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【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために [弁護士会]

5歳の結愛さんが亡くなった事件は、新幹線殺人事件や米朝会談で、早くも下火になっているようです。まるで、この事件の報道は役割を終えたような印象さえあります。
しかし、この事件は、事件そのものよりも、その後のマスコミや私たちの反応の方にこそ、大きな問題があることを浮き彫りにしました。

<死亡後の時系列が報道されない。>

第1報直後、1社だけは報道したという記憶があるのですが、事件後の時系列の問題です。
結愛さんが亡くなったのが3月2日です。義父が結愛さんに2月にした暴行に対して傷害罪で逮捕されたのは翌日3月3日です。義父は既に傷害罪では起訴されていました。3か月以上を経て、6月6日に実母が保護責任者遺棄致死罪で逮捕され、義父も再逮捕されたと報道がありました。奇妙なことは、報道では、実母が何月何日に逮捕されたのかについて報じないことが多いということです。いつ、どこで、誰が、どのようにどうしたという基本の事実報道がないがしろにされています。これが第一の不思議です。

しかし、私たちは、5歳の子どもの死という結果が衝撃的だったことから、逮捕日時が報道されないことについてはあまり気にしません。私も、事件報道直後は、そんなことは興味も関心も持てませんでした。

事件報道は、警察とマスコミと事実上の協定があり、警察発表をほぼそのまま報道しなければならないようになっているそうです。独自に裏をとっても、警察発表に疑問を持たせる報道はできないことになっているようです。
今回の事件は、既に結愛さんが死亡直後に、父親が逮捕されているのですから、マスコミはその事実を知っていたはずです。しかし、どの社も独自の取材をして事実を報道することはありませんでした。
そうすると、義父の逮捕から3ヶ月何をしていたのかについて疑問に感じなければなりません。
なぜ母親は逮捕されなかったのか。言葉でいえば慎重に捜査を進めていたということなのですけれど、再逮捕まで3ヶ月も父親が勾留されたということについては疑問がないわけではありません。

<あまりにもタイミング良く公開された手紙画像の意味>

その後、続報というにドンピシャなタイミングで、例の手紙が画像で公表されます。これは、結愛さんの苦境をアッピールすることにうってつけであり、それだけ両親に対する憎悪があおられました。
しばらくは私も手紙を正視できなかったのですが、文章を読んでみると、子育てをした経験がある人ならだれでも疑問を感じることも読み取っていくわけです。この手紙について、もし結愛さんが文案を考えて、文字にしたとするならば、5歳という年齢に照らして考えると、相当学力の進んだお子さんということになるでしょう。字も大変しっかりしていますが、何よりも文章校正がしっかりしすぎています。本人が考えて書いたものではない可能性があります。おそらく実際は、親から言われたまま書いたのでしょう。それにしても立派な字を書かれています。
しかし我々は、報道の見出しだけを見て、結愛さんが何とか許してほしいと思ってその思いを文字にしたと思い込んでしまいます。こんな手紙を書かせた両親に対する増悪が嫌が負うにも大きくなりました。

警察はこの手紙を公表をしていますが、いつ、どういう機会に書かされたのかについては説明がなされていません。冷静に考えれば、少なくとも衰弱している状態での筆跡ではないと考えることが自然だと思います。ところが、「暴行」、「ネグレクト」、「衰弱」というキーワードが先行していますから、我々の頭の中では、結愛さんが衰弱しながら、それでも容赦のない虐待がなされ、最後の力を振り絞って必死に許しを請う5歳時の姿がイメージされてしまいます。おそらくこういう事実があったなんてことは誰も言っていないのでしょう。しかし、この手紙の画像を発表したほうは、我々がそう思うことを想定し、狙って行ったと考えるべきです。加害者に対する憎悪をあおっています。

また、本来であれば、このような画像を公表することについては、弁護士や法律関係者は批判をするべきです。画像だけ公開して、文書作成の経緯について公表しないことは、誤った事実認識を誘導することにもなります。しかし、この点をついたのは、私が見る限り、ルポライターの杉山春さんだけでした。

母親の逮捕と義父の再逮捕が、事件発覚から3ヶ月後ですから、警察の方は相当な準備ができたはずです。もっと早く母親を逮捕することもできたのではないでしょうか。証拠の散逸などを考えれば、もっと早く逮捕するべきだったかもしれません。

<衰弱死の原因と胸腺萎縮の関係で考えるべき二つのストーリー>

また、マスコミが報道しやすいように、その次のタイミングで、結愛さんの胸腺の萎縮ということを発表します。繰り返すことになりますが、警察は3カ月前から捜査をしているのです。順次証拠が発見されたわけではなく、証拠は大量に警察にあったのです。マスコミが一度に報道してしまうと、情報量が多すぎるので、報道しにくく、波状に情報を提出することによって、受け手の情報処理も容易になります。つまり、いっぺんに情報を出すより、逐次出していった方が、実母と義父に対する国民の増悪が強くなるという効果があるのです。

ここで、疑問がわいてもおかしくないと思うことがあります。結愛さんの死因です。最後は敗血症になることは、むしろ死亡の場合は少なくないので、敗血症という病名によっては、何があったかを判断する決め手にはなりません。

問題は、胸腺萎縮と衰弱の関係です。

マスコミ報道からは、食事を与えられないで衰弱した結果、衰弱死したようなイメージが与えられます。しかし、別の可能性もあるのです。虐待は前提としてあることは良いとしても、胸腺が異常に萎縮したことによって、免疫機能が低下し、何らかの感染症が発症し(敗血症は感染を基盤として発症する急性循環不全)、食事がとれなくなって衰弱死したのではないかということも考えられるのです。どちらにせよ虐待が原因だということならば、それほどの違いがないことになるのですが、イメージが違ってきます。胸腺萎縮が先行して状態が悪化したのならば、夫婦は結愛さんの状態が悪化しているけれど、どうしてよいかわからないし、自分たちが虐待したことが発覚してしまうだから、病院に行くなどの手当てをしないまま衰弱死に至ったということになります。この場合の衰弱は急激に進行するかもしれません。しかし、胸腺萎縮が原因で免疫不全になったのではないならば、つまり、死ぬまで虐待を繰り返し、どんどん衰弱しているにもかかわらず虐待をさらに続け、結果として死亡させた。その時胸腺が異常に委縮していたということになったという可能性もあります。これは極悪な対応と言われても仕方ありません。違いは、「体重が平均より12kg低かった理由が、食事を与えないという虐待行為が原因なのか、胸腺萎縮による栄養摂取の機能不全が原因なのか」にあります。ずいぶん様相が変わるようにも思えるのです。いずれにしても、加害者の供述と医学的知見とのセットで真実が判断されなければなりません。

 しかし、マスコミ報道からは、虐待の繰り返しにより食事を与えず、結果として死亡時の解剖で胸腺が委縮していたという方のストーリーを私たちのイメージに植え付ける結果となっています。

 なぜ、警察は3カ月も使って準備を行い、マスコミを通じて、憎悪をあおる工夫をしたのかということが疑問になります。一般の方々はそんな疑問を抱かなくてもよいのですが、弁護士ならば当然疑問視しなければならないはずです。ところがこの指摘をしているのは、私が知る範囲では、虐待のルポライター杉山春さんだけでした。
 ここで、警察に悪意や違法な意図があったということを言っているわけではないのです。ここは注意していただかないと話がややこしくなるばかりです。純粋な正義感に基づく憤りということも十分考えられるところです。それぞれが役割を果たさなければならないということが主題なのです。

ただ、この報道は、裁判に大きな影響を与えてしまうわけですから、そのような疑問をマスコミは当然持つはずなのですが、私からは何もマスコミの悩みが見えてきません。そして、法律家や福祉関係者(自称も含む)からも、そのような疑問が上がってこないように感じるのです。このこと自体は、人権の危機ということになります。

<児相非難の行き着く先は。マスコミの程度の問題>

マスコミは、国民の怒りをあおり、その怒りの矛先を実母と義父に向けることと同時に、児童相談所にも向けます。介入するか介入しないか、どのように介入するかということについては、色々な要素を考慮しなければなりません。介入することによってのデメリットもあるからです。そこには悩みがあるのです。しかし、マスコミは、香川と東京の児童相談所の介入によって救えたはずだという論調を強調します。
今冷静に考えるとすぐにわかると思うのですが、このようにあおられた怒りの矛先が児童相談所に向かうことは、児童相談所が当然配慮しなければならないデリケートな問題を配慮せずに、ひたすら強行に出る、警察と連携しながらでも強硬に行うという結論にしか至りません。問題の所在を全く無視した二者択一的思考が横行しているということは大きな恐怖です。
現在でも、理不尽な国や自治体の介入で、家族が壊されて、修復不能な状態になって泣いている人、自死をする人、健全な成長が阻害されている人たちがたくさんいます。これはこのような二者択一的な政策による犠牲者たちです。二者択一的思考によって、犠牲者を増やし、それは、今度は自分や自分の子どもが犠牲者になるかもしれないのです。
マスコミが、そのような自覚を持たないで報道しているとすれば、それは、大変危険な存在になっているといわざるを得ません。

