不可思議なのは男女の仲
なんてことを言われていました。

繁殖期という時期の人間の行動は
理屈で割り切れないことが多いようです。

それとは別に
DV事案で警察が出動し、
保護命令は出なかったものの
シェルターから法テラスで弁護士受任のケースで
結局弁護士を使わないで、自主的に解決して
今も仲良く暮らしているご夫婦がいらっしゃいます。

このケースでは、
当初から男性が、自分自身に怒りを向け、
すべての原因を自分で引き受け、
女性の事情をすべて飲み込み、
女性を一切責めないまま
戻ってくることを切望したケースです。

但しこれらのケースは典型的なケースではありません。
典型的なケースとは、
・最終子出産後2年くらいまでに起きる
・同居中暴力はない
・子どもは父親になついている。
・別居後、どんどん拒否反応が激しくなる。

2 出産後の脳の変化に対する理解

先ず、相手の状態を知るということが鉄則でしょう。

先日のブログで、
妻の不安の理由の一つ、大きな理由として
脳科学の成果を取り入れた分析をしてみました。

妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17

誰かが悪くなくても
夫に責任がなくても
出産した女性は、子どもに神経がとられる
夫に感情移入できなくなる。
その結果、夫が何を考えているのかが分からなくなり、
一緒にいることが怖くなる。
ということでした。

<困難なポイント>

今までなんでもなかったことに、
妻が急に拒否反応を起こすわけですから
夫は戸惑うわけです。
今までよかったのだから、これからもやる
という思考をとってしまう。
(自分は悪くない)
頭の中に出産後に妻が変化するという情報が入っていても
つい、むきになる反応をしてしまう。

妻は、「自分が嫌がることをやる夫」
ということで、ますます嫌悪感と恐怖感を増大させる
という悪循環があります。

また、妻の変化や限界に対して
怒ったり、説教したり正しさを押し付けてしまう。
できないことをやれと言われる辛さは
かなり大きいもののようです。

3 相手を変えようとしたら自分が変わってみせることが必要

意思を持った人間の行動を変えることは
とても難しいことだということから出発しなければなりません。

自分が変わって、それをみせることを先行することが
残された方法ということになりそうです。

結論を押し付けるのではなく
こちらが望む方向に誘導するということです。
だから、どうでもよいことをあれこれ要求することをしない
という工夫も必要でしょうね。
自分でやれることは自分でやるということかもしれません。

結論を押し付けるのではなく、
自分が変わることによって
変わることはできるんだと
こういう風に変わればよいのだという
サンプルを提示することになります。

可能性と方法を示すと
なんとなく自分もと思うことを期待しています。

<困難なポイント>

自分の言っていること、していることは
正しいから修正する必要がない
という考え方が
もっともなことでもあるのですが
やはりネックになります。

だから変わるのは自分ではなく
相手だということになってしまう。

双方これが貫かれてしまうと
何も変化は生まれません。

4 対人関係はチームだということを意識する

妻を正そう、正しい行いをしてもらおう
自分が悪くないのに否定しないでもらいたい
という
対立構造が夫婦の中に持ち込まれると
収拾がつかなくなるようです。

妻と自分、そして子どもたちは
一つのチームであり、
チームの不具合を修正し
チーム状態を向上させるという発想が必要
だということです。

例えばサッカーなら、
日本代表なんていう立派なチームでない
普通の町内のチームなら
足の遅い選手もいれば
キック力のない選手もいます。

足の遅い選手がいた場合
別の選手が動かなければなりません。
「あいつが足が遅いのが悪い」
と言って、努力をしなければ
勝てるわけがありません。

足が遅くても能力を発揮できるポジションにおいて
他の人が走り回る。
少しでもチーム全体のパフォーマンスを向上させるのがチームです。
誰かが悪い、正しければそれでよい
という発想ではなく、
チーム全体の状態をよくする
という発想が必要だと思います。

別居しても離婚しても
客観的には
子育てという一つの目標に向かっている
チームになる。
相手にも主張しなければなりませんが
自分でもそれを徹底することが必要でしょう。

<困難なポイント>

どうしても子どもを連れていかれているから
自分が妻から攻撃を受けている
という意識が知らず知らずのうちに支配的になります。
相手に攻撃行動、怒りを持ってしまうと
同じチームの一員という感覚が失われてしまいます。

また、妻が子どもを連れて行くことにより
子どもにも害悪を与えているという意識は
子どもを守ろう、子どもの敵は妻だ
ということになってしまうので、
むしろこっちの方が
妻はチーム外という意識を持ちやすいかもしれません。

これは、この事案に必ずついて回る
困難なポイントです。
ここをいかに克服して、
それを妻に知ってもらうか
ということが最大のポイントと言っても
過言ではないようです。

5 自分の修正行動を相手に示す

自分の行動を修正しても
相手に示さないと意味がありません。
なかなか、シャイな人が多いようで
このアッピールが下手なようです。

また、いざ示そうとすると
押しつけがましくなってしまう人も多いようです。
この辺のさりげなさを演出することは
相手の気持ちに立って自分の行動を
予め計画する必要がありそうです。

5 少ないチャンスを生かす

チャンスとは、
面会交流が行われていれば、
面会交流の受け渡しの時、
子どもを通じてのアピール
(これは、つまり、母親をほめればよい話なので、
 ルールに反するということはないでしょう。)

調停をやっているのであれば
調停委員を通じて自分の思いを伝えることができますし、
陳述書に共感を示すことを書くことができます。

わずかのチャンスを逃さずに
相手が安心する情報を提供し続ける
ということが作戦です。

安心する情報は敵意がないことを示すことで、
分かりやすく言えば、感謝と謝罪です。

調停も面会交流もできない
そもそも連絡が取れない
という場合は、
妻の親とか、共通の友人に伝えるしかないでしょうね。
その際に注意しなければならないことは、
妻の居場所を探っているというそぶりを示さないこと、
これが大事です。
探していないよということを言うと逆に変ですから
しばらく距離を置くというつもりならば従う
という言い方になるのだと思います。

だから伝言を頼むのではなく、
自分の心境を聞いてもらう
というアプローチが良いと思います。

<困難なポイント>

但し、子どもを連れていかれていますから
なかなか感情がついてきません。
これはもっともなことです。

どうしても、相手を責めたい
謝罪がほしいということは人情です。

しかし、そのことが主たる目的に
いつの間にかなってしまうことが多くあります。
子どもの前で、
妻に対して優越する情報を
提供してしまうことがあります。

「子どものために」
ということの行動だということはわかるのですが、
妻から見れば、
・これ見よがしに自分ができないことをしてみせる。
・子どもに対して自分が劣っているということを
 アッピールしている
等という行動になってしまっている
それに気が付かない
ということは多々あります。

これが正しいことだと思ったら、
正しさを求めることを封印する
という思考が有効かもしれません。

あくまでもやり直す場合ですが、
そのためには割り切りと徹底が必要なようです。

わずかなチャンスを生かさず
逆にオウンゴールを繰り返す人は
かなり多いです。

6 努力の方向

先ず、相手は、夫といることに不安があります。
何を考えているのかわからないということから出発します。
安心できないようです。

一つは、過去の出来事に依存してよりを戻すよりも、
新たに、「夫は安心できる」
という記憶を刷り込んでいくというスタイルが有効だろう
ということがあります。

安心できるということは
攻撃されないということ
仲間はずれにされないということ

要するに仲間として尊重されているという
実感を持ってもらうということです。

相手の嫌がることをしない
感謝を中心として、こまめに謝罪すること
相手の欠点、不十分点、失敗を
責めない、笑わない、批判しない
ということはわかってきました。

<困難なポイント>

相手がしてほしいことをして
相手がしてほしくないことをしない
という発想に立てない。
良かれと思ってやっていることなのですが。

自分がしてほしいことが
相手は嫌なことということはたくさんあります。
これは一般論では語れません。

派手なことをしないと伝わらない人
さりげなく、自然に受け入れてもらいたい人
ただ一緒にいることが一番な人
行動をしたい人
人それぞれ様々です。

ここをよく考える、
妻はどうしてほしいか
どうされるのが嫌なのか
それができない。

自分はこうしてほしいと思い
相手の気持ちを考えないで
あるいは相手が嫌だというサインを出しているのに
間違っていない、子どものためだ
ということで実行してしまう人が
けっこういます。

