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【怖いもの知らずの妄想的仮説】どうしてセロトニンが不足すると抑うつ状態になるのか、 [閑話休題]



脳科学者に記憶の仕組みを語らせると
アメフラシという軟体動物が出てくる。
アメフラシは、神経が太く少ないので、
神経の観察にもってこいだからとのことである。

アメフラシにも神経があり、
水管に触られるとエラをひっこめるという反射行動をする。
エラは大事な器官なので、外敵から守るために
触られると危険があると判断し、
引っ込めるのだ。

ところが触り続けると、
エラをひっこめなくなる。
これを危険がないという記憶が生じたというかどうかはともかく、
引っ込めなくなる。
記憶の原始形態のように説明される。

この研究が進み、
引っ込めなくなるメカニズムについて解明された。
そもそも引っ込めるメカニズムは、
感覚神経が異物を感じた場合、
その信号をいくつかの神経を通って、
運動神経に伝えて、
エラ引っ込め運動をするということらしい。

その神経から神経に信号を伝える時、
セロトニンという伝達物質が必要だけど、
危険をしょっちゅう感じてセロトニンを出していると
次第にセロトニンを作れなくなる
このため、神経信号が運動神経に伝わらず、
引っ込め反射ができなくなる
こういうわけらしい。

だから、しばらく危険がなければ
やがてセロトニンの作成能力が復活して
また引っ込め反応をするとのことだ。

「セロトニンですって?」

われわれにわか勉強マンは、
セロトニンと言えば、ましてやセロトニン不足と言えば
うつ病である。

アメフラシもうつ病になるのだろうかと
短絡的な考えを抱いたことは仕方がないだろう。
短絡ついでに、
もしかしたら、
人間のうつ病のセロトニン不足も、
危険を感じすぎて
セロトニン作成能力オーバーになっているのではないかと
そう感じてしまったのも仕方がないだろう。

アメフラシはそれほど神経が多くないので
うつ病になるかどうかわからないが
人間は確実に神経が多い。
そうすると、セロトニン不足で活動が鈍ると
活動が鈍ったことを心配し、焦る神経もあるかもしれない。

その神経は、
「いざ危険が起きてもセロトニン不足のために対応できない」
という予期不安を感じているのではないだろうか
と考えてみてしまった。

つまり、精神的な抑うつ状態は、
 セロトニン不足から直結しているのではなく、
 セロトニン不足を覚知したことによる反応ではないか
 ということ

このような解決手段がないことを覚知することによる
予期不安の自然発生は比較的わかりやすい。

例えば光の刺さない真っ暗なところにいると
それだけで怖くなる。
何かに襲われたらどうしようという気持ちになる。
もっと漠然とした不安、恐怖かもしれない。

実際、山の中のトンネルを歩いたことがある。
20歳前後の男性数人で歩いたのだが
皆、怖さを口に出し、
幽霊が出たらどうしようという気持ちにさえなった。

これは暗闇の中で何かがあったら、
見えないために対応ができない
という意識ないし無意識が
恐怖を掻き立てているものではないだろうか。

狭いところに閉じ込められたり
手や足を縛られた時も
言い知れない恐怖が湧いてくる。
逃げたり戦ったりできないことの恐怖が、
ありもしない危険を感じさせるのだろう。

うつ病においてもこのような
先回り不安を抱いているのではないだろうか。

そもそも、セロトニンやノルアドレナリンが
神経の間に少なくなったとすれば
その生物学的効果は、
神経間の伝達に支障が生じるだけのことである。
それ自体が抑うつ状態を生じさせるという
メカニズムにはならないだろう。

もしかすると危険等の連続で、
セロトニン、ノルアドレナリンの放出過剰が起き、
あるいは先天的な要因で
アメフラシのようにセロトニン等の放出の不能状態が
先ず生まれているのだと思われる。

その結果、危険が生じているのに
神経間の伝達が弱くなっているということを
脳のどこかが感じるのだろう。

(セロトニン不足をある神経にチクるのは神経ではなくグリア細胞ではないか。
 チクられる神経は脳幹とかいわゆる古い脳ではないか。)


すると、光のない世界、音のない世界
からだを動かせない世界の恐怖のように
何かあった場合に対処できないという
先回り不安が生じてしまうのではないか。

そうして、何かをすることで
危険が発生することを回避しようとして、
活動をしないように体が反応してしまう。
ここでいう何かをすることとは、
生きるための活動である。

意識的な思考、無意識の行動を抑え込む必要がある。
行動に出ないように体が反応するからだ。

全精神活動が低下していき
生きるための意欲が失われていくように思われ、
生きる行動が鈍っていく。
うつ病というのはそういうことなのではないだろうか。


また、生きるということは
危険や困難を乗り越えていくことなのかもしれない。



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【怖いもの知らずの妄想的仮説】記憶想起のメカニズム仮説 [閑話休題]


貯蔵された記憶をどのようなメカニズムで想起するか
ということが現在の課題となっているようです。

記憶は、先ず海馬で記憶され(秒から分単位)
内側側頭葉に保管され(もう少し長い)
そして大脳皮質に貯蔵され、長期記憶になる
とされています。
ここまでは解明が進んだそうです。

しかし、貯蔵された記憶が
意識に上らせるメカニズムは
これからの課題とのこと。

ここで、無責任な見解を述べることは
まさに素人の醍醐味なわけです。

私は、記憶の貯蔵自体が想起のメカニズムだと
大胆な提案をしたいと思っています。

先ず記憶がどのように長期記憶へ移行していくか
ということとも関連するのですが、
その前に、記憶とは何かということを
ごくごく大胆に端折って説明すると、

物事に対して人間が反応するということは、
何らかの神経伝達活動が起きているということです。
この神経伝達活動は、無数のパターンを作ることができるそうです。
それぞれの反応のパターンを神経が再現できる
これが記憶です。

従って、同じ反応を反復継続すれば、
記憶として定着しやすくなるわけです。

しかし、生きて活動していれば
次々と刺激が現れますから、
同じ反応だけを反復するということはできません。
しかし、反復しなければ記憶として定着しない
記憶として定着している以上反復している。
いつ反復しているのか。
もう寝ている時しかありません。

一夜漬けで得た知識が翌日のテストの時間に記憶されているのに
帰るまでには失われているのは
長期記憶になっていなかったから
つまり寝ていなかったからということになります。
受験本番では役に立たないのはこういうわけです。

