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いじめの判断は「原則として」被害者を基準とするべきことの理由 「可哀そうだからやめる」ができないことの考察3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由
2 どうして、客観的な判断をしようとするのか
3 被害者が被害を過敏にとらえている場合の対応

1 攻撃を受ける方と攻撃する方では評価が違う理由

誰かにくすぐられるとくすぐったいのに
自分でくすぐってもくすぐったく感じない
この理由を一言で言うと、
「くすぐったく感じる必要がないから感じない」
ということになるらしいです。

では、なぜ他人が触る時はくすぐったくなる必要があるか。
それは、皮膚感覚が働いて、
異物が自分の体の触れられる場所にあるから
「危険があるのか確認して対策を立てろ」
という、危険回避の必要があるからだということになるでしょう。

これに反して自分が自分をくすぐる場合は。
予め、すなわち実際に触る前から
脳の無意識の部分が、
いつ、どのように触るか予想しています。
当然予想通りの触り方をするのですから、
何らかの対処をとる必要がなく
くすぐったく感じる必要はありません。

D・J・リンデン「脳はいい加減にできている」河出文庫
デイヴィッド・イーグルマン「あなたの知らない脳──意識は傍観者である 」
(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

いじめやハラスメントの時も同じことが起きているようです

友達同士で喧嘩をして、悪口を言ったとします
発言する方と発言を受ける方は
全く異なった認識をしています。

発言をする方は、どのような発言をするかについて、
発言の全体像を把握しています。
トータルで考えることができるので、
それほど強い調子で言っているつもりはないかも知れません。

しかし、発言を受ける方は
相手から口に出されて初めて言葉を聴き取るために、
何をどのように発言されるかについて
予測することは不可能です。
警戒感が強い状態で、つまり攻撃に対して敏感になっている状態で
言葉の一つ一つを順番に聞いていくしかありません。
順次反応していくことになるので、
どんどん強い刺激になっていくように受け止める傾向にあります。

言葉一つ一つに反応していくことから
相手が話し終わってから内容を吟味することもできません。

攻撃者が思っている以上に
攻撃を受ける側は強い敵意が
自分に向けられているように感じるものです。

だから、
攻撃者は、攻撃する意図がない場合さえあります。
例えば、極端な話、道理を説いている場合があるのです。
「ブランコに並んでいる時に横入りしてはダメだよ」
という趣旨のことを言っているのだけなのに
言われた方は
楽しくブランコに乗ろうと期待に胸を膨らませていたところ、
(並んでいたけれど、ガラスが落ちていたので、
 みんなのためにちょっと捨てに行っていたかもしれない)
カウンターを浴びせられた形になり
驚いているし、
相手の表情などから自分が攻撃を受けているということを感じ、
言葉一つ一つが鋭く聞こえてしまい
「お前なんかみんなと一緒に遊ぶ資格がない」
と言われたように受け止めていることがありうるのです。

当然これはいじめではない可能性もあるのですが
言われて傷ついている様子があれば、
大人が何らかの対応をする必要があります。

皆の前で言われたことどもをフォローすること、
自分が横入りを注意したことで
思わぬ衝撃を与えてしまった子をフォローすること
これが大人としてやるべきことです。

必要なだけでなく、
いじめを産まない人間関係を形成するチャンスなのです。

ともすれば、
けんか両成敗で、どちらも「悪い」
ということになってしまうことがあるかもしれませんが
良い悪いではなく、
どうすればよかったのか
ということを大人を交えて話し合うことが良いのです。

それぞれの良いところをはっきり共通認識にして、
一緒に成長していく仲間であることを自覚させる
ということが理想です。

これを阻む思考上の最大の敵は
実は、「善悪」であり、「正義」であり、「秩序」です。

子どもたちに悪意がないということを前提として
エラーを修正していく
これが肝要ではないでしょうか。

そのためには、「加害者」、「被害者」という言葉は
使わない方が良いのだと思います。

いずれも、子どもが孤立している、マイナス評価されている場合は
大人が対応をする機会にしなければなりません。

2 どうして、客観的な判断をしようとするのか

それにもかかわらず、
特に学校は、いじめがあったか無かったか
慎重に判断する傾向にあるように感じられます。

慎重に判断する結果
なかなかいじめだと認定しないために、
必要なフォローができない状態になっているかもしれません。

もしかすると「いじめがあった」と認定すれば、
色々と処理するべき手続も多くあるのかもしれません。
報告書などの手続きがあるかもしれません。
その対応を教育委員会なりに評価を受けなければならないのかもしれません。

そうでなくとも、
いじめの記録等をつけなければならず、
加害者とされた児童生徒の記録に加えなければならないのかもしれません。

いじめと認定して、加害者とされた児童生徒に不利益が及ぶというなら
いじめの認定に慎重にならざるを得ず、
それがいじめか否かを客観的に判断しようとしてしまう
動機になってしまいます。

暴力や脅迫などの犯罪行為であれば
警察の問題が出てくるのですが、
そうではない場合は、
いじめを制裁の対象にするという硬直な扱いでは、
適切な対応ができなくなってしまいます。

やるべきことは、通常は、
子どもたちの行動の修正です。
大人もそうなのですから、まして子どもの場合、
自分が言った言葉が相手にどう伝わるかなんてわからないことが多いので、
相手が傷ついている可能性があるのです。

「どういう風にふるまえば、双方が楽しく生活できるか」
ということを目標とするべきなのです。

ところがそういう目標ではなく
「いじめゼロを目指す」
なんてことを目標にすると
こういう弊害がでてくるわけです。

プラスを作っていく、教育していくことを目指すべきなのに
マイナスを無くしていくという発想の貧困さを
指摘しなければならないでしょう。

ひとりの生徒なのに、
「いじめ認定」という烙印を押してしまうと
極悪人として別の人格にかわったように
扱うようになるのかもしれません。

いじめる生徒もいじめられる生徒もどちらも自分の教え子だ
という意識に欠けるところがあるのではないでしょうか。

3 被害者(の親)が被害を過敏にとらえている場合の対応

被害を受けているという子どもを基準に考えると
不合理な結果が生まれるのではないかという
現場の心配があるようです。

相談事例で増えてきているのは、
自分の子どもがいじめの加害者だと
攻撃されているというものです。

いじめの被害者だと主張する子どもの親から
いじめの加害者だという膨大なメールなどの攻撃を受ける
他人にもいじめがあると言いふらされているようだ
というものです。

実際の被害者の親だと主張する人のメールなどを見ると
脅迫すれすれの内容が記載されていますし、
加害者の子どもの人格を否定するような内容もありました。
復讐心や防衛意識はわかるとしても
明らかに不穏当なものでした。

この事例は小学校低学年の事例で、
それまで仲良しだった子ども同士が
クラス替えで別のクラスになったそうで、
加害者とされた児童は、
新しいクラスのお友達と仲良くなってしまい、
被害者とされた子どもにあまりかまわなくなった
ということが発端のようでした。

ここには、
被害者とされた子どもが加害者とされた子どもへの
依存傾向があるというよりは
被害者とされた子どもの親が、
加害者とされた子どもに、自分の子供の面倒を見てほしい
という依存傾向があったようです。

実際には被害者とされた子どもは、
新しいクラスになじんでおり、
友達もたくさんいて楽しく過ごしているようです。

母親だけが、
加害者とされた子どもを恨んでいたようです。

これをもっていじめだと主張していたわけです。

どうやら母親も、自分が子どもの時
いじめにあった過去があり、
自分の子どもも同じように虐められるのではないかという
強い不安があったようです。

おそらく最初は、クラスも変わって
被害者とされた子どもも心細い気持ちだったと思います。
加害者とされた子どもにかまってほしかったと思います。
それを母親に訴えたということもあることでしょう。

もしかしたら、加害者とされた子どもが
新しいクラスの子と話をしていることに夢中で
被害者とされた子どもに対応ができず、気も回らず、
結果として無視した事実もあったかもしれません。

被害者だと主張する子どもの母親は、
加害者だとされた子どもの母親に相談して、
不安を打ち明けて、
お呼ばれ会をするなり、
共同のイベントのセッティングをするとか
新しいクラスの子との遊びを応援する等して
他人に頼って解決すればよいのですが、
それができなかったようです。

被害者を主張する子どもの母親は
何度も学校に赴いていじめを訴えたようです。
どうやら
事実関係も分からないくせに
被害者を主張する子どもの母親に
同調してしまった人たちも存在したようです。
当然のごとく被害者を主張する母親は
無責任な共感によって
ますます不安を感じるようになって行ったようです。

学校は対応に苦労したようです。

「客観的な意味でのいじめが認定できないので、
いじめとして対応できない」
そういう感覚だったのではないでしょうか。

やがて、被害者主張の母親は、
学校から自分がモンスターペアレント扱いされていると思うようになり、
加害者扱いの子どもとその母親を攻撃するようになりました。

学校は、メールなどのはっきりした証拠が残る攻撃に対しては
きちんと対処をしていたようです。
学校から注意を受けると
加害者主張をした母親の攻撃はしばらく止まりました。

どうやら被害者主張の母親は精神的に問題があったようです。

たびたびの攻撃にさらされて
加害者扱いの子どもの母親の方も精神的な負担に
耐えられなくなってきたようでした。

学校はどうすればよかったのでしょうか。
何か修正するところはあるのでしょうか。

学校からすると、
「あなたは精神的に問題があって
妄想傾向にあるから病院に行った方がよい」
ということはできないでしょう。

手を焼いた状態だったと思います。
出来ればかかわりたくないということが人情ではあるでしょう。

初期対応の際に
いじめかどうかの認定を後回しにするという決断が
必要だったと思います。
先ずは、子どもたちに事実関係を確認するのではなく、
母親の心配事をきちんと掘り下げるということを
第1にされるべきだったのでしょう。

母親が実際に何を心配しているのか
現実に起きていることに対する抗議というより、
この派生問題として将来起きるであろうことを心配しているのであれば、
学校としてできることは
母親を励ますことなのだろうと思います。

子どもがクラスでなじむように
サポートすることを説明することが有効だと思います。
そしてお子さんはきちんとたくましく成長しているということを
事実をもって紹介して不安の材料を極力なくしていき、
安心してもらうことが第1でしょう。

そして、
母親の過剰な行動は
第三者の子どもたちにも伝わっていき
その結果子どもが窮地に陥るというデメリットも
きちんと伝えるべきでしょう。

こういう親の不安の結果、
友達を無くす不幸な子どもがあちこちに増えています。

低学年の子どもにとって
クラス替えというものはこういうものであるし、
少人数の友達だけの付き合いから
クラス全体の交流を作っていく過程で
克服されていくことを説明するべきだし、
そういう人間関係作りをしていく
ということを意識するべきだと思います。

正義感の強い先生の場合、
悪いことをしていない子どもを加害者扱いして
理不尽な要求を通そうとする保護者に対して
強い態度で押し切ろうとすることがあるかもしれませんが、
逆効果になります。

被害者主張している親に精神的な問題があり、
秩序や正義感に問題があるわけではないという場合は
その根本原因を把握して、そこを手当てするしかないようです。

そしてその根本原因は
子どもが孤立したり攻撃を受けたりするという不安です。
ここを一緒に適切に評価していくということが求められるようです。

これは加害者扱いされて苦しむ親に対しても同様です。
きちんと学校が把握している事実関係についての評価を告げて、
子どもを守るということを約束をする必要があります。

いじめの問題が扇情的に報道されてしまうと
自分の子どももいじめを受けるのではないか
いじめによって子どもが自死するのではないかという
不安を抱く親が増えることは当然の成り行きです。

それを踏まえて報道がなされるべきであることは当然です。
裏付けをとらない決めつけ報道は害悪にしかなりません。
こういう主張があったことを報道しているだけだという
ゴシップ週刊誌のような言い訳を新聞が行うことは
情けない限りです。

おそらくこのような「正義」の報道は下火にはならないでしょう。
誰かを攻撃する姿勢によって、別の誰かを苦しめることは続くでしょう。

学校はそういう情けない社会状況を踏まえて、
過敏になっている保護者の対応を考えなければなりません。

学校も逃げないで真正面から対応するだけでなく、
利用できる人間を大いに利用するべきです。
教育委員会も学校現場が、
外部の応援を受ける体制を推進していただきたいと思います。

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どうしていじめることが「できる」のか。「かわいそうだからやめる」ができない理由2 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 いじめの加害者は、特殊な人間ではなく普通の人間だと考えるべきこと

もしかすると
「いじめの加害者は、
精神的にいびつな構造を持っていて、
相手を苦しめることを何とも思わないというような
冷酷無比の特殊な人間だ」
と一般には考えられているのかもしれません。

被害者やその家族がそう受け止めることは、
もっともなことですし、
私や私の家族がそのような攻撃を受ければ
私もそう感じるでしょう。

問題は、
いじめなどを防止しなければならない人が
「いじめをする人間は冷酷無比の特殊な人格をもった人間だ」、
という考えに陥っているとすると、
いじめ防止は、特殊な人格者探しをすることになるだろうし、
いじめをした者は、特殊な人格者として
治療、矯正、あるいは隔離の対象となってしまう
危険があるということです。
早い話、
それでいじめは防止できない
ということが今回申し上げたいことです。

私は、防止の観点からは、
いじめは、
子どもたちの人間関係が未熟なために、
人間関係で必要な配慮ができなかった
そしてそれを修正できなかったという
「エラー」として把握するべきだ
と考えています。

どういう場合に「エラー」が起きるか
それを突き止めて
先回りをして対策をして
「エラー」を起こさないということが
防止の観点からは有効だと考えています。
行動経済学という
近年ノーベル賞を輩出している
分野の応用ということになります。

特殊な人格者の行為ではないと考えるべき理由は、
同じ子どもが
いじめをする方にも回るし
いじめられる方にも回る
普通の子どもが被害者にも、加害者にもなる
そういう性質のものだからです。

冷酷無比の人格を探していたり、
命の大切さを教える教育をしていても
いじめ防止にはつながらないと思うのです。

「相手を殺しても良い」と思って
いじめをする子どもは滅多にいません。
逆に何らかの精神的構造上問題があって、
いじめをするならば
命の大切さを教えても仕方がない
ということになるでしょう。

私は、犯罪にしても、離婚にしても、パワハラにしても
加害者と呼ばれる人と話をする機会が多いのですが、
そのような冷酷無比の精神構造になっている人はおらず、
「普通の人」の範囲であることが多いという印象です。
家族がいて、家庭を大事にできる人であったりします。

2 いじめ防止のヒント、共感とは何か

ただ、共通の事情として、
いじめや犯罪などの攻撃行為をしている時、
相手をかわいそうだと思うことができない
相手に共感できないという
状態になっているようです。

「共感とは何か」ということを端折って説明すると、
先ず、相手の気持ちがわかることではないようです。
では「共感とはなにか」というと、
「あたかも自分が相手のその立場にいるという
感覚を持ってしまい、
相手と同じように
自分が苦しい、つらい、悲しい、寂しい、怖い
という感情を抱いてしまうこと」
ということなのだろうと思います。

厳密に言えば
相手の気持ちを共有するのではなく、
相手の立場を共有するということです。
相手の立場を共有するためには、
相手の置かれた客観的事情だけでなく
相手の表情、声等に現れた相手の感情も
立場を推測する事情になります。

相手の気持ちを受け止めているつもりでも
実際は自分の感じ方をしているので
実は勘違いをしているということがあっても
それは仕方がないということになるようです。

そうやって相手の気持ちを追体験しているうちに
自分も苦しくなるのですから、
自分の苦しさを止めるために
相手を苦しめる事情を解消したいと自然に思い、
加害行為を止めたり、やめさせたりするわけです。

これがミラーニューロンによる共感の仕組みで、
ホモサピエンスが群れを作ることができた仕組みです。
ホモサピエンスがネアンデルタール人より
子孫を長らえさせることができたのは、
この仕組みを体内に持っていたからだと思います。

人間らしい、サピエンスらしい行為、気持ちというのは
人間が仲間に対して
(厳密に言えば敵ではない人間に対して)
遺伝子上自然に持つ気持ちのようです。

3 いじめ防止のコンセプト エラーへの先回り対処

いじめ対策のコンセプトとしては、
「遺伝子的には仲間に共感することが自然なのに
共感できなくなる『事情』というものが存在する。
だから共感できないし、かわいそうと思わないでいじめる。
そう考えると、
その『事情』を除去することで、
もともと人間として備えている共感の仕組みを
発動させることができる。」
というものです。

その事情とは、「防衛意識」が強くある場合です。
防衛意識と言っても「自分を守る場合」だけではなく、
家族であったり友人であったり「仲間を守る場合」、
「弱い者を守るという意識がある場合」、
「正義や社会を守る意識」も
ゆがんだ形で作用することがあります。

もう一つは、脳の構造にも原因があるようです。
「自分がこれからする行為についてのダメージ評価は、
相手が実際に受けるよりも軽くなる傾向にある」
ということのようです。

今回は防衛意識に焦点をあてます。

そうすると
「いじめは、
防衛意識が強く働いているために
いじめられる子どもの気持ちを無視してしまうという
『エラー』が生じて起こる。
だから、『エラー』が起きる事情をパターン化して
先回りして『エラー』を起こさないように必要な介入をする。」
ということがいじめを軽微な段階で辞めさせる手段となるし、

「『エラー』が起きないように
事が起きる前から
そのような事情を作らないように指導していくということ」
が根本的な事前のいじめ予防ということになると思います。

4 ホモサピエンスが共感を閉ざす場合

 1) 共感の始まり

ではどういう場合に
他人に共感できなくなるか
自己防衛意識が高まるのか
ということです。

それは、200年前の人間の暮らしをイメージすると
とてもわかりやすく理解することができます。

人間の心は、約200万年前
狩猟採集をしていた時代に形作られた
と考えるのが認知心理学の大勢です。
私(対人関係学)は、認知心理学と別角度から
この結論に到達しましたので、
この結論を支持しています。

この時は、原則として
ヒトが生まれてから死ぬまで同じメンバーで固定されていた時代で、
群れの仲間に対しては
防衛意識が生まれにくい事情がありました。
理由を一言で言うと、「仲間は自分を排除しない」
という確固たる意識がありますから、
疑心暗鬼というものが生まれにくく、
防衛をする必要がなかったからです。

逆にどういう場合に
防衛意識を抱くかということを考えれば
その構造が理解できると思います。

 2)肉食獣との闘い

防衛意識を抱く一番の事情は
肉食獣に遭遇した時でしょう。
自分が逃げることが基本ですが、
群れの仲間が逃げられないときも、
寄って集って袋叩きにして反撃をしたと考えています。

防衛意識は、攻撃意識を含みます。

攻撃は、怒りという感情に支えられて
相手を倒す以外のことを発想としても持ちえないほど
強力な行動意欲をもつ現象です。
徐々に、肉食獣は
「人間が集団でいる時は自分が危険になるから襲わない」
という本能を獲得したわけです。
(これは肉食獣の防衛意識です)

攻撃する相手には共感をしません。

例えばゴキブリが嫌いな人が
家にゴキブリが出たと言って
叩いたり殺虫剤をかけて
完全に動きを停止するまで戦い続ける
という具合です。

相手にも命がある、親もいて子もいるかもしれない
等ということは全く考えないでしょう。
殺し終わった後に考えるかどうかはともかく。

闘っている時、
ゴキブリに共感する人はいないわけです。
(それほど嫌いではない人はそもそも闘わないでしょうし)

