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虐待の根本的な防止のために、「子育て支援基地」を地区ごとに配置する提言 [家事]



1 子育て支援基地

  子育て支援政策を各自治体は行っているようですが、必ずしも共通の政策がないのかもしれません。私のこれからお話しする「子育て支援基地」は、実際に仙台市にある、あるいはあった、子育て支援の一時預かり保育がベースになっています。ただ、少しはみ出しています。
  子育て支援基地は、子どもの一時保育をベースにしているのですが、どうしても保育というと、両親が働いていることが前提とされているようです。私は、後に述べる理由から、両親が働いているか否かにかかわらず、子どもを受け入れてほしいと思います。但し、利用人数の関係がありますから、当初は、週2回程度、利用時間も午前中だけとか、午後だけとかという制限があってもやむを得ないと思います。
  お母さんが子どもを連れて、フラッと入れる場所が良いと思います。できれば、地上階、1階にあるとよいです。公立保育所に併設した、あるいはその建物の中の一部屋があてがわれると本当は便利です。しかし、仙台市もあれよあれよという間に公立保育所が無くなって行ってしまいました。子育て支援基地には保育士さんがいて、保育士さんはできるだけベテランの女性が良いと思います。一度退職された方で、週に2回程度なら働けるという方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。基地では、短時間子どもを預けることもできるし、子どもと一緒に時間を過ごすことも許されてほしいです。紅茶等が用意されていたりして、先生に子育ての悩みを自然に打ち明けられる雰囲気を作ってもらいたいと思います。その間、子どもは、子ども同士自由に遊んでいるし、何かあれば、保育士さんが対処できます。一時預かりをする場合は、人数調整もあるでしょうから前もって予約をしてもらいますが、子育て相談は母親が同伴であれば随時行うことができるという具合が良いと思います。

2 孤立婚と子育て支援基地

  私の得意な200万年前でさえ、人間の場合は、子育ては母親だけがするのではなく、群れ全体で行っていたようです。これは、母親だけが子どもに食料を分け与えるサルと人間の決定的な違いです。農村部ではつい最近まで神社の境内などが子どもたちの自主的な遊び場になっていて、年長者が年少者をうまくあつかっていました。家々には祖父母がいて、あるいは茶飲みに来る近所の人がいて、誰彼となく子育てを手伝ったり、相談に乗ったりということがあったようです。また、現代のような厳しい受験競争や職場環境もなく、現代ほど相談が必要なこともなかったかもしれません。
  ところが、現代は、マンションなどの住宅事情や人間の行動傾向から、子育てを親だけがやるような風潮になっています。これは、人類史が始まっても初めてのことです。そもそも二人だけの部屋に子どもが生まれるのです。最初から孤立している孤立婚です。
  大家族で育ったことの無い親は、他人の子育てのリアルを知りません。大家族ならば、自分の親が弟や妹を子育てしている場面や年の離れた兄や姉が子育てしている場面を見ているでしょうし、親戚の子育ても観ているかもしれません。それができないので、本やインターネットで理想的な子育ての情報を入手したり、わずかな本音トークに接したりしていますが、情報発信者の生活環境も分からない上に、発信した情報の真実性も分かりません。それにもかかわらず、良い会社に正社員で就職するための大学、高校、中学と遡っていき、乳幼児教育などもお金をかけて行わなければ、子どもが一生食うに困らない状態にならないような風潮もあります。しっかりしたリアルな情報がないことと、不安の材料が多いことがあわさって、子育ては不安に満ちています。
  一見順調に子育てをしているようでも、例えばすぐ風邪をひくとか、夜泣きがひどいとか、実際は子育て者は苦労しています。手がかかるため、自分の時間がありません。
  母親が中心に子育てをしている家庭が多いのですが、最近は父親もできる限り育児参加をしているようです。皇太子殿下の子育てがきっかけになっていると思いますが、幕末や明治の外国人の日本に関する文献を読むと、もともと日本人男性は子どもが好きなようです。また、客観的にも孤立婚ですから父親が子育てをしなければ母親はパンクしてしまいます。
  特に職業を持っていた女性は、子育てを楽しむ余裕がないと、自分は社会の中で活躍していたのに、今はこの赤ん坊に振り回されている、自分がこの赤ん坊の奴隷のようになっているように感じる人が少なからずいるようです。これは母親の職業が自分の裁量で行える職業だったかという裁量の程度と、子どもの手のかかり具合に比例するようで、母性云々の話ではないように思います。そういう心身とも赤ん坊に振り回されている時は特にそうなのですが、母親は父親の子育てを評価できないようです。これは出産後の脳の構造が変化しているとのことで、赤ん坊に対しては共感、共鳴ができるけれど、父親に対しては共感、共鳴が起こりにくい状態になっているというところにも由来しているようです。母親が孤立感を深める要因になっています。
  現在の夫婦は、子育てに関して、人類史に類例を見ないほどの困難を抱えています。子どもは群れで育てるという人間の本能にも反します。様々な社会環境から2世代、3世代同居ができないのであれば、あるいは自然発生的な地域コミュニティーが形成できないのであれば、行政がこれを補うサービスをすることが合理的ではないでしょうか。
  もし、私の言う子育て支援基地があったら、お母さんは、2,3時間とはいえ、育児から解放されます。自分のための買い物に行ってもよいでしょうし、読書や音楽鑑賞など、自分の時間を作ることができます。時間の切れ目のない子育てからのわずかながらの解放は、大いにリフレッシュできるでしょう。また、単身赴任や長時間労働等の夫が子育てに協力できない場合は、その時間はとても貴重なものになるでしょう。
  最も貴重なことは、社会が母親に対して子育てを休んでよいのだというメッセージを送ることです。そしてそれを現実化してくれることです。子育てに喜びを感じて、不平を言ってはいけないと思い込んでいるお母さんがたくさんいらっしゃいます。母性神話に苦しめられているお母さん方もまだまだ多くいらっしゃいます。サボりたいとか投げ出したいという気持ちを持つこと自体に罪悪感を持つようです。2時間か3時間の自由行動ですが、頑張った御褒美を行政が用意することはとても素敵なことだと思います。
  産休等で仕事を休んでいるお母さん方にも、専業主婦のお母さんにも、子育て支援基地は必要な行政サービスだと思います。

3 虐待が起きる原因と子育て支援基地の役割

  虐待が起きる原因は、驚くほどの無知と孤立です。普通のお母さんでさえ、子育てには不安があり、孤独な育児をしていると感じています。それでもインターネット記事などを見て、やってはいけないこと、心配しなくてよいこと等を必死に情報入手しています。ところが、そのような情報を入手できないお母さん方は、例えば子どもに大人の食べるものを与えたり、衛生面での配慮が足りなかったりすることがあります。赤ちゃんの生理に無知なため、大人に合わせた食事の時間にしたり、逆に食べさせすぎたりしたりします。些細な無知の積み重ねが子どもに悪影響になって現れることもあります。
  孤立は、この無知を修正することができません。誰かが、親の間違いを優しく直してくれれば、親は修正することができます。しかし、虐待事件の親たちは、適切な人間とつながることができず、自分と同じ無知な大人や、全く赤ん坊を可愛いともかわいそうとも思わない大人とつながってしまっていました。子育ての相談と言えば児童相談所かもしれませんが、そのような親にとって児童相談所は、自分の子育てに至らないことがあると、子どもを奪って会えなくする怖い機関だという認識が作られていることが多くあります。また、児童相談所は、平素の育児相談を受け付ける余裕はないでしょう。
  そうだとすると、子育て支援基地が最適なのです。数時間とはいえ、ベテランの保育士さんが子どもを観察できますし、子どもと母親の関わりを観察することができます。無知を修正するきっかけが多く生まれます。愛情のかけ方を教えることもできます。
  この時、良いのは、年配の保育士さんなのです。一つには多くの親子を見てきたということが絶対的な強みです。ある程度のはみだしがあっても許容できる人たちです。また、つい虐待をしたくなるという孤立した親に対して、それはあなただけでないよと、のんびり言ってくれることが期待できるからです。親にとっては、自分の育った環境がそうだったことが、例えば児童相談所にとっては虐待だということが結構あります。年配の保育士さんなら、それはこうすればもっと良いよと教えてくれることが期待できます。
  ここでの鉄則は、虐待を即時に否定しないことです。修正するべきエラーだと扱ってくれることです。そうやって、みんな同じ道をたどったということを知ることによって、同じ地平からのアドバイスということで親たちは救われ、子どもへの愛おしい気持ちを回復することができるのです。
  また、母親は、どんなに父親がアドバイスしたり、慰めたりしても、あまり喜びを感じないようです。わかってくれない、話を聞いてくれないという不満はどうやらつきもののようで、父親はあきらめるべきポイントのようです。しかし、ベテランの保育士さんから、「このお子さんは確かに手がかかるから、お母さん大変だね」と言ってもらえることで、涙を流すほど救われるのだそうです。あまり追いつめない。でも言うことは言う。言い方を許容的、支持的に行う。これができるのは子育て支援基地だけだと思います。
  週に二度、一度でも、あそこに行くことができる、あそこに行けば自分を理解してくれる人がいる、つかの間の自由も手に入る、行った後は子育てが楽になるということが続けば、乳児への虐待は確実に減少することと思います。

4 幼児の虐待と子育て支援基地

  幼児への虐待も、無知と孤立です。子育てのやり方がわからないから、ペットを育てた経験から同じように育ててしまったり、親の都合で定期的な食事、おやつを与えなかったり、衛生状態が悪いということがあるようです。この種の虐待に関しても、乳児の時と同じように子育て支援基地は機能します。
  また、これまで頼りにしてきた保育士さんですから、あるいはこれまで子育て支援基地を利用してきてよいイメージがあれば、また、自分が否定されていないという安心感から、なんとなくフラッと尋ねることもあるでしょうし、話を聞こうという気にもなるでしょう。子どもたちも、自力で歩行するようになり、近所に子育て支援基地があれば、いざとなったら遊びに来ることもできます。あまりにも親の子育てがひどく、命の危険や直ちに健康を害する危険があれば、その時は児童相談所に通告することもあるでしょう。
  しかし大事なことは、「それはみんな経験している」という言葉と、「それをやったら子どもがきちんと育たないよ」という意見を柔らかく言ってくれる相談できる相手がいることが、子どもたちにとっては有益だと思います。
  もしかしたら、きちんとやりたいけれど、色々な事情でやれないという親たちもいるかもしれません。支援基地では、通常は保育士さんがいればよいとおもうのですが、時折、ケースワーカーや心理士、弁護士、できればお医者さんなどが普段着で訪れ、気軽に相談に乗る機会があれば良いのかもしれません。
  さらには、幼児教育がいろいろ形で費用を伴って盛んに売り出されています。学習塾だけでなく、ビアノやバレエなど、幼児の内からかなり本格的にやらされる風潮があります。これは、子どもにとっては相当のストレスになるようです。しかし、子どもたちは頑張りますし、やればやるだけ伸びる時期でもあります。全く大人が想定しないやり方を編み出したりして、指導者を超えて熟達することもあるようです。だから大人は、特に親はやらせたがるわけです。自分はこんなにできなかったのに、この子はこんなにできると思ってしまうのです。もしかしたら、それは子どもにとってはかなり無理なことで、コルチゾールなどのストレスホルモンによって、脳や内臓が委縮しているかもしれません。そんな時に、子どもたちの逃げ場にもなってもらえれば、どんなに子どもたちは救われるでしょうか。