寝ている時の記憶はありませんが、
レム睡眠という時間は、
起きている時と同じように脳が活発に活動しています。

反応が繰り返し再現されているわけです。
しかし、あまり強い刺激の場合
例えば犬が嫌いな人がいぬから吠えられ
追われて逃げたという反応を再現すると
眠りながら駆けだしてしまったりする危険があります。

しかし、レム睡眠は「うまくできています。」
脳から運動神経への伝達が遮断されているからです。
脳が反応しても運動神経の手前で止まっているので、
隣で寝ている人が踏みつぶされることはありません。

同時にレム睡眠時は新たな反応をしないために
感覚神経も脳と遮断されています。
寒くても対応ができません。
冬山でうたた寝をすると死ぬのは、
レム睡眠の時なのでしょう。

何も気にしないで思う存分反復再現をして
皮質で長期記憶とすることができるのです。

この長期記憶への移行が
実は想起のメカニズムではないかというのが
私の主張ということになります。

つまり、ただ反復再現しているのではなく、
この時、過去の記憶との関連付けが行われているということです。
例えば、危険の大きさ、危険回避の困難さについて
過去の記憶の中にある危険の中のどの順位に位置づけられているか
おそらく、反応の状態を診て几帳面に並べ直されているのでしょう。

レム睡眠時にファイリングがなされるということが有力ですが、
それはこういうことではないかと思うのです。

危険の大きさ、危険回避の困難さが
もっとも重要なファイリングの要素だと思うのですが、
もしかしたら、他の要素もファイリングの要素になっていて
二次元的なファイリングではなく多次元的なファイリングに
なっているのかもしれません。

細かい記憶、
文字とか、機械の名前とか、色彩とか
そういう記憶もあるのだから
多次元のファイリングがなされているのだと思うのですが、
これは私の手には余ります。
というかあまり関心のないところです。
記憶の必要性というのは危険回避の手段の蓄積に
その要諦があると思うからです。

記憶自体が関連性の中での位置づけという形で貯蔵されているので、
関連事項に刺激されれば、
記憶が自然と想起されるシステムになっている
これが私の提案です。

記憶の想起とは
実は脳が勝手に同種の反応の再現している
ということになると思います。

だから思い出すという作業は
無意識に関連付けをしているということではないか
と思うのです。

卑近な例では
台所で用事を思い出し、
自分の部屋に行ったけれど、
自分の部屋に行ったとたん
何をするか忘れるということがあります。

こういう場合は、
もう一度台所に戻って
さっきしていたことと同じことをすると
「ああ、そうだった」
ということになると思います。

そうやって二度思い出す、つまり反復した場合は
自室に行って確実に用を足すことができるわけです。

これは、短期記憶の例ですが、
関連付けをすることで、意識に上らせた例
ということになると思います。

ちなみに、機械の名前とか歴史上の人物の名前とか
およそ実生活に関係しないことは
よほど反復するか、実生活に引き付けて
つまり関連付けの中に無理やり押し込めてでないと
どんどん記憶から欠落していくでしょう。

逆に、強盗に襲われたとか、震災の記憶等は
ファイリングしきれない記憶ということになります。
それでも危険の記憶ですからもっとも重要な記憶です。
ファイリングがされなければ、
いつでも危険への対処をスタンバイしていなければなりません。
これがPTSDの原理ではないかと思います。
ファイリングは危険への対処をシミュレーションして
情動を鎮める作用もあるようです。

妄想ついでに言えば
記憶が神経の伝達パターンの再現だとすると
パターンオーバーになることを心配したくなります。

おそらく、関連付けの中で
出来事が過去過ぎて、もはや脅威ではないとするべきことは、
記憶のファイルから欠落していくというか
コンパクトに再構成されていくのではないかと思っています。
どんなに片づけが苦手な人も
脳は立派に再構成して整理しているわけです。

逆に、細部にわたる記憶が延々と続く場合は
もしかしたら、神経伝達パターンの再構成がなされていて、
伝達パターンの可変部分と不変部分があるのではないかと
利根川大先生の物まねをしたくなったりしています。

妄想よりもさらに無責任な話として
これまで、ニューロンの伝達パターンばかりが注目されているようですが、
脳の可塑性については、グリア細胞が大きな役割を果たしているのではないか
という視点での研究が必要なのではないかと
吐き出してみました。

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対人関係学のピンチ 対人関係学は進化心理学の劣化版だったのか 平成30年上3半期の読書研究 [閑話休題]

今年になっての勉強から、進化心理学までたどり着いてしまった
ということなのです。

お正月休みに読んだ本が
ダニエル・カーネマンの「ファストアンドスロー」
ものすごく面白くて、
それまで読んだ行動経済学(マイケル・ルイス、リチャードセイラー)
よりも、しっくりくるというか
今年1年の収穫だと思っていたのです。

この人は、ノーベル経済学賞を取っていますが、
れっきとした心理学者で、
後で(昨日)気づいたのですが、
認知心理学者に分類されるようです。

そうしたら、すぐに、
ダニエル・リーバーマンの「人体」に夢中になってしまい、
もう、心理学をやっている場合ではないという気になってしまいました。
この人は、進化生物学の学者さんで、
ネイチャー投稿数の断トツ一位の人らしいです。

完全に対人関係学のエビデンスになっている!
と飛びついたわけです。
もうこの歳になると、
ノートを取りながら出ないと頭に入らないので
読むのに時間がかかります。

こういう本を読んでいるのは、
半分以上仕事のためです。
過労死事件は、まさに仕事ですし、
自死対策は、
私の公的活動の大部分を占めますので、
やはり、ある意味大切な仕事なのでしょう。

それから、4月に過労死弁護団の拡大幹事会で、
慢性持続性ストレス
というよだれが出るほど、待ってましたという検討課題が提案され、
初心に立ち返り、というか初めて読んだのですが、
ストレスの創始者、
キャノン「からだの知恵」
セリエ「現代社会とストレス」
を読みました。