 3)ネアンデルタール人との闘い

肉食獣以上に危険だったのは
近接種でしょう。
ホモサピエンスの場合、ネアンデルタール人が
種全体の仮想敵になっていたと思います。

サピエンスと姿かたちが近い
うっかりすると、突発的に、
相手に共感することがあったかもしれません。
特に赤ん坊とかですね。

この辺の事情はなかなか想像しきれないのですが、
飢えなどで困ってくれば
危険を顧みずに
双方が攻撃を始めた可能性があったと思います。

この時も、別種ということもあり、
こちらの生命線を犯す事情があれば
自分や仲間を守るために
攻撃する、
攻撃すれば共感を停止する
ということはあったと思います。

 3)サピエンスの他の群れとの闘い

近接種ばかりではなく、同じ種である
サピエンスが攻撃対象となる場合もあったでしょう。
先ずは他の群れのサピエンスです。

極端な食糧不足の際等に
他の群れを襲う場合があった可能性はあると思います。
同じ種に対して、共感を起こさないように攻撃はできたでしょうか。

攻撃ができたと思います。
「他の群れ」との物理的な距離が一番の決め手となりますが、
従前から遭遇を繰り返し友好関係にある群れは
攻撃しにくかったと思います。
個体識別ができれば、共感システムが発動してしまうからです。
この共感システムを閉鎖するためには、
かなり強い怒り(強い防衛意識、危機感)が必要だったと思います。

それと反対で
見ず知らずの群れとの闘いの場合は、
共感を停止しやすかったと思います。
みたことの無い人間は、個体識別ができませんので、
共感がしにくいという事情があったのだと思います。

「攻撃をしてくる見ず知らずの人間」は
防衛意識に支えられて
肉食獣と同じ扱いになりやすい
ということです。

但し、同じサピエンスですから、
痛みや苦しみ、死の恐怖は見てわかるわけです。
怒りで一時的に共感システムを閉鎖しているだけですから、
戦いに勝利して怒りが収まった後は
共感システムが作動してしまい、
同じ苦しみが襲ってきたのかもしれません。

 4) 同じ群れの中の危険人物との闘い

一番困るのが
群れの中の敵ということになります。

当時は、みんな生きるだけで
いっぱいいっぱいの状態でした。
だから、人間にも「糖」などの栄養分を
摂取しやすくするシステム
体内に備蓄するシステムが発達したわけです。

このような食糧事情、生存環境の下で
一人だけ「ぬけがけ」することは
(蜂蜜のありかを隠して仲間に分けないとか)
他の群れに栄養が行き渡らず、
弱い個体から死にはじめますから
群れの個体数が減少してゆき
頭数が減ることによって
肉食獣からの防御や食糧の採取に不利になり、
結局は群れの死滅を意味しました。
大変危険な存在だということになります。

このように他者に共感する能力が欠損する個体も
一定程度生まれてきたことでしょう。
もっとも、
通常は、子どものころにその片鱗が見えますから
群れ全体で矯正したと思われます。
人間が幼体から成体に代わるための時間が
他の動物と比べて著しく長期間になっている理由は、
このような群れで生きるための
訓練の時間を要するからだという説があります。

長い時間をかけて矯正をしても
先天的に共感をする能力が欠如して矯正ができない
しつけにも従わないという
群れに危害を加える場合は
群れ全体として「防衛意識」を持つことになります。

群れ全体の防衛意識が高まり
怒りのモードになると
危険人物は強制的に排除されたのだと思います。

母親等は悲しみとあきらめがあったかもしれませんが、
攻撃が開始されると
攻撃の核となる人物たちは怒りのモードになっていますから、
相手に対する共感チャンネルは閉じてしまいます。
相手の怯え、痛み、苦しみに対して反応せず、
殺すか追放するまで攻撃を緩めなかったことでしょう。

攻撃者の数は増えます。
攻撃しても良い相手だ
共感を閉ざすべき相手だ
という感覚が広がると
怒りは、群れの別の人間の怒りを呼び起こし、
容赦ない攻撃がエスカレートしていったと思います。
プロレスを見ていて観客が興奮するようなものです。
怒りとはそういうものです。

危険人物は
「仲間」から、「群れを襲う肉食獣」の扱いになったわけです。

そうすることによって危険分子を排除し
群れの消滅を回避してきたのだと思います。

 5)いじめの構造

このシステムは今でも私たちの心を形作っていると思います。

いじめにおいても
周囲の多数が攻撃参加している段階になると
「いじめても良い人間だ」
という意識に変貌していますから、
いじめられている子に対して
共感チャンネルは閉ざされています。

いじめられる子は、
多数からすれば人間扱いされておらず、
200万年前の肉食獣と同様に扱われているわけです。

こうなったらいじめが完成されてしまっています。

ここで、
いじめられている側の子の状況を分析しましょう。

いじめられている子は、自分が
「人間扱いされていない」
と感じています。
言葉で表現することは難しいでしょうけれど、
仲間として扱われないで理由もわからず攻撃されるということは
そういうことです。
あたかも、攻撃的なネアンデルタール人の中に
放り込まれたように感じているはずです。

それはとてつもない恐怖、疎外感でしょう。
具体的ないじめ行為がなくても、
その場にいること自体で安心できないのです。
やがてそれは、いじめの空間にいなくても
自分が存在していること自体に安心できなくなります。
自分が仲間として扱われるということに絶望した場合、
生きる意欲を失っていき、
精神のバランスも保てなくなることが少なくありません。

これはいじめられているその時だけでなく、
何年かたった後でも
「人間は自分に危害を与えるものだ」
という意識がちょっとしたことでぶり返してしまいます。
不安感がずうっと継続している場合もあります。
なにせ、人間が近くにいないという環境は
なかなか望めないからです。
統合失調症の症状を呈する子どもたちも少なくありません。
中学校、高校時代の大半を入退院の生活を送り
その後も社会参加ができず、
一生が台無しになる危険があるのです。

ある程度多数が一人の子だけを
からかったり、いじったりしていれば
からかってもいい子だ、いじってもいい子だ
という意識が生まれますから
「虐めても許される子」だという意識になり
すぐにいじめが完成してしまいます。
また、からかいやいじりがあった時点で
本人にとっては深刻ないじめを受けている
「自分は人間扱いされていない」という
絶望感を感じている可能性もあるわけです。

こうならないように子どもを死守しなければなりません。

何が加害者の防衛意識を発動させるのかということを考えましょう。

この時、加害者側の事情、被害者側の事情を
リアルに考えなければなりません。
そういうと、
「被害者にも悪いところがある」
という論調が頭に浮かびます。
こういう消耗な趣味的な議論を避けるために一言言っておきます。

本気で防止を考える時は
「良いとか悪いを抜きにして考えなければならない。」
ということが大切です。
いじめにつながる事情があるなら、
その時は悪いこととはいえなくても
ことごとく除去していかなければなりません。
被害者が悪い、被害者は悪くないという次元で論じていたのでは、
いじめが起きる事情をリアルに見ることができません。

あくまでも
加害者、被害者、取り巻く人たちの
「人間関係の状態を修正する」
という発想が必要です。

では、どういう場合に
加害者の防衛意識が
いじめられる子への攻撃へと向かうのか
防衛意識を発動するきっかけとは何かを
検討しましょう。

5 防衛意識が生まれる事情

 1)自分が攻撃を受けた場合

防衛意識を持つ流れは、
自分に危険があると認識し、
危険を回避したいという要求が生まれ、
危険を回避しようという行動をしよう
つまり防衛意識ということになります。

危険の中身ですが、
身体生命の危険を感じた時に
防衛意識が生まれることは
分かりやすいと思います。

ただ、自分の身体生命の危険を感じて
反撃がいじめの端緒となるということは
それほど多いことではありません。

むしろ対人関係的危険を感じたときが
いじめの端緒の攻撃につながることが多いようです。
対人関係的危険とは、
顔をつぶされるとか、立場を無くすとか
「仲間の中で自分の評価が下がる場合」を主として想定してください。
仲間はずれにつながる不利な事情ということになるでしょう。

典型的な例は、もともとは親密な人間関係があった場合
ということが少なくないようです。

相手が自分以外を優先していると感じる場合とか
自分の弱点を見られてしまったとか
自分の知られたくないことをみんなに告げているようだとか
そういう場合です。

あるいは、親友だったのに
最近、相手が自分から離れていくような気がする
そういう場合です。

これは、そのような扱いが客観的にある場合はむしろ少なく
実際はそこまで悪く考えなくてもよいのに
悪く考えてしまう場合が多いようです。

危機感は主観的なものですから、
危険があると感じると防衛意識が発動されてしまいます。

だから、
加害者にもともとコンプレックスがある場合は、
危機感を抱きやすく、
親密な人間関係がなかったのに防衛行動に移りやすいです。

容姿を気にしていた子は
容姿の良い子が自分を馬鹿にしているように感じたり、

自分の学業成績に不満の子が
学業成績に不満のない子が自分をあざ笑っていると感じたり、
(実際は、加害者の方が成績上位である場合も少なくありません
 コンプレックスは劣っている場合だけでなく
 自分の目標値との乖離等が原因で起きる場合もあるようです。)

音楽が不得意の子が
ピアノのコンクールでよい成績を収めた子から
馬鹿にされていると感じたりという具合です。

 2)友達・仲間が攻撃を受けた場合

人間の良いところが裏目に出ることもあります。
友達が危険な目にあっていると思うと
自分も危険な目にあっているような追体験をして、
勝手に防衛意識が生まれることが良くあります。

本当は友達が悪くて、
相手が正当な反撃をしただけなのに、
友達が悔しい思いをしているのを見ると、
友達がかわいそうに思い、防衛意識が生まれ、
相手を攻撃するということはいじめの端緒でよくあります。

公平に見れば、相手の方がかわいそうなのですが、
友達といる時間が長いので、
友だちの表情や動作から感情を読み取りやすくなっていて
つまり共感しやすいので、
友達に味方してしまうわけです。

相手と付き合いが短かったり、薄かったり、
相手は感情表現に乏しいといった場合は
感情移入がしづらくなります。

時間的な目撃状況の具合で
相手が気の毒なところは見ておらず、
友達が傷ついているところだけ見ているということも
友だちの方にだけ感情移入する原因となるようです。

公平に物事を見るということは
実は難しいことで、
公平にものを判断するためには
ある程度先ず共感を遮断する必要がある
ということは頭に入れておいていただきたいと思います。

そして、わがままな友達を守ろうとする
取り巻き連中が多くなればなるほど、
相手をいじめてよいのだという風潮が強まり、
無関係な子どもたちも攻撃に加わっていきます。
そしていじめが完成します。

 3)「正義」・「ルール」が守られない場合

「正義」を守るという意識は
いじめに転化しやすいようです。
「正義」は、「ルール」と置き換えてもよいでしょうし
大きな集団と置き換えてもよいでしょう。
この場合の大きな集団とは、
ダンバー数からすると150人を超えた人数ということになります。

子どもですから大したことの無い正義なのです。
例えば、部活をさぼるということがありました。
運動部や吹奏楽部など
毎日部活動にでることが明示、黙示のルールになっている場合、
体調や気分によっては、出たくない日も出てくるでしょう。
それでも頑張って毎日部活に出ている子からすれば、
平気でさぼっているような子を見ると
むかつくようです。

私はどちらかというとサボる側でしたから
よくわからないところはあるのですが、
まじめに部活動にいっている方は
理由なく部活に来ないことを
「ずるい」という気持ちになるようです。

彼らにとっては部活動に行くことが正義ですから、
正義を守るため、
結局は自分を守るため、
相手を容赦なく攻撃するようです。

共感チャンネルは閉ざされて
ラインなどで多くの参加者が一人を非難し、
かわいそうだと思うことがなくなるようです。
「部活をさぼっただけなのに」
という論理は通用しないようです。

ラインは、文字情報しか画面に出ませんので、
相手が苦しんだり怖がっている様子はうつりません。
言われた相手に共感して
かわいそうだからやめようなどということが
起こりにくいシステムです。

正義を守ろうとか、集団を守ろうということになると、
そして守ろうとしないものに制裁が加わるようになると、
それを守らないことの恐怖感情が強くなるとともに、
その緊張を逸脱する者に対する憎しみが増大するようです。

実際は、子どもたちの自然な正義感というよりも、
例えば、部活に来なくていけない
という厳しい指導があったり、風潮があったり、
運動で学校推薦を使って進学しなければならないとか
どこどこの高校に行かなければうちの子ではないとか
一生フリーターで老後は無年金だとか、
大人が子どもを追い込んでいることがほとんどだと思います。

 4)八つ当たりと敏感体質

ここまでお話してきて
気が付いた方もいらっしゃると思いますが、
防衛意識とは、
自分に危機を与える対象に対して
まっすぐに向かうわけではないことが特徴です。

防衛意識は、
「とにかく危険を回避したい」
という要求に基づいて起きます。

例えば、自分の容姿に悩んでいる人が
容姿の良い人に馬鹿にされていると思うことについて
容姿の良い人に責任はありません。

成績を気にしない人が
成績を気にする人から恨まれる筋合いもありません。

つまり八つ当たりからいじめが始まる
ということが多いはずです。

今の子どもたちは危機感を持たされて
無防備に不安にさらされています。

良い学校に入り、
ブラック企業ではない会社の正社員になることが
多くの子どもたちの目標にされています。

地方の実業高校などでは
校内選考でよい成績を収めないと学校推薦しない
ということが、
生徒を黙らせる道具になっているところがあります。
「一生フリーターで無年金で老後を迎えるのか」
という言葉が脅し文句になっていました。

そもそも思春期は将来に対する不安があると思うのですが、
現代社会は、ブラック企業、フリーター、無年金等の
具体的な不安に子どもたちはさらされていると思います。

何とか不安から解放されたいという思いがある一方
それは直ぐに解消されない不安だということになります。
何とか一時的にも不安から逃れるために、
どうしたら良いだろうかと考えるわけです。

そうすると、
他人のごく些細な言動、あるいは振る舞いが
自分を馬鹿にしている、自分よりも優越している
というように感じやすくなり、
不安感、危機感を感じ易くなるようです。

不安に対して、あるいは他人の自分に対する評価を
いつも気にしているために、
敏感になっているようです。

本当は社会制度や経済状況から与えられた危険意識だったのに、
些細な言動をとらえて、別の子どもを攻撃することで
一時しのぎをしたくなる
これは無意識に起きます。
不安解消要求の誤作動です。

その八つ当たりの対象は
「自分よりも弱い者」です。
容易に「虐めてもいい子」にしやすいターゲットを
本能的に見つけ出すわけです。

なぜならば、
怒りに基づく行動は
通常、自分より弱い者に対してしか起きないのです。
自分より強い者に対して起きる感情は恐れです。

相手がある程度力があり、
一対一では勝てるかどうかわからない場合は、
数を頼んで勝てる状況を作っておいて
集団攻撃を行い、
攻撃をします。

最近のいじめは、被害者になんの誘引行動がなくても
強引に起こされる場合があるようです。

最初はからかいやいじりなのでしょうが、
攻撃を繰り返していくうちに
相手に対する共感チャンネルが閉じられていき、
攻撃参加が多数になると
「いじめてもよい子」というレッテルが張られ、
共感チャンネルが次々と閉じられていくわけです。

そのターゲットは、
例えば、障害を持っている子
孤立しやすい子
反応が遅い子
反撃をしない子
という場合もありますが、

突出して恵まれているけれど
取り巻きを作らない一匹狼

先生や、子どものリーダー格(年長)が
敵視したり、低評価をする子
等が「いじめてもよい子」になりやすいようです。

例えば、何らかのコンクールでよい成績を収めた子がいて、
コンクールにさえ出られなかった者が妬みを友達に話し、
その友達も同じ嫉妬を持っており、
それに無責任に追随する子が生まれると、
妬みが社会的に肯定されたような錯覚を起こすようです。
妬みを抑えておこうというタガが外れ、
小さな攻撃を繰り返していくうちに
人間扱いされていないと感じる被害者が
生きる意欲を失っていく
ということがありました。


学校でのいじめが起きる場合
教師がターゲットに対して
否定的な言動をしたことがきっかけになる場合があります。
この場合、その子が
クラス全体のお荷物として扱われることから
クラスに害悪を与える存在という評価に移行しやすく
正義を守るため、私たちの授業を守るため
その子は悪だ、「いじめてもよい子だ」
という状況が起きてしまうようです。

6対策

先ずいじめの生まれる原因のまとめです。

<加害者になりやすい子>
不安を抱きやすい子 抱きやすい事情のある子
(兄弟間差別、高い学歴を家庭が求めている子)
やるべきことを無理をしてもきちんきちんとやろうとする子
コンプレックスを抱きやすい子
友達に依存している子(その友達から見離されると孤立すると思っている子)
自分の言うことに無条件に追随する友達がいる子

<被害者になりやすい要素>
(属人的要素)
周囲に面識のない、足りないと思われている子
(転校生、長期休み)
一人だけ多数と違う特徴のある子
(外国籍が少数の場合)

(行動傾向)
本人に依存している友達を持ちながら
その友達の依存要求に無頓着な子

多数が心配していることを心配していない子がいる場合
(気にしない、満ち足りている)
進学、就職、容姿、将来のこと、
部活動などルールにルーズな子
服装、身だしなみにルーズな子
他人に損をさせること平気な子

(対人関係的反応)
からかわれてもからかい返したりしない子
怒れない子
感情表現の乏しい子

(状態像)
仲の良い友達のいない子
孤立しがちな子
からかわれやすい子
いじられやすい子

(環境的要因)
教師が評価を伴う指導をすることが多い子
体育系や吹奏楽部等集団行動が必要であり、欠席が自由にできない部活の子
生徒同士を過度に競争させる環境
小集団の構成に変化があるとき

おそらく指導要領だったり、マニュアルや教育理論だったりに
記載はされていることなのでしょうけれど
力点のポイント、関連付け
ということで私も考えてみました。

1) 総論

「かわいそうだからやめる」
そのために共感チャンネルを開く
という指導を行うべきです。

そのためには、ルールを守るとか正義、道徳を死守する
というより、
相手の気持ちに基づいて行動をする
という行動原理を徹底するべきなのです。

ここで、教育界にはトラウマがあることが
問題の所在であることを意識しなければなりません。

校内暴力です。
荒れる教室です。

どうしても、静かな穏やかな教室
という結果を求めたいので、
それを押し付けようとします。
このために、ルールや道徳を強調し、
逸脱者に対する制裁が許容されてしまう現象が起きます。

しかし、いずれにしても根は一つですから、
原因に向き合うべきです。
結果としてルールが守られやすくなる、
道徳的行動をするというためには、
やはり、一緒にいる人の気持ちを行動原理にする
ということを教えていく必要があります。
これが道徳の基本です。

ではどうやってこれを訓練するかということですが、

先ずは、お互いをよく知ることが必要です。
但し、個人情報を頭に入れるということではなく、
一番は一緒にいるということです。
心理学的には単純接触効果と言いますが、
一緒にいることで、感情の推移をつかみやすくする
これが共感の基礎になります。

次は、他人の弱点を尊重する、助けるという体験です。
感謝され、尊重される体験は
人間の遺伝子的な性質を掘り起こしていきます。
こういう行動は称賛しましょう。

具体的には集団活動なので、
合唱や演劇、運動などが良いのですが、
クラス対抗にして成績をつけてしまうと、
一人の弱点がお荷物になり、悪になってしまいますから、
順位はつけない。
評価する側は、良いところに目をつけ、
そこを評価するという工夫が求められます。
適当にお茶を濁すのではなく、
子どもたちが
「そこを評価してほしい」
「そういうところも評価の対象になるのか」
と目を輝かせる講評が必要です。
さて、そのように共感チャンネルを開いて
「かわいそうだからやめる」を支配的空気にする
最大の特効薬は、
本人たちが尊重されることです。
尊重されるとは、
自分の弱点、欠点、不十分点を理由に
評価を下げられたり、仲間はずれにされたりしない
つまりありのままの自分でよいのだという自信です。