<虐待の原因を考えないということ>

マスコミの論調で際立っていることは、虐待が起きる要因を考えていないことです。これが致命的なエラーだと感じます。
その上で憎悪をあおっていくのです。そうすると、処罰だ、権力の介入だということに行きつくことは理の必然でしょう。どのようにして虐待を減らすことができるかということを考えているつもりになっていると思いますが、実際には、起きている虐待をどう処罰するか、どう死なないようにするかということしか考えることができない枠組みがすでに作られていることに気が付きません。私たちの正義感が、怒りで誘導され、複雑な考え、一歩引いた考え、根本的な問題を考える力が奪われていることに気が付かないのです。
言うまでもありませんが、虐待死は氷山の一角です。死ななくても、安心できる家庭を経験しないで大人になってしまうことが許されていいわけではないのです。しかし、原因を考えないで怒りに任せて単純な思考をしてしまうと、強い者、国家権力や警察に解決をゆだねたくなるというエラーが起きます。最終的には大いに頼りにするべきなのですが、先ずは、虐待を起こさない、軽いうちに解消する方法こそ考えるべきです。これは前回の記事でくどくど述べましたので、繰り返しません。
今回は、エラーに焦点を絞りましょう。

それでも、意見に全面的に賛成するかどうかはともかく、原因論について考える意見が少しずつ表明されています。自民党の三原議員は、色々と父親とのつながりの薄い子どもたちの母親を孤立させないことの大切さを訴えていますし、国民党の玉木議員は児相依存の傾向はあるものの、児相を責める前に児相の職員を拡充しようと訴えています。最悪の事態からは、少しずつ上を向き始める動きも見えてきました。(6月23日追記;玉木氏は死は児相の増員は下ろさないものの、親権停止や養育費の義務化等ドンドン議論が表面化しているようです。むしろ自民党の三谷氏は面会交流に言及する外、フェイルセーフの観点から政策を自民党で議論していることを紹介されています。)先ずは歓迎しましょう。そして議論が起きることを期待します。

最悪の事態について、TBSのサンデーモーニングで引用されていた主張について、若干触れましょう。
紹介された方は、自称児童福祉の実践者だそうですが、エラーの塊のような主張をしています。
先ず、例の手紙が、子どもが虐待から逃れるために自分で考えて書いているという印象操作を利用して、先ず読み手の増悪をあおっています。何も冷静な考察もありません。
次に時系列をあげますが、死亡後の時系列はありません。目的が死亡を回避するための振り返りだからだろうと思います。
しかし、虐待の原因について、全く考察がありません。あくまでも死なないために児相はどうするべきだったかという観点からの考察になっています。
そうして、児童相談所の権限拡大、警察との情報共有、それだけにとどまらず、裁判所による親権停止の拡大まで言いだしています。それらの問題の所在であるデメリットについては一切言及がありません。まさに二者択一的思考の典型です。虐待についての原因考察がありませんので、虐待が起きてから死なないためにどうするかという発想となるしかないのです。徹底しているというべきでしょう。

われわれ、自死予防、いじめ予防、パワハラ予防にかかわる者は、対策を講じる場合、死ななければ良いという発想に陥りがちだということを自覚しています。しかし、死ななければ良いというマイナスからゼロを目指す方法によっては、有効な具体的対策が立てられないことも知っています。嫌なことを防ぐのではなく、良いことを増やす、ゼロの先のプラスを目指すということで、初めて効果ある対策が立てられるという基本姿勢を持っています。

彼が、どう言おうと、それは彼の意見なので、とやかく言うのではありません。問題は、このようなエラーだらけの意見を取り上げ、結局は警察や権力の意図を体現する意見を肯定的に紹介するマスコミの程度の問題、あるいは、それがマスコミ自身の意図だとすると、その危険性について訴えたいわけです。マスコミだけでなく、人権活動家を自称する人たちまでもが、無批判にこのような権力の意見を体現するような意見を拡散しています。責任を感じて猛省していただきたいということが本当の気持ちなのかもしれません。そして、せめて杉山春さんのルポルタージュでも読んで、少しは虐待の原因を考えていただきたいと思います。あなた方がまじめに考えなければ、誰が虐待を防ぐ提案をするのか厳しく考えていただきたいと思います。

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怒りの共感は広がりにくい。日本的政治言論の不可解な未熟さ。 [弁護士会]

八方美人の私が言うのも何なんですが、
というか、八方美人だからこそわかるということもあります。

私は、現内閣の法案には賛成したものや
立法過程に協力した法律もあるのですが、
法律家の立場から、
集団的自衛権の法制化には反対しました。
(周辺事態法で十分だというもの)

今回高度プロフェッショナル制度を含む
労働基準法改正にも反対しています。

高度プロフェッショナル制度の問題では、
国民の多数に対して、
自分たちにかかわるということについて
うまく伝わっていないという分析がなされて
ああ、そうなのかもしれないなという想いです。

ただ、昨今の政治の流れを見ていると、
例えば、公文書の問題の政治的責任について
結論ははっきりしているはずなのに
なかなか世論が動かないということが
客観的にはあると思います。

その要因の一つについて
無責任にもご指摘させていただきたいと思います。

結論として、
例えば現政権批判派の言動は、
怒りが強すぎて、
中間派の人たちに共感されないという以上に
中間派の人たちを現政権よりの行動に
駆り立てているということを感じました。

現政権側の言論についても同じです。

少し説明します。
フェイスブックで、よくわからないうちに
グループに入れられて、
豪雨のような記事のお知らせが来て辟易するのですが、
興味もあるし、有益な情報がある場合もあるにはあるので、
閲覧をすることがあります。

(入れられたグループに寄ると 私は、保守であり、
 リベラルであり、革新であるようです??)

特に現政権批判の批判は
「ひく」ものが多いです。
特定の人物写真をデジタル処理して
相手を辱めるものは一般の人は
特に面白くありません。

政治的主張をなぞらえるならまだ表現なのかもしれませんが、
単に人格を貶めるようなものは、いかがなものかと思います。

それからスレッドの主張はまだ良いとしても
コメントがひどすぎる。
死ねとか、言葉にすることもはばかられるような発言となっており
穏当な評価としても、中学生でももう少し気の利いたことを
発言するものも多いだろうと思われます。

そうして、グループ内でそれらの発言を咎める人がごく少数であり、
表現の仕方を批判すると逆に批判されたりします。

私から見ると
ああ、同じような感覚の人たちが
同じような感覚だということを確認しあっている
内部固めのための言論なのだなあと
感じるわけです。

大事なことは、
反対者(職業的な言論人ではなく素朴な現政権支持者)
を説得するどころか
中間層に対しても「うかつには近寄れない」
という雰囲気を充満させているところです。

「おかしいと思うべきだ」
「怒りを持つべきだ」
「反対しないものはおかしい。」
という主張であり、
これでは相手方を説得するという発想がそもそも存在しない
甘えの言論ではないかと思います。

反体制派が
多数になりえない根本的原因があるように思われます。
むしろ多数へのストッパーとしての機能を果たしていないか
純粋に検討するべきではないかと思います。

これに対して、現政権よりというか
もう少し極端な言論があり、
こちらも、なぜそんなにというくらい
怒りを持った主張をしているようです。

例えば、
パチンコの規制を言わないくせに
カジノ法案に反対することは一貫性が無い
というようなものもあります。

これなどは、特定の人に対する批判なのですが、
祖国をどうするかというまじめな議論ではありません。

日本においてこれ以上認可博打を増やすか減らすか
ということが論点なのですから、
誰がどういう背景でものを言っているか
ということについてはどうでもよいことだと思います。

結局、パチンコがあるのだからカジノがあってもよいじゃないか
という無責任な主張になるわけです。

但し、決定的な違いは、
これらの極端な議論は、
自陣に痛手にならないということです。
むしろ、議論自体が、不穏当なやりとりで
相手方の人間性を否定するものだという意識を振りまいて、
一般国民を議論から遠ざける効果があるからです。


議論が嫌なら当代の権力者が指示されるだけの話です。

機動戦から陣地戦に変わったといわれて
そろそろ100年が経過しようとしています。
しかし、日本の言論界は
相も変わらずに機動戦をしているようです。

なぜ、中間層を味方にできないか
まじめに考える必要があると思います。
半数近くの世論を獲得するのが頭打ち
という要因を真剣に検討する必要があると思います。

正しいことを言っているから指示されなければならない
ということは、夫婦喧嘩でよく聞く論理です。
俺が正しく、妻が間違っているのに
どうして妻は俺を恐れるようになったのだ
とかいつまんで言えばそういう事例が
他人事ではなくあふれています。