特にキャノンが面白くて、
今まで私がおっかなびっくり
交感神経ってこうであるはずだ
と語っていたことがすべて書いてあって
感激しました。

キャノンが先行するのですが、
セリエとキャノンは交流があり、
セリエは、キャノンの人格をわざわざ論じているほどです。

そういう人間関係も面白いのですが、
キャノンは交感神経の活性化という視点で、
ストレスという言葉を使いません。

セリエは、ストレスという言葉を
現在言われているストレス反応に当てはめ
ストレッサーという言葉を作った人で
それぞれが学問を発展させてきたことがわかります。

何かのきっかけか忘れたのですが、
やはり、意識の二重構造について人に説明する必要が出てきて、
改めてファストアンドスローを読んだのですが、
ありゃりゃ、読み落としていたのか、意味を理解しなかったのか
ものすごい知識が詰め込まれていることに
改めて驚きました。

私のというか対人関係に大きな影響を与えた
バウマイスターの研究が多く引用されており、
これは何としても読みたいなと思うのですが、
彼の論文は日本語になっていません。
英語で読もうとしてもなかなか入手ができず、
何とか入手しても、
文節が長すぎてなんだかわからなくなることが多くて
うんざりするわけです。
彼の論文の邦訳がされないのに、
批判論文だけは日本語で紹介されるという
奇妙な現象があることをお知らせしておきます。

この批判論文は、題名を見ても
政治的観点からの批判であることがわかります。

過労死や自死を防止しようという熱意よりも
防止する活動を妨害しようとする熱意の方が高い
ということがうかがわれます。
こういう所は見習うべきかもしれません。

さて、意識の二重構造ですから
カーネマンが引用していた
キース・スタノビッチを読むことが自然な流れなわけです。

苦労して遠くの図書館から借りてきた本
「心は遺伝子の論理で決まるのか」<品切>の
現代版「現代世界における意思決定と合理性」が後から取り寄せられ、
大事なことがほとんど書いている上に
翻訳者が原語を翻訳する過程を脚注に事細かく書いていて
はじめからこれだけ読めばよかったのかもと思うこともありました。

キーススタノビッチは、バリバリの認知心理学者だと思うのですが、
当然受け入れながら批判する対象が
進化心理学というわけです。

ダニエル・リーバーマンが引用した
ドブジャンスキーの
「生物学におけるいかなるものも
進化の視点からでなければ何も意味をなさない」
という言葉をストレートに影響を受けていますから、
心理学だってそうだ!と意気込んでいたわけです。
これは対人関係学しかないと思っていたのに、
ああ、やっぱりあったのねということで
進化心理学にたどり着いた次第です。

進化心理学については、ウィキベディアが要領よくまとめています。
最初はわかったようなわからないような感じだったのですが、
ちょっとかじると要領よいことに気が付きます。

進化心理学者は仮説構築のためのメタ理論として一般的に次のような前提を置く。
1 体の器官はそれぞれ異なる機能を持っている。心臓はポンプであり、胃は食物を消化する。脳は体の内外から情報を得て、行動を引き起こし、生理を管理する。したがって脳は情報処理装置のように働く。脳も他の器官と同様、自然選択によって形作られた。進化心理学者は心の計算理論を強く支持する。
2 ヒトの心と行動を理解するためにはそれを生成する情報処理装置を理解しなければならない
3 我々の脳のプログラムは主に狩猟採集時代の経験と選択圧によって形成された。
4 そのプログラムが引き起こす行動が現在でも適応的だという保証はない。
5 恐らくもっとも重大な点は、脳は様々な問題に対処するために多くの異なるプログラムを持つ。異なる問題は通常、異なる進化的解法を必要とする。このプログラムの一つ一つが臓器と見なすことができる。
6 心のプログラムは我々の経験を再構成し、判断を生成し、特定の動機や概念を生み出す。また情熱を与え、他者の振る舞いや意図の理解に繋がる文化普遍的な特徴を与える。そして他の考えを合理的である、興味深い、忘れがたいと感じさせる。プログラムはこうして人間が文化を創る基盤の役割を果たす。

対人関係学のたどり着いた主張と酷似しています。
1から4までは全く異論がありません。
3なんかは、どうしてこうなるのというくらいです。
本当は、対人関係学の独自の発見だと思っていたのにと悔しいのが本音です。
5,6もほとんど異論がありません。

じゃあ、対人関係学は進化心理学であり、
今さら畑違いの素人が参戦することはないのか
ということになり、夢も希望も無くなるのか
ということになりそうなのですが、
どうやらそうでもなさそうなのです。

一つは、クロスオーバーしない部分が重要ではないかということです。
進化心理学はドーキンスの影響を強く受け過ぎているのではないか
それに対して、対人関係学は、
キャノン(後付けっぽいのですが)、リーバーマンの名前は
進化心理学ではあまり出てこない

バウマイスター、アントニオダマシオは認知心理学では引用されますが
進化心理学ではそれほどでもなさそうです。

自死に関しての知見は、あまりないようです。
過労死については特にない。

この根本的な違いがやはりありそうで、
文字通り、対人関係という環境を重視するのが
対人関係学ということになりそうです。

それから、東洋的なアドバンテージがありそうです。
スタノヴィッチもそうなのですが、
ドーキンスの影響を受けているようなのですが、
まだまだ乗り物としての割り切りがない。
遺伝子への反逆なんてことを言っている。
正直このあたりが理解が遠いところです。

禅の思想なのかどうなのか責任あることは言えませんが、
ただ、あるがままの姿を受け入れる
ということが東洋的な高次の境地ともいえるものだとすると、
こういう境地になれるかどうかはともかく
こういう考えもあるということを知っている
あるいは感覚的に理解できることが
人間に対する科学にとっての
大きなアドバンテージになるだろうと
感じた次第なのでした。






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本ブログ、および対人関係学の目的 [閑話休題]

昨日の記事は、自分自身の予想を上回る反響がありました。
少々恐縮です。

フェイスブックの方にもご意見いただきました。
フェイスブックのコメント欄というと、
なかなか柱主の意見に賛同しない意見というのは、
抵抗があって書きづらいものです。
(もっとも私の友人の名古屋の方と
 バンダナ親方は別ですが)

敢えてコメントをいただいたということは
こちらとしても、大変ありがたいことだと思っています。
例えば、
昨日の記事がどこまであっているかはともかく、
もう亡くなってしまったのだから、
今更書いても空しいだけではないか
というご意見を多く寄せられました。

そこで、今日の記事を書こうと思った次第です。
こういうきっかけとか、問題の所在については、
確かに書いているときは、なかなかそういうことに
気が付かないため大変ありがたいのです。
そういうところに気が付けば、
もっとわかりやすく書きようがあるので、
今回の記事に反映できなくても
次回以降に反映させていただくことになるし、
今日みたいにそれで一本作ることもあるわけです。

