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働き過ぎの男たちが不安定なパートタイム家族になっていないか。中高年の働き改革は定年後の自分のために急務 [家事]



夫が定年間近の妻たちの女子会での話題は、
定年後に夫が一日中家にいることになることに対する
不安と言うか、半ば嫌悪感を
確認しあうことらしいです。

男の立場からすると
家族のために体と睡眠時間と神経をすり減らして働いた挙句、
ようやく定年退職になって一息つこうとしたところを
邪魔者扱いされるのですから
とてもやりきれない思いがあります。

パートタイムや派遣労働等の非正規雇用は
不安定雇用等と言われ、潜在的失業者と言われることがありますが
家族という視点で見た場合、
働き過ぎの夫はパートタイム家族のようです。

朝ご飯を食べて家を出て、
夕方帰ってきて夕ご飯を食べたり食べなかったり、
風呂に入って寝る。
会話らしい会話もなく、
そして起きてまた仕事に行く。

余り人間らしい接点がないと言えばないかも知れません。

認知心理学でいうところの
単純接触効果は、
人間は、近くに長くいる人に情が湧いてしまう
仲間だと思ってしまうというものですが、

逆に一緒にいる時間が短いと
仲間だという意識が根付かないで薄れていくのでしょう。
一緒にいる時間中寝ていたのでは
何の意味もないわけです。

何か相談事があっても
例えば子どものこととか相談したくても
家にいなかったり、
「仕事で疲れているんだから後にしてくれ」
とか言って相手にしないことのつけが
積もり積もっているかもしれません。

家族は、あなたのお金以外の価値を
あなたに期待することをあきらめているかもしれません。

短時間だけ家に一緒にいるという
いわばパートタイム家族は、
不安定家族であり、潜在的孤立者なのかもしれません。

まさか追い出されたりはしないでしょうが、
好意をもって受け入れられなければ
大変居づらい余生となってしまいます。
健康面で不安がある場合も
あまり熱心に心配されることもなく
十分な介護をしてもらえないかも知れません。

仲間だと思われていない夫は注意する必要があります。
あなたは、自分が攻撃的意図をもって話をしなくても
家族は、特に妻は、
あなたに安心していません。
端的に言えば敵かもしれないと思っています。
あなたは自分を攻撃する存在かもしれないと思っているわけです。
これは理屈ではなく、感覚ないし本能です。

仲間は自分を守ってくれるものですが、
あなたが給与を家計に入れることは
高度に抽象的なので、本能を動かしにくいのです。
実感として守られているとすんなり受け止められないかも知れません。
ましてや、あなたの苦労が瞬時に理解できるわけでもありません。

さて、仲間だと実感できない場合は、
自分を攻撃するかもしれないと身構えるのは本能です。
あなたの些細な言動が
自分を攻撃しているものかもしれないと考え
危険の可能性のあるものに対して素早く対応しようとするのも本能です。

あなたが、家族に対して
うっかり会社で部下に対してする以上に
命令的な口調や辛辣な評価をしてしまうと
ああ、やっぱり自分を攻撃する存在なのだ
という防御を固めていくことになってしまいます。
次第にあなたから遠ざかることによって
妻は自分を守ろうとするでしょう。

自分は大丈夫だと自信のある方はどれくらいいるのでしょう。
そうならないためにどうしたら良いのでしょう。

私は、自分の働き方改革をすることが必要だと思います。

キーワードは、既に出ています。
「仕事で疲れているんだから後にしてくれ」
これは家庭のことは後にしてくれ、
自分以外の家族で解決してくれ
ということなのです。

誰しも働く男性は共感するセリフですが、
ここが間違っているということが「働き方改革」です。

考えても見てください
家族のために働いているのに
家族のために話を聞くこともできない
これは矛盾なのです。
本末転倒だったということをしっかり自覚する必要があります。

あなたがまだ定年前であるならば
このような働き方はやめるべきです。
長時間働いて、家族と一緒に過ごす時間が足りない上に
わずかの短い時間を家族のために使えないくらい
心身ともに疲労しているならば
それは「家族のために働いている」
とは考えてはならないのです。

自分が会社などで、上司や同僚や部下に
評価されるために働いている
そう思い直した方がよいようです。

そのことが悪いわけではありません。
しかし、不安定家族となる要素です。
どちらをとるかはあなた次第です。

ここで再度申し上げますが
仲間意識というのは、
理屈で構築するものではありません。
直感や本能で感じるものです。

あなたが家族のために給料を稼いできた
それが当たり前だと思うならば
あなたが家庭を顧みないで働いて
給料を家に入れることも当たり前だ
という意識になっているわけです。

こんなに頑張っても報われないなんてひどいじゃないか
と思うのも当然ですが、
仲間だと感じることができない「人」が不遇な思いをしても
その無念さに共感されることはないのです。
いち早くこのことに気が付くべきです。

家族との時間を減らしたり
家族との時間に疲労を残して貢献できないような仕事は
やめるべきです。

もちろん家族と話し合う必要はあります、
家族と一緒にいる時間を増やしたい、大切にしたい
という意思表示は、きっちり口に出して言うべきです。

必要な収入を確保しながら
家族といる時間を増やすということが理想です。
若い人ならば転職をするということもあるでしょう。
逆にあなたがある程度力があるならば、
労働時間短縮に知恵と力を使うべきです。

多少の収入減であれば
家族にも理解されるでしょう。
家族といる時間を増やすための努力も
家族に情報提供をするべきです。

失敗しても仲間意識だけは生まれていきますし、
家族のために働いているという意識も持ってもらえるでしょう。
何よりも、話をすることが
仲間意識を育てる大きなポイントです。

ロビン・ダンバーという私の尊敬する学者は
人間がサルのように他者の毛づくろいをしない理由は
言葉による接触ができるからだと
言葉の発生を説明しています。

攻撃的意味あいのない言葉は
敵意がないことを示しているということであれば
そういう側面が強くあるのだと思います。

自分のために、自分の老後のために
労働時間を短縮して家族といる時間
家族と話をする時間を増やすということが
私たちの働き方改革ということになるのだと思います。

では、家族といる時間を長く増やして
何をすればよいのでしょう。
何を話せばよいのでしょう。

もしかしたら、そのような不安を持っているかもしれません。

ロビン・ダンバーの学説は、
こういうところでも役に立ちます。

会話は「毛づくろい」ということです。

猿が毛づくろいをするのは敵意がないことを示し仲間意識を作るためです。
私はあなたに敵意がありませんということですから、
会社での会話のように
何か目的を達成するための手段ではありません。
何を話すということではありません。

もしかするとそれが一番苦手なのがわれわれ男性なのですが、
一番のコツは、
ニコニコして、話を聞くということです。
そして突っ込まない。
突っ込む場合でも、こういう場合もあるよというように
否定しないで修正する。
芸人のマネをして突っ込むと
家庭の中ではきつくなりやすいということを覚えましょう。

共感できるところを探し出して共感することも良いです。
「ああ、そうだね」ということでもよいです。
かなり面倒だと思っているかもしれませんが、
女性同士はみんなそうやっていますし、

要はなれということです。

進学に備えて勉強をして
就職に備えて進学したのですから
老後に備えて毛づくろいコミュニケーションを
学んでいくことはそれほど難しいことではありません。

また、常に完璧にしなければならないものでもないです。
攻撃的にならなければ
「わからない」という逃げ道もアリです。

また、会話が苦手な方は
家の外に出るということを積極的に行うことがよいでしょう。
家の外にいると、一緒にいるだけで心強いです。
荷物を持ってもらえばもっと嬉しいです。

まあ、同じ趣味をもって同じ時間を過ごすなんてことも
提唱されているようですが、
ハードルが高いように私は思います。
日常を共有する方が無難だし確実な気がします。

「ばかばかしい」

とここまで読まれた方の何割かはそう思っているでしょう。
そういう方こそ
人間の幸せについて考えるべきです。

一緒にいることを喜ばれる仲間がいること
私はこれが人間の幸せだと思っています。

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離婚調停で、実質的な話し合い抜きの不成立は許されない。真面目に本来の家事調停を実施しよう。 [家事]


離婚調停を担当していてとてもおかしいと思うことがあります。
実質的に離婚についての話し合いをしてもいないのに、
調停委員から、
「申立人は離婚の意思が固いです。
 あなたは、離婚をしたくないという。
 これでは、話し合いは平行線のままなので
 申立人は不成立で終わりにしたいというのです。」
つまり調停を打ち切って裁判にしたらどうだというのです。

どうやら、申立人側についた代理人の意向らしいのです。
極端な場合は、調停の最初の日にそんなことを言われることもあります。

調停委員の考えでは、
離婚調停が申し立てられた以上、
離婚を受け入れて慰謝料や財産分与、親権などを話し合うのが
調停だというかのようです。

なんとなく、
確かに離婚するしないで意見が対立しているならば
話し合いが成立しないから仕方がないか
などと考えてしまいそうになります。

しかし、これは大間違いだと思うのです。
なぜ大間違いなのかをこれからお話しします。

一般の方はあまり意識しないことだと思うのですが、
調停にまでなる離婚というのは、
どちらかが離婚したくて、
どちらかが離婚したくない場合がほとんどです。

そうだとすると、
離婚をするかどうかの話し合いは許されず
離婚調停は、離婚をしたい人のためだけの制度ということになります。
離婚をしたくない人は話し合いをできず、
裁判をしなければならなくなります。

しかし、離婚は、調停で話し合いをしなければ
裁判をすることができなくなっています。
これは一つに、離婚をするかしないかは当事者が決めることが第一で
裁判所が介入することは必要最小限度にしようという考えと
特に子供たちがいる場合は、
離婚をして終わりではなく、
離婚後も新たな関係が続くわけですから、
話し合いで解決して、できるだけわだかまりを小さくすることが
関係者一堂のために最善だということから
法律で決められているのです。

ある意味、
離婚したくない人も
話し合いをする具体的な権利を有していると
いうことができると思います。

離婚を受け入れなければ裁判だとなれば
この話し合いの権利を奪われることになります。

では、何を話し合うか。

離婚をしたくて離婚を申し立てたほうにこそ
実は話し合いの利益が大きいのです。

「私が離婚したい理由はこれこれだ。
確かにあなたが悪意でこういうことをしているわけではない
ということは私もよくわかる。
でも、あなたはこうしてしまう。
私は何度もあなたに対してこう言ってきたはずだ。
それでもあなたはそうしてくれなかった。
貴方と一緒にいることはとても苦しい。
このままの関係を続けることができない。」

大体こういうことを言うわけです。

ここで、相手方が、
「それは分かった、自分の生き方を変える
これこれの人にもそういわれて
今回別居や離婚調停が始まって、
初めて身にしみてわかった。
どうかこうして欲しい。」

申立人が
「それはこういう理由で不可能だと思う。」とか

こんなやりとりをしながら、
離婚をしたい理由や心情を相手方に理解させる

相手方は、離婚自体に納得できないとしても
相手が離婚したい気持ちをおぼろげながらでも
把握することができる。

そうすることができれば、
案外離婚の成立は早いものです。
そのためには、相互に相手を理解する努力をして
自分を理解してもらう努力をする
それが離婚調停なわけです。
ひところまでは、
そうですね、10年以上前まではそれが常識でした。

弁護士の仕事は、
相手と自分を理解する作業を一緒に行い、
相手に理解してもらう作業を行うということでした。

そうやって、
一方的な離婚とせずに、
また、相手を全面否定することなしに、
できるだけソフトランディングするように努力する。
そして最低限度の信頼関係構築して
離婚後も別居親が子供の成長にかかわることができるように
養育費や面会を実現する基礎を作ったものでした。
もちろんうまくいかないこともあります。

ただ、相互理解がある程度できれば
離婚までの期間が短くなる。
離婚後の関係がある程度良好になる
というメリットがあったわけです。

今の離婚調停は、
離婚するかしないかの結論が違うならば
調停をしないとでもいうようなものです。
しかし、その結論が違うから調停になるわけです。
それなのに、なぜ離婚をしたいかという
肝心なことを話し合えないなら、
離婚を先に進めるための制度になってはいないか
離婚をしたくない人の権利をあまりにもないがしろにしていないか
という大きな疑問が生まれるわけです。

実際は、このような一方的な離婚調停をしているから、
離婚裁判が長引き、
離婚後のトラブルが起きやすくなっているのだと
私は思います。

あたかも、離婚という結論を急ぎたい
そういう焦りみたいなものを感じてなりません。

しかしそんなに離婚を急がなければならない事情が
本当にあるのでしょうか。
それまで夫婦として同居していて、
楽しいことも、一緒に頑張ったこともあったわけです。
離婚ともなれば、精神的にもショックですし、
人生に対して暗い影を背負うことも実際にあります。

何よりも子どもたちに対するマイナスの影響が
これでもかと押し寄せるのです。

感情的な、相手方に対する憎しみが強いほど、
離婚の悪影響が子どもたちに浴びせられます。

突如一方が離婚をしたくなったから、その意思が固いからと言って
そんなに急いで離婚をする利益を認める必要があるでしょうか。
それまで結婚した相手や子供たちに対して
できる限り納得できる機会を与えることが、
優先されないということはどうしてもおかしいと思えてなりません。

私も調停委員です。
家事調停ではなく、主に民事調停を担当しています。
「双方の意見が違うから
話し合いにならないとして
調停をやめて裁判にしてください」
などということは最後の最後まで言いません。

意見が違うから紛争になるのであり、
どうして意見が違うのか、
双方が納得する結論はないのか
真剣に双方と調整をしています。

調停委員もまるっきりのボランティアではありません。
税金からわずかながら報酬をいただいています。
始めから調停をする気がないようなことをするわけにはいかないのです。

そんな実質的な話し合いもしないで裁判をやれなんてことは
調停制度を否定するものだと調停委員に言うと、
「それではそのお話を相手方に伝えます」
と言われることがよくあります。

確かに結論を伝える時は
正確に伝えなければなりません。
当事者が言ってもいないことを
勝手に忖度していうわけにはいきません。

しかし、相手の話を伝えることが調停委員の役割ではありません。
紛争の要点を見極めて、
お互いの納得ができるように働きかけることが肝要です。
特に調停の進行については、
調停委員の役割です。
調停委員の考えで、責任をもって調停を行わなければなりません。
特に調停の進行に関する意見は
伝書バトになるわけにはいきません。

調停委員は、その意見について自分の意見を示すべきでしょう。
家事調停を行うべき調停委員が
家事調停の自殺をするような進行になってしまうと思ったら、
実質的に家事調停を行うべく、
相手方を説得しなければなりません。