こういう体験を重ねていくこと、
学校だけでなく、家庭や地域でも
体験が増えていくことが望ましいです。

少なくとも先ずは、
弱点、欠点、不十分点は
何らかの形でカバーすることであって、
それを理由として仲間として扱わない
ということを止めることです。

根本的には、小学生に老後の心配をさせない社会、
安心して安定した職業に就く社会が
失敗に寛容な社会が解決策なのですが、
一朝一夕には実現しません。
むしろ、そのような社会の基礎を作るくらいの気概で
子どもたちの教育に取り組むべきではないでしょうか。


2) 加害者を作らない

思春期は、人生の目標や未来設計をしますが
経験不足や社会状況から見通しが立てられない
という現実も見えてくるときです。

コンプレックスや挫折を抱きやすい時期だ
ということになるでしょう。

将来の目標に向かって努力するということも尊いのですが、
ありのままの自分を大切にする、
誰かに自分を大切にしてもらうということも
大事なことです。
他人の人権を侵害しない特効薬は
ありのままの自分が大切にされるということにあります。

現時点の到達点を否定的にとらえるのではなく
そこを出発点、0ポイントだという考え方が必要です。
どんな成績、部活動の状況でも
それを理由に低い扱いがなされてはいけません。
知らず知らずに成績に良い子に共感を持ちやすいのですが、
教師は内なる差別がないか厳しく点検しましょう。

また、子どもたちが、成績や容姿、運動能力等で
人間の序列を作るような振る舞いをしていたら、
それはやめさせましょう。

ご家庭の中で、兄弟間の差別があったり
無理な目標をたてさせているような場合、
休息を与えることを意識してもらいましょう。

クラスの内外で、少人数グループが形成されている場合、
グループを解体させるというよりは、
より大きなグループ、クラス全体の行動をすること
どのような子でも、
色々な人たちと行動を共にすることができるし
それは楽しいことだということを気づかせましょう。

また、過度な部活動はやめましょう。
休みない部活動に自然と反発することは
人間として当然なことです。

極端な集団活動の相互矯正になっていないか
教師と生徒、生徒同士の関係を点検する必要があります。

私は、部活動の全国大会を廃止するべきであるし、
部活動の成績が進学に有利になることを改めるべきだと思っています。
地域の少年団等に積極的に援助するべきだと思います。

3)被害者を作らないために

教師が、子どものリーダー等の協力を得ながら
被害者になりやすい子を
積極的に仲間の輪に入れていくことを意識する必要があります。
端的に言えばなえこひいきです。

必要なえこひいきはしなくてはなりません。

えこひいきは、馴れない仲間から馴れた仲間に代わるまでの
一時的なものもありますが、
生まれもって弱い子
孤立しやすい子、怒れない子、仕返しや抗議ができない子
克服できない弱点のある子と言ったように
ある程度持続的に行う必要がある場合もあります。

とにかく
「いじめてもいい子は一人もいない」
ということを大人が体を張って示す必要があります。
からかいやいじりが承認されてはいけません。
特にからかう側とからかわれる側が入れ替わらない場合は
いじめだとしてかまいません。

自分はいじめられても仕方がない子ではない。
いじめはやめてもらわなければならない
ということを理解させましょう。
味方がいるという自信をもってもらうのです。

子どもたちの日常生活をよく見て
「かわいそうだからやめる」
という子どもたちの行動が見られたら
それは大いに称賛しましょう。

4)教師の指導
まず、ルールを破ったり、自分の利益のために他人に不利益を与えた場合も、
感情的になり、他の子どもたちの前で叱責することは
「いじめてもよい子」を作るきっかけになります。

深刻な事例であればあるほど
個別の指導が必要だということになります。

深刻な被害をもたらした行為であれば
教師といえども単独では行動せずに
チームプレーを心がけるべきです。

子どもが完成された人格ではないことをくれぐれも意識し、
どうするべきなのか一緒に考えるという姿勢が必要です。
また、事後的にですけれど被害を受けた子供に
共感することを覚えさせる良いチャンスです。

部活動指導に熱心なあまり
部活動をさぼる子ども、特に練習を休んで掃除や雑用をする際に休む子を
感情的にののしったことから
堰を切った水のようにいじめが完成してしまった事例もあります。
教師自身が正義やルールを理由として
個別の子どもの感情を忘れてしまってはなりません。

体罰は、本人に屈辱感や恐怖感を与えるだけでなく
周囲にも恐怖感を与えるとともに
本人の屈辱感に対応する他者の優越感を呼び起こし、
本人に対して対人関係的不安を
周囲に対して「いじめてもよい子」という
人格を考慮しない風潮が生まれてしまいます。

命の授業に変わる授業として、
人間の弱さと人間が弱いからこそ助け合う
という人間の在り方を教えましょう。

人間らしく生きることの
楽しさ、充実した生活、
人の役に立つ喜びは
遺伝子の中に組み込まれていますから、
それを掘り起こすことによって
子どもたちは遺伝子で理解していきます。


以上、いくつか「エラー」が生まれる場面を見てきました。
大事なことはいじめの具体的な事例を報告しあい、
なぜいじめられたか、
つまり
何が子どもたちの防衛意識を刺激したか
どこで共感が閉ざされたのか
いじめられた子どもが「いじめてもよい子」
になった契機はどこにあるのか
事例を蓄積して共有しなければならないということです。

このような視点での研究が進むことを
心から願います。

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人間は幸福でなければならない。しあわせになるために始めること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 対人関係学における「しあわせ」

対人関係学は、突き詰めるとしあわせになるための学問です。
しかし「具体的にしあわせとは何ですか。」という問題は、
あまり突き詰めて考えられてこなかったような気がします。

対人関係学においての「しあわせ」とは、
「自分の対人関係の中で尊重されて存在していること」
「尊重されて存在すること」とは
「排除される心配を感じないこと」です。

整理すると
「自分の対人関係の中で安心して過ごす事」
ということになります。

もちろん、これだけがしあわせとは言うつもりはありません。
人によっていろいろなしあわせがあるでしょう。

対人関係学には、目的があります。
人間関係にある人たちどうしが支え合い、
生きるための意欲を維持するための学問です。

支え合いに必要な限度で
しあわせを考えればよいということになります。
多少おせっかいな要素もあるのですが、
それ以外をしあわせではないというわけではなく
支えるためのツールということになります。

2 なぜそれを「しあわせ」と呼ぶか

生理学的に見た場合
人間という生物は、安心して帰ることのできる場所に帰ると
交感神経が鎮まります。
血圧が低下し、脈拍が低下し、
内臓の近辺に血液が充実している等
こういう状態です。
つまり安らぎ、穏やかさを感じている状態です。

対人関係学では、これがしあわせと呼ぶのです。
しあわせを感じるような人間関係を構築することが目標となります。
人間関係とはあらゆるものがありますが、
先ずは、家庭、学校、職場等の身近なものから考えます。

安心の逆を考えてみましょう。

常に戦闘態勢でいなければならない家庭、学校、職場にいたら
どうなってしまうでしょう。

虐待が絶えない家庭、いじめや指導死の学校
パワハラやセクハラ、過労死の職場
隙を見せると誰かから攻撃されて
不利益なことが起きてしまう
自分を否定されてしまう。

このような対人関係では
逆に交感神経ばかりが活性化してしまいます。

この不安を解消したいという意識ばかりが強くなり、
八つ当たりのような新たな攻撃が始まったり
人間関係の解消、離婚、転校、引きこもり、退職、犯罪
そして自死が起きてしまいます。

人間は不幸が続くことに適応できないようです。
幸福でいなければ生きる意欲を無くしていくようです。
不幸が、自分の新たな不幸を作り、
自分の周囲の不幸を招き、
雪だるま式に不幸が拡大していくわけです。

実際に交感神経が鎮まらなければ
心筋梗塞や脳卒中になるばかりではなく
精神的な問題も発生してしまいます。

また
疑心暗鬼や嫉妬心ばかりが横行し
自分の利益を確保するために相手を傷つけてもかまわない
ということが起きてしまいます。
さらに不幸が拡大再生産されてしまいます。

どうやら、不幸の始まりは誤解やエラーによって起きている
ことも多いようなのです。

すべての利益に優先して
しあわせになることを目指す
そういう発想があってもよいのではないかと思います。

人間はしあわせでないと
自分が益々不幸になっていくだけでなく、
他人をも不幸にしてしまう可能性が生まれる。
人間はしあわせでなければならないようにできているようです。

3 しあわせはそれほど大それたことではない

対人関係学が目指すしあわせは、
例えば1年間、ひと時も途絶えることなく
続くことを目標にしているわけではありません。

しあわせを感じる時間を増やしていくということです。
不幸を感じる時間を減らすということです。

不幸は、対人関係学的な不幸だけではなく、
不治の病に陥ること
生きている以上死ぬことを避けられない事、
事故による傷害や死亡、
あるいは犯罪に巻き込まれるなどの不幸もあります。
戦争の犠牲になることも将来ないとも限らない
環境問題もそうですから、不安の種は尽きません。

自分たちができる自分たちのしあわせの実現
対人関係的なしあわせ
その時間を増やすという発想は絵空事ではありません。

東日本大震災は、私たちに
「一時しのぎ」の重要性を教えてくれました。
生きていることがやっとのような
何もないときに
芸能人やスポーツ選手、キャラクターが被災地に来て、
他愛もないアトラクションを行うだけで
あるいは天皇皇后両陛下が被災地を訪問されただけで、
しあわせな気持ちになり、
生きる意欲を取り戻した
という経験をしています。

私たちの日常の不幸には、
このような効果的な一時しのぎの方たちは
訪れてはくれません。

しかし、私たち自身が
自分の群れの在り方を改善することができるなら、
一時しのぎが、飛び飛びであっても
継続することが期待できます。
不幸があっても、
しあわせがあれば、
生まれてきてよかったと思いながら
多くの時間を過ごせることになります。

これが対人関係学の目的です。

先ずは、避けられる不幸を避けることが
しあわせになる第1歩です。

4 自分から不幸になるということについて

ところで
弁護士をしていてよく目につく不幸は、
自分の仲間を攻撃してしまうことで起きるパターンです。

<基本形>
Aさんが、八つ当たりかなんかで
Bさんを攻撃したとします。
Bさんは、Aさんが自分を不幸にする行動していると
危険意識を持ちます。
AさんとBさんが属する仲間(家族とか友人関係等)から、
Aさんは自分を排除しようとしていると
Bさんは感じるわけです。

その結果、
ある場合は、Bさんはその攻撃で傷つき苦しみます。
ある場合は、Bさんは自分を守るために反撃します。

攻撃したAさんも、
相手Bさんが苦しんでいるところを見てしあわせにはなりません。
Bさんが苦しんでいることを見ても、怒っているところを見ても
Aさんは、Bさんの状態をみて、
今度は自分が攻撃されるだろうと考えてしまうわけです。

あるいはBさんが苦しんでいるのを見て
一緒に苦しくなってしまうことも多くあります。
同じ対人関係の中では
争っていること自体で、交感神経が活性化されます。

つまりいずれにしてもBさんを攻撃しても
Aさんの不安は消えないのです
その結果双方の怒りが持続してしまうことが多くあります。

<応用というより現実に多い型>

Aさんは、通常は、Bさんが自分を嫌っている
自分との関係を終わりにしたいと思っているかもしれないという
漠然とした誤解に基づいてBさん攻撃します。

実際はAさんの対人関係的危機感は実在しない事実に基づくこと
で始まることが多いようです。

BさんがAさんを攻撃したという事実は存在しないにもかかわらず、
それでもAさんが攻撃をしてしまうと
AさんがBさんを攻撃したという事実は実在しています。
Bさんは、理由なく攻撃してくるのだから自分が嫌いなのだろうと
対人関係的危機感を抱くのは当然です。

Bさんは、Aさんに対して不信感を持つでしょうし
反撃をするかもしれません。
そうして、実際にAさんから離れていくわけです。

自分の誤解で、自分が不幸になる
こういうことが対人関係紛争の大きな一類型です。

実際はBさんも、多かれ少なかれ
Aさんに対する対人関係的危険意識を持っていたり、
知らず知らずのうちに、
Aさんの対人関係的危険意識をあおるような行為をしてしまっている
ということがあります。

自分と他人の関係に絶対的な自信を持っている人は少なく、
多かれ少なかれ対人関係には不安に基づく疑心暗鬼がつきものです。
自信を見せびらかせて歩いているような人も
実は自信のなさを隠そうと必死になっているという場合も
少なくありません。

実は、このような不安があるからこそ
相手に配慮して生きていたわけで、
人間が群れを作って生き延びてきた原理だというのも
対人関係学の一つの結論です。

人間は古来(200万年くらい前から)、
相手の不安を気遣い、
相手に対人関係的危険意識を持たせないように工夫して生きてきました。

現代社会には、これを妨害するような事情がたくさんあります。
それはおいおい説明するとしましょう。

5 自分から不幸にならないために

自分が、意識的に
相手を尊重することを行動で示すということです。

先ほども言いましたが、
人間には対人関係的な不安がありますから、
自分から相手を尊重することは
なかなか難しいものです。
相手が自分に好意を寄せてくれるならば
こちらも親切な行動をする
ということは比較的簡単です。

分かりやすく極端に言えば、
自分をこれから捨てようとしているかもしれない相手を
気遣って、支えてあげる行動をするということは、
無駄な努力をすることになるかもしれない
惨めなことかもしれない
と思ってしまうかもしれません。


誰しも、自分は損をしたくないと思うのかもしれません。
自分の大事な人よりも得をしたいと思うわけがないのに、
無意識にそういう行動をしているのかもしれません。

しかし支え合いを始める時は、
誰かが最初にそれをしなければなりません。
疑心暗鬼のままでは、
お互い歩み寄ることができません。

どうやら自分を大事にしすぎると
最初の気遣いができないという関係にあるようです。

それならば
自分を大事にしない事が良いのかもしれません。
自分を棄てるという意識が必要な場合もあるかもしれません。
相手のためにそれをしてあげるという意識は、
それ自体、本当はしあわせになることなのですが、
現代社会ではここが難しいようです。

しあわせを感じにくい人は、
これができないようです。

自分を大事にしすぎるあまり
仲間から疎ましがられ、
結局は孤立してしまうのです。

自分を守ろうとして自分を孤立させる
こういう悲劇を弁護士はよく見ています。

ここでいう自分を大事にするとは、
自分の体を大事にするというよりも、
自分の信念、こだわり
あるいは体面を守るということが多いと思います。

これが余裕のない状態で展開されると
自分が正しいと思うルールを
仲間に守らせる。
守らない仲間を攻撃するということに
自分で意識しないでもそうなっています。

自分を守るため、
仲間ではない人の意見を聞いて、
それを形式的に仲間に適用して
結果として本当の仲間を攻撃してしまうということも
よく見られます。

自分を守ろうとするために
自分から孤立に向かっていく人たちがたくさんいます。

6 しあわせの切符は、相手の感情を尊重し、共感するということ

相手のために自分を棄てるのは良いとして
どうすればよいのか
ということになりますよね。

簡単に言えば、相手の気持ちを優先する
相手の不幸を防止する
つまり、相手に
自分はあなたを突き放すことは決してしない
という安心感を与えることです。

相手を肯定すること、相手の感情肯定すること
肯定できる部分を探し出してでも肯定することです。

それができないことならば
「やろうとしているのだけれどできない
ごめんね」と投げかければよいわけです。

基本は、相手の嫌がることをしない
相手の顔をつぶすことはしない。
から始まって、
相手のしてほしいことをする。
相手に賛成できるところを探し出して賛成する。
ということになります。

そのためには、
相手の気持ちに敏感にならなければなりません。
嫌がっていることに気が付かないとか
やってほしいことに気が付かないということがだめなわけです。

どうしてそのようなエラーをするかというと
多くは自分を守るためという発想です。

例えば、
自分の良いところを評価してもらいたくて、
アッピールをしてしまいます。
例えば、楽器を弾いて見せたり、
料理をして見せたりということをするわけです。

おそらく、それをすることによって
母親等から褒められた経験があり、
母親と同じように自分を称賛してもらいたいのでしょう。

しかし
それをみた相手は
自分ができないことができることをこれ見よがしに強調された
馬鹿にされたと受け止める場合もあります。

例えば、
友人関係を大切にするあまり、
しょっちゅう自分の友達を家に呼ぶ
しかし、相手はあまり社交的ではなく、
他人が家に出入りすることは実は嫌だ

あるいは、家を空けて友達の集まりに行ってしまう。

あなたは、友達づきあいは健全であり
何も悪いことはしていないので、
自分は悪くないと思っても、
相手は寂しがっているかもしれません。

自分が間違っていない、正しいということが
相手の感情に気づかなくさせているということがあるようです。

自分を大事にするあまり
相手の感情に注意を払うことができない
注意を払う余裕がないというより、
注意を払う発想がないという感じです。

今、あなたが不幸だと感じているならば
特に
自分は何も悪いことをしていないと感じている場合、
先ず、自分を棄てることから始めることがよいかもしれません。
自分を勘定の外において、
あなたが一番自分に寄り添ってもらいたい人のことを
どうやって大事にするか
何をしたら喜んでくれるのか

そして恥ずかしがらずに
相手のためにそれをしているということも
はっきり伝わるように行動をしてみる

自分を棄てることによって
しあわせを逃がさないで手繰り寄せる
ということがあるようです。

あなたが大切に思っている人が
あなたと一緒でよかったと思う時間が増えることが
結果としてしあわせを招くし
しあわせを長続きさせることになるのだと思います。

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Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある [進化心理学、生理学、対人関係学]




スタンレー・ミルグラムのアイヒマン実験は、
認知心理学の文献を見るとよく出てくる。
行動科学の教科書ならばなおさらである。

これは1960年から始められた実験で
かなりのインパクトを与えた。

この実験結果は、いじめ、パワーハラスメント、
あるいは、離婚紛争の特定の類型の場合など、
人間の加害行動を分析し、防止するために
とても有益な事件結果であると思う。

但し、それらに実践にいかすためには、
ポイントについて整理し直す必要があると感じている。

以下、再評価、再構成を試み
実践に応用することを試みる。

1 ミルグラムの服従実験の概要

ミルグラムの実験の概要は以下の通り。

イェール大学教授の実験ということで
協力者を公募した。
一回の実験で応募者は1名ずつ実験に参加する。

実験は、教授と応募による被験者、
そして、仕込みのサクラの3人である。
教授と被験者は同じ部屋にいて、
被害者役のサクラは基本は別室にいる

これは記憶力の強化の実験だと称して、
簡単な確認テストを被験者が出題する。
それに対して被害者役が回答するのだが、
誤答の場合は罰として
腕に巻いた装置から電流を流される。
そして誤答するたびに、15vずつ電圧を強くする
最終的には450ボルトに達し、
その後は誤答するたびに450ボルトが流される。

被害者役には、実際は電流は流れていないが、
役者なので、電圧に応じた苦しみの演技をする。

この実験は10年以上にわたり各地で続けられた。

「多くの被験者は、電撃を受ける人物の懇願がどんなに切実になろうとも、電撃がどんなに苦痛をもたらすように見えようとも、教授に従い続け、最高レベルまで電圧をあげて罰を与えた。」

(ウィキでもよいし、河出文庫「服従の心理」)

最も多くの被験者は、被害者が苦しんでいることを目の当たりにして、
教授に文句を言って、実験の中止を提案したりする。
しかし、用意された説得文句によって電撃を与え続けた。