7 悪い点を修正するよりも良かったところを強調する

これはまだ未消化なところがあるのですが、
誠実に反省をすると、どうしても重くなることがあります。
重すぎて気持ちが暗くなるとデメリットがあるようです。

反省することは良いとして
良かった時のことを感謝を込めてアッピールする
ということが必要なようです。

良かった時期があることは
直ちに記憶がよみがえらないことであったとしても
やはりアドバンテージになる可能性があります。

出来事、旅行とか、遊園地とか、外食とかを
記述的に思い出しても
あまり効果が無いようです。

思い出してもらうのは
その時楽しかったという感情です。
思い出してもらうというよりも
その時の楽しさを追体験してもらう
というような感覚が良いのかもしれません。

遊園地で観覧車に乗ったというよりも
寒かったので、肉まん食べてほっこりした
とかそういう感情というか
皮膚感覚に語り掛けることが有効かもしれません。




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虐待の根本的な防止のために、「子育て支援基地」を地区ごとに配置する提言 [家事]



1 子育て支援基地

  子育て支援政策を各自治体は行っているようですが、必ずしも共通の政策がないのかもしれません。私のこれからお話しする「子育て支援基地」は、実際に仙台市にある、あるいはあった、子育て支援の一時預かり保育がベースになっています。ただ、少しはみ出しています。
  子育て支援基地は、子どもの一時保育をベースにしているのですが、どうしても保育というと、両親が働いていることが前提とされているようです。私は、後に述べる理由から、両親が働いているか否かにかかわらず、子どもを受け入れてほしいと思います。但し、利用人数の関係がありますから、当初は、週2回程度、利用時間も午前中だけとか、午後だけとかという制限があってもやむを得ないと思います。
  お母さんが子どもを連れて、フラッと入れる場所が良いと思います。できれば、地上階、1階にあるとよいです。公立保育所に併設した、あるいはその建物の中の一部屋があてがわれると本当は便利です。しかし、仙台市もあれよあれよという間に公立保育所が無くなって行ってしまいました。子育て支援基地には保育士さんがいて、保育士さんはできるだけベテランの女性が良いと思います。一度退職された方で、週に2回程度なら働けるという方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。基地では、短時間子どもを預けることもできるし、子どもと一緒に時間を過ごすことも許されてほしいです。紅茶等が用意されていたりして、先生に子育ての悩みを自然に打ち明けられる雰囲気を作ってもらいたいと思います。その間、子どもは、子ども同士自由に遊んでいるし、何かあれば、保育士さんが対処できます。一時預かりをする場合は、人数調整もあるでしょうから前もって予約をしてもらいますが、子育て相談は母親が同伴であれば随時行うことができるという具合が良いと思います。

2 孤立婚と子育て支援基地

  私の得意な200万年前でさえ、人間の場合は、子育ては母親だけがするのではなく、群れ全体で行っていたようです。これは、母親だけが子どもに食料を分け与えるサルと人間の決定的な違いです。農村部ではつい最近まで神社の境内などが子どもたちの自主的な遊び場になっていて、年長者が年少者をうまくあつかっていました。家々には祖父母がいて、あるいは茶飲みに来る近所の人がいて、誰彼となく子育てを手伝ったり、相談に乗ったりということがあったようです。また、現代のような厳しい受験競争や職場環境もなく、現代ほど相談が必要なこともなかったかもしれません。
  ところが、現代は、マンションなどの住宅事情や人間の行動傾向から、子育てを親だけがやるような風潮になっています。これは、人類史が始まっても初めてのことです。そもそも二人だけの部屋に子どもが生まれるのです。最初から孤立している孤立婚です。
  大家族で育ったことの無い親は、他人の子育てのリアルを知りません。大家族ならば、自分の親が弟や妹を子育てしている場面や年の離れた兄や姉が子育てしている場面を見ているでしょうし、親戚の子育ても観ているかもしれません。それができないので、本やインターネットで理想的な子育ての情報を入手したり、わずかな本音トークに接したりしていますが、情報発信者の生活環境も分からない上に、発信した情報の真実性も分かりません。それにもかかわらず、良い会社に正社員で就職するための大学、高校、中学と遡っていき、乳幼児教育などもお金をかけて行わなければ、子どもが一生食うに困らない状態にならないような風潮もあります。しっかりしたリアルな情報がないことと、不安の材料が多いことがあわさって、子育ては不安に満ちています。
  一見順調に子育てをしているようでも、例えばすぐ風邪をひくとか、夜泣きがひどいとか、実際は子育て者は苦労しています。手がかかるため、自分の時間がありません。
  母親が中心に子育てをしている家庭が多いのですが、最近は父親もできる限り育児参加をしているようです。皇太子殿下の子育てがきっかけになっていると思いますが、幕末や明治の外国人の日本に関する文献を読むと、もともと日本人男性は子どもが好きなようです。また、客観的にも孤立婚ですから父親が子育てをしなければ母親はパンクしてしまいます。
  特に職業を持っていた女性は、子育てを楽しむ余裕がないと、自分は社会の中で活躍していたのに、今はこの赤ん坊に振り回されている、自分がこの赤ん坊の奴隷のようになっているように感じる人が少なからずいるようです。これは母親の職業が自分の裁量で行える職業だったかという裁量の程度と、子どもの手のかかり具合に比例するようで、母性云々の話ではないように思います。そういう心身とも赤ん坊に振り回されている時は特にそうなのですが、母親は父親の子育てを評価できないようです。これは出産後の脳の構造が変化しているとのことで、赤ん坊に対しては共感、共鳴ができるけれど、父親に対しては共感、共鳴が起こりにくい状態になっているというところにも由来しているようです。母親が孤立感を深める要因になっています。
  現在の夫婦は、子育てに関して、人類史に類例を見ないほどの困難を抱えています。子どもは群れで育てるという人間の本能にも反します。様々な社会環境から2世代、3世代同居ができないのであれば、あるいは自然発生的な地域コミュニティーが形成できないのであれば、行政がこれを補うサービスをすることが合理的ではないでしょうか。
  もし、私の言う子育て支援基地があったら、お母さんは、2,3時間とはいえ、育児から解放されます。自分のための買い物に行ってもよいでしょうし、読書や音楽鑑賞など、自分の時間を作ることができます。時間の切れ目のない子育てからのわずかながらの解放は、大いにリフレッシュできるでしょう。また、単身赴任や長時間労働等の夫が子育てに協力できない場合は、その時間はとても貴重なものになるでしょう。
  最も貴重なことは、社会が母親に対して子育てを休んでよいのだというメッセージを送ることです。そしてそれを現実化してくれることです。子育てに喜びを感じて、不平を言ってはいけないと思い込んでいるお母さんがたくさんいらっしゃいます。母性神話に苦しめられているお母さん方もまだまだ多くいらっしゃいます。サボりたいとか投げ出したいという気持ちを持つこと自体に罪悪感を持つようです。2時間か3時間の自由行動ですが、頑張った御褒美を行政が用意することはとても素敵なことだと思います。
  産休等で仕事を休んでいるお母さん方にも、専業主婦のお母さんにも、子育て支援基地は必要な行政サービスだと思います。

3 虐待が起きる原因と子育て支援基地の役割

  虐待が起きる原因は、驚くほどの無知と孤立です。普通のお母さんでさえ、子育てには不安があり、孤独な育児をしていると感じています。それでもインターネット記事などを見て、やってはいけないこと、心配しなくてよいこと等を必死に情報入手しています。ところが、そのような情報を入手できないお母さん方は、例えば子どもに大人の食べるものを与えたり、衛生面での配慮が足りなかったりすることがあります。赤ちゃんの生理に無知なため、大人に合わせた食事の時間にしたり、逆に食べさせすぎたりしたりします。些細な無知の積み重ねが子どもに悪影響になって現れることもあります。
  孤立は、この無知を修正することができません。誰かが、親の間違いを優しく直してくれれば、親は修正することができます。しかし、虐待事件の親たちは、適切な人間とつながることができず、自分と同じ無知な大人や、全く赤ん坊を可愛いともかわいそうとも思わない大人とつながってしまっていました。子育ての相談と言えば児童相談所かもしれませんが、そのような親にとって児童相談所は、自分の子育てに至らないことがあると、子どもを奪って会えなくする怖い機関だという認識が作られていることが多くあります。また、児童相談所は、平素の育児相談を受け付ける余裕はないでしょう。
  そうだとすると、子育て支援基地が最適なのです。数時間とはいえ、ベテランの保育士さんが子どもを観察できますし、子どもと母親の関わりを観察することができます。無知を修正するきっかけが多く生まれます。愛情のかけ方を教えることもできます。
  この時、良いのは、年配の保育士さんなのです。一つには多くの親子を見てきたということが絶対的な強みです。ある程度のはみだしがあっても許容できる人たちです。また、つい虐待をしたくなるという孤立した親に対して、それはあなただけでないよと、のんびり言ってくれることが期待できるからです。親にとっては、自分の育った環境がそうだったことが、例えば児童相談所にとっては虐待だということが結構あります。年配の保育士さんなら、それはこうすればもっと良いよと教えてくれることが期待できます。
  ここでの鉄則は、虐待を即時に否定しないことです。修正するべきエラーだと扱ってくれることです。そうやって、みんな同じ道をたどったということを知ることによって、同じ地平からのアドバイスということで親たちは救われ、子どもへの愛おしい気持ちを回復することができるのです。
  また、母親は、どんなに父親がアドバイスしたり、慰めたりしても、あまり喜びを感じないようです。わかってくれない、話を聞いてくれないという不満はどうやらつきもののようで、父親はあきらめるべきポイントのようです。しかし、ベテランの保育士さんから、「このお子さんは確かに手がかかるから、お母さん大変だね」と言ってもらえることで、涙を流すほど救われるのだそうです。あまり追いつめない。でも言うことは言う。言い方を許容的、支持的に行う。これができるのは子育て支援基地だけだと思います。
  週に二度、一度でも、あそこに行くことができる、あそこに行けば自分を理解してくれる人がいる、つかの間の自由も手に入る、行った後は子育てが楽になるということが続けば、乳児への虐待は確実に減少することと思います。