また、裁判官も、
このような調停の進行に対する意見が出たら
調停委員会を総括するものとして
見解を示すべきです。

毅然として実質的な家事調停をするように
自らが調停に参加しなければなりません。
不幸にして未熟な調停委員会が
実質的な調停をすることなく不成立として
訴訟を提起した場合は、
付調停にするなどして
話し合いを再開させなければなりません。

それが法律の姿勢だと私は思います。

何よりも批判されなければならないのは
実質的な話し合いをしないで不成立にする弁護士です。

なぜ、実質的な話し合いをしないのか、
なぜ弁護士が不成立を急ぐのか、
これは大問題を秘めている場合があります。

離婚をしたい当事者は、話し合いをしたくないのでしょうか。

これはそんなことはありません。
むしろ調停という安全な場所で、
相手が調停に来ているせっかくのチャンスの中で、
弁護士という見方がついていたら、
どうして離婚をしたいのか、
どうして自分を苦しめる行動をしたのか
その時自分がどういう思いだったのか、
積極的に話をしたいという人がほとんどです。

子どもたちのために行動を改めてほしいと
実際はそう願っているのです。

これが申立人側の代理人をやっていての実感です。
第1回期日で相手方が何も言わないで離婚を受け入れ
条件もほぼすんなり決まってしまって、
これが調停なのかと怒り出す元妻もいました。

人生のけじめをきちっと大人同士として付けたいようです。
もっともなことだと私は思いました。

当事者の中には、
弁護士が入ってしまうと
弁護士の都合で離婚調停などを決められてしまっていると
考えている人たちが実に多くいます。

つまり、離婚調停を早く打ち切りたいのは
弁護士の都合だというのです。
裁判をやって一方的に離婚判決を得て、
(そのために、出来事を針小棒大に主張して)
一日も早く報酬を得て、
次の仕事をしたい
そういうことだろうというのです。

他人の人生を自分の儲けの道具としか考えていないと
憤っている人たちが実にたくさんいます。
もし、これが本当であれば
弁護士としての品位を汚す行為になると思います。

そういう考えは、自分を悪く考えられない、
(実際に落ち度がない場合と、
他人に原因を求めてしまう性格と
色んな場合とあるようです)
という当事者の特殊な考え方だけではありません。

実際に人権擁護委員の先生とお話をしていると、
役所や相談機関の言う通り離婚をしたが、
性格は苦しいし、心理的にも追い込まれている
こんなはずじゃなかったと連絡をしたところ、
「離婚を決めたのはあなた自身です。
 こちらに責任を求められても困ります。」
と言われたという相談が来るようになったというのです。

離婚調停や訴訟で、
自分から離婚を求めていながら、
相手から反対の証拠を出したりしてなかなかうまくいかないと
自らが警察や役所で相談したときの相談記録を
証拠として提出してきて、
「この通り、自分は説得されて別居したし調停を申し立てた
本当は自分は、別居も離婚もしたくなかった」
という主張がなされることがぼつぼつ出てきています。

記録を読むと確かに、
役所の人たちは何時間も説得して
別居をさせているようです。
ようやく説得することができたなどと
報告書に書いてあります。

警察まで呼んで夫の抗議を遮って別居しながら
やっぱり、自分は離婚をしたくなかったとして
離婚届を出したと保護機関にうそを言って
夫の元に戻ってきたという事例もありました。

どうも、当事者は、特に妻は
自分の意見をきちんと言えず
公的な人から言われたまま離婚手続きに入ってしまうことが
確かにあるようです。

調停を早く打ち切って裁判にする
という姿勢と共通のにおいを感じます。

つまり、
調停を続けていくと
妻が「やっぱり離婚をすることをやめる」と言い出すかもしれない
早く調停を打ち切って裁判にしたほうが良い
裁判にすれば夫の方も
悪いのは妻の方だと妻を攻撃してくる
裁判での夫の態度を見れば
妻の離婚の決意は固まる
こんな考えで行ってはいないか心配になってきました。

要するに、
可哀そうな妻は、
自立する行動を毅然と取ることができないために、
後戻りできないように手続きを進めなければならない
自分で自分の幸せに向かっていくことができない
男性に依存している可哀そうな女性であるから、
こちらで前に進めてあげなければいけない人なのだ
そんな蔑視をしている考えで行っていたら大変なことだと思います。

あたかも売春防止法の女性保護と同じ構造というわけでは
いくらなんでも違うだろうとは思うのですが、
担当部署は同じであるようです。

揺れ動くのが人間だと思います。
また、夫婦として一緒に生きてきたということだと思います。
特に「子供たちのために我慢する」という考えが
今家庭裁判所で通用しにくい場合があるようです。

調停委員会だけでなく、弁護士の相互批判によって
法律に従った情のある家事調停を取り戻すことが求められています。

一般の方々も離婚調停を経験した当事者の方々のお話を聞く機会があれば
自分のこと、自分の子供のことになりかねないことです。
ユーザーとして制度に大いに口出しをしていただきたいと思っています。

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10分で話す家庭の中の子どもの人権 子育てで最優先するべき一つのこと [家事]

こういう事態は避けるべきなのですが、
事情があって10分で家庭の中の子どもの人権を
語らなければならないことになりました。

とは言っても、
時間をとって、くどくどと説明したから
相手に伝わるかと言えばそうでもなく、
どんなに話しても心に残るのは
それほど多くないとは思うので、
一つの修行だと思って準備をするわけです。

この記事がそれなのですが、
今担当している事件の主張文にもつながるので
前向きに頑張っています。

先ず、人権を語るということは外せません。
ただ、これをくどくどと説明すると1年講義でも終わりません。
ここでは結論だけ。

「人間が長い時間をかけて作ってきた
 共同生活をするための工夫」
という程度にとどめておきましょう。

人権が侵害されると、
人間は、他人の中で生活することが苦しくなるわけです。
そういうものが人権とも言えますね。

家庭の中の子どもの人権、
特に家庭の中の人権ということは
概念的にとても面白いのですが、
国家権力概念をどのように反映させるかとか
この辺は全て省略しましょう。

ただ、子どもが家庭の中で健全に成長する
「健やかに育つ」の方がよいでしょうかね。
そのために親がやるべきことは何か
ということでよいかもしれません。

ここで「港の理論」に行きたいのですが
なにせ10分ですからつながりを気にしていてはいけません。
強引に話を進めることになります。

幼児が歩き始めて、
歩く距離をどんどん伸ばしていくわけです。
これは、親から離れていくことにもつながるわけですが、
最初は、親に背を向けて歩き出すだけで不安になります。
直ぐに振り返って親がいることを確認して、
また歩き出します。
振り返って「もと来た道を戻れば必ず親がいる
という安心感」があるからこそ、
思い切って遠くまで歩いていくことができるわけです。

これは、精神的にも、あるいは社会活動の意味でも同じだということ、
学校や、塾や、地域や、さらには職場と
子どもは成長するにつれていろいろな集団に所属します。

親が自分を受け入れてくれる
あるいは「自分には帰るべき家族がいる
という安心感」があるからこそ
家庭をはなれて、活動をすることができるわけです。

親が子どものためにしなければならないことは
この、
「自分には帰るべき家族がいるという安心感」
を与えてあげることなのだと思います。

どうやったら良いのか?
安心感とはどういうことか?

ここはいろいろと理屈を言えれば説得力があるのですが
やはり結論を示すだけ。

いつまでも仲間として扱われるということです。
仲間はずれにされないということが安心感です。

これと反対なのは、
テストで100点取れなければ家から出て行けとか
スポーツチームのレギュラーになれなければだめだとか
どこの幼稚園に入らなければどうのこうのか
仲間でいるための条件を課せられないということです。
もちろん虐待があったのでは安心できません。
仲間はずれの危険フルスロットになります。

友達といざこざがあっただけで
簡単に天涯孤独を感じるようになってしまいます。

では、仲間として扱うということはどう言うことでしょうか。
「どんなことがあっても見捨てない」ということのアッピールになると思います。
でもその言葉を繰り返しても仕方がありません。

私が提唱しているのは、
「弱点、欠点、不十分点を
 責めない、批判しない、笑わない」
逆に、自分のことのようにフォローするということです。

これは親が赤ん坊にやっていることそのものなのです。
成長に合わせて形を変えて行うということです。

帰るべき家庭があれば
子どもは強くなります。
自己肯定感が出てくるわけです。
いじめにも強くなるし、
成績も上がってきます。

ただ、虐待をしようとしているわけではないし
虐待とまでは言えないけれど
どうしても子どもに八つ当たりをしてしまう。
辛く当たってしまう
という悩みは誰しも持っています。

こういう時、子どものことばかり考えていると
どうしてもそこから抜け出すことはできません。
自分と子どもの関係を
幽体離脱でもしているように天井から見る
ということをお薦めしています。

自分も含めて関係の中で子どもを見るというか

そうして自分の気持ち、子どもの気持ちを考えてみる
ここでは平等に考えてみる。

そうして、自分の行動を修正するべきだと考えるならば
一人で解決しようとしない
多くは、子どもとの時間が長すぎて
他の人と過ごす時間、自分の時間が無くなっていることの焦り
ですから、

子育てを誰かに時間だけ預けてしまうということが有効です。
子どもの父親が先ず考えられますし、
自治体の子育て支援も良いところが多いようです。

実は離婚していて子どもの父親と同居していない
という場合でも、
近くに住んでいるなら子どもを預けてしまう
養育費だけではもったいないということですね。

急な延長保育も無料で(喜んで)対応してもらえるし、
娯楽の提供を受けたり、ご飯も食べさせてもらえるし
お土産までついてただ
シングルマザーこそ賢く生活しましょう。

相手に子どもを会わせるのは嫌だって言っている
余裕のある人はそれほどいないというのが実感です。

子育てをなるべく一人で行わない
これが人間が他の動物と一番違うことです。

この内容を詰め込んで10分
それ以上は話さないという決意が必要かもしれません。

質問があれば
かわいそうと思う心が育つということも
お話ししたいのですが
いかんいかん
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家族再生を目指すならば、調停でやっていけないこと、心構え(暫定版) 共感チャンネル2 [家事]

一度壊れた家族、夫婦を再生させることはなかなか難しく、どうすればよいかというノウハウは、確立されていないどころか、検討すらされていないということが実情ではないでしょうか。敢えてこれに挑戦するのは、ひとえに子どもたちの健全な成長に役に立つと考えられるからです。このため、無謀であることを重々承知の上、挑むわけです。また、不十分ながらも成果はそれなりに出始めています。この理論が将来的にはもう少しマシになることを信じて暫定版としました。

再生の役に立つ方法は難しいのですが、やってはいけないことは簡単です。
一言でいえば、相手を心理的に圧迫する結果になることです。
心理的に圧迫するとは
・困惑させること
・恐怖心を抱かせること
・屈辱を与えること
等の自分の調停行為が相手に伝わることによって、相手を嫌な気持ちにさせることです。

どういう行為が、これらの結果を生み出してしまうかということですが、
一言でいえば、相手を否定することです。
・相手の行為の否定  同居時の行為の否定 いかにだらしないか等
           別居の否定     連れ去りは許さない等
・相手の考えの否定  子どもはゆっくり遊ばせることが良いとか逆とか
           お金をもっと貯金した方がよいとか逆とか
           相手が選んだ調度品や食べ物の趣味とか
・感情の否定     怖いわけがないとか、苦しいわけがないとか
           子どもを攻撃することに理由がないとか
・発言の封殺

 せっかくの調停というチャンスの場があるのに、相手の悪口ばかり言って、売り言葉に買い言葉で対立をあおってしまっていたのでは意味がありません。例えば、再同居という結果、面会交流という結果を求めようとしているなら、そのために必要なことを行い、デメリットとなる行為はしないということを徹底するべきです。
なぜか、逆方向の行為をしてしまい、調停になっても、自分が一方的に相手を評価する立場だというような振る舞いをしてしまっていることが多くあります。これにはなかなか気が付きません。例えば同居中、夫が一方的に妻の行為を評価し、ダメ出しばかりしていると、妻は自分が支配されている気持ちになると同時に、他者を一方的に評価してダメ出しをするという行為パターンを学習してしまいます。ある時、夫を一方的に評価して子どもを連れた別居が起きる危険を高めているわけです。

相手を一方的に評価したり、結果として相手を心理的圧迫してしまったりする理由の一つには、調停の目標が定まっておらず、相手の主張に反応するだけだったということがありますが、表題のとおり今回はこれを想定しません。それでも、家族再生を願って調停に臨んでいるにもかかわらず、相手を攻撃してしまうということを考えるべきなのです。
代理人として感じることは、相手を攻撃してしまう理由として自覚すべきことは、無意識、無自覚に自己防衛をしてしまうということです。これは無理もないことなのです。妻から離婚を申し立てられたり、妻が子どもを連れて別居したりということがあれば、本能的に家族の役に立ちたいと思っている人間は、それらの妻の行為は自分の全人格を否定する行為と受け止めます。そうすると本能的に自分を守ろうとしてしまうのであり、それは生きものとして当然であり、普通の反応だということになります。
しかし、その本能に任せて、自分が正しく相手が間違っているという姿勢を見せてしまうと、調停委員との関係も不利になります。調停では、調停委員に中立以上になってもらう。ということが鉄則です。それにもかかわらず、独断的な言動をしたり、過剰な自己防衛や責任転嫁、大声などの感情的な対応をしていたら、デメリットしか生まれません。但し、こういう反応は自然な反応ですから、つい出てしまうものです。信頼できる代理人に同行してもらい、ブレーキをかけてもらうということをお薦めします。だから調停委員とけんかするのは、代理人に任せておきましょう。

やってはいけないことから、何をするべきかを逆に考えてみましょう。

単純に言えば、自己防衛をしないということ。「棄身飢虎」というお釈迦様だったか聖徳太子だったかの言葉があります。自分を棄てるところに活路を見出すということです。なかなか難しいことですが、本当のピンチならばこれで切り抜けるしかありません。
しかし、自己防衛は生物の反応です。条件反射的な反応です。なかなか防衛行為をやめることは難しいです。抽象的には、夫婦間に対立構造を持ち込まないということです。例えば妻は自分と敵対していて自分に対する攻撃をすると思うと、妻の行動の一つ一つに危機感を感じてしまいます。そうすると石を投げられてよけるように、いちいち反応をしてしまうわけです。その反応、反射をあえて制御するということですから難しいことですし、抽象的にやれと言われてできるものでもありません。
そこでプラン1とプラン2をたてて、さらに1+2という3段階のプランを考えてみました。