どうすれば自分が支持されるのか、
経済的利益ということもあるでしょう。
しかし、本当の決め手は
どちらが自分の仲間なのかということが
モチベーションになっていると思うのです。

ほとんど政治に関心がなければ
面白いテレビ番組の影響をただ受けるでしょう。
それすらなくても、
首相の顔と名前はわかるわけです。

野党の党首の顔はわかっても
名前まで正確には言えないという人も多いのです。

そうするとどちらが身近かと考えると
当然、現在の第1党の方が身近に感じることが自然なのです。

そして中間層は、どちらも敵だとは思いません。
どちらが仲間なのかということで投票をするわけです。

現政権に反対する勢力は初めからハンディキャップを持っているし
現政権は初めからアドバンテージを持っているのです。

この時、何も前提もなく怒りを表現し、
怒らない方がおかしい
という主張する者は、
明らかに自分の味方ではありません。
殺伐としている方には近づきたくありません。

人類は、人類の形をしたものに
つい、共鳴、共感をすることがあります。
悲しんでいる人や困っている人を助けてあげたいという気持ちになったり、
楽しんでいる人と一緒に楽しみたいという行動傾向は
2歳蔵になるとみられるようになります。

しかし、怒っている人
誰かを攻撃している人に対しては
それだけで一緒に怒ろうとすることはあまりありません。

よほど仲間意識の強い人の場合にだけ
怒りの理由を共鳴できる場合にだけ
怒りを共有すると考えるべきです。

逆に怒りを表明されてしまうと
関わり合いになりたくないという人が増えるようです。

怒りを表出したり宣伝するよりも
怒りを抑えて
怒りの理由、原因だけを
静かに表明、拡散するという手法が
指示を拡大するコツだと思います。

怒りは、二者択一的な行動(否定か肯定か)という思考になじみやすくなります。
複雑な思考を排斥するようになります。
一つ一つ積み重ねていく思考はできにくくなります。

党派的な行動をする人たちが、
意見が分かれても不思議がないところで、
類型的に、紛争当事者の一方を悪だと決めつけ
党派的に攻撃していることを目の当たりにすることがあります。

こういう人たちは、事情をよく吟味もせずに
怒りをもって悪と決めつけられた人を攻撃することができるようです。

あまり仲間にはなりたくありません。

冷静な第三者からみると
怒りのあるところには正しさはないという
印象が持たれやすくなります。

どんどんどんどん
内部固めだけをするようになり
内部も小さくなっていくことは自然の成り行きです。

怒りを表明したいだけなのか
国のために何かをしようとしているのか
吟味検討していただく時期になっているのではないでしょうか。

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裁判員裁判が厳罰化することには理由があるということ [弁護士会]


裁判員裁判が厳罰化するということは
弁護士の中では共通認識となっています。
それ以前の裁判官による裁判に比べて
一般の人たちが入る裁判員裁判は、
刑が重くなるだけでなく、
被告人の主張が排斥されることが多いというわけです。

学者の中には、
裁判官が裁判員を誘導しているのではないか
というご指摘もあるのですが、
直ぐ近くでやり取りをしている立場としては
裁判員の方々の率直かつ
共通の考えによって、
このような傾向となっているように思われます。

刑事裁判の厳罰化は、
裁判員裁判という制度にその理由があると考えるべきです。

裁判員裁判と裁判官による裁判の違いは
初めて刑事裁判にかかわった人たちが裁判をする
ということから来ています。

大きく言うと二つのことにあると思われます。

一つは、法的知識、法的理解、訓練があまりないこと
一つは、事件、特に損害を目の当たりにした経験があまりないこと
ということになります。

裁判員裁判を行う事件は重罪事件と決められています。
典型的な事件は殺人事件です。
殺人事件では、通常、
殺人の事実を示すために、死体の写真が証拠提出されます。
死因と思われる怪我の状態が写っているわけです。
色身を落としたり、写真を少なくしたり、
あまりショックを受けないような配慮はされますが、
死体は死体です。

人間は、生きている人間を見ることはあっても
なかなか死体を見るということはありません。
しかも、外傷のある死体の写真を見ることは
滅多にないことです。

言い知れない嫌な気持ちになります。

これは、対人関係学の立場からすると
無意識に死体に対して共鳴共感してしまうと考えます。

人間は、群れの構成員から学ぶという習性があります。
群れの誰かが喜んでいれば、それを理解し、
自分も利益にあずかるということですし、

群れの誰かが苦しんでいたり、悲しんでいたりすれば
それを理解してしまいます。
一つには、その人を助けようとする本能が発動することと
一つには、同じ苦しみを追わないようにする動機付けになる
ということです。

死体に共鳴、共感するということは、
既にどうしようもなくなった状態ということですから、
死の間際の壮絶な苦しみだったり
もはや助からないという絶望感に共鳴してしまうことになります。

自分ではそれを意識しているわけではなく、
ただ、体調的な嫌悪感から嘔吐やめまいを起こしたりすることがあります。

これは、人間の自然な反応だと言えるでしょう。

そうすると、このようなむごい事態について
何らかの決着をつけることを志向します。
これが許されることは断じて容認できません。
不安感、絶望感に近づけば近づくほど、
それを解決したいという無意識の心の動きが出てきます。

一つには、理解を拒否するパニック状態に陥る
一つには、無かったことにしたいという気持ち
一つには、誰かのせいにしたい
ということがごくごく自然な人間の反応です。

人が簡単に命を奪われるということを
なんとか否定したいというように
心が動いてしまうわけです。
その存在は、人間をたまらなく不安にします。
共鳴力、共感力を通じて
被害者の過去の死亡と自分の将来の危険が
結びついてしまうということです。

誰かのせいにしたいという心の動きに注目です。

これらの心の動きは、不安や危機意識に還元できること
不安や危機意識を解消したいという志向があること、
解消行動として闘争と逃亡があり、
危険を作るものに対して勝てるという意識があれば
闘争によって解消しようとする傾向があり、
闘争によって解消しようとしている心の状態が怒り
ということになります。

裁判員は、中には不安を持て余して
裁判を続けることが不可能な人も出てきます。
これは当然なことだと思います。

しかし多くは、自分が安全な立場にいるということを
相当程度理解しています。
不安解消行動は怒りになる傾向にあります。
また、加害者が一段低いところで
おとなしく座っていますから、
責任は目の前の人間だと思うことは
当然のことです。

勢い、被告人に怒りを覚え
被告人を厳しく処罰することで
不安を解消しようという傾向に
意識しなければなりやすいのです。

その結果、
その人を処罰する方向での考えが強くなり、
もともと正当防衛や緊急避難など
被告人に有利な制度が頭に入りにくくなる
ということになります。

むごい結果を起こした被告人を
「自分たち」とは別の存在なのだと意識することによって
被告人の苦しみやジレンマに対する共鳴、共感を
水から遮断した結果ということもあるでしょう。

被告人に有利な情状について
冷静に考えることはとても至難の業でしょう。

さて、これが裁判官であればどうでしょう。

裁判官は、一人で裁判をするまでは
原則10年のキャリアが必要になります。
それまでに死体の写真もある程度見るようになります。

はじめは誰でも裁判員と同じ反応となります。
しかし、徐々に、自分とは関係の無い出来事であることを
理解していきます。
悲惨な状況に馴れていくわけです。

嫌悪感や、絶望感、怒り
という心の原因となる不安感、危機意識は
感じにくくなるということが通常です。

そうすると、その結果である
嫌悪感、絶望感、怒りという感情的部分が後退し、
理性的な判断ができやすくなるという
環境が整備された形になるわけです。

昔は罪を犯した場合、
集団的に罰するということがあったようです。
一人の人に集団で石をぶつける姿が
聖書などに喪描かれています。

これは、一つは、神との誓いを破るという
とてつもない滞在を目の当たりにした
不安、危機意識があり
無抵抗の人間に対して
「勝てる」という意識から怒りの意識を持ちやすくなり、
順法精神がある自分とは、全く違う存在という
自分を安心させるメカニズムが発動するので、
意思が当たる人の苦しみや痛みに
共鳴共感するシステムを遮断して、
酷いことをやめるきっかけを失うからです。

しかし、後々自分の行動を思い返して、
人は後悔をするか、
他人を攻撃することに痛みを感じなくなるか
いずれにしても悪い結果となるので、
近代の裁判は
理性的にふるまえる立場の者が
訓練して理性的にふるまって行う
ということに改められたわけです。

