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進化心理学、生理学、対人関係学 ブログトップ
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正義はなぜ怒りを伴うのか(1)部活動をさぼったことによる怒りの考察 [進化心理学、生理学、対人関係学]


例えば、不慣れな道路を運転する人が
一方通行の道に逆走の形で入ってくると
優しく注意する人もいますが、
鬼の形相で正面衝突せんばかりに
攻撃をしてくる人もいます。
確かに危険な運転ですが、
よろよろと走っている場合は
逆走だと知らせればみんな改めるので、
それほど怒りを大きくする必要も
ないのではないかと思うことがあります。

この場合の怒りは
誰かが危険な目にあうからということではなく
交通ルールを破ったことに対して
抱いたようです。
いわば正義の怒りです。

今回は、
ルールを破ったことによって
具体的な誰かが直接具体的な不利益を受ける場合は
除いて考えています。
例えば、不正入試で入学をして
その結果正当な誰かが不合格になった
という場合は除くということです。

実際のいじめの事件で報道されていたものの中に
部活動に参加しないということで
非難されて攻撃されたというものが
けっこう目につきます。

この時、ラインなどで欠席者を攻撃した
生徒さんの心理こそ
ルール違反に対する怒りによるもの
ではなかったでしょうか。

なぜ彼らは怒ったのでしょうか。
怒りに任せてラインでの攻撃を加えたのでしょうか。
このラインの書き込みは、報道によれば、
どうして部活に出ないのだという
比較的穏当なものもあれば、
屈辱的なコラージュを作って添付した
というものもあったそうです。
それをグループ全体が閲覧し、
誰も止めるものがいなかったようです。

彼らは、怒りという感情に支配されていますから、
相手を倒そうという目的を追求してしまう傾向にあります。
その結果、いじめ被害者の感情をおしはかって
こういうことをするとかわいそうだからやめようとか
ここまでやるのはやり過ぎだからやめよう
等という、
共鳴共感による自己抑制が効かない状態になっています。
気持ちがつながるチャンネルが閉じられている
ということになります。

怒りとは、もともとは、
危険に対して攻撃することによって
危険を無くそうとするときの感情ですから、
何らかの危険、
生命身体、財産、名誉、感情が害されそうになっていること
を感じて発動されることが元々の人間感情です。

そして自分の危険だけでなく
仲間と感じる人間の危険に対して発動される場合も多く、
どちらかというと、この方が
容赦ない怒りになる傾向があるようです。

しかし、部活動に来ないというルールが破られても
誰の危険も生じません。
ルールを破るという本人だけが
もしかしたら不利益を受けるかもしれないくらいです。

どうもルールを破ることから
正義に反する行為だということになり、
それ自体が怒りを産んでいるように感じられます。

そしてこの怒りは、
仲間の誰かに言われなき不利益を与えた場合と
同じような容赦のないものになっているようです。

なぜ怒るのか。

当たり前ではないかという人もいるかもしれません。
ルールを破った人に対して怒りを覚えるのは理屈じゃない
とイライラしている方もいらっしゃるでしょう。

しかし、
感情というシステムは、特に怒りという感情のシステムは、
人間が生きていくために必要だから
あるわけです。
怒りの感情は攻撃によって危険を除去する場合の心の状態ですし、
恐怖の感情は逃走によって危険を除去する場合の心の状態です。

そう考えるとルールを破ったことによる怒りも
自分に対する危機や
仲間に対する危機を感じているのでしょうか。

一つの考えとしては、
進化の過程で正義が破られるとき
怒りの感情を持つようになった
という説明があり得ると思います。

進化心理学は、人間の心理は、
約200万年前の狩猟採集時代に形成された
と考えています。
この時代から脳があまり変わっていないからです。

200万年前は
原則として死ぬまで同じ群れで生活していましたし、
仲間の人数もそれほど多くなく30人から150人程度といわれており、
このくらいの人数なら、言葉が無くても
誰がどんな性格をしていて、どういう行動傾向にあるかわかるので、
感情移入がしやすい状態だったでしょう。
また、交換のできない運命共同体ですから、
仲間を大切にしたと思います。
それが結果として自分を守っていたわけです。
ルールというものを作らなくても
仲間を出し抜いたら、
仲間がかわいそうだという意識を持ち、
秩序も公平も保つことができたと思います。

多少感情移入する能力が足りない個体が生まれても、
教育の中で是正していったと思います。

しかし、どういう拍子かに
他人に感情移入することのできない個体が生まれ、
教育がうまくいっても心がついてこなかったため、
自分の利益のために仲間のもの
例えば食料を自分で食べてしまうことが
多々あるような個体が生まれた可能性があります。

これが続き、被害が重大になれば、
他の仲間は、不利益を受ける仲間を救うために
感情移入できない個体に怒りを感じます。
こうなると、当時であろうとも、
感情移入できない個体には
仲間というチャンネルが閉ざされますから、
仲間だと思わず、
人間に襲い掛かるクマや虎のような扱いとなり、
容赦なく攻撃を加えて群れから排除をしたでしょう。

しかし
この行動原理は正義を破る、ルールを破るところから来るのではなく、
不利益を受けた仲間の危険を除去する
という古典的な怒りのパターンだったはずです。

時を下って
農業が起ころうかという頃になると、
人口も増え、集落も大きくなり、
集落間の協力やいざこざも勃発しますから、
一生涯で出会う人数もどんどん多くなって行ったでしょう。
こうなると、感情移入や共鳴、共感だけでは
秩序は成り立たなくなるはずです。

集落の中に派閥みたいなものができたり、
集落間の争いになれば、
自分のグループを守るために
隣のグループを攻撃するという
きっかけが生まれてしまうからです。

仲間を守る
ということだけでは
解決がつかなくなるわけです。

そこで、大集団を規律する決まり事が生まれるわけです。
共存のためのルールということになります。
最初は、殺すなとか盗むなとかいう
共鳴、共感プラスアルファみたいなところから始まったでしょう。
自然の感情でルールを守る必要があるのだなあとか
感じていたことでしょう。
ルールは、自分や仲間を無用な争いから守るもので
ルールを破ることは
自分や仲間を危険にすることだということは
理解しやすかったと思います。

それから、もしかすると農業の黎明期ですから
ルールに従って土地を耕し
種をまき、世話をすることで
収穫が約束されるとなると
ルールはとても役に立つ
という感覚にもなったことでしょう。

これらのルールは破ると
自分や仲間の誰かが被害を受ける
ということが実感としてわかりますから、
ルールを守らない者に対して
自然と怒りを持つ関係になっていたでしょう。

しかし、人数が多くなり
利益集団の関係が複雑になるにつれ、
一般の個体にはよくわからないけれど、
ルールだから守らなければならない
というルールが作られ始めたと思います。

自然に必要だと理解できるルールと
ルールという点では同じですから、
これらのどうしてそのルールがあるかわからないルールも
破る者に対して、
自分や仲間が不利益や危険を与えられるような感覚になり、
怒りを抱くようになった。

というのが進化論的に獲得した感情の説明に
なるはずです。

ここまで苦労して説明方法考えて
文字を入力したのですが、
どうも私はこの説明に懐疑的です。

懐疑的だという理由は、
自分や仲間の具体的な不利益もないし
誰にもそれほど迷惑がかかるわけでもないのに
ルールを守らなかっただけで
相手の人格を否定するほどの
怒りを持つということがありうるのか
ということが納得できないからです。

おそらくもっと分析的に検討する必要がありそうです。
ルールを破ったことに対してすぐに怒りを持ったのか
ということを検討するべきだと思います。

この時、数学の補助線みたいに有用な思考ツールは
現代社会の怒りの大部分は八つ当たりだという仮説です。
怒りは危険を攻撃によって除去しようとするときの感情だと言いました。

しかし、現代社会の危険は
なかなか攻撃によって除去できないものばかりです。
生命身体に対する攻撃というものは
それほど多く想定できません。
むしろ日常的な不安は対人関係上のもので
学校や職場から排除されるとか、
失敗して低く見られるとか
定年退職まで収入があるような職場がないとか
就職できるだろうかという危機感が
むしろ多いと思います。
そのために家庭でねじを巻かれるという危機感もあるでしょう。

そうすると、相手が大きすぎたり
対処の方法がないということで
危機感を解消したいのだけれど解消できない
というアイドリング状態が続いていると思います。

大人も会社の上司から攻撃されても
おいそれと反撃できませんから
やはり危機感を解消したいアイドリング状態が続きます。

一言でいえば
勝てると思う相手、仲間のために勝たなくてはならないという相手
に対してだけ
攻撃によって危機感を解消する行動に出ません。
職場の上司や社会や国に対して
勝てると思う人はいませんから
危機感解消欲求ばかりが強くなっているのが
現代社会なのだと思います。

だから、「勝てると思う相手」に攻撃が向かうわけです。
ただ、何の関係もない、何の落ち度もない相手に
やみくもに怒りだすということもなかなかできないようです。
そこで、
些細な落ち度をきっかけに、
社会や会社や学校という相手に関係の無いところで起きた
危機感を弱い者にぶつける
これが現代型怒りだと思います。

上司から叱責されてイライラしていて
家に帰って子どもが反抗的な態度をした
ということで怒りをぶつけるパターンがこれですね。

逆に夫婦喧嘩をして機嫌が悪く
部下の言動が自分に失礼だと言いがかりをつけて目くじらをたてたり、
自分の上司から営業所の売り上げが低いと嫌味を言われて
部下に当たり散らすとか
そういう八つ当たりです。

些細な危機感を与えた相手に
自分が抱いている大きな危機感解欲求をぶつけるわけです。

但し何らかの危機感を抱かさせなければならない。
これが、ルールを破るということではないでしょうか。

つまり、
慢性的に危機感解消欲求を抱いていると
早くこの欲求を充足したいという
焦燥感に似たイライラを抱えている状態になるのでしょう。
こうなると、
自分が勝てる相手を探しているようなものです。

はっきり言って何でもよかったのです。
最初は,部活動をさぼるのは良くないよというか
冷静に部活動に出てこなかった理由は何?
と尋ねるところから始まったのでしょう。
この時点で怒りがあったとしても
それほど大きな怒りではなかったはずです。

(辛い部活動を休みたかったけれど休まないで自分は行ったのに
休んでのほほんとしやがって
ということを感じていたら
怒りも出てくるかもしれません。)

だけど、彼は、部活動に出なければならないというルールを破った
ということが
ラインという文字で確認されました。

彼は、ルールを破った人間という認定をされました。
ここがきっかけだったのだと思います。

ルールを守らなければならない
という形での非難をしなくてはならない
あるいは非難をしても良いのだ
という意識が生まれたのだと思います。

これがラインを通じて集団的に形成されていったのでしょう。

そうしてルールを破ったことを非難していたはずが、
非難という攻撃行動をしているのですから
いつしか怒りに転じていった
あるいは怒りが大きくなって行った。
そうすれば、集団の相手に対する共鳴共感のチャンネルは
固く閉ざされてしまいます。

また、ラインというツールの特徴ですが、
相手の顔を見て行動しているわけではないということ、
相手の悲しんでいたり、怖がっていたりという
感情を見ることができません。
相手に対しするチャンネルは全く開かれなくなります。

集団対一人という図式は
勝てるという意識を嫌がおうにも盛り上げます。
怒りを止める事情が無くなるのです。
それは攻撃を止めないことを意味します。

相手の有効な抵抗がなければ
さらに怒りは大きくなります。
怒りは危険がなくなるまで
つまり、相手が倒れるまで追いつめるためのツールです。
また、相手の顔が見えなければ
相手が苦しんでいるという想像力も機能しません。
相手の感情に共鳴するチャンネルは固く閉ざされたままです。

怒りが共有された場合の人間の攻撃は
極めて過酷になります。

やがて、攻撃しても良い相手だという
意識付けがなされます。
怒りの共有化とはこういうことです。
仲間全体に対する危険をもたらすもの
みたいな扱い、
それは、狩猟採集時代の
他人に感情移入ができないがゆえに仲間から排除された個体と同じく
人間として扱われず、
群れを襲うクマや虎のような扱われ方に
なっているということになります。

そのきっかけになったことが
攻撃された対象者がルールを破ったことにあります。
ルールを破ったことをもって
攻撃されてもよい人間
という扱いを受けてしまったようです。

誰かが理性的に止めなければ
対象の相手の神経がすっかり消耗してしまうまで
攻撃する方法があるうちは攻撃をする
これが人間の行動原理ということになります。

人間の脳は、少人数で単一のグループで生活することに
適応しているのですが、
大人数複数の群れと共存する生活には
対応しきれていないということかもしれません。

ルールや約束を守るべきだという
規範意識、道徳意識が
現代の中学生などの子どもには、
いじめに転化する可能性があるということなのだと思います。

それだけ常に心理的に圧迫されているのが
現代の中学生の実態なのでしょう。

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【考察メモ】内部告発者は、どうして報復されるのか。対人関係チャンネルと規範の効力に関する考察をてことして [進化心理学、生理学、対人関係学]



ネットを見ていたら、
職場の不正を告発したところ、
職場から不利益を受け続けているという
記事がありました。

こういう方々は、「自分は世界中から孤立している」
と自分で感じ易いです。
記事にしていただいたことは大きな応援になるので、
他人事でも嬉しいことです。

そのネット記事は大学の不正経理(裏金作り)でした。
研究分野での業者との癒着があり、
業者から裏金用の資金を取得していたようです。

内部告発者はこれを正すために
大学の責任者に告発したところ、
責任者は、告発の事実を
不正を行った研究者に教えてしまい、
上司である研究者から内部告発に対する報復として
様々な不利益が長期にわたって続いている
というものでした。

この場合に考えなければならない規範は、
「研究者は、業者から不正な利益を得てはいけない。」
というものです。

この規範の存在にはいくつか存在理由があります。
そのうちの一つには、
業者から利益を得てしまうと
変な人間関係ができてしまい、
業者に不利になるような研究を発表できないとか
そもそもそのような研究をしないとかいう問題があります。

あるいは、公明公正に行わなければならない会計をゆがめ、
恣意的な経理が蔓延して収拾がつかなくなる
という問題もあります。

極端な話は、
人間関係のしがらみの中で
不正データの作出をしてしまう
という事態もありえないことではありません。
そもそも研究の客観性にも疑問を持たれてしまいます。

こういう、「なぜそれが禁じられているか」
という本質を常に意識して感じていれば
どんな言い訳をしようとも裏金作りなどしないでしょう。
しかし、それができない事情があるようです。

常に本質を強く意識することは難しいので、
特定の行為を禁止するという必要性から
道徳や法律という「規範(きはん)」を作って、
その規範を破ると制裁が科されるということを通じて
禁止事項をさせないようにする必要があるわけです。

規範とは、平たく言うとルールです。

但し「ルール」という言葉を使うと、
ゲームをしているプレイヤーなどの狭い人間関係を規律する
というイメージがありますから
規範という言葉を使います。
規範は、ある程度不特定多数の要素のある
人間関係で通用するルールとなると思います。
国家とか、社会とか、業界全体とかですね。

規範にはさまざまなタイプがあります。

人を殺してはいけないとか
怪我をさせてはいけない
というルールは、
本来被害者に共鳴、共感することによって
自分の行動を押しとどめるという形で修正する
という形で実行できる物
つまり、人間の「自然な」心に従えば通常は守られるのであって
本来その外に敢えてルールを作る必要のないもの
というようなものも、
規範の中に入っています。

また、ここからはダメでここまでは良い
というような限界が不明で
国等が人為的に線を決めるようなものも
法律という規範として定められています。

規範、道徳というものは、多種多様です。

そこで、考えやすいように3タイプに分類を試みます。

一つは、冷静な状態、第三者からすれば
他者や仲間に対する共鳴、共感によって、
自己を規律するべきだけど
あえて規範にもなっている<Aタイプ>
(刑法でいえば、例えば
殺人 他人を殺してはいけない
傷害 他人を傷つけてはいけない
窃盗 他人の物を盗んではいけない)
(人が殺されることは酷いことだ
 人が痛い思いをするのはかわいそうだ
 人が物をとられるということは困る上精神的にもショックを受ける
 という共鳴共感を事前想定して行動を抑止する)

一つは、被害者を直感的には想定しにくいけれど、
少し考えれば、それをすること、しないことによって
第三者や社会等に対して不利益を与えることを想定でき
それが想定で切れば自然に正義感を伴いやすい<Bタイプ>
(刑法でいえば例えば
収賄 公務員は職務に関して金品を受け取ってはいけない
不正経理 経理は適正に行わなければならない
風紀を乱す罪等々)

一つは、第三者が政策的に決めて
知らなければ禁止されていることが分からないため
禁止行為をしても感情的正義感の葛藤が起こりにくい<Cタイプ>
(行政法規の中の一部等)

タイプ別に規範を破る原因は以下のとおりです。

Aタイプは、
被害を受けた時の被害者の感情を想定しやすいはずだが、
被害を受けた人に共鳴共感ができない事情があって
規範を破るという特徴があります。

Bタイプは、
具体的な被害者を咄嗟に想定できず、
比較的、高度な思考をしないと
禁止行為を行った際の不特定多数人の不利益を想定できず、
その意味で行為と被害の因果関係が
Aタイプに比べた場合はやや把握しにくい
ここに自分や仲間の利益を優先する等の事情がある場合
という特徴があるでしょう。