昨日の宇都宮事件については、
真実はわかりません。
DVがあったのかなかったのかについても、
私にはわかりません。

ただ、こういう構造で、こういうことが起きる可能性がある
ということは言えると思うのです。

亡くなった方が、特別な性格、人格で
例えばテレビの司会者のコメントのように
自己顕示欲が強くてこういう事件を起こした
とばかり決めつけてよいものか
という疑問があります。

一つには、子どもから引き離された父親が
自死をするケースが非常に多いということです。
自分の命を大切にできなくなっている状態ですから、
他人の命を大切にできなくなる状態と
隣り合わせにあるということに気が付くべきです。

焼身自殺をした父親に
子どもが巻き込まれて死亡したケースもありました。
報道では父親が子どもを道連れにしたとされていますが、
私の友人の番頭たま氏調べでは、
焼身自殺をしようとしている父親を助けようとして
小学生の子どもが結果として道連れになった
というのが目撃者の話だそうです。

自分の命を大切にできなくなる状態に
人を追い込まない方が良いに決まっています。

親が子から引き離されて自死が頻発するということは、
自死に至らないまでも、追い込まれて苦しんでいる人たちが
無数にいるということです。
死ななければ良いというものでもありません・

誰かの失敗、過ち、損害そういうものが
その人独特の、特殊な事情によって起きているなら
それはそれで終わりでよいでしょう。

しかし、そういうことは滅多にないと思います。
構造的な共通項があるならば、
繰り返される危険があると認識しなければならない
と思うのです。

「彼は誤っている」ということで終わりにしてしまうと
もしかしたら、同じ行動をとる人が出ることを
防ぐことができたのにみすみす許してしまうこともあるでしょう。

法律家は、人間の数々の誤り、損害、失敗に立ち会います。
それは、その人の偶然の事情を超えた共通項があるはずです。
そうだとすると、法律家は、
同じ誤り、損害、失敗を繰り返さないために、
予防を提案するべきだと思います。
二の轍を踏まないようにということです。

このブログ、対人関係学はそのためのものです。

もう一つ目的があるとすれば、
あなたと同じことで苦しんでいる人が多くいるということと
苦しみの原因はここにあるのではないかということを
提起することだと思います。
そうすることで救われたと言ってくれる方も
大勢いらっしゃいます。

そのための自死研究であり、
いじめ、過労死研究であり、
離婚研究であるわけです。
まさに私のテーマの事件だったので、
私しかこういうことは言わないだろうということでした。

蛇足になりますがもう一つ、
方法論として、誰が悪いとか
正しいから仕方がないという思考はとらないということです。

離婚問題であれば、
夫婦というチームの不具合として
チーム状態の修正方法を考える、

いじめ問題も
本質的には、学校というチームの不具合を修正する
きっかけになることを考えます。

犯罪関係についても、
個人に帰責するよりも
社会状態の不具合を修正するという発想に
たつように心がけております。

ご理解いただきますれば幸いです。

コメントをいただいた方々に心より感謝申し上げます。


累積(閲覧数だと思うけどたしかなところは・・)100万到達、感謝特集 [閑話休題]


このブログも、累積100万に達しました。
ありがとうございます。
とにかく長い文章ということが不評で、
もはやブログとは言わないのではないかと思いながら、
続けてまいりました。

その割には、よく読んでいただきました。
おひとりで、いくつもの記事を読まれる方が多いのも特徴でした。

これを記念しまして振り返りを行いたいと思います。

始めたのは、2009年10月8日 「ただだというので始めました。」
というもので、大変情けない始まりです。

元々事務所のホームページを作るという計画の元、
まずは手軽にブログを作成しようと始めたので
こうなっています。

現在事務所のホームページ、対人関係学
情動の研究と3本ただでホームページを開設しています。

このブログ、一度無期停止にしています。
平成23年6月8日の後が平成24年7月14日となっています。
それまで毎日書くようになっていて、
なんか自分で自分を拘束していた息苦しさもあったのですが、
震災の記録という使命感の息苦しさもあって
中断が必要と感じました。

今は気楽に書きたいことだけ書いています。
書きたいことが多すぎるのが悩みです。

中断前の記事は、その後も読んでいただいており、
記事の多さで言えば、
「職場に行きたくない、パワハラを受けているかもしれないと感じている方へ 同僚の方にも」 
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2011-05-11
がダントツで、今も新たに読んでいただいています。
震災から2か月後に書いている記事でした。

その次に多いのは、
「万引きは、根深い理由があります。放置すると繰り返され、最後は刑務所に。弁護料金。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2010-09-19
です。

なかなか理解されない苦しみというものがあって、
それは弁護人としてはかなり切実に感じていました。
この記事を読んで救われたという方もいらっしゃって
大変うれしい思い出です。

一方
面白いことに、四国の薬屋さんのホームページだかブログで
表題だけ引用されていて、
「これだけでは何を言っているかわかりません」
なんて批判がされていました。
そりゃあそうだろいうという突っ込みを入れたいのですが、
それほど怒っていません。

やはり、ノウハウ的なものの閲覧数は多く、
2010年3月5日
「夫の借金を妻が支払う義務なし 親子も一緒」
2010年4月6日
「自殺と保険金 死亡すると借金が免除される場合」
2010年4月18日
「物件事故でも実況見分調書を。写真活用の簡易図面は?警察庁にお願いします。」
警察官の方からもコメントをいただいて感激しました。
2010年4月21日
「犯罪をしたのに無罪?責任能力(心神喪失)とは。アルコールと向精神薬」
「100:0対0:100の過失割合の主張事案が、なぜ示談成立したのか 物損事故」
「逮捕されたらどうなるの 日本の人権水準 代用監獄の問題」
等、
法律実務を分かりやすく伝えるという
当初の目的は正しかったようです。

弁護士や一般の方からのお問い合わせもいただきました。
「やはり取り下げられた支払い督促」
なんていうのもロングセラーになっています。

そうかと思えば、
2010/1/27
「国際人権(自由権)規約第1選択議定書 個人通報制度 歴代内閣の怪」
という勉強チックな記事も、意外に多く読まれているようです。

