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進化心理学、生理学、対人関係学 ブログトップ
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従業員のモチベーションをあげる方法 パワハラ型労務管理から学ぶ [進化心理学、生理学、対人関係学]

前々回お約束していたお題です。

案外簡単だけれど、
現在の企業の常識に反するため
なかなか実行しようという気が起きない盲点かもしれません。

ブラック企業やパワハラ現場では
どんどん士気が下がり、
従業員は叱責を恐れて言われたことしかしなくなります。
あれもこれも叱責ならば
度の叱責を選ぶことが一番つらくないかという発想になり、
ごまかすこと、こっそり手を抜くことが上手になり、
他人の足を引っ張って自分を守るなんてことにも
抵抗がなくるわけです。

1+1が2に達しない状態ですから、
当然生産性は落ちていきます。
それを補うために労働は過重になって行くという
典型的な悪循環が生まれているわけです。

このような職場は、
従業員には、いつまでも一緒に仕事をする仲間だとは見ていません。
消耗したら交換しようという行動になっているわけです。
当然従業員達も、
自分が仲間として尊重されていない
ということに気が付いています。


会社は、自分を守らないとわかっているのだから
会社のために頑張ろうという気持ちなど
どこからも出てくるわけがありません。
これは理性的な結論ではなく、
人間の本能による思考、行動傾向ですから
どんなに利益誘導しても失敗する確率が高くなります。

また、
会社が自分を守らないという観念は
居心地が悪くなります。
会社にいることに不安を感じてきます。
危険を感じているのです。

野犬のいると知らされたエリアをさまよっているようなもので、
危険に敏感になり、
常に逃げる準備をしています。
交感神経が活性化されて生理的な反応が生じている上
複雑な思考ができなくなります。

複雑な思考とは
少し離れた将来の予測
因果関係の把握
数字に寄らない形而上学的な思考
他人の感情の推測です。
単純ミスも起きやすくなりますので、
およそ仕事にはなりません。

マニュアルをこなしたり、
言われたことを忠実にやったり
つまり機転が利かなくなりますから
およそ仕事にはならないでしょう。

これが1+1が2以下になる原因にもなっています。

これの逆をすれば従業員のモチベーションは上がり、
会社のために
という発想が生まれてくるわけです。

つまり、
会社は自分の所属するべき群れだ、
「私たち」と自然に考えることができる状態にすることです。

従業員を尊重すること
仲間として扱うこと
これをすればよいわけです。
どうすればよいか。

人間は、他の動物と違って、
群れに帰属しようとする本能があります。
自分が所属していると思っている群れのなかで
所属に障害を感じると不安になります。
これが、居心地の悪くなる危険の正体です。

帰属に不安がある場合は
群れに協調しようという圧がかかります。
同じ服を着たり、似たような髪型をしたりと
個性を殺そうとします。
実際は、人間は人間であると同時に動物ですから
個性を殺すことに苦しさがあります。
自分のことは自分で決めたいというところが動物としての基本です。

ここからの結論として、
居心地の良い職場というのは、
自分の帰属が承認されている職場ということになるでしょう。

帰属の障害事由であると考えてしまう事由があっても
帰属の障害にならないという経験の積み重ねが
帰属の承認につながるわけです。

先ず個性、つまり他人との違いがあっても
帰属の障害事由にならないということを感じさせることです。
個性を承認すること、一人一人として尊重することです。

最低限名前を覚える
様々な職務遂行上必要な属性を把握する
ここで障害になるのが個人情報ですが、
履歴書などで提供された情報は把握しましょう
また、上司でなければわからない情報は
他の同僚の前では決して口外しないという姿勢を明らかにしましょう。

経験スキルを把握し、適切な人員配置をする
苦手だけど必要なスキルアップは慎重に求める
結果を求めるならば、結果に至る道筋を提案すること

スキルアップが必須でないのならば
特異の分野をやらせて、活かし、
苦手はカバーすることが良いわけです。

個性以外の帰属の障害事由が
欠点、不十分点、失敗です。
これが出て来たらモチベーションアップのチャンスです。

決して感情的にならない
失敗に対しては、対策を細部まで構築する
失敗の大きさを示す方法は
叱責ではなく、
対策の徹底です。
対策をたてなければならない、真剣に立てなければならない
程重大な失敗だということで示すわけです。

そしてその失敗を個人責任としないで
上司の徹底的な指導という形で
連帯責任とする。

指導の上で、主体の能力修正が図られれば
挽回のチャンスを与える。

例えば行為方法で仲間として尊重されている職場
ということが実感できるわけです。

また、特定の個人だけそういうことをするのではなく、
誰かが失敗しても尊重されていることを見るだけでも
自分の職場という誇りを持つようになります。

失敗を恐れなくなるし、
マニュアルの内容ではなく
なぜそういう行動をするべきかということまで
考えが及ぶのですから
機転も効くようになるわけです。

叱責されている人がいる職場から
助け合い、皆で一体となって仕事に当たっている職場に
転換することはそんなに難しいことではありません。





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プロスペクト理論の「原理」と対人関係への応用 ひき逃げの心理等 [進化心理学、生理学、対人関係学]

ノーベル経済学賞を受賞した認知心理学者カーネマン(Kahneman)先生と
トゥヴェルスキー(Tversky)先生の
プロスペクト(予想、見通し)理論というものがある。

結論からいうと、
人間は利得(gain)の文脈ではリスク回避の意思決定をする傾向にあるが、
損失(lose)の文脈ではリスク指向(risk seek)の意思決定をする傾向がある
というものである。

これは実験をもとに理論化されている。
二つの選択肢のどちらを選ぶかというものである。

実験1
まずあなたが現金300ドルを贈られ、あなたの全財産がその分増加した
と想像せよ。
その後あなたは次の2つの選択肢から選ぶよう求められている。
A;確実な100ドルの利得
B;50%の確率で200ドルの利得、50%の確率で何の利得もない

実験2
まずあなたが現金500ドルを贈られ、あなたの全財産がその分増加した
と想像せよ。
その後あなたは次の2つの選択肢から選ぶよう求められている。
C;確実な100ドルの損失
D;50%の確率で200ドルの損失、50%の確率で何の損失もない

カーネマンらの実験の結果は、
実験1ではAを選択した者が多く、72%
実験2ではDを選択した者が多く、64%
とのことである。

そこで、利得の文脈(実験1)では、確実さを求めるのに、
損失の文脈(実験2)では、ギャンブルに出るという結論となった。

おそらく心理学の分野では、
プロスペクト理論という結論が明らかになれば、
あとは、それを現実に適用したり
現象を説明するときに、プロスペクト理論だという
ことに勢力を向けるのだろう。
特に臨床心理の場合、事象の説明としての理論が多いように感じる。

対人関係学は、どうしても、
なぜ、そのような傾向を人間が持つかということを考えてしまう。
着目するのは、損失の文脈である。
Risk seek という英語の訳、ニュアンスの問題もあるけれど、
私は、リスクを指向するという表現は、不十分だと思う。
なぜリスクを指向するような結果になるかということを
もっと考えてみてしまう。

人間の行動傾向や脳の構造は、200万年前に成立したという
認知心理学の前提に立って考える。
経済的損失は、狩猟採集時代の当時は、
端的に「危険」を意味しており、
まず、これを生命身体の危険として考え始める。
プロスペクト理論の事例の損失の文脈を
危険が迫っているときに、どういう選択をする傾向があるか
このように言い換えることができるとする。

すると、危険を回避しようとするときに限って
ギャンブルにでるということになると
違和感が出てくるだろう。
もっと別の言い方があるのだと思う。

即ち、人間が危険に直面した場合、
人間は、可能性があるのであれば、
危険をゼロにしたいと思い、
ゼロにする可能性のある行動を選択してしまう
ということなのではないだろうか。

そして
危険をゼロにしようとするあまり、
その危険ゼロ行動をした場合に生じてしまう
新たな危険については、正当な評価ができなくなり、
あるいは正確に想定できなくなり、
あまりに気にしないで当初の危険を回避しようとするのである。

心理的には
当初の危険を回避したいという意欲、欲求が大きくなりすぎて、
回避行動によって生じる新たな危険に気が回らなくなる
あるいは過小評価をしてしまう
ということなのだろう。

この理論の行動ですぐに思いつくのはギャンブル依存症だ。
例えばパチンコで3万円損した人は
損を取り戻そうとしてさらにパチンコをする。
また、損をするだろうことはきちんと評価をすることはできない。
買って損を取り戻すことを強く想定してしまい、
お金をつぎ込んでしまう。

これは、自分の損という個人的文脈だけでなく、
仲間の損害を回避しようとする際にも起こる。
例えば、200万年前の人類が
仲間が肉食獣に襲われているとき、
仲間を助けようとすることに集中するあまり、
自分がけがをしたり食い殺されたりということを
あまり考えずに仲間を助けようと攻撃参加するという
私の袋叩き仮説そのものでもある。

ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-19

さてこれまで危険を身体生命の危険として説明したが、
人間が感じる危険は、対人関係的危険というものもある。
生命身体の危険がなくても、
仲間(対人関係)の中で、自分が仲間として扱われなくなる危険でも、
身体生命と同様の危険に対する生理的反応をしてしまう。
交感神経の活性化を中心とする生理的反応だ。

例えば、失敗して職場に迷惑をかけるとか、
うっかり友達を攻撃してしまい、クラスの顰蹙をかったり、
批判されたり、叱責されたり、嘲笑されたりして、
将来的に自分が仲間から排除されたり、
仲間から攻撃されたりすることにつながると感じる事態が
対人関係的危険を感じる事態である。

対人関係にこそプロスペクト理論が当てはまる。

犯罪の多くが危険を回避しようとして
新たなより深刻な危険を引き起こすことによって起きている。
例えばひき逃げである。

自分の運転する自動車で他人を轢いてしまった場合、
被害者を救助する義務がある。
これをしないのがひき逃げであり、
罪が一つ増えるだけでなく、それ以上に刑罰が重くなる。
それにもかかわらずひき逃げは起きる。

ひき逃げをする者が感じている危険は対人関係的危険である。
それまで犯罪とは無縁の生活をしていたのに、
逮捕され、犯罪者とされてしまう。
それによって、社会の中での立場が悪くなるだけでなく、
職場での排除が起きたり、家族にも顔向けできなくなる。
まさに対人関係的な危険を感じてしまう。

ひき逃げをする人は、
できることならこのような危険をゼロにしたい
つまり、犯人として発覚しない方法があるならばそうしたい。
というリスクをゼロにしたいという強い欲求を抱く、
そのリスクゼロにすべての神経を集中してしまうあまり、
自分が事故を起こしたことがほぼ確実に発覚することや
発覚して刑が重くなるという
新たなリスクを正当に評価できなくなってしまう。
ますます対人関係が悪くなるというリスクが見えなくなる。

こういう心理構造でひき逃げという行為が起きてしまう。

犯罪に至らない場合でも
例えば、何点か商品を購入してお金を払う段で
自分が計算を間違ってバツが悪くなり、
店員の計算の仕方に文句をつけたり
説明が悪かったなどと逆切れするのも、
自分の計算間違えというバツの悪さをなかったことにしようとして
クレーマーとか人格的問題という新たなリスクを背負ってしまう
プロスペクト理論が当てはまる。

家庭でも、何か小さい声で話している家族が
自分の悪口を言っているのではないかと勘違いをしてしまい、
不機嫌になったり、怒り出したりして
嫌な思いをさせてしまうということがある。

対人関係にこそプロスペクト理論がぴったりとあてはまる場面が多い。
対人関係を悪くしないためにこれを頭に入れておくことは
とても有益である。

おさらい
「対人関係におけるプロスペクト理論」
当初のリスクを避けようとすることに夢中になってしまい、
回避行動によって生じる新たなリスクを十分想定せず、
案の定新たなリスクを発生させてしまうこと。

身体生命の危険ではそうすることはできないが
対人関係的危険の場合は、
自分を捨てる、危険に我が身を晒すということが
危険を最小限にする可能性があることを
頭に入れておく必要がある。

2018年9月26日追記

わけあって、一日中役所に詰めていなければならず、
かつ、弁護士の仕事ができないという事情から
スタノビッチ先生のkeith E.stanovich
「現代世界における意思決定と合理性」
Decision Making and Rationality in the Mdern World
を読んでいたところ、

プロスペクト理論について、
損失に対してリスク指向的である理由として
人々は完全な損失を回避する機会を持ちたいという考えを好む
という説明がなされ、
プロスペクト理論から派生した
保有効果(emdowment)は、損失回避(lose aversion)に由来する現象だ
との説明もなされていた。

あたかも私が発見したような表現が1行なされているが、
単なる勉強不足であったことが露呈され、赤面の至りである。

本家カーネマン先生を読んで理解が不足していたところを
スタノビッチ先生を読んで学ぶことができたということになる。

スタノビッチ先生の二重意思決定モデルを
カーネマン先生から学んだことを思い出す。
自分としては、この学習結果はとても気に入っている。
勉強とはとても面白いと思った。
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なぜ「人権派弁護士」は誤りを犯すか。福岡殺人教師事件、長野殺人告訴事件、吉田ますみ氏のルポを題材として  共感チャンネル理論1 [進化心理学、生理学、対人関係学]

現在、版を重ねて事件後の追録を載せて、
吉田ますみ氏の新潮文庫「でっちあげ」が
平積みで売り出されています。
この事件は、福岡市の中学校の教師が
生徒を差別して自殺教唆をした
全国の初の教師の生徒に対するいじめ事案ということで、
マスコミでセンセーショナルに扱われ、
裁判にもなっています。

しかし後に、そのほとんどが虚偽事実に基づく
ものであることが明らかになったのですが、
数百人の弁護士が虚偽の事実に基づいて
教師を攻撃した保護者の代理人に名を連ねた事件です。

長野県の事件は、高等学校の事件で、
不幸にも生徒さんは自死をして亡くなっています。
テレビドラマ「明日の約束」のモデルになったと言われている事件です。
吉田氏の「モンスターマザー」新潮社で
詳細なルポルタージュを読むことができます。

この事件でも、民事訴訟が提起されているのですが、
1審判決で生徒の自死の原因は学校にはないとされ、
控訴が取り下げられるという経過をたどっています。

いずれも弁護士がかかわっている事件です。
それも「人権派弁護士」と言われるまじめな弁護士が
虚偽の事実に基づいて
結果的には罪のない人を追い込みました。

なぜこのようなことが起きたのか、
考える必要があると感じました。

ところで、唐突ですが、
私は人権派弁護士とは呼ばれたくありません。
弁護士は人権擁護と社会正義の実現のための職業ですから、
「人権派弁護士」というと、冷たい氷とか、飛ぶ飛行機のように
屋上屋を重ねた表現になってしまいます。

ことさら何かを強調したいけれどはっきり言わない
そんなもどかしい違和感もあります。

ただし、
半世紀前の偉人とも呼べる弁護士が
人権派弁護士だと言われていたことは理解できます。

当時は、(半世紀前)
人権を侵害する主役は国家であるということが
強いコンセンサスがあった時代です。

冤罪事件を典型として、
人権侵害をする国家権力と
人権侵害をされる少数派の個人
という風に図式化できたようです。
戦前の思想弾圧等の残像が強かったという事情もあるでしょう。