Cタイプは、主として、特別な免許を持っている人が
禁止事項として命令されているものの場合が多く、
どちらかというと考えても規範の内容が出てくるものではなく、
禁止事項等を覚えるしかないというところに特徴があります。
Bタイプに近く、覚えているけれど
不特定多数の利益に共鳴、共感しにくく
自分や仲間の利益を優先する等の事情がある場合に
規範が破られるという特徴があるでしょう。

ところで、私が刑事弁護人として
被疑者被告人の方々の反省をお手伝いする時、
Aタイプはもちろんですが、
BもCも
どうして、その禁止事項があるのか
ということを考えていただいています。

その禁止事項を破ることが
どうして悪いのか、
誰にどのような迷惑をかけるのか
常にここから出発します。

みんな、自分がしたことが法律で禁止されている
ということはわかっています。
だから規範意識を回復させるためには、
規範を教えていたのでは何にもなりません。

規範に引き付けた説明をすると
規範の目的、意味、効用等を
理解していくことが必要になります。

それを理解するために有効な思考が
誰にどのような迷惑をかけているか
ということをイメージしてもらうことなのです。

その人たちのケースに合わせて個別的に
一緒に考えるという作業が必要になります。

規範に関する話をもう一つ
ある収容所のようなところの実話なのですが、
一般には「決まりだから守れ」という態度でいることが多く、
「決まりのせいで不自由な思いをさせられている」
と感じ易く、決まりを守れということに反発しがちになります。

ところがある場所で、看守に相当する人が、
「この決まりが無ければこうなってしまうだろう
 そうなると、こういう人たちは嫌な思いをするでしょう
 だから、これは守ってもらわないといけないんだ」
という説明をしたところ、
収容者の人たちは、
反発が無くなっただけでなく、
自分たちが尊重されていると感じたそうです。
今では率先して決まりを守っていると
嬉しそうに言っていました。

この場合も、誰にどのように迷惑をかけるか
という思考ツールが
規範意識、決まりを守る
そしてそれが自分自身を守る
という意識を高めたということができると思います。

そして自分が規範を守ることが
自分が尊重されていることと結びついて考えられていたようでした。

被害を受ける人との共鳴、共感のチャンネルがつながると
規範意識を回復させやすい
ということを意識させられたエピソードです。

ちなみに収容所みたいなところの規範は
AタイプのものとBタイプのものがあったようです。


さて、規範を破るということを考察してみます。

Aタイプの規範違反をしてしまう場合は、
色々な事情で
共鳴、共感のチャンネルを閉じている場合
ということになります。

典型的な場面は正当防衛です。
自分が攻撃をされているので、
反撃に出る
反撃に出る時は怒りモードになるから、
相手の痛みなどについて考慮するチャンネルは
閉じられています。

自分が攻撃されているだけでなく、
仲間が攻撃されている場合も
仲間に対するチャンネルが大きく開くために
同じように、相手に対する
共鳴共感のチャンネルは閉じられます。

「正当防衛」は犯罪の成否の問題ですが、
犯罪というほど強烈な場面ではないとしても
相手がこちらを攻撃していると思えば、
反対に相手が嫌がることをやっても
それほど気にならなくなるようです。

例えば親子でも
子どもを叱っている時に
子どもが集中力がないだけなのに
同じ失敗を繰り返すと、
「何度も同じことを言わせて、」と
熱心に叱っている「自分が馬鹿にされているような気持ちになり」、
つまり子どもが自分を攻撃しているように感じてしまい、
子どもへの共鳴、共感のチャンネルが閉じられてしまい、
瞬間的に虐待みたいなことが起きてしまう場合があります。

家庭だけでなく、学校や職場でも起きるわけですが、
深入りせず、今日は話を進めます。

この時の攻撃者の気持ちは
自分や仲間を守るという意識を持ち、
そのために自分の攻撃する対象を仲間と思わない、
というモードになっています。

共鳴共感チャンネルが閉じられる他の場合として
自分の属するグループの共鳴、共感チャンネルが大きく開いた結果
グループの外の人間との
共鳴、共感のチャンネルを閉じてしまう
という現象が起きます。

典型例は、
地域の非行少年グループの一員になると
同じグループの仲間を大事にするあまり、
仲間以外の人間、一般社会に対してぞんざいになり、
粗暴になったり、たとえば万引きをしたり
ということが起きる場合があります。

彼らにとって
仲間の中で通用する規範、ルール、掟
は良く守りますが、
社会のルールを守ろうという意識は
大分弱くなってしまいます。
優先順位が下がるようです。

また、これとも別の場合では、
特定のグループに所属しておらず、
自分が世の中で孤立していると感じる場合に
社会のルールを大切にしようという気持ちが
薄れていく要因になっているようにも感じられます。

孤立による不安は
だんだん世の中全体が自分を攻撃しているという意識になり
無差別攻撃事件につながる要因になりそうです。
あるいは、自死の原因にもなります。

また、その行為によって被害を受ける相手方の顔が見えない場合も
共鳴共感のチャンネルが開かないことがあります。
量販店における万引きがこのケースの典型でしょう。

たくさんある商品の中から
ちっぽけな商品を万引きしても
誰かが困るという発想にはなかなかなれないようです。
悪いことだということは重々承知しているのですが、
(つまりこれから規範に反する行為をするという意識があるけれど)
それがブレーキにはなりません。

こういう場合の刑事弁護の場合も、
誰かに迷惑がかかるということを
具体的な事例を想定してもらい
ヒントを出しながら一生懸命考えてもらいます。

予め被害者の顔を想定してもらうことによって
次の犯罪の予防につなげようとするわけです。
誰かが窮地に立たされている時の表情
同じように困ったときの自分の体験を
重ね合わせてもらうようにしています。

規範を覚えるのではなく、
規範違反をした場合の被害者の心情を
想像する訓練をして
被害者の気持ちに共鳴、共感する力を回復する
という感じでしょうか。

規範を守ろうとするモチベーションの強さは、
共鳴、共感が一番強くて
次に正義感、規範意識のようです。
法律で決まっているから
ということは、一般の方には有効ですが、
切羽詰まった状態では、
力にならなくないやすいようです。


さて、以上を踏まえて内部告発者が
不利益を受けるメカニズムについての考察です。


そもそも規範意識あるいは正義感というものも
行動原理としての扱いは
人によって程度が大きく異なるようです。

それを強く意識して行動原理にする人もいるのですが、
それが強く意識することができず、
仲間のために目をつぶるという傾向がある人もいます。
どちらが良いということは一概に言えず、
家庭の中で一般的規範にこだわって
家族を攻撃しがちな人などはその弊害でしょう。

この規範意識の強さのギャップが
内部告発者が冷遇されるメカニズムのようです。


先ず、業者が、研究者に便宜を図る行為から見ていきましょう。

業者からしても
「研究者は、業者から不正な利益を得てはいけない。」
という規範はあるわけです。
「研究者に不正な利益を与えてはならない。」
という表現になりますが、同じことの裏表です。

業者が裏金を渡している時は
この規範をまもろうという意識が低下しているわけです。

この場合は、規範を守るというよりも優先された
強い行動原理があるようです。
例えば、
「売り上げをあげる」という至上命題が招く場合が多いと思います。
売り上げをあげなくてはならないという行動原理は、
業者の会社の内部の論理です。
共鳴共感のチャンネルが、
会社にとのチャンネルばかりが開いているようで、
会社の利益、会社内でのみ通用する規範意識が強くなり、
社会的な規範が後退してしまうということになりそうです。

具体的に見える顔が
裏金をもらって喜ぶ研究者の顔
裏金を渡して喜ぶ上司の顔
ということも、そちらにチャンネルが開きやすい事情でしょう。

これはちょうど不良グループの少年が、
仲間の掟を守ろうとするあまり
社会的規範を大切にしなくなる
ということと全く同じことです。

社会に対するチャンネルを開く
正義感を正常に保つということは、
具体的に困る人の顔をイメージできない場合は
脆くなってしまうようです。

また、研究者に対する合法的な便宜の提供と
不正な利益供与の限界が難しくなれば、
正義感の敷居が低くなる要素になるでしょう。
(例えば、研究者に報酬を出して行う講演会
 ほとんど講習会に参加するだけで、
 交通費やお土産などが支給される場合
 これが繰り返されると
 研究者に何かと理由をつけて
 金品を渡す癖がついてしまい、
 もらう方も抵抗が低くなってしまう。)

不正な利益を受ける方の研究者の
規範を破るメカニズムを見てみましょう。

その不正によって生じる不具合をイメージできない
このため不正ではなく、「このくらいは許される」
という言葉に弱い。
なぜそれが不正なのかを具体的にイメージできなければ
限界点はどんどん下がってしまう。
こうやって徐々に不正は蔓延してゆくのでしょう。
不正であってもあえて行為を行う傾向になるということですが、
もしかすると
それが不正であるかどうかも分からなくなるのかもしれません。

さてネット事案の内部告発者は
転勤で、この部署に配属されたばかりのようでした、
いわゆる悪馴れみたいなものがないために
限界点は健全に高い位置にあります。
このため研究者の行為が明らかに不正であると認識します。

転勤前にコンプライアンスのレクチャーを受けていたことも
不正か不正でないかの正しい基準が明確になっていた
原因となっているでしょう。

一瞬で不正義だと強く感じて、
これに順応しない理由がここにあります。
まっさらな気持ちでは不正義には抵抗感が生じますから、
不正に対する順応を拒否する志向もうまれます。

この告発者は
研究者たちは、重大な規範を破るものと認識しますから
社会(研究業界)を害する行為をしている者たち
という認識を持ちます。
当然同じ仲間だという意識は持ちにくくなります。
このため不正義に対する容赦がなくなり
内部告発をすることに対する躊躇は低くなります。

これに対して内部告発を受ける方
大学の責任者の意識が問題となります。

ネットのケースだと
大学責任者と研究者は、従来から面識があったはずです。
おそらく、責任者は自らが不正な利益を得ていなくても
ある程度不正が行われたことを知っていたかもしれません。

こうなると、
先ず、大学責任者と研究者は同じ仲間だという意識を
相互に持つようになります。
責任者に不正に対する反感があったとしても
研究者たちへの共鳴、共感のチャンネルが開いています。

不正に対する処分が
研究者にとってかなりきついもの
例えば停職だったり、懲戒解雇だったり
社会的立場と業界における立場を失う
ということも理解できますから
研究者が窮状に陥ることについて
共鳴共感のチャンネルが強く開いてしまいます。

社会的不正義という不特定多数というか
抽象的なものに対するチャンネルは
反射的に閉ざされてしまいます。

これが不正を見逃すことによって、
仲間である研究者を助けようとする原理です。

責任者の視点で内部告発者を見る場合、
責任者が研究者の方を仲間と認識していますから
その反射的結果として
内部告発者は仲間を攻撃する者という意識になります。
内部告発者を敵だという意識になりやすくなります。

こうなってしまうと、
内部告発者がどのような不利益を受けても
あまり気にしなくなります。
怒りが加わり、いよいよ内部告発者へのチャンネルが
固く閉じられるのです。

仲間を守るために
内部告発者を攻撃することが
正義の意識になる場合もうまれることになります。

このため、内部告発者の告発が
どんなに正義にかなうものでも
内部告発者が不利益を与えられ続けても、
可愛そうだとは思われないのです。

つまり内部告発はもともと
握りつぶされる要素を含んでいるということです。

内部告発は
しがらみのない第三者が告発を受理するシステムを
作っておかなければならない理由が
ここにあります。

内部告発を握りつぶさないシステムは
全体の組織(事案では大学)のために
必ず作らなければなりません。

握りつぶされてしまうと
内部告発者が不利益を被るだけでなく、
組織自体が危殆に陥る危険があります。
ネットのケースでも
その時に自浄努力をして再発防止をするべきなのに
内部告発を握りつぶして、
不正が温存されてしまったために
後に不正が改めて発覚し、
第三者委員会の設置をさせられて
処分もあったようです。

おおごとになってから対処するということは
とても大変です。

これは、大学の責任者が
大学全体の利益を守るよりも
不正をした研究者の利益を守りやすいことに
原因があります。

全体を守るために
敢えて構成員と接触ない人が
内部告発を受理するというシステムが
どうしても必要だということになろうかと思います。

この分析は、
内部告発者を守るためには、
不正をしてはならない
(不正の利益を得てはならない、
 内部告発を握りつぶしてはならない)
ということを強調して
例えば規範を破った者に刑事罰を科す
ということが必ずしも有効ではない
ということを示しているかもしれません。

なぜならば、
それらの不正をした人たちは
規範の存在を知っているにもかかわらず
それぞれの継続した事情から
規範を破っているからです。

但し、責任者が
研究者や業者から金品の提供を受けていたら
それは論外であり刑事罰の対象とするべきかもしれません。

また、握りつぶしたのか
調査したけれどクロの心象を得られなかったのか
そういう問題もあるので
刑事罰は危険が伴うというべきでしょう。

むしろ、これらが人間の行動原理として
あり得る行為である「エラー」としてとらえ、
エラーを起こさない工夫や
エラーを起こした場合の対処方法を
予め作っておくことが
より実効性のある方法だと思うのです。

なお、内部告発をする場合、
必ず事前にやるべきことは
信頼できる見方を作るということです。
組織を信用しきってはいけません。
組織の担当者はエラーをする可能性があるからです。

信頼できる同僚を選ぶ場合も
対象者とのチャンネルを気にするべきです。
同じネット記事の他の事例では、
内部告発に強い弁護士に相談していたため
被害が小さく終わった
という報告がなされていました。
極めて有益な情報だと思います。

とても良いネット記事だったと思います。
本間誠也さんというフリーの記者さんの記事でした。


もう一つだけ、
組織を大切に思うならば、
ネットの内部告発者のような
新しい人材を積極的に受け入れる必要がある
ということも示されていると思います。

悪馴れして組織をつぶすことを
防止してくれるのは、
其れが不正義で会うという認識が可能な人
つまり、仲間意識の低い外部の人です。

逆に言うとこれらの対策
・内部告発を受けるのはしがらみのない第三者という制度
・内部告発を受けるものが対象者から不正な利益を得た場合の制裁措置
・新しいメンバーを定期的に受け入れる(人的交流)運用
・不正か否かの基準の明確化とレクチャー
これらの対策が講じられていない組織は
信用されない社会になることが望ましいと思います。

ある程度公的な組織の社会的責任だと思います。

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死刑に賛成する人も反対する人も、亡くなった方々のご冥福をお祈りすることと、心が殺伐になることを食い止める方法 [進化心理学、生理学、対人関係学]


オウム真理教の関連で、
今月13名の死刑が執行されました。

死刑に賛成、反対にかかわらず、
一般国民の視点で
死刑執行に伴う負の効果が
あまり論じられていなかったのではないかと
そう思っていたところがあり、
少し考えてみました。

賛成反対に関わらず、
無防備であることは危険なことだと感じたからです。


先ず、死刑の報道を受けて嫌な気持ちになる
ということはどう言うことか
どう対処するべきかということを考えます。

次に、自分はへっちゃらだよ
死刑は当然だよという気持ちが本当ならば
それは少し深刻な状態であると思いますので、
その理由について述べたいと思います。

本拙文は死刑についてのある程度の言及がありますので、
閲覧は各自の責任でお願いします。
なるべくあっさりと書くことを意識して書いてはいます。
前半部分の最後までお読みいただくことをお勧めします。

本拙文の目的として死刑制度の廃止か存続か
という議論の一方に加わるつもりはないことを
お断りいたします。


<前編:死刑の報道を聞いて嫌な気持ちになった人向け>

死刑が執行されたと言えば、
反対と賛成にかかわらず
嫌な気持になる人が多いと思います。

何とも言えない嫌な気持ち
胸糞悪いとか
複雑な気持ちとか
あるいは閉塞感だったり
いろいろな表現があると思います。

また、その程度も人さまざまで
一瞬嫌な気持ちになったけれどあとは忘れているよとか
夢に出てきそうだとか、
人間や命について考えこんでしまっている
という程度の違いがあるでしょう。

死刑執行を聞いて嫌な気持になるとき
これは心の変化が起きているだけでなく、
体の中で確実に変化が生じています。

人によってだいぶ違いがあるのですが
執行を聞いたことにより
人間の命の危険があることを認識し、

副腎髄質ホルモンが分泌され
逃げたり戦ったりしやすいように
心臓の打ち方が大きく早くなったり
血液の流れに変化が生じて筋肉に血流が多く流れるようになったり、
副腎皮質ホルモンが分泌され、
内臓に有害な影響を与えたりしています。
このような体内の変化の
意識面の状態が嫌な「気持ち」なのです。

これは、受刑者の危機感に共鳴、共感して
起きてしまっている現象です。

共鳴、共感というと
その人に親近感を覚えていたり
賛成、理解をしている場合だけに
起きるもののように思われるかもしれませんが、
およそ人間の危機的状態を知覚すれば
多少なりとも生理的変化は起きてしまいます。