なんといっても、過労死、パワハラの記事は多く読まれているようです。
「なぜ、過労自殺する前に仕事をやめないのか」
「労災弁護士から見た教師という職業の危険性 うつの原因の分析」
「こんな指導がパワハラとなり、部下をうつ病にする マニュアル 予防措置2」
「パワハラをどうやって止めさせるか。ノウハウの蓄積とアウトプット」

中断からの再開後は、まだ、それほど閲覧数が多いものはありません。
最近では、
「自分が死ななければいけないと考えている方に。それは脳の誤作動です。希死念慮に対するあるいは誤解」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-04-07
という記事が、静かに読まれ続けているようです。
当事者の方と一緒に書いたような記事ですので、
ぜひ読んでいただきたいと思います。

中断後は離婚、面会交流の問題で多く記事を書いています。
2014/2/11「続・思い込みDV 思い込みが成立する条件」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2014-02-14

「両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10

「離婚後の単独親権は、他方の親を排斥する制度でも、子どもを支配する制度でもない。13歳で亡くなったお子さんを追悼する。」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-07-30

「離婚後等の面会交流について、子の父と母は誠実協議義務があることについて 」
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-08-04

等、子どもの引きこもりやリストカットの事例と付き合うようになって、つくづく子どもの健全な成長こそ、一番大事にしなければならないことだと思っています。

過労死の問題では、まず、学校の先生方の忙しさを何とか解消する
ということは、
国民的課題だと思っています。

2014/6/18「教員は、その働き方を見せることで、教え子を過労死や離婚等の家庭不和に導いている。」
挑発的な記事ですが、
周りの学校の先生方は、理解していただいているようです。

自死問題も、離婚問題も、過重労働問題も
すべては、子どもたちの健全な成長という視点で
考えるようにしています。

書きたいことがなくなったらいつでもやめます。
そうなることが、
人類が平和になることなのでしょうから、
その日が来ることを祈っております。

読書三昧と、樹木の観察の日々を
心待ちにしている次第です。


同級生の、うっさんとおみたんに学ぶ。我ら松田聖子世代と安全保障法制法案の時代 [閑話休題]

私の世代というのは、わかりやすく言うと松田聖子世代
最も姉さんは、学年一つ上、歳も今日現在は一つ上、
(同時代的には、熱狂的指示や反発もあったけど
 現在は、世代の代表という気持ちで純粋に応援している)

前にも書いたのですが、
このブログの読み手として意識しているのは、
私の中学校や高等学校の同級生や
その仲間の飲み友達やソフトボール仲間なんです。

そういう人たちにわかってもらうように書かなきゃと
そういう意味で意識しています。

なんていうか、大事なところを
余計な説明をしないでわかってくれるということがあって、
真意が伝わるか疑問が多いときも、
えい、やっ、わかってくれるだろうと
書くことができる・・・
というのはわかりやすく書けないいいわけでしょうね。

まあ、勇気づけられているわけです。

先日、同級生のうっさんがFBに投稿していて
たまにものすごく本質的なことを書いて感心するのですが、

かいつまんでいうと、
友達同士だと、政治信条が違っても
だからどうだということで付き合いが変わるわけではない
それなのに、ネットになると
政治信条を攻撃して、人格を持った人間に対する態度ではなくなる
みっともないし、嘆かわしいと
いうことでした。

ねえ!
わが意を得たりですよねえ。

ちょうど、その朝、
同級生の誰かが、
「集団的自衛権に賛成するよ俺は」って言われたら
自分はそいつにどう接するかなとぼんやり考えていたところでした。

おそらく、「ああ、そうなんだ」と言って
「それはまたどうしてだい?」と教えてもらおうとするんだろうなと
思っておりました。

これまでもそうだけど
同級生だと、
私自身が思い当たらない、理由があるのかもしれない
という興味がわくし、
みんなは、どんなことで意見が違うのだろうということに興味があり、
ブログネタにもしてきたわけです。
そうして、相手の意見に
ああ、そういうことかと思えなければ、
自分の意見を言わないし、
意見を通そうっていう気持ちではなく、
説明をして、一定の理解をしてもらおうとします。

ただ、うっさんが言っているように
ネットだと、どうしても、
反対意見の人に対して、容赦がなくなる
というところは気を付けるべきでしょう。
私のように挑発的なことを書く場合は特にそうですね。

んで、これがヒントに思ったのですが、
確かに、国家機関とか政府与党に対しては、
問題点を明らかにして、攻撃的な追及をすることも必要かもしれませんが、
表現の自由での「戦い」一点張りでは、
民主主義の理解が不十分ではないかということです。

若者や、確信を持った人たちは、
あるいは、他人の「怒り」に共鳴を持ち
ハーモニーになるのかもしれません。

しかし、多くの国民は、
他人の怒りを見ると、ひいてしまうのかもしれませんよ。
怒りを持つということは相当のエネルギーが必要です。

本当に怒りの人たちの理屈が、正解かどうかも
実は怪しいところです。
今回の怒りは、
戦争反対に落とし込んで、思考停止させている
という批判が成り立つように感じる人もいるわけです。

ところが、今の戦略は
怒りを大きくして、国家機関、政府与党と対決だあ
という、そういう戦略に思われます。

じゃあ、どうすんだという話ですけれど、
民主主義の世の中では、
敵をたたくことよりも、
味方を増やすことだという簡単な提案です。

集団的自衛権をしなければ
誰かの家族が拉致されることが増える、島がとられるという考えの人を
味方にしていくことが必要なのだと思うのですが。

結構多い人が、そういう考えを持っているのです。

怒りの行動は、そういう人たちを仲間から遠ざけます。
怒りの共鳴ほど怪しい共鳴はないし
長続きすることはことの性質上ありえない。

自分と異質な人たちをなかったことにされちゃあ
たまったもんでもないですし。

怒りは、その性質上、歯止めが利きにくくもなります。

そして、そのうっさんの投稿に、おみたんがコメントして
スポーツチームの指導者をしているのですが、
メンバーみんな個性があって、
一律に求めてもだめで、
そうして、その意見の違いっていうのは
必ず理由があり、
みんな意見が違ってもそれぞれ正しいっていうんです。

素敵です!