日本の裁判員裁判制度は
そのような近代裁判の本質とは何かを
問うているのだと思います。

私は即刻制度を廃止するべきだと考えます。

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離婚事件弁護士が感じた議会制民主主義に対する勘違いと共謀罪成立過程 [弁護士会]

離婚事件を多く扱っていると、
自分のことを反省しながら考えることがあります。

最近の家庭では、
大人が、「わざと負けてあげる」
という美徳が無くなったように思うのです。

自分の小さい時を考えると、
父親がわざと相撲で負けてくれて、
「ようし、がんばるぞお」という
やる気が出たように思います。

今の大人たちは、
わが子に対してもムキになって
「負けまい」と本気になってかかっている
ということはないでしょうか。

どこから来るのかわからない自信、
なんとなかるんじゃないかという根拠のない楽観論は
人生の節々に必要だと思うのですが、
案外、そういう親子間の八百長相撲から
来ているということはないでしょうか。

夫婦においても同じです。

どうでもよいこと、つまり
家庭生活が快適に、楽しくなるような方向に
一切関係のない自分のこだわりを
相手に押し付けてしまう
ということが、
相互の理解を奪ってしまい、
無駄に家庭を暗く息苦しくしていることがあるようです。

「自分は」こうしたい、こういう風にするものだと思っていた。
「相手は」それをしない。
あたかも、それをしないことが人間として劣っているように
無駄な攻撃をしているようです。

こういうことがなぜ起きるのかというと、
第三者から見ればですが、
自分をそうやって守っている
という意識をビンビン感じてしまいます。

自分の発言を受け入れてもらえないことが
自分が否定されているという気持ちに直結して
自分を守ろうとして声が大きくなったり、
トーンが高くなったりしているように感じます。

例えば、カーテンの選び方ひとつをとっても、
例えば妻が選んだカーテンには、
良い面(デザイン、価格)もあれば悪い面(遮光)もあるのに、
悪いところだけ述べて否定する
という具合です。

「このカーテンどうお?」
「光を遮らないからだめ。」
という会社の決裁者みたいなことを言っていれば、
家庭というほかに逃げ場を作るべきではない空間においては
大変息苦しくなるに決まっているわけです。

「このカーテンどうお?」
「値段は手ごろだね。デザインはあなたに任せる。
 ただ、遮光性が弱いということが気になりはするね。」

という「問題の所在」を提起することによって、
「じゃあ、カーテンでなくて
 こちらの売り場に同じデザインのこれがあるからこっちにしようか?」
「ああ、いいねえ。」
となるわけです。

デザインという、なんともいえることを肯定されることは
二人の親近感を増大させるわけです。

効率を考えると
最初の妻の提案したカーテンを否定する
という結論だけ提示すればよいのでしょうが、
それは「家族」ではないと考えることはできないでしょうか。

まあ、そこは別の機会に。

こういう風に、結論を押し付け合うのではなく、
問題の所在を出し合って、
より良い方法を編み出していくということが
実生活ということなのだと思います。

離婚事件から学んだことです。

夫婦の中で無駄な対決姿勢が多いのは、
一つに、どうすれば、ケンカをしないで
相手の提案を修正することができるのかということを
学んでいないために知らない
ということが多いように思います。

もう一つ、防衛意識が高くなりすぎているということですが、
家庭内の防衛意識というよりも、
職場や学校などで、
「自分を守らなければ、自分は組織からはみ出してしまう」
という危機感での行動が、家庭でも続いているように感じます。

全面的に否定しないでよいところを評価してから
否定的部分を提示するという
「部分的承認の技法」とか
相手に修正を提案する時
価値的な表現を使わない
良い、悪い、正しい、間違っている
等という「価値を込めない技法」
等を意識的に使っていって
否定や提案によって
「自分が否定された」、「仲間として認められない」
という工夫が必要な気がします。

そういう職場や学校の風潮だけでなく、
やはり、国の手本であるべき
政治の世界の幼児性が
夫婦に反映しているという側面があるのではないか
ということが本記事のテーマです。


よく見る勘違いとしては、
民主主義=多数決
という技術的な問題に還元してしまっている議論です。

これが、大統領に強い権限を与えて
議会を形骸化したり、無くしたりする
ということであれば、
民主主義=多数決で、
選挙で投票を獲得した者の意見を
最優先するということになるのでしょう。

ところが、わが日本国の民主主義は、
「議会制」民主主義なのです。
確かに首相は議会が選任するのですが、
それで議会の役割が終わるわけではありません。

議会によって、
内閣の提案を否定したり、修正することが
予定されているわけです。

これが予定されていないけれど
選挙によって行政を選び
行政が多数意見として強力に国家を動かしていく
というのがファシズムです。

選挙という過程が存在しないのは
ボナパルティズムといいます。
ナポレオン式ということですね。

日本はこれらの独裁制度をとらず、
議会制民主主義をとっています。

全権を内閣に委ねているのではない
ということは異論が無いところでしょう。

また、議会制民主主義をとる以上、
内閣の決定だけで国家運営ができず、
摩擦が生じるという
効率性から見た場合のデメリットがあると思います。

そのデメリットを補うメリットがあるから
デメリットに目をつぶるわけです。

それは、内閣の提案した行政的な必要性を
様々な視点から検証して、
より良いものに高めていく
ということを期待したからなのだと考えるべきだと思います。

要するに、議会制民主主義は
〇か[×]かという二者択一的な議論を予定していない
ということだと思います。

そうして、相互に譲り合い、より良いものにするためには、
提案者も否定者も
メリットデメリットを提出しあい、
問題の所在を明確にして、
その点に対する見解を鮮明にすることが
不可欠のことなのです。

議会という開かれた決定過程は、
この問題の所在を透明にすることによって、
国民の判断を容易にして、
国民の代表である議員の
態度決定に影響を与えるという
もう一つの民主主義のメリットを呼び込みます。

従って、国会の重要法案の審議は、
本来、何事にも代えて、中継をし、
公平な解説が加えられなければなりません。

本来、反対、賛成の前に、
この問題の所在が明らかにされるべきで、
そうでないと、どの部分にメリットがあり
どの部分にデメリットがあるのか
全くわかりません。

理屈の上では反対もできないことになりますが、
国民の権利が制限される可能性があるということであれば、
賛成することができないということになってしまいます。

どんな法案も、予算も
メリットがあればデメリットがあります。
メリットだけを言う議論、デメリットだけを言う議論は
あまり信用するべきではないということになります。


共謀罪という重要法案であるにもかかわらず、
実質的に問題の所在を出し合う議論が求められ、
実質的な立法過程の透明度が要求される
委員会での議論が尽くされなかったということは
議会制民主主義の根幹を揺るがす
ということになることを
つくづく感じたわけです。

こういう国会の状況が
国民の夫婦問題などに暗い影を落としている
という感想を申し上げた次第です。

ところで、憲法違反の集団的自衛権が法定された理由 [弁護士会]

集団的自衛権という言葉、
今年はあまり聞こえてきませんが、
PKOは容赦なく始まりました。
法律は通っちゃったわけです。

どうして明らかな憲法違反の法律が通るのか、
刑法に矛盾するうえ大義名分のないカジノ法案が
成立しそうな状況で気になり始めました。

いろいろな問題点があるのですが、
現政権を批判してばかりでは次につながりません。
憲法秩序という国の秩序を維持する側としては、
自分たちの行動の修正を検討することによって
あすにつながると思っています。

<戦争法案というネーミング>

一つの切り口として
「戦争法案」というネーミングに
問題の所在があったと思います。

もちろん、戦争法案というネーミングは
戦争反対を主張する人たちをひきつけた功績もあると思います。
若者たちの政治参加を実現したワードだったかもしれません。

ところが、冷静に見ると、
実は戦争に賛成ではない人たちを
ひきつけることはできなかった要因があると思います。

理念的に抑止論や自衛のための戦争論を否定したとしても、
現実の日本の有権者の多数は、
中国や北朝鮮の軍事的脅威、あるいは、もっと漠然と
何も防衛手段を持たないことの不安を感じている
ということを認めなくてはなりません。

この絶対的多数派である素朴穏健派は、
「他国から攻め込まれたらどうする」
という問題提起には逆らえないという
心理的事情があります。

さらに、政権側は、
当時の防衛法である
周辺事態法の存在を意図的に隠し
「集団的自衛権を法制化しなければ
 他国やテロの餌食になる。」
というキャンペーンを張ったわけです。

これに対する正しい回答は、
「周辺事態法、日米安全保障条約の下
 自衛隊を主体として祖国を防衛する手段は
 すでに整備されている。」
というものだったのです。

「だから、それを超えて海外での戦争に加担する
 集団的自衛権は必要ない。」
という論理の流れであれば、
穏健的多数派も納得してくれていました。
あれ?集団的自衛権って何?
と疑問を持ってくれていたのです。