ミルグラムがした被験者についての分析として、
被験者の多くがサイコパスというよりも、
礼儀正しい人、約束を守ろうとする人、途中でやめることが気まずい人
が、最後まで義務を履行したとしている。

過労死する人の典型とぴったり重なる人物像である
このことは大変興味深い。

2 ミルグラムの服従事件の目的

現在、認知心理学を学ぶ者からすると、
この実験が特定の政治的意図に基づいて行われた
というものではないことは簡単に理解できることである。

ハンナ・アーレントが
「イェルサルムのアイヒマン」を
雑誌ニューヨーカーに連載を始めたのが1963年であり、
ミルグラムの実権は1960年に始まっていることからも
それはわかる。

また、権威を国家権力と同視しているわけでもない。

人間の行動傾向、行動原理の研究であり、
現在で言えばモチベーション研究の草分けともいえるべき
画期的実験である。
純粋な科学であり、
それをどう現実社会に応用するのかは
応用する人々の問題である。

私は、この実験の成果を
パワーハラスメントやいじめの予防に応用できると考えており、
第三者が一方に支援した夫婦間紛争の解決のヒントにもなると
考えている。

ただ、その際は、
使い勝手を良くするために、
実験結果をカスタマイズする必要がある。

2 用語の再評価、再構築

言葉についての再定義をしようと思っている。
その言葉は、
「服従」と「権威」である。

ⅰ)服従

先ずは服従という用語である。
原語は、obedience である。
服従と訳すことに誤りはない。

ただ、日本語の服従とは、
自由意思を制圧されるに足る支配を受けている状態
をいうという感覚がある。
つまり、服従している人は支配者の命令以外の
他の選択肢を持てない状態にあるという語感がある。

しかしミルグラムの実験では
暴力や脅迫その他の不利益の示唆による自由意思の制圧はない。
このため、誤解を与えるのではないかという懸念があるから
「服従」という言葉を使うことには抵抗がある。

こういう場合を表現する日本語は難しい。
実際は誘導に従うだけである。
「迎合」程度の表現が
正確ではないかと思う。

但し、もろ手を挙げて迎合しているわけではなく、
葛藤を抱きつつ、結果として
迎合した行動をとる
ということは留意している必要がある。

ⅱ)権威

次に「権威」の意味を検討する。

ミルグラムの実験では、
権威の象徴として、「イェール大学の教授」という要素が使用された。

優秀なことで有名な大学の教授ということで、
知識、知能が秀逸であることが示されている
また社会的権威がある(多くの人が一目置く)存在である。
社会的に意義のある実験を実施している人だ
という人的属性をもつことになる。

人的属性と同時に、
自分が参加している実験が社会的、歴史的意義のある事件であり、
遂行することが自分の役割だということを感じ易い
ということは異論のないところだろう。
電撃を与えるという危険な行為ではあるがが、
知識や経験に裏付けられて行っているはずだから、
安全であるはずだとか、
これまでも危険が無かったことが裏付けられているはずだ
という安心感もあったと思われる。

権威とは従うことで安心感を得られる存在
であることが必要であろうと思われる。
責任を権威に転化できるということを
ミルグラムも重視していた。

もう一つ重視するべきポイントとして
被験者は、被害者に電流を流したことについて、
被害者の落ち度を指摘することが多かったと指摘している。

これらの事情から総合的に考えると、
私は、被験者が従った「権威」とは
教授に属する評価というような人的側面だけではなく、
その指示による行為の結果を
正当化できる要素があることが必要だという
行為の属性の側面も必要であると考える。

それは例えば正義であり、
または結果に到達するための効率であり、
または実験を進める秩序である。
約束された、あらかじめ定められたルールであったりする。

被害者の落ち度を強調する理由は
自己弁護であるが、
正当性によって、
被害者の身体的平穏を電流で壊すことの
自己の行為を弁護している
ということになると思われる。

そうだとすると、
権威は、正しさや秩序で正当化されていなければならない。

仮に教授が
「被害者が自分に挨拶をしなかったので
 回答の正誤にかかわらず
 どんどん電圧をあげて電流を流してください。」
という指示を出していたら、
被害者の落ち度を理由にすることができないのだから、
抵抗性は増加したことになるはずである。
教授の権威も著しく低下しただろう。

権威とは、
権威者という人的属性の側面と
指示の内容の「正当性」
つまりもっともらしさという行為内容の側面が
要素として不可欠であると私は考える。

3 「権威」を「群れの論理」として再構成する

そうだとすると結局権威は何であり
どこから来るのか。

ミルグラムは、これを
「なぜ服従するか」という服従側の論理として分析している。

これは、人がヒエラルキー的な構造の中で機能してきたことによる
と説明している。
つまり、ホモサピエンスが文明をもつ以前、
戦闘能力も逃走能力もない人間が
厳しい自然環境の中で生き残った理由が
ヒエラルキーのある群れを作ったことにあるというのである。

統一意志の元、
攻撃を加えて狩りを行い、
子育てや植物採集を分担して行い、
それぞれの力を発揮したことによって
生き延びることができたというのである。

人間が群れを作ってきた以上、
群れの意思に従う本能が遺伝子に組み込まれたはずだ
というよう主張だと私は解釈している。

つまり、「権威」とは「群れの論理」である。
それは、行動を支持する権威者であり、
正義であり、ルールであり、道徳である。
個体を集結させる絆のようなものである。

必ずしも権威者である必要はない。
「空気を読む」という日本語がある。
人間が集まっている時に、
一時的に言葉を使わないで
何かの行動をするコンセンサスが生まれる時がある。

例えば、
皆で小さいことは気にしないで
ただバカ騒ぎをしようというコンセンサスが生まれた場合、
哲学的な話を提起しないというようなものだ。
敢えて、バカ騒ぎなどして何が得になるのだ
等と発言しようものならば
「空気を読めない者」と評価されてしまう。

これも群れを優先する論理であり、
群れの理論に迎合している現象だと思う。

群れの論理は、
権威者がいなくても
一時的なものでも
あるいは漠然とした多数であっても
人間は従う行動をとってしまうという傾向がある
ということになると私は考える。

4 迎合に伴うジレンマとは何か

ミルグラムの実験は、
イェール大学の教授という権威者と
意義ある実験の遂行という秩序、正義等の
群れの論理が権威であった。

被験者は権威、群れの論理に従ったのだが
大きな葛藤があった。

これは、被害者役の苦痛に対する共感なのだろうと思う。
決して正義ではない。

実験における正義は実験の遂行だった。
被害者の苦痛や実験停止の懇願は
正義を遂行することの妨害でしかなかった。
人間は、瞬時の(熟考しない)行動決定において、
対立する当事者の
それぞれの正義を評価することは困難である。

被験者が感じたジレンマは、
被害者の苦しみに対する共感だったのではないか
と考えている。

つまり、ジレンマとは
他者に対する共感に基づく行動感情と
群れの論理によっておこる行動感情の
矛盾に対面していたことなのではないかということである。

共感に基づく行動感情とは、
被害者が電撃で苦しそうだから
電撃を流すことをやめようかという感情である。

これに対して群れの論理によっておこる行動感情とは、
実験を遂行するための共同行動を完遂しよう
という感情である。

この行動感情は、両立しないため、
どちらかを選択しなければならず、
葛藤が生じるわけである。

だから、群れの論理よりも共感の方が強まれば
群れの論理ではなく共感感情に基づく行動をすることになる。
これもミルグラムの実験で明らかにされている。

ミルグラムは、実験の条件をいくつか変えた
変種の実験を周到に行っている。
その一つの変種の実験として、
被験者と被害者との距離を変えて実験を行っている。

① 被験者と被害者を別々のスペースに配置し、
  間を曇りガラスで仕切る。
② ①に加えて、被害者の声が聞こえるようにする。
③ ②に加えて、場所を同じ部屋にする。
④ ③に加えて、電撃を与える時に
  被験者が被害者に手を添える。

①から④に行くにつれて、
被験者は電撃を与えることを拒否する確率が増えた。

共感は、相手の置かれている状況を
自分が置かれている状況として認識し、
生理的、感情的反応をすることである。

そうだとすると、
相手に近くなるほど共感しやすくなる。

近づくほど権威に対する抵抗が生じることについての
ミルグラムの分析は、
共感がもたらす合図、否認と知覚の狭窄、相互作用の場
行動のつながりの実感、初期の集団形成、習得した行動傾向
等としている。

主として、共感に基づく行動というくくりでとらえることが可能であろう。

5 ミルグラムは何を発見したのか

私は、ミルグラム実験は、
人間は権威に迎合するという以上の心理を発見している
と考えている。

つまり、
人間は、共感に基づいて行動するという性向があり、
群れの論理に基づいて行動するという性向もある
ということが第1である。

そうして、共感に基づいての行動は
群れの論理によって後退してしまう傾向がある
ということが第2である。

また、群れの論理の正当性については、
瞬間的な行動の場合は、
疑わないで迎合する傾向にあるということが
第2の結論のメカニズムなのだと思う。

これを対人関係学的に表現すると、
人間は、
自分が属する群れの論理に従う傾向にあり、
群れの論理から逸脱した人間は
群れの仲間であると実感しにくくなり、
共感を閉ざす傾向にある
ということになる。

表現を変えると、
群れの論理である
正義、秩序、効率等が働いてしまうと、
それに反する者に対しては
共感を閉ざしてしまい、
苦しみや悲しみ、孤独等の負の感情を示しても
助けようとか、協力しよう
という気持ちになれないということである。

6 効率について補足

「効率」が群れの論理であるということについては、
今回、ミルグラムの分析を受けて
初めて思い当たった。

群れの論理は、
人を機能させるためのツールである
一人ではできないことを
集団で行うというものである。

例えば動物を集団で狩るという場合、
音をたてないで動物に近づくような場合に、
興奮を抑えられなくて声を出す者がいたとすれば、
狩ることのできたはずの動物を
取り逃がすことになってしまう。
群れの目的を達することが効率であり、
正義である。
群れの目的を阻害する者は、
群れの論理に反した行動をする者だということになる。

効率を群れの目的の達成ととらえ直すと
効率は間違いなく群れの論理となる。

もっとも狩猟採集時代の大半は
効率はそれほど問題にならず、
「妨害か推進か」という程度の
大雑把な問題だったのではないか。
文明が進んでいくにつれて、
オールオアナッシングから
より多くの物を獲得する効率が重視され始めた
ということが、
近年の傾向にも合致して実態を反映しているのではないかと
考えている。

7 パワーハラスメントへの応用

パワーハラスメントの典型として、
同僚の面前で、従業員を罵倒する
という行為類型がある。

同僚は沈黙を守り、
当該従業員は孤立する。
誰も自分を助けてくれず、
不合理な罵倒が職場で是認されていると感じ、
自分の存在が否定されているような危機感を感じる。

なぜ同僚が助け舟を出さないかということについて、
その場にいた同僚から事情聴取をする機会があった。
すると、一様に、
「発言ができる雰囲気ではなかった」
という回答があった。
私は、
「ここでアクションを起こすと
次の標的になるからではないか」
と問いかけてみた。
積極的な賛同というよりも、
消極的な肯定だったということが
リアルな評価だった。

しかし、実態は、
同僚たちは、被害者に対する共感よりも
群れの論理を優先させたという側面もあるかもしれない。

つまり、
パワハラ上司という権威者が
企業の利潤追求という目的を基本として、
それに逸脱したということを指摘するわけだ。
(冷静に考えれば言いがかりであることが多い)
企業という群れの論理に対して
人間の行動傾向として
異議を申し立てにくいという側面があったのだ。

同僚たちは、
被害者が精神的に追い込まれているだろうという認識は持っている。
よく聞く言い訳としては
「でも、上司の言っていることは間違っていない」
ということを言うものだが、
それは群れの論理に迎合していることを
明確に示すものだったのだ。

もっと群れの論理が顕著なことは、
パワハラ上司の取り巻きである。
あるいは、パワハラ上司の上司かもしれない。
人を追いつめても一切否定的なことは言わない。
群れの論理が強烈に支配しており、
「責められる被害者が悪い」
ということを言いだす。

もはや葛藤も生じないほど
パワハラ上司との群れの一体性を感じており、
同時に、被害者と同じ群れに帰属するという意識は
実質的に失われている。

パワハラを予防する一つの方法としては、
発言の内容、目的が企業の理念に沿ったものでも、
例えば同僚の面前で叱責してはいけない
長時間にわたって叱責してはいけない
具体的に業務の改善方法を示さなければいけない
等の禁止事項を増やすことが一つかもしれない。

しかし、根本的問題としては、
共感を閉ざさない方法を構築するべきであろう。
一人一人の従業員の置かれている状況を
自分が置かれているものと把握し、
従業員と共同して問題を解決していく
という姿勢が最良である。

そのためには、
部下は自分の仲間だという意識を徹底することと
上司と部下を分断させるような方針を
会社経営者は下に降ろさないということ
上司の上司が、
上司を飛び越えて従業員の置かれている状況を
把握することを可能とすることだということになる。

8 いじめへの応用

子どもたちの間では
つまらないことが権威になる。
ゲームが特異なことや体が強いこと
漫画の知識があること
スマホを自由に操作できること

子どもたちの中では、
物おじしないで他人に指図する子どもが
気がつけば権威をもっていることもある。

一つ一つの瞬間的な友達同士の娯楽の中で
不用意な権威が発生することがある。

権威は簡単に生まれすぐに消滅する。

しかし、不用意な権威者に
取り巻きができてしまうと、
権威は強力かつ持続的なものになってしまう。

明らかに不当な
権威者の被害者に対する要求によって
被害者が苦しんでいたとしても、
取り巻きは権威者との仲間であることを意識するため、
被害者の苦しみに対して共感することができない。

権威者や取り巻きにとって
いじめは群れを守るための正義なのだ。

ここで被害者が
授業について行けず、
あるいは結果として授業の効率を下げてしまい、
群れの頂点に立つ教師から
効率を害する者
という評価が下ると、
群れの論理は被害者を排除するようになる。

はじめから誰かの悪意が存在しないとしても、
仲間からの除外が起こりうるし、
共感を閉ざす対象が生まれてしまう。

その結果、偶然の攻撃が肯定的に受け止められ、
やがて悪意の攻撃が繰り返されるようになる。
積極的な攻撃とともに重大な打撃を与えるのは
仲間はずれという孤立である。

被害者は、自分が毎日通わなければならない学校という人間集団が
自分の味方がいない人間集団であると受け止めていく。
きわめて不気味であり、
時折繰り出される攻撃が
傷口に塩を塗るような刺激となる。
やはり自分には傷口があるということを
いやがうえにも再確認させられる。

いじめが増えている学校に足りないものは何か。

被害者に対して共感して行動を起こすということである。
嫌がっているから、かわいそうだから
止めるということができていない。

いじめを生み出さないためには
逆回転をする必要がある。
せめてクラスメイトにだけは
共感を絶やさないという
教育、訓練が必要だ。

なぜこれができないのか。

それは、学校の中で、
群れの論理が肥大化しているからだ。

正義、秩序、ルール、効率等が
子どもたちの価値観において優先されている。

子どもという未熟な存在は
これらの群れの論理から
きわめて簡単に
逸脱行動をしてしまうものである。

簡単に多数から群れの論理で
排除されてしまうことになる。
これが現場だとすれば理解しやすい。

一人一人の子どもたちの
短期目標によって順位をつけるということを控えめにして、
共感を占めてして助け合うという行動を
積極的に取り入れるべきだろう。

成績についての一喜一憂ではなく、
人に助けられる喜び、安心感
人を助けることの喜び、感謝をされる喜び
というものを体験させる教育こそ
いじめ防止の特効薬になると考える。

我田引水的にミルグラムを改変してしまったかもしれないが、
折に触れて再学習をするべき
素晴らしい研究だと思った。

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「利己的遺伝子」論批判 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 「利己的な遺伝子」が生まれた経緯

利己的遺伝子論は、ドーキンス博士の衝撃的理論である。
比ゆ的に言えば、進化とはDNAの永続性のための営み
ということになる。

人間も他の動植物もDNAを存続させる乗り物に過ぎない
ということを発表し、
認知学者を中心に衝撃を与えた。

あたかも、フロイトが、無意識を発見した時の
ヨーロッパ知識層が抱いたような衝撃なのだろうと思う。
少しずつ、人間の行動、命の営みが解明されていく
人間の真否性のベールが明かされつつあるその途上の大きな出来事である。

ドーキンス博士は、どうして「利己的な遺伝子」を著したのか。
本文に明示してある限り、二つのことが目的とされている。
群淘汰説の論理的な否定と
人間が時折見せる利他的行動の理由を解き明かすことだ。

群淘汰説とは
進化における環境への適応をする主体を
個体ではなく群だとする。
群、即ち種や集団の利益のために
個体が奉仕することが行われ、
そのような構造の集団は強いため
世の中は自己犠牲をする個体集団の群れが多数となる
というような結論になってしまう。

このような「群淘汰説」は、正面切って正当性を主張されることはないが
形を変えて、素朴に主張されることがいまだにあり、
人々の素朴な正義感に合致するので
見過ごされることがある旨ドーキンス先生は指摘している。

しかし、群淘汰説を否定すると、
個体が群れのために自己犠牲の行動をする理由について
遺伝子レベルでは説明がつかなくなるので、
そのような「利他行為」の説明方法が必要となる。
これが、血縁者の利益、近似遺伝子の利益を図る説や
相互互恵説(将来的なギブアンドテイクの期待)を
生み出す要因となっている。

2 考察の前の確認

私は、利他行為、利己行為という二者択一的な考え方に疑問があるが、
どちらかと言われれば、
利己的行為をすることが生物の基本であると考えている。
比ゆ的に見れば、
利己的行動をすることこそ遺伝子の普遍的法則だと言ってもよいと思う。
それでよいと思う。

ただ、利己的、即ち個体が自分の利益のために行動をすることの意味を
もう少し複雑に把握するべきだろうと考えている。
利己行為と関連付けない利他行為がある
と単純に切り離して考える考え方が、
議論を錯綜させていると思っている。

その説明をする前に、くどいくらいおさらいをする必要性がある。
遺伝子は意志を持たないということだ。
遺伝子を共有する種自体が、環境不適合によって滅亡しているのだから、
遺伝子自体が滅亡しているという現象はありふれて起きてきた。
遺伝子は必ずしも万能の間違いのない行動をするわけでもない。

「利己的遺伝子」と遺伝子に意志があるような比喩を使うのは、
長期間かけて生き残ってきた遺伝子の
法則性に対する比喩である。

しかし、人類が子孫を遺してきたのは
あくまでもこれまでの環境に適応してきたという結果であり、
例えば将来を約束するものではない。
むしろ、人類に関して言えば
自らが作り上げた環境によって、
種が滅びる可能性を高めている状態である。
また、環境への適応という一連の現象は
何万年、何百万年と言いう長い営みの中で生まれるのであるから、
その意味では、現在、我々が生き延びているのは、
現在進行形ではなく
過去の適応の結果を著しているに過ぎない可能性もある。
あたかも光り輝いて見える恒星の映像を
地上で観察しているに過ぎないことと同じである。
実態は既に爆発して亡くなっている可能性すらあるのである。

これをくどくどと確認しないと
比喩が比喩であることを忘れてしまう。

さて、では、人間の利他的行動をどのように説明するか
働きアリや働きバチの自己犠牲の行動をどのように説明するか
人間が生きるということはどう言うことなのか。
われわれの疑問は、実はこういう問題であろう。