20年以上、人様の紛争にかかわって生活してきましたけれど、
最近、本当にそう思います。
どちらが正しいかというより、それぞれ正しいと思った方が、
解決の道筋が見えてくることが多いです。

みんなそれぞれ理由がある
言葉に出して、言ってもらえると感激してしまいます。
対人関係学のエビデンスですわ。

私たちの世代、私たちの年齢、
あっちぶつかり、こっちぶつかり
みんな手をつないで成長しているようです。

友だちのように歌い、友だちのように踊る
それが友だちなんだよね。


フェイスブック、SNSで、友達や信用を無くさないための方法試案 ネットの私はボーダーになっている。 [閑話休題]

フェイスブックはなかなか難しく、
知らず知らずのうちに失礼な書き込みをして、
人を不愉快な思いにさせていることがあります。

数カ月フェイスブックを使ってみて、
いろいろ思い当たることがありますので、
まとめておこうと思います。

そういうことですから、
これは、この記事に基づいて損害賠償を請求する
というためのガイドではなく、
うっかりした行為による紛争を防止するための試案です。

まず、フェイスブック等のSNS上の発言、受け止め方は、
日常の対面の受け止め方と違う
ということを自覚する必要がありそうです。

1) 言葉だけでの情報のやり取りをしている
      対面では、相手の声の大きさや感情という情報を受け止めている
      対面では、顔の表情という情報も受け止めている。
      対面では、同じ「場」にいるということから共通の認識もある。
    対面では、これらの言葉以外の情報によって、理解を助けたり、
    相手の気持ちを察して、議論をやめたり、話題を変えたりしているようです。
    遠慮という気持ちが起きるわけですね。
    ところが、SNSでは、それらの情報がなく、言葉だけでやり取りしています。
    お互い酔っぱらって、笑いながら言っていることが
    文字になると、とてつもなくきついやり取りになるということは
    簡単に想像できると思います。

    その結果、相手の気持ちを考える能力が著しく落ちます。
    その結果、相手を不快にする言動をしてしまうことがありそうです。


2) 言葉も短いうえに結論先行型
      対面では、日本人は結論を濁し、察してもらう技法を使う。
            このため、ソフトな印象を与えることができる。
      対面で、意見が食い違う時は、
      どこが論点で、それに対してどういう風に考えるから意見が違う
      また、意見が違うだけだということを伝えることが可能
    
    ところが、SNSでは、意見をはっきり言わないと話にならないから
    結論を明記します。
    字数が事実上限られているので、回りくどいことを言えません。
      その結果、ただ文字を読んだだけでは、
      ケンカを売っているのではないだろうか、
      自分を軽く見ているのではないだろうか
      という印象を与えてしまい、自分でも思ってしまう危険があるようです。

3) 相手が、同時に別の人たちともその記事を通じてコミュニケーションをとっている
   また、ネットを通じてその人を知っているだけなので、
   その人のこれまでの経歴、活動分野などを知らない場合が少なくない。

     対面では、1対1で話すので、聞いていない人のことを考える必要はない。
    ところがSNSでは、自分が知らない人で、その人とつながりのある人も
    その記事とコメントを読んでいる。
     うっかりした常識的な書き込みが
     その人のコミュニティでは、非常識な書き込みになっている場合がある。     
     
     たとえば、私は弁護士ということをある程度お知らせして記事を書いていますが、
     たとえば同時に、利き米のタイトルホルダーだとします。
     品種による米の調理の仕方について、
     コメ関係の人と情報交換している記事を発信しているときに、
     そういう情報を持たない人が、一般的知識で
     「コメの味の違いは難しいから専門家に任せたほうが良い」
     などということを善意でコメントしたりするわけです。
     利き米大会に立ち会っている人は、一笑にふすことができますが、
     立ち会っていないけれど、タイトル保持者だという知識で接している人は、
     そのコメントを見て、「やっぱりわからないくせに発言する人だ
     弁護士だから立てていただけか。」と思うかもしれません。
     (ある程度架空の事案)

4) 結論
   SNS上では、実際に話すよりも
   こちらに攻撃的な気持ちがなくても
   ケンカ腰に読めてしまうという特徴があるようです。

 こういう書き込みをしてしまうパターンというのは
 1) ある程度礼儀を省略してもよい仲間だと勝手に思い込んでしまっている。
 2) とにかく何書き込みをすることが礼儀だと思っている。
      詳細を読まないで書き込みをする人が多いですね。
 3) スレ主と、勝手に強い絆を感じてしまっていて、
    意見が違うことに強烈な衝撃を受けてしまっている。
 4) スレ主の知名度などを利用して自分の利益を図る場合
    (有名人のスレに、勝手に広告を載せるような場合
     スレ主のコミュニティーの中で存在感を示したい場合)
      信念、主張を持ってしまい、スレ主が違うと
      無意識に自分の信念を布教したくなる場合があるようです。
      多くは、意見が対立するというよりも
      論点にもなっていないのに、錯覚して書き込みをすることが多いようです。

<ではどういう風に参加すれば無難なのか

1) フェイスブックなどのSNSは、基本的には
   議論の場ではなく、情報発信と受領の場と心得る。
   フォーラムみたいに解放された記事だったり、
   ごく近しい仲間がだべりあう場という
   性格がはっきりしているところはよいのですが。
   そうでなければ、必要な情報を受け止めればよいとしましょう。

2) 意見が違う場合は、自分でスレを立てる
   どうしても意見を言いたい場合は、その人のスレにコメントを書き込まず、
   自分でスレッドを立てるべきなのでしょう。
   当てこすりになったとしても、未熟な議論を吹っ掛けるよりもましです。
   自分の責任で情報発信をしたほうが無難です。
   そうでなければ、当初のスレ主の
   情報発信の妨害にしかならないことが多いようです。

3) 相手の明らかな間違いは、メッセージやメールなどを利用して
   相手だけに教えてあげましょう。
   友だちのミスを利用して名を挙げる必要はないわけです。

4) 賛同できる場合は、積極的に賛同の意思を表明しましょう。
   うれしいですよね。

5) 書き込みで、スレ主の意見を充実することができ場合でも
    上から目線での指導のような表現は避ける
    その人の別のコミュニティがあることを配慮する。