4 幼児の虐待と子育て支援基地

  幼児への虐待も、無知と孤立です。子育てのやり方がわからないから、ペットを育てた経験から同じように育ててしまったり、親の都合で定期的な食事、おやつを与えなかったり、衛生状態が悪いということがあるようです。この種の虐待に関しても、乳児の時と同じように子育て支援基地は機能します。
  また、これまで頼りにしてきた保育士さんですから、あるいはこれまで子育て支援基地を利用してきてよいイメージがあれば、また、自分が否定されていないという安心感から、なんとなくフラッと尋ねることもあるでしょうし、話を聞こうという気にもなるでしょう。子どもたちも、自力で歩行するようになり、近所に子育て支援基地があれば、いざとなったら遊びに来ることもできます。あまりにも親の子育てがひどく、命の危険や直ちに健康を害する危険があれば、その時は児童相談所に通告することもあるでしょう。
  しかし大事なことは、「それはみんな経験している」という言葉と、「それをやったら子どもがきちんと育たないよ」という意見を柔らかく言ってくれる相談できる相手がいることが、子どもたちにとっては有益だと思います。
  もしかしたら、きちんとやりたいけれど、色々な事情でやれないという親たちもいるかもしれません。支援基地では、通常は保育士さんがいればよいとおもうのですが、時折、ケースワーカーや心理士、弁護士、できればお医者さんなどが普段着で訪れ、気軽に相談に乗る機会があれば良いのかもしれません。
  さらには、幼児教育がいろいろ形で費用を伴って盛んに売り出されています。学習塾だけでなく、ビアノやバレエなど、幼児の内からかなり本格的にやらされる風潮があります。これは、子どもにとっては相当のストレスになるようです。しかし、子どもたちは頑張りますし、やればやるだけ伸びる時期でもあります。全く大人が想定しないやり方を編み出したりして、指導者を超えて熟達することもあるようです。だから大人は、特に親はやらせたがるわけです。自分はこんなにできなかったのに、この子はこんなにできると思ってしまうのです。もしかしたら、それは子どもにとってはかなり無理なことで、コルチゾールなどのストレスホルモンによって、脳や内臓が委縮しているかもしれません。そんな時に、子どもたちの逃げ場にもなってもらえれば、どんなに子どもたちは救われるでしょうか。

5 まとめ

  児童虐待は、とんでもない無知と孤立から起きるものです。それは、親の責任でもなく、社会環境が原因です。親の孤立を解消することが、急務です。しかし、虐待親の烙印を押されて、子どもをとられてしまうという不安を抱えた親は、自ら孤立を選ぶ傾向もあります。
  そして、どんな親でも、一つ間違えば虐待を起こしてしまう可能性があり、孤立しているためにそれが虐待だと気が付かない場合もあります。
  わずかの時間、特に説教されたりしないで、具体的に良い方法を教えてもらえるような場所があれば、そこに行って誰かと話をすることの負担はだいぶ軽減されるでしょう。その基地の中核には保育士さんがいて、地域の経験者、専門家がふらりと立ち寄るようなコミュニティーになれば、虐待は減っていくと思います。
  現在、児相の規模と権限の拡大が、虐待防止として提案されています。しかし、児相の規模と権限拡大は、虐待予備軍の親たちの孤立を進めてしまう恐れもあると思います。あらゆるまなざしを自分たちに対する監視だと受け止めるでしょう。できれば、児相と保育所の中間的な機関があればよいと思うのです。例えば親子のショートステイとかそういうものです。もう一つ、児相の拡大の問題があります。児相は虐待があって初めて介入を行うという特徴があります。虐待後の措置が厳しいものになることからそういう条件になります。しかし、虐待は発見した時には、既に深刻な状態が起きているかもしれません。免疫に支障が出れば、小さい子なんてあっという間に命の危険が訪れます。虐待が起きてからの対策は、虐待死を防ぎきることはできないと思います。また、死ななければ良いというものでもなく、暖かな家庭、失敗や欠点を受け止めてもらう体験がなく、人間が信頼できるという体験がないまま、大人になって行く子どもたちを放置してはなりません。虐待の要因を取り除いて虐待を無くすためにどうするかという根本的なアイデアを多く出し合って、人間らしい喜びを子どもたちに与えることを考えるべきだと思います。

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怒りや憎しみは、今虐待されている子、これから虐待される子を救えないということ。虐待防止のパラドクスについて 厳罰化、児相の権限強化、親権の停止が解決と逆行していること [家事]

 東京目黒で起きた結愛さんが亡くなった事件で、多くの方々が憤りを表明されています。見ず知らずのお子さんが亡くなったことに対して怒りをもつことができるということは、人間独特の能力です。単なる法律違反という捉え方ではなく、亡くなられたお子さんの孤独や絶望、さまざまな感情に共鳴、共感してのことになりますから、とても人間らしい感覚だと思います。
 しかし、怒りという感情は、エラーを伴いやすいものです。私が危惧しているエラーとは、せっかくの人間らしい感情が、今起きている児童虐待やこれから起きる児童虐待から罪のない子どもたちを救うことが出来ないばかりか、増やしてしまうことです。
 このエラーがなぜ起きるのか。具体的にエラーは何か。どうしてそれがエラーなのか、それではどうすればよいというのかについてご説明をすることがこの拙文の目的です。
 
 まず、「怒り」とはどういう構造なのかということについて、私の考えているところをご説明します。

 最初に危険が近づいていることを脳が認識し、危機意識を抱きます。脳は、この危機意識を解消したい、危険から逃れたいという志向をします。このとき危険を解消する方法の違いによって二種類の感情に分かれます。ひとつは、危険に対して働きかけることで危険を解消できるという意識がある場合は、危険に対して攻撃を起こし、相手の危険がなくなるまで攻撃を続けるという行動を起こさせます。この時に抱いている感情が怒りです。ふたつ目は、危険と戦っても勝てないだろうという意識がある場合は、危険から逃げようとします。このときの感情は恐怖です。危険を感じた場合、怒りたい、怯えたいということは、このように本能的な要請であり、命を維持していくためのメカニズムです。
 結愛さんが亡くなったことに対する怒りは、人間が、仲間の苦しさ、怖さを追体験し、共鳴したことによって生じたものです。事後的ではあるのですが、仲間を守りたいという意識で、これは強烈な怒りを生む傾向があります。これは、人間が農業を行なうはるか前の狩猟採集時代に、肉食獣から襲われた仲間を群れ中の集団で攻撃することによって自分たちを守りあったときの名残だと考えています。そのような仲間を守ろうとした者だけが、自分たちを守り、子孫を遺してきました。私たちの心は、このように環境に適合するように形成されたといわれています。そのため、現代においても、仲間のために仲間の敵を寄ってたかって叩こうとする習性があるわけです。
 怒りをもつことで、環境に適合することが出来たという、その意味について説明します。怒りは危険に働きかけて、危険を解消するときの感情だといいました。この場合の危険を肉食獣だとします。肉食獣も腹を減らしているから危険を承知で人間に襲い掛かっているわけですから、なんとか食いついた人間を捕食したいと思っています。これに対して、力の弱い人間は、怖いという逃げる意識を持たないで、相手を殺す勢いで、あるいは殺そうとして、攻撃をしなければなりません。肉食獣を亡き者にするという目標を持って、余計なことは考えず、撲殺することを目指して、ただひたすらに叩き続けることが必要です。なるべく安心せずに、確実に危険が無くなるまで、つまり確実に絶命させるまで、叩き続ける方が、命が助かることになるということは理解しやすいでしょう。これに対して「勝てるのだろうか」、「自分だけは逃げたほうが良いのではないだろうか」、「もうかわいそうだから叩くのをやめようか」などということを途中で考えて、叩く力を緩めたら、たちまち手負いの肉食獣は、そのひるんだ者いるところを通って逃げ出すか、その者を新しい標的にするかもしれません。このように怒りと、余計なことを考えないことと、確実にしとめるまで怒り続けるということは、命を守るためのセットの行動様式です。
 200万年前の狩猟採集時代は、危険といえば肉食獣や自然地形等ですから、このような単純な怒りの構造があれば危険回避のツールとしては十分だったのでしょう。
 しかし、複雑多様になった現代では、このような単純な怒りの様式によっては危険が解消出来ない場合も多くなりました。むしろ、怒ることでデメリットが生まれることが多いことは、われわれもよく経験しているところです。仲間を守るための強烈な怒りは、仲間を助けることにも作用するのですが、現代の複雑な社会においては、いじめやクレーマーなどの社会病理の要因にもつながる側面を持っています。