ところが、政治家たちは、
政府キャンペーンに対して
侵略はされないとか
自衛のための戦争などない侵略戦争の口実だ
というだけで、
素朴的穏健派とのコミュニケーションを
自ら断ち切ってしまったわけです。

集団的自衛権に反対すればよいのに、
戦争反対の主張を繰り返し、
まんまと政権のキャンペーン戦略に
はまってしまったのだと思います。


<こちらこそ体制派>

素朴的穏健派は、
安倍首相を支持するというより
現在の体制を維持しようという
群れの論理で動くわけです。

あの時、何も戦争反対の持論を
主張するべき政治的情勢ではなかったのです。
むしろ、歴代の自民党政府を支持する
という態度を鮮明にするべきだったともいます。
われらこそがトラディショナル日本政治だとして
安倍政権こそ、異端であると
錦の御旗を奪うような戦略が
必要だったのだと思います。

論点がずれていたわけです。
また、日本多数派である
素朴的穏健派を見ていなかったのだと思います。

<エリート意識による多数派否定>

正しいことを言っている人たちは、
言わない人を間違っている
あるいは劣っているという態度を示します。
当時、自民党に賛成するなんて、

「騙されている」
「民主主義が育っていない」
「民度が低い」
というような表現をしました。

一般人はそれを聞いて
鼻もちならないエリート意識で、
「自分たち」を馬鹿にしていると
感じないわけはないのです。

ちょっと考えればわかることです。

どうせ意見を押し付けられるなら
民間政党よりも
政府の立派な人たちの意見を聞いた方が
現状維持ができる、
だって、今までそれでやれてきたのだから
という意識に誘導されるでしょう。

これは、長年来言われ続けてきたことですが
一向に改まりませんでした。

<過激表現>

この絶対的多数派である素朴的穏健派の
行動原理は、
争いを嫌うということです。

相手の人格を攻撃することはもっとも嫌います。

「死ね」等と言う言葉がプラカードにかかれている以上
一緒にされたくないという気持ちが先行してしまいます。
ヒットラーの顔になぞらえだコラージュなど
もってのほかということになります。

商業用ポスターにさえ黒マジックでひげを書き足しても、
喜ぶ子どもは少数です。
別にファンではなくても不快に思うのです。

アメリカでだれが大統領になろうとも
日本では通用しない手法です。


<対立と統一から弁証法的運動への転換の必要性>

どちらが正しいかという対立構造の
対立軸を間違ったのは反対派の方でしたが、
間違った対立軸のままで、
対立感情だけがあおられていきました。

これによって、絶対多数派である
素朴的穏健派は引いて行ったわけです。


その一方で
無理な統一行動の中で、
理性的保守派も
戦争反対の声の中で、
自分たちの主張、
素朴的穏健派が受け入れる主張を
ひそめるようになってしまいました。

1+1が3にならず、
1.2くらいにとどまってしまった要因です。

全体的な流れの中で、
自分たちのやり方を貫きつつ、
どこの運動体を大きくするかという視点で、
戦略的に行動をするべきだったと思います。

理性的保守派が運動基盤を持たず
人が好過ぎたということがあだになったと思います。

そういう情勢であれば、
理性的保守派を、
自陣の体制を縮小してでも
テコ入れをするべきだという発想を
今後は持つべきだと思います。

意識的ではないけれど
党利党略を優先させてしまう本能に
逆らえなかったという視点を
持つべきだと思っています。

正しい、優越している、合理性がある
という意見の統一を試みる精神活動から
相手のニーズ、感情にあわせた主張を展開する
それぞれが、それぞれの持ち場に応じて
お互いを殺さないで活かしていくという
弁証法的行動療法や
オープンダイアローグという
心理療法が参考になると思います。




今沖縄県高江で起きていること 森住卓氏の写真に寄せて 機動隊の若者のメンタルと [弁護士会]

うかつでした。
ずうっと、インターネットでボーっと写真は見ていたのですが
辺野古の問題だろうと勘違いしていました。

「やんばるに生きる」で知られる沖縄県高江で
いまヘリパットの基地建設が強行されています。
ヘリパットは、オスプレイの離着訓練をするそうで、
騒音、低周波、墜落の不安など
人が生活できる環境ではなくなる可能性があります。
(柔らかく表現すれば)

このことに気づかされたのは、
フェイスブックに投稿された森住卓氏の写真でした。
プロの著名なカメラマンで、
http://www.morizumi-pj.com/
誰しも一度はその写真を見ていると思います。

この方の写真が、圧倒的でした。
160人の集落に終結した1000人の機動隊
外部からの侵入を阻止するかのような
道路を遮断する検問
人が人として扱われず、
排除の対象物とされている様子
その悔しさや切なさ、しかし希望を失わない目の光

異様な状況もさることながら、
森住氏の透徹した視点に感銘を受けます。
すさまじい状況の中で息づく
人間の心がしっかりと映し出されていました。

ぜひフェイスブックで検索してご覧いただければと思います。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/ce828b3e154d379bc84e0334472a6e63
(検索の仕方が良くわからないので、貼り付けがあったブログ)

上記ブログでは張り付けされていなかったのですが、
私は、機動隊の若者たちの表情に目が釘付けになっていました。

そこには、日本人の警察官が、日本人の無抵抗な住民たちを
力づくで排除しなければならない役職を遂行する
人間の目がありました。

いじめの講演や人権教室でよくお話をするのですが、
人間が尊重されていない出来事、
人間性が傷つけられている出来事を
目撃してしまうと
人間は、無意識、無自覚に
いやな気持になります。

これは人間が群れの一員として生きながらえるための
遺伝子上のシステムです。

自分も苦しくなるのです。
加害者も苦しくなるのです。

そして、それが繰り返されると
そのたびに苦しむことは、生きていくために有害であるため
これも、無意識、無自覚に反応として、
苦しまないようにする装置が働きます。

だんだん、人間を尊重する、大事にする
という意識を弱めていくわけです。

こうやって、共鳴、共感が起きてしまうことを防ぎます。
一言で言うと
自分の人間性をすり減らしていくわけです。

これは、他人を尊重しないということだけではすまないことに
注目するべきです。

およそ人間、自分を含めた人間一般を
大事にしなくなるという効果が出てしまいます。

するとどうなるでしょう。
自分を大切にしないと
好奇心で覚せい剤や危険ドラッグに手を出してみようとするわけです。
自分を大切にしている人は、自分を廃人にする危険に手を出しません。

犯罪行為をするようになります。
人間を大事にする人は
他人が苦しむことに抵抗があります。
人間を大切に考えている人は
自分を貶める犯罪行為をすることに抵抗があります。
その抵抗がなくなってしまうのです。

家族も大切にできなくなります。
なにか、外の規範を優先させたり
効率や利益を優先させたりして
相手の気持ちを尊重するということをしなくなります。
相手の顔をつぶすということに抵抗がなくなります。

最終的に孤立します。
それでも、普通は死ぬことが怖いから
自死には至りませんが、
人間は大切にされなければならない
という感覚が薄れる効果として、
命の重さを感じなくなるので、
死ぬことへの抵抗がだいぶ下がってしまいます。
自死に近づいていくわけです。

森住氏の写真は、
今まさに、人間性が傷つけられていっている
現在進行形の心の動きを
機動隊の警察官の目に見事に映し出しています。

排除されても、その力、輝きを失っていない
高江の住民の瞳とは好対照となっています。

あえて、機動隊の警察官に対する視点から
お話をさせていただきました。

日本人の警察官が、日本人の老人や子供を含む住民たちを
無抵抗の状態から排除する
大勢を取り囲んで排除するということが
厳然とした事実として行われています。

そのすべての人たちが傷ついているのです。
しかし、沖縄のマスコミ以外
ほとんど報道がなされていません。

スマホのアプリがそれほど報道価値があることなのでしょうか。
読者の興味、売り上げしか興味がないなら
戦後のカストリ雑誌と大差はないでしょう。

これは、実は沖縄だけでなく、
東北の宮城県の問題でもあります。

福島原発の放射能にまみれた
放射性廃棄物の最終処分場の建設地として
宮城県の山間部が候補地となっています。
住民たちは反対行動に立ちあがっていて
昨年度においては、国は調査を断念しました。

しかし、高江が前例となれば
今度は宮城県の山間部にも
東京や神奈川県の機動隊員が退去するかもしれません。

まさに他人ごとではないのです。

反対、賛成、いろいろあるかもしれません。
いろいろな要素を考慮しなければならないかもしれません。

しかし、その方法も含めて
公にさらして、
わかりやすく説明し、議論して決めていくべきです。

国の強権が、隠密裏に人権を侵害していくことを
前例としてはいけないと強く訴えます。

安全保障法制(押し付け法制)成立 されど歴史は前進した。さらなる高みを目指しましょう!憲法復活の日は、国民の手による本当の憲法成立の日 [弁護士会]