これが群れを作る動物である人間の特性です。

危険に直面している人本人は、
逃げたり戦ったりして危機を脱出するために
からだの変化が必要です。
交感神経が活性化し副腎髄質ホルモンを分泌し、
副腎皮質ホルモンが分泌されるわけです。
これによって筋肉を動かしやすくして
走って逃げたり、手足を動かして戦ったりしやすいように
からだの中が変化しているのです。

危機に直面している本人ではなく
見たり聞いたりしているだけの人間でも、
同じような体の中の反応、変化が
起きてしまう現象が、共鳴、共感です。

現代社会においては、共鳴、共感は無駄な話かもしれません。
しかし、大雑把に言って200万年前は合理的な反応でした。

当時人間は、ほとんど一生
同じ人たちと群れを作って暮らしていたわけですが、
群れの仲間が逃げているなら、
見ているほうも恐怖を感じて逃げて
群れの仲間が戦うなら、
見ているほうも怒りにまみれて戦うことで、
危険から自分たち群れを守り、
結果として自分を守って生き延びてきました。

あるいは
仲間が襲われていることを目撃した場合
怒りをもって別の仲間が攻撃をして仲間を助ける
ということですね。

仲間の危険を自分のことだとして感じることができれば、
群れ全体で行動することができ、
それだけ、危険から逃げ伸びる確率が増えるわけです。
だから、群れの仲間の危険であれば
同じ生理的変化が生じることは合理的だったのです。

この共鳴、共感が、
他の動物に比べて取り柄がなく弱い人間が生き延びてきた
群れを作る仕組みです。
大雑把に言えば200万年前の生活スタイルです。

現在はマンションのように同じ場所に住んでいても
挨拶も交わさないような人間関係ですし、
隣で襲われている人を助ける人も少なくなりました。

しかし、脳の構造は200万年前からそれほど変わりません。

当時は「人間」と言えば群れの仲間だったため、
人が襲われていると思えば
いちいち確認しなくても群れの仲間のピンチということで
迅速に行動に出ていたのでしょう。

その特質が受け継がれてしまっていますから、
相手がだれであろうと
極端な話、人間の形をしているものが危険に直面していれば
勝手に共鳴、共感してしまっている
そういうもののようです。

死んでしまった人にも共鳴、共感は働きますから、
人は死んだからと言って粗末に扱えず、
きちんと埋葬手続きを行い、
死者を供養するという
仲間の死に対する共鳴、共感による精神的混乱から
対処する文化を育んできたのでしょう。

死刑執行の場合は、さらに厄介なことがあります。

死刑は、
執行までは、まったくの健康体でいる人間が
執行によって命を奪われるということです。
しかも、執行の場面では、
抵抗することができません。
確実に命を失うにもかかわらず
危険からまぬかれることができない
抵抗することもできない絶望があります。

この絶望に共鳴、共感してしまうことが
厄介なことなのです。

一度、共鳴、共感によって、人間の体が危険を感じて
危険に備えた変化をしているのですが、
その危険を解消する方法がないということで、
何とか危険を解消したいという
その気持ちだけが勢いよく空回りをしてしまう危険があります。

これがまさに、
言いようのない不快感、
胸糞悪い感覚
閉塞感
という嫌な気持ちの正体でしょう。

つまり、危険を感じ
危険に対処する方法がないことを感じている
そのことに共鳴してしまっているということです。

絶望を回避するためのシステムは
人間の脳に限りなく組み込まれています。
それだけ絶望を感じることは
今後生きていくことに深刻なダメージを与えます。

死刑執行のニュースを聞いたという
単独の出来事では心配ないかも知れませんが、
その他の事情、もともと精神的な疲労が蓄積していたとか
そういう事情が積み重なっている場合には
生きる意欲が削られる危険があると思います。

死刑を執行された方々に対して
無意識に共鳴、共感してしまっているという側面があります。
これについては、やはり、
これまで育んできた
死者に対する文化的方法である
冥福を祈るということを素直に行うことが
心を軽くする方法であろうと考えます。

ところが、死刑を執行された方々のご冥福を祈ることが
不道徳ではないかという心理的制約があることも事実です。
一つに、死刑を執行された人の犯罪による
被害者やその遺族の苦しみは、
国民の犯罪の記憶が薄れても薄れないからです。

確かにそうかもしれません。
死刑の犯罪を振り返り、
被害者の方の苦しみに思いをはせ、
無くなった方のご冥福こそ
優先してお祈り申し上げる。

とても大事なことだと思います。
私は、亡くなられた方皆さんのご冥福をお祈りします。


<後編:人の死に鈍感になることの怖さ>


嫌な気持ち=絶望の追体験を回避する仕組みとして
怒りを抱くという方法があります。

死刑執行をされた人たちを
人間とはみなさないという思考パターンです。
怒りは、対象をせん滅させるときの感情ですから、
仲間ではないという気持ち抱いています。
怒っている対象には、共鳴、共感は起きにくくなっています。
そのための怒りだということもできるでしょう。

被害者ご本人や遺族ご本人であれば、
むしろ怒りを自然と持つことができるでしょう。
私なら死ぬまで怒るでしょう。
自分や、家族というかけがえのない仲間を
加害され、殺されればもっともな話です。

そのような自然な怒りは良いのですが、
結果として怒りがあおられることについては
警戒が必要です。

死刑報道があると
そもそもどんな犯罪を起こしたから死刑になったという
報道がなされます。
あるテレビ局は、
選挙速報よろしく
執行された都度、
顔写真に執行済みのシールを貼ったと言います。
怒りを、執行された人に向けようとする行為だと思います。

この怒りには、大きなデメリットがあります。
それは怒りが長続きしないということです。
もし、執行済みシールで
その時は盛り上がったとしても、
少し時間をおくと
かえって大きな嫌な気持ち
自己嫌悪が襲ってくることになります。

人間を死に至らしめたことに
喜びを感じた記憶というものは
自分自身を蝕む危険性があります。

怒りという方法も一つなのですが、
人の死に対して鈍感になるということも
絶望の追体験を感じなくて済む方法です。

人が死んだって何とも思わないよ
ということですね。

実は、これが怖いことです。
人間性が阻害されていくことです。

人間の気持ちに対する共感するチャンネルを
自ら閉ざしている可能性があるからです。
群れの中で尊重されて生活するということが
人間が安心して生活できる状態です。
人間の生理的な健康を後押しする生活スタイルです。

そこでは、群れの仲間に対する共鳴、共感によって、
自分が群れから尊重されているということ実感します。
他者への共感のチャンネルが開いていることが
安心の前提条件になっているようです。

これを閉ざしてしまうと、
自分が安心して人の中で暮らせなくなる危険があります。
周囲の人間が自分をどのように思っているか
全くわからない
この場合は、大変不安になってしまいます。

逆に考えると
人間は、色々な人が物理的に近くにいるけれど
自分に敵意を持っている人はいないだろう
という暗黙の了解の中で
見ず知らずの人の中で生活しているということになります。

この暗黙の了解が成り立たなくなる
これが大変恐ろしいことです。

こういう人は危険を常に感じ、
危険を回避しようと常に感じていて
その結果ある人は人の中から逃げようとしたり、
その結果ある人は絶えず誰かを攻撃したり、
自分を攻撃したりして
不安を解消しようとする危険性があります。

もう一つ
共鳴、共感のチャンネルを閉ざし、
他人の命、感情に鈍感になってしまうことは、
自分の命に対しても鈍感になってしまう危険があります。

これがかなり厄介なことです。

人間はなぜ簡単に自死することができないのかというと
それは死ぬことが怖いからです。
死ぬのが怖くなくなると自死が起こりやすくなります。
戦争体験や悲惨な犯罪被害の体験
そういう死と隣り合わせの体験をしていくと
死が怖くなくなっていくようです。

この場合も他者との共鳴、共感のチャンネルが
閉ざされて、孤立化している状態になります。

リストカットなどの自傷行動も同様です。
リストカットをしなければ心の平衡を保てない事情は、
他者との共鳴、共感のチャンネルを開いていることが
自分の安全を脅かした体験があるからだと
考えられないでしょうか。

私は、これに、
人間として尊重されない体験
仲間として扱われない体験も
同様に死ぬことが怖くなくなっていく
原因になると私の実務を通じて、
つまり、いじめやパワハラ、虐待事件を見て思います。

自死に親和する体験だと考えています。

他人の不幸があっても
自分が安全ならどうということはないと
そう思うかもしれません。
しかし、そこに厄介な事情があるのは、
人間の共鳴力、共感力です。

他人が尊重されない、仲間として扱われない
ということをされている人を見ると
およそ人間が大切にされないものだということを感じ、
その中には無意識に自分も含まれてしまうようです。

原始的な反応ですし、無意識の反応ですから
他人と自分の区別をつけて反応することが
難しいようです。

人間が大切に扱われない究極が
殺されることです。
つまり死刑執行です。

この人が大切に扱われない、命を奪われる絶望の
共鳴、共感が起こらないということは、
死ぬことの恐怖を感じさせにくくなり、
自死に近づいてしまう危険があると思います。

また、そのようなことに馴れていくことは
死の危険に鈍感になって行くことです。

この究極の形態が自死なのですが、
自死に至らなくても
人間を大事に思えなくなることで

犯罪を起こしやすくなる
(他人に苦しみを与えることに抵抗を感じなくなる)
他人を攻撃しやすくなる
夫婦や友人などの人間関係を大切にしようとしなくなる。

そういうことが起きてしまうわけです。

犯罪の罪深さとは、
被害者の周りの人の人間性を傷つけるという
二次的、三次的な被害を与えることでもある
その上、死刑が執行されればされたで、
さらにその傾向を強めてしまう。
犯罪の罪深さは、
単純ではない罪深さが本当はある
ということだと思います。

それは、被害者とは関係の無い一般国民も
程度はだいぶ違う、質的に違うとは言っても
人間性が阻害される被害を受ける
というものであることを
考えなければならないと思います。

自分の家族、子ども達、
自分の愛する人たちを守るために、
人はどんな人でも死を悼まれる存在であると
せめて思うことが
人間性を削り取られないための
有効策になると考えます。

先ずは、犯罪の被害に遭われた方々のご冥福を
心よりお祈り申し上げることが必要だと思います。

そして、罪深い人だとしても
国家秩序のために命を落としたのですから
無くなった後でご冥福をお祈りすることに
後ろめたさを感じなくても良いのだと思います。

そして、同種の犯罪が行らないように
ご自分のできる活動を行うことが
とても有効な行動であると感じています。

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片親疎外の原理と面会交流ないし共同養育の論理 離婚後も「両親」というユニットであることの意味 [進化心理学、生理学、対人関係学]

片親疎外とは
「離婚や長期間の別居で、
 子どもが一方の親とだけ同居することによって、
 家族同居の間は、別居親との仲が良好であったのに、
 別居後は、別居親を拒否するようになることを通じて、
 子ども自身の自我の統一が不全になる等
 子どもの健全な成長が阻害されること」
ということになると思います。

以前、私が実務で体験した
片親疎外の実例について報告したことがあります。
両親が別居してしまった後で、子どもが同居親をかばい壊れていく現象とその理由
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-06-10

この時は、「The Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary
という心理学の論文からアプローチしたのですが、

最近の脳科学からのアプローチが
案外事態の単純かつリアルな説明になるのではないか
と思いましたので、
説明を試みてみます。

先ず、前提として、
「人間の脳は、
 対立している両当事者のうち
 一方に共鳴、共感すると 
 他方に対しての共鳴、共感が
 起こりにくくなる。」

「人間の脳の共鳴、共感の力は
 案外それほど豊かではなく
 限界がすぐに来てしまう」
という仮説を前提としておきます。

もう一つ注意点として、
実際は、子どもと同居する親は
母親とは限りません。
母親も別居を強いられることはたくさんあります。
ただ多いのは母親が子どもと同居する場合ですので、
説明しやすく理解しやすいために
同居親を母親、別居親を父親として説明します。

さて

夫婦の別居を子どもから見た場合、
それまで両親というユニットのもとで生活していたのに、
子どもは突然、父親と会えなくなります。

子どもにとって、両親はユニットであり、
二人の人格が独立しているとは感じていません。
一緒に生活する時間の長い方に共鳴することは多いですが、
分離して考えることはできません。
(思春期くらいにようやく把握するようになるようです)

だから、「お母さんとお父さんとどちらが好き?」
という質問に対して
両者を区別して認識していないために
戸惑うことがあります。

ところが、別居によって、
ユニットの半分が無くなったのですから、
子どもは大変怖い思いをするそうです。
父親が自分の元からいなくなったという認識をするようです。
子どもらしい自己中心的な認識です。

そうすると、
父親がいなくなったのだから
母親もいなくなるのではないか
という不安が起きてしまうようです。

つまり子どもである自分が
天涯孤独になるのではないか
という漠然とした不安です。
相当怖いことだと思います。

この不安の解消のために、
現在同居している母親との結びつきを強めるよう
無意識の意思が働いてしまいます。

母親に対する感情移入が強くなります。
これが一つ。

もう一つは、
母親がそばにいること、
母親が離婚後の何らかの不安を抱えていると
精神的に不安定になることがあります。

この場合、子どもの年齢と個性によって
あるいは長女等という立場の役割感によって、
違いはあるようですが、
弱い者(この場合母親)を守ろうという
群れを作る人間の本能が活性化してしまい、
母親への感情移入が
さらに強くなってしまいます。

両親の元で生活している時は
母親、父親のどちらかだけへの感情移入をせず、
バランスをとって成長していきます。
その結果、徐々に両親への感情移入が薄れ、
子ども独自の世界である
幼稚園や学校の中で、
先生や友達への共鳴、共感する力も
育まれていきます。

ところが
特別な事情によって、
母親への感情移入が強度に起こるようになると
つまり
母親がどういう気持ちなのかということに
常に注意を払い、
母親に積極的に共鳴しようとするあまり、

共鳴、共感のキャパがいっぱいとなり、
母親以外の他者への共鳴、共感の
力が弱くなってしまうようです。

弱い者を守ろうという正義感は強いのですが、
友達である同年齢の子どもたちの
等身大の心情については理解することができないため、
四角四面な奴
と敬遠されるようになるのだと思います。

片親疎外の現象として、
思春期の頃、自我の確立がうまくいかず、
自分とは何かということに苦しむ
ということが指摘されています。

これもうまく説明がつくようです。
同年代の子どもたちに
共鳴、共感ができないということが起こるために、
片親疎外の子どもは
学校等の中で孤独を感じます。

人間が他人を怖がらないのは
同じようなことを考えて、
同じような行動をするだろうという
暗黙の約束事があるからです。
人間どうしの暗黙のルールによる安心感があるからです。

このルールがあてにならないという体験をしてしまうと
(暴力や虐待などによる孤立ですね)、
PTSDやパニック障害、不安障害が
起きてしまうのではないでしょうか。

片親疎外が強すぎる場合、
そのようなトラウマ体験がないにもかかわらず
同年代の人間に対する共鳴、共感ができず、
安心感を抱くことができないため、
常に不安な状態になることもあるようです。

可愛そうなことは、
思春期は‘つがい’になるための準備期間なので、
異性からの承認要求が強くなるのですが、
異性の前の人間の部分の共鳴共感ができず、
コミュニケーションがうまくゆかないので、

絶望的な思いをしたり
逆に著しい反発を感じたりして
不安定になります。

十代半ばで将来を悲観し、
自分を否定的に感じてきて、
引きこもり、リストカット等で
自分の葛藤を対処しようとするように
なってしまうことも出てきます。

私が目の当たりにしたケースは
こういうことだったように感じられます。

但し、ここまで重篤な事態に必ずなるわけではなく、
友達に恵まれたり、先生に恵まれて
バランスを失いながらも支えられる
ということが多いかもしれません。

こういう場合は、
友達や先生への共鳴、共感が働くようになるので、
孤立感が解消されると説明できるでしょう。

但し、母親に対しての感情移入が強く
父親に対して感情移入できずに拒否感が強くなると、
自分が両親から(特に母親)独立した一人の人間だ
という感情が起きにくく、
かつ、同年代の子どもたちとの共鳴共感が弱くなり、
孤立を深めてしまうと
孤立している自分というものが強く意識されるのですが、
その想念を持て余してしまうという感覚になるのでしょう。

他者と違うところがあるところを肯定的にとらえられず、
個性の違いは不安ばかりを抱かせるのかもしれません。


片親疎外のもう一つの特徴である
別居親である父親への拒否感情ですが、
これもうまく説明ができるようです。

しかも、片親疎外が
同居親である母親が
父親の悪口を言わない場合でも起こる現象だ
ということも併せて説明ができてしまいます。

つまり、子どもは、
分離不安と、接触時間が長いことから
母親に対しての感情移入を強めてしまいます。

この反射的効果として、
別居している父親への共鳴力、共感力は
能力が残されていないため
枯渇してしまいます。

記憶というか、思い出すという作業が
過去の出来事の追体験による共鳴、共感だとすれば、
父親への共鳴、共感装置が壊れている状態の場合は、
追体験による共鳴、共感ができないのですから、
思い出すという作業もできなくなるのです。