5 まとめ

  児童虐待は、とんでもない無知と孤立から起きるものです。それは、親の責任でもなく、社会環境が原因です。親の孤立を解消することが、急務です。しかし、虐待親の烙印を押されて、子どもをとられてしまうという不安を抱えた親は、自ら孤立を選ぶ傾向もあります。
  そして、どんな親でも、一つ間違えば虐待を起こしてしまう可能性があり、孤立しているためにそれが虐待だと気が付かない場合もあります。
  わずかの時間、特に説教されたりしないで、具体的に良い方法を教えてもらえるような場所があれば、そこに行って誰かと話をすることの負担はだいぶ軽減されるでしょう。その基地の中核には保育士さんがいて、地域の経験者、専門家がふらりと立ち寄るようなコミュニティーになれば、虐待は減っていくと思います。
  現在、児相の規模と権限の拡大が、虐待防止として提案されています。しかし、児相の規模と権限拡大は、虐待予備軍の親たちの孤立を進めてしまう恐れもあると思います。あらゆるまなざしを自分たちに対する監視だと受け止めるでしょう。できれば、児相と保育所の中間的な機関があればよいと思うのです。例えば親子のショートステイとかそういうものです。もう一つ、児相の拡大の問題があります。児相は虐待があって初めて介入を行うという特徴があります。虐待後の措置が厳しいものになることからそういう条件になります。しかし、虐待は発見した時には、既に深刻な状態が起きているかもしれません。免疫に支障が出れば、小さい子なんてあっという間に命の危険が訪れます。虐待が起きてからの対策は、虐待死を防ぎきることはできないと思います。また、死ななければ良いというものでもなく、暖かな家庭、失敗や欠点を受け止めてもらう体験がなく、人間が信頼できるという体験がないまま、大人になって行く子どもたちを放置してはなりません。虐待の要因を取り除いて虐待を無くすためにどうするかという根本的なアイデアを多く出し合って、人間らしい喜びを子どもたちに与えることを考えるべきだと思います。

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怒りや憎しみは、今虐待されている子、これから虐待される子を救えないということ。虐待防止のパラドクスについて 厳罰化、児相の権限強化、親権の停止が解決と逆行していること [家事]

 東京目黒で起きた結愛さんが亡くなった事件で、多くの方々が憤りを表明されています。見ず知らずのお子さんが亡くなったことに対して怒りをもつことができるということは、人間独特の能力です。単なる法律違反という捉え方ではなく、亡くなられたお子さんの孤独や絶望、さまざまな感情に共鳴、共感してのことになりますから、とても人間らしい感覚だと思います。
 しかし、怒りという感情は、エラーを伴いやすいものです。私が危惧しているエラーとは、せっかくの人間らしい感情が、今起きている児童虐待やこれから起きる児童虐待から罪のない子どもたちを救うことが出来ないばかりか、増やしてしまうことです。
 このエラーがなぜ起きるのか。具体的にエラーは何か。どうしてそれがエラーなのか、それではどうすればよいというのかについてご説明をすることがこの拙文の目的です。
 
 まず、「怒り」とはどういう構造なのかということについて、私の考えているところをご説明します。

 最初に危険が近づいていることを脳が認識し、危機意識を抱きます。脳は、この危機意識を解消したい、危険から逃れたいという志向をします。このとき危険を解消する方法の違いによって二種類の感情に分かれます。ひとつは、危険に対して働きかけることで危険を解消できるという意識がある場合は、危険に対して攻撃を起こし、相手の危険がなくなるまで攻撃を続けるという行動を起こさせます。この時に抱いている感情が怒りです。ふたつ目は、危険と戦っても勝てないだろうという意識がある場合は、危険から逃げようとします。このときの感情は恐怖です。危険を感じた場合、怒りたい、怯えたいということは、このように本能的な要請であり、命を維持していくためのメカニズムです。
 結愛さんが亡くなったことに対する怒りは、人間が、仲間の苦しさ、怖さを追体験し、共鳴したことによって生じたものです。事後的ではあるのですが、仲間を守りたいという意識で、これは強烈な怒りを生む傾向があります。これは、人間が農業を行なうはるか前の狩猟採集時代に、肉食獣から襲われた仲間を群れ中の集団で攻撃することによって自分たちを守りあったときの名残だと考えています。そのような仲間を守ろうとした者だけが、自分たちを守り、子孫を遺してきました。私たちの心は、このように環境に適合するように形成されたといわれています。そのため、現代においても、仲間のために仲間の敵を寄ってたかって叩こうとする習性があるわけです。
 怒りをもつことで、環境に適合することが出来たという、その意味について説明します。怒りは危険に働きかけて、危険を解消するときの感情だといいました。この場合の危険を肉食獣だとします。肉食獣も腹を減らしているから危険を承知で人間に襲い掛かっているわけですから、なんとか食いついた人間を捕食したいと思っています。これに対して、力の弱い人間は、怖いという逃げる意識を持たないで、相手を殺す勢いで、あるいは殺そうとして、攻撃をしなければなりません。肉食獣を亡き者にするという目標を持って、余計なことは考えず、撲殺することを目指して、ただひたすらに叩き続けることが必要です。なるべく安心せずに、確実に危険が無くなるまで、つまり確実に絶命させるまで、叩き続ける方が、命が助かることになるということは理解しやすいでしょう。これに対して「勝てるのだろうか」、「自分だけは逃げたほうが良いのではないだろうか」、「もうかわいそうだから叩くのをやめようか」などということを途中で考えて、叩く力を緩めたら、たちまち手負いの肉食獣は、そのひるんだ者いるところを通って逃げ出すか、その者を新しい標的にするかもしれません。このように怒りと、余計なことを考えないことと、確実にしとめるまで怒り続けるということは、命を守るためのセットの行動様式です。
 200万年前の狩猟採集時代は、危険といえば肉食獣や自然地形等ですから、このような単純な怒りの構造があれば危険回避のツールとしては十分だったのでしょう。
 しかし、複雑多様になった現代では、このような単純な怒りの様式によっては危険が解消出来ない場合も多くなりました。むしろ、怒ることでデメリットが生まれることが多いことは、われわれもよく経験しているところです。仲間を守るための強烈な怒りは、仲間を助けることにも作用するのですが、現代の複雑な社会においては、いじめやクレーマーなどの社会病理の要因にもつながる側面を持っています。


怒りがデメリットを生むことの要因についてまとめてみました。

・ 複雑な思考をすることが出来なくなる。
  余計なことを考えないことが怒りの効用でした。相手を叩くことだけに集中する方が良く、色々なことを考えてしまうことは危険だからでした。どうやら怒りが生じると、自動的に脳の複雑な思考を担当する部分が機能低下を起こすようです。これが人間や動物が生きる仕組みでした。
  複雑な思考をすることができなくなるため、派生的な因果関係を考えることが苦手になります。叩けば痛いとか、かまれれば痛いとか、直接の因果関係だけが判断可能ということになります。
・ 二者択一的な思考になる。
   これも、複雑な思考が出来なくなることからその結果としてこういうことがおきるのだと思います。つまり、敵か味方か、危険か危険から脱したかというものです。命をかけて戦っていますから、瞬時に判断することが求められていますので、このような単純化は狩猟採集時代には合理的なものでした。
・ 迅速かつ安易な解決を志向する。
   これも、戦いの途中の脳の構造ですから、理解しやすいと思います。複雑なことを考えられず、瞬時の判断が求められると共に、早く危険から解放されたいと思うことは当然でしょう。二者択一的思考とあいまって、強い者に頼るという傾向も現れていきます。
興味深いことに、本来は客観的に危険を脱するための仕組みだったのです。しかし、自然が作った方法は、危険意識を解消したいと志向するというツールを使って危険から脱する行動を起こすという仕組みを作りました。だから、いつしか、危機意識を脱したいという思いが過剰反応を起こしてしまい、独り歩きを始めることによって危険から脱するための行為と矛盾する行動を起こすということも現れたりします。この典型的な行動が自死です。
・ 後戻りすることが出来なくなる。
   後戻りのきっかけを作るための複雑な思考は出来ませんので、当然といえば当然ですが、後戻りしない行動傾向がより確実に危険を解消するために有益なことは理解しやすいと思います。途中で戦うことをやめることは死を意味するからです。自分の行為を客観的に見ることができなくなることもこの特徴からきているのかもしれません。
・ 共鳴、共感が出来なくなる。
   これは、他人と共鳴共感する脳の部分が、複雑な思考をする脳の部分と同じ部分だということから当然だと思います。アントニオ・ダマシオが発見した前頭前野腹内側部という脳の部分です。

厳罰化というエラー

 目黒事件では、無抵抗な子どもを長期にわたって苦しめ、助けがない状態に追い込んだということから、継父に対しても、放置した母親に対しても、怒りを抱くということは人間の感情としては自然なことでしょう。
 中には、虐待死に対する刑罰を厳罰化しようという主張が見られます。つい頷いてしまう主張です。しかし、これはエラーといわなりません。つまり、厳罰化は新しい犠牲者を救うことと何の関係もないからです。
 そのことについて説明します。
・ <虐待は自覚なく行なわれる。>客観的には死の危険がある行為が行なわれているのですが、加害者にはその自覚がありません。むしろ何かしら言い訳をしながら加害行為が行なわれています。虐待死の罰を重くしても、自分がいましていることに対しての罰だと認識しないことがほとんどだということです。
・ <人は法律があるから犯罪をしないわけではない。>もっともそういう人もいるかもしれませんが、実際は、自分が誰かを苦しめることに抵抗感があるのでやりません。やりたくても我慢しているよりも、多くの人はやりたいとも思わないものです。本当は殺したいのだけど、法律があるから踏みとどまっている人、なくなれば直ぐに実行するという人がどれだけいるでしょうか。実際の加害者、刑事被疑者や被告人と話すと、法律で禁止されていることは知っています。道徳的に間違っていることも複雑な行政法規でない限りはよく分かっています。
いずれにしても、罰則が重くなってもそれによって、虐待がなくなることはあまり期待することが出来ないということが実態なのです。

