So-net無料ブログ作成
進化心理学、生理学、対人関係学 ブログトップ
前の10件 | -

人を殺すシーンなどグロテスクな映像が有害である理由 面白くても批判しよう! [進化心理学、生理学、対人関係学]



人気テレビ番組でマンションの住人などが次々殺されるというものがあって、
リアルな死体や、殺されている場面が詳細に描写されるシーンがあり、
これはやりすぎではないかと感じました。

昔は、ちょっと暴力的な漫画の描写があっただけで、
保護者団体が意見表明などをして
問題だと大騒ぎになったものですが、
高度成長の終わりからバブルにかけての時期あたりから
あまりそういうことをいう人たちがいなくなったのか、
メディアに取り上げられなくなったような気がします。

子どものころ、自分が見ている漫画が
PTAから有害指定されたりすると、
わからずやとか、表現の自由を侵害するとか
よくわからないくせに考えていました。

しかし、いざ親の立場になると、
やはり子どもに見せたくないシーンというものがあるし、
どうしてもっと批判の声が起こらないのだろうと
不思議な気持ちになっています。

いや、本当は「北斗の拳」あたりから、
なんとなくこれは問題ではないかと思うようになってはいたのです。
漫画を見て感情移入ができず、引くようになったということですね。

同じころから、大人たちが物分かりが良すぎるのではないか
ということを時々感じるようになってゆきました。

いじめの問題に取り組むようになってからは、
教師が子どもたちの空気を読んでしまって
言うべきことを言わないようになっているのではないかという疑問が
大きくなってきていました。

さて、なぜ残虐なシーンが有害なのかですが、
ひとことで言うと、
人間は被害者に共鳴してしまうからです。
そしてそれが記憶に残るからです。

共鳴、共感というのは、
バーチャル体験をしていることです。
つまり、自分は実際には殺されるような暴行を受けていないけれど、
あたかも暴行を受けている状況にあるかのように
脳等の神経や体が反応してしまっているということなのです。
思わず手に力が入っていたり、
無意識に体をよけようとしていたり、
あるいは、血圧が上がったり脈拍が増えたり
こういう防衛反応をしてしまっていることが
共鳴です。

もちろん作り事だということは頭の中ではわかるのですが、
体は勝手に反応をしているわけです。

たまらなく不快な気持ちになるのも、
自分が逃げ場を失って絶望することの
追体験をしているからです。

そしてそれは記憶されます。
記憶の機能というのは、
危険を知って、危険のパターンを覚えて
危険に近づかなくする、危険から脱却する
ということがもともとの機能ですし、目的です。

恐怖体験は記憶され、
それを克服するために、記憶は反芻されます。

嫌な画像というものは記憶に残りやすい
ということはこういうことです。

これ自体が大変不快なことなのですが、
有害であることはそれにとどまりません。

人間は危険の記憶を維持し続けることに耐えることができず、
危険が去ったと思わないと生きていけないからです。
そのための、防衛の仕組みがあります。
絶望の共鳴から無意識に逃れようとするわけです。
そのためには、心の中で、
「これは危険ではない。大したことではない。」
という意識を持とうとしてしまうということです。

残虐シーンを何度も見ていると
徐々にこういう気持になっていきます。
外科手術のシーンを初めて見た場合は
とても怖い感じがしますが、
何度も見ているうちに感覚がマヒしてくる
ということがあります。
もっともお医者さんや医療スタッフはそうではないでしょうけれど。

ドラマの中だとしても、
人がどんどん殺されていくことを目撃していれば、
いちいちたまらなく嫌な気持ちにならないために、
「それは危険ではない、大したことではない」
という気持になってゆきます。

徐々に人の命を奪うことの抵抗が小さくなってゆくのです。

しかも、殺されていくシーン、被害者が絶望するシーンを
リアルに描けば描くほど、
心は自己防衛をしようとするので、
それは危険ではない、大したことではない
という気持になってゆきます。

この行き着く先は、人間の苦しみや恐怖を
笑って観れるようになってゆくというように
気持ちが馴れてゆくことです。

それはすなわち、
人間の命なんてそれほど価値のあるものではない、
人間なんてそれほど価値のあるものではない
という意識が育ってゆくことだと思います。

そうしないと、心が耐えられないから
無意識に心の防衛反応がおきているのです。

ちょうどギターの弦を抑えるとか
何かの作業をしていて、
指の皮が厚くなるという現象があります。
指を守るために指の皮膚が厚く固くなるわけです。
作業から指を守るためには有利ですが、
温感や被服感覚が鈍感になってゆくという不利も生まれます。

心をきたえるということは、指のように
びくびくしないように皮を厚くしてゆくことであって
心をきたえると、くよくよしなくなるかもしれませんが
センサーが鈍感になってしまいます。

「人間なんて価値がないから
守ってやる必要はない。
誰かが苦しんでいたり困っていたりしても
こちらも気に病む必要はない。」
これを、頭で考えるようになるのではなく、
体にしみこんでいくようになるということなのです。
無意識の感覚の変化なので、
自分の心がすさんで言っていることに気が付きません。

もし意図的に残虐な行為が流されていて
それを観ない自由を奪われているとしたら、
人間の心なんて自分が意識しないうちに
どんどん荒んでゆく可能性があるということなのです。

さて、そうやって、
他人の苦しみが分からなくなるということは、
大きな話をすれば
海外で戦争があって、人が殺されたり
子どもたちが苦しんでいる姿を見ても
あまり気にしなくなるということにつながります。

もっと身近な話をすれば
会社で人格を否定するようなパワハラを受けて続けている人を見ても
「あいつだから仕方がない」
「あいつがへまをしたのだから自分は関係ない」
「彼女が挑発的なふくそうしているから悪い」
という分厚い皮を心にかぶせてゆくのです。

学校ではいじめがあっても
共鳴、共感できなくなっていますから、
それこそテレビ画面でぼんやりと
見たくもないドラマを見せられているという感覚になります。

心配するとか、支えるとか、声をかけるとか
ましてやそれはやめろよというようなことを
言おうとする発想もなくなってゆくのです。

実は、それだけならまだ良いのです。
害悪はまだ続きます。

それは、人間が共感する動物だという特徴があることに関係します。

他者を、一段低く見て、
「あいつがいじめられるのは仕方がないとか、」
「あいつが悪いから、自分はもっとうまくやればよい」
とか、そういうところで止まらないということです。

あいつも自分も同じ人間なので、
自分以外の人間が苦しんでも仕方がない、どうでもよい
と思う心は、
自分を含めた人間が苦しんでも仕方がない、どうでもよい
という心になることを防ぐことが難しいのです。
無意識に起きていることだからです。

そうしていくうちに
自分をふくめて、人間の命なんてそれほど大したものではない
ということにつながっていってしまう危険があります。

究極的には自死への抵抗が低くなっていくわけですが、
それ以前に、自分を大切にしない薬物や自傷行為等が表れやすくなります。
また、人間のほこりが無くなりますから
ばれなければ良いやという形で犯罪なども起こりやすくなります。

自分はきちんとやっている、うまくやっているから大丈夫
と思っている人は、
うまくやっていることから外れてしまうと
自分はこちら側の人間ではなく
あちら側の、大切にされなくても仕方がない側の人間に
なってしまったという意識が強く起こりやすくなります。
色々な社会病理に手を出しやすくなってしまいます。
たまたま、交通事故を起こしたり、
たまたま、困難な事案に巻き込まれただけで、
自分が作っていた壁の向こう側に行ってしまうのです。

現代社会ではただでさえ、
自分の価値を低く見てしまう事情がたくさんありすぎると思います。

せめてテレビだけでも
人間の価値を低めるようなシーンは見たくないし見せたくない
そう思います。

人の命が失われる場面をウリにしている番組は
大いに批判されるべきだと思います。

昔の大人たちは、このような神経学的な話は分からなかったはずですが、
直感的に、あるいは良識的に、
ダメなものはダメだということを感じたのでしょう。
本来はそれでよかったものが、
現代では見えなくなっているのか、
言えなくなっているのか
頭で考えなければわからなくなっているのかもしれません。



nice!(0)  コメント(0) 

なぜ言葉も生まれていない200万年前にヒトは群れを作ることができたのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

これは、前々回のWEB上予行演習の続きというか
修正しようと思っているところです。
では

ということで、人間とは何かということを考えなければならないのですが、
それは本来、各人が考えることであり、
誰かの考えを押し付けるということはできないと思っているので、
では皆さんよく考えておいてくださいで終わるのが筋が通っていると思うのですが、
それで帰るのも何なので、一つの考えをサンプルとして示したいと思います。

私は、人間は群れを作る動物だというところに着目したいのです。
進化生物学では、200万年前ころから人間は群れを作っていたと言われています。
もちろんそれ以前に、母と子を中心とした集団生活はあったでしょうが、
そういう血縁関係を必ずしも前提としない群れだったと言われています。
30人から100人弱くらいの群れで、
数十人の群れがいくつか関連してあったという考え方もあります。

いずれにしても、基本的には、一生涯、
同じ群れで過ごしていたようです。

そのころは、小動物を狩りしてたんぱく質を摂り
植物を採取して栄養を補充していたとされています。
群れの中でチームが分かれていたようです。

さて、当時は、言葉のない時代なのですが、

言葉もない時代にどうやって群れを作っていたか
ここが問題です。
でも、ほかの動物も言葉が無くても群れを作りますね。

イワシなんて、魚ですけれど、群れで泳ぎます。
大きな水族館でイワシが集団で泳ぐ様は
それは見事で、目を引きつけれられます。

あれ、何で群れで泳ぐかというと
イワシは、集団の内側に入ろうとする性質があるかららしいんです。
みんながみんな魚群の中に入ろうとした結果、
一つの巨大な魚のような群泳が成立していると
こういうことなようです。

集団の内側で泳ぎたいという感情というか気持ちで
成立していることになります。
水面下ではそういう事情が働いていたのですね。
もっとも、イワシは水面の下にしかいませんが。

それで、どうやってそういう都合の良い仕組みができたかというと、
それは、意外に簡単なことで、
中には気まぐれなイワシというか
自由や個性を主張するイワシがいてもよいでしょう。

あんな魚臭い中では泳ぎたくないやなんてことを思って、
ふらふらと自由に海の中で余裕をかましていると
もうそれは、マグロやカツオなんかに目を付けられて
パクっと食われてしまうわけです。

パクっと食われるから骨がのどに引っかかるなんてこともありません。
単独遊泳をしているイワシなんて
極上のスイーツみたいなものです。

そうすると、そういう自由傾向のある遺伝子は
すぐ途切れてしまう。
結果的に、群れの内側で泳ぎたいと思っているイワシの子孫だけが
生き残っていく
そしてだんだんイワシというものは
群れの内側に入り込みたいという性質のものばかりになってしまったと
まあ自然淘汰ってことですね。

哺乳類に目を向けると馬なんてのも
言葉が無くても群れを作るわけです。
これも、やはり本能があり、
群れの先頭で走りたいのだそうです。

これに目を付けて競争を成立させたのが競馬です。

あれ無理やり走らせているのではなく
本能を利用しているから成立するのです。

そうやってみんなが先頭に立ちたいから
群れ全体が早く移動できるようになり、
肉食獣から逃げられると、うまくできているようです。

だから言葉がない時代に人間が群れを作ることを
そんなに複雑にな考える必要はないと私は思いますよ。

色々難しい議論をする人たちが幅を利かせていますから
私がいくら叫んでも届かないのですが、
嗅覚をほとんど放棄した人間が
血をかぎ分けて血縁集団を作ったとか
後で他人が役に立つから最初に恩義を売っているとか
そういう相互互恵なんて小理屈が無くても群れを作れるんです。

人間もイワシや馬とおんなじで
一人でいるのが嫌なんです。
一人にならなければならないと思うと
もうそれだけで不安でたまらなくなる。
だから誰かと一緒にいようとする
基本はこれです。

では、それからどうするか
人間に他の動物と比べて違うというか特徴的なことが何かと言えば、
他者に共感する能力があるということです。

これは2歳時くらいになると
誰が教えるわけではなくそういうことをしてしまうようですね。

子どものおもちゃで、
星型や丸形、長方形などの積み木みたいなのと
その形がくりぬかれている机の小さいのみたいなのがあり、
同じ形だと下に落ちるなんてのがありますでしょう。

子どもの前で、大人が
なかなか下に落とせなくて困った顔をしながらやっていると、
子どもの中には、その人の代わりに
積み木と同じ型の方に誘導して落としてあげる
なんてことをやる坊ちゃん、嬢ちゃんがいるそうです。

同じように下に落とさないでがちがちぶつけていても
ニコニコと楽しんでやっていると、
手伝うことをしないで
自分もまねをしてがちがちたたき出して、
楽しむのだそうです。

人間は、2歳くらいになると
相手が困っているか楽しんでいるかわかり、
困っているときは助けて、
楽しんでいるときは一緒に楽しむことができるようです。
共感する能力が初めからあるわけです。

これは間違ってもサルにはできません。
サルは集団で生活しますが
心の交流というかお世話するのは
母ザルからその子どものサルへと決まているそうです。

サルと違って
共鳴共感で群れを成り立たせてきたのが
人間様だということになるようです。

なぜそんな能力があるかというと
一匹で泳ぐイワシのように、
一人で生活するにはあまりにも弱いわけです人間は。

道具を作れなかった時代には、
一人で小動物を捕まえて殺すなんてことは
とても運がよくなければできなかったでしょう。
そういう脚力も、牙も爪もなかったからです。

体毛が薄いために汗をかいててめいの体温は下げられるという利点を活かして
ひたすら追いかけて追い詰めるという狩りの方法だったようです。
小動物を熱中症にしてしとめたらしいです。

また、肉食獣に狙われたら
走って逃げる脚力も、飛んで逃げる翼もなかった。
もう集団で、
誰かが襲われたら集団で立ち向かった
無鉄砲なまでに助けようとした
こういう本能でしのいできたわけです。

そうやって集団で反撃することによって
肉食獣も
下手に攻撃したらあちらからこちらから逆襲される
という経験を蓄積して
よほど困った時でなければ人間は襲えない
ということを学習していったのだと思います。

共鳴共感というのは
相手の感情を理解するということですが、
その実態は、
相手と同じ気持ちになるということですね。

仲間が悲しんでいれば
自分も同じように元気をなくして泣いてしまい、
仲間に元気を出してもらおうといろいろ頑張る。
相手が元気が出れば、自分も元気になる。

足をくじいて痛がっていたら
自分はけがをしていないのに足が動かなくて困っている
と言うときと同じ反応を脳がしてしまうわけです。
そうして、相手を支えて歩かせることで
相手の不安を解消すれば自分も安心する。

仲間のイベントの脳内の追体験が共感なのです。

これが極限までいけば
相手と自分の区別があまりつかなくなるわけです。
特に生まれてから死ぬまで一緒に生活していると
結局仲間の誰かが困っていると自分が何とかしたくなる。
自分が困っているときも自分は何とかしようとする。
そこに違いがあまりなくなります。

そして、自分はこのくらいは平気だと思っても
相手はもっと苦しんでいるかもしれないと思うと
自分よりも相手を何とかしようと思うようになるでしょう。

だから偶然甘い果物が手に入って
自分も腹を空かせていたとしても、
一人で食べようという発想が生まれなかったのでしょうね。
仲間も腹を空かせているだろうし、
仲間がこれを食べたら喜ぶだろうなと考えると
仲間に果物を持って帰ろうということになるわけです。

親が子どもを思って食べないということと
全く同じなわけです。

そして、仲間の中で一番弱い者を守ろうとしたのも
人間の本能だと思います。
とにかく群れでいることが当時の人間の生命線だとすれば
弱い者を守らなければ弱い者は死んでしまいますから
弱い者を守ろうとしない群れは
弱い者から順番に死んでいったことでしょう。
赤ん坊なんて育たたないわけです。

そういう群れはどうなったか
動物狩猟も植物採取もできなくなり
肉食動物からはスイーツ扱いされて死滅していったでしょう
子孫を残せなかったことでしょう。
イワシと同じ理屈です。

さてさて、
認知心理学という最近ノーベル賞を受賞している学問分野では
共通認識として、
人間の心は200万年前頃完成して
今もほとんど変わらないとされています。

「ええっ!」と疑問を大きく叫ばれたい方も多いと思います。
そんな慈しみと愛情を持った生物だったとしたら
今の日本社会は人間の社会は説明つかないだろうと思っている方もいるでしょう。
大量殺人や、いじめ、パワハラ、児童虐待など
目を覆いたくなるようなことばかり起きている
200万年前と同じ人間ではないのではないか、あるいは、
そんな共感の原理なんてきれいごとじゃないかと
お考えになる方もごもっともです。

しかし、よく考えてみてください。

誰かから悪口を言われたり、誰かからとんでもないことをされて
自分という人間が当たり前に扱われなければ、
嫌な気持ちになりますよね。

解雇だ、学校来るな、家から出ていけなんて
一人ぼっちにされることは命の危険が無くても
とても怖く感じませんか。

誰かに助けてもらえばうれしいでしょうし
困っていても誰も助けてもらえなければとても怖くなります。

人間は、200万年前の一心同体の群れで過ごしていたように
仲間に自分を尊重されたいと心が思ってしまうのです。

弱い者小さいもの、児童虐待などを聞くと
とても腹が立ってしまいませんか。
これも人間の本能なのです。

逆説的に、
人間の心が200万年前と基本的には変わらないということが
よく考えると実感できると思います。

では、どうして人間は仲間のために我慢するということをやめ
弱肉強食、特に共食いのように
他人を食い物にするようになったのでしょう。

どうして共感原理で生きる人間が
他者を排斥することが「可能なのか」という命題になると思います。

色々な理由が考えられますが、
私は他者とのかかわりのあり方が
決定的に変わってしまったというところを指摘したいです。
これが環境と心のミスマッチというわけです。

ここから先も長くなるので概要だけ。あとは対人関係理論のホームページ
「心と環境のミスマッチ」をご参照ください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
(ページの下の方には要約版もあります)

一つは群れの多元化(家族、学校《クラス、部活、小グループ》、職場、地域、社会)
群れの相対化(離婚、退学、転職、その他)
である人間の膨大な数と人間に対しての希薄化

これによって、利害対立にうまく対応できず、
さらに自分の生き残りに不安があることで、防衛意識が強く働き
攻撃が可能となる


ところで、
やっぱりかなり長くなるので、
これを話すことは無理だな。




nice!(1)  コメント(0) 

いじめ予防対策としての人権教育 教育機関、自治体等公共機関職員向け研修 [進化心理学、生理学、対人関係学]

例によって、講演前のWEB予行演習です。下書きなしに書いていますので、誤字その他の不手際お許しください。
本当の演題は違っていて、タイトルは裏テーマみたいなものです。