プラン1 対立構造ではなく、家族という一つのチームに不具合が生じているとして考える
 例えば、妻が子どもを連れて別居したということであれば、本来一緒にいるべき家族が分離しているという不具合が生じているということになります。サッカーの作戦ボードのように考えていきましょう。自分を含めたチーム状態を客観的に評価してみるのです。
 家族には夫さん、妻さん、子さんがいるとします。
妻さんが子さんを連れて家から出たという客観的な状況があるとします。
夫さんはまた家族で暮らしたいという希望があります。
妻さんは、それを拒否しているということになります。

そこで、その妻さんの理由は何なのか整理してみます。
妻さんの主張は、夫さんの行為A、B、Cを同居拒否の理由としてあげたとします。
この理由に対する夫さんの反論は以下のものです。
Aについては、その行為は存在するがやむを得なかった。
Bについては、事実無根である。
Cについては、その行為は存在するが、妻さんが悪いからだ

次に考えることは、妻さんは、夫さんのこの主張を受け入れるかということになります。
妻さんが受け入れないならば、主張は対立してしまうということになります。
これが客観的な対立状況です。

妻さんに夫さんの主張を受け入れろと結果ばかり要求してもそれは受け入れられないでしょう。むしろ逆効果となることが多いでしょう。
この硬直状態と言う現状を変えるためには、可変要素を見つけてうまく修正することです。対立状況の中、相手が変わることが期待できなければ、自分が変わってみせるしかありません。
対立構造を解消するほぼ唯一の手段は可変要素を自分だと認識し、自己の行為を修正する。これに尽きるわけです。自分を修正することによって家族というチーム状態の修正を試みるわけです。ではどのように修正するか。とりあえずプラン1の作戦ボードをそのままにして、プラン2を検討しましょう

プラン2 相手の価値観と感情を共有し、相手を安心させる
自分の行動のモチベーションや、人間の評価を、社会的なルールに依存してしまうことが、特に男性の場合多くあります。道徳だったり、社会的常識だったり、あるいは法律や正義だったりということです。しかも、この社会的ルールに依存していると相手を一方的に評価をしていることが多いようです。
 もう少しきれいに掃除をするのが当たり前だろうとか、きちんと部屋を片付けることが常識だとか、もっとやりくりを工夫するべきだとか、スマホばかりしている、オークションばかりしていて、教育上悪いとかですね。その主張は、第三者から見ると「確かにこれはひどい」と頷けることが多くあります。

特に子どもが生まれると、子どもの視点、子どもを守る視点が強くなります。ここで注意するべきことがあります。現代の人間は、仲間を守ろうとするとき、守ろうとしているその仲間以外の人間を敵だと感じてしまうということです。敵である以上、配慮のかけらも無くなり過酷なことをしていることが多いのです。いじめにしてもパワハラにしても、このような現代の人間的傾向を反映していますが、その説明はまたの機会にします。いずれにしても、子どもが生まれると、先の社会的ルールの依存が大きくなってきてしまいます。常識を強く振りかざして評価してしまった結果、そのことによって生じた相手の苦しさ、悲しさに気が付かないということがあります。子どもの前で叱責されることは大変な屈辱です。対人関係的危険を強く感じて防御の姿勢に入ってしまいます。しかし、「子どものために」という意識は、相手の感情に対して無頓着にさせてしまいます。

 この結果、過酷な行為をしているかもしれません。
 そもそもできないことを強要しているかもしれません。それまでは気にならなかったことが子どもが生まれたことで気になってしまい、「やれ」という態度になっているかもしれません。 また、出産によってホルモンバランスが変化し、一時的にできなくなっているということもよくあります。迅速な行動が苦手になる場合もあるようです。つまり、本人に責任がないかも知れないことで、相手を責めているかもしれないのです。たとえるならば、無理なノルマを強要するパワハラみたいなものです。「できない?やると言っただろう?じゃあどうするんだ。できないと大変なことになるよなあ。わかっているよな。どうすればよいかなんて俺に聞くな。」ということをあなたは相手に言っていないでしょうか。仕事はともかく、家庭ではできなくても仕方がないのです。そういう方と結婚したのはあなたです。相手ができないことはあきらめるしかありません。あきらめた上で、少しずつ改善する方法を探しましょう。

 よくここで家族の中の働き手の方が言うことは、「仕事で疲れているんだから」というタームです。一件もっともなことを言っているようですが、これはあくまでも会社の論理です。家庭の中に入れてはいけない社会ルールです。家庭生活ごときができなくなるほど生気を搾り取られる働き方に疑問を持たなければならないのです。このタームを口にするくらいなら、もっと楽な仕事に転職するか、収入が見込めないけれどどちらを選ぶということを相談しなければならないはずなのです。異論はあると思いますが、調停ではそう考えましょう。

 相手の気持ちになって、相手の言い分をすべて通そうとすると1週間で精神的な破綻をきたすというデータもあるので、ほどほどでよいようです。

必要なことは、過去の出来事など主張が対立しているエピソードがあったとき、その時
・相手は困っていたかもしれない
・相手は不条理だと思ったかもしれない
・できないことを強要されていると思ったかもしれない
・子どもの前で顔をつぶされたと思ったかもしれない
・自分が否定されて追い出されるのではないかと怖かったかもしれない
・大好きなあなたから軽蔑されるという不安があったかもしれない
そしてかわいそうなことをしたかもしれない
その可能性を、罪悪感を抱くべき可能性を肯定する
そういう発想が生まれればそれでよいのだと思います。
自分たちの外にある社会的ルールではなく、相手の感情をモチベーションにする、相手の感情を肯定するということの訓練がプラン2ということになります。

そして、プラン1+2です。
硬直していた客観的状況、あなたの行為ABCについての再評価をしましょう。
A やむを得なかった
   → もっとうまくやる方法があったのではないか。
B 事実がない
   → そういう事実は客観的には存在しないが、妻さんからすればそういう風に受け止めたの ではないか、そういうことがあったような気持ちになったのではないか。
C 相手が悪い
   → 相手の弱点を自分が補う方法があったのではないか。無理や不可能を相手に強いたのではないか。
このような再評価を可能な限りしてみることができれば、次のプランです。

プランX 相手を安心させる実践

 調停が開催されることは大きなチャンスです。全く会えなくてどこにいるかわからないという事態を見ていると本当にそう思います。

 さて、相手が離婚を求めている時の多くは、相手はあなたと一緒にいることが嫌だということですが、無自覚にですがあなたを安心できない存在だという精神状態になっていることが殆どです。そんな馬鹿なと思った人も、それでも普通に同居していたと言いたい人も、プラン1+2を習得すれば、別の可能性が見えてきているはずです。そこでいう相手の感じている安心できない感覚、端的に言えば危険とは、身体生命の危険ではなく、自分が否定されるのではないかという心理的圧迫を感じているということです。

「記憶」という用語を使って言えば、あなたが安心できる人間だという記憶が再生できない状態なのです。それが、あなたは私を否定したり、傷つけたりする人間だという、危険の記憶に置き換わっているようです。あなたがとるべき方法は、相手の危険の記憶を安心の記憶に上書きして置き換えていくことしかありません。安心の記憶とは、どんな時でも自分の弱点、欠点、不十分点を、責められない、批判されない、笑われないということです。

もちろん相手が嫌がる行動をしないという鉄則があります。この場合は沈黙は金です。
安心させる行動を積極的にするということになります。この場合は、沈黙は役立たずです。

前提とするのは、相手方の感情や対立ポイントについての正確な情報の入手です。調停や相手方代理人とのやり取りで、積極的に情報収集をしましょう。反発心を抑えて、相手に言わせるようにしなければなりません。カチンとくることばかりですが、一旦は受け入れて持ち帰りましょう。
その上で、自分の代理人等と、情報の精査をすることが必要です。例えば、相手は言いすぎますから、叩かれたと言っていますが、どこかにぶつけて痣ができたと本当は言いたいということも結構多くあります。あるいは、こちらとしてはそんなつもりはなかったけれど、相手がこういう傾向にあるならば、それは、相手が言うような出来事だと受け止めた可能性があるとか、なんせ二人の間の出来事ですから、もう一つの情報源はあなたです。自己防衛を辞めて、プラン1+2を実践すれば、可能性は見えてきます。

そうして、肯定できる部分を徹底的に肯定する。探し出して肯定するわけです。行為は肯定できないけれど、感情は肯定できるというならばはっきりと肯定しましょう。包括的にすべて認める必要は一切ありません。主として感情を肯定することがポイントです。また、できる譲歩は全て譲歩しましょう。譲歩できないところは、なぜできないか、断捨離の気持ちで再確認しましょう。そして、肯定や譲歩をせっかくしたのならば、それを相手に伝える努力をしなければもったいないということになります。また、ポイントは事実関係の争いは対立ポイントとして温存することはやむを得ませんが、感情の有無の争いは争っても仕方がありませんので工夫して肯定しましょう。評価、感情のポイントは深入りしないということも考えなければなりません。

相手に伝える努力は、一つは調停委員を通じて伝えてもらうということです。本気度とか、真剣度は文章ではなかなか伝えられませんので、調停委員の先生にこういう態度でしたよと言ってもらうしかありません。

もう一つは陳述書というか、上申書というか、反省文などの書面です。実質的にはラブレターということになります。ラブレターを書いているという自覚をもてばある程度何を書くべきか、どのように書くべきなのかということが分かります。
相手を安心させるために書くということです。「責めない、批判しない、笑わない」ということは、こういうことをしないということなので、なかなか積極的に表現することはできません。むしろ、感謝と謝罪をすることによって安心させるという方法をとることも必要でしょう。
まず自分のために書くわけではないということ。

反省する際に、深刻に反省すればよいというものではなく、相手の心に届かなければなりません。暗い深刻な反省ばかりでは読む方が辛くなります。ラブレターなのですから未来に向って書くということが基本でしょう。この時も、相手に嫌な思いをさせたという謝罪は必要かもしれませんが、どちらかというと、自分が悪かったというよりこういう風に行動を修正すればよかったという方がよいように思うのですが、それは相手の反応を想定するということが必要でしょう。とにかく、今度は責めない、批判しない、笑わないということを伝える工夫ということになるかもしれません。つまり、プラン1+2の再評価を上手にちりばめていくことが求められています。

そうして、将来的なビジョンを示せればなお良いということになります。特に女性は、気まずさをリセットする能力を評価する傾向にあるように感じます。

また、過去の悪い出来事ばかりではなく、楽しかった出来事を再確認するということも安心の記憶への上書きとして使えますし、これは同居していた人のアドバンテージです。相手との楽しい出来事を共有していることは圧倒的な強みです。相手は楽しかった記憶がなかったわけではなく、思い出せないだけだからです。問題は書き方です。簡単に楽しい記憶はよみがえりません。ディズニーランドに行ったよねというだけでは、歩き疲れて辛かったとか、途中で雨に降られて寒くなったとかいう記憶だけがよみがえるかもしれません。具体的に書く必要がありそうです。ダメだと思っていたけれどイベントの抽選に当たって大喜びしてくれたとか、記念撮影していたらミニーマウスが一緒に入ってくれたとか、そこまで思い出して相手の記憶の再生を手伝うことが効果的なようです。

 感謝のエピソードも有効のようです。男性の場合、大体がお弁当や食事がおいしかったとか、手間暇をかけてもらったとかそういうことが多いのですが、それでよいと思います。相手が努力したことをきちんと評価し、感謝することは重要だと思います。

 ラブレターと一番違うことは、誰かに読んでもらうことです。押しつけがましくなっていないか、自己防衛や相手を批判しているように読めてしまうことが無いか、よく意味が通じているか、かえって負担にならないか等、チェックをしてもらうということは大事です。

 最後に、再生に向かって頑張る、ダメでも最後まで努力をしてみるという決意が生まれたら、それを支持する人とだけ相談しましょう。一番悪い悪魔のささやきは、「相手に屈服して言いなりになるのか、一方的に自分だけ悪者になって良いのか、自分だけ反省するなんて不公平じゃないのか」等々です。困ったことに、善意や正義感からのアドバイスです。しかし、家族の中に対立構造は持ち込まない、フォア・ザ・チームの気持ちでチーム状態の不具合を修正する、相手は自分に安心さえしてくれればリターンは必ずある、そういう強い気持ちと、それを励まして後押ししてくれる仲間を大切にしましょう。

 とりあえず、戦略はジャブを打ち続けるようなもので、決め手に欠けることが最大の弱点です。しかし、相手に安心してもらうということは、そういう気の長い行為なのだと思います。どこに決め手となるパンチがあるのか、どこに有効な打ちどころがあるのかは、残念ながら今後の課題です。また、それはおそらく、それぞれのご家庭の個別事情になるのではないかと現状では思っています。

 とにかく、家族再生を志した場合、上記の努力に無駄な努力はないと思います。離婚が回避できなくても、面会交流が実現し、充実につながるということが多く見られます。そうすると、面会交流の機会に、相手を安心させる活動を続けるチャンスができたことになります。但し、精神的な負担に耐えられるかということもチェックが必要です。再生という方針は支持していても、精神状態を気にかけて作戦放棄の選択肢を提示できる仲間の存在があることが望ましいことも実情です。

 家族の在り方は実に様々です。こうでなければいけないという態度をとらず、かつ、将来に向けて今できる活動、今必要な活動を行うという視点が大切であると思います。

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保護命令下に申し立てられた面会交流調停が成功した理由 [家事]


今にして思うと無謀だったかもしれませんが、
保護命令が出された2か月後に面会交流調停を申し立て、
1年近くかかりましたけれど無事解決した事例があります。
調停成立前に直接面会交流も行われ、
祖父母も同席できています。

もともと妻側と調停を行う合意があったのですが、
調停委員や調査官からは、保護命令の期間中ということもあり
相手が調停に応じない場合はどうするんだと
ご心配をいただきました。
こちらには、もともと出してはいけない命令が出た
という認識がありましたし、
妻との会話もあったということから
まあまあということで押し切ってしまいました。

結局妻側も誠実な対応をされまして、
着地点に落ち着くことができました。

実際は、保護命令の要件である
生命身体に重大な危険があるかといえば
客観的にはないと言ってよいのですが、
色々な事情がわかると、
なるほど、客観的にはそのような事情はないけれど
妻にとってみれば、主観的には、
それくらいインパクトのあることがあったのかもしれない
ということは理解できました。
また、
そういう理解をした方が解決のためにはよさそうだ
ということで事を進めることに依頼者と決めました。

つまり、普通に葛藤の高まりの中で
子どもを連れて別居したという典型事例だと把握しました。

その中で無事直接面会ができた一番の理由は、
本人である夫が、「第1目標は家族再生」
ということを貫いたことでした。

どうしても、相手や弁護士や裁判所
あるいは法制度や運用を責めたくなるのですが、
ただでさえ不安と恐怖と息苦しさを持っている妻を
攻撃することや誰かを攻撃している自分をみせることは
家族再生と逆行します。
この感情を抑えることは大変苦労します。