厳罰化の問題で看過できない問題があります。それは厳罰化の主張は実は論理的には死ななければ良いということを言っていることと同じになってしまうということです。おそらくそんなことを承認している人はいらっしゃらないでしょう。根本的には虐待をしないこと、これを目指さなければなりません。虐待死の厳罰化は死なない場合は厳罰化にならないでしょう。
それでは、死ななくても虐待自体に厳罰を課すことで解決に向かうのでしょうか。これにも疑問があります。虐待はつい起こる現象ですが、原因があります。虐待の原因をつぶすことによって、虐待しようとさせないことが根本解決です。これに対して刑罰を重くすることは、虐待をしようとする原因を放置して、虐待放置して、案の定虐待した場合に厳罰に処すということになってしまいます。
又、厳罰化することが出来ればそれで達成感が生まれてしまい、根本解決に向かわないことも心配しなければなりません。
さらに言えば、厳罰化するという思想は、「その人たちが特殊な人たちで、自分とは別の種類の人間なのだ」という意識を持ってしまいます。虐待をする人はとめることが出来ない、だから厳罰化して隔離することが必要だという優生保護法における不妊手術と同じ発想になっている危険は無いでしょうか。虐待という言葉には当てはまらないと思っていても、私たち親が子どもの事情を無視してしまうことは皆無なのでしょうか。もしかしたら、量的な違いや、偶然生まれた環境の違いに過ぎない相対的なものかもしれないという視点は必要だと思います。
厳罰化はエラー、すなわち虐待解消に役に立たないと思っています。

 親権停止、児童相談所の権限強化、里親や施設の拡充というエラー
 
 児童福祉の実践に関わらない人が良く主張する内容です。児童福祉の専門家によれば、これらは現実を知らない人の主張だと切り捨てられています。
 親権停止といってもそう簡単ではなく、現実の親権停止の申し立てはとても少ない件数です。いろいろな問題があるからです。本当に親権停止をする事案なのかということは大変難しい問題です。親権停止となれば、子どもと親が引き離され、子どもは児童養護施設に入れられます。間違って親権停止になることで、子どもは実の親から引き離されて、大人に対する不信感が堅固なものになってしまいます。親とはなれた時間が家族の関係を薄めてしまい、健全な成長をむしろ害することになります。実際に親権停止を申し立てられる親御さんは、訴訟能力が低く、弁護士を依頼する経済力もないことが多いようです。誤判を犯さないためには、申し立てる方が責任を持たなければならず負担が大きいのです。又、親権喪失ではなく、一定期間の停止としたのは親子の再統合を図ることが狙いですが、実際に再統合の働きかけがあることを私が関与した事例では見られませんでした。
 児童相談所の権限が強化されることについてもデメリットがあります。子どもが転んだなどで怪我をしただけで虐待が疑われ、長期間にわたって子どもと引き離されたという訴えもあります。一方的な判断を公平に検証するシステムがないことが問題だと思います。また、強い態度に出ることだけが独り歩きして児相に押し付けられているという現実があるでしょう。こういう事例もありました。うつ病という調子の波がある病気で、重い状態のときに掃除が出来ないのですが、その場合に虐待だと認定されて、子どもを取り上げられそうになっているという相談もありました。
 又、現実には、施設入所が国によって抑制されてしまい、里親への誘導がなされているようです。しかし、里親のなり手が十分でない上に、里親だからすべてが上手くいくという保証がないことも当然のことです。特に子育て経験がない里親が多いことは心配なことです。
 これらの現実を見ないで、親権の停止、児童相談所の権限強化、里親制度の拡充を主張することは、あまりにも無責任です。怒りは、強い者になびく行動を招くという理論どおりですし、安易な解決を目指すという理論どおりの主張です。一番の問題は、ある意味厳罰化の主張以上に、根本問題である虐待の撲滅を考えていないことです。あくまでも虐待が起きた後の対症療法に過ぎません。とにかく死ななければ良いという発想で、まじめな議論とは思えません。
 ところが、報道を見ると、虐待の撲滅、百歩譲って減少という観点からの論調は見受けられません。比較的良心的だと思っていた番組も、専門家でもない人の意見をなぜかわざわざ持ってきて、エラーだらけの意見を紹介している始末です。子どもの利益ということが、これまであまりこの国では考えられていないということがはっきりしてしまった悲しい出来事でした。それにしても、真面目に虐待に取り組んでいる人がいることすら知らないということはとても嘆かわしいことです。

虐待の原因を学ぼう

 ではどうしたらよいか。実に簡単なことを、厳罰化論者も児童福祉の現実を知らない人の児相の権限拡充論者も見落としています。怒りは、一つ一つ論理を積み重ねていくことが苦手です。何かを予防する場合は、その原因を突き止め、原因を除去することです。病気の場合でも、のどから感染するならうがいをするでしょうし、食べすぎが病気を招いている人ならば食べないようにするということです。虐待を予防するならば、虐待の原因を突き止め、その原因を取り除けばよいということになります。厳罰化論も、児相の権限拡充論も、特徴としては、原因の分析をせずに対策を論じるという非論理的な誤りを犯していることになります。
 では、どのように虐待の原因を分析するのかということになります。遠回りでも、一つ一つの事案を分析し、共通項を探すことが鉄則です。これをしないことは、特殊な人間だけが虐待をするという非科学的な決めつけですから、正しい解決にはたどり着きません。具体的事例の分析には、虐待の加害者の協力が不可欠です。虐待は密室で行われているのですから、加害者しか知りえないことが多いのです。また、加害者自身が自覚していない、無意識の行動も多くあります。こうなると、加害者を憎悪するだけでは何も解決しないということがお分かりになるでしょう。むしろ、加害者に対して支持的に、自分が何をしたのか、どうしてそれを止められなかったのか、そしてその背景として加害者が歩んできた人生、環境はどのようなものだったのかという聞き取りと分析をしなければなりません。これは、一緒に考えるというアプローチなのです。加害者に対して処罰感情だけしかなければ、つまり憎しみのアプローチだけならば、およそ将来に向けた虐待はなくならないのです。
 杉山春さんというルポライターがいます。大きな虐待事件について、何件も加害者から詳細な聞き取りを行い、丁寧な分析をされ、ルポルタージュを作成されています。新書になっていますから、入手しやすくなっています。弁護士以上に弁護士の思考ができる人です。私も随分文献を読ませていただき勉強させていただきました。
 虐待の原因は、共通する部分が多くあります。一言でいえば、無知と孤立です。子どもの愛しかたを知らず、接し方を知らず、何が必要で何が不要なのかを知らない、限度も常識もわからない。つながるべき人、つながるべき機関につながらないで、自ら孤立していく、自分たちを食い物にする人たちにつながってしまうという共通性もありました。どうしてそうなってしまうかというと、自分が愛された経験がなかったり、逆にいじめを受けたり虐待を受けたりしたということが看過できない事情としてはあるようです。そして、それが非常識なこと、それをすることは子どもがかわいそうだという意見があることについて、孤立しているために誰からも指摘されないまま、客観的には虐待が継続してしまうということが共通項のようです。
 人間はもともと両親だけで子育てをするようにはできていません。例えばチンパンジーは、母親だけが子ザルに食料を分け与えます。人間は、懐胎期間が長いことやお産が重いこと、新生児が長期間全く自立していないことから、母親だけが子育てをすることは不可能です。だから群れで子育てをしていたのです。小さく弱いものをかわいいと思う感情を持っているのが人間です。この感情は群れで子育てをした名残でしょう。文明ができると、かえってこのコアな群れは小さくなり、戦後しばらくすると、子育ては夫婦のみで行わなくてはならなくなり、事情によっては母親だけが子育てをする場合も増えています。しかし、その様式は、人類史を見ても、これまであまりなかった子育ての方法で、現代においてもかなり無理がある形態です。
 ここで、厳罰化や児相の権限を強めるため、疑いを持って近隣同士が子どもを持つ親に対する監視を強める社会になったらどうなるでしょう。ますます虐待を隠し、陰湿化し、後戻りできないまま虐待死していく子どもが増えることを心配しなくてはなりません。完全なエラーが生まれると思います。
 もう一つ、厳罰化などの考えに差別の思想があることを指摘しました。しかし、孤立した夫婦の子育てという観点からすれば、少なからずどの家庭でも虐待は起きています。子どもに強すぎる反応をすることはあるでしょうし、八つ当たりをしなかったという人はどれだけいるのでしょうか。多かれ少なかれ、子どもの心を傷つけることを親は行っています。周囲がそれを指摘してあげて、修正させてあげることがどうしても必要なのだと思います。
 これも怒りのもう一つの特徴と関係があります。怒りは、実は危険の対象にだけ向かうとは限らないということです。例えば会社でミスをしたり、上司から叱責されたり、仕事がうまくいかない、そういう場合は身体生命の危険はありませんが、会社での立場が悪くなるという意味で危険を感じます。しかし、会社に対してというか、上司に対して反抗的な態度で怒りをぶつけることができません。危険意識を抱いたまま解消する方法がない状態が生まれてしまいます。心は、危険意識を解消したいといういらだちという表現になります。この危険意識を50とします。子どもというものは、親に対して安心していますし、人間関係がうまくコントロールできませんから、親に失礼なことをすることがあります。親は2とか3とかせいぜいそのくらいの危険意識を持つ程度でしょう。しかし、子どもは弱いですから、子どもには勝てるという意識があります。何とか危機意識を解消したいという無意識の思考は、せいぜい危険度3くらいの、普通なら決して行動に出ない危機意識に怒りを向けてしまいます。この怒りは53の怒りを解消しようとする傾向にあり、必要以上に過酷になってしまいます。八つ当たりということが典型的な虐待です。虐待は、私たちの日常と断絶しているものではなく、連続しているものだと考えたほうが良いと思われます。
虐待が苛酷になる場合は、驚くほどの無知が加わります。2日程度食事を与えなくても、お菓子か何かあれば死なないだろうとか、お菓子のほかに水分が必要だとか、そういうことを本当に知らないと子どもはあっさり死んでしまうのです。また、自分は過去同じことをされたけれど我慢できたという意識が生まれてしまいます。仕事をしなければいずれ死ぬのだから、仕事の時は我慢してほしい。そういう場合に過酷な結果が生まれるようです。まさかと思うような思考過程が現実にあるのです。厳罰化がいかに予防の観点からは無意味なのか理解されたことと思います。
こういった原因を解消するためには、孤立を防ぐことと、わからないなら教えてあげること、安心して相談できる環境をつくること、知らないことで責められない、笑われない、批判されないということが肝心です。隠す親たちは、自分で理解できないまま、自分の無知を理由に笑われたり、批判されたり、責められたりしてきました。いじめもその一つです。
私は、弁護士をやりながら人権擁護委員もやっています。虐待している親からの電話相談も受けることがあります。いろいろな事情があって孤立しているということが特徴的です。相談をするくらいだから、虐待を辞めたいと思っているのです。虐待の事実に目くじらを立てて批判したのでは電話は切られてしまいます。励ましながら、責めない、笑わない、批判しないということは鉄則です。そのうえで一緒に考えます。自分の子育ての反省を赤裸々に語り、その時助けてもらった人、機関を紹介します。これなら利用できるというつながりを見つけた時は、相談者も私も心底安心し、安心が共有されたことを喜び合うような相談会になります。
虐待行為の修正に有効な機関は、子育て支援です。子育ての不安を支持的に聞き、具体的な解消方法を相談できるととても良いです。ところが、公立保育園の減少で、子育て支援をする場所の確保も苦労しているようです。地区に一つ、だれでも気軽に訪れることができて、ベテランの担当員、例えば保育士を退職した方が、ゆっくりお話を聞ける環境があると良いです。紅茶とクッキーをいただきながら話をするという環境がたくさんあるといいなと思います。子どもも遊べる環境があるとなおよいでしょう。
そのほかにも、気軽な立ち寄り所があって、地域的なコミュニケーションが作れるような、居場所が作られればと思います。これらは、親の相談場所であるとともに、子どもの逃げ場所にもなるわけです。
奇妙な話ですが、児童虐待を防ぐためには、児童虐待をしている親を憎んで排除するのではなく、親の虐待する心を承認し、許すことなのです。虐待防止のパラドクスということでしょうか。
このような親と子どもがコミュニティーの一員として受け入れられることが必要なのですが、現実の社会は、特に虐待予備軍というような家庭はどこのコミュニティーにも属さずに孤立しています。始めからコミュニティーを作るというより、町内会や子育て支援など行政がコミュニティーの種を作っていくことが求められると思います。被災地では被災した地元のお年寄りと地元の小学校の子どもたちの交流が行われています。これは、子どもたちを守ることにもつながりますし、孤立したお年寄りを元気づける等大きな効果が生まれています。
長期的には、子どもが安心できる人間関係を幾重にも構築していくことだと思います。安心できる人間関係は人の心を癒します。助け合う人間関係を積極的に構築していくことが根本的な問題でしょう。