その結果、父親との楽しい思い出ということが
感情を伴わない記録的な出来事になってしまい、
父親側が大切にしている同居時の出来事も
子どもにとっては、
現在の自分とは別の過去の自分
とでもいうような記憶に変容してしまうことがあるようです。

(これは、当たり障りのない面会交流が行われただけで
 父親への共感が瞬時に復活し、
 劇的に記憶がよみがえるということを
 何度か目の当たりにしています。)

別居後に父親が
手紙を出したり、学校を訪問したりすること
親が会えない我が子に会いたいという心情は
子を持つ親であれば理解できることなのですが、
既に片親疎外が完成され、
母親への共鳴、共感の思考パターンが確立すると
不愉快な、あるいは恐怖を伴った
感覚になるようです。

でもそれは、子ども本人としては、
母親の思考パターンであることを理解せずに
自分の思考パターンであると感じています。

母親は父親の悪口を言う必要がないのです。
子どもは、
自分が生きるための仕組みとして、
母親への感情移入を強くさせ、
自分の感情と母親の感情が
区別がつかない状態になっているのです。

その結果、父親の感情を受け入れる能力が枯渇し
共鳴、共感できない大人ということで
拒否する感情に支配されるわけです。


さて、このまま子どもが大人になることで
支障が出ないということがあるのでしょうか。

私は、先ほど言った通り、
母親以外の他者との共鳴、共感がある場合は
社会性が育まれますので、
自己肯定感、自尊感情が無くなることがない
ということを目撃しています。

しかし、引きこもり等、
社会とのかかわりが断たれている場合は
かなり深刻な状態になるようです。

さらに、友人関係が成立していても
母親とも心理的葛藤が生まれてしまう場合もあり、
この場合は
孤立感が進んでいくようです。
共鳴、共感の混乱が生じてしまい、
このために他者とのかかわり、他者への感情移入が
スムーズにできないようになるのではないでしょうか。

それとは別に、表面的には、
父親にだけ拒否感情が集中し、
父親以外には円満な人間関係が築かれる
という現象が見られることがあります。

一つは、それでもよくよく見れば、
成人男性に対する理由のない拒否感や
友人関係の中でも自己肯定感が少なく、
病的にすぐにくじけやすくなっている場合もあります。

二つは、そもそも、自分の父親という
遺伝的に近い人間を否定的評価することは、
自分に対する否定的評価につながることが少なくありません。
そのことを自覚するからこそ
父親の拒否感情が強くなることもあるようです。
爆弾を自分の心の中に抱えていることになります。

父親との面会が窮地を救った例もあります。
思春期を過ぎたお子さんの事例で、
父親との面会が長期にわたって断絶していた事例で、
お子さんが深刻な心理状態になった事例があります。

思春期以前は、比較的自由な面会交流によって
父親への共感のチャンネルが確保されていたのですが、
突然、面会ができなくなっていました。
自分の夢のためにハードな努力をしていたお子さんでしたが、
よくよく考えると
母親が父親に認めてもらいたいという願望から
子どもへ圧力がかかっていたのかもしれません。
その夢の実現に黄色信号がともったころ、
心理的に破たんが生まれました。

両親どうしのコミュニケーションがうまくゆかず、
母親の援助サインは、
父親を攻撃するアクションになってしまいました。
双方に代理人がつき、
両親が争っている場合でないこと
本当に必要なことは父と子のかかわりであることを理解し、
面会を復活させたことにより、
子どもは、今まで取り組んでいた夢を
自分の夢として再構成し、
立ち直ることができたようでした。

双方の代理人が行ったことは
争いをやめるということだけです。
あとは、親子が解決したのでした。
家族で解決したということになると思います。

このように、
子どもは、放っておくと
脳の構造というか、神経の働き方によって、
母親への感情移入と、
母親の意思、感情の取り込みを行ってしまいます。
それは生きるための仕組みだということになります。

だから、父親への共感のチャンネルを開けておくことは
子どもの将来にとってとても大切なことだと思います。
できるだけ自由に、
そして母親から沈黙の拒否感情を受けないで
「お父さんとあって良かったね」という
楽しい体験にするように工夫することは
子どもの健全な成長にとって極めて重要なことだと思います。

それは、同居親である母親だけの義務でなく、
母親を励まし、面会に対する肯定感を引き出す工夫をする
父親の義務でもあります。

離婚して、別居しても
子どもの別居親に対する共感のチャンネルを
確保することによって
子どもに同居親だけのチャンネルだけにせずに、
社会に向けてチャンネルを用意する
これが面会交流や、離婚後の共同養育の
生理学的、原理的意味になりそうです。

離婚後の両親というユニットの形、意味は
双方これで十分だと考えた方がよいかもしれません。

離婚は、相互の否定ではないのです。
当事者ですから、
強い言い分が色々とあるでしょう。
しかし、人間関係は、良い悪いという二元論では割り切れません。
どちらかが悪かった、よかったということよりも
タイミングだったり、環境だったり、
つまり、一緒にいる時間、労働時間、経済状態
親の健康状態や自分の役割、
自分の健康状態だったり
共感チャンネルの開け閉めの訓練だったり
そういう原因が大きくなって
夫婦というチームとして成り立たなくなった
ということだと、
第三者としては常々強く感じています。

離婚は、自分が相手から否定されたのではなく、
相互に、この人と一緒に生活することに

「向いていなかった」

ということに尽きるのではないでしょうか。

離婚をしても子どもがいる場合、
共同して子育てをすると言っても、
元の家族を再現するわけではありません。
子どもの共感のチャンネルを開ける
という作業をするだけと言えばするだけです。

その範囲で、子どものために
淡々と事務をこなせばよいのです。
双方それ以上望まず、
望むときは子どもとは別の機会にするということを
心がければよいと思います。

ただ、父親も母親も孤立している場合
ストレートにSOSを出せないし、
SOSを出せばよいのだということに
気が付かないことも多くあります。

人間の限界に優しい人の援助によって
無駄な「つまり」を無くしていく
そういう仕組みがあればよいと思います。
それは、共同親権を実質的に実現するために
不可欠な機関だと思います。

前に考えた制度を載せて今回は終わりとします。

家事調整センター企画書
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

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学校がいじめ自死を予防できない理由 道徳教育に逃げ込もうとせずに、他人への共鳴、共感をする力をはぐくむことが必要ではないか [進化心理学、生理学、対人関係学]


現在、宮城県と仙台市が、
いじめ防止条例を策定しようとしています。
宮城県が手堅い内容となっていますし、
仙台市は大胆な発想を強調していまして、
特徴のある条例ができそうです。

このように自治体がいじめ問題に
取り組んでいる姿勢をアッピールすること自体も
私はいじめ防止に効果があると思います。

ところが、この度の(30年7月)猛暑の中、
学校での事故が多発しています。

部活でミスが多いからと言って
校舎の周りを80周のランニングをすることを命じた事案。
(9周でダウンし、業者の人が発見)
歩いて公園に行き、そのまま校外学習を行い、
小学1年生が死亡した事案。
その他熱中症で救急搬送された事案が
毎日のように報道されました。

先ず、なぜこのようなことが起きてしまうのか、
そして、その後に、この理由こそが
学校で、いじめが起きる要因、防止することのできない
要因であるということを説明します。

先ず、各事件における
学校の謝罪の表現から分析していきましょう。

80周のランニングの事件では、
「行き過ぎた指導」だったとしています。
校外学習での事件では、
「判断甘かった」と述べています。

この言葉の表現に着目しました。

それぞれの事件で、
真剣な自己批判がなされているのは確かでしょう。
また、事故直後のインタビューなどですから、
きちんとした考察の元での反省の弁でもないかもしれません。

しかし、決定的な反省の視点が欠落していることが
よくわかる表現だと思います。
おそらく、学校関係者は気が付いていない
ということがうかがわれる表現です。

先ず、80周ランニングの事件ですが、
この顧問の生徒への命令を、
行き過ぎたとはいえ「指導」だと言っている点が問題です。

この行為は指導ではなく、
ミスをした生徒に対する嫌がらせ、
純然たる加害行為です。
顧問の腹立ちを解消しようとした行為です。

80周走ることによって、
ミスが無くなるようになるわけではないことは
誰でもすぐわかることです。

ミスをすると
80周走らなければならなくなるから
ミスをしないようにする
それでは、脅迫です。萎縮してしまうだけでしょう。

「指導」と言ってはならないのです。
単なる加害行為です。

おそらく謝罪をした教頭も、特に考えなく
「教師が生徒に命じた行為」という意味で
「指導」という言葉を使っただけなのだと思います。
では、指導と呼んではいけないその基準として
どこに線を引いたら良いのでしょう

もう一つの、校外学習の1年生死亡事件の
「判断が甘かった」という言葉
とあわせて考えてみたいと思います。

校外学習をしても大丈夫だろう
という判断をしたが、
その判断が甘かったという意味だと思います。

本当に危険か安全かを考慮して
大丈夫だろうと判断をした
ということが前提ですが、

なぜ、大丈夫かどうかということを
考えなければならないほど
危険な行為だと認識したにもかかわらず、
そもそも校外学習を決行できたのか
どこに行動原理があったのかということを
考えなければなりません。

まさか児童が死ぬことになるとは思わなかった
ということはよくわかります。
しかし、死ぬ危険もわずかでもあると考えると
中止以外に選択肢が無くなるはずです。

危険に対処しなければならないという選択肢を捨てて
決行する「理由」、行動原理があったから
死ぬかもしれない危険に対処するという選択肢を
排除したということなのです。

謝罪の言葉から現れた、
学校の、教師の行動原理について考えてみます。

二つの事件で、明白に欠落していたのは、
「子どもの安全を優先する」という行動原理です。

80周ランニングの事件では、
生徒にとって何もメリットがない、
生徒を危険にさらすだけの行為です。
純然たる加害行為です。
従って、指導と呼んではいけないのです。

生徒にメリットなく危険にさらすすべての行為
メリットが期待できても
生徒の将来に深刻な影響を与える危険のある行為
死亡、後遺症が残る傷病ですね。
これが私の「指導」と呼んではいけない基準です。

学校の先生方は真面目な方が多く、
やらなければならないことは
やろうとする傾向にあると思います。

例えば熱中症事故を起こすことを防止する
ということがマニュアル化され、
気温と湿度を測定する係を決め、
熱さ指数を計算し、
記入する用紙や書式を作り、
その指数によって、校舎外活動をやめる
ということを決めれば、
その通りにするでしょう。

しかし、それで熱中症事故を防いだとしても、
それだけの話なのです。

平成23年夏、仙台では、
福島第一原子力発電所の爆発後の
放射線量の高まりに不安を感じていた人が多くいました。
その夏、ある小学校では
プール清掃を例年通り高学年の児童にやらせました。
プールの汚泥を掃除させたのです。
保護者の反発は無視されました。

その後、仙台市内の小学校、中学校の
放射線量を測定したのですが
その学校のプールの汚泥が捨てられた部分が
最大の測定値が観測された観測点でした。

また、仙台の中学校は
冬の朝の極寒のさなか、
挨拶運動と称し、
生徒たちがコートも着ないで
校門の前で挨拶をするということを
させられていました。
教育委員会への通報も無視されました。

このように、一つのことに基準を作っても、
別のことでは
生徒の安全性が優先されないということが
起こりうるし、
実際に起きているのだと思います。
熱中症事故は氷山の一角だと考えるべきです。

どうすればよいのか、
一つ一つ基準を作って
測定して対応するのか。
しかし、それは現実的でしょうか。

また、測定できない事柄、
測定しても数字から直ちに危険性の評価ができない場合
実際は役に立たないばかりか
もう一つの行動原理に負けてしまいます。

測定できない事柄としては
いじめの問題があります。
何かを測定しても
いじめを防止できるものではありません。

私は、学校が、子どもたちの安全を優先するために、
足りない要素があるのではないかと考えています。

それは、子どもの視線にたって、
あるいは保護者の視線にたっての
行動原理です。

子どもの視線に立つことはなかなか難しいことです。
例えば熱中症でいえば、
子どもは大人より身長が低いので、
地面からの照り返しが大人よりも強く影響を受けます。
水分を保持する能力も弱いです。
また、熱中症は単に元気がなくなるだけでなく、
体温調整がきかないために
筋肉が崩壊していきます。これが体が痛い原因です。
腎臓に負担がかかり破綻すれば
人工透析が必要になります。
このように知識が必要な場合もありますが、
それは子どもの専門家なので必須の知識です。

しかしそのような知識がなくても
子どもの表情から
子どもの状態を推測するということも
子どもの視線に立つために不可欠なことでしょう。

それらの知識や技術は
子どもの視線で考えようとしなければ
身につかないし、活用できません。

命じられた子どもだったらどのように思うだろうか、
言われた子どもだったらどう思うだろうか
それも、ただ言葉だけを考えるのではなく、
例えばほかの児童の前で言われた場合とか、
その子がほかの子どもの中で浮いている場合はどうだとか、
一生懸命努力したのに、結果だけ否定されてしまうとどうか
そういうことを考えなければなりません。

温度の危険だけでなく、
心理的な打撃を受けた場合の危険
その教師の行為によって
他の子どもからの評価が変わってしまう危険
特に孤立の危険を考えなければなりません。

子どもの安全を最大優先事項にしないと
見えてこないことがたくさんあるのです。

そして、一番弱い子どもの視点が必要です。

熱中症の例えをすれば、
80%の子どもが校庭での全校集会で変調をきたさない、
残り20%のうち、18%の子どもは
校内での休憩で回復する。
危険は残り2%の虚弱な子だ
残り2%のために、
全校集会を中止することはできない
と考えてはならないということなのです。

現実は、この様に数字で簡単に判断できるわけではありません。

大丈夫じゃないかという甘い判断が起こりやすい原因です。

一つは、子どもの視線に立てない
子どもの状態を想像することができない
子どもが苦しいことをしないようにしようという発想にならない。

実は、これが、いじめが起きる原因の一つだと思っています。

子どもは、別の子の安全や心理的負担を
行動原理にすることがなかなかできません。
自分のことしか考えられない
自己中心的な考えから出発します。

自分の行為によって、孤立することどもが生まれて
精神的に重大な影響が生じることになっても
行為をやめることができません。

やるべきことは、
相手が嫌な思いをしているということを
実感させることです。
追体験させることです。
そういう指導を積み重ねて、
自分の行為によって相手が傷つくことが
恐ろしいことだという実感を持つことです。

逆に、同時に
相手が自分の行為によって喜んでくれる
そういう経験を積み重ねることによって、
仲間の嬉しさを経験することです。

同時にというのは、
自分の行為によって
相手を喜ばすこともできれば
相手を絶望に叩き落すこともできる
そのことを理解して行動することができれば
自分の気に入った友達だけでなく、
多くの人間の中で
自分は安心して生活することができる。

こういう共鳴、共感による
仲間形成をする教育が有効だと思います。
いじめ防止教育とは
理性的な人間関係を築くその方法と体験
ということになると思います。

人間だけが
子どもの時期が長いのは、
このように、人間の特質である
群れを形成して生活する方法を
学ぶことに時間がかかるという学説があります。

そうだとすると
共鳴、共感によるいじめ防止教育は
子どもが大人になるための
最も大切な教育だということになります。

このような教育が有効だとすれば、
子どもの視線に立てない学校や教師の状態は
極めて深刻です。

教える側の大人が
それができていないのですから
到底子どもに教えることができません。

だから、安易に道徳教育に逃げ込もうとするのです。
道徳教育は、結論を求める側面がどうしてもあります。
また、道徳の中には
教師が子どもを尊重するという視点は
出てきにくい状態にもあります。

道徳や規範とはルールです。
ルールを教えて、それを守ろうという教育に
どうしてもなってしまいます。
しかし、道徳の内容は広範であり
時代の変化に左右される性質もあります。

ルールを守るということは大切ですが、
熱中症の例えでは、
気温や湿度を測定し、
熱さ指数を計算し、
用紙に書き込んだり入力したりする
ということです。

熱さ指数に達しなければ
問題ないとして行動に出てしまうことにも
つながりかねません。

オールマイティーなルールはありません。
状況によってはルールを貫くことが
不合理な結果になることもあります。

確立したルールだけでは足りない、対処がわからない
ということもたくさんあります。

大事なことは道徳や規範そのものではなく、
その心にあります。

他人の気持ちを想像して
楽しいことを共有し、
嫌なことは修正する
ということができるようになること

共鳴、共感の力をはぐくむことです。

それを教師が率先して行わなければなりません。

色々な知識を身に着けることも大切ですが、
勉強の素材は
自分の職場に豊富にあるわけです。
自分の言動によって、
子どもたちがどのように反応するのか
それを子細に観察することです。