3 哺乳類における母親の子に対する利他行動

先ず、典型的な利他行動であるところの
親の子に対する犠牲的な行動については
少し独特の視点から説明することが必要だろう。

ここでは群れを作らない動物の、例えば熊の
利他行動を説明する。
熊は、母熊だけが子育てをする。
父親や祖父母、兄、姉は子育てに参加しない。

母熊は子熊を守るために、無謀な闘いに挑むこともある。
子熊を逃がすために、自己犠牲的な行動に出ることもある。

しかし、これは実は利他行動ではない
立派な利己行動である。

母熊にとって子熊は自分の体の一部であり
自分と子熊の区別がつかない。
懐胎期間中は実際に子熊は母熊の体内に存在し、
有機的に母熊とつながり母親の体の一部を構成していた。
自分の体内から生まれてきた子熊だから
自分の一部であると感じることに何ら不思議はない。

だから、自分とは違う個体に愛情を注いでいるというよりは、
自分の体の弱い部分をいたわっている
という感覚が近いと思われる。
私はそれを愛情と呼んで何ら差し支えがないと思っている。

そのため、子どもが自分とは別異の意思主体であると
種々の事情で認識するに至るや
それまで愛情深く育てていた子どもを
自分の元から遠ざけようとするわけである。
これが「子離れ」である。

これは、誰かが意図してこういう行動や仕組みを作ったわけではない
たまたま、そのような行動をしてきた結果
庇護が必要な時期の子どもが母熊に守られて
遺伝子を継承していくことができたという結果に過ぎない。

この仕組みは、おそらく
哺乳類には、ある程度不変な行動であると推測している。

もちろん群れで生活する人間も
このような遺伝子的行動が見られる。
母親がともすれば、自分の子どもを独立した人格だと認識しきれず、
自分の思い通りに行動をすることを強く求めることがある。
父親の子どもの支配とはまた別な
母親の子どもの支配があるように感じられている。

4 ハチの「利他行動」

ハチやアリの利他行動は、まぎれもない利他行動であるように見える。
ミツバチが、巣を守るために、敵に針を刺し、
針を刺すことによって自分の体を崩壊させて死に至る。
これほどの自己犠牲はないように思われる。

しかし、ハチは、巣を守るために自分を犠牲にしようという
目的をもって行動しているのだろうか。

疑問を言葉にすると
1)ハチは、本当に「巣」を守ろうとしているのか。
自分がいる場所、安住しようとしている場所に、
妨害物が近づいたので、
反射的に攻撃しているだけではないのか。
つまり、匂いや光、風などの
変化に反応しているのではないかということである。
巣を守るための攻撃だと限定してしまうと、
巣の近く以外の場所では、
ハチは刺さないということにもなってしまうが、
これは違うだろう。
さらには、自分が生まれた巣ではなくても、
移された巣になじめば、巣を守るかのような行動をするだろう。
2)次に、ハチは、相手に針を刺すことで自分が死ぬ
という因果関係を把握しているのかということである。
因果関係が把握されてこそ犠牲という評価が成り立つだろう。
もちろん動物の個体であるから、
自らの命を長らえようとする性向があることは当然だと思う。
しかし、ハチは死のうとして行動をしているのではなく、
単に針を刺すという行為だけを決定している
のではないかということである。
それによって、自己という個体が死ぬという結果
までは想定していないと考えられないだろうか。
ハチの因果関係把握の能力も低いと思われるが、
それ以上に、攻撃行動に出るというシステムが
強く働くような仕組みがあるということである。

人間で言えば怒りである。
人間でさえ、怒りで我を忘れて、危険な行動に出ることがある。
 これらの疑問を解消する結論は、
ハチにはもともと自分を生き永らえさせようとする遺伝子があり、
巣のようなものに近寄るものがいた場合に、
自分を守るための攻撃が発動しやすくなるシステムが
遺伝子上組み込まれているという結論である。
たまたまそういう習性をもっていたから、
巣を中心としたコロニーを形成し、
子孫を有効に増やすことができて、
その結果として種が生き永らえてきた
というように考えるべきではないだろうか。
 
ハチは、遺伝子に基づいた行為をする。
基本的には、自分が生き永らえようと努力するモジュールが
遺伝子に組み込まれている。
しかし、外敵が現れた時に反応しやすいモジュールも
同時に組み込まれているため、
自己保身モジュールと外敵反応モジュールが競合する場合は、
後者が優先されてしまうということになるだけの話である。
そのようなモジュールが組み合わされていたので、
現代まで種が存続したということである。

ハチは、巣を守ろうとしているのではなく、
たまたま自分を守る個体の大きな巣の近くで挑発すると
多数のハチが怒りに任せて攻撃してくる
ということである。

ハチは利他的だという前提をおいて、
「ハチはどうして利他的行動をするのだろう」
という問題提起をすること自体に疑問を感じる。
血縁や近似関係等という議論は
特に何らかの有益な効果をもたらすものではないだろう。
血縁や近似関係等は、
そもそも個体の行動原理としてはフィクションである。
遺伝子は意志を持っていない。

5 人間の「利他行為」を導いた環境

 認知心理学者たちは、極めて重要なコンセンサスを持っている。
それは、人間の心はおよそ200万年前に形成されたというものである。
私は、200万年前という年代の特定はできなかったものの、
人間が群れを形成し、
群れの中で一生を終わる時期に形成された心が
現代でも受け継がれているということを主張してきた。
だから認知心理学のコンセンサスには大いに勇気づけられた。
 
なぜそのような心が形成されたかについて、
もっと議論するべきではないかと考えている。
つまり、どのような心が形成されて、
種が存続するためにどのように有利だったのかということである。

 その頃の人間を取り巻く環境は、
氷期でジャングルが減少したことにより競争が激しくなり、
森の木の上の生存競争に敗れて地上に降りて生活をしていた。
肉食獣が多くいたので、
命を長らえるためには肉食獣に対抗する方法が必要だった。
しかし、人間には、馬のように逃げるための脚力はない。
鳥の翼もない。敏捷性も小型動物ほどはない。
闘うための牙もなく、顎の力も弱い。
なんとも生存競争には適さない動物だった。

 このような環境に適応するためには、
群れを作るしかなかった。
比較的大型の動物である人間が集団でいることによって、
リスクを回避する動物である肉食獣は、
もう少し安全な対象を狩ることを志向したはずであるから、
人間は襲われにくい。
立って移動することも実際よりも大きな動物であると
肉食獣に誤解を指せるメリットもあったのではないかと思われるが、

さらに、誰かが肉食獣の攻撃を受ける時に
集団で反撃をしたということがあれば、
肉食獣は一つの個体に攻撃中という
無防備な状態を反撃されてしまうと、
リスクを避けて逃亡したと思われる。

人間を襲うと集団反撃のリスクがある。
「集団でいる時は人間は襲えない」
という記憶が肉食獣の中で形成されていくことによって、
人間が肉食獣によって絶滅しなかったとは考えられないであろうか
(袋叩き反撃仮説)。

 さらに、木の下に降りた段階で、
人間は小動物の狩りをするようになったと考えられている。
当初はハイエナのように死肉をあさっていたが、
集団で小動物の個体を追いつめて
弱ったところを狩ったのだろうと言われている。
この狩りの手法からしても
人間が群れを作ることのメリットが大きかった。

 人間が選択したことは、利他行為をする傾向ではなく、
群れを作るということであった。
あくまでも、群れを作るためのモジュールとして
利他行為と見える行動をしているのであった。
当時の群れを作るための方法は、言葉や道徳ではない。
複雑な言葉が生まれる前から群れを作っていたのである。
だから、群れを作るということは
遺伝子の要請を受けて行っていた
本能的行動であると考えなければならない。
私が考える群れを作るモジュールを説明する。

6 人間が群れを作るために遺伝子に組み込んだモジュール

1) 最も基本的なモジュールは、単独行動をせずに集団の中にいようとするという志向である。誰かの近くにいようとすることだ。この裏返しの表現は、単独になること、仲間外れになることを恐れることである。自分が隣にいる人間から嫌われそうになる、つまり外に追いやられそうになると感じた場合、自分の行動を修正し、関係の修復を図る。自分が追放されそうになった原因を記憶し、繰り返さないということができるようになるだろう。その記憶は、「自分の追放」という危険の認識を伴い、同様の行動をしそうになると、不安感が生まれ、行動を抑制したはずだ。これも、誰かと一緒にいようとする傾向から生まれた行動パターンだと思う。
2) 群れの中にとどまるように行動を修正するために必要なモジュールとして、共感というシステムがある。他者の感情を、自分も追体験して、同じ生理的変化を起こすシステムである。これによって、群れの誰かが危険を感じた場合に、共感によって自然に交感神経が活性化され、逃走や闘争に移行しやすい体の状態が作られる。このシステムがないと、自分の行為によって相手が嫌がっていることに気づくことができない。また、気づいたとしても、嫌がっているからやめようという行為に出ることもできない。共感のシステムによって、相手が嫌がっている ⇒ 相手が苦しがっている ⇒ 自分も嫌な気持ちになるし、苦しい ⇒ 自分が行為をやめることによって相手の苦しみがなくなるので ⇒ 自分も苦しくなくなる ⇒ だからやめようということになる。
   相手が喜んでいれば自分もうれしい。群れに早く帰ろうということにもつながる。
   この共感モジュールによって、袋叩き反撃が可能になるのであす。
3) 自分の近くにいるものを仲間だと感じることも群れを作るためのモジュールである。認知心理学における「単純接触効果」である。わかりやすく言えば200万年前、生まれてから死ぬまで基本的には同じ仲間と暮らしていた。例外として繁殖に伴うグループ間移動という可能性もあると思われるが、その可能性についてはここでは割愛する。群れのメンバーは近くにいるのであるから、仲間という認識を持ちやすい。群れの仲間を仲間だと認識することは合理的である。近くにいれば、その者の喜怒哀楽や感情の程度、因果関係も分かりやすい。共感をしやすくなる。つまり感情の共有ができやすい。さらに仲間だという意識が強くなる。共感が強くなれば、仲間の一体性が生まれる。つまり、自分が仲間と別の人間だということにあまり意味をおかなくなる。徐々に群れを守ることと自分を守ることが区別がつかなくなりにくくなる。
   単純接触効果は、単純なことだが力強い理論だと思う。自分の遺伝子を守ろうとするという法則は、個体レベルでは全く当てはまらない。遺伝子が近いものを守ろうとすることさえ、個体レベルでは何が自分に近い遺伝子化はわからない。遺伝子レベルの話をすれば、人間という種の遺伝子が存続すれば満足するのであって、人間の種類には興味関心を示す証拠はない。逆に人間は他の哺乳類と比べても嗅覚が格段に弱い。この時点で、遺伝子は血縁を維持しようとする志向を止めていると言わなければならないはずである。これに対して、近くにいる者は、見ればわかる。近くにいる者に仲間として共鳴できれば群れを作ることができる。単純なものほど強いと感じる次第である。
   この点区別が必要なのだが、本体的には近くにいるものが仲間なのだけれど、生まれてから死ぬまで基本的に同じ仲間とだけ一緒にいることから、「人間は仲間だ」という感情が生まれやすくなる。喜怒哀楽が共通であれば、つい感情を共有してしまうことになる。これは単純接触効果よりはだいぶ弱い効果であるが、このような付随的な効果が生まれていることには注意が必要である。
4) 弱い者を守ろうとする志向も群れを作るための必須のモジュールである。群れを維持するためには、一番弱い赤ん坊を守らなければならない。そうでなければ、やがて一人一人、死を向かえていき、群れは消滅する。群れを維持させよう、子孫を遺そうとすることは遺伝子の普遍的な特徴である。群れを存続させるためには、一番弱く、現時点では何の役にも立たない赤ん坊を守る志向が必要である。
   この点、当初は母親を中心に子どもを守っていたということは疑いがない。他の動物と一緒である。母親は出産とともに、共感のアンテナを赤ん坊に張りめぐらす。赤ん坊の空腹、不快、その他感情を共有しやすくする。これは赤ん坊の生存に極めて有効なシステムである。
ところが、人間は、母親だけが子育てをするわけではないという際立った特徴を有している。子どもも母親以外の個体の真似をする。母親以外の個体と感情を共有しているのである。
他の動物はそれほど大事にしない赤ん坊を大切にするためにはどのようなシステムが遺伝子に組み込まれているか。それは弱い者を守ろうとするシステム、弱さを理由とする不安や恐怖に対して追体験をしやすいシステムがあるということが合理的であろう。日本語の「かわいい」という言葉は、弱い者、小さいものをいつくしみ守ろうとする言葉である。
赤ん坊だけでなく、傷ついたもの、老いた者、弱い者を守ろうとし、弱い者を守ることを善とする心のシステムはこうして生まれた。袋叩き反撃仮説においても、肉食獣に襲われている絶対的恐怖感を追体験し、わが身の危険を顧みずに反撃に参加するのである。
    だから、空腹の他者に食料を分け与えること、傷ついた他者をかばうこと、弱い他者を助けることは、純然たる利他行為ではなく、弱い者に対する共感によって、自分が苦しんでしまい、この苦しみを解消するための行為なのである。   
 5) 仲間のために役に立とうという志向。共鳴共感が蔓延すれば、自分と他人の区別がつかなくなり、群れと自分の関係も一体的なものと感じる傾向が生まれてしまう。動物の個体の生存を維持しようという志向は、群れの維持の志向と区別がつきにくくなる。
    また、仲間が喜ぶことは、自分もうれしい。その結果、その人間関係を仲間と感じることによって、仲間のための行為をしようとする傾向が高まる。これもモジュールと言えばモジュールだろう。ただ、基本的には、人間が他者の近くにいたい、他者に対する共感をする力があるということから派生したモジュールということもできるかもしれない。
 6) 仲間のための群れを作るモジュールとフリーライダー論
    この点、他者のための行動をする個体が多い中で、他者からの恩恵を受けるが、他者に対する恩恵を与えない個体が増殖するのではないかという、いわゆるフリーライダー論が主張されることがある。
    この理論が、理論上のものだと思う私の立場は、群れを作るモジュールの成り立ちからすれば理解されると思われる。確かに、個体の突然変異などがあり、フリーライダーが得をするという事態は個別の事態としては起きるだろう。しかし、人間が群れを作った経緯からすると、フリーライダーは、そもそも生まれにくい。不労所得を得るためのフリーライダーの志向が生まれるためには、共感による行動習性ができない個体ということを前提にしなければならない。
    このような個体は、幼体から成体になる過程で矯正されたであろうし、強制されない場合は駆逐されただろう。およそ200万年前、人間が生き延びるために必死であった時代は、生き延びることに支障が生じる原因を排除してきたと考えられるからである。それができなかった群れは消滅した。それだけの話である。
 7) 仲間のための群れを作るモジュールと相互互恵主義
    人間の利他行動を相互互恵的行動だと理解する理論がある。これについても私のモジュール論からすれば無駄な議論だということになる。
    そもそも、誰かに親切にするとき、親切にすることが気持ちよいから親切にするのか、後で見返りがあるから親切にするか、現実的にはどうだろうか。見ず知らずの人に親切にしたからと言って、後でその人から親切にしてもらおうということを想定していることの方が少ないと思う。明らかなフィクションである。理論上のものに過ぎない。
    ただ、群れを作るモジュールは、人間の個体に概ね備わっていると考えれば、他者の利益になる行動を共感によって行うことは、利他行動をした個体にとっても他者から利益行為をしてもらえる可能性が高くなる。その意味で結果として相互互恵の関係が生まれるということは言えるかもしれない。このあたりが、遺伝子が意思を持つような表現をした上で議論を進めることの弊害なのであろう。個体としての行動原理と、種としての行動傾向をはっきり区別して論じていないから混乱が起きるのではないかと考える次第である。相互互恵主義の理論が、個体が将来的な見返りないしその可能性を求めて利他行為をするというのであれば、間違いである。遺伝子が、結果として、相互互恵が起こりやすい状況を作ったというのであれば、それは間違いではないだろう。この説明の違いは、モラルとは何か、なぜ人はモラルに従うのかについての説明で意味を持ってくる。
8) 必死さときれいごと
    人間が群れを作るためのモジュールを概観した。現代ではそれはきれいごとであり、絵空事であると思われる人も多いだろう。しかし、200万年前の弱弱しい人間は、こうしなければ生き延びることはできなかった。生きるためのギリギリの傾向だったはずだ。環境に適合した奇跡的な志向を持った人間のグループが、たまたま存在したのだろう。その軌跡がなければ人間は既に滅んでいただろう。このモジュールは、きれいごとというような趣味の世界の話ではなく、環境に適合するための奇跡のモジュールだったのだ。命がけで遺伝子の指示を実践していたのである。
    ところが、現代の人間社会では、大方きれいごとという評価が起こるだろう。どうして、群れを作るモジュールが現代社会では機能しないのかということを説明する必要があるだろう。
    群れを作るモジュール論の最大の問題は、他説ではなく現実である。

7 群れを作るモジュールが機能しない環境
かくして人類は、約200万年前ころ、
人間としての心を獲得していた。
   その特徴として、近くにいる者を仲間だと思い、
仲間が悲しんでいたら一緒に悲しみ、
仲間が苦しんでいたら一緒に苦しみ、
仲間の空腹を満たすためなら自分の食料を提供し、
仲間のためならばわが身を投げ捨て闘う、
仲間の中でも一番弱い者を助けようとする。こういう心である。
   
私は、基本的には、
現代人にもこれらの心のシステムは受け継がれていると思っている。
現代人が「善」だとか「正しい」とか、「道徳的だ」という場合は、
この遺伝子に組み込まれた心のシステムで実感している。

また、逆に、自分がこのように扱われていない場合には、
精神状態を圧迫して、極端な場合、精神破綻や自死に至るのである。
   しかし、現代社会においては、
フリーライダー論が幅を利かせているように、
このような心が人間の本性だということは、
きれいごとだと一笑に付されることの方が多いかも知れない。
  
 それでは、最大の問題の所在である現実、
他者に対して過酷な行為をする現実、
他者への共感を峻拒するような現実、
戦争からいじめ虐待まで、
本来人間の心からは起こりえないと思われる現象が
なぜ起きる現実を説明しなければならない。
  
 一言で言えば、環境の変化である。

同じことは私たちの体にありふれたものとして起きている。
  200万年前頃、糖は、手に入りにくいものであった。
私たちの体は、その頃の環境に合わせてデザインされている。
糖が口に入ればおいしいと感じ、糖をなるべく多く摂取しようとする。
また、エネルギー源として使うため、
安易に排出せず、体内で蓄積しようとする。
ところが現代では、安価で糖を窃取できるため、
このような糖欠乏に備えたシステムがあだとなり、
糖尿病などの生活習慣病を起こす原因となっている。

虫歯にしても、炭水化物もとらず、
口の中で時間をかけて咀嚼しなければならない物を
食べていた時代は唾液で分解されるために
虫歯にはなりにくかったとされている。
このような環境の変化に対しての不適合はありふれて起きている。
  
 心の問題も環境に対する不適合で説明するべきであると考えている。
  
心の問題に対して影響を与えた環境の変化とは、
人間の群れの形態の変化である。
これは、人間自身が自分たちの環境を変化させたことになる。
現代は200万年前と異なり、
一人の人間が複数の群れの中で生活している。
家族、学校、会社、地域、趣味のサークル、SNSの仲間と
継続的な人間関係に所属している。
または、国家、社会という広い人間関係の中にも存在している。
病院や弁護士、小売店など、
短期的限定的な人間関係を形成することもある。
さらには、学校や会社にも派閥みたいな内部集団を形成する場合もある。

   200万年前は、一つの集団で一生を終えたため、
   仲間を気遣うことで問題は解決していた。
   しかし、今は複数の仲間がいること
   どちらかの仲間の利益を追求すると
   別の仲間を不幸にしてしまうということが起きてしまった。