ポイントとしては
加害者対被害者という二項対立の図式の中で
弱者保護のために徹底した反撃をする
これらができることが正義だったということになると思います。

時を下っていくと、
このような図式が曖昧になってきます。
人権侵害をするのが巨大企業だったり、マスコミだったり
国家や自治体によって、人権救済ないし
人権の普及啓発活動が不可欠なものとして行われるようになっています。

また、一般の人同士が
インターネットによって第三者を巻き込むことによって
加害者と被害者が入れ替わることがおきることもある時代です。

単純な二項対立による事案の理解と行動では
紛争が拡大していくだけで、
罪もない人たちが損害を受けるということも
多くなっています。

例えば学校で、
二つの事件のように
教師がした行為に見合わない
苛烈な制裁を受けるということは
私も現場で目撃をしています。

例えば家庭の中で、
暴力も脅迫もないのに
精神的DVを受けたということで、
夫が公権力によって
いわれのない不利益を受けるということも
また多く目撃しています。

この私の記事の内容は、
そういういわれのない加害行為に関与する
弁護士を批判する結果となってしまうのですが、

ルポに出てきた弁護士や
人権派弁護士を批判することが目的なのではありません。

むしろ、吉田氏のルポに登場する弁護士の中には
人格や仕事ぶりにおいて、今なお敬愛する先輩もいらっしゃいます。

私自身、弁護士になりたてのころは
他者から見れば人権派弁護士に映っていたこともあったでしょう。

だから自分への自戒を込めた考察であり、
自分たちすべての弁護士に起こりうる事柄として
エラーを防止するという目的の元考えたことを述べるものです。

ちなみに、ウィキベディアの人権派の項目については
早急に修正が必要であるということもついでに述べておきます。

さて、二つの事件は、共通の要素があります。
先ず、
ほとんど(全く)落ち度がない教師が、保護者から攻撃される。
攻撃は虚偽の事実を作出して行われる。
マスコミがそれを取り上げる。
保護者に弁護士がつく。
裁判になる。
保護者の主張の大部分は裁判によって否定される。
ということが根幹です。

その他に、
保護者の加害行為の論拠として
資格のある医師の診断書が提出される。
その診断書の信用性は裁判によって否定される。
保護者側でかかわった人たちの反省の有無や内容は不明
ということも共通しているようです。

なぜ人権派弁護士、マスコミ、医師は、
攻撃者の虚偽の主張に加担したのでしょうか。

間違いをした3者に共通の要素があります。
それは正義感であり、弱者保護の意識です。
これを増強した要素はそれぞれの職業によって異なります。

マスコミは、
弱者保護を名目として強者を攻撃すること
しかもこの図式を分かりやすく提示することで
国民受けが良いこと、部数や視聴率を増やすことを
よく知っています。

私の依頼者に対する報道などを見ていると
この図式を鮮明にするために
実際の細かい事実関係は削ぎ落して
容疑者に不利な部分を強調して報道するし、
独自に裏をとることなく一方の主張(警察発表)を報道する
ということがあるように感じています。

医師は、職業柄
目の前に来ている患者の保護が職務内容です。
診断基準に適合しない診断書を作成することによって、
第三者が傷つき、損害を被っても
その傷つく表情を想定することができません。
だから、医学的知見に基づいていない診断書の作成については、
それによって傷つく第三者が制御因子にはならないようです。

医師に関して、二つの事件に共通することは、
いじめられたとする少年本人の話ではなく、
母親の話をもとに診断しているということにあります。
医師は他人の話を信用しやすいという
育ちの良さも要因にあるのかもしれません。

問題は弁護士です。
およそ人権派弁護士が、
依頼者を増やそうとして無理筋の事件を
記者会見までやってやろうということは実際はありません。
また仕事柄、依頼者と対立する相手方の存在は
容易に想定できます。
紛争解決のためには細やかな想定をしなければなりません。
弁護士にはマスコミや医師の弱点がないはずなのに
どうして、事案を誤るのでしょうか。
ここが一番のテーマです。

それは、半世紀前は正義であったところの
二項対立、つまり世の中には加害者と被害者がいるという世界観
保護のための徹底攻撃
という人権派弁護士の美徳が災いしているのだということが
私の結論です。

説明のための補助線としてある理論を紹介します。
共感チャンネル理論というものが
現在構築されています。
簡単に説明すると
人間が他者の心情に共感できる能力は
極めて限定的であること。
対立する一方に共感してしまうと
対立する相手に対する共感チャンネルが閉じてしまい
あくまでも敵対する者だという認識が固定してしまうこと。
共感する対象を保護することを第一と考えてしまい、
保護対象の弱点は見ないようにし、
見てしまっても都合よく解釈しなおしてしまうこと。
敵対する相手に関してはその者の利点は見ないようにし、
弱点の情報だけを集めてしまうこと。
そして、敵か味方かという根本的態度決定は
非論理的に直感によって、一瞬で決められてしまうこと。

概要このようなものです。

そして共感ということは、最近の脳科学の成果を踏まえると、
対象者の感情を理解することというよりも
対象者と同じ感情を抱くということらしいです。
もっと厳密にいうと、
対象者が置かれている環境、
特に感情を動かす要因となる環境に
自分も置かれているように感じ、
同じような反応をすること
ということになるようです。

普通の人間は、
自分が窮地に立たされた場合、
何か言い訳を探したり、
窮地に追い込んだ相手に反撃して
窮地を脱しようとします。

おそらく人権派弁護士は、
自分が窮地に立った場合なら
言い訳したり逆切れしたりしないで
正々堂々と謝罪するなどして対処するのだと思います。

しかし、自分の依頼者が保護するべき弱者だと認識してしまうと、
保護すべき弱者の環境を共有してしまい、
自分の窮地の場合はしなかった
言い訳を探したり、逆切れして反撃してしまう
こういう現象が起きてしまうのだと思います。

その前提として、どうしても正義感が発動する時は、
二項対立の世界観が前提となってしまい、
弱者に対する保護感情を抱いてしまうと、
自動的に弱者を追い込んだものを探してしまい、
その者を加害者として敵対感情が募ってしまうようです。

あとは、共感してしまった弱者に都合の悪い事情は薄く、
加害者の都合の良い事情も薄く、
弱者の都合の良い事情は過度に濃く、
加害者の都合の悪いところも過度に濃く
評価してしまう図式にはまり込んでしまうようです。

この事件は正義のための事件だとか
社会的に意義がある事件だとか言って
報酬をもらわないとか、
報酬をごく少なくして事件を引き受ける場合が
人権派弁護士にはありがちですが、
そういう事件こそ要注意な事件になるわけです。
共感が強くなりすぎてしまい、
依頼者の不正に加担している可能性がある事件類型だ
ということになります。

吉田氏のルポでは、弁護士が
不利な証拠を事前に見ないままで事を起こしたような記述もあります。
事案をよく知らないで多くの弁護士が代理人になった
ということも紹介されています。
うっかりすると私の名前もあるかもしれないし、
私の知り合いの名前は多数あるでしょう。

全く見なかったかどうかはともかく、(それはないと思う)
十分な検討ができていなかったことは事後的にはよくわかります。

私も大先輩から(この方は押しも押されもせぬ人権派弁護士ですが
おそらく誤りをしないタイプのスーパーマンです。
半世紀前の人権派弁護士はこういうタイプが多く
現代の人権派弁護士とは少しタイプが違います。)

依頼者が困った困ったと
盛んに窮状を訴える事件は注意するようにとか
逆に感情移入できないからといって事件を選ぶなとか
結論としては、共感チャンネル理論に基づいたような
アドバイスを受けたことを思い出しました。

冷酒とオヤジの説教は後から効いてくる
とはよく言ったものです。

感情移入による誤りを防ぐための方策をまとめます。

1 二項対立の図式で人間関係を見ない

一般の人同士の対立の場合は特にそうなのですが、
正義と悪、加害者と被害者
という図式ではみてはならないのでしょう。

学校悪、生徒善という図式が本件ではできてしまったのですが、
それは結果としてそうなるかもしれませんが、
慎重な評価を踏まえなければならないでしょう。

もっと複雑なことはDVや虐待です。

例えば夫をDV加害者にしたり
親を虐待親だと決めつけることは
実際の出来事をリアルに見ることを不可能にしてしまいます。

一番の問題点は
結局誰も救われなかったということになることです。
目黒事件については、
多くの善良な人たちが、
虐待死を防ぐためだと言って
家庭の中に警察や役所の介入の余地を広げることを
どさくさに紛れて推進してしまいました。

そのことのデメリットなど
何の検討もしていないのです。

2 敵だと思う人間に共感チャンネルを開く

当初は、自分の依頼者に対する共感チャンネルを
絞って狭くするということを考えていたのですが、
なかなかそれは難しいことです。

むしろ相手に対する共感チャンネルを開くことが
実務的な対処方法だと思います。

どうしてあの人はこういうことをしたのだろうか
あの人なりの合理性とは何か
ということを考えることです。

これは、しかし、
勝負事一般の鉄則だと思います。
相手の立場に立って、相手が何を考えているのか
ということを推測することによって、
相手の弱点を打つということですから、
勝利にとって必須の思考でしょう。

対人関係的には勝ち負けは入りませんが、
解決に向けての王道になることも間違いないと思います。

敢えて敵に共感してみるということです。

これは、その時の勝負だけでなく
トラブル予防にも大きな効果が期待できます。
相手に賛成することは必要ではありません。
「ああ、そういうことを考えてしまうことも
 あるのかもしれないな。」とすることが理解です。

これは通常の弁護士ならば経験があることです。
刑事弁護がまさにこれです。
罪を犯した人がなぜ罪を犯したのか
これが理解できなければ刑事弁護は始まらないかも知れません。

この二つが当面の戦略です。

余談ですが、
福岡の事件の場合、弁護士が謝った原因の
大きな要因が、
クレームに対する校長や教育委員会の対応のまずさです。

事実関係を曖昧にしたまま
とにかく激しいクレームを抑えようと
いい加減な事実認定をして謝罪をさせています。

この結果傷ついたのが
当の生徒本人であり、
その一部始終を見ていた同級生たちでした。

教育委員会の不十分な事実認定は
判決にも影響を及ぼしています

私もクレーマー対処法などの講演をするのですが、
毅然とした対応は
クレーマーに対する共感チャンネルを開いたところから
始まるものです。
自己防衛が最初に来てしまうことは
判断を誤ります。


このお話はいずれまた。

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正義はなぜ怒りを伴うのか(1)部活動をさぼったことによる怒りの考察 [進化心理学、生理学、対人関係学]


例えば、不慣れな道路を運転する人が
一方通行の道に逆走の形で入ってくると
優しく注意する人もいますが、
鬼の形相で正面衝突せんばかりに
攻撃をしてくる人もいます。
確かに危険な運転ですが、
よろよろと走っている場合は
逆走だと知らせればみんな改めるので、
それほど怒りを大きくする必要も
ないのではないかと思うことがあります。

この場合の怒りは
誰かが危険な目にあうからということではなく
交通ルールを破ったことに対して
抱いたようです。
いわば正義の怒りです。

今回は、
ルールを破ったことによって
具体的な誰かが直接具体的な不利益を受ける場合は
除いて考えています。
例えば、不正入試で入学をして
その結果正当な誰かが不合格になった
という場合は除くということです。

実際のいじめの事件で報道されていたものの中に
部活動に参加しないということで
非難されて攻撃されたというものが
けっこう目につきます。

この時、ラインなどで欠席者を攻撃した
生徒さんの心理こそ
ルール違反に対する怒りによるもの
ではなかったでしょうか。

なぜ彼らは怒ったのでしょうか。
怒りに任せてラインでの攻撃を加えたのでしょうか。
このラインの書き込みは、報道によれば、
どうして部活に出ないのだという
比較的穏当なものもあれば、
屈辱的なコラージュを作って添付した
というものもあったそうです。
それをグループ全体が閲覧し、
誰も止めるものがいなかったようです。

彼らは、怒りという感情に支配されていますから、
相手を倒そうという目的を追求してしまう傾向にあります。
その結果、いじめ被害者の感情をおしはかって
こういうことをするとかわいそうだからやめようとか
ここまでやるのはやり過ぎだからやめよう
等という、
共鳴共感による自己抑制が効かない状態になっています。
気持ちがつながるチャンネルが閉じられている
ということになります。

怒りとは、もともとは、
危険に対して攻撃することによって
危険を無くそうとするときの感情ですから、
何らかの危険、
生命身体、財産、名誉、感情が害されそうになっていること
を感じて発動されることが元々の人間感情です。

そして自分の危険だけでなく
仲間と感じる人間の危険に対して発動される場合も多く、
どちらかというと、この方が
容赦ない怒りになる傾向があるようです。

しかし、部活動に来ないというルールが破られても
誰の危険も生じません。
ルールを破るという本人だけが
もしかしたら不利益を受けるかもしれないくらいです。

どうもルールを破ることから
正義に反する行為だということになり、
それ自体が怒りを産んでいるように感じられます。

そしてこの怒りは、
仲間の誰かに言われなき不利益を与えた場合と
同じような容赦のないものになっているようです。

なぜ怒るのか。

当たり前ではないかという人もいるかもしれません。
ルールを破った人に対して怒りを覚えるのは理屈じゃない
とイライラしている方もいらっしゃるでしょう。

しかし、
感情というシステムは、特に怒りという感情のシステムは、
人間が生きていくために必要だから
あるわけです。
怒りの感情は攻撃によって危険を除去する場合の心の状態ですし、
恐怖の感情は逃走によって危険を除去する場合の心の状態です。

そう考えるとルールを破ったことによる怒りも
自分に対する危機や
仲間に対する危機を感じているのでしょうか。

一つの考えとしては、
進化の過程で正義が破られるとき
怒りの感情を持つようになった
という説明があり得ると思います。

進化心理学は、人間の心理は、
約200万年前の狩猟採集時代に形成された
と考えています。
この時代から脳があまり変わっていないからです。

200万年前は
原則として死ぬまで同じ群れで生活していましたし、
仲間の人数もそれほど多くなく30人から150人程度といわれており、
このくらいの人数なら、言葉が無くても
誰がどんな性格をしていて、どういう行動傾向にあるかわかるので、
感情移入がしやすい状態だったでしょう。
また、交換のできない運命共同体ですから、
仲間を大切にしたと思います。
それが結果として自分を守っていたわけです。
ルールというものを作らなくても
仲間を出し抜いたら、
仲間がかわいそうだという意識を持ち、
秩序も公平も保つことができたと思います。

多少感情移入する能力が足りない個体が生まれても、
教育の中で是正していったと思います。

しかし、どういう拍子かに
他人に感情移入することのできない個体が生まれ、
教育がうまくいっても心がついてこなかったため、
自分の利益のために仲間のもの
例えば食料を自分で食べてしまうことが
多々あるような個体が生まれた可能性があります。