子どもの安全に優先させてしまう行動原理ではなく、
子どもたちの反応におそれ、
子どもたちの反応に報われる
そういう行動原理を導入するべきです。

そのために管理職や教育委員会は、
教師の裁量を広く認め、
子どもたちの安全以外の行動原理を
先生方が持たないように最善の努力をするべきです。

そうして、そのような余裕のある
指導体制を敷くことを検討していただきたいと
心から願います。

いじめ防止の方法は、
人間教育の原点に立ち返り、
共鳴力、共感力を育み、
児童生徒の安全を最優先の行動原理とし、

それに優先させてしまう行動原理を
学校現場に持ち込ませないこと
児童生徒の安全を最優先することを
妨げる環境を作らないこと
こう言うことだと思います。

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前編:仲の良かった夫婦が子どもが生まれると対立する理由 後編:他人に感情移入できない人の重要な役割 [進化心理学、生理学、対人関係学]



<前編>

前回のこのブログで
出産後の母親が子どもに感情移入するあまり
父親に感情移入できなくなる
ということをお話しました。

つまり人間の脳は、それほど優れているわけではなく、
赤ん坊に感情移入すると
赤ん坊以外に感情移入する能力がなくなってしまう
ということでした。

この記事を書いた直後の日、ネット記事で、
上の子と歳の離れた子を出産したお母さんが、
下の子が可愛くて、上の子に違和感を持った
ということを書いたものを読みました。

同じ現象が起きているようです。
どうやら、新生児の魅力というものは
それほど大きいようです。

実は
自分で書いた記事なのですが
直後からふつふつと疑い出していました。
それは、子どもに感情移入するあまり、
大人の感情に感情移入できないというのは、
母親に限った話ではないのではないか
ということです。

父親でさえ、
子どもに感情移入してしまうあまり、
子どものためということなのですが、
ついつい母親にきついことを言ったり
配慮のない言葉をかけることも
あるのではないかということです。

ついつい小言が増えるわけです。
子育てしながらスマホをいじっていることが
小言の種になることがどこにでもある風景ですが、
それまで何にも気にしてなかったのに、
掃除をしないことに神経過敏になったりします。
赤ん坊にきれいな空気を吸わせたいということなのですが、
言い方がきつくなったり、
声が大きくなったりするということは
ないでしょうか。

これらは、人間が群れで生きるための、
一番弱いものを守ろうとする仕組みです。
弱い者に感情移入し、
弱い者の苦しさや痛みを理解しようとして
弱いものをできるだけ快適に過ごさせるということです。

だから、こうなってしまう人は
本当は優しい人なのでしょう。
優しさゆえに、一番弱いもの以外の人間に
感情移入できなくなり、きつくなる。
これが、赤ん坊が生まれる前には仲の良い夫婦が
喧嘩をする大きな理由の一つであることは
間違いないようです。

これを防ぐ方法の一つが
子育ては母親に任せて
父親は口出ししないというルールの下で生きる
戦前の生活に余裕があった時代の日本などが
選択した行動様式でした。

今は、そんな余裕はありません。
しかし、子どもを愛するゆえに
パートナー同士が傷つけあうということは悲劇ですし、
子どもにとっても深刻な影響が生じます。

現代社会における解決方法は、
そういうものだということを自覚するということです。

人間の脳は、あっさりと限界に達してしまうので、
子煩悩な大人を自覚する人は、
反射的に大人同士、傷つけあってしまうという
エラーを起こすものだということを自覚することです。

これを自覚していれば
上手くいけば配慮のある言動や発想をすることができますし、
うっかりきついことを言っても
あっ、そうだ、やっちまったと気が付くことができます。

ところが自覚していないと、
自分は弱いものを守ろうとしているという
妙な正義感を感じていますから、
相手に対して注意することは正義だという感覚で、
どんどん苛烈になっていきます。

自覚して、やっちまったと思ったときに
自分の言動を自分で声に出して戒め、
きちんと謝りながら、
相手をねぎらう言葉を
「わざとらしく」相手に伝えることが必要です。

相手は言葉で言われなければわからない状態にあるからです。

出産後は、出産前と比べて
よく話をして、よく話を聞くという
言葉のやり取りがとても大事になってきます。
頑張るポイントはここにありそうです。

<後編>

新生児に限らず、
弱い者をかばうということが
人間の紛争の種になることは
よくあることです。

学校でのいじめは、
誰かをかばうために、誰かを攻撃するところから
始まることがよくあります。

職場やボランティアなどの社会活動でもそうです。

自分をかばう人がいて、
その人をかばおうとする人がいて、
そうして、相手を攻撃しています。

あとで考えると
攻撃された人のほうが弱者だということも
よくあります。

これは、身近な人が弱者だと感じやすい
錯覚が起きやすいということです。
身近な人の喜怒哀楽はよくわかるので、
身近な人には感情移入しやすいのです。
その人が困っていると感じれば、
その人を守ろうとしてしまうみたいです。

我々相談を担当する者も似たようなところがあります。
目の前の相談者に感情移入しやすいことは当たり前です。

夫婦の問題を相談されているときに
例えば相談者が妻だとして
自分はこんなに苦しい思いをしていると言われれば
なるほど大変でしたねといえる相談担当者でなければ
失格だということができます。

そんな時、目の前の相談者から聞かされる
夫のほうに感情移入することは
滅多にありません。
人間の脳は、それを自然とできるほど
理路整然としたうえに、想像力が豊かだ
というわけではなさそうです。

こういう普通の限界だらけの脳の相談担当者が
この世の中善と悪しかないという二元論に立ってしまうと
妻を苦しめる夫は悪いやつだということに
単純に陥ってしまうわけです。

妻の話に調子を合わせているほうが楽ですから
真実を探求することが面倒くさいのかもしれません。

それもこれも、紛争当事者の一方に感情移入すると
他方に対しては感情移入しにくくなるという
人間の脳の限界に理由の一つがあったようです。

特に弱者を守ろうとして
相手に配慮ができなくなるという類型の
対人関係の紛争、仲間割れには、
常にそのような宿命的な事情が存在するようです。

こういう時一番役に立つ人は、
誰にも感情移入しない人なのです。
どちらにも感情移入せずに、
冷静にどちらがどうすると
本来の優しがはっきりわかり、
相手と争わなくて済むかということを
言い当てることができます。

ただ、他人に感情移入できない人は
このような紛争を仲介しようとしないという宿命があります。
そのため、紛争介入にこの人を利用しようとする
比較的冷静な人が必要です。
感情移入しない人をプロデュースする人ですね。

そうやって、必要な時に発言してもらう
人間関係を作っていられる人です。

皆で微修正して
結論にいたる。

段々感情移入できない人も
双方の紛争を沈めたり
重宝されるとうれしいですから
積極的に介入しようとしてくるでしょう。

もしかしたら、
狩猟採集時代のリーダーや
その終期の道徳の萌芽を形成した人は
このように感情移入ができなかった人
なのではないかと考えているところです。

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妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因 [進化心理学、生理学、対人関係学]


<思い込みDVという離婚事件のパターン>

離婚事件を担当していると、
かなり多い事例として、
夫が暴力を振るわないし、脅迫めいたことをいうわけでもないのに、
妻が離婚原因として夫のDVを主張するケースがあります。

多いケースは最終子がおおむね2歳くらいかその前で、
ある日夫が仕事から帰ったら、
荷物も子どもたちもいなくなっているというもので、
それ以降、夫はわが子と会うことすら難しい状況に落とされます。
残された夫は精神的に著しいダメージを受け、
自死をする場合もあります。

暴力や脅迫がないのにDVを主張する事例の中には、
不貞を成就させるためとか、
夫名義で作った借金などの未払いの発覚を誤魔化すためとか
DV保護政策を利用する悪質なケースもあります。

しかし、かなり多い割合で、
確かに妻は夫を嫌悪しており、怖がっています。
しかし、その原因が結局よくわからないし、
妻もどのように精神的虐待をされたか
具体的にははっきり覚えていないということが特徴です。
あるいは、妻の主張する虐待のエピソードが
事実に反している、あるいは妻が悪くとらえすぎていることが
証拠に照らして明らかになることが少なくありません。
でも、同時に、妻には将来に対する漠然とした不安とか、
夫に対する嫌悪、あるいは恐れという
感情が存在することも裏付けられることが多いです。

このように、実際には存在しないDVを存在すると思いこむ、
思い込みDVとでもいうような
事例が多く認められています。

<近年発表された出産後の母親の脳の変化の研究>

これまでこの現象をいろいろと考えてきたのですが、
どうも脳科学の観点から
思い込みDVの正体が説明できそうなのです。

2016年12月にバルセロナ自治大学の
オスカー・ヴィリャローヤ率いる研究チームが、
https://www.sankei.com/wired/news/161222/wir1612220002-n1.html
2018年2月5日に福井大学 子どものこころの発達研究センターが
https://www.jst.go.jp/pr/announce/20180205/index.html
それぞれ大変興味深い研究発表を行いました。

バルセロナの研究は、脳のある部分の大きさの変化をとらえ、
福井大学の研究は、脳の動きをとらえ
同じことを発見しています。

ざっくり要約すると
赤ん坊を産んだ後で妻の脳が変化をしているということです。
その結果、
妻は、赤ん坊の状態に対する共鳴力、共感力が強くなるのに対して、
大人に対しての共鳴力、共感力は弱くなる
ということになるようです。

私は、この脳の変化が思い込みDVの原因ではないかと
考えるようになりました。

説明します。

まず、出産後の母親が赤ん坊に
共鳴することはとても合理的です。
赤ん坊が泣いているときも
泣いている気持ちに共鳴して、
対処をしようという気持ちが強くなるから
赤ん坊は不快な思いをする時間が短くなるからです。

例えば、ベビーベッドにうっかり小物を置いてしまい
赤ん坊がその上に寝てしまって痛い思いをして泣いていると
母親も自分が痛い思いをしているかのように、
早く痛みの原因を除去しようとして、
赤ん坊を抱きあげ、小物を取り除くというような感じです。

どうやら脳のキャパからすると
赤ん坊と大人と両方に対する共鳴力を維持することが難しく、
どちらかを選択しなければならないようです。
進化は、母親に赤ん坊の方を優先させることにしたわけです。
大人は自分で危険を取り除けますが、
赤ん坊が自分ではできない
だから大人と赤ん坊のどちらかを選ばなければならないとしたら
大人を切り捨てて子供を優先することが
合理的ということになります。

<出産後の脳の変化と夫婦の関係の変化の形>

それでは、大人に対する共鳴力が低下した場合に
実際の夫婦はどうなるかということが問題になります。

一番大きな問題は、
「夫が何を考えているのかわからなくなる」
ということです。

通常、人間と人間は
相手がどのように感じているかということを察して
自分の行動の調整をします。
言葉だけでなく、
相手の顔色、声の調子、しぐさ等
いろいろな情報を受け取って
相手の感情を判断しています。
ある程度何を考えているのかがわかり
合理的に行動を変えるのです。

例えば、
妻は、家にゴミが増えてきたけれど
回収日が今日ではない。ゴミが家にたまる。
夫に出勤の際にコンビニなどで
ゴミ袋を捨ててきてほしいと思っています。
しかし実際に妻がゴミを捨ててきてほしいというと、
夫は眉間にしわを寄せて吐き捨てるように
「嫌だ」と短く言う。
「ああ、怒っているなあ」と妻は感じ、
これ以上言ったら怒鳴りだすだろうなと思い
言っても仕方がないなと思い
それ以上頼むのをやめます。

これと反対に、
仕事帰りにコンビニでデザートを買ってほしいと言ったとき
夫は「格好悪いから嫌だ」とは言いながら
ニコニコしていて、それ以上拒否しない場合、
もう少し頼んでみようと作戦を巡らせるでしょう。

同じ「嫌だ」という言葉だけでは判断せずに
共鳴力、共感力を使って
相手の感情を推測し、
自分の行動を変化させています。

そうして、この共鳴力、共感力を記憶し、
相手の嫌がることをしないようにすると同時に
相手のしてほしいことも記憶し、
二人の関係が円満になるように行動するし、
円満にできていることを実感し記憶できます。

この夫に対する共鳴力、共感力が失われてしまうのです。
実際にはどうなるでしょう。

例えば、
ゴミ袋を捨てる場面では、
夫が嫌だという気持ちをもっていることをわからずに
それでも何とか捨ててきてと
しつこくせがんでしまうかもしれません。

コンビニでのお土産をせがむことは
言ったら怒られるのではないかと
怖くて言えなくなるかもしれません。

このように
大人への共鳴力、共感力が弱くなることによって、
どうやら何をすると夫が感情的になるかということも
それでも、夫婦の関係が簡単に壊れないという安心の記憶も
失われてしまう、あるいは薄れてしまうようです。

バルセロナ自治大学の研究報告によると
赤ん坊に強く共鳴する脳神経の変化が
脳が記憶をする原理とどうやら同じようなのです。

(記憶というものを過去の出来事に対する共鳴
 と把握すると、
 現在共鳴する装置が壊れているため、
 過去の出来事に対する共鳴も行らなくなる
 その結果、過去の心の記憶を想起できなくなる
と考えるとわかりやすいかもしれません)

限度がわからなくなり、記憶が薄れる結果、
夫がどのような場合に怒り、
どのような場合に怒らないか
分からなくなります。

加減がわからないということから
夫を怒らせることも増えていきます。
あるいは、どうして自分が
これをしてほしい、これをしてほしくない
と考えているのに
夫はしないんだ、してしまうんだ
ということがわからず
イライラばかりが起こってしまう
ということもありそうです。

段々と、
夫がいつどのような感情になるかわからなくなり、
よくわからないけれど
夫が自分を攻撃しているように感じてくる
自分は大切にされていないという危機感ばかりが起きてしまう。

夫といることが安心できなくなるようです。

不安を感じやすくなっているのですが、
具体的には何かが起きているのではないのです。

自分が突飛な行動に出たりして、
例えば、不安でたまらなくなり、
部屋から飛び出そうとして、
夫に止められて転んだのに、
そういう出来事の前後関係を覚えていなくて
夫から転ばされた
という記憶だけが残されているのです。

自分が身構えた記憶、痛んだ記憶だけは
新しい記憶として定着するのです。

夫の感情と自分の言動の因果関係がわからなくなるので、
夫は何を考えているのかわからない
夫は突然切れる
と妻は感じて恐れているようです。
実際思い込みDVの事案ではこのような妻の主張がよく見られます。

バルセロナ自治大学の研究では、
このような脳の変化が2年くらいは続くということでした。
これは、子どもを連れた突然の別居が起こる
好発時期とぴったり合います。

<妻の感情を増悪させる諸事情>

子どもを産んだ女性が、
必ずしも同様の反応をするわけではなく
個性はあるようです。

ただ、バルセロナ自治大学の研究によると
多少なりとも脳の変化は必ずあるそうです。

そうすると、思い込みDVや連れ去り別居が起こるような
夫に対しての嫌悪感や怒りが発生しやすい事情というものが
あるのでしょうか。

私はあると思います。
一つは妻の事情
一つは夫の事情
一つは子どもの事情です。

妻の事情は、
もともと不安を感じやすい事情
あるいは安心感を持ちにくい事情がある場合です。

甲状腺機能の異常などの心理面に影響を与える身体条件
不安神経症、パニック症状等をもともと起こしやすい人
生育環境、特に劣等感を持たされた事情がある場合
男性に対する負の体験などです。

夫の事情は、
夫に問題がないけれど事情がある場合
何らかの問題がある場合と二種類ありそうです。

・問題がなくても妻を怖がらせる事情

 男性であること、共通項があまりないこと
 背が高いないし体ががっしりしていること
 声が大きいこと
 ぶっきらぼうなふるまいをすること
 言葉遣いが優しくないことがあること
 等々です。

 何せ安心感を持ちにくい状況ですから
 男らしく振舞ってしまうと怖さを感じる場合があるようです。
 出産前は、そんなことでいちいち怖がっていなかったのは、
 他の情報から真意に共鳴することができたからです。
 
 多いのは、夫が自動車の運転をしていて
 危険なドライバーを見たときに思わず毒づく言葉が
 とても怖く感じるというエピソードがよく出てきます。

 怖い言葉が自分に向けられてはいないのに
 共感力がないのですから
 自分に向けられた敵意と感じるようです。

 妻が女性、特に経産婦に対して恐怖を抱かないのは
 自分と共通する要素を持っているので
 仲間だと理解しやすいからだと思います。

 ・男性に問題点がある場合
 
 妻にダメ出しをしたがる夫
 妻の嫌がることをやめられない夫
 妻の苦手なことを率先してする夫

 本来なら問題というほどのことはないのでしょうけれど
 ダメ出しをする夫は多いようです。
 決して感情的にならず、大声を出さないけれど
 例えばコンビニへのゴミ出しの事例でいうと
 道徳的観点から、あるいは店員さんのご苦労から
 正当なことを言い続けてしまうようなことですね。

 妻は、夫の道徳感情に共鳴できませんから
 ただ、夫は自分を攻撃していると受け止めているようです。
 正しさは、妻の評価基準にはなりません。

 例えば、友達を家に呼んでくるとか
 妻が家に居たいのに積極的に外出させるとか
 自分の苦しいことをさせられるという苦痛があるようです。
 夫は、妻がそれを嫌がっているのに
 ついつい、それを無視して自分のやりたいことをするようです。
 自分は何も悪いことをしていないという人が多いです。
 確かに、「客観的には」悪いことをしていませんが、
 妻の感情を尊重するという
 価値感、行動原理の物差しが弱いようです。