子どもが一緒に住まない親と、頻繁に会えることが当たり前の世の中にしよう

 江戸時代は、実の親のほかに名付け親,拾い親、抱き上げ親等、何人もの親がいました。関係が密な人間関係が形成されている時代でさえ、子どもたちはたくさんの逃げ道がありました。余計なお世話をしあう制度的保証があったといえると思います。「俺の子どものことに口を出さないでくれ。」、「馬鹿言ってんじゃないよ、俺が名付け親だろう。俺の子どもをぞんざいに扱うな。」というやり取りがあったと思うと楽しくなります。子どもは皆で育てるものという意識が感じられます。これが多くの人たちの共通認識でした。
 現代の子育ては孤立しています。簡単にコミュニティーは構築しにくいでしょう。大体、話を聞くにしても場所がありません。なかなか自宅を晒すことは抵抗が多くてできないということが多いのではないでしょうか。
 その中でも注目するべきは、深刻な児童虐待が、実の親ではなく、母親の新しい夫、内縁の夫、交際相手が関与して行われることがみられるということです。この場合は、実の父親がどこかにいるということになります。この実の父親は、強力な子どもの味方になるでしょう。
 ところが、現在の日本では、離婚をしてしまうと、子どもはどちらかの親だけと生活し、一緒に暮らしていない親と面会すらできないことが多いです。離婚前の別居の段階でも同様です。これには歴史的背景があります。戦前の家制度の下では、子どもは家のものだという意識がありました。そのため、家を出ていくほうは子どもを置いて出ていかなければなりませんでした。子どもに里心、母親を恋する心が強くなり、家を出て行かれては困るので、離婚が親と子の未来永劫の別れにされてしまっていました。戦後しばらく、高度成長期ころまではこのような感覚が多かったようです。その後、女性の収入が向上したり、女性の人権が確立していくとともに、母親が子どもを引き取って離婚をするケースが増えて、大勢になっていきました。しかし、離婚は子どもとの未来永劫の別れという意識、あきらめも一方にあり、子どもをあきらめるという風潮が残ったように思います。子どもが両親から愛情を受けて育つほうが健全に成長する、離婚のマイナス影響が緩和されるということは、世界中の調査によって確立していることですが、日本においてはあまり重視されませんでした。封建制度の下では子どもは家の付属物で、高度成長期以降は母親の付属物のように扱われていたと厳しく見るべきです。
 なぜこのように厳しく見る必要があるかというと、日本を除く先進国は、離婚後も子どもを父母双方が養育する、父母双方に親権(親責任)があるという共同親権の制度をとっています。子どもの利益を親から切り離して考えるべきだということがお隣の韓国も含めて先進国の共通の考え方なのです。ところが、日本では、ようやく離婚後、離婚前の別居時の面会交流という考え方が進み始めたという段階にとどまっているからです。だから、子どもの独自の権利を承認するということが日本においては急務の課題です。このひとりの人間として尊重しない最悪の結果が虐待なのです。
 とりあえず、現制度では、面会交流の拡充です。面会交流が頻繁に行われると、虐待をすればすぐにわかってしまいます。だから、虐待に対する抑止効果になるでしょう。しょっちゅう別れた相手と子どもが面会するということが煩わしいという気持ちもあるかもしれません。でも仕方がありません。子どもは双方の親から愛される権利がある独立した人格だからです。子どもを連れての離婚はそういうものだということを社会的に常識にする必要があります。また、実際に虐待があって様子がおかしかったら、実の親なら毅然とした対応をするでしょう。会えないから帰るということはせずに、納得できるまで面会を要求するでしょう。子どもにとって力強い味方になります。すべての親が虐待をするわけではありません。しかし、子どもが実の親に会うことのデメリットは、同居親のわずらわしさしかありません。逆にメリットとしては、逃げ道があるという安心感があるだけでなく、離婚に伴って子どもが自分の価値を低く考えてしまう負の影響を緩和することができるということが科学的に証明されています。何事もなくても面会することで、子どもにとっては利益なのです。子どもを一人の人格を持つ主体だと考えるのであれば、このような子どもの利益を積極的に推進するべきであり、妨害することは虐待だと考える風潮が作られることが必要です。
 なぜ、このように大切な面会が十分行われないのでしょう。最近は裁判所も強く面会を勧めるようになりつつあります。実際、裁判所から言われれば、同居親も子どもが喜ぶ面会交流なら応じなければいけないだろうという認識を持つものです。
 面会交流が進まないのは、同居親の、子どもを離婚した相手に会わせたくないという感情を子どもの利益以上に尊重してしまう風潮が、法曹界や社会に根強いということなのです。モノを言えない子ども、同居親に遠慮をする子どもの声なき声を取り上げようとせず、同居親の感情をいさめないどころか先取りして代弁する人たちもいます。これでは、同居親は会わせようとする気持ちを起こすことができません。
 そうはいっても、会わせたくないという感情まで否定することは現実的ではありません。自分も相手に会いたくないということは実際に強くあります。だから必要なことは、同居親の精神的負担をできるだけ軽減した面会方法を工夫することです。例えば、面会交流の施設を自治体が提供するということは、精神的負担をだいぶ軽減します。その中で、双方の不安を解消する提案をするスタッフがいればなおよいと思います。現在でもこのような団体があるにはあるのですが、費用も高額になっています。自治体こそが、安価な施設を作って同居親の背中を押すべきだと私は思います。現在の少子化の時代、子どもたちが健全に育つためのそれほど多くもない費用の支出に躊躇することはばかげています。
 
 虐待の問題は、このように社会全体で解決する問題です。人の心の問題です。これを罰則を強化して解決しようとか、逆に親権の停止や児童相談所の権限の拡充で解決しようとすることは、まったく虐待の実態を見ない安直な考え方だと思います。孤立して、十分な知識のない家庭を援助するのではなく、刑罰や親権停止の威嚇によって、結果として虐待だけをなくすという政策が根本問題を解決しないどころか、何ら子どもたちの幸せに結びつかないことはご理解いただけると思います。



私は無宗教ですが、新約聖書のヨハネによる福音書第8章では、イエスのもとに罪を犯した女性が連れてこられます。モーゼの律法によって、みんなで石を投げて殺さなければならないといって、イエスの考えを聞きに来たのでした。イエスは即答せず、もどかしい時間が流れました。ようやく語ったことは、自分を省みて罪がないと思う人間だけが石を投げればよいと言ったそうです。年齢の高い者から、一人また一人と帰って行ったそうです。そして、イエスと罪を犯した女性だけが残りました。イエスは、自分はだれも裁かないと言い、女性に対してこれからは過ちをしないように述べたというのです。
私の人生に影響を与えた一節です。

もし神がいて、現代社会に天使を遣わされ、犠牲が生まれたとしたら、憎しみを募らせたり、人の裁きを重くしたりするという気持ちは、たとえそれが正義感から出たものだとしても間違いなのでしょう。自分たちを省みて、迫害されている愛を解き放ち、慈しみといたわりを強く大きくしていかなければ、犠牲が意味のないものになってしまうと私は思います。


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【提案】児相を責める前に私たちこそが考えを改めよう!目黒5歳女児事件のような虐待死を繰り返さないための共同養育という人間らしい方法 [家事]

何の抵抗することもできず、
何の責められる理由もなく、
5歳の女児が、絶望を抱きながら亡くなりました。
同居していた母親から助けられることの無い
絶対的孤立を感じていたことと思います。

こういう悲惨な出来事があった場合、
人間が犯しやすいエラーは
誰かを責めることです。

誰かを責めることでは
悲劇の繰り返しを絶つことはできません。

児童相談所を責めることは慎重にするべきです。
この種の事案で児童相談所を責めた結果、
本来引き離さなくてもよい親子が
引き離されるということが起きています。

目黒事件という起きてしまったことから目を離さず、
二度とこういう悲劇を起こさないようにしなければなりません。

私たちが変わることで悲劇が一つでも減るならば、
どんどん変わっていこうではありませんか。

今回は不幸にして5歳女性は亡くなりました。
しかし、これは氷山の一角と考えるべきです。
つまり、
亡くならないまでも
心身を虐待され、
安心して帰るべき家を持たない子どもたちがいるのです。