怒りがデメリットを生むことの要因についてまとめてみました。

・ 複雑な思考をすることが出来なくなる。
  余計なことを考えないことが怒りの効用でした。相手を叩くことだけに集中する方が良く、色々なことを考えてしまうことは危険だからでした。どうやら怒りが生じると、自動的に脳の複雑な思考を担当する部分が機能低下を起こすようです。これが人間や動物が生きる仕組みでした。
  複雑な思考をすることができなくなるため、派生的な因果関係を考えることが苦手になります。叩けば痛いとか、かまれれば痛いとか、直接の因果関係だけが判断可能ということになります。
・ 二者択一的な思考になる。
   これも、複雑な思考が出来なくなることからその結果としてこういうことがおきるのだと思います。つまり、敵か味方か、危険か危険から脱したかというものです。命をかけて戦っていますから、瞬時に判断することが求められていますので、このような単純化は狩猟採集時代には合理的なものでした。
・ 迅速かつ安易な解決を志向する。
   これも、戦いの途中の脳の構造ですから、理解しやすいと思います。複雑なことを考えられず、瞬時の判断が求められると共に、早く危険から解放されたいと思うことは当然でしょう。二者択一的思考とあいまって、強い者に頼るという傾向も現れていきます。
興味深いことに、本来は客観的に危険を脱するための仕組みだったのです。しかし、自然が作った方法は、危険意識を解消したいと志向するというツールを使って危険から脱する行動を起こすという仕組みを作りました。だから、いつしか、危機意識を脱したいという思いが過剰反応を起こしてしまい、独り歩きを始めることによって危険から脱するための行為と矛盾する行動を起こすということも現れたりします。この典型的な行動が自死です。
・ 後戻りすることが出来なくなる。
   後戻りのきっかけを作るための複雑な思考は出来ませんので、当然といえば当然ですが、後戻りしない行動傾向がより確実に危険を解消するために有益なことは理解しやすいと思います。途中で戦うことをやめることは死を意味するからです。自分の行為を客観的に見ることができなくなることもこの特徴からきているのかもしれません。
・ 共鳴、共感が出来なくなる。
   これは、他人と共鳴共感する脳の部分が、複雑な思考をする脳の部分と同じ部分だということから当然だと思います。アントニオ・ダマシオが発見した前頭前野腹内側部という脳の部分です。

厳罰化というエラー

 目黒事件では、無抵抗な子どもを長期にわたって苦しめ、助けがない状態に追い込んだということから、継父に対しても、放置した母親に対しても、怒りを抱くということは人間の感情としては自然なことでしょう。
 中には、虐待死に対する刑罰を厳罰化しようという主張が見られます。つい頷いてしまう主張です。しかし、これはエラーといわなりません。つまり、厳罰化は新しい犠牲者を救うことと何の関係もないからです。
 そのことについて説明します。
・ <虐待は自覚なく行なわれる。>客観的には死の危険がある行為が行なわれているのですが、加害者にはその自覚がありません。むしろ何かしら言い訳をしながら加害行為が行なわれています。虐待死の罰を重くしても、自分がいましていることに対しての罰だと認識しないことがほとんどだということです。
・ <人は法律があるから犯罪をしないわけではない。>もっともそういう人もいるかもしれませんが、実際は、自分が誰かを苦しめることに抵抗感があるのでやりません。やりたくても我慢しているよりも、多くの人はやりたいとも思わないものです。本当は殺したいのだけど、法律があるから踏みとどまっている人、なくなれば直ぐに実行するという人がどれだけいるでしょうか。実際の加害者、刑事被疑者や被告人と話すと、法律で禁止されていることは知っています。道徳的に間違っていることも複雑な行政法規でない限りはよく分かっています。
いずれにしても、罰則が重くなってもそれによって、虐待がなくなることはあまり期待することが出来ないということが実態なのです。

厳罰化の問題で看過できない問題があります。それは厳罰化の主張は実は論理的には死ななければ良いということを言っていることと同じになってしまうということです。おそらくそんなことを承認している人はいらっしゃらないでしょう。根本的には虐待をしないこと、これを目指さなければなりません。虐待死の厳罰化は死なない場合は厳罰化にならないでしょう。
それでは、死ななくても虐待自体に厳罰を課すことで解決に向かうのでしょうか。これにも疑問があります。虐待はつい起こる現象ですが、原因があります。虐待の原因をつぶすことによって、虐待しようとさせないことが根本解決です。これに対して刑罰を重くすることは、虐待をしようとする原因を放置して、虐待放置して、案の定虐待した場合に厳罰に処すということになってしまいます。
又、厳罰化することが出来ればそれで達成感が生まれてしまい、根本解決に向かわないことも心配しなければなりません。
さらに言えば、厳罰化するという思想は、「その人たちが特殊な人たちで、自分とは別の種類の人間なのだ」という意識を持ってしまいます。虐待をする人はとめることが出来ない、だから厳罰化して隔離することが必要だという優生保護法における不妊手術と同じ発想になっている危険は無いでしょうか。虐待という言葉には当てはまらないと思っていても、私たち親が子どもの事情を無視してしまうことは皆無なのでしょうか。もしかしたら、量的な違いや、偶然生まれた環境の違いに過ぎない相対的なものかもしれないという視点は必要だと思います。
厳罰化はエラー、すなわち虐待解消に役に立たないと思っています。

 親権停止、児童相談所の権限強化、里親や施設の拡充というエラー
 
 児童福祉の実践に関わらない人が良く主張する内容です。児童福祉の専門家によれば、これらは現実を知らない人の主張だと切り捨てられています。
 親権停止といってもそう簡単ではなく、現実の親権停止の申し立てはとても少ない件数です。いろいろな問題があるからです。本当に親権停止をする事案なのかということは大変難しい問題です。親権停止となれば、子どもと親が引き離され、子どもは児童養護施設に入れられます。間違って親権停止になることで、子どもは実の親から引き離されて、大人に対する不信感が堅固なものになってしまいます。親とはなれた時間が家族の関係を薄めてしまい、健全な成長をむしろ害することになります。実際に親権停止を申し立てられる親御さんは、訴訟能力が低く、弁護士を依頼する経済力もないことが多いようです。誤判を犯さないためには、申し立てる方が責任を持たなければならず負担が大きいのです。又、親権喪失ではなく、一定期間の停止としたのは親子の再統合を図ることが狙いですが、実際に再統合の働きかけがあることを私が関与した事例では見られませんでした。
 児童相談所の権限が強化されることについてもデメリットがあります。子どもが転んだなどで怪我をしただけで虐待が疑われ、長期間にわたって子どもと引き離されたという訴えもあります。一方的な判断を公平に検証するシステムがないことが問題だと思います。また、強い態度に出ることだけが独り歩きして児相に押し付けられているという現実があるでしょう。こういう事例もありました。うつ病という調子の波がある病気で、重い状態のときに掃除が出来ないのですが、その場合に虐待だと認定されて、子どもを取り上げられそうになっているという相談もありました。
 又、現実には、施設入所が国によって抑制されてしまい、里親への誘導がなされているようです。しかし、里親のなり手が十分でない上に、里親だからすべてが上手くいくという保証がないことも当然のことです。特に子育て経験がない里親が多いことは心配なことです。
 これらの現実を見ないで、親権の停止、児童相談所の権限強化、里親制度の拡充を主張することは、あまりにも無責任です。怒りは、強い者になびく行動を招くという理論どおりですし、安易な解決を目指すという理論どおりの主張です。一番の問題は、ある意味厳罰化の主張以上に、根本問題である虐待の撲滅を考えていないことです。あくまでも虐待が起きた後の対症療法に過ぎません。とにかく死ななければ良いという発想で、まじめな議論とは思えません。
 ところが、報道を見ると、虐待の撲滅、百歩譲って減少という観点からの論調は見受けられません。比較的良心的だと思っていた番組も、専門家でもない人の意見をなぜかわざわざ持ってきて、エラーだらけの意見を紹介している始末です。子どもの利益ということが、これまであまりこの国では考えられていないということがはっきりしてしまった悲しい出来事でした。それにしても、真面目に虐待に取り組んでいる人がいることすら知らないということはとても嘆かわしいことです。