6) 賛同できない場合は、スルーするのが基本。

7) スレ主が苦痛になるコメントは、
   スレ主ならば普通に削除できます。
   自分のコメントを削除するときと一緒です。
   この場合も、
   一言、削除した理由をメッセージなどを利用して書き込むとよいかもしれません。
   a) コメントを拝見しました。私個人に対するご意見だと思いますので、
     受領し、当方で保存しますので、コメント欄からは削除させていただきました。
   b) コメント欄を拝見しました。引用したブログについて、誤解されているか
     最後までお読みになっていないと思われましたので、
     当方でコメント欄からは削除させていただきました。
   c) コメント欄を拝見しました。意見、観点の異なるものと受け止めました。
     現在、当方としては、当初の情報を多くの人たちに発信しようとしています。
     ご意見は、拝聴するべきだと思いましたが、
     私の提供する情報を誤解する方も出てくると思いましたので、
     コメント欄からは削除させていただきました。
   
   コメントを削除された方は、なんらかの不具合があるわけですから、
   削除されても、自分の人格を否定されたと思わず、
   腹を立てないほうが良いと思います。

これまで、私の投稿、コメントでご不快を与えてしまった皆様
心よりお詫び申し上げます。
また、皆様のご意見、人格に対して
攻撃する意図がなかったことを
ご理解賜りますよう、お願い申し上げます。

政権与党のアドバンテージとはなにか。対人関係学からみた読売球団との親和性。 [閑話休題]

心理学者バウマイスターが、
The Need to Belong
という論文で、
人間は、どこかに所属していたいという
本能的な要求があるといっています。

極端な話、
かたきと自分の二人しかいないという場合、
そのかたきとでさえ協調しようとする
行動を起こすという研究結果を報告しています。

我々日本人にはピンとくる話で、
菊池寛の短編「恩讐の彼方」にを
すぐに思い出してしまうわけです。

要するに、身近な人に親近感がわくことは
人の本能的な要求で、
それに向かっての行動をしようとするということです。

ひところ、プロ野球では、
読売球団の人気が際立っていました。
毎日毎日、テレビで選手の顔を見れば、
なんとなく、親近感が湧いて応援する
ということは人間の本能に合致しているわけです。

最近では我がパシフィックリーグを始め、
売り出しに熱心になっており、
地域色が強い方針と合致した球団が
人気を集めるようになっています。

同じように、政治の世界でも
連日顔をマスコミを通じて知っている
閣僚なんかは、
特に自分の住んでいる選挙区の議員は、
なんとなく身内意識が出てきて、
投票所に行って投票しようという気になるものです。

もちろん、実際の政権与党は、
なかなか戦略も秀でていて、
身近意識、仲間意識を醸し出す活動を
地道になさっています。
日々の努力も、理にかなっています。

もうひとつの政権与党のアドバンテージあります。
これが大きいのです。
あまり、他の政党を批判しなくて良い
ということが強みなわけです。

これに対して、野党は、与党を批判しなければなりません。
政権党の総裁を呼び捨てにしたりして、
それこそかたきのような批判を展開するわけです。

主張が正当であったとしても、
これは人間の本能に反したものとして
受け止められるという宿命があるのです。
聞いている人に潜在的な嫌な気持ちを呼び起こさせています。

政治に関する怒りの感情が共有されるためには、
相当複雑な思考作業あるいは、
所属感、仲間感が作られるということが必要です。
まず話を聞こうというとっかかりということも相当難しいです。

怒りは、おもに、怒っている人に近づかないようにしよう
という作用があるようです。

先程も言ったように、
人間は、所属の本能的要求があるのですが、
ただ所属していれば良いというのではなく
他の人間と協調して所属したいという
本能的要求があります。
ひらったく言えば、
仲良く生きていきたいわけです。

だからその批判が、正しい評価だとしても
人間の皮をかぶった悪魔のように決め付ける批判は
無意識のうちに拒否しようとすることが自然なのです。

どうしても、批判は後ろ向きな性格を帯びます。
明るい展望は生まれてきません。

これに対して政権与党は、
これまでの実績を語ることができます。
また、今の現状の問題点を
政権党の立場から変えていくという
夢を語ることが容易なわけです。

何か聞いていて明るくなりますよね。

おそらく、人間だけでなく多くの生物は、
明るい方へと移動しようという
本能的志向があるのではないでしょうか。

なんか楽しそうだなということが、
なんかこの流れを、
人を悪く言う人たちに邪魔されたくないな
しかも、あの先生は誰々の、従兄弟の同級生だものな
とあるんだかないんだかわからないようなものでも
自分とつながっている人という意識が生まれてしまい
自分の所属の人だから
落選したらかわいそうだなということに
例えばなるわけです。

野党は政権党を批判しなければならない
これが宿命・・・
なのでしょうか。

問題は批判のやり方なんだと思います。
政権は、こういうふうに間違っている
というところで止めていたら
これまでの繰り返しですよね。
相手の悪口にしか聞こえない。

その先のプラスのイメージを語ることが
むしろ、有権者の投票に対する
モチベーションを高めるわけです。

その政策が我々を苦しめていると語るよりも
その政策をこう転換することで
こういう明るい未来が実現できる
ということこそ強調するべきなのです。

ところが、決定的に、そこが弱いように感じられます。

マイナスからゼロを語っていては明るくなりません。
人は動こうとしません。
ゼロがいかに素晴らしいか、ゼロの先のプラスが
人が協調して生活することに合致するのだという気持ち
そういうモチベーションを高めることが大切なわけです。

投票に行くこと、言って自分(たち)の名前を書いてもらうこと
このモチベーションを高める活動が選挙活動のはずです。

言いたいことは言った。
自分たちはとても正しい。
それでも得票にいたらなかったのは、
国民が悪い、政権党が強すぎた(ずるさもふくめて)。
というのでは、

同じ怒りを共有している人たちだけが
カタルシスを得るだけで、
支持の広がりにはあまり繋がらないわけです。
勝とうとしていないということになってしまいます。
この先も同じでしょうね。


まっさんの視聴率が低下した原因、20%を割った理由 「ええーっ!」対人関係学的観点から [閑話休題]

本当は期待していたのです。
竹鶴政孝の半生を描くドラマですから、
ウィスキー好きの私にとっては垂涎もので
なべ屋がポットスチルを製造するというところなんかは、
一人興奮しているわけです。