1 人権 HUMAN RIGHTS
(挨拶略)
今日は、人権のお話をさせていただきに上がっておりますので、人権という言葉を避けるわけにはゆかないのですが、これがなかなか難しい。人権研修だと文字で書いちゃうと、なかなか、「人権?じゃあ聞きに行こう。」なんてことにはなりません。
色々な出来事を見ても、人権侵害という視点で考えることが少なく、これは人権侵害に当たるのだろうかなんて考えこんじゃったりします。
これに対して外国の方、いわゆる欧米の方々は、直感的に「それは人権侵害だ!」と自信をもって言い切られる方が多いように思われます。なぜだろうなと考えるのですが、おそらく人権という言葉がなかなかなじめなくて、特に権利と言う言葉が、何か知識が必要だというような意識を持たれている方が多い原因になっているように思うのですね。
権利ということは、RIGHTSという言葉の日本語訳がないということで命じに作られた言葉のようです。この元々の言葉は、権利とも訳されるのですが、語感として。正義、筋道 あるべき状態と言う意味合いがあるようです。元々の日本語的には、漢字での「理、道理」が近いような気がします。
そうすると、人権という言葉の意味は、特に欧米の方々が使っている意味は、人間としてのあるべき状態ということであるのだと思います。国や裁判所が認めているかどうかにかかわらず、そういうことがあったら人間として認められていないことになるじゃないか。という意味合いで、「それは人権侵害だ」と直感的に言うことができるのだと思います。
だから人権とは、「人間として生きる」ということの保障という意味なのだろうなと、人間の権利というよりは、「人間であることの権利」というとわかりやすいのかもしれません。人権感覚は、各人の人間とは何かという考え方の問題なのでしょうね。
さあ、あとは、人間とは何かということになるのですが、これは、様々な考え方があるでしょうし、それでよいのだと思います。今日は、人間とは何かということを考えるヒント、一つの方法をお話しさせていただきたいと思います。

2 人間が他の動物と違うところ 人間についての考察例
 1)人間の始まり
一番わかりやすい人間とは何かという考えですが、これはもう、ほかの動物との比較で考えるということが王道だと思います。
  いろいろと特徴があると思いますが、まず群れをつくるということがあげられると思います。進化生物学では、200万年前には、母子とは異なる群れを作り始めたとされています。認知心理学では、そのころ、人間の心というものが作られたとされています。その当時はというと、生まれてから死ぬまで一つの群れで、同じ仲間と生活していました。小動物を狩り、植物を採取して食料を調達していた時代です。もちろん言葉のない時代です。
 2)どうやって群れを作ってきたか。
 言葉がありませんから、道徳や法律もありません。どうやって人間は群れを作ることができたのでしょうか。群れはきちんと秩序があったのでしょうか。これはあったと思います。人間は狩りに適した動物でもなく、逃げるための足も翼もありません。肉食獣に狙われたらすぐに食べられて死んでいたでしょう。それではすぐに絶滅してしまいます。そのため、群れを作って生き延びてきたわけです。群れで仲間割れしていたら、すぐに自滅していたでしょう。強いものばかりが利益を得ていたら、弱い者から次々に死んでいき、やっぱり全滅していたでしょう。
おそらく、群れを作ることに都合の良い感情を持っていたのでしょう。これが、今では心と呼ばれるものの最初なのだと思います。群れの中の個別の人間は、「自分は」という発想があまりなく「自分たちは」という発想で生活していたのだと思います。つい最近まで日本にもあったムラ社会をもっと極限にした状態だと思います。その社会が人間にとってこの世のすべて、一生涯のすべてだったわけです。
 「共感モジュール」という心のシステムで群れを作ってきたと思います。
    仲間の悲しみ、喜びを共有していいたと思います。仲間の困りごとは自分の困りごとだから、仲間の困りごとも自分の困りごととして解決しようという発想に自然になったのでしょう。仲間を助けることは自分たちを助けることだったわけです。私たちの問題ということですね。
    それから一番弱い者をみんなで守ろうとしたと思います。誰かが攻撃されたらみんなで命がけで反撃しようという気持になったのだと思います。このような助け合い、支え合いは、きれいごとではなく、当時は死活問題だったはずです。こういう心をもった人間だけが、飢えや肉食獣から自分たちを守り生き延びてこられたのです。その子孫が私たちだということになります。
 3)200万年変わらない人間の心
  なんかきれい事じゃないかとやっぱり思いますよね。でもそうじゃないんです。私たちの心の中には、ちゃんと200万年前の心がつづいているのです。例えば、あなたは、仲間として認められないと不安、ストレスを感じると思います。人数が多すぎて予算が無くなってきたから、あなた止めてもらおうか。とか、あなたは、ちゃんと仕事をしていないから、これからは、後ろ向いて座ってね。とか言われて平気な人はいませんよね。それは極端ですか?
  普通に、自分が困っていたら誰かに助けてもらいたいとおもったり、誰かに親切にされるとうれしくなりませんか。それから、弱い者を「かわいい」と思うことはありませんか。これは一番弱い者を大切に守ろうとする人間の心だと思います。またネットで、誰かの落ち度があると、よってたかって攻撃しますよね。あの攻撃の口実も、弱い人を守ろうということから始まっていることが多いのです。肉食獣に襲われた人間を寄ってたかって守るために肉食獣に挑んだ人間の様子と重なるように思うのは私だけかもしれません。これは説明も必要でしょうが、今日は割愛します。

3 変容する現代社会という環境
200万年前の心を今の心に直接持ってくると、インターネットの袋叩きようなことが起きてしまいます。200万年前が生まれてから死ぬまでも、狩猟採集から眠るまでも一つの群れで共同行動していたことと、現代が様変わりしていることが一つの不具合の原因、ミスマッチなのだと思います。
  群れは多元化しています。 家族、職場、地域、学校、趣味など、いろいろな群れに属していますが、例えば学校でも、クラス、部活、あるいは小グループなどに属していて、とても複雑ですし、属し方も違います。でも継続的な人間関係を形成しています。
  200万年前は唯一絶対の群れですが、今は転校や転職、離婚等群れの結びつくは弱く、絶対的な関係でもなくなっています。
  200万年前はあまりなかった、仲間どうしで利害対立があったり、競争が行われたりしています。また、その場限りの人間関係も多く生まれています。

  そのような複雑な人間関係の中で、仲間を助けることは美徳ではなくなっている風潮があるように思います。職場でも自分の利益のために仲間と差をつけるという意識もあるように思われます。他人の失敗に対して寛容になれない風潮は、職場や家庭の中で進んでいるのではないでしょうか。じっくりかかわる時間的余裕のないとか心の余裕が無くて八つ当たり気味な行動をしてしま多ということがない人も少ないのではないでしょうか。200万年前に狩猟から群れに帰ったときのような、自分の安心できる人間関係が現代社会には存在するのでしょうか。

4 人権とは、人間のあるべき姿とは
  人間は、群れを作る動物であることから、群れの仲間から仲間として認められることがとても心地よく感じる生き物だと思います。自分が尊重されて安心して暮らしたいと願っていると思います。逆に仲間から排除されることによる、無自覚の不安・ストレスからの解放されたいと思っている動物だと思います。
  仲間の役に立つ自分

5 子どもという時期
  他の動物に比べて、人間は繁殖適性年齢に至るまで極めて長期です。大きな動物でもせいぜい数年で子どもを産むまで成長しますが。なぜ人間だけはそうはならないのでしょうか。
  進化生物学者によると、群れに協調して集団生活をするためには、脳が十分発達する必要があり、この脳の発達のために時間が必要だということが有力に言われています。
  脳科学からみると、危険を感じる扁桃体などは思春期に完成するのですが、いろいろな記憶を合成して、危険ではないと判断する大脳皮質はこれより数年以上遅れて20歳台に完成するらしいです。つまり、思春期の時期は、自分の危険に過敏になっている時期だそうなんです。自分が攻撃されていると思い易く、すぐに反撃してしまう。自分のそのころや子どもたちの様子を見るとよくわかると思います。危険を感じて反撃する子、キレる子、危険を感じて立ち尽くす子危険を感じたときの対処の方法は、個性と人間関係の状態で様々ですが、危険を感じて不安になりやすくなっているということは共通なのだと思います。

6 子どもの成長と生物としての人間の心理
  人間も他の動物と同じで、「自分のことは自分で守りたい。自分のことは自分で決めたい」と感じます。例えばネズミなどが人間に追いかけられたときは、大きなネズミに頼らず、自分の力で逃げていくことを選んでいますよね。どうやら人間も基本的には同じのようです。
  できるようになると(できないくせに)次々主張が始まる。これが反抗期です。歩けるようになると、自分で行きたいところに行くことを主張し始める。幼稚園に入ってお友達ができると、幼稚園の生活のことは自分で決めたくなる子が出てくる。これも個性でだいぶ違うようですが。思春期になって、繁殖の準備を始めると、男女問題を親から言われることは嫌がるようになるし、プライバシーを協力に主張するようになりますね。
荒野て考えると、大人になるということは、なにもできない赤ん坊から、自分の仲間を自分で決めて仲間と協調することができる大人への過渡期だということが言えるのだと思います。
 だから、自分で決めているという実感を本人に持たせないと、本人はなかなか動かないということがよくあるようです。意思を持っている人間であるから 意思を動かすことが大切ということにになりますね。
  この観点から虐待としつけの違いをみると、調教や虐待は子どもの意思を無視して、生命身体、人間関係の危険をあたえるという威嚇によって結論を押し付けることだということができるでしょう。しかし、この威嚇が消えれば効果も消えるわけです。教育・しつけとは、選択肢を与えることによって、結論に誘導するということになりそうです。
  教育基本法1条で、教育の目的を定めています。今までのお話を総合するとそのトップに、人格の完成を目指すとあります。これは「他者との協調性の獲得」という重視すべき面がある、あるいはそれが教育の目的だというようにも感じられるのです。
7 現代版「風の中の子供」
現代の文明社会は、物質的には豊かになったと思います。しかし、子どもたちは幸せになっているのでしょうか、例えば今年2月国連子どもの権利委員会は、さまざまな日本の子どもたちの人権状況について意見を述べています。その中で、過剰な受験競争にさらされているという指摘がありました。隣人との競争、なりたい職業は正社員という社会環境が受験競争の圧をかけているように思います。成績が良くなければうちの子じゃないみたいな条件付きの家族の中の立場ということは子どもの精神状態によくありません。親の不安の反映、雇用不安、精神不安等の愚痴、八つ当たりが子どもたちに影響を与えていることがニュースなどでも知らされています。
 子どもたちも毎日のように習い事があり、友達と遊ぶ時間、場所、精神的余裕が足りないようでうす。人格形成途上である自分を受け止めてくれる人間関係が不足している、未完成であることを責められる状態。子どもたちの帰属意識が不安定になっているようです。まるで落ちこぼれないために生きているような努力と緊張の毎日になっていないか心配です。

8 事例にみられるいじめの構造
  いじめは、いじめることもたちの不安の解消ということから出発することがよく見られます。友達が自分から離れていく分離不安(自分が否定されたという感覚)から、その子をいじめるということが少し前まで主流でした。過剰な正義感、例えば一人の子の落ち度を集団で責めるということも平気で行われることがほとんどの事例で見られます。いじめられる子の状態、存在に、例えば受験なんて関係ないやと伸びの生活しているお子さんや、勉強も運動も何でもできるお子さんをみていると自分が否定されている感覚になり、その子をいじめるという事案もありました。いじめられる子は、なんらかの弱者、孤立者など、反撃の恐れのない子をターゲットにしているという特徴があります。

9 200万年前の心を開放する
いじめ防止の働きかけをするときは、何か新しい考えをどこからか持ってくるというよりも、人間が本来持っていて、環境の中でスムーズに表れない、もともとの心を現代に引っ張り出す、利用するという方法が一番合理的であると考えます。共感モジュールとして説明したものです。
 例えば、他者の心情を考える訓練、遊び「こういう場合どういう気持になるか」ということを、「人の気持ちを考えなさい」とヒステリックに叱るとき以外にも考えさせるということ
 例えば、相手の感情を推量って行動を修正する訓練、親これはうれしいのか、ではこれを続けよう。親これは嫌なのか、では止めよう。やり方を変えようというシミュレーションですね。
 この時大事なのは、正義感と共感の折り合いをつけることです。部活をさぼったことは悪いことでもよいのですが、サボったからと言ってよってたかって非難するのではなく、何か原因があるのではないかという視点で、相談に乗るという方法をあらかじめ知っておくことも大切です。
 最近よく言われているのは、誰かの役に立つことの喜び、誰かに喜ばれることの喜びの誘導、誘発することです。この教育実践の一番やってはいけないことは、能力のある子だけが褒められ、やくに立つという実感を持てる、そうではない子が自分なんてとあきらめるような方法は害悪しかありません。どんな子どもでも何かの役に立つことを実感させることが大切です。他人の役に立つことは特別な能力が必要なわけではない。例えば一緒にいることなんていう、誰にでもできることが大切なんだということを教えることが結果とならなければならないと考えています。

10 大人の子どもへのかかわり方
   今の社会は、放っておくと、子どもたちが自分の立場に不安を感じる社会であるようです。どうか子どもたちの逸脱行動には、不安解消という行動原理があるのではないかと、叱る前にまず考えていただきたいと思います。
   そうして、寛容、許す、再び仲間に迎え入れる、こういうことに大きな価値を見出し称賛していただきたいと考えています。 
それぞれの立場において、絶対に見捨てられないという安心感を子どもたちに与えていただきたいと思います。余計な不安やストレスがなく、自分には絶対的な見方がいるという自信は、子どもたちを大きく成長させる基礎となるはずです。
   よく言われている命の授業とは、このような「人間の」命の授業であるべきだと思っています。
参考文献 「人体」上下ハヤカワノンフィクション文庫 進化生物学
   「まねが育むヒトの心」 岩波ジュニア新書 


うーん。1時間かかってしまいましたね。後半、時間がかかりすぎかなということで要点の私的に終わってしまいましたね。これを言葉で話す場合40分で収まるかどうかですね。
nice!(0)  コメント(0) 

自尊心・自尊感情 対人関係学のホームページより転載 [進化心理学、生理学、対人関係学]

対人関係学のホームページより
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/concept.html
お時間ある方むけです。すいません。

自尊心・自尊感情

自尊心、自尊感情という言葉が、話題になることが多くあります。ただ、その意味は論者によって違いがあるようです。一般的には、自分を大切な存在だと思う感情ということになるでしょう。
自尊心をもつことは、人格形成や情緒の安定のために重要であると考えらえています。逆に自尊心の欠如は、情緒が不安定となり、アルコールなどの薬物乱用、犯罪やギャンブル、性行動の逸脱、依存症、いじめ、自死等社会病理の原因になると言われています。
それほど大事なものならば、子どもには自尊心を持ってもらいたいと思うのですが、少し漠然としすぎているために、結局何なのか、どうやったら自尊心を持つことができるのか、自尊心を持てない危険性が、あいまいで、頼りなく感じます。今回はそのお話しです。
少し、自尊心を調べていたら、ちょうどよい説明を見つけました。
辻正三先生という方が、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)で書かれている説明です。そこには、「たいていの人は、自分が他人から受け入れられ、また自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望を意識的、無意識的にもっている。これが自尊心にほかならない」と説明されています。私が、対人関係学的な自尊心として説明したい定義にぴったりなので、この意味について勝手に解説をするところから始めていきたいと思います。

<辻正三先生の定義を勝手に解説>

1)自分が他人から受け入れられたいという意味と、たいていの人が感じる理由

ここから、すでに対人関係学なので、その原理についてはいつも説明している通りです。つまり、人間の心は約200万年前に形成された。その時代は、狩猟採集時代で、一つの群れの中で人間は一生を終わっていた。人間は群れを作らないと飢えや肉食獣の攻撃に耐えられなかった。言葉のない中で群れを作るための感情を持っているものだけが群れを作り子孫を残してきた。ということです。
子の群れを作るための感情の一つが、「群れの中にいたい。群れにとどまりたい。」という感情なのです。群れの中にいると、安全を感じ、安らいだ気持ちになるわけです。このことは、群れからは追放されるのではないかと感じると、とても不安になることを意味します。この不安は、けがをしたり、病気になったりするのではないかという不安と、同じ心持であることが知られています。この。「群れの中にいたい、群れにとどまりたい、群れから追放されると不安や恐怖を感じる」という感情が、現代的には「他人から受け入れられたい」という表現になるわけです。他人から受け入れられるということは群れにいることを許されるということですし、受け入れられないと感じることは、追放されるのではないかと感じることだからです。
私たちは、200万年以上、群れを作って生活をしてきた人間の子孫ですから、人の個性によって程度は違いますが、多かれ少なかれ、他人から受け入れられたいという気持を遺伝子に持っているのです。

2)自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望

自分の存在価値とはどういうものでしょうか。
これも、今の説明の延長線上にあります。一つは「群れにとどまりたい」という心に由来すると思います。はっきりした流れを意識することは少ないのですが、自分が群れにとって有用であるならば、群れに留まる資格のようなものがあるという感覚を持てるのではないでしょうか。だから、群れにとって自分が役に立つ人間だという感覚は、群れの中で安定した立場を感じさせるのだと思います。自死の研究をしていると、これを裏付ける理論が出てきます。自死の危険を高める要素として「役割感の喪失」というものがあります。働いて家にお金を入れていた人が失業してしまう場合とか、社会的地位の高い人が犯罪をして立場をなくすとか、そういう場合が典型的です。自死は、自尊感情を失った場合に多く起きることから、裏から自尊心の意味を考える道具になると思います。
ただ、今の説明は間違っていないのですが、それだけでは不十分だと思うのです。ズバリ言うと、何か役に立つことができないと、自分の存在価値を感じられないのかということなのです。なるほど、群れにとって役に立つならば、それは価値を感じやすくなるでしょう。しかし、客観的にみれば、群れにとってのその人の存在価値の最も重要なことは、200万年前の時代は頭数に貢献することでした。一人でも多ければ、獲物を追い詰める時に隙が無くなり、獲物を逃がさない確率が増えたでしょう。一人でも多ければ、食べられる植物を見つける確率も高くなります。一人でも多ければ、誰かが襲われた時、野獣を追い払いやすくなるでしょうし、そもそも野獣が群れを恐れて近づきにくくなるということがあると思います。群れにとっては、群れに調和して存在することが、その人の価値だったと思うのです。人並み以上に役に立つということは、必ずしも自分の存在価値を感じることに必要ではないと思うのです。
つまり、自分が群れの役に立つという感覚は、自尊心を高めやすくなるが、それがなければ自尊心を持てないというものではないという関係になるのでしょう。
そうだとすると、自分の存在価値とは、本当は、「群れから受け入れられている」という感覚そのものではないかと私は思います。

<自尊心を持つことがどうして素晴らしいのか>

説明したように、自尊心は、人間が群れを作る動物であることから、群れから受け入れられていることに満足を感じてしまう性質を言います。群れから受け入れられている状態が、人間の能力を発揮できる状態だということがいえるでしょう。人間本来の気持ちに基づく行動をするようになるわけです。群れの役に立ちたいという気持に基づく行動をするようになります。「群れのために」という気持は、自分を奮い立たせ、困難を克服し、努力を継続させることを可能にします。群れの一番弱い者を守ろうという気持もいかんなく発揮できることになります。本当の自尊心を持つことは、人間社会の協調を実現しますので、自尊心を持つ人たちの群れは、争い自体が起きにくくなるでしょう。その群れのメンバーは、相互に受け入れあうようになり、益々自尊心が高まっていくことでしょう。