人間が助け合うものだとか、信じられるものだということを
知らないまま大人になっていく子どもたちがいるということなのです。
人間として生まれてきたはずなのに
人間として生まれてきた喜びに接することができない子どもたちがいるのです。

このような最も基本的な人権が今後も守られないなら
そんな社会は死滅していくだけでしょう。


児童虐待一般の問題を考えても仕方がありません。
きちんと目をそらさずに実態をみなくてはいけません。

過酷な児童虐待は、
母親の新しい夫や交際相手の男が行い
実の母親が放置したり、共同加害をしておきます。

統計的にも父親の子殺しは極めて少数です。

危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道 http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11

母親が多いのは新生児を殺すことがあるからです。
母親の交際相手や新しい夫が虐待死、過酷になることが多いのです。

前夫の子殺しは猿の行動です。
今号の雑誌「正論」では、
埼玉大学名誉教授 長谷川三千子と動物行動学研究家 竹内久美子が
「セクハラ
 そんなのチンパンジーでは常識です
 他人の尻馬に乗る「#ME TOO」運動」
と題して対談をしています。

この表題からしても、チンパンジーもセクハラをするのだから
人間がしても仕方がない、批判するな
と受け止めかねない内容になっています。

しかしさらなる問題はその後です。
チンパンジーの雄は雌と繁殖行為をするために
相手のメスの前夫との子どもを殺すということを述べていました。
チンパンジーのセクハラが常識だから非難をやめろというのならば、
チンパンジーも子どもを殺すからなんだというのでしょう。
そらおそろしいことが、埼玉大学名誉教授らによって
語られているわけです。

なぜ人間は服を着ているか少し考えるべきです。
また、人間の雄の犬歯が大きくない理由についても考えるべきでしょう。

正論という名前の雑誌ですから
今回の事件を受けて
何らかの説明記事を次号で出すことだと思います。

それはともかく、
前夫との子どもを殺すのは猿並みです。
しかし、そういう猿並みの男が現代日本に一定数いるのだということになるでしょう。

我が子に対する過酷な虐待を放置している母親の事情があるのかもしれませんが、
その事情について大変興味があります。
詳細な説明を引き出して国民に還元し、
悲劇の防止に役立てるべきだと思います。

いずれにしても、今回の事件が特異な二人によって起こされたというよりは、
今後も起きる要素があるのだということを
しっかり考えなければなりません。

現在この種の事件を繰り返さないために考えるべきこと
私たちが修正するべきことが一つあります。

それは、離婚をしたら、
一方の親だけが子どもと関わり
他方の親はお金だけを払うものだ
という単独養育の風潮があるということです。
もしかしたら、私もどこかでそういう風に考えているのかもしれません。

「だって、理由があって離婚するのだから
 相手とは二度と会いたくないのが当たり前じゃない。」
そういう風に、子どもを別居親に会わせることは
同居親にかわいそうなのではないかと思う傾向があるかもしれません。

確かに嫌でしょう。会わせたくないでしょう。
その気持ちまで否定しようとは思いません。

しかし、そのような素朴な感情が支持される風潮は、
母親が子どもを父親に会わせないことの疑問を
私たちから奪ってしまいます。

今回5歳の女性が死亡しました。
女性には父親がいたはずです。
父親という逃げ道があったはずなのです。
しかし、この様な会わせたくないことを支持する風潮は
子どもからせっかくあるはずの逃げ道を奪ってしまうのです。

もっとも、別居親と死別していた、遠方にいる等の事情もあるかもしれません。
しかし、その時は、父親の両親など新たな逃げ道が
子どものために用意されるべきだと思います。

子どもが別居親と面会することのメリットは数え切れません。

これまでアメイト等によって統計的に裏付けられてきたメリットとして
自尊心の低下の防止があげられていますが、
もっと現実的な効果があります。

今回の目黒事件のような虐待を防ぐことです。
平均体重より12kgも軽い身体状態をみたら、
子どもを奪い取ることができます。
自分の子どもですから、
会いに来たのに子どもに会わせられないまま帰る
やる気のない公務員に任せるよりも確実です。

また、そのような状態になる前の抑止力になります。
即ち、1カ月に一度でも子どもと別居親が会うということになれば、
虐待を疑わせるようなことはできなくなります。

別居親との面会がなかったことが
東京を密室にしてしまいました。

確かに同居親には抵抗があるでしょう。
しかし、やっぱり子どもを産んだ以上は仕方がないのです。

子どもを会わせないわけにはいかない

こういう風潮に私たちを変えていかなければなりません。
みんなが同居親の精神的苦痛を配慮して、
子どもとの面会を助けるような社会にしなければなりません。
同居親を励ますことが必要です。

行政は、離婚した相手と自分は会いたくないけれど
子どもには会わせてよいという同居親が
子どもに会わせやすくするような環境を整えることが急務です。

安価な使用が可能とならなければなりません。
それは行政こそがやるべきなのです。

(私のこのような主張が河北新報に掲載された後
 記者さんが宮城県と仙台市に見解をただしたそうですが、
 どちらも全く考えていないという回答だったそうです。)

現在は、同居親の自分ファーストの感情を支持し
別居親と子どもを引き離すことばかりが行われています。

子どもへの影響を考えることができず
感情的になっている方を支持するということは
感情のまま子殺しをする
直接的な因果関係しか認めない猿並みの思考だと
自分たちを厳しく戒める必要があると思います。

私たちは人間なのです。
親に会いたい子どもの援助をしなければなりません。
会いたいといえない子どもにこそ必要なことです。
それができるのは人間だけです。

ここでもう一つ児相を責める前に指摘しなければならないことがあります。

それは国会議員です。

一部の議員連盟は、
この種の事件の頻発を防止し、親子の絆を断絶させないということから
法案を作成しています。
私は修正されて換骨奪胎になった法案を全面的に指示することはできません。
しかし、何年も前から準備している法案を
一度も国会で議論しないということは、
きわめて怠慢で無責任な態度だと思います。

法案が通ればデメリットも多いのですが、
子どもを別居親に会わせるべきだという傾向を作ることができる
というメリットがあり、
その法律を執行する過程で
具体的な対策も立てられるかもしれません。

通らないにしても
国会で議論をすることは重要です。

今この問題は、日本会議の機関紙くらいでしか
系統的に取り上げられていません。
これが現実なのです。

幾重にも子どもの逃げ道を張り巡らせて、
目黒事件のような悲劇を断絶することが必要です。
そのための第1歩が
離婚後の共同養育ということになります。

あと何回罪のない子どもの
絶対的孤立、絶望の末の死の報道に
私たちは立ち会わなければならないのでしょうか。
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TVプログラム企画案 「夫婦の時間」 [家事]

1 テーマ

なかなか会話のない日本の家庭の中で
知らず知らずにお互いに対する不満が募ってしまうことがあります。
本当は言葉にして、お互いに修正をすればよいのですが、
自分自身が何に不満を抱いているかわからないということもあるようです。

また、夫婦ぐるみでの付き合いという形式が少なくなり、
先輩のアドバイスが受けにくいという事情があります。

そして、お互いを気遣いあいながら
それを素直に受け止められなくて
破綻してしまう夫婦が多くあります。
最初のボタンの掛け違いにさえ気が付くことができたら
そんなことにはならなかったのにと思うケースが多くあります。

子どもたちへの影響も気になるところです。

そんな問題意識から
些細なきっかけをクリアーに表に出し、
それぞれどういう気持ちなのか
テレビではこう言っていたけれど
実際のパートナーはどう思うか、

それは違うよ
これは大げさだね
というように
話し合われるきっかけになれば
よいのでしょうか。

2 番組形式

日常生活をドラマ仕立てで再現します。
その時感じていた妻の気持ち、
その時感じていた夫の気持ち
一つのことを他覚的に映像化します。

認知心理学か精神医療(行動療法)の観点や
弁護士の観点から、
解説が加わります。

どうしてそういってしまうのか、
どうしてそういう感情になるのか
分かりやすく解決します。

これを放置していた場合に起こることについても
解説が加えます。

但し、どちらが正しいか
どちらが間違っているかという議論はしません。
白黒は付けないということがみそです。

その後かあるいは解説の前か、あるいは前後か
ゲストに好きかってに発言してもらいます。
色々な見方があってよいので、
自分はこう思うということを言ってもよいですが、
他人の発言を否定することはなるべく避けます。

ファシリテーターがきちんと仕切ることが必要です。

こうやって、相手を否定しないで会話をする方法を
学習していくことにもなります。

第三者のアドバイスの危うさも
きちんと解説してもらうとよいと思います。

このセットを二本くらいで30分くらいかなと思っています。

3 メイン司会は、

  「どれが正解ということはないかも知れません。
   しかし、声に出すことで安心できる関係が作られていくのかもしれません」
等という決め台詞をいう。

4 具体的テーマのサンプル

  「私の夫は話を聞かない」

  仕事のことで困ったことがあることを一生懸命夫に話す妻
  かなり感情移入して聴いている夫、
  妻は言葉にすることがなかなか難しく一生懸命
  夫は自分の経験を思い出し、
  言葉にすることに苦労をしている妻の言葉を引き取って
  こういうことだろう、こういう時は
  とアドバイスを始めだす。

  妻はうなづきながらも
  なお自分で話をしようとするが
  夫は自分のアドバイスを否定されたような気持ちになり
  だんだん面倒くさくなってくる
  
  妻は話を続けようとするが
  夫は、今言ったとおりだよと言いだす。
  妻が切れる。
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家庭不和が起きやすい現代社会の中で男性が心がけるべきこと 子どもたちのために [家事]

暴力も暴言もないのに、
妻が子どもを連れて出ていくという事件が平成に入ってから増えはじめ、
特に平成20年過ぎから飛躍的に増えています。

親の争いに巻き込まれる子どもたちの
健全な成長にも深刻な影を落とす場合があります。

妻側の体調の変化、考え方の変化
例えば、出産に伴うホルモンバランスの変化
甲状腺機能や婦人科疾患、肝臓の治療、

夫側でいえば、過労によるイライラや無気力
といった、二人に責任を問えないような事情で
夫婦問題が生じることが多くなってきているようにも思われます。

俺は悪くない
あなたが悪いのよ
ということを事後的に言いあっても
もはや解決ができない事態に陥れば
自分たちや子どもたちが
生まれてきた喜びや充実感を
感じられなくなるような事態に陥ってしまいます。

男性側が特に気をつけるべきこと、
意識するべきことを暫定的にまとめます。

1 妻は、不安を感じ易いと思おう!