安全保障法案が成立しました。
しかし、字面が変わっただけで、
まだ、日本は何も失っていません。

むしろ、日本国民は
安全保障法案に対する戦いによって、
歴史的な成果を勝ち取ったと思うのです。

1 個人の確立による共闘の歴史的成立
2 政治的意思表明の経験
3 「アメリカ」と日本の関係の鮮明化
4 これからの行動の方向

1 個人の確立による共闘の歴史的成立
 何よりも、日本の市民が、
 自分の皮膚感覚で政治的な行動を行うようになった
 それが普通の人がやっていることだととらえられるようになった
 ということは画期的だと思います。

 組織に属しているから仕方なく
 半ば命令されて動くのではなく、
 それぞれが、自分の皮膚感覚で行動する
 という経験を直接間接体験しました。

 自分の意思で、行きたくて集会に行き、
 言いたいことがあるからシュプレヒコールをする
 中身にはいろいろ注文はありますが
 これまでの日本では多数派とは言えない活動だったと思います。

 その結果、創価学会員が公然と公明党を批判する
 という象徴的な出来事につながりました。

 これまで、引っ込み思案だった
 学者や元裁判官まで声をあげました。
 自民党OBや官僚OBも声をあげ
 現政権の誤りが際立ち、
 国民を励ましました。

 その成果の一つが野党共闘です。
 民主党と共産党が共闘すること自体驚きですが、
 維新の党と共産党が手をつないだのですから
 歴史は動いているのです。
 しかも、橋下、松井が
 その役割果たすべく、共闘分断工作をしたにもかかわらず
 国民の圧力によって、
 それぞれの党は譲歩し、共闘を解かなかったのです。
 「次の多数派」の受け皿ができつつあるわけです。
 小林節先生の、
 共産党を排除してはいけない
 共産党は少し我を押えなければいけない
 というスピーチが印象的でした。

 小林先生もそうですが、
 長谷部先生だって、
 安全保障法案の議論をするまでは、
 政権側の人間だという評価だったのですから、
 実に今回の出来事の象徴的な人物だと思います。

 私の周りでも終盤
 集団的自衛権そのものに疑問を持ち、
 法案反対を声に出す人たちが増えました。

 いつもの人たちがいつものように意思表明していたのではなく、
 これまで黙っていた人たちが、具体的に声を出すようになりました。
 原発問題にもないことでした。
 
 今、日本には北風が荒れ狂っているわけですが
 国民は共闘というマントを
 しっかりと握るようになったわけです。
 
2 政治的意思表明の経験
 
 自分の皮膚感覚を言葉にするということは、
 多方面に影響が出てくるでしょう。

 事なかれ主義、協調主義で成り立っていた
 職場、地域、学校などの対人関係で
 自分の気持ちを言葉にするようになるでしょう
 混乱も生じるかもしれません。

 やがて、これは対人関係の良好な発展に
 大きく寄与するでしょう。
 言葉の出し方を学んでいくことが必要となるでしょう。

 原発問題やTPP、教育問題や食糧問題、
 年金問題や財政問題
 あらゆる分野で声を上げた経験が
 活かされるようになるでしょう。

 日本は近代がないといわれています。
 市民革命を形成していないことが
 日本人気質に影響を与えているといわれています。
 メリットもデメリットもあったと思います。

 しかし、今回の安全保障法案反対の活動は
 日本の近代を獲得する
 大きな可能性を秘めていると思います。

 トップの誤りを是正して、
 協議して最善にたどり着くということが
 国の隅々で起こり始めるでしょう。
 
3 「アメリカ」と日本の関係の鮮明化

 今回の議論を通じて鮮明になってきたのは、
 日本と「アメリカ」の関係です。

 憲法に反する安全保障法案は
 日米安全保障条約には合致するわけです。
 日本には、憲法を頂点とする法体系と
 日弁安全保障条約、日米地位協定、安全保障法制と連なる
 憲法体系とは別個の統治の体系があることが
 国民の間にわかりやすい状態にさらされました。

 また、共産党が暴露したアメリカ国防省から
 集団的自衛権の法律はどうなったという催促話や
 所管大臣である防衛大臣や
 最高責任者である総理大臣が
 法案の必要性、文言の意味、射程範囲について
 まるで説明できないことから
 日本政府が策定した法律ではないことが明らかになり、
 案文自体が
 「アメリカ」から押し付けられたことがはっきりしてしまいました。

 安全保障法制の議論がなければ
 漠然としかわからなかったことが

 山本太郎議員の質問も役割を果たしたのですが、

 創元社の戦後再発見シリーズ双書
 堤未果氏の一連の著作等によって
 その全貌が明らかになりました。

 これらの書籍は売れているそうです。
 ますます売れていくと思いますし
 「戦争法案」反対というスローガンを叫ぶ人は
 ぜひ読んでほしいと思います。

 今回安全保障法案を推進した人たちは
 押しなべて憲法はアメリカに押し付けられたといっているようです。
 しかし、今回の議論によって、
 集団的自衛権こそ「アメリカ」によって押し付けられたものだ
 ということがわかりやすく鮮明になりました。

 今回の法案成立で
 憲法9条は停止してしまいました。
 「アメリカ」の押し付け法案によって停止してしまいました。

 しかし、だからこそ、
 この先、安全保障関連法を撤廃すれば
 憲法9条は復活します。
 そればかりではなく、
 「アメリカ」の圧力を跳ね返して
 日本国民が憲法9条を制定したということができるわけです。

 真実国民が憲法9条を制定したことになる
 それが安全保障関連法の廃止の日なのです。
 なんてすばらしい目標なのでしょう。

 「アメリカ」とは何かについては
 堤さんの一連の著作をぜひお読みください。

4 これからの行動の方向
 
 敗因を分析して対策を立てるのがセオリーですが、
 ちょっと待ってください。

 もともと、選挙結果からすると
 法案成立は常識的には当然の流れで
 一部の政党だけの反対と
 一定程度の棄権によって、法案は
 「夏までに成立する」はずでした

 それがここまで反対運動の広がりの中
 ここまで大きな行動に発展し、
 秋を迎えることができたのです。
 単純な敗北ではなく
 むしろ勝利の側面を大きく感じます。

 それにしても法律は成立してしまいました。
 原因は、はっきりしていますし
 これまで述べてきたとおりです。
 
 それは
 30%の現政権に消極的に賛成している人たちの
 半分をこちらの陣営に招き入れることです。

 単純な戦争反対ではこれはできません。
 安倍首相の個人攻撃は
 30%の人たちには逆攻撃なのです。
 また、おそらく正しくないでしょう。

 必要なことは
 国民の中に、分断、対立を持ち込ませないことです。
 
 保守と革新、右翼と左翼、
 安全保障法制や憲法破壊にとって
 何の意味もない区別です。

 私は、日の丸をもって
 デモや集会に参加するつもりです。

 決して欲張らず、
 安全保障法制成立の前に戻す
 ということ、
 国民が自ら憲法9条を復活制定させるという
 一致点以上のものを持ち込まない
 ということを最優先していただきたいと思います。

 分断者は、性懲りもなく現れるでしょう。
 自分の心の中にも表れるでしょう。

 政権を攻撃してダメージを与えるよりも
 多数を形成して与えるダメージの方が
 より破壊力が強いということを認識しましょう。

 そのためには、過去に一時点にしか妥当しなかった
 原理原則論を持ちだすのはやめましょう。
 
 他人と仲良くすることは案外骨の折れることかもしれません。
 しかし、
 今の日本の不具合の多くが
 この骨折りを回避しようとして起きているような気がしてなりません。
 努力の仕方を忘れてしまっているために起きているのかもしれません。

 案外、安全保障法制の一時的成立は
 日本社会に取ってとても良いことになるかもしれません。

 今、うつろな目をしている人たちが
 明日の敗北者であり、
 目の輝きを失わないものが
 明日の勝利者です。

 答えは、遅くない時期にでるでしょう。

 さあ、安全保障法制の一時的成立を踏み台にして
 もっと高いところを目指してゆきましょう。

法律家として野党の物理的抵抗を支持する理由  [弁護士会]

本来今時分安全保障法案が成立していたかもしれませんでした。
野党の体を張った審議阻止が功を奏して
参議院安保特別委員会が開催できませんでした。

これは、確かに、国会手続きが予定している事態ではありません。
形式的には法に反する行動のようにも見えます。
しかし、法律家として、私はこの行動を指示します。
その理由について述べます。