<自尊心が欠如するとどうして社会病理の行動に出るのか>

自尊心が欠如するという状態は、自分が群れの仲間から受け入れられていないということを感じるところから出発します。通常は、どうして受け容れられないのかを自己点検して、自分の行動を修正し、群れに受け入れられるように努力をしています。子どもの時期は、この習性が活発に行われ、集団生活になじむように、自分のするべき行動、するべきでない行動を学習し、身に着けてゆく時期です。
ところが、どうしても自分が群れの仲間から受け入れられない、自分が群れの仲間から辛く扱われる。尊重されていない、大事にされていない。自分の苦しい感情を放置される。こういう感情が積み重なってゆくと、群れに受け入れられることをあきらめるようになっていきます。無駄な努力だと思うのでしょうね。やる気がなくなることは理解しやすいと思います。
しかし、群れに受け入れられたいという気持は、無意識の気持ちであるし、本能的なものなので、これを捨て去ることはできません。群れに受け入れられていないという状態を感じ続けることは、不安を感じ続けることになってしまいます。不安を感じることは、不安から解放されたいという気持を感じることにつながります。何とかして、自分の今ある不安を無くしたい。しかしその方法が見つからない。本当は群れから受け入れられることによって、人間は癒されるのです。しかし、それが実現しない。そうなると、不安が大きくなるし、不安から解放されたいという気持が大きくなってしまいます。群れから受け入れられる代わりの不安から解放される方法があると、それに飛びついてしまいます。
薬物、アルコール、シンナー、麻薬は、その典型的な方法です。薬理作用で、不安を忘れることができます。しかし、それは一時的なもので、その効果がなくなると不安が襲ってきます。また、神経に耐性ができて薬に反応しにくくなりますから、どんどん過激になっていく傾向にあります。
依存症も、その文脈で説明できる場合が多いでしょう。不安を軽減させる、忘れる、そのための儀式、逃げ場ということになるでしょう。
犯罪など、誰かを攻撃するということも不安解消行動が背景として存在することが多くあります。
不安の継続は、思考力を低下させます。複雑な思考ができにくくなります。一番複雑な思考とは、他人の感情を理解することです。これができなくなります。かわいそうだという気持が持ちにくくなります。それから、簡単な刹那的な考えしかできなくなり、良いか悪いか、損するかしないか、危険か危険ではないかというような二者択一的な思考になってしまいます。また、あきらめが多くなる悲観的な傾向も生まれてしまいます。
元々他者から受け入れられないという感覚が自尊心の欠落ですから、自分を大切にできません。社会的に禁止されていることでも不安を解消するためにはやってしまいます。それも、思考力の低下が大きく影響しているのでしょう。
だから、自尊心の欠落の究極の形態は自死なのです。大変危険な状態であるし、人間誰しも同じような性質を持っています。自尊心は大切なのです。

<自尊心と似て非なるもの 危機意識に基づくプライド>

自尊心という言葉を調べていたら、案外多くにプライドという言葉を当てはめる説明がありました。良い意味のプライドなら自尊心の一部を構成するかもしれません。しかし、プライドの用法として例えば、「あの人はプライドばかり高くて付き合いにくい。」等と言う意味で使われることがあります。
この場合のプライドとは、私たちの言う自尊心とは異なり、自分をこういう風に受け入れてほしいという心の状態を言うのだと思います。むしろ、本当は自分はこれほどすぐれた人物なのに、世間はそのように評価しないという、「受け入れられていない」状態の認識なのですから、自尊心がない状態でさえあるのです。自尊心が持てないために、見当違いなプライドを持っているということになるのでしょう。このプライドを含めて自尊心だという見解ももちろんあります。ただ、その場合の自尊心は、今述べたような、あると素晴らしく、ないと危険だというものでもなく、大切にされるべき自尊心ではないことになります。それは、自尊心ではないと今は言っておこうと思います。

<現代社会と自尊心>

心が形成された200万年前と現代社会の違いは、いろいろあります。いつからを現代社会と呼ぶかという問題も違いの考察には必要です。ここでは、一つだけ指摘しておきます。それは、200万年前は、人間は生まれてから死ぬまで、基本的には、一つの群れで一生を終えていたということです。子どもを産むのも、育てるのも、学習するのも、狩りや植物採取をするのも、同じ群れでした。ところが現代は、結婚して別の群れに移動し、子どもを産み、学校という群れに所属し、会社という群れに所属する。それらの小さい群れを構成する社会や国という群れにも所属し、自分の趣味や研究をする群れにも所属したりします。子どもの環境によって大人もPTA等の群れを作ります。
人間は、放っておくと、そのすべての群れから、自分が受け入れられているという気持を持ちたいと思ってしまうようです。
逆に言うと、すべての人間のかかわりの中で、自分が受け入れられていないと感じると不安な気持ちになってしまうのです。
道を歩いていても、見ず知らずの人から罵倒されればいやな気持になるし、怖い気持ちにもなるでしょう。自分は普通に運転しているつもりでも、急いでいる人が運転している場合、後ろからクラクションを鳴らされることもあるでしょう。それが身体生命の危険がなくても、不安が生まれてきます。悲しい気持ちになったり、怖い気持ちになったり、逆に怒りが起こったりするわけです。
このように、多くの人とかかわりを持ち、たくさんの群れに所属するようになると、人間関係が薄いものになっていくということも理解しやすいと思います。生まれてから死ぬまで同じ人と過ごすという群れと比べるとわかりやすいでしょう。そうすると、いちいち、道ですれ違った人の役に立ちたいと思うことは、少なくなってしまいます。自分や自分の仲間という狭い群れの利益のために、群れの外にいる人たちが困ることになっても、実行してしまうということが起きやすくもなっています。その結果、不意打ちのように、自尊心が傷つけられることが起こりやすくなっています。
人間の心は200万年前とほとんど変わっていません。そのように薄い人間関係ならば、その人から何を言われても、健康に影響がないならば、気にする必要はないのですが、なかなかそうはなりません。かといってすべての人の幸せを願うということもなかなか貫くことは難しい。そうすると、自分や自分たちの利益のために、他人が不利益を受けるということをやってしまうのですが、やっても平気でいられずに、悩んだりするわけです。ただ私は、それが人間のいとおしい所だと思うのです。
しかし、多すぎるかかわりの中で、人間が大切にされていないことに馴れてしまうと、およそ人間が大切にされなければいけないという感覚は薄れていきます。それは他人に対してだけでなく、多かれ少なかれ自分にも反映されてしまいます。およそ人間は大切にされなくてもよいんだという感覚が起きてしまいます。益々自尊心が確保できない社会構造になっていると思うのです。

<自尊心をもつためには 人間関係をどう構築するか>

自尊心を持つためにどうしたらよいかということは難しいのですが、自尊心を傷つけることは簡単です。
「お前はこの群れに不要な人間だ。」「出ていけ。」「群れにとって迷惑だ。」「役にたたない。」
というメッセージを発信すれば、自尊心は傷つけられます。
何か大変なことをやらせるよりも、役割を与えない方が自尊心を傷つけるという学者もいます。そのような露骨な言動をするだけでなく、仲間であれば当然してもらえることをしてもらえないということです。健康を気遣われずに暴力を振るわれる。危険なことをやらされる。一人だけ情報や食料を当てないで差別する。努力を無視して、正当な評価をしない。いじめやパワハラ、虐待が典型的な自尊心を傷つける行為です。暴力がなくても人間は不安を感じ、心を壊し死んでしまう動物なのです。
自尊心を確保するためにはこの逆をするということなのでしょう。
仲間であることを否定する言動をしない。一緒にいることだけで歓迎されるということなのでしょう。最近の家族も、どこまで成績をあげないとうちの子ではないとか、どのくらい給料を持ってこないと夫ではないとか、きちんと片づけが出来なければ妻ではないとか、仲間であることに条件を付けるかのような言動が見られます。条件を付けるということは発奮させるということになるのですが、何十メートルもある谷に渡したロープの上を歩いて行けと命じ、「落ちて死にたくないならば落ちるな」というようなものかもしれません。条件を満たさないと仲間から外すと言っているようなものだからです。これでは、自尊心を確保するどころか傷つけてしまうことになるでしょう。」
むしろ無条件に存在を肯定することから始めるべきです。そうして仲間に能力を発揮してもらう方がよほどよいのです。自尊心が育っていれば、つまり、どんなことがあっても仲間は見捨てないという認識があれば、仲間から弱点を指摘されたとしても自分を守ろうとして嘘をついたり隠したりする必要はなくなります。仲間もそれを攻撃的に言う必要も動機もありません。つまり強い心が育つわけです。だから、褒め育てをするということと、無条件に仲間として存在を肯定するということは全く違うわけです。そして、その能力にふさわしい役割を与えることも自尊心を高めていくという関係にあるわけです。仲間の役に立つことをした場合は、正当に評価し、称賛する。そうやって楽しい群れが作られていくはずですし、その群れの構成メンバーは、能力を発揮しやすくなるわけです。
失敗をしても責めたり非難したりするのではなく、群れとして無条件に存在を認めるのですから、一緒に考えるという行為になるはずです。失敗をすればするだけ成長していくことが可能となります。

<現代社会の罠にどう立ち向かうか>

理屈を言えば、家庭の中では、何とか、子どもだけでなく、親も含めて、自尊心を高める接し方が出来そうです。しかし、条件反射的に怒ったり、自分の心の状態によっては、自分が攻撃されているような感覚を持ってしまって、相手に対して、しなくてもよい反撃をしてしまいそうです。実際は完ぺきな自尊心の高めあいは難しいようです。それでも何とかできるかもしれません。
問題は、子どもが学校に行き、父母が会社や地域の集まりに出て、あるいは街の中を歩いていて、自尊心を傷つけられるような対応をされた場合に、どのように自尊心を確保していくかというところにありそうです。昨今のパワハラの話やいじめの話を聞くと、絶望的な気持ちになりかねません。
先ず自分たちでできることは、家族という基地を強化することです。外で困難な出来事があったときこそ、「家族は絶対に見捨てない」、「誰から何を言われようと、あなたと一緒にご飯を食べることが私の幸せだ」というメッセージを伝えることです。そして、ここが難しいのですが、どんなにつらい思いをしていたとしても、家族は、「いつもと同じように接する」ということが大切なようです。腫れ物に触るように接せられると、自分が家族の重荷になっているという風に感じてしまい、家族に困難を打ち明けることができなくなるということらしいのです。「外でどんなことがあっても、家の中では、当たり前の家族だ。あなたも家の中ではいつものように過ごしてよいのだ」ということが、役割感の喪失みたいな気持ちにならないポイントのようです。これは意識してかからないととてもできることではないように思います。
自尊心が育ったお子さんは、何かあっても、すぐ不安になることがなく、些細なことにびくびくしなくなります。攻撃されているという感覚を持ちにくいので、反撃もする必要がないので、争いになりにくいです。それでも、今のいじめは、変なところでライバル視して、攻撃してくるということも多くあります。自尊心だけでは対抗できません。それでも、本当の意味で自尊心が高く、家族に受け入れられているという自信がある子は、嫌なことも隠さないで家族に打ち明けられやすくなります。家族が学校に働きかけたり、場合によっては転校させるという手段もとれるわけです。こういう意味で家庭が基地になるのではないかと考えています。
では、学校や職場などの人間関係にどのように切り込むか。
先ず、放っておくと、誰かの自尊心を傷つけるのが、学校や職場等現代の人間関係だということを自覚しましょう。その人が存在すること以上の価値を求めるのが現代社会だからです。効率であったり、優秀さであったり、利益であったり、正義であったり、人間関係の希薄さは、人間が存在しているという事実だけでは満足しないし、極端な例を言えば人間の命よりも優先される事情があるようです。
無力な私たちは、その社会の変化に対応して脳を変化させることもできませんから、そういう構造をよく理解するということから出発するしかありません。
そうして、そのような価値観の中に、人間が存在することに絶対的価値があるという価値観を少しずつ意識して滑り込む必要があるでしょう。それでも、価値観の転換は起きないでしょう。しかし、少しでも人間の存在に価値を認めるという価値観を導入することによって、自尊心を傷つける人間関係の出来事が否定的な評価を受けるようになり、関係の改善を考えるようになれば徐々に社会は変わっていくのだと思います。
そして、これは現実的な希望を持てない途方もない夢物語ではないと思います。
それは、人間の心は200万年前のままだからです。できることならば、仲間に受け入れられて過ごしたい。できることなら傷ついて悲しむ仲間を見たくない。できることならば他人を助けたい。できることならば穏やかに安心して暮らしたいという気持があるのではないでしょうか。しかしそれが自分や自分たちの不利益につながるためになかなかできないだけなのではないでしょうか。そういう環境を見るとうれしくなるし、それが実現すれば安心した気持ちになったり、誇らしい気持ちになったりするならば、人間はやはりそういう動物なのだと思います。人間の本能に逆行することを言っているわけではないのです。本能をいかんなく発揮するために、環境を整えるだけだとは言えないでしょうか。
壮大な話はともかくとしても、とりあえず家族を守るということを意識することから始めてみてはいかがでしょうか。


不要な記載
この記事は、おそらく、加筆をしたり修正したりしていくと思います。場合によっては全面的に書き換えになったりもするかもしれません。その都度修正して末尾に修正日と修正内容を記録していくことにしてひとまず公開しようと思います。
自尊心、自己肯定感について色々な話がネットなどであふれています。とても大切なことなのですが、疑問が生まれてしまう内容も少なくありません。そんな中で辻正三先生の解説に接して、「これだ」という思いが生まれてしまい、勝手に解説をすることが、話が分かりやすくなるなと図々しく思った次第です。辻先生の解説が、あまりにも対人関係学の主張と一緒だと驚き、また、対人関係学の結論は、突拍子もないことではないのだなと勇気づけられました。
自尊心、自己肯定感については、バウマイスターという心理学者が第1人者なのだそうです。実は、このバウマイスターの「The need to belong」という論文が、対人関係学の父と言うべき論文なのです。母は、心的外傷と回復(J ハーマン)なのですが。自尊心、人間のモチベーションというバウマイスターの領域が、対人関係の領域とかぶることはむしろ当然で、本当はもっともっと研究したいところなのですが、こちらはむしろ実務系の学問であると自負しているので、修正しながら理論の成長を目指したいと思います。
2019年6月28日 初稿

nice!(1)  コメント(0) 

言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう! [進化心理学、生理学、対人関係学]

言葉がどうやって生まれたかについては
学説の争いがあります。

警告説
危険の存在を知らせるために言葉が生まれた。
サルの中には、危険を声で知らせ合う種類があって、
その声で、空からの危険なのか
地面からの危険なのかわかるので、
逃げ方が変わるらしいです。

毛づくろい説
サルが群れの仲間と相互に毛づくろいをして
コミュニケーションをとっていることから
体毛が薄くなった人間は
毛づくろいの代わりに
言葉を出し合うようになったというのです。
ロビン・ダンバー先生の説です。

この場合のコミュニケーションというのは、
お互いに敵意がないことの証明で、
心配しなくてよいよ、安心してよいよ
という信号のようなもので、
言葉というより音があればよい
例えばボー、ボーとなだめるように言えば
それで事足りたのでしょう。

この説に対しては、
現在の言葉がこれだけ多数に上ることを
説明できないという批判があります。

私は、それぞれの説は、
それぞれ正しいとして良いのではないかと考えています。
特に言葉が多いことの説明は、
時期的な違いに還元できると思っています。

要するに、今を去ること約200万年前、
人間は群れを作り生活していたわけですが、
狩猟採集をして生活していたとされており、
男は小動物を狩ってたんぱく質を確保し
女性等は子育てをしながら植物採集をしていた
のではないかとされています。

ここでいう女性とは、おそらく繁殖期のことで、
子孫を残すためには、
女性は走り回らない方がよい
ということを覚えていったのでしょう。
いずれにせよ、当時、子育てと植物採集は
群れが生き延びるための必要条件でした。

この頃の狩りは
体毛の濃い動物をどこまでも追い詰めて
熱中症様の状態に消耗させてしとめる
といういじめのような狩りだったので、
体毛の薄い人間は有利でした。
狩りチームは、危険と隣り合わせですから、
危険の種類や危険の程度を教えあるために
声の信号を使ったということはありうることです。

採取チームでも同じかもしれません。

群れの中では、突然不安に襲われることはよくあることで、
例えばオオカミの遠吠えを聞いたら
襲われるのではないかと恐怖になるでしょう。
また、出産に伴う生理的、脳科学的変化はあるし、
不意の死別もよくあることだったわけで、
対人関係的危険も共感モジュールによって存在したはずですから、
とにかく不安には事欠かなかったはずです。

大丈夫だよ、私たちは仲間だよ
という信号を声で発したということは
目に浮かぶのではないでしょうか。

声を出された方は、
自分が不安だということをわかってくれている、
自分の味方だと言ってくれている
ということを感じて
不安をある程度治めたことでしょう。

これを言葉の出発と言えるかどうか
厳密なことはわかりませんが、
このような行為をしていたということは
納得できることのように思われます。

先ずは、のどから音を出す習慣が存在することが
言葉が生まれる大前提だと思うので、
その意味でこれは言葉の始まりだと思います。

それから言葉が、語彙が増えていった理由が、
対人関係学が強調する
複数の群れが相互に影響を与え合うようになり、
人間の能力を超えた人数とのかかわりが始まったことによるもので、
それは農業革命が起きた時期、
つまり、今からせいぜい2万年前のことだと思います。

なぜ言葉が増えていったか。
その前になぜ単一の群れの場合は
言葉がいらないかということですが、
生まれてから死ぬまで同じ仲間と過ごし、
日常生活がずうっと一緒で
一人の時間を楽しむなんてことがない時代は、
仲間と自分の区別がつかない状態で、
一つには、仲間の状態を常に思いやっていたし、
一つには、仲間の感情は言葉がなくてもすぐに分かった
ということで、言葉は不要だったのだと思います。

仲間の置かれた状態を見て
自分がその状態にあると感じ
自分の問題として仲間の問題を解決しようとした
これが共感モジュールの根幹です。

その時代は、危険とはおおむね自然の驚異で、
それを知らせ合うことと、
理由があってもなくても不安に対して
慰めることができればよかったから、
ボー、ボーのイントネーションさえ違えれば
用事がすべて済んだのかもしれません。

ところが、複数の群れが関与し合い、
人類の脳の限界を超えた人間との関与が始まると、
利害調整をするためには、
細かい区別が必要になったはずです。

また、危険の内容も、
人間からの攻撃という厄介な攻撃を検討しなくてはならないし、
人数が多くて名前を付けなければ、
誰がどのような性質をしているか混乱してしまい、
相手を記憶していることも難しくなったということもあるでしょう。

それ以前の危険が、
生命身体に決定的な打撃を与える危険であればたりて、
それほど種類も多くなかったのに、
仲間ではない人間とかかわることによって
危険の程度も幅が広がったし
危険の種類や対応も同様に広がったはずです。

もしかしたら不安の種類や程度も
同じように広がっていったのかもしれません。

かかわりあう人間の数と群れの種類が増えるたびに
言葉が増えていったのだと思います。

アルファベットの起源が
交易を盛んにしていたフェニキア人の文字だということは
とても象徴的な話だと思います。

そして言葉が生まれることによって
さらに詳しく場合わけができたり、
道徳が生まれたりして、
さらに危険が増えて、言葉が増える原因となったのだと思います。

現代はそれが極致に達している状態なのでしょう。
我々が日常生活を送っていても
日本語だけでは不便で、
インターネットなどでも外来語をつかわなければならないようになっています。

このように(私の考えが間違ってなければ)、
言葉は、当初、仲間を助けるため、
仲間に対する思いやりを示すために始まったにもかかわらず、
複数の群れ、多すぎる人間関係の中で
変質していったことになります。
この時期から言葉による攻撃も始まったのかもしれません。

私たちの心は
約200万年まえに、つまり狩猟採集時代に
形作られたということらしいのです。
だから、私たちは仲間というか人間から
思いやりを持って接してほしい、
攻撃をしないで助けてほしいと
そう思ってしまう生き物のようです。

ところが、現代社会の複雑さから
基本的群れである家族でさえも、
言葉がなければコミュニケーションが取れない
そんな希薄な人間関係になってしまっているのではないでしょうか。