こんなことくらいで
ということに傷つく可能性があるということを意識しましょう。
体調の変化等で、本人も家族も気が付かないことの方が多いのですが、
実際に不安になりやすくなっていることがあります。

だいたいそう思っていれば間違いはないです。
不安になりやすい人が快適なご家庭であれば
不安でない人だって快適なはずですから。

そんなことないよ。
いつもやり返されていて
妻の方が怖いくらいだ。

ということを言いがちですが、
妻の怒りの根源は
不安を解消しようとしているのかもしれません。

あなたが中学生くらいの時
親から勉強しなさいと言われたとき
「今しようと思っていたのに」
と切れたことはないでしょうか。
大体そんな感じで、
言われるのが嫌だから
怒りを含んだ対応をするということを
頭の中に入れておいてください。

2 言葉遣いの荒いのはダメ

これは、結構共通のことです。
男同士だと、ふざけて
お前なあとか、手命で勝手にしろ
等と言いますが、
女性に対してこのような言葉はNGです。

その時の雰囲気や流れを記憶しないで、
言葉だけが記憶に残り、
恐怖感情を抱くようです。

本人に対してそういう乱暴な言葉をぶつけるだけでなく、
例えば運転中トロトロ走って危ない運転手に
毒づくことも、恐怖の感情を起こさせるようです。
不安を感じている心が敏感な時には
ましましで恐怖になるようです。

3 相手へのダメ出しは最低限に

どうでもいいことが結構多い
ということを意識しましょう。

ダメ出しはマイナスポイントです。
どうでもよいことでダメ出しをしてしまうと、
マイナスポイントが累積して
肝心な時に相手に通じなくなります。

結構、気丈な奥さんも
食事や子育て、その他もろもろ
そんなに自信を持っていやっているわけではありません。

どうしても何か言いたいときは
先ず、肯定するところを探し出して、
感謝なりしてから、
ついでの様に付け加える等の作業が必要のようです。

一番意見が対立するのは子どものことです。
とかく、どちらも夢をみがちです。
完璧な子育てという無理な目標をたてがちです。

意見が鋭く対立しますが、
子どものためと言う言い訳が心に用意されていますから、
なかなか譲歩することがない場面です。

しかし、完璧も絶対的な正しさもありません。
生身の子どもですから。
自分が正しいと思うことも
実際は相手の方が正しかった
ということはよくあります。

奥さんが10と言ってあなたが0と言いあうとき、
着地点の目標は5にしましょう。
これも絶対目標にしないで、
7くらいまで行けば良しとしましょう。

それが子どもにとって一番良いことのようです。

7が良いというわけでなく、
親同士の対立がおさまるということも含めてです。

4 顔をつぶすことをしてはいけない

子どもの前とか、親の前とか
そういう所での対応がポイントです。
とにかく、人前で奥さんを否定しない。

うっかりする時はうっかりしますから。
意識しておくことが必要です。

特に子どもの前で批判することはこらえましょう。
これは子どもの取り合いになり、
子どもにとてつもない不安を与えてしまいます。

逆に人前でたてることによって
ポイントを獲得するチャンスです。

5 なにごともほどほどに

まあ、色々書きましたが
完璧を目指してはなりません。

一回間違えたら、この次は間違えないようにしようとか
間違えちゃったから、ケーキとか買ってこようとか
間違いをフォローするという気持ちの方が大事かもしれません。

そのためには、相手の間違いを許すということ、
この次頑張ろうということ、今度は頑張ろうということ
こういう家庭が結局はうまくいくみたいです。

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終末弁護という仕事 死を目前としているのに途方もなく立派に家族のための身辺整理の依頼者の方々 [家事]


若くして、突然ガンを告げられ、余命宣告まで受ける
それまでの生活が断たれてしまうことになります。
子育てだったり、趣味だったり、
当たり前に続いていくことを前提に人は生きている
そんなことに気が付かされます。

自分ならとても冷静ではいられないでしょう。

それでも、自分の家族のために、
あるいは自分が残した仕事のために、
なんとか形を作りたい
遺された家族がより快適に生きるために
今できることをしたい
そう思われる方がいらっしゃいます。

大変頭が下がる考えです。

そうして、生前にできること、
生前のうちにしなければならないこと
死んだ後に処理するためのこと
等を誰かに託したいというお気持ちになるようです。

この場合、客観的に弁護士は便利な職業です。
大抵のことは本人に成り代わって行うことができます。
最終的には、遺言の作成まで行うことができます。

本人は病院から外出できませんので、
色々と工夫をして、
本人の代理人として活動するということです。

いざと言うときにはじめて弁護士を探すということは
なかなか難しいこともあると思いますが、
それまでいくつかの仕事を一緒にやって、
気心が知れていれば、
自分が伝えたいことを一生懸命に伝えなければならない
という何ともじれったい打ち合わせが少なく済みます。

こちらの気持ちを分かってもらえれば
ある程度は任せてしまっても
心配はいりません。
とにかく全部やってもらえるからです。

ただ、弁護士の方は、
とても緊張をする上に、最短の作業を心がけなければなりません。
命が少なくなっていることを自覚している方々は、
それでもお金をかけて他人に依頼する方々は
見え透いた慰めではなく、
実務をしてもらいたい
それもなるべく早く済ませてもらいたい
という想いがあります。

そこを積極的に理解していこうとしなければなりません。

死ぬ間際、思いを残して死にたくない
というその思いを大切にしなくてはなりません。

亡くなることを前提として活動をしなくてはなりません。
全財産の調査を行うことも必要があればしなくてはなりません。

かなり精神的にはきつい仕事です。

日に日に弱っていく徴候が確認できます。
打ち合わせも、長時間行うことはとてもできません。
ひたすら心を隠して、鉄仮面をつけて、
打ち合わせをするわけです。
せめて、病状に動揺しないように
それだけはそうしてあげようという気持ちです。

強度の信頼関係が必要です。
信頼感を与えなければならないということと
信頼されていなければやっていられないということ、

ただ、それも病状の進行によってどうなるか。
なるべく、感情的乱れに伴う
攻撃的言動もあると予想して
しっかり対応(受け流し)しようと心構えを作っています。

今まで培ったノウハウを総動員し、
各専門業種の方々も総動員して、
思いを遂げるために頑張っています。



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わが子に会えない親の会 例会報告 ついに沖縄から駆け付けてきた参加者が! [家事]


忘れないうちに次回は、5月5日 
次々回は、6月1日です。

最近報告を怠っていてすいません。
今回、日付が急きょ決まったこともあり
事前報告も怠りご迷惑をおかけいたしました。

ちょっといろいろ都合があって(これ自体は良いこと)
例会がとびとびになっていたのですが、
4月6日に例会がありました。
10人参加でした。いつもよりも広い部屋。

関東在住の方、沖縄在住の方もいらっしゃいました。
沖縄から仙台に、このためだけにいらっしゃるということは
参加者一同驚きました。
あと、青森とYouTube?で参加した方と。

みんな色々あるのです。
詳しくは言えませんが、
いろいろの問題、苦しみ、怒りを抱えながらも
このひと時は、とても和やかに笑顔で参加です。

ネガティブな発言もしたいと思いますが、
少なくとも一次会は、ひたすら優しい時間です。
相手の悪口もほとんど聞かれません。

弁護士や裁判所や法制度への批判も
ユーモアを交えてのものなので、
かえって盛り上がるというか。

言わなくても分かりあっている
ということが大きな要因なのかもしれません。

それにしても、関東や沖縄!から駆け付ける
ということですから、
何かしらニーズにあっているのでしょうね。

幹事さん大奮闘です。

お子さんのもう一人の親御さんも参加してもらいたいなと思います。

こんな優しい人たちが、
どうして子どもに会えないのでしょう?
私は端的に理不尽だと思いますよ。
何かが間違っていると思います。

ところで、
次回ないし、次々回参加の方ご希望の方で、
初めてだという方は、
私の事務所022-212-3773で、
事務員ではなく私までご連絡をお願いいたします。
時間は6時くらいからダラダラ始めていますが、
場所は予約することとなりますので、
お問い合わせください。

二回目以降は、幹事さんから連絡が行きます。



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いわゆる連れ去り離婚請求訴訟で、妻の請求が有責配偶者であり、信義に反して認められないと棄却された判決の分析 [家事]

本件は私が担当した裁判ではありません。ご本人が、同じ苦しみをしている人の役に立つとよいということで報告を望まれたため、判例分析という形でご報告する次第です。


事案:今から数年前、小学生の子どもと2歳の子どもがいる30代の妻が、子ども連れて別居し、数か月後に離婚調停を申し立て、1回で不調にして、別居から半年後に離婚訴訟を提起した事例。妻の主張する離婚の原因は、夫のモラハラである。夫の主張は、別居直前婚姻生活は破綻しておらず、別居は不貞が目的であり、子どもの先天性の障害について妻が障害の事実を認めず治療を行うべきだという夫と感情的に対立したことも別居の理由だとしている。

事案の特徴:離婚の意思が固く、別居という事実が数年間続いてしまいました。有責配偶者からの離婚請求を認める現在の裁判例に照らすと、請求が棄却されたのは、極めて珍しい判決です。もしかすると、事案の特殊性、あるいは裁判官の個性があるかもしれませんが、針の穴を通す裁判に挑む人たちにとって、何らかのヒントが得られるかもしれないので、できるだけ教訓を抽出するべく分析を試みます。

先ず、判決は、夫の過去の粗暴さについては肯定しています。しかし、別居直前テーマパークへ家族旅行などをしていることをはじめとして、協力し合って生活していたことを重視します。
夫は、比較的写真を残しており、家族写真を証拠として提出しています。楽しそうな家族の姿は説得力があります。テーマパークでなければならないということはありませんが、写真を残しておくということは有効だったと思います。ところが、家族がいなくなってしまうと、ご自分も楽しかった時のことを具体的に思い出すことができなくなることが多いです。否定的なことは詳細に出てくるのに、何度も聞かないと楽しいイベントの記憶が語られないということはよくあります。


別居のきっかけとなった口論があったこと、夫の口調が追及的だったことの認定はあったのですが、子どもの必須の治療を受けさせない、障害を隠していた妻に対する追求なので、「執拗に問い質した」としても「非があるとは言えない」という判断でした。