怒りで夢中になって、
相手の落ち度を強調したり、
(やりくりが下手とか、掃除ができないとか、子どもに手を挙げるとか)
一方的な連れ去りは子どもに深刻な影響を与える
とか言うことを主張したくなるのです。
それらはおそらく正しい主張なのでしょう。
しかし、家族再生と逆行します。
相手を余計に怖がらせるだけで、
あるいは息苦しくさせるだけで
とにかく近づきたくないという気持ちにさせるだけです。

夫は妻の弱点をピンポイントで攻撃できるのです。
一番してはいけないことをしてしまうのです。

だから弁護士が少し冷めた視点で、
それを言ってはダメだというか
こういうデメリットが発生するということを言わなければなりません。
これは何度も何度も激しいやり取りがありました。
しかし、家族再生という第1目標がぶれなかったので、
依頼者を信頼してやりあうことができました。

彼は、もともとこのブログを読んで依頼されたので、
私が忘れているようなことも思い出してくれました。
また、どんなに感情的になっていても
私の話をメモをしながら聞いてもらいました。
こちらも必死で考えて、必死にアドバイスしていたようです。
帰りは、すぐ別れて解放させていただきました。
それくらい密度の濃い時間でした。
毎回へとへとになっていました。

第2の理由は、
法律や裁判所に解決してもらうのではなく
自分が相手を安心させる工夫をすることで
相手の解決しようとする気持ちを誘導する
という姿勢に立てたことです。

正しさよりも相手の気持ちを優先する
ということですね。

ところが、現実は
家庭の中でもそうですが、裁判所の中でも
どちらかが正しくて、どちらかが間違っている
という論理の枠組みを前提としてしまうために
非難合戦が始まってしまうのです。

要するに自分は悪くないということに
終始しているだけなのです。

これは、離婚を進める側の人たちの論理の枠組みです。
だから同じ土俵に立ってやり合ったのでは
ただ家庭が壊れていくだけに決まっています。
家庭の中に勝者も敗者もあってはならないのです。

ところが人間ですから、自分が攻撃されていると思えば
守りたくなる、つまり相手を攻撃したくなることは
当たり前なのです。
いかに早くここから脱却するかがポイントです。
つい攻撃してしまうのが人間だと気が付くことが必要です。

こちらはこちらで戻ってきてほしいという切実な気持ちがある
相手は相手で戻ることのできない心理的な負担がある
お互いが真実であり、
その原因が必ずしも二人のどちらかだけにあるわけではない
ということがリアルのはずです。

双方認めあわないと話が始まらない
双方が少しでも相手方の言うことが
嘘ではないかも知れないなと思わないと
譲歩は難しいようです。

時間はかかりましたが
お二人とも高次の域に上られたようでした。

結婚する直前のように
相手の気持ちを一生懸命考える
調停の時はそれをしなければいけないようです。

面会交流実現の理由の3

現在を未来につながる通過点ととらえる。

結論としてはそういうことになると思います。
本人もいろいろ知識を増やしてきましたから、
例えば調停条項はここまで書き込まないと
強制執行できないとか主張するのです。

しかし、家族関係は強制執行してしまうと
形は作られても中身がぶち壊れてしまう場合が少なくありません。

余り将来のことまで事細かく決めてしまうと
相手方が心理的に圧迫されてしまい、
面会を行ことが嫌になり、
徐々にフェイドアウトしてしまうことも多くあります。

相手を安心させる
そのチャンスをひとまず与えられたのだから、
少ないチャンスを生かしてどこまでも安心させて、
将来の家族再生への方向へつなげる
こういう方針です。

子どもたちはまだ入学前ですから、
将来のお泊りのことまで今決めるわけにはいかないのです。

子どもたちが小学校に入学して
安心の記憶を定着させていき、
さらなる共有時間を提案してもらおう
ということで、
調停条項に同意しました。

離婚さえも、
このまま拒否しているよりも
受け入れた方が
将来の関係をよくするのではないか
ということで同意しました。

仲良くするために分かれるということは
とても切ないことです。
ある意味自分を捨てても家族の安心につなげるということで
彼は自分を少しだけ取り戻したように感じました。


最後に一つだけ。
劇的に相手の対応が変わったポイントとなったと思われる
エピソードを教えてもらいました。

実は相手は調停期間中のある時、
一度だけ約束を実行しなかったことがありました。

これは事前に想定できたことでした。
おそらく遅かれ早かれそういうことは来る。
どうしても、こちら側は、
相手が自分に攻撃した行為ととらえるけれど、
こういう時こそチャンスなんだと
繰り返し打ち合わせをしていました。

小さな子どものことだから不意の病気などの事情はある。
そうでなくても子育てに夢中で忘れることだってある。
また、気分が乗らなくて、
どうしてもこちらに接触したくないときもある。

そういう時に、相手の約束違反に腹を立てないで、
そういうこともあるさと大きいところを見せる
そうすることで、相手を許す気持ちになることで、
相手は安心感を獲得する。
責めない批判しない。

通常は相手のミスがないので
なかなか安心感を持ってもらうエピソードはでてきません。
大きなポイントを稼ぐ場面がないわけです。
ところが、相手の失敗があれば許してあげるという
大きなポイントをゲットできる貴重な機会になるわけです。
代替日なんて言わないで
むしろ鷹揚に構えた方がよいと打ち合わせをしました。

案の定、相手から埋め合わせを逆提案されたし、
直接面会交流の打ち合わせが充実した
というサプライズが待っていました。

約束の日がすべてではないわけです。
その日をなしにすることで
さらに大きな明日が生まれる可能性があるということ。
そしてそうなったという報告を受けました。

離婚しても離れて暮らしても
子どもがいる以上
私は家族は家族だと思います。
先ずこちらがそういう意識をもって、
永く続いていくということを意識しながら
対応を考えるということを学びました。

いろいろありましたが、
調停委員、調査官の方々に恵まれまして、
無事調停が成立しました。

もっと一般的な考察も含めて報告を書きだしたのですが、
考察を深めると本一冊になることがわかりましたので、
ご報告はこれまでとさせていただきたいと思います。


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木村草太先生の共同親権に関する論説に対する疑問 [家事]

憲法学者の木村草太先生は、ご自身のブログの中で
「共同親権 親権の概念、正しく理解を 推進派の主張は不適切」
と題する論説を発表されている。

この論説に対して、実務法曹として
疑問を述べ、教えを請いたいと思う。

先ず、共同親権推進派の根拠として木村先生は、
1)扶養義務の履行確保(2)面会交流の促進(3)同居親による虐待防止につながる
という3点を挙げる。

意図してなされたのか、単に知らなかったのかは不明なのだが、
共同親権を推進する理由即ち立法事実(法律制定の現実社会に照らした理由)は
第1に、子どもの福祉である。

現在欧米諸国や中国、韓国の国々において
離婚後も父母が親権を行使する共同親権が主流である。
他の外国が共同親権をとるから日本も共同親権を
ということではなく、
先進国がすべて共同親権制度をとるのは
その必要性があるからだ。

それは、
離婚によって、子どもに負の影響が与えられる
それは自己肯定感の低下等である。
離婚をしても別居している親も子どもにかかわりがあると
この影響が軽減されたり払しょくされたりする。
だから、離婚後も両親が子どもに関わることが
子どもの健全な成長に役立つ。
これが立法事実である。

子どもを権利主体とした考え方は
長らくなかった。
第2次世界大戦後、
ボウルビー(John Bowlby)がイタリアの孤児院等を調査研究し、
愛着理論を形成していったが、
この時が子どもの視線での政策の始まりだとされている。

その後、ウォーラースタイン博士Judith Wallersteinらの
25年にわたる追跡調査研究によって
離婚による子供たちの負の影響が明らかになってきた

同研究は、追跡調査という研究手法の限界から批判されたが、
後にアメイトAmatoらの大規模統計調査によって
その正しさが証明された。
子どもは離婚によって、自己肯定感が低下する傾向にあり
同居していない親によるかかわりによってそれが改善される。
この命題を否定するエビデンスを私は知らない。

個々の実体験に基づく例外的な事象はありうるが
科学的手法を用いたエビデンスが無いということである。
現在では、離婚そのものよりも
離婚後の経済的困窮化と親の葛藤が
子どもに悪影響を与えると整理されている。

これらの科学的到達を踏まえて、
すべての先進国において共同親権制度が導入された。

だから、共同親権制度の創設という立法論を議論するにあたっては、
立法事実の存在の有無が議論されなければならないし、
比較法的観点からの論述が必須ということになるはずだ。
なぜか木村先生の立法論の議論にはこれらの視点が欠落している。

特定の誰かがこれらのことを言っていないということは
議論をしない理由にはならない。

さて、最も大事な推進理由が検討されていないので、
その後の木村先生の議論はあまり意味をなさないものになってしまっている。

特に「子どもの健全な成長」のために
よりより方法を検討する
ということが共同親権の議論なので
この議論が欠落していることは
後の議論に重大な影を落としている。

上記3点の理由付けの検討として、
「現在の法制度を正しく踏まえているか検討」されている。

共同親権の内容についてこれから議論がなされる立法論において
現行制度にそれに代わる制度があるので、
共同親権の推進に理由がないという建付けの議論になっている。


それは何らかの制度はあるだろう。
しかしそれでは不十分だから新制度を導入する
というのが立法論なので、
現行制度があるから新制度はいらない
という議論設計は、
はじめからまじめな立法論になっていない
議論の枠組み自体が新制度の否定に向かう論理の流れになっている。
外見の形式は整っているかもしれないが
実質がないように感じられる。

また
それぞれの制度が立法事実に照らして十分か
あるいは子供の福祉の観点からもっと良い制度にしよう
こういう観点が欠落している。

例えば、子どもの養育に関わることと養育費を支払うことを
切り離して議論すべきだという議論がある。
局面においては正論である。

しかし、常に連絡を取り合い、心の交流がある場合と
子どもと1度も顔も見られず、声も聞けない場合と
どちらがより養育費の支払いに積極的になれるだろうか。

理屈よりも、子どもの健全な成長を図る担保を
張り巡らせるほうが子どもの利益の観点から建設的だと思われる。

面会交流がなかなか進まないこともこれまで述べてきたとおりである。
現在、離婚前は共同親権ではあるが、
別居とともに、監護権が同居親に移り
他方の親権は事実上存在しない状態になっている。

これは、離婚すればどうせ単独親権であり、
事実上別居などによって実質的に離婚状態だから
戸籍に先行して単独親権にしようという
悪しき慣行が横行している状態である。
子どもの健全な成長という視点はない。

共同親権制度の実現によって
これらの問題の解決に向けた動きが期待できる。

要するに、子どもがいる夫婦は離婚するのは自由だが、
子どもがいる以上我慢しなければならないところは我慢しなければならない
ということだ。
これが日本を除く世界標準の考え方だということになる。

共同親権制度はこういう風潮を強力に後押しすることになる。

また、共同親権が虐待防止につながることについても理解できないと
木村先生はおっしゃる。

共同親権によって、両方の親が子どもの養育に関わることによって
一方の親が体に傷や痣をつけることはしなくなるだろう。
もう一方の親に見つかる可能性が高くなり、
親権を剥奪される可能性が高まるからだ。

教育や衛生面もしかりである。

単独親権制度は
子どもは親の所有物だという
過去の思想の遺物だという側面がある。
一緒に暮らしていても
別居親の目を気にすることで
虐待が防止される上
子どもを所有物だとする見方をしにくくなる。

こういうことはどの推進論者でも
普通に言っていることだ。
あるいは少し考えればわかる。

そもそも木村先生の論説の問題点は、
現行法制度が代替できるから新法が不要だという枠組みである。
そうして、現行の親権制度に照らして
新法の議論が間違っているとも言っている。

大事なことは共同親権の中身自体を
これから決めていくということである。
別居を前提として共同親権制度の中身も
おそらく変化が生じていくだろう。
これらの研究は既に法務省において蓄積されている。

それにもかかわらず、
現行親権制度を前提として
推進派が正しく理解していないという
その理屈も理解はできない。

もう一つ、
法律家としての議論の第一として、
日常生活は、当事者の自治で決めてゆくのが第一であり、
法律や裁判は、当事者の自治で決められない場合の
最終手段であるということ
できれば裁判所に出頭しないで
平穏な生活を送ることを
第1に考えなければならないことだ。

こういう制度があるから新しい制度は不要だ
裁判ができるから問題ない
という議論は、実務家の感覚からは
素直に受け止められない。

いずれにしても、
立法事実の検討や比較法的な検討のない立法論を
どうして木村先生はなさるのか、
どうしてそのような検討を踏まえないで
共同親権制度を否定するのか。
この点が最大の疑問である。

法律論に基づかない立法の否定をする
そのモチベーションがどこにあるのか大変興味がある。
共同親権や面会交流という
子の福祉の制度を否定するのは今回が初めてではなく
先生の一貫した姿勢であるが、
結論と立法事実や比較法を用いない議論も一貫している。

なぜ、これまでのご自身の業績が否定されるような
論を繰り返し展開されるのか
教えをいただければ幸いである。


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共同親権制度の条件整備を通じて、その先の共同養育の実現を目指そう。子どもの利益の観点からの法制度創設を歓迎する。我々のやるべきことは。 [家事]


上川法相が、共同親権の検討を指示しました。
この時期に突然という感は確かにあります。
これまで共同親権制度の創設に取り組んでいた人々は、
想定していた議員立法ではなく、
政府が主導するということに戸惑っていると思います。

この時期の法相の指示は、
おそらくハーグ条約の実質的履行に
従わない日本社会というか、
子どもを一方の親が
他方の親から引き離すことが
それほど問題視されない風土について
アメリカをはじめとする批判に対する対処
という外圧によるという側面はあるのだろうと思います。

上川法相は、
目黒女児死亡事件と関連付けて
共同親権の導入を説明しています。
この事件の影響も
間違いなくあるものと思われます。

ちなみに、6月7日の私のブログ
【提案】児相を責める前に私たちこそが考えを改めよう!目黒5歳女児事件のような虐待死を繰り返さないための共同養育という人間らしい方法
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-07

しかし、法務省の児童虐待防止チームは、
虐待と親権の問題について
平成19年の児童虐待の防止等に関する法律及び児童福祉法の一部を改正する法律制定以来
親権の問題については調査研究を進めていました。