これが続き、被害が重大になれば、
他の仲間は、不利益を受ける仲間を救うために
感情移入できない個体に怒りを感じます。
こうなると、当時であろうとも、
感情移入できない個体には
仲間というチャンネルが閉ざされますから、
仲間だと思わず、
人間に襲い掛かるクマや虎のような扱いとなり、
容赦なく攻撃を加えて群れから排除をしたでしょう。

しかし
この行動原理は正義を破る、ルールを破るところから来るのではなく、
不利益を受けた仲間の危険を除去する
という古典的な怒りのパターンだったはずです。

時を下って
農業が起ころうかという頃になると、
人口も増え、集落も大きくなり、
集落間の協力やいざこざも勃発しますから、
一生涯で出会う人数もどんどん多くなって行ったでしょう。
こうなると、感情移入や共鳴、共感だけでは
秩序は成り立たなくなるはずです。

集落の中に派閥みたいなものができたり、
集落間の争いになれば、
自分のグループを守るために
隣のグループを攻撃するという
きっかけが生まれてしまうからです。

仲間を守る
ということだけでは
解決がつかなくなるわけです。

そこで、大集団を規律する決まり事が生まれるわけです。
共存のためのルールということになります。
最初は、殺すなとか盗むなとかいう
共鳴、共感プラスアルファみたいなところから始まったでしょう。
自然の感情でルールを守る必要があるのだなあとか
感じていたことでしょう。
ルールは、自分や仲間を無用な争いから守るもので
ルールを破ることは
自分や仲間を危険にすることだということは
理解しやすかったと思います。

それから、もしかすると農業の黎明期ですから
ルールに従って土地を耕し
種をまき、世話をすることで
収穫が約束されるとなると
ルールはとても役に立つ
という感覚にもなったことでしょう。

これらのルールは破ると
自分や仲間の誰かが被害を受ける
ということが実感としてわかりますから、
ルールを守らない者に対して
自然と怒りを持つ関係になっていたでしょう。

しかし、人数が多くなり
利益集団の関係が複雑になるにつれ、
一般の個体にはよくわからないけれど、
ルールだから守らなければならない
というルールが作られ始めたと思います。

自然に必要だと理解できるルールと
ルールという点では同じですから、
これらのどうしてそのルールがあるかわからないルールも
破る者に対して、
自分や仲間が不利益や危険を与えられるような感覚になり、
怒りを抱くようになった。

というのが進化論的に獲得した感情の説明に
なるはずです。

ここまで苦労して説明方法考えて
文字を入力したのですが、
どうも私はこの説明に懐疑的です。

懐疑的だという理由は、
自分や仲間の具体的な不利益もないし
誰にもそれほど迷惑がかかるわけでもないのに
ルールを守らなかっただけで
相手の人格を否定するほどの
怒りを持つということがありうるのか
ということが納得できないからです。

おそらくもっと分析的に検討する必要がありそうです。
ルールを破ったことに対してすぐに怒りを持ったのか
ということを検討するべきだと思います。

この時、数学の補助線みたいに有用な思考ツールは
現代社会の怒りの大部分は八つ当たりだという仮説です。
怒りは危険を攻撃によって除去しようとするときの感情だと言いました。

しかし、現代社会の危険は
なかなか攻撃によって除去できないものばかりです。
生命身体に対する攻撃というものは
それほど多く想定できません。
むしろ日常的な不安は対人関係上のもので
学校や職場から排除されるとか、
失敗して低く見られるとか
定年退職まで収入があるような職場がないとか
就職できるだろうかという危機感が
むしろ多いと思います。
そのために家庭でねじを巻かれるという危機感もあるでしょう。

そうすると、相手が大きすぎたり
対処の方法がないということで
危機感を解消したいのだけれど解消できない
というアイドリング状態が続いていると思います。

大人も会社の上司から攻撃されても
おいそれと反撃できませんから
やはり危機感を解消したいアイドリング状態が続きます。

一言でいえば
勝てると思う相手、仲間のために勝たなくてはならないという相手
に対してだけ
攻撃によって危機感を解消する行動に出ません。
職場の上司や社会や国に対して
勝てると思う人はいませんから
危機感解消欲求ばかりが強くなっているのが
現代社会なのだと思います。

だから、「勝てると思う相手」に攻撃が向かうわけです。
ただ、何の関係もない、何の落ち度もない相手に
やみくもに怒りだすということもなかなかできないようです。
そこで、
些細な落ち度をきっかけに、
社会や会社や学校という相手に関係の無いところで起きた
危機感を弱い者にぶつける
これが現代型怒りだと思います。

上司から叱責されてイライラしていて
家に帰って子どもが反抗的な態度をした
ということで怒りをぶつけるパターンがこれですね。

逆に夫婦喧嘩をして機嫌が悪く
部下の言動が自分に失礼だと言いがかりをつけて目くじらをたてたり、
自分の上司から営業所の売り上げが低いと嫌味を言われて
部下に当たり散らすとか
そういう八つ当たりです。

些細な危機感を与えた相手に
自分が抱いている大きな危機感解欲求をぶつけるわけです。

但し何らかの危機感を抱かさせなければならない。
これが、ルールを破るということではないでしょうか。

つまり、
慢性的に危機感解消欲求を抱いていると
早くこの欲求を充足したいという
焦燥感に似たイライラを抱えている状態になるのでしょう。
こうなると、
自分が勝てる相手を探しているようなものです。

はっきり言って何でもよかったのです。
最初は,部活動をさぼるのは良くないよというか
冷静に部活動に出てこなかった理由は何?
と尋ねるところから始まったのでしょう。
この時点で怒りがあったとしても
それほど大きな怒りではなかったはずです。

(辛い部活動を休みたかったけれど休まないで自分は行ったのに
休んでのほほんとしやがって
ということを感じていたら
怒りも出てくるかもしれません。)

だけど、彼は、部活動に出なければならないというルールを破った
ということが
ラインという文字で確認されました。

彼は、ルールを破った人間という認定をされました。
ここがきっかけだったのだと思います。

ルールを守らなければならない
という形での非難をしなくてはならない
あるいは非難をしても良いのだ
という意識が生まれたのだと思います。

これがラインを通じて集団的に形成されていったのでしょう。

そうしてルールを破ったことを非難していたはずが、
非難という攻撃行動をしているのですから
いつしか怒りに転じていった
あるいは怒りが大きくなって行った。
そうすれば、集団の相手に対する共鳴共感のチャンネルは
固く閉ざされてしまいます。

また、ラインというツールの特徴ですが、
相手の顔を見て行動しているわけではないということ、
相手の悲しんでいたり、怖がっていたりという
感情を見ることができません。
相手に対しするチャンネルは全く開かれなくなります。

集団対一人という図式は
勝てるという意識を嫌がおうにも盛り上げます。
怒りを止める事情が無くなるのです。
それは攻撃を止めないことを意味します。

相手の有効な抵抗がなければ
さらに怒りは大きくなります。
怒りは危険がなくなるまで
つまり、相手が倒れるまで追いつめるためのツールです。
また、相手の顔が見えなければ
相手が苦しんでいるという想像力も機能しません。
相手の感情に共鳴するチャンネルは固く閉ざされたままです。

怒りが共有された場合の人間の攻撃は
極めて過酷になります。

やがて、攻撃しても良い相手だという
意識付けがなされます。
怒りの共有化とはこういうことです。
仲間全体に対する危険をもたらすもの
みたいな扱い、
それは、狩猟採集時代の
他人に感情移入ができないがゆえに仲間から排除された個体と同じく
人間として扱われず、
群れを襲うクマや虎のような扱われ方に
なっているということになります。

そのきっかけになったことが
攻撃された対象者がルールを破ったことにあります。
ルールを破ったことをもって
攻撃されてもよい人間
という扱いを受けてしまったようです。

誰かが理性的に止めなければ
対象の相手の神経がすっかり消耗してしまうまで
攻撃する方法があるうちは攻撃をする
これが人間の行動原理ということになります。

人間の脳は、少人数で単一のグループで生活することに
適応しているのですが、
大人数複数の群れと共存する生活には
対応しきれていないということかもしれません。

ルールや約束を守るべきだという
規範意識、道徳意識が
現代の中学生などの子どもには、
いじめに転化する可能性があるということなのだと思います。

それだけ常に心理的に圧迫されているのが
現代の中学生の実態なのでしょう。

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【考察メモ】内部告発者は、どうして報復されるのか。対人関係チャンネルと規範の効力に関する考察をてことして [進化心理学、生理学、対人関係学]



ネットを見ていたら、
職場の不正を告発したところ、
職場から不利益を受け続けているという
記事がありました。

こういう方々は、「自分は世界中から孤立している」
と自分で感じ易いです。
記事にしていただいたことは大きな応援になるので、
他人事でも嬉しいことです。

そのネット記事は大学の不正経理(裏金作り)でした。
研究分野での業者との癒着があり、
業者から裏金用の資金を取得していたようです。

内部告発者はこれを正すために
大学の責任者に告発したところ、
責任者は、告発の事実を
不正を行った研究者に教えてしまい、
上司である研究者から内部告発に対する報復として
様々な不利益が長期にわたって続いている
というものでした。

この場合に考えなければならない規範は、
「研究者は、業者から不正な利益を得てはいけない。」
というものです。

この規範の存在にはいくつか存在理由があります。
そのうちの一つには、
業者から利益を得てしまうと
変な人間関係ができてしまい、
業者に不利になるような研究を発表できないとか
そもそもそのような研究をしないとかいう問題があります。

あるいは、公明公正に行わなければならない会計をゆがめ、
恣意的な経理が蔓延して収拾がつかなくなる
という問題もあります。

極端な話は、
人間関係のしがらみの中で
不正データの作出をしてしまう
という事態もありえないことではありません。
そもそも研究の客観性にも疑問を持たれてしまいます。

こういう、「なぜそれが禁じられているか」
という本質を常に意識して感じていれば
どんな言い訳をしようとも裏金作りなどしないでしょう。
しかし、それができない事情があるようです。

常に本質を強く意識することは難しいので、
特定の行為を禁止するという必要性から
道徳や法律という「規範(きはん)」を作って、
その規範を破ると制裁が科されるということを通じて
禁止事項をさせないようにする必要があるわけです。

規範とは、平たく言うとルールです。

但し「ルール」という言葉を使うと、
ゲームをしているプレイヤーなどの狭い人間関係を規律する
というイメージがありますから
規範という言葉を使います。
規範は、ある程度不特定多数の要素のある
人間関係で通用するルールとなると思います。
国家とか、社会とか、業界全体とかですね。

規範にはさまざまなタイプがあります。

人を殺してはいけないとか
怪我をさせてはいけない
というルールは、
本来被害者に共鳴、共感することによって
自分の行動を押しとどめるという形で修正する
という形で実行できる物
つまり、人間の「自然な」心に従えば通常は守られるのであって
本来その外に敢えてルールを作る必要のないもの
というようなものも、
規範の中に入っています。

また、ここからはダメでここまでは良い
というような限界が不明で
国等が人為的に線を決めるようなものも
法律という規範として定められています。

規範、道徳というものは、多種多様です。

そこで、考えやすいように3タイプに分類を試みます。

一つは、冷静な状態、第三者からすれば
他者や仲間に対する共鳴、共感によって、
自己を規律するべきだけど
あえて規範にもなっている<Aタイプ>
(刑法でいえば、例えば
殺人 他人を殺してはいけない
傷害 他人を傷つけてはいけない
窃盗 他人の物を盗んではいけない)
(人が殺されることは酷いことだ
 人が痛い思いをするのはかわいそうだ
 人が物をとられるということは困る上精神的にもショックを受ける
 という共鳴共感を事前想定して行動を抑止する)

一つは、被害者を直感的には想定しにくいけれど、
少し考えれば、それをすること、しないことによって
第三者や社会等に対して不利益を与えることを想定でき
それが想定で切れば自然に正義感を伴いやすい<Bタイプ>
(刑法でいえば例えば
収賄 公務員は職務に関して金品を受け取ってはいけない
不正経理 経理は適正に行わなければならない
風紀を乱す罪等々)

一つは、第三者が政策的に決めて
知らなければ禁止されていることが分からないため
禁止行為をしても感情的正義感の葛藤が起こりにくい<Cタイプ>
(行政法規の中の一部等)

タイプ別に規範を破る原因は以下のとおりです。

Aタイプは、
被害を受けた時の被害者の感情を想定しやすいはずだが、
被害を受けた人に共鳴共感ができない事情があって
規範を破るという特徴があります。

Bタイプは、
具体的な被害者を咄嗟に想定できず、
比較的、高度な思考をしないと
禁止行為を行った際の不特定多数人の不利益を想定できず、
その意味で行為と被害の因果関係が
Aタイプに比べた場合はやや把握しにくい
ここに自分や仲間の利益を優先する等の事情がある場合
という特徴があるでしょう。

Cタイプは、主として、特別な免許を持っている人が
禁止事項として命令されているものの場合が多く、
どちらかというと考えても規範の内容が出てくるものではなく、
禁止事項等を覚えるしかないというところに特徴があります。
Bタイプに近く、覚えているけれど
不特定多数の利益に共鳴、共感しにくく
自分や仲間の利益を優先する等の事情がある場合に
規範が破られるという特徴があるでしょう。

ところで、私が刑事弁護人として
被疑者被告人の方々の反省をお手伝いする時、
Aタイプはもちろんですが、
BもCも
どうして、その禁止事項があるのか
ということを考えていただいています。

その禁止事項を破ることが
どうして悪いのか、
誰にどのような迷惑をかけるのか
常にここから出発します。

みんな、自分がしたことが法律で禁止されている
ということはわかっています。
だから規範意識を回復させるためには、
規範を教えていたのでは何にもなりません。

規範に引き付けた説明をすると
規範の目的、意味、効用等を
理解していくことが必要になります。

それを理解するために有効な思考が
誰にどのような迷惑をかけているか
ということをイメージしてもらうことなのです。

その人たちのケースに合わせて個別的に
一緒に考えるという作業が必要になります。

規範に関する話をもう一つ
ある収容所のようなところの実話なのですが、
一般には「決まりだから守れ」という態度でいることが多く、
「決まりのせいで不自由な思いをさせられている」
と感じ易く、決まりを守れということに反発しがちになります。

ところがある場所で、看守に相当する人が、
「この決まりが無ければこうなってしまうだろう
 そうなると、こういう人たちは嫌な思いをするでしょう
 だから、これは守ってもらわないといけないんだ」
という説明をしたところ、
収容者の人たちは、
反発が無くなっただけでなく、
自分たちが尊重されていると感じたそうです。
今では率先して決まりを守っていると
嬉しそうに言っていました。

この場合も、誰にどのように迷惑をかけるか
という思考ツールが
規範意識、決まりを守る
そしてそれが自分自身を守る
という意識を高めたということができると思います。