 やっかいなことは、
 例えば妻が掃除が苦手だとか
 金銭管理が苦手だとか
 そういう生活を維持するために
 不可欠だと思われることについて
 夫が妻をきちんとしろと責めたうえで、
 自分で率先してやりだす場合です。

 子どもの教育について
 妻が思いもつかない良いことをする場合なんかもそうですね。

 夫と妻が一つのチームとして行動できている場合は
 それでよいのですが、
 何せ共鳴力が欠落している場合は、
 できない自分を責められていると取られるようです。

 あるいは、これ見よがしに自分の優秀さを見せつけて
 何か気の利いたことをしても
 妻は自分に劣等感を与えようとしていると感じるようです。
 ただし、一回二回でこういうことが起きるというよりも
 そういうことが重なることによって
 息苦しさや劣等感が起きてきて
 その不快を与えるのが夫だという感覚になるようです。

 夫は、子どもを産んだわけではないので、
 妻に対する共鳴力共感力が失われるわけではありません。
 もっと妻の反応を気にするべきです。
 そうしてやりたいことも我慢するべきです。

 もっとも、出産前は同じことをしても問題がなかったので、
 何も疑問なく夫も同じ行動しているわけです。
 妻が出産によって、ものの見方考え方が変化している
 という知識がないのですから、
 当たり前と言えば当たり前のことです。

・ 子どもの事情

連れ去り別居、思い込みDVで少なくない事案で
お子さんに何らかの障害がある場合があります。

今多いのが広汎性発達障害、自閉症スペクトラムですが、
身体障害や知的障害がある場合に
誰も何も責めていないのに
母親は自分が責められているように感じる場合があるようです。

例えば病院への通院などを夫が積極的に行う場合にも、
最初は、仕事で疲れているのに心苦しいという気持ちが
段々と、夫が自分に頑張っているところを見せつけて
罪悪を与えられているような気になってくる
というケースも見られました。

・ もう一つの妻側の事情

一つ足しておきます。
妻が、自分と夫との関係を大切にしている場合
要するに、本当は妻は夫のことがとても好きな場合
夫への悪感情が増加していくという
かなり切ないパラドクスがあります。

劣等感の一つ一つが、
夫から自分が追放されるのではないか
という対人関係的危険意識
つまり、関係性への不安を高めることがあるようです。

夫がそんなことを言っていないのに
自分を否定することを言われるかもしれないという気持ちが
強くなりすぎてしまい、身構えるわけです。
記憶として残るのは、身構えた記憶だけですから、
実際は言われていないのに
夫からそういう風に実際に言われた
という記憶に変容するようです。

夫との関係を過度に大切にしているということから
逆に壊れたらどうしようという心配が大きくなりすぎて
悪く悪く考えてしまうようです。
そうして、そういう不安を解消したいという気持ちが
強くなりすぎてしまって、独り歩きして
関係を大切にしたいという気持ちよりも
不安を解消したいという気持ちが優先されてしまって
夫から離れたいという行動になるようです。

<DV相談の問題点>

ここでどうしても指摘しておかなければならないのが
女性の相談会です。

夫にはこれといった理由となる行動がないにもかかわらず
妻が夫に対する不安を感じやすくなっていて
自分が苦しめられていると
思込んでいるだけにもかかわらず、
多くの相談員は相談者の女性が苦しんでいておびえていれば
「何らかの精神的虐待がある」
というマニュアルで作られた先入観を持って
相談にあたっているようです。

ある事例の相談記録を読む機会がありました。
母親は、現在の苦しい精神状態を
何とか緩和してもらいたいと相談に行ったのに、
「それは精神的虐待です」
と何も裏を取らないで告げられる。
そうするとたちどころに
「やはり自分が置かれている環境は
 安心してはいけない環境なのだ」
という意識が肯定されてしまって
どんどん恐怖が募ってくるそうです。

そして面白いことに
相談員が男性の場合
妻もかなり冷静で
自分の発言よりも冷静で
夫とやり直すことを強硬に主張するようです。
それはそうだと思います。
それでも、男性の相談員はマニュアル通り
「DVは治らない」とか、
「命の危険があるから逃げなければならない」とか
科学的根拠もないことを無責任に説得し続けます。
私の読んだ記録では、
自分はこれだけの時間をかけて
妻を説得したと得々と記載しているのです。
大変恐ろしい話です。

その事件では、のちに妻自身が
自分がDVといったのではなく別居するつもりもなかった
ということを裁判で主張していました。
しかしながら、別居を解消しようとはしませんでした。
恐怖心だけは残ったままだったのです。

それに対して女性の相談員の場合は、
夫と違い、女性という共通項があるので
仲間だという意識を形成しやすく
あっさりと妻は女性相談員の意見に従うことが多いようです。

根拠のないマニュアル対応は
壊さなくてよい家庭を壊すだけでなく、
母親の不安を解消することはありません。
むしろ新たに強い恐怖が生まれてしまいますし、
その恐怖は別居しても、離婚しても
なかなか消えないようです。

一番の犠牲者は理由もなく一方の親を失う子どもです。

<対策>

バルセロナ自治大学の研究によれば、
すべての女性で出産後脳の変化が見られたとのことです。

出産後の女性は理由のない不安を抱きやすい
ということになります。

男性の方が理性で自分の行動を変化させるべきだ
ということになります。

「不安を与えないこと」
優しい言葉で話をすること
乱暴な言葉は使わないこと
大声を出さないこと
ある程度妻の言うことを聞き、
できないことは、妻に言わないで工夫して対処すること

上から目線で話さないようにすること
妻の評価者にならないこと
我慢すること
妻を立てること
ということになりそうです。

但し、これをいつもできるわけではありませんから
3割バッターになるくらいの気持ちでよいのではないか
と思います。

むしろ大事なことは
失点をしないことよりも
得点を入れるということかもしれません。

要するに、こちらのしぐさ、ふるまいから
安心感を獲得できないのだから
言葉で安心感を与えるということです。

安心感を与えるということは
感謝と謝罪の言葉を示していくということになりそうです。
そうして「大丈夫だよ」、
「それはいいね」ということを
意識して発するということになると思います。

何も言わないことは
妻のしたことを否定したことになりかねないのです。

さらには、プレゼントをする。

こういう定型的な意思表示を
行うということが効果的のようです。

恥ずかしかったり、あほらしかったりするかもしれませんが、
言葉にしなければならないということには
理由があったのです。

そして相手の弱点、欠点、不十分点を
責めない、笑わない、批判しない
そして議論しない
ということになりそうです。

過去の安心感が消えた時は、
現時点から将来に向けて
安心感の記憶を刷り込んでいく
これしかないようです。

妻の間違いを論理的にわからせようということは、
何もメリットがない行為だということのようです。

<なぜ、今になって思いこみDVが多発するのか>

それにしてもわからないことは
出産に伴い脳内変化が起きることは
今に始まったことではなく
何百万年前から始まっていることです。
どうして最近になって多発しているのでしょうか。

マニュアル型DV相談が始まったのは
平成に入ったころからで、
平成22年ころから民間でも配偶者暴力相談が始まりました。

配偶者暴力相談センターの相談件数の10分の1の数が
面会交流調停申し立て件数と
ほぼぴたりと合うということ、
平成22年頃の民間での相談が開始された頃あたりから
かなり面会交流調停が申し立てられているということが鮮明です。

面会交流調停新受件数.jpg

納得のゆかない親子の引き離しが増えているから
面会交流調停が申し立てれ、
平成22年頃からは調停がこじれて審判になるという関係が
グラフからよくわかると思います。

マニュアル型の家族破壊行為によって、
これまで起こらなかった家庭崩壊が起きているのです。
これは直ちにやめるべきです。
子どもたちが第一の最大の犠牲者です。

それから、もう一つの原因に目を向けなければなりません。
夫婦が孤立しているということが
大きな原因になっていると思います。

母親も不安になる要因が増えているのに、
その不安を大丈夫だよと励ます女性が
極端に少なくなっているのでしょう。

大丈夫だよ
気にしすぎだよ
心配なら私があなたの夫に意見を言うよ
といってくれる人が
いないのです。

無理やり不安をこじ開けて大きくする、
行政、NPOばかりなのです。
これらの人たちは、私たちの税金で活動しています。

家族というかけがえのない関係を
大切にする方向での支援をする人がいない。

ここが最大の問題です。

孤立している夫婦は
なかなか相手を思いやるということができないことがあります。

それはどちらかの人格の問題ではなく、
知識と経験の不足によって起きている可能性があります。

我々は、どうしたら人間関係が
穏やかに、楽しいものにするかという
そういう前向きな議論をしなくてはなりません。
人間が幸せになる方法の議論、
これが今の世の中には決定的に乏しいのではないでしょうか。

<感想>

かなり長くなりました。
また、特に脳神経学の素養もないので
不正確なところもあるでしょう。

しかし、
出産という出来事が
女性にとってとてつもなく大きな出来事であることは
おぼろげながら分かったような気がしています。

これまではこのような変化に対応するような
風習というか習慣というか
生きる知恵というものはいろいろあったようです。

そして、それを伝える人生の先輩方が尊重されていました。
しかし、一概に古いものが否定されていく中で
若い夫婦がますます孤立して言っているような気がします。

時代の変化によって、当てはまらなくなったものもあるのでしょう。

親戚、地域、職場の家族ぐるみの付き合い
そういうものは無くなりました。
人を励ますということ、心を支えるということ
こういう心のセーフティネットが
破れてしまった時代に生きているということを
意識する必要があるように感じました。


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道徳の起源に関するアジア的な規範理解に基づく考察 [進化心理学、生理学、対人関係学]

認知心理学の大勢のように心の起源を狩猟採集時代の生活様式におくことには異論がない。しかし、道徳の起源をその頃におくことには疑問がある。問題の所在は、道徳の性質と起源の意味にある。道徳などの規範は、あくまでも意識の外に存在するものでなければならないと考える。そしてそれに従うという承認の契機があって初めて実存する(H.LA.ハート)。狩猟採集時代に、このような外在的な規範があったとは考えることは無理があると思う。加えて当時は、外在的な規範が存在しなくても群れを形成し、維持することが可能だったと考えるからである。
道徳の起源を狩猟採集時代に求める考えは、当時30人から200人の群れが形成されていたのであるから、群れ形成のためには何らかの人間を規律する仕組みがあったはずだとの前提があるように思われる。人間の心、行動を外から制約することが必要だという考えである。私はこれが不要だという主張をする。
狩猟採集時代に群れの形成を可能としたものは、規範ではなく、感情であり、それは共鳴と共感であると考える。
その説明をする前に、狩猟採集時代の群れの在り方について理解、あるいは想像力が必要である。当時は、原則として、人間は、生まれてから死ぬまで一つの群れで生活していた。つまり、生まれてから死ぬまで同じ構成員と過ごしていた。人間の個体識別の能力に適う少人数だったため、誰がどういう人間かということを熟知していた。共感、共鳴を抱きやすい環境であると考える。客観的にも、群れが弱体化すると、飢えが生じたり、肉食獣に捕食される可能性が増加したり、出産と子育てに支障が生じたりという不利益が生まれてしまう。
だから、群れの中では、誰かが困っていたり苦しんでいたら、自分が困っていたり苦しんでいる場合と同じ感情を持つことは極めて合理的である。助けようとする行動が自然に起こり、助けられた方は群れに感謝し、群れのために尽くそうという気持ちが自然にわいてきただろう。
食料や情報を平等に分け与えていたし、分業をきちんと行っていた。これは客観的には、少数の群れの中で貧富の差があることは、弱者が衰弱して、結局群れが弱体化し、消滅しやすくする。平等は合理的である。主観的には、不利益を与えられる者がいると、その者が悲しんだり苦しんだりする。これに共鳴して、何とか助けたいという気持ちになったのだろう。
群れの中での共鳴共感の仕組みによる助け合いは、当時の人間が置かれた環境に適合するために群れを作るにあたっての必要条件であった。この行動傾向が確立していくことこそ、心が形づけられることである。群れの仲間同士は、一つの体のパーツのように、お互いが深刻な対立をすることなく、生活をしていたことだろう。外在的な法律や道徳は不要であった。
この考えは、アジア的哲学の中にとどめられている。孔子は、論語の中で、次のエピソードを述べている。
評価の高い軍師が孔子と話をする機会に、「私の地方には、自分の父親がまぎれてきた他人の羊を返さずに自分のものにしたと、訴え出た人物がいる。正直な人間だ。」と言った。これに対して孔子は、「私の地方では、正直な人間の意味が違う。親は子の悪事を隠し、子は親の悪事を隠すことが自然の摂理に素直な行いだと考えられている」と返したとされている。
軍師は、外在的規律である道徳的正しさを述べている。しかし、孔子は、親子の情を重視したとされているエピソードである。孔子は、親と一緒になって盗みを働くことを称賛しているわけではない。法律家の立場から考えると刑罰という国家的規範にも限界があり、親子の自然な感情を処罰の対象とすることは慎重にしなければならないというものである。それは、国家の秩序の目的が、国民の平穏な生活を維持するためのものであり、親子が助け合って生活することがその一つの理想となる。国家はそのための道具であるという考えである。この考えは日本の刑法にも取り入れられており、親族をかばうための行為は、刑が免除される規定がある。また、法は家庭に入らないと定式化され、家族間の犯罪も刑が免除される規定がある。法が家庭に入らないということは世界各地にある考え方だが、孔子の考えはさらに一歩進めたアジア的な規範意識と言えそうである。これは、家族間の情愛と、法、道徳という外在的規律ツールを厳然と区別するところに特徴があるのではないだろうか。
この家族間の情愛について、孔子の時代から狩猟採集時代へと年代を遡らせて考えた場合、そこにあるのは家族よりも広い人間が集まり、家族よりも多い人数の集団を形成している「群れ」である。原則としてこの群れのメンバーとだけ一生を過ごしていたのであるから、孔子の時代や現代の「家族」よりも濃い人間関係があったと思われるのである。おそらく、群れ全体の利益と個人の利益の衝突は、それほど考える必要もなかったと思われる。共鳴共感が起こりやすく、利害対立が起こりにくい時代だったと思う。そして、群れに貢献することが、各構成員の気持ちが落ち着く、つまり副交感神経を活性化させることだった。この生理的変化も群れを形成し維持する誘導要因だったと考える。結局、外在的規範、道徳がなくても、群れは形成できた。それ以上の秩序は不要だったと考える。
それでは、外在的な規範である道徳の起源はどこにあるのか。先ず、道徳はいつごろから生まれたのか。
私は、農業革命前夜頃だと考えている。農業生産物の増加は、定住の傾向を促進するとともに、群れの集団の人数が増加した。さらに、他の群れとの交流が起こるようになって行った。かかわりあう人間の数が、飛躍的に増大し、個体識別ができない数の人間と関わり合いを持つようになった。また、例えば水利をめぐっての争いなど、人間同士で利害関係が対立する場面も生まれてきたかもしれない。
それ以前の狩猟採集時代は、自分以外の人間は仲間だった。しかし、その後は、自分以外の人間が他人である場合が生まれた。さらに利害対立する者がでてきたのである。そうなると、人間同士が争うことによって、共倒れになる危険も増えてきた。また、争いは、狩猟採集時代はごく例外的なイベントであったため、利害対立する相手とはいえ、仲間かも知れないという意識のある人間と対立することによって、傷つくものが現れると、対立の勝者も傷つくことが多かったと思われる。
このため、感情、情動に任せて行動をしないで、道徳に従った行動をすることが合理的になって行く。これが、道徳の起源だと私は考える。相手に対する共感、共鳴はできないが、特定の行動をしなければならない、あるいは、してはならないということが道徳の始まりだったと思われる。道徳が存在する必要性、必然性が生まれたのである。そして、道徳など、他人同士を規律する規範の合理性を求めて、事態を単純に、直感的に見ないで、何らかの行為をしたことにより生じるいろいろな結果を考えるようになっていっただろう。人間の脳が発達していったと思われる。この規範意識の醸成は、農業のように、直ちに結果が出ずに将来的な結果を求めて、準備活動をする作業と会い関連して育まれたものと考える。農業の発明は、単に食糧事情だけでなく、人間と人間の結びつきや人間の脳の機能にも影響を与えていったのである。
では、その時の道徳は、どこからきたのか。何をお手本として作られたのか。何が道徳的に満たされた理想的な人間関係だったのか。
私は、これこそが狩猟採集時代の人間関係であったと思われる。共感、共鳴を素直に抱けない相手であっても、およそ人間を攻撃してはならない。人間が困っている時は助けなければならない。人間の弱さ、欠点、不十分点を攻撃したり批判したりしてはならない。みんな平等に扱われなければならない。原則として仲間から追放してはならない。集団に対して不利益を与えてはならない。こういった狩猟採集時代の人間関係の当たり前が、多人数か、群れの中の群れの形成によって、当たり前ではなくなって行った。その当たり前だったことに反する行為は、心理的にも負担だったと思われる。道徳は、本来、狩猟採集時代の濃い人間関係にない者同士を、あたかも濃い人間関係であるかのように扱うことを要請するものである。このため、狩猟採集時代の人間観を色濃く残していた当時の人間たちも、素直に受け入れていったものと思われる。人間の行動傾向が数百万年かけて確立し、行動様式も脳の構造も、適応しやすいように進化していった。農業の発展によって環境こそ変化したが、人間の心は、容易に変化しない。それまでの間に形成された行動様式、人間関係の感覚をもとに形成された道徳が、心地よいものであったことは想像しやすい。心地よいとは、緊張が解かれること、生理的に言えば、交感神経の活性化から副交感神経の活性化へと変化することである。人間は素直に快楽に従ったのである。
この脳の構造や遺伝子にしみ込んだような行動様式は、現代においても継承されている。一方で、人間同士が助け合うことを体験したり、目撃しただけでも心地よい気持ちになる。弱い者を見て、愛おしい、かわいいという気持ちになり、弱い者が無抵抗のまま攻撃されるところを見ると怒りが湧いてくる。見ず知らずの人間と、相手が人間だというだけで、うっかり信頼を寄せてしまったり、横路美や悲しみを分かち合うこともある。他方では、自分が狩猟採集時代の群れの構成員のように扱われたいと思っている。扱われないことによって、辛い思い、寂しい思い、悔しい思いをする。一人だけ分配されないとか、仲間から排除されたり、職場や学校で無視をされたり、嫌がることをされたりすると、悔しい思いをしたり、執拗に攻撃されると生きる意欲が失われていくことがある。
正当にも、これらの感情が現れることは人間らしい感情だとされている。そして、その理由も人間だから当たり前だとされている。そこで言う人間とは何だろうか、人権とは何だろうか。私は、狩猟採集時代に、厳しい自然環境に適応するために人間が形成した脳の構造と生理的仕組みだと考えている。