ところが、世間的には、これまでの
あまちゃんからの視聴率を割り出したということで、
原因があれこれネットの話題になっているようです。

この原因談義に、対人関係学的観点からも
参戦しようとしているものです。

原因は、ズバリ、大声だと思います。

ええーっ!は、毎回出てきますが、
特に主人公が大声で、声を枯らして叫んでいます。
肯定的な怒鳴り方ではなく、
抗議だったり、相手を否定するような怒鳴り方です。

対人関係学的にいえば、
怒鳴るという危機感に基づく感情
自分の人格などを否定された時に感じる疎外感
大声を出すということで相手の思考を停止しようとする行動
これから起こるかもしれない暴力などの危機的状況

これら負の感情を
意図していないのに、自然に感じ取って
無意識に、共感、共鳴してしまっている
と説明します。

もともと、大きな声は、
危険を知らせる信号だったのでしょう。

そうして、朝から、待っさんが怒鳴るたびに
傷口を広げられたような気持ちになったり、
抑圧された閉塞感を感じたり、
女性なんか特に怖いという気持ちになることと思います。

こういう思いをするならば
なんとなく聞きづらい、観づらい
という気持ちになっていくのは当然でしょう。

あまちゃんは、驚くとき「じぇじぇっ!」でしたよね。
必ずしも否定的な状況で驚いてもいなかったわけですが、
非日常的な「じぇじぇっ!」を聞いても
そのような負の共鳴力、共感力は湧いてこなかったと思います。

アンと花子も、あまり怒鳴るシーンがありませんでした。

二つの番組とも、女性が主人公だということも
関係していると思います、
少なくとも怒鳴るキャラクターではなかった。

このように、対人関係学では、
負の連鎖というものが起きるのだということを主張します。

これは、いじめやパワハラを直接受けていなくても、
頻繁に目にすること、特に被害者が苦しんでいる時に、
目撃者に負のダメージを与えます。
加害者ですら潜在的なダメージを受けると考えています。
人が疎外されていることを体験することで、
徐々に、自分も大切にできなくなってくる、
潜在的な自死の能力が高まる
というふうに考えます。

そうやって考えると、本当に毎回毎回
主人公を始め、誰かが怒鳴っています。
ウイスキー製造の話でなければ私も見ないでしょう。

どなることをやめて、
高視聴率となることをお祈り申し上げます。
ウイスキーを飲むたびに耳鳴りがしたのでは
ちょっとねえ。



集団的自衛権行使を阻止する運動といじめ、パワハラ 今連帯が試されている。 [閑話休題]


いじめの問題を扱っていると、
被害者は気が付かないけれど、
驚くほど多くの支援者が、被害者の周囲にいる。
どうしてこれがわかるかというと、
被害者側が、そのことを相談者に話すからである。
事実として記憶にあるのだけれど、
被害者は、その人たちが勇気を出して、
自分を助けようとしていることを認識できないでいる。

認識できない理由は、
もっと強力な助けを求めているのに、
そこまで強力ではないから。
あるいは、疑心暗鬼が高じてしまい、
他人が自分のために努力しているわけがないと
勝手に思い込んでいるから
というところだろう。
被害者の意識とはそういうものである。

いじめの場合、誰か一人がすべてを解決する
ということにはなかなかならない。
こういう、小さな善意を積み重ねていくことが
確実な解決法だ。

集団的自衛権行使の方針が閣議決定された。

これは、当然違憲無効であるが、裁判をやっているうちに
政権がこれを行使したら、取り返しのつかないことになる。

但し、憲法の改正はしなくても、
自衛隊法などの改正はするといっているので、
この次の運動は、自衛隊法改正阻止であり、
これが本当の山場になるのだろう。
運動は、火曜日に始まったばかりである。

これは失敗してはならない。
法案を廃案にしなければならない。
誰かが死んでからでは遅い。
一人の自衛官も死なせてはならない。

これが通ることは、アメリカの要請で、
集団的自衛権行使の範囲も広がっていく。
ここで食い止めなければならない。

そのためには、
今の反対運動で良いのか、
このまま声を出し続けていけば、
本当に廃案にできるのか。
誰かが真剣に考えているのか。
203高地の突撃指令では、また善戦で終わるだろう。

政権は、国民の反対は織り込み済みだ。
北極を向いて右の海の先しか見ていないから、
これで、政権がつぶれても、痛痒を感じないだろう。
そのアメリカは、中国と共同軍事演習を行っているとのことだ。

今、平和を求めたり、集団的自衛権行使そのものに反対している人たちが、
いくら結束を強めても、法案は廃案にならないのではないかと
心配している。

集団的自衛権そのものには賛成している人たち、
国際貢献が責務であると考えている人たちが、
憲法を改正しないでの集団的自衛権行使には反対だ
と声を上げるようにならなければならないと思う。

今、なんとなく閣議決定に賛成した人たちに、
やっぱり駄目だと思ってもらわなければならないと思う。

これらの人を敵視して、攻撃をしているようでは、
廃案になることはないだろう。
この人たちに働きかけることをしないで、
価値観を同じくした人たちが結束を強めれば強めるほど、
こころならずも、結果として排除の論理を感じる人たちが出てくる。

戦争反対ということも、もちろんモチベーションになるし、
立憲主義はどうでもいいけど戦争には行きたくない
という人たちもかなりの割合でいるだろう。
そういう運動があることに、反対はしない方がよい。

ただ、そういう勢力とは別に、
戦争には反対しないし、憲法9条の改正も視野に入れている、
日米安保は必要だという人たちにも、
憲法改正なしでの集団自衛権行使には反対するということを
自由に言ってもらわなければならない。

現政権は、現在運動の中心になっている勢力を
一つ一つつぶしにかかるだろう。
分断を図っていくだろう。

孤立をさせることが、その一番の方法だ。
自分の望み通りの活動をする人だけを仲間だと考えるような
被害者意識のままでは、孤立は目の前だ。

自分と方法論や思想が異なっても、
憲法を改正しないでの、集団的自衛権行使には反対だ
というぎりぎりの一致点で、
緩やかな協同を積み重ねていき、
今、閣議決定を理解している人を
翻意させるような戦いを組むことで、
初めて、アメリカの要請を蹴ることができるのだろう。

憲法を改正しないでの集団的自衛権行使に反対するのは、
政治運動でも、思想運動でもない。
ハードルを低く、低く下げるべきだ。

地方議会で反対していた
自民党議員、公明党議員も
独自の結束をしてもらい、エールを交換できるような
大人の運動を本気でやらなければならない。

それができないで、
善戦で終わった、戦後日本の運動を繰り返してはならない。






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