そして自分が規範を守ることが
自分が尊重されていることと結びついて考えられていたようでした。

被害を受ける人との共鳴、共感のチャンネルがつながると
規範意識を回復させやすい
ということを意識させられたエピソードです。

ちなみに収容所みたいなところの規範は
AタイプのものとBタイプのものがあったようです。


さて、規範を破るということを考察してみます。

Aタイプの規範違反をしてしまう場合は、
色々な事情で
共鳴、共感のチャンネルを閉じている場合
ということになります。

典型的な場面は正当防衛です。
自分が攻撃をされているので、
反撃に出る
反撃に出る時は怒りモードになるから、
相手の痛みなどについて考慮するチャンネルは
閉じられています。

自分が攻撃されているだけでなく、
仲間が攻撃されている場合も
仲間に対するチャンネルが大きく開くために
同じように、相手に対する
共鳴共感のチャンネルは閉じられます。

「正当防衛」は犯罪の成否の問題ですが、
犯罪というほど強烈な場面ではないとしても
相手がこちらを攻撃していると思えば、
反対に相手が嫌がることをやっても
それほど気にならなくなるようです。

例えば親子でも
子どもを叱っている時に
子どもが集中力がないだけなのに
同じ失敗を繰り返すと、
「何度も同じことを言わせて、」と
熱心に叱っている「自分が馬鹿にされているような気持ちになり」、
つまり子どもが自分を攻撃しているように感じてしまい、
子どもへの共鳴、共感のチャンネルが閉じられてしまい、
瞬間的に虐待みたいなことが起きてしまう場合があります。

家庭だけでなく、学校や職場でも起きるわけですが、
深入りせず、今日は話を進めます。

この時の攻撃者の気持ちは
自分や仲間を守るという意識を持ち、
そのために自分の攻撃する対象を仲間と思わない、
というモードになっています。

共鳴共感チャンネルが閉じられる他の場合として
自分の属するグループの共鳴、共感チャンネルが大きく開いた結果
グループの外の人間との
共鳴、共感のチャンネルを閉じてしまう
という現象が起きます。

典型例は、
地域の非行少年グループの一員になると
同じグループの仲間を大事にするあまり、
仲間以外の人間、一般社会に対してぞんざいになり、
粗暴になったり、たとえば万引きをしたり
ということが起きる場合があります。

彼らにとって
仲間の中で通用する規範、ルール、掟
は良く守りますが、
社会のルールを守ろうという意識は
大分弱くなってしまいます。
優先順位が下がるようです。

また、これとも別の場合では、
特定のグループに所属しておらず、
自分が世の中で孤立していると感じる場合に
社会のルールを大切にしようという気持ちが
薄れていく要因になっているようにも感じられます。

孤立による不安は
だんだん世の中全体が自分を攻撃しているという意識になり
無差別攻撃事件につながる要因になりそうです。
あるいは、自死の原因にもなります。

また、その行為によって被害を受ける相手方の顔が見えない場合も
共鳴共感のチャンネルが開かないことがあります。
量販店における万引きがこのケースの典型でしょう。

たくさんある商品の中から
ちっぽけな商品を万引きしても
誰かが困るという発想にはなかなかなれないようです。
悪いことだということは重々承知しているのですが、
(つまりこれから規範に反する行為をするという意識があるけれど)
それがブレーキにはなりません。

こういう場合の刑事弁護の場合も、
誰かに迷惑がかかるということを
具体的な事例を想定してもらい
ヒントを出しながら一生懸命考えてもらいます。

予め被害者の顔を想定してもらうことによって
次の犯罪の予防につなげようとするわけです。
誰かが窮地に立たされている時の表情
同じように困ったときの自分の体験を
重ね合わせてもらうようにしています。

規範を覚えるのではなく、
規範違反をした場合の被害者の心情を
想像する訓練をして
被害者の気持ちに共鳴、共感する力を回復する
という感じでしょうか。

規範を守ろうとするモチベーションの強さは、
共鳴、共感が一番強くて
次に正義感、規範意識のようです。
法律で決まっているから
ということは、一般の方には有効ですが、
切羽詰まった状態では、
力にならなくないやすいようです。


さて、以上を踏まえて内部告発者が
不利益を受けるメカニズムについての考察です。


そもそも規範意識あるいは正義感というものも
行動原理としての扱いは
人によって程度が大きく異なるようです。

それを強く意識して行動原理にする人もいるのですが、
それが強く意識することができず、
仲間のために目をつぶるという傾向がある人もいます。
どちらが良いということは一概に言えず、
家庭の中で一般的規範にこだわって
家族を攻撃しがちな人などはその弊害でしょう。

この規範意識の強さのギャップが
内部告発者が冷遇されるメカニズムのようです。


先ず、業者が、研究者に便宜を図る行為から見ていきましょう。

業者からしても
「研究者は、業者から不正な利益を得てはいけない。」
という規範はあるわけです。
「研究者に不正な利益を与えてはならない。」
という表現になりますが、同じことの裏表です。

業者が裏金を渡している時は
この規範をまもろうという意識が低下しているわけです。

この場合は、規範を守るというよりも優先された
強い行動原理があるようです。
例えば、
「売り上げをあげる」という至上命題が招く場合が多いと思います。
売り上げをあげなくてはならないという行動原理は、
業者の会社の内部の論理です。
共鳴共感のチャンネルが、
会社にとのチャンネルばかりが開いているようで、
会社の利益、会社内でのみ通用する規範意識が強くなり、
社会的な規範が後退してしまうということになりそうです。

具体的に見える顔が
裏金をもらって喜ぶ研究者の顔
裏金を渡して喜ぶ上司の顔
ということも、そちらにチャンネルが開きやすい事情でしょう。

これはちょうど不良グループの少年が、
仲間の掟を守ろうとするあまり
社会的規範を大切にしなくなる
ということと全く同じことです。

社会に対するチャンネルを開く
正義感を正常に保つということは、
具体的に困る人の顔をイメージできない場合は
脆くなってしまうようです。

また、研究者に対する合法的な便宜の提供と
不正な利益供与の限界が難しくなれば、
正義感の敷居が低くなる要素になるでしょう。
(例えば、研究者に報酬を出して行う講演会
 ほとんど講習会に参加するだけで、
 交通費やお土産などが支給される場合
 これが繰り返されると
 研究者に何かと理由をつけて
 金品を渡す癖がついてしまい、
 もらう方も抵抗が低くなってしまう。)

不正な利益を受ける方の研究者の
規範を破るメカニズムを見てみましょう。

その不正によって生じる不具合をイメージできない
このため不正ではなく、「このくらいは許される」
という言葉に弱い。
なぜそれが不正なのかを具体的にイメージできなければ
限界点はどんどん下がってしまう。
こうやって徐々に不正は蔓延してゆくのでしょう。
不正であってもあえて行為を行う傾向になるということですが、
もしかすると
それが不正であるかどうかも分からなくなるのかもしれません。

さてネット事案の内部告発者は
転勤で、この部署に配属されたばかりのようでした、
いわゆる悪馴れみたいなものがないために
限界点は健全に高い位置にあります。
このため研究者の行為が明らかに不正であると認識します。

転勤前にコンプライアンスのレクチャーを受けていたことも
不正か不正でないかの正しい基準が明確になっていた
原因となっているでしょう。

一瞬で不正義だと強く感じて、
これに順応しない理由がここにあります。
まっさらな気持ちでは不正義には抵抗感が生じますから、
不正に対する順応を拒否する志向もうまれます。

この告発者は
研究者たちは、重大な規範を破るものと認識しますから
社会(研究業界)を害する行為をしている者たち
という認識を持ちます。
当然同じ仲間だという意識は持ちにくくなります。
このため不正義に対する容赦がなくなり
内部告発をすることに対する躊躇は低くなります。

これに対して内部告発を受ける方
大学の責任者の意識が問題となります。

ネットのケースだと
大学責任者と研究者は、従来から面識があったはずです。
おそらく、責任者は自らが不正な利益を得ていなくても
ある程度不正が行われたことを知っていたかもしれません。

こうなると、
先ず、大学責任者と研究者は同じ仲間だという意識を
相互に持つようになります。
責任者に不正に対する反感があったとしても
研究者たちへの共鳴、共感のチャンネルが開いています。

不正に対する処分が
研究者にとってかなりきついもの
例えば停職だったり、懲戒解雇だったり
社会的立場と業界における立場を失う
ということも理解できますから
研究者が窮状に陥ることについて
共鳴共感のチャンネルが強く開いてしまいます。

社会的不正義という不特定多数というか
抽象的なものに対するチャンネルは
反射的に閉ざされてしまいます。

これが不正を見逃すことによって、
仲間である研究者を助けようとする原理です。

責任者の視点で内部告発者を見る場合、
責任者が研究者の方を仲間と認識していますから
その反射的結果として
内部告発者は仲間を攻撃する者という意識になります。
内部告発者を敵だという意識になりやすくなります。

こうなってしまうと、
内部告発者がどのような不利益を受けても
あまり気にしなくなります。
怒りが加わり、いよいよ内部告発者へのチャンネルが
固く閉じられるのです。

仲間を守るために
内部告発者を攻撃することが
正義の意識になる場合もうまれることになります。

このため、内部告発者の告発が
どんなに正義にかなうものでも
内部告発者が不利益を与えられ続けても、
可愛そうだとは思われないのです。

つまり内部告発はもともと
握りつぶされる要素を含んでいるということです。

内部告発は
しがらみのない第三者が告発を受理するシステムを
作っておかなければならない理由が
ここにあります。

内部告発を握りつぶさないシステムは
全体の組織(事案では大学)のために
必ず作らなければなりません。

握りつぶされてしまうと
内部告発者が不利益を被るだけでなく、
組織自体が危殆に陥る危険があります。
ネットのケースでも
その時に自浄努力をして再発防止をするべきなのに
内部告発を握りつぶして、
不正が温存されてしまったために
後に不正が改めて発覚し、
第三者委員会の設置をさせられて
処分もあったようです。

おおごとになってから対処するということは
とても大変です。

これは、大学の責任者が
大学全体の利益を守るよりも
不正をした研究者の利益を守りやすいことに
原因があります。

全体を守るために
敢えて構成員と接触ない人が
内部告発を受理するというシステムが
どうしても必要だということになろうかと思います。

この分析は、
内部告発者を守るためには、
不正をしてはならない
(不正の利益を得てはならない、
 内部告発を握りつぶしてはならない)
ということを強調して
例えば規範を破った者に刑事罰を科す
ということが必ずしも有効ではない
ということを示しているかもしれません。

なぜならば、
それらの不正をした人たちは
規範の存在を知っているにもかかわらず
それぞれの継続した事情から
規範を破っているからです。

但し、責任者が
研究者や業者から金品の提供を受けていたら
それは論外であり刑事罰の対象とするべきかもしれません。

また、握りつぶしたのか
調査したけれどクロの心象を得られなかったのか
そういう問題もあるので
刑事罰は危険が伴うというべきでしょう。

むしろ、これらが人間の行動原理として
あり得る行為である「エラー」としてとらえ、
エラーを起こさない工夫や
エラーを起こした場合の対処方法を
予め作っておくことが
より実効性のある方法だと思うのです。

なお、内部告発をする場合、
必ず事前にやるべきことは
信頼できる見方を作るということです。
組織を信用しきってはいけません。
組織の担当者はエラーをする可能性があるからです。

信頼できる同僚を選ぶ場合も
対象者とのチャンネルを気にするべきです。
同じネット記事の他の事例では、
内部告発に強い弁護士に相談していたため
被害が小さく終わった
という報告がなされていました。
極めて有益な情報だと思います。

とても良いネット記事だったと思います。
本間誠也さんというフリーの記者さんの記事でした。


もう一つだけ、
組織を大切に思うならば、
ネットの内部告発者のような
新しい人材を積極的に受け入れる必要がある
ということも示されていると思います。

悪馴れして組織をつぶすことを
防止してくれるのは、
其れが不正義で会うという認識が可能な人
つまり、仲間意識の低い外部の人です。

逆に言うとこれらの対策
・内部告発を受けるのはしがらみのない第三者という制度
・内部告発を受けるものが対象者から不正な利益を得た場合の制裁措置
・新しいメンバーを定期的に受け入れる(人的交流)運用
・不正か否かの基準の明確化とレクチャー
これらの対策が講じられていない組織は
信用されない社会になることが望ましいと思います。

ある程度公的な組織の社会的責任だと思います。

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死刑に賛成する人も反対する人も、亡くなった方々のご冥福をお祈りすることと、心が殺伐になることを食い止める方法 [進化心理学、生理学、対人関係学]


オウム真理教の関連で、
今月13名の死刑が執行されました。

死刑に賛成、反対にかかわらず、
一般国民の視点で
死刑執行に伴う負の効果が
あまり論じられていなかったのではないかと
そう思っていたところがあり、
少し考えてみました。

賛成反対に関わらず、
無防備であることは危険なことだと感じたからです。


先ず、死刑の報道を受けて嫌な気持ちになる
ということはどう言うことか
どう対処するべきかということを考えます。

次に、自分はへっちゃらだよ
死刑は当然だよという気持ちが本当ならば
それは少し深刻な状態であると思いますので、
その理由について述べたいと思います。

本拙文は死刑についてのある程度の言及がありますので、
閲覧は各自の責任でお願いします。
なるべくあっさりと書くことを意識して書いてはいます。
前半部分の最後までお読みいただくことをお勧めします。

本拙文の目的として死刑制度の廃止か存続か
という議論の一方に加わるつもりはないことを
お断りいたします。


<前編:死刑の報道を聞いて嫌な気持ちになった人向け>

死刑が執行されたと言えば、
反対と賛成にかかわらず
嫌な気持になる人が多いと思います。

何とも言えない嫌な気持ち
胸糞悪いとか
複雑な気持ちとか
あるいは閉塞感だったり
いろいろな表現があると思います。

また、その程度も人さまざまで
一瞬嫌な気持ちになったけれどあとは忘れているよとか
夢に出てきそうだとか、
人間や命について考えこんでしまっている
という程度の違いがあるでしょう。

死刑執行を聞いて嫌な気持になるとき
これは心の変化が起きているだけでなく、
体の中で確実に変化が生じています。

人によってだいぶ違いがあるのですが
執行を聞いたことにより
人間の命の危険があることを認識し、

副腎髄質ホルモンが分泌され
逃げたり戦ったりしやすいように
心臓の打ち方が大きく早くなったり
血液の流れに変化が生じて筋肉に血流が多く流れるようになったり、
副腎皮質ホルモンが分泌され、
内臓に有害な影響を与えたりしています。
このような体内の変化の
意識面の状態が嫌な「気持ち」なのです。

これは、受刑者の危機感に共鳴、共感して
起きてしまっている現象です。

共鳴、共感というと
その人に親近感を覚えていたり
賛成、理解をしている場合だけに
起きるもののように思われるかもしれませんが、
およそ人間の危機的状態を知覚すれば
多少なりとも生理的変化は起きてしまいます。

これが群れを作る動物である人間の特性です。

危険に直面している人本人は、
逃げたり戦ったりして危機を脱出するために
からだの変化が必要です。
交感神経が活性化し副腎髄質ホルモンを分泌し、
副腎皮質ホルモンが分泌されるわけです。
これによって筋肉を動かしやすくして
走って逃げたり、手足を動かして戦ったりしやすいように
からだの中が変化しているのです。