家族の中での対立は、
家族の外の人間関係である
会社、学校、地域、あるいは社会、国家
の対立関係、疎外されている感覚が
反映して起きている
そこから出発していると説明できると思います。

私たちは家族や
あるいは会社や学校でも、
言葉の原点に立ち返ることが
必要なのではないかと思うのです。

言葉を相手にある危険を回避させるということは
現代社会ではあまり使わないでしょうから
どちらかというと、
相手の不安をなだめるために言葉を使う。

しつこいですが、それは
ボー、ボーでよいのだと思います。
相手を攻撃しないということは
じゃあどうやればよいのとわかりませんから
相手を積極的に落ち着かせる
自分にはあなたに敵意はないよということを
積極的に言葉として発するということなのでしょう。

何を言えば良いかわからない人のために文明があります。
先ず挨拶です。
おはよう、お帰り、いただきます。
全ての挨拶は、敵意のないことの表現だと思います。

天気がいいね。花が咲いたね。
意味のない言葉こそが、敵意がないことの表明です。
日本語ではお愛想と言いますね。
真理を的確に表したネーミングです。

上級編は、感謝や謝罪なのでしょうが、
意味のない会話をする努力
これが言葉の出発点であり、
200万年前に生まれていたインテリジェンスなのだと思います。

言葉が伝えるべき最大の情報は、
私はあなたに敵意がありません。
あなたを大事に思っています。
ということに尽きるのでしょう。

負けるな現代人!


nice!(1)  コメント(0) 

正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

これから、私は正義を否定します。日本語の正義という言葉に価値をおくべきではないということを説明していきます。あくまでも日本語の正義なので、justice を否定するのではありません。宗教や法律などを否定するものでもありません。一神教や二元論についての考察でもありません。日本語の正義、あるいは、正義だと正面を切って名乗らないものも含めて、それらが実は有害な結果をもたらすものであるということを説明していきます。現代社会の病理の根本に正義があり、この解決のために、正義というものに代わる価値観を提案することを目標としています。

1 正義は人を幸福にしない。正義は人を攻撃する時の言い訳だ。

 正義の名のもとに、人は殺されていきます。世界的規模でみると、戦争や大規模紛争があります。正義の名のもとに命を落としているのは、罪もない子どもたちが大きな割合を占めているようです。戦争に限らず、大規模な紛争は、それぞれが正義は我にあるということを主張しあいます。
 そんな大きな話ではなくても、例えば家庭の中では、相手に対して「間違っている」と怒りをあらわにして非難し、追いつめることがあります。虐待するもの言い訳は、大抵は相手を正しているというものです。
 学校でも、子どもたちは、些細なルールに従わなかったことに対して怒りを持って非難をします。ただ気に食わないだけの場合なのに、正義に反する部分を探し出して攻撃を開始することが多いようです。正義は、しばしばいじめの言い訳に使われています。
 会社でも、部下に対して上司は、会社の正義を振りかざして、正義に到達しない部下の人格を否定する言動を行い、部下のプライベートを奪い取っています。
 これらの対人関係の現代的不具合において、正義は、攻撃をする者が攻撃している自分や攻撃している相手に対してそれを宣言し、攻撃をより激しくする道具として使われることが多いのです。ひとたび自分が正義になると、相手が正義ではないのだから悪だという意識になり、悪を駆逐して、排除しよう、攻撃してもよい存在だという意識付けが気が付かないうちに進んでいるようです。
 正義は相手に対して心理的な負担を与えるだけでなく、自分に対しても心理的圧迫を与える効果を持ちます。正義のレベルに到達しない場合には、レベルに到達しようとして、自分の弱さを否定し、自分ではない何者かに生まれ変わろうとするように、無理をします。正義に到達しないことで人は不安に陥ります。不安の内容は、自分が悪だと烙印を押されるのではないか、突き詰めると仲間から排除されるのではないかという不安です。正義は、自分自身に対しても緊張を強いる概念です。
 正義は人を幸せにしません。自分と他人に緊張を強制し、人を追い込みます。正義が人を癒すことはありません。排除の論理です。
 ひとたび人間関係に紛争が起きてしまった場合、正義に固執することは紛争を解決しないばかりか、紛争を拡大することを目にしてきました。


2 正義は日本人の心の外にある

 正義について、一般には、普遍的価値のあるもので、人間はその価値を肯定し、その価値の実現に向けて行動をするべきものだと考えられていると思います。そのような概念は英語でいえばジャスティスjusticeです。例えば一つの地域で一つの宗教だけが信仰されているのであれば、何がジャスティスで何がそれに反するかということについては共通認識があり、深刻な混乱は生じないでしょう。
 しかし、日本には、国家レベルでも国民の意識でも、ごく狭いエリアのケースを除いては、単一宗教の時代はありませんでした。八百万の神々の存在を認め、とるに足らないと思われるようなものにまで神が宿り、神の使者とされてきました。価値や行動原理の物差しは一つではないという多元的な価値観が存在したのです。神話の神も弱点をもっており、他の神が別の神を打ち負かすときもあれば、遠慮をするときもあるという具合です。万能の神は存在しません。人々の意識は八百万の神の存在を背景にしていたために、物事を正義と悪とに割り切って考えることはなかったようです。盗人にも三分の理等と言う格言が国民共通のものとなっていました。捨てる神があれば拾う神ありということわざもあります。勧善懲悪はあくまでも子供向けの話という認識が通用していたと思います。例えば、忠臣蔵にしても、正義か悪かといえば、待ったなしに悪のはずです。国家権力の中枢で秩序を害した主君が処罰されたことを逆恨みして、罪のない相手方をリンチの果てに殺害したのですから正義とは言えません。しかし、戯作者も読者も、赤穂浪士の心情を理解し、共感を示しているのです。幕府までも、切腹を命じて武士の名誉を保たせたというのですから、正義の観点からは理解できない出来事のはずです。
 もともと日本では、正義という単純な価値観は存在せず、人間の心や行動について、単純に割り切ることをしないで、心や行動の共感できる部分、できない部分を分けて分析的に評価することができていた民族だったと思います。その背景には八百万の神への畏敬があったのだと思います。
 では、いつ頃、どのようにして正義は作られたのでしょうか。

3 正義が作られた目的

 私は、正義という概念が日本にはなかったのですから、正義という言葉も元々は日本にはなかったと考えています。おそらく、幕末か明治維新のころ、justiceの邦訳のために作りだされた言葉だと見当をつけています。時の政権にとってジャスティスという概念はとても有益な概念だったはずです。時代は大航海時代に続き産業革命が起き、西欧列強が植民地や貿易を求めて海外に進出をしていた時期です。この時の西欧列強の言い分が未開の地に文明を導入するという正義でした。日本は植民地となることを回避すると同時に、西欧列強のように海外進出を狙っていたわけですから、西欧列強と同じように自国の利益を主張してもはばからなくて済む正義という概念がほしくてたまらなかったはずです。他国との紛争や侵略について具体的な説明を国民に対してすることは難しいのですが、正義のための行動だということによって、ことをスムーズに進めることができたわけです。正義に反する主張をするものは、悪だと決めつけて排除することができることは、大変都合の良いことでした。
 ここで、justiceの訳語として「義」の文字が使われたことは、大変興味深いことです。正義という言葉が用いられる前は、日本人は「義」という言葉を正確に用いていたようです。
 義とは、自然なものではなく人工物だということが本来的な意味です。義足、義眼、義歯等がその意味で使われています。人間関係においても、義父母、義兄、義弟等、血縁関係は無いけれど、血縁関係ある場合と同程度に扱うべき人間関係を指す言葉として使われています。義という言葉は、この様に血縁関係のような自然な感情によって配慮しあうことができる人間関係ではなく、何らかの形で共同体を形成する人間関係の中で、自然な情愛に代わるルールや作法などとして使われていました。但し、義と情愛は対立する概念ではなく、人間関係を規律する場面の違いに応じて、義が優先されたり情愛が優先されたりするということのようです。いずれにしても、義は他人どうしを規律する概念であるということになります。実際孔子も、情愛を優先させるべき家族の問題で、国家秩序を優先させることに、それは不自然なことだと異論を呈しています。
 このように、少なくとも江戸時代までの日本人は、義が他人どうしを規律する概念であり、義によって社会秩序を形成していくものだということは知っていたはずです。義という文字は現代においても使われています。江戸時代までの感覚も、正義という言葉ができた後でも、続いていたと思います。
 この義に、正しいという屋上屋を重ねて正義という言葉が生まれたわけです。正義という言葉、概念はさっそく大々的に使われ始めました。その後の日本史に照らすと、作られた目的に大きく貢献したと思います。


4 正義に騙される理由

  正義という言葉が普及していくにつれて、日本人がその義の本来の意味を忘れ始めていったようです。義という言葉は使われず、正義という言葉に収斂されていったからです。それとともに、正義の言葉の意味もどんどん曖昧になっていったと思います。
  正義という言葉は、現代では、少年少女向けの戦闘漫画の、「正義の味方」という使われ方がもしかすると一番多いのかもしれません。ここでいう正義は、それだけを切り離すことができません。正義の味方という一つの言葉で、弱い者の味方という意味となります。正義は、しばしば弱者保護の意味で使われます。
  ここでいう弱者は子どもを中心とした物理的な弱者、立場の弱い者等、人によって使う意味が異なってくるでしょう。いずれにしても、不合理な扱いを受けている人たちも弱者として把握し、そのような人たちを守ることが正義ではないかと感じられることもありそうです。それを真正面から正義という言葉を使うかどうかはともかくとして、考え方としては正義の考え方です。
  つまり、正義は、少なくとも、平等、公平、及び弱者保護がその概念の範囲に入っていると言えると思います。不平等が起きている時、不公平が起きている時、弱い者いじめがなされている時、それを正すことが正義の行動だということになるでしょう。
  人間は、この3要素の実現に、反対する感情を持つことが苦手です。平等、公平、弱者保護は、無意識に肯定するべきことだと感じてしまい、その行動に従わなくてはならない、賛成しなくてはならないという気持ちが無意識に起きてしまいます。そして、それを害する者に対する敵意が勝手に生まれてしまい、害する者に対する制裁を肯定する傾向にあります。
  この人間の性質は遺伝的なものです。ヒト、少なくともホモサピエンスを形作る特徴であるようです。
  人間の心は、200万年前の狩猟採集時代に形成されたということが、認知心理学のコンセンサスになっています。手が今の形をしているのは、物をつかんだり投げたりすることに有利なために徐々に進化していきました。同じように心も、その当時の暮らしの環境に適応していくように形成されました。その当時の生活環境で心の形成の関係で特筆するべきことは、数十人の群れ、あるいは200人程度の群れの集合体で生活していて、ほとんどの人間は生まれてから死ぬまで同じ群れのメンバーとだけ共同生活をしていたということです。群れの頭数の確保ということが一番の関心ごとでした。群れがある程度大きいから、肉食獣に襲われにくくなるし、狩猟採集も可能になるからです。群れが小さいとそれができなくなります。もし、群れの中で力が強い者だけが利益を勝ち取っていたならば、絶対的に食料が不足している時代ですから、群れの弱い者から順に死んでいき、やがて群れの頭数が減り、結局は群れが消滅するしかなくなります。だから、一人だけ食料がないという仲間はかわいそうだから、仲間に平等に食料を分けることは、結果として群れの頭数を確保しました。不合理な扱いを受ける仲間もかわいそうだし、反発をして群れに攻撃されても困りますから、公平に扱うことは群れを強化したでしょう。赤ん坊のように弱い者を可愛いと思い、大事にする性質は、他の動物に比べても無力な赤ん坊を守り、群れの新陳代謝を可能にするための不可欠の要素だったことでしょう。このような心は数百万年かけて形成され、その後も人類史の大部分がこの性質によってうまくいっていました。当然私たちの心も、本来はこのような心を持っているわけです。
  ちなみにどうやってそんな都合良く、人間が形成されたのかといえば、簡単な話です。そのような心を持たなかったメンバーは群れを形成することができませんので、どんどん淘汰されていっただけの話です。私たちは、平等、公平、弱者保護に価値をおく心を持っている選ばれた人間の末裔だということになります。心は遺伝子に組み込まれていったのです。
  だから、正義という言葉を聞くと、なんとなく太古の心が動き出してしまい、抵抗をすることができなくなってしまうわけです。しかし、正義の内容をよくよく聞いてみると、平等、公平、弱者保護とは必ずしも関係の無いことが主な内容だとか、確かに平等、公平、弱者保護にはなるけれど、それを実行してしまうと別のところで不平等、不公平、弱い者いじめが起きてしまうということが起きてしまうことがよくあります。典型的には戦争です。しかし、正義という言葉を聞くと、考えることができなくなってしまうようです。
  では次に、正義がどうして誤りを起こすかということを考えてみます。


5 正義には間違いがつきものであることの理由

 1)生物学的な思考停止
   正義が問題となる場面は、不正義が起きているあるいはこれから起きる場面です。何らかのマイナスの価値が存在していて、それを正す場面で使われる言葉です。だから、何も悪いことが起きていないけれど、もっと良いことを起こそうと言うときに使う言葉ではありません。
   先ず、不平等、不公平、弱い者いじめが起きているとされる。すると、私たちの太古の心は、勝手に反応してしまいます。自分が不平等、不公平、弱い者いじめをされている場合は、ストレートに自分に危険が襲ってきているわけです。正義という言葉を持ち出して、それを正すのですから、危険を与える者を攻撃して、危険を排除しようとしている状態です。その際の感情は怒りです。自分ではない別の人が攻撃を受けている場合も、その人がかわいそうだという共感を抱き、やはり危険を攻撃によって排除しようという心理になりますから、感情としては怒りです。
   怒りも、恐怖も、危険を排除しようとしている時の心理状態ですが、このような場合は、複雑な思考ができなくなります。最大のテーマは危険が継続しているか危険が消失したかということですので、二尺択一的な思考方法があれば足りることになります。危険を確実に消失させようとするわけですから、危険の消失は慎重に判断することになり、悲観的な思考となります。怒りの際の悲観的な思考は、相手に対する容赦のない攻撃として現れます。相手を悪だと考え、同じ人間としての仲間ではないと考えることは怒りの状態の心情をうまく説明していると思います。要するに攻撃してもかまわない相手なのだという意識です。危険消失という機能が求められていて、物事を単純化して考えるようにしていますから、相手の心情や周囲の目、あるいは他の問題の所在、正義を実行することによって長期的に見た場合にどのような不利益が生じるかという複雑な思考は停止ないし低下します。そのような複雑な思考をすることは、危険を叩きのめしてしまう一心不乱な行動の妨げになるので、停止させることが合理的なのです。
   大脳生理学的に言えば、前頭前野腹内側部の活動が低下するということになりそうです。意思決定の二重過程モデルに照らすと、分析的思考が停止するということになると思います。
   正義を耳にしてしまうと、人間の思考はこのように頼りないものになってしまうようです。言われている正義が、本当に正義なのかという吟味をすることがとても難しくなってしまい、不正義が正されることについて焦りをもって待ち望むような状態になってしまうのです。
   だから、正義という言葉が出てしまうと、本当は何をするべきなのかという思考が働かなくなってしまい、正義を言い出した人の都合の良いように心を操作されてしまうということが起きやすくなるのです。

 2)多元的な群れの存在
   正義が間違いを犯す典型的な場面は、なるほど確かにその正義を実現するとある人は助かるけれど、その人が助かる以上に多くの人が、もっと深刻な不利益を被るという場面です。
   先ほど、人間の心は、200万年前の単一の群れで一生を終えたころに形成されたとお話ししました。ところが現代社会では、多元的な複数の群れに所属して人間は生きています。家族、学校、職場、経済活動をする取引相手、自治体、国家、社会、インターネットや貿易でつながる外国の人や会社、地球という一つの環境に住んでいる人たち等、同時に複数の群れに所属しています。実際につながりを実感している人もいれば、通常は意識にも上らない人たちの中にも所属していることがあります。
   単一の群れで生活している時代は、群れの頭数を確保するという共通の利益がありました。また、自分の行動によって、不平等や不利益、弱い者いじめを正すこともできました。それによって、誰かが不利益を受けるとしても、それほど難しいことなしに調整が可能だったでしょう。とにかく、目に見える人は仲間だったわけです。
   ところが、現代社会ではこれが通用しません。同じ学校の同じクラスに通っていても、クラスという群れでは仲間だけれども、家族という別の群れにも所属していて、その意味では仲間ではありません。家族の利益を学校に持ち込むと、子ども同士が利益相反している局面もよく出てくることです。これは実際に利益相反しているというよりも、そのように思いこまされるということが実際のところかもしれません。
   このような時代の変化に心は対応していません。環境と心のミスマッチが起きています。
   目に見える人が苦しんでいたら、その人を助けようという心はあります。特に仲の良い友達が苦しんでいたら、仲の良い友達を助けることが正義になります。本当は、別の子どもが仲の良い友達から不利益を受けていて、その別の子どもが反撃をしているとか、正当な行動をしているだけなのに、仲の良い友達が勝手に傷ついていることをとらえ、仲の良い友達に共感してしまい、別の子どもを攻撃してしまうこともよくあります。その時は、正義の意識ですから、別の子どもに保護されるべき利益があるかもしれない等とは考えないのです。正義に反する悪だという意識が生まれています。こうやっていじめは始まります。
   複数の群れにいることを自覚して行動するか、学校にいる間だけは一つの群れで過ごすという行動様式を獲得しなければ解決しない問題なのかもしれません。
   いずれにしても、現代社会の多元的な群れの存在は、その実態の曖昧な正義をそのままストレートに実行してしまうと、新たな不合理な被害者が生まれかねないのです。これを無くすためには正義に価値をおくことはやめるべきです。

6 正義に騙されないために

  意図的に正義を利用する人間は、論理ではなく、相手の正義感情を動かそうとします。相手の思考を停止させ、自分の主張を通しやすくするためです。太古の人間の感情を掘り起こそうとします。弱い者が抵抗をすることなく攻撃されたということをことさら強調するわけです。そして、他人の感情を動かすために、自分の感情が動いていることを猛然とアッピールします。「私はかわいそうで涙が止まらなかった。」とか、「怒りに震えることをどうすることもできなかった。」等の言葉が出てきます。そうして、自分だけではなく自分と同じ感情を持っている人がいることをアッピールします。それを聞いているうちに人間は、だんだん太古の心が活性化されていくようです。その意図が分かって聞いていると気恥ずかしいくらいばかばかしい訴えなのですが、まじめな人、不平等、不公平、弱者保護に敏感な人は、何とかしなければならないと、すぐに焦りの感情を抱いてしまうようです。オピニオンリーダーを呼ばれる立場の人でさえ、そのような焦燥感に無抵抗に追随した姿を目の当たりにして複雑な思いをしたことがあります。ひとたび感情を操作されてしまうと、だからどうするこうするということはあまり吟味をしなくなります。不正義を正すということで精一杯で、提起された行動のデメリットについて何ら考慮しないで、正義を正すという大合唱が始まりました。人間は、実に弱く脆いものだということをつくづく感じさせられました。戦争はこのようにして起きたのだなあと感心したくらいでした。感情に訴えかけてくる手法がみられたら、直ちに冷静になる必要があるわけです。特に、感情的にだれも異論がないということと、その感情に基づいて行う行動は全く別物だという意識を持つべきです。
  特に、法律や国家政策など、多くの人間に影響を与える問題については、正義を振りかざして決めてはいけないところです。一つの法律が、うまく機能する場面と逆に機能してしまう場面のあるところを探して、少しでも不具合がないようにしなければなりません。個別事件を解決しようして国家政策を定めると、それによる不利益が必ず出てくると考えるべきです。法律とはそういうものです。「目には目を歯には歯を」で有名な紀元前18Cのハムラビ法典も、正義による制裁が過酷になる人間の性質を踏まえ、目をつぶされたら目をつぶす範囲で、歯を折られたら歯を折る限度で罰を与えるという、正義感情の抑制のために作られた法律だと理解されています。
  正義感情を理由として、国家政策や法律の改変の主張が行われる場合は、くれぐれも注意が必要です。国が正義を持ちだしたら、胡散臭いという気持ちをもって注意を払う必要がありますし、企業が正義を持ち出した場合は、先ずは企業の利益追求が真の目的としてあるのではないかということを疑うべきだということになります。