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人間が他の人間を攻撃できる理由 虐待、いじめ、パワハラ、ネット炎上 [進化心理学、生理学、対人関係学]



本来人間は、他者との共鳴力、共感力があり、
母子関係になくても、
自然と助け合ったり、一緒に楽しんだりする
能力を持った生き物です。

共鳴力、共感力とはどういうものでしょう。

それは、
誰かが苦しんでいる姿を見ると
苦しいだろうなあとかわいそうになり、
何とかしてあげようと手を指し伸ばすきっかけになります。

悲しんでいる人を見ると
悲しくなって、
何とか励まそうとします。

楽しんでいる人を見ると
自分も楽しくなってしまい
一緒に楽しもうとするということもあるでしょうね。

これを生理的変化で表現してみます。

先ず、誰かから責められていて苦しんでいる人は、
危機意識を感じていて、
生理的には交感神経が亢進し
心臓が高鳴り、体温も上昇し、
逃げようとしていたり、反撃しようとしていたり、
あるいはどうする方法も見つけられずに
危機感のアイドリング状態が続いていたりします。

この責められている人に対して
共鳴し、共感するというときも
自分に危機が発生していないにもかかわらず、
責められている人を見て
やはり交感神経が亢進し
同じように、心臓が高鳴って、体温が上昇して
という生理的変化が起きるようです。

そして、助けようとする人は
危機を与えている者に対して
攻撃をしてかばおうとしますから
怒りのモードになることが多いようです。

不思議なことに
自分自身が誰かを攻撃している場合も、
相手が苦しんでいるのを見ると
意識していなくとも、
やはり、交感神経が亢進することがあります。

攻撃しているさなかでは、
怒りのモードにありますから、
あまり他者への共鳴、共感は起こりにくいのですが、
攻撃が終了してから、
思い出してしまいます。

怒りのモードが覚めて、
共鳴、共感が事後的に働いてしまう場合が
案外多くあるようです。

思い出しては緊張し、
交感神経が亢進してしまう
ストレスが高まって、持続してしまう
このような状態が慢性化して
精神的に破綻をきたす場合があり、
極端には自死に至る場合もあります。

どうやら人間は
そういう生き物のようです。

そういう苦しみから逃れるためには、
人間への共感、共鳴を遮断するしかありません。
共感や共鳴は勝手に起きますので、
なかなかできることではありませんが、
色々な事情から
共感、共鳴を遮断できた人がいるとします。

しかし、人間に対する共感、共鳴を遮断してしまうことは、
人間を大切な存在だと感じないことになるようです。
他人が苦しんでも、泣いても、怖がっても
気にしなくなるということはそういうことです。

そしてそれは、他者への無感情にとどまらず、
人間一般に対する無感情を伴います。
つまり、自分自身でさえも
かけがえのない大切な存在だと
感じなくなって行ってしまいます。

多くは、自分自身が大切な存在だと
思えなくなってから
共感、共鳴が遮断されることが多いようです。

そうすると、自分の命も大切なものではなく、
自分の社会的立場も大切なものだと感じなくなり、
周囲から孤立しやすくなり、
反社会的行動に出たり、
極端な話は自死に至りやすくなる
ということになってしまいます。


この共感と共鳴がピュアに存在していたのが
狩猟採集時代の群れの生活です。
何も武器のない人間が生き残るためには
運命共同体として群れの仲間を大切にして
群れを強くするしかありませんでした。
また
他の群れとの交流が現代のようにありませんから、
自分以外の他人というものは
全員が群れの仲間でしたから
人間=仲間というところから心が形成された
ということになります。

いつも一緒にいる仲間が
苦しんだり、悲しんだりしていれば
自分がそういう危機に直面していなくても
自分が苦しんでいる、悲しんでいるように
交感神経が亢進し、
群れ全体で一人の仲間を助けたのでしょう。
そう考えるのは、
そう考えなければ、弱い人間が生き延びることは
ありえないと思うからです。

よほどのことがない限り、
群れの仲間を攻撃したり
不利益を与えたりするということは無かったと思います。

そういう意味で、群れの仲間と自分と
あまり区別できなかった時代が
共感と共鳴がピュアに働いていた時代と
言いました。

その時代に形成された脳の構造は、
現代もほとんど変わらないと言います。
脳が変わらないのだから、
同じように他人の苦しみ、悲しみを
共感し、共鳴してしまうのです。

でも、共感し、共鳴するならば
はじめから他の人間を攻撃できないはずです。
しかし、虐待やいじめ、パワハラが起きています。
それが原因で命を失う人間も少なくありません。

なぜ、他人を攻撃できるようになったのでしょう。
何かが変わったのです。
脳の構造が変わらないとしたら
それ以外の何かが変わったということになります。
人間を取り巻く環境が変わったということになります。

先ず、狩猟採集時代は
人間はみんな、生涯一つの群れで生活していましたが、
現代では、家庭、学校、職場、地域など複数の群れに所属し
さらには社会、国家、世界等という人間とのかかわりまである。
(群れの複数化、相対化)

狩猟採集時代は、200名弱の人間とのかかわりだったので、
個体識別ができ、仲間だと認識できたのに
現代社会は、一日街に出ただけで
何万という人を目にすることがあり得るほど
多くの人間と接するようになった。
(識別能力以上の人数とのかかわり)

結果として、
狩猟採集時代は、自分以外の人は
すべて仲間だったのに、
現代の自分以外の人間は
仲間であると受け止められない
ということになるようです。


助け合わない、他人のために戦わない
ということは説明がつくとして、
どうして、同じ群れの人間を攻撃するようになるのでしょう。

家では親が子を虐待し、
学校ではいじめや苛烈な指導があり、
職場ではパワハラやセクハラがある
ネットでは、特定の人が袋叩きに合う。

積極的に攻撃することが
なぜできるのかという視点で考えることが
根本的で、効果的な予防方法を構築するヒントになるでしょう。

私は、弁護士や人権擁護委員として
攻撃を受ける被害者からも事情を聴きますが、
攻撃をする加害者からも話を聞く機会が豊富にあります。

共通する加害者の意識として
「正当防衛」の意識、言い訳があるようです。
これは自己弁護ということではありません。
客観的に自分が悪いことをしたということを認識すれば
正当防衛が主張できないことはよくわかっているからです。

でも、どこかに他人を攻撃している時に
自分あるいは自分達を守っているという意識が感じられます。

<ある内縁の夫の虐待を放置した母のケース>

虐待する親、あるいは虐待を放置する親の場合、
母親でも、その虐待行為の瞬間は、
例えば、自分と内縁の夫との関係を壊されたくない
という意識があって、
虐待を結果的に容認していたようです。

もっとも、容認というと不正確かもしれません。
虐待はなかったと、あるいは虐待したのは内縁の夫ではない
ということを熱心に主張していました。

ただ、子どもがどのような被害を受けたかについては
母親は正確に把握しているのです。
口にすることもはばかることを
きちんと言葉で言っていました。
分かっているのです。

しかし子どもの被害を防止しなければならないのに、
自分と内縁の夫の関係性を優先してしまうのです。
あるいは、内縁の夫をかばってしまうのです。

この時、自分の子どもと母親は、
同じ群れの仲間ではなかったと思います。
母親は内縁の夫と同じ群れを形成したいと望んでいたあまり、
子どもが群れの外にはみ出してしまったのです。
もっと正確に言うと、子どもと母親は一つの群れであったのに、
内縁の夫が登場し、
内縁の夫が母親の子どもと群れの仲間になり切れなかったために
母親は、本来自分の子どもの苦しみや恐怖に
共鳴しなければならなかったのに
内縁の夫のイライラに共感、共鳴してしまったのです。
その瞬間は、母親は自分の子どもが仲間ではなくなって、
人間ですらなくなっていたのでしょう。

母親は選択するべきでした。
子どもと自分が一つの群れになれないのならば、
A:内縁の夫とは群れになることをあきらめる
B:子どもを別の群れに帰属させる
  子どもの父親、どちらかの祖父母、公的機関

それができなかった事情もあったみたいです。
その母親は、これまでの人生において
尊重された経験や、助けられた経験
そのような安住した人間関係にいた経験を
余り持ち合わせていないようです。

常に自分が周囲から否定されていると
感じ続けていたようです。

自分が母親として子どもを手放すということは、
自分を否定することだという意識を
強く持ったみたいです。

また、子どもを手放すと
一生子どもと関わることができない
という母親らしい思いもあったようです。

また、内縁の夫が即物的な評価をしたにすぎないかどうかはともかく、
とりあえず、自分を女性として認めてくれる存在であったことから、
内縁関係を維持することは
自分を守ることだったのかもしれません。

今にして思うと、母親は
とにかく自分自身に自信がなく、
自分という原形をとどめないまでに
繕った人でした。


<ある中学生のいじめのケース>

いじめの事例でも防衛意識は常にあります。
これをしなくてはならない、これをしてはならない
ということが、今の中学生には多くあります。
一発受験ではなく推薦の場合は
365日、公私の区別なく見張られている想いのようです。

特に進学に有利な立場にいる者ほど、
そのような息苦しさを感じているようです。

部活動にもまじめに土日も休まないで参加しなければいけない
サボれば推薦がとれない
そんな意識が本人や家族にあるようです。

それにもかかわらず、
推薦なんて初めから無理だから
部活動を休んでも、
学校を休んでテストの成績が悪くなっても
全く平気だよ
部活に行くより女の子と買い物に行った方がよいや
と自由な行動をする人間がいた場合、
息苦しさを感じている推薦志望組は、

うらやましい
とは思わずに、
ルールを破る不正義者
というような評価をするようです。
そして怒りを感じるようです。

息苦しさを感じる者どうしが仲間を形成します。
息苦しさを感じていない者はターゲットとなり
ルールを逸脱する共通の敵のような存在になるようです。

仲間と異質な立場にあり、
仲間に不利益を与えるという意識で、
攻撃が始まるようです。

ここでは、学校という群れの中に、
群れの仲間から一気に敵に転落する人間が現れてしまいました。

このような攻撃が仲間内だけで行われるのではなく、
同時多発的に行われてしまえば、
そのターゲットはいじめても良い「もの」だ
という烙印が押されます。
これは、人間扱いしなくてもよい対象だ
という意識が生まれたことです。

特に子どもだけでなく、
教師が、ターゲットを批判するようになると
正義によって悪をうつという構図は
歯止めがきかなくなります。

この時の加害者の意識は、
ターゲットを人間扱いしないことによって
ようやく、息苦しい生活から
脱落しないための行動をしている
という意識があるようです。

怒りは、本来自分を苦しめる社会や
監視をしている学校に向けられるべきです。
しかし、社会や学校と行っても
具体的な怒りの対象が見えてきませんし、
勝ち目がないことは初めからわかっています。
そうかといって、そのような社会から逃げるわけにはいかない、
高校進学をあきらめるわけにもいかない。

しかし、息苦しさやうまくいかないかもしれないという危機感に
常にさらされ続けている
自分を守りたいという意識が、

ルールを守らないという、
本来であれば自分に対する危険にはなりようのない
ターゲットの行為に正義に反する行為という烙印を押させ、
顔の見えるターゲットに対する怒りを抱かせ、
怒りの特徴である
対象物が衰弱するまで攻撃を続けるという
そういう行動をとらせるわけです。

もう一言付け加えると、家庭の問題があります。
家庭への帰属意識が強すぎると
親の望んだ行動をとるようになります。
自分が成績を落としたり問題行動をしたりして
親を悲しませたくないという
共感と共鳴が働いています。

そうすると、家族という群れを守るために
自分は、ルールを守って推薦を受けられなくなるようなことは
絶対しないという意識が強くなるでしょう。

家族が、自分の子どもさえよい学校に入れればそれでよい
という考えになることは
家族と他人の子どもたちの間に群れ意識がない現状のPTA制度からは
ある意味通常のことかもしれません。

そうすると、子どもは、
家族との間のルールを守ることを優先し、
同じクラスに配属された子ども同士が
仲間であるということを感じにくくなる
ということもあるように感じます。
簡単に意識の上で
仲間から排除できる仕組みがあるように思われます。


<ある小学生中学年のいじめのケース>

もう少し低学年
小学校の中学年位にも、本格的ないじめが起きています。
教室の中で小さなグループがわかれ、
特別な事情がない限り、小グループの構成員の変更はありません。
幼稚園教育で、このようなグループ分けが
奨励されているようなことをしているのですが、
それを指摘しても幼稚園の先生はピンと来てくれませんでした。

そのグループにはリーダーがいる場合があり、
リーダーがグループを組織します。
だいたいは、その仲間に入りたいメンバーと
なんだかわからないけれど
これまでの行きがかりから
メンバーにされてしまった子どもがいるようです。

非自発的にメンバーになった子どもは
やはり自由ですから、
グループをあまり大事にしないで
別の友達のところに行ったりします。
それが自然だと思うのですが、
そうするとリーダーは、
自分を捨てた、自分を尊重しないというネガティブな気持ちになるようです。

最初は、色々な方法で
自由メンバーをつなぎとめようとしますが、
なお自由にふるまわれると
攻撃に転じます。

最初は内緒話をしながら
焼きもちを焼かせて復帰を促しますが
そのうち
サッカーのシミュレーションのように
何もないところで自由人から攻撃を受けたかのように
嘆き悲しむ行為をします。

メンバー志望の子どもたちは
リーダーの嘆き悲しむ姿から正義感が奮い起こされ、
また、もともと何も努力をしていないのにメンバーになっている子に
憤りもあるのかもしれません。
訳も分からないのに
リーダーが泣いているというだけで
共感し、共鳴してしまい、
ターゲットが悪いという判断をして、
ターゲットを仲間として認めず、
人間扱いしない、即ち、攻撃を開始します。

リーダーは自分を守るため、
取り巻きはリーダーを守るため
正義感と、防衛意識をもっていじめを行うようです。

このリーダーは、
背景を知る機会があったのですが、
家族の中であまり尊重されていませんでした。
普通には接していたのでしょうが、
兄弟の方がずば抜けて優秀だったために
親の関心は兄弟の方に向いていました。
この子は、自分に監視を向けてもらいたくて
母親の意向を積極的に体現しようと
涙ぐましい努力を
家庭の中でも行っていたようでした。

仲間の中にいるという安心感を持ちにくく、
仲間を引き留めようとする行動を起こしやすく、
結局、最後は取り巻きが煩わしくなり、
リーダーを追放していました。

リーダーのターゲットに対する攻撃は、
結局、自分がグループという群れの中から外されそうになっている
という不安感を解消しようという防衛行動でした。

<いじめまとめ>

いじめは、バリエーションがあるようですが
防衛意識、正義感はつきものです。
子どもたちの論理をきかなければ
結果だけを非難しても
いじめはなくなりません。

昨今の親は、自分の子どもが損しないようにということばかり考えて
貴重な共同作業の経験を奪うことがあるようです。
生徒会役員になると勉強する時間が無くなるとか
誰かを助けていたら自分の勉強がおろそかになるとか
クラスという一つの人間関係の中に
その背景にある家族の思惑が絡んでいけば
子どもは自律的にものを考えることができなくなり、
クラスは一つの人間関係ではなく
純然とした他人の集合体になってしまいます。

但し、
誰かをかばうことは称賛されるべきことだと思うのですが、
そのために自分の命を失うということになれば、
家族としては、いたたまれないわけです。
見ず知らずの人を助けなくてもよい
わが子だけは無事に帰ってきてほしい
これは当然だと思います。