危機に直面している本人ではなく
見たり聞いたりしているだけの人間でも、
同じような体の中の反応、変化が
起きてしまう現象が、共鳴、共感です。

現代社会においては、共鳴、共感は無駄な話かもしれません。
しかし、大雑把に言って200万年前は合理的な反応でした。

当時人間は、ほとんど一生
同じ人たちと群れを作って暮らしていたわけですが、
群れの仲間が逃げているなら、
見ているほうも恐怖を感じて逃げて
群れの仲間が戦うなら、
見ているほうも怒りにまみれて戦うことで、
危険から自分たち群れを守り、
結果として自分を守って生き延びてきました。

あるいは
仲間が襲われていることを目撃した場合
怒りをもって別の仲間が攻撃をして仲間を助ける
ということですね。

仲間の危険を自分のことだとして感じることができれば、
群れ全体で行動することができ、
それだけ、危険から逃げ伸びる確率が増えるわけです。
だから、群れの仲間の危険であれば
同じ生理的変化が生じることは合理的だったのです。

この共鳴、共感が、
他の動物に比べて取り柄がなく弱い人間が生き延びてきた
群れを作る仕組みです。
大雑把に言えば200万年前の生活スタイルです。

現在はマンションのように同じ場所に住んでいても
挨拶も交わさないような人間関係ですし、
隣で襲われている人を助ける人も少なくなりました。

しかし、脳の構造は200万年前からそれほど変わりません。

当時は「人間」と言えば群れの仲間だったため、
人が襲われていると思えば
いちいち確認しなくても群れの仲間のピンチということで
迅速に行動に出ていたのでしょう。

その特質が受け継がれてしまっていますから、
相手がだれであろうと
極端な話、人間の形をしているものが危険に直面していれば
勝手に共鳴、共感してしまっている
そういうもののようです。

死んでしまった人にも共鳴、共感は働きますから、
人は死んだからと言って粗末に扱えず、
きちんと埋葬手続きを行い、
死者を供養するという
仲間の死に対する共鳴、共感による精神的混乱から
対処する文化を育んできたのでしょう。

死刑執行の場合は、さらに厄介なことがあります。

死刑は、
執行までは、まったくの健康体でいる人間が
執行によって命を奪われるということです。
しかも、執行の場面では、
抵抗することができません。
確実に命を失うにもかかわらず
危険からまぬかれることができない
抵抗することもできない絶望があります。

この絶望に共鳴、共感してしまうことが
厄介なことなのです。

一度、共鳴、共感によって、人間の体が危険を感じて
危険に備えた変化をしているのですが、
その危険を解消する方法がないということで、
何とか危険を解消したいという
その気持ちだけが勢いよく空回りをしてしまう危険があります。

これがまさに、
言いようのない不快感、
胸糞悪い感覚
閉塞感
という嫌な気持ちの正体でしょう。

つまり、危険を感じ
危険に対処する方法がないことを感じている
そのことに共鳴してしまっているということです。

絶望を回避するためのシステムは
人間の脳に限りなく組み込まれています。
それだけ絶望を感じることは
今後生きていくことに深刻なダメージを与えます。

死刑執行のニュースを聞いたという
単独の出来事では心配ないかも知れませんが、
その他の事情、もともと精神的な疲労が蓄積していたとか
そういう事情が積み重なっている場合には
生きる意欲が削られる危険があると思います。

死刑を執行された方々に対して
無意識に共鳴、共感してしまっているという側面があります。
これについては、やはり、
これまで育んできた
死者に対する文化的方法である
冥福を祈るということを素直に行うことが
心を軽くする方法であろうと考えます。

ところが、死刑を執行された方々のご冥福を祈ることが
不道徳ではないかという心理的制約があることも事実です。
一つに、死刑を執行された人の犯罪による
被害者やその遺族の苦しみは、
国民の犯罪の記憶が薄れても薄れないからです。

確かにそうかもしれません。
死刑の犯罪を振り返り、
被害者の方の苦しみに思いをはせ、
無くなった方のご冥福こそ
優先してお祈り申し上げる。

とても大事なことだと思います。
私は、亡くなられた方皆さんのご冥福をお祈りします。


<後編:人の死に鈍感になることの怖さ>


嫌な気持ち=絶望の追体験を回避する仕組みとして
怒りを抱くという方法があります。

死刑執行をされた人たちを
人間とはみなさないという思考パターンです。
怒りは、対象をせん滅させるときの感情ですから、
仲間ではないという気持ち抱いています。
怒っている対象には、共鳴、共感は起きにくくなっています。
そのための怒りだということもできるでしょう。

被害者ご本人や遺族ご本人であれば、
むしろ怒りを自然と持つことができるでしょう。
私なら死ぬまで怒るでしょう。
自分や、家族というかけがえのない仲間を
加害され、殺されればもっともな話です。

そのような自然な怒りは良いのですが、
結果として怒りがあおられることについては
警戒が必要です。

死刑報道があると
そもそもどんな犯罪を起こしたから死刑になったという
報道がなされます。
あるテレビ局は、
選挙速報よろしく
執行された都度、
顔写真に執行済みのシールを貼ったと言います。
怒りを、執行された人に向けようとする行為だと思います。

この怒りには、大きなデメリットがあります。
それは怒りが長続きしないということです。
もし、執行済みシールで
その時は盛り上がったとしても、
少し時間をおくと
かえって大きな嫌な気持ち
自己嫌悪が襲ってくることになります。

人間を死に至らしめたことに
喜びを感じた記憶というものは
自分自身を蝕む危険性があります。

怒りという方法も一つなのですが、
人の死に対して鈍感になるということも
絶望の追体験を感じなくて済む方法です。

人が死んだって何とも思わないよ
ということですね。

実は、これが怖いことです。
人間性が阻害されていくことです。

人間の気持ちに対する共感するチャンネルを
自ら閉ざしている可能性があるからです。
群れの中で尊重されて生活するということが
人間が安心して生活できる状態です。
人間の生理的な健康を後押しする生活スタイルです。

そこでは、群れの仲間に対する共鳴、共感によって、
自分が群れから尊重されているということ実感します。
他者への共感のチャンネルが開いていることが
安心の前提条件になっているようです。

これを閉ざしてしまうと、
自分が安心して人の中で暮らせなくなる危険があります。
周囲の人間が自分をどのように思っているか
全くわからない
この場合は、大変不安になってしまいます。

逆に考えると
人間は、色々な人が物理的に近くにいるけれど
自分に敵意を持っている人はいないだろう
という暗黙の了解の中で
見ず知らずの人の中で生活しているということになります。

この暗黙の了解が成り立たなくなる
これが大変恐ろしいことです。

こういう人は危険を常に感じ、
危険を回避しようと常に感じていて
その結果ある人は人の中から逃げようとしたり、
その結果ある人は絶えず誰かを攻撃したり、
自分を攻撃したりして
不安を解消しようとする危険性があります。

もう一つ
共鳴、共感のチャンネルを閉ざし、
他人の命、感情に鈍感になってしまうことは、
自分の命に対しても鈍感になってしまう危険があります。

これがかなり厄介なことです。

人間はなぜ簡単に自死することができないのかというと
それは死ぬことが怖いからです。
死ぬのが怖くなくなると自死が起こりやすくなります。
戦争体験や悲惨な犯罪被害の体験
そういう死と隣り合わせの体験をしていくと
死が怖くなくなっていくようです。

この場合も他者との共鳴、共感のチャンネルが
閉ざされて、孤立化している状態になります。

リストカットなどの自傷行動も同様です。
リストカットをしなければ心の平衡を保てない事情は、
他者との共鳴、共感のチャンネルを開いていることが
自分の安全を脅かした体験があるからだと
考えられないでしょうか。

私は、これに、
人間として尊重されない体験
仲間として扱われない体験も
同様に死ぬことが怖くなくなっていく
原因になると私の実務を通じて、
つまり、いじめやパワハラ、虐待事件を見て思います。

自死に親和する体験だと考えています。

他人の不幸があっても
自分が安全ならどうということはないと
そう思うかもしれません。
しかし、そこに厄介な事情があるのは、
人間の共鳴力、共感力です。

他人が尊重されない、仲間として扱われない
ということをされている人を見ると
およそ人間が大切にされないものだということを感じ、
その中には無意識に自分も含まれてしまうようです。

原始的な反応ですし、無意識の反応ですから
他人と自分の区別をつけて反応することが
難しいようです。

人間が大切に扱われない究極が
殺されることです。
つまり死刑執行です。

この人が大切に扱われない、命を奪われる絶望の
共鳴、共感が起こらないということは、
死ぬことの恐怖を感じさせにくくなり、
自死に近づいてしまう危険があると思います。

また、そのようなことに馴れていくことは
死の危険に鈍感になって行くことです。

この究極の形態が自死なのですが、
自死に至らなくても
人間を大事に思えなくなることで

犯罪を起こしやすくなる
(他人に苦しみを与えることに抵抗を感じなくなる)
他人を攻撃しやすくなる
夫婦や友人などの人間関係を大切にしようとしなくなる。

そういうことが起きてしまうわけです。

犯罪の罪深さとは、
被害者の周りの人の人間性を傷つけるという
二次的、三次的な被害を与えることでもある
その上、死刑が執行されればされたで、
さらにその傾向を強めてしまう。
犯罪の罪深さは、
単純ではない罪深さが本当はある
ということだと思います。

それは、被害者とは関係の無い一般国民も
程度はだいぶ違う、質的に違うとは言っても
人間性が阻害される被害を受ける
というものであることを
考えなければならないと思います。

自分の家族、子ども達、
自分の愛する人たちを守るために、
人はどんな人でも死を悼まれる存在であると
せめて思うことが
人間性を削り取られないための
有効策になると考えます。

先ずは、犯罪の被害に遭われた方々のご冥福を
心よりお祈り申し上げることが必要だと思います。

そして、罪深い人だとしても
国家秩序のために命を落としたのですから
無くなった後でご冥福をお祈りすることに
後ろめたさを感じなくても良いのだと思います。

そして、同種の犯罪が行らないように
ご自分のできる活動を行うことが
とても有効な行動であると感じています。

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片親疎外の原理と面会交流ないし共同養育の論理 離婚後も「両親」というユニットであることの意味 [進化心理学、生理学、対人関係学]

片親疎外とは
「離婚や長期間の別居で、
 子どもが一方の親とだけ同居することによって、
 家族同居の間は、別居親との仲が良好であったのに、
 別居後は、別居親を拒否するようになることを通じて、
 子ども自身の自我の統一が不全になる等
 子どもの健全な成長が阻害されること」
ということになると思います。

以前、私が実務で体験した
片親疎外の実例について報告したことがあります。
両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10

この時は、「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary
という心理学の論文からアプローチしたのですが、

最近の脳科学からのアプローチが
案外事態の単純かつリアルな説明になるのではないか
と思いましたので、
説明を試みてみます。

先ず、前提として、
「人間の脳は、
 対立している両当事者のうち
 一方に共鳴、共感すると 
 他方に対しての共鳴、共感が
 起こりにくくなる。」

「人間の脳の共鳴、共感の力は
 案外それほど豊かではなく
 限界がすぐに来てしまう」
という仮説を前提としておきます。

もう一つ注意点として、
実際は、子どもと同居する親は
母親とは限りません。
母親も別居を強いられることはたくさんあります。
ただ多いのは母親が子どもと同居する場合ですので、
説明しやすく理解しやすいために
同居親を母親、別居親を父親として説明します。

さて

夫婦の別居を子どもから見た場合、
それまで両親というユニットのもとで生活していたのに、
子どもは突然、父親と会えなくなります。

子どもにとって、両親はユニットであり、
二人の人格が独立しているとは感じていません。
一緒に生活する時間の長い方に共鳴することは多いですが、
分離して考えることはできません。
(思春期くらいにようやく把握するようになるようです)

だから、「お母さんとお父さんとどちらが好き?」
という質問に対して
両者を区別して認識していないために
戸惑うことがあります。

ところが、別居によって、
ユニットの半分が無くなったのですから、
子どもは大変怖い思いをするそうです。
父親が自分の元からいなくなったという認識をするようです。
子どもらしい自己中心的な認識です。

そうすると、
父親がいなくなったのだから
母親もいなくなるのではないか
という不安が起きてしまうようです。

つまり子どもである自分が
天涯孤独になるのではないか
という漠然とした不安です。
相当怖いことだと思います。

この不安の解消のために、
現在同居している母親との結びつきを強めるよう
無意識の意思が働いてしまいます。

母親に対する感情移入が強くなります。
これが一つ。

もう一つは、
母親がそばにいること、
母親が離婚後の何らかの不安を抱えていると
精神的に不安定になることがあります。

この場合、子どもの年齢と個性によって
あるいは長女等という立場の役割感によって、
違いはあるようですが、
弱い者(この場合母親)を守ろうという
群れを作る人間の本能が活性化してしまい、
母親への感情移入が
さらに強くなってしまいます。

両親の元で生活している時は
母親、父親のどちらかだけへの感情移入をせず、
バランスをとって成長していきます。
その結果、徐々に両親への感情移入が薄れ、
子ども独自の世界である
幼稚園や学校の中で、
先生や友達への共鳴、共感する力も
育まれていきます。

ところが
特別な事情によって、
母親への感情移入が強度に起こるようになると
つまり
母親がどういう気持ちなのかということに
常に注意を払い、
母親に積極的に共鳴しようとするあまり、

共鳴、共感のキャパがいっぱいとなり、
母親以外の他者への共鳴、共感の
力が弱くなってしまうようです。

弱い者を守ろうという正義感は強いのですが、
友達である同年齢の子どもたちの
等身大の心情については理解することができないため、
四角四面な奴
と敬遠されるようになるのだと思います。

片親疎外の現象として、
思春期の頃、自我の確立がうまくいかず、
自分とは何かということに苦しむ
ということが指摘されています。

これもうまく説明がつくようです。
同年代の子どもたちに
共鳴、共感ができないということが起こるために、
片親疎外の子どもは
学校等の中で孤独を感じます。

人間が他人を怖がらないのは
同じようなことを考えて、
同じような行動をするだろうという
暗黙の約束事があるからです。
人間どうしの暗黙のルールによる安心感があるからです。

このルールがあてにならないという体験をしてしまうと
(暴力や虐待などによる孤立ですね)、
PTSDやパニック障害、不安障害が
起きてしまうのではないでしょうか。

片親疎外が強すぎる場合、
そのようなトラウマ体験がないにもかかわらず
同年代の人間に対する共鳴、共感ができず、
安心感を抱くことができないため、
常に不安な状態になることもあるようです。

可愛そうなことは、
思春期は‘つがい’になるための準備期間なので、
異性からの承認要求が強くなるのですが、
異性の前の人間の部分の共鳴共感ができず、
コミュニケーションがうまくゆかないので、