虐待の原因を学ぼう

 ではどうしたらよいか。実に簡単なことを、厳罰化論者も児童福祉の現実を知らない人の児相の権限拡充論者も見落としています。怒りは、一つ一つ論理を積み重ねていくことが苦手です。何かを予防する場合は、その原因を突き止め、原因を除去することです。病気の場合でも、のどから感染するならうがいをするでしょうし、食べすぎが病気を招いている人ならば食べないようにするということです。虐待を予防するならば、虐待の原因を突き止め、その原因を取り除けばよいということになります。厳罰化論も、児相の権限拡充論も、特徴としては、原因の分析をせずに対策を論じるという非論理的な誤りを犯していることになります。
 では、どのように虐待の原因を分析するのかということになります。遠回りでも、一つ一つの事案を分析し、共通項を探すことが鉄則です。これをしないことは、特殊な人間だけが虐待をするという非科学的な決めつけですから、正しい解決にはたどり着きません。具体的事例の分析には、虐待の加害者の協力が不可欠です。虐待は密室で行われているのですから、加害者しか知りえないことが多いのです。また、加害者自身が自覚していない、無意識の行動も多くあります。こうなると、加害者を憎悪するだけでは何も解決しないということがお分かりになるでしょう。むしろ、加害者に対して支持的に、自分が何をしたのか、どうしてそれを止められなかったのか、そしてその背景として加害者が歩んできた人生、環境はどのようなものだったのかという聞き取りと分析をしなければなりません。これは、一緒に考えるというアプローチなのです。加害者に対して処罰感情だけしかなければ、つまり憎しみのアプローチだけならば、およそ将来に向けた虐待はなくならないのです。
 杉山春さんというルポライターがいます。大きな虐待事件について、何件も加害者から詳細な聞き取りを行い、丁寧な分析をされ、ルポルタージュを作成されています。新書になっていますから、入手しやすくなっています。弁護士以上に弁護士の思考ができる人です。私も随分文献を読ませていただき勉強させていただきました。
 虐待の原因は、共通する部分が多くあります。一言でいえば、無知と孤立です。子どもの愛しかたを知らず、接し方を知らず、何が必要で何が不要なのかを知らない、限度も常識もわからない。つながるべき人、つながるべき機関につながらないで、自ら孤立していく、自分たちを食い物にする人たちにつながってしまうという共通性もありました。どうしてそうなってしまうかというと、自分が愛された経験がなかったり、逆にいじめを受けたり虐待を受けたりしたということが看過できない事情としてはあるようです。そして、それが非常識なこと、それをすることは子どもがかわいそうだという意見があることについて、孤立しているために誰からも指摘されないまま、客観的には虐待が継続してしまうということが共通項のようです。
 人間はもともと両親だけで子育てをするようにはできていません。例えばチンパンジーは、母親だけが子ザルに食料を分け与えます。人間は、懐胎期間が長いことやお産が重いこと、新生児が長期間全く自立していないことから、母親だけが子育てをすることは不可能です。だから群れで子育てをしていたのです。小さく弱いものをかわいいと思う感情を持っているのが人間です。この感情は群れで子育てをした名残でしょう。文明ができると、かえってこのコアな群れは小さくなり、戦後しばらくすると、子育ては夫婦のみで行わなくてはならなくなり、事情によっては母親だけが子育てをする場合も増えています。しかし、その様式は、人類史を見ても、これまであまりなかった子育ての方法で、現代においてもかなり無理がある形態です。
 ここで、厳罰化や児相の権限を強めるため、疑いを持って近隣同士が子どもを持つ親に対する監視を強める社会になったらどうなるでしょう。ますます虐待を隠し、陰湿化し、後戻りできないまま虐待死していく子どもが増えることを心配しなくてはなりません。完全なエラーが生まれると思います。
 もう一つ、厳罰化などの考えに差別の思想があることを指摘しました。しかし、孤立した夫婦の子育てという観点からすれば、少なからずどの家庭でも虐待は起きています。子どもに強すぎる反応をすることはあるでしょうし、八つ当たりをしなかったという人はどれだけいるのでしょうか。多かれ少なかれ、子どもの心を傷つけることを親は行っています。周囲がそれを指摘してあげて、修正させてあげることがどうしても必要なのだと思います。
 これも怒りのもう一つの特徴と関係があります。怒りは、実は危険の対象にだけ向かうとは限らないということです。例えば会社でミスをしたり、上司から叱責されたり、仕事がうまくいかない、そういう場合は身体生命の危険はありませんが、会社での立場が悪くなるという意味で危険を感じます。しかし、会社に対してというか、上司に対して反抗的な態度で怒りをぶつけることができません。危険意識を抱いたまま解消する方法がない状態が生まれてしまいます。心は、危険意識を解消したいといういらだちという表現になります。この危険意識を50とします。子どもというものは、親に対して安心していますし、人間関係がうまくコントロールできませんから、親に失礼なことをすることがあります。親は2とか3とかせいぜいそのくらいの危険意識を持つ程度でしょう。しかし、子どもは弱いですから、子どもには勝てるという意識があります。何とか危機意識を解消したいという無意識の思考は、せいぜい危険度3くらいの、普通なら決して行動に出ない危機意識に怒りを向けてしまいます。この怒りは53の怒りを解消しようとする傾向にあり、必要以上に過酷になってしまいます。八つ当たりということが典型的な虐待です。虐待は、私たちの日常と断絶しているものではなく、連続しているものだと考えたほうが良いと思われます。
虐待が苛酷になる場合は、驚くほどの無知が加わります。2日程度食事を与えなくても、お菓子か何かあれば死なないだろうとか、お菓子のほかに水分が必要だとか、そういうことを本当に知らないと子どもはあっさり死んでしまうのです。また、自分は過去同じことをされたけれど我慢できたという意識が生まれてしまいます。仕事をしなければいずれ死ぬのだから、仕事の時は我慢してほしい。そういう場合に過酷な結果が生まれるようです。まさかと思うような思考過程が現実にあるのです。厳罰化がいかに予防の観点からは無意味なのか理解されたことと思います。
こういった原因を解消するためには、孤立を防ぐことと、わからないなら教えてあげること、安心して相談できる環境をつくること、知らないことで責められない、笑われない、批判されないということが肝心です。隠す親たちは、自分で理解できないまま、自分の無知を理由に笑われたり、批判されたり、責められたりしてきました。いじめもその一つです。
私は、弁護士をやりながら人権擁護委員もやっています。虐待している親からの電話相談も受けることがあります。いろいろな事情があって孤立しているということが特徴的です。相談をするくらいだから、虐待を辞めたいと思っているのです。虐待の事実に目くじらを立てて批判したのでは電話は切られてしまいます。励ましながら、責めない、笑わない、批判しないということは鉄則です。そのうえで一緒に考えます。自分の子育ての反省を赤裸々に語り、その時助けてもらった人、機関を紹介します。これなら利用できるというつながりを見つけた時は、相談者も私も心底安心し、安心が共有されたことを喜び合うような相談会になります。
虐待行為の修正に有効な機関は、子育て支援です。子育ての不安を支持的に聞き、具体的な解消方法を相談できるととても良いです。ところが、公立保育園の減少で、子育て支援をする場所の確保も苦労しているようです。地区に一つ、だれでも気軽に訪れることができて、ベテランの担当員、例えば保育士を退職した方が、ゆっくりお話を聞ける環境があると良いです。紅茶とクッキーをいただきながら話をするという環境がたくさんあるといいなと思います。子どもも遊べる環境があるとなおよいでしょう。
そのほかにも、気軽な立ち寄り所があって、地域的なコミュニケーションが作れるような、居場所が作られればと思います。これらは、親の相談場所であるとともに、子どもの逃げ場所にもなるわけです。
奇妙な話ですが、児童虐待を防ぐためには、児童虐待をしている親を憎んで排除するのではなく、親の虐待する心を承認し、許すことなのです。虐待防止のパラドクスということでしょうか。
このような親と子どもがコミュニティーの一員として受け入れられることが必要なのですが、現実の社会は、特に虐待予備軍というような家庭はどこのコミュニティーにも属さずに孤立しています。始めからコミュニティーを作るというより、町内会や子育て支援など行政がコミュニティーの種を作っていくことが求められると思います。被災地では被災した地元のお年寄りと地元の小学校の子どもたちの交流が行われています。これは、子どもたちを守ることにもつながりますし、孤立したお年寄りを元気づける等大きな効果が生まれています。
長期的には、子どもが安心できる人間関係を幾重にも構築していくことだと思います。安心できる人間関係は人の心を癒します。助け合う人間関係を積極的に構築していくことが根本的な問題でしょう。