「児童虐待防止のための親権制度研究会」
という有識者の会議を設置し、委託研究を進めていました。
もっとも、この会議は、
虐待をした親の親権をどのように制限するか
という観点の研究で、
そのために、私も注目していました。

弁護士実務や人権擁護委員としての実務の中で
確かに親から離さなければならない虐待のケースや
これは親を援助することによって解決することができるケース
様々なケースがあり、
一律に親権が制限されることに危機感を持っていたからです。

ただ、この研究会の中で、
海外の親権制度を大学の研究者の方が行い、
研究報告書が発表されています。

児童虐待防止のための親権制度研究会報告書等の公表について
http://www.moj.go.jp/MINJI/minji191.html

フランス、イギリス、ドイツの法制度の報告がありますが、
いずれも、共同親権の報告から始まっているのです。

法務大臣の指示ということで報道されるのですが、
法務省においては、このように
海外の親権制度の研究の蓄積があります。

唐突に出てきた感がありますが、
決して思いつきというものではなく、
蓄積に基づいた法務省の成果を踏まえてのこと
ということができると思います。

ハーグ条約に関する外圧ということを言いましたが、
もっと、大きな流れもあります。
それは、先進国は、上記3国だけでなく、
ほぼ共同親権制度をとっているということです。
アメリカの各州もそうですし、
お隣の韓国も共同親権制度です。

親子断絶防止法の真の不十分点 結論を押し付けずに誘導する姿勢の大韓民国民法にはるかおいて行かれている
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-03-31

これらの国々は、キリスト教の影響が強く、
もともと自由に離婚ができず、
裁判所の関与が必要であったところが多いです。

日本は離婚届を出せば離婚できますから
それらの国々との事情はだいぶ違います。

しかし、結果的に自由に離婚ができないことから、
離婚後の子どもの福祉を保障しやすくなった
ということが言えるでしょう。

それでは、共同親権制度は
日本の保守勢力から反対されるかというと
必ずしもそうではなく、
共同親権制度を取り上げて掘り下げている
一番のメディアが日本会議の機関紙
だというところが興味深いところでもあります。

離婚後というか、離婚の前後に関わらない
共同親権制度ということは、
不可避的な流れですので
どのみち共同親権制度は実現すると思います。

問題はその先です。
制度があってもそれに反する実態が蔓延すれば
何の役にも立たないからです。

共同親権制度の内容は
国によってバリエーションがありそうです。

基本的に親権は、
法定代理権と監護権
ということになります。

子どもに変わって契約書を作成したり、
親権者として同意の署名をしたり
というのが代理権です。

子どもがどこに住むか
どのように育てるか
ということが監護権だと考えてください。

監護権の内容についても揺れていますので
この程度に抑えているとよいでしょう。

夫婦が子どもと同居していれば
まあ意見の対立はあるけれど
何とかなるものですが、

離婚して離れて暮らしている場合、
いちいち相手方の同意を得なければ
携帯電話一つ与えられないということは不便です。

どうやら、
日常家事に関することは
その時子どもと暮らしている親が自由にできるけれど、
子どもの将来を決定づけるような選択は
共同で行う
ということが共同親権の内容になりそうです。

それにしても、重大なことに限ったとしても
離婚した夫婦が話し合わなければなりません。

そもそも、
一方の親とだけ暮らし続けるということが
共同親権の元では許されなくなり、
育児についても
時間差となるかどうなるかはともかく
ともかく共同で行うということになります。

離婚に伴う子どもの心理に対する
負の影響は緩和されると思いますが、
これですべてが解決されるわけではありません。

その一番の証明が、
現在でも離婚前は日本においても共同親権制度
となっているのですが、
夫婦の別居が起きると
共同親権制度が成り立たなくなってしまうからです。

共同親権の幻想と、決めつけDVの共通性
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-06-29

共同親権が制度として成立するためにも、
実質的な共同養育を実現させるためにも
そのための条件づくりをすることが
必要なことだと考えています。

一方の親が死亡するなどして
どうしても関わらない場合はともかく、
生きていて子どもを親と会わせないということは、
ほぼ必然的に子どもに負の影響を与えてしまいます。
(各ご家庭の程度の違いは大きくありますが。)

片親疎外の原理と面会交流ないし共同養育の論理 離婚後も「両親」というユニットであることの意味
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-25

しかし、それがわかっていても
相手に子どもを預けることが不安だという
現実的な問題、
離婚した相手と話し合いができないという
現実的な問題
子どもが別居親に会うことを躊躇しているという
現実的な障害があります。

法律的にこうしろと言うだけでは、
実際は、子どもにとって効果的な制度にならない危険があるし、
日本の現状のままでは制度を形骸化させる可能性もあると思います。

これらの現実的な問題を
ハードルを低くするような努力、
制度設計、
ソフト面、ハード面の整備が必要だと思います。

例えば、
離婚に伴う共同養育に関する講習会
これは、双方の親だけでなく
子どもに対しても
安心して双方の下で生活してよいんだ
ということを説明することも必要なようです。

極端に子どもに対して、
相手の悪口を吹き込むことの是正。
何が悪口になり
何が子どもの負担になるか
どのように子どもの負担になるか。

そういう知識を与えることが必要ですし、
そのためには、こういうことを研究することが必要です。
どうすれば、離婚した相手と話すことの
抵抗感が下がるのか
こういうノウハウが確立されるべきだと思います。

さらには、実際の話し合いの
サポートをする機関も整備されるべきだと思います。

これらは、任意の団体ではなく
少子化対策の意味合いも込めて
国や自治体ががっちりサポートするべきだと思います。
どうしても任意団体だと費用が掛かりすぎて
多くのご家庭では無理が生じているからです。
その分子どものために使うことができなくなる
という問題があると思います。

共同養育に伴う養育費の各自負担
(同じ期間子どもを養育するのであれば、
 どちらかがどちらかに養育費を支払うということが
 軽減されてしまう。あるいは無くなる。)
に対する補助制度
(根本的には男女の賃金格差の是正)

だから、一つには
法務省の共同親権実行研究会をつくり、
子どもの共同養育を実現させるという観点から
どちらが悪いということを捨てて、
現実の障害を一つ一つ洗い出して
緩和させる研究をするべきです。

(その行きつく先は、究極には、
離婚予防の対人関係学だと
私は思っています。)

さらにそれに向けて
当事者の意見をどんどん出して
制度を充実させていく工夫が必要です。

共同親権制度はゴールではありません。
共同親権制度を実現してくための
現実の条件づくりをしていく過程で
「共同養育」の基盤整備をしていく
ということがとても大事だと思います。

いずれにしても共同親権制度が実現することは
大いに歓迎すべきだと思います。
その理由の一つは、
これまで、離婚後の子どもの福祉、利益
という観点からの法整備が無かったのですから、
一大転換期になるということです。

理由の二つ目は、
国家予算がつくということです。
共同親権導入の条件づくりにも
予算がつくことでしょう。

共同親権制度が創設される以前の
面会交流についても
国や自治体が公費で支援することが
共同親権制度実施の条件整備の
情報取得に最も効果的だという観点から
充実を期待し得るのではないかと思うこともあります。

いずれにしても
子どもにとってチャンスであることは間違いありません。
政府に期待できないとか
騙されるというようにそっぽを向くのではなく、
本当に子どものためになるような制度にするため、
当事者や支援者こそが
充実した制度にするためにどんどん提言するべきではないかと
私は考えています。

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【メモ】子どもを連れて別居した夫婦を再生する方法についての検討の途中経過 [家事]



妻が子どもを連れて別居したケースで
一時期著しく困難だった面会交流が、
最近では定期的に行われるようになり、
時代の変化を感じているところです。

しかし、依頼される方々の本当の願いは、
家族がまた昔のように
一緒に楽しく暮らすことです。

方法はあるのかということで、
今回はリクエストもありましたので、
とりあえず、現状行っている対策と
困難のポイントを途中経過として記録し、
次につなげることをしてみようと思います。

1 これまでうまく言ったケース

20代のケースでは、
離婚調停をしても、
妻が妊娠をして調停が取り下げられたケースや
連絡が取れないなと思っていたら同居していたケース
入籍されていたケースなど
弁護士の間でも、不可思議なのは男女の仲
なんてことを言われていました。

繁殖期という時期の人間の行動は
理屈で割り切れないことが多いようです。

それとは別に
DV事案で警察が出動し、
保護命令は出なかったものの
シェルターから法テラスで弁護士受任のケースで
結局弁護士を使わないで、自主的に解決して
今も仲良く暮らしているご夫婦がいらっしゃいます。

このケースでは、
当初から男性が、自分自身に怒りを向け、
すべての原因を自分で引き受け、
女性の事情をすべて飲み込み、
女性を一切責めないまま
戻ってくることを切望したケースです。

但しこれらのケースは典型的なケースではありません。
典型的なケースとは、
・最終子出産後2年くらいまでに起きる
・同居中暴力はない
・子どもは父親になついている。
・別居後、どんどん拒否反応が激しくなる。

2 出産後の脳の変化に対する理解

先ず、相手の状態を知るということが鉄則でしょう。

先日のブログで、
妻の不安の理由の一つ、大きな理由として
脳科学の成果を取り入れた分析をしてみました。

妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17

誰かが悪くなくても
夫に責任がなくても
出産した女性は、子どもに神経がとられる
夫に感情移入できなくなる。
その結果、夫が何を考えているのかが分からなくなり、
一緒にいることが怖くなる。
ということでした。

<困難なポイント>

今までなんでもなかったことに、
妻が急に拒否反応を起こすわけですから
夫は戸惑うわけです。
今までよかったのだから、これからもやる
という思考をとってしまう。
(自分は悪くない)
頭の中に出産後に妻が変化するという情報が入っていても
つい、むきになる反応をしてしまう。

妻は、「自分が嫌がることをやる夫」
ということで、ますます嫌悪感と恐怖感を増大させる
という悪循環があります。

また、妻の変化や限界に対して
怒ったり、説教したり正しさを押し付けてしまう。
できないことをやれと言われる辛さは
かなり大きいもののようです。

3 相手を変えようとしたら自分が変わってみせることが必要

意思を持った人間の行動を変えることは
とても難しいことだということから出発しなければなりません。

自分が変わって、それをみせることを先行することが
残された方法ということになりそうです。

結論を押し付けるのではなく
こちらが望む方向に誘導するということです。
だから、どうでもよいことをあれこれ要求することをしない
という工夫も必要でしょうね。
自分でやれることは自分でやるということかもしれません。

結論を押し付けるのではなく、
自分が変わることによって
変わることはできるんだと
こういう風に変わればよいのだという
サンプルを提示することになります。

可能性と方法を示すと
なんとなく自分もと思うことを期待しています。

<困難なポイント>

自分の言っていること、していることは
正しいから修正する必要がない
という考え方が
もっともなことでもあるのですが
やはりネックになります。

だから変わるのは自分ではなく
相手だということになってしまう。

双方これが貫かれてしまうと
何も変化は生まれません。

4 対人関係はチームだということを意識する

妻を正そう、正しい行いをしてもらおう
自分が悪くないのに否定しないでもらいたい
という
対立構造が夫婦の中に持ち込まれると
収拾がつかなくなるようです。

妻と自分、そして子どもたちは
一つのチームであり、
チームの不具合を修正し
チーム状態を向上させるという発想が必要
だということです。

例えばサッカーなら、
日本代表なんていう立派なチームでない
普通の町内のチームなら
足の遅い選手もいれば
キック力のない選手もいます。

足の遅い選手がいた場合
別の選手が動かなければなりません。
「あいつが足が遅いのが悪い」
と言って、努力をしなければ
勝てるわけがありません。

足が遅くても能力を発揮できるポジションにおいて
他の人が走り回る。
少しでもチーム全体のパフォーマンスを向上させるのがチームです。
誰かが悪い、正しければそれでよい
という発想ではなく、
チーム全体の状態をよくする
という発想が必要だと思います。

別居しても離婚しても
客観的には
子育てという一つの目標に向かっている
チームになる。
相手にも主張しなければなりませんが
自分でもそれを徹底することが必要でしょう。

<困難なポイント>

どうしても子どもを連れていかれているから
自分が妻から攻撃を受けている
という意識が知らず知らずのうちに支配的になります。
相手に攻撃行動、怒りを持ってしまうと
同じチームの一員という感覚が失われてしまいます。

また、妻が子どもを連れて行くことにより
子どもにも害悪を与えているという意識は
子どもを守ろう、子どもの敵は妻だ
ということになってしまうので、
むしろこっちの方が
妻はチーム外という意識を持ちやすいかもしれません。

これは、この事案に必ずついて回る
困難なポイントです。
ここをいかに克服して、
それを妻に知ってもらうか
ということが最大のポイントと言っても
過言ではないようです。

5 自分の修正行動を相手に示す

自分の行動を修正しても
相手に示さないと意味がありません。
なかなか、シャイな人が多いようで
このアッピールが下手なようです。

また、いざ示そうとすると
押しつけがましくなってしまう人も多いようです。
この辺のさりげなさを演出することは
相手の気持ちに立って自分の行動を
予め計画する必要がありそうです。

5 少ないチャンスを生かす

チャンスとは、
面会交流が行われていれば、
面会交流の受け渡しの時、
子どもを通じてのアピール
(これは、つまり、母親をほめればよい話なので、
 ルールに反するということはないでしょう。)

調停をやっているのであれば
調停委員を通じて自分の思いを伝えることができますし、
陳述書に共感を示すことを書くことができます。

わずかのチャンスを逃さずに
相手が安心する情報を提供し続ける
ということが作戦です。

安心する情報は敵意がないことを示すことで、
分かりやすく言えば、感謝と謝罪です。

調停も面会交流もできない
そもそも連絡が取れない
という場合は、
妻の親とか、共通の友人に伝えるしかないでしょうね。
その際に注意しなければならないことは、
妻の居場所を探っているというそぶりを示さないこと、
これが大事です。
探していないよということを言うと逆に変ですから
しばらく距離を置くというつもりならば従う
という言い方になるのだと思います。

だから伝言を頼むのではなく、
自分の心境を聞いてもらう
というアプローチが良いと思います。

<困難なポイント>

但し、子どもを連れていかれていますから
なかなか感情がついてきません。
これはもっともなことです。

どうしても、相手を責めたい
謝罪がほしいということは人情です。

しかし、そのことが主たる目的に
いつの間にかなってしまうことが多くあります。
子どもの前で、
妻に対して優越する情報を
提供してしまうことがあります。

「子どものために」
ということの行動だということはわかるのですが、
妻から見れば、
・これ見よがしに自分ができないことをしてみせる。
・子どもに対して自分が劣っているということを
 アッピールしている
等という行動になってしまっている
それに気が付かない
ということは多々あります。