7 正義を棄てることは、人にやさしくなること

  ここまでお読みいただいた方も、まだ、正義を棄てされることには抵抗があるかもしれません。私を悪魔の使いのように不快を感じている方もいらっしゃるかもしれません。それは正義という言葉や概念がなくなったら、世の中は混乱するのではないかという不安があるからではないでしょうか。しかし、正義なんて言葉や概念がなくても世の中は混乱しません。江戸時代までの日本の秩序正しい社会は、幕末や明治初頭の外国人の記録から明らかです。八百万の神のお力もあったのでしょうが、おそらく、当時の世界第一の規模の大都市であった江戸において、多様な人間関係の中で調和的に平和に生きていく方法を確立していったという側面があったのだと思います。
  正義ではなく、相手の気持ちを尊重するということに心情や行動の拠点を置くべきです。特に、家族や学校、職場等、目に見える相手との人間関係では、正義ではなく、相手の心情を尊重するという原理に置き換えなければならないと考えています。相手の置かれた客観的状況においては、相手が苦しく感じるだろう、怖い思いをするだろう、かわいそうだから止めよう。こういうことが人々の行動原理になるべきなのです。これができないから虐待やいじめ、パワハラ等が起きるのだと私は強く訴えたいのです。
  その上で、つまり他者の心情への共感を基盤とした、平等、公正、弱者保護を実現していくということをするべきだと思います。曖昧で、裏の意味が隠されやすい正義等と言う言葉を使う必要はないと思います。
  さらに、そのような共鳴や共感に基づく対人関係は、マイナスからゼロを目指す概念ではなく、ゼロの先のプラスを目指すことのできる思考ツールです。家族、友人、同僚の中にいることで、安心できて癒される、この人間関係を大切にするために生きているという実感をもてる幸せを感じるための思考ツールだと考えています。
  正義の名のもとに、相手に緊張を強いるだけでなく、自分にも緊張を強制していたと最初にお話しました。正義は、個人個人の弱点や不十分点、失敗を許さない傾向にあります。しかし、人間は弱い者ですし、完璧ではなく、常に正義を目指す生きものでもありません。ずるい考え、よこしまな考え、安易な方向でずるい考えを持つこともあるでしょう。その不完全なことを正義は認めません。正義を棄てることは人間の弱さを認めることです。自分の弱さも認めてあげましょう。但し、それを行動に移す場合は、それによって不利益を受ける誰かの心情を考えるようにすることが必要です。そして、「かわいそうだからやめる」ということをしなければなりません。
  人間の心は、200万年前に形成されたまま進化していないと言いました。心は進化しなくても、頭脳、思考形式はだいぶ進化したようです。おそらく、現代の環境変化と心のミスマッチを解消する思考が「理性」というものなのでしょう。
  正義を棄てることは理性を働かすことを容易にして、人にやさしくなれる。人というのは仲間の誰かであり、通りがかりの人であり、また自分自身なのです。ありのままに自分を否定することなく、理性的な行動をする。これが、これからの行動原理になることだと考えております。

nice!(0)  コメント(2) 

いじめの判断は「原則として」被害者を基準とするべきことの理由 「可哀そうだからやめる」ができないことの考察3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由
2 どうして、客観的な判断をしようとするのか
3 被害者が被害を過敏にとらえている場合の対応

1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由

誰かにくすぐられるとくすぐったいのに
自分でくすぐってもくすぐったく感じない
この理由を一言で言うと、
「くすぐったく感じる必要がないから感じない」
ということになるらしいです。

では、なぜ他人が触る時はくすぐったくなる必要があるか。
それは、皮膚感覚が働いて、
異物が自分の体の触れられる場所にあるから
「危険があるのか確認して対策を立てろ」
という、危険回避の必要があるからだということになるでしょう。

これに反して自分が自分をくすぐる場合は。
予め、すなわち実際に触る前から
脳の無意識の部分が、
いつ、どのように触るか予想しています。
当然予想通りの触り方をするのですから、
何らかの対処をとる必要がなく
くすぐったく感じる必要はありません。

D・J・リンデン「脳はいい加減にできている」河出文庫
デイヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳──意識は傍観者である 」
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いじめやハラスメントの時も同じことが起きているようです

友達同士で喧嘩をして、悪口を言ったとします
発言する方と発言を受ける方は
全く異なった認識をしています。

発言をする方は、どのような発言をするかについて、
発言の全体像を把握しています。
トータルで考えることができるので、
それほど強い調子で言っているつもりはないかも知れません。

しかし、発言を受ける方は
相手から口に出されて初めて言葉を聴き取るために、
何をどのように発言されるかについて
予測することは不可能です。
警戒感が強い状態で、つまり攻撃に対して敏感になっている状態で
言葉の一つ一つを順番に聞いていくしかありません。
順次反応していくことになるので、
どんどん強い刺激になっていくように受け止める傾向にあります。

言葉一つ一つに反応していくことから
相手が話し終わってから内容を吟味することもできません。

攻撃者が思っている以上に
攻撃を受ける側は強い敵意が
自分に向けられているように感じるものです。

だから、
攻撃者は、攻撃する意図がない場合さえあります。
例えば、極端な話、道理を説いている場合があるのです。
「ブランコに並んでいる時に横入りしてはダメだよ」
という趣旨のことを言っているのだけなのに
言われた方は
楽しくブランコに乗ろうと期待に胸を膨らませていたところ、
(並んでいたけれど、ガラスが落ちていたので、
 みんなのためにちょっと捨てに行っていたかもしれない)
カウンターを浴びせられた形になり
驚いているし、
相手の表情などから自分が攻撃を受けているということを感じ、
言葉一つ一つが鋭く聞こえてしまい
「お前なんかみんなと一緒に遊ぶ資格がない」
と言われたように受け止めていることがありうるのです。

当然これはいじめではない可能性もあるのですが
言われて傷ついている様子があれば、
大人が何らかの対応をする必要があります。

皆の前で言われたことどもをフォローすること、
自分が横入りを注意したことで
思わぬ衝撃を与えてしまった子をフォローすること
これが大人としてやるべきことです。

必要なだけでなく、
いじめを産まない人間関係を形成するチャンスなのです。

ともすれば、
けんか両成敗で、どちらも「悪い」
ということになってしまうことがあるかもしれませんが
良い悪いではなく、
どうすればよかったのか
ということを大人を交えて話し合うことが良いのです。

それぞれの良いところをはっきり共通認識にして、
一緒に成長していく仲間であることを自覚させる
ということが理想です。

これを阻む思考上の最大の敵は
実は、「善悪」であり、「正義」であり、「秩序」です。

子どもたちに悪意がないということを前提として
エラーを修正していく
これが肝要ではないでしょうか。

そのためには、「加害者」、「被害者」という言葉は
使わない方が良いのだと思います。

いずれも、子どもが孤立している、マイナス評価されている場合は
大人が対応をする機会にしなければなりません。

2 どうして、客観的な判断をしようとするのか

それにもかかわらず、
特に学校は、いじめがあったか無かったか
慎重に判断する傾向にあるように感じられます。

慎重に判断する結果
なかなかいじめだと認定しないために、
必要なフォローができない状態になっているかもしれません。

もしかすると「いじめがあった」と認定すれば、
色々と処理するべき手続も多くあるのかもしれません。
報告書などの手続きがあるかもしれません。
その対応を教育委員会なりに評価を受けなければならないのかもしれません。

そうでなくとも、
いじめの記録等をつけなければならず、
加害者とされた児童生徒の記録に加えなければならないのかもしれません。

いじめと認定して、加害者とされた児童生徒に不利益が及ぶというなら
いじめの認定に慎重にならざるを得ず、
それがいじめか否かを客観的に判断しようとしてしまう
動機になってしまいます。

暴力や脅迫などの犯罪行為であれば
警察の問題が出てくるのですが、
そうではない場合は、
いじめを制裁の対象にするという硬直な扱いでは、
適切な対応ができなくなってしまいます。

やるべきことは、通常は、
子どもたちの行動の修正です。
大人もそうなのですから、まして子どもの場合、
自分が言った言葉が相手にどう伝わるかなんてわからないことが多いので、
相手が傷ついている可能性があるのです。

「どういう風にふるまえば、双方が楽しく生活できるか」
ということを目標とするべきなのです。

ところがそういう目標ではなく
「いじめゼロを目指す」
なんてことを目標にすると
こういう弊害がでてくるわけです。

プラスを作っていく、教育していくことを目指すべきなのに
マイナスを無くしていくという発想の貧困さを
指摘しなければならないでしょう。

ひとりの生徒なのに、
「いじめ認定」という烙印を押してしまうと
極悪人として別の人格にかわったように
扱うようになるのかもしれません。

いじめる生徒もいじめられる生徒もどちらも自分の教え子だ
という意識に欠けるところがあるのではないでしょうか。

3 被害者(の親)が被害を過敏にとらえている場合の対応

被害を受けているという子どもを基準に考えると
不合理な結果が生まれるのではないかという
現場の心配があるようです。

相談事例で増えてきているのは、
自分の子どもがいじめの加害者だと
攻撃されているというものです。

いじめの被害者だと主張する子どもの親から
いじめの加害者だという膨大なメールなどの攻撃を受ける
他人にもいじめがあると言いふらされているようだ
というものです。

実際の被害者の親だと主張する人のメールなどを見ると
脅迫すれすれの内容が記載されていますし、
加害者の子どもの人格を否定するような内容もありました。
復讐心や防衛意識はわかるとしても
明らかに不穏当なものでした。

この事例は小学校低学年の事例で、
それまで仲良しだった子ども同士が
クラス替えで別のクラスになったそうで、
加害者とされた児童は、
新しいクラスのお友達と仲良くなってしまい、
被害者とされた子どもにあまりかまわなくなった
ということが発端のようでした。

ここには、
被害者とされた子どもが加害者とされた子どもへの
依存傾向があるというよりは
被害者とされた子どもの親が、
加害者とされた子どもに、自分の子供の面倒を見てほしい
という依存傾向があったようです。

実際には被害者とされた子どもは、
新しいクラスになじんでおり、
友達もたくさんいて楽しく過ごしているようです。

母親だけが、
加害者とされた子どもを恨んでいたようです。

これをもっていじめだと主張していたわけです。

どうやら母親も、自分が子どもの時
いじめにあった過去があり、
自分の子どもも同じように虐められるのではないかという
強い不安があったようです。

おそらく最初は、クラスも変わって
被害者とされた子どもも心細い気持ちだったと思います。
加害者とされた子どもにかまってほしかったと思います。
それを母親に訴えたということもあることでしょう。

もしかしたら、加害者とされた子どもが
新しいクラスの子と話をしていることに夢中で
被害者とされた子どもに対応ができず、気も回らず、
結果として無視した事実もあったかもしれません。

被害者だと主張する子どもの母親は、
加害者だとされた子どもの母親に相談して、
不安を打ち明けて、
お呼ばれ会をするなり、
共同のイベントのセッティングをするとか
新しいクラスの子との遊びを応援する等して
他人に頼って解決すればよいのですが、
それができなかったようです。

被害者を主張する子どもの母親は
何度も学校に赴いていじめを訴えたようです。
どうやら
事実関係も分からないくせに
被害者を主張する子どもの母親に
同調してしまった人たちも存在したようです。
当然のごとく被害者を主張する母親は
無責任な共感によって
ますます不安を感じるようになって行ったようです。

学校は対応に苦労したようです。

「客観的な意味でのいじめが認定できないので、
いじめとして対応できない」
そういう感覚だったのではないでしょうか。

やがて、被害者主張の母親は、
学校から自分がモンスターペアレント扱いされていると思うようになり、
加害者扱いの子どもとその母親を攻撃するようになりました。

学校は、メールなどのはっきりした証拠が残る攻撃に対しては
きちんと対処をしていたようです。
学校から注意を受けると
加害者主張をした母親の攻撃はしばらく止まりました。

どうやら被害者主張の母親は精神的に問題があったようです。

たびたびの攻撃にさらされて
加害者扱いの子どもの母親の方も精神的な負担に
耐えられなくなってきたようでした。

学校はどうすればよかったのでしょうか。
何か修正するところはあるのでしょうか。

学校からすると、
「あなたは精神的に問題があって
妄想傾向にあるから病院に行った方がよい」
ということはできないでしょう。

手を焼いた状態だったと思います。
出来ればかかわりたくないということが人情ではあるでしょう。

初期対応の際に
いじめかどうかの認定を後回しにするという決断が
必要だったと思います。
先ずは、子どもたちに事実関係を確認するのではなく、
母親の心配事をきちんと掘り下げるということを
第1にされるべきだったのでしょう。

母親が実際に何を心配しているのか
現実に起きていることに対する抗議というより、
この派生問題として将来起きるであろうことを心配しているのであれば、
学校としてできることは
母親を励ますことなのだろうと思います。

子どもがクラスでなじむように
サポートすることを説明することが有効だと思います。
そしてお子さんはきちんとたくましく成長しているということを
事実をもって紹介して不安の材料を極力なくしていき、
安心してもらうことが第1でしょう。

そして、
母親の過剰な行動は
第三者の子どもたちにも伝わっていき
その結果子どもが窮地に陥るというデメリットも
きちんと伝えるべきでしょう。

こういう親の不安の結果、
友達を無くす不幸な子どもがあちこちに増えています。

低学年の子どもにとって
クラス替えというものはこういうものであるし、
少人数の友達だけの付き合いから
クラス全体の交流を作っていく過程で
克服されていくことを説明するべきだし、
そういう人間関係作りをしていく
ということを意識するべきだと思います。

正義感の強い先生の場合、
悪いことをしていない子どもを加害者扱いして
理不尽な要求を通そうとする保護者に対して
強い態度で押し切ろうとすることがあるかもしれませんが、
逆効果になります。

被害者主張している親に精神的な問題があり、
秩序や正義感に問題があるわけではないという場合は
その根本原因を把握して、そこを手当てするしかないようです。

そしてその根本原因は
子どもが孤立したり攻撃を受けたりするという不安です。
ここを一緒に適切に評価していくということが求められるようです。

これは加害者扱いされて苦しむ親に対しても同様です。
きちんと学校が把握している事実関係についての評価を告げて、
子どもを守るということを約束をする必要があります。

いじめの問題が扇情的に報道されてしまうと
自分の子どももいじめを受けるのではないか
いじめによって子どもが自死するのではないかという
不安を抱く親が増えることは当然の成り行きです。

それを踏まえて報道がなされるべきであることは当然です。
裏付けをとらない決めつけ報道は害悪にしかなりません。
こういう主張があったことを報道しているだけだという
ゴシップ週刊誌のような言い訳を新聞が行うことは
情けない限りです。

おそらくこのような「正義」の報道は下火にはならないでしょう。
誰かを攻撃する姿勢によって、別の誰かを苦しめることは続くでしょう。

学校はそういう情けない社会状況を踏まえて、
過敏になっている保護者の対応を考えなければなりません。

学校も逃げないで真正面から対応するだけでなく、
利用できる人間を大いに利用するべきです。
教育委員会も学校現場が、
外部の応援を受ける体制を推進していただきたいと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

どうしていじめることが「できる」のか。「かわいそうだからやめる」ができない理由2 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 いじめの加害者は、特殊な人間ではなく普通の人間だと考えるべきこと

もしかすると
「いじめの加害者は、
精神的にいびつな構造を持っていて、
相手を苦しめることを何とも思わないというような
冷酷無比の特殊な人間だ」
と一般には考えられているのかもしれません。

被害者やその家族がそう受け止めることは、
もっともなことですし、
私や私の家族がそのような攻撃を受ければ
私もそう感じるでしょう。

問題は、
いじめなどを防止しなければならない人が
「いじめをする人間は冷酷無比の特殊な人格をもった人間だ」、
という考えに陥っているとすると、
いじめ防止は、特殊な人格者探しをすることになるだろうし、
いじめをした者は、特殊な人格者として
治療、矯正、あるいは隔離の対象となってしまう
危険があるということです。
早い話、
それでいじめは防止できない
ということが今回申し上げたいことです。

私は、防止の観点からは、
いじめは、
子どもたちの人間関係が未熟なために、
人間関係で必要な配慮ができなかった
そしてそれを修正できなかったという
「エラー」として把握するべきだ
と考えています。

どういう場合に「エラー」が起きるか
それを突き止めて
先回りをして対策をして
「エラー」を起こさないということが
防止の観点からは有効だと考えています。
行動経済学という
近年ノーベル賞を輩出している
分野の応用ということになります。

特殊な人格者の行為ではないと考えるべき理由は、
同じ子どもが
いじめをする方にも回るし
いじめられる方にも回る
普通の子どもが被害者にも、加害者にもなる
そういう性質のものだからです。

冷酷無比の人格を探していたり、
命の大切さを教える教育をしていても
いじめ防止にはつながらないと思うのです。

「相手を殺しても良い」と思って
いじめをする子どもは滅多にいません。
逆に何らかの精神的構造上問題があって、
いじめをするならば
命の大切さを教えても仕方がない
ということになるでしょう。

私は、犯罪にしても、離婚にしても、パワハラにしても
加害者と呼ばれる人と話をする機会が多いのですが、
そのような冷酷無比の精神構造になっている人はおらず、
「普通の人」の範囲であることが多いという印象です。
家族がいて、家庭を大事にできる人であったりします。

2 いじめ防止のヒント、共感とは何か

ただ、共通の事情として、
いじめや犯罪などの攻撃行為をしている時、
相手をかわいそうだと思うことができない
相手に共感できないという
状態になっているようです。

「共感とは何か」ということを端折って説明すると、
先ず、相手の気持ちがわかることではないようです。
では「共感とはなにか」というと、
「あたかも自分が相手のその立場にいるという
感覚を持ってしまい、
相手と同じように
自分が苦しい、つらい、悲しい、寂しい、怖い
という感情を抱いてしまうこと」
ということなのだろうと思います。

厳密に言えば
相手の気持ちを共有するのではなく、
相手の立場を共有するということです。
相手の立場を共有するためには、
相手の置かれた客観的事情だけでなく
相手の表情、声等に現れた相手の感情も
立場を推測する事情になります。

相手の気持ちを受け止めているつもりでも
実際は自分の感じ方をしているので
実は勘違いをしているということがあっても
それは仕方がないということになるようです。

そうやって相手の気持ちを追体験しているうちに
自分も苦しくなるのですから、
自分の苦しさを止めるために
相手を苦しめる事情を解消したいと自然に思い、
加害行為を止めたり、やめさせたりするわけです。

これがミラーニューロンによる共感の仕組みで、
ホモサピエンスが群れを作ることができた仕組みです。
ホモサピエンスがネアンデルタール人より
子孫を長らえさせることができたのは、
この仕組みを体内に持っていたからだと思います。