子どもが一緒に住まない親と、頻繁に会えることが当たり前の世の中にしよう

 江戸時代は、実の親のほかに名付け親,拾い親、抱き上げ親等、何人もの親がいました。関係が密な人間関係が形成されている時代でさえ、子どもたちはたくさんの逃げ道がありました。余計なお世話をしあう制度的保証があったといえると思います。「俺の子どものことに口を出さないでくれ。」、「馬鹿言ってんじゃないよ、俺が名付け親だろう。俺の子どもをぞんざいに扱うな。」というやり取りがあったと思うと楽しくなります。子どもは皆で育てるものという意識が感じられます。これが多くの人たちの共通認識でした。
 現代の子育ては孤立しています。簡単にコミュニティーは構築しにくいでしょう。大体、話を聞くにしても場所がありません。なかなか自宅を晒すことは抵抗が多くてできないということが多いのではないでしょうか。
 その中でも注目するべきは、深刻な児童虐待が、実の親ではなく、母親の新しい夫、内縁の夫、交際相手が関与して行われることがみられるということです。この場合は、実の父親がどこかにいるということになります。この実の父親は、強力な子どもの味方になるでしょう。
 ところが、現在の日本では、離婚をしてしまうと、子どもはどちらかの親だけと生活し、一緒に暮らしていない親と面会すらできないことが多いです。離婚前の別居の段階でも同様です。これには歴史的背景があります。戦前の家制度の下では、子どもは家のものだという意識がありました。そのため、家を出ていくほうは子どもを置いて出ていかなければなりませんでした。子どもに里心、母親を恋する心が強くなり、家を出て行かれては困るので、離婚が親と子の未来永劫の別れにされてしまっていました。戦後しばらく、高度成長期ころまではこのような感覚が多かったようです。その後、女性の収入が向上したり、女性の人権が確立していくとともに、母親が子どもを引き取って離婚をするケースが増えて、大勢になっていきました。しかし、離婚は子どもとの未来永劫の別れという意識、あきらめも一方にあり、子どもをあきらめるという風潮が残ったように思います。子どもが両親から愛情を受けて育つほうが健全に成長する、離婚のマイナス影響が緩和されるということは、世界中の調査によって確立していることですが、日本においてはあまり重視されませんでした。封建制度の下では子どもは家の付属物で、高度成長期以降は母親の付属物のように扱われていたと厳しく見るべきです。
 なぜこのように厳しく見る必要があるかというと、日本を除く先進国は、離婚後も子どもを父母双方が養育する、父母双方に親権(親責任)があるという共同親権の制度をとっています。子どもの利益を親から切り離して考えるべきだということがお隣の韓国も含めて先進国の共通の考え方なのです。ところが、日本では、ようやく離婚後、離婚前の別居時の面会交流という考え方が進み始めたという段階にとどまっているからです。だから、子どもの独自の権利を承認するということが日本においては急務の課題です。このひとりの人間として尊重しない最悪の結果が虐待なのです。
 とりあえず、現制度では、面会交流の拡充です。面会交流が頻繁に行われると、虐待をすればすぐにわかってしまいます。だから、虐待に対する抑止効果になるでしょう。しょっちゅう別れた相手と子どもが面会するということが煩わしいという気持ちもあるかもしれません。でも仕方がありません。子どもは双方の親から愛される権利がある独立した人格だからです。子どもを連れての離婚はそういうものだということを社会的に常識にする必要があります。また、実際に虐待があって様子がおかしかったら、実の親なら毅然とした対応をするでしょう。会えないから帰るということはせずに、納得できるまで面会を要求するでしょう。子どもにとって力強い味方になります。すべての親が虐待をするわけではありません。しかし、子どもが実の親に会うことのデメリットは、同居親のわずらわしさしかありません。逆にメリットとしては、逃げ道があるという安心感があるだけでなく、離婚に伴って子どもが自分の価値を低く考えてしまう負の影響を緩和することができるということが科学的に証明されています。何事もなくても面会することで、子どもにとっては利益なのです。子どもを一人の人格を持つ主体だと考えるのであれば、このような子どもの利益を積極的に推進するべきであり、妨害することは虐待だと考える風潮が作られることが必要です。
 なぜ、このように大切な面会が十分行われないのでしょう。最近は裁判所も強く面会を勧めるようになりつつあります。実際、裁判所から言われれば、同居親も子どもが喜ぶ面会交流なら応じなければいけないだろうという認識を持つものです。
 面会交流が進まないのは、同居親の、子どもを離婚した相手に会わせたくないという感情を子どもの利益以上に尊重してしまう風潮が、法曹界や社会に根強いということなのです。モノを言えない子ども、同居親に遠慮をする子どもの声なき声を取り上げようとせず、同居親の感情をいさめないどころか先取りして代弁する人たちもいます。これでは、同居親は会わせようとする気持ちを起こすことができません。
 そうはいっても、会わせたくないという感情まで否定することは現実的ではありません。自分も相手に会いたくないということは実際に強くあります。だから必要なことは、同居親の精神的負担をできるだけ軽減した面会方法を工夫することです。例えば、面会交流の施設を自治体が提供するということは、精神的負担をだいぶ軽減します。その中で、双方の不安を解消する提案をするスタッフがいればなおよいと思います。現在でもこのような団体があるにはあるのですが、費用も高額になっています。自治体こそが、安価な施設を作って同居親の背中を押すべきだと私は思います。現在の少子化の時代、子どもたちが健全に育つためのそれほど多くもない費用の支出に躊躇することはばかげています。
 
 虐待の問題は、このように社会全体で解決する問題です。人の心の問題です。これを罰則を強化して解決しようとか、逆に親権の停止や児童相談所の権限の拡充で解決しようとすることは、まったく虐待の実態を見ない安直な考え方だと思います。孤立して、十分な知識のない家庭を援助するのではなく、刑罰や親権停止の威嚇によって、結果として虐待だけをなくすという政策が根本問題を解決しないどころか、何ら子どもたちの幸せに結びつかないことはご理解いただけると思います。



私は無宗教ですが、新約聖書のヨハネによる福音書第8章では、イエスのもとに罪を犯した女性が連れてこられます。モーゼの律法によって、みんなで石を投げて殺さなければならないといって、イエスの考えを聞きに来たのでした。イエスは即答せず、もどかしい時間が流れました。ようやく語ったことは、自分を省みて罪がないと思う人間だけが石を投げればよいと言ったそうです。年齢の高い者から、一人また一人と帰って行ったそうです。そして、イエスと罪を犯した女性だけが残りました。イエスは、自分はだれも裁かないと言い、女性に対してこれからは過ちをしないように述べたというのです。
私の人生に影響を与えた一節です。

もし神がいて、現代社会に天使を遣わされ、犠牲が生まれたとしたら、憎しみを募らせたり、人の裁きを重くしたりするという気持ちは、たとえそれが正義感から出たものだとしても間違いなのでしょう。自分たちを省みて、迫害されている愛を解き放ち、慈しみといたわりを強く大きくしていかなければ、犠牲が意味のないものになってしまうと私は思います。


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【提案】児相を責める前に私たちこそが考えを改めよう!目黒5歳女児事件のような虐待死を繰り返さないための共同養育という人間らしい方法 [家事]

何の抵抗することもできず、
何の責められる理由もなく、
5歳の女児が、絶望を抱きながら亡くなりました。
同居していた母親から助けられることの無い
絶対的孤立を感じていたことと思います。