絶望的な思いをしたり
逆に著しい反発を感じたりして
不安定になります。

十代半ばで将来を悲観し、
自分を否定的に感じてきて、
引きこもり、リストカット等で
自分の葛藤を対処しようとするように
なってしまうことも出てきます。

私が目の当たりにしたケースは
こういうことだったように感じられます。

但し、ここまで重篤な事態に必ずなるわけではなく、
友達に恵まれたり、先生に恵まれて
バランスを失いながらも支えられる
ということが多いかもしれません。

こういう場合は、
友達や先生への共鳴、共感が働くようになるので、
孤立感が解消されると説明できるでしょう。

但し、母親に対しての感情移入が強く
父親に対して感情移入できずに拒否感が強くなると、
自分が両親から(特に母親)独立した一人の人間だ
という感情が起きにくく、
かつ、同年代の子どもたちとの共鳴共感が弱くなり、
孤立を深めてしまうと
孤立している自分というものが強く意識されるのですが、
その想念を持て余してしまうという感覚になるのでしょう。

他者と違うところがあるところを肯定的にとらえられず、
個性の違いは不安ばかりを抱かせるのかもしれません。


片親疎外のもう一つの特徴である
別居親である父親への拒否感情ですが、
これもうまく説明ができるようです。

しかも、片親疎外が
同居親である母親が
父親の悪口を言わない場合でも起こる現象だ
ということも併せて説明ができてしまいます。

つまり、子どもは、
分離不安と、接触時間が長いことから
母親に対しての感情移入を強めてしまいます。

この反射的効果として、
別居している父親への共鳴力、共感力は
能力が残されていないため
枯渇してしまいます。

記憶というか、思い出すという作業が
過去の出来事の追体験による共鳴、共感だとすれば、
父親への共鳴、共感装置が壊れている状態の場合は、
追体験による共鳴、共感ができないのですから、
思い出すという作業もできなくなるのです。

その結果、父親との楽しい思い出ということが
感情を伴わない記録的な出来事になってしまい、
父親側が大切にしている同居時の出来事も
子どもにとっては、
現在の自分とは別の過去の自分
とでもいうような記憶に変容してしまうことがあるようです。

(これは、当たり障りのない面会交流が行われただけで
 父親への共感が瞬時に復活し、
 劇的に記憶がよみがえるということを
 何度か目の当たりにしています。)

別居後に父親が
手紙を出したり、学校を訪問したりすること
親が会えない我が子に会いたいという心情は
子を持つ親であれば理解できることなのですが、
既に片親疎外が完成され、
母親への共鳴、共感の思考パターンが確立すると
不愉快な、あるいは恐怖を伴った
感覚になるようです。

でもそれは、子ども本人としては、
母親の思考パターンであることを理解せずに
自分の思考パターンであると感じています。

母親は父親の悪口を言う必要がないのです。
子どもは、
自分が生きるための仕組みとして、
母親への感情移入を強くさせ、
自分の感情と母親の感情が
区別がつかない状態になっているのです。

その結果、父親の感情を受け入れる能力が枯渇し
共鳴、共感できない大人ということで
拒否する感情に支配されるわけです。


さて、このまま子どもが大人になることで
支障が出ないということがあるのでしょうか。

私は、先ほど言った通り、
母親以外の他者との共鳴、共感がある場合は
社会性が育まれますので、
自己肯定感、自尊感情が無くなることがない
ということを目撃しています。

しかし、引きこもり等、
社会とのかかわりが断たれている場合は
かなり深刻な状態になるようです。

さらに、友人関係が成立していても
母親とも心理的葛藤が生まれてしまう場合もあり、
この場合は
孤立感が進んでいくようです。
共鳴、共感の混乱が生じてしまい、
このために他者とのかかわり、他者への感情移入が
スムーズにできないようになるのではないでしょうか。

それとは別に、表面的には、
父親にだけ拒否感情が集中し、
父親以外には円満な人間関係が築かれる
という現象が見られることがあります。

一つは、それでもよくよく見れば、
成人男性に対する理由のない拒否感や
友人関係の中でも自己肯定感が少なく、
病的にすぐにくじけやすくなっている場合もあります。

二つは、そもそも、自分の父親という
遺伝的に近い人間を否定的評価することは、
自分に対する否定的評価につながることが少なくありません。
そのことを自覚するからこそ
父親の拒否感情が強くなることもあるようです。
爆弾を自分の心の中に抱えていることになります。

父親との面会が窮地を救った例もあります。
思春期を過ぎたお子さんの事例で、
父親との面会が長期にわたって断絶していた事例で、
お子さんが深刻な心理状態になった事例があります。

思春期以前は、比較的自由な面会交流によって
父親への共感のチャンネルが確保されていたのですが、
突然、面会ができなくなっていました。
自分の夢のためにハードな努力をしていたお子さんでしたが、
よくよく考えると
母親が父親に認めてもらいたいという願望から
子どもへ圧力がかかっていたのかもしれません。
その夢の実現に黄色信号がともったころ、
心理的に破たんが生まれました。

両親どうしのコミュニケーションがうまくゆかず、
母親の援助サインは、
父親を攻撃するアクションになってしまいました。
双方に代理人がつき、
両親が争っている場合でないこと
本当に必要なことは父と子のかかわりであることを理解し、
面会を復活させたことにより、
子どもは、今まで取り組んでいた夢を
自分の夢として再構成し、
立ち直ることができたようでした。

双方の代理人が行ったことは
争いをやめるということだけです。
あとは、親子が解決したのでした。
家族で解決したということになると思います。

このように、
子どもは、放っておくと
脳の構造というか、神経の働き方によって、
母親への感情移入と、
母親の意思、感情の取り込みを行ってしまいます。
それは生きるための仕組みだということになります。

だから、父親への共感のチャンネルを開けておくことは
子どもの将来にとってとても大切なことだと思います。
できるだけ自由に、
そして母親から沈黙の拒否感情を受けないで
「お父さんとあって良かったね」という
楽しい体験にするように工夫することは
子どもの健全な成長にとって極めて重要なことだと思います。

それは、同居親である母親だけの義務でなく、
母親を励まし、面会に対する肯定感を引き出す工夫をする
父親の義務でもあります。

離婚して、別居しても
子どもの別居親に対する共感のチャンネルを
確保することによって
子どもに同居親だけのチャンネルだけにせずに、
社会に向けてチャンネルを用意する
これが面会交流や、離婚後の共同養育の
生理学的、原理的意味になりそうです。

離婚後の両親というユニットの形、意味は
双方これで十分だと考えた方がよいかもしれません。

離婚は、相互の否定ではないのです。
当事者ですから、
強い言い分が色々とあるでしょう。
しかし、人間関係は、良い悪いという二元論では割り切れません。
どちらかが悪かった、よかったということよりも
タイミングだったり、環境だったり、
つまり、一緒にいる時間、労働時間、経済状態
親の健康状態や自分の役割、
自分の健康状態だったり
共感チャンネルの開け閉めの訓練だったり
そういう原因が大きくなって
夫婦というチームとして成り立たなくなった
ということだと、
第三者としては常々強く感じています。

離婚は、自分が相手から否定されたのではなく、
相互に、この人と一緒に生活することに

「向いていなかった」

ということに尽きるのではないでしょうか。

離婚をしても子どもがいる場合、
共同して子育てをすると言っても、
元の家族を再現するわけではありません。
子どもの共感のチャンネルを開ける
という作業をするだけと言えばするだけです。

その範囲で、子どものために
淡々と事務をこなせばよいのです。
双方それ以上望まず、
望むときは子どもとは別の機会にするということを
心がければよいと思います。

ただ、父親も母親も孤立している場合
ストレートにSOSを出せないし、
SOSを出せばよいのだということに
気が付かないことも多くあります。

人間の限界に優しい人の援助によって
無駄な「つまり」を無くしていく
そういう仕組みがあればよいと思います。
それは、共同親権を実質的に実現するために
不可欠な機関だと思います。

前に考えた制度を載せて今回は終わりとします。

家事調整センター企画書
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

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学校がいじめ自死を予防できない理由 道徳教育に逃げ込もうとせずに、他人への共鳴、共感をする力をはぐくむことが必要ではないか [進化心理学、生理学、対人関係学]


現在、宮城県と仙台市が、
いじめ防止条例を策定しようとしています。
宮城県が手堅い内容となっていますし、
仙台市は大胆な発想を強調していまして、
特徴のある条例ができそうです。

このように自治体がいじめ問題に
取り組んでいる姿勢をアッピールすること自体も
私はいじめ防止に効果があると思います。

ところが、この度の(30年7月)猛暑の中、
学校での事故が多発しています。

部活でミスが多いからと言って
校舎の周りを80周のランニングをすることを命じた事案。
(9周でダウンし、業者の人が発見)
歩いて公園に行き、そのまま校外学習を行い、
小学1年生が死亡した事案。
その他熱中症で救急搬送された事案が
毎日のように報道されました。

先ず、なぜこのようなことが起きてしまうのか、
そして、その後に、この理由こそが
学校で、いじめが起きる要因、防止することのできない
要因であるということを説明します。

先ず、各事件における
学校の謝罪の表現から分析していきましょう。

80周のランニングの事件では、
「行き過ぎた指導」だったとしています。
校外学習での事件では、
「判断甘かった」と述べています。

この言葉の表現に着目しました。

それぞれの事件で、
真剣な自己批判がなされているのは確かでしょう。
また、事故直後のインタビューなどですから、
きちんとした考察の元での反省の弁でもないかもしれません。

しかし、決定的な反省の視点が欠落していることが
よくわかる表現だと思います。
おそらく、学校関係者は気が付いていない
ということがうかがわれる表現です。

先ず、80周ランニングの事件ですが、
この顧問の生徒への命令を、
行き過ぎたとはいえ「指導」だと言っている点が問題です。

この行為は指導ではなく、
ミスをした生徒に対する嫌がらせ、
純然たる加害行為です。
顧問の腹立ちを解消しようとした行為です。

80周走ることによって、
ミスが無くなるようになるわけではないことは
誰でもすぐわかることです。

ミスをすると
80周走らなければならなくなるから
ミスをしないようにする
それでは、脅迫です。萎縮してしまうだけでしょう。

「指導」と言ってはならないのです。
単なる加害行為です。

おそらく謝罪をした教頭も、特に考えなく
「教師が生徒に命じた行為」という意味で
「指導」という言葉を使っただけなのだと思います。
では、指導と呼んではいけないその基準として
どこに線を引いたら良いのでしょう

もう一つの、校外学習の1年生死亡事件の
「判断が甘かった」という言葉
とあわせて考えてみたいと思います。

校外学習をしても大丈夫だろう
という判断をしたが、
その判断が甘かったという意味だと思います。

本当に危険か安全かを考慮して
大丈夫だろうと判断をした
ということが前提ですが、

なぜ、大丈夫かどうかということを
考えなければならないほど
危険な行為だと認識したにもかかわらず、
そもそも校外学習を決行できたのか
どこに行動原理があったのかということを
考えなければなりません。

まさか児童が死ぬことになるとは思わなかった
ということはよくわかります。
しかし、死ぬ危険もわずかでもあると考えると
中止以外に選択肢が無くなるはずです。

危険に対処しなければならないという選択肢を捨てて
決行する「理由」、行動原理があったから
死ぬかもしれない危険に対処するという選択肢を
排除したということなのです。

謝罪の言葉から現れた、
学校の、教師の行動原理について考えてみます。

二つの事件で、明白に欠落していたのは、
「子どもの安全を優先する」という行動原理です。

80周ランニングの事件では、
生徒にとって何もメリットがない、
生徒を危険にさらすだけの行為です。
純然たる加害行為です。
従って、指導と呼んではいけないのです。

生徒にメリットなく危険にさらすすべての行為
メリットが期待できても
生徒の将来に深刻な影響を与える危険のある行為
死亡、後遺症が残る傷病ですね。
これが私の「指導」と呼んではいけない基準です。

学校の先生方は真面目な方が多く、
やらなければならないことは
やろうとする傾向にあると思います。

例えば熱中症事故を起こすことを防止する
ということがマニュアル化され、
気温と湿度を測定する係を決め、
熱さ指数を計算し、
記入する用紙や書式を作り、
その指数によって、校舎外活動をやめる
ということを決めれば、
その通りにするでしょう。

しかし、それで熱中症事故を防いだとしても、
それだけの話なのです。

平成23年夏、仙台では、
福島第一原子力発電所の爆発後の
放射線量の高まりに不安を感じていた人が多くいました。
その夏、ある小学校では
プール清掃を例年通り高学年の児童にやらせました。
プールの汚泥を掃除させたのです。
保護者の反発は無視されました。

その後、仙台市内の小学校、中学校の
放射線量を測定したのですが
その学校のプールの汚泥が捨てられた部分が
最大の測定値が観測された観測点でした。

また、仙台の中学校は
冬の朝の極寒のさなか、
挨拶運動と称し、
生徒たちがコートも着ないで
校門の前で挨拶をするということを
させられていました。
教育委員会への通報も無視されました。

このように、一つのことに基準を作っても、
別のことでは
生徒の安全性が優先されないということが
起こりうるし、
実際に起きているのだと思います。
熱中症事故は氷山の一角だと考えるべきです。

どうすればよいのか、
一つ一つ基準を作って
測定して対応するのか。
しかし、それは現実的でしょうか。

また、測定できない事柄、
測定しても数字から直ちに危険性の評価ができない場合
実際は役に立たないばかりか
もう一つの行動原理に負けてしまいます。

測定できない事柄としては
いじめの問題があります。
何かを測定しても
いじめを防止できるものではありません。

私は、学校が、子どもたちの安全を優先するために、
足りない要素があるのではないかと考えています。

それは、子どもの視線にたって、
あるいは保護者の視線にたっての
行動原理です。

子どもの視線に立つことはなかなか難しいことです。
例えば熱中症でいえば、
子どもは大人より身長が低いので、
地面からの照り返しが大人よりも強く影響を受けます。
水分を保持する能力も弱いです。
また、熱中症は単に元気がなくなるだけでなく、
体温調整がきかないために
筋肉が崩壊していきます。これが体が痛い原因です。
腎臓に負担がかかり破綻すれば
人工透析が必要になります。
このように知識が必要な場合もありますが、
それは子どもの専門家なので必須の知識です。

しかしそのような知識がなくても
子どもの表情から
子どもの状態を推測するということも
子どもの視線に立つために不可欠なことでしょう。

それらの知識や技術は
子どもの視線で考えようとしなければ
身につかないし、活用できません。

命じられた子どもだったらどのように思うだろうか、
言われた子どもだったらどう思うだろうか
それも、ただ言葉だけを考えるのではなく、
例えばほかの児童の前で言われた場合とか、
その子がほかの子どもの中で浮いている場合はどうだとか、
一生懸命努力したのに、結果だけ否定されてしまうとどうか
そういうことを考えなければなりません。

温度の危険だけでなく、
心理的な打撃を受けた場合の危険
その教師の行為によって
他の子どもからの評価が変わってしまう危険
特に孤立の危険を考えなければなりません。

子どもの安全を最大優先事項にしないと
見えてこないことがたくさんあるのです。

そして、一番弱い子どもの視点が必要です。

熱中症の例えをすれば、
80%の子どもが校庭での全校集会で変調をきたさない、
残り20%のうち、18%の子どもは
校内での休憩で回復する。
危険は残り2%の虚弱な子だ
残り2%のために、
全校集会を中止することはできない
と考えてはならないということなのです。