肝心の不貞の事実ですが、妻は否定しています。しかし、妻の友人が妻自身から不貞の内容を事細かに聞いたという証言が飛び出し、一気に裁判は急展開していきました。その証人に対して、妻が脅迫をして、証人が怒り、裁判で証言するという経緯があったようです。不貞の事実は、実はなかなか証明が難しいです。また、開始時期やその程度などについても難しく、苦労します。別居直前に不貞が始まったことが証言されたことは大きかったと思います。

さらに、子どもたちの習い事などについても、子どもたちの名前を不貞相手の名字に変える等したことが、裁判官にとって目に余る事情だったようです。その不貞が始まるまでは、家族は協力し合って生活してきたので、別居までに破たんはなかったし、破綻があったとしても不貞が原因であり、有責配偶者だから、離婚を認めることは信義に反するという結論になりました。


この裁判官はベテランの女性です。どちらかというと、多くの裁判官の様に妻側に有利な判決を書くような印象を持つと何人かの女性弁護士は言っていました。判決前に、ある程度心証を開示して和解を打診したようでしたが、うまくいかなかったようです。

不貞の事実、特に開始時期と内容が明らかになったため、離婚を認めることがあまりにも抵抗があったということなのだと思います。
この証言で、妻の裁判所についた嘘がことごとく、芋づる式に露見したということも多く、妻の主張を認める要素が無くなったということなのだと思います。これが無ければ、家族が協力している証拠があっても、裁判官には色あせて見えたでしょう。生き生きと鮮やかに写真の笑顔が飛び込んできたということなのだと思います。

逆に言うと、これまでの苦い経験からすると、このような劇的な証人が無いとなかなか勝てないということなのだと思います。裁判は真実に基づいて判断されるのではなく、裁判所に提出できた資料に基づいて判断されるということは、見通しを考えるにあたって留意される必要のあることであることが明らかになったと考えるべきでしょう。

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妻が時折感情を爆発させて収拾がつかなくなり悩んでいる方へ [家事]

いつもではないけれど、時折、
妻が感情の収拾がつかなくなってしまい

例えば、抑制がきかない叫び声や怒号をあげて、
貴方や子ども罵倒するとか

メールで、さっきまで会社帰りの買い物の打ち合わせなんかをしていたのに
突如、「死ね」とか書きこんできたリ
身に覚えのない浮気を非難し始めるとか

刃物を持ちだして、自分やあなたや子どもに向ける
という悩みを聞く機会が増えています。

そのくせ、翌日になると
昨夜のことを覚えていないようにケロッとして
日常が始まったりします。

爆発しているときは修羅場で、
子どもにも影響が生じる心配もあるし、
とにかくののしられるので苦痛です。
どうして突然変貌するのかわかりません。
きっかけさえもつかめないのです。

また、突然家を飛び出したりしそうなこともあるので
抑えなければならず、
抑えても暴れ続けて殴られたりするので
どうしてよいのかわからなくなります。

貴方は心身とも消耗しきってしまい
こんな生活から何とか抜け出したいと思うでしょう。

思い余って行政に相談に行っても
貴方が男性の場合、相手にされないことも多いようです。

包丁を持ちだして怖い思いをしてどうすることもできず、
警察を呼んだところ、
何故か警察は妻を保護して、
子どもと一緒に行方不明になる
というケースさえ実在します。

どのくらい件数があるのかわかりませんが、
程度の差はあるものの、
このように妻がきっかけがわからないうちに爆発している
というケースは確かにあるようです。

妻の爆発の原因は、いろいろあるようですが、
今回は深く立ち入りません。

どうやら共通の要素として見えてきたのは、
妻の「不安」であることは間違いないようです。
不安とは危機感を感じている段階のことを言っています。

人間は、おそらく他の動物も
不安を感じると、それを解消しようとします。
生きることそのものですね。

解消の仕方は、
不安を与える事情に対して攻撃をする方法と
この時の心もちを怒りといいます。

不安を与える事情から逃げようとする方法があります。
この時の心もちが恐怖です。

ところが、爆発する奥さんの不安というもの
その危機感というものは
取り立てて合理的な理由がなくても
自然とわいてくるものらしいです。

具体的な言葉にすると
・自分が尊重されていない
・自分だけが損をしている
・自分が家族の奴隷のように感じる
・自分が自分の人生を生きているという実感がない
等の言葉が出てきていますが、
漠然とした不安、子どもを抱えて生きていくことの不安
というようなものみたいです。

一つの可能性としては
出産に伴うホルモンバランスの変化が考えられそうです。

多くは、第2子ないし、最終子出産後にこのような感情が生まれてきて
2年以内に爆発したり、
子どもを連れて別居するということがあり、
私のところに夫からの相談が入るという具合です。

夫側の母親に、多少のヒステリーの傾向があった場合は
それなりに免疫があるので、
何とか我慢して、時が過ぎることを待つのですが、
そうでない場合は、とにかく驚きます。
何かにとりつかれたのではないかと感じる場合もあるようです。

人格が豹変するという感じなのです。

修羅場に耐えられなく、精神疾患を発症したり、
要求に応じて金銭を渡しているうちに
会社のお金に手を付けたり、借金が膨大になったり
ということで発覚することもあります。

さて、その妻の不安なのですが、
不安の強さや、程度は、個性によってだいぶ違うようです。

考えすぎだという自己暗示をかけて
事なきを得ている方々もいます。
適切な協力者を得て
解決する場合もあります。

しかし、頑固な不安が強烈にある場合、
なんとか不安を解消しようとするのですが、
適切な方法が見当たりません。

こういう場合、過敏になっているから
些細なことが自分を攻撃しているように感じられます。
そうして、自分より弱いと思う相手、勝てると思う相手の
些細な言動に対して、
元々あったとその反応をひっくるめて
怒りとしてあらわしてしまうようです。

漠然とした不安80
些細なことによる不安5でも
怒りとしてぶつけるのは85になるわけです。

子どもに対してぶつけやすいことは
こういうことなのです。
また、子どもに過酷に怒りを表すのもこういうことのようです。

最悪のケースは、逆に
夫に怒りをぶつけられない場合です。
怒りをぶちまけようとすると
暴力で阻止されたり、
言葉で言い負かされたりして
かえって不安が募っていきます。

子どもに対して自分がヒステリックになったくせに、
夫の子どもに対する虐待を理由に
別居の上、保護命令を申し立て、離婚調停を申し立てる
というフルコースになるケースがあります。

夫が怒りを受け止める犠牲になることは、
子どもから見ればまだましなのかもしれません。

逆説的な言い方をすれば、
ヒステリーの標的になる夫は、
妻から信頼され、愛されているのです。

このような妻側の代理人になると、
「でも私は夫を愛しています」
とぬけぬけという人がほとんどです。
夫の不満をぶちまけている直後に言うので、
許されるのなら、両方のほっぺたをつかんで、
「どの口で言うんだ」と問いただしたくなります。

どうすればよいのか?

先ず、不安を否定しないこと
気の迷いとかそういうことを言っても何も良いことはありません。
可能な限り、心配なんだねと肯定してあげることです。

こうすればよいよというアドバイスは
あまり成功例は聞きません。
とりあえず、心配を肯定すること。
不安になっていること自体は間違いありませんから。


妻の不安を解消する方法がひとつあります。
興奮状態が収まった後、
こちらも何事もなかったようにふるまうということです。

妻は、何か変なことをしただろうということは覚えています。
大変気づまりな状態にあります。

妻自身が、自分を止められないことに
恥ずかしさや苦しさがあることが多いです。
でもそれを夫にだけは見せようとはしませんが。

そういう時、なかったことにされる、
「そういうこともあるよね」という切り替えが
安心させるようです。

あとあとしつこく責めることが最悪です。
そういうことはするなということ
後々言われることは
大変気づまりです。

妻からしてみれば
失敗してもフォローしてくれる
ということが、自分が尊重されているということを
実感できる事情ということになります。

特効薬は、怒りの的になることを甘んじるということのような気がします。


ということで、的になる夫の心構えです。

1 いざとなれば離婚という選択肢もある。
  やっぱりこういう気持ちの逃げ道は必要です。
  実家でも何でもよいのですが、
  逃げ道を一つ確保しておきましょう。
  協力者を作るのではないです。
  あくまでも心の逃げ道です。
  これがなければ沈没してしまいます。

2 あなたに怒っているうちは
  向こうの気持ちはつながっている。
  これは信じてもらうしかありませんね。

3 嵐はやがて過ぎ去る
  対応がうまくいけば、その日の夜に静まります。
  翌朝まで持続していないので、
  こちらがおはようと言えば解決することが多いです。

  気まずい気持ちでいる妻に
  近寄りがたい態度を示して舞うと
  新たな不安に基づく怒りを招いてしまいます。

  また、諸先輩の話を希望的に聞けば、
  やがて自然に収まっていくようです。
  奥さんに対するフォローが積み重なれば
  それは、あなたが安心の記憶となります。

4 緊急避難は近場で
  よく言われるヒステリーが始まったら
  夫は斜め下を向いて、やや口を開け
  悲しそうな、呆然としているような
  そういう無言の抵抗というマニュアルもあるのですが、

  別室に避難する
  顔を見せないということも有効なのだそうです。

5 妻は役割を果たしたからこうなったのかも
  出産はホルモンバランスの変化がものすごいのです
  妊娠までは、女性ホルモンが大量に出ます。
  しかし、出産後は女性ホルモンがなくならないと
  母乳が出ないそうです。
  母乳を出すホルモンが出ているときは
  攻撃的になるらしいです。
  子連れの母熊みたいなものです。

  もしかしたら、
  妻自身が悩んでいる爆発も
  子どもを産んだことがその原因かもしれないのです。

  子どもを自分の命に代えても守るというお父さん。
  妻の怒りの標的になることが
  いくつかの意味で、その時なのです。

6 家族の中に正義や条理は持ち込まない
  理不尽であろうとなんであろうと
  家族を守るということはそういうことなのです。
  奥さんだって、
  爆発しないで円満に生活したいのです。

  どうしてこうなってしまうのか
  そこを悩んでいるのです。

7 子どもに母親の悪口は言わない。
  そういうこともあるんだという説明をするしかないでしょう。
  あなたが子どもに謝ることで、子どもが安心するなら
  何度でも謝りましょう。
  信頼関係が生まれるという副産物もあります。

8 辛いかもしれませんが
  ぜひ修復を第1に考えてほしいものです。

  離婚調停などに備えて
  警察に事情聴衆に備えて

  実際、包丁を振り回したり
  誰かがけがしたりしそうになれば真剣に考えるべきかもしれませんが
  そのためには、動画撮影や録音、日記などをする必要があるのですが
  相手にそれを知られると決定的に不安が固定してしまいます。
  また、それをあなたが見る機会があれば
  修復は不可能になります。