   同じ場所にいるのに、
   利害対立するような関係になることがある。
   
   徐々に仲間を大切にするということが
   非常に複雑なものになり、
   すべての仲間を大切にすることが不可能なことになる。
   こうして、一緒にいる人間が
   必ずしも仲間ではなくなり、
   一緒にいる人を大切にしないということが始まった
   ということになる。

   仲間を超えた普遍的な正義や道徳は、
   時として仲間を許さない理由として
   使われることになる。

   群れが代替可能なことから
他者といても安心できない心が生まれ、
   疑心暗鬼を蔓延させる
   自分を防御する意識は
   時折先制攻撃を引き起こす。

   これが原理である。

   あとは、この原理に乗って、
   人間の社会的病理を各論として説明できるはずだ
   ある程度は、この観点から
   社会病理を説明しても来た。

8 人類という大きな群れを形成する可能性について

人類はこれからも
同じ人間を傷つけては殺し、
益々人間関係が希薄、かつ殺伐とさせて、
自己の利益のために地球を滅ぼすのだろうか。

私の考察は、
社会や国家という人間関係や
国家間の関係を論じたものではない。

一人一人の人間の行動を取り上げたものである。

しかし、
人間が、遺伝子から独立した思考をすることができるとすれば、
その幸せを追求するために
異なった群れ相互の間にも
人間として利益が一致することに気が付くはずである。

IT革命や交通手段の発達は、
また、環境問題や移民問題は、
世界を一つの群れとして扱う可能性を強めている。
群れ相互の共存の方法を見つけ出すことができれば、
無駄な争いは減少していくだろう。

克服するべき課題は多くても
人間にはその可能性があるものだと
理論上は導き出されている。

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従業員のモチベーションをあげる方法 パワハラ型労務管理から学ぶ [進化心理学、生理学、対人関係学]

前々回お約束していたお題です。

案外簡単だけれど、
現在の企業の常識に反するため
なかなか実行しようという気が起きない盲点かもしれません。

ブラック企業やパワハラ現場では
どんどん士気が下がり、
従業員は叱責を恐れて言われたことしかしなくなります。
あれもこれも叱責ならば
度の叱責を選ぶことが一番つらくないかという発想になり、
ごまかすこと、こっそり手を抜くことが上手になり、
他人の足を引っ張って自分を守るなんてことにも
抵抗がなくるわけです。

1+1が2に達しない状態ですから、
当然生産性は落ちていきます。
それを補うために労働は過重になって行くという
典型的な悪循環が生まれているわけです。

このような職場は、
従業員には、いつまでも一緒に仕事をする仲間だとは見ていません。
消耗したら交換しようという行動になっているわけです。
当然従業員達も、
自分が仲間として尊重されていない
ということに気が付いています。


会社は、自分を守らないとわかっているのだから
会社のために頑張ろうという気持ちなど
どこからも出てくるわけがありません。
これは理性的な結論ではなく、
人間の本能による思考、行動傾向ですから
どんなに利益誘導しても失敗する確率が高くなります。

また、
会社が自分を守らないという観念は
居心地が悪くなります。
会社にいることに不安を感じてきます。
危険を感じているのです。

野犬のいると知らされたエリアをさまよっているようなもので、
危険に敏感になり、
常に逃げる準備をしています。
交感神経が活性化されて生理的な反応が生じている上
複雑な思考ができなくなります。

複雑な思考とは
少し離れた将来の予測
因果関係の把握
数字に寄らない形而上学的な思考
他人の感情の推測です。
単純ミスも起きやすくなりますので、
およそ仕事にはなりません。

マニュアルをこなしたり、
言われたことを忠実にやったり
つまり機転が利かなくなりますから
およそ仕事にはならないでしょう。

これが1+1が2以下になる原因にもなっています。

これの逆をすれば従業員のモチベーションは上がり、
会社のために
という発想が生まれてくるわけです。

つまり、
会社は自分の所属するべき群れだ、
「私たち」と自然に考えることができる状態にすることです。

従業員を尊重すること
仲間として扱うこと
これをすればよいわけです。
どうすればよいか。

人間は、他の動物と違って、
群れに帰属しようとする本能があります。
自分が所属していると思っている群れのなかで
所属に障害を感じると不安になります。
これが、居心地の悪くなる危険の正体です。

帰属に不安がある場合は
群れに協調しようという圧がかかります。
同じ服を着たり、似たような髪型をしたりと
個性を殺そうとします。
実際は、人間は人間であると同時に動物ですから
個性を殺すことに苦しさがあります。
自分のことは自分で決めたいというところが動物としての基本です。

ここからの結論として、
居心地の良い職場というのは、
自分の帰属が承認されている職場ということになるでしょう。

帰属の障害事由であると考えてしまう事由があっても
帰属の障害にならないという経験の積み重ねが
帰属の承認につながるわけです。

先ず個性、つまり他人との違いがあっても
帰属の障害事由にならないということを感じさせることです。
個性を承認すること、一人一人として尊重することです。

最低限名前を覚える
様々な職務遂行上必要な属性を把握する
ここで障害になるのが個人情報ですが、
履歴書などで提供された情報は把握しましょう
また、上司でなければわからない情報は
他の同僚の前では決して口外しないという姿勢を明らかにしましょう。

経験スキルを把握し、適切な人員配置をする
苦手だけど必要なスキルアップは慎重に求める
結果を求めるならば、結果に至る道筋を提案すること

スキルアップが必須でないのならば
特異の分野をやらせて、活かし、
苦手はカバーすることが良いわけです。

個性以外の帰属の障害事由が
欠点、不十分点、失敗です。
これが出て来たらモチベーションアップのチャンスです。

決して感情的にならない
失敗に対しては、対策を細部まで構築する
失敗の大きさを示す方法は
叱責ではなく、
対策の徹底です。
対策をたてなければならない、真剣に立てなければならない
程重大な失敗だということで示すわけです。

そしてその失敗を個人責任としないで
上司の徹底的な指導という形で
連帯責任とする。

指導の上で、主体の能力修正が図られれば
挽回のチャンスを与える。

例えば行為方法で仲間として尊重されている職場
ということが実感できるわけです。

また、特定の個人だけそういうことをするのではなく、
誰かが失敗しても尊重されていることを見るだけでも
自分の職場という誇りを持つようになります。

失敗を恐れなくなるし、
マニュアルの内容ではなく
なぜそういう行動をするべきかということまで
考えが及ぶのですから
機転も効くようになるわけです。

叱責されている人がいる職場から
助け合い、皆で一体となって仕事に当たっている職場に
転換することはそんなに難しいことではありません。





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プロスペクト理論の「原理」と対人関係への応用 ひき逃げの心理等 [進化心理学、生理学、対人関係学]

ノーベル経済学賞を受賞した認知心理学者カーネマン(Kahneman)先生と
トゥヴェルスキー(Tversky)先生の
プロスペクト(予想、見通し)理論というものがある。

結論からいうと、
人間は利得(gain)の文脈ではリスク回避の意思決定をする傾向にあるが、
損失(lose)の文脈ではリスク指向(risk seek)の意思決定をする傾向がある
というものである。

これは実験をもとに理論化されている。
二つの選択肢のどちらを選ぶかというものである。

実験1
まずあなたが現金300ドルを贈られ、あなたの全財産がその分増加した
と想像せよ。
その後あなたは次の2つの選択肢から選ぶよう求められている。
A;確実な100ドルの利得
B;50%の確率で200ドルの利得、50%の確率で何の利得もない

実験2
まずあなたが現金500ドルを贈られ、あなたの全財産がその分増加した
と想像せよ。
その後あなたは次の2つの選択肢から選ぶよう求められている。
C;確実な100ドルの損失
D;50%の確率で200ドルの損失、50%の確率で何の損失もない

カーネマンらの実験の結果は、
実験1ではAを選択した者が多く、72%
実験2ではDを選択した者が多く、64%
とのことである。

そこで、利得の文脈(実験1)では、確実さを求めるのに、
損失の文脈(実験2)では、ギャンブルに出るという結論となった。

おそらく心理学の分野では、
プロスペクト理論という結論が明らかになれば、
あとは、それを現実に適用したり
現象を説明するときに、プロスペクト理論だという
ことに勢力を向けるのだろう。
特に臨床心理の場合、事象の説明としての理論が多いように感じる。

対人関係学は、どうしても、
なぜ、そのような傾向を人間が持つかということを考えてしまう。
着目するのは、損失の文脈である。
Risk seek という英語の訳、ニュアンスの問題もあるけれど、
私は、リスクを指向するという表現は、不十分だと思う。
なぜリスクを指向するような結果になるかということを
もっと考えてみてしまう。

人間の行動傾向や脳の構造は、200万年前に成立したという
認知心理学の前提に立って考える。
経済的損失は、狩猟採集時代の当時は、
端的に「危険」を意味しており、
まず、これを生命身体の危険として考え始める。
プロスペクト理論の事例の損失の文脈を
危険が迫っているときに、どういう選択をする傾向があるか
このように言い換えることができるとする。

すると、危険を回避しようとするときに限って
ギャンブルにでるということになると
違和感が出てくるだろう。
もっと別の言い方があるのだと思う。

即ち、人間が危険に直面した場合、
人間は、可能性があるのであれば、
危険をゼロにしたいと思い、
ゼロにする可能性のある行動を選択してしまう
ということなのではないだろうか。

そして
危険をゼロにしようとするあまり、
その危険ゼロ行動をした場合に生じてしまう
新たな危険については、正当な評価ができなくなり、
あるいは正確に想定できなくなり、
あまりに気にしないで当初の危険を回避しようとするのである。

心理的には
当初の危険を回避したいという意欲、欲求が大きくなりすぎて、
回避行動によって生じる新たな危険に気が回らなくなる
あるいは過小評価をしてしまう
ということなのだろう。

この理論の行動ですぐに思いつくのはギャンブル依存症だ。
例えばパチンコで3万円損した人は
損を取り戻そうとしてさらにパチンコをする。
また、損をするだろうことはきちんと評価をすることはできない。
買って損を取り戻すことを強く想定してしまい、
お金をつぎ込んでしまう。

これは、自分の損という個人的文脈だけでなく、
仲間の損害を回避しようとする際にも起こる。
例えば、200万年前の人類が
仲間が肉食獣に襲われているとき、
仲間を助けようとすることに集中するあまり、
自分がけがをしたり食い殺されたりということを
あまり考えずに仲間を助けようと攻撃参加するという
私の袋叩き仮説そのものでもある。

ネット炎上、いじめ、クレーマーの由来、200万年前の袋叩き反撃仮説 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-19

さてこれまで危険を身体生命の危険として説明したが、
人間が感じる危険は、対人関係的危険というものもある。
生命身体の危険がなくても、
仲間(対人関係)の中で、自分が仲間として扱われなくなる危険でも、
身体生命と同様の危険に対する生理的反応をしてしまう。
交感神経の活性化を中心とする生理的反応だ。

例えば、失敗して職場に迷惑をかけるとか、
うっかり友達を攻撃してしまい、クラスの顰蹙をかったり、
批判されたり、叱責されたり、嘲笑されたりして、
将来的に自分が仲間から排除されたり、
仲間から攻撃されたりすることにつながると感じる事態が
対人関係的危険を感じる事態である。

対人関係にこそプロスペクト理論が当てはまる。

犯罪の多くが危険を回避しようとして
新たなより深刻な危険を引き起こすことによって起きている。
例えばひき逃げである。

自分の運転する自動車で他人を轢いてしまった場合、
被害者を救助する義務がある。
これをしないのがひき逃げであり、
罪が一つ増えるだけでなく、それ以上に刑罰が重くなる。
それにもかかわらずひき逃げは起きる。

ひき逃げをする者が感じている危険は対人関係的危険である。
それまで犯罪とは無縁の生活をしていたのに、
逮捕され、犯罪者とされてしまう。
それによって、社会の中での立場が悪くなるだけでなく、
職場での排除が起きたり、家族にも顔向けできなくなる。
まさに対人関係的な危険を感じてしまう。

ひき逃げをする人は、
できることならこのような危険をゼロにしたい
つまり、犯人として発覚しない方法があるならばそうしたい。
というリスクをゼロにしたいという強い欲求を抱く、
そのリスクゼロにすべての神経を集中してしまうあまり、
自分が事故を起こしたことがほぼ確実に発覚することや
発覚して刑が重くなるという
新たなリスクを正当に評価できなくなってしまう。
ますます対人関係が悪くなるというリスクが見えなくなる。

こういう心理構造でひき逃げという行為が起きてしまう。

犯罪に至らない場合でも
例えば、何点か商品を購入してお金を払う段で
自分が計算を間違ってバツが悪くなり、
店員の計算の仕方に文句をつけたり
説明が悪かったなどと逆切れするのも、
自分の計算間違えというバツの悪さをなかったことにしようとして
クレーマーとか人格的問題という新たなリスクを背負ってしまう
プロスペクト理論が当てはまる。

家庭でも、何か小さい声で話している家族が
自分の悪口を言っているのではないかと勘違いをしてしまい、
不機嫌になったり、怒り出したりして
嫌な思いをさせてしまうということがある。

対人関係にこそプロスペクト理論がぴったりとあてはまる場面が多い。
対人関係を悪くしないためにこれを頭に入れておくことは
とても有益である。

おさらい
「対人関係におけるプロスペクト理論」
当初のリスクを避けようとすることに夢中になってしまい、
回避行動によって生じる新たなリスクを十分想定せず、
案の定新たなリスクを発生させてしまうこと。

身体生命の危険ではそうすることはできないが
対人関係的危険の場合は、
自分を捨てる、危険に我が身を晒すということが
危険を最小限にする可能性があることを
頭に入れておく必要がある。

2018年9月26日追記

わけあって、一日中役所に詰めていなければならず、
かつ、弁護士の仕事ができないという事情から
スタノビッチ先生のkeith E.stanovich
「現代世界における意思決定と合理性」
Decision Making and Rationality in the Mdern World
を読んでいたところ、

プロスペクト理論について、
損失に対してリスク指向的である理由として
人々は完全な損失を回避する機会を持ちたいという考えを好む
という説明がなされ、
プロスペクト理論から派生した
保有効果(emdowment)は、損失回避(lose aversion)に由来する現象だ
との説明もなされていた。

あたかも私が発見したような表現が1行なされているが、
単なる勉強不足であったことが露呈され、赤面の至りである。

本家カーネマン先生を読んで理解が不足していたところを
スタノビッチ先生を読んで学ぶことができたということになる。

スタノビッチ先生の二重意思決定モデルを
カーネマン先生から学んだことを思い出す。
自分としては、この学習結果はとても気に入っている。
勉強とはとても面白いと思った。
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なぜ「人権派弁護士」は誤りを犯すか。福岡殺人教師事件、長野殺人告訴事件、吉田ますみ氏のルポを題材として  共感チャンネル理論1 [進化心理学、生理学、対人関係学]

現在、版を重ねて事件後の追録を載せて、
吉田ますみ氏の新潮文庫「でっちあげ」が
平積みで売り出されています。
この事件は、福岡市の中学校の教師が
生徒を差別して自殺教唆をした
全国の初の教師の生徒に対するいじめ事案ということで、
マスコミでセンセーショナルに扱われ、
裁判にもなっています。

しかし後に、そのほとんどが虚偽事実に基づく
ものであることが明らかになったのですが、
数百人の弁護士が虚偽の事実に基づいて
教師を攻撃した保護者の代理人に名を連ねた事件です。

長野県の事件は、高等学校の事件で、
不幸にも生徒さんは自死をして亡くなっています。
テレビドラマ「明日の約束」のモデルになったと言われている事件です。
吉田氏の「モンスターマザー」新潮社で
詳細なルポルタージュを読むことができます。

この事件でも、民事訴訟が提起されているのですが、
1審判決で生徒の自死の原因は学校にはないとされ、
控訴が取り下げられるという経過をたどっています。

いずれも弁護士がかかわっている事件です。
それも「人権派弁護士」と言われるまじめな弁護士が
虚偽の事実に基づいて
結果的には罪のない人を追い込みました。

なぜこのようなことが起きたのか、
考える必要があると感じました。

ところで、唐突ですが、
私は人権派弁護士とは呼ばれたくありません。
弁護士は人権擁護と社会正義の実現のための職業ですから、
「人権派弁護士」というと、冷たい氷とか、飛ぶ飛行機のように
屋上屋を重ねた表現になってしまいます。

ことさら何かを強調したいけれどはっきり言わない
そんなもどかしい違和感もあります。

ただし、
半世紀前の偉人とも呼べる弁護士が
人権派弁護士だと言われていたことは理解できます。

当時は、(半世紀前)
人権を侵害する主役は国家であるということが
強いコンセンサスがあった時代です。

冤罪事件を典型として、
人権侵害をする国家権力と
人権侵害をされる少数派の個人
という風に図式化できたようです。
戦前の思想弾圧等の残像が強かったという事情もあるでしょう。

ポイントとしては
加害者対被害者という二項対立の図式の中で
弱者保護のために徹底した反撃をする
これらができることが正義だったということになると思います。

時を下っていくと、
このような図式が曖昧になってきます。
人権侵害をするのが巨大企業だったり、マスコミだったり
国家や自治体によって、人権救済ないし
人権の普及啓発活動が不可欠なものとして行われるようになっています。

また、一般の人同士が
インターネットによって第三者を巻き込むことによって
加害者と被害者が入れ替わることがおきることもある時代です。

単純な二項対立による事案の理解と行動では
紛争が拡大していくだけで、
罪もない人たちが損害を受けるということも
多くなっています。

例えば学校で、
二つの事件のように
教師がした行為に見合わない
苛烈な制裁を受けるということは
私も現場で目撃をしています。

例えば家庭の中で、
暴力も脅迫もないのに
精神的DVを受けたということで、
夫が公権力によって
いわれのない不利益を受けるということも
また多く目撃しています。

この私の記事の内容は、
そういういわれのない加害行為に関与する
弁護士を批判する結果となってしまうのですが、

ルポに出てきた弁護士や
人権派弁護士を批判することが目的なのではありません。

むしろ、吉田氏のルポに登場する弁護士の中には
人格や仕事ぶりにおいて、今なお敬愛する先輩もいらっしゃいます。

私自身、弁護士になりたてのころは
他者から見れば人権派弁護士に映っていたこともあったでしょう。

だから自分への自戒を込めた考察であり、
自分たちすべての弁護士に起こりうる事柄として
エラーを防止するという目的の元考えたことを述べるものです。

ちなみに、ウィキベディアの人権派の項目については
早急に修正が必要であるということもついでに述べておきます。

さて、二つの事件は、共通の要素があります。
先ず、
ほとんど(全く)落ち度がない教師が、保護者から攻撃される。
攻撃は虚偽の事実を作出して行われる。
マスコミがそれを取り上げる。
保護者に弁護士がつく。
裁判になる。
保護者の主張の大部分は裁判によって否定される。
ということが根幹です。

その他に、
保護者の加害行為の論拠として
資格のある医師の診断書が提出される。
その診断書の信用性は裁判によって否定される。
保護者側でかかわった人たちの反省の有無や内容は不明
ということも共通しているようです。

なぜ人権派弁護士、マスコミ、医師は、
攻撃者の虚偽の主張に加担したのでしょうか。

間違いをした3者に共通の要素があります。
それは正義感であり、弱者保護の意識です。
これを増強した要素はそれぞれの職業によって異なります。

マスコミは、
弱者保護を名目として強者を攻撃すること
しかもこの図式を分かりやすく提示することで
国民受けが良いこと、部数や視聴率を増やすことを
よく知っています。