人間らしい、サピエンスらしい行為、気持ちというのは
人間が仲間に対して
(厳密に言えば敵ではない人間に対して)
遺伝子上自然に持つ気持ちのようです。

3 いじめ防止のコンセプト エラーへの先回り対処

いじめ対策のコンセプトとしては、
「遺伝子的には仲間に共感することが自然なのに
共感できなくなる『事情』というものが存在する。
だから共感できないし、かわいそうと思わないでいじめる。
そう考えると、
その『事情』を除去することで、
もともと人間として備えている共感の仕組みを
発動させることができる。」
というものです。

その事情とは、「防衛意識」が強くある場合です。
防衛意識と言っても「自分を守る場合」だけではなく、
家族であったり友人であったり「仲間を守る場合」、
「弱い者を守るという意識がある場合」、
「正義や社会を守る意識」も
ゆがんだ形で作用することがあります。

もう一つは、脳の構造にも原因があるようです。
「自分がこれからする行為についてのダメージ評価は、
相手が実際に受けるよりも軽くなる傾向にある」
ということのようです。

今回は防衛意識に焦点をあてます。

そうすると
「いじめは、
防衛意識が強く働いているために
いじめられる子どもの気持ちを無視してしまうという
『エラー』が生じて起こる。
だから、『エラー』が起きる事情をパターン化して
先回りして『エラー』を起こさないように必要な介入をする。」
ということがいじめを軽微な段階で辞めさせる手段となるし、

「『エラー』が起きないように
事が起きる前から
そのような事情を作らないように指導していくということ」
が根本的な事前のいじめ予防ということになると思います。

4 ホモサピエンスが共感を閉ざす場合

 1) 共感の始まり

ではどういう場合に
他人に共感できなくなるか
自己防衛意識が高まるのか
ということです。

それは、200年前の人間の暮らしをイメージすると
とてもわかりやすく理解することができます。

人間の心は、約200万年前
狩猟採集をしていた時代に形作られた
と考えるのが認知心理学の大勢です。
私(対人関係学)は、認知心理学と別角度から
この結論に到達しましたので、
この結論を支持しています。

この時は、原則として
ヒトが生まれてから死ぬまで同じメンバーで固定されていた時代で、
群れの仲間に対しては
防衛意識が生まれにくい事情がありました。
理由を一言で言うと、「仲間は自分を排除しない」
という確固たる意識がありますから、
疑心暗鬼というものが生まれにくく、
防衛をする必要がなかったからです。

逆にどういう場合に
防衛意識を抱くかということを考えれば
その構造が理解できると思います。

 2)肉食獣との闘い

防衛意識を抱く一番の事情は
肉食獣に遭遇した時でしょう。
自分が逃げることが基本ですが、
群れの仲間が逃げられないときも、
寄って集って袋叩きにして反撃をしたと考えています。

防衛意識は、攻撃意識を含みます。

攻撃は、怒りという感情に支えられて
相手を倒す以外のことを発想としても持ちえないほど
強力な行動意欲をもつ現象です。
徐々に、肉食獣は
「人間が集団でいる時は自分が危険になるから襲わない」
という本能を獲得したわけです。
(これは肉食獣の防衛意識です)

攻撃する相手には共感をしません。

例えばゴキブリが嫌いな人が
家にゴキブリが出たと言って
叩いたり殺虫剤をかけて
完全に動きを停止するまで戦い続ける
という具合です。

相手にも命がある、親もいて子もいるかもしれない
等ということは全く考えないでしょう。
殺し終わった後に考えるかどうかはともかく。

闘っている時、
ゴキブリに共感する人はいないわけです。
(それほど嫌いではない人はそもそも闘わないでしょうし)

 3)ネアンデルタール人との闘い

肉食獣以上に危険だったのは
近接種でしょう。
ホモサピエンスの場合、ネアンデルタール人が
種全体の仮想敵になっていたと思います。

サピエンスと姿かたちが近い
うっかりすると、突発的に、
相手に共感することがあったかもしれません。
特に赤ん坊とかですね。

この辺の事情はなかなか想像しきれないのですが、
飢えなどで困ってくれば
危険を顧みずに
双方が攻撃を始めた可能性があったと思います。

この時も、別種ということもあり、
こちらの生命線を犯す事情があれば
自分や仲間を守るために
攻撃する、
攻撃すれば共感を停止する
ということはあったと思います。

 3)サピエンスの他の群れとの闘い

近接種ばかりではなく、同じ種である
サピエンスが攻撃対象となる場合もあったでしょう。
先ずは他の群れのサピエンスです。

極端な食糧不足の際等に
他の群れを襲う場合があった可能性はあると思います。
同じ種に対して、共感を起こさないように攻撃はできたでしょうか。

攻撃ができたと思います。
「他の群れ」との物理的な距離が一番の決め手となりますが、
従前から遭遇を繰り返し友好関係にある群れは
攻撃しにくかったと思います。
個体識別ができれば、共感システムが発動してしまうからです。
この共感システムを閉鎖するためには、
かなり強い怒り(強い防衛意識、危機感)が必要だったと思います。

それと反対で
見ず知らずの群れとの闘いの場合は、
共感を停止しやすかったと思います。
みたことの無い人間は、個体識別ができませんので、
共感がしにくいという事情があったのだと思います。

「攻撃をしてくる見ず知らずの人間」は
防衛意識に支えられて
肉食獣と同じ扱いになりやすい
ということです。

但し、同じサピエンスですから、
痛みや苦しみ、死の恐怖は見てわかるわけです。
怒りで一時的に共感システムを閉鎖しているだけですから、
戦いに勝利して怒りが収まった後は
共感システムが作動してしまい、
同じ苦しみが襲ってきたのかもしれません。

 4) 同じ群れの中の危険人物との闘い

一番困るのが
群れの中の敵ということになります。

当時は、みんな生きるだけで
いっぱいいっぱいの状態でした。
だから、人間にも「糖」などの栄養分を
摂取しやすくするシステム
体内に備蓄するシステムが発達したわけです。

このような食糧事情、生存環境の下で
一人だけ「ぬけがけ」することは
(蜂蜜のありかを隠して仲間に分けないとか)
他の群れに栄養が行き渡らず、
弱い個体から死にはじめますから
群れの個体数が減少してゆき
頭数が減ることによって
肉食獣からの防御や食糧の採取に不利になり、
結局は群れの死滅を意味しました。
大変危険な存在だということになります。

このように他者に共感する能力が欠損する個体も
一定程度生まれてきたことでしょう。
もっとも、
通常は、子どものころにその片鱗が見えますから
群れ全体で矯正したと思われます。
人間が幼体から成体に代わるための時間が
他の動物と比べて著しく長期間になっている理由は、
このような群れで生きるための
訓練の時間を要するからだという説があります。

長い時間をかけて矯正をしても
先天的に共感をする能力が欠如して矯正ができない
しつけにも従わないという
群れに危害を加える場合は
群れ全体として「防衛意識」を持つことになります。

群れ全体の防衛意識が高まり
怒りのモードになると
危険人物は強制的に排除されたのだと思います。

母親等は悲しみとあきらめがあったかもしれませんが、
攻撃が開始されると
攻撃の核となる人物たちは怒りのモードになっていますから、
相手に対する共感チャンネルは閉じてしまいます。
相手の怯え、痛み、苦しみに対して反応せず、
殺すか追放するまで攻撃を緩めなかったことでしょう。

攻撃者の数は増えます。
攻撃しても良い相手だ
共感を閉ざすべき相手だ
という感覚が広がると
怒りは、群れの別の人間の怒りを呼び起こし、
容赦ない攻撃がエスカレートしていったと思います。
プロレスを見ていて観客が興奮するようなものです。
怒りとはそういうものです。

危険人物は
「仲間」から、「群れを襲う肉食獣」の扱いになったわけです。

そうすることによって危険分子を排除し
群れの消滅を回避してきたのだと思います。

 5)いじめの構造

このシステムは今でも私たちの心を形作っていると思います。

いじめにおいても
周囲の多数が攻撃参加している段階になると
「いじめても良い人間だ」
という意識に変貌していますから、
いじめられている子に対して
共感チャンネルは閉ざされています。

いじめられる子は、
多数からすれば人間扱いされておらず、
200万年前の肉食獣と同様に扱われているわけです。

こうなったらいじめが完成されてしまっています。

ここで、
いじめられている側の子の状況を分析しましょう。

いじめられている子は、自分が
「人間扱いされていない」
と感じています。
言葉で表現することは難しいでしょうけれど、
仲間として扱われないで理由もわからず攻撃されるということは
そういうことです。
あたかも、攻撃的なネアンデルタール人の中に
放り込まれたように感じているはずです。

それはとてつもない恐怖、疎外感でしょう。
具体的ないじめ行為がなくても、
その場にいること自体で安心できないのです。
やがてそれは、いじめの空間にいなくても
自分が存在していること自体に安心できなくなります。
自分が仲間として扱われるということに絶望した場合、
生きる意欲を失っていき、
精神のバランスも保てなくなることが少なくありません。

これはいじめられているその時だけでなく、
何年かたった後でも
「人間は自分に危害を与えるものだ」
という意識がちょっとしたことでぶり返してしまいます。
不安感がずうっと継続している場合もあります。
なにせ、人間が近くにいないという環境は
なかなか望めないからです。
統合失調症の症状を呈する子どもたちも少なくありません。
中学校、高校時代の大半を入退院の生活を送り
その後も社会参加ができず、
一生が台無しになる危険があるのです。

ある程度多数が一人の子だけを
からかったり、いじったりしていれば
からかってもいい子だ、いじってもいい子だ
という意識が生まれますから
「虐めても許される子」だという意識になり
すぐにいじめが完成してしまいます。
また、からかいやいじりがあった時点で
本人にとっては深刻ないじめを受けている
「自分は人間扱いされていない」という
絶望感を感じている可能性もあるわけです。

こうならないように子どもを死守しなければなりません。

何が加害者の防衛意識を発動させるのかということを考えましょう。

この時、加害者側の事情、被害者側の事情を
リアルに考えなければなりません。
そういうと、
「被害者にも悪いところがある」
という論調が頭に浮かびます。
こういう消耗な趣味的な議論を避けるために一言言っておきます。

本気で防止を考える時は
「良いとか悪いを抜きにして考えなければならない。」
ということが大切です。
いじめにつながる事情があるなら、
その時は悪いこととはいえなくても
ことごとく除去していかなければなりません。
被害者が悪い、被害者は悪くないという次元で論じていたのでは、
いじめが起きる事情をリアルに見ることができません。

あくまでも
加害者、被害者、取り巻く人たちの
「人間関係の状態を修正する」
という発想が必要です。

では、どういう場合に
加害者の防衛意識が
いじめられる子への攻撃へと向かうのか
防衛意識を発動するきっかけとは何かを
検討しましょう。

5 防衛意識が生まれる事情

 1)自分が攻撃を受けた場合

防衛意識を持つ流れは、
自分に危険があると認識し、
危険を回避したいという要求が生まれ、
危険を回避しようという行動をしよう
つまり防衛意識ということになります。

危険の中身ですが、
身体生命の危険を感じた時に
防衛意識が生まれることは
分かりやすいと思います。

ただ、自分の身体生命の危険を感じて
反撃がいじめの端緒となるということは
それほど多いことではありません。

むしろ対人関係的危険を感じたときが
いじめの端緒の攻撃につながることが多いようです。
対人関係的危険とは、
顔をつぶされるとか、立場を無くすとか
「仲間の中で自分の評価が下がる場合」を主として想定してください。
仲間はずれにつながる不利な事情ということになるでしょう。

典型的な例は、もともとは親密な人間関係があった場合
ということが少なくないようです。

相手が自分以外を優先していると感じる場合とか
自分の弱点を見られてしまったとか
自分の知られたくないことをみんなに告げているようだとか
そういう場合です。

あるいは、親友だったのに
最近、相手が自分から離れていくような気がする
そういう場合です。

これは、そのような扱いが客観的にある場合はむしろ少なく
実際はそこまで悪く考えなくてもよいのに
悪く考えてしまう場合が多いようです。

危機感は主観的なものですから、
危険があると感じると防衛意識が発動されてしまいます。

だから、
加害者にもともとコンプレックスがある場合は、
危機感を抱きやすく、
親密な人間関係がなかったのに防衛行動に移りやすいです。

容姿を気にしていた子は
容姿の良い子が自分を馬鹿にしているように感じたり、

自分の学業成績に不満の子が
学業成績に不満のない子が自分をあざ笑っていると感じたり、
(実際は、加害者の方が成績上位である場合も少なくありません
 コンプレックスは劣っている場合だけでなく
 自分の目標値との乖離等が原因で起きる場合もあるようです。)

音楽が不得意の子が
ピアノのコンクールでよい成績を収めた子から
馬鹿にされていると感じたりという具合です。

 2)友達・仲間が攻撃を受けた場合

人間の良いところが裏目に出ることもあります。
友達が危険な目にあっていると思うと
自分も危険な目にあっているような追体験をして、
勝手に防衛意識が生まれることが良くあります。

本当は友達が悪くて、
相手が正当な反撃をしただけなのに、
友達が悔しい思いをしているのを見ると、
友達がかわいそうに思い、防衛意識が生まれ、
相手を攻撃するということはいじめの端緒でよくあります。

公平に見れば、相手の方がかわいそうなのですが、
友達といる時間が長いので、
友だちの表情や動作から感情を読み取りやすくなっていて
つまり共感しやすいので、
友達に味方してしまうわけです。

相手と付き合いが短かったり、薄かったり、
相手は感情表現に乏しいといった場合は
感情移入がしづらくなります。

時間的な目撃状況の具合で
相手が気の毒なところは見ておらず、
友達が傷ついているところだけ見ているということも
友だちの方にだけ感情移入する原因となるようです。

公平に物事を見るということは
実は難しいことで、
公平にものを判断するためには
ある程度先ず共感を遮断する必要がある
ということは頭に入れておいていただきたいと思います。

そして、わがままな友達を守ろうとする
取り巻き連中が多くなればなるほど、
相手をいじめてよいのだという風潮が強まり、
無関係な子どもたちも攻撃に加わっていきます。
そしていじめが完成します。

 3)「正義」・「ルール」が守られない場合

「正義」を守るという意識は
いじめに転化しやすいようです。
「正義」は、「ルール」と置き換えてもよいでしょうし
大きな集団と置き換えてもよいでしょう。
この場合の大きな集団とは、
ダンバー数からすると150人を超えた人数ということになります。

子どもですから大したことの無い正義なのです。
例えば、部活をさぼるということがありました。
運動部や吹奏楽部など
毎日部活動にでることが明示、黙示のルールになっている場合、
体調や気分によっては、出たくない日も出てくるでしょう。
それでも頑張って毎日部活に出ている子からすれば、
平気でさぼっているような子を見ると
むかつくようです。

私はどちらかというとサボる側でしたから
よくわからないところはあるのですが、
まじめに部活動にいっている方は
理由なく部活に来ないことを
「ずるい」という気持ちになるようです。

彼らにとっては部活動に行くことが正義ですから、
正義を守るため、
結局は自分を守るため、
相手を容赦なく攻撃するようです。

共感チャンネルは閉ざされて
ラインなどで多くの参加者が一人を非難し、
かわいそうだと思うことがなくなるようです。
「部活をさぼっただけなのに」
という論理は通用しないようです。

ラインは、文字情報しか画面に出ませんので、
相手が苦しんだり怖がっている様子はうつりません。
言われた相手に共感して
かわいそうだからやめようなどということが
起こりにくいシステムです。

正義を守ろうとか、集団を守ろうということになると、
そして守ろうとしないものに制裁が加わるようになると、
それを守らないことの恐怖感情が強くなるとともに、
その緊張を逸脱する者に対する憎しみが増大するようです。

実際は、子どもたちの自然な正義感というよりも、
例えば、部活に来なくていけない
という厳しい指導があったり、風潮があったり、
運動で学校推薦を使って進学しなければならないとか
どこどこの高校に行かなければうちの子ではないとか
一生フリーターで老後は無年金だとか、
大人が子どもを追い込んでいることがほとんどだと思います。

 4)八つ当たりと敏感体質

ここまでお話してきて
気が付いた方もいらっしゃると思いますが、
防衛意識とは、
自分に危機を与える対象に対して
まっすぐに向かうわけではないことが特徴です。

防衛意識は、
「とにかく危険を回避したい」
という要求に基づいて起きます。

例えば、自分の容姿に悩んでいる人が
容姿の良い人に馬鹿にされていると思うことについて
容姿の良い人に責任はありません。

成績を気にしない人が
成績を気にする人から恨まれる筋合いもありません。

つまり八つ当たりからいじめが始まる
ということが多いはずです。

今の子どもたちは危機感を持たされて
無防備に不安にさらされています。

良い学校に入り、
ブラック企業ではない会社の正社員になることが
多くの子どもたちの目標にされています。

地方の実業高校などでは
校内選考でよい成績を収めないと学校推薦しない
ということが、
生徒を黙らせる道具になっているところがあります。
「一生フリーターで無年金で老後を迎えるのか」
という言葉が脅し文句になっていました。

そもそも思春期は将来に対する不安があると思うのですが、
現代社会は、ブラック企業、フリーター、無年金等の
具体的な不安に子どもたちはさらされていると思います。

何とか不安から解放されたいという思いがある一方
それは直ぐに解消されない不安だということになります。
何とか一時的にも不安から逃れるために、
どうしたら良いだろうかと考えるわけです。

そうすると、
他人のごく些細な言動、あるいは振る舞いが
自分を馬鹿にしている、自分よりも優越している
というように感じやすくなり、
不安感、危機感を感じ易くなるようです。

不安に対して、あるいは他人の自分に対する評価を
いつも気にしているために、
敏感になっているようです。

本当は社会制度や経済状況から与えられた危険意識だったのに、
些細な言動をとらえて、別の子どもを攻撃することで
一時しのぎをしたくなる
これは無意識に起きます。
不安解消要求の誤作動です。

その八つ当たりの対象は
「自分よりも弱い者」です。
容易に「虐めてもいい子」にしやすいターゲットを
本能的に見つけ出すわけです。

なぜならば、
怒りに基づく行動は
通常、自分より弱い者に対してしか起きないのです。
自分より強い者に対して起きる感情は恐れです。

相手がある程度力があり、
一対一では勝てるかどうかわからない場合は、
数を頼んで勝てる状況を作っておいて
集団攻撃を行い、
攻撃をします。

最近のいじめは、被害者になんの誘引行動がなくても
強引に起こされる場合があるようです。

最初はからかいやいじりなのでしょうが、
攻撃を繰り返していくうちに
相手に対する共感チャンネルが閉じられていき、
攻撃参加が多数になると
「いじめてもよい子」というレッテルが張られ、
共感チャンネルが次々と閉じられていくわけです。

そのターゲットは、
例えば、障害を持っている子
孤立しやすい子
反応が遅い子
反撃をしない子
という場合もありますが、

突出して恵まれているけれど
取り巻きを作らない一匹狼

先生や、子どものリーダー格(年長)が
敵視したり、低評価をする子
等が「いじめてもよい子」になりやすいようです。

例えば、何らかのコンクールでよい成績を収めた子がいて、
コンクールにさえ出られなかった者が妬みを友達に話し、
その友達も同じ嫉妬を持っており、
それに無責任に追随する子が生まれると、
妬みが社会的に肯定されたような錯覚を起こすようです。
妬みを抑えておこうというタガが外れ、
小さな攻撃を繰り返していくうちに
人間扱いされていないと感じる被害者が
生きる意欲を失っていく
ということがありました。


学校でのいじめが起きる場合
教師がターゲットに対して
否定的な言動をしたことがきっかけになる場合があります。
この場合、その子が
クラス全体のお荷物として扱われることから
クラスに害悪を与える存在という評価に移行しやすく
正義を守るため、私たちの授業を守るため
その子は悪だ、「いじめてもよい子だ」
という状況が起きてしまうようです。