これが正しいことだと思ったら、
正しさを求めることを封印する
という思考が有効かもしれません。

あくまでもやり直す場合ですが、
そのためには割り切りと徹底が必要なようです。

わずかなチャンスを生かさず
逆にオウンゴールを繰り返す人は
かなり多いです。

6 努力の方向

先ず、相手は、夫といることに不安があります。
何を考えているのかわからないということから出発します。
安心できないようです。

一つは、過去の出来事に依存してよりを戻すよりも、
新たに、「夫は安心できる」
という記憶を刷り込んでいくというスタイルが有効だろう
ということがあります。

安心できるということは
攻撃されないということ
仲間はずれにされないということ

要するに仲間として尊重されているという
実感を持ってもらうということです。

相手の嫌がることをしない
感謝を中心として、こまめに謝罪すること
相手の欠点、不十分点、失敗を
責めない、笑わない、批判しない
ということはわかってきました。

<困難なポイント>

相手がしてほしいことをして
相手がしてほしくないことをしない
という発想に立てない。
良かれと思ってやっていることなのですが。

自分がしてほしいことが
相手は嫌なことということはたくさんあります。
これは一般論では語れません。

派手なことをしないと伝わらない人
さりげなく、自然に受け入れてもらいたい人
ただ一緒にいることが一番な人
行動をしたい人
人それぞれ様々です。

ここをよく考える、
妻はどうしてほしいか
どうされるのが嫌なのか
それができない。

自分はこうしてほしいと思い
相手の気持ちを考えないで
あるいは相手が嫌だというサインを出しているのに
間違っていない、子どものためだ
ということで実行してしまう人が
けっこういます。

7 悪い点を修正するよりも良かったところを強調する

これはまだ未消化なところがあるのですが、
誠実に反省をすると、どうしても重くなることがあります。
重すぎて気持ちが暗くなるとデメリットがあるようです。

反省することは良いとして
良かった時のことを感謝を込めてアッピールする
ということが必要なようです。

良かった時期があることは
直ちに記憶がよみがえらないことであったとしても
やはりアドバンテージになる可能性があります。

出来事、旅行とか、遊園地とか、外食とかを
記述的に思い出しても
あまり効果が無いようです。

思い出してもらうのは
その時楽しかったという感情です。
思い出してもらうというよりも
その時の楽しさを追体験してもらう
というような感覚が良いのかもしれません。

遊園地で観覧車に乗ったというよりも
寒かったので、肉まん食べてほっこりした
とかそういう感情というか
皮膚感覚に語り掛けることが有効かもしれません。




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虐待の根本的な防止のために、「子育て支援基地」を地区ごとに配置する提言 [家事]



1 子育て支援基地

  子育て支援政策を各自治体は行っているようですが、必ずしも共通の政策がないのかもしれません。私のこれからお話しする「子育て支援基地」は、実際に仙台市にある、あるいはあった、子育て支援の一時預かり保育がベースになっています。ただ、少しはみ出しています。
  子育て支援基地は、子どもの一時保育をベースにしているのですが、どうしても保育というと、両親が働いていることが前提とされているようです。私は、後に述べる理由から、両親が働いているか否かにかかわらず、子どもを受け入れてほしいと思います。但し、利用人数の関係がありますから、当初は、週2回程度、利用時間も午前中だけとか、午後だけとかという制限があってもやむを得ないと思います。
  お母さんが子どもを連れて、フラッと入れる場所が良いと思います。できれば、地上階、1階にあるとよいです。公立保育所に併設した、あるいはその建物の中の一部屋があてがわれると本当は便利です。しかし、仙台市もあれよあれよという間に公立保育所が無くなって行ってしまいました。子育て支援基地には保育士さんがいて、保育士さんはできるだけベテランの女性が良いと思います。一度退職された方で、週に2回程度なら働けるという方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。基地では、短時間子どもを預けることもできるし、子どもと一緒に時間を過ごすことも許されてほしいです。紅茶等が用意されていたりして、先生に子育ての悩みを自然に打ち明けられる雰囲気を作ってもらいたいと思います。その間、子どもは、子ども同士自由に遊んでいるし、何かあれば、保育士さんが対処できます。一時預かりをする場合は、人数調整もあるでしょうから前もって予約をしてもらいますが、子育て相談は母親が同伴であれば随時行うことができるという具合が良いと思います。

2 孤立婚と子育て支援基地

  私の得意な200万年前でさえ、人間の場合は、子育ては母親だけがするのではなく、群れ全体で行っていたようです。これは、母親だけが子どもに食料を分け与えるサルと人間の決定的な違いです。農村部ではつい最近まで神社の境内などが子どもたちの自主的な遊び場になっていて、年長者が年少者をうまくあつかっていました。家々には祖父母がいて、あるいは茶飲みに来る近所の人がいて、誰彼となく子育てを手伝ったり、相談に乗ったりということがあったようです。また、現代のような厳しい受験競争や職場環境もなく、現代ほど相談が必要なこともなかったかもしれません。
  ところが、現代は、マンションなどの住宅事情や人間の行動傾向から、子育てを親だけがやるような風潮になっています。これは、人類史が始まっても初めてのことです。そもそも二人だけの部屋に子どもが生まれるのです。最初から孤立している孤立婚です。
  大家族で育ったことの無い親は、他人の子育てのリアルを知りません。大家族ならば、自分の親が弟や妹を子育てしている場面や年の離れた兄や姉が子育てしている場面を見ているでしょうし、親戚の子育ても観ているかもしれません。それができないので、本やインターネットで理想的な子育ての情報を入手したり、わずかな本音トークに接したりしていますが、情報発信者の生活環境も分からない上に、発信した情報の真実性も分かりません。それにもかかわらず、良い会社に正社員で就職するための大学、高校、中学と遡っていき、乳幼児教育などもお金をかけて行わなければ、子どもが一生食うに困らない状態にならないような風潮もあります。しっかりしたリアルな情報がないことと、不安の材料が多いことがあわさって、子育ては不安に満ちています。
  一見順調に子育てをしているようでも、例えばすぐ風邪をひくとか、夜泣きがひどいとか、実際は子育て者は苦労しています。手がかかるため、自分の時間がありません。
  母親が中心に子育てをしている家庭が多いのですが、最近は父親もできる限り育児参加をしているようです。皇太子殿下の子育てがきっかけになっていると思いますが、幕末や明治の外国人の日本に関する文献を読むと、もともと日本人男性は子どもが好きなようです。また、客観的にも孤立婚ですから父親が子育てをしなければ母親はパンクしてしまいます。
  特に職業を持っていた女性は、子育てを楽しむ余裕がないと、自分は社会の中で活躍していたのに、今はこの赤ん坊に振り回されている、自分がこの赤ん坊の奴隷のようになっているように感じる人が少なからずいるようです。これは母親の職業が自分の裁量で行える職業だったかという裁量の程度と、子どもの手のかかり具合に比例するようで、母性云々の話ではないように思います。そういう心身とも赤ん坊に振り回されている時は特にそうなのですが、母親は父親の子育てを評価できないようです。これは出産後の脳の構造が変化しているとのことで、赤ん坊に対しては共感、共鳴ができるけれど、父親に対しては共感、共鳴が起こりにくい状態になっているというところにも由来しているようです。母親が孤立感を深める要因になっています。
  現在の夫婦は、子育てに関して、人類史に類例を見ないほどの困難を抱えています。子どもは群れで育てるという人間の本能にも反します。様々な社会環境から2世代、3世代同居ができないのであれば、あるいは自然発生的な地域コミュニティーが形成できないのであれば、行政がこれを補うサービスをすることが合理的ではないでしょうか。
  もし、私の言う子育て支援基地があったら、お母さんは、2,3時間とはいえ、育児から解放されます。自分のための買い物に行ってもよいでしょうし、読書や音楽鑑賞など、自分の時間を作ることができます。時間の切れ目のない子育てからのわずかながらの解放は、大いにリフレッシュできるでしょう。また、単身赴任や長時間労働等の夫が子育てに協力できない場合は、その時間はとても貴重なものになるでしょう。
  最も貴重なことは、社会が母親に対して子育てを休んでよいのだというメッセージを送ることです。そしてそれを現実化してくれることです。子育てに喜びを感じて、不平を言ってはいけないと思い込んでいるお母さんがたくさんいらっしゃいます。母性神話に苦しめられているお母さん方もまだまだ多くいらっしゃいます。サボりたいとか投げ出したいという気持ちを持つこと自体に罪悪感を持つようです。2時間か3時間の自由行動ですが、頑張った御褒美を行政が用意することはとても素敵なことだと思います。
  産休等で仕事を休んでいるお母さん方にも、専業主婦のお母さんにも、子育て支援基地は必要な行政サービスだと思います。

3 虐待が起きる原因と子育て支援基地の役割

  虐待が起きる原因は、驚くほどの無知と孤立です。普通のお母さんでさえ、子育てには不安があり、孤独な育児をしていると感じています。それでもインターネット記事などを見て、やってはいけないこと、心配しなくてよいこと等を必死に情報入手しています。ところが、そのような情報を入手できないお母さん方は、例えば子どもに大人の食べるものを与えたり、衛生面での配慮が足りなかったりすることがあります。赤ちゃんの生理に無知なため、大人に合わせた食事の時間にしたり、逆に食べさせすぎたりしたりします。些細な無知の積み重ねが子どもに悪影響になって現れることもあります。
  孤立は、この無知を修正することができません。誰かが、親の間違いを優しく直してくれれば、親は修正することができます。しかし、虐待事件の親たちは、適切な人間とつながることができず、自分と同じ無知な大人や、全く赤ん坊を可愛いともかわいそうとも思わない大人とつながってしまっていました。子育ての相談と言えば児童相談所かもしれませんが、そのような親にとって児童相談所は、自分の子育てに至らないことがあると、子どもを奪って会えなくする怖い機関だという認識が作られていることが多くあります。また、児童相談所は、平素の育児相談を受け付ける余裕はないでしょう。
  そうだとすると、子育て支援基地が最適なのです。数時間とはいえ、ベテランの保育士さんが子どもを観察できますし、子どもと母親の関わりを観察することができます。無知を修正するきっかけが多く生まれます。愛情のかけ方を教えることもできます。
  この時、良いのは、年配の保育士さんなのです。一つには多くの親子を見てきたということが絶対的な強みです。ある程度のはみだしがあっても許容できる人たちです。また、つい虐待をしたくなるという孤立した親に対して、それはあなただけでないよと、のんびり言ってくれることが期待できるからです。親にとっては、自分の育った環境がそうだったことが、例えば児童相談所にとっては虐待だということが結構あります。年配の保育士さんなら、それはこうすればもっと良いよと教えてくれることが期待できます。
  ここでの鉄則は、虐待を即時に否定しないことです。修正するべきエラーだと扱ってくれることです。そうやって、みんな同じ道をたどったということを知ることによって、同じ地平からのアドバイスということで親たちは救われ、子どもへの愛おしい気持ちを回復することができるのです。
  また、母親は、どんなに父親がアドバイスしたり、慰めたりしても、あまり喜びを感じないようです。わかってくれない、話を聞いてくれないという不満はどうやらつきもののようで、父親はあきらめるべきポイントのようです。しかし、ベテランの保育士さんから、「このお子さんは確かに手がかかるから、お母さん大変だね」と言ってもらえることで、涙を流すほど救われるのだそうです。あまり追いつめない。でも言うことは言う。言い方を許容的、支持的に行う。これができるのは子育て支援基地だけだと思います。
  週に二度、一度でも、あそこに行くことができる、あそこに行けば自分を理解してくれる人がいる、つかの間の自由も手に入る、行った後は子育てが楽になるということが続けば、乳児への虐待は確実に減少することと思います。

4 幼児の虐待と子育て支援基地

  幼児への虐待も、無知と孤立です。子育てのやり方がわからないから、ペットを育てた経験から同じように育ててしまったり、親の都合で定期的な食事、おやつを与えなかったり、衛生状態が悪いということがあるようです。この種の虐待に関しても、乳児の時と同じように子育て支援基地は機能します。
  また、これまで頼りにしてきた保育士さんですから、あるいはこれまで子育て支援基地を利用してきてよいイメージがあれば、また、自分が否定されていないという安心感から、なんとなくフラッと尋ねることもあるでしょうし、話を聞こうという気にもなるでしょう。子どもたちも、自力で歩行するようになり、近所に子育て支援基地があれば、いざとなったら遊びに来ることもできます。あまりにも親の子育てがひどく、命の危険や直ちに健康を害する危険があれば、その時は児童相談所に通告することもあるでしょう。
  しかし大事なことは、「それはみんな経験している」という言葉と、「それをやったら子どもがきちんと育たないよ」という意見を柔らかく言ってくれる相談できる相手がいることが、子どもたちにとっては有益だと思います。
  もしかしたら、きちんとやりたいけれど、色々な事情でやれないという親たちもいるかもしれません。支援基地では、通常は保育士さんがいればよいとおもうのですが、時折、ケースワーカーや心理士、弁護士、できればお医者さんなどが普段着で訪れ、気軽に相談に乗る機会があれば良いのかもしれません。
  さらには、幼児教育がいろいろ形で費用を伴って盛んに売り出されています。学習塾だけでなく、ビアノやバレエなど、幼児の内からかなり本格的にやらされる風潮があります。これは、子どもにとっては相当のストレスになるようです。しかし、子どもたちは頑張りますし、やればやるだけ伸びる時期でもあります。全く大人が想定しないやり方を編み出したりして、指導者を超えて熟達することもあるようです。だから大人は、特に親はやらせたがるわけです。自分はこんなにできなかったのに、この子はこんなにできると思ってしまうのです。もしかしたら、それは子どもにとってはかなり無理なことで、コルチゾールなどのストレスホルモンによって、脳や内臓が委縮しているかもしれません。そんな時に、子どもたちの逃げ場にもなってもらえれば、どんなに子どもたちは救われるでしょうか。