こういう悲惨な出来事があった場合、
人間が犯しやすいエラーは
誰かを責めることです。

誰かを責めることでは
悲劇の繰り返しを絶つことはできません。

児童相談所を責めることは慎重にするべきです。
この種の事案で児童相談所を責めた結果、
本来引き離さなくてもよい親子が
引き離されるということが起きています。

目黒事件という起きてしまったことから目を離さず、
二度とこういう悲劇を起こさないようにしなければなりません。

私たちが変わることで悲劇が一つでも減るならば、
どんどん変わっていこうではありませんか。

今回は不幸にして5歳女性は亡くなりました。
しかし、これは氷山の一角と考えるべきです。
つまり、
亡くならないまでも
心身を虐待され、
安心して帰るべき家を持たない子どもたちがいるのです。

人間が助け合うものだとか、信じられるものだということを
知らないまま大人になっていく子どもたちがいるということなのです。
人間として生まれてきたはずなのに
人間として生まれてきた喜びに接することができない子どもたちがいるのです。

このような最も基本的な人権が今後も守られないなら
そんな社会は死滅していくだけでしょう。


児童虐待一般の問題を考えても仕方がありません。
きちんと目をそらさずに実態をみなくてはいけません。

過酷な児童虐待は、
母親の新しい夫や交際相手の男が行い
実の母親が放置したり、共同加害をしておきます。

統計的にも父親の子殺しは極めて少数です。

危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11

母親が多いのは新生児を殺すことがあるからです。
母親の交際相手や新しい夫が虐待死、過酷になることが多いのです。

前夫の子殺しは猿の行動です。
今号の雑誌「正論」では、
埼玉大学名誉教授 長谷川三千子と動物行動学研究家 竹内久美子が
「セクハラ
 そんなのチンパンジーでは常識です
 他人の尻馬に乗る「#ME TOO」運動」
と題して対談をしています。

この表題からしても、チンパンジーもセクハラをするのだから
人間がしても仕方がない、批判するな
と受け止めかねない内容になっています。

しかしさらなる問題はその後です。
チンパンジーの雄は雌と繁殖行為をするために
相手のメスの前夫との子どもを殺すということを述べていました。
チンパンジーのセクハラが常識だから非難をやめろというのならば、
チンパンジーも子どもを殺すからなんだというのでしょう。
そらおそろしいことが、埼玉大学名誉教授らによって
語られているわけです。

なぜ人間は服を着ているか少し考えるべきです。
また、人間の雄の犬歯が大きくない理由についても考えるべきでしょう。

正論という名前の雑誌ですから
今回の事件を受けて
何らかの説明記事を次号で出すことだと思います。

それはともかく、
前夫との子どもを殺すのは猿並みです。
しかし、そういう猿並みの男が現代日本に一定数いるのだということになるでしょう。

我が子に対する過酷な虐待を放置している母親の事情があるのかもしれませんが、
その事情について大変興味があります。
詳細な説明を引き出して国民に還元し、
悲劇の防止に役立てるべきだと思います。

いずれにしても、今回の事件が特異な二人によって起こされたというよりは、
今後も起きる要素があるのだということを
しっかり考えなければなりません。

現在この種の事件を繰り返さないために考えるべきこと
私たちが修正するべきことが一つあります。

それは、離婚をしたら、
一方の親だけが子どもと関わり
他方の親はお金だけを払うものだ
という単独養育の風潮があるということです。
もしかしたら、私もどこかでそういう風に考えているのかもしれません。

「だって、理由があって離婚するのだから
 相手とは二度と会いたくないのが当たり前じゃない。」
そういう風に、子どもを別居親に会わせることは
同居親にかわいそうなのではないかと思う傾向があるかもしれません。

確かに嫌でしょう。会わせたくないでしょう。
その気持ちまで否定しようとは思いません。

しかし、そのような素朴な感情が支持される風潮は、
母親が子どもを父親に会わせないことの疑問を
私たちから奪ってしまいます。

今回5歳の女性が死亡しました。
女性には父親がいたはずです。
父親という逃げ道があったはずなのです。
しかし、この様な会わせたくないことを支持する風潮は
子どもからせっかくあるはずの逃げ道を奪ってしまうのです。

もっとも、別居親と死別していた、遠方にいる等の事情もあるかもしれません。
しかし、その時は、父親の両親など新たな逃げ道が
子どものために用意されるべきだと思います。

子どもが別居親と面会することのメリットは数え切れません。

これまでアメイト等によって統計的に裏付けられてきたメリットとして
自尊心の低下の防止があげられていますが、
もっと現実的な効果があります。

今回の目黒事件のような虐待を防ぐことです。
平均体重より12kgも軽い身体状態をみたら、
子どもを奪い取ることができます。
自分の子どもですから、
会いに来たのに子どもに会わせられないまま帰る
やる気のない公務員に任せるよりも確実です。

また、そのような状態になる前の抑止力になります。
即ち、1カ月に一度でも子どもと別居親が会うということになれば、
虐待を疑わせるようなことはできなくなります。

別居親との面会がなかったことが
東京を密室にしてしまいました。

確かに同居親には抵抗があるでしょう。
しかし、やっぱり子どもを産んだ以上は仕方がないのです。

子どもを会わせないわけにはいかない

こういう風潮に私たちを変えていかなければなりません。
みんなが同居親の精神的苦痛を配慮して、
子どもとの面会を助けるような社会にしなければなりません。
同居親を励ますことが必要です。

行政は、離婚した相手と自分は会いたくないけれど
子どもには会わせてよいという同居親が
子どもに会わせやすくするような環境を整えることが急務です。

安価な使用が可能とならなければなりません。
それは行政こそがやるべきなのです。

(私のこのような主張が河北新報に掲載された後
 記者さんが宮城県と仙台市に見解をただしたそうですが、
 どちらも全く考えていないという回答だったそうです。)

現在は、同居親の自分ファーストの感情を支持し
別居親と子どもを引き離すことばかりが行われています。

子どもへの影響を考えることができず
感情的になっている方を支持するということは
感情のまま子殺しをする
直接的な因果関係しか認めない猿並みの思考だと
自分たちを厳しく戒める必要があると思います。

私たちは人間なのです。
親に会いたい子どもの援助をしなければなりません。
会いたいといえない子どもにこそ必要なことです。
それができるのは人間だけです。

ここでもう一つ児相を責める前に指摘しなければならないことがあります。

それは国会議員です。

一部の議員連盟は、
この種の事件の頻発を防止し、親子の絆を断絶させないということから
法案を作成しています。
私は修正されて換骨奪胎になった法案を全面的に指示することはできません。
しかし、何年も前から準備している法案を
一度も国会で議論しないということは、
きわめて怠慢で無責任な態度だと思います。

法案が通ればデメリットも多いのですが、
子どもを別居親に会わせるべきだという傾向を作ることができる
というメリットがあり、
その法律を執行する過程で
具体的な対策も立てられるかもしれません。

通らないにしても
国会で議論をすることは重要です。

今この問題は、日本会議の機関紙くらいでしか
系統的に取り上げられていません。
これが現実なのです。

幾重にも子どもの逃げ道を張り巡らせて、
目黒事件のような悲劇を断絶することが必要です。
そのための第1歩が
離婚後の共同養育ということになります。

あと何回罪のない子どもの
絶対的孤立、絶望の末の死の報道に
私たちは立ち会わなければならないのでしょうか。
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TVプログラム企画案 「夫婦の時間」 [家事]

1 テーマ

なかなか会話のない日本の家庭の中で
知らず知らずにお互いに対する不満が募ってしまうことがあります。
本当は言葉にして、お互いに修正をすればよいのですが、
自分自身が何に不満を抱いているかわからないということもあるようです。

また、夫婦ぐるみでの付き合いという形式が少なくなり、
先輩のアドバイスが受けにくいという事情があります。

そして、お互いを気遣いあいながら
それを素直に受け止められなくて
破綻してしまう夫婦が多くあります。
最初のボタンの掛け違いにさえ気が付くことができたら
そんなことにはならなかったのにと思うケースが多くあります。

子どもたちへの影響も気になるところです。

そんな問題意識から
些細なきっかけをクリアーに表に出し、
それぞれどういう気持ちなのか
テレビではこう言っていたけれど
実際のパートナーはどう思うか、

それは違うよ
これは大げさだね
というように
話し合われるきっかけになれば
よいのでしょうか。

2 番組形式

日常生活をドラマ仕立てで再現します。
その時感じていた妻の気持ち、
その時感じていた夫の気持ち
一つのことを他覚的に映像化します。

認知心理学か精神医療(行動療法)の観点や
弁護士の観点から、
解説が加わります。

どうしてそういってしまうのか、
どうしてそういう感情になるのか
分かりやすく解決します。

これを放置していた場合に起こることについても
解説が加えます。

但し、どちらが正しいか
どちらが間違っているかという議論はしません。
白黒は付けないということがみそです。

その後かあるいは解説の前か、あるいは前後か
ゲストに好きかってに発言してもらいます。
色々な見方があってよいので、
自分はこう思うということを言ってもよいですが、
他人の発言を否定することはなるべく避けます。