6対策

先ずいじめの生まれる原因のまとめです。

<加害者になりやすい子>
不安を抱きやすい子 抱きやすい事情のある子
(兄弟間差別、高い学歴を家庭が求めている子)
やるべきことを無理をしてもきちんきちんとやろうとする子
コンプレックスを抱きやすい子
友達に依存している子(その友達から見離されると孤立すると思っている子)
自分の言うことに無条件に追随する友達がいる子

<被害者になりやすい要素>
(属人的要素)
周囲に面識のない、足りないと思われている子
(転校生、長期休み)
一人だけ多数と違う特徴のある子
(外国籍が少数の場合)

(行動傾向)
本人に依存している友達を持ちながら
その友達の依存要求に無頓着な子

多数が心配していることを心配していない子がいる場合
(気にしない、満ち足りている)
進学、就職、容姿、将来のこと、
部活動などルールにルーズな子
服装、身だしなみにルーズな子
他人に損をさせること平気な子

(対人関係的反応)
からかわれてもからかい返したりしない子
怒れない子
感情表現の乏しい子

(状態像)
仲の良い友達のいない子
孤立しがちな子
からかわれやすい子
いじられやすい子

(環境的要因)
教師が評価を伴う指導をすることが多い子
体育系や吹奏楽部等集団行動が必要であり、欠席が自由にできない部活の子
生徒同士を過度に競争させる環境
小集団の構成に変化があるとき

おそらく指導要領だったり、マニュアルや教育理論だったりに
記載はされていることなのでしょうけれど
力点のポイント、関連付け
ということで私も考えてみました。

1) 総論

「かわいそうだからやめる」
そのために共感チャンネルを開く
という指導を行うべきです。

そのためには、ルールを守るとか正義、道徳を死守する
というより、
相手の気持ちに基づいて行動をする
という行動原理を徹底するべきなのです。

ここで、教育界にはトラウマがあることが
問題の所在であることを意識しなければなりません。

校内暴力です。
荒れる教室です。

どうしても、静かな穏やかな教室
という結果を求めたいので、
それを押し付けようとします。
このために、ルールや道徳を強調し、
逸脱者に対する制裁が許容されてしまう現象が起きます。

しかし、いずれにしても根は一つですから、
原因に向き合うべきです。
結果としてルールが守られやすくなる、
道徳的行動をするというためには、
やはり、一緒にいる人の気持ちを行動原理にする
ということを教えていく必要があります。
これが道徳の基本です。

ではどうやってこれを訓練するかということですが、

先ずは、お互いをよく知ることが必要です。
但し、個人情報を頭に入れるということではなく、
一番は一緒にいるということです。
心理学的には単純接触効果と言いますが、
一緒にいることで、感情の推移をつかみやすくする
これが共感の基礎になります。

次は、他人の弱点を尊重する、助けるという体験です。
感謝され、尊重される体験は
人間の遺伝子的な性質を掘り起こしていきます。
こういう行動は称賛しましょう。

具体的には集団活動なので、
合唱や演劇、運動などが良いのですが、
クラス対抗にして成績をつけてしまうと、
一人の弱点がお荷物になり、悪になってしまいますから、
順位はつけない。
評価する側は、良いところに目をつけ、
そこを評価するという工夫が求められます。
適当にお茶を濁すのではなく、
子どもたちが
「そこを評価してほしい」
「そういうところも評価の対象になるのか」
と目を輝かせる講評が必要です。
さて、そのように共感チャンネルを開いて
「かわいそうだからやめる」を支配的空気にする
最大の特効薬は、
本人たちが尊重されることです。
尊重されるとは、
自分の弱点、欠点、不十分点を理由に
評価を下げられたり、仲間はずれにされたりしない
つまりありのままの自分でよいのだという自信です。

こういう体験を重ねていくこと、
学校だけでなく、家庭や地域でも
体験が増えていくことが望ましいです。

少なくとも先ずは、
弱点、欠点、不十分点は
何らかの形でカバーすることであって、
それを理由として仲間として扱わない
ということを止めることです。

根本的には、小学生に老後の心配をさせない社会、
安心して安定した職業に就く社会が
失敗に寛容な社会が解決策なのですが、
一朝一夕には実現しません。
むしろ、そのような社会の基礎を作るくらいの気概で
子どもたちの教育に取り組むべきではないでしょうか。


2) 加害者を作らない

思春期は、人生の目標や未来設計をしますが
経験不足や社会状況から見通しが立てられない
という現実も見えてくるときです。

コンプレックスや挫折を抱きやすい時期だ
ということになるでしょう。

将来の目標に向かって努力するということも尊いのですが、
ありのままの自分を大切にする、
誰かに自分を大切にしてもらうということも
大事なことです。
他人の人権を侵害しない特効薬は
ありのままの自分が大切にされるということにあります。

現時点の到達点を否定的にとらえるのではなく
そこを出発点、0ポイントだという考え方が必要です。
どんな成績、部活動の状況でも
それを理由に低い扱いがなされてはいけません。
知らず知らずに成績に良い子に共感を持ちやすいのですが、
教師は内なる差別がないか厳しく点検しましょう。

また、子どもたちが、成績や容姿、運動能力等で
人間の序列を作るような振る舞いをしていたら、
それはやめさせましょう。

ご家庭の中で、兄弟間の差別があったり
無理な目標をたてさせているような場合、
休息を与えることを意識してもらいましょう。

クラスの内外で、少人数グループが形成されている場合、
グループを解体させるというよりは、
より大きなグループ、クラス全体の行動をすること
どのような子でも、
色々な人たちと行動を共にすることができるし
それは楽しいことだということを気づかせましょう。

また、過度な部活動はやめましょう。
休みない部活動に自然と反発することは
人間として当然なことです。

極端な集団活動の相互矯正になっていないか
教師と生徒、生徒同士の関係を点検する必要があります。

私は、部活動の全国大会を廃止するべきであるし、
部活動の成績が進学に有利になることを改めるべきだと思っています。
地域の少年団等に積極的に援助するべきだと思います。

3)被害者を作らないために

教師が、子どものリーダー等の協力を得ながら
被害者になりやすい子を
積極的に仲間の輪に入れていくことを意識する必要があります。
端的に言えばなえこひいきです。

必要なえこひいきはしなくてはなりません。

えこひいきは、馴れない仲間から馴れた仲間に代わるまでの
一時的なものもありますが、
生まれもって弱い子
孤立しやすい子、怒れない子、仕返しや抗議ができない子
克服できない弱点のある子と言ったように
ある程度持続的に行う必要がある場合もあります。

とにかく
「いじめてもいい子は一人もいない」
ということを大人が体を張って示す必要があります。
からかいやいじりが承認されてはいけません。
特にからかう側とからかわれる側が入れ替わらない場合は
いじめだとしてかまいません。

自分はいじめられても仕方がない子ではない。
いじめはやめてもらわなければならない
ということを理解させましょう。
味方がいるという自信をもってもらうのです。

子どもたちの日常生活をよく見て
「かわいそうだからやめる」
という子どもたちの行動が見られたら
それは大いに称賛しましょう。

4)教師の指導
まず、ルールを破ったり、自分の利益のために他人に不利益を与えた場合も、
感情的になり、他の子どもたちの前で叱責することは
「いじめてもよい子」を作るきっかけになります。

深刻な事例であればあるほど
個別の指導が必要だということになります。

深刻な被害をもたらした行為であれば
教師といえども単独では行動せずに
チームプレーを心がけるべきです。

子どもが完成された人格ではないことをくれぐれも意識し、
どうするべきなのか一緒に考えるという姿勢が必要です。
また、事後的にですけれど被害を受けた子供に
共感することを覚えさせる良いチャンスです。

部活動指導に熱心なあまり
部活動をさぼる子ども、特に練習を休んで掃除や雑用をする際に休む子を
感情的にののしったことから
堰を切った水のようにいじめが完成してしまった事例もあります。
教師自身が正義やルールを理由として
個別の子どもの感情を忘れてしまってはなりません。

体罰は、本人に屈辱感や恐怖感を与えるだけでなく
周囲にも恐怖感を与えるとともに
本人の屈辱感に対応する他者の優越感を呼び起こし、
本人に対して対人関係的不安を
周囲に対して「いじめてもよい子」という
人格を考慮しない風潮が生まれてしまいます。

命の授業に変わる授業として、
人間の弱さと人間が弱いからこそ助け合う
という人間の在り方を教えましょう。

人間らしく生きることの
楽しさ、充実した生活、
人の役に立つ喜びは
遺伝子の中に組み込まれていますから、
それを掘り起こすことによって
子どもたちは遺伝子で理解していきます。


以上、いくつか「エラー」が生まれる場面を見てきました。
大事なことはいじめの具体的な事例を報告しあい、
なぜいじめられたか、
つまり
何が子どもたちの防衛意識を刺激したか
どこで共感が閉ざされたのか
いじめられた子どもが「いじめてもよい子」
になった契機はどこにあるのか
事例を蓄積して共有しなければならないということです。

このような視点での研究が進むことを
心から願います。

nice!(0)  コメント(0) 

人間は幸福でなければならない。しあわせになるために始めること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 対人関係学における「しあわせ」

対人関係学は、突き詰めるとしあわせになるための学問です。
しかし「具体的にしあわせとは何ですか。」という問題は、
あまり突き詰めて考えられてこなかったような気がします。

対人関係学においての「しあわせ」とは、
「自分の対人関係の中で尊重されて存在していること」
「尊重されて存在すること」とは
「排除される心配を感じないこと」です。

整理すると
「自分の対人関係の中で安心して過ごす事」
ということになります。

もちろん、これだけがしあわせとは言うつもりはありません。
人によっていろいろなしあわせがあるでしょう。

対人関係学には、目的があります。
人間関係にある人たちどうしが支え合い、
生きるための意欲を維持するための学問です。

支え合いに必要な限度で
しあわせを考えればよいということになります。
多少おせっかいな要素もあるのですが、
それ以外をしあわせではないというわけではなく
支えるためのツールということになります。

2 なぜそれを「しあわせ」と呼ぶか

生理学的に見た場合
人間という生物は、安心して帰ることのできる場所に帰ると
交感神経が鎮まります。
血圧が低下し、脈拍が低下し、
内臓の近辺に血液が充実している等
こういう状態です。
つまり安らぎ、穏やかさを感じている状態です。

対人関係学では、これがしあわせと呼ぶのです。
しあわせを感じるような人間関係を構築することが目標となります。
人間関係とはあらゆるものがありますが、
先ずは、家庭、学校、職場等の身近なものから考えます。

安心の逆を考えてみましょう。

常に戦闘態勢でいなければならない家庭、学校、職場にいたら
どうなってしまうでしょう。

虐待が絶えない家庭、いじめや指導死の学校
パワハラやセクハラ、過労死の職場
隙を見せると誰かから攻撃されて
不利益なことが起きてしまう
自分を否定されてしまう。

このような対人関係では
逆に交感神経ばかりが活性化してしまいます。

この不安を解消したいという意識ばかりが強くなり、
八つ当たりのような新たな攻撃が始まったり
人間関係の解消、離婚、転校、引きこもり、退職、犯罪
そして自死が起きてしまいます。

人間は不幸が続くことに適応できないようです。
幸福でいなければ生きる意欲を無くしていくようです。
不幸が、自分の新たな不幸を作り、
自分の周囲の不幸を招き、
雪だるま式に不幸が拡大していくわけです。

実際に交感神経が鎮まらなければ
心筋梗塞や脳卒中になるばかりではなく
精神的な問題も発生してしまいます。

また
疑心暗鬼や嫉妬心ばかりが横行し
自分の利益を確保するために相手を傷つけてもかまわない
ということが起きてしまいます。
さらに不幸が拡大再生産されてしまいます。

どうやら、不幸の始まりは誤解やエラーによって起きている
ことも多いようなのです。

すべての利益に優先して
しあわせになることを目指す
そういう発想があってもよいのではないかと思います。

人間はしあわせでないと
自分が益々不幸になっていくだけでなく、
他人をも不幸にしてしまう可能性が生まれる。
人間はしあわせでなければならないようにできているようです。

3 しあわせはそれほど大それたことではない

対人関係学が目指すしあわせは、
例えば1年間、ひと時も途絶えることなく
続くことを目標にしているわけではありません。

しあわせを感じる時間を増やしていくということです。
不幸を感じる時間を減らすということです。

不幸は、対人関係学的な不幸だけではなく、
不治の病に陥ること
生きている以上死ぬことを避けられない事、
事故による傷害や死亡、
あるいは犯罪に巻き込まれるなどの不幸もあります。
戦争の犠牲になることも将来ないとも限らない
環境問題もそうですから、不安の種は尽きません。

自分たちができる自分たちのしあわせの実現
対人関係的なしあわせ
その時間を増やすという発想は絵空事ではありません。

東日本大震災は、私たちに
「一時しのぎ」の重要性を教えてくれました。
生きていることがやっとのような
何もないときに
芸能人やスポーツ選手、キャラクターが被災地に来て、
他愛もないアトラクションを行うだけで
あるいは天皇皇后両陛下が被災地を訪問されただけで、
しあわせな気持ちになり、
生きる意欲を取り戻した
という経験をしています。

私たちの日常の不幸には、
このような効果的な一時しのぎの方たちは
訪れてはくれません。

しかし、私たち自身が
自分の群れの在り方を改善することができるなら、
一時しのぎが、飛び飛びであっても
継続することが期待できます。
不幸があっても、
しあわせがあれば、
生まれてきてよかったと思いながら
多くの時間を過ごせることになります。

これが対人関係学の目的です。

先ずは、避けられる不幸を避けることが
しあわせになる第1歩です。

4 自分から不幸になるということについて

ところで
弁護士をしていてよく目につく不幸は、
自分の仲間を攻撃してしまうことで起きるパターンです。

<基本形>
Aさんが、八つ当たりかなんかで
Bさんを攻撃したとします。
Bさんは、Aさんが自分を不幸にする行動していると
危険意識を持ちます。
AさんとBさんが属する仲間(家族とか友人関係等)から、
Aさんは自分を排除しようとしていると
Bさんは感じるわけです。

その結果、
ある場合は、Bさんはその攻撃で傷つき苦しみます。
ある場合は、Bさんは自分を守るために反撃します。

攻撃したAさんも、
相手Bさんが苦しんでいるところを見てしあわせにはなりません。
Bさんが苦しんでいることを見ても、怒っているところを見ても
Aさんは、Bさんの状態をみて、
今度は自分が攻撃されるだろうと考えてしまうわけです。

あるいはBさんが苦しんでいるのを見て
一緒に苦しくなってしまうことも多くあります。
同じ対人関係の中では
争っていること自体で、交感神経が活性化されます。

つまりいずれにしてもBさんを攻撃しても
Aさんの不安は消えないのです
その結果双方の怒りが持続してしまうことが多くあります。

<応用というより現実に多い型>

Aさんは、通常は、Bさんが自分を嫌っている
自分との関係を終わりにしたいと思っているかもしれないという
漠然とした誤解に基づいてBさん攻撃します。

実際はAさんの対人関係的危機感は実在しない事実に基づくこと
で始まることが多いようです。

BさんがAさんを攻撃したという事実は存在しないにもかかわらず、
それでもAさんが攻撃をしてしまうと
AさんがBさんを攻撃したという事実は実在しています。
Bさんは、理由なく攻撃してくるのだから自分が嫌いなのだろうと
対人関係的危機感を抱くのは当然です。

Bさんは、Aさんに対して不信感を持つでしょうし
反撃をするかもしれません。
そうして、実際にAさんから離れていくわけです。

自分の誤解で、自分が不幸になる
こういうことが対人関係紛争の大きな一類型です。

実際はBさんも、多かれ少なかれ
Aさんに対する対人関係的危険意識を持っていたり、
知らず知らずのうちに、
Aさんの対人関係的危険意識をあおるような行為をしてしまっている
ということがあります。

自分と他人の関係に絶対的な自信を持っている人は少なく、
多かれ少なかれ対人関係には不安に基づく疑心暗鬼がつきものです。
自信を見せびらかせて歩いているような人も
実は自信のなさを隠そうと必死になっているという場合も
少なくありません。

実は、このような不安があるからこそ
相手に配慮して生きていたわけで、
人間が群れを作って生き延びてきた原理だというのも
対人関係学の一つの結論です。

人間は古来(200万年くらい前から)、
相手の不安を気遣い、
相手に対人関係的危険意識を持たせないように工夫して生きてきました。

現代社会には、これを妨害するような事情がたくさんあります。
それはおいおい説明するとしましょう。

5 自分から不幸にならないために

自分が、意識的に
相手を尊重することを行動で示すということです。

先ほども言いましたが、
人間には対人関係的な不安がありますから、
自分から相手を尊重することは
なかなか難しいものです。
相手が自分に好意を寄せてくれるならば
こちらも親切な行動をする
ということは比較的簡単です。

分かりやすく極端に言えば、
自分をこれから捨てようとしているかもしれない相手を
気遣って、支えてあげる行動をするということは、
無駄な努力をすることになるかもしれない
惨めなことかもしれない
と思ってしまうかもしれません。


誰しも、自分は損をしたくないと思うのかもしれません。
自分の大事な人よりも得をしたいと思うわけがないのに、
無意識にそういう行動をしているのかもしれません。

しかし支え合いを始める時は、
誰かが最初にそれをしなければなりません。
疑心暗鬼のままでは、
お互い歩み寄ることができません。

どうやら自分を大事にしすぎると
最初の気遣いができないという関係にあるようです。

それならば
自分を大事にしない事が良いのかもしれません。
自分を棄てるという意識が必要な場合もあるかもしれません。
相手のためにそれをしてあげるという意識は、
それ自体、本当はしあわせになることなのですが、
現代社会ではここが難しいようです。

しあわせを感じにくい人は、
これができないようです。

自分を大事にしすぎるあまり
仲間から疎ましがられ、
結局は孤立してしまうのです。

自分を守ろうとして自分を孤立させる
こういう悲劇を弁護士はよく見ています。

ここでいう自分を大事にするとは、
自分の体を大事にするというよりも、
自分の信念、こだわり
あるいは体面を守るということが多いと思います。

これが余裕のない状態で展開されると
自分が正しいと思うルールを
仲間に守らせる。
守らない仲間を攻撃するということに
自分で意識しないでもそうなっています。

自分を守るため、
仲間ではない人の意見を聞いて、
それを形式的に仲間に適用して
結果として本当の仲間を攻撃してしまうということも
よく見られます。

自分を守ろうとするために
自分から孤立に向かっていく人たちがたくさんいます。

6 しあわせの切符は、相手の感情を尊重し、共感するということ

相手のために自分を棄てるのは良いとして
どうすればよいのか
ということになりますよね。

簡単に言えば、相手の気持ちを優先する
相手の不幸を防止する
つまり、相手に
自分はあなたを突き放すことは決してしない
という安心感を与えることです。

相手を肯定すること、相手の感情肯定すること
肯定できる部分を探し出してでも肯定することです。

それができないことならば
「やろうとしているのだけれどできない
ごめんね」と投げかければよいわけです。

基本は、相手の嫌がることをしない
相手の顔をつぶすことはしない。
から始まって、
相手のしてほしいことをする。
相手に賛成できるところを探し出して賛成する。
ということになります。