5 まとめ

  児童虐待は、とんでもない無知と孤立から起きるものです。それは、親の責任でもなく、社会環境が原因です。親の孤立を解消することが、急務です。しかし、虐待親の烙印を押されて、子どもをとられてしまうという不安を抱えた親は、自ら孤立を選ぶ傾向もあります。
  そして、どんな親でも、一つ間違えば虐待を起こしてしまう可能性があり、孤立しているためにそれが虐待だと気が付かない場合もあります。
  わずかの時間、特に説教されたりしないで、具体的に良い方法を教えてもらえるような場所があれば、そこに行って誰かと話をすることの負担はだいぶ軽減されるでしょう。その基地の中核には保育士さんがいて、地域の経験者、専門家がふらりと立ち寄るようなコミュニティーになれば、虐待は減っていくと思います。
  現在、児相の規模と権限の拡大が、虐待防止として提案されています。しかし、児相の規模と権限拡大は、虐待予備軍の親たちの孤立を進めてしまう恐れもあると思います。あらゆるまなざしを自分たちに対する監視だと受け止めるでしょう。できれば、児相と保育所の中間的な機関があればよいと思うのです。例えば親子のショートステイとかそういうものです。もう一つ、児相の拡大の問題があります。児相は虐待があって初めて介入を行うという特徴があります。虐待後の措置が厳しいものになることからそういう条件になります。しかし、虐待は発見した時には、既に深刻な状態が起きているかもしれません。免疫に支障が出れば、小さい子なんてあっという間に命の危険が訪れます。虐待が起きてからの対策は、虐待死を防ぎきることはできないと思います。また、死ななければ良いというものでもなく、暖かな家庭、失敗や欠点を受け止めてもらう体験がなく、人間が信頼できるという体験がないまま、大人になって行く子どもたちを放置してはなりません。虐待の要因を取り除いて虐待を無くすためにどうするかという根本的なアイデアを多く出し合って、人間らしい喜びを子どもたちに与えることを考えるべきだと思います。

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怒りや憎しみは、今虐待されている子、これから虐待される子を救えないということ。虐待防止のパラドクスについて 厳罰化、児相の権限強化、親権の停止が解決と逆行していること [家事]

 東京目黒で起きた結愛さんが亡くなった事件で、多くの方々が憤りを表明されています。見ず知らずのお子さんが亡くなったことに対して怒りをもつことができるということは、人間独特の能力です。単なる法律違反という捉え方ではなく、亡くなられたお子さんの孤独や絶望、さまざまな感情に共鳴、共感してのことになりますから、とても人間らしい感覚だと思います。
 しかし、怒りという感情は、エラーを伴いやすいものです。私が危惧しているエラーとは、せっかくの人間らしい感情が、今起きている児童虐待やこれから起きる児童虐待から罪のない子どもたちを救うことが出来ないばかりか、増やしてしまうことです。
 このエラーがなぜ起きるのか。具体的にエラーは何か。どうしてそれがエラーなのか、それではどうすればよいというのかについてご説明をすることがこの拙文の目的です。
 
 まず、「怒り」とはどういう構造なのかということについて、私の考えているところをご説明します。

 最初に危険が近づいていることを脳が認識し、危機意識を抱きます。脳は、この危機意識を解消したい、危険から逃れたいという志向をします。このとき危険を解消する方法の違いによって二種類の感情に分かれます。ひとつは、危険に対して働きかけることで危険を解消できるという意識がある場合は、危険に対して攻撃を起こし、相手の危険がなくなるまで攻撃を続けるという行動を起こさせます。この時に抱いている感情が怒りです。ふたつ目は、危険と戦っても勝てないだろうという意識がある場合は、危険から逃げようとします。このときの感情は恐怖です。危険を感じた場合、怒りたい、怯えたいということは、このように本能的な要請であり、命を維持していくためのメカニズムです。
 結愛さんが亡くなったことに対する怒りは、人間が、仲間の苦しさ、怖さを追体験し、共鳴したことによって生じたものです。事後的ではあるのですが、仲間を守りたいという意識で、これは強烈な怒りを生む傾向があります。これは、人間が農業を行なうはるか前の狩猟採集時代に、肉食獣から襲われた仲間を群れ中の集団で攻撃することによって自分たちを守りあったときの名残だと考えています。そのような仲間を守ろうとした者だけが、自分たちを守り、子孫を遺してきました。私たちの心は、このように環境に適合するように形成されたといわれています。そのため、現代においても、仲間のために仲間の敵を寄ってたかって叩こうとする習性があるわけです。
 怒りをもつことで、環境に適合することが出来たという、その意味について説明します。怒りは危険に働きかけて、危険を解消するときの感情だといいました。この場合の危険を肉食獣だとします。肉食獣も腹を減らしているから危険を承知で人間に襲い掛かっているわけですから、なんとか食いついた人間を捕食したいと思っています。これに対して、力の弱い人間は、怖いという逃げる意識を持たないで、相手を殺す勢いで、あるいは殺そうとして、攻撃をしなければなりません。肉食獣を亡き者にするという目標を持って、余計なことは考えず、撲殺することを目指して、ただひたすらに叩き続けることが必要です。なるべく安心せずに、確実に危険が無くなるまで、つまり確実に絶命させるまで、叩き続ける方が、命が助かることになるということは理解しやすいでしょう。これに対して「勝てるのだろうか」、「自分だけは逃げたほうが良いのではないだろうか」、「もうかわいそうだから叩くのをやめようか」などということを途中で考えて、叩く力を緩めたら、たちまち手負いの肉食獣は、そのひるんだ者いるところを通って逃げ出すか、その者を新しい標的にするかもしれません。このように怒りと、余計なことを考えないことと、確実にしとめるまで怒り続けるということは、命を守るためのセットの行動様式です。
 200万年前の狩猟採集時代は、危険といえば肉食獣や自然地形等ですから、このような単純な怒りの構造があれば危険回避のツールとしては十分だったのでしょう。
 しかし、複雑多様になった現代では、このような単純な怒りの様式によっては危険が解消出来ない場合も多くなりました。むしろ、怒ることでデメリットが生まれることが多いことは、われわれもよく経験しているところです。仲間を守るための強烈な怒りは、仲間を助けることにも作用するのですが、現代の複雑な社会においては、いじめやクレーマーなどの社会病理の要因にもつながる側面を持っています。


怒りがデメリットを生むことの要因についてまとめてみました。

・ 複雑な思考をすることが出来なくなる。
  余計なことを考えないことが怒りの効用でした。相手を叩くことだけに集中する方が良く、色々なことを考えてしまうことは危険だからでした。どうやら怒りが生じると、自動的に脳の複雑な思考を担当する部分が機能低下を起こすようです。これが人間や動物が生きる仕組みでした。
  複雑な思考をすることができなくなるため、派生的な因果関係を考えることが苦手になります。叩けば痛いとか、かまれれば痛いとか、直接の因果関係だけが判断可能ということになります。
・ 二者択一的な思考になる。
   これも、複雑な思考が出来なくなることからその結果としてこういうことがおきるのだと思います。つまり、敵か味方か、危険か危険から脱したかというものです。命をかけて戦っていますから、瞬時に判断することが求められていますので、このような単純化は狩猟採集時代には合理的なものでした。
・ 迅速かつ安易な解決を志向する。
   これも、戦いの途中の脳の構造ですから、理解しやすいと思います。複雑なことを考えられず、瞬時の判断が求められると共に、早く危険から解放されたいと思うことは当然でしょう。二者択一的思考とあいまって、強い者に頼るという傾向も現れていきます。
興味深いことに、本来は客観的に危険を脱するための仕組みだったのです。しかし、自然が作った方法は、危険意識を解消したいと志向するというツールを使って危険から脱する行動を起こすという仕組みを作りました。だから、いつしか、危機意識を脱したいという思いが過剰反応を起こしてしまい、独り歩きを始めることによって危険から脱するための行為と矛盾する行動を起こすということも現れたりします。この典型的な行動が自死です。
・ 後戻りすることが出来なくなる。
   後戻りのきっかけを作るための複雑な思考は出来ませんので、当然といえば当然ですが、後戻りしない行動傾向がより確実に危険を解消するために有益なことは理解しやすいと思います。途中で戦うことをやめることは死を意味するからです。自分の行為を客観的に見ることができなくなることもこの特徴からきているのかもしれません。
・ 共鳴、共感が出来なくなる。
   これは、他人と共鳴共感する脳の部分が、複雑な思考をする脳の部分と同じ部分だということから当然だと思います。アントニオ・ダマシオが発見した前頭前野腹内側部という脳の部分です。

厳罰化というエラー

 目黒事件では、無抵抗な子どもを長期にわたって苦しめ、助けがない状態に追い込んだということから、継父に対しても、放置した母親に対しても、怒りを抱くということは人間の感情としては自然なことでしょう。
 中には、虐待死に対する刑罰を厳罰化しようという主張が見られます。つい頷いてしまう主張です。しかし、これはエラーといわなりません。つまり、厳罰化は新しい犠牲者を救うことと何の関係もないからです。
 そのことについて説明します。
・ <虐待は自覚なく行なわれる。>客観的には死の危険がある行為が行なわれているのですが、加害者にはその自覚がありません。むしろ何かしら言い訳をしながら加害行為が行なわれています。虐待死の罰を重くしても、自分がいましていることに対しての罰だと認識しないことがほとんどだということです。
・ <人は法律があるから犯罪をしないわけではない。>もっともそういう人もいるかもしれませんが、実際は、自分が誰かを苦しめることに抵抗感があるのでやりません。やりたくても我慢しているよりも、多くの人はやりたいとも思わないものです。本当は殺したいのだけど、法律があるから踏みとどまっている人、なくなれば直ぐに実行するという人がどれだけいるでしょうか。実際の加害者、刑事被疑者や被告人と話すと、法律で禁止されていることは知っています。道徳的に間違っていることも複雑な行政法規でない限りはよく分かっています。
いずれにしても、罰則が重くなってもそれによって、虐待がなくなることはあまり期待することが出来ないということが実態なのです。

厳罰化の問題で看過できない問題があります。それは厳罰化の主張は実は論理的には死ななければ良いということを言っていることと同じになってしまうということです。おそらくそんなことを承認している人はいらっしゃらないでしょう。根本的には虐待をしないこと、これを目指さなければなりません。虐待死の厳罰化は死なない場合は厳罰化にならないでしょう。
それでは、死ななくても虐待自体に厳罰を課すことで解決に向かうのでしょうか。これにも疑問があります。虐待はつい起こる現象ですが、原因があります。虐待の原因をつぶすことによって、虐待しようとさせないことが根本解決です。これに対して刑罰を重くすることは、虐待をしようとする原因を放置して、虐待放置して、案の定虐待した場合に厳罰に処すということになってしまいます。
又、厳罰化することが出来ればそれで達成感が生まれてしまい、根本解決に向かわないことも心配しなければなりません。
さらに言えば、厳罰化するという思想は、「その人たちが特殊な人たちで、自分とは別の種類の人間なのだ」という意識を持ってしまいます。虐待をする人はとめることが出来ない、だから厳罰化して隔離することが必要だという優生保護法における不妊手術と同じ発想になっている危険は無いでしょうか。虐待という言葉には当てはまらないと思っていても、私たち親が子どもの事情を無視してしまうことは皆無なのでしょうか。もしかしたら、量的な違いや、偶然生まれた環境の違いに過ぎない相対的なものかもしれないという視点は必要だと思います。
厳罰化はエラー、すなわち虐待解消に役に立たないと思っています。

 親権停止、児童相談所の権限強化、里親や施設の拡充というエラー
 
 児童福祉の実践に関わらない人が良く主張する内容です。児童福祉の専門家によれば、これらは現実を知らない人の主張だと切り捨てられています。
 親権停止といってもそう簡単ではなく、現実の親権停止の申し立てはとても少ない件数です。いろいろな問題があるからです。本当に親権停止をする事案なのかということは大変難しい問題です。親権停止となれば、子どもと親が引き離され、子どもは児童養護施設に入れられます。間違って親権停止になることで、子どもは実の親から引き離されて、大人に対する不信感が堅固なものになってしまいます。親とはなれた時間が家族の関係を薄めてしまい、健全な成長をむしろ害することになります。実際に親権停止を申し立てられる親御さんは、訴訟能力が低く、弁護士を依頼する経済力もないことが多いようです。誤判を犯さないためには、申し立てる方が責任を持たなければならず負担が大きいのです。又、親権喪失ではなく、一定期間の停止としたのは親子の再統合を図ることが狙いですが、実際に再統合の働きかけがあることを私が関与した事例では見られませんでした。
 児童相談所の権限が強化されることについてもデメリットがあります。子どもが転んだなどで怪我をしただけで虐待が疑われ、長期間にわたって子どもと引き離されたという訴えもあります。一方的な判断を公平に検証するシステムがないことが問題だと思います。また、強い態度に出ることだけが独り歩きして児相に押し付けられているという現実があるでしょう。こういう事例もありました。うつ病という調子の波がある病気で、重い状態のときに掃除が出来ないのですが、その場合に虐待だと認定されて、子どもを取り上げられそうになっているという相談もありました。
 又、現実には、施設入所が国によって抑制されてしまい、里親への誘導がなされているようです。しかし、里親のなり手が十分でない上に、里親だからすべてが上手くいくという保証がないことも当然のことです。特に子育て経験がない里親が多いことは心配なことです。
 これらの現実を見ないで、親権の停止、児童相談所の権限強化、里親制度の拡充を主張することは、あまりにも無責任です。怒りは、強い者になびく行動を招くという理論どおりですし、安易な解決を目指すという理論どおりの主張です。一番の問題は、ある意味厳罰化の主張以上に、根本問題である虐待の撲滅を考えていないことです。あくまでも虐待が起きた後の対症療法に過ぎません。とにかく死ななければ良いという発想で、まじめな議論とは思えません。
 ところが、報道を見ると、虐待の撲滅、百歩譲って減少という観点からの論調は見受けられません。比較的良心的だと思っていた番組も、専門家でもない人の意見をなぜかわざわざ持ってきて、エラーだらけの意見を紹介している始末です。子どもの利益ということが、これまであまりこの国では考えられていないということがはっきりしてしまった悲しい出来事でした。それにしても、真面目に虐待に取り組んでいる人がいることすら知らないということはとても嘆かわしいことです。