私は、法科大学院で、昨日労働組合法を講義してきました。
ストライキや団体交渉が、権利だという説明をするのです。

近代市民法的に考えると
労働者は、使用者と雇用契約を締結し、
使用者が提示した条件で働き、
決められた時間、労働力を提供する
と約束しているのだから
約束以上の労働条件、賃金を要求し、
それを通すために、労働力の提供をストップする
というのだから、
違法にも見える行為が権利として認められていることを説明します。

もちろん当初は禁圧されて、
団体交渉やストライキをやろうとする者なら
強要罪、脅迫罪で刑務所に入れられ、
労働組合を結成することだけで
死ぬまで刑務所に入れられた人たちもいるわけです。
労働組合に損害賠償が認められ
壊滅していきました。

しかし、そのように禁圧されても禁圧されても
団体交渉を行い、ストライキを続けてきたことにより、
労働者が政治的な力を身につけてきて
ついに国家は
処罰をしないということとなり
損害賠償も否定されるようになりました。

どうして、莫大な犠牲を払っても
なえないで、くじけないで
労働者は戦い続けたのでしょうか。

ここがポイントです。

それは、国家から禁圧されても
法律的には違法であっても、
労働者群が、
自分たちの要求
(契約で承認した以上の労働条件の要求)
は正しい、
自分たちの要求を通す活動方法、態様
(団体交渉、ストライキなど)
は正しい
という正当性の確信があったからだと分析されています。

要するに、法律を守ろうとすることは
ルール、秩序を守ろうとすることです。
正しさに従うということといってもよいといえるでしょう。

自分たちの要求、行動をしなければ、
自分たちは、人間として尊重されないで生きていかなければならない
という
正当性の確信が、
形式的な法律をまもるよりも
ルール的に、道徳的に正しいという確信に高まったのです。
「規範意識の確立」という言い方もします。

現在現政権が強行採決しようとする
安全保障法案は、
法律家は誰でも、
立憲主義に反するといって反対しています。

憲法9条改正論者も
集団的自衛権肯定論者も
立憲主義に反するという理由で反対しています。

近代以降の現代国家は、
一部の宗教国を除いて、
憲法を最高規範として、
憲法の範囲で国家権力を行使する
制度を持っています。

憲法に反する国家行為をしたいならば
憲法を改正してから行わなければなりません。

法律が有効である大前提は
憲法に適合することです。

法律家の立場から
現政権のやっていることを評価すると
憲法に真正面から反する行為を
国家権力の行使として
立法しようとしていることになります。

日本の法秩序を崩壊させる極めて異常な行動です。

異常なことは
所管大臣である防衛大臣が、
法律について、まともに説明できないことです。

ホルムズ海峡封鎖が
日本の存立危機自体とつながるどんな場合があるか、
説明できていません。

戦禍が及ぶ蓋然性
についても説明できていません。

法律の根幹が説明できないということは異常事態です。

これは、所管大臣
即ち法案作成の現場責任者が
法案の中身を知らないということを意味します。
誰が法案を作成したのでしょう。
日本の政府関係者が法案作成したのであれば、
事務畑の局長が説明するはずですが
そのような報道は一切ありません。

おそらく、
日本人が原案を作成したのではない
外国人が原案を作成して
日本語に訳しただけなので、
その説明ができないというと理解が容易です。
押し付け法案という疑いが濃厚です。

この法案に反対する運動は
日本が独立国家になるための運動だとも考えられます。

何よりも、法案の最高責任者である首相が、
個別的自衛権と集団的自衛権の違いが分かっていない。
これは驚くべきことです。
現行自衛隊法は
日本が直接侵略される場合だけではなく
間接的に侵略される場合にも
自衛権を発動することができる規定があります(3条)。

中国や北朝鮮から侵略されたらば
現行法と安全保障条約できっちりと防衛できるように
法律はすでに整備されています。

(もっとも、東北の被災者は
 もっとも日本が無防備だった東北だ震災の直後
 北朝鮮から送られてきたのが
 テポドンではなく義援金だったということは
 よく記憶しています。)

今、この自衛隊法3条を改正し、
日本の直接間接侵略がなくても
自衛隊の行動を行うことが可能としようと
安全保障法案はもくろんでいるわけです。
なんのためでしょうか。
誰の利益なのでしょうか。

さらに、
集団的自衛権の行使を閣議決定した後の選挙で
自民党が圧勝したから
自民党の提案した法案に反対するのは民主主義に反する
としたり顔で主張する人たちもいます。

民主主義は無制限ではありません。
憲法の範囲内で国家権力を行使するという大前提があります。
憲法は改正されない限り、存続します。

また、投票は白紙委任ではありません。
個別論点についてものを言うなということは
服従の強制です。
民主主義とは無縁です。

国会という制度がなくて
政府を直接選挙で選ぶというならば
そのような議論を検討する余地もあるかもしれません。

しかし、選挙をしているのは国会議員です。
改めて個別論点の議論をするから国会があるわけです。

砂川基地事件について改めて述べるのも気が引けるのですが、
これは、日本にアメリカ軍を置くことが憲法違反かという論点で、
アメリカ軍を置くことも自衛の方法として
禁止されているわけではないかもしれない
という判決であって、
日本の自衛隊が集団的自衛権を行使することを
認めた判決ではないことは明らかです。

これも今回の法案が外国から押し付けられた法案だということを
物語る裏付けになるでしょう。
砂川基地判決自体が
アメリカのダグラスマッカーサー二世日本大使が
外務大臣に圧力をかけ、
田中耕太郎最高裁長官が同大使に報告をしながら
出した判決だということが
公文書から明らかになっています
(「検証 法治国家崩壊」創元社 吉田敏浩)

今回、なぜ継続審議とせずに強行採決を行うのか
砂川基地判決から学ぶべきです。

本来日本の裁判制度は
地裁、高裁、最高裁と3審制がとられています
砂川基地判決は
地裁の伊達判決で違憲判決がでて、
その後高裁をとばして
国は最高裁判所に跳躍条約するという
異常な行動に出ました。

これは、時間を置けば置くほど
伊達判決の影響力が浸透して、
米軍に対する反対世論が大きくなるため
伊達判決を早く否定したかったからです。

いつ、誰がどこでということが
公文書上明らかになっています。

昭和34年3月31日 午前8時
(伊達判決の翌日)
おそらく東京帝国ホテルの一室で
ダグラスマッカーサー二世が、
日本の藤山愛一郎外務大臣(当時)に対して
跳躍上告を直接指示したそうです。

藤山大臣は、全面的に同意したと
アメリカ側の文書には残っています。
そして事実そのとおり行われたわけです。
(以上前掲本)

今回継続審議にした場合、
法案反対運動がさらに盛り上がる可能性が高いため、
どうしても強行採決しなければならない
砂川基地判決と同じ問題の所在があるわけです。

もし、これまで私が述べていたことがそのとおりならば、
安全保障法案に対する反対は、
立憲主義を守る戦いであると同時に
日本が独立国家であるための戦いということになります。

目的も、そのための行動態様も
日本を守るために必要なものであり、
正当性を有すると確信ができ
規範意識に高められるものだと思われます。

暴力の行使や物の破壊に至らないことは
当然の条件になりますが、
物理的抵抗力を、私が
法律家として支持する理由は
このようなところにあります。






























































国際人権(自由権)規約第1選択議定書をだれも反対しないのに、議論のにも俎上にも上らない理由は、安保法制の議論(砂川基地判決の勉強)によって簡単に解決してしまいました。 [弁護士会]

最近安全保障法制の議論で
砂川事件判決がよく引用されているのですが、
われわれ元司法受験生にとっては
統治行為論とか跳躍上告とかいう
アウトラインはよくわかっているのですが
あれ?どういう判決だったけ?
ということで改めて調べたいと思っていたのです。

このことがなければ読まなかった本が
これです。

検証・法治国家崩壊 (「戦後再発見」双書3) 単行本 – 2014/7/20
吉田 敏浩 (著), 新原 昭治 (著), 末浪 靖司
創元社

http://www.amazon.co.jp/%E6%A4%9C%E8%A8%BC%E3%83%BB%E6%B3%95%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%B4%A9%E5%A3%8A-%E3%80%8C%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%80%8D%E5%8F%8C%E6%9B%B83-%E5%90%89%E7%94%B0-%E6%95%8F%E6%B5%A9/dp/4422300539

砂川事件は、1950年代の事件なのですが、
農家の農地を
米軍の基地拡張のために強制収容しようとしていて
そのための測量に反対している農家が
労働組合や学生に応援を呼びかけ
スクラムを組んで抵抗したそうです。

これをアメリカが強制的に排除しろと命令したので、
日本の警察がスクラムを組んでいるだけの学生、労働組合
日本山妙法寺のお坊様方に対して
暴力をふるって排除した
というところから始まったそうです。