現実は、この様に数字で簡単に判断できるわけではありません。

大丈夫じゃないかという甘い判断が起こりやすい原因です。

一つは、子どもの視線に立てない
子どもの状態を想像することができない
子どもが苦しいことをしないようにしようという発想にならない。

実は、これが、いじめが起きる原因の一つだと思っています。

子どもは、別の子の安全や心理的負担を
行動原理にすることがなかなかできません。
自分のことしか考えられない
自己中心的な考えから出発します。

自分の行為によって、孤立することどもが生まれて
精神的に重大な影響が生じることになっても
行為をやめることができません。

やるべきことは、
相手が嫌な思いをしているということを
実感させることです。
追体験させることです。
そういう指導を積み重ねて、
自分の行為によって相手が傷つくことが
恐ろしいことだという実感を持つことです。

逆に、同時に
相手が自分の行為によって喜んでくれる
そういう経験を積み重ねることによって、
仲間の嬉しさを経験することです。

同時にというのは、
自分の行為によって
相手を喜ばすこともできれば
相手を絶望に叩き落すこともできる
そのことを理解して行動することができれば
自分の気に入った友達だけでなく、
多くの人間の中で
自分は安心して生活することができる。

こういう共鳴、共感による
仲間形成をする教育が有効だと思います。
いじめ防止教育とは
理性的な人間関係を築くその方法と体験
ということになると思います。

人間だけが
子どもの時期が長いのは、
このように、人間の特質である
群れを形成して生活する方法を
学ぶことに時間がかかるという学説があります。

そうだとすると
共鳴、共感によるいじめ防止教育は
子どもが大人になるための
最も大切な教育だということになります。

このような教育が有効だとすれば、
子どもの視線に立てない学校や教師の状態は
極めて深刻です。

教える側の大人が
それができていないのですから
到底子どもに教えることができません。

だから、安易に道徳教育に逃げ込もうとするのです。
道徳教育は、結論を求める側面がどうしてもあります。
また、道徳の中には
教師が子どもを尊重するという視点は
出てきにくい状態にもあります。

道徳や規範とはルールです。
ルールを教えて、それを守ろうという教育に
どうしてもなってしまいます。
しかし、道徳の内容は広範であり
時代の変化に左右される性質もあります。

ルールを守るということは大切ですが、
熱中症の例えでは、
気温や湿度を測定し、
熱さ指数を計算し、
用紙に書き込んだり入力したりする
ということです。

熱さ指数に達しなければ
問題ないとして行動に出てしまうことにも
つながりかねません。

オールマイティーなルールはありません。
状況によってはルールを貫くことが
不合理な結果になることもあります。

確立したルールだけでは足りない、対処がわからない
ということもたくさんあります。

大事なことは道徳や規範そのものではなく、
その心にあります。

他人の気持ちを想像して
楽しいことを共有し、
嫌なことは修正する
ということができるようになること

共鳴、共感の力をはぐくむことです。

それを教師が率先して行わなければなりません。

色々な知識を身に着けることも大切ですが、
勉強の素材は
自分の職場に豊富にあるわけです。
自分の言動によって、
子どもたちがどのように反応するのか
それを子細に観察することです。

子どもの安全に優先させてしまう行動原理ではなく、
子どもたちの反応におそれ、
子どもたちの反応に報われる
そういう行動原理を導入するべきです。

そのために管理職や教育委員会は、
教師の裁量を広く認め、
子どもたちの安全以外の行動原理を
先生方が持たないように最善の努力をするべきです。

そうして、そのような余裕のある
指導体制を敷くことを検討していただきたいと
心から願います。

いじめ防止の方法は、
人間教育の原点に立ち返り、
共鳴力、共感力を育み、
児童生徒の安全を最優先の行動原理とし、

それに優先させてしまう行動原理を
学校現場に持ち込ませないこと
児童生徒の安全を最優先することを
妨げる環境を作らないこと
こう言うことだと思います。

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前編:仲の良かった夫婦が子どもが生まれると対立する理由 後編:他人に感情移入できない人の重要な役割 [進化心理学、生理学、対人関係学]



<前編>

前回のこのブログで
出産後の母親が子どもに感情移入するあまり
父親に感情移入できなくなる
ということをお話しました。

つまり人間の脳は、それほど優れているわけではなく、
赤ん坊に感情移入すると
赤ん坊以外に感情移入する能力がなくなってしまう
ということでした。

この記事を書いた直後の日、ネット記事で、
上の子と歳の離れた子を出産したお母さんが、
下の子が可愛くて、上の子に違和感を持った
ということを書いたものを読みました。

同じ現象が起きているようです。
どうやら、新生児の魅力というものは
それほど大きいようです。

実は
自分で書いた記事なのですが
直後からふつふつと疑い出していました。
それは、子どもに感情移入するあまり、
大人の感情に感情移入できないというのは、
母親に限った話ではないのではないか
ということです。

父親でさえ、
子どもに感情移入してしまうあまり、
子どものためということなのですが、
ついつい母親にきついことを言ったり
配慮のない言葉をかけることも
あるのではないかということです。

ついつい小言が増えるわけです。
子育てしながらスマホをいじっていることが
小言の種になることがどこにでもある風景ですが、
それまで何にも気にしてなかったのに、
掃除をしないことに神経過敏になったりします。
赤ん坊にきれいな空気を吸わせたいということなのですが、
言い方がきつくなったり、
声が大きくなったりするということは
ないでしょうか。

これらは、人間が群れで生きるための、
一番弱いものを守ろうとする仕組みです。
弱い者に感情移入し、
弱い者の苦しさや痛みを理解しようとして
弱いものをできるだけ快適に過ごさせるということです。

だから、こうなってしまう人は
本当は優しい人なのでしょう。
優しさゆえに、一番弱いもの以外の人間に
感情移入できなくなり、きつくなる。
これが、赤ん坊が生まれる前には仲の良い夫婦が
喧嘩をする大きな理由の一つであることは
間違いないようです。

これを防ぐ方法の一つが
子育ては母親に任せて
父親は口出ししないというルールの下で生きる
戦前の生活に余裕があった時代の日本などが
選択した行動様式でした。

今は、そんな余裕はありません。
しかし、子どもを愛するゆえに
パートナー同士が傷つけあうということは悲劇ですし、
子どもにとっても深刻な影響が生じます。

現代社会における解決方法は、
そういうものだということを自覚するということです。

人間の脳は、あっさりと限界に達してしまうので、
子煩悩な大人を自覚する人は、
反射的に大人同士、傷つけあってしまうという
エラーを起こすものだということを自覚することです。

これを自覚していれば
上手くいけば配慮のある言動や発想をすることができますし、
うっかりきついことを言っても
あっ、そうだ、やっちまったと気が付くことができます。

ところが自覚していないと、
自分は弱いものを守ろうとしているという
妙な正義感を感じていますから、
相手に対して注意することは正義だという感覚で、
どんどん苛烈になっていきます。

自覚して、やっちまったと思ったときに
自分の言動を自分で声に出して戒め、
きちんと謝りながら、
相手をねぎらう言葉を
「わざとらしく」相手に伝えることが必要です。

相手は言葉で言われなければわからない状態にあるからです。

出産後は、出産前と比べて
よく話をして、よく話を聞くという
言葉のやり取りがとても大事になってきます。
頑張るポイントはここにありそうです。

<後編>

新生児に限らず、
弱い者をかばうということが
人間の紛争の種になることは
よくあることです。

学校でのいじめは、
誰かをかばうために、誰かを攻撃するところから
始まることがよくあります。

職場やボランティアなどの社会活動でもそうです。

自分をかばう人がいて、
その人をかばおうとする人がいて、
そうして、相手を攻撃しています。

あとで考えると
攻撃された人のほうが弱者だということも
よくあります。

これは、身近な人が弱者だと感じやすい
錯覚が起きやすいということです。
身近な人の喜怒哀楽はよくわかるので、
身近な人には感情移入しやすいのです。
その人が困っていると感じれば、
その人を守ろうとしてしまうみたいです。

我々相談を担当する者も似たようなところがあります。
目の前の相談者に感情移入しやすいことは当たり前です。

夫婦の問題を相談されているときに
例えば相談者が妻だとして
自分はこんなに苦しい思いをしていると言われれば
なるほど大変でしたねといえる相談担当者でなければ
失格だということができます。

そんな時、目の前の相談者から聞かされる
夫のほうに感情移入することは
滅多にありません。
人間の脳は、それを自然とできるほど
理路整然としたうえに、想像力が豊かだ
というわけではなさそうです。

こういう普通の限界だらけの脳の相談担当者が
この世の中善と悪しかないという二元論に立ってしまうと
妻を苦しめる夫は悪いやつだということに
単純に陥ってしまうわけです。

妻の話に調子を合わせているほうが楽ですから
真実を探求することが面倒くさいのかもしれません。

それもこれも、紛争当事者の一方に感情移入すると
他方に対しては感情移入しにくくなるという
人間の脳の限界に理由の一つがあったようです。

特に弱者を守ろうとして
相手に配慮ができなくなるという類型の
対人関係の紛争、仲間割れには、
常にそのような宿命的な事情が存在するようです。

こういう時一番役に立つ人は、
誰にも感情移入しない人なのです。
どちらにも感情移入せずに、
冷静にどちらがどうすると
本来の優しがはっきりわかり、
相手と争わなくて済むかということを
言い当てることができます。

ただ、他人に感情移入できない人は
このような紛争を仲介しようとしないという宿命があります。
そのため、紛争介入にこの人を利用しようとする
比較的冷静な人が必要です。
感情移入しない人をプロデュースする人ですね。

そうやって、必要な時に発言してもらう
人間関係を作っていられる人です。

皆で微修正して
結論にいたる。

段々感情移入できない人も
双方の紛争を沈めたり
重宝されるとうれしいですから
積極的に介入しようとしてくるでしょう。

もしかしたら、
狩猟採集時代のリーダーや
その終期の道徳の萌芽を形成した人は
このように感情移入ができなかった人
なのではないかと考えているところです。

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妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因 [進化心理学、生理学、対人関係学]


<思い込みDVという離婚事件のパターン>

離婚事件を担当していると、
かなり多い事例として、
夫が暴力を振るわないし、脅迫めいたことをいうわけでもないのに、
妻が離婚原因として夫のDVを主張するケースがあります。

多いケースは最終子がおおむね2歳くらいかその前で、
ある日夫が仕事から帰ったら、
荷物も子どもたちもいなくなっているというもので、
それ以降、夫はわが子と会うことすら難しい状況に落とされます。
残された夫は精神的に著しいダメージを受け、
自死をする場合もあります。

暴力や脅迫がないのにDVを主張する事例の中には、
不貞を成就させるためとか、
夫名義で作った借金などの未払いの発覚を誤魔化すためとか
DV保護政策を利用する悪質なケースもあります。

しかし、かなり多い割合で、
確かに妻は夫を嫌悪しており、怖がっています。
しかし、その原因が結局よくわからないし、
妻もどのように精神的虐待をされたか
具体的にははっきり覚えていないということが特徴です。
あるいは、妻の主張する虐待のエピソードが
事実に反している、あるいは妻が悪くとらえすぎていることが
証拠に照らして明らかになることが少なくありません。
でも、同時に、妻には将来に対する漠然とした不安とか、
夫に対する嫌悪、あるいは恐れという
感情が存在することも裏付けられることが多いです。

このように、実際には存在しないDVを存在すると思いこむ、
思い込みDVとでもいうような
事例が多く認められています。

<近年発表された出産後の母親の脳の変化の研究>

これまでこの現象をいろいろと考えてきたのですが、
どうも脳科学の観点から
思い込みDVの正体が説明できそうなのです。

2016年12月にバルセロナ自治大学の
オスカー・ヴィリャローヤ率いる研究チームが、
https://www.sankei.com/wired/news/161222/wir1612220002-n1.html
2018年2月5日に福井大学 子どものこころの発達研究センターが
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20180205/index.html
それぞれ大変興味深い研究発表を行いました。

バルセロナの研究は、脳のある部分の大きさの変化をとらえ、
福井大学の研究は、脳の動きをとらえ
同じことを発見しています。

ざっくり要約すると
赤ん坊を産んだ後で妻の脳が変化をしているということです。
その結果、
妻は、赤ん坊の状態に対する共鳴力、共感力が強くなるのに対して、
大人に対しての共鳴力、共感力は弱くなる
ということになるようです。

私は、この脳の変化が思い込みDVの原因ではないかと
考えるようになりました。

説明します。

まず、出産後の母親が赤ん坊に
共鳴することはとても合理的です。
赤ん坊が泣いているときも
泣いている気持ちに共鳴して、
対処をしようという気持ちが強くなるから
赤ん坊は不快な思いをする時間が短くなるからです。

例えば、ベビーベッドにうっかり小物を置いてしまい
赤ん坊がその上に寝てしまって痛い思いをして泣いていると
母親も自分が痛い思いをしているかのように、
早く痛みの原因を除去しようとして、
赤ん坊を抱きあげ、小物を取り除くというような感じです。

どうやら脳のキャパからすると
赤ん坊と大人と両方に対する共鳴力を維持することが難しく、
どちらかを選択しなければならないようです。
進化は、母親に赤ん坊の方を優先させることにしたわけです。
大人は自分で危険を取り除けますが、
赤ん坊が自分ではできない
だから大人と赤ん坊のどちらかを選ばなければならないとしたら
大人を切り捨てて子供を優先することが
合理的ということになります。

<出産後の脳の変化と夫婦の関係の変化の形>

それでは、大人に対する共鳴力が低下した場合に
実際の夫婦はどうなるかということが問題になります。

一番大きな問題は、
「夫が何を考えているのかわからなくなる」
ということです。

通常、人間と人間は
相手がどのように感じているかということを察して
自分の行動の調整をします。
言葉だけでなく、
相手の顔色、声の調子、しぐさ等
いろいろな情報を受け取って
相手の感情を判断しています。
ある程度何を考えているのかがわかり
合理的に行動を変えるのです。

例えば、
妻は、家にゴミが増えてきたけれど
回収日が今日ではない。ゴミが家にたまる。
夫に出勤の際にコンビニなどで
ゴミ袋を捨ててきてほしいと思っています。
しかし実際に妻がゴミを捨ててきてほしいというと、
夫は眉間にしわを寄せて吐き捨てるように
「嫌だ」と短く言う。
「ああ、怒っているなあ」と妻は感じ、
これ以上言ったら怒鳴りだすだろうなと思い
言っても仕方がないなと思い
それ以上頼むのをやめます。

これと反対に、
仕事帰りにコンビニでデザートを買ってほしいと言ったとき
夫は「格好悪いから嫌だ」とは言いながら
ニコニコしていて、それ以上拒否しない場合、
もう少し頼んでみようと作戦を巡らせるでしょう。

同じ「嫌だ」という言葉だけでは判断せずに
共鳴力、共感力を使って
相手の感情を推測し、
自分の行動を変化させています。

そうして、この共鳴力、共感力を記憶し、
相手の嫌がることをしないようにすると同時に
相手のしてほしいことも記憶し、
二人の関係が円満になるように行動するし、
円満にできていることを実感し記憶できます。