しかし、どうやらそれが極端に現れて過ぎており
余裕のない行動傾向が拡大しているように思います。


<パワーハラスメントのあれころ>

パワーハラスメントや長時間労働は
労働者の心と体を蝕むだけでなく、
家族関係も傷が入ります。
一緒にいる時間が少なくなれば
それだけで関係が希薄になりかねませんし、
イライラしたまま帰宅することが多くなれば
家庭の中が殺伐としてきます。

大変深刻な影響が生じることです。

上司のパワーハラスメントは
防衛意識の典型でしょう。

<上司からの締め付けの連鎖型>

例えば営業所のノルマの問題があって
所長がパワハラを行う場合は、
営業成績の良い人に対してだという
傾向があります。

所長は、自分のさらに上司からねじを巻かれていますから
成績を上げることだけを考えます。
もともと成績の良い人にもっと頑張ってもらえば
成績は上がりますが、
成績が悪い人に成績をあげさせるように
指導する能力がパワハラ上司にはありません。

もともと成績が良い人に対する
もっとやれるはずなのに
怠けているのではないか
というような期待が
どぎつい叱責になる場合があります。

あるいはその危機感をつかの間解消するために
叱責するということもあるようです。

こういう場合は、上司は、自分の上司や会社との
群れの関係を重視して、
自分の部下を群れの仲間ととらえられなくなっています。
道具のように考えていて、
傷ついたり、汚れたり、弱れば
取り換えのきく存在だと無意識に扱っているのです。
部下の困惑に共感、共鳴することができない状態なので、
それは、自分に対する抵抗、
攻撃だとしか受け止められなくなっています。
反論すると逆上するのは、こういう構造にあるからです。

ベストを尽くす
という目標から
ベスト以上を搾り取るという
「ストレッチ」という労務管理をしているところは
パワーハラスメントが起きやすい職場です。


<能力がない自覚のある自己防衛型>

自分は、営業経験も能力もないのに
総務畑を歩いてきて営業所の所長になったような人は
他の部下が仕事上のアドバイスなどを
ターゲットを頼るのが面白くなく
ターゲットの評価が高まることで、
自己の立場が危うくなるように感じるようです。

このため
ターゲットの些細な不十分点をことさらにあげつらって
あるいは、ターゲットを攻撃するところ
周囲に見せることによって
自分の権威を高めようとします。

こういう上司ではなく、
大過なく過ごせばよいと考える上司は、
ターゲットがほかの部下から頼りにされても
危機感を抱きませんから
防衛行動としてのパワーハラスメントには出ないのです。

このように能力欠如の自覚があり、不安がある場合のパワハラは
先に紹介した小学校中学年の
いじめの構造と全く一緒です。

このような職場では、上司は孤立しやすく、
部下を仲間だとみることがむずかしくなるという
そういう効果が生まれるようです。

パワーハラスメントの防衛式の特徴は、
攻撃をする対象である部下から攻撃を受ける等
危機感を与えられたから、防衛意識が生まれるのではなく、
はじめから危機感を抱かされている
他ならぬ会社の人事的な行動から
無駄な危機感を抱かされているというところにあると思います。

たまたま危機感のはけ口に適している
つまり勝てる、反撃されないという部下に対して、
攻撃行動が起きています。


<ネット炎上について>

勝てるという意識は集団になれば簡単に持ちやすくなります。
自分たちや自分より弱い者を守るという意識が
怒りを増強します。
狩猟採集時代の肉食獣に襲われたものを
みんなで袋叩きにして肉食獣を追っ払った
ということを想定すればとてもわかりやすいと思います。

その典型がネット炎上です。

ターゲットの些細な過ちを
鬼の首を取ったように攻撃を開始します。
最初は、義憤にかられて書き込みをしています。
しかし、攻撃参加者が増えていけばいくほど
怒りは大きくなり、
怒りが怒りを増大させている状況になって行きます。

そして、インターネットの書き込みをしても
自分が反撃されることは考えにくいので、
怒りが純粋に怒りのまま継続していきます。

こういう場合は書き込みをする人間からすれば、
芸能人や政治家はもちろん仲間ではないので、
人間として扱わなくなるのです。

では書き込み者は誰と仲間だと思っているのでしょう。
これは、仮想の仲間であることが多いようです。
実際は、特に面識もなく、意見交換もしていないのですが、
自分の意見は支持されるだろう、
みんなも同じ気持ちに違いない
少なくとも同調者が多く出るだろう
というあまり自覚していない意識です。

そう思えるような事案に対して攻撃するわけです。
そうして、誰も同調しなければ
勝てるという意識はしぼんでいきますので
怒りも消滅していきます。

逆に同調者が現れてくれば
勝てるという意識が強くなって行く
つまり自分は正しかった勝つべきだ
ということから
相手が消耗するまで怒りが持続していきます。

現代のインターネット社会は、
このような仮想敵を作ることができるという
危険な側面もあります。
また、真相が明らかにされず、
表情や声も断片的なものですから、
相手を人間扱いしないことによる
負の共感、共鳴を感じにくくしてくれます。

インターネットの危険性は、
人間らしい感情が捨象され、
文字などの情報だけが流通するところにある
と思います。

本来あまり利害関係の無い芸能人などを叩く心理は、
やはり防衛意識にあるのですが、
その防衛しようとする危険は
当該芸能人からもたらされたものではなく、
リアル社会、即ち攻撃者の
実生活が大きな影響を与えることが
多くあるようです。
簡単に言えば八つ当たりです。


<まとめ>

例えば街ですれ違った人までも
助け合いを求めることは、
様々な偶然が必要かもしれません。

しかし、それができないことは、
自分が何らかの危機感、不安感を抱えて
助ける余裕がないという側面があるのだと思います。

この不安がどこから来るのか、
作らなくてもよい不安なのではないか
一つ一つ、人を攻撃する現場の事例から
分析が行われるべきだと思います。

根本的には、国連人権委員会が日本に対して指摘するように
過度な競争社会を解消することが
必要なのだと思います。

当面、直ちにできることは
できるだけ人間を分断しないことが
呵責なき攻撃を防止するための方法だと思います。

群れの中に群れを作らず
できるだけ一つの群れとして扱うようにして
行動できるようにすることです。

そのためには、特に、
同じような地域、年代に住む子どもたちが、
互いに反発しあわなくてもすむような
社会構造に誘導していく必要があると思います。


競争が必然だということは
思い込まされた神話に過ぎないと
気付くべきだと思います。
現代社会において競争は、
既に過度になっており、
弊害の方がはるかに多いことに
各分野の専門家は気が付き声をあげていくべきだと思います。

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現代社会において人が助け合うことができない理由 心は200万年前に置き去りにされている。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



進化心理学に限らず認知心理学においても
人間の心が形成された時期は、
狩猟採集時代(旧石器時代)と言われています。

日本では(というより私はか)
あまり知られていませんでした(不勉強でした)。
偶然、この進化心理学とわれらが対人関係学の
結論部分が一致したことは興味深いことです。

私は、自分でそんなことを言っていながら、
どうしてこの時の生活様式が、
現代社会のわれわれに引き継がれたのかについて
なかなか説明ができませんでした。

遺伝子の記憶等ということを口走っていたのですが、
どうやら落ち着いて考えると
それもあながち間違っているというわけではないなと
思うようにはなっているのですが、*1

どうやら、話は逆だったようです。

チンパンジーと人間の祖先がわかれたのは
600万年前と言われています。
それまでは共通の祖先だったわけです。

おそらく、分かれ始めたころは
チンパンジーの祖先と人間の祖先と言っても
それほど厳密に別の種ではなかったはずです。
何せもともとは同じ種だったからです。

この頃は、まだ、樹の上で生活していたようです。
豊富な木の実がありましたから
木の上で生活できるような体の仕組みがあれば
生きていけたわけです。

群れを作る必要性もそれほどなかったことでしょう。

しかし、400万年くらい前から
地球には氷期が訪れます。
木の実が1年中ある時代が無くなるとともに
ジャングルが縮小していったようです。
食べられる実をつける木が減っていったのです。
エサが減少すれば縄張り争いもし烈になったでしょう。

木の上は住みにくい、生きにくいと感じた一群が
地上に降りてくるわけです。
地上には地上の生きにくさがあったでしょう。
木の実がないのに肉食獣がいます。
とてつもなく厳しい環境でした。

先ず、木の実ではなく、
動物を食べることができなければなりません。
そうでなければカロリーが不足するからです。
一番カロリーを必要としたのは脳だとされています。

ビタミンの豊富な内臓は肉食獣が食べますので、
残された骨についた肉なんかを食べていたのだとされています。

肉は食べられないという先祖たちは
木に帰れれば木に帰り、
それができなければ死滅することになります。

最初は、それで何とかやっていたようですが、
さらに時代が進み、
だいたい今から200万年くらい前には、
群れを作って集団行動をするようになったようです。

そうしなければならない事情があったのでしょう。
そしてそれに適応したのです。

つまり、群れを作り、群れを大切にする
自分と群れの他の仲間と
その大切さにおいては区別がつかないほど
群れを大切にする能力のある人間たちだけが
過酷な事情の中で生き残っていった
ということになります。

群れの仲間が肉食獣に襲われていたら
カーッと逆上して肉食獣を叩きに行く
そういう性格を持っていた人たちだけが
肉食獣から襲われてもただ食べられてばかりいないで反撃し
やがて肉食獣からも恐れられるようになって行ったのでしょう。
*2 袋叩き反撃仮説

群れの弱い者を食い物にして
自分だけ利益をむさぼることをしない、
弱い者に共鳴、共感して分け与えたグループだけが
弱いものから順に自滅して群れが縮小して消滅する
ということを避けることができたのでしょう。

群れの仲間に弱点があっても
責めない、攻撃しない、邪魔にしない
補い、助ける。
そうすることができる群れだけが強くなったはずです。

群れにいると安心することができる構成員だけが
昼間の生死にかかわるストレスによる体(血管等)の消耗を
副交感神経の活性化によって修復することができて
子孫を遺すことができたのでしょう。

徐々に、このように群れを作る仕組みを持った者たちだけが生き残り
このような心の仕組みを持たないものは
死滅していったということだと思います。

もちろん、当初から、このような行動傾向(心の仕組み)
・仲間のピンチを自分のこととして立ち向かう
・平等に分け与える
・仲間の弱点、欠点、不十分点を補おうとする
・仲間の中に入ると安らぎを感じる
・仲間を攻撃しない
が完全に備わった個体がそれほどいたわけではないでしょう。

徐々に、数百万年かけて脳の容量も大きくなるうちに
どうやらその方が、気持ちいい、楽だ、安全だ
という流れになって行ったのだと思います。
偶然の事情も多くあったでしょう。
徐々に行動傾向(心の仕組み)が固まっていった
ということだと思います。

このような狩猟採集時代は
おそらくつい最近
2万年前位まで続いていたし、
日本においては、江戸時代、
農村部では戦後までその残存物があったと思います。

私たちの心にも、
狩猟採集時代に人間関係を
求めてしまう残存物があるようです。

これは仕方がないことです。
人間の行動傾向(心の仕組み)は、
数百万年かけて、からだの構造である脳の構造を変化させながら
作られてきたものです。
わずか100万年でこれが入れ替わってしまうほど
進化は迅速ではないからです。

ところで先に述べた狩猟採集時代の行動傾向
心の仕組みを形成した条件は何でしょう。

外在的環境としては、
群れが存在することが個体が生存し子孫を継承することの
絶対条件だった。
そして、そのことを、ある程度認識していた。

人間の内的要因としては
群れの他者(即ち母子関係にないもの)の、
痛み、苦しみを、感じ取ることができるところの
共鳴する能力、共感する能力を有していたこと。
が必要だったと思います。

群れの形態としては
原則として、各個体は、生涯
一つの同じ群れで生活した
群れの人数は概ね200人未満
(個体識別できる人数)
ということになると思います。

現在の、ホモサピエンスの行動傾向は、
狩猟採集時代のもの
・仲間のピンチを自分のこととして立ち向かう
・平等に分け与える
・仲間の弱点、欠点、不十分点を補おうとする
・仲間の中に入ると安らぎを感じる
・仲間を攻撃しない
とは、大きく様変わりしています。

人間の脳の構造はそれほど変わっていません。
共鳴力や共感力をつかさどる脳は
きちんと存在しています(前頭前野腹内側部)
しかし、支配的ではないけれど行動傾向として
・他人の災難を見てみぬふりをする
・貧富の差がある
・仲間の弱点を執拗に攻撃する
・学校や職場、家庭でも、常に不安を抱いている。
ということが起きています。

この原因についての私の考えからは、
脳の構造の変化よりも
環境が変化したからではないか
ということになります。

この違いというのが、
先ず、我々が
群れが一つの群れだけでなく
様々な群れに帰属しているということです。
家庭、学校、職場、社会、地域、国家
様々な人間関係があります。

それぞれの群れの中の一つないし二つが無くなっても
あるいはそれらの群れから外されても
個体は生きていけます。
群れの絶対性は無くなりました。

さらには、関わる人数は果てしなく多くなり、
通勤途中に見る人物だけでも
相当な人数に上ります。
同じ社会で暮らしているのに
誰が誰だかわかりません。

人間の大脳皮質の量からすると
その出会う人間すべてを仲間だと認識することは
とても無理です。

狩猟採集時代の自分以外の人間は
みんな個体識別できる仲間でした。

当時の「他人」の概念は仲間と同じだったのです。
現在の「他人」の概念は仲間と同じではありません。
同じ脳の構造を持っていても、
個体識別できない他人に対して
共鳴する能力、共感する能力を
自然に発揮させることは無理だということになるでしょう。

ここは個体差があって、
人間の形をしていれば、共鳴、共感してしまう人がいる一方、
同じ職場、同じ教室、同じ家にいる人にも
共鳴、共感することが苦手な人もいます。
しかし、狩猟採集時代のように
安定した行動傾向、心の動きをもつことは
はじめから期待することはできないようです。

ここに矛盾があります。
心は狩猟採集時代のころからあまり変わりません。
仲間だと思う人からは、
・自分のピンチに一緒に立ち向かってほしい
・自分にも平等に分け与えてほしい
・自分の弱点、欠点、不十分点を補ってもらいたい。
 (責められたくない、批判されたくない、笑われたくない)
・仲間の中に入ると安らぎを感じたい
・自分を攻撃しないでほしい
とつい、感じてしまうのです。

この要求が満たされないと
自分は仲間から追放されるのではないかという
対人関係的危機(*3)感を抱いてしまい
ストレスが持続してしまいます。

環境が変わっても
心は200万年前におきざりのままです。
心は苦しめられることになります。

それでは、今後人間はどのように適応していくべきでしょうか。
どのような行動傾向があるべき姿なのでしょうか。

狩猟採集時代の要求を捨てるべきでしょうか。

これは無理でしょう。
1、そんなに都合よく脳の構造は変化しません。
2、誰かが苦しんでいる、悲しんでいるところを見ると
  つい共鳴、共感してしまう。
  これは事後的追体験によって、
共感者にストレスを与えてしまいます。
できることならば、すべての人が助け合った方が
生物学的には望ましいのです。
3、核や、地球温暖化、戦争、グローバル経済などから
  実は客観的には、
世界中の人間が運命共同体になってしまっている
この因果関係を把握することができるならば、
感覚的には、個体識別ができないために
仲間だと思えない人間に対しても
仲間だとして接することの必要と可能性がある
と私は思います。

4 どうでしょうか、私は、客観的に
  できるだけ多くの人、できればすべての人が
  一つの群れになり、
  ・仲間のピンチを自分のこととして立ち向かう
・平等に分け与える
・仲間の弱点、欠点、不十分点を補おうとする
・仲間の中に入ると安らぎを感じる
・仲間を攻撃しない
  ということをできる限り行うということが、
  人類生存のための客観的な条件になるように
  思えて仕方がないのです。
  これができなければ、
  人類は滅びるだろうなと思っています。



*1
遺伝子に記憶装置があり
遺伝子が記憶して子孫に記憶をよみがえらせている
というわけではありません。
(但し、比ゆ的に言えば、あながち間違いでもない。
 記憶の正体が、ニューロンの動的な活動だとすると
 それを保持(指示)する別のものが必要ではないか。
 そしてそれは、おそらくグリア細胞であり、遺伝子がそれだ
 ということに、
これから100年もしない間に人類は到達するでしょう。)

*2
ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-19

*3 対人関係的危機
動物は一般に、身体生命の危機を感じると交感神経が活性化し、闘うか逃げるかという行動を起こしやすく、完遂しやすくする仕組み、心拍数の増加、血圧の上昇、体温の上昇、内臓の活動の低下と血液の流れを筋肉に向かわせる等の反応を起こす。人間は、身体生命の危険だけでなく、自分の所属する群れから仲間として尊重されていないと思うと同様の反応を起こしてしまう。この反応の中には、複雑な思考が停止し、一つのことだけに手中してしまう傾向、二者択一的な思考傾向、共鳴力、共感力の低下などの脳の機能低下が起きるという共通項もある。

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