この時、大学からも
たくさんの学生が
ダンプカーの荷台に乗り込んで
立川市まで駆け付けものでした。
って、生まれた前のことですが、
「青春の門」という映画で
私、この役をやって
歌を歌っているんです。
ああ、この事件の時の役だったのかと
今日気が付きました。

ただ、この時、農民らの排除のために
アメリカは、自衛隊も出動させろと
命令したそうですが、
時の防衛庁長官は
これを断固拒否したという話も掲載されています。
ずいぶん今と違うなあと思いました。

そんなこんなの砂川基地闘争の中で
米軍基地の中に入った23名の中の
7名が特別法で処罰されたのが
砂川基地判決なのですが

1審の伊達秋雄裁判官は、
特別法が違憲無効だとして
被告人全員を無罪としたのです。
いわゆる伊達判決といわれる有名な判決です。

それをアメリカの日本大使が
外務大臣を通じて
跳躍上告をするよう命じて
その通り検察官はするのですが、

当時の最高裁長官田中耕太郎は
訴訟進行の見通しや
合議の流れなどを
アメリカ大使に報告しているのです。

これらはアメリカの公文書館で見られるそうです。

本には、原文のコピーが掲載されています。

言いたいことは山ほどあるのですが、
長くなりすぎるので小出しにするとして、

基地訴訟との関連も考えると
私が2010年1月にこのブログで書いた
国際人権(自由権)規約第1選択議定書が
歴代政府、中曽根さんも含めて
誰も反対していないのに
民主党なんてマニュフェストに掲げたのに
全然議論すらされていない
という不思議の謎も
簡単に解決できることですね。

つまり、選択議定書が批准されると
個人通報制度という制度を日本国民も使えるようになり、
人権侵害が、裁判でも回復されない場合、
直接国連に訴え出て
勧告をしてもらうことができるのです。

基地や低空飛行で
人権を侵害されている日本国民は、
最高裁に行っても
飛行の差し止めはされません。

しかし、せめてアメリカ本土並みに
気を使ってくれということは
国連でも受け入れざるを得ないと思いますので、
基地問題に勧告が出てしまう。

困るのはアメリカと
アメリカの利益を
言いなりになって代弁している日本政府ですから、
日本政府が選択議定書を批准しようとしても、
アメリカに止められればできない
議論の俎上にも上らないということは
考えれば
実に簡単に解ける謎でした。

安全保障法制の議論がなければ
ずうっと気が付かなかったと思います。


「戦争法案」というネーミングのデメリットと議論の方法についての意見 [弁護士会]

8月30日、国会をはじめ、各地で
安全保障法案反対のデモンストレーションがありました。
NHKでさえ、夜の7時のニュースでは映像を付けて取り上げました。
廃案まであと一歩というところまで来たと思いますが
その一歩というのが、歴史的に超えることができなかった壁だ
ということになります。

その一歩をどこに向ければよいのか考えてみたいと思います。

私は、立憲主義維持という法律家の立場から
わが国が直接間接侵略を受けなくても武力を行使する
安全保障法案に反対する立場です。

今考えなければならないのは、
デモなどの表現行為が、
ストレートに政権を追い込んで法の成立を断念させる
ということではないということです。

多数派を形成することが歩みの方向でなければなりません。
30パーセントは、現在の内閣を支持しているわけです。
どうして支持しているのかについてを考える必要があります。
この方々の共鳴共感が必要なのです。

本来国防に関することなので、
他国の模範となるような格調高い議論をするべきだと考えているのですが、
怒りが優っている状態で、それができていません。

もっとも推進派の議論というのも格調が高くない。
第1に 対案を出せというものがありますが、いただけないというほかありません。

そもそも対案は、出すべき場合とそうでない場合があります。

例えば、いじめ対策の場合は、私は
「命を大切にしよう」と掛け声をかけるばかりではだめで
教師の雑務を減らせと対案を出すのですが、これは
いじめをなくすべしという問題の所在が共有されているからです。

これと反対に夫婦で、
夫が「高い釣竿を買いたい」と提案した場合、
「そんな余裕がないから買わない」と妻がいうのは
釣竿を買う必要性を共有していないからです。
それにもかかわらず
妻に対案を出せとはまともな大人は誰も言わないでしょう。

今、安全保障法制の論点は、
「我が国が直接間接侵略のおそれがない場合にも武力を行使するべきか。」
というものです。
そういうことを決める必要性を認めていない人は
対案出さずにただ「反対」ということが論理一貫した態度ということになります。

それにもかかわらず「対案を出せ」と批判するのは、
先の夫婦のケースで釣竿だめなら対案を出せというようなものです。

「対案を出せ」というのは、企業の会議でよく言われているようです。
元企業戦士も、この言葉で野党を批判します。
しかし、それは、売り上げを上げる等の
問題の所在が共有化されているために
そういう主張が通るわけです。

企業に飼いならされ過ぎた人たちが
対案を出せということを言うのであれば、
企業マニュアルは、万能のものとして扱われていることになります。
マニュアルは、
「時と場合」によって使い分けなければならないということについて
うまく運用ができていないという弱点があるようです。

第二に格調が高くない主張は、
推進派、反対派双方ありうるかもしれませんが、
自分の結論を、意見対立している人に押し付けて
本来その結論についての理由を主張しあわなければならないのに
「理由は言わなくてもわかって当然」とか
「もう決まったことだ」とか
「わからない奴は馬鹿だ、子どもでもわかる。」
というような形でごまかすということです。

同じ日本に暮らすもの同士、
いたわりと尊敬をもって、本来、国防を議論するべきなのです。
そこに論点があるならば日本の将来のために
懇切丁寧に労をいとわないで説明するべきです。
だから私は、愛国心(普通の当たり前の意味)を持たない人には、
国防の議論をご遠慮いただきたいと思っています。

もう少し根本的な、格調の高くない論理があります。

30%の内閣支持者の多くの方が、
他国の侵略に対する不安から
集団的自衛権を指示しているという
非論理的な現象があるようです。

どうも安全保障法案の推進者の方々は、
「中国や北朝鮮が攻めてきて戦わないで
 侵略され放題になってもいいのか」
 という論理のすり替えを意図的に行っているようです。

本来それらは、個別的自衛権の範囲ですから
周辺事態法や自衛隊法、日米安全保障条約のもと、
きっちりと自国防衛の武力行使を行うわけです。

今は、「直接、間接わが国が侵略されていない場合にも
自衛隊などが武力行使をする」
ように拡大するかという問題なのですが、
反対者は個別的自衛権も否定していると
すり替えられています。

そのすり替えを裏付けているのが
実は「戦争反対」という単純なスローガンです。
防衛戦争にも反対しているのだと、
すり替えを刷り込まれた人たちには写っています。
そういう風にすり替えているともいえるでしょう。

戦争法案というネーミングがここまで運動を大きくしてきたという
そういう側面は否定できないでしょう。
そのスローガンを下ろせということは今や暴論でしかありません。

しかし、そこにはデメリットも当然あるのだという
当たり前のことは頭に入れておく必要があるように思われます。

論点を明確にするような努力も必要なのでしょう。
個別的自衛権は、きっちり行使するのだということです。

もう一つ
「戦争法案」のネーミングについては、
ただの非防衛戦争の危険以上の危険についての思考を
停止させるのではないかと危惧しているところです。

あたかも安倍首相がヒットラーのように
戦争をやりたがっているという主張も、
同様にいかがなものかと思います。
30%の人たちの少なくない部分の人たちは
このような首相を嘲笑するような表現は
生理的に受けつけないようです。

安倍首相が、主体的にこの法案の必要性を認め
法案の構成をデザインしているのか、
疑問があります。
むしろ、機に乗じて
持論を実現しようとしているというのがリアルなのではないでしょうか。
この点は、国会論議で明らかになってきたというべきでしょう。
もっとも報道はされませんが。

また、アメリカの押し付けという大雑把な考え方も
敵と味方を誤らせるのではないかと思われます。
堤実果さんの一連のルポルタージュでは、
アメリカから搾取されている最大の国民は、
実はアメリカ国民だという告発がなされています。

国会の終盤、
議院は、法案の派生効果、影響こそ
具体的に議論するべきです。
武器輸送だけでなく、武器警護という点についても
十分議論を尽くすべきだと思われますが
議論されている形跡はありません。

新聞は、国防という大事な議論なのですから
もっと、きちんと議論を掲載するべきです。
しかし、野党によって政府が追い込まれている委員会質問も
きちんと答弁したような報道が繰り返されています。
マスコミはあてにならないようです。

一人一人がきちんと知る権利を実現させ、
反対者の意見を吸い上げながら、
論点をクリアーにしていけば、
この問題は落ち着くべきところに落ち着かざるを得ないと
考えています。

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