そのためには、
相手の気持ちに敏感にならなければなりません。
嫌がっていることに気が付かないとか
やってほしいことに気が付かないということがだめなわけです。

どうしてそのようなエラーをするかというと
多くは自分を守るためという発想です。

例えば、
自分の良いところを評価してもらいたくて、
アッピールをしてしまいます。
例えば、楽器を弾いて見せたり、
料理をして見せたりということをするわけです。

おそらく、それをすることによって
母親等から褒められた経験があり、
母親と同じように自分を称賛してもらいたいのでしょう。

しかし
それをみた相手は
自分ができないことができることをこれ見よがしに強調された
馬鹿にされたと受け止める場合もあります。

例えば、
友人関係を大切にするあまり、
しょっちゅう自分の友達を家に呼ぶ
しかし、相手はあまり社交的ではなく、
他人が家に出入りすることは実は嫌だ

あるいは、家を空けて友達の集まりに行ってしまう。

あなたは、友達づきあいは健全であり
何も悪いことはしていないので、
自分は悪くないと思っても、
相手は寂しがっているかもしれません。

自分が間違っていない、正しいということが
相手の感情に気づかなくさせているということがあるようです。

自分を大事にするあまり
相手の感情に注意を払うことができない
注意を払う余裕がないというより、
注意を払う発想がないという感じです。

今、あなたが不幸だと感じているならば
特に
自分は何も悪いことをしていないと感じている場合、
先ず、自分を棄てることから始めることがよいかもしれません。
自分を勘定の外において、
あなたが一番自分に寄り添ってもらいたい人のことを
どうやって大事にするか
何をしたら喜んでくれるのか

そして恥ずかしがらずに
相手のためにそれをしているということも
はっきり伝わるように行動をしてみる

自分を棄てることによって
しあわせを逃がさないで手繰り寄せる
ということがあるようです。

あなたが大切に思っている人が
あなたと一緒でよかったと思う時間が増えることが
結果としてしあわせを招くし
しあわせを長続きさせることになるのだと思います。

nice!(0)  コメント(0) 

Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある [進化心理学、生理学、対人関係学]




スタンレー・ミルグラムのアイヒマン実験は、
認知心理学の文献を見るとよく出てくる。
行動科学の教科書ならばなおさらである。

これは1960年から始められた実験で
かなりのインパクトを与えた。

この実験結果は、いじめ、パワーハラスメント、
あるいは、離婚紛争の特定の類型の場合など、
人間の加害行動を分析し、防止するために
とても有益な事件結果であると思う。

但し、それらに実践にいかすためには、
ポイントについて整理し直す必要があると感じている。

以下、再評価、再構成を試み
実践に応用することを試みる。

1 ミルグラムの服従実験の概要

ミルグラムの実験の概要は以下の通り。

イェール大学教授の実験ということで
協力者を公募した。
一回の実験で応募者は1名ずつ実験に参加する。

実験は、教授と応募による被験者、
そして、仕込みのサクラの3人である。
教授と被験者は同じ部屋にいて、
被害者役のサクラは基本は別室にいる

これは記憶力の強化の実験だと称して、
簡単な確認テストを被験者が出題する。
それに対して被害者役が回答するのだが、
誤答の場合は罰として
腕に巻いた装置から電流を流される。
そして誤答するたびに、15vずつ電圧を強くする
最終的には450ボルトに達し、
その後は誤答するたびに450ボルトが流される。

被害者役には、実際は電流は流れていないが、
役者なので、電圧に応じた苦しみの演技をする。

この実験は10年以上にわたり各地で続けられた。

「多くの被験者は、電撃を受ける人物の懇願がどんなに切実になろうとも、電撃がどんなに苦痛をもたらすように見えようとも、教授に従い続け、最高レベルまで電圧をあげて罰を与えた。」

(ウィキでもよいし、河出文庫「服従の心理」)

最も多くの被験者は、被害者が苦しんでいることを目の当たりにして、
教授に文句を言って、実験の中止を提案したりする。
しかし、用意された説得文句によって電撃を与え続けた。

ミルグラムがした被験者についての分析として、
被験者の多くがサイコパスというよりも、
礼儀正しい人、約束を守ろうとする人、途中でやめることが気まずい人
が、最後まで義務を履行したとしている。

過労死する人の典型とぴったり重なる人物像である
このことは大変興味深い。

2 ミルグラムの服従事件の目的

現在、認知心理学を学ぶ者からすると、
この実験が特定の政治的意図に基づいて行われた
というものではないことは簡単に理解できることである。

ハンナ・アーレントが
「イェルサルムのアイヒマン」を
雑誌ニューヨーカーに連載を始めたのが1963年であり、
ミルグラムの実権は1960年に始まっていることからも
それはわかる。

また、権威を国家権力と同視しているわけでもない。

人間の行動傾向、行動原理の研究であり、
現在で言えばモチベーション研究の草分けともいえるべき
画期的実験である。
純粋な科学であり、
それをどう現実社会に応用するのかは
応用する人々の問題である。

私は、この実験の成果を
パワーハラスメントやいじめの予防に応用できると考えており、
第三者が一方に支援した夫婦間紛争の解決のヒントにもなると
考えている。

ただ、その際は、
使い勝手を良くするために、
実験結果をカスタマイズする必要がある。

2 用語の再評価、再構築

言葉についての再定義をしようと思っている。
その言葉は、
「服従」と「権威」である。

ⅰ)服従

先ずは服従という用語である。
原語は、obedience である。
服従と訳すことに誤りはない。

ただ、日本語の服従とは、
自由意思を制圧されるに足る支配を受けている状態
をいうという感覚がある。
つまり、服従している人は支配者の命令以外の
他の選択肢を持てない状態にあるという語感がある。

しかしミルグラムの実験では
暴力や脅迫その他の不利益の示唆による自由意思の制圧はない。
このため、誤解を与えるのではないかという懸念があるから
「服従」という言葉を使うことには抵抗がある。

こういう場合を表現する日本語は難しい。
実際は誘導に従うだけである。
「迎合」程度の表現が
正確ではないかと思う。

但し、もろ手を挙げて迎合しているわけではなく、
葛藤を抱きつつ、結果として
迎合した行動をとる
ということは留意している必要がある。

ⅱ)権威

次に「権威」の意味を検討する。

ミルグラムの実験では、
権威の象徴として、「イェール大学の教授」という要素が使用された。

優秀なことで有名な大学の教授ということで、
知識、知能が秀逸であることが示されている
また社会的権威がある(多くの人が一目置く)存在である。
社会的に意義のある実験を実施している人だ
という人的属性をもつことになる。

人的属性と同時に、
自分が参加している実験が社会的、歴史的意義のある事件であり、
遂行することが自分の役割だということを感じ易い
ということは異論のないところだろう。
電撃を与えるという危険な行為ではあるがが、
知識や経験に裏付けられて行っているはずだから、
安全であるはずだとか、
これまでも危険が無かったことが裏付けられているはずだ
という安心感もあったと思われる。

権威とは従うことで安心感を得られる存在
であることが必要であろうと思われる。
責任を権威に転化できるということを
ミルグラムも重視していた。

もう一つ重視するべきポイントとして
被験者は、被害者に電流を流したことについて、
被害者の落ち度を指摘することが多かったと指摘している。

これらの事情から総合的に考えると、
私は、被験者が従った「権威」とは
教授に属する評価というような人的側面だけではなく、
その指示による行為の結果を
正当化できる要素があることが必要だという
行為の属性の側面も必要であると考える。

それは例えば正義であり、
または結果に到達するための効率であり、
または実験を進める秩序である。
約束された、あらかじめ定められたルールであったりする。

被害者の落ち度を強調する理由は
自己弁護であるが、
正当性によって、
被害者の身体的平穏を電流で壊すことの
自己の行為を弁護している
ということになると思われる。

そうだとすると、
権威は、正しさや秩序で正当化されていなければならない。

仮に教授が
「被害者が自分に挨拶をしなかったので
 回答の正誤にかかわらず
 どんどん電圧をあげて電流を流してください。」
という指示を出していたら、
被害者の落ち度を理由にすることができないのだから、
抵抗性は増加したことになるはずである。
教授の権威も著しく低下しただろう。

権威とは、
権威者という人的属性の側面と
指示の内容の「正当性」
つまりもっともらしさという行為内容の側面が
要素として不可欠であると私は考える。

3 「権威」を「群れの論理」として再構成する

そうだとすると結局権威は何であり
どこから来るのか。

ミルグラムは、これを
「なぜ服従するか」という服従側の論理として分析している。

これは、人がヒエラルキー的な構造の中で機能してきたことによる
と説明している。
つまり、ホモサピエンスが文明をもつ以前、
戦闘能力も逃走能力もない人間が
厳しい自然環境の中で生き残った理由が
ヒエラルキーのある群れを作ったことにあるというのである。

統一意志の元、
攻撃を加えて狩りを行い、
子育てや植物採集を分担して行い、
それぞれの力を発揮したことによって
生き延びることができたというのである。

人間が群れを作ってきた以上、
群れの意思に従う本能が遺伝子に組み込まれたはずだ
というよう主張だと私は解釈している。

つまり、「権威」とは「群れの論理」である。
それは、行動を支持する権威者であり、
正義であり、ルールであり、道徳である。
個体を集結させる絆のようなものである。

必ずしも権威者である必要はない。
「空気を読む」という日本語がある。
人間が集まっている時に、
一時的に言葉を使わないで
何かの行動をするコンセンサスが生まれる時がある。

例えば、
皆で小さいことは気にしないで
ただバカ騒ぎをしようというコンセンサスが生まれた場合、
哲学的な話を提起しないというようなものだ。
敢えて、バカ騒ぎなどして何が得になるのだ
等と発言しようものならば
「空気を読めない者」と評価されてしまう。

これも群れを優先する論理であり、
群れの理論に迎合している現象だと思う。

群れの論理は、
権威者がいなくても
一時的なものでも
あるいは漠然とした多数であっても
人間は従う行動をとってしまうという傾向がある
ということになると私は考える。

4 迎合に伴うジレンマとは何か

ミルグラムの実験は、
イェール大学の教授という権威者と
意義ある実験の遂行という秩序、正義等の
群れの論理が権威であった。

被験者は権威、群れの論理に従ったのだが
大きな葛藤があった。

これは、被害者役の苦痛に対する共感なのだろうと思う。
決して正義ではない。

実験における正義は実験の遂行だった。
被害者の苦痛や実験停止の懇願は
正義を遂行することの妨害でしかなかった。
人間は、瞬時の(熟考しない)行動決定において、
対立する当事者の
それぞれの正義を評価することは困難である。

被験者が感じたジレンマは、
被害者の苦しみに対する共感だったのではないか
と考えている。

つまり、ジレンマとは
他者に対する共感に基づく行動感情と
群れの論理によっておこる行動感情の
矛盾に対面していたことなのではないかということである。

共感に基づく行動感情とは、
被害者が電撃で苦しそうだから
電撃を流すことをやめようかという感情である。

これに対して群れの論理によっておこる行動感情とは、
実験を遂行するための共同行動を完遂しよう
という感情である。

この行動感情は、両立しないため、
どちらかを選択しなければならず、
葛藤が生じるわけである。

だから、群れの論理よりも共感の方が強まれば
群れの論理ではなく共感感情に基づく行動をすることになる。
これもミルグラムの実験で明らかにされている。

ミルグラムは、実験の条件をいくつか変えた
変種の実験を周到に行っている。
その一つの変種の実験として、
被験者と被害者との距離を変えて実験を行っている。

① 被験者と被害者を別々のスペースに配置し、
  間を曇りガラスで仕切る。
② ①に加えて、被害者の声が聞こえるようにする。
③ ②に加えて、場所を同じ部屋にする。
④ ③に加えて、電撃を与える時に
  被験者が被害者に手を添える。

①から④に行くにつれて、
被験者は電撃を与えることを拒否する確率が増えた。

共感は、相手の置かれている状況を
自分が置かれている状況として認識し、
生理的、感情的反応をすることである。

そうだとすると、
相手に近くなるほど共感しやすくなる。

近づくほど権威に対する抵抗が生じることについての
ミルグラムの分析は、
共感がもたらす合図、否認と知覚の狭窄、相互作用の場
行動のつながりの実感、初期の集団形成、習得した行動傾向
等としている。

主として、共感に基づく行動というくくりでとらえることが可能であろう。

5 ミルグラムは何を発見したのか

私は、ミルグラム実験は、
人間は権威に迎合するという以上の心理を発見している
と考えている。

つまり、
人間は、共感に基づいて行動するという性向があり、
群れの論理に基づいて行動するという性向もある
ということが第1である。

そうして、共感に基づいての行動は
群れの論理によって後退してしまう傾向がある
ということが第2である。

また、群れの論理の正当性については、
瞬間的な行動の場合は、
疑わないで迎合する傾向にあるということが
第2の結論のメカニズムなのだと思う。

これを対人関係学的に表現すると、
人間は、
自分が属する群れの論理に従う傾向にあり、
群れの論理から逸脱した人間は
群れの仲間であると実感しにくくなり、
共感を閉ざす傾向にある
ということになる。

表現を変えると、
群れの論理である
正義、秩序、効率等が働いてしまうと、
それに反する者に対しては
共感を閉ざしてしまい、
苦しみや悲しみ、孤独等の負の感情を示しても
助けようとか、協力しよう
という気持ちになれないということである。

6 効率について補足

「効率」が群れの論理であるということについては、
今回、ミルグラムの分析を受けて
初めて思い当たった。

群れの論理は、
人を機能させるためのツールである
一人ではできないことを
集団で行うというものである。

例えば動物を集団で狩るという場合、
音をたてないで動物に近づくような場合に、
興奮を抑えられなくて声を出す者がいたとすれば、
狩ることのできたはずの動物を
取り逃がすことになってしまう。
群れの目的を達することが効率であり、
正義である。
群れの目的を阻害する者は、
群れの論理に反した行動をする者だということになる。

効率を群れの目的の達成ととらえ直すと
効率は間違いなく群れの論理となる。

もっとも狩猟採集時代の大半は
効率はそれほど問題にならず、
「妨害か推進か」という程度の
大雑把な問題だったのではないか。
文明が進んでいくにつれて、
オールオアナッシングから
より多くの物を獲得する効率が重視され始めた
ということが、
近年の傾向にも合致して実態を反映しているのではないかと
考えている。

7 パワーハラスメントへの応用

パワーハラスメントの典型として、
同僚の面前で、従業員を罵倒する
という行為類型がある。

同僚は沈黙を守り、
当該従業員は孤立する。
誰も自分を助けてくれず、
不合理な罵倒が職場で是認されていると感じ、
自分の存在が否定されているような危機感を感じる。

なぜ同僚が助け舟を出さないかということについて、
その場にいた同僚から事情聴取をする機会があった。
すると、一様に、
「発言ができる雰囲気ではなかった」
という回答があった。
私は、
「ここでアクションを起こすと
次の標的になるからではないか」
と問いかけてみた。
積極的な賛同というよりも、
消極的な肯定だったということが
リアルな評価だった。

しかし、実態は、
同僚たちは、被害者に対する共感よりも
群れの論理を優先させたという側面もあるかもしれない。

つまり、
パワハラ上司という権威者が
企業の利潤追求という目的を基本として、
それに逸脱したということを指摘するわけだ。
(冷静に考えれば言いがかりであることが多い)
企業という群れの論理に対して
人間の行動傾向として
異議を申し立てにくいという側面があったのだ。

同僚たちは、
被害者が精神的に追い込まれているだろうという認識は持っている。
よく聞く言い訳としては
「でも、上司の言っていることは間違っていない」
ということを言うものだが、
それは群れの論理に迎合していることを
明確に示すものだったのだ。

もっと群れの論理が顕著なことは、
パワハラ上司の取り巻きである。
あるいは、パワハラ上司の上司かもしれない。
人を追いつめても一切否定的なことは言わない。
群れの論理が強烈に支配しており、
「責められる被害者が悪い」
ということを言いだす。

もはや葛藤も生じないほど
パワハラ上司との群れの一体性を感じており、
同時に、被害者と同じ群れに帰属するという意識は
実質的に失われている。

パワハラを予防する一つの方法としては、
発言の内容、目的が企業の理念に沿ったものでも、
例えば同僚の面前で叱責してはいけない
長時間にわたって叱責してはいけない
具体的に業務の改善方法を示さなければいけない
等の禁止事項を増やすことが一つかもしれない。

しかし、根本的問題としては、
共感を閉ざさない方法を構築するべきであろう。
一人一人の従業員の置かれている状況を
自分が置かれているものと把握し、
従業員と共同して問題を解決していく
という姿勢が最良である。

そのためには、
部下は自分の仲間だという意識を徹底することと
上司と部下を分断させるような方針を
会社経営者は下に降ろさないということ
上司の上司が、
上司を飛び越えて従業員の置かれている状況を
把握することを可能とすることだということになる。

8 いじめへの応用

子どもたちの間では
つまらないことが権威になる。
ゲームが特異なことや体が強いこと
漫画の知識があること
スマホを自由に操作できること

子どもたちの中では、
物おじしないで他人に指図する子どもが
気がつけば権威をもっていることもある。

一つ一つの瞬間的な友達同士の娯楽の中で
不用意な権威が発生することがある。

権威は簡単に生まれすぐに消滅する。

しかし、不用意な権威者に
取り巻きができてしまうと、
権威は強力かつ持続的なものになってしまう。

明らかに不当な
権威者の被害者に対する要求によって
被害者が苦しんでいたとしても、
取り巻きは権威者との仲間であることを意識するため、
被害者の苦しみに対して共感することができない。

権威者や取り巻きにとって
いじめは群れを守るための正義なのだ。

ここで被害者が
授業について行けず、
あるいは結果として授業の効率を下げてしまい、
群れの頂点に立つ教師から
効率を害する者
という評価が下ると、
群れの論理は被害者を排除するようになる。

はじめから誰かの悪意が存在しないとしても、
仲間からの除外が起こりうるし、
共感を閉ざす対象が生まれてしまう。

その結果、偶然の攻撃が肯定的に受け止められ、
やがて悪意の攻撃が繰り返されるようになる。
積極的な攻撃とともに重大な打撃を与えるのは
仲間はずれという孤立である。

被害者は、自分が毎日通わなければならない学校という人間集団が
自分の味方がいない人間集団であると受け止めていく。
きわめて不気味であり、
時折繰り出される攻撃が
傷口に塩を塗るような刺激となる。
やはり自分には傷口があるということを
いやがうえにも再確認させられる。

いじめが増えている学校に足りないものは何か。

被害者に対して共感して行動を起こすということである。
嫌がっているから、かわいそうだから
止めるということができていない。

いじめを生み出さないためには
逆回転をする必要がある。
せめてクラスメイトにだけは
共感を絶やさないという
教育、訓練が必要だ。

なぜこれができないのか。

それは、学校の中で、
群れの論理が肥大化しているからだ。

正義、秩序、ルール、効率等が
子どもたちの価値観において優先されている。

子どもという未熟な存在は
これらの群れの論理から
きわめて簡単に
逸脱行動をしてしまうものである。

簡単に多数から群れの論理で
排除されてしまうことになる。
これが現場だとすれば理解しやすい。

一人一人の子どもたちの
短期目標によって順位をつけるということを控えめにして、
共感を占めてして助け合うという行動を
積極的に取り入れるべきだろう。

成績についての一喜一憂ではなく、
人に助けられる喜び、安心感
人を助けることの喜び、感謝をされる喜び
というものを体験させる教育こそ
いじめ防止の特効薬になると考える。

我田引水的にミルグラムを改変してしまったかもしれないが、
折に触れて再学習をするべき
素晴らしい研究だと思った。

nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | - 進化心理学、生理学、対人関係学 ブログトップ