この夫に対する共鳴力、共感力が失われてしまうのです。
実際にはどうなるでしょう。

例えば、
ゴミ袋を捨てる場面では、
夫が嫌だという気持ちをもっていることをわからずに
それでも何とか捨ててきてと
しつこくせがんでしまうかもしれません。

コンビニでのお土産をせがむことは
言ったら怒られるのではないかと
怖くて言えなくなるかもしれません。

このように
大人への共鳴力、共感力が弱くなることによって、
どうやら何をすると夫が感情的になるかということも
それでも、夫婦の関係が簡単に壊れないという安心の記憶も
失われてしまう、あるいは薄れてしまうようです。

バルセロナ自治大学の研究報告によると
赤ん坊に強く共鳴する脳神経の変化が
脳が記憶をする原理とどうやら同じようなのです。

(記憶というものを過去の出来事に対する共鳴
 と把握すると、
 現在共鳴する装置が壊れているため、
 過去の出来事に対する共鳴も行らなくなる
 その結果、過去の心の記憶を想起できなくなる
と考えるとわかりやすいかもしれません)

限度がわからなくなり、記憶が薄れる結果、
夫がどのような場合に怒り、
どのような場合に怒らないか
分からなくなります。

加減がわからないということから
夫を怒らせることも増えていきます。
あるいは、どうして自分が
これをしてほしい、これをしてほしくない
と考えているのに
夫はしないんだ、してしまうんだ
ということがわからず
イライラばかりが起こってしまう
ということもありそうです。

段々と、
夫がいつどのような感情になるかわからなくなり、
よくわからないけれど
夫が自分を攻撃しているように感じてくる
自分は大切にされていないという危機感ばかりが起きてしまう。

夫といることが安心できなくなるようです。

不安を感じやすくなっているのですが、
具体的には何かが起きているのではないのです。

自分が突飛な行動に出たりして、
例えば、不安でたまらなくなり、
部屋から飛び出そうとして、
夫に止められて転んだのに、
そういう出来事の前後関係を覚えていなくて
夫から転ばされた
という記憶だけが残されているのです。

自分が身構えた記憶、痛んだ記憶だけは
新しい記憶として定着するのです。

夫の感情と自分の言動の因果関係がわからなくなるので、
夫は何を考えているのかわからない
夫は突然切れる
と妻は感じて恐れているようです。
実際思い込みDVの事案ではこのような妻の主張がよく見られます。

バルセロナ自治大学の研究では、
このような脳の変化が2年くらいは続くということでした。
これは、子どもを連れた突然の別居が起こる
好発時期とぴったり合います。

<妻の感情を増悪させる諸事情>

子どもを産んだ女性が、
必ずしも同様の反応をするわけではなく
個性はあるようです。

ただ、バルセロナ自治大学の研究によると
多少なりとも脳の変化は必ずあるそうです。

そうすると、思い込みDVや連れ去り別居が起こるような
夫に対しての嫌悪感や怒りが発生しやすい事情というものが
あるのでしょうか。

私はあると思います。
一つは妻の事情
一つは夫の事情
一つは子どもの事情です。

妻の事情は、
もともと不安を感じやすい事情
あるいは安心感を持ちにくい事情がある場合です。

甲状腺機能の異常などの心理面に影響を与える身体条件
不安神経症、パニック症状等をもともと起こしやすい人
生育環境、特に劣等感を持たされた事情がある場合
男性に対する負の体験などです。

夫の事情は、
夫に問題がないけれど事情がある場合
何らかの問題がある場合と二種類ありそうです。

・問題がなくても妻を怖がらせる事情

 男性であること、共通項があまりないこと
 背が高いないし体ががっしりしていること
 声が大きいこと
 ぶっきらぼうなふるまいをすること
 言葉遣いが優しくないことがあること
 等々です。

 何せ安心感を持ちにくい状況ですから
 男らしく振舞ってしまうと怖さを感じる場合があるようです。
 出産前は、そんなことでいちいち怖がっていなかったのは、
 他の情報から真意に共鳴することができたからです。
 
 多いのは、夫が自動車の運転をしていて
 危険なドライバーを見たときに思わず毒づく言葉が
 とても怖く感じるというエピソードがよく出てきます。

 怖い言葉が自分に向けられてはいないのに
 共感力がないのですから
 自分に向けられた敵意と感じるようです。

 妻が女性、特に経産婦に対して恐怖を抱かないのは
 自分と共通する要素を持っているので
 仲間だと理解しやすいからだと思います。

 ・男性に問題点がある場合
 
 妻にダメ出しをしたがる夫
 妻の嫌がることをやめられない夫
 妻の苦手なことを率先してする夫

 本来なら問題というほどのことはないのでしょうけれど
 ダメ出しをする夫は多いようです。
 決して感情的にならず、大声を出さないけれど
 例えばコンビニへのゴミ出しの事例でいうと
 道徳的観点から、あるいは店員さんのご苦労から
 正当なことを言い続けてしまうようなことですね。

 妻は、夫の道徳感情に共鳴できませんから
 ただ、夫は自分を攻撃していると受け止めているようです。
 正しさは、妻の評価基準にはなりません。

 例えば、友達を家に呼んでくるとか
 妻が家に居たいのに積極的に外出させるとか
 自分の苦しいことをさせられるという苦痛があるようです。
 夫は、妻がそれを嫌がっているのに
 ついつい、それを無視して自分のやりたいことをするようです。
 自分は何も悪いことをしていないという人が多いです。
 確かに、「客観的には」悪いことをしていませんが、
 妻の感情を尊重するという
 価値感、行動原理の物差しが弱いようです。

 やっかいなことは、
 例えば妻が掃除が苦手だとか
 金銭管理が苦手だとか
 そういう生活を維持するために
 不可欠だと思われることについて
 夫が妻をきちんとしろと責めたうえで、
 自分で率先してやりだす場合です。

 子どもの教育について
 妻が思いもつかない良いことをする場合なんかもそうですね。

 夫と妻が一つのチームとして行動できている場合は
 それでよいのですが、
 何せ共鳴力が欠落している場合は、
 できない自分を責められていると取られるようです。

 あるいは、これ見よがしに自分の優秀さを見せつけて
 何か気の利いたことをしても
 妻は自分に劣等感を与えようとしていると感じるようです。
 ただし、一回二回でこういうことが起きるというよりも
 そういうことが重なることによって
 息苦しさや劣等感が起きてきて
 その不快を与えるのが夫だという感覚になるようです。

 夫は、子どもを産んだわけではないので、
 妻に対する共鳴力共感力が失われるわけではありません。
 もっと妻の反応を気にするべきです。
 そうしてやりたいことも我慢するべきです。

 もっとも、出産前は同じことをしても問題がなかったので、
 何も疑問なく夫も同じ行動しているわけです。
 妻が出産によって、ものの見方考え方が変化している
 という知識がないのですから、
 当たり前と言えば当たり前のことです。

・ 子どもの事情

連れ去り別居、思い込みDVで少なくない事案で
お子さんに何らかの障害がある場合があります。

今多いのが広汎性発達障害、自閉症スペクトラムですが、
身体障害や知的障害がある場合に
誰も何も責めていないのに
母親は自分が責められているように感じる場合があるようです。

例えば病院への通院などを夫が積極的に行う場合にも、
最初は、仕事で疲れているのに心苦しいという気持ちが
段々と、夫が自分に頑張っているところを見せつけて
罪悪を与えられているような気になってくる
というケースも見られました。

・ もう一つの妻側の事情

一つ足しておきます。
妻が、自分と夫との関係を大切にしている場合
要するに、本当は妻は夫のことがとても好きな場合
夫への悪感情が増加していくという
かなり切ないパラドクスがあります。

劣等感の一つ一つが、
夫から自分が追放されるのではないか
という対人関係的危険意識
つまり、関係性への不安を高めることがあるようです。

夫がそんなことを言っていないのに
自分を否定することを言われるかもしれないという気持ちが
強くなりすぎてしまい、身構えるわけです。
記憶として残るのは、身構えた記憶だけですから、
実際は言われていないのに
夫からそういう風に実際に言われた
という記憶に変容するようです。

夫との関係を過度に大切にしているということから
逆に壊れたらどうしようという心配が大きくなりすぎて
悪く悪く考えてしまうようです。
そうして、そういう不安を解消したいという気持ちが
強くなりすぎてしまって、独り歩きして
関係を大切にしたいという気持ちよりも
不安を解消したいという気持ちが優先されてしまって
夫から離れたいという行動になるようです。

<DV相談の問題点>

ここでどうしても指摘しておかなければならないのが
女性の相談会です。

夫にはこれといった理由となる行動がないにもかかわらず
妻が夫に対する不安を感じやすくなっていて
自分が苦しめられていると
思込んでいるだけにもかかわらず、
多くの相談員は相談者の女性が苦しんでいておびえていれば
「何らかの精神的虐待がある」
というマニュアルで作られた先入観を持って
相談にあたっているようです。

ある事例の相談記録を読む機会がありました。
母親は、現在の苦しい精神状態を
何とか緩和してもらいたいと相談に行ったのに、
「それは精神的虐待です」
と何も裏を取らないで告げられる。
そうするとたちどころに
「やはり自分が置かれている環境は
 安心してはいけない環境なのだ」
という意識が肯定されてしまって
どんどん恐怖が募ってくるそうです。

そして面白いことに
相談員が男性の場合
妻もかなり冷静で
自分の発言よりも冷静で
夫とやり直すことを強硬に主張するようです。
それはそうだと思います。
それでも、男性の相談員はマニュアル通り
「DVは治らない」とか、
「命の危険があるから逃げなければならない」とか
科学的根拠もないことを無責任に説得し続けます。
私の読んだ記録では、
自分はこれだけの時間をかけて
妻を説得したと得々と記載しているのです。
大変恐ろしい話です。

その事件では、のちに妻自身が
自分がDVといったのではなく別居するつもりもなかった
ということを裁判で主張していました。
しかしながら、別居を解消しようとはしませんでした。
恐怖心だけは残ったままだったのです。

それに対して女性の相談員の場合は、
夫と違い、女性という共通項があるので
仲間だという意識を形成しやすく
あっさりと妻は女性相談員の意見に従うことが多いようです。

根拠のないマニュアル対応は
壊さなくてよい家庭を壊すだけでなく、
母親の不安を解消することはありません。
むしろ新たに強い恐怖が生まれてしまいますし、
その恐怖は別居しても、離婚しても
なかなか消えないようです。

一番の犠牲者は理由もなく一方の親を失う子どもです。

<対策>

バルセロナ自治大学の研究によれば、
すべての女性で出産後脳の変化が見られたとのことです。

出産後の女性は理由のない不安を抱きやすい
ということになります。

男性の方が理性で自分の行動を変化させるべきだ
ということになります。

「不安を与えないこと」
優しい言葉で話をすること
乱暴な言葉は使わないこと
大声を出さないこと
ある程度妻の言うことを聞き、
できないことは、妻に言わないで工夫して対処すること

上から目線で話さないようにすること
妻の評価者にならないこと
我慢すること
妻を立てること
ということになりそうです。

但し、これをいつもできるわけではありませんから
3割バッターになるくらいの気持ちでよいのではないか
と思います。

むしろ大事なことは
失点をしないことよりも
得点を入れるということかもしれません。

要するに、こちらのしぐさ、ふるまいから
安心感を獲得できないのだから
言葉で安心感を与えるということです。

安心感を与えるということは
感謝と謝罪の言葉を示していくということになりそうです。
そうして「大丈夫だよ」、
「それはいいね」ということを
意識して発するということになると思います。

何も言わないことは
妻のしたことを否定したことになりかねないのです。

さらには、プレゼントをする。

こういう定型的な意思表示を
行うということが効果的のようです。

恥ずかしかったり、あほらしかったりするかもしれませんが、
言葉にしなければならないということには
理由があったのです。

そして相手の弱点、欠点、不十分点を
責めない、笑わない、批判しない
そして議論しない
ということになりそうです。

過去の安心感が消えた時は、
現時点から将来に向けて
安心感の記憶を刷り込んでいく
これしかないようです。

妻の間違いを論理的にわからせようということは、
何もメリットがない行為だということのようです。

<なぜ、今になって思いこみDVが多発するのか>

それにしてもわからないことは
出産に伴い脳内変化が起きることは
今に始まったことではなく
何百万年前から始まっていることです。
どうして最近になって多発しているのでしょうか。

マニュアル型DV相談が始まったのは
平成に入ったころからで、
平成22年ころから民間でも配偶者暴力相談が始まりました。

配偶者暴力相談センターの相談件数の10分の1の数が
面会交流調停申し立て件数と
ほぼぴたりと合うということ、
平成22年頃の民間での相談が開始された頃あたりから
かなり面会交流調停が申し立てられているということが鮮明です。

面会交流調停新受件数.jpg

納得のゆかない親子の引き離しが増えているから
面会交流調停が申し立てれ、
平成22年頃からは調停がこじれて審判になるという関係が
グラフからよくわかると思います。

マニュアル型の家族破壊行為によって、
これまで起こらなかった家庭崩壊が起きているのです。
これは直ちにやめるべきです。
子どもたちが第一の最大の犠牲者です。

それから、もう一つの原因に目を向けなければなりません。
夫婦が孤立しているということが
大きな原因になっていると思います。

母親も不安になる要因が増えているのに、
その不安を大丈夫だよと励ます女性が
極端に少なくなっているのでしょう。

大丈夫だよ
気にしすぎだよ
心配なら私があなたの夫に意見を言うよ
といってくれる人が
いないのです。

無理やり不安をこじ開けて大きくする、
行政、NPOばかりなのです。
これらの人たちは、私たちの税金で活動しています。

家族というかけがえのない関係を
大切にする方向での支援をする人がいない。

ここが最大の問題です。

孤立している夫婦は
なかなか相手を思いやるということができないことがあります。

それはどちらかの人格の問題ではなく、
知識と経験の不足によって起きている可能性があります。

我々は、どうしたら人間関係が
穏やかに、楽しいものにするかという
そういう前向きな議論をしなくてはなりません。
人間が幸せになる方法の議論、
これが今の世の中には決定的に乏しいのではないでしょうか。

<感想>

かなり長くなりました。
また、特に脳神経学の素養もないので
不正確なところもあるでしょう。

しかし、
出産という出来事が
女性にとってとてつもなく大きな出来事であることは
おぼろげながら分かったような気がしています。

これまではこのような変化に対応するような
風習というか習慣というか
生きる知恵というものはいろいろあったようです。

そして、それを伝える人生の先輩方が尊重されていました。
しかし、一概に古いものが否定されていく中で
若い夫婦がますます孤立して言っているような気がします。

時代の変化によって、当てはまらなくなったものもあるのでしょう。

親戚、地域、職場の家族ぐるみの付き合い
そういうものは無くなりました。
人を励ますということ、心を支えるということ
こういう心のセーフティネットが
破れてしまった時代に生きているということを
意識する必要があるように感じました。


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