虐待の原因を学ぼう

 ではどうしたらよいか。実に簡単なことを、厳罰化論者も児童福祉の現実を知らない人の児相の権限拡充論者も見落としています。怒りは、一つ一つ論理を積み重ねていくことが苦手です。何かを予防する場合は、その原因を突き止め、原因を除去することです。病気の場合でも、のどから感染するならうがいをするでしょうし、食べすぎが病気を招いている人ならば食べないようにするということです。虐待を予防するならば、虐待の原因を突き止め、その原因を取り除けばよいということになります。厳罰化論も、児相の権限拡充論も、特徴としては、原因の分析をせずに対策を論じるという非論理的な誤りを犯していることになります。
 では、どのように虐待の原因を分析するのかということになります。遠回りでも、一つ一つの事案を分析し、共通項を探すことが鉄則です。これをしないことは、特殊な人間だけが虐待をするという非科学的な決めつけですから、正しい解決にはたどり着きません。具体的事例の分析には、虐待の加害者の協力が不可欠です。虐待は密室で行われているのですから、加害者しか知りえないことが多いのです。また、加害者自身が自覚していない、無意識の行動も多くあります。こうなると、加害者を憎悪するだけでは何も解決しないということがお分かりになるでしょう。むしろ、加害者に対して支持的に、自分が何をしたのか、どうしてそれを止められなかったのか、そしてその背景として加害者が歩んできた人生、環境はどのようなものだったのかという聞き取りと分析をしなければなりません。これは、一緒に考えるというアプローチなのです。加害者に対して処罰感情だけしかなければ、つまり憎しみのアプローチだけならば、およそ将来に向けた虐待はなくならないのです。
 杉山春さんというルポライターがいます。大きな虐待事件について、何件も加害者から詳細な聞き取りを行い、丁寧な分析をされ、ルポルタージュを作成されています。新書になっていますから、入手しやすくなっています。弁護士以上に弁護士の思考ができる人です。私も随分文献を読ませていただき勉強させていただきました。
 虐待の原因は、共通する部分が多くあります。一言でいえば、無知と孤立です。子どもの愛しかたを知らず、接し方を知らず、何が必要で何が不要なのかを知らない、限度も常識もわからない。つながるべき人、つながるべき機関につながらないで、自ら孤立していく、自分たちを食い物にする人たちにつながってしまうという共通性もありました。どうしてそうなってしまうかというと、自分が愛された経験がなかったり、逆にいじめを受けたり虐待を受けたりしたということが看過できない事情としてはあるようです。そして、それが非常識なこと、それをすることは子どもがかわいそうだという意見があることについて、孤立しているために誰からも指摘されないまま、客観的には虐待が継続してしまうということが共通項のようです。
 人間はもともと両親だけで子育てをするようにはできていません。例えばチンパンジーは、母親だけが子ザルに食料を分け与えます。人間は、懐胎期間が長いことやお産が重いこと、新生児が長期間全く自立していないことから、母親だけが子育てをすることは不可能です。だから群れで子育てをしていたのです。小さく弱いものをかわいいと思う感情を持っているのが人間です。この感情は群れで子育てをした名残でしょう。文明ができると、かえってこのコアな群れは小さくなり、戦後しばらくすると、子育ては夫婦のみで行わなくてはならなくなり、事情によっては母親だけが子育てをする場合も増えています。しかし、その様式は、人類史を見ても、これまであまりなかった子育ての方法で、現代においてもかなり無理がある形態です。
 ここで、厳罰化や児相の権限を強めるため、疑いを持って近隣同士が子どもを持つ親に対する監視を強める社会になったらどうなるでしょう。ますます虐待を隠し、陰湿化し、後戻りできないまま虐待死していく子どもが増えることを心配しなくてはなりません。完全なエラーが生まれると思います。
 もう一つ、厳罰化などの考えに差別の思想があることを指摘しました。しかし、孤立した夫婦の子育てという観点からすれば、少なからずどの家庭でも虐待は起きています。子どもに強すぎる反応をすることはあるでしょうし、八つ当たりをしなかったという人はどれだけいるのでしょうか。多かれ少なかれ、子どもの心を傷つけることを親は行っています。周囲がそれを指摘してあげて、修正させてあげることがどうしても必要なのだと思います。
 これも怒りのもう一つの特徴と関係があります。怒りは、実は危険の対象にだけ向かうとは限らないということです。例えば会社でミスをしたり、上司から叱責されたり、仕事がうまくいかない、そういう場合は身体生命の危険はありませんが、会社での立場が悪くなるという意味で危険を感じます。しかし、会社に対してというか、上司に対して反抗的な態度で怒りをぶつけることができません。危険意識を抱いたまま解消する方法がない状態が生まれてしまいます。心は、危険意識を解消したいといういらだちという表現になります。この危険意識を50とします。子どもというものは、親に対して安心していますし、人間関係がうまくコントロールできませんから、親に失礼なことをすることがあります。親は2とか3とかせいぜいそのくらいの危険意識を持つ程度でしょう。しかし、子どもは弱いですから、子どもには勝てるという意識があります。何とか危機意識を解消したいという無意識の思考は、せいぜい危険度3くらいの、普通なら決して行動に出ない危機意識に怒りを向けてしまいます。この怒りは53の怒りを解消しようとする傾向にあり、必要以上に過酷になってしまいます。八つ当たりということが典型的な虐待です。虐待は、私たちの日常と断絶しているものではなく、連続しているものだと考えたほうが良いと思われます。
虐待が苛酷になる場合は、驚くほどの無知が加わります。2日程度食事を与えなくても、お菓子か何かあれば死なないだろうとか、お菓子のほかに水分が必要だとか、そういうことを本当に知らないと子どもはあっさり死んでしまうのです。また、自分は過去同じことをされたけれど我慢できたという意識が生まれてしまいます。仕事をしなければいずれ死ぬのだから、仕事の時は我慢してほしい。そういう場合に過酷な結果が生まれるようです。まさかと思うような思考過程が現実にあるのです。厳罰化がいかに予防の観点からは無意味なのか理解されたことと思います。
こういった原因を解消するためには、孤立を防ぐことと、わからないなら教えてあげること、安心して相談できる環境をつくること、知らないことで責められない、笑われない、批判されないということが肝心です。隠す親たちは、自分で理解できないまま、自分の無知を理由に笑われたり、批判されたり、責められたりしてきました。いじめもその一つです。
私は、弁護士をやりながら人権擁護委員もやっています。虐待している親からの電話相談も受けることがあります。いろいろな事情があって孤立しているということが特徴的です。相談をするくらいだから、虐待を辞めたいと思っているのです。虐待の事実に目くじらを立てて批判したのでは電話は切られてしまいます。励ましながら、責めない、笑わない、批判しないということは鉄則です。そのうえで一緒に考えます。自分の子育ての反省を赤裸々に語り、その時助けてもらった人、機関を紹介します。これなら利用できるというつながりを見つけた時は、相談者も私も心底安心し、安心が共有されたことを喜び合うような相談会になります。
虐待行為の修正に有効な機関は、子育て支援です。子育ての不安を支持的に聞き、具体的な解消方法を相談できるととても良いです。ところが、公立保育園の減少で、子育て支援をする場所の確保も苦労しているようです。地区に一つ、だれでも気軽に訪れることができて、ベテランの担当員、例えば保育士を退職した方が、ゆっくりお話を聞ける環境があると良いです。紅茶とクッキーをいただきながら話をするという環境がたくさんあるといいなと思います。子どもも遊べる環境があるとなおよいでしょう。
そのほかにも、気軽な立ち寄り所があって、地域的なコミュニケーションが作れるような、居場所が作られればと思います。これらは、親の相談場所であるとともに、子どもの逃げ場所にもなるわけです。
奇妙な話ですが、児童虐待を防ぐためには、児童虐待をしている親を憎んで排除するのではなく、親の虐待する心を承認し、許すことなのです。虐待防止のパラドクスということでしょうか。
このような親と子どもがコミュニティーの一員として受け入れられることが必要なのですが、現実の社会は、特に虐待予備軍というような家庭はどこのコミュニティーにも属さずに孤立しています。始めからコミュニティーを作るというより、町内会や子育て支援など行政がコミュニティーの種を作っていくことが求められると思います。被災地では被災した地元のお年寄りと地元の小学校の子どもたちの交流が行われています。これは、子どもたちを守ることにもつながりますし、孤立したお年寄りを元気づける等大きな効果が生まれています。
長期的には、子どもが安心できる人間関係を幾重にも構築していくことだと思います。安心できる人間関係は人の心を癒します。助け合う人間関係を積極的に構築していくことが根本的な問題でしょう。

子どもが一緒に住まない親と、頻繁に会えることが当たり前の世の中にしよう

 江戸時代は、実の親のほかに名付け親,拾い親、抱き上げ親等、何人もの親がいました。関係が密な人間関係が形成されている時代でさえ、子どもたちはたくさんの逃げ道がありました。余計なお世話をしあう制度的保証があったといえると思います。「俺の子どものことに口を出さないでくれ。」、「馬鹿言ってんじゃないよ、俺が名付け親だろう。俺の子どもをぞんざいに扱うな。」というやり取りがあったと思うと楽しくなります。子どもは皆で育てるものという意識が感じられます。これが多くの人たちの共通認識でした。
 現代の子育ては孤立しています。簡単にコミュニティーは構築しにくいでしょう。大体、話を聞くにしても場所がありません。なかなか自宅を晒すことは抵抗が多くてできないということが多いのではないでしょうか。
 その中でも注目するべきは、深刻な児童虐待が、実の親ではなく、母親の新しい夫、内縁の夫、交際相手が関与して行われることがみられるということです。この場合は、実の父親がどこかにいるということになります。この実の父親は、強力な子どもの味方になるでしょう。
 ところが、現在の日本では、離婚をしてしまうと、子どもはどちらかの親だけと生活し、一緒に暮らしていない親と面会すらできないことが多いです。離婚前の別居の段階でも同様です。これには歴史的背景があります。戦前の家制度の下では、子どもは家のものだという意識がありました。そのため、家を出ていくほうは子どもを置いて出ていかなければなりませんでした。子どもに里心、母親を恋する心が強くなり、家を出て行かれては困るので、離婚が親と子の未来永劫の別れにされてしまっていました。戦後しばらく、高度成長期ころまではこのような感覚が多かったようです。その後、女性の収入が向上したり、女性の人権が確立していくとともに、母親が子どもを引き取って離婚をするケースが増えて、大勢になっていきました。しかし、離婚は子どもとの未来永劫の別れという意識、あきらめも一方にあり、子どもをあきらめるという風潮が残ったように思います。子どもが両親から愛情を受けて育つほうが健全に成長する、離婚のマイナス影響が緩和されるということは、世界中の調査によって確立していることですが、日本においてはあまり重視されませんでした。封建制度の下では子どもは家の付属物で、高度成長期以降は母親の付属物のように扱われていたと厳しく見るべきです。
 なぜこのように厳しく見る必要があるかというと、日本を除く先進国は、離婚後も子どもを父母双方が養育する、父母双方に親権(親責任)があるという共同親権の制度をとっています。子どもの利益を親から切り離して考えるべきだということがお隣の韓国も含めて先進国の共通の考え方なのです。ところが、日本では、ようやく離婚後、離婚前の別居時の面会交流という考え方が進み始めたという段階にとどまっているからです。だから、子どもの独自の権利を承認するということが日本においては急務の課題です。このひとりの人間として尊重しない最悪の結果が虐待なのです。
 とりあえず、現制度では、面会交流の拡充です。面会交流が頻繁に行われると、虐待をすればすぐにわかってしまいます。だから、虐待に対する抑止効果になるでしょう。しょっちゅう別れた相手と子どもが面会するということが煩わしいという気持ちもあるかもしれません。でも仕方がありません。子どもは双方の親から愛される権利がある独立した人格だからです。子どもを連れての離婚はそういうものだということを社会的に常識にする必要があります。また、実際に虐待があって様子がおかしかったら、実の親なら毅然とした対応をするでしょう。会えないから帰るということはせずに、納得できるまで面会を要求するでしょう。子どもにとって力強い味方になります。すべての親が虐待をするわけではありません。しかし、子どもが実の親に会うことのデメリットは、同居親のわずらわしさしかありません。逆にメリットとしては、逃げ道があるという安心感があるだけでなく、離婚に伴って子どもが自分の価値を低く考えてしまう負の影響を緩和することができるということが科学的に証明されています。何事もなくても面会することで、子どもにとっては利益なのです。子どもを一人の人格を持つ主体だと考えるのであれば、このような子どもの利益を積極的に推進するべきであり、妨害することは虐待だと考える風潮が作られることが必要です。
 なぜ、このように大切な面会が十分行われないのでしょう。最近は裁判所も強く面会を勧めるようになりつつあります。実際、裁判所から言われれば、同居親も子どもが喜ぶ面会交流なら応じなければいけないだろうという認識を持つものです。
 面会交流が進まないのは、同居親の、子どもを離婚した相手に会わせたくないという感情を子どもの利益以上に尊重してしまう風潮が、法曹界や社会に根強いということなのです。モノを言えない子ども、同居親に遠慮をする子どもの声なき声を取り上げようとせず、同居親の感情をいさめないどころか先取りして代弁する人たちもいます。これでは、同居親は会わせようとする気持ちを起こすことができません。
 そうはいっても、会わせたくないという感情まで否定することは現実的ではありません。自分も相手に会いたくないということは実際に強くあります。だから必要なことは、同居親の精神的負担をできるだけ軽減した面会方法を工夫することです。例えば、面会交流の施設を自治体が提供するということは、精神的負担をだいぶ軽減します。その中で、双方の不安を解消する提案をするスタッフがいればなおよいと思います。現在でもこのような団体があるにはあるのですが、費用も高額になっています。自治体こそが、安価な施設を作って同居親の背中を押すべきだと私は思います。現在の少子化の時代、子どもたちが健全に育つためのそれほど多くもない費用の支出に躊躇することはばかげています。
 
 虐待の問題は、このように社会全体で解決する問題です。人の心の問題です。これを罰則を強化して解決しようとか、逆に親権の停止や児童相談所の権限の拡充で解決しようとすることは、まったく虐待の実態を見ない安直な考え方だと思います。孤立して、十分な知識のない家庭を援助するのではなく、刑罰や親権停止の威嚇によって、結果として虐待だけをなくすという政策が根本問題を解決しないどころか、何ら子どもたちの幸せに結びつかないことはご理解いただけると思います。



私は無宗教ですが、新約聖書のヨハネによる福音書第8章では、イエスのもとに罪を犯した女性が連れてこられます。モーゼの律法によって、みんなで石を投げて殺さなければならないといって、イエスの考えを聞きに来たのでした。イエスは即答せず、もどかしい時間が流れました。ようやく語ったことは、自分を省みて罪がないと思う人間だけが石を投げればよいと言ったそうです。年齢の高い者から、一人また一人と帰って行ったそうです。そして、イエスと罪を犯した女性だけが残りました。イエスは、自分はだれも裁かないと言い、女性に対してこれからは過ちをしないように述べたというのです。
私の人生に影響を与えた一節です。

もし神がいて、現代社会に天使を遣わされ、犠牲が生まれたとしたら、憎しみを募らせたり、人の裁きを重くしたりするという気持ちは、たとえそれが正義感から出たものだとしても間違いなのでしょう。自分たちを省みて、迫害されている愛を解き放ち、慈しみといたわりを強く大きくしていかなければ、犠牲が意味のないものになってしまうと私は思います。


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