私の依頼者に対する報道などを見ていると
この図式を鮮明にするために
実際の細かい事実関係は削ぎ落して
容疑者に不利な部分を強調して報道するし、
独自に裏をとることなく一方の主張(警察発表)を報道する
ということがあるように感じています。

医師は、職業柄
目の前に来ている患者の保護が職務内容です。
診断基準に適合しない診断書を作成することによって、
第三者が傷つき、損害を被っても
その傷つく表情を想定することができません。
だから、医学的知見に基づいていない診断書の作成については、
それによって傷つく第三者が制御因子にはならないようです。

医師に関して、二つの事件に共通することは、
いじめられたとする少年本人の話ではなく、
母親の話をもとに診断しているということにあります。
医師は他人の話を信用しやすいという
育ちの良さも要因にあるのかもしれません。

問題は弁護士です。
およそ人権派弁護士が、
依頼者を増やそうとして無理筋の事件を
記者会見までやってやろうということは実際はありません。
また仕事柄、依頼者と対立する相手方の存在は
容易に想定できます。
紛争解決のためには細やかな想定をしなければなりません。
弁護士にはマスコミや医師の弱点がないはずなのに
どうして、事案を誤るのでしょうか。
ここが一番のテーマです。

それは、半世紀前は正義であったところの
二項対立、つまり世の中には加害者と被害者がいるという世界観
保護のための徹底攻撃
という人権派弁護士の美徳が災いしているのだということが
私の結論です。

説明のための補助線としてある理論を紹介します。
共感チャンネル理論というものが
現在構築されています。
簡単に説明すると
人間が他者の心情に共感できる能力は
極めて限定的であること。
対立する一方に共感してしまうと
対立する相手に対する共感チャンネルが閉じてしまい
あくまでも敵対する者だという認識が固定してしまうこと。
共感する対象を保護することを第一と考えてしまい、
保護対象の弱点は見ないようにし、
見てしまっても都合よく解釈しなおしてしまうこと。
敵対する相手に関してはその者の利点は見ないようにし、
弱点の情報だけを集めてしまうこと。
そして、敵か味方かという根本的態度決定は
非論理的に直感によって、一瞬で決められてしまうこと。

概要このようなものです。

そして共感ということは、最近の脳科学の成果を踏まえると、
対象者の感情を理解することというよりも
対象者と同じ感情を抱くということらしいです。
もっと厳密にいうと、
対象者が置かれている環境、
特に感情を動かす要因となる環境に
自分も置かれているように感じ、
同じような反応をすること
ということになるようです。

普通の人間は、
自分が窮地に立たされた場合、
何か言い訳を探したり、
窮地に追い込んだ相手に反撃して
窮地を脱しようとします。

おそらく人権派弁護士は、
自分が窮地に立った場合なら
言い訳したり逆切れしたりしないで
正々堂々と謝罪するなどして対処するのだと思います。

しかし、自分の依頼者が保護するべき弱者だと認識してしまうと、
保護すべき弱者の環境を共有してしまい、
自分の窮地の場合はしなかった
言い訳を探したり、逆切れして反撃してしまう
こういう現象が起きてしまうのだと思います。

その前提として、どうしても正義感が発動する時は、
二項対立の世界観が前提となってしまい、
弱者に対する保護感情を抱いてしまうと、
自動的に弱者を追い込んだものを探してしまい、
その者を加害者として敵対感情が募ってしまうようです。

あとは、共感してしまった弱者に都合の悪い事情は薄く、
加害者の都合の良い事情も薄く、
弱者の都合の良い事情は過度に濃く、
加害者の都合の悪いところも過度に濃く
評価してしまう図式にはまり込んでしまうようです。

この事件は正義のための事件だとか
社会的に意義がある事件だとか言って
報酬をもらわないとか、
報酬をごく少なくして事件を引き受ける場合が
人権派弁護士にはありがちですが、
そういう事件こそ要注意な事件になるわけです。
共感が強くなりすぎてしまい、
依頼者の不正に加担している可能性がある事件類型だ
ということになります。

吉田氏のルポでは、弁護士が
不利な証拠を事前に見ないままで事を起こしたような記述もあります。
事案をよく知らないで多くの弁護士が代理人になった
ということも紹介されています。
うっかりすると私の名前もあるかもしれないし、
私の知り合いの名前は多数あるでしょう。

全く見なかったかどうかはともかく、(それはないと思う)
十分な検討ができていなかったことは事後的にはよくわかります。

私も大先輩から(この方は押しも押されもせぬ人権派弁護士ですが
おそらく誤りをしないタイプのスーパーマンです。
半世紀前の人権派弁護士はこういうタイプが多く
現代の人権派弁護士とは少しタイプが違います。)

依頼者が困った困ったと
盛んに窮状を訴える事件は注意するようにとか
逆に感情移入できないからといって事件を選ぶなとか
結論としては、共感チャンネル理論に基づいたような
アドバイスを受けたことを思い出しました。

冷酒とオヤジの説教は後から効いてくる
とはよく言ったものです。

感情移入による誤りを防ぐための方策をまとめます。

1 二項対立の図式で人間関係を見ない

一般の人同士の対立の場合は特にそうなのですが、
正義と悪、加害者と被害者
という図式ではみてはならないのでしょう。

学校悪、生徒善という図式が本件ではできてしまったのですが、
それは結果としてそうなるかもしれませんが、
慎重な評価を踏まえなければならないでしょう。

もっと複雑なことはDVや虐待です。

例えば夫をDV加害者にしたり
親を虐待親だと決めつけることは
実際の出来事をリアルに見ることを不可能にしてしまいます。

一番の問題点は
結局誰も救われなかったということになることです。
目黒事件については、
多くの善良な人たちが、
虐待死を防ぐためだと言って
家庭の中に警察や役所の介入の余地を広げることを
どさくさに紛れて推進してしまいました。

そのことのデメリットなど
何の検討もしていないのです。

2 敵だと思う人間に共感チャンネルを開く

当初は、自分の依頼者に対する共感チャンネルを
絞って狭くするということを考えていたのですが、
なかなかそれは難しいことです。

むしろ相手に対する共感チャンネルを開くことが
実務的な対処方法だと思います。

どうしてあの人はこういうことをしたのだろうか
あの人なりの合理性とは何か
ということを考えることです。

これは、しかし、
勝負事一般の鉄則だと思います。
相手の立場に立って、相手が何を考えているのか
ということを推測することによって、
相手の弱点を打つということですから、
勝利にとって必須の思考でしょう。

対人関係的には勝ち負けは入りませんが、
解決に向けての王道になることも間違いないと思います。

敢えて敵に共感してみるということです。

これは、その時の勝負だけでなく
トラブル予防にも大きな効果が期待できます。
相手に賛成することは必要ではありません。
「ああ、そういうことを考えてしまうことも
 あるのかもしれないな。」とすることが理解です。

これは通常の弁護士ならば経験があることです。
刑事弁護がまさにこれです。
罪を犯した人がなぜ罪を犯したのか
これが理解できなければ刑事弁護は始まらないかも知れません。

この二つが当面の戦略です。

余談ですが、
福岡の事件の場合、弁護士が謝った原因の
大きな要因が、
クレームに対する校長や教育委員会の対応のまずさです。

事実関係を曖昧にしたまま
とにかく激しいクレームを抑えようと
いい加減な事実認定をして謝罪をさせています。

この結果傷ついたのが
当の生徒本人であり、
その一部始終を見ていた同級生たちでした。

教育委員会の不十分な事実認定は
判決にも影響を及ぼしています

私もクレーマー対処法などの講演をするのですが、
毅然とした対応は
クレーマーに対する共感チャンネルを開いたところから
始まるものです。
自己防衛が最初に来てしまうことは
判断を誤ります。


このお話はいずれまた。

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正義はなぜ怒りを伴うのか(1)部活動をさぼったことによる怒りの考察 [進化心理学、生理学、対人関係学]


例えば、不慣れな道路を運転する人が
一方通行の道に逆走の形で入ってくると
優しく注意する人もいますが、
鬼の形相で正面衝突せんばかりに
攻撃をしてくる人もいます。
確かに危険な運転ですが、
よろよろと走っている場合は
逆走だと知らせればみんな改めるので、
それほど怒りを大きくする必要も
ないのではないかと思うことがあります。

この場合の怒りは
誰かが危険な目にあうからということではなく
交通ルールを破ったことに対して
抱いたようです。
いわば正義の怒りです。

今回は、
ルールを破ったことによって
具体的な誰かが直接具体的な不利益を受ける場合は
除いて考えています。
例えば、不正入試で入学をして
その結果正当な誰かが不合格になった
という場合は除くということです。

実際のいじめの事件で報道されていたものの中に
部活動に参加しないということで
非難されて攻撃されたというものが
けっこう目につきます。

この時、ラインなどで欠席者を攻撃した
生徒さんの心理こそ
ルール違反に対する怒りによるもの
ではなかったでしょうか。

なぜ彼らは怒ったのでしょうか。
怒りに任せてラインでの攻撃を加えたのでしょうか。
このラインの書き込みは、報道によれば、
どうして部活に出ないのだという
比較的穏当なものもあれば、
屈辱的なコラージュを作って添付した
というものもあったそうです。
それをグループ全体が閲覧し、
誰も止めるものがいなかったようです。

彼らは、怒りという感情に支配されていますから、
相手を倒そうという目的を追求してしまう傾向にあります。
その結果、いじめ被害者の感情をおしはかって
こういうことをするとかわいそうだからやめようとか
ここまでやるのはやり過ぎだからやめよう
等という、
共鳴共感による自己抑制が効かない状態になっています。
気持ちがつながるチャンネルが閉じられている
ということになります。

怒りとは、もともとは、
危険に対して攻撃することによって
危険を無くそうとするときの感情ですから、
何らかの危険、
生命身体、財産、名誉、感情が害されそうになっていること
を感じて発動されることが元々の人間感情です。

そして自分の危険だけでなく
仲間と感じる人間の危険に対して発動される場合も多く、
どちらかというと、この方が
容赦ない怒りになる傾向があるようです。

しかし、部活動に来ないというルールが破られても
誰の危険も生じません。
ルールを破るという本人だけが
もしかしたら不利益を受けるかもしれないくらいです。

どうもルールを破ることから
正義に反する行為だということになり、
それ自体が怒りを産んでいるように感じられます。

そしてこの怒りは、
仲間の誰かに言われなき不利益を与えた場合と
同じような容赦のないものになっているようです。

なぜ怒るのか。

当たり前ではないかという人もいるかもしれません。
ルールを破った人に対して怒りを覚えるのは理屈じゃない
とイライラしている方もいらっしゃるでしょう。

しかし、
感情というシステムは、特に怒りという感情のシステムは、
人間が生きていくために必要だから
あるわけです。
怒りの感情は攻撃によって危険を除去する場合の心の状態ですし、
恐怖の感情は逃走によって危険を除去する場合の心の状態です。

そう考えるとルールを破ったことによる怒りも
自分に対する危機や
仲間に対する危機を感じているのでしょうか。

一つの考えとしては、
進化の過程で正義が破られるとき
怒りの感情を持つようになった
という説明があり得ると思います。

進化心理学は、人間の心理は、
約200万年前の狩猟採集時代に形成された
と考えています。
この時代から脳があまり変わっていないからです。

200万年前は
原則として死ぬまで同じ群れで生活していましたし、
仲間の人数もそれほど多くなく30人から150人程度といわれており、
このくらいの人数なら、言葉が無くても
誰がどんな性格をしていて、どういう行動傾向にあるかわかるので、
感情移入がしやすい状態だったでしょう。
また、交換のできない運命共同体ですから、
仲間を大切にしたと思います。
それが結果として自分を守っていたわけです。
ルールというものを作らなくても
仲間を出し抜いたら、
仲間がかわいそうだという意識を持ち、
秩序も公平も保つことができたと思います。

多少感情移入する能力が足りない個体が生まれても、
教育の中で是正していったと思います。

しかし、どういう拍子かに
他人に感情移入することのできない個体が生まれ、
教育がうまくいっても心がついてこなかったため、
自分の利益のために仲間のもの
例えば食料を自分で食べてしまうことが
多々あるような個体が生まれた可能性があります。

これが続き、被害が重大になれば、
他の仲間は、不利益を受ける仲間を救うために
感情移入できない個体に怒りを感じます。
こうなると、当時であろうとも、
感情移入できない個体には
仲間というチャンネルが閉ざされますから、
仲間だと思わず、
人間に襲い掛かるクマや虎のような扱いとなり、
容赦なく攻撃を加えて群れから排除をしたでしょう。

しかし
この行動原理は正義を破る、ルールを破るところから来るのではなく、
不利益を受けた仲間の危険を除去する
という古典的な怒りのパターンだったはずです。

時を下って
農業が起ころうかという頃になると、
人口も増え、集落も大きくなり、
集落間の協力やいざこざも勃発しますから、
一生涯で出会う人数もどんどん多くなって行ったでしょう。
こうなると、感情移入や共鳴、共感だけでは
秩序は成り立たなくなるはずです。

集落の中に派閥みたいなものができたり、
集落間の争いになれば、
自分のグループを守るために
隣のグループを攻撃するという
きっかけが生まれてしまうからです。

仲間を守る
ということだけでは
解決がつかなくなるわけです。

そこで、大集団を規律する決まり事が生まれるわけです。
共存のためのルールということになります。
最初は、殺すなとか盗むなとかいう
共鳴、共感プラスアルファみたいなところから始まったでしょう。
自然の感情でルールを守る必要があるのだなあとか
感じていたことでしょう。
ルールは、自分や仲間を無用な争いから守るもので
ルールを破ることは
自分や仲間を危険にすることだということは
理解しやすかったと思います。

それから、もしかすると農業の黎明期ですから
ルールに従って土地を耕し
種をまき、世話をすることで
収穫が約束されるとなると
ルールはとても役に立つ
という感覚にもなったことでしょう。

これらのルールは破ると
自分や仲間の誰かが被害を受ける
ということが実感としてわかりますから、
ルールを守らない者に対して
自然と怒りを持つ関係になっていたでしょう。

しかし、人数が多くなり
利益集団の関係が複雑になるにつれ、
一般の個体にはよくわからないけれど、
ルールだから守らなければならない
というルールが作られ始めたと思います。

自然に必要だと理解できるルールと
ルールという点では同じですから、
これらのどうしてそのルールがあるかわからないルールも
破る者に対して、
自分や仲間が不利益や危険を与えられるような感覚になり、
怒りを抱くようになった。

というのが進化論的に獲得した感情の説明に
なるはずです。

ここまで苦労して説明方法考えて
文字を入力したのですが、
どうも私はこの説明に懐疑的です。

懐疑的だという理由は、
自分や仲間の具体的な不利益もないし
誰にもそれほど迷惑がかかるわけでもないのに
ルールを守らなかっただけで
相手の人格を否定するほどの
怒りを持つということがありうるのか
ということが納得できないからです。

おそらくもっと分析的に検討する必要がありそうです。
ルールを破ったことに対してすぐに怒りを持ったのか
ということを検討するべきだと思います。

この時、数学の補助線みたいに有用な思考ツールは
現代社会の怒りの大部分は八つ当たりだという仮説です。
怒りは危険を攻撃によって除去しようとするときの感情だと言いました。

しかし、現代社会の危険は
なかなか攻撃によって除去できないものばかりです。
生命身体に対する攻撃というものは
それほど多く想定できません。
むしろ日常的な不安は対人関係上のもので
学校や職場から排除されるとか、
失敗して低く見られるとか
定年退職まで収入があるような職場がないとか
就職できるだろうかという危機感が
むしろ多いと思います。
そのために家庭でねじを巻かれるという危機感もあるでしょう。

そうすると、相手が大きすぎたり
対処の方法がないということで
危機感を解消したいのだけれど解消できない
というアイドリング状態が続いていると思います。

大人も会社の上司から攻撃されても
おいそれと反撃できませんから
やはり危機感を解消したいアイドリング状態が続きます。

一言でいえば
勝てると思う相手、仲間のために勝たなくてはならないという相手
に対してだけ
攻撃によって危機感を解消する行動に出ません。
職場の上司や社会や国に対して
勝てると思う人はいませんから
危機感解消欲求ばかりが強くなっているのが
現代社会なのだと思います。

だから、「勝てると思う相手」に攻撃が向かうわけです。
ただ、何の関係もない、何の落ち度もない相手に
やみくもに怒りだすということもなかなかできないようです。
そこで、
些細な落ち度をきっかけに、
社会や会社や学校という相手に関係の無いところで起きた
危機感を弱い者にぶつける
これが現代型怒りだと思います。

上司から叱責されてイライラしていて
家に帰って子どもが反抗的な態度をした
ということで怒りをぶつけるパターンがこれですね。

逆に夫婦喧嘩をして機嫌が悪く
部下の言動が自分に失礼だと言いがかりをつけて目くじらをたてたり、
自分の上司から営業所の売り上げが低いと嫌味を言われて
部下に当たり散らすとか
そういう八つ当たりです。

些細な危機感を与えた相手に
自分が抱いている大きな危機感解欲求をぶつけるわけです。

但し何らかの危機感を抱かさせなければならない。
これが、ルールを破るということではないでしょうか。

つまり、
慢性的に危機感解消欲求を抱いていると
早くこの欲求を充足したいという
焦燥感に似たイライラを抱えている状態になるのでしょう。
こうなると、
自分が勝てる相手を探しているようなものです。

はっきり言って何でもよかったのです。
最初は,部活動をさぼるのは良くないよというか
冷静に部活動に出てこなかった理由は何?
と尋ねるところから始まったのでしょう。
この時点で怒りがあったとしても
それほど大きな怒りではなかったはずです。

(辛い部活動を休みたかったけれど休まないで自分は行ったのに
休んでのほほんとしやがって
ということを感じていたら
怒りも出てくるかもしれません。)

だけど、彼は、部活動に出なければならないというルールを破った
ということが
ラインという文字で確認されました。

彼は、ルールを破った人間という認定をされました。
ここがきっかけだったのだと思います。

ルールを守らなければならない
という形での非難をしなくてはならない
あるいは非難をしても良いのだ
という意識が生まれたのだと思います。

これがラインを通じて集団的に形成されていったのでしょう。

そうしてルールを破ったことを非難していたはずが、
非難という攻撃行動をしているのですから
いつしか怒りに転じていった
あるいは怒りが大きくなって行った。
そうすれば、集団の相手に対する共鳴共感のチャンネルは
固く閉ざされてしまいます。

また、ラインというツールの特徴ですが、
相手の顔を見て行動しているわけではないということ、
相手の悲しんでいたり、怖がっていたりという
感情を見ることができません。
相手に対しするチャンネルは全く開かれなくなります。

集団対一人という図式は
勝てるという意識を嫌がおうにも盛り上げます。
怒りを止める事情が無くなるのです。
それは攻撃を止めないことを意味します。

相手の有効な抵抗がなければ
さらに怒りは大きくなります。
怒りは危険がなくなるまで
つまり、相手が倒れるまで追いつめるためのツールです。
また、相手の顔が見えなければ
相手が苦しんでいるという想像力も機能しません。
相手の感情に共鳴するチャンネルは固く閉ざされたままです。

怒りが共有された場合の人間の攻撃は
極めて過酷になります。

やがて、攻撃しても良い相手だという
意識付けがなされます。
怒りの共有化とはこういうことです。
仲間全体に対する危険をもたらすもの
みたいな扱い、
それは、狩猟採集時代の
他人に感情移入ができないがゆえに仲間から排除された個体と同じく
人間として扱われず、
群れを襲うクマや虎のような扱われ方に
なっているということになります。