ファシリテーターがきちんと仕切ることが必要です。

こうやって、相手を否定しないで会話をする方法を
学習していくことにもなります。

第三者のアドバイスの危うさも
きちんと解説してもらうとよいと思います。

このセットを二本くらいで30分くらいかなと思っています。

3 メイン司会は、

  「どれが正解ということはないかも知れません。
   しかし、声に出すことで安心できる関係が作られていくのかもしれません」
等という決め台詞をいう。

4 具体的テーマのサンプル

  「私の夫は話を聞かない」

  仕事のことで困ったことがあることを一生懸命夫に話す妻
  かなり感情移入して聴いている夫、
  妻は言葉にすることがなかなか難しく一生懸命
  夫は自分の経験を思い出し、
  言葉にすることに苦労をしている妻の言葉を引き取って
  こういうことだろう、こういう時は
  とアドバイスを始めだす。

  妻はうなづきながらも
  なお自分で話をしようとするが
  夫は自分のアドバイスを否定されたような気持ちになり
  だんだん面倒くさくなってくる
  
  妻は話を続けようとするが
  夫は、今言ったとおりだよと言いだす。
  妻が切れる。
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家庭不和が起きやすい現代社会の中で男性が心がけるべきこと 子どもたちのために [家事]

暴力も暴言もないのに、
妻が子どもを連れて出ていくという事件が平成に入ってから増えはじめ、
特に平成20年過ぎから飛躍的に増えています。

親の争いに巻き込まれる子どもたちの
健全な成長にも深刻な影を落とす場合があります。

妻側の体調の変化、考え方の変化
例えば、出産に伴うホルモンバランスの変化
甲状腺機能や婦人科疾患、肝臓の治療、

夫側でいえば、過労によるイライラや無気力
といった、二人に責任を問えないような事情で
夫婦問題が生じることが多くなってきているようにも思われます。

俺は悪くない
あなたが悪いのよ
ということを事後的に言いあっても
もはや解決ができない事態に陥れば
自分たちや子どもたちが
生まれてきた喜びや充実感を
感じられなくなるような事態に陥ってしまいます。

男性側が特に気をつけるべきこと、
意識するべきことを暫定的にまとめます。

1 妻は、不安を感じ易いと思おう!

こんなことくらいで
ということに傷つく可能性があるということを意識しましょう。
体調の変化等で、本人も家族も気が付かないことの方が多いのですが、
実際に不安になりやすくなっていることがあります。

だいたいそう思っていれば間違いはないです。
不安になりやすい人が快適なご家庭であれば
不安でない人だって快適なはずですから。

そんなことないよ。
いつもやり返されていて
妻の方が怖いくらいだ。

ということを言いがちですが、
妻の怒りの根源は
不安を解消しようとしているのかもしれません。

あなたが中学生くらいの時
親から勉強しなさいと言われたとき
「今しようと思っていたのに」
と切れたことはないでしょうか。
大体そんな感じで、
言われるのが嫌だから
怒りを含んだ対応をするということを
頭の中に入れておいてください。

2 言葉遣いの荒いのはダメ

これは、結構共通のことです。
男同士だと、ふざけて
お前なあとか、手命で勝手にしろ
等と言いますが、
女性に対してこのような言葉はNGです。

その時の雰囲気や流れを記憶しないで、
言葉だけが記憶に残り、
恐怖感情を抱くようです。

本人に対してそういう乱暴な言葉をぶつけるだけでなく、
例えば運転中トロトロ走って危ない運転手に
毒づくことも、恐怖の感情を起こさせるようです。
不安を感じている心が敏感な時には
ましましで恐怖になるようです。

3 相手へのダメ出しは最低限に

どうでもいいことが結構多い
ということを意識しましょう。

ダメ出しはマイナスポイントです。
どうでもよいことでダメ出しをしてしまうと、
マイナスポイントが累積して
肝心な時に相手に通じなくなります。

結構、気丈な奥さんも
食事や子育て、その他もろもろ
そんなに自信を持っていやっているわけではありません。

どうしても何か言いたいときは
先ず、肯定するところを探し出して、
感謝なりしてから、
ついでの様に付け加える等の作業が必要のようです。

一番意見が対立するのは子どものことです。
とかく、どちらも夢をみがちです。
完璧な子育てという無理な目標をたてがちです。

意見が鋭く対立しますが、
子どものためと言う言い訳が心に用意されていますから、
なかなか譲歩することがない場面です。

しかし、完璧も絶対的な正しさもありません。
生身の子どもですから。
自分が正しいと思うことも
実際は相手の方が正しかった
ということはよくあります。

奥さんが10と言ってあなたが0と言いあうとき、
着地点の目標は5にしましょう。
これも絶対目標にしないで、
7くらいまで行けば良しとしましょう。

それが子どもにとって一番良いことのようです。

7が良いというわけでなく、
親同士の対立がおさまるということも含めてです。

4 顔をつぶすことをしてはいけない

子どもの前とか、親の前とか
そういう所での対応がポイントです。
とにかく、人前で奥さんを否定しない。

うっかりする時はうっかりしますから。
意識しておくことが必要です。

特に子どもの前で批判することはこらえましょう。
これは子どもの取り合いになり、
子どもにとてつもない不安を与えてしまいます。

逆に人前でたてることによって
ポイントを獲得するチャンスです。

5 なにごともほどほどに

まあ、色々書きましたが
完璧を目指してはなりません。

一回間違えたら、この次は間違えないようにしようとか
間違えちゃったから、ケーキとか買ってこようとか
間違いをフォローするという気持ちの方が大事かもしれません。

そのためには、相手の間違いを許すということ、
この次頑張ろうということ、今度は頑張ろうということ
こういう家庭が結局はうまくいくみたいです。

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終末弁護という仕事 死を目前としているのに途方もなく立派に家族のための身辺整理の依頼者の方々 [家事]


若くして、突然ガンを告げられ、余命宣告まで受ける
それまでの生活が断たれてしまうことになります。
子育てだったり、趣味だったり、
当たり前に続いていくことを前提に人は生きている
そんなことに気が付かされます。

自分ならとても冷静ではいられないでしょう。

それでも、自分の家族のために、
あるいは自分が残した仕事のために、
なんとか形を作りたい
遺された家族がより快適に生きるために
今できることをしたい
そう思われる方がいらっしゃいます。

大変頭が下がる考えです。

そうして、生前にできること、
生前のうちにしなければならないこと
死んだ後に処理するためのこと
等を誰かに託したいというお気持ちになるようです。

この場合、客観的に弁護士は便利な職業です。
大抵のことは本人に成り代わって行うことができます。
最終的には、遺言の作成まで行うことができます。

本人は病院から外出できませんので、
色々と工夫をして、
本人の代理人として活動するということです。

いざと言うときにはじめて弁護士を探すということは
なかなか難しいこともあると思いますが、
それまでいくつかの仕事を一緒にやって、
気心が知れていれば、
自分が伝えたいことを一生懸命に伝えなければならない
という何ともじれったい打ち合わせが少なく済みます。

こちらの気持ちを分かってもらえれば
ある程度は任せてしまっても
心配はいりません。
とにかく全部やってもらえるからです。

ただ、弁護士の方は、
とても緊張をする上に、最短の作業を心がけなければなりません。
命が少なくなっていることを自覚している方々は、
それでもお金をかけて他人に依頼する方々は
見え透いた慰めではなく、
実務をしてもらいたい
それもなるべく早く済ませてもらいたい
という想いがあります。

そこを積極的に理解していこうとしなければなりません。

死ぬ間際、思いを残して死にたくない
というその思いを大切にしなくてはなりません。

亡くなることを前提として活動をしなくてはなりません。
全財産の調査を行うことも必要があればしなくてはなりません。

かなり精神的にはきつい仕事です。

日に日に弱っていく徴候が確認できます。
打ち合わせも、長時間行うことはとてもできません。
ひたすら心を隠して、鉄仮面をつけて、
打ち合わせをするわけです。
せめて、病状に動揺しないように
それだけはそうしてあげようという気持ちです。

強度の信頼関係が必要です。
信頼感を与えなければならないということと
信頼されていなければやっていられないということ、

ただ、それも病状の進行によってどうなるか。
なるべく、感情的乱れに伴う
攻撃的言動もあると予想して
しっかり対応(受け流し)しようと心構えを作っています。

今まで培ったノウハウを総動員し、
各専門業種の方々も総動員して、
思いを遂げるために頑張っています。



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