  さらに、そういう証拠があっても
  警察や裁判所があなたの味方になる
  という楽観的な見通しが
  必ずしも立つわけではないからです。



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言葉の魔力、「DV」という言葉が思考を停止させる理由を考える [家事]


このようなブログを書いているからか、
月に一度か二度は、
妻が子どもを連れて別居して帰ってこない
という相談の電話が来ます。

とてつもなく大きな衝撃を受けていて、
本当はとても心配なので、
忙しくてもつい、時間が許す限り
話を聞いてしまいます。

多くは、
「自分は暴力をふるったことは一度もない」
ということですし、
中には、
「妻に対して暴言を吐いたこともない」
という人もいます。

それなのに、警察や弁護士から連絡があり、
自分がDV加害者だとされているというのです。

あるとても誠実な方がいて、
やはり妻子には、暴力も暴言もないと言い切って、
「もしかしたら他の人に対して感情的になり、
感情的な言葉を吐いたことがあるが、
それはDVとなるのか」
と尋ねられました。

私は、DVかどうかということは
行政や裁判という他人が気にすることであって、
夫婦という二人の関係では、
相手が嫌な思いをしたか
相手が怖い思いをしたか
そういうことがあれば
自分の行動を修正することが大切なのではないか
というお話をしました。

大変素直にご理解されました。
本当に家族を愛していて
何とかやり直したいというお気持ちを感じました。

DVかDVではないのか
そんなことばかりが注目されてしまう世の中に
なっているようです。


特に外野は、DVという言葉に過剰に反応しますし、
画一的に反応します。

一口にDVといっても、
本当に洗脳をしているかのような
暴力や脅迫が日常的に行われているものから

単に感情的なやり取りのことを指す場合もあり、
先ほど述べた相談者の例の様に、
例えば自動車を運転していて
急に割り込み運転されたときに毒づくことさえも
DVだと言われることもあります。

廃人同様になりかけているものから
快適ではないという程度のものまで
すべてが「DV」の一言で扱われているようです。

極めて曖昧な概念で使われています。
日本独特の言葉の使われ方のようです。

なぜ独特かというと
DVの行為を限定していないからです。
もっと厳密にいうと
DV加害とは何かということです。

この点例えば、
ランディ・バンクロフト(Lundy Bancroft)
ジェイ・G?シルバーマン(Jay・G・Silverman)の共著の
「DVにさらされる子どもたち
―加害者としての親が家族機能に及ぼす影響」(金剛出版)
「配偶者加害」という言葉で研究対象を表しているのですが、
著者は、16頁で、
「DV加害者とは、
パートナーとの間に威圧的な支配のパターンを形づくり、
時おり身体的暴力による威嚇、性的暴行、
あるいは身体的暴力につながる確実性が高い脅迫のうちの
ひとつ以上の行為を行う者のことである。」
と明確に定義を述べているのです。

17頁でも、
「威嚇的ではない、威圧のパターンを伴わない暴力は、
ここでは考慮しない。」とも述べています。

行政や裁判所という法律が他人の家庭に介入するのですから、
このような限定は必要ですし、
夫婦間暴力の本質を良く表していると思います。

さて、このような広範囲の行為を指すDVという言葉ですが、
これを聞いた第三者は思考を停止させます。

「DV」という言葉が出たとたん、
その夫婦について、加害者と被害者という
入れ替え不可のキャラクターが設定されます。

無条件で「被害者」を擁護し、
「被害者」の行動はすべて許され、
「加害者」に対する憎悪をあおりだします。

「被害者」の精神的不安定さも
人間関係のまずさも
貧困や時に「被害者」の不道徳な行為までも
その原因を「加害者」に求めるようになります。

「なんであなたがそこまで」というような憎悪を
「加害者」に対して無遠慮にぶつけてくるのです。

そしてそれをDV支援だと言ってはばかりません。

「被害者」に対する哀れみがあり、
自分では自分の運命を切り開けない
「要保護者」という意識が見え隠れしている場合も
少なくありません。

ある、小学校入学前後のお子さんがいるケースでは、
医師と教師が
父親に子どもを会わせることには絶対反対だ
という意見を出した例があります。

父親に会わせると子どもが精神的に不安定になる
というのです。
既に世界的にエビデンスが無いとして葬られている
エレナ・ウォーカーのDV神話を
教条的に引用した意見でした。

驚いていただきたいことは、
この医師も教師も
父親とは一切会っていないのです。
すべて、母親の言っていることを鵜呑みにして
子どもを実の父親から遠ざけようとしていたのでした。

妻は、裁判所では、
夫の暴力については一切主張しておらず、
精神的暴力についても具体的なことは
主張できていませんでした。

それにもかかわらず、
子どもを父親と会わせなくしようとしていたのです。

ちなみにこのケースでは、
この医師と教師の意見は無視されました。
感動的な面会交流が実現しました。

どうして医師や教師は、
一度も面会もしたことの無い父親に対して
これほどまでに敵対的な感情を
むき出しにしたような意見を述べたのでしょう。

最初は私も、医師や教師を許せないと思い、
何らかの責任を取ってもらおう
ということを考えましたが、
この人たちだけがこのような態度をとるわけではなく、
警察や自治体も同じようなことなので
何とか分析をしなくてはならないと思い
今しているわけです。

(警察は、だいぶ事実を見るようになってきています)

妻が、あることないこと夫の悪口を吹き込んだ
ということもないわけではないでしょう。
しかし、それでは、調停や裁判の話との乖離が大きすぎます。

考えなくてはならないことは、
DVという言葉が出たとたんに、思考停止になる
ということではないかと思うのです。

事実に反応しているのではなく、
言葉に反応しているのです。

そして、本当は、「快適ではないレベル」のDVなのに
「洗脳支配されているレベル」のDVであるかのように
考えてしまうのです。

それは、DVという言葉の曖昧さから来ます。
それにもかかわらず、
例えばランディバンクラフトのような研究者が対象としている
配偶者加害の被害者の被害
PTSD等が発症している被害をイメージしてしまうのです。

そうして、ここにはいない極端な被害を受けている被害者に対して
頭の中で共鳴、共感し、
素朴な正義感を発揮して、「加害者」を攻撃するのです。

自分が被害を受けていると主張している人たちの中には
精神的に不安定な人たちがいます。
様々な精神的不安定を招く要因があります。
内科疾患、婦人科疾患、ホルモンバランスの変化
元々の精神疾患等要因があります。

しかし、自分が習ったDV講習では
妻の不安の原因は全て夫にあるとされていますから
その「正解」を疑わないで当てはめるわけです。

元々、人間というものが
完全ではなく、共同生活の中で修正していく
ということを理解していないのだろうと思います。

だから、リアルな人間像、
過ちも、思いやりも、その時々のコンディションに左右されるという
当たり前の人間像を持つことができないようです。

最後の審判よろしく、
正と悪の境界を引こうとしているのです。
どうして自分のことを振り返ってみないのでしょう。
それだけで、その考えのばかばかしさと貧しさが理解できるでしょう。

このような二者択一的思考に着目すると
判断者は何らかの精神的圧迫を受けていることがわかります。
おそらく、極端なDVのケースをイメージしているのでしょう。
アメリカのDV加害の研究では、
極めて深刻なケースが多数報告されています。
妻子の人生そのものを破壊するようなケースや
命の危険にさらし続けるケースが報告されています。

「DV」という言葉がそのようなおぞましいケースを
イメージづけてしまうようです。
そうして、目の前の女性ではなく、
そのようなケース報告の中の被害者の心情に共鳴して
危機感を感じているのでしょう。

その自分の勝手な危機感ですが、
何とか解消しようとするのが生物です。
人間も同様で、解消するための
恐怖か怒りを持とうとするわけです。

しかし、自分が攻撃されることは想定されにくいので
逃げる必要はなく、
目の前にいない相手に対して
怒りという感情で危機感を解消しようとする
これは大変わかりやすい心の動きです。

怒りも恐怖も思考を二者択一化させることには変わりありません。

だから、事実関係を精査することもなく、
DVという言葉だけで怒りを向けることができるわけです。

中には、イメージが強すぎて
「関わりたくない」という
恐怖のモードになる人もいます。

しかし、DV講習会では
いざとなれば、警察がバックにつく
被害者を保護しなければならない
ということだけは徹底していますから
怒りのモードになる確率は多くなるでしょう。

但し、「自分の名前は絶対に明かすな」
という注文はつくわけです。

さて、このようなヒューリスティックともいうべき
思考の短縮によって、何が起こるのでしょうか。

まず、「被害者」である妻は
自分の生きづらさの原因に「DV」があるという
言語化をしてしまいます。

実際に「洗脳支配型DV」の場合は
なかなか言葉だけでは自分の置かれている状態を理解できませんが、
そこまで行かないケースは
「自分は悪くない、悪いのは夫だ
自分の生きづらさは夫が原因だ」
という福音を与えられます。

そうして「逃げなければならない」という呪文を与えられますから
怒りと恐怖の入り混じった感情を
より強く夫に抱くようになるわけです。

これまでのすべての出来事が
恐怖と失望、屈辱に塗り替えられるでしょう。

これは離婚が完成しても終わらなく妻を苦しめ続けます。
中には男性恐怖症が固定化する人たちも実際にいます。
逃げ続けているからこそ、
逃げる時の感情である恐怖を抱き続けるわけです。

事実はどうだったのか
自分の行動は修正するべきことはなかったのか
本当はもっとうまくやれたのではないか
という思考には決して向かいません。

むしろ、子どもを連れて別居された方が
このような発展的な思考になって、
苦しみが軽減されることも多くあります。

しかし、DVがあったかなかったか
ということにこだわり続けると
なかなか心の平穏を取り戻すことが難しく
自死に至るケースも多くあります。

一番の被害者は子どもです。

自分のルーツである親が
DV加害者であると烙印を押されるのです。
男性のちょっとした言動に対して
極端な拒否的感情が湧いてくるということもあるようです。

小学校のころまでは無邪気に父親を否定するわけですが、
自我が芽生え、母親から精神的に独立するころになって、
自分が悪の父親と正の母親の子どもであるという
とけない呪いに苦しむことになります。

事実をリアルに見て、
リアルに評価するということができなくなります。
リアルに見れば、人の弱さをリアルに見れば、
「賛成はできないけれど
そういうこともあり得るかな」
ということを感じ、咀嚼することができるはずです。

言葉は心を軽くすることも多いのですが、
固定化し、二者択一的な思考を強制し、
リアルなものの見方を阻害することも多くあるというお話でした。



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