そのきっかけになったことが
攻撃された対象者がルールを破ったことにあります。
ルールを破ったことをもって
攻撃されてもよい人間
という扱いを受けてしまったようです。

誰かが理性的に止めなければ
対象の相手の神経がすっかり消耗してしまうまで
攻撃する方法があるうちは攻撃をする
これが人間の行動原理ということになります。

人間の脳は、少人数で単一のグループで生活することに
適応しているのですが、
大人数複数の群れと共存する生活には
対応しきれていないということかもしれません。

ルールや約束を守るべきだという
規範意識、道徳意識が
現代の中学生などの子どもには、
いじめに転化する可能性があるということなのだと思います。

それだけ常に心理的に圧迫されているのが
現代の中学生の実態なのでしょう。

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【考察メモ】内部告発者は、どうして報復されるのか。対人関係チャンネルと規範の効力に関する考察をてことして [進化心理学、生理学、対人関係学]



ネットを見ていたら、
職場の不正を告発したところ、
職場から不利益を受け続けているという
記事がありました。

こういう方々は、「自分は世界中から孤立している」
と自分で感じ易いです。
記事にしていただいたことは大きな応援になるので、
他人事でも嬉しいことです。

そのネット記事は大学の不正経理(裏金作り)でした。
研究分野での業者との癒着があり、
業者から裏金用の資金を取得していたようです。

内部告発者はこれを正すために
大学の責任者に告発したところ、
責任者は、告発の事実を
不正を行った研究者に教えてしまい、
上司である研究者から内部告発に対する報復として
様々な不利益が長期にわたって続いている
というものでした。

この場合に考えなければならない規範は、
「研究者は、業者から不正な利益を得てはいけない。」
というものです。

この規範の存在にはいくつか存在理由があります。
そのうちの一つには、
業者から利益を得てしまうと
変な人間関係ができてしまい、
業者に不利になるような研究を発表できないとか
そもそもそのような研究をしないとかいう問題があります。

あるいは、公明公正に行わなければならない会計をゆがめ、
恣意的な経理が蔓延して収拾がつかなくなる
という問題もあります。

極端な話は、
人間関係のしがらみの中で
不正データの作出をしてしまう
という事態もありえないことではありません。
そもそも研究の客観性にも疑問を持たれてしまいます。

こういう、「なぜそれが禁じられているか」
という本質を常に意識して感じていれば
どんな言い訳をしようとも裏金作りなどしないでしょう。
しかし、それができない事情があるようです。

常に本質を強く意識することは難しいので、
特定の行為を禁止するという必要性から
道徳や法律という「規範(きはん)」を作って、
その規範を破ると制裁が科されるということを通じて
禁止事項をさせないようにする必要があるわけです。

規範とは、平たく言うとルールです。

但し「ルール」という言葉を使うと、
ゲームをしているプレイヤーなどの狭い人間関係を規律する
というイメージがありますから
規範という言葉を使います。
規範は、ある程度不特定多数の要素のある
人間関係で通用するルールとなると思います。
国家とか、社会とか、業界全体とかですね。

規範にはさまざまなタイプがあります。

人を殺してはいけないとか
怪我をさせてはいけない
というルールは、
本来被害者に共鳴、共感することによって
自分の行動を押しとどめるという形で修正する
という形で実行できる物
つまり、人間の「自然な」心に従えば通常は守られるのであって
本来その外に敢えてルールを作る必要のないもの
というようなものも、
規範の中に入っています。

また、ここからはダメでここまでは良い
というような限界が不明で
国等が人為的に線を決めるようなものも
法律という規範として定められています。

規範、道徳というものは、多種多様です。

そこで、考えやすいように3タイプに分類を試みます。

一つは、冷静な状態、第三者からすれば
他者や仲間に対する共鳴、共感によって、
自己を規律するべきだけど
あえて規範にもなっている<Aタイプ>
(刑法でいえば、例えば
殺人 他人を殺してはいけない
傷害 他人を傷つけてはいけない
窃盗 他人の物を盗んではいけない)
(人が殺されることは酷いことだ
 人が痛い思いをするのはかわいそうだ
 人が物をとられるということは困る上精神的にもショックを受ける
 という共鳴共感を事前想定して行動を抑止する)

一つは、被害者を直感的には想定しにくいけれど、
少し考えれば、それをすること、しないことによって
第三者や社会等に対して不利益を与えることを想定でき
それが想定で切れば自然に正義感を伴いやすい<Bタイプ>
(刑法でいえば例えば
収賄 公務員は職務に関して金品を受け取ってはいけない
不正経理 経理は適正に行わなければならない
風紀を乱す罪等々)

一つは、第三者が政策的に決めて
知らなければ禁止されていることが分からないため
禁止行為をしても感情的正義感の葛藤が起こりにくい<Cタイプ>
(行政法規の中の一部等)

タイプ別に規範を破る原因は以下のとおりです。

Aタイプは、
被害を受けた時の被害者の感情を想定しやすいはずだが、
被害を受けた人に共鳴共感ができない事情があって
規範を破るという特徴があります。

Bタイプは、
具体的な被害者を咄嗟に想定できず、
比較的、高度な思考をしないと
禁止行為を行った際の不特定多数人の不利益を想定できず、
その意味で行為と被害の因果関係が
Aタイプに比べた場合はやや把握しにくい
ここに自分や仲間の利益を優先する等の事情がある場合
という特徴があるでしょう。

Cタイプは、主として、特別な免許を持っている人が
禁止事項として命令されているものの場合が多く、
どちらかというと考えても規範の内容が出てくるものではなく、
禁止事項等を覚えるしかないというところに特徴があります。
Bタイプに近く、覚えているけれど
不特定多数の利益に共鳴、共感しにくく
自分や仲間の利益を優先する等の事情がある場合に
規範が破られるという特徴があるでしょう。

ところで、私が刑事弁護人として
被疑者被告人の方々の反省をお手伝いする時、
Aタイプはもちろんですが、
BもCも
どうして、その禁止事項があるのか
ということを考えていただいています。

その禁止事項を破ることが
どうして悪いのか、
誰にどのような迷惑をかけるのか
常にここから出発します。

みんな、自分がしたことが法律で禁止されている
ということはわかっています。
だから規範意識を回復させるためには、
規範を教えていたのでは何にもなりません。

規範に引き付けた説明をすると
規範の目的、意味、効用等を
理解していくことが必要になります。

それを理解するために有効な思考が
誰にどのような迷惑をかけているか
ということをイメージしてもらうことなのです。

その人たちのケースに合わせて個別的に
一緒に考えるという作業が必要になります。

規範に関する話をもう一つ
ある収容所のようなところの実話なのですが、
一般には「決まりだから守れ」という態度でいることが多く、
「決まりのせいで不自由な思いをさせられている」
と感じ易く、決まりを守れということに反発しがちになります。

ところがある場所で、看守に相当する人が、
「この決まりが無ければこうなってしまうだろう
 そうなると、こういう人たちは嫌な思いをするでしょう
 だから、これは守ってもらわないといけないんだ」
という説明をしたところ、
収容者の人たちは、
反発が無くなっただけでなく、
自分たちが尊重されていると感じたそうです。
今では率先して決まりを守っていると
嬉しそうに言っていました。

この場合も、誰にどのように迷惑をかけるか
という思考ツールが
規範意識、決まりを守る
そしてそれが自分自身を守る
という意識を高めたということができると思います。

そして自分が規範を守ることが
自分が尊重されていることと結びついて考えられていたようでした。

被害を受ける人との共鳴、共感のチャンネルがつながると
規範意識を回復させやすい
ということを意識させられたエピソードです。

ちなみに収容所みたいなところの規範は
AタイプのものとBタイプのものがあったようです。


さて、規範を破るということを考察してみます。

Aタイプの規範違反をしてしまう場合は、
色々な事情で
共鳴、共感のチャンネルを閉じている場合
ということになります。

典型的な場面は正当防衛です。
自分が攻撃をされているので、
反撃に出る
反撃に出る時は怒りモードになるから、
相手の痛みなどについて考慮するチャンネルは
閉じられています。

自分が攻撃されているだけでなく、
仲間が攻撃されている場合も
仲間に対するチャンネルが大きく開くために
同じように、相手に対する
共鳴共感のチャンネルは閉じられます。

「正当防衛」は犯罪の成否の問題ですが、
犯罪というほど強烈な場面ではないとしても
相手がこちらを攻撃していると思えば、
反対に相手が嫌がることをやっても
それほど気にならなくなるようです。

例えば親子でも
子どもを叱っている時に
子どもが集中力がないだけなのに
同じ失敗を繰り返すと、
「何度も同じことを言わせて、」と
熱心に叱っている「自分が馬鹿にされているような気持ちになり」、
つまり子どもが自分を攻撃しているように感じてしまい、
子どもへの共鳴、共感のチャンネルが閉じられてしまい、
瞬間的に虐待みたいなことが起きてしまう場合があります。

家庭だけでなく、学校や職場でも起きるわけですが、
深入りせず、今日は話を進めます。

この時の攻撃者の気持ちは
自分や仲間を守るという意識を持ち、
そのために自分の攻撃する対象を仲間と思わない、
というモードになっています。

共鳴共感チャンネルが閉じられる他の場合として
自分の属するグループの共鳴、共感チャンネルが大きく開いた結果
グループの外の人間との
共鳴、共感のチャンネルを閉じてしまう
という現象が起きます。

典型例は、
地域の非行少年グループの一員になると
同じグループの仲間を大事にするあまり、
仲間以外の人間、一般社会に対してぞんざいになり、
粗暴になったり、たとえば万引きをしたり
ということが起きる場合があります。

彼らにとって
仲間の中で通用する規範、ルール、掟
は良く守りますが、
社会のルールを守ろうという意識は
大分弱くなってしまいます。
優先順位が下がるようです。

また、これとも別の場合では、
特定のグループに所属しておらず、
自分が世の中で孤立していると感じる場合に
社会のルールを大切にしようという気持ちが
薄れていく要因になっているようにも感じられます。

孤立による不安は
だんだん世の中全体が自分を攻撃しているという意識になり
無差別攻撃事件につながる要因になりそうです。
あるいは、自死の原因にもなります。

また、その行為によって被害を受ける相手方の顔が見えない場合も
共鳴共感のチャンネルが開かないことがあります。
量販店における万引きがこのケースの典型でしょう。

たくさんある商品の中から
ちっぽけな商品を万引きしても
誰かが困るという発想にはなかなかなれないようです。
悪いことだということは重々承知しているのですが、
(つまりこれから規範に反する行為をするという意識があるけれど)
それがブレーキにはなりません。

こういう場合の刑事弁護の場合も、
誰かに迷惑がかかるということを
具体的な事例を想定してもらい
ヒントを出しながら一生懸命考えてもらいます。

予め被害者の顔を想定してもらうことによって
次の犯罪の予防につなげようとするわけです。
誰かが窮地に立たされている時の表情
同じように困ったときの自分の体験を
重ね合わせてもらうようにしています。

規範を覚えるのではなく、
規範違反をした場合の被害者の心情を
想像する訓練をして
被害者の気持ちに共鳴、共感する力を回復する
という感じでしょうか。

規範を守ろうとするモチベーションの強さは、
共鳴、共感が一番強くて
次に正義感、規範意識のようです。
法律で決まっているから
ということは、一般の方には有効ですが、
切羽詰まった状態では、
力にならなくないやすいようです。


さて、以上を踏まえて内部告発者が
不利益を受けるメカニズムについての考察です。


そもそも規範意識あるいは正義感というものも
行動原理としての扱いは
人によって程度が大きく異なるようです。

それを強く意識して行動原理にする人もいるのですが、
それが強く意識することができず、
仲間のために目をつぶるという傾向がある人もいます。
どちらが良いということは一概に言えず、
家庭の中で一般的規範にこだわって
家族を攻撃しがちな人などはその弊害でしょう。

この規範意識の強さのギャップが
内部告発者が冷遇されるメカニズムのようです。


先ず、業者が、研究者に便宜を図る行為から見ていきましょう。

業者からしても
「研究者は、業者から不正な利益を得てはいけない。」
という規範はあるわけです。
「研究者に不正な利益を与えてはならない。」
という表現になりますが、同じことの裏表です。

業者が裏金を渡している時は
この規範をまもろうという意識が低下しているわけです。

この場合は、規範を守るというよりも優先された
強い行動原理があるようです。
例えば、
「売り上げをあげる」という至上命題が招く場合が多いと思います。
売り上げをあげなくてはならないという行動原理は、
業者の会社の内部の論理です。
共鳴共感のチャンネルが、
会社にとのチャンネルばかりが開いているようで、
会社の利益、会社内でのみ通用する規範意識が強くなり、
社会的な規範が後退してしまうということになりそうです。

具体的に見える顔が
裏金をもらって喜ぶ研究者の顔
裏金を渡して喜ぶ上司の顔
ということも、そちらにチャンネルが開きやすい事情でしょう。

これはちょうど不良グループの少年が、
仲間の掟を守ろうとするあまり
社会的規範を大切にしなくなる
ということと全く同じことです。

社会に対するチャンネルを開く
正義感を正常に保つということは、
具体的に困る人の顔をイメージできない場合は
脆くなってしまうようです。

また、研究者に対する合法的な便宜の提供と
不正な利益供与の限界が難しくなれば、
正義感の敷居が低くなる要素になるでしょう。
(例えば、研究者に報酬を出して行う講演会
 ほとんど講習会に参加するだけで、
 交通費やお土産などが支給される場合
 これが繰り返されると
 研究者に何かと理由をつけて
 金品を渡す癖がついてしまい、
 もらう方も抵抗が低くなってしまう。)

不正な利益を受ける方の研究者の
規範を破るメカニズムを見てみましょう。

その不正によって生じる不具合をイメージできない
このため不正ではなく、「このくらいは許される」
という言葉に弱い。
なぜそれが不正なのかを具体的にイメージできなければ
限界点はどんどん下がってしまう。
こうやって徐々に不正は蔓延してゆくのでしょう。
不正であってもあえて行為を行う傾向になるということですが、
もしかすると
それが不正であるかどうかも分からなくなるのかもしれません。

さてネット事案の内部告発者は
転勤で、この部署に配属されたばかりのようでした、
いわゆる悪馴れみたいなものがないために
限界点は健全に高い位置にあります。
このため研究者の行為が明らかに不正であると認識します。

転勤前にコンプライアンスのレクチャーを受けていたことも
不正か不正でないかの正しい基準が明確になっていた
原因となっているでしょう。

一瞬で不正義だと強く感じて、
これに順応しない理由がここにあります。
まっさらな気持ちでは不正義には抵抗感が生じますから、
不正に対する順応を拒否する志向もうまれます。

この告発者は
研究者たちは、重大な規範を破るものと認識しますから
社会(研究業界)を害する行為をしている者たち
という認識を持ちます。
当然同じ仲間だという意識は持ちにくくなります。
このため不正義に対する容赦がなくなり
内部告発をすることに対する躊躇は低くなります。

これに対して内部告発を受ける方
大学の責任者の意識が問題となります。

ネットのケースだと
大学責任者と研究者は、従来から面識があったはずです。
おそらく、責任者は自らが不正な利益を得ていなくても
ある程度不正が行われたことを知っていたかもしれません。

こうなると、
先ず、大学責任者と研究者は同じ仲間だという意識を
相互に持つようになります。
責任者に不正に対する反感があったとしても
研究者たちへの共鳴、共感のチャンネルが開いています。

不正に対する処分が
研究者にとってかなりきついもの
例えば停職だったり、懲戒解雇だったり
社会的立場と業界における立場を失う
ということも理解できますから
研究者が窮状に陥ることについて
共鳴共感のチャンネルが強く開いてしまいます。

社会的不正義という不特定多数というか
抽象的なものに対するチャンネルは
反射的に閉ざされてしまいます。

これが不正を見逃すことによって、
仲間である研究者を助けようとする原理です。

責任者の視点で内部告発者を見る場合、
責任者が研究者の方を仲間と認識していますから
その反射的結果として
内部告発者は仲間を攻撃する者という意識になります。
内部告発者を敵だという意識になりやすくなります。

こうなってしまうと、
内部告発者がどのような不利益を受けても
あまり気にしなくなります。
怒りが加わり、いよいよ内部告発者へのチャンネルが
固く閉じられるのです。

仲間を守るために
内部告発者を攻撃することが
正義の意識になる場合もうまれることになります。

このため、内部告発者の告発が
どんなに正義にかなうものでも
内部告発者が不利益を与えられ続けても、
可愛そうだとは思われないのです。

つまり内部告発はもともと
握りつぶされる要素を含んでいるということです。

内部告発は
しがらみのない第三者が告発を受理するシステムを
作っておかなければならない理由が
ここにあります。

内部告発を握りつぶさないシステムは
全体の組織(事案では大学)のために
必ず作らなければなりません。

握りつぶされてしまうと
内部告発者が不利益を被るだけでなく、
組織自体が危殆に陥る危険があります。
ネットのケースでも
その時に自浄努力をして再発防止をするべきなのに
内部告発を握りつぶして、
不正が温存されてしまったために
後に不正が改めて発覚し、
第三者委員会の設置をさせられて
処分もあったようです。

おおごとになってから対処するということは
とても大変です。

これは、大学の責任者が
大学全体の利益を守るよりも
不正をした研究者の利益を守りやすいことに
原因があります。

全体を守るために
敢えて構成員と接触ない人が
内部告発を受理するというシステムが
どうしても必要だということになろうかと思います。

この分析は、
内部告発者を守るためには、
不正をしてはならない
(不正の利益を得てはならない、
 内部告発を握りつぶしてはならない)
ということを強調して
例えば規範を破った者に刑事罰を科す
ということが必ずしも有効ではない
ということを示しているかもしれません。

なぜならば、
それらの不正をした人たちは
規範の存在を知っているにもかかわらず
それぞれの継続した事情から
規範を破っているからです。

但し、責任者が
研究者や業者から金品の提供を受けていたら
それは論外であり刑事罰の対象とするべきかもしれません。

また、握りつぶしたのか
調査したけれどクロの心象を得られなかったのか
そういう問題もあるので
刑事罰は危険が伴うというべきでしょう。

むしろ、これらが人間の行動原理として
あり得る行為である「エラー」としてとらえ、
エラーを起こさない工夫や
エラーを起こした場合の対処方法を
予め作っておくことが
より実効性のある方法だと思うのです。

なお、内部告発をする場合、
必ず事前にやるべきことは
信頼できる見方を作るということです。
組織を信用しきってはいけません。
組織の担当者はエラーをする可能性があるからです。

信頼できる同僚を選ぶ場合も
対象者とのチャンネルを気にするべきです。
同じネット記事の他の事例では、
内部告発に強い弁護士に相談していたため
被害が小さく終わった
という報告がなされていました。
極めて有益な情報だと思います。

とても良いネット記事だったと思います。
本間誠也さんというフリーの記者さんの記事でした。


もう一つだけ、
組織を大切に思うならば、
ネットの内部告発者のような
新しい人材を積極的に受け入れる必要がある
ということも示されていると思います。

悪馴れして組織をつぶすことを
防止してくれるのは、
其れが不正義で会うという認識が可能な人
つまり、仲間意識の低い外部の人です。

逆に言うとこれらの対策
・内部告発を受けるのはしがらみのない第三者という制度
・内部告発を受けるものが対象者から不正な利益を得た場合の制裁措置
・新しいメンバーを定期的に受け入れる(人的交流)運用
・不正か否かの基準の明確化とレクチャー
これらの対策が講じられていない組織は
信用されない社会になることが望ましいと思います。

ある程度公的な組織の社会的責任だと思います。

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